[1] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月30日 12時47分10秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
〉横山党には”横瀬氏”あり。平河氏系図にも良峰依高の四男「高実」は「横瀬」を名乗りました。
横山党に関して、私は完全にスルーしていた事がありました。(つくづく、自分はなんてバカなのだろうと悲しくなりました(..))
相良長頼の娘「虎若女」は小野姓横山党の「愛甲景元」の妻でした!
日本の苗字七千傑様の《相良氏》姓氏類別大観を拝見すると一目瞭然です!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022b1.htm
父と、椎葉のおじの会話に遠縁となる「愛甲家」の話が出ていて、「はっ!」と気が付きました。
小野姓横山党の一族と相良氏はしっかりと姻戚関係により結ばれている!と言う事です。
横山党と球磨の繋がりが一つ確実になってきたようです。
最近の私は以前日本の苗字七千傑様から頂いたお言葉
「各個撃破を狙っている様ですが、併行して全体の把握も重要」
こちらをいつも念頭に置くようにしています。
こうする事で、先日コメントしたように
〉日本の苗字七千傑様の《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観が「真実の全て」を物語っている!と言う事だと思います。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm#001
と”この事”に気が付いたのです。
日本の苗字七千傑様《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観に記載の「良峰姓原氏」「桓武平氏 上総氏」「桓武平氏 三浦氏」「平忠能」「平忠度」
上記を中心点と考えて、其々の系を大きく広げて見て行くと、全てが、私の今までの調査に繋がっている事が解りました。
その一つが先日コメントした「印東氏」であり、さらには相良頼景に随行して球磨に来られた「平原次郎頼範」弟「新堀又四郎頼兼」この方々の「謎」を解く鍵も見えてきました。
気が付いた事「一つ一つ」をしっかりと御紹介させて頂くつもりです。
もちろん、私が気か付いた事が「真実」とは限りません。
しかし、それを精査していく上でも、ぜひ、皆様方がお気づきになられた事、私が御紹介する事に関する「その地域の詳しい情報」等をぜひ、御教示いただければ、ありがたいと願っています。
皆様、よろしくお願い申し上げます。
[2] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月30日 23時11分20秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^'^)
白石様、沢山の御教示ありがとうございます。
私は今「目の前に登場する様々な発見」をまとめる作業で頭がいっぱいになっています。(元々自分の能力が足りないせいです(..))
頂いた御教示、興味がありますので(^'^)、申し訳ございませんが後でじっくりと拝読させて頂きますね。
皆様
明日、早速コメント1で書かせて頂いた事を御紹介させて頂くつもりです。
そこで、今晩は、コメント1で書かせて頂いた”中心点”を認識するきっかけになった出来事をお話させて頂きます。
先日、椎葉のおじから、おじの妹(父の従姉)の嫁ぎ先の”縁”について話を聞きました。
椎葉のおじの妹(普段私は○○おばさんと名前で呼んでいました)は、残念ながら十数年前に亡くなられました。
この○○おばさんが嫁がれたきっかけは、そちらのお姑さんが”藤倉家”から嫁いで来られていた・・と言う事からだったそうです。
”藤倉家”と、家の親戚一族の”縁”が○○おばさんが嫁がれるきっかけとなったそうです。
この話を聞いた時は、その事が何を意味するのか私はよく理解出来ていませんでした。
”藤倉家”・・・?
この話を聞いて、数日経った日、何気なく日本の苗字七千傑様の《佐原氏》姓氏類別大観を見ていて気が付きました!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116e3.htm
藤倉氏が佐原盛義の系に見えます!
あらためて、じっくりと《佐原氏》の系を拝見すると・・
杉本氏・・明治末期の祖母の実家「平川家」の縁戚関係が書かれた「書」が私の家に残っていて、その中に「杉本家」の名が書かれていました。
他にもその「書」には「長野家」「土屋家」の名が書かれていました。
《佐原系三浦氏》姓氏類別大観を拝見すると「出口氏」。出口家も親戚です。
佐原氏の姓氏類別大観の中に少なくとも「杉本氏」「藤倉氏」「出口氏」と偶然とは考えられない親戚の”姓”と一致する”姓”が3氏・・
さらに・・
《大多和氏》姓氏類別大観の中には「品川氏」が見えます。
個人情報なので場所は書けませんが、「平河氏居城跡」の入り口には「品川氏」が今でもお住まいです。
佐原氏の姓氏類別大観の中の少なくとも4氏は偶然か・・私の知っている「家」です。
偶然か・・いえどう考えても偶然とは思えない・・
さらに「藤倉家」は球磨郡錦町木上迫の伊勢神宮一分社(勧請)に関わりがあるお家です。
錦町商工会 サイト
http://www.kumashoko.or.jp/nishiki/kanko/index.html
ここで”迫”という地名が出ました。平河義高の居城であった「岩城」の同じく”迫”です。
”迫”・・サコ・・実は、親戚の多良木の平川家も”迫田”にあります。
”迫”・・”サコ”・・
どうしても気になり、ネットで検索すると驚愕の事実が書かれていました。
大内惟義 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9
大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。
惟義が伊賀国に赴任した時期に大内姓を称したが、後に戦国大名となる周防国の多々良姓大内氏とは関係がない。
惟義が史料に姿を現すのは『延慶本平家物語』では義仲追討戦、『吾妻鏡』では一ノ谷の戦いが初見であり、元暦元年(1184年)以前の動向は全く不明である。『玉葉』治承5年(1181年)7月1日条は、横田河原の戦いで平氏方の城助職が反乱軍に惨敗した記事であるが、反乱軍は「キソ党」「サコ党」「甲斐国武田之党」の三軍編成だったことが記されている。「サコ党」は信濃国佐久郡を本拠とする平賀氏と推察され、内乱前期の平賀氏は独立勢力として木曾義仲や甲斐源氏などと共同戦線を張っていたことがうかがえる。寿永2年(1183年)、源頼朝は義仲を討つために信濃に出兵し、碓氷峠を越えて信濃国佐久郡に入り、依田城を落して善光寺平で義仲軍と対峙している。信濃における重要拠点といっていい佐久地方がほとんど無抵抗で制圧されていることから、この時に平賀氏は義仲から離反して鎌倉の傘下に入ったと思われる。結果的に義仲の長男・義高と頼朝の長女・大姫の縁組という頼朝に有利な条件で和解が成立し、東国における頼朝の優位が確立した。それまで姿を現さなかった平賀氏が突如として鎌倉政権下で武蔵守という枢要な地位を与えられたのは、義仲からの離反に対する見返りだったとも考えられる。
※反乱軍は「キソ党」「サコ党」「甲斐国武田之党」の三軍編成だったことが記されている。「サコ党」は信濃国佐久郡を本拠とする平賀氏と推察され・・
※源頼朝は義仲を討つために信濃に出兵し、碓氷峠を越えて信濃国佐久郡に入り、依田城を落して善光寺平で義仲軍と対峙している。
”依田城”・・”依田”この言葉を皆様、ぜひ、記憶して下さい。明日の私のコメントに重要な繋がりが出てきます。
さらに「サコ党」は他に
サイト 横田河原の合戦 2
http://plaza.rakuten.co.jp/freedom1121/diary/201301160000/
※キソ党は義仲直属の主兵、サコ党は滋野(しげの)氏一族の佐久党、
上州勢は義仲の父・義賢(よしかた)の勢力下にあった武士団である。
それらは那和・桃井・佐位・瀬下・木角氏である。
●「サコ党」は信濃国佐久郡を本拠とする平賀氏
●サコ党は滋野(しげの)氏一族の佐久党
「三浦氏(佐原氏)」「平賀氏」「滋野一族」・・”迫”・・”佐久”・・サコ
そして、上記に気が付いた後に私は「藤倉氏」について調べました。
陸奥・藤倉館
http://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/fujikura-tate/
建久3年(1192年)藤倉三郎左衛門盛義によって築かれたと云われる。 盛義は佐原義連の子盛連の三男で義連の孫とされる。
藤倉氏は建長4年(1252年)藤倉盛弘の時、金上館へ移封され以後金上氏を名乗ったとされるが、これも定かではない。
中略・・
館のある藤倉は「和名類聚抄」に記載しされた椋椅郷の中心に比定される要衝地で、館の東には源義経ゆかりの皆鶴姫の碑と墓がある。
所在地
福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉
※倉橋字藤倉
驚きました!!
”倉橋”・・くらはし・・”椋橋”は”倉橋”と記述されている情報を沢山見ていたからです。
続けざまに気が付いた事・・
それが全て”繋がっている”と確信した理由です。
もちろん私の思いすごしと言う事もあります。
簡潔にとはいきませんでしたが、私が何に気が付いたのか・・の”始めに”というお話でした。
では(..)
[3] | 白石さんからのコメント(2016年07月01日 01時00分15秒 ) | パスワード |
こんばんわ
みやちゃん よく 頭がこんがりませんね。^^
杉本
集落に ありました。
ながの
永野のほうが ありましたけど。
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興味があったので 横山党のおこり 児玉党のおこりをみてみました。
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矢古宇氏 _武蔵七党_横山党 - 美と歴史 より
矢古宇郷には
横山党以前に藤原秀郷流の矢古宇氏が本拠としていた。
その後、野宰相小野篁の七代の孫、孝泰が武蔵守として武蔵武蔵国に赴任。横山の地に土着する。これが狭山丘陵を挟んで桓武平氏流村山党と対峙した横山党の起こりである。かともいわれている。
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児玉党のおこり は
伊周公の二男有道遠峰四代の孫を武蔵権守家行と称す。この時、始めて当国に来りしなるべし。
其の子を児玉庄太郎家弘といへり。
児玉に関係のあるのが、関白藤原道隆の一子伊周公とその家令です。公は、長徳二年(九七四年前)筑紫に移されていますが、 その家令、有道惟能は長徳二年二月にはその職を解かれ、その子惟行(遠峯=こだま)は式部大輔従五位下武蔵守となり、京都からその年に御牧の阿久原牧場別当として下向しています。 これは有道系図に記されています。
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★ 児玉党は菊池氏に関係していて
横山党は 小野氏にかんけいしているということですね。
さらに
児玉党の一族は、有道某もしくは有某を児玉の姓とともに名乗っており、埼玉県児玉郡神泉村にある有氏(ありうじ)神社には、児玉氏の祖が祀られています。
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はじまりが 武蔵㈦党でつながる 平川 と 菊池。
平河は 菊池をたよって
山本郡にやってきた。 ということでしたかしら?
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そうだとか ちがうとか 簡単で結構です。
みやちゃん いろいろ 書かせて悪いですからね。
[4] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月01日 13時23分00秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
白石様、御教示ありがとうございます。
〉平河は 菊池をたよって 山本郡にやってきた。 ということでしたかしら?
山江村誌歴史編からまとめさせて頂きます
『平河伝授巻』によると、
第四代(良峰安世より)安則のとき菊池経頼を頼り肥後国山本郡住す。その後、「菊池之命ヲ背御当地ニ来リ木枝平河ニ住、因茲平河ヲ名トス」
とあります。
しかし、一方「求麻外史」では上記の記述は一切なく”安則”の名も出てきません。
他に『平河氏系図』(熊風土記 巻之四所収)が存在し、こちらでは平河氏は平河師康に始まり、数世の孫師澄の代、康平六年(1063年)に球磨郡に移住したとあります。
球磨に来るまでの『平河氏』については『平河伝授巻』『平河氏系図』とも大きく異なり信憑性が問題となる。・・と山江村誌には記述されています。
そうですよね(p_-)
そうじゃなかったら、私は、こんなに苦労して、自分の中にあるDNAの一つ「平河氏」を調べる事は無かった訳ですから・・
しかし・・
菊池氏・・「菊池経頼」この方の名前が書かれているという事は、きっとここにも何か真実は隠されていると思っています。
現に、家の親戚一族である旧新堀家のお堂にお祀りに御神像(男神像)の胸にはしっかりと「並び鷹の羽」紋が施されていますから。
「菊池氏」との繋がりはあると思っています。
さらに・・私の家の前を流れる井口川の対岸は岡本。
菊池一族の合志氏の所領地でしたから。
日本の苗字七千傑様の《菊池氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006b.htm
合志氏と西郷氏は同族、其々兄弟の菊池政隆から『西郷氏』菊池経明から『合志氏』
おんやっ(?_?)(p_-)菊池経頼の兄弟「経平」この方に「迫間氏」「迫氏」が続いていますよ・・・? サコ・・新たな発見かもしれません(p_-)(違うカモ(..))
日本の苗字七千傑様の《西郷氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#001
同じく苗字七千傑様の《合志氏/赤星氏/甲斐氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#002
上記の「岡本季隆」この方からが、私の部屋からも見える「岡本城」の城主家ですね(p_-)
家の親戚には赤星家がありますし、きっと今後の調査で「菊池氏」との繋がりも見えて来ると思います(..)
所でひとつすご〜くモヤ〜ッとする事に気が付きました。
日本の苗字七千傑様の《西郷氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#001
こちらの中に「西郷局」がいらっしゃいます。
徳川家康公の側室の方ですね・・
今朝、私、空の青海のあを様、三つ柏服部様が御研究の長上郡の服部氏族LXX(16年の課題確認13)にコメントを横から書かせて頂いたのです・・
徳川家康の側室養珠院お万の方が『佐原系三浦氏「三浦盛時」の後裔になられる方ですね』と・・
「西郷局」この方の御研究も空の青海のあを様、三つ柏服部様はされていらっしゃいました(勉強させて頂きました(..))
と言う事は・・・
あれっ????あれっ???何故??
私の調査とも繋がってきている・・・・・???
徳川家康・・江戸城・・江戸城の別名は・・平河城・・・
わ〜〜〜〜〜〜っ!!全身に鳥肌が出てきました・・・何だろうこの繋がりは・・!?
又、一つ不思議な繋がりが見つかったようです・・
次のコメントでは、早速、コメント1の続きを書かせて頂きます(^'^)
では(..)
[5] | 白石さんからのコメント(2016年07月01日 14時42分05秒 ) | パスワード |
みやちゃん
お忙しいのに ありがとうございました。
家康側室「西郷の局」は 菊池氏。
徳川家にも 菊池はつながっていってるのですね。
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平河子孫35 2より
大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。
ーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「
肥後の白石は清和源氏で 「菊池に仕え 菊池」が滅んだあと 「相良」に仕えた。
また 阿蘇文書に 「木原」は 「源姓」でる。
葉木畔あ史料 に 清和源氏の百署の 「山口」があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
球磨郡上村のうちの白石があったあたりは 字が 「木原」でした。
ーーーーーーーーーーーーーーー
木原 深田 などは 「坂上系」にあるのですが
それは 一応 おいといて・・・
ーーーーーーーーーーーーーー
[6] | 白石さんからのコメント(2016年07月01日 14時48分37秒 ) | パスワード |
常陸国久慈郡の白石氏というのがあり 佐竹氏の傍流。
常陸国久慈郡白石(現在の常陸太田市岩手町)に、本姓を源氏とし、常陸守護佐竹氏の傍流にあたる白石氏がある
山入氏の系統とされる。
また、『佐竹白石系図』によれば佐竹氏四代佐竹義重の子 義清に子がないため、七郎祐義に相続させたとあり、その子 治部少輔源忠が白石氏を名乗ると記録している。
系譜 山入師義―與義―祐義―源忠(白石)
新羅三郎義光・・・佐竹氏・山入氏・・・白石
★ここで
「太田」
の 言葉がある。
[7] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月01日 15時06分05秒 ) | パスワード |
追記です(..)
先程
〉家の親戚には赤星家がありますし、きっと今後の調査で「菊池氏」との繋がりも見えて来ると思います(..)
と書きましたが・・・
もうすでに!何か!見えちゃってます!\(゜ロ\)(/ロ゜)/ きゃ〜〜〜!!
(何処から何を言っている!?との声が・・)
日本の苗字七千傑様の《西郷氏》姓氏類別大観 を先程のコメントを書いた後でじ〜っと見ていたのです。
すると!!西郷氏を継いだのは!!清和源氏義光流「大内惟義」から三代の「信治」この方です!!この方の後裔が「西郷の局」。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#001
清和源氏義光流「大内惟義」この方については、昨日、コメント2で書いたばかりです!!
迫・・サコ・・サコ党・・佐久
この繋がりから、調べていました。
※大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。
※反乱軍は「キソ党」「サコ党」「甲斐国武田之党」の三軍編成だったことが記されている。「サコ党」は信濃国佐久郡を本拠とする平賀氏と推察され、内乱前期の平賀氏は独立勢力として木曾義仲や甲斐源氏などと共同戦線を張っていたことがうかがえる。
あの・・私が何故「平賀氏」に過剰反応するのか・・
かなり前に書いた事なので、あらためて御紹介をさせて頂きますと・・
理由は球磨郡誌の記述にあります。
平川家について20−1 コメント65で書いています。
転記します(..)
平川家について20−1 コメント65より(..)
「球磨郡誌」に平河師澄についての記述があるのですが、ぜひご覧いただきたいのでご紹介致します。
342ページ〜343ページにかけて「釈迦堂」の記述があります。
ツールバーのコマ番号▼をクリックして頂くとページの選択ができます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262
転記致します。(コピー出来ませんので旧字体はそのままで入力します)
釈迦堂の釈迦如来像(藤原時代の作品)
康平の頃、平賀師澄が球磨郡永吉の庄に封ぜられしより、其の子四人、何れも郡内の勝地に掾り、藤原時代の美術を迎へて燦然たる光彩を放ち、昔の熊襲の故地に、優麗美妙の楽園を装へり。
その時代の遺物として、本村阿蘇谷の釈迦堂に釈迦像あり。
釈迦は、像身二尺七寸、藤原時代の産物たる九重台葦蓮花台上に座し、梵音朗らかに説法し給ふ像にして、後背の光華には、鍍金透彫模様を現し、脇に侍たる文殊、普賢の両像は、象と獅子との背上に、心蓮を現したる葦蓮花台に座し、鍍金の賓冠を戴き、持國、毘沙門の二天は、護衛の任を表し、左右須彌壇の両角に侍し、文彩には藤原時代の模様の残影を駐む、破損と後世の修補とは幾分本質を掩ふ所なきに非らざるも、年代を考ふれば大治前後白河法皇時代と思はれ、作者を考ふれば定朝三代の裔、頼助時分の名家に属す、其の由緒を尋ぬるに、南藤蔓綿録に曰く、「富寺開山永厳上人草創、仁平元年壽七十にして示寂す、球磨川北の本寺」とあるもの是なり、即ち平賀師高の領地の範囲と思はる、球磨郡に於ける平賀系の遺跡なりと云うべきなり。
(松原象雲氏調査、球磨による)
(゜-゜)平賀師澄・・「平賀」です・・・・
このような記述があったとは・・松原象雲氏の調査「球磨」からの引用のようです。
=================================================
と書いていたのであります(..)
しかし、この時は「平河」を「平賀」と書き間違えしたのではないのかな〜(-.-)・・(;一_一)
な〜んて思っていました(..)(書き間違えとか失礼な事を(..)反省しています)
こうなって来ると・・書き間違えとかじゃないようですね(p_-)
球磨の平河氏(良峰氏※丹羽氏)に関わる系は一つや二つじゃなさそうです。
やはり、気が付いた事をドンドン書かなきゃ!
では(p_-)
[8] | 白石さんからのコメント(2016年07月01日 15時38分13秒 ) | パスワード |
>葉木畔あ史料 に 清和源氏の百署の 「山口」があった。
↓
萩藩資料に清和源氏の百姓の山口があった。です。
なんだか 自分のぱそこんでは ないみたい。
ーーーーーーーーーーーーーー
新羅三郎義光・・・佐竹・山入・・・白石
新羅三郎義光・・・武田
新羅三郎義光・・・大内氏・平賀氏
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
同族なのですね。
平賀源内は 「白石」でした。姻戚関係なのかしらん?
また
維新のスポンサーは 「白石正一郎」でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
群馬県太田市世良田町の 世良田東照宮・・徳川氏発祥の地
3月頃 テレビ放映されたそうです。
日光東照宮や 千代田城を思うと びっくりするほど 小さいけど
また
過去に 北条氏の故郷がテレビに出たけど ここも 小さい 小さい
なっていったのですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★ 世良田東照宮の地名も 「太田」が あります。
みやちゃん
球磨の 太田家住宅 何か ないでしょうか?
また
江戸城は 太田道灌が つくったのですが
この方は 高岡系図から でました。
ーーーーーーーーーーー
なんだか
うちの平川に 高岡から 入り婿して 家を継いだ 話に もとがあるような・・・
[9] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月01日 15時39分20秒 ) | パスワード |
再追記(..)
白石様の御教示に気が付く事も出来ないほど先程はビックリしていました。
すみません。
白石様、御教示ありがとうございます。
大内惟義 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9
※大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。
惟義が伊賀国に赴任した時期に大内姓を称したが、後に戦国大名となる周防国の多々良姓大内氏とは関係がない。
惟義が史料に姿を現すのは『延慶本平家物語』では義仲追討戦、『吾妻鏡』では一ノ谷の戦いが初見であり、元暦元年(1184年)以前の動向は全く不明である。
※それまで姿を現さなかった平賀氏が突如として鎌倉政権下で武蔵守という枢要な地位を与えられたのは、義仲からの離反に対する見返りだったとも考えられる。
(p_-)おんやっ????
※惟義が史料に姿を現すのは『延慶本平家物語』元暦元年(1184年)以前の動向は全く不明である。
※それまで姿を現さなかった平賀氏が突如として鎌倉政権下で武蔵守という枢要な地位を与えられた・・
おんやっ(p_-)おやおやっ??(p_-)
この方は、突如現れた・・元暦元年(1184年)以前の動向は全く不明・・
元暦元年(1184年)以前まで、この方はいったい何処にいらっしゃったのでしょうか・・(p_-)・・・・
(p_-)・・・おんやっ?!・・・むむむっ(p_-)
コメント1の続きを書くと言っておきながら・・すみません皆様(..)
私、今から、今年、年回りで、廻ってきた、集落の”長”の仕事を父の代理でやらなければいけませんので、集落をぐるっと一回りして参ります(..)
おっちょこちょいなので、転ばないように気をつけます。
(実は、先日、急に降り出した豪雨を避けようと久しぶりに走ったら・・激しく転んで、膝小僧には今でも痛々しい(自分で言うか?)傷とすご〜く大きな青あざが出来ていますので(..))
私が”おとなしい間”にぜひ、皆様、御教示の程
よろしくお願い申し上げます。
では行ってきます(^O^)/
[11] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月01日 20時49分10秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^'^)
白石様、御教示ありがとうございます(^−^)
〉球磨の 太田家住宅 何か ないでしょうか?
今の所、どちらの系かは私は存じていません。
しかし、相良氏と共に来られたのは明らかです。
所で白石様、皆様
外出から戻って、私が何を見ていたかと言いますと源義光の後裔の「平賀氏」・・ではなくて・・
日本の苗字七千傑様の【三国氏/酒人氏】 姓氏類別大観 から進んだ
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233.htm#002
《三国氏》姓氏類別大観 ※井伊氏に繋がっています
《松葉氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm#002
こちらです(..)
ずっと気になっていたのです。
大内 惟義(平賀氏)・・「惟」の文字が・・付くお名前・・と。
そこで日本の苗字七千傑様の《松葉氏》姓氏類別大観をじっと見つめていたのです。
こちらの平賀氏の通字は「惟」ですね。
さらに気が付きました「木原氏」です。
こちらが白石様が以前お話されていた「木原氏」ですね。
私、この事に気が付いた後、白石様の以前のコメントを読み返しました。
平川家について21 コメント17で白石様は
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101407.html
〉腹違いの姉の母が 高岡(木原)と 書いてあるのを 見つけました。
屋根裏で 父のアルバムにはりつけてあった 一族でうつしているらしい写真をはがして 持ってきていたですが どこの家なのかは わかりません。
写真の後ろに 高岡(木原)○○○ と 書いてありました。
と書いていらっしゃいました。
もしかしたら・・想像ですみませんが、白石様のお父様の「高岡家」。
木原氏に関係しているのではありませんか?
長年お付き合い下さった白石様には嘘は付けませんのでお話します。
大変失礼ながら・・私のDNAは「高岡氏」ではなくより「木原氏」に強く反応しています。
平川家について21 コメント18を見て下さい。
〉白石様のご先祖様に関わる系の一つのカギは「木原」なのかな・・?とふと・・(勝手にすみません)
と私は、書いています。
私はこの時、すごく気になって「旧字」も調べていました。
武家家伝 平賀氏 をご覧ください。
「平賀氏の家紋」の項の特に一番下の記述です。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_hiraga.html
そこで、白石様にお願いがございます(..)
新しいスレッドを立ち上げました
松葉宗益 後裔 平賀氏について
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101545.html
こちらのスレッドで松葉宗益 後裔 平賀氏・太田氏と高岡氏の関係他、関連する事をお調べいただけませんでしょうか。
私は松葉宗益 後裔 平賀氏までの調査を同時並行で進める能力がありません。
しかし、松葉宗益 後裔 平賀氏、非常に気になります。
白石様、ぜひ、お力をお貸し下さい。
きっと、「何か見つかる」と私は信じています。
よろしくお願い申し上げます。
[12] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年07月01日 20時55分27秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>>この方は、突如現れた・・元暦元年(1184年)以前の動向は全く不明・・
元暦元年(1184年)以前まで、この方はいったい何処にいらっしゃったのでしょうか・・(p_-)・・・・
義光流は、常陸国佐竹荘を本拠とする佐竹氏族、近江国に土着した山本氏族、甲斐国市河荘を本拠とした武田氏族、信濃国を本拠とした平賀氏族の四大氏族集団から構成される。 特に武田氏族は全国に繁延して、地名も各地に遷移している。
平賀氏族は信濃が本貫で、周辺は滋野氏が多数派で平賀氏族は主流では無い。
平賀盛義の後裔の久我家諸大夫竹内家は永禄3年、将軍の執奏により堂上家の一つとなることにより有名になったわけです。
とにかく義光流では、家格がトップです。
[13] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月01日 20時57分27秒 ) | パスワード |
追記
白石様、
〉武家家伝 平賀氏。
「平賀氏の家紋」の項の特に一番下の記述。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_hiraga.html
お読みいただけましたでしょうか?
確か、白石様のお母様の御実家「佐田家」は山口で醸造所を営んでいらっしゃった
と記憶しているのですが・・
白石様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
[14] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月01日 22時47分35秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。
〉平賀氏族は信濃が本貫で、周辺は滋野氏が多数派で平賀氏族は主流では無い。
だから、私がコメント2で書いたように
●「サコ党」は信濃国佐久郡を本拠とする平賀氏
●サコ党は滋野(しげの)氏一族の佐久党
という記述があったのですね。
〉平賀盛義の後裔の久我家諸大夫竹内家
久我家に繋がっているのですね。
久我家は人吉庄の預所であった平頼盛・平光盛の系に繋がっていました。
久我姓は球磨にもあります。多良木の平川家とは親戚です(偶然だとは思いますが・・)
ただ、すごく不思議なのは、家の親戚関係の中には千葉家・畠山家・片岡家・久我家といった、どうしてこの姓が球磨に?と言った”姓”がとても多くて・・?
一つ気が付いた事があります。
大内惟義の父「平賀義信」をウィキで調べました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E7%BE%A9%E4%BF%A1
平賀 義信(ひらが よしのぶ/源 義信 みなもと の よしのぶ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖である源盛義。諱は義宣とも。
信濃国佐久郡平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。『平治物語』には平賀四郎義宣と記され、三条河原での戦いで奮戦する義宣(義信)を見た義朝が、「あぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」と郎党達に救うように命じている様が描かれている。義朝敗戦の後、その東国への逃避行に付き随った7人の1人となる。『平治物語』では、尾張国知多郡内海の長田忠致館で義朝の最後を知った直後、逃亡に成功して生き延びる。その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。
なお『平治物語』には、佐渡式部大輔重成(八島重成)と共に「従子」と記されている。この従子は現代語訳では従兄弟と訳されることもあるが、この場合は血縁上の従兄弟ではなく「一門ではないが、近い源氏」という意味である。また文脈から「一族同様に信頼した若武者」と解釈する向きもある。
※尾張国知多郡内海の長田忠致館で義朝の最後を知った直後、逃亡に成功して生き延びる。その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。
父母 父:源盛義(平賀盛義)
妻 比企尼の三女
驚きました!妻は「比企尼の三女」 比企氏に繋がっています。
以前、私は「比企氏」と球磨の繋がりを調べていた事がありました。
所が、あったのです。比企氏と球磨の繋がり・・と言うか理由が解らない繋がりが・・
ひとよし歴史研究 平成9年創刊号 人吉庄の歴史的景観の復元 鶴嶋俊彦氏著
こちらに人吉願成寺の記述があります。
『建立(願成寺)の目的は、正應六年(1293年)の「沙弥某(長氏)置文」によれば、長頼が「竹御所」の菩提と自他の仏道を修めて悟りを開く為に建立したとする』
竹御所 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%BE%A1%E6%89%80
竹御所(たけのごしょ、建仁2年(1202年) - 天福2年7月27日(1234年8月23日))は、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘。位記の名は鞠子。妙本寺の寺伝よれば媄子(よしこ)。一幡の同母妹、公暁、栄実の異母妹、禅暁とは異母兄妹(もしくは異母姉弟)と考えられている。
母は『尊卑分脈』では源義仲の娘となっているおり、また『諸家系図纂』所収「河野系図」には河野通信と北条時政の娘の間に生まれた美濃局を母と伝えるが、「竹の御所」と呼ばれた鞠子の邸は比企ヶ谷の比企氏邸跡であることから、実際の母は比企能員の娘若狭局と考えられる(美濃局については竹御所の乳母が正しく、その後ろ盾で承久の乱に連座した河野氏が再興されたとする説もある[1])。
誕生の翌年に比企能員の変が起こり、頼家は北条氏によって将軍の座から逐われ、間もなく暗殺された。建保4年(1216年)3月5日、祖母・北条政子の命により、14歳で叔父の源実朝の御台所・坊門信子に謁見し、その猶子となる。他の頼家の子が幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子の死後にその実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした。
寛喜2年(1230年)、28歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぐ。夫婦仲は円満であったと伝えられる。その4年後に懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男児を死産し、本人も死去した。享年33。これにより頼朝の直系子孫は完全に断絶した。
中略・・
墓は比企一族の菩提寺である妙本寺にある。
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※竹御所の母・・
「竹の御所」と呼ばれた鞠子の邸は比企ヶ谷の比企氏邸跡であることから、実際の母は比企能員の娘若狭局と考えられる
※墓は比企一族の菩提寺である妙本寺にある。
※相良長頼が「竹御所」の菩提と自他の仏道を修めて悟りを開く為に建立したとする『願成寺』
※母方が比企氏・・「竹御所」
※平賀義信の妻・・比企尼の三女
比企氏もやはり、球磨に繋がっているようです・・
日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございました。
[15] | 白石さんからのコメント(2016年07月02日 01時16分36秒 ) | パスワード |
みやちゃん
こんばんわ
お忙しい様子 また お怪我されて 大変ですね。
私も この頃 っとに 足元が危うく くるぶしがたまにいたく
会談など気を付けています。
ころんだだけで 骨折して 一週間も入院したら もう 寝たきりになる人もいますものね。
おたがい 気を付けましょうね。B型どおしですから・・・^^
おっちょこちょいは わたくしもです。
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武家家伝平賀のこと みてみます。
ずっと前に 井伊 松葉は同祖と書いたことがあったと思います。
あの頃は 何がなんだか わからず・・・家紋が 井伊氏は橘 井手でもある。
と思っていました。又 比叡山におられると。
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長くなって申し訳ないことですが これで 史料からみたことは 終わりかな?と 思い 過去に 調べたことを 書きます。
@徳川家康は はじめ菅原朝臣を名乗った。
アマテラスとスサノオの子 あまのほひのみことは 菅原氏遠祖。
能見のスクネ 土師氏をとおり 菅原を名乗る。菅原道真の子孫に 「唐橋為長」がいる。
道真の父から別れる筋に 九鬼氏がいる。
この 「九鬼文書・・・鬼の上の点がない。くかみ と読む。
後醍醐天皇からいただいた姓・・・ という。」は 古事記 日本書紀とは 少し 異なる 記述をしている。
スサノオを 正統としていることである。又 九鬼文書は 天児屋命を遠祖とする 藤原氏でもあった。
※このあたり はじまりは 「たか」 「サダ」 どっちだろうと過去に考えましたが、どちらでもよいのだ という考えにこの頃いたりました。
又 道真の遠い祖先の枝分かれに 大江氏(大枝)がおり、 平城天皇の孫 つまり 阿保親王の子供が 大江音人。この人の筋が 熱田神宮に養子に入り 毛利氏へ養子に入る。
大江・房である。
市房神宮のお鏡を預かる田山が 袴谷にあった。
「辞典」に 「田山」の本姓は「阿保」である。
阿保親王の 母は 葛井道依(宮原道依)の娘 。葛井道依は王辰爾につながる。
唐橋為長の子孫 定俊に 伝通院於大の方が 嫁している。於大の方は松平広忠との間に 徳川家康を生み その後 再婚したものである。
A家康は 近衛に聞き 系図をつくった。
近衛経村の子供を小川重経 小川雅経という。
この子孫 水野。水野忠政と結婚するのが 華陽院。 華陽院は 松平清康とも 結婚。
B家康は 平氏。
青木方頼の孫娘 妙琳と松平清康と結婚。つまり 華陽院は松平と近衛とつながっている。伝通院於大の方は華陽院と水野忠政の間の子。
青木は平維茂の子孫。
松平清康と妙琳との間の子が 松平広忠。広忠と華陽院の連れ子の近衛の血を引く 伝通院於大の方と結婚。
( 青木は ほかに 伊達氏 武田氏 大江氏からの枝分かれもある。)
C徳川の葵のご紋は 賀茂神社ゆかりの人が使った紋。
松平清康の祖父は松平姓 。 父を 松平親忠といい 鈴木重勝の娘 閑照院と結婚 長親ができる。
鈴木は はるか昔 熊野権現が マガダ国から 飛び来たったときついてきた人の子孫。
このとき 同じくついてきた人から ヤタガラスがでて 神武天皇を先導した。ヤタガラスの子孫が 賀茂神社に入る。
賀茂神社社家に 田中 林がある。
松平親忠にいたるには
賀茂在信の三代目の子孫 松平親氏と荒尾宗顕の三代目の子孫の女子との間の子が松平信光。その人の子供が松平親忠。
このとき 荒尾氏の子孫のもう一人の 姉妹の人が 松平泰親と結婚。松平泰親の一族は 世良田氏。世良田政義の孫が松平泰親。泰親の兄は 得川有親。
D徳川家康は 清和源氏を名乗った。
清和源氏の一族 新田義重の末子 義秀が 上野国新田郡世良田村得川郷に住み得川氏を称し、その後 頼氏ーー教氏ーー家時ーー満義ーー政義ーー親季ーー有親と続き親氏にいたったとされる。その親氏が徳阿弥という
時宗の僧となって諸国をめぐるうち、三河松平郷の土豪 松平太郎左衛門信重の娘婿となり、これが松平の初代にかぞえられるという。
細川氏は 新田氏の一流。
細川護煕氏は 近衛の孫。 細川氏も 摂津にいた。
こちら 鴨神社があるところは 加茂郷 富田 だった。
その近くに 富田があり 中世のころは 全国の寺院の総本山だった もとの 本願寺 の 本照寺(富田城 佐々木城)がある。
住職 日野氏。藤原北家。 姓系辞典に 高岡は 佐々木か? 富田進士か?ともある。
そのそばに 普門寺がある。室町幕府のもとでは 管領 細川晴元、 足利14代将軍 義栄の居城でもあって 普門寺城とも呼ばれた。
高倉天皇の安産祈願がなされた 鴨神社。
全国の三嶋神社ん大本という。(高月教育委員会)
豊臣秀吉は 大山崎の合戦で 富田に本陣をしいた。
平家とともに 富田は又 足利幕府の勢力のつよかったところ。つまり 源氏もいた。
また 後水尾天皇は しばしば 遊びに来ておられた。
[16] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月02日 04時47分30秒 ) | パスワード |
白石様
沢山の御教示ありがとうございます。
松葉宗益 後裔 平賀氏について コメントは書いていませんが私も少し調べてみました。
おそらく、何らかの形で繋がって行く事は確実かな(色々見つけています)・・と今は推測しています。
また、今までの調査の中で、私がずっと疑問だった「日蓮上人」「日蓮宗」「井伊氏」「橘紋」の繋がりを解く鍵はこちらではないか?と推測しています。
何かお気づきの事がありましたら、新しく立ち上げたスレッドの方へ御教示の程よろしくお願い致します(..)
〉おたがい 気を付けましょうね。B型どおしですから・・・^^
あの・・白石様・・(..) 私血液型はB型ではありません(..)
私の血液型はAB型です。
父がA型、母がB型のABです(..)
ちなみに、平川繋がりの親戚(私と血縁関係のある)は殆どがO型かA型で、B型は実は・・誰もいないのです(..)
宮原の祖父はA型です。
O型・A型の一族の中で一際異彩を放つAB型のわたしであります(..)
あと・・ずっと書こう書こうと思いながらすぐに忘れていた事がありました。
富田家ですが、家の球磨郡内の親戚にも富田家があります。(父からちゃんと聞いていました(..))
ちなみに、球磨とは関係ないのですが、母方の祖母の実家は日向佐土原藩の藩士家の富田家です(..)
あと、山口家は椎葉のおじの”いとこ”にあたる家に山口家があります。
これも、ちゃんと解っていて、すぐにコメントに書く事を忘れていました。(..)すみません。
上記の山口家は・・関連する事を一つでも書いたらすぐにばれてしまうような・・球磨では・・(ー_ー)!!
これ以上は書けません(..)
色々書くのを忘れていてすみませんでした(..)
[17] | 白石さんからのコメント(2016年07月02日 14時46分07秒 ) | パスワード |
みやちゃん
AB型でしたか?^^
働いていたところの A型の管理人さんが
「恐るべし AB型」と言っていました。
私の 子供 3人のうち 二人AB型 一人B型です。
ーーーーーーーーーーーー
管理品さんは 榎本さんといって
「榎本武あきら」っていましたよね。というと 自分とこは 埼玉で 全く関係ないといっていましたが 家の屋根に 竹に雀の 紋がついていた といっていましもた。
その人の お鼻が
私の同級生の 溝口君のお鼻と同じで 目と目の間から ぐわーっともりあがっているのです。
顔そのものに 迫力があり 武あきらの 顔にそっくりと 思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
おっしゃってた スレッドに すこしばかり 投稿しました。
皆様からの 濃い情報を待っています。
[18] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月02日 16時36分20秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
コメント2で書いたように
〉〉日本の苗字七千傑様の《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観が「真実の全て」を物語っている!と言う事だと思います。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm#001
上記を中心点と考えて、其々の系を大きく広げて見て行くと、全てが、私の今までの調査に繋がっている事が解りました。
================================================
日本の苗字七千傑様の《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観を拝見すると
@桓武平氏上総氏「平常澄」の娘。すなわち上総広常の姉妹は良峰姓原氏の「原高成」の妻である。
A桓武平氏三浦氏「三浦義明」の娘は桓武平氏上総氏「上総広常」の兄弟「金田頼次」の妻である。
B良峰姓原氏の「原高成」の息「原高春」の娘は「肥後守平貞能」の妻である。(後裔 大橋氏)
C平忠度(平清盛異母兄弟)の母は良峰姓原氏の「原高成」の娘、すなわち「原高春」の妹もしくは姉である。
上記@ABCの縁戚関係を元に各系を広げて見て行きます。
まずは
@桓武平氏上総氏「平常澄」の娘。すなわち上総広常の姉妹は良峰姓原氏の「原高成」の妻である。
A桓武平氏三浦氏「三浦義明」の娘は桓武平氏上総氏「上総広常」の兄弟「金田頼次」の妻である。
★1,桓武平氏上総氏。桓武平氏良文流
まず日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観さらに《良文流分流略系》を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
千葉氏・三浦氏・佐原氏・杉本氏・畠山氏・上総氏・良茂流鎌倉氏(梶原氏・長尾氏 等)中村氏・土肥氏・土屋氏・曾我氏・伊作氏 などがこちらに”姓”を連ねている事が解ります。
上記の姓から
※「土肥氏・土屋氏」については鎌倉時代における記述、さらには相良藩士の分限帳にも多数の「名」があがり、本州より肥後国球磨郡・人吉に「土肥氏・土屋氏」の系が移住した事は明らかです。
(先日コメントした”藤倉氏”は土屋氏族称するとの記述が日本の苗字七千傑様の画面上の掲載姓氏の項に見えます。)
※良茂流鎌倉氏「梶原氏」である”平景俊”は球磨郡須恵庄阿蘇谷の『預所院主惣公文』でありました。
※同じく梶原氏は伊予橘氏「橘公業」と姻戚関係にあります。(橘公業は肥後国球磨郡久米郷を所領)
※相良長頼の兄弟に「佐原頼忠」があり三浦一族「佐原氏」との姻戚関係を暗示。
他、私ごとですが、地元における「杉本家」「土屋家」「千葉家」「畠山家」等の縁戚関係が存在します。
上記を踏まえて、『桓武平氏良文流』の数々の系は肥後国球磨郡との繋がりが濃厚であると推測しました。
★2,桓武平氏上総氏「平常澄」の後裔について
※「平常澄」の娘。すなわち上総広常の姉妹は良峰姓原氏の「原高成」の妻である。
※「三浦義明」の娘は「上総広常」の兄弟「金田頼次」の妻である。
良峰姓原氏さらに三浦氏と姻戚関係にある上総氏。
平常澄を調べました。 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B8%B8%E6%BE%84
平 常澄(たいら の つねずみ)は、平安時代後期の武将。上総氏3代当主。平常晴の子。子に上総広常などがいる。諱は常隆、常高、常尊、また名を上総常澄とも。
佐賀六郎、もしくは相馬六郎と号した(このことから六男であることが分かる)。実父である常晴との折り合いが悪かったのか、常晴は兄・常兼の三子・千葉常重を養子として先祖代々の下総国相馬郡の地及び房総平氏の惣領の座を譲った。
偏諱を与えた人物[編集]
三浦義澄
(p_-)補足 三浦義澄の正室は伊東祐親の娘 すなわち相良氏と同族(工藤氏)
伊東祐親、次男の祐清の妻は「比企尼の三女」
平 常澄の記述に戻ります。
子
伊西常景、印東常茂、匝瑳常成、佐是円阿、
大椎惟常、埴生常益、天羽秀常、
上総広常、相馬常清、臼井親常、
時田為常、金田頼次
(p_-)さらに・・良峰姓原氏の「原高成」の妻が娘である・・
上記の「印東常茂」・・こちらから印東氏を調べました。
★3,「印東氏」について
印東常茂 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%9D%B1%E5%B8%B8%E8%8C%82
印東 常茂(いんとう つねしげ)は、平安時代末期の武士。上総氏5代当主。平常澄の次男。上総広常の兄。子に長南重常、印東頼常、南郷師常、戸田常政。常重とも。下総国印東庄に因んで印東(伊東)次郎と号した。印東氏の祖。
兄・伊西常景が有していた上総氏及び房総平氏の惣領の座を、これを殺すことで強奪した。しかし、常茂が暴力的に惣領の座を得たことは上総氏及び他の房総平氏の間で激しい反発心を引き起こし、多くが常茂の許を離れて、その弟である介八郎広常の許に去った。
そこで常茂は当時下総の国守であった藤原親盛を通じて、その姻戚関係にあった平家と結びつくこてで自己の地盤を固めようとした。実際、常茂は大番役として京に上洛している。
常茂が上洛している間の治承4年(1180年)8月4日に源頼朝が伊豆国で挙兵した。頼朝挙兵に、上総広常とその同族である千葉常胤が賛同して兵を挙げている。常茂の子息達は父親に反して広常に加勢したことが『源平闘諍録』に記載されている。
(p_-)※当時下総の国守であった藤原親盛を通じて、その姻戚関係にあった平家と結びつくこてで自己の地盤を固めようとした。実際、常茂は大番役として京に上洛している。
(p_-)補足「藤原親盛」ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%9B%9B_(%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%AE%88)
藤原 親盛(ふじわら の ちかもり)は、平安時代末期の廷臣。下総守藤原親通の子。
生涯[編集]
父の親通が千葉常重から奪取した相馬御厨や立花荘を継承し、下総国に一族の勢力を保つ。長男の親政の室に平忠盛の娘を迎える一方、娘を忠盛の孫重盛の室[1]とするなど、平家一門との関係を深めた。こうした関係を通じて一族は下総における親平家勢力の代表的存在となり、治承年間、親政の代に源頼朝麾下となった千葉氏の攻撃を受け滅ぼされている。
※長男の親政の室に平忠盛の娘
※娘は忠盛の孫平重盛の室
(p_-)補足「藤原親盛」ウィキより でした(..)
印東氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%9D%B1%E6%B0%8F
印東氏(いんとうし)は、桓武平氏である日本の氏族。下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする。桓武平氏良文流(系図によっては良兼流とされる)。上総権介平常澄の二男、印東次郎常茂(常義)を祖とする。上総広常は常茂の八弟にあたる。上総氏。
源頼朝が挙兵した際、初代常茂は平家方、息子たちは源氏方へ付き、子孫は御家人として鎌倉幕府へ仕えた。
鎌倉幕府成立後、房総平氏の総領であった上総広常が謀反の疑いで誅されたことにより、幕府内における上総一族としての印東氏の勢力は減退し、代わって千葉氏が房総平氏の総領となり、その被官となることを余儀なくされた。
宝治合戦では千葉氏と共に三浦氏方に与したため、所領の多くを失うこととなる。鎌倉幕府滅亡後は鎌倉公方足利氏、里見氏へ仕えたことが記録から伺える。
江戸時代には南部藩(南部家)、前橋藩(松平家)、喜連川藩(喜連川(足利)家)、上総久留里藩(黒田家)、薩摩藩(島津家)へ仕官していることが資料からも判明している。
(p_-)以下非常に興味深い記述が沢山ある「平安〜鎌倉期の印東氏」です(..)
良峰姓原氏との姻戚関係より以下の方々は良峰姓原氏の各氏とは「いとこ・はとこ」の関係となる訳ですね(p_-)
平安〜鎌倉期の印東氏 より 抜粋します(..)
※印東別当頼常(胤常)
常茂の二男。治承4(1180)年9月4日結城浜の戦いに赴く上総広常率いる軍勢に兄・長南太郎重常と弟・四郎師常とともにその名が見える。
※印東太郎(常直)
安貞2(1228)年7月23日、将軍・藤原頼経の三浦義村の山荘への渡御の随兵として、その名が見える。
※印東八郎
同年5月8日、御所の馬場殿にて五番の競馬が催され、将軍・頼経が観覧する中、接戦が繰り広げられた。その代表者として加地三郎左衛門尉と印東八郎の名が見える。 5月13日には、印東八郎は御所に召され、将軍家より御厩の栗毛の馬を下賜された。 嘉禎2(1236)年10月5日、興福寺の僧兵の暴挙を防ぐため、大和国に守護人を設置することが決まり、興福寺の荘園を没収し、それらを大和国の各地頭に補した。さらに、畿内、近国の御家人らを催促し、南都へ通じる道路をふさいだ。この守備を命じられたのが印東八郎、佐原七郎らの「殊勝、勇敢、壮力の輩」であった。
※印東次郎
寛元3(1245)年1月9日の御弓始の儀には、弓術に長じた御家人が選ばれるが、その一番に三浦光村(三郎)と印東次郎が名を連ねた記録がある。
※印東次郎・三郎
宝治元(1247)年の宝治合戦では、印東太郎とその子息次郎、三郎が戦死を遂げた。宝治合戦で戦死した印東太郎は、安貞2(1228)年の印東太郎(常直)か。子息の次郎は寛元3(1245)年1月の印東次郎であると思われる。
※印東小四郎光継
元弘3(1333)年から翌年正月にかけて、鎌倉幕府の残党である安達城介高景、名越中務大輔時如の両名が、安達高景の領所があった陸奥国へ逃走。陸奥国津軽平賀郡大光寺の地頭・曾我助光入道道性がこれに協力して挙兵した。これに後醍醐天皇方に寝返った曾我乙房丸(曾我光高)、工藤貞行(中務右衛門尉)、早河禅門、安東高季(五郎太郎)が大光寺に攻め寄せて合戦となった。この大光寺合戦で、曾我乙房丸方として参陣。正月8日の戦いで左膝を射抜かれた記録が残っている。
(p_-)最後に、「僧侶になった印東氏」について 皆様、じっくりとお読み下さい(..)
僧侶になった印東氏 より
日昭(1236年〜1323年)
日蓮直弟子の六老僧筆頭。昭門流(浜門流)の祖。はじめ成弁と号し、弁阿闍梨、不軽院と称された。下総国印東庄能戸の領主・印東治郎左衛門尉祐昭の次男。母は工藤左衛門尉祐経娘 (妙一尼公)。のち摂政・近衛兼経の猶子となり、法印に任じられた。 兄・三郎左衛門尉祐信が印東家を継ぎ、次男の日昭が日蓮の直弟子となった。姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。
嘉禎2(1236)年、下総国海上郡に生まれたとされるが、確実な生年は不明である。父の印東治郎左衛門尉祐昭は印東次郎左衛門尉の息と伝わる。 幼くして成弁と号して比叡山に登り、尊海阿闍梨を師と仰いで修行を重ねた。才能あふれる成弁を尊海から聞いた近衛兼経は彼を猶子に迎えたという。日昭についての伝承は詳しく伝わっていないものの、日昭は日蓮が亡くなるときには上首と定められるほど信頼の厚い人物であった。
鎌倉においては幕府の弾圧に屈せず、弘安8(1258)年4月には幕府に陳情を提出するなど日朗とともに活躍。教団の基礎を固めることに尽力した。 また、御家人・工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立。現在の材木座・実相寺である。
元亨3(1323)年3月26日入滅。
日昭
※下総国印東庄能戸の領主・印東治郎左衛門尉祐昭の次男。母は工藤左衛門尉祐経娘 (妙一尼公)。のち摂政・近衛兼経の猶子となり、法印に任じられた。
※父の印東治郎左衛門尉祐昭は印東次郎左衛門尉の息と伝わる。
※姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。
※妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。
★工藤左衛門尉祐経・・すなわち工藤祐経です。こちらに繋がっていました!
★池上左衛門大夫康光・池上宗長・宗仲
ウィキ 池上宗仲 より
池上宗仲(いけがみ むねなか、生没年未詳)は、鎌倉時代の武士で、日蓮の有力檀越。官位は日蓮の書状によると右衛門大夫。大中臣氏を自称しているが、池上氏は藤原忠平又は藤原良相の子とされる池上忠方の末裔を称する家柄である。日蓮に深く帰依し、弟の池上宗長とともに池上兄弟と呼ばれた。父は鎌倉幕府の作事奉行だった池上左衛門大夫(池上康光とも[1])。母は印東祐昭の娘で、日昭は母方の叔父、同じく母方の従兄弟に日朗・日像がいると伝わる。
中略・・
正応元年(1288年)日蓮七回忌の際、宗仲は日蓮の六老僧の一人・日朗と協力して日蓮の御影像を造った。この御影像を安置したのが池上本門寺である。
★妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。
((+_+))・・こちらの平賀二郎有国とはどちらの系の「平賀氏」なのでしょうか???
以上かなり長くなりましたが・・
知り得たかった繋がりを持つのは、犬童氏ではなく印東氏でした。
偶然か・・・??
皆様、ぜひ御教示の程、よろしくお願い申し上げます。
次回は『「平原次郎頼範」弟「新堀又四郎頼兼」この方々の「謎」を解く鍵』
について書かせて頂く予定です。
では(..)
[19] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月02日 19時35分05秒 ) | パスワード |
追記
皆様、すみません(..)
印東氏についてウィキから重要な記述を転記するのを忘れていました(..)
印東氏 ウィキよりの転記追加
子孫に伝わる異伝によれば平将門の子孫との口伝えもある。平良文が将門の叔父でありながら猶子となったことによる系譜か。
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良将流】姓氏類別大観を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
かなり以前の事ですが平川家について12コメント1で
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101352.html
文字化けしていますが
★直澄より幸澄にいたりて六代の間常陸国に潜居
★平氏となりて相馬を称す
★清漫へき師澄に作る。左衛門太郎
★直澄従五位下、遠江権守に叙任し、肥後国藤これを上御霊社に併祀す。
という記述を見つけました。
〉藤原純友の系図で言うと「師純(師澄)」は曾孫にあたります。
他、大村氏との関連等も考えたのですが、さっぱり解らずとても混乱した事を覚えています。
その後「平将門公」についてさらに「大村氏」に関して日本の苗字七千傑様から頂いた御教示で
〉西の純友、東の将門と同時代なので双方が呼応したとの与太話も有りますが、無関係でしょう。
〉旧来から藤原長良後裔が有力説ですが、紀国造族の大村直裔の直澄が何らかの理由で平姓に改称して肥前大村氏という説も有り。
平氏清盛流矢上氏も純を通字としており、有馬/大村の各系図も錯綜しているので真相は闇の中。
とのお言葉を頂きました。
真相は闇の中・・
「師澄(師純)」・・この方に関する情報が何か残っていたら・・
しかし・・ウィキの記述にあるように
★子孫に伝わる異伝によれば平将門の子孫との口伝えもある。平良文が将門の叔父でありながら猶子となったことによる系譜か。
★平氏清盛流矢上氏も純を通字としており、有馬/大村の各系図も錯綜しているので真相は闇の中。
平賀師澄・・この方の真実は上記にあるのかな・・何て考えたりしています。
では(..)
[21] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月02日 21時46分18秒 ) | パスワード |
皆様、再々追記です(-.-)
まず、最初に叫ばさせて下さい(..)ふぅ〜
きゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
私、先日から印東氏については調べていたのに「大スルー」をしていました!
〉日昭 ※姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。
日蓮上人と言えば、有力壇越として知られる南部家。
宮原の一族の先祖である橘公綱の妻は南部実継の娘。
何か、私今まで書いていなかったかな?と思い過去のスレッドを見直すと・・
平川家について21コメント20で私は・・
〉南部 実継
弘安5年(1282年)、父実長が身延山に匿っていた日蓮が老衰による疲れの為に下山を希望し、池上宗仲の邸宅に身を寄せる際、随行する役を命じられた。
と書いていました\(゜ロ\)(/ロ゜)/きゃ〜っ!!
※橘公綱の妻の父「南部実継」は日蓮聖人が池上宗仲の邸宅に身を寄せる際、随行する役を命じられた
〉日昭 ※姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。
「南部実継」と「池上宗仲」
おっお知り合いだったのですね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
犬童氏・・犬童という地名は無いからもしや?「印東氏」に何か関係があるのでは(p_-)?
と思い、印東氏を調べていたら、無意識の内に「赤い糸」?を繋ぎ合わせていました。
しかし・・・ビックリしました・・・
興奮して眠れるかな??(-.-)
では(..)
[22] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月03日 07時55分24秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
まず、最初に・・・
私、昨日の印東氏に関する調査に、一番大事な気が付いていた事をコメントするのを忘れていました!!(..)
(やっぱり、おっちょこちょいです)
@桓武平氏上総氏「平常澄」の娘。すなわち上総広常の姉妹は良峰姓原氏の「原高成」の妻である。
A桓武平氏三浦氏「三浦義明」の娘は桓武平氏上総氏「上総広常」の兄弟「金田頼次」の妻である。
この流れから印東氏を見つけて・・
そして、もう一つ気が付いていた事は!
神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔にも印東氏があった!と言う事なのでした!
まず、日本の苗字七千傑様の【多 氏】姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm
「印波国造」が見えます。
《印波国造》姓氏類別大観を拝見すると・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222a.htm
印東氏が見えます!!
昨日、コメントした印東氏は
印東氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%9D%B1%E6%B0%8F
印東氏(いんとうし)は、桓武平氏である日本の氏族。下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする。桓武平氏良文流(系図によっては良兼流とされる)。上総権介平常澄の二男、印東次郎常茂(常義)を祖とする。上総広常は常茂の八弟にあたる。上総氏。
と言う事は・・
※神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔にも「印東氏」・・「印波国造」後裔
※下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする、桓武平氏良文流「印東氏」
ウィキより
印波国造(いんばのくにのみやつこ・いんばこくぞう)は下総国中部を支配した国造。
本拠[編集]
下総国印旛郡。現在の千葉県成田市・佐倉市・八街市・四街道市・印西市・印旛郡。
と言う事は・・
※神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔にも「印東氏」・・「印波国造」後裔
※下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする、桓武平氏良文流「印東氏」
同じ地域だ!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
「印波国造」後裔「印東氏」と「良峰姓原氏」は共に神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔・・同族です!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
(p_-)・・と言う事に気が付いていたのでした。(..)
一番大事な事を書くのを忘れていました(..)
皆様、すみませんでした(..)
所で・・マタマタ今朝、発見をしました!!
太田道灌が築城した平河城(後の江戸城)
平河天満宮公式ページより
http://hirakawatenjin.or.jp/history/
御由緒
江戸平河城城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を悪夢であると思い、文明十年(一四七八年)に城内の北へ自ら施主となり、天満宮を建立しました。(「梅花無尽蔵」による)
その後も周囲に多くの梅の木を植え、やがてここを梅林坂と呼ぶようになり、今も皇居平川門内にその名が残っています。
徳川家康公の江戸平河城入城後間もなく、築城のため本社を平川門外に奉遷しましたが、慶長十二年(一六○七年)二代将軍秀忠公に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて、地名を本社にちなみ平河町と名付けられました。
徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家、井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼には、宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていました。
(p_-)・・ずっと気になっていたのです
平河天満宮・・菅原道真公
私の住む、集落には明治初期まで菅原神社が祖母の実家の平川家の近くに鎮座。
(私の住む集落は古地図を見ると解るのですが、ものすご〜い沢山の神社様が集落内や周囲を取り囲むように鎮座されていました)
他にも球磨には旧平河氏所領地であり、旧宮原村同様に江戸時代の在地藩士として平川氏の名が残る旧柳瀬村(現相良村柳瀬)には「十島菅原神社」が鎮座。
サイト肥後国 くまもとの歴史より 十島菅原神社
http://yumeko2.otemo-yan.net/e360577.html
以前、コメントしましたが、十島菅原神社境内には至る所に「平川氏」の名が残っています。
さらに・・気になっていたのが
平河氏系図に残る平河彦右衛門高政の孫「長雄」の記述
”樅木伊左衛門 樅木家相続”
「樅木家」とは元々五家荘の旧家で菅原道真公の後裔と言われるお家です。
ちなみに・・私の集落にも江戸時代〜昭和初期まで樅木家がありました。今は別の樅木さんが来られています。
※球磨の平河氏と「菅原道真公」
※平河城(江戸城)には城主太田道灌が「天満宮を建立」
今朝、どうしても気になって菅原道真公について勉強しました。
すると・・気が付いてしまいました!!\(◎o◎)/!
菅原道真 ウィキより
父母 父:菅原是善 母:伴真成の娘
妻 島田宣来子
(?_?)妻・・島田宣来子
島田宣来子 ウィキより
島田 宣来子(しまだ の のぶきこ / せきこ、嘉祥3年(850年) - 没年不詳)は、菅原道真の正室。父は道真の師の一人といわれている島田忠臣。
父・・島田忠臣 ウィキより
島田 忠臣(しまだ の ただおみ、天長5年(828年)- 寛平4年(892年))は、平安時代前期の貴族・詩人。伊賀守・島田清田の孫。弟に島田良臣がいる。官位は正五位下・伊勢介。号は田達音(でんたつおん)。
菅原道真の師として知られ、娘宣来子はその正室となった。また、この時代を代表する漢詩詩人でもある。
出自[編集]
父母は不明だが、祖父の島田清田は、尾張の地方豪族[1]から、大学寮を出て学者・官僚として活躍、朝臣の姓を与えられ、従五位上・伊賀守に昇り、『日本後紀』の編纂者の1人に加えられた立志伝中の人物であった。
(?_?)・・
祖父の島田清田は、尾張の地方豪族[1]から、大学寮を出て・・
尾張の地方豪族???
(?_?)さらにウィキの記述では
斉衡元年(854年)に文章生となり、当時の文章博士菅原是善に師事する。是善はその漢詩を高く評価して、その才を愛した。その後、忠臣は是善の願いによって嫡男・道真の教育にあたるようになる。『菅家文集』に道真が11歳の時に忠臣に漢詩を習い、初めて漢詩を作ったと記されている。やがて、関白藤原基経に推挙されて従七位下越前権少大掾に任じられた。折りしも越前の海岸に渤海国の使者が漂着し、基経は忠臣にその応対を命じる。忠臣の官位が低すぎる事を危惧する声もある中、適切な対応を取って使者の接待の宴席で行われる慣例があった漢詩の作成も秀逸なものを書き上げた。以後大宰少弐・兵部少輔などを歴任して元慶3年(879年)に従五位上となり、その後美濃介・典薬頭など京官と地方官を交互に務めながら能吏としての実績を発揮して最終的に正五位下伊勢介に昇った。また、元慶7年(883年)に渤海からの使者が再度派遣された折には、当時式部少輔として応対にあたった道真の推挙で急遽任国の美濃から呼び戻されて応対にあたっている。
(?_?)渤海からの使者・・渤海・・深水の語源でした・・滋野氏の記述にも「渤海」のお話がありました・・
以上が今朝、気が付いた事です。
日本の苗字七千傑様
お忙しい所、大変恐縮ですが、ご質問があります。
菅原道真公の正室となった島田宣来子・父:島田忠臣・祖父:島田清田(尾張の地方豪族)
こちらの島田家はどちらの「系」となられるのでしょうか?
ぜひ、御教示の程よろしくお願い申し上げます。
[23] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月03日 11時48分19秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^) マタマタの登場です!
私は・・やっぱりおっちょこちょいです(..)
コメント22を書いている途中で何故気が付かなかったのか?(トホホ)
日本の苗字七千傑様の
〉《印波国造》姓氏類別大観を拝見すると・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222a.htm
印東氏が見えます!!
で終わったらいけなかった!それじゃダメだったのです!
皆様、
日本の苗字七千傑様の
〉《印波国造》姓氏類別大観を拝見すると・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222a.htm
印東氏も見えますが!・・
印東氏の系に 有久 ⇒ 有国 ⇒ 日朗 が見えま〜〜〜〜〜す!!
\(◎o◎)/!
きっ昨日のコメント
日昭(桓武平氏良文流上総氏・印東氏)
※妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。
見つけましたよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
平賀二郎有国とは神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔「印東 有国」ですね!!!
と言う事は・・私の「妙な感」の通り
※神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔にも「印東氏」・・「印波国造」後裔
※下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする、桓武平氏良文流「印東氏」
双方の「印東家」は姻戚関係にありました!!
\(◎o◎)/!きゃ〜〜〜〜〜〜〜っ!!
何だろう・・何だろう・・
旧新堀家のお堂の調査・祖母の実家の平川家の氏神様の調査から・・一気に色々な事を見つける事が出来ています。
ありがたい事です。
と言う事で
※神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔「印東氏」と桓武平氏良文流上総氏「印東氏」は姻戚関係にありました!
という事お話でした。
・・・・おそらく・・この流れから言うと・・きっと平原次郎頼範と新堀又四郎頼兼も・・結局同じように「神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔」の系に繋がって来るのかな・・?(独り言です(..))
では(..)
[24] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月03日 18時17分05秒 ) | パスワード |
皆様、マタマタマタの登場です(..)
この頃のコメントで、頭をめちゃくちゃ使ったような気がして・・
少し、ボ〜ッとしていました(..)
そこで、今回は、番外編を(^'^) 皆様、くだらないでしょうが、お付き合い下さい(..)
新しく立ち上げたスレッド松葉宗益 後裔 平賀氏についてで先程白石様に
〉相良氏は、鎌倉期だけではなく、例えば江戸時代でも、大阪や江戸で、別の藩の藩士の方を「採用」(言葉がわかりません(..))されている・・
と書いたので、久しぶりに相良藩士分限帳をパラパラ〜とめくっていたら・・
うんがっ?(?_?)
享保元十二月三日 於江戸新規被下之 山本吉兵衛 とありました。
享保元十二月三日 江戸に於いて 山本吉兵衛さんを新規採用しましたよ! と言う事ですよね(?_?)
山本吉兵衛?・・・(?_?)・・・・(p_-)・・・あっ!!\(◎o◎)/!
私の祖父を産んだ「もう一人の曾ばあちゃん(曾祖母)」の御先祖様です!
何だか良く解らないのですが「山本吉兵衛」という名が”とびとび”で何代かあります。(山本家は”吉兵衛”というお名前が好きだったのかな〜くらいしか考えていませんでした)
えっ!!?私の祖父を産んだ「もう一人の曾ばあちゃん(曾祖母)」の御先祖様は江戸で新規採用されていたのかい??(江戸っ子バージョン)
わ〜お(*^_^*) 江戸と言ったら何だか都会人のようですね〜(^'^) お江戸にほんば〜し♪〜
(;一_一)急に心配になりました。球磨弁、解ったのかな?
「ぎゃ〜んして!こぎゃ〜んして!じゃっよじゃっよ!だんだんな〜」
訳(こうして下さい。もっとこうして下さい。そうですそうです。それじゃ〜またね〜)
でも、赴任地は宮原村です。江戸の明かりが恋しかったのでは(@_@。
うん?村の娘さん達に「山本さん、さすが都会の人タイ♡ 髪型がかっこよか\(^o^)/」
とか言われていたりして・・
(;一_一)・・何書いているの!!という皆様の怒りの声が聞こえる・・(..)
と言う事で、偶然見つけた
私の祖父を産んだ「もう一人の曾ばあちゃん(曾祖母)」の御先祖様は江戸で新規採用?されていました!
というお話でした。
うんがっ???何処の「山本」さんだったんだろう????(?_?)
このコメントを書いたら、少し頭がすっきりしました。
さて・・頭がすっきりした所で・・夕食を作って調査を再開致します(p_-)
では(^'^)
[26] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年07月04日 15時49分30秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
。《西郷氏》姓氏類別大観の画面中央に「山崎氏」が・・
本当に震えがきました。
山崎氏だけで驚いていてはいけませんよ。
大内氏もあるでしょ。
また家康と西郷局の関係は幕末へと因縁が続くのです。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#001
幕末の江戸無血開城は、江戸総攻撃を前に子孫である西郷隆盛と徳川家(勝海舟が代表)が交渉して、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した。(要するに隆盛以外に最適人物がいなかったという事)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113a.htm#006
何故、官軍側の代表が西郷隆盛だったのかの合点がいくでしょう。
[27] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月04日 17時48分02秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。
まず、お詫び致します。
日本の苗字七千傑様から頂いた御教示に沢山のヒントがあった事に気が付いていながら
すぐに調査を進める事に躊躇していました。
申し訳ありませんでした。
朝のコメントの最後に書いたように、(自分だけの思い込みかもしれませんが)
〉やはり、目に見えない”何か”が私に伝えようとしている”縁(えにし)”を見つけて行くのが私の運命なのだと思えるようになりました。
もう大丈夫です。
〉山崎氏だけで驚いていてはいけませんよ。大内氏もあるでしょ。
はい!大内氏(平賀氏)・・平賀氏・・全ての秘密がここにある事に気が付きました。
〉江戸総攻撃を前に子孫である西郷隆盛と徳川家(勝海舟が代表)が交渉して、
《勝 氏》姓氏類別大観を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113a.htm#006
勝海舟・・この方は「物部姓」であり清和源氏義光流「青木氏」の後裔である。
《西郷氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#001
こちらに見える兵頭「経頼」が、
『平河伝授巻』による、良峰氏(後の平河氏)が頼った「菊池経頼」ですね。
《西郷氏》姓氏類別大観に見えるように清和源氏義光流山内氏(平賀氏)「信治」。この方が後の西郷局に繋がる「西郷氏」を継いだ。
もしも・・もしも・・
西郷氏(菊池氏)と良峰氏(神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔)との間に姻戚関係が発生していたならば・・
もしも・・もしも・・
清和源氏義光流山内氏(平賀氏)と良峰氏(神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔)との間に姻戚関係が発生していたならば・・
〉江戸総攻撃を前に子孫である西郷隆盛と徳川家(勝海舟が代表)が交渉して、
勝氏・・「物部姓」であり清和源氏義光流「青木氏」の後裔
西郷氏・・「神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔」であり清和源氏義光流山内氏(平賀氏)と縁戚関係を持つ。
上記の西郷隆盛と勝海舟の交渉により「幕末の江戸無血開城」が行われた事になる・・・
神武天皇後裔となる人物と饒速日命後裔「物部姓」である人物が徳川家と交渉した・・・
(あくまでも、もしも・・もしも・・の話ですが・・)
日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございました。
[28] | 酒井ともさんからのコメント(2016年07月05日 18時29分41秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。ご無沙汰しています。
ミヤハラさんの探究も進み「松葉氏」の項に入りましたら、
遠州にも現存する地名や名字が散見されますので、判る範囲でレスします。
松葉遠江次郎資宗なる武将が井伊氏に繋がる方だと初めて知りました。
ところで、松葉氏は通説では海部郡松葉郷発祥のようですが、
松葉城跡・愛知県海部郡大治町西條字南屋敷←ここが松葉氏の発祥でしょうか?
伊予・松葉城←これは宇和郡にあって、西園寺家が治めていたようです。
「遠江 松葉城」
松葉城跡・静岡県掛川市倉真字松葉
↑
これは河合氏が室町期に築城と伝わるが、意外にもっと古く、
平安末期より遠州に地固めを始めた、井伊氏に繋がる「松葉氏」に名残があるのでしょうか?
松葉城主の河井(河合)氏も井伊氏族のようです。
その頃は荘園開発も活発になってきており
相良・横地・勝間田及び井伊氏より発生した武士団が時代を謳歌したことでしょう。
日本の苗字七千傑さんHPを参照すると、通称遠江木原権現で知られる、
旧山名郡木原郷(袋井市)の木原氏も松葉氏族にありますね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm#002
この木原氏の後裔は江戸期には幕府世襲の大工頭を務めたようです。
その松葉氏の後裔が安芸平賀氏になるのは勉強になりました。
次に、松葉氏にも幾つかの流れがあるようです。
松葉氏のご子孫さんのブログから拝借すると、
美濃には平姓の松葉氏、
伊勢には伊勢神宮の外宮社家の度會氏族の松葉氏、
それに、日向国へ下向した、工藤流伊東氏家臣団にも松葉氏がいたようです。
これは、井伊氏やその関係の松葉氏の可能性も否定できませんね。
「遠江 原氏」
同じ袋井市、旧山名郡の藤原南家工藤氏流の「原氏」も
徳川家に反抗没落、当主の原頼延は安芸国竹原の同族を頼って
落ち延び、毛利氏の防長転封にも従ったとあります。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tot_hara.html
ところで、前から思っていたのですが、具体的に安芸毛利氏家臣の
どの同族を頼って落ちて行ったのか気になっています。
毛利家臣団に詳しくありません。同流の「原氏」が居たのか?
もしかして、松葉氏後裔の平賀氏が遠江由来の家ならば、
縁故があり、御薗宇城の平賀家を頼った可能性はあるのか?
それとも、遠江国の山内・天方同流の備後の首藤山内氏を
頼ったのでしょうか?
犬居の天野氏同族も安芸に居りますね。
「小早川氏」
安芸竹原と云えば、小早川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kobaya.html
小早川氏は、相模国土肥郷が発祥なんですね。
伊豆だと思っていたら違いました。
きっと伊豆の土肥は由来地名なのでしょう。
>土肥遠平には惟平という実子がいたが、頼朝と同じ清和源氏の血をひく
平賀義信の子を養子とし景平と名乗らせていた。
平賀(大内)義信はと調べると、お〜、新羅三郎義光の子なんだ。
土肥(小早川)景平は新羅三郎義光の孫になるんですね。
景平の長兄が大内惟義、次兄が平賀朝雅。
ウィキペディアを参照しますと、平賀一族と首藤山内氏の
伊賀・伊勢守護を賭けた因縁が見て取れます。
井伊・松葉氏の出自には諸説あるようですが、
個人的には藤原南家工藤氏流で遠州由来の姓だと感慨深いですね。
[29] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月06日 09時03分36秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
酒井様、お久しぶりです!
御教示、ありがとうございます。
コメント頂いて本当に嬉しいです(しばらく登場?して頂いていなかったので・・本当はさみしかったのであります(..))
昨日は所用で、早朝から夜遅くまで外出していて、お礼が遅れました申し訳ありません。
〉遠州にも現存する地名や名字が散見されますので、判る範囲でレスします。
私は、未知識であり、土地勘もなくなお且つ方向音痴ですので、非常にありがたいです。
〉伊予・松葉城←これは宇和郡にあって、西園寺家が治めていたようです。
西園寺家が登場しました!
私の調査には”重要な部分”で「西園寺氏」は必ずのように至る所で登場します????
ただ・・冷静に考えると球磨郡久米郷は伊予橘氏「橘公業」と替地をする前は「西園寺公経」の所領地だったのですよね・・?
〉「遠江 松葉城」
松葉城跡・静岡県掛川市倉真字松葉
〉松葉城主の河井(河合)氏も井伊氏族のようです。
掛川市に「松葉」の地名!・・だんだん、鳥肌がたってきました・・(やはり・・全て繋がっているような・・)
〉通称遠江木原権現で知られる、
旧山名郡木原郷(袋井市)の木原氏も松葉氏族にありますね。
ちょっと失礼します・・・きゃ〜〜!!\(◎o◎)/!知らなかった!!!!ビックリしました!
山名郡木原郷とは・・静岡県袋井市の事だったのですか!!!
私は、気になる”系””姓””人物”を調べていてコメントしていただけで・・地名等は全く解っていなかったのですが・・
酒井様の御教示のお陰で、調べていた事が「繋がっている!」と言う事があらためて理解出来ました!
〉遠江国の山内・天方同流の備後の首藤山内氏を
頼ったのでしょうか?
山内氏(平賀氏)も遠江国!?・・本当に知らなかったのです。
うん??! と言う事は、”私が気が付いていた事”に繋がっています!!
実は・・山内氏(平賀氏)と「武藤氏」はおそらく「深い縁がある(p_-)」と言う事を系図に記載の記述で気が付いていたのです!!
〉>土肥遠平には惟平という実子がいたが、頼朝と同じ清和源氏の血をひく
平賀義信の子を養子とし景平と名乗らせていた。
\(◎o◎)/!(失礼しました(..))
土肥氏と平賀氏も繋がっている!!!!!!!きゃ〜!!(失礼しました(..))
と言う事は、私の「妙な感」から進めた調査(サコの文字について)、そしてコメント18で書いた事はやはり「繋がっている!」と言う事ですね!
酒井様、御教示本当にありがとうございます。
心から感謝申し上げます。
〉実は・・山内氏(平賀氏)と「武藤氏」はおそらく「深い縁がある(p_-)」と言う事を系図に記載の記述で気が付いていたのです!!
上記の内容他、酒井様からの御教示であらたに気が付いた事を後ほど書かせて頂きます。
酒井様、今日も猛暑日になるようです。
お身体十分にお気を付け下さい。
では(^'^)
[31] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月06日 14時36分30秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
(^'^)・・・本当は・・・(@_@;)・・暑い・・あついです・・
うちの父は、いつも昼にシャワーで汗を流すのですが、それまでの間「鍛練だ(>_<)」とか言って、リビングのエアコンを付けてくれないのです((+_+))
シャワーの前に「エアコン付けて(^'^)」とか言って、シャワーあがりの身体をひんやりした部屋で涼めるのが心地よいようで・・
付き合う私は・・たまったもんではありません((+_+)) 暑い・・暑い・・
・・まだシャワーを浴びる気配がない・・「父さん!早くシャワーを浴びて!!」心の叫びでした(-.-)
皆様お住まいの地域も、本日は猛暑だと思います。
お身体ご自愛下さいマセ(..)
もうすぐ、父がシャワーを浴びるようです(^'^)
エアコンの風に吹かれて、必ず書きますとお伝えしたコメントに入りたいと思います。(暑いと何を書いているのか途中で頭が働かなくなります(..))
(ちなみに父のシャワーやお風呂の所用時間は一時間程です(-.-)・・長い・・)
では(..)
[32] | 酒井ともさんからのコメント(2016年07月06日 14時40分34秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
簡単な掛川〜袋井までの地名図ですが、上手く出るでしょうか
天方(天方) 松葉(河合) 粟ヶ岳
真田(武藤)
原谷(原) 西郷
久能
木原 河井 貫名
東海道 東海道 東海道 東海道 東海道
本間 石野 掛川(朝比奈)
新池(加々爪) 山崎 小笠山
「木原郷」
>山名郡木原郷とは・・静岡県袋井市の事だったのですか!!!
遠江木原郷の木原氏の成り立ちは古く、平安末期には木原郷に住していたようです。
ただ、この木原氏が松葉氏由来の姓なのかは判りません。
東京国立博物館には「松喰鶴鏡」なる品が所蔵されているようです。
http://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/120820.html
「久米郷」
>私の調査には”重要な部分”で「西園寺氏」は必ずのように至る所で登場します????
>ただ・・冷静に考えると球磨郡久米郷は伊予橘氏「橘公業」と替地をする前は
「西園寺公経」の所領地だったのですよね・・?
そこなんですよね。
橘家の本領地であった伊予宇和郡を、西園寺公経が何度か所望した後に、子の実氏の所領にしたのは
間違いないのでしょうが、それまでに久米郷が西園寺家の所領だったのかは分かりません。
ただ、交換したとの記述もあるので、領地同士をまるごと交換したのかも知れないですね。
あと、平安末期に相良荘の領家が西園寺家だったのは史実からは間違いないようです。
「山内(天方)氏×平賀氏」
>山内氏(平賀氏)も遠江国!?・・本当に知らなかったのです。
山内・天方兄弟が北遠を中心に室町期に活躍したようです。
滝口俊通の子の経俊の後裔が備後の首藤山内家、
滝口俊通の子の俊綱の後裔が遠江の首藤山内(天方)家になるようです。
http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/amagata-jyo/
ところで、遠江での「平賀氏」の活動期を余り知りません。
山内=平賀のような同族間の愛情ではなく、
むしろ伊賀・伊勢守護の座を巡って山内×平賀の図式で争ったようです。
三日平氏の乱で、伊賀・伊勢守護の山内首藤経俊が逃亡し、乱を治めた平賀朝雅が伊賀・伊勢守護になり、
牧氏事件での見せしめで平賀朝雅を殺害したのが、山内首藤経俊の子の通基のようです。
昨日は急いでいて、書き込む場所を間違えたようですが、
「松葉宗益 後裔 平賀氏について」に書き替えますか?
[34] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月06日 16時10分01秒 ) | パスワード |
皆様、あらためての登場です(^'^)(クーラー付けました(^'^))
酒井様、御教示ありがとうございます。
まず、初めに
〉昨日は急いでいて、書き込む場所を間違えたようですが、
「松葉宗益 後裔 平賀氏について」に書き替えますか?
いえ、こちらに御教示を頂ければありがたいです。
「松葉宗益 後裔 平賀氏について」での白石様にお願いした調査と、こちらの調査、私はリンクして見ていますが、酒井様の御教示の中には、「こちらの調査で知り得た事に繋がりがある」と気が付いたからです。
例えば
〉滝口俊通の子の経俊の後裔が備後の首藤山内家、
滝口俊通の子の俊綱の後裔が遠江の首藤山内(天方)家になるようです。
http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/amagata-jyo/
サイト遠江・天方城 拝見しました。
すごく驚いた事があります。遠江・天方城の所在地
静岡県周智郡森町向天方・・”周智郡森町” 以前の調査と繋がっています。
ウィキの信濃平賀氏を読んで気が付いていた事がありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%B0%8F
家紋をみると「左三巴」「丸に橘」です。
周智郡森町近隣には橘村があったと記憶しています。
森町は「遠江国周智郡久保田邑」のお隣。
以前、日本の苗字七千傑様から頂いた御教示は「相良氏族 久保田氏」と「遠江国周智郡久保田邑」の繋がりでした。
さらに「周智郡久保田邑」
〉火防の神様として和銅二年創建の古社、秋葉神社が有り全国の本社。静岡県浜松市天竜区春野町領家に鎮座。
〉その秋葉山の北東部に、春野町宮川字久保田が存在する。
日本の苗字七千傑様から以前頂いた御教示です。
酒井様
「秋葉」という場所と竹内氏は関係されていらっしゃるようですね・・・・。
所で酒井様
酒井様も「西園寺氏」が別の「鍵」を握っている事にお気づきだったようですね。
この辺りはさすがに、「何かある!」とは感じるのですが、「西園寺公経」この方の謎は巧妙過ぎて中々今の所見つかりません・・
ただ・・西園寺公経は三浦氏とも姻戚関係にあります。
ちなみに球磨郡久米郷に平安時代初頭に来られて「藤原姓の久米氏」を名乗られた藤原真宗。(後に繋がる球磨郡久米郷の久米氏の祖です)
藤原真宗は市房神社を創建した方で、なお且つ、藤原真宗の娘は清和天皇の更衣で第十皇子「貞頼親王」をお生みになった方です。
球磨郡久米郷と西園寺家との繋がり・・それは、この地が天皇御領であると言う事が「鍵」だと思っています。
〉あと、平安末期に相良荘の領家が西園寺家だったのは史実からは間違いないようです。
「西園寺氏」は「巧妙な鍵」を握っているような気がします。
御教示ありがとうございました。(^'^)
[35] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月06日 18時03分52秒 ) | パスワード |
皆様マタマタの登場です(^'^)
酒井様、ご丁寧に地名図をお書き頂きましてありがとうございました。
とても、参考になります。
あと・・皆様すみません私沢山の誤記があります。「山内(平賀)氏」じゃありません((+_+))
「大内(平賀)氏」です。
お詫びして訂正させて頂きます。
(こら〜っ!!おっちょこちょいが!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!・・天の声が・・)
皆様、先日コメントしていた”気が付いていた事”を書かせて頂きます。
日本の苗字七千傑様から頂いた御教示
〉平賀氏族は信濃が本貫で、周辺は滋野氏が多数派で平賀氏族は主流では無い。
平賀盛義の後裔の久我家諸大夫竹内家は永禄3年、将軍の執奏により堂上家の一つとなることにより有名になったわけです。
私は2015年01月19日 にこちらのスレッドで竹内氏系図を見ていました。
平川家について21 コメント57です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101407.html
本日「平川家について21 コメント57」の概要を簡単に書かせて頂くと
肥後国球磨郡図田帳より
蓮花王院人吉庄六百町
領家 八条女院
預所 対馬前司 清業
下司 藤原友永 字人吉次良
政所 藤原高家 字須恵小太良
地頭 藤原季高 字合志九良
藤原茂綱 ※
藤原真宗 字久米三良
尼西妙
上記の 地頭 藤原茂綱についての推測が「山江村誌」にありました。
山江村誌より
藤原茂綱の字名は不明であるが、寛元元年(一二四三)十二月二十三日の関東下知状に見える「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
また、相良頼景との関係と通字「綱」から「田部氏系図」(多良木町、源嶋明美所蔵)に見える「緒綱」も候補の一人である。そして、もう一人「平永綱」がいる。
永綱は、「伯父永頼法師」という関係であるから、永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。
尼西妙については不明である。工藤敬一氏は「平河氏か」とも推測されている。税所氏の可能性もある。
藤原茂綱という人物の推論
@「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
A「田部氏系図」に見える「緒綱」も候補の一人
B永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。
補足
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である。平姓であるから長頼妹(または姉)※犬童女こと「尼妙阿」を母とし平某を父とした。
※「尼妙阿」は「良峯氏女」と呼ばれていた。
※平永綱 法名西心(犬童丸名地頭)とは実は 相良頼員 法名西信 ・・・同一人物
※犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物と推定される。
上記にある藤原茂綱と「同一人物である可能性が高い」と言われた「平左衛門尉盛綱」とは?・・
●平 盛綱(たいら の もりつな、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の執権北条氏の家司。内管領長崎氏の祖。
平資盛の子[1]、或いはその曾孫[2]ともされるが、確かな出自は不詳である。
補足
上記の調査時点では「全く解っていなかった事」があります。
それは「平盛綱の孫である平頼綱と宮原一族の先祖橘公綱(父:橘公員)は、母を同じくする異父兄弟であった・・」と言う事です。
さらに「平左衛門尉盛綱」を調べた結果
●清和源氏義光流「竹内系図」の中に
平賀盛義の系・・小野義行の妻であり小野時綱の母が「平左衛門尉盛綱女」とありました
ここで!清和源氏義光流「竹内系図」を見ていたのです!!
皆様、あらためて清和源氏義光流「竹内系図」をご覧ください。
注:こちらのサイトに記載の「青い文字」の名はマウスをポイントすると詳細が表示されます。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/takenouchi.htm
平賀義信の長男「大内惟義」。
「大内惟義」の弟 隆信(武藤二郎)景平(小早川遠平養子)
※平賀隆信(武藤二郎)です\(◎o◎)/!
武藤氏と平賀氏はおそらく・・繋がっている!!!!
以前からコメントしていますように
武藤氏 ⇒ 少弐氏となり
※永吉荘預所職は武藤(少弐)景資 地頭は「平河氏」
(平河氏の訴訟はこの決定により一旦落ち着きました)
※「平河左近充」を名乗った「少弐頼尚」
※平賀隆信(武藤二郎)・・平賀氏と平河氏の接点(共通点)
偶然じゃないという実証を初めて見つけたような気がします・・・
所で・・
尼妙阿(犬童女の法号)
尼妙阿は相良長頼の娘、もしくは姉妹と言われています。
尼妙阿は「良峰氏女」と呼ばれていた。
相良氏は球磨入部後、現地での勢力拡大の為、球磨の在郷豪氏と姻戚関係を結んでいた。
相良頼景の妻が「須恵氏の娘」である事が知られています。(二人の間に産まれた娘が、新堀又四郎頼兼の妻です)
では、犬童氏の祖の母となる「犬童女(尼妙阿)」は何故?「良峰氏女」と呼ばれていたのか・・?
今までの通説では相良長頼の娘が「良峰氏」すなわち「平河氏」に嫁いだから・・と言われていますが・・
上記のややこしい「犬童氏の祖」の母であり「良峰氏女」である「尼妙阿」の謎を解明するに一番簡単な方法は・・
おそらく、相良氏系図・平河氏系図に記載されていない「母」「妻」「姉妹の嫁ぎ先」が解る事だと思います。
でも・・もう一つ、私の私見を聞いて下さい。
相良長頼の妻はいったい「どこの氏の娘」だったのでしょうね・・
球磨入部に先駆けて、より強固な勢力拡大を図るのであれば、妻を現地で勢力の強い「豪族」からもらい、姻戚関係を深める方が一番確かなような気がしますが・・
相良頼景に繋がる「母系」は解りやすいですね・・だって「景」の文字が・・「頼景」・・
「景時」「景高」「景・・・・」(何故か頭に浮かんできます・・)
では(..)
[36] | 酒井ともさんからのコメント(2016年07月08日 16時49分48秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
>あと・・皆様すみません私沢山の誤記があります。
>「山内(平賀)氏」じゃありません((+_+))
>「大内(平賀)氏」です。
了解です。
この手のカテを探究されている方を傍から見ていると
多少なりとも、面白い(天然)人柄があるみたいですね。
どうも自分にもその天然があって、年を取る毎にひどくなっています。
変なところでは鋭いようなのですが・・・
>「秋葉」という場所と竹内氏は関係されていらっしゃるようですね・・・・。
ごめんなさい、詳しくありません。
>※平賀隆信(武藤二郎)です\(◎o◎)/!
>武藤氏と平賀氏はおそらく・・繋がっている!!!!
確かに、竹内氏の系譜には載っていますね。
ただ、この武藤隆信は武藤系譜には記載がありません。
どなたかの別名・もしくは早世したのか。
太宰少弐氏の祖である武藤氏は、曹洞宗大本山総持寺の筆頭直末の
森町橘にある橘谷山大洞院の大旦那(本主)のようです。
これは中々の発見ですね。
>土肥遠平には惟平という実子がいたが、頼朝と同じ清和源氏の血をひく
>平賀義信の子を養子とし景平と名乗らせていた。
>土肥氏と平賀氏も繋がっている!
土肥遠平の妻は伊東祐親の娘(万劫御前)なんですね。
万劫御前の子は北条義時・伊東祐時・小早川維平・伊東祐時室・三浦義村室
自信はありませんが、上記が伝わっていますね。
その三浦義村の娘が笠原荘を治めた、毛利季光(森入道)に嫁いでいます。
ご参考にして下さい。
[37] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月11日 17時42分35秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
酒井様、御教示ありがとうございます。
お礼のコメントが大変遅くなりまして、申し訳ありませんでした。
「松葉宗益 後裔 平賀氏について」に、先程書いたのですが、ここ数日、殆ど家を空けていました。
〉この手のカテを探究されている方を傍から見ていると
多少なりとも、面白い(天然)人柄があるみたいですね。
\(◎o◎)/! これは・・もしや・・太古からの遺伝?
〉どうも自分にもその天然があって、年を取る毎にひどくなっています。
いいえ(ー_ー)!!酒井様は大丈夫です!とても鋭く本質を見抜いていらっしゃる・・そう言う方が・・天然だなんて(ー_ー)!!・・・・・
でも・・少しでもそういう所がおありであれば・・何だかわたくし嬉しくなります(^'^)
酒井様にもしもそのような”天然?(失礼しました(..))”が少しでも見え隠れするようでしたら、それこそ!太古からの遺伝の確実なる証明となりそうです(p_-)
〉太宰少弐氏の祖である武藤氏は、曹洞宗大本山総持寺の筆頭直末の
森町橘にある橘谷山大洞院の大旦那(本主)のようです。
ありがとうございます!
書物や系図に何も残されていなくても、”神仏”には真実がしっかりと残されていると私は思っていました。
〉万劫御前の子は北条義時・伊東祐時・小早川維平・伊東祐時室・三浦義村室
〉三浦義村の娘が笠原荘を治めた、毛利季光(森入道)に嫁いでいます。
コメント18で印東氏について書きましたが
〉僧侶になった印東氏 より
日昭(1236年〜1323年)
日蓮直弟子の六老僧筆頭。昭門流(浜門流)の祖。はじめ成弁と号し、弁阿闍梨、不軽院と称された。下総国印東庄能戸の領主・印東治郎左衛門尉祐昭の次男。母は工藤左衛門尉祐経娘 (妙一尼公)。のち摂政・近衛兼経の猶子となり、法印に任じられた。 兄・三郎左衛門尉祐信が印東家を継ぎ、次男の日昭が日蓮の直弟子となった。姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。
※母は工藤左衛門尉祐経娘 (妙一尼公)
\(◎o◎)/!はっ!と言う事は!!
伊東祐時の父は工藤祐経。
伊東祐時と日昭(印東氏)の母は兄妹(もしくは姉弟)となります!!
繋がっています・・・?!
鳥肌が立ってきました・・
酒井様、御教示本当にありがとうございます。
酒井様の御教示を拝見すると、私の頭の中の引き出しに整理されずにバラバラに入った情報がきちんと整理されていくようです。
ありがとうございました。(^'^)
[38] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月12日 16時28分20秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
酒井様からの御教示
〉その三浦義村の娘が笠原荘を治めた、毛利季光(森入道)に嫁いでいます。
で、気が付いたのですが・・
私は、やはりおっちょこちょいです(..)
森氏・・相良藩士にいらっしゃいました(..) (何故今頃!!!との声がいずこから・・)
肥後国相良藩士分限帳より
享保三年(1718年) 一高百五十石 森茂兵衛 高二十石役料 森円蔵
寛政十年(1798年) 一高百五十石 森茂兵衛
天保元年(1830年) 一高百五十石 森傳兵衛
安政年間(1854年〜1859年)一高百五十石 森傳兵衛
こちらの森家がどちらの系かは解りませんが・・ただ、気になる事が一つ。
以前、コメントしたのですが、(平川家について28+1コメント56)より
相良藩士分限帳享保三年幼少扶持分限帳に記されている「久保田氏」の「名前」なのですが・・
※久保田 可圓
※久保田 可順
久保田氏で・・「可圓」「可順」・・。
この方々の名前は通字が「可」のようなのです・・・・????
「幼少扶持分限帳」なので、「可圓」「可順」という名は通称ではないようです。
(..)と・・書いていました。
「可」を通字とする森氏と言えば・・橘公業の娘薬上助局が嫁いだ森頼定を祖とする森氏ですね・・
相良藩士の「森氏」がどちらの系かは解りませんが・・
余談ですが・・
久保田家から宮原家に養子に入った私の曾祖父。
妻は新堀家の娘。すなわち私の曾祖母ですが、曾祖母の弟の妻は・・森家から嫁いで来られています。
こちらの森家の明治時代の方は明治時代の岡原霧島神社創建の際の世話役人です。
椎葉の源一氏も同じく世話役人でした。
岡原霧島神社には中嶋霧島神社、大炊霧島神社をはじめ旧宮原村・旧岡本村に鎮座であった数多くの神社が合祀されました。
二人の方の名前は、岡原霧島神社の境内にあがる階段の登り口にある左右の石塔に
左側石塔に椎葉源一の名。右側に上記の縁戚関係にある「森氏」の名が其々刻まれています。
余談でした(..)
所で・・
もう一つ気が付いた事があります!
マタマタ・・おっちょこちょいでした(@_@。
あれだけ武藤氏!少弐氏!と書いてきたのに・・私は「アホではないのか・・」と自分が悲しくなる程重要な事をスルーしていました(@_@。
日本の苗字七千傑様の《少弐氏》姓氏類別大観を拝見すると「筑紫氏」が見えます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c3.htm#008
さらに筑紫氏の姓氏類別大観を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c4.htm
筑紫氏は・・以前もちょっとコメントして完全にスルーしていました(..)
筑紫氏は・・少弐氏(武藤氏)の一族です!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
肥後国相良藩士分限帳より
享保三年(1718年) 筑紫佐次兵衛
享保三年(1718年) 筑紫助右エ門
寛政十年(1798年) 筑紫助右衛門
天保元年(1830年) 筑紫助右衛門
安政年間(1854年〜1859年)筑紫文作
奥野村 在郷藩士 にも二名の筑紫氏の名。
私の住む集落のお隣が旧奥野村です(家からでも歩いて・・・トホホ(@_@。)
椎葉のおじは奥野の筑紫さんをよ〜く存じあげています(..)
完全にスルーしていた・・あんにゃ〜(@_@。
日本の苗字七千傑様のサイトで検索すると筑紫氏は
姓氏類別大観 高向氏
姓氏類別大観 物部氏/石上氏
姓氏類別大観 安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏/難波吉士氏
他にも見えますが・・・
何だ??こちらは今まで何度も拝見させて頂いた「姓氏類別大観」ばかりのような・・(?_?)
近い場所に大きなヒントが隠されていたのかもしれないのに・・完全スルー
本当に・・自分が悲しくなりました(@_@。
では(..)
[39] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年07月12日 21時08分48秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>何だ??こちらは今まで何度も拝見させて頂いた「姓氏類別大観」ばかりのような・・(?_?)
以前にも説明しましたが。当たり前の事実なのです。
貴方の先祖の総数が、平安時代中期の人口と一致するからなのですよ。
先祖の数は遡れば、2の累乗で総数は考えもつかない天文学的人口に急上昇するからです。
即ち、姓氏類別大観に掲載の先祖の数を、いとも簡単に凌駕するからなのです。
途中は系図記載漏れや系図紛失で不明なだけなのです。
何らかの縁で姓氏類別大観に辿り着けば、過去も明白になるのです。
[40] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月13日 16時29分49秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。
何故、何度も拝見する「姓氏類別大観」となるのか・・・
理由が理解出来ました。
ありがとうございます。
>何らかの縁で姓氏類別大観に辿り着けば、過去も明白になるのです。
そうか・・・
御教示頂いたお言葉に「そうか!!」とうなずいてしまう事に気が付きました。
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観 安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏/難波吉士氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm
こちらから
《那須国造》姓氏類別大観に進み
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208c.htm
さらに
【藤原氏長家流】姓氏類別大観に進むと
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm
那須氏・首藤氏・大江氏・加藤/片岡氏・武藤/少弐氏・三井氏・冷泉家・大炊御門氏 他・・
武藤/少弐氏は調査の中心域にもちろんありますが・・
那須家・片岡家は、以前コメントしたように親戚にあります。
那須家は祖父の姉の嫁ぎ先他、数軒の「那須家」と親戚です。
実は・・宮原の曾祖父(久保田家から養子に入る)宛ての手紙ですが曾祖父を「葦原様」と書かれた方も「那須氏」なのです・・
>途中は系図記載漏れや系図紛失で不明なだけなのです。
【藤原氏長家流】姓氏類別大観を拝見しながら、「実感」が湧いてきました・・
この「実感」が湧くもう一つの発見があります。
平河氏系図に見える「三位坊」という方についてです。
様々な書籍に「三位房」「三位坊」と言う方は平河氏の一族かと推測されるとの記述があります。
「三位坊」について、以前少し調べました。三位房と呼ばれた方は「日行」と「日進」お二人いらっしゃいました。
最近、再度調べなおしてみたのですが、あらたにサイトを見つける事が出来ました。
私は理解力が乏しいので、出来れば皆様にもじっくりお読み頂ければありがたいと思いまして(..)御紹介させて頂きます。
下総の弘教と信徒(富木・曽谷・太田氏など) 高橋俊隆氏
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index130.htm
沢山気になる記述があるのですが・・
三位房日行に関係する曽谷教信
※『玉沢手鑑』記載の系図
※『御書略註』記載の系図
※三善氏の記述もあり・・
※三善善信(問注所執事)は大江広元(政所別当)とともに源頼朝を補佐した人。曽谷教信は大野次郎兵衛尉 清原教信といいます。
※『玉沢手鑑』には、曽谷教信と大進阿闍梨と三位公日行は兄弟であると書かれ、曽谷教信の子息が丹波公日心上人とあります。この日心上人は文永八年の法難のときに、日朗上人とともに土牢に逮捕された一人で、建治のころ退転しかけたのを日蓮聖人に諭されたのが、『出家功徳鈔』であると記されています。のちに、日真と名前を代え、身延に入って大進阿闍梨日進と名のったとあります。
(p_-)(p_-)・・日朗上人。コメント18にて書かせて頂きました。
>僧侶になった印東氏 より
日昭(1236年〜1323年)
日蓮直弟子の六老僧筆頭。昭門流(浜門流)の祖。はじめ成弁と号し、弁阿闍梨、不軽院と称された。下総国印東庄能戸の領主・印東治郎左衛門尉祐昭の次男。母は工藤左衛門尉祐経娘 (妙一尼公)。のち摂政・近衛兼経の猶子となり、法印に任じられた。 兄・三郎左衛門尉祐信が印東家を継ぎ、次男の日昭が日蓮の直弟子となった。姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。
続けて
下総の弘教と信徒(富木・曽谷・太田氏など) 高橋俊隆氏 サイトより
※つぎに、『本化別頭仏祖統紀』を基に曽谷教信のルーツをたどると、つぎのことが記されています。まず、先祖は畠山重忠で、頼朝より下総一国を授与されたこと。この畠山重忠の子供に、長男千葉小太郎勝胤と次男に小次郎重胤がいること。次男の重胤は千田に住み、入道して千田丹心といったこと。丹心の九代の子孫が曽谷邑に住み曽谷氏となり、これが曽谷次郎教信であると記しています。
畠山重忠―――長男勝胤
――次男重胤(千田丹心)・・・・・九代が曽谷教信
そして、富木氏・大田・秋元氏とは通家(つうけ)であるとあります。この通家とは昔から親しく交わってきた家、姻戚関係にある家をさします。また、教信は大田氏とともに、越中に所領を有する幕府の役人であり、大田氏もまた曽谷に大田屋敷と称される飛地をもっていたといいます。日蓮聖人は『転重軽受法門』に、大田、曽谷、金原氏は異体同心の兄弟のように親しい関係であるとみています。
(p_-)・・・・・
※『玉沢手鑑』には、曽谷教信と大進阿闍梨と三位公(三位房)日行は兄弟であると書かれ、曽谷教信の子息が丹波公日心上人
※『本化別頭仏祖統紀』を基に曽谷教信のルーツをたどると・・
『先祖は畠山重忠で、頼朝より下総一国を授与されたこと。この畠山重忠の子供に、長男千葉小太郎勝胤と次男に小次郎重胤がいること。次男の重胤は千田に住み、入道して千田丹心といったこと。丹心の九代の子孫が曽谷邑に住み曽谷氏となり、これが曽谷次郎教信である』
(p_-)・・・・・
畠山氏・千葉氏・・・・家の(宮原の)親戚の姓でもあります・・・
と・・ここで日本の苗字七千傑様から頂いた、昨日の御教示が頭を駆け巡るのであります・・
家の宮原家の親戚である畠山家・千葉家は、祖母の実家の「平川家」とも親戚関係にあります。
ただし・・全てを繋げているのは『久保田家から養子に入った』私の曾祖父なのですよね・・???
三位房(三位坊)と呼ばれた方は何故「平河氏の一族であろう」と呼ばれたのか・・????
しかし・・今回のスレッドでの調査でぼんやりとですが・・繋がりが見えはじめたような気がしています。
では(..)
[41] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月13日 16時57分35秒 ) | パスワード |
追記
あの・・・皆様・・・
私、かなり以前にコメントしていたと思うのですが・・
家は、現在浄土真宗本願寺派のお寺様です。
庭柏寺が明治初頭に廃寺となり、深水の高祖父が芦北から僧の方に来て頂いて、浄土真宗本願寺派のお寺様が創建されました。
しかし・・
私の家にお祀りの観音様は日蓮宗のお寺様が関連されています。
鹿児島のお寺様です。
こちらは・・私が子供の頃”色々あった時”にも飛んで来られました(かなり以前にコメントしたと思います)
私は今、毎朝、仏壇の御先祖様のお水替え、観音様のお水替えをしてお参りさせて頂いています。
仏壇の御先祖様に手を合わせてお参りする時には
「南無阿弥陀仏」とお経を唱え
観音様に手を合わせてお参りする時には
「南無妙法蓮華」とお経を唱えています。
子供の頃から私にとっては”当たり前の事”だったのですが・・
冷静に考えると「不思議」ですよね・・
何故、祖母は鹿児島の日蓮宗のお寺様と繋がっていたのか・・・?????
父は「お父さんも解らん。きっとお友達だったのだろう(^'^)」と言っていますが・・
そんな事ではないと思います(;一_一)
だって、そちらのお寺様は多良木の平川家にも行かれていたのですよね・・??
ちょっと気になって書かせて頂きました。
でも!!
家の観音様はいつも私達家族そして一族をお守り下さっていらっしゃいます(^'^)毎朝、感謝申し上げています。
では(^'^)
[42] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月16日 09時24分48秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
最近の一連の調査とは関係ないのですが、
今朝は、相良長頼球磨入部の際の相良藩史々の記述の矛盾点を書かせて頂きます。
人吉城について
複数の相良藩史々には相良長頼の球磨入部の際の記述として
相良長頼 ウィキ の記述は複数の相良藩史々に基づいて書かれているのでピックアップ致します。
建久9年(1198年)12月、長頼は源頼朝より命を受けて人吉に下向した。先に下向した相良頼景は上球磨(多良木、湯前、湯山、江代)を領していて、中球磨は木上岩城主の平川義高[2]が領し、下球磨は公領であったが、平頼盛の代官[3]であった矢瀬主馬佑が領していた。長頼は鎌倉幕府の命令であることを示して矢瀬に人吉城の明け渡しを迫ったが、拒否された。長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して、矢瀬討伐を依頼した。平川義高はこれを快諾し、大晦日の川狩の際に矢瀬一族を胸川(球磨川支流)に誘い出して、尽く討ち取って滅ぼすと、人吉城を奪取。長頼は義高に迎えられて人吉城に入城することができ、任務を果たして帰還した。
(p_-)・・・人吉城
実は、近年の調査で、「人吉城」は上記の記述より、かなり下った時代に築城されていた事が解ってきました。
ひとよし歴史研究 平成9年創刊号 「人吉庄の歴史的景観の復元」鶴嶋俊彦氏著 によると
人吉庄地頭館の推定地として
『佐牟田に人吉相良氏惣領の所有した堀内が所在したことは前述の複数の資料によって明白である。』
(p_-)同論文で鶴嶋氏は上記にあるように「複数の資料」を入念に調査。
人吉庄地頭館の推定値を現在の鬼木町周辺域(佐牟田)
さらに相良長頼館を願成寺の周辺域に推定。
すなわち、
〉伝承として残る矢瀬氏の討伐による人吉城入城の物語は史実とはかけ離れている・・
と言う事になります。
ここで・・
私が非常に気になるのは「人吉城」築城以前より存在したと言われるもう一つの「城」なのです。
その名は「原城」(はらじょう)です。
「原城」跡は現在の人吉城跡に隣接しています。
「原城」の城主がいったい誰だったのか・・・
相良氏球磨入部前の事なので、殆ど記録は残っていないようですね・・
(と言うか、相良氏入部前の球磨の記録は、”抹消”されているようですから・・)
球磨・人吉の鎌倉初期の記述と矛盾点というお話でした。
では(p_-)
[43] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月16日 09時42分48秒 ) | パスワード |
追記
「原城」についてサイトを集めてみました。
肥後國 原城 (熊本県人吉市)
http://oshiromeguri.web.fc2.com/higo-kuni/hara/hara.html
原城は、中世人吉城とも呼ばれ、近世人吉城の背後の台地上にあったお城です。
人吉に相良氏が入封するまえは、平氏の国人、矢瀬主馬佑の居城でしたが、鎌倉幕府の命により相良氏が入封するも、矢瀬主馬佑は原城空け渡しに応じなかったため、業を煮やした相良長頼は策略により矢瀬主馬佑を暗殺して、原城を拡張し居城としました。
この原城は、上原城を本城として、中原城、下原城、内の御城、西の丸といった各郭からなりったっており、規模は東西1km、南北0.5kmの広大なお城でした。各郭は、中世の城らしく、空堀、堀切などで分断されており、中世の築城技術が色濃く残っています。
その後、石垣造りの近世人吉城が築城されると、中世の原城はその役割を終えました。
(p_-)
こちらでは代官矢瀬氏の居城跡だと書かれています・・・・
肥後国 くまもとの歴史
http://yumeko2.otemo-yan.net/e369710.html
人吉城が史科に初めて出るのは、大永4年(1524)のことです。この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、素掘りの空堀や堀切によって守られていた城でした。
室町時代まで相良氏は「原城」に居城していた事が解りますね・・
ただ・・
平安時代末期にすでに「名」が登場する「原城」
しかし何故?ここが「原城」と呼ばれていたのか・・文献等を見てもどこにも書かれていません・・
「原城」・・原・・はら・・ですね(p_-)
では(p_-)
[44] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月16日 16時22分12秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
今朝スレッド「松葉宗益 後裔 平賀氏について」コメント69で
相良長頼 球磨入部の際の随行者「姓氏」に”山口氏”がありました(p_-)
と書かせて頂いたのですが・・
〉所で、上記のコメントを書いた時とは、今の調査は状況が違います(p_-)
最近の調査に上記のいずれかの方々の姓が登場していないか?
こちらは「平川家について」の方で調べてみます。
と言う事で、少し調べたのですが・・
やはり!!ありました!!最近の調査で登場した系に繋がる方々が!
相良長頼 球磨入部の際の随行者 再度転記します。
相良長頼 球磨入部の際の随行者「姓氏」(以前、平川家についてでコメントしました)
●弟四郎宗頼 ●五郎左衛門尉頼平●譜代の士森某●長某(おさ某)●廣田某●杉前某●今井某●原田某●平田某●大石某●愛甲某(愛甲九郎景元是なり)●田野某●満木某(みつき某)●西河路某(西小路)●野間某●窪田某(今久保田に作る國讀相通す)●赤川某●富田某●吉村某●河端某●矢津留某
以上十九人名■ぐ。(■は文字が読み取れませんでした(..))
●宗像(今宗方に作る國讀相通す)兵衛太夫(其の先は筑前の人世世宗像に察す、因りて兵衛太夫に至りて相良に客たり・・略)●僧弘秀(遠江常福寺の住持)●譜代の卒井福●萬蔵●金田●赤川●雑賀●庶人橋口●四郎丸(四郎丸大村に家す後因りて里名と為す)●藤井●徳永●山口等(歴代私鑑に永原を加えて六人と為す)従う。
首めに萬江式部則純(今の萬江氏《万江氏》の祖)を得て郷導と為す。
(p_-)上記の赤川某。
実は、江戸時代後期に私の住む旧宮原村の小村として「赤川村」があったのです。
場所は・・伊勢元(本)と呼ばれる地区から隣の旧多良木村(現多良木町)の古多良木地区に接する場所です。
上記の赤川村には「赤川氏」が在郷藩士として名を残しています。
ちなみに、赤川さんは、私の同級生でもあります。
慣れ親しい姓なので、単純に「赤川さんの御先祖様は相良氏と一緒に来られたんだな〜(^'^)」くらいにしか考えていませんでした。
所が・・調べてみたら・・ビックリしました\(゜ロ\)(/ロ゜)/
日本の苗字七千傑様の《中村氏/土肥氏》姓氏類別大観 から《小早川氏》に進むと・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116d1.htm#006
小早川景平 ⇒ 茂平 ⇒ 忠光〈秋光氏 赤川氏〉
赤川氏!み〜〜〜〜〜〜〜〜つけた!!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/(子供の頃に赤川さんと、かくれんぼをした時の事を思い出しました(-.-))
(p_-)なんですト!!ナンデスト!!
赤川氏は小早川景平の孫”忠光”を祖としていまするゾ!!
小早川景平は今回の調査でた〜くさん!登場されていますよ!
酒井様から頂いたご教示にも
〉土肥遠平には惟平という実子がいたが、頼朝と同じ清和源氏の血をひく
平賀義信の子を養子とし景平と名乗らせていた。
〉平賀(大内)義信はと調べると、お〜、新羅三郎義光の子なんだ。
〉景平の長兄が大内惟義、次兄が平賀朝雅。
やった!!ついに「平賀義信」に繋がりました!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
私のコメントより
〉平賀義信の長男「大内惟義」。
「大内惟義」の弟 隆信(武藤二郎)景平(小早川遠平養子)
※平賀隆信(武藤二郎)です\(◎o◎)/!
武藤氏と平賀氏はおそらく・・繋がっている!!!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/\(゜ロ\)(/ロ゜)/やった〜!!
(?_?)・・・(;一_一)・・・ちょっと待って下さい・・ダメだ(ー_ー)!!
これでは「平川氏について」じゃあなくて「赤川氏について」になってしまいます(ー_ー)!!
しかし!!
今回のコメント18で書いた事は”視点”として間違っていなかった!と言う事になります。
赤川さんの御先祖様ありがとうございま〜す\(^o^)/
と書いて、自分でもう一度コメント18で書いた事を読み返すと・・
ぎゃあ!!マダマダありました!!
コメント18より(..)
日本の苗字七千傑様の《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観を拝見すると
@桓武平氏上総氏「平常澄」の娘。すなわち上総広常の姉妹は良峰姓原氏の「原高成」の妻である。
A桓武平氏三浦氏「三浦義明」の娘は桓武平氏上総氏「上総広常」の兄弟「金田頼次」の妻である。
B良峰姓原氏の「原高成」の息「原高春」の娘は「肥後守平貞能」の妻である。(後裔 大橋氏)
C平忠度(平清盛異母兄弟)の母は良峰姓原氏の「原高成」の娘、すなわち「原高春」の妹もしくは姉である。
上記@ABCの縁戚関係を元に各系を広げて見て行きます。
まずは
@桓武平氏上総氏「平常澄」の娘。すなわち上総広常の姉妹は良峰姓原氏の「原高成」の妻である。
A桓武平氏三浦氏「三浦義明」の娘は桓武平氏上総氏「上総広常」の兄弟「金田頼次」の妻である。
\(゜ロ\)(/ロ゜)/ああああ!!あった!!ありました!!
※桓武平氏三浦氏「三浦義明」の娘は桓武平氏上総氏「上総広常」の兄弟「金田頼次」の妻である。
「金田氏」です!!
皆様!相良長頼 球磨入部の際の随行者 もう一度ご覧ください!!
中略・・●金田●赤川●雑賀●
「金田氏」ありました!!!
(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)(p_-)
よ〜し!!ターゲットはやはり「コメント2」で書いたように
〉〉日本の苗字七千傑様の《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観が「真実の全て」を物語っている!と言う事だと思います。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm#001
と”この事”に気が付いたのです。
日本の苗字七千傑様《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観に記載の「良峰姓原氏」「桓武平氏 上総氏」「桓武平氏 三浦氏」「平忠能」「平忠度」
上記を中心点と考えて、其々の系を大きく広げて見て行くと、全てが、私の今までの調査に繋がっている事が解りました。
(p_-)(p_-)(p_-)・・・この発想は間違っていないような気がしてきましたよ〜!!
ターゲット”ロックオン”!!
でも・・このままいくと・・もしかしたら・・相良長頼隋従者の方々が
み〜んなで平河氏の名跡を継ぎました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/
な〜んて事になったらどうしよう(;一_一)
(@_@。・・・・何処から「そんなアホな!(ー_ー)!!」という声が聞こえてきたような・・
しかし!益々面白くなってまいりました(-.-)
では(p_-)
[45] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月17日 14時26分46秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
今日は、椎葉のおじの米寿のお祝いに今から出かけてきますので、コメントを簡潔に(*^_^*)
昨日の流れとは違うのですが・・
実は、私、すご〜く偶然ですが!旧宮原村の私の集落にその名を残した「出田氏」の家紋を見たのです!
出田氏は菊池一族ですよね・・(p_-)
しかし・・家紋は四角の真中に小さな四角があって・・その四角でお家の屋根が造られているような・・家紋で・・さらにその四角が何処かで見た事あるゾ(p_-)という形で・・
今日、調べて見たのです!
あったありました!思わぬ画面に登場していました!!
サイト 武家の家紋 少弐氏 こちらの画面をスクロールすると「(応仁武鑑にみえる)武藤氏の寄懸目結」とあります。こちらでした!!
http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_syoni.html
家紋が三つ並んでいて、中央の家紋です!
「(応仁武鑑にみえる)武藤氏の寄懸目結」が私の集落にその名を残した
「出田氏」の家紋でした!
http://www2.harimaya.com/sengoku/buke/mut_mon2.jpg
ううんんんんn????(?_?)・・(;一_一)何故こちらの家紋??(p_-)
しかし・・・どうやら、私の住む集落には「武藤氏」の香りが
プンプンププ〜ン(^0_0^)と・・
キンモクセイのお花のように漂っているみたいです(p_-)
では(-.-)
[46] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年07月17日 23時44分43秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>出田氏は菊池一族ですよね
藤原氏隆家流菊池氏族
家紋は、丸に違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、割り桐に左三つ巴、五つ瓜に唐花、
一つ鱗に一つ引など。
九州地域に多く、菊池氏の違い鷹の羽系が圧倒的に主流。
[49] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月18日 08時30分34秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございました。
出田氏
〉九州地域に多く、菊池氏の違い鷹の羽系が圧倒的に主流。
菊池氏の違い鷹の羽系が圧倒的に主流・・だけど
私の地元の出田氏の家紋は「寄懸目結」だった・・
すなわち「菊池氏」と「武藤氏」。双方に縁をもつ可能性がある・・と推測可能??
旧新堀家のお堂にお祀りの木彫りの男神像そして女神像。
男神像の胸には「並び鷹の羽」の紋が施されていました。
御神像は、明治初期まで集落に鎮座の稲積妙見(稲積神社)が岡原霧島神社に合祀された際に集落に残された可能性もあり、私の住む集落と「菊池氏」の関係は明らかだと私は推測しているのですが・・
「平河氏」と「菊池氏」「武藤氏」の関係・・
今までの調査で知りたかった事が別の形で見えてきました。
私の集落さらに旧宮原村に残された名跡や史跡等・・大きくまとめると・・
「菊池氏」「武藤氏」「伊予橘氏」「相良氏族」「松浦氏(蓑田・値賀・渕田)」「桓武平氏良文流(土屋氏・土肥氏・梶原氏が在)」「平賀義信後裔 赤川氏」「多田氏祖源満仲後裔 万江氏)」「丸に三つ引き両紋(椎葉家の和鏡)」「岩城氏(椎葉氏・荒川氏)」「稲積妙見(妙見信仰)」「霧島権現」「熊野権現」「宮原銀山」「日明貿易」
そして・・祖母の実家「平川家」の氏神様。
他にも気が付いていない事が多々あるかもしれませんが、まとめてみました。
日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございました。
[50] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月18日 08時39分54秒 ) | パスワード |
追記
忘れていました(@_@。おっちょこちょいです。(親戚に叱られる(..))
千葉氏と畠山氏と片岡氏も旧宮原村に名を残しています(..)
さらに・・先程のコメントを書いてあらためて気が付いたのですが・・
「宮原銀山」・・銀山・・「多田氏」はノウハウを持っているはずですね(p_-)
「日明貿易」・・航路・・「松浦氏」は・・”プロ”ですね(p_-)
「千葉氏」 ・・妙見信仰
なるほどな・・(p_-)
では(p_-)
[51] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月22日 10時17分35秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
今朝は・・
平賀氏(大内氏)と武藤氏について気が付いた事を二つ書かせて頂きます。
まずは
@平賀氏(大内氏)で気が付いた事
竹内家系図 注:こちらのサイトに記載の「青い文字」の名はマウスをポイントすると詳細が表示されます。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/takenouchi.htm
平賀 義信
本名義遠。
大内四郎。
従五下。
駿河武蔵守。
為義宗猶子。
平賀 義信 ウィキの記述では
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E7%BE%A9%E4%BF%A1
源義宗猶子説[編集]
義信は初め父の従兄弟に当たる源義宗(源義家の長男)の猶子となったと言われている。しかし、義宗は嘉承元年(1106年)頃までには死去したと考えられるため、その37年後に生まれた義信がその猶子なったとは理論上は考えられない。また、義宗の猶子となった義信は、この義信ではなく、義宗の弟義親の長男の対馬太郎義信であるとする説もあり、年齢的にはこちらのほうが辻褄が合う。このため、対馬太郎義信が義宗の猶子であったという伝承が、平賀四郎義信の伝承として誤って伝わった可能性も指摘されている。
※対馬太郎義信が義宗の猶子であったという伝承が、平賀四郎義信の伝承として誤って伝わった可能性も指摘されている。
(p_-)・・誤って伝わった可能性・・もしも・・何らかの”縁”によってこのような伝承が伝わっている可能性もあるのかな・・?
と思い、”対馬太郎義信”という方を調べました。
源 義信 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BF%A1
源 義信(みなもと の よしのぶ、生没年不詳)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義親の長子で、源義家の孫。通称対馬太郎。官位は『尊卑分脈』によると従四位下、左兵衛佐。
経歴[編集]
源義親の長子として生まれるが、義親が西国で乱行を起こしたため、家督は異母弟の為義が叔父の義忠の養子となって継承した[1]。義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、贖銅の刑を科された。角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だったのではないかと推測している[2]。武士として目立った活動は見られないが、官途は為義より高く最終的に従四位下左兵衛佐となっている。なお、為義を河内源氏の棟梁とする概念が生まれるのは源頼朝が鎌倉幕府を開く前後からであり、当時は源氏各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある[3]。また、為義は義信の弟ではなく叔父であるとする説もある[4]。
※父の源義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され・・
”肥後守・高階基実” こちらでもあちらでも(松葉宗益 後裔 平賀氏について2)「高階氏」ですね・・(p_-)
では続けて
A武藤氏・・気が付いた事を(..)
日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm
を拝見すると・・
藤原長家 ⇒ 武藤長頼(武藤氏/少弐氏)
あっ!武藤長頼の父「藤原長家」と言う方を調べて無かった(;一_一)・・トホホ(..) と言う事で・・
藤原 長家 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%AE%B6
藤原 長家(ふじわら の ながいえ、寛弘2年8月20日(1005年9月26日) - 康平7年11月9日(1064年12月19日))は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の六男。母は源明子であるが、後に道長の嫡妻源倫子の養子となった。官位は正二位・権大納言。大宮または三条を号す。御子左家の祖。
幼名は小若。寛仁元年(1017年)に元服し、従五位上に叙せられて、昇殿を許される。同年侍従次いで右近衛少将に任ぜられる。寛仁2年(1018年)従四位上・右近衛中将、寛仁3年(1019年)正四位下と順調に昇進し、治安2年(1022年)従三位に叙せられ公卿に列す。
治安3年(1023年)参議を経ることなく正三位・権中納言、治安4年(1024年)正二位、万寿5年(1028年)に権大納言に至る。その後は兄の頼通・教通・頼宗・能信が長く健在だったこともあり、権大納言を極官として、康平7年(1064年)10月に病の為出家し、同年11月9日兄達に先んじて薨去。享年60。
『千載和歌集』の編者として知られる藤原俊成の曽祖父に当たり、長家自身も『後拾遺和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に44首の作品が入首するなど[1]、歌壇の中心的人物の一人であった。家集があったと言われるが、現存しない。
(;一_一)あんにゃっ????????あにゃにゃにゃにゃ〜(;一_一)
そう言えば・・私かなり以前、妙に「藤原氏」に拘った時期?があって・・この辺りの方を調べたのですが・・何がなんやらさっぱり「平河氏」との繋がりが解らなくて・・とりあえず、この辺りの調査をするのは中断しました(p_-)
藤原 長家 は・・「藤原俊成の曽祖父に当たり」
藤原俊成・・この方も以前”いっぱい”調べました(;一_一)
系譜[編集]
父:藤原道長
母:源明子 - 源高明娘
妻:藤原行成娘
妻:藤原斉信娘
妻:藤原正光娘
妻:源懿子 - 源高雅娘
ああああああああああああああっ!!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
妻:藤原行成娘 ナンデスト!!!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい[1]、天禄3年(972年) - 万寿4年12月4日(1028年1月3日))は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。
(@_@;) こちらで繋がっていますよ!!
※右少将・藤原義孝 過去に何度も調査しました!
最近では・・
平川家について33 コメント2 でも書いています!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101534_39.html
藤原義孝(良峯左近少尉義孝)の子が藤原行成。
藤原行成の四男が「三吉兼範」
武藤長頼の父「藤原長家」の妻は・・藤原行成娘
と言う事は・・「三吉兼範」と武藤長頼の父「藤原長家」の妻は 兄妹もしくは姉弟・・あんにゃ(@_@;)
何だか・・初めて・・ちゃんと繋がった・・・
しかし ウィキの記述では
生母不明:武藤長頼 ・・・とありますね(p_-)
もしも・・あくまでも”もしも”ですが・・万が一・・武藤長頼の母が「藤原行成娘」であったならば・・母系では藤原義孝(良峯左近少尉義孝)に繋がる訳ですね・・・
うううううううううううむ(p_-)
しかし・・面白い・・実に・・調査は面白いです・・(-.-)
さらに・・
平賀義信の長男「大内惟義」。
「大内惟義」の弟 隆信(武藤二郎)景平(小早川遠平養子)
※平賀隆信(武藤二郎)
さて・・どういう繋がりなのでしょうか?????
(p_-)調査あるのみですね・・
今朝は
平賀氏(大内氏)と武藤氏について気が付いた事を二つ書かせて頂きました。
では(..)
[52] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月28日 19時06分23秒 ) | パスワード |
皆様 今晩は(^'^)
今日は余談であります。
突然ですが・・
皆様は心が”ワクワクする海”をお持ちでしょうか?
私は、小倉に住んでいた頃、山口県「青海島」の日本海側の景色を眺めると何故か涙が出ていました。
所が・・
球磨に戻り、涙が出ると言うよりは・・心が”ワクワクする海”を見つけたのです。
そこは・・東シナ海でした。
地震発生前の三月に、天草の下田で東シナ海に沈む夕日を見てものすごく心がトキメイテ”ワクワク”したのが始まりです(^'^)
サイトに写真がありました。
http://hp.amakusa-web.jp/a0915/myHp/pub/
その後も先日は薩摩川内市の海岸から東シナ海を眺めてきました。
そして、一昨日・昨日と、球磨からは近いのですが鹿児島に小旅行に出かけて長崎鼻から東シナ海を眺めてまいりました(^'^)
海から突然”開聞岳”(意味がおわかり頂けますでしょうか・・海からニョキッ!と突然”開聞岳”の迫力です(..))
この景色を見て「来て本当に良かった!」と思いました。
ブログに写真を載せています。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12185008498.html
遥か遠くにはうっすらと硫黄島(鹿児島)や種子島が見えるのです!感動しました。
硫黄島を紹介したサイトです(^'^)
https://retrip.jp/articles/25699/
長崎鼻(鹿児島)から東シナ海を眺め遠くに硫黄島や種子島を見ていて・・
何だろう心が躍りだすような気分になりました(^'^)・・こう言うのを血が騒ぐと言うのかな・・?
そして・・不思議な感覚なのですが
硫黄島 ⇒ 開聞岳 ⇒ 桜島 ⇒ 霧島連山・・繋がってる!!って体中が強く感じました・・(マタマタ(;一_一)との声がいずこから・・)
鹿児島市に一泊して帰りに念願の鹿児島神宮にお参りに伺いました。(^'^)
鹿児島神宮
http://www.genbu.net/data/oosumi/kagosima_title.htm
実は鹿児島神宮にお伺いしたいと思っていたのには理由があります。
天孫人種六千年史の研究を読ませて頂きながらどうしても”ふにおちない”事があったからです。
それは・・鹿児島神宮に「呉太伯」がお祀りであると言うウィキの記述なのでした・・
天孫人種六千年史の研究で、三島氏は「呉太伯」について書かれていました・・
誤った事が伝わっていると・・
なのに・・何故?と・・だから自分の目で確かめたかったのです。
拝殿にお参りをさせて頂き、雨之社・豊玉比古命 隼風神社:日本武尊 四所神社 大雀命 石姫命 荒田郎女 根鳥命
武内神社・武内宿禰 とお参りをさせて頂き・・
あれっ???「呉太伯」という方は・・どちらに・・??
と思っていた所にすごく偶然なのですが宮司様がおいでになりました。
「球磨郡から参りました」とご挨拶をさせて頂き・・
本題の「”呉太伯”という方は・・どちらにお祀りなのでしょうか?」とお伺いした所
宮司様は
「こちらでは”呉太伯”はお祀りしてはいません。インターネットのウィキ等に書かれていたと言う事で今まで何人もの方が同じ事を聞かれていますが、それは間違いです。」
とおっしゃいました!
真実が解りました!!
ありがたい事に宮司様から「鹿児島神宮由緒略記」を頂きました。
確かに”呉太伯”と言う方については一言も書かれていませんでした。
宮司様から「高千穂宮」についてもお話をお伺いする事が出来ました(^'^)
現在の鹿児島神宮御鎮座の地より二百メートル程離れた『石體神社』(しゃくたいじんしゃ)が「高千穂宮」跡であり
「高千穂宮」とは天津日高彦穗穗出見尊 お住まいの宮殿跡だと言う事でした。
家に帰り『石體神社』について書かれたネットを見つけました(^'^)
http://hd0kirishima.kachoufuugetu.net/kirishimahigashi010.html
転記します。
聖跡 高千穂宮
石体神社の横に「高千穂宮」あとがあります。
鹿児島神宮が創建される以前は石体神社が本宮とされていた。
この地に『皇居』があったのです。
宮司様から頂いた「鹿児島神宮由緒略記」を拝読して、気が付いた事がありますので、コメントさせて頂くつもりです(^'^)
英彦山神宮にお参りした時にも、宮司様にお話をお伺いする事が出来ましたが(以前コメントしました)、鹿児島神宮でも、宮司様にお話をお伺い出来て、私は本当にありがたい事だと思いました。
鹿児島神宮は旧隼人町(現霧島市)に御鎮座です。
近くには熊襲供養塔と言われる隼人塚がありました。
帰りは溝辺インターチェンジより高速に乗ったのですが鹿児島神宮から人吉まで40分もかからない距離でして・・近い距離でこれまたビックリ致しました(..)
あの・・
今回の旅で身体で感じた事があります。
それは・・島津氏とか相良氏と言った時代ではなくもっとも〜っと”いにしえ”の時代の話ですが
私が廻った地域と球磨・・”何かが同じ”ような気がしました・・
では(..)
[53] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月29日 11時36分00秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
昨日の続きのようなコメントになりますが申し訳ありません(..)
先程「松葉宗益 後裔 平賀氏について2」のコメント31を書いていて気が付いた事があります。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101548_31.html
球磨川南岸(旧久米郷を含む)
旧上村 白髪大権現(白髪神社)は日州鵜戸神社(鵜戸神宮)同體
旧岡本村 大炊神権現(大炊霧島神社)日州霧島神社 同體
旧宮原村 中嶋大権現(中嶋霧島神社・宮原神社)日州霧島神社 同體
旧宮原村 切畑大明神 阿蘇神社同體
旧宮原村には黒原山。
この黒原山の麓(裾野)
切畑大明神 阿蘇神社同體
中嶋大権現(中嶋霧島神社・宮原神社)日州霧島神社 同體
大炊神権現(大炊霧島神社)日州霧島神社 同體
三社が黒原山の裾野に鎮座です。
さらに裾野少し下った中央には(黒原山の頂上からまっすぐ線を引いた場所のような・・)
稲積妙見(稲積神社)
御祭神は
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)- 至高の神
高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 生産・生成の「創造」の神。神産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神
神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産・生成の「創造」の神。高御産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)- 活力の神
天之常立神(あめのとこたちのかみ)- 天の神
こうやって書いてみると・・
あの・・私が住んでいるこの場所は・・言葉はよくありませんが・・(..)
神様が大集合(すみません(..))されていらっしゃるような・・感じですね・・
ここは・・
南を見上げれば「黒原山」西を見れば「白髪岳」
二つのお山に”はさまれた”ような場所です・・・・
黒原山の反対側は宮崎県小林市。(旧島津領)
白髪岳の反対側は宮崎県えびの市。(旧島津領)
宮崎県側からも、もちろん黒原山も白髪岳も見えます。
黒原山・白髪岳を越えると「ドン!と聳える”霧島連山”」です。
昨日のコメントで
〉私が廻った地域と球磨・・”何かが同じ”ような気がしました・・
と書きましたが・・
相良氏・島津氏の共通点は
相馬氏・相良氏・島津氏 明治維新まで800年以上領地替えされることもなく続いた大名家。
相良藩と島津藩・・所領地は・・・
日本の”あけぼの”の時代へと続く「地域」・・こう言う事なのではないのでしょうか・・
だから・・私の調査も
何故か・・”いにしえ”と繋がる「様々な系」が関係してくる・・のでは・・?
「平河氏」を継いだ「様々な系」という書き方しか出来ないおそらく平河氏とは「一系」じゃない・・今の調査の状況は・・
もしかしたら・・「球磨」の”いにしえ”に関係しているのでは?
とあくまでも、私の私見ですが・・考えてしまいました・・
では(..)
[54] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月06日 11時18分46秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
久しぶりの登場です(..)
松葉宗益 後裔 平賀氏について2
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101548_50.html
白石様のコメント40
>このころ、義信は比企の尼の三女を妻に迎えている(24)。この女性の前夫は伊東祐清、祐親
が頼朝殺害を企図したとき危急を知らせ、命を助けた人物である。
私は平賀義信の妻「比企の尼の三女」の前夫についてスルーしていました!!
平賀義信の妻「比企の尼の三女」の前夫は「伊東 祐清(いとう すけきよ)」
伊東 祐清 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%B8%85
伊東 祐清(いとう すけきよ)は、平安時代末期の武将。伊豆国の豪族・伊東祐親の次男。諱は祐兼、祐長(『曽我物語』)、祐氏(『平家物語』)、祐忠(『尊卑分脈』)とも[1]。
生涯[編集]
源頼朝の乳母である比企尼の三女を妻としており、伊豆の流人であった頼朝と親交があった。安元元年(1175年)9月頃、平家の家人である父の祐親が頼朝を討とうとした際、頼朝に身の危険を知らせて逃がしている。『曽我物語』によると、自身の烏帽子親である事から、北条時政を頼るように頼朝に薦めたという。
治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵ののち、平家方であった祐親と祐清父子は頼朝軍に捕らえられた。その際、頼朝は祐清にかつて自分を助けた事による恩賞を与えようとしたが、祐清は父が頼朝の敵となっている以上、その子である自分が恩賞を受ける事は出来ないとして暇を乞い、平家に味方するために上洛した[2]。
その後、平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にした[3]。祐清の妻は義兄・祐泰が工藤祐経に討たれた後、生後間もない祐泰の子(曾我兄弟の弟で僧となる)を引き取り、祐清と死別したのちに子を伴って平賀義信に再嫁している。
『平家物語』(覚一本)では、篠原合戦で伊東九郎祐氏が討ち死にしたとある。
なお、『吾妻鏡』寿永2年(1182年)2月15日条では、祐親が自害を遂げた際、祐清が自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したとし、合戦で討ち死にしたとする建久4年6月1日条の記述と矛盾している。寿永2年2月15日条と治承4年10月19日条は、どちらも父に従う祐清の態度を孝道の美談としている。
また、後北条氏・徳川氏に仕えた仁杉氏の系譜によれば、通説では工藤祐経の子とされる伊東祐光を祐清の子として掲載して仁杉氏をその子孫と位置づけている[4]。
(p_-)・・祐清の妻は義兄・祐泰が工藤祐経に討たれた後、生後間もない祐泰の子(曾我兄弟の弟で僧となる)を引き取り、祐清と死別したのちに子を伴って平賀義信に再嫁している。
(p_-)伊東祐清 の兄弟姉妹(伊東祐親の子息子女)
祐泰、八重姫、三浦義澄室、
北条時政前妻、工藤祐経前妻
(p_-)工藤祐経前妻(万劫御前)
コメント36の酒井様から頂いたご教示!
>土肥遠平には惟平という実子がいたが、頼朝と同じ清和源氏の血をひく平賀義信の子を養子とし景平と名乗らせていた。
>土肥遠平の妻は伊東祐親の娘(万劫御前)なんですね。
>万劫御前の子は北条義時・伊東祐時・小早川維平・伊東祐時室・三浦義村室
自信はありませんが、上記が伝わっていますね。
>その三浦義村の娘が笠原荘を治めた、毛利季光(森入道)に嫁いでいます。ご参考にして下さい。
\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!
ああああああっ!!このまま進むと・・相良氏には勿論の事、「新堀氏」「平原氏」にも繋がります!!
平川家について31 コメント59 で詳しく調査しました!!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101516_81.html
人吉市史第一巻 の巻末附録記載の上相良氏系図に平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の項がありました。
平原次郎頼範・・一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子
新堀又次郎頼金・・一説頼範ノ弟
右二人ハ頼景下向ノ折随身猶子トナリ、弟分トナル、頼金(頼兼)ハ頼景ノ女ト合縁
とあります。
※一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子
(p_-)武家家伝 相良氏より
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
相良氏を始めて称したとされる周頼は、子に恵まれなかったため同族の伊東祐光の次男光頼を養子に迎えて家督を譲った。以後、相良氏は相良荘の開拓に従事しながら、遠江の有力武士に成長していったのである。
(p_-)ウィキ 相良氏より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F
藤原南家の流れを汲む工藤氏の出身で、工藤周頼(かねより)が遠江相良荘に住んだことから相良を苗字としたのが始まり。ただし周頼には子がなく、親類の伊東祐時の孫の光頼を養子として家督を継がせたために、日向伊東氏とも同族である。
平原次郎頼範と新堀又次郎頼金(頼兼)は・・工藤太夫光頼ノ弟ノ子
伊東祐時 ⇒ 伊東祐光 ⇒ 光頼
伊東祐時の妻は「土肥遠平娘」
グルグルグルグル・・グルグルグル・・
ぎゃお〜〜〜〜〜っ\(゜ロ\)(/ロ゜)/ 変な声が出てしまいました・・(..)
源義光流「平賀氏」と「工藤氏(伊東氏・相良氏)」「新堀氏」「平原氏」「土肥氏」「三浦氏」
全て繋がっていま〜〜〜〜〜〜〜す!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
さらに上記に「笠原荘を治めた」系が繋がって来ている・・
平川家について30 コメント31で酒井様から頂いたご教示!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101512_80.html
旧浜岡町史 編纂記録よりです。
『笠原庄一宮社記』
中略
1.當庄地頭御次第
@平家小松殿 A一條次郎殿 B十郎左衛門尉殿
C森入道殿 D中城介殿城 E陸奥入道殿
F潮音院殿 當御代
@平家小松殿 平重盛
平家棟梁
A一條次郎殿 一条忠頼
甲斐武田氏
B十郎左衛門尉殿 佐原義連
相模三浦氏
C森入道殿 毛利季光
笠原荘は、佐原氏の後、三浦義村の娘婿毛利季光の手に渡っている。
源姓毛利(森)氏は相模国毛利庄(現・神奈川県厚木市毛利台)を領有。
大江姓毛利氏は源姓毛利(森)氏より相模毛利庄を譲られるようですが、
八幡太郎以来の相模源氏嫡流の陸奥領を、大江流の毛利氏が継承するというのは、
血縁関係で円満に相続か、陸奥家の失政か大きな政治力的な配慮が働いたのでしょうか?
D中城介殿 安達義景
父は安達景盛。子には安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。
E城陸奥入道殿 安達泰盛
弘安8年(1285年)、霜月騒動にて誅される。
F潮音院殿 覚山尼
建長4年7月4日(1252年8月10日) - 徳治元年10月9日(1306年11月15日))
安達義景の娘。第8代執権・北条時宗の正室
文永8年(1271年)12月、20歳で嫡男・貞時を出産。
(p_-)・・・さらに私の調査。同コメント32より
※Dの中城介殿 安達義景について
安達義景 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%BE%A9%E6%99%AF
父母 父:安達景盛、母:武藤頼佐の娘
中略・・
時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた。
母:武藤頼佐の娘
そうか・・・・
平川家について30での調査時点では「平賀氏」について全く調べていませんでした。
でも・・しかし・・
今までの調査は決して”偶然ではない”・・見えてきました・・
最後に・・
皆様、かなり以前の事ですが・・コレマタ平川家について30での調査
「虎御前」について私が書いていた事をご記憶でしょうか・・?
コメント4です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101512_80.html
転記します(..)
・・・実はどう言う繋がりなのか全く解らないのですが、球磨郡免田町には虎御前の墓があります。
熊本県公式ページより
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_8420.html
転記しますと
確たる資料がないので詳しいことは分からないのですが、虎御前については、次の二つの説があります。一つは、「曽我物語」(注1)の主人公である鎌倉時代の武士、曽我祐成(そが すけなり)の恋人で遊女だった虎御前という説。もう一つは、平家の侍大将であった平景清(たいらのかげきよ)の母という説です。虎御前の墓前にあるお堂の記念碑には「平景清ノ生母虎御前ノ墓ト称シ」と書いてあります
と言う事です。
伝承については確かな事は解らないのですが、しかし球磨郡は「遠江国」との縁がとても深い場所ですので、何か”意味”があるのでは?と感じています。
(p_-)・・と私は書いていたのでした・・
「曽我物語」の主人公である鎌倉時代の武士、曽我祐成(そが すけなり)の恋人で遊女だった虎御前という説。
曽我祐成は・・
平賀義信の妻「比企の尼の三女」の前夫「伊東祐清」の甥でした・・
「比企の尼の三女」は曽我祐成の生後間もない弟を引き取り、伊東祐清と死別したのちに子を伴って平賀義信に再嫁している。
平川家について30の調査時点では、こちらも何故「球磨のあさぎり町」に曽我祐成の恋人「虎御前」の供養塔が・・?と謎だったのですが・・
どうやらその”謎”も”謎”ではなくなってきたような感じです・・
皆様申し訳ありません(..) 書きたい事が山積みで・・コメントがすごく長くなりました(..)
では。
[55] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月06日 17時39分58秒 ) | パスワード |
皆様、マタマタの登場です(^'^)
平安時代末期の球磨について語らせて頂きます(..)
私が、調べている『平河氏』とは、おそらく・・
平安時代における球磨郡いちえんに及んだ天皇領「臼麻荘」の現地「郡司」を引継いで来られた様々な”系”に其々が繋がる方々なのでは・・と推測しています。
では・・平安末期の天皇領「臼麻荘」に名前を残した『平河師高』という人物とは一体、”どなた”だったのか・・
久しぶりの”題”ですが、少し解った事がありますので、御紹介致します(..)
平河師高に関連する神社
麻郡神社私考 より
正八幡宮 深田領有智山 祀官 坂本民部
社家傳云 大隅國桑原郡鹿兒嶋神社同體
神衹抄曰鹿兒嶋神社正八幡宮 彦火火出見尊也
平川三郎師高草創
先日、私が伺った鹿児島神宮。
平安末期に平河師高が深田領有智山(現あさぎり町深田内山)に勧請、深田の正八幡宮を草創した・・と言う事です。
さらに
白山権現 深田領萬福寺中 祀官 坂本民部
社家傳云 春日 白山 清瀧 三神勧請也
傳云 平川三郎師高菩提ト乄此取ニ佛閣建立乄千手不動二尊ヲ安置ス此時當山ノ鎮守ト乄白山社之三社勧請
※春日 白山 清瀧 三神勧請也
春日 白山 清瀧 ・・・どう言う意味だろう・・????
さらに同じく平河氏領地 深田荒茂山
白山権現 深田荒茂山 社人 西孫兵衛
社家傳云 洛陽清水音羽山地主権現同體
神社啓蒙曰 地主権現取祭神 一座
大己貴命 記文未考
傳記曰 昔平氏當郡ヲ領スル時 小松大納言重盛卿佛閣ヲ建立シテ毘沙門ヲ安置ス此時地主権現ヲ勧請乄鎮守トス
球磨郡内において唯一の白山権現は 平河氏(良峰氏)惣領とある平河三郎師高の所領地「深田」のみです・・
以前から、この事実には気が付いていたのですが・・
空の青海のあを様、三つ柏服部様 御調査の「長上郡の服部氏族LXXW(16年の課題確認17)」を拝読してはっ!としました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101550_47.html
武藤氏・真田氏・・・白山権現
さらに・・
〉武藤氏と近藤氏(末裔には大友氏等を輩出)とは同族である(頼平の兄弟の能成の子が大友能直)
平安時代末期、平家全盛の時代の球磨。
コメント7で書かせて頂いた「松原象雲氏調査、球磨」による釈迦堂の釈迦如来像についての記述。
中略・・
年代を考ふれば大治前後白河法皇時代と思はれ、作者を考ふれば定朝三代の裔、頼助時分の名家に属す、其の由緒を尋ぬるに、南藤蔓綿録に曰く、「富寺開山永厳上人草創、仁平元年壽七十にして示寂す、球磨川北の本寺」とあるもの是なり、即ち平賀師高の領地の範囲と思はる、球磨郡に於ける平賀系の遺跡なりと云うべきなり。
※永厳上人とは
京都東寺の長者であった永厳上人。
東寺は21世紀の現代において世界遺産に登録された名所ですね・・
殆どの方は、おそらく「球磨」を都から遠い、九州の果て、山の奥・・そのまた奥の・・といった印象を持っていらっしゃるのかもしれませんが・・・
平安時代末期の「球磨」とは、その”印象”を覆す”場所”だったのかもしれません。
永厳上人は「仁平元年壽七十にして示寂す」
仁平元年とは1151年。
ちなみに須恵平等寺永厳上人の開山は1120年。
「開山ヲ永厳ト云。然二其前モ永厳京都醍醐寺修,ノ後当郡二下テ平等寺ヲ造立シテ住ス。其節右ノ如来モ守来ノ本尊也。当寺過去帳ヲ考フル二開山永厳上人ハ仁平元年^八月十四日寂ス。寿七十歳ト云。」
永厳上人は仁平元年八月十四日(1151年8月14日)に亡くなりました。
そして・・
平河師高および平河一族(良峯氏)が建立した有智山万福寺は1151年に着工、1154年に完成。
永厳上人は有智山万福寺そして荒茂勝福寺の塊基である。
仁平〜久寿〜保元
仁平 この時代の天皇は近衛天皇。
久寿 この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。
保元 この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。(保元3年8月 後白河天皇が二条天皇に譲位し、院政を開始)
※武藤氏と近藤氏とは同族である
あくまでも・・推測ですが・・天皇領である「臼麻荘」に平安時代末期、上記の時代の何れかの天皇様の”側近”に関係する「近藤氏」もしくは「武藤氏」が郡司としていらしても・・全くおかしくは無いのでは・・・
お話は変わりますが・・(..)
皆様、私のブログにアップしている「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」を今一度ご覧ください。
平河三郎長貞 死去 − 女子 号万歳 とあります。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12146170264.html
女子 号万歳 ・・号「万歳」・・どう言う意味なのかな・・??と思い調べたのですが
「万歳」という地名が・・思わぬ所で「近藤氏」と繋がっていました・・・
武家家伝 坂西氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakanisi.html
坂西氏は『笠系大成』によれば、南北朝初期の信濃守護小笠原貞宗の三男宗満が信濃国飯田郷の地頭職を賜り、飯田郷三本杉に居館を構え、坂西孫六を称したことに始まるという。すなわち、清和源氏小笠原氏の一族ということになる。
初代の宗満は正中年中(1324)に生まれ、貞和年中(1345)ごろ三本杉に住し、永和二年(1376)に死去したという。宗満は坂西を称したのは、既に飯田郷に損zないしていた坂西氏の名跡を継いだとする説もあるが、その真偽は定かではない。
ところで、坂西氏には二つの流れがあったとされ、伊那郡の坂西氏は「ばんざい」とよみ、松本の坂西氏は「さかにし」とよんだ。
伊那郡の坂西氏の伝説によれば、源平合戦のころの淡路国坂西(万歳)城主に近藤六郎周家なる人物がいて源義経に属したが、義経が頼朝から追討の身となり奥州に逃れたときそれに従ったものの越後国で暇を出され、周家は信濃飯田郷に来住、そして、飯田郷を支配下におさめ、故地坂西にちなんで坂西を称したのだという。
(p_-)・・・
伊那郡の坂西氏の伝説によれば、源平合戦のころの淡路国坂西(万歳)城主に近藤六郎周家なる人物がいて源義経に属したが、義経が頼朝から追討の身となり奥州に逃れたときそれに従ったものの越後国で暇を出され、周家は信濃飯田郷に来住・・・
(p_-)淡路国坂西(万歳)城主に近藤六郎周家なる人物がいて・・
(p_-)近藤六郎周家なる人物とは・・ ついに見つけました!!
サイト ある事件の記憶 〜西光屋敷
http://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/30120396.html
勝手ながらピックアップして転記させて頂きます(..)
『平家物語』 の巻第十一、義経が嵐を押して阿波に渡った直後・・
判官、「何者ぞ」と宣へば、「當國の住人坂西の 近藤六親家 」と申す。
百騎ほどを従えて参加していた 近藤六親家(こんどうろくちかいえ)という武将。
これが西光の息子・・
板西(ばんざい)城は板野町にあった城で、新居見(にいみ)城は小松島市新居見町にあった城。
実際に彼の貢献が大きかったであろうことは、のちに六親家は信濃国伊那郡郊戸庄の地頭職について板西(坂西)氏を名乗ったことから想像できます。
この板西氏は途中に断絶したようですが、のちの南北朝時代、信濃國守護職についた小笠原家の一人が再興しています。
阿波の歴史は広がり、つながっていったのですねえ。
ちなみに六親家という変わった名前、実際は 近藤六郎周家(ちかいえ) といったようです。
(p_-)・・他 様々なサイト他にも
近藤六郎周家(ちかいえ)とは西光の子息 近藤六親家(親家) である・・との記述が多数見つかりました。
※淡路国坂西(万歳)城主「近藤六郎周家」 実は西光の子息 近藤 六親家(親家)
※「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」”平河三郎長貞 死去 − 女子 号万歳”
皆様・・・どうお考えになられますか・・・
では(..)
[56] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月08日 12時54分59秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
まず、早速ですが・・・集落のお堂に「寄懸り目結」紋を見つけてしまいました・・・
かなり、以前にこちらのスレッドで、私の住む集落に代々「占い」を継承しているお家がある事をコメントしていたと思います。
こちらのお家は占いを家業とされている訳ではありません(ー_ー)!!
代々、そのお家の家族の中から「不思議な能力」と言えばいいのか・・?その能力を受け継いだ”人”が現れて・・先代から「占いを行う」事を継承していく・・
といった具合に「占い」が継承されてきた「お家」です。
地域の人はもちろん知っていますが、実は・・知る人ぞ知るという「お家」で、数十年前には朝の全国放送でテレビでも取材されています。(政治家の方の・・・これ以上は書けません(ー_ー)!!)
久しぶりにこちらのお家のお堂の前を散歩していたのですが・・
何気な〜くお堂を見上げると・・扉の上に紋が施されていまして・・
これが・・「寄懸り目結」紋だったのです\(゜ロ\)(/ロ゜)/思わず「きゃ〜!!」と叫んでしまいました(..)
何で今まで気が付いていなかったのだろう(..)・・(..)
しかし・・子供の頃はそもそも「紋」に興味など普通は持たないですから・・
かくれんぼして遊んでいて「あっ!寄懸り目結紋!(p_-)」な〜んて思いませんし・・(..)
また一つ、私の住む集落に「寄懸り目結」紋が・・見つかりました(p_-)
というお話でした(..)
実は、昨日からマタマタ沢山の情報を見つけたのですが・・こちらは後ほど(p_-)
では(..)
[57] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月12日 10時43分37秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
一昨日は宮原観音堂の御夜祭で、今年は準備・接待と球磨に戻り初めての仕事をさせて頂きました。(私は、殆ど何も出来ていませんが・・おにぎりを作るくらいで・・父は皆さんとペットボトルで灯篭を作り参道に並べていました(^'^)階段には蓑田のおじさん造られたりっぱな竹灯篭が並べられました。)
旧宮原村の宮麓集落の皆さんが大集合?して、とても楽しい御夜祭でした。(^'^)
所で・・
空の青海のあを様、三つ柏服部様の御調査
長上郡の服部氏族LXXV(16年の課題確認18)を拝読して、とても重要な事に気が付きました。
三つ柏服部様のお言葉
〉>金や銀を巡っての戦いの歴史があったということになります……。
まずは・・
文芸春秋WEBに
世界史のなかの戦国時代
【銀】石見銀山が世界経済を動かす 文岡本 隆司 (京都府立大学准教授)
という記事が掲載されていました。
私の住む集落にあった肥後宮原銀山についても書かれていました。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1821?page=3
世界史のなかの戦国時代より
毛利・石見といったビッグ・ネームばかりではない。九州の肥後・宮原でも、銀が多く産した。その地を領したのは相良(さがら)氏。かれらは遣明船を出し、銀を中国に輸出して貿易にいそしんだ。石高わずか二万石の小大名ながら、武力によらない経済政策で、幕末まで生きのびていったのである。
(p_-)ところで・・
石見銀山と尼子氏。
尼子氏を攻めた大内氏。
「大内義隆」は政務を文治派の寵臣・相良武任に一任。
相良武任とは実は平河系相良氏と呼ばれる「相良長続」に敗れた上相良氏の相良頼観(多良木頼観)の孫です。
相良武任は大内義隆の右筆・奉行人として仕え、国人の統制と守護代の権力抑制、大名権力の強化に務めた。
この行政能力を義隆に信任され、天文6年(1537年)に従五位下に叙位され、
評定衆にも列せられた。 ウィキより
大内義隆は天文5年(1536年)に少弐氏を滅亡に追いやりました・・
しかし、結局大内氏を滅亡へと追いやったのは
『陶隆房ら武断派と相良武任を筆頭とする文治派の対立』です。
天文20年(1551年)に大内義隆は武断派の陶隆房の謀反に遭って自害する(大寧寺の変)
謀反を起こした『陶隆房』は毛利元就と戦う事となり・・
毛利氏に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35。
毛利氏は防長を支配して大内氏の衣鉢を継ぎ、しかも山陰の尼子氏を滅ぼして、列島屈指の富饒(ふじょう)を誇った。富の源泉のひとつが石見銀山である。
世界史のなかの戦国時代より
平河氏が地頭職であった球磨の永吉庄
鎌倉初期
預所 大江広元(毛利氏の祖) 地頭 平河氏
鎌倉後期
預所 少弐景資 地頭 平河氏
後世における”銀”の周囲で起こった”戦い”と永吉庄の預所と地頭の関係。
因縁を感じてしまいました・・
さらに・・宮原銀山に関連した「石見銀山」の吹大工洞雲。『肥後宮原の銀石を鑑定する。』
鑑定を依頼したのは大内義隆の継室「おさいの方」の父「小槻伊治」。
私の調査は・・
時代の大きな流れの、教科書に載らない『影に隠れた真実』なのでは・・
少しだけ・・調査が怖くなってきましたが・・でも大丈夫です。
実は、宮原観音堂から『宮原銀山』の跡地「金山」が見えます。
しかし、ここは、山奥ではありません。
私の住む、旧宮原村の宮麓地区(平地)に隣接した小高い山です。
宮原観音堂の観音様は古(いにしえ)の銀山での採掘作業をお見守り下さったことでしょう。
今の時代に生きる私は、宮原観音堂の観音様にお参りする時はいつも、「お見守り頂きありがとうございます」と感謝の気持ちをお伝えしています。
今日、書かせて頂いた事は
ウィキの「大内氏」「大内義隆」「相良武任」「陶隆房」「大寧寺の変」
の記述に詳しくありました。
では(..)
[58] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月20日 15時09分32秒 ) | パスワード |
皆様 こんにちは。
はじめに・・
熊本地震でただ一人行方不明であった大学生の方が、御両親・御家族の懸命な捜索の結果、崩落した阿蘇大橋の下流400メートル付近で発見されて、御遺体はやっと昨日、御両親の待つお家へ戻られました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
所で・・
実は、一昨日、求麻郷土研究会の方々と、平河氏・窪田(久保田)氏が居城した岩城(木上城・木本城)に伺いました。
岩城(木上城・木本城)を外から見ると、周囲を木々に囲まれた小高い山のように見えますが、内部に入ると、集落もあり、水路も通り、頂上の館跡(現木本神社)までは、人や馬が通れる道が造られていて、今でも錦町が大切に整備されています。
岩城自体が大きな要塞のような山でした。
岩城中腹で道が二てに分かれていて、左方向に進むと木本神社(館跡地)、右に進むと戦国時代後期に木上城(木本城)城主家であった窪田(久保田)氏一族の墓所があります。
木上城城主、窪田(久保田)一族のお墓(戦国時代後期)に初めて伺う事が出来ました。
戦国時代後期の一族のお墓は立派な五輪塔で10基程が凄然と並んでいました。
中には窪田(久保田)越後、そして高麗国で亡くなった窪田(久保田)大蔵のお墓もありました。
窪田大蔵の最期については以前、こちらのスレッドでコメントさせて頂いています。
ただ・・・こちらで発見した事があります!
城主家である窪田(久保田)一族のお墓(戦国時代後期)に寄り添うように五輪塔ではない二基のお墓があり、刻まれていた”姓”を見ると・・
河野氏と川野氏のお墓でした。
とても驚きました!!戦国時代の窪田(久保田)家の墓所に”河野氏”と”川野氏”のお墓が・・!!
私は今までの調査で、”河野氏”と繋がっていたのは『平河氏』・・と思っていたのですが・・もしや!私は大きな勘違いをしていたのでは・・
木上城城主『窪田(久保田)氏』の墓所へ初めて伺って、明らかに感じたのは
”河野氏”と繋がりがあるのは『窪田(久保田氏)』である!・・と言う事です!!
日本の苗字七千傑様の【越智氏】姓氏類別大観をじっと見つめていました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206.htm#001
《越智氏》・《伊予北条氏》・《伊予橘氏》・《河野氏》・・・同族・・
さらに・・《河野氏》 姓氏類別大観をさらにじっと見つめると”驚愕の事実”に気が付きました!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#002
皆様、お気づきになったと思います。
こちらには・・『武藤氏』『大内氏』を名乗った河野氏が見えます・・
おそらく河野氏と『武藤氏』『大内氏』は姻戚関係にあったと推測が可能なのかと・・
さらに・・私がずっと気になっていた嬉野氏もこちらですね・・
さらに・・別府氏。相良藩士にも別府氏があり、旧宮原村にも別府氏は分限帳に名を残し、私の住む集落にも現在別府氏はいらっしゃいます・・
さらに・・石井氏。私の住む集落に鎮座であった稲積妙見(稲積神社)の1400年代における中興に関わった人物の中にも宮守 石井太郎兵衛 という方の名が残っています。
さらに・・桑原氏も見えます。
家の縁戚関係を申し上げますと・・
久保田氏から宮原家に養子に入った私の曾祖父。
曾祖父の姪は・・平川家と桑原家に其々嫁いでいます・・
色々書きましたが・・
結局・・窪田(久保田)氏も『越智氏一族』と繋がっている・・と言う事を強く感じています。
では(..)
[59] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月20日 19時24分10秒 ) | パスワード |
皆様、マタマタの登場です(..)
先程、コメント58で
〉私は今までの調査で、”河野氏”と繋がっていたのは『平河氏』・・と思っていたのですが・・もしや!私は大きな勘違いをしていたのでは・・
と書いたのですが・・・
何やら御先祖様から
「又、すぐに早合点する(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と叱られたような気分になりまして・・(マタマタとの声がいずこから・・)
冷静に考えてみると・・
私は平河氏を調べていて”やっと”!「平賀氏(大内氏)」と「武藤氏(少弐氏)」に繋がる真実を見つけ始めていたのですから・・
河野氏と「武藤氏」そしていずれかの「大内氏」との縁戚関係に気が付いたと言う事は、それは・・
平河氏と武藤氏・大内氏(平賀氏)・河野氏は・・繋がっている!と考える方が良いのかな・・?と推測したのであります(p_-)
そして・・窪田氏(久保田氏)と河野氏も何らかの繋がりがある(p_-)・・と考える事にしました(p_-)
さらに、もう一つ気が付いた事が
先程、私の住む集落に「桑原氏」も「別府氏」も在る!と書きましたが、
日本の苗字七千傑様の《河野氏》 姓氏類別大観をさらにじっと見つめると・・
《河野氏(室町期以降)》 に「野島氏」が見えます(p_-)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#002
あの・・・野島氏・・野島家も私の住む集落にあります(p_-)
さらに《河野氏》 姓氏類別大観から《伊予村上氏》姓氏類別大観に進むと・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01008a.htm#003
※能島村上氏の一族には、【能島氏】【野島氏】を称するものがある。
とあります(p_-)
うんがっ\(◎o◎)/!
《伊予村上氏》姓氏類別大観の下に見えるのは・・
小池氏だ!!(私の祖父の姉は小池家を継いでいます!) ・・・・(?_?)・・(?_?)・・(p_-)
こうなると・・やはり偶然では無いような気がするのですが・・
ちなみに・・
私の曾祖父の生家の久保田家は・・実は多良木村の初代副村長家でして・・初代多良木村の村長の淵田家とは縁戚関係にあり・・
その淵田家の娘(曾祖父の姪)が平川家に嫁ぎ(私の高祖母)、さらに他の姪が桑原家に嫁いでいるのです・・
淵田氏は1600年代中盤には私の住む集落にその名がありました・・(値賀氏も私の住む集落に名を残しています(..))
そう言えば・・淵田氏は以前コメントしましたが・・
平川家について31 コメント6
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101516_81.html
《上松浦党》波多氏の家臣団に「淵田氏」の名前。
波多三河守の家臣
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里 立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里 立川村 三百石 ※松浦古事記より
※値賀伊勢守森昌 菅原森昌 値賀村 二百石
※値賀三郎太吉渡 源 吉渡 同 百 石
淵田氏は橘氏と縁があるようです・・(p_-)
脱線しました(..)
所で・・
河野氏と武藤氏の縁戚関係についてサイトを見つけました(p_-)
サイト 三好恭治の熟田津今昔 より
http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/nigitazu/nigitazu50.htm
一遍の実母についても諸説がある。
@北条重時女(「極楽寺多宝塔供養願文」)
A大江季光女(「北条系図」浅羽本)
B葛西殿(「金澤文庫古文書」)
C大江季光女で北条重時養女
A.Cの系譜では、大江季光の女の一人が北条時頼に嫁しており、その子が時宗であるおから一遍と時宗は母方の従兄弟に当たる。(川添昭二『北条時宗』)
更に、一遍が父・通広から相続した別府の所領は、一遍祖父・通信の弟通経の曾孫(武藤)通平に贈与され、のちに越後に移住している。別府の所領の一部は得能通綱により宝厳寺に寄進されている。(「宝厳寺系図」、浅山圓祥『一遍と時衆』)
(p_-)一遍祖父・通信の弟通経の曾孫(武藤)通平に贈与され、のちに越後に移住している。
さらに・・
◎一遍智真と河野氏、北条氏、鎌倉御家人との係累 より(..)
(長男) 通真(通高 浮穴別府) ― 通朝(浮穴別府) ― 通高(筑前長渕庄)
(次男) 一遍(「別府弥七郎通秀(通尚)」・・・通平<通信曾孫>
(注)一遍は別府所領を河野(武藤)通平<通信曾孫>に所領贈与(のち越後に移る)。系譜は、通経(通信弟 甲曽五郎)―通盛―通実―通平であるが、通平は通盛の兄通親の子で通実の養子となった。通称「甲曽小太郎」と称する。(甲曽ヵ、甲冑ヵ)
さらに・・ナントこちらの「平家物語を熱く語る」内の他の方のスレッドにも記載がありました!!
「平家物語を熱く語る」内 武藤氏 より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101112.html
コメント12では 海遊庵主様が
※源氏方河野氏と平家方武藤氏が相携える間柄に為ったのは、取りも直さず、通信の実弟・通経(源義経の烏帽子子なり・甲曽五郎〜其の子通親は武藤家に婿養子縁組・後・越後守に任じられて居ります)の存在が、承久之乱以後、河野家の家運を細々ながら接いで御仁と通有の存在が睦も要因と推測して居ります。(家傳之系図並びに龍穏寺豫章記等にて明記あり)
とお書きになられていました・・(海遊庵主様 勝手ながら重要なお言葉なので転記させて頂きました。すみません)
私の調査の様々な点が”線”で結ばれてきたような気がします。
では(..)
[60] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月21日 11時02分39秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
昨日のコメント内で別府氏について”姓”について書きましたが・・
忘れていました(..)
”姓”だけではありません(ー_ー)!!
私の住む旧宮原村には地名すなわち小字「別府」があります。(ビュウと呼びます)
この小字「別府」辺りに「別府氏」が沢山住んでいらして、かなり前(数年前)のこちらのスレッドに、私の祖母がこの方々を「別府の一族」と呼んでいた・・と書いた記憶がありました・・
以前、日本の苗字七千傑様より
「小字は領主が(好きな)地名を付けても良かった・・」といった内容の御教示を頂きました。
別府の近くにある小字は「桧山(檜山)」。
桧山(檜山)はおそらく秋田(出羽)からの地名遷移かな・・?とは思っていたのですが・・しかし、小字「別府」については深く考えた事は無かったのでした・・(..)
さらに・・
一つ。私は昨日、完全にスルーしてしまっていた”事”がありました(..)
〉一遍の実母についても諸説がある。
@北条重時女(「極楽寺多宝塔供養願文」)
A大江季光女(「北条系図」浅羽本)
B葛西殿(「金澤文庫古文書」)
C大江季光女で北条重時養女
A.Cの系譜では、大江季光の女の一人が北条時頼に嫁しており、その子が時宗であるおから一遍と時宗は母方の従兄弟に当たる。(川添昭二『北条時宗』)
(p_-)・・・一遍の実母・・諸説
A大江季光女(「北条系図」浅羽本)
C大江季光女で北条重時養女
大江季光・・・あんれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!(p_-)
酒井様から頂いたご教示より
『笠原庄一宮社記』 1.當庄地頭御次第
森入道殿 毛利季光
笠原荘は、佐原氏の後、三浦義村の娘婿毛利季光の手に渡っている。
と言う事は!
※佐原義連より笠原荘の地頭職を引継いだ「毛利季光」(妻は三浦義村の娘)
※「毛利季光」の娘は河野通広の妻となり・・一遍の母となる・・
※一遍の祖父「河野通信」の実弟・通経(源義経の烏帽子子なり・甲曽五郎〜其の子通親は武藤家に婿養子縁組)
こうなっているのですね・・・・
では・・(?_?)・・(?_?)・・(p_-)
[61] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月21日 15時36分46秒 ) | パスワード |
皆様 マタマタの登場です(..)
昨日のコメントにも書いた
〉〉私は今までの調査で、”河野氏”と繋がっていたのは『平河氏』・・と思っていたのですが・・
上記に書いた”河野氏”と繋がって(縁があった)いたのは『平河氏』・・と何故考えていたのか、かなり以前にコメントしていた事なのであらためて書かせて頂きます(..)
「荒田寺」(現荒田観音堂)の「木造釈迦如来坐像」について
錦町公式ページより
荒田観音堂内にあり、県下で三例目の墨書きで胎内腹部前面に「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」の銘文が書かれています。本像は彫眼、彩色像で像高86.5cm。カツラ材一木造で、頭、体部は耳の後方で前後二材に割矧ぎ、膝前は横一材を寄せてあります。平安末期に造られた本像は、表情が穏やかで端正な気品を見ることができ、年代の重みが十分うかがえます。
「荒田寺」(現荒田観音堂)は平河義高を荒田大王神社の境内にあります。(先日も伺ってまいりました(..))
※「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」の銘文。
荒田寺の別当は良峰依高(平河依高)でした。
上記の『天台僧林与』。
実は・・多良木町に以前あり、現在熊本市川野氏所蔵の『釈迦如来坐像』にも僧林与の名が残っています。
上記の釈迦如来坐像には「(在銘仏として)川野林与保延七年一一月十四日」と墨書で記されています。
「保延七年」(1141年)。天台僧林与と川野林与 同一人物と推測。
以前の調査では・・
川野氏・・川野・・???どちらの川野氏???河野氏・・??
くらいで・・終わっていたのですが・・
しかし(ー_ー)!!
木上城主であった窪田(久保田)氏の戦国時代のお墓に伺って、窪田(久保田)氏のお墓に並んで建っていた二基のお墓を見て確信したのです。
姓は「河野氏」と「川野氏」でした(p_-)
と言う事は・・・
「荒田寺」(現荒田観音堂)の「木造釈迦如来坐像」胎内腹部前面の「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」墨書きの銘文。
天台僧林与とは河野(川野)林与と推測可能なのかと・・。
保延7年・・・何があったのかな・・?? ふと考えてしまいました(゜-゜)
あっ!それから白石様、お元気にされていらっしゃいますか?。
ご覧になっていらっしゃるかな?
以前、荒田寺と平河師高のお墓について書かれていらっしゃったと思いますが・・
実は球磨郡内に平河師高のお墓は何処にも見つかっていません。
荒田寺の古いお墓を見たのですが、鎌倉時代ではなくずっと後期のお墓ばかりでした・・
所で・・
皆様。私、窪田(久保田)氏のお墓に伺い、手を合わせてお参りして、本当に良かったと思っています(^'^)
では(..)
[62] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月21日 16時16分58秒 ) | パスワード |
追記です(..) (どうしても気になる事がありまして・・)
唐突ですが・・
以前から親戚の「星原氏」が気になっていまして・・
私の祖父母は大陸に向かう前に、祖父の従姉の娘夫婦(夫は星原氏)に宮原家の全てを託して行きました。(ですから今は元宮原家には親戚の星原家があります)
先日「星原氏」をネットで検索してみたのですが・・
一つ見つけました。
名字由来Net 星原氏 より
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%98%9F%E5%8E%9F
宮崎県都城市高城町有水、鹿児島県薩摩川内市港町がルーツ。鹿児島県に多数みられる。鹿児島県、宮崎県、熊本県などに多い。星信仰が語源といわれる。
※宮崎県都城市高城町有水、鹿児島県薩摩川内市港町がルーツ。
と・・先日はこれ以上何も見つからなかったのです・・
所が・・今日、河野氏を調べていて気が付いた事があります。
河野氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F
中略・・
伊予国以外の河野氏[編集]
宮崎県に河野(かわの)姓が多い。『都城市史』には南北朝時代に伊予より日向に上陸したとの記述がある。『小林市史』には河野通貫の代の貞治5年(1366年)6月宮崎郡下着、その後数代を経て河野伊予守正弘の代に日向三俣院高城の有水村に居住して長峯門を領し、長峯土佐守と称した。更にその後数代経て長峯玄蕃允通貴の代に真幸院三之山東方村赤木門を知行したので孫の通信の代に赤木氏を称するようになったとある。また『宮崎県史 史料編』では、室町時代の享禄4年真幸院の在地領主として河野四郎通安の名前を見ることができる。いずれも通字として河野氏の通字「通」を継承しており、中世よりつながりがあることが分かる。 『河野・川野一族』によれば、河野通信の子得能通俊の子孫が日向に移住、伊東氏に属した。児湯郡に河野姓が多いのは伊東氏に属し、土着したためとある。
戦国時代に武田信玄によって武田水軍が編成された際に、河野氏の一部が武田氏の傘下に入り、水軍の技術を伝えている。その子孫は山梨県や静岡県に見られる[要出典]。
越前国の河野村は、南北朝時代に京に上った河野氏の一族が戦に破れ、流浪の末に築いた村といわれる。現在も河野家と同じ家紋を瓦に残している[要出典]。
(p_-)・・・(?_?)
※『小林市史』には河野通貫の代の貞治5年(1366年)6月宮崎郡下着、その後数代を経て河野伊予守正弘の代に日向三俣院高城の有水村に居住して長峯門を領し、長峯土佐守と称した。
ここで気が付いたのです・・
※日向三俣院高城の有水村に居住
あの・・皆様・・すごく不思議な偶然なのですが、最初に書いた「星原氏」の記述・・
※宮崎県都城市高城町有水、鹿児島県薩摩川内市港町がルーツ。
不思議な偶然だとは思うのですが・・ピンポイントで同じ場所だったのです・・??
河野氏・・日向三俣院高城の有水村に居住
星原氏・・宮崎県都城市高城町有水がルーツ
(?_?)(?_?)(?_?)・・もちろん偶然だとは思うのですが・・モヤ〜ッとしています(..)
さらにウィキの「河野氏」の記述では
※更にその後数代経て長峯玄蕃允通貴の代に真幸院三之山東方村赤木門を知行したので孫の通信の代に赤木氏を称するようになったとある。
※日向三俣院高城
※真幸院三之山東方村赤木門
あの・・・相良定頼并一族等所領注文 では
平河又三郎分
日向國真幸院引田貳拾町 頼尚跡
同国三俣院南方内田地伍拾町
とあり、平河又三郎こと平河又三郎師里(平河師里)が受領しているのですよね・・(?_?)
何だか妙〜に縁があるような気がしているのですが・・偶然かな???
気になる事が続いたので書いたのですが・・
偶然だとは思うのですが・・・???・・・
では(..)
[63] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月24日 11時14分25秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
平川家について28+1 コメント81
南国様、御教示ありがとうございます。
ご教示を、こちらに転記させて頂きます。
〉記事にありましたチガについて
氏名は値賀(ちか)で、朝鮮の役で太閤秀吉から朱印状を受け 直参になっています。松浦党の盟主 波多家が改易され、その後唐津藩、天草の乱後は福岡黒田藩、水野藩に再仕官。黒田藩に仕官後、辞めて天草に移り住んだ子孫は明治以前は他の名前でした。 明治後 球磨に移った方もいらっしゃいますが氏名は知賀ではなく 値賀です。
〉記事にありましたチガについて
とは
波多三河守の家臣
※値賀伊勢守森昌 菅原森昌 値賀村 二百石
※値賀三郎太吉渡 源 吉渡 同 百 石
上記の値賀氏について・・という事ですね。
御教示、心から感謝申し上げます。
値賀伊勢守森昌・値賀三郎太吉渡の後裔の方々は、明治以前には天草に住していらっしゃったのですね。
私の住む旧宮原村(明治以降、岡本村と合併して岡原村。現在はあさぎり町岡原北となっています)に名が残る値賀氏ですが
相良藩士分限帳、他、相良藩の史々で表記は「知賀」・「智賀」・「値賀」と書かれています。
相良藩士分限帳にある旧宮原村の在郷藩士「値賀氏」知賀(値賀)彦兵衛の初見は寛政十年(1798年)ですが、他の記述(分限帳・相良藩の史々)を詳しく調べていませんので、今後、確認させて頂きます。
南国様からご教示頂いた「値賀氏」と何れかの段階で分かれた系なのか・・もしくは、別系の「値賀氏」か・・?
〉朝鮮の役で太閤秀吉から朱印状を受け 直参になっています。
朱印状・・
旧宮原村には宮原銀山があり、相良氏は日明貿易で銀の輸出を行っていました。
日明貿易は八代港から船を出していたのですが、当時の相良氏の八代奉行の一人が蓑田氏です。
旧宮原村にも相良藩士「蓑田氏」が在しています。
さらに気になるのは
波多三河守の家臣
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里 立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里 立川村 三百石 ※松浦古事記より
波多三河守の家臣に淵田氏がありますが、私の住む集落の承應四年(1655年)建立の庚申塔には「淵田彦兵衛」「淵田四衛門」の名前が刻まれています。
(今・・気が付いたのですが・・「淵田彦兵衛」「知賀(値賀)彦兵衛」・・偶然か?通称が同じですね・・?)
「淵田氏」。
「南藤蔓綿録」では高麗に七年間在陣中に各地での討死者の名前の中に
”淵田太炊左衛門”
さらに気になるのは、同じく高麗に七年間在陣中に各地での討死者の名前の中に
”渕上藤四郎”
淵田氏・渕上氏 松浦の史々に『渕上氏』の名があったように記憶しているのですが・・?(記憶があいまいで申し訳ありません)
宮原一族の先祖「伊予橘氏」である橘公業の系は松浦氏と姻戚関係であったと言う事が旧宮原村に松浦方面の”氏”が多数残っている理由なのか・・??
ちなみに承應四年(1655年)建立の庚申塔には三名の「有馬氏」の名も残っています。
南国様
あらためて、お礼を申し上げます。
御教示、本当にありがとうございました。
南国様の御教示のお陰で、私の目の前の何重も重なったカーテンの一枚が開き、微かな光が見えて参りました。
ありがとうございました。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
[64] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月24日 12時33分33秒 ) | パスワード |
追記
〉「南藤蔓綿録」では高麗に七年間在陣中に各地での討死者の名前の中に
”淵田太炊左衛門”
さらに気になるのは、同じく高麗に七年間在陣中に各地での討死者の名前の中に
”渕上藤四郎”
上記の高麗に七年間在陣中に各地での討死者とは
”相良藩内”の高麗七年間在陣中の討死者です。
すなわち、当時、すでに淵田氏・渕上氏は相良藩士であったと言う事です。
詳細は 平川家について32 コメント26に詳しく書かせて頂いています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101523_25.html
では(..)
[66] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月26日 07時59分53秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
南国様、御教示ありがとうございました。
南国様の御先祖様に対する熱き思い、私もとても良く解ります。
こうして、南国様とお知り合いになる事が出来たと言う事・・
それは、南国様の御先祖様、そして私の先祖が”縁”を結んで下さったのだと強く感じています。
肥後相良藩士分限帳 宮原村の項に見える「値賀氏」は
寛政十年(1798年) 知賀(値賀)彦兵衛
天保元年(1830年) 知賀(値賀)彦兵衛
安政年間(1854年〜1859年) 知賀(値賀)芳治
となっています。分限帳記載の名は通称が主なので『彦兵衛』は通称かと思われます。
相良氏の第16代当主「相良義滋(相良長唯)」(1489年〜1546年)の室(豊永氏の娘)の菩提寺として旧宮原村の私の住む集落(宮麓)に建立された庭柏寺。
庭柏寺は明治初頭に廃寺となり、過去帳等は旧免田町(現あさぎり町)の長徳寺に移されています。
うちの宮原家も祖母の実家「平川家」、他親戚一同庭柏寺跡に先祖の墓がありますので、上記の長徳寺に過去帳調査に伺うつもりです。
南国様、その時に「値賀氏」についても調べてまいります。
ご報告させて頂きますので、お待ち下さい(^'^)。
〉松浦党は40数家からなる氏から成り立つ集団で上松浦(伊万里、唐津)、下松浦(平戸)となりました。 戦国末期 上松浦党で大名格の盟主なったのが波多家です。
波多氏は上松浦党で大名格の盟主。上松浦とは(伊万里、唐津)
わたくし共宮原の一族の先祖、橘公業は嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡[1]を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は肥前国を中心に広がることとなりました。
肥前国杵島郡長島庄とは現佐賀県大町町および武雄(たけお)市一帯に比定。
伊万里・唐津とは非常に近いですね。
今朝、御教示を拝読した後に、波多氏と長島庄の橘一族との関係を調べて見たのです。
ネット情報で申し訳ありませんが、渋江氏に関する記載の中に「波多氏」と橘公業の後裔「渋江氏」について書かれていました。
よろしければ、お読みください。
武家家伝 渋江氏 より
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_sibue.html
波多氏と関連する記述だけピックアップしますと・・
十五世紀から十六世紀にかけての渋江氏の当主は薩摩守公勢で、その妻は後藤職明の女であった。二人の間に生まれた純明は後藤氏の家督を継承し、公勢は長島庄河古日鼓岳城主として橘渋江氏の全盛期を現出した。
公勢の全盛と、渋江氏の衰退
公勢がいかにして勢力を拡大したのかは、記録もなく不明なところが多い。『橘家渋江由来記』によれば、公勢は武威を振るい、上松浦の波多興信、杵島郡塚崎の後藤職明、藤津の原越後守、白石の白石道勝、多久氏、平井氏ら、近隣の諸領主は人質を出して公勢に属していたとある。これを裏付ける史料が乏しいとはいえ、相当の勢力であったことがうかがえる。また、有馬氏のために領地を失っていた大村純伊を支援し、その本領回復を実現させたのは公勢であった。
中略・・
この不測の事態によって家を継いだ公親は、いまだ十三歳の少年であった。公勢が横死した直後、公勢の長男後藤純明が実家渋江氏の内訌に付け込み、渋江氏は領地を奪い取られるという結果になった。城を逃れた公親は、母の実家である壱岐の波多氏の許に身を寄せた。以後、公親は十年以上にわたって雌伏を余儀なくされた。
天文十一年(1542)、波多氏、松浦氏らの応援をえた公親は長島庄に進攻し、後藤純明の軍と戦い、激戦のすえに後藤軍を破り日鼓城に復帰することができた。しかし、それから三ヶ月後、大軍を催した後藤純明が日鼓城に攻め寄せてきた。渋江勢は固く城を守って後藤勢を迎え撃ったが、後藤勢は大軍でありつぎつぎと城兵は討たれ、公親はふたたび城から脱出せざるをえなかった。
※渋江公親の母の実家は『壱岐の波多氏』
続けて転記します。(..)
渋江氏の流転
公親は龍造寺家を頼って佐嘉の与賀に落ち延び、息子の公師と公重は肥後国山鹿の談議所寺に隠棲した後、同国菊池郡赤星村の山鹿(赤星)重行の許に身を寄せた。
※補足・・赤星氏。赤星氏は家の親戚にあります(..)
中略・・
乱世に呑まれる
公師は城を出て宮村に落ち着くと、波多親・松浦法印(鎮信)・大村純忠をたのみ、再起を図ろうとした。その後、龍造寺隆信の勢力はいよいよ拡大し、有馬氏、大村氏らは隆信の麾下に属するようになった。公師も二男の公茂を人質として佐嘉に送り、隆信に帰服した。天正十年、有馬晴信は島津氏に通じて隆信から離反した。天正十二年、隆信は有馬氏を討つため三万の大軍をひきいて出陣したが、島原の沖田畷において有馬・島津連合軍に敗れて戦死した。
隆信を討ち取った島津氏は筑後・筑前へ進出、大友氏の軍と戦った。戦況は著しく大友氏が不利で、天正十四年、上坂した宗麟は豊臣秀吉に救援を請うた。秀吉はこれを入れると九州征伐の陣ぶれを行い、天正十五年にはみずから兵を率いて九州に入った。島津氏は秀吉に降り、九州は秀吉政権に組み込まれた。その後の論功行賞で領地の配分が行われたが、公師は旧領回復はならず大村氏の扶助を受ける身となった。その後、波多三河守に招かれ、嫡男公種を大村氏にゆだねると波多氏のもとに赴いた。
文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵が開始されると、波多三河守は朝鮮に渡海、公師は留守居となり名護屋に在陣した。ところが、三河守は朝鮮における不首尾を責められ改易処分となり、公師は龍造寺政家に預けられた。慶長三年(1598)、秀吉が死去したのち松浦氏を頼り壱岐において扶助を受けた。ここに、渋江氏は独立した領主としての望みも失われ、鎌倉以来の中世領主たる渋江氏は幕を閉じたといえよう。
公師は系図を嫡男の公種に譲り、祖先以来の水神の行法は公茂・公延・公記らに付属せしめた。慶長十九年の大坂の陣に際して、公茂・公延は大坂方に加わったが、落城ののち肥前に帰った。公茂は波佐見に隠居し、公延は晩年長崎建水神社へ隠居したという。・
驚きました!!!!!
※公師は城を出て宮村に落ち着くと、波多親・松浦法印(鎮信)・大村純忠をたのみ、再起を図ろうとした。
※九州は秀吉政権に組み込まれた。その後の論功行賞で領地の配分が行われたが、公師は旧領回復はならず大村氏の扶助を受ける身となった。その後、波多三河守に招かれ、嫡男公種を大村氏にゆだねると波多氏のもとに赴いた。
※文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵が開始されると、波多三河守は朝鮮に渡海、公師は留守居となり名護屋に在陣した。ところが、三河守は朝鮮における不首尾を責められ改易処分となり、公師は龍造寺政家に預けられた。
本当に驚きました!!
南国様!
渋江公師と波多三河守。運命を共にしていたのですね!!
南国様、過去の私のスレッドをご覧頂いていらっしゃるかとは思いますが
橘公業の後裔である肥前の渋江一族は、南北朝時代においても、球磨郡久米郷の記述等に何重もの”影”を見せています。
私の住む集落には渋江一族である「牛島氏」も現在に至るまで、いらっしゃいました。
同族間の交流は後世まで続いていたのだと私は推測していました。
波多三河守と橘公業後裔の渋江公師との絆・・
私は波多三河守の家臣として名を残された「値賀氏」「淵田氏」の名が、渋江公師と同族の橘公業の後裔が住した”宮原村”にある事は決して「偶然ではない!」とあくまでも私見ですが・・確信してまいりました・・
さらにもう一つ・・
南国様から頂いたご教示により、確信に近づいた事があります。
〉ふるさとを離れた方 有名なところでは 歌舞伎で旗本と大喧嘩した番隨院長兵衛の名があります。
番隨院長兵衛。この方を私は存じていませんでしたので、勉強させて頂きました。
幡随院長兵衛 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A1%E9%9A%8F%E9%99%A2%E9%95%B7%E5%85%B5%E8%A1%9B
幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 明暦3年7月18日(1657年8月27日))は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。
生涯[編集]
元和8年(1622年)、誕生。唐津藩の武士・塚本伊織の一子とされているが諸説あり、滅亡した波多氏の旧家臣の子であるとする説[1]や、向導の実弟または幡随院の門守の子という説[2]もある。
※本名は塚本 伊太郎
※唐津藩の武士・塚本伊織の一子
塚本氏が気になり日本の苗字七千傑様のサイトで塚本氏を検索したのですが一系見つかりました。
《楠木氏》姓氏類別大観です!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201c.htm
掲載姓氏の項に
【大塚氏】【平野氏】【塚本氏】【田淵氏】【塩川氏】・・・中略・・ が楠木氏流を称する。
旧宮原村宮麓には橘紋を使用する「大塚氏」がありました。(今は別地域に分かれて住していらっしゃいます)
楠木氏と橘公業の系は伊予橘氏であり同族です。
さらに、《楠木氏》そして《楠木氏嫡流》姓氏類別大観に見える「野田氏」。
波多三河守の家臣
※淵田(野田)祐四郎秀里 橘 秀里
橘姓を名乗る野田氏(淵田氏)を調べた際に、「姓は野田 橘氏」である系はこちらに見える「野田氏」でした。
※幡随院長兵衛・・塚本 伊太郎 『塚本氏』
※淵田(野田)祐四郎秀里 橘 秀里 ・・『野田氏』
共に伊予橘氏「楠木氏」の姓氏類別大観に見えています。
「楠木氏」と「橘(小鹿島)公業」の系は同族
《伊予橘氏》 元越智姓 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201b1.htm#002
※伊予橘氏である「楠木氏」と「橘(小鹿島)公業」の系
※上記に見える塚本氏と野田氏の名
※橘公業後裔の渋江公師と波多三河守の絆
※波多三河守 家臣に名が残る「値賀氏」と「淵田氏(野田氏)」
※橘公業が替地として所領して後裔が住してきた旧宮原村。
※旧宮原村に名を残す「値賀氏」と「淵田氏」
あくまでも私の私見ですが、上記は・・偶然では無いと思うのですが・・
南国様
あらためて、南国様と私がネット上で交流出来た事は目に見えない縁だと心から思います。
私も旧宮原村の「値賀氏」についての調査進めたいと思います。
私は微力ですが、少しでも南国様の御調査のお役に立てれば幸いです。
猛暑が続いています。
お身体には十分お気を付け下さい。
では(^'^)
[67] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月29日 18時13分22秒 ) | パスワード |
皆様、今日は。
台風が近づいている地域にお住まいの方々は御心配ですね。
どうか十分にお気を付け下さい。
今回のコメントは、この頃気が付いていた事をまとめて書かせて頂こうと思います。(かなり長くなるかと思いますし、最近の調査とは異なりますがご了承ください(..))
まず、最初は「天草から来られたであろう幾つかの親戚の系」についてです(..)
以前から書いていましたが、私には二人の宮原の曾祖母がいます。
新堀家から嫁いで来られた曾祖父の妻である曾祖母。曾祖父との間には子供は生まれませんでした。
そして、曾祖父との間に祖父を産んだ曾祖母。吉鶴家の娘で母方は相良藩士分限帳に残る山本氏(山本吉兵衛の娘)。さらに新堀家と吉鶴家そして祖母の実家のお隣の「平川家」は親戚関係にありました。(新堀家から吉鶴家に嫁がれて、そちらの子供さんが平川家を継いでいます)
さらに星原家には上記の「山本吉兵衛の娘」が嫁がれています。
これによって宮原家・新堀家・吉鶴家・山本家・祖母の実家の平川家は縁戚関係にあります。
祖父を産んだ曾祖母は小池家に嫁いでいましたが、色々あって娘一人を小池家の跡継ぎとして残し旧宮原村に戻って来ていました。
曾祖父と吉鶴家の娘の間に産まれた私の祖父は、宮原家で新堀家から嫁いで来られた曾祖母が我が子のように育て上げて、祖父は成長して陸軍士官学校に入学した・・という事になります。
その吉鶴家を調べたのですが・・
苗字由来net より
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%90%89%E9%B6%B4
現熊本県である肥後国天草郡起源とも言われる。近年、熊本県に多く、特に天草郡倉岳町に多数みられる。「吉」は佳字で、芦や葦の場合もある。
他にも
日本姓氏語源辞典 より
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/cat_77985.html?p=24
ヨシヅル 吉鶴 熊本県、鹿児島県、福岡県。@熊本県天草市倉岳町宮田が本拠。A創賜。鹿児島県鹿屋市上高隈町に江戸時代にあった門割制度の吉鶴門から。
※熊本県天草市倉岳町宮田が本拠。
(p_-)まず熊本県天草市倉岳町宮田に住されている方々の姓を調べてみました。(住所でポン!を利用)
吉鶴氏は現在16軒でした。
同地区で多い姓をみると
中村氏が24軒 佐々木氏が11軒 原田氏が18軒 堀川氏が15軒 山並氏が24軒 池田氏が20軒 浜崎氏が18軒 藤川氏が30軒 金子氏が23軒
そこで驚いたのが山並氏と金子氏。
金子氏は以前書いていましたが親戚にあり、なお且つ「山並氏」は昭和40年代まで私の集落にあり、山並家から親戚の星原家に嫁いでいる方がいらっしゃいます。
ここで、どう考えても祖父を産んだ曾祖母の吉鶴家はここ『熊本県天草市倉岳町宮田』に縁があるようだ!という事に気が付いたのです。
そして・・・
興味が俄然湧いた熊本県天草市倉岳町宮田を調べていて、倉岳町宮田の金子氏について解った事がありました!
ロマンを求めいて西に進む金子武士団 より
http://kansai-kuratakekai.jp/nws_Folder1/loman9.html
中略・・
金子の郎党西海へ
天正13年7月17日(1585年)天正ノ陣の戦いに敗れ滅びた金子氏の子供・郎党や下人達は土佐の長曾我部元親の元へと逃げていく。
金子備後守の次男で毘沙寿丸は元和元年(1615年)大阪夏の陣に長曾我部盛親に従い大阪方に味方し大阪城落城と共に土佐へ逃げかえるが一部の郎党は西海(九州天草)へ落ち延びたと伝えられている。
中略・・
埼玉・神奈川・東京・熊本県の金子姓世帯件数
中略・・熊本県に816世帯、約2,203人。天草2市13町の金子姓は425世帯・約1,147人。本渡市は下浦・佐伊津・本渡などに多く、五和町の御領・苓北町の坂瀬川・そして倉岳町は宮田の西ノ原に多くみられる。
ロマンを求めいて庄屋金子 より
http://kansai-kuratakekai.jp/nws_Folder1/loman10.html
熊本県天草市倉岳町宮田西ノ原、通称樋の口に金子の大先祖と言い伝えのお墓、左記写真がある。聞くところによると庄屋伊兵衛とも言われている。
石碑の制作年代・建立者は不明であが、形式からみて江戸時代のもと考えられる。石碑には二人の戒名・没年月日も刻まれているが永い年月で風化しているが僅に幸末の字が見えるが読み取れない部分もある。
(元禄5年申3月16日・・西暦1692年)
中略・・
先祖から頂いた金子姓
庄屋伊兵衛の屋敷や現世の子孫は不明だか、伊兵衛の先祖は天正13年7月に金子城と高尾城が落城し金子一族は滅びるが落城と共に土佐や西海(九州)に落ち延びた将兵たちがいた。金子平太夫・金子介右衛門・金子介左衛門・金子神兵衛・金子久兵衛・金子次郎左衛門・金子周防守等の名前が見られる。
金子神兵衛・金子久兵衛は金子城の守将兵として金子と土佐の連合軍、両軍火花を散らして前面の敵中へ斬り込み激しく交戦した将兵であった。
庄屋伊兵衛が闕所(改易)の後、幕末まで宮田村の庄屋は中村家が世襲する。
天草へ来られた金子氏・・とは? ウィキより(..)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E6%B0%8F
金子氏(かねこし)は、桓武平氏の流れをくむ武蔵七党の村山党から派生した支族。武蔵国入間郡金子(現在の埼玉県入間市金子)を領した。
武蔵国多摩郡村山を領した平頼任が村山党の祖となり、その孫の家範が入間郡金子に住み金子を名乗ったのが始まりである。現在でも埼玉県入間市から東京都清瀬市周辺にかけて多く見られる。
家範の子家忠は保元の乱・平治の乱などで活躍し、その功績により金子氏は金子や伊予国新居ほかの地頭となり、金子広家の子孫は伊予金子氏として栄えた。
武蔵金子氏
中略・・
後北条氏が滅亡すると金子政熙はその後も景勝に属したが、慶長5年(1600年)の徳川家康による会津征伐によって、景勝の領地が削減されたとき浪人の身となった。その後は京都所司代板倉勝重に仕え、子孫は板倉氏の老臣として重用された。
(?_?) あんれっ??板倉氏ですね。板倉氏は相良氏と縁戚関係にありますよ・・(詳しくは次のコメントで(..))
続けます(p_-)
伊予金子氏
伊予金子氏(いよ-かねこ-し)は、建長年間に金子氏祖 家範の曾孫広家が伊予国新居郡の領地に移り住んだことに始まる。広家は領地を金子と名付け、平野を遠く見渡せる丘陵地(金子山)に金子城を築いてその基礎を固めた。
新居一帯は伊予国の有力豪族河野氏と讃岐国の細川氏がせめぎ合う激戦地であったが、南北朝時代に将軍 足利義満によって和睦が成立し、金子氏は細川氏配下になったと見られる。その後、戦国時代になると石川氏が新居・宇摩を治めるようになり、金子氏はその有力武将として石川氏を支えて発展したという。
戦国時代後期に土佐の長宗我部元親が四国制覇に乗り出した時には石川氏は弱体化して名目上の領主でしかなく、金子備後守元宅が事実上の支配者であったものと見られている。長宗我部元親は金子元宅を通じて石川氏と結びこの一帯の覇権を手にした。しかしそれも束の間、羽柴秀吉による全国統一へ向けた四国攻めが始まった。天正13年(1585年)秀吉配下の小早川隆景率いる毛利軍は瀬戸内海を渡り新居に上陸し、これを金子元宅は配下の武将を従えて迎え撃つ(天正の陣)が、圧倒的な兵力の差の前に野々市ヶ原の戦いで討ち死にした。弟の対馬守元春に託された金子城も落とされ、約330年にわたる伊予金子氏の新居における歴史は幕を閉じた。
金子氏居館跡には1618年(元和4年)に、天正の陣を生き延び出家した金子元春により歴代城主や武将を弔う菩提寺として慈眼寺が建立され、今に至るまで守られ続けている。また僅かに残った一族は長宗我部元親に保護され、徳川幕府による大坂夏の陣において豊臣方につくが敗れ、九州天草に逃げ延びてその地に根付いたという。
(p_-)また僅かに残った一族は長宗我部元親に保護され、徳川幕府による大坂夏の陣において豊臣方につくが敗れ、九州天草に逃げ延びてその地に根付いたという。
こちらの方々ですね・・・
所で・・上記を読んで益々モヤモヤしてきました。
伊予金子氏・・伊予橘氏・・伊予で繋がっている・・??
さらに以前から書いていたように、家の親戚に「石川家」があります。
石川氏は相良藩士にその名が残っています・・。
ウィキの記述にあった
※戦国時代になると石川氏が新居・宇摩を治めるようになり、金子氏はその有力武将として石川氏を支えて発展したという。
※戦国時代後期に土佐の長宗我部元親が四国制覇に乗り出した時には石川氏は弱体化して名目上の領主でしかなく、金子備後守元宅が事実上の支配者であったものと見られている。長宗我部元親は金子元宅を通じて石川氏と結びこの一帯の覇権を手にした。
こちらの「石川氏」とは?調べました(p_-)
石川氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F
石川氏(源義時流)[編集]
「石川源氏」を参照
源義家(八幡太郎義家)の六男の源義時を祖とする石川氏。他氏との混同を避けるために石川源氏と呼ぶことの方が多い。
治承・寿永の乱(源平合戦)の際に同じ源氏で平家方の源季貞に攻められて大敗を喫し、一族の多くを失ったが、源氏が平家を倒すと、勢力を回復し河内国南部(現在の大阪府河内長野市)に勢力を拡大した。
鎌倉時代には南河内の一大勢力となったが、しかし、鎌倉幕府が衰え、河内国南部に楠木正成に代表される伊予橘氏(越智氏)などの系統の在地豪族が台頭すると、それに圧倒されて勢力を失い、一族の多くは故郷を離れて各地に離散したが、楠木正成の配下になり河内に残った一族も少なくない。
戦国期の摂津国の中川氏(中川清秀など)は、この石川氏の系統だとされる(親族の多田源氏の系統の説もある)。
\(◎o◎)/!あんにゃ〜〜〜っ!!・・・(?_?)・・・(p_-)
※楠木正成に代表される伊予橘氏(越智氏)などの系統の在地豪族が台頭すると、それに圧倒されて勢力を失い、一族の多くは故郷を離れて各地に離散したが、楠木正成の配下になり河内に残った一族も少なくない。
※戦国期の摂津国の中川氏(中川清秀など)は、この石川氏の系統だとされる
あああああああっ!!中川氏(中川清秀など)・・ええええええええっ!!??
窪田氏(久保田氏)十五代 九介の弟 甚助(高麗国で亡くなった久保田大蔵の息) 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。
中川内膳正とは中川久盛。中川清秀の孫にあたる方です。
何だろう????(?_?)
熊本県天草市倉岳町宮田を調べたら”ぐるり〜ん”と廻って久保田大蔵の息、久保田甚助が仕えた「中川氏」にまで繋がりました・・????
あと・・
※長宗我部元親は金子元宅を通じて石川氏と結びこの一帯の覇権を手にした。
長宗我部元親・・実は以前から気が付いたていた事があったのですが、単なる偶然かな?と思いスルーしていた事があるのです・・
(もちろん偶然だとは思うのですが・・)
旧宮原村の「山本吉兵衛」
相良藩士分限帳では”享保元十二月三日 於江戸新規被下之 山本吉兵衛”とあります。享保元年(1716年)
山本吉兵衛の「吉兵衛」は通称のようで数代に「吉兵衛」という方がいらっしゃいます。
偶然だろうな〜!!と思っていたのは(今でも偶然だとは思うのですが・・)こちらの記述です。
サイト 天下統一期年譜 1598年 より
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho32.htm
7月 吉日 長宗我部元親(「秦朝臣」)・長宗我部盛親、国沢彦右衛門・山本吉兵衛・池上平左衛門・喜左衛門を奉行として、長岡郡国分惣社の上棟式を執行。〔「土佐国蠧簡集」‐674〕
偶然なのですが・・長宗我部元親の奉行の中にも「山本吉兵衛」と言う方がいらっしゃったのですね・・
山本氏は「吉兵衛」という通称を使う方が多いのかな・・?
しかし・・今回の調査で熊本県天草市倉岳町宮田から金子氏を調べると「伊予」に繋がり・・
金子氏・石川氏・中川氏・長曾我部氏・伊予橘氏・・と記述が沢山出てきまして・・
何だか熊本県天草市倉岳町宮田が発祥の地とされる「吉鶴氏」と姻戚関係にある「山本吉兵衛」家がとても気になりはじめました・・(?_?)でも・・おそらく偶然でしょう(;一_一)
熊本県天草市倉岳町宮田には浜崎氏も多数いらっしゃいますが・・
肥後人吉藩の第11代藩主、相良長寛(備前岡山藩主・池田宗政の次男)
正室:松平忠名の娘・五百姫
側室:浜崎名美恵(観智院)、阿川氏の娘、中村氏の娘
浜崎名美恵(観智院)・・どちらの浜崎氏なのだろう???
じつは・・
ここで、相良藩主をもう一度お一人お一人確認した所・・
マタマタ色々気が付いてしまったのですが
このお話は又、次回に(..)
皆様
長くなりまして申し訳ありませんでした(..)
では。
[68] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月02日 08時46分52秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
日本の苗字七千傑様、白石様、酒井様、南国様
ありがたい御教示の数々、心より感謝申し上げます。
「長上郡の服部氏族」を御研究の空の青海のあを様、三つ柏服部様
お二人の御調査を拝読させて頂き、肥後国の球磨に名を残した「氏族」と、本州の「氏族」との繋がりがしっかりと見えて、勉強させて頂いております。
三つ柏服部様、長田氏・永田氏と永井氏との関係を御教示頂き、ありがとうございました。
「永田姓で抱き茗荷紋の平家の末裔」におじゃまして、永田ニワトリ様とも交流させて頂きました。ありがとうございます。
永田ニワトリ様へのコメントで、球磨を御紹介させて頂いて、「はっ!」と気が付いた事があります。
今後の調査の重要な「鍵」を見つける事が出来ました。
皆様、
本当にありがとうございます。
皆様とこうしてお知り合いになる事が出来た事は、きっと、皆様の御先祖様と私の先祖が結びつけた縁だと心から感じています。
新しいスレッドを立ち上げました。
今後とも、このような私ですが、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
こちらは
平川家について36 に続きます(^'^)
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