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 投稿番号:101581 投稿日:2017年01月26日 09時30分24秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について37

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、たけぽん様
新しいスレッドを立ち上げました。(^'^)

昨秋から今年元旦以降にかけ聞いた親戚からの情報や、たけぽん様の御登場!で
私の調査は一気に進み始めています。

そういう機会が今訪れた!!と感じています。

今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。

こちらは「平川家について36 コメント 69」より続きます。

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月26日 09時32分59秒 ) パスワード

(@_@。リンクするのを忘れちゃいました・・トホホ
あらためて(..)
こちらは「平川家について36 コメント 69」より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101553_69.html

[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月27日 19時24分35秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

今夜、新しい情報が入ったので詳しくは明日コメントさせて頂きます(..)
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月28日 16時34分03秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

昨日長々と書いたコメント2は新しい情報が入ったので削除させて頂きました<m(__)m>
改めて新情報を含めて書きなおします(..)

では、早速(..)
昨晩、親戚の多良木平川家の長男であるおじと電話で話をしました。

まず・・たけぽん様 すみません(..)
親戚の多良木平川家が所有していた山林は多良木のす●と言うよりは、反対の岩川(河)?「いわごう」(いわご?)と呼ばれる地域でした。
正しくは「いわごう」(いわご?)一体と、多良木のす●地域にかけての山林を多良木の平川家が所有していた・・と言う事です。
親戚の多良木平川家は、某高校の敷地も元はこの平川家の所有地、貸している”土地”もあり、さらに多良木岩川(河?)「いわごう」の山林一体を多良木す●にかけて所有していた・・
と言う事になります。

親戚の多良木平川家の長男となるおじは続けて、こちらの平川家に代々伝わる馬頭観音様の話を教えてくれました。
親戚の多良木平川家の仏間の横の観音間?にお祀りしていた馬頭観音様を歴史研究家の方が調べた結果
「錦町の新宮寺の新宮家より、今から280年以上前に、こちら(多良木平川家)の先祖が譲り受けた」
と言う事が解ったそうです。
おじは外の観音堂に元々お祀りさせて頂いていた「薬師如来様」と一緒に「馬頭観音様」をお祀りする為に「観音堂」を新しく作り替えたそうです。

このように
某高校の敷地も元はこの平川家の所有地、貸している”土地”もあり、さらに多良木岩川(河?)「いわごう」の山林一体を多良木す●にかけて所有していて、
さらに、錦町の新宮寺の新宮家より、今から280年以上前に、馬頭観音様を譲り受け継承してきたこちらの「平川家」なのですが・・・
ここから衝撃の事実が!
子供が生まれなかったこちらの「平川家」を明治初めに養子に入って継いだ方の実家は
須恵は須恵なのですが・・須恵の・・久保田家でした\(゜ロ\)(/ロ゜)/
さらに上記の久保田家から養子に入った方にも子供が出来ず、次に養子に入った方の実家は・・
私の(宮原家)の曾祖父の実家の古多良木の久保田家からでした!
ぎゃ〜〜〜〜\(゜ロ\)(/ロ゜)/
と言う事は・・親戚の多良木平川家は私の(宮原家)の曾祖父の実家の古多良木の久保田家から養子が入って継いでいた!と言う事になります!
この方が「栄治(栄次?だったかな)」氏(昨日、削除したコメントに間違えて名前を書いていました(..)すみません)
その子が文●おじさん。私の祖母の妹で岡原の平川家から嫁いでいます。

親戚の多良木平川家の長男であるおじさんは、子供の頃、岡原の平川家の祖父(私の曾祖父)から、多良木平川家の長男として知っとかなければいけん!とちゃんと教えてもらっていたそうです。
だから、おじは私に
「なんか?お前も、もしかして榮●ちゃん(父)も知らんかったとか??なんでぇ〜??と」
朝、父に聞くとやはり知らなかったそうで「何でじいちゃん(平川の)は俺に何も話してくれなかったとやろ・・あんだけ(あれだけ)可愛がってもらっていたのに・・」と涙目に・・
きっと、宮原の曾祖父が継いで守ってきた宮原家の財産等を別家(星原家)に渡して、祖父母が宮原家を出た(大陸に渡る)からじゃないのかな・・?とは推測するのですが・・その辺りは大人の事情なので・・父には言えません(..)
家の宮原家は家督相続書の内容や親戚の話では明治初頭から昭和初期にかけて旧宮原村の中では一番土地を所有していた家だそうです。
(椎葉家は三町以上所有、平川家をはじめ他親戚も所有地は幾つもあったのですが・・皆焼酎を飲むと「マッカー●ーが来たけん、殆ど取られた」と今だに愚痴っています(-.-)トホホ)
もちろん旧岡原村内にも「宮原姓」の親戚はあるのですが、何故か?人吉の七地だったか藍田だったかあの辺りに宮原の親戚があり、父も祖母からちゃんと伝え聞いています。
私は・・”血”のせいか・・どうしても久保田家に意識がいってしまい・・岡原の宮原家の事は調査が後回しになっているのは認めます・・(..)
がっ!しかし・・親戚の多良木の平川家、実は曾祖父の実家の久保田家が継いでいようとは夢にもおもわず・・・
さらに多良木平川家長男のおじは
「何も知らんのならおぼえとけよ!!古多良木から免田の築地や須恵に向かって広〜い田が拡がっているやろ!あの辺りの土地は皆、お前(私)のひいじいちゃん(曾祖父)の元家(実家)久保田家の土地やったとぞ!今もあの辺りの久保田一族が皆所有してる!」
と。何も久保田家について知らない私に教えてくれました(..)
しかし・・おじは「明治初めに久保田家から養子に入った事でその前の平川の事が残念な事だけど何にも解らん・・」
と言っていました。

衝撃の事実を知ってしまいました。
ここから先ももっともっと衝撃の事実?を知ったのですが、たけぽん様の須恵の平川家とは直接関係はないと思うので次のコメントで書かせて頂きます(..)

所で・・
たけぽん様が「刀と掛軸を渡した・・」とお聞きの湯前平川家?
ここで親戚の湯前平川家について書きます(球磨郡誌等、書籍にも書かれているので・・)
私の曾祖父の弟は岡原平川家から湯前平川家の平川榮一氏の跡取りとして子供の頃養子に入りました。明治時代の話です。

湯前平川家の平川榮一氏とは
平川芳左衛門は明治維新後に「平川榮一」と名を変えて人吉縣時代の村長制度が始まる前に湯前村の初代戸長となりました。
熊本県に変わり、初代戸長「平川榮一」の後を継いだ方々は(戸長制度が変わり湯前の各地域毎に戸長)
「菊池氏」「渋谷氏」他・・
そのあと、村長制度開始後、初代湯前村長になった方は菊池武義氏です。そして数代後の村長は「河野氏」です(参考までに(p_-))
上記の「平川芳左衛門(平川榮一)」氏の養子に入ったのが、岡原の平川家の私の曾祖父の弟「源一」氏です。
平川源一氏は昭和12年湯前村が町制施行し湯前町となった直後の初代町長です。
その子「栄一」氏も後(のち)に町長となります。(祖父の名を継いでいます)
郷土の歴史研究家の方から伺ったお話によると、湯前の平川家、明治初頭には15町の土地を所有していたそうです(p_-)
私の曾祖父の弟はもう一人別の湯前平川家を継いだ人がいますが、湯前村議会議員でした。
たけぽん様が御祖母様から聞かれた「刀と掛軸」のお話。推測すると時代は、私の曾祖父の弟「平川源一氏」の時代ではないのかな?と。

余談ですが、私の曾祖父(岡原の平川家)は
村の「影のフィクサー」でした(p_-)(ひいじいちゃんに怒られるかな?・・(..))
詳しくは後日コメントしようかな・・
ちなみに国が1950年(昭和25年)に衆議院議員選挙法を廃止して、新たに「公職選挙法」を制定した後の初めての「衆議院議員選挙」の際は国から球磨・人吉地区における衆議院議員選挙管理委員会の副委員長の以来を受けて役についています。
その時の国からの依頼書等は私の家にあるので、もしかしたら貴重な資料かもしれませんから、いつかブログに写真をアップしようかな・・とも思っています。

多良木の平川家の長男のおじは
「みなみ(岡原の平川)、あそこはねそうとう古くからあるとぞ!」
と言っています。
江戸時代末期か明治初頭にかけて養子が入ったのでは?と他の親戚が以前ちらっと言っていたので、その辺りも含めて、祖母の実家に嫁いで来た方の真実も解ったので、次のコメントで書かせて頂きます。

たけぽん様、ごめんなさい(..)
椎葉のおじの従弟の妻の方から「多良木のす●」と聞いたけど、家の親戚が関係する土地は「多良木のす●」と言うよりは特に岩川(河?)「いわごう」もしくは「いわご」でした。
岩川(河?)「いわごう」の地名は聞かれた事はありませんよね?  (..)

私が知った衝撃の事実第一段でした(..)
しかし・・
「平河氏」「久保田氏」「新宮氏」・・・
出て来る名前が皆「木上城」繋がりで・・何だかモワ〜ッとしています。

では(..)
[5]たけぽんさんからのコメント(2017年01月28日 19時56分19秒 ) パスワード

ミヤハラ様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

お気になさらずf(^^;

この前のはす向かいの・・・の件、多分、今回ミヤハラ様のおっしゃる通りだと思いますf(^^;

うちも、どっちかわからず叔母に聞いて、やっと理解出来ましたから(苦笑)

しかし・・・

大変な発見でしたねΣ(Д゜;/)/

湯前の件は、多分そうだったかなぁ・・・と(汗)

あと、いわごう?

うちは、"いわんごちの平川"なら、聞いた事ありますが・・・

"いわごう"が本当なんでしょうかねぇ・・・(-ω- ?)


うちも、祖母が"あの戦争が無かったら、世が世ならおどんたちは姫様ぞ?(笑)"

と、良く言っていましたよ(^^)

ちなみに、うちの曾祖父(祖母の父)も、他家からの養子です。
[7]たけぽんさんからのコメント(2017年01月28日 23時49分09秒 ) パスワード

ミヤハラ様

お疲れ様です( ・∀・)っ旦

〈マー様〉は、仕方ないですよ(汗)

時代が時代でしたからねf(^^;

うちの祖母は〈あの戦争のヤツが‼〉
って言ってましたし(苦笑)

うちも祖母が、ようか(須惠の家?)も
戦争で昔よりかなり
土地も狭くなったって言ってました

街町の平川家・・・
そちらはちょっとわかりかねます(;_q)

うちが聞いたのは、"いわんごち"と、
もうひとつあったのですが、思い出せず
ちょっと(# ̄З ̄)イラッ・・・っとしとります(;_q)

平河一族は話には聞いていましたが、
広大な土地を納めてたんですねΣ(・ω・ノ)ノ


うちも、ヤバい話なら、削除した方が良いのかな?・・・(;_q)
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月29日 04時42分42秒 ) パスワード

たけぽん様 まだ4:00過ぎです。 お は よ う ございます・・・

主人の出勤が早かったので(3:00)に起きました・・

コメント6は「マー様」の件が過激だったので削除致しました(..)・・(^'^)

気が付いたのですが・・
家の親戚一族も、親戚を名前じゃなくて、集落名?や親戚間でなければ解らない暗号?で呼びます(^◇^)

例えば「ちじ」「にほんがき」「どうやま」「よこばば」「さこだ」「いんきょや」「どうさん」他・・(^'^)
ちなみに、岡原の平川家は球磨郡中の親戚や人吉の親戚は皆「みなみ」と呼びます。
何せ、お隣の「平川」さんまでもが「みなみ」と呼ぶのだから・・
いったい、どこを拠点?にして「みなみ」なのか良く解らない・・(?_?)

ただ・・
先日消したコメント2で書いていたのですが・・
家の宮原家の他親戚の新堀家・平川家の位置は江戸時代「久米領」の飛地の範囲なのです。
旧宮原村の古地図には
この一体を楕円で囲んで「久米領」と書かれており、さらに祖母の実家付近に「久米氏」?って書いてあるのです・・?江戸時代ですよ???
あと・・家の前を流れる井口川も「久米川」と書いてある・・????
その古地図を見た時は「なんじゃこりゃ?」と思ったのですが・・
一つ気になる事があって
「平河伝授巻」です。
「平河伝授巻」は後世(江戸後期)に書かれたと言われる古文書です。
たけぽん様の須恵平川家に伝わったものだと思います。
書籍「変貌する須恵村」に「平河伝授巻」の内容が書かれているので転記します。

「伝に曰く、義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、又、下もは平家御代官所にて候処、蓮仏公(長頼法名)御下向遊ばされ、義高を御頼み、矢瀬殿を御退治なされ、即刻、人吉在城遊ばされ候故御当地大方三が二は割々に随い奉り候え共、義高一家盤石故聢と御安堵も無く、依って、数年の御計略を以て寛喜年中(一二二九〜一二三一)終に義高を謀り、御追伐成され候、それより義高一門段々追伐故、郡中一統仕り候」

※義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、又、下もは平家御代官所にて候処

※※南は久米殿と称して

ううううううううううううううんん?????

祖母の実家を「みなみ」と呼ぶ理由・・
これは・・平河の一族でなければ解明出来ないと思いまして
たけぽん様にもご紹介させて頂きました<m(__)m>

うん?まだ4:30過ぎなので、二度寝します。(-_-)zzz

では(^'^)
[10]たけぽんさんからのコメント(2017年01月29日 14時50分15秒 ) パスワード

ミヤハラ様
お疲れ様です(≧▽≦)♪

色々教えて頂き、ありがとうございます(^^)/♪

うちも、4時半に起きて
お寺にお参りに行ってきました(^-^)v

本当に詳しく知らなくてごめんなさい(>_<)(泣)

うちに伝わったモノなら、叔父さん(母の従兄弟)に
聞けばわかるかな?σ(。・◇・。)?
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月29日 22時08分58秒 ) パスワード

たけぽん様 今晩は(^'^)

たけぽん様
「平河伝授巻」はおそらく、系図と共に動いているはずですよ(p_-)
現在、系図のあるお家を御存じでしたら、系図と共に「平河伝授巻」も
ご覧になられると良いかと思います(^'^)
[12]たけぽんさんからのコメント(2017年01月29日 23時08分25秒 ) パスワード

ミヤハラ様

ありがとうございますm(_ _)m

系図・・・

今、いずこへ・・・(;_q)???

叔母に聞いてみますが、わかるかな・・・(# ̄З ̄)(汗)
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月30日 10時55分13秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2017年02月04日 12時01分28秒
[14]たけぽんさんからのコメント(2017年01月30日 18時01分24秒 ) パスワード

ミヤハラ様

ありがとうございますm(_ _)m

色々勉強になります(^^)

ミヤハラ様のおっしゃる林田家とは異なると思いますが、うちにも〈林田家〉が親戚にいてます。

こちらは、殆ど話を聞いていない状態なので、
探し様のなく、今、(# ̄З ̄)って状態です(;_q)

もうひとつの親戚筋も、ナカナカ検索に引っ掛からず
現在はお手上げ状態です(ノ_<。)

[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月31日 17時10分33秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

(^'^)・・・・じゃなくて!!!
今の私の心境は・・・ぎゃあああああ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/です。

今日は、林田家について書こう(^'^)と思っていた所に・・
午前中、椎葉のおじが遊びに来て衝撃の!衝撃の発言をして帰っていきました!!

このコメントは急遽予定を変更して、「椎葉のおじの衝撃発言」をお伝え致します。(..)(p_-)

明治時代、椎葉家の源市氏は人を雇って養蚕業を営んでいました。
近隣の家々も養蚕を行い蚕を椎葉家に渡していたそうです。
その後、発展して椎葉家は織物工場も営んでいたそうです。
規模は拡大して木上にも養蚕業・織物工場を展開していたそうです。
この話をしながら椎葉のおじの衝撃発言!が飛び出しました!!
「おぎゃ(家)のかたくらけ織物工場は球磨郡中で手広く商売をしよったっぞ!(してたんだぞ!)」
私は・・「うん(?_?)今何と??」一瞬耳に流れた「かたくらけ」とは何だったのだろう空耳か?????
と思い・・
おじに「”かたくらけ”おりもの・・”かたくらけ”って何??」
と聞くと
おじは、「片倉家織物工場!タイ!」と目の前にあった紙に「片倉家・・」と書き始めさらに
「うちの片倉はね!東北におんなった(居た)片倉と同じげなぞ!(同じだそうだ)お袋から聞いとる!」と。
東北に居た片倉と同じ・・片倉???????
げえええええええええっ!!!何で片倉家!
って言うか!何で椎葉の源市おじいさんは「椎葉家織物工場」じゃなくて「片倉家織物工場」って社名を付けたんだ?何だ!!!??
さらに・・※うちの片倉はね!東北におんなった(居た)片倉と同じげなぞ!
って何なんだ!!??
私の頭は混乱して訳が解らなくなりました。

椎葉のおじにその事を聞くと・・
「うん??何で??何か?”片倉家”がどうしたとか??(゜-゜)」と。
「どうしたもこうしたも、めちゃくちゃ重要な事バイ!!」と私。
さらにおじは、少し考えて・・「適当に付けた会社の名前じゃなかぞ!うちの片倉はってお袋が言いよったけん!」と。

げええええっ!!新ネーム登場!それも「東北の片倉と同じと言う片倉家。うちの片倉はって何だ!?」

椎葉のおじは
「うん?ちょっとまてよ!(p_-)だいか(誰か)元は片倉って言うとじゃなかや(ないだろうか?)」
そして、椎葉のおじは「うん!じゃ調べとってくれね(^'^)」と言って帰っていきました・・・

おじが帰った後・・私は混乱する頭を整理しました(p_-)
※(誰か)元は片倉って言うとじゃなかや(ないだろうか?)
椎葉の源市おじを囲む周囲の人々(p_-)
※椎葉源一氏 父は島津藩某家老家の子息 母は永田家の娘(椎葉のおじの曾祖母・私の高祖母。再婚で深水家へ嫁ぐ)
※椎葉源一氏妻 上村の犬童家の娘(弟と甥は其々熊本県県会議員)
※養女 平川家の長女(椎葉のおじの母)

「椎葉氏」「永田氏」「深水氏」「犬童氏」「平川氏」「島津藩某家老家」
この中にもしかしたら「元は片倉家」もしくは「片倉家」に繋がる一族があるはずだ!!(p_-)

片倉氏・・そう言えば・・以前少しだけ調べました(平川家について25と平川家について30でした(..))
平川家について25 コメント68
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101460.html
平川家について30 コメント42
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101512.html
宮原の一族と同じく「橘公業(公成)」を祖とする矢内氏。
※橘公業の5代孫「小鹿島仲幹」。この方は北条高時臣。
※小鹿島仲幹の子「矢内幹清」。この方が「矢内氏祖」。畠山義清の家臣。
※矢内弥市清教 伊達尚宗に仕える。
※白石片倉一家 橘公業(公成)後裔「矢内藤兵衛信定」の妹は 小十郎白石城主 片倉景綱の妻となり二代 小十郎 片倉重綱を産む。

(゜-゜)上記を調べた時はここは球磨でこちらは・・遠い(ー_ー)!!無関係だ・・と思っていたのですが・・何だか突然の「片倉家織物工場」の登場で・・

あらためて片倉氏を調べました(p_-)
仙台藩片倉氏の初代 片倉 景綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E6%99%AF%E7%B6%B1
片倉 景綱(かたくら かげつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達氏の家臣。伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。兜は、神符八日月前立筋兜。
弘治3年(1557年)現在の成島八幡神社とされる置賜郡長井庄八幡神社[2]の神職・片倉景重の次男として生まれる。生母は本沢刑部真直の娘。異父姉は政宗の乳母の喜多。伯父に意休斎景親。鬼庭綱元(喜多の異母弟)は義理の兄に当たる。
父:片倉景重(置賜郡長井庄八幡神社の神職)
母:本沢真直の娘(理由あって鬼庭良直と離縁後、片倉景重と再婚)
異母兄:片倉重継(母は景重の前妻、神職の娘)
異母姉:女子(母は景重の前妻、神職の娘)小島朝次の室となる
異父姉:喜多(実父は鬼庭良直。実母と片倉家に入籍)
正妻:矢内重定の娘
側室:上原五兵衛の娘
1子:女子(のち片倉八郎兵衛祖母)
2子:片倉重綱のち重長(母は矢内重定の娘)
3子:片倉友綱(母は上原五兵衛の娘)
4子:片倉行綱(母は矢内重定の娘)
5子:女子(左婦)

(p_-)
※弘治3年(1557年)現在の成島八幡神社とされる置賜郡長井庄八幡神社[2]の神職・片倉景重の次男として生まれる。
※父:片倉景重(置賜郡長井庄八幡神社の神職)
※正妻:矢内重定の娘・・橘公業(公成)の後裔
※側室:上原五兵衛の娘・・・あっ!!上原氏だっ!!! 実は鹿児島の上原氏と平河氏の繋がりには気が付いていたのですが・・コメントまでには至っていません(..)

(p_-)置賜郡長井庄八幡神社・・置賜郡長井庄って何処だろう???
調べました・・
長井荘 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E8%8D%98
長井荘(ながいのしょう)は、出羽国置賜郡(現在の山形県置賜郡)にあった荘園。また置賜郡全体を指す用例もある。
前史[編集]
平安時代後期の12世紀頃、古代の置賜郡の分割が行われ、置賜東・南部に摂関家領成島荘(現在の米沢市)・屋代荘(高畠町)、そして北部に北条荘(南陽市)が成立する。その時長井郷(長井市)を中心とする西部(後の下長井)は公領であったと推測される[1]。平安時代中期の郡衙遺跡と推定される道伝遺跡[2]がこの地域にあったことも影響していると考えられる。
成立と変遷[編集]
文治5年(1189年)大江広元が地頭に補任され、成島荘・屋代荘・北条荘に加え公領を含めた置賜郡の地頭となる。置賜郡は広元の次男長井時広に相続され、鎌倉時代中期に長井荘の呼び名が初めて見られる[3]。
南北朝時代の元中2年/至徳2年(1385年)置賜郡を治めた長井氏が伊達氏の侵攻により滅ぶと、置賜郡一帯が長井荘と呼ばれるようになる[4][5]。その一方で段銭帳では上長井荘[6]・下長井荘[7][8]と分割して見られる[9]。なお、伊達氏の領国化により成島荘が上長井荘へと変化している[10]

あっ!!あああああっ!!!\(◎o◎)/!
置賜郡長井庄八幡神社の神職・片倉景重の子である片倉景綱(正妻:矢内重定の娘・・橘公業(公成)の後裔)
置賜郡長井庄とは!
文治5年(1189年)大江広元が地頭に補任され、成島荘・屋代荘・北条荘に加え公領を含めた置賜郡の地頭となる。置賜郡は広元の次男長井時広に相続され、鎌倉時代中期に長井荘の呼び名が初めて見られる。
きゃあああ!!大江広元の次男長井時広

私!!永田様のスレッド『永田姓で抱き茗荷紋の平家の末裔』 こちらで!
三つ柏服部様よりコメント67で御教示を頂いていました!!!!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100821_71.html

「片倉家織物工場」から片倉氏を調べたら・・橘公業(公成)の後裔「矢内氏」に繋がり・・
さらに
置賜郡長井庄八幡神社の神職・片倉氏から「置賜郡長井庄」を調べたら「大江広元の次男長井時広」この方に繋がりました!!!
大江広元は「永吉庄」の預所でもありました!!
やばい!めちゃくちゃ鳥肌が立っています・・

椎葉の源市おじいさんの母は永田氏の娘(私の高祖母でもあります)

ウィキより 片倉氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E6%B0%8F
片倉氏(かたくらうじ、かたくらし)は、戦国時代から江戸時代まで伊達氏に仕えた武士の一族である。仙台藩にあって白石城を預けられ刈田郡の大部分、1万8000石を領した。江戸時代の代々の当主は初代片倉景綱にならって片倉小十郎を名乗り、藩の内外の人々は通常この名で呼んだ。
片倉氏の先祖は信濃国伊奈から陸奥国に来て伊達氏に仕え、伊達氏に従って出羽国置賜郡小松郷(現・山形県川西町)に移り住んだと伝える。天文の乱後の天文22年(1553年)に伊達晴宗が「晴宗公采地下賜録」で定めた重臣35家には含まれておらず、政宗の時代に中村氏(新田氏)と並んで新たに重臣に列した家柄であった。「小十郎」は、景綱の母方の一族の武勇の士・飯田小十郎にちなんだとされる。

(p_-)・・
片倉氏の先祖は信濃国伊奈から陸奥国に来て伊達氏に仕え、伊達氏に従って出羽国置賜郡小松郷(現・山形県川西町)に移り住んだと伝える。
(p_-)そして同じく出羽国置賜郡長井庄八幡神社の神職の片倉氏・・

※信濃国伊奈

日本の苗字七千傑様のサイトで「片倉氏」で検索したのですが 以下の三氏に「片倉氏」が見えます。
姓氏類別大観 諏訪氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02120.htm

姓氏類別大観 大江氏 《武家大江氏》
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02102.htm#002

姓氏類別大観《佐野氏》
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020d1.htm#009

(p_-)片倉景綱は諏訪氏であったのですね・・
姓氏類別大観 諏訪氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02120.htm#001

【諏訪氏】
 三輪氏と同族、大国主命の子の健御名方命の後裔と伝えられ、平安時代の初期に御衣木祝有員が諏訪上社大祝となり大祝を世襲する。
 盛重の時に源頼朝に従い諏訪太郎を称し、大祝諏訪家を宗家として武家集団諏訪神家党を形成する。

※三輪氏と同族
【三輪氏/大神氏】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106.htm
【三輪氏/大神氏】
 出雲神の嫡裔、大国主命の神裔と伝えられる神代以来の大族。
 大和国磯城郡三輪山を根拠として三輪氏族と呼ばれ、後裔の大神氏は神官や楽人として活躍する。
 豊後大神氏も大和大神氏と同じ三輪氏の分流であるが、一部が藤姓大友氏の系譜と交錯している。

片倉氏は諏訪氏であり大神氏と同族!
あああああ全部繋がっちゃいました!!
椎葉の源市おじいさんの養女に入った平川家の長女(私の祖母の姉)
夫は本姓大神氏の尾方家から椎葉家に婿養子に入った・・

うううん??「片倉家織物工場」
片倉氏を調べたら・・
橘公業(公成)の後裔に繋がり
置賜郡長井庄八幡神社の神職・片倉氏から「置賜郡長井庄」を調べたら「大江広元の次男長井時広」に繋がり・・(長井氏・永井氏・永田氏に繋がると・・)
片倉氏は諏訪氏であり大神氏と同族であり・・
椎葉家には大神氏(尾方氏)から婿養子が入り(妻は平川家の長女)・・

全部繋がるけど・・いったい・・
「椎葉氏」「永田氏」「深水氏」「犬童氏」「平川氏」「島津藩某家老家」
いったい何処が「片倉家」に繋がるんだ〜!!?????
?????? (゜-゜)?????(..)・・・((+_+))

所で・・話は変わりますが たけぽん様
椎葉のおじとおばの其々の従弟。妻は須恵平川家から嫁がれた・・
この結婚ですが、実は仲立ちをしたのは椎葉のおばの兄であり、椎葉のおじの従兄でもある青井阿蘇神社の宮司であった尾方のおじさんでした(^'^)
ちなみに・・ややこしいですが上記の尾方のおじさんは実は岡原の平川家の長男・次男・長女とは「いとこ」どうしになります(^'^)

そして・・
椎葉のおじとおばの其々の従弟夫婦の結婚式には椎葉のおじの母。すなわち私の祖母の姉も参加したそうです(^◇^)
もしかしたら・・
「あらぁ〜(^'^)まあまあ焼酎を・・」と杯を其々で酌み交わしたのかな(^'^)と・・

当時の殆どの親戚は亡くなっていますが・・
こうして、たけぽん様と私がスレッドを通して「又再会」出来たのは本当に不思議ですね(^'^)

明日は必ず「林田家」について書きます(p_-)
昨日以上に情報が入ってまいりました(p_-)

では(^'^)
[16]たけぽんさんからのコメント(2017年02月01日 07時57分33秒 ) パスワード

おはようございます(≧▽≦)♪

ミヤハラ様

・・・平河一族って、やっぱり凄いですね(>_<)(汗)

家柄が家柄だけに、それなりの方々が
嫁入り婿入りしてらっしゃる(>_<)ヒィィィィ〜

改めて、そんな一族の一員に生まれた事に、ご先祖方々に恥じぬように生きていかなければ・・・

と、身を引き締めねばと言う思いです(;_q)

うちの祖母は、こんな凄い話をさらっと、何事もなく言ってたのが凄いわぁ・・・(ノ_<。)(笑)


[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月01日 16時20分08秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

たけぽん様、
昨日コメントした「椎葉の源市」おじいさんの妹が岡原の平川家に嫁いで来た
私の曾祖母です。
その娘たちが ※椎葉家に養女に入った長女 ※うちの宮原家に嫁いで来た私の祖母 ※多良木の平川家に嫁いだ私の祖母の妹 
椎葉の源市おじいさんは、自分の妹であるすなわち「姪」を養女に迎えた・・
となります(^'^)説明不足でした。ごめんなさい(..)

所で・・皆様
私は、今までこちらのスレッドには「名前を隠していた方々」を今年に入って実名で書いている事に皆様お気づきだと思います。
(例えば・・国会議員だった方とか県会議員だったかたとか・・もろもろ)
今までは・・”そう言う事”を書くのは何と言うか・・読む方によっては「自慢」のように感じられる方もいらっしゃるかも・・(..)と思い、不愉快になる方もいらっしゃるかと思い、あえて隠してきました。
しかし・・私の調査「少しずつ」は進んでいますが、中々一気に進んでいく事が出来ないでいます。
そこで考えたのです。ちゃんと明治以降の家の親戚関係の真実を私が書けばその事により、思わぬ情報が入ってくるかもしれない・・
私が探しているもっと先の過去のいにしえの「真実」が近づいてくるかもしれない・・と。
(本当はまだまだあるのですが・・もちろん!「現役の方」は実名等は決して書きません、暗号?のみで・・しかし”過去の方”のお話は何か関連性を感じれば書かせて頂きます(..))

たけぽん様
たけぽん様が言われているのは「内に秘めた誇り」の部分ですよね・・
私、そこの部分が解っているようで・・本当は最近まで全く解っていなかったのです。
おそらく削除する内容となるので、次のコメントで書きますが・・
私、この親戚の人前では決して出さない「内に秘めた誇り」の部分が理解出来ていなかったばかりに・・
昨年の夏、家の宮原家の「ある疑問」を言ってしまい、親戚中を「激怒」させてしまった「事件?」がありました。
この「激怒事件?」については、次のコメントで書かせて頂きます(..)

では
早速新情報「林田家」との姻戚関係を書かせて頂きます(^'^)
親戚の多良木の平川家のおじと先日話した時に
「多良木の林田家からみなみ(岡原の平川家)に嫁いだ人がいる」
と聞きました。
でっ!この林田家にはナント!これまた私の曾祖父の実家「久保田家」から江戸末期?もしくは明治初期に「養子もしくは嫁いだ方がいる!」と言う事で・・
多良木村初代村長の後、村長を歴任し、数代後は多良木町初代町長となった「淵田家」にも江戸末期?もしくは明治の初めに私の曾祖父の兄もしくは姉が養子もしくは嫁いでおり・・
(もしくは・・の部分が多いのですがそこは調査不足で・・しかし、確かに皆”入って”います)
親戚の多良木平川家を継ぐ為に養子に入った先々代も、私の曾祖父の実家から・・
久保田家を介して多良木初代村長家である「淵田家」・そして「林田家」・そして「多良木の平川家」は親戚関係にある!と言う事でした。
この「久保田家」(私の曾祖父の実家)は多良木村の副村長家でございます(..)
「林田家」は暗号で・・行政の議会をとりまとめる・・●●を長く務めた家で・・今でも両家は・・ハイここまで(..)
そして・・この親戚関係に「久我家」が繋がっているそうです。
こちらの林田家も多良木にかなりの土地を所有されていたそうです・・

私、この話を聞いて・・あれっ?最近私「林田氏」について何かコメントの中で書いた?コピーしたような気がするぞ!\(◎o◎)/!
と思い最近のコメントを確認したのですが・・やはり書いていました!!

平川家について36のコメント33でした!!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101553_69.html
中略・・
〉相良清兵衛(犬童 頼兄)と宮原の一族は御縁があります。
まず・・
相良清兵衛(犬童 頼兄)と一緒に(従して)騒動後江戸に赴いた方々の一人は「宮原内記」です。
さらに・・
相良清兵衛(犬童 頼兄)の父「犬童 頼安」と宮原の一族は縁があります。
良い事も悪い事も含めての「調査」なので書きます(..)
==============================================
と書いた後に続けた
※犬童 頼安・・相良治頼に与して相良家の本家と戦う
相良治頼公の記述です!! ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B2%BB%E9%A0%BC
中略・・
治頼は天性器量に優れ、武技に通じ、天道兵法に詳しく芸能の嗜みも深かった。八代岡(八代市岡町)の地頭として功があり、民心も得ていた。それで球磨郡の重臣の中にもその人となりに心服し、謀反(下克上)を唆す者があった。治頼もついにその気になって決意するが、その企みは内通者によってすぐに露見した。義滋が治頼に切腹を命じるつもりであるという話が伝わると、治頼は観念して自害しようとしたが、犬童頼安(軍七)と宮原玄蕃がこれを止めて、人吉に逃れて同志を集めて一戦交えようと説得したので、これに従って球磨郡に向かった。
天文14年(1545年)6月15日夜半、10名程度の一行は、万江川(球磨川の支流、人吉市の西の境)に至った。しかしその情報をつかんだ人吉の井手隼人と林田忠次郎が待ち受けていて、「人吉の謀臣は皆自害した」と嘘を教え、郡内に入るのを妨害しようとした。治頼はこれを怪しみ、厳しく詰問したので、両人は答えに窮し、怒った治頼は林田を斬るが、井手を取り逃がしてしまった。治頼は取りあえず山道を使って、一時真幸院まで逃れることにした。義滋は八代から追手を差し向けたが、この頃には治頼はすでに逃れていた。
しばらくして、球磨・葦北の味方が治頼の元へ集まって来たので、林田・井手に騙されたことがわかり、改めて手勢40余人を率いて球磨郡に向かった。

ああああっ!!この事件
犬童頼安(軍七)※相良清兵衛の父と宮原玄蕃 そして・・井手隼人と林田忠次郎
この方々が関連しています!!
井手隼人・・「井手」・・???何だか「井手」と聞くと橘姓を思い出してしまうのは私だけでしょうか・・・?

他にもかなり以前に書いた記憶があったので探したのですがありました(p_-)
平川家について32 コメント26です。
木上城城主 久保田大蔵の最期の記述を書かせて頂いた時です!軍勢の中に「林田氏」の名がありました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101523_73.html
中略・・
或る書に、文禄元年(一五九二)三月朔日、 〔相良頼房公〕御当地(人吉)を出発、同八日名古屋(名護屋)御着、同十二日ご出船とある。
頼房公朝鮮御渡海御供の人数 
相良左馬介 相良兵部 深水帯刀 同図書 菱刈次郎右衛門 久保大炊介 
稲富雅楽 同筑後 久保田大蔵

その外 内田 高橋 山井 山北 西 東 犬童 樅木 有瀬 鶴田 薗田 村山 左牟田 豊永 奈須 恒松 小玉 新堀 原 林田 早田 赤池 溝口 渕上 平津 中山 小田 西橋 蓑毛 上村 万江 柳瀬 松木 外越 竹下 出水 山本 後代院 井口 右田 亀山党 沢木 守永 横田 山口 源嶋 中村 大石 平田 黒木 黒肥地 丸目 岩崎 浄音寺 乙益 白石 桑原党
その外、全員で軍勢は七百九十三人である。
☆相良左馬介 相良兵部 深水帯刀 同図書 菱刈次郎右衛門 久保大炊介 
稲富雅楽 同筑後 久保田大蔵
その外、多数の士氏 軍勢は七百九十三人
以下略しますが・・あらためて木上城城主「久保田大蔵」の最期の記述を今読んで・・幼い子供達を残して・・久保田氏はこの後「表舞台」から姿を消し・・
無念であった事だろう・・と・・

林田氏の調査続けます。(p_-)

林田姓は相良氏族と書かれたウィキの記述を見たのですが・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F
相良家[編集]
愛甲 有瀬 板井 稲留 今村 犬童 内田 亀山 川馳 桑原
佐原 佐牟田 澄川 薗田 外越 高橋 竹下 鶴田 豊永 中島
西 西橋 馬場園 林田 原 深水 松本 丸目 簑毛 村山
樅木 山井 山北 山本 吉牟田
上相良家[編集]
井口 岩崎 乙益 久保田 黒肥地 新堀 鍋倉 肥地岡

だけど・・?久保田氏・新堀氏と同じく「林田氏」・・球磨郡には「林田」という地名はありません・・????
「林田氏」はいつから相良氏族となられたのだろう?
先程コピーした「軍勢」には名前があるので、遅くとも文禄元年(一五九二)以前と言う事になります・・

そこで・・全国に目を向けました(p_-)
林田 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%94%B0
姓[編集]
日本の姓のひとつ
林田氏 – 播磨国揖保郡林田郷[1]を発祥とする氏族[2]
御園氏流林田氏[3]
林田泰範(御園範広次男・林田氏初代・肥後守・従五位下)
林田宗泰(泰範長男)
林田泰國(宗泰長男)
林田長泰(泰範次男)
肥前林田氏(鎌倉時代前期の建保年間(1213年 – 1219年)に藤原経澄(日野江城)、もしくは平朝澄が肥前国高来郡に地頭職を領し入国、林田氏随従)
林田隠岐守(南北朝時代・肥前国にて南朝に属す)
有馬家林田氏(有馬氏四天王)
有馬晴純直臣・林田左馬助(享禄期・後藤氏との合戦先鋒の将)
有馬直純直臣・林田氏(キリシタン林田レオ助右衛門、島原ノ乱幕府軍林田氏)
肥後林田氏
林田駿河守公康(菊池政隆家臣)
細川氏家臣林田氏
三河・武蔵林田氏
林田忠左衛門

※????林田駿河守公康(菊池政隆家臣)・・「公」の文字が付いていらっしゃる・・???
この方、以前白石様に御教示頂いていました(..)

さらに・・
林田氏 – 播磨国揖保郡林田郷[1]を発祥とする氏族 調べました(p_-)
源 満季 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E5%AD%A3
源 満季(みなもと の みつすえ、生没年不詳)は平安時代中期の武将。清和源氏の初代・源経基の三男。源満仲、源満政の同母弟。子に源満頼、源致公(『尊卑分脈』の記述では致公は養子)、熊王丸(別母)。従四位上、検非違使、武蔵守、治部丞、兵庫助。兄満仲・満政らと同様に、武力をもって朝廷・上級貴族に仕えた「武勇輩」であった。関東と縁があり、母親が武蔵守藤原敏有の娘だった他、満仲兄弟は武蔵介・守に叙任され、関東へ進出。
中略・・
清和源氏満季流の子孫(正しくは満季に養子入りし〈猶子とも〉、家督継承した醍醐源氏源高明の孫にあたる源致公の末裔)は、近江国を軸としてさらに越前・三河など各地へ国司職を得て進出、土着し武士団として発展していった。鎌倉・室町幕府に対して、常に一定の距離を置いていたことがこの家系の特徴である。又、満季流は、殆どこの一族だけに限られる。

系図 より(p_-)
高屋氏 平井氏 小椋氏 栗田氏 山田氏 御園氏 林氏 林田氏 岸下氏 
村田氏 米井氏 森氏 倉地氏 和南氏  奥氏 柳氏 河曲氏 牛田氏 
高安氏 梶田氏  他

庶家[編集]
源満頼(祖父経基へ養子入り・末裔美濃多田氏との説)
美濃多田氏
中略・・

高屋(たかや)氏(近江国高屋荘発祥)
高屋為経(源為経・検非違使・高屋氏初代)
高屋為貞(為経長男)
高屋為房(為貞長男)
高屋実遠(為房長男)
小原親実(実遠長男)
小原隆言(安芸守・中務丞・大嶺城主。大内氏奉行人・大内水軍侍大将、後に毛利氏家臣。白井房胤らと共に活躍した)
中略・・

小倉(小椋・おぐら)氏(近江国愛知郡小椋庄発祥)
小倉景実(近江小倉氏初代)
小倉実澄(応仁の乱時、京極氏につく。横川景三をむかえ、永源寺に識廬庵を設けた。)
青山氏(青山城主・小倉一族)
青山左近衛門実貞(六角氏家臣)
青山左近亮勝重 (六角氏家臣)
青山内膳信兼  (六角氏家臣)
青山三衛門   (足利義輝家臣・永禄の変にて死亡)
青山虎丸    (織田信長家臣・本能寺の変にて死亡)

平井(ひらい)氏(近江国愛知郡平井荘発祥)
平井重綱(高屋定綱の子・平井氏初代)
平井景綱(重綱長男・承明門院判官代)
平井氏
平井九郎(太平記より)
栗田氏
小椋氏
山田実賢(重綱次男・大炊助)
和南氏
山田氏
梅林氏
山上氏
大町氏
小椋考綱(重綱三男)
小椋氏
高岸氏
御園範広(重綱四男)
岸下氏
林田氏 
石搭氏

久田(ひさだ)氏(御園氏流岸下氏末裔・近江国蒲生郡久田村発祥)
久田実房(久田氏初代・近江源氏佐々木氏家臣・千利休の義弟)
久田房政(茶道久田流初代・実房の子・別名宗栄・母は千利休の妹)
以後茶道久田流現代まで代々続く

林田(はやしだ)氏(御園氏流・播磨国揖保郡林田郷発祥)
林田泰範(御園範広次男・林田氏初代・肥後守・従五位下)
林田宗泰(泰範長男)
林田長泰(泰範次男)
林田泰國(宗泰長男)

各諸国林田氏
肥前林田氏(鎌倉時代前期の建保年間(1213年−1219年)に藤原経澄、もしくは平朝澄が肥前国高来郡に地頭職を領し入国、林田氏随従)
林田隠岐守(南北朝時代・肥前国にて南朝に属す)
有馬家林田氏(有馬氏四天王)
有馬晴純直臣・林田左馬助(享禄期・後藤氏との合戦先鋒の将)
有馬直純直臣・林田氏(キリシタン林田レオ助右衛門、島原ノ乱幕府軍林田氏)

肥後林田氏
林田駿河守公康(菊池政隆家臣)
細川氏家臣林田氏

三河・武蔵林田氏
林田忠左衛門〜松平・徳川家直臣・満季流末裔「寛政重修諸家譜」より


栗原(くりはら)氏
栗原左衛門熊王丸(満季末子説・母方を相続)
栗原式部頼道(左衛門次男・永承五年中納言藤原道常が常陸国司に任ぜられ随従)
栗原太郎信勝(保元一年七月保元の乱時、勲功として常陸国三郡を拜領)

(゜-゜)・・超ながくなりましたが・・源満季末流・・全国の武士団だったのですね!
それと・・林田氏と青山氏は同族だったのですね・・
あれっ?青山氏・・・?

中でもやはり気になるのは
肥前林田氏と肥後林田氏
肥前は宮原の一族と同じ「橘公成(公業)」の後裔「渋江氏」「中村氏」「牛島氏」等が栄えた土地であり・・

肥後林田氏
林田駿河守公康(菊池政隆家臣) この方には九州の橘一族(伊予橘氏・橘公成(公業)の後裔の方々と同じく「公」の文字が付く・・(p_-)
どういう事だろう??
※林田駿河守公康(菊池政隆家臣)・・菊池政隆家臣

菊池政隆 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%94%BF%E9%9A%86
菊池 政隆(きくち まさたか、延徳3年(1491年)- 永正6年閏8月17日(1509年9月30日))は、菊池氏の第23代当主。肥後守護。菊池重安(肥前守)の子で、第20代当主為邦の弟為安の孫にあたる。初名は政朝(まさとも)、別名に忠朝(ただとも)などがある。
略歴[編集]
永正元年(1504年)、先代の当主菊池能運が嗣子無くして死去した。能運の遺言により、はとこにあたる政朝が養子となって、14歳で菊池氏の家督を継ぎ、肥後守を称して、名も「政隆」と改めた。
永正2年(1505年)、若年の政隆を軽んじ、かねてから菊池氏に反抗的であった肥後の国人衆が阿蘇氏や大友氏と共謀し、大宮司阿蘇惟長(後の菊池武経)を擁立して政隆を廃立しようと謀反を起こした。永正4年(1507年)、政隆は懸命に戦うも居城を追われ、初め相良長毎を頼って八代に逃れ、葦北で匿われたが、相良氏の助力が得られなかったので、島原次いで筑後で再起を図った。
永正6年(1509年)、大友氏の将朽網親満の攻撃を受けて捕らえられたが、その護送中に田島陣塚(菊池市泗水町)で旧臣玉屋貞親が待ち伏せして奪還。久米安国寺(菊池市泗水町豊水久米)に籠った。しかし閏8月17日、久米原合戦で再び武経軍に敗れ、政隆は安国寺で自害した。当主となり、わずか3年のことであった。
享年19。法名は厳銷院天仙源祐居士。墓地は同じくこの久米安国寺にある。

\(◎o◎)/! 
※初め相良長毎を頼って八代に逃れ、葦北で匿われた
相良氏と繋がっています!
林田駿河守公康(菊池政隆家臣) 時代は1500年初め・・と言う事ですね。
ネット検索で見える相良氏族の「林田氏」の初見は文禄元年(1592年)。
私が所有する書籍で「林田氏」の相良氏族としての初見をもっと探ってみます。

が・・しかし・・
林田駿河守公康(菊池政隆家臣)
この方・・何だろう・・妙な感ですが・・
物部氏であり伊予橘氏「橘遠保」の後裔である、宮原の一族と同じ「九州の伊予橘氏」の香りがプンプンするのは私だけでしょうか・・(p_-)

でっ!球磨の林田氏の一系を継いだ(もしくは嫁いだ)のは・・私「宮原」の家に養子に入った曾祖父の実家「久保田家」の子供・・
何だろうこれは?やはり何だかプンプン香ります・・(p_-)

たけぽん様の御親戚にも「林田家」がおありになる・・(p_-)

と今日は林田氏を調べました。
続けて書こうとおもう「私がやらかした」親戚中を激怒させた事件は明日にでも
書かせて頂きます(^'^)
長々と書いてすみませんでした(..)
私も・・頭が・・疲れました・・((+_+))

では(^'^)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月02日 15時13分24秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

今日は、私のやらかした出来事よりも(自分が反省する事なので(..))、
それよりも!今朝とても貴重なお話が聞けましたので御紹介させて頂きます(^'^)

家の御近所にお住まいの「北崎家」の御主人の実家は久米にあります。
こちらの「北崎家」の御主人から、『人吉の願成寺に久米の北崎家から寄贈された久米古城下の天満天神の由緒書』の写真のコピーをありがたい事に頂きました。
さらにその「久米古城下の天満天神の由緒書」を北崎家の御主人が現代語に約し、久米の北崎家の由緒を詳しく記された文書も頂く事が出来ました。
こちらのスレッドに書いて良いと了承して下さったので御紹介させて頂きます。

北崎家の御主人がまとめられた「久米の北崎家の由緒書き」によると
@「北崎」の姓は福岡の『北先津岬』が起源である。
Aこの北先津岬周辺よりいつの頃か一部が遠州、現静岡県西部に移り住んだ。
B相良長頼が人吉の地頭となった後、北崎家は球磨地方に移住を望み、遠州から移り住んだという記録が残っている。
C北崎の御主人のお母様より「願成寺」をお守りしてこの地に来た、その褒美として久米の土地を相良氏から与えられていると聞かれていた。
D上記の言葉を「相良長頼は願成寺を建立後、院主を遠州より迎えている」との記録があり、北崎家は寺を護ってきたとの言い伝えがあることから、願成寺の院主となる人と移ってきた・・と北崎家の御主人が推察されている。
E願成寺記録に「北崎後胤久米古城に住し」とあり、他記録により、人吉に移り住んだ北崎氏は数十年〜百数十年を経て久米に移り住んだという。
Fその後北崎氏は上相良氏に属して、1448年の相良長続球磨郡を統一した際の上相良氏との戦いでは上相良氏に属して戦った。
G上相良氏滅亡後、北崎氏は許され、戦死者を北崎家の所有する土地にお祀りされた。
H相良家の祈祷所であった久米古城下鎮座の天満天神の別当寺勘提寺(現勘代寺)が1526年に焼失した際、久米の有力者であった北崎氏が宮殿造立し、この功績から相良家の家紋からとった梅の家紋を頂戴された。
I勘提寺(現勘代寺)移転と共に北崎家も現在住されている場所に相良家より屋敷・田畑を与えられた

といった内容を拝見する事が出来ました(^'^)

さらに頂いた「『人吉の願成寺に久米の北崎家から寄贈された久米古城下の天満天神の由来書』の写真のコピーには
上記の内容の他に、久米郷を調査している私にとって、とても気になる記述がありました。続けて番号をふって記述します(..)

I勘提寺焼失依り同年北崎氏裔宮殿造立ス神體作者阿羅モ山勝福寺(深田荒茂)二代宥綾・・・以下略

J享禄三年藤原長陸唯公同頼興同満千代及ビ代官藤原長陸檜前氏政直等祈願トシ 中略・・
※享禄三年(1530年)

(p_-)Iには平河氏建立の深田荒茂の「勝福寺」の名が見えます
   Jには藤原長陸の代官 『檜前氏政直』という方の名が見えます・・「檜前氏」で「政直」・・

御近所の北崎家の御主人から頂いた情報は球磨の南朝方として上相良氏と共に戦った「橘遠江入道 道公」(橘遠江禅門)が気になって仕方がない私にとって・・非常に重要な鍵の一つのような気がします。
※人吉・球磨 郷土史年表 永野博蔵氏著 より。
康永二年(1343年)六月頃 橘遠江禅門下着せり。
E願成寺記録に「北崎後胤久米古城に住し」とあり、他記録により、人吉に移り住んだ北崎氏は数十年〜百数十年を経て久米に移り住んだという。
「相良長頼」この方が人吉の地頭になった後、願成寺の院主と共に遠江から人吉に来られた北崎氏。
久米に住された時期はおそらく「久米の領主 橘遠江入道 道公」とおそらく重なっているはずです(p_-)

整理しながら調べて見ました(p_-)
D「相良長頼は願成寺を建立後、院主を遠州より迎えている」
願成寺 サイト 肥後国くまもとの歴史より
http://yumeko2.otemo-yan.net/e360639.html
天福元年(1233)、相良氏初代・長頼の創建。
開山は遠江国常福寺(静岡県)からともなった弘秀上人(こうしゅうしょうにん)。

※遠江国常福寺
調べてみたのですが・・調査不足か遠江国に現在「常福寺」は見つける事が出来ませんでした(..)
何処かに移られたのかな・・????と・・それとも調査不足かな(@_@。
しかし・・・
常福寺 でネット検索すると・・
長野県の常福寺が登場しました・・
さらに「長野県の常福寺」を調べると・・何故か・・
宗良親王の記述が登場いたしました・・(?_?)
ウィキの宗良親王晩年の記述です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
晩年については、新葉和歌集の選集がほぼ終わったと思われる1378年(天授4年)に大河原に一度戻った事が判明しているが、1381年(弘和元年/永徳元年)に吉野に戻って新葉和歌集を長慶天皇に奉覧して以後は、確たる記録が残されていない。
終焉場所については、1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。
また1940年(昭和15年)に長野県常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷郷(旧長谷村)説がある。入野谷では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。

※1940年(昭和15年)に長野県常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷郷(旧長谷村)説がある。

遠江国(静岡県)では私は常福寺を見つける事が出来なかったのですが・・長野県には常福寺があるのですね・・

しかし・・偶然かもしれませんが・・
願成寺の院主は遠江国の「常福寺」から弘秀上人(こうしゅうしょうにん)来られて、お供された遠江国の北崎氏は久米に住し・・
当時の久米の領主は球磨の南朝方として上相良氏と共に戦った「橘遠江入道 道公」(橘遠江禅門)
「遠江国」「南朝」「常福寺」「宗良親王」「橘遠江入道 道公」(橘遠江禅門)
何だか・・この部分って「鍵」じゃないのかな?・・と・・?

さらに・・北崎家の御主人から頂いた情報にとても気になる「人物」が登場しました。
Jの享禄三年藤原長陸唯公同頼興同満千代及ビ代官藤原長陸檜前氏政直等祈願トシ 中略・・
※享禄三年(1530年)
藤原長陸の代官 『檜前氏政直』 ・・「檜前氏」で名前は「政直」
(゜-゜)・・久米に「檜前氏」がいらしたんだ・・

先日、椎葉のおじから突然飛び出した「片倉家」といい「檜前氏」といい・・
今まで調べていなかった情報が突然登場して困惑します。
ちなみに「片倉氏」はもとは「信州 片倉村」現在の長野県佐久市に住していらしたのですね・・望月氏の所領地とほど近い場所です。
「片倉氏」は先日のコメントの後、色々調べましたので明日にでもコメントします(..)

『檜前氏政直』 「檜前氏」を調べました(p_-)
サイト 歴史とすてきなお付き合い から
http://rekisisuki.exblog.jp/tags/%E6%AA%9C%E5%89%8D%E6%B0%8F/
檜前氏

明日香村大字檜前は飛鳥時代、渡来人の居住地であった。
ヒノクマのクマは入り込んだ谷間、浦の意味で檜前の地形は低丘陵に囲まれた盆地状の小平地である。
明日香村の檜前には、於美阿志(おみあし)神社があり、百済系の阿智使主(あちのおみ)の居住地といわれる。
異伝では、於美阿志神社は磐橋(いわはし)神社ともいわれ、高市郡久米郷にあって、高市連、安知造らの祖、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祀るとされる。
阿智使主とその子都加使主の都加とは、馬韓北部から安羅(古朝鮮の伽耶地方)に移ったと推定されるが安羅の首長をツカという。そのツカが渡来したものであると思われる。 
天目一箇神は鍛冶神である。 川から引き上げた観音像は金属(砂金)のことでこの地では古くから、金属がとれていたという説もある。
檜前も鍛冶、鉱山関係の家系であるらしい。檜前氏は応神朝に渡来した阿智使主の末で、大和の飛鳥のヒノクマをはじめ、その遺跡が山城、遠江、武蔵、上総、上野、摂津、尾張、石見等に残っている。
武蔵造の族には笠原直、物部直、大伴直、刑部直、土師直、檜前舎人(ひのくまのとねり)らがあり、そのうち檜前舎人は宣化天皇の名代である。
武蔵国にあって、加美、那珂郡(埼玉県本庄市)に分布し、丹党と重なるので、秩父丹党はその末裔ではないかともいわれる。
宣化天皇は尾張氏出身で宣化天皇に仕えた可能性は高いと思われる。 
丹党は妙見信仰があり、妙見は、製鉄、鉱山にかかわる神である。

※檜前氏は応神朝に渡来した阿智使主の末で、大和の飛鳥のヒノクマをはじめ、その遺跡が山城、遠江、武蔵、上総、上野、摂津、尾張、石見等に残っている。

(p_-)・・何だかどんどん展開が始まりました!
阿智使主 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%9F%A5%E4%BD%BF%E4%B8%BB

阿知使主(あちのおみ、3世紀 - 4世紀頃、または5世紀前半[1])は、応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる。
阿智使主、阿知王[2]、阿知吉師ともいう[1]。
渡来[編集]
『日本書紀』応神20年(289年)九月条には、「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」と伝わる。
『続日本紀』延暦四年(785)六月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂が述べた[3]。
『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある[3]。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している[4]。
段 (古記には段光公とあり、員氏とも) - 高向村主、高向史、高向調使、評(こほり 郡)首、民使主首の祖。
李 - 刑部史の祖。
・郭 - 坂合部首、佐大首の祖。
朱 - 小市、佐奈宜の祖。
多 - 檜前非調使の祖。
・ - 大和国宇太郡佐波多村主、長幡部の祖。
高 - 檜前村主の祖。

(゜-゜)・・およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある
最近「桑原氏」をよく見かけるのですよね・・(?_?) 家の親戚にも「桑原家」がありますが・・(?_?)

続けて転記します。
中略・・
漢人族は大和国今来郡、のち高市郡檜前(ひのくま)郷に住んだ[5]。一時は9割が漢人族となり、漢人族の民忌寸、蔵垣忌寸、蚊屋忌寸、文山口忌寸らが天平元年(729年)から高市郡司に任ぜられた[5]。蚊屋(かや)氏には蚊屋木間がいる。
その後、摂津、参河、近江、播磨、阿波にも移住した[5]。ほかに美濃、越前、備中、周防、讃岐、伊勢、三河、甲斐、河内、丹波、美作、備前、肥前、豊後にも住んだ

阿知使主の長男は都加使主、次男は坂上志拏直、三男は東漢爾波伎直[5]。
都加使主は子に東漢山木直がある[5]。
志拏直には、長男・坂上阿素奈直、次男・坂上志多直、三男の坂上阿良直、四男の坂上刀禰直、五男の坂上鳥直、六男の坂上駒子直、七男の坂上韋久佐直がいる[7]。
末裔[編集]
※忌寸は「氏」と表記した。
「坂上系図」によれば阿智使主の子・都加使主の長男・山木直からは民氏、檜原氏、平田氏、粟村氏、小谷氏、軽氏、夏身氏、韓口氏、新家氏、門氏、蓼原(たてはら)氏、高田氏、田井氏、狩氏、東文部氏、長尾氏、檜前氏、谷氏、文部谷氏、文部岡氏、路氏が出た[5]。
阿智王(または都加王)の次男・志拏直からは、東漢費氏、成努氏が出た。
志拏直の長男阿素奈直は田部氏の祖となった[7]。
次男志多直からは黒丸、拾、倉門、呉原、斯佐、石占(いしうら)、くにまぎ[国+(不の下に見の字)[8]]、井上、石村、林氏らの姓氏が出た[7]。石占氏は摂津の倉人・蔵人氏とも同祖と伝わる[9]。石村氏はのち三河国碧海郡に定住し、坂上石楯などが出た。
三男の阿良直からは、郡、榎井、河原、忍坂、与努、波多氏、長尾氏らが出た[7]。
四男の刀禰直からは畝火、荒田井、芸垣が出た[7]。荒田井氏には都城建設時の官僚倭漢荒田井比羅夫がいる[10]
五男の鳥直からは酒人氏が出た[7]。
六男の駒子直は宗家東漢氏を継いだ[7]。
七男の韋久佐直からは白石氏が出た[7]。
阿智王の三男の爾波伎直からは、山口氏、文山口氏、桜井氏[要曖昧さ回避]、調(つき)氏[11]、谷氏、文氏、文池氏らが出た[5]。

※「坂上系図」によれば阿智使主の子・都加使主の長男・山木直からは民氏、檜原氏、平田氏、粟村氏、小谷氏、軽氏、夏身氏、韓口氏、新家氏、門氏、蓼原(たてはら)氏、高田氏、田井氏、狩氏、東文部氏、長尾氏、檜前氏、谷氏、文部谷氏、文部岡氏、路氏が出た

何度も書きますが・・私の住む場所にほど近い場所に「檜前氏政直」という方が
いらっしゃった訳ですね・・(p_-)

(゜-゜)・・あれっ?
※阿知使主(あちのおみ、3世紀 - 4世紀頃、または5世紀前半[1])は、応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる。

そういえば・・東漢氏
※坂上氏のほかに東漢氏から出た諸氏には、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、丹波氏、調氏、文部氏、谷氏、佐太氏、井上氏などがある。

大蔵氏と言えば・・大蔵春実
九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖
グルグル回って・・又ここですね(p_-)
そういえば・・黒木氏も同族でした(p_-)(平川の曾祖父の弟が養子に入り継いでいます)

日本の苗字七千傑様の【大蔵氏】姓氏類別大観 拝見致しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03005.htm
良く見ると「桧前氏」がこちらにも見えます。
あっ!そうか「檜前」は「桧前」と同じなのですね!

さらに・・
日本の苗字七千傑様の【調 氏】姓氏類別大観 拝見致しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03007.htm
【調 氏】
 坂上氏と同じく後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智使主を祖とする。
 東漢老人が調忌寸を賜い、後に宿禰姓を賜う。後裔は薩摩に栄えるが、助能に至り筑後国上妻郡黒木庄および山門郡瀬高庄を領して黒木氏として筑後国上妻郡猫尾城を本拠とする。
 筑後黒木氏は他に源姓説、安倍姓説、藤姓少弐氏説などが存在する。
 黒木氏、星野氏、河崎氏は調党三家とも呼ばれる。

うううううううううううううんん(゜-゜)
※後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智使主を祖とする。
球磨の久米には「檜前氏(桧前氏)」があり・・岡原の平川家の曾祖父の弟は黒木家を継ぎ・・
「平河氏系図」にも黒木氏との姻戚関係が見えて・・

何だろう?又、久米郷の「鍵」を見つけたのかな?

北崎家の御主人に心から感謝致します(^'^)

所で・・最後にもう一つ気が付いた事があります(p_-)

頂いた「久米古城下の天満天神の由緒書」麻郡神社私考記載のものであり・・
享禄三年藤原長陸唯公同頼興同満千代及ビ代官藤原長陸檜前氏政直等祈願トシ 中略・・
藤原長陸(上村長陸)は、「奥野地頭」の記録がありますが、当時の「久米の地頭」の名は解らなかったのですが、藤原長陸(上村長陸)は「久米の地頭」も兼ねていたのか?
さらに久米には代官として「檜前氏政直」が。
※代官藤原長陸檜前氏政直
この表記で気が付いたのです!!!
同じく麻郡神社私考の家の宮原家が元あった場所にほど近い場所に鎮座であった稲積妙見の記述
ブログにもアップしています。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12145838672.html
代官最取式部少輔綾末繼宮原出雲橘續久 及
宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興
私、文字が繋がっていたのであえてスペースを空けて書いていたのですが、実際は上記のように繋がっていました!
私、もしかしたら、今まで大きな勘違いをしていたのかもしれません。

享禄三年藤原長陸唯公同頼興同満千代及ビ代官藤原長陸檜前氏政直等祈願トシ
※代官藤原長陸檜前氏政直
※代官最取式部少輔綾末繼宮原出雲橘續久

これは
最取式部少輔綾末繼の代官「宮原出雲橘續久」と言う意味じゃないでしょうか??
最取式部少輔綾末繼とは実は「税所末繼」と言う方で
税所氏は鎌倉時代に平河氏と大きな堅い絆で結ばれていた一族です!
さらに・・必ず書こうと今、まとめている鹿児島の「永吉」にも繋がる税所の一族!
もしかしたら・・ですが・・今まで勘違いしていた可能性があるのでは・・

今日は久米にお住まいの北崎氏の御先祖様について、
そして頂いた資料よりの、私なりの久米郷の調査でした。

では(..)
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月02日 16時35分26秒 ) パスワード

皆様!追記でございます(..)

発見致しました!
サイト 広木・曝井の遺跡・伝大伴部真足女の遺跡
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kakuchi/kodama01/sarasii.html
万葉集 九巻 1745
三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はん其所に妻もが

「那賀の向かいに流れる曝井の水が絶えることなく涌いている。私も絶えずそこに通って行きたい。そしてその曝井に妻なるひとが居てくれたらよいが。」

この歌が万葉集の曝井の歌です。曝井の伝承地は武蔵国那賀郡のほかに常陸国那賀郡にもあるそうです。江戸時代の国学者、橘守部はこの広木の地が曝井の遺跡としてここに碑文を書いています。この遺跡の前の道路は県道広木折原線でこの道も古い道だそうです。曝井の水は隣を流れる川の水位に関係なく、常に一定でしたが、昭和45年の隣接の河川改修工事によって湧水脈を切断してしまい、現在は水は涸れてしまったそうです。今また、この近くに美里町と児玉町の境付近の国道から分かれてこの地に繋がる新しい道路が出来上がろうとしています。万葉の古里の地の景観が又一つ失われていくことは、正直いって残念なことであります。なおこの遺跡の前の常福寺は創立が天平時代だそうで、弘紀郷の領主檜前舎人石前の創建した寺と伝えられ、寺には平安時代藤原様式の阿弥陀如来座像があり、境内の観音堂には百体観音が安置されています。

\(◎o◎)/!
※この遺跡の前の常福寺は創立が天平時代だそうで、弘紀郷の領主檜前舎人石前の創建した寺と伝えられ

あっ!!!なんと!弘紀郷の領主檜前舎人石前の創建した寺が「常福寺」

人吉の願成寺は相良家の菩提寺であり、開山は遠江国常福寺(静岡県)からともなった弘秀上人(こうしゅうしょうにん)
※開山 天福元年(1233)
遠江国常福寺(静岡県)からともなった弘秀上人にともなって球磨に来られた「北崎氏」
北崎氏が後に住した久米の天満天神の別当寺が勘提寺(現勘代寺)・・相良氏の祈祷所
北崎氏の記録は多数「願成寺」にあり・・
さらに上記の天満天神・勘提寺(現勘代寺)の記録に「檜前政直」の名が残る・・
繋がり過ぎてきます・・(゜-゜)

しかし・・
探しているのは遠江国の「常福寺」
願成寺を天福元年(1233)に開山した弘秀上人は明らかに遠江国「常福寺」の方なのに・・
今は遠江国(静岡県)に「常福寺」の名を私は見つける事が出来ません(..)
天福元年(1233)以降の何れかの時期に廃寺になったのか・・?
または・・
何処かに・・やはり・・移られたのではないでしょうか・・・?

「常福寺」は非常に大きな「鍵」となるお寺のような気がします・・

では(..)
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月02日 20時37分11秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)
問題があればいけないので内容を若干変えました。
御了承下さい。

従弟が知り合いの願成寺様のお話に大変詳しい方に連絡をとり
お話を伺う事が出来ました。

元々、遠江国の常福寺があった場所は「がんじょうじ」という地域だったそうです。
しかし、常福寺は今はもう無く、お寺もなく、「がんじょうじ」も後世の地域統合等により元の地名(願成寺?)もなくなり、今は「通り」の名のみを残している・・。
その「通り」の辺りに常福寺があったと言う事です。
さらに、人吉の願成寺の御住職は初代のみ遠江国の常福寺からお越しになり
二代以降は「遠圓寺(とおえんじ)」(えんは旧字体の”えん”です。合っているのかな・・)というお寺からお越しになっていた・・
と言う事をお伺いする事が出来ました。

私はこのお話を頼りに探したのですが、もしかしたら
静岡県掛川市岩井寺(がんしょうじ)この地域ではないのかな?と推測したのですが・・
間違っているかもしれません。
「岩井寺(がんしょうじ)」この地名が静岡県内の他の地域にあるのかもしれませんから探してみようと思います。
[24]たけぽんさんからのコメント(2017年02月02日 21時48分15秒 ) パスワード

皆様、お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
そんな大袈裟な事は・・・f(^^;

うちは、そんなに深くは考えも出来ませんが、平河の話を祖母から聞いていると、なんとなくではありますが、そんな気持ちになってきたと言うか・・・f(^^;

うちの林田家は、鹿児島から来たらしい?との事でしたが、いかんせん、ルーツを知る方がみな、故人になっているので(ノ_<。)

あと、少しだけ詳しく話せば
祖母の嫁ぎ先に祖父が養子に入って(曾祖母と祖父の母が姉妹だった)、曾祖父の家系を継ぎました。

なので、うちらには直接曾祖父の
家系の血は入っておりませんm(_ _)m

ちなみに
祖父達は、多良木に住んでいましたか、うちらがこちらに引っ越してきたので、晩年は一緒に人吉に住んでました(^-^)v

平河は、シラベレバ調べるほど
謎が謎を呼ぶ家系ですね(# ̄З ̄)(汗)
[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月03日 11時59分56秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

たけぽん様
私も、曾祖父が子供の頃養子に入ったので宮原の高祖父とは血が繋がっていません。(何かがあるから曾祖父は養子に入ったのでしょうが・・”縁”でしょうけど)
家の場合は祖父が生まれたのが曾祖父が40代後半の時なので、曾祖父と言っても
「江戸時代」慶應三年(1863年)生まれです(^'^) ・・かなりビックリしましたが。
曾祖父の養祖母は文政六年(1823年)生まれ・・かれこれ200年前でございます(p_-)
何で、こう言う事が解っているかと言うと・・
祖母が、昭和40年代に家督相続関係説明図なる公式の文書を作成していたのです。(村長さんの割印がバンバン押してある)
他、曾祖父が家督相続を受けた時の明治時代の書類(殆ど漢字であまり読めていませんが(..))他、祖父が家督相続を受けた時の書類も祖母が上記の書類と共にまとめて保管していたのです。
父も知らなかったのですが、私がこっちに帰って来てすぐに祖母の言葉を思い出して・・
「大事な書類はばあちゃんの和箪笥の引き出しにあるから」
でっ開けてみたら出てきた訳です(p_-)
残念ながら・・当時の公式の書類(家督相続関係説明図?)は戸籍謄本から作られていて、高祖父が前戸主で始まるので、その先はこの書類では解りません。
ただ・・先程書いた曾祖父の養祖母は文政六年(1823年)生まれ
この「養祖母」は蓑毛氏の娘だと言う事は書かれています。

さらに・・蓑毛家と家の宮原家はその後も何重も姻戚関係があって・・
祖父が生まれる前まで子供がいなかったうちの宮原家(曾祖父の妻は新堀家の娘)に養女に入った曾祖父の姪(明治時代の話です)。
曾祖父の姪が宮原家を継ぐ為に婿養子をとる。この方も蓑毛家からです・・
何だか折り合いが悪かったようで・・二人は生まれた娘を一人置いて宮原家を出ています。
その後、私の祖父が生まれました・・
で・・その祖父と結婚したのが岡原の平川家の娘であった祖母。

もや〜っとするのですよね・・うちのこの姻戚関係・・「宮原家」「蓑毛家」「平川家」
おそらく、須恵の平川家に伝わったであろう「平河氏系図」ブログにアップしていますが・・
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

Bの系図から気になるのですが
久貞・・この方の娘さんの項に「母 宮原権左衛門嫡女」と書かれていますね。

さらに
Cの系図をみると
久敬・・妻 宮原権左衛門の娘

さらに
Dの系図をみると
安敬 平川幸三郎氏・張栄 平川猪五郎氏の母が「宮原権左衛門の娘」という事が解り・・

さらに系図をみると
安敬 平川幸三郎 安春又安純と改 天保十一庚子正月六日卒三十六
張栄 平川猪五郎 姑蓑毛伝左エ門養子一子有リ八十右エ門ト云 兄安敬死依テ続後平河彦右エ門ト改
つまり・・
安敬 平川幸三郎氏が天保十一年に三十六歳の若さで亡くなったので、蓑毛家に養子に入っていた張栄 平川猪五郎氏が平河家に戻り平河彦右エ門と名前を改めて平河家を継いだ。
「張栄 平川猪五郎氏」は子供さんがいてその方の名が「蓑毛八十右エ門」である・・
と言う事が解ります。

こちらの系図で見える姻戚関係も「平河氏」「宮原氏」「蓑毛氏」です・・

以前から・・何だか家の姻戚関係に似ているな〜何でだろう?(?_?)
と思っていたのです。(?_?)

たけぽん様
一度、お伺いしたかったのですが・・
御親戚に「宮原家」もしくは「蓑毛家」・・ありませんか?
親戚でなくても、何らかのお付き合いがある「宮原家」もしくは「蓑毛家」・・ありませんか?

一つ気になる家の伝承がありまして・・
祖母が父に「ここは、昔、八代方面の大きな神社から嫁いで来られた人がいるらしいから、宮司とか神社に関係する家やったとやなかかな〜」
と言っていたそうで
その話を昨年の夏、現在92歳になる祖母の従妹に話すと
「宮原家は武家バイ。ばってん、神社関係の事はよく解らんねぇ〜?」と言われたのです・・

武家で神社関係の仕事?って何だろう???? ・・と思っていたのですが・・
何せ、宮原家というより、平川家や久保田家の方に興味が行ってしまいその先を
調べていなかったのです。

しかし・・実は一昨日、求麻郷土研究会 発行の墓石調査の書籍をぼ〜っと見てたら
青井家墓地(青井阿蘇神社大宮司家の墓地跡)に
通称「宮原権左衛門」を称するこちらの「宮原氏」のお墓が数代に渡って(1749年〜1870年まで)あった事に気が付きました。(惟の文字が付く方が二名いらしゃいます)
何で「青井家墓地なのだろう?」・・???と。

「権」の文字も気になります・・前スレッドで書いたように「宮原」「星原」「深松」は”いっぱ”?じゃって言った星原家に伝わる「星原権大夫」さんの名前・・「権」
「権」・・ごん・・ごん あっイカン!(..)
やはり・・曾祖父が継いだ家の宮原家はちゃんと調べなければ・・いけませんね(..)
そう言えば・・曾祖父が大正時代に岡原霧島神社で弓をバ〜ンってかっこよく?打っていた写真があったそうです。(私の年齢の離れたふた従姉から昨年末に聞きました)
さらに・・・曾祖父は弓をバ〜ン!って打つだけでなく・・
弓を使った何かの儀式?をしている写真も残っていた・・と聞いています。
弓と言えば・・物部氏の儀式かな(p_-)・・宮司さんでもないのに??

所で
たけぽん様
おじい様・・多良木にお住まいだったのですね!
晩年は御一緒にお住まいだった・・おじい様、お喜びだったと思いますよ(^'^)

私「林田家」と家の方の縁戚関係を知ってから、色々「親戚」や気になっていた「姓」のお家との繋がりが解ってきました(^'^)

実は・・前スレッドで「河野氏」の系図を拝見しながら「気になる(p_-)」と書いていた「野●家」
よくよく聞いたら・・林田家を介して(正しく言うと林田家に養子?嫁いだ、曾祖父の一族を介して)親戚でした(p_-)
そこに昨日コメントした北●家も繋がっていらっしゃいました(p_-)

親戚関係を元に歴史を調べると・・実に・・面白いです(p_-)

では(^'^)
[26]たけぽんさんからのコメント(2017年02月03日 15時13分16秒 ) パスワード

皆様、お疲れ様です( ・∀・)っ旦

祖母から、うち用の家系図があるとは
何も聞いてないので・・・(;_q)

それ以前に、平川の古文書や裃・刀等は、男子がいる家系に
渡したみたいですから(>_<)

そちらの方にはあると思いますが・・・

うちは、大阪で生まれ育ちましたので
こちらの親戚で、聞いた名前は・・・

須惠の平川家
祖母の妹の嫁ぎ先の石○家と北○家
平川に養子に来た、祖母の父・中○家
免田の愛○家
いわんごちの平川家と、もうひとつの平川家
多良木の祖母の嫁ぎ先三○家
祖父の実家の○田家
祖母の母(曾祖母)の兄弟に愛○家

位ですかね?σ( ̄∇ ̄;)

祖母自体が、あまり聞いていないみたいだったので、うちらもあまりよくはわからないんです。

あ・・・
そう言えば
前に、ちらっと叔母が家系図を見ていたのを横から見た時
あと幾つかの名字が書いてあったかな?( ・◇・)?

全て、曾祖母の兄弟や
曾祖母の母の兄弟あたりだった様な(# ̄З ̄)・・・

ちなみに
うちで一番古い方は、今年100回忌をする平川氏がいます。
[27]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月04日 08時38分08秒 ) パスワード

たけぽん様、おはようございます(^'^)

色々、教えて下さりありがとうございました<m(__)m>

たけぽん様の御先祖様、今年100回忌を御一族が行われる。
すばらしい事ですね。
御先祖様も大変お喜びの事だと思います。

私は、「平河一族」の謎の解明の手掛かりの一つは
須恵の平川家をお継になった
たけぽん様の祖母様のお父様にあると推測しているのです。

○の中は・・
暗号で・・「ゴッド」もしくは「ビレッジ」ではありませんか?
(違っていたらすみません(..))

「ゴッド」であれば、宮原の親戚にありますし、平川の親戚は人吉の同じ地名の場所に数軒あります(..)
内からは少し離れますが、同じ旧村の中にある宮原の親戚のお隣が「ゴッド」家です。

さらに
「ビレッジ」であれば、親戚の「平川家」「尾方家」そして家の「宮原家」の其々の親戚です。
家には古文書や庭?には暗号ですが「御大師様」が(..)

鎌倉時代の平河一族は
「平河」「山田」「永池」「深田」「横瀬」「中神」「平野」の各氏です。
皆、兄弟やその子供達の「姓」です。
上記の「永池」氏
居城跡には現在神社が鎮座。
免田の通称「岡留幸福神社」正式には「岡留熊野座権現」です。
こちらの「岡留熊野座権現」と築地の「熊野座神社」の代々宮司家が家の方の親戚の尾方家です。
青井阿蘇神社の大宮司を務めたおじさんはここの方です。
椎葉のおじ・おば其々の従弟の結婚の際に「仲立ち」をした方です(p_-)

鎌倉時代の平河一族にある「横瀬氏」
岡原霧島神社の宮司家でした。
岡原の平川家は親戚のような親しいお付き合いをさせて頂いていました。

○の中は・・
暗号で・・「ゴッド」もしくは「ビレッジ」ではないのかな?と勝手に推測して
書いてみたのですが・・外れていたらすみません(@_@。

たけぽん様
もう一つ見て頂きたいものがあります。
椎葉家に代々伝わる和鏡です。
ブログにアップしています。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12134511121.html
もしかしたら・・「多良木繋がり」でピンとくるものがおありになるのでは?
と思いまして・・

勝手な推測ですが・・気になりまして・・

祖母の実家の平川家は、実は今から100年以上前に火事にあっています。
集落一体を燃やす大火だったそうです。
飛び火して家は燃えてしまったそうです。
その時に燃えてしまったものに古文書や沢山の絵巻物がありました。
この絵巻物は言い伝えによると
平河家に伝わる「長男以外は決して見てはいけない」という物だったそうです。
その絵巻物の一つを見てしまった人がいました(長男以外の人)
その方が言った事が家の方ではコレマタ言い伝えで残っているのですが・・
その絵巻物には
小さな男の子が、綺麗な着物を来た女性に抱かれて、屋敷に入っていかれる姿が描かれていました。
馬車か牛車も描かれていてそこから降りて屋敷に入られるような絵だったそうです。
周囲には他にも沢山の女性が描かれていて、その方々は泣いていらっしゃった・・
この「男の子」が岡原の平川家では御先祖様なのだ・・と聞いているのです・・

この話を祖母はその絵を見たという人から聞いていて、父や私にも教えてくれていました。
私は子供の頃から、祖母に色々聞いてはいたのですが、当時は全く興味がなく大抵の事を忘れています。
でも絵巻物の事は父がしっかりと覚えています。
しかし・・祖母の言葉は最近の調査で「確かな」言葉だったと感じているので
(先祖は深田に居たと言っていましたが・・深田の城主は「盛高」氏でした)
その絵を見た人は・・「大変な所に嫁いできてしまった・・と感じたそうです」

この絵巻物がどう動いたのかはよく解りませんが・・
平河一族の「謎」の一つである事は・・確かなのじゃないのかな・・と(..)

不思議な話を書いてしまってすみません。

ただ・・たけぽん様の御ばあ様や私の祖母の「言葉」はちゃんと書きとめておかなければ後世には決して伝わらないのではないでしょうか・・

私はたけぽん様と私がこうしてスレッドで出会ったのは「意味がある」のだと
最近つくづく感じています。
御先祖様がお導き下さったのですよね(^'^)

では(^'^)
[28]たけぽんさんからのコメント(2017年02月04日 20時18分07秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

曾祖父は、残念ながら・・・

ヒントは、須惠の平川家の近くに並々あります

ブログの件
うちは見たこと無いものです(;_q)ゴメンナサイ

火事の件はちょっとわかりかねますが、須惠の平川には巻物や古文書?類いは沢山あったとは聞いています。

役場が火事になった話は聞いてますが・・・

あ・・・
戦争の時に、真鍮等は軍に
差し出さないといけなったけど
刀や火縄銃?は、屋敷の床下に穴を掘って
隠してたら、錆びちゃったって事は
言ってましたね( ̄▽ ̄;)(汗)

祖母の上に兄が三人いましたが
長男は白い軍服着てサーベル?を
腰につけて馬に乗り、その馬を
人が付いて乗って帰ってきたって
言ってたっけ?σ( ̄∇ ̄;)?

三男は、戦死しました。

あと、いつも不思議に思ってた事が。

次男の話は殆ど(皆無に近い)
話はしなかったですね。

祖母がなくなって、一番下の妹の家族が
たまたま家系図を個人で作成した?らしい
のですごが、次男は何処かへ
養子に行ってました。⬅だから祖母は
知らなかったのかな?

名前は思い出せません。(>_<)ゴメンナサイ


歴史や言い伝え等は、ミヤハラ様の
おっしゃる通りだと思います。

うちらみたいに、他所に行っていて
なにも知らない者にとっては、それだけが
親戚や家のルーツを知る手がかりなんですから。

うちも、このスレッドでミヤハラ様初め
書き込みしてくださってる皆様と出会えて
本当に良かったと思っています。

本当にご先祖方々のおかげだと
思います(〃∇〃)♪

[29]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月04日 22時36分53秒 ) パスワード

たけぽん様 今晩は(^'^)

家系図のお話は驚きました!
そう言う事情だったのですね・・・・

須恵の役場が空襲にあったのは知らなかったのですが、航空隊や陸軍が球磨に
秘匿の飛行場を付くっていたので、その情報はアメリカにはきっと伝わっていたのでしょうね・・・

須恵の方々は戸籍を回復する為に甚大な努力をされた事だとおもいます(..)

所で・・
家の集落の火事の事なのですが・・
変なのですよね(?_?)

岡原村は明治以前の記録が全く残っていないという大変な「不手際」が発生した村です(古い家々に残っていた古文書等を村が預かっていたそうですが、昭和40年代に謝って行政が燃やしたそうです)
そこで、岡原村史には明治以降の事しか書かれていません。
明治元年以降の事は年別付き別に大変詳しく書かれているのですが・・・
私、今日、コメント書いた後、いつの時代だったのか知りたくて読んだのですが

火事の件は一切書かれていないのです?
椎葉家は明治37年に当時お隣だった恒松家に放火があり、その飛び火で燃えてしまったのですが
その事はしっかりと記されています。

ただ、私の住む集落で大火があって集落全体が燃えた・・という大事件は一切
記されていません。

でも・・平川繋がりの親戚は皆、集落全体が大火にあって平川家は燃えてしまった・・と伝え聞いている・・

昭和15年編纂の球磨郡誌にも書かれていない(?_?)
なお不思議なのは・・

明治38年に集落に鎮座であった沢山の神社様を岡原霧島神社に合祀されたのですが集落全体が燃えていたのであれば、神社にも被害があったはずだけどその事は書かれていない・・(?_?)

だだ・・一つ気になるのは「集落全体が燃えて平川家も燃えた」と言う話は
嫁いできた「ばあちゃん」達が口伝えで次の代次の代へと伝わって来ている事で・・
家の親戚だけは集落が大火にあって平川家が燃えたと聞いている・・
でも・・そのような記録は無い・・どういう事なのかな・・(?_?)
一瞬・・燃えたのはここの集落なのかな????と疑問になりました・・

先日、コメントした御近所の北崎家の御主人がすばらしい言葉を記されていたのですが
「言い伝えも書き留めてなければ変わってくる」
あはっ(^◇^)昨日のコメント、この心に響く言葉を頂いちゃいました(*^_^*)
今日、北崎家の御主人にその事を伝えました<m(__)m>・・(-.-)

家の宮原家にも平川家にも深水家にも刀は残っていましたよ(^'^)
何でも「ドウダヌキ」という種類?の刀だそうです(^'^)

所で・・たけぽん様
源兵衛さんのお墓(お堂)の話、御ばあ様から聞かれていませんか?(^'^)
椎葉のおじの妻、すなわち椎葉のおばさんですが
若い頃、とても身体が弱かったそうで、体調が悪い事が多く、その為か中々子供に恵まれなかったそうです。
そこで、椎葉のばあちゃん(私の祖母の姉)が
「源兵衛さんのお墓にお参りするバイ」と三人で「さといも」を持ってお参りしたそうです。
すると・・・すごい!御利益でおばさんはとても元気になって、子供にも恵まれました。私のふた従兄でございます(^'^)
昭和30年代初頭の話です(^'^)

私、この話は知っていたのですが、球磨に戻り郷土の歴史研究会に入って「源兵衛」さんのお墓のお話が今では有名だと聞いてすごく驚いたのです(^'^)

恐るべし平河氏の御先祖様です(p_-)

では(^'^)
[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月05日 06時44分00秒 ) パスワード

たけぽん様 おはようございます(^'^)
まだ・・朝、早いのですが・・主人の出勤が今朝もとても早かったので(-.-)

昨日のコメントの追記ですが・・
椎葉のおじが、母(私の祖母の姉)と妻と三人で「さといも」を持って「源兵衛」さんのお墓にお参りした話し

〉私、この話は知っていたのですが、・・

正確に言うと
「むか〜し、さといもが好きなげんぺ〜さんというおじいさん?がいた」と言う事だけです。
それも「げんべい」さんじゃなくて(ー_ー)!!
「げんぺ〜さん」と覚えていました(-.-)
私は、球磨に伝わる何かの昔話(民話?)かと思っていました(-.-)

球磨に戻って、椎葉のおじから「さといもを持って・・」の話を聞いた時も・・
実は私もおじも、この方を「何かの能力を持った?むか〜しの平河家の御先祖様が神様?になられたか?」位しか理解していなかったのです(ー_ー)!!
場所は・・親戚の深水家の長男のおじさんのお墓がある(実は・・深水家の長男のおじさんのお墓は何故か?人吉です(..))お寺様と同じ?所ぞっ!
と椎葉のおじから聞いてはいたのですが・・

でっ!歴史研究会に入り、何処だったか?探索していた時に(相良村の柳瀬?か深水?だったかな?)研究会の方が「平河源兵衛」さんの話をしたので
「あんれっ?げんぺ〜さんと”源兵衛”さんと名前が似ているな〜?」と思い
私が聞いていた「昔話?民話?さといも・・」の事を言ったら
「それは!平河源兵衛さんの事よ!」と言われて
「あんれっ(?_?)名前を間違っていたか・・(;一_一)」と思った訳です(..)

すると・・研究会の方が
「平河源兵衛さんのお墓のすぐ近くに(横だったかな?)旧宮原村(岡原村)の最後の城主”犬童十兵衛(宮原十兵衛)”の墓がありそのすぐ前に”深水宗房”(深水長智)の墓がある」
と教えて下さったのです。
そこに、私と同じ集落に住まわれる、歴史研究会の方が
「お宅の親戚も平川と深水じゃら(だね)」と言われて・・
最初に平河源兵衛・犬童十兵衛(宮原十兵衛)・深水宗房(深水長智)のお墓の並びを教えて下さった方が
「なんね?平川・宮原・深水?そりゃ墓の並びと一緒じゃら(だね)!お参りに行ったね?」
と聞かれたので「行っていません」と言うと
「そりゃ○○さん(同じ集落の方)ちゃんとこん人(この人)を連れて行っあげにゃ〜(あげなければ)」と・・
しかし1年以上経っても・・未だに行っていません((+_+)) (椎葉のおじと今度行ってみようかな・・と思っています)

と言う経緯?です(p_-)・・・私はこのように「ぽわ〜ん('_')」としている所が
多分にあります(゜-゜)

ぽわ〜んついでに・・昨日、ふた従兄と書いたけど・・ふた従姉が生まれる時だったかも・・かなり歳が離れているので?そうすると昭和30年代も後半の話です。
かなり前に聞いた話なのでもう一度、おじに確認します。すみません(..)

最後に・・
昨日、コメントを書いた後、もしかしたら一軒だけの火事だったのかな?と思いながら・・
外出から帰宅した父に
「集落の大火の記述が残っていない。(p_-)」と話しをすると
「うんっ?でも、父さんもちゃんと聞いている!集落が燃えたんぞっ!」と。
二人で・・何じゃろかね????(?_?)となりました・・(゜-゜)

「むか〜し、さといもが好きなげんぺ〜じいさんがおったげな〜('_')」
といい
「集落の大火」の話といい
北崎家の御主人(本当はいつも”おじさん(^'^)”と呼ばせて頂いています)の言葉
「言い伝えも書き留めてなければ変わってくる」
・・本当に痛感します(..)

とてもなが〜い追記でした。
すみません。(..)
[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月05日 11時24分43秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

○の中・・
私は「リバー」か「サムライ」か「かぐや姫」とまず推測したのですが
いかがでしょうか(p_-)

ちなみに・・
「サムライ」だったら、その一族の方のお一人、私、よ〜く存じあげています(p_-)
もし「サムライ」であれば、その方の御先祖様の事も知っています(p_-)
米良から来られていらっしゃいます。
もしももしも「サムライ」であれば・・
椎葉のおじはその事を意味は解らないけど知っていた可能性があります(p_-)
かなり、以前(2年近く前)にこちらのスレッドに書いていたのですが・・もしかしたら消したかな?さっき探したのですが・・見当たりません((+_+))
椎葉のおじは何故か「平川は米良から来たとやろ?」と言っていたからです。

ちなみに・・
「リバー」だったらこちらをじっくりご覧ください
平川家について30 コメント34です
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101512.html

さらに・・
平川家について35 コメント67です。
色々書いていますが「ロマンを求めいて庄屋金子 より」からを読んで頂くと
「リバー」家と「久保田家」と「伊予橘氏一族」と家の親戚の「石川家」と同じ姓の「石川氏」との繋がりが何となく見えます。
ちなみに・・「石川家」は「宮原家」と親戚だ!と祖母から私も父も聞いていて、宮原の祖父の従姉の娘であるおばさんも同じ事を言うけど・・繋がりがわかりません(?_?)

平川家について35 コメント67
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101544_68.html

もしも・・「かぐや姫」なら・・ちょっと今の所解りません(..)

まず
○の中・・
私は「リバー」か「サムライ」か「かぐや姫」と推測してみました(p_-)

はずれている可能性の方が高いかな?
その時は「ちゃんちゃかちゃらちゃらパンパン」と笑点のテーマソングを口ずさみながらご覧ください
(p_-)・・・・(?_?)・・・(^◇^)
[32]たけぽんさんからのコメント(2017年02月05日 20時23分54秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
お返事遅くなり申し訳ありません(>_<)

家系図、そう言う理由で、役場からは
あまり情報が得られません( ノД`)

火事の件
本来なら、それだけの大火事があれば、
村誌位には残りそうな物ですけどね・・・

岡原村も大変だったんですね(汗)

うちはまだ生まれてないけど(ノ_<。)

源兵衛さんの話は
聞いた事ないなぁ・・・σ(・◇・)?

さといも繋がりなら・・・

祖母と伯父(母の兄)が好物で
よく味噌汁の具にしてましたね(^^)


うちはリバーです(^-^)

オマケで言わせて頂けば
うちの親戚はリバーの付く名前が
何故か多いですf(^^;

親戚の大伯母の嫁ぎ先に
石川がありますが、そこもなにかしら
関係あるのかしらん?σ( ̄∇ ̄;)
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月07日 18時02分58秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)
昨日は所用で外出したり、来客があったりとコメントが出来ませんでした(..)
たけぽん様、お返事遅くなりまして申し訳ありません(@_@。

たけぽん様!
やはり「リバー」家でしたか(p_-)
私、推測するのに結構考えたのです・・

きっと私の今までの調査で登場した「姓」のはずだ!さらに・・
親戚の多良木の平川家は久保田家が継いでいるし、なお且つ家の宮原家には曾祖父が久保田家から養子に入っている・・
さらに・・その久保田家の”血”は林田家と淵田家を介して、岡原の平川家。そこから広がり・・久米・湯前の平川家4軒、さらに・・多良木平川家にも・・(ここは二重です(p_-))
久保田氏と何らかの繋がりがある「中○氏」と言えば・・・・あっ!!もしかして(p_-)
となった訳です(p_-)

平河義高居城の岩城(木上城)その後の城主は窪田(久保田)氏。
木上城城主 窪田(久保田)氏
十四代 頼豊(大蔵少輔 文禄二年六月二十九日高麗国にて戦死、妻は須恵城主恒松氏の娘。岩城に墓在り)
十五代 九介(官房丸 八才の時孤となる。大村に移住。本翁宗官、墳墓は大村塘池に在り。)
※十五代 九介について
父窪田大蔵(頼豊・木上地頭)は「晋州」にて戦死、母も若くして亡くなり、八才の時に弟と共に大村に移り住み他家に養われて成人したとあります。
「大村」とは、現相良村内にある旧深水村・旧柳瀬村を指します。
当時の旧深水村・旧柳瀬村の地頭は「深水氏」と「平河氏」です。(其々のむらに深水氏・平河氏あり)

※十五代 九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。

(p_-)・・ここを調査していて本当によかった(^'^)
※十四代 頼豊(大蔵少輔 文禄二年六月二十九日高麗国にて戦死、妻は須恵城主恒松氏の娘。
ちなみに・・曾祖父の実家は時を重ね次々に分家がうまれて(周辺に住まわれています)近年、曾祖父の実家(この辺りの本家)に婿養子に入った方は「恒松家」からです。なおかつこの方・・私の曾祖父の姪の曾孫にあたります(p_-)
グルリ〜ンと回っている訳です(p_-)

実際「中リバー氏」(もうそろそろ実名で書いても良いですか?)は様々な系がありますが・・
私が調べていた事を復習すると(p_-)
十五代 九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え・・
平川家について30 コメント35でも書いていますが・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101512.html

>世界帝王辞典 中川氏 今日あらためてよ〜く見ると「発見」がありました!
http://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B0%8F
出来ればじっくりご覧頂きたいのですが・・私「ミヤハラ」の個人的に気になる方々をピックアップさせて頂くと・・
中川清秀
生没年:1542-1583
父:中川重清
正室:(父:熊田宗白)
1568-1592 秀政
1570-1612 秀成
糸姫(播磨姫路藩初代藩主 池田輝政室)
ちぼ(信濃川中島藩主 森忠政室)
(p_-)・・森忠政
森忠政
生没年:1570-1634
父:美濃金山城主 森可成
義父:美濃金山城主 森長可
この方々の祖である森頼定の妻は宮原の一族と同じ橘公業の娘「薬上助局」でございます(p_-)
こちらの森家は何重もの姻戚関係を池田氏と結んでいます(p_-)
さらに・・池田氏から後年、相良家に養子の方が入って藩主となりました!

中川久清
生没年:1615-1681
父:豊後岡藩二代藩主 中川久盛
正室:(父:近江膳所藩初代藩主 石川忠総)
(p_-)・・なるほど・・ここで石川氏との姻戚関係が!

中川久通
生没年:1663-1710
父:豊後岡藩四代藩主 中川久恒
幼名:主膳
1677 従五位下
1677 因幡守
1695-1710 豊後岡藩五代藩主
正室:紀伊姫(父:上野前橋藩四代藩主 酒井忠清)
主膳
亀次郎
1697-1742 久忠
厚岸院(伊予大洲藩四代藩主 加藤泰統室)
娘(伊勢津藩五代藩主 藤堂高敏室)
娘(日向高鍋藩五代藩主 秋月種弘室)
(p_-)・・ここで秋月氏との姻戚関係が!
秋月氏からは相良家に養子の方が入って、藩主となっていらっしゃいますね(p_-)

中川久貞
生没年:1724-1790
父:>遠江浜松藩初代藩主 松平信祝
義父:豊後岡藩七代藩主 中川久慶
幼名:祝之丞
初名:信安
1743 従五位下
1743 修理大夫
1743-1790 豊後岡藩八代藩主
正室:中川久(父:中川久虎、義父:豊後岡藩七代藩主 中川久慶)
1745-1765 久賢
1745-1811 久徳
側室:小池氏
1746-1808 岩(伊勢津藩九代藩主 藤堂高嶷室)
1759-1821 充(相模小田原藩六代藩主 大久保忠顕および越前勝山藩六代藩主 小笠原長教室)
1760-1834 水野勝剛(水野氏へ)
1765-1805 松平忠明(松平氏へ)
的丸
貞(日向飫肥藩九代藩主 伊東祐福室)
1869-1787 牧、巻(播磨赤穂藩七代藩主 森忠賛室)
(p_-)・・むむむっ!!
マタマタここで「森氏」との姻戚関係!
さらに・・側室:小池氏
偶然ですが・・家の親戚も小池氏。さらに親戚の小池氏は相良藩士ではありません。他藩の方です。(どこの藩なのか・・よく解らないのですが・・)江戸後期もしくは明治初頭に球磨に来られました。
球磨に来られる際には、わざわざ鎌倉時代建立の御先祖の五輪塔(供養塔)を運んで来られています。(ちなみに「林家」がすぐ御近所にあり、こちらも同じように五輪塔(供養塔)を運んで来られています)
こちらの小池家は私の祖父の姉が継いでいます。湯○○町では名士として知られています。
(p_-)

中川久教
生没年:1800-1840
父:近江彦根藩十三代藩主 井伊直中
義父:豊後岡藩十代藩主 中川久貴
幼名:悌之丞
初名:井伊直教
別名:久通
(p_-)・・中川久教。この方は実は井伊直中の子息なのですね!!

中川久昭
生没年:1820-1889
父:伊勢津藩十代藩主 藤堂高兌
義父:豊後岡藩十一代藩主 中川久教
(p_-)・・おおおっと!!ここで藤堂家から養子の方が!
藤堂家には橘公業の娘を妻に持つ森頼定を祖とする「森氏」が繋がっていました
(p_-)
正室:豊子(義父:豊後岡藩十一代藩主 中川久教、父:伊予大洲藩十代藩主 加藤泰済)
1849-1922 栄子(肥後宇土藩十一代藩主 細川行真および小野鉄太郎室)
1850-1897 久成
1853- 芳子(安房館山藩五代藩主 稲葉正善室)
1859- 板倉久知(板倉氏へ)
武夫
(p_-)・・なるほど・・稲葉氏・板倉氏・肥後宇土藩十一代藩主 細川氏・小野氏との姻戚関係が!

中川久任 
生没年:1871-1935
父:浅野懋績
1897-1935 伯爵
貴族院議員
妻:池田隆子(父:備前岡山藩九代藩主 池田茂政)
(p_-)・・池田茂政。この方は池田章政(相良頼之子息)の養父ではありませんか!
池田章政の姉妹は球磨の宮原の一族である「宮原健吉」の妻です(p_-)

さらに・・大発見です!!
中川久順 
生没年:1900-
父:伯爵 中川久任
1935-1947 伯爵
妻:広瀬加智子1907-1982(父:広瀬千秋)
(p_-)・・ナント!!広瀬氏との姻戚関係が!!
椎葉のおじ・おばの従弟の妻は須恵の平川家の娘さん。同じ「姓」ですね(p_-)
球磨にはそうそうある「姓」ではありません(ー_ー)!!

須恵の平川家を「中リバー家」の方が継いでいらっしゃる・・
わたし・・こうやって調べてみたら・・絶対に偶然だとは思えなくなりました!

たけぽん様と家の宮原家の共通の”姓”の親戚は「石川氏」
調査を始めたばかりの頃、コメントに書いていたのですが、
私の祖母は「新堀家と石川家が親戚と言う事は忘れてはいかんよ!」
と私に教えてくれていました。
きっと、周辺に新堀家も石川家も今はないからだと思います・・
祖母はもしかしたら・・私が何十年も後に先祖調査をする事が何故か解っていたのじゃないのかな????

平川家について35 コメント67 でも書いていますが・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101544_68.html

石川氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F

※鎌倉時代には南河内の一大勢力となったが、しかし、鎌倉幕府が衰え、河内国南部に楠木正成に代表される伊予橘氏(越智氏)などの系統の在地豪族が台頭すると、それに圧倒されて勢力を失い、一族の多くは故郷を離れて各地に離散したが、楠木正成の配下になり河内に残った一族も少なくない。
戦国期の摂津国の中川氏(中川清秀など)は、この石川氏の系統だとされる。
(p_-)石川氏から中川氏に嫁いでいらっしゃいました。
※楠木正成の配下になり河内に残った一族・・楠木氏と橘公長の系(宮原氏も含む)は同族です!

マダマダ「中川氏」・「石川氏」について書きたいのですが・・
ここで・・曾祖父の実家の「久保田家」と家の「宮原家」で新たに解った事があるので書かせて頂きます。

家の親戚は「久保田」と「窪田」両方の姓があるのですが・・
どうやら・・曾祖父の実家の「久保田家」の御先祖様の中には「医者」だった人がいるようです(p_-)
昨日、同じく曾祖父の実家の久保田家が継いだ多良木の平川家のおじと電話で話していて解りました(p_-)
おじは
「家には久保田家から持ってきた”ドラマの仁で出てきた薬を作るあの機械?”がある。どうやら、久保田家の先祖は医者だったごたるぞ!(ようだ!)」
と。
でっ!私も思い出しました!過去にこちらのスレッドで書いていました。
家にも同じようにドラマ”仁”で登場した・・あの薬を調合?する機械があって、それでママゴトをしていたらめちゃくちゃ祖母に叱られた事を!
でも、こちらでコメントした時は、私の高祖母になる永田家の娘のばあちゃんの実家が医者(医家)だったので、何故か家に伝わったものなのかな?と書いていたと思います。
でも・・違ったようです(p_-)
あの「機械?」は久保田家から曾祖父が宮原家に持ってきていたようですね(p_-)
この事をおじに言うと「やっぱりな!」と言っていました。

だけど・・久保田(窪田)氏が相良藩内で医者(医家)であった記録は全くなく・・??????
さらに、おじが
「久保田家には天草の楠浦出身の人が嫁いで来ているから、天草を調べて見れば?」
と言うのです・・
確かに・・球磨には明治初頭「天草の名望家」と呼ばれる天草各地の大庄屋家の方々の家内一同の方だけではなく血縁者(親族)が多数移住されています。
これは白川県の政策であり、背後には国がからんでいました。
詳細は後日詳しくかきます(..)

おじと・・もしかしたら・・この「久保田家」はずっとここに居たんじゃないかも・・?という話まで出てきて・・

すると・・気になるのがやはり中川氏に仕えた「窪田(久保田)甚助」と言う方になり・・???
この方の後裔は何処に行かれたのかな????

とりあえず、キーワード
※先祖もしくは本人が医者(医家)の久保田もしくは窪田氏。で
天草に関係する久保田(窪田)氏。
を元に探してみようとは思っています。
それと・・
すごく気になるのは曾祖父へ宛てた例の手紙の件なのです。

歴史研究会の古文書を専門に読める方に読んで頂いた時に
曾祖父宛ての手紙とは言わずにまず読んで頂いたところ
最初に黙読されて
「この手紙を受け取った人はかなり位が高かったようやね!」と言われたので
私が
「えええっ?そんな事はないですよ!(^'^)だって私の曾じいちゃんですから(^◇^)」
と言ったら、その方がビックリされて・・
「何でやろか??それに葦原様って書いてあるバイ???」と。
確かに「葦原様」と曾祖父が何故呼ばれたのかはまったく!!?解りません??
ブログ 曾祖父への手紙
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12121660870.html

何だか窪田(久保田)家に秘密があるのかな?
もしかしたら・・曾祖父の実家の「久保田家」は”よそから”球磨に戻ってきたのかな??(もしかしたらですが・・)
それに親戚が「久保田」と「窪田」とあるのも気になるし・・?
やはり、キーワード
※先祖もしくは本人が医者(医家)の久保田もしくは窪田氏。で
天草に関係する久保田(窪田)氏。
を元に探してみようと思います。(..)

もう一つ!家の宮原家で解った事が。
おじが「おまえん所の宮原の親戚バッテンね。久保田の繋がりかどうか解らんけど、もしかしたら、その前の宮原家かもしれんけど、上村の麓に親戚があるぞ!」
「おばさん(私の祖母)を連れて行った事がある」
とおじが言うので、私が
「あっ!犬童家やろ(^'^)椎葉の親戚の!」と言うと・・おじが
「麓で近いバッテン、あそことは違う!宮原の親戚の犬童家タイ」と・・
あんにゃ〜(?_?)宮原の親戚の犬童家??

うんがっ????(?_?)・・そう言えば・・
祖母は私に「犬童家もここと親戚」と教えてくれていましたが・・
私はてっきり「椎葉家と親戚の犬童家」と思っていました((+_+))
宮原家も上村麓の別の犬童家と親戚だったんだ・・勘違いしていました((+_+))

祖母も天国からオロオロしながら私の調査を見守っているのでしょう(@_@。

と言う事で・・家の方に関する新情報でした(..)

ばあちゃんはこのような孫娘にとても頼りになる須恵の平川家の系である
たけぽん様とめぐり合わせてくれたのかもしれません(@_@。

ありがとうございます。たけぽん様。(@_@。
では。
[34]たけぽんさんからのコメント(2017年02月07日 20時32分12秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

お忙しい所、わざわざすいません(>_<)

平河家が結構な家柄だから、普通の婚姻関係は
まずないなぁ・・・とは思ってましたが・・・

うちの中川(もう書いちゃいます)は
ミヤハラ様のコメントの中の1字が
入ってますΣ(・ω・ノ)ノビックリ

この、ミヤハラ様の書かれたのが本当なら・・・
((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル

やはり、平河家は
タダ者ではないですな(>_<)ヒィィィィ〜

こちらこそ、色々教えて頂き感謝しています。

祖母は生前

あたしには、誰も何も教えてくれなかった
(もう、家柄とか関係ない時代だから?嫁に
行く立場だからか?)から、あまりよく(平川の事)
は知らんのよ。

だけど、家は平河義高公の家系で
家老の家だったんよ。

・・・と、この事(他は前に記述した事)は繰り返し
言ってました。

なので、ご先祖様を調べるにも手探り状態で
正直、諦めてた頃にこのスレッドを見つけました。

こちらこそ、本当にありがとうございますm(_ _)m

[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月08日 08時45分53秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

たけぽん様
かなり以前のコメントには書いていたのだけど・・最近は書いていませんでした(..)
実は・・家の宮原家も「一字」のお家と親戚です!
江戸時代の宮原村の地頭であった「新堀金兵衛」(江戸時代中期の相良家家老、宮原公全の甥又は孫の宮原金兵衛の可能性が大きい)
後裔の私の曾祖母の実家に嫁がれています(p_-)

中川家は相良藩士内にはその名が見えません(p_-)
おそらく・・いずこからお出でになったのではありませんでしょうか?(p_-)

所で・・私事ですが・・
多良木の平川のおじから聞いた「天草の楠浦出身の家から久保田家に嫁がれた方がいる」
この事から最初に調べてみたのです。(実は・・楠浦の地名を他の人から聞いた事があったので(p_-))

天草の楠浦の史跡をまず見ると古墳が多い町でした。
熊本県の遺跡
http://www.isekiwalker.com/pref/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C/85

じ〜っと見ると!!ああああ〜〜〜〜〜〜!!
鬼塚遺跡
http://www.isekiwalker.com/iseki/253681/
所在地
熊本県天草市楠浦町鬼塚

あった!!鬼塚!鬼塚だっ!!!!!
そうです!私が先祖は楠浦から来たと聞いたのは「鬼塚」さんからでした!!
と言うか・・
この「鬼塚」さんと私の父は同級生で大親友。そして・・其々の親から「親戚」だと聞いてはいたのですが・・
二人とも何故親戚なのか全く解っていなかったのです。
所が・・
多良木の平川家繋がりの某家出身の大学教授の方(久米の祖母の従弟の大学教授の方とは別の方です)が叙勲を受けたお祝の写真に鬼塚のおじさんが移っていて・・
家に用事で来られた鬼塚のおじさんに「何故ですか?」と聞いたら・・
「何かよく解らんとやけど・・家は多良木の平川さんとは親戚らしい・・」と。
この時に「家は元々、天草の楠浦なんやけどね・・?」と言ってらした・・
曾祖父の実家「久保田家」に嫁いだ方とは・・鬼塚家の方に間違いないでしょう(p_-)
やっと謎を解きました(p_-)

しかし・・鬼塚氏とは縁が多すぎる・・
ここからはXファイルのテーマソングを口ずさみながら読んで下さい(p_-)

実は・・私の主人の父は「鬼塚家」から「M田家」に養子に入っているのです。
だから主人の旧姓は「M田」
義父の出身地は・・・天草です\(◎o◎)/!
そして、私達夫婦は小倉で出会いました(p_-)
ちなみに、義母の曾祖父は「望月家」から「中村家」に養子に入った方です(p_-)
みな・・小倉の人ですが・・めちゃくちゃ縁を感じます。

鬼塚氏との繋がりはこれだけではありません(ー_ー)!!
私の父のふた従妹。球磨・人吉には住んでいません。恋愛結婚で嫁いだ先は
鬼塚家です\(◎o◎)/!
聞くと・・実家は天草だそうで・・

何だ!!!この摩訶不思議な「鬼塚」家繋がりは!!!!!

鬼塚氏・・むむっ・・
きっと、先祖の縁でしょう・・有馬氏の香りがプンプンします(p_-)

日本の苗字七千傑様の《有馬氏/大村氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02013.htm#002
※※上記の他【鬼塚氏】が有馬氏族、【中条氏】【浦氏】【間瀬氏】【永岡氏】【青池氏】【渋江氏】が
大村氏庶流を称する。

何だか・・御先祖様のお導きに驚いてばかりです。

Xファイルのテーマソングと共にお届け致しました(..)

では(^'^)


[36]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月08日 20時38分58秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今晩は(^'^)

「中川家」と「久保田家」が古から続く球磨の平川家を継いでいる・・
さらに・・家の方へは、久保田氏の”血”が姻戚関係を通じて流れている・・

そう考えると・・やはり、私は曾祖父の実家の「久保田氏」を調べない訳にはいかないな〜
と思いまして・・
相良史には久保田(窪田)氏が医家であった記録は今の所見つける事が出来ませんでした。
一旦外出して帰宅後、天草・医者・久保田(窪田)のキーワードで調べたのですが・・
中々何も出てきませんでした。
何だろう・・どうしても久保田甚助と言う方が気になって仕方ありません((+_+))

今朝、天草の「名望家」の球磨移住について書きましたが・・
実は「多良木」限定で他の地域から信じられないくらいの沢山の方々が移住されて来られています。
多良木限定の移住者の方々は・・福岡県の筑後地方から来られているのです。(筑後・柳川・浮羽・久留米等の地方)
現在、多良木の中心にある商店街の約3分の2の家々は「筑後地方」から来られています。
中心街以外にも、筑後地方からの移住者の後裔の方々が多数現在住んでいらっしゃいます。
この事を知ったのは求麻郷土研究会の勉強会での事でした。
移住は明治初頭から始まったようです。

実は・・
私が見つけていた祖母の言う「大事な書類」の中に平川の曾祖父の銀行との取引の書類が多数あったのですが、その銀行が
「浮羽銀行 多良木支店」とあって・・見た時に
「はい???(?_?)何で浮羽銀行??」と思ったのですが、勉強会でその謎が解けました。

ナント、当時の筑後地方にあった「浮羽銀行」までもが多良木に支店を出していたのです・・

今年の正月に穐岡のおばにこの事を話すと、とても詳しく説明してくれました。

筑後地方(筑後・柳川・浮羽・久留米等)の富裕層の方々が多数、多良木に来られて、土地を買い商売を始めたり、山や田畑を買ったりして、多良木は繁栄して行った・・と教えてもらいました(^'^)

本当に知らない事ばかりです・・

しかし・・
「何故?どのような縁で福岡県筑後地方の方々が多良木に移住して来られたのか?」
と聞いても、どなたも「今の所理由は解らない」との答えばかりです。
よく聞くのが「球磨はお米が美味しいから(^◇^)」と
言いますが・・「筑後地方」は筑後平野が広がり米の名産地です(;一_一)
謎ばかりです・・・
銀行まで来ているのですから・・

色々考えて見たのですが
もしかしたら・・久保田(窪田)甚助。この方の後裔が筑後地方で医者をしていたりして・・他の方々と一緒に球磨の多良木に戻って来られていたりして・・
なんて・・推測してみたりしました。

でも・・じゃあ何故「天草」の人との縁が発生するのか・・????

十五代 九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。
球磨・肥後・豊後(岡藩)・天草・筑後・多良木 に共通する何かがあるのかもしれません(?_?)

何だかもや〜っとします・・

では(..)
[37]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月09日 07時14分02秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

今まで、家の親戚筋に「家と○○家は何故親戚なのか?」と聞くと
殆どの回答が「う〜ん、似た様な所から血を”ひっぴゃ〜こっぴゃ”しとるとタイ」
と言われてきました。
(須恵の平川家から椎葉のおじ・おばの従弟の家に嫁いで来られた方も同じ事を言われていました(p_-))
注※球磨弁”ひっぴゃ〜こっぴゃ”とは「引っ張り合う」と言う意味です(..)
きっと、現代に生きる皆にとって、その事はさほど不思議でもなく、当たり前の事として、気にする事もないのでしょうが・・
しかし・・「”ひっぴゃ〜こっぴゃ”した」この事がとても重要な事なのだ!と
つくづく感じています。

今朝、また、新たな発見がありました(p_-)

曾祖父の実家「久保田家」さらに周辺の一族の方々とは、祖母が亡くなるまでは祖母を通じて親戚関係を続けていたようですが、父には全く受け継がれていない状態です。
父のふた従姉(戸籍上では私とふた従姉)となるおばさんがその中の1軒はよく知っているとの事で、「今度連れて行ってあげるね」と言ってくれています。
そこで、その1軒はどの辺りなのかな?と今朝、家に町から配られていた地図を見ていたのです(隣町ですがギリギリ記載されていました)

虫眼鏡で拡大して見た所・・ああああああっ!!という発見が!
曾祖父の実家の一族が集まっている所に1軒別の「姓」がありました。
その「姓」とは・・・「武藤氏」でした\(゜ロ\)(/ロ゜)/ きゃ〜っ!!!

ええええっ!!???「武藤氏」が何故ここに?????!!!!!
と言うか・・少弐氏を調べている時に、あれだけ「武藤氏」に拘っていたのに
現代の球磨在住の武藤氏を調べる事はしていませんでした((+_+))
球磨にはいらっしゃらない(ー_ー)!!・・と勝手な先入観を持っていたからです。
いらっしゃった!それも!曾じいちゃん(曾祖父)の実家一族の家々に囲まれるように御近所さんで!!

早朝から球磨盆地の山々にこだまするような大きな声で
「まじですか〜〜〜〜〜!!!!!」\(゜ロ\)(/ロ゜)/
と叫んでしまいました。

それから、冷静さを取り戻し・・調べました(p_-)
「武藤氏」・・人吉には0軒です・・がっしかし(ー_ー)!!
あさぎり町・湯前町に其々1軒。多良木町には4軒。
とても少ないですがちゃんと球磨にも「武藤氏」がいらっしゃいました。

しかし・・この軒数から推測すると・・
明治以降に別の姓から「復姓」されたか・・もしくは「よその土地」から明治以降に来られたか?

しかし!曾じいちゃん(曾祖父)の実家の一族の家々と「武藤氏」
想像していませんでした・・・

また、一つ発見してしまった・・・
というお話でした。

では(..)
[38]たけぽんさんからのコメント(2017年02月09日 08時23分27秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

・・・φ(..)フムフム・・・
[39]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月09日 18時42分08秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

わたくしめ
マタマタ見つけてしまいましたゾ<m(__)m>

窪田(久保田)氏十五代 九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。
おそらく「甚助」とは幼名なので元服された後は別の名前に代わっているとは推測するのですが・・

中川内膳正(中川久盛)。この方の家臣団の中に「窪田(久保田)氏を探す為に
ネットを駆使して探しまわっていたのですが
ようやく、中川内膳正(中川久盛)家臣の一部の方々の記述を見つける事が出来ました。
サイト 岡藩 の 唐津城番に つ い て PDFに詳しく記されていました。
しかし・・家臣の方々の中に窪田(久保田)氏を見つける事は出来なかったのですが・・
所が!思わぬ「姓」が家老格として記されていました。
コピーが不可なので、皆様に、ぜひ、じっくりとご覧頂ければと(..) 御紹介致します。
サイト 岡藩 の 唐津城番に つ い て 竹田市立図書館館長 北村清士氏 PDF
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/kc03204.pdf?file_id=4705

肥前国唐津城 城番として岡藩第二代の中川内膳正久盛公は岡城から唐津城に向かい一年九か月勤番された。
大久保加賀守忠秀が改めて城主(唐津)となった事で、引き渡しを行い
総員 家老格二十五名、藩士三千名が三番手に分かれて帰城の為出陣した。

上記の家老格二十五名、藩士三千名
家老格 の中に 「秋岡吉左エ門」と言う方の名が見えます。
驚きました「秋岡氏」は中川氏の家老格だったのですね!

ぎゃあ!偶然です。父の弟は穐岡(秋岡)家に養子に入っています。
平川家について36のコメント31に父の弟が養子に入った穐岡(秋岡)家について詳しく書かせて頂いています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101553_69.html

松橋の秋岡家と中川氏家臣の秋岡氏とはどう繋がるのだろう?
しかし・・穐岡(秋岡)旧姓伊藤のおじいちゃんは、何故、多良木に写真館を開いたのだろう??(?_?)

さらに家臣団をよく見ると・・
永田氏・那須氏・・家の親戚と同じ姓が見えます(p_-)(これは偶然でしょうが・・)
木村氏・・こちらがですね・・よく繋がりが解らないけど、私には、祖母は他人じゃない!と言っていた親戚と同じ姓ですね・・
小佐井氏・・珍しい姓ですが・・実は岡原には同じ姓の方いらっしゃいます・・
高畠氏・・江戸後期から相良藩にも高畠氏がいらっしゃいます。
武藤伊織・・武藤氏も中川氏の家臣団にいらっしゃったのですね・・
他にも、偶然か家の集落にある珍しい姓の方と同じ姓の方があって・・もや〜っとしていますが・・偶然でしょう(..)
中川氏家老格の方々の中に「三宅氏」も見えます。

ただ・・沢山の中川氏一族の「中川姓」の方々の中にどうも気になる名前の方がお一人いらっしゃるのです。

54ページに見える
中川頼母 この方です(..)

「頼母」・・「頼母」・・??? このお名前を見て「相良氏族」の名を想像するのは私だけでしょうか(?_?)
「頼」の字は相良氏族の窪田(久保田)氏の通字でもあります・・(?_?)

めちゃくちゃ気になり始めて・・豊後岡藩を調べていたらさらに
「中川家文書」なるサイトを見つけました!
そこに!!豊後岡藩 中川氏家臣の方とナント!天草の繋がりを発見致しました!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
「中川家文書」
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/nakagawakemonjyokaratu.html

肥前唐津寺沢氏

 寛永十年頃
        
 からつ(唐津)ノ覚
中略・・
御家老
 岡じま二郎兵へ殿
御家
 同(ママ 二郎左衛門殿

 ミやけ(三宅)藤兵へ殿あまくさ(天草)ノぐんだい(郡代)

 同  角左衛門殿
覚ノ衆と申候
 中村藤左衛門殿

 せきノ大膳殿

 なびか三郎兵へ殿
一奉公人かかへ 無御座候
以下略・・

※御家 ミやけ(三宅)藤兵へ殿あまくさ(天草)ノぐんだい(郡代)
\(゜ロ\)(/ロ゜)/ やった!!!見つけました!!!
天草と豊後岡藩の関係!ついに見つけましたぞよ!!

豊後岡藩の「三宅藤兵」という方が天草の郡代でした!!

さらに・・
覚ノ衆と申候
 中村藤左衛門殿

あああああっ!!この方は!!もしや!!?
家の親戚の「金子氏」そして祖父を産んだもう一人の曾祖母の実家「吉鶴氏」を調べた時に「宮田村」の庄屋家として名があった「中村氏」

やった!やった!やはり(p_-)
推測通り!(p_-)豊後岡藩と天草は繋がっていました!!

それに・・
窪田(久保田)十四代 頼豊(大蔵少輔)の子「 甚助」 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え・・
『中川頼母』
窪田(久保田)頼豊次男「甚助」・・中川頼母
頼の文字が見えますね・・やはりめちゃくちゃ気になります(p_-)
色々拝見しましたが・・他の中川氏に「頼」の文字は無かったような・・(?_?)
勉強不足かな??

今度は天草の歴史を勉強してみようと思います
(^O^)/
では(..)
[40]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月10日 18時07分35秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2017年02月14日 18時16分13秒
[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月11日 10時57分25秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

一晩、頭を冷やして(今日は大寒波です)冷静になりました(p_-)

最近、あまりにも色々登場する「姓」が多くて混乱しますが、冷静に分析すれば
きっと全て繋がるはずだ!と思いました。
きっと、今までの調査の集大成?の時期が訪れたのだと考えます。
(そもそも・・最初から謎だらけでしたから・・好機だと受け止めました)

そこで、朝から調査開始です(p_-)

まず・・大村氏と橘公業の後裔である肥前渋江氏は姻戚関係にある事に気が付きました。
渋江氏 系図
http://tatibanaya.web.fc2.com/shibue.html
うまく張り付くか心配ですが(..)
中略・・
公重 ─ 公治 ─ 公親 ─ 公朝 ─ 公匡 ─ 公代 ┬ 公忠 ─ ※公勢
└ 公泰 ─ 公直

※公勢以降
公勢 ┬ 後藤澄明─ ─ 貴明 ┬ 多久家忠
├ 公政 ├ 惟明
├ 渋江公直室 └ 竜造寺家信 ┬ 鍋島茂綱 ┬ 茂和 ─ 茂紀 ─ 茂正
├ 公親─── ┬ 公師 ┬ 大村公重 └ 茂延 └ 茂明
├ 公重 └ 公種 └ 公茂
└ 白石道長室

★ 渋江公勢
生没年未詳。渋江下野守公忠の男。右馬頭・薩摩守。妻は後藤職明の女。長島庄河古日鼓岳城主。相続争いにより大永7年(1527年)3月次男の公政・公政乳母これとともに三男公親に毒殺される。
★ 渋江公親
生没年未詳。渋江薩摩守公勢の三男。大永7年(1527年)父、兄を毒殺し父の遺跡を相続する。これを聞き後藤澄明(純明)兵を率いて、日鼓岳城を攻める。公親の一族郎党は澄明に通じていたため防御の術を失い、松浦郡波多氏を頼み、貴志長城に奔る。天文11年(1542年)波多隠岐守、松浦肥前守の援兵3千を率いて長島庄に打って出、旧領の回復を謀る。
★ 渋江公師
生没年未詳。渋江下野守公親の男。豊後守。大村純忠に仕え、後藤貴明の押さえとして波佐見村岳山城を守る。豊臣秀吉の薩州征伐に際して浅野左京大夫に因り、大村安堵の朱印を請う。隠居後、波多三河守の招きに応じて波多に住す。
★ 大村公重
生没年未詳。渋江豊後守公師の男。大村十右衛門純友の女を妻とし、大村喜前から大村氏を賜る。子孫は代々大村家の重臣として続く。
★ 渋江公茂
生没年未詳。渋江豊後守公師の次男。松浦鎮信に仕え、平戸に留まる。
★ 後藤澄明
生没年未詳。渋江薩摩守公勢の男。母は後藤職明の女。後藤職明の養子。
★ 後藤貴明
生没年未詳。大村純前の男。妻は後藤澄明の女。伯耆守。後藤貴明は大村純忠を度々攻撃し、当時の海外貿易港として有名な横瀬浦を攻撃炎上させたが、大村純忠滅ぼせず。
★ 後藤惟明
生没年未詳。平戸領主松浦隆信の次男。後藤貴明の養子。天正二年(1574年)6月、松浦隆信の意向を受けて、義父後藤貴明の暗殺を企てたが、これを事前に察知した貴明は黒髪城へ単身逃亡。その後、貴明は竜造寺隆信に援軍を依頼し、惟明は平戸に逃げ帰った。
★ 後藤家信(竜造寺家信)
生没年未詳。竜造寺隆信の三男。妻は後藤貴明の女。後藤貴明の養子。後藤家は竜造寺一門に列らなることになり、隆信の跡を継いだ竜造寺政家より竜造寺の姓を賜り竜造寺姓となった。しかし竜造寺宗家の断絶に伴い、鍋島直茂が豊臣秀吉に認められ国政を執ることとなり、子孫は鍋島家へ仕え、鍋島姓を賜る。家信はルイス=フロイスの『 日本史』に、キリスト教への理解を示した人として紹介されている。

(p_-)・・大村氏・渋江氏・後藤氏・竜造寺氏 は様々な問題は発生していますが・・しかし全てのこちらの「氏」が姻戚関係にある事が理解出来ました。

サイト 世界帝王辞典より 大村氏
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%B0%8F

私が気になる記述をピックアップさせて頂きます(..)

大村純前
生没年:?-1551
父:大村純伊
丹後守
今富城主
正室:(父:有馬尚鑑)
側室:
1534-1583 後藤貴明(肥前後藤家へ)・・・※
1533-1587 (養子)純忠
※渋江系図に記されている内容ですね(p_-)

大村純忠
生没年:1533-1587
父:肥前日之江城主 有馬晴純
義父:今富城主 大村純前
幼名:勝童丸
通称:民部大輔、丹後守
洗礼名:バルトロメオ
三城城主
1582 天正遣欧少年使節派遣
正室:おえん(父:西郷純久)
1569-1616 喜前
純宣
純直
純栄
娘(江上家種室) ・・・※
1575-1657 松東院 その メンシア(肥前平戸藩二代藩主 松浦久信室)

(p_-)・・・(?_?) あんれっ???江上氏が登場しました???
私・・かなり以前こちらのスレッドで「江上氏」について書いていたと思うのですが・・
平川家について20コメント15です
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101403.html
この時・・
========================================
それから「江上氏」で思い出したのですが・・
関係ないとは思うのですが・・祖母が料理研究家の「江上トミ」さんと、御縁がありまして・・私が中学生の時、「この本は大事にしてお嫁さんに行く時に持って行きなさい」と「江上トミ」さんの料理本(すごく厚いりっぱな本でした)を祖母から渡されました。
江上家との繋がりを話してくれたのですが・・悲しいかな忘れてしまいました(@_@。
==============================================
と書いていたのです(..) 平川家について20コメント15でも書いていますが
祖母が元気な頃に、もっともっと孝行して、なお且つ、沢山話を聞いておけば良かったと心から反省しています。(..)

江上氏登場でビックリしました。
そこで・・一旦 江上家種という方を調べてみました。 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E4%B8%8A%E5%AE%B6%E7%A8%AE
龍造寺隆信の次男として生まれる。江上武種の養子となって江上氏の家督を継ぎ、父から肥前国神埼郡勢福寺城主に任じられた。父の命令で各地を転戦し、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにも参加している。
天正17年(1589年)、鍋島直茂が佐賀城に移ったため、代わって蓮池城主となる。なお、このときに鍋島直茂の嫡男・鍋島勝茂を養子として迎えている(のち解消)。
豊臣秀吉の文禄の役にも参加して渡海したが、釜山で戦死した。
威風堂々とした体格で、特に武勇に優れていたといわれており、兄弟の中で最も父、隆信の才を受け継いでいた事が窺える。

別名 権兵衛尉(通称)
官位 武蔵守
氏族 龍造寺氏 → 江上氏
父母 父:龍造寺隆信、養父:江上武種
兄弟 龍造寺政家、江上家種、後藤家信、玉鶴姫(蒲池鎮漣室)
妻 正室:大村純忠の娘
子 智子(鍋島忠茂正室)、佐野茂美、江上勝種
養子:鍋島勝茂
※鍋島直茂が佐賀城に移ったため、代わって蓮池城主となる。
鍋島氏は最初から佐賀城の城主だと思っていたので勉強不足でした(..)
蒲池氏と言えば聖子ちゃんの御実家ですね(^'^) 興味があるので(コラコラとの声が・・)調べてみます(^'^)

玉鶴姫(蒲池鎮漣室)・・蒲池鎮漣 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E9%8E%AE%E6%BC%A3
蒲池 鎮漣(かまち しげなみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。筑後十五城の筆頭大名でもある。兄・蒲池鎮久と共に大友義鎮(宗麟)から偏諱を賜り、鎮漣と名乗った(表記は鎮竝(新字体:鎮並)とも)。蒲池氏17代・後蒲池8代当主。
中略・・
龍造寺隆信との確執[編集]
鎮漣は龍造寺隆信に幕下の礼をとり、その筑後国進攻に全面的に協力する。しかし、やがて隆信と対立するようになった。隆信は天正9年(1581年)に2万の兵で柳川城を包囲するが、「柳川三年」という戯れ歌があるほどに難攻不落で知られた柳川城はなかなか落ちなかった。しかし長期の籠城で城兵も疲弊し、城内の兵糧も尽きたので、鎮漣は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦し、鎮漣に隆信の娘(玉鶴姫)が嫁すことを約した(『九州治乱記』。婚儀の約束の時期についてはほかに、隆信が肥前国から追放され蒲池氏に保護された時期との説もある)。

以下はじっくり読ませて頂きました。
しかし・・一つ驚いた事が・・
父母 父:蒲池鑑盛、母:乙鶴姫(貞口院、田尻親種娘)
兄弟 鎮久、鎮漣、統安、統春
妻 玉鶴姫(龍造寺隆信娘)、赤星統家娘
子 徳子(徳姫)、久鎮(宗虎丸、蒲池統虎)、
経信、首藤鑑続、石井孫兵衛室

(p_-)・・(?_?)・・あんにゃっ???
妻 玉鶴姫(龍造寺隆信娘)、赤星統家娘
赤星氏ですね・・ 偶然ですが赤星家は家の親戚にあります。
先日コメントした祖母の従妹の嫁ぎ先です(92歳になる方です)
そういえば・・何故?うちの親戚の赤星家は多良木に来られたのだろう???
先日聞いた時は・・やはり「球磨はお米が美味しいから・・」と言っていましたね(p_-)
何だか・・こちらは偶然ですがとても気になります・・(?_?)

蒲池鎮漣の妻は
玉鶴姫(龍造寺隆信娘)・・江上家種の姉妹
赤星統家娘

江上氏・赤星氏・・めちゃくちゃ偶然ですがどちらも家と繋がっている・・(?_?)
偶然でしょう(ー_ー)!!

まだまだ・・大村氏の調査は続行しますが
本日、今から外出致しますので・・
コメントは明日にでも(^'^)

では(..)
[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月12日 10時05分53秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

昨日のコメント41
〉大村氏・渋江氏・後藤氏・竜造寺氏 は様々な問題は発生していますが・・しかし全てのこちらの「氏」が姻戚関係にある事が理解出来ました。

プラス・・有馬氏・鍋島氏です。(じっくり読んでいない証拠ですね(..) 反省)
正確には
大村氏・有馬氏・渋江氏・後藤氏・竜造寺氏・鍋島氏 は様々な問題は発生していますが・・しかし全てのこちらの「氏」が姻戚関係にある事が理解出来ました。
でございます(..)

サイト 武家家伝 大村氏 より
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ohmura_k.html
大村氏は、天道根命五世の孫大名草彦の子若積命が景行天皇の西征に従い、肥前国津立、すなわち彼杵、高来、藤津地方の賊を平らげ、その功により国造に補せられたものという。したがって、大村直の後裔ということになる。しかし、後年大村氏自身は紀姓を称し、また藤原純友の後裔とも称している。
 文治二年忠澄が源頼朝から、彼杵、藤津二郡の地頭職に補せられたという。もっとも郡の地頭ということではなく、二郡内の各郷などの地頭に一族が補任されたということであろうか。その後、室町以前の歴代および事跡については不明なところが多く、一説に、蒙古襲来のとき家信・家直父子が筑前博多において防戦したと伝えられる。
 南北朝時代、大村氏は南朝に属して、菊池氏らとともに、少弐氏・仁木氏らと戦ったことが知られている。
 徳純・純治あたりから次第に明確となってくるが、純前の父純伊あたりについても異説がある。純前の養子となって大村氏を継いだのは有馬晴純の子純忠である。純忠は日本初のキリシタン大名となっている。
 ところで、純前には又八郎と称する実子が一人いた。本来ならば大村の家督をつぐべき身であったが、かれは有馬晴純の仲介によって武雄の領主後藤純明のもとに養子に出され、その跡に純忠が大村家の養子に迎えられたのである。
 純忠が大村家を嗣いだ翌天文二十年に、養父の純前が死去した。一方、武雄の後藤氏の養子となった又八郎は、のちに後藤貴明と名乗り、大村家をついだ純忠に終生恨みをもちつづけ、同家の反純忠派の家臣たちと通じて、しばしば純忠を危機に陥れた。

(p_-) 新たに勉強しました。
※大村氏は、天道根命五世の孫大名草彦の子若積命が景行天皇の西征に従い、肥前国津立、すなわち彼杵、高来、藤津地方の賊を平らげ、その功により国造に補せられたものという。したがって、大村直の後裔ということになる。しかし、後年大村氏自身は紀姓を称し、また藤原純友の後裔とも称している。
(p_-)大村氏自身は後年「紀」姓を称し・・・
そうだったんだ・・・「紀」姓・・何だかんだと調べても、今までも私の調査対象は結局「紀」氏と結びつきます・・(..)

さて、昨日の調査を続行致します(p_-)
サイト 世界帝王辞典より 大村氏
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%B0%8F

私が気になる記述を続けてピックアップさせて頂きます(..)
大村喜前
生没年:1569-1616
父:三城城主 大村純忠
別名:嘉前
洗礼名:ドン・サンチョ
従五位下
丹後守
1587-1616 肥前大村藩初代藩主
1602 棄教
正室:(父:肥前日之江城主 有馬義純)
1592-1619 純頼
娘(肥前平戸藩三代藩主 松浦隆信室)・・※
娘(大村公頼室)・・※ ここです(p_-)
新太郎
娘(福田兼則室)
娘(大村純茂室)
娘(大村敏武室)

(p_-)娘(大村公頼室)
昨日のコメントで書いた渋江系図にありました
※大村公重
生没年未詳。渋江豊後守公師の男。大村十右衛門純友の女を妻とし、大村喜前から大村氏を賜る。子孫は代々大村家の重臣として続く。
こちらの系ですね(p_-)
さらに・・松浦氏 昨日のコメントにもありましたが
※大村純忠 娘 1575-1657 松東院 その メンシア(肥前平戸藩二代藩主 松浦久信室)
※大村喜前 娘 (肥前平戸藩三代藩主 松浦隆信室)

近いし当たり前の事なのでしょうが松浦氏との姻戚関係。
松浦氏一族に仕えた値賀氏・淵田氏さらに有馬氏の名が、私の住む「橘薩摩の一族が支配していた」と言われる旧久米郷の宮原村に1655年以降見えるようになる事は・・ここまで調べてみたら「偶然」ではなくて何か・・”あたりまえ”の
ような気がしてきました・・
さらに・・
五瓜に剣唐花紋と五瓜に剣片喰紋の紋を使用する私の曾祖父の実家の一族と淵田氏は姻戚関係にある事も・・もう「偶然ではない」事を確信しました(..)
それと・・もう一つ気が付いていた事があって・・
天草から明治初頭に私の住む旧宮原村に移住された「名望家」の一族の中に「野田家」があったのですが・・その「野田家」が住したという場所(地図に示されていました)に現在住んでいる方の名は「淵田家」です。
実は・・こちらも家の親戚です(..)
「吉志峯城主 波多三河守」の家臣であった
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里  立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里  立川村   三百石 ※松浦古事記より
偶然じゃない・・と今は確信しています(..)

大村氏の調査続けていきます(p_-)
大村純長
生没年:1636-1706
父:甲斐徳美藩二代藩主 伊丹勝長 ・・・※
義父:肥前大村藩三代藩主 大村純信
従五位下
因幡守
1651-1706 肥前大村藩四代藩主
正室:都智(父:大村政長)
継室:亀(父:日向延岡(県)藩二代藩主 有馬康純)
娘(矢島生駒家三代当主 生駒親興室)
1662-1712 純真
1664-1712 純尹
大田原清勝
娘(福田長兼室)・・・※
側室:相沢氏
1670-1738 純庸
1673-1741 西郷寿員(西郷氏へ)
五郎八
娘(久世広隆室)
娘(堀秀行室)
(養子)娘(平岡頼雄室)
(p_-)・・
大村氏には伊丹氏から養子が入られたのですね。
さらに・・娘(福田長兼室)
大村氏と福田氏との姻戚関係が見えます。
先に転記した
大村喜前 娘娘(福田兼則室) こちらも「福田氏」です。
偶然かもしれませんが・・
平川の私の曾祖母の兄弟姉妹
長男:椎葉家を継いだ源市氏 長女:平川家に嫁ぐ(私の曾祖母) 二女:福田家に嫁ぐ 次男:深水家を継ぐ
こちらの福田家は湯前の名士と言われたお家で、私の曾祖母の妹は湯前の町長婦人でありました。
その後、湯前町長を辞めた福田氏は朝鮮半島に渡り大農園を経営していました。
子供には恵まれなかったのですが、椎葉のおじから聞くと百人以上の方々が大農園で働いていたそうです。
しかし・・こちらの福田家も相良藩士では無かったようで・・何処から来られたのだろう?と思ってはいたのですが・・
偶然かもしれませんけど・・

大村氏の調査はまだまだ続けますが本日、外出致しますので、この続きは明日にでも書かせて頂きます(..)

後年、大村氏は相良氏と姻戚関係を結んでいます(p_-)(明日、書きます(..))

曾祖父の一族の先祖は・・何処かの藩で医者をしていたのかな???とは推測しているのですが・・
とりあえず、全体を理解しないとどこの藩の医者だったのかも解りませんので(..)
大村氏の調査 明日も続けます(p_-)

では(..)
[43]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月12日 11時38分28秒 ) パスワード

追記です!

私はやはりおっちょこちょいだ!!
大村氏・・「大村」この地名に気が付いていませんでした!
本当に私はバカでおっちょこちょいです!

木上村誌に書かれていた窪田氏(久保田氏)の系図!
村誌編集者の方のコメントを抜きにしてそのまま書くと
窪田(久保田)氏十五代 九介(官房丸 八才の時孤となる。大村に移住。本翁宗官、墳墓は大村塘池に在り。)
九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。

確かに大村という村は球磨にありました。
「大村」とは、現相良村内にある旧深水村・旧柳瀬村を指します。(後世分かれました)
すなわち・・地名が肥前から動いていた可能性が高い!という事です。

木上村誌編集者の方は
〉父窪田大蔵(頼豊・木上地頭)は「晋州」にて戦死、母も若くして亡くなり、八才の時に弟と共に大村に移り住み他家に養われて成人した
と書かれています。
ここで、気になるのは「他家」という言葉で、本来ならば、養育した家は球磨郡内であれば記録に残っているはずなのに・・?と以前から気になってはいました。

しかし・・もし球磨に住んでいない方々が上記の窪田(久保田)氏系図を
先入観なしに読んだらどうなるのでしょう
窪田(久保田)氏十五代 九介(官房丸 八才の時孤となる。大村に移住。本翁宗官、墳墓は大村塘池に在り。)
九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。

「大村」という地名は球磨にあり地名は動いている・・
しかし・・系図にある「大村」は、はたしてどの地を指すのか・・?

外出前に気が付きました(p_-)
では。
[44]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月13日 11時25分31秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

昨日、えびの市の「えびの市歴史民俗資料館」に行って参りました(^'^)
主人が「今日はずっと行きたがっていた所に連れて行くよ(^'^)」と言うので
ワクワクしていたらサプライズでした\(^o^)/
古墳から発見された剣などを見るのを楽しみにしていたのですが・・・
時代が違うのですが大発見がありました!
飯野城 城主 島津義弘 関連の展示コーナーの解説パネルにナント!
私が住む旧宮原村の記述があったのです\(゜ロ\)(/ロ゜)/
旧宮原村の明治以前の記録は殆ど「こちら」には残されていないので大感激しました。
館内の職員の方にもお話を伺ったのですが・・
詳細は後日コメントしますが・・どうやら・・島津義弘。この方に仕えた僧の方は旧宮原村の寺とは御縁があったようです(p_-)
(旧宮原村の草庵で修業をされていたようです)

では・・早速、昨日の続き「大村氏」についての調査を始めます(p_-)
大村純尹
生没年:1664-1712
父:肥前大村藩四代藩主 大村純長
幼名:源之助、数馬
1689 従五位下
1689 筑後守
1706-1712 肥前大村藩五代藩主
正室:蝶(父:上野小幡藩三代藩主 織田信久)
亀次郎
源之助
娘(大田原清在室)
1670-1738 (養子)純庸


大村純庸
生没年:1670-1738
父:肥前大村藩四代藩主 大村純長
義父:肥前大村藩五代藩主 大村純尹
幼名:伊織、幾之助
従五位下
伊勢守
1712-1727 肥前大村藩六代藩主
正室:諸星氏
吉三郎
1711-1749 純富
娘(大村保勝室)
純皓
娘(大村富敬室)
娘(針尾保納室)
虎之助
娘(下野大田原藩八代藩主 大田原友清室)
熊野富包

三好富次・・・三好氏ですね・・ 
そう言えば・・偶然ですが私が子供の頃、祖母が球磨に来られた三好家に親身に色々させて頂いていました。もちろん偶然でしょう(ー_ー)!!

大村純富
生没年:1711-1749
父:肥前大村藩六代藩主 大村純庸
幼名:八太郎
従五位下
河内守
1727-1748 肥前大村藩七代藩主
正室:恵津(父:上野沼田藩二代藩主 本多正武)
側室:笹井氏
1734-1761 純保
采女

大村純保
生没年:1734-1761
父:肥前大村藩七代藩主 大村純富
幼名:幾之助
従五位下
弾正少弼
1748-1760 肥前大村藩八代藩主
正室:(父:大和高取藩五代藩主 植村家包)
純将
1759-1814 純鎮

大村純鎮 ・・・※
生没年:1759-1814
父:肥前大村藩八代藩主 大村純保
幼名:新八郎
従五位下
信濃守
1761-1803 肥前大村藩九代藩主
正室:留(父:松平容章、義父:陸奥会津藩五代藩主 松平容頌)
側室:均氏
鎮、憲(備中松山藩五代藩主 板倉勝・室)
1786-1838 純昌
娘(酒井忠明室)
?-1815 章(出羽天童藩初代藩主 織田信美室)
娘(隈包辰室)
純文
(養子)娘(越前敦賀藩六代藩主 酒井忠藎室、父:有馬純養)

(p_-)・・大村純鎮 「鎮」・・鎮の字 この文字は先日コメントした蒲池氏の方々の通字じゃなかったかな?
コメントを書いた方々に「鎮」の文字が付いていたような・・?

続けます(p_-)

大村純昌
生没年:1786-1838
父:肥前大村藩九代藩主 大村純鎮
幼名:春之進
従五位下
上総介
丹後守
1803-1836 肥前大村藩十代藩主
正室:律(父:石見津和野藩八代藩主 亀井矩賢)・・亀井氏
純鑑
純徴
側室:仙(兄:福田頼之)
1822-1882 純顕
1823-1874 阿部正備(阿部氏へ)・・阿部氏
道純
-1855 訓(松平乗懿室)
操(肥後人吉藩十四代藩主 相良長福室)・・・※ こちらです!(p_-)
1828-1845 高木正功(義父:河内丹南藩十一代藩主 高木正明)
1829-1855 小出英教(小出氏へ)
1831-1882 純熙
孝純
-1862 咸、感(上野小幡藩四代藩主 松平忠恕および摂津三田藩十二代藩主 九鬼精隆室)
1835-1853 植村家興(植村氏へ)

(p_-)(p_-)
父:大村純昌 母:福田頼之妹仙 息女 操(肥後人吉藩十四代藩主 相良長福室)
ついに繋がりました!大村氏と相良氏
肥後人吉藩十四代藩主 相良長福 とは
父:肥後人吉藩十三代藩主 相良頼之(正室: 亀井矩賢)
兄弟姉妹
準之助
於栄
於保(米良則忠および宮原健之助室)
1836-1903 池田章政(池田氏へ)
於英(相良中務室)
1841-1885 頼基
貞四郎
(p_-)という方で!
さらに・・弟の「池田章政」。この方を通じて「中川氏」とは姻戚関係になります!
先日、コメントしました!
中川久任 
生没年:1871-1935
父:浅野懋績
1897-1935 伯爵
貴族院議員
妻:池田隆子(父:備前岡山藩九代藩主 池田茂政)
(p_-)・・池田茂政。この方は池田章政(相良頼之子息)の養父の方であります!
さらに!池田茂政。この方の兄上は
江戸幕府第15代将軍徳川慶喜 \(゜ロ\)(/ロ゜)/

ナンダナンダ!相良氏・大村氏・中川氏・池田氏・徳川氏
ものすごいネットワークになっています\(゜ロ\)(/ロ゜)/

うん???(゜-゜)(?_?)・・・ぎゃっ!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
やばいやばい((+_+))他人事ではないですよ!!(ー_ー)!!
池田章政(相良頼之子息 養父:池田茂政)の姉妹の方は於保:宮原健之助(健吉)室
ぎえええええっ!!
球磨の宮原一族もこのネットワークに繋がっている!
やばいやばい!(驚いて言葉使いが悪くなってきました)
ちなみに・・宮原健之助(健吉)は宮原宇右衛門公全の直系ですが
宮原健之助(健吉)の養子に入り跡を継いだ方は「人吉宮原家」様の御先祖様の弟様でしたよ!!
ふたつの宮原氏の系は南北朝時代に分かれていますが、ここで(明治初頭)「合流」しています。
「人吉宮原家」様ご覧になっていらっしゃるかな?

あっ!私「ミヤハラ」の先祖ですが、少しだけ見えてきました(p_-)
キーマンは「宮原宇右衛門公全」。そして鍵を握っていたのは「万江家」でした(p_-)
まあ・・この話は追々・・うん?(?_?)
何だか「人吉宮原家」様が遠くから
「こら〜っ!!ミヤハラ家の調査も大事だろうが!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
と言われたような・・・(゜-゜)
ハイ・・(..) 追々・・(..)
(毎朝、仏壇に「宮原」の御先祖様、すこしだけお待ち下さい(..)とお詫びしています・・)

うんがっ((+_+))・・しかし・・未だに窪田(久保田)氏が見えてこない(@_@。
うん(?_?)・・(^◇^)きっと何処かの藩内で町の方々に親しまれる時代劇に出て来るような優しいお医者さんだったんじゃ〜ないのかな〜
(^◇^)
所で・・
たけぽん様の御先祖様、「平川家」を継いだ「中川家」ですが・・
私、やはり、球磨以外から来られたんじゃないのかな?と思います。
相良氏は・・外家の相良長続(永富長続)が継いだ・・ここにやはり平河氏が関係しているのだと思うのです(..)
その「平川家」を継ぐにふさわしい「家」が「中川家」だったのじゃないのかな・・
それと・・球磨以外から来られたんじゃないのかな?のもう一つ理由が
「火事」の話しが伝わっていないからです・・
人吉は江戸末期に寅助火事という大火にみまわれて、城下の殆どが焼失しています。(詳しくは後日コメントします)
この話が伝わっていない事が不思議なのです・・
それに・・「平川家文書」は焼失しないで残っている・・
もしかしたら・・「平川家文書」は相良家に伝わったものではないのかな・・? 
それを・・中川家が引継いだ・・?
これはあくまでも私の妙な感からなのですが・・
たけぽん様、勝手な推測ですみません(..)
でも・・豊後辺りから・・もしかしたら球磨に・・「中川家」・・

(p_-) 大村氏の調査続けます。
大村純顕
生没年:1822-1882
父:肥前大村藩十代藩主 大村純昌
幼名:伊織、民部
従五位下
丹後守
1836-1847 肥前大村藩十一代藩主
正室:菊姫(父:越後新発田藩十代藩主 溝口直諒)
継室:整、勢以(父:秋田孝季)       ・・・・※(p_-)
娘(婚約者:蝦夷松前藩十三代藩主 松前徳広)
純一
-1861 静
娘(浅田安尚室)
娘(大村泰室)
岐丸
1849-1930 武純(分家へ)
1831-1882 (養子)純熙
1835-1853 (養子)植村家興(植村氏へ)

(p_-)
継室:整、勢以(父:秋田孝季)
秋田氏・・初めて登場されたので気になりました「秋田」です(p_-)
日本の苗字七千傑様のサイトで調べました(p_-)

日本の苗字七千傑様の【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏/難波吉士氏】姓氏類別大観に詳細が・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm
※ 安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命の子建沼河別命の裔孫と伝えられ、大和国十市郡発祥説が有力である。
 同族の大臣命は景行朝に那須国造となり、後世家系は藤原に改姓して源平合戦では那須与一宗隆が活躍する。
 他に皇子大彦命孫の磐鹿六雁命は、景行天皇東国巡幸に際して大蛤を御膳に供献して膳臣を賜姓される。
 平安朝の安倍晴明は、陰陽道、天文道、暦道に通じて朝廷に仕え、土御門家、倉橋家の2家は堂上家に列する。
 武家安倍氏は、中世に蝦夷管領の秋田城介職となり、江戸時代は秋田氏(岩城三春藩主)、阿部氏(3家)、井上氏(3家)、安藤氏で明治に至る。 安倍氏の裔は、安部、阿倍、阿部とも表記する。
(p_-)・・こちらは武内宿禰「紀氏」に繋がっているのですね。

(p_-)・・(゜-゜) あれっ??
秋田氏(岩城三春藩主)と那須与一宗隆は同族! です・・
宮原の親戚の那須家は小池家のすぐそばで、こちらの那須家には祖父の姉が嫁いでいます。
筑紫氏も見えますね(p_-)

それと・・「井上氏」なのですが・・偶然なのですが・・
子供の頃家の親戚の宮原家のすぐそばの「井上」家について祖母が家との関係を何か言っていたのですが・・全く思い出せずにいるのです・・
偶然なのですが・・

あと・・実は
私の曾祖父宛てのあの手紙・・親戚ではない?別の「那須家」の方が代表で書かれていました。
あの手紙にあった「外家内一同」って何だろう?

井上氏が何だか気になるのですが・・
《安倍氏》姓氏類別大観 に
※※倉橋麿裔の大名家【井上氏】は清和源氏頼季流井上氏を参照のこと。
とあり「井上氏」を見ますと・・

日本の苗字七千傑様の【清和源氏頼季流】「井上氏」姓氏類別大観を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01009.htm#001

あんれっ!?????
こちらに窪田氏が・・・??
※窪田氏は【久保田氏】の表記も有り。と記されています。
大村氏の調査を始めてから・・ここで初めて「窪田(久保田)」氏が登場しました(?_?)

さらに・・もう一つ気が付いた事が!
【清和源氏頼季流】姓氏類別大観 を拝見すると
こちらには 「長崎頼綱」の長崎氏が繋がっているではありませんか\(゜ロ\)(/ロ゜)/
長崎頼綱(平頼綱)と宮原一族の先祖「橘公綱」は父は違いますが「同母兄弟」ですよ〜〜〜〜〜!!

何だろう???

大村純顕 継室:整、勢以(父:秋田孝季)
秋田氏を調べたら・・
秋田氏・那須氏・井上氏・窪田(久保田)氏・長崎氏(平頼綱・橘公綱は同母兄弟)
に繋がっていた・・・(゜-゜)

何だか・・こちらの窪田(久保田)氏はとても気になりますが・・
でも・・きっと江戸後期にいらっしゃったのは九州じゃないと思うし・・
源頼義の三弟、頼季は、近江国音羽荘に本拠を置いたが、晩年は信濃国井上荘に移住する。 
 頼季が井上姓を名乗ったことから、この系統は井上氏族とも呼ばれる。 嫡系が断絶して光平系に移った後の十代は井上荘を本拠としたが、康正年中に播磨国福井荘が所領となり本拠を移動する。

ただ・・一つ気になる事が(p_-)
私、井上氏の家紋 球磨郡内の神社だったと思うのですが・・何処かで見た記憶があります・・(今、思い出せないので調べてみます)

今日は、コメントを書きながらの調査だったので・・最後の展開は驚きましたが・・
唯一・・窪田(久保田)氏は登場しましたが・・
場所が・・違いますし・・(@_@。

かなり長くなりましたが 今日の調査でした(..)

では。
[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月14日 18時20分59秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

お墓の家紋の件は、今度、おばと1軒の親戚に伺うので
その際にコメントに書いて良いか確認した上で再度書かせて頂きます(..)

今日も、お墓に伺ったのですが、曾祖父の父、すなわち私の高祖父が眠るお墓が
今の私では解らないので・・少し考えてしまいました。

今日は一日、書籍等を読んでいたのですが、又、気が付いた事がありました。
明日にでも書かせて頂きます。

では(..)
[46]たけぽんさんからのコメント(2017年02月14日 21時24分34秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

花粉症があり、今年は突然来たので
体調崩してしまいました
(>_<)スミマセン

さて、本題に

@中川家に関して

祖母からは、うちのおっかさんは
家付娘だから・・・

としか聞かされていません。

曾祖父(祖母の父)は養子に来た
程度しか話は聞いてないので、本当に
何もわからない状態です(;_q)

祖母自体は、須惠に代々居てた?
(ヨウカのお屋敷も須恵にあったと
聞いてます)
⬆うちは行ったことも無いし見たこともないです。

うちがずっと不思議に思ってたのは・・・

なぜ、うちの平川の人間は祖母には何も
(殆ど?)教えてなかったのか。

と、この一点が一番引っ掛かるのです。

このスレッドを色々拝見させて頂いた
限りでは・・・

他の平川家の方々は、ちゃんと
子孫様方々に伝え教えてらっしゃる。

なぜ、うちは・・・!?

・・・っと。

うち自身、ちょっと持病がありまして、1人で
遠出が難しく、なかなか須恵にまで行けないので
色々とお話や巻物等を拝見し難い状態もあるのですが
探すのにも、直ぐに行き詰まるのです。

祖母からの話を頼りに、色々ネットで調べたり
このスレッドで色々勉強させて頂いた事を元に
アチコチ検索をかけては、ある程度目星をつけて
調べてる状態です。

ま、それは良いとし
\(^^\)(/^^)/オイトイテ

うち自身、このスレッドで色々な
情報が入って来てびっくりΣ(・ω・ノ)ノ
している毎日です。

話は変わりますが

ミヤハラ様、色々調べ物が進んでいるみたいで
良かったですね(〃∇〃)♪

早く、1つに繋がればいいですね(o≧▽゜)o



[47]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月15日 10時18分35秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

体調、大丈夫ですか?
無理はしないで下さいね。

遠出が難しいのですね。
私は心臓の持病があります。がっしかし(ー_ー)!!
山登り以外は出来るので、例えば何処何処のお寺が気になる(p_-)とか、たけぽん様が気になる場所が発生したら
わたくしミヤハラが行って参りますから、ぜひ、おっしゃって下さいね!
私も、球磨郡内等で、出かけて気になった場所が見つかったら、ドンドンこちらにコメントします。
(^O^)/

所で・・
私、何か勘違いをしていたのかな?(?_?)
もしや?曾おじい様は婿養子に入られたのですか? (?_?)
跡継ぎがいらっしゃらなくて、他家から養子に入られたのか?と思っていたのですが・・

平川家についての伝承・・
実は、私の祖母が平川家についての伝承を教えていたのは、祖母の実家の平川家の長男と嫁(私のふた従兄夫婦)とお隣の平川家のおじさんにだけです。
@祖母の実家の平川家の先祖は木上から深田に動いた 等
Aお隣の平川家は昔々の先祖の兄弟の弟の系でこちらは現相良村四浦の平川(ひらご)にいた 等

私の祖母は、教えるべき人だけにしか伝えていません。
上記の事は、私のふた従兄の妻や祖母の実家のお隣の平川家のおじさんから、
「おばさん(私の祖母)がちゃんと教えてくれたよ」と聞きました。

私も@の話しは何となく聞いてはいたのですが・・深田の高山とか詳しくは聞いていませんでした。

祖母は父が子供の頃から平川家の事について何か聞くと
「お前がどうこう言う必要はない!ちゃんと平川には○○(祖母の甥)がいる!」
とか言って、叱られて・・父も実際に祖母から平川家について詳しく聞いてはいないのです。
だから・・父は祖母は何も知らなかったと思っていたようですが、上記の件などを父に伝えると、本当に驚いていました。
「ばあちゃん(母)は色々知っていたんだ・・」と。

たけぽん様の御ばあ様も、私の祖母と同じだったんじゃないのかな?
これが・・平川家に生まれた「娘」なのだと思いますよ。
相良700年の歴史の中の”保守と進取の精神”の「保守」の部分だと思います。

もちろん
「先祖は平河義高。平川家は家老家だった!」の伝承は親戚誰でも聞いていますが(^'^)

家の宮原家は、終戦で祖父母が大陸から岡原に戻ってすぐに、祖父そして数カ月後には伯父(父の兄)が相次いで亡くなり、元々の宮原家には祖父の従姉夫婦が住んでいてしばらくは一緒に住んでいたのですが・・
そのまま、そこに残る事を祖母はせず、祖父が宮原家の別の土地に建てようと考えていた家の三分の一程度の家を建てて母子3人で住む事になりました。
(ここが・・祖母のプライドなのだと思います)
平川の曾祖母は娘が不憫でしかたなかったのだと思います。
曾祖父は家の宮原家で殆ど生活して(役場勤務だったのですが家から通っていたそうです)、曾祖母も夜には平川家からやってきて、娘と孫達と一緒に寝ていました。
叔父(父の弟)は曾祖父から少しは平川家の親戚関係等については聞いていたようですが、それでも、あまり詳しくは聞いてはいないようです。
父は・・”住む場所は変わっても”あくまでも「岡原の宮原家の跡取り」として教育されたようで、平川の曾祖父は父には大変厳しかったそうです。
(それでも本当はとても優しかったそうです(^'^))
父はその時代に・・
「侍の子じゃろが!メソメソ泣くな!」と言われていたそうです・・
(正しくは・・もうその時代は侍はいないので(ー_ー)!!「軍人」の子ですが・・(..))
あっ!天国の平川の曾祖父母に叱られそう((+_+))

私が子供の頃、家には小さな家庭菜園があったのですが・・祖母は畑仕事をする事は出来ないので(きっと知らなかったのかな・・?)、家庭菜園の事は全て、平川家で昔働いていた方々がして下さっていました。
祖母の乳母だった方などが、おばあさん、おじいさんになられても、家に来て下さっていました。
私もとても可愛がって頂きました(..)
皆さんが祖母の事を心配して下さっていたのだと思います。
祖母も皆さんの事を大好きだったようです(^'^)

私が祖母から聞いていた事は・・
今考えると、殆どが「宮原家」の親戚関係だったのだと思います。
正しく言うと「宮原家」と「久保田家」と「新堀家」の親戚関係ですね。
弟が病気なので、家を継ぐ孫娘に教えなければいけない事だと祖母は考えていたのだと思います。
これも「保守と進取の精神」の中の「保守」の部分でしょう・・
ただ・・「久保田家」はその血統がそのまま「平川家」に伝わっているので
平川家の先祖調査に「久保田氏」は必要不可欠だとは感じています。
(たけぽん様の御親戚と家の親戚共通の姓「林田氏」「石川氏」は家の場合「久保田氏」がキーマンです(p_-))

たけぽん様から「中川家」の事を伺えて本当によかった!!
勉強したら様々な事が見えてきました。
さらに・・(p_-)大村氏・有馬氏も今までちゃんと勉強していなかったので
繋がりがやっと理解出来ました。
気になる「姓」は全て相良氏に繋がっていると言う事ですね(p_-)

〉早く、1つに繋がればいいですね(o≧▽゜)o

はい!!(^O^)/

では(^'^)

[48]たけぽんさんからのコメント(2017年02月15日 16時31分22秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
お気遣いありがとうございます(;_q)

足がないうちにとっては、心強いお言葉を頂戴して
感激しております(;_q)♪

もしもの時は、お願い致しますm(_ _)m

あと、平川の件

うちの方こそ、勘違いしてたのかも・・・(>_<)

皆様、昔のお話を良くご存知なので、つい・・・


・・・っと、言う事は

平川の話は(家老家だった当り以外)一子相伝
みたいな感じで、男系の方々
(のみ?、家督相続する方?)にしか
詳しくは話を伝授されてないのかしらん
σ(。・◇・。)?????

@中川について
祖母は、婿養子に来た
と、言っていました。

うちの書き込みが悪かったですね(汗)
スミマセンm(_ _)m(汗)

うちの祖母も、子供の頃は、ニシャ達が、遠い所からでも、田んぼの時期等になればヨウカに集まってきて、しばらく働いて行き、収穫が終わる頃?には、家紋付きの着物やらをこしらえて、お給金?と共に渡して帰したって言ってました。

曾祖母も、子供を抱いてるだけで、家の用事はニシャ達がしてた(らしい)とも。

で、祖母は小学生の頃までは、叔母が(祖母の姉妹)学校まで送り迎えをして下さったみたいで、よくおぶってもらったって。

あの時代に、クラスの方々はモンペだったのが普通の時代に、セーラー服きて編み上げブーツに三つ編みお下げして皮の鞄を持って学校に行ってたって、どんだけ金持ちなんΣ(・ω・ノ)ノ(笑)

やはり、ご先祖様の事や親戚筋の事は、キチンと伝えて行かなければ行けませんねf(^^;

うちも、何処かにキーマンがいるのだろうけど
いずこへ?(ノ_<。)(笑)⬅チャーリー浜風でお願い致します。

ミヤハラ様も、お身体大事に
頑張って下さいませ(o≧▽゜)o

うちも、がんばります(^o^ゞ

[49]たけぽんさんからのコメント(2017年02月15日 16時36分19秒 ) パスワード

あ・・・

送り迎えは、祖母の母の姉妹でした( ̄▽ ̄;)(汗)

間違えました(>_<)ハズカシィ〜(汗)
[50]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月16日 09時11分26秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
「ニシャドン」・・私も親戚中からよく聞きます・・

実は、祖母の実家の平川家だけでなく、親戚の深水家・椎葉家・そして家の宮原家も同じように、沢山の方々が働いていらっしゃいました。

椎葉家は会社も経営していた事もあり執事のような方もいらっしゃいまして
家の宮原家も同様に曾祖父には執事と呼ばれる方がいらっしゃいました。
椎葉の源一おじいさんも私の曾祖父も村会議員でもありました。
(宮原の曾祖父は明治時代に選挙で選ばれる区長でもありました。あと・・宮原の曾祖父は手広く商売?をしていたようなのですが・・この話は書けないな(..))

あと・・実は・・この事は今までコメントで書いた事はなかったのですが・・
ちょっとヤバい話しかもしれないので・・さら〜っと書きます(..)

岡原村(明治初頭旧宮原村と岡本村が合併)にはその昔肥後宮原銀山があったのは皆様御存じの事だと思うのですが・・
実は同じ「金銀含有アンチモニ」が取れる鉱山は旧宮原村だけではなく旧岡本村にもあったのですよ・・・・
旧岡本村の鉱山がいつ開発されたかは解りませんが・・昭和初期までは開業していて、その鉱山の運営会社・・・
平川の高祖父・曾祖父は鉱山の運営会社の役員でもありました。

ここからは独り言で(..)
「相良700年の歴史 保守と進取の精神」の「保守」は守られたかな?(p_-)
だめだよ!書いちゃ!ひろ○ちゃん! 大丈夫だよ書いちゃえ! 心の中で天使のひろ○ちゃんとバイ菌まんの格好をしたひろ○ちゃんが格闘している・・
うん?バイ菌まんが勝った!(;一_一)

うん!大丈夫!某書籍にも、旧宮原銀山の跡地として間違えてこちらの写真が載っていたし(-.-)ニヤッ
旧岡本村に「金銀含有アンチモニ」が取れる鉱山があった・・意味は大体の方は想像がつくでしょう・・
独り言終了 (..)

当時(明治?大正?)の、平川の曾祖父と北九州の某有名な実業家の方との手紙が家の宮原家にあって・・私、ひっくり返りそうに驚いたのですが(北九州に30年以上もいたので知っているお名前でした)
きっと会社繋がりだったのでしょう(p_-)

♪ひみつ〜ひみつ〜ひみつひみつ〜ひみつのオカハルちゃん〜♪

色々秘密は書いた方が先祖調査は進展するかもしれないので
書いちゃいました(..)

だけど・・熊本藩士であった某氏はこの岡原村に本籍を移し生涯本籍を変える事なく国家が関わる大事件を海外で起こしているので・・
この時代の事を調べるのはちょっと怖いです・・

所で!
私!大発見をしました!

このコメントはもしかしたら削除するかもしれないので(..)
次のコメントで書かせて頂きます(..)

では(p_-)
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月17日 09時54分01秒 ) パスワード

たけぽん様 皆様 今日は。

コメント47で
〉弟が病気なので、家を継ぐ孫娘に教えなければいけない事だと祖母は考えていたのだと思います。

と書きましたが、あれは間違いです。

祖母が色々教えてくれていたのは、きっと弟にです。
弟が春・夏・冬の休みに病院から家に帰って来ていた時に私は弟と一緒に祖母から話しを聞いていました。

祖母は弟がたとえ病気であっても、弟を宮原家の跡継ぎとして尊重していました。
弟が二十歳になって母方の姓を名乗るまでそれは変わりなかったと思います。
去年のお盆に、叔父も同じ事を言っていました。

祖母は弟の病気が治る良い薬が開発される事を祈っていました。
ずっと祈っていました。

コメント47で私が書いた事は私の思い上がりです。

弟と祖母に申し訳ない事を書きました。
とても反省しています。
[52]たけぽんさんからのコメント(2017年02月18日 00時36分16秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様、ばいきんまんが勝ちましたかf(^^;

調査の方は、進展が沢山あるみたいで
良かったですね(〃∇〃)♪

ミヤハラ様
47の件ですが・・・

差し出がましいようですが、うちも妹がいてます。

うちの場合は、妹は健康で
姉であるうちがこの調子です。

兄弟、病気持ちがいればお互い心配するのは
当たり前だと思います。

うちに限って言わせてもらえるなら

妹に心配される姉って・・・(;_q)っと
情けなく思っとります。

だけど、心配してくれる兄弟がいて
有り難いとも思っています。

ミヤハラ様が、弟さんを心配しての事
だと思うので、そこはおばあ様も
弟さんも、余り気になさらないかと(..)

弟さんは、優しいお姉さんを持って
幸せですね(^-^)

勿論、自分の立場も理解し役目もあるのは
誰でも、どんな形でもあると思います。

それだけ、ミヤハラ様が弟さんの事を
心配してらっしゃるから、そう言う思いが
出てきたのでは(。・◇・。)?


うちもそうですが
お互い、兄弟が支えあって生きて行ければ
素敵な事ですね(^-^)

これから、色んな意味で良くなるように
お互い頑張りませうo(`^´*)♪

生意気発言、ご容赦をm(_ _)m
[53]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月18日 07時49分36秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

たけぽん様
ありがとう(@_@。ありがとうございます(@_@。
たけぽん様こそ、本当に優しいお姉さんですね。
素敵な優しい心を持った御姉妹です。

私は好き勝手にわがままに生きて来た、ダメな姉なのです・・
そんな私を病気の弟はいつも心配しています(..)
今、私がようやく球磨に戻ってきて、少しは安心してくれているようです。
それに弟は私が先祖調査をする事を本当に喜んでくれています。

〉これから、色んな意味で良くなるように

そうですね(^'^)
生意気発言だなんてとんでもありません(ー_ー)!!
本当にありがとうございます。


所で・・
書籍で見つけた大発見!?は次のコメントで書きますが・・
もう一つ、私「発見」していた事があるのです・・

たけぽん様と私の方の共通点
それは・・『地名』や『橋』についている「天子」という”言葉”です。
たけぽん様のお母様に聞いて頂ければ意味はすぐにお解りになると思います。

家の方にも「天子」という字とそして「鶴」という字があります。
この字「天子」と字「鶴」を結ぶ橋が井口川(古老?はみな”つるの川”と呼んでいます)にかかっていて
その橋は「天子鶴橋」といいます。
この「天子鶴橋」が昭和30年代の初頭に新しく架けられた時に、祖母の実家の「平川家」三代が村を代表して橋の渡り初めをしたのです。
「天子鶴橋」を最初に渡ったのは祖母の実家の平川家三代でした。
村をあげての行事でした。
以前写真をブログにアップしていました。
皆、正装して渡っています。
タイトル「昭和初期の宮原家で撮られた写真」のページ一番下にあります。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12123383239.html

父は・・きっと三代という事から末長く村が発展するようにじゃないか(^'^)
と言いますが・・
よ〜く考えてみると・・親子三代で生活している家なら、当時、村中にあったはずだっ!(p_-)と・・

そう以前から「謎」だと思っていた所に椎葉のおじが須恵の「天子橋」の話しをチラッとしたので気が付いたのです(p_-)

たけぽん様の方の「平川家」と家の方の「平川家」の一つの共通点・・それは
『地名』や『橋』についている「天子」という”言葉”

家の方で言えば・・最近気が付いたのですが・・登場する「ワード」(言葉)に
「天子」「天草」・・「天」そして「鶴」(地名と私の祖父を産んだもう一人の曾祖母の姓)そして何だろう言葉で言えば逆のイメージなのですが「鬼」(鬼塚氏・・鬼)
「天」「鶴」「鬼」 この言葉があまりにも関わっているような気がするのですよね・・(?_?)
ここを考えるとどうしても頭が「古代」に向かってしまうのですが・・

その「古代」に関係するのですが・・
実は・・私と主人、先日とても不思議な体験?をしたのです。
(これを書くと、きっと皆様、マタマタ(ー_ー)!!とおっしゃると思うのですが・・(..))
今から書く事は、本当に体験した事なのですが・・

先日、「えびの市歴史民俗資料館」に伺った話しはコメントしていましたが・・
私が見たかったのは
えびの市にある「島内地下式横穴古墳群」の139号基から出土した「太刀」で
「鮫皮巻」と呼ばれるエイの皮を巻いた構造で
なんとこちらの構造の「太刀」では国内最古の出土例。
日本経済新聞のサイト等でも紹介されています。
国内最古の鮫皮巻大刀 宮崎で出土、朝鮮半島製
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H0V_V21C16A0CR0000/
宮崎県えびの市にある島内地下式横穴墓群の139号墓(6世紀前半、古墳時代後期)から出土した大刀(たち)は、柄の部分が「鮫皮(さめがわ)巻」と呼ばれるエイの皮を巻いた構造だったことが分かった。市教育委員会が25日までに発表した。国内最古の出土例。朝鮮半島製で、東アジアでも実物が確認できる最古級の資料という。

 鮫皮巻の大刀は当時、高位高官だけが身に着けたとされ、現存する例では聖武天皇の遺品とされる東大寺大仏殿の鎮壇具がある。市教委は「被葬者は朝鮮半島との政治的な関係があり、大和政権の中枢にも深く関わっていた人物の可能性が高い」としている。

 139号墓は2014〜15年に発掘調査。未盗掘の状態で、大刀のほか、甲冑(かっちゅう)や馬具などが大量に見つかった。男女とみられる2体の人骨が埋葬されていた。

 大刀は全長約85センチ。銀製の金具で装飾され、さやは木製で黒漆塗りだった。

 このほか全長150センチほどの非常に長い大刀については、さやの一部に高級織物が巻かれていたことが分かった。同時期の古墳からの出土は数例しかなく、市教委は「大和政権の大王からの贈り物ではないか」とみている。〔共同〕

(p_-)
発見を知らせる熊日新聞の記事には
『被葬者は朝鮮半島との政治的な関わりがあり、大和政権の中枢にも深く関わっていた人物の可能性が高い』
と記されています。

といった、古墳から出土した古代の「太刀」や古代の「甲冑」「兜」等の本物(レプリカではありません)が展示されている「えびの市歴史民俗資料館」
こちらで・・
本当に、私と主人は不思議な体験?をしたのです・・(..)

上記の古墳から出土した品々が展示されたコーナーに入って・・(この日は平日の昼間と言う事もありこちらのコーナーは私と主人の二人きりでした)
主人が展示物を囲っているガラスに近づいたなり
「ガタガタガタ!!」とガラスが大きな音を立てて鳴りだして・・
私もビックリして主人の方に近づくと
ガラスがガタガタガタ!と大きな音を立てるだけではなくて・・
何だろう?天井より少し下の空中?から「ゴォ〜〜ゴォ〜!」と言う音?声?が
頭の上を廻っているような感じで・・
主人も私も本当にビックリして・・ビックリと言うか・・言葉に表せない状態で・・
でも・・怖いとは感じなくて・・
偶然何か空調が壊れたのかな?と冷静を装いつつ、本心は「何だろう!」と思いながら・・
今度は壁側の展示コーナーに近づいて周囲をカバーしている分厚いガラスの仕切りに近づくと・・
又、今度はそのガラスの仕切りが「ガタガタガタ!!」と大きな音を立てて成り始めて・・
頭の上を「ゴォ〜!!」と言う”音”?が又回り始めたのです・・
それと同時にコーナーのガラスというガラスが「ガタガタガタ!」と音をたて始めて・・

この時はさすがに主人も「どうして!?何が起こっているのかな!?」と声が少し上擦っていました。

そこに・・高齢の男性が入って来られたのですが・・ナント!
それまでの「ガタガタガタ!」「ゴォ〜!」がピタッ!と止まったのです!

何だったのだろう?と二人で顔を見合わせて・・
その後、次々に人が来られて賑やかになってきたら・・まったく「音」は鳴りませんでした。
でも・・本当に不思議なのですが・・全く怖くはなかったです。
ただ・・私だけじゃなくて主人にもガラスが反応しているのを見て何となくですが「やっぱり!」と意味は解らないのですがそう感じました。

家に帰って父にその話をすると何も言わずに「ニコッ」と笑うだけで・・
相手にしてくれないのかな?と少し不満だったのですが・・

翌日、主人が勤め先の方にこの話をしたそうです。
(この方は地元の方で、こちらが資料館の場所を教えて下さり、この方も、古代に興味があって資料館には何度も行かれているそうです(^'^))
すると、その方が
「私は何度もあそこには行っているけど、そんな音を聞いた事は一度もない。空調でもないよ!あそこの空調はそんな音はたてない!」
「きっと・・よ〜来たね!!と古代の人が喜んでいたんじゃないト!(^'^)」
と真顔で言われたそうです・・

その話しを聞いて、私は逆に安心しました(^'^)
もしかしたら・・主人と私の”古代の先祖”が戦っていた方々じゃないのかな((+_+))・・とも少し考えていたので・・

「よかった(^'^) ○○さん(主人の会社の方)がそう言って下さって」と主人に言った後で・・
うん(?_?)・・こういう事を人に言うのはまずいんじゃナイカイ?と思い主人に言うと
「大丈夫!この人は解ってくれてる。貴女と知り合ってから俺が経験した数々の不思議体験を話しているから(^◇^)」
「えびのの人は結構解ってくれる人が多いよ(^'^)」
と・・

えええええええええっ!!ナンデスト!
今まで私には口に出していなかったけど・・主人は私と一緒にいて数々の不思議体験をしていると・・実は感じていたのですト!????
そっちの方が驚いた\(◎o◎)/!

だって・・本当に今まで主人は色々な所で私が「うん?今、何だか不思議だったよね?」と言っても
「うん??(?_?)俺には何も解らんかったよ?」としか言われていなかったのに・・

信じるか信じないかはあなた次第です(p_-)・・宮原田舎伝説(都市伝説をもじりました(..))

ただ・・
こっちに帰ってきてつくづく思うのは・・
南九州おそるべし!ですなぁ〜

久しぶりに「不思議」な話しを書きましたが・・
皆様はもう慣れていらっしゃると思うのですが・・たけぽん様は・・
お願い!引かないで下さいね(..)

これも私のキャラクターの一部です(..)
[54]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月18日 19時15分55秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今晩は(^'^)

朝の追記です
うん(゜-゜)まだ古代に拘っている!との声が・・・
そうです(..) 江戸後期の事で書籍で発見した事も書かなきゃとは思うのですが・・
どうも今日は脳が古代から抜け出せなくなっています(..)
お許し下さい 皆様(..)

(p_-) 国内最古の鮫皮巻大刀
えびの市は球磨郡の白髪岳を越えた反対側です。
トンネルさえあればものの十数分で行ける距離です。
もしもこの大刀が近畿地方で発見されたのであれば・・それはTV番組が特集を組むくらいの大騒ぎなのでしょうが・・
それが・・どうしてもナント言うか口惜しい・・

だからもっと拘ります(p_-)
毎日新聞のサイトにより詳しく書いてありました(p_-)
http://mainichi.jp/articles/20161025/k00/00m/040/106000c

宮崎県えびの市教委などは24日、同市の島内地下式横穴墓群139号墓(6世紀前半、古墳時代後期)で出土した大刀(たち)が、柄(つか)に朝鮮半島特有の装飾「鮫皮巻(さめがわまき)」を施したものとしては国内最古であることが判明したと発表した。東アジアでも実物が確認できる最古の例となる。古墳時代の刀剣としては国内最長となる142センチ(復元すれば150センチ)の大刀も確認された。

 市教委などは「埋葬された人物は大和政権の大王(天皇)周辺に仕え、朝鮮半島情勢にも関与した可能性がある。古代の政治や外交関係を読み解く貴重な資料だ」としている。

 市教委などによると、柄に鮫皮巻が施されていたのは朝鮮半島製とみられる「銀装円頭大刀」。実際はエイの皮が巻かれた鮫皮巻の大刀は当時、高位高官だけが身につけていたとされ、国内では聖武天皇(701〜756年)の遺品とされる東大寺金堂(大仏殿)の鎮壇具(ちんだんぐ)が残っている。

 一方、古墳時代の刀剣としては国内最長となったのは「木装長刀」(142センチ)で、奈良県の藤ノ木古墳の大刀(136・5センチ)より長い。鞘(さや)口に高級織物の経錦(たてにしき)が巻かれていることなどから、大和政権のもとで作られ、大王周辺から贈られたものとみられるという。

 139号墓では2014年以降、男女各1体の人骨、朝鮮半島特有の波状文様がついた鍛冶工具などの副葬品が出土。大刀もその一部で、保存処理を経てエックス線装置で立体的に撮影して解析する中で装飾などの詳細が分かった。出土品は11月1日〜12月25日、えびの市歴史民俗資料館で展示される予定。【宮原健太】

(p_-)
※国内最古
※古墳時代の刀剣としては国内最長となる142センチ(復元すれば150センチ)の大刀も確認
※古墳時代の刀剣としては国内最長となったのは「木装長刀」(142センチ)で、奈良県の藤ノ木古墳の大刀(136・5センチ)より長い。
※エイの皮が巻かれた鮫皮巻の大刀は当時、高位高官だけが身につけていたとされ、国内では聖武天皇(701〜756年)の遺品とされる東大寺金堂(大仏殿)の鎮壇具(ちんだんぐ)が残っている。

このような貴重な大発見があったのに・・
きっと日本中の人は殆ど御存じないのでしょう(@_@。

古代の兜や鎧を見ましたが・・すんごっくかっこよかったです!
何だろう・・ドラマ「ケベク」の階伯将軍が身につけていらしたような・・
オイオイ(;一_一)ミーハー・・との声もいずこから・・(-.-)

所で・・朝鮮半島製とありますが・・ウィキでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AB%E7%9A%AE#cite_note-2


表面がざらざらしていることから、滑り止めとして刀剣の柄に使用される[1]。柄に鮫皮巻(実際にはエイの皮)が確認された東アジア最古の例として、朝鮮半島の百済製の太刀が、宮崎県えびの市島内139号地下式横穴墓(6世紀前半)から発掘されている[2]。
鞘に使われる場合は表面の凹凸がなくなるまで研磨され、着色した後に漆で仕上げられる。この時、まるで梅の木の皮に似た模様になるため、梅花皮の名前がある。

(p_-) 百済製・・とありますね  フムフム(p_-)

球磨郡内にも未だ調査されていない古墳が沢山ありますよ(p_-)
何だか・・ワクワクします(^'^)

島内地下式横穴墓群 場所を見たのですが・・
http://www.city.ebino.lg.jp/tempimg/150120095059201611211419572f.pdf

ぎえ〜〜〜っ!!こっこっは!
平河氏が所領していた真幸院ではあ〜りませんか!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
ビックリしました。

では(p_-)
[55]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月20日 09時44分28秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

昨日は頭が古代に向かいましたが・・
今日は、江戸時代末期の事で気が付いた事を書かせて頂きます(..)

先日、大発見しました!!と書いた事について・・
(大発見?と言うか発見ですが(..))

人吉市史 第一巻 の巻末に安政年間分限帳が附録として記載されています。
私は分限帳を持っているので今までしっかりと読んでいなかったのですが
明治維新前後ノ氏名其ノ子孫の氏名其移轉先キ等参考ノ為注記し置ク
と書かれているのに気が付いて、読み落としていた事が沢山記載されていました。

まず・・
@こちらのスレッド コメント25で書いた 平河氏系図の蓑毛八十右エ門と言う方の”その後”が解りました。
コメント25より
〉安敬 平川幸三郎氏・張栄 平川猪五郎氏の母が「宮原権左衛門の娘」
安敬 平川幸三郎 安春又安純と改 天保十一庚子正月六日卒三十六
張栄 平川猪五郎 姑蓑毛伝左エ門養子一子有リ八十右エ門ト云 兄安敬死依テ続後平河彦右エ門ト改
つまり・・
安敬 平川幸三郎氏が天保十一年に三十六歳の若さで亡くなったので、蓑毛家に養子に入っていた張栄 平川猪五郎氏が平河家に戻り平河彦右エ門と名前を改めて平河家を継いだ。
「張栄 平川猪五郎氏」は子供さんがいてその方の名が「蓑毛八十右エ門」である・・

上記の蓑毛八十右エ門 この方のその後は
※蓑毛八十右エ門 九八。養子謙。上村に移る
と書かれていました。

上村の蓑毛氏。・・・とても驚きました。
家の宮原家に婿養子に入られた方は「蓑毛氏」からで・・さらに実は以前上村の蓑毛氏と家に婿養子に入られた方との関係を椎葉のおじや、祖父の従姉の娘であるおばにチラッと聞いたのですが・・
その時は、あまり何も関係性を深く考える事なく、実は聞き流してしまっていました(..)
椎葉のおじや祖父の従姉の娘であるおばに、再度確認したいと思います。

A肥後人吉藩十三代藩主 相良頼之 子息子女 について
コメント33「中川氏」の調査・コメント44「大村氏」の調査で繋がりが確認された以下の方々ですが・・
準之助
於栄
於保(米良則忠および宮原健之助室)
1836-1903 池田章政(池田氏へ)
於英(相良中務室)
1841-1885 頼基
貞四郎

※於英(相良中務室)
相良中務 この方のその後が記載されていました。
中務様 相良美作、後淡海ト稱ス。其子ハ浅見ト稱ス。麓馬場下ノ屋敷住セラシカ文久年中上ノ上ノ原ニ移り後西間、新馬場、黒肥地、多良木ニ稱セラル。

相良中務。この方は文久年中(おそらく寅助火事の影響か)
上村の上の原・西間・新馬場・黒肥地と移られ・・最後に多良木に「稱セラル」
多良木にいらっしゃったのですね・・大変驚きました。

ただ・・相良中務。この方について今色々調べているのですが・・幕末に起きた相良藩内の重大事件にも関わっていらっしゃいます。
詳細は後日コメントしますが・・
相良中務 この方は当時の相良藩の筆頭家老の方で、相良中務、この方の系は

肥後人吉藩の第4代藩主。相良氏の第23代当主 相良頼福の三男「榮長」を祖とし、その後肥後人吉藩の第11代藩主相良長寛の三男「頼匡」が養子となりその後、肥後人吉藩の第12代藩主相良頼徳の三男「頼直」が養子となり・・
といった、江戸後期の相良家の正当なる分家です。
相良中務。実はこの方は上記の相良頼徳の三男「頼直」の子「福直」でございました(..)
人吉市史の附録に第二十三第頼福系統 という系図が記されていてそこから読み解く事が出来ました。

私は大変な思い違いをしていたのです。
相良藩の筆頭家老家を含む家老家や重臣の方々の系は明治以降も殆どが人吉に住していらっしゃった・・と勝手な思い込み・先入観を持っていました。

多良木村(現多良木町)の明治維新後の村長を数代あげると
第一代 淵田勇蔵氏(私の高祖母の実家の淵田家) 第二代 相良浅見氏 第三代 田山宇太郎氏 第四代 淵田熊一氏(家の親戚)

※第二代 相良浅見氏 この方が「相良中務 福直」の長男「浅見」氏です。

ちなみに・・第三代の田山氏も・・実は親戚になります(..)

さらに・・
コメント4で湯前村・湯前町の区長・村長・町長の話しを書きましたが・・
〉湯前平川家の平川榮一氏とは
平川芳左衛門は明治維新後に「平川榮一」と名を変えて人吉縣時代の村長制度が始まる前に湯前村の初代戸長となりました。
熊本県に変わり、初代戸長「平川榮一」の後を継いだ方々は(戸長制度が変わり湯前の各地域毎に戸長)
「菊池氏」「渋谷氏」他・・
そのあと、村長制度開始後、初代湯前村長になった方は菊池武義氏です。そして数代後の村長は「河野氏」です(参考までに(p_-))
上記の「平川芳左衛門(平川榮一)」氏の養子に入ったのが、岡原の平川家の私の曾祖父の弟「源一」氏です。
平川源一氏は昭和12年湯前村が町制施行し湯前町となった直後の初代町長です。
======================================================

※熊本県に変わり、初代戸長「平川榮一」の後を継いだ方々・・
初代湯前村長になった方は菊池武義氏

菊池武義氏とは・・
先に書いた第二十三第頼福系統 の
肥後人吉藩の第4代藩主。相良氏の第23代当主 相良頼福の三男「榮長」を祖とし、肥後人吉藩の第11代藩主相良長寛の三男「頼匡」が養子となり、その子「辰五郎」この方が菊池氏の養子となって・・その子供さんが「菊池武義」氏 でした。

多良木村(現多良木町)・湯前村(現湯前町)の明治初頭の行政には江戸後期の相良家分家となる「相良氏」の系の方々が携わっていらっしゃった・・
さらに・・”そこ”の村の行政には家の親戚も関わっている・・

こう言う事が解りました(..)

やはり・・
先に書いたように
『相良藩の筆頭家老家を含む家老家や重臣の方々の系は明治以降も殆どが人吉に住していらっしゃった・・と勝手な思い込み・先入観』を私は持っていました。

先日、曾祖父の実家の一族の墓所に行った時に「久保田氏」以外に「西氏」「赤坂氏」の立派なお墓が同じ場所に並んであったのです。
「赤坂氏」と言えば・・相良藩の重臣として人吉にいらしたはずなのに・・何故かな?とそこで少し疑問に感じたのですが・・
何かあるのかもしれません(p_-)

実は・・家(宮原家)の親戚で、昭和20年代までは明らかに近い親戚関係を保っていたけれど(祖母の代まで)その後父に何も伝わっていない親戚が数軒あるのです。
(おそらく・・曾祖父の実家久保田家や宮原の高祖父の関係と推測するのですが)
特に気になるのが「豊永家」と「川辺家」と「松本家」です・・
祖母の残した昭和20年代初頭の親戚関係を綴った「文」には特に2軒「豊永家」と「川辺家」は先頭に書かれているのです・・が父には全く伝わっていません(@_@。
この2軒は椎葉のおじや祖父の従姉の娘であるおばに聞いても・・「解らんね・・?」と言います(@_@。

あと・・「松本家」については明治時代に岡原村と松本氏が結んだ、”旧宮原村舟川の温泉施設に関する契約書”までが何故か?家の宮原家に残されています。

この辺りも江戸時代末期から明治初頭にかけての相良藩内の様々な史料等を読むと解ってくるのかもしれません(..)

他にも沢山書きたい事が見つかっているのですが
今日は、弟に会いに出かけますので、続きは明日にでも書かせて頂きます(..)

では(^'^)
[56]たけぽんさんからのコメント(2017年02月20日 17時25分22秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

うちは、鬼姉と言われてますよ(笑)

それより・・・

ミヤハラ様、調査のスピードが
早いですねΣ(・ω・ノ)ノ♪

うまく進んでる様で何よりです(^-^)

うちの中川まで調べて頂いてるみたいで
ありがとうございますm(_ _)m

うちが想像していたより
凄い事柄が・・・Σ(・ω・ノ)ノ(汗)

そっかぁ・・・

なるへそφ(..)フムフム・・・

弟さんの具合いはどうですか?

少しでも体調が良ければ
良いですね(^-^)

あと、不思議体験は
うちは姉妹であります
(; ゜艸゜)ワラッテゴマカセ

引くどころか、何か共感する
モノがありますf(^^;(笑)
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月21日 10時09分59秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、 今日は(^'^)

たけぽん様
良かった〜(^'^) 引かれたかと思いました(..)

実は・・家の親戚、殆どが「不思議体験」をする人達?なのです。
椎葉家のおじ・おば・ふたいとこ兄妹・他、姓は違えど・・沢山の親戚が「不思議体験」をする体質?です。

だから・・たまに親戚が集まるとそのような話しがよく出てきます。

確かに・・椎葉家は「代々神職の系・血統」が幾重にも入って来られているので何となく納得は出来るのですが・・
他の親戚は??何故だろう?

でも・・その親戚中で最もその能力?が高いと誰もが認めているのは
実は・・私の父です。

私の能力?など比ではありません(ー_ー)!!
父は本当に凄いのです。

親戚中が言うには子供の頃からだったそうです。
(色々話はあるのですがここではあまり書けませんね(..))

私は”何か起こる”前には必ず「耳がキ〜ン」と鳴りだすのですが
例えば私がその「耳がキ〜ン」と鳴りだしたな?(p_-)と気が付くと・・
何もその事を話していないのに、父は突然
「実はお父さん二日程前から耳がキ〜ンと鳴っててな・・」と言います。
かなり早くから父は「耳がキ〜ン」です(p_-)

色々な事が解る父なのですが・・
こちらに帰って来て最初に驚いた出来事があります(..)

2年近く前・・主人と二人で芦北の方にドライブに行ったのです。
そして帰りに通ったある場所で、私に異変?が起きて物凄く気分が悪くなったのです。
頭は重いし、肩は重いし、吐き気はするし・・
きっと「通ったその場所」に何かあったな・・とは思っていたのですが
家に帰る途中で寄った道の駅でもあぶなく階段を落ちそうになったり、すごく嫌な気分のまま家に帰りました。

でっ!
そんな事は主人も私も何も父に話す事もなく「ただいま(^'^)」と笑顔で・・
(もちろん!何処に行ったとかも、気分が悪いとかも何も話していないのです。それと・・家の玄関に入るのがこの時ものすごく嫌な・・妙な気分でした)
すぐに食事の支度をしようとした私に・・突然父が
「ここに座りなさい(^'^)」
と私を父の前に正座させたのです。
私は父の前に座るのが何故か怖くて仕方なくなって家から出たい気分になったのですが・・座らなきゃいけない!と言う気持ちの方が強くなりまして
ちゃんと座りました。
すると父は般若心経を唱えだして、最後に私の背中をバンバンと叩き「帰れ!!」と凄く大きな声を出しました。
そして
「もう大丈夫!(^'^) 悪い事をするつもりは無かった、面白半分でいたずらしようと思ったらお前が危ない目にあったゴメンナサイと言ってたよ」
と。

私はそれまでの頭痛や重たい肩、吐き気が嘘のようにす〜っとよくなりました。

しかし・・誰がそう言ったのか・・父は「子供」だったとしか言いませんでした。

その状況を主人は黙って見ていて・・
後は何も無かったかのように父と談笑していました。
(何かこの頃主人も家の一族と同じ体質?じゃないのかな(p_-)とは感じます)

その日、寝室に入ろうとすると父が
「まだまだ、お前は未熟な所があるからこういう事が起きる。もう二度とこのような事が二人(主人と私)に起こらないように念じているから、これからは何処に行っても大丈夫!」
と言いました。
それからは・・いつも楽しい外出です(^'^)

別に父はそう言う事を商売?にしている訳でも何でもありません(ー_ー)!!
そういう学校?を出た訳でもありません(ー_ー)!!
ちなみに
父が出た学校は「航空自衛官幹部候補生学校」です。(^◇^)
そういう”修行”をした訳ではありません(ー_ー)!!

余談ですが・・
祖父は「陸軍士官学校」を出ていまして・・
父は「航空自衛官幹部候補生学校」を出ていまして・・
親子で文武両道なのですが・・
私は・・何せ・・頭に「ガ〜ン」と竿が落ちてきましたので・・トホホ(@_@。
文武両道では無く「ブ〜ンブブ〜ン!」とミニバイクを走らせていた時期もありました(..)・・ビ〜バップミヤハラ (-.-)
余談でした(;一_一)

話を戻して・・
と言った不思議な能力?を父ほか親戚一同が持つ体質でございます。

たけぽん様と妹様が私達と同じ体質?という事で私とっても嬉しくなりました\(^o^)/

これからも・・”このような話し”たま〜に書きます(p_-)
(イヤもういい(ー_ー)!!と遠くから声が聞こえたような・・)

では(^'^)
[58]たけぽんさんからのコメント(2017年02月21日 12時53分03秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

うちは神職?の方は多分いないと
思うのですが・・・

父方の方にも時々そんな方?が
出るらしくて、父の兄が・・・

うちは、どちらかと言うと妹の方
が少し強いかな(。・◇・。)?


実は、祖母も時々観音さんが
夢に出てきた・・・

なんて話をしていました
Σ(・ω・ノ)ノ(汗)

うちも、あっちの方には行きたくない
とか、鳥居を潜れないとか、色々
ありますよ(;_q)

最近は、少しマシになりましたが・・・

こんな話は、余り人様の
前で言えなくて(苦笑)

お話出来る方に出会えて良かった
です((o( ̄▽ ̄)o))♪

そういえば・・・

祖母の兄達(長男?・三男は海軍)
だったって聞いてたけど、やっぱり
そう言う学校に行ってたのかしらん?
σ(。・◇・。)?ハテ

[59]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月22日 10時29分47秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
御ばあ様の御兄様。海軍であった・・・
父に聞いたのですが
「将校(少尉以上の武官。士官)以上の階級でいらしたならば、海軍兵学校を卒業されていらっしゃる」
と言っていました。
階級はおそらく、須恵の平川家にそれを示す勲章とか書類?が残っているはずです(^'^)
家の例で言うと勲章以外に祖父が階級が上がるたびに交付された何だろう「賞状」?のような物が沢山残っています。
(賞状とか書いたら天国の祖父に叱られそうですが(..)・・言葉?が解りません(@_@。)
ちなみに・・祖父が陸軍士官学校に入学した時の倍率は200倍だったそうです。
祖父は高校生の時、成績は常に1番か2番。頭は良かったのですが・・
高校生の時、学校の方針に反発した祖父は他の生徒の方々数百名を引き連れて「白髪岳」に登って「デモ」を起こしたそうです\(◎o◎)/!
何でもその事は「その高校の学校史にも綴られているそうです(-.-)

私には・・”頭脳”は遺伝していたのかもしれませんが・・何せ「竿」がご〜〜〜んって頭に・・(-.-)  言い訳です(-.-)

所で・・
たけぽん様、皆様!!ついに大変な事実を知る事が出来ました!
\(◎o◎)/!・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/

家の親戚一族! ついに!あの「平河氏系図」に繋がる事実が判明致しました!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

先日、コメント55で書いた
〉※蓑毛八十右エ門 九八。養子謙。上村に移る

椎葉のおじが昨日家に来て「蓑毛八十右エ門」後裔の上村の蓑毛氏と家の宮原家を含む親戚関係との繋がりを聞く事が出来ました!!

補足※蓑毛八十右エ門 この方は 平河張榮(平河彦右エ門)の子供さんです。

蓑毛八十右エ門の孫娘であり、平河張榮(平河彦右エ門)を曾祖父とする方の嫁ぎ先は・・
家の宮原家の分家(高祖父の弟)の系となる岡原の宮原家でした!!\(◎o◎)/!
なお且つ!夫となる方(宮原の高祖父の甥)は
深水家から平川家に嫁いできた私の平川の曾祖母の従弟でした!!\(◎o◎)/!
ぎえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
親戚の深水家も繋がっている!!

さらに!!
家の宮原家に養女に入った、私の曾祖父の姪の夫(家の宮原家に婿養子に入る)は・・
「蓑毛八十右エ門」後裔の上村の蓑毛家の方でした\(゜ロ\)(/ロ゜)/
さらに・・上村の蓑毛家と私が住む集落の蓑毛家は親戚関係にあり「一族」でした!!
ぎえ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
でも・・私の曾祖父と仲たがいして、生まれた娘を一人残して宮原家を曾祖父の姪夫婦は出ていますが(..)・・その後に曾祖父の子が生まれて・・それが私の祖父です。

実は・・家の集落の蓑毛家には黒木家から婿養子の方が入っていて・・
私の平川の曾祖父の弟も別の黒木家の跡取りとして養子に入って継いでいるので・・
蓑毛・黒木・・と平河氏系図の縁戚関係と全く同じでこの関係もずっと疑問だったのですが・・
やっぱり・・繋がっていた!!!!!

ブログにアップしていた平河氏系図のBの江戸中期からの平河氏の縁戚関係と家の一族の親戚関係が殆ど同じで(犬童家・黒木家・樅木家・宮原家・愛甲家・蓑毛家)・・・ずっと「不思議だな・・」と思っていた妙な”感”は当たっていた!という事です!!
皆様、平河氏系図 B以降をじっくりご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

たけぽん様!!たけぽん様の御ばあ様の実家である須恵の平川家も上村の蓑毛家とは無縁ではありませんよ!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
椎葉のおじ・おばの其々の従弟の妻の方は須恵の平川家から嫁いで来られていますね!
椎葉のおじ・おばの其々の従弟の家と上村の蓑毛家は縁戚関係があります!
詳しくはここでは書けません(..)ごめんなさい(@_@。

椎葉のおじから「お前が早く上村の蓑毛家の事を言わないから!」と・・言われましたが・・
何せ、私が気が付いたのは、ほんの数日前の事ですから・・(@_@。 (やっぱりおっちょこちょいだ(@_@。)

あんれっ?(゜-゜)・・(?_?)
以前、たけぽん様に「蓑毛家」と「宮原家」の親戚関係はありませんか?と聞きましたが・・
「蓑毛家」との縁戚関係は見つかったのですが・・
「宮原家」との縁戚関係は・・・????
あの・・
たけぽん様に伺いたいのですが・・
もしかしてだけど〜♪ もしかしてだけど〜♪ (ここでギャクを真似してどうする(ー_ー)!!)
たけぽん様が今、お知り合い?縁がある?「宮原家」は・・
このわたくし「ミヤハラ」だけですか????
そうであれば・・・あんにゃっ(゜-゜)・・(?_?)

よ〜く考えてみると(p_-)
な〜ぜ?平河張榮(平河彦右エ門)この方の後裔である上村の蓑毛家と家の宮原家そして分家は姻戚関係をもったのだ〜???(?_?)

平河氏系図Bから以降・・
平河久貞・・妻は宮原権左衛門嫡女
平河久敬・・妻は宮原権左衛門の娘

平河安敬(平川幸三郎 安春又安純と改)・・母は宮原権左衛門の娘
平河張栄(平川猪五郎)・・母は宮原権左衛門の娘

平河張栄(平川猪五郎)子「蓑毛八十右エ門」の孫娘 岡原宮原家(家の宮原家の分家)に嫁ぐ(夫は深水家から平川家に嫁いだ私の曾祖母の従弟)
平河張栄(平川猪五郎)子「蓑毛八十右エ門」の孫? 家の宮原家に婿養子に入る

あんれ〜っ!(゜-゜)・・(?_?)・・偶然かな???

うんがっ!何だろう全国?から
あなた!!自分の家の「宮原家」の先祖を早く調べなさい!!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
との声が聞こえた様な????(?_?)

(p_-)・・ついに!調べる時が来たか!(-.-)
でも・・曾祖父と曾祖母のお墓がある場所までは行けるのですが・・
(親戚の万江家墓所のすぐお隣が宮原家の墓所です(..))
高祖父までのお墓は・・そこからもっともっと山を登った岡原霧島神社の裏手の
山の高台にあって(きっと球磨を一望できる眺めは最高の場所でしょうが)
もうすでに・・そこまでは道なき道となっていて・・
私は登る事が出来ません(@_@。
父が子供の時ですら祖母はそこまで登るのが大変なので、目の前に見える小高い山の頂上を見ながら
「ここで、お参りしておこう!」と
そちらに向かって手を合わせていたぐらいですから・・・(..)

でも・・こうなれば何かの手段を使って調べるしかありませんね(p_-)
しかし・・元々の宮原家があった場所を継いだ親戚のおじさん(母が宮原家に残った曾祖父の姪の子。このおじさんの祖父が上村の蓑毛家から婿養子に入った方です)
代々「宮原家」に伝わっていた古文書等を聞く話によると・・意味が解らないから燃やした可能性があると・・
ぎえ〜〜っ(@_@。

しかし・・やはりコメント55で書いたように・・明治以降も殆どが人吉に残った・・と勝手な推測を私がしていたのが調査を混乱させた一番の原因ですね・・

あと・・
ここまで・・色々繋がっている、私の祖母の実家の平川家とは・・一体???

妙な感で申し訳ないのですが・・私
系図Dの
平河安敬(平川幸三郎 安春又安純と改)・・母は宮原権左衛門の娘
36歳の若さで亡くなったこの方がとても気になります(..)
さらに・・お名前が「安純」・・「純」の文字が付いていらっしゃるし・・(..)
この方は36歳でお亡くなりですが・・子供さんはいらっしゃらなかったのかな・・?
もし、いらっしゃったとしても家督を継ぐにはお父様の年齢からするときっと幼かったのでしょうね・・

たけぽん様
たけぽん様の御先祖様 平河張栄(平川猪五郎)この方と家の方の繋がりがやっと見えました。
椎葉のおじに、たけぽん様の曾おじい様の御実家「中川家」について聞いたのですが、おじは解らないなぁ〜?と言っていました。
しかしおじは「平河家の宗家の婿養子に入られた方だから、何処か球磨以外の中川家の可能性があるんじゃないか?」
とやはり、私と同じ推測を言っていました。

今日の調査は急展開を御紹介させて頂きました(..)

だけど・・本当にビックリしています・・
では(..)
[60]たけぽんさんからのコメント(2017年02月22日 21時47分19秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ドンドン、核心に近ずいてる
みたいですねΣ(・ω・ノ)ノワォ♪

祖母の三男は、戦死してるので・・・

ただ、三男は軍服は白だった
とだけ聞いてます(..)

長男の方は何とも・・・(..)

うちは、巻物やら刀、その他諸々は
男の子のいる平川に全て?渡した
とだけ聞いてるので、一度も実物は
見ていません(..)ションボリ

刀に関しては・・・

村の何かの祭?⬅すいません、何だか忘れました(汗)
の際に、何方かが借りに来て
家から出したら悪さをした(..)

その席で刀を抜いて暴れた方がいらして
危うく・・・だったそうです。

駐在さんにこっぴどく怒られて、2度と
家から出さないようにしたそうです。

ヨウカも、奥の方は薄暗く、厚い扉があり
母は、子供ながらに怖くて行けなかった
と、言っていました。

うち自身、県外で生まれ育っているので
こちらの親戚は殆ど知りません。

須惠の平川にも、1度行った位です。

すいません、お役に立てず(ノ_<。)


[61]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月23日 10時26分56秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

すみません(..)
色々御質問をしてたけぽん様に負担をおかけ致しました。
本当にごめんなさい(@_@。

〉すいません、お役に立てず

とんでもないです!!
たけぽん様のお陰で、私は今まで知らなかった沢山の事を発見!そして知る事が出来ました(^◇^)
特に、江戸末期から明治以降にかけて、今まで殆ど調べていなかった事を
「調べて見よう!」と思ったのはたけぽん様のお陰です。
ありがとうございます。

その事により、今まで「不思議だな〜?」と感じていた事さえ「謎」が解け始めています(^'^)

最近は頭が「古代」〜「近代」まで色々な時代にグルグル動いて
(@_@;)・・(゜-゜)・・・(^◇^)
本当に・・調査がとても楽しいです\(^o^)/

しかし・・・最終目標はやはり
(p_-)平河氏とはいったい?????
であります(p_-)
すなわち・・たけぽん様と私の共通の先祖「平河氏」の系の真実の祖を探る事です。
さらに・・「平河義高」という方の真実など・・
平安初期くらいまで遡って辿りつけたら嬉しいですが(^'^)・・(p_-)

ですから・・私も今まで気が付いていた事等も、もっともっと沢山書いていこうと思います。
実は・・
鎌倉初期の鹿児島と球磨の繋がりで気が付いている事があります(p_-)
他にも・・鎌倉初期に埋められたお経を入れた「経筒」”現代によみがえったタイムカプセル”の中に書かれていた「人物名」等など・・(尼妙阿の名も実は・・)
書きたい事がいっぱ〜いあります(^'^)

古代〜近代まで色々「ぶっ飛び」ますが
たけぽん様 お付き合い下さいね(^'^)・・(..)

では(^'^)
[63]たけぽんさんからのコメント(2017年02月24日 02時07分32秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
こちらこそ、お気を使わせて
すいません(;_q)

ここでは、やはり制約があるので
ナカナカ上手く伝わらないですね(..)・・・

謎が早く解けるお手伝いが
出来てれば幸いです(..)

家事で、古文書や巻物等が無くなったのが
1番痛手でしたね(>_<)

それがあれば、また、少しは
違ったと思うのですが(..)ションボリ

しかしながら
ミヤハラ様の調査力は
凄いですねΣ(・ω・ノ)ノ(汗)

うちは、単純な事しかわからなかった
(しかも、余り大した事はわからず(泣))
ので、ここで色々な事がわかり
こちらこそ色々助かってます(〃∇〃)

うちが調査をするきっかけは、義高公の
亡くなった日が知りたかったからでした。

実は・・・

うちの仏壇〈義高公〉に話かけると
ちょっとした事があり、それから
しばらくして、うちの妹の夢の中に
白い着物(よく時代劇に出てくる切腹する
時に来てるヤツです)を着て出てきたと。

顔ははっきり覚えて無いらしいんですが
白装束の人物で・・・となると、義高公しか
思い付かない?と、なって。

で、夢の中でその人がキチンと正座して
深々と頭を下げて消えたらしいんです。

その夢の中に出てくる少し前から、義高公の
御回向をしていたので、もしかしたら・・・

うちも、この様に回りからぶっ飛んでる
ので、お気になさらずf(^^;

うちも、色々な年代の勉強になります。

こちらこそ、こゎからも
宜しくお願い致しますm(_ _)m




[64]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月24日 06時30分58秒 ) パスワード

たけぽん様 おはようございます(^'^)
実は・・まだ5時台ですが(..)

朝、起きてすぐに、たけぽん様のコメントを見て驚きました!

「白い着物」
あたってますよ!!!!

私も実は「白い着物」の事はむか〜し聞いた事があったのですが、調査を始めるまでは、歴史や先祖に関して深く考える事が無かったので薄っすらとした記憶の中だったのですが
こっち(球磨)に帰ってきてしばらく経って、誰だったか?義高公の「白い着物」の事を話してくれて
(戦った時に着ていらした・・?)
それ以降、出来るだけ、出かける時は、白い服は着ないようにしています!
(この事をコメントに書くのを実は躊躇していました・・)

妹様、凄いです。
きっと、たけぽん様や妹様、御一同がお祈りを捧げていらっしゃるのでお喜びになられたのでしょうね。

こう言う事が会話出来て本当に嬉しいです(^'^)

家にも実は・・夢の話によって「人生」を選択した人がいます。
それは・・叔父(父の弟)です。
叔父に婿養子の縁談が来た時・・
親戚内でも意見が分かれていて
叔父はどうするべきかかなり悩んだそうです。

そんな時に叔父は夢か現実か解らない”空間”の中で・・
大きなお堂?のような中で
一番前(一段高くなった?場所・正面)にりっぱな”黒い着物”(袈裟?)を着た男性が座り
その方に向かうように同じくりっぱな”黒い着物”を着た沢山の男性が座り
「行くべきか!、行かざるべきか!」と繰り返し全員で大きな声を出していらして
最後に一番前の方が
「行きなさい!」とおじに向かって言われたそうです。

目が覚めて・・叔父は「夢か?幻か?現実か?」と
そして叔父は、「婿養子に入る事を決めた!」と祖母に伝えたそうです。

叔父はこの事を誰にも話していなかったのですが・・
夢で見た方がとても位の高い僧の方のように感じて
「自分の先祖はきっと位の高い僧の方だったのだろう・・」と思っていたそうです。
3年前に私が球磨に戻る事を決めた正月。
叔父からこの話を初めて聞きました。

すでに調査を始めていた私は
「平河氏一族には良峰法師と言う方と”三位坊 良円”と言う方が平安末期〜鎌倉初期にかけていらした」
と言う話をすると、叔父は「そう言う事か・・」と何だか納得していました。

ただ・・
球磨の宮原の一族の先祖「橘公綱」の妻は日蓮聖人の有力壇越であった「南部家」から嫁いで来られているので・・
※橘公綱の妻は南部実継の娘 南部実継の父は南部実長

よろしければこちらをご覧ください(..)
南部実長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7

南部実継 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E7%B6%99

叔父の夢に出て来られた方々が何方だったのか?はよくは解りませんが(..)

でも・・叔父が人生の選択を”この出来事”で決めた事は確かです。

私は・・この世の中には科学で証明出来ない事は必ず存在すると思います。

父は・・「きっと、お父さんやお前、そして家の親戚は、現代人に進化しきれていないんだろうね(^'^)」
と笑っています。
(父いわく、本来、動物が必ず持っている能力?が退化せずに残っているそうです(..))

たけぽん様も御家族も同じ体質?がきっと残っていらっしゃるはずです(p_-)
しかし・・この能力?体質?は、おそらく・・古代〜江戸時代?位まで
きっと必要なものだったと私は思います(p_-)

では(^'^)
[65]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月24日 17時54分43秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

色々書きたい事はあるのですが・・やはり
コメント59で書いた
平河久貞・・妻は宮原権左衛門嫡女
平河久敬・・妻は宮原権左衛門の娘

平河安敬(平川幸三郎 安春又安純と改)・・母は宮原権左衛門の娘
平河張栄(平川猪五郎)・・母は宮原権左衛門の娘

平河張栄(平川猪五郎)子「蓑毛八十右エ門」の孫娘 岡原宮原家(家の宮原家の分家)に嫁ぐ(夫は深水家から平川家に嫁いだ私の曾祖母の従弟)
平河張栄(平川猪五郎)子「蓑毛八十右エ門」の孫? 家の宮原家に婿養子に入る

と言う事で、やはり気になる(p_-)私ミヤハラの宮原家について、今までに解っていた事をまとめて書かせて頂こうと思います(..)

@曾祖父から祖父が相続した昭和初期までの宮原家の所有地について

曾祖父から祖父が受けた家督相続の書類に記されていたうちの宮原家の所有地の中に
岡原霧島神社に合祀された稲積妙見が鎮座であった字「馬場田」の土地がありました。
稲積妙見(稲積神社) 球磨郡誌より
同村馬場田鎮座稲積神社祭神 天之御中主神 右五神※ 「右五神」とは別天津神(ことあまつかみ)でした。
ウィキペディアより
別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々を云う。
『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、
いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神[1])として成って、そのまま身を隠したという。
中略・・
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した

上記ウィキに記されていた
別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々・・ 稲積妙見(稲積神社)の御祭神でありました。

稲積妙見(稲積神社)の御祭神
※天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
※高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 生産・生成の「創造」の神。神産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神
※神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産・生成の「創造」の神。高御産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神
※宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)- 活力の神
※天之常立神(あめのとこたちのかみ)- 天の神

ウィキより
これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼ぶ。

稲積妙見(稲積神社)御鎮座であった字馬場田の土地を含める周囲の1町程の土地を
昭和初期まで地元の方々は「おじゃんじ(御社地)」と呼んでいて「おじゃんじ(御社地)」の殆どは家の宮原家の所有地でした。
当時、家の宮原家は何故か?「こうじんやしき(高神屋敷)」と呼ばれていました。
稲積妙見(稲積神社)周囲の「おじゃんじ(御社地)」だけではなく・・
中島霧島神社(中島大権現)鎮座の字舟川の土地も明治初期までは家の宮原家が関係する土地だったようです。
他に旧宮原村内の字「外園」字「六反田」字「風山」等も家の宮原家の所有地で
さらに何故か?お隣の岡本村・久米村そしてこれこそ何故か?人吉を飛び越えて八代方面になる球磨村にも家の所有地があったのです(?_?)
冷静に考えると(p_-)・・神社関係の土地であったのでは?とあくまでも推測ですが・・?
しかし・・家の宮原家は稲積妙見(稲積神社)の宮司家であったという記録は全く残っていません(?_?)

先程書いた
〉稲積妙見(稲積神社)御鎮座であった字馬場田の土地を含める周囲の1町程の土地を
昭和初期まで地元の方々は「おじゃんじ(御社地)」と呼んでいて「おじゃんじ(御社地)」の殆どは家の宮原家の所有地でした。

この殆どは・・とは、実はこの「おじゃんじ(御社地)」の中の字「馬場田」ですが、残り3分の一の土地の所有は親戚になる「万江家」の所有地でした。
万江家と家の宮原家との親戚関係はよく解らないのですが(椎葉のおじは必ず繋がっているはず!と言いますが・・)
祖母の実家の平川家とは親戚関係にあり、曾祖父の弟の妻は万江家から嫁いで来られています。
万江氏とは相良長頼球磨来住の際に従随した「氏」の1軒で、後に相良藩成立以降は相良藩の主な家老家として江戸末期まで連綿と続いた家系であります。

A球磨の宮原一族と万江氏との関係
先程
〉万江家と家の宮原家との親戚関係はよく解らないのですが(椎葉のおじは必ず繋がっているはず!と言いますが・・)
と書きましたが・・
遡ってみると・・どうも万江氏と宮原宇右衛門公全(相良藩家老)との間には繋がりがあるのでは?と言う事に気が付きました!

宮原宇右衛門公全(相良藩家老)の系の系図「老神馬場 宮原家系図」を頂く事が出来まして・・
じっくり読んでみると・・
宮原宇右衛門公全 この方の項に
※養子寛文二年正月相続(1662年)と記されています。

養子・・婿養子?養子? いずれにしても宮原宇右衛門公全と言う方は何処かの「家」から養子に入られている事が解ります。
この事は昨年末から気が付いていたのですが・・

先日、偶然、求麻郷土研究会 益田敬三氏 著の「南無」(人吉藩 人名と法号)を読んでいて「これはっ!?」と言う事に気が付きました。
宮原宇右衛門公全・・通称「宇右衛門」
この通称「宇右衛門」を数代に渡り称していたのは「万江氏」でした!
万江宇右衛門栄純 ・・家老
万江宇右衛門晶純(昌純)・・相良長與・長在代執政
万江宇右衛門典純 ・・相良長寛代 家老
万江宇右衛門武純 ・・相良頼峯・頼喬代 家老

さらに・・皆様、すでにお気づきの事と思いますが万江氏の通字は「純」です。
通称「宇右衛門」を称していない方々も、殆どが「家老」もしくは「執政」です。

人吉市史 第一巻 附録に 源姓萬江氏(万江氏)系図 が記されていました。

源満仲・・七代略・・
利純(母は菊池経道妹、母と共に肥州益城郡より求麻郡萬江郷に潜匿す。)
則純(萬江式部 此代より萬江を氏とす。 道生、建久九年長頼公球磨下向の時中路之を迎え忠心を勞す、以来世臣となる)

とあり・・以降相良氏の重臣を代々継承されています。

さらに・・万江氏系図には
慶長五年に亡くなった「犬童金十郎 武之」という方の名も記されていました。

万江氏系図を見ると「分家」は三度しか発生していないようです。
(どうりで球磨に万江家が少ないのですね・・(p_-)熊本県内にわずか15軒)
家は親戚でもあり同じ集落と言う事もあって万江姓はとても親しみがあるのですが・・。

かなり以前、コメントしたのですが
東林寺南側墓地にある宮原家墓地の宮原宇右衛門公全のお墓。この方のお墓のすぐ傍に「露幻童子」と言う方のお墓がありました。
球磨村15区(毎床・茂田・俣口・遠原)
http://www.sangaura-tourism.jp/area15
51 遠原阿弥陀堂
今から340年前、岡原村の豪族が「露幻童子(ろげんどうじ)」を供養するために建てられたといわれている。例祭日には、地区住民による接待がおこなわれる。

以前から宮原宇右衛門公全。この方の系は旧岡原村に関係あるのだな(p_-)とは理解していたのですが・・
同じく「宇右衛門」を称する「万江氏」がその旧岡原村内の宮麓の元々宮原家があった場所にほど近くに在していて、なお且つ
稲積妙見(稲積神社)御鎮座であった字馬場田の土地「おじゃんじ(御社地)」は家の宮原家だけでなく万江氏も所有していた・・
さらに近くには宮原宇右衛門公全の甥もしくは孫となる「宮原金兵衛 公行」と同一人物の可能性が大きい
「新堀金兵衛」を先祖とする私の曾祖母の実家「新堀家」が在していた・・

このような事実が・・果たして偶然であるのか??

と・・ここまで、最近までに気が付いていた事を書きました。
しかし・・最も最近では
この・・家の宮原家と親戚の宮原家には其々、平河張栄(平川猪五郎)子「蓑毛八十右エ門」の系の方が婿養子に入っていたり嫁いで来られていた事が解りました・・
やはり・・
このような事実が・・果たして偶然であるのか?? です(?_?)

今日は家の宮原家について気が付いていた事を書かせて頂きました(..)

では(..)
[66]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月25日 10時38分17秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(..)

まず・・最初に叫ばせて下さい(..)

うううううん!!!私はやっぱりおっちょこちょいだ〜!!!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・(@_@。

今朝、早速、鎌倉時代初頭の鹿児島と平河氏が所領した「永吉庄柳瀬」の繋がりを書こうと思ったのですが・・
ふと?
ううん?そう言えば、江戸時代の平河氏は「薩摩平氏」の伊作氏との繋がりがあったんじゃなかったかな〜(?_?)
と急に思い出し・・

平河氏系図をぼ〜っと見ていて気が付きました!
そうです!あったのです!私、平川家について34のコメント12でちょこっと書いていたのでした。
平川家について34のコメント12より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101538_33.html
最後に・・
ブログにアップの平河氏系図 Cに見える 惟重(妻犬童伝兵衛の娘)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

上記の犬童伝兵衛に繋がる「犬童氏系図」を見たのですが・・
犬童伝兵衛の母は・・「伊作氏の娘」でした・・ビックリしています。
ちなみに上記の「犬童家」と家の縁戚となる「犬童家」は「共通の親戚」でしっかりと繋がっています(..)
================================================
と書いていたのです(..)
本当に、私はおっちょこちょいのおバカです(@_@。
繋がりを完全に忘れた上で一度、こちらのスレッドに上記の犬童家についてコメントを書いて・・祖母の友人の方の家に伝わる古文書の件も書いて・・
後で、祖母の友人の方に確認してから書こうと・・削除していました(@_@。
相良藩に銀やお金を献納していた犬童氏こそ平河氏系図に見える「犬童伝兵衛」氏や父の方です!

ブログにアップの平河氏系図 Cに見える 平河惟重(妻犬童伝兵衛の娘)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

平河惟重(妻犬童伝兵衛の娘)
犬童伝兵衛(犬童傳兵衛)
上村の麓に住してその後、江戸末期に人吉に移った「犬童家」
平成9年創刊の ひとよし歴史研究 犬童家文書についての一考察 一ノ瀬寅義氏
こちらに記されている「犬童氏」は犬童美作重国の後裔で上村に住。数代後には旧宮原村住の「東氏」が養子に入り犬童家を継承。
その子「貞右衛門」から数代に渡り「藩に献金・献納」を行っているという古文書が「犬童家文書」です。

犬童氏系図をじっくり見ると・・
犬童美作重国 9代後裔
犬童彦八重次  ※此東右衛門・住宮原之二男為養子・・宮原村に住んでいらしたのですね・・

犬童貞右衛門重定 ※妻 伊作氏ノ女 父司郎兵衛

犬童傳兵衛常則(犬童伝兵衛)  ※妻 赤坂氏ノ女 二男一女生まる
 ※娘 平河惟重の妻

犬童貞右衛門尚尭 ※妻 宗像氏ノ女

4代後裔の娘さん・・実は
椎葉家の源一おじいさんの妻(犬童家の娘)の従弟家に嫁がれています!!
上記の椎葉家の養女が岡原平川家の娘(私の祖母の姉)

こうやってちゃんと書いてみると・・
ぎえええっ!!(変な声が出ました) ここも繋がっていました\(゜ロ\)(/ロ゜)/

うんがっ?さらにこうやってちゃんと書いてみると・・
あっ!?宗像氏???
※犬童貞右衛門尚尭 ※妻 宗像氏ノ女
親戚の多良木の平川家と人吉の宗像家は親戚です〜!!

うんがっ?さらにさらに・・こうやってちゃんと書いてみると・・
※犬童傳兵衛常則(犬童伝兵衛)  ※妻 赤坂氏ノ女 二男一女生まる
 ※娘 平河惟重の妻
あっ!?赤坂氏???
コメント55で書きました!
〉先日、曾祖父の実家の一族の墓所に行った時に「久保田氏」以外に「西氏」「赤坂氏」の立派なお墓が同じ場所に並んであったのです。
「赤坂氏」と言えば・・相良藩の重臣として人吉にいらしたはずなのに・・何故かな?とそこで少し疑問に感じたのですが・・
何かあるのかもしれません(p_-)
と・・書いたのですが・・

何かありました!ありましたよ!!\(◎o◎)/!
親戚の多良木平川家は私の高祖父の実家の久保田家から養子が入り跡を継ぎ・・(親戚が宗像氏)
さらに・・久保田家の墓所には久保田家以外に赤坂氏のお墓が並んであった・・

ナンダナンダ!!なんでだろう???
何だかみ〜んな繋がっている!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

やっぱり私はおっちょこちょいです(@_@。
もっと早く気が付くべきでした(@_@。
でもな・・最近の調査で色々解ったから・・今回の発見?にも気が付いた訳ですし・・
やはり・・おっちょこちょいの私を先祖が導いて下さっているしか考えられませんね(..)

平川家について34のコメント12をもう一度確認すると・・この時私
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観 を拝見していたのです(..)
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm

《伊作氏/英禰氏》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116d1.htm#007

あっ!?  河辺氏・・あれっ河辺・・川辺・・
家の謎?の親戚は「川辺」家・・おんやっ?(?_?)

やはり(p_-)
鹿児島の調査をしっかりと行う時がやってきたようです(p_-)

続きが今日中に書けるか・・解りませんが・・

おっちょこちょいの『怪我の功名』ですな(p_-)
(何処から・・おっちょこちょいは直しなさい!との声が・・(;一_一))

では(^'^)
[67]たけぽんさんからのコメント(2017年02月26日 06時07分39秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

なんだか、調べれば調べる程
親戚が増えすぎていきますねf(^^;

流石と言うべきか・・・(..)・・・

昔は、系を絶やさぬ様に
ましてや、良い家柄なら、それなりに
子息子女が出入りしてるってのが
身近に感じる事が不思議な
感覚です(..)

義高公の事を調べ始めるまでは、正直
TVの中か他人事の様に感じて
ましたから(..)・・・
[68]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月26日 09時15分13秒 ) パスワード

たけぽん様 おはようございます(^'^)

親戚関係・・
こちらのスレッドで、ここ数年間調査してきて、中々進展しないなか
ふと・・親戚関係に何らかの意味があるのじゃないのかな?と気が付きました。
だから・・それからは、父や叔父、椎葉のおじや、宮原の親戚、平川の親戚、深水の親戚等
繋がりのある人達から聞いた親戚関係をこちらのスレッドにコメントとして書き留めるようにしてきたのです。
(もちろん書いていいか?皆に確認しながらです。確認する前に書いた事は削除していますが・・その変わり、ワードにメモしています)
聞いた事を書いておかないと忘れてしまいますし・・おっちょこちょいなので(..)
その数年間の作業がやっと今になって実を結び始めたのだと思います。

昨日書いた親戚の「宗像氏」件も、こちらに戻って来て聞いた事をこちらのスレッドに一度書きました。
あと・・昨日書いた椎葉家と親戚の某家については・・かなり以前白石様とのやり取りの中、一度書いた高○家です。

ありがたい事に椎葉のおじ(87歳)や宮原の祖父の姪(戸籍上。実際は祖父の従姉の娘・80代)は、親戚関係をしっかりと記憶しています。
ものすごい数です。
理由があります(^'^)

家や親戚に代々継承?されてきた風習?のお陰です(^'^)

家や親戚は、村の祭りや集落の祭り、その他、家内で祝い事があった場合
大量の赤飯を炊いて、親戚中に配っていました。
「おもしめし」と言うそうです。
その「おもしめし」を親戚中に配るのが子供や青年の役目だったのです(^'^)
椎葉のおじも宮原の祖父の姪も、子供の頃「おもしめし」を親戚中に配って回っていました。
それも・・一体何代前からの親戚だっ??と思うような親戚まで配るので
大変な作業?だったそうです\(◎o◎)/!
そのつど、「○○家とはこういう関係だ」と親や祖父母に教えてもらっていたと言います。
私の祖父が軍隊から岡原の実家に帰った時は必ず「おもしめし(赤飯)」が炊かれて、私の祖父からとても可愛がられていた椎葉のおじは
行きは私の祖父が自転車に大量の「おもしめし」を積んで一緒に歩き、配って回り、帰りは自転車の後ろにチョコンと乗って、その時はとても楽しかったそうです(^'^)
挨拶回りですね(^'^)

しかし・・「おもしめし(赤飯)」配りは、岡原村内の親戚だけではなく・・
上村・多良木・久米・湯前・錦町・等・・とても大変だったそうです((+_+))
子供なので自転車に乗って配っていたそうです。
子供で行ける範囲の親戚には配らなければいけなかったのだそうです((+_+))
行く順番を考えて配り、最後に上村まで配ったら、椎葉のおじは上村の親戚に泊まっていたそうです(^'^)
これを祭りなど「何かの行事」があると毎年繰り返していた・・
だから!椎葉のおじと宮原の祖父の姪はしっかりと親戚関係を覚えている!
と言う事なのです(^'^)
冷静に考えると・・(p_-)
「おもしめし(赤飯)」を配るだけであれば・・家も椎葉家も他の親戚も「家で仕事をされていた」方々が沢山いらしたので頼めば良い事です・・
(?_?)
この風習?は子供達に「自分と繋がる親戚」をしっかりと理解させる為の教育?にもなっていたのでは?・・と思います(p_-)

しかし・・
あまりにも多い親戚の数。終戦後、兄が教師であった椎葉のおじは、椎葉家の事を任される事になり、母(私の祖母の姉)に
「これからの時代は、ここまでは自分は出来ない(..)」
と伝えると
「これからは、近い親戚だけでよかよ(^'^)」と言ってもらえたそうです(..)

近い親戚と言っても・・家の一族?は親戚が多い(..)
後年、
「こう言う事は、ばあちゃん(私の祖母の姉)の代までで、よかよ(^'^)」
と言われたそうです。
確かに、私の子供の頃は村の祭りがあると親戚中から「おもしめし(赤飯)」を頂いていました(^'^)
実は・・私・・赤飯が大好物で、小倉で仕事をしていた時にはコンビニの赤飯のおにぎりをしょっちゅう買って食べていました(^'^)
友人からはもち米は太る!と言われていましたが・・
だから・・この通り (*^_^*)

うん??ふと「おもしめし」って赤飯という意味なのかな?と今気が付きました(p_-)
一度・・全国にこの「おもしめし」風習があったのか?調べてみようかな・・

しかし・・もし・・この「おもしめし」風習が今でも続いていたら・・
ぎゃあ(;一_一)
家計があっぱくされます(;一_一)

と言う事で
何故?家の一族は「親戚関係をよく理解しているのか?」という謎を解く
「おもしめし(赤飯)」のお話でした。

では(^'^)
[69]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月26日 22時20分24秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今晩は(^'^)

今日は一日外出していたのですが・・その間、とても大事な事を書いてなかった事に気が付きました!

あの・・
朝、コメントに書いた『宮原の祖父の姪(戸籍上。実際は祖父の従姉の娘・80代)』
とは・・ちゃんと書くと
上村の『平河張栄(平川猪五郎)子蓑毛八十右エ門』家から宮原家に婿養子に入った方の孫になる人です・・
色々、事情があって書いていなかったのですが・・
この方(普段はおばさんと呼んでいますが(..))
祖母の実家の平川家に嫁いでいたのです・・・・(ええええっ!?と何処から声が(..))
以前、こちらのスレッドで私が
〉平川の私のふた従兄は『平川家から見るとふた従兄』になり『宮原家から見ると”はとこ”』になる・・
と書いた理由がこの話でして・・(詳しくは書けませんが・・)

この事を外出中に考えていて・・

よ〜く考えると・・あんれっ!!\(◎o◎)/!
平川の私のふた従兄って・・
以下のような後裔となるのです!!

平河張栄(平川猪五郎)・・母は宮原権左衛門の娘

蓑毛八十右エ門 上村住 父:平河張栄(平川猪五郎)

宮原某氏(名前は知っているのですが匿名で(..))上村 蓑毛八十右エ門家から宮原家に婿養子に入る。

孫娘:祖母の実家の平川家に嫁ぐ

私のふた従兄 生まれる

(?_?)(?_?)・・・ああああああっあんれっ!!!!
繋がっている!!

簡単に書くと・・
平河家 → 蓑毛家 → 宮原家(うち) → 平川家(祖母の実家)

あああああっ!!!!(?_?)・・\(◎o◎)/!

何だコレっ!!

なお且つ(p_-) 祖母は・・
平川家 → 嫁ぐ「宮原家」

こうやって書くと
あらためて・・ビックリです

\(◎o◎)/!
 
[70]たけぽんさんからのコメント(2017年02月27日 01時35分00秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です(。・∀・)っ旦

うちも、今日は朝早くから外出
(お寺にお詣り)してました(^-^)

帰ってから、祖母も〈おもしめし〉と
言っていたのを思い出し、たまたま
叔母が隣にいてたので、聞いてみたら
確かに〈おもしめし〉を祖母も
作ってたと、言っていました。

こちらの方言?かどうかまでは、叔母
もわからないと言っていましたが・・・

平川の親戚だけの風習かどうかは
わかりませんが・・・

こちらには、そんな風習が
あったんですね(^-^)

ちなみに、叔母も〈おもしめし〉
大好きです(^-^)v

うちの叔母もコンビニでよく
〈おもしめし〉買ってます(笑)

親戚関係は、もらいもらわれを
している家系?らしいから、
家系図的には、どうしても
ぐるぐる何処かで重なり
あうんでしょうね(..)・・・
[71]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月27日 22時24分12秒 ) パスワード

たけぽん様

「おもしめし」良かった通じて(^'^)

親戚関係・・本当ですね(p_-)
グルグル重なりあっています(?_?)

今日は鹿児島と球磨の永吉庄柳瀬との関係を書くつもりだったのですが
椎葉のおじが遊びに来て2時間近く話をして帰ったので
予定が変わりました。

中川家にももしかしたら繋がるかもしれない新情報が入りました!!

新しいスレッド平川家について38を立ち上げました(^'^)

続きはそちらで(..)

平川家について38 に続きます(^'^)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101585.html
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