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 投稿番号:101566 投稿日:2016年10月09日 06時43分40秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXXI(M氏家譜22 M氏の秘密)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101505.html
長上郡の服部氏族LZ(M氏家譜21 +善地あたり)
スレッド57の続きです。


以下は
長上郡の服部氏族LXX\(16年の課題確認22)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101558_48.html
スレッド79からの派生です。



善地の松嶋氏の出自は諏訪系?小笠原系?その他?
いくつか考えられますが
出自がはっきりしている松島氏は、諏訪氏の流れの中に見出せる松島氏のみ。

    これは、建御名方命の後裔「諏訪有員(ありかず)」から数えて
    13代目「千野光親」、14代目「藤沢清貞」、15代目「藤沢清親」、
    16代目「藤沢清正」、17代目「藤沢朝清」と「藤沢清信」。

   この「清信」が松島を名乗った初代であるといいます。
   (『信濃史源考』参考―「武家家伝―藤沢氏」より)



松島氏と小笠原氏の関係は、
松島氏の本家筋の「藤沢朝清」の13代孫の「藤沢頼親」において
間接的に見られます。

つまり「藤沢朝清」から十三代孫の「藤沢頼親」は「小笠原長時」の妹を妻に迎えています。

さらに、「藤沢頼親」の娘は「小笠原長時」の子「小笠原貞慶」に嫁ぎ、
「小笠原秀政」をもうけております。

この「秀政」は、家康の第一子の信康の娘「登久媛」を娶り、「万姫」をもうけ、
やがて「蜂須賀至鎮」に嫁がせております。


間接的であれ小笠原氏秀政の母方が藤沢氏で、松島氏も元藤沢氏であったということは
ステータスとして高いものであると思われます。


ちなみに、「藤沢朝清」の9代孫「有政」、10代孫「信有」は両人とも、
「遠江守」を名乗っております。



小笠原氏:
清和源氏の主流の中の「新羅三郎源義光」(1045〜1127)を氏祖としております。


義光―義清―清光―遠光―長清―長経―長忠―長政―長氏―宗長―貞宗と続きます。


この内、「清光」と「遠光」は遠州の官領を兼ねております。
また、遠光の弟の「安田義定」は遠江守護となっております。


「小笠原長清」は「小笠原」の名を高めた氏祖といってもいい。
やはり、遠州の官領も兼ねた。

「長経」は遠江守。

「貞宗」は遠州の官領。
        また後醍醐天皇の弓術、乗馬術の御師範でもあった。
        ただ、足利尊氏に従った。


この「貞宗」の長男が「政長」―遠江介。遠州の官領も兼ねる。

政長の後裔はずっと下って「小笠原長時」―「小笠原貞慶」―「小笠原秀政」と
続く。


「貞宗」の弟が「宗政」。そしてその子供が「宗安」。

「宗安」の子「政忠」が遠江白羽(竜洋駒場)の「山下家」に養子として入った。


この山下氏の祖は「大友氏」で、 大友氏の祖は、あの「藤原千常(智常)」であります。



以上を総括すると――
@小笠原氏は遠江・遠州と密接な関係があります。
A松島氏は藤沢氏でもあり、諏訪氏でもあります。
B藤沢氏は源氏に仕えていますので源氏姓を名乗っても不思議でない。
C「宗」の通字は小笠原氏の末の方にあります。
D「松島右衛門尉源宗忠」の妻「おみち」は
      藤原智常(藤原秀郷の子)の子孫のようで
      山下家から松島家に嫁が入ったとすれば、辻褄が合います。
E松島家は「源姓」を強烈に名乗っておりますが、
      藤沢頼親と小笠原氏の婚姻関係が
      松島氏が藤沢氏の分流となった後のこととは言え、
      何らかのよりどころとはなっただろうし、
      またもっと昔に松島氏は小笠原長清の子孫であったとの説もある

          ここはどうであろうか。
          諏訪氏が小笠原氏と合体したというのならよくわかるのだが。



松島氏の一番の謎は、この遠江に、いつ、どうやってやってきたのかということであります。
そこの証左がないのですが、
少なくとも安田義定あたりの時代には来ていないと、羽鳥庄の庄司であったということと合わなくなります。

もっとも何派かに亘ってやって来たのかも知れません。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月19日 10時35分31秒 ) パスワード

下記、転載:

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101564_53.html

[32] 三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月17日 00時30分50秒 )


空の青海のあを様

 本日は、松島家の古文書を解釈すべく、ずっと調べておりました。
 松島但馬という人間がいるのですが、源長院の檀徒でもありますが、
藤原の神主となっている。たぶんこの人が松島源右衛門であると思いま
す。庄屋で石高五十石でありました。家譜と服織神社の記念誌をみると、
この人が松島対助であろうと思われます。服織神社の神主であったと
推察されます。対助は右衛門家の出でありますが、その五代前の別れの
松島左近(源右衛門)家を一旦は継ぎ、義父に子ができたため分家となっ
たようです。妻は市野惣太夫の娘であります。

 松島但馬という名前は何か意味を暗示しているようですが、藤原の
神主というと、熱田神宮の神主の藤原氏を思い起こします。また、この
地で藤原氏といえば、蒲の御厨の藤原氏が有名であります。後に源範頼
をかくまい育てております。また範頼は熱田の藤原大宮司家の養子とし
て育っております。

 いずれにしても、「藤原 神主」が松島氏のなぞを解くキイワードと
なりそうですが、それ以上に続く情報はなく、松島氏のミッシング・リ
ンクは、依然解明できないままであります――

 時代としては、足利尊氏の時代、調べると、尊氏はこの遠江にも色々
な痕跡を残しております。秋鹿氏や青山氏の祖先にも関係する事柄があ
りました。ひょっとして、秋鹿氏と松島氏は関係があったのかも知れま
せん。羽鳥庄が「キイワード」になるかもし知れません――
 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月19日 10時37分17秒 ) パスワード

松嶋但馬について、「但馬」とは?


時代は違いますが
http://e-ainan.net/sonshi/nenpyou/nen/nenpyou.htm



1767 明和4 丁亥 7/1 ●田沼意次が側用人となる。(田沼政治)

1768 明和5 戊子 9月 厳島神社改築(神主岡原河内守藤原智常・庄屋實藤源左衛門・願主内海浦中)。 内海村史上巻461頁


これを見ると   神主岡原河内守藤原智常   河内守?


ということは  松嶋但馬守でも良い  ということになりますか。
スゴイ!
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月19日 10時38分51秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101564_53.html

[53] 三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月19日 00時34分26秒 )


空の青海のあを様


 羽鳥庄を中心にして、市野氏、内藤氏、青山氏、小栗氏、秋鹿氏、関連し
て代官頭の伊奈氏がいます。

 これらの人々に関連して色々調べていましたところ、松島氏のミッシング
・リンクがおぼろげに見えてまいりました。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月19日 16時42分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ整理していただき、感謝申し上げます。

 羽鳥の松島氏について、可能な限りの調査と推理をしてきましたが、最終的に
ネックとなっているのは、年代的整合性=ツジツマでありました。松島家家譜と
いうものがあり、それをすべて正しいものとして考えすぎたきらいがありました。
 考えてみれば、我々が実物の人間や親からの言い伝えで把握できるのは、せい
ぜい100年、曾おじいさんの時代まで位が限界だと思います。それが200年、
300年、400年、500年前まで正確に記すとなると、よっぽどの名家で、
しかも長く繁栄もした家系でなければできないことだと思います。
 また、当然世代ごとに継ぎ足しや説明書きの補足がされたりしますので、それ
が仮に正しいとしても、書き手の文章が正確さを欠く場合には、こちら側が間
違った勝手な解釈をしてしまうこともあります。
 ということで、特に家譜の説明書きの部分の信憑性について、一度リセットし
直し、それよりも大局的な流れの方を重視し、整合性を考えることにいたしまし
た。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月20日 10時53分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

松島家に絡む最も古い文書は、「松島忠兵衛源宗吉(幼名対助 1561年生)」
の葬儀の時の「香典帳」であります。これは、最も信頼できる資料でありま
すが、1651年(慶安4年 85才没)のことであります。

 「羽鳥村松島家家譜」というのもありますが、それが書かれた年代と書
いた人が特定できない。複数の人の筆が入っていて、たぶん江戸後期のも
のではないかと言われています。香典帳は当然間違いがなく書かれるもの
でありますが、家譜については、遡るに従って推測・思い込み・虚飾に近
いものが入って来る可能性がありますので、気を付けなければなりません。
 それでも、一応は正しいものとして、慎重に整合性を探りながら進めて
行かざるを得ません。

 松島氏がある意味、歴史上の表の記録として顔を出すのは、この「香典帳」
が最初であります。
 従って、それ以前のことは、家譜に書かれていることにより推測して行く
他ありません。

 ここで一旦切ります――
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月20日 14時24分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


>家譜については、遡るに従って推測・思い込み・虚飾に近いものが入って来る可能性がありますので、気を付けなければなりません。


はい
おっしゃる通りです。


>それでも、一応は正しいものとして、慎重に整合性を探りながら進めて行かざるを得ません。

はい。
書かれている内容に何らかの「事実」は存在しているです。

なので、どのような事実なのか、検証しないといけないですね。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月21日 01時37分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 羽鳥の松島家については、浜松の郷土史家神谷昌志氏が、松島家の家譜を
中心として、「東海展望」という雑誌に記者としての記事を載せておられま
すので、そちらの方を主として参考にさせていただきます。家譜とその記事
とを比べてみますと、内容をよく理解し、しかも客観的にまとめておられま
す。実際に取材に行き、色々確かめた上で書かれていますので、素人が家譜
だけ見て解釈するより、数段の信憑性があります。
 その中で、松島家の初代は、@松島源左衛門忠吉となっております。系譜
にもそのようなことが書かれていますがややわかりにくい。つまりは、初代
源右衛門にはじめ子供がなかったため、同門(松島右衛門系)から養子として
「対助」を迎えたが、後妻に実子が生まれたため、対助は別家(分家)をたて、
独立したということであります。但し、「初代」を源右衛門忠吉とし、対助
は二代目におさまっております。これの意味するところは、一旦は養子に入
って源右衛門の子になったということを表したかったものと推察されます。
財産については、源左衛門本家と2分の1ずつにしてもらっていますが、何
せ戦国末期(1600年前後)のこと故、今とは情勢が違います。当時の実力
者の市野惣太夫に、お世話になっているようであります。そして、やがて惣
太夫の娘を嫁にいたします。 市野惣太夫についても、分からない点が多々
ありますが、表の記録では慶長5年(1600年)に、浜名10郷の代官とな
っております。
 この代官所というのも色々複雑でありますので、次回に改めて述べさせて
いただきたいと思います――


 

 
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月21日 02時55分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


>源左衛門本家と2分の1ずつにしてもらっていますが、
>何せ戦国末期(1600年前後)のこと故、
>今とは情勢が違います

この2分の1ずつというのも謎ですね。
                       手切れ金ということで?
                       元々一族だから?
                       その他?


今とは全く事情が違いますから、何ともはや、謎ですね。

日本の長子相続制度もいろいろゴタゴタありましたよね。
                       足利幕府でも弟の義視を跡継ぎにしたら実子の義尚が生まれてしまって応仁の乱になりました。



日本の場合は後継者1人が全ての家督を貰うから
(男子のみ?)平等に相続する中国とは違って
日本では共産主義体制は無理なんだとか。


なので對助さんが半分貰って出された、というのは何故か?という疑問が起きますよね。
慰謝料とか手切れ金なら半分じゃなくて1割あたりで充分じゃないかと思うし。


家書というのは書かれてないことがたくさんあって謎だらけですね。
でも当時・当家・当人達には全く不思議じゃなかったのでしょうね。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月21日 17時22分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松島家の特異性は、少なくとも1596年までは、その軌跡が浜松の公的
歴史資料のどこにも出てこないということであります(源長院の資料の中に記
されておりました)。
 その年というのは、源右衛門本家の二世と、分家二世の忠兵衛宗吉(対助)
が、源長院という曹洞宗の寺の開基になったという年で、源長院の文書に書
かれております。
 ということは、財産の二等分はその前に行われた可能性が大きいというこ
とになります。市野惣太夫が代官(天領)になったのは、関ヶ原の合戦、即ち1600年の9月、たぶん地侍も百姓も戦役にかり出されたことと推察され
ます。そしてその前後に、忠兵衛宗吉と市野惣太夫の娘が結婚ということ、
何と慌ただしく、また忠兵衛宗吉(あるいはその氏族)の身分と財力が、想像
以上に高く、また市野惣太夫という謎の実力者(市野の小池村は服部半蔵に
絡む……)と深くて親密な関係を築いていた、と推察されます。
 ということは、松島家も裏(諜報)の世界にからむ人種であったのか……
世に余りさらされないようにして勢力を張る……そんなことも、感じられて
くるのですが――

[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月21日 22時57分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家に帰って、源長院の資料を読み直したら、文章があやふやな書き方で
書かれてありまして、素直に読み間違いをしておりました――
 源長院ができたのは1596年と書きましたが、それは源長院として移
転・再構築される前の「現成寺」というお寺でした。今の源長院より東の
天竜川に近い所にあったそうです。源長院として移転・再構築されたのは、
本家初代の松島源右衛門忠吉が1651年に亡くなり、その菩提寺として
本家・分家の両2代目が、源長院と改名して開基し直したということであ
ります。
 ということで、寺を立て直すためには相当の費用がかかるでしょうが、
1600前後に本家・分家としてスタートして、約50年の間にさらに財
を蓄えたということになります。

 いずれにしても、市野惣太夫との関係、及び1600年ころに羽鳥に浮上
したという2点について、松島氏は謎を秘めております。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月22日 02時42分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


松島氏が大変な財力を持っていたのが分かりますね。
一体何者だったのでしょうね。


1990年代に母方の菩提寺に行った時、バブル期に大改造して、どーたらと言う話を聞きました。
本堂の柱だけで3億円でした。

江戸時代の物価を10分の1としても、お寺を開基するというのは莫大な費用です。


そういう力を持ってた松島氏とは一体何者だったのか。
ホント!謎ですね。


でも江戸時代の旦那さんというのは今の金銭感覚からでは想像できない力を持ってましたよね。
そうすると戦国時代まではかなりの力を持ってた豪族か金の成る鉱山を支配してたか
とにかく余禄があったのかも。
だから代官の市野家から嫁が来たのかも。


日本はとにかく名字が変遷しますから  源姓 → ○○氏 → 松島氏 と変わって来たのかも。
途中の名字が何だったのかが、謎を解くヒントになるのかも。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月22日 22時41分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、久しぶりに芝刈り大会に行き、リフレッシュしてまいりました。
 疲れのため、少し寝てしまいました。
 
 さて、あを様の言われるように、松島という名前は、元々別の名前があ
って、松島というところに居住したために松島になった、あるいはどうい
う形か松島氏と合体した、ということで、前の名前から替わったのだと思
いますであった。
 市野氏もそれと同じ形で、もともとは違う名前であった。市野という場
所へ来て、市野という名前に替わった。元々は浅井氏より出ているという
のが大筋であります。子孫の家系図によると、市野の前に2代袴田姓が続
き、その前が寺田姓であったということですが、はたしてその姓氏間の人
間関係はどうなっているのか……父方、母方の記憶の断片を拾い集め、そ
して張り合わせたような感じもなきにしもあらずの感もあります。
 市野氏については、その子孫の市野康彦氏が書かれた『家譜 市野家物
語』というものがありますので、今再読いたしましたが、青山氏との関係
(お付き合い)が結構深いということがわかりました。ということは、松島
氏も青山氏と何らかの接触を持った関係ということにもなります。という
ことで言いますと、青山家は内藤家と関係し、内藤家は服部中家と関係し、
青山家は服部一族(正尚)と関係し……類は友を呼ぶであります。松島氏も
その類か友か、いずれにしても近い所の存在であった可能性は高いと思わ
れます。では一体どういう形で?、ということになります。松島氏は一体
何者であったのか……。
 松島氏に一番近いのは、とりあえず松島家家譜にメモ書きされているこ
とを正しいとすれば、松島対助の妻の実家か゜市野家であったということ
で、やはり松島氏は市野氏との関係がまず一番ではないかと推察されます。
 そういえば、市野氏の家紋は「丸に一文字」でありました。松島氏も同
じであります。松島氏の家譜には、「小笠原丸一文字」という出所をにお
わせる説明書きが竜洋山下家(元大友氏系の山下家に、小笠原氏が養子に
入った)から来た嫁にありますが、いままで色々しらべていますが、小笠
原系の丸一文字は未だ見たことがない……木曽福島の山村代官家は丸一文
字ではありましたが……。
 それから、ひとつ忘れていましたが、松島家家譜には対助を独礼庄屋で
あると説明書きが加えられておりました。歴史の文書にはみだせないので
ありますが、この場合の羽鳥の領主というのは一体誰だったのか。天領系
の場合は、藩領と違って比較的管理がゆるいということで、藩と違って記
録には残されないものが多いといい、松島氏の記録が少ないのは天領系で
あったという可能性も高い。この場合の天領とは、中泉代官所の管理する
天領あったのか、または市野代官が独立して管理する天領だったのか、は
たまた秋鹿氏が独立して管理する天領だったのか……市野も貴平も羽鳥に
隣接した市野、貴平でありました……。

 次回は、その辺も含めて、市野氏について掘り下げてみます――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月23日 03時07分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


当時の人間関係は横の同等クラスで繋がってますから松嶋氏も同等の社会的地位があったのでしょうね。


独礼庄屋ということは前身は身分が高かった地元の有力者(武士・豪族)だったということでしょうね。
市野家よりも格上だったという事でしょう。


遠江の天領の独礼庄屋ですから、特別な何かがあったのだろうということは分かります。
山下家のように武士を止めて独礼庄屋の生き方を選んだのでしょうね。


山下家のような決定的な情報が欲しいですね。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月24日 06時37分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野氏についてまとめつつありますが、それよりもまず家康の遠江、ある
いは南信濃の統治スキームを鳥瞰した時、それなりの人達がそれなりに活躍
しているということがわかります。

 佐藤孝之氏の『近世前期の幕領支配と村落』を参考にしますと――

 @関ケ原の戦い前は、代官頭として「伊奈忠次」「彦坂元正」「大久保長安」
 が家康の支配地全体を統括していた。遠江でいうなら、中泉代官所を拠点と
 して天領の統治、そして天領でも「土豪代官」の支配する地域についても、
 大所より指示を出していた。

 A「関ケ原の戦い」後は、遠江の統治は、代官頭「伊奈忠次」を頭にして、
 中泉代官所を経由して行われた。

 B南信濃については、大久保長安が代官頭として統括した。その前は酒井
 忠次が武田氏と戦い、武田氏が滅びると支配権を奪還している。(この酒井
忠次については、今のところ情報不足でありますが、探求すれば何かびっく
 りするような秘密事項が飛び出してくるかも知れません。もちろん、伊奈
 忠次にしろ大久保長安にしろ、秘密がからんだ謎深い人達であります……。)
 
 以上をまとめると――

       「家康」
    ↓
      「伊奈忠次」・「大久保長安」
     ↓
      「中泉代官所」・「土豪代官」

というスキームになります。
 即ち、土豪代官「市野惣太夫」もこのスキームの中で動いていたというこ
とになります。

 この遠江の土豪代官には――
 @秋鹿氏(長兵衛)
A大草氏(太郎左衛門)
B市野氏(惣太夫)
 C万年氏(三左衛門)
 D片切氏(権右衛門) 
 E安間氏(平次屋)
等々(長谷川氏、野田氏等)がおりました。大草氏(元永田氏)は、後に今泉代
官に組み込まれています。

 このスキームを見ただけで、何か裏の世界が透けて見えて来るような感じ
がしませんか?――
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月24日 08時27分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:「後に今泉代官に」→「後に中泉代官に」
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月24日 15時26分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


「土豪代官」という名称:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E5%AE%98

初期代官には家康との個人的結びつきによって任じられた土豪代官と、
これを統率する代官頭があり、
時には年貢収入を請け負う地元農民(臨時代官)もあった。




市野
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B8%82%E9%87%8E

現静岡県西部である遠江国長上郡市野が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。

ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)公季流、三枝氏などにもみられる。

現島根県西半部である石見にもみられる。


「野」は自然のままの広い地を表す。




市野氏

http://books.google.com/books?id=9_D6dNY4AlMC&pg=RA3-PA7&lpg=RA3-PA7&dq=%E5%B8%82%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=6kszzVs2gM&sig=WxfNzx60x99Nh-dXlYdmfXU8-f4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwje_OiT3fLPAhXmlFQKHWKmCAQQ6AEIQzAI#v=onepage&q=%E5%B8%82%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

藤原氏支流ですね。



http://www.kakeiken.com/report005-5.html
浅井氏一族(浅井・磯谷・山田・市野氏)
藤原公季の子孫で、浅井氏も系図に出てますね。

市野茂左衛門義久  仕。家康               ← どなた?惣太夫の一族?



                                         もうちょっと下の  浅井氏(道忠系)  が面白いです

                                         小栗とか秋鹿とか長田とか内藤とかの名字も読めます




浅井氏(道忠系)のすぐ上の「浅井氏主要一覧」をクリックなさいますと面白いものが読めます。


秀吉と浅井の関係および物部との関係が(浅井氏系図の謎 つづき)に出てます。ずっと下の方の左端です。

正親町三條実雅の男子(公綱)と浅井(物部)信政の娘が結婚してて、その子孫が秀吉(豊臣朝臣)?



系図とか家書というのは(どういう意味で記されたのか?)という謎で一杯ですね。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月25日 10時31分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野氏が藤原氏をルーツに持つ浅井氏であったというのが、系図でいう
ところの「市野義茂」を基とする流れであるようですが、寛政重修諸家譜
では、もう一つ「市野實久(眞久)」を基とする流れがあり、その直近の姓
は「袴田」、そしてその前は「寺田」だと書かれております。

 現在の市野家の子孫に残る口伝によっても、やはり市野氏になる前の姓
は「袴田」、その前は「寺田」であると言います。その「袴田家」という
のは、信濃、甲州、関東(一説に陸奥にも赴いたようである)に赴き、家康
の馬を求めたと家の記録にあるそうです。また口伝によると、馬を調べる
ということは、「軍事力」を調べることにもなり、徳川家康にとって、関
東への入府の一助になったということです。

 今聞けばさらっとしたこの説明も、戦国時代のその真っ只中の状況の中
では、正に命がけの忠孝として賞賛されるべき内容であります。馬にかこ
つけて、情報を収集していたと言った方が、むしろ正解なのではないかと
も推察されます。ということは、裏の諜報ネットワークにつながる一族で
あったということになります……?

 市野氏が浅井氏の流れとして、いつこの遠江にやって来たのか、浅井長
政が織田信長に滅亡させられたのは、天正元年(1573年)のことであります。
 浅井氏も伊賀忍者を使っていたようですし、家康にはもちろん服部半蔵
を初めとして服部一族が仕えていた。この浜松に、その一族郎党(伊賀忍者
関係者)がたくさんいたことは間違いないことでしょう。市野という場所も、
ひょっとして半蔵の領地だったかもしれません。市野村小池に、半蔵の足
跡がわずかに残っているからであります。市野村のすぐ東の上石田村は、
服部中の領地でありました……。

 徳川家康は心に仏性を持った人であったので、いろんな敗残者が逃れて
やって来る。そしてかつては敵であった者も受け入れている。いわば、こ
こは敗残者のサンクチュアリ、「欣求浄土、厭離穢土」の精神は正に人を
惹きつけたのではないでしょうか……。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月25日 12時14分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


面白いことが見つかりました。



http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%A2%B4%E7%94%B0

袴田
現三重県である伊勢国度会郡袴田村が起源(ルーツ)である、度会氏がある。
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流(現大分県中南部である豊後)、
南部氏族(現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中)などにもみられる。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%BA%A6%E4%BC%9A
渡会
現三重県である伊勢国度会郡が起源(ルーツ)である、天牟良雲命の子孫、伊勢神宮外宮の禰宜家。
芝村藩にみられる。
聖なる川(五十鈴川)を渡り神に会う、が語源。
岐阜県、愛知県に多い。


再挑戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%B0%8F
朝日氏(あさひし)

1.武藤氏(少弐氏)庶流の朝日氏。
少弐盛経の子の資法を祖とし、鎌倉時代末期から戦国時代初期にかけて、肥前朝日山(旭山)を周辺の地に割拠し、少弐氏の勢力を支えたが、室町時代以降、大内氏との抗争に少弐氏が敗れ衰退すると、ともに没落の道を歩み、享禄年間に最後の当主頼貫が死去し(大内義興との戦いで戦死したとも、大内氏に服属したものの田手畷の戦いで討たれたとも)、断絶した。朝日氏の旧領は大内氏の代官が支配した。


2.戦国期は武田信玄に仕えていたという尾張藩士朝日文左衛門家

3.朝日将軍木曾義仲の後裔で遠江出身の袴田氏が後に改姓し、
朝日重政が菅沼定利から徳川家康・結城秀康・松平忠直・松平直政へ歴仕して出雲松江藩家老連綿となった家系。


                                          この袴田氏は源氏になりますね

4.藤原氏庶流と伝わる津軽朝日氏。
康永3年(興国5・1344)、藤原藤房が津軽に入り、その子景房が飯詰城を築き朝日氏を名乗ったという。陸奥飯詰城主。南部氏配下。天正6年(1578)、朝日行安が大浦為信に居城を攻められ、一族は皆殺しにされ滅亡した。



チラッチラッと何か尻尾が見えますね。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月25日 22時57分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、中学校の同級生が5人集まり、食事と歓談をいたしました。その
中の1人に、江戸時代に庄屋をやっていた上善地の松島氏の子孫がおりました
ので、祖先について話を訊いてみたところ――「落人(おちゅうど)」だった
と聞いたいます、蔵には「槍」等があったようです――との答でありました。
 当家の本家にも、蔵に刀がたくさんあったり鎧があったと聞いている。
 加藤家にも槍や刀があったと聞いている。
 いずれも昔は単なる百姓ではなかったような気がいたします。

 松島家の「落人伝承」……これは、やはり伊那の松島氏が天竜川の上流か
ら下流域、即ち遠江の家康領へ避難したと考えるのが、一番素直なのかも知
れません……。

 さて、この地域の「松島氏」の家紋ですが、「丸に一文字」であります。
この地域で「丸に一文字」といえば、ほかには「市野氏」が浮かんでまいり
ます。そして、二俣で信康の介錯をした「天方氏」、そしてその同族に近い
「青山氏」。
 さらには、千鹿野茂氏編集の『家紋でたどるあなたの家系』によると、何
と「朝日氏」がそうでありました。これは寺田氏から出た市野氏と朝日氏が
同族であることの有力な証拠なのかも知れません。
 あと、私が知り得た中では、木曽福島の山村代官家がそうでありました――
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月26日 01時46分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


木曽福島って、尾張藩の飛び地で、木曽檜を管理してたような?そこの代官をやってたということかも。
服部家ホンヤさんも確か木曽に資産をお持ちだった記憶。



木曽福島の山村代官家

http://www.town-kiso.com/facility/100025/
http://www.town-kiso.com/img/photo/box/0002/lg/5a/5a3203a1be6ac0605ee45b6c585e827cf56ffe09.jpg

ものすごく立派ですね。
1度は遠足に行く価値がありますね。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamamura.html
山村氏

丸に一文字
(大江氏流)   あらあら

 山村氏は大江氏の末流を称し、大江良道が近江国山村で長じたことから山村氏に改めたと伝えられている。良道ははじめ室町幕府に仕え、幕府衰退とともに任を辞して諸国を遊行したという。やがて木曽に至り木曽良元に仕え、永正十二年須原館を襲った敵と戦って戦死した。


 良道の子良利は木曽義昌の娘を妻とし、一族は千村・遠山氏らと婚姻し木曽氏の一族として武功を重ね、弘治五年(1555)木曽氏の甲斐武田氏隷属とともに、その配下となり、元亀三年の武田勢飛騨侵攻時には、これに加わって戦功を挙げ、恵那郡蜷川三百貫を給されている。


 その子良候も、この時、父とは別に千旦林・茄子川で三百貫を知行し、武田氏滅亡後、木曽氏が総州網戸移封に際しては一旦これに従い、のちに子良勝を仕えさせて自身は木曽に帰り、石川氏の下で黒沢・玉滝・三尾・福島・岩里地区の代官となっている。


 関ヶ原の合戦直前には、三成方の石川氏によって犬山城へ人質として招じられていたが、木曽衆の木曽谷潜入時に帰され、あと良勝とともに徳川氏に与して戦功を挙げている。


 この時の功により、木曽衆へ一万六千二百石が給されると、良勝は山村宗家として四千六百石を受け、良候には別に隠居料として千三百石が給されて山村宗家は五千九百石となり、現在の瑞浪市内の日吉白倉と深沢・田高戸・次月などの各半分と一日市場の内七百八十六石余のほか、可児・恵那両郡のうちで知行し、元和元年(1615)尾州付属のあとも幕命による木曽福島関所守衛のことは変わらず、

木曽福島に屋敷を構えて尾州家よりの木曽谷代官をも兼ねた。
                                             コレです
                                         


 幕府からは江戸の金杉に屋敷を給され、表交代寄り合い格、柳の間詰、
尾州家からも名古屋に屋敷を給され、
民政は中津川役所に代官を置いて当たらせていた。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E8%89%AF%E5%8B%9D
山村 良勝(やまむら よしかつ/たかかつ)

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
妻籠城主

永禄6年(1563年)、山村良候の子として生まれる。祖父山村良利と良候は木曾義昌の家臣であったが、元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦において飛騨調略を成功させ、信玄から直接、美濃国恵那郡安弘見で3百貫、千旦林、茄子川の両地でさらに3百貫を与えられた(木曽考)[1]。

天正12年(1584年)3月、徳川家康と羽柴秀吉の間で小牧・長久手の戦いが起こると木曾義昌は秀吉に恭順した。このため同9月、徳川家康は菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠に良勝が守る妻籠城を攻めさせたが、良勝はこれを撃退した。しかし、秀吉と家康の講和により、木曾氏は家康の傘下に入れられ、天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、これに同行した。良勝は木曾義昌没後はその子・義利に仕えた。しかし義利が不行状により改易されると徳川家康の家臣となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。木曾にあって同じく東軍に属した父・良候が西軍の石川貞清に敗れて犬山城に拘禁されると、良勝は木曾の国人を率いて犬山城攻めに加わり、武功を挙げて父を救出する。慶長7年(1602年)に父が死去すると、家督を継いで5700石の領主となった。

幕藩体制下で木曾は尾張藩の所領となったため、良勝は徳川義直に仕えて2代目木曾代官に任じられた。慶長13年(1608年)、子の良安に家督を譲って隠居する。慶長18年(1613年)に大久保長安事件が起こると、奉行仲間だった大久保長安の関係者として逮捕されているが、後に許された。

                                        へぇ〜


大坂の陣では徳川義直に従って両陣とも出陣した。後に子の良安が早世したため、再び家督を継いで義直に再出仕している。

寛永11年(1634年)に死去。享年72。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月26日 01時57分28秒 ) パスワード

上記「山村氏」の親戚の千村氏。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kis_timu.html
千村氏

丸に酢漿草
(清和源氏為義流木曽氏族)


 戦国時代の後半期に、天険の要害と豊かな山林資源を背景とする木曽谷を統轄して、近隣に覇を唱えた木曽氏がいた。木曽氏は、六条判官源為義の孫、帯刀先生義賢の二男義仲の裔にして、その譜は義仲滅亡ののち、木曽谷を逃れ、上野国沼田庄の藤原家国を頼って蟄居した義仲の三男義基の後裔であるとしている。確かに永禄八年(1565)、木曽義昌が木曽黒沢の若宮社に奉納した三十六歌仙板絵の裏銘には「願主源朝臣義昌」と墨書しているのである。

 しかし、一方南北朝時代以降の木曽谷の諸社に残る在銘棟札をみると、源姓ではない藤原姓の家信・家有という、 そのころにおける木曽谷の支配権者と推測される人物の名前が残されている。そして、これらの人物は、 いずれも木曽氏関係の系図には被見しえぬ人名であることを思えば、南北朝時代以降の木曽氏を、諸記録や 系図類の多くが説くように、源姓の木曽義仲の末流と単純に考えることはできないようだ。


千村氏の軌跡

 いずれにしろ、初代の家重は上野国千村郷に住して千村氏を称したという。代々木曽氏に属したようで、戦国後期の家昌は木曽義康および義昌に仕えた。しかし、木曽氏が下総国海上郡洗足郷に移されたとき、ともに下総国に移り住んだ。

 家重の子良重は木曽義昌・義利に仕え、父と同じく東国にあった。慶長五年、徳川家康が上杉景勝征伐の軍を起こし、小山に陣した時、召されてはじめて家康に拝謁した。

 この時、石田三成挙兵の報が聞こえ家康は江戸城に帰還後、兵を率いて上洛。秀忠は別軍を率いて中山道に発向、西を目指すことになった。この頃、木曽谷は三成方に与した石川備前が代官として治めており、良重は山村甚兵衛と同じく家康に召されて木曽に下り、出陣の道を拓くべしとの命を与えられた。ただちに山村ともに発向、木曽氏の旧臣を糾合して石川備前の守る熱川砦を落し、木曽谷が静謐になったことを昌次父子らを介して家康に言上した。

 その後、信濃国妻籠城に兵を止めて、良重、山村は美濃国に打ち出すべきとの言上をして感状を受けている。そののち、山村とともに美濃国苗木・岩村両城の請取に働いた。

 関ヶ原の合戦後、木曽の旧臣らに美濃国の内において一万六千二百石の地を賜わり、良重は土岐・可児・恵那郡の内において四千四百石余を知行し、可児郡久々利に住した。

 慶長八年、命により信濃国の内一万石、遠江国の内千四十貫余の地を支配した。同十九年、浪合の関および木曽妻籠等の番を務めた。元和元年の大坂の陣には先手に加わり、天王寺口攻めに参加した。その後、信濃国飯田城番を務め、同五年に尾張大納言義直に付属された。

 良重の子重長は、大坂両陣に従軍し、その後は父ととも尾張義直に仕えた。子孫は尾張藩士として続いた。とはいえ、重長の弟義国、二男の重堅は別家を立て、それぞれ旗本家として存続している。


                                       なるほどそれで千村家と山村家は何重にも縁を結んでいたのですか。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月26日 02時06分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

>上善地の松島氏
>「落人(おちゅうど)」だった


どの時代のどのグループの落人だったのでしょうね。

落人と言ったら、だいたい源平時代から承久の乱、南北朝〜戦国時代のどれかでしょうけど
やっぱり信玄に負けた伊那の松嶋氏の可能性が高いでしょうか?


またもや原点に放り出されましたね。


信玄に負けて家康方に逃げ込んだとしたら、江戸時代、庄屋として信頼されますよね。
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月26日 16時46分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野家については、できるだけ顕かにしておきたいと思います。その理由
としては、松島家と一番からんでいると思われるからであります。
 但し、今のところその関係は、松島右衛門泰助が源右衛門家の分家として
独立する時に面倒をみてもらったということと、市野惣太夫の娘を嫁にもら
ったということ、そして泰助の葬式の時の香典帳にその名前か記載されてい
るということの3点のみであります。本当はもっともっとあるはずなのです
が……。
 市野氏の子孫の市野康彦氏の書いた『家譜 市野家物語』から、市野氏の
理解のために、これはといった事項を抜き書きしてみます――
 
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月27日 09時27分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野・袴田・寺田、松島各氏の資料を調べて行く内に、色々新たな事実
を確認できました。
 その一つとして――
 「市野」姓を名乗った「眞久」の親は、「袴田利宗」。
 「利宗」は「寺田」姓であったが「袴田」姓を名乗った。
 「利宗」の親は「寺田右京之進眞宗」。
 つまり、市野家は寺田家であったということになります。
 その寺田家の家紋は「丸に一文字」、つまり市野家の家紋と一致いたし
ます。

 この寺田氏は、原権守「藤原師清」を祖とする原氏流という。

 市野氏の祖は「浅井」氏と言われていますが、原系の「寺田」とも合体
しているものと推察されます。

 松島氏は、よく調べると、松島右衛門対助の曾祖父の妹が「寺田」家に
嫁に行っています。そして対助は市野惣太夫眞久(先代袴田→先代寺田)の
妹を嫁にしている。
 市野家とはすでに曾爺さんの頃からの付き合いであったということにな
ります。曾爺さんの生まれは、宝徳三年でありますので、1451年、
応仁の乱は1467年ですから、曾爺さんはその時16才であったという
ことになります。
 ということは、少なくとも応仁の乱後には、この地に居住していたとい
うことになります。

 伊那の松島家が滅びるのは、1556年でありますので、この時の落人
が遠江に逃れて来た時には、すでに松島右衛門家はいたということになり
ますので、それよりも先に遠江に来た松島家ということになります。
 小笠原宗政(政長の弟)の孫の「政忠」が竜洋白羽の山下家に養子になっ
たのが、1394年ですので、あるいはその頃に小笠原家と行動を共にし
て松島氏もやって来たのかも知れません。安田義定(小笠原氏族)がこの地
にやって来たのは1180年、その頃にもチャンスはある……。

 松島家は一筋縄には行かない。いくつかの筋があって合流しているのか
も知れません……。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月27日 14時14分06秒 ) パスワード

三つ柏さん


松島氏と市野=袴田=寺田氏は曾祖父さんの時から
応仁の乱の前から?

へ〜

これはビックリですね。


ここもビックリですよ!
http://folklore2006.jp/49913.htm
寺田氏

# 寺院が所有する「田」を意味し、各地に見られる。


# 東海地方から関東地方南部に多く見られ、特に静岡県西部(旧遠江国)に多い。
# 遠江の寺田氏は遠江国佐野郡原田荘寺田村(静岡県掛川市寺島)をルーツとする。                                      ← ビックリ


# 和泉の寺田氏は和泉国泉郡寺田(大阪府和泉市)をルーツとする。
# 大阪府の寺田家: 和泉国南郡岸和田(大阪府岸和田市)の豪商で酒造家。            先祖は武士で、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、その後は岸和田に住んだ。



【苗字の謎が面白いほどわかる本 丹羽基二】より
・ 寺社が所有していた田に由来する。
・ 薩摩国薩摩郡寺田村をルーツとし、藤原姓の上妻氏族。
・ 和泉国和泉郡寺田村をルーツとする。
・ その他、伊賀国の服部氏、遠江国の藤原姓などがある。                  ← ビックリ



謎が謎呼ぶ 松島氏⇔市野氏⇔服部氏    やっぱりアヤシイ!
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月28日 00時27分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊那の『箕輪町史』を調べていましたら、気になっていた「朝日」氏の
名前が目に飛び込んで来ました――
 「1600年 伊那は家康の蔵入地となり、朝日受永が伊那代官となる。
  1601年 朝日受永、嶺頭院・明音寺・普済寺・日輪寺等へ朱印状
        を下附。」

 この「嶺頭院は」、今は箕輪町松島にありますが、元は「藤沢頼親」の
守る「福与城」の近くに境内があったそうです。1545年に福与城が落
城すると衰退するものの、1560年に田中城が築かれると城下に移され、
寺号を箕輪山城安寺に改称したと言われております。

 「明音寺」については、松島氏に最も関係する寺であります。それは即
ち、松島城の城主「小笠原対馬守朝散太夫源頼実朝臣」が開基となってお
り、この人は松島氏の初代ということになっております。

 伊那における松島氏の軌跡については、次回以降に探ってみたいと思い
ますが、まだ市野氏についての話が残っておりますので、明日(本日)は、
それを先に記してしまいます――

 
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月28日 01時58分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


朝散大夫    チョウサンタイフ

1 中国、唐の従五品下の雅名。
2 日本で、従五位下の唐名。

            位階の5番目。
            律令制では正五位と従五位とがある。
            昇殿を許される者の最下位で、袍(ほう)の色は淡い緋(ひ)。
            五位に叙せられることを叙爵(じょしゃく)という。




>調べていましたら、気になっていた「朝日」氏の名前が目に飛び込んで来ました――

三つ柏さんにも「来てます」ね。
ご先祖さまからのパワー。


      向こうから「主張」して来るんですよね。
      「ねぇ、ねぇ、ココ!ココ!」
      って。


      その内に本屋さんでは向こうから本が飛び込んで来たりしますし
      テレビをつければ知りたかったことを放送してくれたり。
      日々、雪崩のように襲って来ます。



わたくしが思ったのは   信濃と上野とが  すごく近かった  ということ。そこに  遠江も  近いということ。

そういう土地鑑が全く無かったことに気づきました。


松島氏も   上野・信濃・遠江  のあたりを駆け回ってたのかもですね。
そして当然その地の豪族(例えば 小笠原氏など) と縁が出来たり
信玄と戦ったり、信玄の下に組み入れられたり、でもそれはイヤで落人になったり。
流転の日々があったのでしょうね。



松島氏はやっぱり「伊那」と関係があるのでしょうね。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月28日 16時47分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日、待望の「馬」に乗れることになりました。木曽馬でなく、現代の
馬ではあります。
 考えてみると、馬とは随分便利な乗り物であります。まず、ガソリンは
いらない――草でいいのです。道なき道――オフロードを進んで行けます。
時には泳いで連れて行ってくれます(水陸両用)。飼い主になつくそうです
(愛情を注げる癒しの対象となる)。糞は肥料にも燃料にもなります。さら
にうまく行けば、子を産み、増やすことができます。死ねば皮がとれます。
飢餓の時は食べることもでき、売ることもできます。
 戦国武将たちが、愛馬に対してどんな感じを抱いたのか……明日、その
答がわかります。

 では、市野家に関することで、これはと思われることを、市野康彦氏の
『家譜 市野家物語』より抜粋し、箇条書きにしてみます――

 @市野家第4代目の「惣太夫眞防」の妻は、清原忠明小畠(小畑)快元の
 娘であった。青山宗俊が蟄居した小林の心宝寺の墓地には、小畑氏族の
 墓がたくさんありました……。

 A「市野村の富民に市野惣太夫實久(眞久)といえるものあり。天性馬を
 好み、馬の鑒定(かんてい)に達せしと聞し召。遠江の代官たらしむ。」
                     (『駿府記 古老物語』)
B袴田家(市野氏の先代)は、信濃、甲州、関東(一説に陸奥までも)に赴
 き、徳川家康の馬を求めた。

 C徳川家康に差し上げた馬が鹿毛(かげ)馬で、この馬を大変気に入り、
 慶長5年(1600)年、徳川家康から京都伏見に呼び出され、老馬となった
 この鹿毛馬を引き取った折、天領の代官を命ぜられている。

 D元亀3年(1572)、三方ケ原の戦いに馳せ参じたいと申し入れたが、そ
 れには及ばず、近郷に騒動なきようにと申された。信玄の本隊は、秋葉
 街道を南下して、市野で90度方向を変え、三方ケ原に向かっている。

 E市野家が血を引く浅井家との関係としては、長政の遺児として長女で
 秀吉の側室の淀殿、次女の京極高次の妻、三女の秀忠の正室お江がいた。
 (市野氏は何らかの情報収集・伝達が可能であったかも知れない。)

 F徳川家康は、浜松在城17年間の内に、しばしば市野に鷹狩に来ては
 市野家と万斛(まんごく)村の大庄屋鈴木家に立ち寄った。鈴木家には阿茶
 局を預けていた。阿茶局は、大阪冬の陣の和議の使いとして活躍している。

 G市野惣太夫は、家康の良き碁相手であった。

 H家康が市野家に滞在している時、市野家で家康の刀を研いで差し上げた。

 I家康は、小田原征伐の後、近江にも領地をもらった。市野惣太夫は近江
 の代官も命ぜられていた。(先祖の地で、情報が得られやすいということか)

 ここで一旦切ります――

 
 
 
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月28日 22時16分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

取り敢えず。
「馬」に乗ったら無理をなさいませんように。

「ちょっとふざけて無茶して」落馬して亡くなった人を知っています。
5人の子供を残してアメリカで客死しました。

      死ななくても大怪我しては大変です。


でも「乗馬」はいつもは使わない筋肉を使うので
血糖値を下げる良い運動になります。


血糖値測定器で乗馬前と乗馬後の血糖値の変化をチェックするなんていかがでしょう?
ワタクシなんぞは  ゆっくぅ〜〜〜り  のウオーキング1時間半で血糖値が60も下がった記録があります。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月28日 22時35分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


>I家康は、小田原征伐の後、近江にも領地をもらった。            浅井氏に関係してたから?
>  市野惣太夫は近江の代官も命ぜられていた。              やっぱり
>(先祖の地で、情報が得られやすいということか)              ですね。

やっぱり浅井家と何らかの関係があったのでしょうね。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月29日 08時15分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本当のところ、いつのあたりまで木曽馬(背が低い)に乗っていたのでしょ
うか。馬種の性格(おとなしいかどうか)、鎧の重さと不自由さ、鉄砲の標的
になること等を考えると、中肉中背の馬の方がベターだと思うのですが。
 馬の品種改良もたぶん市野氏あたりはやっていたのかも知れませんね。
 但し、どん品種が、いつ大陸から入って来たかの資料が見られませんのが
残念です――もちろん、その頃にサラブレッドはなかった。

 さて、市野氏の続きです――

 J関ケ原の戦い後の1601年に、豊臣系から徳川系に藩主の入れ替えが
 されました。浜松は、堀尾忠氏17万石から、松平忠頼5万石になり、旧
 浜松藩の領地を分けて天領とし、市野家に与えた。その天領は、長上郡の
 市野村、上石田村、笠井新田村、石原村、寺嶋村、新寺嶋村の6ケ村、石
 高2830石である。(服部中が3500石でありましたので、それにほぼ
 匹敵いたしますし、上石田村については、服部中と相給となります。)

K市野家では、家康との出会いとなった時の馬、お預かりした馬を飼い、
 その後明治時代になるまで代々馬を飼っていた。それらの馬の霊を弔い、
 お墓や馬頭観音を建てて供養した。

 L1604年に天領の代官として統治するにあたり、市野村に17石余り
 の屋敷地(約5000坪)を賜り、「廩米(りんまい 給金としてのお米)」
 100俵を後に与えられた。

 M徳川幕府が開かれたのは1603年。翌年、市野惣太夫眞久は天領の
 代官として江戸へ出府した。(江戸には代官頭として、伊奈忠次や大久保
 長安等がいた。秋鹿氏も天領の代官であったが、江戸詰めになったのか
 どうか、今のところわかりません。服部中などは、旗本領の代官であり
 ましたが、旗本として江戸詰めとなって、地元には地代官をおきました。
 ということは、市野氏も地元に地代官、またはそれに匹敵する大庄屋を
 置いた可能性があり、ひょっとすると、松島氏あたりが抜擢された可能
 性はなきにしもあらず……。)

 ここで一旦切ります――

 
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月29日 14時48分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本の戦争に従軍した馬は木曾駒のようなずんぐりした馬だったそうですが
奈良時代あたりにアラブの馬が入って来ていた可能性はありますよね。


アラブの馬というと思い出すのは「ベン=ハー」の二輪戦車競走です。chariot racing

ベドウィンか?アラビアあたりの?族長からみごとな馬を貰ってベン=ハーがメッサラと戦うシーン。

これはハリウッド映画ですが

ギリシャ時代や、あの映画のようにキリストが処刑になる時代のローマ帝国内でスポーツとしてシャリオットレースが行われていましたから
優れた馬がいたでしょうね。

そういうあたりの馬が日本にも来ていたかも。


でも平安時代を迎えて「牛」の時代(牛車)になって
早く走る馬の需要は無くなったでしょうね。


その後、武士の時代になって、良い馬が求められたものの
重い重い鎧兜の武士を乗せるには足腰の強いズングリムックリの馬が良かったでしょうね。



中国で見事な馬というと赤兎馬ですね。赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬。

『三国志』や『三国志演義』に登場する馬。
三国志では呂布の馬。
三国志演義で「西方との交易で得た汗血馬。1日に千里を駆ける馬」ということでアラブ馬でしょうね。



以下コピペ
http://kotobank.jp/word/%E6%B1%97%E8%A1%80%E9%A6%AC-48663

1.
汗血馬  かんけつば

1日に 1000里を走り、血のような汗を出すといわれた中央アジアの名馬の意。
中国,前漢の太初1 (前 104) 年、将軍李広利が大宛 (フェルガナ地方) に遠征してもたらしたという。



2.
汗血馬

西域(中央アジア)地方に産した名馬の一種。
1日に千里を走り、疾駆すると血のような汗を流すので、この名がつけられたという。

前漢の武帝のとき、張騫(ちようけん)の遠征によって西域に名馬のいることが中国に知られるようになった。

中国では古来名馬を天馬と称しているが、《史記》の大宛列伝によると,〈はじめ烏孫の馬を天馬と名づけたが、大宛の汗血馬を得てみるといっそうたくましく、そこで大宛の馬を天馬と称し、烏孫の馬を西極(せいきよく)と改めた〉と記されている。



3.
汗血馬  〔赤い汗を流すところからの名という〕

@
中央アジアの大宛(フェルガナ)に産し、漢の武帝がこれを求めて遠征軍を送ったことで有名。

蒙古種もうこしゆの馬に比べて、背が高く大型で走力に優れる。


A
駿馬しゆんめ。




4.
汗血馬

中国、前漢時代に輸入された大宛(だいえん)国(中央アジアのフェルガナ地方)産の駿馬(しゅんめ)の呼称。

『漢書(かんじょ)』に「太初(たいしょ)四年(前101)春、弍師(じし)将軍李広利(りこうり)、大宛王の首を斬(き)り、汗血馬を獲(と)り来たる。

西極(せいきょく)天馬の歌を作る」(武帝紀(ぶていき))とあり、その注に「大宛もと天馬種あり、石を踏みて血を汗(あせ)す。

汗は前肩(ぜんけんはく)より出でて血のごとし、一日に千里と号す」とある。

のち良馬の代名詞となり、杜甫(とほ)の詩「洗兵馬(せんへいば)」の一節にも「京師(けいし)みな騎す汗血馬」とみえる。
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月29日 20時42分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 馬に乗ってきました。約30分の初乗りでしたが、インストラクターが
懇切丁寧に教えてくれましたので、何とか乗ることができました。馬はサ
ラブレッドでした。昔、武豊が乗っていた馬だそうです。背は高くて見晴
らしが良く、2階から見下ろすようでありました。足のかかとで馬の脇腹
を押すと動き出し、強く押すと少し早くなります。たずなを引っ張れば止
まりますし。左手でたずなを引っ張れば、左に曲がりますし、右手で引っ
張れば右に回ります。初歩のコースを一通り教えてもらいました。
 馬上では、馬の重心の上に自分の重心を合わせることが肝心ということ、
鐙(あぶみ)に足を掛け、太ももで馬の背をはさみながらバランスを取ると
いうことは、オフロードバイクを乗った時と共通するものがありました。
ただ、馬はソフトな生き物、ハードな機械ではありませんので、ゆらゆら
揺れる、背もたれもハンドルもなく不安定……アナログの世界と言えるか
もしれません。バランスを取りながら、矢を射ることは、サーカスのよう
でもありますが、訓練すればできるのかなと想像できました。また、馬上
で槍を持って走りながら馬上の相手を刺すということもできるかなと想像
できました。ただ、馬上で刀を振り回すなんてことは、バランスをとりな
がらでありますのでなかなかできるものではない、しかも重い鎧を付けて
となりますとよけい……と実感いたしました。
 馬に対する知識も色々得られそうなので、もう2回程行くことにいたし
ました。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月29日 21時58分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野氏に関することをもう少し――

 N二代目市野實次(正次)が代官の時、家光のお守役であった青山伯耆守
 忠俊が、家光の勘気を蒙り、その子宗俊とともに小林に蟄居した。そこ
 で二代目惣太夫は、弟の内匠―市野吉兵衛(後、眞郷)を側要員として差
 し出した。

 O青山家は宗俊が浜松藩主になってより、息子の忠雄、孫の忠重と3代
 にわたり、浜松城主を務めたが、市野家も吉兵衛、その息子の伊右衛門
 (早世)、孫の儀左衛門と3代に亘り、青山家に仕えている。(青山家と
 市野家には何か引き合うものがあったのだと思われます。)
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月29日 22時50分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>青山家と市野家には何か引き合うものがあったのだと思われます

青山家と市野家の関係はアヤシイものがあるのかもですね。
やっぱり忍者関係が影にあったのかも。



鎧兜って(兜は従者が持ってたそうですけど)もの凄く重いですよね。
今の防弾チョッキのようなものですものね。30kgぐらいはあったのかしら?
そんな重さの上に主人の体重で槍や刀を振り回される馬は気の毒ですね。


ネットにNHKの番組の「戦国時代の馬」の動画があったのを見ました。
当時時速どれぐらいで走ったか、など。
確か長篠の戦いの検証番組だったような。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月30日 02時12分43秒 ) パスワード

教えて頂きました。
http://www.youtube.com/watch?v=vOHS-iA8oTE   


川越歴史博物館の紹介です。

5分過ぎた頃から陣幕の家紋が三つ柏です。

甲賀?忍者の道具などがあったり
馬鎧も展示してあったりします。(馬鎧は中世西洋のは知ってましたが日本でも?です)


この動画の終わったあとに  兜  のいろいろが見られます。
戦国時代のは  実戦用で軽い  と言ってます。
(紙製で漆を塗って細工を施した、なんて聞いたことがあります)

     平安時代などは重いから兜を持ち歩く従者がいましたけど。




川越には民俗資料館もあって
こちらは江戸時代に商人になった服部さんがやってらっしゃいます。
元は武田家に仕えた家で

           信玄関係の絵を見た時に母衣衆として描かれてました。
           ということは信玄の近習だったようです。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月30日 06時54分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 川越歴史博物館の動画、ありがとうございます。ゆっくり楽しんで見させて
いただきます。一度行ってみたいもと考えております――
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月30日 22時58分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 青山氏と市野氏の関係がかなり深いことがわかりました。そして内藤氏を
調べたら、青山氏との関係がそれよりもさらに深いことがわかりました。
 また、小野氏も青山氏と近いことがわかりました。
 いずれにしても松島氏はその辺の風景の中溶け込んでいるように感じら
れます。
 内藤氏と小野氏について、次回より順次記していきたいと思います――
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月31日 02時34分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


小野 ・ 内藤 ・ 青山 ・ 市野(浅井?・寺田・袴田) ・ 松島


家康配下の前は一体どの時代あたりから関係が出来ていたのでしょうね。



>いずれにしても松島氏はその辺の風景の中溶け込んでいるように感じられます。

はい。

[40]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月31日 12時43分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「内藤家」の探究に入る前に、「青山家」の特徴を振り返ってみます――

 @A「青山忠教」とB「青山忠世」は兄弟。

 <A系>
 A「青山忠教」の娘と服部半蔵の従兄弟?(後で確認します)の「服部平蔵
 正信」が結婚し、「服部正尚」と「服部七右衛門」が生まれます。

 B「服部七右衛門」は、一旦「服部正尚」の養子となり、B「忠世」の子
 「忠重」の養子となる。

 <B系>
 C「青山忠世」の子には、C「忠重」の外にD「忠門」がいる。

 <C系>
 D「青山忠世」の子「忠重」には子がなく、A系「服部七右衛門」を養子
 として迎える。「服部七右衛門」は改名し、「青山成重」と名乗る。

 E「成重」は徳川秀忠の後見役となる。ちなみに、兄(戸籍的には義父と
 なった)「正尚」は「西郷の局」の養父であり、「秀忠」の祖父にもなる。

 F「成重」は息子がありながら、「大久保長安」の息子を養子にしている。
 後に、大久保長安事件の連座責任を問われる。

 <D系>
 G「忠門」の子が「忠成」で、妻は「信康」の介錯をしたとされる「天方
 通興」の娘である。

 H「忠成」の子に「忠俊」外がある。つまり「忠俊」は「天方通興」の孫
 ということになる。

 I「忠俊」の弟「通直」は「天方家」に養子に入り、天方家を継ぐ。

 J「忠俊」の子が「宗俊」、「宗俊」の子が「忠雄」、「忠雄」の子が「
 忠重」で、「宗俊」から三代続けて浜松城の城主(浜松藩の藩主)を務めた。

 K「忠俊」の父「忠成」は、徳川家康の江戸移封後に伴って老中となり、
 伊賀100人組(忍衆)の「頭」も兼務した。100人組は4隊あり、
 「根来組」、「甲賀組、「伊賀組」、「25騎組」があった。それぞれ
 与力20騎(25騎組のみ与力25騎)、またそれぞれ同心100人を付け
 られた。

 L「忠俊」の妻は、あの信康事件の二俣城主「大久保忠世」の弟「大久保
 忠佐」の娘である。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月31日 13時00分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


詳しいお話をありがとうございました。
みんな繋がりますね。


家康家来の遠江と三河の家々の話ですから繋がっていて当たり前なんでしょうけど
こうして説明してくださると鉄壁の徳川軍団の団結力が見えますね。


ちょっと呆然。
レス40は向こうのスレッドに転載しますね。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月01日 14時23分08秒 ) パスワード

内藤家について
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101567_7.html
レス6より転載



 旧羽鳥庄・貴平の内藤家について、地元郷土史家の神谷昌志氏の『はままつ
歴史発見』の中から紹介いたします。神谷氏は記者もやっていましたので、徹
底して足を使った取材と、分かり易い平易な文章で、単なる郷土史家以上の評
価を得ておられます――
 「貴平は東名高速道路浜松インター北側に接している農村地帯である。その
 貴平には、内藤姓を名乗る旧家が二軒ある。「表内藤」と「裏内藤」と呼ば
 れているが、青山氏が蟄居したのは表内藤家である。本瓦葺きの屋敷門を構
 え、時代を感じさせる母屋である。
  同家の歴史は、奈良時代秦川勝の末子貴平が、蘇我入鹿の乱を避け、三人
 の皇子の供をしてこの地に住し、時の来るのを待ったが、皇子三人が次々と
 他界したため、貴平はこの地にそのまま土着したといわれている。しかし、
 これはあくまでも家伝であって、史実かどうかはわからない。内藤家の先祖
 が明確に歴史に登場をみるのは、内藤弥市右衛門助尭の代からである。内藤
 家系図によると、助尭は後醍醐天皇の皇子宗良親王に供奉して、一旦浜名湖
 北の井伊谷に入ったが、のち先祖由緒の地貴平に定住したとみえている。
  「助尭」を初代とする内藤家は、その後二代、三代と代を重ね、四代目の
 「弥市右衛門助久」のとき徳川家康に奉仕し、三方原の戦いに参戦、そして
 五代目「刑部大輔助吉」も家康に仕えていることが系図にしるされており、
 末尾に「助吉の妻は三州青山郡五千石の領主青山金兵衛の娘で因幡守殿の
 先祖なり」とある。つまり、五代目の助吉の妻が青山家からきているので
 ある。青山氏は三河に本拠を置いた武家で、室町後期のあるじ青山忠門は、
 家康の父松平広忠に仕えて各地を転戦、戦いで受けた傷がもとで他界した。
 このとき忠門には一人の男子と二人の女子がいた。その女子のうちの次女
 が内藤家に嫁ぎ、助吉の妻となった。青山伯耆守忠俊が内藤家に蟄居した
 のはそうした縁戚関係によるもので、忠俊が身を寄せた当時の内藤家のあ
 るじは助吉の子で六代目にあたる「久成」であった。忠俊と久成は叔父・
 甥の関係にあたる。」
ということであります。

 次には、郷土史家川島幸雄氏の『小野篁と遠州小野一族』という著書の中
から内藤家について抜き出します――
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