【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101591 投稿日:2017年05月26日 12時21分26秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族XCI(課題確認34)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族XC(課題確認33)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101588_61.html

スレッド90の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


前スレッドでは現在放送中の「おんな城主  直虎」の裏話がたくさん紹介されました。
驚いたのは小野但馬守政次の子の五郎左衛門の子孫が現在にも続いていること。

         ★小野の子孫は浜松市尾野に残った★

            遠慮して「尾野」という地名にしたのでしょうか?

小野家の皆さんにはご先祖が身近になったものの(こそばゆい)感じでしょうか?


日本史って、現在の我々に繋がっている、というのを実感しますね。


遠江の服部氏は一体どこから来たのでしょうね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月26日 23時07分41秒 ) パスワード

前スレッドXCより移動――

空の青海のあを様

 穴山信君(梅雪)には時間がかかりましたが、なかなか奥深いものがありま
す。
 一口で言うとしたら、穴山氏はある意味、@「大久保長安」とA「明智光
秀」を足して2で割ったような要素のある人物であります。もちろん、大久
保も明智も信君とは同時代人でありますので、接点はあったと思います。

 では、なぜ「大久保長安」的要素があったかと言えば、それは「金山」に
関わっていたということであります。穴山という名前からして、穴師、山師、
鉱山師、金属師等を思い起こさせます。
 もちろん、穴山信君の祖先は、武田信武の子義武で、穴山氏に養子に入り、
穴山氏を継いでおります。その後さらに武田氏から3代にわたり養子が入り、
穴山信君は血縁的には100%武田氏であります。
 また、穴山信君の母は武田信玄の姉であり(つまり、信玄は叔父、勝頼は従
兄弟であり)、さらに信君の妻は信玄の娘でありますので、信君と勝頼は義兄
弟の関係となります。

 従って、義武が養子に入った穴山氏の方のルーツというのが、古代からの
金属師だった可能性が強いと思われます。つまりは渡来人系氏族、その内の
一氏「秦氏」であったかも知れません。いずれにしても、巨摩郡=高麗郡の
意味でありますので、韓半島からの渡来人が多かったものと思われます。

 一方、武田氏に仕えた金春流猿楽師の大久保長安(大蔵太夫藤十郎)は、秦
長安という名前からして「秦氏」であった。
 もっとも、この長安は金山奉行であって、直接に金山を掘ったわけではな
く「金山衆(かなやましゅう)」が掘ったわけで、それは穴山信君も領主とし
ての立場であり直接に掘ったわけではなく、やはり「金山衆」が現場の当事
者でありました。ということは、「金山衆」は秦氏の流れをくむ者であった
と言えるかも知れません……残念ながら、金山衆についての詳しい情報は今
の所得ていませんので何とも言えませんが……。

 金山での経営は穴山氏が先で、武田氏の滅びる(勝頼の死)までは穴山氏の
時代、武田氏滅亡後は大久保長安の時代となります。即ち金の産出における
「武田信玄」対「穴山信君(梅雪)」の関係は、武田滅亡後の「徳川家康」対
「大久保長安」の関係に匹敵いたします。それだけ貢献していると言うこと
であります。
 
 続く―― 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月27日 13時22分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

    金山での経営は穴山氏が先で、
    武田氏の滅びる(勝頼の死)までは穴山氏の時代、
    武田氏滅亡後は大久保長安の時代となります。


    即ち金の産出における「武田信玄」対「穴山信君(梅雪)」の関係は、
    武田滅亡後の「徳川家康」対「大久保長安」の関係に匹敵いたします。

    それだけ貢献していると言うことであります。


すごい!
よく整理なさいました。


つまり家康が武田の遺臣を抱えた理由は  「金」だった  ということですね。
信玄の「金庫」を自分の懐に入れた。


家康側にしてみれば(いずれ大久保長安を処分したい)というのがあったでしょうね。
特に  本多父子にしてみれば  いずれ自分達を脅かす存在になる大久保長安家は潰したかったでしょうね。


なるほどね。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月27日 19時23分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 武田信玄がなぜ強かったかといえば、甲斐が抱える多くの金山から採取
される「金」が、莫大な戦費を要する諸戦の「軍資金」となったと言うこ
とができると思います。それは「甲州金」と呼ばれる一種の貨幣が大量に
造られ、武田軍団の財源となったということであります。

 甲斐には、大きく分けて5つの水系におおよそ次の金山があります。
 @丹波川水系の有名な「黒川金山」(産出量大)
 A塩川水系の増富金山
 B釜無川水系の御座石金山、金沢金山
 C下部川水系の「湯之奥金山」(産出量大)、川尻金山
 D早川水系の保山金山、黒桂金山

 穴山氏が支配した東西河内領は、古代の甲斐源氏の支配した頃は、河合
郷と呼ばれたといいます。
 東河内領は今の西八代郡の一部である下部町であります(ここは下部温泉
で有名。石原裕次郎がリハビリした温泉病院もあります)。
 西河内領は南巨摩郡の一部である身延町、早川町、南部町、中富町とい
った、金山が集中して存在する地域であります。
 また、隣接する駿河側に、富士、梅ヶ島、大河内金山があり、支配下に
おいた時期があります。
 黒川金山は、武田氏の滅亡(勝頼自刃)の5年前くらいに枯渇してしまい
ました。

 続く――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月27日 22時58分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


      @丹波川水系の有名な「黒川金山」(産出量大)
       黒川金山は、武田氏の滅亡(勝頼自刃)の5年前くらいに枯渇してしまいました。


「金」の切れ目が負けへの始まり
という言葉が浮かびました。

やっぱり人間生きるのに「金」は命の次に大事なのだなと。

しみじみ考えさせられました。



        東河内領は今の西八代郡の一部である下部町であります(ここは下部温泉で有名。
        石原裕次郎がリハビリした温泉病院もあります。


石原裕次郎の石原氏はもとは服部家出身ですから
ここで三つ柏さんが石原裕次郎を思い出したのに、
なにか、ご縁を感じました。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月28日 07時47分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、静岡で開かれている「古代エジプト展」を見に行ってきます。 
 帰りましたら、続きを書きます。
 武田信玄も穴山氏も奥が深いです。穴山氏はいわば武田信玄を社長とすれ
ば、副社長であった――
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月28日 23時43分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、静岡県立美術館で開催されている「黄金のファラオと大ピラミ
ッド展」を見に行ってきました。下記ホームページで今回の企画の紹介が
されています――
http://www.tbs.co.jp/pharaoh-egypt/hdtv/

 ビックリしたことを一つだけ述べさせていただきますと、京都の広隆寺
にある「秦川勝」の座像と、「クフ王」の座像(写真)は、よく似ているよ
うな感じがしました。どちらも王冠のような帽子を被っており、また顔も
何となく似ています。
 いずれにしても、歴史の真実は一つ……秦氏についても、これが真実だ
という最終説を知りたいものです……。

 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月29日 08時08分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「黄金のファラオと大ピラミッド展」

いいですね。

いろいろ検索してたら下記のトンデモない話に行き着いてしまいました。


http://ameblo.jp/tengoku7/entry-12194049185.html
聖徳太子の正体は秦河勝であり、悪魔崇拝者でした 前編
http://ameblo.jp/tengoku7/entry-12194668981.html
聖徳太子の正体は秦河勝であり、悪魔崇拝者でした 後編

どうやら聖徳太子の正体は、やはり秦河勝であり、
秦氏と蘇我氏は対立関係 (秦氏vs出雲族) にあった、
と考えるのが最も有力かと思われます。


以前のシリーズでも触れたように、秦氏はロスチャイルドの先祖。
ですから、蘇我氏は出雲族であると考えられるのです。
まず、参考に以下の過去記事をご覧ください。


【 天皇と秦氏とロスチャイルドと出雲族。そして悪魔崇拝 第4話 】
http://ameblo.jp/tengoku7/entry-12179030625.html


ついつい寄り道して迷子に。

歴史は深く掘り下げて行くと・・・・
ですね。
結論が闇に隠されて出ないから。



>いずれにしても、歴史の真実は一つ……秦氏についても、これが真実だという最終説を知りたいものです……。

知りたいところですが
卑弥呼も邪馬台国も、そういうものは無かった=実体は無かった=という話もありますしね。


     卑弥呼の  「卑」みこ の卑という字
     バカにしていると思うのですよ。

     倭国の「倭」の字同様に。


     卑弥呼と書いて  (どっかのチッポケなビンボー国の王女か女王か知らんが)  と魏志倭人伝を書いた人が嘲ってるのかなと。

     邪馬台国の位置についても船でX月歩いてXX月かかる処  つまり  この世の果て  と言いたいのかな  とか。


     邪馬台国の邪馬という漢字を使って「やまと国」を貶めているのかなとか。



考えれば考えるほど  ハナシがズレて行きます。


でもいろいろな人のいろいろな空想・妄想・予想・連想を知るのは面白いですね。
「歴史」とは事実が見つかるのは良いけど真実が解明されてはいけないのかも。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月29日 08時29分59秒 ) パスワード

今日はずっと「井伊直虎物語」や「井伊直虎ガイドブック」や「上田合戦のしおり」や「城のしおり」を読み直していました。
にっこり


時間を置いて読み直しますとテレビを見ててもピンと来なかったことが、ああ、そういうことか、と腑に落ちました。


まだまだ徳政令の施行に苦しむ直虎の段階には行かないようですか?
あと40分で「直虎」が始まります。
わくわく


「組織」にいると小野但馬守政次の悩みがどうしようもないものってことなのかなと。
政次は一体どういう人だったのか
楽しみです。


「しの」さんが松下清景と結婚したのは虎松を守るためだったのか
清景が直親のようなイケメンだったのか
     あ、三浦春馬のダブル出演?まさか???

楽しみです。


中安兵部
http://senjp.com/yamamura/
堀江清泰の子
なかなか面白かったですよ。

コピペはタブーなのです。


松下清景
http://senjp.com/gentarou/
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月29日 12時32分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史については、諸説紛々で何が真実なのか、大きな流れ位はある程度
わかっても、各論になると一気に迷路に突き落とされてしまいます。
 古代への入口付近に、「日本書紀」が関所となって建っております。これ
にまつわる謎を解けば、古代がイモヅル式に見えてくるのではとも思ってい
ますが……。
 でも、古代史を探究するには根性と根気が必要ですし、世界歴史も含めた
膨大な知識が必要になります……。
 真実はどこにあるかといえば、古墳の中に眠っていると思いますので、最
新の古墳の発掘調査の情報に、一度大きく目を向けたいと思っています。

 中安氏といえば、私のすぐ上の姉が中安家に嫁いでおり、戦国時代の中安
家にまつわるエピソードの資料を、先日届けに行ったばかりでありました。
 でも、450年という時間は、その間の情報の糸がプッツリに切れてしま
っていて、そのミッシングリンクを繋げるのは難しくなっております。

 戦国武将列伝Ωの「山村修理と竹田高正の堀川城の話と〜堀江城での中安
兵部も」(http://senjp.com/yamamura/ )を見ましたが、新田喜斎(瀬戸方久)
についての記載が少しあり、気賀の領主となったと書かれておりました。
 今回からドラマの方は「気賀」か舞台に取り上げられておりますが、方久
は結構いろいろと井伊家にかかわった人であるということが言えますね。や
はり、南朝つながりの縁で結ばれているのでしょうか。

 松下清景については、期待するほどの情報が見つかりません。これからも
集めてみたいとは思っています……。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月29日 13時46分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>真実はどこにあるかといえば、古墳の中に眠っていると思いますので、最新の古墳の発掘調査の情報に、一度大きく目を向けたいと思っています。

最大の敵は宮内庁ですね。
真実がバレたら困ると思っているのですよ。


     昨年の天皇陛下の退位ご希望話も「アリエナイ」と菊のカーテンを引こうとしてましたね。
     でも陛下はご希望だった。
     「平成の玉音放送」にはビックリしました。

     陛下は他にもいろいろご不満がお有りのようですね。
     ここで書いては失礼でしょう。



瀬戸方久は才覚を生かして巨万の富を築くようですね。
きっと南朝が負けて
新田一族が群馬に引き上げた時に井伊谷に残った人の子孫なのかも
ですね。


松下屋敷と市野砦が結構近くだったのが意外です。
土地勘は無いし方向音痴だし
松下屋敷は常にわたくし的には湖西エリアの感覚です。


なので遠江の人間関係はわたくしの想像を超えたもっと密だったものだろうなと思い始めています。


複雑ですね
南朝方つながりがあって  足利幕府の地頭が入って来て  今川の支配が及んで  と何重にも繋がっているんでしょうね。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月29日 17時22分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おんな城主直虎の視聴率は、14パーセント代だとか、私の女房殿も最近は
見なくなりました。全体のストーリー性を取るのか、はたまた個々の漫画チッ
クなプロットを取るのか……個が面白ければ全体がおもしろくなるという理論
でしょうか。
 Sさんの直虎役、即ち女性が男性を演じるということ、演技性とキャンキャ
ン声に××感を感じます。無理して「男っぽく」演じなくとも、女性のままで
男性を演じればいい。その方がSさん(おんな城主直虎)の魅力は数段増します!
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月30日 07時35分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

>無理して「男っぽく」演じなくとも、女性のままで男性を演じればいい。
>その方がSさん(おんな城主直虎)の魅力は数段増します!


「直虎」はこのまま40代で亡くなるまで、あのまんまの「おとこ女」の設定なんでしょうか?


Sさんの顔では余りにも現代的で、「日本人」の顔じゃないですね。
顔からして違和感アリアリです。


ま、直虎はお寺に長いこといて、「おんな」を忘れていますからね。

直虎の設定はまだ若いし、
頼りになる男達がみんな消えてしまって井伊の家は存亡の危機の真っただ中だし、

    中野直之はイノシシ武者だし逆に奥山六左衛門はボォ〜としてるし
    政次は頼りたくても何を企んでいるかイマイチ分からないし


幼い虎松を盛り立てるには自分がしっかりしなきゃ、という気負いがある役だからSさんは頑張って声を上げているのでしょう。


イマイチ合わないと思うのは  「なつ」さんで、山口紗弥加はもっと気位の高い気性の激しい女性の役の方がいいのに。
例えば  家康の妻の役だったらピッタリなのに。


そこへいくと芸達者の貫地谷しほりの方が「直虎」役にピッタリだったかも。
でも貫地谷しほりは優等生過ぎて、卒無くこなしても乱世を生き抜いた「直虎」を表すには物足りないかも。


つまらないのが  龍雲丸一味。
こういう架空の人物を出して来るより方久の手柄話にすればいいのに。


常慶がもっと見たいです。

[13]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月30日 08時18分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様、俳優をよく分析しておられます。その通りだと思います。
 たぶん監督の頭の中のイメージは劇画・漫画なのではないかと推察され
ます。特にキャラクターがいかにも漫画チック、動作も劇画的……あるいは
三河万歳的と言ってもいいかも知れません。
 戦国時代の真っただ中の割には深刻さ・悲壮感がありません。
 たぶん、1568年直前を今描いていると思いますが、これから武田信玄
の駿河攻め、徳川家康の遠江攻めが同時に始まります――

 続く――


[14]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月30日 14時59分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 1564年:今川氏親の引馬城(飯尾城主)攻め。この時、新野左馬助、
       中野信濃守直由(直之の父)が死亡。
 1565年:武田義信事件が起こる。
 1566年:徳政令が発令される。
 1567年:義信が自害する。同年、甲相駿三国同盟破棄。
 1568年:徳政令実行の催促命令が出て施行。

 この1568年(永禄11年)というのは、武田と徳川が今川領の駿府と
遠江に同時に開戦侵攻するという、今川氏にとっては誠にショッキングな
年となります。
 このほぼ同時期、今川氏親より小野但馬政次に命令が出されます。
 それは即ち――
 @信玄との防戦のため、井伊谷の軍勢を率いて出陣せよ。
 Aそのうえ井伊虎松(直政)を殺害せよ。

 いずれにしても、三国同盟が崩れ、緊迫した状況がますますひどくなっ
て行く途上にあるわけですから、大河ドラマの中の緊迫感のなさがとても
気になっております――

 ところで、穴山信君(梅雪)は、信玄社長に対して副社長に値する立場のよ
うなものでありまして、金(きん)による財政貢献だけでなく、主要な戦いに
はすべて出陣している「武」の人でもあります。駿府にも、遠江(とくに有名
なのは三方ケ原の戦い)にも来ております。
 おおまかな年譜は把握しておりますが、細かな出陣記録の正確な情報が
まだ把握できかねてはおります。

 穴山氏については、さらに調べ、述べて行きたいと思いますが、山田隆景
が武田に攻められ、長男の良則、次男の正興を武田方に降らせた時、弟の方
は穴山梅雪に預かられております。兄の良則は、後年徳川方に寝返り、直政
の姉の「高瀬」を娶ることになります――
(ドラマの中で、高瀬を演じる女優は、とても存在感がありひときわ光って
おります。正に主役級!)
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月31日 01時31分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


Aそのうえ井伊虎松(直政)を殺害せよ。

       え゛〜
       そうなんですか

       そうすると小野家は井伊の殿様を3代に亘って主殺しするようにと命を受けるところだったのですか
       弑逆なんて、江戸時代には儒教の影響で大罪も大罪。
       

       直政が生き延びて小野家は日本一の悪者になるのをからくも避けることが出来たのですね。


>穴山氏については、さらに調べ、述べて行きたいと思いますが、
>山田隆景が武田に攻められ、
>長男の良則、次男の正興を武田方に降らせた時、弟の方は穴山梅雪に預かられております。
>兄の良則は、後年徳川方に寝返り、直政の姉の「高瀬」を娶ることになります

後の川手良則ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%89%8B%E8%89%AF%E5%89%87
父は今川氏家臣として岡崎城城代を務めた山田景隆。山田氏は三河の川手城(愛知県豊田市川手町)を居城としていた。

良則は今川氏滅亡後は武田氏に仕え、山県昌景配下として名を挙げた。

武田氏滅亡後は徳川氏家臣となり、天正10年(1582年)に徳川家康の命で井伊直政の姉の高瀬姫を娶り、直政に仕える。井伊家中では一門筆頭として、筆頭家老格の木俣守勝よりも席次は上であった。



いよいよドラマが動き出しますね。
ワクワク 
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月31日 08時07分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先日、一番上の姉と善地について話をしていたところ、お宮の裏の北川
さんの家のことに話題が及び、かつて立派な屋敷であったということであ
りました。
 北川家のある所は、天満宮の直ぐ北であり、小さな古墳のような小山が
いくつかあり、そこへは小さい頃よくカブトムシを採りに行ったものでし
た。
 この北川家については、いつからあるのかはわかりませんが、善地のお
お宮(天満宮)の裏という、ある意味一番神聖ないい所に居を構えておりま
す。戸数的には、一軒しかなく、善地五苗の加藤、永井、服部、鈴木、松島
の中にあっては目立ちません(同じような少数の姓に、長田、榊原もありま
す)。
 今回、姉から言われて気になったので、北川氏について調べてみますと、
いろいろ筋のある中に、「伊賀平氏の平宗清の子孫」である北川氏がいる
ということを知りました。
 善地の北川氏が、ひょっとして宗清の子孫だとしたならば、服部中保次
もまた宗清の子孫といわれていますので、類が友を呼ぶ=つまり同類が善地
に集まったということも考えられ、わが服部家も中保次系の可能性が少し
高まるのですが……。もちろん、これはまだ推測の内でありますので、確証
はありませんが――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月31日 14時28分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


>わが服部家も中保次系の可能性が少し高まるのですが……

ですね。



北川さんと言うと
連想するのは北条早雲のシスターの北川殿で今川氏に嫁いでいますね。

そして
平清盛の孫=知忠=が伊賀で「北」姓を名乗っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%BF%A0

若くして死んでいますがワタクシの先祖は17歳で男の子のパパになってますから
知忠も子孫を残している可能性はあります。
「北」姓または「北X」姓を名乗った可能性もありますね。


北条早雲は一体何者なのか?
伊勢氏、というのが平家系ということなのかな?
とも思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%97%A9%E9%9B%B2
状況証拠的には平家系のようですね。


備中荏原荘(現井原市)で生まれという説からしても
備中=岡山=なら平家方でしたしね。


事実は意外な所から顔を出すものです。
案外三つ柏さんのお家は平家系かも、ですね。
家紋はいろいろな事情で名字よりも簡単に替えますからね。
[18]酒井ともさんからのコメント(2017年06月01日 09時43分35秒 ) パスワード

こんにちは。

皆さま、よろしくお願いします。

三つ柏服部さんより「北川氏」の情報が出ておりますので、少し書かせて下さい。

朝比奈 閑田院付近にも「北川氏」が数家住しておられます。

地元の方の話ですと、この「北川氏」はその昔は閑田院の歴住のようで、
現在の朝比奈岩地「北川氏」はその一族もしくは、住職のご子孫とのことでした。

宗安寺・閑田院の開基に当たる、「市野氏」同様に
朝比奈岩地の「北川氏」も今川・徳川時代の遠州各地の
「駒所」関係を司る一党なのかもしれません。

ご参考にして下さい。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月01日 14時43分27秒 ) パスワード

酒井とも様

 貴重な情報、ありがとうございます。先日、とも様の去年11月1日の
レスの「閑田院寺史」の情報により、先日閑田院に行って来たところであり
ました。住職とは話ができなかったので、新たな情報は得られませんでした。

 この寺の戦国時代の住職が北川氏だったということ……次の展開に役立つ
情報です。市野氏に近かった可能性があり、ひょっとして馬の仕入れ・育成
・調教等に関係していたかも知れませんね。

 善地の北川氏は昭和の時代、牧場をやっていましたので、ひょっとして馬
とも関係していたかも知れません。
 国会図書館に日本家系家紋研究所発行の『北川一族』という本があるよう
ですので、今後情報入手の努力をしてみます……。

 平宗清を祖とする伊賀の柘植氏の支流に北川氏がいます。市野氏も戦術上
忍衆と連携したと思われますので、特に高天神城の戦いに向けてコラボした
可能性は大いにあります……。

 いずれにしましても、貴重な情報ありがとうございました。久しぶりの
コメント、お変わりなくお元気でありますこと、何よりです。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月01日 15時34分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 北川殿について、また北条早雲について学び直すキッカケをいただき、
感謝申し上げます。去年の小田原城行きで仕入れた資料が、今、正に活き
てきました。

 北条早雲と北川殿は、今川家を大きくした最大の功労者でありました。
「おんな城主直虎」にちょうど今タイミング的に出ている「今川氏真」、
その父は桶狭間の戦いで討死した「義元」。
 その義元の母が「寿桂尼」、父が「氏親」。
 そしてその氏親の母が「北川殿」、父が「今川義忠」。
 「早雲」は北川殿の妹とされています。

 北川殿について、また早雲についていろいろ調べてみましたが、意外に
近い存在でありました。北川殿は、とろろ汁(四日前に食べに行きました)
で有名な丸子に一時期篭居したことがあり、吐月峰柴屋寺の宗長とも懇意
でありました。早雲は、今川氏親をもって駿府・遠江を領土としておりま
す。

 北川殿の菩提寺は丸子の直ぐ北にある「徳願寺」、そして寿桂尼の菩提
寺は、護国神社の北の「竜雲寺」……近々訪ねてみようと思っています。
 丸子の勧昌院で見た「丸に三つ柏」の服部家の墓もまた再び気になって
まいりました――
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月01日 15時38分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:「早雲」は北川殿の妹→「早雲」は北川殿の兄
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月01日 22時50分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


面白いことになって来ましたね。
何かの力で「呼ばれる」というのが来ているのかも、ですね。
ご先祖さまパワーだと良いですね。



「北川」で思ったのが「喜多村」などの「きたX」姓。

今、ちょっと念を入れて「忍者の研究」の本を読み返しているところです。
(伊賀者も実にいろいろな名字があって意外です)
まだまだ「読めては」いません。多分5回は読み直さないことにはアタマに入らない感じ(笑)


北条早雲がなぜ「伊勢」を名乗ったのか?
名乗りたかったからですよね。
「備前」ではない。

じゃ、何故なのか?


でも、じゃ、なぜ「北条」を名乗ったのか?
となると「平家」ではなかったから?
と行き詰ります。


人間関係は複雑に絡んでますから1つや2つの「事実」からでは読み取れないですね。


[23]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月02日 17時36分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ひとつ教えて下さい――
 私の本家(現在は大本家)の当主は、親から口頭で「お前で37代目にな
る」と言われていると聞きました。それが誰から数えてなのか、その祖と
なる人物の名前も系譜もはっきりしておりません。「37代」というと、
おおよそ900年になるのですが、系図なしでは何代目であるかはわから
なくなってしまうと思うのですが……。
 もっとも系図、あるいはそれに類する記録は近年になって紛失してしま
ったという可能性はゼロではありません。蔵には鎧や刀類、その他があっ
たということですので。蔵をつぶす時にいろいろ処分したり、あるいは紛失
したりしてしまったことは事実であると聞いています。
 系図や記録があるのは、武家や地位(経済的も含めて)の高い者だと思い
ますし、水飲百姓等にはとうてい無理なことだと思いますが……。
 服部の姓で900年さかのぼると1100年代、源平の頃になります。
具体的には、平宗清や伊賀家長(服部の祖)の頃になります。
 なんとも言い難いとは思いますが、あを様どう思われますでしょぅか?
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月02日 22時44分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


>親から口頭で「お前で37代目になる」と言われていると聞きました。


「37代目」というのはそんな所と思います。

尾張藩の御重臣で北条時政の子の義時の孫の子孫というX氏は「35代目」でした。
ムカシの上司です。

母方で84代目のわたくしも元寇前から数えますと34代目あたりですから。
                家書で確認しないといけませんが。



系図は命に替えても守ったものですが
生活に窮して売った人もいます。

でも「何代目」かということは系図が無くても言い伝えで分かることです。


ただ家紋の謎がありますね。
なぜ三つ柏なのか?

長田系?高槻の神服神社系?


>服部の姓で900年さかのぼると1100年代、源平の頃になります。

揚羽蝶紋か並び矢紋か車に矢紋か単に矢系の紋あたりなら簡単ですが
             柏紋、というところに
             長田系永田系永井系の服部氏なのかな?
などと空想がいきます。


家紋は名字よりずっと自由というか変化に富むというか何かの機会に替えたのでしょうけど
そこの所を知っている人が見つかると良いですね。



江戸に行った服部仲の一族も服部仲の家紋を守ったでしょうし遠江に残った一族も家紋を守ったでしょうし
どうして三つ柏なのでしょうね。
この部分を解きたいですね。

誰かいるはずなのですよ。知ってる人が。



馬の骨の我が家でも並び矢なのに。うちは尾張南西部ですから当然並び矢で座りが良いです。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月02日 22時49分43秒 ) パスワード

伊賀者研究の本で
「鳴海」で伊賀越えの時の伊賀者を雇ったということから

鳴海の服部さんはやはり伊賀者の惣締さんみたいな立場だったのかもですね。



足助の服部さんは美濃系の服部さんの惣締役だったのかなと勝手に連想しています。
場所的に。


当たらず遠からずでしょうね。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月02日 22時58分04秒 ) パスワード

やはり  医家の服部さんのことが分かると  近づけるのかなとも思います。
トクホンさんと関係があったのかな?とか。


見えない壁
ガラスの壁
がどうしても破れないですね。


どなたが蔵にあったはずの系図をかっぱらって行ったのでしょうね。
誰か持ってるはずです。
[27]箱柳永田さんからのコメント(2017年06月03日 01時12分07秒 ) パスワード

あを様 三つ柏服部様
 >。「37代」というと、
おおよそ900年になるのですが、系図なしでは何代目であるかはわから
なくなってしまうと思うのですが……。

 長田の家では、高望王=平高望ではなく、平良兼を初代としております。
 現当主は37代目で、
 私の場合、家祖長田(永田)家次より17代になります。
 各家は、独立する時に家系図を書き写していくはずですが、
  紛失や焼失があると一族を回って複製を作ることになります、
 菩提寺を当たるのが一番正確に復元出来ます。
 武士の場合、就職する時に棒系図を提出しますので、各藩の書庫に残ります。
  苗字帯刀を許された大庄屋、町名主階級も提出を求められますので、
 運が良ければ戦国期より昔、悪くても江戸中期には遡れます。

 >トクホンさんと関係が
 当時の長田では、三つ柏、蔦柏は分家の紋になります、
  将軍様を治療するまでは、長田徳本ですから、柏紋を使用すると思います。
 
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月03日 09時06分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 貴重なお話をいただきまして、有難く感謝申し上げます。

 池田庄・羽鳥庄の北のはずれにある(場合によっては含まれる)小さな
部落の善地が、近隣の部落と違ってずっと天領であったということ。
 そして、永井一族の半分が「永井切り梨」、半分が「丸に三つ柏」、
そして服部も「丸に三つ柏」。永井と服部は江戸時代に加藤筋と合流して
おります(加藤家の系図による)。また加藤、松島、鈴木も筋的に交わっ
ております。お互い寄り添うように生きてきましたので、それぞれの通婚
もありました。
 松島、鈴木、加藤、永井に比べて、服部は世帯数が少なく、繁殖力、
男系が少ない傾向にあります。ある種の宿命があるのでしょうか……?
 永井の「丸に三つ柏」がかたまってあるのは特に善地で、隣接の東美薗、
笠井あたりにも少しあります。
 永井と服部の出会い……何でこの善地なのか、これが一番知りたいところ
でもあります。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月03日 10時35分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

善地あたりの代官がどなただったか分かると良いですね。
やっぱり記録を読みまくらないといけませんね。


服部姓だった人が三つ柏紋を使うようになった謎
三つ柏紋だった人が服部姓を名乗るようになった謎
もともと服部姓で三つ柏紋だったヒトがいたのかの謎



皆さんで集まって先祖語りをしたら良いと思うのですけどね。
どなたかが情報を持っていると思いますよ。
箱柳さんのおっしゃるように、お寺さんも情報源の1つですね、でも代替わりで全くヨソの人がご住職で来てるというのもありますよね。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月03日 12時55分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の父親が生きている時代に、いろいろ聞いておけばよかったと今は後悔
していますが、親父の時代の人々はほとんどいなくなってしまいました。
 お寺も昔火事で焼けて資料は残っておりませんし、代替わりもしておりま
す。
 公的な記録というのは、天領であったため、磐田の中泉の代官所管轄で、
その資料というものを探しているのですが、竜洋に古文書館というものが
あるのですが、どうアタックしていけばよいのか、今思案しております。
 三つ柏については、永井家からの養子が続いた関係か、もともと持ってい
たものか……そこがポイントではあります。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月03日 20時59分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B3%89%E7%94%BA

中泉には、天正15年(1587年)頃に徳川家康によって建設された中泉御殿があった[1]。
敷地1万坪とも言われる御殿は、徳川家が東海道を往復する際の休息地として利用されたが、寛文10年(1670年)に廃止された[1]。

また、中泉陣屋(中泉代官所)が設置され、遠江国や三河国などの幕府領(天領)を管轄する中泉代官の拠点となった。
中泉代官を務めた人物には、安政大地震への対応や貧民救済で業績を残した林鶴梁がいる。


               代々の代官の名前は次のURLで。


東海道線が開設されると、1889年4月に当町内に中泉駅(現在の磐田駅)が開業した。
駅の用地は、中泉を代表する素封家で、政治家・社会事業家でもあった青山宙平(1818年 - 1910年)が提供したもので[2][3]、駅前に顕彰碑がある。



【中泉代官と陣屋】
http://www4.tokai.or.jp/nakaizumi/nakaizumi-goten.htm

江戸幕府は遠江の天領(直轄地)支配のため、中泉御殿の敷地内東側に中泉代官所・陣屋が建てられました。
遠州地方の重要な拠点として中泉に代官とその執務を取った陣屋を置きました。


中泉代官は
初代代官  秋鹿氏
伊奈忠次や        中泉陣屋の築城年代は定かではないが伊奈忠次によって築かれたと云われる
大草左衛門、
羽倉簡堂、
林鶴梁など
有能な官僚が務めました。

林鶴梁は渡辺崋山に師事した儒学者で、在任中に安政の大地震の対処にあたりました。
鶴梁の義母は中泉で病没し、その墓所は満徳寺にあります。
初代の代官を勤めた秋鹿(あいか)氏の墓所は菩提寺である泉蔵寺にあります。



明治政府が成立すると徳川家は静岡に移され、静岡藩となりました。
中泉代官は廃止され、かわって静岡藩の奉行が置かれました。
初代の奉行には前嶋来助が任命され、かつての中泉陣屋で執務をとりました。
前嶋はのちの近代郵便制度を創設した前嶋密です。
前嶋は中泉奉行所管内に移住した士族の世話や、その師弟の教育にあたりました。
また、窮民や障害者の救済のため、救院の設置を呼びかけました。


中泉陣屋の表門は市内新島の伊藤家に移され、御殿遺跡公園には陣屋内にあった稲荷へ通じる道「軍兵稲荷道」の石碑があります。
中泉御殿の表門は見付の西光寺に、裏門は中泉の西願寺に移築されました。


http://maro32.com/%E4%B8%AD%E6%B3%89%E9%99%A3%E5%B1%8B/
中泉陣屋は伊奈忠次がこの周辺の代官として戦国末期(1590年頃)を治めていたことが史料に出ていますが、
いつごろ陣屋が築城されたのかは明確でないそうです。

日本城郭大系では、天正18(1590)年に徳川家康が関東へ転封された際、飛び地として中泉と白須賀があったそうで、
代官陣屋が築城されたのはそれ以降と考えられているようです。



http://www.geocities.jp/ikomaisizuoka/totomi/nakaizumijinya.html

中泉陣屋

別名 中泉代官所
所在地 磐田市中泉字御殿
遺構等 移築門
現状 中泉寺、宅地
築城年 天正18(1590)
築城者 堀尾義晴
歴代城主 堀尾、天領
形式 陣屋


            堀尾氏って・・・トヨタの窮状を助けたヒトを思い出します。
            

http://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%85%BC%E4%B8%89%E9%83%8E-1101525
服部兼三郎


没年:大正9.6(1920)
生年:明治3.11(1870)

明治大正期綿布卸商から綿糸布生産にまで多角化した名古屋の綿関係事業家。
尾張国丹羽郡古知野村(江南市)生まれ。

名古屋の織物卸商糸重商店に入り,主人の祖父江重兵衛の養子となるが,独立後の明治27(1894)年服部商店を開業。
屋号は〓。(かねか)

知多木綿の集散のほか,明治末より知多での織布委託の賃織も行い,営業税額1026円の規模となる。
先物で買って,実物で売る投機的取引を特徴としたが,相場変動の危険が大きいため,
大正3(1914)年より生産工程に進出し,のちの興和紡績の基礎をつくる。
                   これで失敗して自決なさった記憶
織機の開発で有名な豊田佐吉との交流は深く,
また同店からは三輪常次郎(興和紡績),石田退三(トヨタ自動車)も出ており,中部財界の源流的人物といえる。

<参考文献>中部経済新聞社『中部財界人物伝』,木村茂編『商工興信録』
(籠谷直人)


      この人について続けます(代官の調査は吹き飛びました)
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月03日 21時08分44秒 ) パスワード

http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-entry-691.html


石田退三のお話の続きです。


石田が中学時代居候をしていた児玉一造は、
当時繊維業界の顔役となっていました。

仕事を探していた石田に、
児玉は名古屋の服部商店を紹介します。


児玉は三井物産名古屋支店長に弱冠32歳で抜擢され、
そのころから服部商店服部兼三郎、
豊田紡織の豊田佐吉と付き合いがあったのでした。



ここで、豊田紡織について。

創業者・豊田佐吉が自ら発明した自動織機を使って
はじめた製織・紡績業が淵源であり、

そのため現在でもトヨタ紡織と、
社名に『紡織』の名がついています。

大正15年、佐吉は
株式会社豊田自動織機製作所を設立、
のちにこの会社の自動車部が独立し、
現在のトヨタ自動車が生まれるわけです。


石田は大正4年、服部商店に入社します。
住み込みで働きますが、月給は三か月の間でませんでした。

そのころ、石田が兄のように慕っていた児玉利三郎と、
豊田佐吉の長女愛子のお見合いがありました。

服部兼三郎の口ききによるお見合いでしたが、
この席上で利三郎が「石田君の月給を決めてやってくれんか」
といって即座に決まったのでした。


児玉一造は三井物産名古屋支店長時代、
自動織機の発明者である豊田佐吉を物心両面にわたって応援したのは
当時から美談として残っていましたが、

そこに佐吉の愛娘と利三郎の縁談が持ち上がり、
両家の関係はますます深くなります。

佐吉は研究に没頭するだけでしたが、
利三郎が持ち前の事業家肌から経営に縦横の手腕を発揮、
会社がグングン伸びたのでした。


これはちょっとした出会いであり、
一つの縁談に過ぎないのですが、
この両家の関係が強固になったことで、

現在のトヨタ自動車が生まれたのであり、
戦後日本の経済を支え、
現在もトヨタが世界経済に大きな影響力を与えているということを考えると、
不思議なものを感じますね。


このちょっとしたつながりが少しでも欠けてしまっていたら、
いまのトヨタはなかったかもしれないと考えると、
現在を生きる私たちも、わずかのつながりも大切にして、
人と人との関係を大事にしていかなければいけないなと感じます。


こうして石田は、
田舎の小学校の代用教員、京大阪の洋家具店の店員、
東京の呉服の行商じみた卸商という経歴を経て、

ここへきて初めて安定感のある、
充実した仕事をするようになったと回想しています。


服部からは間もなく、上海行きを命じられ、
上海に二年、香港に一年、綿布を売り込み、
大正6年に帰国しました。

そして大正7年から昭和2年までは大阪へ行き、
服部商店の加工綿布部をつくり、
大きく利益を伸ばしたのでした。

そのおかげで、
大正9年のガラ(大暴落)がきたときも、
軽微な被害ですみます。


しかし世の中何が起こるかわかりません。
この時のガラで、
服部商店店主、服部兼三郎が急逝してしまったのでした。


支配人の三輪常次郎が大黒柱亡き後を取り仕切ります。
服部の三輪あての遺書には、

「保険は三十万円入っている。これがとれるかとれないかわからんが、
 万一幸いにもとれ、そして社員諸君の了解が得られるならば
 半分だけ家族にやってくれ。
 あとの半分は会社の損の穴埋めに使ってくれ」

とありました。
服部は店が倒産寸前にまで傾いたことに
大きな責任を感じていたのだと石田は思います。


石田は、

「保険金はどうしても取らねばならん。
 そして取ったら三十万円そっくり家族に渡してやらなければいかん」

と主張し、服部家の遺族の安泰をはかることに皆協力したのでした。


この危機に三輪は、

「服部商店がつぶれるかどうかという瀬戸ぎわだから、
 オレは月給はとらん。ボーナスもいらない。
 いままでにためたやつでなんとか食っていくから、
 店の者も諸事について、皆がまんしてほしい」

と大方針を打ち出して、皆に気合いをかけたのでした。


会社が厳しい時に、リーダーが身を切る覚悟を示し、
それを踏まえ大きな方針を次々と出していく姿、
これがあってこそ会社組織が厳しいときでも動いていくのだろうと感じます。

会社も国も一緒だろうと思います。



話は変わり、豊田佐吉翁の話がここで書かれています。

石田が服部商店へ入ったころ、
ちょうど豊田紡織会社が上海へ進出したころで、

石田は時々佐吉のところへ
ごきげん奉仕に行きました。

「久しぶりだなあ」

佐吉がそう一言いうと、
あぐらをかいたまま黙って一口も物をいいません。

二十分でも三十分でも黙っている人でした。


それからまたしばらくしていくと、

「石田、君は商売人だぞ。
 商売人なら金をもうけてくれ。

 もうけたらオレたちに回してくれ。
 そうしてこそ、はじめて研究ができるんだ。
 大体、世間のやつは研究家の実情というものを知らんな」

こういうことを何度も繰り返し言っていたのだそうです。

石田は、

「佐吉さんは、頭の中がいつも織機の進歩改良のことでいっぱいで、
 他事に気を回している余裕がなかったのだろう。」

と述べています。

また、佐吉は人に対して決して高圧的な態度に出たことがなく、
それでいて、普通の人間にはない気迫があった、

そして服部兼三郎の腹の太さも石田は感じていたようです。


私がはじめて服部商店へ入ったころ、
店先へ信玄袋を下げてモソッと入ってきたオッサンがいた。

物もいわずちょこんと私の前のイスに掛け、
知らん顔をして目をつむっている。

私が支配人の三輪さんに

「あれはだれです?」

といってきくと、それが佐吉さんだった。

そこへ服部さんが帰ってきて

「お金ですか」

「うん、こんどは、ちょっと二十五万円くらいほしいがな」

そういって、あとは知らん顔している。

「二十五万円か。そんなら手形を書いてあげるかな」

それでおしまいである。

服部さんも、何に使うかと聞くでもない。
佐吉翁も手形をもらえるまで黙っている。
もらうと黙って帰る。

双方とも、何か相通ずるものがあったのだろう。
私は、まるで舞台の上の名優の演技をみているような心持がした。


物の計算にもよりますが、
当時の円の価値を単純に、

1円=1万円

と考えてみると、

25万円=25億円

ですね。


25億円もの寄付をこれだけのやりとりですませるというのは、
服部の太っ腹もすごいと思いますが、

服部は豊田佐吉の研究に全幅の信頼を置き、
彼の研究が世の中に大きな価値を生むものと確信していたからこそ、
こういう行動に出たのだろうと推測します。

二人のやり取りは確かにものすごいものを感じますね。

お互い全幅の信頼感を持ったカネのやりとりが、
大きな事業を生む。

そんな印象を持ちました。




石田はそんな服部と佐吉翁といった人物に恵まれます。

そして服部亡き後の服部商店もなんとか再興します。


この後の石田の人生についてはまた。



      三輪さんの孫さん?はMITの工学だったか宇宙工学だったかを出てハワイに住んでいます。
      MITは変人が多いからハーバードに行って気楽にいたかったと言ってたのかな?

      従兄にそっくりな顔で驚きました。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月03日 21時19分14秒 ) パスワード

ついでにハナシを更に横に流します:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E8%97%A4%E5%85%AB_ (7%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
石川藤八 (7代目) 〜 9代目


七代目 石川 藤八(しちだいめ いしかわ とうはち、1864年3月8日(文久4年2月1日) - 1914年(大正3年)1月19日)は豊田佐吉を支援した愛知県知多郡乙川村の庄屋、経営者である。藤八は佐吉を自宅の二階に住まわせ、力織機完成のための援助をした。藤八が6000円の資金と土地建物、佐吉が60台の力織機を準備し、乙川綿布合資会社を設立した。


藤八家と出機(でばた)織布[編集]

石川藤八家は江戸時代中期から続く知多郡乙川村の庄屋であった。乙川村においては最も大きい庄屋ではなかった。だが、他の庄屋とは異なり、年貢米だけではなく海産物や繊維も扱っていた。特に、幕末から明治期にかけては出機織布を手広く手掛けた。出機織布は各家に糸を配り、各家にある織機で布に織ってもらう、その織り上がった綿布を回収する仕事である。織機を持っていない家には織機を貸し出すこともあった。

この出機織布を六代目藤八が軌道に乗せた。七代目藤八も引き続き出機織布に力をいれた。だが、七代目は出機織布は効率が悪いと考えていた。出来上がった綿布は知多郡岡田村の買継問屋に納めた。岡田ではその買継問屋が同時に大きな織布工場を経営していた。工場では最新の織機を導入していた。一部には外国製織機もあった。しかし、それらの織機は高価でとても出機織布に使えるようなものではなかった。

このような時期に豊田佐吉という糸繰返機(かせくりき)の販売と織機の研究をしている男が藤八家へやって来た。藤八家の二階に空いている六畳間があった。藤八にとっては書生か居候を一人余分に置くくらいの気持ちであった。とりあえず、住まわせてみることにした。

乙川綿布合資会社[編集]

藤八は軽い気持ちで佐吉を二階に住まわせたが、佐吉は昼も夜もなく発明に没頭した。佐吉は研究にのめり込むと、周りのことには全く無頓着であった。藤八家の家人や使用人は目に入らず、時無しに階段を上り下りした。だが、藤八自身はだんだんと佐吉の人柄を気に入り始めていた。藤八は家人と揉め事になる前に解決をしようと考えた。佐吉の住む二階へは玄関横の土間から直接行くことができるように階段をつくって揉め事の芽を摘んだ。

佐吉の研究ははかどり、図面から試作、試作から試運転へと順調に進んだ[2]。1895年(明治28年)の夏、試運転にはどうしても動力が必要となった。野末作蔵の案内で藤八は佐吉に同道して渥美郡二川町大字細谷村の或る精米工場に行き、工場内にあった馬力の汽鑵(きかん)と機械を買うことができた。この頃には藤八も佐吉の発明の完成を心待ちにするようになった。1896年(明治29年)に幾多の困難を乗り越えて、力織機が完成した。

藤八は佐吉が完成させた力織機を見て、これこそが待ち望んでいた織機だと思った。藤八は6000円の資金と土地建物を準備した。織機60台分の資金2400円を含めて総額8400円で、1897年(明治30年)秋、乙川綿布合資会社が設立された。翌1898年(明治31年)の春、工場の操業が始まった。すこぶる順調に稼動し綿布が織り上がり、初出荷された。この綿布が東京の三井物産本社の目に留まった。今までの手織りの人力織機では出来ないきれいな仕上がりを、専門の検査係は見逃すことはなかった。一躍、豊田佐吉と彼の発明した豊田式木鉄混製力織機に光があたった。藤八は佐吉の才能を世に出すべきだと考えた。


三幅対の仲[編集]

佐吉は武平町、堀内町、山崎町と名古屋市内を次々と移転しながら工場を拡張し、少しずつ成功を収め始めた。藤八は佐吉の支援はするが、けっして表に出ることはなかった。これは日本を代表する三井物産、三井銀行が佐吉の発明に食指を動かしたことが理由であった。もうひとつは佐吉が経営者というよりは発明一筋の発明家であったことが一因であろう。しかし、仕事以外の遊びにおいては、良き友であった。

[3]藤八と佐吉にはこの頃、もう一人無二の友ができた。それが服部兼三郎である。彼は苦労して、独力で名古屋の繊維業界の中で地位を築いた人物であった。後に、服部商店を興す。服部商店はその後、興和紡績へと発展した。興和紡績は名古屋を中心に大きく発展し名古屋財界で活躍する。

この服部兼三郎を含めた三人は、とても馬が合い、飲む時は必ず三人一緒であった。この様子を周りの人間は三幅対の仲と呼んだ。立派な広い床の間には三幅の掛軸を並べて掛けることができる。そのため大変仲の良いたとえとして三幅対の仲という。服部兼三郎もまた藤八と時期が重なりながら、その後の佐吉を支援する。後にトヨタ自動車工業社長となる石田退三が服部兼三郎のもとで働いていた大正初めの時代のエピソードがある。それは佐吉が兼三郎から、いとも簡単に「今度は少し大きい25万円ほど欲しい」とぶっきらぼうに言って、金を借りたという話である。

藤八の葬儀[編集]

[4]七代目石川藤八は1914年(大正3年)1月19日の午後8時に死去した。享年51であった。葬儀は藤八家のすぐ西にある時宗寺院、開運山光照寺で行なわれた。菩提寺は知多郡東浦町石浜の明徳寺であったが、村を上げての葬儀とするためか、最も近くの寺を借りての葬儀となった。

豊田佐吉夫妻、服部兼三郎夫妻をはじめとして繊維業界や近隣の多くの人々が参列した。葬儀は六役葬という格式で行なわれた。また、葬儀に参列した人々が焼き場まで葬列を組んで練り歩くという伝統的な法式での葬儀であった。この葬列には21もの配役が割り当てられ、豊田佐吉は雪柳(せつりゅう)を持つ役、服部兼三郎は蝋燭立を持つ役であった。この葬儀の香資帳(香典帳)が残されている。それには香典の額、焼香順位、葬列の順番、参加寺院名、賄い仕入品名、法事参列者名等々、葬儀に関することが漏れなく記載されており、七代目の葬儀の概要を知ることができる。

佐吉夫婦は葬儀だけではなく、初七日、満中陰、一周忌、三回忌、七回忌の法要に参加している。これは佐吉がいかに藤八に恩義を感じていたかという証でもある。また藤八家まで法事で来る際に、佐吉は乗って来た人力車を一丁先で降りて歩いたと言い伝えられている。この話も藤八への佐吉の心情を表している。




九代目石川藤八[編集]


[5]九代目石川藤八は静岡県浜名郡吉津村古見の父土屋松五郎・母いとの三男として生まれる。後に、豊田式織機社長を務めた土屋富五郎は長兄である。また、豊田佐吉とは親戚になる。佐吉の義理の従兄弟である。

七代目藤八には跡継ぎとなる男子がいなかった。そのため佐吉が藤八に養子を紹介した。「豊田佐吉傳」の中の『東洋の豊田だ』という小題のついた部分に七代目及び九代目藤八に関する記述がある。この中で、養子縁組の仲人を豊田佐吉が務めたと記述されている。名前が岩三郎ではなく通称名の岩吉、また九代目が佐吉の従弟となっている。多少事実と異なる部分もあるが、大筋としては正確である。

九代目は七代目藤八の娘たきと1906年(明治39年)9月19日に結婚する。そして、同時に六代目藤八の妻きくと養子縁組をして石川姓となる。九代目は知多織物工業協同組合理事長、半田市議会議員、半田商工会議所役員等をつとめた。九代目藤八は地元では誰もが知っている名士であった。そのため、多くのトヨタに関連する資料で、最近まで七代目と九代目が取り違えられていた。九代目藤八は七代目が務めていた興和紡績の社外監査役を七代目没後に引き続き務めた。



    トヨタ関係の秘話についてはその気になった時にメールします。
    「リーダーズ その2」に登場する豊田を支えた人々の1人です。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月04日 18時42分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「堀尾」君という友人もおりまて、浜松城主の堀尾氏と関係があるよう
です。
 堀尾吉晴は豊臣秀次の宿老であったが、秀次事件で連座することはなか
った(なぜであろうか?)。
 秀次事件は、徳川家康にとっては調略のいいチャンスでありました。

 また、私の本家筋の古い分れで、明治半ばに医者になった「服部兼三郎」
という人がおりまして、村の墓地に見上げるように高い笠付の墓「服部家
累代の墓」を建立しております。なぜ「兼三郎」という名前なのかが、ど
うも気になっております……。

 豊田佐吉の生家にはまだ行ったことがありませんので、近い内に一度
行ってみたいと思います――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月04日 22時45分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

何故か  堀尾  という名字に引っ掛かります。
若い時に2人堀尾という人がいました。学生の時と仕事場で。


>本家筋の古い分れで、明治半ばに医者になった「服部兼三郎」という人

服部兼三郎、
不思議ですね。


堀尾・服部兼三郎
この名前が出るのは偶然でしょうか?

「かねか」の服部兼三郎の堀尾さんは古知野出身ということですが
なぜかワタクシの脳内には  浜名湖の西の出身  という不思議な固定観念があるのです。

それでトヨタを助けた背景がある、と勝手に解釈しているのです。


三つ柏さんの一族の服部兼三郎さんのお墓に家紋がついていると良いですね。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月05日 13時34分56秒 ) パスワード

小野但馬守政次は  直虎が好きで好きでたまらないから  嫉妬に苦しんでいましたね。

直親の次は龍王丸
前者は草食系イケメン、後者は肉食系逞しき男子

政次の持っていないものを2人とも持っている
そして2人とも直虎が好きというのをスンナリ出している
でも自分にはそういうのは絶対に出来ない

楽しそうな直虎に、自分と一緒にいる時にもそういう顔をして欲しい!と嫉妬の炎を燃やしてましたね。

自分の頭の切れるところが直虎には少しもアピールにならない、直虎に認めて貰えない、
もう自己嫌悪でいっぱいの政次でしたね。


高橋一生の感情を抑えた演技にファンはメロメロでしょうね。
ふふふ
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月05日 20時11分34秒 ) パスワード

メールで頂きました。

http://bushoojapan.com/iinaotora/2016/12/28/90283
直虎は女性ではなかった
どころか
実際の「直虎」とは・・・


驚きでした。


         コピペ出来ないです。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月05日 20時24分02秒 ) パスワード

http://bushoojapan.com/iinaotora/2016/09/07/83640

小野但馬守政次の34日領主とその最期のお話。

政次は蟹淵で処刑された
ここは井伊家の処刑場。大堰河原の右岸。


政次の墓と供養碑もすごいものがあります。
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月06日 08時52分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:本家筋の服部兼三郎は、現医院経営者(医者)の祖父ではなく、
曾祖父であり、幕末か明治初頭の生まれと思われます(定明寺の服部家
位牌を調べました)。
 なお、家紋は「丸に三つ柏」で一門です。

 いろいろ話題が広がっておりますが、穴山氏についての論述を、次回
には終わるつもりで考えております。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月06日 13時58分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


では状況証拠的に
三つ柏さんのお宅は、もしかすると、医者で旗本だった服部氏系かも知れないですね。
この家はヒゲじゃなかった蔓のついた柏紋だった記憶です。


わたくしにはこの人は見つけられなかったので
三つ柏さんのご先祖さまが「お〜い、こっちだよ〜」と手を振っていたのかもですね。
だといいですね。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月06日 14時01分29秒 ) パスワード

やっぱりトクホンさんに近い家だったかもですね。
そう思って笑ってしまいました。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月06日 15時26分37秒 ) パスワード

永田徳本
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E5%BE%B3%E6%9C%AC


永田 徳本(ながた とくほん、1513年(永正10年) - 1630年3月27日(寛永7年2月14日))
戦国時代後期から江戸時代初期にかけての医師。
「甲斐の徳本」などとも呼ばれ、また「十六文先生」や「医聖」とも称された。号は知足斎、乾室など。諸国を巡り、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者である。

戦国時代中期の1513年、三河で生まれたという(甲斐国谷村など、異説もある)。その後、陸奥国で仏門に入り、出羽(鹿島ともいう)で修験道を学び、また田代三喜、玉鼎らより李朱医学(当時の明からもたらされた漢方医学)を修め、信濃・甲斐に移り住み、国主であった戦国大名武田信虎・信玄父子二代の侍医となったと言われる。武田信虎の領国追放後は信濃国諏訪に住み、武田家滅亡後は東海・関東諸国を巡り、貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行ったとされる。伝承に拠れば彼は首から薬袋を提げ、牛の背に横になって諸国を巡り、どんな治療を行っても報酬として16文(18文ともいう)以上の金額を受け取らなかったと伝わり、「十六文先生」とも称されたらしい。

本草学にも通じ、103歳の頃に甲斐における葡萄栽培法の改良(ぶどうの棚架け法)も行ったとする伝説もある(参考「甲州」)。江戸時代に入ったのち、将軍徳川秀忠の病を治癒し、その際も報酬を受けずに立ち去ったと言われるなど、その人生は謎と伝説に包まれている。1630年に死亡。享年は118歳で、記録が正確ならば、当時としては驚異的な長寿である。晩年は現在の長野県岡谷市に居住したと伝えられ、同地に墓碑が存在する。著書に『梅花無尽蔵』、『徳本翁十九方』などがある。





トクホン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%B3


創業者の鈴木由太郎が、1901年(明治34年)に東京・本所にて医薬品製造をおこなう「鈴木日本堂」を創業する。

当時はかぜ薬「オピトリン」、頭痛膏「乙女桜」、萬金膏「シカマン」などを製造ならびに販売していたが、
1933年(昭和8年)に、室町時代後期から江戸時代初期にかけて活動した医師で、「医聖」の異名を取る永田徳本から名を取った「トクホン」を発売。

これがロングセラーとなったことで、外用消炎剤分野での地位を確立させると共に、1948年(昭和23年)には株式会社へと改組する。

「トクホン」はライバル会社の久光製薬が製造・販売する「サロンパス」と並ぶ外用消炎剤のトップブランドとして広く親しまれている。

長年にわたり、外用消炎剤での地位を維持する一方、1989年(平成元年)には現社名に改めると共に、
一時内服液分野にも進出したことがあるが、こちらは業績的に振るわず、1993年(平成5年)に撤退。
以後は外用消炎剤一本で同社の経営を維持している。

2012年(平成24年)7月2日に、株式交換により大正製薬の完全子会社となった[1]。



   ここに出て来る名字や地名
   何か引っ掛かります。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月07日 01時13分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 読本さんが武田信虎・信玄の侍医であったということは、穴山氏とも知遇
があった可能性が大であります。

 今まで永井・永田・長田氏関係をいろいろ振り返って調べておりましたが、
頭の中で数珠玉が散らばってはねている状態なので、これから眠りの中で落
ち着き熟成されるのを待ちます――
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月07日 05時07分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

>徳本さんが武田信虎・信玄の侍医であったということは、穴山氏とも知遇
があった可能性が大であります。

はい
人間は動きますからどこで何をしていたか
徳本は諸国を巡ったということで
1513年(永正10年) - 1630年3月27日(寛永7年2月14日))118歳で死亡ということは眉唾ですが
ま、戦国時代を生き切った人


ということでますますアヤシイ。


医者という良い人イメージですから
素性の分からない僧侶よりずっと話を聞き出し易かったかも、です。



>頭の中で数珠玉が散らばってはねている状態

歴史はそんなものですね。

事実や情報がいっぱいあるのに
その事実や情報は違う方向に誘導するものかも知れないし

なかなか本当の姿を見せてくれませんね。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月07日 10時30分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はフリーの日ですので、時間を気にせずパソコンに向かえます――

 時々、島田の大井川にかかる木造の「蓬莱橋」に無性に行きたくなる時
があります。
 それはたぶん、橋の名前「蓬莱」という言語の感覚・イメージがそうさ
せるのだろうかと思っています。

 太古の昔、秦の徐福が東の海の「蓬莱山」を目指したという。「蓬莱」
という言葉には、「荒涼とした原野やワタノ原の向こう」というイメージ
を感じます……。
 東三河の新城にあるホウライ寺は、「鳳来」と字を当てておりますので、
「鳳凰」のイメージが強く、結果としてイメージは違ったものになってし
まっております。

 蓬莱橋を渡る……白い石だらけの荒野と青い海原を渡っていくイメージ
……幅2.4m、長さ900m弱、歩いて10分位……その間、人は自分一人
になり、蓬莱の国への懸け橋を渡っていくような感覚に陥ります。
 それはこの世とあの世の懸け橋と言ってもいいのかも知れません。仙人
の住む蓬莱の国というのは、この世でなくあの世なのかも知れません……。
 
 「おんな城主直虎」の井伊直政も鳳来寺にかくまわれます。「鳳来」に
は、やはり何か奥深い歴史の謎が潜んでいるような感じがします。

 さて、永田読本が何故武田家の侍医になったのか、色々な紆余曲折があ
ったことでしょう。その謎を解くのは難しいと思いますが、元々は大江系
の血が入っておりますので、忍衆の持つ薬学・本草学を知りうる環境にあ
ったのかも知れません(これは私の勝手な推測ですが)。
 また、戦国時代、戦いに遠征する場合、医者・馬医を連れて行く必要が
あったと思われます。そんなことも影響していたのかも知れません。

 永田読本は、一説によれば長田重元の弟、永井直勝の伯父であるようで
すが、はっきりとはわかりません。仮にそうだとすると、永井直勝よりも
50歳年上の伯父ということになります。また父の長田重元は、1504
年生れでありますので、直勝は重元60歳(数え歳)の時の子となり、随分
年老いてからの子であったということになります。

 いずれにしても、長田氏が神職をしていた碧南市の大浜の熊野権現には、
一色にうなぎを食べに行く時に寄ってみようかと思っています。宝珠寺に
は既に行っております――


[46]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月07日 12時51分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 武田信玄が何故強かったのかということについて、私自身にはその感覚が
伴なっていませんので、何とも空虚な話になってしまいますが、色々な情報
をまとめますと、いわゆる「成功の哲学」を身につけていたということにな
ります。
 但し、東三河の野田城攻めあたりから体調に異変を生じ、伊那の阿智村で
亡くなってしまったことは誠に残念ではあります(この阿智村は尹良親王にま
つわる浪合記の場所でもありますので、歴史のなす不思議な因縁を感じざる
を得ません(一度訪ねてみたいと思っています)……。
 
 いわゆる成功の哲学を、@人、A物、B金、C情報、D戦略といたします
と――
 @人:武田24将ともいわれる様々な優秀な武将達を集め育てております。
 A物:馬牧が往古よりあり、馬の産地で、優秀な騎馬が生み出されました。
 B金:甲斐国は金山が連なっており、大量の金が産出され、それにより、
    馬はさらに増え、鉄砲もその他武器も購入・製作でき、また軍資金
    もふんだんにありました。
    穴山信君(梅雪)は金山をその領地内に保有し、経営しておりました
    ので、武田家にとって財政での大黒柱であったと推察されます。
 C情報:武田信玄は、たくさんの忍者「三ツ者」を抱え、諜報・調略組織
     を持っていました。
     また、「歩き巫女」という「くノ一」集団を養成し、諜報活動を
     行わせておりました。
 D戦略:山本勘助という戦略家・戦術家を採用し、作戦の立案からその他
     築城術、甲州法度、人材登用術等に到るまで指導させ実践させて
     おりました。
     信玄は兵書もよく読んでいて、「風林火山」に表されるような行
     動哲学と、「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」と後世
     謳われたように、領民や部下への思いやり=人心掌握術を身につ
     けておりました。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月07日 13時31分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 穴山信君(梅雪)は、武田信玄を崇拝する重臣であり、「御一門衆」の長
でもありました。それは母が信玄の姉、妻が信玄の娘であったことだけをと
らえても、いかに信君が武田家の中枢の親族であるかがわかります。まして
や、信玄の嫡子の義信が自刃させられてしまいますので、ますます中枢に寄
ることになります。
 ところが、不幸にも信玄が亡くなり、当主が「勝頼」に変わると、色々な
乖離が生じて来ます。勝頼の息女を自分の嫡子勝千代にと婚姻を申し入れる
も、勝頼が裏工作に乗ってしまい、結婚の相手を勝頼の従兄弟にしてしまっ
た。このことは、穴山信君の心が、大きく勝頼より離れる原因となったよう
です。
 穴山は武の人でもあり、三方ケ原の戦いにも、長篠の戦いにも出陣してお
りますが、信玄亡き後は、江尻城に在城していた。高天神城の戦いで勝頼
が援軍を送らず負けてしまったことが、さらに大きな失望となり、この頃
より織田・徳川側から勧誘耕作を受け、心はそちらに傾いた。
 織田・徳川方に降りるために、織田信長には豪華な品物と金子2千枚を送
ったとも言われています。そして、武田家を継ぐのは勝頼でなく、俺だとい
う決意をもって、信長の安土城を家康と共に訪問、そしてその後の本能寺の
変の勃発となります。家康一行は伊賀越えができ、梅雪一行は宇治田原ルー
トをとったがために、土豪たちに襲われて死んでしまった。

 続く――
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月07日 14時15分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

成功の哲学を整理してくださって感謝です。



>梅雪一行は宇治田原ルートをとったがために、土豪たちに襲われて死んでしまった。

宇治田原というと  呉服明神の服部貞信  が浮びますね。
消したのでしょうか?ドサクサに紛れて。


      梅雪なら甲斐の人だから「金」ゴールドをしっかり持っているぞと土豪達に吹き込めば、こんなオイシイ話はないですものね。

      鴨葱のように甲斐が金をしょって道の分からない山に来るぞ、と。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月08日 01時30分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:勧誘耕作→勧誘工作

 今まで、穴山梅雪については、名前からして商人ぽい、武田から徳川に
寝返るとは卑怯なやつだ、でもどういう訳か家康と堺にいた、そして本能寺
の変が起こると、家康とは別のルートで逃げ、殺されてしまった――程度の
認識しかありませんでした。また、それ以上の深堀りはしませんでした。

 でも、調べてみると、武田家の中枢を支えてきたのはこの穴山梅雪であ
り、そして、滅びた武田家が一時再興できたのも、この穴山梅雪のおかげで
ありました。その梅雪を、徳川家は敬った。

 これは、家康と「明智光秀と斎藤利三+春日局」との関係と、家康と「穴
山梅雪+見性院」との関係を検証してみるとよくわかります。つまり、徳川
にとって最大級の貢献をもたらした者へ最大限の感謝を表したということで
あります。
 
 穴山梅雪の織田・徳川方への寝返り後の経過を次回にまとめます――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月08日 07時23分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

>家康と「明智光秀と斎藤利三+春日局」との関係と、
>家康と「穴山梅雪+見性院」との関係


ということで調べて来ました:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E6%80%A7%E9%99%A2_ (%E7%A9%B4%E5%B1%B1%E6%A2%85%E9%9B%AA%E6%AD%A3%E5%AE%A4)

見性院=穴山梅雪正室

武田遺領を確保した徳川家康は、武田遺臣を保護して家臣団に加えているが、
見性院も家康に保護されて江戸城北の丸に邸を与えられ、
江戸幕府の2代将軍の徳川秀忠が侍女のお静に生ませた子(幸松、後の保科正之)を養育した。

へぇ〜
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月09日 00時33分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、穴山梅雪の正室の見性院について深堀りしておりました。
 その結果、西三条家を通じて見性院と春日局とがつながったのには驚き
を覚えました。もっと深堀りすれば、更に奥深い謎に行きつけるかも知れ
ない……そんな気がしています。
 
 夜も更けてしまいましたので、詳しいことは次回にいたします――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月09日 02時34分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


歴史は人間のこと。人間の関係は実に  ヒトとヒト  ですね。


秀忠の隠し子を春日局が自分の身内に世話させたのですねぇ。
武田信玄の妻は三条西の出身で、春日局の母方の親戚ですものね。
春日局も三条西の家で暫く世話になってたし。


我々が気付いてないだけでちゃんと繋がっている。
改めて思いました。
分かった途端に、ああ、それでだったのか、と合点が行く。


わたくしの母方もこの話に繋がります。
大坂の役で落人になったのに何故這い上がれたのかバックに誰がいたのかやっと腑に落ちました。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月10日 23時38分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 穴山氏関係についてはもう少し言及したい部分があります。
 それは次回以降にいたします。

 本日は西尾市一色へ「ひつまぶし」を食べに行ったついでに、碧南市に
ある「大浜熊野大神社」を訪ねてまいりました。

 朝、東名高速で蒲郡インターまで行ったのですが、上り車線で大変なバス
事故があったようで、帰ってからニュースを見ましたら、信じられないよう
な事故でありました。それは、対向車線から乗用車が中央分離帯を飛び越え、
空中をロケットのように飛びながら、走って来たバスの頭部(運転手のフロ
ントガラスから天井部分)へ突き刺さり、めり込みました。バスのドライブ
レコーダーにはその映像が録画されておりました。大変な映像でありました。


 本夜は、日中の暑さ、及び旅の疲れで集中力が戻りませんので、これより
スリーピングタイムといたします――
 
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月11日 02時49分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

碧南のお話を是非知りたいものです。
よろしくね。


バス事故で  車が飛んで来て?  バスに刺さる?
日本で起きたなんて想像もつきませんが
外国では結構あるようです。ニュースで見たりしますから。
日本も  国際的  になったのですねぇ。

相手の車はスピードの出し過ぎだったのかもですね。飛ぶ、なんてね。ロケット並み・・・恐
それにしてもバスの方は大迷惑ですよね。  

もうオソロシ過ぎて外に出られなくなりそう
「杞憂」なんて言葉があって笑ってましたが
天は落ちてこなくても車が降って来るのが  アリ  なんですものね。


ご無事で良かった!
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月11日 07時42分03秒 ) パスワード

今日の「日本からのニュース」で昨日の事故の説明を見ました。


浜松のヒトなんですってね。
代車を運転してての事故だった
盛土があったから発射台になった
そこへバスが来たから
そんな説明でした。


ものスゴイ案件になりましたね。
浜松のヒト自身の責任
代車
盛土


不運って重なるって聞くけど
ここまで重なるとは。


バスの乗客がガラスが降って来たと言ってました。
顔に破片が刺さった跡がいくつか見えました。
[56]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月11日 10時41分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そうなんです。宙を舞った乗用車の運転手は浜松の医者。以前は浜松医大
に勤務していた優秀な医者だったようです。

 高速道路の運転で危ないのは、もちろん睡眠不足による「瞬間的な居眠り
運転」が一番ですが、次にインターから本車線に入って来る車との「合流地
点での間合い」が危ないです。

 高速道路の運転はやはり経験値が必要です。安全は保障されてはいません。
スピードに対する謙虚な心がけが必要であります。

 でも、まさか対向車線から中央分離帯を飛び越えて乗用車が空から降って
くるとは……これは防ぎようがありません。
 バスに乗っていた豊川市の皆さんからは重傷者も出ましたが、バス側とし
ては運転手も含め死者が出なかったこと、まずは不幸中の幸いではありまし
た……。

 空を飛んでバスのフロント及び前頭部に突き刺さった「空飛ぶ医者」の
魂は、その死も知らず、未だ宙を舞っているのかも知れません。
 ――合掌、般若心経を二巻唱え捧げます。

 
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月11日 12時32分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の手元に『遥かなる衣ケ浦(ころもがうら)のみなと』という碧南市(へ
きなんし)教育委員会作成の、説明資料として写真・絵図がふんだんに入れ
られた本があります。
 この本によりますと、現在の「衣浦(きぬうら)港」は、その昔「衣ケ浦」
と呼ばれておりました。矢作川の河口は徐々に広くなってやがて知多湾とな
りますが、その湾岸岸辺にいくつもの湊(みなと)が点在しておりました。
 その内の一つが旧碧南郡(現碧南市)大浜村であります。そしてここが、あ
の「永井直勝」の生まれ故郷でありました。
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月11日 13時22分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 平成の市町村大合併により、町村が大きな市に吸収され、いわゆる「土地
柄」とか「土地勘」がわからなくなってしまいました。
 碧南郡大浜村(さらに昔は大浜郷)の大浜がとれ(つまり大字がとれ)、碧南
市宮町(つまり小字が浮上)となってしまったと推察されますが、そこに、今回
行きました「大浜熊野大神社」はありました。

 明治時代前半と現在における「衣ケ浦一帯の地図」を見比べますと、随分
と湾が狭くなっております――即ち、湾岸及び周辺の干拓が広範囲になされ
たということになります。
 「大浜熊野大神社」の周辺一帯は大平野部であり、境内には砂が多く、また
松の林となっておりました。ここは間違いなく、昔は海岸線であったと確信
いたしました。
 ここの境内はとても広く、東京ドーム一個分はゆうにあろうかと思いまし
た。しかも不思議なことに、東西南北に鳥居があり、またそれぞれに参道が
あって本殿へ通じておりました!

 次には「由緒書」を記します――
 
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月11日 16時22分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、その「大浜熊野大神社」の「由緒書」です――

 「第七十九代六条天皇の仁安二年(1167年)、大浜郷州崎へ大木が数本
 漂着した。村民はこれを引き揚げんとしたが動かず、毎夜そこから光
 を放っていた。驚いた村民は、保元の乱に上皇方に味方して敗れ、棚
 尾に閑居していた長田仙千代臼正に相談をし、大木をことごとく付近
 の小山(元本堂の地)に引き上げた。
  最も大きな材木に「太一」の文字が記されてあった。文字のところ
 を切り開くと、そこから熊野権現と書かれてある宝剣が出て来た。
  臼正は、これは霊木であると思い、神子に伺わしめたところ「この
 材木をもって社壇を造営し、熊野三社大権現を勧請すべし」との託宣
 があった。これによって臼正は、古老や村里の人々と心を合わせ、お
 宮を造営し、宝剣を御神体として、熊野大権現を祀って氏神を仰いだ。

 御祭神:伊弉冊命、速玉男命、事解男命、大国主命、崇徳天皇   」
ということであります。

 境内の広さは13,266坪ということでありますので、東京ドームの半分
弱でありました(もっともその昔はもっと広かったことでしょう)。



 
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月11日 17時09分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


お医者さんでしたか。
慎重な職業の方があのような事故を起こして
不思議ですね。

きっと自覚が無かったでしょうから
まだ魂は「走っている」のかも知れないですね。

わたくしの分も般若心経をありがとうございます。


昔、アメリカで免許を取ろうとし
筆記はすぐに受かったのですが
でも縦列駐車が出来ないし、もたもたやってる内に高速道路の走行試験も免許取得に必要になり、
それで諦めました。

高速の走行試験については試験官が怖がってやがて無しになったという噂を聞きました。


バスの方に死者が出なかったのは不幸中の幸いでした。
とはいえ重傷を負った皆さんは本当にお気の毒です。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月11日 17時13分06秒 ) パスワード

鳥居が4方向にあるのですか?
なかなか個性的ですね。
意味があるのでしょうね。


>碧南郡大浜村(さらに昔は大浜郷)の大浜がとれ(つまり大字がとれ)、
>碧南市宮町(つまり小字が浮上)となってしまったと推察されます

地名は残して欲しいですよね
意味があるのですから。

[62]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月12日 13時16分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田氏の祖先については、やはり名前がいろいろ出てきてわからなくな
ります。一般的に、武士系(神主も武士と同じ扱い)の名前はよく変わり・
変えられます。従って、家系図なんかもどれが真実なのかと迷わされてし
まいます。

 「由緒書」に出て来る「長田仙千代臼正」が長田重元(永井直勝の父)と
どういう関係なのかは、今の所わかりません。

 長田家については、鈴木成元氏の『永井直勝』によりますと(要約)――
 「長田勘助(広正)の子 長男:重元(大浜村上宮の神主)
            二男:白吉(重元と行動共にする。重元の後、
               長田家を継いだ)
            三男:平蔵(不詳)
            四男:八兵衛(大浜郷熊野権現の神職(子孫も)」
となっております。入手できる家系図に表現された名前と、ところどころ
異なっているようであります――
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月13日 05時25分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


名前はコロコロ変わりますから
     その上に名字も変わるし
載っていないからと言って否定は出来ないし

別な史料が手に入るまでの「保留」ということで良いと思います。


現代は固定ですから   キラキラネームを付けられた子供は  一生+エイエンに(笑)  その名が残ってしまいますから気の毒ですが
ムカシのヒトはゲンを担いで名前を変えたり
余りにも・・・
後世で大変なのにねぇ。


それに  家督を継いだ時にもアヤシイことになりますしね  お悩みになりませんように。
[64]三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月13日 10時02分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田氏に関しては、箱柳永田様が一番詳しいのでありますが、私もこの
際、色々な資料によって、長田氏の全体像に迫ってみたいと思います。箱柳
永田様からご教示・ご指導・ご指摘をいただければ幸いです。

 色々な資料というものは、それぞれに食い違いや間違いがあり、何が本当
なのかというところを見極めることはなかなか至難の業であります。系図も
しかり。
 前回引用した『永井直勝』(鈴木成元著)も、単純間違いもありますし、根拠
とした資料自体に間違いがある可能性もあります。
 
 「大浜熊野大神社」の由緒書きも本当に正しいのか、その中に出て来る
「長田仙千代臼正」なる人物は、他の資料では「長田仙千代丸白正」、つま
り「臼」が「白」となっています。

 いろいろ論じるためには、根拠となる資料の信憑性を検証しなければなり
ません。
 ということで、できれば長田一族にからむ系図について目を通す必要を感
じます。静岡の県立図書館にあるか、碧南市の図書館にあるか、いずれにし
ろ一度訪ねてみようと思います。
 また、長田氏は遠江出身で天竜川の西に所領をもっていたという話もあり
ますので、その辺の情報も拾ってみたいと思います――
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月13日 10時21分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

>長田氏は遠江出身で天竜川の西に所領をもっていたという

http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/7f4854ab127735733887308ceb2ecb7f

この地図ではまさしく天竜川の西に長田と出ていますね。でも「ながた」だそうで・・・謎



ということで以下コピペ:

(G)長田(ながた)町

頼朝の父である源義朝を、知多半島の野間にて卑怯にも風呂場にて騙し討ちしたとされる長田(おさだ)庄司(しょうじ)忠致(ただむね)の出身地だといわれています。


                                         そうなの?


     ・・・って、世の平家物語愛好家は、みんな長田庄司は三河の出身者だと思ってると思うんですけど。
                                         そうなの?兄上が三河にいたんじゃないの?


しかも長田(おさだ)じゃなくて長田(ながた)だし、

                                         はいはい

よりにもよって蒲御厨の中心地にあるし、
今では長田町という名前は嫌われて和田町という名前に改称されてるし、
てか、よりにもよって和田だし。


でも考えてみれば、機を見て敏、世の流れに先んじて自分の長所を権力者に巧みにアピールしてみせるのはいかにも浜松人らしいです。
                                         そうなの?

あの猜疑心の固まりである頼朝が、いくら激戦のさなかとはいえ、
親が殺されて20年も経っているとはいえ、
最も憎っくき忠致に対して「粉骨砕身すれば美濃尾張を与える」と言ったなんて、この背景には何かがあったと思えてならないです。
                                         何があったのでしょう?


長田もまた騙されただよ。
長田氏の子孫と伝えられる一族は意外にたくさんいますし。


遠州人なんて、裏切ってより栄達を求めてナンボです。


その本能により他人にたやすく騙されるのもまた遠州人の特質です。         ここんところは三つ柏さんに当て嵌まるのかもね
[66]箱柳永田さんからのコメント(2017年06月13日 10時34分05秒 ) パスワード

三つ柏様
>「長田仙千代臼正」が長田重元(永井直勝の父)とどういう関係なのかは、
 今の所わかりません。
   系図上の子孫になります(広正は津島大橋からの養子)。
 
 仙千代は保元の乱に参加した、親致の3男です、叔父が長田忠致になります。
 保元の乱では幼少のため、乳母の在所に戦時避難です、そこが大浜の棚尾になります。 

 碧南市権現町に大浜熊野大権現を建てますが、約200年後に現在の
 場所に移築してます(南北朝の時)。
 宝珠寺の前は、正覚院(現在無住寺)が長田の墓所です、
  宝珠寺の江戸期の檀家は、熊野神社(上之宮)熊野大神社(下之宮)の
 2軒と聞いております(明治より 檀家は増えてます)。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月13日 13時42分34秒 ) パスワード

箱柳永田さん


なるほど
日本の「養子」制度を忘れていました。
他にも融子制度とかもありますしね。
ヤヤコシイですね。


>碧南市権現町に大浜熊野大権現を建てますが、約200年後に現在の場所に移築してます(南北朝の時)。


南北朝の時に北朝方に追い出されたのでしょうか?
それで移築したのかしら?


平家 →  南北朝  →  対信長
流れに筋がありますね。
って、贔屓の引き倒し(笑)





[68]箱柳永田さんからのコメント(2017年06月13日 16時13分52秒 ) パスワード

 あを様
>南北朝の時に北朝方に追い出されたのでしょうか?
それで移築したのかしら?

 戦いに身を投じるため、軍資金の一部をもって移築し、墓守役以外は
大浜を後にしたと伝わっています、で、終戦後にこっそりと帰還ですね。
 勿論、軍資金は金蔵連での採掘と、本業の廻船(海賊とも?言われてます)。
 
>流れに筋がありますね。 って、贔屓の引き倒し(笑)
 大橋家自体が、織田に圧迫されてますから、余程の事が起きない限り
 古くからの海の仲間はより団結しますね。
 逆の見方をすれば、織田家は手始めに大橋家を次に熱田の加藤家(でいいのかな)を攻略し、信長の初陣で、大浜長田になるのかな(松平方で撃退 
 この時期には、単独で自立できない)。
 広正が養子に来たころから、松平に傾倒していきます、最初が我が家で、長田から永田にして弓術指南役です。
 で、石川党と協力して矢作川の舟運に乗り出す事になります。
 
 
 
[69]箱柳永田さんからのコメント(2017年06月13日 16時35分36秒 ) パスワード

 あを様 三つ柏様

>長田もまた騙されただよ。
長田氏の子孫と伝えられる一族は意外にたくさんいますし。

 長田一著 長田一族の足跡 からの考察
 伊豆から伊勢まで長田が荘園の管理をした土地には、分家や郎党が
 土着の管理人として多くの家が残されています。
 新任の<守>や、庄司には十分な収益は見込めませんので、補助役の需要は
無くなりません。逆に中央とのパイプが細くなった長田には、長官や次官に相当するポストは非常に得にくく、3等官や4等官に相当する尉、主典に、猟官していきます。 三浦や長尾も、私の目から見れば、一族ですから。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月14日 03時15分09秒 ) パスワード

箱柳永田さん


詳しく、ありがとうございます。

三つ柏さんとワタクシなんぞの我々ヨソ者に「点」は分かっても「線」になかなか繋がらない。
だから「面」には到達しない。
更に「奥行」なんぞにはとてもとても入り込めないから立体的に理解が出来ない。

土地勘も無いですしね。
時間軸がさっぱりピンと来ないし。



なるほど、大浜でしたら当然水軍もやってたでしょうね。

    こういう事がヨソ者には想像もつかないことです。



>中央とのパイプが細くなった長田には、長官や次官に相当するポストは非常に得にくく、3等官や4等官に相当する尉、主典に、猟官していきます。

古代の豪族も時代の波にうまく乗れず、地方では土地の者からありがたがられて力を持っていた、というのですね。 
そこから過去の栄光を取り戻そうと  平家と繋がり、源氏と繋がり、南朝と繋がり、そして家康と繋がって「永井氏」になるのですね。


日本人ってホント面白い民族ですよね
名前と出身地で先祖が分かる
そして先祖同士の関係も分かる。

1万年ほどこうして生きて来た民族ですからね。


載ってない記載されていない、ということでは把握出来ないですね。
「書かれてなくても」当時の人には承知のハナシだったのでしょうから。

「反信長」の1つだけでも「うちと同じじゃないか」と納得出来ますからね。
血と肉と涙で理解出来るハナシ。


「よくぞ絶えずに続いた!」
ですね。


>戦いに身を投じるため、軍資金の一部をもって移築し、墓守役以外は大浜を後にしたと伝わっています、
>で、終戦後にこっそりと帰還ですね。

お互いに!

長田家の男達が武器を手に移動するさまが見えたように思います。
ワタシの先祖にも通じるシーンだったのだろうなと。
そう思ったら涙が溢れました。

こうして今ワタシが存在しているのか、と。
しみじみ
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2017年06月14日 03時25分09秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101595.html
スレッド92を立てました。

キリの良いところでどうぞ。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.