[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月09日 00時22分21秒 ) | パスワード |
松島氏研究家様
本日、先ほどより拝読させていただきました。まさか松島氏の情報が掲載
されるとは夢にだに思っておりませんでしたので、ビックリいたしました。
と同時に、とても嬉しい気持ちで、勇気百倍の気分であります。
松島氏に関する資料はたくさん収集してありますが、一本の線にまとまら
ないというのが最大の問題でありました。
浜松と信州箕輪とは天竜川でつながっているのに、両方の松島氏がつなが
らない……これにずっと悩まされてきました。
今回のお話で、「1564年に貞基一族が徳川氏をたよりにして天竜川
沿いに下向した。直系は小笠原、分流は松島氏である」ということから、
ちょうどその頃、長上郡羽鳥にて「松島右衛門家」が浮上してきています
ので、ピッタリつながります。
また「基長は浜松城奉行を務めた」ということですが、正に「小笠原源太
夫基長」が源太夫堀という運河を敷設する奉行を務めております。
これらの一致だけでも、一気に点が線で結ばれた感じです。骨格部分で
あります。あとはさらに情報の確実化と肉付けをして行く……突然に明るい
未来が開けて来た感じです。
これからもよろしくご教示の程お願いいたします。
丸三柏服部
もちろん、
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月09日 02時22分48秒 ) | パスワード |
はじめまして。
>永禄7年(1564年)四世貞基代に一族は徳川氏を頼り、天竜川沿いに下向しております。
どんな経緯があったのでしょうね。
ご存じでしたら是非。
教えてチャンでもいけないと思い検索してみました:
http://slideshowjp.com/doc/1979881/%E4%BC%8A%E9%82%A3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A83%EF%BC%8D%E5%AE%A4%E7%94%BA-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E7%B7%A8%EF%BC%88%E4%B8%AD%E4%B8%96%EF%BC%89-3%E5%9B%9E%E7%9B%AE%E6%8A%95%E7%A8%BF-%E6%B8%85%E7%80%AC%E5%B8%82%E5%9C%A8
ここに
伊那の歴史年表3−室町-戦国編(中世...
武田氏と高遠城 54年間1528_享禄01 武田信虎が諏訪攻め_諏訪頼満が ...
天文16年(1547)理由は定かではないが、木曽義昌が伊那の松島貞実を呼び出し殺害した。
..... 宗を頼る箕輪町松島_明音寺(曹洞宗)(松島城主_小笠原長清の末葉・松島氏が開基) ... 秋山信友が高遠城主へ、松島氏3世_貞実没1557_弘治03 川中島3次-上野原の ...
とありますがワタクシのPCというか能力ではサイトにいけません。
三つ柏さん、頑張って!
[3] | 松島氏研究家さんからのコメント(2017年06月09日 16時26分10秒 ) | パスワード |
お読みいただきましてありがとうございます。
信州の松島氏が下向した理由はやはり、武田軍にかなり攻め込まられたからです。
松島氏は他の伊那衆とともに宗家小笠原長時の家臣である福与城主藤澤頼親の下で武田軍と勇敢に戦った事は知られています。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月09日 22時53分24秒 ) | パスワード |
松島氏研究家さん
さっそくありがとうございます。
ということは「平熱」の「松島家譜」で謎になっている 高天神城 の件については
反武田方だった
というのが謎解きの答えなのでしょうね
というのが確信になって来ました。
三つ柏さん
こんな所でオオヨソの見当がつきましたね。
[5] | 松島氏研究家さんからのコメント(2017年06月09日 23時29分38秒 ) | パスワード |
はい。もちろん、高天神城城主は同族の小笠原氏ですので、松島氏は徳川側です。その後も姉川の戦い、大阪の陣にも徳川側で出陣していることが小笠原家譜には記されています。もちろん、下っ端ですが…
[6] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月10日 07時29分49秒 ) | パスワード |
松島氏研究家様
空の青海のあを様
情報ありがとうございます。
松島氏については、小笠原氏を中心として、今までの資料・ノートを
改めて復習・見直しをしております。
すべての「点」が、「線」で結ばれる日も来るかも知れません(とりあ
えずは推理としてですが)――
[7] | 松島氏研究家さんからのコメント(2017年06月12日 23時44分57秒 ) | パスワード |
もうひとつ、私の推測でありますが、
松島氏菩提寺明音寺の開山(初代住職)は静岡市清水の真珠院三世です。真珠院は今川氏の菩提寺のひとつでありますので、開山は明らかに伊那地方の武田の動きを偵察するために送られてきたスパイ的な役割をはたしていた様な気が致します。この推理はいかがでしょうか?
[8] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月13日 01時46分52秒 ) | パスワード |
松島氏研究家様
遠江―伊那松島―諏訪への道、駿河清水―甲斐―諏訪への道、つまり天竜
川筋ルートと富士川筋ルート。お寺も領主の目論見に沿って教線を伸ばし広
げたと推察すれば、駿河から甲斐を通ってより、駿河より水窪―下伊那飯田
―伊那松島の方が安全だったでしょうか。
@「伊奈松島の明音寺」の開山者は「大仲霊乗大和尚」。
Aその大和尚は「駿河清水の真珠院」の三世。
B同じくその大和尚は「諏訪の永明寺」の二世でもありました。
その順番としては、A駿河→@伊那→B諏訪でしょうか。
今川氏は仏教を推進しましたので、今川氏か教線を延ばさせたとすれば、
その目的は情報拠点、戦略拠点を設けることが目的であったかも知れません。
お寺を情報拠点にするというアイデアには、今初めて出会いましたので、
裏付け資料は今の所ありません。あくまで推測であります……。
でも、お寺にしろ神社にしろ、確かにうさんくさい匂いはいたします。
「真珠院」には何か特別な秘密があるような感じもいたします――
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月13日 05時10分19秒 ) | パスワード |
研究家さん
>開山は明らかに伊那地方の武田の動きを偵察するために送られてきたスパイ的な役割をはたしていた様な
なるほどね〜
全く脳の片隅にもありませんでした。
コロンブスの卵で「なるほど」と!
こういう大事な基本をコロッと忘れていました。
平和ボケのワタシ。
[10] | 松島氏研究家さんからのコメント(2017年06月14日 23時29分44秒 ) | パスワード |
信州箕輪の松島氏の子孫であるという小笠原源太夫基長は浜松城の奉行を務めておりましたが、ちょうどその頃、箕輪領5千石の知行に浜松城主3男の太田資良が入っています。この二人は浜松城で繋がっているように思えるのですがいかがでしょうか?
[11] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月15日 15時16分40秒 ) | パスワード |
松島研究家 様
遠江浜松と箕輪松島はいろいろな縁でつながっています。不思議な縁で
あります。
箕輪松島には、松島陣屋があり、浜松城主太田資良が1699年に陣屋を設
け、7ケ村を治めたということであります。
小笠原源太夫は、浜松藩主松平資俊(在位1702〜1723)に命じられ、浜松
南部地域で堀を造る工事を1723年より1726年まで行っております。
ということは、太田資良と小笠原源太夫は、時代的には近いところにお
りますので、浜松城でつながっているという可能性は大であります――
[12] | 松島氏研究家さんからのコメント(2017年06月15日 18時05分21秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
ありがとうございます。
やはり浜松と箕輪は深い関係がありそうですね。
方言も似ているとのこと。
偶然だと思いますが、箕輪町と浜松市庄内地区は公的に交流を続けています。不思議な縁を感じます。
[13] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月20日 09時50分52秒 ) | パスワード |
松島氏研究家様
三日前に伊賀の柘植(つげ)に行きました――
下柘植の西光寺という所へ行きましたら、その墓地の中の一画に、服部・
松島・藤沢の墓石群が仲良く向かい合い、あるいは隣同士で並んでおりまし
た。それらの家紋は全て「八角輪に横並び切り竹」で、基調としては服部宗
家の「源氏輪に並び切り竹」のように推察されました。
伊賀という所は、よくよく考えてみますと、落武者や逃亡者、避難民の隠
れ里でもあり、またよそからの支配関係者の土着、そして元々の郷民、また
渡来人等、いわば多種多様な人がいて当然の土地柄であります。
諏訪系の藤沢・松島氏がいつどのようにして来たのか、服部氏との縁はど
のようなものであったのか気になる所であります。
伊賀・甲賀(柘植の北隣が甲賀)と諏訪(信濃)は不思議にも深い関係があり、
底通しているとも言われており、甲賀(望月)三郎兼家が媒体となっておりま
す。実際、敢国神社の本殿の隣には、甲賀(望月)三郎兼家の祠が祀られてお
り、このことからして、甲賀・伊賀と諏訪(信濃)との関係があったというこ
とが証明されます……。
伊賀と諏訪、これは深く掘り下げて探究するに十分な魅力のあるテーマで
あります――
[14] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年07月20日 10時07分31秒 ) | パスワード |
松島氏研究家様
諏訪と伊賀が底通し、また諏訪と遠江(磐田あるいは浜松)も底通すると
言われております。それでは、伊賀と遠江は底通するのかという三段論法
になりますが、それについては今の所、情報を得てはおりません。底通す
るというのは、水が高い所から地下を通って低い所へ流れることを例えて
いるのだと思いますので、伊賀と遠江は高さの点ではフラット、途中に伊勢
湾もあり、地下水が通じるのは無理…海流ならば流れますが。底通とは言
えないけれど、深い関係はあったものと推察しております。それがどのよ
うなものであったのか……これも興味あるテーマであります。
[15] | 松島氏研究家さんからのコメント(2017年07月21日 17時10分31秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
望月兼家は信濃望月氏もしくは信濃諏訪氏の支流と言われていますから甲賀・伊賀と諏訪との関係は十分にあったと思います。
服部、藤沢、松島氏の子孫が伊賀にいるとは知りませんでした。そうなれば駿河、遠江、信濃箕輪なども繋がってくるかもしれません。
戦国時代は情報を先に得た側に軍配が挙がる世の中ですから、とても重要な役目ですね。
[16] | 松島さんからのコメント(2017年08月16日 22時29分59秒 ) | パスワード |
こんにちは。浜北市中瀬に先祖の土地のある松島です。
最近、祖父が走り書きした当主を列挙した紙が見つかりルーツを調べ出したところ、この投稿を見つけて、投稿いたしました。
私が27代目で、その紙には初代が藤原基廣で、2代目が松島喜道、3代目が道房、4代目公廣、5代目基光・・・とずっと記載されています。藤原基廣を調べると1370年頃の九条家伝来資料に名前があるのですが、この人物が初代かどうか特定はできません。ただ夫木和歌集に出てくる歌人であり地域的には一致します。またその紙には、藤原氏北家に繋がるように書かれていますが、基経から基廣の間は省略されていてわかりません。2代目で突然、松島になるのですが、そこも不明です。
何かヒントとなるような事はないでしょうか?
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月17日 03時17分12秒 ) | パスワード |
松島さん
全然分かりません。
がっ!
なるほど、と思うことがあったので、コピペします:
http://kotobank.jp/word/%E5%A4%AB%E6%9C%A8%E5%92%8C%E6%AD%8C%E6%8A%84-125748
夫木和歌抄 ふぼくわかしょう
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
1.
鎌倉時代後期の私撰和歌集。
藤原 (勝間田) 長清編。
ココに反応
36巻。約1万 7350首を収める。延慶3 (1310) 年頃成立。『万葉集』『古今和歌六帖』『新撰和歌六帖』など私撰和歌集,『三十六人集』や六家集その他の私家集,平安時代前期〜鎌倉時代中期の歌合,百首歌の類,その他多くの歌書から,それまでの勅撰和歌集 (『古今集』〜『新後撰集』) に漏れた和歌を集め,これを主題別に部類した類題和歌集。春 (巻一〜巻六) ,夏 (巻七〜巻九) ,秋 (巻十〜巻十五) ,冬 (巻十六〜巻十八) ,雑 (巻十九〜巻三十六) に分れ,各部は歌題によりさらに細分されている。以後の勅撰集にそなえるためと,歌道に志す人のためという目的で編まれた。
2.
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
夫木和歌抄
ふぼくわかしょう
鎌倉後期の私撰(しせん)類題和歌集。『夫木和歌集』ともいい、「夫木抄」または「夫木集」とも略称する。
撰者は冷泉為相(れいぜいためすけ)の門弟で
遠江勝田(とおとうみかつまた)(現静岡県牧之原(まきのはら)市)の豪族藤原(勝田)長清。
ココにも反応
勝田と書いて「かつまた」って読むんですねぇ。
集中に為相の「尋ね来てかつ見るからにかつまたの花の陰こそ立ちうかりけれ」の詠がある。1310年(延慶3)ごろ成立か。編纂(へんさん)の動機は、『玉葉和歌集』撰定の際に、為世(ためよ)や為兼(ためかね)と並んで為相も勅撰集の撰者を望んだことと関係があろう。万葉以来当代までの歌で原則として勅撰集に入らなかった1万7000余首を四季・雑各18巻計36巻、約600の題(「歳内立春」以下「述懐」まで)に部類した膨大な歌集で、採録の歌人は約970名に及ぶ。曽禰好忠(そねのよしただ)・源俊頼(としより)・西行(さいぎょう)らの自由な語法の歌や寂蓮(じゃくれん)の「十題百首」(動植物を詠む)など珍しい題材の歌も多く、「山」「関」などの部はいろは順に歌枕(うたまくら)が並んでいるなど、後世歌人や連歌(れんが)師に珍重された。ただ伝本の本文に誤字や乱れが多い。題名は「扶桑(ふそう)」の省画という。[福田秀一]
『山田清市・小鹿野清次著『作者分類夫木和歌抄 本文篇』(1967・風間書房) ▽山田清市著『作者分類夫木和歌抄 研究索引篇』(1970・風間書房) ▽福田秀一『夫木抄』(和歌文学会編『和歌文学講座4 万葉集と勅撰和歌集』所収・1970・桜楓社)』
3.
http://kotobank.jp/word/%E5%8B%9D%E9%96%93%E7%94%B0%E6%B0%8F-1154822
勝間田氏 かつまたうじ
世界大百科事典 第2版の解説
勝田氏とも記す。
ココに反応
藤原南家工藤氏族と言われるが,
桓武平氏平良文の後胤とする説もある。
ココにも反応
遠江国蓁原郡勝田(現,静岡県榛原(はいばら)郡榛原町。
勝間田川沿いに残存する勝田,勝間,勝俣等の地一帯)より起こる。
ココにも反応
源家累代の家人と思われ,保元の乱(1156)のときすでに源義朝に従う者として〈遠江国には勝田〉の名が見える。
ココにも反応
これにはビックリ
鎌倉幕府のもとでは御家人に列し,1186年(文治2)勝田三郎(一に勝田平三)成長は玄蕃助(げんばのすけ)に任じられた。
平三ということは 平氏の三男=三郎 ってことですものね。
>藤原氏北家に繋がるように書かれていますが、基経から基廣の間は省略されていてわかりません。
歌の上手な人には藤原北家の二條家や三條家との縁が欲しいでしょうからきちんと名乗るには
養子になったり猶子になったり
という手がありました。
藤原南家ですと、主流の北家=貴族系から離れて、藤原秀郷の子孫の武家が力を持っていたから、武家はいやだったのかも、ですね。
三つ柏さん
藤原千常の亡霊がまた出て来ました、かも?
謎
[18] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年08月17日 11時32分31秒 ) | パスワード |
松島様
藤原氏の本格的な系図を調べていないので何とも手かがりがつかめま
せんが、藤原基廣という人物は「正四位下」という高い位で存在してい
るのは確認できました。
中瀬と藤原氏の関係はわかりませんが、南北朝時代、花山院前中納言
兼家が内野郷を領していました(1336年安堵)。青山(藤原)師賢の兄にあ
たる人です。遠江は青山氏と関係が深い。第十代浜松城主の青山宗俊の
実父、青山忠俊は、ある事件で勘気を蒙り、小林に蟄居しています。
内野や小林は中瀬とも近いといえば近いので、何か関係があるのかも
知れません。
松島氏については色々調べてきましたが、藤原氏の出であるという事実
関係は入手できておりません。神主が申請して藤原氏の名をいただくとい
うことはあったようです。
ただ、松島氏も御三家ありという話もあり、それ以外にも何流かある
可能性はありますので、何とも言えません。
中瀬から豊西までの松島氏は、主流としては伊那松島の松島氏の線が
濃いと思われます。
[19] | 松島さんからのコメント(2017年08月17日 21時32分21秒 ) | パスワード |
空の青海のあを さん
三つ柏服部 さん
突然の投稿で失礼いたしましたが、
貴重な情報ありがとうございました。
まだ調べはじめたばかりなので、いただいた情報も含めて
私ももう少し調べていきたいと思います。
新しい情報を得ましたら、ご報告いたします。
松島
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