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 投稿番号:101567 投稿日:2016年10月19日 11時04分23秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXXI(課題確認24)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101564_53.html
長上郡の服部氏族LXXX(16年の課題確認23)
スレッド80の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月31日 13時03分49秒 ) パスワード

青山家の特徴
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101566_41.html
レス40より転載



 @A「青山忠教」とB「青山忠世」は兄弟。


 <A系>
 A「青山忠教」の娘と服部半蔵の従兄弟?(後で確認します)の「服部平蔵
 正信」が結婚し、「服部正尚」と「服部七右衛門」が生まれます。

 B「服部七右衛門」は、一旦「服部正尚」の養子となり、B「忠世」の子
 「忠重」の養子となる。



 <B系>
 C「青山忠世」の子には、C「忠重」の外にD「忠門」がいる。



 <C系>
 D「青山忠世」の子「忠重」には子がなく、A系「服部七右衛門」を養子
 として迎える。「服部七右衛門」は改名し、「青山成重」と名乗る。

 E「成重」は徳川秀忠の後見役となる。ちなみに、兄(戸籍的には義父と
 なった)「正尚」は「西郷の局」の養父であり、「秀忠」の祖父にもなる。

 F「成重」は息子がありながら、「大久保長安」の息子を養子にしている。
 後に、大久保長安事件の連座責任を問われる。



 <D系>
 G「忠門」の子が「忠成」で、妻は「信康」の介錯をしたとされる「天方
 通興」の娘である。

 H「忠成」の子に「忠俊」外がある。つまり「忠俊」は「天方通興」の孫
 ということになる。

 I「忠俊」の弟「通直」は「天方家」に養子に入り、天方家を継ぐ。

 J「忠俊」の子が「宗俊」、「宗俊」の子が「忠雄」、「忠雄」の子が「
 忠重」で、「宗俊」から三代続けて浜松城の城主(浜松藩の藩主)を務めた。

 K「忠俊」の父「忠成」は、徳川家康の江戸移封後に伴って老中となり、
 伊賀100人組(忍衆)の「頭」も兼務した。100人組は4隊あり、
 「根来組」、「甲賀組、「伊賀組」、「25騎組」があった。それぞれ
 与力20騎(25騎組のみ与力25騎)、またそれぞれ同心100人を付け
 られた。

 L「忠俊」の妻は、あの信康事件の二俣城主「大久保忠世」の弟「大久保
 忠佐」の娘である。
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月31日 15時05分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一つ訂正:G「忠門」の子が「忠成」で、妻は「信康」の介錯をしたと
      される「天方通興」の娘である。
              ↓
      G「忠門」の子が「忠成」で、妻は「信康」の介錯をしたと
      される「天方通綱」の妹である。「
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月31日 16時21分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 説明書きを並べても、そこに想像力を働かせないと、ただの文字の羅列
になってしまいます。想像力を働かせるということは、「その時、その人」
になりきるということであります……青山宗俊は、祖父忠成が伊賀百人組
のお頭であったということ、もっというと伊賀忍衆のおやかたであったと
いうこと。将軍の警備隊、親衛隊でもあり、伊賀ルートの情報の要であっ
たと推測いたします。そして、もう一方の母方の祖父は、服部半蔵と二俣
城に行き、半蔵の代わりに信康の介錯をして高野山へ出奔してしまい、そ
の子孫としては、トラウマを背負っているとみます。しかしながら、信康
を斬れなかった半蔵に対しては、大きな貸をつくってくれている……とい
うことになるのかも知れません。もはや宗俊は上忍の子孫といってもいい
のではないか……?

 さて、青山氏と内藤氏の関係でありますが、直接の関係は、「青山忠門」
の娘が、家康に仕えた「内藤刑部太夫助吉」に嫁いだというところにあるよ
うです。「忠門」の子が「忠成」、忠成の子が「忠俊」で、その祖母が内藤
家出身であったため、忠俊は羽鳥の喜平にある内藤家の実家に世話になるこ
とになった……。

 さて、いよいよ内藤家です――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月31日 22時34分16秒 ) パスワード

市野氏について



http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101566_41.html
より転載


レス28

市野康彦氏の『家譜 市野家物語』より



 @市野家第4代目の「惣太夫眞防」の妻は、清原忠明小畠(小畑)快元の
 娘であった。青山宗俊が蟄居した小林の心宝寺の墓地には、小畑氏族の
 墓がたくさんありました……。

 A「市野村の富民に市野惣太夫實久(眞久)といえるものあり。天性馬を
 好み、馬の鑒定(かんてい)に達せしと聞し召。遠江の代官たらしむ。」
                     (『駿府記 古老物語』)
 
 B袴田家(市野氏の先代)は、信濃、甲州、関東(一説に陸奥までも)に赴
 き、徳川家康の馬を求めた。

 C徳川家康に差し上げた馬が鹿毛(かげ)馬で、この馬を大変気に入り、
 慶長5年(1600)年、徳川家康から京都伏見に呼び出され、老馬となった
 この鹿毛馬を引き取った折、天領の代官を命ぜられている。

 D元亀3年(1572)、三方ケ原の戦いに馳せ参じたいと申し入れたが、そ
 れには及ばず、近郷に騒動なきようにと申された。信玄の本隊は、秋葉
 街道を南下して、市野で90度方向を変え、三方ケ原に向かっている。

 E市野家が血を引く浅井家との関係としては、長政の遺児として長女で
 秀吉の側室の淀殿、次女の京極高次の妻、三女の秀忠の正室お江がいた。
 (市野氏は何らかの情報収集・伝達が可能であったかも知れない。)

 F徳川家康は、浜松在城17年間の内に、しばしば市野に鷹狩に来ては
 市野家と万斛(まんごく)村の大庄屋鈴木家に立ち寄った。鈴木家には阿茶
 局を預けていた。阿茶局は、大阪冬の陣の和議の使いとして活躍している。

 G市野惣太夫は、家康の良き碁相手であった。

 H家康が市野家に滞在している時、市野家で家康の刀を研いで差し上げた。

 I家康は、小田原征伐の後、近江にも領地をもらった。市野惣太夫は近江
 の代官も命ぜられていた。(先祖の地で、情報が得られやすいということか)



レス31

 J関ケ原の戦い後の1601年に、豊臣系から徳川系に藩主の入れ替えが
 されました。浜松は、堀尾忠氏17万石から、松平忠頼5万石になり、旧
 浜松藩の領地を分けて天領とし、市野家に与えた。その天領は、長上郡の
 市野村、上石田村、笠井新田村、石原村、寺嶋村、新寺嶋村の6ケ村、石
 高2830石である。(服部中が3500石でありましたので、それにほぼ
 匹敵いたしますし、上石田村については、服部中と相給となります。)


 K市野家では、家康との出会いとなった時の馬、お預かりした馬を飼い、
 その後明治時代になるまで代々馬を飼っていた。それらの馬の霊を弔い、
 お墓や馬頭観音を建てて供養した。

 L1604年に天領の代官として統治するにあたり、市野村に17石余り
 の屋敷地(約5000坪)を賜り、「廩米(りんまい 給金としてのお米)」
 100俵を後に与えられた。

 M徳川幕府が開かれたのは1603年。翌年、市野惣太夫眞久は天領の
 代官として江戸へ出府した。(江戸には代官頭として、伊奈忠次や大久保
 長安等がいた。秋鹿氏も天領の代官であったが、江戸詰めになったのか
 どうか、今のところわかりません。服部中などは、旗本領の代官であり
 ましたが、旗本として江戸詰めとなって、地元には地代官をおきました。
 ということは、市野氏も地元に地代官、またはそれに匹敵する大庄屋を
 置いた可能性があり、ひょっとすると、松島氏あたりが抜擢された可能
 性はなきにしもあらず……。)


 

レス34

N二代目市野實次(正次)が代官の時、家光のお守役であった青山伯耆守
 忠俊が、家光の勘気を蒙り、その子宗俊とともに小林に蟄居した。そこ
 で二代目惣太夫は、弟の内匠―市野吉兵衛(後、眞郷)を側要員として差
 し出した。

 O青山家は宗俊が浜松藩主になってより、息子の忠雄、孫の忠重と3代
 にわたり、浜松城主を務めたが、市野家も吉兵衛、その息子の伊右衛門
 (早世)、孫の儀左衛門と3代に亘り、青山家に仕えている。(青山家と
 市野家には何か引き合うものがあったのだと思われます。)
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月31日 22時40分19秒 ) パスワード

市野氏と松島氏の関係  そして  小笠原氏と山下氏の関係


レス24

 「市野」姓を名乗った「眞久」の親は、「袴田利宗」。
 「利宗」は「寺田」姓であったが「袴田」姓を名乗った。
 「利宗」の親は「寺田右京之進眞宗」。


 つまり、市野家は寺田家であったということになります。

 その寺田家の家紋は「丸に一文字」、つまり市野家の家紋と一致いたします。


 この寺田氏は、原権守「藤原師清」を祖とする原氏流という。

 市野氏の祖は「浅井」氏と言われていますが、原系の「寺田」とも合体しているものと推察されます。



松島氏は、よく調べると、
松島右衛門対助の曾祖父の妹が「寺田」家に嫁に行っています。
そして対助は市野惣太夫眞久(先代袴田→先代寺田)の妹を嫁にしている。


市野家とはすでに曾爺さんの頃からの付き合いであったということになります。

曾爺さんの生まれは、宝徳三年でありますので、1451年、 応仁の乱は1467年ですから、曾爺さんはその時16才であったということになります。



 ということは、少なくとも応仁の乱後には、この地に居住していたということになります。



伊那の松島家が滅びるのは、1556年でありますので、
この時の落人が遠江に逃れて来た時には、すでに松島右衛門家はいたということになりますので、それよりも先に遠江に来た松島家ということになります。



小笠原宗政(政長の弟)の孫の「政忠」が竜洋白羽の山下家に養子になったのが、1394年ですので、
あるいはその頃に小笠原家と行動を共にして松島氏もやって来たのかも知れません。


安田義定(小笠原氏族)がこの地にやって来たのは1180年、その頃にもチャンスはある……。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月01日 13時27分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 旧羽鳥庄・貴平の内藤家について、地元郷土史家の神谷昌志氏の『はままつ
歴史発見』の中から紹介いたします。神谷氏は記者もやっていましたので、徹
底して足を使った取材と、分かり易い平易な文章で、単なる郷土史家以上の評
価を得ておられます――
 「貴平は東名高速道路浜松インター北側に接している農村地帯である。その
 貴平には、内藤姓を名乗る旧家が二軒ある。「表内藤」と「裏内藤」と呼ば
 れているが、青山氏が蟄居したのは表内藤家である。本瓦葺きの屋敷門を構
 え、時代を感じさせる母屋である。
  同家の歴史は、奈良時代秦川勝の末子貴平が、蘇我入鹿の乱を避け、三人
 の皇子の供をしてこの地に住し、時の来るのを待ったが、皇子三人が次々と
 他界したため、貴平はこの地にそのまま土着したといわれている。しかし、
 これはあくまでも家伝であって、史実かどうかはわからない。内藤家の先祖
 が明確に歴史に登場をみるのは、内藤弥市右衛門助尭の代からである。内藤
 家系図によると、助尭は後醍醐天皇の皇子宗良親王に供奉して、一旦浜名湖
 北の井伊谷に入ったが、のち先祖由緒の地貴平に定住したとみえている。
  「助尭」を初代とする内藤家は、その後二代、三代と代を重ね、四代目の
 「弥市右衛門助久」のとき徳川家康に奉仕し、三方原の戦いに参戦、そして
 五代目「刑部大輔助吉」も家康に仕えていることが系図にしるされており、
 末尾に「助吉の妻は三州青山郡五千石の領主青山金兵衛の娘で因幡守殿の
 先祖なり」とある。つまり、五代目の助吉の妻が青山家からきているので
 ある。青山氏は三河に本拠を置いた武家で、室町後期のあるじ青山忠門は、
 家康の父松平広忠に仕えて各地を転戦、戦いで受けた傷がもとで他界した。
 このとき忠門には一人の男子と二人の女子がいた。その女子のうちの次女
 が内藤家に嫁ぎ、助吉の妻となった。青山伯耆守忠俊が内藤家に蟄居した
 のはそうした縁戚関係によるもので、忠俊が身を寄せた当時の内藤家のあ
 るじは助吉の子で六代目にあたる「久成」であった。忠俊と久成は叔父・
 甥の関係にあたる。」
ということであります。

 次には、郷土史家川島幸雄氏の『小野篁と遠州小野一族』という著書の中
から内藤家について抜き出します――
 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月01日 14時21分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。


内藤家と青山家は繋がってましたか。
そして両家ともに南朝方。


そうしますと松島家も南朝方だった可能性が?
[8]酒井ともさんからのコメント(2016年11月01日 17時32分22秒 ) パスワード


皆様、こんにちは。久しぶりの横レスです。

御前崎市朝比奈にある、曹洞宗閑田院寺史より抜粋

「閑田院 駒所となる」
閑田院の付近はむしろ軍馬を隠しておいて必要に
応じて騎馬隊に補充するための場所には適切では
ないか。特に山城などで馬を置く場所が狭いとき
など城から離れた所に「隠馬の谷 おんまのたに」
と呼ぶ谷地に馬を密かに忍ばせておいた所があり
ます。ここ閑田院の付近も「おんまの谷・駒が谷」
として高天神の合戦の折、利用された所ではない
でしょうか。

これより先、閑田院付近を隠馬場の適地として、
大須賀(康高)に示したのは浜松の市野惣太夫で
はなかったか。

市野は家康に随身する以前から遠州や隣国各地の
馬に関することを相当こまかく調査してあり、
大須賀に近づき、駒場設置に協力したものと推定
されます。

主なき閑田院は高天神攻城戦の間は隠馬場として
の役割を果たしたと推定されます。

この間、駒所の管理をしたのが市野ではなかったか。
市野は浜松の宗安寺を建てる時、その地域の代官と
して宗安寺の開基となった人物です。

なお、大須賀康高は城東郡笠原庄中村満勝寺に、
付近の屋敷・坊門前や斎藤宗林の屋敷などを寄進し、
又満勝寺を鷹狩りに使用するため朝比奈の閑田院の
古家を持っていって建てる予定であるから、仔細は
小笠原与左衛門・井上半右衛門・天野金兵衛の三人
と相談して決めなさい、との書状を与えています。
(この書状は年号不詳であるが、高天神戦の終わっ
て間もない頃のことえあろう)

                   以上



市野惣太夫は市野宗安寺同様に閑田院の中興開基と
して祀られておりますので、高天神攻城戦から終戦
以後も朝比奈の地に深く関わったのは間違いないよ
うです。

ただ、地理的に考えて高天神攻城戦の頃、御前崎市
に属する朝比奈の地は武田領に属しております。
のんびりと徳川方の馬を飼えるような場所だったの
か、個人的には疑問があります。

むしろ、長篠の合戦を経て、高天神落城にて南遠が
徳川領になり、晴れて徳川家の秘蔵隠し駒場として
市野惣太夫が頭となって運営した方が自然な気がし
ました。



>レス34

>N二代目市野實次(正次)が代官の時、家光のお守役であった青山伯耆守
 忠俊が、家光の勘気を蒙り、その子宗俊とともに小林に蟄居した。そこ
 で二代目惣太夫は、弟の内匠―市野吉兵衛(後、眞郷)を側要員として差
 し出した。


もしかしたら当家も関わりのあるのかもしれない、
市野惣太夫の話ですので、少しですが情報を書か
せていただきました。

[9]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月01日 23時17分44秒 ) パスワード

酒井とも様

 市野氏の情報、ありがとうございます。御前崎(浜岡)の方にも市野氏の
活動の軌跡があったとは、新鮮な驚きを感じます。
 市野氏のその仕事とは、いわゆる「馬喰(ばくろう)」に近いものだった
のでしょうか。その辺を詳しく知りたいと思っているのですが、どうも今
一つはっきりしません。たぶん、馬に関することは、戦国の世においては、
機密事項だったのかも知れません……。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月01日 23時33分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の午前中は、各種資料の整理(ファイリング)をいたしました。午後か
らは、森林公園に行き、2時間ほど山歩きをいたしました。最近は運動不足
で太り気味、いい汗をかきました。紅葉もみごとでありました。今が最高の
季節です。

 さて、内藤家についてですが、ウォーキングの疲れで眠くなってきました
ので、明日にいたします――
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月02日 10時37分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日のファイリングは、「服部氏族」、「服部中家」、「青山家」、
「市野家」に加え、「内藤家」、「長谷川家」、「酒井家」、「伊奈家」
の新しいファイルを独立させて作るというものでした。もちろんその他に、
タイトル別のファイルは「松島家」をはじめ、既にいくつもありますが、
未整理の資料も山ほどありますので、それらの内容をもう一度復習しなが
ら分類して行きたいと考えております。「長上郡の服部氏族」も30ケ月
に及ぶ膨大なデータとなっておりますので、一度じっくり見直したいと思
っております。頭の中に残っているのは、たぶん半分はないでしょう。同
じ文章を書けといわれてもたぶん無理だと思います。その時その時の頭の
中の情報の記憶は書いたとたんから薄くなって行きますので。重要なこと
だけはノートに書き込むようにしております。今9冊目となっております
(とも様から過去にいただいた市野家の情報も、ノートに記しております)。

 さて、これらのファイルを見ますと、それぞれ相関し合っているという
ことがわかります。何々家単独の存在というのはあり得ないということが
よくわかりました。必ず「類」がいて「友」を呼ぶ(集まる)という法則は
動物世界、人間も含めて全般に当てはまることであることを強く感じてお
ります……。

 さて、これから「内藤家」に移ります――
 
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月02日 11時47分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 郷土史家で川島幸雄氏という方がおられます。その著書としては――
 @『小野篁と遠州小野一族』
 A『馬郡(まんごおり)町藤田権十郎家の華麗なる系譜』
 B『井伊氏家系史考』
等があります。内容的には、よくもここまで情報を収集したなと感心する
する程、郷土に密着した情報を拾い集めております。上記の本は浜松中央
図書館他に置かれていますが、私はいずれも重要部分はコピーして持って
おります。
 @の『小野篁と遠州小野一族』は、遠江にやって来た「小野篁」の子孫
が、いかにこの地に根付き発展したかという話であります――


[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月02日 12時48分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

>郷土史家で川島幸雄氏という方がおられます。
>その著書としては――
     @『小野篁と遠州小野一族』
     A『馬郡(まんごおり)町藤田権十郎家の華麗なる系譜』
     B『井伊氏家系史考』
      等があります。


http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101546_59.html
長上郡の服部氏族LXⅫ(16年の課題確認15)
レス<42>に既出ですね。



以下コピぺ:

藤田氏について記します。

郷土史家の川島幸雄氏の著作に『馬郡町藤田権十郎家の華麗なる系譜』という著作があります。
もう一冊『小野篁と遠州小野一族』という本もあります。

両方ともなかなかの大書(内容的に)でありますので、簡単に述べますと、

小野篁の長男が篁の死後、その骨臓器を持って遠江赤佐郡にやって来て葬礼を質素に営み、塚を造り小野篁神社を建立したという。

この小野氏から始まる小野一族が遠州に繁栄した。
その小野氏の中に「藤田」の姓を名乗った者がいた。

篁からの八代孫、「政行」である。
政行から数えて十七代孫の「藤田重夏」が雄踏町宇布見村に居住するようになったということであります。



さて、ここからがすごいところ、「服部権大夫政信」登場です―

「その藤田重夏、及び子の彦左衛門は、元和四年(1618)江間与衛門一成の後を受けて志都呂村に陣屋を構えて浜名湖の今切関所奉行を勤めた、当時四十才前後であった服部権大夫政信と、その弟の服部杢之助政重に仕えて、その陣屋役人となり敷知郡宇布見村領家に屋敷を構え服部氏に奉仕し活躍した家柄である。

服部氏に仕えた藤田家は本来であれば十万石を越す大名家に匹敵される家柄にあり今切関所奉行となった服部家や次の今切関所奉行となった服部仲家(服部仲保俊)の陣屋地代官を勤めるような家柄ではなかったのである。」



ということで、オチまでついてしまいましたが、
この藤田重夏の父親は、藤田重信(信吉)といい、下野国西方藩一万五千石と旧領であった下野国那須十万石を領していた。

大阪夏の陣に榊原康政が痔疾による出血で落馬し、それが元で病死してしまう。


藤田はたぶん当初無理をするなと計らっていたのだろうが、不幸な結果になってしまった。

そして榊原の老臣から戦功を立てる機会を失ったことを訴えられ、そして改易となってしまったようです。

 

服部家―政信・政重家と服部仲家のことが書かれていますので、後で書き写してみます―
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月02日 15時40分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤田氏について過去に記しておりました。藤田氏は後々服部政信を初めと
して、服部中家の地代官を馬淵氏等と共に務めています。この藤田氏につい
ても、また小野氏についてもそれぞれファイルを作るつもりであります。
 
 川島幸雄氏の『小野篁と遠州小野一族』の中には、時代的な背景もあり、
また小野家との関係もあり、「青山家」と「内藤家」のことが詳しく出て
まいります。「松島家」についても泰助の次代より少し言及があります。
それらの多くは姻戚関係が多いのですが、正に人間関係のつながりを覗か
せてくれます。

 それでは、その中から「内藤家由緒書」というものを要約し、以下に書き
出します――
 「@元祖 秦 川勝

  A2代 秦 喜平
  川勝末子、上宮太子(聖徳太子)薨去の後、蘇我入鹿の乱を避け、皇子
 3人(御諱不詳)供奉し遠江国に蟄居し、姓を「内藤」と改め、木部の林
 に1村を開発して3人の皇子に仕え、時節を待てど、ついに運至らずし
 て、皇子3人はそれぞれ薨去してしまった。その後その里の郷士となり、
 その村を「喜平」と云うようになった。3人の皇子は三ケ所に産土神と
 して崇め祀られた。」
という前提があり、時代は15世紀に――

 「初代 内藤弥市右衛門助堯
     喜平村開発初代、藤原助堯。秦喜平より27代の後裔。享徳
     2年(1453年)没。

  2代 内藤丹波徳吉

  3代 内藤弥市右衛門助家

  4代 内藤弥市右衛門助久
     妻は「匂坂長能」の娘。神君三方原合戦の節、神前にて祈念仰
     せ付けられ、御利運これあり。その節、八幡大菩薩と御切り付
     きの長剣、八幡宮へ納められた。その後、度々見に来られた。

  5代 内藤刑部大輔助吉
     妻は三州青山郡5千石の領主・「青山金兵衛忠門」。元亀年中、
     神君、織田家へ御加勢。近江州へ御出馬の時より御下知お供仕
     え、台徳院様(秀忠)へ度々お目見仕える。その頃、長丸、御時
     7才。「南無天滿大自在天神」の御筆、拝領仕る。

  6代 内藤弥市右衛門久成
     妻は遠州代官の一人、「平野三郎左衛門」の娘。
     青山忠俊が家光の勘気を蒙り、領地を召し上げられたため、親戚
     である内藤家に1年ほど蟄居する。忠俊と久成は叔父と甥に当る。
     その後、小林村の内藤家の領地に家宅を造り、移動して蟄居。

  7代 内藤右京秀成
     妻は江州佐保山家老、「多賀谷太夫」の娘。早世したため、「筒
     井内蔵」の娘を後妻とする。

  8代 内藤弥市右衛門助永
     妻は遠州代官の内の「秋鹿長兵衛」の娘。

  9代 内藤刑部之介助行
     妻は駿河の与力「日下部平兵衛」の娘。

 10代 内藤弥市右衛門助栄
     妻は遠州「匂坂善兵衛」の娘。 

 11代 内藤刑部大夫助元
     妻は遠州安間村、「安間七郎左衛門」の娘。 」

以上が、遠江浜松の内藤家の18世紀半ばまでの名前であります――                                                                                                                                                                                                                       
    
 
 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月02日 22時31分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


内藤家の由来をありがとうございました。

「喜平」が今の「貴平」に変わったのですね。


三河や遠江の豪族は家康配下となって皆さん出世したのかと思いきや
そういうわけでも無かったのですねぇ。
かと思うと、お歴々の家と婚姻を重ねて家を末代まで続けた家もある。


人生ゲーム、自分はいったいどちらに転ぶ人生なのか、その機微とか脆さをもっと早く知りたかったものです。
高校生の内には。
やはり若い内にしっかり勉強しておかないといけないですね。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月03日 07時03分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、関・岐阜へ調査に行ってきます――
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月03日 23時53分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、突然ですが、思い立って「関の武芸川(むげがわ)」と岐阜の「鏡
島(かがみじま)」へ行ってきました。目的は、前者は永井氏の痕跡、後者は
服部氏の痕跡、即ちその地にあるお寺の墓地で、それぞれの家名の墓がない
か、あればその家紋は何かを調べることでありました。
 時間的には片道2時間から3時間かかりますので、現地での調査に費やせ
る時間はそれぞれ2時間くらいか……。
 結果的に言いますと、永井・服部について、一族・氏族の大規模な墓の集
団は見つかりませんでした。というよりも、時間が足りなくたくさんの寺を
回れなかったというのが本当の所であります。見つけた数は少なかったもの
の、永井家は「永井切梨」、服部は「丸に十字矢筈」でありました。今後も
機会があれば、さらに時間をかけて調べたいと思っております。

 しかしながら、予期しなかった発見が二三ありましたので、それを報告し
たいと思いますが、本日は眠くなってまいりましたので、明日とします――
 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月04日 02時12分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


「丸に十字矢筈紋」の服部氏って?
全く見当がつかないです。
どういう流れなんでしょうね?


切り竹矢筈十字

清和源氏頼光流

* 『見聞諸家紋』に収録された能勢氏の家紋。
**多田源氏の代表紋。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html

倉垣の能勢頼貞は後醍醐天皇に仕えて、元弘元年(1331)の後醍醐天皇笠置山挙兵に参加、幕府軍と戦っている。その功により建武の中興がなると摂津国能勢郷目代に任じられ、新政が崩壊したのちも宮方として各地を転戦した。興国四年(1343)、備前国綱浜において武家方赤松氏の大軍と戦い、敗れて戦死したと伝えられている。のちに頼貞の勤王心を聞いて感じるところのあった足利尊氏は、嫡男頼仲に備前十七ケ郷を与えたという。戦国時代に至って、頼貞の後裔という本太城主能勢修理大夫頼吉があらわれるが、系譜関係などは不明点が多い。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月04日 02時18分40秒 ) パスワード

検索でヒットしたものの16年前のスレッドで文字化けして読めないです。

記憶によれば服部孝徳さんのお家は元は尾張藩氏の服部氏。
大阪から東大に行った人だったような。



http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100027.html

2000/08/14
尾張藩に仕えた服部氏のご子孫の服部孝徳さんのお家の家紋「切り竹矢筈紋」について新人物往来社の本に載ってい ... 目結い紋」を用いていたのをキリシタンに帰依して「マルタクロス」に改め更に禁教後、その名称を「切り竹矢筈十字紋」と ...
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月04日 02時22分31秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415324474
以下コピペ


yellowshark1026さん
2008/3/1322:10:20


●家紋:十の字(じゅうのじ)
http://www.kamon.ecweb.jp/5075.html? *session*id*key*=*session*id*va...

小原節(鹿児島民謡)に出てくる【丸に十字】で有名な十字紋。

鹿児島の人なら誰でもご存知の「お殿様」薩摩藩主・島津家の家紋ですが、この十字は【キリスト教の十字架】や【馬の轡(くつわ)】と、同じだという人もいますが、それは間違いです。

実は日本にキリスト教が入る200年前から島津家では用いていますし、筆書体で「十」とかかれているから、轡でもありません。

これは、厄除けの呪符として用いたもので、十全の威力を表すものです。


●家紋:丸に十(まるにじゅう)
http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_simaz.html

「丸に十」の紋は大変間違いやすく、1つ目は鹿児島の島津一族が様々に変えて使っていますが、もう2つ目は馬の口輪に付ける金具を丸十字で表した「轡紋」として使用しています。

轡紋を使用しているのは、小笠原氏流の大草氏をはじめ、後藤、浅井、島、久保田、下田の諸氏が使用しています。

3つ目は、十字架紋で、クリスチャンが使用しています。

清和源氏の中川氏、平氏維将(これまき)流の島崎氏のほか池田、高山、伊丹、能勢、平岡、立花、有馬の諸氏が使用しています。

ただし、江戸時代は轡紋として幕府に届け出たのは、キリシタン禁制のためのカムフラージュだったからです。


●家紋:丸に切竹十字(まるにきりたけじゅうじ)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html

竹紋に直立した竹や、輪竹、笹竹のほか、笠やスズメなどを添えてバラエティに富んでいるが、中に【切竹十字」というのがあります。

一見【矢筈(やはず)】に似ているので、【切竹矢筈十字】ともいいます。

この切竹は、清和源氏流の牛窪氏、嵯峨源氏流の渡辺氏、平氏良文流の小幡氏などが昔から用いているが、切竹十字紋はとくに十字架と似ているところから、キリスト教徒が密かに切竹紋に偽装して用いた傾向があります。

http://www.kamon.ecweb.jp/5075.html? *session*id*key*=*session*id*va...
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月04日 12時14分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:鏡島(かがみしま)→(かがしま)

 「丸に切竹十字」の服部氏の墓は、鏡島の乙津(おっしん)寺に3基ありま
た。正に能勢氏と同じ家紋でした。隠れキリシタンだったのでしょうか?
「轡(くつわ)紋」について千鹿野氏の『家紋でたどるあなたの家系』で調べ
ますと、服部保長の次男保正系、保正の子保成の次男保森系が替え紋として
使用しているとあります。
 「轡紋」より「丸に切竹十字」の方が、遥かに「十字架」の印象が強いで
す! 初めて出会った時、びっくりしました次第です。
 この「乙津寺」は大変な寺であることが、乙津寺で頒布していた雑誌『濃
飛の文化財』とい本を読んでわかりました。

 ここで一旦切ります――2回目の乗馬の時間が迫ってきましたので。


 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月04日 13時49分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


今、寛政重修諸家譜を見ています。

保長の次男=半蔵の兄=保正の子保成の
そのまた病弱だった次男保森は妻を向井氏から迎え37歳で亡くなったものの
服部安右衛門保節やすよしが祖となっている
=つまり=
子孫の安右衛門保節は明和5年9月1日に将軍家治にまみえ天明元年10月9日大番になっている)

                       ややこしい


この家の家紋は
矢筈車・轡十文字・16葉菊
になっています。


つまり轡十文字紋のことを分家は?切竹十字紋と呼ぶようになったのかもですね。



この保長の次男の家は
加賀爪家や石川家・小野家・青木家・真田信積家・松平信賢家・向井家・朝倉家・足立家・福王家・板倉家・
井上家・加々爪家・井出家・加藤家・山下家・塙家・武川家・久瑠家・山高家・松田家・竹田家・大岡家・
内藤家・河端家・佐藤家・横山家・辻家などと縁があります。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月04日 14時02分16秒 ) パスワード

保長の長男は三河国高橋の合戦で討ち死に


次男は尾張国蟹江城の合戦で討ち死に
                                       服部孝徳さんのお家はこの家の関係者かもですね


3番目が半蔵で子の代に長安事件で失脚になっていきます。
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月05日 05時36分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 乗馬も意外と疲れるものです。揺れる馬の背中で両足を鐙(あぶみ)にかけ、
内股で馬の背中をはさみながら、常に重心がぶれないように前後左右・上下
のバランスをとる……ちょうど荒れる海の舟の上で、倒れないようにバランス
をとるのとにています……結構疲れます。家に帰って風呂に入り、寝てしま
いました。

 さて、鏡島ですが、乙津(おっしん)寺の由来に見られるように、738年
(天平10年)に僧行基が十一面観音を草庵に安置したのが始まりで、813
年(弘仁4年)に弘法大師空海によって造営され、つまり真言宗の影響が強い
所です。この地はその当時は島であり、弘法大師は37日間、秘宝を尽くし、
「法鏡」を龍神に向けられたところ、潮が引き「桑畑」になり、これが地名
の「鏡島(かがしま)」の由来になったということです。注目すべきは、「桑
畑」であります。つまりは桑を植えて蚕を飼い、絹糸そして絹の織物を生産
したということだと思います。正に、秦氏に関係することだと思います。こ
こ鏡島には、服部氏が全国で一番多く居住しているところを見ると、この地
あるいは近くに羽鳥郷、または服部郷があって、その関係で服部が多いので
はないか……古代系の服部ではないかと思うのですが。岐阜羽島も「羽」が
入っています……いつも羽鳥と間違えてしまいます。どうもこの揖斐川、長
良川、木曽川に挟まれたいわゆる中洲地帯、海人族、秦氏が最初に開拓して
行った土地なのでしょうか……興味深い所であります。

 乙津寺に関して、結構面白い話がいくつかあります――
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月05日 12時45分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 調べましたら、やはり鏡島の近くに「安八郡服部郷」というのがありまし
た。この安八郡がどこまでの範囲を言うのか、また鏡島が含まれるのかどう
かはまだ調べておりませんが、いずれにしろ、秦氏色の濃い地域には違いな
いと思います。

 乙津寺にはザラッと見たところ、服部家の墓が3基、永井家の墓が1基あ
りましたが、別の特別墓地には鏡島城主の墓があり、その隣に「馬渕家」の
墓がたくさん並んでおり、また「藤田家」もありましたので、ひょっとする
と信長(美濃)に一時仕えていた「服部中保次」の遠江大久保での地代官が、
やはり「馬渕氏」であったので、それと関係するのかなとの予感を持ちまし
た……。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月05日 14時38分09秒 ) パスワード

>鏡島の近くに「安八郡服部郷」というのがありました。



いつ頃からなのかしら?




服部についてちょっと調べて来ました。


http://folklore2006.jp/620.htm
「服部」の名字の由来

服部(はっとり)

【2016/08/21:改編】

# 134位

# 桓武平氏、古代の服部伴造の子孫が主流のほか、様々な流派がみられる。

# 代表家紋: 「矢筈(やはず)紋」

# 伊賀国阿拝郡服部郷(三重県伊賀市)に由来する。平家物語では、桓武平氏流とされているが、楠木氏や秦氏の支流という説もあるそうです。


# 古代の職業の、「服織部(はたおりべ)」をルーツとする。

# 歴史的には服部半蔵が有名で、今でも皇居の西側の半蔵門にその名を残す。作曲家の服部良一は大阪府大阪市の出身。作曲家の服部公一は山形県山形市の出身。プロゴルフの服部道子は愛知県日進市の出身。

【苗字の歴史 豊田武 吉川弘文館】
# 服部(はとりべ): 織物を献納した農民。


・ 伊賀の服部氏は、伊賀国阿拝郡服部郷を本拠とし、

服部の地名は、他に

大和国山辺郡
摂津国島上郡
美濃国安八郡
近江国野洲郡
伊勢国奄芸郡      ここは服部伊賀守宗純のいた所ですね。津とか鈴鹿とかのあたり
三河国八名郡      ここは三河西郷氏(西郷局の先祖)のエリアですね。豊橋とか豊川とかのあたり
遠江国長上郡
越前国今立郡      ここは平家以来なのかしら?鯖江とか?
などにみられる。(まだ他にもアチコチにあったでしょうね)



http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/history.htm   このサイト、なかなか面白いですよ。
近江国野洲郡

近江を代表する弥生時代の遺跡としては、360余の方形周溝墓が集中して発見された守山市の服部遺跡


はっとりいせき【服部遺跡】
滋賀県守山市服部町にあり,1971年以来の野洲(やす)川放水路の建設工事に伴って発見された。1974‐1979年の発掘調査で,弥生時代前期から平安時代中ごろに至る遺構が判明した。遺跡は琵琶湖岸より野洲川を約2kmさかのぼった地にあり,弥生時代前期の遺構で現地表面下2.5〜3mの深さ,標高は86m前後である。弥生前期には,微高地上に集落があり,その周囲の低湿地とそれに移行する緩斜面に同期の水田跡が広がっている。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E7%AB%8B%E9%83%A1
越前国今立郡

服部河内村が改称して西河内村、水間坂下村が改称して北坂下村、坂下村が改称して南坂下村、服部樫尾村が改称して東樫尾村、樫尾村が改称して西樫尾村となる。




因幡国法美郡服部郷    ここはアヤシイ
http://houki.yonago-kodaisi.com/H-Reikai-Kuroda1.html

鳥取市福部町は古代においては、「因幡国法美郡服部郷」であった。現在、町内の海士に、式内社の服部神社が鎮座している。祭神の「天羽槌雄命・天棚機姫命」は、『古語拾遺』によれば、倭文氏の遠祖で、天羽槌雄神が文布を、天棚機姫神が神衣を織る神であった。
 その神を祭神とする当社の祭祀氏族も、機織りに関わる人々であった可能性が高いと思われる。福部町の「福部」は、この「服部」からきている。
 一方、因幡国戸籍残簡(『正倉院文書』)には、海部牛麻呂を戸主とする十七人の名前が記録されており、「服部郷」のものと考えられている。「海士」という現在の地名は、この海部との関連が考えられる。
 そうすると、一つの疑問が浮かんでくる。なぜ服部神社は海士に鎮座するのか、あるいは逆に、なぜ海部と関わる地に、海の神を祀る神社ではなく、服部神社が祀られるのか。郷名にしても同様である。
 以下、服部・海部関連の式内社や郷の分布を通じて、この疑問に迫ってみたい。


以下URLへ。




 法美郡(ほうみのこほり)
        「高山寺本」大草(おほかや)・津井(つのい)・稲羽・服部・罵城・広西(ひろせ 広域郷)
        「東急本」 大草・石井(いわい)・高野・津井・稲羽・服部・広西(ひろせ)

福部町は古代においては、法美郡服部郷と呼ばれていた。



 服部神社
   所在地 鳥取県鳥取市福部町海士(あもう)591
   祭神  天羽槌雄命、天棚機姫命、素佐雄命
 
   ※祭神の天羽槌雄命は、倭文神社の祭神と同じ。天棚機姫命は、地元では「あめのはたおりひめのみこと」と
    呼ばれる。

   ※横山利宮司によれば、
   「@元宮は9号線をはさんだ南の摩尼山山麓の御内谷(おうちだに)にあった。
    A神社の供え物として「山繭」を奉納していたが、今は廃れた。
    B大正の頃までは、この辺りは一面、桑畑で養蚕が盛んであった」という。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月06日 06時19分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


またもや復習です。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html


服部(服織)氏


古代職業部の機織り部門を担った機織部の服部(hatoribe)に由来する姓氏。「ハタオリ」「ハトリベ」から「ハトリ」そして「ハットリ」と呼ぶようになった。衣食住の「衣服」に関係する職能部族には「綾部」「錦織部」や「衣縫部」「赤染部」などがあり、それぞれ姓氏として名残をとどめているが、その中でも服部氏が一番多い。その居住地が服部の地名になった。


 服部は、文明が高く人口の多い畿内から、全国の主要地に配置されていった。それらを中央で統轄する伴造が服部連であった。この系統の有力な服部氏は、山城・大和・摂津・河内・伊賀・伊勢・三河・武蔵など、当時の文化地域に進出していった。
 代表家紋は「矢車」と「矢筈」。




■各地の服部氏の由来

■大和の服部
和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺要録に服部の荘を載せたり。又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆 この部の在りし地なり。又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)あり、宗賢と号す。高取藩に仕う。名医なり。

■摂津の服部
和名抄 当国 島上郡に服部郷を収む。又、延喜式に服部神社、荘園目録に服部御領を載せたり。又、服部城あり、松永久秀築く。当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。



                                         ↙服部貞信の家のことですね

■山城の服部
当国にもこの部民多かりしならん。又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。

又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。荻生徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。宝暦卒。その長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。よりて門人 西村元雄を季女に配して家を継がしむ。又、国学者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。
又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛門と称せり。又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰流)、皆 京都の人なり。


■遠江の服部
延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。


■駿河の服部
当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏見ゆ。

■武蔵の服部
和名抄 当国都筑郡に高幡郷、幡屋郷、また、男衾郡に幡々郷、また、久良郡に服田郷を収む。服部の部民の多かりしを知る。後世、久良岐郡の名族にこの氏あり。新編風土記に「服部氏(弘明寺村)。先祖を玄庵道甫と云う。村内 寶林寺の開基なり。相伝う、元は伊賀国名張の城主なりしと云えど、正しき伝えはなし。後、故ありて跡をくらまし、当所に来て隠棲し遂に農民となれり。されど系図は無し、先祖より持ち伝えし物とて、甲冑二領、刀、短刀五振、文書四通を蔵せり」と。又、足立郡服部氏は、二本矢を家紋とす。

■両総の服部
和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。後世、羽鳥村の残るを見れば、羽鳥の誤りにて、この部のありし地ならん。後世、豊田郡下石毛村の人 服部謙蔵・波山は、書家として名あり。

■常陸の服部
真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。

■近江の服部
和名抄、野洲郡に服部郷を収め、八土利と註し、高山寺本には、波止利と訓ず。後に服部村あり。この地名を名乗りしもあらん。

■美濃の服部
和名抄、当国安八郡に服織郷あり。

■奥州の服部
磐城国標葉郡、岩代国会津郡などに羽鳥の地名あり。この部民のありし地か。この地名を名乗りしもあらん。田村家臣に服部氏あり。又、新編会津風土記に「耶麻郡猪苗代 進功霊社。社司服部安休尚由の社なり。安休は初め春庵とて、林道春の弟子にて、後、保科正之に仕え、侍臣となる。天和五年没す」と。

■越前加賀の服部
天平神護二年の越前国司解に「余戸郷戸主 服部子虫、鹿蒜郷戸主 服部否持」など見え、又、和名抄、今立郡に服部郷を収め、波止利と註す。又、神名式に「江沼郡服部神社」見ゆ。

■因幡の服部
和名抄、法美郡に服部郷を収め波止利と註す。又、神名式、法美郡に服部神社を載せたり。後世、服部庄起こる。この地より起りしもあらん。

■伊賀の服部氏
当国阿拝郡に服部郷あり。延喜式、阿拝郡に小宮神社あり。伊賀考に「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、三国地誌に「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」と。この氏族滋蔓して、伊賀一洲に散在す。平内左衛門尉家長が源平盛衰記に現われ、その名最も高ければ、この族を桓武平氏となすもの多し。

又、東鑑 文治二年六月二十八日條に「左馬頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平・仗 時定(平家物語には、服部六郎時定)、大和国宇陀郡に於いて、伊豆右衛門尉源有綱(義経の婿)と合戦す。而して有綱、敗北し、右金吾相具し、深山に入りて自殺し、郎従三人傷死し了んぬ。残党五人を搦めとり、右金吾の首を相具し、同二十日、京都に伝う云々。これ伊豆守仲綱の男なり」と。又、円覚律師、これは服部広元の子にして、京都 法金剛院、及び清涼寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。

■三河の服部氏
服部系譜に「将軍義晴 臣 服部半三保長(石見守・三河に来たり松平清康に仕う)−石見守正成(半三・遠江国八千石)−石見守正就、弟 伊豆守政重(半蔵・三千石・後 松平定綱家臣)」と。

編年集成に「服部半蔵正成、伊賀組 二百人にて、谷村城を守る」と。寛政系譜に「家紋、八桁車の内竪矢筈二、十六桁矢筈車、十六葉菊、むかい蝶矢車」と。

■伊勢の服部氏
和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月06日 08時00分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部氏に関する情報、ありがとうございます。ゆっくり読解させていた
だきます。昨日は、夜会があり、今は二日酔いで頭がさえませんので、ひと
風呂あびて酔いをさましてきます。それにしても、野洲の埴輪、すごいです
ね。埴輪を見ていると、何か古代人の「息吹」が伝わってきます……。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月06日 12時09分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2012/03/post-b202.html
湖南の野洲川デルタ地帯は古代の遺跡銀座!



<弥生のムラ>
冊子の中で、琵琶湖に近い赤野井浜遺跡、霊仙寺遺跡、服部遺跡、市三宅東遺跡近辺は、弥生のムラとして紹介されているが、縄文時代からの遺跡であるらしい。

 服部遺跡には弥生時代前期の水田遺構があり、近江に稲作が伝来し定着した証拠を示しているという。


 赤野井浜遺跡からは、弥生時代前期末から中期初頭に集落が成立していたことを示す数々の遺構が見つかっている。



知らないものですね。
日本人とは一体何者だったのか。



オットの医者が「しんは」という名字なんですが全く意識にありませんでした。
     沖縄の我那覇に共通する?と誤解までしてしまいました。

この医者の父親は大阪出身で、その前は長野だ、と言ってました。


で、調べたら「しんは」というのは遠江が発祥の地でした。
【名字】榛葉

【読み】しんば,しんは,しんや,しば,しんよう,じんば,ちんば,しいば,はしば,はいば,はたは,はたば,はりは,はりば,はるは,はるば,はんば,やすは,やすば

【全国順位】 3,117位
【全国人数】 およそ4,200人


関連姓は榛原。
現静岡県である遠江国榛原郡榛原郷がルーツといわれる。
静岡県掛川市や神奈川県、東京都などにみられる。


木+秦 なんて、元は  秦の始皇帝の一族?
やっぱり遠江に来てた?

とゾッと鳥肌が立ちました。


古代のそのまた前の神話の時代、あ、神代の時代
東の果ては遠江と信濃なのか?
と思いました。

やはり遠江と信濃は切っても切れない人間の繋がりがあったのかと。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月06日 16時52分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 榛葉氏といえば、菊川市出身の民進党参議院議員「榛葉賀津也氏」を思い
浮かべます。彼は、掛川西高校よりオハイオ州オタバイン大学へ進み、その
途中でイスラエル国立テルアビブ大学へ留学。またオタバイン大学へ戻り、
政治学部・国際問題研究学部を卒業する。その後再びイスラエルの国立エル
サレム・ヘブライ大学大学院国際政治学部へ留学と、イスラエルと繋がる数
少ない政治家であります。榛葉氏は、自分のルーツを知っているのかも知れ
ませんね。今度会った時に訊いてみます。

 安八郡服部郷が正確には安八町のどこにあったのかは知りませんが、いず
れにしても、鏡島より8q、、一宮より12qと、服部氏あるいは服部神社
(真清田神社内)と関係が及ぶ距離にあることには間違いありません。
 また、安八郡は昔大海人皇子の湯沐邑であったということ……海人族と秦
氏の勢力圏内にあったということになります。

 さて、鏡島の乙津寺に関するエピソードをちょっとまとめてみます。『濃
飛の文化財 55号』の中の梅園高秀氏の論文より――
 @894年、宇多天皇より「霊梅場」の額を賜る。
 A平安時代末期、西行法師が立ち寄る。
 B室町時代末期、一条兼良が、応仁の乱を避けて滞在。
 C1545年、鏡島城城主・石河駿河守光清が、妙心寺から僧を招き、水
  害や戦乱で衰退した寺を再建した。
 D安置されている位牌としては――
  ア.豊臣秀吉
  イ.徳川家康
  ウ.加藤光泰 !
E1600年、関ケ原の戦いの前、河渡川(長良川)の戦いあり。8月22
  日、東軍の黒田長政、藤堂高虎、田中吉政らは、喉が渇き休憩に、また
  川の浅瀬の情報を聞くため寺に寄り、勝軍地蔵尊の像に参拝する。諸将
  らは勢いづいて河渡川の戦いを押し進み、9月15日、関ケ原の戦いが
  始まった。
   凱旋して帰る日、諸将らは再び勝軍地蔵尊を参拝し、家康は刀を奉納
  した。
 F寺には国宝が3つある。
  ア.行基作「木造十一面千手観世音菩薩立像」
  イ.空海作「木造毘沙門天立像」
  ウ.運慶作「木造韋駄天立像」

 加藤光泰は多芸郡橋爪の生まれであります。
 多芸郡の範囲は、大垣市の一部、海津市の一部、養老郡養老町の大部分。
 橋爪は養老町にあるようです。

 どういう訳か、加藤光泰につながってしまいました!
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月06日 22時32分58秒 ) パスワード

ちょっとちょっとちょっと三つ柏さん!

>安八郡服部郷が正確には安八町のどこにあったのかは知りませんが

調べていたら   奄芸郡服部郷(三重県)  なんてのがあったようです。
これぞまさしく   我が家のご先祖さまがいた場所  でしょうか?
服部伊賀守宗純がいたところ!!!???




さらに!

Title 麻績王伝承考 Author 梶, 裕史(Kaji, Hiroshi) - 慶應義塾大学学術 ...

koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/.../AN00072643-00770001-0103.pdf?...

梶裕史 著 - ‎1999

ある関ケ原町・垂井町付近とする説と、『和名抄』にみえる美濃国安八郡服部郷を締日女命の職業上の故地と考えて大. (日). 垣市付近とする説と ... あるが、美濃の本巣郡・席田郡・安八郡・方県郡・賀茂郡といった近接する一帯は、麻績部・服部の居住、. 及び「神.

なんてのが姿を見せました。


ここで切ります。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月06日 22時53分34秒 ) パスワード

千年村で検索してみてください。

http://mille-vill.org/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E5%8D%83%E5%B9%B4%E6%9D%91&pagefrom=%E5%A5%84%E8%8A%B8%E9%83%A1%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%83%B7 (%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C)


カテゴリ:千年村

•奄芸郡服部郷(三重県)
•奄芸郡田井郷(三重県)
•奄芸郡黒田郷(三重県)



http://mille-vill.org/%E5%A5%84%E8%8A%B8%E9%83%A1%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%83%B7 (%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C)

奄芸郡服部郷(三重県)    青い部分でしょうね。服織神社、というのにもビックリ!

緯度経度
34° 48' 3" 北, 136° 32' 8" 東

比定地は式内社服織神社の旧所在地河芸町久知野、尾前里の比定地同町東千里にかけての地域と推測される。(p880)



そうか・・・・
わたくしのご先祖さまは壇ノ浦で敗れてから伊勢の久知野にいたのか。



実はロスで同僚だったアルゼンチンからの移民の田中というのがいて
    元は海軍で祖父と父は働いていたものの
    海軍と陸軍の仲の悪さに呆れて帰農したらしい
    先祖は士族


で、この近くに田中川が流れてて、それにもビックリ!


とにかくワタクシの父に田中がソックリなんです。
皮膚の下の顔の骨が同じというか


初めて出会った時に  父にソックリ!  と思ったし
鈴鹿の出身と聞いた時に  なるほど  と思いました。


いえいえ!
共通の先祖のようです!
ムカシは一族だったのでしょうね。


いつも怒鳴り合いの喧嘩をしてたけど
結構気が合ってました。


同僚達との噂話中に
 「 ・・・●○はブスで・・・YOUみたいなブスだ」  
とソコにいた女性を指差して言うような正直者でした。汗

それで女性皆で怒って
ワタシは「田中さん、アンタがワタシのことをそんな風に言ったら明日アンタのアタマは1km先に落ちてるからね」と言ってやりました。


へぇ〜
やっぱりねぇ〜


マラソンの瀬古とは知り合いだと言ってました。
瀬古は桑名出身で・・・
なんて言ってました。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月06日 22時57分09秒 ) パスワード

地図は上記のURLでは行けないですね。
ごめんなさい。



http://mille-vill.org/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E5%8D%83%E5%B9%B4%E6%9D%91&pagefrom=%E5%A5%84%E8%8A%B8%E9%83%A1%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%83%B7 (%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C)


カテゴリ:千年村

•奄芸郡服部郷(三重県)

奄芸郡服部郷(三重県)をクリックしたらジャンプして見られると思います。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月07日 01時33分37秒 ) パスワード

安八郡服織郷は千年村では見つけられなかったです。
残念っ



謎 ↓


千年村で岐阜県安八郡服部郷を捜していたら
http://mille-vill.org/%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%81%91%E3%82%8B

輪の内町に服部電気工業ですって。



でもこのご近所は服部家ホンヤさんの庭先みたいな場所だと思います。


養老町の東ですよ。
ホンヤさんと関係の深い尾張藩の支藩の高須藩だった海津町の北ですし。
ずっと西に霊仙山なんてあるし。レス<30>で 湖南の野洲川デルタ地帯の琵琶湖に近い赤野井浜遺跡、霊仙寺遺跡、服部遺跡、市三宅東遺跡なんて出てましたよね。


何か関係があるのかもですね。


でも千年村で比定できないというので残念です。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月07日 01時42分19秒 ) パスワード

http://mille-vill.org/%E5%AE%89%E5%85%AB%E9%83%A1%E7%89%A9%E9%83%A8%E9%83%B7 (%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C)
安八郡物部郷



緯度経度 35° 21' 30" 北, 136° 40' 28" 東

「美濃国神名帳」には従位下物部明神が見えるが、
安八町東結の津島神社はもと物部明神と称したと伝え、
また同町森部の大県神社は物部氏の明神を祀ったとしている。

当郷はまたその付近から墨俣町二ツ木・墨俣・上宿・下宿あたりに比定されている(新修大垣市史・県史)。(p736)



地図を縮小すると物部郷はまっすぐ西に行ったら伊吹山と米原の狭い谷?を抜けたら琵琶湖ですね。

そうか・・・
ムカシのヒトにとっての通行ルートだったのでしょうね。



これまで  点と点と点  でしかなかった地名が  通行ルートで繋がります。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月07日 21時01分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 美濃は、何といっても織田信長、明智光秀の関係の土地柄であります。今
回の関〜武芸川〜鏡島行きは、目的は「永井氏」と「服部氏」の調査であり
ましたが、結果的に言いますと、永井・服部については収穫は余りなく、そ
の代わり、予期せぬ情報に出会いました。乙津寺については、既に述べまし
た通りですが、実は旅の前半では、明智光秀の家老・斎藤利三の子「お福」
(後の西郷局)に関係するお寺に偶然行くことができました。

 一昨日の飲み過ぎと夜更かしで、やや風邪気味になってしまい、本日も少
し頭が冴えませんので、続きは明朝に記すことにいたします――
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月07日 22時19分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


>一昨日の飲み過ぎと夜更かしで、やや風邪気味になってしまい、本日も少し頭が冴えません

ですね



>>>>>>「お福」<<<<<<<
>>>>>>(後の西郷局)<<<<<

お福は後の「春日局」ですものね。
「局」で、ゴチャゴチャになってしまいましたね。

ハッと気付くと、どうしてこんなウッカリをしたのか不思議ですよね。



対価の生じるお仕事で勘違いをしなければ良いので
「局」違いは  小さな小さな勘違い  ですから  これぐらいのドジで良かったです。



若い時には絶対にしないようなドジを加齢に伴ってするようになります。

ワタシは先週「ドンキ」へ「ラッキョウ」を買いに行って、
ついでに同じコーナーのオカラとかナメタケとか色々買いまくって
喜々として帰宅し冷蔵庫に入れ
翌朝ラッキョウを取り出そうとしたら!   無い!ない!無い!   え?

実はラッキョウを買いに行ってラッキョウを買うのだけをすっかり忘れていました。


冷蔵庫に買った物を入れていたのにラッキョウが無いことにも全く気付いていませんでした。
気付いたのは翌朝ですものね。


ま、ラッキョーで済んでラッキーでした。笑


人生、取り返しのつかないドジをやらかしては大変です。
わたくしもしっかり睡眠をとって大きなミスをやらかさないように、と自戒です。
にっこり


「真田丸」を見てて「阿茶の局」と「茶阿の局」とがこんがらがります。
そういうのが頭の片隅にあって「西郷局」と「春日局」がこんがらがったのでしょうね。
脳は不思議な働きをします。あはは



それにしても今回の「真田丸」のオープニングとエンディングの逆設定が効果的でしたね。
さすが三谷ワールド。

「とうとう城持ちになった。名付けて『真田丸』!」


ここでクレジットが始まりましたね。
すっごく劇的でした。



高畑母と高畑子の競演が10月に祖母と孫のシーンであるという話でしたが
結局はあの事件で
真田昌幸の死の時に、ナレーションで高畑母は「2年後に死んだ」、と簡単に済まされましたね。
これを「ナレ死に」と言うそうです。



いよいよ「天王寺口の戦い」に近づきますね。
そのせいで「真田丸」への思い入れが違った方向からになってしまいました。


もし「天王寺口の戦い」で・・・・・と続けたいところですが、歴史に「もし」とか「たられば」とかは禁句ですね。



自分の先祖がらみの一族の討ち死にに般若心経を唱えてあげたら
とこんなに思ったことはありません。


三つ柏さん、般若心経を唱えてあげてください。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月08日 06時21分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本朝は、頭が少し重いけれども、ほぼ回復いたしております。
 日々変動する状況の中で、クリアーで集中力のある状態を保つというこ
とは、至難の業であります。それでも、適度な睡眠後の3時間位は一番い
い状態かなと思います。
 春日局は自分でもわかっていて、しかもノートを見ながら書いているの
に無意識的に西郷局と書いてしまっている……これは、CPU(頭)の性能
低下も主要な原因ですが、実は私にとって、西郷局は身内のように親近感
を感じるのに対し、春日局はまだほど遠い距離にあるからであります。
 今回、頭のボーッとした中で、それが無意識的に出てしまった、という
ことかと分析しております。
 しかしながら、今回はからずも春日局と縁のある場所に行きついたとい
うことは、春日局をより深く理解するためにの良いチャンスかと思ってい
ます――
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月08日 11時07分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大阪夏の陣(再戦)で服部中保次の長男の保正が傷を負い、翌年亡くなって
いる。保正の長男保光は夏の陣で討死ということで、戦った相手は真田幸村
軍かあるいは毛利軍、属していた部隊は青山忠俊の部隊であったようであり
ます。真田丸は冬の陣後に埋め立てられ、役に立たなくなっておりますので、
真田軍にしても決死の覚悟の戦いであったと思われます。服部中家の宗家系
が亡くなってしまったのは誠に残念であります。いつか大阪方面に行く機会
がありましたら、天王寺口に行って般若心経を捧げたいと思っています。

 さて、お福(後の家光の乳母春日局)でありますが、斎藤利三(としみつ)の
娘であります。
 斎藤利三はというと、明智光秀の家老であります。本能寺の変の実質的首
謀者。この「斎藤氏」は「永井氏」でもあります。即ち永井斎藤氏でありま
す。永井直勝ともルーツではつながります。斎藤家は美濃の守護土岐氏に仕
えた守護代の家系であり、藤原利仁流であります。

 斎藤利三は、正式には斎藤内蔵助利三で、母は明智光秀の妹であります。
ということは、利三は光秀の甥ということになります。妻は稲葉一鉄の従兄
弟の稲葉通明の娘であります。
 明智光秀の妹には、信長の正妻「帰蝶(道三の娘)」に仕えた侍女「褄黄
(つまき)」もいます(側室であったという説もあります)。

 利三は、また斎藤道三とは義理の「はとこ」になります。道三は斎藤家を
乗っ取った人間であります。
 利三は道三の子(別説あり)義龍に仕え、後不和になり流浪し、光秀の伯父
光安を頼る。義龍が死んで龍興に仕える。龍興が滅びると稲葉一鉄に属すも
勘気を蒙り、去って光秀の下に至ったということです。

 お福が生まれたのは、天正7年のことでありますので、本能寺の変の時に
は4歳であった。父利三は殺されますので、稲葉正成と結婚するまでの10
数年間、どう暮らしていたのか……。

 さて、先日関に行き、永井氏の墓を探しに武芸川方面に行き、奥の方の
お寺から順に回ってきました。1番目の寺が「汾陽寺」、2番目が「法泉寺」
でありました。この法泉寺一体こそ、お福(後の春日局)ゆかりの地でござい
ました――
  
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月08日 14時11分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


>明智光秀の妹には、信長の正妻「帰蝶(道三の娘)」に仕えた侍女「褄黄(つまき)」もいます(側室であったという説もあります)。


ツマキは妻木に通じ
光秀の恋女房の煕子は明智の一族の妻木範煕の娘。


ということで光秀の妹の褄黄は従姉妹=つまり光秀の従妹の=帰蝶に仕えたということですね。


ムカシは一族総出で仕え関係を強化してたのが分かりますね。



光秀の妻は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)が有名。
俗伝として服部=喜多村=北村=保光の娘、生まれた子は保之で幼名内治麻呂。
原仙仁の娘という側室がいたともある。
本室の前に、山岸光信の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある。



http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/kitamurayasuyuki3.htm

徳川家康の配下には服部家(最も有名なのは服部半蔵(正成)でしょう)があるのですが、その別姓が「北村」なのです。

更に喜多村保光は伊賀国の出身(明智系図に明記されている)であり、無論服部家ももともとは伊賀国から出た家なのです。

そこから喜多村家というのは、実は服部家の一族ではないのかという説があるのです。


             そう言えば 能のシテ方に喜多流がありましたね
             あらら・・


http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/kitamurayasuyuki2.htm


明智姓を捨てた保之

保之(内治麻呂)は明智光秀の三男として、1582年1月頃に生まれました。
しかし同年6月、父光秀が本能寺の変を起こし、山崎の戦において羽柴秀吉に敗れてしまいます。

保之をはじめとする明智一族は坂本城に入りますが、間もなく羽柴軍が坂本城を包囲。
もはや勝ち目なしと悟った彼らは、坂本城で自害する決意を固めます。

しかし、まだ赤ん坊であった保之を道連れにすることにさすがに気が引けたのでしょうか。
保之はひそかに逃がされ、母の実家であった喜多村家へと入ります。

一般的にこの後、保之は家康の関東入国と共に江戸に入り、
その後樽氏・館氏と共に「江戸宿三人衆」となったと言われていますが、
家康の関東入国の際の保之の年齢を考えるとこれにはどうも無理があり、
おそらく同姓同名の別人の経歴と混ざってしまったのではないかと考えています。

それはともかくとして、保之(内治麻呂)は元服後、祖父である保光の一字を継ぎ「保之」と名乗りました(通称は弥平衛)。

                                    弥兵衛と言ったら平家の頼盛の家老だった平宗清ですね。頼朝から柘植をもらった人。すなわち松尾芭蕉の先祖。


しかし父である光秀の名から一字を継ぐことも、また明智姓を名乗ることもなく、その一生を終えたのです。

ですが保之は決して明智家のことを忘れたわけではなく、
1635年に妙心寺の住職玄琳から送られてきた「明智系図」を大切に保管し、現代までそれを伝えているのです。





>お福が生まれたのは、天正7年のことでありますので、本能寺の変の時には4歳であった。
>父利三は殺されますので、稲葉正成と結婚するまでの10数年間、どう暮らしていたのか……。

母の親戚の京都の三条西家の世話になっていたというのが通説と思います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80


お福の父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

お福は母方の実家である稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ[3]
母方の親戚に当たる[4]三条西公国に養育された。


これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。
その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。
正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者であった。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月08日 14時19分21秒 ) パスワード

光秀の後妻:

http://sakuraoffice.com/husiyahime.html
伏屋姫
福地城
伊賀市(伊賀町)柘植町字浦出   ←  こちらは浦出ですが、真田の家臣の出浦正相盛清を連想しました

光秀は柘植城・喜多村保光の娘を娶っている。



福地城跡(柘植城)

福地城は、西に石垣の表門をもち、四方土塁の掻揚式の城である。
本丸内部には、石蔵跡や井戸が残り、周囲には、館跡・堀跡が現存する伊賀随一の中世の城跡である。

城主は福地伊予守宗隆で、
「満済准后日記」に日置・北村と共に柘植三方と呼ばれ、当地方の国人であった。

芭蕉翁の先祖は福地氏の一族であるので、この城跡を芭蕉公園と名付け句碑及
び生誕碑を建て後世にとどめることにした。


芭蕉の句碑
滋賀県大津市坂本5(西教寺内)
「月さびよ 明智が妻の 咄せん」
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月08日 14時24分38秒 ) パスワード

参考までに

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%9D%91%E4%BF%9D%E5%85%89%E3%80%80%E3%81%AF

喜多村保之 - nifty
homepage2.nifty.com/inutomononohu/kitamurayasuyuki.htm
本能寺の変に際し、坂本城から脱出させられ 喜多村家に入ったという。 父・明智光秀関連の本を見る! 生年, 1582年. 没年, 1638年. 父親, 明智光秀. 母親, 喜多村保光の娘. 兄弟, 明智倫子・明智玉子・明智光慶等 (すべて異腹). 妻, 不明. 子息, 不明. 保之の ...



喜多村家は服部家? - nifty
homepage2.nifty.com/inutomononohu/kitamurayasuyuki3.htm

徳川家康の配下には服部家(最も有名なのは服部半蔵(正成)でしょう)があるのですが、その別姓が「北村」なのです。 更に喜多村保光は伊賀国の出身(明智系図に明記されている)であり、無論服部家ももともとは伊賀国から出た家なのです。 そこから喜多村家 ...




光秀は煕子存命中に側室を置いていた? - nifty
homepage2.nifty.com/inutomononohu/aketimituhide9.htm

残念ながらこれは真実ではありませんが、光秀は煕子存命中(1576年まで)は一切側室を置かず、煕子が亡くなってしまった後妻木殿(おそらく煕子の妹)、ついで喜多村保光の娘を側室としています。 しかし「光秀は残念ながら、煕子存命中にも側室を置いていた ...




私は、明智光秀が好きですが光秀の次女の名前を... - 日本史 | Yahoo!知恵袋
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › 教養と学問、サイエンス › 歴史 › 日本史

2009/05/13 - 側室・喜多村保光女 内治麻呂(後の喜多村弥平衛) 側室・原仙仁女 松寿丸(子孫は江戸時代に明田姓を名乗る。明治になり明智姓に改める) 秀寿丸筒井定次妻(秀子) 川勝秀氏妻不立於鶴丸光保浅野内蔵助(大石内蔵助の祖父?)



明智光秀の子孫はいるのでしょうか?熊本の細川... - 日本史 | Yahoo!知恵袋
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › 教養と学問、サイエンス › 歴史 › 日本史

2009/05/16 - また、側室・喜多村保光の女と光秀の子・内治麻呂は喜多村弥平衛となり、江戸時代に町年寄として江戸市政に関与。江戸中期以降は大和郡山藩家老職となって明治維新を迎えています。あと女系では織田信澄とその妻(光秀の正室・ひろ子 ...



伏屋姫
sakuraoffice.com/husiyahime.html

伏屋姫 福地城 伊賀市(伊賀町)柘植町字浦出 光秀は柘植城・喜多村保光の娘を娶っている。 福地城跡(柘植城) 福地城は、西に石垣の表門をもち、四方土塁の掻揚式の城である。本丸内部には、石蔵跡や井戸が残り、周囲には、館跡・堀跡が現存する伊賀随 ...



キリシタン武将としての黒田官兵衛: ー「軍師」官兵衛の実像 天の巻(中巻)ー
https://books.google.com/books?id=NfvHAgAAQBAJ

ちなみに、煕子は元々痘痕ができる以前は美女だったようで、娘の細川ガラシャも非常に稀なる美貌だったようだ。ただし、俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたという説もある。また、前室に山岸光信の娘がいたとする説もある。側室がいた ...




歴史King: 私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を ...
syosekiofkaikei.blogspot.com/2013/12/blog-post_30.html

2013/12/30 - ちなみに、煕子は元々痘痕ができる以前は美女だったようで、娘の細川ガラシャも非常に稀なる美貌だったようだ。 ただし、俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたという説もある。また、前室に山岸光信の娘がいたとする説も ...




明智光秀 - 林 学 の - Gooブログ
blog.goo.ne.jp/hayashimanabu/e/d7cc7183754efd0205b5694c59cc6731

2006/06/13 - 二人の間には、織田信澄室、細川忠興室玉子(細川ガラシャ)、嫡男光慶(玄琳)がいる。3番目の正室は柘植城主喜多村保光の娘(伏屋姫)で、二人の間には喜多村弥平兵衛(江戸町年寄の一人)がいる。ほかに側室がおり、何人がの子供が ...




明智光秀 - 快速Wikipedia
fast-wikipedia.net/明智光秀/系譜

正室:千草(山岸光信の娘); 継室:妻木煕子(妻木城主・妻木範煕の娘); 側室:伏屋姫(柘植城主・服部保章(喜多村保光)の娘); 側室:不明(公家・原仙仁の娘). 子女. 嫡男:明智光慶. 光秀の息子で唯一実在が確認されている。通称は十五郎。山崎の戦い後、 ...



興味深いですね。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月08日 23時23分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 法泉寺の前に次のような看板が出ていました――
「春日局お屋敷跡(このあたり一帯)
 関ケ原の合戦の時、「春日局」の夫、稲葉正成は、豊臣秀吉の直臣となり、
文禄の役(1592)の後、小早川秀秋の家臣となった。正成の政治的・軍事的手
腕は、相当なものであったらしく、小早川家では五万石を拝領した。

 関ケ原合戦では、秀秋の東軍への寝返りに力があったといわれるが、御政
道について、たびたび秀秋諌言したが聞き入れられなかったために、慶長6
年、夫正成は、お福(後の春日局)と子供達を連れて、弟の改田孫六清常」の
住む美濃国「谷口の里」に閑居した。

 この「谷口の里」は、春日局にとって遠祖父である斎藤利永の創建した汾
陽寺と、春日局の大祖母にあたる加納城主、斎藤利国の妻、利貞尼(細姫 一
条関白兼良の娘)の開基とする法泉寺があり、春日局にとってもゆかりの深い
土地であった。」
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月09日 08時26分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<45>を参考にウロウロしてたら
http://loco.yahoo.co.jp/place/g-Ox6HxKE4-0w
明智光秀公の墓 に行きつきました。
岐阜県山県市中洞



http://blogs.yahoo.co.jp/go003322/38609167.html
三日天下という言葉で知られる明智光秀、そのお墓が岐阜県山県市(旧美山町西洞地区)内にあります。

場所  岐阜県山県市西洞(国道256号 美山第2トンネル入り口付近)


通説では、明智光秀は主人信長の夢を本能寺でうち砕き、一応の目的を果たしたもの々細川藤孝らを味方に予定していた武将に裏切られ、加えて秀吉軍の反撃にあって敗走する事になった。陣を立て直す為坂本城へ向かう途中、1582年6月13日小栗栖(京都宇治市)の竹藪を通過中落人狩りの土民に竹やりで刺されて落命したとあり、これが光秀最後の定説となっています。

しかし、ここ山県市西洞地区での言い伝えによると、光秀は75歳まで生き延びたことになっています。

また、光秀が徳川の世になってからも生きていたとの説(「南光坊天海」説)は他にもあるようで、歴史好きの人にとってはとても興味のあるところです。


光秀の墓と称するものは、他にも何箇所(滋賀県坂本、京都知恩院)かありますが、このお墓にまつわる言い伝えは・・・



天正十年(一五八二)山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは、光秀の影武者「荒木山城守行信」だとしている。


                            娘の元舅の荒木村重の一族なのかしら?


光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えようと荒木の「荒」と恩義を深く感じての「深」で自らを「荒深小五郎」と名乗り西洞寺の林間に庵を建てて住んでいたと言われている。

その後光秀は雲水の姿となって諸国遍歴にでたが、十八年後の慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中、藪川の洪水で馬と共に押し流されおぼれ死んだ為、死骸を山城守の子吉兵衛が持ち帰りこの地に埋葬したと伝えられている。

 以来この地には荒深姓が多く、今でも年二回(4月と12月)の供養祭を行っているそうです。       
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月09日 09時11分59秒 ) パスワード

光秀の墓とされる桔梗塚を検索したら59号線を北上すると?汾陽寺山が近くにありました。ビックリ


明智光秀公の墓・行徳岩(ぎょうとくいわ)
光秀公は山崎の合戦で死んだのではなく、実は、そのとき死んだのは影武者であり、ひそかに郷里山県市中洞に落ち延びて荒深小五郎の名ですんでいた・・・そんな伝説が残るのが、ここ「桔梗塚」と呼ばれる明智光秀公の墓です。ここでは、今でも毎年供養祭が行われています。


また、近くの河原には、母が「たとえ三日でも天下をとる子を・・・」と祈ったとされる行徳岩もあります。


                                      産湯の井戸はどなたの産湯だったのでしょう?謎


http://www.city.yamagata.gifu.jp/event/rekishi/p-520.html
汾陽寺山


この地図が興味深かったです。
樽見線で谷汲へ桜を見に行きました。

その時に斎藤竜興が信長に敗れて越前の朝倉氏を頼って落ちて行った経路がこれかな?と思った記憶です。




斎藤竜興 さいとう-たつおき                        ビックリ!母は浅井氏ですって!意外な閨閥!

1548−1573 戦国-織豊時代の武将。

天文17年生まれ。

斎藤道三の嫡男の斎藤義竜(よしたつ)の子。
母は浅井久政(ひさまさ)の娘といわれる。

父の死後,美濃(岐阜県)稲葉山城(のちの岐阜城)城主となる。
永禄10年織田信長に攻められ,越前(福井県)の朝倉義景をたよるが,
天正元年8月14日義景とともに信長軍とたたかい敗死。
26歳。
美濃出身。斎藤氏は滅亡した。




斎藤竜興

没年:天正1.8.14(1573.9.10)
生年:天文17(1548)

美濃国(岐阜県)の戦国大名。
義竜の子。右兵衛大夫。母は浅井久政の娘という。

永禄4(1561)年,父の病死により14歳で家督を継ぎ,稲葉山城主となる。

以後,織田信長の美濃侵攻によく抗したが,同10年西美濃三人衆と称された稲葉良通(一鉄),氏家直元(卜全),安藤守就(道足)が信長に内応するにおよび,井ノ口を占領されて稲葉山城を退去した。

以後,伊勢長島から畿内に赴き,三好三人衆を頼って信長に抵抗。

のち越前一乗谷の朝倉義景のもとにあり,信長の朝倉攻めの際,越前刀禰坂合戦で討死した。



      信長憎しの服部家ホンヤさんの先祖は斎藤義竜・竜興父子と密約があったのかなと空想します。




そして

>この「谷口の里」は、春日局にとって遠祖父である斎藤利永の創建した汾陽寺と、春日局の大祖母にあたる加納城主、斎藤利国・・・

ここで   斎藤利国   が繋がります。                      人間関係複雑過ぎ!



土岐 頼芸(とき よりのり/ - よりなり/ - よりよし/ - よりあき)

戦国時代の美濃国の守護大名。土岐政房の次男。

土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。

                                      ゲス話では斎藤道三の嫡男斎藤義竜はこの頼芸の胤という噂ですね。



以下、土岐家がグチャグチャになって行く話の部分コピペ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E8%8A%B8

文亀元年(1501年)に土岐政房の子として生まれる。
この当時の美濃の国内情勢は重臣の斎藤家は守護代・斎藤<<<利国>>>の戦死により衰退し、
代わってその庶流長井家が台頭するなど斎藤家中は不安定であった。



斎藤家だけではなく守護土岐家も暗雲が漂っていた。
父・政房には長男の頼武がいたが、政房は次男の頼芸を溺愛して頼武の廃嫡を考えるようになり、
政房によって頼芸は小守護代・長井長弘、長井新左衛門尉(斎藤道三の父)らに擁立され、
兄の頼武も守護代・斎藤利良の支持を受けたことにより、両者は対立して家督争いが起こり、
永正14年(1517年)、合戦となった。



正室:六角定頼の娘
側室:深芳野      ←  彼女が道三にアンパン(笑)で下賜されたというゲス話あり

                       拝領妻はこういう可能性があるから生まれた子供が勘違いしてしまう。謎
                       斎藤義竜は斎藤道三の子だったのか土岐頼芸の子だったのか、深芳野は分かってたと思うけど
                       女はズルイから。
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月09日 13時08分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大統領選で大変にもかかわらず、明智光秀の墓を見つけていただき、有難
うございます。先日、汾陽寺までは行きました。その裏山を越えた所に明智
光秀の墓があつたとは! 案内書には何も書かれていませんでした……。
もう一度、関・岐阜には行きます。明智光秀の墓、信長の墓のある崇福寺、
道三塚、岐阜大仏、一豊ゆかりの立政寺、永井氏の加納城跡、加藤光泰と
千秋氏(服部氏)の養老、…etc.。やはり一泊二日になりますね。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月09日 14時26分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


>やはり一泊二日になりますね


はい
なかなか1回で全てがカバーできるというワケにはいかないですね。

たくさん読んで、いろいろ情報を集めて、
それでも取りこぼしてるんですよね。


>永井氏の加納城

実はワタクシの友人と彼女の結婚した相手の家名がまさにココに出ています。

ということは矢張り日本の男女が引き合って結婚する時はご先祖さまがらみなのでしょうね。

驚きました。

ナガイとカノウは美濃がらみとは分かってましたが、やはり引き合うんですよ。
日本人だなって思います。
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月10日 09時49分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、大統領選関係の報道にくぎ付けになっておりましたが、やっと落
ち着きました。世界の潮流が少しずつ変わって行きそうです。

 さて、明智光秀、ついでに斎藤利三、その子お福、この三人が核になり、
後の舞台裏を変えて行く……その陰に服部氏族、徳川家康がいたはず……。
この観点より、ただいま情報探しをしています。
 服部保章は何故明智光秀に近づいたのか……? 
 明智光秀は、何故信長に近づいたのか……?
 すべてのベクトルの中心に織田信長の存在がある……。
 
 9月に岐阜城へ行った時に、歴史資料館で発見した『戦国の武将 永井
隼人とその系譜』(元岐阜城館長 郷始監修)はなかなか難しく、ようやく
今回それを読解しようと努めています。永井隼人は斎藤道利のことであり
ます。しばし時間がかかります――

 いずれにしても、西の美濃、東の三河・遠江、信長を中心にして歴史が
動いて行きます。美濃の歴史こそ、信長暗殺の土壌であったと思います。
奥が深いです……。

 郡上八幡もかかわっていますので、行ってきたいと思っています――
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月10日 14時09分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服部保章は何故明智光秀に近づいたのか……?

きっと関ケ原近辺に服部氏の一族と明智氏の一族が知り合いか縁者でいたのかもですね。


 
>明智光秀は、何故信長に近づいたのか……?

光秀はもともと足利義昭よりましな主君に仕官したかったでしょうし
信長は有職故実や武士の礼儀に通じた人物が欲しかったでしょうし
光秀は信長の正妻のイトコだし

お互い求めているものが合ったのでしょうね。




>9月に岐阜城へ行った時に、歴史資料館で発見した『戦国の武将 永井隼人とその系譜』(元岐阜城館長 郷始監修)はなかなか難しく、
>ようやく今回それを読解しようと努めています。
>永井隼人は斎藤道利のことであります。しばし時間がかかります――

人物の名前がコロコロ変わるし官職名も変わるし
ついついこんがらがりますね。

その上に登場人物が錯綜しますし。

相関図を書きながらゆっくり解明なさってください。




>郡上八幡もかかわっていますので、行ってきたいと思っています――


郡上八幡というと遠藤氏とか稲葉貞通でしょうか。



森可成(森蘭丸の父)なんかもちょっと関わって来るのかもですね。


で、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E6%88%90

森可成は大永3年(1523年)、森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。

美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の天文23年(1554年)には尾張国で織田信長に仕えた

    (一説には斎藤氏家臣の長井道利に仕えた後の仕官とも)。 ← 長井道利ですよ



槍の名手で、関兼定(大政所の父と言われる鍛冶屋)銘の十文字槍の使い手であった。
武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇った。


                  御器所出身の秀吉の母が関兼定の娘または一族というのは知らなかったです。



ということで
大政所=秀吉の母
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E6%89%80

永正13年(1516年)[2]、尾張国愛知郡御器所村[3]に生まれたと伝わる。
美濃の鍛冶・関兼貞(または関兼員)の娘とも云う。

妹に栄松院(小出秀政の正室)、大恩院(青木秀以の母)、松雲院(福島正則の母)、
従妹(一説では妹)に聖林院(伊都、加藤清正の母)がいる。


織田家の足軽あるいは雑兵(雇い兵)だった木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、日秀と秀吉を生む。
『太閤素生記』によると、天文12年1月2日(1543年)に夫が亡くなった後、織田信秀に仕えた同朋衆と伝わる竹阿弥(筑阿弥とも)と再婚し、その間に秀長と朝日姫をもうけたといわれる[6]。

しかし、桑田忠親によるとこれは生年の誤りで、弥右衛門が亡くなった天文12年に秀長は3歳、朝日姫は1歳であり、仲は4人の子女を抱えて竹阿弥と再婚したとしている[7][8]。



人間は足があって動くから、アチコチに足跡を残しているものですね。
まさか関関係で秀吉の母方祖父が鍛冶屋だったとは知りませんでした。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月11日 01時32分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回、学ぶべきものがたくさんあり、またあり過ぎて今のところ論旨が
まとまりません――

 一晩寝れば、糸をつむぐことができるでしょう……?!

 
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月11日 06時50分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まずは、斎藤氏というものの把握をしておくこと、これが一番先に押さえ
ておかなければならない事項であります――

 斎藤氏は、ルーツは藤原氏で、利仁流であります。加藤光泰も藤原氏の出
で利仁流であります。田村利仁将軍より四代目の「重光」が加藤氏の流れ、
その弟の「伊博」が斎藤氏の流れ。加藤光泰が斎藤龍興に当初仕えたという
ことは、同族故のことでありましょう。永井(斎藤)隼人佐道利も龍興に仕え
ていますので、光安と永井(斎藤)隼人道利は同じ釜の飯を食った仲となりま
す。

 この続きは後で――
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月11日 07時10分15秒 ) パスワード

長々書いていたら消えてしまいました。
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月12日 01時37分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 美濃斎藤氏の系図には、あいまいさが残ります。『永井隼人とその系譜』
の著者の永井源六郎氏の簡潔にまとめたものに、若干付け加えると以下のよ
うになります――

 「 藤原鎌足……利仁――吉信――伊傳――則光――「則重」―
   ―助宗――「実遠」――親頼――頼茂――利政――利永―
   ―利藤(妙椿)――「利国」――利隆――養子の道三/実子の隼人
  
   ※「利国」の弟の利安(長弘)――利賢――利三――福(春日局)  」

 この中で、初めて「斎藤」を名乗ったのが「則重」。
 また、初めて「永井斎藤」を名乗ったのが「実遠」であります。

 斎藤氏は、土岐氏が東農から美濃平野に乗り込んでくる前から、美濃に
拡がっていたということです。
 また、土岐・斎藤とも長く美濃に住したが、1542年(天文11年)に
道三により土岐氏が零落すると、その一族や関連氏族は数代の旧領を捨て、
思い思いに立ち退いた。多くは今川氏の駿河へ行き、その後は徳川家に仕
えたということです。つまりは民族移動があった――

[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月12日 06時49分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


>土岐・斎藤とも長く美濃に住したが、
>1542年(天文11年)に道三により土岐氏が零落すると、その一族や関連氏族は数代の旧領を捨て、
>思い思いに立ち退いた。
>多くは今川氏の駿河へ行き、その後は徳川家に仕えたということです。つまりは民族移動があった――


駿河ですか!


録画してあった「ファミリーヒストリー」を見ました。
タレント?女優?の斉藤由貴ですが驚くようなことがありました。


斉藤由貴はものすごく穏やかな裕福な家庭に育った深窓のお嬢さんというイメージが有りますが
父方母方はともに大変な苦労をしていました。


そして!
家紋が  ○に三つ星その下に横一文字  でした。


更に!
菩提寺の被葬者の1人が  朝日姫  でした。

駿河の泰雲山瑞龍寺です。
立派なお寺さんだなと思ったら、家康の後妻さん=秀吉の妹=の菩提寺だったとは。


家康の正妻朝日姫と側室阿茶局
斉藤由貴が側室阿茶局を演じたことはご先祖さまがらみなのかとビックリしました。


ちなみに斉藤家が美濃の斎藤家と関係があるのか無いのかは分かりませんでしたが。
でも関係があったのかもですね。
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月12日 10時44分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 斎藤由貴の話、歴史の操り糸が今の世の人には見えないだけかも知れませ
ん。たぶん現代の誰もが、「血脈の糸」と「歴史の糸」にぶら下がっている。
これは否定できない事実です…ただ見えないだけ。私の場合の服部も、しか
とは見えないけれども、血の糸、歴史の糸にぶら下がっている…その糸を現
在探しているわけであります。

 いろいろ視野が広がります。「森可成(よしなり)」についても今まで全く
知らなかったのですが、森蘭丸の父でもあり、また歴戦の猛将だったのです
ね。宇佐山城の戦いで討死してしまい、信長は悲嘆にくれた。敵方に加わっ
た比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのも、森可成を殺された憎しみが一つの要
因としてあったようです。
 また、森可成は一時パラサイトされた斎藤利隆の子斎藤道利(永井隼人)
の客分として仕えていたという。斎藤道三からも非常に可愛がられていたと
いいます。

 斎藤氏というと、斎藤道三しか思い浮かばないわけですが、道三は一時の
あだ花、ヤドリギのようなパラサイト人間だった訳であります。

 土岐家を支えた斎藤家の血脈は、やはり斎藤道利や斎藤利三にあった。
 その内、斎藤利三は本能寺の変である程度有名にはなった。が、主役は
光秀で、利三は助演という位置であります――
[58]A.AKECHIさんからのコメント(2016年11月12日 15時58分30秒 ) パスワード

 本筋とは関係ないコメントになってしまうことをご容赦下さい。「明智」を登場させて下さいましたので、ご参考になれば、と思いまして…

@昨年刊行の「明智一族 三宅家の史料」p.510
先祖喜多村弥平兵衛事、明智日向守殿末子にて、光秀の後妻伊賀国喜多村出羽守娘腹に出生仕り、幼名を内治と申し候、信長公御滅亡の節、〜坂本の城攻め崩され、〜光秀の内室ともに隠し置き城外に出し、山越えにて伊賀へ落ち行き候ところ、途中にて服部蛇鬼破と申す侍に行き逢い、出羽守館に送り届け候、〜

A春日局屋敷跡(大分県臼杵市二王座)
 http://maihana77.blog.fc2.com/blog-entry-495.html

B旧斎藤家(大分県臼杵市二王座)
 ただ、ここ↓に書かれた「道三が好んで使った瞿麦(大和なでしこ)の紋章」は、誤りです。斎藤家の家紋は瞿麦でよいのですが、道三だけは二頭立波紋でした。
 http://blogs.yahoo.co.jp/michio_ichii2002/62261324.html


[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月13日 01時51分49秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101573.html
スレッド25を立てました。
キリの良いところでどうぞ。


A.AKECHIさんの書き込みもそちらに紹介させて頂きました。



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