【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101595 投稿日:2017年06月14日 03時23分51秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族XCU(課題確認35)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族XCI(課題確認34)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101591_70.html
スレッド91の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


前スレもアチコチ話題が飛びまくり

その代わりに
「松島氏について」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101592_9.html
で、

松島氏の家譜に書かれた「高天神城」の記載の意味に迫れました。


今スレでまた新たな発見がありますように。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月14日 09時58分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 あを様、新しいスレッドありがとうございます。

 「長田」と書いて、「おさだ」と読むか「ながた」と読むかの違い……
それは何なのだろうか。

 今、はっきりしていること――
 @遠江「長上(ながかみ)郡」は、「長田(ながた)上郡」という意味で、
 「長田(ながた)郡」が「上」と「下」に分かれた。つまり、遠江の地名の
 「長田」は「ながた」と読みます。
 A駿河の地名「長田」は、「おさだ」と読みます。
 B私の住む村落(ほぼ旧長上郡内)の善地には、「長田」氏がいて「おさだ」
 と名乗っています。つまり、長田(ながた)郡の中に「長田(おさだ)」氏
 がいます。
 C神戸の「長田」地区は「ながた」と読まれています。

 そこで、西三河の「長田致頼」より始まる「長田」氏は、「おさだ」氏
なのでしょうか、それとも「ながた」氏なのでしょうか。その当時の音声の
録音はありませんので、「長田」の文字だけでは判別はつきませんが。
 これは、「長田」氏の御子孫ならば、その語り継ぎでわかっているとは思
います。
 では、家康の命により、「長田」氏より「永井」氏に改名した時の直勝
の「長田」は「おさだ」だったのでしょうか?
 それと並行するように親族が、「長田(おさだ)」氏から「永田(ながた)」
氏に名前を変えたのでしょうか? これにはちょっと違和感があります。
 それよりも「長田(ながた)」氏から「永田(ながた)」氏へ、「なが」とい
う文字を一字変えたという方が自然だと思うのですが、いかがでしょうか?
[2]箱柳永田さんからのコメント(2017年06月14日 11時06分45秒 ) パスワード

 三つ柏服部様

>「長田(おさだ)」氏から「永田(ながた)」 氏に名前を変えたのでしょうか

 その通りです、永井も永田も<おさだ>から直接です。
 長田の名乗りは、色々な説がありますが、伊賀の地名<長田おさだ>からきております。 現在は おさだ と読みますが、昔は をさだ と読んでいた
 可能性が高いのです。
 三河には結構な数の 長田さんがいますが、 岡崎市に限って言えば
 ながた と読む家は、2軒だけです。
 
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月14日 11時14分56秒 ) パスワード

箱柳永田様

 ありがとうございました。これで今までのモヤモヤはスッキリして、今後
の探究に臨めます。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月14日 22時50分27秒 ) パスワード

         結論は一番下に書きましたがワタクシの思考過程を記しました:あはっ(汗)


名字の読み方は  メンド―だからカンタンに  というのもあるのかも知れないですね。


母方は河野  こうの  ですが
後妻に来た祖母は  「こうのです」と言うと名古屋では(は?)という顔をされるので  「かわのです」 と言い換えていました。


     こっちの方がワタシには(は?)でしたが。
     (こうのが何でかわの?)と不思議でした。


でも宮崎では  こうの  じゃなくて  かわの だと聞いたことがあります。


平家物語には  うちのゴ先祖サマの  河野通信は  川野  と書かれていますしね。


そういう習慣があるのかもですね。
どっちでも同じ、って。



     今は  固定  されているから「長田」氏が  オサダかナガタか  という問題が出てくるけど
     昔は  柔軟  だったのかも。


     オサダと言ってピンと来ないヒトにナガタと言ったら分かり易かった
     ナガタと言ってピンと来なかった人にオサダと言ったら分かってくれた

          こういうのもあったのかも。


現代の我々は「ふり仮名」を漢字につけているけど
古代日本人には日本語に「漢字」を付けたのですから。


オサダでもナガタの方が分かり易い土地ではナガタで定着したでしょうし
ナガタで居心地が悪い土地ではオサダになったでしょうし。
古代は別に違和感が無かったのかも。

現代は  ▽は▽でないと点数が貰えない教育制度になっているから  ここでアタマが固まっているのかも。


名古屋は絶対的に  長田はオサダで  ナガタは永田です。それで神戸の長田区がナガタというのは非常に違和感があります。


頼朝にも家康にも  オサダ  では気に入らなかったでしょうから忖度して  ナガタ  と名乗るようになったのかも。



http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%95%B7%E7%94%B0


【名字】長田

【読み】おさだ,おざだ,ちょうだ,ちょうた,ながた,ながだ
【全国順位】 268位
【全国人数】 およそ82,600人

「おさ」は「他」や「長」の文字をあてた。
「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。


長田臣、  △
宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、
村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、△
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏、
大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)、
丹党などにもみられる。


△だけは知ってた。
いろいろあるのねぇ。

ということは  イロイロ  ってことですね。
元は  古代の長田姓を  後世にもらっちゃった、名乗っちゃった、乗っ取っちゃった、  ということでしょうね。
それは古代の長田氏が名家だったからでしょうね。
[5]A.AKECHIさんからのコメント(2017年06月15日 10時38分43秒 ) パスワード

 全く関係ないかも知れません(もしそうでしたら、申し訳ありません。)が、伊賀の「長田」には、明智家の菩提寺=西教寺の末寺である「西蓮寺」があります。
 http://www.xhotzone.net/vh/24a/vh16112601.php
[6]A.AKECHIさんからのコメント(2017年06月15日 10時53分02秒 ) パスワード

 大事なことを申し忘れました。
 丸三柏服部様は以前に訪問されていらっしゃいますのでご存知と思いますが、西蓮寺を菩提寺とする藤堂采女家の「藤堂」は、もとは「服部」でした。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月15日 13時14分57秒 ) パスワード

A.AKECI様

 お久しぶりです。

 少し前まで、穴山氏について考察しておりました。
 その帰結するところ、@明智光秀(→斎藤利三)から春日局へ続く血脈と、
A穴山梅雪から見性院へと残り続く血脈には、徳川家康の特別の配慮があ
ったということであります。
 それは、徳川の天下取りにおける特別功労賞的な恩返しでもあったかも
知れません。即ち― 
 @については土岐家の再興
 Aについては、武田家の再興
でありました。
 また、どちらにも「三条西家」との深い関係がありました。
 ただ、家康の本当の目論見についての確証はつかめませんし、必ずしも
全体像が見通せた訳でもありませんので、今後さらに考察を続けて行きた
いと思っています。

 AKECI様の言われるように、伊賀にも長田(おさだ)郷があり、服部
氏族がいます。長田と服部は各地でセットで存在し、服部は羽鳥、服織と
いう表現になる場合があります。長田は「おさだ」と読まれる所と「ながた」
と読まれる所があります。
 いずれにしても、服部と長田は古代より関係が深い関係であります。

 「ながた」か「おさだ」かという問題と、「おさだ」か「さなだ」かと
いう問題もあります。
 三浦茂久氏の『銅鐸の祭と倭国の文化』によりますと(要約)――
 「『神代紀』の中に、天狭田(あまのさなだ)や狭名田(さなだ)、狭長田
 (さなだ)が出てきますが、サナはタナの転化したものであります。棚田
 は階段状で、間口が横に広く、奥行きが狭いから、狭長と書いて、(さな)
 と訓ませたのであります。しかし、狭長田では意味が通じにくく、狭田
 (さなだ)と長田(ながた)に分化しました」
ということであります。

 この説によれば、「さなだ」も「ながた」も同じということになり、あを
様のいうとおりとなります。

 霧島では「狭名田の長田御田植祭(さなだのおさだおたうえさい)という
ものがあるようです――何をか言わんやであります。

 ただ、「ながた」が「なかた」から派生すると解釈する説もあり、この
場合の「なか」はシュメール語から来ているということであります。
 詳細については、川崎真治氏が『方舟に乗った日本人』の中で詳しく書
いておられます―― 
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月15日 20時37分13秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 前レスで、AKECHI様のお名前にHがおちていました。失礼しました。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月17日 22時25分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 本日は、静岡へ行ってまいりました。
 その目的は――
 @静岡市立図書館で、箱柳永田様よりご教示いただいた『長田氏族の足跡』
  という本を探すこと。
 A北川殿(北条早雲の妹、今川義忠室、氏親の母)の墓を訪ねること。
B寿桂尼(今川氏親室、氏輝・義元の母、氏真の祖母)の墓を訪ねること。
でありました。

 昨夜は深夜まで、以前丸子の丁子屋の店頭で購入した『ふるさとの東路 
知られざる万葉の道』という、長田(おさだ)や丸子(まりこ)の地にまつわる
歴史について書かれた本を読み、長田村と長田氏について調べておりました。
 その中で、丸子は長田村に含まれるということ、長田には「他田舎人」や
「長田入道」がいたということが書かれておりました。
 しかしながら、それらの氏がが三河の長田氏とどうつながるのか、いろい
ろな説はあるものの、結論ははっきりしない。
 そのモヤモヤを晴らすために、静岡へ行って調べてこようと決めたわけで
ありました。

 今回の静岡行きは、結論的には満足した結果となりました。一晩眠った
後、明日に記します――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月18日 06時00分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


楽しみに待っています。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月18日 15時55分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、昨日静岡市立図書館でコピー(約70枚)してきた『長田氏族の
足跡』を読解しておりました。長田一さんという学者でも何でもない人が、
一念発起して祖先のために作成した大労作でありましす。本のボリューム
は400頁を超えます。その内の20パーセント弱の主要どころを、今回
コピーしてきた訳であります。

 箱柳永田様、本の所在を教えて下さり、ありがとうございました。この
本のおかげで、長田氏関係のことは、飛躍的にわかるようになりました。
 以前電話帳登録の長田氏の数を調べた時、御殿場地方に長田家がおおよ
そ500軒もありましたので、明治維新後に本来は長田でない新興勢力が
名乗っただろうと思っておりました。でもそうではなく、いわゆる本来の
長田一族が大繁栄した結果であったということもわかりました。
 土地があり、あるいは開拓し、子孫に分け与えられ食べて行くことがで
きれば、世帯数は200年もすれば100倍位になると推論しております。

 あを様、この本のコピーの内容ですが、おおよそ次の通りのことが書か
れております――
 @長田氏族の足跡と略歴
 A伊賀国の長田氏
 B伊勢平氏の起りと長田致頼(むねより)
 C野間の巨変事
 D三河長田氏の起り
 E長田直勝について
 F長田三郎について
 G大浜熊野神社について
 H永井一統十六家
 I長田一統十五家
 J駿河国(丸子)長田氏について
 K富士山麓の長田氏の盛衰について

 細かな内容は、今後必要に応じて紹介したいと思っております。
 この本によって、長田氏は伊賀と大変関係が深いことがわかりました。
ということは、服部氏とも当然無二の関係(共に平家方・南朝方)にあり、
服部(羽鳥・服織)郷と長田郷も隣接して併存しているのもそれを証明して
おります。

次回は、寿桂尼と北川殿について記します。本日は「おんな城主直虎」
の日であります。寿桂尼も1568年に80歳で亡くなりますので、ドラ
マの中ではもう1年位の寿命であります。浅岡ルリ子が適役かどうかは、
どうも西洋的な顔を好む監督であるような感じがしますね……。

[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月19日 02時17分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


目次を拝見しただけでも三つ柏さんの疑問の答えが書かれているようですね。
良かったですね。
行った成果が出ましたね。

それにしましても簡単に先に進めることになりましたね。
やはり「人」との関係は大事ですね。
どこでどんな重要な情報を得ることになるか分からないものですね。

わたくしからも永田さんに感謝!


本日の直虎楽しみです。
どういう展開になっていくやら。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月19日 16時42分58秒 ) パスワード

本日の「直虎」。

ちょっと意外な展開に驚いています。
視聴者の期待を裏切るというか、そういう見方もあったのか、と。


乳母のたけがかなりボケが入って来て
    しっかり泣かせましたね
    素晴らしい力を持った女優さんです
姪を送って来て・・・
笑いました。

    裏切られました!一人二役だったとは。それも見事に演じ分けてましたね。
    役者冥利に尽きた、でしょうね。



龍雲丸が家臣になるのを断って小野政次がホッとしてましたね。
(な〜んだ、龍雲丸<が>直虎<を>振ってくれたよ〜)っと。

   井戸のシーンからが面白かったです。
   政次は直虎が好きだなぁ〜!っと。
   私は貴女の最大の味方であり理解者です。私以上に貴女のことを思っている者はいません、と。


高橋一生は内面を演技するのがうまいな〜、っと。


さらに驚いたのは
瀬名さまが武田と内通してたのは実は瀬名さまが家康の心を汲んでのことだったのかと。
瀬名さまは家康が好きだったのだな、と。
家康の誤算は信長が竹千代の処分まで求めたこと。
家康にとって信長は自分が思ってたよりずっと恐ろしい人だったこと。


庵原氏は信玄の大河ドラマで山本勘助で分かってたけど
なかなか立派な人間性に品位のある血筋だったのだなと。

    でもあの庵原朝昌役の俳優さん、メークアップがケバ過ぎて引きました。
    あそこまで目張りを入れずとも充分に美しいオトコなのに。


若いオトコ、それも美男子に、自分のことを認められて直虎も舞い上がったでしょうね。
ふふふ


新野の娘の三女が庵原に嫁ぎ
次女は北条家臣に嫁ぎ
じゃ、光浦靖子は誰に嫁ぐの?かなり行き遅れてる感じ。


あの塩留の話も意外でした。
そうか
闇商人が大儲けしたってコトか、と。

昔も今も、御禁制にすれば大儲けする輩が出現するのよねぇ。
氏真はやっぱり  足りなかった  ということですね。
謙信の歴史的美談。
これをも裏切る意外な暴露話でした。
で、高価な塩を買えない底辺の人々は困ったでしょうね。
2転3転意外なエピソードでした。
深いっ!


これまでの大河ドラマって歴史の流れを追うのに精いっぱいだったけど
この大河は深い。
バックグランドもしっかり描いてる。
特に  ムロツヨシ  というか瀬戸方久に経済から語らせているのが非常に新しい!


登場人物の1人1人がしっかり描き分けられてるし。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月20日 15時50分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田氏について、様々な考察をしておりました――

 @箱柳永田様、あを様の平熱スレッド「三河平氏」、「三河平氏その2」
、「その後の長田氏・永井氏」も読ませていただきました。

 A伊賀上野で購入した『伊賀旧考・伊乱記』に目を通しました。

 B『長田氏族の足跡』のコピーに目を通しました。

 C『永井直勝』にも目をとおしました。

 D『戦国の武将永井隼人とその系譜』にも念のため目を通しました。

 
 これらから、私の「感じるもの」をキーワードで表しますと――

 伊賀――平氏――平頼盛・池禅尼――羽鳥郷・長田郷――服部氏・長田氏
――平兼良――真壁羽鳥郷――菅原景行(道真)

 これらの点と線を言葉で説明できるようさらに考察を深めます。
 長田忠致は悪く書かれていますが、その名誉を挽回できたらとも考えて
います――

 
[15]箱柳永田さんからのコメント(2017年06月21日 00時29分09秒 ) パスワード

  あを様 三つ柏服部様

>F長田三郎について
 三つ柏様には、蛇足になりますが、静岡の城巡りのようなHPがありましたので、紹介します。
 >http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/ 静岡の城 総覧
  大河ドラマの一助になれば幸いです。
 >http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/3120001/  長田氏館
 此処で、長田三郎と高祖父 加茂次郎致房が出てきます。
  
 >長田忠致は悪く書かれていますが、、、、
  ありがとうございます。まー、悪く書かないと芝居はヒットしないし
 小説は、売れませんからね。
  
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月21日 07時27分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

>菅原景行

http://yoshi-kanagawa.blog.jp/tag/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E6%99%AF%E8%A1%8C

下記にコピペしました



永谷天満宮(横浜市)は日本三躰の天神様。


まず永谷天満宮と言う横浜市港南区にある神社をご存知でしょうか?
天神様と言えば大宰府に左遷された菅原道真公を神様として祀(まつ)っている神社です。
実はこの永谷天満宮は日本三躰(にほんさんたい)の一つと呼ばれますが、その由来は…

福岡の太宰府天満宮と大阪の道明寺天満宮、それとこちらの永谷天満宮が実はある事で他の天満宮と異なり特別な天神様なんです。


ヨコハマって実は…

旧相模国の「鎌倉郡の一部」



旧武蔵国「久良岐(くらき:倉巣)郡」

「都築(つづき)郡」「橘(たちばな)郡」

…から構成されていて、日本書紀にも頻繁に出てくる土地なんです。


日本武尊と弟橘媛の神話や浦島太郎の物語も舞台は神奈川県川崎市と横浜市と横須賀市なんですよ。

何で関西や九州を舞台にして活躍した菅原道真公と関係無さそうなヨコハマの永谷天満宮が凄いのか?



それはですね…
実は菅原道真公の遺産と関係があります。
遺産と言うのは御神体が道真公がご自分で銅鏡を見ながら彫刻した自像の木製彫像の事なんです。
それが日本には3体だけあり、その収蔵され祀られている場所が…
太宰府天満宮…福岡県
道明寺天満宮…大阪府
永谷天満宮……神奈川県横浜市港南区

…なんです。


しかも永谷天満宮は道真公の5男で菅秀才と呼ばれた菅原淳茂公が直接住んでいた場所と伝承してるんです。

で、永谷天満宮では道真公の彫像を御神体として御祀りしてらっしゃいます。



永谷天満宮と坂東八平氏、及び菅原景行公と菅原敦茂公の関連
この部分  略





[菅原景行公とは?]
菅原道真公の三男。 
駿河国に左遷された後、関東に下向し平将門公の御父君:良将公の根拠地であった下総国豊田郡に程近い常陸国真壁郡に移住しました。 
延長4年(926年)景行公は将門の叔父・良兼公らと真壁郡羽鳥(現:真壁町)に菅原天満宮(現在は茨城県水海道市大生郷に移転)を開きました。
この時代から坂東平氏と菅原家の深い繋がりが開始されたと推測できます。

更にこの菅原氏と平氏の結びつきは当時の醍醐天皇の指令によるものだった節があります。

菅原氏の多くは藤原氏の専横により官位こそ抑えられていましたが、醍醐天皇に登用にされ有名な五男淳茂公をはじめ多くは朝廷にも残りました。

そして後の坂東八平氏の祖で平将門公の叔父良文公も醍醐天皇に重用され、関東の賊を討てと綸旨を頂き鎮守府将軍として東日本に下向し、旧鎌倉郡村岡郷、今の藤沢市村岡を本拠地にし関東に武士文化の基礎を築かれました。

この綸旨の「賊」とは「平将門公」ではなく、親王赴任国である上総国や下総国の荘園を支配する藤原氏の事だと思われ、つまり上総国下総国の支配権を取り返し藤原氏の軍事的勢力を削ぐ意図があったのだと思われます。

因みに上総、下総は音が皇室と密接な「宇佐八幡宮」の宇佐に通じますし、古語読みをすると「かみすさ」「しもすさ」と成るので素戔嗚尊とも所縁が有りそうです。

菅原家の主君の醍醐天皇とその御先代宇多天皇は藤原氏の専横に苦慮し御親政を取り戻すべく菅原道真公を重用しましたが、藤原氏の策謀により道真公はハメられ目論見が頓挫した経緯がありました。


それにより醍醐天皇と菅原氏が頼ろうとしたのが臣籍降下した元皇族の平氏だったのでしょう。

醍醐天皇と菅原氏と平氏の連携を示すのが正に、菅原景行公と平良兼公の逸話です。

当時まだ亡くなれて間も無い道真公を祀る天神様をいち早く常陸国に建立した事に両者の結びつきの真意が現れているのでしょう。

平将門の乱は、菅原道真公の左遷と同じく藤原氏の陰謀によるものだったと思われます。

藤原氏の挑発に乗ってしまい挙兵してでも反藤原連合を貫く将門公と、あったかも知れない醍醐天皇の関東制圧の密勅を実質的に維持する為に体面上、藤原氏=朝廷に従属するかの政策的な対立を生み出す藤原氏の陰謀だったと考えるのが自然です。

結果、醍醐天皇の策謀と藤原氏の陰謀は痛み分けで、藤原氏は関東の支配権を失い醍醐天皇も平将門公を失いました。

しかし平良文公を鎮守府将軍に任命していた事により関東の臣籍降下貴族支配には成功した訳です。

この流れを証明するように平将門公は当初朝廷公認で活動していましたし、将門公に同調していたはずの良文公は後に将門公の支配域の多くの支配権を与えられ、後々の坂東八平氏発展と鎌倉幕府御家人の基礎を築かれました。
平良文公が旧鎌倉の藤沢を本拠地にしていた事と、菅原景行公と坂東平氏の関係が深かった事から、永谷に移住した菅原道真公の御子息の正体は、三男の菅原景行公だった可能性は高いと思われます。
そう考えると、先程想定した日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在する理由、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その後、関東に下向した宅間上杉家が、関東に定着していた菅原氏より、醍醐天皇との御縁で菅原道真公の像を譲り受けた可能性が有るかも知れません。



景行公以降も菅原氏の武将が東日本で活躍した記録が見えます。
その人物は鎌倉幕府初代征夷大将軍「源頼朝の"ひいひいおじいちゃん"」に当たる軍神:源義家(みなもとのよしいえ)公が活躍された前九年・後三年の役に参戦した武将として登場します。
彼は源義家公が率(ひき)いた「五陣の軍士」と言う源家直属部隊の武将として登場します。

[五陣の軍士の中の菅原氏の武将]  
軍神:源義家公の父君の源頼義公の与力衆と直属の軍勢で5備えに編成されていた部隊の総称で、旗下に以下の武将の名前が見えます。

平  眞平
菅原行基

源  眞清
刑部千富
大原信助
清原貞廉
藤原兼成
橘  孝忠
源  親季
藤原朝臣時経
丸子宿禰弘政
藤原光貞
佐伯元方
平  経貞
紀  季武
安部師方 

この内、菅原行基公は御名前から推測して菅原景行公の御子孫に当たるのではないかと推定できます。 
関東において坂東八平氏の祖で相模国の開拓領主だった鎌倉郡村岡城(現藤沢市村岡)を本拠にした平良文公の御子孫は菅原家と平家の深い関係を裏付ける様に、関東の御霊神社の御祭神として広く信仰されている軍神:鎌倉景政公を筆頭に「景」の字を継承している武将が多数見られます。 
具体的には…

・鎌倉景政公 
 (村岡城:藤沢市村岡を含む横浜市旧鎌倉郡部と鎌倉市及び藤沢市の旧鎌倉郡部)

・大庭景義公
 (大庭城:藤沢市大庭〜茅ヶ崎市一帯)

・梶原景時公 
 (村岡城:藤沢市村岡〜鎌倉市梶原一帯)

・長江義景公 
 (横浜市栄区長江)

・長尾景弘
 (長尾城:横浜市栄区長尾台一帯〜現JR大船駅周辺及び鎌倉郡玉縄地区一帯)

※長尾家の有名な子孫
・長尾景春
 太田道灌のライバル。長尾景春の乱を引き起し関東全土を席巻した張本人。
・長尾景虎(上杉謙信) 
 山内上杉家を継いで後に関東管領上杉謙信を名乗った。

以上の鎌倉氏子孫の名に見える事実から推察すると…

つまり、相模国に移住してきた平氏が、永谷や関東各所の菅原家との関係の中で氏子として天神様を崇拝していたのではないか、その経緯で菅原家より「景」の字を一字拝領したのが平良文公の系統の坂東八平氏だったのではないかと推測出来ると思います。
又、菅原景行公と平将門公の叔父上との逸話や、源頼義の奥州征伐の際の五陣の軍士に菅原氏と平氏の武将が名を共に連ねている事から、何らかの関係が有った可能性は高いと思います。
そして平家や源家が盟主として菅原姓や橘姓紀姓等の古代有力貴族の子孫の支持を得て彼等を与力と出来たのは、彼等の対藤原独裁連合的な共同出世目的の意味合いが有ったのではと推察しています。

――永谷天満宮の歴史全体像考察――  
以上の事を根拠に、永谷天満宮と敦茂公の伝承は、宅間上杉家の祖先勧修寺家が菅原家と同じく宇多天皇と醍醐天皇に共に御仕えした家系だった事に由来するのではないかと思います。
つまり永谷天満宮の御神体である菅原道真公が自らの姿をを彫られた木製彫像は宅間上杉家(勧修寺家)が在京中の南北時代、北野天満宮に有った物を動乱から保護する目的で勧修寺家が保有する事に成ったか、関東に定着した菅原家子孫から足利家と親密だった宅間上杉家に譲渡された可能性が有ると思います。


余談ですが北野天満宮は位置的に曾(かつ)て京のメインストリートだった千本通りに近く、少し北には平安京造営当初の御所が有った舟形山の南の地域へ通勤も便利な位置にあります。
そう考えると敦茂公の京都時代から、山科の勧修寺付近や朝廷の中で宅間上杉家の祖先である藤原北家勧修寺流上杉氏と菅原家の交流が有った可能性も有り、やはり、敦茂公そのものと宅間上杉家の祖先そのものの関係も有った可能性も有ると考えるのが自然だと思います。
保元の乱で出世コースを外れてしまった一族ですからね。
藤原本流に政争でハメられた家同士が仲良くしても全く不思議ではありません。
永谷天満宮の敷地に道真公の御子息のどなたかが住んで居た訳ですが、永谷天満宮の伝承では「菅秀才こと5男の菅原敦茂公」が住んでいた事になっています。
淳茂公の兄で三男の景行公のお住まいだった可能性から御二人の話が混同された可能性は高いと思います。
しかしながら、宅間上杉家の祖先が、ここまで説明した通り、菅原景行公と菅原敦茂公の両方と御縁が有った可能性は高いと思います。
先にも具体例を挙げましたが、永谷郷と隣接する旧鎌倉郡一帯の開拓領主鎌倉景政公の一族とその祖先平氏と景行公の関わりと氏名に含まれる「景」の一字です。

一字拝領は古来の文化でもあります。 
景行公が中央では余り有名では無かった事や、宅間上杉家の祖先と菅原秀才敦茂公が醍醐天皇の繋がりで御縁が有る事、活躍した舞台が主に播磨国や京と言った関西地方だった事から後に関東に下向してきた京都の勧修寺家出身の宅間上杉家による永谷天満宮の造営時に旧領主菅原氏の顕彰が行われ、その際、菅原景行公と菅原敦茂公の逸話が糾合された可能性が有るのではないかと推測しました。 

又、日本参躰天満宮と言われる所以(ゆえん)である「道真公銅鏡写し自作の木製彫像」が何故永谷天満宮に存在するかも、先述のとおり…
@北野天満宮から→勧修寺家へ →上杉家から→宅間上杉家へ
A関東の菅原家から→宅間上杉家へ
@かAの推測が出来るのではないでしょうか。 
仮に景行公が永谷天満宮に居住していた説を支持するならば、永谷天満宮の縁起とは異なり些か不敬に当たるのかもしれませんが景行公の実績の再発掘と言う意味では無駄には成らないかと思っています。
そして3男景行公も5男敦茂公も、御両人(ごりょうにん)とも道真公にとっては御子息(ごしそく)に当たる訳で、天神様の名を傷つける事は無いかと思います。
敦茂公だったにせよ景行公だったにせよ、私達神奈川県民や関東人にとって坂東八平氏の祖である平良文公と共に神奈川県と関東地方の発展の基礎を築いて下さった大恩人である事は変わりません。
菅原道真公と御子息と平良文公に対し、永谷天満宮の存在がある事で感謝出来る事が大切なんだと思います。

この永谷天満宮は鎌倉の明月院や長谷寺程の大規模ではないものの、紫陽花の名所でもあります。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月22日 00時33分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ほんと歴史は深いですね――

@長田氏の祖の平良兼は、茨木県真壁郡羽鳥に荘園を持っていた!
 菅原景行(道真三男)は、どういう訳か真壁郡に移住している。
 そして良兼協力の下、菅原天満宮を開いた。
 坂東平氏と菅原家は協力関係にあった。

A長田忠致親子は、野間に住む以前には、伊賀の長田郷に住んでいた!
 天正伊賀の乱の頃に、服部一族に並んで長田一族が勢力を有していた。
 この長田一族は藤原氏の出というが、関係はあるのだろうか?

B長田庄司(忠致)一族は、野間の変の後、駿河「丸子」に行き、そこに
 二十年程住んでいた! 
 丸子は長田氏に関する謎を秘めている。

 また伊賀にも行きたいと思います。その前に丸子の再調査に行ってこ
ようと思っています。

 本日は、源平の時代についてずっと学習していました。清盛の最初の
妻が「明子」であるのには驚きました!

 いずれにしても、長田忠致、源義朝、平清盛・知盛、平家長、池禅尼、
平頼盛、平宗清は同時代の平家仲間、服部氏の名前は表面には出てきま
せんが、その裏で働いていたのではないかと推察いたします――

 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 05時18分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

本当に日本の歴史は深いですね。
その深さというのは  世界中どこでも歴史は深いに決まっているけれど  日本の場合は  直接に自分達の先祖のことですものね。
       中には途中で日本人に化けた人達や先祖に入って来た外国人もいますが
知り合いの先祖と自分の先祖が戦っていたり味方になったりそういうのまで分かってしまう。
「ヲイヲイ、君のご先祖さまとウチの先祖はXXの時代からの仲だったんだねぇ」という会話がツイ最近の挨拶として成立してしまう。笑


ワタクシにとって今回三つ柏さんから教えていただいた菅原道真のお子さまの景行公が
       平家時代の岡山の名家の瀬尾氏と繋がり
       南北朝時代の仲に繋がるのか
       と確信になりました。


当然ですよね、力を持てば仲良くなりたいですから
それが現代に至るまで信頼を回復出来る
そして子孫同士が理由は分からないけど初対面で恋に陥ってしまう。

歴史を紐解けば  ああ、先祖が仲良かったのか  とカンタンに理解出来てしまう。

理解出来れば夫婦の絆も堅固になる。


日本って  自分にはちゃんと歴史の中に先祖がいた  って分かるのがスゴイです。


近所に長田さんというお金持ちの一家があって
とっても美形で上品な頭の良い子供達で
今になれば良い家から代々それなりの優れた家から嫁が来てたからだろうなと分かります。

そんな事が分かってしまうのが日本って面白いな、です。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 05時38分35秒 ) パスワード

Aこの長田一族は藤原氏の出というが、関係はあるのだろうか?

この  長田氏は平氏系で  
藤原というと  
伊勢の平氏の伊藤氏で  平家のご先祖さまの平貞盛の盟友の藤原秀郷の子孫で
有名なところですと平=藤原=伊藤忠清ですね。

   
    父親:藤原景綱
    兄弟:景家、忠直、有房、能忍
    子供:忠綱、忠光、光景、景清

なので家の名字は  長田氏・平(服部)氏・藤原(伊藤)氏  と異なっていても
血で何重にも繋がっているのだと思います。
そこに菅原氏も繋がるのですよ。


ついつい父の姓で考えるから血の繋がりを忘れてしまう。そして養子やら融子やらの関係も忘れてしまう。


     ちゃんと記録に書いて代々伝えて置かないとワケ分からなくなってしまいます。

     力が有れば子も非常にたくさん生まれて  その中にはアチコチ行方不明になるのも出て
     ある時代にひょこり出現して名を挙げる。

     本流が反発すれば  あんなの知らない  となるでしょうしね。
     中にはちゃっかり名字を乗っ取るのも確かにいるでしょうしね。
     でも名を名乗るのはそれなりの関係があったからでしょうしね。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 05時42分26秒 ) パスワード

>清盛の最初の妻が「明子」であるのには驚きました!

高階基章(たかしな の もとあき)の娘ですね。
平安時代末期の廷臣。
叔父の木工頭・高階為章の養子になった。

実父は醍醐源氏の但馬守源家実。


高階家はかなり身分の低い貴族ですが
娘は清盛の嫡男の重盛を、翌年には次男の基盛を生みました。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 06時24分07秒 ) パスワード

>長田忠致、源義朝、平清盛・知盛、<<<平家長>>>、池禅尼、平頼盛、平宗清は同時代の平家仲間、
>服部氏の名前は表面には出てきませんが、<<<その裏>>>で働いていたのではないかと推察いたします


平家長の俗姓が  服部  です。本姓 平   俗姓  服部  です。このヒトは平家貞の6男です。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E8%B2%9E

平 家貞(たいら の いえさだ)

平安時代後期の武将。
伊賀を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人である。

平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」(『愚管抄』)といわれた。



生涯

平忠盛の側近として知られ、公卿たちが殿上人になった忠盛を闇討ちにする計画を立てた際、
殿上の小庭に武装して控えて未然に防いだという逸話がある(『平家物語』巻一「殿上闇討」)。


        この時、父と一緒に護衛をしたのが  家長  です。


忠盛の信頼は厚く、平氏の本領である伊賀国鞆田荘の沙汰人となり、東大寺などの勢力を排除して在地経営に携わった。

忠盛が西国の海賊追討に赴くとこれに付き従い、海賊追捕の賞として兵衛尉から左衛門尉に昇進する(『中右記』長承3年(1134年)閏12月12日条)。

忠盛の死後は清盛に仕え、保元の乱・平治の乱で活躍する。

保元3年(1158年)清盛が大宰大弐となり九州へ進出すると、家貞も筑後守に補任され、
薩摩の阿多忠景や肥前の日向通良の反乱を鎮圧するなど、平氏の九州での勢力拡大に大きな役割を果たした。

『平家物語』は一ノ谷の戦いで戦没したと記しているが、『玉葉』ではこれ以前に既に他界していた旨の記述がある。




どっちがどっちか分かりませんが
家貞の嫡男は貞能です。母が宇都宮氏ですから嫡男にされたのでしょう。

4男扱いが家継で、このヒトの俗姓は  平田  です。
伊賀国山田郡平田が領地でした。平田の農協?のところに明音寺だったと思いますがムカシの屋敷跡です。

 
    この人のことは前世の父だと思っています。
    平家一門の平信兼、伊藤=藤原=平=忠清と一緒に最後まで源氏と戦った人です。
    敵は佐々木秀義で、佐々木という名字は生理的に大っ嫌いだったのが、こういう事だったからか、と分かりました。

       南北朝時代の母方の敵も佐々木氏でしたしね。不倶戴天の敵の名字ということです。笑




家長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E9%95%B7

平 家長(たいら の いえなが、生年不詳 - 元暦2年(寿永4年)3月24日(1185年4月25日頃)

平安時代末期の伊賀国(現三重県)服部の武将。桓武平氏庶流。左衛門尉。平内左衛門家長。伊賀家長とも。
平家貞の子。
服部時定の父?。

『平家物語』で平知盛の乳兄弟とされ、水島の戦いにその名が見られる。
壇ノ浦の戦いで平家が敗れると、知盛と共に入水した。

服部氏は家長を開祖と称している。


おまけ

[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 06時26分41秒 ) パスワード

おまけ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%B3%80%E5%9C%B0%E6%B0%8F%E5%9F%8E

千賀地氏城(ちがちしじょう)

三重県伊賀市予野にあった日本の城(丘城)。
別名、千賀地城とも呼ばれている。

築城主     服部保長(千賀地保長)



千賀地氏城は、国道368号から西へ1kmほど行くと予野という集落になる。集落の両側に丘陵がありその谷状地となっている。この両側の丘陵の14もの小城が群立しており、その中の一つが千賀地氏城となる。予野集落に入った右手最初の城が千賀地氏城で、旧字で近地谷(千賀地谷)といっていた。

服部家長の流れを汲む服部保長は足利義晴に仕えていたが、当地に移り住み、地名の千賀地を姓として当地に城を築いたと言われている。しかし服部保長の子服部正成は伊賀国を出国、徳川家康に仕え1582年(天正10年)本能寺の変が起こると徳川家康を助け、伊賀山中から四日市に移し、そこから海路で岡崎城へ送った(伊賀越え)。服部正成は後に与力150騎、伊賀同心300名を支配下に置く旗本8千石となり、江戸城半蔵門に名を残している。服部正成は1596年(慶長元年)に死去、服部正就が跡を継いだが、家臣の統率を乱し1605年(慶長10年)に失脚した。他の一族としては、藤堂藩城代の藤堂采女、津軽藩家老服部長門、桑名松平藩服部石見等がいる。


       知賀地氏堡 按 千賀地半蔵則直之を保つ

       —三国地誌


とあるが、城に関する伝承はない。

城跡は20m四方の平地で、東、西、北の三方に土塁を巡らし、北側の段丘には堀を切って独立させている。また東、西、北の三方は急崖となっている要害の地となっている。北側土塁上には7×4mの櫓台か見張り台があったと思われる一段高い台地が設けられている。本郭内は、服部半蔵、藤堂采女(伊賀上野城家老)誕生の地として石碑が建てられ、同地区の公園として保存されている。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 07時18分23秒 ) パスワード

1つ分かったことは

「平家物語」に書かれている平貞能が宇都宮に落ちて行ったハナシは
宇都宮氏が平家に仕えていたからと聞いてた(読んだ)けど
実は母上が宇都宮氏の出身だったからだったのですねぇ。


       服部家次という人も宇都宮に落ちて行ったけど断られ
       この人は、もっと山奥の  湯西川  というところに落ちて行ったそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD

『平家物語』一門都落の章段によれば、
貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こして遺骨を高野山へ送り、
辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという。

離脱

寿永2年(1183年)平家は8月中旬に九州に上陸するが、豊後国の臼杵氏、肥後国の菊池氏は形勢を観望して動かず、
宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地の情勢は厳しいものだった。

特に豊後国は院近臣・難波頼輔の知行国であり、
後白河法皇の命を受けた緒方惟栄が平氏追討の準備をして待ち構えていた。

惟栄が重盛の家人だったことから資盛・貞能が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。

平氏は10月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり平氏本隊から離脱した(『玉葉』閏10月2日条)。


                    ここで娘を複数持って
                    その娘達のことから名古屋駅の南方に(?方向音痴です 汗)ニニョシ(二女子)とか五女子とかいう地名があります。
                    秀吉の生まれた中村区(=名古屋駅のあるところ)ではなく前田家の中川区内。


                    ここから津島神社の大橋さんが平貞能の子孫ということになるのです。


平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。
朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。

                だって母方の親戚ですものね。親戚というより従兄弟関係?


この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。

北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、
そして南東北でも仙台市の定義如来など貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 07時44分42秒 ) パスワード

日本人はロマンに満ちていますね。

日本の歴史が皇紀2677年間続いているのかどうかはホントかどうか分かりませんが
1700年を超えるのは確からしい。

そして「天皇の赤子」なんて有り難い?タイトルと引き換えに招集された時代もあったけど

日本人の殆どは天皇家に繋がるのでしょうね。
だからこそ天皇家は今に至るも続いている。
もし誰か天皇に取って替わろうとしても必ずそれを倒す人物が出現。

日本の歴史の初めには藤原氏が天皇家を乗っ取ろうとしたけど反対勢力が必ず出現して藤原氏の野望を阻止して来た。

     で、いいのかな?

足利義満でも天皇家を越えられなかった。
信長も秀吉も家康も。



服部家長は16歳で清盛のパパの忠盛を護衛して
以降
平家の守りを支えていたのかもですね。だから  左衛門尉  で当然だったのかな?

源氏が伊賀に進出して来た時に家長のノウハウでゲリラ戦を仕掛けていたのかもね。

で、以来、伊賀は手強い土地になったのかも。



左衛門尉・・・・武士の誇りの官職ですね

平安時代

宇都宮朝綱
宇都宮成綱
藤原千常 ・・・・・・・・・・ これ、ビックリよね。松島家譜に出てましたよね、この?人物
鈴木重邦 
源満政  
源頼親  
源義忠  
源為義  
源頼賢  
源兼綱  
源義経  ・・・・・・・・・・ 平家追討役でした
望月国親 
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月22日 09時26分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの価値ある貴重な情報、とりあえず御礼申し上げます。ありが
とうございます。これから、一字一句、よく咀嚼しながら読解いたしたい
と思います!

 ところで、源平の時代といえば、やはり『平家物語』に始まり、『平家
物語』に終わるのかなと思うようになりました。そういう意味で、『平家
物語』を核心にすえ、また客観的に探究しているあを様に対して、改めて
尊崇の気持ちが湧いてきました。
 歴史の事実は、行く川の底に沈んでしまい、また流されつつありますが、
人の心は、その悲しさと愛おしさの物語の川となって、いつまでも流れ続
けます――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 10時15分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


>歴史の事実は、
>行く川の底に沈んでしまい、また流されつつありますが、
>人の心は、
>その悲しさと愛おしさの物語の川となって、いつまでも流れ続けます


まさに!
涙が出ます。

川の底に沈んでしまい永く顧みられることが無くなっていても
時の大荒れで沈んでいたものが巻き上がりちらっと姿を見せます。

「何だろう?」と心に留める人が出現して調べ始めます。

でも時間の流れに石は丸く削られ藻もこびりつき、なかなか元の姿が分かりません。


平家物語の他に源平盛衰記=こちらは週刊誌のような扱いで書かれている=もお読みください。
他にもいろいろ参考書はあります。


平家物語では  平=服部=伊賀=家長は  乳兄弟の平知盛さまと手に手をとって壇の浦に沈んだように書かれていますが

当時の家長の年齢


清盛の父である忠盛は、
天承2年(1132年)3月13日、
上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。
その功績により内昇殿を許可された。


この時、家長は16歳。


壇の浦で平家が滅びたのは  寿永4年3月24日(1185年4月25日) 。つまり53年後。

この時、家長は69歳。


家長69歳で「乳兄弟」の知盛さまは34歳。
乳兄弟は有り得ないでしょ?

     つまり家長は  知盛さまの乳兄弟の父親 の年齢ですよね。
     ふふふ



それに「扇の的」の那須与一が見事に的を射て
やんややんやと平家の人も源氏方同様那須与一の見事さを褒め称えたのに

アホの義経が「あいつも射ろ」と御諚を出したのです。


那須与一の快挙を扇を持って称えた老人  年齢はアラ還  の家員 を那須与一は射殺しました。


ここで  え?伊賀家長が知盛さまの乳兄弟?  とビックリしました。
家員で老人
家長は10歳は年上
それでは  乳兄弟  ではないじゃないか!
と。


きっと家長の息子または孫が知盛さまと手に手をとって入水したのでしょうね。

    うちの母方の先祖は17歳で男の子のパパになってますから。


こうやって  ん?  と疑問に思うと  読書って  倍面白くなります。
    素直じゃないワタシ。


歴史的実像にちょっと触れたのかな?と楽しいです。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月22日 15時47分50秒 ) パスワード

本日のニュースで東区の洪水の様子を見ました。
大丈夫でしたか?

[28]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月22日 16時14分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 確かに昨日は台風のごときでございまして、色々な警戒警報が何回も
出されました。安間川という昔の天竜川の支流が、最近の都市化に伴い、
その排水量の限界に達しておりますので、いつものことですが雨水がた
まって道路が冠水してしまいます。これは浜松市の直面している大きな
課題でもあります。

 でも、確かに気候は随分変わりました。極端になりました。年々夏を
迎えるのが゛怖くなりました――
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月23日 17時20分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 歴史は「線」であるということを、最近つくづく感じております。歴史
を「点」で解釈するのは、その一面を見るだけになり危険であるということ。
 でも「点」が「線」で結ばれる、あるいは「点」が無数に重なって「線」
になるためには、膨大な知識・情報が必要であります。従って、時間も膨大
にかかるということになります。大変なことであります――

 長田氏の探求にこだわっているのは、長田氏と服部氏のいわゆる「ミッシ
ングリンク」を見つけることにあります。長田氏と服部氏は、歴史上の出来
事において、コラボレーションのエピソードが少なく、表面的には「近くて
遠い仲」のような感じになっております。私は、自分の住む小さな村(今は
市)において、長田氏の改姓後の「永井氏」が県内で一番多く存在し、我ら
の服部氏と仲良く暮らしている。この服部氏は旧浜松市・浜北市の中では、
浜松市泉の服部氏(丸に並び矢)に次いで多い。もっとも、多いといっても
大族ではなく、他の地区と比べて相対的に多いということであります。

 この永井氏の家紋は、一番古い(今は使われていない)ものが、「一文字
三星」であるのを見つけました。現在は、「永井切り梨」が半数、「丸に
三つ柏」が半数となっております。
 我が服部氏はどうかといえば、全部「丸に三つ柏」であります。一門でも
「丸に抱き茗荷」である服部氏が一軒あるのを、浜松のお寺で見つけました
が、これは、例外かなと思っています。

 この長田氏と服部氏がどこから来たのか、この謎を解きたいと強く思い
続けております。
 長田氏・永井氏のここに到る経緯がわかれば、われら服部氏についても
少なからずわかって来るだろうというわけです。
 
 『長田氏族の足跡』を呼んでいましたら、ちょっと不明でしかも重要な
謎の部分があり、それを解きたいと思っています。
 それは(要約)――

 「1532年頃、長田氏族興亡に関する重大事件が起きた。長田勘助重元
 の時である。神領を失い、大浜の地を去り、静河の国なる長田荘へ移って
 行った。残った勘助重元の妻は、酒井与四郎正親の姉であったので、正親
 の助力によってようやくにして長田氏の滅亡を防ぐことができた。さらに
 勘助重元は「松平広忠」に乞うて、神領安堵の書状を得て、神社の衰亡を
 救い、かつ長子白勝を神主として長く神社祭祀を司り、神社と長田氏を
 安泰に置いた」
とあります。

 著者の長田一氏のこの労作は、誤字等の間違いがあり、気をつけないとい
けないのですが、「静河の長田荘」とは一体どこなのか比定したいと思って
おります。

 磐田市中泉代官の大草氏の先祖について、「長田喜八郎広正」が、大浜よ
り何らかの理由によって磐田の山名郡新貝村に移って来た」あるいは、「長
田喜八郎広政の孫にあたる喜兵衛吉政が、新貝に移って来た」との説がある
と郷土史家の神谷昌志氏は記しております。

 三河大浜から磐田新貝への移住……何があり、何をたよって来たのでしょ
うか? 今、調査をしているところでありますが、松平広忠の親の殺害にか
らんだいわゆる「森山崩れ」が関係しているのでしょうか。広忠も磐田の
掛塚にやって来たという伝承が残っております――


 

 
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月24日 18時34分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田氏の存亡の危機について調べていましたが、それは内紛であったのか
どうか、もう一度『長田氏族の足跡』のコピーしてない部分をチェックして
来る必要を感じました。
 ただ、あを様の平熱スレッド「その後の長田氏・永井氏へ」を読んでいま
すと、[9]の所で箱柳永田様がこう書いておられました――
 「長田の苦難時代――家康の「徳政令乱発」で社領を失う」
ということであります。「おんな城主直虎」でも「徳政令」が問題となりま
すが、やはり家康の三河においてもそうであったのかと、改めて「徳政令」
なるもののインパクトを感じ直しました。
 史実として、それがいつのことであったのか、記録があれば確かめてみた
いと思っています――

 本日は、また新野左馬助のお墓に参拝してまいりました――目的はお茶。
牧之原の南端にある新野産の「お茶―深蒸し茶」が結構おいしいのです!
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月25日 02時23分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

>牧之原の南端にある新野産の「お茶―深蒸し茶」が結構おいしい!

もともと静岡のお茶は美味しいものですが
深蒸し茶ですか。

    深いコクがありそう。


静岡では学校でもお茶が飲めるとかで
アメリカではお茶は痩せるなんて言われて人気です。


新野家は直虎のママが新野の出身で
本家の娘達が良家に嫁いで

    結婚って物凄い意味があったのだと改めて思います。
    恋愛と違って結婚は重大な事案だったのだなと「直虎」を見ながら思います。
    まさか400年以上経って  新野氏  が脚光を浴びることになるなんて
    今川に仕えたままだったら歴史の絨毯の下に掃き捨てられていたでしょうに。


「徳政令」=足利幕府政治の象徴  というイメージですが
戦国時代にもあったのですねぇ。

なるほど、ほんの10数年前の日本でも徳政令が期待されてたってワケですね。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月25日 22時32分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、ツアーにて箱根に行ってまいりました――

 このツアーにおける歴史事項は一つだけ、それは「箱根の関所」であり
ました。この関所でひとつ気が付いたことは、陣幕の家紋が「上り藤に大」
であったことであります。それは大久保家の家紋、そう、江戸時代にここ
箱根は小田原藩の管轄下にあり、北条氏滅亡後の藩主として、大久保忠世、
大久保忠隣、そして四代とんで、大久保家が六代続いておりました。

 もう一つの歴史事項は、湯本駅で登山電車を待つ間の一時間を利用して、
小山を一つ越え、「早雲寺」を訪ねたことであります。
 早雲寺には、北条家五代の墓が建てられておりました。また、その近く
には、あの連歌師の「宗祇」の墓も建てられておりました。
 これらについては、特に前もって調べて行った訳ではなく、「早雲寺」
という寺の名前に魅かれて行って、偶然にこれらの墓群に出会えたのであ
りまして、結果として大満足でありました。

 境内の奥の一段高い所に並ぶ北条早雲以下五代の墓に向かい、般若心経
を二巻唱え捧げてまいりました。
 紫陽花の花々が咲き誇り、その中でのつかぬまのひと時ではありました
が、優しい気持ちに満たされました――

[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月26日 01時00分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

箱根まで遠足でしたか。

箱根の関所を大久保家が管理してたとは全く連想もしていませんでした。
ということは大久保家は信頼されていた、そして復権もした、ということですね。


>早雲寺には、北条家五代の墓が建てられておりました。
>また、その近くには、あの連歌師の「宗祇」の墓も建てられておりました。

宗祇の墓についても100%知りませんでした。


全く知らなかった情報を2つありがとうございました。
般若心経、わたくしの分もありがとうございました。


>紫陽花の花々が咲き誇り、その中でのつかぬまのひと時ではありましたが、優しい気持ちに満たされました――

今の季節は藤の花が終わって紫陽花でしたね。
ワタシは豪華な丸い紫陽花の花より素朴で控え目に咲くヤマアジサイの方が好きです。
単に我が家のアジサイが山紫陽花だっただけなんですが。


http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%B1%B1%E3%81%82%E3%81%98%E3%81%95%E3%81%84%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%80%80%E3%81%AF&spf=1498405475193

http://www.shuminoengei.jp/m-pc/a-page_p_detail/target_plant_code-36/target_tab-5


久し振りにアジサイの画像を引っ張って<<<優しい気持ちに満たされました>>>

ありがとうございました。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月26日 06時01分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私には、花の種類はわかりませんでしたが、確かにあを様よりの「山紫陽
花」の画像を見てみますと、私の好きな紫陽花は「紺の花びらの外周に白い
花びらが点在する種類」でありました。これが一番奇麗だなと感じます。
 去年も森町の紫陽花寺を訪ねた時、それらを写真に撮り、引き伸ばして身近
に飾っておりました。「紫陽花ブルー」はひょっとして「十一面観音」の化生
した色でしょうか…たしか長谷寺も紫陽花で有名でした――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月26日 13時33分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

山アジサイは  日本の大人の女性  という感じですね。
強さ・自己主張  そういうものを一切隠していますね。
それでいて内面からの優しさが滲み出る  実は  芯の強さはある  そんな感じ。
なんか・・・皇后さま=美智子さま=みたいな感じがします。


本日の「直虎」。
ああいう話って日本にありましたか?
直虎の実話なのか、どこかの話をパクッて来たのか?
よくまぁ、あんな話に盛ったな、と感心しました。


あのアイデアは直虎役に振るより瀬戸方休に演じさせた方が良かったんじゃないかなと思いました。


だけど「政次はずっと昔っから冷たいヤツだった」と直虎が言って
        確かに高橋一生のイメージは冷静沈着な感じ
直虎は政次みたいなのは<<元々>>好きじゃないんだぁ〜(という設定だったのか)
とビックリしました。

      ちょっと足りない感じの直親タイプが好きなのか、と。
      ま、確かに直親はアタタカイ感じでした。ヌケタ感じでした。ふふふ
      本物の一族関係ですから、そりゃ直親を好きだったでしょうね。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月26日 16時58分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「おんな城主直虎」のドラマ館を訪れた人の数が、過去の大河ドラマの
場合と比べると、これまでのところ最高であるとのことであります。では
視聴率はというと、それほどでもないようです(詳しくは調べておりません
が)。

柴崎コウさんの表情・演技・声には、いい面と悪い面がはっきり出てし
まいますので、もう少し全体のトーンを統一したらどうかと思います。
 監督がわざとそれを狙っているとしたら、三河万歳的イメージで、悲劇
を悲劇とせずに喜劇とし、その楽観的バイタリティーにより、つらい現実
を乗り越えさせようとしているのでしょうか。悲劇を何回も乗り越えたあ
かつきには、ベートーベンの「第九」のような大いなるクライマックスの
喜びとエンディングが訪れる――のでしょぅか? ハレルヤ!
 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月27日 07時39分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「おんな城主直虎」のドラマ館を訪れた人の数が、
>過去の大河ドラマの場合と比べると、これまでのところ最高であるとのことであります。

書き入れ時ですから早くたくさんの人に来て貰って地元経済を潤して欲しいものです。


視聴率は今の時代、いくらでも他の時に見られるので、割れているのでしょうね。
その上にNHKですから視聴率は稼がなくても困らないから視聴率的にはラクでしょうね。


柴咲コウさんは冷静沈着というイメージでしたが
今のドラマはキリキリカリカリ群雄割拠の時代の女性ですから行かず後家の頑張りということなんでしょうね。
大家の姫君の領主じゃなくていつでも今川に呑み込まれそうだし、この先、武田や織田や北条にも飲み込まれる可能性がある小国。

おっとりとは構えていられない主人公の設定なのかもですね。


    タカセの声の方が低くておっとりしてて、どっちが年上か、と笑ってしまいます。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月27日 14時45分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

瀬戸方久の子孫についての面白い話がありました:
以下コピペ


方久の子孫が、現在も浜松市に在住している中村洋一氏だ。


「大河ドラマでの瀬戸方久は、見るからに目端の利いた商人のキャラクターですが、実際の方久は、新田喜斎という武将でした。

喜斎は一時期、副業として商人をしていた時期があり、
その時に瀬戸方久と名乗っていたと言われています。


井伊次郎法師(直虎)から瀬戸村の地を分け与えられて管理し、
政商として塩の販売を行ったり、運河を作り、供養の三重塔を建てたりもしていました。

その後、紆余曲折を経て隠棲していた喜斎は、
江戸幕府が開かれて間もない慶長11(1606)年、
凶作で困窮した農民たちのために年貢を軽減してほしいと代官に直訴状を書き、処刑されてしまうんです。


当初は幕府を恐れ、どこの寺も葬儀を行うことを躊躇っていましたが、法要を執り行ってくれたのが、ドラマにも出てくる龍潭寺でした。


その後、一族によって喜斎を祀る小さな神社が建てられました。
我が家は喜斎の長女・房が嫁いだ中村平三郎の子孫で、地元で先祖代々農業を営んでいます。


10月15日になると神社の前で、中村家一門で喜斎の慰霊祭を行っており、これは現在も連綿と続いています」


ドラマに出てくる瀬戸方久を見て、
自分がイメージしていた先祖と大きくかけ離れている、
と驚いたという中村さん。

あくまでも物語だと納得しつつ、家族中で見ているという。以上
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月27日 14時46分15秒 ) パスワード

やっぱり金持ちは金持ちと結婚するんですねぇ。
名家は今に至るも名家。

なるほどね。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月28日 00時36分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新田喜斎(瀬戸方久)のイメージが、以前と全然変わりました。以前は悪者
と思っておりました……それは最後に処刑されたからでありますが。でも、
いわゆる「政商」であったようで、「塩」にからんでの処刑のようではあり
ます。茶屋四郎次郎もそうですが、金儲けの裏には、いろいろな秘密があり
そうですね。
 中村家とは、雄踏の中村源左衛門家のことだと思われます。浜名湖の海上
権にからんでいたので、瀬戸方久とは物資の海上運輸で利害関係が共通し、
そんな関係から姻戚関係になったものと考えられます――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月28日 13時55分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

雄踏の中村源左衛門の中村家って
「直虎」に出てる本田博太郎演じる気賀の町衆の中村与太夫=気賀の町衆の取りまとめ役=の一族でしょうか?

         直虎 ⇔ 瀬戸方久 ⇔ 中村家
         この関係が成立してますものね。


当然と言えば当然ですが
浜松って紆余曲折はあっても   今でも  戦国時代  の家が存続してる  ということですね。

すごいな。。。溜息


http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/shitei/yuto/yuto/nakamurake.html

中村家の歴史


中村家の初代中村正範は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んでいました。

文明13年(1481)には、14代正實が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、
その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須の五か荘が与えられ、
文明15年(1483)に宇布見に屋敷を構えました。

16世紀の今川氏の時代には、同氏の家臣で代官を勤め、浜名湖の軍船を支配しています。


永禄11年(1568)に徳川家康が遠江に入国した時、18代正吉は船を出して迎えるなどの御用を果たし、
徳川氏に仕え今切軍船兵糧奉行や代官を勤めました。

こうした関係から天正2年(1574)2月8日に徳川家康の側室お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、
その時の胞衣(後産)を埋めた胞衣塚が現存しています。


一昨年か去年の書き込みで中村家について書いたか読んだかの記憶があったのですが
なるほどね。
源範頼の末裔でしたか。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月28日 22時38分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


ワタクシが記憶していた中村家はお万の方の引受先でした。


今朝もう1度上記のレスを読み直したのですが
    >永禄11年(1568)に徳川家康が遠江に入国した時、
      18代正吉は船を出して迎えるなどの御用を果たし、
      徳川氏に仕え<<<今切>>>軍船兵糧奉行や代官を勤めました。

今切という場所に目が釘付けになりました。
ということは服部家とも何かあったように思います。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月29日 02時41分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 郷土史家川島幸雄氏の『小野篁と遠州小野一族』という本を振り返って
読んでみましたところ、かつて蛍光ペンでマークしたところではあります
が(既に忘却しておりました)、そこにはいろいろ人間関係が凝縮されてお
りました。
 要約しますと――
 @中村源左衛門正吉の妻は松下若狭守長則の娘であります。
 Aつまりは、長則の長男の松下之綱の姉であり、松下清景や松下常慶と
  は「はとこの子」どうしとなります。いずれにしても松下家とは親戚。
 Bさらに、松下清景は井伊直政の継父となりますので、井伊直政とも親
  戚関係ということになります。
 C中村源左衛門正吉の娘は、小野和泉守政直の妾腹の子である小野五郎
  左衛門正親の妻となります。つまりは小野家とも親戚になります。
 Dこの五郎座衛門正親の孫の小野次郎左右衛門正直は松島忠兵衛常茂の
  娘を妻としております。
 その他、高林家とか、松島氏を通じて市野家とかいろいろな人間関係が
 広がりますが、ひとまずこれにて止めておきます。

 服部家との接触も当然あったものと推察されますが、服部家は影の氏族
で、秘密裏の行動が主務ですので、今のところ具体的には拾えていません。
 服部家は長田家や永井家とも近い仲ではありますが、同様に表の記録に
は残っていないのだと思います――
 
 
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月29日 10時30分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
実にいろいろな有力者と関係していたのですね。
当然と言えば当然です。


中村家と松下家との関係は当然です。
小野家とも、というところから驚きの連続になります。ただし小野五郎座衛門正親の母が誰か分かれば、当然、という運びになるでしょうね。
そこから松島家とも関係していった、というのは更なる想定外でした。松島忠兵衛常茂さん、懐かしいですね。

で、松島家の山下家との関係、つまり松下家との関係、
こうしてグルグルぐるぐる姻族関係が固定化してガッチリ遠江の実力者だったということですね。


有力者は有力者と親戚になりますから地元に残った家は今に至ってオヤオヤあそこの家がテレビに出ていますよ、と
新たなる親戚付き合いが復活するでしょうね。

こんなところから三つ柏さんのお家の秘密も漏れて来るかもですね。


家康の次男の結城秀康の母(お万の方)について:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%9D%E9%99%A2


長勝院(ちょうしょういん、天文16年(1547年) - 元和5年12月6日(1620年1月10日))

戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。江戸幕府の初代将軍・徳川家康の側室。
おこちゃ、於万の方、小督局とも。結城秀康の生母。


天文17年(1548年)、三河国知鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘として誕生する。

名は万、おこちゃ、松、菊子、於故満と伝わる。

[1]随庵見聞録に収録されている本多重次書状写に「おこちゃ」と見えるので、当時本多重次には「おこちゃ」と呼ばれていたとされる。
[2]また、知立市史は万の母を水野忠政の娘とする。[3]                 これはビックリ!家康の母=お大さまとは姉妹ですよ。つまり  家康とお万はイトコ同士?!
      それじゃ本多重次がお万を保護したのは当たり前だったということですね。
              この本多重次は本多正信とは仲が悪かった人です。


はじめ徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされるが、
家康が永見氏を臣従させたときに万を仕えさせることを約束させ、
元亀三年に浜松城に仕え、於義伊を産んだともされる。

[4]この時、双子であったといわれ、俗に永見貞愛がもう一人にあたるという。

知立神社には、万が貞愛の容体を心配して送った手紙が残されている。

[5]当時、双子は「犬畜生と同じ双子腹」と忌み嫌われていたため、貞愛は万の実家・永見家に預けられ、
於義伊も家康に嫌われ2歳(または3歳)の時に初めて家康と対面した。


天正12年(1584年)、11歳の於義丸が豊臣秀吉の養子となり、のちに元服し秀康と改名した。

秀康は結城晴朝の養女・江戸鶴子と結婚し、婿養子として結城氏を継いだ。

関ヶ原の戦い後は秀康が北ノ庄城の城主となったため、万もこれに同行する。

慶長12年(1607年)に秀康が北ノ庄にて急死すると、家康の許可なしに出家するが、咎めはなかった。


元和5年(1619年)に72歳で死去した。戒名は長勝院松室妙戴大姉。墓所は永平寺。


永見氏

秀康の子孫である越前松平家系の各大名家では、大名家嫡流のみが松平氏を名乗り、庶流は長勝院にちなみ永見氏を名乗っている。



逸話

於義丸を産む前に築山殿の嫉妬に遭い、寒い夜、裸にされて庭の木にくくりつけられた。これを見つけた家康の家臣・本多重次によって保護され、於義伊を産んだという。当時、万は浜松にある浜松城に住んでおり、築山殿は三河国岡崎に住んでいた為、後年創作された話である。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月29日 16時12分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 誤り:小野五郎座衛門正親の「座」→「左」に訂正します。

 このところ、平家関係をいろいろ学習しております。『平家物語』
による琵琶法師の平曲は、日本の古典文芸の生みの親でもありますね。
例えば浄瑠璃を生み出す、例えば能の謡曲につながる、例えば詩吟、例
えば講談というように、「日本的心」を持った芸の根源になったのでは
ないかと思っています。
 昔は暗くて嫌いだった平家琵琶が、今はしみ込むように聞くことがで
きるようになりました。

 平家に魅かれるのは、ある意味「滅びの美学」と申しましょうか、そ
こには忠義の美あり、愛情の美あり、感激と怒りと惜別の涙があります。
 世阿弥と平家物語の関係は、水と魚の関係だったのかも知れませんね。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月30日 07時44分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、「服部」と「永井・長田・永田」の関係を更に探求いたしており
ました。
 
 ここはとても大事なことと思っておりますが、長田喜八郎広正が、磐田に
移住してきたのは事実のようです。
 では「何故、長田喜八郎広正は、磐田の山名郡新貝村に移って来たか」と
いうことであります。
 長田喜八郎広正は――
 @長田重元の父、永井直勝の祖父であります。
 A更には、宗良親王の子尹良親王の玄孫、大橋重信の孫にあたる人であり
  ます。

 通常は、人が移動する場合、縁を頼るということになりますが、その線で
いきますと、広正には磐田に縁があったということになります。
 その縁については、今のところ具体的にはわかっておりません。長田関係
か、大橋関係か、南朝関係か、仕事関係か、宗教関係か……でも血縁関係を
頼ったというのが一番自然なことと思われます―長田氏一門は、多地域に拡
散しておりますので。

 移動した理由は、三河の碧南郡大浜あたりで、一向一揆が起こり、その
対策として徳政令が出され、多大な損失が出たようです。また、湊の整備事
業の資金提供も重荷になったようです(この辺は箱柳永田様のご意見を拝借
しておりますが、正しく解釈出来ているかどうか……)。
 そのために磐田に来て、新規まき直しを図ったのでしょうか。当時海運が
盛んで、大浜〜掛塚間にも船は通ったと思われます。

 
 但し、その後のことがポイントであります。
 磐田市発行の『中泉代官』によりますと、こう書かれています――
 「長田喜八郎広正は、初め三河国大浜に住んでいたが、のち遠江国山名郡
 新貝村に移り、長田を永田と改めた。
  その子政吉は、同村八幡宮の神主を務めていたが、元亀元年(1570)家康
 の遠江入国にあたり、召されて仕え、忠勤を積み、和口郷において知行高
 1000石を賜り、御厨庄の代官に取り立てられた――」

 つまり、広正には政吉、あるいは正吉という息子がいたということになり
ますが、いくつかの長田系図を見ても、この名前には出くわしておりません。
今後さらに他の系図関係も調べてみたいと思っております。

 次回は、この政吉についての続きを記します――

[47]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月30日 11時24分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


>昔は暗くて嫌いだった平家琵琶が、今はしみ込むように聞くことができるようになりました。



琵琶の音色ってすっごく湿度が高いですよね。
ネットリまつわりついて来て気が滅入るような音色。
梅雨の夜なんかに聞いたら疲れが余分にドッと出て来る感じ。


でもあれが良いって分かるようになったなんて
日本の風土が理解できる歳になったってことですね。
大人になったね〜

それは自分自身が命の限界が近づいたことに気付いたからかも。
先祖から頂いた命。
それが今は先祖達の近くに行くようになった時がやがて訪れると覚悟し始めたからでもある。


自分の先祖はどんな風に何を思って死んでいったのか。
何を思い残して逝ったのだろう?
自分はその重さを受け止めただろうか?


琵琶の音色ってものすごく深いですよね。
それがしみじみと胸に入って来る。
死者の思いが入ってるみたいですよね。
[48]箱柳永田さんからのコメント(2017年06月30日 23時11分15秒 ) パスワード

 三つ柏服部様
>広正には政吉、あるいは正吉という息子がいたということになり
ますが、いくつかの長田系図を見ても、この名前には出くわしておりません。

 私の方でも、広正の長男は重元になってます、が広正の弟になる永田(長田)家次の孫(清蔵)と重元が義兄弟(西尾鈴木文書 鈴木家の姉妹)になるのです。兄重元、弟清蔵になるのですが、年齢を想像するに広正が40歳以後に重元が生まれたと、考えています。 (庶長子がいてもおかしく無い)
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月01日 02時54分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 箱柳永田様、貴重な情報ありがとうございます。私は昨日久しぶりに浜松
中央図書館へ行き、ひょっとして長田・永井・永田氏関係の資料はないかと
探しました。そしたら永田様、ありましたのです!――長田平白赤著『平氏
長田家 異説新説考』及び『平氏長田家 大河のごとく』であります。
 こんなうれしいことはなく、さっそく主要部分のコピーをしてまいりまし
た。まだ、サーッと目を通しただけの段階でありますので、細かいことは言
えませんが、著者の先祖に対するたぎる思いが伝わってきます。「義朝事件」
の及ぼす影響がいろいろ尾を引いて来たということも伝わってきます。
 長田広正に庶長子がいてもおかしくないということも、別の表現ですが
書かれておりました。
 系図も完全なものではないということ、一応の参考資料というスタンスで
取り扱った方がいいということを、改めて感じました。歴史はいわば「総論
賛成、各論反対」であり、いかに各論を詰めて行くかに探求の必要性と価値
があるということも感じました。
 いずれにしましても、この資料、よく読解したいと思っております――

[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月01日 07時16分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

良かったですね!


本当に  系図  というのは、ヨソ者には解読が難しいです。


そこにその系図の該当家のアイデンティティが書かれているわけで
同じ家のはずでも
また違って来るのです。

   名前が違う、通称が違う、家紋が違う

実はそこにアイデンティティが出ているワケです。


ムカシは力が強ければ強いほど子供の数が多いですから
後世にいろいろ表現が異なってしまいます。

ちょっとした差がものスゴイ差になってしまいます。


でも謎解きが出来れば  ああ、そういう事だったのか、  と納得出来ます。
大変ですがたくさんお読みになってください。

そして

ご自分の家紋が何故三つ柏紋なのか分かると良いですね。
では朗報のレスを楽しみに期待していますね。 
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月01日 07時26分33秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101599.html
スレッド93を立てました。


新しくスレッドを立てました。
キリの良いところでどうぞ。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.