【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101554 投稿日:2016年09月05日 02時42分50秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
「銭の力で戦いに勝ち抜く」信長がもたらした戦国マネー革命

コメントの種類 :人物  パスワード

「銭の力で戦いに勝ち抜く」信長がもたらした戦国マネー革命
小和田哲男


http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160904/dms1609041100005-n1.htm

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月05日 02時43分41秒 ) パスワード

 織田家の家紋は木瓜(もっこう)であるが、戦場で使う信長の旗印は「永楽通宝」だった。「銭の力で戦いに勝ち抜く」という信長の決意のあらわれでもあった。 (総合オピニオンサイト iRONNA)

 信長が銭の力を意識したのは父信秀の影響が大きかったといわれている。信秀は、尾張守護斯波(しば)氏の二人いた守護代のうち、清須織田氏の三奉行の一人にすぎなかったが、居城勝幡(しょばた)城の近く、木曾川舟運で栄えていた津島湊を押さえ、そこから得た財力で、やがて尾張中原(ちゅうげん)に打って出て、尾張一国をほぼ手中にしていった。

 そのあとを受けた信長は、さらに商品流通経済の振興に力を入れ、経済政策に積極的に取りくんでいる。楽市楽座政策がその一つとしてよく知られているが、これ自体は信長のオリジナルではなく、すでに南近江の戦国大名六角氏がはじめており、信長以前にも何人かの戦国大名が取りくんでいる。


信長独自の新しい施策として注目されるのは、関所の撤廃と道路政策ではないかと思われる。関所というと、江戸時代の関所のイメージ、すなわち、「入り鉄砲に出女(でおんな)」などといわれるように、監視のための関所を思い浮かべるが、信長が撤廃した関所というのは別なものであった。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月05日 02時44分35秒 ) パスワード

 信長のころまで、荘園がまだ残っていた。荘園領主が、自分の荘園の中を通る道に関所を設け、通行人から関銭(せきせん)、つまり通行税を取っていたのである。それが荘園領主の収入源となっていたわけであるが、商人たちには負担だった。商人も、自分が損するわけにはいかないので、関銭分を商品価格に上乗せする。値段が高くなれば売れないわけで、物流は停滞する形だった。

 信長は、その様子をみて、商品流通を活発にするのと、荘園領主の力を削ぐため、関所の撤廃にふみきったわけである。そしてもう一つ注目されるのが道路政策、インフラ整備である。

 戦国時代なので、戦国大名は、いつ敵が攻めてくるかわからないということもあり、道は狭く、曲がりくねったままで、川には橋を架けていなかった。防御を優先していたからである。信長は、何と、この3つを3つとも逆にいっているのである。まず、道を広げている。しかも、ただ広げただけでなく、道の重要度に応じ、変化をつけているのである。信長は、道を本街道・脇街道・在所道の3つにランクづけし、本街道を3間(約6メートル)、脇街道を2間(約4メートル)、在所道を1間(約2メートル)と決め、道幅を広げ、しかも、主要街道には松と柳を植えさせている。これについては信長のいい分が史料的に残っていて、「夏の暑い盛りでも商人たちの往来ができるようにした」とのことで、文字通り、並木道ができたのである。

 道をまっすぐに造り直したことも画期的で、信長はいまでいうバイパスまで造っている。これも、物流を盛んにしたいという思いからきたもので、川に橋を架けたのも同じ理由である。

 では、物流を盛んにすることで、信長にはいかなるメリットがあったのだろうか。これが、冒頭述べた「銭の力で戦いに勝ち抜く」という信長の決意と結びついてくる。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月05日 02時46分52秒 ) パスワード

それまでの戦国大名は、百姓からの年貢を財政基盤としていた。信長は、百姓からの年貢だけでなく、台頭してきた商人たちから運上金あるいは冥加金のような形で献金させることで財源を確保していったのである。この財源があったから、金で兵を雇う兵農分離が進んだという側面もあった。

 ただ、年貢の場合だと、五公五民とか、四公六民などといって、ある程度、年貢率がわかっているが、具体的にどのような形で信長が商人たちから銭貨を徴収していたかはわかっていない。信長ではないが、越後の上杉謙信の場合、直江津・柏崎などの領内の主要な湊に出入りする船に「船道前(ふなどうまえ)」という通行税を課し、その収入が今のお金で年間60億円に達していたというので、信長も、津島湊や熱田湊の商人たちから徴収していたことは考えられる。

 なお、信長が永禄11年(1568)、足利義昭を擁して上洛したとき、堺に2万貫の矢銭(軍事費)を出すよう求めている。はじめ、能登屋などの豪商を中心とする会合衆(えごうしゅう)が信長に反抗し、拒否する姿勢をみせたが、結局、その要求に応じている。1貫=10万円で換算しているので、20億円を拠出したことになる。

 ちなみに、翌12年、信長は、将軍足利義昭から「副将軍に任命しよう」といわれたとき、それを辞退し、「その代わり、堺と近江の大津および草津に信長の代官を置かせてほしい」と申し出ている。代官を置くということは直轄地を意味するわけで、港湾都市からのあがりが他の都市より群を抜いていたことになる。天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いで鉄砲3000挺を用意できたのも、こうした経済力がバックにあったからである。

■小和田哲男 静岡大学名誉教授。昭和19年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』などの研究書の刊行で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK大河ドラマでは「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江〜姫たちの戦国〜」、「軍師官兵衛」の時代考証を務める。主な著書に『戦国の合戦』(学研新書)『名城と合戦の日本史』(新潮選書)『戦国武将の実力』(中公新書)など多数。

以上
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.