[1] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月03日 10時39分44秒 ) | パスワード |
松葉宗益 後裔 平賀氏について2 コメント75から続けます(^'^)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101548_75.html
〉新年早々ですが、六殿宮祭主家「平江家」の文化十一年(1814年)の御先祖様と
宮原三宮宮司家そして橘姓宮原氏との繋がりを見つけましたよ!!!
をお伝え致します(^'^)
昭和34年発行の「宮原町郷土誌」
こちらに八代郡旧宮原町 宮原三神宮 宮司家 廣松家の家系図が記載されています。
まず宮原三神宮とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E4%B8%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE
宮原三神宮(みやのはらさんじんぐう、みやはらさんじんぐう)は、熊本県八代郡氷川町にある神社である。旧社格は郷社。八代北部全域の守護神として尊崇されている。
由緒[編集]
1159年(平治元年)、二条天皇の勅命により、平重盛が越中前司平盛俊に命じて社殿の造営がはじまる。1161年(応保元年)、社殿が竣工。平盛俊の弟である平盛房を社司に任じ、勅使平重盛らと共に神輿を報じて神霊を勧請し創建された。伊勢神宮内宮(天照大神)、日吉大社(国常立命)、下鴨神社(神武天皇)の3神を祀ったので三宮社と称した[1]。
1588年(天正16年)、キリシタン大名小西行長の焼討ちにより社殿が焼失した。1602年(慶長6年)、加藤清正公により復旧し、後の細川氏より手厚い保護を受ける。1661年(寛文元年)、神蔵寺をはじめ六坊が建立され、八代の妙見宮にならい宮原妙見社となる。
明治維新以降、神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改称し、郷社に列した[2]。
(^'^) 補足 宮原三神宮のすぐ近くに相良氏家臣 八代三奉行の一人宮原公忠が居城した宮原城がありました。
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/miyanohara-jyo/
宮原三神宮 宮司家を代々務めていらっしゃるのは廣松(広松)家です。
系図を拝見すると
平重盛公の三男「平清経」。平清経の子「平清房」この方が初代祭主大宮司となっています。
補足 ※ 弟 清国 緒方一郎八代郡五家荘久連子 緒方氏祖 と書かれています(p_-)
二代祭主大宮司 「行房」 中略・・台所 平盛房卿女
私が発見したのは
宮原三神宮 第二十六代 大宮司 「吉房」この方の子供様方の記述です。!!
転記させて頂きます(p_-)
※宮原三神宮 第二十七代 大宮司 「重房」。
文化十一年正月十七日卒 室者 滝 馬場下宮原氏之女
※女 木原六殿宮祭主 平江近江守妻
\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!
ころも様!!
江戸末期のころも様の御先祖様の記述がありますよ!!!
妻となられた方は宮原三神宮 第二十七代 大宮司「重房」この方の姉妹。
なお且つ宮原三神宮 第二十七代 大宮司「重房」この方の妻は馬場下宮原氏之女。
馬場下宮原氏とは松橋・八代郡内等に残った橘姓宮原の一族の方々ですね・・
文化十一年という年号から推測すると1700年代後半から1800年代前半にかけての方々でしょう(p_-)
もしかしたら・・
ころも様が私「ミヤハラ」にピクン!!と反応されたのは
「ミヤハラ」という名・言葉をころも様のDNAが記憶されていたからでは??
今朝、何気なく昭和34年発行の「宮原町郷土誌」を読んでいて気が付きました。
ころも様・白石様にぜひご紹介したくて
慌てて書かせて頂きました(^'^)
では。
[2] | 白石さんからのコメント(2017年01月05日 18時40分21秒 ) | パスワード |
皆様こんばんは
みやちゃん 四月のメールやっとみれうことができました。
宮原家とのつながり おもしろくなってきましたね。
初夢は富士も鷹もなすびもでてこなかったけど 「せっかく夢と希望に燃えてはじめたのだから頑張ろう」と自分で自分にいっている夢をみました。
何を頑張るのか闘病なのかよくわからなかったけどとにかく頑張ろうと思います。一日一日脚力をつけるために歩いています。
ただその後体力消耗をすると爆睡するのがこまるところですが・・・
今年も希望にもえた年になってほしいですね。
[4] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月07日 09時47分11秒 ) | パスワード |
追記
〉(p_-)ようするに・・糖尿病と痛風と喘息を私たち一族は受け継いでいるのであった!(p_-)・・と言う事です(..)
だけではなく(ー_ー)!!
皆、『大男』です!!(親戚に怒られるかな(..))
平川のふた従兄は185p
深水の○○兄ちゃんも180p以上
椎葉のふた従兄の子も185p
父の弟も180p(73歳です!)
その子供達(私の従弟)は長男196p 二男190p 三男185p
他にも親戚中に180p以上はうじゃうじゃ(又怒られるかな?(..))います。
身長174pの父はその中で「小さい」方になり
父は親戚の事を『進撃の巨人』をもじって
「親戚の巨人」と呼んでいます(-.-)(75歳の父はメディアには私より詳しい(;一_一))
ちなみに・・
昨年、十両に昇進した「多良木町出身の力真(立浪部屋)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E7%9C%9F%E6%A8%B9
力真 樹(りきしん たつき、1995年10月7日 - )は、熊本県球磨郡多良木町出身で、立浪部屋所属の現役大相撲力士。本名は久保田 樹(くぼた たつき)。身長190cm、体重152kg、血液型はO型。最高位は西十両12枚目(2017年1月場所)。
多良木町出身の力真関は本名『久保田 樹(くぼた たつき)』。身長190cm、体重152kg、血液型はO型。
(^'^)何だかすご〜く親しみを感じていて、父と共に以前から応援しています。
では(^'^)・・・(p_-)
[5] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月07日 22時30分10秒 ) | パスワード |
コメント3は
皆、まだ現役なので削除させて頂きました(..)
白石様
御健康の回復を祈っています。
お散歩はあまり無理をされないで下さいね(^'^)
私は運動不足でございます(..)
[6] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月24日 10時17分17秒 ) | パスワード |
白石様、ころも様 お久しぶりです<m(__)m>
ずっとお二人と、「平江氏」について気になっていたのですが
情報が見つかったので御紹介致します。
熊本県神社誌 上米良純臣氏 著
こちらに下益城地区神職家系図が記されていて、
六殿宮 榊田家 の系図がありました。
治承二年(1178年)当社勧請の時、平為成の子為歳紀州宇田より平重盛と共に下向し社職となる。
以降連綿す
とあります。
第25代の榊田土佐守正敬と言う方から「榊田氏」を名乗られているようです。
第31代までの方まで詳細が入って記されていますので、こちらに転記するよりも
写真を撮って直接お二人に送らせて頂こうと思いました。
メールでお送り致しますのでご覧ください(..)
では(^'^)
[8] | ころもさんからのコメント(2017年02月24日 10時27分39秒 ) | パスワード |
宮原様 白石様
たいへんご無沙汰して申し訳ございません (T_T)
お二人ともご病気・お怪我も回復され、ほんとうによかったです。
私もおかげさまで元気にしておりますが、経理の仕事なので、
12月決算と年末年始のいそがしさもあり、やっと落ち着きを取り戻した
今日この頃です。
現在は益城まで車で10分足らずのところに住んでおります。
地震では敷地内の地割れと屋根瓦や外壁ブロックが崩壊し、
屋根瓦が雨のように降ってくるという恐ろしい体験をしました。
11月までは一階で枕もとにリュックを置き、いつでも出れるような
服装で寝ていましたのでなかなか安眠出来ませんでしたが
クロス以外は家の修復も終わったので、ようやく2階で
パジャマに着替えて眠れるようになりました。
宮原様には私の説明不足でご心配おかけしてすみませんでした。
金柑の甘露煮を作る気持ちの余裕も出て来たので、もう大丈夫です(^−^)
また今回は平江家と宮原家の繋がりを見つけていただきありがとうございます。
先祖同士のご縁がまたこうやって繋がるって不思議ですね。
お父様のご年齢は75歳なんですね。
うちの母は72歳なので、私たちの年齢もあまり変わらないのではと
さらに親近感を覚えました。
ちなみに私は今年年女です。
今年はたくさん福をとりこみたいと思っています。
いまさらですが、今年もよろしくお願いいたします。
[9] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月24日 10時36分01秒 ) | パスワード |
ころも様
お久しぶりです(^'^)
と・・言うかめちゃくちゃ驚きました!
以心伝心です!
私がメッセージを送ると同時にころも様からコメントを頂いていました!
何だろう・・私 とても不思議でなりません。
気持ちが通じていたのですね(^'^)
地震の際は大変な御苦労をされたのですね。
球磨はそれほど被害は無かったですが、やはり、度重なる余震にはまいりました・・
今年は沢山良い事が待っている!(^'^)
と私も思っています。
お送りした写真、御参考にされて下さい(^'^)
[10] | ころもさんからのコメント(2017年02月27日 14時49分03秒 ) | パスワード |
宮原様
私も今とても驚いてます。
メッセージの時間を確認していなかったので、
てっきり私がコメント書き込みしたので、
メッセージをいただいたのだろう
と思っていました。
書き込みしてすぐだったので、
それだけでもすごいことだと思っていたのですが、
本当に以心伝心だったんですね。
こんなことってほんとうにあるんですね〜
送っていただいた写真ありがとうございました。
参考にさせていただきます。
[11] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年02月27日 15時27分32秒 ) | パスワード |
ころも様 今日は(^'^)
私がメッセージを送ったのがあの日の10:27分(今、Outlookで確認しました)
でっ!
ころも様がこちらのスレッドにコメントを書かれたのが同じく10:27分。
本当にビックリしますね!
まさに、以心伝心です(^'^)
実は、図書館から借りていた熊本県神社誌を前日に読んでいて
六殿宮 榊田家 の系図を見つけて・・
その時からずっと「明日、メールでお知らせしよう!」と!本当にず〜っと考えていたのです。
で・・コメントを書いてすぐにメールを送ったら・・
ころも様からコメントを頂いていたので、私、めちゃくちゃ驚いた!訳です(^'^)
私も、先程、時間を確認したらなおさら!こんな事って本当にあるんだ!!
ってビックリしました。
メッセージを送ろう!とずっと考えてた送信(送心ですね(^'^))側の私と
メッセージを受け取られる受信(受心ですね(^'^))側のころも様の
波長がピッタリ合っていたのですね(^'^)
ころも様自身がきっとその(送心・受心)の感度?がとても高い方なのだと思います(^'^)
もしや・・(;一_一)
前の晩に、ころも様の夢の中に『コンパスで書いたような丸い顔の女」が登場して
「ころも様!!(^◇^)お久しぶりで〜す!」
って言ってませんでしたか?
しかし・・
不思議な事は色々経験する私ですが
さすがにネット経由?は初めてでした(^'^)
お元気そうで何よりです(^'^)
今後ともよろしくお願い致します。
[12] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月24日 08時24分15秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
こちらのコメントは平川家について38+1 コメント20とリンクさせて頂きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101590_20.html
ついに!こちらでの調査
『松葉宗益 後裔 平賀氏について』と球磨・人吉が繋がりましたので!
ご紹介させて頂きます!
人吉城のすぐお隣、人吉市麓町の日蓮宗「林鹿寺」(りんろくじ)
寺紋が「橘紋」である事に気が付きました。
非常に気になりました。
そこで上村重次氏著「九州相良の寺院資料」「林鹿寺」の項を見ると
明治十二年、熊本・本妙寺は「林鹿寺」の寺号を許可し、末寺とする(郡誌)
裏山の富ケ尾に明静院日浣聖人の墓がある(風土記)明静院参照
と記されていました。
「明静院」上村重次氏著「九州相良の寺院資料」より
「明静院」人吉市麓町 日蓮宗 廃絶
寛文五年(1665年)上総の蓮華寺住職 日浣聖人は球磨へ配流。
人吉富ケ尾山に独庵を営み、「明静院」と号す。
延宝四年(1676年)没(独集覧)。
日浣聖人は長崎の出身の由で維新後、長崎の人が墓から聖人の遺骨を掘り出して持ち帰った、という。(風土記)
※寛文五年(1665年)上総の蓮華寺住職 日浣聖人は球磨へ配流。
そこで『上総の蓮華寺住職 日浣聖人』を調べました。
蓮華寺 (千葉県多古町) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E8%8F%AF%E5%AF%BA_ (%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%E5%A4%9A%E5%8F%A4%E7%94%BA)
蓮華寺(れんげじ)は、千葉県香取郡多古町にある、日蓮宗の寺院。山号は妙法山。
旧本山は、平賀本土寺。奠師法縁。塔頭として玉泉寺がある。
概要[編集]
江戸時代、檀林(玉造檀林)が開かれて多くの学徒が学んだが、不受不施派の弾圧により、廃檀した。
当時、日浣が講師を務めていたが、肥後人吉へ流罪となった。
歴史[編集]
1287年(弘安10年)日位は真言宗の観音院を日蓮宗に改宗し、蓮華寺と改称する。
1642年(寛永1年)誕生寺・日遵は玉造檀林を開檀する。
1665年(寛文5年)不受不施派の弾圧により、玉造檀林5世・日浣は流罪となる。
1666年(寛文6年)宗門改により、玉造檀林は廃檀する。
1780年(安永9年)火災により、本堂は焼失する。
1781年(天明1年)本堂は再建する。
※旧本山は、平賀本土寺。奠師法縁。塔頭として玉泉寺がある。
※当時、日浣が講師を務めていたが、肥後人吉へ流罪となった。
※『旧本山は、平賀本土寺。』とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E5%AF%BA
本土寺(ほんどじ)は、千葉県松戸市平賀にある、日蓮宗の本山。
山号は長谷山。塔頭が一院ある(仏持院)。
歴史[編集]
本土寺は元々日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡と伝えられ、後に日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立したとされている。後に日朗が本土寺として開堂供養した(実質的な開山は、日朗門人の日伝であったとする説もある[1])。
『平賀本土寺史要』によると、文永6年(1269年)、日蓮に帰依した蔭山土佐守が「小金の狩野の松原」の地に法華堂を建てたのが本土寺の起源という。
建治3年(1277年)曽谷教信(胤直)が平賀郷鼻輪に法華堂を移し、日蓮の弟子日朗が開堂供養した。日蓮の直弟子である日朗、その異母弟にあたる日像(四条門流の祖)、日輪(池上本門寺3世)は平賀氏の出身で、平賀郷はこれら日蓮宗の祖師ゆかりの地であった。
延慶2年(1309年)、曽谷教信の娘・芝崎(千葉胤貞の妻)より、土地の寄進を受け、寺が整備された。
芝崎夫人は夫の胤貞の死後、出家し、日貞尼とも称される。延文3年(1358年)、台風により、本堂が倒壊するが、その後再建された。
貞治4年(1365年)、山号を北谷山から長谷山に改称したとされる。
曽谷教信の曾孫にあたる8世日福は、嘉吉元年(1441年)に現在地に本堂を移し、鎌倉妙本寺の日寿を招いて開堂供養を行った。
宝徳4年(1452年)、火災により、本堂が焼失。9世日意・10世日瑞は火災で焼失した本堂再建のための勧進事業をきっかけに布教を行い、地元の高城氏やその同族の原氏の支援を受けて寺を整備した。
日瑞の時には本土寺に現存する建治4年(1278年)在銘の梵鐘を得た。
この梵鐘は印東荘(現・佐倉市六崎)の大福寺(廃寺)にあったもので、鐘に刻まれた追銘によれば、檀那の設楽助太郎によって文明14年(1482年)に寄進されたものである。
高城氏が小田原征伐で改易されると、徳川家康の5男で甲斐の穴山武田氏を継承した武田信吉が母の秋山夫人(家康の側室、於都摩)とともに小金城に封じられたが、間もなく天正19年(1591年)夫人が亡くなったために15世日悟がこれを厚く葬り、家康も朱印地10石を与えた。
本土寺は元々不受不施派の影響が強く、寛永7年(1630年)の身池対論でも18世日弘が参加している。ところが、江戸幕府が不受不施派弾圧の方針を取ったために、日弘は伊豆に流され、続いて21世日述も伊予国に配流された。
その結果、寛文5年(1665年)に受不施派の久遠寺の支配下に組み込まれることになった。
その後派遣された22世日令の元で受不施派寺院としての改革が行われた。日令の貞享元年(1684年)に前述の秋山夫人の甥にあたる徳川光圀の申し出により秋山夫人の墓が本堂脇に移されて参道の整備と寺領20石6斗の寄進が行われている[注釈 1]。
その後、享保20年(1735年)から安政2年(1855年)にかけて江戸浅草にあった末寺の本法寺での5度にわたる出開帳によって、寺の名は江戸でも知られるようになった。安政3年(1856年)には末寺4院6坊75寺を数えた[1]。
※本土寺は元々日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡と伝えられ、後に日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立したとされている。後に日朗が本土寺として開堂供養した・・・
※日瑞の時には本土寺に現存する建治4年(1278年)在銘の梵鐘を得た。
この梵鐘は印東荘(現・佐倉市六崎)の大福寺(廃寺)にあったもので・・
『日朗』『曽谷教信』『印東荘』!!
\(◎o◎)/!
こっこのお話は!!私が書いた「平川家について35」コメント18に完全に繋がっています!!
皆様、よろしければ、「平川家について35」コメント18をご覧ください(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101544.html
私は「平川家について35」コメント18で
@桓武平氏上総氏「平常澄」の娘。すなわち上総広常の姉妹は良峰姓原氏の「原高成」の妻である。
A桓武平氏三浦氏「三浦義明」の娘は桓武平氏上総氏「上総広常」の兄弟「金田頼次」の妻である。
B良峰姓原氏の「原高成」の息「原高春」の娘は「肥後守平貞能」の妻である。(後裔 大橋氏)
C平忠度(平清盛異母兄弟)の母は良峰姓原氏の「原高成」の娘、すなわち「原高春」の妹もしくは姉である。
上記の内容から調査した結果、知り得た「印東氏」の情報
印東氏 ウィキ をご参照ください(..)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%9D%B1%E6%B0%8F
※印東 常茂(いんとう つねしげ)は、平安時代末期の武士。上総氏5代当主。平常澄の次男。上総広常の兄。子に長南重常、印東頼常、南郷師常、戸田常政。常重とも。下総国印東庄に因んで印東(伊東)次郎と号した。印東氏の祖。
姉妹は『良峰姓原氏の「原高成」』の妻である。
つまり
良峰姓原氏との姻戚関係より「印東氏」の各氏は良峰姓原氏「いとこ・ふたいとこ」等の関係にありました。
その中に『日朗』。この方の名前が出てきました!
僧侶になった印東氏 より
日昭(1236年〜1323年)
日蓮直弟子の六老僧筆頭。昭門流(浜門流)の祖。はじめ成弁と号し、弁阿闍梨、不軽院と称された。下総国印東庄能戸の領主・印東治郎左衛門尉祐昭の次男。母は工藤左衛門尉祐経娘 (妙一尼公)。のち摂政・近衛兼経の猶子となり、法印に任じられた。 兄・三郎左衛門尉祐信が印東家を継ぎ、次男の日昭が日蓮の直弟子となった。姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。
本日の調査をまとめます。
@寺紋が「橘紋」である人吉市麓町の日蓮宗「林鹿寺」(りんろくじ)
A日蓮宗「林鹿寺」は廃絶となった「明静院」人吉市麓町(日蓮宗)の跡に建つ。裏山には日浣聖人のお墓が建っている。
B寛文五年(1665年)上総の蓮華寺住職 日浣聖人は球磨へ配流。出身は「長崎」
人吉富ケ尾山に独庵を営み、「明静院」と号す。
C上総の蓮華寺。1287年(弘安10年)日位は真言宗の観音院を日蓮宗に改宗し、蓮華寺と改称する。平賀本土寺が本山であった。
D平賀本土寺は日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡
日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立。
後に日朗が本土寺として開堂供養した。
E日朗は平賀氏の出身であり、母は『良峰姓原氏の「原高成」』の妻を姉妹とする「印東 常茂」の後裔である。
母方の祖母は工藤左衛門尉祐経の娘。
F平賀本土寺には徳川家康の5男で甲斐の穴山武田氏を継承した武田信吉の母「秋山夫人」のお墓が建立されている。
G日蓮聖人。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)
日本の苗字七千傑様 《井伊氏/赤佐氏/貫名氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
G日蓮聖人の有力壇越であった南部実長の孫娘であり、同じく日蓮聖人の有力壇越であった南部実継の娘は
宮原の一族の先祖「橘公綱」の妻であり、橘姓「宮原氏」の祖「宮原公資」の母である。
まとめさせて頂きました。
以前より「平河氏」の調査から異なる其々の系の「平賀氏」を調べていました。
「三国姓」の日蓮聖人の周囲に当時いらした方々は何らかの形で「球磨」に関係しているのでは?と推測はしていたのですが
今朝の調査によって推測は推測だけでは終わらないと感じています。
さらに新たに痛感した事は「平賀」と「平河」は名だけではなく「地名」でもおそらく大きな繋がりがあるのでは!?と言う事です。
江戸幕府の不受不施派の弾圧により、平賀本土寺を本山とする上総 蓮華寺住職 日浣聖人は球磨へ配流。
何故?配流先は「球磨」だったのか?
さらに日浣聖人の故郷は「長崎」と伝わっています。
「長崎」「佐賀」すなわち「肥前」の地は橘公業後裔の本拠地であり、さらに橘公業後裔は「松浦」地方の各氏とは縁戚関係にあります。
遡る事、鎌倉時代初頭から江戸時代末期まで、
「鎌倉時代初頭」の繋がり「絆」は綿々と続いていたのではないでしょうか・・
今朝は球磨・人吉の橘紋を寺紋とする日蓮宗のお寺の調査から進んだ情報を
お伝え致しました。
こちらの情報は
平川家について38+1にリンクさせて頂いています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101590_20.html
では。
[13] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月24日 10時16分12秒 ) | パスワード |
追記
先程、書いたコメント12で私は
〉「三国姓」の日蓮聖人の周囲に当時いらした方々は何らかの形で「球磨」に関係しているのでは?と推測はしていたのですが
今朝の調査によって推測は推測だけでは終わらないと感じています。
と書きましたが・・
何らかの形どころではありませんでした・・
私は本当におっちょこちょいです(@_@。
〉G(正確にはHです(..))日蓮聖人の有力壇越であった南部実長の孫娘であり、同じく日蓮聖人の有力壇越であった南部実継の娘は
宮原の一族の先祖「橘公綱」の妻であり、橘姓「宮原氏」の祖「宮原公資」の母である。
久遠寺 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%AF%BA
久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという[要出典]。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。
======================================================
※日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。久遠寺
※文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、・・
南部実長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7
南部実継 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E7%B6%99
★日蓮聖人の有力壇越であった南部実長の孫娘であり、同じく日蓮聖人の有力壇越であった南部実継の娘は
宮原の一族の先祖「橘公綱」の妻であり、橘姓「宮原氏」の祖「宮原公資」の母である。
〉「三国姓」の日蓮聖人の周囲に当時いらした方々は何らかの形で「球磨」に関係しているのでは?と・・
何らかの形どころではなく・・(@_@。
橘姓「宮原氏」の祖「宮原公資」。
すなわち
「宮原公資」の母方は『日蓮聖人の有力壇越であった南部実長・南部実継』
宮原公資の後裔は、球磨・人吉に私も含め現在でも多数住しておりまする〜!!
あああ〜(@_@。自分の書いた事が自分で理解出来ていないとは・・
あああ〜情けなや〜(@_@。でございます。
ちなみに家は江戸時代までは曹洞宗。明治以降は浄土真宗となりましたが
家にお祀りの観音様は家に御縁のあった鹿児島の日蓮宗のお寺様が関係されていまして
私は、毎朝、お観音様には「南無妙法蓮華経」とお唱えしています。
お観音様はきっと「なさけなや〜」と私の調査をご覧になられているのでは・・
(@_@。
しかし・・「平川家について」の方で書くべきなのか・・一つ気が付いたのですが(p_-)
再度 南部 実継 ウィキより 転記します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E7%B6%99
人物[編集]
波木井南部氏の一族は皆反骨精神の強い人物であったと言われており[1]、実継もまた父実長の気質を受け継いだ人物であった。
弘安5年(1282年)、父実長が身延山に匿っていた日蓮が老衰による疲れの為に下山を希望し、池上宗仲の邸宅に身を寄せる際、随行する役を命じられた。
それから約50年後の元弘元年(1331年)に元弘の変が起こるが、この時既に70歳を越えていた実継はこれに与し、護良親王、尊良親王に随従して赤坂城に篭城した。
朝廷方は奮戦したが、幕府の大軍に攻められて落城、実継は幕府軍に捕縛され、元弘2年(1332年)12月13日、六条河原で倒幕に荷担した他の武士達と共に斬首された。
千葉県茂原市の日蓮宗の寺藻原寺に収蔵されている僧侶日静の書状によれば、実継は最初に斬首されたという。実継の最期は日蓮宗の僧侶達によって、甲斐国の波木井南部家の人々に伝えられたという。
実継が元弘の変に荷担した動機は、北条氏と癒着した三戸南部氏との対立といった幕府への不満の他に、その謹厳で一徹な性格や、父実長の代からが帰依し鎌倉幕府と対立した日蓮の思想の影響によるものであり、同じく幕府に反撥し、倒幕を企図する後醍醐に強いシンパシーを抱いたからだと推測[2]されている。
家督は子の長継、更に南部政行の次男の又次郎師行が継承することとなる。
実継の死は北畠顕家に仕えて活躍した根城南部氏の師行をはじめとした南部氏が南朝方に協力し、恪勤する契機にもなった。
脚注[編集]
===========================================================
私、以前、調べた時は、ちゃんと理解していませんでした。
橘姓「宮原氏」の祖「宮原公資」の祖父「南部 実継」。この方は
※元弘元年(1331年)に元弘の変が起こるが、この時既に70歳を越えていた実継はこれに与し、護良親王、尊良親王に随従して赤坂城に篭城した。
※実継の死は北畠顕家に仕えて活躍した根城南部氏の師行をはじめとした南部氏が南朝方に協力し、恪勤する契機にもなった。
70歳を越えていたにも関わらず護良親王、尊良親王に随従。
子供みたいな感想ですが「本当に自分の意思を貫き通す、すごい方だ!」と思います。
南朝方・・
球磨では、肥後国久米の領主であった「橘遠江入道道公」は南朝方として活躍しました。
しかし・・領土の多くを失いましたが・・その後久米郷宮原だけは復活?取り返す?事が出来ました。
「橘遠江入道道公」は何処からか「球磨に下着」して肥後国球磨郡の久米の領主となられた方でした。
何でしょう・・ちゃんと理解出来たのは今日が初めてです。
宮原の一族の祖「宮原公資」の母方の祖父「南部 実継」。
70歳を越えていたにも関わらず護良親王、尊良親王に随従して赤坂城に篭城した。
尊敬の気持ちが込み上げてきて、心がいっぱいになっています。
コメント12の追記でした。(..)
平川家についての方に書くべきだったのかな・・
平川家について38+1にリンクさせて頂きます(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101590_20.html
[14] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月24日 12時24分25秒 ) | パスワード |
ミヤハラ様
南部、身延、久遠寺、日蓮、そして宮原様についてはたいへん興味ある
ところでありますので、今後久遠寺にも行き、いろいろ情報を拾って来た
いと考えておりますが、とりあえず読解いたします――
(この近くに八代というところもありました)
[15] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月24日 14時34分30秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
こちらの方で書かせて頂く事をお許し下さい。
今朝、コメント13で「久遠寺」について書かせて頂きコメントをアップした後、
三つ柏服部様御研究の「長上郡の服部氏族XC」を拝読させて頂きました。
静岡県と山梨県の地理関係、関連する氏族の方々との関係、私は殆ど無知識の状態でありましたので大変、勉強になりました。
日蓮宗の総本山「久遠寺」もお話の中に見えました。
ふと、三つ柏服部様がコメントをアップなされた時間を見たのですが
10時12分。
非常に驚きました。
私がコメントをアップしていたのは10時16分。
私が、皆様にぜひお伝えしたいと言う気持ちから長々とコメントを書いている時間に三つ柏服部様が「久遠寺」・「南部氏」についてコメントをお書きになっていらっしゃった・・
偶然と言われればそうなのでしょうが
私は、勝手ながら不思議な御縁を感じてしまいました。
〉この近くに八代というところもありました
八代。全国的にも珍しい地名だとは思っていたのですが
偶然すぎる・・と思うのです。
きっと、何かあるのではないか!?と・・驚きました。
三つ柏服部様
私の調査は球磨郡だけではなく、先祖に繋がる「相良氏」そして「宮原の一族」の「由縁の地」静岡県・山梨県をしっかりと勉強しなければ球磨の「真実」は見つからない!と痛感致しております。
あらためまして
ありがとうございました。
ミヤハラ
[16] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月27日 22時14分27秒 ) | パスワード |
白石様、今晩は(^'^)
平川家についての方で私が御質問をさせて頂いたので
こちらに書かせて頂きます(..)
白石様
私、以前からずっと考えていたのですが
白石様のお父様の手帳にあった「姓」の方々
「伊津野」氏「東野」氏 他
肥後国内でも、相良藩内には見当たらなくて、細川藩の藩士にあるお名前です。
私の推測で申し訳ありませんが
お父様は「高岡氏」の出自の由縁の地を細川藩内にある・・と御存じだったのでは?ないでしょうか。
相良藩内では「高岡氏」の記録は残っていませんが
細川藩内では違います。
沢山の「高岡氏」の記録を目にする事が出来ます。
白石様からも以前御紹介して頂いた「肥後 高岡系図」をあらためて見たのですが
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-higo-takaoka.html
【中興祖】高岡徳左衞門定徳 【派祖】高岡吉右衞門
【世系】肥後高岡氏の祖定徳は、柏原彦兵衞定勝の二男なり。
幼にして本能寺に入り本證坊と称す。天正10年(1582)還俗して柏原勘四郎と云ふ。 のち高岡氏の養子となり高岡徳左衞門と名を改め、細川侯に仕へ肥後へ入國す。
※柏原彦兵衛定勝の二男 高岡徳左衛門定徳 という方。
さらに系図を拝見して気が付いたのですが
高岡吉右衛門 と言う方が二代いらっしゃいます。
「吉」の付く通称は・・「橘氏」に多いのではなかったでしょうか?
さらに「柏原彦兵衛定勝」
この方は「柏原彦兵衛」を名乗っていらっしゃいますが「柏原氏」は確か橘姓にあったと記憶しています。
私の推論で申し訳ありませんが
白石様のお父様の「高岡氏」は相良藩と細川藩の間にあるキーマンでいらっしゃるのでは?と。
平江氏との姻戚関係がそれを物語っているのでは・・?
と勝手ながら推測してこちらのスレッドの方でしっかりと調査をさせて頂きたいと思った次第です(..)
通称「柏原彦兵衛」を名乗っていらっしゃる方が他にいらっしゃらないか?
今後調べてみたいと思っています(^'^)
では(^'^)
[17] | 白石さんからのコメント(2017年05月31日 11時32分10秒 ) | パスワード |
みやちゃん 皆様こんにちわ
平川の方で書いたうちの高岡と平江のこと
少し端折って書いたので 山口が濃く出たかなと覆いますが
どうしても そうなるようですが
うちの 高岡も 佐田も 山口県の方に いたようです
本家「萩」にいた高岡も 萩ですよね
山の地番も 萩です
父は 一時期 山口県にい居を構えており
長男 次男はそちらで 生まれています
姉は
そぼのことを 平江から嫁に来ているのよ
と いっていました
そのあたりは どうなっているのか
わかりませんが
平江で 山口の女子が二人からまり
その 女子が 姉の母ということです
平江に ひとり 祖母と同じ名の人がいますが
その人は ちがいます
姉も首をかしげることがあるようですが
母は一言 新民法はこうなるもんで でした
[18] | 白石さんからのコメント(2017年05月31日 12時52分52秒 ) | パスワード |
宇田源治出雲田島佐々木氏族の柏原氏
肥後細川藩の高岡氏は 1800年代に 宇野氏から養子が入る
宇野氏は 村上源治赤松の同族
赤松は 三つ巴紋を使う
↓
佐々木氏には 富田佐々木がいる
高槻富田の本照寺「真宗本願寺派」
この寺は 別名富田城 佐々木錠ともいい
山崎の合戦ではこの辺りに 秀吉の本陣がしかれた
禅住職の分厚い本には 赤松はいとこ とある
このおてらには 少し前まで 血が絶えそうになると
二条から養子が入っていた
↓
山口の佐田の姻戚 佐田から繰り返し血が入り
村上水軍の姫が建てたというお寺に眠っている祖母
ちぎれながら つながりをたもっていたのだろう
[19] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月31日 22時38分52秒 ) | パスワード |
白石様、今晩は(^'^)
「山口氏」
実は、私も白石様から平川家についての方でお伺いした
高岡氏と平江氏の姻戚関係に「山口氏」が深く関わっていらっしゃる・・
そう感じていました。
新情報なのですが
平川家について26 コメント33で以前「柏原氏」について書かせて頂きましたが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101466.html
書籍に書かれている内容とは異なるのですが
非常に気になる「柏原氏」そして「高岡」と言う地名、を見つけました。
「津野豊後守橘正忠」。津野定勝と言う方の息子様です。
明日、詳しく書かせて頂きますが「土佐」が舞台となっています。
お待ち下さい(..)
[20] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月02日 10時39分11秒 ) | パスワード |
白石様 今日は(^'^)
コメント遅くなりまして申し訳ありません。
早速(..)
平川家について26 コメント33で、私が見つけた情報は
私の二十世紀八十八年の旅 著者: 岡ひろし氏
に書かれていた
『時に江州甲賀郡を賜り柏木の荘に在った飛鳥井大納言雅親、文明五年発己致仕後柏木大納言入道栄雅と改称、その孫宗雅の時大和国高岡を併領す。
その子定輔は後年剃髪して東漸寺を創設す。柏木定勝は佐世喜三衛門(佐々木六角の庶子江州柏原に居住す)の女を娶り柏原彦兵衛と改称す。
その一子定良は後年東漸寺に入り入道道喜と改称、二子定徳は幼時本証坊と称して本能寺に在り、後還俗して柏原勘四郎定徳と改称、佐々木惣右衛門又は佐世喜右衛門と称し、大和・高岡潜居の時兄定良(道喜)に請われ、その子柏原新佐衛門定治を補翼し、名を高岡徳左衛門入道道光と改め肥後に入るの項であった。』
と言う内容だったのですが・・
今回、私が疑問だったのは
白石様のお父様の御実家の家紋が「橘紋」だったと言う事と
白石様が橘姓の「宮原の一族」と繋がるようで繋がらない・・とおっしゃっていた事。
ここだったのです!
確かに、「柏原氏」は橘姓にありますが、以前、御紹介した内容(上記)の記述からは「橘姓」が見えてこない・・
そこで、私、今回、ネットで、様々なワードを用いて検索してみたのです・・
「柏原彦兵衞定勝」 「橘氏」・・『橘 定勝』 このワードで
ムムムッ!(p_-) と言う情報を見つけました。
まず、御紹介するサイトは
南国土佐へ来てみいや 様のサイトです。
よろしければ、じっくりとお読みください(..)
題 津野豊後守橘正忠 - 本来なら津野氏第18代姫野々城主じゃった
http://nangokutosa.blog47.fc2.com/blog-entry-1934.html
※津野豊後守橘正忠と言う人は、 津野氏第17代姫野々城主・津野勝興の長男で、本来なら津野氏第18代を継承する筈じゃった人物で、津野親忠の義理の兄になるがです。
※経緯は、津野勝興の父・津野定勝の時代、戦国の世に勢力を増して行った長宗我部氏に就こうと津野氏の家臣たちは進言するも、津野勝興はこれを拒んだため家臣たちによって追放され、子の津野勝興が後を継ぐも結局、長宗我部元親に降ったため親忠が津野勝興の養子として入り津野氏を継ぐがです。
※津野豊後守橘正忠が幾ら本家の嫡流と言った 所で親忠が津野氏第18代城主となった以上、津野氏の家を出るしかなく高岡の松尾八幡宮(現・土佐市)の神官・池田氏を頼り、当時無住じゃった清滝寺に居住して余生を過ごしたとか・・・・・。
========================================================
祖父 津野定勝
父 津野勝興
津野豊後守橘正忠
★津野豊後守橘正忠・・・確か橘姓の「柏原氏」の通字は「正」だったと・・
妙〜に気になって(p_-) さらに「津野氏」と「伊津野氏」。何か・・似ていませんか・・??
そこで、もう少し調べてみたのです。
次に御紹介するサイトは
アオの国から〜徒然日記〜様 サイト
よろしければ、じっくりとお読みください(..)
津野氏についてと親忠の功績
http://blog.goo.ne.jp/tol_parthia/e/2c9f90574fae03bd39211990902a96bd
※津野家は土佐西部の高岡郡の半分ほどを領地として治めていた家です。
高岡郡の半分ほどを…と言うのは、高知県の市町 村名からいうと「須崎市」「津野町(葉山村と東津野村が平成17年2月合併)」「檮原町」の三市町が領地だったわけです。
他の高岡郡に領地をもっていた武家は津野家には遠く及ばないくらい狭い領地で、残り半分の各地に転々としてありましたから、津野家は高岡郡の実質的なトップだったわけです。
※長宗我部元親が土佐統一のため、謀略を土佐の各地に巡らし、次々とライバルと言える家を併合したり潰したりと土佐東部と中部はほとんどを支配下に置いてしまった。
当然津野家もこのまま一条につくか長宗我部につくかで論争が起こり、そうしている内に吉良親貞が一条氏の領地であった蓮池城を攻めこれを奪った。
さらに日を置かず津野家がかつて奪おうとしていた戸波城すらも攻略してしまった。中土佐の佐竹氏も津野家と同じ一条家に臣従していたが、長宗我部家に鞍替えしてしまった。
タイミングを見計らったかのように吉良親貞からも調略が入り、津野家は真っ二つ。
津野家当主は一条家から妻を娶っていたこともあり、吉良親貞…背後にいる元親につく事を頑として受け入れなかったが、家臣達は拡大する元親の力を恐れ同時に一条家への期待薄があり、結局当主を更迭して伊予へと追放、当主の甥(だったかん?)にあたる津野勝興を新たな当主として迎え、長宗我部家への臣従を決定する。
この津野勝興の養子となったのが親忠。
以下略します(..)
あの・・私、サイト検索する時に「高岡氏」というワードは一言も入れていなかったのに・・
※津野家は土佐西部の高岡郡の半分ほどを領地として治めていた家です。
何だか見事に?「高岡郡」が登場しました。
ますます気になって(p_-)
さらに調べたのですが
津野 親忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E9%87%8E%E8%A6%AA%E5%BF%A0
津野 親忠(つの ちかただ)は、安土桃山時代の武将。長宗我部氏の家臣。長宗我部元親の三男。
父・元親が土佐国の豪族・津野氏を降し、津野勝興の養子として親忠を送り込んだことにより、津野氏の当主となった。ところが、天正13年(1585年)の四国の役で、父が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとへ人質として送られる。
家臣の久武親直の讒言に加え、人質時代に藤堂高虎と親しかったこともあって父・元親からは嫌われ、家督は弟の長宗我部盛親が継ぐこととなった。慶長4年(1599年)3月には元親によって幽閉される[2]。
中略・・
長宗我部氏に代わって土佐国の大名となった山内一豊は、土佐入国後の領内の巡視を行った際に、「津野親忠自殺の始末を知る者はないか」と問うたため、須崎代官を勤めていた柏原新之丞が「中平清兵衛が津野氏一族なのでこの者を召されれば事実が明らかになるでしょう」と答えた。そこで、清兵衛が召しだされて津野氏断絶の一部始終が一豊に伝えられた。
(p_-) おんやっ?
※須崎代官を勤めていた柏原新之丞
柏原新之丞 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E6%96%B0%E4%B9%8B%E4%B8%9E
柏原 新之丞(かしわばら しんのじょう、生年不詳 - 1612年8月21日(慶長17年7月25日))は、安土桃山時代後期・江戸時代初期の武士。山内一豊の家臣。土佐藩内須崎村の代官。
播磨国に生れる。諱は久宅。通称は柏原新之丞。
1582年(天正10年)、播磨国高原で、山内一豊に召し抱えられる。
関ヶ原の合戦以後、土佐の領主となった一豊に随行して土佐に来住し、入国後は高岡郡奉行・須崎村の代官を仰せ付けられた。
(p_-)高岡郡奉行・須崎村の代官 柏原 新之丞
「高岡郡」「津野氏」「柏原氏」「津野豊後守橘正忠」
何だか・・妙に・・偶然か・・?・・繋がってきました・・
ここで、私、一度原点?に戻って
※【世系】肥後高岡氏の祖定徳は、柏原彦兵衞定勝の二男なり。
『柏原彦兵衞』というワードで検索してみたのです。
すると・・
藤堂高虎 家臣 サイト様より
http://www.nexyzbb.ne.jp/~koresada0305/kashin%20ka_ko.htm
【柏原定良】
(新兵衛、号・道喜)。柏原彦兵衛入道旅庵の子。父は足利将軍家に仕えたという。定良は青木紀伊守、寺沢志摩守に仕え文禄の頃は中村一氏に仕えるという。慶長十年頃、高虎に仕え千石を給される。大坂両陣には赤母衣組。陣後、戦功により二百石加増される。高虎の死後、藩を去って道喜と号して京都に住む。
先程、御紹介した『津野 親忠』 ウィキの記述に
※人質時代に藤堂高虎と親しかったこともあって・・
とありましたよね・・(p_-)
さらに「文禄の頃は中村一氏に仕える」
藤堂高虎・中村一氏 この方々に繋がるのは
わたくしども、宮原の一族の先祖「橘公長」と「橘公業」すなわち「伊予橘氏」でございます(p_-)
橘姓「柏原氏」。
伊予橘氏である「楠木氏」の系です。
日本の苗字七千傑様 《楠木氏正儀流》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201c.htm#003
白石様
御参考までに 御紹介させて頂いたお話でした(..)
しかし・・
白石様がおっしゃる、『「宮原の一族」と繋がるようで繋がらない』・・
このお言葉と今朝、御紹介させて頂いた情報・・
私、何だか・・・リンクしているような気がしたのです・・
おせっかいしてすみませんでした(..)
一応、御紹介させて頂きました。
[21] | 白石さんからのコメント(2017年06月02日 14時58分58秒 ) | パスワード |
みやちゃん 皆様 こんにちわ
昨夜は暴風雨と雷雨で 一睡もできませんでした
でも 今日は 気温が冷え しのぎやすいです
みやちゃん 楠木氏のこと
詳しくありがとう
私 言葉が いろいろでると
こんがらかってしまうので
昨日は
日前神社の若芽狩り神事 というのを 見ていました
少し前に 月の生まれ変わりの 漆黒の空 の 話がありましたが
この神社の神事は 大晦日から 年明け頃に行われる様です
そして
気が付いたのですが
この神社は 大国主の祖神にあたる神をまつっている
らしいです
過去に あちこち 書き散らしたとき
ここの神社をそもそも建てたのは自分のご先祖様という
しどみ様から教えていただいたことがありましたが
倭の曙 という本で
向津姫 向家の姫が出てきます
むかう と 読むのか しょう と読むのかお尋ねすると
むかと 読みます ということでした
大国主は 大物主と同一人とも扱われ
こちら 富田では えべっさん 大国さん の親子にも
なぞらえられ
三輪神社がありますが
細川晴元が 奈良から 人を連れてきて
富田の守護神にした
というところです
その隣が 本照寺・・・富田城 佐々木城 富田佐々木は 出雲但馬宇田源治につながる
近くに 総持寺があり
一条天皇の勅願寺
この天皇のとき 定子 彰子 などの3道の女子の后争い がくりひろげられた
総持寺は 豊臣秀頼の再建
四条流の包丁道の元祖
その 儀式のおりには 長谷の童子がやってきて
給仕仕った という
花山天皇を 中興の祖としている
月の 生まれ変わりには いざなぎ いざなみが関与しているらしく
伊勢神宮の赤福をみていたら
こちらは 明治のころから 始まったようだけど
神宮の ツキヨミの宮があるのは
渡会の宮 中村の地 であり
神宮は 丹後の方から 来ているのですね
日前神社の地は
大体 穴門の豊浦というところだと いうことですが
いろいろ 説があるのでしょうけど
香椎の宮で 政務をとられたという
山口の防府あたりにも 日埼があり
豊浦で昔 百済からの人が 金のたらい とかをもってきた
という
話があり その飛び地がこちら 摂津の地で
九条の荘園がひろがっていた
日前は タカチホ神社あたりにもあり
祇園神楽をしていた
なんだか 取り留めない話ですが
くるんとまわって また 古くにつながっていくものが
あるようです
[22] | 白石さんからのコメント(2017年06月02日 18時05分04秒 ) | パスワード |
父は一時期 山口の都濃郡にいたことがあります
都濃氏を見てみました
藤原北家の摂関家の出といわれ 宇都宮のながれをくむ 多鳩神社の神主家
石見の国にある
祭神は 積羽八重事代主命 神功皇后が3韓征伐に出かけられるとき
戦の勝ちを祈願して 船の舳先を朱で染めた
その時 積羽八重事代主命の尊称を奉られた
朱
日向一宮にも 都濃神社はある
都濃 津野 伊津野
なんだか にていますね
[23] | 白石さんからのコメント(2017年06月03日 07時02分35秒 ) | パスワード |
皆様 おはようございます
江津の多鳩神社は 橘紋
京都の近衛文麿の扁額がかかっているお寺では
橘紋は 藤原の紋です
という説明をしておられました
[24] | 白石さんからのコメント(2017年06月03日 12時49分18秒 ) | パスワード |
こんにちわ
大阪に一心寺というおてらがあります
前から気になっていたのでけんさくしました
そこの院号が 高岡院
比叡山一の知恵者といわれた法然がかんよしている
源空 浄土宗
この高岳から 高岳寺を引くと 北九州の高岳寺がでます
足利氏の開祖
そして
のちに 井伊家分家が関与しています
足利氏 井伊家が関与しているというそれだけですが・・・
そうそう 一条美子・一条家 も関与しています
ただ
これだけのことですが・・・
[25] | 白石さんからのコメント(2017年06月04日 19時23分33秒 ) | パスワード |
みやちゃん 皆様kんばんわ
高岳寺 高岳院
徳川家康第八子・仙千代の院号は 高岳院だそうです
仙千代の母・相創院 亀は 石清水八幡宮浸食の志水氏の女子
志水氏は 紀姓 三つ巴門使用
竹内宿ね子孫とも・・・
志水宗治は 微衷高松城攻めに出てくる
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
一心寺は 法然「源空」が関与
高岳院が院号
浄土宗
四天王寺別当であった 慈円の請「九条兼実兄弟」で 法然が「源空あん」
と称して済んだ
後白河法皇も参詣された
大阪の陣では 家康の陣がしかれた
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
北九州の高岳寺
大鏡院
江戸時代 静岡県に建てられたが 昭和に北九州に移された
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
静岡の高岳寺は
もともとは 甲斐の国にあったが
清州移しで 移された
甲斐の国 山梨県ですね
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宗派がいろいろ変わっているようだけど つながっているように 思えます
[26] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月05日 10時17分30秒 ) | パスワード |
白石様 今日は(^'^)
沢山の御教示を頂きましてありがとうございます。
お返事が遅くなりまして申し訳ありませんでした。
平川家について38+1コメント46で書いたのですが、
親戚で不幸事がありまして
外出もあり、コメントを控えさせて頂いていました。
白石様
肥後高岡氏について、勝手に調べてしまいまして、すみませんでした。
白石様に直接お繋がりの御先祖様に何らかの手掛かりになるのでは・・と思いまして
勝手な事をして申し訳ありませんでした。
少しでも、御参考になれば幸いです。
全国に「高丘」「高岡」の地名、寺院、そして「姓」があるのですね。
とても勉強になりました。
全体の大きな繋がりが白石様にはお解りになっていらっしゃるようですね。
私は、「高丘」「高岡」「高丘氏」「高岡氏」については全く未知識なので
御教示を拝見しながら、じっくり勉強させて頂きます。
球磨とどう繋がっていくのか・・興味があります(^'^)
先日は、一睡も出来なかったとの事ですが、大丈夫ですか?
お身体、無理をなさらないで下さいね(..)
では(^'^)
[27] | 白石さんからのコメント(2017年06月06日 19時20分54秒 ) | パスワード |
みやちゃん 皆様こんばんわ
みやあちゃん かってなことだなんて とんでもない
いろいろと 勉強になっています
三国志は赤壁の戦いで 気が抜けてしまって 今 げんなりしています
今日は 三井寺は 新羅に関係しているのね
薄氏などを 見ていました
薄氏7000位越 橘嫡流
和田氏から 正遠が入ってきて
西尾 山口 服部 ほか いろいろ ついています
いろいろ 出てきます
薄は 劉邦の后に 薄氏がおり
景帝を出しています
源流は 台湾のようです
劉備も 花がたかかったようですが 劉邦も 竜の顔といわれ
つまり お花が ぐうっと そびえたっていたようです
子供は 代王に封じられ ために 呂皇后の迫害を免れたようです
源流は 台湾のようです
目を引いた尾は 家紋が 鹿の角に見えることです
[28] | 白石さんからのコメント(2017年06月06日 19時28分51秒 ) | パスワード |
ごめんなさい
・・・目を引いたのは です
花は お鼻 です
ころころ 画面が変わるので コントロ−ㇽできません
[29] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月07日 11時22分43秒 ) | パスワード |
白石様、今日は(^'^)
お役に立ててはいませんが(..)
でも、少しでも御参考になって頂ければ嬉しいです(^'^)
白石様から三国志のお話を伺うと、ワクワクします(^'^)
ただ・・不勉強なので、登場人物?の名前をつどつどウィキで見て
なるほどな〜(p_-)・・と。
(かなり、以前に、ほんの少しは勉強したのですが、頭の中で難しい漢字のお名前は中々・・記憶していません(@_@。)
しかし、それが楽しいのです(^'^)
これからも、どんどん、お教え下さい。
〉家紋が 鹿の角に見える
鹿でしか・・(ー_ー)!! 鹿ですか・・
「鹿」さんは、「熊」さんと同じくらい、ものすご〜く興味はあるのですが(p_-)
あの・・全く関係ない話なのですが
球磨に伝わる「球磨臼太鼓踊り」
私のブログにアップした岡原霧島神社の落成式の写真にも兜をかぶった方々が移っていますが
兜の飾りによって、戦場での役割が決まっていて
兜の飾りが「鹿の角」の場合は「騎馬武者」を表しているそうです。
「騎馬」すなわち「馬」です。
ちなみに、家の刀掛の兜は刀を二本乗せる?部分は鹿の角でございます(..)
脱線しました(..)
しかし・・その鹿の角の部分・・昭和の初めには何でも『「鹿の角」は何かの病気に聞くそうだ』、と、どこかの人が、家に「鹿の角」の兜がある事を知っていて
「削らして下さい」と来られまして・・
家の祖母は未だ若かったからかは知りませんが・・
「はい(^'^)どうぞ!(^'^)」と少し削らしてあげたそうです
\(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・・(;一_一)
この兜・・実は江戸時代後期に作られた特注品らしいのですが・・(調べました(..))
ある部分がキンキラキ〜ンと「金」色に輝いていまして・・
父が子供の頃からキンキラキ〜ンと「金」色に輝いていたそうで・・・
今でもキンキラキ〜ンと・・
むむっ(p_-)・・もしや・・むふっ(*^_^*)
と
眺めていると・・父が
「お前はなんば考えとるとか!!ダメヨ!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
と。
心を読まれてしまいました(;一_一)
父は、御仏像と同じ「金」のメッキだ!!と。
確かによく見るとそのようです(p_-)
もちろん!
キンキラキ〜ンの部分が無い兜にしようなどとは・・めっそうも無い(ー_ー)!!
考えてはおりませんでした(ー_ー)!!
頭の上で、祖父や曾祖父、先祖から「なんばいらん事考えとるとか(何をとんでも無い事を考えているのか!)」
(-_-)/~~~ピシー!ピシー!と
叱られますので(..)
ますます、脱線しました(..)
しかし・・本当に私は
※「鹿」さんは、「熊」さんと同じくらい、ものすご〜く興味はあります(p_-)
白石様
今後とも三国志のお話色々お聞かせ下さいね(^'^)
よろしくお願いします(^'^)
[30] | 白石さんからのコメント(2017年06月07日 13時55分32秒 ) | パスワード |
みやちゃん 皆様こんにちわ
黒川 笹井 と 松本城
先に 黒川氏が 出ましたが
ここと つながっているかどうかは ともかく
黒川城主は 松本城主の ことですね
松本城とは 八重の桜で 有名な また
会津 白虎隊で有名な あの 松本城です
笹井は 松本藩 戸田家家臣 に
五枚笹を 使う 家があり
うちの 身内が 家紋屋 に しらべてもらったといって
この 紋をつかっております
ほかに
九枚笹紋の家もあります
戸田家は 近衛門流との ことです
辞典では 五枚笹を使う笹井は 一行で
清和源氏と いう
と なっています
大阪高槻 総持寺墓地には 藤原山影の墓がありますが
同じところに 林家の九枚笹紋の墓があります
林と いえば 古くにさかのぼれば 林の臣「鞍作」で 蘇我氏
この 近くには 石川年足「嶋の大臣」
の 墓誌や 藤原鎌足の骨というものも あります
慈円と 九条兼実は 兄弟ですが
慈円の肖像画は カラス天狗のお鼻のよう
竹内宿ねの鼻も カラス天狗のお鼻のようだったそうです
この お鼻に似た人って身近にいたかなあ
と おもいうかべると
田中先生 尾方先生などが おられました
尾方先生は 五木の方の 神主さんで 先生
田中先生は 五木の方の 学校の校長先生人なられたと おもっております
卒業式だったかに 大きなカメ「その時は」 そうおもいました
に 講堂の壇上いっぱいに 桜 藤 ほか 活けていわってくださいました
高槻の笹井は 3つの流れあるとかで
うちは 岡山から 父親の時に 来ていて
4つの流れになりました
高槻の重要文化財の 笹井は
江戸時代の町家ながら 屋根のつくりが 古墳時代の神社の本殿の
形だそうで
資料展示されているとき 行ってみたら
京極道誉 「佐々木道誉」多田院に仕えていたと ありました
その近くにある 笹井さんを 尋ねてみたら
それまで 研究してくれていた先生は とっくに お亡くなりになっているとのことで 家紋が木瓜紋だとは おしえていただきました
屋根瓦が 巴だがというと あんなもの なんでも つけてるんですよ
と ・・・
佐々木道誉を とおるなら 宇田源治と 思い
宇田源治なら うちは もと 漕ぎ真言宗仁和寺御室派 なので
ゆかりしているのでは と思い
辞典には 信州篠ノ井に戦敗し 五郎 六郎兄弟が作州に走り
森公「森可成」入獄の際 出でて仕え という条項があり
大学の先生も調べてくれたのは それでした
敦美親王の系は 道長と結んだ方は 貴族になっていき
京極と結んだ方は 武士化していった
この 富田に 親鸞の子孫の 教如がたてた 教行寺がある
教如の室は 細川晴元の女子だそうで 「庭田氏」
九条の養女になり嫁入った
細川氏は 足利の管領だったから 勢力は 相当なもので
広い範囲に ちからをおよぼしていた
明智光秀の 妻になった お玉の墓は 大阪崇禅寺にある
細川 晴元の首塚は 普門寺にあり
三輪神社は 晴元が 富田の守護神として
倭三輪神社を 勘定したもので 氏子は 奈良からきていると 聞いています
笹井の名も 鳥居に 刻まれているは
7000傑サイトで 藤原にはじまり 木瓜に唐花紋
三つ柏紋が ついている 家があったのですが どうやってでてきたのか
すぐに ひかえなかったのが くやまれます
本照寺に 墓がある 笹井は 違い柏 剣片喰です
本照寺は 5本線の 門席寺院
佐々木錠 富田城とも いいます
[31] | 白石さんからのコメント(2017年06月10日 17時09分25秒 ) | パスワード |
ミヤちゃん 皆様こんにちわ
奇妙なつながり ということで
歴史をうごかした大物のそろいぶみの土地お
京都紫の地方 ということで
式部の名は 紫のの地名にちなむ
はるか古代に 天智天皇 鏡の大王
天武天皇 その頃は 巫女と言っていたかもしれないい
家康 秀吉 三成なども 代特区寺で つながってきます
[32] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月11日 10時31分24秒 ) | パスワード |
白石様、今日は(^'^)
御教示ありがとうございます。
昨日、平川家についてを書いた後、マタマタ来客がありまして、
お返事さらに遅くなりまして申し訳ありません(..)
父を訪ねて来られる方が結構沢山いらっしゃいまして(..)
「笹井氏」
〉信州篠ノ井に戦敗し 五郎 六郎兄弟が作州に走り
森公「森可成」入国の際 出でて仕え という条項があり
白石様の御主人の御先祖様
以前伺った時にも感じたのですが、やはり御縁がありますね・・
森可成・・森氏
森頼定の妻は橘公業の娘「薬上助局」
人と人の出会いは真に不思議です。
所で・・
平川家についての方はご覧の事と思いますが
「木原氏」が登場しています。
多良木町史には「木原氏」は源姓を称していたと書かれていました。
あれだけ、「木原」の地名が気になると言っていた私ですが
山江村誌にも多良木町史にも書かれていた事なのに
しっかりと熟読していなかった事を大反省しています。
国司と在郷の領主との間に起こる「事件」ですが
裏には様々な事があるようです。
まずは、「砥川氏」と「田口氏」の事件に関連する、火君(肥君)の後裔である国司の方々について「平川家について」の方で
書かせて頂くつもりです。
「木原氏」についても、もちろん調べて行きます。
では(^'^)
[33] | 白石さんからのコメント(2017年06月14日 13時34分26秒 ) | パスワード |
みやちゃん 皆様こんにちわ
31の ところは 大徳寺です
すみません
きみょうなつながりで 今日は 少し ちがったことを書いてみます
肥後高岡系図の始祖は
高岡八郎左衛門尉 源宗泰ですが
宇多源氏の佐々木流 佐々木義清息子
隠岐泰清の八男・八郎宗泰が出雲の国神門郡塩谷郷高岡邑を領してより高岡を名乗る
^^^^^^^^^^^・^^^^^^^^^^^^^
宗泰の母は 葛西伯耆の守清親の女子
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
葛西氏とは
桓武天皇子孫良文流
家紋 三つ柏
秩父氏の一門 豊島氏支流
------------------------------------------
家祖・葛西清重 「壱岐の守」
二代目 清親
母は 畠山重能娘
------------------------------------------------
畠山重能は今上天皇著永の祖先にあたる
その先祖は 千葉常胤六男・東胤頼で 遠藤氏・東とう氏などがいる
土岐氏もみえます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
源氏をなのっていても
母方の系をたどれば 平家につながっていく
[34] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月15日 10時00分08秒 ) | パスワード |
白石様 今日は(^'^)
〉肥後高岡系図の始祖は
高岡八郎左衛門尉 源宗泰ですが
この記述は何処にあるのですか?
理解していませんでした!
すみません(..)
母方の系
平安時代辺りまでは、母方、すなわち妻の家に通い婚であったり、「同居」していたりといった事が多かったのですよね・・・
系図で妻の出自が書かれていると、その繋がりがとても解りやすいのですが・・
相良氏の場合、平安時代末期・相良長頼までは妻の名さえ記されていません。
相良頼景の後妻は須恵氏の娘とあり、これは特例ですね!
しかし、先妻の方はどなたか解りませんね・・
母方の系が解ると色々繋がりが見えてくるのですが・・
母方の系で、実は、「いとこ」だった「ふたいとこ」だったとか
縁戚関係が見えてきますから・・・
うん(?_?) あっ!!
白石様、「母方」のお言葉を頂いたお陰で私「ヒラメキマシタ」!!!!
ありがとうございます!
(何を言っているのか・・とお思いでしょうが(..))
平川家についての方で書かせて頂きます(p_-)
では(^'^)
[35] | 白石さんからのコメント(2017年06月15日 10時12分48秒 ) | パスワード |
皆様 おはようございます
上のこめんとは
今上天皇直系の祖先にあたるです
源 義知の 子供 今若= 阿野全成
母は 常盤午前
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
姉に 坊門姫
母は正室・由良御前
坊門姫は 一条能保のつまであり
西園寺公経室全子 や 後鳥羽天皇乳母・保子他
の母
坊門姫は 後藤実基に預けられた
「後藤が近くにいる「
坊門姫の子孫は
九条良経に嫁ぎ
九条道家と 順徳天皇中宮 立子を産み
もう一人の女子が 西園寺公経に 嫁ぎ
西園寺実氏と 倫子をうむ
娘のまごにあたる 九条道家をと 倫子の
間に生まれた 子供たちが
五摂家のうち 九条 一条 二条をおこす
藤原頼経もおり 4代将軍に迎えられている
ウィキより
^^^^^^^^^^^^
西園寺実氏が出たけども
実氏は 笹井の 祖先でもある
笹井 は 京極道誉 も おり
^^^^^^^^^^^^^^^
多田院に仕えていた
うちの 笹井は 岡山にいたけど
その前は 真宗篠ノ井
松本藩士 戸田家家臣に 笹井がおり
松本城は 会津のこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[37] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月15日 12時03分37秒 ) | パスワード |
白石様
御教示を頂きましてありがとうございます。
ただ
大変申し訳ございませんが
今上天皇様のお話は、あまりにも恐れ多く
こちらのスレッドでは控えさせて頂きたいと思います。
すみません。
よろしくお願い申し上げます(..)
[38] | 白石さんからのコメント(2017年06月15日 16時34分56秒 ) | パスワード |
慈円は 九条兼実の兄弟だけど
肖像画で 見ただけだけど・
カラス天狗の ような お鼻だし
阿野全成のお鼻も ぎゅんと おお天狗様のようです
なんぼ 肖像画でも あれだけ リアルに 描かないよと 思うくらい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
足利義純=畠山義純
正室 は 来王姫
新田義兼 女子
継室は 北条時政女子
一説 畠山重忠の未亡人
ここから
二本松の 言葉がでてきます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
時政の女 としては
だから 時姫 政子 阿波の局
この 阿波の局が 比企氏と隕石になる
[39] | 白石さんからのコメント(2017年06月15日 16時42分52秒 ) | パスワード |
慈円は 九条兼実の兄弟だけど
肖像画で 見ただけだけど・
カラス天狗の ような お鼻だし
阿野全成のお鼻も ぎゅんと おお天狗様のようです
なんぼ 肖像画でも あれだけ リアルに 描かないよと 思うくらい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
足利義純=畠山義純
正室 は 来王姫
新田義兼 女子
継室は 北条時政女子
一説 畠山重忠の未亡人
ここから
二本松の 言葉がでてきます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
時政の女 としては
だから 時姫 政子 阿波の局
この 阿波の局が 比企氏と隕石になる
[41] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月26日 08時17分33秒 ) | パスワード |
白石様、ころも様 お久しぶりです(^'^)
実は、スレッド「球磨(熊)国について」の方で
私なりの・・あくまでも「私見」ですが
古代呉国と平安時代の肥後の繋がり、さらに六殿神社(六殿宮)大宮司家でいらっしゃる本姓「平」、「平江氏」の「平江」姓の意味?・関係について
考えてみました(..)
よろしければ、ご覧になられて下さい(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101491_3.html
猛暑が続いています。
お二人、お身体は十分ご自愛下さい。
追記
白石様、お身体の方は大丈夫ですか?
とても、心配しております。
では。
[42] | 白石さんからのコメント(2017年10月12日 20時34分50秒 ) | パスワード |
みやちゃん
もんばんわ
ずいぶん 長い間旅に出ていたような気がする月日でした
七月に救急車に運ばれ ついに しゃんとをつけ 透析を受ける体に
透析を受けると体の中の毒素が抜けて すっきりします
ただ 糖尿からきた 腎臓病は 智が固まりやすく 決戦を作りやすく
先生も びりびりしておられます
加えて あたらしく 入った 看護師は 橋がころげても おかしい 年頃で
クスクス笑いながらの 注射
こちらは いのちかけてんねん と 怒りの 心です
この間は 二晩で 五キロもやせることが
なにもしないのに 体の毒素が すっかり 抜け出て
ウエストも くっきり くくれて
先生も 常識ではありえないことや
いったいなにやらかしたんや
と おっしゃいましたが
ほんと なんで こんなことに なったのか? です
ともあれ げんきになり ました
ご安心ください
鹿児島の自身の報に 接し 球磨は 大丈夫かなあ と 案じております
[43] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月12日 22時48分07秒 ) | パスワード |
白石様
お久しぶりです。
全くコメントがなかったので、
お身体の具合がお悪いのではとずっと心配していました。
入院なさっていらっしゃったのですね。
救急車で運ばれたと言う事は、大変な状態だったのですね。
透析はお辛いですね。
今は通院されていらっしゃるのでしょうか?
絶対に御無理なさらないで下さいね。
新燃岳の噴火。
御心配下さりありがとうございます。
白髪岳・黒原山など、霧島方面と向かい合う球磨の山々は
昨日から真っ白です。
山全体が一日中、昼間も深い霧に包まれているような「真っ白」
そういう状態です。
今朝、ゴミを出しに外に出た所
何と表現すればいいのか・・白髪岳の方向から
雷のような・・大きなオートバイのエンジンを吹かすような
自衛隊のジェット機が通過する時のように空から響き渡るような
ドドドドドッ ドドドドドッという
音が絶え間なく聞こえていました。
球磨は盆地だから、その音が山に反響して
ゴミを出しに一人で外に出たにも関わらず
「何?何の音!」って大きな声で一人で叫んでいました。
家にいる時はテレビの音で解らなかったのですが
外に出て、その音を聞いた時は、やはり「恐怖」を感じました。
ニュースで知ったのですがその音は、噴火に伴う「鳴動」と呼ばれる音だったようです。
その音は朝、7時を少し過ぎた頃からと10時過ぎからがひどかったように感じます。
風向きによっては、降灰が心配ですが
今日の午前中の降灰予想地域には多良木町が含まれていました。
おそらく、黒原山の反対側に位置する「槻木」集落だと思います。
家から霧島連山には直線距離で35km程ですが、こちらの山々の反対側になる
高原町、小林市、霧島市、えびの市、都城市など、新燃岳により近い地域に
お住まいの方々は大変お気の毒です。
球磨は山が壁になり直接、噴煙を見る事はないですが
上記の地域にお住まいの方々は噴煙を目の前にして、
その不安は計り知れません。
私の主人の仕事場は霧島連山のすそ野、小林市との境界の地域ですが
小林市内の山のすそ野から通勤されている方もいらっしゃいます。
実は、噴火の二日前に、私は生駒高原のコスモスを見に出かけていたのです。
晴天に恵まれ、コスモス祭りも開かれていて沢山の方々が
楽しそうに景色を楽しまれていました。
私は夷守岳を背景にしてコスモスの写真を撮ったのですが
昨日写真を見ると後方に新燃岳が写っていました。
あの日とは全く違う風景がテレビに映し出されています・・・
昨年から、何度「自然の脅威」に直面してきたのだろう・・
でも
新燃岳は有史以来、何度も噴火を繰り返していますが
そのつど、古(いにしえ)の方々は苦難を乗り越えてこられているのですね。
こちらの事ばかり書いてしまいました。
すみません。
白石様
白石様は一生懸命、御病気と闘っていらっしゃるのに
私が弱気になってたらいけませんね!
私も、前を向いてがんばります!
ありきたりな言葉ですが
『止まない雨はない!』ですね(^'^)
重ね重ねですが
白石様、御無理をなさらないようにして下さい。
[44] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月13日 04時48分53秒 ) | パスワード |
白石様 追記です。
白石様の御先祖様「高岡氏」について
以前
相良村の別の「高岡家」とは少し系が違うと祖母様がおっしゃっていらした・・
と言うお話を伺った事がありました。
そこで、相良村ではなく「五木」の高岡家について少し解った事がありましたので
書かせて頂きます。
五木の「高岡家」。
家の方の五木の親戚関係とは今の所、縁戚関係は見えないのですが
家の集落に現在住まわれている「某家」の方とは縁戚関係がありました!
偶然、伺ったのですが
その「某家」の方(70代後半)のおじいさんは元々「五木」の方で
旧岡原村(旧宮原村)の私が住む集落に明治以降(詳しくは聞けていません)
そのおじいさんが、五木から移って来られたそうです。
そのおじいさんの、母方が、五木の「高岡氏」だそうですよ!
そして、その「某家」から、昭和の10年代にナント、私の高祖父(平川の)の実家の分家の方に嫁いで行かれた方がいらっしゃいました!
その「某家」の方の伝承では
『先祖は平家の落人で、五木に逃れてこられて、農業を営まれていた・・』
と伝わっているそうです。
こちらの「某家」のおじいさんは、昭和の初めまで「岡本」にあった「アンチモニ鉱山」に関係されています。
「岡本」にあった「アンチモニ鉱山」を運営していた会社が昭和に入り、撤退する事になり
某家のおじいさんが、そのまま会社を受け継がれたそうです。
社長となられたその方の娘さんが、私の高祖父の実家の分家に嫁がれた・・
と言う事になります。
「五木村」を出自の地とする家から「椎葉村」を出自の地とする「家」に嫁がれた・・・
となる訳で
私は何だろう・・
やはり
五木や椎葉村に伝わる「平家の落人伝説」が関係しているような気がするのです。
※私の高祖父は椎葉村を出自の地とする「家」から、平川家に養子に入った。
※白石様のお父様の御実家「高岡家」から相良村の平川家に婿養子に入られた。
※五木の「某家」の母方は『五木の高岡家』の方で、その「某家」から私の住む集落に
来られた方の娘さんが、私の高祖父(平川の)の実家の分家に嫁がれた。
五木と相良村の「高岡氏」との関係は、私には解りませんが
御報告を!と思い書かせて頂きました。
ただ・・・
白石様は今は体調の御回復が一番ですから
無理をして調査をされたりなさらないか・・そこが心配です(..)
私も、「某家」の方にもっと詳しく聞かせて頂こうと思っていますので
お待ちになられて下さいね(^'^)
白石様
お身体の御快復を心からお祈り申し上げます。
[45] | 白石さんからのコメント(2017年10月22日 18時13分43秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんわ
降灰 の 被害は だいぶ前の噴火の時 手−ブルに つもり
洗濯物に 黒くしみが 出来ました
今回も いかばありか はてなと あんじております
今は 乾燥機付き洗濯機もありますから すこしは 大丈夫と 思いますが
コスモス
リハビリを検討して 体験に 出かけたところで コスモスの塗り絵をさせてもらえました
前に出かけた 万博公園での 楽しかった思い出などを思い出しながらぬりました
そしたら ちょうど ミヤちゃんの コスモスのこめんと
ほんと 偶然と思いながら もう一度 コスモスの塗り絵を みながら
楽し気分にひたっています
そして
なんでか 以前 ほかの人のスレッドですが 塩こうじの話がありましたが
入院中 むつ という魚に ほんのり 塩こうじをまぶして 焼いたのが
でてきて
塩こうじって こんなに おいしいのかとおもいました
むつ という 魚も まわりに 聞いたら 知っている人がすくなく
こんなに 交通事情が進んだ現代でも 全国 すべての人が 知っている ということが ない
ということ
なら 平安のころなら もっと 差が はげしかっただろうと 思います
また テレビですが
高氏は もともとは へ氏だったとか・・・・・・・
大昔の ことで しらべようも ないかもしれませんが ・・・
みやちゃん 地震はこわいでしょうが
気を強く持っていてくださいね
[46] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年10月23日 14時35分00秒 ) | パスワード |
白石様、今日は。 (^'^)
お身体の具合はいかがですか?
文面から
コスモスの塗り絵をされていらっしゃる時の白石様の優しいお顔が
目に浮かびました。
(お会いした事がないのに私には解ります(^'^))
リハビリは大変でしょう。
身体に無理のないように、少しづつお始めになられたら良いですね(^'^)
火山や地震。御心配くださりありがとうございます。
すぐ弱気になる所が私の悪い所で
はい!しっかりと気を強く持ちます!
むつ・・・お魚
情報・・
〉平安のころなら もっと 差が はげしかっただろうと 思います
そうですね。
白石様のお言葉、私の頭の中の何だろう・・大きなヒントになったようです。
ありがとうございます。
白石様
治療は大変だと思いますが
私も、球磨の地より影ながら、いつも白石様の御健康の回復を祈らせて頂いています。
これから急に寒くなるようですが、
風邪などひかれないようにお身体十分にお気を付け下さいね。
(^−^)
[47] | 白石さんからのコメント(2017年11月04日 22時45分45秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんわ
私事ですが
退院しての血 唐瀬kに通っておりますが
リハビリができるところへ通うべく
リハビリ専門の施設もさがしておりまして
今日 初めて 行ってきました
楽しかったです
私の場合 諸悪の根源は 股関節が緩んでいることから
・・・これは 遺伝のようです・・・
足にまで きているようで やはり 筋力を正しくつけることが
重要のようで
それは ただ 砂浜を歩くとかいうのでなく やり方が大事のようです
少し やるだけで 足の隙間が せばまり
ひざの 骨に 上体をうまくのせられるように なった気がします
意識せずとも しゃきしゃき 歩けるようになる日を 夢見て
頑張ります
平川家について や このスレッドをみて
私ばかりが つらいのではない
もっと もっと 打ちのめされている人もいると 知りました
同級生の中にも
夫の病のため 自分の時間まで奪われ
みんなはいいなあ と 思っている人
自分が
何度も手術 手術の繰り返しで
生きていたくない人
いろいろです
そして
それからまた 奈良 平安のころの 四浦を 思うのです
維新で失職した細川藩士や 島津の人たち
私が育った家は 戦後 父が山へ行くために買い求めた家で
父の もとえ は 山の上の 萩でした
父が買った家は 尾方の持ち物だった家で
尾方 松本 吉田へは 確か 吉田から 三人
男の子がそれぞれ 婿養子に入ったと聞いています
つまり 尾方も その前からあった 尾方へ 婿養子が
来たということです
嫁は 五木のひとです
今 四浦は 宮田 尾方のおばさんが 最長老で 93歳です
ほとけ様が入った 父の御念珠
小さいころ ふとしたことで 父の お念珠に 仏さまが入っていることを知り
よくもてあそんでは 叱られていました
が 大きな珠の その お念珠は 確かに高そうで
私も母になり おこづかいで 買った お念珠は 女物で
仏様は はいっていませんでした
テレビなど よくみますと やまぶしなど
おおきなものを 首から下げていますが
そこまでは ありませんでしたが
結構 珠は 大きかったです
今度 本願寺様へ 詣でる機会があれば
探してみようと 思っています
[48] | 白石さんからのコメント(2017年11月06日 20時37分53秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんわ
弟様の事 おそくなりましたが
心より おくやみもうしあげます
くちべたなので
描けば書くほど そんなつもりでは
ということになっては と思い 簡単ですが
おちからおとされず
お父様の 心の支えになって さしあげて ください
娘が近くにいてくれる ということは
どんなに ちからづよいことか と 思います
うちの娘も 今日 関東へ帰っていきました
三日間だけでしたが その間 夫は 元気をとりもどしたようでした
かえっていったら たばこの吸い殻の山です
地震も続き 心落ち着かぬ日々とは 思いますが
お体大切に お過ごしください
[49] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年11月07日 17時28分00秒 ) | パスワード |
白石様
お気づかい頂きまして
ありがとうございました。
寂しいのは私だけではなく、一人息子を亡くした父の気持ちは
計り知れないものがあります。
出来るだけ、私は父の前では涙は見せないようにしています。
その方がきっと弟も喜ぶかと思っています。
おっちょこちょいで、いつも笑っている私を弟は大好きだと言ってくれていました。
だから、今はしっかりと前を向いて、進んで行こう!
おっちょこちょい過ぎて、弟が天国からハラハラしないように気を付けながら!
と思っています。
白石様、お身体の方はいかがですか?
私事で御心配をおかけして、申し訳ありませんでした。
リハビリは大変だと思いますが
御無理はなさらないで、下さいね。
霧の季節が到来しました。
朝は盆地全体が幻想的な風景となっています。
今日の球磨は底冷えがしています。
白石様もお風邪などおひきにならないように
お身体ご自愛下さい。
[50] | 白石さんからのコメント(2018年02月04日 13時17分26秒 ) | パスワード |
みやちゃん
この間から何度か書きかけては途中でとんでいってしまうので
今日はなにもかも ご挨拶は省かせていただき
用件のみ書かせていただきます
あの後 またまた 入院騒ぎになり 今は家にいますが
リハビリもきつい状態です
厳しい食事制限を守っていたら 筋力低下をきたし
内蔵を支える筋肉まで落ちて 動脈が 内臓を圧迫しておなかの中が大変な
上体になっていました。
幸い 適切な治療を受け もちなおし
もうこんなことはおきませんと いわれましたが
今度は 肋間神経痛になり 席をするのも 苦しくなりました
食事制限 水分制限も 過ぎるとよくないなと思い バランスよく
食べるようにしています
体はこわすものでは ないですね
めみやちゃんも ご主人やそのご先祖様に感謝の心を持っているとのこと
きっと 皆様のご加護が得られることと 思っています
今年は 同級生から全員年賀状をいただきました
め−るが 多い昨今 手書きの年賀状は うれしいものです
[51] | 白石さんからのコメント(2018年02月04日 13時22分06秒 ) | パスワード |
みやちゃん
この間から何度か書きかけては途中でとんでいってしまうので
今日はなにもかも ご挨拶は省かせていただき
用件のみ書かせていただきます
あの後 またまた 入院騒ぎになり 今は家にいますが
リハビリもきつい状態です
厳しい食事制限を守っていたら 筋力低下をきたし
内蔵を支える筋肉まで落ちて 動脈が 内臓を圧迫しておなかの中が大変な
上体になっていました。
幸い 適切な治療を受け もちなおし
もうこんなことはおきませんと いわれましたが
今度は 肋間神経痛になり 席をするのも 苦しくなりました
食事制限 水分制限も 過ぎるとよくないなと思い バランスよく
食べるようにしています
体はこわすものでは ないですね
めみやちゃんも ご主人やそのご先祖様に感謝の心を持っているとのこと
きっと 皆様のご加護が得られることと 思っています
今年は 同級生から全員年賀状をいただきました
め−るが 多い昨今 手書きの年賀状は うれしいものです
muchakunn
[52] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月05日 08時55分19秒 ) | パスワード |
白石様、お久しぶりです。
中々お言葉が聞けなかったので心配致しておりました。
お身体の具合がよろしくなかったとの事で
大変でしたね。苦しかったでしょう。
我慢なさったのですね。
適切な治療の成果で、「二度とこのような事はない」と先生に言って頂けて
本当に良かったですね。
よく、頑張られたと尊敬しました。
御先祖様を思う白石様に御加護があったのですね。
実際に経験しないと解らない事ですが
肋間神経痛、痛いでしょうね。
身体の痛みは私にはもちろん解りませんが
それに伴う心の痛みは、お聞きする事が出来ます。
私でよければ色々な事を話しかけて(こちらに)下さい。
もちろん無理は禁物です。
無理なく出来る事をボチボチですね(^'^)
(たけぽん様のお言葉を頂きました(^−^) )
※メールはどうも白石様の所には届かないようです。
何度か送ったのですがことごとく、送信不可で返ってきました・・・
でも(ー_ー)!!今は御自身で設定を調べる等など、無理をされないように
して下さい。
こちらのスレッドの管理人様には申し訳ありませんが
調査以外にも私と白石様の交流の場として
利用させて頂きます<m(__)m>
所で
ずっと、白石様にお伝えしたい事がありました。
私が調査を始めた頃から、白石様から沢山の御教示を頂きました。
特に、神様に関係するお話。
古代の中国や朝鮮半島の氏族に関わるお話。
しかし、当時の私は、本当に勉強が足りず、頂いたご教示の「意図」を
全く理解していませんでした。
本当にごめんなさい。すみませんでした。
今、球磨の古代についてようやく深く追求する段階まで(入口まで)到達する事が
出来るようになりました。
その事により、中国の古代や朝鮮半島の古代を見つめる事が
ようやく、出来るようになりました。
何年もかかってしまった事をお詫び致します。
そして、やっと解ったのです。
白石様の『古代の「高姓」』に対する思いが、そう!やっと解ったのです。
私が球磨郡久米郷いえ球磨郡(久米郡)に対する熱い思いが湧いて来るのと同じく
白石様が『古代の「高姓」』に対して、熱い思いが湧いて来られる
これは、やはり、その血がそうさせる、導かれているのだと言う事を。
球磨に「高姓」に繋がる高岡氏がいらっしゃったと言う事
さらにその高岡氏の住む「地」は、球磨の山麓部の高台にあったと言う事
古代⇒中世⇒近世は繋がっているという私の自論ですが
球磨の古代は他国から流入して来られた人達、すなわち「多民族」のるつぼ。
その一角(四浦)に何らかの形で「高姓」の方が関係しているのか・・・と
私は最近考えていました。
白石様は今、懸命に御病気と闘っていらっしゃいます。
私は白石様から頂いた様々なご教示、白石様の御意志を胸に
これからも、球磨の古代と真摯に向き合っていきます。
楽しみにしていて下さいね(^'^)
同級生の方々からの年賀状
それだけ、白石様が皆さんから大事に思って頂けていらっしゃる
と言う事ですね。
お元気になられて、球磨に帰って来られる時は
必ず、私とも会って下さいね(^'^)
リハビリは大変でしょうが、その時を
私も心待ちにしております。
親愛なる白石様へ
宮原より。
[53] | 白石さんからのコメント(2018年02月15日 13時37分44秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんにちわ
今日前のコメントを読み返していて
誤字が多すぎるのに驚きました
おっちょこちょいですね
反省しきりです
三月は すぐ上の姉婿の同窓会が熊本であるそうです
姉と二人で でかけるというので
私もくっついていきたいとおもっているのですが
透析の都合と 体調次第とおもっています
もう 二度と行けないかもしれないと思うと
なつかしい人たちにもう一度会いたいと思う気持ちがつのって
地震も気になるところで みやちゃんところは大丈夫だろうか?と
思いおります。また 衣様も経理のお仕事とか
これからの季節 お忙しいこと十 思います
お体無理なさらずに 頑張ってくださいね
姉の母の実家の平江家
似た発音の平賀 平賀は 平賀源内などもおり
白石に通ずる
白石へは 父が養子に入り
祖母が平江からよめいっており
その白石へは 高岡 山口から 先祖がよめいっており
つながりつながっている ぁたまり
との 山口男子が 姉婿です
今度 同窓会をします
不思議な縁を感じます
[54] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月17日 10時06分43秒 ) | パスワード |
白石様 今日は(^'^)
この数日、諸事情で、パソコンに向かう事が出来ませんでした。
お返事遅くなりましてすみませんでした(..)
透析の事情。
私、配慮不足で、白石様本当にごめんなさい。
でも、二度と球磨に行けないかもしれない・・など
そんな、悲しい事言わないで下さい。
私、白石様のお言葉を読んで涙が出ました・・・
しっかりと、体力を回復されて、病院の先生からの許可を取る事が出来たら
一時帰省の際に臨時に近隣の病院で透析を受ける事が出来るのでは?
などと、専門的には私も解りませんが
何らかの手段があるのでは?(p_-)
と思います。
もちろん、無理は絶対に禁物ですから
白石様の体力がしっかりと回復して、先生と御相談の上を前提ですが
必ず、白石様が「会いたい」と願う懐かしい方々との再会を
私も、心から祈り続けますね。
〉似た発音の平賀 平賀は 平賀源内などもおり 白石に通ずる
白石様のこの「言葉」を読んで
私はふと、古来からの人の繋がりは、まるで毛糸で作ったボンボンのようだなぁ
と考えました。
最初の一点から沢山の毛糸が広がり、丸いまあるいボンボンが出来上がる。
この丸いボンボンは一つの塊(かたまり)となって
最初の一点によってしっかりと結ばれている。
糸が増えれば増えるほど、丸い塊は大きくなる・・・
これを人の繋がりと考えると
一本一本の糸(系)はそれぞれが「似た」姻戚関係、「縁」を結び続けるのでは
ないのかな・・・
と・・・
「系」と「糸」。 漢字が似ていますね(^'^)
朝から、あれっ?って思いました。
平江氏・平賀氏・平河氏
書きだして見ると
皆、「平」って付くのですね。
複雑に考えないで
本当は、すごく単純な事なのかもしれない
何て思っちゃいました・・・
白石様
体調がよろしければ、時折、このようにして
コメントを下さい。
私も楽しみにお待ちします(^'^)
くれぐれも、お身体はご自愛下さいね。
[55] | 白石さんからのコメント(2018年02月24日 21時19分01秒 ) | パスワード |
やちゃん こんばんは
この頃 次のようなことを 知りました。
黄帝・・・→殷箕子など・・・→为氏など・・・徐・高・解氏など
血流は同じ
前に殷の子孫の人の足が イシュタルの足と同じ
テレビ画面をみたことが ある
黄帝の子供が はじめて 家屋をつくった
という 話をしたことが ありました
上のことに 通じていくと 思います
投稿番号:101278 投稿日:2012年03月30日
祖父母と探した大分県大在の墓続き
埼玉苗字辞典ひら つづき
国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。
[56] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月25日 06時49分56秒 ) | パスワード |
白石様 おはようございます。
いちご様の
祖父母と探した大分県大在の墓続き
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101278_28.html
読ませて頂きました。
そして、早速『埼玉苗字辞典』様サイト「ひら」の項を読みました。
http://saitama-myouji.my.coocan.jp/4-1ha.html
平 ヒラ 百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。
肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。
国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。
二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。
浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。
上記の記述、最近、私がようやく気が付いた「阿羅(あら)国」・「多羅国(多良国)」の話に繋がっています・・・・
未だ、「平川家について」や「ブログ」の方には書いていません。
『埼玉苗字辞典』様サイト「ひら」の項から推測すると
埼玉県にも、古代肥国からの移動があった事が解りますね・・・・
さらに
祖父母と探した大分県大在の墓続き のいちご様のコメント9にあった
「橘姓の良文」の内容
薩摩国阿久根郷の英禰(あくね)系図に「源頼光の臣四天王の一人、平貞道碓氷荒太郎より八世孫、英禰に下向す」と見ゆ。良文は俗史に村岡五郎貞光に作り、更に橘姓碓氷荒太郎貞道と云ふ。碓氷荒太郎橘貞道を平貞道に作るのは、後世の作品である為か。
上記の「碓氷氏」に繋がる「大隅石井氏」についても
実は、最近気が付いていたのです・・・
私は「平川家について」にも「ブログ」にも未だ書いていません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%85%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)は、桓武平氏三浦氏の一族。相模から大隅に下向し、鎌倉時代末期・南北朝時代・室町時代・戦国時代に活躍した武士で島津氏の重臣。
私が気が付いていたのは
『橘氏との関係』の項の記述です。
ウィキより
義継以前の石井氏の系図をさらに遡ると為通のところに「此時三浦と号し始め」とあり為通が三浦氏の初代となっている。その為通の父忠通についてであるが、平良文の末子ということになっているが、父である平良文の没年(天暦6年(953年))と子の三浦為通の生年(寛弘7年(1010年)頃)から推定して、平良文と忠通の間に実の親子関係があった可能性はほとんどないものと思われる。
系図には忠通のところに源頼光朝臣四天王也と記載されている。
源頼光四天王の一人に碓氷貞光という人がいるが、最近の研究で、この人物が忠通又はその父親であったといわれている。
碓氷貞光(橘貞光)は、碓氷貞光霊社の霊社記によると、碓氷周辺を領土とする武将であった橘貞兼の子で、姓橘氏、代々文武の誉れ高い家柄であったという。碓氷峠山中にて生まれ、その後京に出て活躍、源頼光に仕えてその四天王の一人となり、大江山の鬼退治などで活躍した。
このことから、宝治合戦を生き延びた数少ない三浦氏嫡流の末裔である石井氏は、本来橘氏の子孫で、何らかの事情で平姓を名乗る前は、橘姓であったのではなかろうかと推定される。
橘紋を定紋として使用している石井家が現存しており、家紋がより真実を物語っているのかもしれない。また、系図で三浦氏(石井氏)と同じ忠通を祖とする鎌倉氏、長尾氏、伊作氏(薩摩平氏)などにも橘紋の使用例が見られる。
上記の内容は私にとっては「衝撃的」でした。
ただ・・・頭の中に「描いた」古代の球磨から中世そして近世にかけての球磨
さらに私の住む「久米郷」との繋がりを
どう、沢山の方々にお伝えすべきか・・今、思考錯誤しながら
ブログの方に「一つ一つ」を繋げながら書いている途中です。
しばらくお待ち下さい(..)
おそらく「橘氏」は橘諸兄以前から・・・「古代の橘氏」(称はあえてこう書きます)が存在していたのだと推測しています。
後世において「橘の木」を崇拝する系は皆繋がっているのだと思います。
だから・・今、ブログの方で「遠江国」の橘氏と「肥人」の本拠地球磨郡久米郷の橘氏について触れているのです・・・
ややこしい書き方をしてすみません。先も書いたように「一つ一つ」を繋げて・・
納得して下さる方が一人でもいらっしゃれば・・と思いながらブログを書いている途中です。
御了承下さい(..)
しかし・・・白石様
以心伝心とはこの事を指すのだと、今朝、本当に鳥肌が立つ思いでした。
私の頭の中を白石様がキャッチされていました。
橘の木を崇拝
私が『追っている事』の”出発点”は・・
おそらく、ウィキにも記されている「難升米」。この方なのだと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3
ウィキの記述の最後の一行
『京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守としている。』
ここなのかなぁ・・・と。
田道間守と「橘の木」
難升米と田道間守
田道間守と但馬
熊津彦と難升米
田道間守を崇拝する「系」
私の頭の中を駆け巡る「言葉」の一部を書き出しました・・・
実は、昨日、本当に本当に!偶然なのですが
夷守岳近くの景行天皇・兄夷守・弟夷守に御所縁の地に行ってきました。
目的は単純に「小林市の水源にある公園」にドライブに行った・・だけだったのです。
いつもの通り『主人の思いつき』です。
最近「飼い猫ちゃんの”にゃん”」に手がかかっていたので
父が久しぶりに二人でドライブしてきたら!(^'^)
と言ってくれて、主人がテレビで見た上記の公園に行ってみよう!と
誘ってくれました。
(主人は宮崎県内の放送を見たそうで、事前に職場の方に場所を聞いていました)
広い公園の敷地を、とても綺麗な水の流れを見ながら心が何だか清らかになった気分で散策していると・・・
しばらく歩いていた時にそこが”御所縁の地”であると書かれた「この地の由来」が記された「碑」を見つけました。
ああ・・ここが「記紀」に記された場所だったのだ!!
と
驚き過ぎて・・その時は足が震えて、顔が火照って・・・
白石様
私は「見えない力」は必ず存在していると信じています・・
自分は今、何か・・導かれている・・そう感じます。
私は身を持って「その事」を経験している・・
記紀の記述に関して、頭から「作り話だ」と論じている方々のサイト等を目にする事があります。
しかし、私はその「碑」を見ながら・・周囲を見渡しながら・・
「人里離れた”この地”の事を記紀編纂者の方々が書かれた!と言う事に意味がある」
そう考えました。
きっと「何か」に基づいて記紀は書かれているのだと・・・
古代の歴史を研究する方々が一度「自分の御先祖様からの言葉」・「自分のDNAに刷り込まれた記憶」に耳を傾けて、
古代に所縁の地に自らの足で向かってみると(訪れてみると)
何か感じるものがきっとあるのでは!?
と私は考えました・・・
(偉そうに妙な事を書いてしまいました・・・<m(__)m>)
人間も猫ちゃんも同じだと思うのです・・・
猫ちゃんは、おトイレを覚えるのは容易です。
トイレを用意して、そこに砂を敷くだけで、ちゃんと用をたしてくれます。
不思議だな・・?と思い調べた所
『猫は古代の砂漠が故郷であり、「砂の上に用をたす」事がDNAに刷り込まれているから』
と言う事でした・・・
遠い故郷の「砂漠」の記憶が、現代に生きる猫ちゃんに「ちゃんと残って(伝わって)」いるのです。
人もきっと同じだと私は思います。
気になる場所・気になる人物。
それが、今、其々が住んでいる場所とは遠く離れていても(例え海外であったとしても)
気になると言う事は「刷り込まれた何か」が反応しているのだと
私はそう最近考えていました・・・
とても長くなってすみませんでした(..)
私の頭の中が伝わる白石様!
私はいつも、白石様の健康の御回復を祈っています。(^'^)
追記
ブログの方・・先にも書きましたが「一つ一つ」ですので
気長にお待ち下さい(..)
では(^'^)
[57] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月25日 11時51分31秒 ) | パスワード |
追記
先のコメントで書いた
〉古代の歴史を研究する方々が一度「自分の御先祖様からの言葉」・「自分のDNAに刷り込まれた記憶」に耳を傾けて、
とは
其々の方々が其々の御先祖様からの言葉・DNAに刷り込まれた記憶に耳を傾けて
と言う意味です。
追記として、もう一つ書きます(..)
大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)の記述にあった
〉また、系図で三浦氏(石井氏)と同じ忠通を祖とする鎌倉氏、長尾氏、伊作氏(薩摩平氏)などにも橘紋の使用例が見られる。
上記に記載されていない平良文流「中村宗平」を祖とする「土肥氏」・「土屋氏」
五木の地頭家「土屋家」と家の一族は縁戚関係にありますが
旧宮原村の「土肥家」と、家の一族は遠縁になり、やはり縁戚関係にあります。
こちらの「土肥家」のお墓は、庭柏寺跡の小高い丘の
家の宮原家のお墓のすぐ下にあります。
こちらの「土肥家」の家紋は・・・丸に橘紋でした。
実はずっと前から知っていたのですが(ブログに写真をアップしていました)
何故?土肥家が「橘紋」なのか?ブログにアップした時期には意味不明でした・・
しかし、ウィキの大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)の記述を読んで、ようやく理解出来ました。
ウィキの記述に続けて(..)
球磨郡旧久米郷宮原村にも「橘紋」を使用する平良文後裔「土肥氏」があります。
です。
上記の事他は、ブログに最初に書こうと考えていたのですが・・・
白石様のお言葉から、私の頭の中を書き出したので
きっかけは「白石様」
だから、こちらに、「知っていた事」を最初に書きました(^'^)
[58] | 白石さんからのコメント(2018年02月28日 21時05分13秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんは
※系図で三浦氏(石井氏)と同じ忠通を祖とする鎌倉氏、長尾氏、伊作氏(薩摩平氏)などにも橘紋の使用例が見られる。
※平良文流「中村宗平」を祖とする「土肥氏」・「土屋氏」
という文字が 見えました。
ひ孫を見た山内君 土肥 中村 という家は 村にもありました。
いう家は村にあります。
中村から 尾方へ男子が入り そこの女子が
隣の平川へ 嫁。この平川は 桐紋で橘ではありませんが・・・
ところで
「解樹へす」 という木があるそうです。
インドネシアあたりにあるそうで
アルコ−ル分解能力にすぐれているそうです。
どこかにうってあるかなあ と 思っており
お父様は 現役のころ 商品などをあつかっておられた
と思っていますが ご存じでないだろうか? と思うのですが・・・
ごめんなさい 。 便利使いみたいなことをして・・・
[59] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月01日 10時10分54秒 ) | パスワード |
白石様、今日は(^'^)
私が住む集落にお住まいの「土屋家」の方から聞いたのですが
こちらの土屋家は江戸時代末期跡継ぎがいらっしゃらなかったので
親戚の「土肥家」から養女を迎えられたそうです。
その土屋家とは家の親戚が遠縁となっているので、
土屋さんが「何だかんだ言っても皆この辺りは繋がっているケンね」
と私に笑って話して下さいました。
所で
父の前々職は国家公務員で退官後は某公益経済団体の事務局長でした・・・
商品を扱う仕事では・・・???
私が父の前職や前々職を紛らわしく書いていたので
お解りになり辛かったのだと思います。
すみません(@_@。
でも『「解樹へす」 という木』
白石様のお身体に何か効果があるのですか?
それならば、私も探してみます(p_-)・・・(^O^)/
[62] | 白石さんからのコメント(2018年03月01日 20時31分43秒 ) | パスワード |
我が家に三月末になると19歳になる
黒柴がいます
かなりの高齢なので
手がかかるのです
夫は はじめのうちは 世話をしていますが
だんだん 言葉がやくざことばになり
手が出るのです
犬がかわいそうで・・・
解樹へすは アルコ−ル分解酵素があり
酒飲みには良さそうなのです
木なので 持ち込みもできるらしく
香港の中国茶をうっているどこかにあるらしいのですが
わかりません
それで あつかましいことを
[63] | 白石さんからのコメント(2018年03月01日 21時05分35秒 ) | パスワード |
26
肥後高岡氏について、勝手に調べてしまいまして、すみませんでした。
とんでもないことです。
私が意識している 山口県防府市お茶屋町昔は 都農郡などがあった
近くに 四辻や高倉町もある
そこの都農郡は 津野氏にも 発音が似てますね
都農神社は 事代主を祭るらしく
事代主は 海神族で 大国主・大物主系の人
参観征伐の時 神功皇后は
事代主に つみはやえ事代主の 尊称を贈られた
船に朱をぬって 無事を祈ったとか・・・
[64] | 白石さんからのコメント(2018年03月01日 21時18分41秒 ) | パスワード |
肥後細川藩と関係しているのは
我が家の佐田とは 直接は?ですが
過去に国史辞典で広島の佐田秀隆氏の
事を読んだことがあり
その時 熊本が本貫だと思い
熊本に墓を移したことを教えていただきました
うちの佐田と同紋三つ巴です
佐田の方が強く出ると
細川につながってくる
このおうちは 大友 大内 毛利 細川と仕え
戦国の世をのりきった
我が家でいえば 女の家を介して
つながってくるのですね
[65] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月02日 11時21分37秒 ) | パスワード |
白石様 今日は(^'^)
コメント61は、書いた事が父にバレタラ
叱られそうだったので削除しました(..)
おうちのワンチャン、18歳。
白石様が大事に育てていらっしゃる事が解ります。
ワンチャンも白石様が大好きなのですね。
お酒・・・私も十数年某人で苦労しましたから
白石様のお気持ちすごくよく解ります。
お酒を明るく楽しく気持ちよく飲む人ばかりだと
すごく良いのですが・・・
解樹・・調べました(p_-)
こちらのサイト様に紹介されていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/showme_summer/7535422.html
白石様
(p_-)中国茶のお店で購入出来るみたいですよ(^O^)/
所で
〉過去に国史辞典で広島の佐田秀隆氏の
事を読んだことがあり
〉その時 熊本が本貫だと思い
私考えたのですが(p_-)
ミュージシャンの「さだまさし」さんも長崎のご出身。
熊本・長崎 すなわち(p_-)
古代の肥国ですね・・・
何かあるんじゃないのかなぁ・・・?
それにお父様の御実家の家紋は「橘紋」
白石様の御家族も
古代の香りがプンプンします・・・
(ごめんなさい)
私の頭の中にある古代と繋がる全国の橘氏の系について
ブログの方に書いていくつもりです。
お待ち下さいね(^'^)
[66] | 白石さんからのコメント(2018年03月05日 18時01分32秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんわ
(p_-)中国茶のお店で購入出来るみたいですよ(^O^)/
ここのブログは読んでいたのですが
私の頭は どのお店でもうっているわけでなく
店の名はあかされてなく
買う という言葉で検索したら
でてくるみたいに思えて
探したのですが
香港のとあるお店としか わかりませんでした
香港といえば 会社勤めをしていた時に
会社から連れて行ってもらったとき
その時は 返還されるときで
町は殺気立っていて
外へ出るのも 緊張して
私など 方向音痴で
一歩外へ出ると 帰ってこれなくなりそうで
高い窓から そとを眺めていました
それはそれで うつくしいものでした
なので
香港へ出かけて買ってこようというのは
私には 冒険を通り越して
死出の旅路になりかねないのせす
娘が海外に行くこともあれば
頼もうと思っていますが
あまり役立ちそうになく・・・
解樹とは パット見ると 解の木ともみえます
それで 解と高がつながった気がして
はやとちりですね
[67] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月08日 08時50分12秒 ) | パスワード |
白石様 今日は。
お返事遅くなりまして申し訳ありません。
一昨日から喘息で体調が崩れています。
今年の冬はインフルエンザには勝ちましたが(私だけかかりませんでした)
火山灰には、負けました(太刀打ち出来ません)(@_@。
解樹
国内で販売しているお店があれば良いですね。
私も探してみますね!
所で
新燃岳が爆発的噴火を繰り返しています。
昨年の10月の噴火とは規模がまるで違います。
最初の爆発的噴火があった6日にはこちら球磨・人吉からも噴煙が見えました。
私、丁度その時、主人の車に乗っていたのです。
あの日は、とても晴れていて、さらに空気が澄んでいて
球磨の山々がとても綺麗で、主人と
「今日はPM2.5が少ないんだろうね(^'^)山がすごく綺麗!」と話していたのです。
そう言いながら、白髪岳を見てると、山の上に何と言えばいいのか
『山から角が生えた』ような妙な雲が下から伸びてきて
「あれっ!何だろう?」って言った、その時が最初の爆発的噴火でした。
その後はずっと噴煙が夕がた暗くなるまで断続的に見えました。
(其の後は完全にこちら側も火山灰で山が真っ白で、山側は昨日から遠くが全く見えない状態です)
今回の噴火は規模が昨年とは違うと書きましたが
新燃岳周辺の方々は大量の降灰に苦しまれています。
球磨・人吉にも降灰が続いています。(ビニールハウスの上や車にうっすら積っています)
昨日は、新燃岳から50キロ近く離れた芦北でも降灰が確認されて
さらに90キロ近く離れた海沿いの天草や、同じく90キロ近く離れた五木のお隣になる九州山地側の山都町でも降灰が確認されました。
主人の仕事場の方は小林市の霧島側に住まれているのですが、噴煙が夜になると
「赤く」見えるそうです。
心から噴火が長引かないで欲しいと思います。
主人の仕事場は新燃岳にほど近い夷守岳の麓です。
実は、爆発的噴火が起こる3日前の3月3日。
仕事が終わった主人から「帰るコール」がかかって来た時に
「灰色の雨が降っている」って聞いたのです。
「火山灰?」と聞くと、「駐車場に停めた車に朝から積っている」と・・・
家に帰って来た主人は、火山灰が固まらないように車を水で流していました。
だけど、その時は
「噴火(前回、昨年の)は終息したのかと思っていたけれど・・・」と
私は思いながらも、前回を経験したので、またすぐに治まるのかな・・と
楽観的でした。
でも主人がその時「今回は何か変だ・・・」って言っていたのですが・・
(まさか、この時に3日後に爆発的噴火が起こるとは私は思っていませんでした)
私は一度経験した事が過ぎると、楽観的になり2度目には危険回避能力が下がるのだな・・と今反省しています。
マスクをせずに(うっかり忘れて)外出していた為、体調を崩してしまいました(..)
自然の脅威には人はなすすべがありません。
時の成り行きをじっと待って
噴火が拡大しない事を祈るばかりです。
私は自分の体調管理不足で喘息が出てしまいましたが
白石様もお身体十分にご自愛下さいね。
[68] | 白石さんからのコメント(2018年03月08日 16時19分16秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんにちは
新燃岳の活動 ぶきみですねえ
姉夫婦は 同窓会出席決行します
みやちゃんの 喘息
苦しいのでしょう?
がんばってね としか
言いようがないのが 悲しいです
天に向かって祈りました
解樹のこと
ありがとうございます
私 このことで 実は
あまり知られていないのなら
インドネシアから 仕入れて
販売をするようなことを地域でしたら
どうかな?と思ったのです。
小さく切ったものを 10本位 200円くらいかで
売っているとか・・・
[69] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月09日 11時48分04秒 ) | パスワード |
白石様
お祈り頂きましてありがとうございます。
励みになりました。
本当にありがとうございます。
〉新燃岳の活動 ぶきみですねえ
新燃岳は昨晩、連続噴火を停止しました。
このまま、終息に向かう事を祈りますが
巨大な溶岩ドームが形成されていて
溶岩がいつ溢れだすか解らない状態だそうです。
時の成り行きを見守るしかないのでしょうが
出来れば、このまま終息して欲しい
そう願っています。
私も白石様が「解樹」を手にされる事を
祈っています(^'^)
[70] | 白石さんからのコメント(2018年03月13日 18時23分33秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんは
9から11日と九州に墓参りに行ってきました
噴火のことや体の調子やらあり
みやちゃんには だまっていました
お墓には姉夫婦も前日行っており
先祖も喜んでくれたか?と・・・
車からは 溶岩ド−ムがみえました
しかし ホテルでは このあたりは
影響はありません とのことでした
我が家はあるじがいないのに
白梅がさきほこっていました
次は 山口へいこうね と
娘と楽しみをつくってきました
[71] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月14日 06時54分59秒 ) | パスワード |
白石様 おはようございます。
お墓参りに戻って来られていたのですね!
御先祖様、さぞかしお喜びの事でいらしたと思います。
本当に、良かったですね!
私にはだまっていた・・・むむむっ(-.-)
(-.-)・・(@_@。涙・・・(ー_ー)!!
嘘です(^'^)
私は白石様が球磨に戻って来られた!帰って来られる事が出来た!
それを伺っただけで本当に嬉しくなりました(^'^)
良かった本当に良かった
体力が御回復されたと言う事だと思い
本当に嬉しかったです(^'^)
私には次回こちらに戻って来られる時にでも
いつでも会えると言う事ですよ(^'^)
私はいつでもお待ち致します(^'^)
所で・・
先祖の調査を始めたばかりの頃、白石様に少しだけお話していた事。
(コメント以外に・・・)
詳しくブログに書かせて頂きました(..)
詳細は白石様にもお話していませんでした。
本当に申し訳ございませんでした。
ごめんなさい。
最近になって、「調査のきっかけ」が、「重要」であった事に
気が付きました。
そう感じたので、調査を始めるきっかけ、「原点」に戻って
自分が調べてきた事を今見直しています。
新燃岳の噴火は2011年と類似しているそうです。
もうしばらくは、過去に御先祖様方が「そうしてきたように」
火山とうまくお付き合いしながら
終息を祈るしかないのでしょう・・・
白石様、九州の旅でお疲れになられたのではありませんか?
お身体、十分にお気を付け下さいね。
私の身体は大丈夫です!
元気になりました(^'^)
[72] | 白石さんからのコメント(2018年03月23日 16時52分33秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんにちは
今日 改めて
木原の不動尊 六殿宮をみていました
二つは近くにあるようですが
六殿社の境内社[編集]
宿大神 - 子授け安産母性の守り神 ★安徳天皇生母 建礼門院徳子のこと
菅原神社 - 学問の神、菅原道真公
鉾神社 - 医療の神にして、疫病退散病気平癒 医療の神、疫病退散・病気平癒の御神徳のある八千矛神と少彦名大神を祀る鉾神社
中王宮 – ★創建初代より第3代までの大宮司を祀る 平江三郎為歳、平江判官為宗、平江左衛門尉為示 御祭神は、紀州宇田森から当社の神職となり、平氏の一族にして平江姓の始祖とされています。
代官宮 –★伊津野、佐藤姓の祖神を祀る 伊津野帯刀競 佐藤少監信明
大王宮 – ★創建の平重盛命、父平清盛命を祀る
ここだけみたら 思いっきり 平家かた ですね
しかし そればかりでは なさそうな・・・
重盛の母・高階章基の娘は清盛の先妻・高階氏は山口から出てきます。
山口と書くと すわっと なるのが 前の経験でわかっていますが
うちの山口が大根紋をつかうことから その先がわかると思います
氏族 醍醐源氏→高階氏 父母 父:源
家実、母:高階為家の娘 養父:高階為章 兄弟 基章、為忠 妻 况 子 高階為泰、平清盛室
★母方では紫式部が先祖となる
★高階基章の娘は今上天皇の直系祖先です
[73] | 白石さんからのコメント(2018年03月25日 09時11分17秒 ) | パスワード |
みやちゃん おはようございます
前にもふれたことの 堂々めぐりですが
★六殿神社は、治承2年(1178年)に、平重盛・武蔵の★六孫王権現を勧請したと伝えられ、守富荘を治めた★木原氏の氏神だと伝えられています。
祭神は
阿蘇大明神・・・初代神武天皇の孫の妻・阿蘇都媛命は、日子八井命(草部吉見神社祭神)の娘で、健磐竜命(阿蘇神社祭神)の妃でもあり、阿蘇神社の二宮に祀られています。
天照皇大神
系譜[編集]
『古事記』によると、初代神武天皇と、大物主神の娘の伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと、媛蹈鞴五十鈴媛命)との間に生まれた皇子である[1]。同書では、同母弟として神八井耳命、神沼河耳命(第2代綏靖天皇)の名を挙げる。
『日本書紀』に命の名は無く、『新撰姓氏録』右京皇別 茨田連条や『阿蘇氏系図』では、命を神八井耳命の子とする異説が掲載されている[1]。
後裔氏族[編集]
『古事記』では、日子八井命について茨田連・手島連らの祖とする[1]。
『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている[1]。
右京皇別 茨田連 – ★多朝臣同祖ho。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
山城国皇別 茨田連 - 茨田宿禰同祖。彦八井耳命の後。
摂津国皇別 豊島連 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。
摂津国皇別 松津首 – ★豊島連同祖。
河内国皇別 茨田宿禰 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。同条では、子に野現宿禰の名を挙げる。豊島氏は桓武平氏
河内国皇別 下家連 - 彦八井耳命の後。
河内国皇別 江首 - 彦八井耳命七世孫の★来目津彦命の後。
河内国皇別 尾張部 - 彦八井耳命の後。
埴安姫神・・・「日本書紀」では、★伊邪那美命は死の間際に土の神★埴山姫神と水の★神罔象女神を生んだとされている。
・・・★大国主(大物主)への系はおかみの神ですね
★近親婚
★多氏 来目津彦命は久米 イザナミはいざなぎのきょうだい神
[74] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月25日 10時17分16秒 ) | パスワード |
白石様 今日は(^'^)
お返事遅くなりましてすみません(..)
うむっうむむむ〜っ(p_-)
さすが白石様!
神様のお話は白石様からお伺いするのが
一番解りやすいです!!
最近ようやく少しずつ、理解出来るようになってきました(^O^)/
私の着目点は
もちろん
〉河内国皇別 江首 - 彦八井耳命七世孫の★来目津彦命の後。
もそうなのですが・・・
実はこちら
〉埴安姫神・・・「日本書紀」では、★伊邪那美命は死の間際に土の神★埴山姫神と水の★神罔象女神を生んだとされている。
ついに御登場されました!
水の神罔象女神
実は、今ブログで調べている事の中で、まだ、書いていない事の「鍵」である神様が
「罔象女神」様だったのです!
麻郡神社私考に記されている
中嶋興
中嶋大権現(中嶋霧島神社)に属する旧宮原村の雨引山王(神社)
黒原山の頂上より少し下方付近に御鎮座です。
麻郡神社私考では
雨引山王 宮原中峯山王山 とあり
社家傳云 垂跡神三所
雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト
と記されています。
※社家傳云 垂跡神三所
麻郡神社私考によると
雨引山王 宮殿が寛永九年(1632年)に落雷により火災に遭い
寛永十一年(1634年)に再興となりました。
再興をされたのは
相良清兵衛こと犬童頼兄です。
天和三年癸亥(1683年)宮殿改造
とも記されています。
中嶋大権現(中嶋神社)と雨引山王御祭神罔象女命
中嶋神社と言えば田道間守
御祭神 田道間守 とされる遠江国の神社
御祭神 罔象女命 とされう遠江国の神社
に関わっていらしたのは
井伊氏だったのですね・・・
実は気が付いていたのですが、詳しくはブログの方で書こうと思っていました。
系図がどうの・・とか、血縁がどうの・・とか、姻戚関係がどうの・・とか
等とは関係なく
私は「根本が同じ」ような気がします・・・
「根本が同じ」とは何か?・・言葉に言い表せないのですが・・・
とにかく「根本が同じ」と考えます・・・
白石様 今回も
私の頭の中がお見えになられるようですね\(◎o◎)/!
ビックリしました\(^o^)/
[75] | 白石さんからのコメント(2018年03月25日 18時31分50秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんは
また パソコンがいうことを聞かないので
挨拶は抜きにして書いています
次に 木原不動尊ですが
日本三大不動 木原不動尊|熊本 天台宗 雁回山 長寿寺
★木原不動尊は正式名称を「雁回山 長寿寺」と号し
ここから 天台宗 宇土 富合 の言葉がみられました
長寿寺は姉がよくいっていたことばです
六孫王とは
《父貞純親王が清和天皇の第6皇子であったところから》★源経基(みなもとのつねもと)の異称。『保元物語』によれば、父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘
★王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将
武家家電高梨氏では
応永七年(1400)、両勢力は★篠ノ井で武力衝突した。信濃の中世史に特記される「★大塔合戦」であり、北信を中心に東信の国人らが連合して守護長秀に総反撃を加えた事件であった。この事件の推進力となったのは村上満信と仁科氏を盟主とする大文字一揆であったが、高梨・井上・須田氏らもこれを支える強力な勢力であった。『大塔物語』によれば、大塔合戦における高梨薩摩守友尊の軍勢は村上勢と同じ五百余騎で、その軍事構成は嫡子樟原次郎・次男上条介四郎・江部山城・草間大蔵らであった。戦いは国人連合軍の勝利に終わり、敗れた長秀はすごすごと京都に戻り、ほどなく守護を解任された。
[76] | 白石さんからのコメント(2018年03月26日 17時10分27秒 ) | パスワード |
武家家電高梨氏では
応永七年(1400)、両勢力は★篠ノ井で武力衝突した。信濃の中世史に特記される「★大塔合戦」であり、北信を中心に東信の国人らが連合して守護長秀に総反撃を加えた事件であった。この事件の推進力となったのは村上満信と仁科氏を盟主とする大文字一揆であったが、高梨・井上・須田氏らもこれを支える強力な勢力であった。『大塔物語』によれば、大塔合戦における高梨薩摩守友尊の軍勢は村上勢と同じ五百余騎で、その軍事構成は嫡子樟原次郎・次男上条介四郎・江部山城・草間大蔵らであった。戦いは国人連合軍の勝利に終わり、敗れた長秀はすごすごと京都に戻り、ほどなく守護を解任された。
ウィキにみる井上氏では
南北朝時代の井上氏に関しては史料が残されていないが、観応の擾乱では諏訪氏らとともに足利直義に属した。応永7年(1400年)の大塔合戦では井上左馬助光頼が高梨氏や須田氏、島津氏、小柳氏、布野氏、中俣氏などと共に大文字一揆衆の一翼として、守護小笠原長秀を破ったが、後に室町幕府から派遣された代官細川慈忠によって井上氏ら国人の反乱は鎮圧されている
岡山に遊びに行ったとき
倉敷で井上について案内が出ていて
坂上一族 であるとしていた
ウィキの坂上氏は
坂上氏系図によれば坂上直姓の初代は★東漢氏の坂上直志拏[3]。東漢氏は後漢霊帝の後裔と称し、応神天皇の時代に百済から日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とすると伝わる。
ウィキの応神天皇は
井上光貞は、確実に実在が確かめられる最初の天皇としている[1]。一方、岡田英弘は越前出身の★継体天皇の祖先神であって、人間ではない、としている[2]。仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られる。★河内王朝の始祖と見なす説[3]、日本国外の史料との相対比較から、『★宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比定する説(ほかに仁徳天皇や履中天皇を比定する説もある)がある[4]。
043 驚愕の倭五玉宮 “九州王朝 「松野連系図」所載の夜 …
https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-11848232720.html
倭の五王讃から以前みやちゃんっから提示された系図を思い出し
以下の表題をみつけました
同じものではありませんが。
043 驚愕の倭五玉宮 “九州王朝 「松野連系図」所載の夜須評督の聖地か?” 20140301 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久 菊水町から発見された九州年号の新資料、仮称「納音菊水対照表」
★応神天皇は継体天皇の祖先神
継体天皇の系に 朱大王がいる
突然ですが 三浦の子孫と思われる
出口氏のブログがあります
祖先の妻方に毛利氏祖の大江氏女子がおります
小桜姫を訪ねて(2)【小桜姫の弁天像を拝す】 | 自然 …
[77] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月27日 09時10分29秒 ) | パスワード |
白石様、今日は(^'^)
白石様がお書きであった内容・・
「点」の数々のように感じました・・・
出発点はやはり古代の火国・・コマビトのような気がする・・・
今日は今から西都原古墳群に行ってきます(^O^)/
主人が菜の花と桜が綺麗だそうだ!って誘ってくれました(^'^)
家に帰ったらじっくりとコメントをあらためて読ませて頂きます(^O^)/
所で白石様
私、アルバイトを始めました(^'^)
平川家についての方で書いています。
アルバイトを始めた事で、自然の恵みの収穫だけではなく
重要なお話の「収穫」もありました(p_-)
やはり私は「何か」にお導き頂いているような気がしています・・
[78] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月27日 09時11分20秒 ) | パスワード |
追記(..)
家・・遠縁に「出口家」あります・・
不思議です(゜-゜)
[79] | 白石さんからのコメント(2018年03月27日 19時53分11秒 ) | パスワード |
みやちゃん 今日は暑かったです
大阪天王寺区の一心寺に行ってきました
7000歩位歩いてきました
一心寺のジャカランダ | 高岳院
一心寺は大阪市天王寺区にあるお寺で、正式な名称は『坂松山高岳院一心寺』 『ジャカランダ』とは、『フランボヤン』・『スパトデア』とともに、世界3大花木の一つ オーストラリアのグラフトンという町では7,000本のジャカランダが街路樹 開花..
高岳院
〒461-0001 愛知県名古屋市東区泉2n21−17
夫の方のお寺でのうまんじ ということばを聞いたことがあります
この場合 岡山の寺ですが このブログのところは 名古屋です
ブログを読むと
この伯母様という地名は、この高岳院に関係しています。
三ノ宮は、その昔、相模国司「布施氏」の領地でした。
その布施氏の伯母様が住んでいた所にあったのが、高岳院です。
ウィキの一心寺
1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった★慈円の要請によって、★法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に★「源空庵」と称して住んだという。
「酒封じの神」でもあります
布施氏とは
【桓武平氏良将流】で★相馬氏をとおる
平高望の三男、良将に始まり、子息将門は乱を起こすが、従兄弟の貞盛や藤原秀郷に討ち取られる。
師国の代で本系は途絶えて、事実上は千葉氏族に吸収されるが、貞元の系は九州に、その他の系も子孫が全国に多く存在する。 師常の末裔は、陸奥中村藩主6万石で明治に至る。
麻生太郎 近現代・系図ワールド〜吉田茂・麻生太賀吉
で ブログを開くと 美智子皇后母正田富美子氏の副島氏の
つながりがわかる
平 良将(たいら の よしまさ、-良將)は、平安時代中期の武将。「良持」(よしもち)とする記録もある(後述)。平高望の三男(あるいは四男)で、母は正室の北家藤原良方の娘。平将門の父。下総国を本拠とし、桓武平氏の中心人物。武家平氏の実質的な祖の一人とされる。
平将門や平良文の兄弟
[80] | 白石さんからのコメント(2018年03月31日 18時44分55秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんわ
川辺に朝倉という家がありました
一般的には 朝倉氏は 開花天皇または 孝徳天皇の
しそんといわれます
源平の頃より 前の時代になります
川辺の朝倉家は 尾方のおじは
しっていました
私は 知りませんでした
しかし 川辺に 天理教の教会があり
開花天皇の子孫といわれる朝倉家がある
球磨に 早い時期に 人が入り込んで
いたことに つながるかもしれない
もっと おそい 時期にきたのかも・・・
朝倉という氏は
越前一乗谷で 滅びましたが
テレビで 白い犬が活躍していて
一乗谷など いっています
そして
この犬は 相馬と関係があると
前に週刊誌で 見たことがあります
福岡の朝倉は
神武天皇姉とされる人をまつる神社があり
大川 八女 大川家具などは
儲けを 真田の地に
送っていると
[81] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月02日 10時12分51秒 ) | パスワード |
白石様 今日は(^'^)
アルバイトをしているので、中々パソコンに向かう時間が取れずに
お返事遅くなりました。
申し訳ありません<m(__)m>
平 良将。
母は正室の北家藤原良方の娘。
そうでしたね・・・
母系は百済永継に繋がる・・百済か・・
先日、西都原古墳群に行くつもりが・・・
国道ががけ崩れの為に通行止めとなっていて(@_@。
迂回路に向かったら・・先祖所縁の地、矢立を通る道で・・・
矢立の標識を見たら、美郷町(百済の里)に繋がっていました。
予定変更で、結局「上椎葉」に行ってきました。(^'^)
矢立と鶴富屋敷のある「上椎葉」までは、山を登ったり下ったりの道でしたが
車で30分程で行けました(^'^)
水上村の湯山からは1時間程で上椎葉でした(^'^)
標高1000メートル程を登ったり下ったりでしたが・・思った以上に近かったです。
(でも、歩くとなると・・・(@_@;)・・・ただ・・馬なら近いかも(p_-) )
ここでも「収穫」がありました(p_-)
詳しくは「平川家について」の方で書きますね(p_-)
河辺の朝倉氏ですか・・
そうか・・
地元の姓・・・
家の集落には「橘」さんではなく(ー_ー)!!
「立花」さんはいらっしゃいますよ(p_-)
そう言えば・・私、深く考えた事が無かったですね(゜-゜)
何故?ここに「立花」さんが・・???? あれっ??
うううぅん・・・「ネットワーク?」かな・・???
今日は、お休みなので、家事を頑張ります(^'^)
[82] | 白石さんからのコメント(2018年04月02日 17時05分49秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんにちわ
橘氏 立花氏
大友氏で 前にでましたよね
そのとき
佐原氏も でたような・・・
大友氏 古庄
古庄先生は 免田九鹿におられました
中原氏子孫が一般に 大友氏へと・・・
中原氏 中原という地名が
免田にありましたよね
臼太鼓踊りがあります
[83] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月02日 18時36分23秒 ) | パスワード |
白石様、今日は(^'^)
立花氏は大友氏族「戸次氏」の系ですよね・・・
そう言えば・・戸次氏族にも平川氏がありました。
そうです!佐原氏に繋がっていました!
佐原氏から嫁いで来られていました!
そして・・その系の方が、三池道智に繋がり・・
三池道智と「後家尼如円」の娘の方が「尼しんねん」島津忠宗の妻です。
尼しんねんと島津忠宗の娘が阿久里御前
「尼しんねん」の譲り状では
肥後国久米郷、百五十一町の内二十町は 六郎殿(三池貞家)に譲られ残り百三十一町が阿久里御前へ。
さらに、文保2(1318)年3月15日『島津忠宗譲状』で島津忠宗が子の島津貞久に譲り渡した土地の中には
※豊前国副田庄 副田三郎次郎種信跡 があります。
肥後国久米郷も豊前国副田庄の橘公業が西園寺公経と替地をして得た領地でした。
三池氏は中原氏族。
六郎殿(三池貞家)が領主となった場所が旧球磨郡久米郷の上村(永里周辺)でした。
でっ!平河氏系図にも同時期に「貞家」と言う名の方が記されていました。
以前は、ここで「何でだろう?」で終わっていたのですが・・・
そうでした!そうでしたね!
久米郷の二十町は、三池貞家から子の「三池親元」に譲られて、南北朝時代に
「三池親元」は球磨の南朝方として「橘入道 道公」と共に活躍しました。
あれっ?やっぱりおかしいぞっ(p_-)
さらに、尼しんねんと島津忠宗の娘でいらっしゃる「阿久里御前」
「阿久里御前」が譲られた百三十一町が旧久米郷の「どこ」だったのか
未だ解明されていないのですよ(p_-)
様々な研究者の方が調べていらっしゃるようです(p_-)
だから、「尼しんねん」の譲り状は「多良木町誌」であったり「湯前町誌」であったり
「奥野城」の研究資料等でもクローズアップされています(p_-)
「奥野城」
あっ!ここで、家の近くに繋がります!
私、気が付いていたのでした!(でも、コメント書いていません(..) )
熊本県文化財調査報告 「奥野城跡」
※専門調査員 石井進氏(東京大学教授) 工藤敬一氏(熊本大学教授)
大三輪龍彦氏(鶴見女子大学教授) 阿蘇品保夫氏(熊本県立美術館主幹) 服部英雄氏(文化庁調査官)
この熊本県文化財調査報告 「奥野城跡」に家の集落のすぐ近くに御鎮座の「白木妙見神社」に関する記載がありまして
その中に「中原氏」・「三池氏」との関連が書かれていました。
熊本県文化財調査報告 「奥野城跡」
「奥野笛木城」と奥野氏の消息 より
室町時代 元禄十二年( 一六九九) の『麻郡神社私考』によれば文安元年( 一四四四) に「仲原氏大隅(守) 親吉祈願卜シテ代官周防介藤原親景、奥野笛木城妙見山白木妙見再興」と見える。
願主と考えられる仲原大隅守親吉については、さまざまな見方ができるが奥野村地頭の可能性もある。
仲原姓はもともと久米郷西方地頭であった三池兵庫助親元・妻女も中原姓で、「親」を通字としていることから、三池一族とも考えられる。
事実とすれば鎌倉時代から室町時代の初期まで、三池氏は奥野村について何らかの支配権を有したことになる。
とありました!
私、すご〜く重要な事をスルーしていたのかもしれません・・・
旧奥野村は私の住む集落「宮麓」のすぐお隣。
記載のあった「白木妙見神社」は、私、子供の頃、勘違いしていて「宮麓」内だと思っていました・・・
(それ程近いのです)
「白木妙見神社」の宮司家は代々「椎葉家」です。
家の宮原家のすぐ近くにあった「稲積妙見」(稲積妙見神社)の社人であった
椎葉久左衛門と言う方が奥野村「白木妙見神社」の社人でもありました。
(『麻郡神社私考』より)
ありゃりゃりゃりゃ〜・・ネットワークありましたねぇ(p_-)
※「仲原氏大隅(守) 親吉祈願卜シテ代官周防介藤原親景、奥野笛木城妙見山白木妙見再興」
※願主と考えられる仲原大隅守親吉については、さまざまな見方ができるが奥野村地頭の可能性もある。
※仲原姓はもともと久米郷西方地頭であった三池兵庫助親元・妻女も中原姓で、「親」を通字としていることから、三池一族とも考えられる。
※事実とすれば鎌倉時代から室町時代の初期まで、三池氏は奥野村について何らかの支配権を有したことになる。
熊本県文化財調査報告 「奥野城跡」でも、何度も触れられていたのですが
元々・・奥野村は・・橘公業が西園寺公経と替地した、橘一族の所領地ですよ(p_-)
やっぱり、何だか「おかしいぞぉ〜」(p_-)
でっ? 何故家の集落には「立花氏」がいらっしゃるのだろう(?_?)
立花氏と三池氏・・・
白石様、御教示ありがとうございました\(^o^)/
あぶなくスルーしそうになっていた事が非常に重要な事だった!と
気が付きました。
本当にありがとうございました<m(__)m>
[84] | 白石さんからのコメント(2018年04月05日 21時30分57秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんは
すごい ですね
さすが みやちゃん ぱあーっと でてきますね
コメントを 読みながら
久米郷 など わからないなあ とは 思いますが
私 前に 佐田が 熊本にゆかりしているようだ
と 書き 高岡が 山口の方に ゆかりしていたのでは
と 書きました
親から しきりに 徳山 などの 言葉を聞き
えんや きしちょうせん の 言葉を聞きました
あとで もう少し 詳しく書きますが
ここまで 書くのに 何回もとんでいって しまいましたので
とりあえず これで アップします
[85] | 白石さんからのコメント(2018年04月07日 17時54分05秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんわ
桜はまだ 満開のところもありますが
家の近所は もう すっかり 散ってしまい
葉桜になりました
ウィキより
★平賀氏(ひらがし)は、日本の氏族。
信濃国を本領とした清和源氏義光流の一族は信濃平賀氏
安芸国南部を本領とした藤姓良房流の一族は安芸平賀氏
うちの 白石は 橘紋を使い
人吉永国寺の流れの お寺によっています
永国寺は 相良氏家中で さいごうさん が
西南の役で 陣にしたところです
[86] | 白石さんからのコメント(2018年04月07日 18時48分41秒 ) | パスワード |
木原六殿王にまつられているのは 六孫王
六孫王は 経基王
★基経は、藤原氏。道長の祖父の祖父。
最初の関白である。
★源氏は経基。源は通り名で、経基王が正しい。
長男が滿仲で、多田にいたので、多田滿仲。
武田氏の一族
★新羅三郎義光の子盛義が佐久郡平賀邑を有したことに始まり、子の平賀義信の代に、源氏御門葉として、また御家人筆頭として隆盛を誇った。
★鎌倉2代将軍頼家以降では京都守護として活躍し、幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任され、
★後鳥羽上皇の近臣となり、★大内冠者と呼ばれた。
★惟義の弟朝雅
惟義の弟朝雅は、父義信に次いで武蔵守となり、★北条時政の娘(牧の方所生)を妻とした
★「楠木合戦注文」に元弘3年(1333年)の元弘の変の楠木正成を討伐する幕府軍に動員された新田義貞の指揮する軍中に「新田一族、里見一族、豊島一族、★平賀武蔵二郎跡、飽間一族、薗田淡路入道跡」とあって、武蔵守に補任された平賀義信、平賀朝雅の子孫が鎌倉御家人として存続したことがわかる。
★ここから 新田新貞弟 脇屋儀助がでて
彼は 佐田である。
↓
うちの 佐田は 山口県
山口県には 大内氏 毛利氏が
関与している
母がなぜ 熊本の白石に嫁いだか?
[87] | 白石さんからのコメント(2018年04月07日 22時03分16秒 ) | パスワード |
「毛利元就」と言えば吉田郡山城ですし、
毛利氏といえば萩城のイメージですね。
※萩は うちの高岡は 四浦萩にいました。
母方の佐田は毛利様から院号をいただいたと
いっていました。
佐田の墓があるお寺の檀家筆頭です。
広島城なら、福島正則
幕末の長州のお殿様が毛利元就の毛利家
上のような 事を書いているブログがありました
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
ネットより
武蔵七党の片山氏館跡の推定地でもある法台寺…
源頼朝存命中にこの地に館=清浄殿が建てられました(実朝の命とも云われています)。
※何やら久米郷に言葉がつながるような
久米御前は千葉常胤の娘で実朝の側室。…
文永3年(1266)宗尊親王の命により久米御前の菩提を弔うために清浄殿を寺院としたのがこの法台寺の始まりです(当時は廣澤院寶臺寺)。
法臺寺縁起
法台寺は、阿弥陀三尊(*1)をご本尊とする★一遍上人(*2)開祖、二祖他阿上人(*3)開山、そして観智国師(*4)を中興開山の祖と仰ぐ古刹である。
*4 観智国師
白幡の流儀を研鑽し武州上蓑長伝寺を開き、師存貞と共に貝塚の称名院に移った。
貝塚の称名院では★徳川家康と師壇の関係を結び、称名院を★増上寺と改め、芝の地に移し家康の菩提所とした。
*5 久米御前
久米御前は★千葉常胤の娘として生まれ、源実朝の側室である。その後、尼僧となった久米御前は、鎌倉から離れたこの廣澤の清浄殿を隠れ家とし、隠遁生活を送った。
久米御前に従っていたお附きや家来、鎌倉武士も同時にこの地に土着した。当寺ではこれら一族の菩提を連綿とお
守りしている。当寺の檀家には、並木、貫井、★本多、大塚、★田中等の姓名を持つものが多いが、それらは当時、苗字を持つことを許された家来、武士から連なる家系であることを示している。
※尼しんねんと島津忠宗の娘が阿久里御前
※相馬氏惣領 相馬胤綱 - 千葉氏の一族
chibasi.net/soryo12.htm では
下総国相馬御厨安孫子村(我孫子市我孫子)
尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→あくり御前
[88] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月08日 06時42分26秒 ) | パスワード |
白石様、おはようございます(^'^)
中々、忙しくてパソコンに向かう事が数日出来ていませんでした。
お返事遅くなりまして、申し訳ございません。
(今朝も8時からバイトです。今はスナップエンドウの出荷最盛期です)
沢山の御教示ありがとうございます。
★平賀武蔵二郎跡
源姓「平賀氏」の「平賀武蔵二郎」と言う方は楠木氏と敵対していたのですね・・・
むむむっ(p_-)
相馬氏惣領 相馬胤綱 - 千葉氏の一族
http://chibasi.net/soryo12.htm
私も以前拝見させて頂いていました(p_-)
〉尼妙智(胤綱三女)→島津忠宗→あくり御前
相馬氏初代 相馬師常 父は千葉常胤
相馬師常の姉妹に「久米御前」。
さらに相馬師常の孫となられる方が「相馬胤綱」
三女の尼妙智が島津忠宗の母で、島津忠宗の妻が「三池道智」の娘「尼しんねん」
島津忠宗と尼しんねんの娘となられる「あくり御前」が
球磨郡久米郷百三十一町を譲られた・・・
その「球磨郡久米郷」は元々1220年代に橘公業と西園寺公経が替地をした土地である・・
家の親戚には、球磨郡では非常に少ない「千葉家」があり・・
さらに、「千葉家」の近くには、同じく家の親戚の「畠山家」がある・・・
「畠山氏」も「千葉氏」と同じく、球磨では非常に少ない姓です。
(球磨に少ない姓と言えば・・家の親戚には久我家もあります・・)
偶然かなぁ・・?と以前から不思議だったのですが・・・
今朝、白石様の御教示を拝見して、あらためて「相馬氏」についてウィキで勉強したのですが・・・
あの・・ビックリしました!
島津忠宗の母「相馬胤綱」三女の尼妙智。
「相馬胤綱」の父「相馬義胤 (相馬氏二代当主)」のウィキの記述です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%83%A4_ (%E4%BA%8C%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
相馬 義胤(そうま よしたね、生没年不詳)は鎌倉時代の武将。千葉氏の庶流相馬氏二代当主。父は相馬師常。鎌倉幕府御家人。五郎。兵衛。別名に能胤(読み同じ。
尚、「義」の字は鎌倉幕府の執権・北条義時から偏諱を賜ったものと思われる)。子に胤綱(たねつな)、女子(岩松氏祖・岩松時兼妻)(異説あり)。
建仁元年(1201年)、父の師常が隠居したために家督を継ぐ。元久元年(1204年)、畠山重忠の乱が起こると、重忠と縁戚関係(義胤の祖母は重忠の叔母)であったにもかかわらず、北条義時に与して重忠を討った。この功により、陸奥国の一部(高城保)を地頭職として任されている。
承久3年(1221年)、承久の乱が起こると子の胤綱と共に(孫の相馬胤継(たねつぐ)もいたとも)幕府軍として参陣して、宇治川の戦いや近江瀬田橋の戦いで活躍して、軍功を挙げた。
その後も御家人として幕府に忠実に仕え、越後、大和にも所領を得ていた。
★「相馬胤綱」の父「相馬義胤」、祖母は畠山重忠の叔母。
現代から見ると、上記の「内容」と球磨郡久米郷とは無関係のように見えますが
この「内容」はあくまでも「鎌倉時代」の事であり
島津忠宗(母は相馬胤綱の三女)と尼しんねん(三池道智※中原氏)の娘となられる「あくり御前」が
球磨郡久米郷百三十一町を譲られたのは「鎌倉時代」の話であり・・
「鎌倉時代」に球磨郡久米郷の半分の地頭職を得ていたのは宮原の一族の先祖
「橘公業」であり、「橘公員」である。
家の宮原家の親戚には現代でも「千葉家」と「畠山家」がある・・・
これって、やっぱり「偶然」とは到底思えないのですけれど・・・
ちなみに(p_-)
親戚の「千葉家」と「畠山家」がある場所は
旧宮原村熊野。
熊野地区は、私の住む「宮麓地区」のすぐお隣(黒原山から見ると宮麓の下方になります)
さらに、「熊野地区」は「宮麓地区」と同様に旧久米郷奥野村と隣接しています。
江戸時代は旧宮原村内の小村「熊野村」でした。
家の親戚「千葉家」と「畠山家」がある場所は、
この旧宮原村内の小村「熊野村」にある小字「惣領」です。
この小字「惣領」には「千葉家」と「畠山家」以外に、家の親戚の「宮原家」もあります。
何だか怪しいぞ(p_-)
この小字「惣領」、他にも家の親戚がありますよぉ(p_-)
今朝、冷静に分析?してみたら
やはり、すごく重要な事のように思えてきました。
もしかしたら・・
島津忠宗(母は相馬胤綱の三女)と尼しんねん(三池道智※中原氏)の娘となられる「阿久里御前(あくり御前)」が譲られた
球磨郡久米郷百三十一町とは・・
旧久米郷宮原村内の小村「熊野村」と旧久米郷奥野村・・
この辺りではなかったのでは?・・むむむ〜っ(p_-)
(奥野村には中原氏の名が残る白木妙見神社が御鎮座)
ずっと妙だな(p_-) と思っていたのです。
旧宮原村の橘氏の本拠地、居城地は、宮麓地区にあった「宮原城」。
なのに・・何故?旧宮原村内小村「熊野村」には小字「惣領」があるのかな?・・と(p_-)
何だか私・・
白石様のお陰で、一つの謎を解く「鍵」を見つけたのでは
あ〜りませんかぁ〜(p_-)
白石様、御教示ありがとうございました。
以前よりは少しだけ進化?した「ミヤハラ」の推理が一気に加速致しました(^O^)/
では、バイト行ってまいりま〜す(^'^)
現在の久米郷の土地と触れ合って参ります(^O^)/
[89] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月08日 07時04分56秒 ) | パスワード |
追記(..)
白木妙見神社
そう言えば・・千葉氏と妙見信仰はとても深い関わりがあるのですよね・・
うううううぅん・・歴史を調べるのは面白〜い\(^o^)/
ずっとパソコンとにらめっこしていたくなります(^'^)
さらに(p_-)
親戚の「千葉家」と「畠山家」には私の曾祖父の姪、すなわち祖父の従姉が嫁いでいます。
つまり、久保田氏(上相良氏)繋がりです(p_-)
と・・言う事は・・(p_-)
球磨郡久米郷内の家の親戚関係から推測すると・・
久保田氏、つまり「上相良氏(多良木氏)」と「橘氏」と「千葉氏」と「畠山氏」と「三池氏(中原氏)」と「島津氏」・・
繋がっていたんじゃあ〜りませんかぁ〜(p_-)
おんやっ(?_?)
御先祖様から「このおっちょこちょいガッ!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と叱られた気がする・・
(@_@;)・・・( ^)o(^ )
ずっと調べていたいのですが・・そうはいきません(ー_ー)!!
スナップエンドウが私を呼んでいる・・!
そろそろ、新しいスレッドを立ち上げます(^'^)
(明日になるかな・・お待ち下さい(..))
では、スナップエンドウのもとへ行ってまいりまぁ〜す(^O^)/
[90] | 白石さんからのコメント(2018年04月08日 19時12分33秒 ) | パスワード |
みやちゃん お仕事お疲れ様です
橘紋 〜家紋からルーツを探す 第7回 | 家系図と御先祖様 …
https://ameblo.jp/keizu-roots/entry-11420422617.html
というブログに 橘紋は 日蓮宗の紋とありました
私 うかつにしていて
川辺に橘紋の教会があり
天理教の教会だと書きました
ブログでは 井伊氏の祖先も書いてあり
しかし それは 拾われた赤子であったと
しています
橘紋を使う うちのグル−プ
しかし 宗派は違う
何だろうと 思います。
[91] | 白石さんからのコメント(2018年04月08日 19時30分25秒 ) | パスワード |
井伊家の家系のルーツは?家紋や子孫についても解説! | …
井伊直虎.xyz/iike-roots
井伊共保は元々は捨て子だと言われているのですが、遠江の国司を務めていた三国共資という人物の養子になり、その家督を継いだとされています。
南北朝時代 遠江の豪族として名を馳せていた井伊家は
南朝に味方し、その後南朝の衰退と共に北朝方の今川氏の家臣となります。
to伊直平は娘を今川義元に妾として差し出し
一方の今川義元は、この娘を妾ではなく妹として迎え、家臣に嫁がせます。
実はその直平の娘と家臣の間に生まれた子が、★徳川家康の後の正室となる築山殿なんですね。
と あります
相良氏は 遠江からきていて
井伊氏も遠江にいて南朝に味方し
のち 今川氏により
徳川家康にも よっている
と 考えられる
前にテレビで見た 家康が
ぽくぽくぽくぽく なんまんだぶ と
やっていたのは なんだったのか と
[92] | 白石さんからのコメント(2018年04月09日 18時08分30秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんわ
今日も お疲れ様です
浅田真央ちゃんの 画像がでていて
あれっと思って みました。
真央ちゃんの御耳と 日蓮上人の御耳と似ているのですね
私のとは ちがいます
みやちゃんのもんちっちの御耳のような
人を みかけました
やはり あきらかに ほかの人とは
ちがうなあと 思いました
でも 全国に 私に似た人はいるはずと
思います
もちろん ご先祖様も必ずいるはずで・・・
ブログを よませて いただきました
こんごも 楽しみに 拝見させて
いただきます
[93] | ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月10日 09時35分04秒 ) | パスワード |
白石様、今日は(^'^)
コメントを多数頂き、ありがとうございました。
お返事が遅くなりまして申し訳ありません。
新しいスレッド「松葉宗益 後裔 平賀氏について4」を立ち上げました。
白石様、皆様
今後ともよろしくお願い申し上げます。
こちらは「松葉宗益 後裔 平賀氏について4」へ続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101630.html
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