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 投稿番号:101550 投稿日:2016年07月24日 14時33分56秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXW(16年の課題確認17)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101547_62.html
長上郡の服部氏族LXXIII(16年の課題確認16)
スレッド73の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



スレッド73は戦国時代の「南朝への想い」つまり「南朝フィルター」で武将達を考察してみたいということでした。

@井伊直政―祖先は南朝皇子宗良親王を守る等、深くどっぷりとかかわっている。また、外戚にもなる。
A服部中保次―祖先は楠氏の一族にて、足利尊氏征討の折、後醍醐天皇より日月錦旗・節刀・菊水の旗印等を賜ったと言われている。
B永井直勝―宗良親王の後裔。

この三者は格段南朝色が鮮明でありますので、同士意識が高かったのではないでしょうか。

さらに井伊氏には松下一族がどっぷりとかかわっているので、服部中としては、永井氏の方にくっついたのではないか……これが私の推理です。

さてスレッド74ではどのように展開するでしょう?

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月25日 11時56分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。

 夏は体調管理が難しいです。現在やや風邪気味なのか頭がすっきり冴えま
せんし、すぐ眠くなります……。暑さのコントロールが難しいです。クーラ
ーは涼しくて気持ちよく、つい横になって寝てしまいます。が、気が付くと
体を冷やし過ぎて、クシャミ=風邪を引く……ということになります。

 昨日は、磐田のお寺を七軒程回りました。もう一回くらい落穂拾いをすれ
ぱ、磐田のお寺回りは終わりです。目的は、服部氏、永井氏(永田・長田氏)
の居住した痕跡(墓)を見つけること。
 
 まずは、磐田市街の北部の袋井寄りから始めて、とんで市街地南部へ移る
計画を立てました。

 @新豊院 ・永井 一軒 丸に永井切り梨
      ・永田 二軒 丸に剣片喰
      ・永田 一軒 丸に三つ柏
      ・その他として、江戸時代からの寺田家多し。長谷川家五軒。
      ・本多家数軒、榊原家一軒……etc.

  この新豊院の裏山には、古墳がありました―
 「国指定 新豊院山古墳群
  昭和五十五年から五十七年まで行われた発掘調査によると、新豊院山
 古墳群は、弥生時代中期〜後期の方形台状墓や土坑墓、土器棺、そして
 古墳時代前期に造られた県下最古の前方後円墳で、この地方を治めてい
 た首長の墓と考えられています。古墳群からは中国製の吾作銘三角縁四
 神四獣鏡や剣、太刀、銅鏃(銅製の矢じり)などが出土しています。昭和
 六十二年七月、国の史跡に指定。」
と案内板に書かれておりました。思い切ってこの古墳のある裏山に登って
みることにしました。標高的には五〜六十メートルでしょうか。今は木々
に周りを覆われていますが、木がなければ見晴らしのいい丘の上で、東に
は袋井の田園地帯が見えます(磐田原台地の東端に位置しているため)。
 前方後円墳の上に登り、大地に向けて般若心経を二巻捧げました―
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月25日 13時17分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


さては冬生まれなのかしら?




>新豊院  ・永井 一軒 丸に永井切り梨・・・・・・・・いわゆる永井氏系でしょうか
      ・永田 二軒 丸に剣片喰・・・・・・・・・ここは外れますね
      ・永田 一軒 丸に三つ柏・・・・・・・・・長田姓を遠慮した永田さんかもですね



>新豊院山古墳群

すごいですね
中国とも関係があったのでしょうか?
実態を知りたいですね。

タイムマシンが欲しいところです。
どなたの一族が支配者だったのでしょうね。



>前方後円墳の上に登り、大地に向けて般若心経を二巻捧げました

ありがとうございました。
すっごくスケールの大きなお弔いですね。

出雲系の支配者だったのかなぁとぼんやり思いました。

[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月25日 13時38分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この新豊院で榊原氏の墓に出会ったのですが、善地にも私の家の近くに
一軒「榊原家」があり、どういうルーツかなといつも考えています。善地
の墓地には墓がないようであります。従って、家紋もまだわかっていませ
ん。
 寺林峻の『服部半蔵』という小説を読んだら、半蔵は榊原康政に仕えて
いたとありました。寺林氏は史実に基づいて書く姿勢でありますので、ま
んざら嘘ではないと思っています。
 榊原氏も忍者であった(忍者とは何かの定義の問題もありますが)という
人もあり、榊原氏についてもう少し知りたく存じます―
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月25日 21時58分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


榊原さんは源氏車紋ですから
善地の榊原さんが車紋だったら一門でしょうね。


>半蔵は榊原康政に仕えていたとありました


知らなかった〜



半蔵の生年   天文11年(1542年)
康政の生年   天文17年(1548年)

榊原氏:

榊原氏は三河仁木氏の一族とされ、後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称した。後に伊勢に残った本家筋の系統と三河に戻った分家筋の系統があったことが知られ、三河に戻った系統でも台頭してきた松平氏の直臣になった系統[1]とそれ以外の系統が存在していた。康政の系統は松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であり、分家筋でも有力な存在とは言えなかった(康政の系統が伊勢の榊原氏本家から直接分立したのか、松平氏直臣身分となった榊原氏分家からの分立なのかは不明である




>榊原氏も忍者であった(忍者とは何かの定義の問題もありますが)という人もあり、榊原氏についてもう少し知りたく存じます

なるほど伊勢にご先祖さまが行ってたなら忍者を支配してた家かもという可能性は確かに出て来ますね。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月25日 22時35分42秒 ) パスワード

榊原源氏車紋

スポークスは12本ですね。


[6]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月26日 10時03分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 榊原氏についてありがとうございます。二十五年前の電話帳で見ても、
我々の住む旧浜北市には、榊原姓は十軒しかありませんでした。それも
各地にバラバラで、二軒以上でまとまった形はありませんでした。とい
うことは、江戸時代よりこの地に土着し、世帯数を増やしてきたという
可能性は少ないということになります。
 いずれにしても、家紋には注目して行きたいと思います。

 榊原康政は徳川四天王として、正に連戦の猛将でありました。
 大須賀家より妻を娶り、そして大須賀家には長男を養子に入れ、そのま
た長男が今度は榊原家を継ぐために戻って来るということで、結果として
大須賀家は途絶えてしまった。これは榊原家が絶えるのは忍びないという
家康の意思でありました――この辺を思い出しました。
 大須賀氏のもとには服部半蔵も組み込まれていました――ということは、
榊原氏を通じてか……大須賀氏と榊原氏はどちらが格上だったのでしょう
か?
 いずれにしても、高天神城の戦いを中心にして細かく拾って行くと、今
まで目に見えなかった実態が見えてくると思っています。もちろん、忍者
等の特殊部隊も使って攻めております……郷土に残るエピソードをいろい
ろ探してみたいと思います。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月26日 14時00分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


>大須賀氏と榊原氏  どちらが格上か?

ゴチャゴチャするので頭が冷えてる時にいろいろネットで見てみますね。
期待しないで待っててください。
ヒトの名前が錯綜するので多分わたくしには無理かな?


ホント日本の「家意識」ってグチャグチャになっていきますね。
そこへ家康の命令が入ったり。
余計ややこしくなるけど、それが日本だ、とも思います。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月27日 00時23分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 磐田のお寺廻りの残りの話をいたします―

 「新豊院」から磐田駅南の方に向かいました。
 例の永井家の墓がたくさんあった「宝珠寺」の北三キロメートル位の
所あたりです。

 「興徳寺」には「服部家」の墓が二基ありました。
 家紋は「丸に五三桐」でした。
 さっそく、般若心経を二巻捧げた次第です。
 その他に、「永井家」の墓一基。
 家紋は「丸に永井切り梨」でした。

 そして、再び驚きの出会い――
「神宮山 松向寺」では、「永井家」の墓十一基を見つけました。
 家紋は―
  @丸に違い鷹の羽 六基
  A丸に永井切り梨 三基
  B丸に一文字三星 二基

 その一キロほど北野「智恩斎」では、「丸に方喰」の「長田家」の墓に
出会いました。

 これで、永井家のまとまった墓群を善地の東泉寺も含めて三か所見つけ
たことになります。それらの関連性はこれからの謎解きテーマであります。

 まだ、行ってないお寺も磐田にはありますので、浜松も含めてあと二
〜三回は磐田〜浜松のお寺廻りをしたいと思っております。
 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月27日 02時16分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「興徳寺」には「服部家」の墓が二基ありました。家紋は「丸に五三桐」でした。

この服部家は何故桐なんでしょうね。

平氏系長田氏系の服部家なのか?            だったら「三つ柏紋」でも良さそうなのに。

足利家に仕えてた時の拝領紋なのか?



>さっそく、般若心経を二巻捧げた次第です。

ありがとうございました。
お盆シーズンなので良いお土産になりました。



>「神宮山 松向寺」では、「永井家」の墓十一基を見つけました。

この3つともに「永井家」バリバリですね。

@丸に違い鷹の羽 六基
A丸に永井切り梨 三基
B丸に一文字三星 二基



>北野「智恩斎」では、「丸に方喰」の「長田家」の墓に出会いました。

これは分からないです。
逆に  平氏系保田家や秦氏系服部家がらみの長田家  なのかなと。



家紋は本当に難しいです。
名字と家紋が一致しているのがいいですね、簡単で。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月27日 09時14分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:方喰→片喰

 いろいろお寺を回ってみて、江戸時代の一村一寺による「寺請制度」、
「五人組制度」等によって、民は狭い地域の中で結構厳しい管理下に
置かれていたことがわかります。そんな中で、通婚が行われ、村の人々
は、お互い何らかの親戚関係となって行ったようです。お寺ごとに、お
墓の家紋に異姓横断的に同じ家紋が表示されている傾向があることがわ
かりました。
 つまり、家紋は一族一門の印として用いられた。それは武家のように
厳格な運用ではすでになかった……。お寺に行ってみて、家紋について
参考図書に書かれているような法則・規律・運用を期待すると、全くの
当惑に直面するのは、そのせいが大きいと思われます。

 それにしても、何気なく訪れた寺が、意外な由来・歴史・エピソード
を持っているということがしばしばあります。それは、後から調べてみ
て気づくのですが、今回もいくつかありました……。地元でなければわ
からないエピソード、それを何としてでも拾って行きたいと強く思って
います―
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月27日 17時01分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浜松における榊原氏の分布を「苗字でポン!2000年版」で調べてみま
したら、次のように出ました―
 坪 井 町:20軒
 馬 郡 町:19軒
 志都呂町:14軒
これらの町は舞阪の東地区でありますので、ほぼ「服部氏」の分布とも
重なります。どういう仕事柄のつながりがあったのか、一度調べてみたい
と思います。
 
 南朝の後醍醐天皇の戦略で特筆すべきことは―
 @東大寺の僧兵だけでなく、奈良坂北山宿が統括する畿内近国の非人法師
 軍事力に期待した。
 A中央有力寺院を通じて仏教界全体を味方につけようとした。
 B自らも密教に帰依し(特に真言密教)、調伏などの祈祷を行った。
 C修験のネットワークを利用した。
ということで、いわゆるオカルトパワー・ゲリラ戦術を利用した。それは
将来の伊賀忍者による戦術の原型になったのかも知れません……。

 南朝は「負け組」となりましたので、その「屈辱」は南朝家臣の心の底
にずっと残り、やがて戦国時代にそのマグマは噴出し、家康を中心とした
天下取りのためのベクトルとして、一つになったのかも知れません……。

 もう一つの側面として、徳川家の家臣(徳川氏も含めて)は、賀茂氏系、秦
氏系がかなり多いようです。家康は賀茂氏系、本多氏が賀茂氏系、服部氏は
秦(≒賀茂)氏系…etc. つまりは賀茂氏系(八咫烏系)が、日本を一つにまと
める役割(国体の維持)を担い、懸命に努力したといえるのではないでしょうか……?
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月27日 22時29分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

>家紋について参考図書に書かれているような法則・規律・運用を期待すると、全くの当惑に直面するのは、そのせいが大きいと思われます。

まさにおっしゃる通りですね。



>>>>家紋について参考図書に書かれているような法則・規律・運用

     これは歴史的証拠(笑)によって
                                         例えば軍記物とか寛政重修諸家譜とかを基にして

     纏められ記録されたものですからね


     時代が下るに連れて崩れていくし
     江戸時代は身分制度で菩提寺をお願いするお寺さんも限定されたでしょうし
     江戸末期に新たに家紋の変更を許された家も出たでしょうし
     明治時代になってその土地の主人の名字にあやかった時に家紋もあやかった家もあったでしょうし
     または永く許されなかった名字や家紋を復活させた家もあったでしょうし。



今の時代から遡って名字を調べるのは難しいけれど、家紋はもっと遥かに難しいでしょうね。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月27日 22時43分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


非人法師って?
と思い検索してみました。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%A2%E5%A4%9A


穢多の生業は中世以降徐々に形成されたもので、制度としては江戸幕府のもとで確立した。

タカを使って鳥を捕らえることは仁徳天皇の代からあり、また、大宝令官制に主鷹司の規定があり、これに付随する餌取の由来もまた古く、屠る者がこれに従事した。一方、『延喜式』には猪鹿の肉を天皇に供する規定があったが、仏教の殺生禁止の決まりから肉食を穢れたものと見なす風が広まり、屠者を蔑視する風も広まった。彼らは京都鴨川河原に小屋住まいをし、都の民のために賤業に従事した。いわゆる河原者である。下鴨神社が河原の近くにあったので、その穢れのおよぶことを避けるために『延喜式』には付近に濫僧屠者の居住することを禁じた。


                                コレ⇅    何となく分かってたのはワタシが日本人だからかな?



濫僧とは、非人法師で、国司の厳しい誅求に耐えかね、地方民が出家して公民籍から離脱したものである。三善清行は「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」と述べた(意見封事)ほどで、その一部が京都に来て、屠者とともに河原者になった。当時は両者の区別があったが、のちに同一視され、餌取法師、エタと呼ばれた。その職業には都市清掃もあり、浄人(きよめ)とも呼ばれた。

       

『塵袋』には、キヨメをエタといい、もとは餌取で濫僧とも呼ばれ、旃陀羅のことであるとあり、『壒囊鈔』には、河原者をエッタというとある。彼らはまたその居住地から、坂の者、散所の者とも呼ばれた。

中でも京都の清水坂の坂の者が有名であった。

清水坂の坂の者は祇園感受院に属して犬神人と呼ばれ、延喜寺僧兵出兵の際などその先手を務めた。

各部落には長がいて、その村落の警護にあたり住民から報酬を受けた。これを長吏法師といった。長吏には縄張りがあり、寛元年間、清水坂の長吏と奈良坂の長吏とがいさかいを起こしたことがある。



江戸時代には、斃牛馬(「屠殺」は禁止されていた)の処理と獣皮の加工やまた革製品の製造販売などの皮革関係の仕事(これらは武士の直属職人という位置づけもあった)、刑吏・捕吏・番太・山番・水番などの下級官僚的な仕事、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配(芸人・芸能人を含む)、草履・雪駄作りとその販売、灯心などの製造販売、筬(高度な専門的技術を要する織機の部品)の製造販売・竹細工の製造販売など、多様な職業を家業として独占していた。また関東では浅草弾左衛門のもとで非人身分を支配していた。一口に穢多といっても日本の東西で違いは大きいので注意が必要である。





七十一番職人歌合36番「穢多」より。「この皮は大まいかな」
穢多の原形は奈良時代にはすでに存在していたようで、『播磨国風土記』(713〜715年(和銅6年〜霊亀元年))に「恵多」の記載が見られる。「穢多」表記の初見は鎌倉時代の『天狗草紙』(1296年(永仁4年))であり,四条河原に出て肉食しようとした天狗を穢多童子が捕らえて首をねじり殺したと書かれ、川原で肉を扱い鳥を捕る童形の人物として描かれている[6]。また、天狗の恐れるものの一つとして「穢多のきもきり(肝切?)」を挙げており、天狗に恐れられる存在であった。この集団は室町時代あたりから差別の対象になっていたのだが、その差別は緩やかであり、しかも戦国時代には皮革上納が軍需産業(皮革は鎧や馬具の主材料)であった事から保護もされた。東日本の大名の中には領国に穢多に相当する生業をする者がおらず、軍需生産のために西国から穢多に従事する者を呼び寄せ、領国に定住させ皮革生産に当たらせた例もみられる。1500年(明応9年)頃に成立したとされる『七十一番職人歌合』には三十六番でいたかとともに詠まれ、諸肌脱ぎ、束髪、裸足で皮をなめしている姿が描かれている[7]。江戸時代になり鎖国体制が確立すると、東南アジアからの皮製品の輸入が途絶え、深刻な皮不足が生じた。このため皮革原料としての斃牛馬は一段と重要になり、斃牛馬処理は厳しく統制されるとともに、各農村に穢多が配置されて皮革原料の獲得に当たることになった。


居住していたのは村外れや川の側など、農業に適さない場所であったことが多い。皮なめしなどの仕事が主であったため、当初は「かわた」とも呼ばれていたが、[8]やがて「えた」という卑称が定着化していく。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるため、その臭いを嫌い、離れた場所に住まわせられる傾向があった。この傾向は中世ヨーロッパにおいても見られる。





穢多
(『和漢三才図会』(正徳2年(1712年)成立)より)
日本では殺生を嫌う仏教と、血を穢れとして嫌う神道の両方の影響から、動物の死体を扱う事を忌む思想があった(従って日本独自である。ただし、阿部謹也『刑吏の社会史』によると、中世ヨーロッパでは動物の解体に携わる職業の者はギルドの構成員とはされなかったとされている)。関東に関しては幕府は長吏頭弾左衛門(穢多頭矢野弾左衛門)にその支配権を与え、制度を整備し、穢多および非人身分を間接支配した。皮革の製造加工の権利を独占(実行は非人が独占)していたため、頭の矢野弾左衛門にもなるとかなりの富を得ており、大尽旗本並みの格式と10万石の大名並みの財力と称され、武士や商人への金貸し業にも手を染めた。井原西鶴は『日本永代蔵』の中で「人しらねばとて、えたむらへ腰をかがめ」と皮肉を込めて記している。


町人(商人や職人)は、御家人株の売買などによって身分を変える事が出来たが、穢多の多くが非人身分であったためそのような行為は出来なかった。非人身分とそれ以外では火の貸し借りができない、非人は下駄を履いてはならないなど、社会的な差別も多々あった。穢多は居住地が地図に表示されないなどの差別を受けたとされているが、豊かな穢多村(枝村)では田畑を農民(農奴)同様に耕し年貢も納めている例があるなど一概には語れない。江戸時代を通じて穢多に限定された職種が保証されていたため、経済的にはある程度安定していたと考えられている。


明治時代になって身分解放令により、穢多の公称、非人身分(刑罰:非人手下)が廃止されたが、同時に死牛馬取得権、職業の独占も失ったため経済的困窮に陥った例が多い。なお、解放令は地租改正、徴兵令、学制とともに村請制度が廃止され、当時の民衆からの強い反発を受けた。当時各地で発生した明治政府反対一揆の中で、枝郷(枝村)の打ち壊しを伴うものを解放令反対一揆と呼ばせている。


多方面からの強い反発を背景に、身分解放令による法的な差別解消後も非人身分の者に対する偏見や差別は残った(「五万日の日延べ」として、解放令の発効を認めなかった地域もあった。因みに、2008年(平成20年)7月に解放令公布から50,000日を経過する)。ただ留意すべきなのは、枝郷(枝村)の焼き討ちが多発した筑前竹槍一揆と同様、一揆の参加者には被差別民自身も多くいたという点である。[要出典]
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月27日 22時51分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>南朝は「負け組」となりましたので、その「屈辱」は南朝家臣の心の底にずっと残り、

南朝系武家はそういう気持ちはあったと思います。
家康が南朝方子孫で天下を掌握したことは旧南朝方武家には喜ばしいことだったと思います。


しかし家康は「南朝」を利用しただけかも。




>やがて戦国時代にそのマグマは噴出し、家康を中心とした天下取りのためのベクトルとして、一つになったのかも知れません……。

これは言えると思います。




>徳川家の家臣(徳川氏も含めて)は、賀茂氏系、秦氏系がかなり多いようです。

>家康は賀茂氏系、本多氏が賀茂氏系、服部氏は秦(≒賀茂)氏系…etc. つまりは賀茂氏系(八咫烏系)が、日本を一つにまと める役割(国体の維持)を担い、懸命に努力したといえるのではないでしょうか……?


これは藤原貴族の世の中にしてはならない、という思惑もあったのでは?と思います。

           藤原貴族とは
           いわゆる朝廷に関わる藤原氏一派
                天皇や朝廷を幕府から完全に切り離し、下に置くため
           それと秀吉が豊臣姓を頂いた経緯と滑稽さへの反省
     
           だからこそ家康は藤原姓を一時は名乗っていたけれど藤原姓を「止めた」のではないかと。
           
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月28日 10時38分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤原氏というもの、また信長も似ておりますね。天皇を支配するという
考えにおいて……。

 秀忠の娘和子を是が非でも入内させたいと家康が思ったのは、どういう
意味があったのか……。しかしながら、その血は子の明正天皇で途絶え、
養子の霊元天皇(母は藤原国子)が皇位をつないで行く……。
 徳川の世になり、体制を万全にしたからには、藤原氏を排除するという
必要もない、むしろうまくやって行った方が得策と考えたか……?

 いずれにしても、国を統一し統治して行くということは、大変なことで
あります。決して一人でできるものではありません。今のように体制が確立
しておりませんので、何があってもおかしくない世界。

 天下を取るということは、統治システムを創り、それを実行させるとい
う頭脳と組織力が必要……徳川家にはそういう人材が集結したということ
……そういうベクトルが働いたということ……それは家康一人の力では決
してないはず……その辺の裏の話を知りたいものであります。

 いよいよ明日、また信州へ行って来ます。上田では小松姫の墓(方泉寺)
を訪れたいと思っています。安曇野では穂高神社、諏訪では博物館にもう
一度(現在、諏訪氏三代の特別企画展示中)行ってみます。

 面白い話題がたくさん拾えたらと願っております―
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月28日 15時17分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>秀忠の娘和子を是が非でも入内させたいと家康が思ったのは、どういう意味があったのか……。

外戚になりたかった、
に尽きると思います。


藤原氏が代々やったように、
自分の身内の娘を天皇に嫁がせて生まれた子を天皇にして、
権力を振るう。


家康と秀忠の場合は
秀忠の娘が次の天皇を生めば
それこそ天皇と武家の両方を支配出来ますから。

つまり精神世界の日本一の家格の家=天皇家=と実力で日本一の家格の家=徳川家=の両方です。

これは清盛と頼朝の望んだこと。この2人は結局は成功しなかった。しかし自分だけは成功させられると思った。何故なら失敗を見てるから。だからうまくやれると思った。

                       これに尽きるでしょう。

でもやっぱり願ったほどにはうまく行きませんでしたね。


                   後水尾天皇の寵愛する女官・四辻与津子(お与津御寮人事件の女性ですね)が皇子・賀茂宮を出産していた。また、翌年には梅宮(後の文智女王)が生まれた。


この賀茂宮というのは4歳で亡くなっているようなので暗殺されたのかもですね。
第2皇子と第3皇子もすぐに亡くなっているから暗殺されたのかもですね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87


後水尾天皇
                  後陽成天皇の第三皇子。母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子。

中宮:徳川和子(東福門院)(1607-1678) 第二皇女:興子内親王(明正天皇)(1623-1696)


第一皇子;賀茂宮(1618-1622)
第一皇女;文智女王(梅宮)(1619-1697)権大納言左大将鷹司教平に嫁ぐ。しかし、わずか3年で離縁
第三皇女:女二宮[注釈 1](1625-1651、秋月院妙澄大師)‐近衛尚嗣室
第二皇子:高仁親王(1626-1628)
第三皇子:若宮(1628)
第四皇女:女三宮昭子内親王(顕子内親王)(1629-1675)
第六皇女:女五宮賀子内親王(1632-1696) - 二条光平室
第七皇女:菊宮(1633-1634)

典侍:四辻与津子(?-1638) 第一皇子:賀茂宮(1618-1622)
第一皇女:文智女王(1619-1697)

典侍:園光子(壬生院)(1602-1656) 第四皇子:紹仁親王(後光明天皇)(1633-1654)
第六皇子:守澄法親王(1634-1680) - 初代輪王寺宮門跡、179代天台座主
第十皇女:元昌女王(1637-1662)
第十一皇女:宗澄女王(1639-1678)
第十三皇女:桂宮(1641-1644)

典侍:櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685) 第五皇女:理昌女王(1631-1656) - 宝鏡寺宮門跡
第五皇子:某(1633)
第八皇女:光子内親王(1634-1727)
第八皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)
第九皇子:性真法親王(1639-1696) - 大覚寺宮門跡、東寺長者
第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)
第十四皇女:理忠女王(1641-1689)
第十一皇子:穏仁親王(第3代八条宮)(1643-1665)
第十三皇子:道寛法親王(1647-1676) - 聖護院宮門跡、園城寺長吏

典侍:園国子(新広義門院)(1624-1677) 第十皇子:尭恕法親王(1640-1695)- 181・184・187代天台座主
第十五皇女:常子内親王(1642-1702)‐近衛基熙室、徳川家宣御台所近衛熙子の母
第十四皇子:眞敬法親王(1649-1706) - 一乗院宮門跡、興福寺別当
第十六皇子:尊證法親王(1651-1694)- 182・185代天台座主
第十九皇子:識仁親王(霊元天皇)(1654-1732)
第十七皇女:永享女王(1657-1686)

典侍:四辻継子(権中納言局)(?-1657) - 四辻季継の娘 第十二皇子:尊光法親王(1645-1680) - 徳川家光猶子・知恩院宮門跡
第十八皇子:盛胤法親王(1651-1680)- 183・186代天台座主
第十六皇女:文察女王(1654-1683)

宮人:水無瀬氏子(帥局)(1607-1672) - 水無瀬氏成の娘 第九皇女:新宮(1635-1637)
第七皇子:性承法親王(1637-1678) - 仁和寺御室
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月28日 15時19分37秒 ) パスワード

>面白い話題がたくさん拾えたらと願っております


信州、涼しいと良いですね。
「真田丸」効果で人が一杯かも知れませんね。


たくさんのお土産話を期待しています。
お気を付けて。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月28日 16時05分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:方泉寺→芳泉寺

 小松姫も戦国に輝く女性の一人! 六月に沼田周辺に旅行に行きました
が、その沼田城の城主真田信之の妻。父はあの本多忠勝。連戦練磨の猛将。
武家のしきたりは、@忠を尽くすこと、A義を守ること、B仁を尽くすこ
とだと思うのですが、小松姫は敵方となった親兄弟を城に入れなかった。
それは表向きの話。実はこっそりと接待していたという。義を守り、かつ
仁を尽くすというところに、人間性の素晴らしさを感じます。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月28日 22時58分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


>実はこっそりと接待していたという

これは全く知りませんでした。
ありがとうございます。


小松姫はさすが立派な人格を備えた女性だったのでしょうね。

「真田丸」
いよいよ面白くなりました。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月31日 01時41分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 往復820qの旅でした。また、「信州は暑い」というイメージの2日間
でありました。家に帰ってひと眠りして疲れはとれましたが、まだ集中力が
戻っておりませんし、こちらの夜も引き続き暑いですので、もうひと眠りす
ることにいたします。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月31日 01時56分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

お帰りなさい。
今年の?信州が暑いというのは全く知らなかったです。
ゆっくりお休みになってください。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月31日 02時34分29秒 ) パスワード

さて大須賀氏ですが
この場合の大須賀氏は岡崎の洞町の大須賀氏のようで
松平家に仕えた
ということから、ま、古い時代から松平家と関係があったようですね。


坂東平氏千葉氏系だそうです。
頼朝の挙兵で大須賀胤信は父の常胤とともに従い
文治5年の奥州征伐に参加し
建保元年の和田義盛の乱で大功を挙げ甲斐井上庄を与えられ
一族は磐城・甲斐・三河・その他に広まったそうです。

家紋は七曜。




http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%A4%A7%E9%A0%88%E8%B3%80

現千葉県北部である下総国香取郡大須賀村が起源の桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)千葉氏流がある。

須賀氏に関連する。

飯野藩、勝山藩、竜野藩などにみられる。





ということは大須賀氏は頼朝公以来のなかなかの家だった、ということですね。




榊原氏は源義家の孫である源義康の子孫で足利を継いだ家の子孫。
                        ということは一応家康の先祖である新田とは親戚。
                        でも南北朝の戦いで敵同士になりましたね。笑 で、足利の勝ち



この義康という人物は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%BA%B7
源義家の子である源義国から下野国足利荘を相続し、足利を名字とした。
                      父・義国の本領である八幡荘を相続した異母兄の義重は、父とともに上野国新田荘を開墾し新田氏の祖となる。

                      義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶り、
                      
                      河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。




こういう関係からすると榊原家の方がずっと格上なんでしょうね。

     大須賀=桓武平氏で千葉氏の流れで頼朝公以来の源氏方。
     榊原家=清和源氏で足利氏の流れ。


家康にとっては榊原氏は先祖を同じくする。笑
大須賀は頼朝の家来の千葉氏の流れだから家康にとってはどうってことなかったのでしょうね。


それで「榊原家を継げ」「榊原家を絶やすな」というのが出て来たのでしょうね。


この榊原家は断絶の危機に何度も遭っているようですが家康さまのお蔭で存続してきたようです。


      懲罰などを重ねつつも榊原家が取り潰しにならなかったのは、
      藩祖康政の功績が考慮されたことと、
      最初の断絶の危機の際に家康が直々に家の存続を命じたことで、
      以降の幕府もその例に倣ったものと考えられる。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E6%B0%8F


江戸時代の榊原家

式部大輔康政の子である康勝(三男)は嗣子無きまま、大坂の陣の際に痔が悪化して死亡した。榊原家は断絶しかけるが、徳川家康直々の裁断により、康勝の長兄で母方の大須賀家を相続した大須賀忠政の子の忠次が榊原家を継承した。これにより大須賀家は断絶した。のちに、康勝には勝政という隠し子が存在し、榊原家の重臣らが意図的にこれを隠匿していたことが発覚し、重臣らは処分される。勝政は幕府に取り立てられ、子の代より旗本榊原家となる。

忠次の孫の政倫が嗣子無きまま19歳で死去し、榊原式部大輔家は5代で一度断絶しかけた。しかし、親族の大名家による家名存続活動が実を結び、前述の旗本榊原家より養子の政邦(康勝の曽孫)が入り断絶を免れた。その子の政祐の死去の際にも勝政系旗本榊原家から政岑が末期養子に入っている。

榊原政岑はしかし豪勢な遊びを幕府に咎められ、本来改易処分となるところを蟄居・隠居および越後高田藩への懲罰転封処分とされた。その跡を継いだ政純は政岑の死後まもなく夭逝し、またも断絶の危機を迎えたが、幕閣から内密の了承を得て、死んだ政純の身代わりに弟の政永を秘かにすり替えることで存続した。

これら懲罰などを重ねつつも榊原家が取り潰しにならなかったのは、藩祖康政の功績が考慮されたことと、最初の断絶の危機の際に家康が直々に家の存続を命じたことで、以降の幕府もその例に倣ったものと考えられる。

幕藩体制下では、下記のように、さまざまな藩地に転封されているが、越後高田に入って以降は落ち着いた。
1590年〜1643年 - 上野国館林藩(群馬県館林市)
1643年〜1649年 - 陸奥国白河藩(福島県白河市)
1649年〜1667年 - 播磨国姫路藩(兵庫県姫路市)
1667年〜1704年 - 越後国村上藩(新潟県村上市)
1704年〜1741年 - 播磨国姫路藩(兵庫県姫路市)
1741年〜1871年 - 越後国高田藩(新潟県上越市)
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月31日 03時05分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<6>の件ですが

>大須賀氏のもとには服部半蔵も組み込まれていました――ということは、
榊原氏を通じてか……


       大須賀康高は(忍者の)目付だったのですか?
       それで半蔵が配下にいたのですか?



伊賀越え同行者名:以下の34名

酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、
<<<<榊原康政>>>、本多正盛、石川康通、
<<<服部正成>>>、高木広正、大久保忠隣、
菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、
牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、
渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、多田三吉、
花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利、
永井直勝、永田瀬兵衛、                     へぇ〜
松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎


ここには大須賀康高の名は無いですね。



徳川16神将

酒井忠次(1527年 - 1596年)
本多忠勝(1548年 - 1610年)
榊原康政(1548年 - 1606年)
井伊直政(1561年 - 1602年)
(以上を徳川四天王、本多・榊原・井伊の3人を三傑という)

米津常春(1524年 - 1612年)
高木清秀(1526年 - 1610年)
内藤正成(1528年 - 1602年)
大久保忠世(1532年 - 1594年)
大久保忠佐(1537年 - 1613年)

蜂屋貞次(1539年 - 1564年)または植村家存(家政)(1541年 - 1577年)
鳥居元忠(1539年 - 1600年)
鳥居忠広(? - 1573年)
渡辺守綱(1542年 - 1620年)

平岩親吉(1542年 - 1611年)
服部正成(1542年 - 1596年)
松平康忠(1545年 - 1618年)または松平家忠(1555年 - 1600年)


     ここにも大須賀康高の名は出てないですね。
 

>大須賀氏と榊原氏はどちらが格上だったのでしょうか?
   

レス<22>に書いたように  榊原家  >>>   大須賀家  でしょうね。


ポイントは榊原家が家康に「可愛がられた」ことでしょうね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%BA%B7%E9%AB%98


大須賀 康高(おおすが やすたか)
戦国時代の武将。徳川氏の家臣。



略歴[編集]

大永7年(1527年)三河額田郡洞村(現愛知県岡崎市洞町)に大須賀正綱の子として生まれる。

はじめ娘婿の榊原康政と共に酒井忠尚に仕えていたが、忠尚が徳川家康に反旗を翻すと、これに従わずに康政とともに家康に仕えるようになる。

その後は旗本先手役として活躍し、天正元年(1573年)に遠州馬伏塚を武田軍の侵攻から守りきった。


                        大須賀家が没落していく原因?

天正6年(1578年)に甥の大須賀弥吉(小吉)が高天神城攻略で、抜け駆け行為をしたため逆鱗に触れた家康から切腹を申しつけられる事変があった[2]。


天正9年(1581年)の高天神城の戦いで手柄を認められて天正10年(1582年)、遠江横須賀城主となった。

本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱においては曽根昌世、岡部正綱と共に先鋒隊として派遣され武田遺臣や有力寺社に対して所領の安堵を行っている[3]。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも先鋒として参加し、三好秀次(豊臣秀次)軍を追い詰めたが、堀秀政の反撃を受けて敗れた。天正13年(1585年)の真田昌幸攻めでは、井伊直政と共に苦戦する味方の救援に赴いた(上田合戦)。

天正17年(1589年)6月23日に死去。享年63。


嗣子がなかったため、榊原康政に娶わせた娘が生んだ忠政を養子に迎えて後継ぎとした。
実は康高には信高という実子があったが、仏門に入り、慶長8年(1603年)に城下に善福寺を開山した。


                                         これまた不思議ですね。何かあったのでしょうね。


徳川氏の家臣においては新参にも拘らず、家中において重度の武功を挙げたことから、徳川二十将の1人として数えられる。

                                   へぇ〜


大須賀氏が後に榊原氏に吸収されたために、あまり記録には残っていないが、
実際は三傑や大久保忠世・鳥居元忠に匹敵する武功を挙げた人物である。




http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/oosuka.html

 大須賀家 家臣団

 

  大須賀康高 (?〜?)

 高天神城は遠江の要地にあり、徳川家、武田家が城をめぐって幾度も争った。

天正二年六月、高天神城が武田家に落とされると、武田家を嫌って徳川家に属した者がいた。
彼等は同年秋から大須賀康高に付けられ、後に高天神衆と呼ばれた。

天正二年八月から大須賀康高は馬伏塚城に入っており、高天神城攻略の中心人物になった。

天正六年、高天神城攻めのため横須賀城が築かれた。
大須賀康高が横須賀城に入り、その際に付けられた者は横須賀衆と呼ばれた。

天正十年、本能寺合戦で織田信長が討死すると大須賀康高らは甲斐に入り、武田旧臣に知行安堵の書状を発した。

これにより、武田旧臣は徳川家に属した。
横須賀衆は書状の奏者として活躍している。
後に徳川家康が武田旧臣に知行安堵の書状を発していることから、大須賀康高らの措置は緊急的なものだったと分かる。

天正十二年、撰要寺に寺領五十貫文を寄進。

 


  井上清宗 (1509〜1596年 88歳没)

 横須賀衆。井上正俊の子。半右衛門。大須賀康高に仕える。天正十三年、撰要寺の寺領坪付を作成。慶長元年閏七月二十九日、八十八歳没。法名「日要」。

 

 

  海老江里勝 (?〜?)

 横須賀衆。勝左衛門。初め今川家臣。後に大須賀康高に仕える。大須賀家断絶後、井伊家に仕える。寛永年間、大須賀康高について記した覚書を井上重成に提出。これは大須賀康高の曾孫である榊原忠次が、曾祖父の事績を知るために井上重成を通じ、海老江里勝に覚書の作成を依頼したことによる。

 

 

  大石久末 (?〜?)

 横須賀衆。宗兵衛。慶長十年、横須賀に新野池新田を開拓。

 

 

  本間清光 (?〜?)

 横須賀衆。惣兵衛。慶長十年、横須賀に新野池新田を開拓。




  渥美勝吉 (?〜?)

 横須賀衆。源五郎。大須賀康高に仕える。首取源五郎として武勇を広める。慶長十年、大須賀家に新田置目を提出。

 

 

  久世広宣 (?〜?)

 横須賀衆。三四郎。大須賀康高に仕える。長篠合戦で功を挙げる。慶長十年、大須賀家に新田置目を提出。大須賀家断絶後、旗本になる。

 

 

  坂部広勝 (?〜?)

 横須賀衆。三十郎。大須賀康高に仕える。長篠合戦で功を挙げる。慶長十年、大須賀家に新田置目を提出。大須賀家断絶後、旗本になる。

 

 

  竹田右衛門 (?〜?)

 横須賀衆。慶長十年、大須賀家に新田置目を提出。

 

 

  武藤万休 (?〜?)

 横須賀衆。慶長十年、大須賀家に新田置目を提出。大須賀家断絶後、徳川頼信に仕える。

 

 

  小笠原清有 (?〜?)

 横須賀衆。与三右衛門。大須賀康高に仕える。大須賀家断絶後、徳川頼信に仕える。紀伊移封に従う。

 

 

  丹羽又左衛門 (?〜?)

 横須賀衆。大須賀康高に仕える。天正十三年、撰要寺の寺領坪付を作成。

 

 

  松下範久 (?〜?)

 横須賀衆。助左衛門。大須賀康高に仕える。天正十三年、撰要寺の寺領坪付を作成。

[24]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月31日 10時35分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 榊原・大須賀氏の情報ありがとうございます。大須賀氏の下に服部半蔵
もいたということは、横須賀城の大須賀康高を総大将にして、高天神城の
総攻撃に、それぞれの武将・軍団が集められたということだと思います。
服部半蔵の部隊は榊原康政の指示下にあったのかも知れません。松下常慶
は井伊直政の配下にあったと思われます。いずれにしても、いわゆる忍者
部隊が特殊工作をしかけ、勝利へのきっかけを作ったものと思われます。

 さて、上田城跡は想像以上に大きな城跡でありました。ちょうど、彦根
城や松山城のような規模……自然の台地地形を生かし、V字堀を巡らせた砦
のような城(天守閣はなかったとのこと)であります。私が見ても難攻不落
であったに違いないと思いました。

 城跡の中には真田神社がありましたのでお参りをし、また博物館もあり
ましたので中に入り、『真田氏と上田城』、その他小冊子二冊を仕入れて
まいりました。その中の新たな発見については後に記述いたします。

 次は、小松姫の墓について記します。本日も蒸し暑くなりましたので、
休憩をいたします―

 
 
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月31日 11時21分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


>上田城跡は想像以上に大きな城跡でありました。

これって真田が(対上杉で?)徳川に作らせた城でしたっけ?
で、2回、徳川に勝ったんでしたっけ?


真田というと上田城というイメージです。



>『真田氏と上田城』、その他小冊子二冊を仕入れてまいりました。
>その中の新たな発見

どんな発見だったのでしょう?
興味深いです。




高天神の戦いについては、もっと基礎から、ネットサーフィンをしてみようと思っています。
全く基礎が分かっていないので

          天正6年(1578年)に甥の大須賀弥吉(小吉)が高天神城攻略で、抜け駆け行為をしたため
          逆鱗に触れた家康から切腹を申しつけられる事変があった

この意味も分かりません。


抜け駆けは味方を危機に陥らせることもあるし、統率が取れなくなるし、
でも
抜け駆けで褒められることだってあるわけですし

                      要するに家康は大須賀弥吉(小吉)が嫌いだったのだろうなと裏読みしてしまいます。



この高天神で松島家はどういう立ち位置にいたのか
非常に気になります。

でも高天神の戦いについてなかなか納得いくサイトに出会えません。

      文字化けしてて読めなかったりしますし。



先週の「真田丸」では信幸の妻の2人がともに懐妊したそうで
元正室の方が先に産んでいるようですね。

元正室は信幸の従姉妹になる人ですし、もともとは真田の嫡男の娘ですから、元正室系子孫は納得できないものが多々あったでしょうね。


信幸は非常に長生きしたそうで
それゆえにこの2系統の孫が後に真田家のお家騒動に発展するんだそうですね。


沼田・松代・上田
この3つもゴチャゴチャになります。
    松代は貧しい土地、という印象です。
    上田は徳川に勝った名城という印象。
    沼田は真田の意地の城。北条に対しても徳川に対しても、沼田は渡せない、という意地のイメージです。



それにしても本当に小さな小さな家が日本史上に燦然と名を遺したというのはまさに武家の誉れですよね。
その相手が上杉であったり北条であったり徳川家康ですから。
     武田勝頼がああいう死に方をしたから逆に生きたのかな?と思います。
一言で真田を言い表すとすると「山椒は小粒でもピリリとカライ」かな?
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月01日 05時58分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、東京都知事選の開票日で、ついつい報道ニュースにのめりこんで
ずっと見てしまいました。女性知事誕生ということで、前途多難ではありそ
うですが、何とか頑張ってほしいと思います。

 さて、信州は面積が広く、また山が都市間を遮っていますので、土地勘が
なかなかつきにくい……高速道路は非常に便利でありますが、昔の人の土地勘
と合わない……たぶん昔は都市と都市を結ぶ街道を行き来していた、例えば、
松本街道――松本と上田を結ぶ街道…イメージとしても分かり易いと思います。本当はこういう街道を通った方が、歴史の真実には迫れるのではないか……
まさに司馬遼太郎の「街道シリーズ」は的を得ていると思いました。
 ナビも便利ではありますが、地図帳と格闘してたどり着く方が地図自体が
頭に入りますし、いわゆる土地勘が身に付きます。
 ま、時間を超効率的に使うという意味では、高速道路・ナビの使用はいた
しかたありませんが……。

 今回、上田には四時間余りの滞在、ソバ屋から始まって上田城、芳泉寺、
上田宿を訪ねただけであります。
 芳泉寺の小松姫の墓を訪れたいというのが一番の目的でありましたので、
内容的には後悔はしておりません。でも、いろいろ調べてみると、もっと回
りたかった所も沢山ありました。ま、必要に応じてまた行けばいいと自分に
は言い聞かせております。

 その「芳泉寺」ですが、上田城跡の西1q弱の所にありました。芳泉寺は
浄土宗総本山知恩院直末(じきまつ)で立派なお寺でした。墓地は細長く、本
堂の裏に回り込む形で続いておりました。植木の手入れをしていた植木屋さ
んに小松姫の墓の場所を訊くと、本堂の裏の奥にはありますよということで
行ってみました。すると、漆喰の屋根付き塀で囲まれた一画があり、その門
をくぐると二十坪位の敷地の中に、高さ三m弱の宝篋印塔が建っておりまし
た。小松姫の墓と書かれた柱がありました。
 早速、その前で般若心経を二巻、ゆっくりと染み入るように唱えさせてい
ただきました―
 また、その隣にも塀で囲まれた一画がありました。そこは「仙石氏」の
霊廟でありました。仙石氏は真田氏に替わって上田城主になったということ
で、また何と「石川五右衛門」を生け捕りにしたことで有名であると書かれ
ておりました!
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月01日 07時09分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


820kmの運転とは、大変な遠出でしたね。
しかも土地不案内な山の中ですし。

でも信濃には永く縄文人が住んでたということで
逆に人間とは水の近くに住むか山の中に住むかしたのだな
というのが実感でしたでしょうね。

山幸の世界ですよね。
あ、今、思ったのですが
山幸彦・海幸彦
ということで日本人は2種類の人々がいたんだなと確信になりました。
遅過ぎ。



>漆喰の屋根付き塀で囲まれた一画があり、
>その門をくぐると二十坪位の敷地の中に、高さ三m弱の宝篋印塔が建っておりました。
>小松姫の墓と書かれた柱がありました。

すごく立派なお墓だったんですねえ。
さすが大名の奥方さまのお墓。


>早速、その前で般若心経を二巻、ゆっくりと染み入るように唱えさせていただきました。

ありがとうございます。
小松姫は吉田羊の「小松姫役」をどう思っていらっしゃるでしょうね。



>仙石氏は真田氏に替わって上田城主になったということで、
>また何と「石川五右衛門」を生け捕りにしたことで有名であると書かれておりました!

へぇ〜
そうなんですか。
全く知らなかったです。

実際に行ってみると思わぬ発見があるものですねぇ。
これで石川五右衛門の最後に関わる人物像が見えてきますね。



伝説の五右衛門(他にもいろいろあり)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80


出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子とされる事もある。

遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、
河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。

丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出であるとする説がある。

石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正十年、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。

落城の際、秀門二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。

この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。

伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる。

また一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも。




仙石氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E6%B0%8F

仙石氏(せんごくし)

日本の氏族のひとつ。
美濃国の豪族出身。清和源氏頼光流土岐流を称した。


藤原北家利仁流美濃前田氏に属する後藤氏の一族後藤則明を祖とし、千石氏とも呼ばれた。仙石基秀の代に甥である仙石久重が娘婿として家督を引き継いだが、久重は母方が清和源氏頼光流(美濃源氏)に属する土岐氏一族の娘であり、以降は土岐氏一門と称した。

久重の孫となる仙石久盛の代までは土岐氏及びこれを滅ぼした斎藤氏に仕える豪族であった。仙石氏の中興の祖である仙石秀久(久盛の子)ははじめ美濃斎藤氏に仕え、斎藤氏が織田信長に滅ぼされると、信長配下羽柴秀吉に仕える。秀吉が淡路国を攻略した後、淡路を任され、四国の長宗我部氏と対峙したが、1583年の引田の戦いで敗れるなど苦戦は続いた。1585年の四国攻めにおいて軍功を上げ、讃岐国高松10万石を与えられるまでになったが、1586年、九州征伐の前哨戦である戸次川の戦いとその戦後処理で大失態を犯し、秀吉の逆鱗に触れてしまい高野山に追放された。1590年の小田原征伐で功をあげ、信濃国小諸5万7千石の大名として復帰。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、所領を安堵された。

江戸時代においては、信濃国小諸藩から同国上田藩、但馬国出石藩に移封された。幕末の頃、出石藩政をめぐって家中の対立が起こり、江戸幕府まで巻き込む大騒動となった(仙石騒動)。結果出石藩は5万8千石から3万石への減封となった。

なお赤穂事件で知られる大目付仙石久尚は、大名家仙石家の分家のそのまた分家筋である。

明治維新を迎え、最後の藩主仙石政固は出石藩知事に、廃藩置県後は子爵となった。


仙石秀久
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E7%A7%80%E4%B9%85

『ルイス・フロイス日本史』では「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない」「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外目がなかった」と秀久や家臣団が粗野な人物であったと記している。


一方でルイス・フロイスは「彼は高尚ではなかったが、決断力に富み独善的、ただし優秀な武将として知られていた」として、秀久が武人としては優秀であったとも評している[10]


前述の通り伏見城で石川五右衛門を捕縛したとの記述が残されており[注釈 7]、そのため講談の世界では怪力無双の豪傑として登場することがある。


旗印としては信長から下賜された「永楽銭紋」と、肖像画に描かれている「丸に無の字紋」が知られている。馬印は「金幣」とよばれる御幣の一種を用いており、指定文化財として保管されている[11]。


当世具足は黒一色の甲冑に、藁の編笠を模した飾りの付いた兜を使用していた。
この飾りは他の具足には見られない珍しい形状である[11]。


紀州征伐の際、根来攻めに参加した秀久は山林に放置されていた曰く付きの「安珍清姫の鐘」を陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として用いた後、供養のために経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めたという話が伝わる[12]。

信心深さとしては小諸城主時代に健速神社へ参拝していた記録が残っており、秀久が参拝に使っていた坂は権兵衛坂と呼ばれている。



秀吉の古参家臣中で失態を犯して処断された者の中で、大名への復帰を許された数少ない人物である。


小諸藩主時代には、早くから殖産興業に目を向け、蕎麦を名産品にしようと取り組んでいた。また蕎麦切りを媒体にして領民とのコミュニケーションをはかり、「仙石さん」の名で慕われていたとされる
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月01日 16時58分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 小松姫のエピソードは『真田氏と上田城』(上田市編集・発行)に載って
おりました―
 「(上杉征討に真田昌幸・信繁親子が下野犬伏=栃木県佐野市に着陣する
前日に、石田三成が反徳川で伏見城を攻撃。着陣した翌日には、宿所へ豊臣
への勧誘状が届く。秀忠に属して出発していた信幸も近くにいたので、急い
で親子三人の対策会議を開き、昌幸・信繁親子は豊臣方へ、信幸は徳川方へ
加わることを決定し、両者は別れる。昌幸・信繁親子は、沼田を経て上田に
帰る道を通ることにした――)
 一行が沼田城下に着いたのは真夜中で、城門は固くとじ、城内には入れ
ません。その時甲冑を身につけ薙刀を手にした信幸夫人(小松殿)が、城門
の櫓に立って、「夜中の御帰陣とは不審であります。当城は伊豆守が留守
の折でもあり、父上といえども今は敵です。城主の留守に押し入ろうとす
る者は、一人残らず打ち取って見せましょう」と叫んで、城門を開けさせ
ようとはしませんでした。昌幸は「城をとろうなどとは全く考えていない。
久しぶりに孫たちと対面しようと、立ち寄ったまでじゃ」と答えると、夫人
は城から少し離れた正覚寺(沼田市)に昌幸たちを案内して、心ずくしの酒肴
でもてなすかたわら、自らも衣服を改め、五人の孫の姿を見せました。」
ということであります。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月01日 21時54分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


小松姫の賢妻ぶり、ありがとうございました。


この時には昌幸には孫が5人もいたのですか。現在の「真田丸」の段階では
   堀田梅ちゃんの娘の「すえ」
   前正妻おこうさんの息子
   後妻の小松姫の息子

さらに2人増えていたのですねぇ。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月01日 22時36分00秒 ) パスワード

信幸の前正妻のおこうさんは真田昌幸の長兄の真田信綱の娘。
つまり
信幸とおこうさんはイトコ同士。


で驚いたのは
おこうさんの父・信綱の正妻は高梨政頼の娘・で於北様(井上次郎座衛門の娘とも)


この2人の子供達は
与右衛門、信興、信光、清音院殿(=おこうさん=真田信幸正室のちに側室)




信繁の側室になるキリちゃんは高梨内記の娘。

高梨内記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A2%A8%E5%86%85%E8%A8%98

江戸時代末期(幕末)の松代藩家臣・河原綱徳は、その著書のなかで、内記を高梨政頼の子供か子孫とし、高梨政頼の娘(もしくは妹)が真田信綱に嫁いだことを縁に真田家へ仕えたとしているが、信憑性は薄い[1]。

内記は傅役、息子の采女は乳兄弟[注釈 1]、娘は側室ということもあり、真田信繁との関係は深かった[1]。

第一次上田合戦で戦功を立て、関ヶ原の戦い以降は真田昌幸・信繁につき従い、九度山へ移った。昌幸死後ほとんどの家臣は旧領の九度山を去り上田に戻ったが、内記は息子とともに九度山に残り、信繁の大坂入城にも付き従った[2]。最後は大坂夏の陣にて信繁と共に戦死したとみられている[3]。

孫で信繁三女の阿梅は大坂城落城に際し片倉重長に保護され、継室となっている。



                        ということは  おこうさんとキリちゃんは高梨一族。



やはり真田も最初の頃は親戚関係で頑張って勢力を伸ばしたのですね。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月03日 00時12分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 暑さのため、すぐ眠くなり、能率が上がりません。湿度が高いというのが
一番の原因です―

 本日は、武田寛著『魔伝 徳川の大秘謀』という本を何とか読んでしまい
ました。これについては、いずれ家康について総合した形で述べさせていた
だきたいと思っています。

 信州へ行った後で、中部地方の地図を眺め、調べておりましたところ、
今まで気が付かなかったことを発見しました。
 東名・東海環状・中央道・長野道・上信越道の高速道路を使って、浜松
から上田へ行った場合には約400qの距離でありました。
 地図を見ると、浜松から152号線という道が二俣・秋葉・水窪・大鹿
村・高遠へと一直線に続いています。さらに高遠より諏訪、さらにほぼ
上田までこの152号線は続いていることがわかりました。
 即ち、浜松と上田は一本の道でつながっていたということです。それも
ほぼ一直線の道に近い……結果として、距離的には200q程で、高速道路
を使って行く場合の半分の距離であります。南アルプスのふもとを通って
いますので、なだらかな坂道で、ほぼまっすぐに伸びております。秋葉街道
とも言われます。また塩の道でもありました。

 真田と家康との関係は、長男信之との関係が深い(味方)のですが、遠江
にどんなエピソードが残されているのか探してみたいと思っています。森町
に真田城跡がありましたので、ひょっとすると関係しているのかも知れま
せん……。

 上田に「長谷寺」というお寺がありました。読みは「ちょうこくじ」で
あります。真田家の菩提寺となっております。先日お寺廻りに行った掛川
にも、やはり同じく「長谷寺(ちょうこくじ)」がありました。ひょっとして
両者はつながっているのかなと思いました。どちらも十一面観音に関係して
います。そしてこれは「白山信仰」と結びついております。

 白山信仰と言えば、井伊・徳川に仕えた「松下常慶」がその修験者である
と言われております。すなわち修験者ネットワークを利用できた。情報と道
と仲間……。そして秋葉山のお札を売りに信州へ行ったと言われております。
 常慶は、白山信仰ネットワークを通じて真田方とつながっていたか……?

 
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月03日 02時32分03秒 ) パスワード

調べて来ました:森の真田城と武藤氏と真田一族について


真田城
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-533.html


 真田城は、静岡県周智郡森町一宮にあります。

 天竜浜名湖鉄道遠江一宮駅から、県道78号を北上し、突き当りの県道宮代赤根線を北上すると、2キロほど。


鎌倉時代より武藤氏がここにいて
戦国時代に武田信玄の家臣となり
武藤刑部亟氏定は小國神社で家康と戦ったけれど敗退し
信玄亡き後、勝頼は長篠の戦いで大敗したので援軍を送ることが出来ず
武藤氏は高天神城に入ったものの負け開城を申し出たものの家康はこれを許さず
武藤氏はことごとく滅ぼされた。



             1番下の画像は寒気がするほど武藤一族の無念の思いが籠っています。





武藤氏と真田氏の関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
武藤喜兵衛→改め→真田昌幸



           
                       昌幸が養子に行った、この武藤氏は、信玄の母方・大井氏の一族なんだそうです。へぇ〜



出自[編集]

天文16年(1547年)、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれる[2][3]。生誕月日は不明[2]。幼名は源五郎[4]。

一説に天文14年(1545年)生まれとする説もある[5]。ただしこちらの説は後世に作られた系図注記や編纂書によるものであり、余り信頼性はないとされる[3]。昌幸は三男であり、同母兄に信綱・昌輝がいたため、生まれた時点で真田家の家督相続の権利は無かった。




武田信玄の時代[編集]

天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった[4][6]。『甲陽軍鑑』に拠れば、信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を早くから見抜いて、「我が両目のごときもの」と寵愛したと伝えられている[7]。父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事もある。父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。なお、この時の奥近習衆は『軍鑑』によれば昌幸の他に金丸平八郎、曽根与一、三枝勘解由、三枝新十郎、曽根総次郎が挙げられている[4]。

昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている[註 3]。なお、武藤家は武藤三郎左衛門尉の時に実子の武藤与次が早世したため、昌幸を養子にとったとされている[8]。

永禄7年(1564年)頃に、山手殿(山之手殿、信幸、信繁らの母)を妻に迎えている。山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされているが、菊亭晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説がある(山手殿の項を参照)。

初陣は『甲陽軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いと言われ、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの傍証は無い。ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定はできない[9]。

永禄9年(1566年)春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めた。永禄10年(1567年)11月に武田勝頼の嫡男・信勝が生まれた際には山県昌景・馬場信春・内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)と共に信玄の使者として高遠城の勝頼の下に出向いた。昌幸以外の顔ぶれはいずれも武田家の譜代宿老・重臣クラスであり、この頃の昌幸は武藤家を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られている。ただし出典が『軍鑑』のみで傍証が無いのも事実である[9]。





川中島百勇将戦之内:拾六才初陣真田喜兵衛昌幸(歌川国芳作)
永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康・氏政・氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた[10]。『軍鑑』によれば北条軍との戦いで一番槍の高名を挙げたとされている。

元亀3年(1572年)10月から信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが[11]、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている[12]。『軍鑑』によれば、昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」を率いて出陣したとされている。当時の昌幸の所領の場所や規模は明らかではないが、武田家の親族衆である信玄の弟・武田信実が昌幸とほぼ同じ規模の兵を保有しており、信実は397貫文を知行としていたため、昌幸も同等かそれより上くらいと推測されている。なお、この頃には養父の武藤三郎左衛門尉は戦死していたとされており、昌幸がその遺領を継いでいたと見られている[13]。

なお、信玄の晩年には武田家の奉行人に列されており、元亀3年(1572年)2月4日の佐久郡岩村田の竜雲寺宛の竜朱印状の奉者として確認できる[14]。

以下略
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月03日 02時56分04秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E6%B0%8F

武藤氏(むとうし)は、日本の氏族の一つ。

藤原氏の一族。
甲斐源氏武田氏庶流大井氏族。一時的に真田昌幸が名跡を継いだ。


藤原氏の一族である(藤原北家)。
藤原秀郷の流れとも藤原道長の流れともいわれる。
武蔵に拠点を置いたため武藤氏と名乗ったとの説が有力である。
平安時代後期に藤原景頼の子の頼平が武者所に就いたことで有名である。

                      武藤頼平は武藤頼兼(武藤長頼の子である武藤頼氏の子である武藤頼家の子)の子、猶子。
                      ややこし過ぎて、日本語で書かれているのにワケ分からない。笑


その末裔として、
出羽の大宝寺氏(頼平の子の氏平が祖)、
筑前・肥前の少弐氏(頼平の子の資頼)がある。
また、武藤氏と近藤氏(末裔には大友氏等を輩出)とは同族である(頼平の兄弟の能成の子が大友能直)。



森の武藤氏定は通字の「氏」から推定すると↓関係の武藤氏かも。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E6%B0%8F
大宝寺氏(だいほうじし)は、出羽国の大身豪族、戦国大名の氏族。本姓は藤原氏。鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする武藤氏の流れを汲み少弐氏とは同族に当たる。



ということで
真田昌幸と信繁父子があくまで徳川家康に敵対した背景が
ここら辺り=武藤氏=武田家臣=武田信玄に連なる一族ということ=にもあったのでしょうね。



昌幸の弟の真田信尹が徳川家康に付いて情報を逐一兄に送っていた
ということも
森の武藤家の土地を手に入れたかったのかも。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%B0%B9

昌幸と信尹は双子説もあるというのはお初でした。



真田 信尹(さなだ のぶただ)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。真田幸綱(幸隆)の四男。後に松代藩となる大名・真田家とは別に分家である旗本真田家を興した。


武田家家臣・真田幸綱(幸隆)の四男として誕生[1]。幼名は源次郎。同母兄に信綱、昌輝、昌幸がいる。

昌幸と同じく幼年期から人質として甲府に出仕した[3]。主君の武田信玄の命により甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、名門・加津野氏(和野、鹿角)の名跡を継ぐ。隠岐守の官途を自称し、武田勝頼に近侍して槍奉行を務め、加津野市右衛門尉信昌と称した[3]。武田家では騎馬15、足軽10を率いる槍奉行としての地位にあったと『甲陽軍鑑』の「信玄代惣人数書上」にはある[3]。

元亀2年(1571年)1月、武田信玄が北条綱成の守る駿河深沢城を陥落させているが、これは信伊の武功によるところが大きかったと伝えられ、この際に綱成の「黄八幡」の旗指物を奪い取ったという[2]。昌幸と同じように武田家の竜朱印状の奉者を勤め、天正7年(1579年)6月25日付で二宮神主宛の居屋敷諸役免許状を出しており、武田家の家臣団の一翼を構成していた[2]。

天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後に真田姓に復姓し、諱を「信尹」と改名する[2]。

当初は北条氏に属し、天正12年(1584年)から徳川家康に仕えた[2]。兄・昌幸が北条家から徳川家に乗り換える際には間を取り持っている。徳川家では5000石を与えられ[2]、後に1万石に加増されるが「それだけの働きをしていない」として浪人する。一説に小田原征伐で武蔵江戸城の無血開城で功績を立てたにも関わらず、家康からの恩賞に不満を覚えて家康の下を離れたとされている[2]。

その後、池田輝政を介して会津の蒲生氏郷に5000石で仕える。蒲生氏には同じ武田遺臣の曽根昌世も仕官し、信尹は曽根とともに天正19年(1591年)の九戸政実の乱平定戦にも参加している。文禄4年(1595年)に氏郷が死去して蒲生騒動が起こったため、慶長3年(1598年)に再び徳川家康に甲斐で4000石を与えられて帰参した[2]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)の大坂の陣で御使番・軍使として功績を挙げ、それにより1200石を加増されて5200石になる[2]。

その後は幕臣として徳川家に仕え、寛永9年(1632年)5月4日に病死[2]。享年86。墓所は山梨県北杜市長坂町長坂上条の龍岸寺。

子の真田幸政以降、子孫は代々旗本として幕府に仕えた[2]。子孫は4つの系統に分かれ、その内の2家が明治維新まで存続した[2]。



人物[編集]

武田滅亡後は真田本家とは別行動を取っていたが、上記の徳川・真田の橋渡し役以外でも絶えず昌幸の下に情報を送り続けたとされ、真田本家が生き残るための助力を分家として惜しまなかったと伝えられる[要出典]。

大坂の陣では、家康が信尹に命じて「信濃国10万石を知行する」と言って豊臣側についた真田信繁を誘ったが一蹴された、という逸話がある(信尹ではなく真田信之という説や、石高も信濃40万石という説もある)。また、信繁の首の確認を行ったのは信尹であるとする話が伝わる(『秦政録』)が、信繁であるかどうかよく分からないと言い張ったとする文献(『武徳編年集成』『幸村君伝記』)もある[4]。

また、大坂の陣の際には、老眼であったとする話が残っている(『難波戦記』)。



1.^ a b 生年に関しては異説もある。昌幸と同年に生まれたとする説もあり、同じ母の出生のため双子の可能性もある。     双子説 ココ



2.^ a b c d e f g h i j k l 柴辻俊六 著『人物叢書‐真田昌幸』吉川弘文館、1996年、p.72

3.^ a b c 柴辻俊六 著『人物叢書‐真田昌幸』吉川弘文館、1996年、p.71

4.^ 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書、2015年) 252頁
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月03日 03時30分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


信濃行きで豪雨に掴まらなくてラッキーでした。
山道だし。

この夏は世界的な洪水で一瞬で車が流されてしまう画像を見ていて
本当にご無事で浜松に戻れて良かったです。




忍びの世界は忍び仲間で繋がっていたのでしょうね。

戦国時代末期ともなると  雇い主 クライアント?笑  の利益の為に働いて
雇い主との雇用関係が固定化していったのかも。

                        逆に自分の雇い主がヤバくなっていくとさっさと転職したのかも。

そういう情報交換はあったのかもですね。
なんせ  闇の世界で動く人々  だったから。

本来は自分の利益第一が本筋で、とはいえ、主人と個人的な情愛が出来たりしたら命運を共にしたのでしょうね。
でも主人のことを伝えるためにやっぱり生き延びたのかもですね。



松下家と真田家は忍者で繋がっていたのかもですね。

ヒバリさんのところは伊賀系でもやはり真田系忍者や上杉系忍者と繋がっていたのでしょうね。


http://rekishi.sseikatsu.net/ideura-masasuke/
出浦 昌相・真田家の忍者

    忍者集団・透破のリーダー 出浦 昌相(いでうら まさすけ)。

    大河ドラマ「真田丸」で真田昌幸を裏切るとみせかけて、じつは裏でつながっていたという曲者ぶりを発揮。

    演じる寺島進さんの風貌もあって、いかにも歴戦の一癖ありそうな人物という印象がしますね。


いったい出浦 昌相ってどんな人なのでしょうか。



出浦 昌相
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
出浦 盛清(いでうら もりきよ)ともいいます。
天文15年(1546年)信濃国の生まれ。

甲州透破のリーダー的存在でした。いわゆる忍者ですね。


部下の忍びよりも先に偵察を行い、部下が嘘を報告をすると見破ったという逸話があります。

もともとは信濃の村上義清に従っていました。



武田晴信(信玄)よって村上の勢力が信濃から撤退すると、武田氏に仕えました。武田家滅亡後は森長可に仕えました。


森長可は武田家を滅ぼした織田家の重臣です。
本能寺の変で織田信長が死ぬと、信濃の国衆は一斉に森長可に反旗をひるがえします。でも出浦昌相だけは森長可に従っていました。森長可が信濃から脱出しようとする森長可を助けています。


もともと透破というのは独立した忍び集団で、村上家、武田家と仕えてきました。
自分達の能力を高く買ってくれるなら仕える。
傭兵集団のようなものなので一度雇われたら仕事は最後までやるというポリシーがあったのかもしれません。
忠誠心というよりもビジネスライクな関係だったかもしれません。


その後は真田家に仕えました。岩櫃城の城主をつとめることもありました。


豊臣秀吉の小田原攻めのときには、忍城攻めで手柄を立てています。


関が原の合戦以降は、真田信之に従いました。以後は出羽対馬守と称しています。


真田家が江戸幕府の命令で上田から松代に移ることになったとき、
信之は出羽昌相対馬守にあてて手紙を出しています。

「子孫のためだから、命令にしたがって松代に行くしかない。心配しないで欲しい」

という内容のことが書かれていました。


信之が自分の心中を書いて送っていることからも信頼が厚かったことがわかります。


松代真田家では武者奉行になっています。
真田忍者の首領といったところでしょうか。

78歳まで生きました。
以上コピペ


「真田丸」の展開が三谷幸喜さんという天才によって書かれていて
その上に役者陣がスゴイ!


おこうさんが正妻を免じられて精神的に解放されて懐妊するところが面白かったです。
それまでは「早く子を生め、お世継ぎをもうけろ」と不妊プレッシャーがひどかったのでしょうね。

正妻でいるうちは病弱という設定が(そりゃあ子無しだしね、追い出されても当時はしょうがないわね)と見てたけど
小松姫が来てたからはイキイキとなっていったのが
三谷幸喜って一体どこまで人間というものに通じているの?と
毎回驚きです。


今回の吉野太夫が偽物というのを見破って出浦昌相が刺し殺すシーンもサスガでした。
「目を見れば同業かどうか分かる」
なんてね。蛇の道は蛇なんてね。


真田昌幸はショックだったようですね。

あの喰えないオヤジの昌幸がいっぱい喰わされてたんですから
「わしもヤキが回ったな」
と老いを自覚したのかも。

                       女ごときに騙されてたのですからね。
                       くの一のピロートークにすっかり捉われて、ただのオトコに成り下がって鼻の下を伸ばしてたなんてね。


いやぁ
人間ってこんなモンかも知れないですね。

男の敵はしっかり欺いて来たけど女にはころっと自分が騙されてたなんてね。


三谷幸喜、ホントに天才です。「そう来たか!」と毎回唸ってます。
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月03日 15時36分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 真田昌幸が甲斐の武藤家に養子に入って「武藤喜兵衛」と称していた時代
があったということ……ビックリです。

 遠州森町の香勝寺(通称 桔梗寺)には「武藤氏」の墓があり、その墓の案内
板にはこう書かれています―
 「一宮荘代官職 武藤氏の墓
  遠江の守護代であった武藤氏は、初代遠江守護安田義定の使者として、
 1181年3月、武藤五郎が遠江から鎌倉に参着したと『吾妻鏡』に記さ
 れている。
  一宮荘の武藤氏は、『御前落居記録』に1432年12月、先の代官
 大谷豊前入道玄本と争い、武藤用定が一宮荘代官職となったことが記され
 ている。中央の大きな宝篋印塔は、この用定あるいはそれ以後の地頭の
 ものと思われる。また1437年には橘谷(大洞院)の本主は武藤という
 人であるとも記され、室町中期には草ケ谷に居を構えて一宮荘代官職に
 任ぜられていたことがうかがわれる。
  武藤用定の末裔と思われる武藤刑部丞氏定は、1545年、飯田山崇
 信寺九世を招請して、鹿苑山(古くは一宮山ともいう)香勝寺を開いた。
  一宮荘の代官職であった武藤氏の詳細はよくわからないが、一宮小國
 神社の武藤神主であったと言われている。その後、武田方に加わった武藤
 氏定は、高天神城に籠って1581年に戦死した。」 

 それにしても、桔梗寺には桔梗が一杯。桔梗の色には人を魅了する力が
あります。美しい桔梗の花を見ていると、そこにいてずっと永遠に見ていた
くなります― これは私の実感です!
 桔梗紋を使用した土岐氏(明智氏)、掛川の太田氏、名張の藤堂氏……「心
は永遠に美しくありたい」……そんなつぶやきが聞こえてきそうです―
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月03日 22時54分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


>真田昌幸が甲斐の武藤家に養子に入って「武藤喜兵衛」と称していた時代があったということ……ビックリです。

はい、驚きです。
お兄さん2人が戦死して真田姓に戻ったために嘗て「武藤姓」を名乗っていたというのを忘れがちですね。


でもこの「武藤姓」が信玄の母方の大井氏の一族というのには驚きました。


                       「武藤」っていうのが日本の名家というのは知ってましたが
                        信玄の母方の一族というのは全く知らなかったので改めて驚きました。


                        つまり昌幸は信玄に認められてたということですよね。

                        これでまたまた驚きました。


 
>桔梗紋を使用した土岐氏(明智氏)

土岐と武藤は元々どこかで繋がるのでしょうね。



本当に日本って名字を聞くと(ああ、あそこのアイツか)とスグに分かる世界ですね。

本人以上に世間の方が良く知ってたりするんでしょうね。



図らずも家康の下で働くことになった真田信尹(のぶただ)の心の裡がほんの少し分かった気がしました。


実は信尹と武藤氏も何かあったかも。

    例えば昌幸が真田姓に戻った後に武藤姓を継ぐ予定があったとか、
    武藤の娘と何かあったとか、
    いずれ家康から森あたりを拝領したいと願っていたとか?



三つ柏さんが森にいらっしゃって桔梗寺で般若心経をお詠みになる時には
武藤一族がとても喜んでくださる
という感触があります。
信尹もきっと喜ぶでしょうね。
それから桔梗紋を使用した土岐氏や明智氏、掛川の太田氏、名張の藤堂氏、これらの方達にもきっと喜んでもらえると思います。

般若心経を暗記なさって今とても亡き方達の冥福を弔うことに役立ってると思います。
皆さん400年も経って名を思い出して貰えて、ああ草場の蔭で、とはこういうことかと納得します。


自分の先祖だけじゃないですものね
先祖を取り巻いた無数の人々の思いを受け止めてあげてますものね。

三つ柏さんが大きくなったと思います。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月04日 15時50分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の上田行きの目的の一つとして、真田一族と忍者の関係について、
何らかのヒントが得られたらと、かすかに期待をしておりました。

 上田城跡の博物館で購入した小冊子にちょうどその概略が書いてあり
ましたので記します。土地勘があれば理解がスムースに行くのですが―
 「(真田家の菩提寺である長谷寺(ちょうこくじ)へ至る坂のふもとに、
  山家(やまが)神社があります――)
山家神社は、上田市真田の長地区にあり、古くは、十世紀に編まれ
  た「延喜式」にもその名が記されています。もともと、奈良時代に
  加賀から伝わった白山信仰に基づき、創建されたと伝えられ、四阿山
  を奥宮、鳥居峠の社を中社、そして、山家神社は里宮とされていまし
  た。中世には、山家神社は白山権現と呼ばれるようになり、同じ敷地
  内に神宮寺として白山寺も建てられていました。それとともに、神川
  流域の産土神でもあり、真田氏も氏神として丁重に扱っていました。
   中世になって、里宮は白山寺と禰宜により維持管理がなされ、奥宮
  は主として修験道の系統である蓮花童子院によって運営されていたよ
  うです。白山大権現の信仰というのは、一種の山岳信仰であり、その
  布教には、山伏、行者、修験者などがかかわっていたと考えられ、こ
  れに天台宗や、真言密教などが組合わせられて、独特の荒行によって
  超人的な能力を身に着けるようなことも行われていました。
   そんな荒行をこなした修験者が、各地の寺院や山岳を渡り歩き、各地
  の情報を集めることで、時流を的確につかんだ真田氏の独自の生き残り
  戦略が生まれたのではないでしょうか。
   また、真田幸隆は、武力ではなかなか落城しない城を、内部からの
  裏切りで切り崩すのが得意でした。これなども、諜報活動に長けた優秀
  な間者(忍びの者)を抱えていたといえ、これが、白山信仰の修験者だっ
  たといえるのです。信玄に重く用いられたのも、その辺に理由がありそ
  うです。」

 真田から、上州街道を通って、鳥居峠に至ると、その頭上に四阿山が
そびえ、さらに進むと浅間山が迫り、嬬恋村、岩櫃山、沼田と至ります。
この間には岩肌のむき出しになった荒々しい別世界がところどころにあり
ます。いかにも忍者ワールドにふさわしい感じがする所だと思います。
 機会があれば、真田忍者ワールドを一度調査してみたいです。真田十勇士
もそんな雰囲気の中で生み出されたのだと思います―

 いずれにしても、「白山信仰」、大和の長谷寺と加賀の白山神社……深い
謎が秘められております―
 
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月04日 22時31分02秒 ) パスワード

長々と書いてたら瞬殺になった。泣
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月05日 02時23分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


「白山」の詳しい情報をありがとうございました。



>上田

テレビで上田の郊外のお宅訪問を見ました。

自然がいっぱいというより自然が有り過ぎの世界でした。
そのお宅ではお風呂はドラム缶で薪で沸かしてます。



>白山信仰
>真田氏も氏神として丁重に扱っていました。


「真田丸」の居間の昌幸の後ろの掛け軸は「白山大権現」だか書かれてますね。
そうか真田家の守護神なのか。


                       わたくしは方向音痴なので白神山地とこんがらがってました。
                       そうか白山は岐阜と石川の間の山なのか。。。


そうですね、白山の行者や修験者たちが修行を経て、時代を得て、忍者になっていったのでしょうね。


山の中はトレーニングに最適ですものね。筋肉を競ってたかもですね。笑


>真田幸隆は、武力ではなかなか落城しない城を、内部からの裏切りで切り崩すのが得意でした。

孫子の兵法の実践ですね。
これも忍者の協力で成功したのでしょうね。

敵を内部から切り崩す策は分かってても成功は別のこと。
真田幸隆は信玄をうならせてたのでしょうね。



>いずれにしても、「白山信仰」、大和の長谷寺と加賀の白山神社……深い
謎が秘められております

はい
古代から情報交換をしたり競争したり、互いに高みを目指していたのでしょうね。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月05日 09時45分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスの「四阿山」とは、「あづまやさん」と読み、別表現で「吾妻山」
と書くということがわかりました。長野と群馬のちょうど国境(くにざかい)
にあります。標高2354mもあり、日本の百名山にも数えられております。
 吾妻郡は忍者の里と言われていますが、正にこの四阿山がその中心であ
ったのかも知れません。

真田家の墓所の長谷寺(ちょうこくじ)から、さらに林山を一時間位上ると、
岩井観音堂という岩窟があるそうです。そこで見つかった石碑には、鎌倉
時代にこの場所に光明寺というお寺を建立したと彫られていたということ
です。碑に書かれた梵字が「十一面観音」を表していて「白山大権現」の
本地仏であるので、白山寺と関係の深い寺ではないかと考えられているそ
うです。古来、白山寺が付近にあったという文献もあり、白山寺がそこに
あり、光明寺は支院だったのではないかと考えられているそうです。

 家康も松下常慶も白山信仰にかかわっていました。白山信仰とはどんな
もので、どんな利点があったのか一度調べてみる必要があると思っていま
す―
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月05日 10時24分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>白山信仰とはどんなもので、どんな利点があったのか一度調べてみる必要があると思っています


たぶん縄文人関連の、大国主命=出雲=以前の、古い古い信仰だったんじゃないかなと思い、検索してみました。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10156109735

Q
【白山神社】は、被差別部落の目印ですか?


A
神職をしています。

白山権現は穢れを嫌わず、穢れた人でも救済するという伝承があり、弾左衛門が信仰したのは歴史的事実です。

しかしながら全国に約3000社あまりの法人化された白山神社がありますが、被差別部落ではない地域の方が圧倒的に多い。
だから白山神社を被差別部落の目印にするのは間違いです。


そもそも白山信仰は農業神・九頭竜信仰など多面的な信仰であるが霊験あらたかだと信者が多く、白山修験は修験のなかでも強固な勢力を誇っていた。
そのため江戸期より前から被差別部落以外の地域で広く信仰されています。



次に弾左衛門が白山社を祀り、更に各地の被差別部落が白山社を勧請したとして、それらの神社は小祠です。

明治時代に小さい祠は個人宅の邸内社か近隣の村(字)と合併するよう行政指導が入っています。

そのため江戸時代被差別部落が祀った白山社がそのまま白山神社になっている可能性は低い。



以下は論争:

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14132466274
Q
これまで「白山信仰」が被差別部落で信仰されているのは江戸時代、弾左衛門が普及させたからだと思われてきました。

しかし前田速夫は日本でただ一つ、一つの集落で「はくさん」神社と「しらやま」神社が存在する所を発見しました。

その違いは、ハクサン神社は天台宗のお寺で、シラヤマ神社は修験者が被差別民の為に作ったものだと言う事が分かりました。

これによってようやく「白山信仰」は元々被差別民の信仰であり、その開祖泰澄が秦氏である事から、秦氏と被差別民の関係が明らかになったのです。

これは今まで歴史家が匙を投げていた問題が、まさに解決した物ではありませんか?




A
泰澄は秦氏とは関係ないと思うのですが・・・。

秦氏は八幡神社・天満宮・菅原神社系の一族だと思います。
どちらかと云えば富裕層です。

神社と云うからには宮司ですから、坊さんの泰澄は寺です。
白山信仰はあっても、白山神社とは一線を画すと考えます。

神社の広がりは、人による信仰の伝播だけではありません。
朝廷から拝領された土地は拝領された豪族や、公家、大社や宗門が管理します。管理する側は自分の支配下の民を派遣して、そこを開墾させたりします。

神社や寺には氏子や檀家という制度があるでしょう。
村に住む人を把握する制度があるわけです。
開墾に派遣される人たちは次男・三男などです。
同じ宗派の人たちが一塊になり村を作る。
だからその人たちの信仰の神社が作られるのです。

関東の下野には氷川神社が多いでしょ。出雲の人たちが入ったからです。
鎌倉時代までは氏子の移動で広がる神社のほうが多かったと思います。
仏教は村人の信仰ではなかったからです。
修験道は貧しい人たちの信仰として広がります。
奈良時代には広がっていたでしょう。
だから白山信仰が広がっても不思議ではありません。


ただしそれを泰澄の信仰と結び付けるのは早計です。
泰澄が作るよりも前に白山は霊山として信仰の対象なのです。




Q
質問者は同一人物

泰澄は秦氏であると言う文書があります。秦氏は巨大氏族ですから、貧しい人達も無数にいます。また秦氏は稲荷信仰もやっていて、それが空海が東寺を貰った時に、真言宗の守り神となるのです。その後、寺が葬式を取り行う事が正式に認められるまで、土師師から葬儀を受け継いだ秦氏が、行基の指導で寺で葬儀を始めます。そうした寺で若い頃修行したのが秦氏の法然です。彼は比叡山に行き、寺で葬儀が上げられるように正式に運動していきます。また修験道は天台宗系はエリートだったのです。覚えておいて下さい。今はそんな差別している人は誰もいませんが。



A
回答者も同一人物
山岳信仰・修験道の祖は役行者で加茂氏系では・・・?

修験道は朝廷からの庇護が遠いノンキャリの道です。

葛城当たりで盛んになる山岳信仰が広がり、白山に流れます。
それとククリ姫が結びついて白山神社です。
祭神の一つには姫が祭られているはずです。
正直ノンキャリのノンキャリが開山しても史実には載らないでしょう。
ノンキャリでも修行し、僧侶として資格を持っているから白山の開山の栄誉が与えられたと思います。

豪族三神氏が秦系かは知りませんが、貧しい秦も秦系とするにはいかがなものかと。
別に秦から支援がないのであれば、一個人ないし、地方豪族のみのことでしょう。
秦氏にこだわらなくても・・・。


神社が寺?
神仏習合のおり、拝領した荘園にある神社を別当寺として利用したことを云っているのかな。



あと一つの集落のことを全国に比例させるのはまだ早計では?
たまたまその集落で仲たがいが分裂に発展しただけかも。




Q
質問者は同一人物

この時神仏習合がなったと言う修験道の歴史を見なければ駄目ですよ。この時から明治になるまで、寺と神社は習合していたのです。重要なのは、弾左衛門が秦氏の血筋であると自称している事です。御存知無い様ですが、古代の氏族は平家位まで使用人も全部含まれていたのです。貴族の秦氏も差別されていました。坂上田村麻呂の東漢氏や楽士の多氏との比較で明らかになっています。要するに秦氏と云うだけで、上から下まで差別されていたのです。「しらやま」と云う名前が「はくさん」に対する差別の称号であるとするなら、「しら」とは「新羅」のことである、と前田氏は推測します。これまでの事から秦氏が新羅である事も、日本書紀でそれを改ざんした事もこれではっきりしたと思われます。




A
同一人物

何となく貴方との温度差が理解できました。

私は秦氏は聖徳太子の時代から陰の有力豪族みたいな一族という解釈の書物を読んでいたので・・・。

私は秦氏を今で言う華僑のような渡来系と予想するので、一族を大事にするタイプと感じています。
だから皆連帯感がありそこそこ裕福。
物部の祭事利権が入り込み平安くらいまでは大ゼネコン。


時代が変わり、血も薄まれば連帯感はなくなり、没落氏族も増える。
没落するの祭事から政事にインフラが変わるためです。
江戸時代に秦氏と名乗ってもどれだけの人が理解できるのか。
もし秦澄が秦氏としても出家したのなら自らノンキャリに進んだわけだ。
差別とは関係ない道を選んだわけでのでは・・・。

あと江戸時代までの下々の民は漢字どころかひらがなも読めない。
多分音読み・訓読みも理解していない。
いや音読み事態が少ないだろう。
太陽はお天とう様・白山はシラヤマさんだ。
新羅とは関係ないと私は考えます。





Q
秦氏には秦人と呼ばれる人々が沢山ついていたのです。ゼネコンで言えば土方ですね。「シラ」は朝鮮半島の長白山ら二つの白山につながり、天山山脈の異名にまでつながっていきます。新羅の人々が日本に渡来し、作り上げたのが白山なのです。当時新羅は戦勝国ですから、日本に来ていたのは全員秦氏だと思われます。それと、修験者は被差別民であった事は先に述べましたよね。天台宗系の修験者が差別されていないので誤解している人が多かったのですが、そういうことです。どちらにしろ、「シラヤマ」信仰は江戸の被差別部落のシンボルなのです。



A
私、地元が石川で、白山比め神社によく初詣に行っていました。

飛鳥時代ごろからすでに白山の神として菊理媛は崇められています。
泰澄は福井側から白山を開山し、独自の白山信仰を生み出した形です。

ウィキペディアでは室町時代に石川・福井・岐阜で白山頂上の占有争いがあったようです。
だから白山信仰と云っても一系統ではないのです。

ちなみに私達は山のことは白山・ハクサンと音読みしますが、神社のことはシラヤマさんといいます。
神社の正式名称もシラヤマヒメ神社です。


輪島には渤海方面からの渡来人もいたようですが、新羅が入ってきたとはあまり聞きません。
だからシラヤマは地元からすれば、もともとの名称、日本語です。



Q
色々有難う御座います。

さてさて元々の日本語というのは、それだけでは分かりませんよ。
何故なら、泰澄が無理矢理に入り込んで、「しら」をこじつけたのかもしれません。
つまり乗っ取ったのです。
朝鮮の花郎伝説の特徴は、仏教と仙道の融合にあります。

泰澄の白山信仰の特徴もまた、仏教徒神道の融合にあるのです。
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月05日 23時10分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宮家準氏の『修験道 山伏の歴史と思想』という本を読んでいました
ら、「真田家久」という人間と「武藤政氏」という人間が登場しました―
 「承久の乱のとき、後鳥羽上皇は、ここにみられるように結束した羽黒
 山衆徒の軍事力に期待されたのか、法勝寺の執行尊長を羽黒の総長吏と
 して入山させようとした。これに対して鎌倉幕府は真田家久を羽黒山
 執行として尊長の入山を防がせた。以後、羽黒山では家久の子孫から
 執行職が選ばれることになったという。〜中略〜 
  その後、南北朝時代になると、藤島城主の土佐林の一族が羽黒山の
 別当になったが、1470年以降は、大宝寺城によった「武藤政氏」の
 一族が羽黒山の支配権を掌握した。」
ということです。真田氏と武藤氏、こんな時代から関係していたのでしょ
うか……。

 また、ウェブサイトをで「真田家久」を検索していたら下記の興味深い
サイトに出会いました―

「 神道集児持山之事
http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/komotiyama.htm

 四阿山も四阿山を神体山とする式内社山家(やまが)神社が大国主神を
祭神をとしているので、もともとは出雲神族が崇拝する山だったのであ
ろう。
しかし、その祭祀権はかなり古い時代に失われたのかもしれない。旧字
古坊に鎮座していた山家神社が、天安元年(857)に洪水で社殿が崩壊した
ので現在地に遷座したとき、神主清原眞人某は姓を押森に改称したと伝え
られているが、例えばこの神主清原氏が天武天皇の皇子舎人親王を祖とす
る清原氏の一族だったかもしれないというように、出雲神族ではない可能
性もあるわけである。
さらに古く、山家神社は「はくさんさま」とも呼ばれ、祭神に菊理姫が
在り、社伝に、「本社の別当浄定というもの越の泰澄の徒弟にして加賀の
白山比め神社を信仰し、其の神霊を勧請し、養老二年奥社を四阿山絶頂に
奉遷す。」とあるが、四阿山の祭祀の中心が白山系の信仰に移っていった
可能性もある。
泰澄は秦氏ともいわれ渡来系であり、その山岳信仰は出雲神族である
役小角系修験とは別系統と考えるべきであろう。もっとも浄定は出雲神族
だった可能性もある。泰澄にまつわる伝記では浄定は出羽の船頭で神部
浄定とあるが、神部氏の中には出雲神族につながるものがあるからである。
土師氏のなかに神部氏があり、土師氏は出雲神族の伝承では出雲親族で
あった。また但馬の粟鹿神社の社家は日下部宿禰であったが、『粟鹿大明
神元記』という、和銅元年八月に但馬国粟鹿神社の神主(祭主)神部根が
勘注上申した案文の写しでは、粟鹿神主は古代神部氏が奉斎していたこと
が知られ、系図を見ると素戔鳴尊より五世に大国主命がみえ、さらに太田
々弥古命に連なっており、また、太田々弥古命の子太多彦命の子孫の速日
・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となり併せて粟鹿
大神祭主となったと記されているという。そうすると粟鹿神社の神主神部
氏は、大三輪氏と同族であり、出雲神族ということにもなるわけである。
浄定が四阿山に目をつけたのは、自分と同じ出雲神族の山だったからと
いう可能性もあるわけである。ただ、方位線的にいえば、浄定あるいは泰澄
にとって四阿山が出羽三山と結びついていることが重要だったのかもしれ
ない。泰澄は出羽修験にも深く影響を与えたようであるが、白山と羽黒山
が東北45度線をつくり、羽黒山と四阿山が東北60度線をつくるのである。
鎌倉時代に羽黒山は御家人武士「真田家久」が執行となったというが、
この真田家久は信州の「真田氏」、あるいは山家神社のある「真田」と関係
があるのであろうか。

   白山―出羽三山神社(E0.978km、0.14度)の東北45度線
   阿山―出羽三山神社(W0.547km、0.11度)の東北60度線

 真田一族あるいは海野氏・滋野氏は清和源氏とも大友氏とも神魂命の五世
の孫天道根命の後で紀伊国造である紀直と同祖ともいわれるが、出雲神族で
あった可能性もある。
滋野氏に望月氏があり、吉田大洋『謎の弁財天女』によれば、出雲神族の
伝承に出雲の神の子、諏訪の神の子という忍者が登場するが、後者の中で
有名になったのが諏訪(望月)三郎兼家で、彼は将門の乱の功により、近江の
甲賀郡を与えられ、甲賀近江守三郎兼家を名乗ったが、甲賀望月氏はタテミ
ナカタノ命の裔とも称したという。そうすると、望月氏もその同族の真田氏
も出雲神族だったということになる。甲賀の望月氏が諏訪神人の職掌にあっ
たのは応永三十年(1423)前後までともいう。甲賀の望月氏の伝承にもとづい
て生成されたのが『神道集』にもある甲賀三郎の物語で、畿内を中心に西
日本各地に広がったが、これが伊賀一の宮の敢国社、京都松原通り諏訪社
を経由して信州の諏訪大社に運ばれて主人公も兼家から諏方とかえられて
東日本に広がったという。
もし、望月氏が出雲神族でないとすると、いくら甲賀三郎の話が西日本に
広がったとしても、主人公の名前を変えているとはいえ、諏訪大社までが
その話を広めようとするとは考えられないのである。」

 やはり、歴史とは、過去からの連綿とした縁(えにし)の糸でつながって
いるということを、改めて強く感じます――

[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月06日 00時57分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<33>で書いたように

>大宝寺城によった「武藤政氏」の一族が羽黒山の支配権を掌握した

当たらず遠からず   森の武藤氏定  は大宝寺氏系の武藤氏かも知れないですね。

そして真田昌幸が武藤氏を名乗った背景に  大宝寺系武藤氏  も絡んでいたからこそ
信玄が母方の一族の武藤の姓を許したのでしょうね。


随分前から真田と武藤は関係があったのでしょうね。
ひょっとするともっともっと前の時代からかも。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月06日 00時58分32秒 ) パスワード

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000187674

Q
1 山形県の郷土資料中に真田幸村(長野県)に関する記載のある資料はないか。
2 幸村関連資料の中に、出羽三山羽黒山の修験山伏に「真田」という者がいた旨記載あった。そのことを示す郷土資料はないか。
3 羽黒山修験にかかる資料館はあるか。



A
1 郷土資料中には、真田幸村に関する記載のある資料は確認できませんでした。

2 修験道関係の資料等を見ると、各資料の随所に、羽黒修験妻帯衆徒の頂点に立つ「真田玉蔵坊家真田七郎左衛門」等の名が見え、下記論文に詳細な記載があります。 

  論文中には、玉蔵坊家は、承久の乱に際し、鎌倉幕府が所司代として羽黒山に派遣した「真田家久」の子孫である旨等の記載があります。 
   


 論題及び掲載誌等は下記のとおり。 

資料1『山形大学大学院社会文化システム研究紀要 創刊号』
    P246〜256  
   ー羽黒修験の中世史研究 新発見の中世史料を中心にー
                    (松尾剛次)  
資料2「山形大学人文学部研究年報 7号」P121〜170
   ー真田玉蔵文書と同文書目録ー  (松尾剛次)

 また、当館HP「山形県関係文献目録」「修験道」に関連資料が採録してありますのでご覧ください。

3 下記資料館をご案内します。 
 ・出羽三山歴史博物館  電話0235-62-2355  
  〒997-0211 鶴岡市羽黒町手向羽黒山頂
                  
 ・いでは文化記念館   電話0235-62-4727  
 〒997-0211 鶴岡市羽黒町手向字院主南72
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月06日 01時23分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


やはり人間を語るには人類の最初っから見て来ないといけませんね。


日本人の場合は縄文人から考えないといけない。
そして弥生人。

    諏訪大社の御柱神事に縄文人と弥生人の融和を見ないといけない。
    縄文の神様のモレヤ(守矢氏)と出雲の建御名方神(たけみなかたのか み)
    狩猟や木の実採取の山の民族が平地の稲作民族を受け入れた寛大さ


そういうのがあって
精神世界では神羅万象に神々を見る信仰が生まれて外来の宗教があって。
行者や修験道があって身体能力に優れた後の忍者が出て


やっとやっと10世紀に平貞盛が出てさらに後に源義家が出て源平戦があって南北戦があって16世紀で戦国時代にドタバタと至る。
この間たったの600年!
その前の歴史の長いこと長いこと!8000年?いやもっと?



基礎がまったく出来てないなと。
後世から遡って場当たり的にネットで引っ張って来て糊塗してる。


本当に真田家1つを語るのに1万年の日本の歴史を考えないといけませんね。
それでは悠久に長過ぎるから
3000年は考えたいものですね。笑


「山の文化」を余りにも知らなさ過ぎる、と反省しています。


真田信尹の心の裡にまたもや1歩踏み込んだ気がします。
森でいいから、遠州森は欲しかったでしょうね。



      
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月06日 06時54分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 壮大な話、ありがとうございます。何か頭の中の小さな世界が、一気に
広がって、爽快感があります。Max(パースペクティブ)とMinimum(個々)の
世界、両方の視点を持つことが必要ですね。
 改めて、頭の中を整理してみます――
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月07日 07時12分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、リオオリンピックを見てしまいました。女子バレーは負けてしま
いました。無残な負け方――身体能力の差は明らかでありました。この点は
致し方ないとして、これを克服するには忍術作戦の強化しかない――と勝手
な考えを抱きました。

 さて、「修験道」を理解するにはなかなか骨がおれます。六冊程、資料本
は入手しておりますが、皮膚感覚で理解するには、実際に自分が山伏になら
ないとわからない……煎じ詰めるところ、「修験道」=「山伏」という理解
でとりあえずはいいのかなと思っています―

 次は、安曇野の話に移りたいと思います――
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月07日 09時20分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

>女子バレーは負けてしまいました。無残な負け方

これはこちらでもニュースになってました。


>皮膚感覚で理解するには、実際に自分が山伏にならないとわからない……

はい、究極の閉鎖世界ですからね。

我々普通の世界の人間には分かりませんよね。
たまにテレビで見るぐらいで
                   へぇ〜
                   山伏でも眼鏡をかけてるんだぁ〜
というあたりの無知さ加減です。恥 
   


>次は、安曇野の話に移りたいと思います

楽しみにしていますね。
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月07日 23時41分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、岐阜城へ行ってきました。収穫は一つありました。それは金華山
の上の岐阜城の側に、岐阜城資料館というのがあって、そこに信長関係の書籍
が、三百冊以上集められておりました。その中にこういう本がありました―
 『戦国の武将 永井隼人とその系譜』(永井源六郎著)
 係りの方にお願いして、中を見させていただき、一部メモをいたしてまい
りました。
 それを煎じ詰めますと、春日局の父で明智光秀の妹の子であり、また光秀
の家老であった斎藤利三(としみつ)の祖は、永井(長井)を名乗っていたとい
うことがわかりました。たしかに斎藤道三(どうさん)は長井(永井)を名乗っ
ています。
 明智光秀の後妻は、服部保章の娘であります。
 永井と加藤も関係が深い。
 加藤と斎藤も出自が同じ藤原利仁流である。
 これで、明智と服部と永井と加藤と斎藤は、関係が深いということがわか
りました――
 永井に関する本はほとんどないので、今回のこの発見を機会に、何とかこ
の本か古本屋にないか、あれば仕入れたいと思っております――
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月08日 01時55分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


斎藤利三の名前が出るとは思いませんでした。
その上に永井(長井)の名前が出るとは。驚


本当に日本人の名字ってややこしいですね。


>明智光秀の後妻は、服部保章の娘であります。

きっと何らかの関係が元々あってのことだったんでしょうね。



斎藤利三の母上は蜷川親順で、この人は蜷川新右衛門さんの子孫だそうです。
そうすると格闘家のムサシ(武蔵)と先祖が同じですね。笑

                       蜷川新右衛門さん=蜷川親当(智蘊)=「一休さん」に出て来る役人。

                       この格闘家の武蔵の曽祖父と祖父は東大を出てるそうで(高祖父もだったかな?)父親は慶応だったかな?


ということで斎藤利三は非常に有能だったそうで、その娘の春日局も優秀だったのですから元々優秀な頭脳の家系なんでしょうね。



>これで、明智と服部と永井と加藤と斎藤は、関係が深いということがわかりました

地理的にも近いですからね。
もともと何らかの関係があったのでしょうね。



やはりアチコチ行くものですね。
驚きました。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月08日 06時46分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 格闘家の武蔵の祖先探し、確かテレビの定例番組でやっていましたね。私
も見たのですが、ほとんど内容は記憶しておりませんでした。
 蜷川さんというと、昔の京都府知事を思い出します。また、蜷川氏は確か
時代は比較的あたらしいのですが、いわゆる政商のような感じで、政治の
フィクサーであったようなことが、チラッと記憶に残っていますが、今まで
興味がなく探求はしておりませんでした。でも、この名字、何か匂いますね。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月08日 08時24分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうですか
ご覧になってましたか。

記憶に残らなかったのは
「タイミング」が合わなかったから
三つ柏さんには元知事の蜷川虎三の方向に意識が行ったからでしょうね。


今でしたら「斎藤利三」の母上の実家の蜷川氏と武蔵が蜷川氏の子孫ということで「蜷川氏」というキイワードはしっかり印象に残ったのでしょうけど。


ひところ知事や市長に学者が選ばれたという流れがありましたね。
政治家が先生と呼ばれるのは「儲けさせるから先生と呼ばれるんだ」と聞きました。


                      医者は治すから先生
                      学校の先生は教えるから先生
                      政治家は儲けさせてくれるから先生


ということで最近は学者の知事とか市長とかハヤラナイような?
多分、望んだほどは儲けさせてくれなかったのかも。


[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月08日 08時28分46秒 ) パスワード

http://www.youtube.com/watch?v=wUwJZoiiiGo
日本人の祖先はユダヤ人だった!?驚きの共通点をまとめてみた!

最初の共通点の紹介:
祇園祭りはジオン(シオン)祭りと関係があるのでは?
                       ジオン祭りはノアの洪水の後の喜びの祭りで
                       祇園祭りの山車が舟のカタチなのは?



次は六芒星のこと


その他:
5分34秒から見てください。
山伏の頭の兜布(ときん)はユダヤ教の頭の小さな箱に似てる
など


結構今は面白かったです。
やはり「タイミング」の問題でしょうね。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月08日 08時45分25秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%B7%E5%B7%9D%E6%B0%8F

蜷川氏


蜷川氏(にながわし)
日本の氏族の一つ。

元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏。越中国新川郡蜷川庄[1]を賜り、そこの地名を名乗った。祖は蜷川親直。

室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当(後の智蘊)の頃より政所代を世襲することとなった。室町時代末期、主君である将軍足利義輝を失った蜷川親世は零落し、出羽国村山郡で没した。嫡子蜷川親長を始めとする一族の多くは、土佐国の長宗我部元親のもとへ落ちのびた(元親室石谷氏が親長の従兄弟。石谷氏は、明智光秀重臣の斎藤利三の妹)。長宗我部氏滅亡後、親長は徳川家康の御伽衆として仕えた。その後蜷川氏は旗本として続き、明治維新に至る。

また、蜷川氏は丹波国船井郡を所領としていたことと、伊勢貞興が明智光秀の家臣にとなったこともあり、蜷川貞栄・蜷川貞房父子等の一族が光秀に仕えた。山崎の戦いで明智氏が滅亡した後は、元親のもとへ落ちのびた一族もおり、丹波で暮らし続けた一族もいる。




蜷川新右衛門について[編集]

蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っている。

蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1975年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場するが、モデルとなった蜷川親当(智蘊)が仕えたのは足利義教であり、そもそも室町幕府に寺社奉行はなく、実際のところ一休宗純と師弟関係があったのも親当が出家して智蘊と名乗ってからのことであり、ほとんど架空の人物である。ただ、親当の嫡子蜷川親元が記した『親元日記』や一休が記した『狂雲集』には蜷川親当(智蘊)と一休の交流(禅問答など)が綴られており、これをスタッフがアニメ制作の参考にしたのではないかとみられる。

関連項目[編集]
南丹市園部町高屋地区 寺谷口 - 室町・戦国時代の蜷川氏の所領。蜷川城(菩提寺である蟠根寺に因み蟠根寺城、地区に因み高屋城とも)があった[2]
智蘊 蜷川親賢 蜷川新(法学者) 森 昭生 - 蜷川新の曾孫だが名字が異なる



蜷川虎三(京都府知事)
蜷川幸雄(演出家) - 両親が富山県出身。蜷川は富山県の地名であり、ここから姓をとった者も少なくない
蜷川

脚注[編集]

1.^ (もとの蜷川郡、後の蜷川村、現在の富山県富山市蜷川および黒崎・二俣・赤田・小杉・袋・布市・最勝寺・黒瀬・八日町・下掛尾(しもかけお))
2.^ [1], [2], [3], 片山・武尾神社, 片山・武尾神社



元は物部氏ということは元は縄文系?
越中ということはやっぱり修験道があったわけですね。
長野や岐阜県と接しているんですから。


ということで調べたら
http://www.geocities.jp/hmatsuw3/tate/shinkou2.htm
立山信仰がヒットしました。



立山を開いたとされる慈興(佐伯有頼)
 


生い立ちについて

 神仏習合の時代、日本海を航行する船は現在の石川県の沖合いを通過するとき、帆を下ろして白山を遥拝する習わしになっていたそうです。

 立山のすぐ南側にある霊峰白山からは、このように当時のもっとも有効な移動手段である海運により、白山信仰が全国的な広がりを見せていました。

しかし能登半島という大きな防波堤が横たわる越中で発祥した立山信仰は、位置的には白山の隣にありながら、終始白山信仰から独立を保つことができたと考えられています。


 開山縁起によると、後に立山信仰の中心となる立山寺(岩峅寺、芦峅寺)を開いたのは、白山の泰澄のようなすぐれた修験者ではなく、奈良時代の越中国守佐伯有若の息子、有頼であったとされています。矢傷を負った熊を追って山へ分け入った有頼が、矢を射立てられた阿弥陀如来の姿に接して発心し、慈興と名のって立山寺を草創したと伝えられています。物語の信憑性はともかくとして、呪力のすぐれた修験者による開山伝説が多数を占める中で、立山信仰の独自性を象徴する特異な開山縁起であるといえるでしょう。
 


立山地獄

 昔、死者の霊は山へ昇っていくとされ、特定の山は他界として畏れ敬われました。この山中他界観に仏教の山中浄土(地獄)思想が結びつき、山中には最底辺の地獄から理想境である浄土まで、すべての異界が備わっていると考えられるようになりました。そのなかでも特に山中地獄の思想は立山信仰の中で重要な位置を占める部分です。

 立山にはたしかに地獄さながらの場所がありました。ポッカリと口を開ける火口や煮えたぎる熱泉、轟音とともにガスが噴き上げる谷底は、まぎれもなくこの世に姿を現した地獄であるとされ、人々はこの谷を地獄谷と呼ぶようになりました。「今昔物語集」において「日本国の人、罪を造て多く此の立山の地獄に堕つ」と記されるように、立山地獄の観念はかなり早い時期から人々に浸透していたと考えられます。地獄を徹底的に見据えた後に見えてくる仏の救い。罪のある者はすべてこの地獄に堕ちると力説し、その救済措置としての立山登拝を勧めるというのが、その後の立山寺の活動の主要なテーマとなっていくのです。



岩峅・芦峅両寺の活動


                       註:岩峅・芦峅両寺の「峅  くら」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味


 修験道の山として山中を修験者が縦横に歩き回っていた立山でしたが、やがて山麓に寺社を中心とした宗教的村落が出来上がり、かつての修験者たちは社僧、宗徒などと称し、定住して生活するようになりました。慈興(佐伯有頼)が建立したとされる芦峅(あしくら)寺、岩峅(いわくら)寺は鎌倉時代にはすでに立山信仰の重要な拠点となっていたようです。現在、廃仏棄釈により寺自体はなくなったものの、芦峅寺、岩峅寺の地名は町名としてそのまま残っており、宗教村落としての繁栄の面影がしのばれます。

 芦峅・岩峅両寺の層徒は立山信仰の宣布に努めましたが、両寺の宣布活動にはその管轄範囲が決まっていました。岩峅寺は主として地元北陸の越中、加賀、能登、越後の一部、一方芦峅寺はその他の諸国を回国し、ともに立山の霊験を説き立山登拝を勧めていきました。その講釈は、立山の異界を図示した立山曼荼羅を掲げながら、まず佐伯有頼の開山を説き、次に立山の地獄、極楽を説きました。とりわけ地獄の凄惨さは強調され、罪人はすべてこの地獄へ堕ちると説きました。最底辺の地獄とその対極にある極楽浄土。そのすべての他界が備わった立山に登拝することで、罪や汚れのない新しい自分として生まれ変わることができるというのが、彼らの説く立山の霊験でした。


おんばさまの女人救済

 立山の芦峅寺では、全国でもここにしかないとされる、醜悪な老婆の姿をした異形の神が崇拝されていました。この姥尊(うばそん:通称おんばさま)は、大日如来の化身、立山権現の母神などとされ、芦峅寺における諸行事の中核的存在であり、とりわけ女性を救済する神として多くの女性から崇敬されました。その理由は、芦峅寺最大の年中行事である「布橋灌頂会(ぬのはしかんじょうえ)」が、この姥尊を拝して女性が往生を願うという内容のものであり、全国各地から多くの女性信者を集めたからでした。



「おんばさま」として親しまれた姥尊

 古来、女性は生まれながらにして穢れたものと考えられていました。立山をはじめ他の霊山、霊場と呼ばれる場所はいずれも女人禁制とされ、これを侵して無理に入山した女性が、神の怒りを受けて木や岩に化されたという伝説が数多く残されています。このような救われない女性を救済するための儀礼が布橋灌頂会でした。その内容は、まず死装束で閻魔堂に入りさまざまな罪を懺悔します。次いで閻魔堂から姥堂まで敷き詰められた白布の上を進み、途中この世とあの世の境界とされる布橋を渡ります。橋の向こうは他界を意味し、姥尊が祭られる姥堂で儀礼はクライマックスを迎えます。真っ暗な堂内で一心に極楽往生を願う女性信者たちは、やがて戸が開かれ夕日に輝く立山を目のあたりにして、地獄から浄土への転生の感激を味わったといいいます。

 布橋灌頂会においてメイン会場となる姥堂ですが、芦峅寺ではこれを女人成仏唯一の霊場として宣伝に努めたということです。山中への登拝が許されない女性にも、救いの手を差し伸べ、女人往生をかなえてくれる「おんばさま」は、当時の女性にとって「阿弥陀さま」以上に身近でありがたい存在であったことでしょう。


[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月08日 09時04分11秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101551.html
スレッド75
長上郡の服部氏族LXXV(16年の課題確認18)
を立てました。


キリの良いところでどうぞ。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月08日 12時36分06秒 ) パスワード

今日はNHKスペシャルの「大アマゾン #4」イゾラドを見ました。


怖かったです。
でも、向うも我々近代人を怖がっていました。

          縄文人が弥生人と接触した時はこんな気持ちだったのかな?と思いました。


そして何故彼らが我々を襲うのか?の質問には「先にお前達が殺した」が回答でした。


彼等には「幸せ」という概念はありませんでした。
詰まり「不幸」という概念も無いということですね。



交渉にはバナナを贈り物として持って行ってました。
まだ青いバナナで  熟すまで待ってたのか?  
焼いたり煮たりして食べていたようです。

    バナナはでんぷん質だから青いのは火を通せば食べられますから、そういうこと、知ってたのかな?


土産にバナナが欲しいと要求したり
お返しに手製のナイフをくれたり
             あ〜
             同じ人間なんだって思いました。




http://www.nhk.or.jp/special/amazon/series4/about/
第4集 最後のイゾラド 森の果て 未知の人々
再放送 8月24日(水) 午前0時59分(23日深夜)


              現在ペルー側に5か所生息地があって約500人ほどが生存してて
              あと2年もすれば絶滅するのだろうと考えられているそうです。



第4集
文明社会と接触したことがない“原初の人々”を追う。


アマゾン源流域、ブラジルとペルーの国境地帯にいるという彼らは、部族名も言語も人数もわからない。「隔絶された人々」という意味の『イゾラド』と呼ばれる謎の先住民族である。


いま、そのイゾラドの目撃情報が相次いでいる。森に猟に入った若者が弓矢で腹を射抜かれた。川辺で遊んでいた少女の足元に数本の矢が飛んできた。イゾラドの集団にとり囲まれた村からSOSが発信された…。


               矢には蛇の毒が塗ってあって刺されば死に至ります。



なぜ彼らは、文明社会の領域に、突如姿を現すようになったのか。取材班は、ペルー政府との交渉の末、イゾラドを監視する複数の最前線基地に、テレビ局として初めて滞在。森の彼方から聞こえてくる、「知られざる、しかし私たちと同じ人間の声」に耳を澄ました。


あなたは「イゾラド」を知っているか?アマゾンの密林に住む、文明を持たない最後の原住民たち

あなたは「イゾラド」という言葉を聞いたことがあるだろうか?

南米で「イゾラド」といえば、”隔絶された人々”という意味を持つ。そう、原初の先住民たちである。もっとも、「イゾラド」当人たちは自らがそのような名前で呼ばれていることを知らないだろう。

彼らは文明社会と一切の関わりを持たない。2016年においても、洋服を着ないし、武器は主に木製の弓矢か、槍を使っている。イギリスがEUを離脱したとか、世界中がポケモンに夢中になって歩きスマホが問題だとか……我々の耳に当たり前のように入ってくるありとあらゆることは、当然ながら一切知る由もない。

これが、かつて近隣の村人によって撮影された「イゾラド」たちの姿である。


彼らの住んでいるであろう集落から、ほかの「自分たちに似た生き物」がいることに気づき、男だけで「こちら側」に向かってくる。集落にいるはずの女や、幼い子どもはいない。だとすると、闘うつもりなのだろうか。しかし……あまりにも丸腰である。


……顔が、あまりにも似ていないだろうか?

この二人だけではない。みんな、区別がつかないほどにそっくりである。

それもそのはず。コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが、1492年。
信じがたいけれども、そこから500年余り経過した今でも、外からの血が混ざることなく、近い親戚同士で子孫を育み続けているからであろう。日本でいえば、室町幕府の時代から現代に至るまでずっと、というだけの長い長い年月だ。

いや、500年どころではない。彼らが一体いつからここアマゾンの密林で暮らしているのかは、なにも明らかになってはいない。彼らを語るには、あらゆる事象を想像で補うことしか出来ない。



文明社会を襲う、イゾラドたち

画像略
この青年は、ブラジルの奥地にある集落に住んでいた。彼は、かつてイゾラドに襲われた。


この写真を見て欲しい。イゾラドの集団が、木製の矢を手にしている。部族によって形状は異なるが、彼らの武器はおおよそ「槍」か「矢」である。

青年の腹には、イゾラド放った矢によって射抜かれた跡が残っていた。腹から刺さった矢は、脇腹の方へと胴体を突き抜けたのだ。


矢には、毒が塗ってあったが、青年は奇跡的に一命をとりとめた。しかし、「やめてくれ、敵意はない!」という言葉すら、通じることのない相手である。青年はその後もずっと安眠することは出来ず、イゾラドに襲われる恐怖と隣り合わせで暮らしているという。


画像略
これは、イゾラドに襲われた小さな村の光景だ。村民たちが命からがら逃げた後……。

               空き巣が入ったみたいに衣類なんぞが散乱してました


村民たちはイゾラドと出くわすと原住民の言葉で「友よ!」と叫ぶ。身振り手振りでコミュニケーションを試みる。親しくなれたと思うこともあったようだが、イゾラドたちの思考を理解することは出来ない。



侵略するのか、侵略されるのか

野蛮な原初の部族だと、恐れられるイゾラド。しかし500年以上前の南米は、様々な動物とイゾラドたちが自然のままに暮らす、楽園だったのだろう。

アメリカ大陸発見後。開拓民によって、不法な伐採業者によって、黄金を採掘するガリンペイロによって……イゾラドの生活圏は脅かされ、奪われてきた。

自らの村が侵略され続けるという歴史は、どんなに恐ろしかったことであろうか。彼らが、文明側の人間に向けてどんな気持ちを抱いているのだろうか。

500年前から今に至るまでの、イゾラドの生息地の減少はご覧の通りである。今、南米の5か所だけに確認されるイゾラドは、最後の生き残りだ。
画像略


過去に、ペルー政府は幾度となくイゾラドとの接触を試みている。果実を運び、近しい原住民の言葉や、ボディーランゲージを使ってコミュニケーションを取る。彼らを文明化社会に適応させよう、という動きもある。


しかし、文明社会と接してこなかった彼らは、文明側の人間と会話をすること、握手をすることも毒になり得る。免疫がなく、外界との交流によってイゾラドの一族を死に至らせてしまうこともあるのだ。


             古代の日本人が大陸からの天然痘や戦国時代の日本人が南蛮人の梅毒にやられたように
             イゾラドは免疫が無いので現代人がもたらした伝染病や感染症にバタバタと倒れたのでした

            


文明側の人間は、彼らにとって「敵」であるか「味方」であるか。

「イゾラド」と呼ばれる人々を、文明社会に取り込むことは、果たして正解なのだろうか。



「最後のイゾラド」

NHKスペシャルの取材班は「最後のイゾラド」とも言われている希少な存在を追うため、アマゾンの密林へと取材に行った。テレビ局が滞在するのは、空前の事態であった。

指揮をとるのは、150日間も南米の先住民族「ヤノマミ」と共同生活したり、黄金を求める無法者の集まり「ガリンペイロ」に密着取材を行ってきた、国分拓ディレクターだ。

南米での取材を長年共にしてきた菅井禎亮カメラマンと共に語る、彼らの命を懸けたイゾラドへの取材の日々は、こちらのインタビューで伝えている。



http://www.nhk.or.jp/special/amazon/series4/column/02.html
取材先は「未開の先住民族」。NHKのディレクターが挑む、アマゾンに暮らすイゾラドたちへの取材


http://www.nhk.or.jp/special/amazon/series4/column/03.html
巨大な怪魚、ピンクのイルカ、奇妙な猿、ガリンペイロ、そして「未知の人々」イゾラド。我々の知らない、アマゾンの世界
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