[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 03時27分33秒 ) | パスワード |
福島姓は母の後夫の名字です。
桶職人だったとか。
福島さんは南朝方です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1194544411
「鬼頭」という苗字は名古屋市に多く、
平安後期の長寛年間に現在の名古屋市中区に鎮座する闇之森八幡社を勧請した源為朝の子、
尾頭次郎義次の別名に由来します。
闇之森八幡社
創建は長寛年間。
源為朝が石清水八幡宮を勧請したと伝えられる。
境内に為朝の甲冑を埋めたといわれる「鎧塚」がある。
中区に住んでたけど行ったことないけど「アソコかな?」とは思う
尾頭は熱田区だけどココには行ったこと有り。
闇之森八幡社は尾頭の東北歩いて5分ぐらい
ということはしょっちゅう通ってたけど気付かなかった。
ワタシが平家だから?なるほど
源為朝は九州で鎮西総追捕使を自称して暴れまわった強弓の使い手として勇名を馳せた武将で、
九州での狼藉ぶりを香椎宮(福岡市東区)の神職により朝廷に訴えたことが契機となり、
九州から都へ呼び戻され、更に保元の乱で伊豆大島に流刑されています。
伊豆大島で誕生した為朝の子・義次は産まれた時に蛇が首に巻きつき、
頭と尾を後ろに垂れていたという『日本霊異記』に伝承のある道場法師にちなみ
「尾頭」姓を名乗っています。
「尾頭」は(おがしら)と読みましたが、義次はこの読みを(おとう)に改めています。
尾頭次郎義次は島民の援助で大島を脱出し、尾張国愛知郡古渡(現在の中区古渡
町)に移り住んでいます。
この近所に住んでた
信長が育った所(古渡城とか那護屋城とか)も近所
愛知郡で成長した義次は父の遺伝か勇猛果敢な武将として都まで勇名が轟き、
そのころ都を脅かしていた紀州からの郎党「鬼党」を征討せよとの天皇からの命を受け、
見事退治したことにより、古渡の地を安堵され、鬼の首(頭)を討ち取ったことから「鬼頭」の姓を賜った
という縁起が記されています。
道場法師
6世紀後半敏達天皇の代、農夫であった父親が農作業の途中落ちてきた雷の命を助け、その結果、強力(ごうりき)の子として生まれた。
10歳の頃、上洛して皇居の北東隅に住んでいた力のある王族と力比べをして勝った。
その後、元興寺(飛鳥寺)の童子となり、鐘楼堂にすむ人食い鬼(がごぜ)を退治した。
このときの鬼の髪の毛が元興寺に伝わっている。
その童子は元興寺の優婆塞(うばそく=在家のまま仏道修行をするもの)となった。
王族が元興寺が所有する田に引水するのを妨害したが、童子はこの妨害を排除し、
衆僧に出家・得度することを許され、道場法師と称されるようになったという。
『今昔物語集』には、道場法師の孫娘の話が記述されており、道場法師の怪力は男には伝わらず、女方に伝わったことが語られている。
『今昔物語集』によれば、孫娘も愛知郡出身と記述されており、
少なくとも聖武天皇の時代まで一族は愛知郡で暮らしていたものとみられる(ただし、氏名の記述はない)。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 03時45分20秒 ) | パスワード |
なんだ
鬼頭氏
太閤さま以来の名家じゃなくて
その前からの名家じゃないか。
それは知らなかった。
なんせ伊豆大島に流された話を奄美大島に流されたと思ってた。
沖縄人は平家と為朝の子孫だと思ってた。為朝の子孫というのは勘違いだった?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1438104904
鬼頭氏
名古屋市中区正木の闇之森八幡社の社伝では、
「島に生まれた為朝の子が家人の手引きで島を脱出、尾張国愛知郡古渡に来たり」
とされている。
境内には「尾頭塚」と呼ばれる碑がある。
これは「為朝塚」とも言われ、「鎧塚」もかっては為朝愛用の甲冑を埋めたとされている。
為朝の子とされる尾頭次郎義次も幼い頃から豪腕で、
産まれた時に蛇が首に巻きつき、頭と尾を後ろに垂れていたという日本霊異記の道場法師にちなみ「尾頭」姓を名乗った。
当初は「おがしら」と呼び、やがて「おとう」となった。
古渡橋から400メートル位の尾頭橋は佐屋街道の起点でもある。
全然知らなかった
また、源氏の御曹司・頼朝は古渡から1Km程南の熱田・誓願寺で産まれている。
これは母が父・義朝の正室であり、また、藤原季範(熱田大宮司・俗姓千秋氏)の娘であったからである。
さて、成長した義次の豪傑ぶりは都にまで聞こえ、当時、紀州「鬼党」を称する悪党集団があり、土御門天皇は義次に討伐を命じられた。
これは共倒れを狙った策略であったといわれる。
政治だね
義次は喜び勇んで勅命を遂行し見事「鬼党」を退治し、その首領の首を持ち帰った。
無邪気なヤツだな
恩賞として古渡の地を安堵され、鬼の首を討ち取ったことから「鬼頭」の姓を賜った。
尾頭義次は、平安末期の武将鎮西八郎源為朝の落胤であり、
尾張源氏鬼頭氏の氏祖として、
近世の系図や随筆・地誌に記録された伝説上の人物である。
鬼頭氏のこの氏祖伝説は、
(1)源為朝の落胤(尾張国古渡村への潜居)、
(2)尾頭義次の鬼退治(勅命による紀伊国の悪鬼退治)、
(3)その結果として鬼頭氏の苗字が成立(鬼の頭を献上)、
という三つの要素から成る。
藤原季範:
父が目代として赴任していた尾張国に生まれる。出生時父季兼は、当時としては高齢の47歳であり、季範が12歳のとき死去した[1]。
季範の母の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る[2]。
これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。
保延3年(1137年)8月、夢想により五男・範雅に大宮司職を譲る[3]が、季範が死去した久寿2年(1155年)に季範の長男・範忠が大宮司職に就任する[3]。
季範自身は主に都で生活することが多く[4]、従四位下の位階も受けている。従姉妹に鳥羽院の乳母藤原悦子(藤原顕隆室)がおり、またその甥が信西(諸説あり)であるなど、中央政界との繋がりも多かった。
また子女を経由した人脈も幅広く、待賢門院や上西門院に女房として仕えた娘がいた他、
娘の由良御前は源義朝と結婚し、頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)らを生んだことで有名である。
さらに、養女となった孫娘(実父は範忠)は足利義康と結婚して義兼を生み、後世の足利将軍家にも季範の血統を伝えている[5]。
また由良御前が産んだ孫の坊門姫の血筋は鎌倉幕府将軍の藤原頼経・頼嗣の他、後嵯峨・亀山両天皇にも伝わっている。
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