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 投稿番号:101578 投稿日:2017年01月22日 05時58分59秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXXY(課題確認29)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101576_56.html
長上郡の服部氏族LXXXX(課題確認28)
スレッド85の続きです。



     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


大河ドラマ「おんな城主 直虎」が始まりました。

井伊一族と服部家は繋がりがあったのでしょうか?
さらには松下之綱(加兵衛)、松下清景(源太郎)、松下安綱(常慶入道)らと
服部家はどのように関わったのでしょうか?

何か見えて来ると良いのですが。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月22日 12時19分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。

 昨日は、新年会があり、普段飲まないワインなどを飲んだため、酔いが
醒めず寝てしまいました。いつもより随分セイブしていましたので、二日
酔いにはならずに済んでおります。

 さて、源義朝の近習の渋谷金王丸がなぜ井伊谷の奥の渋川方面に逃げた
かということですが、渋川をさらに北上して行くと南信州・飯田へ抜ける
ことができ、信濃には保元の乱で義朝に従った武士達がたくさんいますの
でそれを頼って行ったと推測いたします。もちろん範頼も関係しているは
ずであります。

 松下氏と柳生の関係は、上泉伊勢守秀綱を通して奥平氏と家康にまでつ
ながっていそうです。次回はそこに言及してみます。これから用事で――
 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 04時18分35秒 ) パスワード

金王丸の情報は殆ど無いですね。


『平治物語』では源義朝の妾である常盤御前にその死を伝えた。
けっこう謎の人物です。



http://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/hito/konnoumaru/index.html
渋谷金王丸祠(しぶやこんのうまる)  新城市玖老勢字向貝津

平治の乱(1159)で平家に破れ、現在の知多郡美浜町野間の長田忠致・景致の館へ逃れてきた源義朝は長田氏に騙し討ちされ、

長田父子は鳳来寺に逃げ込んだ。              ← そうなの? 

義朝の家来、渋谷金王丸は長田父子を追って現在の玖老勢地区まで来て、
逃げ込んだ鳳来寺から長田父子が出て来るのを待ったが、
仇討ちを果たすことなくこの地で病死したという。      ← そうなの?


渋谷金王丸の墓は、浜松市北区引佐町渋川 にある。




源義朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D


生誕   保安4年(1123年)
死没   平治2年1月3日(1160年2月11日) 享年38




源範頼                    この人は弟の義経の引立役にされて悪く書かれて気の毒です。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%AF%84%E9%A0%BC

生誕  久安6年(1150年)   10歳の時に父が殺されたのですね。


遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。
その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。
                 
               藤原範季
               後白河法皇の近臣。順徳天皇の外祖父。




生母は『尊卑分脈』によれば、遠江国池田宿の遊女とされている。

池田宿は現在の静岡県磐田市(平成の大合併前は磐田郡豊田町)池田に比定され、
範頼の生地とされる伊勢神宮内宮領・蒲御厨の東隣にあたる。


現在では池田宿と蒲御厨は天竜川によって隔てられているが、
平安時代には天竜川は池田宿の東側に流れており、
池田宿は蒲御厨と地続きになっている天竜川西岸に設けられた東海道の宿場で京都と東国を結ぶ交通の要衝でもあった。


このため、「遊女」とは称していても実際には単なる芸能民ではなく池田宿の有力者(長者)の娘で、
父・義朝が池田宿との関係構築を目的として婚姻を結んだのではないかとみる説もある[3]。


父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、
出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、
養父の藤原範季が東国の受領を歴任する応保元年(1161年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。



ということで先のスレッド
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101576_57.html
レス<54>の書き込み

>なぜ金王丸はここ遠江井伊谷の奥の渋川の地に逃れて来たのでしょうか。
>ちなみに、この地は井伊家の領地でありました。
>金王丸は鎌田政家(出身は遠江磐田郡鎌田)



ひょっとすると
鎌田の家に訃報を知らせに行き
蒲冠者の実家にも知らせに行き
遠江に身を寄せるつもりだったのかもですね。

更に10歳の範頼を連れて信濃や東国に逃げるつもりだったのかも。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 22時53分34秒 ) パスワード

やっと「おんな城主 直虎」の井伊家内のややこしい人間関係が進んで来ましたね。


爺さま(直平)の息子が
    亀の父で今川に殺された直満
    南渓和尚(養子?)
    瀬名さまの母上(佐名さま)義元の側室 後に 関口の妻になる

    直虎の祖父・直宗(この子が直盛)直宗は天文11年(1542年)に今川義元に従い三河国田原城攻めで戦死

          直盛役の杉本哲太が老け過ぎてて登場役者の年齢関係がワケ分からなかった・・・


やっとハッキリしてきました。


でも瀬名さま=築山殿=は義元の娘だった?誰の娘?  関口とはなさぬ仲の娘に?

瀬名さまが龍王丸=氏真=の妻の座を狙ってた?  でも腹違いの兄妹関係?


一応瀬名さまと「とわ」=直虎  は従姉妹?  父の従妹が瀬名さま?


ややこしい・・・
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月24日 09時04分35秒 ) パスワード

空の青海のを様

 昨日、今日は第一級の寒波が襲い、外は凍える寒さであります。
 そんな中、本日は寒風吹きすさぶ「蓬莱橋」へ行ってみる予定です。とい
うのも、島田博物館で刀剣の展示があり、本多平八郎忠勝のトンボ切りの槍
のレプリカが見られるということで、島田に行くからであります。
 できれば、対岸にある敬満神社も見てこようと思っています。

 このところ、毎日四キロのウォーキングの疲れによる眠気と、連日の寒さ
により、集中力が落ちております。何とか乗り切りたいと思っていますが、
何といっても「新たな謎」を発掘することが、集中力を高める一番の特効薬
だと思っています。

 井伊家がらみの話は、帰宅後に記したいと思います――
 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月24日 09時49分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「蓬莱橋」

「とと姉ちゃん」に出て来た橋ですか?


http://shizuoka.mytabi.net/shizuoka/archives/horaibashi.php
有料だったとは!


ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」

1879年、大井川にかけられた木造の有料橋。木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので、1965年に橋脚がコンクリートパイルの橋脚に変え現在の姿となりました。

全長約897.4メートル、通行幅約2.4メートル。「世界一長い木造歩道橋」としてギネスに認定されて以来、ほのぼのとした郷愁が漂う観光名所として全国から観光客が訪れています。

牧之原台地の開拓農民らの出資により建てられたため、関係者以外からは通行料金をとったことから、現在も全国でも数少ない木造の賃取橋(有料)です。

島田市街地から牧之原台地(茶畑)を結ぶ農道であり、歩行者と自転車が通行できます。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月24日 20時56分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 九時三十分自宅出発。国一バイパスを通って一時間、十時三十分に島田市
博物館へ到着。博物館では一時間半、「島田の刀鍛冶と天下三名槍」の企画
展を見ました。このことについては、後で述べたいと思います。

 十二時に博物館を出て、自動車に積んできた自転車で蓬莱橋へ向かう。何
故に蓬莱橋へ向かうのか……自分でもよくわからない……この世とあの世の
懸け橋のようにも思えるし、蓬莱という言葉にあの徐福の目指した蓬莱の国
への航海というわくわく感を感じるのかも知れない。それよりも、前回行っ
た時の橋のたもとでの、玉こんにゃくの「おでん」の味が忘れられないのか
も知れないし、あるいは蓬莱橋の上での偶然のロマンスを潜在的に夢見てい
るのかも知れない……。

 さまざまな要素と思惑を秘めて、三キロの河川敷の道を自転車で走る。
 ――到着。おでんはなかった。そして、寒風吹きすさぶ橋の上には誰も
いない。ということは、夢の恋人にも出会う可能性はない。ただあるのは、
東の空にくっきりと浮かぶ、白化粧をした富士山だけ……。

 蓬莱橋の通行料は金百円なり。年間十万人が訪れて渡るというので、計算
すると一千万円になる。諸費用の足しにはなるけれど、十分ではない。でも
儲けが目的でないから、その位でいいでしょう……等と思いながら、自転車
を引きながら橋を渡る。全長おおよそ一キロ、正確には八百九十七.四mで
「ヤクナシ」にかけている。

 猛烈な西風が川面を渡って体に、そして自転車にぶつかる。吹き飛ばされ
そうな感じである。南極のブリザードを思い起こした(ちょっと大げさ)。橋
板に目を落としていると、周りが見えなくなる。そして宙を漂っているよう
な錯覚に襲われる……これが蓬莱橋の蓬莱橋たる由縁だと思った。即ち、現
実世界から、内面世界に突入して行くという感覚……怖いような、また魅か
れるような、行きつ戻りつを繰り返しながら、ようやく対岸へ到着いたしま
した――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月24日 22時30分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


「橋」は幻想的ですよね。

強風が吹いてると崩落するんじゃないかという恐怖も覚えますし。
橋を渡って向こうの端に着くと安堵感を覚えますし。


天の浮き橋・因幡の白兎のサメの橋・英雄たちの活躍した橋
神話の舞台になりますよね。


そしてロマンスの場面の橋。
日本だったら「君の名は」の数寄屋橋。
「哀愁」の橋。
「マジソン郡の橋」


戦争の攻防戦の舞台になった橋。



>南極のブリザードを思い起こした(ちょっと大げさ)。

いえいえ
強風が吹いてると橋の上の体感気温はグッと下がりますものね。

雨や雪が降ってて傘をさして橋を渡る光景は美しいですよね。
逆に
大八車に荷をいっぱい積んで引いていく老人の姿には生きていく辛さが見えるし。涙が溢れて来ます。


恩師の家が神戸の舞子台の高台にあって
何十年も前は美しい瀬戸内海の広がる遥かな景色でしたが
今は明石大橋が架けられて
新幹線の窓から見る明石大橋は息を呑む美しさですが
恩師の家からの明石大橋は無粋な橋桁・・・が・・・ドーンと視界を100%塞ぎます。

橋は遠景では美しいのに近くでは現実を見せつけられます。


実に面白いですね。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月25日 08時19分31秒 ) パスワード

http://www.youtube.com/watch?v=42wTocOFIZg

「モネの池って」って関市にあるんですって。
ビックリ
根道神社の横ですって。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E9%81%93%E7%A5%9E%E7%A4%BE
根道神社(ねみちじんじゃ)

岐阜県関市板取にある神社。
社格は村社。
神社名鑑[1]には記載が無い。

現在は近隣のモネの池のほうが有名である。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月25日 20時55分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 関市の板取の根道神社、地図で探してみました。おおよその方向感覚とし
ては、郡上八幡の西十五キロほどの所であります。ここまで行くにはちょっ
と気合が必要ですね…紫陽花並木で有名のようですが。
 
 日本国中、未知の素晴らしいスポットが色々あり、また歴史の秘話が落ち
ている…それは、教科書には出て来ません。従って、「行って見てまわる」
ことが大事で、それは歴史の謎を発掘し、「点と線」の推理に挑戦できると
いうことになります。

 美濃の奥より、白山信仰が盛んになって行きますが、実際のところ、白山
信仰というものを私は知りません。井伊家に仕えた松下常慶も白山信仰の修
験者だったようで、家康もまたこれを信仰したと言われています。
 この「白山信仰」というのは、私にとって「大きなテーマ」であります!
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月26日 02時01分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

地図を見て来ました。
一応舗装道路はある、という感じで
すごい山奥ですね。

郡上八幡からも遠いですね。
関って、あんな山奥にあったの?
です。
そりゃ、水がきれいな筈です。




>井伊家に仕えた松下常慶も白山信仰の修験者だったようで

つまり、あの時代の大学のような場感覚だったということですね。
体系的に学問とか教養とか鍛錬とかを学ぶ場。
そこでは情報収集の仕方とか暗殺の仕方とか薬の調合とか毒の作り方とか
いろいろなことを学べたのでしょうね。

一族の中で賢い者が選ばれて修行に送られたのでしょうね。
そして家に戻って一族の者を養成した。


さしづめ最高学府に当たるのが  東大寺や比叡山で
白山あたりは地方帝国大学あたりの立ち位置だったのかも。


こんな風に考えると松下常慶という人物は記憶力に優れているとかのアスペルガー的な人物だったのかも。
      今風に言うと ASDかな? オーティズム・スペクトラム・ディスオーダー。
      見ただけで書かれた物をそのまま記憶できるとか、集中力がスゴイとか。
特殊能力を持って生まれた人だったのかも。


松下常慶は凡人じゃなかった、ということでしょうね。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月27日 21時21分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、早朝から冬の芝刈りに行ってまいりました。寒気も少し和らぎ、
耐えられない程の寒さではありませんでした(朝の内は零度近かった)。
グリーンは凍土となっていて、ナイスショットもはじかれ、おまけに久し
ぶりでしたので無残な結果にあいなりました……。
 明日は東京行きと、ここのところなかなか用事が多くて、集中する時間
が少なく、内心ジレンマを感じております。
 話題の方も、とびとびになってしまい、論理展開をしていくのがなかなか
むずかしい状況ではありますが、ジャズの即興演奏と考えれば、途切れたテ
ーマでも、それはそれでいいのではないかと思ったりもしております。

 松下常慶ということで、松下氏がらみの話題を少し展開いたします。

 長篠城址史跡保存館発行の『戦国落穂ひろい』によれば――
 「長篠城主奥平貞昌(信昌、十五才)が、姉川の戦いで越前の朝倉勢と闘
い、その内の一騎を討ち取った時、徳川家康は、まだ体格もできていない
のに、よく戦ったものだと大変にほめたという。貞昌は「首を討ち取るの
は筋骨ではありません。剣法であります」と遠慮なく言った。家康が「剣法
を学んだのか」と訊くと、貞昌は「奥山流」を学びました」と答えた。更
に「休賀斎を知っているか」と問われたので、「その人に学びました」と
答えたという。
 家康もまた、奥山流の「休賀斎」に学んだのである。
 休賀斎は、奥平定雄(さだかつ)の三男である「奥平孫次郎公重」のこと
で、「上泉伊勢守秀綱」に学び、奥儀をきわめ、秀綱から東国一の武芸者
だとほめられていたという。
 上泉伊勢守秀綱は、群馬県に生まれた武芸者で、室町時代末期に活躍し、
剣聖と称され、神陰流を創始した。柳生但馬守宗厳(むねよし)もその門弟
であった。」

 一方、偶然の一致というか、松下加兵衛之綱の父の「松下長則」につい
て、郷土史家である冨永公文氏は、『遠州 松下加兵衛之綱とその一族』
の中で――
 「松下長則は、宗矩の父柳生石舟斎宗厳と共に、上泉信綱の門弟では
なかったか、そして加兵衛之綱と宗矩との婚姻は、その縁ではないか」と
推論しています。

 つまりは、上泉伊勢守秀綱の下で剣法を学んだ者達の人間関係やネット
ワークができ上っていた――

 上泉伊勢守秀綱――休賀斎――家康・奥平貞昌……。
 上泉伊勢守秀綱――柳生石舟斎宗厳・宗矩・松下長則――松下之綱そし
て松下常慶……。

 そして柳生家は、伊賀の忍者集団と特別な関係をもっていた、つまりは、
服部家と繋がっていたということ……。
 服部党も重用されたが、それは時代と共に柳生家に代わって行き、宗矩
はいわゆる徳川版CIA長官(大目付)にまでなった――
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月27日 22時58分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

上泉伊勢守秀綱――休賀斎――家康・奥平貞昌……。
上泉伊勢守秀綱――柳生石舟斎宗厳・宗矩・松下長則――松下之綱そして松下常慶……。


なるほど
そういうネットワークでしたか。


だったら伊賀系服部一族とも繋がっていたのが分かりますね。


>宗矩はいわゆる徳川版CIA長官(大目付)にまでなった――

1番カシコイ人、ということですね。
最終勝利者。

おりんさんが宗矩と不和になっていくのがちょっと見えた気がします。
(この人、コワイな)
とイヤになったのかな?


ま、夫婦は時と共に妻は夫にウンザリしていく、というのがありますからね。

若い時は父や周りから、夫となる人がどんなに良い人かと洗脳されてても
父も死に、周りの状況も変わっていって、洗脳が解けると、こんな男だったの?と現実が見えてしまって
でも夫の方はそういう妻の心の変化には気が付かないから
せいぜい鈍感な女だなとか可愛げが無くなったな、あたりで

妻の心は夫からどんどん離れていく。
あたりで
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月30日 06時50分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本年の四月半ばに、川越経由で高崎へ行くことにいたしました。東京は
遠いという感覚があったのですが、おととい行ってみて、むしろ信州より
も近いと思いました。その北にある群馬も随分遠い所だと思っておりまし
たが、高速網の敷設により、随分楽になりましたし、今までの遠いという
イメージを拭する意味でも、車で行ってみたいと思っております。
 

 長篠城址史跡保存館発行の『戦国落穂ひろい』の中で、上泉伊勢守秀綱
は神陰流を創始してと書かれていましたが、いろいろ調べてみましたが、
やはり新陰流の方が一般的であるようです。但し、上泉の弟子が神影流と
唱えたケースもあったようです。神と新、あるいは影と陰、これらの言葉
の違いは、本当のところ本人の重要な考えを表しておりますので、あたら
おろそかにはできません。じっくり取り組んで行きたいと思っています。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月30日 08時59分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


高崎ですか・・・


川越に行かれるなら服部民俗資料館に是非とも(お菓子屋さんの隅にあります)
と書きたいところですが
お時間は無いでしょうね。お芋をお土産に、と思っていましたが。


群馬は松島氏に関係があるかも知れず
でも新田の本拠地という感じですね。
南朝方。
そして真田関係。


気を付けて行ってください。
もう若くはないのですから無理はなさらないように。



>新陰流

こちらの方に馴染みがあります。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月31日 13時53分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 高崎、前橋、川越…戦国時代の色々な秘密のかけらが落ちていそうです。

 高崎城は井伊直政が築城。前橋城は箕輪城の支城として長野賢忠が築城。
 前橋城は川越に移転。川越には見る所がたくさんありそうです。服部民俗
資料館もそうですし、喜多院、川越歴史博物館にも行ってみたいと思ってお
ります。

 前橋の群馬県立図書館に『黒川衆の戦い』という松島氏に関するの本が
ありそうなので、行って調べてみたいと思っています。
 高崎市では多胡碑を見たいと思っています。その他いろいろ――
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月01日 09時41分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 小田原の役の後、井伊直政は「箕輪城」(高崎市)に転封。1599年、
和田城跡に新城を築き、「高崎城」と命名する。1600年、関ケ原の合戦
があり、その論功行賞として1601年、佐和山城に転封される。この時、
直政は不服であったが、永井直勝がこれを諭しています。
 井伊直政と永井直勝は井伊家の祖先、及び南朝宗良親王との関係でつなが
っておりますが、エピソードが余り多くありません。二人は兄弟のようでも
あり、ライバルのようでもあり、もっと語られていいはずなのですが……。

 箕郷(みさと)町の箕輪城……この地にまつわる歴史話はたくさんありそう
です!
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月01日 12時42分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


>論功行賞として1601年、佐和山城に転封される。
>この時、直政は不服であったが、永井直勝がこれを諭しています。

彦根に行ってなかったら
幕末の井伊家はああいうことにはならなかったかも、
ですね。



高崎城  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%9F%8E
寛永10年(1633年)には、実兄である3代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた徳川忠長が当城で自裁した。

へぇ〜


群馬は新田の地でもありますから
井伊家には南朝方だった先祖がらみの嬉しい場所だったでしょうね。


箕郷(みさと)町の箕輪城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E

滝川一益が神流川の戦いに敗れ、伊勢に撤退した。

         「真田丸」に描かれてましたね。
[18]箱柳永田さんからのコメント(2017年02月02日 00時17分30秒 ) パスワード

 三つ柏様 あを様

>井伊直政と永井直勝は井伊家の祖先、及び南朝宗良親王との関係でつなが
っておりますが、エピソードが余り多くありません。

 小牧長久手の戦いでは、井伊の前手衆に直勝が、参加しており
 家康の内命<万千代に手柄を>を、首級 万千代直勝、統率武将 
 万千代直政として武名を挙げております。

 なお、永井家では(なお)の音を踏襲していますので、尚0、直0に
  (養子に入ったかたは改名)なります。

>もっと語られていいはずなのですが……。
 南北朝を、あまり語ると、松平さんの関りが、、、という事です。

 彦根城の基本構想は、淀、高槻への後詰の形で、京都へ(朝廷を守る)進出するのが基本になります。万が一の時は籠城して足止めするための縄張りです。
 どちらの時も次の後詰は紀伊さんと藤堂さんになります。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月02日 09時50分24秒 ) パスワード

箱柳永田さん

名前がゴチャゴチャしてワケが分からなくなります。
通字でこんがらがるし、幼名でこんがらがるし、他家の名前ともこんがらがるし。


名前が1つじゃないところにもこんがらがるし。
あはは
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月02日 12時21分46秒 ) パスワード

箱柳永田様
空の青海のあを様

 永井家は私にとって最大級のテーマであります。この群馬高崎の箕輪城の
ある箕輪郷には、永井一族が在住しているといいます。この永井氏が、永井
直勝系に関係するのかどうかは、まだわかっておりません。高崎から北西に
60q程行くと三国峠がありますが、その麓に猿ヶ京温泉と「永井」宿、即
ち「永井」という部落があります。この部落の名前から姓をとったものなの
か、いつかは調べたいと思っております。

 もう一つ、箕輪郷で興味のあるのは、私の住む所の地名と全く同じ地名が
あるということです。「上善地」「善地」「下善地」……そして、永井氏も
近くにいる。私の村にも同様に永井氏がいる。
 4月に高崎に行った時に、どれだけのことが調べられるかわかりませんが、
もしこれらの謎が解ければ、最大級の成果となります。

 さて、井伊直政が高崎城から佐和山へ転封になり、死後、子孫は彦根城を
築城して移りますが、その彦根藩の家老に「長野氏」がおります。この長野
氏は、箕輪城主の長野業正の子の「業親」を祖としているそうです。業親が、
箕輪にて井伊直政に仕え、続く後裔が彦根藩の家老になったということです。

 井伊直弼、お多賀さん、長野主膳……その背景には溯って奥深いものがあ
りそうです――
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月02日 15時27分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

>高崎から北西に60q程行くと三国峠がありますが、
>その麓に猿ヶ京温泉と「永井」宿、即ち「永井」という部落があります。
>この部落の名前から姓をとったものなのか、いつかは調べたいと思っております。

ここに出ています:

http://www.guntabi.com/kaidou/mikuni/nagai.html

永井宿(みなかみ町)

概要: 

永井集落(みなかみ町)は寛治年間(1089〜1092年)に奥州阿倍家家臣、長井左門が開いた村で

               (当初は長井村と呼ばれたが後に永井となった)

戦国時代には春日山城の城主上杉謙信が関東侵攻の為、三国峠を開削すると次第に重要性を帯びるようになりました。

永井宿の大欅は、永井宿「泉屋」の初代笛木九助が永禄2年(1559)に家屋を建てた際に屋敷の鎮守である稲荷社の御神木として植えたと伝えられている事から、少なくとも上杉謙信が三国峠を開削した前後から永井集落は宿場町的な存在だった事が窺えます。


江戸時代に入り三国街道が本格的に開削されると宿場町である永井宿が設置されました。


永井宿は本陣1軒(笛木屋)、脇本陣1軒(つるや)、家屋25軒、元禄2年(1689)には米問屋場にも指定され飛躍的に発展します。

又、三国峠を控えた宿場町だった事から永井宿で宿泊や休息をとる人達も多く、特に参勤交代で長岡藩、村松藩、与板藩などの諸大名や佐渡奉行、新潟奉行などの上役が利用したとされます。

享和3年(1803)に行われた伊能忠敬の第4次測量で三国街道を利用した11月13日(旧暦9月29日)に永井宿の名主四郎右衛門家で宿泊した事が記録に残され、

戊辰戦争の際には軍事的に重要視された三国峠を巡り、会津藩と新政府軍との間に激しい戦いが行われ(三国戦争)、永井宿は新政府軍に拠点利用されています。

永井宿の本陣を務めた笛木家は本陣職を勤める一方で問屋でもあった為、日本海の物産と上州内陸部の物産が笛木家を通して行き来した為、莫大な富を得る豪商として発展しました。

明治時代以降に宿場制度が廃止され、近代交通網が整備される本陣としての役割も失い衰微しましたが、

昭和6年(1931)には与謝野晶子が永井宿本陣を利用するなど旅館業として存続していました。



http://53922401.at.webry.info/201311/article_17.html

三国街道の最初の難関:中山峠を越えると、旧高山村の中山宿に入る。
再び、峠を越えると、猪俣邦憲が名胡桃城を攻略し、豊臣秀吉の小田原攻撃に繋がった道を進むと旧新治村の下新田宿に入る。

布施3宿を越えると、須川宿=現匠の里になる。旅人は湯宿温泉に立ち寄った人もいた。

相俣宿を越えると猿ヶ京に入る。

元々はなかった宿場で、幕末後栄えたのである。若山牧水や与謝野晶子などが
逗留している。

その先は、吹路宿〜永井宿である。

時には法師温泉に入った旅人もいるであろう。

難所の三国峠に向かう。

上杉謙信も何回か通った道である。




三国街道と中山宿

中山道高崎宿から分かれ、金古、渋川、北牧、中山、下新田、永井を経て、三国峠をこえ、越後、佐渡に至る街道である。

別に五料から玉村を経て金古に合う道も地方的に三国街道といっている。

表裏日本を結ぶ最短路で、北越長岡、新発田など五大名と佐渡奉行の通路で、宿人馬は25人25疋(ひき)であった。




▲榛名山峠&榛名山城・・・
 ★名胡桃事件の時、猪俣邦憲が名胡桃城を攻略。


               名胡桃って「真田丸」に出て来ましたね
               北条氏の滅亡のきっかけになりましたね




塚原宿(群馬県利根郡みなかみ町)

・塚原宿・・古墳が多いことから平安時代には、すでに塚原という名が記録に残っている。

・馬が多く飼われていた。

                      それで「群馬」?


・文政年間に消失。長岡藩主はじめ三国街道筋の荷主飛脚問屋など
 の寄進によって、新田宿本陣の長屋門・伝統的な二階建て木造建
 築として復興した。





永井宿(群馬県利根郡みなかみ町)

旧三国街道が越後との国境の手前、三国峠下の上州最後の宿。

「陸の船着場」と呼ばれ、元禄時代から、幕府直轄領の米を金に換金。

永井宿は約200年間、大いに賑わった。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月02日 21時59分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 永井宿について教えていただき、ありがとうございました。
 奥州阿倍家家臣、長井左門が開いた村ということで、長井が永井になった
ということ、理解いたしました。でも、長井左門のルーツについては、更に
調べたいものだと思っております。奥州安倍宗任の家臣といえば、桐生黒川
郷の阿久沢・松嶋氏もそのような伝承がなされています――


 井伊直政のエピソードについて、あを様ご紹介の下記サイトに載っており
ました。
    http://www.guntabi.com/kaidou/mikuni/nagai.html

 「龍広寺(高崎市)概要: 龍広寺は群馬県高崎市若松町に境内を構えて
 います。天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い、徳川四天
 王の一人井伊直政は箕輪城に配され、箕輪城の鬼門鎮護として大中寺(栃
 木県栃木市大平町西山田にある曹洞宗の寺院で関三刹の1つ)から白庵秀関
 大和尚を招いて龍門寺を創建しました。慶長3年(1598)、徳川家康
 の命で、居城を箕輪城から和田城(現在の高崎城)に遷る事となり、直政
 は地名変更を思い立ち、「鷹ヶ崎」と「松ヶ崎」どちらの地名が良いか白
 庵秀関大和尚に尋ねると、「鷹」は何時か命が尽きましょう。「松」は何
 時か枯れましょう。この地は延々と続き成功高大になる事を鑑みて「高崎」
 ではどうでしょうか。と答えました。直政は良い考えと即座し地名を「和
 田」から「高崎」に改名したと伝えられています。高崎城の改修、拡張工
 事が竣工すると、白庵秀関大和尚を招いて高崎城の城下町に龍広寺を創建、
 山号は和尚が名付けた高崎に因み「高崎山」、院号は井伊直政の戒名「祥
 壽院殿清涼泰安大居士」に因み「清凉院」と号しました。境内墓地には、
 日露戦争時捕虜となったロシア人の墓(高崎市指定史跡)や、俳人「村上
 鬼城」の墓(高崎市指定史跡)と句碑(大寺や松の木の間の時雨月)、豊
 川叱枳尼天堂などが建立されています。宗派は曹洞宗で、本尊は釈迦牟尼
 仏。」

 ――これが「高崎」の命名の由来であります。
 
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月04日 06時32分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、この高崎「箕輪城」でありますが、長野業尚(初代城主)によって
築かれ、二代―業正(信濃守)、三代―業盛(なりもり 信濃守)と続き、四代
目以降は武田臣が続きます。五代目に真田幸隆も入っています。九代目は
織田臣となり、滝川一益が城主、十代目は後北条家となり、次の十一代目
が「井伊直政」となります。

 剣豪の「上泉秀綱」の先祖は、代々上野国勢田郡大胡(おおご 箕輪の
北東約15q)の城主で、秀綱の父憲綱の代になって北条氏康のために落城
する。秀綱はその後上杉謙信に所属して、箕輪城主長野信濃守業正の麾下
となり、度々の戦闘に功を立て、長野十六人槍に数えられたという。

 業正病没後、嫡子業盛が城主となるも、永禄六年武田により落城。秀綱
は一旦は落ち延び、やがて武田臣となる。
 が、秀綱は新陰流の研鑽と弘流のため、仕官を辞し、数人の門弟と諸国
遍歴の旅に出る……。

 やがて、秀綱は柳生宗厳、宗矩と出会うことになる……つまりは、この
箕輪城に縁(えにし)の源があるということになります――
 
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月04日 22時14分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 京を目指した秀綱は、途中伊勢野国司北畠具教(とものり 南朝の忠臣北畠
親房の後裔)を訪ねる。具教は塚原卜伝から新刀流「一(ひとつ)の太刀」を
伝授された達人であった。この時、具教は刀槍術で実力機内随一といわれる
柳生新左エ門宗厳と、南都興福寺宝蔵院の院主覚禅房法印胤栄という槍術の
逸材がいることを教えたという。そして、宝蔵院から秀綱と胤栄と宗矩の人間
関係が始まる。1563年のことである。

 この年、秀綱は柳生の里にて宗厳等の指導を行い、「無刀取り」の課題を
与え、1564年に「足利義輝」の元に招かれ、指南をする。義輝は塚原卜
伝から「新刀流」の手ほどきを受けているいわば「剣豪将軍」であった。

 この剣豪将軍に仕えていたのが「服部中保次」であり、三好義継・松永久
秀に殺害されてしまうと、中保次は織田信長に、秀綱は柳生の里に戻って、
宗厳に新陰流の一切を伝授した。

 つまりは、上泉秀綱という剣豪を通して、柳生宗厳・宗矩と服部中保次は
つながっていた、またそこには松下長則(秀綱の門弟か)・加兵衛之綱親子の
介在もあり、従って柳生―松下―服部は一本につながっていたと推察するも
のであります。
 またそれは、ひいては松下清景・常慶安綱を通じて井伊家とも太い関係で
つながっていたということになります――
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月04日 22時57分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>上泉秀綱という剣豪を通して、柳生宗厳・宗矩と服部中保次はつながっていた、
>またそこには松下長則(秀綱の門弟か)・加兵衛之綱親子の介在もあり、
>従って柳生―松下―服部は一本につながっていたと推察するものであります。
>またそれは、ひいては松下清景・常慶安綱を通じて井伊家とも太い関係でつながっていたということになります――

はい。

権力者達の小さな小さな世界のことですから
我々現代人が思うよりずっとずっと濃密な人間関係があった
ということですね。

                         特に地域的にも限定されていますし。


やがて秀吉が台頭し、家康の時代となり、徳川幕府が日本を支配するようになって
日本のほとんど全域に新陰流の力が浸透し
現代から見ると  原点  が分からなくなってしまっていたことに気付くのですね。


面白いものですね。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月07日 03時23分11秒 ) パスワード

昨日の「おんな城主 直虎」

小野和泉守政直が息子小野但馬守政次に「お前もわしと同じことをする」と言ったのがコワかったです。



昨日の回は洗濯をしてたこともあってうるさくて
その上に
音声も悪かった?

それとも滑舌が悪かった?


なかなか聞き取れなくてハッキリ分からない台詞が多かったです。


だけど・・・三浦春馬・・・存在感がイマイチ


市原隼人(傑山役)
存在感がスゴイ。


あと松下常慶役に和田正人が出るそうです。
やっぱり松下常慶は井伊家にとって重要な役柄のようです。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月07日 13時32分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 このところ、夜は4キロのウォーキングの疲れで眠くなり、パソコンには
向かいますが頭に靄がかかり、ま明日の朝にしようと、つい寝てしまいます。
早朝は早朝でこれもまた非常に寒く、起きることができません。夜型から朝
型に変えつつありますが、健康にはその方がいい。でも早く暖かになってほ
しいものです……。

 上泉伊勢守秀綱は剣豪であるが、戦いでは槍を用いた。長野信濃守に仕え、
「長野十六人槍」、安中左近との戦いでは「上野国一本槍」と賞賛された。
つまり、戦国の戦いにおいては、刀は首級を取るための刃物であり、矢や槍
を払う護身用の武具であった。
 槍で手柄を立てた例は「賤ヶ岳の七本槍」を初め、「××七本槍」と称さ
れた例が多々あります。
 槍といえば、先日島田博物館へ行ったのは、「島田の刀鍛冶と天下三名槍」
を見るためでありました。というよりも、本多忠勝の「蜻蛉切」の槍が展示
されているということで行ったわけですが、残念ながら蜻蛉切は二月の下旬
より展示ということで、レプリカでありました。でも、島田の刀鍛冶につい
て、刀について、槍について、随分勉強になりました。「三名槍(さんめい
そう)」と言われて何のことか最初はわかりませんでした。それは最も有名
な戦国時代の代表的な槍の三本ということでありました。
 それらは――
 @「御手杵(おてきね)」
   御手杵の手杵とは、餅つきでもち米をつく杵のことである。鞘に収め
  た形が手杵のように見えたことから御手杵の名がついたという。下総国
  の戦国大名結城晴朝が所持していたもので、養子に入った徳川家康の次男
  秀康を経て、五男の松平直基に譲られた。江戸時代には、直基の子孫に
  当たる前橋藩松平家(大和守家)に伝来した。惜しくも、太平洋戦争時の
  空襲で焼失してしまった。
 A「日本号」  
   もともとは朝廷の貯蔵品であった。正親町天皇から室町幕府十五代将軍
  となった足利義昭に与えられ、さらに織田信長、豊臣秀吉へと伝わった。
  秀吉が日本号と名付け、重臣の福島正則に与えた。慶長元年正月、黒田
  長政(官兵衛の息子)の名代として正則のもとに年頭挨拶に赴いた黒田家
  家臣の母里友信が、正則からつがれた大酒を飲みほして日本号を譲り受
  けた。この逸話は、いわゆる「筑前今様」として謳われる「黒田節」で
  知られている。
 B「蜻蛉切」
   徳川四天王に数えられる豪傑、本多平八郎忠勝の槍として有名である。
  蜻蛉切の号の由来は、忠勝がこの槍を携えてきた時に、蜻蛉が槍の穂先
  に触れただけで真っ二つに切れたことから、蜻蛉切と呼ばれるようにな
  ったという逸話が残っている。
   作者の藤原正真は、伊勢国桑名の出身で、村正の子、弟、または門と
  言われている。後に三河国田原へ移住し、三河文殊と称された。
との説明書きがありました。
 蜻蛉切は、写真で見てもいかにも切れそうな感じかいたします。実物は今
三島の佐野美術館に展示されており、二月二十五日から島田市博物館へやっ
てくるということですので、また行ってみます。

 松下家と柳生家は上泉秀綱を通じて近く、上泉の弟子奥山休賀斎(井伊家
一門 奥平氏)を通じて家康ともつながり、柳生と服部も平家・南朝を通じ
て近く、服部―柳生―松下―井伊―家康はつながっていた。また、柳生を通
じて島左近ともつながっていた――
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月07日 14時46分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

>上泉伊勢守秀綱は剣豪であるが、戦いでは槍を用いた。

はい
戦いには槍が有利なんですってよ。

戦国時代、槍は竹?篠?の竿に穂がついてて
長いから  撓る  のでコントロールが利かず遠心力で相手に打撃を与えたのですって。
で、信長はもっと長い  しなる度合いの高い  3mの槍を持たせた、とか。

戦国時代の戦場での刀は相手の首を取る道具だったとか。
鎧を着てるから刀では相手の急所を打つのは無理だったとか。



女性がナギナタだったというのも納得です。
男性は槍だったのかと。



@「御手杵(おてきね)」
これは知らなかったです。


A「日本号」 
大河ドラマ「軍師官兵衛」でありましたね。


B「蜻蛉切」
これは有名中の有名な槍ですね。



>柳生と服部も平家・南朝を通じて近く、服部―柳生―松下―井伊―家康はつながっていた。
>また、柳生を通じて島左近ともつながっていた――

柳生の里と伊賀千賀地の服部家はすぐ近くですからね。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月09日 08時33分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日、地元の図書館へ行き、郷土史関係の棚をくまなく見ていたら、
太田亮博士の「日本國誌資料叢書 遠江」(磯部甲陽堂 昭和2年発行 
2円30銭)というものを見つけました。太田亮博士といえば、『姓氏家系
大辞典』を著した人で、例の「而して、長上郡に服部氏の名族あり」と書い
た人である。これはなんという発見かと色めき立って中をむさぼり読む――
 そこにはこう書かれていた。要約すると――
「長上郡の服部氏、古代服部の裔也。服織は服部に同じ。」
 ――名族についての説明は何もなかった。それを知りたかったのに、誠に
残念でした。
 ただ、羽鳥庄が府八幡宮と関係があるということを再度思い出し、秋鹿氏
を調べれば、何か謎解きのヒントが得られるのかも知れないと感じました。

 もう一冊『坂本神社の話』という本を借りてきました。これは、この地、
特に磐田における永田・長井・永井氏、また永井直勝についての謎を解く
ヒントが一部書かれております。

 本日は、筆の会、人間ドックと続きますので、帰りましたら記してみます。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月09日 10時07分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「長上郡の服部氏、古代服部の裔也。服織は服部に同じ。」

古代服部?

つまり  平家  ではない?
つまり  伊賀  ではない?

でも  秦氏  とも言ってないですよね。



古代服部とは  服部連  の後裔?
そうしますと  高槻の服部氏系?   だから三つ柏紋?


服部保長の家書の
ほのはやひの命の後裔が允恭天皇の御世に・・・
という服部連の末裔でしょうか?

そうしますと  半蔵系との関わりも    アリ?
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月10日 01時14分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、ありがとうございます。考え方の違いをやっと克服できました。
「服部氏の名族あり」を「服部氏の後世の人で、中央に結び付く人が輩出
された」とばかり考えていた私のロジック、あを様の一言で新たな解釈が
再生構築されました。それは「服部氏の名族とは、服部連につながる者で
ある」ということ。太田亮博士は分かりきっていてそう言っているのだと
思います。だからそれ以上の、またそれ以外の新たな者の情報は謳ってい
ないのである……。つまりは、服部連の血を引く者がこの地にやって来て
定住したということ。それを証明するものは今のところ当地にはないよう
でありますが、服部連は全国に織部司を派遣している。また、『延喜式』
という書物の中には、摂津の服部連の神服神社から、参河國(三河大野)に
神主が派遣され、地域の百数十名の神服に携わる者を集めたとあるそうで
す。大野から細江の蜂前神社、羽鳥の服織神社は、絹文化圏としては、三
ケ日を通じてつながっておりますので、服部連系の神主、あるいは服部連
の一族がこちらに来ているという可能性は十分あります。
 ということは、伊賀服部党や麻績服部氏ともつながっているという可能
性もあります。
 摂津高槻の神服神社の神紋が何故「三つ柏」なのか、以前訪れた時に神主
に訊いてみたのですが、「由来はわからない」とのことでした。自分の所の
神紋をその神主が知らないなんて、これまた七不思議の一つだなとその時
思いましたが、世の中にはわからないことが山程あることも確かです。
 私は、ウォーキングで真南約2キロ(2町)の所にある服織神社まで行って
拝んで帰ってきますが、2キロという距離、何か意味があるような気がい
たします。「服織神社」から400メートル北に「蛭子森古墳」、さらに
その北400メートルのところに正光寺、さらにその北1300メートル
の所に善地の天満宮…と、ほぼ一直線上に並んでおります。
 つまり、服織神社から善地天満宮までは真北に約2.1キロ≒二町という
ことになります。
 そもそも蛭子森古墳が何でこんな田園地帯にあるのか不思議です。
 また、善地天満宮の門前に畑を所有しておりましたが、勾玉類が出てきた
という話も聞いております。古代の天竜の堆積砂州の小山に、祖先を祀った
のでありましょうか……。
 いずれにしても、確証はありませんが、一つの可能性としては以前よりは
鮮明になって来たことだけは確かです――

[32]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月10日 02時25分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

天孫系ということでちょっと調べたら
  服部=はとりで出てました。

  神麻績というのも出てました。
  ほかにも呉とか伊勢とか
  全部で21くらい書かれてました。


「姓氏録」によると
あめのみほこのみことの子孫の大和国の服部連
ひのはやひのみことの子孫の河内服部連と摂津服部連の
計3人出てるそうです。

允恭天皇の御世に・・・全国に送られて
そこで服部という地名が出来て後に名字になったのでしょうね。


神様のお名前は長すぎて、みんな似てて、その上に舌が縺れそうで
覚えられない・・・


>大野から細江の蜂前神社、羽鳥の服織神社は、絹文化圏としては、三ケ日を通じてつながっておりますので、
>服部連系の神主、あるいは服部連の一族がこちらに来ているという可能性は十分あります。

ですね。


浅間神社の神職の服部さんはどういうご子孫でしょうね。
何かで調べられると良いですね。


とにかく  神服部家は平安時代以降ですから  ア・タ・ラ・シ・イ(大汗)ですね。赤面


ホントに日本ってスゴイですね。
記録がしっかりしてて(太平洋戦争で失われたのが残念です)。
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月12日 00時43分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、初心に帰り、摂津高槻の「服部連」を調べておりました。少し
進展はありましたが、まだ考えはまとまっておりませんので、いずれまと
まった時点で記します。

 さて、直虎も大いに関係する「徳政令」ですが、永禄十一年秋、今川氏真
は、井伊領に徳政令を発布するに際して、「瀬戸方久」が買い取った土地
を安堵する旨の判物を出している。この方久、またの名を「新田喜斎」と
いいます。
 群馬県桐生市新里新川の「善昌寺」に新田義貞の首塚があるということで
すが、新田喜斎の先祖は上野国(群馬県)の住人で、南北朝の時代、南朝の
臣として名をはせた武将新田義貞と同じ一族の流れであるということであり
ます。新田氏は南北争乱のあと衰退し、分家分流は諸国に散り、そのうちの
一人が室町の後期、遠江国に来住した。それが新田喜斎であるという。

 この続きは次回――
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月12日 02時17分51秒 ) パスワード

三つ柏さん

>瀬戸方久=新田喜斎

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%80%AC%E6%88%B8
瀬戸氏
現長野県である信濃国佐久郡瀬戸村が起源である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏流がある。
ほか足利氏流、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)などにもみられる。

「せと」の語源は狭い通路や狭くなっている場所。


佐久といったら木曽義仲がらみかと思いましたが
もともとが清和源氏かも知れないのですか。

信州でしたら諏訪大社もからみますしね。


井伊家がらみになっていけば南朝方の可能性が当然大きくなりますね。


高槻の神服神社と遠江の服織神社などの関係がハッキリ分かると良いですね。
神代の時代と古代をしっかり読むと出て来るかもですね。

状況証拠的には  高槻の神服神社系  が有力になって来ましたね。
半蔵の家とどう関係するのかも分かると良いですね。
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月13日 17時32分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、この浜松地区に住む「服部」の調査で、浜松市中区の泉二丁目
の「日蓮宗 法光寺」へ行ってまいりました。電話帳登録の「服部」氏の
数が、2000年版で泉では6軒であります。服部家のお墓に出会う確率
は、電話帳登録を調べておくと俄然高くなることは、舞阪での調査で実証
済みでありました。
 法光寺のある泉は、三方ケ原台地の奥まったところ、少し北には浜松航空
自衛隊の基地があります。家康が三方ケ原の戦いで、逃げながら小豆餅を食
べたという小豆餅という所の南でもあります。
 法光寺は日蓮宗ということで、侍は日蓮宗が多かったので期待できそうと
思いながら墓地に入る。――いきなり「服部家の墓」が目に飛び込んで来ま
した! 家紋は? 「源氏車に並び矢」であった。1基2基…4基あった。
その内の一基は僧侶の名前が刻まれていました。
 久しぶりにまとまった服部家の墓を見ました。それも、「源氏車の並び矢」
の――
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月13日 21時54分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「源氏車の並び矢」

まさに「伊賀系」ですね。


だいたい伊賀系は車に並び矢紋が多いです。
ホンヤさんもコレですしさち子さんのお家もコレですし。

    うちはただの丸に並び矢です。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月14日 13時05分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 泉(町名)の他に、和合町、冨塚町にも狙いをつけそれぞれの地区にある
お寺に行ってみましたが、収穫なし。最後は神ケ谷の洞雲寺へ行ってみま
した。ここは、神久呂(留)神社のすぐ裏にあり、以前行った時に、「源氏
車に横並び切竹」の家紋が刻まれた服部家の墓を見つけたところでありま
す。また、そこには井伊の支族の一団の墓があり、井伊家との関係、宗良
親王との関係ももう少し深く知りたかったからであります。
 できればご住職と話がしたかったのでありますが、あいにく法事が執り
行われていて会えませんでした。それでも、服部家の墓をもう一度見て、
どこからか移って来た新しい家であるとは以前ご住職から聞いていたこと
を考えながら、神ケ谷にいた旗本の服部中家と家紋は一緒だ……きっと縁
者に違いないなどと想像をいたしたりしました。

 井伊家の関係者の一団の墓所に行く……そこには、前回は余り頭に残ら
なかったのであるが、二つの大きな岩に刻まれた墓碑が建っていました。
 一番高い所にある大きな墓碑は――「井伊共保公之碑 井嶋一族之祖」
と刻まれていました。
 その下の墓碑には「井嶋一族之開祖 五郎兵衛忠道碑」と刻まれていま
した。
 すぐ近くに説明看板があり――
 「井伊共保公の碑
  藤原鎌足の子孫、藤原共資(ともすけ)には子供がなく、寛弘7年(1010)
井伊谷の龍潭寺の僧が取り上げて養育した子が文武ともすぐれた者であ
 ったため、共資に見込まれて藤原共保となり、井伊谷城主となった。その
 後、姓を藤原から井伊と変え、井伊家の祖となった。」

 「井嶋五郎兵衛の碑
  永禄3年(1560)、今川義元は桶狭間にて織田軍と合戦し大敗、義元は討
 たれてしまう。義元の子、今川氏真は家臣小野道好の謀略進言を信じて
 しまい、22代当主井伊直親を捕らえ、処刑する。氏真は、その後も祟り
 を恐れ、井伊一族をすべて根絶やしにしようとした。井伊一族はこの難
 を避けるため、次々と地方へ姿を隠した。
  宗良親王(井伊道政の娘重子姫の夫。従って直親は親戚)の子孫の松千代
 なる者が、龍潭寺を経て洞雲寺へと逃れ、末寺の円城寺に身を寄せた。
 松千代は時期到来の折は再び井伊谷に帰り、再興をと狙うがかなわず、
 神ケ谷での土着を決意し、井伊谷の「井」をとって姓を井嶋とし、名を
 五郎兵衛忠道と改め、家紋は井伊家と同じ橘紋とする……。」
とありました。

 井嶋家が宗良親王の血を引く者という訳でありますが、その一族は毎年
4月の桜の満開の季節に、洞雲寺にて祖先の供養祭を行っているという。
 小野一族の子孫たちも、年に一回、龍潭寺にて祖先の供養祭を行ってい
るといいます。

 梅の花の咲き始めた墓所の2つ墓碑に向かって、井伊家、井嶋家、また
両家関係者に向けて、般若心経を2巻唱え捧げてまいりました。
 その内、梅の花は満開となり、甘い香りであたり一帯を包むでしょう―
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月14日 16時00分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「源氏車に横並び切竹」

服部家の古い時代の家紋ですね。
半蔵やホンヤさんや有松(鳴海)の服部家の家紋です。

横並び切竹では垢抜けないから、時代が下がって、縦の並び矢に替えたのだと思います。
有松の服部さんは横並び切竹のままのようですが。



井嶋家については全く知らなかったです。


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


遠江の小野家は今年は肩身が狭いですね。
あ、関係者の小野家は井伊家の立身出世と共に土地を離れたりしているのかもですね。
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月15日 09時01分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日も同じように「羽鳥」を中心とした服部氏の分布及びその家紋を調べ
るために三ケ寺程回ってみました。その内の一つの寺に服部家の墓が八基程
まとまってありました。羽鳥の南二キロほどの所―常光町にある「清心寺」
というお寺です。貴平町の東隣でもあります。

 服部家の墓は八基。家紋は、半分が「丸に剣方喰」、半分が「丸に沢瀉」
でありました。その他の姓としては、中野、川合が多くみられました。
 また、大橋、中根、松島もあり、特に松島家に関しては、「松島右衛門之
墓」と刻まれた天然石の墓碑が九代孫の福太郎によって建てられておりまし
た。

 この寺には妙に引き付けられ、なかなか立ち去ることができませんでした。
 服部家の墓の中心には、笠付の大きな墓があり、服部家累代之墓と刻まれ
ておりました。このパターンは我々善地の服部家にも大きな累代の墓があり
同じだなと思いました。
 服部家の沢瀉紋は水野氏との婚姻関係が推察されます―豊西に水野家が
多く存在いたします……。

 最後に、服部家累代の墓に向かって般若心経二巻を捧げてまいりました。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月16日 13時29分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、貴平の内藤家を中心として、その周りにあるお寺、及び羽鳥郷
のかつての住人(中世)が避難・移動したという有玉の東畑・西畑地区にあ
るお寺にも調査に行ってきました――
 これから出かけますので、後で記すことにいたします。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月16日 13時44分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服部家の墓は八基。家紋は、半分が「丸に剣方喰」、半分が「丸に沢瀉」

酢漿草紋のページに  秦氏系服部氏が使用  となってました。
沢瀉には服部氏は載ってなかったです。


>服部家の墓の中心には、笠付の大きな墓があり、服部家累代之墓と刻まれておりました。

立派な墓ですね。
知りたいですね。
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月17日 17時21分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、郷土の歴史を古代から江戸時代まで再度確認しながら調べて
おりました。
 なかなか一筋縄ではいきませんが、確かに古代より「羽鳥」という所が
あった。そして色々変遷はあったにしろ、「服織神社」は現代まで存在し
続けているという事実。

 それは、物部氏、出雲国造家、土師氏、海部氏の基盤の上に秦氏の入植
…羽鳥郷の開拓、絹の生産という具合に進んだか……?
 服部氏の名族というのは、服部連の一族で、羽鳥郷の指導者・また服織
神社の神職であったか……?

 蛭子森古墳の言い伝え―聖徳太子の子孫を秦河勝の子の喜平が連れて逃
れて来た。秦氏は内藤と名を変え、その内藤氏は今も存続している。
 秦氏はこの地域の基盤作りに大いに貢献している。

 秦氏、服部氏、服部連について述べるのはとても大変であります。この
総論については、少し先送りにさせていただきます…まだわからないとこ
ろも沢山ありますので。

 いずれにしても、清心寺の服部氏の剣片喰が秦氏系の家紋である可能性
が高いという所に少し納得した感があります。羽鳥郷に服部連の血族が居
ついて「服部」として残ったのか、それとも、羽鳥郷で絹作りをした人が
「服部」と名乗ったのか……ここは一つのポイントではあります。
 
 また、近代以前の宗教観、神道のしきたりなども現代の常識とは遠くかけ
離れていると思います。神社を中心とした集落のまとまり方―氏子・血族・
神職世襲といった固い絆……そのへんの事情をよく調べないといけないと思
っております――

 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月19日 01時32分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


>それは、物部氏、出雲国造家、土師氏、海部氏の基盤の上に秦氏の入植…羽鳥郷の開拓、絹の生産という具合に進んだか……?
>服部氏の名族というのは、服部連の一族で、羽鳥郷の指導者・また服織神社の神職であったか……?

ですね。


高槻の神服神社と浜松の服織神社の関係がハッキリすると良いですね。



近づいているのに、もうちょっと寄ろうとすると肩透かしを喰らいますね。
恋する男女の関係みたい。笑



秦氏系の服部氏は他にも違う紋をご使用です。
秦氏系服部氏もいろいろ違いがあるんでしょうね。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月20日 00時38分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 常光町の清心寺には「松島右衛門」の墓があり、建てたのは九代孫の福太郎
と刻まれておりました。

 松島家についても見直しておりましたが、「源氏」を名乗る松島氏というの
は、伊那の松島氏(諏訪氏→藤沢氏→松島氏、藤沢頼親の妻が小笠原長時の妹
であり、清和源氏)しかないのではないかと思われます。

 小笠原氏の中には安田義定という遠江守もいるし、「宗」を名前に持つ者も
たくさんいる―宗良、貞宗、宗政、宗安。宗安の長男の政忠が遠江白羽(竜洋)
の山下家に養子に入っています(1394年)。

 山下家は牧で馬の飼育をしていた。市野家もまた馬の仕入れをしていた。
小笠原家はもともと弓馬に秀でた家系であり、従って松島家にも言えるのでは
ないだろうか。しかも松島家は市野家より嫁をもらい、庄屋にまでなっている。小笠原家―山下家―松島家は「馬」つながりだったとも言えそうです。

 また、松島家は神職としても代々羽鳥神社の神主をしていました。もともと
諏訪神族であればたやすくびったしの職柄でもあります――
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月20日 03時23分11秒 ) パスワード

三つ柏さん

>伊那の松島氏(諏訪氏→藤沢氏→松島氏、藤沢頼親の妻が小笠原長時の妹)

ここで松島氏が源姓を称するようになったのかもですね。



>松島家は神職としても代々羽鳥神社の神主をしていました。
>もともと諏訪神族であればたやすくびったしの職柄でもあります

はい
これは分かり易いですね。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月20日 11時24分28秒 ) パスワード

今回の「直虎」
素晴らしい脚本でした。


副題を付けるなら「女の嫉妬・男の嫉妬」


亀と鶴の丁々発止のやり取りも凄かったですね。

     どっちが賢かったか
     亀も鶴も凄かった。


     ここで「南朝方の皇子さまが」と出て来るとは思わなかったです。


検地の岩松殿も良かったですね。いい人でした。

     この人物は家康と仲が良かったようですが
     どうなったのでしょうね?



鶴にすれば亀には腹が立つと思いますね。
「そんなにおとわに良くしてやりたかったら、お前が自分でやれ!」



今時の嫁の言葉みたいで笑えました。
「私を使って自分の親に親孝行しようとしないで!」(自分の親の介護は自分でやれ!)あはは



とにかく素晴らしい作品でした。


直虎のお母さん(財前直見)は「しの」の気持ちが分かるけど直親は全然分かってない。
だいたい直親って「しのさん」との婚礼にニッコリしちゃうし。
そりゃ、「しのさん」はあんな笑顔を見せられたら瞬間に直親を大好きになって自分だけの直親でいて欲しいと思うわよ。


「しの」の屈折した思い(女の嫉妬)と「鶴」の屈折した思い(男の嫉妬)
良く書けてました。
💮
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月20日 23時08分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 1年物の大河ドラマではありますが、ストーリーの展開は意外と早い
ので、うっかりするとわからなくなります。今回はウォーキングの疲れで
前半部分の三十分は寝てしまいましたので、残念。でもだいたいはわかり
ました。存在感のある俳優と、そうでない俳優がはっきりしています。
南渓和尚が一番存在感があります。ま、これからそれぞれにどんな演技力
が発揮されるか、期待したいと思います――

 さて、服織神社の祭神は「天穂日命」でありました。これは羽鳥や服部
では珍しい祭神であります。天穂日命からは野見宿祢、土師氏がでていま
す。さらには、菅原氏、大江氏、柳生氏なども出ております。
 善地に天満宮があるのですが、この地方では珍しく、何で善地にと疑問
に思っておりましたが、天穂日命の代わりに、その後裔である菅原道真を
祀ったのだということに考えが集約してまいりました。
 それは、羽鳥庄が1181年に新熊野神社に寄進され、祭神がその時に
変えられたのだと推測されます。羽鳥に住んでいた神職に関係する人々は
新天地へ移動した……羽鳥から2町程北の善地へ……そしてやがて天満宮
を創建した……のではあるまいか――
 神職に携わる人…服部、永井(永田、長田)、やがて時代を経て松島、鈴木
も加わった――
[48]箱柳永田さんからのコメント(2017年02月21日 00時44分47秒 ) パスワード

 三つ柏服部様

 約10年位前に袋井市浅羽の歴史館で 熊野神社の特集の催しがありました。
 数年前に、A4で4ページ位のパンフを見せて頂いた覚えがあります。
  神社氏子=一族郎党が、明治より村の鎮守に替わって、合祀があり
(合祀忘れも)祭神の組み合わせによく迷います、で調べなおし。
 私が良く出くわす失敗です。 参考になれば、幸いです。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月21日 14時55分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

>羽鳥庄が1181年に新熊野神社に寄進され、祭神がその時に変えられたのだと推測

平家全盛時代ですね。


1181年の出来事:http://ja.wikipedia.org/wiki/1181%E5%B9%B4


8月4日-8月6日 - 超新星1181の爆発が観測される。


日本では
1月15日(治承4年12月28日) - 平重衡らが東大寺・興福寺など奈良の寺院を焼き払う(南都焼討)。
1月30日(同5年1月14日) - 高倉上皇が崩御する。
2月10日(同1月25日) - 平清盛の娘(御子姫君)が後白河法皇の六波羅泉殿御所へ入る。
3月6日(同2月19日) - 越後国の城資永に源義仲追討の宣旨、陸奥国の藤原秀衡に源頼朝追討の宣旨が下る。
3月12日(同2月25日) - 城資永が死去する。
3月14日(同2月27日) - 平清盛が熱病に倒れる。
3月20日(同閏2月4日) - 平清盛が死去する。
3月22日(同閏2月6日) - 後白河法皇が平宗盛の要請を受け院政を再開する。
3月23日(同閏2月7日) - 平清盛が火葬される。
3月31日(同閏2月15日) - 平重衡を大将軍とする官軍が源頼朝追討のため京都を出発する。
4月8日(同閏2月23日) - 藤原邦綱が死去する。
4月10日(同閏2月25日) - 後白河法皇が六波羅から法住寺殿御所へ還御する。
4月25日(同3月10日) - 尾張国・美濃国の境、墨俣川(長良川)で平重衡率いる官軍が源行家軍と戦い、勝利する(墨俣川の戦い)。
5月10日(同3月25日) - 平重衡率いる官軍が京都へ戻る。
7月26日(同6月13日) - 信濃国の横田河原(千曲川)で城長茂率いる官軍が源義仲軍と戦い、敗れる(横田河原の戦い)。
8月25日(同7月14日) - 養和と改元する。大赦により藤原基房(備前国に配流)、藤原師長(尾張に配流)、源資賢(信濃に配流)が召還される。
9月17日(養和元年8月7日) - 平将門の例に倣い、東国の兵乱鎮定を祈る大仁王会が行われる。
養和の飢饉 - 前年の不作の影響もあり、飢饉が発生する。



死去

1月8日(治承4年12月21日) - 藤原重家、平安時代の公卿、歌人(* 1128年)
2月6日(治承5年1月14日) - 高倉天皇、第80代天皇(* 1161年)
2月27日(治承5年2月12日) - 河野通清、平安時代の武将、豪族(* 生年未詳)
3月11日(治承5年2月25日) - 城資永、平安時代の武将(* 生年未詳)
3月20日(治承5年閏2月4日) - 平清盛、平安時代の武将、公卿(*1118年)
4月8日(治承5年閏2月23日) - 藤原邦綱、平安時代の公卿(* 1122年)
4月25日(治承5年3月10日) - 義円、平安時代の武将、僧(* 1155年)
4月25日(治承5年3月10日) - 山田重満、平安時代の武将(* 生年未詳)
12月23日(養和元年11月16日) - 覚快法親王、平安時代の天台宗の僧(* 1134年)
足助重長、平安時代の武将(* 生年未詳)
箕浦義明、平安時代の武将(* 生年未詳)
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月22日 00時17分44秒 ) パスワード

箱柳永田様
空の青海のあを様

 本日は、早朝より京都へ車で行って来ました。目的は、東寺の弘法の市
であります。買いたいものは骨董品の類と漬物の「すぐき」であります。
東寺の市を見た後は、初めて泉涌寺を訪れてみました。
帰宅後に調べものをしていたら、深夜になってしまいましたので、明朝、
永田氏、平清盛、その他について触れたいと思います――
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月22日 06時48分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

京都は冷たかったでしょうね。
「すぐき」が丁度おいしい時期でしょうか?

ご無事のお帰りで良かったです。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月22日 08時14分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 本日は、早朝より記そうと思っておりましたが、寒さに負けて起きられず、
またあと一時間後に冬の芝刈りに出発。夜は打ち上げということで、じっく
り書く間がありません。明日は完全フリーになりますので、集中したいと思
います。

 この地域の永田氏については、永田数馬氏が書いた『坂本神社の話』とい
う本に色々参考になることが出ております。本日図書館へ帰す期日となって
おりますが、カメラデータには収めてありますので、かいつまんでまとめて
みたいと思います。

 また、この地域の服部氏については、昨晩、ゼンリンの住宅地図にて羽鳥
を中心とした浜松東区全域にくまなく目を通してみました。その結果につい
て報告したいと思います。

 なかなか雑用が多く、思うように歴史探求が進んで行きません。正に「蟻
の一歩」の毎日です。

 それにしても、京都に漬物のの食文化が発達したのはなぜでしょうか?
 京都の人の食事は、常々は漬物や山椒ちりめん等をオカズの副食とした
意外と質素(逆に健康的)なような気がいたします。「すぐき」は乳酸菌が
豊富……この酸味、最高です。

 伊勢の漬物、伊賀の漬物、奈良の漬物……漬物の文化・歴史を研究すると
おもしろいかも知れません――
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月22日 22時58分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

>なかなか雑用が多く、思うように歴史探求が進んで行きません。正に「蟻の一歩」の毎日です。

そうですねぇ〜
雑用が多いからなかなか集中出来ないですね。

でも、それがきっと良いのですよ
逆に頭の中をリセット出来ますから。
たぶん。笑
別のものが見えて来る発見がありますからね。


>京都の人の食事は、常々は漬物や山椒ちりめん等をオカズの副食とした意外と質素

ハレとケの差をつけた生活なのでしょう。


>「すぐき」は乳酸菌が豊富

昔の人の頭の良さには感服します。
すごいですよね。
[54]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月23日 23時47分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 羽鳥の服織神社を中心として、半径5キロ圏内の住宅地図(ゼンリン)を
くまなく見ました。目的は、服部家の住宅探しであります。この地域は、
その昔、羽鳥庄ともいわれ、また羽鳥7郷ともいわれておりました。
 アパートやマンションは別として、住宅にはそれぞれ名前(姓)が記され
ています。――結果、わかったことは、服部氏は極めて少ない。まとまって
存在しているのは、我が善地の9軒と、常光町の5軒である。あとはポツン、
ポツンと遠く離れて寂しく点在するだけでありました。

 この善地には東泉寺があり、常光町には清心寺があります。どちらも服織
神社のすぐ西にある源長院の末寺であります。源長院のご住職は松島氏で、
先祖は松島十湖の養子となって松島となっております。このご住職に聞いた
話では、源長院が末寺を作る時、地平線の果ての見えなくなる所に末寺を建
てたということで、北2町、南2町のところにそれぞれ東泉寺、清心寺があ
ります。
 そしてそこには服部氏が一族の集団をなしている。このことは、何か政策
的、意図的な意味がありそうだ……と考えます!

 永井氏については、『坂本神社の話』(永田数馬著)をコピーし終えました
ので、図書館への返却期日を気にすることはなくなりました。約120頁の
本ですので、要約するのに手間がかかります。何回かに分けて要点を記して
みたいと思っております。これは次回からにしたいと思います――
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月24日 05時07分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

>善地の9軒と、常光町の5軒

この14軒の家紋が同じでしたら同じ一族でしょうね。


   善地の9軒と、常光町の5軒
   服織神社との関係
   神服神社との関係

この3者の関係が分かると良いですね。


服織神社が神服神社の分社というのが分かるといいですね。
神道系のそういう研究している機関をどなたか教えてくださると良いですね。


国学院大学とか?
[56]三つ柏服部さんからのコメント(2017年02月25日 15時11分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、朝から『八名郡史』『静岡県安倍郡史』を中心に読んでいました。
 以前にはなかなか読解が進まなかったこれらの本も、今日はスラスラと読
むことができました。
 目的は、羽鳥郷・服部郷の調査であります。
 その他にも、色々な資料に目を通し、以前よりは深く理解できてまいりま
した。
 但し、今、羽鳥郷・服部郷について総合的に論述するのは、ちょっと無理
がありますので、小出しに少しずつ出していきたいと考えます。

 その前に『坂本神社の話』(永田数馬著)についての説明はどうなっている
かという課題がありますが、これも古代史にからみますので、併せて適宜、
述べていきたいと思っております。

 まず、遠江長上郡羽鳥の「服織神社」のことでありますが――
 和銅元年(708)に出雲国より勧請したということであります。祭神は「天
穂日命(アメノホヒノミコト)」。
 天穂日命は中見利男氏の『出雲大社と千家氏の秘密』によれば、出雲国造
の祖神であるということであります(記紀の説明は疑惑があり避けます)。
 天穂日命の子が「建比良鳥命」、その後裔が「野見宿祢」(AD250年頃)、
そのあと土師氏が出現いたします。最終的には、大江氏、菅原氏、秋篠氏
等を輩出いたします――

 なかなか、頭の中の論理がまとまってきませんので、ちょっと休憩してま
いります(ウォーキング&サウナ)。頭の中が整理され次第、記すことにいた
します――
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月26日 06時59分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

ウォーキングは思索に耽るのにも最適です。


磐田の坂本神社
http://www.komainu.org/sizuoka/iwatasi/sakamoto/sakamoto.html

磐田市篠原
東経137度53分3.13秒、北緯34度45分0.2秒に鎮座。

この神社は、太田川の右岸、篠原地区の東名高速のすぐ南側に鎮座しております。
磐田ICと袋井ICのちょうど真ん中位でしょうか。
境内は桜の木が覆い茂り桜の咲く頃は花見も良さそうです。

しかし由緒書は無く詳細は不明です。                          あらら・・・

神社入り口。鳥居が無ければ、公園といった雰囲気です。


残念です。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月26日 08時14分24秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101584.html
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