[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月15日 00時57分21秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
土地に関する概念・制度の変遷は――
@大化の改新による「公地公民」の概念。
A大宝律令による「班田収授法」の施行。
これに反して――
B奈良時代の「三世一身法」。
C 〃 「墾田永年私財法」
これにより、「荘園」という名での土地の私有化が始まる。
そして平安時代――
「守護」・「地頭」、「国司」が地方・荘園を管理する。
鎌倉時代には――
守護・地頭の力が強くなり、庄園の略奪が始まる。
そして、戦国時代――
「戦国大名」の誕生。自らの武力で領土(土地・農民)を支配。
江戸時代になり、幕藩体制の封建国家が出来上がり――
土地は幕府の所有ということになる(建前)。実際は、金に困った場合、
証文取引で土地は流動した。
簡単にまとめるとこんなところでしょうか――
さて、「天領」ですが、それはどんな定義かというと――
@江戸時代の幕府直轄地
A明治以後の天皇直轄地(=旧幕府直轄地)
実際、全国の土地を支配するということはとても大変なことであったと
思います。
その考え方の基本としては――
@年貢(税)の徴収……領地(所有はあくまで幕府)を大名や旗本に与える
かわりに、年貢を納めろということ。
A警備(幕府に逆らう大名等の取り締まり)が必要。
であったと思います。
「天領」とは、幕府にとっての「砦」のようなものだったと思います。
それは――
@作物・物産・鉱物のよく採れる所で、まずは自前の物資の確保。
A交通の要所=軍事的な要所を抑えておく。
ということであったと推察いたします。
次回は、天領「善地」について述べてみます――
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月15日 02時27分11秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>「天領」とは、幕府にとっての「砦」のようなものだったと
いい視点ですね。
全くそのように思ったことが無かったわたくしというのは「天領」ではない処に住んでたからでしょうね。
昔で言うと「砦」とか「駅」とかですね。企業で言うと「出張所」。「出先」。
なるほど 有事の際に間に合いますものね。
馬や食糧やその他の物資がすぐに調達出来たわけです。
なるほどね〜
やっぱり「危機管理」が分かってない平和ボケの人だったんだな > ワタシ
[3] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月15日 09時26分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
不動産という、いわばお金で売買する商品のような概念・感覚は、江戸
時代まではなかったかと思われますが、お金を借り、土地(賃借権・耕作
権)をその質・担保に差し出すという形での認識……その証文は、「沽券」
と呼ばれていました。つまり、権利書・保証書の差入契約の意味合いであ
ると思います。
その言葉コケンは「男のコケンにかかわる」という風に使われます(よく
コカンと間違える方がいらっしゃいますが)。つまり「大事なもの→値打ち
→対面・面子」という意味で使われるようになったと思われます。
不動産業(賃貸)としてのハシリは、大家・店子間の長屋の賃貸であります。
町人・商人の金持ちが町人地を入手し(一度、沽券の文面を調べてみます。
売買なのか、質が質流れになるのかという点)、大家(管理者)を雇い、店子
に賃貸した。大家は世話役で店子の世話をよくしたようです。五人組という
制度をまとめたり、家賃を徴収したり、町内の秩序維持の役についたり、
よく落語のネタとしても出てまいります。
この五人組の制度がどういうものであったのかは、また別途考察したい
と思います。
さて、当地の善地についてですが、江戸の後期になるまで、ずっと天領
でありました。周りの村の多くが藩領だったり、旗本領だったりする中で
であります。こんな田舎村に何の値打ちがあろうとずっと思っていたので
すが、いろいろ調べてみる内に、意外な事実がわかってまいりました。
その事実とは、一体何か?……この点については、次回に述べたいと思
います――
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月15日 13時43分50秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「沽券」って
へぇ〜
元はそういう意味だったんですか。
知らなかったです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BD%E5%88%B8
沽券 (こけん) は江戸市中の町人地に関する売買契約書。沽券状とも。
町役人、五人組が立会いのもとで土地の売買が行われ契約書である沽券が作成されたので沽券は土地権利証としても機能した。契約書であるため土地の明細の他に売買代金も記載されたので土地の価値を証明するものとされ、これから転じて「沽券に関わる」という慣用句が生じた。当時火災が多発し家屋がしばしば消失したため沽券に家屋の情報は記載されなかった。 土地を担保にする場合も町役人、五人組が契約に立ち合い町役人が担保物件の沽券を完済まで預かった。 売買契約書であるため町割りから一度も売買が行われていない土地には沽券が存在しない、また江戸開府にまでさかのぼる地主は「草分け地主」とよばれた。
その他
土地や家屋などを売り渡す時の証文のこと。
沽券 こけん
「估券」とも書き,売券,沽却状ともいい,文書の形式から,避文 (さりぶみ) ,去状ともいう。土地,家屋,そのほか諸権利を売却するとき,売主の発行する証文。令制では,土地売買のとき,売主が沽券を出すのではなく,その地の下級支配者である郷長などが,上級の官司 (国郡司) に解文 (げぶみ) を提出して許可をとった。
こ‐けん【×沽券/×估券】
《「沽」は売る意》
1 土地・山林・家屋などの売り渡しの証文。沽却状。沽券状。
2 人の値うち。体面。品位。
3 売値。
「そんなら惣地代(そうぢだい)で―はいくら」〈滑・膝栗毛・二〉
【沽却】より
…売却すること。中世の土地売却証文は,一般にその冒頭を〈売渡〉〈沽却〉などの文言で書き出すので,〈売券〉〈沽券〉〈沽却状〉などという。平安時代から鎌倉時代前期には,むしろ沽券が一般的といえるが,以後しだいに売券に圧倒されていく。…
【売券】より
…不動産,主としてその上に設定された諸権利を売り渡すときに,売主から買主に渡される私的な証文をいう。中世では沽券(こけん),沽却状(こきやくじよう),近世では売渡状(うりわたしじよう),売渡証文などと称する。 奈良時代には,公田の売買は禁止され,墾田・園地・宅地の売買は許された。…
http://plaza.rakuten.co.jp/miyamaekomonjyo/diary/201101260000/?scid=we_blg_pc_lastctgy_2_title
昨年12月23日の、「みやまえ江戸古文書を読む会」のワンコイン古文書講座では、小林信也先生から 沽券状のことを聞きました。
沽券にかかわる という言葉もこれからきているとか、実際の文書を説明してもらいました。1月20日の 例会 「寺子屋」では、会員さんともう一度読み直して学習を深めました。その後、私のところに 12月の講座に参加して、20日には風邪・高熱で行けなかったけれど・・・と面白い情報を提供してくださる方がありました。それは
売り渡す側の沽券状と全く逆に、家屋敷を購入した側の返済方法などを書き留めた史料をお持ちとのこと。
さらに、家屋敷を購入したのが、大阪で開業している蘭医の緒方洪庵。
これが興味深いですね。
当時すでに現代に通じるローンの活用があったそうで、住宅を購入しようとする者が頭金を用意し、残りを銀行のローンで借りてボツボツ返済していくのと全く同じだそうです。
当時はこれを「家質(いえじち)」と いったそうです。
そんな言葉は初めてです。
おもしろいです。こんどその史料を 見せていただきます。ワクワクします。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月15日 14時00分13秒 ) | パスワード |
またもや瞬殺刑に遭ってしまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BA%BA%E7%B5%84_ (%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2)
日本史の五人組(ごにんぐみ)とは、江戸時代に領主の命令により組織された隣保制度。
武士の間にも軍事目的の五人組が作られたが、百姓・町人のものが一般的である。
五人与(ぐみ)・五人組合などとも呼ばれた。
制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。時代が流れ、1597年(慶長2年)豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した。
五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された。
実態は、逃散したりして潰れた家や実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため効果としては疑問がある。また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に町村の自治とりまとめを強化することには役立った。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組にその性格は受け継がれていた。
物凄くムカシっからあったのですねぇ。
古代中国では 9族に亘って処刑の対象になった というのは知ってたけど
日本も古代からこういう「連帯責任」という押し付けがあったのですか。
だから日本人には「(一族の)恥」という概念がいまだに根付いているのか。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月15日 14時01分26秒 ) | パスワード |
天領だった善地の存在意義って何だったのでしょう?
早く知りたいです。
[7] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月16日 00時23分52秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
天領「善地」に地理的価値があった――
@三ケ日の本坂峠から気賀を通って「池田」に行くには、「姫街道」を
通るのがオーソドックスな道であるが、そのバイパスとして「本通り」、
「中道」、「大道」を通った方が、時間を短縮できたという。ちょっと
地図で示されないのが残念です。
その中道と大道の交差する場所が善地であり、つまり交通の要所であ
った。
また、中道を北に行けば、宮口の庚申寺があり、古くから庚申信仰で
賑わっていた。
大道を北に向かえば、秋葉から水窪、飯田、高遠、諏訪へ至る道が続
いている。
A善地の東隣りの高薗村には、今川氏の「高薗城」があった。さらにそ
の東の天竜川の対岸には、やはり今川方の「匂坂城」があった。
徳川家康は1568年に遠江に侵攻して来るのですが、高薗城には、
浅原氏という今川家臣がいて、なかなかてごわい相手であったという。
そういった意味では、善地は軍事的な最前線でもあった。
つまり、@とAにより、善地にはそれなりの要員が置かれた可能性が
考えられます。
西の重要ポイントは、新居関所〜志都呂・大久保である。そこでは、服部
氏が関所奉行として、また大久保代官として警備を担当していた。
池田に近い市野宿あたりでも、服部氏の領地が挟むように広がっていた。
そう考えると、市野の北方、二俣の南、敵方の城(砦か館)のすぐ西とい
う場所に、警備要員・監視要員、情報収集要員を置いたとしても不思議では
ないと思われます。
それではそれは誰がふさわしいかというと、服部氏の一族が一番ふさわし
いということにならないだろうか……つまり、伊賀のネットワーク、裏の
ネットワークを共有できたと思われるからであります――
次回に続きます――
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月16日 10時27分08秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
そうだったのですが
善地は要衝だったのですか。
高遠・諏訪方向に行くにも便利
天竜川にも近い
今川氏にとって要衝として実績があった
へぇ〜
地理的なメリットがすっかり忘れ去られていたのですね。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月16日 10時35分46秒 ) | パスワード |
浅原氏には3流あって、 つまり 小笠原系浅原氏 ですね。
もう1つ別の方もなかなかスゴイ過去があります。笑
浅原氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F
浅原氏(あさはらし)
清和源氏(河内源氏の庶流甲斐源氏)の流れを汲む小笠原氏の庶流。
または、
同じ甲斐源氏の武田氏流奈古氏の一族。 コッチがスゴイ!呆
五味氏流の一族もあるという。
出自
1.
奈古氏流の浅原氏は、源清光の8男奈古義行の3男浅原行信を祖とし、
行信が甲斐国巨摩郡浅原郷(現在の南アルプス市浅原・旧中巨摩郡若草町)を領し、
地名を苗字にしたことに始まる。
現在の南アルプス市甲西地区東部・若草地区南部・中央市田富地区南西部を所領としていた。
2.
小笠原流の浅原氏は祖が不明。
戦国時代には武田信玄期の駿河侵攻において一族の動向が確認され、後に幕臣となっている。
歴史
1.
奈古氏流の浅原氏は、霜月騒動によって、所領を失い没落した。
浅原為頼は息子二人(浅原光頼・浅原為継)と共に強盗として全国を廻った。
そして、ついには指名手配書も出された。 スゴイ!
正応3年(1290年)3月9日夜、亀山法皇に依頼され、為頼と二人の息子は 内裏に侵入したが、伏見天皇の暗殺に失敗、為頼は討ち死にし、光頼と為継は自刃した(浅原事件)。
その後の奈古氏流浅原氏の動向は不明。
2.
小笠原流の浅原氏は、浅原安近が今川氏、武田氏、徳川氏などに仕え、後に幕臣となった。
コレですね
3.
五味氏流浅原氏は五味氏直の後裔五味与惣兵衛三男之直が、浅原を名乗ったのが始まりといわれている。
朝鮮出兵の際、小西行長に従い軍功があった。
家紋は、
奈古氏流浅原氏は、 十二本骨扇・日丸菊・丸に笹竜胆・丸に花菱等である。
小笠原流浅原氏は三本扇・十六葉菊・丸に日の丸扇である。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月16日 10時44分50秒 ) | パスワード |
浅原氏は三つ柏さんが高薗の長谷川氏についてお書きの時に出て来ましたね。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101531_64.html
<3>に出てますね。
以下コピペしておきます:
何で焼津あたりに長谷川氏がいたのか不思議に思っていました。
色々調べてみると、焼津港の西約2.5qの所に、また小川港がある。
ちょうど舞阪港と新居港の関係ににている。
後者は浜名湖の出口付近の東西の対岸に向かい合って存在している。
たぶん、これと同じように、
焼津港と小川港は大井川を挟んで向かい合っていたのではないかと推測いたします。
大井川の流れが今と昔は違っていた。
島田から焼津に向かって流れていた。
従って、小川港は海運・物流の重要拠点であった。
長谷川氏が大和より船で渡って小川港に来たという可能性も否定できない……。
そもそも長谷川氏を探究しているのは、私の住む善地の東隣の高薗に、長谷川一族がいて、調べたところ江戸時代に庄屋(大庄屋かもしれない。 沢山の庄屋の代表として、江戸に8年も交渉事で行っていたという。
その長谷川氏がどこから来たのかを探究している内に、いろいろな事が分かって来た―
@高薗の長谷川氏の祖は元亀年間あたりまでさかのぼるそうである。
ちょうど、それは家康が浜松城に入城した頃と重なる。
A高薗の覚園寺に長谷川一族の墓があるけれど、家紋は別として、朽ちかけた墓石に、藤原朝臣という文字が見えた。
長谷川氏の祖は藤原氏であるという。
B高薗には、高薗城という砦があり、浅原氏が今川臣として守っていた。
徳川家康の遠州侵攻とともに、徳川方に降った。
↑ココですね DEにも出てます
C一方、長谷川正長は、藤枝にある徳一色城を守っていたが、
永禄13年、武田軍の来襲により、西へ移動ながら武田軍の動静む窺っていながら、
一族二十余人、総勢三百余人は徳川領の遠江へ逃げて行った。
その後、正長、弟の政久らは徳川軍に組み入れられ、三方ヶ原の合戦において二人共壮絶な討死をした。
家康は、遺族・一族を手厚く扱ったという。
D高薗城にいて、徳川方に降った浅原氏はどうなったか情報が欠落しているが、島田の犬間城に浅原修理亮の名が見られる。
E高薗城を守っていた浅原氏と長谷川氏はともに今川の家臣であったので、
長谷川氏が武田軍に追われて遠江に逃げた時に頼ったのは、
高薗城の浅原氏一族の可能性が濃いと思います。
F従って、私は、現在高薗に在住している長谷川氏の祖は、長谷川正長だと強く思うようになっていました。
以上
[11] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月16日 11時02分57秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は、古本屋さんで古文書を仕入れました。その古文書は、1700年
代後半のもので、内容は「家屋敷」の売却を8両で取り決めたというもので
ありました。そして、5人組の組頭、庄屋が記名押印している。
8両が現在の価格でいくらになるか、1両の現代価格についてはいろいろ
な説がありますので、なんともいえませんが、仮に1両=10万円とすれば
80万円、1両=100万円とすれば800万円ということになります。
1両がいくらくらいの現代価格に相当するのか、権威のある資料がほしい
ものです。
この証文の文章は半分くらいしか解読していませんので、売買の理由につ
いて更に調べたいと思っています。ちなみに、記名捺印をしておりますが、
はんこの色は「墨色=黒」であります。古本屋の御主人が言うには、朱色は
朱印状のみに使われた、即ち将軍クラスの殿様のみが朱色の印を使用し、そ
の他の人が使えば首が飛んだということを教えてもらいました。
さて、善地が天領であったということは、徳川家康が遠州に侵出してから
という概念になります。家康は、磐田の中泉に御殿を造り、その隣に「中泉
代官所」を設け、まずは遠江、そして駿府、三河、さらに信濃、甲斐と次第
に領地を広げて行きます。
善地は当然中泉代官所の管轄、即ち家康の意思が色濃く反映され得る領地
でありました。
その中泉の初期の代官とは、伊奈氏、秋鹿氏、大草(永田)氏……いずれも
家康と親密な間柄の人達であった。
伊奈忠次については、その成り上がりに謎が多い。親が、三河一向一揆に
加担して家康から出奔。その後長篠合の戦いで功をなし復帰、その後、徳川
信康に仕え、信康自刃後にまた出奔し、堺に移ったという。
そして、あの本能寺の変後、堺からの神君伊賀越えに重要な役割を果たし
ている。当然、服部半蔵や伊賀忍者との関係はあったはずである。また後世、
あの服部一族とも関係する大久保長安とも代官頭として共に活躍している。
秋鹿氏は府八幡宮の神主で羽鳥庄の貴平を領していた。また、浅井氏とつ
ながることになる。浅井氏と忍者との関係はありそうだ。
大草氏は永田(長田)氏の養子で、当然は永井直勝と関係している。永井氏
も当然忍者を使っている。
つまり、表面的な歴史の記述の影に、ほとんどすべて忍者(裏情報組織)が
からんでいるとみていいのではないかと思います。もちろん、忍者といって
も、下忍、中忍、上忍等いろいろな立場がありますので、実際は誰がどのよ
うに動いていたのかはなかにかわかりません。また、黒装束=忍者だという
ことでもありません……。
次回に続きます――
[12] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月16日 11時14分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
レスが交差しました。
私の推理の精度はまだ50%位だと思っています。従って、あくまでも
推理による仮説ということであります。今後、更に時系列、動線、全体
の相関関係等、検証をしていきたいと思っています。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月16日 12時15分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「ハンコに朱肉使用」ということは「朱印状」になる、ということでしたか。
確かに首が飛びますね。
さすが古書店主。いろいろご存知ですね。
1両はざっとで約10万円ぐらいの換算で良いと思います。
戦後数年後のフツーの家の値段が80万円だったというのは聞いたことがあります。
新卒の月給が5000円あたりの時代です。笑
今は物価がすごく高くなっているので 東京だったらフツーの家は8000万円あたり でしょうね。
こういう換算というのは意味が無いのかもですね。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月16日 12時21分25秒 ) | パスワード |
伊奈忠次
この人は苦労人だったことを「知恵泉」で見ました。
一向一揆で家康に離反してた時に人足のような身分になって苦労して最下層の労働者の気持ちが分かるようになってて
土木系が得意で
徳川幕府の開墾などに非常に尽力して財政を安定させたと記憶しています。
ところが!
大久保長安とも繋がってたそうですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E5%BF%A0%E6%AC%A1
家康が江戸に移封された後は関東代官頭として<<<大久保長安>>>、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。
関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。
以下にコピペします:
伊奈 忠次(いな ただつぐ)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵国小室藩初代藩主。
生涯
三河国幡豆郡小島城(現在の愛知県西尾市小島町)主・伊奈忠家の嫡男(忠家の父・忠基の末子との説もあり)に生まれる。永禄6年(1563年)に父・忠家が三河一向一揆に加わるなどして徳川家康の下を出奔。天正3年(1575年)の長篠の戦いに陣借りをして従軍して功を立て、漸く帰参することができた。家康の嫡男・信康の家臣として父と共に付けられたものの、信康が武田氏との内通の罪により自刃させられると再び出奔し、和泉国・堺に在した。
天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父・忠家の旧領・小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後に吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。
家康が江戸に移封された後は関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。
慶長15年(1610年)、61歳で死去、遺領と代官職は嫡男・忠政が継いだ。
功績
武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)及び鴻巣において1万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈屋敷跡がある。
諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたという。伊奈町は忠次が町名の由来である。次男・忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となっている。
伊奈町音頭は「ハァ〜伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出される。
[15] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月16日 15時04分45秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
戦国時代から江戸時代においては、忍者(間諜といった方がいいかも知れ
ません)が一杯……というか、情報収集をいたるところで行っていたと考え
たほうがいい。この時代の常識は、いわば「スパイが一杯」ということにな
る。常に戦いありの世界、平和な現代の常識は通じない。
伊奈氏で思い出したのは、江戸深川の芭蕉庵のことであります。ちょうど
下記サイトが伊奈氏のことをうまく説明してくれています――
http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2009/06/post-b0db.html
「光田和伸さんの『芭蕉めざめる』から、覚えとして。
芭蕉が小田原町より深川に隠棲したのは延宝八年(1680)冬。だから
この頃の芭蕉と書信のやりとりをしていた人の書付を見れば芭蕉庵の場所は
特定できる。なにしろ、宛名を書いて飛脚に持たせれば芭蕉にその手紙が届
いたのだからこれほどはっきりした証拠もないのでありますね。
さいわいそういう書付をちゃんと残していた人がおりました。尾張国鳴海
の下里寂照という造り酒屋の主人ですが、この人俳号を知足といいまして、
蕉門の弟子として芭蕉と手紙のやりとりを、何度もしておりました。それに
よると、芭蕉庵の場所は「深川元番所森田惣左衛門殿屋敷内」というところ
にあったことが確かめられる。
この元番所というのは、もちろん元々ここには番所がありましたよという
意味ですが、どんな番所があったかというと、これは南の河口から隅田川を
遡って府内に上ってくる船を改める船番所という幕府の役所があったのです
ね。いまで言えば水上警察署てなもんでしょうか。そして、江戸の古地図と
いうのは各年代でわりとよくのこっていますので、この当時、すなわち芭蕉
さんが三十七歳、延宝八年の古地図を引っ張り出してくれば、この元番所の
持ち主が誰であるかはすぐにわかる。
延宝八年の江戸地図には深川元番所の場所には伊奈半十郎と書かれてあり
ます。伊奈半十郎とは誰か。これは関東代官頭の伊奈家の当主が代々名乗る
名前である。この当時の伊奈家の当主は四代目伊奈半十郎忠篤。(正確には
この年九月に三代目忠常から家督をゆずりうけたばかり)
芭蕉さんはどうもこの伊奈関東代官頭の屋敷―ということは当時のことで
すから、私邸であると同時に、配下の家来の長屋もあるような広大な敷地を
意味しますが―のなかの森田惣左衛門という武士の長屋か何かにいたことに
なります。つまり、芭蕉庵の実態は、風流な川魚問屋の番小屋などではなく
て、もと治安警察の跡地に館を構える公儀の大物の敷地内の長屋住まいであ
ったのだというのでありますね。
ではこの関東郡代伊奈家というのがいかなる一族であるかというのが問題
になるが、これは河川土木の専門家であった。尭舜の故事をひくまでもなく、
古来、河川の流れをコントロールすることは、国を治める根本であります。
戦国時代には、治水や築城などの高度な大規模土木を専門分野とする武家
集団が三つあった。
ひとつは武田信玄の霞堤などの築堤技術。
二つ目は熊本城などの加藤清正の築城技術。
そして、もうひとつは、これは芭蕉とも縁の深い藤堂高虎の土木技術。
伊奈代官家はこれよりあとの新興の土木関係の勢力であります。
ご承知のように家康も、関東平野の治水にはこころをくばりました。利根
川の東遷、荒川の西遷というつけかえ工事により、関東平野の河の流路を定
め、沼沢地を新田にかえて米の増産をはかり、また水の悪い市中に神田上水
を引き入れて人口の増大をはかった。そのときに頼りにされたのがほかなら
ぬ伊奈一族の長、伊奈忠治という腹心の部下であった。
この伊奈代官家は、家禄四千石と大名たちに比べればたいしたことないが、
これには裏があって、伊奈家は河川工事で開発した新田で得られるようにな
った石高の一割を収入にできた。実質の実入りは三万石はくだらなかった。
しかし、家禄はあくまで四千石であるから、出費はいたって少ない。大名
ほどのインカムがありながら、大名のような威儀を維持する必要経費がない。
ということは、ここに金がどんどんたまるわけであります。もちろんこうい
う仕組みは幕府の公認のものであります。こういう一種の裏金を自由に使え
て、しかも神君家康公以来代々の腹心の家がどういう役割を担うかといえば、
誰がどう考えても、答えはひとつしかない。公然と表立っては出来ないイン
テリジェンス専門の仕事であろうと、これはきまっている。
なお関東代官家は勘定奉行の支配であるから本来は幕閣からは遠いはずで
あるが、蛇の道はヘビであります。実は伊奈関東郡代は、幕府の文書、資料
をつかさどる奥祐筆関係の職務を兼任する慣例で、この職分で老中とも勘定
奉行の頭越しに面会ができのだそうな。ああ、こりゃやっぱりスパイの家だ
わ。」
伊奈忠次の尻尾が見えて来ました――
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月16日 22時44分54秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>伊奈忠次の尻尾が見えて来ました
はい。
ホントに時代は情報戦の日々だったのですねぇ。
土木が得意だったということは下層の労働者の話から諸国の内情も分かろうというものだったのでしょうね。
表石高4000で実情3万。
裏金が物凄いですね。
自由になるお金がいっぱいでユトリがあったでしょうね、
と思いましたが
このお金で スパイ業の資金を捻出していた のかもですね。
ということはあくまで秘密裡に働くのだから表立って幕府からは4000石しか貰えず
あとの経費は自分で何とかしろということだったのかも。
コレはツライわ。
いやぁ・・・
生きて行くって、どっちにしろ、大変なことだったんですねぇ。
4000石幕府からもらっても その内百姓の取り分が60%あたりだったでしょうから
実高3万石 可処分所得は1万石チョイだったのかも ですね。
ここから大勢の手下を雇って食わせて旅費なんかも捻出しなきゃいけなかったのでしょうから
やっぱり江戸時代ってどの家も財政が逼迫してたんでしょうね。
で、幕末にいくほど経済破綻が進んで情報収集をちゃんとやってなかったから幕末に島津や毛利に逆転されたのかもですね。
島津なんか密貿易で潤ってたそうですから。
その一方、毛利はどうやって錬金してたんでしょうね。
[17] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月17日 01時10分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
密貿易の利益は莫大だったのでしょうね。
江戸時代の正規の朱印船貿易でも、仕入れ額の倍近く儲かった(百パーセン
ト利益)ということですから、リスクはあったがうまい話であった。その中に
島津家も入っていた。有馬、松浦、加藤、細川家なども朱印船船主となっている。商人としては、茶屋四郎次郎、角倉了以、末松孫左衛門、亀谷栄任等。
もちろん、家康は総合的にこれで莫大な利益を上げていたでありましょう。
さて、家康が遠江に侵出をはかり、今川家臣がオセロゲームで黒から白に
変わるように、徳川方へ寝返っていく現象がありました。これを今川氏真は、
「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼んでおります。忩劇とは「非常にあ
わただしいこと」「忙しくて落ち着かないこと」の意味だそうです。
ここの部分を詳細に理解したいと思っています。即ち、高薗城の浅原氏も
結局は寝返ってしまうわけであります。そんなに簡単に人は変わらないと思
うのですが、そこには見えない何かがはたらいていたと思います。いわゆる
情報作戦、説得工作のようなもの……。ここを把握したいと思っています。
遠州忩劇も5年か10年位の期間だと思います。
それにしても――
1560年:今川義元死す。
1573年:武田信玄死す。
1582年:織田信長死す。
この20年余りの間に、巨星が相次いで死んでしまう。この裏には、忍者
がからんでいるのではないか?。実行したのは服部&伊賀忍者部隊であろう
か? 史実の裏には、底なしの謎=陰謀が秘められているように感じるのは
私だけでありましょうか?――
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 03時31分44秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>密貿易の利益は莫大だったのでしょうね。
現代で言うと ma や ku の密輸入みたいに「全部」儲けになってたのでしょうね。
アメリカ本土へはメキシコから、3mほどの?垂直の壁をよじ登って、背中のリュックサックに一杯詰めて、持ち込んで来ます。
万里の長城並みの壁なんて無駄!意味無い!
熊本城みたいに武者返しの勾配の壁でなきゃ身体能力の高い若者には簡単に登れるようです。
ムカシ日本が中国に朝貢してた時、持って行った物の10倍の価値のあるお土産を貰って帰って来た、と聞きました。
10倍返しですね。
中国も内戦があったりして力が衰え日本も危険を冒してまで朝貢してもなぁ、ということがあって衰えたりもしたそうです。
その後、寺社が朝貢してお土産をたっぷり貰って帰って来た、と聞きました。
更にその後は有力大名が貿易をしたのでしょうね。
というように大陸との貿易も変遷があったそうです。
朱印船でなく密貿易なら儲けは全部自分のモノですから儲かりに儲かったでしょうね。
バレたら大変だったんでしょうけど御禁制の品の取り扱いは魅力だったでしょうね。
九州の大名はラッキーでした。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 03時45分42秒 ) | パスワード |
「忩」という字、初めて目にしました。
ありがとうございました。
「忩」
読み方:イソギ(isogi)
急ぎ。
音読み:ソウ
訓読み:にわか、 あわてる
よくない事が起きたり起こしたりしそうな危険な感じがすること。また、そのさま。
物忩=物騒
@もの騒がしいこと。落ち着かないこと。
A危険なこと。
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-c4b4.html
漢字の成り立ち 忩・悤
『忩・悤(ソウ)』congという漢字の『単語家族』について説明します。
基本になる漢字は『忩』です。
音読みは『ソウ』、意味は『まど』、『あわてる』、『まとめる』です。
忩(悤)、窓(窻)、総(總)、聡(聰)などがこの漢字の『単語家族』です。
正字は悤ですが、省略形の忩が多く使われます。
あら、ソウだったの?笑
『悤(ソウ・まど)』congの原字は『囱(ソウ・まど)』で、もとを糺(ただ)すと『匆(ソウ・まど)』cong http://bit.ly/1VI133l と同じになります。なので、忩、窓、総、聡(ソウ)の『単語家族』と匆、怱、惣、葱(ソウ)の『単語家族』とは兄弟関係にあります。
『忩・悤(ソウ)』congは、窓に空気がまとめて通る様子・あわてる様子を表す形声文字です。漢字の足し算では、囱(まど)+心(心の動き)=忩・悤(窓に空気がまとめて通る。窓。まど)です。漢字の部首は『心・こころ』、漢字の意味は『悤(まど)』、『あわてる』です。
漢字の部首としては『まとめる』、『突き抜ける』などの意味があります。ほぼ同じ漢字に怱(ソウ)http://bit.ly/1VI133l があります。
音読みは呉音が『ス』、漢音が『ソウ』です。『忩・悤(ソウ)』を単独で使うことはありませんが、窓(窻)、総(總)、聡(聰)の漢字の一部になっています。
以下略
漢字って面白いですね。
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 03時57分32秒 ) | パスワード |
>高薗城の浅原氏も結局は寝返ってしまうわけであります。
しょうがないですよね。
守ってくれる大将がいなくなっては滅びるより他ない時代背景ですものね。
戦国時代に生まれなくてホントにラッキーです。
>実行したのは服部&伊賀忍者部隊であろうか?
だから 今川義元討ち死にの裏に 服部小平太が2人も存在する のかもですね。
>史実の裏には、底なしの謎=陰謀が秘められているように感じるのは私だけでありましょうか?――
こちらの犠牲を最小にして相手の損害を最大にするのが最良の策ですものね
陰謀が1番だったんでしょうね。
やっぱり日本中に「草」というか秘密の味方を派遣してたんでしょうね。
信長にしてみれば一向一揆を叩くのに遠交近攻で島津を味方にしたかったのかもですね。
ま、今は「陰謀戦」じゃなくて「外交戦」の時代ですね。
いかに笑顔で解決するか。
我々個人のレベルでは「友達」をたくさん持つことでしょうね。
つくづくいろいろな分野の友達を持ちたいものです。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 04時04分07秒 ) | パスワード |
古代に詳しい友人から八咫烏についての情報:ところどころ理解出来ない部分がありますがアップ。
八咫烏族は,古くは紀氏,賀茂氏。
ただ,賀茂氏については,新撰姓氏録に記録してありますが,平安初期ですから,賀茂氏は違うと言う説もあります。
源平時代は,熊野湛増です。
熊野湛増は,弁慶の父説もありますけど,平安時代,僧侶は特権階級で,税金等の免除がありましたので,国には僧籍簿と言うものがあり,僧侶の免許状度牒を全国の僧に与えられました。
ところが,弁慶の時代の僧籍簿に,弁慶の名がない。
僧兵も一応僧侶ですから,度牒が与えられ,僧籍簿に乗りました。
それで,弁慶はいなかったと言う説が強いのですけど,弁慶は熊野湛増の子孫で,紀伊田辺で生まれたことになっています。
それと,伊予の河野水軍です。
熊野湛増が本家で,河野家は分家と言われています。
河野が,尊王意識の強かったのは,八咫烏族の子孫だったからと言う説もあります。
初めて聞いた見た。
戦国時代では,有名な雑賀孫一と九鬼義隆あたりになります。
雑賀の旗印は,八咫烏でした。
最も,雑賀や九鬼あたりになると,大変怪しいと思います。
日本書紀や古事記では,八咫烏が神武を先導して,橿原に連れて行ったことにな
っていますけど,これは私は大嘘だと思います。
まず,熊野に行くには,黒潮本流を潮岬あたりで抜ける必要があります。
古代船にできたか疑問です。
若し抜けれなければ,銚子沖まで黒潮本流にもっていかれます。
まあ,神武が江戸で即位したならわかりますけどね。(笑)
因みに三輪は,逆賊で出雲出身の豪族です。
三輪なんかは,大国主の直系の子孫とも言われています。
尾張氏も,逆賊で出雲系の豪族です。
しかも,ナガスネヒコを破った,神武が山の中通ると思えません。私は,紀ノ川を遡行して,吉野川に出て,五條市に柏原と言う地名がかってあったようですけど,そこで即位したのだと思います。
神武を祭る,橿原神宮の横にある畝傍山を,古代はご神火と呼んでいました。
ご神火は,現代用語では活火山の意味です。
活火山の麓に,宮殿を作る馬鹿もいないでしょう。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 04時05分28秒 ) | パスワード |
2
九州で南北朝時代孤立無援で頑張った菊池氏について書きます。
この菊池氏ですけど,
魏志倭人伝の狗奴国の家来のキクチヒコ(ククチヒコと言う説もあります。)の子孫だと言われています。
狗奴国の王ヒミククヒコと言う男子の王がいます。
卑弥呼と戦争をしていた王ですけど,
このヒミククヒコが,東遷して神武になったと言われています。
その時,キクチヒコ一族は,神武に付き従った者と地元に残ったものがいて,地元に残った家が,菊池氏になったと言われています。
菊池川と言う川がありますけど,この川,キクチヒコの川と言うような意味で,菊池川周辺がキクチヒコの本拠地だったと言われます。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 04時09分53秒 ) | パスワード |
3
魏志倭人伝のキクチヒコ(ククチヒコ)ですけど,
菊池盆地を古代はククチとも言ったそうです。
卑弥呼ですけど,今の日田にいたと言う説もあります。
日田から,魏の鉄の鏡が出ているからです,
日本には,鉄の鏡はなく,鉄の鏡は中国では,皇帝の持ち物だったそうです。
皇帝が,臣下に下賜をすることもあったそうで,
今のところ,鉄の鏡が出ているのは,日本でも日田だけです。
それで,魏の皇帝は,卑弥呼に対して,お前の忠誠心はよくわかったと言っていますので,特別な鉄の鏡を下賜したのではないかと言われています。
魏志倭人伝には,鏡を百枚下賜したと書かれていますが,材質は書かれていません。
三角縁神獣鏡ですけど,これ天理にある,黒塚古墳から一気に250枚出土しました。
黒塚古墳から,大量に見つかるまでは,全部で100枚程度でしたので,中国産の鏡と言われていましたが,一気に250枚も出てきたら,中国産でなく国産の鏡が三角縁神獣鏡だろうと言われています。
漢代には,青銅,鉄,銀の鏡があったようです。
鉄と銀製が,皇帝用だったようです。
日田が邪馬台国だとしたら,菊池盆地にあった狗奴国と邪馬台国は,大変近いので戦争状態であっても不思議でありませんし,
今の天皇家は,九州から移動してきたのは間違いないですから,もし,ヒミククヒコが神武で,キクチヒコが重臣だったとしたら,尊王意識を菊池氏が持っていた可能性があります。
まあ,菊池氏は,刀伊の入寇を撃退した大宰府権の卒藤原隆家の子孫説もありますが,
最近は,菊池氏は隆家が来る前からあったと言う説が強くなってきているそうです。
____________________________
菊池氏
南北朝時代を記した太平記は正平一統のところまでくるとダレてきますけど、
ワンサイドゲームになったところで盛り返すのが九州菊池一族でした。
そして菊池一族によって九州から追い出された足利直冬(尊氏の庶子)が、
京都に戻ってきて南朝に加わり幕府を脅かすなど、
菊池一族の存在はなかなか重要でしたねぇ。
もちろん太平記ではほとんど九州戦線のことを触れていません。
しかし一時的に九州を南朝支配下に置いたといっても、
結局は武力だけでの鎮圧ですから形勢が変われば菊池氏以外寝返る恐れがあり、
今川了俊の登場でそれまで渋々南朝についていた大友や島津が北朝に戻っています。
菊池武光としては、どのようにして九州を制圧すればよかったんだろう…
やはり個別撃破で大友や島津を……といったところでしょうけど、
実際にそれほどの大物を叩くのは不可能だったのに違いない。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 04時18分03秒 ) | パスワード |
4
浦島太郎は,おとぎ話では日本最古で,出自もしっかりしています。
日本書紀に,伊根の住民の浦の嶋子が,海岸に出たら迷子の若い娘がいた。
それで,この若い娘を送るために,船で10日間航海しました。
古代船は,1日60km航海できましたので,10日間で600kmです。伊根から600kmだと青森か北海道の松前あたりに行けます。
青森市に浦島と言う町があるそうですけど,この町,浦島太郎が移住してきて毎日釣りをしていたので,浦島と言うと言う江戸時代の記録があります。
伊根から600km圏内ですから,ここが竜宮城だったと言う記録がありますが
日本書紀では,詳しくは別巻を読めと書いてありますが,現代に伝わっている日本書紀には,別巻はありません。
それで,別巻にあったのかもしれませんが,
日本書紀には,乙姫様も亀さんも竜宮城も玉手箱もありません。
ですので,これらは後年,誰かがくわえたものだと思います。
ただ,日本書紀の不思議なところは,正史になんで伊根の住民の浦の嶋子が,若い女性を10日間かけて航海して,多分家だと思いますけど,送ったのかが書いてありません。
何らかの歴史的事実があり,それは大和朝廷に都合の悪いことだったと私は想像していますがね。
古代史に,浦島太郎専門の研究分野があるそうです。浦島太郎の歴史的背景を探る学会らしいですけど。
伊根について
伊根ですけど,ここ邪馬台国の重要な比定地の一つです。
と言うより,
丹後半島から舞鶴にかけて,邪馬台国があったとも言われています。
宮津と伊根の真ん中位,天橋立の麓に文殊院と言うお寺と言うか神社があります。
日本では珍しい,神仏混合の宗教施設です。
大体が,明治の廃仏毀釈で分けられたのですけど。
文殊院に知恵の輪と言う輪っかがあります。知恵の輪をくぐると,頭良くなると言う伝説があります。
文殊と言う知恵の神様は,この文殊院が発祥のようですけど,
ここ伊勢神宮の元である,元伊勢神宮の一つです。
大江山の麓に,元伊勢神宮と言う神社ありますけど,ここも伊勢神宮と同じように,内宮と外宮があります。
しかも,内宮は天照大神,外宮は豊受神を祭っています。
豊受は,天照が伊勢神宮に鎮座したとき,垂仁天皇に
「一人寝が寂しいのと,食い物がまずいから,丹後の元伊勢神宮から,元伊勢神宮から豊受神を呼んでくれ。そうしたら,お前を守ってやる。」
と言って夢枕に立ったので,垂仁天皇が伊瀬神宮に呼んだと日本書紀に書いてあります。
ただ一人寝の件ですけど,女神と女神ですから,天照と豊受は,レズの関係だったわけで。(笑)
伊根ですけど,
ここは伊根の船宿が有名です,
民家の一階部分に,海水を引き込み,船の係留施設を持っている民家です。
伊根ですけど,
浦島太郎伝説もありますけど,ここ徐福が秦の始皇帝の圧政から逃れるために,童男,童女3,000名を引き連れて秦を逃れたと,司馬遷の史記に書いてありますけど,
徐福が伊根に着いて,ここに入植したと言う,徐福伝説もある場所です。
邪馬台国の有力比定地は,
北九州,
大和,
出雲,
それに丹後の順です。
その中で,36か所元伊勢神宮と言われる神社のあるのは,丹後だけですので,
私は伊根あたりに邪馬台国はあった
と思います。
しかも,出雲は東北地方まで進出していたと言う文献があります。
だから,浦嶋子の話は,出雲の東北進出の話でないかと思います。
以上
へぇ〜
「伊根」が日本史上かなり重要な場所だとは(なんとなく)分かっていましたが
ここまで重要な場所だったというのは気付いてませんでした。
[25] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月17日 09時49分35秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様の直感は、家康の本質の謎に迫っています。つまり、キーワード
は「八咫烏」であります。
大局的にとらえると、家康は鴨氏の血が流れ、八咫烏の勢力から同族的
支援を全面的に受け、天下をとることができた……?
しからば、八咫烏とは何かということになりますが、物部氏でもあり、
秦氏でもあり……(ここは、飛鳥昭雄氏の得意分野であります)。
中途半端な論及は過ちの元ですのでやめておきますが、賀茂氏も湛増も、
河野水軍も菊池氏も、狗奴国も、浦島も伊根も天照大神も豊受神も、三輪
氏も尾張氏も、長髄彦も何らかでつながっているのだと思います。
最終的には、「海人族」というキーワードでくくられる。
しからば、「海人族」とは何か――ということになります。
そこからは、世界史の世界にガラッとかわります――
ムー、シュメール、イスラエル、呉、高句麗、百済、新羅……。
国内にスタンスを置くか、国外にスタンスを置くかで、歴史の表現は
ガラッとかわってしまいます。
国内の歴史は、コップの中の論争なのかも知れませんね――
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 12時41分59秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>国内の歴史は、コップの中の論争なのかも知れませんね
はい。
日本の歴史など世界史の中では ほんの最近 の扱いですね。
それが謎だらけ・・・
結局 消された過去 が回復されてないからですね。
でも少しずつ チラッ と見え隠れはしてるんですが。
太安万侶は実際はいろいろ知ってはいたけれど権力者を恐れてナゾナゾの形で後世に伝え残しているんでしょうか?
太安万侶の墓発見のエピソード:
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c12/
太安万侶墓
奈良市此瀬町
見学自由
1979年1月。竹西英夫さんは茶畑の斜面で鍬を振り下ろしていた。在来種に比べて品質にばらつきのない品種「やぶきた」に植え替えるため、茶樹の根っこを鍬で1本1本、引き抜いていた。急坂のため重機は持ち込めない。深さ1mに及ぶ直根を手作業で取り除いていく。真冬にも関わらず、額に汗がにじむ。
ふいに手を止めた。掘り起こした先から、黒い物がひとかけら。「炭か?」。腐っておらず、きれいだった。「ここは炭焼きをした跡かもしれない。炭なら使える」。そう思い、家に持ち帰った。
後日も、竹西さんは炭を拾い集めた。そのうち、奥行き40pほどの穴がぽっかり口をあけた。白い灰が見え、その中に、数センチほどの小さな骨が一つ、混ざっている。灰の下からはさらに箱の底板も出てきた。ひっくり返すと、文字が書いてある。「…太朝臣…」とだけ、かろうじて読めた。「子どもの墓が出てきたで。“たちょーしん”って書いてあるわ!」。そう家族に話した。 「ここには、これからもお茶を植えてかなあかんし…。お寺さんに供養してもらおか」と住職の元を訪ねるが、所用のため聞き届けられず。竹西さんは、拾った骨を菓子箱に入れて、そのまま持っておくことにした。
そうこうするうち、近所に住む郷土史の愛好家・川端茂男さんにこの話をしたところ、骨が出た現地を見に来てくれることに。その場ではすぐにわからなかったが、後日、川端さんは興奮しながら言った。「やすまろさんや! 孫の教科書を見てたら、亡くなった年号と文字が一致したんや」。
古事記を編纂した、あの太安万侶? だとしたら、実在したことを立証する、とんでもない大発見である。
竹西さんは、近所に住んでいた、当時奈良市の職員であった川尻タケノさんを通して、市の教育委員会に連絡してもらうことにした。しかし、担当者は戸惑ったという。そのころは、市教委あてに「遺跡が出た」という通報が相次いだ時期。さらには、「太安万侶は伝説上の人物で、実在しなかった」という説も一部ささやかれていた。それら当時の事情を考えると、担当者が躊躇したのもわからなくはない。
そこで川尻さんは奈良県文化財保存課に連絡を取る。対応したのは7年前、高松塚古墳の発掘にも携わった岡崎氏。竹西さんの掘り出した、「…太朝臣…」の文字が書かれた板、つまり「墓誌」を見るなり、言い放った。「これは竹西さん、えらいことや。高松塚以上の騒ぎになりますよ!」。
早速、県立橿原考古学研究所の当時の所長・末永雅雄氏の指揮の下、現場での発掘作業が進められ、1月23日、奈良県庁にて記者発表が行われた。このニュースは、新聞各紙が翌24日の朝刊で一斉に取り上げ、考古学史上まれにみる大発見として、日本中を駆け巡る。のどかな茶畑が広がる田原の上空には新聞社のヘリコプターが数機飛び交い、竹西さんのところへは取材陣が詰め掛けた。「とにかく、びっくりしてもうて…。ひと月ほど取材が続いて、仕事は何もできやしまへんでした」。そのときのことを竹西さんは今でもはっきり覚えている。
ここでふと、考える。竹西さんが、鍬ではなく機械で改植作業をしていたら? 炭や骨の存在に気づいていなかったら? 歴史好きな川端さんや、関係機関への連絡手段を持つ川尻さんが近所に住んでいなかったら?…。このどれか一つでも欠けていたら、墓誌は世に出てこなかったかもしれない。振り返れば、いくつもの偶然が重なり合い、大発見につながっている。
1979年1月当時61歳だった竹西さんも、今は(5年前?)93歳だ。かくしゃくとしていて、何より餅が好物だとか。「お餅だったら何個でも。正月だけでなく、普段から食べてます(笑)」。
1300年の歴史を掘り当てた御仁が、ふくよかな笑みを浮かべる。
以上
[27] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月17日 21時47分56秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
太安万侶の墓の件、今まで知りませんでした。知っていたとしても完璧
に忘却していました。教えていただき、ありがとうございます。摂津高槻
で知った中臣(藤原)鎌足の墓と同じ位の驚きです。もっとも、鎌足の方は
ある程度立派な古墳でありましたが。
あを様の直感は素晴らしい。何故ここで太安万侶の話を?と思いました。
古事記の創出にかかわった人ということ……。
ちなみに、大加茂真也氏の『八咫烏の超日本史』を見ますと、太安万侶
についての驚きの記述がありました――
「つまり、『古事記』を実際に筆録した太安万侶自身が、八咫烏の系譜、
しかも壬申の乱の天武方の中心人物の系譜(子)だったという事である。
遅れて渡来した藤原氏には、歴史を改竄しようにも、その元となるも
のが全くなかったものと思われる。そこで、自らは厳しく中身を検定し
ながらも、天武系の人間に『古事記』を書かせざるを得なかったものと
思われる。
このような事情を知ると、『記紀』は藤原氏の厳しい監視と検定の中、
まさに命がけで後世にに真実を伝える努力(暗号とも思える記述)をした
であろうという事が容易に想像できる。」
太安万侶は、八咫烏の系譜だったというのです……!
さらに、稗田阿礼についてWEBで調べてみますと、「知恵袋」において
「稗田阿礼は柿本人麻呂であった」という、驚きの記述に出会いました――
少しは古代の勉強をしたつもりでしたが、全く無知な自分に驚きです!
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月17日 22時44分54秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>何故ここで太安万侶の話を?と思いました。
あはは
わたくしも八咫烏だからでしょうか?
笑
>「稗田阿礼は柿本人麻呂であった」
驚きです。
謎が謎呼ぶ、ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%97%E7%94%B0%E9%98%BF%E7%A4%BC
稗田 阿礼 (ひえだ の あれ、生没年不詳(7世紀後半から8世紀初頭))
飛鳥時代から奈良時代にかけての人物。『古事記』の編纂者の1人として知られる。
稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっていない。同時代の『日本書紀』にもこの時代の事を記した『続日本紀』にも記載はない。『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦する[1]ところを筆録し、『古事記』を編んだ。
時有舎人。姓稗田ヽ名阿礼ヽ年是二十八。為人聡明ヽ度目誦口ヽ払耳勒心。即ヽ勅語阿礼ヽ令誦習帝皇日継及先代旧辞。(『古事記』序)
訳:そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。
異説[編集]
通常「舎人」といえば男性だが、江戸時代に「稗田阿礼は女性である」とする説が提起された。民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱らも同説を唱えた。その根拠として、稗田氏はアメノウズメを始祖とする猿女君と同族であり、猿女君は巫女や女孺として朝廷に仕える一族で、「アレ」は巫女の呼称である、ということがある。
近年、梅原猛が『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている。また、阿礼を中臣磐余の孫とする系図もある[2]。
賣太神社(奈良県大和郡山市稗田町) - 稗田阿禮命(稗田阿礼)を主斎神とする。付近が猿女君稗田一族の居住地だったため、阿礼の出身地とされる。
稗田神社(兵庫県揖保郡太子町) - 阿礼比売命(稗田阿礼)を祭神とする。
飛騨せせらぎ街道 - 道中に「稗田阿礼生誕の地」との看板が立てられている。
1.^ 声を出してよむこと。
2.^ 宝賀寿男編著『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月18日 03時22分29秒 ) | パスワード |
Q稗田阿礼とは何者か?
稗田さんという名字の方が実際にいらっしゃるので大変失礼ですが
A−1
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1137467031
以下部分のコピペ:
稗田阿礼を本名ではなく隠語のようなものと考えると、色々想像できます。
稗田は直訳すると「わずかな田=少ない所領」。
阿礼は「だれかさん」という程度の意味にも使われる言葉なのです。
ここで「稗田」姓について
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A8%97%E7%94%B0
【名字】稗田
【読み】ひえだ,ひのだ,ひだ,ひきだ,ひえた,はいた
【全国順位】 2,047位
【全国人数】 およそ7,500人
現奈良県である大和国添上郡稗田村が起源(ルーツ)である、猿女君の子孫。
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)長家流(現栃木県である下野)などにみられる。
では知恵袋より全文コピペ
A-1
仮説は沢山あるようですが、古事記序文を素直に読めば「時有舎人。姓稗田ヽ名阿礼ヽ年是二十八。」ですので、姓は「稗田」ということになります。
姓を「かばね」ではなく「うじ」と読むとすると(そうしている例があるのかは知りませんが)、舎人程度の下級役人には八色の姓があてはめられていませんので、姓無しか、あっても昔の百八十部あたりの姓であり記載すべきでないと判断されたか、でしょう。
28才については暴論なら(笑)
余談ですので遊びのつもりで読んでください。
稗田阿礼を本名ではなく隠語のようなものと考えると、色々想像できます。
稗田は直訳すると「わずかな田=少ない所領」。阿礼は「だれかさん」という程度の意味にも使われる言葉なのです。
稗田阿礼に『帝紀』『旧辞』を暗記しろと命じた天武天皇の子に「舎人親王」がいます。
676年生まれ。
本格的に歴史へ登場するのは42才になった718年に一品の位階を賜ってからで、日本書紀の編纂にもあたった人です。
ところが718年までは何をしていたか記録が無いようです。
この「舎人」親王が位階も低く所領も少ない28才の頃、親から暗記を命じられていたとしたら。
天武天皇が稗田阿礼に命じた年月日は不明ですが、古事記編纂が始まったのは711年。4ヶ月後の712年に完成しています。
天皇の子が直接編纂に当たっていることが判ると、古事記編纂の目的が天皇家の歴史と直結(暗記する目的は有力豪族達が個別に歴史を持ち、それが天皇家のものと違っていたから困るから)とバレてしまうため、わざわざ名を隠したが、功績を元明天皇あたりにアピールはしたいので自分だと判るような文言を太安万侶に書かせた。とかだったら。
その功績が認められ、数年後に一品の位階へ昇進したとしたら。
太安万侶は日本書紀の編纂にもかかわったという話もありますし、記紀はどちらもこのコンビだった、なんて想像も。
余談の方が長くてすみません(笑)
A-2
多分、編纂にあったて都合が悪かったのでしょう。
一説によると、稗田阿礼は(藤原不比等)とではないかといわれてます。
当時の不比等の領地に、稗田村と呼ばれる所が有ったそうです。
また編纂を始めた時期が不比等と同じ27歳であったそうです。
また語り部にしては、知識が豊富で高い教養を身につけていたそうです。
古事記の中ではヨーロッパの伝説から各氏族の伝承、中国の書物まで参考にしていたことが散見できます。
このような状況から・・・稗田阿礼=藤原不比等?
事実としたら、編纂に関与したことは秘密にしたいのではないかと。
[30] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月19日 00時52分10秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は姪の結婚式に行ってきました。チャペルでの結婚式で、キリスト教
の教会の雰囲気に浸りました。カトリックとプロテスタントの違いもよくわ
からない。ただ神道や仏教とは全く違う雰囲気がキリスト教にはあります。
それは、「生身のキリストの磔刑」をいつもつきつけられているということ
で、こういった現実的表現との対面は、神道、仏教に慣れ親しんでいる我々
にはない。神道は神様、仏教は仏様という風に止揚されている……。
いずれにしても、シャーマニズム、ユダヤ教、原始キリスト教、神道、
フランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト教等について、日本
の歴史を探求する者は理解しておかなければならないと、本日改めて感じま
した……。
話は前回に戻りますが、稗田阿礼という名前から連想するのは、豊橋か遠江
にあるという「阿礼の崎」という場所であります。万葉集っぽい地名であり
ます。この地名が稗田阿礼とどう関係するのかを調べたいと思っています。
稗田阿礼が藤原不比等であるという説、柿本人麻呂であるという説等、色
々あるようです。梅原猛氏は前者、大和岩雄氏は後者の方に傾いているよう
ですが、確定的ではありません。私の感覚では、柿本人麻呂はイメージ的に
「麻績王」とオーバーラップするのですが……。ついでに言うと、舒明天皇
のいとこに「麻績女」(おみのいらつめ)がいる……。「麻績」もキーワード
の一つではないかと考えております――
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 02時10分41秒 ) | パスワード |
「阿礼の崎」
1.
http://www.asahi-net.or.jp/~gi4k-iws/sub25-11.html
巻1-57 長忌寸奥麿
巻1-58 高市連黒人
巻1-57 長忌寸奥麿
二年壬寅、太上天皇の参河国に幸したまひし時の歌
引馬野に にほふ榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに
引馬野に美しく色ずく榛原、その中に入り交じって衣を染めなさいな、旅の証拠として。
巻1-58 高市連黒人
いづくにか 舟泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎたみ行きし 棚なし小舟
いまごろ何処に泊まっていることだろう、安礼の崎を漕ぎめぐって出て行った、あの棚なし小舟は。
「太上天皇」とは持統天皇のことで、
「続日本紀」によれば、天皇は、大宝二年十月十日から約一ヶ月の間、
三河地方へ行幸されている。
現在の国府のあたりに行宮を作られたものと想像され、長忌寸奥麿も高市連黒人もこの時の随行者であろう。
「引馬野」、「阿礼の崎」の地名については、
賀茂真淵が「万葉考」で「十六夜日記」に浜松の北方を曳馬野というとあるのを根拠に遠江説を立ててから、以後、多くの万葉研究者はその説に従っていたが、
仙覚、荷田春満は三河説を立てていられる。
伊藤左千夫は遠江説、
島木赤彦は三河説を、
また、地元の今泉忠男氏は三河説をとなえてから、久松潜一博士、斎藤茂吉らは今泉説をあげて有力視されている。
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 02時18分33秒 ) | パスワード |
あらあら稗田阿礼=山上憶良説もあるそうですよ。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/51arenobunpu.htm
万葉仮名「阿礼」と「安礼」の分布
URLでご確認ください。
「あめつち」の暗号は、山上憶良=稗田阿礼であることを示します。
また、高市連黒人の名歌「何処にか 舟泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻み行きし 棚無し小舟(58)」が、
ほかならぬ黒人の羇旅の歌(272〜275)の合成歌になっています。
そこで、万葉仮名「阿礼」と「安礼」を拾い出してみると、次のように著しく偏った分布になっていました。
巻5が山上憶良の作品を集めた巻であることと、巻20が万葉集の編者と目される大伴家持の最後の作品を載せる巻であることにご注目ください。
巻5(比率) 全20巻(比率) 巻5/全20巻
阿礼の使用回数 7回(64%) 14回(16%) 7/14=50%
安礼の使用回数 4回(36%) 72回(84%) 4/72=5.6%
合 計 11回(100%) 86回(100%) 11/86=13%
うまく出ると良いんですが。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 02時30分25秒 ) | パスワード |
稗田阿礼
「阿礼 あれ」の意味から探ってみました:
1.
あれ 【阿▼ 礼▽】
〔動詞「ある(生)」の名詞形か〕
神霊の出現の縁となる物。榊(さかき)の木など。綾絹(あやぎぬ)や鈴などを飾りつけて使う。賀茂社や松尾社のものが知られている。
2.
あれ【×阿▽礼】
《動詞「あ(生)る」の連用形からか》賀茂の祭のときの幣帛(へいはく)。榊(さかき)に種々の綾絹(あやぎぬ)や鈴などをつけたもの。
稗田阿礼とは、『古事記』の編纂に携わったとされる人物である。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A8%97%E7%94%B0%E9%98%BF%E7%A4%BC
この人物について詳しく諸説が紹介されています。
とても親切な紹介です。
稗田阿礼
時有二 舎人一。 姓稗田、名阿礼。 年是廿八。 為レ人聡明、 度レ目誦レ口、 拂レ耳勒レ心。
即、勅_語二阿礼一、 令レ誦_習二帝皇日継及先代旧辞一。 然、運移世異、 未レ行二其事一矣。
(現代語訳)
その時、ある舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼という。年齢は28歳。
人となりは聡明で、目で見たものは口でそらんじることができ、耳で聞いたことは心に刻むことができた。
そこで(天皇は)阿礼に勅語して、「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習させた。
しかし、時代が移り変わったため、そのことは未完成のまま終わった。
『古事記』序文以外には、稗田阿礼について記述している史料がないため、阿礼の人物像には謎が多い。
大まかにまとめると、以下のような説がある。
<実在した派>
A
稗田阿礼は男の子だよ派
『古事記』序文に書かれていることを信用すると、以下のような人物像になる。
聡明な記憶力を買われて、天武天皇の舎人(とねり)として仕えるようになった。
天武天皇十一年の頃(と推測される)、二十八歳にして『古事記』編纂に携わった。
『古事記』編纂事業は一度中断し、その後、和銅四年から五年にかけて完成。
(この説に残る疑問点)
国史編纂という大事業に関わったのに、阿礼には姓(かばね)も官位も無い。
一緒に編纂事業には関わった太安万侶は、『古事記』完成時、「正五位上 太朝臣安万侶」である。
しかし阿礼は、ただの「稗田阿礼」であり、要するに何の栄誉も記されていない。
卑しい身分の出身だったのか?
「稗田」という氏族は、平安初期に編纂された氏族名鑑「新撰姓氏録」に載っていない。
上と似たような疑問点で、畿内の名族の一覧辞典「新撰姓氏録」に掲載されていないということは
「稗田氏」は、朝廷に仕えるような名士の一族ではなかった可能性が高い。
※ただし、古事記編纂を命じた天武天皇は、旧来の豪族層以外からも積極的に人材登用を行っている(天武五年勅令など)ため、このことが直ちに稗田阿礼の実在を疑う説に繋がるわけではない。
B
稗田阿礼は女の子だよ派
柳田國男、三谷栄一などが提唱した説。
「阿礼」は女性の名前である
古い歴史や神話を記憶して後世に語り継ぐ役目(家刀自、いえとじ)は、古代において女性が担っていた
稗田阿礼は「猿女君」一族と同族である、つまり巫女の家系の出身である
というような理由から、稗田阿礼=神話を口伝する巫女だったのではないか、という説。
そうした巫女の中から特に優秀な人物が『古事記』編纂のため、天武天皇に抜擢されたとしても不思議ではない。
また、こうした背景の人物であるとすれば、『古事記』以降は朝廷に仕えず、官位も得なかったことの説明ができる。
(この説に残る疑問点)
「阿礼」が必ずしも女性名とは限らないし、神話を口伝する者も必ずしも女性である必要はない
稗田氏と猿女君氏は、祖先(女神アメノウズメ)を同じくする「同族」であるだけで、稗田氏=巫女の家系だったかどうかは分からない
稗田阿礼は「舎人」であるとしっかり記録されている
⇒ 「舎人」は男性の職業である。天皇に仕える女性は「うねめ(采女)」もしくは「ひめとね(宮人)」で、例え阿礼が「ひめとね」であったとしても、「舎人」という字をあてるのはおかしい。
<実在しなかった派>
A
架空の人物派
そもそも『古事記』の序文がうさんくさい、という一派。
稗田阿礼は『古事記』序文以外の史料に一切名前が見当たらない。
『古事記』序文は、本文と比べて文体も異なるし、『日本書紀』を参考にしていると思われる点もある。
序文に書かれているような(天武天皇の)時代に、『古事記』の編纂を始めたという事実が確認できない。
序文の内容は、太安万侶が「いやー、古事記の編纂は苦労しました!」と、やけに宣伝しており、不自然である。
以上のような点から、『古事記』の本文は別にしても、「序文」は、平安時代以降に創作された疑いがある(大和岩雄『古事記成立考』などでの説)。
そうなると、「序文」以外に名前の出てこない稗田阿礼は、架空の人物であるという可能性が出てくる。
(この説に残る疑問点)
太安万侶はその実在が他の史料から確認されている。
稗田阿礼と同じく、太安万侶も「他の史料に名前が出てこない!」と言われていたが、彼に関する木簡が発掘され、実在が確認された。
そうなると、序文の内容も「完全に創作」というわけではない。また、後世の筆が入っている可能姓があったとしても、稗田阿礼が架空の人物とは限らない。
B
稗田阿礼は藤原不比等派
梅原猛の説。
『古事記』が完成した時代は、藤原不比等が政治の実権を握っていた時代である。
そのため、『古事記』の内容には、不比等の意向が反映されていたのではないか。
そもそも「不比等」は「史(ふひと)」、つまり「歴史をつかさどる者」の意味である。
しかし、神話を大っぴらに藤原氏有利な内容に書き換えることは顰蹙を買う。
そのため、「稗田阿礼」というペンネームを使って『古事記』編纂に関わったのだ。
そう! 「稗田阿礼」とは、不比等が身分を隠すために使った「貧相な身分の出身です」という意味の暗号ペンネームだったんだよ!
(この説に残る疑問点)
上記の説を裏付ける史料は一切ない。
このため、いわゆる国史学界からは、梅原猛の説は「トンデモ」的な扱いをされている。
一応梅原氏のために弁護しておくと、梅原氏の特徴は「現代日本史学の通説や史料至上主義を批判する」ことにあり、「『古事記』には藤原不比等の名前は出てこない! 史料にないから彼は編纂に関わっていない!」と断定してしまうことや、「記紀神話の研究つったら本居宣長と津田左右吉だろ常考」というような歴史学の風潮に対して、疑問を呈しているのである。
史料に残らなかったとはいえ、当時の権力者が自分に都合のよいように歴史・神話を改変した可能性もじゅうぶん考えられるはずだ、というのが氏の主張の骨子である。
そうは言っても説得力に欠ける。
なぜ『古事記』編纂事業に限って「稗田阿礼」というペンネームを使ったのか? 『書紀』ではどうしたの?
そもそも「稗田阿礼」でなく、他の偽名か、あるいは別の実在の人の名前を使ってもいいのでは?
この辺を反論されると記事作成者にも擁護できません。
以上コピペ
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 02時36分27秒 ) | パスワード |
稗田阿礼がますます謎めいて来ました:
藤原不比等が現代的に表現すると「名無し」のハンドルネームでで書いたのかな?と思うようになりました。笑
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/210773/meaning/m0u/
み‐あれ【▽御▽生れ/▽御×阿▽礼】
《「あれ」は生まれることの意》
神または貴人の誕生・来臨をいう語。ご生誕。ご来臨。 ココからそう思いました
⇒賀茂 (かも) の御生 (みあれ)
賀茂神社の異称。 八咫烏が書いた?
みあれぎ【御阿礼木】 葵祭の前儀として行われる上賀茂神社の賀茂の御生(みあれ)と下賀茂神社の御蔭祭の際に、神を迎えるために立てる榊(さかき)。《季 夏》
みあれのせんじ【御阿礼の宣旨】 賀茂の祭についての宣旨を賀茂の斎院に伝達する使いの女官。みあれのせじ。
みあれまつり【御阿礼祭/御生祭】 ⇒賀茂(かも)の御生(みあれ)
出典:デジタル大辞泉
「み‐あれ【▽御▽生れ/▽御×阿▽礼】」の前の言葉
み‐あやまる【見誤る】
み‐あらか【御舎/御殿】
み‐あらわす【見顕す】
「み‐あれ【▽御▽生れ/▽御×阿▽礼】」の後の言葉
みあれ‐ぎ【御阿礼木】
みあれ‐の‐せんじ【御阿礼の宣旨】
みあれ‐まつり【御阿礼祭/御生祭】
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 02時43分41秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-067.htm
5.稗田阿礼はなぜ作られたか
目次
稗田阿礼は実在しないが無視できない
稗田という姓はなぜ作られた
稗田阿礼はなぜ二十八歳なのか
阿礼という名はなぜ作られたのか
多氏と猿女の密接さの接点はなにか
『古事記』を伝えた後宮の女たち
稗田阿礼という姓名のもつ意味
稗田阿礼は実在しないが無視できない
『古事記』序文では、天武天皇の勅を受けて、「帝紀・旧辞」を誦した、もっとも重要な人物として稗田阿礼が登場している。
それゆえ、なぜ、序文に誦習者として、実在しない稗田阿礼という人物が登場したかということを考えることは、『古事記』の謎を解くために重要である。
稗田阿礼の実在を疑い、他の人物、例えば、山上憶良・柿本人麻呂・藤原不比等を設定する論者もいるが、このような設定もそれほど根拠があるものではない。
稗田という姓はなぜ作られたか
『古語拾遺』には、猿女君の祖、天鈿女(あめのうずうずめ)命は神楽の祖とある。
ところが、『弘仁私記』序の注では、稗田阿礼を天鈿女命の子孫としている。
それゆえ、稗田阿礼は猿女君であると解釈できる。
一方、『西宮記』に、弘仁四年(813)十月二十八日、猿女の女一人縫殿寮に進むという記事に続いて、延喜廿年十月十四日、稗(草冠つき)田海子が死んだので、代わりに稗(草冠つき)田福貞子を進めたという、猿女と稗田姓の結びつきを示す記事がある。
『古事記』序文筆者は、この猿女君を誦習者にして、姓に稗田をつけたのであろう。
なぜなら「古事(フルコト)」を誦したのは猿女君であり、その猿女の誦する「フルコト」を「記」にまとめたのが多氏だったからである。
平安時代の樂家多氏は、雅楽寮の神楽の人長役を務めていたことからしても猿女君と共通性が強い。
なお、壬申記の中に大和国の稗田の地名がでてくるが、このことは、稗田阿礼の実在証明にはならない。
稗田阿礼はなぜ二十八歳なのか
『古事記』序文の文章には、『文選』からの引用した美辞麗句が少なくない。
その『文選』に序文と同じ文面で、「処土平原禰衡、年二十四」とあるのを、「舎人姓稗田名阿礼、年是廿八」としたと考えられる。
この、年二十八について、松本清張は、和銅五年正月二十八日の二十八をとったとするが、
友田吉之助は次のようにいう。
和銅五年正月二十八日は干支で「甲寅」であるが、この「甲寅」撰上にひっかけて、稗田阿礼を「甲寅」の年に生まれたとすると、白雉五年(654)誕生となる。
すると二十八歳は、『日本書紀』に載る、帝紀および旧辞の記定の年、天武十年(681)になる。つまり、この記定の年を前提に年二十八としたのではないかと考えられる。
【偶感】 万葉集には、「二五」を「とを」と読ませる戯書があります。
この、「二五=2×5=10」をまねると、「年二十四=年2×14=年28」が得られます。
阿礼という名はなぜ作られたのか
賀茂神社には、有名な御阿礼神事がある。神の依りつく人をアレヲトメ・アレヲトコというが、
賀茂祭の宣命の例文をみると、「阿礼乎止女阿礼乎止己」と書かれている。
この書き方は乎止女(をとめ)・乎止己(をとこ)はつけたりで、「阿礼」が重要であることを示している。
同じようにミアレ木・ミアレ山も、神が降臨する木や山に主体をおく従来の解釈ではなく、主体は、「阿礼」にあると見るべきであろう。
「阿礼」は、神の降臨する呪物デアリ、アレオヲトメ・アレヲトコとは、神の降臨する人(巫)のことである。
「阿礼」は神の依代(よりしろ)としての神聖な観念であるが、降臨の意味の含まれた神聖な観念なのである。
だから、『古事記』本文でも「阿礼」の表記は、例えば神功皇后が応神天皇を懐妊したときは
「産(あ)れまさむ」と書き、誕生は「その御子阿礼ましつ」と書き、生んだところを「その御子
生(あ)れましし地」と書く。
誕生前は「産」、後は「生」、そして誕生そのものに「阿礼」という字をあて、特に、「阿礼の二字は音をもちいよ」と注をしていることからして、『古事記』編者がいかに「阿礼」を神聖な用語として重要視していたかがわかる。
亦、多氏の祖、神八井耳命らの誕生のところで、「阿礼ましし御子の名」と書いていることからしても、阿礼への関心がわかるであろう。
この実例からしても、実在の人物ではなく、編者の関心から「阿礼」が名となったことが推測できる。だから多氏始祖の誕生のところに「阿礼」という書き方が出るのである。
また「意言夜麻登久邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめ)命」の名があるが、「オオヤマトクニ」は美称であるから、「アレヒメ」ということになる。
この「アレヒメ」は、またの名「ハへイロネ」とあるが、「イロネ」は兄・姉の意である。
「ハヘ」は沖縄の「おもしろそうし」などに出てくる久米島の大巫女、「君南風(きみはへ)」の「ハヘ」である。
『琉球文学発想論』の中で、嘉味田宗栄は、「南風(はえ)」は、琉球では季節の風として、豊作をもたらす風であることから、「ハヘ」を「生(は)やし、栄(は)やす霊力」の意味と解釈する。
そして、この生成を意味する「ハヘ」は、「アレ」と同義と見る。
とすれば、とすれば、「アレヒメ」の亦名が「ハへイロネ」であることは当然である。「アレ」「ハヘ」は巫女を意味する用語であるが、単なる巫女ではなく、神妻・神母のイメージがある。
アレヒメは孝霊天皇の妃となって、ヤマトモモソ姫を生む。現人神の妻となり母となっている。
神妻・神母の代表はタマヨリヒメ「であるが、『山城国風土記』逸文にある加茂神話の神妻の名も、タマヨリヒメである。
賀茂祭の御阿礼神事で、このタマヨリヒメの役を勤める女性を、アレヲトメという。
西田長男も、賀茂祭のアレヲトメに対して「阿礼は神妻・神母に関する語」とかいている。
御阿礼神事とは、神子誕生の神事であるが、神子をみごもる女性をアレヲトメといい、御阿礼神事の主役である。
このように、アレヒメ・アレヲトメの呼称は、巫女(神女、神妻、神母)を意味する言葉と考えられるが、それは猿女たちの職掌であることからして、稗田の姓に阿礼という名がつくのが、もっとも自然なことといえるのである。
また、「阿礼」に「神妻」「神母」のイメージがあることからして、皇妃出自氏族が、『古事記』伝承氏族であることも、暗示しているのである(『古事記成立考』で詳述)。
いずれにしても、「阿礼」の名は、原『古事記』の関係者および関係氏族を示す意味で、序文筆者が考えた名であろう。
だから、同じように『古事記』の「古事(ふるごと)」(旧辞)の誦習者を示す姓の稗田と、矛盾なく合うのである。
【ご案内】
「阿礼という名はなぜ作られたのか」については、大和氏の解説を全文引用しています。
そうしたのは、大和氏の問題にしていることが、当HPの《上賀茂神社と古代史の暗号》の内容と密接にかかわっているからです。
なお、大和氏は、『古事記』における「阿礼」の使い方を問題にしていますが、このHPでは、
万葉集における《万葉仮名「阿礼」と「安礼」》 《万葉仮名「阿礼」と「安礼」の分布》を問題にしています。
大和氏とは異なる視点の私に見えた特異な風景が、虚像に過ぎないのか、それとも実像なのか、どなたかチェックしていただけないでしょうか…… m(_ _)m
続く
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 02時50分30秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-077.htm
続き
多氏と猿女の密接さの接点はなにか
猿女君が『古事記』つまり「フルコト」にかかわることは、次の記事からもうかがえる。『先代旧事紀』の神武天皇の条に、
鎮魂祭の日には、猿女君らが多くの歌女(うたいめ)を率いて、その”言本(ことのものと)”を挙 げる。神楽歌舞(かぐらかぶ)はその縁による
とある。「歌女」が「コトノモト」を挙げることと、「神楽歌舞」が「コトノモト」と関係があることからして、この「コト」も、「フルコト」と同じ意味にとってよいであろう。
猿女君は、「言(こと)」を挙げているが、歌女が言挙(ことあ)げをしていることからして、節をつけての「コトアゲ」であろう。
ところで『古事記』の序文によれば、稗田阿礼は天武天皇の詔をうけて、「帝皇日継(すめらみことのひつぎ)」と「先代旧辞(さきのよのふること)」を「誦習」したとある。
「誦」とはただ「よむ」ことではない。節をつけて読むことである。「習」とは繰り返しである。だから「誦習」とは、節をつけて繰り返しよむことである。
これは、猿女君が歌女とともに「言本(ことのもと)」を挙げるのと似ている。誦習とは「フルコト」の「コトアゲ」であろう。
とすれば、「フルコト」(序文では旧辞(ふること)と書く)の誦習には、猿女君は欠くことができなかったのである。
とすれば、猿女君の姓稗田を誦習者に使うのは当然であるが、このことは「神楽歌舞」にもかかわっている。
猿女君の祖天鈿女(あめのうずうずめ)命は、天岩戸の前で歌舞をやった。『古語拾遺(こごしゅうい)』に、神楽は天鈿女命によってはじまっYに記されているように、猿女は鎮魂の儀式に携わるためである。そしてこの猿女は縫殿寮に属すると『西宮記』にある。
『延喜式(えんぎしき)』によれば、縫殿寮の猿女は緋色の「ヒレ」をつけて鎮魂祭に列したとある。この「ヒレ」は『古事記』や『肥前国風土記』に「ヒレフリ」と出てくるように、呪力を「ヒレ」に託す「巫女」の行う呪術である。
鎮魂祭は「タマフリ」と「タマシズメ」があるが、猿女の役割は「ヒレ」を振ることによって神の魂を呼びおこす「タマフリ」である。
だから天鈿女命が神楽をした時に陰(ほと)もあらわにして皆が打興じたので、何事かと天照大神が戸を開けて見たとするのは、猿女の鎮魂祭における「タマフリ」の歌舞を神話化したものである。
ところで、日本芸能史における神楽・舞楽の祖は誰かというと、多自然麻呂(じぜまろ)ということになっている。このことは宮内庁の雅楽寮にある「雅楽家系図」に記されている。
この多自然麻呂は、承和から貞観の頃に活躍した人物である。『樂家録』にも、神楽舞楽の祖は多自然麻呂と明示されている。
前述したが、この多自然麻呂を祖とする多氏が、今も宮内庁の雅楽寮の樂人なのである。彼らは神楽の人長役をやる家柄である。
このように、多氏と伝承上の神楽の祖天鈿女命の後裔である猿女の君とは、神楽や歌舞ではピッタリ結びつく。
歌舞は本来「神事(かみごと)」であるが、例えば「神語(かみがたり)」という言葉があるように、かたりもまた神事である。
つまり神の言葉を人に伝え、人の言葉を神に奉ずるという形で、語りがある。「カミガタリ」は
「アマガタリ」ともいわれれるが、これらに猿女君も多氏もかかわっている。
そして、「カミガタリ」「アマガタリ」とは、前に述べたように「フルコト」である。「フルコト」が神の語りである。
古代人にとって、「昔こういうことがあった」と語ることは、普通の会話ではない。またそういう古い昔のことを知って語る人も、普通の人ではなかった。
だから、このような「フルコト」を語れる人は特別な人であり、そのような「フルコト」は、単なる話し方ではなく、特別な話し方、つまり言葉に節をつけて語った。
それが「歌」になったのである。琴に合わせて語ったのが歌となった。それらの歌で宮廷にある歌を大歌といったのである。
その大歌を誦したのが大歌氏の多氏であるが、大歌師の多氏のところに、現存『古事記』や異本『古事記』をのせている『琴歌譜』があった。
折口信夫は大歌について、「宮廷における鎮魂の歌である」と書いておられるが、多氏が大歌師であるということは、猿女と同じく、鎮魂の語りをやっていたということである。
樂家多氏の役割はこの大歌を誦することである。それは、多自然麻呂以来、現在の樂家多氏の時代まで、多氏の役割として伝えられてきた。
宮内省の樂部の樂長をしていた多忠竜が、昭和十八年に刊行した『雅楽』という本の中でも、「多家は神楽の家といっても、歌の家柄なので、昔は笛や篳篥(ひちりき)を吹かなかった。
吹こうと思えば吹けたけれど、御神楽のときは歌だけを受けもっていた。
これが大むかしのこととなるともっとはっきりしていて、まったく歌一方、篳篥とか、笛とかは、それぞれの専門の家にまかせていたものです」と語っている。
御神楽の歌、つまり神語りとしての大歌の歌をうたうのが多氏であった。その歌に合わせて歌ったり舞ったりするのが猿女氏である。
もちろん多氏は人長として舞いもやるが、中心は歌である。鎮魂の大歌は振りと歌に分かれる。そして「振り」を猿女がやり、歌を多氏がやった。
『古事記』と『神楽』で結びつく多氏と猿女氏の関係を図示すると、次のようになる。
――稗田阿礼――猿女君――伊勢海人――神語――
↑ ↓
古事記 神楽
↓ ↑
――太安萬侶――多 氏――大 歌 師――大歌――
猿女は伊勢海人であり、「アマガタリ」「カミガタリ」をやったとある。この伊勢海人――神語が、多氏では大歌師――大歌の関係である。
このように神楽の線で猿女と多氏が平安朝の頃に結びついていたことは確かである。とすれば、多人長が撰録者太安萬侶に対し、誦習者として、稗田阿礼という姓名で猿女氏を登場させるのは、当然のことと考えられるのである。
今までは、記憶力のいい聡明な稗田阿礼が語ったのを、文才のある太安萬侶が記録したというだな段階でしか解釈せず、稗田阿礼・太安萬侶の背景にある氏族の視点が欠落していた。
しかし氏族の視点でみれば、太安萬侶に対して稗田阿礼の登場は、しごく自然なのである。
『古事記』を伝えた後宮の女たち
「阿礼」のもつ神聖観念とは、日つぎの御子の誕生である。『古事記』の長い説話のほとんどは産育説話である。母と子の物語である。
『古事記』が一番スペースをとっているのは、ヤマトタケル物語とホムチワケ物語とホムタワケ物語である.いずれも母(姨)と子の物語である。……
『古事記』に息長・和邇氏の伝承が多く入っていることについては、国文学者・歴史家の多くが指摘している。
私(大和岩雄)はこれらの氏族を、皇妃出身氏族・または産育氏族と書いているが、これら後宮の氏族の伝承が集大成したものが『古事記』なのである。そのことは稗田阿礼という言葉に
象徴されているのである。
皇子の産育を「壬生(みぶ)」というが、多氏もまた「壬生」にかかわることは、高橋六二の論考「ミブと文学――多氏の職掌をめぐって」にくわしい。
高橋教授はふれていないが、例えば多品治の湯沐令についても、子供を育てることを湯沐(ゆのうながし)という。子供が生まれた時に湯に入れてやるという意味である。だから、湯沐令は、皇子の直轄領地を管掌する責任者ということである。
高橋六二は「ミブと文学」で、ミブ(壬生・乳母)と多氏の関係の深さを論じて、
「『古事記』はその成立から言って<女の文学>である。しかもその伝承上の本質は、<産育の文学>にあると言えよう」
と述べているが、多氏にも、阿礼にかかわる性格が氏族としてあると考えられる。太(多)神社の性格にもそれが見られるが、太神社の御神体は女神像である。
なお、『古事記』が後宮に関係があることは、三谷栄一・阿部寛子らが力説しておられるが、阿部寛子は「古事記と尾張氏」で、
『日本書紀』は必ず後宮の場合はそう明記しているが、古事記はまったくそのことは書かない。そして采女の交情や采女が姦通したとかいう記事はあるけれど、そのときに後宮ということは書かない。要するに、采女の話があっても采女とか後宮という字を入れない。ということは、逆に采女や後宮がそれを伝承しているから、語らずして語っているのであろう、
と書いている。
このことからして、原『古事記』は、天武朝の後宮の「阿礼」にかかわる氏族の伝えてきた伝承を、猿女らに語らせまとめたものと推察できるのである。
稗田阿礼という姓名のもつ意味
『古事記』は、一言で言えば、巫女文学であり、姨(乳母)の語りである。平安時代の後宮の女房文学のはしりは、『古事記』にみられる。しかし、『古事記』はプレ女房文学としての性格だけではない。
稗田阿礼は天武天皇の舎人という設定になっていて、現存『古事記』の後宮的性格を示しているが、後宮の阿礼だけでなく、柳田国男のいう「漂泊の婦女」としての阿礼がいた。
この阿礼たちが伝えた「数限りもない古事記は永く平民の間に活き働いていた」と柳田国男は書くが、私が重視したいのは、この「数限りもない古事記」である。
猿女というのは日本の芸能の源流になっており、猿楽などの言葉でも分るように、漂泊芸能民である。差別され、いためつけられた漂泊芸能民としての伝承、そういう「フルコト」が「フルコトブミ」の原点にある。
その意味では、勅撰書らしくしたてられた『古事記』の序文を取って、古代人の人々が伝えてきた「フルコト」の原点を、この『古事記』から探り出したいと思っている。
その視点に立てば、誦習者としての稗田阿礼は、実在しないとしても、重い意味を持っているのであり、序文は偽作であっても、現存『古事記』は、古典として価値高い書であることに、変りはないのである。
以上コピペ
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 03時57分06秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
歴史の事って、調べれば調べるほど、難しくなりますね。
入り口は物凄く簡単だから舐めてしまうけど奥が深過ぎてワケ分からなくなる。
結局、地名の「阿礼」と「稗田阿礼」の関係もますます分からなくなりました。
その上
稗田阿礼って名前は習ったけどどんな人なのかさっぱり掴めない。
女性なのか男性なのかさえ分からないし。
語り部の総称なのか、ただ1人の人物なのか、も分からない。
でも面白いですね。
_______________
で、前のスレッドでお書きになってた
老人に土地の紹介をなさる件
どうなりましたか?
収穫はありましたか?
姪御さんの御結婚、おめでとうございます。
結婚生活が幸せな日々でありますように!
カトリックとプロテスタントの区別は
カトリックは歴史が長い分、政治と結びついて悪行のかぎりがあった
プロテスタントはいろいろあり過ぎてワケ分からない
どっちも人間が絡んでいるから
こんなもんかな?です。
でもやっぱりカトリックの方はいろいろ世間を騒がせます。
お稚児さん問題とかね。
ワタシは10年、カトリックの学校に行ったけど、
女の園育ちだったから男子校出身者が知ってるような秘密のハナシは全く知らなかった。弟も何も言ってなかったし。ま、言うわけないけど。
笑
アメリカに来てからカトリックの嘘とか知ってビックリした。
男の子はこういう事は分かっていたのでしょうね。
ロスではメキシカンを見ててカトリックの限界を知ったし
今はハワイでフィリッピーノを見てて宗教の限界を見てるところだし。
かと言って仏教だっていろいろ問題はあるし
他の宗教だっていろいろ問題があるし
結局「人間」が関わってるから「変質」するのだろうと思う。
歴史はまさに「人間」のことですから謎だらけですね。
最近分かって来たことは
服部小平太が最低2人は存在するということで
当時今川義元を討つために暗躍があって
ま、服部氏もそこにからんで、
アッチの服部氏、コッチの服部氏、その他の服部氏
みんなで義元を討とうと頑張って
晴れて義元を討つことが出来た。
津島の服部「小平太」は出世して、後に、秀次事件で詰め腹を切らされて没落。
信長に同じく仕えてた服部「小平太」は桶狭間の後に家康に仕えることになって同心を預けられることになった。これが中保次。
「小平太」というのは尾張の服部氏が自分より上の人に仕える時に使う決まった名乗りだったのかもね。
だから複数いて当然なのかなと。
ということは服部伊賀守宗純の子孫の服部氏「小平太」の家は
服部伊賀守宗純の子孫ではない服部「半蔵」の家と同じく
情報収集やら陰謀やらに加担してたのだろうなと。
でも中保次の家はもっと世間の取り締まりの方が表の顔だったのだろうな、と。同心を預かってたから。
服部「半蔵」の家の家督相続者が「半蔵」を代々の名乗りとしたように
服部「小平太」の家も家を新たに立てるなどの時には「小平太」を名乗る習慣があったのかも。
それで服部「小平太」がアッチにもコッチにも他にもいても不思議ではないのだろうなと思い当たりました。
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 10時27分20秒 ) | パスワード |
「真田丸」
見終わりました。
三谷ワールド、すご過ぎ!
もの凄く分かり易く流れを描いているし
登場人物の1人1人に華を持たせているし。
三谷作品に出て良かったという役者の喜びが視聴者にも伝わるし。
大井正吉でしたっけ?
これは笑いましたね。
本当にこういう人がいたのでしょうかね?
三谷ジョークでしょうか?
九度山がお蔭で観光客が絶えないのがいいですね。
伊井谷も人気観光スポットになるといいですね。
[39] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月19日 10時54分18秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
稗田阿礼・安礼、猿女氏等につき、いろいろ情報ありがとうございました。
柿本人麻呂サイドに立って考えてみると、何か暗さがつきまといますし、
隠されたものがあるような感じがいたします。古事記の編纂にあたっての謎、
やはり、権力闘争のあやしい裏があるのでしょうか。
しかしながら、一歩前進することができました。今大和岩雄氏の『人麻呂
の実像』という本他に目を通すことができました。いままでは目を通すこと
さえ億劫でありましたので。
和爾氏の系に柿本氏があり、また小野氏(小野猿丸太夫、小野篁等)も同族
ということで、小野氏についての興味が高まりました。遠江には小野篁の墓
も、子孫もたくさん住んでいますので……。
この際、小野篁について探求してみたいと思っております。
敬老会での歴史話は10月16日の日曜日です。少しずつ原稿をまとめて
おります。
いずれにしても、「古代」を解くには特に膨大な情報量が必要であり、
大変であります。まだ戦国時代のほうが身近に感じられます。
服部氏族の考察ありがとうございます。氏族解明のヒントですね――
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 12時35分35秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
10月16日でしたか。
1か月勘違いしていました。せっかちなので。汗
小野篁
ワタクシも(小野篁?)と連想していました。
『人麻呂の実像』
この人も謎ですね。
一体何があったのでしょうね?
持統天皇の愛人だったという話もあるそうです。
でも政治の世界は一寸先が闇ですから罠にかかったんでしょうか?
さてさて
大井政吉ですが実在の人物どころか
信玄の生母・大井氏の縁者だったそうで信玄に仕えていたそうです。
信玄の生母の大井氏は
和睦で正妻になった気の毒な女性だった
とNHK大河で見ました。
大井家 家臣団
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/ooi.html
大井氏の領地である岩村田は信濃有数の都市だった。
文明十六年二月二十七日、大井城が落城。
町や神社にも火の手が廻り、岩村田は壊滅的打撃を受けた。
大井信達 (?〜?)
武田信玄の外祖父。甲斐西郡を領する。永正十二年、武田信虎は今井信是と結ぶため、その娘を娶った。こうした動きに対抗するため、大井信達は今川氏親と結んだ。同年九月、今川氏親は福島正成に二千名を附けて甲斐に派遣。大井信達は勝山城に福島勢を迎え入れた。十月十七日、武田勢と福島勢が交戦。福島正成は武田勢を打ち破り、武田信虎は石和館に逃れた。翌永正十三年九月、福島正成は石和館を攻めた。九月十三日、信虎は恵林寺裏手に本陣を構えて応戦したが、またも敗れて恵林寺に逃れた。しかし、今川氏親の遠江攻めが長引いたため、福島勢は駿河に戻るよう命じられた。武田信虎は反撃に転じ、勝山城や上野城を攻めた。氏親は連歌師柴屋軒宗長を派遣し、武田信虎に今川・今井勢との和解を勧めた。信虎はこれに応じ、信達の娘を娶った。
こうして信玄が生まれました。
平賀源心 (?〜1536年)
大井姓だが、信州平賀城を守ったため平賀姓を称した。信州海ノ口城守将。天文五年、武田家に攻められる。信玄にとってこの合戦は初陣であり、一度引くと見せかけ、再び攻め込むことで海ノ口城を落とした。源心もこの合戦で討死した。源心は四尺八寸の左文字を振るう猛将で、敵ながらその死を惜しんだ信玄は、大門峠に石地蔵を建てたと言う。大太刀は大剛の士でなければ振るうことが出来ないため、常に信玄の座右に置かれ、後に勝頼に伝えられた。曾孫の政成は武田家に仕えた。
大井政成 (1549〜1603年 55歳没)
平賀玄信の曾孫。信玄、勝頼に仕え駿州蒲原、沼津城攻めに功があった。武田滅亡後は家康に仕え、大井家惣領として信州に千三百貫文。関東入封後は上州藤岡に千三百石。松平康貞に属すが、康貞が故あって改易されると高野山に従う。この時、政成の子政吉も同行した。慶長五年、上杉攻めの途中、下野小山で家康に拝謁。三成決起により秀忠と共に木曽路を上がるよう命じられたが、病により政吉が陣代となった。関ヶ原合戦後、上田城守将。後に藤岡に所領を得るが、慶長八年九月十六日に五十五才で没した。
大井政吉の父です。
大井満実 (1511〜1574年 64歳没)
忠成、小兵衛、左馬充。信州小諸城主大井満久の弟。武田信玄に攻められるが、数年に渡り守りきる。これにより和議となり、信玄に属した。信玄と同時に剃髪。天正二年、高天神城にて没す。六十四歳。
大井行吉 (?〜?)
信州岩尾城主大井行頼の子。川中島合戦、薩陲峠合戦、興津合戦、乾城攻めに参加。元亀三年、上州箕輪城守将。武田滅亡後、故郷岩尾に移り北条家に属す。天正十一年、徳川家臣蘆田信蕃、信幸に攻められる。行吉は大井吉連、浅沼半兵衛、常陸平六左衛門、阿久津藤十郎、東条新助、神津郷左衛門、依田丹波、柏山刑部左衛門、岡村式部、根々井青雲らを率いて籠城。同年二月二十二日、蘆田信蕃、信幸兄弟を討つ。しかし、戦闘継続が困難となったため徳川家臣柴田康忠の説得で開城。上野保渡田に幽閉された。
蘆田信蕃が出てますね。服部左衛門は家康に仕える前に蘆田信蕃に仕えてましたね。
服部左衛門の家は運が無くて駿河大納言忠長卿は処分されるし
綱吉の子・徳松さまに仕えてたのに亡くなってしまうし。
大井信吉 (?〜?)
大井一族。監物。天正十年、徳川家康に起請文を提出。
人生は厳しいですね。
どこで引っ繰り返るか分からないですね。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 12時48分34秒 ) | パスワード |
横レスですが
大井城と岩村田城は700mしか離れてないそうで
岩村田には内藤氏が入ったそうです。
大井城と大井氏について
http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/ooi-jyo/
史跡指定県指定史跡 別名 岩村田館 形態 平山城 歴史
築城年代は定かではないが鎌倉時代に大井氏によって築かれたと云われる。 大井氏は清和源氏小笠原流で小笠原長清の七男朝光が大井荘の地頭となって大井氏を名乗ったことに始まるとされる。
朝光の子光長の時には長男時光は大室・二男光泰が長土呂・四男行氏が耳取・五男宗光が森山・六男光盛が平原にそれぞれ館を構え、光長の跡は三男行光が継いだ。 弘安8年(1285年)には鎌倉で「霜月騒動」が起こり、小笠原惣領にあった伴野氏が衰退し、大井氏の勢力が増すこととなる。
南北朝時代、後醍醐天皇から足利尊氏を討伐するよう命じられた新田義貞は東海道と東山道に大軍を発した。東山道を佐久へ侵入した南朝義貞軍は大井城を取り込み、北朝足利軍は信濃守護小笠原貞宗・信濃惣大将村上信貞に命じて大井城の救援を行ったが落城した。
文明年間(1469年〜1487年)頃の当主大井政光は甲斐へ侵攻するなど、勢力を伸ばしていたが文明15年(1483年)政光が若くして没すると、幼少の弟安房丸が継いで大井城主となる。翌文明16年葛尾城主村上政清がこの機を狙って大井城へ攻め寄せ、大井城は落城し大井氏宗家は一時滅亡する。その後、大井氏支族によって宗家は再興され、天文年間(1532年〜1555年)頃に甲斐の武田氏が佐久へ侵攻するとそれに降った。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れると、北条氏と徳川氏による旧武田領への侵攻が行われた。徳川氏は北条氏の糧道を断つことで戦局を有利にし北条氏は和議を結んで関東へ退き、その後佐久は徳川氏の武将依田(蘆田)信蕃によって平定された。
説明
城は湯川の西岸にある河岸段丘に築かれている。北から南へ石並城・王城・黒岩城と並んで合わせて大井城または岩村田館と称されている。
現在は王城が公園として残されており、南の道路の対岸に黒岩城が見える。
城主 大井氏 案内
県道9号線岩村田交差点を東へ曲り、県道156号線を進むと湯川に架かる橋の手前左側に公園がある。辺りは道も狭く駐車場もなさそうである。
所在地 長野県佐久市岩村田字古城(王城公園)
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 12時53分26秒 ) | パスワード |
http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BE%9D%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%95%83
依田信蕃(よだ・のぶしげ 1548 〜 1583)とは、信濃の戦国武将である。蘆田信蕃(あしだ・のぶしげ)とも名乗った。
徳川家康も惚れ込んだ、威風堂々たる武田武士。
武田信玄・武田勝頼に仕え、徳川家康の侵攻を二度にわたり食い止めるなど活躍する。主家滅亡後は徳川家康に仕え、天正壬午の乱では信濃国人衆の調略を担当、真田昌幸を寝返らせる。対北条戦線でも活躍するが、乱終結後の残党との戦の中で討死してしまった。
その早すぎる死を惜しみ、信蕃の息子たちに松平姓を与えたほど、家康からは買われていた。
生涯
武田時代
蘆田信守の子。父の代より武田氏に仕える。
1575年、長篠の戦いの際には遠江・二俣城を守っていた。長篠で武田軍は大敗。勢いに乗る徳川軍が二俣城に攻めかかり、籠城戦に持ち込むが、その最中に城主の父が病死する。代わって守将となり半年間も籠城を続けた。最終的には将兵全員の助命を条件に降伏を受諾するが、城内をくまなく清掃した上に、整然と城を明け渡して去って行ったという。敗北を感じさせない堂々たる姿には、徳川家康も関心せざるを得なかった。なお、二俣城には大久保忠世が入った。
時は更に流れ1582年、織田・徳川による甲州征伐が行われる。この時は駿河・田中城を守っていた。徳川軍が攻めるが、やっぱり籠城戦に持ち込まれ、まるで落とせる気配が無い。そうしているうちに武田勝頼は自害、武田家は滅亡してしまった。
頑として開城を拒否していた信蕃だったが、勝頼の死を聞いて降伏に応じ、田中城を(敢えて二俣城と同じく)大久保忠世に明け渡した。家康は信蕃の実力と忠義にすっかり惚れてしまい、その場で勧誘を持ちかけたが、「領地の状況を我が目で見なければ」「勝頼様が本当に亡くなられたのか確認せねば」と、あえなくフラれてしまった。
潜伏(?)
この後、自領である信濃・春日城に戻り、信濃の支配者となった「鬼武蔵」森長可と対面している。
続いて諏訪に在陣している織田信長の下へ向かおうとしたが、家康の使者が現れ「信長様の武田残党狩りは苛烈だ」「このままでは危ないから、ほとぼりが冷めるまで家康様の下に避難していた方が良い」との忠告を受ける。過去の二度の対陣から、信蕃も家康の性格を分かっており「徳川殿は信用に値する」と遠江へ逃れた、と言われる。
……が、実際は普通に信濃に残っていたようで、神無川の戦いに敗れた滝川一益に人質を差し出しており、代わりに小諸城を受け取っている。家康さん、ラブコールが通じないからって勝手に噂を拡げないでください。
天正壬午の乱
とはいえ、その後の信濃を巡る天正壬午の乱では早くから徳川家に通じて活動した。以後はゲリラ戦を展開しつつ、佐久・小県の諸国人たちの調略も行い、後北条氏の戦線を崩すことに注力した。特に有名なのは、後北条方についていた真田昌幸を寝返らせた事だろう(後で裏切るけど)。
佐久地方を徳川方につけたことで、上野方面から攻め込んでいた後北条軍の補給線は絶たれてしまった。こうした戦況もあって徳川・後北条の和睦が成り、天正壬午の乱は終結した。この乱を通じての信蕃の働き、家康の目は確かだった。
突然の死
こうして改めて佐久城を任された依田信蕃だったが、信濃国内には未だ後北条派の国人衆もおり、そうした者たちは岩尾城の大井行吉の下に集結していた。
1583年。岩尾城の大井勢に対し、徳川家臣で甲州奉行を務めていた柴田康忠が軍監となり、信蕃らが討伐に向かうことになった。大井方は所詮烏合の衆かと思われたが、岩尾城の堅城ぶりも手伝って信蕃も予想外の苦戦を強いられる。更に方針で対立していた柴田には「これが武田流の戦術(笑)早く落とせwww」と挑発されてしまい、自ら先陣に立って怒涛の攻撃を行うが、その焦った隙を突かれて敵の銃撃を受け、あえなく討死してしまった。36歳だった。弟・依田信幸も討死した。
柴田康忠もこの展開には「なにをやってんだぁぁああああ」と慌てて、大井方の説得にあたり、10日ほど後に無血開城となった。
一方、信じて送り出した依田信蕃が味方の軍監の小言挑発にドハマリして遺体になって帰ってくるなんて思っていなかった徳川家康だったが、信蕃の遺児には「松平」の姓と「康」の一字を与え、松平康国の名乗りで元服させた。更に大久保忠世を後見人として付け、父の遺領・小諸城を相続させるなど破格の待遇。ちなみに康国の初陣はその2年後、裏切った真田昌幸相手の第一次上田合戦である。なんだこの因果。
康国は小田原征伐で戦死。次男の松平康勝(こちらも康の一字を拝領)が跡を継ぐ。子孫は越前松平家に仕えた。
ものスゴイ話ですね。
やっぱり戦国時代にはタイムスリップしたくないです。
日本人はいっぱい泣いて平和を得て来たのですねぇ。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月19日 13時03分26秒 ) | パスワード |
http://bell.jp/pancho/hyper-history/siron_shotokutaisi/annex/gozoku/gozoku-8%20wani.htm
和珥氏:初期大和朝廷を支えた古代の名門
后妃を天皇家に入れることで勢力を維持した”皇親的氏族”
和珥は和邇とも丸部(わに)とも書く。系譜的には、和珥氏は孝昭帝の皇子・天足彦国押入命(あまたらしひこくにおしのみこと)の後裔とされている。奈良盆地東北部から京都盆地北東部にかけて勢力を張った在地豪族で、奈良盆地西南部を本拠とした葛城氏とともに初期大和政権を支えた有力氏族とされている。和珥氏は5世紀から6世紀から天皇家と婚姻関係を結んでいる。天皇家と婚姻関係を結ぶことで勢力を拡大した氏族は、他にも葛城氏や蘇我氏、藤原氏がいるが、その先駆けは和珥氏である。開化天皇を皮切りに、応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達と5世紀の天皇の過半数に后妃を出している。
しかし、和珥系の后妃所生の皇子の中で即位したのは敏達天皇だけで、和珥氏は皇女を介して后妃関係を重複させて朝廷における勢力の維持に努めたのが特徴である。例えば、和珥臣深目の娘・童女君は第21代雄略天皇の后になり、春日大郎(かすがのおおいらつめ)皇女を生んだ。春日大郎皇女は第24代仁賢天皇の后となり、武烈、橘皇女、そして手白髪(たしらか)皇女を生んでいる。手白髪皇女は第26代継体天皇の后となり欽明天皇を生んでいる。和珥臣河内の娘・ハエ媛も継体天皇に嫁いでいる。
6世紀後半に春日、小野、柿本、粟田氏などに分れた
奈良盆地の東部にある東大寺山古墳群(東大寺山古墳、赤土山古墳、和邇下古墳)は4世紀末から5世紀初頭の頃に築造された古墳群であるが、和珥氏の一族を葬った墓とされている。このうち、赤土山古墳からは円筒埴輪や朝顔形埴輪12個が2001年に出土した。古墳が造られて間もない5世紀の初め、地震の地滑りで埋まり割れた破片がそのまま残っていてほぼ完全な状態に埴輪が復元できたのは珍しい。この古墳から東方区800mに和邇の里があり、東大寺山古墳群は和珥氏の奥津城であったと考えられている。
和珥氏の名は欽明朝以後は記紀に見えなくなることから、本宗和珥氏が衰退後、支流である春日氏が次いだものと考えられている。和珥を春日に改称したとする説もある。あるいは欽明天皇の時代に春日、小野、柿本、粟田、大宅などに分かれたとされている。小野氏からはその後小野妹子、小野道風、小野篁などが輩出した。柿本氏からは宮廷歌人柿本人麻呂が出ている。
柿本氏の一族
和珥氏の同族・柿本氏は現在の天理市櫟本あたりを本拠とした豪族である。一族の中から宮廷歌人・柿本人麻呂が出ている。和珥氏の奥津城とされる東大寺山古墳群の中の和邇下古墳の後円部上には、和邇下神社が建っている。その境内には、同族の柿本氏の氏寺・柿本寺(しほんじ)跡があり、柿本人麻呂の髪を埋めたとされる「歌塚」がある。
[44] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月20日 00時15分37秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
稗田阿礼についての考察で得られたものは、単に人物云々ということより、
「アレ」という言葉の持つ意味でありました。
京都の上賀茂神社では、「御阿礼神事」が行われているということであり
ます。それは秘儀中の秘儀で、奥まった山の中で闇の中で行われるという。
「御生(みあれ)」とは、「天地に存在する神羅万象すべてに生命が存在し、
人間が呼吸しているように天地すべてが呼吸し、活動して相互に作用しあ
うところから生命が誕生することをいう。」ということで、これは下賀茂
神社の祭神「八咫烏」の賀茂建角身命が伝えたとされる神道「烏伝神道」
別称、鴨神道の説くところで、上賀茂神社の御阿礼神事につながっている
ようです。
上賀茂神社には数え切れないほど行っていますが、一回もこの神事に出
会ったことはなかったので、記憶に残らなかったということ。でも、意外
にも身辺近くに存在していたのでありました。
幸沙代子著『漢字を発明したのは日本人だった』の中に、記紀の書かれた
時代背景を説明するものがありました。要約して記します――
「宮崎県の高千穂で発見された碑文には、「ヒエタノアレモコロサレキ」
と読める文章が書かれています。
白村江の敗戦後、天智天皇の近江朝で漢風文化が盛んになった背景には
何があったのだろうか。その実態はいまだはっきりしていないが、少なく
とも太古日本の輝かしい歴史が、このとき漢人(あやひと)と呼ばれた漢民
族の支配層によって抹殺されたことは確かである。つまり、それまでの
神代文字で書かれた貴重な記録が、古事記や日本書紀という形で漢字に書
き改めさせられ、その過程で私たち日本人の真実の歴史を見失ってしまっ
たのである。
いずれにせよ、663年の白村江の戦いと671年の壬申の大乱の真相
をよく知る者は消されていまった――「稗田阿礼も殺されき」と刻まれた
この石碑は、千数百年という時の流れに生きのびて、今私たちに何かを訴
えているようである。」
ということです。
古代の史実を見極めようとすると、底なし沼に足を突っ込むことになりま
すね――
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月20日 01時58分02秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>「稗田阿礼も殺されき」
すごいお話が出て来ましたね。
確かに「秘密に関わると殺される」というのは定石ですよね。
稗田阿礼が本当のことを暴露しないようにと殺されたのかもですね。
有り得ますよね。
>古代の史実を見極めようとすると、底なし沼に足を突っ込むことになりますね
はい。
一体何が真実で、どこまでの真実が伝わってるのか、ワケが分からなくなりますね。
怖ろしいですね。
でも神道の神職の方達はかなりご存知なんでしょうね。
ただしフツーの人に伝えることはタブーとされているんでしょうね。
[46] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月20日 17時08分42秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
今、過去のノートを読んでいるのですが、こんな重要なことを見落として
いました。掛川教育委員会の説によると、服部正尚(蓑笠之助)は甲賀忍者だ
ったということですが、これはあり得ますか?
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月20日 22時11分19秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服部正尚(蓑笠之助)は甲賀忍者だった?
これも「前提」が落ちている、ということだと思います。
1.
ムカシ伊賀と甲賀は同じ国だった。その後甲賀は近江に入れられた。
山の向こうとこっちの違い。
その地域に住む人々にとって同じ生活領域だった。
2.
伊賀と甲賀は行き来があった。
例えば
呉服明神の服部貞信は宇治田原の山口氏(もとは甲賀の多羅尾氏の出身)の近くに住んでいた。
例えば
半蔵と服部正尚は半蔵の父と正尚の祖父が兄弟の関係。
神君伊賀越えの時に伊賀と甲賀が協力し合った。
こういうことを考えると
もともと伊賀も甲賀も同族だったのではないか?
後世に於いて 伊賀と甲賀がハッキリ区別されるようになって そのムカシの関係が語られなくなったための弊害に過ぎないのでは?
例えば人類だってモトモトは同じエリアの出身なのに後世区別ができ差別がついてしまった。
でも遡れば同じアフリカの猿であり海に住む魚でありもっと前は単細胞だった
こんな感じ?
江戸時代に藩境という線引きが決まって人間は移動の自由が無くなって定着させられたから
今の時代から遡ると過去が見え難くなっているだけじゃないのか?
明智の岳父だった名張の服部保章の息子は近江の北村に住んで北村=喜多村=を名乗ったから
いつの間にやら
近江北村だから 甲賀忍者 ということになったのではないか?
それで服部正尚も一族なのだから甲賀忍者という認識になったのではないか?
もともと移動の自由を謳歌してた人々を徳川幕府下での限定した土地の名で縛るのがそもそもの間違いなのではないか?
もしかすると服部正尚は甲賀忍者を家康方に繋ぎ止める役目を担っていたのかもですね。
これは家康と正尚の人間関係 ⇔ 伊賀の服部氏と甲賀の諸氏との人間関係
そういうのから甲賀を束ねたというのがあったのでしょうね。
なので 服部正尚(蓑笠之助)は甲賀忍者だった と語るには前提が抜けてると思います。
一応 ニンジャは平家の侍大将だった服部(伊賀)家長の流れ という形容詞があるから 伊賀の服部家と甲賀53家でしたっけ? が区別されていっただけと思うのですが。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月20日 22時16分18秒 ) | パスワード |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320042998
Q
伊賀忍者と甲賀忍者の違い
A-1
まず場所が違います
伊賀忍者はその名の通り伊賀の地(今の滋賀、奈良県)で発展した忍者集団であり、
甲賀忍者もその名の通り甲賀の地(今の滋賀県南部)で発展してきた忍者集団です
伊賀は忍術や戦闘に長けて、甲賀は薬術などに長けていたと聞いたことがありますが本当か分かりません
この両派は戦国時代に全く異なった命運を辿っており、
伊賀忍者は織田信長に反発して蜂起しますが鎮圧され壊滅します
一方甲賀の方は豊臣、徳川と密接な関係を築き、徳川幕政下でも細々と生き残りました。
A-2
伊賀忍者
旧伊賀国(現三重県伊賀地方の伊賀市・名張市)の忍者
古来より、信長の伊賀攻めまで特定の主を持たず、自治しており自立心が高い
傭兵的な立場であったが、信長の伊賀攻めにより信長ー秀吉ラインとは距離を置き、伊賀出身の服部半蔵の縁で徳川家に縁が深く、家康の伊賀越えに活躍し、後に多くが徳川家の家臣化した
甲賀忍者
旧近江国甲賀郡とその周辺(現滋賀県南部甲賀市とその周辺)の忍者
起源的には伊賀と変らず、伊賀とは背中合わせの地域でえもある
しかし、甲賀忍者は地侍として六角氏に臣従しており、伊賀と違い主従という概念を持つ
六角氏没落後は蒲生氏に仕えるが、蒲生氏が東北に移ると豊臣氏の直臣となる者が多く、関が原前哨戦の伏見城の戦いでは伏見城の守備隊として最初東軍であった甲賀忍者が、内応して西軍になった事が落城の原因となったという
甲賀忍者は豊臣家に仕え、主に対徳川の諜報戦に用いられたという
徳川家では二代目服部半蔵(この人は忍者ではなく槍の名手の武将です)の指揮する伊賀忍者がこれに対抗した為、後世に「伊賀VS甲賀」という図式が伝わったが、伝奇物にあるような根深い対立ではなかった
A-3
伊賀流
・単独で行動
・金銭契約で特定の大名には就かない。
・忍術の中でも武術に秀でる。
・有名な人
服部半蔵(世襲で受け継がれる名で何人もいる)
霧隠才臓(架空の人物、服部才蔵とも)
百地三太夫(伊賀流の祖)
甲賀流
・集団で行動
・主君に忠誠を誓い最後まで仕える。
・薬を使い幻影を見せたり、毒手裏剣で敵を倒すのが得意。
・有名な人
猿飛佐助(実在したとの説もある。戸隠流とも)
[49] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月21日 17時55分49秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨夜は台風十六号の通過ということで、いろいろ心配しましたが、このあ
たりでは風雨もたいしたこともなく、ホッといたしました。
本日は、彼岸のお中日ということで、先祖の墓及び菩提寺へ行き、線香を
上げ、般若心経を捧げてまいりました。
菩提寺は定明寺、一族の位牌は一番奥の間のセンター上段・下段にありま
す。「服部さま」と呼ばれた大本家の位牌は、上段のセンターより二つ目に
あり、この位置は庄屋・名主クラスか、そうとう寺への貢献をしているもの
と思われる。上段には山下家という位牌もあり、たぶん笠井の庄屋系だと推
察されました。
ただ、本当に庄屋であったかどうかの伝承も記録も今のところ持ち合わせ
ておりません。特に四代前位より、近くの町中へ医家として移転してしまっ
ていますので……。
また、下段には、長谷川家、松下家、小笠原家、加藤家等の位牌があり、
シンパシィを感じました。
さて、甲賀の話、ありがとうございました。今、服部正尚家、青山家、
天方家について調べ直しております。
これらについては、次回に記したいと思います――
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月21日 22時36分38秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
台風16号の被害が無くて何よりでした。
菩提寺にいらっしゃってお寺の紋やお墓の紋で気付くことは無かったのでしょうか?
わたくし的には 菩提寺が笠井氏=柏紋 ということで あら? とおもいましたが。
http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4e3f6eacb3322.html
使える資料
http://www.hamamatsu-books.jp/alacarte/detail/4.html
浜松の合併の変遷の地図も面白かったです。
何か分かることはありますでしょうか?
歴代浜松城主
これもなかなか面白かったです。
お寺さんについてちょっと調べて来ました:
定明寺 じょうみょうじ
郵便番号
431-3107
所在地
浜松市東区笠井町1202
時期
室町時代末期(開創)
定明寺とは
室町末期に土豪笠井備後守定明が開基となり創立された。定明寺という寺号も備後守定明の法号である「定明院殿道栄(じょうみょういんでんどうれい)」からとったもの。
本堂は江戸時代の後期に建てられた入母屋(いりもや)作りで再建当時は草葺きであったが、明治に入って瓦に葺きかえられた。
定明寺の位牌堂正面に、江戸時代中期の姫路家中笠井佐左衛門が先祖の霊を供養するために納めたものといわれ伝えられている「定明院殿・一心院殿尊儀」と刻まれた位牌がまつられているが、その裏面には「施行播州姫路家中笠井佐左衛門」と記されている。
境内には筆子などによって建てられた福来寺十世福田観了(ふくでんかんりょう)和尚の碑や、池田庄三郎勝彦の墓、浜松藩領内において独礼の格式を持っていた旧家山下左次兵衛の五輪塔、また俳人内藤彦端こと酔春亭左光の七回忌にあたる文政7年9月に門人たちにより建てられた左光の墓石があり、側面に「葡萄の実熟したりけり珠の色」の句が刻まれている。
関連項目
定明寺には紺女郎キツネの伝説が残っており、紺女郎キツネをまつってある金如呂(紺女郎)稲荷がある。
参考
『遠州の古寺』(静岡郷土出版社)
『はままつ歴史発見』(静岡新聞社)
『浜松の史跡』(浜松史跡調査顕彰会)
もとは笠井氏=柏紋=のお寺だった?
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%AC%A0%E4%BA%95
笠井氏:
全国順位 475位
全国人数 およそ42,700人
山梨県と香川県・徳島県に多く分布してますね
現千葉県北部である下総国葛飾郡葛西庄が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)葛西氏流、
後源氏に改姓、
分流多くみられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E6.9F.8F.EF.BC.88.E3.81.8B.E3.81.97.E3.82.8F.EF.BC.89
柏(かしわ)紋
十大紋の一つ
三つ柏(みつがしわ)- 秩父氏、豊島氏、葛西氏
三つ柏巴(みつかしわどもえ)
結び三つ柏(むすびみつかしわ)- 文治一門、米朝一門、文枝一門
丸に蔓柏(まるにつるかしわ)- 茂木家仙台小野寺家
丸に三つ柏(まるにみつかしわ)- 辻氏 - 山内氏
三つ柏に六の剣
抱き柏(だきがしわ)- 吉田(卜部)家
丸に抱き柏(まるにだきかしわ)
違い柏(ちがいかしわ)
丸に違い柏(まるにちがいかしわ)- 大倉氏、渋沢栄一(墓石にあり)
結び柏(むすびかしわ)
牧野柏(まきのかしわ)- 牧野氏
土佐柏(とさがしわ)- 土佐山内氏
中川柏(なかがわかしわ)- 中川氏(豊後岡藩主家)
柏紋
武士で初めて用いたのは
桓武平氏の葛西氏。
「奥州葛西実記」は文治5≪1189≫年に家紋化した
としている。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月21日 22時49分09秒 ) | パスワード |
http://www.city.hamamatsu-szo.ed.jp/kasai-e/gakkusyoukai/zisya/jyoimyouzi/jyoumyouzi.htm
定明寺(じょうみょうじ)
【浄土宗 無量山定明寺】
1458年(長録2年)の開基です。15世紀に「武田信玄」に仕えた「笠井定明」という武将の時代に「笠井城」が栄えたそうで,その時創立したお寺が「定明寺」ということです。笠井定明の子である「笠井高利」は「長篠合戦」で武田勝頼を助けるために生涯を閉じたとのことです
これを読んだ感想は 松嶋家の「高天神城落城」 の記録が気になります。
三つ柏さんは勝頼にシンパシーを感じると以前お書きでしたよね。
勿論三谷幸喜の脚本が素晴らしいし
勝頼は悲劇の武将ですし
日本人ならかなりの人が同情すると思います。
何か特別なものがあるのかも。
また日を改めて定明寺さんにいらっしゃってはいかがでしょう?
ご住職さんかだいこくさんからお話が伺えると良いですね。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月21日 22時58分28秒 ) | パスワード |
下記の情報を頂きました:
江戸時代の貨幣価値と物価表
http://www.teiocollection.com/kakaku.htm
江戸前期の 1両(小判) 約10万 1文=25円
江戸中期の 1両(小判) 約 8万 1文=20円
江戸後期の 1両(小判) 約 5万 1文= 5円
(1両=4000文)
*年貢を納めない小作の水呑百姓における貨幣価値は「特殊な江戸の町」と地方は価値も異なります。
全国を統治する中央政府では有りませんのでね。
江戸の町には、百姓身分の人口は極端に少ないはずです。
地方自治と自由経済によって成り立った江戸時代です。
(経済は絶対統治にはなり得ていませんね。)
ですので、農村でも村役人階層以下の水呑百姓にとって貨幣経済の蚊帳の外でしょうね。
江戸も終わりには、小判も半値、1文銭は5分の1に成っていますね。
平均でいくと、1両(小判)は6万6千円、1文は16円50銭(1800年前後かな?。)
日銀計算「米の価格」をベースだと、
1両= 4万円
蕎一杯分計算だと、
1両= 12〜13万円
「1石=1両」と言われた時は
1両= 6万円 (米1キロ400円計算・1800年前後かも)
農民たちの感覚でいくと
1両=15万円(米1キロ1000円感覚)
(1文=375円の感覚かな・・・・・。平均1文の22倍以上。)
面白いとこでは、(平均値の様です。)
大人の風呂代、8文= 132円
わらじ一足 15文= 248円
蕎うどん1杯16文= 264円
豆腐1丁、 50文= 825円(意外と高いですね) 高過ぎ!
納豆1束、 4文= 66円
米1升、 100文=1650円
(1.8L 1.5kg)
大工の日当 6匁=6600円
野菜売りの稼ぎ 200文=3300円
安酒1升 80文=1320円
富籤1枚 2分=3300円
不倫の示談 7両2分=495000円
以上コピペ
[54] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月22日 14時36分48秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
一両の価格については、大変分かり易く、今後の参考になります。ありが
とうございました。
さて、葛西・笠井・可西氏を調べるのに時間を要しました。またその時代
の領主達のパワーバランスの変化というものを、概略把握するのにも時間が
かかりました。
笠井における葛西氏の足跡は、確たるものがありません。定明寺が二百年
以上前ですが、火災にあって資料等が燃えてしまったということであります。
「火のないところに煙は立たず」の法則からいえば、葛西氏関連の事実は
あったものと思われます。いろいろ辻褄のあわないところは、後から情報を
いろいろ併せてくっつけたからでありましょう。
たぶん私の推測するところ、葛西氏が1100年代にこの地へやって来て、
基礎を拓き、笠井城を作った。源氏系に仕える。1400年代になり、笠井
定明の祖父貞豊から甲斐武田氏に仕えるようになり、孫の定明、その子高利
でピークを迎える。
その間――
1537 甲駿同盟
1541 武田信虎、嫡子晴信(信玄)により駿河へ追放さる
1554 甲相駿三国同盟
1560 ◆「桶狭間の戦い」 今川義元死す
1568 武田軍、駿府侵攻
1570 徳川家康、遠江に侵攻を目指してより浜松城に入場
1572 「三方ケ原の戦い」
1575 ◆「長篠の戦い」 笠井高利、武田勝頼の代わりに討死
(1582) 「天目山の戦い」 武田勝頼死す
等があり、特に武田・今川・徳川のパワーバランスのシーソーゲームが
繰り広げられています。
長篠の戦い時には、とっくに浜松に入城している家康が、武田軍につい
ている笠井の笠井氏を何故攻めなかったのか、笠井高利の遺骸をなぜ家康
の根拠地浜松の定明寺に葬ることができたのか等……謎は多いです。
善地には1600年代より曹洞宗の源長院の末寺が建てられておりまし
たので、当然曹洞宗であったはずです。しかしながら、どこかの時点で、
村ごと浄土宗に替わってしまっている。徳川家康は浄土宗信仰であります
ので、どこかの時点で、劇的に替えたのかも知れません。従って、定明寺
の創設以来の檀家ではなかった可能性も少し考えられます。火災等の再建
にあたっての支援をきっかけに宗派替えしたのかも知れません……。
ただ、寺請制度(檀家制度)という制度が1600年代に敷かれましたの
で、その関係で、各寺の管轄範囲が一斉に区分されたのも知れません……。
いずれにしても、まだ歴史の川底に真実は眠っています――
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月22日 22時36分16秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
時系列
ありがとうございました。
笠井・葛西・河西
ちょっと検索してみました。
http://plus.google.com/+%E6%BA%90%E5%B9%B3KASAI
個人のブログです。
収穫:
江戸後期に武田家旧家臣の末裔を調査した「誠忠旧家録」
に松島氏の名が書かれているといいですね。
以下コピペ:
古文書によると先祖は「葛西壱岐守清重末流河西式部少輔良昌」。平安から鎌倉時代のことだが、豊島氏庶流の葛西氏なので武蔵・下総・鎌倉に住んでいたことになる。戦国時代は武田家の家臣なので当然甲斐に住んでいたことになる。このツールで先祖を確定できるだろう。試してみるだけの価値はある。
江戸後期に武田家旧家臣の末裔を調査した「誠忠旧家録」によると、わが家の先祖は『河西式部少輔良昌』とのこと。甲斐の河西は源氏と言われているが、なぜか良昌は平氏の末流である。源氏と平氏のハイブリッドか?
----------
一品式部卿葛原親王苗裔
葛西壱岐守清重末流
河西式部少輔良昌後胤
岩間郷采地御感状賜今傳有
布施村河西藤右衛門昌品
河西(笠井)満秀は南部氏の末裔で武田家の家臣。長篠の戦いで勝頼公を救い討ち死にした。後胤に慶秀等あり。河西満秀と笠井高利は同一人物か?岩間・西島での現地調査が待たれる。因みに我が家の先祖は河西式部少輔良昌。
加賀美遠光公は清和源氏で甲斐源氏の庶流、加賀美氏流の祖。滝口の武士であった頃、高倉帝より「王」の字を賜る。後胤に秋山、小笠原、南部など子孫は大いに繁栄した。河西は加賀美もしくは南部の末裔。ちなみに武田家は甲斐源氏の嫡流である。
コピペ終わり
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月23日 08時33分05秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101558.html
スレッド79を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
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