[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月26日 09時58分58秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
箱柳永田様
あを様、新しいスレッド、ありがとうございます。
また、「坂本神社」の説明サイトのご紹介、ありがたく感謝申し上げます。
永田数馬氏の『坂本神社の話』の要点を短く要約しようと思うのですが、
短くするとニュアンスが伝わらない、けれどダラダラと書くとたいへんにな
ってしまうというジレンマで悩んでおりました。
あを様の画像紹介で、坂本神社についての地ならしができましたので、
必要なところだけ抜き書きしてみます。
「永田数馬」氏はこの坂本神社の代々続く「宮司」であります。「永田」
氏であります。私の調べたところ、磐田には「永田」姓が結構見られます。
なぜ「永田」が多いのか……この本を読むと、ある程度の推測ができます。
では、数馬氏のこの本の前書きをまずご紹介いたします――
「坂本神社のその昔は、日吉山山王権現社」であった。この山王権現社
の出発は、実に一千余年の昔である。それだけに、この地方としての社格
は高く、常に郷社として尊崇され、またその勢力も強かった。同時にその
”神官”たる”永田家”は、山王権現社と表裏一体として尊敬され、重要
視されているのである。
それ故に、山王権現社が広く知られることは、”神官永田家”の派の広
まるのと同一であった。”永田家”は、現在三十六代目といわれている。
氏名は主に世襲であるが、その勢いの盛んな時には、この地の”地頭”、
あるいは ”庄屋”、または”郷士”として戦場にまで立つのであった。
こうしただけに、山王権現社の崇敬は厚く、信者は数千人を数える程の
時もあったし、支社、分社も各地に伝わるのであった。それだけに、当時
の地方豪族、支配者、または中央の為政者、あるいは実権者から、相当の
配慮を受けることもしばしばだった。
かかる崇高な神社ではあるが、先般の東名高速道路の建設に当たっては、
その路線上にあたり、道路の重要性を思うとき、遷座のやむなきに到った
ので、涙をのんでその南側に建造したのである。
ために、周囲に樹木はなく、何か殺風景な、荘厳さの乏しい新居の感じ
であるので、多くの人にいよいよ、この坂本神社の昔を忘れられようとし
ている。そこでこの際、坂本神社、即ち山王権現社の昔の話を、平易な文
章の中に表して、広くの世人に、また、後人に伝えようと、本書を著した
次第である。
昭和四十七年七月二十五日
坂本神社宮司 永田数馬 」
この永田数馬氏が三十六代ということは、二十五年を掛けると九百年と
いうことになり、西暦千百年代から磐田に住んでいたということになりま
す。永田は長田でありましょうから、もともとは長田郷や長田村から発生
したということでありましょう。
永井(長田)直勝の三河国碧海郡志貴庄大浜郷や長田忠致の尾張国知多郡
野間庄と関係するのか……興味あるところであります――
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月26日 14時44分54秒 ) | パスワード |
http://www.komainu.org/index.html
坂本神社サイトの本来の玄関目次です。
神社別情報
あ・い 赤城 - 秋葉 - 愛宕 - 粟島 - 石上 - 出雲大社 - 出雲 - 伊勢 - 伊太祁曽 - 厳島(弁天) - 稲荷
う〜お 宇賀 - 艮 - 宇都宮 - 恵比寿 - 王子 - 大井 - 大國魂 - 大杉 - 大歳 - 大原 - 大宮 - 大山 - 大山祇 - 小野 - 温泉 - 御嶽
か行 鹿島 - 春日 - 月山 - 香取 - 金山 - 竃 - 賀茂 - 神田 - 北野 - 貴船 - 熊野 - 気比 - 荒神 - 高良 - 護国 - 金刀比羅 - 駒形 - 子安 - 御霊
さ行 猿田彦 - 塩竃 - 地主 - 白鳥 - 白幡 - 白髭 - 須賀 - 杉山 - 素盞雄 - 住吉 - 諏訪 - 清明 - 石尊 - 浅間
た行 多賀 - 手力雄 - 千勝 - 月読 - 津島 - 天神 - 天王 - 東照宮 - 道祖 - 戸隠
な行 長良 - 丹生 - 西宮 - 日光 - 子之
は行 白山 - 八海 - 羽黒 - 八王子 - 八幡 - 氷川 - 久伊豆 - 姫宮 - 日吉 - 蛭子 - 富士 - 古峰 - 星宮 - 武尊
ま行 麻賀多 - 松尾 - 御崎 - 三島 - 三峰 - 水 - 妙見 - 三吉
や行 八坂 - 八剣 - 山 - 湯殿山 - 寄木 - 雷電 - 龍神 - 若宮 - 鷲宮 - 和霊
その他 一宮 - 二宮 - 三宮 - 三社 - 五社 - 六所 - 十二 - 十五 - その他(地域順) - その他(漢字順) - 総社 - 建武中興十五社 - 社日 - 地神塔 - 力士
神社庁
http://www.komainu.org/background/jinjacho.html
例
愛知県神社庁 名古屋市熱田区神宮1-1-1 熱田神宮 052-682-8041
岐阜県神社庁 岐阜市藪田南3-8-24 058-273-3525
静岡県神社庁 静岡市柚木250-2 靜岡縣護國神社 054-261-9030
三重県神社庁 津市鳥居町210-2 比佐豆知神社 059-226-8042
大阪府神社庁 大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺6 坐摩神社 06-6245-5741
兵庫県神社庁 神戸市中央区多聞通3-1-1 湊川神社 078-341-1145
京都府神社庁 京都市西京区嵐山朝月町68-8 松尾大社 075-863-6677
滋賀県神社庁 大津市小関町3-26 077-524-2753
奈良県神社庁 橿原市久米町934 橿原神宮 0744-22-4731
クリックしますと結構面白いです。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月26日 14時52分45秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>永井(長田)直勝の三河国碧海郡志貴庄大浜郷や長田忠致の尾張国知多郡野間庄と関係するのか
ホント!
興味ありますね。
箱柳さんに何か情報がお有りでしょうか?
[4] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月27日 00時06分30秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
島田市博物館へ、昨日から例の「蜻蛉切」の槍(もちろん本物)が展示さ
れましたので、近日中に行ってきます。併せて、「蓬莱橋」で仮想インナ
ートリップに浸ってきます。
さて、『坂本神社の話』を要約するのは容易でないので、その中の永井
氏(永田、長田、長井)と関係する部分のみ記載いたします――
「日吉山山王権現社記(明治五年神仏混淆禁止令により坂本神社と改称)
1312年:長井左近将監直安、社殿再興す。
1331年:当地守護長井左近将監、宗良親王を奉ず。
1383年:長井左近将監死去。
1499年:神主長田伊右衛門大夫、神祇管領、長上卜部朝臣兼倶
より、神役者神道行事施行を許さる。
1594年:神官長井直勝、従五位右近大夫に叙さる。
永田数馬宮司が永田家の第36代目、25年を掛けて900年。従って
1100年代がスタートということになります。その頃は平家の天下、そ
して源氏の天下へと変わって行く……。1160年には源義朝が長田忠致
(ただむね)に殺されています……。そんな中の長田氏の移動があったので
しょうか。
ところで、長井左近将監直安とは、宗良親王に仕えたようでありますが、
一体どんな人だったのでしょう……?
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月27日 11時20分30秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>1499年:神主長田伊右衛門大夫、神祇管領、長上卜部朝臣兼倶より、神役者神道行事施行を許さる。
「長上卜部朝臣兼倶」は 長上郡の卜部兼倶 ということですね。
長上郡にも卜部氏が派遣されていたということに驚きました。
「朝臣」ですから身分の高い人だった、と分かりますよね。
それだけ長上郡は特別な所だったのでしょうか?
この時代の遠江国の立ち位置に興味が出ました。
>長井左近将監直安とは、宗良親王に仕えたようでありますが、
>一体どんな人だったのでしょう……?
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/namiai2.html
浪合記原初本
大橋参河守定高語テ曰 (大橋定高 かたりていわく)ですね。
後醍醐天皇御事
サイトの下の方に、こう、書かれています。
南朝将軍一代目
この人は無視してください。
護良法親王 兵部卿 後醍醐天皇六宮
母民部卿三位局 師親卿の娘
梶井宮と号す。天台座主尊雲法親王 大塔宮と号す。征夷大将軍。
建武二年七月十六日、源直義が相模国鎌倉にて誅す。
その太刀取りは渕辺伊賀守という者である。
この方=宗良親王=に注目!
尊澄法親王
妙法院一品座主
還俗して宗良と改める。
後醍醐天皇八宮
母は尊良親王に同じ。
正慶元年三月八日、平高時によって長井左近太夫、大江高広を警護として讃岐国詫間里に左遷される。
長井左近太夫は宗良親王が流された時の護衛?
讃岐に流罪になった時の記録を読めばどういう護衛だったか分かりそうですね。
「監視役」の1人だった?
公家一統の世となった後、正慶二年に讃岐国より四国の兵を率いて上洛した。
その後、遠江国井伊城へ延元元年十月十八日に御下向した。
井伊道政の城である。
この人も無視してください。
前斎宮 南朝長慶門院 後醍醐天皇十二宮
次の方は宗良親王のお子様の いずよし、又は、ゆきよし親王のことです。
宇津峰親王 尹良と号す。
妙法院宗良親王の御子である。
母は井伊道政の娘である。
正二位中納言一品征夷大将軍 右大将
元中三年八月十五日 源姓を賜る
応永三十一年八月十五日 信濃大河原にて薨ず。
尾張国海辺郡真庄津島天王境内若宮というのは此れである。
尾張国海部郡の津島神社のことですね。つまり大橋家との関係のこと。
宗良親王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
宗良親王
(むねよししんのう、むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。
信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。
大草の宮、の呼びにビックリ。大草氏との関係で?
法名は尊澄法親王。
幸坂の宮と呼ばれるのは 1344年(興国5年/康永3年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った、 からでしょうね。
拠点となった大河原は伊那谷に属し、
南に下れば井伊谷(井伊氏)から東海地方へ、
北上すると長谷(後述する終焉の地の一つ)を経由して諏訪(諏訪氏)や関東へと通じる位置にあり、
別名「南朝の道」とも呼ばれる後の秋葉街道の中心に位置していた。
そのため、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一門など)が逃げ込む事も多かった。
全文はURLへ。
[6] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月27日 11時29分54秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さすがあを様、久しぶりに脳内ホルモン(ドーパミン or エンドル
フィン どちらかよくわからない)が湧き出しております。つまり、鳥肌
が立ち、ゾクゾクしております――
とりあえずは、よ〜く読解いたしてみます!
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月27日 11時30分05秒 ) | パスワード |
今回の「おんな城主 直虎」。
副題をつけるとすると「女はコワイ」ですかね。
笑
直親の妻の「しのさん」の嫉妬ぶりがよく書けてました。
子が出来ない辛さを誰に当たったらいいか、それは「次郎法師さましかいない」。
笑
若いオトコの直親のうろたえぶりとか
どうして良いか分からないオタオタぶりもよく出てました。
あはは
直虎の父の直盛(杉本哲太)の (オンナはコワイぞ) というのが面白かったです。
さすが歳を取って(女はコワイ)というのがよく演技されてて
若い身空の直親との対比がよく分かりました。
それにしても 鶴 はウジウジウジウジとイジケタ嫌味を直虎に言って
面白かったです。
好きだけど正面から好きとは言えないムカシの身分制度に縛られて 鶴 も可哀相でした。
でも直虎の眼中には 鶴 は存在してないも同然の幼馴染でしかないのですよね。
鶴も気の毒です。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月27日 11時50分06秒 ) | パスワード |
http://senjp.com/ono-ii/
小野家についてです。
コピペはタブーのようです。
鶴は処刑されるのですねぇ。磔。
鶴の弟の小野玄蕃朝直は桶狭間で戦死して
妻は「しのさん」の妹だったので
息子は直政に仕えています。
[9] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年02月27日 16時49分21秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様 あを様
保元の乱に長田親致が破れて、隠居します。代わりに弟忠致が庄司職を継ぎます。
長田の家は加茂神社荘園の多くを任されていたので、伊豆から美濃伊勢までの
荘園に本人または子弟を現地の送り、地元に定着し下司になる家が出てきます。
現在の和田町の不近、天龍駅の北に昔は永田村があり、一説に長田忠致が住んでいたので、とありました。
又治承の乱は、平清盛に長田入道名で書状を送ってますので、静岡市の川西
長田地区に住んでいたと想像されます。次男になる致将は壱岐の守代理で壱岐です。
伊賀で平致頼・致経親子が平家との争いに政治的に敗れてからですから
>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html 4代約百年
致経・致房・行致・致俊・親致(注)この系図で川真三郎は書き写し間違いで本来は 門真三郎 門真庄司職の致俊です、場所は現在の津島市になります。
保元の乱の時、親致は津島市、又は豊田市司町に屋敷があり、碧南の棚尾には
戦時避難と言う形で、乳母と幼少の3男が住んでいました。
で、3男が跡を継ぎ、今も子孫が住んでます。
豊田司町には 忠致が住んだという長田屋敷跡と言われる水田・畑があり、屋敷の構造が判るように、400年後、一族の永田六兵衛が開拓しています。
お勧めの本 長田氏族の足跡 by長田一 著
(静岡市図書館なら多分あります)
私の所にも、故長田隆之氏の書き込みがあるものがあります。
興味が湧きましたら、連絡してください。
長田一氏の書によれば
忠致は丸子付近に20年位住んでいたと書かれており、故、安部川の西部地区は
長田村になったと書かれております。 又伊豆の下田の南に高根神社があり
長田三郎が深く帰依し、その子孫も現存する由。
旧?山中湖村平野地区には、長田(娘婿)但馬子孫が住んでいて御殿場市を含めると1000軒を超える程、長田を名乗る方は多いと書かれております。
山梨県猪狩の長田氏は忠致の子孫らしい、、しかし三河長田の甲府勤番が土着した例があり、今となって判別は難しい、、、ですね。
静岡県は 保元の乱以前からの長田氏、忠致子孫、三河長田の旗本、
全てから、永田に改姓する家や、地名があり、混沌としています。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月27日 22時32分05秒 ) | パスワード |
箱柳さん
書き込みをありがとうございます。
>全てから、永田に改姓する家や、地名があり、混沌としています。
そうですね。
今となっては難しいですね。
>山梨県猪狩
猪狩で思い出しました。
猪狩って伊勢というイメージです。
長田氏がらみの猪狩かなと 横 ですが
思いました。
感想なので無視願います。
[11] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月28日 01時02分49秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
永田様、詳しい情報ありがとうございます。
今度静岡に行くときには、図書館へ寄ってみます。
静岡にも長田郡があり、羽鳥があります。
こちら浜松にも長上郡(長田郡上の意味)があり、羽鳥があります。
長田と羽鳥は合わせて一つの関係か……また両地方とも安部川、天竜川
の扇状地帯にあります……。
いろいろ資料を読んでいたら眠くなってきました。この続きは明日――
[12] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月28日 08時57分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
箱柳永田様
磐田の中泉代官所(天領を支配)の「大草太郎左衛門」は、第15代、第
18代、第21代、第23代、第25代の中泉代官として、代々受け継い
でおり、最も知られている代官であります。
この大草家、先祖は「長田喜八郎広正」であります。年代的には、家康
より一世代位古いものと思われます。広正は、初め「三河国大浜」に住ん
でいましたが、のちに遠江国山名郡新貝町(現磐田市)に移り、苗字を「長田」
から「永田」に改めています。
その子「政吉」は、同村にある「八幡宮」(府八幡宮ではない)の神主を
勤めていましたが、1570年、家康の遠江入国にあたり、召されて仕え、
忠勤を励み、和口郷において知行高1000石を賜り、御厨庄(鎌田神明宮
があるところ)の代官にとり立てられています。
政吉には子供がなく、三河以来家康に仕えていた「大草次郎右衛門義正」
の長男「政次」を娘婿に迎えました。家康に「大草々々」と呼ばれたので、
家康の命によって家号を「大草」に改めたということです。
初代を「政吉」とすると、実質4代目の「政清」から中泉代官をとびとび
に努めています。
「政清」から4代目にあたる「政美」は、第18代中泉代官でありますが、
この人は、森町一宮神社の神主「鈴木重正」の次男であり(養子=娘婿)、
なおかつその母は「政清」の娘であったということであります。このように、
神主同士間が姻戚関係となるのは、決して特異なことではなかったようです。
むしろ、積極的に推し進めて、全国ネットワークをなしたような気配もあり
ます。
そして、昨日のレスに戻りますが――
「1594年:神官長井直勝、従五位右近大夫に叙さる」とありました。
つまり、永井(長井改め)直勝は「神官」つまり「神主」であったということ
であります!
これは長田家からの生い立ちからいけば、決して突飛なことではないと
思われますが、詳細については情報を持っておりません。今後、調べて行き
たいと思っております。
次回は、この永井直勝の逸話について記載いたします――
[13] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年02月28日 14時02分21秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
>永井(長井改め)直勝は「神官」つまり「神主」であったということ
であります!
再掲になりますが、http://www.katch.ne.jp/~hiro32/machi_info/ohama_south/ohama_south13.htm
下の方に850年位前、神社設立の逸話が出てます。
実際には、伊勢湾、三河湾で材木の漂流事件があり、所有権をめぐって、落とし主と拾って(発見者)浜に寄せた者との交渉がうまくいかず、仲裁に長田白正が乗り出し、材木の所有者、運搬人、拾得者、材木受取人の間をうまく取りまとめた、多分3方一両損みたいな話、で、社殿を作った。
前から八柱神社の神主でしたが、こちらは氏子無しのmy神社ですので、
岬の見えやすい所に灯台のような感覚ですね。以後約250年は神主です。
裏の顔は、湊の顔役として、問丸の世話方、船の差配(独立勢力ですので、武装商人=海賊ですね)喜八郎広正は重元の親、直勝の祖父でして、嫁は酒井家の娘です。 http://www.katch.ne.jp/~hiro32/machi_info/ohama_south/ohama_south12.htm
酒井の娘の記事(おばばさま=長田再興の立役者)
私の家は広正の弟?で松平家に仕官した時に永田になってます。
直前の住所は豊田市今町、矢作川の川湊の管理者です。
とぼとぼあるく碧南市 byヘボト氏 より転載
他に長田関連は、宝珠寺=明治まで檀家は上下の熊野神社の2軒、熊野神社(上之宮)
八柱神社、
[14] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月28日 23時12分00秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
本日は、朝から今まで充実した一日でした。森町と島田から帰った後、調
べものや、照合作業をしていましたら、深夜になってしまいました。
書くことがたくさんできてしまいましたが、話題も色々なので、今晩一晩
寝かせた上で、頭の中が落ち着いたら書き出すことにいたします。
それにしても、箱柳永田様のおかげで、永井(長井・永田・長田)関係の
探求が「蟻の百歩」(いつもは蟻の一歩)、いやいや「蟻の千歩」程も進みま
した。感謝申し上げます。
明朝、ビックリする(?)発表をいたします――
[15] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月01日 13時38分13秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
約一週間前に京都東寺の「弘法の市」に行った帰りに、東山の泉涌寺に寄
り、係りの人に「永井家」の墓はどこにありますかと訊いたところ、知らな
いという。その結果、天皇家の御廟のみを見て帰ってきてしまったのが、今
更ながらくやしい。後で調べたところ、泉涌寺の広大な敷地の端に「悲田院」
があり、そこに「永井一族」(特に高槻藩主直清を中心とした)の墓があった
のでした。かつて確か永田様に教えてもらっていたと思いましたが、泉涌寺
については覚えていましたが、悲田院の方は忘れてしまっておりました。
次回は、必ず行ってみます。
さて、話はたくさんあるのですが、まずは「ビックリ」についての話――
磐田中泉代官所の代官の大草太郎左衛門ですが、その初代は「永田政吉
(三郎次郎、家康命により太郎右馬)であります。
その政吉の父は「長田喜八郎広正」であります。初め三河国大浜に住み、
のち遠江国山名郡新貝村(現在ヤマハやジュビロ磐田がある所)に移り、
「長田」を「永田」と改めたとあります。
そこに移り住んだ時期ははっきりとはわかりませんが、姓を永田に変えた
のは、「長田直勝」が満17歳の時浜松に来て家康に仕え、主君の命により
大江姓永井に改姓したのと同時のはずであります。
つまりそれは1580年(永禄8年)のことと思われます。
さて、「長田喜八郎広正」でありますが、よく調べてみたところ、『寛政
重修諸家譜』に「長田重元の父」として載っておりました。父といっても
直系の親子か、岳父か、嫡子としての養子(もらい子関係)か…ここははっき
りとはいたしておりません。広正は家康の父の広忠に仕えておりますので、
年齢的には、家康よりも少なくとも15歳以上は年上だと思われます。
長田重元は寛政重修家譜によりますと、1593年に90歳で亡くなって
おりますので、1580年の時には77歳ということになります。
とするとその親の広正は、少なくともその時点では+15歳として、92
歳であったことになります。
もっとも広正がいつ亡くなったかは書かれておりませんので、超高齢であ
ったとしても、あるいは既に死んでいたとしても、年齢差の整合性に全くの
支障をきたすものではありません。
広正の子には、重元、重吉、及び名前のわからない息子がもう一人あるよ
うです。従って「政吉」という名前の息子があったとしても、整合性に全く
の矛盾を生ずるものではありません。名前は色々変わりますので、特定する
こと自体なかなか難しいかも知れませんし、庶流の流れかも知れません。
ということで、もう一度私の推論を整理しますと――
@三河国大浜より磐田新貝へ移住した「長田喜八郎広正」は、「長田重元」
の父(直系の父か、岳父か、養父)であった。
A従って、「長田喜八郎広正」は、「永井直勝」の祖父になる。
B「長田喜八郎広正」は、家康の父の時代から仕えており、神君伊賀越え
では、息子重元・孫直勝と共に家康の手助けをした。
C「長田喜八郎広正」は、一説によると「大橋信重」の孫であります。
D同じく、その「大橋信重」は、宗良親王の玄孫となります。
E従って、家康が遠江に入国すると同時に「長田喜八郎広正」の子「政吉」
が家康に召された理由がわかります。南朝つながり、もっと言えば南朝
勢力の再興が目的であったかも知れません。直勝ともども、一族として、
家康に仕え、盛り立てたということになります。
F一方、井伊直政も宗良親王の外祖父関係者であり南朝勢でありますので、
家康が井伊直政下に永井直勝を組み込んだのも分かるような気がいたし
ます。
Gということは、服部党も南朝つながりの意味合いが強いということにな
ります。
H中泉代官所より南2キロの所に「宝珠寺」があり、永井家(家紋は永井切
梨が大多数)の墓が30基前後あります。三河の碧海郡にも宝珠寺があり、
永井(長田)家の菩提寺となっております。やはり、この2つのお寺には
永井家を介したつながりがあるのではないかと強く推測いたします。
直勝は豊臣姓を秀吉からいただいております。また秀吉は藤吉郎の頃、
松下之綱のお伴で磐田の宝珠寺にしばしば行ったようです。
G松下之綱は海運に携わっていたようです。大浜の長田氏も海運に関わって
いたという事でありますので、大浜と頭陀寺は船でもつながっていた。
磐田も今の地形とは全然ことなっていましたので、宝珠寺あたりも船で
行き来できたのかも知れません。
だんだん話が大きくなって来てしまいました。とりとめのないことになり
そうなので、一旦この辺で止めておきます――
[16] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年03月01日 17時36分07秒 ) | パスワード |
三つ柏様 あを様
>C「長田喜八郎広正」は、一説によると「大橋信重」の孫であります。
大橋の4男です、3男は川口さんとこで、
>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E9%99%A2 華陽院様の最後の嫁ぎ先が川口氏です。
結婚が遅かったのか?定かな理由は判りませんが、当家(広正の弟)の3代目と長田重元が(西尾平口 鈴木氏 )義兄弟になるのです。重元が姉、清蔵が妹です、40過ぎての広正の子と見ています。
なお、平口の鈴木氏より信康の小姓が出ていて、殉死してます。
>広正の子には、重元、重吉、及び名前のわからない息子がもう一人あるよ
うです
白重、重元、重吉、永田徳本の4人がこちらで生まれてます。
しかし、磐田では徳政令で失った神社領の回復の活動しか伝わっておりません。
磐田の宝珠寺の山号が判りますか、碧南の宝珠寺は金龍山で、曹洞宗です。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月01日 21時57分03秒 ) | パスワード |
>磐田の宝珠寺の山号
こんなのがありました:
http://www.housyuuji.com/temple.html
瑞龍山 宝珠寺
創立は観応元年(一三五〇)。初めは鎌倉の円覚寺派に属していましたが、江戸時代初期に妙心寺派となりました。
天正十八年十二月二十三日太閤秀吉公より寺領三十二石九斗五升御配分御判物を賜ります。 敬重七年十二月十六日徳川家康公より御寄付状を降下され、慶長八年九月御朱印状を賜りました。 (朱印状は初代〜五代・八代〜十四代を有す)
嘉永七年十一月四日の大地震により、本堂・庫裏・開山堂・書院・釈迦堂・鎮守堂・鐘楼・塔頭・中門・総門等、 妙心寺派遠州六ヶ寺に数えられていた名刹は全て灰燼に帰し、 安政のころより復興に努め現在に至ります。
当寺は宝珠寺領を安堵する朱印状を有しています。
写真は豊臣秀吉公より下賜された朱印状です。
内容は、「寺領として三十二石九斗五升(常住分二十石・智雲斎分六石九斗五升・桂峰院分六石)を安堵し、 諸役を免除する」というものです。
※写真をクリックすると拡大します
遠江国豊田郡岡田郷寶珠寺領事
一、弐拾石 常住
一、六石九斗五升 智雲斎
一、六石 桂峰院
以上
右、宝禄嶋寮舎・門前在家・居屋敷、任員数検地之上、
以高頭、合参拾弐石九斗五升事令配分、全可寺納、并諸
役令免除候也
天正十八年十二月廿六日
本堂
浜松市頭陀寺に城を構えた土豪松下某か曳馬の松下長則(松下一族の実力者)が、 宝珠寺住持と碁を打つために来たとき、 待つ間、日吉丸(後の豊臣秀吉)が宝珠寺本堂の廊下で寝ていたという言い伝えが残っています。 (信長に仕える前三年ほど浜松に居たということです)
毎年、涅槃会には「涅槃図」や「十六羅漢図」を公開いたしております。 写真は「涅槃図」の一部です。お釈迦さまの枕もとには弟子やありとあらゆる動物たちが集まり、 お釈迦さまの死を悲しんだと言われています。
[18] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月02日 13時43分07秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
永田様、リアルな情報ありがとうございます。ペーパー知識のもろさと
危うさをもろに感じました。私が主として頼ったのは、磐田市発行の『中泉
代官』と、系図的には七千傑様のものでしたが、いわゆる生の情報に勝るも
のはないということを改めて強く感じました。
さて、お寺の話でありますが、「宝珠」とつくお寺は、浜松と浜北にも、
一か所ずつありました。臨済宗方広寺(奥山)派でありました。
磐田の宝珠寺は、あを様の調べて下さったとおりで、臨済宗妙心寺派とな
っております。
この「宝珠」というのは、「如意宝珠」ということで「思い通りになる」
ということ。有名なのは、弘法大師は唐から帰国後、京都の西陣近くに「福
勝寺」というお寺を創建、「如意宝珠の法」を修めたといいます。私もそう
とは知らず(歴史に興味がなかった)、2度程訪れてはいます。
源頼朝も豊臣秀吉もこの寺で祈願、「思いをかなえること」ができたとい
うことです。
磐田の宝珠寺と秀吉との関係ですが、秀吉から32石余も安堵されている
ということは、何か大な貢献があったということだと推察いたします。
永井直勝も1596年に朝鮮の役の頃、名護にて「豊臣姓」を与えられて
おります。ということは、秀吉を大いに喜ばす貢献があり、秀吉との関係が
うまく行っていたか、誘いの気持ちがあったかということであります。
秀吉と永井直勝、そして井伊直政……そして家康、これらの関係の背後に
は、何か奥深い謎がありそうです――
[19] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月03日 00時14分13秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
『坂本神社の話』(永田数馬)の中で、坂本神社の代々の神官永田家につい
て次のように記しております――
「坂本神社、即ち明治維新前の日吉山山王権現社の神官の永田平兵衛家は、
数百年の昔より、代々永田平兵衛数馬を世襲して名乗り、神官を務め、こ
の地の地頭であり、大庄屋であり、勢力の強い郷士であった。
その初めは、順徳天皇(1212〜1225)の頃の関東の執権、正四位大膳太夫
因幡守大江広元の後裔で、長田庄司大江直衡の長子、長田左近太夫平兵衛
数馬が、この地の地頭として赴任し、篠原の地に定住してから始まる。
その頃の家名を、伊右衛門太夫というのである。
今の坂本神社宮司、坂本数馬は、実に三十七代目であって、坂本数馬は
府八幡宮の宮司も兼ねている。」
ということは、坂本神社の永田宮司家は、中泉代官であった大草家の祖の
長田喜八郎広正が、大浜から遠江山名郡新貝に来るよりずっと以前に磐田へ
来ていたということであります。一門を頼って来たのかも知れません。
しかしながら、この地は、平家や源氏の痕跡が色濃く残るところでありま
す。一昨日、袋井の積雲院という寺に行ってきましたので、次回はその報告
をいたしたいと思います――
[20] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月03日 14時53分15秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
永田様の2003年の平熱の「三河平氏」を改めて読み直しています。
長田関係の情報としては、これ以上に優るものはありませんので、
理解は必須ですね――
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月03日 15時32分37秒 ) | パスワード |
「家系」ってものすごく難しいですね。
アッチもコッチも繋がっていてワケ分からなくなります。
でも縁が出来るにはそれなりの事情があったのでしょうね。
それで 長田氏と大江氏が関係して 長田氏系なのに大江氏を名乗ったりするのかというのがやっと納得行きました。
なかなかピンと来なかったので。
日本は一応「父系社会」なので、こういうのも混乱させるのでしょうね。
その上に政治が絡んで 長田じゃまずいから と永井に化けたり。
我が家でも平家なのに後醍醐源氏ですからね。
笑
でもやっぱり 平家で充分 です。
[22] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年03月03日 19時39分17秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様 あを様
>2003年の平熱
長田隆之氏の (平氏長田家 大河の如く)が出典です
岡崎市の図書館 地下の84番の本箱に入っています。
>日本は一応「父系社会」なので、こういうのも混乱させるのでしょうね。
源頼朝さんが、嫁とり婚を始めて、以後武士階級はそれに倣いますので、
父系の系図の正確度が挙がってます。
以前は、主に妻問婚ですから、父親から先祖書きを受け継いでいますが、
当時の遺産相続は男女(ほぼ)平等ですから、父は源氏、母は平氏の場合、
子の中には、平氏領を受け継ぐ事もあります。
この場合、平氏を名乗った方が、荘園経営は安定するのでしょうね。
平の直方(確か平氏の直系)の場合、娘婿は源さんで3人の子は
八幡太郎、加茂次郎、新羅三郎だったと思います。
で太郎は鎌倉の直方所有地を継ぐのね。その他の息子に北条さん(平氏)が
居た事になってるのね。
頼朝さんは、たまたま鎌倉に幕府を開いた、、のではなく
八幡太郎の所領があったから、根拠地にしたのね。←雑学です
妻問婚の例として、平国香を挙げてみます。
平将門が源護さんと紛争状態になり、源さんの家に火を点けると、、、
娘婿=国香が焼け死ぬのね。←他の日を選べよ〜。
で、一気に国香の兄弟が参戦するのね。
雑談 平氏です。でも、就職用に酒井さんの分家になる棒系図もあります。
もし使っていたら、浄土真宗もやめるのかな。
今川義元さんは駿河、遠江では浄土真宗本願寺派は禁教なのに、
三河は、許可していたのです。ま〜禁教にしたら途端に一揆ですもん。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月03日 22時56分17秒 ) | パスワード |
箱柳さん
なるほどっ!
嫁とり婚
妻問い婚
頼朝でガラッと変わったのか。
う〜む・・・
>妻問婚の例として、平国香を挙げてみます。
平将門が源護さんと紛争状態になり、源さんの家に火を点けると、、、
娘婿=国香が焼け死ぬのね。←他の日を選べよ〜。
で、一気に国香の兄弟が参戦するのね。
分かり易いです。
ありがとうございます。
>今川義元さんは駿河、遠江では浄土真宗本願寺派は禁教なのに、
>三河は、許可していたのです。ま〜禁教にしたら途端に一揆ですもん。
なるほどね。
事件の背後を知ることが出来るってトクした気分です。
ありがとうございました。
[24] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月04日 00時14分40秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
永田様、「妻問婚」というもの、改めて頼朝以前の歴史の中で頭に入れて
おかなければならないということを認識いたしました。ありがとうございま
した。
[25] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月04日 09時11分52秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
源義朝に同行した直属の家臣で遠江と縁がある人が、とりあえず三人い
ます――
@鎌田正清
A渋谷金王丸
B大谷忠太
です。
@の鎌田正清の妻は、長田忠致の娘。京都より逃げて来た義朝は、家臣
の妻の実家=長田忠致をたより、宿とした。そしてあの事件となります。
鎌田正清も殺されてしまいます。
Aの金王丸は、逃げ延びて井伊谷の奥の伊平あたりに留まっておりまし
が、ここで亡くなり墓があのます。
Bの大谷忠太は袋井の人で、積雲院というお寺のある友永の南に大谷と
いう所があります。
大谷忠太は、忌まわしい事件のあと、主君の遺髪を持って里へ帰り、石塔
を建てて菩提を弔ったということです。
後に、源頼朝がそれを知り、大谷をほめ、一寺を建立したという。その寺
が「積雲寺」であります。友永は朝長に由来しており、この友永の積雲寺
に、「義朝」「義平」「朝長」親子の墓があります。
四日前に島田に行く途中、この積雲寺を訪れ、入り口付近に建てられて
いる三基の石塔に向け、般若心教を三巻捧げてまいりました(あを様、永田
様、私の分として)。
義朝は遠江に随分縁がありますし、鎌田氏と長田氏の婚姻ということは、
知多半島と遠江が海運で結ばれていたと推測されます。
でも、鎌田氏の妻(長田忠致の娘)、この事件を嘆き自害したということ、
野間にぜひ一度行って、般若心経を上げてきたいと考えます――
[26] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年03月04日 11時13分50秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
>知多半島と遠江が海運で結ばれていたと推測されます。
この件については、遠州の中で考えた方が良いと思います。
長田の蔵にあった古文書を見た、隆之氏よりの伝聞です。
@忠致発 親致宛て 娘は年が過ぎたので鎌田にやった。←概略
という、手紙を見た記憶がある との事でした。
私の距離感では、野間と大浜では、手紙より口頭の確率が高いのね。
>野間にぜひ一度行って
その時には、連絡をください、地形はかなり変わってますが
長田の由縁の場所を案内します。
[27] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月04日 22時20分34秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
「長田」と「服部または羽鳥」がセットで存在している地域は、伊賀、遠江、駿河であります。たぶん他にもあるでしょうが、とりあえずは私の掌握しうる
範囲においては間違いありません。何故この服部の地域と、羽鳥または長田の
地域がほとんどセットであるのかという謎に答えた人は今のところありません。
共通していえるのは、「川沿い」ということです。
ということは、これらの川沿いでは、コメ作りが行われ、生命維持の基礎
である食料が確保できたということ。また、川沿いは蚕を育てるのに適した
場所であった。つまり、桑の葉に卵を産み、その卵が蚕に食べられて腹の
中でふ化し、蚕の腹を食い破って出て来るハエの一種の育ちにくい環境でも
あったということであります……。
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月06日 02時42分03秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>大谷忠太
この人のことは100%知りませんでした。
全文は以下のURLへ
http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/15f0f38f362d706fe6286eac322ddf99
袋井市に伝わる伝説によると、
義朝が朝長を殺害したあと、家来の大谷忠太がその首(もしくは髪)を持って東国へ走った事になっております。
つまり頼朝は朝長の首と共に旅をしてないことになります(笑)。
大谷忠太の故郷が袋井市の大谷村で ...
源朝長とは、われらが源頼朝のお兄さまです。
「松田冠者」と呼ばれていました。つまり出身が相模国の松田市付近?
母は秦野市の波多野氏の人らしいです。
で、その朝長の首塚がどうして袋井市にあるのかということですが。
袋井市に伝わる伝説によると、義朝が朝長を殺害したあと、家来の大谷忠太がその首(もしくは髪)を持って東国へ走った事になっております。つまり頼朝は朝長の首と共に旅をしてないことになります(笑)。大谷忠太の故郷が袋井市の大谷村でして、彼は自分の故郷に主人の首を埋め、2本の松を植えて目印としました。その場所はのちに「友永郷」と呼ばれるようになりました。
ここには現在「積雲院」という曹洞宗の寺があるのですが、寺伝によると「文治元年(1185年)に源頼朝が上洛の途中、ここに兄の首が埋められているという事を聞いて立ち寄り、寺を建てることを命じた」とされています。(※いやぁ、実際はこの年の11月の上洛は頼朝は黄瀬川で引き返したのですが(=義経への脅しのためだけの出兵?)、寺伝では「六十六箇国追捕に任ぜられた頼朝が上洛の途中にここに立ち寄った」と記されているので、建久元年の上洛との混同では無さそうです。伊豆では足の軽かった頼朝のことなので、黄瀬川から一足跳びで隠密で袋井まで来た、、、、 ワケは無いか。ちなみにこの年の9月には勝長寿院で父義朝と忠臣鎌田の首を供養し、一方10月には遠江守安田義定との間にほんのちょっとしたイザコザが起こっています)
のちに戦国時代末期、“可睡和尚”と呼ばれる事となる鳳山禅師仙麟等膳がこの寺の住職となり、彼と親しかった徳川家康の天下が樹立された事でこの寺も繁栄しました。しかし明治の廃仏毀釈によって本堂が破壊され、現在は残った庫裡を本堂代わりに使っているということです。(それでも大きい)。
昭和30年頃までは巨大な木が生い茂り鬱蒼としていたそうですが、私が行った時は開けていて、入り口付近のとても分かりやすい場所に首塚はありました。目印の松は安永元年の台風で倒れてしまっているそうです。
袋井の伝説にはちょっと怪しいところがあると思わなくもないのですが、ウィキペディアにはちゃんと「首の墓は袋井、胴の墓は大垣」と明記してあります。平治物語には「義朝主従は8人」と書かれていて大谷忠太はそこには同行してなく、京の六条河原でさらされていたものを忠太が奪ってきたと考えてもいいでしょう。能の「朝長」の舞台は青墓だそうですが、亡霊が出るとしたら首のあるところでしょーふつー。いややっぱり死んだ場所かゆかりのある人のところですね。
大垣のお墓にも「義朝・義平・朝長」の3つが並んでいるそうです。(義隆のは?)
義朝の首は鎌倉の勝長寿院にあるとして、義平の首はどこにいってしまったのでしょうか?(調べたら群馬県尾島町世良田の義平山清泉寺)。最近のわたしは首のことばかりが気になってとても異常です。
積雲院の建物も見てみたかったのですが、夜中だったのでやっぱり諦めました。
この寺には寺宝として、「朝長が所持していた宝刀」と「朝長自筆の花押」があったそうですが、刀は安政の頃無くなってしまったそうです。この宝刀、平治物語で朝長が所持している「薄緑(うすみどり)」かなぁ?(※この「薄緑」は平家物語に出てくる「薄緑」とは別の剣らしいです) もったいない。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月06日 02時59分10秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
箱柳さん
是非機会に恵まれてお二人が会えると良いですね。
般若心経を3巻、ありがとうございました。
思ってたより遠江は源氏ゆかりの地のようですね。
意外でした。
ま、ご先祖さまの頼義と義家と、さらに、義朝が坂東に関係してたから、その途中の遠江で関係が生まれたからでしょうけど。
こういうのがピンと来てないのがいけませんね。
土地勘、無さ過ぎ。
人間は移動するというのは分かってても、やっぱり理解してないのが分かりました。
[30] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月06日 06時51分04秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
大谷忠太と源朝長の首塚の説明ありがとうございます。義朝が戦傷の悪化
した息子の願いによって、その命を絶たざるを得なくなったという悲劇は、
能にも謳われていて、青墓(大垣市)の胴塚には、あの「芭蕉」が訪れていま
す。芭蕉は涙の出る所(いわゆる能舞台)には、必ず顔を出しますね……。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月06日 13時20分30秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
今 はた? と思い付きました。
>あの「芭蕉」が訪れています。芭蕉は涙の出る所(いわゆる能舞台)には、必ず顔を出しますね……。
やはり伊賀者。
能(観世は服部氏と楠木正成の姉妹との子)がらみでしょうか?
芭蕉は俳句だけでなく能の方でも心得があったかもですね。
[32] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月07日 13時13分35秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
芭蕉が訪れた「青墓」……土地の名前としては何かおどろおどろしい
ですね。今でも大垣市青墓町として存在しています。大垣というば、芭蕉
の奥の細道の最終地点でもあり、もともと縁が深いところでもあり、また
遠江の池田宿と似た所、即ち長者・遊女の存在した宿場町でありました。
http://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/050db1a3a838bca75c2ab1a03c444959
「平家物語・義経伝説の史跡を巡る
青墓の宿(岐阜県大垣市)は東国へ往来する旅人の宿場で、当時遊女で
賑わった町です。
旅人の宿泊の世話をしたのが、長者とよばれる土地の豪族でした。
後白河院によって編纂された『梁塵秘抄』には、青墓宿の阿古丸・目井
・乙前(おとまえ)延寿などが登場し、なかでも乙前は後白河院の今様の
師でもありました。
西行の祖父にあたる今様の名手監物源清経は、尾張の国に下向した折、
宿泊した青墓宿で当時12、3才の乙前に出会いその声の美しさに将来
大成するだろうと京へ連れ帰ります。
西行の母方の祖父である源清経は今様の達人であっただけでなく、蹴鞠
も得意とし文武両道に通じていました。父を早くに亡くして母方の家で育
てられた西行は清経の才能を受け継いだといわれています。
延寿は青墓の長者大炊の娘で、義朝(頼朝の父)との間に夜叉御前とい
う娘を儲け、延寿の伯母は為義(義朝の父)の晩年の愛人となって4人の
子供を生んでいます。」
ということで、源為義・義朝親子とは、大変縁のある場所でありました。
西行とも縁があるということ、正に芭蕉にとっては心に響く場所であった
ことと推察されます。
さて、「長田」という地名の由来について、調べてみましたが、『神代記』
という本の中に、その初期の名称の変遷についての記述があるということで
あります(『銅鐸の祭と倭国の文化(三浦茂久著)』)。
具体的には――
「サナはタナの転化してものであるが、棚田は、階段状で、間口が横に広
く、奥行きが狭いから、「狭長」と書いて、サナと訓ませたのである。し
かし、狭長田では意味が通じなくなって、狭田(サナダ)と長田(ナガタ)に
分化した。」
ということであります。
神代の昔、米は棚田で作っていたということは、弥生時代の田園稲作より
ずっと以前の時代のことであるような気がします――
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月07日 14時33分32秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>神代の昔、米は棚田で作っていたということは、弥生時代の田園稲作よりずっと以前の時代のことであるような気がします
はい
陸稲でしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%A8%B2
考古学的には、日本では縄文時代から陸稲が栽培されていた形跡があり[4]、水田稲作より起源が古い可能性がある。確認される最古の記録は、安貞3年(1229年)に作成された「日向櫛間院田畠目録」(『鎌倉遺文』3814号)に登場する「野稲畠三段」であり、当時は野稲と呼ばれていたことが知られる。中世から近世にかけて、南九州や北関東などで広く栽培されていた。日本最古の農書(1650年代成立か?)と言われる『清良記』には畑稲、元禄10年(1697年)に刊行された農書『農業全書』(西日本の農業情勢が中心)には畠稲・野稲・旱稲(ひでりいね)の呼称で登場する。
[34] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月08日 16時54分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
古代史を振り返っておりました……@和爾氏・安曇氏・海部氏、A出雲神
族・出雲臣族・土師氏、B物部氏、C秦氏・漢氏……。
この中で、今私の頭の中は、「土師氏」に囚われております。それは何故
かと言えば、「服織神社」の祭神が「天穂日命」であるという事実によるも
のであります。この近辺で「天穂日命」を祀っているのは、他には、いわゆ
る高天神城の「高天神社」だけであります。
天穂日命は出雲臣族の祖でもあり、またそこから土師氏が生まれています。
土師氏から、菅原氏、大江氏、秋篠氏が派生しております。
さて、永井氏は大江氏の血統であります。即ち、その前は土師氏であり、
菅原氏と同族ということになります。
摂津高槻藩主の永井氏は、天満宮をこよなく愛したと言われております。
それは、やはり血筋によるものだと推察されます――
ここで、一旦休憩いたします。
[35] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月09日 12時30分33秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
土師氏についてまとめようとしましたが、長くなってしまいますので、
必要な部分だけ抜き出します。
『静岡県郷土研究第八巻(国書刊行会)』の中の「浜松付近の上代観」(
伊藤源作)によりますと、遠江に侵出した古代系氏族は、年代順に――
@海人系―和爾氏・安曇氏・海部氏
A出雲系―出雲神族・出雲臣族・土師氏
B物部系―物部氏
C帰化族系―秦氏・漢氏
ということであります。つまり、この地には、海人系、出雲系、物部系、
秦氏系の歴史が上書きされ、ミックスされ、残っているということになり
ます。
上古、遠江の国には天穂日命の子の建比良鳥命(出雲国造)の子孫が遠江
国造(くにのみやつこ)として遣わされたといいます。
服織神社の祭神が「天穂日命」ということは、出雲国造家の祭祀者であ
りまた統治者である者が、一族郎党で、この地にやって来ていたものと推
察されます。出雲臣族の土師氏も一緒に来ております。
後、土師氏については、「土師宿祢古人」が「遠江介」在任中に、土師
氏という一族の名前の改姓の請願を中心となって行い、ついに「土師姓」
より「菅原姓」に改められております。
永井氏を考える時、その祖の大江氏さらに土師氏、あるいは分派の菅原
氏に対し、シンパシィを感じるのは当然のことであると思われます。
ここで一つ訂正です。永井の殿様で菅原道真を大いに崇敬したのは、高槻
藩の城主の永井氏でなく、淀藩の二代目藩主永井尚政でございました。
次には、いよいよ「直勝」の逸話を記します――
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月09日 15時49分53秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
@海人系―和爾氏・安曇氏・海部氏
A出雲系―出雲神族・出雲臣族・土師氏
B物部系―物部氏
C帰化族系―秦氏・漢氏
ということであります。
つまり、この地には、海人系、出雲系、物部系、秦氏系の歴史が上書きされ、ミックスされ、残っているということになります。
@とAがなかなか面白いですね。
因幡の白兎の ワニとは和爾氏のことだったのかな? と空想が行きます。
つまり 白兎=出雲族 と ワニ=海人族の争いだった?
大国主命は白兎であり出雲族。これは出雲族に「傲慢になってはいけない」と諭したこと?
何か深い意味があったのでしょうね。
>永井氏を考える時、その祖の大江氏さらに土師氏、あるいは分派の菅原氏に対し、シンパシィを感じるのは当然のことであると思われます。
はい
これもなかなか興味深いですね。
[37] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月10日 17時08分58秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さて、永井直勝についてのエピソードが『坂本神社の話』(永井数馬著)
に載っておりましたので、そのまま記載いたします――
「直勝候霊験記
今を去る三百年程前のことである。
徳川家康公の御小姓となった人で、幼名を伝八郎という人があった。
伝八郎は生来至って愚鈍なため、自殺をさえ思い立つ程であった。
ところがある夜、神のお告げの霊夢を見た。
――遠州の坂本山山王権現に祈願せよ。
そこで伝八郎は、八×八=六十四日の祈願を始めるのであった。する
と、七×七=四十九日目の事であった。一天俄かにかき曇り、闇夜のよ
うに暗くなり、万雷のような轟がして、只ならぬ状況になって来た。
伝八郎は恐ろしさをこらえながら、一心不乱に祈りを続けていた。す
ると、今まで神社の神官と思っていた人が、突然、鬼神の姿に変わって、
――汝よ、我はこの社の守りの鬼神なるぞ。汝の熱心な心願には感じ
いった。よって今ここに、神の代わりとなって汝を訓す。ゆめ疑う
な。汝は、前世に於いて罪深かりし故に、明盲(あきめくら)同然と
なって生まれたのだ。今叡智を欲せんとするならば、汝はこの長短
二振りの剣の内、一振りを呑みて、臓腑の悪血を吐き出せば、新血
生いて更生せん。汝、勇気を出して、大剣を呑むの気ありや、如何
……。
と問われた伝八郎は、恐る恐る、
――私は至って愚鈍の生を受けて、このまま命を全うせんよりは、寧
ろ死を求めた方がと考えた程です。よって大利剣を呑んで、生まれ
代らん事を誓います。
と申し上げた。
すると鬼神は、三種の祓いを唱えながら、大利剣を情ようしゃなく、
伝八郎の口の中に差し込むのだった。伝八郎はあまりの事に、血へどを
吐いて、その場に倒れてしまった。
しばらくして、己を呼ぶ声に、はっと目を覚ました。見れば神官たち
は、前のまま坐っているのだ。伝八郎は不思議に思って、今の事を物語
った。神官たちは感動して、
――かかる故からは、霊験は必ず現れるであろう。
と、天津祝詞を唱え聞かせると、伝八郎は即座に、一言一句の誤りもな
く、あたかも以前から知っていたかのように、暗誦するのであった。一
同もその様を見て、唯々、神明の霊徳の偉大さに感動するばかりだった。
かくして伝八郎は、勉強する毎に知恵と力がついて、やがては徳川家康
の奥小姓に用いられ、永井家の第十三世を継ぎ、従五位右近大夫将監直勝
として、徳川幕府の重要な役につくと共に、世の人々に深く慕われる身と
なったのである。」
[38] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月12日 00時33分25秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
大江広元の後胤で、長田庄司大江直衡という人物が、長田氏の系図のどの
位置にあるのかわかるといいのですが……。
その長男は永田左近太夫平兵衛数馬といい、この地の地頭であったと書い
てあります。
いずれにしても、大江系の長田氏に間違いなく、永井直勝とはつながって
いるものと思います――
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月12日 05時25分49秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
大江広元の次男、長井時広が大江姓長井氏の祖だそうです。
出羽国置賜郡長井荘を所領としたため、在地名を取って長井氏を称し家祖となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E6%99%82%E5%BA%83
長井 時広(ながい ときひろ)
鎌倉時代前期の朝臣、武将。鎌倉幕府の御家人。
鎌倉幕府初代政所別当大江広元の次男。
兄大江親広が承久の乱で失脚すると大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E6%B0%8F
長井氏(ながいし)は日本の氏族。著名なものとして、以下の3氏族がある。
大江姓長井氏(出羽長井氏と備後長井氏と武蔵長井氏と美濃長井氏。4つとも時広の子孫)
藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏(他人の関係)
桓武平氏良文流三浦氏族長井氏(他人の関係)
もともと長井という土地を屋号として苗字になったというわけですか。
そして子孫が養子などで動いて家の関係がややこしくなっていくのですね。
長田庄司大江直衡
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101478.html レス69より
>さて、永田氏に関連しますが、磐田図書館で見つけた『坂本神社の話』(永田数馬著)という本ですが、
>この連城寺の真北約4キロ程のところに、「坂本神社」というお宮がございます。
ここで拝見してたのですね。
どこかで拝見したような記憶はありましたがサッパリ記憶にありませんでした。
[41] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月12日 21時30分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
今回の大河ドラマにより、「瀬名」と「井伊家」との関係がこんなに濃
かっということがよくわかりました。もちろん、あくまでドラマの台本の
上ということは承知しておりますが……今までイメージできなかった人間
関係・ありさまが、なるほどこういうことだったのかとある意味理解が進
みました。
さて、徳川元康(家康)・井伊直政・長田(永井)直勝の関係を年代順に並べ
てみます。
1542年 家康、生れる。
1561年 直政、生れる。(元康数え20歳)
1563年 直勝、生れる。(元康22歳。家康に改名。清州同盟)
1570年 家康、浜松入城(29歳)。
1575年 直政、家康に初めてお目通り(15歳)。御小姓に。
1576年 直勝、岡崎の信康の御小姓として仕える(14歳)。
1580年 直勝、浜松の家康に御小姓として仕える(18歳)。
家康の命により、長田より永井に改姓。
1582年 直政(22歳)、直勝(20歳)、共に神君伊賀越えに伴う。
直勝の父、長田重元、大浜にて救援。
これを見ると、直政20歳、直勝18歳の時より、同じ小姓組として、
家康の身辺警護にあたっている。浜松のどこに住んだかといえば、小姓組
でありますので、浜松城の中、家康の居室の側ということになる。二の丸
あたりか(……浜松城主であった青山氏は二の丸に住んでいた)。
本日はここまでにします――
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月12日 22時44分17秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
はい
わたくしにも瀬名さまと直虎が結構親しかったというのが意外でした。
でも2人は一族ですから当然か、と納得。
今回の大河の脚本は(三谷幸喜の脚本は「自分」が出過ぎていましたが)よく整理されていて分かり易いです。
家康・瀬名・直虎・直政(・家康)という糸で結ばれていたというのは本当に驚きました。
なるほど直虎が直政を連れて家康に会いに行ったはずだと納得出来ました。
(仲介者は誰なのか謎だったのです)
>家康の命により、長田より永井に改姓。
何故「永井」なのかイマイチ謎です。
[43] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月13日 15時18分04秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さて――
@長田(のち永井)直勝は神官であったと『坂本神社の話』には書かれ
ておりました。実際には、直勝の父の長田重元は、大浜熊野大神社の
神主(社家)でありました。
一方――
A磐田の坂本神社(山王権現)の神主(社家)は、永田(長田、永井)氏で
ありました。
つまり、長田氏という氏族は、神職に関わる氏族の色彩が強い?。
但し、坂本神社は実際は「山王権現」(日枝神社、日吉神社と同じ、総
本社は、滋賀県大津市坂本にある「日吉大社」で、祭神は「大己貴神」、
「大山咋神」であります。
熊野権現は、「家都御子神(けつみこのかみ)」、「熊野速玉男神(くまの
はやたまおのかみ)」、「熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)」が主だっ
た祭神であります。
神道でわからないのが、神道のさまざまな宗派がある中で、神主はその
違いには関係なく、相互に自由に行き来できるのでしょうか?
仏教の場合は、宗派がはっきりして、横への移動は余りないようですが?
神主や社家について、深く知りたいのですが、問題は神聖な領域として
非公開性の強い世界でもあるという点です……。もっとも、今の制度と過去
の制度とは当然違うでしょうし、神仏混淆という点でも全然違った世界に
なりますし、宗教の世界はとても難しい……。
昨日は、静岡の丸子の丁子屋へ「とろろ汁」を食べに行きまして、その折
に連歌師宗長の吐月峰柴屋寺に寄ってきました。ご本尊は「十一面観音」だ
ということで、概して十一面観音を抱く宗教に、ただ今非常に興味を持って
おります――
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月14日 04時03分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>長田氏という氏族は、神職に関わる氏族の色彩が強い?。
歴史がある家ですから
長田氏自体がご先祖さまと子孫が一体となってるんじゃないかな?
家の安全と繁栄を願って、子供が生まれれば必ず神職や僧侶にするみたいに。
>静岡の丸子の丁子屋へ「とろろ汁」を食べに行きまして、その折に連歌師宗長の吐月峰柴屋寺に寄ってきました。
いいですね「とろろ汁」。
排水管掃除に最適ですね。
笑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E5%B1%8B%E5%AF%BA
柴屋寺(さいおくじ)
静岡県静岡市駿河区丸子にある臨済宗妙心寺派の寺院。
山号は天柱山(てんちゅうざん)。
雅号は吐月峰(とげっぽう)。
本尊は十一面観音。
この寺は、駿河国島田出身で今川義忠にも仕えた連歌師宗長(1448年 - 1532年)が永正元年(1504年)に結んだ草庵(柴屋軒)にはじまり、
今川氏親が寺に改めたものと伝えられる。
江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。
ということは直虎の時代にゆかりがありますね。
直虎も訪れたかも。
[45] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年03月14日 13時16分59秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様 あを様
>子供が生まれれば必ず神職や僧侶にする
確かにそういう例はあります、
>『今昔物語集』には、平致頼(公雅の子)・公正(公雅)は、興福寺方の要請により出兵するも、延暦寺方にも縁故あるため撤兵し、興福寺の末寺から比叡山延暦寺の末寺となる。致頼の弟の入禅は、比叡山延暦寺の僧。
一族の繁栄とまさかの時の予備血統として、一般的です。他に当時の税制は不確実で断言はしませんが、寺社に荘園を寄進して、庄司権を手数料名目で得る。と言う抜け道があります。
>神道のさまざまな宗派がある中で、神主はその違いには関係なく、相互に自由に行き来できるのでしょうか?
仏教の場合は、宗派がはっきりして、横への移動は余りないようですが?
長田では、大浜棚尾の八柱神社の神主をしていて、新たに熊野大権現を創建してます。随分後で、挙母の宮口で、勧進主篠田さん、社主長田、神主永田で
八柱神社を創建してます。私の住む所は熊野神社です。
明治までは結構自由度が高かったと思います。
仏教宗派も厳しかったのは、江戸時代だけで、その前後は<ゆるゆる>だと
思っています。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月14日 14時19分23秒 ) | パスワード |
箱柳さん
>寺社に荘園を寄進して、庄司権を手数料名目で得る。と言う抜け道があります。
これ、いいですね。笑
寄進しても、結局、損はしていない。笑
だからこそ名家の坊ちゃんを神官や僧侶として迎え入れ教育と名誉を与え
その代わりにリベートを実家に渡す
もちつもたれつ
お互いに利用しつつ
だって利権を守るために武力を持つ実家とナアナア仲良くして守ってもらう事も必要だし。
お互いに助け合ってる。
相互扶助ですか。
笑
神さま=ご先祖さま=からの御加護と仏さまからの救済。
こうやってネットワークも張り巡らせていたのでしょうね。
血の結束があって理論武装があって義理があって人情があって暗黙の了解があって
ああ、やっぱり日本なんだなと思いました。
[47] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年03月14日 19時30分32秒 ) | パスワード |
あを様
>自分が開墾した土地を命を懸けて守っても、それが天皇・貴族や寺社でなければ法的には所有者にはなれない。なぜ自分達はなれないのか?
平安期の土地所有は上記のとおりです。で、なぜ自分たちは?
に対する答えは、<身分が低いから>最低でも従五位下が必要なのです。
な訳で、寺社に寄進→管理料で生活を保障。
貴族に寄進→官位を挙げてもらう、又は庄司に任命していただく。
この不満が、鎌倉幕府の成立するエネルギーになったと思っています。
雑談
神社の神主は通常<太夫>と呼ばれ、従五位の通称でもあります、
門前の妓楼で賽銭を横取りする女性の、最高位の呼び方が<太夫>なのは
何でだろうと考えてます。昔の人はユーモアに富んでいる!!。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月15日 08時19分46秒 ) | パスワード |
箱柳さん
実に深い説明をありがとうございます。
>貴族に寄進→官位を挙げてもらう、又は庄司に任命していただく。
ここですね。
戦後、御所に行きたいということで、知り合いが冷泉のお爺様に五位の女房の位を頂いて参内した、と言ってました。
一筆書いて貰った
お墨付きを貰った
ということですね。
まさに この不満が、鎌倉幕府の成立するエネルギーになったと思っています ですね。
バカバカしい!
こういうのに縛られていましたね。
>神社の神主は通常<太夫>と呼ばれ、従五位の通称でもあります、
>門前の妓楼で賽銭を横取りする女性の、最高位の呼び方が<太夫>なのは何でだろうと考えてます。
>昔の人はユーモアに富んでいる!!。
庶民派 本質を見ぬいている! ですね。御開帳!笑
[49] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月15日 11時40分05秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
空の青海のあを様
@神職・僧侶の高ステータスと一族の繁栄、また予備血統の温存
A庄園の寄進と庄司権の獲得
B神主の神道下での宗派往来の自由度
C平安時代の土地所有権は従五位以上
D神主は「大夫」と呼ばれ、「従五位」
以上、大変有意義な勉強をさせていただきました。「蟻の一歩」どころか、
「蟻の千歩」以上の進展がございました。こういう情報は一気に歴史の謎を
解くヒントになりますね。
例えば、長上郡に市野惣大夫という代官がおりましたが、ひょっとして
神主の身分も兼ね備えていたと推理することもできるかも知れませんね!
本日は、井伊谷、井平へ行ってまいります。直虎と十一面観音の関係、
興味がありまして……。
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月15日 12時00分04秒 ) | パスワード |
>本日は、井伊谷、井平へ行ってまいります
川名は遠すぎるのでしょうか?
山の中の更なる山の中のようですね。
[51] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月15日 23時16分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は満足のいく午後からの半日でした。
夜は今までWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の予選の最終
戦(対イスラエル)を見ておりまして、その勝利の興奮と、また伊平の山を
一万歩歩いた疲れで、頭の中が集約いたしません。
従って、明日以降にいたします、お許しを――
[52] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月16日 06時44分50秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は、いつもどおり金指から国道257号線を北上し、とりあえず井伊谷
は通過し、さらに北上。いなさICの手前1.5キロ手前の直角に近いカーブ
を曲がると、そこからは上り坂。坂の途中に「仏坂十一面観世音菩薩」の看板
が見え、狭い上り道の方向に右折する(狭い山道は、車での走行はイチかバチ
かのリスクを伴う……)。
200m程行った道際に、桜の木が植えられ、駐車スペースもあり、反転も
できそうだったので決断……そこに車を留め、歩くことにいたしました。
なにせ、過去3回もレッカー車のお世話になったトラウマがある。特に狭い
山道での、特にバック走行は危険が伴うのであります。
歩くのは、このところ毎日4キロ、日によっては10キロのウォーキングを
しているので平気……いくらでも歩けるという自信ができている……。
事前に調べた案内書によると、看板から1.2キロ登った所に佛坂の観音様
があると書かれていました。
それにしても、いつもは素通りしてしまうこの坂道、一つ下にも道があり、
そこに友達の家があったことを思い出した(そういえば、25年程前に一度
来たことがある、例の看板もあった……)。
坂を登って行くと二股に分かれた所に出くわした。右は車の通れない道で
急こう配となっている。いわゆる近道である。もちろんそちらを選択し、山
道を登る。途中、紅白の梅が咲き乱れたところがあり、しばらくうっとりと
して眺める。そこからまた登り道、途中、右折すると階段が見え、旗も立っ
ていた――「南無十一面観世音菩薩」と書いてありました。
ここで一旦切ります――
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月17日 07時33分49秒 ) | パスワード |
メールで頂きましたのでコピペします。
箱柳永田さんは熊野神社の神主さんですか?
http://www.jalan.net/kankou/spt_23209ag2130014809/
大浜熊野大神社(下の宮)について
長上郡の服部神社との位置関係がやっと分かりました。
妓楼の太夫さんのお話ちょっと笑っちゃいました。
笑いのセンスが抜群ですね。
私どもの地域にも挙母藩や亀山藩の差配地がありました。
また、和歌山の熊野神宮から直接の使者が毎年こられてお祭りされる熊野神社があります。
もちろん氏子に成ります。もと下鴨神社の荘園ですね。
少しつながりが有る様ですね。
平家つながりでしょうか?
太夫さんについて調べてみました。
お宮の太夫さんで身近に使っている言葉ですもんね。
時代と共に身分のある者への呼びかけと成っていった様です。
「よ!大将」「うちの大将」等のように使う感じですね。
朝廷より叙せられなくとも一種の名誉的な称号として、大夫(太夫)を称するようになったのである。
以下その例をあげる。
ただし「太夫」と表記し「たゆう」と読む例が多い。
伊勢神宮の神職である権禰宜が五位に叙せられていたことから、神職のことを
いう。
のちに神職でも下位の者である御師を太夫と呼ぶようになった。
へぇ〜
神職を大夫と呼ぶことから転じて、里神楽や太神楽の長を太夫と称した。
能楽:猿楽座(座)や流派の長(観世太夫など)を指した。
音曲を語る者、またはその名の一部に用いる(竹本義太夫など)。
歌舞伎の一座で座元のこと。座元の息子や跡継ぎを「若太夫」とも称した。
遊女屋が経営する遊女歌舞伎の能を演じた遊女が能楽の太夫に倣って称した(または称された)
のが起りともいわれる。(出雲阿国の女歌舞伎の流れ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AB から拝借し少し付け足しました。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月17日 07時39分57秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
まだ続き前ですが。
>いつもは素通りしてしまうこの坂道、一つ下にも道があり、そこに友達の家があったことを思い出した
>(そういえば、25年程前に一度来たことがある、例の看板もあった……)。
あらら・・・
そのお友達は実はご先祖さま同士が知り合いだったかも、ですね。
ロマンですね。
日本人は遡るとみんな知り合い・または・親戚ですね。
当時は興味が無かったから観音さまは素通りでしたか。
でも今の方が感動は大きいでしょうね。
[55] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年03月17日 07時49分38秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、これから芝刈りにでかけますが、少し進めておきます――
石段を登ると、寺(竹馬寺という)が見えました。平屋の民家位の大きさで、
右奥には、弓道用の25mの射的場もありました。
十一面観音を見たいと思い、観音堂の中を格子戸を通して覗いてみますと、
実物はなく、たぶん実物大のカラー写真像が中に建てられておりました。
いわゆる御開帳は、33年ごとということで、普段は見られない。そこで
イメージだけでもということで、来訪者のためにサービスを図ったものだと
思いました(ただし、今年の2月には御開帳があったようです)。
この場にて、私は、あを様、永田様の分も含めて、十一面観音に向かい、
般若心経を3巻唱えさせていただきました。
境内の一画に、「由来書き」が建てられておりました。結構ビッシリと書
かれております。カメラに収めて家にて書き起こしてみますと、400字詰
め原稿用紙に8枚程の長さでありました。しょせん、人間はワンフレーズ位
しか理解できないので、この長さは親切心からか、あるいは学者的なきまじ
めさをもって正確に伝えようとしたのだと思いますが、かえってわからなく
させてしまったような気がいたしました。
この説明書きよりも、『女城主 井伊直虎』の漫画小冊子の方が、うまく
わかりやすくまとめてありますので、次回それを紹介いたします――
[56] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年03月17日 10時25分01秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様 あを様
>箱柳永田さんは熊野神社の神主さんですか?
長田本家は昭和の農地解放まで、神職でした。
私の家は松平に仕官後、暫くは神職でした。一向一揆で帰農して
庄屋階級として幕末を迎えます。
>長上郡に市野惣大夫という代官がおりましたが、ひょっとして
神主の身分も兼ね備えていたと推理することもできるかも知れませんね!
小早川金吾さんの家老職を務めた方ですね。失業後、馬の見立てと調教の才を
認められ、市野の牧場を任せられていますね。
> 遠州市野村の富民に市野惣大夫実久といへるもの。天性馬をこのみ馬の鑑定に達せしと聞し召。御馬ども預けられ。近江の代官たらしむ。慶長十六年拝謁せし折。御厩別当諏訪部惣右衛門定吉を召出し。ともに牧場にて馬を養たつる様をかたらしめて聞せ給ひ。御気しきうるはしかりしとぞ。
(駿府記、古老物語抜粋) 東照宮御実紀附録巻二十三 抜粋
この方の収入は、自前の神社とお寺を持てますね。
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月17日 23時00分36秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>十一面観音を見たいと思い、観音堂の中を格子戸を通して覗いてみますと、 実物はなく、
>たぶん実物大のカラー写真像が中に建てられておりました。
残念でした。
でも盗難に遭う危険性がありますから、当然ですね。
般若心経をありがとうございました。
箱柳永田さん
>一向一揆
バリバリの信徒ですね。
我が家は、やはり、箱柳永田さんとは先祖以来の関係ですね。
時空を超えちゃいました。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年03月19日 03時49分42秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101586.html
長上郡の服部氏族LXXX[(課題確認31)市野氏
スレッド88を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
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