[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月19日 14時51分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「真田丸」、とうとう終わってしまいました。史実に忠実に描くか人間
ドラマとしてロマンを描くか……台本として難しい選択のエンディングだ
っと思いました――
取り急ぎ、新しいスレッドにつき、お礼を申し上げます――
[2] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月19日 23時43分00秒 ) | パスワード |
空野青海のあを様
「真田丸」で一番印象に残ったのは、「千成瓢箪」旗印ならぬ馬印を
掲げて大阪城へ引き上げた太野治長隊であります。これで戦いの潮目が
変わった。つまり、豊臣方の士気が落ちてしまったということでありま
す……敗北の元凶。
最後は、母の大蔵卿局と共に、大阪城で淀殿・秀頼親子に殉じて自害
したということであります。
なんとも言い難し――
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月20日 02時30分32秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>史実に忠実に描くか人間ドラマとしてロマンを描くか……台本として難しい選択のエンディングだっと思いました――
三谷幸喜が言うには
「これまでの歴史ものの描き方ではなく、「「信繁」」が実際に見たり聞いたり経験したりしたことを描く式」
ということなので超高速関ケ原だったり大坂方の自害シーン無しだったりでした。
なのでお約束のシーンが無かったというのは物足りなかったですね。
秀頼の父はいろいろ噂がありますね。
大野治長はその容疑者の1人。
淀殿と生年が同じなので淀殿と治長は乳を分け合った仲だったのですから
かなりアヤシイですね。
男同士の乳兄弟はそれこそ命を共にした関係でしたから
男女の乳兄妹だったら恋愛関係があったでしょうね。
秀頼の不甲斐無さとか治長の考えの足り無さとかを思うと、やっぱりこの2人は父子なのかなと。
実戦経験が無かった、ということですが
それだけ大坂方には人材がいなかったのですね。
やっぱり大蔵卿局の考えたように大坂城を出て四国一国を貰った方が良かったのかも。
最近、大蔵卿局の考えが分かるようになってしまいました。
歳のせいかワタシも守りに入ってるな。
[4] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月20日 15時39分07秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
A.AKECHI様
大阪夏の陣で、「水野勝成」は「大和口先鋒第一軍」に任じられた。
第二軍が「本多忠政」、第三軍「松平忠明」、第四軍「伊達政宗」、
第五軍「松平忠輝」であった。四月二十七日に奈良に入る。
水野隊は、五月五日、鉄砲隊をもって「後藤又兵衛」を討ち取った。
その後、五月七日に新編成が行われ、勝成は「天王寺口第十二軍中」
に編入され直された。これは、家康の考えであり、自分の本営を信頼の
おける勝成に警護させようとしたものであった。
おもしろいことは、あの「宮本武蔵」が勝成の息子の勝重の下に加わ
っていたということです――
[5] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月21日 10時20分26秒 ) | パスワード |
空野青海のあを様
「大阪夏の陣(1615年)」で亡くなった服部党には、次の人達がいます――
@服部政光(政季):4月26日(夏の陣の始まった日)、京都にて死す。
A服部中保光(保正の長男):5月7日、天王寺口にて討死。
B服部中保正:天王寺口で戦うも、翌年11月20日死す(たぶん受けた
傷が原因ではないだろうか)。
C服部正就:松平忠輝麾下で、5月7日の天王寺口において死す(生き延
びたという説もあり)。
その他にも、出陣した服部党の人間は、多々いるようです――
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月21日 11時23分14秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>B服部中保正:天王寺口で戦うも、翌年11月20日死す(たぶん受けた傷が原因ではないだろうか)。
よくお調べになりました。
>その他にも、出陣した服部党の人間は、多々いるようです――
でしょうね。
旗本の身分なら寛政重修諸家譜に記録されましたが、
そうでなかったら名は記録されてないですから。
名の無い一族の者も大勢行ってるはずですから、もっと多くの一族の者が亡くなっているのでしょうね。
思わず手を合わせました。
[7] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月23日 00時26分54秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「大阪夏の陣」からまた戻ります――
鵺退治の源頼政の玄孫源宗重が下妻を名乗り、やがて「下間(しもつま)」
になったという。下間氏は一向一揆の忠心氏族でありました。
つまり、源氏の英雄頼政の子孫が一向一揆の中核にいたということと、
本多正信の一向一揆加担、それらと明智光秀との関係がどうであったかを
探求したいと考えております――
本多正信の家紋は「立ち葵」……賀茂氏の血を引いているように思われ
ますが、どうなんでしょうか?
[8] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月23日 22時22分28秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
どうも本多家は賀茂神社の神官の家柄であったようであります。
また、徳川(松平)家も賀茂氏(賀茂朝臣)とからむようであります。
そして、明智光秀はと申しますと、正室の妻木煕子の家系が、実は勘解由
(かでの)家であり、父の名は正式には「妻木勘解由賀茂朝臣由左右衛門範煕」
といい、賀茂朝臣――即ち賀茂氏の流れを汲んでいるようであります。
このことから窺えることは、「賀茂氏」という共通のコンセプトやシンパ
シィが三者の間には流れていた(同族意識)。また、賀茂氏の情報ネットワー
クを活用できたのではないかと推察されます――
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月23日 22時50分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
松平氏が葵紋を乗っ取ったようなハナシを読んだことがありますが
錯綜してますね。
源姓じゃなかったの?と。笑
[10] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月24日 09時12分07秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日はクリスマスイブでありますが、不幸にも我が兄の四十九となって
しまいました……でも逆にみんなから祝福される日と考えれば、それもい
いかなと思っております……。
このところ、布団の中で眠くなるまで小説を読んでみました。岡田秀文
の『本能寺六夜物語』という本ですが、第一夜から第六夜まで、話し手が
変わって話をいたします。
第一夜 信長の最期についての話
第二夜 神君伊賀越え時の穴山信君に関する話
第三夜 織田信長の馬廻り役の忠義の話
第四話 キリシタンのロザリオというものの邪教の話
第五話 森蘭丸の話
第六話 明智光秀の話
いずれも、本能寺の変にまつわる話でありまして、吸い込まれるように
読み入ってしまいます……。色々な仮説としても大変おもしろいです。
第五話を読みかかっていますが、本日中には第六話も読んでしまうつも
りです――
それにしても、光秀という人、色々人脈も広く、謎も多いです――
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 10時52分57秒 ) | パスワード |
秀吉の 『天正十五年六月十八日付覚』 原文
伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。
右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、
天正十五年六月十八日 朱印
— 天正十五年六月十八日付覚
(大意)
1.(自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
2.(大名が)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。
3.大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
4.(知行地が)200町、3000貫以上の大名は、キリスト教徒になるには、朝廷や幕府に報告をし、その思し召しの通りにできることとする。
5.知行地がこれより少ない者は、八宗九宗[注 1]などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
6.キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、一向宗はその国郡を寺領(寺内町)を置いて大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国を全てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりかさせ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。
7.本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
8.国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
9.(大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。
10.中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。
11.ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。
ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。
以上 天正15年(1587年)6月18日
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 11時04分35秒 ) | パスワード |
キリシタンというかカトリックというか
世界中で悪いことをやっているのです。
とはいえ、人間はキリスト教関係なく、悪いことをやってますが。
だから日本のキリシタン禁教というのはある意味で日本を救っているわけです。
もし日本がキリシタンに乗っ取られていたら
日本は南米やフィリピンのような国になっていたでしょう。
また江戸時代の代官でも村の人口調査の宗門記録にキリシタンはゼロとすれば良いわけで
キリシタンが信仰を押し立てず静かに信仰しているなら良しとして片目つぶっていたし。
日本人はカシコイ選択をして来たと思います。
名古屋は一向一揆で見目麗しい乙女達は南蛮に売り飛ばされたとかで
今でも名古屋にはブスしかいない、とか。
だからこそ今でも日本ではキリスト教徒が少ないのかも。
[13] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年12月24日 13時20分22秒 ) | パスワード |
あを様
この当時、喉から手が出るほど欲しいのは、硝石だったと思います。
直接に軍事力の強化になりますから、輸入したかったのです。
幸か不幸か、本願寺教団も硝石の製造に成功してるのが、面白いですね。
火薬自体は、元寇の時に経験してますから、留学僧の方?が
中国から学んできたのかな。
>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E5%B1%B1
今の五箇山は合掌造りで有名な観光地ですね。
>http://bigai.world.coocan.jp/msand/miwa/kayaenosita.html
故三輪先生のHPより 硝石生成の解説
(多分)ご家族の方が維持してくださっています、感謝しています。
無理して輸入する必要がなくなり、鎖国を行えた。と考えます。
釈覚浄
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 14時03分18秒 ) | パスワード |
箱柳さん
硝石は「便所は臭いが役に立つ」なんちゃって。
硝酸カリウム(KNO3)
床下や専用の製造小屋の中で、土・草の混合物や糞尿を腐食させて、水溶液を煮詰めて結晶を取り出す
実はワタクシの先祖嫁の実家の中に大筒奉行だった者がいまして
こんなことやってたんでしょうかねぇ。
[15] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年12月24日 15時01分44秒 ) | パスワード |
あを様
奉行の方なら、硝石、硫黄、木炭の粉砕と調合・管理でしょうね。
実働は配下でしょう。
たぶん、70−15−15位かな。鉄粉を混ぜると手筒花火に
木炭を油煙(水を入れた鍋の下で松を燃やす)に変えると線香花火に、
と、三河や親藩譜代の領民にしか許されなかった、デモンストレーション、
軍事訓練(火薬取り扱い)を兼ねた、娯楽ですね。
>今でも名古屋にはブスしかいない、とか。
家康が皆連れて行ったから、ロクなのが、、、の三河(岡崎)よりは
よいでしょう。 悔しいが、言い返せない、、、私がいるのよ。
[16] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月24日 19時47分17秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
箱柳永田様
五箇山の硝石作り、小便のアンモニアからよくも考え出したものですね。
忍術とは科学の最前線であったということ……終局的には鉄砲隊という形
になった。やはり飛び道具にはかなわない……。
本日はクリスマスイブ……あを様、箱柳様のトークで楽しませていただ
いております……。
テレビでは、ドリス・ディの特集をやっておりまして、私は良きアメリ
カの黄金時代にしびれております……。
[17] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月24日 20時26分22秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
箱柳永田様はわたくしにとって、この善地において、なぜ服部家と永井
家が一心同体のようにくらしているか……その原点を示唆してくれる源泉
の存在であります。この善地において、服部は皆丸に三つ柏、永井は半分
が丸に三つ柏、半分が一文字三星紋であります。長上郡の服部氏に名族あ
り……の謎はすでに追及をあきらめましたが、これを言った太田氏か……
根拠を言ってくれたらよかったのにと思います。この地域に服部氏の名族
は思い当たりません。
現在ピンキーがジャズを歌っております。私は熱い焼酎におぼれそうな
自分に、客観的な視点から天使が「そのへんにしときなさいよ」という声
を聞きながら……メリークリスマス!
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 22時54分58秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
こちらは24日の午前4時少し前です。
今年はクリスマスが日曜日なので調子が狂います。
木曜か金曜なら都合が良いのに。
そろそろ暮れの大掃除をしなくてはね。
>長上郡の服部氏に名族あり……の謎はすでに追及をあきらめましたが、
>これを言った太田氏か……
>根拠を言ってくれたらよかったのにと思います。
まだまだ5名家の謎に到達していないのですよ。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 01時49分52秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>長上郡の服部氏に名族あり……の謎はすでに追及をあきらめましたが、これを言った太田氏か……
内山真竜じゃなかったですか?
調べてきます。
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 01時52分54秒 ) | パスワード |
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765205
調べ中
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 02時17分29秒 ) | パスワード |
全然どこに書かれていたか見つからなくて
途中 こんなのに出来ワシました。笑
「中安氏」です。
既出でしたっけ?
すっかり忘れているので書き留めておきます。
中安氏は浜松の名家だったんですねぇ。
もとは堀江城の堀江さんだったんですねぇ。
http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100010?hid=ht010410&word= 遠江国風土記伝
浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
浜松市史 一 中世編 第五章 戦国時代 第二節 戦国大名の基盤 遠江の有力な土豪
中安氏 権太氏
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もう1つ
【堀江城】中安氏 『大沢家略譜』によると、大沢基胤の族に中安兵部少輔安定がある。安定は家康の進駐にあたり、堀江城に入り抗戦した(『譜牒余録後編』)。大沢・堀江・中安三氏については大貫繁男氏『庄内郷土史湖城の系譜』に詳しい。なお中安氏の一族に権太泰長がある(『譜牒余録後編』)。
http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e4%b8%ad%e5%ae%89%e6%b0%8f&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U
以下4つは 浜松市史 (一) より
詳しくはURLへ
1.
頭で代官は堀江城(当市舘山寺町)の堀江(中安)氏である。土着の堀江氏の押領したという係
2.
【堀江城】中安氏『大沢家略譜』によると、大沢基胤の族に中
3.
(『宗長手記』)。福島範為が十月一日付で中安氏に与えた書状によると(『大沢文書』)「引
4.
九月、今川氏は遠江浜名郡の某郷(堀江郷の中安氏であろう)の指導者に対し、㈠年貢を納めな
↓ここは浜松史 二より
末までにほぼその全土におよんだ。【大沢氏中安氏権太氏】正月に犬居城主天野景貫(本領)・
浜松市史 ニ
第二章 近世初頭の浜松と徳川家康 第四節 遠江経略 家康の遠江経営 遠江国侍の来服
ま、こうして探し物をしているうちに捜していなかったものが見つかったり忘れていたことを?思い出したり
のんびり行きましょう。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 02時20分06秒 ) | パスワード |
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%AD%E5%AE%89
中安姓
【全国順位】 3,264位
【全国人数】 およそ4,000人
現静岡県西部である遠江の豪族、近年、兵庫県に多数みられる。
「中」は中心、なかを表す。
http://myoji-yurai.net/myojiPrefectureRanking.htm?myojiKanji=%E4%B8%AD%E5%AE%89
分布図
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 02時29分11秒 ) | パスワード |
堀江城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E5%9F%8E
堀江城/堀江陣屋(ほりえじょう/ほりえじんや)
静岡県浜松市西区舘山寺町堀江(遠江国敷知郡)にあった日本の城。
江戸時代は高家大沢氏の陣屋となった。
大沢基久が鎌倉時代に築城したと伝えられている。
戦国時代も大沢氏が城主であったが、今川氏の勢力下に入り、宇津山城、浜名城などとともに、三河に対する抑えとして機能した。
永禄12年(1569年)大沢基胤は、徳川家康に攻められ、遠江における今川方最後の拠点として激しく防戦したが、結局は和睦する形で降伏した。
基胤の子、大沢基宿は、1,550石を与えられ旗本になり、慶長8年(1603年)に高家となり幕末まで続いた。
現在は舘山寺温泉となり遠鉄観光開発が経営する遊園地浜名湖パルパルや旅館ホテル九重の敷地になっており、遺構は残っていない。
http://www.ai-trip.com/trip/horie/horie1/horie1.html
堀江城物語
1.はじめに
堀江というところ
「舘山寺温泉」と言えば今や全国にその名を知られているが、その名声のかげにかくれて、この地に堀江城があったことは、人々の心から忘れられようとしている。いな堀江という地名すら遠い過去のものとなりつつある。ただわずかに「堀江幼稚園」「堀江旅館」「旅館堀江の庄」などにその名残をとどめているにすぎない。
堀江という村がここに生まれたのは、遠く天文8年(1539)ごろ442年前であった。そして「敷智郡(ぶちごうり)堀江村となり、明治22年4月の町村制施行後は、「北庄内村堀江」であり、昭和30年4月より「庄内村堀江」となったが、昭和40年7月1日に浜松市へ合併したとき「浜松市舘山寺町」と変わった。
堀江城の跡
堀江の城跡には現在遠鉄会社の経営する遊園地があり、御陣山をめぐって個人経営の旅館、土産物店、飲食店その他数々の店が立ち並び、昔の城跡というイメージはすっかり消えてしまった。
古城研究熱
最近古城研究熱が、ブームとまではいかないにしても、相当高まってきたことは事実のようである。堀江城に関する問い合わせが各地の研究家から寄せられてくることや、ある新聞社がその紙上にかなりの長文記事を連載していることなどが、それを裏付けていると言えよう。
更にまた「地方の時代」を迎えたせいか、「ふるさとを見直そう」という声が高まり、その一環として古城の調査研究も取り上げられている。
思えば堀江城の20代にわたる城主は名門の家柄で、領民を治めること500年の長い間、庄内地方に善かれ悪しかれ大きな影響を与えてきた。しかも20代らわたる城主が同じ大沢氏の子孫であつたことは、全国にその例を見ない特異な存在で、浜松城においては、初代徳川家康から堀尾吉晴、松平忠頼、水野重仲、高力忠房など10余代の城主が交替している。
県下の古城と言われるもの
県下には古城と言われるものが意外に多いことにおどろく。わたしたちの調べでは時代や規模の大小に差こそあれ、100余城を数えることができた。 都市別古城名表
城というものは
城というのは一般的には敵を防ぐために築いた軍事的構造物のことで、最初は防禦用のものであったが、時代が進むと共に、戦うための目的ばかりでなく、国王や領主などが領民統治のために、権勢を示す役割を兼ねるようになった。
原始時代にも、山城の簡単なものと見られる九州地方の神護(こうご)、東北地方や北海道の「チャシ」などがあるが、大化の改新(646)以後、大陸からの進攻に備えるため、九州には朝鮮式山城が造られ、また東北地方には蝦夷に対する柵と呼ばれる城が造られた。九州における山城は、山中に土塁、堀、柵を設けたものである。
城の施設が発達したのは中世の末ごろ(戦国時代)からで、戦乱の長続き、戦争規模の増大、鉄砲の伝来による戦術の変化などがその原因である。
領主は政治を行うに便利なように、その領国の経済や交通の中心となる所に、城や住居を造る必要があったから、城は中世紀始めのように嶮しい山でなく平地の中央に進出した。丘陵を利用できれば、軍事的にはもちろん城の威信を領民に示すためにも好都合であったから、平野の中の丘陵が多く選ばれた。これを平山城といい、彦根城、姫路城などはその代表的なものである。堀江城もまたこれに属する。
2.堀江城の源流をたずねて
丹波国大沢村
貞治年間(1362-1367)に丹波国大沢村から大沢氏の祖、藤原基秀が堀江に下向して、城主として住みついたという大沢村とは、どんな土地柄であったのか、いまどうなっているのか、その大沢村をたずねていろいろ調べてみた。
大阪駅から福知山線に乗り換えて走ること2時間たらず、山また山、トンネルまたトンネルを抜けて篠山口駅に着く。ここは大沢村のあつた丹南町で、東方篠山町への入口となっている。
300m前後の山に囲まれた広い盆地で、北側の山の向こうには700mから1,000m前後の丹波高地がある筈だが雲にかくれて見えない。
駅に近い西紀・丹南両町の教育委員会を訪れて、かねて依頼してあつた郷土史研究家の斉藤氏を待つ。しばらくの後、斉藤氏の案内により、先づ「御所ヶ谷」に行く。大きな山頂城跡で、山のふもとに青くよどんだ御所ヶ池があり、これは内濠の一部だという。皇族方が住んでいたと伝えられている。ここ東吹に住む古城研究家の稲山氏がくわしい地図を持参して説明してくれた。
なおこの丹南町には字名が非常に多いことに驚いた。出発前に「郵便番号簿」で拾ってみたところ41もあった。
もう一つ、古城舘堡(かんぼ)の多いことである。山という山にはほとんどこの城か舘があったのである。
城の位置 城の種類
山頂 13 古城 12
尾根 7 古舘 13
山麓 8 古堡 8
平地 8 古宅 3
駅前の旅館で、選挙演説のガナリ声に目を覚して朝食も早々に、篠山城の跡を見て回る。この城は、徳川家康が大阪城攻略のための包囲城の一つとして築かれたもので、城域も極めて広く、内外の堀も幅40mを越え、家康がいかに遠大な計画で大阪城攻めを準備したかが想像できる。
旧家であり郷土史研究家である中沢氏の家を訪問して、深い研究の一部を聞くことができた。
彼の語るところによると、宝永(1104-1710)、寛延(1748-1750)、天明(1781-1788)の記録には、まだ大沢村は残っていて、領主の所領は大沢、大沢新、中野、味間(あじま)、新、杉、南、北、奥、文保寺などであったが、明治になって味間村に合併されてしまい、それ以後は、記録からも地図上からも消えてしまった、とのことでした。
藤原基秀は、遠江の国司として堀江に下向した。というのが通説のようであるが、今度の取材旅行で、中沢氏は、国司ではなく地頭として赴任したのではないか、と言う。国司の任命は朝廷で、中央の高位高官を兼任させる場合が例で、実際には任地に行かない、いわゆる遥任国司がほとんどであった。その上、大阪教育大学の宮川教授らの著述「大山村史」にも大沢の国司ということは出てこない。そして丹波と遠江のように二国を受け持つことは有り得ないとも言う。それにくらべると、地頭は鎌倉幕府が設置した職制で、荘園に置かれた荘官の呼び名で、荘園の管理経営、治安の維持、年貢や夫役の徴収などがその任務で、任命されれば必らず任地に行かねばならぬし、転任もあったのである。
どちらの役職で基秀が堀江に来たかは、にわかに速断はできないが、鎌倉時代には荘園制度は衰退期に入り、守護、地頭制度が始まると、それぞれ任地に赴任して、荘園における領主の勢力を侵害することが激しくなった時代である。これは、鎌倉幕府が謀反人を捕えるためや、平家残党の反乱を防止するためと同時に、公領や荘園の領主である朝廷や貴族の勢力を殺(そ)ぐための考えに基づくものであった。
若し基秀が地頭として赴任したとしても、南、北庄内、村櫛の荘が当時まだ実在したであろうか。恐らく地頭本来の任務は必要なかったのではないだろうか。
ともあれ、国司と地頭との庄内地方における関連、地頭と領主との勢力関係など、なお多くの課題を研究しなければ、基秀下向時の役職についての結論は出せないであろう。嘉永元年(1848)に書き始めた堀江村の新村松助の日記によると、地頭は昔からの習慣によって城主であったことがわかる。
大沢家の系譜表-1
大沢家の系譜表-2
大沢家とその系譜
堀江城主大沢家の祖先は、内大臣、大織冠であった中臣鎌足で、天智天皇の8年10月15日に、藤原の姓を賜ったが、その月に56才で死去した。
それ以後その子孫は藤原を姓とした。鎌足より12代目が、摂政、関白、太政大臣の要職についた藤原道長である。道長には男四人、女四人の子があったが、長男頼道が家督をつぎ、次男頼宗は別家して頼宗家の祖となった。この頼宗家には後で、遠州大沢家、但馬大沢家、丹波大沢家、姫路大沢家など七つの流れが生じたという。丹波大沢家を是非訪問したいと思ったが、丹南町には大沢の姓を名乗っている家はない。
藤原一族の住居跡と墓地
鎌足が育った有力豪族中臣氏の住居跡であろうと言われる遺跡が発見された。京都市東山区山科の西野山中臣遺跡がそれである。鎌足が活躍した七世紀半ばの須恵器、高坏、つぼ、食器などの土器が、最近ほぼ完全な形で掘り出された。また、これまで墓地の一角と見られた丘陵地帯からも、竪穴式住居跡と高床式建物跡が見つかり、これまでの調査によると、約2千戸を上廻る近畿地方最大の村落であったろうという。
藤原氏興隆の基礎を築いたのは冬嗣であるが、宇治陵はその冬嗣が造った墓の始まりである。全部で320基の古墳が散在するが、これがすべて藤原氏一門の墓である。年を経ているので誰の墓かわからず、便宜上番号で呼ばれる。34号は冬嗣、35号は時平、36号は基経の如くである。
持明院家の由来
明治初期に起った堀江城の「万石事件」は城内に混乱をもたらした。この事件に関係して登場したのが持明院である。万石事件を理解する上で、持明院の由来を知っておくことも無意味ではないと思われるので、なるべく簡単に書き添えておく。
藤原道長の曾孫基頼の子通基が建てた持明院であるから、通基の家名を、持明院家という。京都新町通り上 立売上ル安楽小路の西側に、光照院がある。門跡(法親王が住職となっている寺院の尊称)尼院で常磐御所といい、始めは室町一条の北にあった。
ところが文明年間(1469-1486)の応仁の乱から、続いて起こった京都の徳政一撥のために焼かれて安楽光院の跡に移った。現在の光照院を含む広い地域が持明院の跡である。
平安時代(794-1181)の末、ここに藤原基頼の邸があり、持明院はその持仏堂だった。基頼の子通基のとき九間四方の堂宇を修築して持明院と号した。通基の子基家の娘陳子(のぶこ)は、守貞親王の妃となってここを住居とした。
守貞親王は高倉天皇の皇子であったが、気弱な性格だったので世に忘れられていた。ところが幕府の勢力が伸びるのに対して、朝廷の実権を回復しようとして起こった承久の乱(1221)によって、後鳥羽上皇たち三上皇は配流の身となり、主謀者も処分されて武家政治が確立した。
ここで鎌倉の沙汰によつて、守貞親王の子茂仁親王が、持明院家から閑院宮の御所に入って、後堀河天皇となった。そして守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称した。
さて、後嵯峨法皇が崩御ののち、皇統が両統にわかれて皇位継承を争い、ついに南北朝時代の風雲を呼ぶことになった。藤原基秀が堀江に下向したのは、この南北朝時代の中ごろである。亀山天皇の大覚寺統に対して、後深草天皇の流れを持明院統と言った。持明院統と呼んだのは、伏見、後見両上皇が持明院を御所にしていたことによる。
皇位の行方によって一栄一落するさまは、まことに激しく後醍醐天皇に皇位をゆずった花園上皇には仙洞御所を営む余力すらなく、兄の後伏見上皇の持明院に同居せざるを得なかった。持明院は文和二年(1353)に焼失して、ついに再興できなかったが、大覚寺は現存している。
3、堀江城の初期
堀江に下向した藤原基秀とその系譜
貞治年間(1362-1364)今から約615年前、丹波国大沢村から藤原基秀が堀江に下向した。どういう使命を持ち、どういう役職で来たのかは、前述のような理由からいまだ結論づけられないが、地頭職として赴任してきた、というのがやや有力のようである。
さて来てみると、どこに居舘を構えるかに相当悩んだことであろう。諸所を回って調べたあげく、敵を防ぐ点からも統治上からも、更には風致上からも、堀江のしかも湖に面した小高い丘 のちに御陣山と呼ぶ が最適地と判断したのである。面積はおよそ九万九千 。
城は湖と沼にかこまれた離れ小島のような丘の頂上に築いたのである。
そのころ、庄内地方には、堀江に愛宕神社、協和に医王寺、呉松に曾許乃御立(そこのみだち)神社、平松の八幡神社、堀江の舘山寺、呉松、内山の両津島神社などが建てられており、氏子、檀家や農漁業者など相当数の人達が生活していた。
藤原の姓を大沢と改めた基久
世紀1200年から1400年にかけて、藤原家藤、基秀、基久のころは、鎌倉では頼朝の死後、頼家、実朝いずれも政治的能力に乏しく、頼朝の妻政子の親である北条時政を中心とした13人の合議制による政治を行った。しかしこの北条時政もおとろえ始め、南北朝50余年の終りを告げようとしてしているところであった。同時に遠州生まれの「堀江っ子」基久が家名を大沢と改め、遠江国守護職の斯波氏に属して、武将としての第一歩を踏み出した時代でもあった。 基久は父基秀の後をついで堀江の地に永住する決意をして、ふるさと丹波の大沢村の地名を姓としたのである。永住するからには、領内の土地の状況や領民の生活状態をつぶさに知っておく必要があるとして、庄内一円を巡視した。もの珍しさやある種の期待と不安を持ちながらも領民たちは、歓迎をし様々な記念行事を行った。その一つが、呉松の津島神社境内の植樹事業であった。多くの松や杉を植えたが、長い歳月を経て巨松老杉となり、神域を一層おごそかにし、神々しくした。
しかし、天保六年(1835) 全国的な飢饉に加えて、大暴風におそわれ、老松二本が倒れたのを始めその後も相次いで枯れたり倒れたりして、昭和に入ってついに大松一本だけが生き残った。県道に近い境内に亭々としてそびえる姿は実に見事なもので、呉松川にかけた橋を松見橋と名付けたことも故なしとしない。目通り4.45m 、高さ25.93mもあり、枝のひろがりは南へ11m、東へ6.5m、西へ6.3m、北へ4.6m ほどあった。
このような由緒を持ち、しかも長寿を保った老松のため、浜松市教育委員会では昭和45年10月23日に市の文化財(天然記念物)に指定した。
ところが、生あるものはいつか滅するのたとえの如く、昭和50年8月4日の午後二時ごろ、全くの無風でありながら突然、10mの高さから周り1.5mほどの太い枝が、地ひびきを立てて落下した。
数年来老化現象が見られたので、たびたび補強策を講じてきたが、もはや生命の限界に達したことを示すもので、人名や人家に危害を及ばさぬうちにと、同年8月19日、市教委の了解のもとに、心ならずも切り倒した。およそ600年の生命、よくぞ生き続けたものと、しばし感慨にふけったものである。
今川氏に降った基房
南北朝合体によって混乱は治まり、守護大名が成長して公家政権は事実上消滅し、延元元年(1326)足利尊氏が室町幕府を開いた。
けれども大名の勢力が増大するにつれ、相対的に幕府の統勢力は弱まり、大名の幕府に対する反乱が相次いで起こった。
●明徳の乱
3代将軍義満の明徳2年(1391)6分1殿 (全国の6分の1を領有) と言われた最大の大名、山名氏清の勢力を押さえようとした義満との間に争乱が起り、氏清は義満に滅ぼされた。
●応永の乱
明徳の乱後8年、応永6年(1399)10月、これも当時有力な大名であった大内義弘が、義満に対して不満を持ち、鎌倉公方足利満兼と結び、東西呼応して堺に兵をあげ、極めて大規模な反乱に発展したが、義弘は敗死して乱は治まった。
●永享の乱
応永の乱から39年後、将軍義持の子義量が早世して後つぎが無かったので、義持の弟義円が僧から還俗して義教が将軍となった。義教はおとろえた幕府の権威を取りもどそうと考えた。
鎌倉公方は初代足利基氏以来、常に幕府と対立していたので、持氏(満兼の子)のとき、ついに義教と衝突した結果、持氏は自殺して鎌倉公方はほろぼされた。
●嘉吉の乱
赤松満祐は常に義教から圧迫を受けていたところ、義教は将軍の権力を過信して勝手な政治を行ったので政治不安を増大させた。満祐は自分の家に義教を招いて暗殺したが、満祐も幕府の軍に攻められて自殺した。
●応仁の乱からは次のレスへ続く
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 02時39分28秒 ) | パスワード |
続き
●応仁の乱
以上のような混乱したなかで、将軍家や諸大名たちの内紛が直接の動機となつて、京都を舞台に10年間の激しい戦乱が続いた。応仁元年(1467)から文明九年(1477)に及んだ応仁の乱である。
細川勝元側の東軍は24ヶ国の兵16万余、山名宗全側の西軍は20ヶ国の兵11万6千が戦ったのであるから、京都の内外は焼野原となった。
応仁紀に、「汝(なれ)や知る都は野辺の夕ひばり あがるを見ても落つる涙は」とある。 応仁の乱を契機として室町幕府は、その封建的支配者の地位がくずれ、所々に一撥が起り守護地頭の独立となり、混乱と破壊が続く戦国時代に突入したのである。
この動乱は、織田、豊臣政権の成立まで約百年続いたが、この動乱のなかにも、古い秩序がこわれ、新しい勢力が芽生えてきたのである。
各地に群雄が割拠したが、中でも奥羽地方の伊達氏、関東地方の北条氏、中部地方の上杉氏、武田氏、織田氏、今川氏、近畿地方の浅井氏、中国地方の尼子氏、大内氏、毛利氏、四国地方の長曾我部氏、九州地方の島津氏、大友氏などはその最有力者であった。 今川氏は駿河を本拠として遠江にまで勢力をひろめようとした。
大沢基房は、斯波氏のために今川氏に反抗する姿勢を示していたが、遠江に兵を進めた今川氏の武将伊勢新九郎(のちの北条早雲)の勢いが意外に強いのを見て、戦わずして降った。その他の斯波氏方の兵も降参したり、あるいは防ぎきれずに逃げ去って、天竜川以西浜名湖に至る地域は殆んど今川氏に属するようになった。
機を見るに敏であったのか、或いは恐れをなしたのか、いずれにせよ基房は戦うことの不利を悟って、いち早く降参した。大沢氏のような名門が、一戦も交えず降ったことは、その後の今川氏が遠江経略に大きな手助けとなったことは事実で、それ故にこそ、今川氏はその功を賞されて、浜名湖周辺の地を従来通り与えることにした。
当所領の家役、御知行たるべき間、
守護代奉書の旨を任じ、
年貢諸公役は先規の如く
其の沙汰致すべきものなり。
永正元年8月1日 宗端 大沢殿
その後基胤が家康に降った永禄12年までの65年間、大沢氏は今川氏に属して各地に転戦した。
伊勢新九郎は、伊豆においても次第に勢力を加え、勢いに乗じて小田原城を攻略するに及んで、北条早雲と称し、そこを居城とした。
続いて関東の上杉氏を追い、更に反転して松平長親の岡崎城を奪取しようとして兵を進めた。しかし松平勢は少数ながらよく応戦して屈せず。そこで早雲は、降参したばかりの堀江城に使者を出して出兵を命じた。基房は直ちに城兵を引きいて進発し、早雲と共に岡崎城攻略にかかったが、ついに落城させることができず、止むなく引きあげることになった。今川勢は駿河、遠江、伊豆、相模、東三河の兵1万余、岡崎城兵はわずか1300であった。
遠江にあった斯波氏は今川氏のために追撃されて、その大部分は降参したが、この地を逃げ去った者は、今川勢が去ると、ひそかに連絡し合って残兵を集め 今川氏の属城を攻めようと謀った。こうした企ては度々あったが、そのつど今川勢に追い散らされて目的を果たさなかった。永正六年(1509)にもまた、今川氏の属城二俣城を襲うとの情報が、今川氏の属将朝比奈泰熈の掛川城に入った。そこで城主朝比奈は堀江城に書き送って、「大瀬、有玉、市野、小松、平口に陣を敷き、11月25日を期して、掛川勢と共に一挙に敵をほろぼそう」と依頼した。
基房はこれに応じて直ちに出兵し、斯波氏の残党を追い散らして、一旦曳馬に引きあげ様子を見ていたが、やがて城に帰った。
戦国争乱の遠江
戦国時代に大きな権力を持ったのは守護職であった。従って守護の地位を得るためには、各地で争いが絶えなかった。いわゆる弱肉強食の世である。遠江国でもその例にもれなかった。試みに元弘3年(1333)から永禄11年(1568)までの235年間の遠江国の守護職の推移を見ると、
今川範国 1333-1338
仁木義長 1339-1343
千葉貞胤 1346
高野師泰 1347-1349
今川範国 1352-1365
今川貞世 1378
今川仲秋 1388-1399
今川泰範 1400-1401
斯波義重 1405-1407
今川泰範 1407-1413
斯波義淳 1419-1433
斯波義郷 1433-1436
斯波義健 1436-1452
斯波義敏 1452-1460
斯波松王 1460-1461
斯波義廉 1461-1466
斯波義敏 1466
斯波義廉 1466-1467
斯波義寛 1491-1501
斯波義達 1502-1508
今川氏親 1508-1526
今川氏輝 1526-1536
今川義元 1538-1560
今川氏真 1560-1568
基房が今川氏に降ったのは永正元年(1504)で、右の表に見る如く、守護職であった斯波氏の勢いも下降線をたどり、同時に今川氏の勢力が伸びつつあった時で、基房が降伏する決断をしたについては、次の二点が複雑にからみ合ったあげくの結果であったろう。すなわち斯波氏の長年にわたる恩義と、前途に見切りをつけたことで苦しんだことであろう。
遠江における斯波、今川両氏の衝突は度々あった。
文明二年(1470) 本坂峠
文亀三年(1503) 横地村
永正六年(1509) 二俣城
永正九年(1512) 堀江城
永正十年(1513) 志津城
永正十年(1513) 曳馬城
永正十一年(1514) 三嶽城
永正十一年(1514) 曳馬城
次号につづく
その2
http://www.ai-trip.com/trip/horie/horie2/horie2.html
東丸に城主大沢氏が住み、西丸には大沢家臣の実力者中安氏が住んでいた。当時の領民は、大沢家を領家殿、中安家を堀江殿と言っていたが、後にはこの呼び名は両方とも大沢家に使われた。
堀江城の実力者中安氏
堀江和泉守光真(ほりえいずみのかみみつざね)が応永年間(1,394─1,427)に越前国(福井県)から遠江国へ来て初代の佐田城主となった。
光真の先祖は藤原時国で、越前国で新田氏に属して度々武功を立てたが、更に東方の反乱を静めようと、後醍醐天皇の第一皇子尊良親王に従って、伊勢湾から乗船して遠州灘にさしかかった時、逆風のため難破して将兵は四散し、やっとのことで親王と共に福田港に漂着した。そこから高部(袋井市高尾)へ行き行宮(あんぐう)を建てて住んだが、17年後親王は薨去(こうきょ)した。
時国は越前国坂井郡に帰り堀江の庄70か村を領有したので、堀江と姓を改め、元中3年(1,386)に死去した。時国の後は、景経(かげつね)、景重と続いて光真となった。
佐田という地名は「堀江、内山を佐田と号す」と三ヶ日金剛寺の過去帳に見えるけれども、さて佐田城の所在となると不明である。しかし光真以下六代の城主やその子孫が存在していたことは事実である。 堀江光真が佐田城へ来る4・50年前に、すでに大沢氏は堀江城にいた。
系譜でわかるように中安氏は佐田城主五代目の為清の次男豊種から出ている。
ここで知っておかねばならないことは、佐田城と堀江城に関する理解である。資料の少ないこともあるが、後世になって理解の混乱を招いた主な点は、佐田城主の堀江という姓と堀江城を結びつけやすいことである。すなわち堀江城の城主が堀江氏であったとの錯覚である。
佐田城、堀江城、大沢氏、堀江氏、中安氏が複雑にからみ合った当時の庄内地方の状況を年代別に整理してみると、
卓治年間(1,362─1,367) 大沢氏が堀江に下向。
応永年間(1,394─1,427) 堀江氏が佐田城に居住。
明応八年(1,499) 佐田城主五代為清の次男豊種が内山で生まれ、中安氏を名乗る。
永世元年(1,504) 堀江城、佐田城が今川氏に降り、大沢氏は村櫛に移る。?
大永二年(1,522) 佐田城落城後、中安兵部豊種が堀江城主となる。
天文四年(1,535) 大沢氏堀江城へ戻る。
弘治元年(1,555) 中安氏堀江城主となる。
永禄三年(1,560) 中安氏堀江城主として竜泉寺を建つ。
永禄五年前後(1,562前後)大沢氏堀江城改築。
元亀元年(1,570) 中安兵部死去
以上の記録をどう組み立て、どう解釈したらよいであろうか。中安兵部は佐田城落城後、堀江城主として十数年全盛を極めたという。ここでいう堀江城とは大沢氏の堀江城なのか、それとも領民たちが佐田を改めて堀江村と称したことから、佐田城のことを堀江城と言うようになったのか。
こう見てくると、中安氏が城主となったのは、もとの佐田城であったのかも知れぬ。
それを裏付けるような一つの資料がある。「徳川家康文書の研究」に
一、曾祖父 権田織部佐(ごんだおりべのすけ)(泰長)
一、母方尊々祖父 中安兵部少輔(しょうすけ)(定安)
一、同 大沢左エ門佐(基胤)
右三人遠州堀江城ニ住ス時、権現様永禄十二年右三人ヲ招出サレ、本知相違無ク下シ置カルノ旨御起請御直判ノ御証文頂戴致(中略)大沢左エ門佐、中安兵部親類ニテ罷リ在リ候由承伝候。
とあるように、本知行を下されたのであるから、中安氏も大沢氏と同様にもとの佐田城の知行を下されたものと受け取れる。
中安氏は永禄三年(1,560)三月に、菩提寺として大草山の山頂近くに竜泉寺を建てたが、天正五年(1,577)に内山(庄内町)に移転した。中安兵部の下屋敷が内山にあったからである。大草山の寺跡は「竜泉寺台」と言って今に伝えられている。移転後本堂などは改築されたが、山門だけは原形のまま400余年を経た今日でも昔の姿を見せている。
なお、神戸市在住の12代目当主中安武彦氏は、昭和44年5月18日、檀家総代や郷土史研究会の会員ら多数を招いて、石とうろうの寄進と祖先の供養会を、盛大に且つおごそかに執り行った。
堀江城主大沢基胤は後で詳述するように、永禄12年(1,569)3月家康軍と戦って和睦の末徳川氏の家臣となった。その翌年元亀元年、家康に従って江州姉川の合戦に参加し、大沢氏の同族中安兵部は華々しく戦って戦死した。「四戦紀聞」の「江州姉川合戦記」には「柴山小助、よき敵を討ち取り、なお進み戦って落命す。是は小兵衛正和の兄、時に22才。小川三十郎、中安兵部定安も戦い死す」と書かれている。
中安兵部の法号を「勇将殿茂山玄栄大居士」といい堀江村の平に埋葬した。これが「茂山塚」である。 中安兵部戦死後、家康より子息満千世に感状が渡された。
中安満千世に与えられた安堵状
今度江州合戦ニ父兵部少輔、馬前ニ於テ討死セラレ忠節ノ至リナリ。然シテ先判形ニ載セ候知行ノ員数永ク相違有ルベカラズ。ソノタメ重ネテ判形出シ置ク所ナリ。コノ旨ヲ守リ愈々忠功ヲ抽ンズベキモノナリ。
元亀元年8月13日 家康 御判
中安満千世
この感状の跡に次のような文言が付記されている。
野中氏ノ家伝ニ曰(いわ)ク、本名中安氏マタ堀江氏、後ニ野中氏ト改ム。家紋ハ初メ木瓜(ぼけ)ノ内花ベツ甲、後ニ丸ノ内三日月ト改ム。元祖ノ正国ハ遠江、中安兵部遠州堀江城主、元亀元年権現様江州御合戦ノ節御前ニ於テ討死候。嫡子(ちゃくし)彦次郎康勝初メ名ハ満千世所領相違無ク拝領仕リ候。
中安兵部には4人の男子があり、長男を彦次郎康勝と言った。この康勝の生涯は数奇な運命をたどっただけに種々の説が生まれ、いずれを正とすべきか判断に苦しむ。
例えば
1、乱心して転々と渡り歩いていたが天正18年(1,590)上州安中で自殺した。
2、永禄、元気、天正にかけて東奔西走(とうほんせいそう)、各地に転戦して上州安中で自害した。
3、小田原に出陣したとき、家康から本多の指揮下で合戦せよ、と命ぜられ、これを不満として上州安中に引きこもり自害した。
この説は相当信頼性があるので、その根拠となる「紅林家古文書」を引用すると、
御息(そく)中安彦次郎康勝公は家康に従い小田原陣に発向したところ、今度は本多中将の旗下で合戦せよと仰せられたので、中安家は先祖より一度も他人の旗下に従って一戦したことは無いのでお許し下さい。と申し上げたところ殊の外首尾悪そうに見えたので、元来短気な康勝公は無念の至りと思い、上州安中に引きこもり自害した。
康勝の家臣紅林武右エ門がその自害を見届けている。
4、竜泉寺過去帳には、堀江の主中安彦次郎こと慶長14年(1,609)3月死、早世して家絶つ。
5、そして諸説のうちで最も信頼のおけるものとしては、康勝の子孫で神戸市在住の中安武彦家にある記録であろう。それによると、
祖先は堀江丹波守と申す人。遠江堀江内山に生まれ、大沢中将殿遠州御預かりの頃、二の丸(東丸)を御預かり仰せられ、その後茶道を以て東照宮様の御茶頭に召し出され、姓を中安と改め中安立茶と名乗り、段々御意に入り御姫君を妻女に致すべしとの御意を下し置かれ男子を出生す、名を林斉とと称す。のち故ありて姫君と離別後切腹。
略
(ハ)堀川城の悲劇
ここで堀川城合戦の模様をややくわしく述べる。堀川城は堀江城の属城で大沢氏の支配下にあり援軍0名を送っているからである。
掛川城攻めで和睦し、一時岡崎に引き上げようとした家康が、姫街道へ差し掛かったところ、堀川城に立てこもった浪人や農民たちが、家康に反抗の気構えを見せた。
堀川城は気賀の村はずれ油田(あぶらでん)の小高い丘の上に柵(さく)をめぐらし、前面に都田川の水を引き、背面を浜名湖に臨ませた砦(とりで)であった。
城主は新田友作という祝田(ほうだ)で寺子屋を開いていた浪人で、土地の豪族尾藤主膳(びとうしゅぜん)や山村修理(しゅり)、竹田高正などにあやつられて、気賀村一帯の農民をかり集めて築いたのがこの砦(城)で、永禄10年(1,567)に完成したばかりである。
農民たちの不穏(ふおん)の気配を知った家康は非常に驚いた。そこで諸将を集めて善後策を協議したが、諸将はただぼうぜんと顔を見合わせるばかりであったが、やがて渡辺図書(ずしょ)という者の計略で、家康に雑兵(ぞうひょう)の服装を着せ、17騎と共に先発させ、図書は後から200人ばかりの兵を従えて通った。
城兵は後の一団中に家康がいるものと思って攻めかかったが、求める家康がいないとわかって、がっかりした。
こうして岡崎に帰った家康は、3,000の兵を整えて、堀川城攻略に出陣した。
堀川城には、西光院、宝諸寺、桂昌院などの余類があり、基胤の属将には尾藤主膳、山村修理、その他竹田高正、新田四郎などの土豪がおり、刑部には給人、百姓などの内山党があり、また寺社人、地下人と称する者を合わせて1,500人が立てこもった。
平松崎に陣を立てた家康は、永禄12年(1,569)3月12日、満々とたたえられた外堀の水が、干潮(かんちょう)で引き始めた間髪を入れず総攻撃の火ぶたを切った。水が引いた堀川城は裸も同然、それに農民1,500人は、男と言わず女子供までがスキ、クワ、竹ヤリの武器を持っているとは言え、戦うまでもなく城内はたちまち悲惨な地獄絵と化し、女子供まで切り殺され突き殺されて、僅か1日であえなく滅び去ったのである。堀江城から出された20人の援軍もみな討死した。竹田高正は城内で切腹、山村修理は小引佐に逃げて切腹、新田四郎は逃げて僧になったが、後で惨殺された。
尾藤主膳は落城の様子を堀江城に報告するため部下10名と共に小舟でひそかに脱出して堀江城に着き、つぶさに報告したのち城内にかくまわれたが、その年4月、大沢氏が家康と和睦したため、無念の涙をのんで10人と共に切腹した。堀江の大木戸という所に十頂(とうず)(十頭)という古い地名が残っていて、10人の首を埋められた小社が建てられ、十頂八幡宮として祭られていたが、現在はその跡さえ見られない。
悲劇は落城後も続いた。堀川城内の農民兵や女子供は、その半数が戦死したり惨殺されたが、残る700人ばかりはとりことなり、都田川の堤に集められて惨殺された。そこを獄門畷(ごくもんなわて)として碑が建てられている。
その当時、気賀、刑部両村の人工は3,000人であったから、その半数が戦死あるいは惨殺されたのである。そして更にその上、気賀村の全家屋が焼き払われたのである。
堀江城の激しい攻防
城主大沢基胤は始めから家康を好まず、近郷入野村の木寺宮と謀(はか)って兵を集め、堀川城を助けるなど、事毎に反抗の態度を取っていたので、このたびの挙に出たのである。
基胤は、中安兵部や権太織部(ごんだおりべ)などの勇士を養って、近隣にその武名が高く、このほかに村櫛の志津城を守る山崎権太夫、真瀬将監(しょうげん)、山下七郎右エ門らの勇士もいた。
永禄12年(1,569)3月25日、井伊谷三人衆の近藤石見守康用その子登之助秀用(のぼりのすけひでもち)、鈴木三郎大夫重路、菅沼治郎右エ門忠久、新八郎定盈(さだみつ)父子らが堀江城を攻めた。
堀江城は三方湖に面し一方は沼で、潮が満ちれば攻めにくい要害の地であった。加えて強力な勇士が立てこもり、三人衆は全力を尽くして攻めたが容易に屈する気配も見えない。よって家康は鈴木権蔵に附城を築かせてその陣代とし、長期戦の腹を固めたものの、基胤はよく防戦し、時には城外に討って出て井伊谷勢を苦しませた。総大将近藤石見守でさえ堀江城士新村善左エ門とわたり合って、槍(やり)で股(もも)を突き刺されたほどである。またある時は、堀江勢の逆襲を受けてあわてふためき、具足をつける暇もなく素肌で防戦したこともあって、どちらが攻め、どちらが防いでいるのかわからない攻防が続いた。
この時の激戦の模様の一例を挙げてみると
城兵300ばかりがほこを揃えて討って出たので、井伊谷勢はわずか100人ばかりで防戦したが、井伊谷勢が城兵の勢いにのまれて、ほこを合わせないのを見て、城兵の中の一武者が群を離れて進み出で、すでに6─7尺ばかりの距離になったとき、近藤石見守が出てきてこれと一騎討ちをしようとした。同じ三人衆の鈴木三郎太夫は、近藤と同年で常に権勢を争っていたが、この有様を見て近藤の後から進み来て「彼はよき敵である。討ちもらすな。」と叫んだ。近藤は無言のままで進み、鈴木も続いて進んだ。井伊谷勢はこれに勢いを得て、ときの声をあげながら後に続いたので、城兵もたじたじと退いて門内に入った。残った武者が1人で戦っているうちに中から城門を閉じてしまったので、武者は入ることができず木戸わきに突っ立って防戦した。近藤と鈴木は互いに自分の功名にしようと木戸ぎわまで追いつめると、この時やぐらの上に2人の兵が銃を構えて現れ、2人をねらって発砲した。このため鈴木は銃弾を受けて戦死したが、近藤をねらった銃は不発に終わって助かり、直ちに武者を討ち取った。
この武者は数日前他国から武者修行に来ていた者で、生国も名前もわかっていない。
基胤は、この攻防の始まった10日目の4月4日、掛川城主朝比奈泰朝へ書状を送って、近況や心境を伝えている。それを要約してみると、
●久しく御無沙汰(ごぶさた)しているので其の地(掛川)が心配に思うこと。
●当城は今までは堅固であること。
●兵糧は当座2─3ヶ月ばかりは持っていること。
●城下の知行分も欠所になったこと。
●来作(麦)は少しもなくどこからも兵糧の入る当てのないこと。
●敵方から種々の難題をかけられていること。(降伏のことならん)
●今になってこのような次第で無念至極であること。
●堀川城は十分な備えが出来なくて、すぐに攻め落とされたこと。
●給人百姓ことごとく討死し加勢した二十人も討ち死にしたことはくやしいこと。
●末々のことは御下知(げち)を頂きたいこと。
しかしこの書状を送った時はすでに掛川城は家康と和睦した後で、果たして届いたかどうか不明である。
基胤は城外に討って出る時や、敵が攻め寄せる前には、士気を鼓舞(こぶ)するために必ず鐘をたたき太鼓を打ち鳴らしたと伝えられ、これが後世に再現された「堀江陣太鼓」の由来である。
堀江城が家康と和睦してその家臣となる
家康は堀江城の意外な反撃に驚き、これを力で攻め落とすことの困難を知って、使者渡辺成忠を城中につかわし、言葉をやわらげて基胤を説得した。
「大沢氏は由緒(ゆいしょ)の正しい家柄で、もとより今川氏の被官でもなく、家人でもない。それだのに古いよしみを重んじ盛衰(せいすい)をもって志を二つにせず、終始今川氏のために守って屈せず奮戦力闘日夜をわかたず、却って寄手を攻めること数度ならず、その忠勇義烈は最も深く感ずるところである。
しかし今や掛川との和睦もなり、遠州一円は我がものとなった。わが領にある者はわが命を聞く、これ天意人道ではないか。われはすでに氏の武勇を認めた。いま帰順したならば、間違いなく所領は元のままにしておこう」と。
家康からの降伏説得はたびたびあったようである。掛川城への書状にも、敵方から種々難題をかけられている、というのはこの説得のことを指しているものと思われる。
基胤はこれに対して「使者の言葉はよくわかった。その言葉が果たしていつわりで無かったら、家康自筆の誓書を得てから、おもむろに考えよう。それが得られぬ場合は我また答える言葉はない」と返事した。
使者は帰って家康にこれを報告した。家康は「基胤の言葉には理がある。我なんぞ誓書を与えることを惜(お)しまう」と言って次のような起請文(きしょうもん)を自ら血判して基胤に与えた。
敬(うやうや)しく白(もう)す起請文の事
1.当城へ居城のこと
1.諸事公事を抜くこと有るまじきこと
1.本知何(いず)れも前々の如く新居のため呉松に替地相違有るまじきこと。
1.当知行分諸不入並びに当城下の諸成敗山河と共に前々の如く為すべき事
1.万事に於いて虚説(きょせつ)などこれ有るに於いては訴人は糺明(きゅうめい)を遂(と)ぐべき事
右の条々偽(いつわ)るに於いては 上は
梵天(ぼんてん)、帝釈(ていしゃく)、四天王総じて日本国中大小神祇(しんぎ)、別して弓矢八幡麻利支天(まりしてん)、富士白山愛宕(あたご)山、秋葉天満大自在、天神様の御罰を蒙(こうむ)り、今生に於いては弓矢冥加(みょうが)を尽くし、黒白病を得、来世にては無間に落つべきものなり。
仍(よ)って起請文件(くだん)の如し
永禄十二年四月十二日 家康 血判
大沢佐エ門佐殿
中安兵部少輔殿
権太織部佐殿
なお同文で同月同日、酒井佐エ門尉(じょう)忠次と石川伯耆守(ほうきのかみ)数正の血判による起請文が渡されて、誓いの固いことを示した。
こうして永禄12年4月12日、基胤は家康と和睦の形で、20日間の激闘が終わったのである。
破竹の勢いで諸城を陥(おとしい)れた家康が、かくまで礼を厚くして和睦したことは、一つには大沢氏の家系の貴(とうと)さにもよろうが、二つにはその士卒の勇武と堅固な自然的地形のために攻めあぐねた結果であり、更に推理を働かせれば、天下統一の大業を前に、このような小城にいつまでもかまってはいられぬ、というあせりの気持ちがあったのではなかろうか。
永禄11年家康は信玄と約して、今川義元の遺子氏真の暗愚に乗じて、駿遠を分取しようとした。すなわち信玄は駿河を攻めて氏真を掛川城に敗走させ、家康また掛川城を攻めた。
思えば、足利氏の一門として、また関東の副将軍として勢威の強大を誇った今川氏も、その末路のあわれさ。懸命の地と頼んだ掛川城も今や四面ことごとく楚歌(そか)。わずかに大沢氏が、家康の根拠地西遠の地において義のために抗戦よく奮戦した。
数代にわたる栄華を夢として、今や正に亡(ほろ)びようとする今川氏に取っては、基胤の善戦こそは無上のはなむけとなったことであろう。
これより10年後、家康の長男信康は信長の怒りを買い、家康の助命運動も空(むな)しく、三河の大浜から堀江城に入り、一宿して二俣城に至り自刃(じじん)して果てた。まことにふしぎな因縁と言うべきであろう。
その3
http://www.ai-trip.com/trip/horie/horie3/horie3.html
基胤生前の武と徳と智を慕って集まった勇士は数多くあったが、中でも中安兵部、権太織部、山崎権太夫、山下七郎右ェ門、真瀬将監、山村修理、尾藤主膳などがその勇名を後世に残している。
その4
http://www.ai-trip.com/trip/horie/horie4/horie4.html
その5
http://www.ai-trip.com/trip/horie/horie5/horie5.html
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 02時41分44秒 ) | パスワード |
ということは
藤原姓 → 大沢 → 堀江 → 中安 こんな感じで俗姓が変遷してますね。
我々は先祖のこと、知らないことが多過ぎますね。
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 02時49分41秒 ) | パスワード |
と いうことは 内山真竜は 関係があるのかも???
>佐田という地名は「堀江、内山を佐田と号す」と三ヶ日金剛寺の過去帳に見える
>けれども、さて佐田城の所在となると不明である。
しかし光真以下六代の城主やその子孫が存在していたことは事実である。 堀江光真が佐田城へ来る4・50年前に、すでに大沢氏は堀江城にいた。
>系譜でわかるように中安氏は佐田城主五代目の為清の次男豊種から出ている。
>ここで知っておかねばならないことは、佐田城と堀江城に関する理解である。
>資料の少ないこともあるが、後世になって理解の混乱を招いた主な点は、佐田城主の堀江という姓と堀江城を結びつけやすいことである。
>すなわち堀江城の城主が堀江氏であったとの錯覚である。
>佐田城、堀江城、大沢氏、堀江氏、中安氏が複雑にからみ合った当時
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 03時00分32秒 ) | パスワード |
http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4ef91e1202688.html
内山家長屋門
郵便番号
431-3305
所在地
浜松市天竜区大谷568
内山家長屋門とは
遠江国豊田郡大谷村(現:天竜区大谷)の名主でもあり、
国学者として有名な内山真龍の生家の長屋門。正確な建築時期は判らないが、
「享保10(1725)年7月吉日」の祈祷札が残されているため、それ以前に建てられたと考えられる。
桟瓦※葺の屋根に腰板と漆喰(しっくい)塗の壁の長屋門は、自然石の基壇上に建てられており、間口は10mもある。
間口10mって?
1991(平成3)年2月28日に浜松市(当時は天竜市)の文化財に指定された。
内山真龍の業績を広く知ってもらうため、1996(平成8)年11月、門の先にある生家跡に内山真龍資料館が建設された。
※桟瓦(さんかわら)/断面が波形をした瓦
名主というより、やっぱり元々の豪族なんでしょうね。
[28] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月26日 15時49分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
私の上から四番目の姉が、この中安家の子孫の家に嫁いでおります。
一番上の姉が、松下家(之綱系と思われる)に嫁いでおり、偶然だけ
では何か説明がつきません。井伊家を中心にして、松下家・中安家・
服部家は何か目に見えない糸で引きあっているような感覚がいたしま
す……。
現場100回ということで、郷土史をもう一度洗い直してみます――
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 22時45分40秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>偶然だけでは何か説明がつきません。
>井伊家を中心にして、松下家・中安家・服部家は何か目に見えない糸で引きあっているような感覚がいたします……。
>現場100回ということで、郷土史をもう一度洗い直してみます。
どこかでご縁が出来ていたのでしょうね。
もっと詳しいことがいつか分かるかも知れませんね。
戦国時代から? いや 南北朝時代? さらに遡って源平時代? 古代から?
「日本人」ということでしょうね。
やっぱり何代か遡ったら親戚なんですよ。
ただ知らないだけ。
まさかこんな核家族時代が来るとは誰も想像していなかったから、伝えずにいたから、記憶が切れてしまいました。
でもちゃんと肉体は結びついている。
日本人って面白いですね。
図書館には文書で記録が残っているのですしね。
ホント!日本人ってスゴイ!
[30] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月27日 23時30分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ひとつ忘れていました。一番上の姉(松下家へ嫁ぐ)の仲人が、驚くなか
れ、井伊家に仕えた「小野家」の末裔でした。
それはそうとして、この小野家(祖先は小野篁)のこの地での広がりはか
なりのものでありますので、どういう人脈になるのか一度整理したいと思
っております。
明智光秀関係については、少し情報をプールしておき、またタイミング
を見計らって記そうと思います。
本日は、郷土史の本にずっと目を通しています。アカデミックな本より、
個人の研究家(郷土史家)の書いた本の方がリアリティが感じられておもし
ろいです――
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月28日 02時11分29秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>一番上の姉(松下家へ嫁ぐ)の仲人が、驚くなかれ、井伊家に仕えた「小野家」の末裔でした。
高橋一生が小野政次を演じるんですよね。
この政次のパパが密告?
小野家の中もいろいろだったでしょうね。
知ってしまうと(なるほどなぁ)ですよね。
>明智光秀関係については、少し情報をプールしておき、またタイミングを見計らって記そうと思います。
時間を置いたらまた新しい目で見えて来るものも有りますしね。
>アカデミックな本より、個人の研究家(郷土史家)の書いた本の方がリアリティが感じられておもしろいです
はい。
目の付け所というか切り口というか、読んでいて楽しいですね。
アカデミックな、公的な、本というのは「無難」というか
つまらないですよね。
中には(好きでも得意でもないのに給料のための仕事として書いてるね)というイヤイヤのやっつけ仕事で纏めているというのを感じるものもあったりしますし
やっぱり郷土史家の自分の足で書いたものの方が面白いです。
ここは筆が乗ってるな、とか書いた人の気分も分かったりしますし
ここは分かってないけど書いてるなというのが分かったり。
ま、素人の書いたものは玉石混交。
でも、複数読めば、立体的になりますし。
とにかくたくさん読んで、アチコチ歩いて、そして意見交換するというのがコツですね。
内山真竜さんのところにもお邪魔してください。
思わぬ情報が出て来るかもですよ。
アカデミックな本や公的な発表には出ないようなことが人の口からポロリと出て来るかも。
そういう情報に長上郡の服部氏の秘密を解く手掛かりがあるかも。
[32] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月28日 20時42分10秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日で仕事納め――ホッコリしてしまいました。
「女城主 直虎」が気になっています……明日、現地を見に行ってみよ
うかなと思っています。
今後は、井伊家にからむ謎を追及してみたいと思います。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月28日 22時51分36秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>今後は、井伊家にからむ謎を追及してみたいと思います。
当然ですね。
井伊家と服部家は南北朝以来の仲ですし
もしかすると、もっと前から関係があったかも知れないですし。
[34] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月30日 00時40分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は午前中、大掃除(小掃除と言った方が正しい)をし、午後より,気
になり始めた井伊谷へ行ってきました。まだ「女城主 直虎」は始まって
いませんが、NHKでは予告編やその他いろいろなPRをし出しましたの
で、俄然視聴者のテンションは上がり始めています。そんな中で、実際の
ところ現地はどんなだろうと見に行ったわけであります。
大河ドラマが始まるので、どんなに現地の観光化がピンピカに進んだか
と期待していきましたが、意外とそんなに変わっていない。一過性という
ことを考えると、そんなに金はかけられない…というのが実情でありまし
ょう。でも、一年かけて、色々な準備・対策は考えやってきたはずではあ
ります。大河ドラマも一年近いものであるため、観光客の訪れる人数の予
想曲線も把握しているのでしょう。訪問客の変動に合わせて対応も変えて
行くのでしょう。本日の様子としては、まだ観光客は嵐の前の静けさに近
いというか、年末の忙しさでそれどころではないというところだったので
しょうか。ま、それでも龍潭寺を訪れる人は、昔の日曜日と同じ位の出で
ありました。
井伊谷宮と龍潭寺はほぼ一対であります。裏側(北側)と表側(南側)であ
ります。私は、井伊谷宮からいつも先に行き、龍潭寺の裏側から西側の墓
所を通り、龍潭寺の庭に出るというコースをとっています。
今回、このコースを廻ってみて、新たな発見がありましたので、以下、
記します。
それは、墓所であります。今まで数回、この墓所には行っていますが、
松下家の墓の一群は「松下家の墓」と書かれた石碑が建っているのでわか
っていましたが、今回、よく見まわしてみたところ、いろいろな墓が建っ
ていることに気が付きました。
それは――
@小野家の二十基余りの墓群
A小野玄蕃朝直の墓
B新野左馬助公の墓
C今村藤七郎一族の墓
D菅沼忠久・忠道供養塔
E奥山 十代 親朝公 十一代 朝村公 十二代 朝宗公の墓
F鈴木重時公の墓
G中野氏の墓
H木俣家の墓
I安間家累代の墓
J桶狭間戦死者の墓
K近藤康用公の墓
その他には、大石家、野末家(「丸に並び矢」)、水野家、新田家、永田
家、服部家の墓がありました。この服部家の家紋は、「七宝に花菱」であ
りました…確か天方氏も使用したように思います。
もちろん、井伊家歴代の墓所は一番奥(北)の一画にあります。
大河ドラマの出演者の墓はだいたいそろっているということになります。
次回は、小野氏についてまとめます――
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月30日 02時07分50秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>この服部家の家紋は、「七宝に花菱」でありました
家紋の世界は奥が深いですね。
龍潭寺さんに葬られているということは、そういう意味のある服部家でしょうから、宗良親王以来の関係なのかしら?
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/amakata.html
天方氏
一の字/細輪に葉菊
(藤原氏秀郷流首藤氏族)
遠江国周智郡天方郷から起こった。もとは藤原秀郷の後裔首藤氏の一族である。藤原助清は三河国に住し、首馬頭に任じたことから首藤氏を称した。後裔にあたる俊通は滝口刑部丞を名乗り、その子が滝口四郎俊綱である。山内首藤氏とは同族の関係になる。
代々鎌倉御家人であったようで、通隆の代に鎌倉幕府が滅亡。通隆は北条高時に殉じて鎌倉で自刃した。以後、世に隠れていたようで、通隆以後荷代の実名は伝わっていない。通秀の代に至って、遠江国天方城に住した。これより天方の地名をもって家号にしたという。
通興の代に今川氏に属した。今川義元が桶狭間で信長に討たれ、氏真の代に今川氏は衰退することになる。通興は、今川氏没落後、石川伯耆守数正について家康に謁え、以後徳川氏に仕えた。天正二年、家康が遠江国乾城を攻めた時、大久保忠世に属して、案内役を勤めた。これより、通興は大久保忠世に属して、家康の戦に参加し、数々の戦功を挙げている。
嫡子の通之は早世し、次男の通綱が家督を継いだ。通綱は織田信長の嫌疑を受けて、切腹の命を受けた家康の嫡子信康の検視役を命じられ、同役の服部半蔵とともに遠江二俣城に赴くことになった。信康自刃に際し介錯を頼まれた半蔵がその任に堪えきれず、代わって通綱が信康の介錯をした。通綱はのちに信康介錯のことをはばかって出奔し、家康の次男で信康の弟にあたる越前藩主結城秀康に召し出されて仕えた。
通綱は、鞍・鎧づくりに優れ、その作品は彦根井伊家に伝わっている。通綱の子孫は福井藩士として続いた。
通興のあとは、娘婿青山忠成の子通直が継いだ。通直は幼少の時より家康に奉仕し、慶長八年の家康上洛にも随行し、慶長十八年には、すべて二千二百五十石を知行した。慶長十九年の大坂の陣にも参陣し、秀忠に従って、天王寺の戦いにおいて戦功をはげまし、玉造口の戦いでも大坂方を槍を合わせて甲首一級を挙げている。
以下略
[36] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月30日 21時15分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
七宝に花菱紋については、とりあえず訂正させていただきます。私のメモ
があったのですが、その根拠が書いてなかったので追跡できません……。
小野氏については、井伊家にとっては三代にわたり家老として、仇となっ
てしまいました。悪者かどうかは、今川家から見れば逆転しますので、一概
に避難ばかりはできません。戦国の世の無常ということでしょぅか。
小野家は小野妹子を祖としていて、家系的には名族ということになります。
小野篁が流罪になった時、その息子の俊生は、近江の小野の地を離れ遠江
の赤佐郷にたどり着いて居住し開拓した。その後、篁は罪を許され、活躍後
近江小野村で薨去した。俊生はその骨臓器をもって遠江の小野に戻り、小野
篁神社を建立したといいます――
一杯飲んでしまいましたので、続きは明日に――
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月30日 22時42分26秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>七宝に花菱紋については、とりあえず訂正させていただきます。
訂正は無しで良いですよ。
家紋は奥が深いので、一般情報では語り尽くせないです。
身分のある家では1紋や2紋じゃないです。
身分の無い家では1紋や2紋で片づけられるでしょうけど。
小野氏を検索してたら、いろいろ驚くことがありました。
日本人とは本当に興味深いです。
それに小野氏は初め 臣だったのが 朝臣になった というのも驚きでした。
難し過ぎ!
現代は「平等」の時代なんだとつくづく思いました。
[38] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月31日 07時38分07秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
訂正:避難→非難 (「変換」後の注意力不足)
「永井随庵」が1681〜1683年に書いたと言われる『濱松御在城記』という
記録を通読しましたが、その中には徳川家康が遠州入りをする頃から武田氏
が滅亡した頃までの、いわゆる家康の浜松在城時代の出来事が客観的に書か
れています。客観的――とは、一説に固執するのでなく、他の説とも比較し
て批評分析をしております。
その中には、井伊家に関する経緯も書かれていますので、次の機会に少し
触れたいと思っていますが、とりあえずビックリしたことを記します。
それは、信康の自害の討手のことであります。通説では、服部半蔵正成と
天方通興がその役を任されたとなっていますが、永井随庵という客観的に
物事を記録する人が、一方の服部半蔵正成を「渡辺半蔵」である、と記して
いることにビックリいたしました。
不注意でミスしたとはとても考えられません。本当のところ、どちらが正
しいのでしょうか? もし随庵説が正しいとすれば、体制側が何か目的があ
って半蔵を持ち出し、「涙の脚色」をしたと考えられます――
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月31日 14時17分17秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
永井随庵の記録にビックリですね。
服部正成が得意としたのは槍で、
もう1人「半蔵」の名を持つ渡辺半蔵守綱と合わせて、
「鬼半蔵」「槍半蔵」と呼ばれた、ですね。
渡辺半蔵守綱は尾張藩の家老になった人ですね。
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月31日 14時30分19秒 ) | パスワード |
http://m.webry.info/at/ikasama4/200708/article_25.htm?i=&p=&c=m&guid=on
「二人の半蔵あれこれ」
サイト主が言ってるように「妄想」かも知れないのですが
服部家やら柳生家やら「鬼」やら「服部保長が足利家から出た理由」やら
なかなか面白かったです。
略
服部半蔵正成の父は服部半蔵(半三とも)保長といい
元々はこの伊賀・服部家の出なのですがはじめは足利将軍・義晴に仕え
「石見守」を称したと言われています。
その後、保長は三河国・松平清康つまり徳川家康の祖父に仕えます。
この三河国で生まれた服部保長の子供が一般的に有名な服部半蔵正成です。
ちなみに何故保長が将軍家を見限ったかというと
この時期、足利将軍は衰退期にあり保長は将軍家を見限ったのではないかと言われてます。
ただ自分はこれは間違いではないかと思います。
この頃の足利家は管領・細川家との争いに敗れ京と近江を
行ったり来たりする生活が繰り替えされています。
一方の松平家は松平清康は家臣によって暗殺され、
清康の息子・広忠の代になると今川家に降伏、
そして広忠は暗殺され、彼の息子・竹千代(後の徳川家康)は
織田家・今川家と人質生活を強いられる事になり
三河国は当主不在の時期もあります。
衰退の規模でいえばどっちもどっちなんですよねぇ(笑)
ならば如何なる理由で保長が足利家を出ていった理由を考えるとすれば
それは保長の家柄にあったのではないかと思います。
忍者とは隠れて行動する、つまり隠密行動をする者です。
一方、鬼の語源は「隠」にあると言われています。
隠れているもの、そこから目に見えず、この世のものではない事を意味したそうです。
そこから人に災厄をもたらすもののイメージが定着したと言われています。
つまり鬼=隠であり
忍者とは鬼でもあったのではないかと考えられます。
つまり服部保長は鬼を束ねる者と考えられたのかもしれません。
こういう鬼の原型が出来たのは平安時代の京の人々だと言われています。
ですので足利家の家臣は保長のその鬼の力を欲したのかもしれませんが
足利将軍もしくはその家臣のいずれかは保長を嫌ったのかもしれませんね。
そうして保長を京から追いやったのかもしれません。
「鬼は外」ですからね(苦笑)
おそらくそんな経緯があって保長は足利家から出ていったのではないかと思います。
それから保長は松平家に仕えます。
略
続く
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月31日 14時40分13秒 ) | パスワード |
略
服部半蔵と渡辺半蔵はもうひとつの痛みを共有する事になります。
それは松平信康の切腹です。
松平信康は徳川家康の長男で武勇に優れた武将だったようです。
しかし、気性が激しくて領内の民を身勝手な理由で殺したとか
家臣の面前で重臣を辱める事があったそうです。
信康の母・築山殿は今川家の出であり
信康の妻・五徳は織田信長の娘であることから(桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたため)
妻と母の仲が悪く、築山殿が信康と織田の敵である武田家に内通したとの話が出てきます。
これが織田信長の耳に入り、信長は築山殿と信康の処刑を家康に要求する訳です。
その噂は事実無根であると家臣達は抵抗しますが
結局、築山殿は護送中に殺害され信康は自刃します。
この時、服部半蔵は信康の介錯を命じられますが
服部半蔵は涙で信康を斬る事が出来ず、検死役の武士が介錯したとの話があります。
これが俗に言う「鬼の目にも涙」の語源になったとかならないとか(笑)
それに信康と服部半蔵は面識がないので
この話自体、後世の創作ではないかと言われていますが
とりあえずここではこれは事実という事で仮定するとして。
松平信康の傳役として補佐していた人物がいます。
それは平岩親吉といい、彼は服部半蔵と同い年です。
そして平岩親吉の妹は渡辺半蔵の妻です。 へぇ〜
まぁこれはちょっと遠いかもしれませんが
三人は同じ痛みを共有したようなカタチになるという次第です。
それから後の服部家ですが
服部半蔵正成は伊賀忍者を統率する立場になります。
この時、伊賀忍者は伊賀同心となっていきます。
1596年に彼が亡くなった後、正成の嫡男・半蔵正就が後を継ぎます。
略
さて、こうして服部家のその後をまとめてみましたが
こうしてみると何者かが服部家を取り除こうとしたのではないかという風に感じます。
その者は服部半蔵が率いる伊賀者の力を怖れたのではないか。
そのために伊賀者が使う忍の業を弱体化する必要性がある。
そのために伊賀者を指揮する人物を自分達の思い通りになる人物である必要がある。
そのために伊賀者を指揮する服部半蔵が邪魔だった―――
ではないかなと(; ̄∀ ̄)ゞ
それを象徴するのが「半蔵門」ではないかと思います。
服部半蔵正成は徳川家の武将として活躍した武将です。
でも、それであれば服部半蔵の他にも活躍した武将はいます。
それなのに何故他の武将を差し置いて「半蔵」の名が残ったのでしょう。
「半蔵門」の由来は服部正成・正就親子がこの門の近くに屋敷を与えられた事から
この名が由来したと言われています。
しかし、前述の通り服部正就は伊賀同心支配の任を解かれ行方不明になり
伊賀同心支配は別の者が担当していたようです。
つまり服部正就は半蔵の名に泥を塗った事になります。
にも関わらず現在に至るまで何故「半蔵門」の名が残ったのだろうかと。
伊賀者にとって「服部半蔵」の指揮下で
活躍した功績を示す事を語り継ぎたいためという考えもあるようです。
それから服部家を排除しようとした者がいたと仮定して
はたして、それは誰かな?と考えてみました。
自分が仮定をたてた人物として考えたのが柳生宗矩でした。
彼は1594年に父と共に徳川家康に仕え、1600年の関が原の戦いで功をたてます。
明くる1601年に2代将軍徳川秀忠の剣術師範役、ついで3代将軍家光の剣術指南役になっています。
テレビドラマではいつも悪役政治家をやってますからねぇ。
まぁこれを裏付けるひとつになるかどうかはわかりませんが
徳川家剣術指南役として同時期に仕えていた
小野派一刀流の開祖・小野忠明の所領がわずか六百石であるのに対して
柳生宗矩は元々大和の豪族であったというのもありますが旧領二千石に千石を加増。
それから大名及び朝廷を監視し、こららの謀反から幕府を守る大目付(当時は総目付)の役を任じられてからは
ドンドンと加増を受け、一万二千五百石を領する大名となるのですからね。
これだけでも将軍家に相当の信任を受けていた事が感じられます。
まぁ裏柳生が本当にあったかどうかは知りませんが
柳生の里は伊賀にも近いから柳生家代々の「草」はいたかもしれないですね。
で、柳生家にとって邪魔な存在となるのは伊賀者を支配下におく服部家ではないかと。
まぁ自分の推論ではこれが限界(; ̄∀ ̄)ゞ
それから、これに対して服部家を支持し
かつ柳生家に対抗した者がいたかどうかについてはちょっと調べてみました。
略
また服部半蔵正就は大坂の役で行方不明になります。
一説には戦死したとも言われていますが、
もしかしたら柳生宗矩の手の者に討たれたのかもしれません。
またもしかしたら渡辺守綱が服部半蔵を匿い、どこかに逃がしたのかもしれません。
宗矩も守綱も大坂の役に参加していますので、そう考えられなくもありません。
まぁそうでないかもしれんですがねぇ。
それから時は流れ1730年、柳生家の五代目藩主が亡くなります。
彼は子供がいなかったためにその9年前に養子をとり、その彼が藩主となります。
つまり、これにより柳生家の血は絶えた事になります。
この養子は高田藩の藩主・松平定家からとってきました。
そして、この松平定家は元々は桑名藩の藩主でした。
この養子縁組に桑名藩家老・服部家が関わっているかはわかりませんけどね(笑)
略
ちなみにこの妄想については
ある程度の部分については高田崇史さんが書かれている「QED」シリーズを参考にしてます。
以上
いろいろ略しましたのでhttp://m.webry.info/at/ikasama4/200708/article_25.htm?i=&p=&c=m&guid=on
で全文をお読みください。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月31日 14時48分06秒 ) | パスワード |
レス<38>の永井随庵という人が、一方の服部半蔵正成を「渡辺半蔵」である、と記している
以下に見つけました:
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20151209/1449674232
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月31日 15時18分15秒 ) | パスワード |
出典http://www.j-texts.com/jikki/toshogufuroku.html
東照宮御實紀附錄卷一
すっごく読み難いのですが、この中の渡邊半蔵守綱の名が 服部半蔵 に化けたらしい
{{ }}をつけておきました。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20151209/1449674232
以下重要部分のみコピペ
信康事件
1.通説
信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したが、{{服部正成}}の介錯で自刃したという。この時、正成が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死の武士天方道綱(山城守)が代わって介錯したとの話も残る。{{道綱}}⇔{{守綱}}の間違いでは?
は家康が嘆き悲しむのを見て畏れ出家したと言われる。
東照宮御實紀附錄卷一の『柏崎物語』の部分が『三河物語』の話と混同したらしい。
2.『三河物語』
天方山城と服部半蔵を仰被付而天正六年戊寅御年廿にて十五日に御腹を被成けり
大久保彦左衛門忠教爺さんが半蔵違いの勘違いをした?
3.実際の話 東照宮御實紀附錄卷一の『柏崎物語』
三・殿二股にて御生害ありし時。
撿使として{{渡邊半藏守綱}}。天方山城守通興を遣はさる。
二人歸りきて。三・殿終に臨み御遺托有し事共なくなく言上しければ。
君何と宣ふ旨もなく。
御前伺公の輩はいづれも淚流して居し內に。
本多忠勝榊原康政の兩人は。こらへかねて聲を上て泣き出たせしとぞ。
其後山城守へ。今 度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。
千子村正と申す。
君聞し召し。さてあやしき事あもるもの哉。
其かみ尾州森山にて。安部彌七が ・康君を害し奉りし刀も村正が作なり。
われ幼年の比駿河宮が崎にて小刄もて手に疵付しも村正なり。
こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の 當家 にさゝはる事かな。
此後は御差料の內に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。
初半藏は三・殿御自裁の樣見奉りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あたはず。
山城見かねて御側より介錯し奉る。
後年君 御雜話の折に。
半藏は兼て剛强の者なるが。さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを。
山城守承り 傳へてひそかに思ふやうは。半藏が仕兼しをこの山城が手にかけて打奉りしといふては。君の御心中いかならんと思ひすごして。これより世の中何となくものう くやなりけん。
當家を立去り高野山に入て遁世の身となりしとぞ。
http://www.j-texts.com/jikki/toshogufuroku.html
東照宮御實紀附錄卷一
註を書いているうちにワタクシもこんがらがって来ました(汗)
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月31日 15時36分41秒 ) | パスワード |
http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_067.htm
渡辺道綱は守綱の高祖父でした。
占部城跡(岡崎市国正町字西浦)
占部七郷の領主 渡辺道綱の築城。
道綱―範綱―氏綱―高綱―守綱―重綱―治綱と居城。
渡辺氏が尾張藩祖徳川義直に仕えて名古屋に移るまで代々居城とした。
[45] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月31日 22時06分42秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本年もいよいよ大晦日を迎えました。といっても、毎日がお正月のような
豊かで平和な現代、特段の気持ちはありません。ただ、あと何回年越しでき
るのか…健康に気を付けて、また一年一年を無駄に費やさないよう、前向き
な気持ちを持って生きて行きたいと思います。
服部半蔵と柳生宗矩の関係…大変興味のあるところです。ここでキーマン
になるのは、「松下常慶安綱」だと思います。松下一族が家康や井伊家のま
わりで活躍しながら、いろいろな影の者達との間のつなぎ役としてどう動い
たのか…これがわかれば、影の世界が飛躍的にわかるようになると思います。
服部半蔵の世界は、どうも影の代表として脚色され過ぎているのではない
だろうか、分かり易そうでその実よくわからない。半蔵の実態をつかみたい
ものであります。
渡辺半蔵は、祖先は嵯峨源氏であるようであります。家康の近くにいて、
警備隊長のような役割を果たしていたということ、影の者達ともつながって
いたのではないかと推測しております。一族には、三河一向一揆に加わった
り、松永久秀に仕えたりした者もおります。同じような人に、本多正信とい
う人がいます。
戦国の世の実態というもの、この目で見たいものです――
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月01日 02時53分04秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
こちらは大晦日の朝が明けたあたりです。
夜中の「紅白」の星野源の「恋」を見ました。聞きました、かな?笑
「コウノドリ」の四宮春樹で区別がつくようになりました。
1月11日からは「逃げ恥」が始まります。
星野源は役によってイメージが全然違います。それだけ大物になる可能性が有るのかも。
としたらトクな人です。
歴史上の人物も影の有る分かり難い人がトクかも。
それにしても爺さんは渡辺半蔵と服部半蔵を勘違いしたのでしょうか?
または
あの場に2人の半蔵が、ちゃんと2人、いたのかも。
大久保家の人間が服部家の人間を取り違えるなんて考えられないですから。
それか
わざわざ服部半蔵の名をねじ込んだ?
大久保長安事件で一緒に潰された服部家の没落を惜しんでくれて?
三河物語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E
略
上・中・下の3巻からなり、忠教の実証可能な見聞や自身の事蹟にかかわるのは下巻だけで、上・中巻は諸記録や伝聞をもとにしての編述であり、その出典は挙げられていないため信憑性は定かではないとされる[2]。
戦国時代から江戸時代初期を知るための一次史料であるが、徳川びいきの記述が目立ち、創作もある。一例として、松平信康の切腹事件についての記述は、『家忠日記』や「安土日記」(『信長公記』の一部)、『当代記』などの記録と食い違っていることから、事実ではないと見られている[6][7]。
さらに踏み込んで、政治性を強く帯びた「譜代プロパガンダの書」だという指摘もある[8]。
また、内容には歴史著述だけでなく、忠教の不満や意見などがそのまま現れている。宮本義己は主筋の家康についても敬称を用いないことから、偽りを記さないという高言も、事実関係の是非を論じたものではなく、嘘を書かないという理解において首肯できるとしたうえで、誤字や当て字、一方的見方や邪推の類もあるが、徳川将軍家草創時期の初期資料としての価値は高いとしている[9]。
珍しい特徴として、仮名混じりの独特の表記・文体で記されており、この時代の口語体を現代に伝える貴重な資料としての側面もある。
[47] | 三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月01日 09時37分56秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
大久保忠教(ただたか 通称、彦左衛門)は――
>わざわざ服部半蔵の名をねじ込んだ?
>大久保長安事件で一緒に潰された服部家の没落を惜しんでくれて?
このあを様の見解に同感です!
また、忠教は特に長安事件で憎しみがピークに達しました。もとより
本多正信に対してはすごく反感を抱いていました。正信は反服部半蔵家
で、大久保家は親服部半蔵家であったのだと推察いたします。武断派と
して通じるものがあった。本多正信のスタンスは智謀ということで、武
断派とはそぐわなかったのではないだろうか。
だが、時代は智謀の方に傾いて行く。即ち、柳生の時代になって行っ
たということなのか――
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月01日 10時12分22秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>忠教は特に長安事件で憎しみがピークに達しました。
>もとより本多正信に対してはすごく反感を抱いていました。
なるほどねぇ〜
本多正信・正純父子には怒りで一杯ですからね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E
三河物語解説より
>本多正純が佐竹氏に預けられた件(寛永元年=1624年の出来事)が記されていたり
大久保彦左爺さんは(ザマァ〜)と思ったのかもですね。
>正信は反服部半蔵家で、大久保家は親服部半蔵家であったのだと推察いたします。
>武断派として通じるものがあった。
>本多正信のスタンスは智謀ということで、武断派とはそぐわなかったのではないだろうか。
>だが、時代は智謀の方に傾いて行く。
>即ち、柳生の時代になって行ったということなのか
なるほどねぇ〜
だからこそ武断派譜代の皆さんに読み継がれたのかもですね。
「うちの家は血を流して徳川家に仕えた」という矜持がありますものね。
再度コピペ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E
>忠教は「門外不出であり、公開するつもりもないため他家のことはあまり書かず、子孫だけに向けて記した」
門外不出+公開するつもりない
↓
渡辺半蔵の家は尾張藩の家老になって名古屋にいるから
ちょこちょこ自分の都合の良いように話を盛ったのかも、ですね。
例えば信康の自刃の場にいたのは実は渡辺半蔵だけど服部半蔵に変えた、とか。
>「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓(えこひいき)を目的として書いたものだとは思わないで欲しい[3]」
服部家や青山家のことだって考えてたよ、
でしょうか?
>と記しているが、
>書かれてすぐに写本が作られた形跡があることが指摘される[4]。
譜代仲間の皆さんは読みたかったでしょうね
特に三河で貧しい暮らしをしながら松平家に代々仕えた家は。
大久保彦左は愛されキャラだったのでしょうね。
だから渡辺半蔵のことなのに服部半蔵と書かれてても指摘する人はいなかったのかも。
門外不出、ですしね。
「渡辺んとこは尾張におらっせるで、渡辺に知らせなんだらいいだらぁ〜」と?
「真実」ではないけど「形を変えた事実」は散らばめられてるんですよね。
なるほどね〜
レス<38>の永井随庵が黙ってられない人で「真実をバラした」ということですね。
笑
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月01日 10時44分45秒 ) | パスワード |
永井随庵
http://www.geocities.jp/enshucastle/enshyushiro/ninaharatori.html
【 浜松御在城記 】
徳川家康が遠江入りした永禄11年(1568年)から天正10年(1582年)の武田氏滅亡に至る15年間に亘る浜松在城当時の事暦を編年体に叙述したものである。
著者については定かではないが、おそらく浜松蕃主青山忠雄の家臣永井随庵(ずいあん)の著述であろうと思われ、延宝(1673年〜1680年)の末から天和年間(1681年〜1683年)にかけて成立したものと推測されます。
青山家の家臣でしたか。
青山忠雄の家系:
青山氏は、上野国の出身で、忠門の時に近江国から三河国へ移り、
額田郡百々村を領して松平広忠に仕えたという。
曾祖父母は曾祖父が青山忠成、曾祖母が天方通興女 天方通興は信康の検死役の天方通綱の子
祖父母は祖父が青山忠俊、祖母が大久保忠佐の娘 =彦左爺さんの姪
正室は真田信政の娘。 真田信政=本多忠勝の娘の小松姫の子供ですね。
ということは
青山家では信康の自刃の時に天方と渡辺半蔵がいたことになってるのに
大久保彦左爺さんのせいで服部半蔵に化けた
と代々伝わってて永井随庵がバラしたのかも。
でも世間の信用度は 大久保彦左爺さん >>>> 永井随庵 で今日に至る
なのでしょうね。
それにしても通字でゴチャゴチャになって系統がゴチャゴチャになってしまい、こんがらがってしまいます。
でも一族なんですよね〜
関係者はみんな親戚(キッパリ)だからこそ「真実」は脇に置いといて良いのかもですね。
あ〜あ。
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月01日 11時32分54秒 ) | パスワード |
去年だか一昨年だかに浅間神社の神主さんに服部姓の方がいらっしゃると書いた記憶です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%98%BF%E5%BC%A5
観阿弥最後の舞台となった静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社には、26世宗家観世清和による顕彰碑がある。
静岡浅間神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E6%B5%85%E9%96%93%E7%A5%9E%E7%A4%BE
静岡市街地に接する賎機山(しずはたやま)の麓に三社が鎮座する。
1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。
『風姿花伝』によれば、能楽の始祖観阿弥は今川氏の氏神である当社に能を奉納し、この地で死去した。
そのため当社の能舞台は観阿弥終焉の舞台としても知られ、境内には26世宗家観世清和氏による顕彰碑が建てられている。
当社は海外雄飛で有名な山田長政の産土神としても知られ、長政奉納の戦艦図絵馬(写)が残されている。
元NHKアナウンサー山川静夫の父親は、当社の宮司を務めていた。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月01日 22時52分29秒 ) | パスワード |
<50>の書き直し
三つ柏さん
レス<38>
>もし随庵説が正しいとすれば、体制側が何か目的があって半蔵を持ち出し、「涙の脚色」をしたと考えられます
犯人は大久保彦左衛門忠教爺さんでしょうね。
彦左の兄弟:
忠世(子が小田原の忠隣)、忠佐、忠包、忠寄、忠核、忠為、忠長、(忠教 爺さん)、忠元
忠佐の子
竹丸、忠兼、娘(久兵衛室)、 娘(本間平兵衛室)、娘(青山忠俊正室)、 娘(服部元延室) 養子:養女(高木正次室)
服部元延
この人は?
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月01日 22時54分21秒 ) | パスワード |
移させてくださいね。
[52] 三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月01日 17時42分36秒 )
空の青海のあを様
「服部保長」の長男と言われるのが「保俊」、保俊の子が「保英」、保英
の子が「元正」、元正の子が「元延」、であります。つまり、元延は保長の
曾孫てあります。保俊は保忠とも記します。大久保治右衛門忠佐の娘を娶っ
ております。
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月02日 03時36分49秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101576.html
スレッド85を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
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