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 投稿番号:101588 投稿日:2017年05月02日 08時35分05秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XC(課題確認33)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101587_70.html
長上郡の服部氏族LXXX\(課題確認32)
スレッド89の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


遠江の小野氏が今に至るも存続していると知って嬉しく思いました。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月03日 10時37分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 
 新しいスレッド、ありがとうございます。

 昨日は夜会があり、初ガツオで一杯、日本酒も旨く、ついに飲み過ぎて、
本日は二日酔いの朝を迎えております。

 五月になり、空は青く、太陽の光はきらびやかで、種々の花々もいたる所
で満開になってきております。

 「直虎」効果もあり、また「浜松祭」もありますので、今日から日曜日ま
での五日間は、他府県からの観光客も押し寄せ、どこも満杯で動きがとれな
くなりそうです――

 さて、「多胡碑と羊太夫」についてでありますが、直接群馬の吉井の現地
へ行って調べても、真実らしきストーリーはスッキリしなかった。それより
も、久保有政氏の『日本の中のユダヤ文化』の中にははっきりとした文脈が
見出されました。この事は何を意味しているのかといえば、世間一般、及び
学術世界においては、「ユダヤ」にからめることへの躊躇があるということ
ではないでしょうか……。久保氏のように、真っ向からユダヤ研究をしてい
る人には、全く躊躇する必要はないのですが、まだ一般の世界では、「ユダ
ヤ」という言葉を使って論じるのは、伝奇小説並みの虚構と思われてしまう
恐れがあるのかも知れません。
 従って、現地での資料からはユダヤ的な表現は見いだされなかったのでは
ないかと推察するのですが……。唯一、現地で出版されている井上清・長谷
川寛見共著『多胡の古碑に寄せて』の本の中に、篠原央憲著『天皇家とユダ
ヤ人』からの引用文があり、その中に、「高松塚古墳の被葬者の高市皇子の
木棺の飾り金具に、ユダヤの紋章があった」との表記を見つけたのと、高市
皇子の父は天武天皇、母は尼子娘(アマコノイラツメ)であり、その尼子娘の
父・胸形(宗像)徳善は、「ユダヤ系」との表示を見つけたことだけでありま
した。

 久保有政氏の『日本の中のユダヤ文化』の中には、目を見張ることが書か
れております。それらを要約してしまうとニュアンスが伝わらなくなる可能
性がありますので、長くはなりますが、次のレスにて主要部分を抜き書きし
てみます――
 
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月03日 11時49分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは、久保有政氏の『日本の中のユダヤ文化』より――
 「――7〜8世紀にかけて生きた「羊太夫」と呼ばれた人物の墓から、
「十字架」と、「JNRI」と刻まれた古銅券が出ている。
  この「羊太夫」という人物が、なかなか興味深い。群馬県吉井町のあ
 たりは、昔「多胡郡」と呼ばれたが、羊太夫は、その多胡郡の統治をま
 かされた人である。多胡郡には「多胡碑」と呼ばれる有名な古碑がある。
 711年に建てられ、「日本の三古碑」のひとつに数えられる石碑だ。
 この石碑が、羊太夫について記している。」

 「この羊太夫の墓の中から、キリスト教徒の十字架が発見されていたの
 である。また、「JNRI」というローマ字の記された銅板もともに発
 見された。それらは羊太夫自身のものと思われ、8世紀にすでに日本に
 キリスト教徒がいたことを示している。
  そしてこのキリスト教徒・羊太夫は、その地域のリーダーであっただ
 けでなく、日本全体の文化の発展にも多大な功績を残していた。」

 「羊太夫の墓から出たという「十字架」は、残念ながら現存していない
 が、江戸時代後期の大名であり、学者でもあった松浦静山が、その十字
 架について言及している。彼の著『甲子夜話(かっしやわ)』のその部分
 を現代語に訳すと、こう書かれている。
  ――上州多胡郡の碑にある羊(人名)は、遣唐の人であろう。後に、そ
 の墓の中から十字架が発見された。そこで上州の代官が長崎屋の旅舎で
 オランダ商人イサク・ティツィングに見せたところ、こんなものを鑑定
 しろと命令されるとは一体どういう事でしょう、と不思議がった。
  このオランダ人が不思議がったのは、当時はキリシタン禁制の時代で
 あり、十字架は禁制の品だったからである。」

 「羊太夫は、高度な技術力を持ち、日本最初ともいわれたあの有名な銅
 銭「和同開珎(わどうかいちん)」を作った技術長官でもある。また羊太
 夫は土地の人に尊敬され、慕われていた。筆者はその地域を調査したこ
 とがあるが、今も彼のことは人々に語り継がれている。彼らは今も羊太
 夫を偲び、毎年お盆の時に送り火として山で文字焼きをしている。」

  次に続きます――
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月03日 13時36分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

羊太夫

やっぱりこの人はキリスト教徒だったのでしょうね。
遣唐使で大陸に渡ってキリスト教の影響を受けたのでしょうね。

1.
キリスト教での羊= 人間のこと
神の子羊=キリスト
羊=キリスト教信者


2.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%84%E3%82%B8

日本の羊の歴史


日本列島には古来より、旧石器・縄文時代のイヌや弥生時代のブタ・ニワトリ、古墳時代のウマ・ウシなど家畜を含め様々なものが海を越えて伝わったが、羊の飼育及び利用の記録は乏しい。

寒冷な土地も多く防寒用に羊毛が利用される下地はあったが、動物遺体の出土事例も報告されていないことから、ほとんど伝わらなかったものと考えられている。


考古資料では鳥取県鳥取市の青谷上地遺跡において弥生時代の琴の部材と考えられている木板に頭部に湾曲する二重円弧の角を持つ動物が描かれており、ヒツジもしくはヤギを表現したものとも考えられている[8]。


文献史料においては、『魏志倭人伝』(『魏書』東夷伝倭人の条)では弥生時代末期(3世紀前半代)において日本列島にはヒツジがいなかったと記されている[9]。


8世紀初頭に成立した『日本書紀』では、推古天皇7年(599年)に、推古天皇に対し百済(朝鮮半島南西部)からの朝貢物として駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)各1頭、白雉1羽、そして羊2頭が献上されたという[10]。西域の動物であるラクダやロバとともに献上されていることから、当時の日本列島では家畜としてのヒツジが存在していなかったとも考えられている[11]。


                       ↓ ココですね

奈良時代、天武天皇の時代に関東で活躍した人物に「多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して地元に羊神社などが残る程度であり、羊自体の存在や飼育記録は確認できない。


8世紀には、奈良県の平城宮跡や三重県の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している[12]。8世紀中頃には、正倉院宝物に含まれる「臈纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にヒツジの図像が見られる[13]。


『日本紀略』によれば、嵯峨天皇の治世の弘仁11年(820年)には、新羅からの朝貢物として鵞鳥2羽、山羊1頭、そして黒羊2頭、白羊4頭が献上されたという[14]。さらに、醍醐天皇の治世の延喜3年(903年)には唐人が“羊、鵞鳥を献ず”とあり、他の記録も含め何度か日本に羊が上陸した記録はあるが、その後飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった。

仏教の影響を色濃く受けた故に肉食があまり推奨されてこなかったことから食肉用はともかく、羊毛製品には全く需要がなかったわけではなく、貿易品としての羊の毛織物は人気は高いが高額であり、長らく一部の有力者や富裕層のみに珍重されていた。

江戸時代、文化2年(1805年)に江戸幕府の長崎奉行の成瀬正定が羊を輸入し、唐人(中国人)の牧夫を使役して肥前浦上で飼育を試みたが、失敗。

幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の薬草園であった広大な巣鴨薬園の総督を兼ねていたが、文化14年(1817年)から薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った。巣鴨薬園はゆえに当時「綿羊屋敷」と呼ばれていた。

明治期に入るとお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドルが軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである。戦前から戦後間もない時期まで、日本製の毛織物は重要な輸出品だったが、化学繊維にとってかわられた。

家畜用のヒツジは、毛用種、肉用種、乳用種に大別されるが、代表種のメリノをはじめ、兼用の品種も多い。

[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月03日 14時20分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さらに――
 「松浦静山はJNRIとは何の意味かと興味を持ち、調べると、西洋の
 キリスト処刑の絵図によく見られるものであることはわかったが、その
 意味はわからなかったというのだ。
  だが、現在ならその意味は明白だ。それはラテン語の――
   Jesus Nazarenus,Rex Iudaeorum
の頭文字を並べたものである。つまり、ユダヤ人の王ナザレのイエスを
 意味する略語なのだ。聖書によれば、イエスの磔刑の際、この言葉が、
 ヘブル語、ギリシア語、またラテン語の3か国語で、イエスの頭上に掲
 げられたという。
  それゆえ、ラテン系キリスト教美術においては、十字架のキリストを
 描く際に、その頭上にJNRIの文字がよく描かれる。またはINRI
 の文字も使われる。この場合の最初のIは、Iesusの頭文字で、同じく
 イエスを意味する。」

 「さらに、興味深いことに、羊太夫は実は秦氏と呼ばれる氏族の家系だ
 った。渡来人一族であった秦氏は、日本の文化文明を作ったと言われる
 程、大きな影響を日本に与えた人々である。羊太夫もそま一人だった。
 というのは、中世の時代に多胡郡を支配した豪族は小幡氏であったが、
 彼らは、自分たちは羊太夫の子孫だ、と述べていた。。小幡氏は秦氏系
 の名である。
  彼らは八幡神を信仰していたが、小幡の地にある八幡神は小波多神社
 という。波多とは秦のことである。銅の技術に優れていたのも、秦氏の
 特長だ。
  また、羊太夫は、きわめて優れた養蚕技術を持っていた。それで今も
 多胡の地は養蚕が盛んである。もともと秦氏は養蚕技術を日本に持ち込
 んだ人々として知られているから、ここにも彼と秦氏との関係が見える。」

というように、羊太夫は第一に秦氏であったということ、第二に原始キリ
スト教を信仰していたということ、藤原不比等と同時代人で知りうる間柄
であったということができます。

 羊太夫は不比等であったという説もある位ですので、この羊太夫を巡っ
ては、不比等、中臣氏の秘密の謎を解く鍵が隠されているといっても過言
ではありません。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月04日 03時38分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

>羊太夫を巡っては、
>不比等、中臣氏の秘密の謎を解く鍵が隠されているといっても過言ではありません。

ですね。

この2人、アヤシ過ぎ。



とにかく「羊太夫」という人は不思議な人物ですね。

大陸に関わりのあったヒト。
これはかなり有力ですね。

   秦氏だろう
   遣唐使だろう

それでキリスト教信者だったろう。

そういう人物が不比等と知らない関係だったとは思えない。


名前が「羊」というのも不思議です。
どこから「ヒツジ」という和名が出来たのか?
    中国語の「羊  ヨウ」  の発音は  やぁう〜ん」
    半島で「ヨウ」に変化したのか?

    でも  何故日本では  ヒツジ?


http://ameblo.jp/cavy-do1010rain/entry-11965716416.html
ヒツジの語源



今年の十二支・ウマの語源は、中国語でウマを指す「マ」からきているというのが有力です。

日本ではなじみのない動物の名前だから外来語由来なのだ、と思えば、
同じく大陸原産のヒツジが漢音の「ヨウ」から隔たった言葉なのが不思議ですね。

漢和字典によれば、羊の文字はツノのある頭部、四つ足、尻尾を表したもの。
中国語ではヤギ、カモシカ、レイヨウなどを広く指す言葉だそうです。
そして「良い」とか「陽の気」の意味も含むのだとか。
ヒツジは神さまに捧げる供物だったので、神聖視されていたのでしょうね。

      中国もユダヤも?!



では日本語の「ヒツジ」の語源は何なのでしょうか。

『語源辞典 動物編』には、ヒツジの語源の有力な説がふたつ載っています。


十二支は時間にも使われました。
未明を指す「丑三つ時(うしみつどき)」という言葉などはその名残です。
で、未の刻(ひつじのこく)は正午を少し過ぎたところ、そのため「日辻」の意からきたというもの。


古代の言葉で「養う」ことを「養たす(ひたす)」といいました。
また、動物は広く「シシ」と呼ばれました。
鹿威しがシカなのにシシなのも、元はシシと呼ばれていたからですし、イノシシのシシも、同じくこのシシです。

で、ヒツジのシは「獣(シシ)」の略で「養たすシシ」、つまり「飼育される動物」の意というもの。


また、ウシが「大きな(ウ)」「獣(シシ)」を指す言葉として、ヤギを野牛、ヒツジが「養し牛(ひたしうし)」とする考えもあって、
ヒタシウシ→ヒタウシ→ヒツジとなったという説もあります。



日本では『日本書紀』などに他国からの献上品として名前は見えるものの、
飼育は定着せず、
Wikipediaによれば、明治に入り大久保利通によって牧羊場が設けられたのが本格的飼育の始まりなのだそうです。

その間、千年以上。
よくヒツジという日本名が残ってたなぁって感じもします。。。


     なぜ羊太夫が  ヒツジ太夫なのか  謎がますます深まりました。
     笑
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月04日 16時26分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 羊太夫については、色々な情報がありますが、どれも一点に収束すること
がありません。おぼろげなる真実がおぼろげなる薄衣をかぶって実在してい
ることは、確かなようです。おぼろげなる中に、羽鳥連(=服部連か?)や
羽鳥中臣氏、服部郷などもからんできます。いずれにしても、「羊」の謎、
不比等にからめて今後も追及して行きたいとは思っています。

 来週は、九州の「宇佐神宮」へ行ってきます。この神社、謎深い神社です
ね。一筋縄には行かない――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月04日 22時04分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「宇佐神宮」

平家方だった神宮ですね。


宇佐神宮には修学旅行で行きました。
おぼろげに・・・行ったよね?・・・・という記憶です。
海岸で遊んだような?
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月05日 07時43分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宇佐神宮については、実は前々から宇佐公康氏の著書『宇佐家伝承 古伝
が語る古代史 正編・続編』という2冊の本を持っているのですが、内容が
細かい字でびっしり・ずっしりで、読解するのに相当な気力と時間がかかり
そうなので、何度か挑戦するも即跳ね返されておりました。昨日も読もうと
したのですが、字の小ささについては、慣れれば気にならなくなりました。
情報は本当にびっしり・ずっしりですので、実は今までの歴史観と違ったら
どうしようという危惧があります。何故ならば、古代史にはさまざまな説が
あり、読めばよむほど迷宮度が増して行くということを身に染みて感じてい
るからであります。数学のように、これが正解だという歴史書があったらな
あ……これが今のいつわざる心境であります。
 いずれにしましても、今度の宇佐神宮行きの体験によって、これらの本の
内容も身近に感じられ、理解の方もすらすら進むというような効果を期待す
るものであります――

 さて、群馬行きの最後の話として、川越について記します――
 高崎から川越までは約70キロ、高速道路を利用して1時間程で到着しま
した。
 まずは、小江戸的な情緒漂う街並にある「服部民俗資料館」を訪れ、でき
れば館長の服部氏に会えたらなあと思いながら、資料館の中に入って行きま
した。いろいろな昔の文化財・資料がある中で、その奥まった所に男性が一
人立っていました。直感的にこの人に違いないと思い、話しかけました――
浜松から来た服部という者であること、インターネットサイト「平熱」のこ
と、あを様のこと、いろいろお話をさせていただきました。
 氏が言うには、一度訪ねてこられた女性がいた(それがあを様であったかど
うかの記憶はは定かでないが……)、確か歴史に大変詳しい方だと記憶してい
るとのことでした。
 氏の名刺の肩書にはこう書かれていました――
 「川越市文化財保護協会 会長
  山新記念 服部民俗資料館 館主」
 氏よりいただいた『川越の文化財 第123号』というA4版7枚程の発
行誌には、冒頭に服部氏の「江戸時代の文書からみた川越の城下」という論
文が載っておりました。
 氏の先祖は武田方に仕えており、その後川越に来てからは薬屋を営んだと
いうことです。「山新」はその屋号でありました。薬といえば、「甲賀」を
想起いたします。ひょっとして、元々は甲賀出身であられたのでしょうか。
家紋は、「源氏車に並び矢」で、木瓜紋(記憶が薄らいでいます)も使ってい
るとのことでした。
 「はっとり京都」様のことにも話が及び、小型のアルバム位分厚い本を家
の奥から持ってこられて、家紋が同じということで送っていただいたとのこ
と。中をちょっと覗かせていただきましたが、ぎっしりと調査資料が載せら
れていて、私もこの本ほしいなあと思いました。けれど家紋が違うので無理
かと残念至極、あきらめた次第であります。
 服部館主に別れを告げ、次に「川越歴史博物館」に向かいました――
 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月05日 11時55分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


姫沙羅さんのお家も由緒ある薬屋さんです。
何か関連があったのかもですね。


家紋が違う
つまり
格が違う(我が家は馬の骨の服部ですから)
または系統が違う(また振り出しに戻りました・・・)
ということですね。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月06日 09時51分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 川越の喜多院の側に「川越歴史博物館」はありました。民間経営による
三階建ての、建坪はそんなに大きくはないビルでありました。
 川越藩には忍者がいたということで、忍者の使った様々な道具が展示さ
れていました。もちろん、今回の目的はそれでありましたので、大満足と
いうことになります。忍者の着た鎖帷子(くさりかたびら)、八方手裏剣、
十字手裏剣、卍手裏剣、棒手裏剣…、鉄毬(てつまり)、くない、撒きびし、
いかりの付いたロープ、つぶて……。
 忍者の展示物のコーナーに、こう書かれていました――
 「忍者
  忍者は、農民や商人として日頃の生活をし、家人や近隣の人にも自身
 の役目を明かすことなく、人知れず偵察役として城に仕えていたと考え
 られる。戦国時代以前から、敵の情勢・諸大名の動きを探るために影の
 軍として全国に存在したと言われる」

 確かに各地にある博物館に行ってみますと、戦国時代に忍者の使用した
武器類他が展示されております。忍者が存在したのは事実であります。
 
 忍者物の他にも、刀、鎧、兜、その他諸々がたくさん集められておりま
したが、中でも十手類は豊富で、火付盗賊改めの使っていた十手もありま
した。

 武将に関しては、この地の豪族「河越氏」のコーナーが設けられており、
その系図や説明書きがありました――
 「河越太郎重頼
  重頼は、川越の地名の祖であり、平安時代中期以降、源頼朝らととも
 にした名のある武将であった。関東の武士をまとめたかった頼朝は、重頼
 の娘を弟義経の正妻とすることを命じた。後に、頼朝と義経の仲たがい
 から、重頼は頼朝に命を奪われてしまい、悲運の生涯を終える。」

 「河越氏と日枝神社
  平安時代になると、寺院が続々と建てられ、荘園を開発した地方豪族
 たちも、都への憧れと信仰心から寺社を築いた。
  平安時代末頃に、河越太郎重頼の父・龍隆も河越荘の総鎮守として、
 日枝神社を京都より分祀して奉りあげた。」
ということで、日枝神社に奉納した「太刀」が飾られておりました。

 さらに――
 「武蔵武士
  平安時代中期頃に、皇族や貴族達が都を離れ、地方の人々を配下に地方
 豪族となり、荘園という私有地を開いた。武蔵国では、豪族武士を武蔵
 武士と呼んだ。
  秩父から進出し荘園を築いた河越氏は、武蔵国の武士団に指揮権を持
 つほどの勢力を誇った。
  当時、武蔵七党と呼ばれた豪族武士七集団も存在した。
  丹・私市(きさい)・村山・西・児玉・横山・猪俣 以上七党」

 河越氏はもともと桓武平氏であり、河越重頼の妻は比企氏の出身で頼朝
の乳母となった比企尼の次女・河越尼であり、その河越尼もまた、頼朝の
嫡子・頼家の乳母となっています。重頼の娘は、義経の正妻となりました
から、河越氏は源氏の中枢に位置し、しかも平家であったということにな
ります。
 でも、最後は悲しい運命でありました――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月06日 22時54分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>しかも「平家」であったということになります。

平家ではなく「平氏」
が正しいと思います。

河越氏は坂東平氏の1つで
平家というのは  伊勢・伊賀の平氏  限定ですから。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月07日 15時27分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「平家」、「坂東平氏」、改めて勉強し直しました。ありがとうございま
した。

 さて、川越での最後の訪問先「喜多院」ですが、行って見ると、全体的に
凛とした雰囲気がありました。あの天海僧正が入寺し、第27世の法統を継
ぎ、寺の名を「喜多院」と改めたということであります。

 まずは本堂にて合掌し、天海僧正に対し祈りを捧げました。天海僧正に関
する謎解きはまだまだこれからですが、この場で何かのヒントを得られれば
いいなと思いながら、本殿の右隣の奥の方に入って行きました。

 やがて看板が目に入りました――
 「@3代将軍家光誕生の間
  A春日局の化粧の間」

 待てよ、家光は江戸城で生まれているはず……喜多院で生まれたとは新事
実か?と思いながら続きを読む――
 「江戸城からの移築建造物
  慶長19年(1614)、徳川家康公の寄進により、伽藍が整備されました。
 寛永15年(1638)の川越大火により、山門を除く諸堂が消失しました。再
 建にあたり、3代将軍家光公は、江戸城内の御殿を川越に移築する命を下
 しました。このことは、当時の当山第27世住職天海僧正と将軍家の特別
 な関係を示すものです。
  江戸城から移築された建造物は、客殿・書院・庫裏の3棟で、現在国指
 定重要文化財として保存され公開されています。客殿の中の山水画で飾ら
 れた一部屋が「家光公誕生の間」と伝えられています。また、書院は家光
 公の乳母(子守り役)である春日局の「化粧の間}と伝えられています。」

 天海―春日局―家光をつなぐ強い絆がある!ということを感じました――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月07日 22時42分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

あ〜
びっくりしたぁ〜


誕生の間の「移築」のお話でしたか。



>天海―春日局―家光をつなぐ強い絆

ますます天海がアヤシイですね。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月08日 15時20分26秒 ) パスワード

本日の「直虎」
副題:「あるいは裏切りという名の鶴」


今回は視聴者の期待を「裏切る」エピソードが満載でしたね。
ついて行くのに精一杯でした。



「なつ」さんは政次にホンキ?
それとも彼女なりの兵法?
政次が処刑された時の道連れになった子供達とは政次と「なつ」さんとの子供達?



常慶が話題に出てました。
「松下」の名も出ました。
この紹介でも  あれ?  と裏切られた気分。



浅丘ルリ子は今日ご臨終かと思ってたら
お手紙を書いてましたね。
ここが寿桂尼のブキミなところ?
難問に当たると俄然張り切るタイプ?
裏切られました。笑



番組最後の紀行の紹介で
瀬戸方久は「松井」姓も名乗ってた?
松井平兵衛?
へぇ〜

瀬戸方久が種子島を氏真に売り付けるお話にも驚きました。
もの凄くアタマの柔らかい切れる人だったようですね。





本日は期待を裏切るエピソードが多過ぎて難し過ぎました。
いろいろ情報が多過ぎてついて行くのに精一杯で
消化出来なかった。


次に遠江の松井氏について記します。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月08日 15時27分13秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F%E6%9D%BE%E4%BA%95%E6%B0%8F


遠江松井氏

日本の氏族・松井氏のうち、遠江国(現・静岡県西部)に発展した松井氏である。
このうち源姓の松井氏は室町時代に駿河国(静岡県東部)とともに遠江国を勢力に置いた守護大名・戦国大名の今川氏に属し、主要家臣として活躍した。



発祥

遠江松井氏はその伝承によれば、
松井冠者源維義を祖として、
山城国葛野郡西院松井(現在の京都市右京区西院町松井)に発したとされ、
鎌倉時代は幕府の御家人として山城国に住んだ一族という。

    (この山城松井氏の嫡流は松井康之の代に肥後細川家の重臣となり、のちに八代城主3万石になった)。




足利氏に従い今川氏に属す

そののち建武年間に山城国の御家人・松井宗次(兵庫亮)、助宗(八郎)父子は建武政権を離脱・挙兵した足利尊氏に味方し、
足利一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げ、
その恩賞として建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市)に地頭代職を与えられて移住した。



遠州国人となる

その裔孫松井宗能(山城守)はその父・松井某(山城守、名は義行とも)の忠節(戦死の功とも)により、
永正10年(1513年)8月28日(旧暦)に今川氏親から遠江国鎌田御厨領家分を与えられ、
その嫡子貞宗は大永8年(1528年)3月に父・宗能から家督の譲渡を受け、
同国の平川郷堤城主となって、松井氏は遠江国の国人かつ戦国大名・今川氏の主要な家臣となる。



二俣城主となる

宗能の子・貞宗の長男信薫(のぶしげ、左衛門亮)は永正11年に遠州国人の二俣氏に替わり二俣城(静岡県浜松市天竜区)の城主になり、
信薫が病死した享禄2年(1529年)にその弟・宗信(左衛門佐)へと継がれた。

宗信は今川義元の三河進出の先鋒として出征し、
天文年間から三河国各地で歴戦したが、
義元の三河・尾張方面への親征に具奉した永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで織田信長に敗れ主君・義元と共に戦死した。



今川家の滅亡と松井氏の衰退

その後、宗信の嫡子・宗恒(八郎・山城守)は父の家督を継いだが、
一族の宗親が二俣城主になったとされる。

徳川家康の東三河進攻は永禄6年(1563年)の曳馬城主飯尾連竜の反乱を誘発し、
いわゆる「遠州忩劇(そうげき)」という西遠の混乱状態を引き起こしたが、
今川氏真は飯尾氏の姻戚であった松井宗親を駿府で謀殺したという。

その後も氏真は徳川氏・武田氏の進攻による遠江国人衆の動揺を抑えかね、
この中で松井氏も徳川方・武田方・今川方に分裂して戦い、
元の主家今川家が滅亡すると国人領主としての松井氏の勢力は全く衰えた。

結局、徳川家康に属した庶流の松井宗直の系統が徳川氏の旗本として残り、
天正18年(1590年)の徳川氏の関東移封に従い上州緑野郡(群馬県藤岡市)に采地を受けて移住した。



その他の一族

宗信弟という助近(兵庫助・因幡守とも)は徳川氏に一時仕えたが、遠州に残り子孫は土着したという。

この他、今川氏真の頃に家臣であった一族には松井相模守・松井又七郎・松井八郎三郎・松井内膳などの名が古文書や記録に見える。

また、宗信の一族(弟・八郎三郎の系統ともいう)松井兵部輔(兵部少輔とも)は三河松井氏の松平康親(松井忠次)娘と結婚して子孫は尾張徳川家家臣となった。

この三河松井氏も同祖で遠江松井氏からの分流であるとされる。



参考文献
『新訂 寛政重修諸家譜』、続群書類従完成会、1984年。
渡辺三義 『静岡県の名字』 静岡新聞社、1989年、ISBN 4-7838-1032-X C0021。
『静岡市史 古代中世史料2』 静岡市、1981年。
太田 亮(編) 『姓氏家系大辞典』 角川書店、1963年。
竹内理三(編)『角川日本地名大辞典 22 静岡県』、角川書店、1982年、ISBN 4-04-001220-8。

[16]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月08日 16時42分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 直虎役も段々慣れてきたようですね。毎回緊迫感があって、退屈しない
ドラマとなっています。但し、個々のシーンにとらわれていると、全体の
流れがわからなくなる。今川・北条・武田・徳川の勢力関係…説明するの
は難解です。
 音楽は天下一品、誠に素晴らしいですね。世界にも誇れる!

 瀬戸方久については、色々な情報があって一つに収束しないので書くの
を止めておりましたが、松井氏、あるいは名倉氏を名乗ったという情報も
あります。もともとは後二条天皇の娘の子のようですが……。

 松井氏については、現実レベルでこの地域にどのような治政を行ったの
か非常に興味のあるところです。
 この地域に住んだ武将が、この地域の人々とどのような関わり合いを持
ったのか……一つずつ証左を積み重ねて行きたいと思っています。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月08日 22時50分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


「直虎」
だんだん複雑になって来ましたね。


信玄が息子を処分したのは
今川氏の妻のいいなりになるオトコだったからでしょうか?

それとも氏真がアホだから
今川と同盟を保つ意味が無いということで
嫁を離縁する=今川と手切れ=にするためだったのでしょうか?


    いよいよ戦国時代の華々しい世相が始まる=井伊家の中のゴタゴタより広く回りを見る段階?



瀬戸方久は名倉姓も?     ということで検索したら名倉氏と松井氏は関係があったみたいですね???

http://books.google.com/books/about/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%9A%E3%81%AD%E3%81%A6.html?id=bcOrygAACAAJ

清和源氏の源流をたずねて: 三河遠江名倉氏の系譜
川島長次郎, 細田安治

http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/2337140.html
全国書誌番号

93043098
※クリックで国立国会図書館サーチを表示


         この本とつながる書籍

                  松井宗信           あらあらあら
                  三河稲垣氏
                  長倉氏
                  大山氏
                  源維義            あらあらあら
                  堀越氏
                  新家氏
                  三河小栗氏
                  得川氏            徳川さんですね
                  松井氏            あらあらあら



もっとスゴイのがヒットしました。続く
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月08日 22時54分40秒 ) パスワード

http://bushoojapan.com/iinaotora/2016/06/14/78150


井伊谷七人衆の紹介が出てます。

コピペガードがついてました。
残念
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月09日 16時44分56秒 ) パスワード

面白い記事を見つけました:



竹取物語における考察


http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/08/toyokeizai-kaguyahime_n_16497840.html?utm_hp_ref=japan


     略(この部分も結構面白く読めます)

すごい人たちに求婚させている


「物語の元祖だわ〜」という紫式部先生の絶賛の言葉からわかるように、『竹取物語』は現存する最も古い物語だ。作者は不明だが、当時の藤原政権にかなり批判的な立場にあった、中級貴族の男性知識人らしい、という点に多くの研究者の意見が一致している。その見知らぬ作者が残したこの作品は、さまざまな歴史がうかがえる貴重な資料であるだけではなく、緻密に練られたプロットの中に、楽しい要素がふんだんに盛り込まれた優れた小説でもある。



『竹取物語』で面白いのは、随所に散りばめられている裏ストーリーだろう。


たとえば、かぐや姫には数え切れない求婚者が群がるわけだが、この「人選」がなかなかだ。最終候補に残ったのは、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂足という、恋愛中毒の貴公子5人。誰よ、こいつら? しょせん想像上の物語の人物じゃん……と思いきや実はそれぞれ実在した歴史的人物なのである。



しかも、あらためて名前を見直してみると、皇子、大臣、大納言、中納言……当時のヒエラルキーに詳しくなくてもなんとなく錚々(そうそう)たるメンバーが集まっている感じが伝わる。名前がほぼそのまま、または少しもじった程度のカムフラージュしかしていないので、当時の読者にはそれぞれの正体がすぐに見破られたはずだ。


ご周知のとおり、この貴公子たちはかぐや姫から難題を出されて、それぞれ窮地に追い込まれる。要するに物語の中で、当時の最高権力者たちがネタにされているわけだ。平安時代がリベラルだったとしても、そこまで言ってしまって大丈夫なのか、作者不詳……と今さらながら心配になる。



もう1つ興味深いのは、かぐや姫は人間界の人ではないので、「結婚できない」という設定だ。女の姿を持っている以上、結婚をしないわけにはいかない、と迫る爺さんにかぐや姫が放つ一言がなんとも印象的だ。


「翁、年七十に余りぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、男は女にあふことをす、女は男にあふことをす。その後なむ門広くもなり侍る。いかでか、さることなくてはおはせむ」


かぐや姫の言はく、「なんでふさることかし侍らむ」と言へば……


【イザ流圧倒的意訳】

「じいはもう70歳を過ぎて、今日や明日死んでしまってもおかしくない。この地球の住人はみんな男というものが女と結婚して、女というものが男と結婚する。そうして子供を設けて、その繰り返しじゃ。それが普通なんだから、姫がそんなことをせずにいられるのは良いわけではありません」

それを聞いたかぐや姫は「どうして結婚などというものを必要とするのですか?」



「なんでふさることかし侍らむ」というかぐや姫の問いには、現代にも通じる問題意識が感じられる。姫が結婚をしないのは人間界に属していないからだと解釈されることが多いが、それだけが原因なのだろうか。逆に、「結婚を否定できる立場」にするために、作者がわざわざ姫を「月から来た人」に仕立てたということも考えられるのではないか、と思う。


浮気されちゃうし、あとで後悔するぐらいだったら、結婚するもんか!と時代の常識に逆らってかたくなに反対するかぐや姫の姿勢をみると、「ブラジャーよおさらば」というスローガンのもと、デモに出ていたウーマンリブの立役者の姿が思い浮かぶ。作者不詳がフェミニストで、女性の味方だったかどうかはさておき、彼には結婚を否定するれっきとした別の理由があったのではないか。



最初から勝ち目のない戦いに挑む貴公子たち


平安時代においては、女御たちが内閣の会議に参加することはなかったが、男性の出世は女性との「恋愛」によるところが大きかった。誰と結ばれて結婚するか、あるいは、誰と離縁するかによって、抜擢人事の対象になったり、逆に立場が危うくなったりすることは日常で、良い結婚は権力を手に入れる王道手段だったのである。


が、姫が結婚できないという設定になっている以上、求婚者がどう頑張っても彼女がもたらすであろう権力と莫大なおカネを手に入れることは、誰であろうとできない。



つまり最初から勝ち目のない戦いに貴公子たちは挑まされるのだが、それぞれの冒険と破滅する過程はとても詳細につづられている。作者不詳は何らかの理由で当時の権力者に反感を抱いていたのだろうが、手に入れることのできない目標に向かって空回りする彼らの姿をここまで詳細につづる背景には、作者不詳の時の権力者たちに対する深い恨みがあると言われている。


はたして作者不詳のドSっぷりは、貴公子たちが超難題に挑む場面でクライマックスを迎える。



「いづれも劣り優りおはしまさねば、御心ざしのほどは見ゆべし。仕うまつらむことは、それになむ定むべき」と言へば、「これよきことなり、人の御恨みもあるまじ」と言ふ。

【イザ流圧倒的意訳】

どなたの愛情にも優劣をつけられないので、私の願いをかなえてくれるかどうか、それこそ愛の証拠じゃないかしら。欲しいものをもって来てくれる人がいれば、その人を結婚相手にするわ」と姫が言い、爺さんは「そりゃいい考えだ。それならみんなが納得してくれるだろう」と大いに賛成。




やれやれ、ちょっとした宝石とか立派な着物とかで我慢してくれるだろう、と高をくくっていた貴公子たちもすぐに賛成するが、待ち構えていたのは想像を絶する難題ばかりだ。



石作皇子には仏の御石の鉢。それはインドに1つしかないという高級品だ。3年間ほどブラブラしてから、そこらの山寺に置いてあった黒くすすけた鉢らしき代物を盗んできて、シレッとした顔で姫に出してみるが、即バレて脱落。さすがにこんな根性無しの男を姫と結婚させるわけにはいかないと爺さんも納得する。



エスカレートしていくかぐや姫の「注文」


車持皇子には中国にあるといわれている蓬莱の玉の枝を注文。根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝という、誰も実物を見たことがない品を探すのは至難の業だ。
それっぽいものを作れば竹取の爺さんもかぐや姫もうまくごまかせると企んだ車持皇子は、全国から職人を集めて秘密工場を造る。完璧な偽物が出来上がり、姫と爺さんがだまされそうになるが、報酬がきちんと支払われていなかった職人の内部告発によって、車持皇子のウソがばれてしまう。財力も失い、大恥をかき、2人目の挑戦者も断念。


右大臣阿倍御主人には中国にある火鼠(ひねずみ)の裘(かわごろも)を注文。インドの次は中国――やはり海外のブランド物にあこがれるのは現代女性だけではないようだ。火鼠なんぞ、想像しただけでも背筋が凍るのだが、その毛を織って作った布が火に燃えず、汚れても火に入れると真っ白になるという特別なものだと言い伝えられていた。
そんな珍しい高級品は簡単に手に入れられるはずがないが、右大臣阿倍御主人は、このコネやあのコネを使って、それを持っていると言い張る商人を見つけることに成功。お人好しなのか、確かめもせずに大金を注ぎ込み、目当ての品を手に入れて、スキップでもしながら得意げに姫のところに持っていく。
以前贋作にだまされそうになった姫は早くも学習して、プレゼントが差し出されるや否や、すぐさまに火をつける。案の定、贈られた布が目の前でメラメラと燃え始める……。


「さればこそ異物の皮なりけれ」と言ふ。大臣、これを見給ひて、顔は草の葉の色にて居給へり。かぐや姫は、「あなうれし」と喜びて居たり。かの詠み給ひける歌の返し、箱に入れて返す。

なごりなく 燃ゆと知りせば 皮衣 おもひの外に おきて見ましを

とぞありける。されば帰りいましにけり。



【イザ流圧倒的意訳】

「偽物だったわねぇ」と姫が言う。大臣は、盛大に燃える毛皮を見て、草の葉のように顔を青ざめて、ポカンと座っている。その一方姫が「うれしい、わーい!」と大喜び。大臣が品を持ってきたときに差し出した歌への返歌を、毛皮が入っていた箱に入れてその残りかすと一緒に突っ返した。

そんな簡単に燃えるものだと知っていたら、火になんかに近づかせないで眺めていたのにぃ。残念!

その言葉を読んだ大臣が黙って帰った。


もはやコメディそのもの……。しかし、燃え立つ炎を眺めながら大臣の失敗を笑っているかぐや姫はまるで悪女。顔こそきれいだが、情けゼロ。そして、大喜びの彼女の後ろに隠れて、作者不詳、あなたがニヤッとしているのも、わたしにはわかる……。日本人はよくもこの物語を子どもに読み聞かせている、と驚く。



続きまして大納言大伴御行は竜の首に光る玉を持ってくるように命じられる。こりゃもう命懸けだ。大納言大伴御行は他の挑戦者と違ってもう少しまともで真剣にそのお題に取り組もうとするが、自ら船に乗っているときに嵐に遭い死にそうに。何せ相手は竜だもの……。
命こそ落とさなかったものの、神経や内臓をすっかりやられて、腹がパンパンに膨れ上がって、両目はスモモを2つくっつけたように腫れあがっているという変わり果てた姿に。あれは女じゃない、悪魔だ!! とかぐや姫を罵(ののし)り、もう2度と彼女が住むところに近付こうとしなかった。



かわいそうな最後の挑戦者が手にしたものは


そしていよいよ華々しくフィナーレ。中納言石上麻呂足には燕(つばくらめ)が持っている子安貝というお題が出される。ほかの品に比べるとちょっと地味に見えるが、思わぬ展開が待っている。
子安貝をかっぱらうために、燕がヒナを産み落とすタイミングを見計らっていると、どこからともなく現れた物知りのおじいさんに、燕は尾をあげて7度回ってから卵を産み落とすと聞く。
それでは、と待ち構える中納言。平安時代では身分の高い男性ほど裾の長いものを身に着けていたようだが、足に引っかかりそうな衣服を着て、頭に被り物をして籠に乗る中納言と、その周りに忙しく動いている家来たちの様子を想像しただけで、笑いがこみあげてくる。
物知りのおじいさんに言われたとおり、回っている燕を見かけ、急いで籠を引っ張ってもらうのだが、何かをつかんだと思ったら落ちてしまう。気絶後、やっと目が覚めたら……。


「ものは少しおぼゆれど、腰なむ動かれぬ。されど子安貝をふと握りもたれば、うれしくおぼゆるなり。まづ、脂燭さして来。この貝、顔見む」と御頭もたげて御手をひろげ給へるに、燕のまり置ける古糞を握り給へるなりけり。


【イザ流圧倒的意訳】

意識が少しはっきりしてきたけど、腰が抜けて動けない。でもどうだっていいんだ! 子安貝をしっかり握っているんだもん! うれしくてたまらない!! 明かりを持ってきて、早く見たい!」と頭を上げて、手のひらをゆっくりと広げた。ところが、子安貝を握っていたんじゃなくて、なんと燕が垂らした古糞をぎゅっと握っていただけだった。
ほかの挑戦者と比べて近い場所で手に入れることができる、最も地味な品を頼まれたにもかかわらず、かわいそうな中納言石上麻呂足は成功するどころか転落し、大恥をかく。そのあとすっかり元気をなくし、なんと命まで落としてしまう。かぐや姫のせいでついに死者が出てしまったのである。



そしていよいよかぐや姫がすべてを捨てて、遠いところへ旅立つ日がやってくる。この世の記憶をすべて失った姫は、結局最後まで「愛」というものを知ることなく、地球を去っていく。



これは愛の物語なんかじゃない


かぐや姫は近づく男性に難題を出して破滅に追い込む、冷酷な女だ。そして彼女の周りに群がる男たちは権力や財力はもっているものの、ウソつきだったり、詐欺師だったりする。非情な女の目を通して、人間の欠点や汚点が一つひとつ暴露されていくわけだが、彼らの「敗北」こそ権力に反発しようとしていた不詳の作者が最も望んできたことなのだろう。



この物語には恋や愛なんてちっともない。あるのは、欲望と傲慢さ、そしてウソだけだ。日本では、いまだに愛の物語やSFとして取り上げられがちだが、作者不詳が徹底的なまでに権力者を苦しめるこの話は、当時からユーモアの効いた風刺小説として読まれていたと言われる。


恋に命を懸ける昔の貴族を見習ってほしいと思い、草食化がどんどん進んでいる日本男子に『竹取物語』を推奨してしまったのがかなりの誤算だった。これだから私にモテ期が訪れないのかもしれない……。

(イザベラ・ディオニシオ)
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月10日 07時14分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、先日行った静岡の奥座敷「梅ヶ島」に関する話をまとめようと
しておりましたが、意外と奥が深く、ついに『諏訪市史』、『静岡県安倍
郡史』等、数千頁もの資料に目を通さざるをえなくなりました。
 未だ論旨がまとまっておりませんので、まとまり次第記すことにいたし
ます。

 その中で、一番のポイントになっていますのは、諏訪氏であります――
 
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月10日 15時00分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


人間を調べ始めますと、とめどなく、範囲が広がって収拾がつかなくなりますね。
それだけ面白いから。


今日はテレビで長芋の番組を見ていて三つ柏さんのことを思い出してました。




梅ヶ島温泉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E3%83%B6%E5%B3%B6%E6%B8%A9%E6%B3%89


1700年前に発見されたと伝えられ、武田信玄の隠し湯として使われたこともあった。近くに金山があった時代もあり、その頃は「黄金の湯」と呼ばれていた。

古文書による湯治記録で徳川家康、徳川秀忠の名が見られることから、江戸時代にはかなり有名な温泉地であったことがうかがわれる。当時は立地上、身延に近いことから甲州との峠越えの交易が盛んで、湯治客も甲州経由が多かったようだ。

江戸時代中期には良純親王が湯治し、その霊験ぶりに感激し、神社を開いている。(俗にいう三蛇権現、三匹の蛇に導かれて梅ヶ島温泉に到達したという言い伝え)三種の神器も、老舗旅館、梅薫楼のほか地元の民家に保存されている。現在は、源泉跡地に湯之神社として現存している。

幕末から明治にかけての湯治客には、清水次郎長、乃木希典の名が見られ、創傷や外傷に効能のある温泉として評価を得た。(第二次世界大戦時には帝国陸軍の保養施設となった)。

昭和の世になってからは、歌人の吉井勇が長逗留の時に「梅ヶ島遊草」を詠ったり、茂木草介が「太閤記」を書き上げたり、といった、文人達に好まれる湯治温泉地となった。

1955年(昭和30年)に、梅薫楼から静岡市に源泉の権利が返され、以降13軒に配分されるようになり、現在に至る。

1966年9月25日、台風第24・26号災害により壊滅的な被害を受けるが、その後、復興した。



信玄の隠し湯とは驚きました。
温泉は刀傷の回復に役立つという番組を最近見ました。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月11日 00時53分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今までは、梅ヶ島は私にとって一温泉地の存在だけでありましたのですが、
昨年の暮れに『安倍奥の雄、安部家代々と金山衆』という森竹敬浩氏の書か
れた本が、第16回静岡県自費出版大賞を受賞したということで、その中見
に興味を抱いたこと、安部という氏族名が様々な所で気になりかけていたこ
と、そして本年の4月28日に梅ヶ島温泉が環境省かに「国民保養温泉地」
に新指定されるというニュースが新聞紙上で発表されたこと、これらがあい
まって私を梅ヶ島に駆り立てたのであります。

 静岡には安部川が市の西のはずれに流れています。昔は安倍郡という郡
があり、羽鳥もその中に含まれていました。安倍村という村もありました。
具体的に安倍郡とはどこまでを言ったのか、安部村がどこにあったのか、
今のところまだ把握してはいませんが、安部川に沿って北上すると、静岡
の中心部から16キロ位の所に油島という名前の村があり、そこから北西
に井川方面へ向かう街道が「安倍街道」、まっすぐ北上する街道が「梅ヶ島
街道」であります。
 ということは、井川あたりを「安倍」と言ったのでしょうか。でも今回
梅ヶ島に行ってわかったことは、梅ヶ島の近くに「安倍の大滝」や「安倍峠」
がありましたので、大井川や安部川の上流地帯を広く安倍と言ったのでは
ないかと推察しています(いずれこれはしっかりと調べてみます)。

 梅ヶ島に行って驚いたのは、標高がすでに800m以上もあったことです。
長野県の諏訪でさえ標高600mなのに、随分と高い。安倍峠にいたっては
標高1450mであります。南アルプスの南端なのであり、山梨県との県境
なのであります。

 次回に続く――
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月11日 08時47分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 往古の安倍郡がわかりました。静岡市の南部、おおよそ国道一号線より南
の海岸沿いを有度郡といい、それより北で南アルプスのふもとまでを安倍郡
と言っておりました。東隣は庵原郡、及び山梨県、西隣は榛原郡。静岡市の
最北端部はとんがり帽子のような形で、西は長野県、東は山梨県の間に挟ま
っております。

 安倍郡の地名の由来については、遠い昔より安倍氏がいた……安倍氏がい
て安倍郡になったのか、安倍というところがあって安倍氏になったのか、
はたまた別の由縁があるのか、いずれにしても安倍(アベ)という姓は大和
から陸奥まで広く分布しており、いくつかの違ったルーツがあるようです。
 太田亮氏の『新編 姓氏家系辞書』を見ても、アベ(安倍・安部・阿倍・
阿部)氏族の欄は約40項目も出ております。ここではその分析はいたしま
せんが、静岡の安部氏(安倍でなく安部となっております)については、こう
書いてあります――
 「駿河【安倍氏族】 寛永系図にはその先を諏訪氏とし、諏訪盛重の子・
 元眞を祖と云う。けれど駿河の安部より起こったことを見れば、古代安倍
 氏の後裔かと思われる……。」
 
 森竹敬浩氏の『安倍奥の雄、安部家代々と金山衆』によれば――
 「井川に定住した安部家の先祖・諏訪氏は、北の信濃から南の赤石岳山系
 を超えて、大井川源流地帯に移り住んだ……。」
と書かれております。

 つまり、いずれにしても静岡の安部氏の濃いルーツは、「諏訪氏」という
ことになります。
 でも何で諏訪氏が南アルプスを越えて奥大井・奥静へ来たのか?
 それについて、森竹氏はこう分析しております――
 「諏訪氏一族の100年以上に及ぶ対立・争いと打ち続く戦国の争乱が
 一族の分裂を招き、その一統すなわち井川・諏訪氏が、いわば難民とし
 て南アルプスの山々を超えて駿河の大井川流域に移住したものと考えら
 れる。」
ということであります。

 次に続く――

[24]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月11日 15時17分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


あべさんの漢字は
いろいろ表記があって
こんがらがりますね。


我々他人には良く分かりませんがちょっとの違いが物凄く大きなアイデンティティの差を示しているのでしょうね。

なるほど諏訪氏は内訌を100年以上もやってたのですか。


>何で諏訪氏が南アルプスを越えて奥大井・奥静へ来たのか?

そうか
追い出されて逃げ延びた先だったのですか。


名字には悲しい由来も秘められているのですね。
名字を見ればそういうのが分かる人には分かるのですねぇ。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月12日 01時22分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 安倍奥(奥大井・奥静)の安部氏のルーツが諏訪氏であったことがわかりま
した。とりあえず諏訪氏自体については、今はここまでとしておきます。い
ずれ諏訪大社にからめて論じることになると思います。
 この安倍奥に諏訪氏はたまたまやって来たのか、はたまたちゃんとした目的
があってやって来たのかは定かでない。結果的には、ここは「金の山」、つ
まり金が採れる金山地帯であり、先住の民がおり、諏訪氏はその中にうまく
婚姻関係で溶け込んで行ったということが、大きな結果をもたらすことにな
ったということであります。
 
 次回へ続く――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月12日 03時46分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

>結果的には、ここは「金の山」、つまり金が採れる金山地帯であり、
>先住の民がおり、
>諏訪氏はその中にうまく婚姻関係で溶け込んで行ったということが、大きな結果をもたらすことになったということであります。


    諏訪の人だからモトモト金の出る山というのは気付いていたのでしょうかねぇ?



ということで   あべ氏   について調べて来ました:
http://folklore2006.jp/103.htm

阿部・阿倍・安部・安倍(あべ、あんべ、あんばい、おべ)
# 19位【第一生命ランキング】
# 全国順位(森岡浩ランキング):23 位




22位  阿部
# 全国に約49万人で東北地方に多くみられ、特に宮城県石巻市付近に多くみられる。
# 徳川幕府の大名に阿部家があって、老中を勤めた。
# 第25位 約47万人【明治安田生命ランキング2008】
# 第24位 約47万人【明治安田生命ランキング2013】

【阿部】
# 全国順位(森岡浩ランキング): 23位
# 全国密度順位(森岡浩ランキング): 宮城県 > 山形県 > 岩手県
# 全国人口順位(森岡浩ランキング): 宮城県 > 北海道 > 東京都



21602位  阿倍
# 全国に約200人で全国的にばらけてみられる。「あべ」読みの元祖となったものと言われるが、現在では一番少ない。
                                          へぇ〜



259位    安部
# 全国に約89000人で東北地方に多くみられる他、大分県や島根県の出雲地方にも多くみられる。
# 出雲の安部氏は、清和源氏_小笠原氏族で、南北朝時代に出雲国仁多郡横田荘(島根県奥出雲町)の代官として下向し、土着した。
# 駿河の安部氏は、信濃国諏訪郡の出で、清和源氏満快流。後に駿河国安部谷に移り住んだ。
                                                 コレですね


# 上野国利根郡の国人の安部氏は、陸奥安倍氏の残党の末裔と言われる。
# 「あんべ」読みの方もおられるようですね。



1373位    安倍
# 全国に約13000人で東北地方に多くみられる。
# 秋田県の「安倍」は「あんばい」と読む。電話帳検索で調べて見たら、たしかに「安倍」で「あんばい」読みが秋田県には多い。
# 古代豪族に安倍氏が何流かあり、陰陽家の安倍晴明は引田系の阿倍氏の子孫。
# 陸奥の豪族の安倍氏は、神武天皇と戦った、長髄彦(ながすねひこ)の兄の安日王の子孫と言われるが詳細は不明。俘囚長を務めたのち前九年の役でやぶれ、後に安東氏を称す。
# 陸奥の安倍氏は在庁官人(現地採用の下級官僚)とも言われる。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%98%BF%E9%83%A8

孝元帝皇子大彦命子孫の大族。

滋野氏流と諏訪神家は現静岡県である駿河国安倍郡安倍谷より起こる。              ココですね

福山藩主は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。

備後福山藩主は徳川家康に仕え老中、大阪城代となった阿部氏。老中の阿部正弘が有名。上総国佐貫藩主もある。


語源は、神をもてなす饗えから来ているとされる。
古代の膳(かしわで)に関係があるとされる。
アイヌ語で「あぺ」は火の神で日祭が語源ともされる。




http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1419123239

阿倍氏は河内の生駒山脈のふもとから摂津の阿倍野に居住していた豪族の子孫といわれており

邪馬台国が東遷して河内、大和を掌握する以前、畿内に先住していた蝦夷と物部氏に代表される

倭種とが婚を通じて形成された氏族とおもわれる。

その姓は恐らくアイヌ語の火を意味するアベまたはアピに由来するものであるらしい。
家紋は鷹の羽、梶など。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月12日 03時52分54秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%B7%9D


安倍川(あべかわ)

静岡県静岡市葵区および駿河区を流れる河川。
一級水系安倍川の本流である。
清流としても有名で[1]、その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。
大河川でありながら本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である[2]。

よく見聞きする表記として「安部川」や「あべがわ」があるが、これらは誤りである。

安倍川のたもとで売られている名物に「安倍川もち」があるが、地元以外では餅に黄な粉をまぶして食べる食べ方を単に「安倍川」と呼ぶことがある


地理
静岡県と山梨県の境にある、大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発する。
源流の大谷嶺(標高約2,000m)の斜面は「大谷崩れ(おおやくずれ)」とよばれ、
長野県の稗田山崩れ、富山県の鳶山崩れとともに日本三大崩とされている。

流域のすべてが静岡市内であり、下流部の藁科川と合流する付近では「舟山」という川中島が見られ、市街地の西側を流れて駿河湾に注ぐ。

糸魚川静岡構造線が近くを通っており、
当河川付近に、東西で地質構造が大きく異なる境界もある。



歴史
1335年 - 南北朝時代、足利尊氏と新田義貞が争った手越河原の戦いが起きる。

江戸時代初頭 - 徳川家康によって天下普請として大規模な治水工事が行なわれ、現在の流れとなる。
        それ以前は、藁科川とは別の流れで複数の川筋となって駿河湾に注いでいたが、大規模な治水工事によって、藁科川と合流するようになった。

現在の合流地点より下流は藁科川の川筋だったと言われている。


特に薩摩藩によって安倍川左岸に築かれた堤防は薩摩土手とよばれ、現在でも一部残存している(新しい堤防がより内側に築かれたことにより、現在は、旧薩摩土手のほとんどは道路になり「さつま通り」と呼ばれている[3])。


                                       あらあら。薩摩はこちらでもお手伝いを命じられてこき使われていたのですねぇ。


2008年 - 環境省から「平成の名水百選」に選定される[4]。



主な支流

丸子川
藁科川
足久保川
中河内川
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月12日 08時14分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ここのところ、気候が暑かったり(30℃)、寒かったり、雨が降らなか
ったりで体調も変調気味であります。本日はやっと落ち着いたいい日には
なりそうですが、いずれにしても5月で30℃を越す暑さになるというの
は、気候変動の表れに他ありません。毎年、夏を迎えるたびに恐ろしくな
ります――

 さて、梅ヶ島は温泉街と思って行ったわけですが、熱海のような所とは
全く違って、安部川の源流沿いに温泉旅館がひっそりと十軒位並んでいる
といった、寂れた感じの街でありました。訪れる人も少ないようで、後で
考えてみたら、人は温泉旅館よりもスーパー銭湯に行ってしまうというこ
と、案の定「黄金の湯」というスーパー銭湯が梅ヶ島に来る途中にありま
した。また、ここは標高800mの高地、南アルプスの山歩き・登山の玄関
口ということで、山目的の人は梅ヶ島を通り抜け、標高1400mの安倍峠
あたりまで行ってしまう。
 私も安倍峠まで車で行ってみることにしました――別世界でありました。
つまりは、植生が違う。そしてダイナミックな山並み、澄んだ空気と薄い
ブルーの空、しかもそれが頭の上すぐ近くにある……。
 安倍峠には駐車場がないということで、新安倍峠に車を留めました。ほと
んど山梨との県境であります。眼下には身延の町が見えておりました。静岡
と山梨はこんなにも近いということが体感できました。

 帰りには梅ヶ島より坂道を徒歩で登り、「安倍の大滝」という所に行って
きました。これもいい体験でありました。後でわかったことですが、この
あたりは川で砂金がとれたということであります。今度行った時には、川で
砂金採りをします!

 砂金・金山ということで色々調べてみますと、この辺は秩父古生層といっ
て、山梨の黒川金山ともつながっていました。つまりは「金づる」がつなが
っていたということになります。

 金山と言えば、真っ先に「大久保長安」を思い浮かべます。出自は武田方
でありました。
 そして、もう一人、武田臣の「穴山梅雪」、この人が大久保長安と並ぶ
金山の経営者でありました――

 続く――
 
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月12日 22時56分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


>つまりは「金づる」がつながっていた

やはり「現場」には行くものですね。



>金山と言えば、真っ先に「大久保長安」を思い浮かべます。出自は武田方でありました。
>そして、もう一人、武田臣の「穴山梅雪」、この人が大久保長安と並ぶ金山の経営者でありました

すごい人に繋がりましたね。


「人間」って不思議ですね。
時々、並外れたカシコイ人物が出現するんでしょうね。
(ここで金をゲットさせて貰えないなら、見つけるだけ)なんて移動して来たのかもですね。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月13日 01時58分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日(深夜を過ぎましたので昨日)は、新野左馬之助の墓を訪ねてまいり
ました。その報告は、明日(本日の午前中)にいたします。
 併せて、穴山梅雪についても――
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月13日 02時27分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

>2017年05月13日

恐怖の予言の日ですね。

世界大戦の始まる日だとか北九州地震の起きる日とか
不気味な予言の日です。


新野左馬之助=苅谷俊介ですね。
直虎のママの兄   つまり  直虎の伯父さまですね。
この人の娘が庵原朝昌と結婚して庵原家は彦根の家老になっていくのですね。

           庵原家と山本勘助が引っ張り合いがあるのでしたよね。


ご報告を楽しみにしていますよ〜



    筧利夫の息子が直之(之の字)なんですね。
    


人間関係がこんがらがります。
でもNHKの大河で脳の片隅に記憶がうっすらと残って
なんとなく(ああ。あの時代あたりのことか)などとおぼろげに・・・
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月13日 11時33分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私と「新野」との出会いは、私の住む善地の東南・天竜川沿いに「新野」
という村があったのが初めであります。この新野は新野左馬之助とは関係
がありませんでした。調べてみますと、天竜河原を新たに開拓した野という
意味で付けられたようです。

 2番目の出会いは、勤め先に入社した「新野」君との出会いであります。
この方は、神ケ谷の西隣の大久保出身。たぶん井伊家関係者、新野左馬之助
家一門だと推察しております。何故ならば、この神ケ谷・大久保あたりは、
井伊家の分れ井嶋家、井伊家に関係した松下家との関係が深いからでありま
す。

 3番目が、「新野左馬之助」。直虎の叔父。直虎の母(ちか 祐椿尼)の兄。
 
いずれにしてもこれら「新野」は、私の頭の中では「主役」を彩ったわけ
でなく、あくまで「脇役」の存在・認識でありました。

 今回、御前崎に行ったのも、実は「新野左馬之助」が第一の目的でなく、
その御前崎の朝比奈の地には、「閑田院」というお寺があって、「市野惣大
夫」がからんでいるとの情報を確かめたかったためでありました。
 半年程前に、酒井ともさんから曹洞宗閑田院寺史の抜粋のレスをいただい
た時、「市野惣大夫は、このあたりで家康軍のための軍馬を隠し飼いしてい
た」という情報をいただいておりました。

 また偶然見つけた「おまえざき 市議会だより 2015年42号」の表紙には、
この閑田院の写真が掲載されており、説明書きにこうありました――
 「下朝比奈の岩地(いわじ)に建つ閑田院は、明応5年(1496)創建。徳川・
 武田による高天神城の戦いで、徳川の前線基地の役割を果たした。しかし、
 徳川が惨敗したため、本堂をはじめとしたほとんどの建物を消失した。
  その後、徳川家康は敵方武田の調伏(ちょうぶく)祈願寺とし、徳川の家
 紋である三つ葉葵を寺紋とすることを許可した。」

 ということで、まずはこの閑田院を、そして、”ついでに”近くにある新野
左馬之助の墓と展示資料館を見てこようと考えたわけでありました。

 続く(休憩)―― 
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月13日 21時22分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 御前崎には何十回となく行っておりますが、今回は御前崎といっても旧
浜岡町、例の原発の西2qあたりから北に5q程行った所が目的地であり
ました。牧之原台地に向かい緩やかな上り坂が続き、閑田院と左馬助の墓
は、距離的にはほほ同じ位の所にありましたが、東西方向に2q程離れて
おりました。

 閑田院は、山合いに埋もれて、周りから見えないような所にありました。
しかしながら、こんな田舎の割には立派なお寺で、墓地もちょっと離れた
所に新築されており、それよりもなによりも、確かに寺紋が「三つ葉葵」
であったのには、改めてビックリいたしました。それはひときわ目立って
目に映りました。

 時間は午前11時、閑田院の200m北には、「あらさわふる里公園」と
いう最近造られた大きな総合公園がありましたので、そこへ行って早めの
ランチタイムとすることにいたしました。

 次に、「新野左馬介公墓所(左馬武神社)」へ向かいました。大河ドラマ
のため、市の観光予算がついたのでしょうか、茶畑の中にコンクリート敷
の道ができ、しかも20m位の小山の中腹まで、階段も手すりも整備されて
おりました。

 階段を上ると、そこに祠があり、それが「左馬武神社」でありました。
その隣には、顕彰碑が建てられており、文語体の文章が刻まれておりまし
た。口語体の説明看板もありましたので、そちらの方を記します――
 「新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の墓
  新野親矩は今川氏の一族で、遠江国新野の領主、佐馬助と称した。
 永禄七年(1564)、今川氏に背いた引馬城主飯尾連竜(つらたつ)を攻めた
 時に戦死した。
  親矩の妹は、井伊直盛の妻となっている。そのため永禄五年(1562)、
 井伊直親が氏真に謀反の疑いをかけられ殺された時、親矩とその妻が
 直親の遺児万千代(後の徳川四天王の一人井伊直政)をかくまい、養育し
 たことは有名である。
  幕末の大老井伊直弼は、家来に親矩の墓を訪ねさせ、また自ら弔祭し
 ようとしたが、桜田門外の変(1860)に倒れ、叶えることができなかった
 という。」         (御前崎市教育委員会 新野公民館)

 顕彰碑の裏に、墓標(顕彰碑と共に作られた感じの石柱)があり、「新野
左馬助之遺蹟」と刻まれておりましたので、私は手を合わせ、般若心経を
二巻唱え捧げました。

 実際にこうして祀られている現地へ来てみると、新野左馬助に対する私
の心は尊敬の方向へ変わってきました。考えてみれば、直虎も、その母の
祐椿尼も、その兄の左馬助もみんな新野家、あるいはその血の色濃い人間
ではないか……つまり、新野家が影の主役ではないか……と思うようにな
りました。左馬助は不幸にも引馬城攻めで死んでしまい、祐椿尼と直虎が
女性でありながら井伊家を守り抜く中核となる……そう思うと、改めて私
の体にブルブルと鳥肌が立ち、2人に対するシンパシィが湧き上がりまし
た――

  
  
 
 
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月13日 23時13分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 左馬助公墓所からそう遠くない所に、「新野左馬助公展示館」がありま
した。そこは鈴木東洋氏という医師の医院跡でありましたが、その氏が生前
に地元・新野左馬助氏の顕彰事業に努力してきたということで、敢えて利用
させてもらったようです。
 受付には、氏の左馬助の研究資料が頒布されておりましたので購入して
まいりました。その内容については後で調べてみましたが、龍潭寺の前住職
の武藤氏が鈴木氏より資料の提供を受け、著書『遠江井伊氏物語』の中で
その情報を参考にされておりました。

 今後のドラマの内容は、井伊直政中心の筋書きになって行くと思いますが、
いよいよ松下一族が出てくると思います。謎の人物「松下常慶」登場です!
 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月14日 05時57分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


遠江新野氏の件
ありがとうございます。
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


御前崎の人でしたか。
原発が近くに出来てビックリしてるでしょうね。


「大河ドラマ  直虎」の恩恵を受けて顕彰されることが出来て良かったです。
人は名を残して、後世にも思い出して貰えるなんて、本当に嬉しいことでしょう。



いよいよ「松下常慶」が何故しのさんと結婚に至ったか
どんなだったのか楽しみですね。


虎松の後見人が小野政次になったのが機会だったのかなとか
いろいろ空想しています。

なつさんは政次と結婚するのかなとか
楽しみです。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月14日 06時22分05秒 ) パスワード

http://53922401.at.webry.info/201702/article_19.html


新野氏の出自

鎌倉時代・・・遠州の御家人として、井伊・横地・勝間田氏がセットで登場することが多いが、新野氏も登場する。ところが、この新野氏は清和天皇の子孫で源姓(清和源氏)新田義重支流が上野国新田郡新野村が起源である可能性が高い。

「新野太郎系新野氏」の居城は新野古城(八幡平城:御前崎市新野)である。足利氏流今川氏支流新野氏もある。 一般的には「新野太郎系新野氏」と「今川系
新野氏」は無関係とされているが、平安末期には源義国の兄弟関係で、「新野太郎系新野氏」子孫に「今川系新野氏」が入り込んだ可能性がないわけではない。あくまで私見であるが。



・保元元年(1156) 保元の乱
「源頼朝に従う遠江の武士に、井の八郎あり。」
源義朝に味方する武士  横地(菊川市)・勝間田(榛原町)・井の八郎(井伊谷)  (★『保元物語』)

源八幡太郎義家の子:横地太郎家長
子ども 横地頼長・勝間田頼兼・井ノ八郎・戸塚七郎
(★『藤原為憲流横地氏系図』:遠江井伊氏物語:武藤全裕著)

 井伊氏は武功をあげ、井伊谷を中心に勢力を拡大していった。



●建久元年(1190)「新野太郎」が登場する。
(★『吾妻鏡』)

・建久2年(1191) 4月晦日条 佐々木荘と延暦寺の騒動
  「井伊六郎直綱」の名が見える。
  井伊氏一族とみられる直綱は、近江国佐々木荘(滋賀県近江八幡市)
源氏佐々木氏と比叡山延暦寺との騒動に関わり、禁獄されたようである。※井伊氏系図には出てきていない。

・建久6年(1195)3月10日条 源頼朝の東大寺供養
22番目:伊井介・横地太郎・勝田玄蕃助とある。(★『吾妻鏡』)
  「伊井介」の名が見える。
 井伊氏は伊井氏と書かれることもあり、井伊氏とみられている。


・建暦3年(1213)「新野左近将監景直」が登場する。
(★『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 承久の乱
   「新野右馬允」が登場する。
  (★『吾妻鏡』の「承久記」)

・寛文3年(1245)1月9日条 鎌倉八幡宮の御弓始めの儀式
「三番 井伊介 小河左衛門尉」と名が見える。
弓手3番:井伊介の名がある。(★『吾妻鏡』)


・建治元年(1275) 京都六条八幡宮造営注文 
井伊介が御家人役として3貫文を負担している。
 (★「田中穣氏旧蔵典籍古文書所収六条八幡宮文書」
    :『静岡県史資料編補遺』)  


・南北朝時代
   「新野」の名は今のところ見つかっていないようである。


・戦国時代、再び「新野氏」が登場する。

@『尊卑分脈』・・・
源義家…(8代略)…今川国氏→
長男:今川基氏
次男:関口経氏(常氏)
3男:入野俊氏→●新野俊国→
4男:大木政氏
5男:関口経国
6男:石川親氏


A『新野村誌』・・・・今川国氏の孫の新野義時が始祖だとする。
源義家…(8代略)…今川国氏→今川義為→●新野義時


B『今川氏系図』・・・今川範国の孫の満範が始祖だとする。
源義家…(8代略)…今川国氏→基氏→範国(駿河今川氏の始祖)

  →貞世→長男○→○→○→瀬名一秀
堀越貞基
      ●次男:新野満範(★一般的に小鹿満範か?)


史実は不明であるが、3系図とも今川氏流である。
 「今川系新野氏」と呼ばれている。
今川一族が新野に住んで、「新野」(現御前崎市新野)と名乗り、
新野新城を築いて土着した。


・永享10年(1438)~ 「永享の乱」(~1439)
今川範忠は戦功により、将軍・足利義教から「天下一苗字」の恩賞
を賜った。今川家の宗主(範忠の子孫)のみが「今川」という苗字
の使用を許されるというものであった。
 (★ウィキペディア)

庶子家は、堀越(遠江今川氏)、小鹿、瀬名などに苗字を改めた。
 新野氏は、本貫地の「新野」を使って「新野氏」と名乗った。

・????年 新野俊国?、あるいは、新野義時、あるいは
  新野満範は新野新城(舟ヶ谷城)を築城した。


・応仁元年(1467) 応仁の乱が起こった。
  駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。今川義忠はしばしば伊勢貞親を訪れていた、将軍への申次を北条早雲の父:
 伊勢盛定が務めている。その縁で早雲の姉(妹?)の北川殿が今川義忠と結婚したと考えられている。

・文明5年(1473) 北川殿は嫡男:龍王丸(今川氏親)を生んだ。

・文明8年(1476) ▲遠江の塩買坂の戦い
今川義忠:西軍 VS 遠江の守護:斯波義廉?
  今川義忠は斯波義廉家臣:横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。

・長享元年(1487) 今川家臣:三浦氏、朝比奈氏らが父:今川義忠の従兄弟:小鹿範満を擁立した。
  北条早雲は龍王丸(早雲甥)を補佐するため再び駿河へ下った。

 11月、北条早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して小鹿範満と弟:小鹿孫五郎を殺した。
★『今川氏系図』の新野範満はなんか変である。

・長享3年(1489) 龍王丸は元服して今川氏親を名乗り今川家当主となった。

・大永6年(1526) 今川氏親が病死した。
  今川氏輝14歳が家督を継いだ。
  寿桂尼は2年間、公的文書を発給し今川氏の国務を取り仕切った。


・天文5年(1536) 今川彦五郎、今川当主:氏輝が死去した。
   寿桂尼は、実子:栴岳承芳を還俗させた。
花倉の乱
    栴岳承芳 VS 玄広恵探
今川義元が家督を継いだ。



【2】新野親矩
・天文元年(1532) 井伊直平は黙宗瑞淵和尚を開山として請侍して
  龍泰寺を造営した。師:文叔瑞郁(★初代龍潭寺和尚→信濃松源寺)を勧請開山の第一座とした。
後に龍泰寺を龍潭寺に改めた。

・天文5年(1536) 今川義元が家督を継いだ。
井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
今川義元の西進が始まった。

●????年 新野親矩は井伊系の奥山10代:親朝の娘
   (奥山11代親秀=朝利の妹)を妻に娶った。

●????年 井伊家23代:井伊直盛は新野親矩の妹を妻に娶った。


●????年 井伊直平の娘は今川義元の人質となった。
  今川義元の妻説
今川一族:関口親水妻説
今川義元からの下げ渡し説


★何れも今川義元の指示による政略結婚=人質交換であろう。


・天文4年(1535) 井伊直親(井伊直政の父)が生まれた。
・天文5年(1536) 井伊直虎(井伊直政の養母)が生まれた。
母:新野親矩の妹
井伊宗家21代井伊直平→22代井伊直宗→23代井伊直盛→
姫が生まれた。
姫の許嫁は姫の父:井伊直盛の従兄弟:井伊直親と決まった。

・天文11年(1542)▲三河田原城攻撃 姫の祖父:井伊直平の子:
  14代(19代)井伊直宗が野伏により討死した。

・天文13年(1544) 12月 井伊直宗の弟直満・直義が小野和泉守の讒言により、今川義元のため生害(自害)された。
井伊直平の子:直満(井伊直政祖父)・直義が今川氏に殺害された。
 亀之丞(井伊直親:井伊直政父)にも追ってがかかり、井伊直満の家老:今村藤七郎正実は亀之丞を叺(かます)に隠した。
 追っての逃れ、渋川の東光院に逃れた。

・天文14年(1545) 亀之丞は東光院住持能仲の案内で信濃伊那郡市田村(現高森町)の松源寺へ逃れた。
 信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師のいる寺であった。
今村藤七郎が10年間、養育した。
 松岡城主:松岡貞利が亀之丞(井伊直親)を10年間、庇護した。

 ・?年 姫は許嫁:井伊直親が殺害されたと思っていた。
 姫は祖父の弟:南渓禅師から「次郎(井伊家跡継ぎ長男名)法師」を名乗ることが許された。 
 (★享保15年(1730)『井伊家伝記』龍潭寺所蔵:2次史料)

◆天文23年(1554)井伊家筆頭家老:小野和泉守政直が没した。
   龍泰寺(現龍潭寺)に埋葬した。
龍谷山正泉寺が開創された。開山は慧湛和尚である。
 跡は子の小野但馬守政次(道好)が継いだ。
※TV鶴丸:小野但馬守政次も井伊家筆頭家老になっている。
※江戸時代の資料「寛政重修諸家譜」では小野道好となっている。
 当時の資料では但馬守とだけ書かれている。

 小野政直の死によって井伊直盛は信濃国に逃れていた直親を呼び戻すこととした。

・弘治元年(1555) 今川義元の許しを得て井伊直親を改めて嗣子として迎え入れた。

・永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
   織田信長 VS 今川義元
  今川義元が亡くなった。
  3月19日 (次郎法師父:)井伊直盛ら16人が今川側で戦死した。
  井伊直盛が桶狭間で討死のとき、「遺領は中野越後守に預ける」と遺言した。
 従って、井伊谷は中野中野越後守直由・(次郎法師)が預かった。
   (★『井伊家伝記』・『井伊直虎物語』浜松歴女隊編)
小野家でも小野政次(道好)の弟:朝直と小野源吾が討死している。
※@『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』楠戸義昭では、小野但馬守政次の兄:小野朝直の妻が奥山朝利の娘としている。

 ATVでは、小野朝直の弟としている。

 ★徳川家康・関口氏経は大高城にいた。



*永禄3年(1560) 奥山朝利殺害説 
小野政次は井伊氏で勢力をもっていた奥山朝利を討ち、さらには今川氏真に「井伊家が謀反を起こそうとしている」と密告するなど、井伊家をじわりじわりと乗っ取ろうとしていた。


●桶狭間の戦いの後、今川氏真が跡を継いだが急速に衰えていった。
 三河国の松平元康などの今川家からの離反が相次ぐ中、新野親矩は今川氏に忠節を尽くした。

・永禄4年(1561)2月19日 井伊直親の長男:井伊虎松(直政)が祝田生まれた。
小和田哲男説では永禄5年頃説である。

・永禄4年(1561)
 今川氏真は三河の徳川家康の領地に攻め込んで争うようになった。
 徳川家康や武田信玄は力の弱くなった今川氏の調略を行っていた。
 今川氏真は今川領各地で起きる反乱を鎮めたり、武田や徳川に抵抗していた。

・永禄5年(1562)
 亀之丞(井伊直親)は「鹿狩」と称して徳川家康の三河領に出かけることがあった。小野政次から見れば、井伊直親が徳川家康に内通していると思っても不思議ではないが、・・・・。
 小野政次は駿府城に出かけて「直親は徳川・織田に通じている。今川に対して挙兵するつもりです。」 と今川氏真に訴えたといわれている。
今川家は今川氏真が当主となってからは弱体化しており、家臣の謀反が相次いでいたので密告を信じ、井伊直親を討とうとした。
今川氏真は、井伊直親の子:虎松(井伊直政)を討つように命じた。

 今川氏真は井伊谷を攻める準備を始めた。



●新野左馬助が今川氏真に対して弁明した。 

★新野親矩が「養子にする?」「出家させる?」とか言って、今川氏真を諫め、虎松を引き取って保護した可能性もある。

●新野親矩は、この時は今川館近くに住んでいた可能性が高い。

●今川家の家臣:新野親矩が小野但馬守の内部告発を今川館で聞き、今川氏真を諫めた。

 今川氏真は出撃を思いとどまり、挙兵を取りやめた。
 しかし、井伊直親が寝返るのではないかという噂は消えなかった。

★今川氏真がこの時に井伊家の目付として送り込んだ可能性がある。
 ※TVでは、ずっと井伊谷にいることになっているが、・・・

●新野親矩は今川氏の重臣であったので、今川館に詰めていたが、老後は井伊谷の新野屋敷に隠居したという。
 新野親矩は隠居場所に妹:祐椿尼(井伊直虎の母)がいる。
 妻(奥山朝利の妹)の実家:奥山も近い井伊谷とした。
 井伊谷小学校の西:引佐保育園の北に「新野」という小字があるが、ここに屋敷を建てて老後に住んだ可能性が高い。
 新野左馬助の妻の姪は井伊直親に嫁いでいる。
 新野左馬助の4娘は庵原朝昌・三浦元貞・狩野主膳・出戻って木俣守勝に嫁いでいる。狩野主膳の子は木俣守勝の養子:木俣守安である。
 (★この3人も後、井伊家家老で箕輪城・高崎城に来ている。)


 ●新野左馬助は今川氏真は井伊家に同情的な新野左馬助よりも、今川家に忠実な小野但馬守政次の言葉を信じた。
小野但馬守政次の密告の真偽を問うために井伊直親を駿府へ呼びつけた。

・永禄5年(1562)12月14日 井伊直政の父:井伊直親は小野の讒言「井伊直親が松平元康(徳川家康)に内通している。」の申し開きのため、駿府に向かった。
  井伊直政の父:井伊直親ら19名は今川家臣:朝比奈泰朝に懸川(掛川)で殺された。
 

★井伊直親が今川家を見限って徳川家康と接触していた可能性があるが、・・・・。
井伊直親の殺害は今川氏真は家臣:朝比奈泰朝に駿府へむかっている道中の井伊直親を討たせた可能性が高い。
しかし、今川氏真が井伊直親の弁明を待たずに討った理由は明らかになっていない。

多数説では小野政次は井伊直親を裏切った訳はないかもしれないが、結果的には、父:小野政直が井伊直満・直義におこなったのと同じことをしたことになったとしているようであるが、・・・。
想像の域を出ない話であるが、もしかしたら小野政次が勢力を伸ばそうとしていた。さらに進言したのかもしれないと疑えば疑える。

今川氏真は父:今川義元に比べ、自分が家臣からの信頼が薄れているのは感じている。それ故、疑心暗鬼になっていることでことであろう。
小野政直・政次も真田幸綱・昌幸のように知略家ならば、あり得る。
今川氏真が小野政次に踊らされたのかもしれない。


●井伊家分家:家老:新野左馬助親矩が虎松の命乞いをした。
  井伊家分家:新野左馬助親矩に保護され、養母:次郎法師に育てられた。
  ※井伊直政は2歳のため、次郎法師と名乗り井伊家を継いだ説もある。
 新野親矩は妹の娘(姪)で井伊家の家督を継いだ井伊直虎や、井伊直親の遺児:井伊虎松(直政)を保護した。
 井伊氏の菩提寺:龍潭寺の武藤全裕住職様は「井伊氏1000年の歴史で、最大のピンチを救った」と評価している。

 小野政次が井伊虎松の命を執拗につけ狙ったため、虎松は龍潭寺から一時的に鳳来寺(井伊家家老:松井家?松下家分家?)に身を移した。
 ★井伊家乗っ取りを狙う「小野政次の野望」って感じである。

12月下旬 小野但馬守政次の奥山朝利殺害説
 奥山朝利は井伊直親の母方の父でもあり、小野政次の弟小野玄蕃朝直の父でもある。


                           ええっ???

 奥山朝利は死亡した。(永禄3年説もある。) 


・永禄6年(1563)▲ 天野左衛門尉:八城(社)山攻め井伊直平が途中の有玉旗屋で急死した。享年75。
★唯一生き残っていた井伊家の男だった。長老が無理した。
 ★小野玄蕃の妻は奥山朝利の娘。つまり、井伊直親の妻の妹であった。
  妻同士が姉妹だったのである。


★小野の子孫は浜松市尾野に残った。

                                へぇ〜
                                ここですね。五郎左衛門さんの御子孫の件は




  筆頭家老の兄:小野政次は井伊谷に残っていて無事であった。

・永禄5年(1562) 清洲同盟
松平元康(徳川家康)は今川氏真を見限り織田氏と同盟を結んだ
 伯父:水野信元の仲介もあって、織田信長と同盟を結んだ。

・永禄6年(1562) 松平元康は今川義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。

・永禄7年(1564) 三河一向一揆
松平家康は一揆を鎮圧した。
 東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東進していった。

●永禄7年(1564))遠州錯乱▲曳馬城(引間城:浜松城の前身)攻め遠江国衆の曳馬城主:飯尾連竜が犬居城主:天野景泰&元景父子、二俣城主:松井宗恒らとともに今川氏真に謀叛を起こした。
9月15日(★1564年10月29日)
 重臣:新野左馬助親矩&井伊一族で井伊谷城城代:中野越後守直由&三浦正俊(★もしかしたら、新野の娘の婿の父)らとともに討死にした。新野親矩は天間橋で飯尾氏に討たれた。

※異説・・・永禄8年(1565)12月 新野左馬助親矩大将として
  飯尾連竜の立て篭もる屋敷を攻め、戦死したとされている。
  12月20日、飯尾連竜が駿府で誅殺された。
(★ 『武家事紀』)


●墓@・・・東光院(芝村)
  新野親矩の遺命で、新野家の出身の「能仲和尚」(★新野親矩の弟説)が住職である東光院に建てられた。
●墓A・・・静岡県浜松市北区引佐町の龍潭寺
井伊家の恩人であるので、龍潭寺にも墓が建てられた。

●新野左馬助親矩は死後、左馬武神社に祀られた。



「新野左馬助、中野信濃守討死之後、次郎法師、地頭職御勤、祐椿尼公(直盛公内室也)、実母、御揃、直政公御養育申候得共、皆々女中斗故、但馬諸事取斗我儘斗致、何卒井伊谷押領可仕旨相巧申候」
(★『井伊家伝記』)
★意味・・・「新野左親矩と中野信濃守直由の討死の後、次郎法師が地頭をお勤めになられ、祐椿尼(井伊直盛の妻)、井伊直政の実母の3人が揃って直政公を養育したが、皆んな女性であったので、小野但馬守道好が取り仕切って我が儘のし放題であり、何とかして井伊谷領を巧みに横領しようと企んでいたと言われています。」
@井伊宗家:次郎法師(井伊直虎)
A井伊家縁戚:新野親矩(今川重臣)の妹(娘説)で次郎法師の母
B井伊家庶流:奥山朝利の妹:虎松の実母


井伊宗家・新野家・奥山家の3人の女性が井伊虎松(直政)を守った。
つまり、3者の強力な連携があったので井伊虎松は生き延びた。
★南渓禅師(龍潭寺2世)がこの年に次郎法師を名乗らせたたのかもしれない。

・永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させて、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
 ★この時、「井伊直虎」と名を変えた説もある。
  小野政次は井伊直親が落とし入れて殺されていなければ、井伊直虎という女城主は誕生しなかった。

続く
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月14日 06時23分58秒 ) パスワード

【3】新野左馬助親矩の子ども
★今川家臣:新野左馬助親矩と関口氏経は西遠江の重鎮だった。
 奥山朝利の妹→新野左馬助親矩の妻となった。

1)『井伊家伝記』
  男子はおらず、娘が3人いたとある。
  井伊直政は新野家の断絶を悲しみ、新野の娘たちを木俣、庵原、
  三浦に嫁がせたという。




(★龍たん寺:武藤全裕禅師・武藤佑吉氏など?で
   作成した系図)


2)『新野村誌』の「新野左馬介系図」
男子は1人・・・天正18年(1590)小田原城攻めで討死した。
   新野家は絶えた。
  娘が7人・・・


3)新野左馬助親矩の子ども
★いずれにしても、早くて天文14年(1545) 〜遅くて
 天文23年(1554) 井伊家筆頭家老:小野和泉守政直が
 没して、井伊直親が戻ってきたころまでかな。
 木俣以外は今川家重臣に嫁がせていることから、
  今川義元が新野親矩に命じた人質作戦であったので
  あろう。井伊直政が命令したという説は時代に合って
  いない。
娘@→出戻って?、木俣土佐守守勝の妻
2000石。箕輪城に来た。3000石。
 井伊直政の第1家老5000石。養子:木俣守安は10000石
★『井伊家伝記』を採用すると、
新野親矩の娘の1人が狩野主膳入道一庵の妻となり、井伊直政
の命により、狩野主膳入道が討ち死にしたため、木俣守勝の妻
になり、連れ子として木俣守吉が養子になったことが考えられ
る。

続く
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月14日 06時34分07秒 ) パスワード

娘A→庵原助右衛門朝昌の妻
 庵原家は今川義元に仕えた名軍師の太原雪斎もいた。
・永禄12年(1569)5月、今川氏滅亡に前後して庵原一族は
 離散した。庵原朝昌は武田勝頼に仕えた。後、庵原朝昌は、
 井伊直政に仕えた。箕輪城にも来た。
 彦根藩家老bQの4500石→5000石。   

 娘B→三浦与衛門の妻
三浦家の祖父は北条早雲の娘が妻であった。
・永禄7年(1564))遠州錯乱▲曳馬城(引間城:浜松城の前身)攻め 
 遠江国衆の曳馬城主:飯尾連竜が犬居城主:天野景泰&元景父子、
 二俣城主:松井宗恒らとともに今川氏真に謀叛を起こした。
 重臣:新野左馬助親矩&井伊一族で井伊谷城城代:中野越後守
 直由&三浦正俊(★もしかしたら、新野の娘の婿の父)らとと
 もに討死にした。新野親矩は天間橋で飯尾氏に討たれた。
★三浦与衛門正俊の子が三浦与三郎元貞であると思われる。
・天正18年(1590)北条氏滅亡。
  三浦与三郎元貞は井伊直政付家老となった。
箕輪城に来た。

 娘C→北条家臣:狩野主膳入道一庵の妻=木俣守安の母
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の北条討伐
 北条氏照は小田原城に籠城した。
 八王子城には城代:横地監物吉信、留守居役:伊豆衆の
 狩野主膳入道一庵、中山勘解由左衛門家範、近藤出羽守
 綱秀ら・・・4000が籠城した。
 6月23日早朝、前田利家、上杉景勝を総大将とする北
 国軍に攻められ半日で落城した。城兵、女子供、千数百人
 が惨殺された。狩野主膳も討ち死にした。
 7月5日 小田原城が開城となった。
 狩野一庵の嫡男:??(幼名不明)は母の姉の嫁ぎ先:叔母の
 夫:木俣守勝を頼って養子となり、木俣守安を名乗った。
 木俣守勝と木俣守安が箕輪城に来た。
 慶長15年(1610)井伊直政の第一家老の養父:木俣守勝の死去
 した。木俣守安が家督と知行4000石を相続した。井伊直継、
 直孝に仕えた。彦根15万石から35万石になると、木俣守安
 1万石の第一家老となった。
・天正18年(1590)旧後北条家家臣:横地宗家(現菊川市)横地
   監物吉信の子:横地修理亮吉晴も井伊直政の家老となった。
(★横地氏の本貫地は新野親矩の新野の北隣にあった。
     おそらくは新野先祖と横地先祖が血縁関係があったと
    見るのが妥当であろう。)
★『井伊家伝記』を採用すると、
新野親矩の娘の1人が狩野主膳入道一庵の妻となり、井伊直政
の命により、狩野主膳入道が討ち死にしたため、木俣守勝の妻
になり、連れ子として木俣守吉が養子になったことが考えられ
る。


【4】幕末の「新野家」
※幕末・・・井伊直弼の異母兄彦根藩11代藩主:井伊直中の10男
 が新野親矩の外孫:木俣守安の子孫:筆頭家老木俣守易の養子と
 なった。
・文政13年(1830)10月15日 井伊直政の恩人の新野親矩の新野家
を再興して2000石で別家した。
 新野氏の名跡を再興し、新野親良を名乗った。
新野親良の彦根屋敷は長野業実の子孫の屋敷(彦根東高校)の運
 動場の北に住み、 彦根藩15代藩主:井伊直弼の時には筆頭家老
 として井伊直弼を支えた。
・安政7年(1860) 3月3日 桜田門外の変
 午前9時、井伊直弼は駕籠に乗って、桜田藩邸を出て、雪の中を
 江戸城に向かった。供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名
 の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた。
  関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次
 左衛門の計18名が井伊直弼を襲撃した。
 井伊直弼は短銃で撃たれて重傷を負った。
 ★この短銃は中居屋重兵衞が送ったものであった。

箕輪初心★★群馬の偉人:中居屋重兵衞=横浜開港功労者★★
 http://53922401.at.webry.info/201106/article_14.html

井伊直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが
 遁走した。駕籠を守ろうとした藩士は刺客に切り伏せられた。
 刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の井伊直弼を駕籠から
 引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳)。
彦根藩士の宇津木久純が援軍を送ったが、間に合わなかった。
江戸幕府は井伊直弼の暗殺は秘密裡とされ、表向きは休養とした。
 3月28日を命日とした。閏3月晦日に井伊直弼の死が公表された。
 跡を井伊直弼:次男:井伊直憲が継いだ。
 4月28日、家督相続が幕府から許された。
彦根藩士の宇津木久純の4男で、岡本氏の養子:岡本黄石が家督を
 継いでいたが、尊皇攘夷派であったため、開国派の井伊直弼と対立
 して罷免されていたが、復帰した。
 井伊直弼の国家老:長野主膳(伊勢安濃津出身)を蟄居、殺害した。
・文久2年(1862)11月20日、一橋派の幕命により彦根藩は10万石を
 減封され、25万石となった。
岡本黄石が井伊直憲の筆頭家老的な立場として、財政立て直しを行
 った。政情の変化に対応して藩政をリードした。
 新野親良は筆頭家老でであったが、譲歩した形となっていた。
しかし、徳川慶喜に過度に依存した結果、第二次征長戦争に出兵して
 大損害を蒙った。赤備えは目立ちすぎて、攻撃対象にされたからであ
 る。岡本黄石は彦根藩の評判を失墜させた。
 王政復古段階で、薩長との提携を重視した谷鉄臣や大東義徹など下級
 藩士出身者に主導権を奪われた。
*******************************


箕輪初心★箕輪城96【井伊直政家臣:岡本半介宣就】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html

・平成28年(2016) 4月16日、左馬武神社で「新野左馬助公献茶祭」
が開かれた。


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〜井伊谷帰国】資料編
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政29【頭陀寺城】と松下之綱と徳川家康と豊臣秀吉
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政31『松下清景→松下一定子孫』後編
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政33【第5話『亀之丞帰る』】
&「高森町松源寺」
http://53922401.at.webry.info/201702/article_9.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政34【村の写真展:My井伊家シリーズ】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_10.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政35【鈴木重勝→鈴木重時→鈴木重好】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_13.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【近藤康用→近藤秀用→5近藤】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_14.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【菅沼忠久→菅沼忠道】
&【菅沼定盈&菅沼定利】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政37【奥山朝利の娘と井伊家家臣団】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政38【6話「初恋の別れ道」】詳細編
http://53922401.at.webry.info/201702/article_18.html

長過ぎ・・・汗
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月15日 01時03分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「女城主 直虎」ですが、毎回インパクトのあるエピソードをこしらえて、
直虎の女性心理を描くということは、個を描きたいがために全体が見えなく
なってしまうというジレンマがあるのではないかと推察しています。

 歴史物語としてみるか、一種のラブ(女性愛)ストーリーとしてみるか、闘争
本能のある男性には、少しもの足りないものがありますし、男性のような
直虎を演じるSさんにも悲壮感を感じてしまいます(ガラス細工で壊れそう)!
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月16日 08時08分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


直虎は「いたいたしい」ですね。


でも近藤とか菅沼とかが井伊家の家臣になっていくところなのだなあと見ています。
近藤にしてみれば自分の家の方が家格が上との矜持があったろうに。
そこをなぜ井伊家に仕えることになっていくのか
脚本家の腕の見せどことなのかも。


そして小野但馬守政次。
この人はやっぱり直虎が好きなんだろうな
それで罪を一身に受けて死んでいくのかな
とか空想しています。


水争いは良く分かっていましたが
材木泥棒は考えたこともありませんでした。

当時は(今も)お金になれば何でもやっていたのか
と勉強になりました。


そろそろ  武田 vs 今川徳川連合軍  の争いになっていくのでしょうか?で武田の勝利?
このあたり、さっぱり分かっていません。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月16日 08時56分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「おんな城主直虎」の音楽は素晴らしいと感じているのは私だけでしょ
うか。CDが二作出ていますが、試聴ができましたので聞いてみました。
「菅野よう子」氏が作曲・プロデュースされています。ピアニストもバイ
オリニストもオーケストラも素晴らしい。CD二作目に収録されている
「うつせみの」という曲は、題もせつなく、また曲もせつなく心の琴線に
響きます。まるで女性直虎の子供のようなピュアな心と愛を表現している
ようであります。

 水争い、徳政令、材木争いというどちらかといえばコップの中の事象で
ありますが、桶狭間での今川義元の死後、北条・武田・今川の三国同盟は
崩れ、「ドラマおんな城主直虎」の今のシーンの時代背景は、ものすごく
緊迫した状態にあります。
 今後、武田・今川・徳川のパワーバランスゲームをどのように表現する
のか、NHKに予算がないとはいえ、やはり戦闘シーンをリアルに描いて
いかないと真実に迫れません――と私は思うのですが……。

 ポイントは、今、今川配下にある井伊が、オセロゲームのように徳川方
にひっくり返って行くという心情を、わかりやすく描いてくれればなあと
願っています。

 今週末は、甲斐(山梨)に行ってきます。甲斐の人間のパワーの源泉は何
なのか、また武田方のキーマンは「穴山梅雪」でありますので、彼がどの
ような人間で、家康になぜ寝返ったのか等々を調べてこようと思っており
ます――
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月16日 17時20分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


>ポイントは、今、今川配下にある井伊が、
>オセロゲームのように徳川方にひっくり返って行くという心情を、
>わかりやすく描いてくれればなあと願っています。

はい
期待しましょう。


それにしても武田に対抗するために徳川と手を結ぼうというのが寿桂尼から出たというところに
    オトコはダメだ
というのを感じました。笑
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月18日 05時33分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 1560年の「桶狭間の戦い」は、今川の没落への引きがねとなってし
まいました。つまりは「甲・相・駿三国同盟」の崩壊、その後の家康の
「三河錯乱」、1563年からの「遠州忩劇(そうげき)」、及び武田の内紛
―つまりは「義信事件」をきっかけに1568年、信玄、そして時を同じく
して家康の今川領への侵攻が始まる。

 この武田の内紛について興味があることと、武田体制というものについ
ても知りたいと思い、明後日に甲府へ行ってきます。特に、その義信事件
の真相や、「穴山梅雪」の存在の大きさについて追求したいと考えます。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月19日 13時53分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


「直虎」のドラマが  武田 vs 今川徳川の激突になっていくのを考えますと

松島家譜に書かれた「高天神城の戦い」は
松島家も関係したのではないか
と思うようになりました。

松島家は今川徳川方だったのじゃないかなと。



>明後日に甲府へ行ってきます

新しい発見があると良いですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E5%90%9B
穴山梅雪は別名を武田左衛門というそうですね。

『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいては信玄本陣を守ったという。川中島の戦いの後、武田家中では信玄嫡男の武田義信による謀反が発生する(義信事件)。『甲陽軍鑑』では事件を永禄7年(1564年)7月の出来事としているが、永禄8年(1565年)6月に義信とその側近である長坂・曽根氏が二宮・美和神社へ太刀を奉納していることから、実際には永禄8年7月の出来事であったと考えられている[3]。義信事件は三国同盟維持派の義信と今川氏との同盟を破棄する信玄派の間の対立構図が考えられているが[4]、『甲斐国志』に拠れば、身延過去帳を根拠に永禄9年(1566年)に信君の弟である穴山信嘉(信邦、彦八郎)が自害したことを記しており、義信事件と関係があるとも考えられている[5]。当主である信君の立場は不明であるが、穴山家中においても内訌が存在していたとも言われる[6]。

武田氏は信玄後期に駿河・遠江への侵攻を行い織田・徳川勢力と対峙するが、この駿河・遠江侵攻において信君の活動が見られる。武田氏は永禄11年(1568年)に駿河侵攻を開始するが、信君は侵攻に際して内通を試みた今川家臣や徳川氏との取次を務めている。翌永禄12年(1569年)には、富士氏が籠城する大宮城を葛山氏元と共に攻めている。その後駿府を占領した武田氏に対し相模国の北条氏・三河国の徳川氏が今川救援のために出兵すると、同年4月に武田方は一時甲斐へ撤兵する。この際に信君は興津横山城において籠城し、万沢氏や臣従した望月氏に対して知行を与え在地支配を試みている[7]。

駿河国は第二次侵攻を経て武田領国化されるが、信君は山県昌景の後任として江尻城代となり、支城領としての「江尻領」を形成したという[注釈 5]。

以下略
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月19日 14時05分41秒 ) パスワード

今日は  邪馬台国はどこにあったか  という番組を見てて
余計に分からなくなりました。


東大説
京大説


結局は  学者の飯のタネか  と。



あの三国志の魏志倭人伝も
聞き書きということで  分かってない人が分からないままに  噂話を記録した  ということかなと。


途中でメンド臭くなって見るのを止めました。
真実  >>>> 越えられない壁  >>> 事実  >>>>  越えられない壁  >>>  ヒトのハナシ

「事実の段階」までは興味があります。

しかし  ヒトの語るハナシを全く知らない人が間に入って  こうなんだってさと聞かされるのは
井戸端会議あたりのレベルのハナシにしか思えず  へぇ〜  で終わってしまいます。


今回の邪馬台国話は東大の学者の巻き返しバナシかなと。
そんな風に思いました。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月19日 22時53分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は明日の準備作業等、また色々調べものをしておりました。
 
 いよいよ、明朝6時、「武田領」(甲斐)へ出発ですので、これより
スリーピングタイムといたします。

 面白い話を拾ってまいります――
[47]箱柳永田さんからのコメント(2017年05月21日 00時14分27秒 ) パスワード

あを様

>邪馬台国はどこにあったか  という番組を見てて
余計に分からなくなりました。

  同時期・各々の場所にありまして、、後に合併して
  大和朝廷になった。 と考えております。

 どちらか一方・一か所しか認めない、のであれば矛盾が生じます。
 出番は、漢文の大先生で、歴史学者は翻訳後に登場すると
 よいのではと、古文・漢文の劣等生(歴史は勉弱中)は考えています。
  
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月21日 00時20分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長野県にはここ三年で十回くらい行きましたか……でも山梨県、特に甲府
あたりには、過去本格的に行ったことはございませんでした(富士五湖、下部
温泉、石和温泉は別にして)。

 今回甲府へ行こうと思ったのは、先日静岡の奥の梅ヶ島温泉という所へ行
ったのですが、ここには安倍金山があってしかも金山衆は皆元々は甲斐出身
でありました。そしてまた甲斐の山々はたくさんの金を産出して来ており、
金にこそ武田の存在の本質が潜んでいると感じたからであります。
 梅ヶ島は金鉱脈で甲斐とつながっており、背後の安倍峠を越えると、すぐ
そこは山梨県側の身延でありました。静岡県と山梨県は陸続きで一体のよう
に感じられます。これは長野県にもいえることではありますが……。

 今回訪れたのは、大きく分けて――
 @「八ヶ岳」周辺
 A甲府「武田神社」周辺
 B甲府「銚子塚古墳」周辺
 C「湯之奥金山」周辺
でありました。

 これらの話をこれから順に記したいと思いますが、本日はサントリーの
白洲工場で購入してきた「白洲」というウィスキーを、これまた白洲で汲ん
できた湧き水をチェイサーにして飲んで酔ってしまいましたので、明日にと
させていただきます――
 
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月21日 07時48分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


おかえりなさい
強行でしたね。


八ヶ岳って南八ヶ岳を言うんですってね。

南八ヶ岳


編笠山 (2,524 m)
西岳 (2,398 m)
三ッ頭 (2,580 m)
権現岳 (2,715 m)
赤岳 (2,899 m) - 最高峰   (よく話題になりますね)
中岳 (2,700 m)
阿弥陀岳 (2,805 m)
横岳 (2,829 m)
硫黄岳 (2,760 m)
赤岩の頭 (2,656 m)
峰の松目 (2,567 m)
夏沢峠 - 南八ヶ岳・北八ヶ岳の境界




神話

八ヶ岳には「富士山と背比べをして勝利、しかし富士山に蹴り飛ばされて八つの峰になった」という神話がある

(「蹴り飛ばされた」の部分はその他にも説がある。
例えば、
背比べの際に用いた筒、すなわち富士山と八ヶ岳との間にかけて水を流し、どちらに流れるかを調べるのに用いた筒を持って富士山が八ヶ岳を叩いたなど)。


また、同神話では蓼科山は八ヶ岳の妹で、八つの峰になった八ヶ岳を見て泣いて、それが川になり溜まったのが諏訪湖とされている。


ところで、八ヶ岳の最高峰の赤岳は国常立命の山だとされる。          この神さまは頂いた神話の話で出て来たから記憶にあります。



山麓の長野県茅野市には赤岳神社里宮が鎮座し、赤岳講の信仰も根強い。

なお、神代の頃、八ヶ岳の名をつける時、峰が七つしかなかった。
そこで東方の山を一つもらい、八つの峰にした。この山を茂来山(もらいさん)という[3]。


一方、八ヶ岳には神話や修験等に由来する石祠や石碑などが多い。


       赤岳頂上の石碑。戦前は国常立命像があった。             コレですね。

[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月21日 08時02分40秒 ) パスワード

箱柳永田さん


>出番は、漢文の大先生で、歴史学者は翻訳後に登場するとよいのではと


ですよね

中国は  白髪三千丈  の世界ですし
それに  学問=詩=美化=ハナシ盛りに盛ってる  の世界ですから

どこまでが本当の話やら。


あの三国志の魏志倭人伝の装飾部分を削って解釈して貰いたいものです。



>同時期・各々の場所にありまして、、後に合併して大和朝廷になった。 と考えております。

当時  何十という小国がそこら中にあって   国にもなってないような部族もあったろうし  
きっと広範囲・・・それこそ大井川のこちら側まで全てが倭国だったかも。


倭国の倭って  小さいとかチビとかの差別用語だから   そんな未開地なんか女のリーダーで充分  と書き手が思ったかも知れず

中国人は「オトコ」の世界ですからね
バカにし放題で書いたかも知れず


だいたい中国人の日本の始まりは  サルを憐れんだ天帝が人間の女を与えたから  なんて話だそうですしね。


書いた人はどんな人だったんでしょうね
ガリバー旅行記の倭国版かな?
荒唐無稽に夢話にしたのかも知れず。


謎ですね。



[51]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月21日 15時26分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


「神道」の本を読み直しています。

要するに  神道も仏教やキリスト教と同様  人間が関わるからこそ  グジャグジャになっている  しか言えないです。

    祭り事=→政・政治へ
    神格化への体系化および理論武装


わたくし的には  縄文人のシャーマニズム  の段階で充分です。
自然の中に摂理を見い出す、というのが好きです。(やっぱりワタシは縄文系かも)

ムリに理論武装して神格化させようというのが気に入らないです。
三輪山のようなカンナビの世界とか磐座とか  こういう素朴なのが好きです。


人間は力を持つと立派な家に住みたくなるから「神さまにも立派なお社を」と提供したくなるのでしょうけど
古事記の世界が好きです。

部族ごとの素朴なハナシを
取り繕って
より力のあるハナシに辻褄を合わせようと作為するから
ウソが出て来て破綻するんだろうなと。

でもそこが日本的には良いのだろうなと。


ご近所に出口さんというお家があって変な名字だなと思ってたけど「神道」の本で立派な家の出なんだと知って
            知らなかった〜
でした。


三重県松阪市が発祥。

現三重県にある伊勢神宮の伊勢外宮祠官(度会姓)がある。
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)などにもみられる。

金沢藩の士族、大村藩の士族にみられる。


地形や道路建造物の出口に当たる場所。

三重県や大阪府、近畿地方に多い。

以上http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%87%BA%E5%8F%A3 より
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月21日 15時32分58秒 ) パスワード

現代人にはどうしたらこういう発想になるのか不思議ですが
人間には生理的なものが実に身近で素朴に興味津々だったのでしょうね。


http://www.dailyshincho.jp/article/2017/05210801/
84万部突破「うんこ漢字ドリル」の社会的考現学 なぜ子どもは魅かれる?


縄文人も惹かれた?
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月22日 06時51分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 穴山氏の追跡調査に時間がかかっております――

 さて、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなり、今川氏真の時代になると、
戦国大名間のバランスが崩れ出し、信玄や信長が裏で糸を引いて戦乱が始
まります。
 信玄は遠州忩劇を画策する。つまり、徳川家康に遠江を取られるくらい
なら自分が遠江を取ろうと、堀越氏と飯尾氏に今川への謀反を起させる。
 が、氏真に鎮圧されてしまいます。
 氏真は信玄の魂胆を見抜き、上杉氏に接近します。
 武田の中では、親今川派と反今川派が対立し、その中で「義信事件」が
起きます。
 「義信事件」とは、今川義元の娘(氏真の妹)を娶っていた信玄の嫡子で
ある義信(親今川派)が、今川攻めを考える信玄に対し、重臣と諮って謀反
を諮ったということで、義信は甲府の「東光寺」に幽閉されてしまいます。
その2年後、1567年に自害させられております。戦国の世の悲劇的事
件でありました。なお、その翌年に、信玄の今川攻めが始まっております。

 今回の山梨への旅の目的の一つは、「東光寺」にある義信の墓を訪れ、
その菩提に祈りを捧げるということでありました。その目的は無事果たす
ことができました。義信の隣には、「諏訪頼重」(こちらも信玄による悲劇)
の墓もあり、その両方に、般若心経を2巻ずつ唱え捧げてまいりました――

 
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月22日 08時56分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


上記のレスは「直虎」がいよいよ直面する問題ですね。
予備知識を頂いたので「直虎」のストーリーが分かり易く見られると思います。

[55]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月22日 10時01分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


本日の「直虎」
副題は「井伊谷女子会」でしたね。


直親の役が三浦春馬で  なんか芯が無いと思ってたら  すけこまし  でしたか。
亀は顔が良くて笛が上手というのは分かってたけど  調子のいいオトコだったのですねぇ。



高橋一生   あ、小野但馬守政次ですが
直虎を見る目が  ♡  になってましたね。
やっぱり直虎が好き
でも直虎は今でも亀が好きなのか
そういう  せつない  顔の演技に高橋一生はますます女性ファンを虜にしたでしょう。


あの高瀬って女の子
常慶を見る目が変でしたね。
どういう意味でしょうね。



それから  気賀  が出て来ましたね。
http://www.kigasekisho.com/
気賀の関所です。
立派ですね。

これを機会に甲冑を着せてもらってはいかがでしょう。


気賀関所の創設は、当時の記録がないので明確ではありませんが、3つの説があります。
•慶安2年気賀関所茅葺(かやぶき)御修復の書付による慶長から元和元年に設置された説
•慶長17年(1612)気賀の白井家文書説
•慶長6年(1601)斉藤家文書説

このうち慶長6年(1601)説が一般とされています。

関所は通行者の監視にあたるとともに、非常時(戦・一揆・暴動等)には、軍事的要衝(ようしょう)として古くから設けられていました。



最も古い関所は、3世紀ごろ播磨(はりま)と吉備(きび)の境に造られた和気(わけ)の関が大化の改新の詔(みことのり)によって大化2年(646)春、軍防令・関市令・衛禁令が定められてからといわれています。

このうち東海道鈴鹿(すずか)・東山道不破(ふわ)・北陸道逢坂(おうさか)が律令下の三関と称され軍事的性格の強い関所でした。



徳川氏によって諸大名の統制強化に即して江戸を中心とし、五街道(1.東海道2.中山道3.日光街道4.奥州街道5.甲州街道 ただし、甲州街道除いて北陸道、奥州街道除いて水戸街道とするものもある)及び脇往還(わきおうかん)に関所を設けました。

関所の目的は、『入鉄砲に出女(でおんな)』の監視が主要任務でした。一般往来者、囚人、手負、乱心、死骸や商荷物(あきないにもつ)などの監視も併せた政治性の強い警察的な役割も担っていました。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月22日 10時08分39秒 ) パスワード

高瀬の夫:川手良則
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%89%8B%E8%89%AF%E5%89%87


川手 良則(かわて よしのり、天文元年(1532年)- 慶長6年(1601年))

戦国時代から安土桃山時代にかけての今川氏・武田氏・徳川氏家臣。
後に井伊氏の家老を務めた。
通称は主水。
家名は河手とも書かれる。


概要

父は今川氏家臣として岡崎城城代を務めた山田景隆。
山田氏は三河の川手城(愛知県豊田市川手町)を居城としていた。

良則は今川氏滅亡後は武田氏に仕え、山県昌景配下として名を挙げた。

武田氏滅亡後は徳川氏家臣となり、天正10年(1582年)に徳川家康の命で井伊直政の姉の高瀬姫を娶り、直政に仕える。井伊家中では一門筆頭として、筆頭家老格の木俣守勝よりも席次は上であった。知行は2500石で、後に4000石となる。

関ヶ原の戦いでは高崎城城代として留守を守った。松平康安の子の川手良列を養子として跡を継がせたが、元和元年(1615年)に大坂夏の陣の若江の戦いで良列は戦死し、その遺児の川手良富も寛永5年(1628年)に若年で早世したため、同家は無嗣断絶となった。

幕末の嘉永6年(1853年)に井伊直弼の命で、新野親良の子の河手良貞により川手(河手)家は再興された。


                       なるほどね
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月22日 16時43分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の「おんな城主 直虎」の中で、直親の子ということで「高瀬」と
いう女の子が突然現れました。私も今までの知識の中で、この子の存在は
知りませんでしたのでビックリ。というか、やはり望月千代女率いる「歩
き巫女(間者)」かなと疑いました。けれど、直親の笛の音のメロディーを
口づさんでいるのを直虎他が聞き、それが直親の子であるという証拠とな
った……ここはロマンを感じさせる名場面の演出でありました。

 そして、いよいよ松下常慶(忍者というよりも広い意味の間諜)の出番で
あります。
 「高瀬」が常慶を見つめる顔に、何かいわくのありそうな関係の予告を
ドラマはしているようですが、高瀬はたぶん常慶を知っていたのだと思い
ます。というのは、常慶は信濃や甲斐に秋葉山のお札を売りに歩き情報を
集めおりましたし、松岡氏は武田に抵抗しており、結果的には降伏してし
まいますが、そういった間げきを縫って、常慶は接触していたと推察する
のですが……。

 「大河ドラマ特集 おんな城主直虎」に、
「高瀬」についての記事がありましたのでご覧下さい――
  http://tvtaiga.com/2478/
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月23日 10時47分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


見て来ました。

高瀬が常慶を知ってた理由が早く知りたいですね。
ややこしい目をしてたので偽者かと思いましたが
三つ柏さんからの情報で
敵じゃなくて味方として驚いたのかな、
とか思うようになりました。


その延長上に
小野但馬守政次が処刑されるのは井伊家を守るためだったのかなと。
直虎の為に死んで行ったのかなと。


それにしても瀬戸方久はアタマの柔らかい人だったのだなと。
鉄砲で儲けられないなら
気賀で勝負するか、と。
切り替えが早い!

   演じているのがムロツヨシですから
   メリハリが瀬戸方久のアタマの回転の速さをよく表しているように思います。



小林薫の南渓和尚もなかなかトボけてて
本当に母が不義して生まれた子だった?

養子だったことはどこかで読みましたが本当に不義の子だった?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B8%93%E7%91%9E%E8%81%9E

南渓瑞聞は、井伊谷城主・井伊直平の次男もしくは三男として生まれた。

ただし、2016年に発見された位牌や、龍潭寺が所蔵する「南渓過去帳」には父実田秀公居士と記載されており、
これが直平の法名でなければ父は別人ということになり、
その事から養子説も出ているがはっきりしていない[2][3]。


龍潭寺一世住職として直平に招かれた黙宗瑞淵に弟子入りして出家し、同寺住職を継いだ。


天文13年(1544年)に井伊直満・直義が今川義元の命により殺害された後、直満の子・亀之丞(後の直親)も殺すように命令があった際、直満の家老今村正実は南渓瑞聞と相談のうえで、師匠・黙宗瑞淵ゆかりの寺であった信濃国伊那郡市田郷の松源寺に書状を送り、そこに亀之丞を匿った[4]。


直平の死後、井伊家は武田家の侵攻により領地および城主国司の地位を失い、また後継者が戦死したり讒言を信じた今川家に討たれたりするなどの危機が続いたが、南渓瑞聞はそのような非常時に当たり、直盛の未亡人と相談のうえ、直虎を同家当主に推薦した[5][1]。また、井伊家再興のために、井伊直政が徳川家康に仕えるきっかけを直虎らと共に作った。



今回の「直虎」はナマナマしい話が多かったです。

でも小野但馬守政次は逆に直虎一筋とうキャラが立ってました。



    でも、女性は一方的に好かれるっての、好きじゃないのよね。
    自分が先に好きで、相手が好きになってくれると「おんなのイノチを賭けてでも」愛するんだけど。
    直虎が好きな直親から「無事に帰って来たらコンドこそ結婚しよう」なんて言われたから直親の愛をホントに信じちゃったのに。
    だけど今回の高瀬の出現で直虎は  ウッソォ〜!!!  なんなのアイツ〜〜〜  出て来い!直親!  蹴飛ばしてくれる!!!  でした。
    笑


           男女の機微がよく描かれてました。


直親にしてみれば  すけこまし  なんて言われて逆に黄泉の国で  なんで?  と驚いたことでしょう。
ボクは「おとわ」も好きだし「しの」も好きだし「ゆき」も好きで   (ゆき、でしたよね?)
誰が1番好きか、な〜んて、ランクなんかつけられないよ。

       これはオトコの気持ちなんでしょうね。

           ここでオトコとオンナの意識の差があるわけね。
           オンナは彼にとって只1人の存在でありたいけど、先に彼に女がいるなら自分が最後の女になりたい、って。


直親をめぐって1番トクした「おんな」は高瀬の母の「ゆき」さんだった、と。



それにしても「高瀬」の声が綾瀬はるかみたいでドキッとしました。
直虎よりずっとオトナの声でした。笑


「高瀬」の顔は小野但馬守政次の娘にピッタリだと思いました。
直親の娘という設定だったらもっと顔の丸い可愛い系愛くるしい系が良かったのに。
残念
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月24日 10時12分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の山梨・甲府行きで地理的に分かったこと――
 @新清水ICより富士川に沿って北上すると、「南部町」(昔、南部氏の
 本貫地)、「身延町」(日蓮の久遠寺がある)、「加賀美(郷)」(加賀美遠
 光の本貫地)、そして南アルプス市、甲斐市(甲府市の西側)へとつながり
 ます。

 A甲斐市より北西に中央自動車道を行くと、「韮崎市」、「穴山町」(
穴山氏の発生地)、「北杜市」、「茅野市」、「諏訪市」と、その間およ
 そ50qの道のり。これは想像以上に近いという印象でありました。

 B富士山の北側にある北杜市、甲斐市、甲府市等からは、富士山のいわ
 ば腰から上が常に見え、八ヶ岳と同じように人々の心象風景の中に焼き
 つく存在であるように感じられました。

 C甲府市内は碁盤の目になっていて、ある時期に「都」のような都市計
 画がなされたように思われます。

 D甲府市の中心から武田神社(信玄の旧躑躅ケ崎館)までは、一直線の道
 「武田通」が延びていて、見通す限り一定した勾配の登り道となってい
 ました。
  つまり、信玄は甲府市内を見渡せる一番高い所に居住していたという
 ことになります。

 E信玄の旧館からは、南東の山の端の上にニョキッと富士山が見え、信
 玄も毎日この富士山を仰ぎ見たのではないかと想像されました。

 F富士川上流の身延や下部のあたりには金山が豊富で、穴山氏が支配し
 ていました。つまり穴山氏の財源は金と材木でありました。

 G富士川を下りきると「蒲原」があり、北条・今川・武田を分け合う戦略
 拠点のように思われます。つまり富士川を甲斐から蒲原までつなぐ線が
 一つの重要な生命線や境界であり、また富士川の水運が田子の浦ルート
 で清水湊とつながれば、海運を制することにもなったと思われます。
  身延あたりの河内領を本貫地とする穴山氏が、清水港に近い田尻城の
 城主をしていたことは、経済的・軍事的に大変重要な意味を持つもので
 あったと推測されます。

 以上が今回地理的ないわゆる土地勘として頭にインプットされた事項で
あります。おおまかにいえば、八ヶ岳と富士の両霊峰と南アルプスに囲ま
れた山梨は、長野よりコンパクトで素晴らしい土地でありました―― 
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月24日 14時01分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


      F富士川上流の身延や下部のあたりには金山が豊富で、穴山氏が支配していました。
       つまり穴山氏の財源は金と材木でありました。


これは全く知らなかったです。


      Gつまり富士川を甲斐から蒲原までつなぐ線が一つの重要な生命線や境界であり、
       また富士川の水運が田子の浦ルートで清水湊とつながれば、海運を制することにもなったと思われます。


信玄が南下して海に出たかったというのはアタマではちゃんと分かっていましたが
土地勘が無いので
具体的なルートについては全く分からないことでした。

そうか!そういうルートで南下したかったのか、でした。
さすが!感謝!
[61]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月24日 15時07分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:田尻城→江尻城

 八ヶ岳の麓に「長坂」という町がありますが、まだ八ヶ岳や南アルプス
の山の頂には雪が残り、それは美しい風景でありました。
 この長坂には有名な高橋邦弘という蕎麦名人の開いた「翁」という蕎麦
店があり、それこそ山の中の一軒家でしたが、行って食してまいりました。
今までに食した蕎麦の中で、一番おいしいと思いました。しばらく満足感
に陶酔しておりました――
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月26日 12時28分57秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101591.html
スレッド91を立てました。
キリの良いところでどうぞ。


>この長坂には有名な高橋邦弘という蕎麦名人の開いた「翁」という蕎麦店があり、
>それこそ山の中の一軒家でしたが、行って食してまいりました。
>今までに食した蕎麦の中で、一番おいしいと思いました。
>しばらく満足感に陶酔しておりました

蕎麦はいいですね。
美味しいし、健康にも良いし。



また山梨の郷土料理でしたら(美味しいかどうかは好みの問題ですが)一度は味わいたいのが「ほうとう」でしょうね。
うどん好きや蕎麦好きには「かったるい」かもですが。
具が多かったら美味しいかも。
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月26日 15時47分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 穴山信君(梅雪)には時間がかかりました。なかなか奥深いものがあります。
 一口で言うとしたら、ある意味、@大久保長安とA明智光秀を足して2で
割ったような要素のある人物であります。もちろん、大久保も明智も同時代
人でありますので、接点はあったと思います。

 では、なぜ「大久保長安」的要素があったかと言えば、「金山」に関わっ
ていたということであります。穴山という名前からして、穴師、山師、鉱山
氏、金属氏等を思い起こさせます。もちろん、穴山信君の祖先は、武田信武
の子義武が穴山氏に養子に入り、穴山氏を継ぎますが、その後さらに武田氏
から3代にわたり養子が入り、血縁的には100%武田氏であります。
 また、穴山信君の母は武田信玄の姉であり(つまり、信玄は叔父、勝頼は従
兄弟)であります。さらに、信君の妻は信玄の娘であり、信君と勝頼は義兄弟
の関係になります。

 続く――

 
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月27日 12時49分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


>穴山という名前からして、穴師、山師、鉱山氏、金属氏等を思い起こさせます。


なるほど!
ですね。


穴山氏  http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A9%B4%E5%B1%B1


【名字】穴山
【読み】あなやま
【全国順位】 6,806位
【全国人数】 およそ1,300人      けっこういらっしゃるものですね。


現山梨県である甲斐国巨摩郡穴山村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏流がある。 
「山」は山の地形を表す。



大穴磯部おおあなしべ(面白かったですよ)

大穴磯部。この穴磯は穴師のことで穴師は岩穴の中で仕事をする人々、つまり金属労働者の呼称である、だそうです。


詳しくは
http://books.google.com/books?id=YvIzIGh9AaAC&pg=PA95&lpg=PA95&dq=%E7%A9%B4%E5%B8%AB+++%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=8l-xzM__q2&sig=jb_ggYWELU4c4Him2VyNCu2pUpw&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjfuMimj4_UAhWD6oMKHZRqCJkQ6AEISDAF#v=onepage&q=%E7%A9%B4%E5%B8%AB%20%20%20%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%80%E3%81%AF&f=false



さらに


http://nihonsinwa.com/page/1086.html
11代 垂仁天皇  十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖
日本書紀
139歳で没したとか


即位39年冬10月。

五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥川上宮(ウトノカワカミノミヤ=大阪府阪南市玉田山?)にいて、剣一千口を作りました。

それでその剣に因んで名付けて、川上部といいます。またの名は裸伴(アカハダガトモ)といいます。

     裸伴は阿箇播娜我等母(アカハダガトモ)と読みます。



石上神宮(イソノカミカムミヤ)に蔵(オサ)めました。

こののちに垂仁天皇は五十瓊敷命(イニシキノミコト)に命じて石上神宮の神宝を管理させました。



ある伝によると・・・

五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥河上(ウトノカワカミ)に居ました。

鍛名(カヌチナ)は川上を呼び寄せて、太刀一千口を作らせました。
この時に、楯部(タテヌイベ)、倭文部(シトリベ)、神弓削部(カムユゲベ)、神矢作部(カムヤハギベ)、大穴磯部(オオアナシベ)、泊橿部(ハッカシベ)、玉作部(タマツクリベ)、神刑部(カムオサカベ)、日置部(ヒオキベ)、太刀佩部(タチハカベ)…
併せて、十の品部(トモノミヤツコ)を五十瓊敷命(イニシキノミコト)に与えました。


その一千口の太刀を忍坂邑(オシサカノヘキ)に蔵(オサ)めました。
それで後に忍坂から移して石上神宮に蔵(オサ)めました。
この時に神は尋ねると神は言いました。

「春日臣(カスガノオミ)の族(ヤカラ)の市河(イチカワ)に治めさせなさい」
それで市河に命じて治めさせました。

これが今の物部首(モノノベノオビト)の始祖です。



あらららら
なんだか因幡の白兎や物部を連想しました。


更にhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

垂仁天皇の御世39年10月、
五十瓊敷命が剣千振を作り、         (垂仁天皇のお子さまとも言われている)
石上神宮に納める。
この後、五十瓊敷命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月27日 13時00分28秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87


垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)

第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。
活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、

『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、
『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、
『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、
『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。


『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、
近年においてはその実在を認めることが多い[1]。


崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。


家族:妻と子供達  コピペが壊れるのでURLで見て確認してください。

皇后(前):狭穂姫命(彦坐王の女)。垂仁天皇5年に焼死したとされる 誉津別命

皇后(後):日葉酢媛命(丹波道主王の女) 五十瓊敷入彦命
大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、景行天皇)
大中姫命(おおなかつひめのみこと、『古事記』には大中津日子命)
倭姫命。初代斎宮
稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)

妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹) 鐸石別命(ぬてしわけのみこと)。和気氏の祖
胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)

妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上) 息速別命
稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)

妃:迦具夜比売(かぐやひめ。大筒木垂根王の女)。かぐや姫のモデル? 袁那弁王(おなべのみこ、『古事記』のみ)

妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女) 磐衝別命。三尾氏の祖
両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命)。日本武尊の妃、仲哀天皇の母

妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁)。弟苅羽田刀弁の姉 祖別命(おおちわけのみこと、落別王・於知別命・意知別命)。伊賀国造・小槻氏の祖
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)。石田君らの祖。
胆武別命(伊登志別王)

母親未詳 円目王(『令集解』に見える)


系図(出るかな)
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事績[編集]

『日本書紀』の編年に拠る。
崇神天皇29年1月1日に誕生。同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
同3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
同7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
同15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后とした。
同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
同27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(奈良県橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んにしたと伝える。
同39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
同99年7月、崩御。140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大日本史』)。12月、菅原伏見陵に葬られた。『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとあり、これは『書紀』の編年と相違する点で注目される(『書紀』の垂仁天皇99年を計算すると庚午)。





宮(皇居)の名称は、
『日本書紀』では纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、
『古事記』では師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)。
伝承地は奈良県桜井市穴師周辺。
                                     穴師!

なお京都府久世郡久御山町市田の地には宮城跡とされる地域があり、
その地には垂仁天皇と和気清麻呂を祭った珠城神社(久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1)がある。



陵・霊廟

垂仁天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に治定されている。
公式形式は前方後円。
考古学名は「宝来山古墳」(前方後円墳、全長227m)。

『古事記』には「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、
『日本書紀』には「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、
『続日本紀』には「櫛見山陵」とある。
『延喜式』諸陵寮には「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」と記される。


現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。
この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。
しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。



また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。



在位年と西暦との対照

垂仁天皇の在位年について、実態は明らかでない。
『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。


脚注

1.^ 吉村武彦「列島の文明化と律令制国家の形成(稿)」『古代学研究所紀要』第21号(2014)明治大学日本古代学研究所
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月27日 13時13分44秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8D%81%E7%93%8A%E6%95%B7%E5%85%A5%E5%BD%A6%E5%91%BD


五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと[1]、生没年不詳)

記紀に伝わる古代日本の皇族。

『日本書紀』では「五十瓊敷入彦命」「五十瓊敷命」「五十瓊敷皇子」、
『古事記』では「印色入日子命」と表記される。


第11代垂仁天皇の皇子で、第12代景行天皇の同母兄である。

石上神宮(奈良県天理市)神宝に関する伝承で知られる。



『日本書紀』『古事記』によれば、第11代垂仁天皇と、後皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、比婆須比売命/氷羽州比売命)との間に生まれた皇子である。

五十瓊敷入彦命は長兄で、両書では同母弟妹として次の4人が記載される。

弟:大足彦尊 (おおたらしひこのみこと、大帯日子淤斯呂和気命) - 第12代景行天皇。
妹:大中姫命 (おおなかつひめのみこと) - 記では男性の大中津日子命とする。
妹:倭姫命 (やまとひめのみこと、倭比売命)
弟:稚城瓊入彦命 (わかきにいりひこのみこと、若木入日子命)


『日本書紀』では、五十瓊敷入彦命に関して次の事績が記載されている[1]。

垂仁天皇30年1月6日条 垂仁天皇が五十瓊敷命・大足彦尊兄弟に望むものを聞いたところ、五十瓊敷命は弓矢を、大足彦尊は皇位を望んだ。
                                           ああ、それで天皇になれなかったのか。



そこで天皇は五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には皇位を継ぐように言った[1]。


垂仁天皇35年9月条 五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った[1]。



垂仁天皇39年10月条 五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮(奈良県天理市)に納めた。
そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した[1]。

同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で大刀1千口を作らせ、
この時に
楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部を賜った。
                                          ここで穴師が出て来るのですね


また、その大刀は忍坂邑(奈良県桜井市忍坂)から移して石上神宮に納めたという[1]。

垂仁天皇87年2月5日条 五十瓊敷命は老齢のため、石上神宮神宝の管掌を妹の大中姫命に託した。
大中姫命は、か弱いことを理由に神宝を物部十千根に授けて治めさせた。
これが物部氏による石上神宮での神宝管掌の起源という[1]。                
                                 物部氏が出て来ましたね


『古事記』垂仁天皇段では、
印色入日子命(五十瓊敷入彦命)は、血沼池(茅渟池)・ 狭山池(大阪府大阪狭山市)・日下の高津池(高石池に同じか)を造ったという[1]。

また、鳥取河上宮にて横刀1千口を作らせて石上神宮に納めたほか、
同宮にて河上部を定めたという[1]。


五十瓊敷入彦命の墓は、宮内庁により大阪府泉南郡岬町淡輪にある宇度墓(うどのはか、位置)に治定されている[2][3]。

公式形式は前方後円。

考古学名は「淡輪ニサンザイ古墳」。

5世紀後半の築造と推定される、墳丘長200メートルの大型前方後円墳である。


五十瓊敷命の墓について『日本書紀』・『古事記』に記載はないが、
延長5年(927年)成立の『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では「宇度墓」の名称で記載され、
和泉国日根郡の所在で、兆域は東西3町・南北3町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する。

これに先立つ持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[4]。

またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[4]。


しかし、中世には荒廃して所在が失われた[3]。

明治7年(1874年)に『泉州志』の記載に基づき玉田山に定められたが、
明治13年(1880年)に現在の墓に改められている[3]。


なお、現墓について『和泉志』では紀小弓の墓としている[3]。



伝承

伊奈波神社(岐阜県岐阜市)の社伝によると、
五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、
同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、
命に謀反の心ありと讒奏した。


そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。


さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、
朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたという。



脚注
1.^ a b c d e f g h i 五十瓊敷入彦命(古代氏族) 2010年.
2.^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)9コマ。
3.^ a b c d 宇度墓(国史).
4.^ a b 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。



物部氏って、ものすごく古い家だったのですね。
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