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 投稿番号:101548 投稿日:2016年07月18日 07時52分33秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
松葉宗益 後裔 平賀氏について2

コメントの種類 :その他  パスワード

松葉宗益 後裔 平賀氏について
三国氏との関係、井伊氏との関係、別系「平賀氏」との関係など
皆様からの御教示を心よりお待ち致します。

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月18日 07時58分50秒 ) パスワード

皆様、白石様、おはようございます。

旧奥野村・旧宮原村(一部)の主に山間地の字図をブログにアップ致しました。

解りづらいかと思いますが、「幸野溝」と書かれた所から山間地にむけて見て行くと
字「高岡」が見えます。

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12181655583.html

では(^'^)
[2]白石さんからのコメント(2016年07月19日 00時44分18秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ

ブログにあっぷしてある 写真を見ていました。
だるま の 文字がある 写真の 向かって 左の人と

祭りの時の 青い法被を着ている人のお顔が
兄の顔や 高岡い(同級生)の顔に 似ていて
驚きました。
ーーーーーーーーーーーーーー

ところで
京都貴船に行ってきました。

あのあたりに 和泉式部の話があり
高岡系図の中にも 和泉局がおり 昭慶門院です。(と理解できます。)
贏姓 高丘系図1 から でます。
ーーーーーーーーーーー
昭慶門院
1270−1324 鎌倉時代,亀山天皇の皇女。
文永7年生まれ。母は藤原雅平の娘雅子。永仁(えいにん)元年内親王となり,4年院号をあたえられる。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子世良(ときよし)親王の養母。亀山天皇から甲斐(かい),越前(えちぜん)などのおおくの荘園を譲与された。


藤原雅平の系は 観修寺流です。葉室になります。



[3]白石さんからのコメント(2016年07月19日 00時56分13秒 ) パスワード

北畠親房
きたばたけちかふさ

[生]永仁1(1293)
[没]正平9=文和3(1354).4.17. 大和,賀名生
南北朝時代の公卿,武将。正二位大納言。師重の子。後醍醐天皇に仕え,世良親王の養育にあたったが,元徳2 (1330) 年親王の薨去により出家して宗玄 (のち覚空) と号した。建武中興が成ると再び出仕し,元弘3=正慶2 (33) 年長子顕家とともに義良親王 (後村上天皇) を奉じて陸奥へ下向,翌年上洛した。
ーーーーーーー

北畠の 方から 佐田が出てくるし
高岡 佐田の縁 が 濃いいなあ
と 思います。
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月19日 09時45分32秒 ) パスワード

皆様、白石様おはようございます(^'^)

白石様
奥野の字「高岡」。
推測すると白石様に流れるDNAはあまり反応していないようですね(p_-)・・
そうか・・
球磨の史々等に高岡氏が全く出て来ないので、”きっかけ”になるかな?(^'^)と思ったのですが・・何だか違うような・・(..)
もしかしたら・・別の姓から後年に本姓「高岡」に復姓されたのか?とか色々推測していたのですが・・

所で!皆様、白石様!
木原氏・平江氏について調べているとこのようなサイトを発見しました!
白石様!東野家も登場していますよ!
伝える・つなぐ 「木原神楽」
https://www.city.kumamoto.jp/html/tomiaitokureiku/pr/pdf/49-3.pdf
伝える・つなぐ 「木原神楽」より
お正月と10月の六殿宮秋季大祭で子ども達が舞う「木原神楽」は今評判です。この神楽の歴史と伝承について、「木原神楽保存会」の平江 透会長に聞きました。
中略・・木原区民みんなが指導者であり応援者です。平成25年正月の奉納が待ち遠しく、楽しみです。

木原神楽のはじまり
木原の神楽は、六殿宮の神事芸能として、約830年前から始められ、神事芸能は、本座と新座により伝承され、神楽は神楽方により伝承された。
戦 国 時 代
六殿宮では、本来、六殿宮独自の神事古楽が伝承されていたが、戦国時代に神領が没収され神社の勢力が衰微し、神主家も能師も神楽方も廃絶同様の状況の中、六殿宮宮司は、農業と神主として平江家(現在は榊田家)によって伝承されてきた。また、神楽方は平江・荒木・東野の衆が選ばれて伝承されてきたが、古来の六殿宮独特の神事古楽は絶えて、熊本地方に広く伝えられていた肥後神楽12座が伝承されるようになった。

復 活
昭和47年、 平江盛男氏の発起によって、笛・太鼓・舞の経験者である荒木義高氏、平江正一氏、平江正氏、平江
七郎氏、荒木行春氏の6名で神楽が復活した。

中略・・
「からいも」は「いきなり団子」に
富合校区社会福祉協議会と児童 ・ 民生委員協議会では 「一人暮らしの方へお菓子のプレゼント」を実施しています。

(p_-)(p_-)(p_-)\(◎o◎)/!
※伝える・つなぐ 「木原神楽」
※木原区民みんなが指導者であり応援者です。
※木原の神楽は、六殿宮の神事芸能として、約830年前から始められ、神事芸能は、本座と新座により伝承され、神楽は神楽方により伝承された。
※六殿宮宮司は、農業と神主として平江家(現在は榊田家)によって伝承されてきた。
※神楽方は平江・荒木・東野の衆が選ばれて伝承されてきた
※富合校区社会福祉協議会と児童 ・ 民生委員協議会では・・
\(◎o◎)/!
木原地区・平江家・荒木家・東野家・富合!!!!!!
白石様のコメントに今まで多数登場した「キーワード!」じゃないですか!?

※木原の神楽は、六殿宮の神事芸能
六殿神社 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE
六殿神社(ろくでんじんじゃ)は、熊本県熊本市南区に鎮座する神社である。長寿寺(木原不動)と同じく雁回山(木原山)にある。旧社格は郷社。
所在地 熊本市南区富合町木原2378
由緒[編集]
1178年(治承2年)、平清盛の子である平重盛が、自身の祈願所であった武蔵国の六孫王大権現を勧請したことにはじまる。また、木原山に城を築いた源為朝(鎮西八郎)の創建という説、さらには、平安末期に当地を治めていた木原氏の創建という説もある[1]。
六殿神社の楼門は、1907年(明治40年)に、熊本県下の建造物としては最も早く国の重要文化財の指定を受けた[2]。
中略・・
境内社[編集]
宿大神 - 子授け安産母性の守り神
菅原神社 - 学問の神、菅原道真公
鉾神社 - 医療の神にして、疫病退散病気平癒
中王宮 - 創建以来初代より第3代までの大宮司を祀る
代官宮 - 伊津野、佐藤姓の祖神を祀る
大王宮 - 創建の平重盛命、父平清盛命を祀る

※代官宮 - 伊津野、佐藤姓の祖神を祀る \(◎o◎)/!

最初に書いたように
※戦国時代に神領が没収され神社の勢力が衰微し、神主家も能師も神楽方も廃絶同様の状況の中、六殿宮宮司は、農業と神主として平江家(現在は榊田家)によって伝承されてきた。また、神楽方は平江・荒木・東野の衆が選ばれて伝承されてきた

白石様。
やはり、集中的に現在の熊本市南区富合町木原(旧上益城郡)を調べる事が重要な気がします(..)
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月19日 09時47分51秒 ) パスワード

追記
リンク出来ないようなので

検索ワードに
伝える・つなぐ 「木原神楽」
上記の文字をコピーすれば見れます!
[6]白石さんからのコメント(2016年07月19日 20時18分07秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ
コメントを見て 忘れないうちに と思い (腹違い)の姉にTel しました。

姉の祖母(父母が夫婦養子に入った人)の母方の筋が なりまつ ということでした。

宇土市 宇城市(どちらも 木原から 近いそうです)に
平原というところがあって 

木原不動さん という ところがあって
これは 有名なところだそうです。

その となりに 平江があったそうです。
うちの 平江は 庄屋では なかったそうで

おばあちゃんの 実家の なりまつ が
ひらはらの 少し 奥に行ったところに あり
そこが 
庄屋をしていたということです。

集落;の名は 忘れたそうです。

みやちゃん
あっているみたい。

ありがとうございます。

 

 
[7]白石さんからのコメント(2016年07月19日 21時56分48秒 ) パスワード

不動とは なんだろうと思い ざっと見ると
天台宗 シバ神 などに 関係し

長寿寺は 最澄に 関係しているようでした。

天台宗は 延暦寺におられる 橘氏も 関与しているようです。
なんだか そこらあたりから 松葉氏 井伊氏 などが 出るのではないか?とおもいますが ・・・

兄嫁の実家(尾方)は 町長をしたことがある家で
酒なども 造っていたようです。
四浦の 尾方家(兄嫁とはかんけいない)

吉田の男三兄弟から 尾方へ 婿入りしている。
ここと 松本という家へも婿入り。
多分 小山先生が書かれた 明治になって 真っ先に 帰農した人。

あさぎり町の 松の泉 から お酒を仕入れていました。

松本家のお墓は(あさぎり町)うちのお墓があるところに ありますが
大きな ちょっとした 廟のような ものです。

製茶も していたようです。
なんとなく 
四浦の固まりと 似ているのです。
四浦の 松本 尾方も お茶を製茶していました。

この 尾方(議員をした)から 
「うぐいす嬢ば してくれんね」
と頼まれて マイクをにぎったことがあるので 
覚えているのです。  
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月20日 07時26分47秒 ) パスワード

白石様、皆様、おはようございます(^'^)
すみません、白石様、皆様
〉集中的に現在の熊本市南区富合町木原(旧上益城郡)を調べる事が重要な気がします(..)
訂正します。
熊本市南区富合町木原は旧下益城郡でした(..) すみません。
旧下益城郡木原村になるのかな?

白石様
私が、すごく興味を持ったのが、「平原」という地名ですね(p_-)

〉木原不動さん という ところがあって これは 有名なところだそうです。

木原不動さん 調べました。
長寿寺(ちょうじゅじ) ウィキより
長寿寺(ちょうじゅじ)は、熊本県熊本市南区富合町木原にある天台宗の寺院。比叡山延暦寺の末寺。木原不動(木原不動尊)の通称で親しまれる。
千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動尊)、東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)と並ぶ日本三大不動尊の1つ。九州三十六不動霊場第19番札所。

歴史[編集]
延暦(782〜806)年中、伝教大師最澄の開基と伝えられる。往時は、西国第一の談義所と言われる寺勢を誇った。 本尊は最澄が一刀三礼して刻んだと伝えられる不動明王立像。像の胎内には最澄真筆の法華経寿量品が奉蔵されているという。
仁平[1]あるいは保元[2]のころ、九州に下向し肥後に入った鎮西八郎為朝こと源為朝が木原山の要害に城館を築き、鬼門の方角に当るこの寺の不動尊を深く信仰したという。
文治年間には、源頼朝が堂宇を再興、寺領水田18町歩寺床8畝歩を寄進し祈願所とした。
天正に入り、キリシタンであった小西行長が肥後半国を領すると寺領没収の憂き目に遭うが、関ヶ原の戦いで行長が敗れた後は、行長の所領を引き継いだ加藤清正によって再興された。
明治維新の際、廃仏毀釈の影響で一時廃寺となったが、地方における著名の寺跡ということで、宇土の極楽寺圓海山惣持院を移して再興された。
「雁回山」の由来[編集]
寺の山号は雁回山(がんかいざん)といい、寺の後背地にある山(木原山)も雁回山と呼ばれている。
これは、この山に城館を設けた源為朝が、自慢の弓で山上を飛ぶ雁を射落としていたので、雁が山を迂回して飛ぶようになったとの伝説による[3]。

※源為朝が木原山の要害に城館を築き・・
所縁の場所なのですね・・

昨日、コメントした「六殿神社」
〉代官宮 - 伊津野、佐藤姓の祖神を祀る
こちらも気になる所ですね。
「伊津野」・・白石様の”お父様の手帳”に書かれていたと何度も伺った記憶があります。

所で・・
日本の苗字七千傑様のサイトで「平江氏」を検索して、とても気になる「平江氏」がありました。
《宗 氏》姓氏類別大観 を拝見。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102a1.htm
平知盛 ⇒ 宗知宗 ⇒ 盛家
宗盛家。この方の分流姓氏※5を拝見すると「平江氏」が見えます。
余談ですが・・瀬口氏。同名の同級生(小中学校)がいます。(旧岡原村)

《宗 氏》姓氏類別大観。
武藤頼兼・平知盛。この方々は姻戚関係にあったのですね・・・
さらに・・宗氏の家紋は・・? あんれっ??(p_-) 何だか似ている・・・(p_-)

白石様のお父様(実家高岡家)とお姉様のお母様(平江家から嫁がれた)はいとこ同士でしたよね・・
白石様のお父様のいとこの方が、高岡家から御親戚の「平川家」に婿養子に入った・・

何かぼんやりと・・見えてきませんか・・・(゜-゜)

では(..)
[9]白石さんからのコメント(2016年07月21日 05時22分07秒 ) パスワード

おはようございます。
みやちゃん 上益城郡でなく 下益城郡。わかりました。
郡誌で 見たときは 下益城郡守富でした。
木原ともうひとつが くっついて なったそうです。

姉は 富合としきりに言っていました。
お不動さんの横に 平江があって そこから 奥に行くと
平原で さらに 奥に 集落の名を忘れたけど なりまつ があって そこが おばあさんの 実家で 

この なりまつ が いいとこなのだと 言っていました。
姉さん
集落の名が大事じゃない 覚えてないの ? というと

忘れたわよ 70年も前の話だもの
という 返事。
無理ありません。 就学前の子供ですから。

お寺も 現在は 関東の方に移しています。
確か もとは あちらの 現在は 廃寺になっているところ と 聞いています。

宗氏を見てみました。惟宗姓ということは 島津にも 関与してくる 可能性があるのですね。

これは これとして
六殿宮 を 見てみました。
お次は「医療の神にして疫病退散病気平癒に霊験あらたか 鉾神社」と
「創建以来初代より三大の宮司を祀る氏子同姓平江姓の始祖神なり 中王宮」
「医療の神にして疫病退散病気平癒に霊験あらたか 鉾神社」と
「創建以来初代より三大の宮司を祀る氏子同姓★★平江姓★★の始祖神なり 中王宮」

高岡は 神武の子供の宮の名にあり
秦でもあり
陳にも つながっていくようでもあり

やはり つながっているのでしょうね。



[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月21日 16時59分06秒 ) パスワード

皆様、白石様 今日は(^'^)

白石様がご覧になったサイトはこちらですね。と言うかめちゃくちゃ重要な御由緒書きがあるではないですか?!
\(◎o◎)/!
サイト 800年の歴史を刻む六殿神社と朱塗りの楼門
http://paapurin.exblog.jp/17768028/
画面をスクロールしていくと・・

創建以来初代より三大の宮司を祀る氏子同姓平江姓の始祖神なり 中王宮
中王宮
祭神 平江三郎為歳命 平江判官為宗命 平江左衛門尉為示命
由緒
當六殿宮創建以来 初代ヨリ三代ノ大宮司職ナリ
創建ト同時ニ高倉天皇ノ御綸旨ヲ奉ジ紀州宇田ヨリ当社神職トナリ平氏ノ一族ニシテ平江姓ヲ名乗リ氏子同姓ノ始祖ナリ

平江姓の始祖について”全て書いてある”ではありませんか\(◎o◎)/!
※祭神 平江三郎為歳命 平江判官為宗命 平江左衛門尉為示命
※紀州宇田ヨリ当社神職トナリ
※平氏ノ一族ニシテ平江姓ヲ名乗リ氏子同姓ノ始祖ナリ

当地方の伊津野、佐藤姓の祖神を祀る 代官宮
代官宮
祭神 伊津野帯刀競命 佐藤少監信明命
由緒
六殿宮創建富時社領七百三十町歩ヲ附セラル
御祭神ハ守富、杉合両庄ノ初代ノ代官ニシテ現今当地方伊津野姓、佐藤姓ノ祖神ナリ

\(◎o◎)/!こちらも伊津野姓、佐藤姓の始祖 全て書かれているではありませんか!!
代官であり 代官宮の御祭神
伊津野帯刀競命 佐藤少監信明命

ものすご〜く重要な事が判明したのではありませんか!!

では(p_-)
[11]白石さんからのコメント(2016年07月21日 20時23分42秒 ) パスワード

まあまあ みやちゃん
さすが みやちゃんです。

私 画面をしっかり 見ることができなくて 
平江で とまってしまって・・・

今 平重盛の母を しらべていたところです。
高階基章の娘でした。
ここも 高階氏と かかわっているのですね。

菊池も ・・・
重盛は 小松殿とも 呼ばれていたのですね。

伊津野まで わかって・・・


[12]白石さんからのコメント(2016年07月22日 01時44分28秒 ) パスワード

みやちゃん

こんばんわ

和歌山県宇田というところはどこだろうと思い しらべましたが
宇田森というところしか わかりませんでした。

大屋都姫神社があるところ
紀伊

大屋都姫神社の配祀神は
左脇宮:五十猛命 (いたけるのみこと)
大屋都姫命の兄神で、伊太祁曽神社祭神。

右脇宮:都麻都姫命 (つまつひめのみこと)
大屋都姫命の妹神で、都麻都比売神社祭神。
ーーーーーーーーーーーーーー

玄松子の祭神記より
五十猛命
いたけるのみこと

別名
伊太祁曾神:いたきそのかみ
射楯神:いたてのかみ
……

建速須佐之男命と櫛名田比売命の御子。 大屋津姫命、抓津姫命の兄神。


速須佐之男命が追放された後、その御子五十猛神を伴って新羅に渡り、 曾戸茂梨に居られたが、この地に住むことを嫌い、 埴土の舟に乗って、出雲国簸の川上にある鳥上の峯に到り、八俣大蛇を斬って神剣を得た。


五十猛神は新羅に渡る時、多くの樹木の種を持って降られたが、それを韓国に植えず、 すべて我が国土に植えたので大八洲はどこも青々と繁茂した山々をみることができたといわれ、木の神、有功之神とも呼ばれている。


五十猛神と、妹神大屋津姫命、末妹抓津姫命の三神は、父神に連れられて紀ノ国に渡られた。


また、建速須佐之男命が全身の毛を抜いて木々とし、 五十猛神は妹達(大屋津姫命・抓津姫命)と国中を回って植えた。


五十猛命は、『古事記』大国主命の条に出てくる大屋毘古神や、木俣神と同神とされている。

ーーーーーーーーー

和歌山の宇田森は紀伊と呼ばれ スサノオ系の神がおられた。
イタケルの命は 大国主が その またの間に逃げ込んだという話の持ち主。
★★木俣神と同神とさsれる。





[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月22日 08時19分27秒 ) パスワード

皆様、白石様、おはようございます(^'^)

紀州宇田。
旧高旧領取調帳データベースで私も調べたのですが
紀伊国 名草郡 宇田森村 うだもり

白石様がおっしゃる通り「宇田森村」が登場します。

大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)は、和歌山県和歌山市宇田森にある神社。
ウィキの記述では
祭祀組織[編集]
神職[編集]
大屋都姫神社の神主職は、天正年間(1573年-1592年)頃から土屋氏(本姓:藤原氏)が世襲するという[4]。
ただし『紀伊国名所図会』では、江戸時代後期の編纂当時の神主は大屋彦命の後裔を称する森氏で、当代は大屋彦命から数えて83代目に当たるという。
氏子[編集]
大屋都姫神社は、鎮座地宇田森を始め弘西・北野・永穂(なんご)・西田井・北の6地区の産土神とされ、戦前までは6地区それぞれに宮座が結成されていたが、現在は永穂地区に残るのみである[4]。

※天正年間(1573年-1592年)頃から土屋氏(本姓:藤原氏)が世襲
※ただし『紀伊国名所図会』では、江戸時代後期の編纂当時の神主は大屋彦命の後裔を称する森氏で、当代は大屋彦命から数えて83代目に当たる。

とありますね。
(p_-)本姓:藤原氏の”土屋氏”ですか・・(p_-)・・・
なるほど・・”土屋姓”は本姓は違っても今回の調査・・色々な場面で登場しますね・・(p_-)

(p_-)大屋彦命の後裔を称する森氏
白石様の御教示・・ですね。

平江氏の通字は「為」のようですね・・・

では(^'^)・・(p_-)
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月22日 08時53分05秒 ) パスワード

追記
紀伊国 名草郡 宇田森村

名草郡 ウィキの記述では
古代[編集]
『日本書紀』神武天皇即位前紀の「名草邑」を別として、『続日本紀』大宝3年(703年)5月9日条に「紀伊国奈我・名草の二郡をして布の調を停めて糸を献らしとむ……」とあるのが、郡名の初見とされている[1]。『和名類聚抄』によると、名草郡は紀伊国の国府の所在郡で、その地は現和歌山市府中に比定される。紀家蔵の『国造次第』は郡の開設を19代紀伊国造紀忍穂によるとし、忍穂の冠位が大山上であることから、孝徳天皇期(645年-654年)の建郡と推測される[2]。郡名の由来について、『続風土記』には「其名義は詳ならずも或説に渚の義ならむといへり」と記す。また、古代の名草郡は伊勢国渡相郡(度会郡)、伊勢国竹郡(多気郡)、安房国安房郡、出雲国意宇郡、筑前国宗像郡などとともに、孝徳天皇期から天武天皇期にかけて順次設置されたとされる八神郡の1つに数えられていた[2]。日前神宮・國懸神宮の所在地として重んじられ、養老7年(723年)11月16日には郡司に近親者の連任が許されている[3]。一般に郡を治める郡司に近親者を続けて任命することは禁止されていたが、名草郡では神社を代々まつってきた紀氏が重視されたものである。

(p_-)一般に郡を治める郡司に近親者を続けて任命することは禁止されていたが、名草郡では神社を代々まつってきた紀氏が重視されたものである。
ナルホド・・(p_-)

郷・神戸[編集]
『和名類聚抄』高山寺本・東急本に記される郡内の郷。名草郡には多数の式内社が分布したことにより、郡内には多くの神戸が存在した[2]。郷とそれら神戸との混同により、『和名類聚抄』でも諸写本で郷名に多くの錯乱が生じている[2][4]。

補足(p_-)・・「神戸」とは ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8_(%E6%B0%91%E6%88%B8)
神戸(かんべ/じんこ)とは、古代から中世の日本において特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。律令制における神社の封戸である神封と同義とされるが、神戸の由来は律令制以来に遡るもので、律令制初期においては神戸と神封は区別されていたとする考え方も有力である。
概要[編集]
『日本書紀』崇神天皇7年11月8日(紀元前91年12月27日)条に初めて神戸・神地を定めたとされており、これが神戸の起源とされている。これを史実とすることは出来ないものの、早い時期からヤマト王権や豪族達によって保障された神社所属の部民があり、これが神戸の由来であったと考えられている。
(p_-)「神戸」・・勉強になりました。

名草郡 郷・神戸 ウィキの記述より(気になる記述だけピックアップしますが、それ以外に気になる記述が多数あります。出来れば、皆様もウィキの「名草郡」をお読み頂ければ・・と思います(..)

大屋郷 (おおやごう、位置)
郷名は大屋都比売神社に由来。比定地は和歌山市宇田森・弘西・西田井。

忌部郷 (いんべごう、位置)
比定地は和歌山市井辺(いんべ)。紀伊忌部の本貫地。

神戸郷 (かんべごう、忌部神戸か)
高山寺本・東急本とも「誰戸」と記すが誤記。忌部神戸と推定。『新抄格勅符抄』大同元年牒では忌部神の神戸として紀伊国に10戸を記載。和歌山市鳴神周辺に分布か。

大屋神戸 (おおやかんべ)
東急本・高山寺本とも「大屋」と2度記すが、2度目は「大屋神戸」の意か。大屋都比売神社の神戸。『新抄格勅符抄』大同元年牒では同神の神戸として7戸を記載。和歌山市宇田森周辺に分布か。

荒賀郷 (あらかごう、位置)
東急本では「八荒賀」。比定地は和歌山市黒田。

(p_-)・・
大屋郷 (おおやごう、位置)
郷名は大屋都比売神社に由来。比定地は和歌山市宇田森・弘西・西田井。
・・・偶然かな??私の祖母の次兄は西田家に婿養子に入りましたよ・・(p_-)
ちなみに、西田の名は継いで旧岡原村には住んでいましたが・・元々こちらの西田家は球磨郡ではありません(ー_ー)!!
父に聞くと「よく解らないけど、八代〜熊本辺りじゃないか?」と言っていました。余談でした(..)

では(^'^)
[15]白石さんからのコメント(2016年07月22日 17時58分59秒 ) パスワード

皆さま こんばんわ

木俣神=御井神=王氏=山田氏祖先?

平家物語平川子孫34でしたかしら
>小野の篁の母 御井氏
篁の祖父・好古は 母が 王氏
王氏は  周の霊王の子孫
山田氏の遠祖

鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち より

日本神話には「御井神」という水利を所管するとみられる神がいる。『書紀』には見えず、『古事記』にのみ見えて、同書では、大国主神と稲羽の八上比売との間の子神とされる「木俣神」の別名と記される。
※ スサノオと櫛稲田姫命 との 近藤か?とも 思えるが 古い地合いのことなので・・・
コメントをさがって
志貴皇子の玄孫[2]。摂津大夫・市原王の子。母は能登内親王。

ウィキの 大屋都姫神社 の 説明では
伊太祁曽三神 として
主祭神
大屋都姫命

配祀神
左脇宮:五十猛命
  大屋都姫命の兄神で、伊太祁曽神社祭神。

右脇宮:都麻都姫命
  大屋都姫命の妹神で、都麻都比売神社祭神。

『先代旧事本紀』地祇本紀では、これら三神は紀伊国造が斎き祀る神であるという。

社伝[原 1]によれば、当初は元は日前・國懸両神宮(和歌山市秋月、位置)の地に祀られていた。

玄松子の祭神記では 伊太祈曽の祭神 五十猛命 亦名 大屋毘古神 としている。
スサノオの 子供で 大屋津媛命の兄。

又 この 三神は スサノオと 櫛稲田姫との間の子とされる。

櫛名田比売:玄松子の祭神記

www.genbu.net/saijin/kusinada.htm

奇稲田姫: くしいなだひめ 稲田媛:いなだひめ 真髪触奇稲田姫:まかみふるくしいなだひめ ... 櫛名田比売命と須佐之男神は、 八嶋士奴美命・五十猛命・大屋津媛命 ・ 抓津媛命を生んだ。
★★八嶋士奴美命・・・・『古事記』では大国主神の祖で、この神の五代孫が大国主神とあるが、 『先代旧事本紀』では、八島士奴美神のまたの名を大国主神、大己貴命とある。

大国素の子孫
布波能母遅久奴須奴神と★★比売命の子が、★★深渕之水夜礼花神

前に 深水の ことで 書きましたね。
大国主は 実は 八代に
に いたのだとも。

又 八島士奴美神 の 別名には 湯山のことばも
・・・
おもしろい ですね。
なんだか このころの はなしの方が 地域名を そのままつかっているようで 身近に 感じます。

長く なりましたが
木俣神=御井神=王氏=山田氏祖先?
なんだか もやっと する話です。
四浦小野に 観音堂があり 鎌倉時代のもので 宮田がおり
下の集落の宮田の話では ここと 親戚で 下の集落の宮田の母の実家は 川辺の川下の 「西田」という家から きているそうです。前は 西と母親から聞いたと思っていましたが 
よその家のことなので ・・・
その子は 同級生です。

[16]白石さんからのコメント(2016年07月22日 18時11分16秒 ) パスワード

近藤 は 混同です。
地合いは 時代です。
大国素 は 大国主です。
★★日河比売です。

すみません
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月23日 09時28分26秒 ) パスワード

皆様、白石様 おはようございます。

白石様 古代に繋がるお話は白石様でなければ!\(^o^)/
勉強させて頂きました。
御教示ありがとうございます。

所で・・
時代は下って
〉大屋都姫神社の神主職は、天正年間(1573年-1592年)頃から土屋氏(本姓:藤原氏)が世襲するという[4]。
ただし『紀伊国名所図会』では、江戸時代後期の編纂当時の神主は大屋彦命の後裔を称する森氏で、当代は大屋彦命から数えて83代目に当たるという。
氏子[編集]

本姓:藤原の土屋氏
日本の苗字七千傑様のサイトで検索して見つけました(p_-)
日本の苗字七千傑様の《長沼氏》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020e2.htm
@長沼宗政 ⇒ 時宗 ⇒ 宗信(土屋氏)

桓武平氏良文流の「土屋氏」は「土肥氏」と共に遅くとも鎌倉前期には球磨に来られているようなので、気になってもう一度調べてみました。
(あの・・私のいつもの妙な感なのですが・・実際はもっと早く平安末期頃にはすでに球磨に来られていたのではないのかな・・・?と。すみませんあくまでも妙な感です)

日本の苗字七千傑様の《中村氏/土肥氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116d1.htm
A中村宗平 ⇒ 宗遠(土屋氏)

《土屋氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116d2.htm#007

土屋氏 姓氏類別大観をじ〜っと見つめていたのですが・・
コメント10より
〉平江判官為宗命

藤原の「土屋氏」 
長沼宗政 ⇒ 時宗 ⇒ 宗信(土屋氏)

桓武平氏良文流の「土屋氏」
中村宗平 ⇒ 宗遠(土屋氏) ⇒ 宗光

※平江判官為宗命

(p_-) 色々な所に「宗」の文字が見えるものですね・・・

あと・・
もう一つ気が付いたのですが
コメント10より
〉伊津野帯刀競命
伊津野”競”というお名前でしょうか・・・お名前が『一文字』ですね(p_-)
そう言えば・・白石様
お父様のお名前、他『一文字』の名前が多いっておっしゃっていませんでしたか?

ちなみに・・私の集落の蓑田家のおじさんの名前も・・いまでも(今の時代)『一文字』ですよ・・

では(..)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月23日 10時15分21秒 ) パスワード

追記

土屋姓ですが
熊本県下に130軒(熊本市19軒)

内、球磨・人吉では
人吉18軒 相良村7軒 山江村2軒 錦町12軒 あさぎり町12軒 多良木町4軒 湯前町9軒 水上村4軒 五木村12軒 球磨村0軒
球磨・人吉ではトータル80軒

すなわち
「土屋姓」 熊本県下に130軒(熊本市19軒)うち80軒は球磨・人吉地方 と言う事です。

ちなみに土肥氏は
熊本県下に85軒(熊本市5軒)
内、球磨・人吉では
人吉15軒 相良村3軒 山江村1軒 錦町10軒 あさぎり町24軒 多良木町9軒 湯前町0軒 水上村0軒 五木村6軒 球磨村1軒
球磨・人吉ではトータル軒69軒

すなわち
「土肥姓」 熊本県下に85軒(熊本市5軒)うち69軒は球磨・人吉地方 と言う事です。

皆様
上記をご覧頂くと、熊本県下における「土肥氏・土屋氏」の割合がいかに球磨・人吉地方に集中しているか・・おわかり頂けたかと思います(..)

では(..)
[19]白石さんからのコメント(2016年07月23日 19時51分00秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんは

土屋氏

五木にあることは 知っていましたが いつ頃きているか わからず うちの 親戚にないので だまっていました。
井上先生の方から でてくるかも しれません。
井上徳川系図というのがあって そちらに 高岡も ついています。
土屋氏は 徳川幕府にも 家臣にも名がありましたよね。 

土肥さんは ひとつ上にいました。

先日の西田氏は
川辺川筋は 昔は 八代藩だったり 白河藩だったり 宮崎県 鹿児島県だったりしているので 八代といっても 地図の上の方の 遠いところでは ない時もあったのですね。
[20]白石さんからのコメント(2016年07月23日 20時52分18秒 ) パスワード

大屋津媛命の兄・大屋彦命から 高宮神社がでていたのですが みやちゃん わたくし この頃 極端に 根気がなくなりました。

ので
大神神社あたりの 高宮神社を ネットで 検索しました。

過去に この 高宮神社が 神武天皇を まつる 神社だと 書いてある本をみたことが あるから です。
ここでは 神武にふれられては いませんが

大神神社・摂社/神坐日向神社・高宮神社(桜井市)より
◎神坐日向神社
 今の祭神:クシミカタ・イヒカタスミ・タケミカツチの3柱は、古事記・崇神記に、
 「河内国美努村から見いだされたオオタタネコに、天皇が『そなたは誰の子か』と尋ねたところ、オオタタネコが
   『吾は、オオモノヌシ大神の子・クシミカタの子・イヒカタスミの子・タケミカツチの子・オオタタネコなり』
  と答えた」
とある神々で、祟り神・オオモノヌシを奉祀したオオタタネコの曾祖父・祖父・父、即ち大神神社の祭祀を掌った大神氏(三輪氏・南北朝末期に“高宮”と改姓)の祖神を指す。

◎高宮神社
 高宮社の祭神・日向御子神(日向王子)の“日向”(ヒムカ)とは、“日に向かう”・“日を迎える”・“日を拝する”を意味し、日向御子神とは日神(太陽神)信仰における“日神の御子(王子)”となる。
 しかし、鎌倉時代に伊勢外宮の神官が中心となってまとめた神道五部書の一・倭姫命世紀(鎌倉時代)によれば、崇神天皇6年、宮中から出されたアマテラスを倭笠縫邑に祀ったトヨスキイリヒメは、その後、アマテラスを奉じて丹波の吉佐宮など各地を巡った末に
 「崇神58年(辛巳)、倭美和乃御室嶺上宮(ヤマトミワノミムロミネカミノミヤ、美和之御諸宮ともいう)に還り、二年間奉斎・・・」
したという(この後、ヤマトヒメによる伊勢巡幸遷座に続く)。
 この伝承の真偽は別として、ここでいう“御室嶺上宮”(御諸宮)を当社とみれば、その祭神は伊勢の地に鎮座する以前の日神であるプレ・アマテラス(通常、アマテルミタマ神)を指すとも解される。

 神道五部書 には 伊勢神宮の 地は 猿田彦子孫・太田氏が 提供したとあると 時点で見ました。
[21]白石さんからのコメント(2016年07月23日 20時57分45秒 ) パスワード

時点は 時点です。
うみません。
[22]白石さんからのコメント(2016年07月24日 14時27分06秒 ) パスワード

みやちゃん
こんにちは

時点は 辞典です と うったのに またまた 時点になっていました。

おかしいですね。きちんと アップした直後 確かめて 大丈夫だったのに・・・

それと アドレスが 私のアドレスじゃ ないけど メールがくるわけじゃないから まあ いいか と 思ってそのままですけど これも 不思議です。
誰が かえるのでしょうね。


高階氏は 信西にも 関係していた と 思って 
信西から たどってみました。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
一方
信西の娘は 「藤原隆季」にとついでいます。
隆季は 「四条家の祖」。
藤原家成の嫡男
家成は、平忠盛の正室・藤原宗子(池禅尼)の従兄弟であり、忠盛の嫡子・清盛はしばしば家成の邸に出入りするなど両家の関係は親密だった。隆季も平氏と友好関係を築くことで自らの地位の保全を図ろうとした。隆季の妹は清盛の嫡子・重盛の妻となっていたが、隆季も自らの嫡子・隆房の妻に清盛の娘を迎えた。さらに、清盛の娘・徳子の立后に際して中宮大夫に抜擢されるなど親族同様の待遇を受けた
ーーーーーーーーーーーーーーーー

南家・信西の系・・・娘が魚名流 隆季に嫁ぐ。・・・四条家(鷲尾も同族)
四条家
南北朝のもとになる 両天皇を 生んだのは 四条(鷲尾)貞子
ーーーーーーーーーーーーーーーー

四条隆衡
祖父隆季、父隆房は後白河法皇の近臣であり、また、平家とも近しい間柄にあった。隆衡の母は平清盛の女であり、隆衡は平清盛の外孫にあたる。安元2年(1176年)従五位下に叙爵。将軍源実朝の正室(坊門信清の女)の姉妹を妻とし、平家没落後も昇進を重ね・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

平江の嫁方の 東野家は 一般に 源家嫡流にはいっていく。
大宮司の平江がいた 木原六殿宮は
78年(治承2年)、平清盛の子である平重盛が、自身の祈願所であった武蔵国の六孫王大権現を勧請したことにはじまる
と 平清盛 平重森の名も見える。
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和歌山 大屋彦兄弟の 伊太祁曾神社
は 紀伊国造が 奉斎するが 紀伊国造の 祖先は 天道女命

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孝元天皇と伊迦賀色許売命の子が比古布都押信命、この皇子と木の国の造の祖先の宇豆比古の妹の山下影日売の子が建内の宿禰とある。

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[23]白石さんからのコメント(2016年07月24日 15時28分56秒 ) パスワード

うちは 山口県の方へ行くのではないか と 思っています。

母の妹は 相川へ嫁ぎましたが 岩国の錦帯橋へよく 船でくりだして 豪遊したといっていました。

祖母は 村上水軍の媛が 建てた お寺に入っていると 聞いています。が 戦後のことで 母も 山口まで 育子ともできず どうなっていることやら・・・

延々で働いていた人の犠牲がおおいので それを 慰めるために 毛利氏の援助で 建てられたお寺だと聞いています。

毛利氏 村上氏の まわりに いた。
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源 頼清(みなもと の よりきよ)
源頼信の次男。村上氏の祖にあたる人物。本項にて詳述。

平安時代後期の武将、山県頼清(やまがた よりきよ)のこと。山県氏の祖・

源国直の孫(父は源国政)。相模国田所目代。

源 頼清(みなもと の よりきよ、長徳元年(995年) - 延久5年7月18日(1073年8月23日))は、平安時代中期の武士・官人。清和源氏。源頼信の次男。母は修理命婦で★★源頼義の同母弟。

源頼季・源頼任・源義政らの兄。室に権大納言藤原斉信女らがおり、子に仲宗・兼宗・清宗・永源・家宗・季宗・憲宗・基宗らがいた。

従四位下に上り中務少輔・安芸守・肥後守・陸奥守などを歴任する一方、藤原頼通家の侍所別当も務めた。『後拾遺和歌集』(歌番号474)には、陸奥守から肥後守に転任する頼清に贈った相模の和歌がある。子孫は信濃国北部に勢力を扶植し、

★★村上氏、波多氏と称して繁栄している。

源為国
源 為国(みなもと の ためくに、生没年不詳)は、平安時代末期の武士・官人。清和源氏頼清流。蔵人源盛満(盛清)の子。

後に源顕清の養子となる。義兄弟に宗清、定国、業国、★★盛国らがあり、子に道清、基国、宗実、経業、信国、惟国、世延(安信?)、宗信らがある。

★★室は信西女など。崇徳院判官代。号は村上判官代。信濃村上氏の祖。

嘉保元年(1094年)の白河院呪詛事件に連座して信濃国へ配流された大叔父顕清(村上顕清)の養子となり、都で崇徳院判官代を務めた(『尊卑分脈』)
。こうした関係から保元元年(1156年)7月の保元の乱では崇徳上皇・藤原頼長方として平家弘らと共に白河北殿に参じたが、敗北後の罪名宣下にその名はなく処罰を免れたものと考えられている(『兵範記』同年7月10日条、同27日条)。これは自身が信西の婿であったことや合戦に深く関与していないことなどが関係したと推測されている。

後代、子孫は信濃村上氏として存続した。

なお『尊卑分脈』には同じく信濃国を地盤とした源満快の子孫に源為邦(村上源判官代)という人物がみえ、

頼清流村上氏からの養子とされる。子の源基国は高陽院判官代となり同じく「村上判官代」を号し、また弟の源盛国は八条院判官代となり、筑摩郡波多郷に拠って波多判官代を号し、国衙の在庁官人となった。

なんだか 
この流れが きになります。
[24]白石さんからのコメント(2016年07月25日 00時27分31秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ
2016年07月03日の コメントからとってきました。

まとめてみると
1) 熊本の六殿神社の平江の始祖は 三郎なので 他の兄弟が和歌山に残っていた可能性がある。
2) 一派が 大阪茨木の 太田に来た。
3)それが また 揖保の郡にやって来た。
4) 新撰姓氏録摂津國神別に「中臣藍連天児屋根命十ニ世孫  ★★「大江臣之後也」
近くの畑の立札に 中臣藍連の子孫が 太田道灌だと 書いてある。

新撰姓氏録摂津國神別に「中臣大田連天児屋根命十三世孫御身宿禰之後也」
5)彼らは 「天児屋根命」 を まつり 「太田タネ子」をまつる。
6) 源氏嫡流に入っていくのが 熊本六殿神社の平江の嫁方・東野です。 
7) 近江多田の館で うまれるのが 「源義経」です。
8) このあたり 「山本」がおり 「山本義経」も「源義経」です。
9) 源義経は 九条家に仕えていた人と 源義朝の間の子。
10)太田氏は 呉の勝の子孫で 呉は倭で 太伯の末だった。吾は 「周」か  ら出る。

11)尾張熱田神宮は 饒速日の系 天火明の系 を あわせもち 振魂命の子   孫とも している。
12) あとは 大屋彦命(いそたける)が 安曇になり 尾張氏に関与いてい   るということを 見つけるだけ。   


[6] 白石さんからのコメント(2016年07月03日 01時40分10秒 ) パスワード

大阪府茨木氏の 「大田茶臼山古墳」
のすぐそば 西側に 

「太田神社」があります。
中臣藍連とともに 新選姓氏録に載っているのは「中臣太田連」です。

新撰姓氏録摂津國神別に「中臣藍連天児屋根命十ニ世孫

★★「大江臣之後也」

新撰姓氏録摂津國神別に「中臣大田連天児屋根命十三世孫御身宿禰之後也」

★『松尾社家系図』の「御身足尼命」(ただし十四世孫と記載)に比定し、その子の「太田彦命」が中臣 大田連につながる とする説もある。

★また 歴史倶楽部・166回例会・高槻市 より

少し 長いですが

「播磨国風土記」に、

飾磨の郡大田の里についての記述がある。
「ここを大田というようになった由来は、昔、

★★呉之勝(クレノスグリ)

が韓の国から渡って来て、最初「紀伊の国」の名草の郡の大田
の村に着いた。

その後、一派が「摂津の国」の三島の賀美(カミ)の郡の大田の村に移って来て、それがまた「揖保の郡」の大田の村
に移住して来た。

人々は、もともといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。」この一派が「中臣太田連」を称した。「
紀伊の大田は、伊国名草郡、今の和歌山駅南側、

「日前国懸神宮」の西側に大田があり、太田黒田遺跡の所である。

摂津の国の三島の賀美 の郡の「太田村」は、茨木市の島下郡とされ、

「太田神社」は「呉之勝」の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成 し、

6世紀以降頃に、中臣の祖神「天児屋根」を祀ったそうだが、

「呉之勝」が紀伊から太田へ移住したのは、地元(播磨)の郷土史
家によると古墳時代以前という説もあり、

太田神社には大物主の息子(?)で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残る。


この辺りは、戦国時代しばしば戦乱の場となつたため、兵火の災に遭い社殿記録を失い、由緒沿革の明確を欠いている。従って祭神に
幾つかの変遷があつたことが推測できる。

茨木市太田東方には、弥生後期〜古墳時代中期の「太田遺跡」があり、竪穴住居跡、大量の埴輪、鉄製利器・須恵器・銅鐸などが出土
している。

また川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あると言われている。
 
★呉の勝が・・・呉です。

★韓から渡ってきて・・・半島経由・・・鎌足は百済の王族 と 前にテレビでやっていた。

★紀伊の名草から太田に来て一派が 中臣太田連を名乗った。

★紀伊の大田は、伊国名草郡、今の和歌山駅南側、日前国懸神宮の西側に大田があり、太田黒田遺跡の所である。

・・・名草群 日前 黒田 の 言葉が・・・・

★「呉之勝」が紀伊から太田へ移住したのは、地元(播磨)の郷土史
家によると古墳時代以前という説もあり、太田神社には大物主の息子(?)で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残る。
・・・・大物主の息子で多氏一族の大田田根子

★大田田根子
河内の美努の村(『日本書紀』では茅渟県陶邑)から大田田根子を呼んで大物主神を祭らせた。・・・今度は 茅渟 陶 大物主神です。

[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月25日 10時53分40秒 ) パスワード

皆様、白石様 おはようございます。

〉みやちゃん わたくし この頃 極端に 根気がなくなりました。

お身体、大丈夫ですか?私が色々お願いしていますので負担が大きいのでは・・と
とても心配になりました。

白石様、お返事遅くなりまして申し訳ありません(..)

私なりに、最近の調査をもう一度一から見直して色々調べながら一日中検討していました。
そして
白石様の御教示
〉太田神社には大物主の息子(?)で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残る。

拝見して”多氏一族”・・・「やはりそうか!」と推測出来る事に気が付きました。
まず、私もまとめてみました(..)

@六殿神社
六殿神社(ろくでんじんじゃ)は、熊本県熊本市南区に鎮座する神社である。長寿寺(木原不動)と同じく雁回山(木原山)にある。旧社格は郷社。
所在地 熊本市南区富合町木原2378
由緒[編集]
1178年(治承2年)、平清盛の子である平重盛が、自身の祈願所であった武蔵国の六孫王大権現を勧請したことにはじまる。また、木原山に城を築いた源為朝(鎮西八郎)の創建という説、さらには、平安末期に当地を治めていた木原氏の創建という説もある
A長寿寺(ちょうじゅじ) ウィキより
長寿寺(ちょうじゅじ)は、熊本県熊本市南区富合町木原にある天台宗の寺院。
仁平[1]あるいは保元[2]のころ、九州に下向し肥後に入った鎮西八郎為朝こと源為朝が木原山の要害に城館を築き、鬼門の方角に当るこの寺の不動尊を深く信仰したという。
文治年間には、源頼朝が堂宇を再興、寺領水田18町歩寺床8畝歩を寄進し祈願所とした。
B「雁回山」の由来[編集]
寺の山号は雁回山(がんかいざん)といい、寺の後背地にある山(木原山)も雁回山と呼ばれている。
これは、この山に城館を設けた源為朝が、自慢の弓で山上を飛ぶ雁を射落としていたので、雁が山を迂回して飛ぶようになったとの伝説による[3]。
C源 為朝 ウィキより
13歳の時、父・為義に勘当されて九州に追放されてしまう。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいたが、肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となる(薩摩国阿多郡の誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)。
D肥後国阿蘇郡の平忠国とは
新薩摩学薩摩・奄美・琉球より
鎮西八郎為朝ぬしの本妻阿蘇四郎平忠国がむすめなりける。

平江氏・・・「為」の通字。「平氏」の一族を名乗る・・
平忠国という方は・・薩摩ではなく間違いなく「阿蘇」に関係している(私の妙な感です)

そして・・ここしかない!と気が付いたのは・・
またしても日本の苗字七千傑様の”姓氏類別大観”でした!!
《阿蘇大宮司家》姓氏類別大観!!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01223.htm#001

拝見すると
宇治友成の後裔 宇治忠国 この方が「阿蘇四郎平忠国」ですね!!
【阿蘇氏】
 最古の皇別である神武天皇の皇子、神八井耳命裔の多氏と同族。 阿蘇国造家の後裔は阿蘇神社を奉斎する。

阿蘇四郎平忠国こと”宇治忠国”の娘「白縫姫」と「源 為朝」
平氏の一族を名乗りなお且つ「為」の通字を持つ「平江氏」はもしかしたら・・

推測ですが(あくまでも私見です(..))
※最古の皇別である神武天皇の皇子、神八井耳命裔の多氏と同族の「宇治氏」の系である平江氏と姻戚関係を幾重にも結んだ高岡家から、「平川家」に婿養子に入られた・・
上記であれば・・めちゃくちゃ納得しますね・・(p_-)

皆様、いかがでしょうか?(あくまでも私見ですが(..))

では(..)
[26]白石さんからのコメント(2016年07月25日 23時03分34秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ
阿蘇氏
故郷の方は 阿蘇を 意識しているのですよね。
うちの 平江は 社務所のようなところに いたので 降って行ってからずっと そこに いたのだろうと 思うのですが

子孫枝分かれした先は 阿蘇氏と 関与していると 思ってよいのでしょうね。
^^^^^^^^^^^^^

平江は 姉の母の出どころ。
平江の娘が 姉の母。
その 親の母方が 「なりまつ」というのです。
そして このあたりに 年代的に東野がいます。
^^^^^^^^^^^^^^^^^

成松について 前に 伊達氏側室の子供の系にあるようだ
 と 書きましたが
この頃 
他に 大友系 大神系があるようだと 気が付きました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大神系の方は 途中から 戸次を名乗る人がおり  戸次は 大友の 庶流ということで 大友にまとまるようです。
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緒方三郎惟栄


惟栄の父「惟用」は戸次氏の姓祖「大神惟澄(戸次惟澄)」の父「惟家」とは兄弟のため「戸次惟澄」と 「緒方惟 榮」は「従兄弟同士 」である。 「大野荘緒方郷」に住み荘司を務め「緒方三郎惟榮」と称した。 ...
ーーーーーーーーーーーーー

姉がいう なんかお殿様の侍従か何かをしていたんだよ と いう 家なら ここか 伊達氏 庶流でしょうかねえ。
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成松信勝 - Wikipedia


https://ja.wikipedia.org/wiki/成松信勝

成松氏 成松 信勝(なりまつ のぶかつ)は、戦国時代の武将。龍造寺氏(龍造寺隆信)の家臣。隆信からは偏諱(「信」の字)を賜る。 生涯 武勇に優れていたため 、龍造寺四天王のひとりとなった。元亀元年(1570年)の今山の戦い ..


と 龍造寺家にも おり
竜造寺家は 球磨にも その 影が見え なんだか 大友 伊達 佐賀の白石嬉野氏について 出て来た 龍造氏の家臣みたいでもあり ・・・
ーーーーーーーーーーーーー

一番古くは やはり 三輪でしょうか ねえ。







[27]白石さんからのコメント(2016年07月27日 11時05分16秒 ) パスワード

みやちゃん
おはようございます。

タイトルは 松葉宗益後裔平賀氏だったと思って こっちを 見ていました。
松葉氏は 藤原鎌足後裔としてありました。

 藤原鎌足―淡海公不比等―参議房前―大納言眞楯―内大臣内麿―左大臣冬嗣―太政大臣良房―利世―

 中納言共良―内蔵頭良春―遠江守備中守共資
                      ┌共政―政保【井伊氏】    ―貫名政直・・重忠
(三国氏)                 │        【赤佐氏】 ―井伊良直
  千佳――共資―共保―共宗―宗綱―共章――共家――共直―惟直―盛直―――赤佐俊直
     │                    │
     └共茂―致貴【三国氏】          └惟共―【松葉氏】宗益―資宗―惟長(平賀氏)

(系図集の原典といわれる『尊卑分脈』と、『戦国武鑑』などによります)

以上 ネットより

相良氏と の 関係は 出ていませんが
延暦寺に 橘氏がおられ 天台宗から にちれんしゅうが出るのでは なかったか?と 思っておりますが・・・

日蓮宗 創価学会 池田大作氏と わたくし 思っておりました。
間違っていたら 申し訳ないことですが・・・

池田氏は 相楽氏と 養子関係が ありますよね。
素人考えなので おぼつかないことですが・・・

相良氏族の 園田家は 天台宗で 同級生の葬儀は 天台宗で とりおこなわれました。

ここが 後に 父に徹夜で創価学会に改宗を迫った家です。

もっとあとになって 帰省した折 その子の墓参りをしようと 宮田の女子(同級生・母が 西田から来ているといい 園田とも親戚という)と 一緒に行きました。

覚えてるね? 覚えてるよ と 言い合って 墓に行ってみると ちゃんと もとのところにありました。。

墓を倒すというのは じゃあ やめたのかな?と 思いながらかえりつくと
園田のお母さんが 聞きつけて
「墓参りをばしてくれたげななあ ありがとうなあ」 と 言ってくれました。

天台宗から 日蓮宗 創価学会という 流れだと 思います。
[28]白石さんからのコメント(2016年07月27日 11時24分47秒 ) パスワード

伊津野氏
現熊本県である肥後国宇土郡伊津野村が起源(ルーツ)である、

中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)隆家流菊地氏族、

村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)

名和氏族等がある。「野」は自然のままの広い地を表す。「伊」は伊勢または伊豆を表す。

伊津野氏も 高岡 佐田に 絡まる話があるのではないか?と 思われます。

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又 阿蘇氏の中にも 伊津野がみられ これは 少し かすっている程度かなと 思うので もう少し よく みてみようと 思いますが

阿蘇氏 渡辺氏など みられました。
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余談ですが
宮崎県都城市平江村は 島津の分家が いたところですね。

昨夜 テレビで 日本人のご先祖様というのを やっており エジプトにいきつくといっておりましが。

そして
草を固めた船で 岸伝いにきたということを 言っておりました。

それについて 思いだしますのが  わたくし 過去に 地域の子供向けに 書いた中に 佐田を調べていた時の 遠隔だったと思いますが 

草を固めた浮橋ならぬ 浮き土地をつくって 住んでいる人 苗字はわすれましたが・・・が いると 太田亮氏が 書いていたのです。

何やら 南の国みたいな話ですね。

佐田から 佐田彦 神魂神 と いう 系もあり 
海人族ともいえ 
大国主の 国譲りの後 実質的な祭祀は この神の系が行っていた と も いいます。
[29]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月28日 10時41分32秒 ) パスワード

皆様、白石様 こんにちは(^'^)

白石様、すみません(@_@。
主人が連休が取れたので、ここ数日、思い立って急きょですが鹿児島方面に出かけておりました(..)
お返事遅くなり申し訳ありませんでした。

コメント26
〉阿蘇氏
故郷の方は 阿蘇を 意識しているのですよね。

白石様の御先祖様から来る不思議な感覚?なのでしょうか・・。
あの・・しかし私の意識は”阿蘇””肥後””火の国”と言うよりは
何故か”霧島””大隅””薩摩”そして・・”東シナ海”なのです・・
(久しぶりの小旅行でしたが詳しくは「平川家について」の方で(..))
以前も書いていたと思うのですが「火山」のイメージがどうしても”阿蘇”ではなく”霧島”に向くのです・・近いからだとは思いますが・・(?_?)

所で
「伊津野氏」 お調べになられたのですね(^'^)
系が様々なのですね・・
肥後国宇土郡伊津野村・・こちらの歴史・神社仏閣を調べるのも一つでしょうか・・(p_-)

〉宮崎県都城市平江
旧高旧領取調帳データベースで調べたのですが「平江村」は存在していないようですね(p_-)
確かに現在宮崎県都城市平江町は存在しています(p_-)
色々調べたのですが・・由緒は見つかりませんでした(..)

私も余談ですが・・
熊本県阿蘇郡産山村の公園で有名な「ヒゴダイ」の花ですが
漢字で書くと「平江帯」(貝原益軒の大和本草)だそうです(p_-)

平江・・ヒゴ となる訳ですね・・(p_-)

そう言えばヒラはヒであり火である・・・勉強しましたよ(p_-)・・(^'^)
平江氏・・火・・”阿蘇”の香りがプンプンしますね(p_-)

では(^'^)
[30]白石さんからのコメント(2016年07月28日 23時49分05秒 ) パスワード

こんばんわ
四浦 五木は もとは ひとつで 阿蘇氏支配の頃 ふたつにわけられた。

阿蘇氏は 緒方で
平清経は緒方の娘婿になって 五家荘に入った。大宮司家の緒方とはちがうだろうけど 旧友上部は 緒方氏の勢力が強かった。

成松家は ネットで 大神氏系にもあった。
四浦あたりを 成松が 支配していたわけではないけど 

川筋に 阿蘇神社があることなどから 地域の人が
阿蘇を 意識していたのは 確かです。
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[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月29日 10時55分14秒 ) パスワード

皆様、白石様 おはようございます(^'^)

〉四浦 五木は もとは ひとつで 阿蘇氏支配の頃 ふたつにわけられた。

白石様
五木が阿蘇氏の支配下にあった・・この件なのですが
私、様々な文献・史々を読んでいるのですが、上記の件が書かれている書物にまだ出会っていません(゜-゜)
興味があるので、どの文献に書かれているのか御教示下さい。
ぜひ、読みたいと思います(^'^)
よろしくお願い致します(..)

阿蘇神社
「麻郡神社私考」を読むと、球磨郡内には数えきれない程の多数の阿蘇神社(御祭神阿蘇神社同體を含む)が鎮座されています。
球磨郡内、球磨川をはさみ対岸(北側・南側)で北側は阿蘇神社・南側には霧島神社・・
とよく言われていますが・・
しかし「麻郡神社私考」を読むと、一概にそうとは言い切れません(ー_ー)!!
一例をあげると
旧川辺村(現相良村)は球磨川北岸
阿蘇大明神 中嶋権現(霧島神社同體) 霧島権現(霧島神社同體) と御鎮座です。
でも・・確かに四浦以北・五木村には阿蘇神社(阿蘇大明神)は六社鎮座ですが霧島神社(霧島権現)はありませんね・・(p_-)

青井阿蘇神社・・中世までは社名は青井大明神でした。
http://www.aoisan.jp/kokuhou/kokuhou_info.html

球磨川南岸(旧久米郷を含む)
旧上村  白髪大権現(白髪神社)は日州鵜戸神社(鵜戸神宮)同體
旧岡本村 大炊神権現(大炊霧島神社)日州霧島神社 同體
旧宮原村 中嶋大権現(中嶋霧島神社・宮原神社)日州霧島神社 同體

しかし・・
同じく旧宮原村の切畑大明神 実は 阿蘇神社同體 なのです。

中嶋大権現と切畑大明神はとても近い場所で、以前ブログにアップしましたが
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12145838672.html

中嶋大権現と切畑大明神は二百メートルも離れていません。

ほか、久米六反田村の若宮大明神 阿蘇神社同體 とあります。

と言う事で球磨川北岸は阿蘇神社 球磨川南岸に霧島神社・・と言った「都市伝説」ならぬ「田園伝説」は実は違いますよ〜と言う事ですね(p_-)

とここまで書いて・・おんやっ??(p_-)と。気が付いた事が・・
これは「平川家について」で書かせて頂きます(..)

では(..)
[32]白石さんからのコメント(2016年07月29日 15時29分27秒 ) パスワード

旧友上部 は 九州上部です。すみません。

五木四浦は もとは ひとつ
何に書いてあったか 忘れました。
見つけるとあると思いますが 何せ この暑さで 出掛けられず・・・
地名辞書とか 郡誌などだったように 思います。

尾方が 平氏とぞ 信じがたし ・・・ とも 書いてあったので たぶん郡誌の方だと 思いますが。

村が 村として成立するのは 1600年頃からと 書いてありましたが

村には 縄文時代からの 遺構がかさなっており
小野には 観音堂(鎌倉時代の仏像があるという)
があり
五木奥には 祇園社もあり
資料として残っている前の時代に人がいたことは 確かです。

霧島 が 出たので 
霧島あたり 鹿児島あたり
鹿児島神宮には天孫ににぎの剣をさかさまに つきたてたところがある ということで()

白木明神を祭る白城神社(祭神鵜茅葺不合(うがやぶきあえず)尊)は 沓見にある信露貴彦神社などと共に新羅系の旧社といわれている(『福井県の歴史散歩』山川出版社、『敦賀市史』ほか)。 『敦賀郡神社誌』『遠敷郡誌』及び『今庄町誌』等によれば、当社は敦賀郡の式内社「白城神社」であり、 俗に「白木明神」「鵜羽大明神」と尊称されている。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)
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彦火火出見尊(山幸彦)と、海神の娘である豊玉姫の子。『古事記』では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、『日本書紀』では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記。
★★日高 の 言葉が・・・
彦火瓊々杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武盧茲草葺不合尊の三代は日向三代(ひむかさんだいまたはひゅうがさんだい)と呼ばれる。

日本書紀第十一段本文では、彦波瀲武盧茲草葺不合尊は、その姨(おば)の玉依姫を妃として以下の4柱の御子を生む。
★★ここでも 超近親婚ですね。つまり ここらででる言葉は同族の関係ととらえることが できる。
[33]白石さんからのコメント(2016年07月29日 16時17分01秒 ) パスワード

神武天皇は うがやふきあえず の 子供で
古事記では 神倭伊波礼琵古命と 書かれる。

★★倭ですね。

出雲向家の方の お話では 神武天皇は 天むらくも の ことで
女神さま は さひめ といっておられました。

ネットで さひめ を みたら 新羅から舞い降りた姫だと書いてありました。
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若狭小浜の若狭彦神社 若さ姫神社 
若狭彦神社は 笠氏が 奉斎している。
笠氏は
贏姓 高丘系図1から 蓋鹵王の后になる人のところを クリック
百済 扶余系図を出し ずっと下へスクロール
若狭彦神主 笠氏を出す。
 
若狭 笠氏の始祖は、人皇第6代孝安天皇の曾孫鴨別命の子小篠に出づ。(皇別)
笠は 劉とも かくひとも ありましたが・・・
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若狭彦神社 若さ姫神社 は 彦火火出見命 豊玉姫で
市房神宮の祭神にも この 神はおられます。





[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月29日 16時59分26秒 ) パスワード

皆様、白石様、今日は(^'^)
暑いですね・・・(@_@;)

〉五木奥には 祇園社もあり

麻郡神社私考に書かれていますよ(^'^)

祇園天皇 五木領野脇嶽ノ畑 社人 佐藤甚兵衛
社家傳云 嘉慶二年戌辰草創
天文年中再造
寛永十六年巳卯 地頭和田氏修造
萬治元年戊戌大風社壇敗■同年社司重則造替

※社人 佐藤甚兵衛・・・・おんやっ?(p_-) 佐藤氏ですよ!白石様!
※嘉慶二年・・1388年
※地頭和田氏修造・・・・おんやっ?(p_-) 地頭 和田氏 ですね・・(p_-)

そう言えば・・佐藤氏
六殿神社
代官宮 - 伊津野、佐藤姓の祖神を祀る \(◎o◎)/!

麻郡神社私考の編纂は元禄十二年(1681年)
五木領野脇嶽ノ畑 鎮座 祇園天皇社の社人は・・佐藤甚兵衛と言う方だった!と言う事ですね(p_-)
あと・・
五木領東俣 鎮座 阿蘇大明神 こちらの社人も佐藤甚兵衛と言う方です(p_-)

佐藤氏・・相良藩士に名が残っていないな・・と思っていたら・・
ナント! 五木領の「祇園天皇社」「阿蘇大明神」の社人として佐藤氏が登場しましたね・・(p_-)
これは・・発見!です。
白石様から導かれました\(^o^)/

日本の苗字七千傑様の 【藤原氏秀郷流】姓氏類別大観 を拝見すると・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020.htm
佐藤氏と近藤氏・・同族ですね(p_-)
近藤氏 ⇒ 島田氏 ⇒ 武藤氏/少弐氏・大友氏・三池氏・鹿子木氏・・・
なるほど・・こうくるわけですね・・

《佐藤氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b1.htm

日本の苗字七千傑様のQ & A 10大姓の分析
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/ftop_10.htm

読ませて頂きました(..)

白石様・・どうやら故郷のお近くに「佐藤氏」はいらっしゃったようですね!

では(^'^)
[35]白石さんからのコメント(2016年07月30日 21時29分04秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ

佐藤氏  まあまあ 本当にみやちゃんは 頼りになります。
実のところ 地名辞書などは 近くの図書館から移されて R本とかで コピー禁止やらになっているので どうしたものかと 思っていました。

近藤氏は 古庄先生が 恩師でおられて 現在あさぎり町在住
五木の方の 校長先生になって いかれてました。

ずいぶん 前でしたけど。
何とはなく ゆかりの方が 近くには おられたのですね。

佐藤氏
どんぐりまなこの 佐藤栄作氏を 思い出しますが ・・・もちろんこんな有名人は 我が家の近くには おられませんが

母の実父の 山口県の 山本の家で 栄作という名前のひとが いました。
勿論 白石の 秀吉なんぞもおりますばい えっへっへ の 類でしょうが・・・

この 山本の父は いとこである 祖母(佐田・母の母)と 二人で 半島へ渡り
下益城郡や 別府に住んだりして 最後は 山口県へ 帰り 実家でなくなったということです。

佐田と近親婚をしている 山本も 山口 下益城郡 (熊本) べっぷやらに つながっていたということですね。


[36]白石さんからのコメント(2016年07月30日 21時52分39秒 ) パスワード

白石氏
多氏族概要 で 白石嬉野氏が 火の君と呼ばれていたことは 有名である と かいてありました。

また
平賀源内が 白石であると 書きました。
そして
維新のスポンサーで 白石正一郎がいて 財産をかたむけつくして 維新を支えた

と いう話。
彼は なぜ そんなに 肩いれしたのでしょう。
多氏 火の君 わが国の古代からいた人ならば そういう動きをしても 不思議ではありませんよね。

平賀源内を ネットでみました。
 
[37]白石さんからのコメント(2016年07月30日 22時21分44秒 ) パスワード

平賀源内

讃岐国寒川郡志度浦[3](現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門[3](良房)、母は山下氏。

白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされる。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている。

★★信濃源氏大井氏流平賀氏→伊達氏に仕え白石氏へ→伊予宇和島藩に従い四国へ→平賀へ帰る

信濃源氏は 先日出ましたね
頼清流
源頼清 - Wikipedia


https://ja.wikipedia.org/wiki/源頼清

源 頼清(みなもと の よりきよ) 源頼信の次男。村上氏の祖にあたる人物。本項にて詳述。 平安時代後期の武将、山県頼清(やまがた よりきよ)のこと。山県氏の祖・源国直の孫(父は源国政)。相模国 田所 目代となっており ...

源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とする河内源氏の祖。

何とはなく 毛利氏同格の村上水軍の村亜美氏の媛が発てた というお寺の話に つうじていくような気もしますが・・・
[38]白石さんからのコメント(2016年08月02日 04時49分38秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます。
平賀源内が 白石という話をしました。
この人が 直接うちの白石かはわかりません。
源内は 伊達とつながっているのでしたね。

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姓系辞典では 肥後の白石は清和源氏。菊池に仕え のち 相良氏に仕えた とある。
信濃源氏の系の可能性大ですね。

又 伊津野の方から 宗子の いとこ の 言葉も出ました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

しかし 信濃源氏で おもしろい ものを みつけました。
一つは 伊予村上水軍と 他に 福沢諭吉の話です。
頼清流ですね。
探していると 結構 明治の偉人が出てくるのですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

他に 頼季流を 見ると
井上氏が いっぱいあるので 試しに 一番上をあけてみると 窪田氏が いっぱい。
安部倉橋麿の子孫が 養子にはいっているところを 見ると 高岡井上家と あります。

ネットで 井上を 見ると 系図がでています。
井上先生や 柳沢さん などが おられたので 昔つながっていたかも・・・
五木は なばやま騒動のあと 一字 天領でも あったのですよね。
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[39]白石さんからのコメント(2016年08月02日 05時10分38秒 ) パスワード

一字は 一時です。相変わらずですね。

信濃源氏 ウィキより
清和源氏 > 河内源氏 > 信濃源氏の流れになる。

信濃源氏(しなのげんじ)は、中世に信濃国に土着し本拠とした源姓の氏族を指した呼称。いずれも清和源氏で、以下の数流がある。
 源義家の弟新羅三郎義光の四男である盛義は、信濃国佐久平の平賀郷に本拠を置き、
平賀氏を名乗った。源満仲(多田満仲)の五弟源満快を祖とする信濃国を本拠とした一族。満快の曾孫為公の後裔が中津氏(知久氏)、伊奈氏、信濃村上氏 (満快流)、依田氏、片切氏(片桐氏)、飯島氏、堤氏、波多氏などに分かれ主に南信濃を中心に勢力を持った。鎌倉時代には伊奈氏の一族である泉親衡・公信兄弟などが知られるほか、承久の乱以後には出雲国にも庶族を広げた(三刀屋氏、三沢氏など)。また、諏訪大社の大祝を代々務めた諏訪氏がこの流れを汲む(依田氏の一族)とする見方も存在する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大内惟義

源義家の弟新羅三郎義光の四男である盛義は、信濃国佐久平の平賀郷に本拠を置き、平賀氏を名乗った。

 平賀義信は源氏一門として、幕閣で特に重んじられた。それは行事での席次で判明する。彼の
上席に座す機会を有したのは、源三位頼政の子の頼兼のみであった(22)。頼朝の弟の範頼も、
足利氏も、むろん北条時政も、常に義信の下座に位置した。様々な場面において義信は源氏一門
の首座、つまりは御家人の首座に在った。1185年9月、義朝の遺骨が勝長寿院に葬られたが、
このときはたいへん象徴的で、義信と惟義、他に平治の乱で戦死した源義隆の子頼隆のみが頼朝 の供を許された(23)。平治の乱後の逃避行の苦難を共にし、義朝に最後まで従った義信は、 頼朝には特別な存在だったのであろう。


1184(元暦1)年3月、平賀義信の子惟義は、平氏の根拠地伊賀国の守護職に任じられた。
よく知られるように、このとき惟義は国司の如くにふるまっており(18)、強大な権限を同国 に有していた。彼は国府近くの摂関家領大内荘の地頭職をも保有したらしく、このころから大内 惟義と称されるようになる。惟義は5月には志田義広を(19)、7・8月には平信兼ら平氏与
党を討って(20)、頼朝の期待によく応えている。
―――――――――――――――――――――――

3、鎌倉幕府

 このころ、義信は比企の尼の三女を妻に迎えている(24)。この女性の前夫は伊東祐清、祐親
が頼朝殺害を企図したとき危急を知らせ、命を助けた人物である。のち頼朝は恩に報いようとする
が祐清は平家に従って北陸道に赴き、1183年に戦死した。そこで夫を亡くした比企氏を、頼朝
は義信に配したのである。

 比企氏は族滅したので詳細な史料が残らず、系譜も明らかでない。いま『吉見系図』にしるされ
た文をもとに系図を作成してみた(系図3)。これを見て改めて驚いたのだが、

★★頼朝の近親者はみ な比企氏に連なっている。

範頼の妻は比企尼長女丹後内侍の娘、丹後内侍の夫は蛭ケ小島時代から
の近侍である安達盛長、義経の妻は二女河越尼の娘。比企能員の娘は頼家の室となり、一幡を生む。・・・★★本で 一幡の横に 中原と かいてありました。


こうした中に平賀義信も位置づけを得たのであり、河越尼と義信室とは頼家の乳母にもなった。

★★血縁をいうならば、平賀氏は北条氏とも結び付きを有していた。義信と比企氏の子の朝雅と、
時政と牧の方の娘の婚姻である。御家人首座に位置し武蔵国を掌握する平賀氏の動向は、比企氏と北
条氏の政争に多大な影響を与えただろう、とは容易に想像がつくところである。

源範頼・安田義定・山田重隆等々、源氏一門も数多く失脚して行く中で、平賀氏は一貫して抜群の
地位を保っていた。その理由の一つとして、平賀氏各人の有能さも挙げることができる

惟義は承久の乱前に病没し、子息
惟信は後鳥羽上皇方に与してすべてを失う。源氏随一の名門、信濃源氏平賀氏の歴史はここで幕を 閉じる。

日本の苗字7000傑頼清流
 慶應義塾の創立者福沢諭吉は、村上仲清の後裔中津藩士福沢百助の五男で自由民権運動に活躍する。
 瀬戸内海の水軍となった伊予村上氏も頼清の末裔と伝える。

井上氏が見える。井上氏をクリックすると 林 山下 山田などみえる。

[40]白石さんからのコメント(2016年08月02日 20時53分56秒 ) パスワード

大内惟義は 平賀義信の子で 竹内家2代でもある。
武内系図をみると 
藤堂高成 竹内治則の子 藤堂高節の養子
となります。

みやちゃん
平川の話の 最初の頃
藤堂が でてきましたよね。

[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月03日 08時57分10秒 ) パスワード

皆様、白石様 おはようございます(^'^)

白石様、すみません(..)
パソコンにトラブルが発生して、昨晩やっと復旧しました(..)

沢山の調査・御教示 ありがとうございます。

>平川の話の 最初の頃
藤堂が でてきましたよね。

白石様、藤堂氏(三井氏)に繋がりがあるのは「平河氏」ではなく・・
宮原の一族の祖、「橘公業」の系です。
橘公業の娘「薬上助局」が嫁いだ森頼定の系が時代が下り繋がってきます。
日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】《三井氏》そして《藤原姓森氏/毛利氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004c.htm#002
清和源氏義隆流「森氏」との繋がりが見えます。
かなり時代は下りますが(..)

しかし・・
やはり・・【藤原氏長家流】ですね(p_-)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm

平川家について35 コメント39で日本の苗字七千傑様から頂いた御教示
>何らかの縁で姓氏類別大観に辿り着けば、過去も明白になるのです。

私のコメント40での実感・・・
さらに”実感”が増します・・私の祖父方も祖母方も・・結局は何らかの形で繋がっていくのでしょう・・

所で・・
白石様!マタマタ導いて下さいましたよ\(◎o◎)/!

白石様のコメント40
>このころ、義信は比企の尼の三女を妻に迎えている(24)。この女性の前夫は伊東祐清、祐親
が頼朝殺害を企図したとき危急を知らせ、命を助けた人物である。

私は平賀義信の妻「比企の尼の三女」の前夫についてスルーしていました!!

詳しくは「平川家について」の方で書かせて頂きます。
白石様 ありがとうございました\(^o^)/
[42]白石さんからのコメント(2016年08月03日 09時35分28秒 ) パスワード

みやちゃん
おはようございます。

木原について
7000傑様サイトでは 大蔵氏の末にあり そのしっぽに 山口がいますが

今朝 こんなのがありました。
宇多源氏系の 木原です。

木原氏

本姓
称・宇多源氏佐々木支流

家祖
不詳

種別
武家 → 地下人

出身地
因幡国智頭郡木原村

主な根拠地
因幡国智頭郡木原村
凡例 / Category:日本の氏族

木原氏(きのはらし)は因幡国智頭郡の国人領主。現在の鳥取県智頭町木原村が本貫地で唐櫃城に拠った。
、『因幡志』によれば本姓は宇多源氏の佐々木氏で佐々木秀義の嫡子・定綱の子孫であるという。
草刈氏との合戦に敗れた木原一族は九州へ逃れたと伝えられ、天正の末頃に帰国し、木原村に帰農したという。『因幡民談記』などにはその子孫が所持していた系図や古文書が紹介されている。

系図と木原一族[編集]
  善棟
   ┣━━━━┓
  おき法師  若法師
   ┃    ┃
  元信   豊前守?
   ┃   
  元重(幼名・亀松)

しかし 宇多源氏佐々木氏系図をみても 定綱の系は 六角 なのですよね。
ただ 六角の時 高岡も なにやら 六角に かするので 昔からの関係をひきずっているのかな と 思います。
[43]白石さんからのコメント(2016年08月03日 10時30分37秒 ) パスワード

今朝よんだばかりの ネットなのに 残念ながら にどと でてきませんが
木原氏 きはらし キハラシ - 鳥取県


db.pref.tottori.jp/.../0A1CAFBA6B6A28804925700000120A2... - キャッシュ

その他. ゆかりの地. 近江国。智頭郡三田郷木原村,木原名。智頭郡中田村。鳥取町。 活動分野 及び業績. _. 唐櫃城(〓ヶ城)を築く。地侍。木原氏と称し、木原善棟,元信ら が出る。江戸時代に佐々木氏に戻る。 参考資料. 鳥取県大百科事典。初稿八頭郡誌。

基好上人
大山地方のそば 牛馬 など この 上人が奨励したそうです。
この 上人が 木原氏だと ネットにみて もう一度 探すのに これも また でないのですよ。 なんとも・・・

[44]白石さんからのコメント(2016年08月03日 21時54分54秒 ) パスワード

朱氏について あつめてみました。

大爾朱氏 – Wikipedia
大爾朱氏(だいじしゅし、? - 556年)は、北魏の実力者爾朱栄の長女。

爾 じ ですね。似姓にも 通ずるのか?
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[45]白石さんからのコメント(2016年08月03日 22時01分20秒 ) パスワード

朱氏(岷王家)
朱楩 生没年:1391?-1450 父:明皇帝 太祖(洪武帝)

朱氏(代王家)
朱氏(代王家) Tweet 朱桂 生没年:1374-1446 父:明皇帝 太祖(洪武帝)

朱氏(楚王家) − Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜


https://reichsarchiv.jp/家系リスト/朱氏(楚...

朱氏(楚王家) Tweet 朱・ 生没年:1364-1424 父:明皇帝 太祖(洪武帝) 諡号:楚昭王 1370-1424 楚王 妻:王氏(父:王弼)

明国にも 朱は いたのですね。
ーーーーーーーーーーーーーーー
岷王家
みん とも よげるような・・・

みん は 門構えに 呂 の びん にも つうずる?
呂は 大公望呂尚に つながるみたいで

呂尚の 斉は 田氏の 斉にかわった。
田斉は 舜の子孫の男子と 周武の女子の間の子。


呂は 漢王室劉邦の皇后 呂氏も いる。
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[46]白石さんからのコメント(2016年08月03日 22時08分37秒 ) パスワード

案内スポット・ワニ(和爾)氏について


kanko-tenri.jp/kanko_guidance/hokubu/wani.html

東大寺山古墳(竹林) 櫟本高塚遺跡(公園) 和爾坐赤坂比古神社 和爾坂下伝承地道 ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏は櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族で、大和の有力な豪族として応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体 ...

ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏は櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族で、大和の有力な豪族として応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出したとされています。

 ワニ氏の始祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天足彦国押人命(あめたらしひこくおしひとのみこと)とされ、同族には16もの氏族がいたとされています

古事記』孝昭天皇の条には、同族として、春日、大宅、小野、柿本氏などの名が記されています。
ーーーーーーーー

文字どおり 和の爾 は 小野にも 通じていた。
ワニ氏の始祖は、孝昭天皇の皇子 という。

孝昭天皇は 北斉の 孝昭帝と 名が同じ。
継体のまわりに 朱大王が いたのでした。

 
[47]白石さんからのコメント(2016年08月03日 22時16分50秒 ) パスワード

白石のこと
★火の君と呼ばれた
★平賀源内は 白石だったこと より 河内源氏の祖。
★さらに祖先をさかのぼれば (朱 爾)和邇氏であり 小野氏と 同祖。
★小野氏は 孝昭天皇にかんけいしていて 孝昭帝の言葉は 北斉にある。
★この時代は すでに 天皇家はあったわけで 天皇家祖先アマテラスは 陳大王の女子 というはなしも ある。
★藤原鎌足の弟は 稽氏で 春日 アマテラスを名乗ったと 白洲正子があかしている。
稽氏は 太落稽氏で 拓跋部である。
★伊勢神宮荒木田家嫡流の人が明かしている話に 青州をたって 斉の王と 王子が やってきたとする。
★白石が 古くから 天皇家に かかわっていたとして 朱大王の話。
★わからないけど 神武天皇東還の時 しいねつびこ が 赤土をこねたという話がある。
★椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)、または珍彦(うずひこ)は、記紀に登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖。
★倭氏は 高丘系図からも 若狭彦神社神主家から でますよね。
★★大倭国造家 椎根津彦は 海神の子孫である。
[48]白石さんからのコメント(2016年08月03日 22時32分48秒 ) パスワード

★源氏のいわれ
2.↑ 『隋書』列伝第四十六東夷伝の高麗・百済・新羅・靺鞨・琉求(台湾のこと、琉球とは別)・倭国による。一説では、トルコ系鮮卑拓跋部の支族である禿髪部の禿髪阿毎(禿髪破羌=の末子)の系統で、朝鮮南部の耽羅(済州島)にいた耽羅鮮卑こと州胡の中心部族だったという(『後漢書』列伝第八十五東夷伝)。
3.↑ 臣籍降下した皇族・宗室の氏族。
※禿髪破羌・・・【禿髪氏】より


…五胡十六国の一つ南涼王国を河西地方に建設した。南涼が西秦に滅ぼされると,王子の一人禿髪破羌は北魏に亡命した。北魏の太武帝は禿髪氏は帝室拓跋氏と源を同じくするというので,破羌に源氏と姓を賜い,名を賀と改めさせた。…
4.↑ 阿知使主(阿知王/阿知吉師)とも呼ばれた。
5.↑ 漢氏は後漢の霊帝(劉宏)の末裔と自称(仮冒)した。

[49]白石さんからのコメント(2016年08月03日 22時48分22秒 ) パスワード

朱邪氏始祖伝説
朱邪は朱耶とも書きます

太祖武皇(李克用)はもともと朱耶赤心の跡継ぎで沙陀族の人である。

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沙陀
は サカイ でもあり お釈迦さまをだした 一族。

おしゃか様は インドの王族と チベットの 貴族の 間の子。

王族だから 国があったわけで 当然 その前の 世代にさかのぼる。
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佐田と 白石は同族になるという 話。
海神で つながっていく。
佐田彦も 国津神で 天神の 子と している。
金の 羽羽矢伝説を 持つ
[50]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月06日 09時41分13秒 ) パスワード

白石様 おはようございます(^'^)

沢山の調査をして頂いているのに、コメント遅くなりまして申し訳ありませんでした。(..)
パソコンがしっかりと復旧していませんでした(..)
フリーズの繰り返しで・・
頭をSEだった頃に戻して・・パソコンと向き合ってみたら・・
接続していたマウス(古い)のドライバーが何らかの理由で破損していたようで、(おそらくアップデートの際かな・・(p_-))、原因を見つけ、マウスドライバーをアンインストールした所・・再起動後はやっとスムーズに動き始めました\(^o^)/
OSのエラーか?ウィルスか?と疑っていたのですが・・不具合の原因は単純に「マウスドライバー」だったという結末・・
しかし・・
パソコンだけではなく、何事も、一旦頭をクリアにして先入観を外すと「真実」が見えてくる・・実感しました(p_-)

所で・・白石様

>白石氏
多氏族概要 で 白石嬉野氏が 火の君と呼ばれていたことは 有名である と かいてありました。

もしかしたら・・こちらのサイトですか?
多氏族概観
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/oho1g.htm

火の君と呼ばれていた・・日向太郎通良

● 肥前の高木、草野、竜造寺の一族については、いずれも称藤原姓であったが、阿倍氏族においた筑紫君の項を参照のこと。また、筑紫火君(忠世宿祢)か日下部君かの系統の苗字ではないかとみられるものに、文治のときに肥前第一の御家人といわれた綾部、日向の一族がいる。平治元年頃に平家に追討された日向太郎通良(世に火の君と称された)の一族で、藤原道長後裔と称した。この一族には、綾部−肥前国三根郡人。賀瀬〔加瀬〕−同佐賀郡人。小浜、藤木、多伊良〔多比良〕、大河、伊福、諌早〔伊佐早〕、船越、西郷、福田、田結−同高来郡人。白石、美野、大町−同杵島郡人。嬉野〔宇礼志野〕−同藤津郡人。伊木刀−同彼杵郡人。小宮、土井など−肥前人。なお、藤津郡の嬉野氏について、深堀文書では日奉姓で記す、その一族に森、橋爪。

(p_-)・・上記の
日向太郎通良(世に火の君と称された)の一族の中に・・杵島郡人の白石氏がある・・と言う事ですね(p_-)

日向太郎通良 については武家家伝「白石嬉野氏」に詳しく書かれていました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uresino.html
嬉野氏は宇礼志野とも記し、杵島郡の白石氏から分かれたとされている。『白石系図』によれば、肥前総追補使に任じられた日向太郎通良と子の通秀・親良・親秀らは、平清盛のために叛逆人となり、討ち取られてしまった。難を逃れた通益は高来郡に下り、文治三年(1187)、杵島郡白石郷の地頭職に任じられた。そして、地名にちなんで白石五郎を称し、須古の高岳に城を築いて本拠としたのであった。
 『肥前旧事』によれば、通益から六代の白石六郎通氏(通泰)の子息(通秀か)は、弘安四年(1281)の「弘安の役」の勲功賞として神埼庄内に知行を配分されている。また、『蒙古襲来絵詞』には、白石六郎通泰(通恭)が元軍と戦っている様子が描かれている。蒙古襲来に際しての白石通泰の高名は全軍に鳴り響き、戦後、功により藤津郡内に数カ所の地を給わった。この藤津郡は嬉野地方のことでもある。

(p_-)ただ・・私がすご〜く気になるのは・・
嬉野氏の出自異説

 ところで、嬉野氏の出自に関して大村藩の『新撰士系禄』によれば、もと伊予の住人河野高橋前司霊為が、天慶の乱後に越智姓を名乗り、正暦五年(994)に大村直澄に陪従した七氏のうちの一人であるとしている。また、『深堀文書』によれば、古代氏族の一である日奉姓とみえている。
 諸説あるものの、嬉野氏ははじめ河野姓で、戦国時代の天文年間(1532〜54)に嬉野刑部大輔が、嬉野・鹿島を領して嬉野を称したことに始まるというのがうなづけるものといえよう。ちなみに『姓氏家系大辞典』には、河野中興の祖嬉野刑部は浅浦に城を築き、天文年間に龍造寺隆信と合戦を繰り返したが、力尽きて戦死したとある。

(p_-)上記の記述はめちゃくちゃ気になります!!

※天慶の乱後に越智姓を名乗り、正暦五年(994)に大村直澄に陪従した七氏のうちの一人であるとしている。
何せ・・
「大村直澄」。この方が登場していますので・・(何を言いたいのかは・・追々にて(..))

と・・こちらのコメントを書いている途中で・・
足元から「ドン」と突きあがってゆれました。
震源地が八代の旧坂本村なので、震源が近いと「ドン!」と感じます。
今日の、深夜もこの「ドン!」で目が覚めました。
気分を替える為に色々出かけているのですが、現実はまだまだ油断は出来ないようです(..)

では(..)
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月12日 12時16分30秒 ) パスワード

皆様、白石様 今日は(^'^)

白石様
私おわびしなければいけません(..)
ごめんなさい(..)

木下氏・・実は家の一族の親戚でした\(◎o◎)/!

昨日、椎葉のおじが家に来て話を聞いて初めて知りました!!

祖母の妹が嫁いだ多良木の平川家。
そちらを継いだのは祖母の妹の夫。
(ブログに写真をアップしていました。「昭和初期の宮原家で撮られた写真」
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12123383239.html

こちらのおじさんの妹は、兄妹の父と共に多良木平川家の隣の隠居家と呼ばれる家に住み、隠居家「平川家」を継ぎました。
そちらの隠居家「平川家」に婿養子に「木下家」から婿養子が入られた・・
と言う事です。

椎葉のおじに
「お世話になっている白石様という方から”木下家と親戚関係はないか?”と聞かれていたけど、”ありません”と答えてしまった・・(..)」
と言うと
椎葉のおじは
「おじさんが、教えて無かったけんタイ。ごめんね。白石さんにおじさんが、すみませんと言っていたと伝えなさい」
と言っていました。椎葉のおじはとても優しい人です。だって、おじに質問していなかったのは私ですから・・

白石様、すみませんでした(..)
木下家は家の親戚一族と親戚関係にありました!

白石様、木下氏について、気になさっていらっしゃいましたよね・・
あらためて・・日本の苗字七千傑様のサイトで木下氏を検索したのですが
姓氏類別大観 藤原氏公季流【2】
姓氏類別大観 紀氏【1】
姓氏類別大観 豊臣氏
姓氏類別大観 藤原氏利仁流【4】
姓氏類別大観 賀茂氏【3】
姓氏類別大観 清和源氏為義流【5】
姓氏類別大観 坂上氏【3】
姓氏類別大観 桓武平氏清盛流【3】
姓氏類別大観 桓武平氏貞衡流
姓氏類別大観 桓武平氏貞季流【1】

と沢山の系が・・・まだ、拝見していませんが(..)

所で・・
全く関係ないのですが、ちょっと気になる事が
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観 藤原氏公季流から《赤尾氏/奥村氏/浅井氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02010a.htm#002
木下氏政(国吉) ⇒ 吉高 ⇒ 昌吉 ⇒ 秀吉
「吉」の文字が通称に付くのは、確か「橘氏」だったと・・・(?_?)

あの・・マタマタ全く関係ないのですが・・
伊予橘氏である宮原の一族の先祖「橘公業」が西園寺公経と替地した私の住む旧久米郷東方ですが・・
平安時代の和名妙では久米郷ですが、鎌倉初期の図田帳では「豊富郷」となっています。 
「豊富郷」(とよとみごう)です。

「豊富郷」(とよとみごう)を所領した伊予橘氏・・という事になりますね・・

(..)・・全く関係ありませんが・・(..)

白石様、本当にすみません(..)
木下氏は親戚関係にありました。
では(..)
[52]白石さんからのコメント(2016年09月02日 15時15分29秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちは


やっと パソコンが使えるようになりました。
コメントは 前にしていたころにもどって その続きからして ゆっくり 読ませていただきます

またまた 
熊本の方で 地震でしたね。本当に怖いことです。

[53]白石さんからのコメント(2016年09月02日 15時28分19秒 ) パスワード

後醍醐天皇の母親は 五辻忠子
高岡系図を打ち込んだとき 五辻氏が高岡系図についているのがありました。

天皇の皇子に 北畠氏から后に上がっていて 東国の方に転戦していっているのを 過去に 追いかけて コメントしたことがあるのですが 

球磨の方も はじめ南朝方 後に 北朝方にかわっているので 軟調だったとき 史料には 出ないだろうと 思います。

 
[54]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月02日 16時49分21秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

よかった〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!\(^o^)/
お元気なご様子で本当に安心しました\(^o^)/

実はず〜っとお姿が見えない?ので、心配していました(@_@。

でも・・本当に良かった(^'^)
パソコンの具合が良くなかった・・という事ですね(^−^)

今後ともよろしくお願い致します\(^o^)/
[55]白石さんからのコメント(2016年09月05日 06時27分45秒 ) パスワード

みやちゃん
おはようございます。
調子が悪いのは相変わらずで タブが10個ほども でてきたり あっぷするばかりになっているのが とんでいってしまったりの 繰り返しです。

木下君
同級生にいました。自衛隊幹部候補生として入り 定年後も幹部の人の集まりの会などを仕切ったり

して生き生きとして暮らしていると 聞きました。

私は こういう ことには うといので 表現が適切でない とか いうことがあるかもしれませんが 年行ってからの生き甲斐があるのは よいことと 思います。

朝霧町に戦敗がいるから と 言っていました。
この 木下家が 椎葉家の親戚なのかはわかりません。

この 木下君の家の集落に うちの 高丘のそぼが 眠っているのです。
そして 深田の木下家から 冠婚葬祭の時は かかさず 来てくれていたのです。一度 同級生に うちと つながりがあったか 聞いたことがないか と 尋ねたことがありますが 世代がおりすぎているので わかりませんでした。 同級生の家のすぐ上の敷地に もう一軒木下家があったそうですが その後は どうなっているのか わたくしは 大阪へでて以来親戚づきあいも せまくなっていたので わからなくなっています。

同じ集落に 福島家があり 田山家から女子が嫁いで まわりまわって しんせきと 聞いています。近くにそういう家があるので 昔は何らかの固まりがあったとは 想像できます。









[56]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月05日 09時08分51秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^'^)

木下氏と相良氏の関係!
私、見つけちゃいました!!\(^o^)/

肥後人吉藩の第5代藩主 相良 長興(さがら ながおき) 
生誕 元禄6年12月14日(1694年1月9日)
死没 享保19年11月6日(1734年11月30日)
父:相良頼福
母:板倉重種の養女(板倉重矩の娘)
姉妹の於満。この方は「片岡正満室」となっています。(相良氏と片岡氏との姻戚関係は他にもあります)

そして・・
相良長興の正室は 『木下俊量の娘』 です!!

木下俊量 とは ウィキより
木下 俊量(きのした としかず、寛文12年(1672年)- 享保14年11月13日(1730年1月1日))は、豊後日出藩の第4代藩主。
第3代藩主・木下俊長の長男。母は朽木稙綱の娘。正室は加藤明英の娘。側室に黒川氏、中村氏など。子に木下量道(五男)、木下俊在(六男、第5代藩主)、木下長監(八男、第7代藩主)、木下俊能(九男、第8代藩主)、木下俊泰(十男、第9代藩主)、娘(相良長興正室)、娘(久留島光通正室)、娘(木下栄俊正室)、娘(大久保忠肥正室)、娘(竹谷松平義著正室)、娘(横山清章正室)。官位は従五位下。式部少輔。

(p_-)豊後日出藩木下家とは
木下延俊(きのした のぶとし)を初代藩主とします。
初代木下延俊1601-1642  二代木下俊治1642-1661  三代木下俊長1661-1707  四代木下俊量1707-1729
(p_-)上記の四代木下俊量の娘が相良長興の正室

豊後日出藩木下家 初代藩主木下延俊 ウィキより
天正5年(1577年)、木下家定の三男として尾張国で生まれた。
家定は豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね)の兄で、杉原定利の子。秀吉に召し抱えられて若狭国小浜領主となり、後には備中足守藩主になった。木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはない。母は杉原家次の娘、雲照院(おあこ)で、同母兄弟に木下利房、小早川秀秋がいる。

つまり!
豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね)の兄で、杉原定利の子である木下延俊の曾孫の木下延俊の娘が相良氏(相良長興)に嫁いで来られた!
と言う事です。

白石様の御親戚にも「木下氏」
家の親戚の多良木の平川家(隣の隠居家)にも「木下氏」から婿養子が入っている・・
球磨に何故「木下氏」があるのか・・

もしかしたら・・
私の推測ですが、球磨の「木下氏」は木下延俊の娘が、相良氏に嫁いで来られた際(御輿入れ)に御供として来られた『木下氏一族』がいらっしゃったのではないでしょうか?

以前から書いていますように家の親戚には「片岡氏」があります。
「片岡氏」と「相良氏」は何重かの姻戚関係にあります。
上記の片岡氏も『御輿入れ』の際に一緒に球磨に来られた方々なのかな?と推測しているのです。

実は、このお話は平川家についての方で書こう!と思っていたのですが、白石様がずっと気になさっていた「木下氏」に関してですから、やはりこちらの方で書こうと思いました(^'^)

相良氏の姻戚関係を見ると他にも色々解って来た事があります(^'^)
それは「平川家について」の方で書きますね(^'^)

では(^'^)
[57]白石さんからのコメント(2016年09月10日 21時38分02秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
再びネットワークに接続できませんとなって やっと 今つながりました。


木下君の集落は 武士だった家が多かったみたいなので 今度 あったら きいてみようかな ?と思っております。

しかし わたくしの体が再び 水がたまってきて 入院の羽目になれば事だが と 思っています。

入院すれば 発狂しそうです。想像を絶するつらさです。できるだけ 入院しなくて済むようにい したいですが ・・・
[58]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月10日 22時13分22秒 ) パスワード

白石様 今晩は(^'^)

お身体の具合が心配です。
私には何も出来ませんが、毎朝の観音様への御祈りの際に白石様の御健康回復を心からお祈りさせて頂きます。

先日の私のコメントに
〉球磨の「木下氏」は木下延俊の娘が、相良氏に嫁いで来られた際(御輿入れ)に御供として来られた『木下氏一族』がいらっしゃったのではないでしょうか?
〉片岡氏も『御輿入れ』の際に一緒に球磨に来られた方々なのかな?と推測しているのです。

と推測している根拠は
肥後人吉藩の第3代藩主『相良頼喬』の母『片岡正秀の娘』の兄弟となられる『林正盛』。
林正盛は丹波・篠山の生まれ。当主・頼喬(よりたか)の叔父で、それが縁で相良藩士なったと云われています。

林正盛は『自費で球磨川を開削。寛文5年(1665年)完成し、領内の発展に大きく貢献』されています。 (ウィキ相良頼喬より)

「木下氏」についての推測を裏付ける記録が残っていないか、相良藩内に残る史々をしっかりと読んでみます。

白石様の御友人の木下様が住んでいらっしゃった集落は
〉武士だった家が多かったみたいなので

外城四浦城の麓集落のような役割の場所だったのかもしれませんね・・

白石様
今は、お身体の事だけをしっかりとお考えくださいね。
ただ・・もしも・・コメントを書く事で気分解消出来るのであれば、調査関係なく「お言葉」をお聞かせ下さいね。
白石様が登場されないと・・私はとても寂しいです(..)
御健康回復を心よりお祈り致します。
[59]ころもさんからのコメント(2016年09月29日 00時33分22秒 ) パスワード

みやはら様、白石様
はじめまして。
かなり以前にうちの先祖のことを知りたくてこちらに書き込みしたことがあるものです。
六殿宮で平江姓の話が出ていたので、思わず書き込み致しました。
うちの先祖は六殿宮の中王宮に祀ってある平氏の一族にて平江姓の始租神です。
三代六殿宮の大宮司職を務めたと説明書きには書いてありました。その後は地主で門番さんや女中さんがいる家だったと聞いています。
うちの周りに平江姓は多いのですが、ほとんどが親戚ではなく、新家と呼ばれる家だけが
木原では同じ平江姓の親戚だそうです。うちは本家と呼ばれてました。
門番さんがいた蔵や納屋は現存しています。うちには表紋(男紋)と裏紋(女紋)があり、女紋は揚羽蝶です。
うちの先祖が紀州の宇田川から来たそうで、そこの地名等を調べてみましたが、何の手がかりもないまま今日に至ります。
[61]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月29日 10時51分49秒 ) パスワード

ころも様
初めまして。
コメントありがとうございます。

ころも様の御先祖様が六殿宮の中王宮にお祀りの平氏の一族にて平江姓の始租神でいらっしゃるのですね!

白石様の代わりに私が理解している事を書かせて頂くと
白石様のお姉様(白石様とは母違いの姉妹)の母方が木原不動の隣にあった平江家。
近くに庄屋をされていた成松家があり、そこから平江家に嫁がれて来られた方が平江家の祖母様だと言う事です。

ころも様の御先祖様は紀州の宇田川から来られた。

私、コメント25で
C源 為朝 ウィキより
13歳の時、父・為義に勘当されて九州に追放されてしまう。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいたが、肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となる(薩摩国阿多郡の誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)。
D肥後国阿蘇郡の平忠国とは
新薩摩学薩摩・奄美・琉球より
鎮西八郎為朝ぬしの本妻阿蘇四郎平忠国がむすめなりける。
と書かせて頂きましたが

上記の平忠国と、ころも様の「平江氏」との関係はどうなのでしょうか・・?

実は、今、「平川家について」の方の調査で、古代の熊国(後世の肥前・肥後他)と曽国について調べています。
きっと、後世の武士団は古代と何らかの繋がりがあるのでは?という私見ですが私なりの推論からです。
古代曽国との関係で鹿児島の郷土史等を読んでいて、鎌倉時代の関東下知状から薩摩平氏に繋がる系が平河氏所領地であった現相良村の柳瀬地区の土地を譲られたという記述を見つける事が出来ました。

薩摩平氏(阿多)・薩摩の紀氏・税所氏・矢上氏・河辺氏が球磨の平河氏所領地(柳瀬村)に繋がっている事が調査によって解ってきました。
現在、文章をまとめている最中で完成したら、コメントにアップさせて頂きます。

※鎮西八郎為朝ぬしの本妻阿蘇四郎平忠国がむすめなりける。
(薩摩国阿多郡の誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)

偶然にも、ころも様と同じ姓である平江家から球磨の相良村四浦の白石家(白石様のお父様は高岡家からの養子)に嫁いで来られた方がいらっしゃると言う事が私は不思議な繋がりだと感じています。

さらに・・古代の繋がりで言いますと
肥国・曽国・紀州・伊予・遠江は大きなネットワークで繋がっていると感じています。(ころも様、変な事を書いてすみません)

ころも様からコメントを頂いたお陰で、点と線がまた新たに繋がっている事に気が付きました(あくまでも、私の私見ですが)

ころも様
今後ともよろしくお願い致します。
ミヤハラ
[62]ころもさんからのコメント(2016年09月30日 13時43分06秒 ) パスワード

ミヤハラ様
早々にご返信ありがとうございます。
書き込みした文章で訂正が。うちも紀州の宇田川じゃなく宇田なので、
白石様が調べていらっしゃった宇田と森?二つの村が合併して
現在は宇田森となっているところが先祖が木原に来る前に住んでいたところの
ようです。
ミヤハラ様がおっしゃる通り三郎なので、兄弟が和歌山にいたって
ことですよね。
それから、気になることが。
平江の家は六殿宮の参道ど真ん中にあり、その裏手には何軒か家はありますが、
木原不動尊があります。
うちの横の道を通って木原不動尊まで5分もかかりません。
その途中にある平江家が新家と呼んでいたうちと血縁関係がある家です。
木原不動尊のすぐ近くです。
もしかして、白石さんのおっしゃる平江家とはうちと繋がりのある家なのでは
と思いまして。
ただ私も木原には少しの期間しか住んでおらず、祖父、祖母、父も他界して
20年以上経ちますので、新家との詳しい繋がりがわかりません。
でも、新家から法事等に来られていたことは覚えています。
母に確認したところ、歴史が好きな親戚のおじさんから頂いた家系図が
あるそうです。
父より6代前まで遡れるようで、その中には伊津野という名前も出てくるそうです。
家系図を確認してまた書き込みしたいと思います。
平忠国という方もうちとどんな繋がりがあるのか気になりますが、
もっと気になるのは、三代大宮司を務めた先祖の3人の名前に全て『為』がついていることです。
皆様のお力をお借りして少しずつでも先祖について調べていけたら
と思います。
ミヤハラ様 こちらこそ今後ともよろしくお願い致します。
[63]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年10月01日 08時38分10秒 ) パスワード

ころも様、おはようございます。
コメント、ありがとうございます。
お返事遅くなりましてすみませんでした。

ころも様の「平江家」と白石様の御親戚の「平江家」は、とても近い距離にあったと言う事ですね!
白石様は先日のコメントで体調がすぐれない旨を書かれていらっしゃって、私はとても気になっていたのですが、ころも様のお話を読まれてきっと、喜ばれていらっしゃると思います。

益城は古の肥後にとって、非常に重要な場所ですね。
国府が置かれていた場所です。

先日のころも様のお話
〉うちには表紋(男紋)と裏紋(女紋)があり、女紋は揚羽蝶です。

平安時代末期の肥後守は「平清盛」公。
ウィキの記述では
『若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟だった。高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、葉室顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していた。』
※平忠盛が熊野本宮を造営した功により、平清盛は肥後守に任じられる。

上記を普通に読むと、スルーしてしまうのですが(私も以前そうでした)
『平忠盛が紀伊国鎮座の熊野本宮を造営した功により平清盛は肥後守に任じられた。』
紀伊(紀州)・熊野・肥後・・との繋がりが見えるような気が私にはします。

ウィキ「肥後国」の記述から各時代の「国司」を見ていくと、非常に興味深い事に気が付きます。(色々な事に興味が湧いて、この頃、じっくりと見ていました)

所で・・
〉三代大宮司を務めた先祖の3人の名前に全て『為』がついていることです。

すごく重要な「鍵」なのでは!と思うのですが(勝手な推測ですみません)


私は、以前からコメントに書いて来たように、「木原」という地名がとても気になっていました。
肥後だけではなく全国の「木原」地名がとても気になっていたのです・・

「木」・・き
「紀」・・き
「姫」・・き
「貴」・・き
「菊」・・き
何でしょうか・・気になる”事”には全て「き」の文字が付きます。
私の先祖、球磨の平河氏の拠点は「木上」(きのえ)・・

「熊・球磨」(クマ)「木・紀・姫・貴」(キ)・・何かあるのかな???
(私の私見です。すみません)

ころも様、
私こそ、どうぞお力をお貸し下さい。

ころも様とこうして交流出来るようになった事、
ころも様の御先祖様と私の先祖に心から感謝申し上げます。

これからもよろしくお願い致します。
[64]ころもさんからのコメント(2016年10月10日 22時40分22秒 ) パスワード

ミヤハラ様

お返事遅くなってすみませんでした。
全国に同じ地名があることや気になられることには
「き」の文字がついていることとか色々と関わりが
あるのかもしれませんね。

益城はその昔国府があって、戦時中は旧帝国陸軍の
為に作られた地下施設があったという話もあります。
ご存知かもしれませんが、山都町には弊立神社という
人類の成り立ちを伝える五色の面を祀った神社があります。
熊野本宮以上のパワースポットのようです。
山都町には安徳天皇陵があったり、清和村という村があります。
そうそう内大臣橋と呼ばれる平重盛公にちなんだ橋もありました。
また日本の主要な神社は1本の線で繋がる位置に建立されているとか。
熊本の南の地域(益城〜山都町〜球磨)は重要な地域なのがしれませんね。

仕事と家事で手一杯な現状なので、色々調べてお伝えするのに
お待たせすることが多いかと思いますが、よろしくお願い致します。

追伸 私も生を受けた時より祖母の影響でお観音様を信仰して
おります。
お観音様には色々な形でお助け頂いております。
ミヤハラ様がお観音様を拝まれるとの文を読み
親しみを感じました。


[65]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年10月13日 17時56分43秒 ) パスワード

ころも様
コメントありがとうございます。

お返事遅くなりましてすみませんでした。

実は・・不注意で怪我をしてしまいまして・・
と言うか怪我をしたのは二カ月以上前だったのですが(足をひねった状態で転んでしまいました(..))
思い切り、両膝が傷まみれになったのですが、歩けるので大丈夫!と病院に行かずにそのままにして・・傷が治ってもずっと痛みが取れずに、最近では右膝が痛くて正座も出来ずにいて・・そして遂に?左足首の腫れがぶよぶよに大きくなってさすがに「これは”普通”じゃないな・・??」とやっと気が付き・・
病院に行くと「左足首の靭帯損傷でなお且つ水がたまっている」「右足膝裏靭帯損傷。」との診断が・・トホホ(..)
右足は左足に比べて膝上から足首にかけてかなり腫れているそうなのですが・・この頃又太ったかな?位に考えていました(涙)・・かなり痛かったのですがどこまでが我慢出来る痛みなのか?私はどうもそのラインが解っていないようです(涙)
足が固定されているのと痛みで、パソコンに向かう為に床に座る事が出来なかったのですが、ようやく痛みが少し取れてきまして、今日はパソコンを起動しました(^'^)

ころも様、きっと私を「おっちょこちょいの人だな!」とお思いでしょう(その通りでございます)

所で、
ころも様は私と同じ”視点”をお持ちです。
〉益城はその昔国府があって、戦時中は旧帝国陸軍の
為に作られた地下施設があったという話もあります。

私も「戦時中」の事が気になっていたのです。
実は球磨にも旧帝国陸軍の為に作られた地下施設がありました。
高原(たかんばる)飛行場の真下に作られていました。
現在は戦争遺跡として、調査が進んでいます。
この高原(たかんばる)には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が存在しています。
現在はその遺跡群の中のほんの僅かな場所しか発掘調査が行われていないのですが、その場所は「住居跡」にも関わらず、直径8.0cmの小型仿製鏡の内行花文鏡や白銅色に近い黄銅色を呈しており、光沢を持った”かなり良質の銅製品”と言える銅釧が見つかっていて熊本県文化財調査報告書には
「本県からは住居跡からの出土例はなく全国的にも非常に珍しい」と書かれていました。
さらに旧免田町の神殿原(こうどんばる)※宮床原とも言います には
陸軍人吉(神殿原)秘匿飛行場がありました。
九十五式中間練習機による特攻隊「陸軍第八十九振武隊」が駐留。
秘匿飛行場なので、もちろん秘密とされていた飛行場です。
周辺には飛行機を爆撃から守るために作られた木製有蓋掩体壕が現在五基確認されていて、一か所の飛行場では全国最多と言われています。
神殿原秘匿飛行場は沖縄戦の敗色が濃厚となり迫りくる本土決戦に向けて、作られた「振武隊」すなわち「特別攻撃隊」の秘匿飛行場でした・・
「陸軍第八十九振武隊 櫻井隊」の方が免田からお世話になった方に宛てた手紙が先日新聞に記載されていました。
「陸軍第八十九振武隊 櫻井隊」とは関東で編成された部隊であったと言う事です。
悲しい戦争の”現実”と平和の大切さを伝える遺跡として、球磨では掩体壕の保存活動が進められています。

神殿原(こうどんばる)※宮床原とも言います では明治初期に旧細川藩士・旧黒田藩士を中心とした「神殿原開拓団」が結成されて、旧免田村・旧岡原村に広がる神殿原の開拓が行われました。
その際に「遺跡調査」も行われていた事を先日私は初めて知りました。
調査報告書には・・「目立ったものは何も見つかっていない」旨の事が書かれていたそうですが・・・
・・・・・・・・・・・・・・・?(神殿原開拓団に関わった方々の”その後”は国会議員や東京都知事と言った層々たる面々と成られています・・他、朝鮮半島で起きた重要事件の首謀者の一人の方も神殿原開拓団の一人でした・・)

私が思うに・・
きっと昭和20年までの「国家」は”古代の真実”を把握していたのではないのかな?・・と。

ころも様からご教示頂いた「五色の面」。
古代の熊国は様々な人種の方々の連合国家だったのかもしれない・・と感じました。

ころも様もお観音様を拝まれていらっしゃるのですね。
私もころも様とお知り合いになれて、本当に嬉しいです。お観音様に心から感謝の気持ちでいっぱいです。
お仕事・家事と大変ですね。
私も球磨に戻るまでは仕事を続けていましたが、今は生まれて初めての専業主婦であります。
足がペタンと床に付けるようになったら本格的に調査を再開しますので
ころも様、今後ともよろしくお願い致します(^'^)
[66]ころもさんからのコメント(2016年10月16日 00時40分32秒 ) パスワード

ミヤハラ様

こんばんは。
お怪我のお具合は大丈夫ですか⁉
何だかすごい大変な病名ですが。
私は小学生の頃、左足首をひねって痛めたのを
ただの捻挫と診断されましたが、
10年以上経って骨がズレていて繋がってなく、
さらに水が溜まっている状態だったことが判明しました。
なので、今でも無理すると痛い時があります。

私の場合は1ヶ月ギブスに入ってたので、
骨がズレたまま肉がまいちゃったそうです。
足はこれからもずっと酷使する場所ですから
無理はなさらず、しっかり治されてくださいね。
私は今でも平らなとこでよくつまずきそうになりますよ。
何だかそんなとこにもミヤハラ様に親しみを感じました。

そんな中、たくさん書き込み頂いて恐縮しております。
おかげさまでまた少し知識が増えました。

話が彼方に飛んでしまいますが、古代人と言えば
日本人は血液型で人種?を分けてあるという説があるそうで、
それはひいては神話の世界まで繋がっていく。とか。

そんなことも考えると天孫降臨の地は高千穂だから、
その周りの球磨や益城周辺は重要な地であるのかも
しれない。と考えました。
先祖のことを調べているうちに、他のいろんな知識も
入ってきて改めて歴史を辿るのは楽しいと感じました。

脈絡のない話ですみません。
先祖の話なのですが、平氏の一族位にしか気にとめて
いなかった頃のことです。
ある日の朝私は母に京都に行かないといけない。と
言いました。
どうして?と理由を聞かれましたが、私にもわかりません。
とにかく行かないと行けないの。と答えました。
どこに?と聞かれたので寂光院よ。と答えたのです。
何故か行かなくてはいけない場所はわかったのです。
それから1週間も経たないうちに新聞で寂光院が火事で
全焼した記事を見ました。
寂光院には高校の修学旅行の時に行っただけで、
平家に縁のあるお寺だと知ったのは火事のあとでした。
背筋が寒くなりました。
母も驚いていました。
その後から、何かお知らせを受けたのかもしれないと
先祖を知りたいという思いが強くなり今日に至ります。

ところで、ミヤハラ様は今は専業主婦でいらっしゃるのですね。
私も一度は憧れの専業主婦になりたいです。
料理が好きなので手の込んだ料理をゆっくり作りたいです。
今は時間との勝負なので、手抜きばかりで。
今年は震災疲れも出て毎年ノルマの栗ご飯は作りましたが
渋皮煮までは行き着かず断念しました。
忙しくても時期折々のものは手作りしようと思っているのですが
現実は厳しく気持ちに身体がついていかなくなりました。
やっと秋らしくなってきて、私は食欲の秋モードです。
取り留めのない話ですみませんでした。
今日はこのへんで。

読んでいただくだけで結構ですので、しばらくは膝も足も酷使なさらずに
治すことを最優先にしてくださいね。

早くよくなられますようお祈りいたします。



[67]白石さんからのコメント(2016年12月12日 16時59分30秒 ) パスワード

こんにちは
おひさしぶりです。やっと退院できました。まだ突然にかわる体調不良が不気味ですがそのほかの時間は平常なので家にいます。
突然体調が悪化して自分でも制御できない病気があるものか?と
思っておりましたがあるんですね。でもくよくよしても仕方がない昔の人はその瞬間まで野良仕事でもしていたではないか?と思っています。
うちの平江は戸籍の先頭の人は○五郎です。その次男が長男の家からどくりつしています。
姉の長兄・次兄は自衛隊に入るとき益城の平江にとまっていったそうです。昭和二十年代のことでそのころまではおつきあいがあったようですが戦後教育の影響や父母の生活苦などでとぎれたようです。そうなるのですね。わずかに受け口の顔が間違っても怒った顔にならない姉のかおと面差しが似ているその母の人の写真はすぐにわかりました。尾方から来た兄嫁のわずかにめじりが下がった顔なんとも愛嬌のある顔ですが平安時代の美人はこんな顔だったと聞いたことがあり顎がちんまりとすぼまっている小顔としっかり卵型でできたがっていた姉の顔とがなつかしく思い出されます。今はもういいおばあさんの顔ですが・・・
このたび入院しましてリハビリの先生や事務の方の顔が輪郭がおんなじでパッと見ると見間違いましてDNA的には絶対つながっていると確信してきました。大阪出身だった杉原さんの顔と
同じ京人形のような卵型なのです。それが尾方につながっているはず。又華やかな花が咲いたような顔の佐田の系の顔。DNAはまちがいなく伝わるのだと思います。
パソコンは相変わらずおかしな動きをしています。息子がエッチ動画につないでいるからだと思うのですが・・・
[68]白石さんからのコメント(2016年12月14日 22時28分02秒 ) パスワード

こんばんは
またパソコンがおかしくなっています。
とりあえずこれでアップしてみます。

文山宿ねという人物についてご存知の方おられませんでしょうか?
[69]白石さんからのコメント(2016年12月19日 20時27分41秒 ) パスワード

こんばんは
文山宿祢
私なりにネット検索してみました。
図書館に行く力がないのであっているかどうか文献があるのかどうかしりたかったのですが・・・
この苗字を聞いた時に色恋の話でなく忘れてはいけないことばだったのだとピンときました。輪廻転生という言葉があるなら今であった というような。
その昔 高丘親王と志をおなじくして 大仏の頭の修理をしたひとみたい。詳しくはわかりませんが文山宿ねも貴族。藤原鎌足の系を引く人。
私が知った人はとにかくお肌のきめが細かいのです。
えっと思わず目が吸い寄せられました。1300年前には高槻に来てたのかもしれない。土地に根付いて我が国の歴史をつくった一員になったのかもしれない。ロマンを感じることです。
[70]白石さんからのコメント(2016年12月21日 19時06分28秒 ) パスワード

こんばんわ
藤原につながるという文山氏
文山のことばだけなら 台湾にも文山地区というところがあるそうです。

お茶で有名なところで チワン族 ミャオ族が多く いるそうです。

西日本の丸餅はミャオ族に関与していた。
錦織はチワン族に関与していた。し
台湾に始皇帝の四女を徐福が連れて来たという伝説があるという。
徐福伝説は各地にあるが和歌山にもある。

うっすらと秦氏と藤原との形がみえるような・・・
[71]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年12月22日 07時44分39秒 ) パスワード

皆様、お久しぶりです!(^'^)

白石様、ころも様
お返事遅くなりまして申し訳ありませんでした。
やっと、怪我も良くなってきました。(全治3カ月の診断だったのですが、3か月過ぎてやっと痛みが取れてきました)
実は、怪我の後、父が体調をくずしたり、私自身も体調をくずしたりと立て続けだったのですが、ようやく、落ち着きました(..)

白石様
御退院、おめでとうございます。
良かった!本当に良かった!
私、白石様が「入院するかもしれない」とコメントを書かれた後
家の観音様に白石様の御健康回復を毎朝お祈りし続けていました。
先日、スマホでこちらを見て、御退院された事が解り、本当に安心しました。(^'^)
私も足の具合が良くなってきたので、すぐに、コメントを書こうと思ったのですが、その後不注意で体調を崩してしまいまして・・(..)
不注意とは・・実は・・
私は髪をロングにしているのですが最近シャンプーの度に抜け毛がひどくて、ちょっと気になって、洗面台の棚に入っていた父の育毛剤を使ってみたのです・・
その時はどうもなかったのですが、翌朝、目が覚めたら激しい頭痛。
一日我慢して(きっと風邪かな?と(..)でも・・息切れもしていたのですが・・(..))次の日、丁度、持病の心臓病の定期検診で、病院に行った所、血圧がめちゃくちゃ高くなっていまして・・
今まで落ち着いていたので、「どうして、急にこんな状態に?」と先生も驚かれて、いつもと違うお薬を出して頂きました(この時は育毛剤の事は私も気が付いていませんでした(..))
父に話すと心配するからと、頭痛の事も血圧の事も黙っていました(..)が・・段々起きているのもきつくなりまして・・(血圧を測ると上も高いが下も107とかで・・)
布団の中でふと「私、何をしたのかな・・??」と数日間の自分の行動を思い出して見ると・・「あんれっ??育毛剤??!」「えっ!マサカ!!?」
慌てて、シャワーを浴びて、念入りにシャンプーして、それから、安静にしていた所、次の日にはみるみる血圧が下がって上が110下が78といつもと変わらない状態に・・
病院に電話して事の次第をお話すると
「育毛剤!育毛剤を使ったのですか!!」と。
私の身体には合わない成分が含まれていたようです(..)(..)(..)トホホ(..)
薬も飲めない種類が多い程のアレルギー体質で、やっかいな身体なのですが、髪に付けるものまでは、理解していませんでした(..)

と言う事で白石様に真っ先に
「御退院、おめでとうございます!(^'^)」とお伝えしたかったのですが遅れてしまいました。すみませんでした。


ころも様
地震による「疲れ」。
ころも様、本当にすみませんでした。
私は、ころも様が地元を離れていらっしゃると伺って、県外にお住まいだと勝手に思い込んでいました。
心くばりに欠けていました。 すみませんでした。
被害の方は大丈夫でしたか?
度重なる余震は12月20日までに震度1以上が4196回。
健康な方でも、かなりのストレスが蓄積されていますよね・・
ころも様、お身体の方は大丈夫ですか?

次第に、一日の余震回数も減って、落ち着きが見えてきました。
ころも様、
来年はきっと、恵みの秋を心から堪能する事が出来ますよね!(^'^)
私は、栗の渋皮煮を作った事がありません(..)
ぜひ!作り方を教えて下さい!。私も来年は挑戦したいと思います(^'^)

それと・・
ころも様 お詫びがあります。
以前、書いた「高原(たかんばる)飛行場」
こちらは陸軍ではなくて海軍でした(..) すみません。
名称は「人吉海軍航空基地」です。
地下の軍事施設と規模が解りました。
作戦室(55u) 無線室(40u) 兵舎(6500u) 格納庫(1140u) 燃料庫(1800u)
弾薬庫(2000u) 魚雷庫(296u) 自力発電所(257u) 指揮室(100u) 工場(7200u)
軍需品庫(2500u) 材料庫(1500u) 寄宿舎と事務室(1800u) 酸素発生工場(150u)
「山腹には一万一千立方メートル以上の洞窟が構築されていた」
  『人吉球磨は秘密基地』(非売品)第6版・平成28年4月30日 より

きっと、ころも様もそしてこちらのスレッドをご覧の皆様も
「何故?1000m級の山々に囲まれた球磨・人吉盆地に海軍基地が!?」
と思われた事と思います。

上記の 球磨・人吉の「海軍基地」そして「陸軍基地」については、機会がありましたら、平川家についての方ででもコメントを詳しく書かせて頂こうかと思っています。

私も、徐々に調査を復帰していくつもりです。
皆様、今後ともよろしくお願い申し上げます。

ミヤハラ
[72]白石さんからのコメント(2016年12月22日 19時46分36秒 ) パスワード

宮原様 ころも様 こんばんわ
宮原様 育毛剤が原因の血圧の変化
こわいですね。この頃の世の中安心して使えるものがなくてなにをするにももしかしたらとちゅうちょです。
私も違う話ですが最初の病院から出されていた薬が腎臓をわるくさせるものだったらしくて 今度の病院で 絶対に飲んではいけない薬だからと言われ仰天しました。
それで先生がきっぱりと間違いなく透析に進みますといわれたのだなとかんぐりもしたくなるというもの・・・
各省がないから【こちらに知識がないから】面と向かって言えませんが・・・

大体聴診器を一秒もかからずあてて音がはっきりわかるのかしらん と思います。

大仏の首を元に戻したとき使われた技術はクレーン車の原理だったそうです。
エジプトのピラミッドをつくるにもたしかこの原理がつかわれたと子供の頃よんだように思っているのですが・・・
このときの石切の技術とかマチュピチュなどにもつたわっているのでしょうか?無足の人は大きくうごいているのですね。
[73]白石さんからのコメント(2016年12月24日 20時54分23秒 ) パスワード

こんばんわ
テレビを見ていたら
鹿児島の方で
平川動物園がうつっていました。
あらっと思いましたがすぐ画面がすすんでしまいました。

平川 鹿児島の方にもあったのですね。
うちの平江の男子と鹿児島の池水の女子と結婚しています。
その女子の家のルーツをみてみたら 本系は どうやら池禅尼にいきつき最後は外積区が家の様子 
わかりまえんが しらべてみようと思っています。

うちはどこもここも嫡流ではなく分家なのでわかりにくいです。
[74]白石さんからのコメント(2017年01月02日 20時09分12秒 ) パスワード

あけましておめでとうございます

うえの外積区が家は 外戚久我家 です。
今日みたらまたもじばけしていました。

[75]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月03日 10時01分30秒 ) パスワード

白石様、ころも様
明けましておめでとうございます(^'^)
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます(..)

所で!!!!
新年早々ですが、六殿宮祭主家「平江家」の文化十一年(1814年)の御先祖様と
宮原三宮宮司家そして橘姓宮原氏との繋がりを見つけましたよ!!!

新しいスレッドを立ち上げたので内容はそちらで書かせて頂きます。(^'^)

松葉宗益 後裔 平賀氏について3
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101577.html
[77]うめきちさんからのコメント(2023年11月15日 12時41分57秒 ) パスワード


こんにちは
大庭のことではご心配をおかけいたしました。
基本を調べておりませんで思う様にいかなかったのだと思います。
当方上河津の縁があります。何か折り重なるような。
上河津から少し目を移すと白石 宮原 とても不思議なものです。
[78]うめきちさんからのコメント(2023年11月25日 11時22分41秒 ) パスワード


大庭ですが平氏ということは間違いないですね。

私としては後醍醐源氏のお話をなさるものとも思っていたのですが。
[79]うめきちさんからのコメント(2024年01月02日 16時45分57秒 ) パスワード


本年もよろしくお願いします。

そういえば
田中といえば風変わりな人でした。役場が田中なのも何かありそうです。
私の場合ですと常磐に縁があるということが最近の話としてありました。
細かい地域は分かりません。
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