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 投稿番号:101597 投稿日:2017年06月21日 17時52分59秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について40

コメントの種類 :その他  パスワード

前回の平川家について38+1では
皆様方にありがたい御教示の数々を頂きまして
ありがとうございました。

球磨の古代・中世と全国の関係。
本来の目的「平河氏とは?」と言う事からかけ離れているように見えますが
私は、きっと、重要な関係が存在していると信じています。

もっともっと、勉強したい!と言う気持ちが溢れています。
皆様、今後とも、
よろしくお願い申し上げます。

こちらは「平川家について38+1」コメント70より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101590_70.html

[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月21日 22時31分15秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

平川家について38+1 コメント68からの続きは明日書かせて頂きます(..)

所で・・・・
ずっと書こうかどうしようか・・と悩んでいた事がありました(..)

でも・・やはり書かせて頂こうと決めました(..)

今年に入って、新たに解った事の一つが
祖母の実家の平川家を継いだ高祖父の先祖が椎葉村大河内矢立集落に住していた事、さらに、先祖は矢立集落に最初に住した「地主神」としてお祀りされている事、
先祖の命日は「三月十九日」であった事
などです。
(江戸時代の高山彦九郎氏の日記には『大河内 矢立村』と記されていました)

実は、先日、親戚が集まった際に、祖母の実家の平川家に伝わる、私も知らなかった伝承を聞く事が出来ました。

それは
『先祖は椎葉に隠れて住んでいた所、球磨に相良氏が来られたので降りて来られた。最初に住した場所が「平川(ひらごう)」だった』
と言う事です。

別の平川家のおじが、祖母の実家の平川家の今の当主(私の父のいとこ)に聞いていたそうです。
祖母の実家の平川家の今の当主(私の父のいとこ)は、高齢で、なお且つ、今は集落には住んでいらっしゃいません。

私が、祖母の実家の平川家を継いだ高祖父の先祖が椎葉村に所縁があった事を親戚に話した所、この事をおじが話してくれました。

この話が全ての「平川氏」に共通なのか、もしや、岡原の平川家のみに伝わる伝承なのかはよく解りません。
私は最初、高祖父の先祖が江戸時代に球磨に来られた話なのか?と思ったのですが、違うようです。
『相良氏が球磨に来られたから、椎葉から降りてきた』そうでおそらく、平安末期から鎌倉時代の初頭の話だと言う事です。

おじは「おそらく、球磨に降りて来ないで、椎葉に残っていた系が高祖父の実家だったんじゃないか?」と言っていました。

さらに数十年前に祖母の実家を訪ねて来られた歴史研究家の方は、やはり
「剣があるはずだ!」と言われていたそうです。
何の剣なのだろう・・・???
何か・・「守り刀」のような剣だったのかな・・?と考えています。

絵巻物に先祖が描かれていらっしゃるのは確かのようですが、その方がどなたなのか、今後の調査で解ればいいのですが・・
何せ、何百年も長男しか教えてもらえない事だったようなので
そこまで隠し通した事が今更解るような気はあまりしていません(..)

しかし、親戚関係等をしっかりと整理して分析すれば、何らかのヒントが見えてくるかもしれませんので
それだけを、「ほんの少しの期待」として、胸に秘めておきたい!と思っていました。

少し弱気になりかけていたのですが
「球磨郡の平河氏」を調べて、真実が解き明かされれば、私の本当の先祖は見つかるかもしれない!
とやはり、心を強く持つ事にしました。

何せ「宮原の一族の先祖」に縁のある方々は、私が以前から何らかの形で「平河氏」に繋がるのでは?と調べていた方々ばかりですので
「宮原の一族の先祖」の調査もしっかりと行っていきます!

書こうかどうしようか・・ずっと悩んでいた事を書かせて頂きました(..)
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月22日 22時08分54秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

今日は、前スレッドからの続きを書こうと思っていたのですが
やはり、昨日、書いた、祖母の実家に伝わる伝承(言い伝え)が頭から離れないでいます。

実は、先日、郷土の歴史研究をされている方々と立ち話をしている時に
思い切ってこの「伝承(言い伝え)」の事を話したのです。
すると
『御先祖(私の高祖父)は、”平川家”の家名を継がれたのですよ。明治初頭と言えば、まだまだ「家名」を残す、継ぐと言う事は大変重要な事だったのです』
と。
『しかし、全く無縁では継ぐ事はないでしょう』
と。

確かに、椎葉大河内矢立の地をその名の由来とした家から平川家に養子に入った高祖父の子供達、私の曾祖父の兄弟は
湯前の平川家の2軒に養子に入り家を継ぎ、さらに久米村でも平川家を継いでいます。
さらに、平河氏の同族(兄弟)である系の横瀬氏にも養子に入っています。

相良長頼の娘と言われている尼妙阿(俗名:犬童女)は良峯氏に嫁いだと言われていますが、
相良氏族の豊永氏・西氏は犬童氏の系であり、曾祖父の弟は西氏に養子に入り、高祖父の養父(平川)の後妻は豊永氏の娘であり
さらに、犬童氏からは、曾祖父母は養女を迎えています。

冷静に考えてみれば、確かに無縁では考えられないような気はします。

そうこう一日考えていた時にふと気が付いた事がありました。

「平川(ひらごう)」は木上の地名です。
「平川(ひらごう)」地区と道を隔てた所が旧深田村の草津。
景行天皇が神輿をお留どめになられて御滞在された天子神社のある地区と木上平川(ひらごう)地区は隣同士です。
この旧深田村の高山にあった高山城に居城されたのが、平河(良峯)一族の長男「深田太郎盛高」です。
祖母は「先祖は高山城にいらした」と言っていました。

「深田太郎盛高」・・「盛高」
冷静に考えてみると・・この方のお名前は「盛高」なのです・・・
何だろう、すごく、胸の中にひっかかる・・そう・・何かがひっかかるのです。
人吉宮原家様から頂いた御教示で、平河氏(原城)の系図には「師高」ではなく「盛高」の名がありました。

平河の一族
父  平河 義高
長男 深田 盛高
次男 山田 藤高
三男 平河 師高
四男 横瀬 高実

其々の方々の霊社が
球磨各地の「大王神社」で
山田大王神社・荒田大王神社・深田大王神社・平川大王神社・横瀬大王神社

今更なのですが・・・何故「大王神社」・・「大王」と付くのだろう・・

以前、書いた事なのですが、
平川大王神社は江戸時代「平川神社」であったのを、明治に入り神社庁から
「平川大王神社」と名乗るように指示がありました。
(大王の名称を付けなさいと言う事です)

しかし、平河氏の一族以外の方の霊社である神社(某場所)は、○○大王神社と江戸時代まで名乗られていたのに、明治に入り神社庁より
「大王」の名称を外すように指示がありました。

この事もやはりとても胸にひっかかります・・・
実は、平河氏が火の君に繋がるのでは?と以前推測した理由もこの「大王」と付く霊社にあったのです・・

しかし・・「盛高」・・この方のお名前はどうしても気になります。

ただ・・祖母の実家の言い伝えにより、他の方々が混乱されるのは良くない事だと思っています。

特に、たけぽん様、妙な事を書いてごめんなさい(..)
家の方だけの言い伝えかもしれませんので、あまり気になさらないで下さい(..)

では(..)
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月24日 11時12分56秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

平川家について38+1 コメント69からの続きを書かせて頂きます。

宮原の一族の先祖「橘公綱」の母『豊田五郎景基』の娘。
未だ、「豊田五郎景基」と言う方が「どなた」だったのか、解ってはいませんが
しかし、調べた内容から、おそらく
「大庭氏」「豊田氏」に非常に近い関係にあった方ではないのか?と推測しています。

さらに理解出来た事は
橘公業⇒橘公員⇒橘公綱(橘公資=宮原公資の父)の其々の妻・母となられる方々は
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm

【桓武平氏良茂流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117.htm

こちらの系に繋がる女性達であった事がよくわかりました。

「橘公綱」の母『豊田五郎景基』の娘。
『豊田五郎景基』の娘、この方は平頼綱の母でもある方です。

「橘公綱」と「平頼綱」 二人は父は異なるけれども同母の兄弟です。
年齢差は橘公綱が宝治元年(1247年)生まれ、平頼綱が仁治2年(1241年)頃とあるので
6歳〜7歳くらいでしょうか。

「平頼綱」は日蓮聖人の逮捕・佐渡国への流罪、門徒の弾圧を行いました。
「橘公綱」は日蓮聖人の有力壇越であり領内の身延山中に草庵を造営、「妙法華院久遠寺」建立寄進した南部実長の孫娘であり南部実継の娘であった方を妻にした。

日蓮聖人を巡って、二人は全く異なる生き方をしています。

私は宮原の一族の先祖を調べて、教科書には絶対に載る事はない、歴史の裏側を見ているような気がしています・・

平頼綱は恐怖政治を行った人物として歴史に名前を残しています。
「橘公綱」と「平頼綱」。
少し考えたのですが・・
二人の間に確執があったのかな・・?
6歳〜7歳違いの、同母兄弟・・しかし父が違う・・
子供の頃の平頼綱。この方の心境はどのようなものだったのだろう・・
きっと、母が恋しかっただろうな・・

私はどうしても、二人の子供を持つ母の目で、考えてしまいます(..)

しかし・・二人には共通点もあるのです。
気が付きました。

「橘公綱」「平頼綱」・・・名前に其々「綱」の文字があります。
さらに・・偶然かもしれないのですが・・
「橘公綱」の子「橘公資(宮原公資)」
「平頼綱」の子「平宗綱、飯沼資宗、高頼、他」・・「飯沼資宗」

「橘公綱」の子「橘公資(宮原公資)」 「平頼綱」の子「飯沼資宗」
其々「資」の文字がついています。

「資」の文字

平頼綱 のウィキの記述では
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%B6%B1

※頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は平姓関氏の流れとする。伊豆国出身で古くからの北条家家臣の一族と見られる。

この辺りの事は以前、勉強させて頂きました。

しかし・・何だろう、少し胸にひっかかるのです・・

「橘公綱」の子「橘公資(宮原公資)」 「平頼綱」の子「飯沼資宗」
其々「資」の文字が付いている。
偶然なのかもしれませんが・・・・

所で・・
宮原の一族の姻戚関係の話に戻りますが
この「流れ」にどうやら「相良氏」も繋がっているのでは?と言う事に気が付きました。

今日は外出するので、この続きは明日、書かせて頂きます。

では(..)
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月26日 09時16分33秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

今朝、書きたい事は山積みなのですが、
最近の『衝撃』の中では最大級の衝撃を今朝、発見致しました!

たけぽん様と私のやりとりにもあった
相良藩の史誌には「平河氏」の事が殆ど書いていない!
の話ですが・・・
たけぽん様は「負けた方」の事は書かれない(残されない)旨のコメントを書かれていました。
私も、同感で、ずっとそう思ってきました。

しかし・・今朝、発見してしまったのです・・・

相良史誌
『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者 梅山 無一軒

『南藤蔓綿録』の巻末に「梅山氏」の系図が記載されているのですが、
実は、今まで全く見ていませんでした。

今朝、なにげなく見ていたら、衝撃の事実が書かれていました!

梅山 無一軒 実は般若院 平川氏の次男

平川氏の次男・・ぎっぎええええええっ!!!!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

ナンデストオ!!!
ひっひらかわ・・平河氏の事が殆ど書かれていない
『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者 梅山 無一軒は
実は、般若院 平川氏の次男ですとぉ!!

それじゃあ・・色々隠している?のは相良氏ではなく・・も〜しかしたら・・
平河氏自身ではあ〜りませんかぁ!!?

びっくりして・・鳥肌が立つよりも、あまりのビックリに何故か大笑いしてしまいました。
その後、「もうヤダぁ〜(@_@。」と笑いながら涙が出てしまいました・・(@_@。

公式には 梅山 無一軒 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B1%B1%E7%84%A1%E4%B8%80%E8%BB%92

梅山 無一軒(うめやま むいっけん) / 西 昌盛(にし まさもり)は、江戸時代の武士(人吉藩士)、修験者。
実名は西昌盛であり、当人は梅山姓を一度も名乗っていないが(西氏が梅山姓を名乗っていたのは戦国時代までで、再び名乗り始めるのは孫の昌寿から)、本項では『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者名として定着している方を記事名とする。

梅山 無一軒(うめやま むいっけん) / 西 昌盛(にし まさもり)は、江戸時代の武士(人吉藩士)、修験者。
実名は西昌盛であり、当人は梅山姓を一度も名乗っていないが(西氏が梅山姓を名乗っていたのは戦国時代までで、再び名乗り始めるのは孫の昌寿から)、本項では『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者名として定着している方を記事名とする。

父母 父:般若院行盛、母:上原儀兵衛の女
養父:西昌敷

======================================================

父:般若院行盛(実は 平川行盛) 母は上原儀兵衛の女

母は上原儀兵衛の女・・やっぱり上原氏と繋がっていましたか(p_-)

実は・・鹿児島方面との繋がりで気が付いていたのです。
コメントはいずれ書こうとは思っていたのですが・・
鹿児島の上原氏が「紀平次」を名乗っていらっしゃった事を・・
平河氏・・字平紀平次不知実名・・平河師貞
上原氏・・紀平二元保・・鹿児島の上原氏
※筑後国山門郡瀬高下庄の鷹尾別府にある高良大社別宮の大宮司に補任されていらっしゃいます。

詳しくは鹿児島市史 松元町の歴史 95ページ以降 127ページより詳しく記されています(..) 今朝は御紹介まで(..)
http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/201251016312.pdf


梅山 無一軒 = 西 昌盛 = 般若院 平川氏(行盛)の次男

と言う事が解った所で・・

南藤蔓綿録 記載の「梅山氏」系譜をみると・・

梅山氏系譜
藤原鎌足の後胤工藤の末葉。本国は遠州相良庄。梅山の地頭となり、乃ち以って氏となす。
相良三郎長頼君戦功に因り、大将軍頼朝公より肥後国球磨郡御拝領。
建久九(1198年)鎮西下向。
其徳を慕い当郡に来る。
公、其儀に感じ、同郡多良木の内、東村を与う。
中略・・その後須恵庄に移る。

新馬場に出て其後不慮の火難有り。古き書附系図等焼失。故に委しくは知らず。
梅山の本紋 剣華菱と申し伝え・・
中略・・

〈註2〉 当時、東村は人吉庄に属せず、永吉庄に属していた筈である。永吉庄の地頭は平河氏であった。

と記されています(p_-)

梅山氏系図をみると、様々な姻戚関係が解ります。
もしかしたら、非常に重要な記述かもしれないので、後日、遠目に写真を撮ってブログにアップしようか・・と思っています(..)

梅山氏 系図
@梅山次郎左衛門

A梅山清右衛門

B相良源六藤原長昌  妻 青井三郎左衛門の娘

C西次右衛門長昌   妻 須恵源左衛門の娘

D西軍右衛門藤原昌興 妻 深水十兵衛の娘
 ※子息 服部源五左衛門昌修(服部家系図) 
  養父 服部四郎右衛門 室 服部四郎右衛門永幸の娘
 ※女 愛甲三左衛門室

E西角左衛門藤原昌孝 妻 愛甲勘左衛門の娘
 ※女 稲冨勘右衛門 室
 ※西浅右衛門
 ※女 東佐五右衛門 室
 ※女 服部次右衛門昌繼 室 

F西軍右衛門藤原昌祥 妻 桑原孫八の娘

G西次郎兵衛藤原昌倫 父昌祥 摂州大阪に於いて不将の筋有り。服部氏由緒有り。蓑毛に移りて幽居す。
 ※女 加賀八郎右衛門室
    嫡女 豊永忠兵衛室
    二女 桑原某室
    嫡子 加賀数馬 本家を継ぐ
    次男 加賀平八

H西幸七郎藤原昌敷  妻 西橋彦左衛門の娘
 ※女 林平助室
  嫡女 三原順甫室
  嫡子 林六兵衛

I西源六藤原昌盛(梅山 無一軒) 父 般若院行盛(平川行盛) 母 上原儀兵衛娘

J西源駄左衛門藤原昌幸 実は犬童市兵衛嫡男

K西源六藤原昌寿  妻 大村 蓑毛氏の娘
 祖父無一軒の集成の探源記、『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』を殿様に献上。
 ※女 梅 大村馬場の般若院平川氏に嫁し、二男二女を挙ぐ。其の次男等家に入り養子となる。
  十三代 梅山無一 是也

L梅山無一 実は般若院平川氏の次男 母は昌寿の妹梅
 妻 蓑毛氏の娘

以下略します・・

その後、梅山氏は「税所氏」から養子の方が数回養子に入られて系を繋げていらっしゃるようです。

梅山氏の姻戚関係をみると
西氏・服部氏・平川氏・上原氏・青井氏・須恵氏・犬童氏・豊永氏・深水氏・蓑毛氏・桑原氏・愛甲氏・東氏・税所氏 等の家々が見えます。

が・・・
皆様もすでにお気づきと思いますが・・家の方の親戚関係とかなり似ています(..)
※補足 青井氏は青井阿蘇神社大宮司家の方です。青井家の通字は「惟」です。

ちなみに・・実は・・梅山氏なのですが・・知っていた事があったのです(..)

家とは遠縁にあたる同じ集落の別系と言われる「宮原家」と「梅山家」は姻戚関係があります(..)

知っていたけど、関係ないだろうと思っていました。

だから・・今朝は何重もの衝撃があった訳です\(◎o◎)/!

それに・・梅山氏・西氏は服部氏と何重もの姻戚関係が有った事が解り
この事にも驚きました。

平川氏についてを語られる際によく書かれている言葉は
『平川氏は相良氏に滅ぼされた後、史実には殆ど登場しない』
とか
『史実には殆ど登場しない平川氏は相良氏に滅ぼされたのは事実であろう』
などでございます(..)

しかし・・・
真実はどうなっているのか”いよいよ解らなくなって”しまいました。

今朝は
相良史誌
『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者 梅山 無一軒 
実は「平川氏」でした\(゜ロ\)(/ロ゜)/

と言うお話でした(..)

では。
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月26日 09時33分29秒 ) パスワード

追記(..)

梅山氏系譜
藤原鎌足の後胤工藤の末葉。本国は遠州相良庄。梅山の地頭となり、乃ち以って氏となす。

遠江国の梅山とは、今、少し調べたのですが浅羽梅山
こちらでしょうか・・??

(?_?)
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月26日 17時13分15秒 ) パスワード

皆様 マタマタの登場です(..)

遠江国の「梅山」を調べたのですが

東浅羽村 ウィキ より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%85%E7%BE%BD%E6%9D%91

東浅羽村(ひがしあさばむら)は静岡県の西部、山名郡・磐田郡に属していた村。袋井市南東部、弁財天川右岸域にあたる。

歴史[編集]
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により松原村、梅山村、新堀村、初越村が合併して山名郡東浅羽村が発足。

\(◎o◎)/!梅山村、新堀村 えええっ!!
と驚いたのですが・・

しかし・・よくよく調べると・・
山名郡 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E9%83%A1
中略・・
明治9年(1876年)(1宿69村)
松山村・東山村・梅田村が合併して梅山村となる。
赤堀池新田を新堀村に合併。

新堀村は江戸時代にもあったようですが・・梅山村は明治以降に出来た村だったのですね(@_@。
見つけたかな?と思ったのですが残念です(@_@。

所で、最近「深田太郎盛高」(平河太郎盛高)と言う方のお話をよくコメントしていますが
今日の、地元紙 人吉新聞に「深田太郎盛高」(平河太郎盛高)の霊社
『深田大王神社』(深田阿蘇神社)について特集されていました。
(何だか偶然\(^o^)/と思いまして・・)

その記事の中に私が知らなかった事が書かれていましたのでご紹介いたします(^'^)

深田大王神社は平河義高の長男と言われる「盛高」の霊を鎮めるために相良氏が建立した神社で、現在は深田阿蘇神社に合祀されています。

この「深田大王神社」(深田阿蘇神社)なのですが、(ここからが知らなかった事です(..))
草創年代は不明ですが、昔は「若宮神社」と呼ばれていたそうです。
明治元年に改称されたそうです。

と言う事は
「若宮神社」 ⇒ 深田大王神社(深田阿蘇神社)と変わったようです。

勉強になりました(^'^)
知っているようで知らない事が沢山ある事を痛感します。

勉強あるのみです(p_-)

では(..)
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月28日 12時31分58秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

遠江国の梅山という場所は未だ見つける事は出来ていません(..)

しかし「梅山氏」の調査で止まっている訳にはいきませんので、
先日からの調査を進めて書いていきます(p_-)

コメント4からの続きです(..)

橘公業⇒橘公員⇒橘公綱(橘公資=宮原公資の父)の其々の妻・母となられる方々は
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm

【桓武平氏良茂流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117.htm

こちらの系に繋がる女性達であった事がよくわかりました。

「橘公綱」の母『豊田五郎景基』の娘。
『豊田五郎景基』の娘、この方は平頼綱の母でもある・・・

今までの調査から「景」「綱」さらに「資」の文字と「盛」の文字が集中して見えてきました。

さらに
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm を拝見すると

《伊作氏/英禰氏》に繋がっています。
ここから「鹿児島」に進んで行く訳ですね・・・

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116d1.htm#007

ここで気が付きました!「牧野氏」が見えます!
鹿児島にも「牧野氏」が・・・

「牧野氏」は肥後では
※牧野満実一俊嗣服部基載子宮内
※牧野満実と言う方と内古閑基貞と言う方は兄弟で父が『服部基載』と言う方である・・
日本の苗字七千傑様の藤原氏真夏流《服部氏/内空閑氏》姓氏類別大観 内の牧野氏は
肥後の方々の記述だった。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02016a.htm#002

肥後の「牧野氏」。鹿児島の「牧野氏」
他、後世では日向延岡藩の藩主も「牧野氏」でした(調べました(..))
其々、系は異なるようですが・・何か共通する「事」は・・・?
今後、調べて行こうと思います(p_-)

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm ですが

伊作貞時(平貞時)の系に「伊佐氏」「河辺氏(川辺氏)」が見えます。
薩摩の旧「伊佐郡」は球磨のすぐ近くです。
現在、伊佐市大口には人吉からトンネルが通った事もあり30分もかからず行けます。

伊作貞時(平貞時)・・「貞時」・・・
ブログにアップしている「平河氏系図」の@にも「貞時」と言う方の名があります・・
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

平河氏先祖書・求麻外史他、平河氏の系図等は其々異なるのですが、しかし「貞時」と言う方の名は『表示される「位置」』は違っていても必ず記述されています。

「伊佐」という地名や名は相良氏と平河氏を繋げる重要な「鍵」になっているのでは・・

実は ウィキの「相良氏」を読んでいて気が付いたのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F

出自
藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流で、『求麻外史』では工藤維兼(くどう これかね)を相良氏の祖としている[4]が、『寛政重脩諸家譜』ではその孫にあたる工藤周頼(くどう かねより)が遠江相良荘に住んだことから相良を苗字としたのを始まりとしている[5]。
ただし周頼には子がなく、親類の伊東祐時の孫(祐光の子)、光頼を養子として家督を継がせた[6][1]。このために日向伊東氏とも近縁である[7]。
太田亮は『姓氏家系大辞典』の中で、相良氏系図で藤原為憲の子・時理の弟におく時文から周頼までの人名が他の藤原南家の諸系図には見られないこと、世代数が多く時代が合わないこと、異説が多いことを挙げて、相良氏系図の初期部分に混乱が見られることを指摘している[7][注釈 4]。
そして、相良光頼が伊東氏からの養子であることに注目し、相良氏系図の混乱は光頼の実家と養家との両家系を接続したため生じたものではないかと考察している[7]。また『新撰事蹟通考』引用の系図から相良氏は鎮西伊佐氏(鎮西平氏)と関係があり、橘氏らと共に遠江国に移ってきた推測もできること、遠藤氏・井伊氏らと関係が深い氏族であることを示唆している[7]。
=======================================================

※太田亮氏は
『新撰事蹟通考』引用の系図から相良氏は鎮西伊佐氏(鎮西平氏)と関係があり、橘氏らと共に遠江国に移ってきた推測もできること、遠藤氏・井伊氏らと関係が深い氏族であることを示唆している。

ウィキから 『姓氏家系大辞典』のウェブ公開画面を見る事が出来ました。

コマ番号「364」から相良氏について記されています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/364

実は・・『姓氏家系大辞典』・南藤蔓綿録等に記載の相良氏系図に、
「時邑」と言う方の母について書かれており
四条大納言の娘となっています。
さらに、濁集覧には「光隆」の娘とあり、この辺りは今、調べている所です。

もし・・藤原光隆であれば・・藤原家成に繋がってきますので・・
時間軸が異なるのは

太田亮氏がおっしゃっているように
※相良光頼が伊東氏からの養子であることに注目し、相良氏系図の混乱は光頼の実家と養家との両家系を接続したため生じたものではないかと考察している・・
この事に繋がっているのでは?と推測しています。

所で鹿児島の「伊佐」「大口」ですが・・
私、全く知らなかったのですが(お恥ずかしい(..))
平頼盛の子息「光盛」。この方の二人の子息
「八木盛定」「平川景家」。
この方々の活動拠点は・・実は薩摩の「伊佐」・「大口」であった事を初めて知りました。
球磨・人吉に「超近い!!」のでございました(p_-)
補足ですが、「平川」を名乗られているのは、他に「渋谷氏」もです。
詳しくは、明日にでも書かせて頂きます。

突然ですが・・
「後白河上皇」「池御前」「平頼盛」「藤原家成」「西園寺公経」「久我氏」
「桓武平氏良文流」「桓武平氏良茂流」「伊予橘氏(橘公長・公業 流)」「相良氏」
「平貞能(妻・良峯姓原氏の娘)」「平宗清」「武藤氏(少弐氏)」「惟宗氏」「大神氏」「那須氏」「中原氏」「佐藤氏」
そして・・源平の戦いの後、球磨の周囲を取り囲む山々に逃れて来られた方々
さらに・・九州の各地に鎮座の神社。及び宮司家。
(特に、筑後地方久留米・宇佐・薩摩・大隅・霧島 等)

上記の”全て”が平安時代末期から鎌倉時代にかけての球磨の「謎」に関わっていらっしゃるようだ・・・
と、私は今あらためて感じています。

その『根拠』は明日以降、まとめながらコメントさせて頂きます。

最後に皆様、球磨地方に伝わる「球磨臼太鼓踊り」を御存じでしょうか・・
源平合戦を表現していると言われる「球磨臼太鼓踊り」
球磨の各地に継承されています。
昔は其々の家の「嫡男」しか踊る事は許されていませんでしたが、今は違います(^'^)
この「球磨臼太鼓踊り」は実は「熊曽踊り」が根底にあるのでは?とも言われています。

きっと古代から受け継がれてきた「太鼓踊り」に鎌倉時代以降「源平合戦」が加えられアレンジされたのではないのでしょうか・・

「球磨臼太鼓踊り」はまるで、私の『調査そのもの』のような気がします・・

では(..)
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月29日 10時26分38秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

コメント9の続きの前に
ぜひ、皆様にもご覧頂きたい江戸時代の「寒見舞」があります。
『嗣誠独集覧』の巻末にある
球磨の歴史研究家、故「高田素次氏」記述の『解題』の中にありました。
(梅山氏系図のこの『解題』の中に記されていました)

高田素次氏の『解題』より
※補足『南藤蔓綿録』並びに『嗣誠独集覧』の編纂者 梅山 無一軒宛て

原城平川某より極月中旬寒舞とて送られたる一紙

無一観
 かしましひ■も浮世も心からすませば何もなかりけるかな

無我の本我
 柴の戸を開きて見れば何もなしなきこそ本の我にてありけり

 吹風に一如の花のふりまするいろのはなれてちらりちらりと

 寒祢川の二つより出る我なれば月日そのままこの身このまま

 かりの世にかりに生まれて暮らしかぬ浮世を廻り影もはつかし

 我ながら我もおかしく千早振る神の残せし姿とおもへば

 ふる雪に山川草木一面に有無も見出さず無一白

 草も木も国土もさらになかりけり極意秘密も猶なかりけり

 何もかもなき源の流れゆゑ何もかもなし無き物もなし

=====================================

「原城平川某」氏から「梅山 無一軒」宛てに送られた
『極月中旬寒舞とて送られたる一紙』でした(..)

あの・・・私は「句」の心得など全く持っていませんし、もちろん「無知識」です。
だからなのか・・この「極月中旬寒舞」を読んだ時に何か心に「ひっかかる」物があったのです。
何だろう・・・考えすぎかもしれませんが・・
「解る人には解る」という「暗号」みたいな言葉が含まれているような・・・
やはり考えすぎかな・・・

無我の本我 に含まれる
※寒祢川の二つより出る我なれば・・
※我ながら我もおかしく千早振る神の残せし姿とおもへば
※国土もさらになかりけり極意秘密も猶なかりけり
※何もかもなき源の流れゆゑ・・

何だろう・・すごく心に「ひっかかる」のですが・・私の考えすぎかな・・(?_?)

ただ・・寒中見舞いに「極意秘密」とか書かれるかな・・??
※寒祢川の二つより出る我なれば・・
寒祢川とは何だろう・・?

※我・・千早振る神の残せし姿

ネットで色々みていたら
在原業平の『千早振る神代も聞かず竜田川韓紅に水くくるとは』の解説があったのですが
古語だと「ちはやぶる」。
“荒々しく勢いのある様”の意味。

「いち=激しい勢いで」「はや=敏捷に」「ぶる=ふるまう」
という言葉を縮めたもの。

枕詞として”神”に掛かかる。
「千早振る神代も聞かず竜田川韓紅に水くくるとは」は、
“不思議なことが多くあった"神代の昔でもこの竜田川がこれほどの
紅葉で絞り染め(くくる)のように見えたことはない、という
感嘆を表している句。

とありました(p_-)

と言う事は・・原城平川某が書かれた
※我ながら我もおかしく千早振る神の残せし姿とおもへば

どう言う意味なのだろう・・???

無我の本我 に含まれる
※寒祢川の二つより出る我なれば・・
※我ながら我もおかしく千早振る神の残せし姿とおもへば
※国土もさらになかりけり極意秘密も猶なかりけり
※何もかもなき源の流れゆゑ・・

最後に一つ妄想をお聞きください(..)
※寒祢川の二つより出る我なれば・・
※何もかもなき源の流れゆゑ・・

平河氏は『極意秘密』の「二つの流れ」が合流?した系なのでは・・?と。
※何もかもなき源の流れゆゑ・・

あくまでも私の妄想ですので、御聞き流し下さい(..)
平河義高と言う方は、実名 「源 義高」ではなかったのかな・・???

(ー_ー)!!あくまでも、私の妄想です。
御聞き流し下さい<m(__)m>

では(..)
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月29日 10時34分01秒 ) パスワード

追記

皆様
先程は妄想を書いてしまいました。
申し訳ありません(..)

折角の「寒見舞」に水をさしてしまいました(..)

今日は、外出する事になりましたので
続きは明日、書かせて頂こうと思います(..)

「句」の心得がおありになられる皆様は
きっと私の「疑問」を一笑されていらっしゃる事だと思います。

トホホ(@_@。
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月05日 10時33分00秒 ) パスワード

皆様 今日は(^'^)

久しぶりの登場です(..)

コメント11を書いた6月29日の夜辺りから耳鳴りが激しく、翌30日、そして1日とさらに頭痛まで伴い(血圧は低かったのですが)、パソコンの画面は見るけれどコメントまでは不可能で・・・
ちょっときついな〜と思っていた所に、昨年8月以来の震度5弱の余震。
私の身体はおそらく『動物』からあまり進化していないのだろう・・と(@_@。
続けて台風の発生が重なって(以前から書いていましたが、台風が発生すると、どんなに遠くても、体調が崩れます(@_@。)
昨日は球磨でも、大雨と強風が吹き荒れました。

自然の脅威には人間はなすすべがないのでしょうが・・
しかし、今回の台風3号の発生した場所はかなり沖縄に近い海域で、これも異常気象を示すサインなのでは・・と、素人なりに考えてしまいます。
『自然の脅威には人間はなすすべがない』けれど、その『脅威を造り出す”今の環境”』は、「温暖化」・・すなわち、地球環境を人間が変えてしまった結果でもあり
「記録的豪雨」「猛暑」・・この先5年後、10年後、を想像すると恐ろしくなってきます。

古(いにしえ)の方々は、経験した災害「地震」「火山の噴火」「津波」「大雨による地崩れ」などを、「地名」や「神社の建立」等といった手段で
後世の人達に「経験」を伝える為の「何らかの形」を残して下さっています。

今を生きる私達は、後世の人達に何を残していくのだろう・・・
何の力もないただの主婦である私のちっぽけな頭で考えてもどうしようも出来ない事ですが、最近つくづく考えてしまいます・・

最近、御縁のある方から紹介して頂いて購入した
日本地名研究所様 発行の「地名と風土」11 号にも
『災害地名と町つくり 地名研究者としてどうかかわるか』という特集が記されていました。

今の時代だからこそ、あらためて、古(いにしえ)の方々が残されたメッセージに、しっかりと向き合う時なのじゃないのかな・・・
そんな事を、耳鳴りと頭痛の中、ここ数日考えていたしだいです(..)

地名。
災害とは関係ないのですが・・地名であらたに知った事があるので書かせて頂きます。

先日、コメント11を書いた後、外出した先は、球磨郡錦町の「高柱川」上流にある「大鶴 遊泳場」でした(^'^)
主人が、以前からぜひ行ってみたい!と言っていた場所で、当日は梅雨の晴れ間もあり、ドライブがてらに行って参りました。
(と言っても家から20分もかからない場所ですが・・)

「高柱川」上流と言う事で、かなり山を登った先に「大鶴 遊泳場」はありました。
そこは・・川の上流とは思えない広い浅瀬が数百メートル続き、流れる水は「飲めるんじゃないの?」と思うほど透き通っていて
とても綺麗でした。
さらに・・周囲の山々が独特の空気感があって・・神様を感じる、そのようなパワーを感じました。

写真を!と思った所に突然の雷。 雷とねずみ?が怖い私はすぐ車の中に・・
後日、写真を撮りにまた行こうと思っています(^'^)

ネットに紹介されていました。大鶴地区 高柱川遊泳場
http://www.nishiki-machi.com/docs/2016052400017/

ここで(p_-)
大鶴地区 高柱川遊泳場の正式な所在地は?思い調べたのですが・・
所在地: 熊本県球磨郡錦町 高橋 川

「高橋」・・・うん????
「高柱川」・・「高橋」・・・・うん?????

これは・・これは!!!以前調べた「高橋」氏の「高橋」という名の由来そのものではありませんか!!
\(◎o◎)/!

サイト 姓氏と家紋様 「高橋氏」 より
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/takahasi.html

佐藤・鈴木についで広く全国に分布する。これは高橋という地名が全国各地に多かったからだ。ちなみに奈良県では 約四十もの高橋という地名がある。
 高橋氏には二つの系統がある。まず孝元天皇の皇孫大稲輿命の子磐鹿六雁命の流れ。この命(ミコト)は景行天皇に 新鮮な蛤のナマス料理を差し上げた。
天皇はいたく喜ばれ、膳(カシワデ)の姓を賜った。この子孫膳臣の支流が高橋氏を名乗った。 その後、朝廷の食膳を司る家柄として、本家の膳臣をしのぐ勢力となり、高橋朝臣を賜姓された。
 
もう一つが大和国添上郡「高橋神社」の所在地高橋邑から出た物部氏の流れで、これは地名からきている。
高橋の地名は神社に関係が深い。それは、丸木橋を立てれば柱になる。天と地を結ぶ高い柱(ハシ)は神の降臨を願う聖域の目印となる。
神殿の階(キザハシ)も同じだ。信濃国の一宮である諏訪神社や生島足島神社の境内には「御柱」が立てられているが、 これも高い柱に通じるもので、神の降臨を願うものにほかならない。
 また、神の訪れるハシのたもとは、それが柱であろうと橋であろうと、そこは聖なる場所である。多くの氏子は、ここで神を待ち、 神を迎えた。
そこは神を呼ぶ場所であり、かつ神を招く人(神主)の居所であった。こうして、 高橋は氏子たちにとって神聖な宮代となり、意義深いことばとなった。そして、名字に転じた。
高橋氏には社家が多いが、越後の弥彦大宮司家をはじめ、各地の八幡社や山王社などの神職に就いており、 とくに北関東・東北に多い。

★丸木橋を立てれば柱になる。天と地を結ぶ高い柱(ハシ)は神の降臨を願う聖域の目印となる。

\(◎o◎)/!

※錦町 大鶴地区 高柱川・・「大鶴」「高柱」
※所在地: 熊本県球磨郡錦町 高橋 川
※天と地を結ぶ高い柱(ハシ)は神の降臨を願う聖域の目印となる。・・高橋名(地名)の由来

わぁああああ!! そのものだ!!

ちょとしたドライブで、マタマタ球磨の古(いにしえ)を想像する「地名」・「場所」に伺う事が出来ました(^'^)

最初のコメントからさらに地名に進んで・・話が変わりましたが・・すみません(..)

最後に・・
コメント10で妄想を書いてしまい反省致しております(..)

平河義高と言う方の真実を考えると、色々頭に浮かんでしまうのでございます。
建久8年肥後国球磨郡図田帳には
永吉庄は良峯師高子息「字平 紀平次不知美名」と記されていて
一切「平河義高」という名は登場していません。
当時の岩城(現木上)の城主の名が記されていないのです(?_?)
今まで少しずつ自分なりに勉強を重ねてはきましたが・・
どう考えても・・おかしい??

しかし・・『字平 紀平次』・・字『平』・・「平」とちゃんと書かれているのであります(p_-)

と言う事は・・「源姓」ではないような・・
じゃあ「良峯」氏は・・?

・・・・?
平河氏を考えると複雑すぎて頭が混乱しはじめます(..)
(いつも、私の頭は混乱している・・との声が聞こえた様な・・(?_?)・・(..))

しかし・・めげません(ー_ー)!!
先日からのコメントの続きを書かせて頂きながら、謎をしっかりと追及していきます(p_-)

続きは、体調とにらめっこしながら進めていきたいと思います。

では(..)・・(^'^)
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月15日 09時21分53秒 ) パスワード

皆様、お久しぶりです。

2017年7月5日
九州北部を襲った記録的豪雨により,沢山の方々の尊い命が犠牲となられました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
甚大な被害を受けた方々に,心よりお見舞い申しあげます。

被災地域は、私が以前仕事をしていた場所でもあり、仕事場が近い事もあり、東峰村の小石原には焼き物を買いに頻繁に出かけていました。
宝珠山近くの棚田の景色はとても美しく、英彦山神宮にお伺いした話など、北九州に住んでいた頃、こちらのスレッドでも何度か、コメントさせて頂いていました。

テレビに映し出される、見慣れた景色に襲いかかる濁流に言葉を失いました。

何度も伺っていた思い出の景色の変わり果てた姿に涙が止まりませんでした。
地域にお住まいの方々は愛する故郷が激変してしまった・・・
お気持ちを察すると、御気の毒で、一刻も早い復興をお祈りするばかりです。

今回の豪雨の原因は、東シナ海の海水温が平年より3℃も高かった事にあるようです。
九州は、梅雨末期には、毎年のように大雨が発生しますが、今年は海水温が異常に高かった事が、数十年に一度の豪雨へとつながってしまったそうです。

十数年前から、地球温暖化への警告をテレビ等で頻繁に目にしていましたが
近年の毎年の猛暑にも、決してよくない事なのに、自分自身も慣れてしまっていました。
よくよく、考えると自分が子供の頃、30℃を越える日など、ひと夏の間に数回しかなかったような気がします。

九州の梅雨末期の大雨も、私が子供の頃は一時間の降水量が100ミリを越えたとかテレビで見た事は無かった気がします。

それが・・
十数年程前から変わってしまいました。

博多駅が水没した豪雨。
その後、五年前の九州北部豪雨。
いずれも、福岡県に住んでいた私は経験しましたが、
被災地域に住む知人に電話をした所、「今回の豪雨は、あの九州北部豪雨よりも数倍もひどかった」と言っていました。

九州だけではなく、ここ数日は関東や中部地方でも記録的豪雨が発生しているようで
地域にお住まいの皆様は不安な日々をお過ごしの事と思います。

この先、どうなっていくのだろう・・と、ただの一主婦の私が考えてもどうしようもない事で・・
ただ、私と同じようにこれから先の地球環境に不安を感じていらっしゃる方は、全国に沢山いらっしゃると思います。

豪雨は、北部九州だけではなく、今回九州全土で発生していました。
私の住む球磨でも一時間の降水量60ミリ以上が数回ありました。

前回のコメントを書いた7月5日以降、7月12日の夕方にやっと夕焼けを見るまでは、一日も太陽を拝む日がありませんでした。

こんなに、太陽、お日様が恋しいと思った梅雨はなかったと思います。
どんよりとした雲に覆われて、一日中まるで夕方のような暗い空を見上げながら、心から「お日様」を早く見たいと毎日願っていました。

雨が降らなければ、日照りが起こる・・
このバランスが保たれるように、古(いにしえ)の方々は神様にお祈りをされていたのでしょう。
しかし、その古(いにしえ)の方々さえ、今の地球環境はもちろん想像する事は出来なかったと思います。

これから何をすべきなのか・・
尊い命を犠牲にするような事が決して起こらないように
一人ひとりがしっかりと考える時代がきてしまった
そういう事なのではないのでしょうか・・

と、単なる一主婦に過ぎない私も考えはじめています。

皆様、豪雨・猛暑の日々ですが
体調をくずされないよう、お身体、十分ご自愛下さい。

調査の再開は次のコメントから書かせて頂きます。

では。
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月15日 11時08分42秒 ) パスワード

皆様 あらためての登場です(..)

たけぽん様(ご覧頂いていらっしゃる事を心より願って(..))

たけぽん様に、御報告を(..)

あの・・・
実は!家!「中川家」とは親戚でした!!!
ビックリしました!!

来月、親戚で結婚式がありまして、事前に準備する資料の作成を手伝っていたのですが・・
そこに「中川家」の名前が!???

あんれっ??と、昨日、椎葉のおじに聞いたのです。
すると
「中川家とは親戚タイ!家(椎葉家)も親戚バッテン、ここ(宮原家)も親戚ぞっ!」

「あれっ?お前、おじさんに中川さんの事、今まで聞いた事があったか?」

あああっ!!そうだ!椎葉のおじには『中川家』の事は何も聞いていません!
聞いたのは『多良木の平川家のおじさん』にだけです!

椎葉のおじの話では「中川家」とは解っているだけで二重の親戚関係がありました!

まず、家の「宮原家」繋がりから(p_-)
岡原ではない、同じあさぎり町内の某地区の商店街で商売をされていた家の宮原家の親戚の「宮原家」(今は町の区画整理で・・・・)
先々代の妻の方は「中川家」から嫁いで来られています。
(子供の頃、祖母とお店にしょっちゅう遊びに行ってました・・(@_@。忘れていましたトホホ)
でっ!続けて、
この親戚の宮原家の先代の妻の方はこれまた家の親戚の「森田家」から嫁いで来られています。
この「森田家」は家の宮原家・新堀家・祖母の実家の隣の平川家・私の祖父を生んだもう一人の曾祖母の実家 とは其々親戚です。

さらに(p_-)
家の親戚の宮原家に嫁いで来られた方の実家の「中川家」には・・
実は、私がよ〜く知っている親戚の通称○○ねえちゃんが嫁いでいました!!
\(◎o◎)/!

全く知りませんでした(..)・・私がずっと球磨を離れていたからです(@_@。

ちなみに家の親戚となる「中川家」は
暗号で(p_-)
『あさぎり町ではない別の町のすっ〜て〜しょ〜んの近くです』(p_-)
『きっの〜え〜と同じぃ〜田〜う〜〜んっ』です(p_-)

椎葉のおじに、たけぽん様の曾おじい様の話をすると
「うん・・ばってん、こっち(球磨)には中川さんは少なかもんな〜」むむっ(p_-)
と言っていました(p_-)

たけぽん様の曾おじい様の御実家との関係は解りませんが
しかし
家の親戚に「中川さん」ありました!!!!\(◎o◎)/!

と言うお話でした(..)

では。
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月19日 17時33分06秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

先日、神武天皇御誕生の地、高原町の皇子原と狭野神社にお伺い致しました。

ブログに写真等をアップ致しましたので、よろしければご覧ください(..)

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12293980943.html

狭野神社の鳥居から続く参道は、とても長い直線で、まるで、一本の光の道のような感じを受けました。

狭野神社(略記)には
孝昭天皇の御代、神武天皇の御降誕の地に社殿の創建があったのが当社の創祀という。
と書かれていました。
※神武天皇の御降誕の地に社殿の創建があった。
こちらが近くの皇子原に御鎮座の皇子原神社となります。
再三に渡る霧島山の噴火により、現在の場所に社殿が造営遷座となったそうです。

ブログにも書いたのですが、
皇子原(高台)から、私の住む球磨の方向を見ると真正面に
「白髪岳」と「小白髪岳」が見え、とても驚きました。

実際に伺ってみると、こちらの「地」と私の住む、球磨、旧球磨郡久米郷の「地」はとても近い事にようやく気が付く事が出来ました。

さらに
皇子原、狭野の地は、高千穂峰の麓であり、夷守岳の麓に広がる夷守台と繋がっています。
夷守台・・夷守は現小林市地方の旧称です。

皇子原、狭野の地と夷守の地は隣同士で繋がっています・・・

初めてこちらに伺って、その事に気が付いた時に、ふと頭をよぎったのは
以前から何度もこちらのスレッドで御紹介させて頂いていた
『呉王太伯の舎弟仲雍の後裔夫差』の姫姓後裔『松野連系図』でした。

熊縣(球磨郡・人吉)の「熊津彦」の子息
難升米 兄夷守大夫 率善中郎将
掖邪狗 弟夷守 率善中郎将

※熊縣(球磨郡・人吉)の「熊津彦」の子息『難升米』・『掖邪狗』この方々は
『夷守』にいらっしゃった・・・

さらに初めてこちらに伺って感じた
※実際に伺ってみると、こちらの「地」と私の住む、球磨、旧球磨郡久米郷の「地」はとても近い

神武天皇の側近でいらした、「黥利目」(目の周囲に施された入れ墨)であった大久米命。
大久米命の『故郷』はいったい何処であったのか・・
皇子原に伺って、その場所から真正面に見える、球磨の地にそびえる山々を眺めた時に
ようやく、自分の中の「疑問」が解けたような気持ちになりました。

ずっと、不思議だったのです。

神武天皇が御歌いになられた久米歌。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jinmu.html

古事記によれば、神武天皇が道臣命と大久米命を用いて兄宇迦斯(えうかし)を倒したあと、弟宇迦斯(おとうかし)によって献上された御馳走を兵士らに賜わった時に詠んだ歌。久米部に伝わる、戦勝を祝う歌であったか。
「ええしやこしや…」以下は、打ち負かせた敵を嘲笑う囃子詞のようなものと思われる。この歌謡は「久米歌」として、即位礼などの饗宴に奏される。

久米歌の中にある

みつみつし 久米の子等が 粟生には 臭韮一茎 そ根が茎 そ根芽繋ぎて 撃ちてしやまむ
【通釈】いさましい久米の者どもの、粟の畑には臭い韮が一本。その韮じゃないが、根元も茎もいっしょに、やっつけずにおるものか。

この臭韮とは根を食べる事が出来る、「のびる」の事ではないのかな・・と。
春先には家の周囲に「のびる」が沢山なって、今年も美味しく頂きました。

さらに
みつみつし 久米の子等が 垣下に 植ゑし椒(はじかみ) 口疼く 我は忘れじ 撃ちてしやまむ
【通釈】いさましい久米の者どもの、陣営の垣の下に植えた山椒。その山椒じゃないが、口がひりひりするような恨みを俺は忘れないぞ。やっつけずにおるものか。

山椒(はじかみ)。
以前にもコメントしていたのですが
うちの「宮原家」は元々、江戸時代において旧宮原村内の久米領飛地であった稲積神社のすぐ横にありました。
今、住んでいる場所に家を建てる事を決めた私の祖父は、土地を整備した後に
最初に「山椒の木」と「橘の木」と「榊の木」を植えています。

ずっと不思議だったのです・・何故、祖父は最初に「山椒の木」を植えたのか・・
本当に、ずっと不思議だったのです・・

もしかしたら・・・球磨郡久米郷には古(いにしえ)からの風習が今もしっかりと残っているのでは・・と
やっと、今、理解出来るようになりました。

久米氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E6%B0%8F

神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、
久米氏・久米部の性格を考える上で重要である

太田亮博士の『姓氏家系大辞典』第2巻がネットに公開されていました。
久米氏について記されています。
国立国会図書館デジタルコレクション より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/172

久米 クメ また来目に作り、九味(クミ)ともあり。
なほクマとも通ずるが如し。
姓氏禄に久米都彦を、一本に久米都彦に作り・・中略
此等によれば、久米は、クマ、クミ、クメと通ずる語にして、貴田博士が、
「久米は玖磨にして、久米郡は玖磨人、即ち肥人ならん」と云われし説に同意せざるを得ず。
即ち久米部は南九州の大種族・肥人にして、魏志東夷傳に狗奴国とあるが、此の久米部の本■ならんと考へられる。
詳細は「日本古代史新研究」を見よ。
久米氏は久米部の首領、及び久米部が住居せしより起こりし地名なる久米邑に、第二次的に・・・以下略します(..)

太田亮博士はもしかしたら、日本国内をくまなく御回りになられたのではないのでしょうか。
私は、今回、皇子原・狭野神社にお伺いして、その「場」から球磨の方向を見て
今までの自分の疑問を解く鍵を見つけた気がしています。

「狗奴国」や「邪馬壱国」の位置については、私自身はあまり興味はありません。
しかし・・・

今、大変興味があるのは
古代の球磨の久米氏と、古代の「姫(き)姓」の方々の繋がり。
さらにあくまでも私の私見ですが、「その繋がりに関係あるのだろう」と、推測する「紀(きの)氏」との関係です。

竹内宿禰は宇佐神宮内の「黒男神社」の御祭神となられていらっしゃいます。

西都原考古博物館では7月15日より
日向諸県君(もろかたのきみ)と葛城氏(かつらぎし)という特別展が開催されています。
非常に興味があるので、後日、伺うつもりです。

私自身が球磨の謎に近づいているのであれば、非常に嬉しいのですが・・

このような「球磨」だからこそ
平安時代末期にも「謎」が発生しているのかもしれません。

平安時代末期に球磨に住され、没された「永厳上人」と平 時子(二位尼様)との関係「真実」に気が付きました。
新発見をしたのですが、続きは後日。次のコメントで書かせて頂きます。

では(..)
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月21日 10時16分52秒 ) パスワード

皆様、今日は。

コメント9の続きも、”もちろん”書きたいのですが・・
しかし、コメント15で書いたように
平安時代末期に球磨に住され、球磨で没された「永厳法印」と平 時子(二位尼様)との関係に気が付きましたので優先してこの件を書かせて頂きます。

実はコメントを控えていた間に、今まで私が書いてきたこちらのスレッドのシリーズ?を
読み返していました。
数年前に書いていた事をあらためて、読んでいて
今になってやっと、平安時代末期の球磨に関わる「重要な繋がり」に気が付きました。
さらに、沢山の事に気が付きましたので、まとめて書かせて頂きます。
かなり、長くなるかと思いますが御了承下さい(..)

平安末期、1120年。
球磨の阿蘇谷に建立された「平等寺」。
建立された方は「永厳法印」

美術史論集 - 201 ページ 変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究 - 51 ページ より 同文

開山ヲ永厳ト云。然二其前モ永厳京都醍醐寺修,ノ後当郡二下テ平等寺ヲ造立シテ住ス。其節右ノ如来モ守来ノ本尊也。当寺過去帳ヲ考フル二開山永厳上人ハ仁平元年^八月十四日寂ス。寿七十歳ト云。凡願成寺二代ノ先師弘専成秀勢秀、夫ヨリ勢尊勢勝等 ...

「永厳法印」は東寺長者、広沢流、保寿院流祖であり、40歳前後に醍醐寺から球磨に。平等寺を創建されました。
永厳上人は球磨にて、仁平元年(一一五一)八月十四日入寂
良峯氏(平河氏)は「永厳法印」を塊基とする、有智山万福寺を建立する為に1151年着工、3年の年月をかけて1154年に完成。

「永厳法印」
俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印
下野守 平師季息
永厳法印の父は下野守平師季。「桓武平氏高棟王流」
通称の下野法印は父平師季が下野守であった事に由来。

「永厳法印」が創建した須恵阿蘇谷平等寺がいかなる規模のお寺であったかがお解り頂けるサイトをご紹介致します。

御仏像
http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/heritage/heritage20.html

「変貌する須恵村」( 牛島盛光氏著 ミネルヴァ書房 1971年 )には
「平等寺最盛期の寺域は、寺山を含めると、西端の薬師堂から東に約400m、南北約600mにわたる広大なもので、
この中に本堂を中心にして七堂伽藍が建ちならび、裏山2箇所の墓地に約250基に及ぶ五輪、板碑が整然と並び立ち、
槇などの巨木が堂宇をおおった境内には、阿蘇川から引かれた清水が池に満ち、
「当郡真言ノ元祖」にふさわしい雰囲気を呈していたであろう。」と記されていて、壮大な力をもっていたことがうかがえます。

私は、以前この辺りまでの事は調べていたのですが・・・
しかし、何故、東寺の長者であり、広沢流、保寿院流祖であった「永厳法印」が
京都から球磨に来られて、平等寺を創建されたのか・・?
謎ではありました(..)
しかし、「球磨」の古代が何らかの形で関係していると最近は考えていました。

そこで
あらためて、「永厳法印」について調べ直してみたのです。

阿蘇谷に平等寺を創建された「永厳法印」
俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印
下野守 平師季息
永厳上人の父は下野守平師季。「桓武平氏高棟王流」
通称の下野法印は父平師季が下野守であった事に由来。

※永厳法印の父は下野守平師季。「桓武平氏高棟王流」
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏高棟王流】姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01101.htm

兄弟である平範国・平師季・平行親。
平範国。この方の後裔が堂上平氏。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01101.htm#001

「平時信」。この方は平範国の後裔である。
以前の調査でここまでは理解していました。

しかし、今回、さらに永厳法印の父「下野守平師季」を調べた所、「新発見」がありました!
ご紹介致します。

角川地名大辞典(旧地名)福井県 長田(中世)より
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7332948

長田(中世)
室町期から見える地名若狭国遠敷【おにゆう】郡のうち応永28年11月19日の幸阿如法経米寄進札銘によれば,「〈長田〉願主幸阿」が明通寺へ如法経米10石を寄進している(小浜市史金石文編)
また,正長2年6月の若狭太良荘地頭方田数百姓名寄帳(東寺文書3/大日古)に,馬上免畠地子を負担した「〈長田〉右近入道」が見えるこれらの地名は,文永6年11月5日の恒枝保内太良荘押領田地坪付注進案(東寺百合文書ゑ)に見える恒枝保内にあった太良荘田「長田」「永田」という地字と同一のものであろうか
年代は下るが,天文8年12月24日のりうせん(竜前)小次郎大夫田地売券に「在所遠敷長田之下横田森下也」,同日付の同人寄進状に「長田之横田下也」とも見える(西福寺文書/小浜市史社寺文書編)


なお,太良荘の開発領主丹生二郎隆清の父師季は「長田下野守平朝臣師季」と称され(東寺百合文書ア),また,この隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,長田(永田)を名字地とする平師季流があった
これが当地と同じものとすると,当地名は平安期にさかのぼる可能性がある
現在上中町野木の玉置地内に上長田・下長田の小地名があるが,関係あるか

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※太良荘の開発領主丹生二郎隆清の父師季は「長田下野守平朝臣師季」と称され(東寺百合文書ア)
※若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり
※長田(永田)を名字地とする平師季流があった

★「平大納言時忠卿従兄弟 下野守師季之孫永田太郎時信」
平大納言時忠の従兄弟、下野守師季之孫、永田太郎時信。

すなわち「平時忠(平時子同母弟)」と下野守平師季(永厳法印の父)の孫「永田太郎時信」は従兄弟である!

これは一体どういう事なのか!!?

平時忠の父は「平時信」。
と言う事は、
「桓武平氏高棟王流」『平時忠(平時子同母弟)』と、同じく「桓武平氏高棟王流 下野守平師季(永厳法印の父)」の孫『永田太郎時信』は従兄弟である!
上記の文章をそのまま読むと、
平時忠・平時子(二位尼様)の母は下野守平師季(永厳法印の父)の娘である・・
こう考える事も可能と言う事になります!!。

平時忠・平時子(二位尼様)の母とは・・・?一体どなたなのか!?

平時忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%BF%A0

平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。
父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。
平清盛の継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。
また、平家の滅亡後も生き延びている。なお、いわゆる「平家にあらずんば人にあらず」とはこの時忠の発言である(詳細は後述)。

生い立ち
時忠の母については『吉記』に、二条大宮(令子内親王)に仕えた半物であったことが記されている。
この女性は時信との間に、時忠・時子・藤原親隆の室を産んだ。やがて時信との関係は疎遠となり、右少弁・藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産む。
顕憲の死後、時忠と時子は母を引き取って孝養を尽くしたという。

時忠と時子の年齢については、『兵範記』の清盛出家の記事の中に「相国今年五十一、二品四十三云々」とあることから、時子は大治元年(1126年)生まれとなる。記主の平信範は時子の叔父なので信憑性は高い。
時忠は『公卿補任』記載の年齢から逆算すれば、大治5年(1130年)生まれである。しかし『吾妻鏡』には、時忠の薨去を聞いた源頼朝が周囲の者に年齢を尋ねたところ、62歳という返事があったと記されている。
これによれば、時忠は大治3年(1128年)生まれとなる。時忠の生年は確定できないが、いずれにしても時子が年長である。『保暦間記』にも「平大納言時忠ト申ハ、太政入道ノ北方二位殿ノ弟也」とある。

中略・・

時忠の母について
『公卿補任』の時忠の項に母の記載はなく、弟・親宗の項に「母同時忠卿」とある。『尊卑分脈』の時忠の項にも母の記載はなく、親宗の項に「母大膳大夫藤家範女」とある。親宗の隣にある時子の項には「母同」と記されている。
『尊卑分脈』の藤原道隆流・藤原家範女の項には「美福門院女房少将局平親宗母」とある。ところが藤原基隆(家範の子)女の項にも、同じく「美福門院女房少将局平親宗母」という記述がある。一方、勧修寺流・能円(藤原顕憲の子)の項には、「母官女二条大宮半物大納言時忠并従二位時子同母」と記されている。このように『公卿補任』『尊卑分脈』の各記事には、混乱と矛盾が見られる。

まず、親宗の母「美福門院女房少将局」が家範の娘と基隆の娘のどちらであるか、という問題がある。これについては、家範(1048年生まれ)の娘が美福門院(1117年生まれ)に女房として仕え、親宗(1144年生まれ)を産んだとするのは年代的に合わないため、基隆(1075年生まれ)の娘とするのが妥当と思われる。

次に、能円の母「官女二条大宮半物」が親宗の母・藤原基隆女と同一人物であるか、という問題がある。半物は女房と雑仕女の中間の身分と推測されるので、公卿になった基隆の娘が半物であったとは考えにくい。
また、時忠・時子と親宗の母が同じだとすると、基隆女の項に親宗の名だけが記され、時忠・時子の名が欠けていることが不審といえる。
時忠・時子と親宗の年齢差も大きく、母は別人である可能性が高い。

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平親宗の母は『藤原道隆流・藤原家範女』もしくは『藤原基隆(家範の子)女』
※時忠・時子と親宗の年齢差も大きく、母は別人である可能性が高い。
※『公卿補任』『尊卑分脈』の各記事には、混乱と矛盾が見られる。


※「平大納言時忠卿すなわち平時忠(平時子同母弟)」と下野守平師季(永厳上人の父)の孫「永田太郎時信」は従兄弟である

もしも・・
平時忠(1128年または1130年生まれ)・平時子(二位尼様・1126年生まれ)の母が下野守平師季の娘であった場合
永厳法印の姉もしくは妹となります。
永厳法印は40歳前といわれる1120年に球磨に来られましたので妹の可能性があるのかと・・。
永厳法印は東寺の長者であり、広沢流、保寿院流祖であった方であり、平時忠・平時子(二位尼様)の母が、もし、永厳法印の妹であったとして
何故?永厳法印の妹が母である”その事”を後世の系図では隠す必要があったのか・・・

さらに”この女性”は
〉平時信との間に、時忠・時子・藤原親隆の室を産んだ。やがて時信との関係は疎遠となり、右少弁・藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産む。顕憲の死後、時忠と時子は母を引き取って孝養を尽くしたという。

能円。この方は土御門天皇の外祖父であった方なのですね・・
能円 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%86%86

能円(のうえん、保延6年(1140年) - 正治元年8月24日(1199年9月16日)は平安時代末期の僧侶。皇后宮亮・藤原顕憲(藤原盛実の子)の子。
母は令子内親王に仕えた下女(一説には藤原家範の娘)で、異父兄姉に平時子・平時忠らがある。
異母兄弟には藤原盛憲・憲親・経憲・玄顕らがあり、息女には在子(承明門院)・信子(堀川通具室)らがある。

生涯
異父姉の時子から目をかけられ、その養子となる。時子の夫・平清盛が平氏政権を樹立していくのに従って立身し、法勝寺の執行に任ぜられる。
僧侶の身ではあったが藤原範兼の娘の範子と結婚し、一女・在子を儲けた。範子が高倉天皇の第四皇子尊成親王の乳母になると、宮廷にも人脈を拡大した。
しかし、寿永2年(1183年)の平家一門の都落ちに従ったことから運命が暗転する。
直後に尊成親王は後鳥羽天皇として即位するが、能円は遠く西海にあり、虚しくその報を聞くのみであった。
やがて元暦元年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、捕虜として都に送られ、裁きの上で備中国への流罪となった。
この間、都に残っていた範子は、在子を連れて土御門通親と再婚。能円は文治5年(1189年)に赦免され帰洛するが、範子は既に通親との間に定通・通方らを産み、更に懐妊中という状態であった。
在子は後鳥羽天皇の寵愛を受け、建久6年(1196年)に皇子為仁親王を生む。
為仁親王は建久9年(1198年)に土御門天皇として即位し、能円は血縁上は天皇の外祖父となったが、それに相応しい厚遇を受けることはなかった。
通親の権勢が増していくのを横目に、正治元年(1199年)に死去している。

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ここまで調べて気が付いたのですが
平時信との間に、時忠・時子(二位尼様)・藤原親隆の室を産み、藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産んだ女性。
其々の方々の母である女性。
この方の血脈は・・
安徳天皇さらには土御門天皇と・・繋がっていらっしゃるのですね・・


「永厳法印」は1120年球磨に来られて、平等寺を創建されました。
1151年にお亡くなりになられ、良峯氏(平河氏)は御供養の為の有智山万福寺を建立。(1151年着工、3年の年月をかけて1154年に完成。)

皆様方は、おそらく、京都で華々しく活躍された「永厳法印」が、何故?遠く離れた九州の山の中「球磨」に来られたのか、不思議に感じていらっしゃると思います(..)

しかし・・京都から遠く離れた地「球磨」に建立されたお寺は豪華絢爛・きらびやかで雅で、壮大なお寺でした。
もう一度、平安時代の平等寺の御仏像の一部(現阿蘇釈迦堂内)をご覧になられて下さい(..)
http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/heritage/heritage20.html

球磨郡誌より 松原象雲氏調査、球磨による
釈迦堂の釈迦如来像(藤原時代の作品)
康平の頃、平賀師澄が球磨郡永吉の庄に封ぜられしより、其の子四人、何れも郡内の勝地に掾り、藤原時代の美術を迎へて燦然たる光彩を放ち、昔の熊襲の故地に、優麗美妙の楽園を装へり。
その時代の遺物として、本村阿蘇谷の釈迦堂に釈迦像あり。
釈迦は、像身二尺七寸、藤原時代の産物たる九重台葦蓮花台上に座し、梵音朗らかに説法し給ふ像にして、後背の光華には、鍍金透彫模様を現し、脇に侍たる文殊、普賢の両像は、象と獅子との背上に、心蓮を現したる葦蓮花台に座し、鍍金の賓冠を戴き、持國、毘沙門の二天は、護衛の任を表し、左右須彌壇の両角に侍し、文彩には藤原時代の模様の残影を駐む、破損と後世の修補とは幾分本質を掩ふ所なきに非らざるも、年代を考ふれば大治前後白河法皇時代と思はれ、作者を考ふれば定朝三代の裔、頼助時分の名家に属す、其の由緒を尋ぬるに、南藤蔓綿録に曰く、「富寺開山永厳上人草創、仁平元年壽七十にして示寂す、球磨川北の本寺」とあるもの是なり、即ち平賀師高の領地の範囲と思はる、球磨郡に於ける平賀系の遺跡なりと云うべきなり。
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サイト他では球磨の須恵氏や平河氏等の名が登場していますが
実は・・
球磨の須恵氏は、古代の球磨の久米氏を継いだ藤原姓「久米氏」と深く繋がっているようです。
球磨の藤原姓久米氏の系図が発見されまして\(◎o◎)/!、その「系図」を御研究されていらっしゃる”某方”から、少しだけ伺いました。
薩摩平氏との繋がり・・薩摩側の系図にあった「久米郡司」が球磨の”どなただったのか?”も・・・(^'^)
詳しくは書けませんが・・(ー_ー)!!
今は”某方”の御研究をとても楽しみにお待ちしている所です(^'^)。

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所で・・
平時忠。この方のウィキの記述を読んでいて気が付いたのですが
「機密文書」があったようですね・・
義経への接近
時忠は壇ノ浦で捕虜となり、4月26日に入洛した。時忠は神鏡を守った功績により減刑を願い、娘を源義経に嫁がせることで庇護を得ようとした。
時忠の娘と義経の婚姻について『平家物語』は機密文書の奪取が狙いだったとするが、義経が承諾した理由は不明確である。

娘でいらっしゃる源義経側室 蕨姫(わらびひめ)の項でも「機密文書」について書かれていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%A8%E5%A7%AB

『平家物語』「文之沙汰」によると、時忠は義経に押収された機密文書を取り戻すために娘を義経に差し出す事を考え、18歳の現妻の娘は惜しいので、先妻の娘で婚期を逃していた23歳(『源平盛衰記』では28歳)の蕨姫を義経に娶らせた。姫に懇願された義経は封も開けずに文書を時忠に返却し、受け取った時忠はすぐさま焼却処分したという。
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「機密文書」・・・何だかすごい話ですね・・
何が「機密」だったのだろう???
平家物語には記されているのかな・・?
勉強不足です(..)


今回のコメントは
※「長田下野守平朝臣師季」(東寺百合文書)
※「平時忠(平時子同母弟)」と下野守平師季(永厳法印の父)の孫「永田太郎時信」は従兄弟である!
「平大納言時忠卿従兄弟 下野守師季之孫永田太郎時信」  若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)

という 新発見をご紹介させて頂きました(..)

では(..)
[18]たけぽんさんからのコメント(2017年07月29日 08時04分25秒 ) パスワード

宮原様、皆様
ご無沙汰しております。

お疲れ様です( ・∀・)っ旦

最近の異常な気象に、持病を持ってる
身としては、身体が付いていかず
バテバテでありましたf(^^;

宮原様
御親戚のご結婚
おめでとうございます(^^)/

最近は、嫌なニュースばかり目に
入るなか、心がほっこりします(〃∇〃)

宮原様の所も、中川家とご縁が
ありましたか(゜Д゜)!!

調査の方も、いつもながら
順調に進んでるようですねd(^-^)

さて、うち(須恵)の家系図、巻物類
の事ですが、移動先の家が判りました!

昨日、叔母がたまたま家に来たので
聞いてみましたd(^-^)

その時に、母から
家の陣屋(須恵)は、本陣みたいな
お殿様クラスの方々しか泊まれない様な
お屋敷だったんよ。お母さんも何回か
行った(叔母はしょっちゅう遊びに
行ってたらしいです)けど、本当に
広かったよ(゜Д゜)!!

と、須恵の話をしていた次第です(^-^)

ここ最近、体調不良で調査の方は
一時停止状態でしたが、また
体調を見ながら、ボチボチ再開
させていこうと思いますm(_ _)m

今日もとびきり暑くなるとか。

宮原様・皆様
体調崩されぬ様にご自愛
下さいませ(ノ_<。)
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月29日 12時33分44秒 ) パスワード

たけぽん様 お久しぶりです!!(^'^)

毎日の猛暑。本当にどうにかならないのかな〜(@_@;)と・・・
たけぽん様のお身体の具合も心配しておりました(@_@。

私も、心臓に持病があるので、暑くなると、心臓がバタバタして苦しくなります。

さらに、毎日のように、球磨・人吉地方や阿蘇地方を襲う山沿いでの豪雨。
テレビでは、毎日「大雨洪水警報」が発令。
午後3時過ぎになると、必ずと言っていいほど、空がどんよりとしてきて
ゴロゴロと雷様の雷鳴が・・・

私が子供の頃にあった「夕立」とは桁外れの豪雨です。
本当に、この先、気候はどうなっていくのやら・・

所で・・(p_-)
そうです!家の親戚に「中川家」がありました!!
全く、気が付いていませんでした(@_@。

と言うか・・・
以前も書きましたが、家の親戚一同は、親戚を姓では呼ばずに住んでいる「地名」や「通称」で呼びます。
(たけぽん様の御親戚もそうだと伺っていました)
だから・・
親戚となる中川家も、地名(通称)で皆が呼んでいたので気が付かなかったのです(@_@。
通称「平●・・」です(@_@。

コメントに書いたように
家の親戚の「宮原家」には「中川家」から嫁いで来られています。
さらに複数の親戚関係が絡んでいます(詳しくは書けませんが(..))
中川家とは家の親戚の『相良氏族の「山北家」』繋がりの親戚が・・・・

でっ(p_-)・・
私、冷静に分析してみたのですが・・・・

ブログにアップしている「平河氏系図」の江戸時代の姻戚関係を見ると一目了然!
宮原氏との二重の姻戚関係が見えます。
特に系図Dに書かれている方々の母は「宮原権左エ門」の娘です。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

宮原氏との二重の姻戚関係とはつまり
江戸時代後期の「平河氏」の母系(母方)は「宮原氏」である!と言う事です。

それから・・・
後世、須恵の平川氏には「中川家」から婿養子の方が入られた。

さらに・・・
家の親戚の宮原家には「中川家」から嫁いで来られている。

まとめると
★母系が「宮原氏」である平川家には「中川家(中川氏)」から婿養子に入られた。
★家の親戚の「宮原家(宮原氏)」には「中川家(中川氏)」から嫁いで来られた。

「宮原氏」と「中川氏」との関係
どう考えても・・・
私は・・偶然とは思えないのですが・・・ ・・・・ ・・・・・(p_-)

さらに
家の宮原家とたけぽん様の御親戚には共通の姓が多数・・
石川氏・林田氏・・
愛甲氏に至っては親戚が同じ「家」ですし・・・

さらに、さらに・・
椎葉のおじと、祖母の実家の平川家の長男の「従弟(いとこ)」の妻は須恵の平川家(祖父方が中川氏)から嫁いで来られている。
上記の人達の従弟(いとこ)は、私の父(宮原家)でもある・・・

こうやって、書いてみると・・
やはり
全てがどう考えても「偶然」とは思えないのです・・

結婚式には父が参加して私は行かないので、父に色々聞いてもらおうか・・と考えているのですが・・
何せ、父は当日もちろん「焼酎」を飲むでしょうから・・
むむっ(;一_一)・・当てには出来ません(ー_ー)!!

しかし(^'^)
今度、椎葉のおじが従弟の妻、すなわち須恵の平川家から嫁いで来られているおばさんに、色々話を聞くそうなので、ワクワクして待っています(^'^)

ただ・・
「中川氏」との親戚関係が解った事でなんでしょう・・
調査の「カーテン」がピラ〜ッと開いてきたような気がしています(^'^)


陣屋(須恵)ですが
私、実際に「あった」のだと思います。
きっと相良藩史の数々に記載が無いだけだと思います。
何故記載がないのか・・・
むむっ(p_-) ここがかえって、相良藩の謎に繋がっているような気が・・(p_-)

所で・・
〉家系図、巻物類の移動先
ですが・・
私が「地名」を勘違いしていたあの場所に在されていらっしゃる・・・
ではありませんか(p_-)

何はともあれ
たけぽん様、お互いに体調を崩さないように気を付けながら
この猛暑を乗り越えましょうね(^'^)

お身体十分にご自愛下さい。

では(^'^)
[20]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月30日 17時10分52秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

コメント19の追記ですが

旧宮原村の宮原城の最後の城主。
宮原村庭柏寺に建立されたお墓には 「宮原十兵衛」とあり
人吉の東林寺にあるお墓には「宮原城主 犬童十兵衛」とあります。
さらに、最後の宮原城主「宮原(犬童)十兵衛」が亡くなって20年程経った後
「犬童十兵衛」を名乗った方は「犬童彦右衛門」こと「平河高政」
ブログにアップしている平河氏系図に名前がある方です。
さらに・・さらに・・
宮原城最後の城主「宮原(犬童)十兵衛」と言う方が「城主」であったであろうその時期のお隣の「岡本城」の城主は
相良清兵衛こと「犬童頼兄」です。
昨日のコメントで、
〉江戸時代後期の「平河氏」の母系(母方)は「宮原氏」である!
と書きましたが・・

私の推測では「江戸時代後期」どころではなく・・
江戸時代初期、いえ、もっと前から「平河氏」(犬童氏)と「宮原氏」の間には姻戚関係が存在していたのでは・・・
と考えています(p_-)

所で、たけぽん様
須恵の平川家の系図が見れたら、人吉からの繋がりが一目瞭然ですね!(^'^)
あくまでも、私の想像ですが・・・
須恵にあった「陣屋」に人吉から平川氏が移って来られたのでは?ないのかな・・(p_-)
と推測しているのですが・・。

実は家の宮原家なのですが、住していた旧宮原村内だけではなく、旧免田町他、球磨郡内に「宮原姓」の親戚は複数あります。
しかし、家の宮原家の「宮原姓」の親戚は球磨郡内だけではなく人吉もにありました。
と言うか・・「あった」と書くべきなのかもしれません。

家の宮原家の親戚の人吉の「宮原家」があった場所は「七地」(蟹作近辺)です。
「あった」と書いた理由は、電話帳で調べても今はもう「七地」(蟹作近辺)には宮原姓は住されていないようだからです(@_@。

以前から父が「何となく」言っていたのですが、最近ようやくちゃんと話してくれました。
そこで今日は、父から聞いた話を(..)

父は高校生の時に、喧嘩ばかりしていた暴れん坊?だったようです。
(親戚や父の友人の方から聞いた話では、父は喧嘩がめっぽう強く、なお且つ、勉強も良く出来た・・そうです)
さらに・・この喧嘩少年(父)は、球磨郡内だけではなく、八代や熊本まで遠征?していたそうで・・
(@_@;)・・・((+_+))

祖母は学校に呼び出される事もしょっちゅうあったようです。
あまりの暴れん坊ぶりに、困り果てた祖母はある日、父を座らせて、話を始めたそうです。
その時、
「ここ(宮原家)の親戚は人吉にあった(「七地」(蟹作近辺))。とてもヨカとこじゃったとよ!(とてもりっぱな家柄だったのよ)お前には恥ずかしか血は流れとらん!喧嘩すると言う事は人を傷つけると言う事じゃろが!そんな事して先祖が喜ぶと思うか!しっかりせんね!」
と祖母は父を窘めたそうです。

何故、父が此の事をちゃんと話してくれていなかったのか・・理由は
まず・・娘には暴れん坊だった自分の話をしたくなかった・・
のが一つと

最大の理由は
家の宮原家には曾祖父が久保田家から養子に入っているので、その「人吉の宮原家」とは直接は「血が繋がっていない」から
だったそうで・・・

というか・・・「血が繋がっていないから」とは・・何だろう・・父らしい・・

しかし(ー_ー)!!
父には
「血が繋がっていなければいけないと言うならば・・そんな事してたら、家は断絶してしまうよね・・・」と私が言うと
父は
「そんな事は重々承知してる!」と(..)

ただ、私が先祖の調査を「飽きもせずに」頑張っているのを見て
「何故、家の宮原家に久保田家から養子が入ったのか?」その理由を今はとても知りたい!
と言う事です(..)

だから、父は私に、しょっちゅう
「何で、曾じいちゃんは久保田家から家(宮原家)に養子に入ったのか?そこを調べろ!」
と言っていたのか・・と 私は納得しました(..)
しかし・・父の求める情報には、未だ私は到達していません(..)

この「人吉七地の宮原家」と家の「宮原家」の関係ですが
実は、知っていたのは父だけではなく
高齢の親戚である「椎葉のおじ」と現在90歳代になる祖母の従妹である「おばさん」と
多良木の平川のおじは知っていました!
椎葉のおじと祖母の従妹である「おばさん」は子供の頃に聞いていたそうで
多良木の平川のおじは、私の祖母を連れて、人吉七地にあった親戚の宗形家(宗方だったかな?)に行った時に、私の祖母から聞いていたそうです。

ただ・・考えると
よそ様の事、「どこどこはヨカトコ」とか決して言う事は無かった(私には)祖母。
さらに、プライドの高かった祖母が
『とてもヨカとこじゃったとよ!(とてもりっぱな家柄だったのよ)』
と父に言った親戚の「人吉七地の宮原家」とは一体どういう『家』だったのか・・・

家の宮原家は昭和初期までは、旧宮原村内において、かなりの土地を所有していた事は、親戚の話や書類等では知ってはいたし・・・(今は殆どな〜んも残っていませんが・・あはっ(^◇^))
土地を沢山所有する「宮原村の宮原さん」と言う事で、後世、村の人達は「庄屋さんじゃったとやろ?」と勘違いをされていた家で・・・
庄屋さんじゃありませんでした(ー_ー)!!
確かに、曾祖父は明治時代には選挙で選ばれた「宮麓区」の区長さんであり、村会議員でもあった人ですが、その事がどうやら「庄屋さんじゃった?」の話の根元だったようですが・・

家が所有していた「土地」と親戚であった『人吉の七地の宮原家』との関係も気になる所で・・

『人吉の七地の宮原家』の事はあまり理解していなかった去年・・・
丁度、一年程前、こちらのスレッドで、書こうとしたけどやめた
『私がやらかした事』が発生したのです(..)
もう、時効?かと思いまして書きますと・・・

私は、何故?家の宮原家は土地を沢山所有していたのか?その事が謎だったある日
偶然、某方から聞いた
「人吉の城下の藩士の中に、知行地を持っていた方々は、江戸時代、その知行地の農地を在郷のお百姓さんにまかせていた。
明治に入り、知行地のお百姓さんの中には、長年の功労から、その知行地の一部と苗字を知行者から頂いた人達がいる」
という話でした。
それを聞いた私は
「うん?もしや?家の宮原家は・・・?」と気になり
この事を、先も書いた祖母の従妹である90代のおばさんに
某方から聞いた話。そして、もしかしたら・・家の宮原家は?・・・と
話たのです。

すると、90代になる祖母の従妹である「おばさん」は
「宮原家は武家タイ!!あんたはなんば(何を)言いよっとね!!(何を言ってるの!)」
と叱られてしまったのでした・・トホホ(@_@。やらかしました。

しかし・・・

家の宮原家と親戚であった『人吉の七地の宮原家』。
どういう関係の親戚であったのか今となれば全くの「謎」となり・・
何か書かれていた可能性のある「宮原家に残っていた沢山の古文書等」は、家の宮原家の様々を受け継いだ親戚の今の当主のおじさんが、知らずに「燃やしてしまった」と言う悲しい現実もあり(@_@。
父も今では
「もっと、ばあちゃんに聞いとけば良かった・・」とばかり言っています(@_@。

最初に書いたように、
電話帳で調べても今はもう「七地」(蟹作近辺)には宮原姓は住されていないようで、
人吉の七地に行って、御近所に「この辺りに宮原さんがいらっしゃいませんでしたか?」と聞いてまわる訳にもいかず・・
親戚と言う事はきっと高祖父に繋がる話だとは推測しているのですが。

お寺の過去帳は・・・
ここが問題で、実は、私の高祖父が亡くなったのが、庭柏寺が廃寺となった明治元年から集落に浄土真宗のお寺様が来られるまでの空白期間でして(@_@。
一体、どこのお寺に情報が残っているのかさっぱり解りません(@_@。

今日のコメントはとりとめも無い話となりましたが・・
ただ・・こちらのコメントに「この話を」、ちゃんと書いておく事で
何らかの手掛かりが後で見つかるかもしれない・・と考えた次第です(..)

少しめげそうになる時もありますが
私は、気持ちを前へ前へと奮い立たせながら、この猛暑での調査を進めて参ります。

皆様も、お身体には十分お気を付け下さい。

では(..)
[21]たけぽんさんからのコメント(2017年08月05日 22時00分31秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ご心配おかけしてすいません
( ノД`)(泣)

自分自身では、毎度の事なので
あぁ、またか(>_<)位にしか
考えないようにしてますがf(^^;

親戚筋が似たり寄ったりは
ここまで似てると、何か不思議な
御縁を感じますね(・д・;)

他の方々の御親戚も、逆に
ここまで似ている親戚筋の家系って
あるんでしょうかね?(..)

あ、庭柏寺の件ですが・・・

過去帳は、庭柏寺から何処かの
お寺に移ったってスレを
見たような・・・(..)



[24]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月06日 07時31分32秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます。

たけぽん様
お身体、御無理なさらないようにして下さいね。

台風が近づいていますね。
すでに奄美や屋久島では大変な被害が発生しているようで、
お見舞い申し上げます。

家は、黒原山のすそ野にあり、向かいには白髪岳があり、山からの吹き下ろしの風のせいか
昨日の朝から一日中、突風を含めた強い風が吹いています。
昨日の明るい内に、家族3人で、家の周りを片づけて、台風に備えています。
鹿児島、宮崎を通過する予報になっていますが
全国でこの台風による被害がこれ以上出ないように祈るばかりです。

2年前に球磨に戻って、台風が数回上陸しましたが
やはり、九州南部は台風の勢力が強い状態での接近になるので、風の勢いが違いますね・・・
主人も驚いています。
私は台風が発生すると、体調が悪くなります(..)
しかし
以前、ガリガリに痩せていた時は、すぐに喘息の発作が出ていたのですが
今の体型?に変わってからは、喘息の発作が全く出なくなりました。
頭痛と耳鳴りだけです。
体重の増加と共に、体力も増加?したのかもしれません・・。

〉過去帳は、庭柏寺から何処かの
お寺に移ったってスレを
見たような・・

そうなのです(..)
庭柏寺の過去帳は廃寺と共に免田にあるお寺様に移っています。
しかし・・高祖父が亡くなったのはその後で・・現在御世話になっている浄土真宗のお寺様が集落に来られる前なのです・・・
ちなみに、今お世話になっているお寺様を明治半ばに芦北からこちらに御迎えする活動をしたのは、平川の曾祖母の父(深水氏)でもあります。
こちらのお寺様の初代の方は芦北に残った「深水氏」が代々住職を務められたお寺様の方でした・・(..)

所で
親戚関係。
本当によく似ていますね・・・・
1軒2軒なら偶然かもしれないけど、ここまで似ていると・・・
本当に、私も御縁を感じます(^'^)

ただ、共通の姓だけではなく・・
〉椎葉のおじと、祖母の実家の平川家の長男の「従弟(いとこ)」の妻は須恵の平川家から嫁いで来られている。
上記の人達の従弟(いとこ)は、私の父(宮原家)でもある・・・
と言うように
共通の『親戚』もあると言う事は・・・
きっと『何か』あるのだと思います(p_-)。

私、一つ発見しました(p_-)
『林田氏』についてです。

たけぽん様の御親戚に「林田家」があり・・・
祖母の実家に嫁いできた私の高祖母も「林田家」の娘。

昨日、梅山無一軒が書かれた「南藤蔓綿録」を読んでいて気が付いたのですが
相良長頼の子息である二代四郎兵衛尉頼親。
この方の項にある系図の兄弟姉妹の中に
以前から書いていたおそらく良峯氏に嫁いだ「尼妙阿」の事であろう「犬童女」の系が書かれていて
女 嫁相良小藤次長綱 犬童苗字祖 ・・・続けて
  西  此ヨリ始
  豊永 此ヨリ始 → 林田・吉牟田・馬場園
  原 中島

とありました(p_-)
林田家は相良氏族にあり、なお且つ、良峯女と言われた尼妙阿(犬童女)の系についていました・・・

すなわち「犬童氏」「西氏」「豊永氏」「林田氏」「原氏」「中島氏」は相良氏族の中でも系が同じ・・犬童一族である!と言う事です。

私の曾祖父は「久保田家」から宮原家に養子に入っていますが
相良氏族の「久保田氏(窪田氏)」は上記の
相良長頼の子息である二代四郎兵衛尉頼親の弟弥五郎頼氏(為頼景猶子続多良木家)から続く家なので
家の親戚である「犬童氏」「西氏」「豊永氏」「林田氏」「久保田(窪田)」。
さらに私の曾祖母の実家「新堀家」(祖は新堀頼兼。妻は相良頼景の娘であり母は須恵氏)

家の親戚関係の場合は、どう考えても・・
相良氏族の中でも、球磨における相良氏の最初の頃?すなわち鎌倉時代初頭の「関係」がそのまま続く「縁戚関係」のような気がします。

そうやって・・考えながら・・・平安末期〜鎌倉時代初頭までぐ〜んと遡った先祖を考えると
「橘公業」「橘公忠」「相良頼景」「相良長頼」「新堀頼兼」「須恵氏」
そして・・「平河氏」
に行き着く訳です(p_-)

平安末期〜鎌倉時代初頭において「相良氏」と「平河氏」そして「須恵氏」の姻戚関係は明白であり・・・
と言う事は・・・
「橘氏」もきっとこの時代に「相良氏」と「平河氏」そして「須恵氏」との間に
姻戚関係があったのでは?と考える事は出来るのでは?・・・と(..)・・(p_-)
そして・・・ここに「中川氏」が繋がっている・・・

うん?今、町の放送で
「午前9時30分から自主避難所を開設します!」と流れてきました。
同時に物凄い突風が吹いてます・・・・

今日は、身の安全を一番に考えて行動しようと思います!
たけぽん様も十分にお気を付け下さい。

こちらのスレッドをご覧頂いて下さっていらっしゃる皆様方も
台風から離れていても大雨の危険性がありますので
十分にお気を付け下さい。

では。
[25]たけぽんさんからのコメント(2017年08月10日 05時42分14秒 ) パスワード

宮原様・皆様
おはようございます(^^)/

昨日の夜中から、雷が鳴り響き
ガクブル((((>_<)))でした(泣)

宮原様・皆様
台風は如何だったでしょうか?(..)

こちらは、有り難いと言うか、申し訳ないと
言いましょうか・・・

それほど被害もなく無事で過ごさせて
頂きました(ノ_・,)

宮原様
台風の方は如何だったですか?(・・;)

あと、過去帳の件ですが
そうだったんですね

大変御無礼致しましたm(_ _)m

昔の事は、記録か口伝?がなければ
後生の者には、ナカナカ
わからないですからね(>_<)

やはりといいましょうか・・・

昔からある程度の家柄が大きいと
それなりの家柄の方々と姻戚を
結ぶみたいなので、似たり寄ったりに
なる率は高くなるんですかね?(..)

うちの方(須恵)の家系図も、早く
拝見しに行きたいのですが、
これがナカナカ叔母との予定が
合わなくて、もどかしい思いを
しております(..)・・・
[27]たけぽんさんからのコメント(2017年08月12日 00時10分26秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

暑い日がまだまだ続きますが
体調の方はどうでしょうか?(・・;)

人吉球磨は、閉鎖的な様に見えて
実は、あちこちの抜け道的な場所が
結構あるんですね(..)

ミヤハラ様
母に確認した所、ビンゴd(^-^)
でした(^^)/

○○○ちゃん(予想が当たってれば)
は、お母さんと従姉よん(〃∇〃)♪と。

ちなみに○○○おばさん
(ミヤハラ様から見て)
は、うちの祖父が入院してた
病院でお会いした事あります(*^^*)

多分、おば様にお聞き頂くと
おわかりになると思いますがf(^^;
[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月12日 19時09分48秒 ) パスワード

たけぽん様 今晩は(^'^)

お母様への御確認ありがとうございました。

●●家のおばさんは、たけぽん様のお母様の従姉さん!
やはりそうでしたか!!(^'^)

ずっとそうじゃないのかな?(p_-)
と思っていたので、思い切って伺ってよかった!!(^◇^)

たけぽん様のおじい様が入院されていた病院で、おばさんとたけぽん様が
会っていらっしゃるお話
今度、おばさんに聞いてみます(^'^)

もしかしたら、すでに、たけぽん様の事、気が付いているかも・・・・(^'^)

林●家のお話を椎葉のおじと・・・・(^'^)

そこでなのですが・・・

たけぽん様にマタマタお願いがあります(..)

私の高祖母は林●家から祖母の実家の平川家に嫁いで来ていますが
高祖母の父の名前は「林●安蔵」です。
高祖母が江戸時代の文久生まれなので、安蔵じいちゃまは江戸時代から明治初頭にかけての方だと思います。

たけぽん様のお母様、おば様の御先祖様の兄弟もしくは親戚に
「林●安蔵」という人を御存じないか?
お母様にお伺いして頂けませんでしょうか(..)

もちろん江戸時代から明治初頭の方なので御存じ無い方が可能性としては高いとは思いますが
よろしくお願い致します<m(__)m>

それから
コメント26は、最近の個人情報が入っているので
削除しますね(^'^)

では(^'^)
[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月13日 12時27分56秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

今日から、お盆ですね。(家は旧盆です)
普段から、先祖様に感謝の気持ちを持ってお参りする事は毎朝の務めとしていますが
お盆に入り、より身近に先祖様を感じます。

きっと、おっちょこちょいの孫娘の行動?を先祖はハラハラしながら見守って下さっている事でしょう(..)

たけぽん様
昨日は、突然、江戸時代〜明治初期のお話を伺ってすみませんでした。
御存じ無いのは当たり前の事だと思いますので、あまり、お気になさらないで下さい。
本当にすみません(..)

所で、たけぽん様、皆様

私がこれまで沢山の親戚に聞いてきた「縁戚関係」なのですが
ふと思いつきまして・・・
何だろう・・グループ?に分ける事が出来るな〜と(p_-)
そこで、自分自身が忘れないように、今日はこちらのコメントにまとめておく事にしました(..)
くだらない事かもしれませんが・・一応(p_-)

複数のグループ?に繋がるのか?と推測する場合は※を付けました(..)
知っていたけど、こちらのスレッドには書いていなかった「家」も今日は書きました(p_-)
抜けがあるかもしれませんが・・一応(p_-)

「宮原家」繋がりは(宮) 平川家繋がりは(平)
さらに、家の「宮原家」と「平川家」(祖母の実家やお隣の平川家)に両方繋がる家には(宮・平)と付けました(p_-)

題して
家(宮原)の縁戚関係をグループ?にまとめてみました(^O^)/・・・です(p_-)

★姻戚関係全体

@橘姓グループ
「宮原家」(複数)(宮)もちろん(平)も(p_-)
「牛島家」(宮)・「中村家」(宮・平)・「矢野家」(宮・平)

A藤原南家 相良氏族グループ
「久保田家」(宮・平)・「窪田家」(宮)・「新堀家」(宮・平)・※「平川家(複数)」(一応相良氏族に(p_-))
「深水家」(宮・平)・※林田家(一応相良氏族に(p_-))(宮・平)
※「蓑毛家」(複数)(宮・平)・※「犬童家」(複数)(宮・平)・「桑原家」(宮・平)・「恒松家」(宮)・「万江氏」(宮・平)
「豊永家」(宮・平)・「西家」(平)・「黒肥地家」(宮・平)・「佐牟田家」(宮)・「柳瀬家」(宮・平)・※「樅木家」(平)・愛甲氏(平)他

B本姓「大神氏」グループ
「星原家」(元は宮司家でした(p_-) 2軒)(宮・平)
「尾方家」(宮司家。初代は緒方氏)(平)
※「椎葉家」(平)
(親戚の椎葉家が元あった奥野村。椎葉家が元あった場所に近い白木妙見の宮司家椎葉氏は本姓”大神氏”なのでこちらのグループに入れてみました(..))

C出自は”椎葉村”でしょう(p_-)グループ
※「矢立家」(平)・ ※「椎葉家」(平)
「那須家」(複数)(宮・平)・・ しかし殆どは宮原の親戚です(p_-)
「尾前家」(宮原の祖父の姉関係)(宮)
※「黒木家」(複数)(おそらくこちらのグループでは?と推測しています(p_-))(宮・平)
※林田家(むむむっ?(p_-))(宮・平)

D”五木村”関係
「尾方家」(今でも五木村の”地頭家”と呼ばれるお家です(..)。元々は”緒方”だったそうです(..))(平)

E”五家荘”関係
※「樅木家」(平)
☆私の勝手な推測ですが・・BとCとDはおそらく「五家荘」にも繋がっているのでは?と考えています(p_-)

Fおそらく松浦党もしくは有馬氏・大村氏の一族か?グループ
「渕田家」(宮・平)・「森田家」(宮・平)・「鬼塚家」(宮)

G江戸時代の天草繋がりかな?(p_-)グループ
「金子家」(宮・平)・「吉鶴家」(宮)・「野島家」(宮)

H本姓はおそらく「大蔵氏」では?(p_-)グループ
※「黒木家」(宮・平)

I球磨・人吉には少ない”姓”でしょう(p_-) グループ
※「矢立家」(平)全国的にも少ないです(p_-)
「千葉家」(宮)・「畠山家」(宮・平)・「久我家」(宮・平)
「片岡家」(宮)・「中川家」(宮・平)・「石川家」(宮)
「牧野家」(宮)

K永井氏・永田氏グループ
「永田家」(平)・「長田家」(平)「永井家」
高祖母の実家の永田家は、
私はおそらく藤原南家「相良氏族」である「深水家」との縁が深いのでは(p_-)

推測いたしております(p_-)

J最後にグループ「平河氏」
「横瀬家」(平)・※「黒木家」(宮・平)・※「樅木家」(平)
※「蓑毛家」(複数)(宮・平)・※「犬童家」(複数)(宮・平)
=====================================================

無駄な事かもしれませんがまとめてみました(p_-)・・・・(^◇^)
抜けている「家」もあるとは思いますが・・
両方(宮原家・平川家)の曾祖父に兄弟(姉妹)が多いので・・親戚が多っ!ではありますが・・
しかし・・こうしてまとめてみると
家の「宮原家」と祖母の実家の「平川家」は共通の親戚が多い!!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
マコトに・・なんでじゃろぉ〜!!!!
と叫びたくなりました。

さらに・・・
本姓「大神氏」の親戚ですが(p_-)
親戚の椎葉家・尾方家(緒方氏)・星原家と
3軒全てが、江戸時代までの古記録や史跡等に
「家は本姓”大神”ですゾッ(p_-)」と・・ちゃんとその出自を残されている家ばかりで・・・
こっ・・これは・・・この事は・・
全国における・・普通の家庭の・・一般的な日本人平均的な縁戚関係なのか・・?
何だか・・普通じゃないような気がします・・?
特種?なのではあ〜りませんかぁ〜!!!!!
今日、まとめてみて、この事に気が付いたのであります(p_-)
何故?・・・本姓「大神氏」の親戚が多いのだろう???

宮原の一族は「伊予橘氏」の系であり・・
伊予橘氏は・・越智氏に繋がり・・
「橘氏」であり「紀氏」でもあり・・もちろん「物部氏」でもあり・・

何だろう・・・家の親戚関係は・・もっもしや?
「古代系」?の集まりではあ〜りませんか〜(p_-)・・・(?_?)

みつみつしい「久米郷」の親戚一族かっ!???
戦や喧嘩は強いぞっ〜!!

<m(__)m>
脱線しました(..)

と言う事で、色々、お盆なので?まとめてみました(..)
でした。

では(..)
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月13日 15時41分04秒 ) パスワード

追記(..)

何度も書き直したのに・・・やはり、私はおっちょこちょいです(@_@。

近い親戚を書き忘れていました(@_@。
小池氏です。

あと佐藤氏と宗形氏と川辺氏を書き忘れていました(..)

グループ?は、やはり
I球磨・人吉には少ない”姓”でしょう(p_-) グループ  でしょう。

I球磨・人吉には少ない”姓”でしょう(p_-) グループ 追加
※「矢立家」(平)全国的にも少ないです(p_-)
「小池家」(宮)・「千葉家」(宮)・「畠山家」(宮・平)・「久我家」(宮・平)
「佐藤家」(平)・「片岡家」(宮)・「中川家」(宮・平)・「石川家」(宮)
「宗形氏」(平)「牧野家」(宮)


と言う事で・・・・
家の親戚は以下のグループ?にまとめる事が出来ました(..)
@橘姓グループ
A藤原南家 相良氏族グループ
B本姓「大神氏」グループ
C出自は”椎葉村”でしょう(p_-)グループ
D”五木村”関係
E”五家荘”関係
Fおそらく松浦党もしくは有馬氏・大村氏の一族か?グループ
G江戸時代の天草繋がりかな?(p_-)グループ
H本姓はおそらく「大蔵氏」では?(p_-)グループ
I球磨・人吉には少ない”姓”でしょう(p_-) グループ
J永井氏・永田氏グループ
Kグループ「平河氏」

うん?川辺氏はどのグループだろう???
後で考えます(..)

くだらない事をしているようですが・・・
しかし・・

※藤原南家と繋がりが深いのは「蘇我氏」。すなわち「紀氏」。
 藤原南家の祖「藤原 武智麻呂」の母は「蘇我娼子」
「蘇我娼子」は「蘇我連子」の娘。兄弟に「石川虫名、石川宮麻呂、石川難波麻呂」
「蘇我連子」の父は「蘇我 馬子」。
石川 宮麻呂のウィキの記述を読んだのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E9%BA%BB%E5%91%82
※『万葉集』に、長田王が水島(現在の熊本県八代市植柳。球磨川の支流である南川の河口にある小島とされる)で詠んだ和歌に対する返歌の作者である石川大夫は石川宮麻呂もしくは石川君子と考えられている

※相良氏は藤原南家。

※相良氏の祖「藤原為憲」の母は「平高望女」。

※藤原鎌足の祖母の方は「久米氏」の娘。

※球磨郡久米郷は古代「久米氏」の元祖的本拠地。

※古代久米氏の跡を継いだ藤原姓久米氏。藤原南家巨勢麿流。

※藤原姓久米氏から藤原姓須恵氏が出る。

こうやって書いてみると
球磨郡全体や球磨郡久米郷に「藤原南家」の方々が平安時代初期から「豪族」としていらした事は
何だか「当たり前」のような気がします・・・

そして「藤原南家」の相良氏が球磨に来られたのも
何だか「当たり前」のような気がします・・・

そこに
伊予橘氏は・・越智氏に繋がり・・
「橘氏」であり「紀氏」でもあり・・もちろん「物部氏」でもあり・・
の系である宮原の一族がいるのも、何だか「当たり前」のような気がします・・・

そして・・家の親戚に「石川氏」があるのも
何だか「当たり前」のような気がしています・・・

と言う事で
コメント32の追記でした(..)
[34]たけぽんさんからのコメント(2017年08月14日 14時48分18秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

林○氏ですが・・・

祖父は大正始辺りに生まれてます

曾祖父(祖父の父)は弥○です。

昨日、写真の整理をしてたら
曾祖父の唯一の写真が出てきました

家の墓の前で映ってたヤツなんですが
偶然にも?家紋が映ってました。
◇に∧です。

ミヤハラ様の所の林○氏との関係が
わかれば幸いですm(_ _)m

あと・・・
祖父は兄弟が沢山(10人位いたかな?)
いてて、うちが知ってるのは下の方の四人
だけです。

上の方の兄弟に、アメリカに行った方がいる
との話は聞いたことありますが、どなたか
名前まではわかりません(ノ_<。)

グループ分けですが・・・

わかりやすくまとめて頂き
ありがとうございます(^^)/

本当に、こうして拝見させて頂くと
親戚筋が似たり寄ったりが一目瞭然
ですね(・・;)

それと、ミヤハラ様の所の石川家とは
異なると思いますが・・・

平川家も、石川家と親戚関係
ありますよd(^-^)

祖母の亡妹さんが
石川に嫁いでいます(..)
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月16日 18時35分30秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
一昨日、昨日と「仏様まいり」で来客が多かったので、コメントが遅くなりまして
申し訳ありません(..)

林○家のお話を、沢山教えて下さって
本当にありがとうございます。

たけぽん様の祖父様が大正時代初頭にお生まれと言う事は
おそらく、曾祖父様は明治時代にお生まれと推測します。
と言う事は
林○家から祖母の実家の平川家に嫁いできた私の高祖母が江戸時代の文久元年(1861年)生まれなので
私の高祖母とたけぽん様の高祖父様が同年代くらいかな・・と。
すると・・私の高祖母の父である「林○安蔵」は
その前の代の人物であると言う事ですね。

※たけぽん様の曾祖父様には御兄弟が10人近くいらっしゃった
※アメリカに行かれた方がいらっしゃる
※お教え頂いた家紋

非常にありがたい情報を頂きました。
私の高祖母の実家の「林○家」の事は、多良木の親戚の平川家のおじや、私の叔父(父の弟)やおばが詳しいので聞いてみますね!

ちなみに(p_-)
多良木の平川家の隠居屋の平川家(先代の姉の家)にはこれまた、林○家から嫁いでこられています。
さらに(p_-)
その前の代では、別の林○家に、私の曾祖父の実家「久保田家」から嫁いでいかれています。
家の親戚関係となる「林○家」は実は数軒に渡るのですが
親戚の多良木の平川家のおじは
「家の一族と親戚関係にある林○家の数軒は其々が”林○家の一族”で親戚関係にある」
と言っていましたので、たけぽん様の林○家との繋がりが解ればすごく嬉しいので、しっかりと、親戚に確認しますね(^'^)

それから・・・
おそらく、私の叔父やおばの「家」はたけぽん様のお母様やおば様は御存じだと思いますよ(^'^)
球磨で最初に写真館を開いた「伊●写真館」です。
今は、店は閉めましたが、おそらく御存じだと思います。
「伊●」・・・私のスレッドを読んで頂いているので●の文字はお解りになられると思います(^'^)

所で・・・
お盆の間、親戚が沢山、家に仏様まいりに来て下さったのですが
一昨日は、伯父やおば、従弟二人と家族、そして、私の父のふた従弟である深水家のおじ夫婦と、とても賑わいました(^'^)

家に来られたおじは、深水家の教員をしていた長男の子供で、曾祖母の実家は農地が沢山あったので次男の方が継がれました。
ちなみに、以前、ブログに写真を載せた方の子供の方となります。
おじさんの横に移る綺麗な方が、五木から嫁いで来られたおばさんです。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12106070122.html

ナント!!
深水のおじから色々話を聞く事が出来ました!!
おじさんは
「五木(母の実家)は、平家やったんよ!」

やはりそうでした!(p_-)
五木のおばさんの御実家は、五木では今でも”旦那様方”と呼ばれる家で
五木の地頭家だったとは知っていたのですが
やはり「平家」の子孫となる家だったのです!

おじさんがこの話を言った時に私が「え〜っ!!やっぱり!?」と驚いた所・・
父も伯父も
「何か!当たり前タイ! お前知らんかったとか?! 親戚はみ〜んな知っとるとに!」
と・・・・・
トホホ(@_@。
知らなかったのは私だけのようです(@_@。
やっぱり、話は聞くものです(p_-)
そして、五木のおばさんの御実家は五家荘としっかりと繋がっていました(p_-)
やっぱりな!(p_-) と私は思いました(p_-)

さらに・・!!ここから先、深水家について驚くべき話を聞く事が出来ました!!
詳しくは、明日にでも書かせて頂きます!

最後に
私の曾祖母の実家のお堂の写真をブログにアップさせて頂きました(..)
「将軍地蔵様」の御写真もです(..)
曾祖母の実家のお堂は、あくまでも深水家の個人(家)の所有のお堂で
一族をお守り頂いている、お地蔵様 御神像 将軍地蔵様 他 先祖代々お祀りさせて頂いています。
よろしければ、たけぽん様、皆様、ご覧頂ければと思います(..)

ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12301993392.html

ブログにも書いたのですが・・
何故「将軍地蔵様」がお堂にお祀りされていらっしゃるのか・・・
私はまだ存じていません(..)

ただ
曾祖母の実家のお堂を勉強すると
感無量な気持ちになり、あらためて、先祖への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

では(..)
[36]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月16日 18時39分35秒 ) パスワード

追記

たけぽん様
〉平川家も、石川家と親戚関係
ありますよd(^-^)

家の場合は、「宮原家」と石川家が親戚関係にあります。

※江戸時代末期の平川家の母系(母方)は「宮原家」である。
※たけぽん様のおじい様は「中川家」から平川家に婿養子に入られていらっしゃる。
※家の(宮原)の親戚の「宮原家」には「中川家」から嫁いで来られている。

謎を解く鍵がここにあると思います(p_-)

では(^'^)
[38]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月20日 05時26分05秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

コメント32・33を読み返していたら、色々抜けがありまして
今朝、気が付いたのは「和田家」でした(..)
「和田家」数軒とは曾祖母の実家の深水家・祖母の実家の平川家・多良木の平川家と
家の「宮原家」が其々親戚関係にあります(..)
あと・・田原家(父のふた従兄の家)・杉下家(父の従姉の家)も書き忘れていました(..)・・・トホホ(@_@。

昭和の初めに深水家で写された写真にはコメント32・33で書いた親戚の「家々」や
「和田家」や「田原家」の方々も写っています(^'^)

ちなみに、和田家の方は、一番左端のスーツ姿の背の高い方です(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12106070122.html

和田家はグループで言うと・・・うん?
@橘姓グループ でしょうか・・?
追加します(p_-)

@橘姓グループ
「宮原家」(複数)(宮)もちろん(平)も(p_-)
「牛島家」(宮)・「中村家」(宮・平)・「矢野家」(宮・平)
「和田家」(複数) (宮・平そして深・・深は深水です(p_-))

追加した所で・・・早速、お盆に聞いた「ビックリ」した話を(p_-)

私は、全く知らなかったのですが、深水のおじさんは(実は、私普段は○○兄さんと呼んでいます。父より10歳程若いので(..))
昔から歴史が好きで、深水家の御先祖様の事もかなり調べていました。
(知らなかった・・・)
深水のおじさんのお父さんは(故人)、長年教員をされていらして、晩年には叙勲を受けられました。
私は普段「モイ●●ンのおじさん」と呼んでいました。
「モイ●●ンのおじさん」は個人的に球磨の歴史を色々調べていらっしゃったようで、この事も全く私は知りませんでした(..)
深水のおじさんはお父さんの影響で、子供の頃から歴史を勉強する事が大好きだったそうです。

だから、去年私が親戚・一族の先祖様を調べている事を知って「とても嬉しかった!(^'^)」と言ってくれました。(良かった(@_@。)

深水のおじさんと、私の父、伯父(父の弟)が焼酎を飲みながら楽しく会話している時に
其々から、ビックリ発言が次々と飛び出してきたのです\(◎o◎)/!

3人の会話、”ビックリ発言”を再現します(p_-)

皆、焼酎もすすみ(^'^)ほろ酔いかげんとなっていた、時間帯にこの会話が始まりました(..)
※私は焼酎は飲めませんのでシラフです(..)


深水のおじ
「五木(母の実家)は、平家やったんよ!」

私(゜-゜)
「え〜っ!!やっぱり!?」

父と叔父
「何か!当たり前タイ! お前知らんかったとか?! 親戚はみ〜んな知っとるとに!」

私(゜-゜)
「・・・・・やっぱりか・・・(心の声)」

深水のおじ
「家(深水家)は元は”源氏”だから、平家の末裔が源氏の家に嫁いできた」
「父と母は、先祖は敵同士よ。俺は源氏と平家の両方の血が流れとる。(^◇^)」

私\(◎o◎)/!
「なっ!ナンデスト!!今!ナント!深水家は元は”源氏”だったってどういう事〜〜〜!!深水家は”藤原氏(相良一族)”じゃナカトですか????」

深水のおじ
「元は源氏で、後で変わったって父から聞いとるよ」

私\(◎o◎)/!
「どう言う事〜!!!?」

深水のおじ
「元は源氏よ。ちゃんと聞いとるもん。先祖の名前でも解るタイ(^◇^)。藤原氏(相良氏族)深水を名乗っとるけど、元々”源氏”だった事を後世に残す為か 江戸時代の先祖の通称には”源”が付いとる」
「その後、明治以降も皆、名前には”源”が付いて、大正以降は”源”が”元”に変わった(^◇^)」

私(p_-)
「確かに・・天保元年(1830年)の深水家の御先祖様の名前は”深水源助”だ・・」
「次の代の御先祖様の通称は・・深水作右衛門・・」
「その後、明治以降は・・源一・源吾(兄弟)・・元●・元■(兄弟)・・ありゃ??」

深水のおじ
「五木の母方のほうも、皆、”平家から源氏の家に嫁いだ(^◇^)”って言いよった(言われて)たもん(^◇^)」

ここで・・

「俺も知らんかった!!深水家は元は源氏やったとな??!”ずっと藤原氏だった”と思っとった」
「だけど、○○ちゃん(深水のおじ)は、ちゃんと聞いとったとやね〜(聞いていたのだね)。関心するバイ」


続けて・・

「あっ!じゃあ〜あれタイ!みなみ(祖母の実家の平川家)は平家の末裔やっで(だから)、ばあちゃんは(深水家の娘)・・今度は源氏の末裔が平家の末裔に嫁いだ事になる!」

叔父
「うん!みなみ(祖母の実家の平川家)は平家の末裔じゃっで(だから)元を辿れば・・皆、敵同士タイ・・あはっは〜(^◇^)」

深水のおじ
「じゃっよ!(そうだよ)、みなみ(祖母の実家の平川家)は平家じゃっで(だから)そうなるタイ(^◇^)」


私(;一_一)
「やっぱり、父も叔父も、深水のおじも、皆、みなみ(祖母の実家の平川家)は平家の末裔と言ってる・・(心の声)」

そこで・・
私(p_-)
「その話!。曾曾じいちゃん(高祖父)が矢立家から養子に入ったからじゃないの? 元は椎葉村の出自になるし・・・」

父と叔父
「そりゃ解らん(?_?)」

深水のおじ
「えっ??椎葉村??本当な〜!俺の母方は五木で・みなみ(祖母の実家の平川家)は椎葉村に繋がってる!?」
「何かありそうタイな〜(?_?)・・(p_-)」


「椎葉村と言えば椎葉の●●にいちゃん(椎葉のおじの家)の所は平家やもんな!」

叔父と深水のおじ
「じゃったい!(そうだよ)椎葉家は平家やもんな!」

深水のおじ
「何かあるバイ(p_-)・・ばってん(しかし)親戚は昔は敵同士やったとたいね〜」

私、皆に向かって・・(p_-)
「ばってん(しかし)本姓が源氏でも敵同士やったとは限らんよ!」

皆・・「し〜〜ん」・・・

ここで、叔父が・・
「家は(宮原)は、平家方やったばってん、後で源氏に付いた」
と・・衝撃発言!

私\(◎o◎)/!
「叔父さん、何で知ってるの!!!?」

叔父
「ば〜か!そんぐらい、おどま(俺たちは※すなわち父も)こまか頃(子供の頃)から聞いて知っとる!」

私\(◎o◎)/!
「えええええええっ!!?」
と・・父をじっと見つめると・・・
父は目をそらしました・・・(;一_一)

しかし・・・
何故?み〜んな!焼酎を飲まないとこう言う話をしてくれないのだ〜っ!!!!
と・・思っていた所に・・

父・叔父・深水のおじが
「こげん話(このような話)はよそ(外)じゃ出来んもんな〜」
「うん!親戚同士じゃなからんば(なければ)出来ん!(ー_ー)!!」
「今は・・よそで(他人様に)こげん話(このような話)をすれば・・・」
「今頃なんば言いよるとか!バカじゃなかか〜!!って言われるけん。絶対によそじゃしちゃならん(してはダメ)」
「ソウタイ!(ー_ー)!!」
「時代が違うって言われる(;一_一)」と・・・・

なるほど・・・そう言う事ですね・・・・・(p_-)

ここで話が戻って(p_-)
父・叔父・深水のおじが
「俺達は何か、昔は敵同士で今は親戚・・ばかりの集まりタイな(^◇^)」
「あっはっは〜!!」

私(゜-゜)・・・みんな笑ってる(;一_一)・・・(心の声)

叔父が私に向かって
「おい!!今まで仲良〜くやってきたっじゃっで(来たのだから)、お前達の代以降も仲良〜くせんばんぞっ!!(しなきゃいけない)
親戚同士で”昔は敵じゃった”って喧嘩すんなよ!(喧嘩するなよ)」

何を今の時代に・・解ってますって!それにしてもかなり酔っていますね・・・(;一_一)

そこで私が
「椎葉のおじさんは、椎葉家・深水家・平川家・宮原家は姓は違っても”堅い絆の一族じゃ!”って言ってたもん!」

すると皆
「椎葉の●●兄さん(椎葉のおじ)はヨカ事ば言うね〜(^◇^)」
と。

叔父が私に
「ばってん(しかし)その堅い絆ってナンカ??」

私 「・・・・・?」

深水のおじ
「●●ちゃん(私)!調べんばんねっ!!(調べなきゃね!!)」

ハイ(..)

そうこうしながら、ふと思い出した事があって
私(p_-)が深水のおじに・・
「そう言えば、おじさんの名前は深水の御先祖様の名前(通称ではなく名前です)と同じでしょう?」
と聞くと

深水のおじ
「そうよ(^'^)、俺の名前は深水の先祖様の名前を貰った(継いだ)げなよ(^'^)(そうだよ)」
「俺の曾じいちゃんも、先祖の名前を継いで同じ名前!」
と(p_-)

そうです(p_-) 深水のおじさんは先祖の名前を継いでいるので「次男なのに長男のような名前」なのです。

ここで!!深水のおじが・・
「俺は次男でも先祖の名前を継いで”●一”だけど、兄(おじの兄・長男)はどうなるとかな??”公”が付くもんね・・・?」
「”公”の字と言えば・・みなみ(祖母の実家の平川家)も、長男の系は”公”が付く(補足・長男には”公”が付き、その長男の子供である”長男”にも”公”が付きます)
何か、親戚には長男に”公”・キンとかキミとか言う名前が多かな〜!(多いな〜)」

私・・・おやおや〜っ「コウ来たか(p_-)」(シャレじゃありません(ー_ー)!!)
と思い、語ろうとすると・・

所が・・ここで父が
「偶然じゃろ(^◇^)」と・・・話を中断してしまいました・・トホホ(..)

しかし(ー_ー)!!
この数時間後・・・この話が思わぬ方向へと進むのでした(p_-) 後ほど(..)

先祖の話の後は、何故か其々が持つ「不思議体験」「奇妙な体験」に移りました。
(家の親戚は皆、「不思議な能力?」があるようです(?_?))

色々話が盛り上がった所で、叔父・おばや従弟達家族が、帰りまして・・・
その後、深水のおじ夫婦と私達家族だけとなった所で・・・

先程書いた
〉この数時間後・・・この話が思わぬ方向へと進むのでした(p_-)
へと展開?して行くのですが

長くなりましたので次のコメントへ

続きます(p_-)

では(^'^)
[39]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月20日 08時30分28秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます(^'^)。

今朝は
コメント38からの続きを書かせて頂きます(..)。

早速 ”ビックリ会話”再現 の続きです(..)

叔父・おばや従弟達家族が、帰った後、深水のおじ夫婦と私達家族でしばらく話していた所
深水のおじが、
「ちょっと、酔ったかな(^’^)」と
と、話をしていたリビングから窓を開け放っていた和室へと・・・

すると・・しばらくして、もの凄い勢いで深水のおじがリビングへと戻ってくるなり
「何で!!なんでかな!!?家紋が家(深水家)と一緒!!?\(◎o◎)/!」
と。

私 「おじさん気が付きましたな(p_-)」

そうです。深水のおじは、和室の客間のボードにド〜ンと飾ってある、
額縁に入った、下に「宮原家」と名の入った『家紋』を見てめちゃめちゃ驚いたのであります(p_-)

深水のおじ
「深水家と家紋が同じバイ!!?」

私・・「おじさん知らなかったんだ・・(心の声)」

私(p_-)
「そうよ!おじさん!家の宮原家だけじゃナカですよ(ー_ー)!!」
「平川家も、椎葉家も同じ家紋ですよ!!」
「椎葉のおじさんにこの事を教えてもらった時に“家紋が一緒の理由は堅い絆の証”って言ったとデスよ!!」

深水のおじ
「堅い絆って・・家紋まで一緒にするような”絆”ってことタイ!!\(◎o◎)/!」
「こりゃ本当にナンカあるバイ!!」

でしょぅ!!おじさん!!
良かった・・やっと私の疑問に共感してくれる方が一人増えた〜(^◇^)
と私は心から喜んだのでした。

そこで!今だ!と思い(p_-)
ノートパソコンをすぐに起動し、まずは日本の苗字七千傑様の《伊予橘氏》姓氏類別大観を、深水のおじに見せると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201b1.htm#002

深水のおじは
「楠木氏と同族ね!?。ならば、ここは(宮原)は南朝方だったのかな?」
と(p_-)

う〜ん?そこは良く解りませんが・・
何せ、当時、球磨に居た「橘氏」は・・
久米の領主「橘遠江入道道公」は上村(久米郷西方)の領主「三池兵庫助」と共に「多良木経頼」(上相良氏当主)に同調して南朝方として活躍。
しかし・・
「橘佐渡公好」は足利尊氏の側近で、足利尊氏が九州に一旦逃れた時は、球磨から博多まで迎えに行かれてますし、さらに上洛の際の従者でもあり・・すなわち北朝方。
どっちだろう?
しかし・・うちの宮原家は南朝方を貫いた、上相良氏一族と縁戚関係で言えば後世まで繋がっているしな・・・??
どっちだろう?

それは一応、後々考えるとして(p_-)・・(心の声)

所がここで父が
「うん!ばってん(しかし)家は、久保田家から曾じいちゃんが養子に入ったから血は繋がってナカトばい(血は繋がってない)(-.-)」と・・・

私はここで思わず
「お父さん!血は繋がっていなくても、家は”宮原”の名を継いだんやろ!今日はお盆で宮原の御先祖様も帰って来られているんだから
お父さんがそう言う事を言うと、御先祖様が悲しまれるよ!」
と、父には申し訳ないのですが、思わず口応えをしてしまいました(@_@。

すると父は
「お前は・・普段は優しいのに怒ると怖い(@_@。 ばあちゃん(深水家から嫁いで来た)そっくり!じゃ!」
と。
トホホ・・(;一_一)

話を戻して(p_-)

続けて、深水のおじに
日本の苗字七千傑様の《小鹿島氏》 姓氏類別大観を見てもらうと・・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201d.htm

深水のおじは
「えっ?えええっ?名前に殆ど”公”(キン)の字が付いている・・・!!えええっ???」
と、めちゃくちゃ驚いたのです(p_-)
ここで・・(p_-)
普通、「公」の文字を見ても「キン」とすぐに読む人は少ないと思うのですが、さすがに深水のおじは、親戚の中に「公」を「キン」と読む”名前”の人がいるので、反応が違いました(p_-)

驚きながら深水のおじは
「宮原家の親戚で、椎葉の●●さん(椎葉のおじ)が堅い絆と呼ぶ、家の深水家と平川家に”公”の文字が付いている人が何人もいるって・・どう言う事だろう?・・!!」
と。

私が「そうでしょう!!?」と言うと
すかさず父が
「偶然よ(^'^)」と・・・マタマタ言ったのですが・・・

深水のおじは
「○○ちゃん!(父)何が偶然なものか!」
「偶然じゃなかよ(ー_ー)!!」(偶然じゃないよ)
と言いながら続けて

「だって・・家(深水家)の場合を考えてみてん!(考えてみて)。家の父は、先祖の歴史を調べていた!
その父が、俺には深水の先祖の”名前”を付けたとよ!
次男の俺にそう言う名前を付けた父が、長男の兄に”何の根拠も無い”名前を付けるはずは無い!(ー_ー)!!
何かあるから”公”の字の付く名前をつけたと思うよ!」
「みなみ(祖母の実家の平川家)も、同じと思うよ!」
と。

父は深水のおじの言葉を聞いて、初めて
「そう言えばそうやね・・? もしかしたら偶然じゃナカとかもしれんね(偶然じゃないのかもしれない・・?)」
と。

良かった!深水のおじさんの話は説得力がある!!良かった!(私の心の声)

ここで!!
私は、この機会に深水のおじさんに聞いてもらうしかない!と思い
続けて以下の話を始めました(p_-)


「おじさんの話を聞いて、私は、深水家(おじの深水家)は、元々は本姓”源氏”だった先祖様の某氏が、後世、藤原氏(相良一族)の深水氏の姓を継いだと考えたの」

深水のおじ
「うんうん(p_-)」

私(p_-)
「藤原氏(相良一族)の深水氏の中でも特に有名な人が深水長智。
この方は、亡くなる前に
藩内に敵が侵入して来ないように、自分が守る。墓は大口に向かって建てろ!と言われて亡くなって
その言葉通り、お墓は大口の方を向いて建立された。
不思議な事にこれ以降、大口方面から敵が侵入した事は一度もない」

深水のおじ
「そうか・・(p_-)」

私(p_-)
「その深水長智のお墓のすぐ横に建立されているお墓が
宮原城の最後の城主”宮原十兵衛”別名”犬童十兵衛”のお墓。
この方のお墓はここ(宮麓)の庭柏寺跡にも建立されていると(されているの)」


私(p_-)
「さらに、その横に建立されているお墓が”平河源兵衛”さんのお墓。
平河源兵衛さんは、
”願い事の一つ位はかなえてやる!”と言われて亡くなったので
今でも、沢山の人がお墓にお参りに来られていると(いるの)」

私(p_-)
「つまり・・時代は異なる人達だけど
深水長智・宮原十兵衛・平河源兵衛のお墓は並んで建立されていると!」


深水のおじ
「えっ!!? 深水氏・宮原氏・平河氏・・???えっ!!」
「何?家の親戚の”堅い絆の一族”と全く同じ?? えっ!!」

深水のおじ
「でっ!そのお墓は何処にあると?」

私が場所をおじに教えると・・

深水のおじ
「えっ!!!! そこ(お寺)には父のお墓がある・・」

そうなのです。亡くなった深水のおじの父であり、私が子供の頃から「モイ●●ンのおじさん」と呼んでいた優しいおじさんのお墓は
深水長智・宮原十兵衛・平河源兵衛のお墓がある「お寺」に建てられています。

深水のおじ
「俺は、父が生前、人吉のあの場所に墓を買った理由がよく解らんかった・・
単純な理由(詳しくは書けませんが(..))かと思っていた・・・」
「だけど・・もしかしたら・・単純な理由ではなく、もっと別の意味があったのかもしれん・・」
「父は何かを知っていたのかな?・・・・」
と。

確かに不思議な話で・・・
家の親戚で言う”堅い絆の一族”「宮原家」「深水家」「平川家」は家紋まで同じにする程?の堅い絆で結ばれているのは確かで
その”堅い絆の一族”と全く同じ姓の
深水長智・宮原十兵衛・平河源兵衛のお墓は並んで建立されている・・・

深水のおじは
「●●ちゃん(私)、俺は偶然じゃないと思うよ! きっと何かあると思う・・」
と。

私は、深水のおじさんに自分が今までずっと疑問だった事を話して、理解してもらった事がとても心強くなりました。


家の親戚”堅い絆の一族”が集まるこの旧宮原村宮麓地区は・・
古代は元祖的”久米氏”の本拠地であった久米郷の一部であり、古代久米氏の権利の象徴であり守護山であった
黒原山の麓に位置し・・・

平安時代初頭、大同元年(806年)には大神惟基が現在国宝となっている青井阿蘇神社と共に「中島霧島神社(中島大権現)」を建立された場所であり(御神託により)

平安時代末期には平頼盛公が中興された切畑大明神も鎮座していて・・
さらに
平景清公(藤原景清)姫のお墓も建立されていて・・
(お供の方のお墓も建立されています)
平景清公(藤原景清)の母君の方はお亡くなりになられた後、切畑大明神に御祭神として合祀されていらっしゃり

鎌倉時代中盤からは橘一族の支配下にあり・・
南北朝時代には激戦地でもあり・・

球磨・人吉を統一した相良長続が居城した「左近城」のすぐ近くでもあり・・

室町時代には宮原銀山が発見されて
相良藩の日明貿易の拠点であり・・・

相良氏第16代当主「相良義滋」の妻(豊永氏の娘)の方の菩提寺「庭柏寺」が建立された場所であり・・
「庭柏寺」は・・相良氏の第17代当主「相良 晴広」の次男「相良 頼貞」が住職を務めたお寺であり・・
後に「相良 頼貞」、この方は寺を出て謀反を起こされています。
この話には深水長智。この方も関わっています・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E8%B2%9E


江戸時代初頭の相良家筆頭家老「相良清兵衛」こと「犬童頼兄」が居城して治めた「岡本」(岡麓地区)とはお隣同士のすぐ近くにあり・・・

明治初頭の西南戦争の時は
官軍の拠点となった「黒原山」・「宮原城跡」を奪回する為に攻めてきた薩軍。
「黒原山を奪回せよ!」との指令の元に激戦が繰り広げられたそうです・・・

他にもまだまだ書いていない事が沢山ありますが
今、自分が住むこの旧宮原村宮麓地区はとても穏やかな美しい景色が広がる集落ですが
ここで起こっていた歴史を書き出してみると
決して穏やかな歴史だったとは到底思えず・・
激動の相良700年、いえ、そのずっと前、古代から・・激動の歴史が刻まれている場所なんだと
あらためて、感じました(..)

そして・・この場所で
家の親戚は堅い絆により結ばれてきた・・と言う事です・・・

お盆に聞いた「ビックリ発言」をコメント37・38と続けて書きましたが
私の先祖調査をあらためて見直すとても良い機会だったと思います。

これも御先祖様のお導きだと感じ
心から感謝しています。

では(^'^)
[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月22日 10時43分17秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

コメント遅くなりまして申し訳ありません(@_@。

昨日、たけぽん様のコメントを拝見して、多良木の親戚に電話をかけまくったのですが・・・
皆、留守で、夕方にあらためて電話をかけ、たけぽん様に報告を(p_-)
と思い待機?していた所に、『御先祖様は本姓 大神氏』の星原のおじさんが遊びに来られて
結局、昨日は電話での情報を得る事が出来ませんでした(..)
今朝も電話したのですが留守なので(皆、仕事等で外出中のようです)夜にでも、あらためて電話してみよう(^O^)/と思います。
何か解ると嬉しいです(^'^)

家の方に話を聞く人がいる事に関して
〉なんとも 羨ましい限りです(ノ_<。)

そうですね・・・ありがたい事だと思います(..)
昨日、遊びに来られた星原のおじさんも、最近はよく家に来られています。
昨日も色々話して帰られました。

深水のおじが
「椎葉の●●さん(椎葉のおじ)がここ(家)に来て、●●ちゃん(私)と先祖や歴史について話すのがとても楽しい(^'^)と言われていたよ!」
「俺も、ここで話すのが楽しくなった(^'^)」
と言ってくれてました(..)

今まで、何人もの親戚に話を聞いてきましたが
私が思うに・・・
家の親戚は、おそらく其々、がずっと「疑問」をかかえていたのでは?と・・・
「疑問」というのは大げさですが、きっと
「自分が子供の頃聞いていた事は、いったい”どういう事”だったのだろう?」という興味でしょうか・・・

その、今まで持って来られた”感情”が
突然、球磨に戻ってきて、「親戚一族の先祖調査」をはじめた、私の行動に
一気に目覚めたのでは(p_-)
と思います(p_-)・・・・(^◇^)

最初は・・
親戚に色々話を聞く事を少しためらってはいたのです・・・
何せ、球磨の人達は「保守的」だと言われていますから
「何をいまさら・・・」と言われるのではないのか?と・・・
でも違いました(ー_ー)!!・・(^◇^)

親戚の人達は皆、「楽しい!」とか「もっと調べんばねっ(調べなきゃね!)」とか
応援の言葉をかけてくれます(^'^)
本当にありがたい事です(..)・・(@_@。

きっと、たけぽん様の御親戚の方々も、同じなのではないでしょうか・・・
たけぽん様が御先祖様の事を調べている事をお喜びになられると思います(^'^)

本当の事を言うと・・
私は、今までの自分の生き方を思い返すと、(学生の時は問題ばかり起こして反抗的だったし・・球磨を離れて好き勝手に生きてきた)
親戚の中では異端児のような存在だと思われているのでは・・と
思い込んでいたので、
今は本当に楽しいです(^'^)
私は、親戚の人達、み〜んな大好きです(^'^)
親戚だけではなく、私は、球磨・人吉が大好きだ〜っ!!!!! です(^'^)

だから・・「昔は敵同士だった(;一_一)」と喧嘩なんて絶対にしませ〜ん!!
(^◇^)・・・あはっ。

たけぽん様
御一緒に先祖様の歴史「解き明かしましょう!!」
がんばりましょうね(^'^)

今日は、夕方、あらためて親戚に連絡してみます(p_-)・・(^O^)/

所で・・
私、家の宮原家についてと、他にも気が付いた事があります(p_-)
何だか、急展開しています(p_-)

詳しくは次のコメントで(p_-)

では(..)・・(^'^)
[42]たけぽんさんからのコメント(2017年08月22日 14時16分11秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

米40は、超個人情報の為
削除させて頂きましたm(_ _)m

ミヤハラ様
うちは、県外で産まれ育ち
こちら(人吉球磨)の親戚は
殆どと言って良いほど
知りません(ノ_<。)

須恵の家にも1度行っただけ。

他の親戚と言っても
祖母の妹二人と
祖父の姉弟妹三人と合っただけ。

しかも、ほぼ県外に住んでらしてるので
話もほぼ聞けず(ノ_<。)

なので、こちらの親戚関係は
ほぼわからずと言った具合い(>_<)

叔母(母の姉)が辛うじて
こちらの親戚を知ってはいる
みたいですが、祖母の様にはいかず(..)

なので、とてもミヤハラ様が
羨ましい限りです(^-^)

そうですね

頑張って御先祖様の歴史
解き明かしたいですねd(^-^)

人それぞれ生きてきた道は
色々ありますでしょうが
全てが無駄ではないと
うちは思ってますので
これからも御先祖様探し
うちはあまりお役にたたないとは
思いますが、これからも
宜しくお願い致しますm(_ _)m

・・・っと、また何やら
話が進む様子ですね(^-^)

色々と御先祖様のお話聞かせて頂いて
いつも感謝しています(^-^)
[44]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月24日 11時53分43秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様、お返事遅くなりまして、本当に申し訳ありません(@_@。
コメント41を書いたあと、来客がありまして(家は毎日のように誰か来られます(゜-゜))
昨日は朝から夜まで外出していました。
すみませんでした(@_@。

父にたけぽん様から伺ったお話をすると
「多良木の林●家の親戚関係に一番詳しいのは平川の●●おじさんだから、
おじさんに聞くのが一番良い」
と言われたので
一昨日(22日)、親戚の多良木の平川家に電話したのですが、あいにくおじが留守で、電話に出たおばさんは
「自分は多良木出身ではないので、あまり詳しくは解らないけど、おじさんは色々先代のじいちゃんや、ばあちゃん(私の祖母の妹)に聞いているから、何か解ると思うよ(^'^)」
と言っていました。
日曜日はおじは家にいるようですので、色々聞いてみようと思っています(^O^)/

たけぽん様、もうしばらくお待ち下さいね(..)

〉人それぞれ生きてきた道は 色々ありますでしょうが 全てが無駄ではない

ありがたいお言葉を頂きました(@_@。
たけぽん様のお言葉、しっかりと胸に刻みました。

私は、今、思うに・・・
自分は、きっと、このように、家や親戚一族の先祖様の歴史を調べる事が
何だろう・・役割だったのかもしれない・・
と考えています。

たけぽん様も、同じ「役割」をお持ちだったのだと思います(..)
御親戚の方々が遠くにいらっしゃっても
微力ですが、私が近くにいるではありませんか(^'^)
(勝手な事を言ってすみません)

私達がこのスレッドを介して出会う事が出来たのは
御先祖様のお導きだと私は考えています。
力を合わせて前へ進みましょう(^O^)/ 

私が、親戚から聞いた事など、何らかの形でたけぽん様のお役に立てれば嬉しいな〜(^◇^)といつも考えています(^'^)

何せ、私達は共通の親戚の「家」も含め、親戚の姓、繋がりが非常に良く似ていますから(^'^)

所で・・・ にやっ(-.-)
もしかしたら・・・たけぽん様も・・私と同じように「おっちょこちょい」ではありませんか?(p_-)
(失礼な事を言ってすみません<m(__)m>)

私が言う「おっちょこちょい」とは
『ひょうきん』・・すなわち、周りを笑わせる『面白い』と言う部分が含まれます(-.-)・・(^◇^)

実は・・・家の親戚に共通な部分です(p_-)
それも・・祖母の実家の平川家繋がりの親戚が圧倒的に多い はっ\(◎o◎)/!・・(^◇^)

球磨に帰ってきて「確信」(p_-) しました(-.-)

私のふた従兄達(平川家繋がり 平川家・椎葉家他多数の家)は、殆どが、めちゃくちゃお堅い仕事についていて
さらに皆、背が高く(筋肉質の)、「鼻がすごく高く」、ぱっ!と見ると
決して、面白い事を言うような人には見えません。(ー_ー)!!
(ハーフに見えるような”イケメン”さんが多いです(p_-)。補足・・私の丸い鼻は日向方面の母方の祖母からの遺伝のようです(p_-))

しかし(ー_ー)!! 実は・・・・見た目とは全く違って・・
ふた従兄達は殆どが私と同じく「おっちょこちょい」(ひょうきんもの)だ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

特に”焼酎”を飲むと「豹変?」します(p_-)・・(^◇^)

実は・・
先々月は・・椎葉家(椎葉のおじの家)で、ふた従兄(椎葉のおじの兄の子)も含めた親戚家族でバーベキューをしたり
※補足・・ふた従兄(椎葉のおじの兄の子)は、祖母は平川家から養女に入った私の祖母の姉で・・さらに、母は同じく平川家の娘で
祖母の実家の「平川家」の血がめちゃくちゃ濃い”人物”です(p_-)

今月上旬には・・家の宮原家で平川のふた従兄夫婦(●●にいちゃんと○○姉さん)と
二家族で、一緒に食事会(ちょっと大げさかな(^'^))をして皆で焼酎を飲んだり・・
(私は焼酎は飲めないので殆どシラフです。甘いチュウハイなら少しは飲めますが・・)

等、実は
私はふた従兄の「兄ちゃん」達と、集まって「ワイワイ」しているのですが(^'^)

皆、見た目とは全く違って(ー_ー)!!
めちゃくちゃ「面白い!!」です(^◇^)
笑いの”ツボ”が私と全く同じで皆でお腹を抱えて大笑いしています。

平川のふた従兄の●●にいちゃんは、
少しお酒が入るだけで、すぐに尋常じゃないくらいに「真赤」になる普段は色白の私の主人に向かって
「ありゃ(?_?)・・家の中ではすぐに日焼けしなるバイな〜(p_-) (家の中ではすぐに日焼けするみたいデスな(p_-))」
と真顔で言ってみたり・・

とにかく「ひょうきん発言」の連発で
主人は「平川の●●兄さんと○さん(私)は、ソックリだね!(^−^)」
と言っていました(p_-)・・(^◇^)

椎葉家でのバーベキューの際の話です(p_-)
近々行われる「結婚式」の主人公である新郎新婦も参加する親戚のバーベキューパーティーだったのですが・・・

私が
「家の父さんは宮原家に伝わる”兜”を被って参加するよ!(゜-゜) 伝統やもん!(伝統だから)」
と言うと
椎葉のふた従兄(椎葉のおじの兄の子)は
「ありゃ(?_?) 俺も家にある”兜”を被って、甲冑を付けて(本当にあります(p_-))参加するつもりやったバッテン一緒タイ!」

さらに・・椎葉のおじの子であるふた従兄が
「俺は弓を担いで参加する伝統ば(を)するタイ(p_-)」

刀や槍はだいが(誰が)するか〜???

と・・・皆、わざと「真顔」で言うので

ここで、私の「父」が
「家の兜は刀掛やけん!被れんぞ!」と・・・

そこで私が
「解った!!私が大きな色紙で皆の兜を作るケン!!それを皆で被って!」
と。

すると・・
椎葉のふた従兄(椎葉のおじの兄の子)が
「●●!(私)よかや!!(いいか!)兜の真中には其々の家の頭文字を書いとかんばいかんとぞ!」
(其々の家の頭文字を書かなければいけない!)
「例えば家は○の中に”椎”と書け!後は○に”宮”と・・・」
と言うと

新郎が
「お願いだから、その格好で来るのは止めて下さい(@_@。」と。

所がここから、さらに皆が・・
「バカたん!!主役のお前は、必ず甲冑と兜を付けんばんとぞ!!(付けなきゃいけないんだぞ!)」
「先祖からの伝統ぞ!!」

新郎は
「知らんかった〜衣装はもう決めたのに・・(@_@。」と・・

そこで皆で「ウソたい!!」(^◇^) あっはっは〜
と。

さらに新郎に
一番盛り上がっていた椎葉のふた従兄(椎葉のおじの兄の子)が
「あああ〜っ!!恐ろしか〜!!こげん(こんな)事ばかり言う親戚が一同に集まる結婚式!」
「どうなる事か俺は想像するだけで恐ろしか〜っ!!」
と・・・

新郎新婦は「大笑い」していました・・・

と・・こんな具合が「平川家繋がりの」ふた従兄の”兄ちゃん”達です。
(何度も言いますが(p_-) 皆、其々、お堅い仕事をしています(-.-))

所が・・・
この「おっちょこちょい」「ひょうきん」は、その前の代も全く同じで・・

一例(p_-)
椎葉のおじのお兄さんが亡くなったお通夜の晩の出来事です。
不謹慎ですが<m(__)m> でも、亡くなった椎葉のおじの兄さんは、明るいのが一番!楽しくするのが一番!と言われていた方なので、この話はおじさんは逆に喜んでいらしたと思いますから書きます(..)

椎葉のおじのお兄さんは、祖母の実家の平川家繋がりの父の従兄弟達の長老で
お通夜には、従兄弟衆、皆、集まって一夜を過ごしました。

その夜、兄を亡くした椎葉のおじは、
「兄は皆が笑っているのが一番好きだったから、しんみりとしないでね」
と言っていたそうですが・・
やはり、兄を亡くした心労と、高齢であり、若干の糖尿病もあるおじが
突然、両足がひどく攣って(つって)しまい
畳の上で転がりながら「痛い!痛い!」と。

そこで、父をはじめ、10人以上の「従兄弟衆」は椎葉のおじの両側に座り
皆で一生懸命「足」をさすってあげて
「兄ちゃん(椎葉のおじ)まで、どうかなったら俺達は悲しかよ〜!!(@_@。」
と、焼酎もかなり入ってこともあり、皆で男泣きしながら
「足」をさすっていたそうです。

椎葉のおじは、痛がりながらも
「俺は大丈夫やけん!!皆、ありがとうな〜」とやはり男泣き。

そうこうしている時に
ふと、私の父が気が付いたそうです・・
「うん?足が一本多い・・????」

皆でさすっていた「足」はいつの間にか3本となっていて・・
「従兄弟衆」は泣きながら「3本」の足をさすっていた・・・・

父がよく見ると・・(p_-)
椎葉のおじの足の横に・・叔父(父の弟)が自分の足を置いて
「兄ちゃん!!大丈夫な〜!!」
と言いながら、自分の足も皆にさすってもらっていた!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

「おっお前!!ナンバしよるとか!!〜(何をやってるんだっ!!)」
と父が叔父に言った事により
初めて「従兄弟衆」は、自分達が椎葉のおじの足+もう一本の叔父(父の弟)の足を
一生懸命さすっていた事に気が付いて・・・
ええええっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
と・・・

そこから、皆、不謹慎かと我慢していたけど、どうしようもなくなって・・大笑いとなったそうなのですが・・

そこで、椎葉のおじが
「ヨカと!笑って、兄は、親戚で集まって笑い合うのが一番好きやった(好きだった)」
「通夜で皆にしんみりされるより、笑ってくれてた方が兄は喜こんどるよ!(喜んでいるよ)」
「その辺りで、一緒に笑っとるごたる気がする(笑っているような気がする)」
と・・・・

数例?あげましたが・・
これが、私の大好きな親戚の方々です(^'^)

最初にも書きましたが(p_-)
私の『おっちょこちょい』は・・きっと『遺伝』です・・(p_-)
(^◇^)

たけぽん様
今日のコメントは何の参考にもならなかった(ー_ー)!!と思いますが
(;一_一)・・・<m(__)m>

もしや、我ら一族と共通する「何か」があるのでは(p_-)・・(^◇^)
と思い書かせて頂きました(^'^)

しょうもないコメントですみませんでした(..)

では(^'^)
[45]たけぽんさんからのコメント(2017年08月24日 20時12分47秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

年配の方は、九電前の家の・・・
と、申せば大体おわかりになる
・・・と言うか、もうお分かりだと
思いますがf(^^;

ミヤハラ様に、何から何まで
甘えてしまっているようで申し訳なく
思っておりますが・・・
宜しくお願い致しますm(_ _)m

何か生意気な発言で
申し訳ありません(>_<)

ですが、うちもそれなりに
色々ありました。

ですが、どれも後々役に立つ
事も色々あったので
経験は無駄にはならないのかな?と
思っておりますd(^-^)

ミヤハラ様にそう言って頂き
改めて有り難く思っております

こちらの方こそ
宜しくお願い致しますm(_ _)m

「おっちょこちょい」・・・

確かに、祖母も楽しい人でしたね(笑)
ついでにいえば
祖母の祖母も楽しい人だった
みたいですよ(*^^*)

母とうちは大阪にいてたからと言う事も
あるとは思いますが・・・

お笑い担当的な事はしてるかな?f(^^;
(自分たちの中では普通な事
なんでずがf(^^;)

ですが、うちらのお笑い担当的な事は
ミヤハラ様の所に比べると
まだまだかも(・・;)
[46]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月25日 23時16分26秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(^'^)

たけぽん様の祖母様、高祖母様も楽しい御方だったのですね(^'^)
コメントを拝見して、とても嬉しくなりました(^'^)
たけぽん様のお優しい心、ユーモアのセンス
やはり、御ばあ様方からの遺伝ですね(^'^)

所で・・
たけぽん様、皆様

コメント41に書くのを忘れていたのですが・・・
お盆に親戚が集まったあの日
皆が帰られて、お酒に全く弱い主人は早くにダウンして・・
片づけは父が手伝ってくれました(^'^)
後片付けが終わって、椅子に座ると、父が
「お父さんは、本当はお前が御先祖様の事を調べてくれる事が嬉しいとよ・・」
とポツリと言ってくれました(^'^)
普段、親戚の人が「私と歴史の話をするのが楽しい」と言われると、必ず決まって
「何が楽しいもんか(ー_ー)!!毎日毎日、朝、起きてすぐに”お父さん実はね!!”とか言って歴史の話を聞かされる身になってみてん!もう勘弁してくれ!!お前一人で調べとけ!!っと俺は言いたい!」
と言っている父が
「本当は嬉しい」と言ってくれて・・私は嬉しくて涙が出そうになりました(@_@。

もっともっと毎日話そう!!(^O^)/
じゃなくて(ー_ー)!!
父には読書とか趣味があるのですから、これからは父の時間は大切にします(..)


今日は色々考えたのですが、(最近の進捗等をかこうかな・・と) でも・・やはり
先日、遊びに来た時に聞いた椎葉のおじの話が気になって仕方なくて・・

唐突かもしれませんが
おそらく・・皆様は家の親戚の”堅い絆”について『不思議だ』とお考えになられているのではないでしょうか・・・
きっと、それは・・・
『椎葉家』と家の宮原家の絆の事だと思います。
椎葉のおじの椎葉家には平家一門の方々をお守りする 『守り観音様』が代々引き継がれて大事にお守りされています。
さらに椎葉家では壇ノ浦から逃れて来られて此の地でお亡くなりになられた方々の御霊を石塔を建ててお祀りされています。

宮原の一族の先祖の話が、平家物語に記されている事は皆様はすでに御存じの事だと思います・・・。


私も、実の所を言うと
椎葉家だけではなく、家の宮原家の親戚には那須家も多数あり、さらに祖母の祖父は椎葉村を出自とする矢立家から養子に入っていて・・・
その中でも親戚の椎葉家との堅い絆については・・不思議だと考えてきました。

しかし・・・
先日、椎葉のおじから初めて聞いた話から
この「絆」が本当に堅い絆である事を心から確信しました。

詳しくは明日書くつもりですが
私の・・宮原の祖父は、椎葉家の存続を心から願い、椎葉のおじを守っていました・・・
椎葉家を守る為に『ある行動』をしていました・・・

明日は地元の歴史研究会の例会に出席しますので、コメントは遅くなるかもしれません。
でも、この『話』はどうしても書いておかなければいけないと感じています。

では。
[47]たけぽんさんからのコメント(2017年08月26日 10時08分15秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
御父様は照れ屋さん
なんですね(〃艸〃)ウフッ

何やら大事なお話の様ですね(・・;)

ところで

ミヤハラ様は多分、もうご存じかとは
思いますが・・・

ミヤハラ様方の平河の家系図の
始めの方にある<良岑宗貞>と
言う方・・・

今日、お寺へお参りに行ったら
タマタマお坊さんがおられたので
何気なく<宗貞>さんの事を
お聞きしましたところ・・・

〈この方は、凄い(偉い)お坊さんだったんだよ〉

と、教えて下さいました(゜Д゜)!!

朝のお忙しいお時間だったので
簡単ではありますが
少しお話を聞いた限りでは

当時(宗貞さんの時代)は真言宗が
一番良い宗教であったらしく
その真言宗のなかで物凄く
偉い方みたいですね( ̄□ ̄;)!!

そう言われても、うちはなんだか
ピンとこなくて
「はぁ・・・そうなんですか・・・」
と、言うのがやっとでした(・・;)

お坊さんからは、凄い方が
御先祖におられるのは素晴らしい事
ですね(^-^)
御先祖に習って、御回向もしっかり
していかなくては・・・ですね(^-^)

・・・と、妙なプレッシャー?を
頂いて来ました(ノ_<。)(苦笑)

うちの亡祖母も、墓参りや御回向の事は
事あるごとにさせて頂いてたみたいです

うちの母も、うちの父(夫)の実家や
亡祖母(母の実家)の家に帰ると
先ず御仏壇の前に行き手を合わせてから
各自自由行動でした(・・;)

ミヤハラ様の所も御先祖様を
大事になされてるみたいですし
御回向も勿論大事にされてる
みたいですし・・・

やはり、御先祖様からの教え?等は
自然と?受け継がれてる様な気になるのは
うちだけなのでしょうか?(..)

・・・と、今朝、ちょっと
自分的にびっくらこいた話が
あったので、とりあえず米をさせて
頂きましたm(_ _)m
[48]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月26日 15時48分28秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

先程、帰宅しました。
今日の求麻郷土研究会の例会も、大変勉強になり
有意義な時間を過ごして参りました(^'^)

所で
たけぽん様
私がブログにアップしている「平河氏系図」は、こちらのコメントには以前書いていたのですが(ブログをアップした際)
うちという事では無く、平河氏に関連した「山江村誌 歴史編」に記されていた系図をワードで加工したものです。

すなわち・・・
母系は宮原家だ!と言うのは・・おそらく球磨における現代の平川氏数軒に関連する事となります(p_-)
もちろん!たけぽん様の御祖母様の御実家にも繋がる話です(p_-)・・(^'^)

私も、家の親戚も、皆、何処の家に遊びに行くと、まず、仏様にお参りして
それから『自由行動』です(^'^)
たけぽん様のお話を伺って、一緒だな〜と思いました(^'^)

と言うか・・この事は当たり前の事だと言う風に育ってきました(^'^)
たけぽん様も同じですね(^'^)

一族、皆、同じ教えをしっかりと、自然に受け継いできているのですね(^'^)

祖母の実家の平川家では、もう一つ、必ず行う風習がありました(p_-)
それはですね・・・・

家に上がるときは、必ず、玄関の式台の前(下)にある靴を脱ぐ石の横で足を洗って家にあがる!
と言う事でした(-.-)

祖母の実家は、今は建て替えられていますが、私が子供の頃は、武家屋敷の作りで、玄関が二つ。(勝手口は別です)
二つの玄関のうち、一つは、よほどの事が無い限り、使わない玄関で、もう一つの玄関で、足を洗って家にあがってました(-.-)
意味はよく解らないのですが・・子供心に、みなみのじいちゃん(祖母の兄)は
よほど、綺麗好きなのかな・・・と思っていました(-.-)
めんどくさかった・・(-.-)のをよ〜く憶えています(-.-)
でも(ー_ー)!!
今、思い出すと何かの風習だったのかもしれません(;一_一)
何の風習?かは、解りません・・・(-.-)

しかし・・祖母に聞くと
「昔は家(宮原の昔の家)も、どこの家も同じようにしていたとヨ(^'^)」と言うので、昔の人は綺麗好きだったのかな・・・?
良かった(^'^) 今の時代で(^'^)
でも、みなみ(祖母の実家)は面倒な事を続けているな〜
と子供心に思っていました(-.-)

所で良峯宗貞(遍昭) この方はウィキに記載がありますね!
良峯宗貞(遍昭)。この方の、出家前の奥様が「宮原の娘なり〜」の方だったのですよ!!!!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8D%E6%98%AD

しかし・・・偶然か(;一_一)
平河氏にはいつでも、何処かの「宮原氏」が必ず「くっついて」いらっしゃいますね〜(-.-)・・・(p_-)

何故でしょう〜な〜(?_?)・・・・(p_-)


昨日、書いた「祖父の行動」については次のコメントででも書かせて頂きます。
お日様の下で、朝から行動したので、すこし、涼みますね(^'^)

では(^'^)
[50]たけぽんさんからのコメント(2017年08月28日 15時50分48秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
お返事遅くなりすいません(>_<)

研究会、有意義な時間が過ごせて
良かったですね(^-^)

家系図
そうだったんですね(..)

自由行動・・・
ミヤハラ様の所も
一緒だったとはf(^^;

良貞公
びっくらこいた(゜Д゜)!!
それは貴重な情報
ありがとうございます(^^)/

それから、祖母の件

駅の近くの三○です(^-^)

和○おば様にお聞き頂ければ
一発かとf(^^;

そう言えば・・・

牛島とか迫田とかの名前は
祖母が口にしてたような・..(..)

ただ、牛島と浜○が川を挟んで
隣とは、初めて知りました(・・;)

お役に立てたみたいで
嬉しいです(〃∇〃)

こちらこそ、ミヤハラ様に頼ってばかりで
すいません(>_<)

お気になさらずd(^-^)
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月30日 13時57分03秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

たけぽん様
個人情報の入ったコメント49は削除致しました。<m(__)m>

※駅の近くの・・・・

椎葉のおじに伝えておきますね(^'^)

どうも・・家の多良木の親戚は「牛島」での関わりが大きいようです(p_-)

ちなみに、「牛島」の地名は多良木だけでなく「湯前町」にもあります(p_-)

ここにも、実は親戚があるのですよね・・・むむっ(p_-)
何だろうかな〜・・・・

たけぽん様、皆様。

姓で言う所の「牛島氏」は「宮原の一族」と同族です。
日本の苗字七千傑様の《小鹿島氏》 姓氏類別大観を拝見すれば一目瞭然で
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201d.htm#000

さらに《渋江氏/牛島氏/中村氏/中橋氏》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201d.htm#004
(ちなみに・・家の親戚には「中村氏」もあれば「牛島氏」もあります。)

肥前に栄た
渋江氏の祖「渋江公村」の弟が「牛島公茂」。牛島氏の祖です。
《渋江氏/牛島氏/中村氏/中橋氏》 姓氏類別大観をご覧頂くと

「渋江公村」の子に「公多」という方がいらっしゃいますが
服部英雄氏著「景観にさぐる中世」に記されている
「橘薩摩氏系図」によると
「渋江公村」の孫にあたる「渋江公経(公頼)」の子となる方に「公多」と言う方がいらっしゃるので
時間軸から推測すると
この方が
橘薩摩公多譲状の「橘公多」となるのではと考えています。
橘薩摩公多所領譲状の内容は
肥後国久米郷東方分宮原・豊前国副田庄の内、大屋敷並に地頭職を左衛門が処に譲与する・・
です。

久米の領主「橘遠江入道道公」は南朝方として活躍して、その後、領地の大部分が相良氏一族に移ったのですが
橘薩摩公多所領譲状より、橘氏が失った領地の中で、「宮原」だけは
回復したもよう・・と歴史学者の方々は分析されています。

地頭職を譲られた「左衛門」が誰だったのか未だ不明ですし
さらに「橘公多」の後裔は系図では解らないのですが
球磨久米郷の「宮原村」に繋がる「橘氏」としてはその後
一授契状神水案文(祢寝文書)※南九州国人一揆
の中に
『宮原 橘公冬』の署名があり
球磨郡久米郷宮原の当時の領主が「橘公冬」であった事が解ります。

『橘薩摩公多譲状』も南九州国人一揆に関わる『一授契状神水案文(祢寝文書)』も
実は、今、ネットでご覧いただけます!!

奈良文化財研究所様の サイト 全国遺跡報告総覧 の中で
「奥野城跡」をダウンロードして頂ければ
『橘薩摩公多譲状』『一授契状神水案文(祢寝文書)』以外にも
『相良定頼井一族等所領注文』他、多数の資料をご覧頂けます!!

ただし資料集はダウンロードファイルのページを一番下までスクロールして
下から上へと逆順で見て頂かなければいけませんが

『橘薩摩公多譲状』『一授契状神水案文(祢寝文書)』
『相良定頼井一族等所領注文』等は
ページ番号「18」から記されています。
『一授契状神水案文(祢寝文書)』には「平河氏」の名前も見えます!

奈良文化財研究所様の サイト 全国遺跡報告総覧
「奥野城跡」ダウンロード可能ページです。
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16385



あの・・・・今、偶然見つけてしまいました!!!!!
資料のページをコメントを書きながら見ていると
ページ番号「21」
犬童三郎二郎知行坪付 の中に
『木佐木左馬殿跡』という記述が!!!

木佐木氏は何処かで見ましたよ(p_-)
何処で見たかは後で確認するとして・・・・

それに橘薩摩一族には「木崎氏」もあります(p_-)

奥野村は私の住む集落のすぐお隣です。

家の親戚には「中村氏」もあれば「牛島氏」もあります。(p_-)

おそらく・・・
球磨と肥前の橘氏は、ず〜っと後世まで繋がっていたのではないのでしょうか・・・

今まで地名「牛島」を調べた事が無かったのですが
どうも・・・家の親戚一族は地名「牛島」に繋がりが深いようなので、今後の調査課題の一つにしようと思います。

『宮原 橘公冬』
「公冬」の「冬」の字も大変気になる所で・・
足利直冬・・この方に何か繋がっているのでは・・?と

ウィキより 足利直冬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%AC

波乱万丈の人生をお送りになられたようですが
気になる所だけを部分的にコピーさせて頂きます(..)

足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。
室町幕府将軍・足利尊氏の落胤[註 1]。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、消息不明となった。

父は足利尊氏。母は側室の越前局で、生年は嘉暦2年(1327年)とする『足利将軍家系図』の説が最も根強いとされる[1]。
直冬の母である越前局に関しては『太平記』に「古ヘ将軍ノ忍テ一夜通ヒ給タリシ越前ノ局ト申ス女房ノ腹ニ出来タリシ人トテ」とあるのが唯一のものである[2]。つまり若い頃の尊氏が越前局という出自の分からない女性の所へ忍び通って生ませた子であるとされる[2]。幼名は新熊野(いまくまの)と号した[3]。

この頃、室町幕府では将軍・尊氏とともに二元政治を行っていた直義と、各地で軍事的功績のあった執事の高師直らとの対立が生じ、やがて内紛に発展して観応の擾乱に至る。8月に師直のクーデターで直義が失脚し、直冬は上洛しようとするが、播磨の赤松則村(円心)に阻止された[18]。

直冬は備後国の鞆津に留まり、周辺の武士に恩賞を与えて人心の掌握を図り、勢力の定着を図った[17]。備後は長門探題の管轄であるが本国は長門であり、この地に留まる事は明らかな命令違反で[19]、直冬はさらに中国地方において軍勢を催促するなどの態度を取ったため[18]、尊氏は直冬討伐令を下した[20]。
9月13日に直冬は鞆津で師直の命令を受けた杉原又三郎ら200余騎に襲撃され、磯部左近将監や河尻幸俊らの助けを受けて海上から九州へ逃れた

同月、肥後国河尻津(熊本県熊本市)から九州に上陸し[21]、足利将軍家の権威を利用して国人勢力や阿蘇氏に所領を安堵するなどして足場を築いた[22]。

直冬の九州落ちを知った幕府は直冬に出家と上洛を命じるが[23]、直冬がこれに従わないと見るや再び討伐令を下した[24]。当時、九州には征西将軍宮・懐良親王を擁する南朝方の菊池氏や足利方の九州探題で博多を本拠とした一色範氏(道猷)、大宰府の少弐頼尚らの勢力が鼎立していたが、直冬は、尊氏より直冬の討伐命令を受けた一色氏らと戦い、懐良親王の征西府と協調路線を取り大宰府攻略を目指した。

当初、少弐頼尚は一色氏と協調して直冬と戦っていたが、直冬の勢力が拡大すると一色氏への対抗心から正平5年/観応元年(1350年)9月に直冬を自陣営に迎える。一説によれば婿にしたと言われる。

=============================================================

※足利直冬・・父「足利尊氏」と対立
※橘遠江入道道公の後の宮原の領主 橘公冬
※少弐頼尚・・一説によれば「足利直冬」を婿にしたと言われる。
※少弐頼尚は『平河左近允頼尚』と名乗られていた・・・

何だかものすご〜く「モヤモヤ〜っ」としてきました(p_-)

何はともあれ
皆様に御紹介した「奥野城跡」。今からじっくりと読んでみたいと思います!
(資料部分のみしか、まだ見ていないので・・)

しかし・・・
『一授契状神水案文(祢寝文書)』の最後の二行は、うまく読めないのですが、しかし、ずしん!と魂に響く言葉で締めくくられています。

日本国中大小神紙、殊者、天照大神宮、八幡大菩薩、当国鎮守霧嶋権現御罰ぉ各可罷蒙候、的契状知件、

天孫降臨の地、霧島、そして天孫ゆかりの地域における神々様に誓いを立てている
そのような言葉の意味だと推測しました(..)

しかし・・・
先祖の調査は奥がとても深すぎて・・・
でも、頑張ります。

最後になりましたが・・
昨日の早朝に起きた「あのニュース」もあり
椎葉家と私の祖父との「絆」について書く事を少し躊躇したのです。
それは昭和10年代初頭の暗い闇へと日本が突入する時代の話ですから・・・

だけど・・
だからこそ、書かなければいけないのでは・・と考えました。

先日、曾祖父の弟の方についてを、ブログの方で書かせて頂きました。
ブログを書きながら、あらためて「平和」について考えました。
だから・・昨日はとても悲しい気持ちで一日を過ごしました・・・・

曾祖父の弟「平川源市」おじについての私のブログです。
よろしければ、皆様、ご覧ください(..)
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12305202679.html

椎葉家と私の祖父との「絆」については
こちらで必ず書かせて頂きます。

では(..)
[52]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年08月30日 14時23分44秒 ) パスワード

追記

三つ柏服部様
私の拙いページをご覧頂いて下さる事を心より願って
書かせて頂きます。

三つ柏服部様が九州にいらっしゃる事をコメントで拝見させて頂いてからというもの
実は心がワクワクしていました。

三つ柏服部様の「視点」からご覧になられた「九州」「宇佐」そして「古代の九州」について
どのような御感想をお持ちになられたのか、
御研究のスレッド「長上郡の服部氏族」の方での御調査・御感想を
心待ちに楽しみに致しております。

所で
黒男神社はお気づきになられましたでしょうか?。
御祭神は「武内宿禰」様であります。

秦氏と宇佐そして九州との関係・・

球磨は平安時代においても「国東」や「宇佐」とは濃厚な関係を築いています。

ぜひ、
三つ柏服部様の「御視点」からの「九州」を勉強させて頂きたいと思います。

勝手にこちらの方で書かせて頂きまして
申し訳ありませんでした。

三つ柏服部様
残暑厳しい折ですが、お身体十分にご自愛下さい。

ミヤハラ
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月30日 18時22分14秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 ありがとうございます。
 了解しました。そのつもりで書きます――
[54]たけぽんさんからのコメント(2017年08月31日 11時44分58秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
またまた勉強になりますФ(..)...

駅の近くの三○・・・ですが

祖母の嫁ぎ先は伊○写真館から
駅に向かって行くと・・・

これ以上は・・・Σ(ノд<)

やはり、ここでは直接言えないのが
もどかしいです(>_<)ゴメンナサイ

うちの説明が悪いのが
一番の問題なのですが(ノ_<。)

曾祖父様の件
今日は今からお寺の集まりがあるので
後日、ゆっくりと拝見
させて頂きますm(_ _)m
[55]たけぽんさんからのコメント(2017年09月01日 14時51分54秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様・・・

ブログ、拝見させて頂きました。

・・・・・

貴重なお話を伺わせて頂き
ありがとうございますm(_ _)m
[56]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月01日 22時03分03秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(^'^)

たけぽん様、お返事おそくなりまして
申し訳ございません<m(__)m>

実は、昨日、米良の方に外出していたのですが
帰りに、多良木を通っていて気が付いた事が(p_-)

まず、伊●写真館は本店と支店があったのですが
たけぽん様が前を通られた事がある店はおそらく駅に近い支店だと思います(p_-)
そう考えながら・・・
車窓から多良木の町並を見ていて気が付いたのです!!

あの・・・もしや(p_-)
暗号で・・・「チラシ」など?・・・・(p_-)

かな????(p_-)

間違っていたらごめんなさい(@_@。

所で
たけぽん様、皆様
私の祖父と椎葉家の関係をこちらで書く前に
椎葉家のおじの祖父である源一おじいさんのお父さんにも関連する
「湯前町(旧湯前村)」の明治以降の歴史について、
湯前町史で勉強していました。

先日、アップしたブログ
タイトル 平川家の一族 曾祖父の弟の方

に続いて
源一おじいさんの妹(私の曾祖母の妹でもあります)が嫁いだ「福田氏」についても書かせて頂きました。

この事により、源一おじいさんの出生の秘密等の一連の話は全て繋がっているのでは?
そう感じる事が出来ました。

私は、
私の一番の理解者であり、協力をしてくれる「椎葉のおじ」に何の恩返しも出来ていません。
椎葉のおじへの恩返しは、きっと「源一おじいさん」の本当のお父さんを見つける事だと思います。
そう考えて、今日は、2件のブログを書いています。

よろしければ、皆様に、ご覧頂ければと思います。
そして、何かお気づきになられた事、情報などがありましたら
ぜひ、御教示を頂ければと心よりお願い申し上げます。

ブログ
曾祖母の妹の「夫」の方について
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12306647918.html

続いて
ブログ
高祖母の悲恋
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12306764740.html

高祖母の実家「永田家」の事などが湯前町史に記されていました。
明治後半に永田家を継ぐ為に養子に入られた方の記述もありました。

知らなかった事ばかりです・・・・。

最後になりましたが
三つ柏服部様
御調査を拝読して、大変勉強させて頂いております。
やはり、「さすが!三つ柏服部様ならではの御視点だな〜」と
興味深く拝読させて頂いております。
ワクワクが止まりません(^'^)


たけぽん様、皆様
明日は、意を決して
こちらのスレッドで『祖父と椎葉家の絆』を書かせて頂くつもりです。

では。
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月03日 09時57分13秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

『祖父と椎葉家の絆』の話ですが
椎葉のおじのデリケートな個人情報も入るので
椎葉のおじにこの件を書いていいか?確認をした上で
書かせて頂きます。

では(..)
[58]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月08日 12時55分49秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

たけぽん様
椎葉のおじが、17日に●子おばさんと会うそうです。
その時に、「たけぽん様から伺っている話を、●子おばさんに伝えて聞いて来る(^'^)」
と椎葉のおじが言ってくれました。
私も、楽しみにしています。

たけぽん様、皆様
椎葉のおじが、『祖父と椎葉家の絆』の話を書く事を了承してくれましたので
書かせて頂きます。
『祖父と椎葉家の絆』の件だけでなく、現在の・・こう言う時代だからこそ
あらためて、平和について考えなければいけないと
自分自身も決して忘れてはいけない記憶なんだ・・と考え書かせて頂きます。

かなり長くなると思いますが、御了承下さい(..)

=========================================

以前、書いていたように、林田家から平川家に嫁いで来た私の高祖母は、私の曾祖父(宮原家)の姪でもあります。
平川家から椎葉家には、私の祖母の姉が家を継ぐ為に養女に入りました。
私の祖母の姉の次男となるのが椎葉のおじです。

椎葉のおじは、赤ちゃんの頃、水の事故に遭い、その後高熱を出し、その事が原因で、「ある障害」が残ってしまいました。
障害に家族が気付いたのはおじが2歳になる頃で、すでにその時は病院でも、治療出来ない状態だったそうです。

私の祖父は、祖母が宮原家に嫁ぐ前から、縁戚関係である椎葉家の「椎葉のおじ」を、とても可愛がっていました。
祖父が陸軍士官候補生学校に入学する前にも、椎葉のおじは、家の宮原家に何度か泊まった事もあるそうです。

私の祖父は学校から休暇で岡原に戻って来ると、椎葉のおじを自転車に乗せて、親戚周りをしたり、色々遊んでくれたそうです。

それから
祖父は陸軍士官候補生学校を卒業。その後陸軍少尉となり、私の祖母と結婚しました。
椎葉のおじは、私の祖父母の結婚はとても嬉しかったそうですが・・ただ、何だか大好きなお兄ちゃんを、叔母である私の祖母に取られたような複雑な気持ちにもなったそうで、それだけ、私の祖父が大好きだったそうです。

祖父は、大陸での勤務となり、祖母も一緒に渡ったのですが、叔父(私の父の兄)を祖母が妊娠した事で、祖母だけ球磨に戻る事となり、祖父が祖母を連れて帰ってきた時に写されたのがブログにアップしていた「宮原家」で親戚が集まった写真です。
湯前・久米・多良木の平川家の男性達も集まりました。
もちろん祖母の叔父達や従兄弟達でもありますが、先にも書いたように皆、私の祖父とは血縁関係にある人達でした。

祖父は26歳で陸軍中尉となりましたが、大陸勤務であった為、平川の曾祖父が祖母と岡原で産まれた1歳前の叔父(父の兄)を連れて、大陸まで送った時の写真も以前ブログにアップしていました。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12036400292.html

しばらくして、祖父は熊本の陸軍第23師団(だいにじゅうさんしだん)に配属となり、祖父母は大陸から熊本に帰って来ました。親子3人で熊本市内の官舎に住んでいたそうです。
この当時、日本は暗い闇の時代へ急速に進んでいた時です・・・・

そのような時代背景もあったのでしょうが、祖父は故郷岡原の尋常小学校に呼ばれて、講堂で、全校生徒を前に話をする機会があったそうです。

講堂の壇上で校長先生が横に立ち、皆、起立して直立不動で祖父の話を聞き始めたそうですが、祖父は、子供達に「座って聞いて」と笑顔で言って、時折、おじの周りの子供達は笑ったりして、とても楽しそうだったと、おじは言います。

その帰り、祖父は軍刀をポン!と椎葉のおじに渡し、おじは、その軍刀を小さな肩に乗せて意気揚々と私の祖父の前を歩き、二人で家に帰ったそうです。
椎葉のおじは、その時歩きながら、私の祖父に
「自分は、叔父さん(私の祖父)みたいな軍人さんになりたい!少年飛行隊に入って、お国を守る!!」
と夢を語ったそうです。
祖父は黙って優しい笑顔でおじの夢を聞いてくれていたそうです・・・・
その翌日、祖父は熊本に帰りました。

椎葉のおじは、「ある障害」の為に、学校でも時折、友達から意地悪をされる事があったそうですが
私の祖父が学校に来てからは、一度もそのような事は起きなかったと言っていました。

熊本に帰った祖父は、それからしばらくして
私の祖父は突然、「大陸に渡る事になった」と祖母と叔父(父の兄)を連れて岡原に帰ってきました。
祖母と叔父(父の兄)を、実家の平川家に預けて「大陸に渡る」為に帰って来ました。

椎葉のおじは、いつものようにとても嬉しくて、私の祖父と遊んだそうですが、何故かこの時の祖父はいつもとは様子が違っていたそうで、子供心に何かあるのかな?と感じたそうです。

その夜
母(私の祖母の姉)から突然
「明日、叔父さん(私の祖父)がお前を熊本の病院に連れていくそうだから、準備をして早めに寝なさい」
と言われ、椎葉のおじは驚いたそうです。
色々聞こうとしたけれど母(私の祖母の姉)は何も言わずに黙々と準備の手伝いをしてくれていたそうです・・・

翌朝、祖父とおじは、汽車で熊本市に向かいました。
私の祖父に連れて行かれたのは「熊本大学病院」でした。
病院で、おじは、色々な検査を受け、検査結果が書かれた書類を祖父は渡されました。

その夜、椎葉のおじは、私の祖父と旅館に泊まったそうです。
そして、祖父はおじに
「障害の為に軍人にはなれない・・・」と言う事を優しく伝えました。
椎葉のおじは、突然の事に最初は何が起こったのかよく解らなかったそうですが
言葉の意味を理解して、
「自分は軍人さんになってお国の為に働くんだ!!少年飛行隊に入るんだ!!」
とおお泣きしたそうです。
「何で、こんな事になったんだ!!」
と、口惜しさと悲しさで涙が止まらなかったと言います。
祖父は、おじを優しくなぐさめていたそうです。

翌日、祖父はおじを熊本の陸軍第23師団に連れて行きました。
当時、祖父は分団長を務めていたそうです。
陸軍第23師団に付く前に、反対側の路に沢山の兵隊さんが、列を作って歩かれていたそうです。
すると、先頭の方が祖父に気が付き「敬礼!」と大きな声を出されると
列の人達は歩くのを止めて、祖父に敬礼をされたそうです。
すると、祖父は偉ぶる訳でもなく、「オ〜ス!」と笑いながら手をあげて、挨拶をしたそうです。
すると、「宮原中尉、そちらのお子さんは?」と先頭の方が聞かれたので
祖父は「俺の可愛い甥っこ!」と笑いながら言ったそうです。
椎葉のおじは、私の祖父の明るい態度とさらに「可愛い甥っこ」と紹介された事がとても嬉しかったと言います。

陸軍第23師団に着くと、祖父は病院から頂いた書類を持ってどこかの部屋に行き
しばらく待っていると
「おい!今から偉い方に会うからな」とニコッと笑っておじを、大きなドアのある部屋まで連れて行きました。

先に祖父が部屋に入り、ドアの前でおじは「偉い人に会うんだ・・・」と緊張して待っていると
すぐに部屋から祖父が出てきて、
「今からお会いする方は司令官の方で、ここで一番偉い人なんだぞ」とおじに伝え
二人で部屋に入ったそうです。

大きなドアの部屋の中には、とてもりっぱな大きな机があり、椅子にはとても優しそうな男性が座っていらっしゃいました。

おじは初めてお会いする「一番お偉い司令官の方だ」と、とても緊張したそうなのですが・・・

私の祖父が、いつもの調子で明るく
「私の甥です」と紹介すると
その方は、優しく笑いながら、おじに
「椎葉君だね。叔父さんから話は聞いています。」
と言われました。

そして、きりっとした顔に戻られて
「椎葉君。あなたは●●が不自由と言う事で、残念ですが軍人にはなれません。
その代わり、戦地に行ったつもりで、農業を頑張って、国の為に尽して下さい」
と言われたそうです。
それから、その方は最初の優しい顔に戻られました。

椎葉のおじは
「はい。解りました。農業を頑張って、お国の為に尽します」
としっかりとお答えしたそうです。

椎葉のおじは、この方から頂いた言葉で、それまで、苦しくてしかたなかった口惜しくて仕方なかった心が救われて、しっかりと農業を頑張ろう!と心に誓ったと言います。

椎葉のおじに言葉をかけて下さった方こそ
私の祖父が生涯大事にしていた「掛軸」の書を送って下さった
当時の第23歩兵団司令官の小林恒一少将でした。

球磨の岡原に椎葉のおじを送った後、祖父は一人、熊本に戻って行きました・・・

そうして・・・
私の祖父・優しい声をかけて下さった”とても偉い方だった”小林恒一少将
そして、「宮原中尉、そちらのお子さんは?」と声をかけた兵隊さん達
皆・・・大陸に渡って行かれました。

皆様
祖父が配属されていた 熊本の第23歩兵団についてウィキに詳しく記されていました。

第23師団 (日本軍) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC23%E5%B8%AB%E5%9B%A3_ (%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

私の祖父が関わった「ノモンハン事件」までの経緯を転記させて頂きます。

第23師団(だいにじゅうさんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。

創設 1938年(昭和13年)4月4日
廃止 1945年(昭和20年)
所属政体 Flag of Japan.svg大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 師団
兵種/任務/特性 歩兵
人員 約12600名
所在地 熊本-満州-ルソン島
編成地 熊本
通称号/略称 旭
補充担任 熊本師管区
最終上級単位 第14方面軍
最終位置 フィリピン ルソン島北部
主な戦歴 ノモンハン事件-太平洋戦争
(ルソン島の戦い)

ノモンハン事件で壊滅[編集]
1938年(昭和13年)4月に、第15・第17・第21・第22師団と共に、関東軍後方警備用に熊本で編成された歩兵三個連隊編制師団である。
編成当時の状況は、内地には常設師団は近衛師団を含めて2コしか残っておらず、朝鮮に1コ、関東軍に5コ、そして中国に常設師団、特設師団の殆んどを投入していた。 更に、昨年度動員計画入っていた特設師団3コが、母体常設師団の損害続出で、その補充に負われて編成が不可能になっており、昭和13年度にも動員計画に入れることができなかった。

関東軍は対ソ戦備が大いに不安な状態で、この5コ師団は後方警備用とし、少ない兵力の懐事情の中で前線後方を分離する事で常設師団を第一線に専念させる事で、総合戦闘力向上を目論んで編成された。後方警備用なので編制装備は次等とされた。 当初、同期編成の4コ師団と共に、実践訓練を兼ね戦闘経験を積ませるため中国戦線投入を予定した。 5コ師団うち第23師団だけは、満州北部のハイラルに駐屯していた騎兵集団を中国戦線に転用する為、代わりに直接満州へ派遣された。 戦闘経験を積ませる為と言えば聞こえが良いが、その実は中国戦線に増兵し一気に事件解決が狙いだった。 中国戦線への投入された第15・第17・第21・第22師団の4コ師団は、中国戦線が広がり続けたため抜けられなくなり、ついに本来の編成目的である満洲に来ることは無かった。
実は陸軍は、この5コの師団新編成は時局対応だったが予算処置に困っていた。師団の新編成には議会の承認を必要だったからである。幸いなことに、支那事変臨時特別会計紛れて臨軍会計で処理することができて、秘密部隊から晴れて公開できる師団となった。

第23師団の不安は、新編成で実践経験が無く錬度が高くないこと。更に、西部国境はソ連の脅威はそれ程高くないと判断されていたが、練成教育に集中する環境にないこと。後方警備用師団なので編制装備が次等であること。3単位師団で歩兵力不足が予想されることだった。
師団はハイラルの警備に当っていたが、1939年(昭和14年)5月11日に満州と外蒙古の国境地帯であるノモンハンでソ連・モンゴルとの国境紛争が起こると、日本側の主力部隊として実戦を経験することになった(紛争の詳細はノモンハン事件参照)。

師団長の小松原道太郎中将は、関東軍の方針によって、まず師団の一部兵力からなる「東支隊」(支隊長:第23師団捜索隊長の東八百蔵中佐)を編成して派遣した。支隊が到着した時にはソ連側は撤退後であったが、支隊が帰還すると再びソ連側部隊が姿を現した。そこで師団は、先の東支隊に歩兵第64連隊(連隊長:山県武光大佐)を加えた「山県支隊」を編成し、再度派遣したところ戦闘となった。この戦闘で東八百蔵中佐は戦死し、山県支隊もまた後退した。

状況を見た関東軍は戦車第3連隊及び戦車第4連隊などを増派した。第23師団では歩兵第64連隊が戦車隊に編合されて「安岡支隊」(支隊長:安岡正臣中将)となった。 第23師団司令部が総指揮を獲っていたが、更に、他の師団、国境守備隊、独立守備隊等からの抽出部隊、関東軍直率砲兵工兵等、軍隊区分で多くの部隊を編入されて指揮をするには師団司令部では能力不足で、飛行集団との連絡のためにも軍司令部の設置が必要と判断され、8月4日に第6軍(軍司令官:荻洲立兵中将)が創設された。 (元々第6軍は、翌年度新編成が予定されていたが、事件発生のため急遽予定を早めて緊急編成された。)
現在、前線に出動している司令部は、歩兵団、戦車団各1コであり、将官が指揮しているとは言え参謀を持たず、本務ではないが相談相手は秘書たる2名の将校だけで、団長自ら情報を整理して決断をくださなければならなかった。 そこへ第23師団は参謀長、参謀3人を持つ本格的戦略単位司令部が乗り込むことで、第6軍の中核としての活動を期待され、残留本隊も全力出動した。

しかし、7月初旬の総攻撃失敗で安岡支隊は大損害を受け、7月4日には師団参謀長の大内孜大佐が戦死した。8月20日からのソ連側の攻撃によって日本側はほぼ壊滅し、9月16日にソ蒙軍との間で停戦交渉が纏まるまでに第23師団は1万1958名にも及ぶ死傷者を出した。

師団の幹部では、歩兵第71連隊長の森田徹大佐(8月26日)、野砲兵第13連隊長の伊勢高秀大佐(8月29日)および歩兵第71連隊長代理の東宗治中佐(8月30日)が戦死したほか、歩兵第64連隊長の山県武光大佐(8月29日)と歩兵第72連隊長の酒井美喜雄大佐(9月15日)、師団捜索隊長の井置栄一中佐らが自決した。

戦死した大内参謀長の後任となった岡本徳三大佐[1]、第23歩兵団長の小林恒一少将らも重傷を負うなどしている。動員兵力のおよそ8割を失った事から、「悲劇の小松原兵団」と呼ばれる。

====================================

※第23歩兵団長の小林恒一少将らも重傷を負うなどしている。

私の祖父も、瀕死の重傷を負い、軍の船で東京の病院まで運ばれました。
祖母を軍の方が岡原まで迎えに来られて、東京に向かいました。

そこで、祖父の看病をしていたのですが
その時に祖母に「心細いでしょう」と温かく励まして下さった方々。
さらに、気持ちを紛らす為にと、色々な場所に連れて行って下さった方々。

この『方々』のお話を、祖母が亡くなる前に私に話してくれました。
この事が、私が先祖を調べてみよう・・・と考えたきっかけだったのです・・

平家物語を熱く語る様のスレッドをお借りして、初めて「平川家について」を立ち上げた時に最初に書いた「文章」が・・上記の話だったのです。

第23歩兵団長の小林恒一少将から私の祖父が頂いた「書」をあらためてご紹介します。

書の最後に書かれている「納木汗」とは軍の隠語で「ノモンハン」と読みます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12096630483.html

私の祖父はずっとこの「書」を大事にしていたそうです。

祖父は、事件で負傷した後、東京の病院で一命を取り留めました。
しかし、医師から「体内に残った玉の残がいにより余命は長くて8年」と宣告を受けました。
右手の負傷はひどく、右手首から先を使えない身体になりました。
その後、祖父は第23師団を離れ、千葉の司令部に勤務しました。
昭和16年の春、祖父は軍を離れ、軍属として慶尚南道庁の役人として勤務する事となります。
そして・・・第二次世界大戦突入・・
終戦となり、引き上げ船で、家族5人(父と叔父は慶尚南道で産まれています)命からがら博多湾に到着。
球磨に戻る事が出来たのですが、医師の方から言われた「長くて8年」の宣告通り、ノモンハン事件より7年後の昭和21年の5月に亡くなりました。

実は
先に書いた椎葉のおじから聞いた話は、球磨に戻ってすぐに、おじから聞いていたことです。
その時に椎葉のおじが
「叔父さん(私の祖父)に書を下さった、あの優しい司令官の方は、その後どうされたのか?知りたかった」
と言うので、私が調べた所、ウィキに記述があったのです。

小林 恒一氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%81%92%E4%B8%80

小林 恒一(こばやし こういち、1888年(明治21年)8月21日 - 1950年(昭和25年)5月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

茨城県出身。1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。

中略・・
1937年(昭和12年)8月、歩兵第78連隊長となり、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し第23師団歩兵団司令官に就任。
1939年(昭和14年)5月、第23歩兵団長となりノモンハン事件に参戦。重傷を受け、1939年8月、第6軍司令部付となった。
1940年(昭和15年)8月、東部軍司令部付に転じ、同年12月、東京湾要塞司令官に着任。1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。
1943年(昭和18年)6月、待命、翌月予備役に編入され、満州国高等軍事学校長に就任。戦後、シベリア抑留となり、1950年5月、シベリアで戦病死した。

=========================================

ウィキの記述を印刷して、椎葉のおじに渡し、見てもらうと
椎葉のおじは、
「自分はこの方から頂いた言葉を一日も忘れずに今まで生きてきた」
「シベリアで亡くなっていたんだ・・・」と泣いていました。

私は、球磨に戻ってすぐに椎葉のおじから聞いたこの話を一生胸に留めておこう
と思っていました。

しかし・・この話には続きがあったのです。
その続きを、先日、椎葉のおじに初めて聞いて、やはり、書き留めておかなければいけない!と思いました。

続けます。

祖父は、椎葉のおじを熊本の陸軍第23師団に連れて行った帰り
まっすぐに球磨には戻らずに、遠回りして熊本の「高橋稲荷神社」におじを連れて行ったそうです。
「高橋稲荷神社」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

二人でお参りをすませ
祖父は、お守りを買い、椎葉のおじに手渡して
「このお守りを一生大事にするんだぞ。●●(椎葉のおじ)は○○が不自由だから、この先、沢山の苦労があると思う。
だけど、きっと、守って頂けるから。
負けないで、”椎葉家を守っていけ””椎葉家を守るのは●●(椎葉のおじ)しかいない。身体に十分気を付けて椎葉家を守り通してくれ」

と言ったそうです。

私の祖父からの言葉を胸に椎葉のおじは今まで頑張ってきた!と言いました。

太平洋戦争に突入して、自分の友達数人の方々が少年飛行隊として戦場で亡くなった時は
自分だけ、生きていて、友達が亡くなっていく事が申し訳なく、心が張り裂けそうになり
自分の身体を憎んだ時もあったそうです。
しかし、祖父からもらったお守りを見つめて、祖父からの言葉そして
「椎葉君。あなたは●●が不自由と言う事で、残念ですが軍人にはなれません。
その代わり、戦地に行ったつもりで、農業を頑張って、国の為に尽して下さい」
との小林恒一司令官の言葉をいつも思い出していたと言います。

私は、祖父が椎葉のおじに「椎葉家を守り通せ」と言った、その言葉の重みを
考えました。
そして、きっと、祖父自身が「椎葉のおじと椎葉家を守りたかったのだ」と考えました。
それだけの堅い絆が宮原家の祖父と椎葉家にはあったと初めて理解したのです。
このコメントを書く為に、陸軍第23師団をウィキで初めて勉強しました。
椎葉のおじの話と、ウィキの記述を時系列で並べて考えた時に
あらためて
祖父は、変わりゆく時代の暗い闇・大きな荒波の前に「障害を持ってしまった椎葉のおじと”椎葉家”を守りたかったのではないか・・」と考えるに至りました。

椎葉のおじの椎葉家には、以前から書いているように
平家一門の守り観音様が代々引継がれてお祀りされています。
さらに
この集落で亡くなった平家落人の方々の御霊をお祀りしてお守りしています。
集落で亡くなった方々は20人近い方々です。
椎葉のおじは、この方々の御霊を「神」として崇め
石塔を建てて、御供養させて頂いています。
とても、りっぱな石塔です。
おじは
「椎葉家を継いだ自分の役割なのだから、当たり前の事だ」と言っています。

椎葉のおじはこうも言います。

自分の命は叔父(私の祖父)に生かされた。
叔父は戦争の傷が原因で亡くなり、親戚や友達、沢山の人が戦争で亡くなってしまった。
亡くなった方々に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
だからこそ、自分は、沢山本を読み、自分で色々な事にチャレンジしてきた。
それは・・
いつか、自分が天に召された時に
戦争で先に亡くなった人達に、平和になった世の中事を沢山伝える為なんだ。
と。

さらに椎葉のおじは
『戦争の犠牲者は、軍人さんだけじゃない、民間の人も沢山亡くなった。
日本人だけじゃない!世界中で沢山の人達が戦争の犠牲となられた。
だから、絶対に尊い命を犠牲にする戦争は起こしてはいけない。
平和がいかにありがたい事なのか、いつも心に刻んで生きていかなければいけない!』
と言います。

『日本人は反省も込めて、世界の平和を祈らなければいけないんだ』
と。

私は戦後20年以上経って生まれましたので、もちろん戦争の事は話で聞くだけです。
だけど、
あらためて、椎葉のおじから沢山の話を聞かせてもらって
心から平和のありがたさを感じました。
大変勉強になったと思います。

大変長くなりましたが
このコメントは自分が一生忘れてはいけない事だと考え
勝手ながら、こちらのスレッドへ書き留めさせて頂きました。

皆様、申し訳ありませんでした。

[59]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月08日 15時16分42秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 パソコンに向かって九州のことを書いている時に、また熊本で地震があっ
たようですが、大丈夫でしょうか。
 とりあえず、お見舞い申し上げます。
[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月08日 17時40分13秒 ) パスワード

三つ柏服部様

御心配頂きまして ありがとうございます。

私の住むあさぎり町では、少しの揺れでしたが、
久しぶりの防災地震警報(スマホからの)で身構えてしまいました。

熊本市内を中心にかなり揺れたようです。

熊本地震の余震は、少なくなったと感じていたのですが
まだまだ油断は出来ないと痛感します。

この場をかりまして、申し訳ありませんが

三つ柏服部様
毎日、楽しみに御調査を拝読させて頂いております。

三つ柏服部様の御視点。「言語」他。
私には無かった着眼点をお持ちで、敬服いたしております。

ちなみに
私の地元、球磨では「ありがとうございます」と言う意味の方言で
「だんだんな〜」と言う言葉があります。

以前、調べたのですが「だんだんな〜」の「だんだん」とは
百済語から来た言葉でした。
日本語と韓国語は同系語: 2012年12月というサイト様で
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html

記述をスライドしていくと丁度中段くらいに「だんだん」 と 「도움」(2)という表題があります。
「だんだん」は「どうもどうも」を連想させないだろうか。これらの言葉は「使うタイミング」「意味」「音」がそっくりである。さらに気づくことは、これらの言葉がハングルの「도움<doum> 支援 世話」に似ていることである

と書かれています。

私の住む旧岡原村の集落の一つ「森園」はこちらでは「モイノソン」と言います。
日本の苗字七千傑様より、「モイノソン」は百済語であるとの御教示を頂いた事があります。

自分が以前、何となく興味を持って調べた方言が「百済語」であったとは
その時に気が付いてはいたのですが
その先に進んで調べてみよう!と言う発想まで至っていませんでしたので
御調査を拝見して、とても驚いています。

今後も、三つ柏服部様の御視点による「九州」の調査を
心より楽しみに、さらに、しっかりと勉強をさせて頂くつもりで
拝読させて頂きます。

朝晩と秋らしい空気ですが、昼間は相変わらず暑い日々が続いています。
体調管理が難しい季節ですが、ご自愛なさって下さい。

ミヤハラ
[61]たけぽんさんからのコメント(2017年09月09日 08時33分51秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
お返事遅くなりすいません(>_<)

祖母の嫁ぎ先の家は、写真館の並びで
そのまま駅の方に向かって行って頂くと
旧九電前にありましたよ(^-^)v

支店かどうかは、うちでは
わかりかねますが(..)・・・

町で2件しかない苗字だったので
これでおわかりになるかな?f(^^;

さて・・・

絆の件ですが

朝からもらい泣きして
読ませて頂きました

そんな時代に生きていらした
方々の心中、はかり知れません
(ノ_<。)

うち(須恵の)にも戦死された方
(祖母の直ぐ上の兄)が
いらっしゃいますが、その方も
心中、いかばかりだったので
しょうか・・・(ノ_<。)

本当に、改めて

その時代に生きていた方々のお話を
お聞きするたびに
戦争ほど人を不幸にするモノは
無いなと、改めて感じます

地震の件

人吉は防災地震(スマホ)は
鳴りませんでしたので
夕方のNEWSで知りました(・・;)

言葉も、百済語がルーツだった
とは(゜Д゜)!!ウヒョー!
[63]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月10日 10時56分25秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様、お返事おそくなりまして
申し訳ありませんでした。<m(__)m>

たけぽん様のおっしゃる通り
戦争ほど人を不幸にするものはないですね。

たけぽん様の祖母様のお兄様も戦死されたと言う事ですが
たけぽん様の優しい御心が、天国のおじ様(祖母様のお兄様)に通じて
お喜びになられていらっしゃると思います。
たけぽん様は、御先祖様の御供養もしっかりとなさっていらっしゃる。
本当にすばらしい事だと思います。
御先祖様方は皆様お喜びになられて、いつも、たけぽん様をお見守りになられていらっしゃると思います。(^'^)

自分がこの世に産まれる事が出来た事、「生」を与えて下さった全ての御先祖様に感謝の気持ちを持って
私は毎朝、仏壇にお参りさせて頂いています。

古(いにしえ)の先祖様に思いを寄せる事、感謝の気持ちを持つ。
その事によって
遠い、遠い時代の古(いにしえ)の先祖様が辿ってこられた「道」も
自然と・・そう”しぜ〜ん”と見えて来るのではないでしょうか(^'^)

ただ
私は、最近、コメントを書きながらとても反省しています。
祖父が辿った「道」が少しだけ見えてくると
祖母の事をとても考えてしまいます。

祖父は、戦後、岡原に帰ってきてわずか数カ月で亡くなりましたが
祖父が亡くなって8カ月後には、伯父(父の兄)が怪我による破傷風で10歳で亡くなってしまいました。

祖母がその時、いかに悲しい苦しい思いをしたか
私は今では、祖母の気持ちを思う事は出来ますが、子供の頃は違いました。
全く解っていませんでした。

悲しい出来事を乗り越えて、一生懸命生きてきた祖母に対し
父母が離婚して、私を育ててくれていた祖母に対し
何も、優しい言葉をかけてあげる事が出来なかった。
学生の頃は反抗ばかりしていた。
その事が今、悔やまれて仕方ありません。

祖母の人生をちゃんと理解して、もっと、もっと、優しくすれば良かった・・
よその土地に行って、好き勝手な人生を歩んでしまったけれど
本当は、ずっと傍にいてあげれば良かった。
反省ばかりしています。

こんな私を、祖母はいつも温かく見守ってくれて、私のわがままを全て許してくれていました。
だからこそ、祖母に申し訳ない気持ちでいっぱいになり
毎朝、仏壇にお参りする時に、「ばあちゃん、ごめんね」と謝っているのですが
亡くなってからでは、遅いですよね・・・

今、私は、優しい伴侶と共に、父と親子3人で生活していますが
主人と出会えたのも、きっと、祖母や先祖様のおかげだと思っています。
主人と出会えて、主人が色々な所に連れて行ってくれて
その事により、球磨に戻って「宮原家」を継ごうと決心して・・

人生って、複雑なものですよね・・
本当は、祖母が生きていた時に、こうやって皆が一緒に生活出来ていれば良かったのですが、
主人と私の年齢差からみても(13歳下です)、それは不可能であった事で・・

主人と出会えて、祖母が私に伝えようとした言葉の意味を知りたいと思った・・
主人と出会えて、球磨に一人で住む父のもとに帰ろうと思った・・
御先祖様と祖父母、伯父(父の兄)のお導きのおかげだと思います。
心より感謝しています。
そして祖母に対して「本当に、今までごめんなさい」と心から反省しています。


不思議な話ですが
私と主人が、球磨に戻って来た「初日」に椎葉のおじが家に来て、
初めて会った主人に対し、最初に言った言葉が
「おたくは、何か、こっち(球磨)に戻って来られたような気がする。こっちの顔じゃ。」
「いや、きっと戻って来られたとタイ!」
とめちゃくちゃ嬉しそうだったのです。
その後、主人と色々椎葉のおじは話していましたが
(主人は、私と違って、おしゃべりな人では無いので、優しく笑いながら、椎葉のおじの話を聞いていました)
椎葉のおじは、その日以来、私の主人の事が「大好きだ!」って言ってくれます。
人となり、全てが大好きだそうです(^'^)

しかし・・・
「戻って来た」と言ったのは椎葉のおじだけではありません。

椎葉のおじの娘である天草に住む私のふた従姉に初めて主人を紹介した時も
「私は、初めて会った気がしない・・懐かしい気持ちになる・・何故だろう???」
と言っていました。
椎葉のおじに何か聞いたのか?と思ったのですが
主人の話は聞いていたけれど、椎葉のおじが主人に感じた「戻って来た」と言う事など、全く何も聞いてなかったそうです。
二人とも「神官」の系である「血」が流れているから、そういう「不思議な感性?」があるのかな?
とその時、思ったのですが・・

それが・・・天草のふた従姉だけでなく・・
平川のふた従兄、椎葉のおじの兄の子(ふた従兄)、多良木の平川のおじ達
深水のおじ、
さらに!平川繋がりの親戚だけでなく、宮原家の親戚も
主人に会うと、親戚は殆どが同じような事を言います。
「初めて会った気がしない」「懐かしい気持ちになる」「こっちの顔をしている」等
ちょっと怖いくらいです・・

さらに親戚だけではなく、ナント集落の人達も言うのです!
宮原観音様の御夜祭の時に、私の住む宮麓集落の人達が一同に集まった夜
集落の人達は皆、やはり同じような事を言いました。
中でも遠縁となる人からは
「二人が並ぶと、まるで姉弟のようだ!」と。
私が「歳が離れているからでしょう(;一_一)」と言うと

「いや違う!」
「顔立ちで言えば目元が何となく似ているけど、顔だけじゃない」
「肌が、二人の肌の色、肌の艶、肌がそっくり、同じだ!!」
と言われました。

肌がそっくり・・?????

どういう事なのかよく解りませんが・・肌が私達夫婦はそっくりだそうです・・??

宮麓集落の方々にも主人は自然と溶け込んで、皆さん仲良くして下さっています(^'^)

今年、数えで喜寿をむかえた父に主人からサプライズのプレゼントがありました。

それは、家を正面から描いた絵で梅の季節に撮った写真を元に描いていました。
絵の中に
「お父さん いつまでも3人で仲よく暮らしましょう」
と主人の言葉が添えてありました。

私が知らない間にこっそりと描いてくれていました。

絵を渡された父は「ありがとう。お父さんは優しい息子、娘と、こうやって暮らす事が出来て本当に幸せです」
と言って泣いていました。

祖母には何もしてあげれなかった事を反省する私に
主人は
「おばあちゃんに出来なかった分、お父さんには精いっぱいの親孝行をしていこうね」
といつも言ってくれます。
「おばあちゃんは、その事を望んでいらしたと思うよ。」
と。

今日のコメントは、何だか歴史とは関係ない事ばかりで
すみませんでした。

最後に(p_-) たけぽん様
〉言葉も、百済語がルーツだった

確かに球磨には百済語に繋がるかもしれない「だんだんな〜」とか「モイノソン」と言う言葉が残っていますが
しかし百済だけではなく
白髪岳は新羅に繋がる、前身の「辰韓」(しんかん)系の方々の権利の主張であり守護山であったと
日本の苗字七千傑様から御教示を頂いていました。

百済・新羅だけでなく・・
球磨の自生の柿は「伽羅柿(きゃらがき)」で、皆、球磨の人は「キャラ」と呼んでいます。
かなり以前、球磨のこの「柿」の事を調べたのですが「伽羅」とは「加羅」。
すなわち「伽耶」の事です。

伽耶 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6#cite_ref-24

「百済」・「辰韓」(しんかん 後の新羅)・伽耶
「呉国」他

球磨の古代は、グローバルな世界が広がっていたのでしょうね(^'^)
他にも、勿論「久米氏」(元祖的)、「須恵氏」も居て・・
まさに人種のルツボです(^'^)

だから・・複雑ですし・・何だろうこの謎を解くのは日本の歴史の謎を解く事にも繋がってしまいそうで・・
ちょっと怖いけれど・・でも・・怖い以上に「すごく興味」が湧きます(^'^)

あと・・「だんだんな〜(^'^)」について
以前は無かった、興味深いサイトを見つけました(^'^)

レファレンス協同データベース様 サイトより
ありがとうの意味で使われる方言「だんだん」を知りたい。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000062832

だん‐だん 【段段】 

三〔感動〕
(「だんだん有難う」の略。天明(一七八一〜八九)頃から京都の遊里に始まるあいさつ語)
ありがとう。いろいろとありがとう。(中略) 

【方言】
三〔感動〕
三 感謝の気持を表わす時に言う語。ありがとう。

《だんだん》鳥取県西伯郡・日野郡711 
島根県出雲・隠岐島「きのーもえろえろだんだん」725 
山口県大島(幼児語)052 
香川県塩飽諸島(幼児語)829 
愛媛県「ほんじゃの絵じゃのいろいろもろてだんだん」054 840 
高知県幡多郡(主として子どもの言葉)「おばさんだんだん」862 
福岡市「これぁだんだん、之で肩荷の下りたごとなりました」877 879 
熊本県923 926 936 
大分県057 938 
宮崎県西臼杵郡948 
(以下略)

=======================================

京都では
天明(一七八一〜八九)頃から京都の遊里に始まるあいさつ語)

それ以外に方言の分布に興味が湧きました(^'^)
私なりに分けてみたのですが

出雲地方
鳥取県西伯郡・日野郡 
島根県出雲・隠岐島

旧「豊国」の一部
山口県大島

四国
香川県塩飽諸島
愛媛県 
高知県幡多郡

九州
福岡市 (古代 筑紫国)
熊本県(旧肥後国 古代 肥国)
大分県(古代 豊国) 
宮崎県西臼杵郡 (日向国 高千穂町・五ケ瀬町 など)

面白い(p_-)・・・(^'^)

だんだんな〜は、人と共に古代の様々な国を動いているみたいです(^'^)

今日は、今から外出します(^'^)

では
たけぽん様、皆様
だんだんな〜(^'^)

追記
椎葉のばあちゃん(祖母の姉)達は「だんだんな〜」だけでなく
「ちょうじょうな〜」とか「ちょうじょう」と言う事もありました。
「ちょうじょう」とは漢字で書くと「頂上」かな?と
勝手に推測しています。
[65]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月12日 14時30分14秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。
コメント64の内容ですが、一部削除させて頂きます。
※私が母方の先祖を調べてみよう・・・と「ある事にきがついた」部分です。
おそらく皆様にはお解り頂けたとかと推測させて頂きました。
==============================================

昨日のコメントの中に一部(衝撃告白)を書いてしまったので
驚かれた事と思います(..)

父は(衝撃告白)について
「●●ちゃん(主人)の御両親と御先祖様には大変申し訳ない事だ」
と言っています。

父は、いつも私に
「●●ちゃん(主人)の御両親には心から感謝して、親孝行をするように」
と言っています。

私も結婚を許して下さった義父と義母には心から感謝しています。
主人の御先祖様には、
「このような私で申し訳ございません。●●さん(主人)を大切にさせて頂きます」と毎朝、仏壇の前でお伝えしています。


話は変わりますが
実は、先週の月曜日9月4日に宮崎に行って参りました。
当日、宮崎に行った目的の一つは
宮崎県立西都原考古博物館で9月10日まで開催の特別展
「日向諸県君(ひゅうがもろかたのきみ)と葛城氏」
を拝見したい!と言う理由もあったのですが、残念ながら休館日でした。

西都原古墳群から、宮崎市の宮崎神宮にお参りして、さらに周辺を観光しました。
全ての場所は、子供の頃に頻繁に伺っていた思い出の地でした。

そして・・・
宮崎神宮で、ある事に気が付きました。
その事から、全く調べていなかった母方の先祖様について調べてみようと
思い立ちました。

今まで、どうしても、私を大事に育ててくれた、母代りであった、亡くなった祖母の事を思うと
祖母に申し訳なくて、中々、母方の先祖様について調べてみようとは思う事が出来なかったのです。
しかし・・・『気が付いた事』により、私は母方の先祖様の中祖の方を知る事が出来ました。

さらに、当日スマホで撮った写真に気になる事が写っていました。
そこで、ブログに上記の写真や、母方の先祖様について書かせて頂きました。
(両親の離婚の原因が先祖様どうしが合わなかったから・・という摩訶不思議な理由なので、こちらのスレッドでは、やはり気持ち的には書けませんでした)

皆様にもよろしければ、ご覧頂きたいのですが
ただ、母方の先祖の話以外にもブログには詳しく書けない事もありますので、先にこちらで、幾つかのポイントを書かせて頂きます。

@宮崎神宮の御神紋をご覧になられて下さい。
御神紋は「三つ割菊に矢」です。 矢と菊 です。

A平和台公園の写真の四神像の神様のお名前をじっくりご覧ください。

B扉の写真をご覧ください。描かれている船など、内容を御想像ください。

Cはにわ園の「正装の男子」という「はにわ」をご覧ください。
手刀をじっくりご覧ください。

実は、私が母方の先祖を調べてみようと思い立った「気が付いた事」とは・・・

よろしければ、皆様、ご覧ください。
ブログ アドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12309823520.html

ブログの中でも書いたのですが、今回調べた事で解った事がありました。
それは

球磨の神社は 「本姓 大神氏」 の神官の方が多く・・・・
日向の神社は祖を 「日向日下部氏」 とする系の神官の方が多くいらっしゃる・・・・

という事です。

母方の先祖は
※その祖は日向・日下部氏である。
※日向・日下部氏は古代より続く有力豪族であり、薩摩隼人の末裔とも言われ、日向真幸院の郡司を務めた家である。
と言われる系です。

ブログでは書けなかったのですが
私が持った最大の疑問は

※朝廷に反乱を起こし、「討たれた」「鎮圧された」と伝わる薩摩隼人の末裔の系の方々が日向の名だたる複数の神社様の神官をお務めになっている。

この事です。

すごく不思議です。
まるで、相良氏に討たれたと言われる「平河氏」の一族「横瀬氏」が、歴代の相良家当主の方々を御祭神とする「相良神社」の初代からの宮司家であった
という事を知った時と同じくらい不思議な気持ちになりました。

ただ、私にはおそらく様々な「縁」が複雑に絡んでいる事は確かなような気がしています・・・

それが、「先祖同士が合わなかった」と言われた事にどう繋がっていくのか・・
調べるのが少し怖い気がします。

(..)
[66]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月12日 16時31分17秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

今回のコメントは”番外編”ということで・・・・

何だかふ〜しぎな記述をみつけましたよ〜(?_?)・・・

と言うお話を<m(__)m> 

今日、なんとな〜くですが、ボ〜ッとパソコンで「矢立家」とか「宮原」とか
ワードを入れて検索していたのですが・・・・

突然・・あんれ〜っ(?_?)という情報が目に入りました。

御紹介致します(p_-)

双葉文庫様の空也十番勝負 という小説(フィクション)のサイトの中の
表紙
http://kuya10ban.jp/

登場人物 タブの中に 主人公に関わる方の中に
あんれ〜っ(?_?)
と言う方がいらっしゃいました。
http://kuya10ban.jp/character/

浄心寺帯刀(じょうしんじ たてわき)

肥後人吉藩領宮原村の名主。隠居した父親の新左衛門と妹のこう、弟の次郎助が飫肥(おび)領内矢立峠で空也と知り合った縁から、宮原村を訪れた空也を逗留させる。
======================================

フィクション小説とは解っていますが・・・
何だか あんれ〜っ(?_?)

浄心寺帯刀 ・・・相良藩内にはいらっしゃいませんね(p_-) (もちろんフィクションですから)
肥後人吉藩領宮原村の名主。・・・うんがっ(?_?) 宮原村?
飫肥(おび)領内矢立峠・・・・飫肥領には矢立峠とかないですね・・・(p_-)

うん?

浄心寺帯刀・・・浄心寺
肥後人吉藩領宮原村・・・おんやっ?私の故郷です(^◇^)
矢立峠・・・矢立

うんっ?
あんにゃっ???  あんれっ???
こっこれは!!!
「浄心寺」「宮原村」「矢立」・・・

うんがっ! こっこれは?何処かの誰〜かさんが!頻繁に使うワ〜ドではありませんか
(?_?)・・・あっ あああああっ
\(゜ロ\)(/ロ゜)/


なんでじゃろぅ(?_?)・・・(-_-)zzz

じゃなくて(ー_ー)!!

こっ!これは一大事!

悪代官役に 平河背高左衛門(ひらかわ せいかたざえもん) とか 
悪代官に付く、剣の名手 深水蒼川流(ふかみ あおせんりゅう)とか
その一味
神社奉行に 椎葉与加梅(しいば よかばい)

とか(勝手に考えました)
登場しない事を心より願うばかりです(;一_一)

(^◇^)

うん?でもなんでだぁ〜(;一_一)
[67]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月12日 21時47分12秒 ) パスワード

追記

しかし・・・
自分の故郷が登場する小説があったとは・・

何だかすごく嬉しいです\(^o^)/

昨日、色々、”発見”があったのですが
少し頭が疲れていまして
今日は調査を休もうと思っていたのですが
思いもがけない情報を見つけて
本当 嬉しかったです\(^o^)/
[68]たけぽんさんからのコメント(2017年09月13日 00時28分09秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
本当に、全ては御先祖様の
おかげですね(^-^)

うちは、ミヤハラ様の様に
御回向もできてないのでは?と
足元にも及びませんが
自分なりにではありますが
精一杯させて頂こうと・・・

まだまだ御修行が
足りてませんが・・・f(^^;

お祖母様も、ミヤハラ様が
こちらに帰ってきてくれたのを
凄く喜んでらっしゃると
思いますよ?(..)

うちも、県外で産まれ育ち
年に1回位しかこちらに帰ってこず
また、こちらに来て直ぐ位に
祖父が倒れ、その介護の間は
祖母は1人で家で留守番してました

たとえ、介護とは言えども
朝早くから夜まで、家族が
仕事に介護にと留守がちだった
ので、寂しい思いをさせてました

それでも祖母は、自分がしなければ
ならない介護を、孫(私や妹)や
子供達(母と叔母)に
させてるのは申し訳ないと、いつも
口癖のように言っていました

祖母には気にするなとは
言っていたのですが・・・(..)

その祖母も、最後は認知症に
なりましたが、家族だけは
どうにかわかってるみたいでした

その頃は、祖父ももう
亡くなってたので、今度は
祖母の介護に、家族皆で
やれるだけはやりました

それでも、祖父の時も祖母の時も
後悔しかありませんでした

あの時あぁしてあげれば良かった
こうしてれば・・・

と、言う具合に・・・(..)

でも、それは介護をする方のエゴ?
と言うか、自己満足ではないかと・・・

どんなにこちらがしても
後悔しか残らない

1番は、介護をされてる方が
満足しないとダメではないかと(..)

家の場合は、亡くなるのが前提の
介護でしたが、亡くなっていく人(祖父母)
がこの世に未練を残さないようにして
あげる・・・

上から目線の物言いで申し訳ないのですが

未練を残さないようにしてあげるのが
この世に残る者の務めなのかな?と
思ったんです

家の場合に限ってですが

ごめんね・・・と、言う代わりに
<じぃちゃん、ばぁちゃん
そっち(あの世)で仲良くしてるね?
そっちでは平和に暮らせてるね?>

と、先ず話かけてから
色々な語りかけをしています

偶然とは思いますが、話しかける度に
蝋燭の火がユラユラ動いたり
動かなかったり・・・

何か会話になってる様な感じになります

で、蝋燭に反応があるなしで
こちらもそれに
合わせてまた会話する

こんな感じで、うちは
お仏壇詣りをしてます(苦笑)

ミヤハラ様の御回向も、きっと
沢山お祖母様に届いてると
思いますよ?(^-^)

お互い、出きる範囲では
ありましょうが
御回向、御先祖供養
頑張ってさせて頂きましょうd(^-^)

うちは、ミヤハラ様の様な
良き伴侶には恵まれませんでしたが
いつも、ほのぼの、暖かなご家庭
の情景がめに浮かぶようです

そんな素敵な伴侶に巡り会えた
ミヤハラ様は、御先祖様からの
功徳を沢山頂いてるのでしょうね(〃∇〃)

マスマス御先祖様のお蔭ですね(^-^)

お母様の方のルーツも
より詳しくおわかりになれれば
こんなに嬉しい事はないですね(^-^)

うちは、父の方のルーツは
全くわかりません(ノ_<。)

番外編ですが

凄いですね(゜Д゜)!!

しかし
ネーミングは、うちもお気に入りに
なりそうです(^-^)

ツボにはいりました(〃艸〃)♪
[69]たけぽんさんからのコメント(2017年09月13日 00時32分53秒 ) パスワード

追伸

上記の発言は

あくまでうちの考えなので
不愉快な発言があったのなら
申し訳ありませんでしたm(_ _)m
[71]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月13日 09時02分32秒 ) パスワード

たけぽん様 おはようございます。

不愉快だなんて、とんでもありません!

今、たけぽん様のコメントを拝見して、
心が洗われるような気持ちになりました。

御祖父母様の介護を心から尽して、お見送りになられたのですね。
簡単な事ではありません。
尊敬します。

蝋燭の灯
天国の御祖父母様は、たけぽん様をいつもお守りになられていらっしゃるのだな〜
と、コメントを拝見して感じました。
心が通じているのですね。

しかし・・・びっくりしたのは
私も毎朝、お仏壇詣りする時に蝋燭の灯を見て、「あ〜!」と感じる事があるからです。(父には言いませんが)
たけぽん様と全く同じです。
だから、本当に驚きました!

「ごめんねの前に・・・」
大変勉強になりました。

私も祖父母に今日から
「仲良くされていらっしゃるでしょうね(^'^)」って語る事にしました。
祖父は32歳で亡くなったので、祖母との生活は短かったので
きっと、今は二人でめちゃくちゃ「イチャイチャ♡♡」しているかもしれません。
(*^_^*)

あっ!側で祖父母から「こらっ!おっちょこちょいが!」(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
って言われたような気が・・・・ (^◇^)

ネーミング
気に入って頂けましたでしょうか(p_-)・・・(^◇^)
他にも考えていたのです(p_-)

宮原家の娘 華円 (はなまる)

とか(^◇^)

自虐ネタぁ〜

そうそう
普通は親子や親戚って「目鼻立ちがそっくりですね!」とか言われますが
家の場合(p_-)
父といると
「目元口元がそっくりですね!」と言われます。

いつも、”一か所”ハズサレテいます ✿ ✾

でも、しっかりと遺伝しているのは
「耳」です!

父は顔が小顔なので「耳」がよけいに目立ちます!
私も、学生の頃、キョンキョン(小泉今日子)のまねをして
ベリーショートにしたら
キョンキョンじゃなくて(ー_ー)!!
「モンチッチ」って言われました (@_@。
他に「怪物くん」・・カ〜イカイカイカイ♪ (;一_一)

「耳」が目立つ?のは
祖母も・・・です!
平川の曾祖父もです!

これは、岡原平川家の遺伝です(p_-)

ブログにアップした、曾祖父の弟の方の写真でも解ります(p_-)

家の一族の耳の遺伝・・耳の形は
耳たぶが大きいのではなく(ー_ー)!!
何だろう・・耳が縦に大きくて(長くて)、パラボラアンテナ?のような・・・
パラボラアンテナはちょっと丸いですね・・・家の場合は先?が少し尖っているから・・
う〜ん・・・あっ!
「コウモリ」しゃん?(?_?)
(ー_ー)!! 曾じいちゃん、他岡原平川家の先祖様 すみません<m(__)m>


私が推測するに(p_-)
この強い?遺伝。かなり遺伝力?が強く
おそらく・・・・めちゃくちゃむか〜し、平安時代・・いや(ー_ー)!!
目鼻立ちは変わっても、「耳」の形はそうそう変わるものではないのでは?

そうすると(p_-)
もしかしたら・・・古代の先祖からの遺伝からかもしれません・・・

きっと、古代の先祖は人に会うたびに
「あっ!!耳がっ!」と思われていたのではあ〜りませんか〜っ?
(表情に出さなくても・・(-.-)  )

でっ!?
一族を見分けるポイントは「耳」だったのかも・・

あっ!「耳」がっ!「こうもり」しゃんに・・ と気が付く顔は一族の証だったのかもしれません(p_-)

・・・・・・
くだらない事を書きました<m(__)m>

(^◇^)

母方の先祖様
そうですね・・・何だか今まで子供の頃からの複雑な感情があって、あまり考えていなかった
のが事実ですが。

ブログに書いたように、
「お前がこの世に生を受ける事が出来たのは、家(宮原家)に繋がる先祖様、平川家・深水家の先祖様方の”おかげ”だけではなく、お母さんの先祖様方の”おかげ”でもある事は忘れてはいけないよ」
と父はいつも言っていますし。

自分がこの世に生を受ける事が出来たのは、全ての御先祖様のおかげですから。

ちなみに・・・
実は
去年、高鍋の方から聞いた事は、ブログに書いた事だけではなかったのです・・
高鍋の方は
「あちら(母方の実家)の一族の方は、団結力が強くて、よそ者を受け付けない雰囲気がすごい・・」
と言われていました(..)

続けて
「お父さんはこちらの方・・」
「だから、お父さんは、溶け込むのに大変だったと思いますよ〜」
と(..)

しかし、その日、家に帰って”その話”を父にすると
父は
「そんな事はないよ(^'^) お父さんは向こうのじいちゃんやばあちゃん、義兄弟、義姉妹の方、そして親戚の方々にも、とても大事にして頂いたよ。」
「今でも、向こうのじいちゃん、ばあちゃんは大好きだ」
と言ってました。

父は溶け込んでいたようです。
さらに、皆にとても大事にして頂いたそうです。

最近になって、初めて父から聞いたのですが
高鍋の祖父母は、私が2歳くらいの頃、一緒に岡原に遊びに来られた事があるそうです。
祖母の実家の岡原平川家に泊まったそうで
家の親戚中集まって、皆で歓迎したって言ってました。

うんがっ(?_?)
では、何が・・・(?_?)

やはり夫婦間の問題かな?とは思うのですが
しかし・・・
母方は日向日下部氏(ひゅうがくさかべし)
『日向真幸院の郡司を務めた家』の一族の系ですが
そう言えば・・
平安時代・・・
球磨の良峯氏、「守高」と言う方の城に乱入したのは・・・
平安時代の日向真幸院の郡司の一族「草部氏」(くさべし)だったような・・・・

あれっ(?_?)・・・・あんれっ!

いやいや(ー_ー)!!
あまり考えないようにします(..)

最後に(..)
日向日下部氏の方に申し訳ないので書きますが
私の鼻がま〜るいのは母方の祖母が「ま〜るかった」からだろうと言う事で
母方の祖父や兄達の鼻は高かった!そうです。
(父から聞きました)

あと、「家と変わらんくらい男前が多かった」
と(父より<m(__)m>)

って言うか・・・父さんそれって・・・自意識過剰(ー_ー)!!

くだらない事ばかり書きました<m(__)m>

最後に

たけぽん様
たけぽん様から頂いたお話。
心の持ちようを教えて頂きました。
本当にありがとうございます。

(^'^)
[72]たけぽんさんからのコメント(2017年09月13日 14時54分25秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
そう言って頂けると大変
有り難く思いますm(_ _)m

介護で、病院にいてるときに
沢山の家族様達が来られるのですが
色々な考えが家族の数だけあるのは
当たり前なんですが

本当に色々な方々がいらっしゃいました

○毎日必ず誰かが来る所
○(患者様が)亡くなってかられんらくしろ
と、言う家族の所
○緊急事態で連絡(病院が)しても来ない
家族の所
○亡くなったと連絡(病院が)をしても
患者様をお迎えにナカナカ来ない家族の所

と、まぁ、他にも色々な
考えさせられる事が沢山ありました
ので、何となくそう考えるように
なっただけですf(^^;

蝋燭の灯
ミヤハラ様もそうなんですか?(・・;)

あれ、反応してもらえると
凄く嬉しくなりますよね?(^-^)

ミヤハラ様の祖父母様
ラブラブされてたなら、こんなに
嬉しい事はないですね(〃∇〃)

あと、親戚家族は良く似てる

うちは、長男長女は
祖母の方に似てるかな?(・・;)

従兄妹も、やはり祖母の方に
似てるし・・・(..)
うちも、私は母方(祖母似)
妹は父方の祖母似らしいし・・・(..)

うちは、全体的に似る様な感じですが
特に<鼻> が良く似てる様な
気がします(苦笑)

ちなみに
うちは<ま〜るい鼻>です(笑)

祖母はこの鼻を
凄く気にしていました(..)
[73]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月13日 17時59分21秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 横レスで失礼します。

 九州の歴史を探求していますが、中でも――
  @「熊襲と隼人」
  A「日神信仰と熊信仰」
にはミステリアスな魅力を感じております。

 @につきまして、その関係の書籍を収集しておりますが、教育社から出版
されております歴史新書8『熊襲と隼人』(井上辰雄著)が、数日前にアマゾ
ンから届きました。通読いたしましたところ、その中に、「諸県君牛諸」に
関する情報、「日下部氏」に関する情報等がありました。
ミヤハラ様の興味を持たれている情報だと思います。
 木花之佐久夜毘売と海幸・山幸も含めて、大和朝廷との関係を解く一つの
鍵となるものだと推察いたしております。
 要約しますと――
 「宮崎県の諸県(もろあがた)地方を支配した大豪族に、諸県君牛諸(もろ
あがたのきみうしもろ)がいた。その娘が髪長媛(かみながひめ)で、とても
美麗であると都まで聞こえていた。応神天皇はこれを召して、皇子の大鷦鷯
(おおささぎの)尊(仁徳天皇)と結ばせた。
 この二人からは、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたびのひ
めみこ)が生まれる。大草香皇子は眉輪王(まよわのおおきみ)をもうけてい
る。幡梭皇女は雄略天皇(仁徳天皇の孫)の皇后となったが、河内国河内郡
日下に宮居を与えられた。しかし皇子が生まれなかったので、その名を残す
ために名代(なしろ)の部民、日下部(くさかべ)を置いた。」
ということであります。
 名代とは、大王直属の集団で、「王族の功業を後世に伝えるために置かれ
た部民」ということであります。
 簡単に言いますとこんなことが書かれておりました。

 「隼人」というのがどのへんまでをひっくるめて云うのかについては、今
のところ名言できませんが、いずれにしても天皇家の外戚となっているもの
と推察されます。和珥氏や葛城氏や蘇我氏のように名を残せなかった何かの
理由があるのでしょうが、その辺がミステリアスな部分であります。
 私の甥の息子の名前が「隼人」でもあるという縁もありますので、今後も
探求して行きます。新しい情報が見つかりましたらご連絡をさせていただき
ます――

 
[75]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月13日 18時04分34秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 訂正:名言→明言
 失礼しました。
 
[76]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月14日 09時26分55秒 ) パスワード

たけぽん様、三つ柏服部様、皆様
おはようございます。

たけぽん様、三つ柏服部様、
昨晩急用で外出していまして、お返事おそくなりまして
申し訳ございませんでした。

三つ柏服部様、
御教示、ありがとうございます。
心よりお礼申し上げます。

「熊襲と隼人」「日神信仰と熊信仰」に関する書籍収集。
古代九州の歴史を探求する為に必要な事。
それは、様々な文献を、「自分なりの視点で読み解く事」。

三つ柏服部様は、私に欠けていた全てを実行なさっていらっしゃいます。
御尊敬すると共に、自分自身を深く反省致しました。

さらに
心の中にある「母方へのわだかまり」が、九州の歴史を調べる上で『障壁』となっていた事にやっと気が付きました。
母方が日向日下部氏の一族であると言う事は、こちらのスレッドを立ち上げたすぐに気がついてはいたのですが
その先「日向日下部氏」とはいったい?と、そこから先を調べた事が実は全くなかったのです。
それなのに・・『九州の古代に興味が湧く」とか『九州の古代を考えるとワクワクする』
など、言っていた自分はいったい何だったのだろう・・・
とご教示を拝読してつくづく、痛感しています。

『宮崎県の諸県(もろあがた)地方を支配した大豪族に、諸県君牛諸(もろ
あがたのきみうしもろ)がいた。その娘が髪長媛(かみながひめ)で、とても
美麗であると都まで聞こえていた。応神天皇はこれを召して、皇子の大鷦鷯
(おおささぎの)尊(仁徳天皇)と結ばせた。』

古代九州日向の豪族『諸県君牛諸』と応神天皇、仁徳天皇は姻戚関係にあった。
この事すら、私は調べていなかったのです。
お恥ずかしい限りです。

『この二人からは、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたびのひ
めみこ)が生まれる。大草香皇子は眉輪王(まよわのおおきみ)をもうけてい
る。幡梭皇女は雄略天皇(仁徳天皇の孫)の皇后となったが、河内国河内郡
日下に宮居を与えられた。しかし皇子が生まれなかったので、その名を残す
ために名代(なしろ)の部民、日下部(くさかべ)を置いた。』

『 名代とは、大王直属の集団で、「王族の功業を後世に伝えるために置かれ
た部民」』

「応神天皇」「仁徳天皇」「髪長媛」から続く系の方々を、とても解りやすくお教え頂いて、理解出来ました。
大変勉強させて頂きました。

実は、頂いた御教示により、私が今まで『気になって』調べていた事の「点」が「線」で繋がる事を発見しました!。
おそらく「球磨」にも「火の国」「火君」にも繋がる事だと推測します。

所で
甥子様の御子息のお名前は「隼人」君とおっしゃるのですね(^'^)
不思議な御縁ですね。
(すごくうれしくなりました。)

ちなみに、私の地元の球磨では「健」の付く名前の方が非常に多いです。
近所の70代以上の方々で名前に「健」の付く人は沢山いらっしゃいます。
他「功」(いさお)さんも「伊佐夫」であったり「勇夫」であったり他、沢山の「いさお」さんがいらっしゃいます。


先に書いた「点」と「線」の発見について
詳しくは、次のコメントで書かせて頂きますが

「わだかまり」により、閉じてしまっていた私の目を覚まして下さった
三つ柏服部様に
心よりお礼を申し上げたいと思い、取り急ぎコメントさせて頂きました。

三つ柏服部様
ありがとうございました。
[77]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月14日 10時40分56秒 ) パスワード

たけぽん様、三つ柏服部様、皆様

今回のスレッド「平川家について40」におきましても

たけぽん様、三つ柏服部様、
温かい御支援、ありがたい御教示を頂き、
真にありがとうございました。


新しいスレッドを立ち上げました。

コメント76で書きました
三つ柏服部様から頂いた御教示により、私が気が付いた事は
新しいスレッド「平川家について41」の方に続けさせて頂きます。

皆様
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

平川家について41に続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101605.html
[78]三つ柏服部さんからのコメント(2017年09月14日 11時14分13秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 少しはお役に立てたようで光栄です。
 「点と線がつながった」……推理の醍醐味ですネ。

 九州はやはり古代の歴史が渦巻いています。
 日本の歴史の曙の地といってもいい。
 九州へ行ってみて、改めて身近に古代が存在していることを 痛感
いたしました。
 そして、古代―中世―近世も、原初の流れ(線)を継いでいるような
感じがしており、その辺を今の知識では明言できませんが、大変興味
あるところであります。

 「隼人」、「熊信仰」、そして次のターゲットとしては
「卑弥呼」が呼んでいるような気がします!
 
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