【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101555 投稿日:2016年09月05日 13時14分20秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXZ(16年の課題確認20)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101552_63.html
長上郡の服部氏族スレッド76(16年の課題確認19)の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



スレッド76は現場100回ということで
「長上郡」の名のもとになった長田氏の復習になりました。


http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101405.html
スレッド21のレス[53] 丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月23日 07時54分41秒 )です。


何度も原点に還れば、また、新たな発見があることでしょう。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月06日 10時43分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「長田氏」について、古代に名乗った人を探してみました。

 石見(島根県太田市川合町川合)の「物部神社」に、神主を代々務めた
「長田氏」がいました。安本美典氏編の『奇書・先代旧事本紀の謎をさぐ
る』他を参考にすると――
 この長田氏は、物部竹子連の子孫で、竹子連は景行天皇(3世紀後半)
の時、石見国造となり、その子孫が川合長田に移って、のち代々「長田」
の姓を名乗ったと伝えられているということです。

 物部神社に祀られている「宇麻志麻遅命」は、「物部氏の祖」といわれ、
「饒速日命」が「長髄彦」の妹「三炊屋媛」を娶って生んだ子であります。

 物部竹子連の父「物部膽(たん)昨宿祢」は、「神功皇后」の重臣であり、
また秋田物部氏の鼻祖であるということです。

 物部氏は海運水運にも長じていたようです。

 これらから導き出される結論は、「長田氏」は元は物部氏で、物部神社
の神主であったということです。もっとも、すべての長田氏であるという
ことではないと思います。長田氏の一系統、本筋系か……。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月06日 13時41分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

面白いところに行き着きましたね。
長髄彦は饒速日命に殺されたのよねぇ。
日本史は(も)残酷ですね。

   妻からすれば、夫が兄を殺した
   子からすれば父が伯父を殺した

ギリシャ神話にも通じますね。
つまりこれが「人間」ですね。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%82%B8

ウマシマジ命

物部氏、穂積氏らの祖とされる人物。
『日本書紀』では「可美真手命(うましまでのみこと)」と
『古事記』では「宇摩志麻遅命」、
『先代旧事本紀』では「味間見命(うましまみのみこと)」と表記する。


饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)[1]を娶って生んだ子で、
天香山命(尾張氏の祖)が異母兄であるとする伝えがある(『旧事本紀』)。

彦湯支命の父。


『古事記』によれば、始め長髄彦に従っていたが、神武天皇の東征に際して長髄彦を殺し天皇に帰服し、
以後自らの部族である物部(もののべ)を率いて皇城守護の任に当たったという[2]。

また『旧事本紀』によれば、神武天皇即位の後、饒速日命の遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を献上し、それを使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされ、これを後世の鎮魂祭の初めとしている。



物部神社の社伝によれば、美濃国・越国を平定した後に石見国で没し、
現在の社殿の裏に埋葬されたという。

越国の平定は、異母兄の天香山命の事績として知られる(彌彦神社を参照)。

これら物部神社や彌彦神社では、宮中でも行われる鎮魂祭が行われていることでも知られる(石上神宮も同様)。


鈴木眞年の『史略名称訓義』では、ウマシマジは大和国十市郡に居て天皇に天瑞宝を献じ、この正統は同郡穂積里に居て穂積の姓を負いそれより物部氏などが分かれたとし、ウマシマジの正統は穂積氏としている。



1.^ 長髄媛(ながすねびめ)、鳥見屋媛(とみやびめ)ともいい、登美夜毘売(『古事記』)・御炊屋姫(『旧事本紀』)とも表記される。
2.^ 以上の業績は、『日本紀』においては饒速日命のそれと伝えられている(神武天皇即位前紀戊午年12月丙申(4日)条)。




物部神社(島根県大田市):宇摩志麻遅の没した地とされる
石上神宮 (奈良県天理市):宇摩志麻遅の祀った布都御魂剣が、後に宮中から遷されたことで創建された
味鋺神社 (愛知県名古屋市):周囲に味鋺古墳群を持つ========あ〜、それで  ウマシマジ → 味鋺 = アジマ なのか。


続く!面白いですよ!
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月06日 13時43分29秒 ) パスワード

続き(面白いですよ)

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/nagasune/nagasune1.htm

長髄彦の後裔とその奉斎神社


1 神武の大和侵攻に抗して敗れた「長髄彦」については、有害な偽書『東日流外三郡誌』などの影響もあってか、日本列島の原住民の流れとか様々な誤解が横行している模様であるが、神武天皇創基の大和朝廷に先立つ「原大和国家」における有力族長としての地位(ないし君主的な地位)にあったとみられる。たんなる「賊魁」とはいえないことに十分留意したいが、その人物像と族裔については、既に宝賀会長が著書『「神武東征」の原像』で描いているので、周辺関係者や当時の時代環境などを含めての詳細は同書をご覧いただくこととして、そのなかから本件に関係する二点の概要を紹介する。

 

(1) 長髄彦の素性と後裔

長髄彦は、登美の那賀須泥毘古、登美毘古(『記』)とも記される。「長髄」とは、神武即位前紀にも記すように、その居住する「邑の本の号」であり、これを以て人の名としたものである。神武のイワレヒコ(磐余彦)と同様に、ある地域の首長・君長としての呼称であり、髄(脛)が長いという意味での身体的な特徴を呼んだものではない。そのことは、妹が長髄媛、三炊屋媛とも鳥見屋媛とも記されることに対応する。

記紀は長髄彦の出自についてなんら記述しないが、鈴木真年翁は、「醜類ニ非ス」として、「大和国城上郡登美ノ人、長髄モ同所ノ邑名、飛鳥事代主神ノ子」と記される(『史略名称訓義』)。丹後宮津藩主本荘氏の系譜『本荘家譜』には、物部の祖・饒速日命の子の麻斯麻尼足尼命(ウマシマチのこと)の右註に「母飛鳥大神之女登美夜毘売」と記される。長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったということであり、早くに太田亮博士も、「磯城彦は即ち三輪氏に外ならず」と指摘した。

神武軍に対処した兄磯城・弟磯城のうちで、倭国造の祖・珍彦の計略が奏功して斬られたほうの兄磯城も、長髄彦かその近親にあたり、磯城郡の居住地にも対応する。長髄彦は饒速日命(実際には、その子のウマシマチ)によって殺害されたというから、記紀の兄磯城は長髄彦とは別人で、その一族にあたる。神武に降伏したほうの弟磯城の名は黒速で、建国後の論功行賞で磯城県主に任ぜられたが(神武紀)、この人は三輪氏の系図に天日方奇日方命(またの名を櫛御方命、鴨主命といい、三輪君・鴨君の遠祖)と記される者に対応する。その妹が神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命(伊須気余理比売)であり、事代主神の娘であった(『書紀』の一書)。

磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。このように、長髄彦を一介の賊酋や土蜘蛛の類だったと考えるべきではない。とすれば、長髄彦の「長」は蛇を意味する「ナーガ」にあたるが、「スネ」はソネ(曽祢)かスワ(諏訪)にも関係するものか。

大和国には鳥見(登美)という地が二か所、城上郡(現桜井市)と添下郡(現奈良市)にある。長髄彦の本拠は城上郡のほうであったが、添下郡のほうも無縁ではなく、長髄彦の勢力範囲であった。この二つの鳥見にはそれぞれ式内社があり、城上郡の等弥神社、添下郡の登弥神社があげられる。後者は富雄川東沿岸の奈良市石木町に鎮座するが、その祭神のなかの一人に登美建速日命という神があり、同社の他の祭神からみて、この神が本来の祭神で登美彦すなわち長髄彦にあたると考えられる。中田憲信編の『諸系譜』第六冊所収の「長公系譜」には、建日別命という者が見えるが、この者こそ登美建速日命ではないかと考えられる。

同系図では、建日別命は長国造(阿波南部)・長我孫や都佐国造(土佐)の遠祖であり、事代主神の孫に位置づけられる。その父を天八現津彦命(一云、観松比古命)とするが、又名の観松比古命は、「国造本紀」の長国造及び意岐国造の条には観松彦色止命と見えており、阿波国名方郡の式内社、御間都比古神社(ミマツヒコ。名東郡佐那河内村下モノミ石に鎮座)の祭神でもある。観松彦命は事代主神の子とされること、その子に「登美」に関係ある者がいること、その後裔に長国造・長我孫を出したことなどを考え合わせると、神武に立ち向かった長髄彦その人であろう。そして、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だということになる。

長国造の領域は阿波国那賀郡の那賀川流域が中心であったが、その周辺には、勝浦郡の式内社の事代主神社や、名方郡の式内社の多祁御奈刀弥神社(タケミナカタトミ。名西郡石井町浦庄字諏訪に鎮座し、諏訪神たる建御名方命・八坂刀売命夫妻を奉斎)など三輪・諏訪一族に関係が深い古社が存在しており、これらの社も長国造一族が祀ったとみられる。

「観松彦」とか「天八現津彦」とかいう呼称は、大和の支配者の美称にふさわしい。大和朝廷第五代の天皇である孝昭天皇の和風諡号が観松彦香殖稲尊とされることも想起される。観松彦の下の「イロト(色止・伊呂止)」が弟を意味する語であることで、長髄彦が事代主神の後継者であっても実際には子ではなかったとすると、兄・事代主神に対する「弟」の意味で妥当か(この意味で、建御名方命にもあたるか。後述)。

上記の推定からは、長髄彦本人は討たれたものの(ないしは討たれたと装って逃走した可能性もあるのか)、その子孫は後世に残ったことになる。その一部は四国の阿波・土佐方面に逃走・遷住し、後の長・都佐両国造を出した。これら地域には、後期の銅鐸が多数出土しており、関連して、同じような銅鐸出土の傾向を示す三河・遠江が諏訪神一族の東国への逃走経路にあったことが想起される。三河・遠江地方を中心にする地域には、弥生時代後期では畿内地方とは異なる三遠式銅鐸が発達し多く出土するが、古墳時代では物部氏族系の諸国造に変わっていた。

 

(2) 伊勢津彦と諏訪神の建御名方命の関係

※ 両者の関係については、本HPの「伊勢津彦と建御名方命との関係」でも記したが、これをさらに敷衍し、上掲著作(とくに、同書の「コラム」の記事)を踏まえて記しておく。

 

関東や信濃という東国在住の古代氏族のなかには、神武の大和侵攻に玉突きされるように畿内周辺を追い出され、その結果、遠祖が東遷したという伝承をもつものがある。その著名なものは、『伊勢国風土記』逸文に見える神武朝の伊勢津彦であり、『古事記』の国譲りの段に大国主神の次子として見える諏訪神の建御名方命であって、両者の関係が江戸後期の本居宣長の頃から同神か別神かと議論されてきた(「伊勢津彦と建御名方命との関係」を参照のこと)。

伊勢津彦と建御名方命との関係については、出典も時代・地域も異なるが、国土を天孫(及びその子孫)に献上して本国を去り、信濃に鎮座するという所伝では事績が酷似するため国学者の間で論争があった。結論からいえば、両者は神武東征時の人という点では同じであるが、その子孫や祭祀・トーテミズムなどの事情を考えて、伊勢津彦は天孫族系統の出雲国造一族であって、武蔵・相模などの東国諸国造の遠祖であり(「国造本紀」には成務朝に武刺国造の祖・神伊勢津彦命の三〔?〕世孫の弟武彦命が相武国造に定められたと見える)、一方、建御名方命は海神族の出で信濃の神氏一族の遠祖であって、別人とするのが妥当である(従って、宣長説は誤り)。

神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、後者は前者の叔父となる)ということになる。

ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。諏訪のほうでは、「長髄彦」という名は伝えなかったのだから、これは敵方のほうから呼ばれた名称なのであろう。上記のように、四国の阿波・土佐方面でも「長髄彦」という名は伝えなかった事情にある。

建御名方命の後裔については、同神を遠祖神として、その子の伊豆早雄命(出速雄神)兄弟が中心となって三河・遠江を経て東国遷住をしたものであろう。この一族は「諏訪神族」と呼ばれ、信濃南部の諏訪地方を中心に古代中世の信濃におおいに繁衍したほか、経路地域も含めて長く勢力を保持した。同神とその眷属神関係の式内社が信濃の前掲社のほか、遠江国磐田郡に須波若御子神社があげられ、三重から愛知・静岡にかけての東海地方にも諏訪神社が多数分布する。その出自は海神族の三輪の磯城県主・大神君(三輪君)の一族であり、諏訪神族が諏訪大祝などを出して神人部(直・宿祢姓)を姓氏としたことに通じる。諏訪神社は奈良の三輪山を神とする大神神社と同様に本殿はなく、背後の山が神体であって、最も古い信仰形式を示している。


 

2 新知見の補記

 問題提起を踏まえて、さらに検討を加えたところ、阿波関係などで新しい認識も得たので補記しておく。

 

(1) 先に、建御名方命を祀る式内社が阿波国名方郡にあることをあげたが、その子の八桙神を祀る式内社も阿波国那賀郡にある。それが八桙神社という名で、徳島県阿南市長生町宮内に鎮座しており、『特撰神名牒』なども祭神を八桙神(建御名方命の子、あるいは曾孫)とする。その由緒には、「八桙神社は上古長ノ国造の祖神として竹原庄要津に鎮座す」とあるから、建御名方命の子の八桙神が長国造の遠祖でもあった。この所伝からも、「建御名方命=長髄彦」ということになる。長生町からも銅鐸出土の伝えがある。

諏訪の「神氏系図」には伊豆早雄命の弟に「八杵命」と見える者があり、これが阿波国の「八鉾命」にあたるとする指摘が『大日本史』神祇志や飯田好太郎の著述に見える。また、『諸系譜』第六冊所載の「長公系図」には、弟の意味「イロト(色止・伊呂止)」を名にする「伊侶止命」(すなわち長髄彦)の子に「八上乃命」があげられており、これが「八桙神」にあたるとみられるから、諸伝が符合する。同系図では、八上乃命の子の代に阿波の長国造系統と土佐の都佐国造系統に分かれたと見える。

 

(2) 御間都比古色止命を祭神とする名方郡式内社の御間都比古神社は、現在、名東郡佐那河内村の長峯中腹にあるが、そこから園瀬川を少し下った地の徳島市上八万町星河内の巽山古墳は前期(四世紀前半か)の大型円墳であり、古墳の対岸にある星河内美田の赤土採取場からは七個分もの銅鐸(袈裟襷文銅鐸の破片)が集積埋納される状況で出土した。神社と美田とのほぼ中間地東方にある同市八多町多家良辺りからも所伝を含め三個の銅鐸出土がある。徳島県内からは伝も含めて合計約四〇個もの銅鐸出土があるが、これらが徳島市・阿南市の地域に集中する。なお、高知県でも約十個の出土があるが、こちらは散発的なものである。

『日本の神々 2』には御間都比古神社の項で、板東・松本両氏により、「園瀬川上流域には、弥生後期に大量の銅鐸を保有しうる集団がすでにあり、古墳時代に入っても強力な豪族のいたことが窺われる。少なくとも後者は、観松彦色止命を祖とする長国造と深い関連を有する集団であろう」と指摘される。

 

(3) 関連して「伊勢都彦」についても、『埼玉叢書』所収の「角井家系」などを基に再考してみる。同系図は貴重な古伝とみられるが、伊勢都彦周辺に若干の混乱があると考えられる(関連する記事が『風土記』逸文にもある)。そのため、世代対応などを基礎にしてこの辺の系譜を整理すると、出雲国造の祖・天夷鳥命の子に出雲建子命(櫛玉命。その実体は物部祖の櫛玉饒速日命〔『書記』の表記〕と同神するのが妥当)がおり、その子の神狭命(諸忍毘古命)こそ神武朝に伊勢国度会県に居て東国遷住した「伊勢都彦」に当たる者だとみられる。

神狭命の後裔は、崇神朝頃から始まった大和朝廷の東国進出に服属する形で勢力を拡大し、武蔵・相模や上下の海上などの東京湾・相模湾沿岸地域に置かれた東国諸国造となった。ま た、東国から陸奥にかけても広く分布し、これら地域に多い丈部などの諸氏の遠祖でもあるが、後年、阿倍臣氏と縁由ができたことで、陸奥各地の丈部は阿倍 □□臣などの賜姓をうける傾向があり、この辺の記事が六国史に多く見える。


 

3 中世武士団の活動

諏訪の神党武士団は平安後期頃から史料に登場し、源平や南北朝期の争乱をこえ、戦国期まで及んだ。神党武士の諸氏は諏訪・藤沢など信濃にきわめて多く見え、本来は他姓の金刺宿祢や称滋野朝臣姓の諸氏まで取り込んで活動を展開した。その基礎に諏訪神信仰があったことはいうまでもない。

阿波の長国造後裔の諸氏は知られないが、阿波国那賀郡から対岸の紀伊北部に遷住した支族もあった。紀伊国那賀郡の郡司大領家となり、長我宿祢姓、のちに仮冒して藤原朝臣姓を称し、紀ノ川中流部の伊都郡隅田荘にあって隅田八幡宮(和歌山県橋本市隅田町垂井)を核に結合した隅田党という中小武士団が平安後期頃から見られる。隅田党は隅田八幡宮俗別当・隅田荘下司公文職の称藤原姓隅田氏を中心として葛原・境原などの一族に加え、異姓(文宿祢姓〔橘姓と称〕上田氏や源姓土屋・松岡氏など)も含む族的結合であるが、その活動は南北朝・室町前期にも見られ、戦国末期までに没落して郷士となった。なお、隅田党の祖・長我忠延が十二世紀の初頭の長治年間にト兎神社(後の隅田八幡)の俗別当職となったことや因幡国八上郡に白兎神社が数社ある事情は、長我一族の先祖の系譜を示唆するように思われる。

これら東国や紀伊の武士としての行動に、遠い祖先である武神建御名方命・長髄彦の神武抗拒活動の記憶があったのかもしれない。ちなみに、伊勢津彦の末裔となる東国諸国造家などからも多くの中世武士を出し、「坂東八平氏」に数えられる三浦・大庭・梶原・長尾や藤原姓を称した安達(足立)などの諸氏があげられる。また、前九年の役の当事者たる安倍頼時一族も古代丈部の流れを汲んでいた。陸奥六郡の長・安倍氏が、長髄彦の兄・安日彦(アビヒコ)のが神武侵攻に抗して陸奥津軽まで落ちのび、その末裔だという安東・秋田氏系統に伝わる伝承も根拠がない。「安日彦」の名は記紀など信頼できる史料には記載されないが、伊勢津彦が伊賀で争った者として「阿倍志彦」という名が『風土記』逸文の伊勢(一説)のなかに見えるから、この意味で伊勢津彦所縁の者か。ともあれ、これら伝承・記憶は遠い先祖が神武に抵抗したことでは同じであり、武神経津主神(鍛冶神天目一箇命でもある)の末流でもあった。

 

このように見ていく と、神武東征は近畿地方のみならず、日本列島に大きなインパクトを与え、それが古代・中世の各地の歴史にもつながるという重大事件であったことが分る。記 紀など古代史料の些細な不都合を指摘して貴重な史料を無視し、上古の歴史を切り捨てるというような姿勢は歴史研究者としては取ってはならないものと思われるところである。
以上
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月07日 00時03分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「長髄彦」についての情報、ありがとうございます。たいへん貴重で
重要と認識いたしております。ここの部分は時間をかけて理解したいと
思います。
 長髄彦――事代主――伊勢津彦――建御名方命……ここら辺の関係を
はっきりスッキリさせたいとです――

 本日は、プールの帰り、磐田市上野部(旧豊岡村)にある「シルクロード
・ミュージアム」に行ってきました。中国・ペルシャ・インド・オリエン
ト他、幅広く遺物・宝物を収集されておりまして、そのレベルの高さには
ビックリいたしました。
 例えば、アレクサンダー大王の銀貨、クレオパトラの銀貨、ディオドト
ス一世の金貨……これらはほんの一例。
 また、新たに知り得た知識もありますので、少し情報を整理した上で、
また記したいと思います――
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月07日 10時05分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 シルクロード・ミュージアムで見たものの中で、特に驚いたものがいく
つかありました――
 まずは、「アンコールワットの石版レリーフ」でありました。
 その石板には「八岐のオロチ」のような龍蛇(ドラゴン)が描かれていま
した
 館長の話によりますと、「ドラゴン伝説」は世界各地にあるということ
であります。蛇と龍……蛇は爬虫類として現実に生きています。大蛇もい
ます。双頭の蛇も時として生まれます。多頭の蛇となると、これは想像上
の産物だと思わざるを得ません。
 さて、龍ですが、どちらかといえば、恐竜や大トカゲ(いわゆるドラゴン)
の要素を持っております。その顔は何とも例えようがありませんが、強いて
言えば、タテガミをもった馬と同じくタテガミをもったライオンをミックス
した感じと言ったらよいでしょうか???
 龍はどちらかというと中国由来で、水に関係しているように感じます。
 蛇あるいはオロチは、アダムとイブや宗教の中で、また歴史の伝説の中
によく出て来ます。

 この、世界にまたがるいわゆる「ドラゴン伝説」とは何なのでしょうか? 

 そして、長田は「ながた」と読んで「ナーガ」(ドラゴン伝説)に関係する
のでしょうか?
 あるいは「おさだ」と読んで「神の田んぼ」なのでしょうか?
 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月07日 13時47分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


ドラゴンは世界中ですね。古くはメソポタミアとかからあってギリシャにもあって中国にもあって世界中に伝播したような?


わたくし的に中国の竜は  竜巻  から発生したのではないか?と思っています。
                        天に昇っていく感じ
                        巻き上がって行く途中に短い腕や爪のような突起物(笑)がある
                        ものすごいパワー

ここから  竜  がイメージされたのでは?と。



でも西洋のドラゴンは合理的で羽が生えてますよね。
そして  爪は   玉=宝物   を掴んでいる。
でもイメージとしては  悪  の権化。悪魔。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3

ドラゴン(英語: dragon[† 1]、フランス語: dragon、ドイツ語: Drache、ロシア語: дракон)は、ヨーロッパの文化で共有されている伝承や神話における伝説上の生物である[1]。その姿はトカゲあるいはヘビに似ている。想像上の動物であるが、かつては実在の生きものとされていた[2]。

漢語・日本語の竜と英語の dragon は翻訳上の対応関係にあり[† 2]、竜/ドラゴンのモチーフは世界各地の文化に共通しているという考え方もあるが[4]、西欧世界のそれは、竜という語が本来的に指し示す東アジアの竜/ドラゴンとは明確に異なった特徴を有する[5]。本項目では主に西洋のドラゴン、および関連する蛇の怪物や蛇の精霊を扱う。

英語では、小さい竜や竜の子はドラゴネット (dragonet) という[6]。ドラゴンメイド(英語: dragon-maid)は半竜半人の乙女の怪物で、メリュジーヌに似ている[7]。

続く
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月07日 14時16分09秒 ) パスワード

面白いので抜粋してコピペ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3



特徴[編集]

ドラゴンは鱗に覆われた爬虫類を思わせる体、鋭い爪と牙を具え、しばしば口や鼻から炎や毒の息を吐く[8][9]。典型的なドラゴンは有翼で空を飛ぶことができるが、地を這う大蛇(サーペント)のような怪物もドラゴンに分類され、とくにゲルマン系の伝説ではしばしば地下の洞穴をすみかとしている。体色は緑色、黄金色、真紅、漆黒、濃青色[† 3]、白色[† 4]などさまざまである[10][† 5]。ドラゴンは炎を吐き、蛇の尾、鳥の翼と魚の鱗を有するハイブリッドな動物であり、四大元素を体現する存在でもあった[11]。とはいえ、ドラゴンはつねに定まった形象を具えていたわけではなく、時代を経るにしたがってさまざまな属性を付与されてイメージが肥大化していったものである[12]。



語源[編集]

ドラゴンという語はギリシア語のδράκων(ドラコーン)に由来するが、この語は δέρκομαι[† 6](「見る、はっきりと視る、鋭い眼差を向ける」等の意[13])の近縁語とされる[14][15]。この説に拠ると、ドラコーンはこれと同じ語幹の派生語であり、原義は「鋭い眼光でにらむ者」と解される[16]。ラテン語形 dracō(ドラコー) を経て、1225年頃初めて英語の文献に"dragon"という語が現れた[8]。




古代[編集]

ギリシア・ローマ[編集]


ドラゴンに相当するギリシア語のドラコーンとラテン語のドラコは、いずれもヘビを指す言葉であり、古代世界ではドラゴンと蛇(サーペント)は厳密には区別されていなかったと考えられる[16]。『イーリアス』第11歌の冒頭でアガメムノーンが身に着ける楯の提帯と胸当には、それぞれに群青色[† 7]の三頭の蛇(ドラコーン)があしらわれている。プリニウス(1世紀)の『博物誌』第8巻では、ドラコはゾウと敵対して闘争する大蛇として紹介されている。それによると、アフリカやインドに生息する蛇は象を絞め殺してその冷たい血を飲もうとするが、血を抜かれて倒れこむ象の巨体に圧殺されて相討ちとなる[16]。アイリアノス(3世紀)の『動物の本性について』でも、インドの蛇(ドラコーン)は象の首に巻きついて圧倒的な力で締めつけると述べられている[17]。中世の動物寓意譚のベースとなった『フュシオロゴス』(2-5世紀)にはドラコについての独立した章はないが、象やマングースの天敵として複数の章で言及されている[18]。ルカヌス(1世紀)の叙事詩『内乱』には、アフリカの地を這い牛や象を絞め殺すドラコが登場するが、羽根 (pinna) で空気を動かすと描写されている点がプリニウスと異なる(有翼の蛇はアリストテレスの『動物誌』やヘロドトスの『歴史』にも出てくる[19])[20]。



聖書[編集]

ギリシア語訳旧約聖書である『七十人訳聖書』では、ヘブライ語のリヴヤーターンやタンニーン(英語版)がドラコーンと翻訳されている[21]。タンニーンは巨きな海の怪獣を指す言葉で、この語は場合によってワニ、クジラ、蛇と解される。また、ヘブライ語のタンニム(タンの複数形)は何らかの荒野の生きものを指し、ジャッカルとも翻訳される[22]。

ダニエル書補遺の「ベルと竜」では、バビロニア人の崇拝する大きな竜が登場し、ダニエルによって殺される[23]。

『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」では、七つの頭、十本の角をもつ赤い竜が登場する(黙示録の獣)。この悪魔とかサタンとも呼ばれる巨大な竜は天上でミカエルと戦って敗れる。



—「ヨハネの黙示録」第12章3-9

3  また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。
4  その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。
〔……〕
7  さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、
8  勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。
9  この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された[24]。



                      中略



西洋の竜・蛇の伝説[編集]

キリスト教では、『ヨハネの黙示録』の竜(黙示録の獣)に代表されるように、ドラゴンはたいてい「悪」の象徴とされ、悪魔と同一視されたり、邪悪な生きものであるというイメージが付きまとう。また、狼やユニコーンと同じく、七つの大罪の一つである憤怒を象徴する動物として扱われることもある。聖ミカエルと聖ゲオルギウスは竜退治の戦士として有名であり[45]、かれらの竜退治は悪の力との戦いを象徴するものと解釈される[46]。神話学的解釈では、竜殺しの伝説における竜は宇宙論的悪の象徴であり、聖人や英雄がそれを退治するということは、その宇宙論的悪すなわちカオス(混沌)をコスモス(秩序)へと変えることを意味する。中世史家ジャック・ル・ゴフによると、西洋の竜退治のテーマのひとつは、混沌の力が支配する土地を人間が安心して暮らせる場所に変えることである[47]。ゲオルギオス (Γεώργιος) というギリシア語名は土地を耕す者、すなわち農夫を含意しており、自然の力を象徴する「大地の精」[† 14]たる竜との闘いは、人間が自然と格闘して土地を開墾するということを寓意する[49]。




ギリシア神話[編集]

ギリシア神話には英雄の竜殺しの話がいくつかある。竜は宝物の守り手として、あるいは自然の猛威の象徴として登場し、多くは英雄に退治される。ヘーラクレースは黄金の林檎を守るラードーンを屠り、カドモスはアレースの泉を守る竜を倒し、イアーソーンは金羊毛を守る竜を討ち取る。これらの竜の見張番としての役割は、「鋭い目で注視する」というドラコーンの語源説を想起させる[73]。




ウロボロスは永劫回帰や永遠の象徴とされる。数学の「∞」(無限大)もウロボロスから来たものである。カール・グスタフ・ユングは、人間精神(プシュケー)の元型を象徴するものとする。


                                     鬱の感じ?鬱鬱とエンエンと悩む感じ?
                                     人間精神(プシュケー)は英語だったら psych=頭が混乱している ことかなと。

                                     この自分のシッポを飲み込んでいる図は「玄武」みたいだなと思う。
                                     天の北方の守護神で、カメの甲に蛇が巻きついた形(次のレスへ)


神話学的解釈(この項、信頼性に欠ける)

元々は原始宗教や地母神信仰における自然や不死の象徴として崇められる蛇が神格化された存在だったと思われる。キリスト教的世界観では、蛇は悪魔の象徴であり、霊的存在を意味する翼が加わることで、天使の対としての悪魔を意味することがある。時代が流れ、「自然は人間によって征服されるべきもの」等といった思想の発生や新宗教が生まれ、新宗教が旧宗教の信者を取り込む際等に征服されるべき存在の象徴(征服されるべき者=悪者)として選ばれたこともある。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月07日 14時22分26秒 ) パスワード

ウロボロス



玄武  http://www.google.com/search?q=%E7%8E%84%E6%AD%A6+%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%80%80%E3%81%AF&biw=1187&bih=613&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjvnd78vfzOAhUUzGMKHbt1ARcQsAQIGw


高松塚古墳の玄武
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月07日 16時51分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ヨハネの黙示録、高松塚古墳の玄武、ウロボロス……等、いろいろ勉強
になりました。
 いずれにしても、龍の方がソフィストケイトされているように感じ、蛇
の方が性強く、また畏怖を感じる存在であります。

 「龍蛇族」という言葉が、歴史用語として確立されているのかどうかわ
かりませんが、諸文明のルーツを探る意味でも、龍蛇はキーワードになる
と思います。
 ひょっとして、ムー文明と龍蛇が関係している可能性はあるのか、少し
探ってみます――
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月07日 18時52分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様 今晩は。
横から失礼いたします。ミヤハラです。

玄武 のお話が出ていらっしゃいますが・・

実は私のコメントの方で書いた親戚が宮司家を務める築地熊野座神社ですが
四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)が其々描かれた古い掛軸がお祀りされています。

先日、神社に伺った時に「何故かな?」とは思っていたのですが、お二人の御調査に「玄武」のお話が出てきたので、「偶然だな・・」と思いまして、コメントさせて頂きました。

今後も、興味をもって拝読させて頂きます。

失礼いたします(..)
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月07日 22時34分09秒 ) パスワード

教えていただきました:
http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/201212310000/


古代ではヘビは死ぬことはなく、定期的に脱皮して新しく生まれ変わる、もしくは別の生命となって再生すると広く信じられていました。




ウロボロスは、古代の象徴の1つで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。

ヘビは、脱皮して大きく成長するさまや、長期の飢餓状態にも耐える強い生命力などから、「死と再生」「不老不死」などの象徴とされる。そのヘビがみずからの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味が備わりました。



日本の天皇のルーツ、ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが、【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】の意で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみてとれます。

神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。



古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。
しめ縄の原点であり、有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。


【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、
蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。


*【史記】の伏犠・女カの神像は共に蛇身人首で、両尾をしめ縄のようにからませています。
*キトラ(亀虎)古墳の内部に示された玄武神は蛇と亀が絡み合って表現されています。




インドのナーガ族ですが、ナーガ族の研究の権威、C・F・オールドハムは、
古代インドの聖典【リグ・ヴェーダ】に出てくる蛇やアスラ、【マハーバーラタ】のナーガ族は同じもので、アーリア人の侵入に抵抗した先住民族であるとしています。

ナーガ族は、インダス文明を築き、ナーガ(蛇神)を祀って、カンボジアのアンコール・ワットの遺跡に見られる七頭の蛇も彼ら【ナガ】のことであるといいます。

ナーガ族は、宇宙創造の七つの原理を七頭の蛇に置き換えて信仰し、この宇宙創造の七つの原理は後に【聖書】の七日間で天地が創造されたという記述になっていきます。

インド文明を支えていた人々はドラヴィダ民族と想定されていますが、【アスラ族】は、その貴族階級にあたるもので、【アスラ】は、その紋章としてナーガ(蛇)を選び、それ故にナーガ族とも呼ばれていました。アスラ族とナーガ族は蛇を信仰し、【不殺生】は、もともとインダス文明の担い手だった先住民族の思想でした。インダス文明の遺跡から発掘された弓矢のヤジリは、尖らずに丸い玉になっていて、彼らは野獣を射るにしても、殺さずに失神させて捕らえたらしい。



そのナーガ族がインドに来る何万年も前に日本列島に来た【アスラ族】であったと分かってきました。カタカナム人といわれる【アシヤ族】は【アスラ族】であったナーガ族のことであったようです。港川人という名称は、後に発掘した日本人が付けたもので【アスラ族】であったナーガ族のことであったようです。



日本列島を出て行ったアスラ族(天皇家)がインドのナーガ族になり、さらに西に進んでシュメール文明を築かれたというのが、年代的に合うことが分かってきました。


そして敢えていえば、日本とインドの中間にチャーチ・ワードが唱えた【失われたムー大陸】に移住していたという説があります。荒唐無稽な話と切り捨てることも簡単ですが【竹内文書】にも日本列島の南に【ミヨイ】と【タミアラ】という二つの大陸が地図上に書かれており、これがムー大陸が沈没する以前の地形を表わしていると指摘する人が多い。


チャーチ・ワードは、【ナーガ人は、ムーからの教育、布教に来た移住者で、アーリア人は彼らから文化を吸収した。バラモン教の聖典【リグ・ヴェーダ】に、ムーの人々の持参した【聖なる霊感の書(ナカール文書)】と一致する字句がある。しかし、バラモン僧たちは自分たちの師であるナカール(ナーガ族)達をインドから追い出した】としています。そして、ナーガ人の築いたナーガ帝国についてインドなどの古文献を参照にして次のように述べています。


【今から七万年前、その「母なる地」から一団のムー人が西へ向かい、まずビルマに移住した。

彼らは母国の宗教と科学の伝道を目的とする「ナカール(聖なる同胞)」と呼ばれる賢者たちでナーガ族の名でしられるようになった。彼らは、さらに西進して、インド東部のナーガランド地方に腰を落ち着けると、インド半島全土に「母なる地」の文明を建設した。その初代の王名は、ラーマといった。ナーガ帝国はムー大陸が一万二千年前に大災厄で海中に消えてからも「母なる地」の文化遺産の正当な後継者として数千年間栄華を誇ったが、やがて野蛮なアーリア人の侵入を受け、インダス文明を最後の輝きとして滅び去った。アーリア人はナーガ族を残虐に抹殺する代わりに、まず巧みにその高い文化と思想を吸収して自分たちのものとしながら、徐々に駆逐していった。例えばバラモンの祭官階級が書いたとされる最古の宗教書【ヴェーダ聖典】や最古の天文書【スーリヤ・シッダンタ】も真の原典はムー大陸にあり、彼らは先住民の文化遺産を盗んだに過ぎなかった。】


すっごい壮大!
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月08日 00時02分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様にはいつもビックリですが、今回はいささか震えがくるビックリ
です――。太古史の「キモ」だと思いますので、これからの一日、全神経
を集中して読解いたします――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月08日 02時12分57秒 ) パスワード

石田三成不死伝説 関ケ原合戦後、逃げ延びて秋田で没す 秋田市の帰命寺に墓が?

                     「墓」があるからといっても、そこに居て、死んだ、とはなりませんから、ね。


 NHK大河ドラマ「真田丸」はいよいよ、天下分け目・関ケ原の合戦へとストーリーが展開している。山本耕史演じる西軍の中心である石田三成は、徳川家康率いる東軍に負けて、京都・六条河原で処刑される−。

 歴史上そうなっているが、「処刑されたのは影武者で、三成は逃げ延びて、秋田で没した」という不死伝説がある。そして、秋田市の帰命寺(きみょうじ)には、三成のものと伝えられる卵型の墓石まであるのだ。

 同寺の黒石了道住職から聞いた言い伝えによると、危機を脱した三成は、京都・大原の阿弥陀寺(あみだじ)に身を隠し、弾誓(たんぜい)上人のもとで得度し、名前も長音(ちょうおん)上人と改めたという。

 修行に励んだのち、三成は佐渡島や江戸、羽前(山形県の大半)を経て、秋田にたどり着いたとされる。「江戸では、天海上人と交流を深めた」という話まで残っている。天海上人は家康・秀忠・家光の徳川三代の将軍を補佐したとされる高僧で、明智光秀説もある。


 三成が秋田に向かったのは、親しかった大名、佐竹義宣(よしのぶ)を頼ったものという。


 家康は関ケ原後、西軍の首謀者を処刑し、加勢した諸大名も改易、厳封に処した。その中に佐竹がおり、常陸(茨城県の北東部、54万5800石)から秋田(20万5800石)に国替えを命じられていた。


 三成は秋田で帰命寺を創建して、生涯を閉じたと伝えられている。墓石には「延宝六(1678)年八月七九歳で入寂(にゅうじゃく=死亡)」と刻まれている。三成は永禄3(1560)年の生まれといわれるので、118歳となり、疑問が残る。

 東北には、源義経などの不死伝説がいくつかある。日本人の判官びいきが作り出したのか、敗者への同情の伝承なのか。 (ジャーナリスト・岡村青)



                                                          佐竹や上杉を訪れていたかも、ですね
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月08日 05時28分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様 おはようございます。
横から失礼致します ミヤハラです。

空の青海のあを様
「玄武」に繋がる御調査、拝読致しました。
たいへん勉強になりました。ありがとうございます。

壮大な内容で「ドキドキ」致しました。

〉【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、
蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。

鳥肌がたってしまう程、非常に驚きました。
系図によると私の親戚は本姓「大神氏」です・・・。

『秀真伝ほつまつたえ』『竹内文書』についても記されていましたが、
よろしければ、『秀真伝ほつまつたえ』『竹内文書』が登場するこちらもご覧頂ければと思います(..)
サイト 謎の文字・神代文字とは
http://matome.naver.jp/odai/2141317479524361701

上記サイトにも登場した阿比留文字・阿比留草文字ですが・・

ウィキ 阿比留文字 より
阿比留文字と朝鮮文字(ハングル)は形が似ており、何らかの関係があると考えられている。但しハングルと違い、母音字母は必ず子音字母の右に置かれる(全て下に置くものもある。竹内文書では縦文字をアメコアヒルモジという)。

ウィキ 阿比留草文字 より
阿比留草文字(あひるくさもじ)は、各地の神社において神璽や守符、奉納文などに用いられている文字である。神代文字の一つともされている。
阿比留草文字は各地の神社において神璽や守符に用いられている。阿伎留神社には神符の発行に用いられた阿比留草文字の版木が残されている。また伊勢神宮には神代文字によって記された多数の奉納文があり、その中で最も多く用いられている文字は阿比留草文字である。 また、幾つかの書体がある。

阿比留家の文書に阿比留文字や対馬文字と共に書かれている事から、阿比留文字の草書体とする説が国学者の平田篤胤などによって唱えられたが、今日の研究では起源の異なる文字であると考えられている。
日本語学者の北里闌(きたざとたけし。因みに北里柴三郎の親戚である)は、似た形と発音を持った文字があるとして阿比留草文字とフィリピン文字との関連を指摘しており、同系統の文字ではないかと主張している。
阿比留文字が古代の球磨川辺りに住んでいた人々(肥人)の使った文字として「肥人書」(くまびとのて)と呼ばれるのに対して、阿比留草文字は薩摩人(隼人)の文字という意味で「薩人書」(はやひとのて)と呼ばれる。

いわゆる神代文字の中でも、特に神道界に強い影響を与えた文字の一つである。
平田篤胤は『神字日文伝上』で、『釈日本紀』に「或乃川等字明見之」と述べられていた「肥人之字」について、阿比留草文字に「乃川」に見える文字が存在することを根拠として「神字の草書を肥國人の書るなること疑なく」と述べ、阿比留草文字こそが「肥人の字」であるとした。
神代文字研究家の吾郷清彦は「釈日本紀」に「此書(文字)今図書寮ニアリ。其ノ字体頗ル梵字二似タリ」という記述がある事から、この文字が阿比留草文字ではないかとしている。
清原宣賢(吉田兼倶の子)は『日本書紀抄』(1527年)において「其字形、声明(シャウミャウ)ノハカセ(墨譜と書く。声明の楽譜の事)ニ似タリ」と、神代文字の形を具体的に述べている[1]。「節墨譜文字」という呼び名はここから来ている。
諦忍が1776年(安永5年)に著した『神国神字弁論』では、鶴岡八幡宮などに伝わる文字としている。また平田篤胤が1819年(文政2年)に著した『神字日文伝』では、鶴岡八幡宮のほかに鹿島神宮、大神神社、法隆寺、出雲大社など各地の寺社に伝えられるとしている。
『美社神字録』(うつくしのもりしんじろく)や、『かむことのよそあり』に採録される「大祓詞」(おおはらえのことば)といった史料では、異なる神代文字である阿波文字との混ぜ書きが用いられている。

※平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。
====================================================

阿比留文字・阿比留草文字 は偽書である・・と言うのが現在における見解のようです。

しかし、江戸時代には存在していたと言うのは確かであり、様々な神社に残る「文字」であると言うのも確かです。
偽書であっても、江戸時代に『何らかの意図を持った方々が、何かを伝えようとした・・』と、私は考えてしまうのですが・・(考えすぎかな??)
その『伝えようとした何か』が『古代の”影”となった事』に繋がるのかな?
などと・・又、考えすぎかもしれませんが、頭をよぎります・・

空の青海のあを様、三つ柏服部様
お邪魔した上に、長々と書いて申し訳ありませんでした(..)
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月08日 22時18分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[14]については、深淵な話なのでじっくり時間をかけて検証して行
きたいと考えます。
 シュメールの前のムー大陸まで遡っての話ですので、論証ははなはだ難
しいものと思われます。でも、この際、いろいろな図書・資料にあたって
みたいと思っております――

 ミヤハラ様、ご親戚が大神氏ということで、何か引き合うものを感じま
す。ミヤハラ様のパワーある取り組みも、きっと祖先からの後押しがある
からだと思います。
 大神氏は三輪氏ということになると思います。大神大物主神社(大神神社)
は三輪山にあります。
 三輪というと三つの輪のようにとらえますが、「巳輪」ととらえると、
蛇の輪=ウロボロスということになり、ずっと太古の時代から伝承されて
きている「シンボルとしてのコンセプト・メッセージ」を感じます――

 シュメールの時代といいますと、いまから6000年くらい前のことで
しょうか。6000年が長いか短いか……時間は長くても、歴史の密度を
考えると、時間は当初はゆっくりと流れ、いろいろなものの発達と共に、
相対的に時間経過が早くなったというイメージであります。
そう考えますと、時間密度が極端に濃くなるのは、産業革命以後ですので、
6000年前というのは、べらぼうに遠い昔ではないような気もいたしま
す。
 ただ、ムーといいますと、海に消えたしまった大陸ということで、歴史
の証拠が少ないのが難点であります。でも、人類の文明の歴史は、とりあ
えずそこら辺までは、解明してほしいと願っております――


 あを様、戦国武将は、みんな影武者をたてていたのではないかと思われ
ますので、討死した武将も実は生き残っていたという可能性は大いにある
と思います。
 それが証明できればいいのですが、実証するにはDNA鑑定をする他な
い訳で、結局は不可能……ロマンでいいとしてしまいますね――

 とりとめのない話になってしまいました。
 今、坂井洋一氏の『日本の始まりはシュメール』という本を読んでいま
すが、ムーの記事と合わせて、今後考察してみたいと思います――
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月09日 04時35分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

ムー大陸ということで、こんなURLを教えて頂きました:
http://www.tomaatlas.com/lib648.htm




沖縄のロゼッタストーン    ウイキにもちょっと出てます:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%BC%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3


歴史が好きな方なら、「ロゼッタ・ストーン」を、ご存じの方も、多いと思います。
1799年に、エジプトに遠征中だったナポレオンが、ナイル河口のロゼッタ付近で、発見したそうです。
ロゼッタ・ストーンの「ロゼッタ」は、発見された地名です。


大きさは、縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kgと、かなり大きいです。
現在は、イギリスの大英博物館で、展示されているみたいですね。
いつか、見に行ってみたいです。



内容については、省略しますが、これに刻まれた文字は、現在、いろいろと解読されているみたいです。
興味のある方は、調べてみてくださいね。
ところで、沖縄にも、ロゼッタ・ストーンのようなものが、存在しているって、知っていましたか?



「沖縄のロゼッタストーン」
と呼ばれている、謎の石たちです。


これは、1933年に、沖縄県中頭郡嘉手納町の付近で、最初に、発見されたと言われていますが、昔から、聖地などで、いろいろな儀式などにも、使っていたそうです。


発見されたときは、144枚あったという証言もあるそうですが、戦時中に、米軍に没収され、現在では、日本には、12枚くらいが、沖縄県立博物館などの数か所に、保存されているそうです。


書籍やセネットで調べると、この石に刻まれた文字については、多くの学者が、たくさんの説を述べているみたいです。


縄文時代や弥生時代、他にも、アイヌ文化、インディアン文化、中国の文化、マヤ文明、インカ文明など、様々な場所の文字と比較しながら、自説を、展開しているようです。


おそらく、どれも、大まかで正しいのだと思います。


古代の文献や壁画などは、わざと抽象的な表現で残すことによって、後世の人々に、それぞれが違う解釈をするように、そして、それによって、お互いに議論させるために、意図的に、仕組まれているような気がするのです。


人々が、対立することまで、計算しているような気がするのです。
神様が、ちょうど、知恵の輪を作って、私たち人間に、
「さあ、皆さん、今度は、この問題を解いてごらん!」
と言っているような気がするのです。



沖縄のロゼッタストーンの写真を見た時に、私は、自分なりに、直感で解釈しました。
私の頭の中に、データバンクされている中で、瞬間的にヒットしたのは、
「スイスで撮影されたUFOに、形が似ているな…」
という閃きでした。




まず、これが、沖縄のロゼッタストーンの一枚目です。
画像はURLへ


左上のピラミッドみたいな形を見て、ほとんどの方は、南米のピラミッドを、想像すると思いますが、私は、スイスのUFOを、思い出しました。
画像はURLへ


この結婚式のデコレーションケーキのようなUFOは、一説によると、宇宙人が、テレパシー通信を使って、人間に作らせたUFOらしいです。
アップの写真です。
画像はURLへ


このUFOは、有名なスイスのコンタクティー、ビリー・マイヤーが、撮影したものです。


ご存じのように、マイヤーも、アダムスキーと同じく、偽物説が、有力です。
しかし、詳しく調べると、たしかに、偽物の写真やインチキな動画、嘘の証言も、たくさんありますが、明らかに、本物である物や出来事も、存在しています。
やはり、マイヤーも、いろいろな陰謀や利害関係に、巻き込まれて、大変だったと思います。
私は、マイヤーの体験談は、複雑な事情があったにせよ、一部は、本物だったと思っています。




さて、この写真が、部分的にでも、宇宙人と関係あると仮定すれば、面白い展開になってきます。


ビリー・マイヤーが、コンタクトしていた宇宙人グループは、プレアデス星団です。
ということは、太古の時代の沖縄の文化に、プレアデス星団からの宇宙人グループが、関与していた可能性が、出てくるのです。


プレアデスの文明は、ムー大陸の文明とも、大きく関わっていたそうですね。
「プレアデス星団=ムー大陸=沖縄」
という関係が、見えてきます。
興味深いですね。


宇宙には、星や星座が、たくさんあるのに、昔の日本には、なぜか、星の名前が、記されている文献が、少ないのです。
でも、「昴(すばる)」、つまり、「プレアデス星団」の名前だけは、頻繁に出てくるようです。
このことから、日本という国とプレアデス星団は、かなり深い関係があることが、推察されます。
その中でも、沖縄の文化とは、特に関係が、深かったのかもしれません。




次の石は、沖縄のロゼッタストーンの二枚目です。
画像はURLへ


上のほうの絵は、明らかに船の上に、何者かが、乗っていますね。
私には、これが、首の長い龍に見えました。
さらに、その龍の首のあたりに、黒っぽい影がありますが、これは、人の頭に見えます。



そこで、似ている絵を、頭の中で検索したら、中南米にある壁画が浮かびました。
画像はURLへ

龍のお腹の中に入ったようなUFOで、操縦している飛行士がいますね。
左右が逆ですが、この二つ、似ていませんか?


この壁画では、どの宇宙人グループかは、わかりませんが、当時の中南米に来ていたグループが、沖縄にも、やってきていたと想像したら、ワクワクしてきませんか?




私は、こうやって、宇宙的な視点から、古代文明を解き明かすのが、大好きです。


今までの考古学や文明論では、結局、結論を聞いても、
「この民族とあの民族は、文化が違う」
「この人種とあの人種は、遺伝的に関係ありそうだ」
だいたい、このような小さな話になって、おしまいです。


こんな議論を、いつまで続けていても、地球から、争い事はなくなりません。


でも、宇宙考古学的な視点で、宇宙から、地球を眺めるような話になると、
「そうだよな… もともとは、全ての人間は、同じ宇宙から来た仲間だったんだよな…」
私は、本当の世界平和というのは、こういう視点から、始めたほうがいいと思っています。

ただ楽しいだけで、学び始めた宇宙考古学ですが、こういう効果もあるということも、書いておこうと思います。

以上



なるほどね〜
人間の歴史をたかだか6000年ほどの過去から解釈しようというのは何か違う気がしてました。


だからといって数十万年前のアフリカの猿の時代に遡って
それが数万年前にアラビア〜中東〜世界中へ広がったから人類の文化はシュメールにある
というのも何か納得がいかない。

勿論原始的な人間である以上同じような発想があったのは認めるけど。



プレアデス星団ですか・・・
何か天地創造のお話を彷彿とさせます。
つまり  神=ヤハヴェ=プレアデス星人?

    最近発見されたのは重力波でしたっけ?
    この謎が解けたら 神=ヤハヴェ=プレアデス星人 が証明できるのかも。

[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月09日 10時41分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様 今日は(^'^)
また、お邪魔いたしました。すみません(..)

三つ柏服部様
私もお二人にはとても惹かれています。(引かれ合う物を強く感じています)
〉祖先からの後押し
ありがとうございます。私の頭の中には次々と色々な事が『思い浮かんで』しまい、コメントをご覧の皆様はきっと『変な人』とお感じなのだろうな・・と思っていました。
考えてみると、宮原の一族は辿れば「物部氏」。家の親戚は本姓「大神氏」。
古代を理解せずして何が解る!と先祖に言われているような気がしています(..)

空の青海のあを様
ムー大陸のお話。ワクワクしています(^'^)
実は、私、子供の頃に一番好きだったアニメは「海のトリトン」でした。(余談でした(..))

所で・・勝手ながら
九州の服部氏について少し調べてみました。
日向にも服部氏の名跡はしっかりと残っています。
サイト 日向・宮崎城 をご覧ください。
http://www.hb.pei.jp/shiro/hyuuga/miyazaki-jyo/

宮崎城は池内町の西に南北に連なる標高100m未満の低丘陵一帯に築かれている。

本丸である「椎城」の他、「服部城」、「斉藤城」、「長友城」、「彦左衛門城」などの名称が各曲輪に付けられており、これらは曲輪の守将に由来するものと考えられる。現地では北から「服部城」、「目曳城」、「本丸城」、「百貫城」、「彦左衛門城」の表記が道標などに出ている。

南北に伸びた丘陵に築かれた曲輪は広く、その間を空堀で区画している。北端は「服部城」で西背後を土塁と堀切、東尾根も堀切で遮断する。本丸の南には東西に分かれた広い曲輪があり、東へ降りて行くと南北に巨大な空堀が走りその先に南北に伸びる細い曲輪がある。
==============================================

図師氏・伊東氏 に関連するお城のようです。
伊東氏と相良氏は同族ですから、静岡県へと繋がって行くような気がします。

さらに日向日南には飫肥杉で有名な山林王飫肥御三家と呼ばれた服部家があります。
山林王飫肥御三家とは河野家、川越家、服部家。と言う事です。

九州と静岡県はしっかりと結ばれているようですね(^'^)

おじゃま致しました(..)  ミヤハラより
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月09日 16時15分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ミヤハラ様よりの「服部氏」の情報、どの筋の服部氏なのでしょう?
 平家、南朝、伊賀、それとも古代……?

 あいにく私は、それらに関する情報を持っておりませんので、あを様
よろしくお願いします――

 
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月09日 22時38分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>ミヤハラ様よりの「服部氏」の情報、どの筋の服部氏なのでしょう?
>平家、南朝、伊賀、それとも古代……?

情報が余りにも不確かなので同じく当惑しております。


A:
九州のことは全く分かりません。
    九州の地図でハッキリ分かっているのが  県名  ぐらいです。
    県庁所在地にもなるとどのあたりかもサッパリ分かりません。
   


B.
また客観的な裏付けの無い情報を基にした話の展開は好みではありません。
    「服部」という地名は日本中あちこちにあるでしょうから
    客観的な裏付けの無い話には乗りようもありません。

    唐突なコピペの切り貼り話には当惑するばかりでございます。



C.
ま、想像するのは

1  古代職能集団の服部氏がらみ?
2  平忠盛が肥前国神埼荘の預所となったことから?
3. 平忠盛の家老だった家貞(服部家長の父)が忠盛が西国の海賊追討に赴くとこれに付き従って海賊追捕をした時の話がらみ?
4. 平清盛が保元の乱の後に大宰大弐となり九州へ進出し、
   家貞も筑後守に補任され、
   薩摩の阿多忠景や肥前の日向通良の反乱を鎮圧した時以来の服部氏?
5. 平家全盛時の筑前の支配者であった貞俊の影響? 
6. 南北朝の時に後醍醐天皇のお子さまの懐良親王に従って興国3=康永1 (1342) 年薩摩に行き、
   九州の勤王党菊池,阿蘇ら豪族に擁せられた時以来の服部氏?
7. その他?


ということでお役に立てないことしか書けません。
ごめんなさい。
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月09日 22時59分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先日訪れた「シルクロード・ミュージアム」のすごいところは、国立
博物館並みのすごい遺物・宝物を収集しているということ。もっと驚く
ことは、見物者がその展示品の多くに手で直接に触れることができると
いうことであります……!
 私が手で触れ感激に浸ったものは、次の遺物であります――
 「楔形文字で記されたアッシュル・ナツィルパル2世王銘文
   時代:紀元前9世紀
   出土地:北メソポタミア(イラク)
   材質:石灰石
   アッシリアの王アッシュル・ナツィルパル2世(在位:前883〜859)
   の名が記された銘文の一部。彼は、アッシリアの領土を拡張し、イラ
  クのカルフ(ニルムド)に王都を建設した。遠征などの記録が多く残され
  ている。この銘文には(柱用の)円形枠の一部があり、宮殿などの床材と
  思われる。
   楔形文字で「アッシュル神の代理人、エンリル神とニヌルク神によっ
  て選ばれた者、アヌ神とダガン神に愛される者、偉大なる神々の武器、
  アッシュル・ナツィルパル(2世)の宮殿。偉大なる王、強き王、アッシ
  リア王トゥクルティ・ニヌルタ(2世)の子、そのニヌルタはアダド・
  ネラリの子。」
と書かれているということであります。アッシリアといえば、サルゴン2
世が有名であります。その時代、北イスラエルの10支族がアッシリアの
捕虜となり、追放後「イスラエルの失われた10支族」となっているわけ
であります。
 サルゴン王よりおおよそ200年前のアッシリア王の宮殿の床材ではあ
りましたが、そのヒスイ色に近い石板(縦30p×横40p×厚さ7p)
に本当に手をつけていいものか迷いましたが、思い切って右手の指先で触
れてみました。楔形文字の刻みもなでてみました。手は緊張のあまりこわ
ばっておりました。そしてその実感――おおよそ3000年前の過去は、
みごとに現代につながり、バトンタッチされました。その感激たるや……!
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月09日 23時07分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差いたしました。服部氏に関する推測、ありがとうございまし
た。大変すばらしいものでありました。勉強になりました。

 ミヤハラ様におかれましても、服部氏の具体的な情報わかりましたら是非
教えて下さい――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月10日 00時48分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


影武者の件ですが

昔の人は近いところで婚姻を重ねてましたから
顔かたち体格イメージなど、似てたでしょうし
自分の命に替えて影武者になっていいという身内も何人かいたでしょうね。


幸村だったら信濃や上野の親戚の中で何代にも亘って婚姻してきた真田家に
京都からやって来た母の血が入ったとはいえ
やっぱり男子ですから父方の信濃や上野の男子系の顔かたち体格だったでしょうね。

    身長は150pほどだったそうです 
    週刊誌の宣伝記事にちらっと出てました


天皇家でも美智子皇后陛下・雅子皇太子妃殿下と血が入っても愛子さまは天皇家のお顔ですよね。
体格の立派なところは母上の雅子さまを受け継いでいらっしゃるけれど。



なので討ち死にした人は影武者だったかも知れないし
または
戦後に見掛けられた人物が似た人物の方だったかも知れない。

ロマンですね。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月10日 01時07分51秒 ) パスワード


                                         ↑

母方先祖が南北朝時代に吉野にいて、さらに、紀州藩の某家から嫁が来て
そのせいか
伯母=母の姉で八千草薫にそっくり=に似た人

母=若い時はNHKの渡邊あゆみアナウンサー、最近の白髪頭は草笛光子にそっくり
の顔は和歌山の女性達が大勢顔を並べるシーンでは必ずそっくりな人が何人もいます。

今に至る現在でもですから、日本ってオソロシイ!笑
400年を超える昔だったら皆さんもっと似たような顔ばっかりだったのかも。オソロシイ!笑



三つ柏さん


                       >楔形文字で記されたアッシュル・ナツィルパル2世王銘文
                       >時代:紀元前9世紀
                       >出土地:北メソポタミア(イラク)
                       >材質:石灰石


すごいですね
紀元前9世紀!
なるほど石灰石だからですか。


確実に人々が生活してたんですね。
それが3000年もの後に三つ柏さんの手に触れた!
ロマンですね。


3000年前というと大陸や半島のアチコチから難民が日本に続々と到着した頃ですね。
縄文人は彼らの文化の高さに目を瞠ってた頃でしょうね。

アッシリアでは記録する文字があったのか。
すごい。


現在アチコチで古代遺跡が破壊されているのが悲しいですね。
古代人に敬意を表してくれたらいいのに。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月10日 09時11分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。おかげさまで、二つのあらたな背景がわかり
ました――
 つまり、江戸時代や戦国時代においては(どこまで遡れるか?)、同じ
階級、同じ職業、同じ地域の中で結婚しなければならなかった……また
家を保つため、血筋を保つためには近親者同士の結婚も、あるいは少な
くともイトコ同士結婚は日常茶飯事であった。従って、体つき、顔つき、
声などよく似た人間が近くにできたということ。そして今のような情報
化時代でなかったので、限られた人しか本物の顔・姿は見ていない。
 また、侍は髭をたくわえていたので、同じような髭にすれば、イメージ
としてはソックリになる……なるほど、ですね! ましてや影武者とい
うことが知られた場合は、知った者を消してしまえば秘密は保たれる。
また、日常においても、時々影武者が代役を演じておけば、なおさら固定
的イメージははぐらかすことができる。この人は、日によって、体調に
よって少し顔が変わる位の印象を与えておけば、なお分からなくなる……
ということですね。
 ますます、影武者の利用の現実が見えてきました。いろいろカムフラー
ジュしたという現実があったことの信憑性が、高まった気がいたします。

 もう一つは、縄文時代においては、オリエント起源の文化や渡来人の
レベルは、狩猟生活の人達から見れば、あらゆるものが遥かに進んだも
のであったに違いない。例えば青銅器や鉄器……畏怖、カルチャーショ
ックを感じたことでありましょう。もっとも、縄文時代の文化程度もか
なり見直されて来てはいますが……。

 ということで、おかげさまで、私の中において、歴史のとらえ方が一
歩、前進いたしました。


 さて、シルクロード・ミュージアムで見た物のなかで、アンコール
・ワットの竜蛇の他にも、印象に残っている物はたくさんあります――

 一つは、9世紀イラン出土の「ペルシャンブルーの大皿」。これは、
とても鮮やかな引き込まれる青色に魅了されました。
 
 二つ目は、紀元前6世紀、北斉時代の「弥勒半跏思惟像」で、紀元前
6世紀ということと、右足を左足に乗せ、右手の人差し指を立てた形で
右頬に寄せ、瞑想しているようなポーズ……右手の人差し指の形は何か
をシンボリックに表しているのかも知れません。

 三つ目に、後漢時代を中心とした「銅鏡」……イメージとして緑青色
に錆びているものと思っていましたが、それは土中から出土されたもの
ということ。建物内に保存されていたものは、作り立てホヤホヤという
感じで、それは赤身がかった銅というよりも、青みがかった鋳鉄のよう
な感じで、しかもピカピカ光っておりました。

 四つ目は、ペルシャやパルティアのガラス器類。これらは土中から発
掘されており、表面に銀箔がくっつたような感じ――これを銀化現象と
いうそうです。

 五つ目は、「向かい合う鹿模様の織物」で、7〜8世紀の中央アジア
のもの。絹織物で、とても色鮮やかなものでありました。正倉院にも同
じようなものがあるそうですが、こちらの方が色鮮やかとのこと。

 その他、見た物すべてにサプライズを覚えました。近々、また行って
こようと思っています(10月より展示品が変わるということなので)。

 ミュージアムの建物は大きな古民家を改造してもので和風であります。
 和風とはマッチしないオリエンタルな収容物、しかもこんな山あいの
ど田舎に、よくぞこれだけの内容のものを集めたものかと、どぎもを抜
かれました。
 ゲスの勘繰りですが、少なくとも30億円はくだらないだろうと、我
ながら勝手に想像しております――


[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月10日 12時46分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


目の保養をなさっていらっしゃったのですね。

心が清められると言いますか豊かになると言いますか
民族を象徴する「文化」って素晴らしいですね。


>「弥勒半跏思惟像」
>右手の人差し指の形は何かをシンボリックに表しているのかも知れません。

これは「思惟」ですね。

http://buddha.anavi.jp/?eid=49
仏像の手の解説サイト

以下コピペ:

インドでは「手の形」で意志をあらわす習慣がありました。
この習慣から発展して印相ができたといわれています。

印相は「印契(いんけい)」あるいは「印(いん)」とも呼ばれます。



思惟手(しゆいしゅ)
人差し指と中指と薬指を軽く頬にあてて考える姿。広隆寺・弥勒菩薩像。

[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月10日 12時52分48秒 ) パスワード

改めてコピペします
http://buddha.anavi.jp/?eid=49

仏像の手
仏像の手(と指)の形は 印相(いんぞう)と呼ばれ、仏のメッセージをあらわしています。


インドでは「手の形」で意志をあらわす習慣がありました。この習慣から発展して印相ができたといわれています。
印相は「印契(いんけい)」あるいは「印(いん)」とも呼ばれます。



禅定印
(ぜんじょういん) 両手のひらを上に向けて重ねて、親指同士が触れ合う形。瞑想する姿をあらわす。座禅印(ざぜんいん)、法界定印(ほうかいじょういん)、定印(じょういん)ともいわれる。釈迦如来など。




刀印
(とういん) 左手は下げて人差し指と中指を立て、右手は上げて開く。阿弥陀如来が説法する姿をあらわす。



阿弥陀定印
(あみだじょういん) 両手のひらを上に向けて重ねて、親指同士が触れ合うように合わせ、両方の人差し指を立てて親指と輪をつくった形。瞑想する姿をあらわす。阿弥陀如来の印。




来迎印
(らいごういん) 右手は上げて、左手は下げ、親指と人差し指を合わせて輪をつくる(OKサイン)。往生者を極楽浄土に迎えにくる阿弥陀如来の印。


続く


[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月10日 12時57分54秒 ) パスワード

施無畏・与願印
(せむい・よがんいん) 右手は上げて、左手は下げ、手のひらを開いた形。右は人々の畏れを取り除く施無畏印、左は人々の願いに応じる与願印。釈迦如来など。



触地印
(しょくちいん) 片手の手を下し、人差し指(または中指)で地面に触れる形。悟りを得た釈迦が悪魔を退けた姿をあらわす。降魔印(ごうまいん)ともいう。日本国内の仏像では、触地印を結ぶ仏像は少ない。




説法印
(せっぽういん) 両手を胸の前に上げ、親指と人差し指を合わせて輪をつくる(OKサイン)。如来が説法する姿をあらわす。釈迦如来、阿弥陀如来など。転法輪印(てんぼうりんいん)ともいう。




智拳印
(ちげんいん) 左手の人差し指を伸ばして右手のひらで包む形。智慧を象徴する金剛界大日如来の印。




思惟手
(しゆいしゅ) 人差し指と中指と薬指を軽く頬にあてて考える姿。広隆寺・弥勒菩薩像。




九品往生印
(くぼんおうじょういん) 阿弥陀如来の手の形があらわす、死後に向かう極楽浄土のランク。
阿弥陀定印(あみだじょういん)、説法印(せっぽういん)で上品上生、中品中生、下品下生などの9ランクをあらわした印。九品の弥陀(くほんのみだ)ともいわれる。


「輪を作る指(親指と人さし指、親指と中指、親指と薬指)」の3種類と
「手の位置(ひざの上、胸の前、右手が胸・左手ひざ)」の3種類を組みわせて9種類の印がある。


・上品上生(じょうぼん じょうしょう)親指と人さし指で輪を作り、ひざの上で手を組む。
・上品中生(じょうぼん ちゅうしょう)親指と人さし指で輪を作り、両手が胸の前。
・上品下生(じょうぼん げしょう)親指と人さし指で輪を作り、右手が胸、左手ひざ。
・中品上生(ちゅうぼん じょうしょう)親指と中指で輪を作り、ひざの上で手を組む。
・中品中生(ちゅうぼん ちゅうしょう)親指と中指で輪を作り、両手が胸の前。
・中品下生(ちゅうぼん げしょう)親指と中指で輪を作り、右手が胸、左手ひざ。
・下品上生(げぼん じょうしょう)親指と薬指で輪を作り、ひざの上で手を組む。
・下品中生(げぼん ちゅうしょう)親指と薬指で輪を作り、両手が胸の前。
・下品下生(げぼん げしょう)親指と薬指で輪を作り、右手が胸、左手ひざ。
[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月10日 13時36分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様
私が日向の服部氏について、しっかりとした調査を行う前に安易な発想でコメントを行った結果、お二人に混乱を招いてしまい申し訳ございませんでした。
大変、反省致しております。

〉本丸である「椎城」の他、「服部城」、「斉藤城」、「長友城」、「彦左衛門城」などの名称が各曲輪に付けられており・・
上記の「服部城」「斉藤城」と言う名称に引きつけられてしまい、安易なコメントを行ってしまいました。

お二人の大事な御調査に横から不確かな内容をコメントさせて頂いた事を深く反省致しております。

宮崎市教育委員会発行 宮崎市文化財調査報告書 第 75集 宮崎城跡測量調査報告書 がPDFでネット公開されていました。

宮崎城跡測量調査報告書 記載の宮崎城略史 を基にまとめまてみました。
@宮崎城は別名 「池内城」「目引城 (目曳城)」 「龍峯城」「馬索城」とも言 う。
A記録における初見は、『日向記』『土持文書』における建武3年 (1336年)、南朝方の図師随円・慈円親子 (ないし兄弟)が池内城 (宮崎城)に拠り、北朝方の土持宣栄に攻められ、敗死したとの記事。
B文安元年 (1446年)、伊東祐尭が県伊東氏の領有していた宮崎城を落とし、落合彦左衛門が城主となった。その後、1577年 までの130年 間、宮崎城は伊東氏が領有。
C天文 3年 (1534年)、伊東氏の家督争いが起こり、長倉能登守に擁された伊東祐吉が宮崎城に入り、家督を継承。
D天文 6年 (1537年)、 祐吉の兄義祐が家督を相続し、宮崎城に入る。
E天文 10年 (1541年)、長倉能登守が島津忠広と手を組んで叛旗を翻したが、義祐によって鎮圧 されている。
F元亀 2年 (1572年)、 木崎原の合戦で伊東氏は島津氏に大敗し、続く耳川の合戦において、 日向全域の支配権は島津氏へ と移った。
G天正8年 (1580年)、 島津氏第16代当主島津義久の家臣老中職にあった上井伊勢守覚兼が宮崎城に入り、以後、天正15年 (1587年)の豊臣秀吉による九州仕置まで、覚兼は佐土原城主島津家久を補佐し、日向支配を統括 した。
※覚兼 自身の手による『上井覚兼 日記』 (大 日本古記録)には、この間の城内での生活が詳細に記されています。
H天正15年 (1587年)、 豊臣秀吉の九州征伐の際、一時期、伊東祐兵が宮崎城に入ったが、祐兵は飫肥 (日 南市)を 知行することとなり、宮崎は縣 (延岡)の 高橋元種領となり、権藤種盛が宮崎4万石の地頭として、城代を務めた。
I慶長5年 (1600年)9月 29日 、関ヶ原合戦の余波により、清武城主稲津掃部助の軍勢が攻め寄せ権藤種盛は自刃。宮崎城は落城。
J伊東氏の家臣である稲津掃部助が、一時期、宮崎城に入る。
K慶長6年(1601年)、徳川氏の指示により、宮崎城は伊東氏から高橋氏に返還された。
L慶長18年 (1613年)、 延岡領主高橋氏が改易され、翌、慶長19年 (1614年)、 肥前か ら延岡に転封 された有馬直純が宮崎も領有することとなったが、元和元年 (1615年)の 一国一城令により、宮崎城は廃城となった。

宮崎城城主
図師随円・慈円親子 ⇒ 伊東氏 ⇒ 天正8年 (1580年)〜島津義久の家臣老中 上井覚兼 ⇒ 天正15年 (1587年)〜城代 日向縣藩主 高橋元種 家臣 権藤種盛 ⇒ 慶長5年〜6年(1600年〜16001年)伊東氏 その後、慶長6年(16001年)高橋氏に返還 ⇒ 慶長19年 (1614年)有馬直純

〉本丸である「椎城」の他、「服部城」、「斉藤城」、「長友城」、「彦左衛門城」などの名称が各曲輪に付けられており・・

宮崎城跡測量調査報告書によれば

『地頭 島津義久の家臣老中 上井覚兼 時代』
宮崎城の遺構には屋敷地と思われる多数の曲輪が確認できる。『上井覚兼 日記』にも遺構に対応した記述を見つけることができる。
たとえば「城内之衆甘人計二三献参会候」とあり (天正13年正月 :中 巻 162)、覚兼のほかに城内に屋敷をもった最上級家臣の城内之衆は20人ほどであり、少な くとも20軒の武家屋敷が城内にあったことがわかる。
城内之衆のうち氏名が判明するのは、覚兼の 3番目の弟で鎌田氏の養子となった鎌田源左衛門尉、関右京亮、柏原有閑の3名である。
城内之衆は衆中内での格式が高く、中略・・城内之衆は覚兼よりも上位者への使者を務め、覚兼に代わって来訪者を謁見・面談するなど、城主で ある地頭の覚兼の政務 を補佐した。
とあります。

さらに宮崎城跡測量調査報告書によれば
「平部きょう南」が明治期に記した『日向地誌』は県内全域にわたって、各郡、各村の面積、地勢、人口、産業、寺社、史跡等を記した膨大な地誌である。その中に、宮崎郡池内村の古跡として、宮崎城が記載 されている。
記事には 「椎城 (本城)」 「齊藤城」 「射場城」「長友城」「彦右衛門城」「射場城」 と各曲輪の名称があり、人名が付くものは慶長年間における各曲輪の守将の名としている。

しかし同じく宮崎城跡測量調査報告書によれば
『日向地誌』は現地での踏査や聞き取 りを主として記述されたものである。
各曲輪の名称などは、極めて個性的なものであり、現在でも地元で親しく用いられているものではあるが、宮崎城が城郭 として機能していた当時のものか否か、慎重に検討する必要があろう。

とも記述されていました。

上記の事をふまえながら、先に書かせて頂いた宮崎城略史を基に宮崎城と「服部氏」との関係を調べてみました。

B〜E伊東氏・・調査不足で申し訳ありませんが、伊東家家臣団等も含め現段階で伊東氏と服部氏との関係は不明でした 。
コメント23では安易な事を書いてしまいました。申し訳ありません。

F〜G天正8年 (1580年)〜天正15年 (1587年) 島津義久の家臣老中 上井覚兼

島津義久の家臣では有名な服部宗重がいらっしゃいます。
服部宗重 コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%97%E9%87%8D-1101611

朝日日本歴史人物事典の解説 より
服部宗重

没年:寛永5.11.21(1628.12.16)
生年:天文18(1549)
江戸初期の薩摩(鹿児島)藩煙草奉行。名産国分煙草の祖とされる。通称左近衛門。伊賀国(三重県)生まれ。父は兵部少輔宗宜。天正14(1586)年太守島津義久に召し抱えられ,慶長10(1605)年には義久の隼人城(国分市)への移転に近習として供奉,国分郷向花字梅木に居を定めた。武芸に加えて吹笛,謡舞も達者なことから寵遇されたのであろう。義久ともども愛煙家であった宗重は,付近で作る煙草の香りがよいのは土質が適しているためと考え,同11年,近在の山内四郎左衛門と協力して梅木の地1段歩に煙草を試作し成功。当時,藩主島津家久は喫煙を禁じていたが,隠居中の実力者義久は近隣の地5町歩を与えてその功を賞し,煙草奉行に任じた。後年禁令がゆるむと,宗重は煙草作奨励に努めた。<参考文献>日本専売公社鹿児島地方局編『管内在来種の来歴と変遷』,「服部家文書」(国分市郷土館蔵)

〉宮崎城の遺構には屋敷地と思われる多数の曲輪が確認できる。『上井覚兼 日記』にも遺構に対応した記述を見つけることができる。

島津義久家臣『服部宗重』と言う方は、国分に居を定めたとあります。
日向宮崎城、最上級家臣の城内之衆屋敷地と思われる多数の曲輪の一つ「服部城」との関係は今の所、私の調査不足で解っていません。
申し訳ありません。

さらに続けて
H〜L 天正15年 (1587年)〜慶長18年 (1613年)
城代 日向縣藩主 高橋元種 家臣 権藤種盛 他 高橋氏時代。
大蔵姓「高橋氏」は筑前国御笠郡の原田氏、同朝倉郡の秋月氏、筑後国山門郡の田尻氏、同三潴郡の江上氏などとは同族です。

高橋元種 ウィキより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%85%83%E7%A8%AE
高橋 元種(たかはし もとたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。日向縣藩主。
元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生まれる。天正6年(1578年)に高橋鑑種の養子となる。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐で降伏し、日向国縣(延岡)に5万3,000石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄の秋月種長と行動を共にして大垣城に籠城した。9月15日の本戦で西軍が敗れると水野勝成の勧めで東軍に内応した種長に従った。そして同じく籠城していた相良頼房を誘って、熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統父子らを城中で殺害。23日には大垣城守将の福原長堯を降伏させ、徳川家康から所領を安堵された。その後、縣城築城などを行なって藩政の基礎を固めることに尽力している。
しかし慶長18年(1613年)、幕命により改易となった。理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに直盛の甥・坂崎左衛門(宇喜多左門、水間勘兵衛)が出奔したのを匿ったためとされている。元種の身柄は長男・左京と共に陸奥棚倉藩主立花宗茂[1]にお預けの処分となった。後、慶長18年(1613年)12月 - 同19年(1614年)7月の間、縣藩は幕府預かりとなり、幕府上使の豊後臼杵藩稲葉氏と肥後人吉藩相良氏の管理下に置かれた。

慶長19年(1614年)10月9日、棚倉で死去。享年44。
長男の左京(後に一斎)は、初め棚倉藩立花氏、次いで陸奥二本松藩丹羽氏に仕え、子孫も代々丹羽氏に仕える。貞享元年(1684年)5月23日、82歳にて没。墓所は真言宗摩尼寳山遍照寺、法名は「萬休宗・大居士」。次男の長吉(七郎右衛門種直)は、留守家老花田備後守行栄と土師七左衛門経次と共に薩摩島津氏に身を寄せて家臣となり、後の鹿児島高橋氏の祖となる。

高橋元種の養父は高橋鑑種(たかはし あきたね)
高橋鑑種も豊後国大友氏の庶流一萬田氏の一族、一萬田親泰の次男で、高橋長種の養子となっています。
上記の高橋長種の兄が『高橋高種』。 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E9%AB%98%E7%A8%AE

高橋高種は筑後国出身で大蔵姓高橋氏の当主であったが、、のちに伊豆国に赴き、伊勢盛時(北条早雲)に従った。
筑後大蔵高橋氏の当主となるが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を捨てて、文明16年(1484年)母方の縁者畠山氏を頼り逐電した。その年、京都に上って室町将軍足利義尚に仕え、文明19年/長享元年(1487年)の長享・延徳の乱に参加。長享3年(1489年)に足利義尚が病死すると、畠山政長の内意により、堀越公方足利政知に請われて伊豆国へと赴き、伊豆雲見城を与えられてその城主となる。しかし延徳3年(1491年)に足利政知が死去すると、堀越公方家は内紛を起こし、足利茶々丸が弟を殺害するなど、その勢力は衰退の一途を辿る。
高種は伊豆雲見に蟄居したが、伊勢盛時の重臣である多目権兵衛尉からの再三にわたる招きを受け、伊勢盛時に従い、伊豆平定で戦功を挙げた(高橋文書)。この時の戦功で、伊勢盛時の養女(外山豊前守娘)を妻として北条一門としての扱いを受けている。明応3年(1494年)相模大森氏からの小田原城奪取にも参加し、奇策を以て功を挙げた。また、文亀元年(1501年)に伊豆下田に城を築くなど海岸の防備を強固にし、活躍した。この時に、高橋左近将監高種と改名した。


伊豆の北条早雲の家臣となった高橋左近将監高種。
日向縣藩主 高橋元種の祖父「高橋長種」の兄と言う事ですね。

日本の苗字七千傑様の大蔵姓《秋月氏/高橋氏》姓氏類別大観 を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03005a.htm

高橋長種の息(養子)「吉弘鎮種(高橋紹運)」と藤原利仁流「斉藤氏」との姻戚関係が見えます。

上記の高橋氏と宮崎城に残る「服部城」の関係は未だ解りませんが現在調査を進めています。

かなり長くなりましたが、
宮崎市教育委員会発行 宮崎市文化財調査報告書 第 75集 宮崎城跡測量調査報告書を基に、少しだけ調べてみました。

空の青海のあを様、三つ柏服部様
本当に申し訳ありませんでした。

ミヤハラ
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月10日 15時37分45秒 ) パスワード

追記

先程の御報告の最後
〉高橋長種の息(養子)「吉弘鎮種(高橋紹運)」と藤原利仁流「斉藤氏」との姻戚関係が見えます。

非常にあいまいな調査となって終わってしまいました。
高橋長種の息(養子)「吉弘鎮種(高橋紹運)」と姻戚関係にある藤原利仁流「斉藤氏」とは斎藤鎮実です。

斎藤鎮実は『豊後斎藤氏』であり、斉藤長実の子となります。
『豊後斎藤氏』をウィキで調べると
豊後の斎藤氏は、大友氏に重臣として仕えた。豊後海部郡丹生庄を根拠地とした。長井別当として知られる斎藤実盛の妻の甥・宮六・仗国平(宮道国平)が祖と考えられているが、定かではない。南北朝時代に主家の大友貞載[14](または大友貞宗[15])が守護職を補任され、斎藤正遍[14](または斎藤遍正[15])がその守護代に任じられた。大友氏が肥前守護でなくなると、斎藤氏も肥前守護代でなくなり、それ以後戦国時代までほとんど動向がわかっていない。

※長井別当として知られる斎藤実盛の妻の甥・宮六・仗国平(宮道国平)が祖と考えられているが、定かではない。

さらに『豊後斎藤氏』を調べた結果、以下のサイトの記述を見つける事が出来ました。
サイト 豊後斎藤氏の系譜
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/saito-bungo1.htm

こちらのページの最後に近い「樹童」様の記述に詳しく記されていました。
1 宮六・仗国平の系譜

 宮六・仗国平の系譜について、『美濃国諸家系譜』所収の「斎藤系図」に長井斎藤別当実盛の甥と記されることが分かりました。それに拠ると、実盛の弟、斎藤三郎実員の子に国平(宮六・仗)をあげ、伯父実盛に属して、実盛死後源氏の囚人となり、上総介廣常に預けられ、廣常の死後に斎院次官親能に預けられ、文治五年己酉八月奥州藤原合戦で武功があったと記されます。
そうすると、宮六・仗国平は、その苗字は斎藤であって、大友能直の再従兄弟の近藤七国平(矢古宇又太郎。近藤八国澄〔隆が妥当か〕の子)とは別人となります。
 この宮六・仗斎藤国平が中原親能に預けられ、国平の子孫が中原親能の養子大友能直かその子孫に仕えて豊後に下向したのが自然だと思われます。
豊後斎藤氏は、その出自から「実」を通字としたことも自然です。なお、国平の父とされる斎藤三郎実員については、『保元物語』に武蔵の長井斎藤別当実盛の弟として三郎実員と見えます。

※その後に、また上掲の「長井系図」を確認してみますと、長井斎藤別当実盛の弟に実員をあげて、「豊前三郎」と記し、その子には「豊○」とだけ記す形となっている(国平の名はあげない)ことが分かった。「豊○」とは、名前ではなく、豊後斎藤の意味だったのかもしれない。
=====================================================

と記されていました。

高橋長種の息(養子)「吉弘鎮種(高橋紹運)」と姻戚関係にある藤原利仁流「斉藤氏」斎藤鎮実(豊後斉藤氏)。
豊後斉藤氏とは
長井斎藤別当実盛の甥(実盛の弟、斎藤三郎実員の子)「斉藤国平(宮六・仗)」を祖とする。
と言う事が解りました。

先のコメントに追記させて頂きます。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月10日 15時50分52秒 ) パスワード

知らない土地の、知らない話を根拠も無く展開するのは好みではないのですが


九州と服部氏の関係を<<<憶測>>>で書いてみます。
<<<憶測>>>で話をすることは非常に恥ずかしいことなので
これを最後にしたいと思います。


これを限りにわたくしへの呼び掛けは終わりとさせて下さい。



1.
関ケ原の戦いで西軍に加わった服部氏がいた
戦後処理でどうなったかは分からない
島津家に引き取られた可能性は無きにしもあらず



2.
諫早の西郷氏に服部という侍大将がいた
諫早の西郷氏は秀吉・竜造寺連合の前に敗れ滅亡


3.
八女は平宗清がらみ。
なので服部宗某という家があってもおかしくはない

当然宗清は伊賀がらみであるし頼朝のお気に入りなので島津氏がらみとなってもおかしくはない

                       島津忠久:
                       「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は実は源頼朝の側室で、
                        忠久は頼朝の落胤」とする説が、
                        島津氏作成の史料である『島津国史』や『島津氏正統系図』などに記されており、
                        少なくとも現在の島津家自体はこの頼朝落胤説を「公式」な出自としている。


                        その一方、史学的見地から島津氏の頼朝落胤説は仮冒であるとの意見も強い。



                                    そこは島津と宗清子孫の服部氏を名乗る両者には
                                    持ちつ持たれつということで関係は成立かも



4.
日向の伊東家は秀吉にかわいがられて家を立てることが出来たので
その関係で服部氏がいてもおかしくない


5.
諫早の西郷氏は菊池氏の流れで
三河の西郷氏と繋がり

三河の西郷氏は徳川秀忠の生母の実家でもあるし
生母の継父は服部氏


                       幕末に会津の殿様が窮地に陥った時、会津の家老の西郷氏は島津の西郷さんにお願いに行っている




6.
島津家の家老の小松家は
清盛の嫡男であった重盛の屋号の「小松」から出ていて    当然、平家貞が家老であり服部氏もからむ

頼朝の恩人である池の大納言(平頼盛)もからみ
また島津家は頼朝のご落胤ともいわれるし
宗清もからむし服部氏もからむ

ということで島津と服部は絡む



7.
緒方氏は平家と絡む


8.
原田氏も平家と絡む




九州と服部氏との関係は書き出せばまだまだ有りますが
こんなところがヒントになるかも。


以降は、三つ柏さん限定でお願い致します。
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月10日 19時53分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様
九州の「服部氏」への御推測。
膨大な知識をお持ちでいらっしゃる事に深く感服いたしました。

空の青海のあを様、三つ柏服部様の御調査を拝読させて頂き勉強をさせて頂いている身でありながら横から口を出した事を心よりお詫び申し上げます。

残暑厳しき中ですが
お二人、お身体十分ご自愛下さいませ。

ミヤハラ

[36]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月10日 23時47分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、久しぶりに細江の図書館へ行きました。目的は図書館というより
も、井伊直虎の「ドラマ館」の進行具合を見に行くことと、「直虎の漫画」
の解説書を入手することにありました。

 ドラマ館と言えば、あの上田城内にも、真田丸のドラマ館がありました。
 ここ細江町気賀では、井伊谷とは少し離れますが、気賀関所のすぐ近く
に「みおつくし文化センター」というものがあり、これをドラマ館として
改造するということであります。またその隣には物産センターもあり、こ
こは「お土産センター」として拡充するということであります。
 井伊谷の方は、山間部に近くなりますので、土地も狭く、道も狭く、駐車
場も少なく、「女城主虎」が始まったら、一日に何万人の人、何千台もの車
が押し寄せ、にっちもさっちもいかなくなるのは目に見えております。
 それをどうさばくのか、浜松市、警察、地元の人々が、今真剣に取り組
んでおるところでございます。

 直虎に関する説明パンフレット類も、各種出回ってまいりました。その中
で漫画ストーリーで説明したものがありましたので、それを入手しようと思
って気賀の観光協会へ行ったのですが、置いてないという。あったのは、イ
ラスト漫画は使っているものの、時系列的な解説書でありました。
 でも、よく整理されていますので、これは、あを様に送ります。
 直虎のドラマは、どのように展開するのか、何が見どころで、何に感激さ
せられるのか、最後に永遠なる後味は残るのか、気になるところであります。
 でも、来年の一月から始まりますので、もうすぐ……あを様、私もかかさ
ず見るつもりです。あを様の評論の聞けるのを楽しみに待っております――

 思惟手(しゆいしゅ)について、いい説明サイトがありましたので、記して
おきます。
   http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu3/05miroku01.html

 九州の服部氏については、図書館で調べましたが、やはりミヤハラ様と
同じく「服部宗重」に行きつきました。伊賀出身ということで、なんだか
嬉しく感じました。今後、追跡調査をしていきたいと思っています――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月11日 02時35分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


読んで来ました。
    古代、文化は西から東へと流れたのだなぁ、と改めて思いました。
    アレクサンダー大王の征服で、文化も東に運ばれたのだなぁ、と。
    それが行き着いた終着駅が日本だったのか、と。


法隆寺の柱がエンタシスで、これはギリシャ建築様式の採用ということですから
弥勒菩薩の指のカタチがキリスト教の三位一体からパクっただけという可能性もありますね。


とにかく文化は高い方から低い方にムカシは流れたものですから
    ギリシャの柱はカッコいいし実用的ということで採用したのかも知れないし
    キリスト教の三位一体のジェスチャーが知的に見えたから仏像の思惟を表現するのに当時の人が3本指式をピッタリと思ったかも知れないし。


つまり仏像にキリスト教が宗教として込められているのなら
法隆寺の柱は何故エンタシスなのか?という疑問が湧いて来ますから。


なのでワタクシ的には  文化的影響  に過ぎなかったのでは?と。

今風に表現すれば  
   柱はエンタシスが一番カッコいい!
   賢そうなポーズには三位一体形の指のカタチでイエ〜イ!   
当時の東アジア人や日本人にはそういうのがロックだったのでは?と。



そういうのがファッションだったのかなぁ?と。
丁度明治政府が西洋からいろいろ輸入して
   医学はドイツから
   オペラはイタリア式で
   軍隊はプロシア式が最強!
   絵画はフランスの印象派
   文学はイギリスのシェークスピア風に
   料理は・・・・ワタシは中華が好きだから・・・中華式
こんな感じで明治時代「世界最高」の物を取り入れたように古代人も当時最高のものをあまねく使ったのではないかなと。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月11日 02時48分58秒 ) パスワード

来年からは「みおつくし文化センター」で経済効果が爆発的に出ると良いですね。

上田城内の真田丸のドラマ館は繁盛間違い無しですよね、幸村は日本人で嫌いな人はいないでしょうから。

来年の「女城主直虎」は森下佳子の脚本のようですか?
人気脚本家ですね。
期待出来ますね。

面白くなきゃドラマ館にも来て貰えませんから、三谷幸喜より面白いのを書いて欲しいです。


パンフレット、期待しています!!!


井伊谷は奥過ぎて通行が不便でしょうから
頑張って整備して欲しいですね。
予算の元はちゃんと取れるんですから。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月11日 03時29分23秒 ) パスワード

贔屓の引き倒し話?

時代錯誤もあり。
   ま、こんなあたりか、
というレベルでお読みください。


日向の飫肥の伊東家はわたくしの母方といろいろあって
一応興味はあるのですが
服部左近衛門宗重は誰に派遣されたのでしょう?信長か秀吉あたり?家康はまだ余裕はナカッタ時?



服部宗重について:服部左近衛門宗重 はっとり-さこんえもん-むねしげ  1549−1628 


http://www.geocities.jp/sunland3433/master01.html


タバコの伝来の公式な歴史上の登場は、

*1601年*フランシスコ・ザビエルが京都伏見で徳川家康に、タバコの種を献上したのがタバコの栽培の始まりとされていますが、


                        1601年??ウッソー!!
                        ザビエルの生年没年  1506年?4月7日 - 1552年12月3日
                        1601年にはとっくに死んでいるんですが・・・
                        Saint Francis Xavier, S.J.
                        (born Francisco de Jasso y Azpilicueta, 7 April 1506 – 3 December 1552)



あの「国分たばこ」で有名な薩摩では、それより約50年も前からタバコ栽培が行われていた事実があります。


                        1601年の50年前って1550年頃?


 早くから琉球国を支配していた薩摩では、当然タバコについて早くから知っており、万病に効くという、この薬草を栽培し販売していた事実が、国分市史にはっきり明記してあります。

                       オッソロシィ〜
                       50年も吸ったら肺癌で死んでますよ
                       その前にCOPDで象が乗っかってるような息苦しさに耐えられないし





 この栽培、製造販売に、あの伊賀忍者で有名な**服部半蔵**が関わっていたことを世の歴史家の誰も気づいていないことは残念です。

                       半蔵が???
                       半蔵の生年と没年  天文11年(1542年)死没 慶長元年11月4日(1596年)               
                       ものすごくハナシが飛ぶねぇ〜


 何も荒唐無稽な事を、私は書くつもりはありません。


史実は、この「国分たばこ」をブランド化した立役者は、伊賀の国からやって来た服部宗重その人だからである。



 当時、鎖国制が厳しく、他国からの入国が困難であった薩摩に直接入国を試みるより、
たやすく入国できた隣国、日向の国に、服部宗重は27才で入国して10年、農耕・土木と諸芸百般に通じ、すっかり日向に溶け込み、


                        1570年代半ばあたり〜1580年代半ば?
                        こんな時代に?


その能力を買われて、日向の島津家の推挙により、本家の島津義久に見込まれ「煙草奉行」として重責を任され、


                       島津義久 
                       生誕 天文2年2月9日(1533年3月4日)〜 死没 慶長16年1月21日(1611年3月5日)

80才の天寿を全うするまで薩摩で活躍した事実を見ても間違いないと確信しています。

                        いわゆる「草」というのですね。



 時の権力者、徳川家康に一族全てが忍者として仕えた服部家は、服部半蔵の名を世襲制にして、徳川幕府の終焉まで共にした。


 当然、伊賀忍者、服部一族は全国の大名の情報収集を徳川家康に命じられ、一族全体で取り組んでいたことは歴史家の知るところです。

 その任務が、自分達一族の存亡に関わることだけに、伊賀忍者達にとって必死であったに違いない。その中でも、最も潜入が困難だった国が薩摩であった。


                       これは聞いてる。


 その潜入に当たっては、選りすぐりの忍者であった服部宗重が選ばれ、島津家の内情を探るため、こういった手段で入り込んで深く根付いていた推量は決して間違いではないと思う。



「国分たばこ」の父と言われ、煙草奉行として、タバコをここまで育て上げた功績は、服部宗重を抜きにして語ることは出来ない。



そこには日向国宮崎が深く関わっていたことは大変興味深い事である。
そして、この宮崎が今や葉たばこ栽培日本一の生産を誇っていることに何か因縁めいたものを感じる。


 徳川幕府崩壊と共に煙草の世界も一変した。外国から持ち込まれる紙巻き煙草に、愛煙家達はビックリし、手軽に楽しめる、このタバコに皆が飛びついた。


 鹿児島の川内で、「国分たばこ」に従事して、薩摩のボッケモンと言われた岩谷松平氏が、これからは東京だと、焼け野原の鹿児島を後にして、明治10年に銀座でこの「口つき煙草」の製造販売を始め、「近代日本のPRの父」と言われたことは、次回。




一応アップしておきます。


あ、母方は神埼にも土地を持っていたので元寇に参加しています。
宮崎にも一族が多いです。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月11日 03時45分29秒 ) パスワード

takahiroさんからのコメント:
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100354.html


レス<4>

戦国期、江戸期の薩摩藩島津家家臣(国分郷)にも、服部姓を見つけましたので
紹介します。



<戦国期>
○服部左近衛門宗重:島津義久家臣。伊賀国移住。

<江戸期>
○服部久兵衛宗俊 :国分衆中(元和五年 国分諸士起請文に記名)
○服部茂左衛門安村:国分衆中(同上)

○服部笑太夫   :国分衆中(寛政六年 同郷与頭)
○服部休左衛門  :国分衆中(文化五年 同郷郷士年寄)
○服部休兵衛   :国分衆中(文政六年 同郷郷士年寄助)
○服部孝兵衛   :国分衆中(文久元年 同郷下井村庄屋)
○服部権次郎   :国分衆中(文久三年 同郷横目)

                    (鹿児島県姓氏家系大辞典より纏め)


レス<6>

>宗が通字というのは南朝方の服部一族なのかしら?と思いました。

国分ではないのですが、同じく薩摩の谷山には、

『当地北西部の丘陵突端は南北朝時代懐良親王が征西大将軍としてとどまった
 地といわれる御所ヶ原で、隣接丘陵には菊池武光が同親王に従って居城した
 と伝える菊池城跡がある。』(角川日本地名辞典・鹿児島県より)

とあります。

南北朝期当時、南九州における南朝方の拠点であった谷山には、南朝方の武士
が、懐良親王に従い多数入っていたようです。

あるいは、服部宗重、服部宗俊とは、その後裔なのでしょうか。

また、

懐良親王の一子に雅良王があり、雅良王は上記菊池武光の妹を生母としていま
す。この雅良王は後、源姓を賜り、後醍院越後守源良宗を名乗り、後醍醐源氏
「後醍院氏」の祖となっています。

そしてこの後醍院良宗から六代孫、*宗重*は、島津義弘に仕えます。

                       *宗重*  takahiroさまより訂正がこのようにありました


上記、服部宗重が仕えていたのも島津義弘であり、このことから、服部様の、

>宗が通字というのは南朝方の服部一族なのでは?

という推測は、的を得ているもののようにも思えます。もう少し調べてみます。


レス<10>

旧薩摩藩においては、郷士とは、武士の別称であり、つまり、鹿児島城下
 に務めていた武士が、藩士であり、藩内113ヶ所の外城に務めていた武
 士が、郷士と称されました。
 
 郷士にも上級郷士から下級郷士まで別れていましたが、服部家は郷におけ
 る最高職、「郷士年寄」を勤める家柄であり、おそらく藩政期の国分郷に
 おいては、「上士」であったと思われます。

 明治維新においては、服部家は、鹿児島県国分士族に列せられています。




[12] さちこさんからのコメント(2003年01月25日 13時08分00秒 ) パスワード

  


服部宗重について。
国分煙草の栽培は伊賀の服部家がはじめたと
服部一族の系図にもあったと思いますが詳しく書いてありました。

http://www.h5.dion.ne.jp/~m.kamiya/118.htm





[13] takahiroさんからのコメント(2003年01月27日 11時43分01秒 ) パスワード

  


桓武平姓服部氏系図、「日本の苗字7000傑」からです。

『桓武平氏季衡流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01107.htm

『桓武平氏忠正流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
ここの記載は苗字の分出が分かりやすいです。

『桓武平氏清盛流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm

『桓武平氏経盛流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01103.htm

『桓武平氏忠度流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01104.htm

『桓武平氏総括』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm



さちこさんが登場したあたりから興味深い話がたくさん書かれています。
未だにワタシは矢筈と矢羽の区別が分かってない、結局、分からないです。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月11日 14時06分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回のレス、かなり深い情報でありましたので、理解するまでに半日
かかりました。大変貴重な情報がビッシリ(「隅さんへ」も含めて)でし
たので、今回は三歩も四歩も前に進むことができたように思います。

 スモーキングマスターさんの情報は、アバウト過ぎるところがありま
すね。
 ザビエルは1549年に鹿児島に上陸、1551年には、ゴアへ帰り、1552年
に中国で亡くなっています。
 1600年の4月に、ウィリアム・アダムスが江戸に来ています。9月には
関ケ原の戦いがありました。
 1601年10月に、家康はキリスト教を禁圧しています。
 が、1602年12月に、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の
三教団の宣教師が来日しています。

 国分たばこの話はおもしろかったです。服部家が薩摩のたばこ奉行に
なったとは……。

 ただ、公儀隠密が派遣されるのは、秀忠、家光の1600年代であります
ので、服部宗重の1570年代は信長の時代。九州に隠密を派遣するという
時代ではなかった……もっとも、信長も忍者は使っていたということで
ありますので、本当のことはわかりません。

 いずれにしても、「源三どのの代理 隅さんへ」は、じっくり読解い
たします。今から十四年前に、服部家についてこんなにエネルギッシュ
に論じられていたということ、あを様が中心であった。もう一度そんな
状況が醸し出されることを願うばかりです――
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月12日 05時06分52秒 ) パスワード

書き直し



三つ柏さん


文章って「書いた人」の人物像が見えて来ますね。
ネットなので姿は見えないけれど

   文章からtakahiro様は静かな誠実な謙虚な研究肌の貴公子という姿が見えて来ます。

   スモーキングマスターさんは学生時代どんな指導を受けていらっしゃったのか。
    全く検証とか歴史的考証をしてないですね。突っ込みどころ、多過ぎ。




伊賀のニンジャ集団がいろいろな形・職能・役割で日本全国隅々まで派遣されてたのが見えましたね。
                      まさか1570年代1580年代に日向や薩摩まで行ってたというのは盲点でした。
                       信長は対一向一揆で日本中を敵に回して大変な時代だったし
                       秀吉も信長さまの後を継いで家康対策で大変だった頃でしょうね。



でも天下を収め支配するとは、全国隈なく、人を送ってないとね。
まさに情報収集ですね。
島津まで統一するつもりなら早くから九州全域に送ってたでしょうね、スパイを。


特に平家系の武将は、戦国時代の400年も前に、失敗を経験しているわけですから
先祖の失敗は反面教師として参考にしたでしょうね。



島津でも服部宗重をアヤシイと思ってたかもですね。

でも宗重一族を抹殺しても新しく「草」を送られてはもっと厄介ですから宗重一族を泳がせて使っていたのかもですね。
キツネとタヌキの化かし合いがあったのかもですね。
島津だってそうそうお人好しじゃないでしょうし。

  敵を飼い馴らす

島津の方が一枚上手だったのかもですね。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月12日 14時16分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 時代考証として、戦国時代から江戸時代にかけて、次のものはどのよう
な状況であったのかを知りたいと思っています――
 @九州の存在・ステータスというのは、人々はどのように捉えていたの
 か……天孫降臨の地? あるいは隠棲する場所? 
 A婚姻は一夫多妻制であったのか……武士・皇室のみ許されたのか?
 B土地私有は許されたのか……しからばいつから、また売買できたのか?

 これらについて書いている本はなかなかなく、あを様わかりましたら教
えていただきたいと思うのですが――
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月12日 22時58分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

@九州の存在・ステータスというのは、人々はどのように捉えていたのか……天孫降臨の地? あるいは隠棲する場所?

恐らく  外に向かって開かれた窓  だったのでは?


鉄砲が伝来しましたから
仰天の舶来品に
まだまだヨソの世界にはスゴイものがあるんじゃないか?

ヨソの世界では何が起きているのか?
とオソロシカッタかも。


でも日本国内は戦乱の日々ですから
ヨソの心配より
ヨソの力を借りて使って
取り敢えず自分の存在を守らなきゃ


     というのは現在の時代から武将達を考えたことであって
     当時のフツーの人々は  ヨソの世界に逃避したかったかも。 


           で、南蛮に世界中の諸国へ売り飛ばされているわけです。
                  そして地球上に天国のような場所は無いというのを実感したでしょうね。


   

A婚姻は一夫多妻制であったのか……武士・皇室のみ許されたのか?

自由だったと思いますよ。
ただし
8割近くの人々はその日食べるのに精一杯だったと思います。


使用人を使っているダンナさまにとって使用人の女は自分の自由に出来る存在でしたしね。



B土地私有は許されたのか……しからばいつから、また売買できたのか?

確かに大昔に「公地公民」ってありましたね。
班田収授とか租庸調とか小学校でこの辺りは習いましたね。


でも税が重すぎて「逃散」が相次いで・・・

なんてスグに破綻したじゃないですか。


で土地私有令が出る事になったじゃないですか。
三世一身法,墾田永世私有令等が出て「公地公民制」が解体に向かった


この辺りは小学校で習ったレベルです。


で、大学時代にこの部分の試験が出て   答えられなかったワタシがいます。  泣ける(笑)



http://www5e.biglobe.ne.jp/~uno-t/unotcsr1.htm
ここをお読みください。



天皇家も財政困難になって皇子達やその子孫を養っていくのが困難になって姓を与えて追い出したじゃないですか。
そして下向した皇子達の末裔は武装して土地を巡って争い
奪い守り
エンエンとその時代が続くことになったじゃないですか。



こういう歴史の事って
余りにも身近な話過ぎて、まさに、自分の先祖の事なのに
スッカリ忘れて毎日を送るのに精一杯になってて
思い出せないものですね。


大学1年の時にこの事に気づいて以来トラウマになっています。

[46]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月13日 01時14分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございました。
 
 @九州については、当時は飛行機はないので、船……大陸からの窓口が
九州ということで、先進性に満ちた未知の可能性への期待と畏怖があった
ということか……。

 A土地については、「歴史」の授業で習ったような覚えがなきにしもあ
らずです。ほとんどかすれてしまっていますが。実態的には、建前と実際
の食い違いはあったということか……。

 B一夫多妻制については、これも建前と実際はいろいろ違っているとい
うことか。今の世でも、多重婚はできないけれど、事実上の妻を複数抱え
ている人もいる……。

 おかげさまで、アバウトではありますが、昔の状況が少し理解できるよ
うになりました――論文的には、詳しく表現しなければなりませんが……。

 簡単にまとめると、@は開かれた世界への窓口、Aは明治前には不動産
屋はいなかった、Bは金次第……ということか――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月13日 02時14分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


建て前と実際はホント今に至るも解決のつかない事案ですね。


                口分田 くぶんでん

                口分とは人数に割当てることをいい,
                班田法に基づいて人ごとに割当てられた田をいう。

                大化改新によって,従来の私有地,私有民は公地公民となったが,
                親王以下奴婢 (ぬひ) にいたるまで (僧侶を除く) 一定面積の田を分ち与え,終身用益権を認めた。


                日本では飛鳥時代に律令を制定する際唐の制度を真似た。



でもすぐに破綻する。


                日本の律令では、戸籍に基づいて6年に一回、
                口分田として6歳以上の男性へ2段(720歩=約24アール)、女性へはその3分の2(480歩=約16アール)が支給され、
                その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。

                口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、
                労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。



冗談じゃないよね、
と考える、生活保護で楽して暮らしたい人間が一定数いるように、
逆に
法に縛られて頑張って死んでいった人々が物凄い数いたんでしょうね。


税を払うために生きるなんて
どの時代だって人間はイヤでしょうね。

 
             だからタックスヘブンの国に財産を移す金持ちが出て来るわけです。
             人間は古今東西変わってませんね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E5%88%86%E7%94%B0

口分田の祖型は、7世紀中葉の大化の改新頃に始まり、7世紀終盤の律令形成期に口分田制度が確立したと考えられている。

記録上は、8世紀=奈良時代を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。

これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。


このことは、口分田制度によらずとも一定の税収確保が可能となったことを示唆している。
                                         へぇ〜


ただし、班田が規定どおり行われていた時期においても全てが順調に機能していたわけではない。
                                         だよね



水田による班田が原則でありながら、
水田の不足より陸田が混ぜられて支給されたり、
地域の慣習法(郷土法)によって支給面積を削減されたり、
遠方に口分田を与えられるケースもあった。


特に志摩国では水田が極度に不足していることから伊勢国・尾張国の水田を口分田とする例外規定が認められていた。

また、京の区域内も水田の耕作が禁じられていたため、口分田が設置されておらず、京に本貫を持つ京戸は畿内に口分田が与えられていた。


                                        冗談じゃないよね!


また、遷都の際には偶々その予定地にあった口分田は収公されて替地が与えられていた[2]。



     土地売買の話
        ↓

また、口分田は原則として売買・譲渡・質入などが禁じられていたにもかかわらず、
奈良時代後期頃から質入などの問題が発生しており、班田が順調に行われなくなると売買や譲渡なども行われるようになった。
班田が行われなくなると、口分田も事実上農民の私有地化することになる。

        ↑
      私有化の話



トリビア

滋賀県長浜市には、口分田(くもで)という地名が残存する。
この地発祥と思われる口分田姓もあり、日本野鳥の会滋賀支部名誉会長に口分田姓の人物がいる。
また、赤穂浪士事件の関係者にも豊岡京極家家老石束に仕えた口分田茂兵衛という口分田(くもで・くもうで)姓の者がいた。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月13日 05時58分38秒 ) パスワード

書き直し


三つ柏さん


       Bは金次第……ということか――

最初は「食べ物」ですね。
まだ「お金」という概念の無い時代は。



サルが人間へどのように発展したのか?を書きます。笑


サルのメスは自分で餌をとって来て食べ子供を育てる。

ある時、賢いメスがいて「私が欲しかったら食べ物を持って来なさいよ」と言った。
他のメスザルはこれを見て「私が欲しかったら食べる物を持って来なさいよ」と同じように言うようになった。

以来、賢いメスはオスを利用するようになった。


サルの時は発情期というのがあって、メスは限られた期間しか子供が出来なかった。

ところが!

サルのメスが賢くなって「やらせてあげるから食べる物を持って来い」と言うようになってから
サルのメスは1年中、365日、発情するようになった。


こうしてサルのメスは人間のオンナというものに発達した。
あはは



_________________________________


最近の日本では男女平等が浸透し・・・・略・・・・その結果、日本猿のメスとオス・・・いや日本の男女は結婚しなくなった。


           男性にすればコンビニで弁当が買えるようになって家事が楽になったことで家事を妻に依存する必要が無くなった。

           女性にすれば自分が働くことでお金が手に出来、欲しかったブランド品が手当たり次第買えるようになった。海外旅行も思いのまま。


オトコに自分達オンナを食べさせるように仕向けてきた人間のオンナにとって
    オトコのお金はワタシのもの
    ワタシのお金はワタシのものとなり

オトコの為に自分が稼いだお金を使うなんて、オンナ道に外れると。
オンナのお金をアテにしなきゃいけないようなそういうオトコはサイテー!という意識が発達した。



しかし現在の日本のオトコにとって、結婚によって、自分のオンナが僕ちゃんの稼いだ給料を全部管理することには耐えられなくなった。
僕ちゃんだって欲しい物はたくさんあるからお金を妻に全部渡すことは嫌になった。


    つまり日本の男女には互いに「結婚」の価値と意味が薄れた。



とはいえ、

最近のような経済不安の時代を迎え、老後が心配になったオンナはアラフォーになって結婚を焦るようになった。

アラフォーのオンナには僕ちゃんの子孫は期待出来ないことに気付いたオトコは結婚するなら妊娠可能な若いオンナがやっぱりいいと思うようになり・・・


   

    バカだね。
    日本猿のメスはいつからオスの利用の仕方を忘れたのだろう?



________________________________


一夫多妻もいろいろ「意味」があるんですよ。これはお互いさま。男側女側それぞれ都合が良いから長く続いたのですよ。
そして
世の中には一婦多夫の世界もあります。
また
一夫一妻で離婚を許さないカトリックの世界では愛人を持つことはフツーだし。


と、おバカな事をいろいろ書いてしまいました。
ま、このレスはいつか削除するかも。
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月13日 13時14分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ面白い話もお聞かせいただき、ありがとうございます。

 土地制度と税制度は、国の存立を左右する根本の制度でありますから、
そもそもここから権力闘争が発生した元凶ということができますね。
 一種の社会主義のように、土地は国のもの、住民(領民)は支配者(領主)
のもの、領主は領地の税金(年貢)をまとめて国に治めるというのが基本的
なスキームであった……もちろん、時代時代で、その形態は変わりますが、
「税(年貢)を取る、縄張り(領地、領土)を守る・拡大する」という構造及
び欲望は変わらない……人間の本質であると思いました。

 さて、江戸時代の天領(幕府領)というものについて調べてみました。そ
れは、当方の善地だけといっていいほど、周りとは別にずっと天領であっ
たからであります。それは何故だったかについて、次回に述べさせていた
だきます――
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月13日 14時38分32秒 ) パスワード

エンエンと書いてたら瞬殺されました。




>江戸時代の天領(幕府領)というものについて調べてみました

楽しみにしております。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月14日 06時35分14秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101556.html
スレッド78をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.