[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月01日 09時20分42秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
箱柳永田様
永田(旧長田、さらにその前は大橋)広正の庶子、永田政(正)吉に関する
エピソードがこんなにもビビットに残っておりました。それは1572年
の三方ケ原の戦いの約2か月前、前哨戦としての磐田「一言坂の戦い」の
中の出来事でありました――
「おんな主直虎」のドラマの進行における最新の時代は、その5年前位
前を描いております。
続く――
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月01日 10時31分27秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
http://takatoshi24.blogspot.com/2011/04/blog-post_20.html
本多忠勝の家臣
阿佐美清兵衛、新屋清左衛門、依田内蔵介、伊奈伊左衛門忠安、植村土佐泰忠、江原市内、大鐘彦市政広、大原作右衛門、大原惣右衛門、大原与五左衛門、小野田与市、影山弥三郎、勝屋甚五兵衛利政、河原与右衛門、小泉孫八郎、向坂与五右衛門、小坂助六、近藤八左衛門、柴田五郎左衛門、下里藤八郎、多門伝十郎重信、土屋甚介重俊、内藤平十郎、内藤源太左衛門、永坂甚平勝重、長坂太郎左衛門重信、
永田覚右衛門、
中根五助重定、中村与惣富重、蜂須賀彦助政刻、原田九郎兵衛種道、日置小左衛門正光、福尾淡路守、二橋藤大夫、本多三左衛門正重、本多甚六、本多平三郎、
松下源五郎、
松下久左衛門景綱、
松下三十郎元綱、
松下七兵衛、
三浦竹蔵、水野弥三郎、山口嘉平治、山本唯右衛門、渡辺半兵衛真綱、渡部墨右衛門吉綱。
[3] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月01日 12時53分38秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は時間の合間を縫って、何とか少しでも進めようとは思っています
が、夜は夜の部(夜会)がありますので、まさしく蟻の一歩で終わりそうです。
明日は初盆のお施餓鬼があり、そろそろお盆のシーズンとなります。
遠州大念仏の練習の銅鑼や太鼓の音が、夜のしじまを縫って、昔から変
わらぬ音を響かせて来ます――
本多平八郎忠勝の話になると、うれしい話――「蜻蛉切り」の槍の話が
一言坂の戦いには出てきます――
そして、永田政(正)吉についてはは、「鍋割正国」の刀のエピソードと
なります。
一言坂の戦いは余り知られていませんが、結構重要な戦いで、面白いエ
ピソードもたくさん残っております。近々、磐田の一言坂を訪ねる予定で
す。
政吉のエピソードについては、この後記載いたします。
続く――
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月01日 14時10分54秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>一言坂
是非、訪ねてくださいね。
なんとなく松島氏も絡んでいる気がします。
一言坂の戦いを描いた小説でもあれば家康を救った永田政吉の活躍が読めるかも知れないですね。
[5] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月01日 23時38分18秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
今度のおんな城主直虎には、中安定安が出るといいます。わたしの義兄の
中安某も大はしゃぎであります。もっともその元を義兄に醸し出したのは私
でありますので、責任は感じております……――
[6] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月02日 00時07分46秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日はウィスキーの淡い海で泳いでいる感じの夜であります。ハイボール
がいいのかロックがいいのか、どちらも中途半端で、やはりストレートが一
番であります……。
正吉さんの話、その裏には歴史の奥深い謎を含んでいます。刀の名が、「
鍋割正国」といいます。直訳しますと、鍋をもを割る正国鍛造の刀というこ
で、仮に今それが残っているとしたら、少なくとも300万円は下らない…
…ということであります。
その刀鍛冶は九州肥後の同田貫正国(どうたぬきまさくに)……何で九州か
ということではあります!
長田正吉は、徳川家康の磐田での案内人になりながら、一言坂で武田の兵
と遭遇した際、敵兵をその鍋のような兜の上から切り伏せたということであ
ります。つまりは、その刀は兜を切り裂く程の名刀であった、ということで
あります――
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月02日 05時29分33秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
お義兄さま、良かったじゃないですか。
珍しい名字ですし地元ですし
すんなり一族というのが分かりますし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%89%E5%AE%9A%E5%AE%89
中安 定安(なかやす さだやす、生年不詳 - 元亀元年(1570年))
戦国時代の武将。別名を中安兵部。父は佐田城主の堀江清泰。子に彦次郎康勝らがいる。
浜名湖の東岸に位置する堀江城を有した大沢氏の大沢基胤に従っていた。
系譜において中安氏は佐田城主堀江為清の次男堀江豊種が中安氏として中安兵部豊種を名乗ったのが始まりという。
堀江城の戦いで徳川家康に攻められるが、後に和議が成立すると基胤とともに本領を安堵され家康に降る。
その後姉川の戦い元亀元年6月28日(1570年8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)に参戦し戦死したという。
長浜市市野村???
法号「勇将殿茂山玄栄大居士」。
堀江村の平に埋葬されたという「茂山塚」 が残る。 平???
菩提寺は竜泉寺。定安より数え12代目の武彦が昭和44年(1969年)竜泉寺において先祖の供養を営み、石灯籠を寄進した。
ドラマですね。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月02日 05時45分22秒 ) | パスワード |
中安一族の皆さん、もともとが静岡西部の豪族だったこと、すっかり忘れていらっしゃったでしょうね。
中には「え?ウチって、え?そうだったの?」なんてビックリしている人もいるでしょうね。
ちゃんとご先祖さまのことは伝えませんとね。
堀江で何があったのか、ちゃんと伝えていかないとね。
今年のお盆は中安一族でご先祖さまをお迎え出来ると良いですね。
三つ柏さん
やっぱり水割りあたりがよろしいかと思います。
喉がやられてポリープでも出来て80歳代に喉の癌に発展したら面倒です。
まだ20歳代や30歳代なら平気でしょうけど。
笑
同田貫は無骨な刀ですね
つまり実戦用。
さすが!
兜を割ってしまいましたか。
誉れですね。
家康を助けたわけですから、当時は名誉この上無く
さらに
名刀と共に名を残せて、後世にも思い出して貰えるなんて、刀も長田正吉も冥利に尽きますね。
やっぱり良い上司は持つべきですね。
長田正吉も同田貫もラッキーでした。
[9] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月02日 08時08分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
同田貫(どうたぬき):古刀末期、肥後菊池の同田貫を本拠地とする刀工集団。
清国(きよくに)と正国(まさくに)は兄弟で、元々は
国勝と上野介信賀と名乗った。
延寿派の末流とされる。
肥後熊本を領した加藤清正のお抱え刀工となる。
同田貫正国:清国の弟で、もとは小山上野介信賀という。
加藤清正から「正」の一字を授かったという。
「肥後州同田抜」「九州肥後同田貫藤原正国」
「肥州菊池住信賀」「菊池住同田貫上野介」
慶長18年11月19日没
以上「名刀幻想辞典」より
http://meitou.info/index.php/
鍋割:元亀3年(1572)10月13日の一言坂の戦いで、徳川家康が武田
の兵と遭遇した際、家康の道案内をしていた永田正吉が、敵兵を
その鍋のような兜もろともに切り伏せたことから、家康から『鍋割』
と名付けられました。
以上「鍋割正国の歴史」より
http://privatter.net/p/1351281
問題は、永田正吉が、何故九州肥後の名刀を所持していたかであります。
それは、宗良親王よりの皇室から伝えられたものなのか、大橋系からか、
大江系からか、長田系からか、はたまた三河大浜での交易からもたらされた
ものなのか……?
正吉は新貝村の八幡宮の神主をしていた……神主は武士階級とみなされて
おりましたので、刀を持って戦ったということは不思議ではありません……。
今、新貝にはヤマハの工場が建っていますが、その裏の方に「八幡宮」が
あります。今度一度訪れてみたいと思っております。
新貝の南隣は「鎌田」であります。新貝より西に2.5q行きますと、府
八幡宮があり、府八幡宮よりさらに西に1q行くと「一言坂の戦い」の一言
があります……。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月02日 09時38分57秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
上記の「滋賀県長浜市野村町」は無視してくださいね。
思わず 長浜市 市野むら と読んでしまいました。
贔屓の引き倒しですね。赤面
長浜市 のむら町 ですね。
>新貝の南隣は「鎌田」であります
これにビックリ!
さすが!
わたくしには 土地勘 が無いので数年前にはピンと来なかったです。
だって 源義朝の家来の鎌田の岳父が長田 ですものね。
ということは 鎌田と長田は 平安時代後半あたりから結構親しかったのでしょうね。
ということは長田父子が義朝主従を討ったというのは絶対に信じられないことだった、
ということですよね。(くどい!)
鎌田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kamata_k.html
丸に一つ引両(一文字カ)/六つ星
(藤原氏秀郷流首藤氏族) ← 秀郷流ということは平家の先祖の貞盛以来のお友達同士ですね
藤原秀郷の後裔の首藤資清の子通清は、源為義に仕えて、駿河国磐田郡御厨村に住した。
ココですね
その子正清は平治の合戦に敗れて東国に落ちる源義朝に従い、尾張国の住人長田忠致の手で義朝が殺されたとき、一緒に殺された。
コレですね
光政は源義経に属して、平家との屋島の合戦で戦死した。
光政の子政佐は文治二年島津忠久に従って、薩摩に移住した。
そのとき弟の政重も薩摩に移り住んだ。
戦国時代、尾張守政年は、島津忠国の三男伊久逸の家老をつとめ、文明十七年の日向櫛間牟田迫の合戦で、久逸を守って戦死。
尾張守を称してたというところに 長田氏の末裔の矜持が出てますね
その子政盛はその賞として伊作荘永谷名を与えられた。
政盛の子筑前守政心は、薩摩郡百次郷、曽於郡財部郷の地頭となり、天正十四年の筑紫城攻めのときに戦死した。
政心のあとは一族の鎌田政広の子政良が継いだが、病弱だったため、鎌田図書頭政勝の子政近が継いだ。
鎌田政近は、島津家久・忠恒に仕え慶長七年(1602)山城伏見城で徳川家康に引見され、本多正信・山口直友をして、島津義久及び忠恒への家康からの誓紙を受け取っている。
以後代々島津氏に重臣として仕えた。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月02日 12時43分38秒 ) | パスワード |
永田太郎右馬政吉の戦死後 大草家から養子が来たのですねぇ。
永田家は初代政吉から、二代政次となるが、政吉には男子がなく、三河以来家康に仕えていた「大草次郎右衛門義正」の長男政次を娘婿に迎えた。
・その時に名前を大草に変え、政家、政信、政次、政清、正英、政永、政美、政明、政薫、政郷と続く。但し、政薫の時、流罪となり政郷も追放となるものの、信州で代官として復活している。
※政薫の代まで駿河・遠江・三河の代官を代々歴任していたようです。
※家紋は轡。先祖政吉が東照宮の御馬の轡にすがり、戦場においては働きあったので。轡をもって家紋とせよとおっしゃられたので用いている、らしい。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/okusa_k.html
大草氏
庵に三階菱/轡に松皮菱*
(藤原氏支流)
*「見聞諸家紋」に掲載された大草氏の家紋。
家伝によれば、三郎左衛門尉公経が足利尊氏に仕えたとあり、公経をもって始祖にしている。
三河国額田郡大草を領して、大草を家号にしたと伝える。
公経は正平四年正月、河内国四條畷における、足利軍と楠正行軍との合戦に出陣、先駆けして討死した。
以後、足利家に仕えたが、世系が中絶し、公経より公重に至るまでの代々は詳らかにはできない。
足利義政のころに成立したといわれる『見聞諸家紋』をみれば、奉公衆二番で大草伊賀守公延の名がみえる。
家紋は「轡に三階菱」である。
この公延は大草氏の通字である「公」があるところから、足利義政の時代における大草氏の一人であったものだろう。
しかし、先にも記したように系譜的に位置付けることは不可能としかいいようがない。
公重は将軍義輝に仕えていたが、三好・松永の乱によって義輝が殺害されると、山城国加茂に蟄居した。
その後、細川藤孝の招きに応じて、丹波国田邉に至り、同地で死去した。
嫡男公政も義輝に仕えたが、その死後牢人となった。
公重の女子が秀忠室に仕えていたことから、公政、は秀忠に召されて拝謁した。
公政には子がなく、妹が嫁いだ大舘伊予守晴忠の子らを養子にしていた。
すなわち、公継・与六郎・高政の三人であった。
公継・高政は秀忠に召されて、それぞれ知行を賜った。
公継は上野国碓氷、下野芳賀両郡のうちにおいて采知六百石、
高政は七百石であった。その後、高政の家は孫高忠の代に三千五百石の知行となっている。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月03日 13時12分35秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
中安兵部
出てましたね。
今川方で。
堀江氏は この紋でしたね。
丸の内花杏葉
(藤原北家持明院流)
沢は古語で「谷の口に近い山側の地」といい、古来から沢の付く地名は多い。当然、地名発祥の名字「大沢」も多い。主として甲信を中心に東日本に広がっている。
もっとも顕われた大沢氏は、徳川旗本家で高家の大沢氏だろう。藤原道長の後裔持明院左中将基盛を祖にすると伝える。貞治年間(1362〜68)遠江国敷智郡堀江城主となった中将基秀以後、代々同地に居住した。大沢を家号としたのは、代々、丹波国大沢の地を領したことに因むという。
今川氏に仕えて、堀江城を守った基相・基胤父子に至るまでの世系は必ずしも詳らかではない。
●近世への道程
永禄十二年(1569)、徳川家康が遠江に侵攻、鈴木重路・菅沼忠久・近藤秀用らをして堀江城を攻めさせた。このとき、基胤は本丸に籠り、一族中安兵部少輔某を三丸において家康軍の攻撃を固く防戦した。このころ、遠江国の大半の武士は徳川方になびいていたが、基胤は今川氏真の命を奉じて堀江城を堅守していたのであった。
しかし、大勢には抗し難く家康の命を受けた渡辺成忠の降伏勧告に従って家康に降った。このとき、家康より誓書を受け、遠江国崎村・櫛和田・無木などの本領を安堵されている。以後、徳川氏の麾下となった。
元亀三年(1572)十二月、三方ケ原の合戦に際しては、加勢に松下某を得て居城を堅守した。天正三年(1575)四月、武田勝頼が長篠城を包囲し、五月には二連木牛久保に放火し、吉田に攻め寄せんとした。このとき、家康軍は寡勢でもあり、酒井忠次が殿をつとめて軍勢を吉田城に収めた。しかし、武田方の山県昌景は執拗に追ってきた。このとき、殿をつとめた酒井に加わって基胤も武田軍と槍を合わせ、高名をあらわしたという。
基胤のあとを継いだ基宿は、天正八年、家康の駿河田中城攻めに従い、今川方の部将朝比奈駿河守の勢と戦い、奮戦して高名をあげている。その後、小牧・長久手の戦い、小田原の役に出陣した。関ヶ原の役にも出陣し、戦後、采地千五百五十余石を賜った。慶長六年(1601)、従四位下に昇り、同八年、家康の将軍宣下のとき、仰せによってそのことにあづかり、以後、摂家門跡諸公家往来のことを承った。
基宿の子基重以降、千石ずつ二度の加増があって、しめて三千五百五十余石を知行し、子孫、代々高家に列した。
その他、大沢家は藤原氏の流れが多く、秀郷流からは、小山朝政から十一代の裔小山朝氏の三男忠秀が下野国河内郡大沢村に拠って大沢氏を称した。同じ秀郷流佐野氏からも大沢氏が出ている。佐野広綱の子広貞が大沢右京亮を称して、大沢氏を起こしたものだ。
北陸からは、藤原利仁の子孫で貞治年間に右衛門尉重基が大沢を号した。この系統は重の字を通字にしている。
[14] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月03日 22時29分57秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ここ両日は台風3号の北上の影響か、連日35℃前後の気温となり、また
湿度が高く、頭はアーバーヒート気味であります。お酒の席も連日続きまし
たので、集中力がどこかへ飛んでしまいました。
「おんな城主」直虎には、期待通り「中安定安(さだやす)」が出ました。
義兄の中安も喜んで、定安の菩提寺、舘山寺(旧堀江村)にある「竜泉寺」に
さっそく行って来たとの連絡がありました。もっとも安定の墓は、そこから
少し離れた畑(ビニールハウス群)の中にあったそうです。その写真をいただ
きましたが、「茂山塚」と看板が出ており――
「堀江城主の大澤基胤(おおさわ もとたね)(1525〜1605)に仕えた中安兵部
は、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の姉川の戦い(元亀元年・1570、
滋賀県長浜市)で、徳川家康の馬前で討死しました。
その勇ましい戦いぶりをたたえて、「勇将院茂山玄栄大葬士」の戒名を
受け、ここに埋葬しました。
これが「茂山塚」であり、三体に分離しているが、復元すれば1.8m
の高さのある宝篋印塔であります。
舘山寺町自治会 」
と書かれておりました。
堀江城跡には、今は遠州鉄道の観光ホテル「九重」が建っておりますが、
遠鉄に勤めていた義兄は、当然九重には何回も行ったでしょう。祖先とは、
いわば接近遭遇をしていたということ、偶然といえば偶然、必然といえば
必然なのか、祖先とは見えない糸でつながっているようです……。
[15] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月03日 22時39分29秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
誤字の訂正:アーバーヒート→オーバーヒート
ところで、アメリカ人がよく使う「アクチュアリィ」という言葉は、
どういう意味なのか、「ユウノウ」、「アイノウ」と同じ類なのか…
教えて下さい。どうも気になります!
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月03日 22時51分02秒 ) | パスワード |
actuallyについて:
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=actually++++++%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%80%E3%81%AF&spf=1499089510639
実は「Actually」はこんな色々な役割を果たすんです・・・笑 | 英語学習サイト ...
https://hapaeikaiwa.com/.../ 実は「actually」はこんな色々な役割を...
Translate this pageJun 11, 2015 - 皆さんは“Actually”を上手に使いこなせていますか?外国人と話す機会がよく ... 本当に〜する・した」を意味するので、“Really”に置き換えることもできます。
Translate this pageactuallyの意味や和訳。 【副詞】 (比較なし)1a実際に,現に.用例He looks stern, but actually he's very kind. 彼は厳しそうに見えるが実際はとても親切だ.He didn't ac.
actuallyの意味。レジでも役立つ?こんな時にActuallyは使える! | 初心者 ...
ajieigo.com/1019.html
Translate this pageactually意味 acutally =「実は」という訳だとは知ってても、案外実践でどう使っていいか分からないという意見を聞きます. ここでは実際の英会話での用例を出しながら、 ...
ガイジンにとってのActuallyの意味 - 英語に関してなんですが最近特 ...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › ... › 言葉、語学 › 英語
Translate this pageFeb 7, 2007 - 最近は意味もなく使っている人がとーっても多いです。悪しき流行語です。もちろん元々は「あなたはご存知ないかもしれませんが実は」という意味があって、 ...
You know と actuallyの使い方を教えて|英会話|アルク
www.alc.co.jp › 英会話 › 石原真弓先生の英会話質問箱
Translate this pageJan 12, 2010 - you knowは使う位置によって意味が異なります。actuallyは相手が驚いたり困惑したりするかもしれないことを述べるときの前置きとして使います.
actuallyの意味・用例|英辞郎 on the WEB:アルク
https://eow.alc.co.jp/search?q=actually
Translate this pageactually 【副】 実際は[に・のところは]、本当は[に・のところは]、実は、... - アルクがお届けする進化するオンライン英和・和英辞書データベース。一般的な単語や連語から、 ...
actually(英語) - 発言小町 - 読売新聞
komachi.yomiuri.co.jp › 発言小町 › 生活・身近な話題
Translate this pageMay 18, 2008 - というのは一度でスッキリと言いたいことを言い切れなかった時にActuallyを付けて言葉を足したり、言い直したりしていたので。「実際に」という意味だけじゃ ...
actuallyの意味 - goo辞書 英和和英
https://dictionary.goo.ne.jp/ej/758/meaning/m0u/
Translate this pageactuallyとは。意味や和訳。[副詞]1 現実に,現に,実際に,本当に(really)do not actually feel that…の実感がない.2 現在,ただ今the party actually in power現与党.3(1)( ...
"in fact" と "actually" って違うの?|QLS Education - アメーバブログ
https://ameblo.jp/qlseducation/entry-11940016126.html
Translate this pageOct 17, 2014 - "in fact" と "actually" 、いずれも英和辞典には「実際には」「実は」といった意味が載っています。 ところがネイティブたちは全く違う使い方をしていると感じた ...
actually(アクシュアリー)の使い方と意味
初心者英会話.com/englishphrase/slang/actually.html
Translate this page意味「実際は」「それがね」「・・・というか」発音:「アクシュアリー」 「本当のところは」といった意味です。 また、今から「少し意外な(驚く)ことを言うけど」「新情報を伝えるよ」「でもね」 ...
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月03日 22時59分22秒 ) | パスワード |
今回の「直虎」も分かり易い脚本でした。
人生の指針にもなります。
「誰がために城はある」
これって
「誰がために会社はある」
にも置き換えられますよね。
社会
掟
組織
家
人間って・・・ということを考えさせられるストーリーで分かり易くって面白いです。
でも「庵原」さんの趣味って何だったのでしょうね?
あれってハナシの盛り方からするとベッドの中の趣味のことだったのでしょうか?
あの目張りバリバリのイケメンぶりから推察するに女装趣味だったのかな?などと想像しました。
何か変な趣味がある、という感じでしたよね。
歴史的に記録されているのでしょうね。
検索しなくっちゃ。
笑
[18] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月06日 00時27分32秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
九州で大雨の被害が出ており、最近何で九州ばかり被害にあうのだと、
天を仰ぎ無情を感じます(私は、八月には再チャレンジで別府方面に行く
予定をしています……)。
さて、昨日は「一言坂の戦い」の戦跡を確認しに磐田に行ってまいり
ました。といっても車で20分位の距離であります。
一言坂の戦いについては余り知られていませんが、家康の退却にあた
り、本多忠勝と大久保忠佐が殿(しんがり)を務め、無事退却させること
ができた。三方ケ原の戦いの2か月前の前哨戦でありました。
本多平八郎忠勝の退路に対する小杉左近の武士の情けは、一つの美談
として残っておりますし、左近の書いたといわれる狂歌に「家康に過ぎ
たるものが二つあり 唐の頭に本多平八」があります――
本多平八郎忠勝の「蜻蛉切り」の槍は、先日島田歴史博物館で二度見
てまいりました。蜻蛉がとまったら切れてしまったといわれるくらい鋭
い穂先で、形状は丸笹のような、というか小刀を背中合わせにくっつけ
たような穂先でありました。
一言坂の戦いについての詳しい資料があったのですが、見つかりませ
んので、また探してみます――
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月06日 02時42分44秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「自然」の力には人間はいくら抵抗しても無理です。
極がまたもや逆になる、なんて言われてますね。
その前哨戦でしょうか?前哨戦じゃなくて 前兆 でしたね。失礼をば。
千葉で過去の極の反転の証拠が見つかったんでしたっけ?
チバブリアなんて名前に出来たら嬉しいなんてハナシを聞きましたがイタリアのが有力だとか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%A3%81%E6%B0%97%E9%80%86%E8%BB%A2
地磁気逆転(ちじきぎゃくてん)とは、地球の地磁気の向きが、かつては現在と南北逆であったとすること。
1600年に、ウィリアム・ギルバートが地球は一つの大きな磁石であると主張した。1828年には、カール・フリードリヒ・ガウスが地磁気の研究を開始した。さらに1906年には、現在の地磁気の向きとは逆向きに磁化された岩石が発見された。
過去360万年の間に11回は逆転し、現在では、2つの逆磁極期があったことが判明している。約500万年前から約400万年前の逆転期は、「ギルバート」と名づけられ、258万年前から78万年前の逆転期は「松山」と名づけられている。なお、国立極地研究所らの研究によれば、より精密な年代決定を行った結果、最後の磁気逆転の時期は約77万年前と報告されている[1][2]。
地層[編集]
磁場逆転した証拠となる地層は、千葉県養老川沿いの崖面(千葉セクション)とイタリアのモンテルバーノ・イオニコとビィラ・デ・マルシェに存在する[2]。
本当にポールシフトの途中なんでしょうか?
私が死んでからにして欲しい。
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月06日 02時50分19秒 ) | パスワード |
>一言坂の戦いについての詳しい資料があったのですが、見つかりませんので、また探してみます――
見つかったら驚くような情報が載ってたかも知れないですね。
松島家は関係してなかったんでしょうかねぇ。
[21] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月06日 23時24分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
諏訪・大県介の松島氏が藤沢氏あるいは小笠原氏と同族、あるいは親戚
になったのは、婚姻関係に由来するものと思われます。
通常、系図は男系ばかりで書かれていますので、経緯がわかりにくいの
ですが、妻達の系譜がわかれば、系図の理解はもっと速やかに正確に行く
と思います。
1564年に、武田の伊那侵攻があり、落城した松島・小笠原氏一族は、
本家筋が小笠原、分家筋が松島として天竜川筋を下向し、遠江浜松へやっ
て来ました(これはまだ説の段階ですが、事実としての確立は極めて高い)。
もちろん、つてを頼ってやって来たと思われます。その当時、遠江は今川
の支配下にありました。と言っても、家康が三河を完全掌握して、これから
遠江を攻略しようと画策していた正にその時に、松島氏族は浜松へやって
きたのであります(浜松よりも遠州と言ったほうが確率は高くなります)。
では、一体誰の所にかくまわれたのだろうか? その候補としては、市野
氏や白羽の山下氏(小笠原氏)等は有力であります……。
また、ひょっとして、高天神城に逃げ込んだのかも知れません!
小笠原氏族は大変大族で、支流がいくつもあるので理解しにくいのですが、
その辺を一度整理し直してみます。
続く――
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月07日 03時40分29秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
おっしゃるように松島氏について
山下氏 and/or 市野氏 and/or 高天神城
みんな可能性がありますね。
人間関係は表面父系で見るのは楽ですが母系だって関係してるし。
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I723917-00
国会図書館
遠江山下氏系譜の古老の伝--遠江国風土記逸文考察
高藤 昇
タイトル
遠江山下氏系譜の古老の伝--遠江国風土記逸文考察
著者
高藤 昇
出版年
1963-01
掲載誌情報(URI形式)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000018549-00
遠江国風土記伝
http://books.google.com/books?id=XiWlHoM7MtwC&pg=PT593&lpg=PT593&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=W3jtj1uVKg&sig=KzGe4-EDX8eYpg6XKP4BXBo89Ds&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiWy9fbn_XUAhUUTWMKHVEIAS0Q6AEILzAC#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E3%80%80%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
白羽明神-也、皆田郡白羽村山下氏古書日、速江圃之牧地自, -璀麻郡-至:浙松之間・有-汕之洲叫此地牧口馬,所,而牧一官筑此. K ,大伴者任:白羽,官所叫舌云凡肋幣便及 ...
古書に白羽村の山下氏について
遠江に広大な牧があって
筑紫の大伴氏が白羽の牧を管理してた。
途中読めない文字だらけ
南北朝以来 ?
そこへ小笠原氏から養子が入って山下姓になった
こんな話を2年前、平熱に書いてますね。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101454.html
ムカシの日本は自由恋愛じゃなく、元を調べればどこかで繋がる、ですね。
現代でも自由恋愛で結婚しても、どこかで繋がっているのでしょう。
日本だから。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月07日 04時22分29秒 ) | パスワード |
http://tabi-mag.jp/yamashita-roots/
山下さんのルーツを探せ
[24] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月08日 00時52分37秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
山下・小笠原氏も藤沢・松島氏も小笠原系にまつわるキーワードは「馬」、
もっと正確にいうならば、「弓馬」であります。そして市野氏の「馬」と
つながって来る。さらには「南朝」でもつながるのではないかと思います。
その辺のことを今探っております――
[25] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年07月08日 01時51分54秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様 あを様
> 一言坂の戦いについての
図解版がありましたので紹介します。
>http://tenkafubu.fc2web.com/mikata/htm/hitokoto.htm
>http://tenkafubu.fc2web.com/area/aichi.htm
愛知での合戦 沢山あります。
>http://tenkafubu.fc2web.com/
こちらの表紙からも入れます、信長さんの活躍場面?が見れます。
足軽さん達の健脚ぶりが、実感できました。作者様に感謝します。
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月08日 12時41分44秒 ) | パスワード |
永田さん
見て来ました。
なかなかスゴイ纏め方をしたブログ主さんですよね。
信長の下天夢紀行も面白かったです。
桶狭間の戦いのところに 静岡県―服部小平太最期の地 服部小平太の墓 とありましたが
これは今川方に暗殺された遠江の服部仲のことでしょうね。
服部小平太って一体どうなっているのやら。
今1つ理解出来ないです。
[27] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月08日 21時37分27秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
箱柳永田様
まずは、九州で豪雨の被害にあわれた皆様、また亡くなられた方々に対
しまして、心よりお見舞い、また哀悼の意を表させていただきます。
まるで山の中で津波に襲われたような惨状、正に想定外のことが起こっ
てしまった……気象異変が牙をむき出し始めたということだと思います。
でも、熊本から東へ抜ける地帯にばかり地震、大雨が交互にやって来る
とは、何か特別な原因があるのでしょうか。気象のことはよくわかりませ
んが、これからは、気象のことを必須科目として勉強しておく必要がある
のではないか……と感じました。
でも、大宰府天満宮や宇佐八幡宮がこのベルト地帯にあるということ、
ひょっとしたら昔も同じようなことがあり、霊鎮めのために造ったのかも
知れませんね(これは私の全くの直感ですが)……。
さて、箱柳永田様、すごいサイトを紹介していただき、ありがとうござ
いました。文章だけでも大変なのに、モーションピクチャー的な説明を加
えるということ、大変な労作だと思いました。
長田平白赤(おさだたいらなおあか)氏の『平氏長田家 大河のごとく』
の主要部分の大半に目を通させていただきました。と言っても、頭の中で
しっかりと咀嚼し、理解できたいう段階にはありません。これからも、何
回も目を通し、少しずつ頭の刻み込んで行きたいと思っております。
ただ、全体を通して、やはり「野間の変―義朝暗殺事件」は、ひょっと
したら英雄になれたのに、その後、源氏方政権が長く続いたため、長田
一族はずっとつらい烙印を背負ってきたのだということを感じました。
ただ、「本能寺の変」と比べてみて、「野間の変」の方には、長田一族
を擁護しようとする論者もあまり現れず、世間的に一方的に裁かれている
のは、長田忠致を貶めることによって、源頼朝をよりヒーローに引き立て
させようとするベクトルが働いて来たのではないかと思っています――
平家と南朝、あを様、この二つには因果の連続性、関連性があると思う
のですが、どうでしょうか?
また、落武者としての平家であること、同じく南朝であること、これは
世間的には表に出せないシークレットであったのでしょうか?
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月09日 08時16分39秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>平家と南朝、あを様、この二つには因果の連続性、関連性があると思うのですが、どうでしょうか?
はい
旧平家勢力はだいたい南朝方ですね。
とはいえ
平家方は「敗者復活」を夢見て南朝方に簡単になれましたが
源氏一族でも日の目を見なかった新田系は「好機到来」とばかりに南朝方になりました。
千載一遇の機会、奇貨居くべし、浮ぶ瀬
そして
昨日の敵は今日の友
オトコとして生まれたら自分の可能性に賭けたい、世に出たい
というのでしょうね。
>また、落武者としての平家であること、同じく南朝であること、これは世間的には表に出せないシークレットであったのでしょうか?
出せない所もあったし、出して一矢報いた所もあった、ということで両方ですね。
平時政は旧平家の男子は見つけたら処刑という厳しい掟を出しましたから
そういう場では表に出せなかったし
伊勢や伊賀のような旧平家の本貫地では入って来た鎌倉幕府の手先にはゲリラ戦で抵抗したし
地元の旧平家に繋がる人々は匿ったでしょうし
ま、日本中で、源氏が支配することになった場所では、
旧平家に仕えてたことは秘密にしたでしょうし。
面倒に巻き込まれたくないですから。
その土地の者が平家とどんな関係があったかで違ったでしょうしね。
平家が嫌いな土地では落人は生きた心地がしなかったでしょうし
落人を殺して報酬を得ようとしたヒトもいるでしょうし
平家や南朝の落人だからと歓迎した土地もあったでしょうし。都の貴い血を入れたいというのもありますしね。
[29] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月10日 00時41分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、従兄弟の「森田」某が訪れたので、森田家のルーツについて話を
してみました。長上郡の石原(善地の隣)に森田家はあるのですが、私の過去
の調査の中で、伊賀に「森田浄雲」という土豪がいて、ひょっとしたら何か
関係があるかも知れないとずっと思っていました。何でこの地に森田家が
存在するのか、どういう経緯でここにいるのか……?
本人に訊いたところ、「昔、武士であり、九州から来たと聞いたことが
ある」と言う。
調べた所、松浦党に森田の姓が見出される。安倍氏族とも関係がある。
一方伊賀の森田浄雲も安倍氏族という情報もあり、つながりはなきにしも
あらずという感触でありました。
これ以上は調査ができませんでしたので、次回伊賀に行ったときに森田
浄雲について情報を収集してみようと思っています――
伊賀と平氏と南朝……これについて、次回触れたいと思います。
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月10日 12時15分18秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
九州の森田さんと言ったらタモリですね。
笑
森田
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%A3%AE%E7%94%B0
【全国順位】 60位
【全国人数】 およそ262,000人
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)隆家流、
嵯峨天皇の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)松浦氏流など九州に多くみられる。
現栃木県である下野国那須郡森田村発祥の族は那須氏流。
ほか全国に様々な流派が分布している。
語源は、森の近くにある田。のちに森の形や神社森などの関係から、盛田や守田に転じたとされる。家紋は藤、沢瀉、揚羽蝶など。
松浦党は最初平家方で(物理的に京都から遠いし)源氏に乗り換えましたね。
南北朝の時は後醍醐側に付いたものがいたり北条方に付いたものがいたり足利尊氏が弟と喧嘩した時は弟に付いたものがいたり
結構ころころ強い方に乗り換えているようですね。
勿論義を貫いた松浦党のものもいたでしょうし。
わたくしも一応京屋敷の松浦氏の血を引いてますから悪口を言ったらツバキが顔にバシャッ。
[31] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月10日 15時57分50秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いつもながらご親切なご教示、ありがとうございます。話題もあっちへ行
ったりこっちへ来たりと、しょっちゅう変わり申し訳ないとは思っています
が、コアの部分の服部氏族の探究というテーマについては、他の事を語りな
がらも、その関連性を探っております……。
奈良や京都から見た九州は遠いのか近いのか……この感覚が遠江の私には
わかりません。つまり遠いだろうというイメージだけが先行しております。
海があるから遠いというのは間違いで、海があるからこそ近いという逆説が
成り立つのかも知れません。今の常識的尺度は通じない別の常識があった…
…海運・水運の歴史をもっと知る必要があると思っています。
「おんな城主 直虎」でもいよいよ水運・海運にからむ話が出てまいりま
した。風をうまく操るノウハウを身に着けたら、こんな効率的な運輸方法は
ありません。そういった意味では、平家が栄えたのは当然の帰結ではありま
した。また、人々の移動も、想像以上にあっと言う間にできてしまったので
はないでしょうか。陸をトボトボと歩いて移動というのは実に大変なことで
あった。この辺の皮膚感覚を机上でも備えたいと思います。
[32] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月11日 06時29分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
早朝の夢の中で気が付きました。昨夜は「水運・海運」と申しましたが、
それは江戸時代のように戦(いくさ)のない安定した時代の呼び方で、それ
以前の戦乱の時代は、「水軍」という言った言葉を用いた方が、時代的状
況下のイメージに合致するのではないかと思いました。
船と湊の歴史について少し踏み込んでみたいと思います。特に、源平の
時代、及び南北朝の時代――
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月11日 14時00分26秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
いろいろアチコチ飛んで当然なのですよ
「人間」のことですから。
たくさん読まないと見えて来ないですしね。
船も現代の我々の想像とは全く違った 舟 のレベルだったかもですね。
最近の日本では、大昔、中国本土から日本(沖縄)へどうやって渡ったのかの実験が始まっていますね。
でも成功しない。
なぜなら黒潮を渡れないから。
ということは 古代の黒潮は違う場所を流れていたのかもですね。
例えば
もっと東を流れていたのかも。
[34] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月12日 10時58分03秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ここのところ、まだ梅雨は開けていないのに連日猛暑が続き、睡眠不足
気味で四六時中眠く、秋の空のような集中力がありません。
@遠江と小笠原氏について
A永田氏の一言坂での活躍その他について
B伊賀と平氏と南朝について
C森田氏がらみの松浦党について
D海運と水軍について
この辺が中途半端になってしまっております。
箱柳永田様より、昨日D海運と水軍に関するいいサイトのご紹介があり、
民政上の大変いい情報がギッシリですので、あを様にも見ていただきたい
と思いまして記します――
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/index.html#annai
六郎光明の屋形
です。
永田様のおかげで、目が覚めて、アドレナリンが出てまいりました――
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月12日 15時11分45秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
面白いサイトをありがとうございました。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/real11.html
平安時代、米や農作物を主体とした荘園年貢などの都への回送は、収穫後の10月以降、だいたい正月あたりまでの4ヶ月間に行われ・・・
平安時代と書かれていますが、これ、まさに父方祖母の家への運上米の話です。
従兄が「あ〜、小作が運上米を運んで来た〜」と近づいて来た舟を見て叫んでました。
従兄も戦後生まれですが。
面白いサイトで
ついつい読み込んでしまいますね。
[36] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月14日 09時18分50秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
初盆と親戚の葬式でばたばたしております――
近日中には伊賀に行って、服部氏族の調査をして来たいと思っておりま
す。宗清と家長がどうつながっているのかがよくわかりません。たしかに
近い関係には違いないと思います。頼盛に仕えたか、知盛に仕えたかの違
い……。とにかくできるだけ調査をしてみたいと思っております――
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月14日 14時21分52秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>宗清と家長がどうつながっているのかがよくわかりません。
もともと宗清と家長は親戚というか一族で
さらに
宗清という名の家長の孫が「柘植」を名乗っています。
笑
ここのトコロが歴史の謎でしょうね
宗清は源頼朝の命を助け、お礼に「柘植」を貰いました。それで俗姓が柘植。
家長の孫が柘植姓を名乗る。
なんとなく分かるけど分からないですね。
ややこしい。
わたくしの想像では
頼朝の命を助けた宗清は柘植をもらって隠棲し
平家を滅亡させたPTSDで
結局は家長の孫に柘植を相続させたのかな
と。
この柘植を相続した一族の関係者の子孫が湯舟の藤林さんなのかなと。
西の千賀地の服部、北の湯舟の藤林、東の喰代の百地
ということで戦国時代を迎えるのでは?と。
北の湯舟や柘植の関係者と喰代の関係者の間に生まれたのが松尾芭蕉かなと。
以上空想です。おおざっぱに言うとこんな感じかなと。
ということで今度の伊賀行きの御報告を楽しみにしております。
[38] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月17日 05時40分19秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
親戚の森田家の葬式も終り、おんな城主直虎を見ましたら、今回は寿桂尼
の命がけの活躍が目立ち、葬式の感傷からかこころなし涙がうるんでしまい
ました。しかしながら、最後のどんでん返しで、改めて女は怖いものだと心
が凍ってしまいました。
従兄弟の娘さんは名張にいるとのこと。何か祖先からの糸が見えるような
気がします。
本日、これより伊賀の柘植方面に調査に行って来ます(図書館は月曜休み
でしたので、そちらは次の機会にいたします)――
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月17日 13時20分09秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
梅雨時のお葬式は大変でしたでしょうね。
>しかしながら、最後のどんでん返しで、改めて女は怖いものだと心が凍ってしまいました。
ふふふ
公家・中御門宣胤(のぶたね)の娘ですからね
フツーの女じゃないですからね。
やっぱりカシコイ女性だったのでしょうね。
どうしたら自分の嫁ぎ先を栄えさせることが出来るか守ることが出来るのか
考え抜いたのでしょうね。
>従兄弟の娘さんは名張にいるとのこと。何か祖先からの糸が見えるような気がします。
これは意外でしたね。
わたくしも三つ柏さんのご親戚が伊賀にご縁があるとは想定外でした。
伊賀行き
幸先が良さそうですね。
お気をつけて。
[40] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月17日 19時07分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
まずはビックニュースを!
今回の旅についてお話しすることはたくさんありますが、とりあえず
ビックニュースを先に報告したいと思います――
それは何だと思いますか? 私が一番入手したかった情報―「平宗清」
についての情報です!
では、それについて、伊賀の堅焼せんべいをこぶしで叩き割り、砕い
てかじりながらお話いたします。その前に、ビールを一缶ググッと――
[41] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月17日 23時21分49秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ビールを飲んだら往復400qの運転の疲れか、急に眠くなり一眠りし
てしまいました。
今、カメラの中の映像をフラッシュバックしております。宗良の話題の
場面の次――つまり、最後に訪れた下柘植の「西光寺」なんですが、ここ
には、ビックリしたことに、松島家と藤沢家と服部家の墓群が、向かい合
わせに一塊になっており、しかも家紋が同じ「八角に並び切り竹」を全部
の墓が付けておりました。藤沢と松島家は信州伊那では同族であるのです
が、この伊賀では服部氏とも同族となっている……墓の古さでは、服部、
松島、藤沢の順でありました。これはどういうことでありましょぅ……?
この問題は、容易に解けそうもありませんので、「宗清」の話題に移り
ます――
[42] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月18日 00時15分54秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
書物に書かれていないことが、歴史の現場(時間的に過去と線で結ばれて
いる場所ということ)に行くと見つかるということを、今回色々なものに出
会ってみて、改めて強く感じた次第であります。
「宗清」の話も、伊賀上野図書館で探してみよう位の心づもりだったので
すが、たまたま柘植の都美恵神社に置いてあった「伊賀市いがまちガイドマ
ップ」に小さな字で「宗清地蔵」と一言書かれているのを見つけたことが、
私にとっては幸運な出会いとなりました。その地図を基に、下柘植に行って
みたのですが、歩き回っても見つからない。地元の老人に訊いても、はっき
りとした答は返ってこない。ただ、ガイドマップの地図はアバウトすぎて、
本当はもっと道や小さな川も混み入ってあるよとのことでしたので、狭い
道を、そして斜面を上ったり下りたり、グルグル回ったところ、左手に看板
が見えました。
車を止めて、その看板を見ると、一つには「宗清地蔵尊」、もう一つの方
には、次のように書かれておりました――
「平 宗清(平安時代末期の武将、伊賀平氏の一人)
平治元年(1159)の平治の乱で、平清盛に敗れ敗走していた源頼朝を捕ら
え、京都に連行した。清盛の命により、処刑されることになった頼朝は、
清盛の継母池禅尼の再三の哀願により助けられ、しばらく宗清に預けられ
ることになった。宗清は伊豆に流されるまでの間、頼朝に手厚い情けをほ
どこした。
文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡したが、頼朝は宗清から受
けた昔の恩を忘れず、鎌倉に招き召し抱えようとしたが、宗清は病を理由
に伊賀に隠棲したという。
宗清は、中世における柘植郷の豪族(日置・北村・福地)の祖とされ、さ
らにその後、柘植・松尾・勝島・西川・山川等の各氏が出た。
名阪国道沿いに、日置氏城跡があり、そのすぐ下の「佐仲屋敷」と呼ば
れた場所が、宗清やその後裔の屋敷跡とされ、そこに「梅が枝の手水鉢」
と「夜哭石」というものが残っていた(現在、川東の春日神社にある)。
この手水鉢は、後年の宗清の作といわれ、藤堂家に伝わる伝説にも出てく
る。
また、ここの宗清堂に安置される大小五体の地蔵像も宗清の作といわれ、
地元の有志によって今日まで祀られている。
いがまち観光振興会」
と書かれておりました。
駐車スペースも少しありましたので、車をそこに停め、一段下の川沿い
に降りました。そこには2メートル半くらいの高さの祠が建てられており、
それが宗清堂であり、中に宗清地蔵尊が祀られているということでありま
した。格子の中をよく見ましたが、地蔵尊はたぶん盗難防止のため、他に
安置されているのかなあと思いました。宗清の猛烈な信奉者はいるはずで
すので、それも無理からぬことではあります。
ここで、この宗清堂に向かい、般若心経を2巻、唱え捧げました――
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月18日 14時23分20秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ビックリですね。
>八角に並び切り竹紋
並び切り竹紋は分かりますが 八角 ということは「折敷」つまり「諏訪大社の神様がらみ」でしょうか?
ビックリ
ということは この服部氏は諏訪氏に近い家?
ということで連想したのは ヒバリさんのご実家の関係者?
もともと 伊賀がらみ+諏訪大社 その関係の服部氏?
いえいえ
分かりません。
>宗清堂に向かい、般若心経を2巻、唱え捧げました
わたくしの分もありがとうございました。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月18日 14時39分18秒 ) | パスワード |
伊賀 日置氏城
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/igahiki.htm
伊賀日置氏
お城のデータ
所在地: 三重県伊賀市下柘植字畑山1732
遺 構: 曲輪、土塁、空堀
形 式: 丘城 築城者: 日置氏 築城年代: 不明
日置氏城は、名阪国道の建設により城の南側が破壊され、城の全容は判別しないが、名阪国道を挟んで南から北へと連なる丘陵の先端部を利用して築かれた城だ。 長方形の主郭・西側の帯曲輪・主郭東側の空堀と土塁が残り、名阪国道を挟んで南側に「南出構え」として日置氏南城が配置された縄張りとなっていた。
歴 史
日置氏城は、築城年代は定かでないが日置氏によって築かれた。 三国地志に弥平兵衛尉宗清堡とあり、宗清を祖とする柘植三方に数えられる有力国人日置氏の居城。
お城へのアクセス
鉄 道: 伊賀鉄道上野市駅〜バス/伊賀支所〜徒歩約15分
車 : 名阪国道下柘植IC〜県道133号線
駐車場: なし。
ひとくち MEMO
柘植三方の一つ日置氏の本城。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/igahikiminami.htm
伊賀 日置氏南城
お城のデータ
所在地: 三重県伊賀市下柘植字南出構
遺 構: 曲輪、土塁、空堀
形 式: 丘城 築城者: 日置氏 築城年代: 不明
見 ど こ ろ
日置氏南城は、名阪国道を挟んで日置氏城の南側に位置している。 国道の建設で日置氏城の南側が破壊されいなければ、日置氏城の出構え(出丸)であったことがよく分かったかもしれない。 現在、城跡は雑木林とブッシュに覆われていたが、土塁と空堀を何とか確認することができた。
歴 史
日置氏南城は、築城年代や築城者については定かでないが、日置氏城の出構えとして日置氏によって築かれたとも思われる。
お城へのアクセス
鉄 道: 伊賀鉄道上野市駅〜バス/伊賀支所〜徒歩約15分
車 : 名阪国道下柘植IC〜県道133号線
駐車場: なし。
ひとくち MEMO
日置氏城の出構えと思われるお城。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BD%AE%E6%B5%81
日置流(へきりゅう)
古流の逸見流を学んだ日置弾正政次(正次とも)が確立した、和弓の流派の一つである。日置弾正正次は室町時代(15世紀後半)の人といわれているが諸説あり、神仏の化身と称されたり、日置吉田流初代・吉田上野介重賢と同一人物であるとされたりするが、架空の人物との説が有力である。
以下略
でも、いろいろ思うところがあります。
日本人なのでDNAで記憶が繋がっているのかなぁ、と。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月18日 14時45分06秒 ) | パスワード |
伊賀 北村氏山城
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/kitamurayama.htm
明智光秀の妻の実家の伊賀喜多村(北村)氏。
名張だと思っていたら、もともとは、柘植でしたか?
お城のデータ
所在地: 三重県伊賀市中柘植字堂谷
遺 構: 曲輪、土塁、空堀、堀切
形 式: 丘城 築城者: 北村氏 築城年代: 不明
見 ど こ ろ
北村氏山城は、舌状の丘陵先端部を利用して築かれた城で、城の南側の集落(東畑地区)にある北村氏里城の詰の城であった。
城の縄張りは、丘陵先端頂上部を方形に切り込んだ土塁に囲まれた主郭を置き、南に虎口を開いている。 主郭周囲には四方それぞれに帯曲輪を配し、北側背後の丘陵との間には堀切が設けられている。
城全体が雑木に覆われ、遺構確認には難渋するが、それでも分厚い土塁など完存する遺構を見れば、疲れなど吹っ飛んでしまった。
歴 史
北村氏山城は、築城年代は定かでないが北村氏によって築かれた。 北村氏は、室町時代には日置・福地氏と共に柘植三方と称された有力国人であった。
お城へのアクセス
鉄 道: JR関西本線柘植駅〜バス/上村口
車 : 名阪国道上柘植IC〜県道4号線〜国道25号線(旧道)
ひとくち MEMO
柘植三方の一人北村氏の詰の城。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月18日 14時48分29秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E5%9F%8E
福地城(ふくちじょう)
三重県伊賀市柘植字浦出にあった丘城・城館。
別名
福地氏城
城郭構造
丘城、城館
築城主
福地氏
主な改修者
福地宗隆(福地伊予)
主な城主
福地氏、池尻氏[1]
廃城年
天正10年6月(1582年6月)
遺構
主郭、大手門礎石、土塁、石塁、空堀、石組井戸、石列、土壇、階段
指定文化財
なし
再建造物
なし
位置
北緯34度50分9秒
東経136度14分55秒
城主[編集]
城主の福地氏は、平清盛の末裔を称した土豪で[2]、柘植の有力な国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)[3]」を構成した氏族[4]。祈願寺は長福寺(現・万寿寺)と推定され、本尊の地蔵菩薩像の内部から発見された南北朝時代の文書に「ふくちの御てら」とある[5]。この文書には「やなき」という女性から「ふくちの御てらの了賢房」へ宛てた書状が含まれるが、了賢房はやなきの子で、いずれも福地氏の一族と推定される[6]。福地氏は正長2年(1429年)に室町幕府から関氏の討伐を命じられており、この頃既に柘植を代表する国人に成長していたことが確認できる[4]。天正9年(1581年)に織田信雄が伊賀国を攻めた天正伊賀の乱では、福地宗隆が織田方に味方して勢力を拡大した[2]が、天正10年6月(1582年6月)に織田信長が没する(本能寺の変)と、伊賀衆の残党に裏切り者として攻められ、国外へ逃亡した[2][4]。菊岡如幻の著した『伊水温故』は、福地氏の戦国時代の所領を1000石程としている。
構造[編集]
丘陵頂上の城郭と丘陵の裾の城郭に大きく分けられ、前者は詰城・後者は居館と推定される[7]。大手門は石垣を用い、礎石の遺構から門扉の存在が確認される[7]。大手門の両側には高さ3.5-4.8メートルの土塁があり、櫓の遺構と推測されている[7]。丘陵頂上には11以上の郭が確認され、同心円状に配置されている[7]。
現在、城跡は芭蕉公園として整備され、「伊賀の小屋組みの家」という懐石料理屋が営業している。
出土物[7][編集]
鍋
羽釜
皿
香炉
白磁碗
染付椀
染付皿
天目茶碗
捏鉢
摺鉢
深鉢
壺
甕
脚注[編集]
1.^ 『伊賀市史』819P
2.^ a b c 伊賀流忍者博物館 忍者関連施設・史跡(閲覧:2016/06/24)
3.^ 『伊賀市史』751P
4.^ a b c 『伊賀市史』667P
5.^ 『伊賀市史』485P
6.^ 『伊賀市史』674P
7.^ a b c d e 三重県教育委員会福地城発掘調査報告書(1982)
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月18日 15時01分40秒 ) | パスワード |
面白いのを見つけました:おやおやと思った所にスペースを空けておきました。
伊勢伊賀は城が多いとは聞いていましたが
やっぱり源平戦で負けて鎌倉幕府の役人に対抗してたのだろうな、と
そして一族の中心になる家が 城 となっていたのだろうな、と。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/itiran_mie.htm
伊賀 上野城 伊賀市上野丸之内 旧上野市 平山城 国史跡
仁木義視城 伊賀市小田町新屋敷3789 旧上野市
天王下館 伊賀市佐那具町字天王下 旧上野市 居 館
喜春西館 伊賀市佐那具町字喜春1168 旧上野市 居 館
喜春東館 伊賀市佐那具町字喜春1191 旧上野市 居 館
中坂城 伊賀市佐那具町字中坂 旧上野市
中坂東城 伊賀市佐那具町字中坂 旧上野市
西村兵庫館 伊賀市佐那具町字角街道411 旧上野市
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楽音寺城 伊賀市坂之下寺大天上 旧上野市
山出氏館 伊賀市東条字屋敷ノ下 旧上野市 居 館
屋敷ノ下館 伊賀市東条字屋敷ノ下 旧上野市 居 館
倉田氏館 伊賀市東条字屋敷ノ下 旧上野市 居 館
松本氏館 伊賀市西条字里 旧上野市 居 館
宮川氏館 伊賀市西条字里597 旧上野市 居 館
林氏館 伊賀市西条字里 旧上野市 居 館
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鹿島氏館 伊賀市土橋字中出622 旧上野市 居 館
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岡村氏城 伊賀市野間字広出719 旧上野市 丘 城
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浜田安芸城 伊賀市西高倉字森村 旧上野市 丘 城
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福田氏城 伊賀市西山字中出構 旧上野市 丘 城
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長嶋氏館 伊賀市高畑字前田473 旧上野市
高畑服部氏館 伊賀市高畑字中之垣内 旧上野市
服部時定館 伊賀市服部町字ヨナセ1515 旧上野市 居 館
工藤氏館 伊賀市服部町字ヨナセ791 旧上野市
箕升氏館 伊賀市羽根字北城 旧上野市
荒木氏館 伊賀市荒木字石田1268 旧上野市 居 館
池田氏城 伊賀市荒木字鉄砲塚 旧上野市 居 館
小沢氏館 伊賀市長田字西ノ川2800 旧上野市 居 館
比自山城 伊賀市長田字比自山 旧上野市
城山砦 伊賀市長田字十王下 旧上野市
百田藤兵衛城 伊賀市長田字垣内 旧上野市
福喜多将監城 伊賀市朝屋字池ノ側103−1 旧上野市 丘 城
福喜多氏館 伊賀市朝屋字鳥居590 旧上野市 居 館
榎並氏館 伊賀市朝屋字垣内 旧上野市 居 館
久保田氏城 伊賀市大野木字池ノ尻 旧上野市 丘 城
広山氏城 伊賀市大野木字池ノ尻 旧上野市 丘 城
広山氏館 伊賀市大野木字池ノ尻 旧上野市 居 館
竹島氏館 伊賀市大野木字神ノ木231 旧上野市 居 館 市史跡
神ノ木館 伊賀市大野木字神ノ木 旧上野市 居 館
木津氏館 伊賀市大野木字東出411 旧上野市 居 館
直居氏館 伊賀市大野木字清水339 旧上野市 居 館
加藤将監城 伊賀市大内字内屋敷 旧上野市 丘 城
西村城 伊賀市大内字西村 旧上野市
白樫氏館 伊賀市白樫字北出1274 旧上野市
高田氏館 伊賀市白樫字北出1248 旧上野市
山極氏館 伊賀市白樫字北出1493 旧上野市
菊田氏砦 伊賀市白樫字北出1513 旧上野市
長岡城 伊賀市守田町 旧上野市
中森氏城 伊賀市四十九町字城中 旧上野市 丘 城
知高左衛門城 伊賀市四十九町字風呂ヶ谷 旧上野市 丘 城
増田氏城 伊賀市四十九町字風呂ヶ谷 旧上野市 丘 城
田中氏城 伊賀市中友生 旧上野市
喰代城 伊賀市喰代字北田 旧上野市 丘 城
奥氏城 伊賀市喰代字北田 旧上野市 丘 城
入屋敷城 伊賀市喰代字北田 旧上野市
和田城 伊賀市喰代字和田 旧上野市
安場氏館 伊賀市喰代字和田752 旧上野市 居 館
百地丹波城 伊賀市喰代字城谷 旧上野市 丘 城
蓮池上山氏城 伊賀市蓮池字横山 旧上野市 丘 城
西岡氏城 伊賀市蓮池字横山 旧上野市
吉田氏城 伊賀市蓮池字青代 旧上野市 丘 城
土田氏城 伊賀市蓮池字稲葉 旧上野市
脇田氏城 伊賀市蓮池字大北 旧上野市
大北東城 伊賀市蓮池字大北 旧上野市
鷹山氏城 伊賀市高山字清水 旧上野市
島地氏城 伊賀市高山字清水 旧上野市
高井将監城 伊賀市高山字里 旧上野市
大久氏城 伊賀市高山字里 旧上野市
吉川氏城 伊賀市菖蒲池字小幡1217 旧上野市
鍛冶屋村城 伊賀市鍛冶屋村字城山482 旧上野市
松田氏館 伊賀市蔵縄手字奥屋敷183 旧上野市 居 館
高沢氏館 伊賀市蔵縄手字奥屋敷186 旧上野市 居 館
蔵縄手城 伊賀市蔵縄手字奥屋敷 旧上野市 丘 城
奥屋敷城 伊賀市蔵縄手字奥屋敷 旧上野市 丘 城
安場氏城 伊賀市安場字西古城181 旧上野市
藤原氏館 伊賀市桂字美弥73 旧上野市
北の城 伊賀市依那具字西田城699 旧上野市 丘 城
狭間城 伊賀市依那具字西田城ノ内2493 旧上野市 丘 城
依那具城山城 伊賀市依那具字西田城ノ内2931 旧上野市 丘 城
小泉氏館 伊賀市依奈具字柳原 旧上野市 居 館
仏勝寺館 伊賀市猪田字広廻2152 旧上野市 居 館
我山城 伊賀市上神戸字我山 旧上野市
丸山城 伊賀市下神戸字坂田 旧上野市 山 城
嵯峨尾主馬城 伊賀市下神戸字狭間 旧上野市
滝川氏城 伊賀市枡川字狭間 旧上野市
岡波館 伊賀市岡波字百々農栄 旧上野市 居 館
竹田氏館 伊賀市岡波字百々農栄 旧上野市 居 館
浅野氏館 伊賀市岡波字百々農栄 旧上野市 居 館
三藤氏城 伊賀市摺見字上寺 旧上野市
西氏城 伊賀市比自岐字下り合 旧上野市
荒堀長川館 伊賀市比自岐字西出 旧上野市
重富氏城 伊賀市比自岐字向山3207 旧上野市
荒堀氏城 伊賀市比自岐字向山3110 旧上野市
竹岡氏城 伊賀市比自岐字向山3054 旧上野市
中川氏城 伊賀市比自岐 旧上野市
中原氏館 伊賀市上林字中原 旧上野市
山村氏城 伊賀市上林字白地 旧上野市
上出砦 伊賀市比土字早山 旧上野市 丘 城
早山氏城 伊賀市比土字早山 旧上野市 丘 城
比土松山氏城 伊賀市比土字早山 旧上野市 丘 城
龍王山城 伊賀市比土字竜王山 旧上野市 山 城
千賀地氏城 伊賀市予野字上出 旧上野市 丘 城
浅井氏城 伊賀市予野字上出8723 旧上野市 丘 城
木原氏城 伊賀市予野字前出8977 旧上野市 丘 城
勝島氏城 伊賀市予野字馬田 旧上野市
杉山八三郎城 伊賀市予野字守田前9623 旧上野市 丘 城
吹井氏城 伊賀市予野字西之谷3646 旧上野市
萱氏館 伊賀市予野字天満1984 旧上野市
杉田氏城 伊賀市槇山字門出 旧阿山町
古屋敷城 伊賀市槇山字門出 旧阿山町
谷出北城 伊賀市槇山字門出 旧阿山町
谷出城 伊賀市槇山字門出 旧阿山町
谷出南城 伊賀市槇山字門出 旧阿山町
谷川城 伊賀市槇山字林ノ前 旧阿山町
槙山服部氏城 伊賀市槇山字本城2706 旧阿山町
城之越城 伊賀市内保字城之越 旧阿山町
内保播磨守館 伊賀市内保字城之越 旧阿山町
南出城 伊賀市内保字南出 旧阿山町
耳須氏城 伊賀市玉滝字新軒寺 旧阿山町
高木城 伊賀市玉滝字高木 旧阿山町
川崎氏城 伊賀市玉滝字里出 旧阿山町
中林氏城 伊賀市玉滝字城出 旧阿山町
岩島氏城 伊賀市玉滝字城出 旧阿山町
瀧嶋氏城 伊賀市玉滝字城出5828 旧阿山町
川上1号城 伊賀市玉滝字川上 旧阿山町
川上2号城 伊賀市玉滝字川上 旧阿山町
川上3号城 伊賀市玉滝字川上 旧阿山町
川上4号城 伊賀市玉滝字川上 旧阿山町
鈴鹿1号城 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
鈴鹿2号城 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
鈴鹿3号城 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
鈴鹿4号城 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
鈴鹿5号城 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
磯矢氏城 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
磯矢氏館 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
木津越前守城 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
木津越前守館 伊賀市玉滝字鈴鹿 旧阿山町
山谷服部氏城 伊賀市西湯船字山ヶ谷 旧阿山町
林ヶ谷城 伊賀市西湯船字林ヶ谷 旧阿山町 丘 城
岩田氏城 伊賀市西湯船字松ヶ本 旧阿山町 丘 城
勝谷氏城 伊賀市西湯船字松ヶ本 旧阿山町 丘 城
勝谷氏館 伊賀市西湯船字市ヶ谷2214 旧阿山町 居 館
三矢氏城 伊賀市西湯船字市ヶ谷 旧阿山町 丘 城
田名瀬氏城 伊賀市西湯船字芽ヶ谷 旧阿山町 丘 城
中北服部氏城 伊賀市東湯船字中北 旧阿山町 丘 城
藤林長門守城 伊賀市東湯船字辻ノ内 旧阿山町 丘 城
藤山摂津守城 伊賀市東湯船字城ノ谷 旧阿山町 丘 城
城ノ谷館 伊賀市東湯船字城ノ谷 旧阿山町 居 館
高殿城 伊賀市上友田字柳谷 旧阿山町 丘 城
鷹山飛騨守城 伊賀市上友田字坊ヶ谷 旧阿山町 丘 城
中谷氏城 伊賀市上友田字西浦 旧阿山町 丘 城
菊永氏城 伊賀市上友田字向山 旧阿山町 丘 城
深井氏城 伊賀市中友田字亀山 旧阿山町 丘 城
中友田東城 伊賀市中友田字亀山 旧阿山町 丘 城
中友田南城 伊賀市中友田字一色 旧阿山町 丘 城
一色城 伊賀市中友田字一色 旧阿山町 丘 城
植山城 伊賀市中友田字ゴロバク 旧阿山町
植山西城 伊賀市中友田字ゴロバク 旧阿山町
螻鼻服部氏城 伊賀市中友田字螻鼻 旧阿山町
白楚竹内氏城 伊賀市中友田字白楚 旧阿山町
山内氏城 伊賀市下友田字谷出 旧阿山町
雨請山城 伊賀市下友田字谷出 旧阿山町
寺坂竹内氏城 伊賀市下友田字寺坂 旧阿山町
寺坂城 伊賀市下友田字寺坂 旧阿山町
稲増氏城 伊賀市下友田字佐奴田 旧阿山町
川合氏城 伊賀市下友田字佐奴田 旧阿山町
大野氏城 伊賀市波敷野字里 旧阿山町
稲垣氏城 伊賀市波敷野字大林 旧阿山町
高藤氏城 伊賀市石川字芝出 旧阿山町
中山1号城 伊賀市石川字中山 旧阿山町
中山2号城 伊賀市石川字中山 旧阿山町
中山3号城 伊賀市石川字中山 旧阿山町
中山4号城 伊賀市石川字中山 旧阿山町
中山5号城 伊賀市石川字中山 旧阿山町
菊屋氏城 伊賀市石川字北峯 旧阿山町
青嶽山城 伊賀市石川字阿保 旧阿山町
音羽氏城 伊賀市音羽字井堰 旧阿山町
音羽北出城 伊賀市音羽字北出 旧阿山町
宮田氏館 伊賀市丸柱字南出 旧阿山町
宮田氏城 伊賀市丸柱字宮田山 旧阿山町
宮山1号城 伊賀市馬場字田藤 旧阿山町 丘 城
宮山2号城 伊賀市馬場字田藤 旧阿山町 丘 城
宮山3号城 伊賀市馬場字田藤 旧阿山町 丘 城
阿山上山氏城 伊賀市川合字上山 旧阿山町
上山北城 伊賀市川合字上山 旧阿山町
三蓋山城 伊賀市川合字三蓋 旧阿山町
三蓋山南城 伊賀市川合字三蓋 旧阿山町
松屋氏城 伊賀市川合字三蓋 旧阿山町
田矢伊予守城 伊賀市川合字城 旧阿山町 丘 城
杉野氏館 伊賀市川合字城 旧阿山町
北垣内砦 伊賀市円徳院字北垣内 旧阿山町
恒岡氏城 伊賀市円徳院字東山 旧阿山町
桶崎氏城 伊賀市円徳院字東山 旧阿山町
恒矢氏城 伊賀市島ヶ原大道 旧島ヶ原村
増地氏城 伊賀市島ヶ原中村字立岩 旧島ヶ原村
高瀬城 伊賀市島ヶ原中村字高瀬 旧島ヶ原村
菊岡氏城 伊賀市島ヶ原町字高助 旧島ヶ原村
田槇氏城 伊賀市島ヶ原町字北坂 旧島ヶ原村
清助山城 伊賀市島ヶ原奥山字西奥寺 旧島ヶ原村
杉山氏城 伊賀市島ヶ原奥山字柳谷 旧島ヶ原村
西構城 伊賀市小杉字野田186 旧伊賀町
小杉松山氏城 伊賀市小杉字峠778 旧伊賀町
沢氏城 伊賀市小杉字沢1871 旧伊賀
福地氏城 伊賀市柘植町浦出 旧伊賀町 丘 城 県史跡
山出城 伊賀市柘植町山出 旧伊賀町
北谷西城 伊賀市柘植町倉部字北谷621−1 旧伊賀町
北谷東城 伊賀市柘植町倉部字北谷714−1 旧伊賀町
平谷城 伊賀市柘植町倉部字平谷733 旧伊賀町
浜地氏城 伊賀市柘植町倉部 旧伊賀町
左近館 伊賀市柘植町上町 旧伊賀町 居 館
右近館 伊賀市柘植町上町 旧伊賀町 居 館
富井氏館 伊賀市野村字安田214−1 旧伊賀町 居 館
北村氏里城 伊賀市中柘植字東畑 旧伊賀町 居 館
北村氏山城 伊賀市中柘植字堂谷 旧伊賀町 丘 城
高井氏館 伊賀市下柘植字物堂598 旧伊賀町 居 館
日置氏城 伊賀市下柘植字畑山1732 旧伊賀町 丘 城
日置氏南城 伊賀市下柘植字南出構 旧伊賀町 丘 城
高島氏館 伊賀市下柘植字広芝 旧伊賀町 居 館
広芝城 伊賀市下柘植字広芝 旧伊賀町 丘 城
柘植城山城 伊賀市下柘植字城山 旧伊賀町
大井伊豆介城 伊賀市楯岡 旧伊賀町 丘 城
鈴木氏館 伊賀市御代字三構1035 旧伊賀町 居 館
佐々木氏城 伊賀市新堂字三反田400 旧伊賀町 丘 城
権現山城 伊賀市柏野字松谷 旧伊賀町
福島氏館 伊賀市柏野228 旧伊賀町 居 館
柏野城 伊賀市柏野字宮ノ前 旧伊賀町 丘 城
竹島氏城 伊賀市愛田字構谷 旧伊賀町 平山城 市史跡
春日山城 伊賀市川東字春日山 旧伊賀町
沢氏東館 伊賀市川東291 旧伊賀町 居 館
沢氏西館 伊賀市川東字内垣内1525−1 旧伊賀町 居 館
五百田氏館 伊賀市川東字内垣内1491 旧伊賀町 居 館
大深氏館 伊賀市川東1491 旧伊賀町 居 館
壬生野城 伊賀市川東字深田 旧伊賀町 平山城
竹島氏館 伊賀市川東 旧伊賀町 居 館
澤村氏館 伊賀市川東字井戸川1650−2 旧伊賀町 居 館
三根氏館 伊賀市川東 旧伊賀町 居 館
大西氏館 伊賀市川西22 旧伊賀町 居 館
中林氏館(1) 伊賀市川西29 旧伊賀町 居 館
中林氏館(2) 伊賀市川西430 旧伊賀町 居 館
中矢氏館 伊賀市川西608 旧伊賀町
亀井氏館 伊賀市山畑1586 旧伊賀町 居 館
徳山氏館 伊賀市山畑1384 旧伊賀町 居 館
米野氏館 伊賀市山畑469 旧伊賀町 居 館
箸尾氏館 伊賀市平田字北浦 旧大山田村 居 館
轟西城 伊賀市鳳凰寺 旧大山田村 丘 城
轟 城 伊賀市鳳凰寺 旧大山田村 丘 城
久保氏城 伊賀市鳳凰寺 旧大山田村 丘 城
前山城 伊賀市鳳凰寺 旧大山田村 丘 城
岡島氏城 伊賀市中村字和正 旧大山田村 丘 城
北坂城 伊賀市中村字北坂626−1 旧大山田村
山田氏城 伊賀市中村字宮谷515 旧大山田村
南出砦 伊賀市中村字宮谷496 旧大山田村
長持氏城 伊賀市中村字日本田144 旧大山田村
角部城 伊賀市中村字角部 旧大山田村
井上氏城 伊賀市中村字南ノ浦 旧大山田村 居 館
中出山城 伊賀市出後字中出山 旧大山田村 丘 城
永井氏城 伊賀市出後字中出山 旧大山田村 丘 城
岡山上野守城 伊賀市出後字中出山 旧大山田村
阿波氏館 伊賀市下阿波字高顔 旧大山田村 居 館
阿波氏城 伊賀市下阿波字高顔 旧大山田村
植田氏城 伊賀市下阿波字樋詰 旧大山田村
小野氏城 伊賀市富永字西山459 旧大山田村 丘 城
山下氏城 伊賀市中馬野字上山 旧大山田村
福岡氏城 伊賀市中馬野字上山 旧大山田村
福持九郎城 伊賀市中馬野字上山 旧大山田村
別府城氏城 伊賀市別府字朝妻 旧青山町 山 城
阿保城 伊賀市阿保字上ノ代 旧青山町 丘 城
本田氏城 伊賀市柏尾字中森 旧青山町 丘 城
小鴨氏城 伊賀市岡田字向井 旧青山町 丘 城
伊勢路城氏城 伊賀市伊勢路字道筋 旧青山町 丘 城
掛田城 伊賀市下川原字六十苅 旧青山町 丘 城
小島氏館 伊賀市北山字東出669 旧青山町
新左近城 伊賀市勝地 旧青山町
甚二郎城 伊賀市勝地字谷山 旧青山町
藪内氏城 伊賀市妙楽池字砂田 旧青山町
妙楽寺城 伊賀市妙楽池字稲広 旧青山町
老川城山城 伊賀市老川字城山 旧青山町
若山氏城 伊賀市老川字西谷 旧青山町
若山氏館 伊賀市老川 旧青山町
峯出城
奥の谷城 伊賀市老川字向 旧青山町
島野氏城 伊賀市老川字中出 旧青山町
諸木氏城 伊賀市諸木字庄原 旧青山町
川上出羽城 伊賀市川上字中縄手1061 旧青山町
小竹氏城 伊賀市種生字寺脇 旧青山町
泉氏城 伊賀市種生字蟹見 旧青山町
霧生城 伊賀市霧生字中切 旧青山町
高尾城 伊賀市高尾字酒屋 旧青山町
高田氏城 名張市南古山字垣内
御城山城 名張市南古山字垣内
田原氏城 名張市西田原字一之谷
殿藪城 名張市東田原字菅生谷
大西谷城 名張市西田原字大西谷
有綱城 名張市薦生字掛
滝川氏城 名張市下小波田字下出 丘 城
桜町中将城 名張市下小波田字内山 丘 城
島藤氏城 名張市下小波田字中出
井上権之助城 名張市美旗中村字田村
福杜氏城 名張市滝之原字中出
上島氏城 名張市滝之原字五百刈
五百刈城 名張市滝之原字五百刈
長門氏城 名張市滝之原字柿木田
下山甲斐守城 名張市下比奈知字兼前213
下山甲斐守城 名張市奈垣字竹垣内
北畠具親城 名張市奈垣字村田 平山城
城屋敷城 名張市奈垣字村田
松島氏城 名張市奈垣字村田
吉村氏城 名張市奈垣字塚根
吉原氏砦 名張市神屋字吉原
吉原氏城 名張市神屋字吉原 丘 城
名張陣屋 名張市丸之内 陣 屋
松倉豊後守城 名張市黒田字溜り
延木左馬允城 名張市黒田字尻江
名張上山氏城 名張市安部田字花山
短野城 名張市短野字上中山
深山氏館 名張市夏見字奥出
青蓮寺城 名張市青蓮寺字斧出 丘 城
柏原城 名張市赤目町柏原字宮城
滝野氏古城 名張市赤目町柏原字宮城
貝増館 名張市赤目町柏原字貝増
百地丹波城 名張市竜口字田原本
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月18日 15時05分31秒 ) | パスワード |
お気づきになりましたか?
松島氏城 名張市奈垣字村田
この松島氏は諏訪の方からの出身でしょうか?
謎
なんとなく
宗良親王がらみかもですね。
[49] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月19日 08時19分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
連日の猛暑(35℃近い)で、頭も冴えません。すぐに眠くなってしまい、
根気が続きません。熱帯地方では文明が発展しない理由がよくわかります。
伊賀の城跡の情報、ありがとうございます。今後の探索の手引きといた
します。松島と永井の城跡と百地砦跡は近い内に訪ねてみようと思ってい
ます。
本日は、耐暑訓練を兼ね、芝刈りに行ってきます――
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月19日 13時40分09秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>本日は、耐暑訓練を兼ね、芝刈りに行ってきます
すごい言い訳。
ホントに熱中症で救急車で運ばれたら奥様に叱られますよ。
ふふふ
[51] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月19日 21時58分22秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
日曜日にコンペがありますが、そのための調整が本日できました。かなり
いい気分であります。
柘植には宗清関係の探索でもう一度行こうと考えます。少なくとも、伊賀
については、あと一週間位の調査をする必要があります。日帰りではもった
いないので、民宿があれば現地の人と交流できますので、そういう所に泊ま
りたいです。本当は、伊賀に友達ができたらいいなあと思っています。
家長の伊賀での居住の痕跡も、ぜひつかみたいと思います。
家長については、次回、記す予定です。
いずれにしても、柘植についてはまだお伝えしたいことがいくつかありま
すので、それらについても記して行くつもりであります。
本日は、疲れをとるため、これから就眠といたします――
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月20日 10時47分42秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%80%80%E6%B0%91%E5%AE%BF%E3%80%80%E3%81%AF&spf=1500512002249
ここに伊賀の民宿について出てますよ。
古民家もあるし。
家長はどこに領地があったのでしょうね。
だいたい 小宮神社(服部)あたりだったのだろうとは思いますが。
北伊賀、かな?
というのは平知盛さまのお子さまの知忠が北伊賀で育てられて「北」姓を名乗っているから。
方向音痴なのでご容赦を
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%BF%A0
平 知忠(たいら の ともただ)
平安時代末期の平家一門。平知盛の次男。母は治部卿局。
寿永2年(1183年)、源義仲の攻勢の前に平家が都落ちを決意したとき、知忠は幼少のために父の命令で伊賀にいる乳母子の橘為教のもとへ預けられた。そのため、伊賀大夫とも称されている。父の知盛は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水自殺し、母は一命を助けられて京都に戻った。知忠は伊賀で成長した。
しかし建久7年(1196年)、突如として京都法性寺に現れる。これらには諸説があるが、有力説は源頼朝の妹婿である一条能保の暗殺計画を企み、平家の再興を図ったものと言われている。しかし幕府にいち早く察知されて、知忠とその主従はことごとく討たれてしまった。享年17。
死後、彼の母が首実検のために息子の首を見極め、泣き伏したことは有名である。なお、彼の生年には安元2年(1176年)説もありこれに基づけば享年21となる。
兄:知章 (父・知盛さまの身代わりで討ち死に)
兄:増盛 (たぶん母が身分が低いか源氏系なのか?平家滅亡後にも頼朝に助けられている 謎)
本人:知忠
弟:知宗 (対馬の宗氏の先祖)
妹:中納言局(夫が藤原範茂で後鳥羽上皇の近臣。承久の変の立役者)
以下忍者のブログ:読み始めると止められないです
http://ninjer.blog.shinobi.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E5%BF%8D%E8%80%85/?pageNo=2
[53] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月21日 15時14分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
伊賀の柘植という所は、俳聖松尾芭蕉ととても縁の深い場所でありました。
今回の柘植行きは、芭蕉のことは余り頭になかったのですが、行ってみて
芭蕉色の強い場所であることがよくわかりました。
それは、「芭蕉の菩提寺―萬寿寺」があり、芭蕉の「墓」があり、「芭蕉
公園」があり、「芭蕉生誕地住宅跡」があり、伊賀市役所支所前には大きな
「芭蕉座像」がありました。芭蕉研究には欠かせない土地であります。
これらについては、次回述べたいと思います――
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月23日 06時06分43秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
芭蕉=江戸時代の代表的文化人
古代や中世が和歌の世界なら近世は俳諧・俳句。
その聖なる人物ですからね。
世界的には和歌より 俳句 HAIKU が人気ですから
伊賀は芭蕉を誇って良いです。
サンタモニカの市バスに乗った時
日本の吊り広告みたいな感じで子供たちの作った英語のハイクが並んでてビックリしました。
裏の顔がニンジャだったかも知れないなんて
世界中が大興奮ですよ〜
[55] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月23日 23時53分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日はナイスショットがいくつかあり、終了後の気分はまずまずであり
ます。それにしても、蒸し暑い一日でありました。
新田喜斎は名倉氏の出であったという説もあり、本日はその子孫と思わ
れる人にゴルフで会いました。
テレビでは、全英オープンが本日最終日ということで、昨日に続き夜更
かしでテレビを見てしまいそうです。
宗清と家長については、土台を固めないと論及があいまいなものになっ
てしまいます。
松尾芭蕉も宗清の子孫になりますので、血統及びその環境要素から身に
付いているものには、我々の想像を超えた謎もありそうです。
今週は少し集中力ももどりそうですので、宗清や芭蕉の話題を掘り下げ
てみようと思っています。
「おんな城主直虎」は、いよいよ1568年の山を迎えます。寿桂尼も
亡くなってしまいます。今川・武田・徳川のサーバイパルゲームが始まり
ます――
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月24日 14時17分30秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「しのさん」の結婚の理由はそういうことでしたか。
後家になったら再婚相手が要るし、その相手に松下家なら距離的に近いし、ということだったのかな?
あやめさんの行かず後家の立場はツライものがあったでしょうね。
結婚できたのかな?
ということで調べて来ました:
新野親矩には一男七女があったとされる。
男子の新野甚五郎は後に北条氏に仕え、小田原征伐で戦死したという。
娘たちのうちの1人は=次女は=
北条氏家臣の狩野主膳に嫁ぎ、後に井伊氏家老となった木俣守勝に再嫁した(守勝に嫁いだのは、その姉との説もある)。
もう1人は=3女は=今川氏家臣の庵原朝昌に嫁いだとされる。
あやめさんが嫁いだのは木俣守勝だったかも、と思いましたが年齢が合わないような?
7女も娘がいたのですから長女のあやめさんじゃないですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%BF%A3%E5%AE%88%E5%8B%9D
木俣守勝
生誕 弘治元年(1555年) 当時まだ少年ですね
死没 慶長15年7月11日(1610年8月29日)
幼い時から家康に仕え、元亀元年(1570年)に元服した。
後に家族とのいさかいから徳川氏を出奔して明智光秀に仕えて戦功により50石を与えられて織田信長にも拝謁を許された。
後に徳川氏に復帰、天正10年(1582年)の伊賀越えでは地理に明るい守勝が家康の三河国帰国を助けた。
その直後の天正壬午の乱では、滅亡した武田氏旧臣の招聘を命じられ、成瀬正一らの案内で甲斐国に入り、一条・山県・土屋・原の組に属していた旧臣を招聘する事に成功した。
徳川家康は彼らを井伊直政の傘下に組み入れて「甲州同心衆」として再編し、守勝にはその統率を命じた。
これが縁で井伊直政の寄騎になったと考えられる(『寛政譜』井伊直政条には西郷正友(正員)・椋原正直(政直)が同時に直政に付けられたとされる)。
こうした功績によって2,000石を与えられた。
その後、天正18年(1590年)の関東仕置によって直政が上野国箕輪に入ると、守勝は3,000石を与えられた。
この箕輪時代に井伊氏の家臣団は再編され、直政の寄騎であった徳川家臣は井伊家臣へと転属されて「御付人」と称されるようになる。
その中でも守勝は筆頭として位置づけられ、後に徳川御三家などに見られた付家老の先駆的存在となる。
関ヶ原の戦い後、近江国佐和山を与えられた直政からは長年の功労によって「村雨の壺」が与えられた。
慶長7年(1602年)に井伊直政が亡くなり、直継が後を継ぐと、徳川家康から鈴木重好とともに直継の補佐と佐和山城に代わる彦根城の築城を命じられる。
また、直継からも加増を受けて合わせて4,000石を与えられた。
ところが、慶長10年(1605年)に病気がちの守勝に代わって鈴木重好が政務の中心となると、同輩の椋原正直や西郷重員(正員の子)らは重好父子が不正を行っていると家康に告発した。
守勝は重好父子の弁護をしたものの、家康は重好を追放して守勝に政務を行わせ、重好の息子である鈴木重辰や椋原正直・西郷重員らに和解の起請文を書かせて事態を収めた。
重辰が井伊家に留まれたのは、守勝が政務復帰の条件として重辰を許すことを挙げたからだとされている(ただし、この騒動の詳しい史料が守勝の子孫である木俣守貞が編纂した『木俣留』であるため、守勝の対応に関しては作為が含まれている可能性もある)。
慶長13年(1608年)には改易された筒井氏の伊賀上野城を主君・直継とともに受け取っている。
慶長15年(1610年)に守勝が病に倒れると、家康から薬を贈られるなど懸命な治療が行われたものの、静養先の京都で死去し、金戒光明寺に葬られた。
それにしても信玄の「三河と手を組んで今川に侵攻し大井川の西は家康に、東は信玄に」というのは図々し過ぎ。
これでは家康は納得しないですよね。
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月24日 14時19分01秒 ) | パスワード |
木俣姓http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9C%A8%E4%BF%A3
現三重県である伊勢国神戸の豪族、古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏楠木氏流がある。彦根藩にみられる。
ビックリ!
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月24日 14時29分50秒 ) | パスワード |
レス<56>の狩野家と木俣家についてが不思議です。
>「直虎」では次女が北条氏家臣の狩野主膳に嫁ぎ、後に井伊氏家老となった木俣守勝に再嫁した(守勝に嫁いだのは、その姉との説もある)。
ということで 木俣さん について調べて来ました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%BF%A3%E5%AE%88%E5%AE%89
木俣 守安(きまた もりやす)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
彦根藩筆頭家老、木俣家第2代当主。
父は狩野主膳。
母は新野親矩の娘。
養父は木俣守勝。
やっと分かった!
新野の次女が北条家臣の狩野に嫁ぎ
再婚相手が木俣で
前夫との間の息子を木俣家の養子にした、というのか。
当たらず遠からず
どっちにしろ狩野家と木俣家は親戚になったということですね。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月24日 14時37分26秒 ) | パスワード |
http://senjp.com/kimata-mirikathu/
木俣守勝の話が結構詳しく書かれているのですが
PCのセキュリティがオンになって読めません。
http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-12055554671.html
木俣氏
彦根藩筆頭家老の橘姓木俣氏は、楠木正勝の後裔とする。
初代の名は、守勝と言う。三河出身。
もと徳川家康の直臣であったが、天正十年家康の甲州計略後の十月、武田遺臣を井伊直政に付属されたとき、家康の命により甲州侍の物頭になった。
椋原政直・西郷正員とともに家康のもとから直政の麾下にはいった三家老の1人である。
守安
実は狩野主膳の子、一説に北条氏照落胤
右京、清左衛門、源閑
知行五千石
あらあらあら
とんでもないプライバシーが!
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月25日 03時08分47秒 ) | パスワード |
スレッド94をご用意致しました。
キリの良いところで、どうぞ。
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月25日 03時22分25秒 ) | パスワード |
エンエン書いてたのに消してしまいました。
泣
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