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 投稿番号:101583 投稿日:2017年02月13日 20時22分17秒  パスワード
 お名前:中村
美作菅家の支流にあらず

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

     「美作菅家の支流にあらず」

作陽誌にある有元氏系図に美穂満佐の子、五男に原田日向守 原田郷稲荷山城主
とありますが、捏造です。

※事の発端は、「元禄年間(1684年頃)に津山藩森忠政(信長のそば小姓森蘭丸の弟)にょって美作の古事を書き上げ、提出の要請を機に、京都で公家として続く(高辻、五条、唐橋)の元を訪ねて系図の照合と美作菅家一族の系図が間違いない事を確認している。この時、一族14人にカンパを働き、銀200目と言う多額の土産を持参している。                   Web有元氏参照

ご子孫が公家を尋ねられたのは、数百年も後の事で、このタイムラグは如何とも出来なかったので、自家に都合の良いストーリーを作成したと思われます。
今日なら、本日只今で調べられます。例えば、道真の先祖の菅原古人の弟真人が大枝姓を賜っています。子孫に大江匡房がいます。「群書類従」の大江氏系図の匡房の子に有本〇〇がいます。匡房の娘は原田初代忠高の妻です。四代興方が美作に流されたのは匡房が美作守だったからか、有元氏もその流れで美作に移り住んだかと推察出来ます。

尚、原田四代興方の弟の沖春は日向守です。原田十一代忠勝の妻は有本勘四郎の娘です。

有元〇〇は調べて次回ご報告します。






   

[4]中村光成さんからのコメント(2017年04月01日 10時26分40秒 ) パスワード

  有元○○は、大江匡房の子で大江有元でした。

 ※「国会図書館アーカイブス」作陽誌より引用した有元氏系図の検証。【1】
美穂満佐の子   (注)満佐は天福二年(1234年)二月、52才で死去となっている。
        忠勝 筑後守 號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳 
        佐友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主
        周長 福光伊賀守 
        公興 植月豊後守 植月庄宮山城主
       ★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主
        佐利 鷹取長門守 領鷹取庄
        資豊 江見丹後守 領江見庄 

※問題は美穂満佐の五男 ★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主のことです。
@原田四代興方と七代忠門とつないで捏造しています。(下記原田系図を参照)
A忠門は1187年生まれです。美穂満佐は52歳で死去1234−52歳=1182ですので忠門は満佐五歳の時の子?B稲荷山城について「岡山県の地名」平凡社に『西幸との境界に稲荷山城跡があり初名は狐山で、原田氏が代々
 居城したという(作陽誌)原田氏は忠常の子忠高が肥前原田に住し、原田氏を称した保安四年忠高曾孫興方が
 美作に流され、翌年許されて狐山に築城以来元和七年に死去した忠佐まで十七代四百七十年間美作に勢威を振
 るった。以下略 @〜Bから明らかに創作、捏造されています。

♦「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著(株)東京出版 P824
「菅原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称
 はいささか信憑性に乏しい。
美作菅氏とはーWebilio
▲調査美作菅家分録は,天保15年(1844〜1846)まで皆木保実が発起人となり、山口利治、廣戸佐賀が世話役となって。一族後裔に頒布したもの。「美作太平記」は菅家党の由来戦国期における菅家党の活躍の仔細を記す。とされているが、この書いついて、
◎新釈「美作太平記」(三好基之著)の解説で「美作太平記」は『岡山県大百科事典』での記述は美作における各氏の逸事を記した歴史書とあるが、内容の信憑性について、相対的に歴史記録というよりも、戦記物語。創作された人物が多く、無批判に「美作太平記」と結びつけて町史とする傾向がみられるが、厳に警戒すべきことである。概略このように記されています。
 下記参考までに・・・
※作陽誌の系図は原田に伝わる系図を基に書かれた略伝と、基の原田系図の解読文を記す。
 家系畧伝
平忠高 桓武帝七代胤上総介平忠常五男住二肥前原田一因號原田次郎一天喜五年春叙従五位下一任甞助源義家
    阿部貞任一康平二年出羽国杉谷戦中流矢隕命

 忠沖ノ長男
   四代  興 方(?〜1141)
嘉承二年(1107年)父忠沖カラ家督ヲ嗣グ 同年従五位下叙ニ左右衛門 尉ニ任セラル保安四年(1123年)発卯
二 月藤原之仲時等ニ命ジテ 高科師春ヲ殺ス君ハ此ノ事ヲ咎(トガ)メテ 原田ヲ美作ノ国葛虫ニ配セラル
コレカラ此ノ地ヲ原田村トシタ 保延五年(1139年)己卯年先ノ罪ヲ免ゼラレ五月ニ 葛蟲庄ヲ給ワル同年
十一月ニ狐山下葛虫ニ住ム 稲荷山ト云ウノハ是山デアル永治元年(1141)二月ニ死ス、弟ノ沖春日向守ハ
曾(カツテ)肥前ノ国ニ住スンデイタ

光沖ノ子 
七代 平 忠門(忠廉トモ)
母ハ藤原朝宗ノ娘 文治三年(1187年)十一月晦日生ヲ受ク 建久九年(1198)父光沖ヨリ家督を嗣グ
健保二年(1214)従五位下ノ宮ニツキ中務尉ニ任同三年四月二日大将軍ニ卒イラレ三門ヲ責メル(三門は帝?)
五月無事同六月鎌倉ニ下ル将軍実朝ニ拝喝ス承久三年五月晦日 佐々木陸奥守ニ討タレ死ㇲ
                (注)朝宗は頼朝の従兄で、伊達家の祖

次回、美作官氏—Wikipedia 菅家の支流とする、原田氏の件についての記述について検
[6]中村光成さんからのコメント(2017年04月26日 12時36分16秒 ) パスワード

訂正して下さい。
※原田四代興方と七代忠門とつないで捏造しています。(下記原田系図を参照)を以下に訂正
原田四代興方の弟沖春日向守と七代忠門とつないで捏造しています。(上記興方の系図を参照)
 
美作官氏—Wikipedia で菅家の支流とする、原田氏の記述についての検証 【2】

@ ◆美作官氏を称する原田氏は諸流が存在する。と有りますが、

◎平忠常の五男忠高(Wikipedia忠常の母は平将門の娘、注・忠常が将門の遺領を受け継ぐ)が號を原田としたことは作陽誌に家系畧伝の通り、以後原田氏が帰農する二十代貞佐までの家は原田氏のみです。

A ◆孫の興方が・・・狐山に稲荷山城を築いて住すとされていますが、

◎忠高・忠次・忠沖・興方で曾孫です。日向守原田郷稲荷山城主とする有元氏系図との違いが判明します。

B ◆美作菅家系図では美穂太郎満佐の子となっている。

◎Aの通りで美穂満佐の子で無いことが判明します。

C  ◆一族が誕生寺の住職となり、世襲している。とありますが、
◎世襲はしていません!世襲されているのは今も法然の御一族の漆間氏では?

D ◆この久米郡原田氏は美作菅家党とは別勢力の武士団で、活動は異なる。
◎最初から後も、原田氏は平姓で、菅家に改姓していません。

E ◆これとは(原田氏)別に、もっと古い代に美作官氏兼知より原田氏が出ており、兼知の子・・・正慶二年
(1333年)四月…討ち死に・・・・

◎上のスレッドの原田系図を参照いただければ、原田初代忠高が原田としたのは天喜五年(1,057年)
です。300年も古い。多分これは興方の弟沖春日向守の子孫で後の加賀前田氏です。

※ご参考までに、「名字に関する書物」の原田の起源については以下の通りです。

1)「家系」豊田武著 近藤出版 「美作国久米郡の原田邑より起こった桓武平氏の流れを汲むもの」
2)「名字のいわれ・成り立ち」大野敏明著 実業の日本社 「岡山県の原田氏は(岡山県久米郡久米町)
発祥の国人が起源と考えられます。
3)「日本の旧家」?樋口清之著?「岡山県久米町の原田氏は平氏で、原田姓の総本家」 題名、著者調べましたが、確認出来ませんでした。名字に関する本はいずれも同様の記述でした。

F◆後者の家系から加賀前田氏が派生している。についての検証。

前田氏―Wikipediaに、その出自が美作官氏の支流原田氏だからであると自認しています。

◎「前田侯爵所蔵の利家の父利春(利昌)の画像には平朝臣とあり、平氏なのです。

1)「美作古城史 二」寺坂五男著に、「原田氏に就いては異説がある。其れは勝田郡勝田町眞加部に上の山城址があり、これは原田氏の在城が傳へられて居るのであって、菅原系図に原田日向守及その後裔は此の眞加部城主であったとの説である。これを勤王の事実と見るときは、南朝の勤王の士原田彦三郎左秀は此の系統に属するのではないかとの説である。此の眞加部に原田氏の在城を立證するものとして、(中略)
・・・後年研究の資料にもと考えて茲に録して置く、」と、原田は事実と認識しています。

※菅原系図には眞加部城主?有元系図では稲荷山城主?菅家の系図とは違います。原田日向守は矢張り四代興方の弟沖春日向守です。

●利家の出自について、原田彦三郎左秀が船上山の戦で戦死の後左秀の子孫は嘉吉の変(1441)で白旗落城後、尾張に移ったといい、利家を前田氏はこの後胤という。「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著

 つぎに、前田利家が平姓ではなく、菅家とし、梅鉢紋としたか?
[8]中村さんからのコメント(2017年11月20日 10時05分26秒 ) パスワード

 【 平家物語を熱く語る!!にある原田に関する記事の一部

[16]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 02時02分11秒 )

Yoshida-K様
小林雅成様

 家紋については分かりませんが、小林雅成様の言われていました、岡山の原田氏はれっきとした「平氏」として有名です。

 子孫には菅家(有元氏)と縁組みから菅家七党の原田氏として後醍醐天皇の船上山の直後元弘3年4月京都の「四条猪熊の戦い」で壮絶な戦死をしています。大正年間に贈位の恩典がなされています。

知られている系図では、「桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。
文禄年中に平(原田)弥右衛門衛門忠佐の退城の時まで17代の470年に亘る存在です。この様なことですので、子孫の方や原田氏に属した関係諸氏が多く居られます。

岡山は児島高徳などもしかりでして南朝・・・平熱でしょうか・・・ギャンブラー様。
17] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 02時22分55秒 )
>桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き
>「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。
>これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。

バリバリの平氏ですね。

[18] ときおさんからのコメント(2004年02月07日 03時46分31秒 )

岡山の原田氏はバリバリの桓武平氏ですね。

平忠常は歴史に名を残した千葉の人ですね。

でも岡山の原田氏は千葉から肥前に下向した一族なんですねえ。
その後源義家に従い奥州征伐。
その後平正盛に従い義親追討。


[18]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 03時46分31秒 )
ギャンブラー様

上記の平忠常五男の「忠高」ですが、
 
 肥前原田因号原田次郎
 天喜五年春叙五位下
 任肥後守嘗助源義家征伐安信(部?)貞任 
 康平二年出羽国杉谷戦中流矢損命


「忠次」は
 忠高長子康和元年卒

「忠仲」は
 忠次二男嘉承二年与平正盛討対馬守源義親
 有功同年4月卒

「興方」
 忠次三男嘉承二年任左衛門尉
 保安四年二月藤原仲時殺高科師春
 仲時被収繋座連及興方遂配作州
 保安五年遇赦然没収旧領賜作州葛虫庄

(作陽誌からの転載の記述と同じ物の様です。)

17] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 02時22分55秒 ) パスワード

小林さま

引越し、大変ですが頑張ってください。
ときおさま
>岡山は児島高徳などもしかりでして南朝・・・平熱でしょうか・・・ギャンブラー様。

岡山は南朝の勢力が莫大だったように感じます。

でも尾張でも南朝方の根拠地「津島神社」の目と鼻の先に「妙興寺だったかしら北朝方の根拠地」がありました。
これに気がついてから「目と鼻の距離で敵と対抗してたんだなあ」と思いました。(適切な表現が分からないです)

まるでヤクザのシマ争いみたいだったというのが現状だったのかしら?と。
で、時おり、チャンチャンバラバラやってたのかしら?と。
こんな風にイメージが変わりました。

>桓武天皇の七代胤上総介平忠常五男の忠高・忠次・忠仲・興方と続き
>「興方」が作州葛虫の庄に謫せられ狐山に築城したのが始まりである。」と言われています。
>これが久米郡原田に在る稲荷山城址です。

バリバリの平氏ですね。
そうしますと大蔵氏系とは異なるようですね。

でも原田種直のママは頼盛の娘ですから半分は平家。
この関係が分かるといいですね。

[18]ときおさんからのコメント(2004年02月07日 03時46分31秒 )

ギャンブラー様

上記の平忠常五男の「忠高」ですが、
 
 肥前原田因号原田次郎
 天喜五年春叙五位下
 任肥後守嘗助源義家征伐安信(部?)貞任 
 康平二年出羽国杉谷戦中流矢損命

「忠次」は
 忠高長子康和元年卒

「忠仲」は
 忠次二男嘉承二年与平正盛討対馬守源義親
 有功同年4月卒

「興方」
 忠次三男嘉承二年任左衛門尉
 保安四年二月藤原仲時殺高科師春
 仲時被収繋座連及興方遂配作州
 保安五年遇赦然没収旧領賜作州葛虫庄

(作陽誌からの転載の記述と同じ物の様です。)

*以上の様に記述が有ります。大蔵氏との関わりはどうなんでしょうか。



[20] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月07日 08時27分59秒 ) パスワード

岡山の原田氏はバリバリの桓武平氏ですね。

平忠常は歴史に名を残した千葉の人ですね。

でも岡山の原田氏は千葉から肥前に下向した一族なんですねえ。
その後源義家に従い奥州征伐。
その後平正盛に従い義親追討。

ここで伊勢の平家と親しくなって後には南朝方。
分かり易いです。

それに塙氏のように「原田備中守」の名乗りを織田信長に頂いたように原田備中守は名門なんですね。
素性がハッキリしている。


でも九州にいたから大蔵姓原田氏とも関係があったでしょうね。
ちょっと調べに行ってきます。

(注)大蔵系原田氏とは全く関係ありません。中村


[9]中村さんからのコメント(2017年11月20日 15時42分14秒 ) パスワード

前田利家が平姓ではなく、菅家とし、梅鉢紋としたか?

前田氏 ―Wikipedia に利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである。

これに関連してかWebに『前田利家の梅鉢家紋が意味するものとは?』があり、前田氏は美作菅家の武家の名門ぶりにあやかって菅家とし、梅鉢紋・・・。と書かれていましたのでこのサイトにご意見求めましたところ、納得されたか❓  残念な事に検索不能でした。

そこで原田氏の紋は【家之紋梅鉢折枝九曜亀甲】とあり、「亀甲に梅鉢」です。で前田氏の家紋との関連性を探ってみましょう。

☆「千葉氏の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星をもって家紋とした。・・・梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜・六曜などの変形したものであろう。
「家系」豊田 武 P247   (千葉氏の初代は原田の初代忠高の兄)

前田氏の紋について、 Yahoo! 知恵袋に kyokyoageさん2014/9/1521:00:35
前田利家以前の前田家 (尾張国の土豪時代の前田家) の家紋が「梅鉢紋ではなく、六曜星に類似の紋であった」というのは、あまり広く知られていない説 or 支持されていない説なのでしょうか? 20年以上も前に購入した本ですが、『あなたのルーツを解き明かす家紋の秘密』 (能坂利雄著、ワニ文庫) という本の中に、・前田氏は美濃の生まれだが、有名な前田利家が「利」の通じを用いている

ことからも、斉藤庶流と推測されるゆえん
・前田氏は梅鉢紋を用いた背景には、多分に政治的意図が含まれていた
・北陸で前田氏が勢力を拡大するまで、はっきりと梅鉢紋を使用していない。

初代利家のかたびらなどの衣服を見ても、六曜星タイプのデザインで真ん中が小さいだけのものでしかない・ちゃんとした梅鉢紋になるのは、2代利長になってから。

利家の晩年にあたる・梅鉢の形になっていったのは菅原氏の子孫を名乗るほうが、都合がよかったから・天神信仰の広まる北陸地方を治めるには、菅原氏の子孫であることをほのめかす方が、統治しやすかったなどとあります。尾張国の土豪出身で、正確にその先祖を突き止めることも難しいほどの家だった前田家が、「どうして菅原氏」を称したのか?」、著名な古代の氏がたくさんある中で、「なぜ菅原氏を選んで、その末流を名乗ったのか?」について、その理由はとても興味深いことであり、また「菅原氏」を称したのが僭称に過ぎないのであれば、「本来はどんな家紋であったのか?」なども意義のある研究の対象になりそうです (なっていても不思議には思いません)。

能坂先生が20年も前の時点で、本書ではっきりと、「利家以前の前田家において、同家の家紋は梅鉢紋ではなかった」と否定していることは、歴史研究者の中ではあまり支持されておらず、結果として時代劇・大河ドラマなどにおいても、「あの有名な前田利家 (およびその父、祖父などの世代も含めて) の前田家の家紋といえば、梅鉢紋である」と、当然のこととして描かれているのでしょうか?
ベストアンサーに選ばれた回答p93aqさん 
       2014/9/1522:52:33
能坂利雄という人の本は読んだこともありませんが、家紋の本を書いている人には、いわゆる似非歴史家が多いですね。この方も失礼ですが、そうじゃないかと思います。というのは、前田家が美濃の生まれだというのは、岐阜県安八郡神戸町の郷土史家某氏が、前田という地名が町内にあることから唱え始めた仮説で、岐阜県内の歴史家でも信じている人はいませんよ。地名以外に何の根拠も無いからです。私も某氏の仮説は読みましたが、郷土史家らしい誇大妄想だなと思いました。ただ余りにも馬鹿らしい仮説なので、強烈に覚えています。論証も何もしていないその論文の記述を、検証もせずに、公然の事実であるかのように自分の著書に書いているのは、能坂利雄という人は似非歴史家だと断ぜざるを得ません。

当然、専門の歴史家なら、この人が述べていることは、問題外として処理するでしょうね。

質問した人からのコメント
『前田家の起源は美濃国』説の根拠が、岐阜県に同じ地名があるだけ、というのは驚きです。いくら名字の起源が、その支配地 (足利・新田・三浦・和田・北条・熊谷など) にあるといっても、あまりに乱暴ですね。「前田家のもとの家紋は六曜星タイプである」、という説も、割り引いて受け取らないといけないようですね

◆『あなたのルーツを解き明かす家紋の秘密』 (能坂利雄著、ワニ文庫) 能坂利雄先生の通説に拘泥しない、真摯な調査に感服です。歴史と言う怪物を一匹退治されました。素晴らしい真説だと感心しました。それにしてもベストアンサーを得rんだ人と、書かれた方、のお粗末さに呆れます。
[10]中村さんからのコメント(2017年11月21日 08時01分48秒 ) パスワード

  以下の訂正願います

◆『あなたのルーツを解き明かす家紋の秘密』 (能坂利雄著、ワニ文庫) 能坂利雄先生の通説に拘泥しない、真摯な調査に感服です。歴史と言う怪物を一匹退治されました。素晴らしい真説だと感心しました。それにしてもベストアンサーを得rんだ人と、書かれた方、のお粗末さに呆れます。

  誤⇒得rんだ人と、 正⇒選んだ人と、に訂正ください。
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