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 投稿番号:101564 投稿日:2016年10月09日 05時50分44秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXX(16年の課題確認23)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101558_47.html
長上郡の服部氏族LXX\(16年の課題確認22)
スレッド79の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


スレッド79では内藤氏と服部氏の関係が分かりました。
服部中保次の次男保信の家が代々内藤氏と強い縁組をしていました。

      内藤氏 ⇔ 青山氏 ⇔ 服部氏
      思わぬ収穫でした。



天竜川西岸エリアの守り:羽鳥地域にからむ武士の位置・配置

南から言うと――
@上石田:服部中氏
A市野:市野惣太夫
B喜平:内藤氏、秋鹿氏
C羽鳥:松島氏
D石原:小栗氏
E善地:問題の服部氏(+永井・加藤・松島・鈴木氏)
F高薗(善地の東隣り):長谷川氏

天領の管轄は磐田今泉代官所――代官:秋鹿氏、大草=永田=長田=永井氏。
それらを統括する幕府代官頭:小栗氏、伊奈氏、大久保(長安)氏。

かなり服部氏の核心に迫りました。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月09日 07時28分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろありがとうございます。新しいスレッドの第1頁目にふさわしい
題材――明智光秀に関する話題を一つ……

 昨日は、関の刃物市に行ってまいりました。昨年は行かなかったものの、
過去四回程行っておりまして、今回で5回目となりました。何が目的で、何
が楽しいかと言われると……やはり刃物の魅力、貝印のセール(女房殿)、そ
して辻屋の「うなぎ丼」かなと思います。
 刃物はもちろん本物志向であり、刃物屋の店が全長1000mの本町通りの、
合間合間に並びます。今回の刃物屋の店舗数は、数えると43店舗ありま
した。もちろんその他露天商(いわゆる祭につきものの)も沢山並びます。
 お客さんは東西南北各地からやってまいります。外人ももちろん来ます。
外人といえば、関の鍛治伝承館ではたぶんアメリカ人か、日本人に混じって
刀匠を目指して修行をしておりました。
 貝印の製品は、あを様ご指摘のようによく切れます。私も以前髭剃り器を
購入しましたが、切れ過ぎてイタイので切れ過ぎないブラウンにしました。
 
 さて、明智光秀がらみの話になりますが、今回関の「鍛治伝承館」に行き、
刀造りの工程や名刀の展示を見てまいりましたが、日本刀造りは、単に鉄を
伸ばして、焼き入れして、磨けば日本刀ができると思っていたら、そんな
簡単なものじゃない、高度な秘伝があることがわかりました。つまり、その
ポイントを簡単に述べますと、刀は単純に1枚の鉄板ではなく、4枚のそれ
ぞれ性質の違った板を鍛造合成しています。それを専門用語では「四方詰め」
と言うそうであります。背は固く、刃は粘り強く、側面はやや硬く、心はや
わらかくだそうです。焼き入れにも水の種類と温度に秘伝があるそうです。
その他、秘伝のかたまりが日本刀の鋭い切れ味と美しさ……まさに精魂込め
た究極の「ものづくり」と言えそうです。
 その究極の名刀が、戦国時代の「関の孫六」と言われる2代目兼元の造っ
た「兼元」、そしてそれと肩を並べるものが2代目兼定の造っ「兼定」であ
るそうです。
 明智一族の関とのかかわりあいについては、あを様よりご指摘がありまし
たが、まだ詳しく調べてはおりません。確かルーツがからんでいると思いま
した。とりあえずは、明智光秀の持っていた刀が、この2代目兼定の造った
「兼定」であったということをお知らせしておきます。同じく武田信虎(信玄
の父)も「兼定」を持っていたということであります。

 この続きは次回に――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月09日 14時24分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


お帰りなさい。


>貝印の製品は、切れ過ぎてイタイ

ですよね。
切れ過ぎます。

今でも、まず、刃を顔に置いた途端にグサッと刃先が刺さって(笑)血が滲みます。
毎回2−3箇所切り傷が出来ます。

久し振りにカミソリを当てる時の感触がなかなか学習出来ず毎回このザマです。


驚くことには、刃が超極薄のせいか、傷口が間もなく閉じて血が止まること。
顔にバンドエイドを貼らなくて済むところが、さすが、関の孫六!と思います。

珊瑚で足を切ったりしますと、ギザギザの傷口なので、なかなか治りません。
でも貝印の超極薄ですと切り口の幅が超極狭なのでしょうね、結構、すぐに傷口が閉じるように思います。


>切れ過ぎないブラウンにしました。

わたくしは資生堂の女性用カミソリにした時もありました。
つまり  剃り味が悪い  ということです。
こちらは刃が厚いせいか、貝印のような「100%剃れた満足の感触」が無いです。
資生堂の方が肌には優しいのかも。



刀は本当に芸術品ですよね。美術品でもありますし。刃紋も実に奥が深いです。

あ、そうそう、刀匠の?研ぎ師?のコンテストの番組を見たことがあります。
面白かったです。
でも内容を覚えていない体たらく。残念っ!


こういう技術は国が守っていかないと、と思います。
ま、サラリーマン化してはなかなか名匠は出ないのかも、ですね。



>明智光秀の持っていた刀が、この2代目兼定の造った「兼定」であったということをお知らせしておきます。
>同じく武田信虎(信玄の父)も「兼定」を持っていたということであります。

これは知らなかったです。
ありがとうございます。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月10日 08時43分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀のルーツと刀鍛冶の関係ということで調べましたら、一説として、
若狭国小浜の刀鍛冶藤原冬広の次男であったという説がありました。ただ、
表面的な情報で、それ以上深くその謎を知る手立てはありませんでした。

 関鍛治伝承館に関鍛治の系図が展示されていまして、その写真をとってき
ましたので、これを解読してみます。

 これからМ氏のところに行ってきます――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月10日 14時03分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>若狭国小浜の刀鍛冶藤原冬広

もの凄く高価な刀ですよね。


ということで光秀と冬廣について調べてみました。


http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80_%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%AE%E8%AC%8E


光秀の謎

出自

光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。

•進士信周の次男(「明智一族宮城家相伝系図書」)[8]
•美濃の明智から信長への使者御門重兵衛を気に入り明智を名乗らせ仕えさせた(天野信景の随筆集「塩尻」元禄元年1688年)[8]
•若狭国小浜の刀鍛冶・藤原冬広の次男(「若州観光跡録」)[8]                ココですね
•土岐元頼の息子(『稿本美濃誌』土岐琴川 所収の美濃の伝説 1915年大正4年刊)
•進士晴舎の息子(『明智光秀の乱』2014年平成26年刊)



以下、明智光秀の本能寺の変の各説なので割愛。


____________________________________

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/toki1.htm

古代氏族系譜集成にみる土岐一族
          −土岐一族関係系図の各種検討(試論)−
                                       宝賀 寿男 




 

(3) 明智光秀の系譜 

諸説に混乱が甚だしいが、これまでなされてきた議論の大勢を占める『大日本史料』(昭和二年刊行)に依拠した説には要注意である。

具体的にいうと、同史料の〔明智氏一族宮城家相伝系図書〕の最初にあげられる頼弘について、註として「頼弘以前ハ、大抵前掲続群書類従本土岐系図ニ同ジ」と記載されるが、決してそうではない(「同じではない」ということ)。

そのことが実際の「宮城系図」(別添に掲載)を見ればはっきり分かるはずである。

しかも、『大日本史料』記載の宮城系図は、頼弘以降の系図部分でも原典の抄録にすぎないが、このような事情も記載されていないという問題がある。

    いわゆる歴史学者でも、系図自体の知識に乏しい人が多いのが実態である。系図研究の基本として、できうる限り、その原典に当たる必要性が大きいことを実感する次第である。

とくに「土岐沼田系図」では、南北朝期の人から戦国期の定明(あるいは光秀)までの世代数が多すぎる。

 

  明智光秀関係の史料でいうと、「明智十兵衛尉」としての確実な史料初見は永禄十二年(1569)四月の文書とされ、その頃から活躍したことが分かる。その前年の永禄十一年の九月晦日(みそか。三十日)付けの妙顕寺文書に「明智十兵衛尉光秀外三名連署状」もある。

 その生没年については、享禄元年(1528)生という説(「宮城系図」、『明智軍記』)があるが、確たるものではなく、大永六年(1526)説もある。一方、没年は天正十年(1582)であり、享年は一般に五十五歳とされる。


            
                                      ココが面白かったです
                                              ↓

※ 明智の苗字の起源地は可児郡明知荘(可児市瀬田・広見辺りの長山〔明智〕城)

恵那郡明智町という誤説がいまだ辞典(『国史大辞典』原田伴彦執筆の明智氏記事も同じ)などに見える。

高柳光寿教授の人物叢書『明智光秀』に「明智城(岐阜県恵那郡)」とあることの影響か。

                                           へぇ〜、そうなの?!

「宮城系図」に見える明智一族には、柿田、瀬田、石森など可児郡明知荘の地名を苗字とするものがあることにも注意。

 

光秀関係の具体的な問題点としては、次のようなものだが、ここでは問題点の概略のみ記して、検討の詳細は別掲する。

@ 光秀の父祖の名前は? また、明智一族の苗字や光秀妻の出自はどうか。
これは、光秀が美濃明智一族から出ているかとの問題でもある。

一般に父は安芸守光綱(イに玄蕃頭〔十兵衛尉〕光隆、光国)、祖父は駿河守光継とされるようだが、これらの名前については確証がない。

「宮城系図」では、光継及び光綱は各々法名に光継寺殿、光綱院殿と記されており、法名と実名とが異なる可能性もある。

また、安芸守や駿河守という官職称号にも、疑問がないではない。




異説に光秀の父については、
進士信周(「宮城系図」記載の異伝)、
若狭小浜の刀鍛冶藤原冬広(『若州観跡録』)、
土岐元頼(『美濃誌』)ともされるが、

若狭の刀鍛冶説はまったくの問題外である。
                                         あら、ザンネンでした。



進士信周説については、別掲で詳細に検討を加えたいが、実際にはとりえない説である。
これは、「宮城系図」の十分な検討により結論される。土岐元頼が船田合戦で滅びた者なら、年代が合わない。



光秀の妻は、明智一族の妻木勘解由左衛門範熈の女とされる。
『兼見記』でも妻木氏と見える。
範熈の子の主計、その子の勘介も明智家中にある。
範熈の兄とみられる藤右衛門広忠の子孫は幕臣として続く。
妻木氏は光秀後妻とも伝える。


山崎敗戦時の光秀の家来衆には、
三宅、溝尾、藤田、可児、肥田、池田、奥田などの諸氏(これらは皆、明智一族か)のほか、
堀口、堀田、伊勢などの美濃・尾張や京都などの名族があった。
老臣隠岐五郎兵衛、家臣の今峰新介、舟木八之丞も土岐一族の出自である。


                                      奥田は奥田瑛二のご先祖かも。(俳優奥田瑛二は安藤和津のご主人で安藤和津は犬養毅の孫で犬養道子の腹違いの妹。回り回って遠縁に皇后さま)

  舟木は舟木一夫のご先祖さまかもですね。

  堀田は千葉のお殿様の堀田家の親戚でしょうね。南朝方。最近の堀田家は旧尾張藩の御当主になっています。 

 

A 明智本宗はどの系統か? 

 明智宗寂(宗宿。光安とされる光秀叔父)・光秀の系と沼田藩主家との関係はどうだったのか。どちらが明智本宗なのか。また、明智本宗(家督)の歴代とその相続関係はどうだったのか、などの問題が多い。

 

B 妻木氏の分岐過程と系図  

土岐明智氏の有力な分岐であり、江戸幕府の旗本として続いたのにかかわらず、系図が不明確となっている。とくに、その初期段階が不明である。

 寛政系図や『百家系図』巻六には、土岐頼貞より「伯王」(おそらく妻木始祖)まで系が中絶と記されており、略系があげられるにとどまる。



>明智光秀のルーツと刀鍛冶の関係ということで調べましたら、
>一説として、若狭国小浜の刀鍛冶藤原冬広の次男であったという説がありました。
>ただ、表面的な情報で、それ以上深くその謎を知る手立てはありませんでした。

光秀は諸国を流浪してますから小浜にも行ってたかも知れませんね。

越前の朝倉氏に仕えていた時がありますから、その前に、当然、若狭にも行ってたでしょうね。

武士として「刀」について学んでいたでしょうし、近江国大津の白銀師の子・明智(三宅)秀満が身内にいますし

状況証拠として、若狭国小浜の刀鍛冶藤原冬広と親子の盃を交わしてたかも。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月11日 09時22分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、浜松市史全三巻を入手し、第二巻を通読し、第一巻も半分通読
いたしました。おおよその歴史的背景、ポイントがわかり、また今まで知
らなかったことも発見いたしました。今後に活かして行きたいと思ってお
ります。

 さて、明智光秀の祖先が刀鍛冶かどうかのルーツ探しはひとまず取り止
めます。
 織田信長のルーツも「織田剣神社」でひょっとして「剣」に関係してい
るかも知れません……。

 いずれにしても、産鉄鏃と鍛冶はセットで存在したはずですので、古代
へ遡れば、鉄を中核としたネットワークが広がり、あるいはその奪い合い
が行われたのだと推察いたします。

 関の鍛冶の祖と言われる「元重」は九州から来たと言われております。
何故九州かということは、鉄の産地であったということにあるのかと推察
いたします。関鍛冶伝承館に展示されていた鍛冶師の系図は、少しあいま
いな書き方でありますので、それに基づいて解説はできませんが、いずれ
にしても、関の孫六といわれる二代目兼元に代表されるように、通字とし
て「兼」が多くつけらております。
 「兼」のつくいわゆる初代は、「兼永」で大和の住人となっておりまし
たが、どうもその子が「兼光」のようであります。この兼光の玄孫(やしゃ
ご)に「兼明」という名前がみられますが、静岡新聞社の『ふるさと百話』
を見ますと、高天神城の城主「今川了俊」が、関から「兼明」を呼んだと
いうことであります。またこの兼明、同三代は、武田信虎より「虎」の字
を授けられ、虎明と改名したとも伝えられているそうであります。

 浜松には徳川時代、「鍛冶町」が作られ、今もそのままの名前で残って
おります(もちろん、現在は鍛冶屋・鍛治屋は一軒もない)。浜松市史には
どんな鍛冶師がいたのかについて書かれておりますが、関と関係するかど
うかはまだ未確認であります。

 鍛冶師についてはこれくらいにして、次回よりまた青山氏に戻りたいと
思います――
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月11日 14時06分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


楽しい余談がいろいろ出て来てなかなか青山氏に至りませんね。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月11日 14時44分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 最後のオチ――三島由紀夫は、ある人からいただいた「関の孫六」を毎日
愛でていたという。そして、あの市ヶ谷駐屯地での介錯に、その「関の孫六」
が使用されたという……なんとも言いようのないせつなさであります! 
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月11日 23時04分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 関に関することで、報告するのを忘れていたことがありました。それは、
訪問したお寺のことであります。

 最初に訪れたのは、真宗本派「正覚寺」――
 ここには永井家の墓が一基、家紋は「丸に一文字三ツ星」でありました。
 また、服部家の墓も一基、家紋は「丸に違い矢」でありました。

 次に、浄土宗「浄性寺」を訪れました――
 ここには、永田家の墓が一基、家紋は「丸に桔梗」。
 永井家の墓が一基、家紋は「丸に一文字三星」。
 そして服部家の墓が二基、家紋は神道なのかどうか、ありませんでした。

 いずれも、服部、永井、永田家の墓の前で般若心経を二巻唱えてまいり
ました。

 最後に訪れたのは、「新長谷寺」、通称「吉田観音」。美濃の法隆寺とも
言われるように、本堂や三重の塔は国の重要文化財となっております。屋根
はすべて檜皮吹きで、古式豊かな感じがいたしました。すべて撮影禁止とな
っており、とても残念でした。

 関と岐阜には、もう一度行く予定です。武芸川と各務原氏に永井姓が多い
のと、岐阜駅西の鏡島地区に服部姓が多いので、これを調査したいと思って
おります――
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月12日 02時29分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


三島由紀夫事件は1970年11月25日というのを記憶しています。
知り合いが「鎖の会」に入ってたので世間とは違う記憶があります。

                       「楯の会」のメンバーは事情聴取なんか受けたのでしょうね。


三島由紀夫の「首」の写真を見た記憶です。
これでやっと事件が本物だったと納得したような記憶です。

天皇に自衛隊をお返しする?というところに2.26事件を思い出しました。でもやっぱり(時代錯誤)と思いました。
1970年ってこれから日本がますます明るい未来に向かっていく年だったような。

でも公害問題もありましたね。インフレも。
三島由紀夫はそういう発展の仕方を許せなかったのかな。


三島由紀夫の割腹の仕方が見事だったとか、
    三島の介錯に何度も失敗して
    刃が曲がった、なんて話もありましたっけ。
実際に介錯した人の腕前は良かったとか(首の皮1枚残した流儀に適ったものだったとか)
聞きました。

あれで戦後が完全に終わったのかな、とか
日本国民は天皇の赤子思想も完全に終わったのかな、とか
三島由紀夫の死の意味を考えたりします。



>服部家の墓も一基、家紋は「丸に違い矢」

どの流れの服部氏でしょうね。三重系なのは分かりますが。



>いずれも、服部、永井、永田家の墓の前で般若心経を二巻唱えてまいりました。

ありがとうございます。



>岐阜駅西の鏡島地区

へ〜
どの系統なんでしょうね。

岐阜だったら信長系の家臣だったのかしら?
偶然どなたかからお話が聞けると良いですね。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月13日 01時32分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 府八幡宮の祭に関係していたH君の菩提寺が、例の永井氏の墓が20基
程あった「宝珠寺」であったことには、何か因縁があるのかなと感じまし
た。

 この宝珠寺には、日吉丸(後の秀吉)が、松下之綱(かその一族)に伴って
やって来て、主人が住職と碁を打っている間、本堂の廊下で寝ていたとい
う伝説が残っています。
 秀吉よりも頭陀寺の松下家の方が、宝珠寺と関係がありそうな気はしま
す。永井直勝は井伊直政に仕えたことがありますが、井伊直政の義父は、
松下清景で、松下之綱とは親戚になります。
 
 青山氏と永井氏の関係を調べると、浜松城主青山忠雄の娘が、永井信濃
守尚長の妻となっています。

 服部中系と内藤、内藤と青山、青山と服部正尚系、青山と天方、青山と
永井、永井と服部中系、その他にも……。つまりは、「類は友を呼ぶ」の
ことわざ通り、何か通じ合うものがあった……。

 でもよく調べましたら、青山忠雄の娘が嫁いだ永井尚長は、内藤忠勝に
刺殺されたそうです。普段から仲が悪かったということですが、何かあっ
たのでしょうか……?

 浅野長矩(赤穂藩主)はこの忠勝の甥だそうで、忠勝の事件より21年後
に、同じような事件を起こしております。DNAのなせるわざでありまし
ょううか……?
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月13日 13時04分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

青山家と服部中家の関係を引っ張ってきました:


寛政重修諸家譜で服部中保次の家と青山家の関係を読み直していたら

中保次の長男・保正の長男・三十郎(後の世に保光とされた)は
元和元年大坂の役に父・保正とともに従ひたてまつり
青山伯耆守忠俊が軍伍に列し
5月7日天王寺口にをいて討死にす。
年27。

とありました。


青山家との関係は服部正尚だけじゃなかったということですね。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月13日 13時29分28秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%8B%9D


内藤 忠勝(ないとう ただかつ)

志摩鳥羽藩の第3代藩主。
第2代藩主内藤忠政の次男。


家督相続

寛文11年(1671年)、兄の忠次が跡を継ぐことを固辞して(あるいは病気のため)廃嫡されたため、代わって嫡子となる。

寛文13年(1673年)の父の死去により9月11日に跡を継ぎ、弟の忠知に2000石を分与した。


増上寺刃傷事件と切腹

延宝8年(1680年)、第4代将軍・徳川家綱の77日法要に際し、芝増上寺参詣口門の警備を命ぜられた。

普段から忠勝と仲の悪かった永井尚長は
出口勝手門の警備を命ぜられていたが、
尚長は忠勝より上席にあるため忠勝を侮り、
老中から受けた翌日の指示を記した奉書すら忠勝に見せず立ち去ろうとした[1]。

忠勝は奉書を見せるように求めたが、尚長は無視したため、忠勝はこれを恨んで脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを刺殺した[2](芝増上寺の刃傷事件)。


この際、忠勝は遠山頼直(政亮)に拘束され、伊奈忠易の元に預けられた[3]。


このため6月27日に忠勝は西久保の春龍寺にて切腹を命じられ、御家断絶とされた[4]。
享年26。


甥(姉・波知の子)の播磨赤穂藩主・浅野長矩は、
21年後に同様の事件を起こして同じ末路をたどることになるが、
これは内藤家の遺伝がそのまま長矩に受け継がれたのではないかとされている。

忠勝も長矩も癇癪持ちで、しかも内藤家は精神病の家系だった。


忠勝の兄の忠次が家督を辞退したのは精神障害だったためとも推測されており、忠勝にもその障害があったのではないかとされている[2]。



犯罪とか精神障害とかいうのは  遺伝の影響が大きい  と。
これはポリティカリーインコレクトということで口にしたり書いてはいけないことです。

                      こういうカプー(タブー)を堂々と破るのがトランプなのでトランプは暴言王なんて呼ばれて
                      ポリティカル・コレクトネスにうんざりしているアメリカ国民はトランプが大好きなわけです。

                      あ、ライバルはスキャンダル女王と呼ばれてます。もっとひらたく言うと「クチキキ屋」Pay to Play です。
                      今回のアメリカ大統領選挙は嫌われ者対決すなわち暴言王対スキャンダル女王(別名:金の亡者)対決と呼ばれています。


で、精神病ですが、Schizophreniaが82%の確率で、Bipolarが83%の確率で遺伝する、だったかな。


多分、  内藤忠勝と浅野長矩は被害妄想があったのかも。


被害妄想とはPTSD(心的外傷後ストレス障害)やうつ病、統合失調症などの精神障害者たちに多く見られる症状の一つで、他人への根強い猜疑心等が生まれる。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月13日 13時56分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

>府八幡宮の祭に関係していたH君の菩提寺が、例の永井氏の墓が20基程あった「宝珠寺」であったことには、
>何か因縁があるのかなと感じました。


ビックリ!
「因縁」の件
やっと三つ柏さんの因縁の深さ
が納得出来てきました。


宝珠寺や源範頼にも因縁があるというのが解けて来ました。


何か「ある」のでしょうね。
歴史的に・土地的に・住人的に。
そこにH君も関わるし。

古くから、
府八幡宮に関係する応神天皇・日本武尊・神功皇后の時代から?
三つ柏さんには関わるのでしょう。
やっぱり「源氏」とも関わるんでしょうね。
そうするとM氏も当然からむ。


日本はすごい!
縄文時代前から我々は日本人ですね。
1万5000年途切れずに続いて来た遺伝子の成せるわざを見た思いです。



こういうのががんじがらめに三つ柏さんに絡んでいるんですよ。



宝珠寺
浜松市東区上新屋212番地の3

http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/e-shinko/ward/higashiku/chiikiryoku/history/jinjya/06hosyuji.html

この地区名は蒲地区でしたか。
驚きました。


源 範頼(みなもと の のりより)

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。
源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。


遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。

その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。


治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。
その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。

武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月13日 14時23分39秒 ) パスワード

>中保次の長男・保正の長男・三十郎(後の世に保光とされた)は
>元和元年大坂の役に父・保正とともに従ひたてまつり
>青山伯耆守忠俊が軍伍に列し
>5月7日天王寺口にをいて討死にす。
>年27。


「天王寺口にをいて討死にす」という意味は戦った相手は真田幸村と大助父子そして真田一族だったということですね。

参照:http://sanadada.com/630/
コピペ出来ません。


天王寺・岡山の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


天王寺・岡山の戦い(てんのうじ・おかやまのたたかい)は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣における最後の戦いである。


5月7日(6月3日)未明、最後の決戦のため豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布いた。幕府方の軍勢は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始した。




豊臣方

天王寺口は
茶臼山に真田信繁、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら兵3,500、
茶臼山前方に信繁寄騎の渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら兵2,000、
茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら兵2,500、
茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋(兵数不明)、
四天王寺南門前には毛利勝永勢と、木村重成勢や後藤基次勢の残兵など6,500が布陣した。


岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4,600が布陣した。

茶臼山北西の木津川堤防沿いに別働隊明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊(計15,000?)が布陣した。




幕府方

茶臼山方面に前日の戦闘で損害を負った大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000を配したが、松平忠直勢15,000が抜け駆け[1]をして大和路勢前方に展開し真田勢と対峙した。

天王寺口先鋒は本多忠朝を大将とした秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5,500。二番手に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら計5,400。三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら計5,300。その後方に徳川家康の本陣15,000を置いた。さらに徳川義直(15,000)、徳川頼宣(家康本陣と同一か?)が本陣後備として布陣した。



岡山口先鋒は前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢計7,500と細川忠興(兵数不明)。その後方に徳川秀忠の本陣23,000を置いた。一説には一番手と二番手の間に黒田長政、加藤嘉明(兵数不明)が参陣していたといわれるが詳細不明[2]。




天王寺口の戦い

正午頃、豊臣方毛利勝永の寄騎が先走り、物見に出ていた幕府方本多忠朝勢を銃撃した。これをきっかけに合戦が始まると、これまでに例を見ない兵力と火力がぶつかり合う戦場は混乱に陥った。毛利勢は、忠朝を討ち取り幕府方先鋒本多勢を壊滅させる。本多勢の救援をしようと小笠原秀政、忠脩[3]勢が駆けつけたが、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等による側面からの攻撃を受け[4]忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱後に死亡した。二番手榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱、これらの敗兵が雪崩込んだ三番手も同様の事態に陥ったことで家康本陣は無防備となった。

真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の松平忠直勢と交戦していたが、松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回に渡って突撃を繰り返した。

これらの攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥った。三里も逃げた旗本がいたという混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる家康自身も切腹を口走り、文殊院勢誉に制止されたという(一説には平野方面に逃げたともいわれる)。しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められていった。大和路勢や一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始めた。

信繁は安居天神で休息をとっていたところを討ち取られ、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷を負った。豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勢も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり城内に撤退した。

別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると松平忠直勢に突撃した後姿を消した。



岡山口の戦い
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月14日 07時09分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 
>中保次の長男・保正の長男・三十郎(後の世に保光とされた)は
>元和元年大坂の役に父・保正とともに従ひたてまつり
>青山伯耆守忠俊が軍伍に列し
>5月7日天王寺口にをいて討死にす。

 ということは、服部中系、服部正成系、服部正尚系、服部保章系
は、青山成重(服部正尚の弟)を秀忠のもり役にすることにより、秀忠
体制の柱とした……ということになりますね。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月14日 11時38分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 影の軍団が影でなくなる時は、表に出でしまう時、あるいは粛清される
ときであります。家康の天下取りまで、影(陰)でささえて来た軍団=服部
忍者関係軍団は、秀忠の時代からは影でなく、身分的には表の集団(公儀
隠密等)となって行きます。
 服部一族は、その描くアルカディアの実現を目指して、家康を旗頭にし
て暗黙の内にベクトルを合わせて来たように思われるのですが、どうでし
ょうか? 
 
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月14日 11時52分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

残念ながら
                       >青山成重(服部正尚の弟)を秀忠のもり役にすることにより、
                       >秀忠体制の柱とした……
                       >ということになりますね。
いいえ、なりませんでした。



大事なことをお忘れです。
大久保長安事件をお忘れです。



                       青山氏下総飯田藩藩主 (1603年 - 1613年)
                       青山成重1603-1613
­                       大久保長安事件の影響で廃藩


以下コピペ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%88%90%E9%87%8D

青山 成重(あおやま なりしげ)   天文18年(1549年)〜 没 元和元年9月7日(1615年10月19日)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。江戸幕府老中。
服部正信(平蔵)の次男。


元亀2年(1571年)、母の従兄の青山忠重が戦死し、子がなかったため、主君徳川家康の命で青山氏を継ぐ。

徳川秀忠の後見役となり、天正18年(1590年)の家康関東入封の際に下総国香取郡に3000石を与えられた。
慶長6年(1601年)に2000石を加増、さらに慶長8年(1603年)12月25日に下総内において5000石を加増され、石高が1万石に達したため下総飯田藩を立藩した。

慶長13年(1608年)、老中に就任するが、
大久保長安の子成国を養子にしたことから、
慶長18年(1613年)の大久保長安事件に連座し、罷免、改易される。


                                        ココ



7000石を減知され、飯田の地に蟄居した。
大坂の陣では本多正信に供奉を懇請して武功を挙げて挽回を図ろうとしていたが、結局赦免されることのないまま死去した。



3000石は成重が赦免されず死去したため、収公となったが、改めて嫡男の成次に新知1000石が与えられ、子孫は旗本として存続する。
成次の子成政の代に1200石となり、4代あとの成存は勘定奉行になっている。



大坂の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)
の総称。

江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。
大坂の役(おおさかのえき)とも称する。



青山成重(服部正尚の弟)

父:服部正信、母:青山忠教娘

兄:正尚

妻:正室:常岡当自娘

子:成次、
娘:浅羽幸正室

養子:成国(大久保長安の子)


                        青山成国(あおやま なりくに)
                        天正12年(1584年) - 慶長18年7月9日(1613年8月24日))

                        大久保長安の三男。
                        通称、権之助。
                        長安の子の中で唯一諱がわかっている人物。


                        奉行衆青山成重の婿養子となった。
                        しかし、実父長安が生前に金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたことが発覚、
                        小田原藩の大久保忠隣のもとに預けられ、切腹した。



つまり秀忠は助けてくれなかった、ということですね。
助けたくても家康の怒りが怖ろしかったでしょう。


長安事件の時、秀忠は当時どんな気持ちだったか知りたいところです。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月14日 13時46分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


家康と忍者の関係について
国を統一したら次は治安維持のために使ったのは分かりますが

江戸時代には奉行の下に与力や同心という形でハッキリ見える形で使ったのだろうな、と。
秘密裡の方は隠密という形で諸藩に送り込んでたのだろうな、と。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E5%8A%9B
江戸の与力

江戸における与力は、同心とともに配属され、上官の補佐にあたった。そのなかで有名なものは町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所にそれぞれ25騎の与力が配置されていた。与力は馬上が許されたため馬も合わせて単位は「騎」だった。



与力には、町奉行個人から俸禄を受ける家臣である内与力(元々は着任前の奉行の用人などであり、主君と一緒に奉行所へ着任、離任する)と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の2種類があった。

内与力は陪臣であるため他の与力より本来は格下で禄高もおおむね低かったが、奉行の側近としてその実力はむしろ大きい場合もあった。


与力は配下の同心を指揮・監督する管理職であるとともに、警察権でいうならば今日の警察署長級の側面(ただし今日の警察署長のように管轄区域があったわけではない)、司法権でいうならば民事と刑事の双方の裁判も詮議担当したので今日の裁判官や検察官的側面もあった。


与力は役宅として八丁堀に300坪程度の組屋敷が与えられた[1]。また、もめごとがおこったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、裕福な家も多かった。


                                      コレには笑いました
特権として、毎朝湯屋の女風呂に入ることができた。

これは、八丁堀の湯屋は特に混雑していたことに加え、当時の女人には朝風呂の習慣がなかったため女湯は空いており、男湯で交わされる噂話や密談を盗聴するのにも適していたためである。

それでも女湯に刀掛けがあることは八丁堀の七不思議に数えられていた。


与力は組屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。
粋な身なりで人気があり、与力・力士・火消の頭は江戸の三男(えどのさんおとこ)と呼ばれてもてはやされた。



町与力組頭クラスは二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだ。
ただし罪人を扱うことから不浄役人とみなされ、将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった。
したがって身分上は御家人である。
                                       へぇ〜



大坂の与力

大坂では東町・西町奉行所に各30騎の与力が配置されていた。
江戸のように寺社奉行、火付盗賊改方の役がなく、町奉行所が一手に引き受けていた。
盗賊方の与力が6人、定町廻の与力が4人いた。



                      これまた知らない世界でした。


同心の役宅は、東町奉行所の北方、淀川の天満橋を渡って1キロほどのところにあり、彼らは、天満与力、天満同心と呼ばれた。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月14日 14時20分38秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA

江戸時代に御家人:(旗本との違い)


江戸時代には、御家人は知行が1万石未満の徳川将軍家の直参家臣団(直臣)のうち、特に御目見以下(将軍に直接謁見できない)の家格に位置付けられた者を指す用語となった。御家人に対して、御目見以上の家格の直参を旗本という。



近世の御家人の多くは、戦場においては徒士の武士、平時においては勘定所勤務・普請方勤務・番士もしくは町奉行所の与力・同心として下級官吏としての職務や警備を務めた人々である。


御家人は原則として、乗り物や馬に乗ることは許されず、家に玄関を設けることができなかった。ここでいう乗り物には、扉のない篭は含まれない。例外として、奉行所の与力となると馬上が許されることがあった。有能な御家人は旗本の就く上位の役職に登用されることもあり、原則として布衣以上の役職に就任するか、3代続けて旗本の役職に就任すれば旗本の家格になりうる資格を得られた。[2]



家格

御家人の家格は譜代(ふだい)、二半場(にはんば)、抱席(かかえせき)の3つにわかれる。

譜代は江戸幕府草創の初代家康から4代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で特に由緒ある者は譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた。


譜代と二半場は、無役(幕府の公職に任ぜられていない状態)であっても俸禄の支給を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることができた。家督相続や叙任にあたっては、御家人は旗本のように将軍に謁見することはなかったが、譜代席のみは城中で若年寄や頭などの上司に謁見して申し渡された。譜代席未満の御家人は、城中ではなく自分の所属する機関で申し渡しがあった。


譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。

売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに相場が生まれるほどであった。 譜代の御家人株も実際に売られており、河内山宗俊とつるんで悪事を働いて死罪になった「馬の沓」こと大川鉄蔵(高原八十次郎)は、元は下谷御切手町の居酒屋(煮売酒屋)の亭主で、譜代の御家人・黒鍬者の株を買っていたことが分かっている。[3] 御家人株(御家人の資格)は幕府当初より半ば公然と売買が認められており[4]、特に盛んになったのは江戸後期である。幕末の志士も先祖が庶民出身で、御家人株を購入しているケースがある。[5]



知行

御家人の大半は、知行地を持たない30俵以上、80俵取り未満の蔵米取で占められ、知行地を持つ者でも200石取り程度の小身であった。

ただし、旗本と御家人の定義は直参のうち謁見できるかどうかであったので、家禄(俸禄)の高低は家格の決定に関係がなく、旗本で最も小禄であった者は50俵程度で、御家人の大半よりも少ない。

200石(俵)取り以上の御家人もいたが、400石を越える御家人は存在しなかった。

江戸時代中期以降は地方知行制が崩れ、蔵米取に移行したり旗本に昇進したりしたため、知行地を持つ御家人はほとんどいなくなった。


御家人の多くは江戸時代中期以降、非常に窮乏した。

諸藩の藩士は、家禄が100石(=250俵)あれば一応、安定した恵まれた生活を送れたとされるのに対し、幕府の御家人は100石(=250俵)取りであっても生活はかなり苦しかったと言われる。

御家人は大都市の江戸に定住していたため常に都市の物価高に悩まされ、また諸藩では御家人と同じ程度の家禄を受けている微禄な藩士たちは給人地と呼ばれる農地を給付され、それを耕す半農生活で家計を支えることができたが、都市部の御家人にはそのような手段も取ることができなかったことが理由としてあげられる。窮乏した御家人たちは、内職を公然と行って家計を支えることが一般的であった。




なるほどね。
ハワイの人の生活を彷彿とさせます。

ハワイの平均世帯年収は7万5000ドル弱で、アメリカ国内では2番目に高収入です。
ところが貯金となると  3分の1が貯金ゼロで、3分の2が1000ドル未満だそうです。

つまり全く貯蓄に回せない。

それはハワイは生活費がものすごくかかって、島なので殆ど全てが輸入になるので、割高になってるからで
ホノルルの場合は古くて安普請の1ベッドルームのアパートがだいたい月1500ドルで、ここに一家5人住んでたり姑が転がり込んで来てたりで
必要経費を払うと可処分所得は7%だそうです。


ものすごく貧富の差の激しい世界です。
ここまでとは思ってなかったです。


どこかのボケた人々はハワイを楽園なんて呼んでるそうですが
ハワイの住人には楽園に住む身分は保証されてても
生活は地獄スレスレ。

とはいえ民主党の強い世界ですから福祉は手厚いです。
1ベッドルームが1500ドルでも生活保護の人は住宅費に800ドル州政府から援助してもらえるので(これ以上はポリティカリーインコレクトで書けない)


ま、ハワイアンが優遇されるのは当然として
ビル・クリントン時代にミクロネシアに門戸を開いて今やミクロネシア人のホームレスが激増
そして伊藝知事が5000人シリア難民を引き受けたいそうで
今度の選挙では・・・
という事態になっているそうです。
圧倒的にハワイは民主党の強い州なのに。 ← 民主党の党員の話です


今回ハワイの代表ということで民主党からはサンダース爺さんが大統領候補に選ばれてたのだそうです。それも圧倒的多数で。7割ほど。
余りの大差に民主党としては公表出来ず回避したほどです。(それほどヒラリーはハワイでは不人気)


身分は保証されててもカツカツの生活をしてた御家人の生活は楽園ハワイで窮々している住人の生活に似てるのかなと驚きで上記の記事を読みました。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月14日 14時32分46秒 ) パスワード

友人から:


伊賀と甲賀が忍者の里になったのは,役小角に,大鬼と小鬼と言う従者夫婦がいましたが,この夫婦がどうも,役小角の死後,朝廷に追われて,伊賀〜甲賀周辺に住んだようです。


役小角は,富士山麓に流罪になります。ところが,富士山麓から伊豆半島経由で,都を往復していたという伝説がありますけど,

この当時,まだ貞観の大噴火前ですから,富士五湖はなく,河口湖とセノウミと言う大きな湖があり,

そのセノウミから大田川と言う川が流れ出て伊豆半島で太平洋に注いでいました。

この川は,貞観の大噴火で埋まったと言われていましたが,最近,地中レーダーで捜査したら,地下に川があることが分かったそうで,

この大田川ではないかと言われていますが,役小角はこの川を利用していたものと思います。
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月14日 17時29分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろなお話、ありがとうございます。知識と見聞がひろがります。
 
 いずれにしても、徳川家康を中心として、服部氏族も青山氏族も天方
氏族も大久保氏族も存在した訳で、徳川家康の浜松城時代の17年間に
秀忠誕生、築山事件・信康事件・天正伊賀の乱・神君伊賀越え・本能寺
の変は起きております。その頃の陰謀めいた謎の数々は、やはり裏で筋書
を書いた人がいたのでは……と疑っております。
 大久保長安については、服部氏族と近縁にあるように思いますが、まだ
探究不足であります――
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月14日 22時34分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そういえば思い出しました。大久保長安は、元は秦氏でありました。服部
家も秦氏に関係する。秦氏といえば賀茂氏とつながる。即ち、服部氏の背景
には、秦氏・賀茂氏の存在がある……と言えば、八咫烏が浮かんでまいりま
す。と言っても、具体的に知っているわけではありませんが……。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月15日 06時42分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


八咫烏や饒速日のことを読んでいたらマタマタこんがらがってしまいました。


大久保長安と伊賀の服部系限定=半蔵系と正尚系=で考えていたら
つながりは  情報収集  山師  歩き回る人  芸能人  職業人 こんなところかなと。



で、面白いサイトに辿り着きました。
目新しい話は無いのですが現代的にしてあるで視点がちょっと変わりました:
http://antaiban.blog.fc2.com/blog-entry-69.html?sp


大久保長安事件

                    富をもたらす招き猫か、はたまたチャッカリ泥棒猫か? 
                    不正蓄財事件の汚名を着せられたと言われる大久保長安(おおくぼ・ながやす)。
                    その「お宮入り事件」を紹介します。



安真 さて今回は、求ちゃんがファンの服部半蔵が登場するお題です。

求太 エッ、つ、ついに忍者部隊が!?

安真 あー、それはちょっと置いといて。

実は、江戸時代初期の疑獄事件にまつわるお話。慶長18年(1613)の大久保長安事件です。



求太 ほー、その大久保さんが疑獄の張本人? ええと、彼は老中か何かですか?


安真 はい。大久保長安(おおくぼ・ながやす:1545−1613)の父親は、武田信玄お抱えの猿楽師(=能楽師)でした。
しかし、長安は信玄に武士として取り立てられたという風変わりな経歴の持ち主。もっとも、徳川方の資料だから、なんとも言えませんが。


求太 さぞ英明だったのでしょうね。順調に出世を?

安真 主家の武田が滅び、徳川家康の家臣となります。

求太 ふむふむ、戦国時代らしい変遷ですね。

安真 長安の活躍の場は戦ではなく、経理にありました。
鉱山開発や税務面で優れた才能を発揮し、武田家の金蔵を支えたのです。
家康は、長安の才を新体制に是非とも活かしたかったのでしょう。

求太 なるほど、凄腕の官僚を使いこなそうってことですね。

その後、うまく行ったのですか?

安真 はい。金山・銀山開発、土地台帳の作成、一里塚の設置、交通網の整備、治安等々、幕府の経済・行政の整備と運営に、長安は多大なる功績を残しました。

求太 それだけ出来れば、会社で言うと、専務か副社長ぐらいの座は回って来そうですね。

安真 ところが、家康は優秀なブレーンを何人も抱えている。周りは強力なライバルだらけです。
中でも寵愛する本多正信(ほんだ・まさのぶ:1538−1616)、彼は元は家康に仕える鷹匠(たかしょう)でした。


求太 へぇ〜ッ、片や猿楽師、こなた鷹匠ですか。何か絵になる構図。


安真 この正信、若い頃は三河一向一揆に与し、家康の下から飛び出して諸国を放浪したりしていていました。
けれども結局、飼い馴らされた鷹のように舞い戻り、以降は一心に家康に尽くし、参謀として辣腕を振るいます。
家康は権力を固めるために数々の謀略を行ないましたが、その大半は正信の立案だと言われています。


求太 恐るべき知略の持ち主なのですね。
では、長安と正信が、ガチンコ勝負を?


安真 いえ、この二人がというより、表面上で争ったのは、二派の派閥なのです。


【武功派】
大久保忠隣(おおくぼ ただちか)、大久保長安(おおくぼ ながやす)、本多忠勝(ほんだ ただかつ)、榊原康政(さかきばら やすまさ)


【文治派】
本多正信(ほんだ まさのぶ)、本多正純(ほんだ まさずみ)、土井利勝(どい としかつ)、酒井忠世(さかい ただよ)


求太 この大久保忠隣(ただちか)という人は、長安のお父さん?

安真 いいえ、上司です。優秀な長安に自分の姓を与えたのですね。
初めに正信と競り合うことになったのは、この忠隣。
双方とも、幕府の初代老中ともいうべき重鎮の立場でした。
で、本多正純の方は、正信の嫡男です。


求太 長安たちのグループに、本多忠勝なる人がいますが、この人は正信の血縁?


安真 まぁ、遠戚ですけど、正信の祖は本多家の養子なので、血の繋がりはありません。
さて、慶長14〜17年(1609−1612)のこと、正信の子・正純の部下が疑獄事件(岡本大八事件)を起こし、このために、「文治派、ヤバし!」となります。


求太 お、じゃあ武断派の長安たちは権力闘争に勝って万々歳?

安真 と思ったのですが、翌年、何と長安が脳卒中でお陀仏。
さあ、その後が大変です。
なんせ金山・銀山奉行を一手に引き受け、たんまり収入のあった長安、派手で豪勢な暮らしをエンジョイしていたのですが、本多親子はコレに目をつけた。
「長安は生前、ズルして幕府の分の金銀をくすね、不正蓄財してたんですよ〜!」
と、家康に虚偽報告。
既にあの世の長安は不服申し立ても出来ず、長安の腹心たちは逮捕されてしまいます。


求太 うわぁ、陰険なる復讐ですね。


安真 長安も、有能なだけに政治力もあって、伊達家をはじめ、幾多の有力大名と縁戚関係を結び、また、滅んだ武田家の遺児の面倒を見るなどしていたのです。
それも本多親子にかかると、
「長安は伊達家や諸大名と組んで謀反を企んでたんです。武田家再興も狙ってたんですよ〜!」
という讒言(ざんげん)の種にされてしまいます。


求太 ま、まさか家康は、それらを鵜呑みにしてしまったんですか?

安真 いわゆる、「猟禽(りょうきん)尽きて走狗(そうく)煮らる」と考えます。
これは、利用価値のある間は使われ、用がなくなれば捨てられるという意味です。
鳥を捕り尽くしてしまえば、それを追う猟犬も不用になって煮て食われるでしょう?
家康は、鵜呑みにしたい所は鵜呑みにした。嘘・でっち上げも百ぺん繰り返せば真実になると言われます。
家康は、強大化しそうな大名・幕臣の牙を抜こうと、常に機会を伺ってましたから、長安の死も一つのチャンスと捉えたんじゃないでしょうか?
かくて、故・長安は横領犯の烙印を押され、わざわざ墓から掘り出されて河原で磔になりました。


求太 ひ、酷い! そこまでやるんですか〜?


安真 まだまだ、それだけでは済みません。長安の7人の息子たちと腹心たちも処刑。
さらに、長安の縁戚等の関係者たちも続々と粛清される。
家康の懐刀と言われた石川数正(いしかわ・かずまさ:1533−1593)の家は、子どもたちの代で改易となってしまいました。


求太 情け容赦ナシですね。あ、もしかして、件の服部半蔵も?


安真 はい。
当時は四代目服部半蔵正重(まさしげ)の代ですが、服部半蔵という名が表わすのは、「御庭番(おにわばん=スパイ・警護)の長」という意味。
ストレートに「忍者」と考えるのは無理があります。しかも、「忍者」は「武士」のカテゴリーには入りません。
そもそも、「忍者」という名称も、戦後の忍者ブーム時の造語です。今でこそ、それが世界語になってますけども。


求太 あ〜ん、やっぱり半蔵は、ドロンドロンの忍者じゃないのかぁ。
じゃあ、半蔵正重は長安の家来だったんですか?


安真 半蔵正重は、長安の婿となって姻戚関係を結んだのです。
長安も、江戸幕府のダークな部分を背負っていたと考えられます。
彼は、長安と交互で佐渡金山を統制していたのですが、長安事件を知ると、ビビッて任地の佐渡を出国。
対岸の越前・出雲崎に居る所へ、「そなたはお構い無し」の奉書が届いてホッとしたのも束の間、「勝手に任地を離れるとは不届き千万!」と、浪人に落とされてしまう。


求太 うわー、難癖ですね!


安真 面白いことに、半蔵正重の身の預け先は次々とお家断絶してしまいます。
しかし、彼の最終ゴールは、家康の甥である桑名藩主・松平定綱(まつだいら・さだつな)の家老職で、服部半蔵家もそのまま存続します。


求太 う〜む、長安の婿であり、金山事業にも関わってたのに助かって、最後は名門の家老ですか?



安真 確かに、謎です。
先の、粛清された石川数正などは、家康の幼少時代から苦楽を共にして来た重臣だったのに、アッサリ切り捨てですからねぇ。
もしや半蔵正重は、長安の潔白か、隠し財産の在り処か、事件の真相か何かを知ってて、家康との司法取引で生き延びたのかも。
なんたって魑魅魍魎(ちみもうりょう)がトグロを巻く権力中枢、真相は闇に隠され、歴史には勝者の言い分しか残ってない。


求太 して、勝ち組の本多親子は高笑い?


安真 それがですね、本多正信は事件の3年後に没しました。
で、父譲りの才気で権勢無比とまで言われた嫡男・正純は、他の側近たちの妬みを買い、やがて二代将軍秀忠にも疎まれて、謀反の嫌疑をかけられ失脚。
本多家も改易となります。。。何だかだんだん家康にムカついて来たなぁ。


求太 結局、将軍家って、飛ぶ鳥はどれも叩き落としちゃうんですね!?
じゃあ、本当の所、長安はズルしてたのかどうかは判らない?


安真 今で言う所の「機密費」を、自分で稼いでいたのでしょう。
人付き合いが良くて、交際費にも糸目を付けない立場の長安。幕府のダークな部分と共に葬られたのかも知れません。
一方の本多正信という人は、家康に倣い、禁欲的で質素。
金使いの荒い長安を見て、「しめしめ」と思っていたのかも知れませんね。


求太 う〜ん、それにしても、遺体を掘り返して磔の上に、息子7人全部処刑っていうのはあまりに酷い扱いですね。


安真 確かに、その徹底振りが、かえって疑惑を呼び起こさせます。
当時の鉱山技術は、極めて特殊な丸秘スキルだったんです。
逆に言えば、丸秘があるゆえ、家名の存続が出来た。
しかし、この丸秘は特別儲かる丸秘ですので、幕府が独り占めをしたかったのは頷けます。


求太 う〜ぬ、恐るべし、江戸幕府!

安真 ダテに264年も続いたワケじゃないと。・・・あ、伊達じゃなくて徳川だった。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月15日 06時47分40秒 ) パスワード

友人から:


物部守屋の末裔に石上麻呂と言う人物がいます。
持統天皇に可愛がられて最高位の左大臣になりましたけど,物部の姓の復活はできませんでした。

石上神社と言う神社が天理にありますけど,
この神社,物部氏の氏神だった神社で,石上麻呂も氏神の神社を姓にしたのですけど。


ニギハヤヒをご存知だと思います。
大国主の別名と言われていますが,物部氏はニギハヤヒの子孫です。
神武が来る前に大和に居たのがニギハヤヒです。
これは,日本書紀にも古事記にも書いてありますけど,ニギハヤヒ王朝を乗っ取ったのが神武です。


これ,家康が天下とった後も,豊臣秀頼が生き残ったとそっくりなわけで,
天皇家にしたら,物部は邪魔でしょうがない。
それで,物部の復活を認めなかったのだと思います。

最近,道鏡も物部守屋の末裔だったという説もあります。

蘇我氏は,平安時代まで四位で生き残っていました。
五位以上が殿上人ですから相当の高官です。

天皇家は,蘇我も恐れましたけど,蘇我以上に恐れたのが,物部だと言えます。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月15日 13時21分28秒 ) パスワード

友人から
これも横レス


ヤタガラスの伝説についてです。


徐福の子孫がヤタガラス族で,ユダヤ人と言われています。

徐福は,秦の始皇帝に反抗して,亡命した人物で,紀伊半島に漂着したと言われていますが,
浦島太郎の元になった,浦嶋子のいた伊根に漂着したという説もあります。

紀伊漂着説では,熊野大社が,どうもヤタガラスの本拠だったようです。
賀茂氏が末裔として有名ですけど,本流は物部氏のようです。


欠史八代の2代綏靖から9代開化までの天皇は,今の天皇家でなく,
物部氏の天皇だったという説もあります。


だから,日本書紀も古事記も,業績を書かなかった。
なんせ,自分のご先祖様ではないですから。(笑)


物部滅亡後は,どうも紀氏にいったようです。  ← 理解できず。紀氏ではなく紀伊でしょうね
その後、弁慶の父の熊野湛増の熊野氏が,末裔だったようです。
雑賀孫一・鈴木孫一もヤタガラスの末裔を自称していますが,怪しいものだと思っています。


熊野水軍の別れが河野氏だったようで,河野氏滅亡までは,河野氏がヤタガラスの末裔だと言われたようです。   ← 饒速日との関係からかな?


秀吉の水軍の九鬼氏も,ヤタガラスの末裔だと言ったようですけど,
九鬼氏は,今の鳥羽から志摩の地場えの豪族ですから,ヤタガラス族の末裔かもしれません。


それと,
推古と蘇我馬子は親戚だったようですが,物部と蘇我も親戚だったようですから,
蘇我もヤタガラス族の末裔だったのかもしれません。

すがすがしいという言葉がありますが,これ蘇我神社に参拝した後の気持ち,蘇我蘇我しいが,なまって清々しいになったそうです。


千葉県に曽我と言うところがありますけど,
蘇我も曽我も同じで,
大化の改新で蘇我入鹿が殺され,蝦夷が自殺して蘇我本宗家滅亡後,
遺臣団が逃げて入植した先が千葉市の曽我だという説があります。
最も,曽我はもっと新しいという説もありますけど。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月15日 14時07分18秒 ) パスワード

紛らわしい書き方をしたので レス19 の訂正とお詫び:


>ハワイの平均世帯年収は7万5000ドル弱で、アメリカ国内では2番目に高収入です。
>ところが貯金となると  3分の1が貯金ゼロで、3分の2が1000ドル未満だそうです。

ここで訂正です。

http://www.msn.com/en-us/money/personalfinance/heres-how-much-americans-have-in-savings-in-each-state/ss-BBwkRoR?ocid=UE12DHP#image=13

Hawaii
Percentage of residents with $0 saved: 32%               貯蓄ゼロの人が32%

Percentage of residents with less than $1,000 saved: 61%        1000ドル無い人が61% 


About one-third of Hawaii’s residents have no savings, and nearly two-thirds have less than $1,000 saved — even though the state has one of the highest median household incomes in the nation.

足してはいけなかったのです。
貯金ゼロの人達は1000ドル未満の61%の人々の中に入ってたのでした。



他の州の場合

アメリカの % の表現の仕方って数学力ゼロのワタシには時々(正確にはいつも)こんがらがります。

Michigan州の場合
Percentage of residents with $0 saved: 34%
Percentage of residents with less than $1,000 saved: 70%
足したら104%になってしまうものね。


North Carolinaは
Percentage of residents with $0 saved: 38%
Percentage of residents with less than $1,000 saved: 79%
足したら117%だものね。


ヨソの州については興味が無かったので気付きませんでした。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月15日 22時34分51秒 ) パスワード

友人より
横レス


熊野湛増は源氏に壇ノ浦で味方しました。
それで加増を受けて,伊予に行った分家が河野だったようです。
                                          え?

熊野水軍の本家が,九鬼水軍と九鬼は言っていますが,この辺りはよくわかりません。
河野が勤王の家だったのは,ヤタガラス族の末裔だからと言う説もあります。
瀬戸内海の水軍では,河野は名家としてそれなりの尊敬を集めていたようです。


それと尾張氏ですけど,この氏族もヤタガラス族か分かりませんけど,
ニギハヤヒに関係していたようです。

ですから旧勢力の出雲王朝の一族だったと思います。


尾張氏が壬申の乱で大活躍したのは,私は天武の父親は蘇我入鹿と考えたほうが合理的だと思っていますので,
尾張氏も蘇我氏の一族だと考えていますが,
熱田神宮ですけど,ここ古代は尾張氏の氏神様だったようです。

ですから,日本書紀は,天武と尾張氏の出自及び尾張氏の壬申の乱での活躍を乗せれませんでしたが,
日本書紀の次の正史続日本紀では,このタブーが何らかの理由で解けたために(多分,持統王朝の政権基盤がしっかりしてきたのだと思います),
尾張氏の壬申の乱での活躍を載せられるようになったと思います。

そして大海人皇子のほうが中大兄皇子より正当な皇位継承者であったのを,
中大兄皇子と藤原鎌足が武力で皇位を奪ったため,
中大兄皇子の正当性がなかったので母の斉明天皇を風よけに使うより方法がなかったのだと思います。

皇太子のほうが自由に動けるという説もありますけど,
天皇のほうが自由に動けたと思います。


つまり,天智天皇は正統でない天皇だったので,長い間、皇太子でいなければならなかったのだと思います。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月15日 23時48分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 アメリカと日本の違いは「先買い=ローン」するか「後買い=貯金」する
かの違いでしょうか。それは文化と国民性の違いから来ているのでしょうか。
あるいは、お金を貯金でなくて、「投資」の方に向けているのでしょうか?

 さて、那由他一郎氏の『歴史を動かす地下水脈 日本驚愕の秘密結社』と
いう本の中に、秦氏について以下のような表現がなされておりました。
大局的な流れとしては、あたっているのではないかと思うのですが、あを様
どう思われますか?
 「古代日本を建設した秦氏一族――
  古代日本の国造りは、渡来人の力を得て進められた。
  灌漑治水などの土木工事から農業、養蚕、機織、製鉄に至るまで彼らの
  技術が投入された。
  そういう渡来人の中でも最も有力な一族が秦氏であった。
  中央政権で聖徳太子を支え、長岡京、平安京の建設にも秦氏一族の協力
  が必要であった。
  しかし、その後王権を追われ、一族は千年の深き闇の中へと葬られる。
  秘密結社の色合いを強めて行った彼らは、日本史の節々で顔を覗かせる
  ことになる。
        〜中略〜
  表舞台から消え伏流に生きる秘密集団――
  中央政界を追われ、歴史の表舞台から消えて行った秦氏一族は、
  聖徳太子の思いを糧とする信仰を深めながら、
  闇のネットワーク集団を形成して行く。
  金属の採掘や製錬の技術を持ったたたら師、歌舞音曲を本業とする芸能
  者、陰陽師、忍び、石垣職人、木地師などさまざまな職業に従事しなが
  ら、長い眠りの時代に入る。
        〜中略〜
  戦国大名となった秦氏の末裔――
  戦国の時代に生き残るために必要なものとは何か。
  それは敵を倒す武器と戦争を続ける豊かな軍資金。
  さらに情報を得るための人的ネットワークと謀略機関としての忍者部隊。
  秦氏はそれらをすべて兼ね備えた一族である。
  戦国時代は秦氏一族にとっては、持てる能力の限りを出し切る、
  千載一遇の機会となる歴史の大舞台だった。
        〜中略〜
  江戸幕府に協力――
  豊臣家の滅亡後、徳川家康が見せる素顔の秘密とは何か。
  全国に散った秦氏一族は徳川二百六十年の基礎づくりに関わった。
  彼らはどのように家康の国造りに協力したのか、
  千年の恨みを晴らすかのように秦氏勢力は、
  徳川幕府の樹立に向かって結集した。」
ということであります。

 秦氏の動きとしては、それぞれが単独で自発的かつ本能的に動いたのか、
それとも陰からの指示があり、集団でネットワークを利用して活動したの
かということでありますが、指示があったかどうかはわかりませんが、誘
いの声はあったのではないかと推察いたしております――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月16日 01時49分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

>那由他一郎氏の『歴史を動かす地下水脈 日本驚愕の秘密結社』

いいネーミングですね。
「秘密結社」
なるほど。



秦氏は、確かに古代、聖徳太子〜桓武天皇の国造りに貢献しましたね。
その後、歴史の表舞台から消えた。


戦国時代には裏工作や縁の下の力持ちでヒッソリ貢献してたのかもですね。


江戸幕府にはどういう形の貢献をしたのでしょうね。
「草」でしょうか?
その藩に溶け込んだスパイ活動。


そういう秘密結社が日本にもあったのかもですね。
迷宮入りの事件や歴史的疑獄事件は秘密結社の仕業だったのかもですね。

ロマンですね。


でもどうして?
というのが浮かんで来ますね。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月16日 02時33分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

>アメリカと日本の違いは「先買い=ローン」するか「後買い=貯金」するかの違いでしょうか。
>それは文化と国民性の違いから来ているのでしょうか。
>あるいは、お金を貯金でなくて、「投資」の方に向けているのでしょうか?

全部当たってますね。
「投資」については

             今は、手固い勤め先の401K=拠出型企業年金=とか個人年金に投資してるでしょうね。
             2006年までは、不動産や株式なんかありましたが2008年にリーマンショックが起きました。阿鼻叫喚話がたくさんありました。




ま、普通の大卒の生涯収入が3億円として
夫婦2人だったら6億円
更には各種年金で各自1憶ずつ入る、なんて言われてます。

でもアメリカ人は目一杯使ってしまいます。

限られる限りのローンを借りて、大きな高価な家を買い、内装に凝り、高価な家財道具を揃え
更に車も目一杯高級車にします。
そしてお金のかかるクルーズ旅行など贅沢な生活をします。


日本人なら、1人分の収入以内で生活すれば、もう1人分をまるまる貯蓄に回せると思いますけど
アメリカ人はそういう事は考えないです。

で、1人が病気やレイオフで収入が途絶えるとスグに破綻。離婚。


でも子連れで離婚という形にすれば生活保護で住む所や食べる物・医療費に困らないです。


ムカシ昔のその昔、ケチ●銀行で働いてた事が有ります。
お金持ちになって行くパターンとますます貧しくなって行くパターンを見てました。

「いくらまで借りられますか?」           思考がこういう層は行き詰まるパターン。
「家のローンが下りたから車もローンで」       こういう思考は銀行員の嫌いな客。


生活保護を受けてて無料の医療を受けてる人でも豊胸手術の60万円とか歯の総入替の300万円とかにはお金を惜しまない国民性です。


堅実に貯蓄をして高い医療費を払う中間層が生活保護家庭を支えています。
2008年以降、中間層が没落中。


アメリカ人に「貯蓄はありますか?」の質問が1000ドル=10万円=有りますか無いですかのレベルですからね。

10万円の貯金の無い人が60%だとか70%だとかの世界です。
それだけ無くても福祉のお世話になればいいと考える人が溢れている豊かな国ということでしょうか?


日本も20年後はこんな国でしょうね。いやいや既に?

なんせ2000年頃に若者の年収が300万の時代になると騒いでて
今は年収200万の若者がかなりいるなんて聞きますから。

日本の場合
http://www.news-postseven.com/archives/20120119_81669.html
4年前の1月の記事:

【実際にできた年間貯金額】
できなかった:14%
10万円未満:17%
10万〜20万円:12%
21万〜40万円:13.5%
41万〜60万円:17%
61万〜80万円:7%
81万〜100万円:9%
101万円以上:10.5%

日本は31%。
ま、アメリカの半分あたりですね。

着実にアメリカの後を追っているようです。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月16日 05時40分24秒 ) パスワード

友人より
横レス


住吉神社ですけど,これ,海族の神社です。


ニギハヤヒも,海族と言われています。
日本の海賊が,海賊になるのは,秀吉の天下統一以降で,
それまでは,海を生活の場にしていたので,海族と書いて「かいぞく」と言われました。
欧米の海賊のように,最初からアウトローではなく,神武天皇もある意味,海族です。



住吉神社ですけど,遣唐使の出発した難波津が住吉神社でした。
住吉神社の前に池があるそうですけど,ここが遣唐使の時代の難波津と言う説が強いのです。


日本の港は江戸時代まで,入江でなく河口や潟湖と言われる海の真横の淡水の湖や池が港でした。
だから難波津も上流から流れてくる川の土石で埋まっていって,
時代とともに動いています。


藤原純友や紀貫之の時代の難波津は今の芦屋から西宮当たりだったという説もあります。
難波津よりも摂津津か播磨津のほうが正しいわけですけどね。(笑)


海の入江が主な港になるのは明治以降です。

三重県の県庁所在地津市ですけど,
ここ,戦国時代まで安濃津(あのうづ)と言われていましたけど,日本有数の港でしたので,安濃が消えて津になったそうです。


安濃津も河口にありましたので今は津市の郊外の平野部になっています。


住吉神社は瀬戸内航路の出発点ですから海の神様を置いたそうです。
それと,
大仙古墳(仁徳天皇陵)も仁徳天皇の時代,古墳の前まで海岸線が来ていたので,
船の航海の目印に,あのような世界最大の墳墓を作ったという説が最近,有力になって来ています。


この時代,陸地を見て航海する地文航法(ちもんこうほう)が主体ですから,
船は日の出とともに出港して,夕方暗くなる前に港に入港するという航海術が主流でしたから,
平らなところには大古墳を作ったほうが位置がわかりやすいのですよ。

まあ,大古墳は今の灯台のような役目です。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月17日 00時30分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、松島家の古文書を解釈すべく、ずっと調べておりました。
 松島但馬という人間がいるのですが、源長院の檀徒でもありますが、
藤原の神主となっている。たぶんこの人が松島源右衛門であると思いま
す。庄屋で石高五十石でありました。家譜と服織神社の記念誌をみると、
この人が松島対助であろうと思われます。服織神社の神主であったと
推察されます。対助は右衛門家の出でありますが、その五代前の別れの
松島左近(源右衛門)家を一旦は継ぎ、義父に子ができたため分家となっ
たようです。妻は市野惣太夫の娘であります。

 松島但馬という名前は何か意味を暗示しているようですが、藤原の
神主というと、熱田神宮の神主の藤原氏を思い起こします。また、この
地で藤原氏といえば、蒲の御厨の藤原氏が有名であります。後に源範頼
をかくまい育てております。また範頼は熱田の藤原大宮司家の養子とし
て育っております。

 いずれにしても、「藤原 神主」が松島氏のなぞを解くキイワードと
なりそうですが、それ以上に続く情報はなく、松島氏のミッシング・リ
ンクは、依然解明できないままであります――

 時代としては、足利尊氏の時代、調べると、尊氏はこの遠江にも色々
な痕跡を残しております。秋鹿氏や青山氏の祖先にも関係する事柄があ
りました。ひょっとして、秋鹿氏と松島氏は関係があったのかも知れま
せん。羽鳥庄が「キイワード」になるかもし知れません――
 
 これについては、次回に記します――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月17日 03時14分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

>松島但馬

何の位を表しているのでしょうね。
絶対に「但馬守」ではないでしょうけど。
「但馬守」ですと五位下ということになりますものね。


ということで拾って来ました:
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222162477


農民なら庄屋・名主・地主、
商人なら御用商人や町年寄
といった役職に就いた有力者について:



江戸時代は徳川幕府の天領と各大名家の領国は制度が似ているようで微妙にそれぞれ違いがあります。


 また、江戸後期には富裕な農民や商人には士分の格式や特権を上納金などと引き換えに付与することも多くありました。


 このため困窮した大名家の中には大地主にして商業にも携る地方の有力者は下級武士の格式はおろか藩財政などの運用を任されるくらいの権限を与えられることもありました。


因みに武家や公家以外で身分が高かったのは僧侶や神主それに朝廷出入りの芸能者や商人です。


著名な神社には世襲による神家があり五位クラスの官位を貰うのが通例の場合がありました。


 また幾分の上納などと引き換えに朝廷や公家と付き合いがある商人や芸能者も六位くらいの官位を得ていたようです。



そうしますと松嶋氏は5位か6位あたりの官位を得ていたのでしょうね。



ということで官位相当表:
http://www.nobunaga-lab.com/hall/furoku/kanisoutouhyou.html
と言ってもどう見たら良いのかサッパリ。汗

松嶋氏は但馬守とか但馬介とか但馬掾とか名乗れていたのかもですね。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月17日 03時25分13秒 ) パスワード

で、松嶋氏は源氏でありながら、妻が藤原智常の娘?子孫の娘?ということで
この藤原智常という人物にも何かありそうですね。



時代が全く違いますが:
http://e-ainan.net/sonshi/nenpyou/nen/nenpyou.htm
伊予のサイト


1767 明和4 丁亥 7/1 ●田沼意次が側用人となる。(田沼政治)

1768 明和5 戊子 9月 厳島神社改築(神主岡原河内守藤原智常・庄屋實藤源左衛門・願主内海浦中)。 内海村史上巻461頁


これを見ると   神主岡原河内守藤原智常   河内守?


ということは  松嶋但馬守でも良い  ということになりますか。
スゴイ!
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月18日 12時37分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

@「青山忠成」から数えて9代遡った「師重」が、青山を名乗った祖であ
 ります。
A「師重」から4代遡ると「師賢」、そしてその兄「兼信」。
B「師賢」から8代遡ると「家忠」。この「家忠」より「花山院」と呼ば
 れます。
C「家忠」の4代前が「道長」であります。
 つまり、「青山氏」は「藤原氏」であります。
                (太田亮編『姓氏家系大辞典』による)
 Aの「師賢」は、後醍醐天皇の忠臣でありました。即ち、南朝方。
 @の「師重」は、尹良親王に仕え、吾妻郡青山に居住したことにより、
青山を名乗ります。波合(浪合)にて討死。その墓は波合の北山上にあると
いうことです。
 従って、「青山」というイメージは、「南朝方」、あるいは「南朝の忠
臣」とイメージだったと推察されます。
 では、「服部」というイメージはどうだったのでしょうか……?

 さて、Aの「青山師賢」の兄「兼信」ですが、こちらは北朝方でありま
した。そして、この遠江の地の「内野郷」を光厳上皇(北朝)から安堵され
ております。内野というところは旧浜北市にあり、三角縁神獣鏡の出土で
有名になった所でもあります。場所的には、小松の西、三方原大台地の麓
あたりまでであります。
 意外と近いところに青山氏の系統と関係する場所があったということに
なります――

 
 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 13時50分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「青山」というイメージは、「南朝方」、あるいは「南朝の忠臣」とイメージだったと推察されます。
>では、「服部」というイメージはどうだったのでしょうか……?


全く青山氏と同じです。「南朝方」「南朝の忠臣」です。


伊勢の鈴鹿あたりにいた服部伊賀守宗純が後醍醐天皇のお召しで吉野に駆け付けた  吉野朝遺臣15党(4名家・7名字・4名姓)の  7名字の1つです。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時03分34秒 ) パスワード

日本の名字は複雑怪奇で細分化していくので後世から見るとワケが分からないのですが

肥後にも服部氏の一流がいたそうです。


http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/blog-entry-515.html

内空閑鎮房と書き、(うちくがしげふさ)、と読む。
あるいは内空閑は内古閑とも記され(うちのこが)と読ませる。


内空閑氏は、伊賀国住人であった服部基貞が、
明徳元年(1390年)に山本郡の内空閑村(現・植木町)の
内村(岩照寺)城に入って内空閑姓を名乗ることから始まったという。

そして菊池武朝に仕えて550町を領して、霜野城(現・山鹿市鹿央町)を築いたとされている。

その後も代々菊池氏に仕えていた内空閑氏であったが、
肥後守護であった菊池氏の衰退を受けて逆に勢いを増した大友氏に従うようになり、
周囲の大友氏、龍造寺氏、島津氏の侵攻を絶えず受ける中で
戦国時代を生き抜いていくために、
内空閑氏も含めた肥後周辺の国人たちは、
三氏と絶えず服従・離反を繰り返した。

やがて秀吉による九州仕置において、
秀吉に従った国人衆の多くは所領を安堵され、
内空閑氏も山本郡のうちで1500町を安堵されることになった。

しかし、秀吉が肥後一国を佐々成政に与えたことで、
事態は急変することになった。

領内把握を急いだ成政が強引な検地を進めたことに、
隈部親永らは反発し国衆一揆を起したのであるが、
内空閑鎮房は一揆方に味方して、成政の甥である宗能を鹿子木で討ち取ったという。

その後、秀吉は成政に一揆を引き起こした責任を取らせて切腹を命じ、
一揆軍に対しては九州諸大名に動員令を出して成敗を進めた結果、
隈部親永は降伏し切腹した。

いっぽう一揆に加担した内空閑鎮房は霜野城を落ちのび、
柳川に陣する安国寺恵瓊のもとに走って弁明につとめたが叶わず、
柳川城主の立花宗茂によって討ち取られたのであった。

強国の間を生き抜いた内空閑鎮房であったが、
最後の最後で選択を誤り、
一族を絶やしてしまったのは残念なことであった・・・。
(一部子孫は財満を称し存続したという)



【名字】内空閑
【読み】うちくが
【全国順位】 45,952位
【全国人数】 およそ50人

現熊本県である肥後国山本郡内空閑邑発祥ともいわれる、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)服部氏族。
「内」は屋敷内の内側や自分のものという意味。





【名字】財満
【読み】ざいま,ざいみつ,ざいまん,さいまん

【全国順位】 10,914位
【全国人数】 およそ640人

現広島県西部である安芸国賀茂郡の有名氏族、赤松家に仕える臣下。
近年、広島県から山口県に多数みられる。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時23分47秒 ) パスワード

戦国時代や江戸時代に親戚になっているのが南朝方以来の仲というのが良く分かります。


現代文で引っ張って来ました:

http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai07.html
良王君よしたかのきみが尾張に隠棲された後は、宮方の武士は諸国に蟄居した。それらの武士の大略は、次のとおりである。

桃井大膳亮満昌 三州吉良の大河内に住む。三州桃井というのはこの末裔である。大河内坂本の祖。   


大庭雅楽助景平 三州深溝に住む。稲吉の祖。   


熊谷小三郎直郷 三州高力に住む。三州熊谷はこの末裔である。高力の祖。   


児玉庄左衛門定政 三州奥平に住む。奥平の祖。   


酒井与四郎忠則 三州鳴瀬に住んだ後、大浜の下宮に蟄居。成瀬七郎忠房と太郎左衛門忠親は正行寺に住む。この三人は兄弟で、新田一族、大館の末裔、大館太郎兵衛親氏の子である。   


大岡忠次郎重宗 三州大草に住む。大江田の末裔である。   


鈴木三郎兵衛政長 三州矢矧に住む。   


大草三郎左衛門信長 信濃国小笠原七郎政季の弟、八郎政信(後に豊後守と称する)の子である。遠江国有王の、高林善八郎政頼の弟。   


天野民部少輔遠幹 遠江国秋葉の城に居住。対馬守遠定の父である。遠幹は、永享七年十二月、秋葉山で兎狩をし、富樫の林介に託して三州の政親に送った。
(原注:政親ハ徳川殿ナリ。○塩尻云永享十一年十二月天野民部少輔遠幹己領内遠州秋葉ニ於テ兎ヲ狩得テ信州ノ林藤介光政トイフ者ニ依テ徳川殿ニ献ズ)


布施孫三郎重政 小笠原の郎党である。信州から良王を供奉し、三州に赴き、野呂に居住。   


宇津十郎忠照 三州前木に住む。桐山和田の大久保の祖である。元は、駿河国富士郡の住人、宇津越中守の二男である。   


宇津宮甚四郎忠成 同国大久保に住む。  


                     二宮金次郎尊徳が小田原藩の家老服部家の財政を立て直した後に
                     大久保家の分家の宇津家の財政立て直しをした話がありましたが
                     ということは  服部家と大久保家は南朝方同士だったのですか!
                     ビックリ!!!



熊谷越中守直房 近江国伊吹山の麓、塩津に住む。雨森の一族となる。江州熊谷がこれである。   


土肥助次郎氏平 土肥三郎左衛門尉友平の子である。尾張国愛智郡北一色に住む。   


長谷川大炊助重行 越中国名子の貴船山城主、石黒越中重之の子。尾州春日部郡如意に住む。   


矢田彦七之泰 堀田の一類。尾州春日部郡矢田に住む。


この他、なお多くの諸氏が処々に潜居した。すべてを書くことはできない。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時35分52秒 ) パスワード

最初をコピペ
ここに15家が出てます。


http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai01.html
浪合記1

 応永四年、世良田弥次郎満義の子、世良田大炊助政義は、桃井右京亮宗綱とはかって妙法院宗良親王の御子、兵部卿尹良を上野国に迎えた

                      (原注:桃井宗綱の実父は三河国額田郡吉良弥三郎有信の子で、母は桃井駿河守義繁の娘である)。


 尹良親王は、遠江国飯谷の館で生まれた。母は、飯谷井伊介道政の娘である。これより先の延元元年、飯谷井伊介道政は、尹良の父、宗良親王を主君とあがめ奉り、遠江国に迎えて旗を揚げ、京都の将軍に挑戦したことがあった。


 尹良は大和国吉野で育ち、元服の後、正二位中納言一品征夷大将軍右大将兵部卿親王におなりになった。元中三年八月八日、源の姓をお受けになった。


                                      ここから後醍醐源氏が始まったということでしょうね


 その後、新田、小田、世良田、桃井を初めとして、遠江、三河の宮方に味方する者が相談して、桃井和泉守源貞識(さだもと)を使者として吉野から上野国に迎え移し奉った(桃井貞識は、桃井伊豆守貞綱の二男である)。



                                        吉野朝忠臣ですよ


   吉野から供奉して来た武士
大橋修理大夫定元  岡本左近将監高家
山川民部少輔重祐  恒川左京大夫信規
  (あるいは朝祐)
  この四人を、新田家の四家という。

 吉野から供奉して来た公家庶流
堀田尾張守正重   平野主水正業忠
服部伊賀守宗純   鈴木右京亮重政
真野式部少輔道資  光賀大膳亮為長
河村相模守秀清
  この七人を七名字と号する。

 宮方の武士は、これら十一家を吉野十一党と呼んだ。これらの人々が、二心無く尹良様を守護したてまつったのである。

 飯谷井伊介、秋葉、天野民部少輔遠幹など、西遠江の兵達が、御旅行の間を警護し、まず駿河国冨士谷宇津野に移し、田貫の館に入れ奉った。

 この田貫次郎という者は、元は冨士浅間神社の神主である。神職を嫡子の左京亮に譲って宇津野に閑居していたが、次郎の娘が新田義助の妾だったため、その誼(よしみ)によって宮を受け取り奉ったのである。

                                      浅間神社に神職で服部氏がいらっしゃるのはこのせいかも。


 井伊介は親王を宇津野に入れ奉って、兵共を警護のために残し、自分自身は国に帰って行った。


 冨士十二郷の者は、新田義助に厚恩を受けた者どもである。そのうちで、鈴木越後守正茂、同左京亮正武、井手弾正正弼正房、下方三郎、宇津越中守たちが、我劣らじと尹良を饗応し奉った。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時40分18秒 ) パスワード

http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai02.html
浪合記2



 同五年の春、宇津野を出御されて上野国に赴かれたが、その途中、鎌倉の兵共が宮を襲い奉った。それに対して、十二郷の兵は柏坂で防ぎ戦った。

 尹良は、鈴木越後守の館、丸山にお入りになり、桃井和泉守と四家七党が守護し奉った。敵は数日間、館を取り巻いて攻めたが、宮方が四方から蜂起し、鈴木に加勢する兵が多かった。

 桃井和泉守は丸山の館を出て、鎌倉の大将である上杉三郎重方と嶋崎大炊助の陣に攻めかかり、主従百五騎が、上杉の備えの真っ只中に斬り込んだ。上杉の兵五千余騎は桃井に追い立てられ、上杉の郎党長野安房守も討たれてしまい、鎌倉の兵共は戦い疲れて退却した。追撃

 桃井和泉守は追撃して行ったが、そこに嶋崎が、追撃する桃井の背後を突こうと備えを右に移した。桃井はこれを見て、自分の勢を二手に分け、一手を嶋崎の三百騎に指し向け、残る勢で上杉を追った。大橋、岡本、堀田、平野、天野ら、都合二百余騎も、嶋崎に向かって戦いを挑んだ。嶋崎は前後を取り巻れてはいけないと思ったのか、勢を徐々に引いて、一騎も討たれずに山浪まで退いた。

 上杉は二百余騎を討たれ、その夜は上一色に陣をしいた。桃井も、勢を引いて丸山の館に戻った。

 館に戻って、井手弾正少弼が鈴木越後守に言った。

「新田一族の働きは常のことではありますが、今日の御合戦には、それがしを初めとして十二郷の兵どもは目を驚かしました。」

 それを聞いて、鈴木越後守が言った。

「老いては何を申しても御赦免いただけるでしょうから、敢えて申します。大事の前の小事でございましょう。君の御供でございますから、道中に不必要に危険な戦いを行うべきではありません。」

 それを聞いて桃井和泉守は、

「鈴木殿の仰せは肝に入り申した。君の御供の間は合戦は無益ではありますが、鎌倉の者どもが、桃井が供奉しているのに何の沙汰もないと思うのも無念と思い、その上、敵が逃げるのが面白くて追ってしまいました。」と、笑いながら語った。

 鈴木も、路次警固のために、宇津越中守、下方三郎、鈴木左京、高橋太郎の四人に二百八十騎を差し添えて送り奉った。

 尹良は丸山から甲斐国にお入りになった。武田右馬助信長の館に入れ奉り、数日御滞留になった。

 八月十三日、上野国寺尾の城に移らせましまし、新田、世良田、その他の一族が、寺尾の城に馳せ集った。





武田信長
(生没年不詳)

 甲斐守護信満の二男。右馬助と称する。

 応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱の際、父信満と共に禅秀に与同する。信満は翌年自殺。長男の信重は高野山に入り、その遺領は、同族の逸見有直の領するところとなる。信長は、逸見一族を除くために挙兵し、数年後、これを敗退させた。

 応永三十三年(1426)、足利持氏が甲斐に侵入。信長はこれに降る。のち、将軍足利義教や古河公方足利成氏に仕え、結城合戦に武功を立てた。

 康正二年(1456)、古河公方方として上総国に入国。真里谷城(現・木更津市真里谷字真地)を築城し、上総で没した。子孫は真里谷氏と称した。



           やっぱり松嶋氏家譜にあったような内容が出ますね。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時42分26秒 ) パスワード

小栗も出て来ました


http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai03.html
浪合記3


 同十九年四月二十日、上杉入道憲定が兵を上野国寺尾に発し、世良田太郎左衛門尉政親を攻撃した。政親は数回の戦いの後、負傷して、今はどうにも叶わぬと思われたため、長楽寺に入って自害した。法名俊山と号す。二郎三郎親氏は勇力を励まし、敵陣を斬り抜けて新田に赴いた。

 同六月七日、木賀彦六左衛門尉入道秀澄が、兵二十五騎を農人の姿に仕立て、新田相模守義則が底倉に蟄居していたのを夜陰にまぎれて取り巻いた。鬨の声を聞いて義則は討って出たが、戦い疲れてついに討死した。

 同二十三年八月十五日、名月に事寄せて、上杉入道禅秀が鎌倉の新御堂満隆を訪れて謀叛を勧め、廻文を送って武蔵上野下野に触れ回った。新田、世良田、千葉、岩松、小田等の一族を初めとして、時を待っていた兵共が思い思いに旗を揚げた。

 桃井宗綱は禅秀方に加わって鎌倉を攻撃し、江戸近江守を国清寺で討ち取った。その後、宗綱は近江守の首を武蔵国荏原郡矢口村の川端に梟し、高札を立てた。その高札には、


このたび、相州鎌倉国清寺において、江戸近江守を討ち取った。その首を新田義興主に奉るものである。
  応永二十三年丙申十月十日
              桃井右京亮源宗綱

と書かれていた。近江守は、矢口の渡しで船の「のみ」を抜いて義興を溺死させた江戸遠江守の子である。

 同二十四年正月十日、満隆、持仲の親族と、上杉禅秀の家来百七十人が、戦に敗れてことごとく自害する。

 同五月十三日、岩松治部大輔が武州入間川で中村弥五郎時貞に生け捕られて誅せられる。桃井宗綱は剃髪して下野入道宗徹と名乗った。

 同三十年、小栗孫次郎満重が鎌倉に背き、下総に下って結城に立て籠る。桃井下野入道、および、宇津宮左衛門尉持綱、真壁新七郎義成、佐々木隠岐入道らが小栗に味方して合戦に加わった。桃井は、八月十三日に下野落合に帰った。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時47分07秒 ) パスワード

諏訪の千野氏が出て来ましたよ!小笠原も。

四家七党は吉野朝遺臣11家のこと。服部もここに入る。


http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai04.html
浪合記4


 同三十一年、新田小三郎義一、世良田大炊助政義、同修理亮親季、同万徳丸政親、桃井入道宗徹、大江田安房守、羽河安芸守景庸、同安房守景国、宇津宮の一類、大岡次郎重宗、宇津越中守道次、大庭雅楽助景平、熊谷小三郎直郷、児玉庄左衛門尉定政、酒井与四郎忠則、鈴木三郎兵衛政長、天野民部少輔遠幹、同対馬守遠貞、十田弾正忠宗忠、大草三郎左衛門尉信長、布施孫三郎重政、千村対馬守家通、石黒越中守、上野主水正、山内太郎左衛門、土肥助次郎、小山五郎左衛門尉、ならびに、四家七党以下の兵どもが、尹良を供奉して上野国を出御され、同四月七日に信濃国諏訪の千野六郎頼憲の嶋崎の城に入御まします。同国の住人、小笠原七郎正季、木曽の郎従千久四郎祐矯、ならびに、高坂、滋谷の一族らが千野の城に馳せ参じて、尹良君を慰め奉り、旅行の疲れを癒した。

 世良田、桃井の他、十一党の者が重ねて相談して、尹良の御子良王君をひとまず嶋崎から下野国落合の城に帰し奉る。四家七名字、ならびに、桃井貞綱、世良田政親、熊谷弥次郎、同弥三郎、桃井左京亮、宇佐美左衛門尉、開田、上野、天野、土肥、上田、小山らが御供して、七月十八日に落合に帰城した。

 尹良は、千野の城を八月十日にお発ちになり、三河国に移らせ給う時、


さすらへの身にしありなば住み果てん
           とまり定めぬ憂き旅の空

とお書きになって、千野伊豆守に賜った。後の世まで千野の家の重宝となった。

 尹良が以前三河国へ渡御された時、吉良の西郷弾正左衛門尉正庸など、桃井義繁の厚恩の者共が多かったので、尹良はこの者共を頼りに思われ、上野、下野で時を待つ新田世良田の一族を催し、再び旗を揚げ,落合にまします良王と牒し合わせ、宮方の残兵を集めて合戦しようと相談一決し、嶋崎の城を出、三河国へ赴きたまう。三河から御迎えとして、久世、土屋等、大勢が参上した。

 十三日、飯田を越えさせたまう所に、杖つき峠で賊徒が道を塞ぎ、財宝に心をかけ、奪い取ろうと馳せ集まり、この山かの谷より矢を放つ。小笠原と千久の兵が防ぎ戦って、賊を征す。

 同十五日、飯田から三河に向う。

 大野村から雨がおびただしく降って、道路が大河のようだった。未刻から風雨がさらに激しくなり、十方暗夜のようであった。そこに野武士が突然現れ、駒場小次郎、飯田太郎と名乗って、尹良君を襲い奉る。

 下野入道宗徹、世良田次郎義秋、羽河安芸守景庸、同安房守景国、一宮伊予守、酒井七郎貞忠、同六郎貞信、熊谷弥三郎直近、大庭治部太輔景郷、本多武蔵守忠弘以下が防ぎ戦う。賊を討っても斬っても、賊は地理を良く知っており、ある場所に集まったかと思うと、また別の場所から討って出て、水陸を走り、畦道に集まって、さんざんに矢を放つ。

炎上 味方は天難逃れ難く、運ここに窮まって、尹良君を免れさせ給うこと難しく、大井田、一井も賊の為に討たれる。下野入道と政満は、小山の麓の在家に主君尹良の御輿を掻き入れ、御自害を勧め奉る。宮は残った人々を召し、これまでの忠義を後の世まで御忘れになることはあるまいと言って、甲斐がいしく御生害。入道を初め主従二十五人も、思い思いに自殺し、家に火をかけ、悲しいことにことごとく火中に亡んでいった。政満は御遺言を守ってこの難中を逃れ、上野国に帰った。

時に応永三十一年八月十五日、信濃国大河原にて尹良親王御生害。宮が御腹を召された場所なので、世間では宮の原と呼んでいる。討死の死骸を埋めて、塚を築いた。これを、千人塚という。石塔は、信濃国並合の聖光寺に有るという。

  応永三十一年八月十五日合戦討死法名

 大龍寺殿一品尹良親王尊儀 後醍醐天皇皇孫
 大円院長(一字ヌケ)宗徹大居士 桃井入道宗綱
 智真院浄誉義視大居士 羽河安芸守景庸
 依正院義傳道伴大居士 世良田義秋

[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時50分53秒 ) パスワード

http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai05.html
浪合記5



良王君伝

 御父は、兵部卿尹良親王。母は、世良田右馬助(一書に大炊助)政義の娘である。上野国寺尾城で誕生した。

 正長元年、寺尾から下野国三河村落合の城に入らせたまう。逃走

 永享五年、上野国を出て、信濃国に赴きたまう。笛吹峠で、上杉の兵が追って来て、合戦となる。良王君は、木戸河内守の城に入城した。

 同五月十二日、木戸の城を出て、木曽の金子の館に滞在した。その後、千久五郎が、金子の館から、自分の館へ迎え奉る。

 同年の冬、世良田政義、桃井伊豆守貞綱らが、良王を尾張国海部郡津嶋へ入れ奉ろうとはかり、四家七名字、その他の兵士もそれに同意して、同年十二月一日、三河国に向かう途中、浪合に到着する。

 そこで、先年、一宮伊予守に討たれた飯田太郎の一党と、桃井宗綱に討たれた駒場小次郎の弟、および、彼等の親族が、「宮方は親兄弟の仇だから、ここは通さぬ。討ち取って孝養にせん。」と、大勢馳せ集まり、良王を取り巻いてしまった。

 桃井貞綱、世良田政親、児玉貞広らが、浪合の森の陰から討ってかかり、賊徒百三十人余りを討ち取った。翌二日も、酉の刻から亥の刻まで防ぎ戦った。その間に、十一党、宇津宮、宇佐美、天野、上田、久世、土屋、佐浪たちが、良王を合の山まで退け奉った。桃井貞綱、児玉貞広をはじめ、野田彦次郎、加治監物以下、二十一騎が討死した。

 同三日、桃井満昌が合の山で、七八人の子供に、「お前達は何処の里の者か。きのうの浪合の合戦はどうなったか知らないか」と尋ねたところ、子供のうちの一人が、「自分は浪合の近くの村の者です。きのう、浪合の近くの家に、武士が大勢駆け込んで腹を切りました。大将も御腹を召されたそうです」と、答えた。

 桃井満昌が、「その、腹を切った者達の遺骸はどうなったか」と尋ねると、子供は、

「武士たちは切腹のあと、家に火を懸けました。風が烈しく吹いていたので、浪合の町が焼け失せてしまいました。今朝、その近くを通った時、何者かわかりませんが、一文字の笠印や一番の笠印や堅木瓜の紋を付けた兵達が、焼け跡を探して鎧や太刀の焼けた金具を拾っているのを見ました。可哀想なことです」と、語った。

 桃井満昌がこれを聞いて良王君に告げたところ、頷いて、大橋修理太夫定元を召して満昌に添えられ、平谷から浪合に遣わして、討死の者達を弔わせた。一文字の笠印は世良田殿、一番は山川、木瓜は堀田の紋である。満昌は定元に会って、共に涙を流した。

 ある家の蔀に、世良田政親の辞世が書き置かれていた。定元は討死の死骸を取り集め、浪合の西に寺があったので、そこの僧に頼んで葬り、同日の暮れに平谷の陣所に戻った。満昌は、野武士らの首を梟した。

 良王君は政義の残した歌を聞こしめし、涙を流された。その歌は、次のようなものであった。


思ひきや 幾世の淀をしのぎ来て
           この浪合に沈むべきとは

 お供の士卒達はそこかしこに座り込み、その慟哭は天地を揺るがした。



訳注:この節、自害した世良田氏の名前(政義と政親)に混乱があるようですが、原文のままにしてあります。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時55分11秒 ) パスワード

重複

http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai06.html
浪合記6



浪合記6






 五日、三河国鳴瀬村(原注:今の成瀬村)に到着。里人が疑い、村に入れなかったため、満政(訳注:満昌の間違いかも)の所領の坂井郷に行って、正行寺を頼る(原注:作手の正行寺村へ入御という説もある。もしそうなら、坂井郷ではないかもしれない)。正行寺は満昌の親戚、下妻の知人である。良王はここに四五日御滞在して、尾州津嶋の大橋定省の奴野城へ入りたまう。

 永享七年十二月二十九日、良王君、尾州津嶋に入御。四家七名字、宇佐美、開田、野々村、宇津宮の十五人がお供である。兵糧が無くなり、一会村(原注:今の市江村)が米五十石余りを献上する。この米を十五人の者に分かちたまう。

 翌年正月二日から糧食が無くなったが、日置村から米二十五石を進呈された。この米を、また御家人に賜う。十五家が毎年正月二日に必ず米を撞くのは、ここから始まった行事である。津嶋の年始の嘉例である。




http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai07.html
浪合記7


 良王が尾張に隠棲された後は、宮方の武士は諸国に蟄居した。それらの武士の大略は、次のとおりである。


桃井大膳亮満昌 三州吉良の大河内に住む。三州桃井というのはこの末裔である。大河内坂本の祖。   

大庭雅楽助景平 三州深溝に住む。稲吉の祖。  

熊谷小三郎直郷 三州高力に住む。三州熊谷はこの末裔である。高力の祖。   

児玉庄左衛門定政 三州奥平に住む。奥平の祖。   

酒井与四郎忠則 三州鳴瀬に住んだ後、大浜の下宮に蟄居。成瀬七郎忠房と太郎左衛門忠親は正行寺に住む。この三人は兄弟で、新田一族、大館の末裔、大館太郎兵衛親氏の子である。   

大岡忠次郎重宗 三州大草に住む。大江田の末裔である。   

鈴木三郎兵衛政長 三州矢矧に住む。   

大草三郎左衛門信長 信濃国小笠原七郎政季の弟、八郎政信(後に豊後守と称する)の子である。遠江国有王の、高林善八郎政頼の弟。   

天野民部少輔遠幹 遠江国秋葉の城に居住。対馬守遠定の父である。遠幹は、永享七年十二月、秋葉山で兎狩をし、富樫の林介に託して三州の政親に送った。
(原注:政親ハ徳川殿ナリ。○塩尻云永享十一年十二月天野民部少輔遠幹己領内遠州秋葉ニ於テ兎ヲ狩得テ信州ノ林藤介光政トイフ者ニ依テ徳川殿ニ献ズ)

  布施孫三郎重政 小笠原の郎党である。信州から良王を供奉し、三州に赴き、野呂に居住。   

宇津十郎忠照 三州前木に住む。桐山和田の大久保の祖である。元は、駿河国富士郡の住人、宇津越中守の二男である。   

宇津宮甚四郎忠成 同国大久保に住む。   

熊谷越中守直房 近江国伊吹山の麓、塩津に住む。雨森の一族となる。江州熊谷がこれである。   

土肥助次郎氏平 土肥三郎左衛門尉友平の子である。尾張国愛智郡北一色に住む。   

長谷川大炊助重行 越中国名子の貴船山城主、石黒越中重之の子。尾州春日部郡如意に住む。   

矢田彦七之泰 堀田の一類。尾州春日部郡矢田に住む。
 この他、なお多くの諸氏が処々に潜居した。すべてを書くことはできない。

[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時56分18秒 ) パスワード

http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai08.html
浪合記8


永享七年十二月二日合戦討死法名
 定綱院義功鉄柱居士 桃井貞綱
 天光院真誉紅月居士 世良田政義
 これは、良王が津嶋奴野城に御座の時、先年戦死した武士等を弔わせたまった時の法名という。


良王の供奉の僧

蓮台寺某阿
 相模国藤沢の遊行の弟子。良王の御供で尾州津嶋に居住した。その後、蓮台寺を建立する。

 吉野から尹良親王に供奉した僧は、天王の社僧となった四筒寺である。明星院、実相院、宝寿院、観音院は良王の祈願所であり、上野国から尾張国津嶋まで供奉して、津嶋に観音院の一寺を建立した。


一品征夷大将軍尹良親王
 応永三十一年八月十五日、信濃国大河原に於て薨ずる。大龍寺殿と号す。尾張国海部郡門真庄津嶋天王社の境内にある若宮がこれである。永享八年六月十五日、十一党の者が社を建てて祭った。津嶋の大龍寺は、親王の御菩提所である。

良王君
 明応元年三月五日、逝去。御年七十八。瑞泉寺殿と号す。同三年三月五日、天王社の境内に社を建て、御前大明神と称し奉り、初めて祭る。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 14時59分25秒 ) パスワード

お節料理の話


http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai09.html
浪合記9


 永享七年十二月二十九日、良王、津嶋天王の神主の家に渡御。七名字の者共が神楽を奏した。この吉例を末代まで行うようにとのことであった。

 同八年正月元旦、雑煮を良王に差し上げる。魚無し。伊勢蛤をあつものとする。御飯は、半白米であった。汁物は、尾張大根の輪切り。なますは、小鰯の干したものに大根を削ったものを入れて差し上げる。この年以降、御流浪は無し。

 永享八年二月十一日、公方家の命を奉じて、平井加賀守広利が三千の兵を率いて京都から三河、遠江に下向し、新田の余族を捜索する。故右京亮政義の二男、万徳丸政親が、この時三河松平に隠れ住んでいたのを生け捕り、梅原肥前守に預ける。また、桃井満昌を正行寺で捕らえ、江州志賀の澤田八郎に預ける。児玉貞政を、奥平で欺き捕らえて、布施因幡守に預ける。この三人を連れて京都に帰り、室町の獄舎に入れる。

 五月三日に三条河原で三人を処刑することに決まったが、平井は情けの有る者で、この頃遊行上人が在京していたので、遊行道場に行って、「あはれ、三人の命を助けましませかし」と訴えた。上人も、もっともと思い、翌日、弥阿弥(原注:弥の字、誤りか)を将軍義教のもとに遣わし、次のように言上させた。

 「三河の罪人を近日御処刑との由ですが、それについて、古例では、同姓の朝敵の首は朱塗りにしてさらすとか申します。その昔、頼朝卿の弟を始め、その他同志の者の首を藤澤にさらした時も、朱塗りにしたと伝え承っております。したがって、古例のようにせさせたまえ」

 将軍はそれを聞いて、「そうか。朱で塗れば、首の肉も早くは腐るまい」と言って、広利に命じて、三人の首を切って、朱塗りにして獄門に懸けるように仰せになった。

 広利は畏まり、頷いて、三人を密かに獄中から連れ出して自分の宿所に迎え、賀茂静原の梅谷修理亮の家に隠し置いた。そして、年齢の似た罪人、三名を殺し、首を朱に染めて獄門に懸けた。

 その後、政親、桃井、児玉は密かに遊行上人の弟子となって剃髪し、時衆に加わって四国に渡った。

 義教将軍が赤松満祐に弑された後、取り締まりが緩くなったので、桃井満昌は三河に帰り、大河内式部少輔と改称した。児玉貞政も、再び三河に来て作手に住み、奥平監物と称した。政親は政阿弥陀仏といって上野国万徳寺で修行していたが、文正元年十月に寂し給ったということである。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 15時02分45秒 ) パスワード

http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai10.html
浪合記10


永享十一年、洞院大納言実熈が三河国に流され、大河内に滞在する。嘉吉三年、帰洛して内大臣に任ぜられる。実熈が帰洛の時、富貴の者であった松平太郎左衛門尉泰親が金銀を貸し奉って供奉する。泰親の娘は、実熈の妾であった。この妾に男子が一人おり、富永五郎実興と称した。三河国の富永御所というのは、実興殿の事である。三州山本の祖である。また、尾崎、山崎らも、この子孫である。

 実熈は、東山の左府と称す。従一位。康正三年に出家。法名元鏡。博学多才の人であった。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 15時08分39秒 ) パスワード

このお祭りは今でもやってますよ。
信長や秀吉も楽しんだそうです。

服部家ホンヤさんも裃姿でお勤めなさってます。



http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai11.html
浪合記11


 尾州津嶋祭の法式は、船十一艘を飾り、十一党の家紋を描いた幕を引く。同国佐屋村に、台尻大隅守という剛の者がいて、良王の仇敵であった。この祭の始まりは、台尻を討ち取るための計策であった。

 天王社の祭の時、大隅守は一族を催し、船を飾って津嶋に押し渡って来た。十一党の船のうち十艘は津嶋にあり、大橋の船、一艘は一会村にあった。大橋の船が渡って来るのを合図と決めて、十艘の船が待ち受けていた。
                                              一会村=市江村=服部家ホンヤさんのことじゃないかな?


 大隅守はこの計略を知らず、一族を一艘の船に乗せて祭を見ていた。大橋が、頃合は良しと船を出して津嶋に来るのを見て、十艘の船も押し出した。前後から台尻の船を取り巻いて、鬨の声をあげて大隅守の船を討ち沈めた。大隅守の一族は残らず討たれ、水に溺れて死んだ者が多かった。

 宇佐美、宇津宮、開田、野々村は陸にいて、水を泳いで上がって来た者を討ち取った。そのために、この者らは祭の船は出していなかった。

 大矢部主税助は台尻の一味の者であったが、良王に内通し、台尻の船の幕を取って、船の中が見えるように支度した。その後、大矢部だけは命を助け、賞を賜って、天王拝殿の番に加えた。

 「後世に至るまで『ダンシリ討ち』と囃すように」との良王の命によって、毎年囃子が変わることは無い。

 台尻を討ったのは十四日の夜である。十一党の乗った船は、一類一党の者の他は乗船を堅く禁じ、他家の者を乗せる時は、四家七名字の者の装束を着せて乗せることになっている。これを、主達家と呼ぶ。

 良王自ら神主の家を継いで、天王社の境内に住んだ。四家は奴野の城を守り、宮中の守護である。七名字は社家供僧を往古から執行して来た。[一文、意味不明]。宇佐美、宇津宮、開田、野々村は、津嶋五ヶ村の町人、百姓、あるいは、他国から参詣に来た武士を改める役人である。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 15時10分39秒 ) パスワード

http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai12.html
浪合記12


尾張国海部郡門真庄津嶋社

 牛頭天王は欽明天皇の御宇、海部郡中嶋に光を現す。これを見れば、柳竹に白幣あり。神託に、「我は素盞烏尊なり。この所にましまして、日本の総鎮守と成るべし」という。そこで、社を建てて崇め奉る。最初に柳竹に現れて鎮座したので、柳竹のことを居守と呼ぶのであろう。素盞烏尊は天照大神の御弟で、武塔天神とも申し奉る。


 村上天皇の天暦二年戌申に勅使があり、社を建てたまう。今の柏森の地である。ある説では、中嶋郡の玉の村の大神神社と御同体という。後村上院建徳元年正月二十五日、正一位を授け、日本総社と号す。牛頭天王、八王子、一王子を、津嶋三所という。後亀山院弘和元年の冬、勅命を奉って、大橋三河守定省が造営したのが今の宮地である。

  左太彦宮(原注:今の弥五郎殿)

 武内大臣と平定経の二座である。定経は地主の神である。後村上院正平元年七月十三日、夢相によって、堀田弥五郎正泰(原注:後に従五位下に叙され、左衛門佐に任ぜられる)が崇め奉ったので、人々は願主の名によって、弥五郎殿と呼んだ。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 15時19分51秒 ) パスワード

津島神社の大橋家が平家の平貞能の系統で頼朝からの安堵状があったから足利幕府は手が出せなかったのか。
へぇ〜

子孫は三河にもいたのか。

川口氏は大橋の弟の家で家康の祖母の後夫。アカコッコさんのご先祖さま。



http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai13.html
浪合記13


奴野城

 大橋三河守定高が、正慶元年に初めて築く。その前には城は無かった。

 右大将頼朝卿から、大橋の先祖の肥後入道貞能に、隠退の領として、尾張國海部郡門真庄を永代下された。そのため、足利家が天下を治めたまうといえども、頼朝の下文のとおり大橋氏の領地となっている。定省の時、良王を津嶋に隠したが、京都からは何も言われなかったという。

 肥後守平貞能は、文治の頃から津嶋に住んでいた。その子、貞経は肥後國に住んだ。貞経の子、大橋貞康は三河国額田郡に来て住んだ。その場所は、大橋と呼ばれている。大河内、中根、大橋の三ヶ村は、隣郷である。

 尹良親王の娘、桜姫という姫君が大橋定省に嫁いで、男子を多数産んだ。修理亮貞元、三河守信吉らである。




川口宗勝





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川口 宗勝(かわぐち むねかつ、天文17年(1548年) - 慶長17年3月4日(1612年4月4日))は、戦国時代から江戸時代の前期にかけての武将。通称は久助。父は川口宗吉、母は小島信房の娘とも、織田信長の伯母とも。妻は福富直貞の娘。子に宗信、宗之、宗重、宗利、宗澄、宗政。

生涯[編集]

川口盛祐(文助、大橋定安の弟)は、一族の川口宗持の養子となり、大河内元綱の養女・於富の方(華陽院)を娶り、宗勝の父・宗吉が生まれた。この於富の方は、水野忠政に嫁ぎ徳川家康の生母・於大の方を産み、また家康の祖父・松平清康にも嫁いでいる。そのため宗勝と家康ははとこにあたる。

宗勝は、はじめ水野信元に仕え(『尾張志』)、永禄6年(1563年)には柴田勝家へ、翌永禄7年(1564年)には織田信長の直臣となり弓大将となる(『寛政重修諸家譜』)。また、永禄9年(1566年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いた時の野武士の中に宗勝の名が見える(『太閤記』)。本能寺の変ののちは織田信雄、豊臣秀吉に仕え、伊勢国尾張国内で18000石を領した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、宗勝は大坂城におり東軍に味方するつもりで中江直澄とともに出立したが、増田長盛・長束正家に留められたため心ならずもでは西軍に属した。安濃津城攻めなどに参加するが西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領を没収され身柄を伊達政宗に預けられる。のちに慶長11年(1606年)徳川秀忠に許されて、青菅(現・佐倉市)2500石を賜り旗本となった。

慶長17年(1612年)、青菅にて死去。以後、元禄11年(1698年)までの92年間、川口宗信(孫作)、川口宗次(久助)、川口宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行した。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 15時35分32秒 ) パスワード

名古屋の中川区に二女子とか四女子とか五女子とかいう地名があります。
平貞能の妻達とか娘達とかから付けられたとか。

中川区の荒子は前田利家の出身地です。



http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai14.html
浪合記14(終り)



 大橋家伝

 九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。

 頼朝は貞能を捜索した。尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。

 貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、父のことを祈ること数カ月に及んだ。その容色は、とてもただ人とは思われなかった。

 世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。

 この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

 貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。

 その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。



長享二年戌申九月十八日           
天文二年癸巳三月五日写之了不可及他見者也   ← こっちはヨソモノには見せるなと言ってるのでしょ?
正徳三年癸巳九月中旬写之者也        
平成十年戊寅四月十一日訳之了可及他見者也   ← これ、面白い!他のヒトにも読んでもらえ、って。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月19日 00時34分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南朝方の地盤と関係氏族の綾がよく見えてきました。じっくり理解したい
と思います。

 羽鳥庄を中心にして、市野氏、内藤氏、青山氏、小栗氏、秋鹿氏、関連し
て代官頭の伊奈氏がいます。
 これらの人々に関連して色々調べていましたところ、松島氏のミッシング
・リンクがおぼろげに見えてまいりました。

 本日は、遅くなりましたので、明日中には整理して記してみます――
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月19日 10時50分39秒 ) パスワード

レス40

吉野朝遺臣15党(4名家・7名字・4名姓)の15家の名字が出てると書いたのですが出てなかったですね。
ごめんなさい。

あとの4党は確か  赤堀と長野と藤原ともう1つだったような記憶ですが 4家の確実な名字は忘れました。
ごめんなさい。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月19日 11時05分11秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101567.html
スレッド81を立てました。

キリの良いところでどうぞ。
[56]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月23日 01時56分10秒 ) パスワード

 三つ柏様 あを様

 遅いレスですみません。
>府八幡宮の祭に関係していたH君の菩提寺が、例の永井氏の墓が20基
程あった「宝珠寺」であったことには、何か因縁があるのかなと感じました。
 
金龍山宝珠寺は長田重元が碧南に開いたお寺で、曹洞宗になります、明治まで檀家は
熊野神社(上之宮)と熊野大神社(下之宮)の2軒という寺です。
 http://www.sukima.com/23_chitawan01_02/27houjuji.html
  この下之宮が酒井氏(大舘)が隠居したところです
   徳阿弥さん長阿弥さん親子は大浜称名寺に逗留後
 下之宮に寄進してますので、家康先祖も多分南朝方でしょう。
35の @の「師重」は、尹良親王に仕え、吾妻郡青山に居住したことにより、
青山を名乗ります。波合(浪合)にて討死。その墓は波合の北山上にあると
いうことです。

 岡崎百々には、青山氏の弟清水氏が墓を守っている、分家筋の同級生は
皇族の血を引いた清水と青山弟の2系列があるが、、、、詳しくは判らん!と言ってました。

[57]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月23日 22時32分54秒 ) パスワード

箱柳永田さん


>家康先祖も多分南朝方でしょう

南朝方、キッパリ肯定でいいですよ〜


面白いですね。
我々日本人は脈々と先祖の血を引いていると更に実感します。


徳川氏は薩長にいくら否定されても南朝方だし
明治天皇を立てるのに北朝方でないとマズイし(明治天皇が正統は南朝だと言い出して伊藤博文を慌てさせた)
徳川家が南朝方というのも薩長にはしゃくに触る

南朝方グループというのはDNAで結束を感じます。
にっこり
あはは
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