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 投稿番号:101545 投稿日:2016年07月01日 19時12分49秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
松葉宗益 後裔 平賀氏について

コメントの種類 :その他  パスワード

松葉宗益 後裔 平賀氏について
三国氏との関係、井伊氏との関係、そして源義光後裔「平賀氏」との関係など
皆様からの御教示を心よりお待ち致します。

[1]白石さんからのコメント(2016年07月02日 13時57分05秒 ) パスワード

皆さま こんにちわ
上記についてわずかに情報を書いてみます。
皆さますでに ご存知のことばかりでしょうけど 
お気づきのことが ございましたら ご教示を お願いいたします。
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1⃣武家家伝平賀氏より 
●家紋 梅ヶ唐花
●藤原姓/古代豪族三国真人後裔か
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A次に ネットにでている表題より

三国真人 - 美と歴史より

三国真人 息長氏、坂田氏、坂田酒人氏と同じく継体帝を祖とする一族。 越前国坂井郡三国を本拠とする。 参考文献:『諸系譜』「三国真人」、『集成御系譜考』、『萩藩閥閲録』 参照:井伊氏
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三国真人というからには 地域名の 三国から きているのではないでしょうか?

こちら 大阪に 「三国」というところがあります。電車で我が家から
駅まで歩くとっして 一時間くらいで行けます。
北野と並んで 進学校があるところでも 有名です。
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[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月02日 16時47分37秒 ) パスワード

白石様 本当にありがとうございます。

〉大阪に 「三国」というところがあります。

地名遷移でしょうか?
三国氏の系が大阪『摂津国・河内国・和泉国』の何れかに移動している?と言う事なのでしょうか?

今後ともよろしくお願い致します(^'^)
[4]白石さんからのコメント(2016年07月02日 20時48分53秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
>三国氏の系がいどうしているということでしょうか?

そうかもしれませんね。これから おいおい 調べてみます。
三国氏は継体天皇の子孫・・・というので ・・・・

継体天皇は 越前の方でうまれているのですね。
そして 陵は こちら 高槻と 茨木・・・宮内庁指定は茨木の太田茶臼山古墳で 本当の陵はこちらではないのか?と学者先生がおっしゃってるのが 高槻の今城塚古墳です。

どちらも 我が家から 自転車で走るとすぐ行けます。
今城塚の方は 子供が保育所のころ みんなで ざりがにとりをして遊んだところです。

ーーーーーーーーーーーーーー
今度のお話は いやあ しらんかったわあ ということで
いや 本当に気が付き前んでした。

継体天皇の陵の近くの畑の中に たてふだがあって 「中臣藍の連」の子孫が太田道灌だと書いてあるのです。

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中臣 というからには 藤原?でも この人は 誰の系にいる人かしらん?と思ってネット検索すると

中臣藍連とは
新撰姓氏録摂津國神別に「中臣藍連天児屋根命十ニ世孫大江臣之後也」

ですって。

みやちゃん
大江臣って・・・
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パソコンがまたおかしくなって 文字が 極端に 小さくなって 入力しづらいのです。
フォントを大きくすることもできなくて・・・
不便です。

[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月02日 21時13分46秒 ) パスワード

白石様 ありがとうございます(^'^)

白石様がお住まいの地域が継体天皇御陵の近くだったとは・・
すごく驚いています。
さらに太田道灌因の言葉が看板に・・
でも良かった・・本当に良かった・・白石様にお願いして本当に良かった。

不思議な感覚だったのですが、白石様にお願いするのが一番良いと感じたのです。

自転車ですぐの場所でも、無理はされないで下さいね。
今日も猛暑となっています。
退院されて日が浅いので、お身体が心配です。
出来ればクーラーの下で、パソコンでの調査を中心にお願いします(..)

白石様、本当にありがとうございました(^'^)
[6]白石さんからのコメント(2016年07月03日 01時40分10秒 ) パスワード

こんばんは
みやちゃん ご心配いただいてありがとうございます。

今度はながいです。

大田茶y須山古墳のすぐそば 西側に 「太田神社」があります。
中臣藍連とともに 新選姓氏録に載っているのは「中臣太田連」です。
新撰姓氏録摂津國神別に「中臣藍連天児屋根命十ニ世孫大江臣之後也」
新撰姓氏録摂津國神別に「中臣大田連天児屋根命十三世孫御身宿禰之後也」
★『松尾社家系図』の「御身足尼命」(ただし十四世孫と記載)に比定し、その子の「太田彦命」が中臣 大田連につながる とする説もある。
★また 歴史倶楽部・166回例会・高槻市 より

少し 長いですが

「播磨国風土記」に、飾磨の郡大田の里についての記述がある。
「ここを大田というようになった由来は、昔、呉之勝(クレノスグリ)が韓の国から渡って来て、最初「紀伊の国」の名草の郡の大田
の村に着いた。その後、一派が「摂津の国」の三島の賀美(カミ)の郡の大田の村に移って来て、それがまた「揖保の郡」の大田の村
に移住して来た。人々は、もともといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。」この一派が「中臣太田連」を称した。
紀伊の大田は、伊国名草郡、今の和歌山駅南側、日前国懸神宮の西側に大田があり、太田黒田遺跡の所である。摂津の国の三島の賀美
の郡の「太田村」は、茨木市の島下郡とされ、「太田神社」は「呉之勝」の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成
し、6世紀以降頃に、中臣の祖神「天児屋根」を祀ったそうだが、「呉之勝」が紀伊から太田へ移住したのは、地元(播磨)の郷土史
家によると古墳時代以前という説もあり、太田神社には大物主の息子(?)で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残る。
この辺りは、戦国時代しばしば戦乱の場となつたため、兵火の災に遭い社殿記録を失い、由緒沿革の明確を欠いている。従って祭神に
幾つかの変遷があつたことが推測できる。

茨木市太田東方には、弥生後期〜古墳時代中期の「太田遺跡」があり、竪穴住居跡、大量の埴輪、鉄製利器・須恵器・銅鐸などが出土
している。また川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あると言われている。
 
★呉の勝が・・・呉です。韓から渡ってきて・・・半島経由・・・鎌足は百済の王族 と 前にテレビでやっていた。
★紀伊の名草から太田に来て一派が 中臣太田連を名乗った。
★紀伊の大田は、伊国名草郡、今の和歌山駅南側、日前国懸神宮の西側に大田があり、太田黒田遺跡の所である。
・・・名草群 日前 黒田 の 言葉が・・・・
★「呉之勝」が紀伊から太田へ移住したのは、地元(播磨)の郷土史
家によると古墳時代以前という説もあり、太田神社には大物主の息子(?)で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残る。
・・・・大物主の息子で多氏一族の大田田根子
★大田田根子
河内の美努の村(『日本書紀』では茅渟県陶邑)から大田田根子を呼んで大物主神を祭らせた。・・・今度は 茅渟 陶 大物主神です。
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月03日 06時57分04秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^'^)

精力的な調査、本当にありがとうございます。
〉「播磨国風土記」に、飾磨の郡大田の里についての記述がある。

〉また川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あると言われている。

(p_-) 多田氏の銀山・銅山のお話は以前、日本の苗字七千傑様から御教示を頂きましたね(p_-) むむっ!

呉・・登場しましたか・・(p_-)
非常に面白いですね・・これは(p_-)

所で・・白石様
白石様は私に大ヒントを与えて下さっていました!
菅原道真公に繋がるお話です。
宮原氏のお話ではありませんが、白石様が菅原道真公について何度もコメントされるので気になって調べたら・・もしや?の記述に気が付きました。
「平川家について」の方で日本の苗字七千傑様に御教示を賜りたいと思っています。

白石様、今後もよろしくお願い致します(^−^)
[8]白石さんからのコメント(2016年07月03日 12時08分13秒 ) パスワード

みやちゃん
こんにちあ
情報はわずかですが 何か 手掛かりになればうれしいです。
^^^^^^^^^^^^^^^^^
白石 佐田 も みやちゃんの スレッドの方で からんでいました。
そして
7000傑様から 白石について 朱 をしらべるように と ご教示をいただいていたけど 
あの頃は知識がなく さて どうやって しらべたものか? と 思いながら日がすぎていましたが
日本の苗字7000傑三国氏
坂田・酒人の系は 広媛からでるようですが 少し待ってくださいね。
天皇には9人の后がたったので 一度に整理がつかない。
 ―――――――――――――

「三国氏」に 至る系に 「朱大王」がいます。

三尾という言葉は 確か 「秀真伝え」にありました。太田田根子がつくっていたのですね。
――――――――――――――――――

「三尾氏の女子」三尾堅媛→倭媛と継体天皇→椀子皇子(当麻皇子)→桜井王→朱大王・長田王→三国麻呂・友足・人足→三国友足から井伊氏・松葉氏へと 続いている。


の用語解説(倭媛の意味・用語解説を検索)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
倭媛 やまとひめ
?−? 6世紀,継体天皇の妃。
「日本書紀」によれば,三尾堅楲(みおの-かたひ)の娘。大娘子(おおいらつめの)皇女,椀子(まろこの)皇子,耳(みみの)皇子,赤姫(あかひめの)皇女を生んだ。「古事記」には倭比売とあり,三尾加多夫(かたぶ)の妹という。

肝心の継体天皇ご本人のおばあさまに至る系のご先祖様ぴが 「天穂日命」ですね。
画面が小さくてよくわからなかったので コピーにとって 拡大してみました。
――――――――――――――――――――
朱大王古墳 | 石碑 | 京たなべ まるごと検索! | 京田辺市観光協

@朱大王の古墳は 「京田辺」にある。
A弥陀山古墳(石塚古墳・地蔵山古墳)(経25m)に建てられている。
と ここまでしか わかりませんでした。
――――――――――――――――
継体天皇の后に 関媛がいます。

「茨田小望」の 子供です。
茨田大娘皇女・白坂活日媛皇女・小野稚郎いら皇女をなしています。
今回は
白石・佐田に関係しているらしい 朱・関がまわりにいるなあ という確認と 
井伊氏 ・ 松葉氏へ至る系と
継体天皇ご本人にも 出雲系との融合がみられる と いうことでした。
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月03日 12時30分58秒 ) パスワード

白石様 ありがとうございます。

古代のお話になってくると私は「・・・・」とすぐになるので、お話を拝見すると
「この調査はやはり、白石様でなければ・・私ではダメだ・・」
と痛感しています。

鍵は「朱」ですね(p_-)・・「朱」って赤い色?あの・・何ですか「朱」って(?_?)

白石様
今後ともよろしくお願い致します(..)
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月03日 15時56分42秒 ) パスワード

白石様 マタマタの登場です(^'^)

昨日、思いつきのように白石様に調査を頼んだような事を書いてすみません。
感が働いたきっかけと言うか調査をお願いしたきっかけをちゃんとお話しなければ
白石様に申し訳ないと思いました。

三国氏そして松葉宗益 後裔 平賀氏を調査して頂きたいとお願いした理由は
やはり「木原氏」にあります。
〉写真の後ろに 高岡(木原)○○○ と 書いてありました。
ここで、ピンときたのです。
日本の苗字七千傑様の《松葉氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm#002
「木原氏」と「松葉宗益 後裔 平賀氏」は同族ですね。

さらに、
松原象雲氏調査、球磨による記述にあった「平賀氏」。
松原象雲と言う方を調べたのですがびっくりしました!
熊本八景水谷公園の加藤清正像を彫刻した方でした。
http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=50

さらに、
福島県史料情報 第33号(平成24年6月25日発行) サイト こちらに「松原象雲氏」に関する記述が書かれています。
http://www.history-archives.fks.ed.jp/con7/shiryo-33.html

白水阿弥陀堂(いわき市内郷白水町、現国宝)について
明治三十七年二月十八日、福島県は日本美術院への仏像修理委託を国より認められ、また国からの補助金八百三十九円七銭九厘が決定されたのである。上図は、同年五月十五日に日本美術院から福島県知事有田義資へ提出された阿弥陀堂国宝修理請負請書で、請負請書と修繕設計書からなっている。岡倉覚三とは日本美術院を主宰した岡倉天心のことで、洋行中とは、天心がこの年よりアメリカのボストン美術館に滞在していたことを指している。そのため日本美術院では、辰澤延次郎の指揮監督の下、劔持忠四郎を工事主任に、高瀬典曠を会計主任に、実際の仏像修復には現地で松原象雲・山本瑞雲が当たることにしたのである。
 仏像の修理請負金額は九百三十二円三十一銭であった。日本美術院では、五月二十一日より修繕に着手し、その手法は現在の文化財修復の基本である可逆的な修理法が採られた。七月十一日に完成し、十四日には石城郡へ引継ぎしている。

※白水阿弥陀堂の仏像修理に松原象雲・山本瑞雲各氏が当たっています!

国宝 白水阿弥陀堂
http://shiramizu-amidado.org/

ウィキでは
白水阿弥陀堂は、平安時代末期の1160年(永暦元年)に、岩城則道の妻・徳姫(藤原清衡の娘)によって建立された。徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立した。

とありました。うがっ?今気が付いたけど「願成寺」?・・・・

(..)話を進めます。

私はここで悟ったのです!国宝 白水阿弥陀堂の修理を行った方、あの有名な加藤清正公の像を彫刻された方が「文字の書き間違いなどする訳がない!」と。
(書き間違い?なんて思っていたのは私だけですが・・(..))

球磨の仏像調査を松原象雲氏が行われた時に、きっと、「平賀氏」の何らかの痕跡が、何れかの何処かの「仏像」に残っていたのでは・・
だって、全ての仏像が公開されている訳ではありません。神社の御神像として、絶対に見る事は不可能な御仏像も球磨には沢山あります。

やはり「平賀氏」の名を見過ごす事は出来ません。

ただ・・おそらくなのですが・・
様々な系の「平賀氏」の数系は「別系であれ」何らかの形で繋がっているのでは?と私は推測したのです。

球磨の良峰氏(平河氏)を継いだ系は複数あると私は考えています。
その複数の系は、闇雲に継いだ訳ではなく『「良峰氏(神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔)」と「いずこかの平賀氏」』と必ず関わりがあった方々だと思っています。

白石氏・木原氏・複数の系の「平賀氏」の関係などが気になる理由の一つは
相良氏は、鎌倉期だけではなく、例えば江戸時代でも、大阪や江戸で、別の藩の藩士の方を「採用」(言葉がわかりません(..))されているからです。
江戸や大坂で「正岡氏」など沢山の方々が「中途採用?」(言葉が解りません(..))されています。

このような事から、白石様にぜひ調査をして頂きたいと考えたしだいです(..)

精力的な調査、本当にありがとうございます。

よろしくお願い致します。
[11]白石さんからのコメント(2016年07月03日 22時18分52秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんは
台風一号が発生したのですね
涼しいのはうれしいけど 土砂災害などが起きなければよいがと 思います。
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こんなのがありました。安芸 平賀氏です。

太政大臣 藤原良房・・・松葉氏・・・平賀氏・・・木原氏

藤原良房は 北家 冬嗣の子ですね。


観応の繚乱をさけて 大内氏を頼って 山口に来た子孫の 二条良基。
そのまた 子孫の子孫の 「隆崇院」は 徳川家光の子・綱重に嫁いでいます。

子はいないけど まわりにいた。

二条良基の猶子に四辻善成がいるが 

 四辻 善成(よつつじ よしなり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公家・学者・歌人。従一位左大臣。順徳天皇の曽孫。尊雅王の子。

関白・二条良基の猶子となり、その庇護を受けた。四辻宮家に生まれる。姉に

石清水社祀官・紀通清の妻となった智泉聖通がおり、その娘・良子が足利義満・満詮の生母となる。つまり足利義満の母方の大叔父である。

四辻家と 高丘家は 養子に 入ったり また 来たりしている。このあたり もう一度 よく みないとわからないけど
前に といっても ずいぶん前で辞典でしか見られないころだったので  ややこしくて・・・ほうりだして しまいました。

山口県に 佐田があったあたりに  四辻町や 高倉町があります。

二条から九条になり
九条に仕えていた女性と源義朝の子供の子孫が還俗して 維新の頃

大政奉還の文を書いたことは前に書きました。

みやちゃん
たぶん メイビー ですけど

大内系図は ずっと前に 
「二条の祖」としてあるものを みたことがあります。

また 人吉相良と同族の相良氏が福岡のたたらが浜にいて 大内に仕えていた。たたらの大内と 源姓の大内はこれまた 同族なのではないでしょうか?

佐田もまた 古いほうの太田氏の辞典を見ると 二条であり 紀。
本流であった紀伊氏が滅んで後 宇都宮信房に至って はじめて 佐田の名乗りがつかわれた とありました。
――――――――――――――――  
藤原家摂家家系図/3をみると左下に 隆崇院という方がおられます。二条子孫です。徳川3代家光の子供・綱重に嫁ぐ。子供はいなかったけど徳川のまわりにいた と いうことですね。


直義と尊氏の対立[編集]

高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。高一族滅亡から半年も立たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、戦果の恩賞や処罰を自派に有利に進め、またの武将の処罰や自派の武将への恩賞を優先した。謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派へ取り込むなど直義派の懐柔も図った。一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。南朝へ帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。

3月30日直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者かに暗殺され、5月4日には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。尊氏は、近江の「佐々木道誉」と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、7月28日に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する体制を整えた。8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇には比叡山に逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。

※ 佐々木道誉(京極道誉・笹井・・・こちら高槻の重要文化財の笹井家の資料が 展示されていて それに道誉(笹井)とかいてありました。)


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同じくネットから
白市(しらいち)は、平賀氏によって白山(しろやま)城が築城されたことを契機に成立したと考えられています。

安芸平賀氏は、太政大臣であった藤原良房の後裔を称し、松葉資宗を始祖としています。
資宗は源頼朝に協力して源平合戦で数多くの功を挙げ、出羽、安芸、上総、越中にある所領を与えられます。

元寇(1274年)の頃、西国に下向し、安芸高屋保に御薗宇城を築いて居城としました。
鎌倉幕府が滅びると、平賀共兼は足利尊氏に従って活躍しますが、庶長子であった共兼と惣領であった弟の直宗は対立、この抗争に直宗が勝利します。

直宗は安芸高屋保に下向し、ここが平賀氏の本拠となっていきます。

戦国時代に入ると、当主の平賀弘保は文亀3年(1503)に白山城を築きます。

この白山城の城下町として、後に市場町として発展していったのが白市です。

平賀氏は毛利氏ともに安芸の地を去りますが、残った一族の木原氏が栄えていきます。
広島、三原、三次、竹原から1日でいけるという立地を活かして、宿場町としての機能も果たしました。

三次、久井と並ぶ牛馬市がたち、最盛期には1日に500頭の牛馬が集まったそうです。
また、鋳物が盛んにつくられました。
厳島神社の大燈篭もそうです。

芝居や歌舞伎、競馬などで賑わっていたそうです。

西福寺より

江戸時代初期の町屋の建築様式を伝える木原家住宅です。
(国指定 重要文化財となっています。)

旧木原家

先ほどの牛馬市は、元和3年(1617)から春と秋に開催され、それに伴い諸興業や露天が誘致され、市も活況を帯びてゆきました。
この市に出資し、白市繁栄の基礎をつくったのが、木原家を始めとする豪商達です。

木原家は、弘保の弟・保成の子孫で、保成は関が原の戦いの後、毛利家を離れ紀州浅野家に仕えました。

江戸時代初期に白市に住み、製塩、酒造、両替などの商いをし、芸南有数の豪商となってゆきます。
大規模な塩田開発の他にも、宗教的、公共的事業にも寄与したそうです。
白山城の麓にある光成寺(こうしょうじ)の再興も木原氏の尽力によるものです。

この旧木原家住宅は、寛文5年(1665)ごろに建てられたもので、年代の明らかになっている民家としては全国で6番目に古いものになるそうです。

ちなみに、木原家の家紋は梅ケ唐花(うめがからはな)ですが、その由来は、平賀氏の開祖松葉資宗が壇ノ浦で平家の赤旗を射斬り、その功績で文治元年(1185)に後鳥羽院より御製「出つ羽なる平賀の庄に咲花は幾たび見ても梅のから花」によるものだそうです。

↓ 伊原八郎家です。

伊原八郎家

大正4年(1915)から2年間かけて建設されました。
棟には豪華な装飾がほどこされ、玄関部分の梁、かえる股、竪繁、 格子窓も意匠が凝らされています。

御成門は、繊細で華麗、日本建築の美を感じます。

ちなみに、対面にある伊原惣十郎家は明治期の特徴を示す豪壮なつくりで、町家の大型化をよく示す貴重な資料となっています。

惣十郎家は、鋳物鋳造業を営んでいました。

↓ 舛木家です。

舛木家

明治後期の建物です。

江戸時代、何屋さんだったのでしょう?
旅籠・・・?

木原氏の他にも、平賀氏の家臣たちの多くは商人に転じてこの白市に残り、有力な在郷商人となっていったようです。

↓ 養国寺鐘楼門です。

養国寺 鐘楼門

もとは真言宗の寺院で、元暦年間(1184〜)創建と伝えられています。
天正年間(1673)に浄土真宗白龍山・養国寺と称し、現在にいたっています。

鐘楼門、本堂ともに江戸時代の建物です。

白市は、平賀氏が築城し市場町とする前には、養国寺の門前町でした。

↓ 養国寺 本堂です。

養国寺 本堂

意匠を凝らした欄間に見とれていました。
二十四孝を彫ったものなんですね。

木の色が美しいです。

時の流れを感じさせる柔らかな色です。

寛永4年(1751)と宝暦11年(1761)の年号の入った石燈籠がありました。
擬宝珠が三段重ねになった珍しい形の燈篭です。

木原保満氏が寄進したようです。
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相良氏は貴族の方ともつながりがあって鷲尾なんかも縁戚
にありますね。

ーーーーーーーーーーーーーーー
要領を得ないことですみません。
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月04日 04時42分16秒 ) パスワード

白石様 おはようございます(^'^)

木原氏についてかなり見えてきたようですね。
ありがとうございます。

所で・・
〉太政大臣 藤原良房・・・松葉氏・・・平賀氏・・・木原氏

どうして松葉氏が藤原良房を祖としているのでしょうか??
すごく気になって色々な系図を見ていたのですが、未だ見つかっていません。

ただ上記の御教示を頂いて一つ発見しました。
武家家伝 平賀氏・・(松葉氏後裔の平賀氏です(..))
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_hiraga.html
戦国時代、安芸南部で活動した国人領主平賀氏は太政大臣良房の後裔といい、平賀系図によれば松葉遠江次郎資宗が 始祖となっている。資宗は『吾妻鏡』に松葉次郎とみえ、尾張国松葉庄を領有し松葉氏を称したのだという。 源頼朝の旗揚げに参加し、源平合戦における功によって、出羽国平鹿郡、安芸国高屋保、上総国桜屋郷、 越中国油田条などを領有するようになった。資宗は源実朝の学問所番衆を務めており、文人としての才能もあったようだ。

(p_-)※尾張国松葉庄を領有し松葉氏を称したのだという。
ものすごく、基本となる事が私解っていませんでした(..)松葉は尾張国だったのですね\(◎o◎)/!

続けて転記します(..)
ところで、平賀氏系図をみると、遠江井伊谷から起こった井伊氏と同じく藤原利世を祖としている。平賀氏系図では、共保の子共宗から六代の孫松葉入道共益の嫡男が松葉遠江次郎資宗で、共宗の弟共家が井伊氏の祖となっている。一方、井伊氏系図では遠江守共資の孫に共政と共家があって共家の系が井伊氏に連なっている。また、『古代氏族系譜集成』に収録された「三国真人系図」を見ると、こちらも井伊氏と松葉氏とは同族となっている。
 はたして、平賀氏と井伊氏とは同族なのか?また、藤原氏北家から起こったものか、古代豪族三国真人の流れを ひいたものなのか…。中世の系譜集として信頼性の高い『尊卑分脈』に記された藤原利世の子に井伊氏と松葉氏らが 祖とする共良の名はみえない。遠い先祖のあとを系図から探り出すこと自体が無理なことだが、三国真人の流れをひいた 武家とみるのが自然ではなかろうか。
 
資宗の子惟泰のときに出羽国平鹿郡に下向したようで、惟泰・惟時兄弟は出羽国平鹿郡にちなんで平鹿と名乗った。 鎌倉初期、出羽国には平賀氏のほかに秋田郡に橘氏、 山本郡 (仙北郡) に中原氏、 雄勝郡に小野寺氏、 比内郡に浅利氏などが関東から入部している。系図によれば資宗には男子五人があり、嫡男の朝宗は三代将軍実朝から 諱字を賜ったとあり、二男惟泰は北条泰時から、三男惟時は北条時頼から一字を賜ったようで資宗一族は幕府内において 相応の勢力を有していた。ちなみに、四男泰実は油河、五男経宗は吉田を称しているが、いずれも平賀郡内の地名で あることから平鹿氏は惣領を中心に一族を郡内に配置して平賀郡の支配にあたったことがわかる。
 その平鹿(平賀)氏が安芸国高屋保に下向したのは惟泰の子惟長のときで、文永十一年(1274)の文永の元寇が 契機であった。惟長は役が終わったのちも安芸にとどまり、高屋堀に御薗宇城を築いて所領の支配にあたり、 平鹿を平賀に改めたという。かくして、惟長が安芸平賀氏の初代になったのである。とはいえ、平賀氏は出羽国平鹿郡を本領としており、安芸の所領の支配にあたったのは庶子であったようだ。

(p_-)・・・ナンデスト???
※資宗の子惟泰のときに出羽国平鹿郡に下向したようで
※鎌倉初期、出羽国には平賀氏のほかに秋田郡に橘氏、 山本郡 (仙北郡) に中原氏、 雄勝郡に小野寺氏、 比内郡に浅利氏などが関東から入部している。
(p_-)・・・ナンデスト???
※出羽国には平賀氏のほかに秋田郡に橘氏、・・・
この橘氏とは・・これはまさしく宮原の一族の祖である伊予橘氏「橘公業」の事ではあ〜りませんか?????
(p_-)

やはり、すんごっくモヤモヤしますね。
私、かなり以前に「平鹿郡」について書いたような記憶が・・何だったかな??
後で、探してみます。

今までの調査の傾向からすると・・
様々な調査に「伊予橘氏」が登場して・・さらに、私は気が付いていました・・その様々な調査に同じく「白石氏」の名も登場している事を(p_-)

〉養国寺 本堂
〉寛永4年(1751)と宝暦11年(1761)の年号の入った石燈籠がありました。
 擬宝珠が三段重ねになった珍しい形の燈篭です。
 木原保満氏が寄進したようです。

石灯籠の寄進・・
この頃球磨の石塔の調査などを”ひよっこ”ながらさせて頂く(と言うか後ろで見ているだけですが(..))、石燈籠の寄進・・当時、かなりの財力があったという事だそうですよ・・(p_-)
(こう言う事を知らなかったのは”あなただけ(私)!!”と言う声が聞こえてきたような(..))

木原氏の一族は、商家に変わり・・かなりの豪商だったと言う事がよく解りました。
白石様、ありがとうございました(^'^)
後・・最初に書いたように「色々な系図を見ていたら」
全く”忘れていた事”(トホホ)に、私の今の調査が繋がっていた事に気が付きました。

やはり・・いつも・・白石様は・・私を導いて下さっていると思います。
あらためて、ありがとうございます。

では(^'^)
[13]白石さんからのコメント(2016年07月04日 19時38分35秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんは

写真の裏の「高岡・木原の文字」
コメントを読みながら ぼーっとしていました。
私が前に書いたことですね。

ただ
★写真の裏の「高岡・平江の文字」です。
★「木原」の言葉は 父の手帳に「伊津野」「木原」と書きつけてあったこと 
★「木原」「伊津野」ともに 平江の姻戚にあること。
★祖父から父への葉書に 上村堀の角の小字が 木原と書いてあること。
★ 山崎 西尾など 平江の姻戚にあること
などを 書いていました。
★岡原には 高岡から嫁いでいるいえがあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

うちの高岡の女子の夫は 高橋 です。
長野の方からきているそうです。
どこもここも 系図などもっていず 高橋も同じですが 一応 古くに名があるところから さぐって 見ると
―――――――――
高橋東天神社(味噌天神)
道君首名を祀る。

この 道君について ネットでみたら

出自[編集]
道氏は「大彦命」の孫・屋主田心命の後裔とし阿倍氏の一族を称した[1]、北陸地方の地方豪族。首名はその枝族で阿倍氏との関係から中央に進出したとする説がある[2]。やや先行するが同族と思われる道君伊羅都売が天智天皇の夫人となり「施基皇子」(光仁天皇の父)を生んでいる。ただし首名との関係は不明。と。

★道氏は「大彦命」の孫・屋主田心命の後裔とし阿倍氏の一族。
 首名はその枝族。
★同族と思われる道君伊羅都売が天智天皇の夫人で、「施基皇子」(光仁天皇の父)を生んでいる。この皇子から現天皇家に続いている。
―――――――――――――
大彦命は孝元天皇の第1皇子)
皇別 阿倍臣のち阿倍(安倍)朝臣
本貫
大和国十市郡阿倍
★土御門家(公家)
★倉橋家(公家)
★東儀家(地下家)
大黒家(地下家)
奥州安倍氏(武家) など がいる。

景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事であるとされ、また継体天皇の妃に阿倍波延比売がいたといわれているが、歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化天皇の大夫(議政官)であった大麻呂(火麻呂とする説もある)が初見である。
[14]白石さんからのコメント(2016年07月04日 21時03分00秒 ) パスワード

武内宿禰
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖

父:屋主忍男武雄心命または比古布都押之信命
母:菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛(山下影日売)

羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城襲津彦、若子宿禰

ーーーーーーーーーーーーーー


道氏は「大彦命」の孫・屋主田心命の後裔

ーーーーーーーーーーーーーーー

7000傑様サイトの紀氏をみると 武内宿ねの系があり 壱岐真根子の女子と結婚する、
[15]白石さんからのコメント(2016年07月04日 21時47分31秒 ) パスワード

うちのお寺様は 川津氏。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

高岡の寺は「善正寺」だが 父は白石へ養子に入り 養父が 明治のころから いまのおてらにおせわになるようになりました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

川津媛
父:•・・・◦磯城県主葉 江【日本書紀 安寧天皇三年正月壬午条 一書云】
配偶者:・・・◦安寧天皇あんねいてんのう 【日本書紀 綏靖天皇二五年正月戊子条 一書云】
出来事:安寧天皇の皇后となる。【日本書紀 安寧天皇三年正月壬午条 一書云】。


ーーーーーーーーーーーーーーー

磯城氏考(含:十市県主氏・春日県主氏)附:中原氏 と 書いてあるのを見ました
これらは 饒速日子孫になり 春日と和邇は同族で 和邇は小野でのあった。
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月06日 08時22分51秒 ) パスワード

白石様、おはようございます。
昨日は早朝から所用で外出して帰宅が夜遅かったのでお返事遅れまして申し訳ありません。

御教示ありがとうございます。
時代が遡り「古代」に関わる”部分”はさすが!白石様沢山の知識をお持ちです。
上記の時代は、私は未知識(不勉強です)ですから、たいへん勉強になります。

所で・・「木原」・・地名が久米郷に動いている事に気が付きました!!
(過去の自分のスレッドに「木原」の文字がが残っていないか検索して解りました!)

平川家について10-1コメント12に書いていました!
こちらは求麻郷土研究会発行 郷土第三十一号
宮广大(みやますぐる)氏著 中世宮原城跡考察 の中の記述です。
転記させて頂きます(p_-)

南北朝の動乱の際に、橘氏は平河氏・須恵氏・永里氏・奥野氏とともに、南朝方である上相良氏に組し、北朝の下相良氏と郡内各所で合戦となり、興国3年(1342年)久米郷木原合戦で大打撃を受けた。

※久米郷木原合戦・・「木原」
地名が動いている・・地名遷移・・・すなわち
「木原氏」は球磨郡久米郷のいずこかに来られていた!と推測できませんでしょうか!?

平江氏・・もしかしたら「平賀氏」からの姓に由来(姓を替えた?)するのでは・・?
「平河」ではなく何故「平江」なのかは・・よく解りませんが・・

しかし、私は「平川家について」の調査と白石様にお願いしたこちらの調査をいつもリンクして見ていますので、きっと、”何か繋がって来る”と思っています。

今後とも、こちらの調査、どうぞよろしくお願い致します。
[17]白石さんからのコメント(2016年07月06日 11時05分36秒 ) パスワード


みやちゃん
おはようございます。
平河子孫35−16より
>富田家ですが、家の球磨郡内の親戚にも富田家があります。(父からちゃんと聞いていました(..))
ちなみに、球磨とは関係ないのですが、母方の祖母の実家は日向佐土原藩の藩士家の富田家です(..)
あと、山口家は椎葉のおじの”いとこ”にあたる家に山口家がありま
す。
ーーーーーーーーーー
うちの 山口は 宇土から来て 平江の家の娘と身分違いの結婚をして 川辺まで逃げてきて、 後 家土地売り払って 一家ぐるみ 関東に行きました。


岡原に 五葉の松紋を使う山口がありますが 姉たちも あちらも 親戚ではないと言いました。

先祖の人に うちの山口と同じ名を持つおばあさんがいますが、この名は うちでは 坂本から嫁入った人の名です。あちらの人(うちの山口のおばあさんと同じ名の人)がどこからこられたか 存じません。

「坂本」 「荒木」も 平江の嫁方にあります。
 

[18]白石さんからのコメント(2016年07月06日 11時07分32秒 ) パスワード

下益城郡守富(富合)・・・8世紀頃肥後の国府があった。
木原 平江姓が多い。
うちの平江は庄屋だったと 姉が言っていましたが、跡取りも絶えて 家は空き家同然ということです。
私と同世代くらいの人が鹿児島に行っているそうです。
高岡のほうも鹿児島にいるそうです。

平江のほうの戸籍を見てみました。
これより先 戸籍 役場に 保存なし との こと 

平江○○○
○○○の長男 
○○○の次男 市次 明治八年一月二十四日 下益城郡木原 兄 ○○より分家      下益城郡木原村七百十二番地
生 嘉永四年四月十一日 亡 明治四十二年二月一日午後十時死亡
妻 ○○ 下益城郡守富村木原 福田○○○の長女 明治九年八月十九日婚姻届
生 安政三年十一月一日

なので 江戸時代に最初の人は生きていたようです。その前はわかりません。


[19]白石さんからのコメント(2016年07月06日 11時09分28秒 ) パスワード

福田から 嫁に来ています。

これらを 勘案すると
菊池の侍帳に 高岡 坂本 白石 平川 尾方 高田牧宰


がついていることが 浮かびます。

辞典で 山口は 高階氏に関与いている 条項があります。一行ですが。

平賀から 平江へ
う〜ん
平江の由来は 聞いていません。
他の家について 詳しく書いてある辞典でも
平江は 不明です。
先日 わたくし ネットで 蘇州の平江が「ひらかわ」と 呼ぶことを知りました。蘇州は 呉があったところですね。
これも 古のことで ぼーっと していますが・・・

野にくだって 平江になったのかも しれません。
継体のまわりに 呉の勝がおり 呉は 周の枝分かれ であり
倭でもありました。
倭の五王が 松野系図でしたか ついており
尾張熱田神宮の 尾張氏系図に「倭の五王」が あると 太田氏は書いていました。
[20]白石さんからのコメント(2016年07月06日 11時14分00秒 ) パスワード

南北朝期 熱田大宮司は 南朝の総帥に立ち
男山に戦い ようとして 行方知れずのひと
もいるそうですが 神宮の社家の方々は 後世 多くが 名を変えられ 実態はわからないそうです。

千秋家(大宮司家・源頼朝を出した・藤原南家から婿養子に入った武内氏は 為に神宮を出て「八剣神社をたてた。この神社は 大国主をまつる 」)の嫁方に 17世紀頃か一回だけ 高丘(華族・京都におられるそうです)や 山口家があります。

この高丘家は 「杏葉紋」を 使っておられ
大友などと 同じです。同じだから 関係あるとは突飛すぎるとは思いますが 南朝方の場合 結構 あっちこっちと キョウダイが ちぎれながら うごいていることは 考えられると思います。

このとき
北畠親房のほうで 佐田の名があるのも ありかな?と 思います。
[21]白石さんからのコメント(2016年07月06日 11時15分27秒 ) パスワード

隣の家の名は 林田です。
肥後林田氏 林田駿河守公康(菊池政隆家臣)
細川氏家臣林田氏
※となりも 誰それの子孫とは わからないとは思いますが そこの息子の結婚式のとき 古風なやり方をしていたのを 子供ですから 縁側から覗いてみていたのを 覚えています。

球磨は 南朝よりで あと 北朝に転じていますね。
四浦あたりの家は 山田から きとんなっと とか 五木からきとんなっと とか いうところが 結構あります。

メジロとりに 来ていた人に聞いたら 初神の方から 山を越えると 山田に 行くと 言っていました。バス道路とは 違う 道です。

宮原という家は 私の学年は 団塊の世代なので 分母が大きいのですが 

野原の分校から 転校してきた人だけで あと 集落にはいませんでいた。相良藩は 維新の時 幕府方。許されているけど 武士身分は失職したわけなので 下の方に移って行かれたとも考えられます。

小山先生は 維新で失職した武士が 熊本の方から 四浦へ来い 四浦に行けばめしが食える と
入り込んできたと 書いており

吉田なんかは 真っ先に帰農した。
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月06日 13時33分04秒 ) パスワード

白石様 今日は(^'^)

まず・・
〉>富田家ですが、家の球磨郡内の親戚にも富田家があります。(父からちゃんと聞いていました(..))
ちなみに、球磨とは関係ないのですが、母方の祖母の実家は日向佐土原藩の藩士家の富田家です(..)
あと、山口家は椎葉のおじの”いとこ”にあたる家に山口家があります。

の話ですが・・
椎葉家の親戚の山口家は岡原ではありません。
場所を書くと個人情報になるという事と・・色々”携わっている”ので・・書けません。すみません(..)
あと・・
母方の祖母の実家なのですが、父に詳しく聞くと
家は宮崎県新富町の「とんだ」という場所の富田家だそうです。
「とんだ」?の字はよく解りませんが・・「とんだ」は字なのかな?と・・?

「下益城郡木原村」・・そうか・・木原村と言う事は「木原氏」の移動による地名遷移の可能性があるのかもしれませんね・・・?

〉隣の家の名は 林田です。
林田氏は球磨郡には沢山いらっしゃいます。
私の地元にもです。
林田氏は相良藩士にその名がみえます。

〉相良藩は 維新の時 幕府方。許されているけど 武士身分は失職したわけなので 
失職・・でも、明治7年までは”家禄”という形で生活の保障はされていました。
以前、コメントした人吉市史の記述が上記に関係しています。
しかし、細川藩は足軽身分の方々も明治以降、上記”家禄”の対象となる「士族」として認めていましたが、相良藩は違います。

相良藩において明治以降家禄を受け取る事が可能な「士族」として認められた「系」は以下のいずれかに該当しなければ、足軽身分の方々は「士族」とはならなかったのです。(該当していれば士族として認められました。)
@相良氏球磨下向(下向と書くのはあまり好きではありませんが)の際に追随した随行者の末裔である事。
A何れかの戦や藩内において相良氏に貢献した(戦や藩内で功をたてた)氏の末裔である事。
他にも何点かありましたが、今、手元に資料が無いので、記憶していた事を書きました。(人吉市史に記述あり)

明治以降「士族」として認定される為に、元相良藩士は”家禄対象者”より少なくとも五代遡った系図(系が解る物)を提出しなければいけませんでした。
人吉市が保管管理されているとの事です。
旧免田町(現在のあさぎり町)長徳寺に、「宮原家」「新堀家」「平川家」「椎葉家」など親戚の過去帳(庭柏寺から受け継ぐ)を求麻郷土研究会の方と調査に行きますが、同時進行で人吉市保管管理の”五代遡った系図(系が解る物)”も調査に行く予定です。
個人情報なので簡単には見れないそうですが、「系」に関係する証明があれば閲覧可能と言う事なので、私は、ありがたい事に曾祖母の父「新堀●●」の記述が人吉市史に記載なので、おそらく・・見せて頂ける可能性は高いとの事でした。
あと・・宮原家の家督相続証明にも、宮原家と新堀家と平川家の姻戚関係が証明されているので、こちらも利用しようかな・・と思っています。

〉熊本の方から 四浦へ来い 四浦に行けばめしが食える
帰農・・というか開拓です・・
こちらは、郷土史等、複数の書籍で確認出来ます。「高原(たかんばる)の開拓団」です。
木上村と四浦村に跨る、「高原(たかんばる)」の開拓に、元細川藩士他、相良藩以外の藩から家族を連れて移住者が沢山来られています。

四浦村以外に旧宮原村では、当時の明治政府や県の政策により「天草の元藩士」が沢山移住されています。
鎌倉期以降、新田の開発が進んだ旧久米郷は幸野溝・百太郎溝の開発で、急速に新田の開発が進みました。
在郷藩士の管理の元、農業に携わってきた人達が、明治維新以降、旧宮原村を多数離れて行かれました。
広大な農地があっても人が足りない状態になったのです。
政府や県はこれらの農地(田・畑)を移住者に与えて生活の基盤を作ったという事です。
家の一族も所有していた農地を県に売ったという記述が残っています。

旧岡原村と旧上村に跨る神殿原(こうどんばる)には元細川藩士が同村に戸籍を移し神殿原(こうどんばる)開拓団を設立しました。
※上記の方々が・・後の明治政府・日本各地の県知事・都知事・政治結社に関わりを持ち・そしてその中の某人物は・・海外で発生した”おそろしい事件”にも関わっています・・

政府・県が行った旧藩士の救済策が「他の地からの球磨移住」です。

白石様、平江氏・木原氏の調査、今後ともよろしくお願い致します。
[24]白石さんからのコメント(2016年07月06日 14時48分41秒 ) パスワード

みやちゃん
早速ありがとうございます。

うちのとなりの平川は 元士族だったと 平川のおばが 言っていました。祖父は 「定長」です。

白石の祖父は 前に書きましたが、農高に勤めていました。
定年の時の賞状には 「助教授」とありました。

兄に言わせたら 
貧乏して その前 炭鉱で働いていた と 言っていましたが これは 父たちは 否定していました。
本家の跡取りだったのに 幼くして両親を亡くし
叔父夫婦だかに 育てられて

あと 先ほど書いたような人生で 上村に 家土地を手に入れたようです。本家の跡取り 云々 は お寺様から 兄が聞いているのですが、
私も 「善正寺」さまから 聞きました。

もう少し 簡略化した 話でしたが・・・

白石の本家というところが お願いしているのが 「古見院」です。
お寺を 3つたどって 探しました。

父母の結婚保証人になってくれた人が 
わしらあ あんたんとこを 高岡の殿サン いうとったったいな
山ばわけて わけて あぎゃんなってしまいやったったいな
と 言っていました。
お寺様の たかおか を 忘れるな(父の苗字をたかおかというまでなんども お父様のお名前は?と聞かれたこと)

の 態度。
などなど 
岩本のおじが 言った「あんたんとこの おとっさんの出はただんもんじゃなかったっじゃで」という言葉に つながってくるうようです。

父(高岡)と 先妻(平江)もいとこどおし
祖母(佐田)と母の実父(山本)もいとこどおし です。

うちの高岡が いつ頃四浦萩に来ているか定かではありません。
戸籍では 江戸時代に 最初の人が書いてあります。
遺跡を継ぐ という言葉から また 高岡のおじの所作から もともとは 武士だったのだろうと 思います。

父も 高岡のおじも お手紙をいただいた 市房神宮の宮司様も 白石の本家の人も みな 名前は 一字で

他の代は 違います。当時のはやりだったのでしょうかしらね。?
父何ぞ ○広 なんぞと書いて 母から猛烈に怒られていました。

私の名を 届けるのに 父は 漢字3文字で届けたのに 役場でカタカナ2文字にされた と 起こっていました。まったく 字もしらんやつらで・・・と。

学校へ行く頃 なおしてもらいました。
が 感じでなく ひらがなでした。
 
[25]白石さんからのコメント(2016年07月07日 01時20分30秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ
少し ながいのですが 「山口」 せんぞについて ずうーっと前に しらべていたことを 書きます。

要は 
⓵ 武蔵智大蔵のが源氏の本拠地であること
A 坂上系図大蔵氏の系に 木原 山口の系が あること
ですが

ずいぶん前で まだ 知識がなかったころの ことですが
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1 山口氏・・・うちの山口は下益城郡守富(富合)にいた。後 川辺村へ。
 その先の可能性
 1 宗像氏→山口        5 高階氏→山口         
 2 大蔵→山口         6 多多良氏(大内)→山口        
 3 原田→山口         7 菊池→大名家の常陸牛久藩主・山口は 大内氏の末裔
 4 木原→山口       ※ 皇統譜につく神武天皇皇后は事代主の娘(大物主の娘とも・・大物主=大国主)

1から2(宗像、大蔵)への流れはスサノオ→大国主→事代主(宗像系図は大国主・事代主を祖先にする)→・・・・・・・宗像氏→大蔵氏 

2から4(木原、原田、大蔵)は いずれも 漢王室霊帝子孫 阿智使主の子孫 。後漢霊帝から 大蔵→木原→山口へは大蔵→岩門→木原→山口

5から7(菊池 は 高階氏と藤原道隆の間の子の子孫。大内氏でもあり、百済の武寧王・・・淋聖太子・・・大内・・・弘貞・・・弘家・・・弘幸・・・大内氏
大内氏は 菊池をとおり 一子相伝で豊田を名乗る)。高階氏は宗像氏の女子と天武天皇の間の皇子・高市皇子→長屋王→高階氏
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

相良氏と戦い 敗れた菊池は 米良と 名を変え 又 
相良家家老として 名名跡が つがれ(高橋)、
実子もまた 相良家家老系(高橋)にあるという。
菊池氏には 阿蘇氏 大友氏から 養子に入っている。

つまり 天皇家・・・・・・・・・・天武天皇→→→→高市皇子→長屋王→子供・・・二人が ★高階氏を名乗る。
スサノオ→大国主→事代主→・・・宗像氏 ↑→大蔵氏→

宗像系図によって 高階氏へは 女系でつながってくることがわかる。

※ 一般に 神武天皇からの男系を 我々は 考えるが 実際の 血は 事代主(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)の女子が 代々皇后に立って
おり 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の女子・女系と考えると よくわかる。
[26]白石さんからのコメント(2016年07月07日 02時07分23秒 ) パスワード

※又 山口をみると わかるように 大蔵氏がでるが 武蔵 大蔵の地が 源氏の本拠地。
                             
大蔵は 漢王室子孫で 出てくる。 

1) まず 大蔵氏→木原→山口 を みてみよう
後漢霊帝―(孝)献帝―石秋王―阿智王(阿智使主)−高尊王―都賀直―阿多部王―(東漢)掬−志怒−坂上へ→平安時代坂上田村麻呂を出し、後宮に血を入れる。
                                    |爾波伎―角古―久爾―古閉−広隅―大蔵へ
                                    |加志乃―黒古乃―(山口)都黄―大口―●―大麻呂―兄人―公麻呂
                                     人麻呂―諸上

【大蔵】広隈─┬国足─┴泉──麻呂──子足─┴真勝――勝――常直――春実――春種――種光──種材──光弘──種弘――種輔(岩門氏へ)
※ 上記の他【宍戸氏】【山北氏】【市来氏】【加治木氏】【長束氏】【千手氏】【多紀氏】が大蔵氏。

【岩門】種輔─┼種平─┬種成──種直(原田氏へ)
       │   │
       │   ├種俊(三原氏へ)
       │   │
       │   ├敦種(美気氏へ)
       │   │
       │   ├光種(江上氏へ)
       │   │
       │   └種安【高橋氏】【笠間氏】           ┌種宗 ┌種長
       │                           │   │
       │   ┌【安永】種永──種能【大屋野氏】       ├種重─┴種秀【田尻氏】【納富氏】
       │   │                       │
       │   │       ┌種雄【米生氏】        ├種光
       │   │       │               │
       ├種綱─┴【米生】宗綱─┴【北郷】種忠─┬【田尻】種範─┼種兼
       │                   │       │
       ├【別府】種良─┬種清【別府氏】    ├景季     ├種元【湯江氏】
       │       │           │       │
       ├種家     └種良【或水氏】    ├種能【亀崎氏】└種継【田尻氏】
       │                   │
       ├種久──種遠【板井氏】        └景通──【木原】景村─┬種氏【木原氏】
       │                               │
       │       ┌種秀                     └種家【山口氏】・・・関連・島原条へ
       │       │
       └種貞─┬種有─┴種資─┬【天草】種益──【本砥】種胤――【天草】資種─┬種氏──種文──種治──種満【天草氏】
                                │
                                ├種武【天草氏】
                                │
                                └種世──種朝【天草氏】
※ 上記の他【勢戸氏】【瀬戸氏】【栖本氏】が天草氏庶流。


筑前の木原氏
 筑前国山口郷より起こる  
  大蔵系図
    木原景村入道覚道→種家(号山口)→種春(五郎)→種徑→種元→種善(五郎四郎伊勢の守)→種盛(孫九朗) 弟種光 弟種武(新六) 弟種貞(新四郎) 
弟種弘(左右)

筑前・筑後
 筥崎祠官に山口惣右衛門   堤家臣に山口覚榮   元亀二年 上広川庄当住村帳に
  山口半左エ門
  山口玄番頭
  文録三年 両筑を 検地す

参考
・山口県都農郡の百姓の家に 「木原」があり、清和天皇子孫という。下に出る 「下益城郡誌」の 木原は源姓と合致している。
  山口県文書館「萩藩閥閲録遺漏」1971
   木原家系図の写し
    頼成
      弘安之大乱、唐人来朝之時、馳下而赤間関戦死、以此忠於安芸山県郡木原庄被賜百町之地行所、合前則為三百町。

       「閥閲録」は1718年(享保三年)の藩校明倫館の創建と同時に、萩藩五代藩主吉元の命を受けた永田正純により、

毛利家譜および家臣伝来の古文書・家系の調査事業をまとめるかたちで編集されたもので、

その後幕末期に収録漏れの諸士以下寺社農商家を調査し、15冊27家分が編集されたものが「萩藩閥閲録遺漏」である。
        
※系図の書き方は 7000傑様サイトのようですね。
※ 都濃郡は 父が一時 住所をうつしていたところで 先妻の子二人はそこで生まれています。

[27]白石さんからのコメント(2016年07月07日 02時11分05秒 ) パスワード

 木原家は「萩藩閥閲録遺漏」では「都濃郡農家」とされている。この系図によれば、木原家は清和源氏、貞純親王の末裔、頼信の弟頼高が信州木曾木原庄を得て名字としたのがはじまりである。その孫房義の代に備前小嶋2百町を領し、そのひ孫頼国は「寿永元年平氏舟戦之船中而討死」とあり、その4代後が頼成である。ここで言う「弘安大乱」とは「唐人来朝之時」とあるので、いわゆる霜月騒動ではなく弘安の役のことを想定しているか?
参考
 秋月氏は、他の地域(九州以外)から移り住んだ「島津氏」・「大友氏」・「有馬氏」・「宇都宮氏」などと違い、大蔵春実以来の筑前国土着の地頭である。
 秋月氏は 徳川家康六男忠輝を生む。
 原田氏子孫 菊池氏の西郷の局は 徳川家康の子・秀忠を産む。

【大蔵氏】
 後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智使主を祖とする。
 朝廷の官物を収めた大蔵に仕えた漢帰化族の子孫で、後の太宰府官人として九州に勢力を持った。
 嫡流の原田氏は平氏政権のもとで勢力を振るい、多くの支流を分出する。
 江戸時代の大名家「日向・高鍋藩(秋月家)」の藩祖は、豊臣秀吉に敗れて筑前・秋月から日向・高鍋に移封された秋月種実(秋月氏16代)で、
その嫡子・秋月種長(秋月氏17代)が日向・高鍋藩の初代藩主である。
[28]白石さんからのコメント(2016年07月07日 02時16分14秒 ) パスワード

末松昭吾の論文と遺言ネットより
大蔵系図によれば、大蔵氏の祖は(阿智使主の孫)・山本直
第40代・天武天皇に 宗像徳善の娘・尼子娘 後宮に入る。皇子を産む。大蔵姓を賜る。その子 高市大領 奈良時代太政大臣 又 その 子孫
朝廷より 宿禰を賜う。

大蔵春実 対馬の守 藤原純友追放 
種光 太宰大監 その子 種材 壱岐守 号 岩門将軍 大宰大監 蒙征の西将軍を命ぜられる。天下無双の弓馬の達人であると記実されている。
下益城郡誌 
 守富庄  ※(杉合村・守富村が合併して富合村になる。のち 町に)
・・・建仁元年(1201)九条兼実は 当庄を 皇喜門院(藤原忠通女聖子、崇徳中宮)の証真如院の仏聖灯油・供僧料として 寄進し、
        造宇佐宮役を除く一国平均の 諸役が免除され荘園として完成した。・・・・・・在地ないし地頭職については まず 承久三年(12211月18日)の
        木原実澄契状案がある。(阿蘇家文書)

        木原氏は 源姓を 称する 在地領主で 鳥羽院政期に 広美が 反国衙の乱行を くりかえし、(年未詳「肥後の国某訴状写」)高野山文書、
承安3年(1173) には 実澄の父 顕実が 砥用・小(尾)北の 両山を 甲佐社に寄進 同年1月18日「木原顕実寄進状」阿蘇家文書、
養和内乱には その 弟 盛実が 菊池高直に 与同する(吾妻鏡ほか)など 緑川中流域一帯に 大きな勢力を持ち 仮名清松(実澄契状案)と称して
(清松名は守富庄内の名として残り恐らく今藤名とあわせて後 清藤村となったものと思われる)守富庄の下司となったものと思われる。

その後 宝治の頃に 関東の権威を持って 下地を かすめとられ 当庄の年貢・御用米を 打ちとめられた。
その後 まもなく 木原氏は 完全に没落し・・・・

・・戦国時代には菊池部包が ・・・
現富合町木原の六殿宮(元六殿神社)は、守富庄の鎮守として 地頭 木原氏によって建立された とも 伝えられるが 確証はない。  
[29]白石さんからのコメント(2016年07月07日 02時18分35秒 ) パスワード

下益城郡
 益城郡の古代・中生の郡域は 近世の領域とは合致せず 西の一部は宇土郡に、南の一部は八代郡に属していた。・・・
 古墳文化は 比類のない方形周溝墓郡および円墳・前方後円墳など4世紀から6世紀にかけての墳墓が発掘された塚原古墳群(城南町)に代表されるが・・・

・・このあたりは 8世紀に肥後の国府が所在したという。・・・木原氏のような開発領主・・・木原氏は雁回山(木原山)東北麓一帯を本貫地とし、
浜戸川中流域から 砥用・小(尾)北といった 緑川上流の山間地域にまで勢力を誇り、重代相伝の所領を形成した。

勢力の拡大は国衙権力との対立を招来し、鳥羽院政期には 八代郡豊福保など(元松橋町)などの官物を奪取する行動に出ている。
そして、平氏政権下では 治承4年(1180)菊池隆直らに 同調し 反平氏の兵を あげた。

・・木原氏は13世紀中葉には没落・衰退する。・・・
2)次に宗像氏(胸形)をみてみよう
第40代・天武天皇に 宗像徳善の娘・尼子娘 後宮に入る。高市皇子(皇太子)(太政大臣)を産む。大蔵姓を賜る。
その子 高市大領 奈良時代太政大臣 又 その 子孫 朝廷より 宿禰を賜う。

高市皇子と御名部親王の女子・夫持娘(御名部皇女)・・・父・天智天皇(葛城皇子) 母・姪娘
                          御名部皇女は阿閉皇女(第43代・元明天皇)の実姉。
※ 元明天皇のとき、もとの系が乱れているからとて、古事記、日本書紀が出来た。
※ そのとき 2神社16家の古文書、系図が 国に引き上げられた。
※ ここらが 祖先がわからなくなっている ひとつの 鍵だと 思うのです。
 宗像氏は三輪氏と同族、大国主命の神裔と伝えられる宗像神社の大宮司家を中核とする筑前の名族。
 大化改新後、筑前国宗像郡大領を兼帯した家柄でもあり、後裔の宗像氏実は鎌倉御家人となる。
 建武3年九州西走の足利尊氏を宗像社に迎えて、以後北朝側で活躍することになる。
 戦国時代は大内氏と提携して大名化するが、天正14年宗像大宮司の正統が断絶して近世以降は庶流の深田氏が系嗣して明治に至る。
出自については、清氏の宇多帝皇胤説が存在する。
 
[30]白石さんからのコメント(2016年07月07日 02時28分32秒 ) パスワード

                ┌等抒─┬鳥麻呂──深津─┬大徳 ┌秋足─┬綿麻呂──────────┐
                │   │        │   │   │             │
吾田片隅命……(系未詳)……┐ │   ├与呂志     ├池作─┴秋雄 └興里──浄江       │
              │ │   │        │                     │
┌─────────────┘ │   ├山守──枝嗣  ├稲積──国足─┬春男           │
│               │   │        │       │             │
└【胸形】徳善─┬【宗形】赤胡─┤   └川麻呂     └弟継     └里名           │
        │       │                                  │
        └尼子娘    ├田禰子──中養 ┌豊足──浜麻呂──千郷              │


系がぐちゃぐちゃになっていますが あたのかたすみみこと の 子孫が 宗像氏になっています。

[31]白石さんからのコメント(2016年07月07日 02時30分24秒 ) パスワード

《出雲神族綱要》
 
     ┌八嶋志奴美命──天葺根命──清武豊彦命……〔日御碕神社神職家〕【日置氏】【小野氏】
     │
     │     ┌下照比売命
     │     │
素戔鳥尊─┴大国主命─┼事代主命─┬天日方奇日方命──┬健飯勝命──健甕尻命──豊御気主命──────┐
           │     │         │                       │
           │     ├媛蹈鞴五十鈴媛命 ├淳名底仲媛命                 │
           │     │         │                       │
           │     ├五十鈴依媛命   └磯城津彦命……〔磯城県主〕          │
           │     │                                 │
           │     └天八現津彦命──観松比古命─┬大日腹富命……〔億岐国造〕【隠岐氏】 │
           │                    │                  │
           │                    └建日別命─┐            │
           │                          │            │
           │              ┌───────────┘            │
           │              │                        │
           ├建沼河男命……【越氏】   └伊侶止乃命──八上乃命(長氏/長宗氏/凡氏へ) │
           │                                       │
           ├健御名方命……〔洲羽国造〕(諏訪氏へ)                     │
           │                                       │
           └国忍富命………〔須佐神社神主家〕【稲田氏】【須佐氏】              │
                                                   │
     ┌─────────────────────────────────────────────┘
     │ 
     │      ┌吾田片隅命……(宗像氏へ)【和仁古氏】
     │      │
     │      │              ┌大鴨積命【賀茂氏】【鴨部氏】【三歳氏】【石部氏】
     │      │              │
     └大御気主命─┴健飯賀田須命──大田田根子─┼大御気持命───大友主命(三輪氏へ)
                           │
                           ├田田彦命【大神氏】【神部氏】【神人氏】
                           │
                           └大禰希知命【神人部氏】
[32]白石さんからのコメント(2016年07月07日 02時33分36秒 ) パスワード

3)菊池氏 を見てみよう 
  高市皇子と御名部皇女との間の子・長屋王→長屋王と大炊王女との間の子・桑田王――――――――――高階氏族祖
                      長屋王と藤原不比等の女子との間の子・安宿王――――――高階真人
少し 詳しく このあたりを 見よう

名前         父            母                     備考
阿閉皇女   葛城皇子、即ち天智天皇)     姪娘(母越智氏)           第43代元明天皇
御名部皇女   同上              同上 阿閉の実姉(母越智氏)、     太政大臣高市皇子正妃
穂積親王   大海人皇子、即ち天武天皇     大ヌ娘                二品。太政官事。715年没
舎人親王   同上               新田部皇女(父天智天皇母阿閉氏)   一品。古事記 日本書紀・・・太安万侶も関与する
新田部親王  同上               五百重娘(藤原鎌足娘)        二品。
長親王    同上               大江皇女               二品。715年没。
軽親王    草壁皇子             阿閉皇女、即ち元明天皇        第42代文武天皇
氷高内親王  同上               同上                  第44代元正天皇
吉備内親王  同上              同上                   長屋王正妃
長屋王    高市皇子           御名部皇女                従三位宮内卿
鈴鹿王    同上              同上                   従四位下
門部王    同上              同上                   従四位下
首皇子    軽皇子、即ち文武天皇     藤原宮子                 第45代聖武天皇
広成親王  (広世)             同上                   石川刀根子(皇籍を剥奪される。母は天智朝の大臣蘇我連子の末裔。
井上内親王  首親王、即ち聖武天皇     県犬養広刀自
不破内親王  同上              同上
安積親王   同上              同上
阿倍内親王  同上              藤原安宿媛               第45代第47代考謙・称徳天皇
基皇子    同上              同上                   乳児期に薨去

※ 元明天皇のとき 古事記や日本書紀が 完成し、2神社16家の古文書、系図が ひきあげられて、藤原不比等の女子・宮子が文武天皇に入内し、
出来た聖武天皇にさらに妹の 光明子(光明皇后)が 入内する。聖武天皇と光明皇后の間の子は 孝謙天皇・称徳天皇 (同人物)。高野姫尊という。
 ※  藤原鎌足の出自は 常陸鹿島  大和高市 など ある。飛鳥。飛鳥とは 百済の言葉で 「安住の地」だった。
     聖武天皇や 光明皇后なども 飛鳥で 育てられた。

この 高階氏と 藤原道隆との 間の子孫が 菊池氏。    
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月07日 06時24分01秒 ) パスワード

白石様、おはようございます。

すごい!すごい!すごいですよ!!白石様!! さすがです!!
膨大な調査、大変でしたね。
ありがとうございます!

今、さっと目を通しただけなので、後でじっくり読ませて頂きますが・・
私は、今朝の御教示本当に「宝物」を手に入れた気分です。

心から感謝致します。
ありがとうございました。

秘密の鍵がいっぱい見えるようです。
益城郡の木原氏。白石様の御親戚が「益城郡」に集中している理由が見えてきた!
そう感じています。

(^'^)(^'^)(^'^)(^'^)
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月07日 08時07分09秒 ) パスワード

追記
白石様、夜中までの調査、本当にありがとうございます。
お身体の具合大丈夫ですか?
私が調査をお願いした事で、白石様に御無理をかけてしまいました。
すみません。
今日は、無理をせず、ゆっくりと過ごして下さい。
私は、現時点で、頂いたご教示から「数知れない」”気が付いた事”が見つかっています。
本当にありがとうございました。
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月07日 14時08分58秒 ) パスワード

白石様、皆様、今日は(^'^)
白石様お疲れ様です。

白石様の調査(御教示)こそ、「白石様のお父様(高岡家※物部氏)と白石氏・木原氏・平江氏・山口氏」と御親戚関係の御先祖様を解明する「鍵」だと私は思います(^'^)
(p_-)いえ(ー_ー)!!もうすでに解明されたような気がしますが・・(^'^)
この「鍵」があるからこそ、御親戚の平川家との「姻戚関係」があるのだと心から感じています。
良かった、本当に良かったですね!
さらに白石様の御親戚と私の親戚に共通な「尾方家」「山口家」が双方を繋ぐ鍵だと思います。

〉一般に 神武天皇からの男系を 我々は 考えるが 実際の 血は 事代主(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)の女子が 代々皇后に立って
おり 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の女子・女系と考えると よくわかる。
あの・・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
天火明命(アメノホアカリ)・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は・・同一の神であると言う事でしょうか\(◎o◎)/!

所で・・白石様、皆様、私、お詫びしなければいけない事があります。
実は・・祖母の妹(多良木平川家)の娘(私の父の従姉)の嫁ぎ先なのですが知っていて書いていませんでした。
(父の従姉もおじ(夫)も、関東に住んでいまして、コメントを書いて良いか確認が出来なかったので・・言い訳ですね、ごめんなさい)
祖母の妹(多良木平川家へ嫁ぐ)の娘(私の父の従姉)の嫁ぎ先は・・宗方家です。
※宗方(宗形だったかな?でも”宗像”じゃありません。)
でも・・宗方家(宗形家)と多良木平川家の繋がりがよく解らなかったので、確認してコメントを書く事でもないのかな?と思っていました。
しかし、白石様の御教示を拝見して、後ろにひっくり返る程ビックリしました!
(p_-)・・(..)どうやら・・私が書いていなかった事が、白石様の御先祖様の調査に影響を与えていたようです(本当にごめんなさい(..))

コメント26の大蔵氏→木原→山口 系図 こちらを拝見した時も後ろに思わず仰け反ってしまいました!
「山北氏」も大蔵氏の一族なのですね!!
うむっ(p_-)・・と言う事は相良氏族の「山北氏」はこちらと縁戚関係を持った可能性「大」なのか?!(家の親戚にも山北家があります(p_-))

後漢霊帝後裔・・・大蔵氏→木原→山口
あああああああああっ!!\(◎o◎)/! ここで気が付きましたよ!!!!
同じく後漢霊帝後裔と言えば!!黒木氏!!

日本の苗字七千傑様の【調 氏】姓氏類別大観を拝見しました!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03007.htm
日本の苗字七千傑様すみません。すごく重要だと感じ、勝手にコピーさせて頂きました(..)

坂上氏と同じく後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智使主を祖とする。
東漢老人が調忌寸を賜い、後に宿禰姓を賜う。後裔は薩摩に栄えるが、助能に至り筑後国上妻郡黒木庄および山門郡瀬高庄を領して黒木氏として筑後国上妻郡猫尾城を本拠とする。
筑後黒木氏は他に源姓説、安倍姓説、藤姓少弐氏説などが存在する。
黒木氏、星野氏、河崎氏は調党三家とも呼ばれる。

黒木氏
ブログにアップしている平河氏系図の画像Bを見て下さい
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html
平河伊兵衛則光の姉 「則光姉黒木市左衛門室」
さらに・・
私の平川の曾祖父の弟も「黒木家」を継いでいます!
おんや〜〜〜っ(p_-)・・・(p_-)
これは、木原氏との縁戚関係からか??何だろう?でも何だかプンプン匂いますよ・・・(p_-)
しかし・・
日本の苗字七千傑様の【調 氏】姓氏類別大観の御解説に気になる一行が・・
※筑後黒木氏は他に源姓説、安倍姓説、藤姓少弐氏説などが存在する。
(p_-)藤姓少弐氏説・・おんや〜〜っ(p_-)・・マタマタ登場の「少弐氏」ですね。
もっもしや!!少弐氏と「坂上氏と同じく後漢霊帝の後裔」の黒木氏が姻戚関係をもったとか?!(あくまでも私の推測ですが)

しかし・・白石様。白石様の御先祖様の謎もほぼ解明されたも同じですね(^'^)
良かった本当に良かった(^'^)

所で・・

〉木原家は「萩藩閥閲録遺漏」では「都濃郡農家」とされている。この系図によれば、木原家は清和源氏、貞純親王の末裔、頼信の弟頼高が信州木曾木原庄を得て名字としたのがはじまりである。その孫房義の代に備前小嶋2百町を領し、そのひ孫頼国は「寿永元年平氏舟戦之船中而討死」とあり、その4代後が頼成である。ここで言う「弘安大乱」とは「唐人来朝之時」とあるので、いわゆる霜月騒動ではなく弘安の役のことを想定しているか?

(p_-)上記の
※原家は清和源氏、貞純親王の末裔、頼信の弟頼高が信州木曾木原庄を得て名字としたのがはじまりである。
「信州木曾木原庄」・・なるほど・・こう言う形で関東が繋がってくるのですね。

まだまだ、気になる所が沢山ありますが、まずはここまでと(..)

では(^'^)
[36]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月07日 14時35分23秒 ) パスワード

ご訂正を(..)

先程の最後の三行目
※原家は清和源氏、貞純親王の末裔、・・

コピーミスです(やっぱりおっちょこちょいです(..)毎回こう言っている・・(@_@。)

正確には
※木原家は清和源氏、貞純親王の末裔、頼信の弟頼高が信州木曾木原庄を得て名字としたのがはじまりである。

ですね。皆様すみませんでした(..)
[37]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月07日 16時36分13秒 ) パスワード

白石様!皆様!たっ大変です!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

昨日、白石様に旧四浦村(現相良村)と旧木上村(現錦町)に跨り広がる「高原(たかんばる)」の開拓の為に旧細川藩士が移住された!との話を書きましたが、以前、関連する事をコメントした記憶があり、もう一度、資料(木上村史)を確認したのですが・・
あったのです!木原氏の名が!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

木上村史より
明治十六年(1883年)
七月 初めて戸長職印を制定
この年より十九年にかけて旧熊本藩士二十余名高原地区に移住し来る
即ち、
佐藤亥一郎・西浦畝人・西浦治郎彦・河原恒八・南直治・田尻成雄・兼松為熊
竹下磯熊・堤数親・板根万千・山東清武・本田又勝・逸見斉・木原寿一郎※
有田静・古庄仙太・深井藤作・平川儀一郎・佐々権内・林田能置・大旗中伍
の人々がそれであった。

※木原寿一郎 ありました!この方は旧熊本藩士です!

上記の方々の中には相良藩士の中に見える姓もありますので、もしかしたら、球磨に地縁のある方々もいらっしゃったのではないでしょうか?

他にも高原の開拓に関して色々資料を持っていたと思うのですが・・
今、実は私が持っている資料は膨大でして・・(段ボール箱5〜6箱分(p_-)・・(..))

探してみます。

では(p_-)
[38]白石さんからのコメント(2016年07月08日 02時44分57秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんは
高原の木原 意外と近くにいるのですね。

ひとつ 気になったのですが 
上村堀の角の小字「木原」が 久米郷に移ったのはいつごろでしょう?
白石の祖父から 父への葉書は 昭和20年代でした。

それと
ごめんなさい。
山口が宇土から来たというのは 平江のの系の人が途中で宇土に関与している の 間違いです。
それも 戸籍の最初に就く人は やはり 下益城郡です。途中の人が 宇土に関与しています。

また
江戸時代中期の有名な人 「上杉鷹山」
この人は 大蔵氏系の
 高鍋藩 秋月家から来ているのですね。
そして キョウダイが相良氏に来ている。
ひょんなところで 鷲尾や 相楽頼完がでてきました。

これより前 観応の繚乱の頃 「」山口県大内氏に関して 上杉氏の戒名に「高岳」がつかわれていると 確か 前に書きました。

なんだか 高岡 山口のかたまり が 出てきそうです。
また 上杉の方から 伊達とのつながり (縁戚)が出てくるので こちらは 白石と思うと 
なりまつ も うかんでくるみたい。
 
時代
江戸時代中期 - 後期

生誕
寛延4年7月20日(1751年9月9日)

死没うえ
文政5年3月11日(1822年4月2日)

改名
幼名:松三郎(秋月氏時代)→ 直松/諱:勝興→治憲

別名
通称:直丸/出家号:鷹山

戒名
元徳院殿聖翁文心大居士

墓所
山形県米沢市の松岬神社、上杉家御廟

官位
従四位下弾正大弼、侍従、越前守、贈従三位[1]

幕府
江戸幕府


出羽国米沢藩主

氏族
秋月氏→上杉氏

父母
父:秋月種美、母:黒田長貞の娘・春姫
養父:上杉重定

兄弟
秋月種茂、★治憲(鷹山)、★相良晃長、中条信義、他
※生来病弱であった晃長は、3年後の宝暦12年(1762年)2月4日に早世した。享年11。この年齢で継嗣があるわけがなく、秋月家と同様に相良家の縁戚に当たる大納言・「鷲尾隆熙」の子を新たな藩主相良頼完として迎えた。しかし、「頼完」は晃長より年長で、さらに17歳未満では末期養子は認められないことから、人吉藩では無嗣断絶による改易を恐れて、晃長の病状は回復し、その後に頼寛と改名したということにした。つまり、幕府には晃長と頼寛を同一人物であるということにして処理し、さらに公式系譜も改竄した[1]。


正室:上杉重定の娘・幸姫
側室:上杉勝延の娘・お豊の方


顕孝、寛之助、養子:治広

[40]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月08日 05時17分37秒 ) パスワード

白石様 早朝ですがおはようございます(^'^)
御教示ありがとうございます。
今朝は主人が3時に出勤しましたので、早起きです。

〉上村堀の角の小字「木原」が 久米郷に移ったのはいつごろでしょう?

私が平川家について21コメント18で調べていたのは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101407.html
転記します(p_-)
〉所でお話の中にあった「上村堀之角木原」との記述についてですが、
調べたのですが、現在、あさぎり町になった旧球磨郡上村に堀ノ角という地名がありましたよ(^・^)
http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=43&city=1435091&id=153399&merge=2

今は上乙の中にあるようです
上乙(堀ノ角、今井、柳別府、神殿原、平和)

「上村堀之角木原」・・こちらの上村堀之角は、旧球磨郡上村堀ノ角という地名ではありませんでしょうか?

と言う事でした「木原」は”おそらく小字ではないか?”と分析していたのですが・・・

ただ、白石様からの御質問が気になって、家にあるあさぎり町の住宅地図を見たのですが、こちらには木原姓は見当たらないのですが、一つ気が付いた事が・・

ウッチャン(某有名人です)の御実家松の泉酒造が・・あ〜この辺りが堀ノ角かと・・・余談でした(..)
気が付いた事はそれではありません(ー_ー)!!

「堀ノ角・堀ノ角周辺」には山口姓が多いのです!
そして・・あの・・椎葉のおじの従弟の山口家も・・近い!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/ぎゃ〜!!
まちの・・会の・・ぎいいいいいいーん・・ギッ・・・あっチョー・・・なのです(暗号になりましたが意味お解り頂けたかな?ここまででご勘弁を(..))
あと・・
NOW・・Or・・previous position・・の・・蝶・・・あっチョー・・が其々親戚なのでだからあまり色々書けないのです。
(コレマタ暗号になりましたが意味お解り頂けたかな?ここまででご勘弁を(..))
どうも・・この周辺は球磨の山口一族がお住まいのようですね(p_-)

後、すぐ横の地域が「今井」です。字としてはとても広い地域です。
私、実は、この地名ずっと気になっていたのですよね・・・
相良長頼、球磨入部の際の随行者の中に「今井某」とあったので・・・(p_-)

上記の地区は全て旧上村になります。

上杉鷹山 御教示頂いて調べたのですが、この方の兄弟
秋月種茂、上杉治憲(上杉鷹山)、相良晃長、中条信義
”姓”がすごく気になるのです。
秋月家は御教示で理解出来ているのですが・・
「上杉氏」「中条氏」・・宮原の一族の先祖「橘公業」の系と「新堀氏」の系を・・
調べた時に「頻繁に登場する”姓”」なのですよね・・・???

ちょっとモヤ〜ッとしています。

今日は朝から外出します。
コメントは帰宅後にさせて頂きます(..)

では(..)
[41]白石さんからのコメント(2016年07月08日 11時18分24秒 ) パスワード

みやちゃん 堀の角の位置 ありがとうございます。
農高のあたりですね。

白石の祖父の家は もっと 免田ぎりぎりのところです。
上下のくべつがあったのですね。上堀の角と言っていました。


天火明
市房神宮で過去に 教えていただいた時は 海幸のこと と いうことでした。

饒速日は 
姓系辞典に 高岳が出ます。

尾張氏の 始祖も 饒速日です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

中条
 中条って クスノキ氏 まわりで 系を見たよ 
と 思って 見ていましたが みつけられませんでした。が 中条家長という人がいましたね。

この
人の 系とぴったりということではないけど

藤原実範(南家)
は、平安時代中期の廷臣・漢詩人。

筑前(ちくぜん)(福岡県)の国守などを歴任。養子関係などあるのか 苗字が違うけど?

成季という人がいて この人は

鎌倉御家人中条義勝(法橋成尋)の次男成季である。★成季は秋月の祖也。

三男の季兼の子孫は熱田神宮の大宮司職を世襲する家柄となった。
ーーーーーーーーーーー
千秋家で
千秋家と 17世紀頃 高丘家(華族)と 山口と それぞれ 結婚している。
という ことを 書きました。

[42]白石さんからのコメント(2016年07月09日 06時24分20秒 ) パスワード

おはようございます。 ネットより
ーーーーーーー

真仏房
真仏房は、寺伝によれば真岡城主大内国春の嫡男で、十七歳で聖人の弟子となり、のち関東門弟の統率者となった。正喜二年(1258)高田山専修寺において五十歳で示寂した。


「二人の真仏」
興正寺では歴代の第二世を真仏上人としています。
古来、興正寺ではこの真仏上人を高田の真仏のことだと伝えてきました。興正寺と同じ系統である佛光寺でも、真仏上人はやはり高田の真仏のこととされています。

真の仏弟子|浄土真宗本願寺派 本願寺(西本願寺)

ーーーーーーーーーーーーーー

真宗高田派専修寺

専修寺六世

妻:


順証 


生没年:-1390

父:★★★真岡城主 大内国春・・・国行か 国春か書き込む途中で消えたりして 訳がわからなくなりました。
ーーーーーーー

真岡城は 
栃木県にある。

宇都宮氏の家臣であった芳賀氏の居城であった。別称、芳賀城ともいう

ーーーーーーーーーー

大内 芳賀 
など 出てきます。 そして 常盤井系図をみれば 
嫁方や 義父などに
近衛 有栖側の宮 藤堂etc
いろいろ 出てきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ーーーーーーーーーーーーーー
この話を書こうと思ったのは
私の夫 笹井から 

うちの笹井の出どころは 岡山県です。信州 篠ノ井に戦敗して 岡山に来たとあります。
宗派は
  いきさつがあって 姑の方のお寺によっておりますが (真宗)
もともとは 
「古儀真言宗仁和寺御室派」す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
うちとは 関係ありませんが
高槻には 三つの流れの 笹井があります。
ひとつは
高槻の重要文化財の笹井。江戸時代の町屋ですが屋根のつくりが古墳時代の神社の本殿の屋根のつくりとおなじということで 文化財になっているそうです。

あとは 
塀に5本線を入れている もとの 本願寺といわれる お寺に お墓が 2家分あります。

別名 佐々木城 富田城といいます。
すぐ 横に 足利の管領だった 細川氏の首塚をまつるお寺があります。

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[43]白石さんからのコメント(2016年07月09日 06時35分36秒 ) パスワード

常磐井から 西園寺実氏へ
両院並立のっもとになった 天皇を産んだ女子を出し

のち 代々 皇后は 西園寺から出た。
ーーーーーーーーーーーーー

所領をとりかえた 西園寺公経と 橘公業でしたかしら おじおいの 間柄だったというのですが

ここのところ どこかに コメントありましたかしら?

ーーーーーーーーーーーーーーーー

高丘家は 西園寺の族とあります。
[44]白石さんからのコメント(2016年07月09日 23時58分00秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます。
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こんなのがありました。
なかなか ズバリ相良氏とむすびつくものがありませんが
はるか昔のご先祖様のこと。

だから 自分とこは 違う と思うも自由ですね。
母の方の筋をたどればエジプトでしょう?

うちは 白石 佐田も 夫も いるから こう思うのですが・・・
夫だけ 血液型は A型です。

勿論これらの人たちも 当然 その前の歴史があるんですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

すれば 朱大王も 浮かんでくるか?と。

ーーーーーーーーーーーーー

専修寺の歴代を見れば 源頼政なども関係する人に出てきていて この方は 摂津渡辺党の統領。渡辺党から 平戸藩主家へ。

頼政の筋から(養子や女子が来たりして) 池田氏とのつながりも。

人吉の下間あたりには 堤氏がいたと思いますが・・・
堤氏は 三浦氏でしたかしら?
専修寺は 三浦氏にも関与しているのですね。

下間あたり 過去に 洪水で流された家もあったように思います。
川底をさらえて 流れを もう少し まっすぐすれば 少しは 上流の方も流れが良くなるのではないか?と 思いますが 素人考えではどうなのでしょうね?
 ―――――――――――
源氏
原氏(げんじ/はるし/はらし)とは、日本の氏族である。幾多かの系統があり、越後国にも異流の原氏などがある[1]。
1.原氏 (皇室) : この姓のみ「げん - じ」「はる - し」と呼ばれる。日本の皇室の姓である阿毎氏[2]が『大化の改新』以降に中国風に改姓したもので、現在の今上天皇(平成天皇)までいたる。この系統から皇別[3]として、

橘氏・清原氏・高階氏(高氏)・在原氏・平氏・良岑氏(桓武源氏)・源氏などの庶家が出て、この系統は地方では貴種として尊ばれた。
[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月11日 17時08分42秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2016年07月12日 21時47分49秒
[46]白石さんからのコメント(2016年07月11日 22時23分53秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんは
大変でしたね。ご愁傷さまでございました。

深水
深水さんという同級生がふたりいました。二人とも故人です。

川下の 深水集落あたりに 嫁いでいました。

深水といえば
山口家の男子と深水の坂本家の女子と結婚しています。
うちの山口のおばあさんと同じ名の人が岡原の山口家にもおり
尋ねたら 姉たちは違う親戚じゃない と言っていたのですが
坂本を介して と いうことなら ・・・う〜ん 代数をへており また 姉夫婦も 関東に移住しており 付き合いが途絶えたかな? ということも 考えられると 思います。

一度アップします。またパソコンがおかしいのですよ。
[47]白石さんからのコメント(2016年07月11日 22時27分39秒 ) パスワード

深水は 皇室領だったところ。
このあたりに 白石姓もあり ○○右衛門という人がついています。過去にうちの白石について 尋ねたところ 
「あちらは お寺は別に持っているということで うちとは関係ない」
ということでしたが 何か もやもやと しています。

木原氏→山口
木原氏→平賀→平江の可能性
でしたね。
平江の家に山口から嫁入ったころの年代で
東野家というところの男子と結婚した人がいます。東野家とのつながりはこの代だけのように見えますが・・・
東野という家の祖先を見ました。
一般論ですが
清和源氏為義流?
家祖
佐竹行重?
東野行一?
・・・
★★佐竹氏が出ています。肥後の白石は清和源氏佐竹氏の族で 菊池に使え 菊池が滅んだあと 相良に仕えた ということになんだかつながるような?・・・うちの白石と平江・山口とのつながりも・・・みえてくるような?
[48]白石さんからのコメント(2016年07月11日 23時47分36秒 ) パスワード

こんなのをみつけました。
おもしろそうだけど またいつか・・・

最近の遺伝子の研究で、沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。
――――――――――――――――出身地
近江国伊香郡余呉庄東野
―――――――
守富(富合)に、雁回山(木原山)があり、鎮西八郎源為朝の居城だったと伝えられています。
こんなのをみつけました。
おもしろそうだけど またいつか・・・

最近の遺伝子の研究で、沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。
――――――――――――――――出身地
近江国伊香郡余呉庄東野
―――――――
守富(富合)に、雁回山(木原山)があり、鎮西八郎源為朝の居城だったと伝えられています。
始め豊後にいましたが、やがて肥後に進んで阿蘇氏と結び、その後木原山に城を築いて住い、
★★阿蘇大宮司忠国の聟(むこ)になって九州を領有し、自ら鎮西八郎と称しました。
父・為義に勘当されて九州に追放されてしまう。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいたが、肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となる(薩摩国阿多郡の誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)。

★★微妙に 木原 平江 白石とかさなってみえる。
★★尾張権守家遠は 橘家遠でしょうか?
[49]白石さんからのコメント(2016年07月12日 00時26分42秒 ) パスワード

河内源氏で、妻に
藤原忠清娘、六条重俊娘、源基実娘、
賀茂成宗娘、江口の遊女、他とあります。
江口の遊女のことは 前にでていましたよね。

義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲、行家、維義?、頼定?、正親?、仙覚、乙若、亀若、鶴若、天王、美濃局、鳥居禅尼、佐々木秀義室、藤原光隆室、他
★★鳥居禅尼、佐々木秀義室、義朝、義賢 など おなじみの人ですね。
佐々木秀義からの枝分かれに 出雲但馬の高岡系図がつながっています。
なんだか もやもや しながら みんな つながってきます。

同級生の中村さんのいうことには
集落は 五木 五家荘あたりから だんだんと おりてきて 子孫が できた と 聞いている と いうことです。
[50]白石さんからのコメント(2016年07月12日 00時46分55秒 ) パスワード

これも一回だけですが 周りにいたということですね。
筒井一族一般論
近鉄橿原線に筒井という駅がある。
筒井姓の発祥地でもある。
祥地は大和国添下郡筒井郷(現在の奈良県大和郡山市筒井)なのだが、室町時代中期以前のことがよくわからないのだ。とする。
現在では大和の古代豪族の大神(おおみわ)氏の子孫ではないかとみられている。
※※となれば 下益城郡に豊後の人・緒方氏の墓がある というのも なんとなく うなづける。
室町時代中期頃から、国人として活動し始め、戦国時代に筒井順昭が名をあげた。そして、その子順慶のときに大和一国を統一して、戦国大名になりあがった。・・・一族が旗本として再興、幕末に日露和親条約の交渉を行った筒井政憲は子孫である。ということで 大神氏とも つながっている。
大神氏は 尾方でしたよね。
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月12日 15時05分25秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)
白石様、御教示ありがとうございます。

〉木原氏→山口

肥後相良藩士分限帳を見ていて気が付きました!
その前に、まず、
日本の苗字七千傑様の【大蔵氏】姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03005.htm
掲載姓氏に「三原氏」が見えます。

さらに《岩門氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03005.htm#001
掲載姓氏に「三原氏」が見えます。
こちらに木原氏→山口が!
さらにさらに・・「上記の他【築地氏】が三原氏族」とあります。

肥後相良藩士分限帳 
寛政十年(1798年)七地村在藩士 三原氏3名の名あり
天保元年(1830年)七地村在藩士 三原氏3名の名あり
安政年間(1854年〜1859年)七地村在藩士 三原氏2名の名あり

それだけじゃないのです(ー_ー)!!
築地氏
築地氏は貞享三年(1686年)他、新小路(寺ノ馬場)※寛政十年(1798年)天保元年(1830年)安政年間(1854年〜1859年)
上記の期間に其々高100石取で名前が記されています。
築地氏は三原氏族。木原氏・山口氏と同族ですね。

他、日本の苗字七千傑様のサイトで「築地氏」を検索すると
《三浦氏》⇒ 和田氏 ⇒ 《高井氏/由井氏》姓氏類別大観 こちらにも「築地氏」
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116e2.htm#002

他紀氏の画面では「属流は不明だが、」とあり多数の姓の中に「築地氏」がありました。

実は以前から分限帳記載の「築地氏」には興味があり、一度調べてみようと思っていた所でした。

さらに・・分限帳を見ていて気が付いた事がありますが、「平川家について」の方でコメントさせて頂きます。

では(^'^)
[52]白石さんからのコメント(2016年07月13日 03時11分15秒 ) パスワード


こんばんわ というか おはようございます。
坂上から出る 大蔵の系 少弐氏

みやちゃんの コメントに

前に 良峯師澄が 平賀○○ とあったと思いますけど・・・
また 
他の面で 
平賀は 少弐氏だと・・・

そして わたくし 上杉で

江戸時代中期の有名な人 「上杉鷹山」
この人は 大蔵氏系の
 高鍋藩 秋月家から来ているのですね。
そして キョウダイが相良氏に来ている。

[53]白石さんからのコメント(2016年07月13日 03時14分06秒 ) パスワード

また 大内氏の 大寧寺あたりで 上杉氏の 戒名に 「高岳」がつかわれている。

福岡たたらの浜は 人吉相良氏と同族の相良氏がいたところで ここへ 足利尊氏が来て 勢いを盛り返して 京へはせかえった。

細川候は足利の管領だった。

ーーーーーーーーーーーーーーー
現在 近衞の娘婿が細川氏。
鎌倉幕府が滅んで、北条氏 足利政権へとかわり、みやちゃんとこは つぎつぎと うまく 時流にのって 仕えてきたのでしょうね。
[54]白石さんからのコメント(2016年07月13日 03時17分30秒 ) パスワード

みやちゃんとこの おうちに届いた 近衛候の手紙。
みやちゃんのおばあさま(?)は 佐土原藩に仕えていた。
この藩は島津の筋。

多良木あたりは 橘薩摩氏が相良氏をおさえていたところで

うちのお寺様に うちの宗派の法名と違う名がついている と おききしたことがあり

「島津様におさえられたもんで」 ということでした。

お寺様は 前坊守は 八代から
現住職は 佐賀からこられているとのことです。
山口の姉婿・いとこは やさしい人です。年寄りを二人も面倒を見て 妹が病気の時も家に身を寄せさせていました。

また 
川下の高岡(議員・同級生)も 嫁の兄弟が東京で病気をして お先真っ暗になったとき 太っ腹を見せて
「こっちへ来させればよか」
と 言ってくれたとて 喜んで帰り 今は元気になっているそうです。
[55]白石さんからのコメント(2016年07月13日 03時22分10秒 ) パスワード

ひとつ 気になるのですが
平江の姻戚の 東野家
一般的に東野は 源為義子孫。

★★源為義の妻に 源基実娘がいます。

源基実について 系が はっきり わかりませんが
※※もしも もしもですが この人が 藤原基実(近衛)だったら 

父:藤原忠通
母:源信子(源国信の娘)
★★ 母が源氏なのですよね。
正室:平盛子(平清盛の娘)
妻:藤原忠隆の娘 長男:近衞基通(1160-1233)

妻:藤原顕輔の娘 次男:粟田口忠良(1164-1225) - 子孫は粟田口家
女子:近衛通子(1163-?) - 高倉天皇妃、安徳天皇准母、准三宮

妻:源盛経の娘 男子:覚尊

生母不明 男子:祐覚
男子:道鑑 

兄弟
藤原聖子、近衛基実、松殿基房、藤原育子、九条兼実、信円、藤原兼房、慈円 ほか 

★★松殿基房、藤原育子、九条兼実、らもいるんですよ。
育子様が 壱岐氏からでるかたですよね。
[56]白石さんからのコメント(2016年07月13日 03時30分28秒 ) パスワード

為義の子供の中では
志田三郎義広は、常陸国に居た様です。荘園の本所が美福門院、預所が池禅尼と言う関係から、保元・平治の乱には出陣し無かった模様です。
新宮十郎行家は、同母姉の嫁ぎ先の熊野に居た様で、保元の乱では矢張り出陣し無かった様です。
★★池の禅尼とか 行家とかがいます。
★★為義の父・義親の正室は「高階基実娘」

『尊卑分脈』によれば義親の男子は、為義を含めて6人いる。義親の正室は肥後守・高階基実の娘
菊池に高階から嫁にいっているのですね。時間的に後先かもしれないけど・・はやい時期に 彼らは結びついていたのかもしれない。つまり 同族みたいな関係。
[57]白石さんからのコメント(2016年07月13日 03時51分12秒 ) パスワード



高階氏は スサノオ子孫。宗像三神。山口も高階条についています。

★★もしも もしも ですが
坂上が スサノオ系だとすれば
スサノオは 日本から 半島へ渡ったのですね。そして 子どもたちと 子種を持ち帰り 植えて歩いた。
★★ アマテラスも スサノオも 早い時期の方ですから 
陳大王の女子が アマテラスという話。
陳は 大公望の国 斉 みたいで
そこを ついだみたいな 田斉。
大公望呂尚 は てい族だったようです。
出雲向家は インドドラビダ族で シュメールと てい族の混血。
始皇帝の頃 中国の最高の文化水準を誇った 斉国。そこの 方士の 徐福が 日本へきて 
富士山へも来ている。そこへ 武内宿ねが来て 
秦人と知り合ったのを喜んで 子供に 波太 と 名付けたという話があります。
徐福子孫は さだ の 弓月君に でるようです。
その時は 富士には すでに 神官がいたと・・・
「さだ」 と 同じく 秦に 「高」 もいて これは 「陳」に つながってくるようです。
はるか 古代のことですね。
神代の話は 一代一代おりてくるのでなく
何か 国の興亡を あらわしているようです。
[58]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月14日 09時54分11秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、沢山の御教示ありがとうございました。

昨日、平川家についてにコメントを書いた後、豪雨となりまして、一晩中激しい雨音で、今朝、目が覚めて、家の前の井口川を見たら・・
子供の頃から見てきた井口川が濁流となっていました。
おそらく、私が見てきた井口川(30年のブランクはありますが)の中でも、もっとも激しい流れだと思います。
ここが、この様子だと球磨川はどうなっているのだろう・・と心配になり、球磨川のリアルタイム映像が見れるサイトで確認したのですが、橋の欄干近くまで濁流が流れていました。
九州北部や中国地方では昨日被害も発生。

数年前に九州北部豪雨を体験しましたが、近年、明らかに、私達が子供の頃とは違う自然環境になっている事を今朝あらためて強く痛感しました。


白石様の御教示より
〉新宮十郎行家は、同母姉の嫁ぎ先の熊野に居た様で、保元の乱では矢張り出陣し無かった様です。

そうでした!!新宮十郎行家は源為義の子息でしたね!!
球磨の新宮家
天授四年(1378年)北朝 永和四年 新宮伊豫守行定に木上岩城を賜う。(新宮家譜)
新宮光家、八代高田郷より来りて木上岩城に居る。(熊風土記)
上記の新宮家について墓石調査で以下の事が解っています。
免田郷土研究会 昭和55年3月発行 郷土 第八号より
岩城 新宮行定の墓
木本神社に登る途中にある自然石の墓で、天室宗春大禅定門 嘉慶二(1388年 北朝年号)中略・・三月廿九日と正面に刻まれ、左側から背面、右側にかけて新宮家初代初代行家からの由緒が朱入りで刻まれている。
行家は八幡太郎義家の子源為義の十男で、行定は行家七代目の末裔らしい。
墓碑銘最後に寛政五年(1793年)とあるので、この墓は405年後の建立である。

上記を読むと思うのですが・・・・
※新宮光家、八代高田郷より来りて木上岩城に居る。(熊風土記)
平河氏が居城した木上の「岩城(木枝城・木本城)」そして山江村の「山田城」
平河氏の跡を継いで居城したと言われる「窪田(久保田)氏」と「永富(永留)氏」ですが・・
相良藩内で江戸時代に作成された「藩史」の記述が矛盾しているような気がします。
※天授四年(1378年)北朝 永和四年 新宮伊豫守行定に木上岩城を賜う。(新宮家譜)
窪田(久保田)氏は1500年代に窪田(久保田)越後が木上の領主として登場しますが、こちらはもちろんお墓もあり領民に慕われた領主として有名です。
しかし・・その前の窪田(久保田)氏は実際は何処に・・・?

うううううううううううううん(;一_一)
あと・・気になるのは「佐原時連」は「新宮時連」と呼ばれていたのですよね・・
※陸奥国(後の岩代国)に新宮城を築城したとされる新宮時連は佐原盛連の6男で、新宮氏を名乗った。なお、時連の長兄・経連は猪苗代氏、次兄・広盛は北田氏、三兄・盛義は金上氏、四兄・光盛は蘆名氏、五兄・盛時は加納氏の祖である。
※陸奥国(後の岩代国)・・いわしろの国・・”いわしろ”の国・・か。

「平河氏」・・居城跡を継いだといわれる「窪田(久保田)氏」「永富(永留)氏」「新宮氏」・・・何だかモヤ〜ッとしますね

ましてや偶然か・・私の周囲にある姓「平川」と「久保田」ときていますしね・・(?_?)(p_-)
プラス・・こじつけじゃないのですが・・
「岩城」・・「岩城氏」・・は椎葉氏と荒川氏の祖ですよね・・・(?_?)(p_-)
あの・・書くのを忘れていました(..)荒川家も縁戚関係にあります(..)すみません(..)
私の住む集落には
「平川」「久保田」「椎葉」「荒川」と揃っていますね・・(?_?)(p_-)
モヤモヤが増してきました(;一_一)・・皆・・相良藩士です・・(?_?)(p_-)

あっ!永富氏!そう言えば・・
昨日、書店で、最近発売された「相良三十三観音」に関連した書籍をパラパラと読んでいたのですが
私の住む集落のお隣になる旧岡原村宮原熊野の熊野神社(熊野権現)にお祀りの御神像について書かれていました。
球磨を統一した(本には下剋上と書かれていました(..))永富長続(相良長続)が何でも最大のブレーンであった仏師の方が1400年代に造られた御神像がナント旧宮原村の熊野神社にお祀りされている・・と。
著者の方も・・(?_?)?????(p_-)・・のようなニュアンスの言葉を書かれていました・・
こちらの書籍には「宮原銀山」についても書かれていましたので、買って読もうと思います。
余談・・
パラパラとページをめくると、素晴らしい観音様のお写真が沢山記載されていました。
その中で金で彩色されたお顔のみがアップになった素晴らしい観音様のお写真が素敵で主人に
「ミテミテ!すごいね!すばらしい!こちらの観音様のお顔!それにかわいいお顔をされてる!!」と言うと、
主人は相変わらずの静かな声で
「うん?宮原観音堂って書いてあるけど?」と・・
\(◎o◎)/!あんにゃ本当だ!(私は・・相変わらず騒がしい声で)

宮原観音堂の観音様のお顔を、自分の顔をピタ〜ッとくっつけてマジマジと拝見する事などないので解りませんでした(..)
うん???何処から冷たい視線が(;一_一)・・・・・(..)

余談でした(..)

白石様の御教示より
〉『尊卑分脈』によれば義親の男子は、為義を含めて6人いる。義親の正室は肥後守・高階基実の娘
菊池に高階から嫁にいっているのですね。時間的に後先かもしれないけど・・はやい時期に 彼らは結びついていたのかもしれない。つまり 同族みたいな関係。

(p_-)・・そういう事なのですね・・

白石様、御教示ありがとうございました(^'^)
[59]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月15日 09時21分30秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

白石様
白石様の御教示を読みながら・・やはり不思議だな〜と思う事があります。
(白石様のお言葉には何故か私の人生?が見え隠れするのです・・)

コメント52で登場する「高鍋藩」
私が育ったのは宮崎県新富町ですが産まれたのは「高鍋町」です。母の実家が高鍋ですので・・・
(父が航空自衛隊新田原基地に勤務している時に母と出会ったもので・・)

コメント54には母方の祖母の実家の事を書いていらっしゃいます。

私、今まであまり興味が無かったのですが、白石様のコメントを読ませて頂いて、「宮崎県新富町”とんだ”の富田氏」を調べて見たのです。
するとビックリしました。

日向・富田城(ひゅうが・とんだじょう)
http://www.hb.pei.jp/shiro/hyuuga/tonda-jyo/
歴史
築城年代は定かではない。伊東氏四十八城の一つに数えられた富田城と推測されており、城主は湯地五郎九郎(志摩介)という。

島津氏の所領となった後は新納近江守武久が城主となった。

”とんだ”とは”富田”の事でした!!
サイトの地図を見ると懐かしい〜と思いました(..)

さらに調べたのですが・・
サイト 日向伊東氏 - 伊東家の歴史館
http://www.ito-ke.server-shared.com/newpage5.html

日向伊東氏と全国展開

 ところで、北条氏の企てとされる「曽我兄弟の仇討ち」事件によって、富士の裾野の源頼朝軍の軍事演習中の深夜を頼朝と共に襲われ、暗殺された父祐経の家督を継い嫡子祐時は、建久九年日向国の地頭職を与えられた。
 北条執権の幕府の中での伊東宗家の家督問題であったので、どのような事情・綱引きがあってか、その祐時の家督は祐時によらず将軍家の沙汰によっ六男祐光にあたえられた。その祐光から三代孫の祐持までは、宗家は鎌倉に居住していて北条執権の中で要職にあって地方には下向せず、代わって多くの兄弟(庶子たち)が地方に下向し豪族化した。

 すなわち、長男祐朝:長門国三隅、安芸国奴田および奥州鞭指荘、二男祐盛:石見国、三男祐綱:備前国三石、四男祐明:伊勢国富田および日向国田嶋荘・富田荘、五男祐氏:播磨国長倉荘・吉田荘、六男祐光:宗家鎌倉、七男祐景:日向国富田荘および縣荘門川、八男祐頼:日向国諸県郡木脇および八代、九男祐忠:石見国稲持・伏見・長岡・御対、および甲斐横手、十男鷺町主:肥後国松山鷺町、十一男伊東院主:紀伊国一の荘平領である。

(p_-)
※四男祐明:伊勢国富田および日向国田嶋荘・富田荘
※七男祐景:日向国富田荘および縣荘門川

きえええええええええええええっ!\(゜ロ\)(/ロ゜)/ (変な声が出ました(..))
と言う事は、日向の”とんだ”「富田」は伊東家の所領地!!

さらに・・
サイト 日向伊東氏略系図
http://www.ito-ke.server-shared.com/hyugaitohkeizu.html
こちらをじ〜っと見つめていたのですが・・
※四男祐明:伊勢国富田および日向国田嶋荘・富田荘
祐明(田島氏祖 伊勢国冨田荘、日向国田嶋・富田荘領主)<母佐伯氏>
全然関係ないのですが・・私8歳まで新富町に住んでいたのですが、お隣のお家は佐伯家でした(幼馴染の男の子がいました)

阿東殿(義祐側室母:福永)
福永家は日向の方なのかな?
そうか・・以前コメントしましたが、家(宮原)の親戚に福永家があります。(何だか偶然ですが・・・)

というか(;一_一)・・・(p_-)
今「平川家について」で調べている事と・・
何故か何故か???全く関係ない私の「母方の祖母」の「日向の”とんだ”の富田」を調べて登場する内容が・・・
おんな〜じ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・(;一_一)・・・何で???

私の父と母は離婚しましたが・・恋愛結婚でしたよ・・・(;一_一)(p_-)
・・・・離婚理由は・・「先祖同士が合わなかったから・・」????と聞かされましたけど・・

しかし上記に「富田氏」は登場しないので、伊東氏に仕えていたのかな??
うんがっ?もしや?攻めた方にいたのか???(p_-)
鳥肌が立ってくるのでこのくらいにしときます(..)

皆様
「平賀氏」とは関係ないコメントで朝からすみませんでした(..)
[60]白石さんからのコメント(2016年07月15日 21時16分50秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんは

雨が大変でしょう? こちらは 抜けるような青空なのです。まことに不思議なことですね。
球磨地区に 土砂災害がおきないかと心配です。

中嶋霧島神社・・・中島
何かで 中島を見たよ と思って ぼーっとしていました。。

こちらでは大阪に 中島総社があり 蔵王権現をまつっています。歩いて5分くらいのところに 細川ガラシャのお墓があります。

★★細川→サダ
★★サダ→細川 島津 津軽が有名どころ
★★蔵王権現は 金峯山の金を守護している。
★★奥州藤原氏は金ぴかぴかで有名
★★藤原宮子 光明皇后などは 奥州の金の力で皇后になった。
奥州藤原には 清原氏も関与している。
★★この清原氏に関与しているようなページをみました。

よそのおうちなので そのまましんじていますが・・・
宮崎の方の病院の名前が酒井。院長先生が中島です。うん?酒井。よくコメントを書いておられる方も酒井?
―――――――――――――――
[61]白石さんからのコメント(2016年07月15日 22時09分40秒 ) パスワード

中島氏の歴史 でネットにでております。
−−−−−−−−−−
中島氏の歴史 抜粋
草創時代 夏野「清原真人」の姓を賜る
清原武則が東北武将の棟梁になる
成祐が尾張中島郡の郡司に
なる

南北朝期
吉野の戦酣なるの時、中島宗頼は山陽をして「翠楠未だ必ずしも黄華に勝らず」とまで讃歎の声を放たせた菊池氏の麾下として、足利の軍勢に抗したといふ。

清原 夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の貴族、政治家。舎人親王の孫である小倉王の五男。初名は繁野王、のち臣籍降下し清原 真人姓を賜与された。

舎人親王の孫小倉王の第5王子として生まれ、初めの名乗りを繁野王といいました。

父:中務卿 三原王 越前守 妻: 774-834 清原長谷 山口王
★★舎人親王は宗像三紳の子孫が母方。
山口の言葉とからんでいます。

なので
この人も 山口の同族とみなしてよいと思います。
奥州藤原氏には 伊達の方からも関与してくる。白石も・・・
[62]白石さんからのコメント(2016年07月15日 22時16分04秒 ) パスワード

中島霧島総社の うつ という 言葉。
★★うつ は 海神族。中島は 金 に関与する。
これはこれでおいときまして
―――――――――――――――
宇都宮族の 高岡がいます。
藤原通兼―――宇都宮氏―――八田局という人と
平江姻戚の東野から出た 源為義の子供・義朝との間の子が「八田知家」です。母方の苗字をとったものでしょうか?

★★つまり 源頼朝と 八田知家は きょうだい なのですね。
この人の子供・泰重の子孫に高岡
があります。
つまり
鎌倉幕府の近くにいた 「高岡」がある。ということです。

四浦 五木あたりは 幕府領だった。良峯師高の所領。
良峯氏は 熱田神宮あたりにも 関与しているらしい。

高岡泰重
高岡 泰重(たかおか やすしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代の常陸国の武士。小田氏の一族で、常陸高岡氏の始祖。小田知重(ともしげ)の五男で八田知家の孫にあたる。小田泰知(やすとも、小田泰朝)の弟。高岡六郎と称す。官位は左衛門尉。
[63]白石さんからのコメント(2016年07月15日 22時21分05秒 ) パスワード

また
相良氏は 丹波をとおってきている ので 丹波の方をみてみました。
四国の方の 屋島の合戦では 源義経軍の方に 相良氏 那須氏 源為朝などがいるが 本で 丹波の方をとおっているのを 見ました。あちらに 承明門院などの話があります。
[64]白石さんからのコメント(2016年07月15日 22時30分34秒 ) パスワード

畑氏の謎 という ブログが過去にありましたが 今 検索できません。あちらが 詳しいのですが・・・畑氏は のちに 「北畠親房」になっていくというのです。
―――――――――――――――
丹後の畑氏  家紋○に鶴丸一文字
八百里城の城主で 南北朝の頃 新田義貞に仕えた 畑六郎左衛門時能の子孫という。
武家家伝 畑氏を見ていただくとよいけど
義貞が亡くなった後 「脇屋義助」に従って転戦した。
★★このとき 脇屋義助は 「佐田」。
★★新田義貞の兄弟である。
ので 新田義貞も サダ。さらに
新田義貞は 足利氏の 一流なので 足利も サダ。
★★また これらにからんで 徳川家康や 児島孝則がでる 系がある。
この 系に ついて 出ているネットもあり 過去に 書いたことがあるのですが・・・
[65]白石さんからのコメント(2016年07月15日 22時38分11秒 ) パスワード

塩谷氏ということばがでます。
7000傑様サイトでも 宇都宮の系に 塩谷への系がついたいます。
塩谷は いろいろな 氏の集合体のように 説明しているぺーじもあり 高岡にも 塩谷にかんよしているらしいもが あります。
★★
出雲但馬の高岡氏は
【歴史】暦応4年(1341)4月3日鹽冶判官高貞讒死のち山名時氏に仕へ、 明徳兵乱の後(1392)一旦但馬へ遷るも、山名氏領備後國の代官となりて、彼國に下り世々備後の城持大将と為る。

★★真宗高田派の寺院和光山大願寺の住職は、畑六郎左衛門の後裔という。何代目かの六郎左衛門が僧侶となり、草庵を結び、浄智と称し開祖になったというのである。
★★ 丹波畑氏について『多紀郷土史話』では、宮村流・出合流・牛之丞流の三流があり、家紋は宮村流が菊一文字、出合流が丸に二つ引両、牛之丞流が鶴一文字のを用いて、それぞれの出自を伝えているという。
★★酒呑童子退治で知られる源頼光の嫡男頼国の室は畑氏から入り、その孫娘が後鳥羽院の后となった承明門院という。承明門院は丹波畑庄と縁の深い女性で、佐々婆神社の神宮寺であった願成就寺は門院が建立したというが、実は畑氏が門院の父源通親(経純)との所縁からその菩提寺として建てたともいわれる。また、承久の変後、承明門院の子土御門上皇は土佐に流されたが、そのとき源通親の子具重が従った。そして、配流地の土佐国畑庄をもって名字となし、畑氏の祖になったという。弘治二年(1556)、野尻氏流畑正時が波々伯部掃部に送った由緒書に「畑氏者、自源家出也。(中略)畑氏経純公の末裔也」とあって村上源氏を主張している。
[66]白石さんからのコメント(2016年07月15日 22時49分35秒 ) パスワード

私の子供の頃は まだ 剣士の話がもてはやされていて 鞍馬天狗や 尼子 山中鹿之助なとの言葉もいっておりました。
塩谷も 勿論 聞いています。
祖先伝承とは 聞いていませんけど。
―――――――――――――――
宇多源氏佐々木氏が奉斎する
沙乃婆神社の中では 河内源氏系の男子と 神社の女子が結婚している と 本でみました。
宇多源氏佐々木氏の出雲但馬 高岡系図は
高岡の 母は・葛西伯耆守清親女 となっております。

【鹽冶氏系図】では
______________________________
【始祖】鹽冶三郎左衞門源頼泰  【本貫】出雲國神門郡鹽冶郷

【世系】鹽冶氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の三男、三郎左衞門頼泰が出雲國神門郡鹽冶郷を領してより鹽冶氏を名乗る。

【歴史】世々出雲守護職を相続し、鹽冶判官高貞が「大樹尊氏」の執事高武蔵守師直の讒言により、暦応4年(1341)4月3日出雲國宍道に於いて自害する。
というのがあります。
★★足利氏は 「大樹」なのですね。
[67]白石さんからのコメント(2016年07月16日 00時42分05秒 ) パスワード

中島から岩城氏の言葉が出て
奥州清原氏で検索していたら みやちゃんの コメント30が出ました。
子孫は 椎葉氏になるのですね。ビックリでした。それで なるほど!!と思った のが 同級生の椎葉さんの わずかにたれ目の顔と 兄嫁のなんとも 愛嬌のあるたれ目の顔とが 合致したのです。尾方は スサノオだとわたくし思っており
舎人親王は スサノオの女子・宗像三神に母方が行きつきます。
――――――――――― 
みやちゃんのコメント平川家30より
・・・の婿となってその勢力を引き継いだのが奥州の安倍氏の始まりで、在庁官人であった平永衡・藤原経清が安倍氏の婿となってその勢力基盤を築いたのもそれと同じ構図であるとする説もある[7]。
[68]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月16日 08時33分01秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

白石様、沢山の御教示ありがとうございました。

コメント62
〉高岡泰重
高岡 泰重(たかおか やすしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代の常陸国の武士。小田氏の一族で、常陸高岡氏の始祖。小田知重(ともしげ)の五男で八田知家の孫にあたる。小田泰知(やすとも、小田泰朝)の弟。高岡六郎と称す。官位は左衛門尉。
※小田氏の一族

あの・・・気になる事が
鎌倉後期から南北朝時代にかけての、球磨郡久米郷奥野の地頭は「小田氏」です。通称「奥野氏」ですね。
サイト 肥後国 くまもとの歴史
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364347.html
【室町時代】
南北朝時代、球磨郡には相良氏(人吉・多良木)のほか永里・岡本・橘・小田・平河・須恵氏などの国人領主(こくじんりょうしゅ)がおり、それぞれに領土の拡大をはかっていきました。彼ら国人をまきこんだ上・下相良氏の対立は、南北朝の統一後も続きました。

ちなみに奥野の小田氏は、相良氏三郡支配(球磨・八代・芦北・水俣他)の時代に八代に行かれて、その後、加藤氏に仕えたと聞いているのですが、しかし・・しっかり「小田氏」について調べた事は無かったのです。
「小田房成」と言う方はネットでも見れますが、南藤蔓綿録等をもう一度読み返してみます。

〉奥州の安倍氏
確かに岩城氏(後裔椎葉氏)と関係していました。
しかし、奥州の安倍氏と縁戚関係を持っていたのは・・・宮原の一族の祖である橘公業の系「橘薩摩一族」です・・
モヤモヤしますね・・(p_-)

所で・・山口氏なのですが
やはり、私はおっちょこちょいです(@_@。
相良長頼 球磨入部の際の随行者「姓氏」(以前、平川家についてでコメントしました)
●弟四郎宗頼 ●五郎左衛門尉頼平●譜代の士森某●長某(おさ某)●廣田某●杉前某●今井某●原田某●平田某●大石某●愛甲某(愛甲九郎景元是なり)●田野某●満木某(みつき某)●西河路某(西小路)●野間某●窪田某(今久保田に作る國讀相通す)●赤川某●富田某●吉村某●河端某●矢津留某
以上十九人名■ぐ。(■は文字が読み取れませんでした(..))
●宗像(今宗方に作る國讀相通す)兵衛太夫(其の先は筑前の人世世宗像に察す、因りて兵衛太夫に至りて相良に客たり・・略)●僧弘秀(遠江常福寺の住持)●譜代の卒井福●萬蔵●金田●赤川●雑賀●庶人橋口●四郎丸(四郎丸大村に家す後因りて里名と為す)●藤井●徳永●山口等(歴代私鑑に永原を加えて六人と為す)従う。
首めに萬江式部則純(今の萬江氏《万江氏》の祖)を得て郷導と為す。

山口氏は相良長頼 球磨入部の際の随行者 にその名がありました。

所で、上記のコメントを書いた時とは、今の調査は状況が違います(p_-)
最近の調査に上記のいずれかの方々の姓が登場していないか?
こちらは「平川家について」の方で調べてみます。

では(p_-)
[69]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月16日 08時39分11秒 ) パスワード

追記
「小田房成」とは球磨の国人の名です。
[70]白石さんからのコメント(2016年07月17日 01時00分20秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんは
おいそがしいのに ありがとうございます。

今日はテレビで 磐梯山と五色沼を見ていました。
崩れ山を 植林して 観光資源にしたのだそうです。

それを見ながら思いました。
四浦萩からの景色も 絶景です。
――――――――――――――――――――――

山口
うちの山口は 菊池にかかわっているように思っています。
深水集落(皇室領)の坂本と姻戚なのも 一因ですが。

丹後 丹波の方をみてみました。
丹波・丹後 ネットより
★旦波大縣主由碁理や「丹波道主命」の時代の丹波は当地かあるいは川上の五箇のあたりであったかも知れない。
★扇谷に弥生前期末〜中期初とされる環濠集落遺跡があり、隣接の杉谷には丹後最大の円墳・カジヤ古墳がある、当地には最古の前方後円墳かもと見られる湧田山古墳を盟主に40基以上の古墳群があり、そこには弥生環濠集落も推測されていて、このあたり丘陵地一帯が古くから開けた「王家の地」であったとも推測される
★この一帯は金属地帯であり、その族長のしきる国であった
★豊受大神の故地であり・・・豊受は 後に 伊勢神宮外宮へ移られる。
★★丹波道主命 や 豊受大神がいるところ
★★ 京田辺は 継体のまわりにいた 朱大王の古墳も ある。
ーーーーーーーーーーーー
塩谷氏に関与している出雲但馬高岡系図を 見ると

母葛西伯耆守清親女
養子・実は富田肥後守義泰五男
母富田美作守秀貞女
富田孫四郎貞清為養子
母鹽冶周防政清女
片岡・左衞門為養子 
母高階嘉右衞門女

などの 言葉がみえます。

★★このうち 高階嘉右衞門女 というのに 注目すると
高階氏は 
  丹波守護守・ 高階為章 という人がいて
  この 人の子孫のように みえます。

  高階為章の 祖先や 子孫を みると 高階師尚は在原業平の子です。
  在原氏は 安保親王の子供。

 養父が 高階氏・なので 高階を名乗る。

いろいろあるけど
高階の系も 紫式部やらを出して
平清盛に関与してきて
現天皇家に 関与してきているそうです。
ーーーーーーーーーーー

平重盛やその息子の維盛・資盛も紫式部の子孫だということでした。

[71]白石さんからのコメント(2016年07月17日 13時06分21秒 ) パスワード

平江の縁戚・東野から出る源為義

この人の子供に 母・源基実女子の子供 丹波六郎がいます。
六郎の子孫がわかりませんが(多分独身で死んでいる)

源基実は 高階基実と書いているものもあります。

この説に従うと 高階氏は 
他に 

道隆女子(定子。母高階成忠女貴子〔尊卑分脈作母同伊周〕。

宇多源氏佐々木氏
成頼 ┳ 義経 ━ 経方 ┳ 季定 ━ 秀義 ⇒

義経母は朱雀院乳母「菅野敦頼」

源為義の猶子となり、源為義の娘を娶る。
その子 義清は母澁谷重國女

為宗(為義子供・丹波六郎)
から出る人たちのまわりに 高階氏がいる。
高階氏は 丹後守だった。
出雲但馬高岡系図では 高階氏女子とも結婚している。つまり 高階氏がちかくにいた。

★★貴族筋の 高丘氏の方も高階氏とからまっている。
つまり
たかおか と 山口 は からまりあっている と 解する。
また 高丘氏をみると
閑院流 南家中園家 四辻家など出てきて
南家武智麻呂四男巨勢麻呂の十三男貞嗣の後裔。範季の時に高倉を号す。嫡流は範久で中絶するが、藤原北家閑院流の四辻公遠の次男嗣良が再興し、家名を藪に改姓する。
季綱の母は 高階業敏娘で こちらも 高階氏とからまっている。

★★高岡 山口は やはり からまりあっている。

⓵宇多天皇の皇子・敦実親王の系は 
藤原道長と結びついた方は貴族になっていき

京極と結びついた方は武士化していった。
A高岡と平江姻戚・東野の関係を佐々木に見ると
上と重複していますが

佐々木秀義(子孫・高岡)は源為義(東野から出る)が猶子にした。
秀義は佐々木季定の嫡男。

道長に至るには 
魚名の子孫
の 山蔭の孫娘・時姫が 道長の母になる。

山蔭の系は 四条家。鷲尾貞子は 四条貞子でもある。

父隆衡の母は平清盛の女(建礼門院の同母妹)であり、清盛の曾孫にあたる。西園寺実氏の室となり、嘉禄元年(1225年)に姞子(後の後嵯峨天皇中宮・大宮院)を、貞永元年(1232年)に公子(後の後深草天皇中宮・東二条院)を生む。弘安8年(1285年)2月30日の九十の御賀の華やかな様子が増鏡に詳しく述べられている。正安4年(1302年)10月1日に107歳で薨去。

相良氏は この 鷲尾家とも 近しい官営だった。
この もとは 伊作氏に あるのでは ないか? と 思うけど 
それは また 後で かんがえるとして・・・
[72]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月17日 14時04分00秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

「高岡氏」を調べると「様々な系」が登場されるのですね・・
其々の「高岡氏」に何らかの縁があったのか?それを調べるのも面白いかもしれませんね(p_-)

所で・・
昨日、書いたように小田氏は奥野村の国人でした。
日本の苗字七千傑様の《八田氏》姓氏類別大観から進む「小田氏」を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02007d.htm#001
小田一族の「高岡氏」と・・さらに「田野氏」が見えます!!
コメント68の
相良長頼 球磨入部の際の随行者「姓氏」を見て下さい!
中略・・大石某●愛甲某(愛甲九郎景元是なり)●田野某●満木某(みつき某)●西河路某(西小路)

※田野某・・とありますよ(p_-) おんやっ???
白石様・・もしかしたら・・四浦村から一旦目を放して、球磨郡全体に視野を広げて見られたら何か見つかるのではありませんでしょうか?
あの・・私、奥野村と何か繋がりがあるのでは?と思い、元々持っていた奥野・久米・宮原地区の字図と地形図(主に山間部表示分)をじっくり見たのです・・
すると・・おそらく、球磨郡内のどこにも無い字・・「高岡」を見つけました!!
山の中でおそらく人は住んでいないと思うのですが・・でも確かに字「高岡」があります。
旧奥野村だと思います。
球磨郡内で唯一の字「高岡」は奥野村の山中にあった・・と言う事ですね・・(p_-)
この地図、明日にでもブログにアップしますね(^'^)

所で・・相良長頼 球磨入部の際の随行者「姓氏」
●西河路某(西小路)・・西小路氏
相良藩士分限帳をみると西小路氏は旧柳瀬村(現相良村)寛政十年(1798年)〜安政年間(1859年)の間に四名の方の名前が記されています。
西小路氏・・まだ調べていませんが・・何だか京都っぽい感じがします。
(あくまでもイメージです(-.-))

では(p_-)・・(^'^)
[73]白石さんからのコメント(2016年07月17日 14時50分16秒 ) パスワード

こんにちわ
余談ですが 出雲但馬高岡系図の 最初の左上三角をクリック ひとつ前に戻して 
佐々木秀義の子供のひとり
46)光綱(1187-1272) 實佐々木四郎高綱男
   |叔父佐々木五郎義清の女を娶り、義清の養子と為る という人がいます。

この人の子孫は 乃木希典です。(養子らしいですが)

佐々木高綱の系は 大山巌がでます。大山綱昌養子實西郷龍右衞門二男

鹽冶氏の系から 南條氏へ
南條氏は 出雲国造家とからまり 
但馬鹽冶支流の
鹽冶周防守の系は 宮原又右衛門室 に なっています。
宮原又右衛門は岩国の錦帯橋を作った人も 同じ名前ですが この人のことなのか?


板垣退助も 同族から でています。

佐田が 山口にあり あちらに 父が一時 住所をうつしており
四浦に 牛島 山内 荒木 堀川 中村 など も あって
これらは 高丘系図から 関与して出る 苗字なので
どうも 山口に よっていくように 思うのですが・・・


[74]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月18日 07時54分37秒 ) パスワード

白石様
新しいスレッドを用意しました。(^'^)

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101548.html

白石様、皆様、今後ともよろしくお願い致します。
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