[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月17日 23時18分53秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日の話ですが、当地に「小松」という所があります。地図を見ていて
まだ行ったことのないお寺が二寺、ほぼ近くに並んでいることがわかりま
した。大通りから奥まった所にあるため、車で遭遇することはまずないと
いう場所であります。
さっそく行ってみることにいたしました。車で十五分程で到着しました。
最初に着いたお寺の名前は、「光正寺」。臨済宗方広寺派の大変立派な
お寺でありました。
お墓としては、竹内家、野末家、町田家が多いと感じました。永田家も
ありました。
そして、びっくり――何と、わが同族、即ち「丸に三つ柏」の「服部家」
の墓が一つあるではありませんか。善地出身の服部家の可能性は高いと思い
ました。今まで、善地から離れた所(合併後の浜松市内)の五ヶ寺において、
それぞれ一つずつ「丸に三つ柏」の服部家の墓を見ていますが、その内の
二つは私の身内と善地出身者のものだとわかりました。後の三つは今の私
にはわかりませんでした、少なくとも五百年の歴史の変遷がありますので。
それにしても、服部家は善地には、十基弱の私ども一門の服部家の墓が
ありましたが、それ以外の地域では、まとまったお墓はまだ見ておらず、
あってもポツンと孤立したお墓ばかりであります。何か、平家っぽいよう
な、源氏的な勢いではないような……もちろんこれは私の勝手な想像で
ありますが……。
ここで、私は同族と思われる服部家の墓に向かい、親族愛をこめて般若
心経を二巻捧げました……。
次に訪れたのは、同じく臨済宗方広寺派の紹隆寺。ここも立派なお寺で
ありました。小松という所、なかなかな所であると見直した次第です。
ここのお墓は、やはり竹内家、そして平野家、原田家が多く、その他の
興味ある家系では「丸に一文字」の松島家が二基、その他「永井の切り梨」
の永井家、「三つ巴」の加茂家、日置家、澤木家、花井家……がありまし
た。
浜北及び浜松のお寺は結構廻りましたが、今後、残りのすべての寺も廻
ってみようと決意しております。回ったお寺には、地図上でチェックを入
れようと思っています。
さて、本日は「藤枝」へ行き、「徳之一色城址(田中城址)」、「歴史博
物館」、その他数か所のお寺を廻ってきました。この話は、明日以降に記
します。
明日は朝から用事で名古屋へ行きます―
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月18日 03時38分19秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
光正寺さんでその服部氏について教えて頂けたら良いですね。
意外な所で思わぬことを発見できるものですよ〜
座禅とかで檀家さんが集まる時の手掛かりでもゲットできると良いですね。ゲンキンなワタシ
般若心経が天に届いて、ご先祖さまパワーが何か教えてくれたら良いですね。
画像を拝見しましたが、端麗なお寺ですね。
川の近くにあって、ムカシは力があったのでしょうね。
紹隆寺 歩いて2分? 136M? 近過ぎて笑ってしまいました。
日置氏って、ワタクシ的には九州ってイメージでしたが、へぇ〜
【読み】ひおき,ひき,ひち,ひじ,ひお,へき,へぎ
【全国順位】 1,430位
【全国人数】 およそ11,700人 すごい!そんなに?
日置部子孫、
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流、
大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)などにもみられる。
長野県、岐阜県、愛知県、三重県などに集中している。
あらら・・・意外でした。知らないもんですね。
知らないついでに浜北区について検索しました。
古くから人間が住んでた土地だったんですねぇ。
やはり神代の前の縄文時代から調べないといけないエリアだったんですねぇ。
1960年(昭和35年)に区内根堅の岩水寺石灰採石場で発見された浜北人骨その他の発見により、旧石器時代に当区域北部を中心とした地域に狩猟採集生活が行われていたとされる。
岩水寺東方の北谷遺跡の発掘調査により縄文時代前期の石器・土器など様々な生活用具が出土した。出土した石鏃(せきぞく)に使用される黒曜石は浜北および近隣地域では産出しないものであるが、調査の結果伊豆・長野で産出されたものと判明した。これによって当時の人々が広範囲で交流していたことが分かる。
区内於呂の芝本遺跡は弥生時代中期 - 後期にかけての遺跡である。また区内新原の東原遺跡から弥生時代・古墳時代の集落跡が発見されており、長期間人々が集落を営んでいたことが分かる。
古墳時代前期に区内内野の地に西遠地区最大の前方後円墳である赤門上古墳が建造される。この副葬品として三角縁四神四獣鏡という銅鏡が出土し、被葬者も大和王権と関係があったことが分かり、天竜川以西を支配した大きな豪族であった可能性があるとされる。
平安時代初期の神亀2年(725年)、行基によって岩水寺が建立されたと言われている。
室町時代初期の『神鳳抄』という本に伊勢神宮の領地に名前の記載があり、その中の1つに区南部 - 東区北部にかけての一帯に広がっていたと言われる「美薗御厨(みそのみくりや)」の記載がある。
区内大平地内にかつて存在した「大平城(現在は大平城址)」は南北朝時代において引佐の井伊氏の前線基地であった。
遠州大念仏は1573年の三方ヶ原の戦いの死者の霊を慰めることが起源と言われ、江戸時代に浜北区や周辺地域に広く広がったと言われている。
1390年に庚申寺が現在の区内宮口の地に移されると、宮口は庚申信仰の地として栄えた。寛永9年(1632年)に描かれた絵図には、門前町の様子がよく示されている。
______________________________
岩水寺
高野山真言宗別格本山である龍宮山岩水寺は、神亀2年(西暦725年)人々の病気平癒、健康長寿を祈念した行基菩薩が薬師如来の尊像を刻み、開創されました。
この総本尊様である薬師如来様は、弘仁6年(西暦815年)薬子の変にて心身痛められた嵯峨天皇の病気平癒の祈願をし、天皇は健康を取り戻されたと伝わっております。
延暦年間(1200年前)征夷大将軍坂上田村麻呂公東征時、天竜川の龍神様が薬師如来の功徳により、玉袖姫という美しい女性に変身され、将軍様と恋に落ちられました。
その後一子坂上田村麻呂俊光将軍は、人々の救済と幸せを願い、お母様(龍神様)の魂が刻まれた、厄除子安地蔵様(国重文:伝弘法大師作)を岩水寺に安置されました。
昔から”家をまもるは岩水寺”と言われております。これは厄除子安地蔵様(龍神様)が母であり、実際に子供を産んでいる女性が神仏になったという、非常に珍しい仏様であるからです(お地蔵様は普通男性)。
では徳之一色城址のお話を待っていますね。
気を付けて名古屋にいらっしてください。
[3] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月19日 00時43分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
夕方、名古屋から帰り、昨日撮った写真の画像を整理していました。昨日
の段階でご報告をと思いましたが、一応整理してからにしようと考えました。
それは、信じられないことに出くわしたからであります。その謎についても
整理してからずっと推理していましたが、わかりません。
本日は、睡眠の時間となってしまいましたので、それについては、明朝記
します―
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月19日 03時41分35秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>信じられないことに出くわした
何でしょう?何でしょう?
まさか・・・藤枝で丸に三つ柏紋の服部氏のお墓がたくさんあったとか?
さぁ、何でしょう!
[5] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月19日 07時56分47秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
そう、それに近いことであります。ずばり言いますと、「丸に三つ柏」
のオンパレードに出くわしたのであります!
現地では田中城、郷土博物館を見学、次いで、了善寺、向善寺、蓮生寺、
長楽寺、洞雲寺の順で回りましたが、了善寺以降に見た「丸に三つ柏」の
姓氏についての話を先にいたします。まずはそれを記してみます―
@了善寺:菊川、斎藤、塩澤、柴田、藤田、増田、山名
A向善寺:青島、石川、小野田、小田
木原、黒山、桑原、小林、後藤
佐藤、笹野、杉山、杉浦、塩澤、柴田、鈴木、相馬
谷下、外川
橋本、藤村、福野
三坂、村松、盛岡、望月
山崎、山本、横森
B蓮生寺:青木、赤堀、今井、石坪、大石
木村
杉山、杉浦
田中、滝井、塚越
福田、東出
松本、宮本、三浦
山崎、山梨、山内
C長楽寺:天野、青島、石田、石上、岡田、岡村
片山、神戸
斉藤、柴田、杉浦、相馬
武智、時田、徳浪
福田、堀江
水野、村田、村越
八木、山田、山本
藁科
D洞雲寺:阿井、青木、青嶋、磯部、飯尾、石神、石田、遠藤、大石、
大塚、岡崎、岡野、岡野谷、小野、小野田、斧田
桜井、澤口、塩澤、下山、杉山、鈴木、相馬
片山、勝治、木村、小池、五加、甲賀、小林
瀧、谷野、千野、橡尾(とちお)
中、中村、永井、中澤、長澤、成川
萩原、橋本、原野、福田、布施
増田、松下、松本、三輪、望月、村松
藪原、山内、山崎
以上ですが、墓地の構造・構成上、漏れは多々あるかと思います。
いずれにしても、信じられない、通常では考えられない「丸に三つ柏」
の家紋の採用であります。一体これはどういうことなのでしょうか……?
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月19日 11時43分09秒 ) | パスワード |
http://www.facebook.com/sanosekizai.fujieda/posts/1697581487185457
Jan 18
有限会社 佐野石材〜想いのこもったお墓づくりのお手伝い〜よりコピペ
皆さんはご自分の家の家紋をご存じですか?
この辺りでは、「丸に三つ柏(丸い枠の中に柏の葉)」、「丸に違い鷹の羽(丸い枠の中に交差した羽根)」などポピュラーなものが多いですね。
この家紋は、お墓の水鉢の前面に彫ることが多いですが、最近は彫りたくないと言う方もいらっしゃいます。
facebookなのでこんな部分しか読めませんでしたが。
藤枝は丸に三つ柏紋が多いようですね。
でも服部氏はいらっしゃらないようですね。
何故?
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月19日 11時55分10秒 ) | パスワード |
http://www.nihonkamon.com/sizuoka/
静岡県の家紋
静岡県は本州のほぼ中央に位置し、旧国名の駿河国、遠江国、伊豆国の三国からなっている。地形は帯状に東西に長く、南は太平洋に広く面している。
江戸と京を結ぶ重要な幹線道路の東海道が横断している。また伊豆半島が突出して古代から海路が開かれて交通が盛んであった。
このような特徴から人の移動も激しくおこなわれた。このために名字の数も多く、家紋の種類も多い。家紋の分布状況を調査すると、姓氏と同様に大井川、富士川により三分割された遠江、駿河、伊豆の三国がその歴史的背景により特徴を表している。伊豆半島東岸は相模、房総の各国、西海岸は伊勢、紀伊国の姓氏系が多く見られ家紋に於ても同様である。また東部内陸部は甲斐国発祥の氏族の関連した家紋が多く見られ、西部地方では三河、尾張国の影響を受け家紋が多い。
この反面、鎌倉時代、戦国時代に県内から発祥した名族の家紋は比較的に少ない。これは一族の国外移住と滅亡、衰退である。例を挙げると鎌倉幕府創立に尽力した伊豆国の藤原南家の工藤、伊東、相良、吉川氏などがあり、各地に所領を賜り栄転していった。滅亡、衰退した一族には今川、北条、大森葛山氏がある。
静岡県で多く用いられた家紋
http://www.nihonkamon.com/sizuoka/oi_sizuoka.html
〈静岡県の家紋の使用割合〉
順位 家紋名 数 比率%
1 かたばみ 片喰 2501 。。。。。10.62%
2 藤 1816 。。。。。。7.71
3 鷹の羽 1787 。。。。。。 7.59
4 もっこう 木瓜 1576 。。。。。。 6.70
5 柏 1510 。。。。。。 6.41
以下編集無しで
6 梅鉢
1177 5.00
7 蔦
1156 4.91
8 茗荷
1063 4.51
9 桐
908 3.86
10 竹、笹
841 3.57
11 おもだか
沢瀉
827 3.51
12 橘
825 3.50
13 桔梗
788 3.35
14 菱、花菱
775 3.29
15 月星
667 2.83
16 めゆい 目結
586 2.49
-
其の他の紋 × 4746 。。。。。 20.16 %
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月19日 11時59分44秒 ) | パスワード |
静岡県の大名家の家紋
http://www.nihonkamon.com/sizuoka/daimyou.html
小島(滝脇)藩 一万石 静岡県清水市興津小島町 松平(滝脇系)氏 丸に桔梗 蔦
田中藩 四万石 静岡県藤枝市 本多氏(正信系) 本多立ち葵 本の字
府中(駿河)藩 五十万石 静岡県静岡市徳川宗家 徳川葵
沼津藩 三万石 静岡県沼津市 水野氏 丸に立ち沢瀉 永楽通宝銭
掛川藩 五万石 静岡県掛川市 太田氏 丸に桔梗 違い鏑矢
相良藩 一万石 静岡県榛原郡相良町 田沼氏 七曜 丸に一文字
浜松藩 六万石 静岡県浜松市 井上氏(明治元年 上総国鶴舞へ) 井上鷹の羽 平井筒
横須賀藩 三万五千石 静岡県小笠郡大須賀町 西尾氏(明治元年 安房国花房へ) 西尾櫛松 丸に剣片喰 五七桐 三階松
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月19日 12時06分03秒 ) | パスワード |
静岡県における大姓
http://www.nihonkamon.com/sizuoka/taisei_sizuoka.html
1. 鈴木 (みんな鈴木姓で混乱すると聞いたことがあります)
2. 渡辺
3. 望月
4. 杉山
5. 山本
6. 佐藤
7. 伊藤
8. 山田
9. 加藤
10. 中村
11. 大石
12. 佐野
13. 高橋
14. 斎藤
15. 小林
16. 増田 ピンクレディの恵ちゃんですね
17. 田中
18. 石川
19. 土屋
20. 村松
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月19日 14時11分47秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9E%9D%E5%B8%82
『藤枝』の由来[編集]
説@ 江戸時代の若一王子神社の社伝によれば、後三年の役(1083年〜1087年)で源義家が奥州へ下る時に、若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)に立ち寄りました。
その際に裏山の古い松の木に藤のつるが絡まり、藤の花が咲き誇っているのを見て「松に花咲く藤枝の 一王子 宮居ゆたかに いく千代をへん」と和歌を詠んだことから[1]。
説A 藤の枝の様に細長い宿場町だから[2]。
市章[編集]
市章は、市の花である藤に見られる高潔な気品を藤枝の姿として、永遠に汚れない清潔な市として躍進と発展を遂げることを願ったもの。
歴史[編集]
律令時代 - 志太郡の郡衙が置かれる。
728年(神亀5年)? - 行基によって安楽寺(静岡県の有形文化財の鰐口がある)建設。
1500年(明応9年)? - 常楽院(静岡県の有形文化財の木喰上人作毘沙門天像がある)開創。
1536年(天文5年) - 花倉の乱に敗れた玄広恵探が普門寺で自刃。
1601年(慶長6年) - 東海道の宿場町として藤枝宿が置かれる。田中城が拡張され、田中藩の城下町となった。
1871年(明治4年)8月29日 - 廃藩置県で静岡県に属する。
1889年(明治22年) - 町制施行で藤枝町となる。
1889年(明治22年)4月16日 - 東海道本線藤枝駅開業。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%97%A9
田中藩(たなかはん)は、駿河国益津郡の田中城(現在の静岡県藤枝市)に藩庁を置いた藩。
江戸時代初期に酒井忠利が入り、城下町・藤枝宿の整備を行ったが、以後藩主はめまぐるしく変わった。
享保15年(1730年)に本多家が4万石で入り、明治維新まで7代約130年続いた。
本多家時代には水戸藩の弘道館とともに武道の二関と呼ばれた藩校・日知館を有した。
なお、田中藩の歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たしており、田中藩主になることは幕政参加への登竜門のひとつであったといえる。
へぇ〜
藩史[編集]
江戸時代初期[編集]
駿河田中は駿府城主で豊臣氏の重臣の中村一忠が支配していたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して武功を挙げた一忠が伯耆米子藩に移封され、慶長6年(1601年)3月3日に徳川氏譜代の家臣・酒井忠利が1万石で入ることで田中藩が立藩した。忠利は田中城の改築や藤枝宿の城下町取り込みなどを行なって田中藩の藩政確立に尽力したが、慶長14年(1609年)9月23日、武蔵川越藩に移封された。
その後、田中は駿府藩主となった徳川頼宣と、その実父で大御所である徳川家康によって支配下に置かれることとなった。
再立藩と藩主の交代[編集]
寛永10年(1633年)8月9日、上総佐貫藩より松平忠重が3万石で入った。しかし寛永12年(1635年)8月4日に遠江掛川藩に移封され、代わって下総山川藩より水野忠善が入った。しかし寛永19年(1642年)7月28日に三河吉田藩に移封された。
直後の9月12日、松平忠晴が2万5000石で新たに大名として取り立てられて、田中藩主となった。しかし寛永21年(1644年)3月18日には遠江掛川藩に移封され、下総関宿藩より北条氏重が入るが、正保5年(1648年)閏1月21日に遠江掛川藩に移封された。
慶安2年(1649年)2月11日、常陸土浦藩より西尾忠昭が入ったが、第2代藩主西尾忠成時代の延宝7年(1679年)9月6日に信濃小諸藩に移封となる。入れ替わる形で酒井忠能が入った。この忠能は第4代将軍徳川家綱の大老として権勢を振るった酒井忠清の弟であるが、第5代将軍徳川綱吉の粛清を受けて兄が失脚すると、忠能も綱吉の怒りに触れて天和元年(1681年)12月10日に改易された。
天和2年(1682年)2月12日、常陸土浦藩より土屋政直が入るが、貞享元年(1684年)7月10日に大坂城代として摂津方面に転出した。入れ替わる形で7月19日に太田資直が入り、第2代藩主太田資晴時代の宝永2年(1705年)4月22日に陸奥棚倉藩に移封となる。またそれと入れ替わる形で内藤弌信が入るが、弌信は正徳2年(1712年)5月15日に大坂城代として転出した。またもやこれと入れ替わる形で土岐頼殷が入るが、第2代藩主土岐頼稔時代の享保15年(1730年)7月11日に大坂城代として転出した。
田中藩は本多氏に至るまでは短期間で移封される場合が相次いだ。このため、酒井忠利を除く藩主の治績はほとんどないといってよい。
本多家の治世[編集]
土岐家転出直後の享保15年(1730年)7月28日、上野沼田藩から本多正矩が4万石で入ることで、ようやく藩主家の定着を見た。
本多氏時代の田中藩では天災などが相次ぎ、さらに歴代藩主の相次ぐ幕閣入りで出費も激しく、藩財政は早くから苦しめられた。このため、第6代藩主本多正寛は藩政改革に着手したが効果は無かった。
明治元年(1868年)9月、第7代藩主本多正訥は、徳川家達が駿府藩70万石の藩主として駿河・遠江・三河などを支配することになったことから、安房長尾藩に移封され、田中藩は廃藩となった。
歴代藩主[編集]
酒井家(雅楽頭家) 譜代 1万石
1.忠利
松平家(桜井家) 譜代 2万5千石
1.忠重
水野家 譜代 4万5千石
1.忠善
松平家(藤井家) 譜代 2万5千石
1.忠晴
北条家 外様 2万5千石
1.氏重
西尾家 譜代 2万5千石
1.忠昭
2.忠成
酒井家(雅楽頭家) 譜代 4万石
1.忠能
土屋家 譜代 4万5千石
1.政直
太田家 譜代 5万石
1.資直
2.資晴
内藤家 譜代 5万石
1.弌信
土岐家 譜代 3万5千石
1.頼殷
2.頼稔
本多家(正重系) 譜代 4万石
1.正矩
2.正珍
3.正供
4.正温
5.正意
6.正寛
7.正訥
幕末の領地 これも不思議でした。飛び地というのは知ってますが、こういう感じのは知らなかったです
下総国 葛飾郡のうち - 33村(うち31村を下総知県事、2村を武蔵知県事、のちの小菅県に編入)
相馬郡のうち - 10村(下総知県事に編入)
駿河国 駿東郡のうち - 6村
志太郡のうち - 57村
益津郡のうち - 20村
関連項目[編集]
田中村 (千葉県) - 現柏市。村の名は田中藩の飛び領だったことにちなむ。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月19日 14時32分03秒 ) | パスワード |
>田中藩は本多氏に至るまでは短期間で移封される場合が相次いだ。
>このため、酒井忠利を除く藩主の治績はほとんどないといってよい。
ということは
田中藩=藤枝=は出世への登竜門ではあったけれど
この藤枝という土地自体が豊かに発展するという機会にはならなかった
ということですか。
藤枝の人には気の毒なことでした。
[12] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月20日 00時31分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
田中城はある意味浜松城と同じで、多くの城主が着任し、その後転封で
出世していった。さらにここは、今川・武田・北条・徳川のいわばスクラ
ンブル交差点であった。
なぜ「丸に三つ柏」がこんなにも多いのか、あるいは本来の家紋をこれ
に替えたのかの謎……彼らは総じて牧野氏や山内氏の配下ではなかった。
また、歴代の城主で三つ柏を使用した人はいなかった。それでは何がこの
ような状況を作り出したのか。考えられるのは宗教的な要因か。例えば、
蛭子信仰、卜部・吉田神道……?
洞雲寺で見た「永井氏」の家紋が「丸に三つ柏」だったのには安心した。
善地以外になかなか「丸に三つ柏」の永井家が見つからないので……。
さて、「服部家」の墓はあったのか?
向善寺において、一基見つけました。家紋は「丸に並び矢」でございま
した。さっそく般若心経を二巻捧げました。
蓮生寺では、墓地の区画を購入した現役の「服部氏」のプレートが立て
られているのを見ました。
洞雲寺では、これはすごかった。平地から山の中腹にまで、たくさんの
墓が建てられている訳ですが、上に行くほど古いものであることがわかり
ました。
中腹の一角に、「永井家」の六基の墓、それも大きな一枚岩を墓石にし
たものが半分、柱状の墓石が半分、一団の区域にかたまって建てられてお
りました。家紋は刻まれていない。そして、その隣に「服部家」の墓が
一基あったのです。並んでいるのは、偶然ではないと思いました。家紋は
「丸に揚羽蝶」、掛川城の近くのお寺で見たものと同じ家紋でありました。
やはり、服部家と永井家は近い関係なのかと勇気づけられた次第です。
ここで、般若心経を二巻、心底より捧げました。
藤枝という所、まだまだいろいろ秘められている感じがします。また隣
接の焼津には、「服部」姓が多いそうですので、併せて近日中にまた行っ
てみるつもりです。
田中城については、次回に記します―
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 03時55分14秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>何がこのような状況を作り出したのか。考えられるのは宗教的な要因か。
>例えば、 蛭子信仰、卜部・吉田神道……?
http://careerconnection.jp/review/264-blogList-5.html
若宮 蛭子神社 ... 名 称 蛭子神社
所 在 静岡県富士宮市小泉字代官屋敷2180
主 神 蛭子神 創 建 不詳 例 祭 1月20日 敷 地 88坪
社 格 旧無格社 石 造 地蔵、題目塔、氣樂神ほか 神 徳 豊漁・航海安全
神 紋 丸に蔓柏 惜しい!
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_yosida.html
吉田流卜部氏
下がり藤紋ですね
不思議ですね。
藤枝はどういう関係で三つ柏紋が多いのでしょうね。
でも藩主の家紋には柏紋は無かった。
藤枝というほどだから「藤」紋が多いのかと思いきや「酢漿草」紋が1番多い。
これも不思議。
静岡の代表の葛西氏・山内氏・牧野氏は三つ柏紋なのに
その影響は見られない?
>洞雲寺で見た「永井氏」の家紋が「丸に三つ柏」だったのには安心した。
座りの良い発見ですね。
>向善寺において、服部家の墓を一基見つけました。家紋は「丸に並び矢」でございました
伊賀系、平家系ですね。
ワタクシ的には非常にフツーです。
般若心経をありがとうございました。
ワタクシの一族かも知れません。
多分半蔵系か政信系か中保次系か、ですね。
>洞雲寺
>中腹の一角に、「永井家」の六基の墓、それも大きな一枚岩を墓石にしたものが半分、柱状の墓石が半分、一団の区域にかたまって建てられておりました。
>家紋は刻まれていない。
家紋が無いのは何故でしょうね? (なんで彫ってないんだ!怒)笑
>そして、その隣に「服部家」の墓が一基あったのです。
>並んでいるのは、偶然ではないと思いました。
>家紋は「丸に揚羽蝶」
微妙に外すんですねえ。
でも平家系の意志表示?
どういう意味なんでしょうね?
この服部家が丸に三つ柏紋でしたら大喜びでしたのにね。
本当に家紋は難解ですね。
永井家と、きっと寄り添って、住んでたのでしょうね。
般若心経が届いたと思います。
>隣接の焼津には、「服部」姓が多いそうです
是非是非!早めに行って見て来てください。
だけど焼津?
う〜ん。。。。謎
島田も行って見て来てください。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 05時41分06秒 ) | パスワード |
<14>書き直し
断家譜
長谷川氏(藤原)の次が服部氏です:P85の次、P86の前からです
http://books.google.com/books?id=ZYnE99OizPkC&pg=RA2-PA15&lpg=RA2-PA15&dq=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=SFR31hhjyX&sig=E_rrWMwd_GZMm2FYLYg0Oegr0y4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwizr4bR47TNAhVQyWMKHQ_oCHsQ6AEIMzAE#v=onepage&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
服部政信が出てます。
本国は尾張。平氏。
矢筈車・上り藤丸
今切で病没。64歳。
へ〜
子供達は無嗣断絶になってます。
弟・政重は45歳で今切で病没。
弟の子である政次も今切関所にて病没。
弟の孫になる政次は大久保忠重の次男を養子=正勝=にしたものの25歳で乱死で
その子は父の乱死で断絶にさせられた。
つまり服部政信兄弟の家は断絶。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 05時57分22秒 ) | パスワード |
<15>書き直し
服部中保次の家 ここは今に至るも繋がっているのかも P87
平氏
本国伊賀
矢筈車
花井氏から嫁が来てます!驚
服部中三九郎保俊の家は
保俊の妻は花井氏!で、子の服部三九郎某が生まれ
孫の保秋が継ぐけれど
実は
分家の 服部中保継 の子?孫?が承応3年、1634年に、本家を継いだ、のかな?ややこしい
つまり服部中の家は分家があって今も2つ以上の流れで今に至るのかも。
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 06時00分10秒 ) | パスワード |
伊賀平氏服部新兵衛
矢筈車紋
その子 平次郎 改易断絶
何をやったのでしょうね。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 06時01分35秒 ) | パスワード |
伊賀平氏服部市郎右衛門 P88
矢筈車 浜御殿奉行病死
子
平三郎
浜御殿奉行 病死
孫数馬
浜御殿奉行
病死
曾孫
浜御殿奉行
天明8年軽追放
何やったの?
浜御殿奉行までやってた家なのに。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 06時04分28秒 ) | パスワード |
<16>書き直し
本国伊賀平氏服部 矢筈紋? P89
服部佐平次
大久保下野守忠位組享保15年歿
子
権之進
大久保下野守忠位に仕え
後、堀三六郎直昌支配 隠居
孫勝種
臼井藤右衛門次男が養子に来た
堀三六郎直昌の後御勘定評定所留役
其後、御詮儀中寛政8年歿
何があったのでしょうね?
切腹でもした?
曾孫
娘に大久保家から養子をもらったけれど父があんなことになったから断絶ですって。
断絶話 以上
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 06時23分31秒 ) | パスワード |
<17>書き直し
藤枝の服部家のお墓の紋の謎がちょっと解けました!
服部政信・政重兄弟と政重の子=政次=の家は断絶した。
しかし庶流や分家は今も遠江あたりに残って 矢筈車紋 and/or 上り藤丸紋 を使用してるんでしょうね。
上り藤丸紋の服部家なんて考えたことも無かったです。
でも存在してるってことですよね。
この上り藤というのは例のヒバリさんのお話がらみかも。
藤原朝臣服部伊賀守宗清の子孫というのを記念しているのかも。
なんせ服部政信の家は庶流だと言ってますから。
服部中の家が宗清の子孫と寛政諸家譜に書いてましたね。
解説:
政信の家は=本家は=矢筈車紋
弟の政重の家も矢筈車紋
政信の4男 信成の家が源氏車の内矢筈・揚羽蝶・16葉菊紋使用
16葉菊紋は青山幸秀との関係からか? 青山氏がらみでしょうね。
信成の次男である服部信親の家は源氏車の内矢筈・16葉菊・上藤紋使用になっています。
どこかで上藤紋を貰ったのか
先祖が藤原氏がらみの宗清ということで?
つまり洞雲寺さんの「揚羽蝶紋」を使ってた服部家は 政信の4男の信成の子孫 かもですね。
思わぬことが分かっちゃったのかも。
にっこり
やっぱり家の名と家紋っていうのは アイデンティティ そのものなのかもですね。
謎が解けると「おお、そういうことか!」とちゃんと分かる!
でもゴチャゴチャしててイマイチ ん? ですが。笑
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 06時40分02秒 ) | パスワード |
となると 丸に三つ柏紋さんとこは どこから丸に三つ柏紋を頂いたのでしょう?
高槻の神服神社紋?
蛭子神社の神紋の蔓柏からヒゲが取れた?
医家の旗本の服部氏が蔓柏紋でしたよね。
服部政信の実家が熱田神宮の千秋氏と関係がありましたよね
牧野氏?山内氏?葛西氏?からの拝領紋?
やはり永井家との親戚関係で?
以上6つの可能性の中に答えがあるでしょうか?
[25] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月20日 07時09分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様は、服部家のことよくわかっておられます。今回のあを様の論及、
さすが!とうならせます。
実は、私も昨夜は服部中、長谷川、永井、加藤について考えていました。
プラス、青山、天方、内藤、市野、そして善地という場所について考えて
いました。
この二年の探求の成果として、いろいろなものが見えてきています。
そして、その各種状況証拠の集約として、自分の推論がかなり確信になっ
てきています。
この件につきましては、さらに色々調査を積み重ね、より鮮明にしてから
記したいと思っています―
政信・政重・正次についても、今切=新居にその気配が残っていないか、
お寺が何寺かありますので、行ってみるつもりです。
いずれにしても、四・五百年の歴史というのは、Max182,500日の日々の
歴史の積み重ね・変遷でありますので、信じられないこと・思ってもいなか
ったことがたくさん秘められているワンダーランドだと思っています―
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 08時29分15秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>実は、私も昨夜は服部中、長谷川、永井、加藤について考えていました。
>プラス、青山、天方、内藤、市野、そして善地という場所について考えていました。
実はワタクシも考えていました。
テレパシーでしたか。笑
ワタクシは鈴木さんのことも考えていましたが。遠江の名家ですから。大姓ですしね。
>この二年の探求の成果として、いろいろなものが見えてきています。
はい
驚いています。
江戸時代の転居の禁止ですっかり先入観に捉われ過ぎて「ちゃんと見てなかった」なと。
まるで目に薄紙が何枚も貼られているような。
でも三つ柏さんがアチコチ遠出なさって
いろいろ教えてくださったことで
え?アソコとアソコは深く結びついてたの?
などと驚いています。
最近では丸子あたりが一番の驚きです。
やっとヒバリさんの言う「藤原朝臣服部伊賀守」の表現が理解出来ましたし。
何年かかりました?
藤原姓の服部氏?あるとは思っていたけれどまさか宗清の事だったとは。
三つ柏さんからいろいろな情報を頂いて、自分でもネットでチェックして、
でも残念ながら
折角情報があっても「目」がなかなか「ちゃんと」大事な言葉を拾わないんですよね。
現場100回!
初動捜査に戻れ!
証言をもう1度フルイに掛けろ!
今回も服部政信の家と服部中保次の家の違いのやっと気付きました。
政信の本国は「尾張」
保次の本国は「伊賀」。
この差は大きいのだとやっと気付きました。
寛政諸家譜の自己紹介が微妙に違うのは「それがアイデンティティだから」と分かりました。
互いに牽制し合ってる?
マウンティングしてる?
出自の紹介文の微妙な違いが「うちはアソコとはチョイと違うんだからね」と自己主張していたとは。
なかなか読めなかったです。
>いずれにしても、四・五百年の歴史というのは、
>Max182,500日の日々の歴史の積み重ね・変遷でありますので、
>信じられないこと・思ってもいなかったことがたくさん秘められているワンダーランドだと思っています
はい
とにかく沢山読まないとね。
何度も何度も読み返して「言いたい事」が何なのか
彼等の心の裡を正しく理解して上げたいものです。
>政信・政重・正次についても、今切=新居にその気配が残っていないか、
>お寺が何寺かありますので、行ってみるつもりです。
はい、お願いします。
政信・政重・正次の本国が尾張ということで、この人達が自分に1番近かったのかと
納得しました。
断絶したとはいえ分家や庶子の家は今でもヒッソリ続いているのかもですね。
もし今切あたりの服部家の墓に丸に三つ柏紋が彫られていたら ゾォ〜 ですね。
とにかく今切あたりに服部さんが住んでいらっしゃると良いですね。Good luck!
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 08時46分53秒 ) | パスワード |
だっけど不思議ですね。
藤枝の服部家の墓のいろいろな家紋に困惑してたら「断家譜」のサイトが現れて
思わぬ情報をゲットしたなんて。
まるでご先祖さまパワーの降臨!
これまで服部姓で藤紋のヒトのこと
(藤って美しいし良い香りだし藤原貴族にあやかりたかったんじゃないの?)
(テキトーに引っ張って来たんじゃないの?)
と思ってましたが!
ちゃんとご先祖さまに繋がっているということなんですね。
だって日本人って勝手に名乗ったり家紋を使ったりなんて恥ずかしくて出来ないですものね。
必ず<知ってる人>がいたりしてテキトーに誤魔化してたらバレちゃいますものね。
日本、スゴイ!
でも戦後の70年で 日本人はたくさん忘れましたね。
先祖が命にも替えて守って来た家書をワタシは先祖に感謝しなくては。
[29] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月21日 09時51分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
内山さんというと、すぐ内山真龍を思い浮かべます。
個人情報については、念のため、十分注意を払うことが賢明です。
そういった意味では、いわばみんな個人属性のない「忍者」と一緒で
あります。
その時代の流れの中にあって、「電話帳」がまだネットで見られると
いうことを確認しました。
それを利用して、焼津の「服部氏」の分布について調べてみました。
やはり、焼津には「服部氏」が多く住んでおられます。この分布状況
に沿ってお寺廻りをすれば、服部氏の家紋調査の効率はかなり高くなる
と思われます。
電話帳登録(2000年)されている服部氏について、焼津市の各町におけ
る分布状況を多い順に(但し、五軒以上)挙げてみますと―
@焼津 22軒
A小川新町 15軒
B本町 14軒
C西小川 10軒
D三ケ名 9軒
E鰯ケ島 9軒
F城之腰 8軒
G駅北 7軒
H西小川 7軒
I石津 7軒
J柳新屋 7軒
K小土 7軒
L小川 6軒
L栄町 5軒
これだけで133軒あります。焼津市全体では登録されていない家庭も
含めて、200軒位はあるものと推察されます。やはり、焼津に「服部」
姓は多い。その要因は何であるのか……?
いずれにしても、家紋の調査をしてみたいと思っています。
[30] | 酒井ともさんからのコメント(2016年06月21日 10時04分01秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
毎日、おじゃまして勉強しております。
今朝は事実証談物語さんの投稿を興味深く読ませていただきました。
事実証談物語さんの同姓の方で江戸期には県居学派の国学者で、
浜松市に資料館のある方がいらっしゃいますね。
自分は趣味が幅広く、一時期はいわゆる国学物を集めました。
でも、今考えれば我欲に固執してた頃は、余り良質な品物は逃げて行くばかりでしたね。
いつぞやからか腰を据えてからの方が自然と良い品が寄って来るような感じになりました。
ですので、最近は我執に拘らずに人の下支え的な事をするようにしています。
ちなみに現在は戦国期まで、現袋井市愛野地区にて、愛野駅より法多山を含む
石野郷を治めた「石野氏」を調べています。
ただ、これも御前崎市池新田地区を開拓した一族の謎を解く鍵が
幾重にも隠されておりますので、自分自身の血統には直接結びつきませんが、
そのご子孫の方々の為にはなると考えています。
この石野氏の調査にはこちらのサイトで教えていただいた、
「寛政重修諸家譜」が大変参考になり、考証の糸口が沢山見つかりました。
空の青海のあをさんと三つ柏服部さんのお二人には本当に感謝しています。
最後に近隣には甲斐源氏の「武田門流」の子孫が徳川をはばかって
「竹田」の姓を名乗った伝承があります。
事実証談物語さん言われる、神社石碑にあります姓は
「平賀氏」の本姓である「武田氏」を異字文体で刻んだのではないでしょうか。
ご参考までに。
[31] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月21日 10時30分06秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
新居周辺の「服部氏」の電話帳登録による分布状況を調べてみました
ら、新居は新居町浜名の3軒を筆頭にして、あとはあるかないか位であ
ります。
それと比較して、舞阪には11軒、篠原には6軒、大山にも6軒となって
おります。
ということは、新居だけでなく舞阪・篠原も調べる必要があるという
ことがわかりました……。
話は変わりますが、昨日大本家と話をしましたら、現当主で37代目
(系図がないため、真偽の程はわからない)になると言われているという
ことを聞きました。古文書類があったそうですが、蔵を解体した時から
わからなくなってしまったということ。またお蔵には刀がたくさんあっ
たということを聞きました。当地に来た由縁については、「加藤家の家
譜」に書かれている話に似ていると感じました。
加藤光泰家に対して、秀次事件の連座制が適用されるとしたならば、
その理由としては、一柳家から養子をもらっていたからでしょうか。
服部一忠と、その家族に対する連座制はどうであったのか、それらの
実態を正確に知りたいと思っています―
[32] | 酒井ともさんからのコメント(2016年06月21日 10時30分58秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
訂正します。
あれっと!思い調べましたが、
新羅三郎義光は武田姓を名乗っておりません。
平賀盛義の兄の義清が武田氏を名乗りました。
ですので、平賀氏の本姓は「源」姓になると思います。
先走りをお許し下さい。
[33] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月21日 11時23分59秒 ) | パスワード |
酒井とも様
レスが交差しました。お久ぶりです。お元気でなによりです。
酒井様の「酒井」は、大変なお名前と推察しております。
藤枝の田中城に行って、酒井氏関係では二人が城主を務めていることを
知りました。
四天王の酒井氏についてはおそれおおく、まだ話題にしたことはありま
せん。服部一族との関係において、何かエピソードがありましたら、ぜひ
教えてください。
[34] | 酒井ともさんからのコメント(2016年06月21日 16時06分10秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
「田中藩主」
酒井家(雅楽頭家) 譜代 1万石
1.忠利
西尾家 譜代 2万5千石
1.忠昭(忠照)
2.忠成
酒井家(雅楽頭家) 譜代 4万石
1.忠能
「西尾家」
西尾忠昭(忠照)の曽祖父の忠永の父は、雅楽頭家初代の酒井雅楽頭重忠になります。
その重忠の三男の忠永が西尾家初代、吉次の女婿となり西尾家二代目を継承します。
※田中藩初代の酒井忠利の長兄が雅楽頭重忠で、
忠利の子が、小浜藩主家を興した忠勝になります。
次に、西尾忠成の次代の忠尚の養子になる忠需(京極氏)の祖母は雅楽頭忠挙の娘です。
次に、その西尾忠需の次代の忠移の娘、隆姫は雅楽頭忠実に嫁ぎ、
その子の忠受(酒井氏)が西尾家を継ぎます。
それを踏まえれば田中藩主→小諸藩主→横須賀藩主となる
西尾家は酒井雅楽頭家と幾重にも婚を重ねた関係になります。
次いで、明治初期に西尾家を継承したのが、伊予大洲藩主家の加藤泰秋の四男の忠方になります。
「大洲加藤家」
この大洲加藤家は加藤光泰の直系です。
加藤光泰が朝鮮にて病没(毒殺?)後にその子の貞泰が甲斐一国を召上げられて、
美濃黒野四万石に減封された理由の一つが貞泰の母方の祖父、一柳可遊が仕奉していたと思われる
豊臣秀次事件の余波を受けた可能性があるとは知りませんでした。
まだ貞泰が若かったとはいえ、六分の一にまで領地を減らされたのが不思議に思っていましたが、
秀次事件が絡めば飲み込める話ですね。
「服部氏」
家には三つ柏服部さんの同姓の服部氏との関わりは全く伝わっておりません。
亡父は親戚関係も詳しかったのですが、私の興味が湧く前に鬼籍に入ってしまいました。
ご参考にして下さい。
[37] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月21日 21時45分10秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、思い立ったが吉日で、「舞阪」に行って来ました。今回は、
ある意味、事前の(科学的?・確率的)統計調査がしてありましたので、
その成果はいかにということの実証にもなりました。而して、その成果
にはびっくりです。この件についての報告は後程にいたします。
酒井とも様、ありがとうございます。横須賀城の城主西尾家と酒井家
の関係、また加藤光泰の後裔の加藤忠方が西尾家を継承したということ、
視野が広がりました。
事実証談物語様、熱田大宮司家の千秋氏と竹内宿祢がつながっている
という新事実、新たな地平線が見えた感じがいたします。この件につい
てさらに知りたいと思っておりますので、今後もよろしくご教示下さい。
お願いします。
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月22日 07時11分06秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
その成果とはいかに?
早く拝見したいです。
[39] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月22日 08時28分59秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
お待たせしました。その成果とは、ズバリ「発見した」ということです。
「何」を発見したかといえば、服部宗家系の「源氏輪に横並び切竹」の
服部家の墓標三基、及び「源氏輪に縦並び切竹」一基を舞阪で、「蔦紋」
三基を隣接の馬郡(まんごうり)で、であります。合計七基ということで、
今までいろいろ回った中では、伊賀につぐ成果となりました。
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月22日 09時24分17秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
「蔦紋」の服部氏を探してました。
源氏系服部氏が「蔦」を使っている、と出てました。
また大給松平家や形原松平家や瀧脇松平家や竹谷松平家が「蔦」を使っている、と。
「柏紋」に平氏系服部家も使用であるのが出てますが
藤原系には浅井氏や市野氏
平氏系では他に長田氏(長田氏には永井氏も入りますね)や飯塚・横尾・豊前・久間・室・久野・堀屋の名が出てます。
で、関係ありませんが
将軍家治の頃の人ですが
呉服明神の服部貞信の子孫の(久太郎・頼母)貞徳(さだのり)の
妻が酒井飛騨守忠香の養女でした。
貞徳の母は諏訪七左衛門頼均の娘でした。
貞徳の子である貞勝が幕末に大活躍する人物です。
[41] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月22日 10時04分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は、車が代車であり、ナビの探索機能がほとんど役に立たないもの
だったので、「勘」で廻りました。まずは、国道一号線を西進し、「舞阪
郷土資料館」を目指したものの、わからず、舞阪の町中を通り過ぎ、舞阪
港の近くまで行ってしまいました。するとその近くで建物の陰よりお寺の
屋根が見えましたので、行ってみることにいたしました。舞阪は建物が
混み合っていて、道も狭い。漁師町ってだいたいそうであります。車は
概して便利でありますが、細い道、駐車場の問題等、ヒヤヒヤものであり
ます。現にこの二年間で溝にはまり、レッカー車を呼んだこと三回であり
ます。本当は、ナビ付のバイクが一番であります。
最初のお寺の名前は、「養泉寺」で曹洞宗の寺院でありました。この辺
りに明治期に役場が置かれたということですので、行政の中心地であった
ことと思われます。養泉寺の正面前入り口は狭かったので、寺院の西横手
の入り口より入りました。入ってすぐの左右、そして奥、の三か所に墓地
がありました。
そして、右側の墓地に入ったところ、三列目位の所で、まずは一基目の
「源氏輪に横並び切竹」の服部家の墓に出会ったのです。はっきり言って
驚きでした。何かあまりにもトントン拍子過ぎて……やはり、電話帳登録
での服部氏の地域ごとの分布数、これに比例するのかと今回実際に事前調
査を行ってみて感じた次第であります。
奥の墓地にも、二つの「源氏輪に横並び切竹」がありました。
これらの家紋は、関の服部家とも同じ、また服部中保次系とも同じであ
りました。服部政信系の家紋については、まだ私は実際に見ておりません
ので今は何とも言えませんが、あを様いかがでしょうか。
ここで、一番目に出会った服部家の墓を代表として、私は心を込めて、
般若心経を二巻唱え奉りました―
服部氏族の新居関所奉行の担当期間は、三代目から五代目までで―
三代目:服部権太夫政信+服部権太夫政重(1619〜1624)(政重1624年死死亡)
四代目:服部権太夫政信+服部杢助政次(1624〜1642)(政信1642年死亡)
五代目:服部杢助政次+服部中保俊(1642〜1646)(政次1646年死亡)
六代目:服部中保俊+佐橋甚兵衛吉次(1646〜1651)(保俊1651年死亡)
関所は新居にあったものの、奉行の役屋敷は浜名湖を隔てた舞阪側の
志都呂にあった。また、服部中系は舞阪側の大久保の代官も兼ねていたので、
大久保にも代官屋敷があった。
関所奉行に仕えていた与力・同心達は、舞阪側の篠原に居住したというこ
とでありますので、舞阪側の方が、服部両系統の菩提寺になった可能性は高
いと推察いたします。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月22日 10時20分47秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服部宗家系の「源氏輪に横並び切竹」の服部家の墓標三基、
>及び「源氏輪に縦並び切竹」一基を舞阪で、
>「蔦紋」三基を隣接の馬郡(まんごうり)で、であります。
>合計七基
源氏車に横や竪の切竹紋はかなりの名家の服部氏ということですね。
服部中保次の家=16桁車の内横矢筈・向ひ蝶・揚羽向ひ蝶の内に16葉菊
長男の家=16桁車の内横矢筈二 向ひ蝶
長男の家の分家=車の内横矢筈・揚羽向ひ蝶の内16葉菊・向ひ蝶
次男の家=源氏車の内矢筈・向ひ蝶
保長の家=半蔵の家でもある=八桁車の内竪八筈(八筈とは矢筈のことか?)二 意味不明 2 のこと?
長男=矢筈車・平蝶・矢車
寛政時代には八筈車・平蝶・矢車・16葉菊
2男=矢筈車・轡十文字・16葉菊
3男=半蔵=上記父保長に同じ
政信の家=矢筈車・源氏車の内矢筈・揚羽蝶・16葉菊・16葉八重菊・上藤
呉服明神貞信の家=車輪竪二本矢・七本矢・矢の字桔梗・右角万字・卍?左角万字・卍?
武田方蘆田信蕃に仕えた服部正吉の家=菩提寺が吉良の万昌院=源氏車の内両矢筈2本・向ひ蝶・鳩酸草かたばみ
分家で綱吉の子に仕えた家=源氏車の内両矢筈2本・九曜
伊賀で人を殺めて今川義元に仕えた服部助左衛門康信の家=車の内横矢筈2筋
その分家=車の内横矢筈2筋・向ひ蝶
この家も菩提寺は万昌院
服部直次=矢筈車
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月22日 10時43分41秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
代車ですか。
お気を使ったことでしょうね。
お疲れさまでした。
笑
うちの階の人で、駐車場が隣の人のベンツは後付けナビだと思います。
だいたいドイツ系のナビはダメです。
ポルシェのナビはMDXに使い勝手で負けるし、
中でもBMWはサイテーです。笑 全然違う処に連れて行くから。
ふつう直前で行方不明にしてくれるのがドイツ産?ナビです。部品に中国製部品が混じってるんじゃないの?と悪口を言いたいぐらい。
それにしましても怪我の功名じゃぁありませんか。
ラッキー
服部家ホンヤさんでは横と縦の2つ使ってます。
駕籠は縦だったような。
横はデザインが古いなと思います。
でも分からないです。
驚きですね。噂をすれば影という感じで姿を見せてくださったのでしょうか?
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
平氏で柏紋の服部氏
いつ姿を見せてくれるのでしょうね?
まさか、、、蔓柏の服部氏のこと、、、でしょうか?
遠出になりますが小田原の家老だった服部氏のお墓捜しにも行って欲しいです。
ヒバリさんのご親族が今は小田原にお住まいというのは関係があるのか無いのか、それも知りたいところです。
[46] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月22日 12時20分52秒 ) | パスワード |
事実証談物語様
歴史については、名前や家紋も含めて、今の常識をまず捨てて考えない
と間違いの元になりますね。家紋にしても、いろいろ本が出ていますが、
これらも大筋のことを言っており、実際はもっと複雑でありますね。
男系・母系とも、先祖に間違いありませんので、歴史に携わる者は平等
に見る目も持たなければいけませんね。
[47] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月22日 13時09分18秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
養泉寺で私が興味をもったいくつかの姓と家紋ですが―
・鈴木家の「丸に三つ柏」
・蜂須賀家の「卍」
・長谷川家の「丸に三つ柏」
・長田家の「桔梗(ききょう)」
・蜂須賀家の「笹竜胆(りんどう)」
・堀江家の「丸に三つ柏」でありました。
その他にも、保田家「立ち沢潟(おもだか)」、小笠原家「三階菱」等に
興味を持ちました。
次に隣の「宝珠院」に行き、服部家の「源氏輪に縦並び切竹」をすぐに
見つけました。近くには同族のものはなさそうで、ここで般若心経を二巻
捧げた次第です。
墓地の奥には、清水の次郎長の子分、「舞阪の富五郎」の墓がありまし
た。三河の生まれだそうです。
ここで私が興味をもった姓と家紋ですが―
・寺田家の「丸に三つ柏」
・江間家の「丸に三つ△」(正式には何というか調べます)
・白柳家の「丸に三つ柏」
・九鬼家の「丸に違い××の葉」(正式には何というか調べます)
九鬼家の墓を見たということで、以前九鬼家についていろいろ論究した
訳でありましたが、その後九鬼から帰ってから面白い記事をみつけましたの
で、近い内に記します―
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月22日 13時27分18秒 ) | パスワード |
・江間家の「丸に三つ△」(正式には何というか調べます)
これは「三つ鱗」ではありませんか?
代表が北条氏。
今日はネットが動きづらいので、もう、降ります。
[49] | 酒井ともさんからのコメント(2016年06月22日 14時47分08秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
横レスで、すみません。
江戸中期より横須賀藩を治めた西尾氏をもう少し書かせて下さい。
この西尾氏は吉良氏の菩提寺の実相寺を創建した、吉良満氏の後胤を名乗り戦国期に至ります。
西尾吉次は東条吉良持広の子と伝わり、後に西尾氏を継いだとされています。
※初名は義次ですが、豊臣秀吉より「吉」の字を賜り吉次を名乗る。
本来、西尾吉次は東条吉良氏の嫡流のようですが、同族同士で反目していた
西条吉良家との融合(一本化)のあおりを受けて織田家へ人質として送られたようです。
吉良家は一つになり西条吉良家の嫡子義安が継ぎましたが、
時すでに遅しと云うべきか、本来の勢力回復には至らなかったようです。
次いで永禄四年には西尾城を落とされ、酒井雅楽頭正親が城主になると、
吉良一族は反徳川(松平)に傾き始めます。
事実、三河一向一揆の勃発により吉良一族は一向一揆方に付き、徳川(松平)に反目しますが、
一向一揆収束に伴い、吉良一族は三河を出奔し、一時期他国に潜伏したようです。
ただ一向一揆の頃までに西尾吉次は織田家で成長し、その後も織田家に仕奉していたようです。
次いで西尾吉次が徳川家に仕奉する嚆矢が、家康公最大の苦難と云われる
「神君伊賀越え」を供にした後に、請われて家臣に加わったようです。
しかして徳川家に仕えた西尾吉次ですが、男子に恵まれなかったようで、
酒井雅楽頭正親の三男の忠永を女婿として迎え入れ子孫繁栄の石杖を築き
慶長十一年に没しました。享年は七十七歳でしょうか。
江戸初期より、譜代家臣であっても男子に恵まれなければ、容赦なく改易に追い込んだ徳川家にあっても、
それを免れたのはその血筋の良さもあるようですが、吉次の母親が家康公の曽祖父の信忠の娘であった事、
領地関係や、もしかしたら婚姻等で吉良氏と結ばれていた、雅楽頭家の男子を女婿にした事が加味されて
円満に家督相続がなされたのもしれません。
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月22日 21時03分43秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
養泉寺と宝珠院
三つ柏紋が多いのは何故?
でも丸に三つ柏紋の服部家の墓は無かったのですよね。
これもちょっと不思議。
>「宝珠院」に行き、服部家の「源氏輪に縦並び切竹」をすぐに見つけました。
「竪」ということで保長系(半蔵系)なんでしょうか?
http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/51387ba4c7fde.html
宝珠院
郵便番号
432-0211
所在地
浜松市 西区舞阪町舞阪1927
1809(文化6)年に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興にとても苦労をした。そこで、火防の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いで、4年後の1813(文化10)年に高さ2.7mの常夜灯が建立された。
西側の石の祠は、秋葉山をまつっている。また、宝珠院は、明治6(1873)年舞阪町に初めて小学校が開かれた場所でもある。
舞阪にノリの養殖を伝えた森田屋彦之丞と、大森三次郎の墓もある。
森田屋は江戸後期の諏訪商人で、江戸のノリ職人である大森三次郎を連れて、この地で養殖事業を始め、舞阪に技術を根付かせた。森田屋は57才で亡くなり、後の明治20年頃、二人の偉業をたたえて、供養碑が建立され、毎年2/6の海苔の日に供養碑前で海苔供養祭が行われている。
歴代浜松城主
氏名 よみ 任期 役職 備考
徳川 家康 とくがわ いえやす 1570 - 1586 将軍 江戸幕府初代将軍
菅沼 定政 すがぬま さだまさ 1586 - 1590 城代
堀尾 吉晴 ほりお よしはる 1590 - 1599
堀尾 忠氏 ほりお ただうじ 1599 - 1600
松平 忠頼 まつだいら ただより 1601 - 1609 桜井松平家
水野 重仲 みずの しげなか 1609 - 1619
高力 忠房 こうりき ただふさ 1619 - 1638 浜松出身
松平 乗寿 まつだいら のりなが 1638 - 1644 老中 大給松平家
太田 資宗 おおた すけむね 1644 - 1671
太田 資次 おおた すけつぐ 1671 - 1678 大坂城代
青山 宗俊 あおやま むねとし 1678 - 1679
青山 忠雄 あおやま ただお 1679 - 1685
青山 忠重 あおやま ただしげ 1685 - 1702
松平 資俊 まつだいら すけとし 1702 - 1723 本庄松平家
松平 資訓 まつだいら すけくに 1723 - 1729 京都所司代 本庄松平家
松平 信祝 まつだいら のぶとき 1729 - 1744 老中 大河内松平家
松平 信復 まつだいら のぶなお 1744 - 1752 大河内松平家
松平 資訓 まつだいら すけくに 1749 - 1752
松平 資昌 まつだいら すけまさ 1752 - 1758
井上 正経 いのうえ まさつね 1758 - 1766 老中
井上 正定 いのうえ まささだ 1766 - 1786 奏者番、寺社奉行
井上 正甫 いのうえ まさもと 1786 - 1817 奏者番
水野 忠邦 みずの ただくに 1817 - 1845 老中
水野 忠精 みずの ただきよ 1845 - 1845
井上 正春 いのうえ まさはる 1845 - 1847
井上 正直 いのうえ まさなお 1847 - 1868 老中
これ、結構、見てて楽しかったです。
藩主が替わる時に家臣の服部氏も一緒に来て墓があるのかな?とか
空想が広がりました。
[51] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月23日 06時34分45秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は、睡眠不足で思考能力が落ちてしまいましたので、早めに寝て
しまいました。今朝はバッチリです。
酒井とも様、西尾吉次の話、ありがとうございました。東條吉良持広
の子ということ、持広は徳川広忠(家康の父)の恩人であり、また最近の
説によると広忠の娘は吉良義冬の妻、即ち義央(上野介)の母となってい
るようで、徳川家と吉良家は濃い親戚関係であったようです。それらの
ことで喧伝されていないのは、徳川家の神格化に原因があるのではない
でしょうか。「神君伊賀越え」に加わったということは大変重要なな意
味を持ちます。服部半蔵を初め、忍衆とのかかわり、裏の秘密を知って
いるということ……何か新たな事実が発掘できるかも知れません。ちな
みに、服部半蔵は一時大須賀康高の配下にありました。
さて、宝珠院を後にして、次にむかったのが馬郡の「西本徳寺」で
あります。ここで「蔦紋」の「服部家」の墓を見つけたのであります。
一旦、ここで切ります―
[52] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月23日 08時45分19秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
西本徳寺は日蓮宗の寺院で、その東側百メートル位のところに「東
本徳寺」がツインでありました。
西本徳寺で見みつけた「丸に蔦」紋の服部家の墓は三つ、それ以外に
は服部家の墓はありませんでした。ここで般若心経を二巻捧げました。
その他で私が気を留めた姓と家紋は―
・毛利家:丸に剣片喰(けんかたばみ)
・三輪家:丸に橘
・長谷川家:丸に片喰
そういえば、宝珠院でみつけた九鬼家の家紋ですが、調べたところ「違
い柏」に似てはいましたが、草の葉は「露草」のようでした……。
東本徳寺も日蓮宗で、ここには加藤清正を祀る「清正公堂」がありまし
た。ここで興味引かれたのは、「菅沼家」の墓でした―
次にさらに東へ戻り、東光寺という臨済宗妙心寺派の寺院に行きました。
ここでは、「江間家」の墓、「相曽家」の墓か目立ちました。
以上をもって当日の探索は終了としましたが、篠原、及び新居のお寺を
まだ回っておりませんので、近々行こうと考えております。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月23日 08時51分46秒 ) | パスワード |
http://www.harimaya.com/o_kamon1/saguru/kinki.html
家紋を探る:近畿
志摩では、海賊大名九鬼氏が知られる。九鬼氏は熊野八庄司の一つといわれ、戦国時代、嘉隆のときに戦国大名化した。嘉隆は織田信長に属し、配下の強力な 水軍を率いて勇名を馳せたが関ヶ原の合戦で西軍に属し自害した。家紋は「七曜紋」と「三つ巴紋」を用いていた。
九鬼は「七曜紋」と「三つ巴紋」
伊賀は、伊勢平氏の柘植氏が知られ「三つ巴紋」を使用。
え゛〜 そうなの〜?
また伊賀は、服部・百地・藤林らの忍者で知られ、服部氏は「矢筈紋」を用いていた。
納得!
戦国時代、信長に攻められた天正伊賀の乱で一国潰乱した。
徳川家康に仕えた服部半蔵は忍者というより鑓で名をあげ 「鑓の半蔵」の異名をとり、家康二十四将の一人に数えられた。
半蔵の家紋は「源氏車の内に矢筈」であった。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月23日 09時11分51秒 ) | パスワード |
家紋を探る
http://www.harimaya.com/o_kamon1/saguru/kosie.html
山梨の長田氏は桔梗紋!
へ〜!
__________________________________
http://www.harimaya.com/o_kamon1/saguru/kanto.html
家紋を探る
辛垣山城主三田氏は「左巴紋」と「三つ柏紋」で、また将門の子孫ということで
将門ゆかりの「繋ぎ馬紋」も用いていた。
そうすると平氏でも平将門系ですと三つ柏紋を使用ということがあるのかも。
戦国時代、武蔵国は新興の小田原北条氏の攻勢にさらされ、
古河公方足利氏あるいは関頭管領上杉氏と、それに属する諸将との間に戦いが繰り広げられた。
上杉方の忍城主成田氏が「月に三つ引両紋」、岩槻太田氏が「違い鏑矢紋」、
高月城主大石氏が「二つ銀杏紋」、
辛垣山城主三田氏が「左巴紋」と「三つ柏紋」であった。
三田氏は平将門の後裔を称し、将門ゆかりの「繋ぎ馬紋」も用いていた。
その他、武蔵国では、熊谷氏が「寓生に鳩紋」、太田道灌と戦って没落した石神井城主豊島氏が「九曜紋」、
室町から戦国時代にかけて世田谷を領した吉良氏が「二つ引両紋」と「桐紋」を用いていた。
_____________________________
http://www.harimaya.com/o_kamon1/saguru/tohoku.html
葛西氏が三つ柏紋を使用するに至った背景:
岩手県の南の葛西氏は宮城県北部までも版図としていた。
葛西氏は桓武平氏の出自をもち、
源頼朝から奥州総奉行に 任ぜられた奥州の名門である。
奥州入りのときの宴の最中、天から柏の葉が落ちてきて盃に映った、それを瑞兆として 「三つ柏紋」を用いるようになったのだという。
以後、おおいに葛西一族は広まった。
江刺氏・薄衣氏・柏山氏・黒沢氏らで、それぞれ三つ柏紋を用いた。
ということは三つ柏さんのお家が葛西氏系に関係したのかも、というのも片隅に置いておきたいですね。
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月23日 09時36分50秒 ) | パスワード |
http://www.harimaya.com/kamon/column/tsuta.html
蔦紋のお話。面白かったですよ。
蔦 紋
蔦は、地上に繁殖する"艸"と空を翔ける"鳥"とを組合せた文字、
伊勢津の大名、藤堂氏が用いたことが知られている。
蔦紋は、日本十大家紋の一つに数えられるほどに、広く用いられている家紋である。蔦は蔓科の植物で、他の樹木や建物につたわってどんどんはびこることから、生命力の強い縁起のよい植物として家紋に採用されたようだ。また「蔦」という字は地上にどんどん繁殖する「草」と空を翔ける「鳥」とを組み合わせたもので、そういう意味でもめでたい紋ともいえそうだ。一説に蔦紋の発祥は、桐紋を用いることをはばかって、桐紋の花の部分を取り去り、それに替えて葉を二枚加えたことが始まりだとするものもある。
蔦は、紅葉すると楓に似ているので、別名をツタカエデあるいは地錦などともよばれる。平安時代から貴族の衣服の紋様に使われたことが「源氏物語」や「枕草子」「栄華物語」などから知られる。蔦の紅葉などの美しさから貴族に愛好されたのであろう。しかし、不思議なことに「蔦」を家紋にした公家は見当たらない。
家紋としては室町時代の「見聞諸家紋」に椎名・富田・高安氏などの家紋として記されているのが初見だが、それ以前から家紋として用いられていたことは疑いない。椎名氏は越中の戦国大名であり、その出自は桓武平氏千葉氏流であった。当然、鎌倉時代は千葉氏の代表紋である「月星」を用いていたことが知られ、いつのころからか「蔦紋」を用いるようになったようだ。しかし、その時期、由来は不明である。
戦国時代から近世にかけて「蔦」を家紋とした武家では、藤堂氏が知られている。藤堂氏の蔦紋は上下がひしゃげた形のいわゆる「たれ蔦」と呼ばれ、特に「藤堂蔦」と呼ばれている。そして、支流は「丸に蔦」を用いて本支を「丸」で区別している。ついで、出羽の六郷家も蔦紋を用いていた。六郷氏の家紋は「三つ亀甲の内に七曜」が有名だが、本家・支流ともに蔦紋を併用していた。
また武家のなかでは、徳川氏の一族である松平の諸家が蔦紋を用いていたことが特徴的であった。たとえば大給松平家の場合、もとは「丸に三葉葵」を用いていたが、将軍家をはばかって「一蔦葉」紋に替えたのだと家伝にある。このように、徳川家の「葵」紋をはばかってのことと考えられているが、どうして蔦を選んだのかという疑問に対する答えはない。一説に、本家(徳川家)が繁栄するにつれ、それにからまる松平諸家も繁栄することを願って、採用したものかも知れない。松平家のなかで、旗本百六十余家が「蔦」を使用していた。したがて、その意匠も多彩で「丸に三つ蔦」「三つ蔓蔦」など約四十種が確認される。
江戸時代になると、上は大名から下は花柳界の女性にいたるまで「蔦」紋はおおいに広まった。花柳界の女性に好まれたのは、客に蔦のようにからまって離さないという縁起をかついだものと考えられる。屋号にも「蔦屋」というのが多く、店先の暖簾にも蔦紋が染め抜かれていた。
これほどに愛された蔦紋だけに、そのバリエーションも多く、約五百種を数えている。そのなかで一番ポピュラーなものが、五葉の蔦紋だが、葉に切り込みの多いものを特に「鬼蔦」とよんでいる。
[56] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月23日 09時48分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
先日藤枝に行って寄った熊谷寺は、熊谷直実に関係するお寺でした。
屋根には、二羽の鳩の向かい合った「八」の字の鬼瓦がありました。初め
「ハチ」とは何だろうち思った次第です。
墓に刻まれた姓と家紋は、半分以上は混沌としていて、いわゆる「家紋
集」からは逸脱しております。その中で、一種類の家紋を保ち続けている
というのは希少価値で、宗家(あるいは、庶流も含めて)の強いアイデンテ
ィティを示しているということだと思います。
男系社会でありますので、男子に恵まれなかった、子供に恵まれなか
ったということで、消えて行く宗家はたくさんあるはずです。そこを補
えるということは、大族でなければなりません。
服部氏についていえば、伊賀の服部氏はいわば大族でした。その他の
服部氏はどうであったのか、その辺の探究はまだしておりません。伊賀系
でない服部氏、これも調べたいと思っています。
浜松に「九鬼」氏の末裔がいるという記事を読みました。九鬼嘉隆の
末裔だそうです。河輪という所、即ち天竜川の河口に近いところです。
水軍ですから、船で渡って来たのでしょう。九鬼家と柳生家は久隆の娘
と宗春が結婚していますので、柳生家、あるいはそれにつながる松下家
がからんでいるのやも知れません。今後の課題にしたいと思います。
[57] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月23日 09時57分30秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
レスが交差しました。
そうか、家紋にかける想いというか希望・願いというのは、子孫繁栄
的なものも多いのかもしれませんね。
三つ柏は客観的に言うと、神前(神道)に仕える意味が強い感じがしま
す……。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月23日 10時16分22秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
はい
伊賀系でない服部氏について知りたいですね。
源氏系には石橋氏の流れでありましたよね。遠い記憶・・・
でも必ず三つ柏さんの御先祖のことを知っているヒトがいらっしゃるものです。きっとその方に出会えますよ。
暫くお寺さん廻りですね。
家紋の世界は複雑怪奇で、微妙に違うところにアイデンティティーを出しているのだろうな、と思うと
どういう思いで?といろいろ考えてしまいます。
子孫繁栄を願って、というのもあったでしょうね。
三つ柏紋は神道関係なら簡単ですね、「神の御加護」を願ってと。
1番の可能性としては高槻の神服神社または普通に神様関係。
だんだん分からなくなって行きます。
一体三つ柏さんとこはどういうことで丸に三つ柏紋にしたのでしょうね。
今時訊ねても教えてくださる方のお話にはその方の個人的な希望や憶測も混じるでしょうから危ないですね。
笑
でも、かなり近づいた気がします。
その内に御先祖さまパワーが四方八方から飛んで来るかも。
雪崩のように襲って来るかも。
笑
そろそろ新しいスレッドをご用意しますね。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月23日 10時28分17秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101541.html
スレッド71をご用意いたしました。
キリの良いところで移ってくださいね。
[60] | 酒井ともさんからのコメント(2016年06月23日 11時04分40秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
服部門流のスレッドに投稿するのは違うような気がしますが、
もう少し次は吉良氏を書かせて下さい。
最後に酒井雅楽頭系も出てきます。
昨日投稿したのが、
東条吉良持広の子と伝わるのが西尾吉次(義次)です。
本来ならこの西尾吉次(義次)が東条吉良氏を継ぐはずだったのですが、
父の東条吉良持広が西条・東条吉良一族を一本化させたいとの願いにより、
西尾吉次(義次)は織田家へ人質として送られます。
その東条吉良持広の養子となったのが、西条吉良義堯の次男、義安です。
西条吉良家は義堯の長男の義郷が継ぎますが、その義郷が亡くなり、
東条吉良家より何故か義安が戻り、西条吉良家を継ぎます。
ところが、今度は東条吉良持広が亡くなると、再び義安が東条吉良家を継承し、
西条吉良家は義堯の三男で、義安の弟の義昭が継承します。
この時、東条吉良義安と西条吉良義昭は兄弟ですので完全な融合(一本化)とは
いかないまでも両吉良家は南北朝以来の抗争が終わるのかと思いきや、
今川義元軍の織田攻めの際、東条吉良義安が織田方に付いた為に、
東条吉良義安は今川家に軟禁され、今川方で株を上げた、弟の西条吉良義昭が
東条吉良領も併呑して今川家に仕奉します。
時は流れ、桶狭間の戦いで今川義元が横死後に、軟禁状態であった、
東条吉良義安が三河に復帰します。
一方では今川の後ろ盾を失った、西条吉良義昭が三河一向一揆に加担して失領。
この時家康の命により、やっと吉良義安が両吉良氏を統一して、晴れて吉良家の当主となります。
ただ当主とはなりますが、その所領は一万石にも満たない領地だったようです。
血縁関係ですが、東条吉良持広の室は松平広忠の大叔母(信忠の娘)と伝わります。
西条吉良氏より東条吉良氏に迎えられた吉良義安の室には、
吉良持広と松平信忠娘に産まれた、娘の女婿に西条家から義安が迎えられた説。
ではなく義安の室は松平広忠の妹(清康の娘)との説があるようです。
いずれにしても、義安の子が高家吉良家に繋がる吉良義定ですので、
徳川家とはかなり血縁関係でも結び合っていますね。
一方、東条吉良持広の弟、荒川義広の室は松平広忠の娘(家康の妹)と伝わります。
ただこの荒川義広も三河一向一揆では、一揆方を援助して三河を追放されたようです。
子孫は尾張藩士のようですが、普通に徳川家に仕奉していれば、
少なくとも上級旗本、もしくは大名になった家系でしょうね。残念。
>広忠の娘は吉良義冬の妻、即ち義央(上野介)の母となってい
>るようで、徳川家と吉良家は濃い親戚関係であったようです。
統一吉良家
1、吉良義安の室は松平清康の娘、もしくは吉良持広の娘(母は松平信忠の娘)説。
2、吉良義定の室は今川氏真の娘。
3、吉良義弥の室は今川範以の娘。
4、吉良義冬の室は酒井忠吉の娘。
5、吉良義央の室は上杉定勝の娘。
これを読むと、上野介義央の母親は初代田中藩主の酒井忠利の子の忠吉の娘のようです。
松平広忠は(1526〜1549)一方の吉良義央は(1641〜1703)
義央が生まれた年まで、松平広忠の最後の娘が生きていれば、
90歳を越えますので母親説には少し無理があるようですね。
では、ご参考になさって下さい。
[61] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月23日 12時57分48秒 ) | パスワード |
酒井とも様
吉良氏についての御考察、ありがとうございます。
服部門流と言いましても、一つの歴史の窓口ということであります。
但し、戦国の世の情報戦(諜報戦)、あるいは謀略といった中で、服部
氏族の果たした役割は底知れないものがあり、明智家ともつながって、
徳川の世の現出のプロデューサー兼一部役者となったのではないかと
考えております。
結果として、服部・明智連合が徳川を乗っ取ったのではないかと考え
ています。
従って、服部以外の他氏の歴史も、その底流とベクトルの中で、何ら
かのつながりがあると考えています。どんな歴史にもその裏があり、そ
れは正史にはなかなか出て来ません。実はそれが一番重要な「真実」な
のではないかと思っています。
従って、どんな情報でも構いません。正史を掘り返すことにつながり、
本当の事実(真実)を見つけ出すことができる糸口になれば、こんな嬉し
いことはありません。
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