【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101536 投稿日:2016年06月08日 07時58分15秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族LX\(16年の課題確認12)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101533_59.html
長上郡の服部氏族LX[(16年の課題確認11)
スレッド68の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


スレッド68の本興寺。

   徳川家康公以来の歴代の位牌が祀られていた。
   寺の格が10万石相当。
   家康の側室の「西の郡局」の位牌、供養塔があった。
   庭園が小堀遠州によるもの。

   さらに墓地に「服部宗家」の「源氏輪に並び切り竹」の家紋の
   服部家の墓が一基。
   その隣に和久田氏(大久保の地代官を務めた)の子孫の墓。

   ここから、この服部家は服部中系の可能性が大。


ということで話題は西三河と遠江の関係に広がりました。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月09日 23時56分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 花岳寺がなぜ吉良の他に赤穂にもあるのか、大変興味のあるところです。

 吉良の花岳寺の由緒書きにはこうありました―
 「祥雲山 花岳寺由緒
  往古、金星山と称する真言宗寺院の僧房の一つであった。
  貞和三年(1347)西尾実相寺より、佛海禅師が入寺開山され、臨済宗に
 転ず。東條吉良氏之祖、尊義公、山内に塔頭霊源寺を開基せらる。
  大永五年(1525)東條八代吉良持広公、諸堂を再興、永禄七年(1564)、
 家康公、吉良氏との浅からぬ因縁により寺領三十六石を寄進せらる。
  元和三年(1617)以降再興吉良義定公、諸堂宇を再建修理せられ、寛文
 (1661)年間義央公又諸堂修理再建の後、華蔵寺絶岩禅師を請じて中興開
 山とせられ、以後歴代継承して今日に至る。
  歴代住持のうち五世良哉禅師は、白隠禅師の高弟として広く世に知ら
 る。
  明治初年御朱印地返上により、塔頭霊源寺、廣国寺を廃寺し其の他
 漸次諸堂宇を失い、今日に至る。」
とありました。
 徳川家と吉良家の特別な関係とは、まずは徳川広忠公と東條吉良持広公
との間にあったようです(詳しくは別途探求したいと思います)。

 墓地に行くと、まずは「斉藤清左衛門」の墓の説明看板が目に入りまし
た―
 「元禄十五年十二月十五日未明、江戸吉良邸において討死。中小姓里方
 斉藤金右衛門が分骨。ここに葬るも、芝居での悪評ゆえか法名(本翁元
 来信士)を削り、その跡を隠す。」
とありました。確かにその墓標はほとんどのっぺらぼうでありました。
その一段上に、吉良満義公、尊義公、持廣公の小振りの宝篋印塔と開山の
佛海禅師の墓が建てられておりました。

 それ以外の墓は少なかったですが、岩崎家、赤松家の墓の家紋が、丸に
三つ柏であったのに少し親近感を感じました。

 ここで、吉良家・家臣・その他関係諸氏の墓標に向かい、般若心経を二
巻唱えました―
 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月10日 06時34分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

般若心経をわたくしの分まで、ありがとうございました。

華蔵寺に来ても花岳寺まで来てくれて、その上に、般若心経を詠んでくれる人はまずいないでしょうから
本当に良いことをなさいました。


斉藤金右衛門も嬉しかったことでしょう。

      斉藤金右衛門は「里方」ということで、吉良の人というのは分かりましたが
      それ以上に  わたくしに最初に華蔵寺や堤のことを教えた西三河の人の  ご先祖さま!  ということに驚きました。
      なるほどね。


      http://www.pref.aichi.jp/nogyo-shinko/cgi-script/search/search.cgi?action=res_detail&key=1203061781

      西尾市吉良町岡山の黄金堤は、吉良上野介義央が築いた堤防で、桜が咲くと花見客も訪れます。


      言い伝えによると、当時岡山村から南の地域は、大水のたびに被害に苦しんでいました。
      義央は、貞享3年(1686)西尾藩主土井利意と話し合い、
      岡山陣屋の代官斉藤金右衛門に命じて、瀬戸の山と岡山の山間に、長さ約180m、高さ約4mの堤防を一夜で築いたといわれます。

      その後は水害がなくなり、良田となったことから、人々はこれを「黄金堤(こがねづつみ)」と呼んで遺徳をたたえました。

      またの呼び名を「一夜堤」ともいいます。



>岩崎家、赤松家の墓の家紋が、丸に三つ柏であったのに少し親近感を感じました。

あるもんですね。
驚きですね。にっこり
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月11日 00時19分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 花岳寺の境内に、「開山等の説明書き」がありましたので期します―
 「開山佛海禅師
  一峯明一禅師と称し、京都東福寺及び西尾実相寺に住持し、貞和三年
 (1347)、当寺を開山せらる。西條四代城主吉良満義公、師に深く帰依せ
 らる。貞和五年九月二十三日遷化せられ、文和二年、光厳院(北朝帝)よ
 り「佛海禅師」と勅号を賜る。墓所は、当山と遠州三ケ日にある。
  東條吉良氏之祖
吉良尊義公  
  ―略―
  吉良満義公
  ―略―
  吉良持廣公
  東條八代城主、左兵衛佐持廣と称す。松平清康公の妹を室とせられ、
 実子無きため、清康公の娘を養女に、又西條より義安公(華蔵寺開基)を
 迎え、婿とせられる。天文四年(1535)清康公、尾張守山陣中急死の後、
 一子仙千代家督上の危急を救い、己が名の一字を与え、廣忠とせられる。
 是れ家康の父也、天文八年(1539)十月二十二日卒。華岳寺殿と号す。」
とありました。

 この中で、佛海禅師の墓が、三ケ日にもあるということで調べましたら、
三ヶ日町大谷(おおや)にある「高栖寺(こうせいじ)」に墓があるというこ
とです。三河と遠江は宗教でもつながっているということ、再認識いたし
ました。
 また、清康・廣忠・家康と吉良家はすごく近い関係にあったということ
でありますが、余り知られていない。都合が悪かったのでしょうか?

 本日は、『豊川の歴史散歩』という本を読んでいて、豊川に「一色城」
があることを知りました。一色時家が築いたということで興味が湧いて
きました―
 
  

  
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月11日 00時22分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一字訂正:期します→記します
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月11日 03時59分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


吉良と家康は親戚だったんですか。

      吉良持廣公
      東條八代城主、左兵衛佐持廣と称す。
      松平清康公の妹を室とせられ、
      実子無きため、清康公の娘を養女に、
      又西條より義安公(華蔵寺開基)を迎え、婿とせられる。


                           東条・西条両方出て来てこんがらがりますが

まさに家康の御一族じゃないですか。

ということは今川に人質に行ったり、築山殿との結婚はそんなに意外なことでもなかったということになりますね。

ちょっと遠いけど、一応、一族まわりになる関係の中でだった、と。
格では松平が1番下だから「逆玉だった」と。
今川の家来衆の中では家康はシンデレラボーイとして妬みの対象だったかも。



>本日は、『豊川の歴史散歩』という本を読んでいて、
>豊川に「一色城」があることを知りました。

へぇ〜

一色氏って幡豆郡一色限定かと思ってました。

     わたしもマダマダ歴史が分かっていませんね。


http://www.toyokawa-map.net/course/sengoku_busyo.html
牧野氏が出てきますね。
ということは牧野氏の家紋  丸に三つ柏紋  の影響も考えないといけませんね。


一色城跡
大聖寺を取り巻くにあたり一帯が城跡で、わずかに土塁が残っています。城は、永享11年(1439)、一色刑部少輔時家によって築かれました。

文明9年(1477)時家は家臣の波多野全慶に殺され、全慶も明応2年(1493)、一色氏の旧臣・牧野古白に敗れ、
以後、牧野氏の居城となりましたが、牛久保城が築かれたため、廃城となりました。


一色氏は足利氏の一門で、
永享の乱(1438)のとき一族の一色刑部少輔時家は鎌倉を逃れ、
一色城を築き、ここを拠点に下長山・牛久保など現在の豊川市一帯を支配しましたが、
家臣の波多野全慶に殺されました。
現在、大聖寺には、一色刑部の墓と伝わる五輪の塔があります。



今川義元公墓所(大聖寺)
今川義元は、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで織田信長に討たれて首を取られました。

今川の家臣たちは首のない胴体だけの義元の遺体を背負い、駿河へ退却する途中、
大聖寺の境内にひとまず葬り、手水鉢をその上に墓印として置きました。

3年後、義元の嫡子氏真により三周忌が営まれ宝塔が建てられました。



牧野成定公廟
牧野成定は、牧野保成の後をうけて第2代牛久保城主となり、
このころ今川方から徳川方に従うようになりました。

永禄8年(1565)、家康が吉田城を攻めた際、成定は酒井忠次とともに今川方の説得につとめ、
無血開城させるという武功をたて、家康の信任を得ました。

墓碑は貞享元年(1684)、成定の曾孫により建てられました。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月11日 09時07分40秒 ) パスワード

全く関係ありませんが
http://www.youtube.com/watch?v=fu2txk1zcS0   

レントゲンの目を持つ女医の話が22分後あたりからあります。


うちの近所のヒトが去年言ったことには  XXさんが人の身体の中を見る力があって  ○○さんが不調で気の毒だから  XXさんに紹介したい、と。


ワタシも見て欲しいのですが
別にたいした悪い所は無いので
諦めています。

XXさんは今年の3月までは仕事が忙しいから○○さんに紹介するのはその後だと言ってました。


そして本日上記URLのサイトを見つけました。
こういう能力のある人が本当にいるんでしょうか?

うちのオットのことを見て欲しいけど
このXXさんという人は多分見掛けたことはあって(確信は無いけど多分同一人物)
でも、あんまり好きなタイプじゃなくて、なんか反感を感じたので
このXXさんのことをすっかり忘れていました。

で、上記URLのサイトを見つけたのでXXさんのことを思い出しました。

ということでここに書いて置きます。


上記サイトの女医とXXさんが全く同じようなタイプだったのが気に入ったので書きました。
お金は取らない、ということです。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月11日 09時21分21秒 ) パスワード

http://www.youtube.com/watch?v=ZhQYZhFt6Hs
続き


ヤーナさんの治療法が日本の「真光の業」というのに似ていると思いました。
同僚にいました。

確かに頭痛を治してくれました。


[8]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月11日 09時33分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 豊川は何回も行っていますが、一色氏や牧野氏、今川氏には関心がなか
ったので、眼中にありませんでした。でも、歴史は重層構造でありますの
で、一色氏や牧野氏の通り過ぎた足跡を見つけるのも必要かと、本日行っ
てまいります―

 なお、吉良氏で武蔵(世田谷)に行った関東吉良氏に、こんな伝説があり
ましたので記しておきます―
 「今から400年以上も昔、世田谷城主・吉良頼康には、奥沢城主・大
 平出羽守の娘で、頼康の寵愛を一身に受けた側室がいました。美しく、
 優しく、教養もあるその娘の名は常盤といいました。
  常盤が懐妊すると、正室や側室は一層嫉妬の炎を燃やしました。側室
 達は、常盤の密通の作り話を頼康の耳に入れました。頼康はその巧みな
 言葉を信じてしまい、それ以来常盤を遠ざけ、密通相手とされた相手と
 その一族を成敗してしまいました。
  疑われた上に悲しい出来事が重なり、常盤は、ついに死を決意します。
 そして、幼い頃から可愛がっていた白鷺の足に遺書を結び、父母の住む
 奥沢城へと放ち、城を抜け出すと、弦巻の常在寺へ逃げ込みました。
  城ではただちに常盤殺害が厳命され、寺に追手が乱入して来ました。
  常盤はこれまでと、守本尊の鬼子母神を井戸に投げ込み、自害したの
 です。
  その頃、頼康は奥沢城の近くで狩りをしていました。呑川のほとりで
 飛んでいる白鷺を見つけ、これを射止めました。舞い落ちてきた白鷺は、
 白い羽から赤い血をしたたらせ、既に息絶えていました。その足に結ば
 れている手紙のようなものを開くと、それは常盤の遺書でした。頼康は
 あわてて城に帰りましたが、常盤はもう冷たくなっていました。遺書で
 彼女の無実を知った頼康は、深く後悔し、讒言をした側室達を処刑しま
 した。
  呑川のほとりで死んだ白鷺の血のあとから一本の草が生え、小さな可
 憐な花が咲きました。使命を果たせなかった白鷺が、花となって飛び立
 とうとするように見えるこの花は、「サギ草」で、この土地の人々に悲
 しい常盤の物語を思い出させるそうです。」(世田谷「サギソウ伝説」)
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月11日 09時36分15秒 ) パスワード

第3話  http://www.youtube.com/watch?v=IwZx6Fnvu8Q

に出て来るアリソン・デュボアさん
http://en.wikipedia.org/wiki/Allison_DuBois
16歳の時に日本で言う大検の資格を取得した才媛だそうです。

   アリゾナ州立大学でポリティカルサイエンスの学位を取得。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月11日 10時09分55秒 ) パスワード

退行催眠
http://www.youtube.com/watch?v=NtJuxnE0YmU

普通のヒトは知らない内容がいっぱい。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月11日 10時39分59秒 ) パスワード

http://www.youtube.com/watch?v=jvL4GUti_vQ

前世の記憶を思い出す方法。

    どんな時でもしっかり食べしっかり眠れるワタクシは大丈夫。



    ワタクシの場合はNHKの「太平記」の合戦シーンだけはイッちゃいました。
    他の大河の合戦シーンは何事も無く平気で見てますが「太平記」だけはダメでした。
    ものすごく怖くて自分が死ぬと思いました。

       他の大河の合戦シーンは「エキストラの皆さん頑張ってるね」とか「これはCGだな」とか思いながら見て画面に突っ込んでいるんですけど。


    「太平記」の合戦シーンには(あそこにいた)といういたたまれない気持ちとか自分が殺された時が蘇りました。
    「平清盛」とか「義経」の大河には自分は全くあの<場>にはいなかった・・・という思いです。先祖は父方も母方も当事者なのに。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月11日 11時11分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


ネットサーフィンとユーチューブサーフィンで遊んでいました。


豊川にはもう着かれた頃でしょうか?
わたくしも豊川は  豊川稲荷  しか思い浮かびません。


牧野氏が豊川関係者というのは全く知りませんでしたが
そう言えば大学時代に牧野という人がいましたっけ。
両親の話はたくさん聞かされましたがご先祖さまのことや家紋も聞いておけば良かった!



で、今、あることを思い出しました!

          >吉良氏で武蔵(世田谷)に行った関東吉良氏


寛政諸家譜を読んでた時に  

伊賀で人を殺めて出奔した服部源左衛門対馬守康高は今川義元に仕え
子の助之丞康次は氏真に仕え18人衆の1人。
  
更に孫の服部助左衛門康信が秀忠に仕え410石になり弟に150石を分けて分家させ

葬地は
牛込の万昌院で、これは市ヶ谷から移された吉良家菩提寺

と読みました。



この服部氏の家紋は車の内横矢筈二筋。
分家の方は車の内横矢筈二筋と向ひ蝶紋。

        ということは、この服部家は関東吉良家の子孫とも交流があったのでしょうね。
        吉良公が絶大な力を持ってたのですから関東吉良家もヨシミを通じていたでしょうから。




_________________________________


世田谷に行った服部氏で思い出すのは  赤堤に住んだ呉服明神の服部貞信の家  ですね。  
この服部家も「卍紋」の他に矢張り「車輪竪二本矢紋」を使用してました。


____________________________________

そうすると三つ柏さん宅は何故丸に三つ柏紋?
他にも家紋があったのに丸に三つ柏紋が代表紋になった?

ますます謎が深まりました。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月11日 21時10分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、気賀より姫街道に入り、三ケ日を通って本坂トンネルを抜け、
豊川に入って終点の御油(ごゆ)宿まで行ってみようと思いました。つま
り、姫街道という道筋が、一本で遠江から蒲郡の北までつながっている
という現実を確認したいと思ったことが一つの目的であります。

 もう一つの目的は、「行き」の行程において、馬場というところで一旦
姫街道からはずれ、南下(正確には南西)して、城下(しろした)という所か
ら北上(正確には北西)し、「牛久保」という所でいろいろ探索することで
ありました―
 
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月11日 22時11分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『豊川の歴史散歩』によりますと、牛久保の地名の由来は―
 「牧野様と牛窪
  今から四百八十年余り前の話である。牧野城の殿様、牧野成時(古白)
は、一色城に移り住むため、お伴の者達を従えて、天王社の手洗い、金
 色(こんじき)清水の窪溜りの近くにさしかかった。すると、清水のかた
 わらに野飼の牛が寝そべっており、往来の人々は皆、その牛をよけて通
 っていた。
  ところが、殿様が通りかかると、寝ていた牛がゆっくりと起き上がり、
 道を開けて殿様を通した。御案内のためお伴をしていた長山郷の庄屋、
 石黒九郎兵衛は、「これは、めでたいことの前兆です。世のことわざの
 ように、国主になられること疑いありません」と申し上げた。殿様は、
 殊の外喜ばれ、一色城へ入られた。此の時より、一色・とこさぶの地を
 「牛窪」と改めた。その後、幾久しく栄えるようにと、現在の「牛久保」
 の地名になった。」
とのことであります。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月11日 22時51分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


牛久保は全く土地勘が無いので地図で牛久保駅を見ました。

http://www.mapion.co.jp/station/ST24825/

伊那街道がすぐ近くに通ってますね。
へぇ〜


で、驚いて飯田線を調べてみました。
http://www.mapion.co.jp/station/ROJ003006/

天竜浜名湖鉄道や遠州鉄道も見ました。

   なるほど、こういう土地勘なのか、と。

飯田線の小和田は知ってましたが大井川鉄道に大和田があるんですねえ。


こういう路線とか見るのは好きです。
方向音痴なので路線で線をつけてくれると把握し易いです(ホントか?)
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月11日 23時10分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 車でナビを見ながら目的地の駐車場へ一発で行くことができれば最高
でありますが、城郭や大きな神社仏閣を除き、小さな神社やお寺は地図
やナビに載っていなかったり、道が細かったり、交通の流れでゆっくり
走れず見逃してしまったり、肝心の駐車場がなかったりで、いつも苦労
いたします。

 今回も、いろいろ苦労しましたが、自転車を積んでいきましたので、
細い道、駐車場の問題はクリアできました。
 まずは、長谷寺へいきました。ガイドブックで寺町にたくさん寺があ
り、「長谷寺」という名前に魅かれたわけであります。

 行ってみると、「はせでら」はなく、「ちょうこくじ」でありました。
びっくりしたのは読み方だけではありません。ここには「山本勘助」の
墓があったのです。
 山本勘助と長谷寺との関係の説明書き―
 「山本勘助と長谷寺
  山本勘助は、明応九年(1500)八月十五日、八名郡賀茂村(現豊橋市
 賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名乗っていま
 した。勘助は十五才で牛窪(現豊川市牛久保町)の牧野家家臣大林勘左
 衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改め、二十六才で武者修
 行のために諸国(近幾、山陰、山陽、四国、九州)へ出立するまでの若
 く多感な時期を、この牛久保の地で過ごしました。勘助が諸国を歴遊
 し武名を高め、三十五才の冬に大林家に帰還したところ、勘左衛門に
 実子が生まれていたため、養子縁組を解き、再び山本姓に戻りました。
  その後、関東の地を歴遊し、四十五才で甲斐の国(現山梨県)の武田
 信玄に仕え、幾多の戦いで名軍師と謳われましたが、永禄四年(1561)
九月十日、川中島の合戦で討死しました。
  勘助は、この地の人々と親交があり、当寺の念宗和尚とは、特に親
 しく、武田信玄に仕えた折には、入道して道鬼斎と称し、遺髪を和尚
 に託しております。川中島の合戦での勘助の死を知った和尚はこれを
 悼み、当寺に遺髪を納めた五輪塔を建立しました。また、当寺には、
 勘助の守本尊「摩利支天尊像」が残されています。
  毎年、勘助の命日には、地元の人々により、当寺において「山本勘
 助祭」として供養が執り行われております。」
とのことであります。

 眠くなりましたので、ここで本日は一旦切ります。また明日―
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月12日 09時17分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


長谷寺  はせでら  ではなくて  ちょうこくじ  でしたか。
へ〜


山本勘助のことはNHKの大河ドラマで  庵原忠胤  との関係を紹介してて  庵原氏のことが気になります。


庵原忠胤と親戚みたいな。


      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%8B%98%E5%8A%A9
      天文5年(1536年)、37歳になった勘助は駿河国主今川義元に仕官せんと欲して駿河国に入り、
      牢人家老庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈信置を通して仕官を願った。
 
      だが、今川義元は勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。
      勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。

      今川の家中は小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない勘助が兵法を極めたなぞ大言壮語の法螺であると謗った。



庵原

【読み】あんばら,あいはら,あまはら,ようはら,よはら,いはら,いおはら,いおりはら,いばら,いよはら

【全国順位】 6,166位
【全国人数】 およそ1,600人

庵原国造、庵原朝臣、越智氏(物部氏の子孫)、土師氏等がある。
現愛知県である尾張藩、彦根藩、下手渡藩、丹南藩にみられる。

「原」は野に対して平らな広いところを表す。



山本勘助が豊川のヒトだったとは。驚
地理的とか歴史的に天竜川を遡った信濃とか甲斐と近いんでしょうかねぇ。
信玄に拾われて良かったです。
今川に仕官が叶っていたら歴史に名を残すことは無かったかもですね。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月12日 09時19分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長谷寺(ちょうこくじ)には、山本勘助が携えていたという「摩利支天」
と厨子が保存されています。その案内板には―
 「山本勘助襟掛本尊 摩利支天像
  摩利支天像は一寸三分(約4cm)の小像で、当寺壇上の厨子の中に
 安置されています。
  山本勘助は、二十五才の時、高野山に登り武芸上達を祈願すること
 七昼夜、満願の夜に霊験によって、夢中に弘法大師空海の作といわれ
 本像を授けられ、以来、襟に掛けて己の守り本尊としました。
  その後、武者修行のために諸国を歴遊し、四十五才で武田信玄に仕
 え、幾多の戦いで勇名手柄をあげました。勘助は出陣にあたり、もし
 戦場で討死し、身からはなさずに昼夜襟に掛けていた本像が人手に渡
 らんことを嘆き、当寺の念宗和尚に託しました。
  本像は、火炤(かえん)輪光背(りんこうばい)を背負い、三面六臂(ぴ)
 の炤髪(えんばつ =忿怒髪)像で、四頭の猪に座した騎像となってい
 るのが特徴です。昭和四十七年、市の文化財に指定されました。
  本像を拝み信ずる者は、災難を逃れ、かつ武芸に心する者は、深く
 祈願すれば剣術早業の奥義を究め、将来に名を残すこと疑いなしとい
 われています。」
と書かれておりました。

 摩利支天とは何かということで、下記サイトより引用―
 ninjack.jp › Nin-Labo › Nin-Semi
 「武士も忍者も頼った軍神・摩利支天
  オン アニチ マリシエイ ソワカ
  忍者を志す者じゃなくても、戦国好きの方なら1度くらいは聞いた
 事はあるのではないでしょうか?
  この言葉は軍神・摩利支天の真言です。
  戦場に臨む時に軍旗を立てながらこの真言を唱えると、一切の厄災
 から護られ敵から姿を隠す事ができると信じられていました。
  山本勘助や前田利家、毛利元就に立花宗茂などの戦国時代の強者た
 ちが摩利支天を信仰していたといいます。
  そして摩利支天は武将だけでなく、特に忍者は好き好んで信仰をし
 ていました。
  いわゆる忍者にとっての最強の神様だったわけですが、なぜでしょ
 うか?
  摩利支天様って何者?
  marishiten
  摩利支天は、ひとことでいうと「陽炎」の神様です。
  もとはインド仏教の女性の神様であったようですが、日本に伝わっ
 た際に男性としても描かれるようになった模様。
  特に甲賀に伝わる摩利支天像はほとんど男のようですね。
  帝釈天と阿修羅の戦いのとき、摩利支天は姿を隠して帝釈天に加勢
 し、帝釈天を勝利に導いたようです。
  このことから、誰にも見えず、誰にも害される事なく願いを成就で
 きる隠形の神、不敗の軍神とされました。
  必ずイノシシに乗っていて、摩利支天像をなるべく小さく彫って身
 につけると、勝負事にご利益があるとされています。
  そりゃ隠密行動をメインとする忍者としては崇めたくなりますよね!」

 湖西市の本興寺から北に行き、宇津山城跡の近くから西に入った所に
「摩利支天」(東雲寺)があります。徳川家康をはじめ、武将たちが戦勝
祈願したといわれております。プロゴルファーの中島常幸さんが来られ
たということで話題になりました。

 織田信長の父も摩利支天を信仰していたようです。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月12日 09時49分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長谷寺の勘助墓所に行きました。寺の西側に回りこんで歩いて行くと、
その真正面に椎木の大樹が生え、その下に石垣で囲まれた五輪塔が見えて
来ました。五輪塔の前にはきれいな花が左右に飾られていました。そして、
その横の看板にに説明文が書かれてしました。その内容はレス[16]で記し
たとおりであります。
 ここで、五輪塔に向かい、般若心経を二巻唱え、鈴(りん)を鳴らしまし
た。鈴の音は時空を超え、しみ入っていくように感じました。

 その他の墓では小笠原氏の墓を見つけました。家紋は「丸に三階松」で
ありした。

 また、一番奥のほうに「馬匹共葬碑という自然石の2m位の石碑が建て
られていて、馬も供養したということ、初めてではありますが、なるほど
と思いました。

 次は、一色城跡へ―
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月12日 10時25分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


>帝釈天と阿修羅の戦いのとき、摩利支天は姿を隠して帝釈天に加勢し、帝釈天を勝利に導いたようです。
>このことから、誰にも見えず、誰にも害される事なく願いを成就できる隠形の神、不敗の軍神とされました。

なるほどね〜
納得です。


>必ずイノシシに乗っていて、摩利支天像をなるべく小さく彫って身につけると、勝負事にご利益があるとされています。

思わず身を乗り出してしまいました。




>そりゃ隠密行動をメインとする忍者としては崇めたくなりますよね!

はい。
なかなかカシコイですものね。



>馬匹共葬碑という自然石の2m位の石碑が建てられていて、馬も供養したということ、
>初めてではありますが、なるほどと思いました。

こういう優しい心根が日本的で良いですね。

馬にはかわいそうなことをしましたからね。
たくさん死なせたんでしょうね。

感謝を込めて
本当に美しい日本人の精神だと思います。
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月13日 14時15分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「吉良氏=西尾の殿様」ということで、浜松は200年にわたってその
支配を受けていた(その半分は、現地における同族の斯波氏の直接支配で
あった)。
 その足跡・痕跡を調べることが一つのテーマとなりました。今までは、
ほぼ家康の遠江侵攻以後のからの歴史を捉えようとしていました。歴史は
不断のない人間のこの世に刻んだ痕跡でありますので、当然徳川以前の今
川氏、斯波氏、吉良氏の地層があるということ、このことが実際余り見え
ていなかったということであります。

 今回、吉良氏の歴史に踏み込んでみて、三河と遠江の関係の密なことが
わかり、視点・観点を替えての歴史探究ができるような気がしております。

 昨日は、大須賀に行って来ました。その目的は、現地の図書館で麻織物
の織機や織った布の展示がありましたので、それを見ること、また大須賀
には立派な寺がありますので、それを見ることでありました。もっとも、
午後から出かけましたので、寺についてはニケ寺しかまわれませんでし
たが……。さらに今後調査して行きたいと思っています。

 これらの件については、「豊川」の方の報告が終わってからにいたしま
す。いずれにしても、大須賀城は大須賀氏の後、「西尾氏」が藩主をして
いましたから、すくなくとも三河の西尾とは何らかの関係があるものと考
えています―
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月13日 14時48分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


はい
「家康以降」の遠江しか意識に無かったから
それ以前の遠江を知らないと丸に三つ柏紋の服部氏が分からないかもですね。



わたくし的には吉良氏と西尾ってこんがらがります。
ワタシの吉良氏は幡豆郡吉良町限定なので。

    三つ柏さんお書きの「西尾の吉良氏」って?
    と必ず戸惑います。笑

    とはいえもっともっと前は吉良氏が西三河の南部を支配してたんでしょうね。

    確かに西尾市役所あたりは吉良氏の一族の今川氏の土地でしたから。
    つまり吉良氏はもともと  西尾の人  だったわけです。あ〜、ややこしい。


なのでもっと吉良氏を勉強しないと歴史が掴めないです。汗


    吉良に一色に今川に
    家康がずっとずっと後の世

    三河と遠江が一体化するのは家康の時代だけじゃなくてその前から


と何度もインプットし続けないといけません。


やはり家康の前の時代の資料をたくさん読まないといけませんね。
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月13日 15時10分24秒 ) パスワード

空の青海野あを様

 訂正:大須賀城→横須賀城  (旧大須賀町にある横須賀城、大須賀氏が
    初代・二代城主) 
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月13日 16時30分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 牛久保城址ですが、これは牛久保駅の東の坂を、約三十m程登った所
にある踏切の、手前の道を東に入った所にありました。車ではほとんど
見落としてしまいそうな場所にありました。幸い、自転車で行きました
ので、何とかたどり着くことができました。
 そこは三十坪位の空き地で、三m位の高さの細い石碑が土台の上に建
てられていました。「牛久保城址」と刻まれていました。ここは、一色
城主の牧野成勝が築城したものでありますが、今は跡形もありません。

 次に、大聖寺に向かいました―といっても、おおよその見当をつけて、
自転車で路地を行きつ戻りつでやっとたどり着いたのであります。
 入り口には三m位の高さの所に、縦一m×横三m程の看板が掲げられ、
「旧一色城跡 今川義元公御廟所 牛頭山大聖寺」と書かれていました。
 入り口を入るとすぐの所に、縦書きの長さ一m位の看板が見え、「一色
刑部公 今川義元公 墓所 旧一色城、廟内浄土宗大聖寺」と書かれて
おりました。
 今川公に会えるというような気持ちで墓所に向かう―正面に今川義元公、
その左手に一色時家公の墓がありました。
 まずは一色公の墓の説明書き―
 「室町時代、足利の一族刑部少輔時家の墓である。永享十一年、宝飯郡
長山村に築城して一色城と称した。此処の窪地に大牛が横臥していた因縁
により、牛頭山大聖寺を城郭内に建て、牛頭大王を祀った。文明九年、
時家は、豪臣波多野全慶に殺され、十六年後には全慶もまた牧野古伯に討
たれ、城主は牧野氏となる。永生二年、古伯は吉田城を築いて豊橋へ出て、
次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした。之より牛窪と改まる。」
 墓は、六十cm位の仏塔であった。

 そして、いよいよ今川義元公の墓の説明書きである―
 
 ここでちょっと休憩します―
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月13日 22時47分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


いいですね〜
現地取材。

これをやらないと印象に残りませんしね。


>大聖寺

大聖寺?
加賀国の大聖寺なら理解が出来ますが愛知県にもあったのですね。

       尾張の犬山?にもあるようです。



>室町時代、足利の一族刑部少輔時家の墓である。
>永享十一年、宝飯郡長山村に築城して一色城と称した。
>此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により、牛頭山大聖寺を城郭内に建て、牛頭大王を祀った。

なるほど
それで牛窪とか牛頭さんでしたか。

お茶目。




お茶目と言えば  ↓    もっと驚いたのは

http://rocketnews24.com/2014/10/21/500047/
【怖すぎ】愛知県蒲郡市のカオスな霊場「大秘殿」の怪奇コレクションに背筋を凍らせて


以下コピペ

太平洋を臨む愛知県蒲郡市。このひなびた港町の小高い丘に、国産牛肉におけるA-5クラスのパワースポットがあると聞いてやってきた。

噂の「大聖寺大秘殿」とは、廃止されたロープウェイ駅の跡地に全長300メートルの人工洞窟を建設。独自に収集した世界中のありとあらゆる仏像、神像、怪奇アイテムを詰め込むだけ詰め込んだトワイライト・ゾーンである。

寺なのに大きな鳥居、そして観音像、仏塔だの狛犬だのグッチャグチャ。入場料1000円と聞いてウッと怯んだが、虎穴に入らずんば虎児を得ず。さっさと入ってみると、まさに噂以上のイカレっぷりだった!

・まさにカオス、魑魅魍魎、世界の神々と会おう!

入口横には1メートルを超える般若面。そしてタヌキ、地蔵の群れ……。パッと見、霊場というより「ちょっとキている」お化け屋敷といった雰囲気。

早速、細長いトンネルを奥へ奥へと歩いてゆく。目につく至るところにインドの女神像だの、埴輪だの、アフリカのお面だの、道祖神だの、地獄絵図など、一貫性のないアイテムが、一貫性のないレイアウトで所狭しと並んでいて、その意味不明さに思わず息を飲む。

長い長いトンネルゾーンを抜ける頃には、頭の中が「???」でいっぱい。その勢いで博物館ゾーンに雪崩れ込むや、ガラスケースに収まった「髪の毛が伸びる日本人形」を発見。それも何処から集めてきたのか、一体じゃなくて一個小隊の大迫力!

壁には歴代首相の肖像画がズラリ。うん? そういや数日前も、百枚を超える歴代天皇の肖像画コレクションを見たばかりのような……。

・オーナーは珍スポ界のウォルト・ディズニー「風天洞」の和尚だった!

似てるなあ……。と思ったら、やはりというか、ほんの少し前にレポートした愛知県豊田市のスーパーヘビー級珍霊場「風天洞」のCEO・林海雄和尚が経営する姉妹スポットだった。中味は異なるも、根底にある混沌としたテイストは同じ!

博物館スペースの横はカラオケスペース。ここまで来ると意味不明さは天をも突かんばかり。呆然と見とれていたら、受付のおばさんがサイダーとお菓子をくれた。

・人生相談特別室(秘密厳守)

帰ろうと外に出たところ「人生相談特別室(秘密厳守)」なる看板を発見。人生相談・ビジネス相談から心霊写真・金縛りまで、一切に答えてくれるそうだ。こりゃ行くしか! と思うも、残念ながら時間切れ。駐車場の真ん中にそびえ立つ乃木将軍の巨大像に再訪を誓い、風変わりな町に別れを告げたのでありました。

・今回ご紹介した施設の詳細データ

名称 延命山大聖寺大秘殿
住所 愛知県蒲郡市三谷町鳶欠14
時間 9:30〜17:00
休日 年中無休



     三谷温泉は行ったことがあります。
     でも混浴だったのでワタシは入湯せず家に帰りましたが。




http://blog.livedoor.jp/nantaireport/archives/44355716.html

【愛知】超絶悲報の続報!蒲郡の大聖寺大秘殿の行方・・・

2014年の9月をもって、蒲郡の大聖寺大秘殿は閉館してしまった。


2015年4月18日。
私は豊田市の山奥にある風天洞に再訪して
こちらで勤務している大秘殿の元・管理人の女性に今後の大秘殿の行方を質問してみた。


すると・・・
正確な日程は決まっていないものの、大秘殿はそのうち取り壊される とのこと。
中の仏像などは弁護士を通じて販売、処分されるんだって。
(ネットで告知されるとのこと)

マママ、マジッスカーーーーッ!!
あの蒲郡ファンタジー館だって、
竹島ファンタジー館として復活したのに、
大秘殿は取り壊しっすかーーーー!!!

近くにあったホテルは更地になっていた。
大秘殿もいずれこうなるのか・・・


大秘殿に行ったことがある人もない人も、
今のうちに訪問して最後の姿を撮影すべし。

大聖寺大秘殿
住所:愛知県蒲郡市三谷町鳶欠14 (三谷温泉)



    どんどん記憶から消えていくんですねぇ。
    やっぱり経済が悪いからかなぁと。
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月14日 00時24分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、今川義元の墓でありますが、案内板には―
「戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は、永禄三年(1560)五月
十九日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。
 その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、こ
の寺に葬って、とりあえず石の手水鉢を乗せ、墓石の代わりにしました。
それが、「義元の胴塚」と言われる由来です。
 嫡子上総介氏真は、永禄六年(1563)父義元の三回忌をこの寺で営み、
父の位牌所として寺領を安堵しました。
 その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊
祭が行われています。」
とありました。
 ここに義元の首のない胴体が埋められたということに、正史の裏側に
は思いもよらない事実が埋もれている……と驚きの念をもって、鈴(りん)
を鳴らし、般若心経を二巻捧げた次第であります。
 この寺大聖寺のある場所は、一色城の城跡でありました。
 一色城というと、藤枝に徳之一色城というのがありました。一色氏に
からむ城だと思いますので、近日中に行ってみたいと思っています。

 次に向かったのは、八幡宮です―
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月14日 02時47分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


>嫡子上総介氏真は、永禄六年(1563)父義元の三回忌をこの寺で営み


今川氏真と北条氏直がいつもこんがらがります。


北条氏直の母は武田信玄の娘=====信玄の甥
今川氏真の母は武田信玄の姉=====信玄の孫
         この2人の関係は今川氏真が伯父?北条氏直が甥?
                     北条氏直にすると今川氏真は大伯母の子供
                     今川氏真にすると北条氏直は大叔父の孫

               このレベルでこんがらがります
               藤原氏の関係なんかもっとこんがらがってるからワケ分からないです 



永禄六年(1563)で「3回忌」というのは間違っているんじゃないかなと。


    http://jodo.or.jp/knowledge/soshiki/index_22.html

       一周忌は人がなくなって丸1年をまわった日をいい(一回忌とはいいません)、丸2年をまわった日を三回忌といいます。

       これは、亡くなった日が1回目の忌日(きじつ) 、丸1年目が2回目の忌日、丸2年目が3回目の忌日であることによります。

       三回忌までの法要はインド、中国の習慣を取り入れたもので、
       それ以降の年忌法要は日本で生まれたものです。

       七回忌以降の年忌の数え方として色々な説があります。
      


http://www.geocities.jp/japanmystery4989/aiti/yosimoto.html

東向寺 今川義元首塚
(とうこうじ いまがわよしもとくびづか)


愛知県西尾市駒場町榎木島
地図:結構旧今川家発祥の地に近いというか本来の吉良領内ということだったのかもですね。
土地勘が全く無いので地図を見て、ああ、ここなら義元公も納得だっただろうな、と思いました。


http://www.mapion.co.jp/m2/34.86390672,137.10574186,16/from_address=23213:1524::9

へぇ〜


 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて海道一の弓取りと呼ばれた今川義元は、織田信長の奇襲によって討ち死にした。討ち取られた首級は、翌日には首実検を経て織田軍によって須ヶ口に晒された。

 それを取り戻したのは、今川家の重臣・鳴海城を守備していた岡部元信である。今川勢敗退の後も城を守っていたが、交渉の末、城を明け渡す交換条件として首級を受け取ったのである。

 首級を受け取った元信は、そのまま本拠地である駿府へは戻らず、今回の戦いで自らの戦功がないとの理由で、刈谷城に攻め込んで城主の水野信近を討ち取っている。そのせいもあってか、義元の首級は腐敗が進んでしまい、結局、西尾にある東向寺で埋葬したのである。

 東向寺は、義元の叔父にあたる徳順上人は第4代住職を務めており、義元とは非常に縁のある寺院であった。おそらくそれを知って元信はこの地に首級を埋葬したのであろう。さらに元信は墓守として2名の武将を現地に留めおいた。そのうちの1名が今村氏で、東向寺の大檀家であったという。

 今川義元の首塚は、一般の檀家の墓地とは異なる丘の上に安置されている。海道一の弓取りとまで呼ばれた太守としては、あまりにも小さな塚である。ただ首塚の周囲には数基の墓があり、これらは義元の従者の墓とも、桶狭間の戦いで戦死した武将の墓とも言われている。



岡部元信
?-1581。今川家の有力武将。桶狭間の戦いでの行動は上にある通り。
武田家による侵攻によって今川家が滅ぼされた後は、武田家の武将として活躍する。
高天神城の守将となるも、徳川家の攻撃により落城、討ち死にする。



http://neesoku.net/imagawayoshimoto-shinigiwa/
今川義元の死に際すごすぎ

義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、
度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。
義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。
『改正三河後風土記』によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月14日 02時50分40秒 ) パスワード

http://maro32.com/%E5%BE%B3%E4%B9%8B%E4%B8%80%E8%89%B2%E5%9F%8E/

現在の田中城下屋敷にあった今川氏の城砦

 

藤枝市に復元整備されている田中城下屋敷あたりは徳一色村と呼ばれていたそうで、今川義元が築城した徳之一色(とくのいっしき)城があったと日本城郭大系の説明にあります。

築城の時期は天文6(1537)年と城郭大系は明記しているものの、同書の中で創築時期は明確でないと矛盾した説明をされています。

今川方の由井美作守正信が徳之一色城の守備につき、永禄3(1560)年には長谷川紀伊守正長がその職に就いたとされています。

永禄13(1570)年の正月に武田信玄の前に敗れ、長谷川氏は武田方に降り、以後徳之一色城は武田氏の居城として、新たに田中城として生まれ変わることになります。

徳之一色城のあった田中城下屋敷は藤枝市になりますが、管理人のように電車で訪問する場合、西焼津駅で降りて北西の位置に2キロ程歩くのが早いかと思います。(※バスもあるようです。)

田中城下屋敷は二重櫓が象徴的ですが、この建物は江戸時代の田中城にあったものを復元したもの。天守閣の代わりを果たしていたそうです。

今川氏時代にはない建物ですが、これぐらいの建造物であればなにがしかの物見櫓はあったでしょうし、「近しい」ものはあったかと思いますが。

二重櫓の中には徳之一色城を示す資料などはありませんが田中城の模型などが展示されています。また敷地内にも土塁がいくつか残されています。

ですがこの位置は江戸時代の田中藩下屋敷であったそうですので、果たして徳之一色城時代の遺構であるのか自信は持てません。

ひとつ訪問されるのにあたって間違えないようにして頂きたいのは、ここは田中城跡ではありません。その城域は徳之一色城と隣接しますが、西益津小学校付近が本丸となり、そちらの周辺に遺構も残りますので、田中城下屋敷を見学されて早とちりで散策を終えないようにしてください。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月14日 14時57分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 八幡宮でなく八幡社でした。大聖寺の北、約百五十m位の所にありまし
た―といっても家屋が邪魔し、どこにあるかは目で確かめられませんでし
た。
 入り口正面の看板に、こう書かれていました―
 「八幡社の創建は、奈良時代と伝えられ、仁徳天皇と応神天皇がお祀り
 されており、当時は若宮殿と呼ばれていました。
  一色城主牧野成時(古白)が、ある年の四月八日に、この若宮殿に参詣
 した時、駿河の領主今川氏親より馬見塚(現豊橋市)に築城を命じられま
 した。喜んだ古白は、社前の柏の葉で御神酒を献じて家臣と共に祝い、
 家紋を三ツ柏に改めました。
  この時、境内の若葉が照り映えているのを見て詠んだ古白の句―
   「きのうけふ (今日)若葉なりしか杉の森」にちなみ、この祭を
 「若葉祭」と呼ぶようになりました。
  古白はじめ代々の城主は、若葉祭の時、領民の主だった者を城中に招
 いて、酒食をふるまいました。酒に酔った領民たちは帰る途中ごろごろ
 と路上に寝転んでしまいました。
  この様子を今に伝えているのが、祭の神幸行列の最後尾を受持つ「や
 んよう神」の一行です。路上に寝転ぶ様子が「うじむし」に似ている
 ところから、この祭は「うなごうじ祭」とも呼ばれています。」
とのことでした。
 牧野古白と三つ柏紋の由来でありました。
 このお宮では、日置流の流鏑馬大会が毎年開かれているようです。

 以上で八幡社を終わり、そこからずっと北西の御油(ごゆ)へ向かいまし
た。北上して体育館前より姫街道に入りました―
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月14日 22時49分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>駿河の領主今川氏親より馬見塚(現豊橋市)に築城を命じられました。
>喜んだ古白は、社前の柏の葉で御神酒を献じて家臣と共に祝い、家紋を三ツ柏に改めました。

へぇ〜
そういう経緯でしたか。


     柏の葉で御神酒を献じ

                 これが意外でした。
                 お神酒も葉っぱで?固形物だけかと思ってました。

                 ムカシの事が分かってなかったですね。




>「うなごうじ祭」

画像(笑)
http://www.youtube.com/watch?v=keD96HSZSos

確かに酔っ払いが寝込んでいる感じ。





牧野氏が今川家がらみの家紋を改めなかったというのにも  へぇ〜  でした。


三つ柏さんの家紋はどこから来ているのかますます混乱して来ました。
牧野氏の家来に服部氏がいて丸に三つ柏紋を拝領したという記録があれば簡単なんですが。



御油のお話を楽しみにしています。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月15日 06時08分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の言われるとおりです――服部氏と牧野氏との姻戚関係など、
はなからないものと思っていましたが、それでもひょっとしてと思い
「服部氏 牧野氏」で検索してみると、「日本の苗字七千傑」様の
《服部氏/内空閑(うちくが)氏》がヒットしまして、服部氏から牧野氏
へ養子に入いるという事実が判明しました。服部伊賀守藤原鎮基という
人の七代孫が基貞で、「内空閑氏」を名乗り、その弟の満実が牧野一俊
の養子となって「牧野家」を継いでおります。人物についてはそれぞれ
どういう人か詳しいことはまだ調べておりません。

 「内空閑氏」を検索しましたところ、下記のサイトに、服部伊賀守が
出ております。驚きです。あを様一度調査・分析・推理をお願いします!

  http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uti_koga.html
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月15日 07時27分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


播磨屋さんのサイト、読めば読むほど、いろいろ関係が浮かび上がって来て、タイヘン!


服部氏で藤原姓   あ、逆ですね  藤原姓服部氏   まさにヒバリさんのお話に合います。



熊本の山下さんという方がご近所にいらっしゃって、ワタシはいつも「山本さん」と呼んでしまうのです。失礼ですよね〜

で、平家を支えた平家貞=服部家長の父=は九州に関係があって筑後守を名乗ってました。
 
さらに戦国時代の肥前諫早の西郷家の侍大将に服部氏がいました。

        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E8%B2%9E
          平家貞
          平忠盛の側近として知られ、公卿たちが殿上人になった忠盛を闇討ちにする計画を立てた際、
          殿上の小庭に武装して控えて未然に防いだという逸話がある(『平家物語』巻一「殿上闇討」)。

              家長が同行しています。


          忠盛の信頼は厚く、平氏の本領である伊賀国鞆田荘の沙汰人となり、東大寺などの勢力を排除して在地経営に携わった。
          忠盛が西国の海賊追討に赴くとこれに付き従い、海賊追捕の賞として兵衛尉から左衛門尉に昇進する
             (『中右記』長承3年(1134年)閏12月12日条)。

          忠盛の死後は清盛に仕え、保元の乱・平治の乱で活躍する。
          保元3年(1158年)清盛が大宰大弐となり九州へ進出すると、家貞も筑後守に補任され、
          薩摩の阿多忠景や肥前の日向通良の反乱を鎮圧するなど、平氏の九州での勢力拡大に大きな役割を果たした。

          『平家物語』は一ノ谷の戦いで戦没したと記しているが、『玉葉』ではこれ以前に既に他界していた旨の記述がある。





重臣隈部氏

         姫沙羅さんの関係者が平家の隈氏です
         名字的に隈さんと隈部さんは関係があるのかな?

                   調べてみたら当たらず遠からず。
                   関係無いみただけど
                   菊池氏との  地の繋がり and/or 南朝方  から関係があったのかもですね

                           政治家的玉虫色回答(笑)


             隈さん

            【読み】くま

            【全国順位】 7,533位
            【全国人数】 およそ1,200人

             現佐賀県と長崎県である肥前国彼杵郡隈村が起源である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)。

             ほか現福岡県南部である筑後の豪族、
             現京都府北西部と兵庫県東部である丹波氏神代氏族。

             語源は、動物の熊、山麓から峰へと続く稜線、曲がった谷間、角などからきている。
             
             地名としては、愛知、福岡、熊本、大分に存在する。



             隈部

            【読み】くまべ,すみべ
            【全国順位】 4,035位
            【全国人数】 およそ3,000人

             現熊本県である肥後の豪族、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)宇野氏流がある。

             ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)新田氏流がある。


                    新田系ならモロ南朝方ということかもですね。

   
             現福岡県南部である筑後、現青森県の西半部である津軽等にもみられる。




>服部伊賀守藤原鎮基という人の七代孫が基貞で、「内空閑氏」を名乗り、
>その弟の満実が牧野一俊の養子となって「牧野家」を継いでおります。

これでしたら  マサに  服部氏で三つ柏紋でもおかしくないですね。


服部伊賀守藤原基貞さんの弟と牧野一俊さんのことが読めるといですね。



         服部伊賀守藤原姓を名乗る子孫の基貞なんて「貞」の字がいかにも桓武平氏系ですね。



やはりたくさん読まないことにはいけませんね。

わたくし的には三つ柏さんのお家が丸に三つ柏紋というのは  牧野家との関係   じゃないかなと。


牧野家の文書が静岡県図書館あたりにあると良いですね。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月15日 07時37分12秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13114316908
Q
肥後の内古閑家


               「財満氏」や「古賀」にも化けてるって!驚
                            ま、確かに、内古閑から古賀や古河に派生するでしょうね


A1

永仁元年(1293年)、藤原北家日野流の伊賀守藤原鎮基の長男備前守基貞が、肥後国山本郡に下ったという説と、

明徳元年(1390年)に肥後に下ったという説があります。

下向の時期が100年も離れているので、この説自体が正しいのかどうかは不明です。
いずれにしても、元は伊賀国服部郡の地頭だったようです。

                 

その後、肥後の菊池氏の家臣になり、内空閑を領したことから「内空閑(うちのこが)」と名乗ったそうで、「内古閑」とも書いたそうです。


「うちこが」「うちくが」と読む家もあります。


                 菊池の家来なら南朝方がらみの匂いがしますね。



山鹿市の康平寺、熊本市北区の内空閑神社が関連の施設です。


補足
佐々成政が肥後を治めていたときに一揆勢に加わり、天正十六年に切腹した成政に代わり、一揆鎮圧に当たった安国寺恵瓊に討ち取られ、内空閑氏は滅亡しました。


一族で生き残ったものはその後「財満氏」を名乗ったそうです。

古閑氏についてですが肥後国内に、菊池市古閑、山鹿市古閑、八代市古閑浜、玉名市古閑、熊本市奥古閑、益城町古閑、美里町古閑、富合町古閑、植木町古閑、和水町用水古閑・高野古閑、玉東町古閑、西原村古閑など「古閑」とつく地名が多数ありますので、名字としての「古閑氏」と「内空閑氏」との血縁関連はあまり無いものと思われます。


ちなみに、肥後国では「古閑」と書く例が多いですが、肥前国では「古賀」と書く場合が多いようです。



A2
八代周辺に一族がいるみたいです
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月15日 07時50分30秒 ) パスワード

牧野(服部)満実の兄弟の  服部?内空閑?基忠・真覚が分かると良いですね。
この人達が遠江に来たとか丸に三つ柏紋を使用してたらしいことが分かると良いですね。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月15日 08時22分28秒 ) パスワード

アイヤイヤー(中国語でビックリした〜と叫んでしまいましたよ)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%91%91


大友 義鑑(おおとも よしあき、異体字:大友義鑒)

戦国時代の武将・戦国大名。豊後国大友氏の20代当主。

初めは親安(ちかやす)、親敦(ちかあつ)を名乗っていたが、後に室町幕府将軍・足利義晴より偏諱を賜って義鑑に改めた。



主な家臣及び偏諱を受けた人物


     お歴々は省略
     松田聖子さんのご先祖がらみの蒲池氏も出てます


内空閑鑑貞(別名:鎮真)
服部右京亮(実名不詳。のちに義鎮(宗麟)によって滅ぼされる。)
龍造寺鑑兼(諫早龍造寺氏祖)


     諫早の西郷家が成り上がりの竜造寺に滅ぼされた時の諫早西郷家の侍大将だった服部氏も右京亮のような名前でした。

     ということは  服部右京亮は同一人物  でした。



諫早の西郷氏は菊池一族なんだそうです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hi_saigo.html

南北朝時代には、瑞穂町にある杉峰城主として西郷次郎の名がみえる。南北朝時代のはじめ、九州探題、征西宮、足利直冬の三者が九州に鼎立したとき、西郷氏が足利直冬の執事的位置にあった小俣氏連と合戦したとの記録もあり、西郷氏は南朝方として活動していたようだ。
 西郷氏が南朝方に立ったのは、菊池氏との関係が背後にあったものと思われる。また、領地を接する伊佐早氏は、北朝方に属して西郷氏の領地を侵すということもあったため、西郷氏は有馬・大村氏らと結んで北朝勢に対立したのであろう。南北朝の合一がなったのち、伊佐早氏は勢力を失っていった。そして、戦国初期の文明年間(1469〜87)西郷石見守尚善が伊佐早次郎入道を討って、諌早の地に進出したようだ。



                                         略


西郷氏の没落

 有馬晴信も龍造寺隆信に降ったが、隆信の残忍性を恐れた晴信は島津氏に通じて隆信から離反した。

  天正十二年、隆信は有馬氏を討つため三万の兵を率いて出陣、有馬・島津氏の連合軍と沖田畷で戦って戦死した。
 
  その後、島津氏は筑後・筑前を席巻し、大友氏を討って九州統一を完成せんとした。守勢に立たされた大友宗麟は大坂に上り、豊臣秀吉に救援を請うた。大友氏に泣き付かれた豊臣秀吉は、九州征伐の命令を発し島津氏を討たんと軍を九州に送った。


  天正十五年、秀吉みずから九州に入ってくると、鎮西の諸将は秀吉に拝謁した。

  このとき、西郷信尚は参陣・御礼を遂げなかったため、所領は没収され龍造寺家晴に与えられた。


 西郷氏は抵抗を試みたが、龍造寺氏の軍の前に大敗し西郷氏は滅亡した。


このとき、西郷氏の伝えた文書類はことごとく焼却されたため、西郷氏の歴史も不明となってしまった。

以後、諌早の地は龍造寺氏が支配するところとなった。

西郷信尚は妻の実家である平戸に逃れ、その子純久は五百石を与えられ松浦氏に仕えたと伝えられている。




家康の側室の西郷家も元は九州出身のようにどこかで読みました。

やっぱり南朝方ということで西郷氏と服部氏は関係があったようですね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E6%B0%8F

肥前西郷氏

肥前西郷氏は菊池氏の一族とされ、その菊池氏は藤原北家の藤原隆家流を称した。このため、肥前西郷氏の流れを汲むとされる西郷氏は、いずれも本姓を藤原氏と称し、鷹の羽を家紋としている。また、綾部氏系図より、大治年間に肥前権守として下向した藤原幸道の次男西郷次郎藤原道秀に由来するとする説もある。




三河西郷氏

三河の西郷氏(「郷」の異体字「・」を用いて「西・」とも書く)は、南北朝時代、後に細川清氏と対立し南朝方に帰服したこともあった九州の仁木義長がその後三河国の守護になったため、家臣となっていた肥前西郷氏の嫡流が九州から三河守護代として本拠地を移したのが始まりとされている[要出典] 。

室町時代には同国額田郡南部(現在の愛知県岡崎市・幸田町)で勢力があり、守護代でなくなった後も三河に残り、有力な国人となった。15世紀半ば三河国守護代西郷稠頼、そして、その子頼嗣により三河国岡崎城築城。次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。

また、三河には戦国時代の後期に同国最東部の八名郡の中でも、遠江国との国境辺りを領し、月ヶ谷城(愛知県豊橋市嵩山(すせ)町)、そして、五本松城、西川城(いずれも同市西郷校区)を居城とした西郷氏があり、守護代西郷氏の同族とされている。

八名郡の西郷氏は、16世紀に駿河の今川氏が戦国大名として台頭するとこれに服した。西三河の松平清康が台頭し、全三河を従える勢いとなると松平氏に服属し、1530年に清康が宇利城(現在の新城市)を攻めたときこれに従った。しかし、1535年に清康の横死(森山崩れ)によって松平氏が弱体化すると、今川氏に再属する。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、松平元康(徳川家康)が岡崎城に入って松平氏を再興すると、西郷正勝は次男の清員を人質に出して家康に従った。しかし遠江に近い西郷氏は今川方の反攻にさらされ、永禄5年(1562年)には、遠州宇津山城から朝比奈氏の侵攻を受けて、正勝とその嫡男・元正は戦死した。このため西郷氏は幼い元正の子・義勝が継ぎ、叔父の清員が後見した。

天正3年、武田氏の先遣・秋山虎繁(信友)が三河の設楽郡に南下侵攻してきた際、西郷氏は菅沼氏、設楽氏とともに戦ってこれを撃退するも、この戦いで義勝が戦死した。義勝の子はまだ生後まもなかったため、家康は清員の嫡男家員に西郷氏の宗家を継がせた。なお、義勝の妻(西郷正勝の外孫)は、のちに清員の養女として家康の側室西郷局(お愛)となり、徳川秀忠と松平忠吉を産んでいる。

西郷家員は1590年の徳川氏の関東移封の際、下総国千葉郡生実(現在の千葉県千葉市中央区)に5000石を与えられた。そして家員の子正員(まさかず)のとき5000石を加増されて安房国東条藩1万石(現在の同県鴨川市東町)を立藩、大名に列した。

その後、寿員(ひさかず)のとき、1692年に転封されて下野国上田藩1万石(現在の栃木県下都賀郡壬生町)の大名となったが、翌1693年に5000石を収公され、子孫は旗本として家名をつないだ。

その他、清員の弟や従兄弟などが徳川御三家や井伊氏、戸田松平家、会津松平家などに仕えている。とくに会津藩(現在の福島県会津若松市)では家老をつとめ、幕末に西郷頼母を出した。



                    やっぱり西郷氏と服部氏は根底で繋がっていたんでしょうね。


                    そして牧野氏とも繋がっていたんでしょうね。



立体的に考えないといけませんね。
歴史という縦の時の流れと人間関係の横の繋がりと奥行きという闇の深さ。


なんだかまだまだ入り口でウロウロしてるって感じですね。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月15日 09時43分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそくお調べいただき、ありがとうございました。また一つ地平線が
広がった感じがしております。
 服部氏、牧野氏、西郷氏…今まで遠かった氏族が急に近くに感じられる
ようになりました。
 西郷氏は掛川の西郷で忍者の訓練をしていたという話も残っています。

 忍者系は記録を残さないので、その過去の人間関係なども表に出ない。
 三河の水野氏も忍者系という話もあり、忍者とはどこまでのことをいう
のかという問題にもなりますが、とにかく戦国時代はどこも忍者(間諜・
工作員)であふれていたということは間違いないようであります。

 麻績服部氏の祖も藤原朝臣服部伊賀守ということ……藤原系の服部氏と
いうものに私は今まで注意を払ってこなかった。はたして、この筋、調べ
ることができるでしょうか(残存資料等があるかどうか)?

 善地の五苗―服部、永井、加藤、松島、鈴木。その中でも服部と永井は
近い関係にあります。丸に三つ柏紋は永井氏との通婚から使用するように
なったという可能性は大きいですが、もし、もともと当服部家が永井氏と
近ずく前から丸に三つ柏紋を使っていたとしたら、牧野氏との縁による可
能性も否定はできないところであります。何せ、牧野氏のトレードマーク
でありますので、その方が分かりやすいといえばわかりやすい……。

 いずれにしても、いただいた情報を深堀りしてみたいと思っています。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月15日 13時59分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


復習:服部(服織)氏の発祥について
http://www.nextftp.com/well/roots/new_page_9.htm


これによると本来は三つ柏さんの場合は服織神社系でしょうか?

服織神社の紋は分からないです。



服織田神社
はとりだじんじゃ
静岡県牧之原市静波1292
三つ巴紋

                ただし三つ巴紋は「安くつくから⇔いろいろな神社がこの紋を使用」という話もありましたね。


社伝によると、景行天皇の七年に勧請。

「服織田」の社号の由来は以下の三説。
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
3.祭神が、服織の神。

で、四国の服織ってどこだろう。
阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社)というのがあるが、
当社祭神・麻立比古命と関係があるのだろうか。

いずれにしろ、式内社・服織田神社に比定されている古社。


    この神社に問い合わせる?
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月15日 14時09分25秒 ) パスワード

復習
ヒバリさんの説明:コピペ


私の忍術の流派は、麻績服部流といいます。伊賀流忍術の一派ですが、伊賀といえば、皆さん真っ先に思い出す人物は、服部半蔵ですよね

でも、この服部半蔵、大半の人が、忍者だと思い込んでいるようですが、それは全くの誤解です!
服部半蔵は、武士です!

ただ、代々服部家は伊賀地方の豪族だったので、伊賀の忍者をとりまとめていたという事実が、どういう訳か、半蔵自体が代表的な忍者というイメージになってしまったようです。


今日は、ちょっと難しいんですが、服部氏の成り立ちをお話します。


時は、大和政権の成り立ちの頃。
朝廷の組織は、氏姓制度によって創られていました。
氏とは、名字のこと、姓とは位のこと。
位には、臣、連、君、直などがあった。
もちろん、一番頂点は、天皇の祖先、大王。
葛城、平群、蘇我氏などの大和の有力豪族には臣。
大伴、物部、中臣氏などの特定の職能を持って朝廷に仕える有力豪族には連。
筑紫、毛野などの地方の有力豪族、つまり、もと縄文民族には君。
大和政権の支配に服した一般の地方豪族、つまりもと縄文民族には直。

という具合に位づけをした。


それぞれの姓には、伴と呼ばれる、朝廷の警備や神の祭りを担当する人民、後の武士の原形。品部と呼ばれる職人。名代、子代と呼ばれる農民などが支配されていた。

そのうちの品部には、陶部、錦織部、鞍作部などのそれぞれの専門職人がいた。
そのうちの機織部(はたおりべ)と呼ばれる服を作る専門職人がいた。
それはやがて、服をつくることから、服部(はとりべ)と呼ばれるようになっていった。
これが、服部氏の始まりである。


これらの部民は、大陸から渡ってきた帰化人がなっていったのだが、そのうちの秦氏の一派、呉服(くれは)一族がもたらした機織り技術が、服部(はとりべ)の技術に発展していったことから、服部氏の祖先は、秦氏という見解が有力である。


ともあれ、もともと、服部氏は、大和政権の組織下に生まれた氏族であり、もともと縄文民族であった山の民を束ねるに至ったわけであり、忍者そのものになりえない家柄なのである。

服部半蔵自身が忍者ではないことを説明するには、ちょっと難しすぎたかな?




私の忍術の流派、麻績服部流忍術のネーミングのもとになった、麻績服部(おみはっとり)氏の説明をします。

麻績服部流の祖は、鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。

藤原は中臣の子孫なので、位としては連だが、蘇我氏などが滅んだことで一番最初の氏姓制度が崩れて来たので、飛鳥時代天武天皇の頃、新たな姓が生まれた。

そのうちの一つが朝臣(あそん)。

朝臣とは、皇族だけど、天皇とは血縁関係が遠い臣姓。


ここまでを聞くと、凄く高貴な家柄?と思うかもしれませんが、そうではありません。

その高貴な人の配下にあった服部(はとりべ)の家柄ということ。


〜守というのは、一国の民政、裁判を司るために、中央政府から派遣される地方官に与えられる役職。

つまり、伊賀守とは、伊賀の国の地方官ということ。


服部半蔵は代々石見守だったが、これは、徳川家が、服部家に、石見銀山の管理を任せようとして与えた役職。

しかし、服部伊賀守と服部石見守の決定的な違いは、
伊賀守は、朝廷から与えられたきちんとした役職であるのに対して、
石見守は、一つの家であるにすぎない松平家(徳川家)が、朝廷の制度を真似て勝手に付けた役職。


どういうことかというと、幕府というのは、初めは単なる朝廷の組織する軍隊のことだったので、鎌倉時代の承久の変までは、全国に及ぶ政治権力は、朝廷の方が強かった。

しかし、承久の変で、幕府が、朝廷に勝つと、幕府が完全に全国を支配するようになったにすぎないので、〜守に本当に役職的に意味があるのは、鎌倉時代の承久の変以前であって、それ以降の〜守というのは、安易に付けられる役職になってしまい、実際に石見に勤めなくても石見守という名前がついてしまうようになった。


何が言いたいかというと、この服部伊賀守は、承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。

つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。
もっというと服部半蔵の祖先ということ。


その服部半蔵の祖先の服部伊賀守が、伊賀守の任期を終え、承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、今度は地頭として派遣された地が、信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。

この麻績の地は、承久の変以前は、朝廷の直轄地だったので、地頭はいなかったのだが、承久の変以後は、幕府領になったので、地頭が置かれた。


では、なぜ、服部伊賀守を起用したのか?

それは、伊賀も朝廷の直轄地だったので、武士の勢力の及ばない土地の民の扱いに慣れていたことが、この抜てきの理由だろう。

ともかく、この服部伊賀守が、伊賀から連れて来た民衆と、もともと縄文民族の末裔の多い信濃の民衆との技術が錬磨されたのが、麻績服部流忍術の源流なのである。


その服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃に、完成したのが、麻績服部流忍術なのである。

私の本名は、宮下というのですが、宮下家は、服部清信の弟、服部加信斉が神主を務めた麻績神明宮を代々守っている家で、私はその一族の流れを組むものです。


そういった縁で、私が麻績服部流忍術の正当継承者になった訳です。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月15日 14時18分48秒 ) パスワード

ちょっと関係ありませんが  永井氏と牧野氏の関係  についてちょっと:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E7%9B%B4%E7%8F%8D
永井 直珍(ながい なおよし)は、摂津高槻藩の第8代藩主。



経歴
寛保2年(1742年)8月、第6代藩主永井直期の三男として生まれる。
宝暦8年(1758年)に兄で第7代藩主の直行が死去したため、養子として跡を継いだ。
宝暦9年4月25日(1759年)に豊姫と婚姻する。
明和7年(1770年)11月17日に死去し、跡を長男の直進が継いだ。享年29。

                                                あらら。。。
                                                すごい若死に。


正室

正室の豊姫は、
『寛政重修諸家譜』などの公式系図では膳所藩主本多康桓の娘となっているが、
越後長岡藩牧野氏家譜の補足史料の『御附録』では実は牧野忠周の長女で牧野忠寛の姉であるとする。
また、長岡藩主牧野忠利の未亡人でもある。
                                               あらら・・・・
                                               これまたスゴイお話の暴露


寛保元年3月21日(1741年)に出生する。
当初の名前は逸姫で、寛延3年(1750年)に理由があって公式上、本多康桓の娘として牧野忠利と婚約し、茂姫と改名した。

宝暦5年6月(1755年)に婚礼を上げるが、同年7月に忠利が死去し、寡婦となる。

宝暦7年2月(1757年)に膳所藩の康桓に引き取られて同年5月に豊姫と改名し、2年後に直珍に嫁いだ。

その後、直珍にも死別されて安永5年6月29日(1776年)に死去した。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月16日 08時08分05秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_zite4.html

家康に取り立てられた大名/武将



青木氏 青山氏 秋元氏 天方氏 天野氏 安藤氏 石川氏
石河氏 板倉氏 伊奈氏 稲垣氏 井上氏 植村氏 大久保氏
大河内氏 大須賀氏 奥平氏 高力氏 近藤氏 酒井氏 榊原氏
菅沼氏 高木氏 戸田氏 鳥居氏 内藤氏 永井氏 夏目氏
成瀬氏 一色丹羽氏 服部氏 久松氏 平岩氏 保科氏 本多氏


牧野氏 水野氏 向井氏 山口氏 柳生氏 屋代氏 米津氏
依田氏 渡辺氏




■信長に取り立てられた大名/仕えた部将家

明智氏 荒木氏 池田氏 稲葉氏 岡田氏 金森氏 河尻氏
佐久間氏 佐々氏 柴田氏 滝川氏 坪内氏 丹羽氏 尾張林氏
尾張平手氏 堀 氏 森 氏 前田氏 前田玄以氏 丸毛氏


原田氏




■秀吉に取り立てられた大名/武将  ★=賤ケ岳の七本槍

青木氏 浅野氏 飯尾氏 生駒氏 石田氏 一柳氏 上田氏
垣屋氏 糟屋氏★ 片桐氏★ 加藤嘉明★氏 加藤清正★氏 加藤光泰氏 亀井氏
黒田氏 小出氏 小西氏 新庄氏 杉原氏 竹中氏 建部氏
田中氏 藤堂氏 富田氏 中村氏 蜂須賀氏 平野氏★ 福島氏★
堀尾氏 堀田氏 蒔田氏 前野氏 毛利(森)氏 山内氏 脇坂氏★


赤座氏 木下氏 寺沢氏 平塚氏 古田氏

[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月16日 08時10分19秒 ) パスワード

牧野氏

牧野氏
丸に三つ柏
(紀氏流/蘇我支族)


 源平合戦のとき、阿波国住人で平清盛の股肱として知られた田口民部大夫・成良父子がいた。この田口氏は、朝臣の姓を帯び、蘇我氏・石川氏などとともに紀氏の流れを汲んだ名門であるという。
 平家一門が西走した時、成良は四国に帰り、讃岐国を制圧した。平家が九州より退去すると、屋島に迎え、彼自らは阿波守に任じられた。そして成良は、四国の武士たちに安徳天皇の下に帰服するように呼びかけ、一大勢力を築きあげたのであった。元暦元年の一の谷の合戦には、平家方として奮戦している。
 嫡男の教良は義経方に帰伏し、成良も平家の前途に見切りをつけて、源氏方に寝返った。平家方が壇の浦の合戦に敗れたのは、成良が源氏に走ったことも大きな要因の一つであった。しかし、成良・教良父子の返忠は認められず、鎌倉において処刑された。三河の戦国武将牧野氏は教良の末裔と伝えられている。

国人領主に成長する

 成継のとき三河国宝飯郡牧野庄の地頭となり、牧野を称した。家康に属してより源氏にあらためた。いずれにしても氏勝までの家系は不明である。
 氏勝は三河国牛窪城に居城した。嫡子貞成は永禄四年、家康の命により西尾城を守ったが、吉良義昭の攻撃にあって退去し、自領の牛窪に戻った。貞成の子成定ははじめ今川義元、氏真に属したが、永禄八年、酒井忠次らの仲介で家康に属し、翌年、家康から本領を安堵された。
 定成が死ぬと遺領争いが起こり、家康はこれに介入し、康成をして相続せしめ、諱の一字を与えている。康成は家康の力によって牧野宗家の地位を維持したのである。永禄十二年、康成は掛川城攻めで先鋒を命ぜられた。以後、姉川の合戦、武田勢力が侵入したさいの牛窪防戦、天正三年の遠江国諏訪原城攻め、高天神城攻めなどの戦いに奮戦した。
 天正十四年、秀吉のもとに家康が参上したとき随従し、秀吉の斡旋で従五位下に叙せられた。関東入国後、上野国勢多郡大胡で二万石を領した。
 嫡子忠成は秀忠に仕え諱の一字を与えられている。元和元年の大坂の陣に首二十七級の戦果を挙げた。同六年、越後国長岡城で七万四千石余を与えられ、子孫代々この地を領した。幕末に長岡藩牧野氏の執政家老になった河合継之助が出、奥羽列藩同盟のもとに官軍を相手に奮戦したことはよく知られている。

■牧野氏の情報をもっと知りたい方にお薦めです!
●穂国幻史考
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/

文字化けしてて読めません。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月16日 08時11分55秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html

永井氏
黒餅に鉄線
(桓武平氏長田氏流/大江氏流)


 先祖は長田左衛門尉親政というが、長田が源義朝を討ちとった家号であるため、家康の命で大江氏となり永井を称した。永井氏は重元のとき家康の父広忠に仕えた。広忠は三河国大浜郷に砦を築き、重元に守備させた。天正十年(1582)、織田信長の横死のあと、家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき、重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたえという。永井氏は大浜郷の領主であったようでもある。
 重元の子が直勝で、かれは家康に仕え、見込まれて嫡男信康の近習を務めた。不幸にして信康が亡くなってからは、もっぱら旗本として戦場に立ち、天正十二年(1584)の長久手の戦いでは、秀吉方の将、池田恒興を討ちとり、味方を勝利に導くとともに、一躍勇名を轟かせた。
 直勝に討たれた恒興は信長の乳母の子で、本能寺の変後、清洲会議で柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀らと並んで宿老の四人のひとりに数えられたほどの人物。後年、恒興の次男で、家康の娘婿にあたる輝政は、直勝と雑談におよんだおり、ふと「その方の禄はいかほどか?」と尋ねたことがあった。直勝が七千石だと答えると、輝政は「我が父ともあろう人の首にしては、安いものよのう」と冗談まじりにこぼしたという話が伝わっている。
 武将としての直勝の名は、朝鮮の役のおりにも秀吉から「比いなき勇士よ」と賞賛され、面目を施している。慶長元年には、従五位下・近衛大夫に任官。
 しかし、直勝は単に武功を重ねたのみならず、関ヶ原の役が終わってのちは、天下を平定した家康の片腕となって、その論功行賞をめぐる直参と大名家の反目を調停する任にあたった。なかでも井伊直政や本多忠勝に意見した話は有名である。
 直勝のこうした活躍は、元和三年(1617)の常陸国笠間三万二千石、同八年の下総国古河へ七万二千石の加増移封というかたちで報われ、幕府の評定衆に列する栄誉をも担うこととなる。晩年、細川藤孝について、有職故実を学び、徳川家の礼儀、幕府の式典を定める重責を担った。


永井氏の家紋

 『長倉追罰記』に「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月16日 08時13分55秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_hato.html


服部氏
源氏車に矢筈/矢車
(称桓武平氏)


 伊賀国阿拝郡に服部郷がある。『延喜式』をみれば、阿拝郡に小宮神社ありと記されている。『伊賀考』には、「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、『三国地誌』には、「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」とみえる。
 服部氏は、伊賀一洲に散在する豪族となった。『源平盛衰記』に平内左衛門尉家長が現われ、服部氏ではその名が最も高い。伊賀服部氏は家長を家祖とし、よって桓武平氏を称している。

●服部半蔵の活躍

 戦国時代、服部半蔵の名が知られているが、服部半蔵という人物は一人ではない。初代服部半蔵保長は、はじめ足利将軍義輝に仕え、石見守を称し、義晴を経て三河国に至り、家康の祖父清康・広忠に仕えたという。
 保長亡き後、家督を継いだのが、嫡子半蔵正成(まさなり)である。家康の独立後、遠州掛川城・高天神城攻略、姉川合戦などに従った。元亀三年(1572)三方ケ原合戦ののち、伊賀者150人を預けられた。天正七年、織田信長に疑われ、家康の嫡男信康が遠州二俣城で自刃したとき、介錯を命じられたが、「三代相恩の主に刃は向けられない」と落涙するばかりであった。そこで、変わって天方通綱が苦しむ信康の首を落とした。正成は無念の最後を遂げた信康の菩題を弔うため、のち江戸麹町に安養院を建立している。
 天正十年(1582)六月、本能寺の変が勃発する。家康は少数の家臣を従えただけで、伊賀を越えて三河へかろうじて帰国できた。このとき、家康一行を先導したのが正成であった。以後も小牧.長久手の役などで戦功を重ね、槍の渡辺半蔵と並んで「鬼半蔵」と称された正成は八千石を領した。小田原の役後、家康が関東入国すると、正成は与力三十騎・伊賀同心200人を支配し、慶長元年(1596)に没した。
 正成の嫡子正就は、与力七騎・伊賀同心200人を預かった。だが、正就は組下の同心を酷使して反感を買い、同心一同が寺院に籠るという不祥事を起こして、改易となった。正就はこれを恥じ、大坂夏の陣に加わり汚名挽回をはかったが討死した。そのあとを継いだ弟の正重は、舅の大久保長安事件に際し、進退が将軍秀忠の忌諱にふれ、慶長十八年に除封処分となった。結局、服部氏嫡流は改易処分となる。
 さきの正就の室は桑名藩主松平定勝の娘だったことから、息子たちは松平家に仕えた。定勝の息子の代に松平家は、松山、桑名、今治に分かれたことで、服部家の息子たちも三つの地に分かれて仕えた。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月16日 08時23分25秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/takauji.html


足利幕府 室町幕府役職一覧 足利家直臣



征夷大将軍 足利氏


足利一門 
斯波氏(足利尾張家)〈斯波家収録〉、西条吉良氏(足利上総家)、畠山氏〈畠山家収録〉、渋川氏、石橋氏、石堂氏、上野氏、一色氏、


足利親類 
細川氏〈細川家収録〉、仁木氏、今川氏〈今川家収録〉、柏木氏、荒川氏、



足利家臣
 高(松本、大田原、南、大高、岡松、大平、彦部)氏、三浦(三戸、大多和、駿河)氏、上杉氏(二橋、八条、扇谷、椙谷、詫間、犬懸、山内、千秋、小山田)〈上杉家収録〉、伊勢氏〈一部北條家収録〉、摂津氏、大和氏〈一部北條家収録〉、小笠原氏〈一部北條家収録〉、松田氏〈一部北條家収録〉、波多野氏、中条氏、結城氏、三淵氏、諏訪氏〈一部信濃国人衆収録〉、安威氏、依田氏〈信濃国人衆収録〉、雑賀氏、治部氏、進士氏、海老名氏、寺岡氏、粟飯原氏〈千葉家収録〉、倉持氏、真下氏、蜷川氏、



吉良家臣 
東条氏、西尾氏、荒川氏、大河内氏、遠江小笠原氏、熊谷氏、牧野氏、



渋川家臣 
板倉氏、



石橋家臣 
大内氏、片平氏、



一色家臣 
氏家氏、小笠原(伴野)氏、延永氏、三方島津氏、多比良氏、沼田氏、武田氏、松山氏、机岡氏、海部氏、石川氏、片山氏、川崎氏、渡辺氏、池田氏、和田氏、高屋氏、三上氏、稲富氏、松田氏、



仁木家臣 
西郷氏、瀧野氏、服部氏、
                                                 おっおっおっ!




これらの他に
錦小路被官・関東公方家(足利氏、喜連川氏、東条吉良氏、桃井氏、)



得宗家

信濃国人衆(小笠原氏)

徳川家

など




足利家の執事・奉行頭人

「足利貞氏期(恐らく西暦1310年頃)」

足利庄担当・高頼基 (南右衛門入道)
上総国担当・三浦為澄 (三戸八郎左衛門入道)
三河国担当・上杉頼重 (上椙三郎入道)


※ちなみに三戸氏は後に高師直従弟の師澄が継ぎます。





内談方頭人(1344年)

高師直
上杉朝定
上杉重能





熊野御参詣供奉人(1344年)



天龍寺供養「布衣」衆(1345年)

高師直(武蔵守)頼基の甥
上杉朝定(弾正少弼)頼重の孫
上杉重能(伊豆守)頼重の孫
高師泰(越後守)頼基の甥
高(大高)重成(伊予権守)頼基の孫
上杉朝房(上杉左馬助)頼重の曾孫





斯波氏 幕府管領・奥州管領・関東執事・中国探題?・九州探題・羽州探題


畠山氏 幕府管領・奥州管領・関東執事


細川氏 幕府管領・四国探題・中国探題


吉良氏 奥州管領


渋川氏 九州探題・関東執事


石堂氏 奥州管領


一色氏 九州探題


今川氏 九州探題



武家三職・七頭


三職
斯波、畠山、細川


七頭
山名、一色、京極、赤松、土岐、上杉、伊勢


武者頭
吉良、今川、渋川






東山殿御紋帳


三管領
斯波、細川、畠山、


下馬衆
吉良(東条、西条)、渋川、石橋、


同紋衆
上野、一色、山名、新田、大館、仁木、今川、桃井、吉見、






長禄二年以来申次記


御供衆
細川持賢、細川政国、細川持春、細川教春、畠山教国、吉原義遠、山名豊之、細川氏久、細川勝久、細川政之、畠山教元、大館教氏、上野持頼、山名豊氏、細川成春、一色政氏、武田国信、畠山政光、有馬元家、有馬則秀、富樫家真、伊勢貞親、伊勢貞藤、伊勢貞宗、






常徳院様江州御動座当時在陣衆着到


三職
斯波義良、畠山尚順、細川政元、


諸大名
山名俊豊、一色義秀、京極政経、京極高清、土岐政房、大内、赤松、


御供衆
細川政賢、細川政春、細川氏久、細川尚春、山名豊重、大館尚氏、武田国信、伊勢貞陸、伊勢貞藤、有馬則秀、畠山政光、吉原義遠、伊勢貞誠、結城尚豊、


御一家
吉良、渋川、石橋、


外様衆
細川元有、細川政久?、細川氏信?、細川土佐、山名尚之、山名師豊?、一色親冬、一色光貞?、大島兵庫、桃井右馬、吉見義隆?、一色義直?、富樫政親、上杉、仁木、千秋尚範、野寺左馬、野間民部、厳島四郎、田中四郎兵衛、土肥刑部、上月治部、


評定衆
二階堂政行、波多野元尚、町野敏康、中条政秀、結城加賀、






光源院殿御代當参衆並足軽以下衆覚


御供衆
大館晴光、大館輝光、細川輝経、大館晴忠、仁木七郎、一色藤長、細川藤孝、上野孫三郎、一色輝清、畠山、伊勢因幡、伊勢貞知、







御供衆
大館晴忠、一色藤長、細川藤孝、上野信忠、上野豪孝、武田信実、京極高成、一色晴家、武田信方、和田惟政、伊勢宮千代、畠山次郎、上野憲忠、


外様衆
摂津晴門、細川昭元、畠山高政、山名棟豊、一色義道?、赤松義祐、武田元明、六角義賢、六角義治、朝倉義景、大友義鎮、菊池義武、北条氏康、北条氏政、今川氏真、上杉輝虎、武田晴信、畠山義続、斎藤義龍、北畠具教、北畠具房、長野具藤、姉小路良頼、姉小路頼綱、織田信長、仁木長政、島津貴久、島津義久、伊東義祐、伊東義益、相良義陽、毛利元就、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、尼子義久、松浦隆信、河野通宣、種子島、有馬義貞、有馬義純、宇都宮豊綱、島津義虎、三吉隆亮、宗茂尚、三好義継、伊達晴宗、蘆名盛氏、北条氏規、松平元康(徳川家康)、


関東衆
足利義氏、簗田晴助、里見義弘、千葉胤富、武田豊信?、佐竹義昭、小田氏治、宇都宮広綱、佐野昌綱、由良成繁、長尾(足利)当長、太田資正、大掾清幹、市田、上杉、葛西、氏家、南部、九戸政実、最上、相馬、岩城、長沼、結城、成田長泰、




奉公衆

一番番頭 細川氏(淡路守家)
二番番頭 桃井氏
三番番頭 上野氏
四番番頭 石垣氏(畠山中務少輔家)
五番番頭 大館氏





室町時代は二つの勢力の争いが続いた。

 一つは成り上がり武士で観応の擾乱で尊氏派となり応仁の乱では東軍となった勢力

     足利親類郎党 今川、細川、仁木、高
     婆娑羅大名 京極、赤松、土岐



一つは名門武士で観応の擾乱では直義派となり応仁の乱では西軍となった勢力

     足利一門 斯波、吉良、渋川、石堂、

     準一門 岩松、山名、上杉


鎌倉時代の守護 六角、



 関東公方は直義派として尊氏派・将軍家に対抗した。

 ただし畠山は惣領・高国が尊氏派となり、庶流・国清が直義派となったり、桃井はどちらかというと足利親類であるが尊氏に対する個人的恨みから直義派となった。

 裏の裏は表ということで、細川の庶流は直義派となった。

今川(尊氏派、東軍)を足利親類にするのは異論もあるだろうが、吉良の庶流ということで親類に分類しました。

佐々木氏は惣領の六角が直義派、西軍となり、庶流の京極は尊氏派、東軍となった。

応仁の乱では土岐成頼(他家からの養子)は西軍となった。

 斯波義廉は渋川氏からの養子ということで西軍となり、斯波義敏は庶流からの養子なので東軍となった。

 畠山義就は持国の実子ということで西軍となり、庶流の畠山政長は東軍となった。



 これは必ずしも正確な分類とは言えないが、僕は室町時代をこういうイメージで捉えています。



堺大樹と江州大樹

足利義稙と足利義澄の争いはそれぞれの後継者となった足利義維と足利義晴にも引き継がれた。

足利義維は「堺大樹(堺公方)」と称され、足利義晴は「江州大樹(江州相公)」と称された。



堺幕府

足利義維

細川晴元

畠山義堯

三好元長

柳本賢治

木沢長政

茨木長隆



鞆幕府

足利義昭

毛利輝元

六角義治(義堯)

細川輝経

畠山昭賢?

武田信景

吉川元春

小早川隆景

伊勢貞豊?(上野介)

一色昭孝

上野秀政

大和孝宗?(淡路守)

槙島昭光

内藤忠俊
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月16日 09時09分49秒 ) パスワード

ちょっと面白かったのでアップ。
西郷氏・服部氏ともに家臣として名があります。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%97%A9%E3%81%AE%E5%AE%B6%E8%87%A3%E5%9B%A3

越後長岡藩の家臣団

元和4年(1618年)4月、越後長岡藩に入封し明治3年(1870年)10月に廃藩となるまで在封した譜代大名牧野氏表高7万4,000石(初め表高6万4,000石余のち増封1万石・実高約14万石)の家臣団である。彼らは戦国時代より"常在戦場・鼻を欠いても義理を欠くな"を家訓として掲げた三河国宝飯郡を発祥とする近世大名・牧野氏宗家に仕えた武士たちである。


以下は主要家臣を中心に特に提示しないものは【由緒記】(=「諸士由緒記」、参考文献の1 所収)を基本出典として記述する。なお、【由緒記】以外の出典については必要に応じて【 】を用いた略号または脚注・傍注により各項毎に示し、当該略号と該当参考文献の説明は当ページの下部の凡例及び参考文献欄を参照とする。また、越後長岡藩の機構に関しては越後長岡藩を参照。




家老(大組組頭)

家老職を世襲の筋目とされる家と抜擢による家老があった。

家老五家

稲垣氏(2家)、山本氏、牧野氏(2家)の5家が、世襲家老の家柄(家老連綿)である。この中で稲垣平助家と、山本帯刀家が上席家老である。この稲垣平助・山本帯刀両家は、将軍家旗本の格式を兼帯して、関所では下馬を要せず、新藩主交代の挨拶に際しては、藩主を供奉して、江戸城に登城して将軍家へのお目見えの儀に付き添った。

稲垣(平助)家

三河在住期の牛久保六騎由来の家。代々の通称は稲垣平助、代によっては藤吉郎・喜左衛門・平膳とも称した。 [1]幕末までに、越後長岡藩内において、家老連綿2家・大組着座家1家・大組7家の最大の門閥勢力となっていた。 稲垣長茂の次男であった稲垣則茂(平助家初代)は元和元年(1615年)大坂の陣で甲首(かぶとくび)一級を得て高名したが、慶長6年(1601年)父・長茂が伏見城守衛を命じられ大胡城を離れたので、父の代わりに家康の旗本身分を兼帯のまま牧野家に付属し、やがて家老首座(一番家老)稲垣平助家(2,400石)となった。その後、1665年に庶子の稲垣藤八を300石で分家として分出したほか、平助家来の越石氏を独立分知させたので、本家禄2,000石となった。

則茂以後、その嫡子は元和以来の筋目の通り家老職上席加判・大組支配を連綿とし、また特に長岡城内大手門脇に屋敷を与えられて動かず、原則的に長岡城城代を勤め、藩主交代のときは、藩主と共に、将軍家に謁見する格式を幕末の稲垣重光[2]に至るまで維持した。

重光(平助家最後の家老)は、家老首座となるも、慶応3年(1867年)の河井継之助の藩政改革により、2,000石から、500石に減知され閑職の兵学所頭取に棚上げされた。但し家老の格式等は従来通りとされた。

また北越戦争にあたって、勤皇派として屋敷に放火して出奔。槇、九里、武など勤皇派20人の名を記載した上、西軍に藩主助命嘆願を試みた後、400石となる。明治維新後は蚕糸農家と、旅籠の主人となった。その六女である鉞子は、明治年間に貿易商杉本氏と結婚のため24歳のとき単身で渡米したが、日本人として初めてコロンビア大学講師等を歴任した。代表的な著書として『武士の娘』[3] を著すなど、日本文化を米国に紹介した(その邦訳版も日本に出版されている[4])。

この家には長岡家臣、稲垣氏の家譜を著述した「藤姓・稲垣家譜録」が伝わり、写本が長岡市立中央図書館に所蔵されている【稲垣家譜】。関連記述は稲垣氏 (牧野家重臣)を参照のこと。

稲垣(太郎左衛門)家[編集]

大胡在城時代に稲垣平助家から太郎左衛門家として分出された稲垣成心は、慶長5年(1600年)信濃国上田城攻めの際の殿軍などの軍功があり、その嫡子成之が太郎左衛門家の2代目を継ぎ、大組組頭(家老職相当)として元和4年に長岡入り。そして、知行1,200石の稲垣太郎左衛門家(三番家老)が成立した。以後は中途に知行変動等の曲折もあるが、幕末に至るまで家老職家として連綿した。当家は在所家老であったが、時として定府家老となっていた(定府家老→【文化武鑑】・【文政元年武鑑】)。戊辰戦争敗戦後は250石。関連記述は稲垣氏 (牧野家重臣)を参照のこと。

山本(帯刀)家[編集]

山本氏も牛久保六騎由来の家である。世襲の通称は山本帯刀・勘右衛門。

慶長9年(1604年)7月に大胡藩時代の老職・山本成行(帯刀左衛門)は死去。この時既に惣領・勘右衛門某は夭折していたので、高禄で山本四郎主馬某(1,100石分知・家老)が分出され、嫡子・成政(孫五郎のち勘右衛門)は1,100石となる。しかし、山本四郎主馬の家系は、後に「故有って」廃絶となった。【諸士由緒記】には「高千二百石 山本勘助同家 山本帯刀左衛門成行嫡子・実孫、 山本勘右衛門 初名孫五郎(異に源五郎) 」と記述がある。すなわち、成行の孫の成政(勘右衛門)が、長岡藩・上席家老家の山本氏の初代となった。その後は、分家を度々分出したが、加増を受け、1,100石から、1,300石程度を保って世襲家老家・在所家老として定着し、藩主交代のときは新藩主の将軍家謁見に、上席家老の稲垣氏と共に旗本格待遇で伺候した。

成政以後、政直(勘右衛門)、政義(勘右衛門)と家督相続が行われ、筋目に従い家老本職上席に就任して安泰であったが、政義には、子がなく、同藩・先法家の疋田氏の庶子を養子とした。この養子は正豊(帯刀)と称して、筋目通り家老上席に就任している。

正豊から家督相続したその惣領・山本老迂斎(義方・精義)は、6人の主君に仕えた名家老として、著名である。以後、義質、義方(祖父と同名)、義礼(牧野氏から養子)、義和、義路(安田氏から養子)と連綿して明治維新を迎えたが、官軍に弓を引いた首謀者の家系として、断絶となる。

幕末に、越後長岡藩の門閥勢力が河井継之助に敵対的であったのに対して、同藩次席家老の山本帯刀義路(やまもとたてわきよしみち)は、彼の父・山本帯刀義和とは異なり協力的であった。北越戦争において会津飯寺で捕虜となったが、詫びれば助命するとの沙汰を拒否して、斬首となった。

山本五十六帝国海軍連合艦隊司令長官は、断絶していた山本氏を同藩士・高野家から養嗣子として継いだ人である。

長岡城下大工町の南に屋敷があり、屋敷があった周辺は山本町と呼称された。また、藩主家の縁故者で盲目であった故に山本家の養女となり、後に分家して長岡藩の瞽女頭となった山本ゴイという女性もいた。
山本帯刀家の氏族関連や長岡入封以前については、三河山本氏・牛久保六騎を参照。

牧野(頼母)家[編集]

牧野(頼母)家は、山本氏の流れで、通称は牧野頼母・市右衛門。

初代藩主牧野忠成は実妹の馨香院(けいこういん;康成の四女)を、継嗣の無かった藩士・山本市右衛門某(300石)[5]の養女とした。ついで、藩主の三河時代の同族異流である牧野弥次兵衛(正成・初め左平治と称す、250石)[6]にこの山本市右衛門養女(馨香院)を嫁がせた(正成は600石に加増で騎馬組を預けられた)。この夫妻に誕生した子・正直を山本家の継嗣として、牛久保以来の功臣・山本市左衛門の家名を維持存続した。

同家第2代山本正直は父・正成の跡式600石を継いだ。藩主一門として牧野姓と三葉柏紋を許されると共に家老職700石(100石加増)に取立てられた(四番家老・牧野頼母家の成立)。

長岡藩の2代目藩主の座を巡る紛争で、正直は初代藩主牧野忠成の孫・忠盛(忠成・飛弾守)擁立に大きな功績があり、その子3代目牧野頼母のときに加増されて1,100石となった(→詳細は越後長岡藩#牧野光成急死後の継嗣問題を参照)。4代目の牧野頼母正含は、世襲家禄として、はじめ600石の相続だけが認められたが、段々加増されて、1,100石となり、直系子孫は1,100石を家禄とした。また牧野頼母正含一代限りは、山本勘右衛門(山本帯刀家)より、格上とされた。 また異に、当家は、徳川御三家の水戸家を浪人して、長岡藩牧野家に再仕官したもので、家老次座連綿の山本氏の庶流を再興したものでないとする文献もあるが、上記の家伝などにより信じがたい。

なお、正直(市右衛門)は長岡先手町の興国寺の大檀那となって同寺の再興を支援した【日本地名歴史大系】。

稲垣太郎左衛門家同様に時に定府家老を勤めることもある(【嘉永4年武鑑】)。北越戦争当時の牧野頼母は開戦派に属したが、敗戦後は、長岡藩の大参事(400石)となった。

牧野(平左衛門)家[編集]

牧野(平左衛門)家は、松井氏の流れで、通称は牧野平左衛門・浅之助。

藩主牧野家が三河牛久保で徳川家康と和睦した頃、徳川氏の部将松井忠次(左近、のち松平康親と改称)の一族・松井次郎兵衛光次が徳川氏より付属される。その3男・金七郎も大胡藩主牧野康成に属し(1,000石)、後に家臣となり牧野称姓を許され牧野五兵衛(正時)と称した。妻は稲垣平右衛門長茂の嫡女[7]。五兵衛の嫡男牧野主馬(正行)は元和4年(1618年)長岡移封に組頭として従い、元和6年(1620年)には康成の第3女(慶台院)を室に賜り一門家老となった(900石)。主馬は、牧野平左衛門と改称。

しかし、3代目平左衛門(正友)のとき嗣子無く死去したが、藩はその弟・長九郎(のち浅之助正之)に700石(知行・家老格・五番家老)で継承を認められ、以後正春、正章、正馨、正央、正栄 正里にして、幕末に至り700石・家老を世襲した[8]。当家は在所家老であるが、随時、江戸表に出府していた。敗戦後は300石。

また、2代目浅之助(正武)の同腹の弟・牧野八左衛門(正光)は新知150石を受け別家となった。その幕末の当主八左衛門正安(金蔵)の室は、のちに家老上席・軍事総督に抜擢された河井継之助の実妹・安(やす)である[9]。



家老五家以外[編集]
様々な理由で一代限り家老となった人物。

山本四郎兵衛(四郎主馬)、実名不明、就任年月不明・1100石、山本帯刀分家、断絶(年月不詳)。(→【由緒記】・【寛永分限】)
贄新五左衛門・実名不詳、就任年月不明・700石、公儀召出(年月不明)。(→【由緒記】・【寛永分限】)
三間監物・実名不詳、元禄10年(1697年)・700石、宝永5年(1708年)・願之通御免。(→【由緒記】)
雨宮修理・正頼、宝永3年(1706年)・600石、役儀等不相応に付き召放・遠慮。(→【由緒記】)
河井継之助・秋義、慶応4年(1868年)・120石、明治元年北越戊辰戦争にて戦死。(→【慶応城絵図】・【戦争之記】)


家老並の高知行でも、家老就任記録のない人物。今泉については「新潟県史」で年貢関連の史料より奉行であった可能性が示唆されている(後述)。
今泉勘左衛門某(1300石)、竹右衛門嫡子。(→【寛永分限】)
稲垣権右衛門成長(1100石)、稲垣太郎左衛門成心の長男。(→【諸士由緒記】)
真木茂左衛門某(700石)、詳細不詳。(→【寛永分限】)


先法家[編集]

槇(真木)氏、能勢氏、疋田氏の三家を越後長岡藩では、特に先法家(先家)と呼び、他の藩士と別格の扱いをしていた。慶応の藩政改革まで、この三家の扱いは不変であった。 先法家(先家)とは、藩主家である牧野氏の先祖が、三河国宝飯郡(現、豊川市)牛久保城在城時代に、真木(槙)氏、野瀬(能勢)氏、疋田氏の先祖が果たした特別な忠節の筋目を持つ家柄の意と考えられている。

長岡藩関係文書『温古之栞』によると、真木(槇)氏、野瀬(能勢)氏、疋田氏の先法三家は、主従ではなく客分であるとする伝承がある。[10]

先法三家の特別な取扱い[編集]
1.家老の支配を受けず、道で家老にゆきあっても下馬せず、騎乗のまま挨拶した。また、家老への言葉遣いも他の藩士とは違いがあった。(→【古格旧法】)
2.前当主である隠居は、在職中の功労の有無に関わらず、寄合組に列して養老米を受領することができた。
3.藩主が在所にあるときは、元旦に、家老首座を含む全ての藩士に先立って、藩主と盃を交わし、雑煮を会食することを習わしとした。
4.先法家は屋敷に中玄関を設けること、白壁・石垣を用いる事が許されていた。(→【古格旧法】)
5.先法家の妻女は一般の士分の妻女に許されない、紺紙張り日傘の使用が認められた。(→【古格旧法】)
6.家老と先法三家(寄会組)は、日常の軍役が免除された。(→【古格旧法】)


先法三家の概要[編集]

槇(真木)氏[編集]

真木(槇)氏の先祖は、稲垣・山本両家老家に同じく、東三河在住時代に牛久保六騎の1つであった。 牧野氏大胡在城期には3000石を知行する大身であったが、故有って真木家当主・越中守重清が出奔し、次男・小太夫(重基)が1700石に減知をうけた。しかし、その子・真木五郎八は父・重基が早世したために、長岡入封に随従したが更に減知され500石になっている。一方、重清の長男・真木清十郎某は子・新助重勝とともに長岡入封に随従したが知行・役職は伝わっていない。(→【諸士由緒記】・【寛永分限】)

これに対して、槇氏は牛久保在城時代に永禄3年富永口戦功のあった槇三郎右衛門某を祖とする。 槇三郎右衛門某は大胡時代には野瀬氏と馬の儀にて争うなど勢威を競ったが、城主牧野康成の思し召しを受け和睦。 真木清十郎某の長男・新助重勝が、この槇三郎右衛門某の養嗣子に入り、槇重勝(初め新助・のち三郎右衛門)となった。長岡入封以後は減知された同族・真木越中守家の由緒を引き継いで先法家の格式を与えられ、後の槇内蔵介(三郎右衛門)家として重んじられた。[11] [12][13]。

北越戦争にあっては、槇内蔵介家は、一番家老・稲垣茂光の正室の実家になるためか、恭順派の中心的存在となったが、他の先法家も、おおむね恭順派であったと云われる。槇三左衛門家(三郎左衛門の誤りに非ず)もまた稲垣茂光の近縁者であったが、その庶流となる槙吉之丞は、開戦派であった。

幕末には、槇(真木)氏は、長岡藩先法家に1家、長岡藩大組に5家、同小組に2家、支藩の小諸藩士分上禄格式に3家(内、1家は家老連綿)及び、三根山藩に用人・加判級(一代家老就任実績があった)1家が存在した。敗戦後は、槇内蔵介家は200石となった。
牧野家臣真木氏・槇氏の関連記述は真木氏 (牧野家重臣)を参照のこと。


能勢(野瀬)氏[編集]

能勢(野瀬)氏も真木氏同様に牛久保六騎出身であって、その当主・能勢丹波守は、1565年(永禄8年)に徳川家康へ恭順すると、翌年にはその命により稲垣氏ら他の寄騎とともに牛久保衆の諸士を掌握した。しかしその後、丹波守は徳川家直参旗本として召し出されて、牛久保城主・牧野氏を離れた。(→【長岡の歴史】)

2代目の能勢丹波守の次男、能勢七郎右衛門正信は兄・惣左衛門が公儀召し出しを受けたので、父の家督を継ぎ牧野氏家臣団に残っていたが、上州大胡在城時代(1590年〜1618年)に、槇三郎左衛門重勝と馬の儀にて喧嘩となり上州高崎に出奔した。その嫡子・藤七正重は主君・康成の仲裁で槇重勝と和睦したという。

長岡入封後、能勢三郎右衛門家は槇氏とともに先法家の格式に定められ、以後は能勢家の藩内における客分的地位が安定した[14]。

幕末には、先法家1家、大組3家、小組1家が長岡藩内にあったが、支藩の小諸・三根山に随従した者は確認できない。また先法家・能勢氏の縁者であるという伝説もあるが、史料学的に確認できない野瀬氏(他藩からの移籍)と能勢氏(儒臣)が大組に各1戸がある。敗戦後は能勢三郎左衛門家は200石となった。
越後長岡藩重臣能勢氏 (野瀬氏)の関連記述は野瀬氏を参照のこと。


疋田氏[編集]

【由緒記】では天正7年(1579年)の遠州持舟城(用宗城)合戦において戦死した疋田水右衛門某の子(これも水右衛門と称す)が元和元年(1615年)大坂夏の陣でまた戦功をあげたとしるされ、この功により600石を与えられたという。さらに藩主が菊に感嘆したことによって8石の加増をして計608石となった。 長岡藩政時代に先法家の格式を得て三家の一つとなったと考えられる。敗戦後は170石となった。

ほかに小禄ではあるが、疋田氏から栗本氏に改姓した家臣が存在する。
牧野家臣疋田氏の関連記述は疋田氏 (牧野家重臣)を参照のこと。



旧知1000石以上家臣[編集]

真木氏[編集]

真木氏(真木小太夫家)は、牧野家寄騎の出自の家臣。牛久保城寄騎から大胡藩牧野家客人分(3,000石)となった真木越中守の惣領家である。本来は、真木小太夫家は分家となるべきであったが、惣領が藩主・牧野氏に家臣団化されることを嫌って、出奔してしまったため、弟であった真木小太夫重基が、嫡子として跡式相続したものである。跡式相続にあたっては、3,000石の内、1,700石の相続を許されたが病死。小太夫の嫡子・五郎八某は500石のみ相続となった。また【寛永分限】には真木茂左衛門700石と見える。【由緒記】によると無嗣だったため、末期養子とみられる後嗣(弟)・新五左衛門某が継いだ(200石・番頭)。新五左衛門某の子・藤右衛門某は罪により改易となり、ここに家筋断絶となった。しかし、家祖・真木越中以来の譜代の家筋を惜しみ、貞享2年に藤右衛門の弟・勘八貴光を近従に召し出し、正徳2年には藩主がこの家の小身を憐れみ加増、100石(後に最高時180石)とした。


今泉氏(今泉竹右衛門家)[編集]

今泉氏は初期の家老。庶流の今泉惣左衛門家と共に元和4年長岡打入御供。元々は松平氏で、十八松平家の一つ長沢松平家の庶流の一つと推定されているが、牧野氏牛久保以来の家柄である。江戸時代初期の重臣であった今泉竹右衛門(1,300石)の家は寛永年間、嫡男・勘左衛門ときに絶家しているが子細は不明である。

子細については諸説あり、初代忠成の跡式について、孫の忠盛(2代目忠成)とすることに反対した勢力であったため、粛清されたとする説や他藩(菅沼氏)に移籍したとする説がある。

庶流の今泉惣左衛門家が、幕末・維新まで存続した。

なお「新潟県史・通史3・近世一」では長岡藩では奉行の連署で発行する年貢割付状において、牧野氏の長岡移転から承応元年(1652年)までの34年間に渡り、今泉竹右衛門が割付状発行者の首位に名を連ねており、翌年の承応2年より竹右衛門の名が消え、奉行・惣勘定衆の作成した割当状を家老数人で監査する方式に変更され、明暦2年(1656年)に奉行のみの連署が復活するという藩財政運営機構変遷が見られるとしている。


稲垣氏(稲垣権右衛門家)[編集]

家老・稲垣太郎左衛門成心の次男の家系。世禄300石以上を連綿した上級家臣。元和4年長岡打入り御供。長岡では、はじめ家老職並みの1,100石を給された。その後、子細が不明だが嫡子・成啓(小右衛門)が元和9年(1623年)に500石に減知された。このとき分家の分出があったとする藩文書は存在しない。



着座家・中老職・旧知300石以上家臣[編集]

中老職・年寄職の任命基準の慣行として、家禄300石以上があったものと見られている。但し幕末非常時の河井継之助は、例外である。

もっとも惣領家が分家を分出して300石未満となっていても、分出以前の旧知300石以上であった家系の者からは任じられることがあった。世襲の家禄と役職との間に差があるときは、不足分は足高となる。役高については(越後長岡藩/職制)を参照。
慶応4年の禄制改革以前と以降の知行対照は越後長岡藩の慶応改革を参照のこと。北越戦争後の家禄改訂の明確な基準を書いた文書は、知られたものがないが、要職に就任した者を除き、慶応改革の家禄より、若干少ないものとなっている。


三間氏[編集]

三間氏は着座家(三間市之進家)。【新潟県家紋と姓氏】では家紋は、「丸に陰剣片喰」、「丸に抱き茗荷」で清和源氏流小笠原氏流と記述されている。

上州浪人から、上州大胡在城期(1590年〜1618年)の牧野氏に仕官したと推定され、大坂夏の陣の武功により、重鎮となった。三間弥彦が、初代長岡藩主・牧野忠成の怒りを買って蟄居となり、家禄は、250石に減知されていた。三間市之進は、父と二代に渡って信任を回復して、元禄15年(1702年)、家老職に抜擢され名を監物と改め、700石となった。三間監物は以後9年間、家老職にあった。しかし、門閥にいじめられて、ノイローゼとなり宝永5年(1709年)に隠居した【長岡の歴史】【由緒記】。700石の内、500石を世禄として相続が認められ、このとき100石の分家を分出した。さらにその後に分家を分出して、世禄350石とした。当家は、家老職に帰り咲いたことはないが、中老職になり430石を与えられたこともあった。【安政分限】には350石とある。北越戦争では開戦派に属した。維新後に一時、支藩の小諸藩に転属した(小諸市誌)【小諸年譜】。三間利平は、敗戦後に武器管事100石となった。【士族総名順】には、100石を超える家臣に三間姓がないために、大幅に減石されて100石になったと誤解することがあるが、三間利平100石は三間氏の分家である。 北越戦争敗戦後の【士族総名順】には、100石、80石、66石の3家が見える。

また寛政重修諸家譜では元禄年中の牧野忠辰の治世中に長岡藩士から旗本に昇格した三間氏が3家存在したとしている(後述)。


雨宮氏[編集]

雨宮氏は着座家。【由緒記】等によれば、初祖・腰石(越石)新兵衛が稲垣氏より特別の由緒(二代目稲垣平助茂幸が継室の弟であり、またもと稲垣氏属臣とも云う。のち雨宮に改姓)があるとして推挙され、稲垣氏が自らの家禄を分与して、長岡藩の大組に列した。実は腰石(越石)新兵衛は、稲垣氏のご落胤であったとする有力説がある。

雨宮氏は、雨宮修堅(実は九里孫左衛門の三男・雨宮正頼)が出て、600石を与えられて、宝永3年(1707年)に一代家老となったが、まもなく失脚してしまった。雨宮氏は、140石の分家を分出している。


九里氏[編集]

九里氏は別家が着座家。【新潟県家紋と姓氏】では家紋は「五つ瓜に唐花」で、藤原氏族と記載されている。

九里氏は、山本氏同様に長岡藩士に同姓の一族が多いことで著名。上州大胡在城期(1590年〜1618年)の牧野氏に仕官したと推定される。その出自については、長岡家臣としては大身であるが不明な点が多い。九里氏の中で、最有力な九里氏は惣領家ではなく、御落胤の家系と云われる九里別家である。九里五郎太夫賢久(130石)は、藩主・牧野忠成が、元和4年(1618年)長岡入封に随従して、新潟代官となった。その嫡子・九里惣右衛門頼純は、藩主・牧野忠成の「直筆の書き付け」つまり、お墨付きが与えられ、別段の召しだしを受けた。130石家臣の長男を、近習として召し出し、父の家禄とは別にいきなり、350石を与えて、その後、毎年50石を加増して、450石となした。

九里五郎太夫賢久の勲功の記事は長岡藩文書には存在しないが、異常な厚遇を受けて、九里五郎太の跡式は、次男が相続して惣領家となり、三男・四男までが、新知を与えられて召し出されたのである。100石級の藩士の庶子が一度に2名〜3名も、新知をたまわり別家を立てることは長岡では他に例がない。長男でありながら、別家扱いとされた九里惣右衛門(450石)は、江戸城の普請の手伝いなどを行ったが、藩の役職に就任することはなかった。この家系は、さらに50石が加増(計500石)され、孫の代に御用人から奉行組支配となり、100石の分家を分出して400石を世禄とした。4代目は番頭などを勤めて、最高時(5代目)には、550石となり、430石を世禄としたと推察される。家老職の抜擢がなく、先法家でもない家臣が430石を世禄とするのは異例である。

九里別家と九里惣領家の他に、大組に100石級の九里姓1家があるが、九里別家が分家を分出したものである。また小禄の九里姓の藩士が6家ある。その内訳は、九里惣領家の庶流5家と、九里別家の分家の分家となる1家である。

北越戦争敗戦後の【士族総名順】によると、九里姓家臣は150石1家、130石1家、90石1家、80石3家、66石に1家が見える。2家が幕末まで残らなかったものとみられる。また九里氏の中で最有力であった別家は、同格の他家と比較して20石少ない家禄(150石)となっている。



武氏[編集]

武氏は着座家(武三右衛門家)。元は武田氏だが、甲斐武田氏との関係は不明。牛久保以来の古参であり、史料的価値が低いとされる牛久保城古図などにも、武姓が見える。牛久保武氏を伝える史料的価値の高い文献は現存していないが、大坂夏の陣の武功の家柄であり、今泉竹右衛門(1,300石)との関係が深かった。
この家系の庶流から名医が出て、江戸時代初期に藩主・家中から大きな信任を得た。長岡入封当初に大身の重臣たちは、揃って長興寺 (長岡市)の壇徒となったが、当家は栄涼寺の檀徒であった。当家は入封直後から、江戸時代後期と同じ繁栄はしていなかった。
惣領家の武弥兵衛家は、はじめ400石であったが、3代目の150石の減石は不詳とされる。しかし武玄節が別家召しだし150石を受けた時期と、ほぼ一致する。その後、惣領家は250石を世禄としたが、処分とみられる減石があり、6代目の世禄は200石となり、7代目には170石となった。
武氏庶流の1家である武三右衛門家には名医が出て、藩内でその地位を不動のものにした。しかも直系子孫は、それを足がかりに長岡藩政で段々と立身して、中老(最高時、500石)・着座家となり、世禄は本家を凌いだ。世禄は350石であったが、江戸後期から幕末にかけて、しばしば要職に就任して、400石以上を与えられていた。【御家中附】には番頭500石とあり、【安政分限】には400石とある。北越戦争では、恭順派に属した。なお、享保年間の江戸武鑑に牧野忠寿附役の武三右衛門が見られる。

【由緒記】によるとほかに武三右衛門から医術を受け継いだその庶流があり武氏は、合計3家が大組入りした。ほかに小禄の武氏庶流が2家ある。【安政分限】によると、武姓は5家(大組4家・小組1家)があると見られるが、【士族総名順】には7家が存在する。【士族総名順】によると、武部姓150石が1家、武田姓130石が2家、100石、65石が各1家、武姓の家臣が115石、70石で各1家が見える。敗戦後の130石の家臣は概ね200石、150石の家臣は200数十石に比定されるため、武三右衛門家が凋落したことになるが、そうではなく安政年間以降に、分家を分出していたものと見られる。


柿本氏[編集]

柿本氏は、中老職を経験している家柄であるため着座家と見られる。庄右衛門(五左衛門)家の初代が年月未詳ながら、初代藩主・牧野忠成の時代に越後新発田藩(溝口氏)家臣[15]から仕官し、藩主世子(後忠成)の守役(【由緒記】新知230石、【寛文分限】・【延宝分限】も石高同じ)となる。

2代目は用人に就き、越後高田城受取御供。3代目・御奉行・寄合組、のち「大殿様」(忠辰)の御附。4代目は御奉行役・度々加増で高500石(【由緒記】)。 その後、【延享分限】に庄右衛門として番頭兼町奉行・高230石。【屋敷高調】に高430石。【御家中附】に五左衛門名儀で御奉行450石。【屋敷高調】には庄右衛門・高430石(御奉行役)。長岡の屋敷は四郎丸冠木門付近にあった【屋敷高調】。
また、【文化13年武鑑】では定府でない奉行(項目名は中老)だが、【文政四年武鑑】には定府の五左衛門が中老扱いとなっている[16]。

なお当家は、累進して中老職を勤め、世禄430石となったとみられるが、惣領家1家で本給を受け、長岡藩内に分家を分出したり・別家を建てていない。


今泉氏(今泉惣左衛門家)[編集]

今泉氏は、家老今泉竹右衛門家の庶流。幕末・維新まで存続した今泉氏(400石)は、今泉惣左衛門政盛を祖とし、長岡打入りのときに250石を給付された。宝永年間に番頭となり50石加増、世禄を300石とした。天保年間【御家中附】以降は400石が給付されているため、その後に100石の増知があったと推察され、世禄を400石としたとみられる。着座家【長岡の歴史】。絶家となった惣領家の今泉竹右衛門家より伝来の家宝や由緒書きを託されたと伝えられるが、両家の関係を示す系図は知られていない。 長岡士族で新聞記者であった・今泉鐸次郎は、政盛の直系子孫で、明治から昭和中期にかけて、精力的に長岡の歴史を分析して、多くの著書を残した郷土史家である。今泉省三はその男子であり、父の意思を継いで郷土史研究に尽力した。他に今泉惣左衛門家が新恩を持って立てた小禄ながら大組入りした別家1家と、今泉惣左衛門家の庶流と推察される小組・小禄(後に大組に昇格)の今泉氏1家がある。


稲垣氏(稲垣林四郎家)[編集]

稲垣氏(稲垣林四郎家)は着座家。長岡・稲垣家譜禄によると稲垣連枝とされていた。当家は稲垣平助家の分家ではない。関連記述は稲垣氏 (牧野家重臣)を参照のこと。



安田氏[編集]

安田氏は別家が着座家【長岡の歴史】。上州浪人から、上州大胡在城期(1590年〜1618年)の牧野氏に仕官したと推定される。家紋は「丸に花菱」を用い、甲斐源氏の流れを汲む。長岡御打入御供。2代目の世禄は200石であったが、新知30石、分与50石(計80石)の分家を分出。また医術巧者が出て、別家を300石10人扶持で立て本家の世禄を凌いだ。惣領家は代々、安田杢を名乗り、1家の分家(安田孫八)を分出したほか、1家の別家(安田多膳)を立て、家禄の変動がめまぐるしいが200石を下回ったことはない。 名医の家系となった別家には、最高時450石が与えられ、寛保年間の頃より幕末まで江戸定府の任にあった。文化2年、安田多膳の名は江戸御奉行、文化6年に中老、【文化十三年武鑑】に奉行(項目名は中老)安田多膳、用人兼公用人の安田渡が見える。家老・山本氏9代義方の末弟・鋼三郎は安田別家に養子として迎えられたが、その子・堅三郎は嘉永5年(1852年)、主命により家老連綿・山本氏の養子となった。これが後に北越戦争、会津飯寺で奮戦した山本帯刀である。(山本義路) 安田別家は、秦氏より迎えた安田多膳正定が北越戦争で長岡藩槍隊長として妙見口の戦いなどに奮戦した。戦後は恭順の意から赤川哲造に改名し、明治二年長岡藩士族総名順では権大参事(170石)とある。後年、安田の旧姓に戻している。 一方、分家を分出した安田惣領家は世禄230石程度となり天保14年に安田杢は最後の新潟町奉行を勤めた。幕末、安田鉚蔵は反河井派として台頭。明治元年(1868年)北越戦争にあたって藩内の恭順派の首領的存在となるが、河井継之助と対立して失脚した。戦後は75石となり、本拠を新潟に移した。


倉沢氏[編集]

倉沢氏は着座家。上野沼田藩・真田氏の重臣であったが、同藩が改易となる前に浪人となり、長岡藩主・牧野氏に再仕官がかなったものである。倉沢氏は、真田氏の故地である信濃国上田発祥である。現在でも上田・別所周辺には、倉沢姓が多くある。倉沢氏は兄弟で仕官がかない兄は、はじめ250石で召し出され、後に加増されて400石となる。弟は、300石で召し出された。また元禄11年(1698年)、倉沢又左衛門幸栄の父は、第3代長岡藩主牧野忠辰が嫡子・勝三郎(夭折)附きの家老となり、500石となったが、翌々年に失脚。500石の内、350石を家禄として、相続が認められた。また享保年間に50石の分家を分出したが、この分家(=倉沢喜藤次家と云う。異に喜惣次家とあるは誤記である)は漸次立身して、200石となった。その後、惣領家は加増されて、400石となった。また倉沢又左衛門幸栄が孫の倉沢忠左衛門久勝は、者頭・足軽頭を勤めて、享保年間に当時としては異例の89歳まで存命していた。


池田氏[編集]

池田氏は着座家となった小左衛門家がある。【由緒記】によると、その元祖は元織田家の家臣池田恒興の弟という池田小左衛門正近である。正近は永禄年中に牛久保牧野氏のもとへ罷かり越したという。そして正近は永禄4年(1561年)の富永口合戦で牧野家に与力し戦功をあげた。しかし、その後も彼は牧野家中では客人分扱いのまま差し置かれていた。

結局、池田正近の心底の願いによってその惣領・池田成興(五兵衛のち小左衛門)が、牧野氏の家臣に採用され長岡藩士池田小左衛門初代となり、元和4年(1618年)、牧野忠成の長岡御打ち入りに御供。寛永年中には奉行職・知行300石となった。また父に先立って死亡した藩主・牧野忠成の嫡子・光成の守り役を勤めた。成興の嫡子・成直(2代目小左衛門)は父の家督を相違無く継いで知行300石を受け奉行職となった。しかし承応3年(1654年)冬、江戸の藩主・牧野忠成の死に臨み殉死を願い出たが認められず、度重なる嘆願によりその死の2年後の明暦2年(1656年)にようやく殉死が認められて切腹した。

殉死・切腹を前に、成直は嫡子池田成儀への家督相続を心底願いにより辞退した。成儀(権太郎・3代目小左衛門)はしばらく、部屋住み(50石)のままいたが、やがて知行150石・足軽頭に採用され、のち奉行職に栄進した【寛文分限帳】・【由緒記】。

宝永期の池田小左衛門(成儀の子と思われる)は200石に増知され、大目付・奉行職を歴任して寄会組に列した。文化・嘉永の各代の小左衛門は中老職にも就任している【文化武鑑5】。この家系は近代に南洋一郎を輩出した。

なお、明暦年中に殉死した池田成直の弟・彦四郎が50石で、分家として分出されている(池田彦四郎家)。



根岸氏[編集]

根岸氏は着座家(弥次右衛門家)。弥次右衛門家と勝之助家があり、ともに、現在の埼玉県行田市の郷士であった根岸作兵衛政重を祖とする。行田は忍藩領であり、江戸初期の藩主は大河内松平氏3万石であった。藩主・松平信綱は、老中として島原の乱の功などにより、川越藩6万石に栄転したが、根岸氏はこれに随従しなかった。

根岸弥次右衛門家は長岡藩主2代目牧野忠成の相続の際に江戸での工作に尽力した特別な子細により、忠成の生母(長寿院)の遺言があり、作兵衛の子・根岸弥次右衛門(資章)が長岡藩主・牧野氏に200石で召し抱えられたものである。その後代々、弥次右衛門を称し江戸組に属し知行200石を受けた。

寛延4年(1751年)10月16日、御本家御家来、根岸弥次右衛門が小諸城に登城したとの記述が小諸藩文書にある。小諸在城期の支藩牧野氏時代の約170年間に、本家長岡が、分家小諸の在所に直接、家臣を派遣したとする記事は、【小諸年譜】には3件に過ぎないが、根岸氏登城がそのうちの1件である。ところが派遣の趣旨が史料に残っていない。[17]よって、記録に残る数件に過ぎない内の1件であるから、本藩家臣・根岸弥次右衛門の小諸派遣は、何らかの重大な使命を帯びていたものと推察される。

[18][19]。

また寛政年間後期、小諸藩主・牧野康儔に、根岸氏娘を夜伽女に献上したとみれられる記事が、小諸藩文書に存在する。後に女子(瀧姫)を出産して、側室に昇進した。これとほぼ同時期(或いは数年後)から根岸氏は、班を進め初めているが、因果関係は不詳。この瀧姫が成人して松平伯耆守に嫁して、その正室となった。[20]。従って根岸氏は、1830年、老中となった松平伯耆守(宮津藩主)の近縁者となった。

寛保元年(1741年)の分限帳記載、弥次右衛門は250石留守居役に昇進したが、延享2年(1745年)の分限帳にその名は無く、留守居役はそれまでの相役であった河田権左衛門と新たに同役見習となった山崎伊左衛門の名のみが見える。しかし享和3年(1803年)〜文化6年(1809年)には孫に当たる弥次右衛門が抜擢を受けて、用人・中老と班を進められて、450石をたまわり着座家となった。隠居時、350石を家禄として相続が認められた(根岸弥次右衛門家)【由緒記】。


なお、【文化13年武鑑】に定府の奉行である根岸弥次右衛門が見られる。


根岸勝之助家は、初代根岸弥次右衛門の2男の東左衛門(康資)が藩主への軍書講釈のために5人扶持で抱えられた。その講釈が評価され享保10年には35人扶持に加増の上で大組御番入りし藩士に採用された。この時、出仕の座席200石上座(番頭相当)仰せ付けられた。実は東左衛門は武蔵国埼玉郡種足村(現、騎西町・旧、忍藩領)郷士・田中甚左衛門4男で根岸弥次右衛門の養子。このため、願いにより旧姓田中に復姓。しかし、子孫は再び根岸姓を称して、初め35人扶持、のち38人扶持(格式200石上座)で弓道等の兵法関係の師範を務めた。【由緒記】。
なお、【文化十三年武鑑】に取次である根岸孫八郎が見られる。



山口氏[編集]

山口氏は、着座家(後に剥奪)。九里氏と同じく、突然、抜擢を受けた家臣。長岡御打入り御供。このとき100石。父とは別に、寛文年中に新知100石。藩主の諱名一字を拝領。2代目は立身して中老加判450石。4代目は350石の相続が認められ、御番頭、寄合組、宗門奉行。元文4年、同役を斬る。御役取り上げ、閉門蟄居。寄合組を降格され大組入り。5代目は 50石の減石で相続が認められたと推察され、世禄300石となる。刃傷事件をおこしたとしては、影響が軽微であった。山口氏(山口金右衛家)は、嫡子が別家取り立てとなったため、30石の加増を受けたものとみられ、庶子が父の家督を相続して、世禄130石となった。別家に山口小伝次家、世禄50石がある。


名児耶氏[編集]

幕臣岩佐氏一族を出自とする定府藩士。『姓氏家系大辞典』でも長岡藩士として記述がある。中老格奉行を経験している家柄であるが着座家とする史料は長岡藩政史料集にはない[21]。今川氏家臣を出自とする幕臣岩佐氏一族の出自で初め名越氏(なごやし)を称したとされる。なお岩佐氏自体が元々名児耶(寛永諸家系図伝では名児那)を称していた。【新潟県家紋と姓氏】では家紋「糸輪中開き三本傘」とし、清和源氏流または藤原氏流としている。

【人名事典】では『長岡諸士出身録』を原典とし、貞享3年10月(1686年)に名越与次右衛門が軍法者として200石で召しだされ、次代の林之丞の代で名児耶定府藩士、代々要職を勤めたとしているが、下記の諸資料より初代と3代目の混同が見られる。

寛文7年(1667年)に長岡藩預かりになった徳川将軍家の小十人・岩佐吉純(弥五左衛門と「寛政重修諸家譜」にある)の甥(初代名越与次右衛門)が軍学の功者であったため貞享3年または4年(1687年)に、長岡藩で召しだし目付を勤めた。2代目与次右衛門は、長岡家老・雨宮新兵衛家の2男を養子とした(3代目与次右衛門)。このとき150石。3代目が宝永7年に岩佐家の旧称である名児那(なごや)に改姓し、家老雨宮氏を実父に持つ3代目から要職を歴任するようなり、新潟町奉行などを勤めた。【寛保分限】【延享分限】には180石、者頭格新潟町奉行と見える。のち加増で計200石で番頭席に進む。
【延享分限】成立から約50年後の【屋敷禄高調】には、4代目と推察される名児那軍兵衛260石、中老と見えるほか、100石3人扶で同名寛右衛門が隣に記載されている。
【屋敷禄高調】に名があるということは在所に屋敷を持っていたということになる。【御家中附】には5代目と推察される用人・公用人兼帯で230石、名児耶寛左衛門が見える
なお、江戸武鑑では【文化2年武鑑】に定府の奉行のまま牧野忠鎮附役になった名児那軍兵衛が、【文化4年武鑑】では定府の奉行である軍兵衛と用人兼公用人で定府の同名寛左衛門が見え、【文化9年武鑑】では寛左衛門のみとなる。寛左衛門は忠精が老中を辞任した翌年の【文化14年武鑑】では城使のみとなり、【文政4年武鑑】で定府の奉行となり、後に奉行のまま城使兼帯。
【元治元年武鑑】では定府のまま番頭になっている名児那軍兵衛が見える。
幕末の当主は北越戦争の際には下国、常に藩主一家に同行。戦後は内政局知家事(執事)となる。明治以降、名児耶六都の子、梅三郎を最後に旧長岡藩士名児耶氏は無嗣断絶した【人名事典】。

当家は300石以上を給付の記録は分限帳に残っていないが、【屋敷禄高調】の同名寛右衛門100石3人扶に惣領分が含まれるとするならば、300石以上の給付を受けていたことになる。また当家が分家を分出したとする記録は、長岡藩文書に存在しない。


保地氏[編集]

保地氏は、着座家。九郎右衛門家(奉行役格350石)がある。保科氏の流れ。九郎右衛門の初代は元和4年長岡へ御打ち入りの御供衆。当時、高200石。江戸御留守居役および加判組仰せ付けられた(年月未詳)。この時加増あって、合計300石。3代目は天和元年(1681年)、越後高田城受取りの際に御供。段々加増で中老格500石(最高禄)、享保3年(1718年)には正式に役名を中老と唱えることを許された。子の彦右衛門の時、350石となり、以後幕末まで350石。庶流は長岡支藩・小諸藩主牧野氏の中堅家臣に転属した。


竹垣氏[編集]

竹垣氏は着座家(後に剥奪)。奥州田村郡在の、長岡浪人・竹垣俊純の六男で、一時、内藤氏家臣であった弥左衛門正純を召しだしたもの。3代目は、50石の分家を分出して、230石となるが、奉行役となり最高時300石。1674年(元禄8年)、寄合組に列する。4代目は中老格400石。6代目は当主夭折にて家断絶。2代に渡り加判組を勤めた実績を惜しまれ「格別之思召」により、弥左衛門則純の四男・戸一郎直純を知行100石を以って家名再興(権六家)。

ほかに、2つの庶流がある。竹垣数右衛門家、慶安年中に別家召しだしを受けたもので、初め100石であったが新潟町奉行を勤め、加増を2回受けて計200石。2代目は150石の相続が認められた。3代目は乱心。父が乱心した4代目は減石されたが相続は、認められ100石となる。竹垣藤市家は、1674年(元禄8年)、50石で分家として分出されたものである。

なお、竹垣弥左衛門家末葉の権六正純は高野余慶著「諸士由緒記」(参考文献の1 所収、【由緒記】)を1849年(嘉永2年)に書写した(原書現存)。



西郷氏[編集]

西郷氏は、長岡御打入御供。三河以来の家臣とみられる。入封直後には500石と大身。その後、減知之訳未詳で2代目は300石、3代目は250石、4代目は200石で者頭。3代目の相続時に、分家の分出または別家召しだしがあったと推察される。庶流の西郷与市郎2男、源太右衛門は100石となり3代目は160石で者頭上座。西郷与市郎4男の与左衛門は寛文6年30石で召しだされ、2代目は御目付70石に班を進めた。【安政分限】には西郷市郎右衛門160石と、西郷仙蔵40石の2人が見え、【士族総名順】にも3人の西郷姓を見ることができない。よって1家は廃絶されたとみられる。


稲垣氏(稲垣藤八家)[編集]

稲垣氏(稲垣藤八家)は、家老首座の稲垣平助家から、父の隠居を機会に寛文5年(1665年)に分家として、300石で分出される。関連記述は稲垣氏 (牧野家重臣)を参照のこと。



続く
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月16日 09時11分44秒 ) パスワード

栂氏[編集]

栂(とが)氏は、牛久保以来の家柄である。栂半左衛門は長岡打入御供(300石)。長男・栂猪之助家系(300石)と、別家召しだしを受けていたと見られる次男・栂七左衛門家系(220石)があった。栂猪之助の2男は新恩100石で召しだしあり。近習や者頭を勤める(源蔵家)。

惣領家系である栂猪之助の長男、甚之允は、延宝9年(1675年)、大組の藩士であった神戸七太夫に乱心されて殺される。実子なく改易。しかし、同年に100石で、栂猪之助の弟、与右衛門義光が新恩による召しだされ、栂野(とがの)氏と改称した。

栂七左衛門家系(220石)は、当主の子が自殺して改易。明暦年中に50石で再興。


深沢氏[編集]

深沢氏は、本家の三郎兵衛家とその庶家が若干ある。元和4年(1618年)の「長岡御打入」に深沢三郎兵衛・同三四郎が見えるが(【長峰引越】)、【由緒記】にはそれ以前の慶長20年(1615年)大坂夏の陣で一番槍との記述も有り、大胡在城以来の随従と言える。

長岡初代は番頭・町奉行を勤め、禄300石。2代目は弟平三郎(のちの安左衛門家)に50石を分知して世禄250石・番頭・町奉行となる。平三郎は正保年中に槇新左衛門家に養子入りしたが、後に槇家に実子出生で別家となり深沢氏に復姓した(深沢安左衛門家、その際50石加増で100石)。寛保年間には、本家の深沢後太郎は、一時350石となる(→【寛保分限】)。他に小禄(30石)の深沢氏があるが、安左衛門の弟が中小姓として取り立てられたものである。また藩主・牧野氏が、越後与板藩に支藩を分出した際に、与板藩主・牧野康成(=武成)に小姓として、随従した深沢惣領家の庶子は、康成の死に臨み殉死した。【小諸年譜】。
江戸武鑑では【文化13年武鑑】に取次頭取の深沢三郎兵衛が、【弘化4年武鑑】・【嘉永4年武鑑】では定府藩士の深沢氏が見られる。



深津氏[編集]

深津氏は、世禄300石以上の上級家臣。譜代大名・本多氏15万石の重臣であった。主君の本多政利が、お家騒動により改易となったため、浪人となるも、長岡藩牧野氏に再仕官がかなったものである。世禄は300石であったが、番頭などを勤めて330石から、350石を与えられていたこともあった。深津氏は分家の分出はしていない。
なお、【文化13年武鑑】では深津金右衛門が定府の奉行扱いである。



大川氏[編集]

大川氏は、初代忠成の長岡入封以来の家臣(300石)。しかし、2代目の幼少当主が死亡して家が断絶。弟が別家、召しだし100石。のちに加増100石の計200石。分家3代目は番頭となる。敗戦後には権大参事170石。

「長岡市史」では藩士で菅原氏族の武部氏が後の大川氏と称したとあり、同氏の奉仕する大川天神は一時期、町内社となったが、明治36年に廃止されたとある。



原氏[編集]

原氏は、初代忠成の長岡入封以来の家臣(300石)。しかし、その末裔の当主が死亡して家が断絶。延宝8年(1680年)、原善左衛門の弟、原彦七が別家召しだし(50石)。後に50石加増。 計100石。これを原旗之助家という。



新井氏[編集]

新井氏は、長岡打入り御供(100石)。後に100石加増となり、世禄200石。慶安5年(1652年)佐渡国・小比叡騒動のとき、江戸藩邸にあって、自ら急使に立ち、その対応が迅速で藩主牧野氏が面目をほどこしたので、一代限りではあったが、100石の加増を受け合計300石となった。その後、200石を維持した。北越戦争で敗北後、150石に留まり異例の部類に属した。なお、藩主家家譜の付属史料で家内記録でもある「御附録」製作者の一人は新井氏である。




鬼頭氏[編集]

鬼頭氏は、幕末・維新期には、本末とも河井派であったことで著名。反河井派の封じ込めに奔走した。北越戦争では開戦派。初代忠成の長岡入封以来の家臣であるが、牛久保以来の家柄ではないとみられる。鬼頭氏2代目が一時300石に累進し、町奉行・番頭を勤める。3代目は250石の相続が認められ木頭氏に改姓(本給250石の筋目)。番頭を勤める。4代目は、宝永6年に弟、鬼頭五右衛門を分家として、分出したほか、番頭・町奉行を勤め鬼頭姓に復姓。鬼頭氏本家には、一代限りは10石のご加恩があったとみられ、230石であったが、以後は220石となる。幕末には奉行などを勤めた。分家の鬼頭五右衛門家の初代には、2人扶の御加恩があり、30石2人扶で中小姓を勤めた。幕末にこの家系から、鬼頭少山が出た。

【嘉永高調】によると、鬼頭六左衛門220石(御作事奉行)、鬼頭五右衛門30石(柿本庄右衛門組)と見える。また【嘉永高調】においても家禄は同じである。【人名事典】には、鬼頭少山が世禄32石とあるが、長岡藩の各種分限帳や御家中町附などの一次史料には、世禄32石を、うかがわせる記述はまったく存在せず、【人名事典】は32石とした出典を明示していない。


小出氏[編集]

小出氏は【新潟県家紋と姓氏】では、家紋は「小出額」・「対い藤菱」・「丸に片喰」とし、藤原南家二階堂氏族とする。

延宝7年(1679年)、僧籍にあった柳営林家門人を、長岡藩最初の儒官として30人扶持で召しだした。牧野忠辰の藩士教化策に後見し、立身して350石となり寄合組に列する。2代目は減石処分を受けたとみられ、230石大組とされた。このとき分家の分出はなかった。さらに年月不詳で20石が減石され、210石を世禄としたとみられる。【安政分限】に小出甚太夫210石が見える。ほかに宝永7年(1710年)、本多壱岐守家臣から転属した小出氏がある。


稲葉氏[編集]

稲葉氏は【由緒記】の編纂以降に召しだし。【由緒記】には稲葉姓を見ることができない。嘉永3年(1851年)稲葉権左衛門300石が初見【家中禄高調】。安政6年(1859年)稲葉又兵衛(300石)【安政分限】。文久2年(1862年)取次持筒頭300石で阪之下居住【文久総名順】。慶応3年(1867年)以降作成とされる『長岡城下町絵図』に稲葉又兵衛(200石)がある。



佐野氏[編集]

【諸役人留】に新潟明和騒動時の新潟町奉行の一人に佐野与惣左衛門の名が見える他、【万延元年武鑑】に定府で用人兼附役である佐野與惣左衛門の名が見える。加えて河井継之助の姉婿の一人が佐野与惣左衛門である。



槇氏(槇三左衛門家)[編集]

槇氏(槇三左衛門家)は、300石以上の世禄を持った上級家臣。先法家となった真木三郎左衛門(槇惣右衛門)の別家(300石)となった。高田城に、徳川家康の六男・松平忠輝改易のため、城受け取り・接収に際して、牧野家・旗奉行を勤めた槇三左衛門重武を祖とする。その後、次男の槇八右衛門が100石、三男の槇吉之丞が剣豪と知られ50石(後に50石加増・計100石)で召し出された【越佐伝】。槇三左衛門家は、世禄250石となったが享保年間にも、またも30石の微禄の分家を分出した。後、10石の加増が2回あり世禄を240石とした。前記の柿本氏と対照的であり、このクラスの藩士としては珍しく、3家の分家・別家を立て、家禄を細分化してしまい槇三左衛門家は、着座家となることはなかった。槇三左衛門家は、家禄が細分化されたが奉行の重鎮の家とされた。時として番頭(270石)まで班を進めたが、しばしば御奉行に名を連ねていた槇三左衛門家が残した長岡藩の制度・法制に関する史料が、現存しており、藩史の研究に寄与している。敗戦後は150石となった。


小嶋氏[編集]

小嶋氏は【屋敷高調】には380石として記載され、【由緒記】には、280石・御奉行格と記載されているが、前後の分限帳から280石が正しいものと推察される。
江戸武鑑では【元文6年武鑑】に用人、【宝暦13年武鑑】に奉行として小島助右衛門が見られる。



毛利氏[編集]

江戸武鑑では【文化9年武鑑】から【文政3年武鑑】まで用人兼牧野忠雅附役、【文政4年武鑑】より奉行、【天保4年武鑑】では中老に定府藩士の毛利幾右衛門の名が見える。



幕末・維新期の非常時の重臣[編集]

小林氏[編集]

小林氏は、元々は上州浪人の赤堀氏で、大坂の陣・武功組みで幕末に牧野忠恭附役であるが、詳細は、小林虎三郎を参照。北越戦争では、恭順派に属した。大参事(=家老に相当)となった小林氏とは、異流の小林氏も長岡藩士に存在する。



河井氏[編集]

河井氏は、近江国膳所藩より長岡藩に移籍した家臣である。長岡藩総督・河井継之助秋義の直接の先祖は、はじめ長岡藩内の河井氏から30俵2人扶持で部屋住み身分のまま、小姓として召し出され、新恩により40石で別家を立てたと云う。またこれとは異流の牛久保以来の譜代・河井氏もある。詳細は(河井継之助/河井家の概要)を参照。


三島氏[編集]

三島氏は、川島氏から、改姓したものである。川島氏の二代目は、支藩である与板藩士・小川氏から迎えられた養子であった。小川氏は喧嘩によって斬り殺されると云う事件があったが、川島氏は家禄100石となった。しかし惣領家当主が、病気を苦に享保7年(1722年)に自殺する事件があり、減知となり、一時35石となっていた。明治維新後に、川島億次郎が三島億二郎と姓を改めて、大参事(=家老に相当)となり、牧野頼母・小林虎三郎等と共に、荒廃した長岡復興に尽力した。



中堅以下で著名な家臣[編集]

高野氏[編集]

元は宇津氏。故あって信濃上田藩から移籍。大組所属。詳細は高野貞吉を参照。高野永貞(栄軒)、高野常道(余慶)、高野正則(松陰)が儒臣として著名。


小山氏[編集]

中間組に所属していたが、天和2年(1682年)に針師として改めて召しだされ15石2人扶を給付される。幕末に蘭学を学び河井継之助の親友の一人とされる小山良運(130石)が出た。家系の詳細は小山観翁を参照。小山良運の惣領に洋画科・教育者小山正太郎。長岡ではじめて刑死者の解剖をおこなった小山良岱(45人扶)は庶流。【士族総名順】には3家の小山姓がある。


長尾氏[編集]

長尾氏は支藩延岡藩家臣で牧野忠敬の附役を務めていたが、忠敬が長岡の養子になると転籍して引き続き附役になっていることが江戸武鑑により見てとれる。なお、若殿様附役は当初、用人兼務ではないことは江戸武鑑でも確認できるが、【寛保分限】によると150石で、者頭格であったとされるが、用人職にはなかった。この限りにおいては、附役が用人・側用人を兼務していなかったことが長岡藩史料でも証明されることになる。【延享分限】には180石で、御用人同格とあり、【屋敷禄高調】には御用人250石とある。また30石で別家召しだしとなったとみられる長尾権十郎家がある。
しかし江戸武鑑でも牧野忠雅の代以降に長尾姓が登場しなくなるが、【安政分限】以降においても、長尾権十郎家以外に、長尾姓の長岡家臣は消滅する。改易となったのか、あるいは延岡から国替えとなっていた笠間に帰参したのかは不明である。



伊東氏[編集]

伊東氏は初代・伊東道右衛門が1615年(慶長20年)大坂夏の陣で戦功あり。1618年(元和4年)長岡に御打ち入り御供。大組所属・高120石で代々年男を仰せ付けられ正月7日に若菜を献上した。また代々槍術を家芸とする。1868年(慶応4年)の北越戦争では大砲隊長に抜擢されるも、得手の槍で西軍兵士と対決して数名を倒し戦死した伊東道右衛門は著名。長岡市城岡に顕彰碑がある。120石【人名事典】。ちなみに、「長岡市史」によると河井継之助により藩士の武器を従来の槍・刀剣から銃剣への変更命令が行われている。 



伊藤氏[編集]

伊藤氏は古義学派の儒者で伊藤仁斎の曾孫、伊藤東岸の代で仕官し、古義学を導入。二代に渡り藩校崇徳館都講を輩出。なお、前項の伊東氏とは直接関係はない。東岸の養子である東嶽の代で25人扶持を与えられるが、隠居すると河井の藩学改革による古義学廃止となる。(【人名事典】、長岡市史)。菩提寺は栄涼寺。



渡邊氏[編集]

渡邊姓は長岡家臣の中で最も多い姓であるが、同姓であっても同族とは限らない。

古参とみられるのは、次の3家である。

最も有力なのは、牛久保以来の古参の家臣である渡邊半蔵(孫右衛門)家である。同家は、牛窪記にその先祖と推定される渡邊氏の活躍が著述されている。長岡打入御供で200石。2代目は村上周防守幕下の大屋氏の嗣子を養子とするよう藩命を受けた。2代目(養子)は足軽頭、奏者、守役として30石加増され合計230石。渡邊姓で230石以上の家臣は【元禄分限】の渡邊伝五右衛門230石が終見である。同家は減石された理由を【由緒記】の中で述べていない。

長岡藩第2代軍事総督山本帯刀に最後まで付き添い斬首された渡邊豹吉は三河以来の家柄とされ、その惣領に貴族院議員の渡辺廉吉がいる。

天和年間に切腹となった渡邊与右衛門某100石は、次代が貞享2年に浅草伝法院御詑に付き帰参(30石2人扶)。【由緒記】の上では出所不詳とされ三河以来かは確認できない。また渡邊与右衛門等の行為と嗜好について争論となり、説得・仲裁に失敗した渡辺仙右衛門(【寛文分限】には渡辺千右衛門50石・祐筆と見える)もまた切腹したが、この家系については【由緒記】には記述がないので、同書が成立前に廃絶したものと推察される。

長岡打入御供で徒士目付の渡邊氏30石があるが、年月未詳で初代忠成の怒りをかって、召し放ちとなるも帰参が許され、正徳2年に先の不調法が許されて、忠成の御直筆書を被下された。その後に栃尾蝋奉行役となり、承応3年、初代忠成の遺骸を栄涼寺に葬るにあたり、殉死を願い出て認められ、法蔵寺で切腹。2代目に家督相続(渡邊七太次家)。宝暦3年宝性院(初代忠成)法事のときに先祖の法事のために銀5両を被下。このとき35石銀70目2人扶半。【由緒記】の上では三河以来であるかは確認できない。

その他の渡邊氏は、新潟から召しだされた医師の渡邊氏(200石、後に減石処分で150石)、本多壱岐守家臣から転属した渡邊氏150石、西郷若狭守家臣から転属した渡邊氏20石、宝暦2年足軽から召しだされた渡邊氏(明仙院様養母御附き)。元禄6年武州成蔵院の口利きで召しだした渡邊氏(神戸氏)50石。初代が寛文10年に病死した出所不詳100石の渡邊氏(精勤により120石となり、その分家と推察される渡邊忠太夫良誉は、元禄7年に30石2人扶で別家召しだしとなり後に40石)がある。



鵜殿氏[編集]

越後長岡藩の鵜殿氏は代々150石。洋学者で幕臣となり蕃書調書教授や目付となった鵜殿団次郎と弟で海援隊所属の白峰駿馬を輩出。


秋山氏[編集]

秋山氏は旧甲斐武田氏家臣で武田氏滅亡後に牧野氏に仕官。古文辞学派で藩校崇徳館都講の秋山景山を輩出。60石。【人名事典】



梛野氏[編集]

梛野(なぎの)氏は、河井継之助正室「すが」の実家の姓として著名である他、幕末の改革で財政を担当した村松忠次右衛門の母が梛野弥五左衛門正春の娘である。

長岡家臣となった由緒・時期を不詳としている。200石以上の家臣で召しだされた由緒・時期を明らかにできないとしているのは、当藩では非常に珍しい。梛野姓の初見は【寛文分限】と古いが、初見でいきなり200石。3代目若殿様御附きとなり、最高時250石。その後、微禄の分家を分出したとみられる。【延享分限】【御家中家譜】【安政分限】にも250石で見える。北越戦争後に河井継之助の義兄、梛野嘉兵衛は、小諸藩に転じた。その後、三間氏が小諸藩に転じたことで、長岡に帰参して、同藩、権大参事となり150石。

幕末の江戸武鑑では、【万延元年武鑑】に奉行の、【元治元年武鑑】に牧野忠訓の附役兼用人に梛野弥五左衛門の名が見え、ともに定府である。



北越戦争敗戦後の家臣団[編集]

北越戦争では家老稲垣平助が、勤皇派(恭順派)20人の名を書き奏上、その内、5人が戦争直前に逃亡・出奔しているが、戦後に帰参している。

北越戦争で敗戦後、長岡藩は大減封を受けたが、先法以下の上級家臣では柿本、今泉、雨宮、深津、倉沢、倉沢、山口、権大参事に抜擢された赤川(大川)氏と、家令に抜擢された松下氏が170石を給付された。その他、武田氏(武三右衛門家の本末)2家には130石と、九里氏には150石が給付されている。


重臣[編集]

【大参事】牧野頼母、三嶋憶次郎、小林虎三郎、【権大参事】梛野嘉平、秋田求馬(花輪)、原一平、武部静蔵、赤川哲造(安田)、【士正】松下村主、槇清記、【家令】匹田水衛、服部九郎、名児那衛守。

なお河井氏と山本氏(勘右衛門家)は、謀反首謀者として改易。三間市之進は小諸に転属。



130石以上家臣[編集]

【400石】稲垣、牧野、【300石】牧野、【200石】稲垣、槇、能勢、【170石】疋田、松下、服部、柿本、今泉、雨宮、深津、倉沢、倉沢、山口、赤川(安田)、【150石】槇、秋田(花輪)、由良、稲垣、根岸、田中、田中、名児耶、毛利、杉田、秋原、神先、陶山、奥津、九里、倉沢、村上、鬼頭、深沢、新井、小倉、原、武部(武)、梛野、【130石】槇、渡辺、秦、本富、三堀、森田、仙田、牧野、武田、武田、吉田、吉田、山本、神戸、神戸、福嶋、西郷、多田(池田)、保科(保地)、三浦、丸山、太刀川、星野、拓佳、富所、宇津、小山、亀倉、石垣、九里、陶山、秦、小金井。



転籍した主な家臣[編集]

長岡から支藩に随従した家臣で、最高時300石以上を与えられた家臣は、小諸侯家臣の牧野氏(牧野八郎左衛門家とその同姓分家)、真木氏、加藤氏、及び稲垣氏の4姓5家だけであり、この4姓の家系を小諸では四天王家と呼んだ。三根山侯には300石以上の家臣が存在せず、笠間侯、田辺侯の家臣で300石以上は、長岡から随従したものではない。また、長岡藩士から江戸幕府旗本に転出した家臣もいた。


倉地氏[編集]

倉地氏は、牛久保以来の牧野氏の譜代の家臣である。三河発祥の倉地氏は、徳川家康を悩ませた三河一向一揆の頭目、倉地平左衛門が知られているが、この人物と、牧野家臣の倉地氏との関連は未見である。

牧野家家伝『大坂夏の陣の武功者』に倉地姓が見えるが、長岡藩ではごく初期の文献にしか倉地姓をみることはできない。この倉地氏の主な家系は江戸時代には三系統があった。これら三系統の始祖となった倉地次郎兵衛直克である。

牧野康成(初代長岡侯・忠成の父)は、戦国大名・今川氏の人質に差し出されたていた。しかし牧野成定(初代長岡侯・忠成の祖父)がこれを裏切り、徳川家康に寝返ったので、人質であった康成が危険となったが、倉地次郎兵衛直克は、康成の救出に成功した。またその惣領の倉地呰右衛門(かいえもん)は、大坂夏の陣で武功をあげた【長岡の歴史】。このように倉地氏は、藩主牧野氏に尽くしたが、長岡の支藩である小諸藩に、倉地呰右衛門の名を連綿と継承している藩士が見える。

倉地呰右衛門は、倉地弥次右衛門直秀と名を改めて、与板侯牧野氏・家臣筆頭となったが、牧野忠成の意向で長岡に帰参した。帰参に当たってその弟分(実は稲垣氏)に家禄の一部、100石の跡式相続を許され与板に残留させた。この家系がやがて与板・小諸藩上級家臣(用人・加判級)の倉地氏(倉地呰右衛門家)となり、その後、分家を1つ分出した。小諸藩では維新期には士分上禄、士分下禄の倉地氏が各1家・合計2家が存在した。[22]。

本藩の長岡に帰参した倉地弥次右衛門直秀の家督を相続した倉地氏惣領家系は、旗本(幕末に三根山藩に昇格)の牧野氏6,000石に転属して家老連綿の家柄(200石級)となった。越後三根山に陣屋を持った旗本・牧野氏の重臣・倉地百汲は、世俗を捨て安政年間に、長岡に永住した俳人として著名である。【三根山藩】・【長岡の歴史】

ほかに倉地直秀・弟の家系がもう一系統あるとされ、この家系は牛久保城主牧野氏の属臣であった稲垣氏の家臣に転属した。主君・稲垣氏が班を進めたことにより、鳥羽藩主稲垣氏の上級家臣(番頭級160石)となった(出典、鳥羽藩分限帳など)。



神戸氏[編集]

牛久保以来の牧野氏の家臣。遠州持舟城攻めで神戸与太夫が一番乗りを果たしたことで、牧野家中でその地位を固めた武功の家柄である。持舟城攻め勲功で先法家に列した疋田氏には及ばないが、神戸氏は代々御年男の栄誉を受け、牧野家の正月行事を取り仕切る家柄となった。

三根山藩牧野氏の一番家老は神戸氏である【三根山藩】。その家祖となったのは、神戸与太夫の庶子である神戸彦右衛門の庶子となる神戸次郎左衛門であり、交代寄合三根山領主となった牧野播磨守の家臣筆頭になって、転籍したのが起源である。

惣領家である神戸与太夫の嫡子は、大胡藩主牧野康成の一字を被下され、神戸康右衛門と称し、大坂夏の陣で勲功をあげた。長岡入封時の家禄は不詳であるが、康右衛門には200石(大坂の陣の加増分を含む)、弟の彦右衛門正勝は105石が給付されていた。また康右衛門の2男は、与板藩主牧野氏に随従した(小諸・神戸安右衛門家の祖)。

神戸康右衛門は、後に仁右衛門と改めたが、不調法があり世禄を50石減石され150石。4代目が用人・徒士頭などを勤めて30石の世禄の改訂があり、180石となった。分家神戸彦右衛門家(市兵衛家)は3代目となり番頭・町奉行を勤め180石を世禄とした。神戸彦右衛門の長男は、父に先立ち死亡し、幼い男子が残っていた。2男は牧野播磨守の家臣筆頭になったため、家督を3男に相続させていた。長男の遺児が三人扶持で召しだされたのが、神戸渋右衛門家の家祖である。ついで神戸彦右衛門家から別家召しだし20石があり、後に10石加増となった神戸源右衛門がある。

神戸康右衛門の3男、三郎左衛門は25貫金三両で、別家召しだされたが不宣の儀があり、延宝元年(1673年)に改易。蔵王領で浪人となる。2代目三郎左衛門の次男が、孫の代で長岡に帰参するが享保年間に酒乱のため改易。親戚一同で宝性院法事のときに嘆願して、帰参を許され5人扶持となる。なお栂野氏は延宝9年(1681年)に神戸七太夫が乱心して斬り殺されたとしているが、当家の改易は延宝元年としている。栂野氏は、延宝9年に近親者を持って減石再興になっているので、延宝9年に殺人事件があったことを、信じれば、ほとんど直ぐに家が再興になったことになる。また成立期が特定できない【延宝分限】(延宝7年〜天和年間に成立)には、栂姓はなく200石台、300石台の栂野姓も見ることができない。

また長岡藩主が、怨念の霊を祭ったとされる十柱神社にも神戸氏が祭神の一柱とされている。

真木(槇)氏(真木金右衛門家)[編集]

真木氏(真木金右衛門)は、牧野家の家伝、大坂夏の陣の武功者として、その姓名が見える。この系は、真木越中守定善の甥の家系で、長岡藩の物頭(者頭)であったが、真木金右衛門の惣領が与板侯・牧野康成の家臣(番頭)として移動したものである(真木権左衛門家)。

真木金右衛門は与板に随従せずに、僅かな隠居料の扶持米を給付され、長岡に残留したといわれる。真木金右衛門の孫が、与板藩主となった牧野氏の家老職に累進した。真木(槇)権左衛門家は、陣屋大名であった与板侯が、小諸城主に栄転したときに、長岡から槇内蔵介の庶系が真木権左衛門家の名跡を受けて、小諸藩主牧野氏添えられ、付家老に指名されていたかどうかは、諸説があるが、確実な一次史料が現存しないため定説をみない。

真木権左衛門家は、支藩の家老職7代、その内、3代は首席家老を勤めた。また小諸には、家老真木氏の分家・別家が計3家があった。この中の一つである真木水右衛門家は、陰陽五行思想により、「金」より生じて「水」になったとして、水右衛門を通称としたする伝承がある。この真木氏は、与板家臣の真木庄右衛門を家祖とするが、小諸藩首席家老・真木権左衛門則成の2男が、同家に養子入り(あるいは名跡再興)をしている。

維新期の小諸藩には、士分上禄格式の真木氏が3家あった(1家は幼少当主の夭折による無嗣廃絶)。


加藤氏[編集]

牛窪記の地侍衆に加藤姓が見える。また「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」(1616年)には、加藤孫蔵の名が見えるが、この御人数帳には加藤姓の者は、孫蔵一人だけであった。

加藤孫蔵は、与板侯の牧野氏の家臣に移動してやがて、家老職となり、通称を加藤六郎兵衛と改称した。江戸武艦の小諸侯の記事には、しばしば用人・加藤孫蔵の名が見えるが、家老職に累進すると、加藤六郎兵衛に改称した。維新期の小諸藩には、上禄格式の加藤氏が1家と、別家召しだしとなっていた加藤氏が下禄格式とされ、合計2家があった。

長岡家臣には、加藤姓の家臣があるが、加藤孫蔵家の分家とみられる加藤五郎左衛門(左市)家が小禄で、長岡家臣として残留したほか、同家から別家召しだしを受けた加藤多弥蔵家がある。足軽から取り立てられた加藤岩右衛門家(28石)は、藩主姫様乳母の功労。長岡御打ち入りに御供以来の加藤新五左衛門(新左衛門)家(約100石)と、一柳氏家臣から移籍した加藤治太右衛門家(150石)などがあるが、加藤孫蔵家とは異流とみられる。

また、幕末の人物に河井継之助の刀槍から銃剣への変更命令を「死んでも不慣れな武器を使いたくない」と主張して最後まで拒否した加藤一作がいる。



牧野氏[編集]

牧野平四郎家は、与板侯となった牧野氏の家臣に移動してその家臣中次席となった。与板侯が、小諸城主に栄転したときに随従して、やがて小諸藩主・牧野氏の城代家老の家柄となった。

牧野平四郎は、牛窪密談記や、「元和四年長峰ヨリ長岡江御引越御人数帳」(1618年)にその姓名が記されている。

平四郎家は特別な武功・戦功を伝える文書が長岡藩文書、小諸藩文書に未見であるが、三河国宝飯郡伊奈の住人・牧野平三郎家の分家である。(詳しくは、小諸藩牧野氏の家臣団の四天王家を参照)。


贄氏[編集]

贄(にえ)氏は初期の重臣。全国的には珍しい姓であるが、牧野氏の拠点であった牛久保近くの愛知県麻生田橋遺跡付近に集中して存在していた。太田亮は穂国造の末裔ではないかとの著述を残している。一宮社領がこの近くにあったため、一宮神家の御家人ではなかったかと推察されている。宝飯郡二葉町八幡社の大永2年の棟札に大旦那贄将監秀成の名がみえる。越後長岡藩主牧野氏の嫡家となる牧野氏が滅亡した翌年となる享禄3年(1530年)、松平清康は、東三河を制圧した。松平清康が最後に残したのは、丘陵地帯となる奥三河の宇利城主熊谷氏であったが、この熊谷氏重臣に贄氏があった。贄掃部は今川氏の家臣との記述が残り豊川市豊町に贄塚と呼ばれる墓地が現存している(参考文献 豊川市史 中世編 近世編。武徳太平記。東三河と長岡118)。牛久保城主。牧野氏重臣から大胡藩牧野氏の家老(家禄不詳)として随従した贄掃部氏信は、信濃国上田城・真田氏攻めで、軍令違反を犯して、徳川秀忠から、切腹を命じられたが、後の長岡藩主・牧野忠成が庇って出奔させた。その後、徳川頼宣に召し出されていることから、この軍令違反は馴れ合いであったとする説の根拠の一つとなっている。贄掃部氏信の曾孫の代に、徳川吉宗に随従して、江戸城に入城し、将軍家の直参旗本(惣領家400石・分家200俵)となった。この家系の出身者である贄正寿が遠国奉行の堺奉行(役高1,000石・役料600石)に抜擢された。贄正寿は名奉行として大阪府堺市の郷土史に名高い。


三間氏[編集]

先述の三間氏の項目でも述べたとおり、長岡藩士から江戸幕府旗本に昇格した者が3名存在し、小笠原氏庶流として掲載されている。元禄6年1月7日(1693年)に三間正信(武左衛門)の子、三間矩寛(主水)が長岡藩から江戸幕府に転属となり、翌年には矩寛の長岡藩士である兄の好将(伊太夫)、政久(善太夫)も江戸幕府に転属となった【新訂寛政譜牧野氏】【新訂寛政譜三間氏】。



大坂夏の陣の武功者たち[編集]

大胡藩主・牧野氏は、大坂夏の陣の勲功で3倍に領土を増やし、長岡藩主に栄転して、その後も加増を続けた譜代大名である。

大坂夏の陣によって、家禄を大幅に増やしたり、新規召し抱えがかなった藩士が、相当な数に及んだ。

関ヶ原の戦い後の大坂城主・豊臣秀頼は、65万石余の領地を持っていたに過ぎず、これを滅ぼすために、全国の諸大名を軍役で動員して、難攻不落の大坂城を攻略して、大きな犠牲を払うと、豊臣方を滅亡させて領地を没収したとしても、恩賞を与えるだけの領地が不足するので、徳川家康は、大坂攻めに慎重であったと云われている。そこで、城攻めにあたって、手柄をたてられそうな場所には、譜代大名を配置したとされるが、その恩恵を受けた一つが牧野家であった。

牧野家の家伝は、大坂の陣の武功者として、次の者の姓名をあげている(→【大阪陣功名】)。

稲垣平助、今泉竹右衛門、稲垣権右衛門、朝倉仁右衛門、疋田(匹田)水右衛門、武彌兵衛、今泉次郎作、三間喜兵衛、

山本才蔵、伊藤道右衛門、秋山長四郎、神戸彦右衛門、石垣忠兵衛、神戸安右衛門、望田善内、倉地呰右衛門、広中茂右衛門、由良作左衛門、真木金右衛門、山本隼之助、桑名甚八、長谷川権六

上記に姓名がなくても、深沢氏のように、大坂夏の陣・一番槍として、一躍、高禄を与えられている者もあるので、この家伝には、記載漏れもあると思われる。



葬地[編集]

長岡藩の家老5家、先法3家、及び立藩当初の高禄の家臣(今泉家、稲垣権右衛門家、真木小大夫家など)は、在所にあっては、牧野平左衛門家とゆかりの深い曹洞宗である長興寺を葬地としていた。 長岡家臣の葬地は、藩主家在所の菩提寺である浄土宗の栄涼寺ほか幾つかに分散されているが、初期からの長岡重臣は、藩主家とは異なる長興寺に葬地を持つ特徴がある。なお、定府藩士の墓所については越後長岡藩#江戸藩邸及び江戸における菩提寺を参照。

脚注[編集]
1.^ 稲垣氏は、『藩翰譜』などによると、遠祖は清和源氏小田重氏であるとする。(→詳しくは三河稲垣氏を参照)
2.^ 司馬遼太郎の小説『峠』に登場する恭順派の筆頭家老稲垣平助にあたる人物
3.^ Etsu Inagaki Sugimoto (1925年). “A daughter of the Samurai”. Doubleday, Doran. 2016年1月16日閲覧。
4.^ 杉本鉞子 『武士の娘』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1994年(原著1925年)。ISBN 978-4480027825。
5.^ この山本家の嫡子は、それ以前に越前松平家に仕官していたので継嗣がいなかった。
6.^ この家系の嫡流(伝十郎家)は3代目牧野次郎左衛門(初め伝十郎、250石)のとき改易・断絶となったが、その次男牧野十左衛門(100石のち110石)や三男牧野十助家(100石)の庶流が残った。
7.^ なお松井光次の嫡流は尾張徳川家家臣となった。(→詳しくは三河松井氏を参照)
8.^ 以上は参考文献の13、付録巻第126・松井氏の559-560頁、および参考文献の4、第二章 第二節「家老五家」の192-198頁による。
9.^ 出典→安藤英男『定本 河井継之助』/1977年・白川書院の25頁および参考文献の1、134頁/【由緒記】による。
10.^ その先祖が初代長岡藩主・牧野忠成が新次郎と称して、未だ牛久保城主であった頃に、年長の新次郎を党首として交誼親密で恰も水魚の交わりの様であったと云う。ともに徳川家に属して戦功を重ねて賜った知行二千四百貫文を4等分して各々六百貫文ずつ知行したのだと云う。やがて、牧野新次郎は立身し元和年中に七万四千石余に至り長岡領を賜ったので、以前の六百貫文に事寄せて、三家にそれぞれ知行六百石ずつ宛て行った。しかし、真木・野瀬の両家は知行高の少ないのを不満として長岡を出奔してしまった。藩主牧野家は彼ら勲功ある家柄を慕い、その血統を重んじて残った両家の血族に先法家と名付け、家老の支配を受けない寄会組の格式を与えて、藩主の客分として差し置く家柄として連綿相続させたものという。
11.^ 槇重勝は、元和5年福島正則改易の使者となった藩主に随行し、翌年長岡藩の栃尾増封の際に栃尾1万石のお預け支配にあたった。この栃尾領は徳川家康養女から正則室となった牧野忠成妹へ下賜の扶養料という。(→【諸士由緒記】)。
12.^ 真木氏は家康に臣従後に大きな戦功等の記録は無く、わずかに庶流の真木金右衛門が大坂夏の陣で武功があったことが伝えられている(【大阪陣功名】など)。この家系が班を進めて、小諸入封より前に支藩・牧野家の家老の家柄となった。末裔の小諸藩家老真木要人は、明治元年(1868年)斬首刑に処せられた。
13.^ 真木家文書(槇文書)が東京大学史料編纂所に所蔵されているほか、小諸家臣の真木(槇)氏に関する文書から、長岡家臣の真木(槇)氏の動静を知ることができる。
14.^ 能勢氏は元和5年福島正則改易使者となった藩主忠成に随行。これに次いで藩主の御鷹拝領の栄を受け、初代から3代当主までその養育領として栃尾山中に御鷹領を授与され、4代目は中老職に昇進した。(→【諸士由緒記】)
15.^ 『新潟県史・通史3・近世一』では新発田藩の仕置役(家老)に柿本蔵人がいたとする。
16.^ 幕職も記載される江戸武鑑では、陪臣にあたる諸藩の奉行を「中老」や「年寄」と表記する(「仙台藩など」)か項目を付さない(米沢藩など)ので、実際奉行職があっても「奉行」と書かない。長岡藩の場合は化政期〜天保期の須原屋版江戸武鑑では中老と奉行を「中老」」の項目で一括掲載されているが、中老内を斜線で区別している場合があり、この斜線は非常置である中老と奉行とを区別するためのものである可能性が高く文政4年の武鑑では柿本は他の奉行と差別化された人物の一人である(これ以前の文政武鑑では差別化されていない)
17.^ 残り2件は小諸騒動の河井の調停と、長岡家臣を派遣して小諸藩主を補佐させた記事である。同年譜には記載がないが小諸藩文書によると、長岡家老、稲垣平助が小諸に倹約を命じた書状を持たせて、長岡家臣を小諸に派遣したことがあるが年代が異なる(小諸藩牧野家文書、長岡市史に史料引用あり)。
18.^ もっとも小諸藩御用部屋日誌(個人所有、学習院大学史料館に写本蔵)などに本藩長岡と、在所小諸との往来を記述した記録を見ることができるが、弔問など冠婚葬祭に関するものが残っているに過ぎない。その一方で、江戸藩邸では頻繁に往来して政治的・重大事を、しばしば含んでいた【再興長岡】・(長岡藩公用人日誌小林藹、東京大学史料編纂所蔵)。
19.^ なお、寛延年間に起こった長岡藩主家特筆事項としては2人目の笠間藩主家出身の長岡藩藩主就任と幕府を欺く形での牧野新三郎貞寛の笠間藩主家養子入り(詳細は牧野忠寛参照)がある
20.^ ここでいう小諸藩文書は【小諸年譜】P,75に翻訳整理されたものが、ほぼ掲載されている
21.^ 但し、今泉氏が編集に協力した『長岡市史』において国許の藩校崇徳館についてはやたら詳しい反面、江戸藩邸の藩校である就正館についてはほとんど無知であったり、取次職については不詳、附役について記述省略したりと、江戸藩邸関連の記録について不十分な傾向がある。また、武鑑でも今泉岡右衛門の名が見られること少なくないが、定府として掲載されることはほとんどない。
22.^ 出典は小諸藩牧野家文書<標題「倉地呰右衛門長岡蟄居の真相」>・小諸藩伺書 東京大学史料編纂所蔵

凡例[編集]

文中の出典に関する、略号の説明。
【由緒記】=参考文献の1(pp85 - 153)所収/「諸士由緒記・全」、高野榮軒 原著(1754年(宝暦4年))・竹垣正純 写(1850年(嘉永3年))。
【大阪陣功名】=参考文献の2(p32)所収/「大阪夏御陣之節著名之人数」(1615年(元和元年))。
【大胡引越】=参考文献の2(pp32 - 34)所収/「元和四年三月二十一日上州大胡より御引越之節御人数」(1618年4月)。
【延宝役人附】=参考文献の2(pp37 - 44)所収/「延宝年中御役人附」(1673年 - 1681年)。
【文久総名順】=参考文献の2(pp135 - 149)所収/「御家中総名順 文久戌年改正」(1862年(文久2年))。
【長峰引越】=参考文献の3(pp17 - 19)所収/中島儀兵衛写、「長峰ヨリ長岡江御引越人数帳」(1618年)。
【寛永分限】=参考文献の3(pp19 - 26)所収/「寛永十五戊寅年 六組知行高并役高帳」(1639年)。
【寛文分限】=参考文献の3(pp27 - 43)所収/「寛文年中 諸組分限帳」(1673年(寛文13年)頃)。 
【延宝分限】=参考文献の3(pp44 - 51)所収/「延宝七未年より天和初頃、延宝分限帳・全」(1679年 - 1681年)。
【元禄分限】=参考文献の3(pp52 - 70)所収/「元禄二巳年 分限帳」(1689年)。
【宝永分限】=参考文献の3(pp71 - 86)所収/「宝永四亥年 分限并役付帳」(1707年)。 
【正徳分限】=参考文献の3(pp87 - 94)所収/「正徳二辰・同三巳年組々名順」(1712年 - 1713年)。
【寛保分限】=参考文献の3(pp95 - 104)所収/「寛保元年八月改 分限帳」(1741年9月)。
【延享分限】=参考文献の3(pp105 - 112)所収/「延享二丑年 延享分限帳・全 」(1745年)。
【屋敷高調】=参考文献の3(pp113- 132)所収/「長岡家中居屋敷禄高調」(文化9年(1812年)- 文化13年(1815年))。
【御家中附】=参考文献の3(pp133- 148)所収/「御家中附」(天保7年(1836年)頃)。
【嘉永高調】=参考文献の3(pp149- 163)所収/「嘉永三丙午 長岡藩家中禄高調」(1851年)。
【安政分限】=参考文献の3(pp164- 176)所収/「安政六己未年六月改之 長岡御藩中分限順」(1859年)。
【士族総名順】=参考文献の3(pp177 - 194)所収/「明治二年 長岡藩士族総名順」(1869年)。
【御家中町附】=参考文献の4(pp335 - 345)所収/「御家中屋敷町附并知行附」(1780年(安永9年)頃)。
【長岡の歴史】=参考文献4
【文化武鑑5】=参考文献の5 所収。
【文化13年武鑑】=参考文献の8 所収/江府書林・千鍾房・須原屋茂兵衛蔵版、「文化13年武鑑」(巻之2)
【文政元年武鑑】=参考文献の8 所収/江府書林・千鍾房・須原屋茂兵衛蔵版、「新版改正 文政武鑑」(巻之2)/(1818年(文政元年)頃)
【人名事典】=参考文献11の(pp7−19)所収。
【宝暦13年武鑑】=参考文献12所収。/江府書林・千鍾房・須原屋茂兵衛蔵版/「新版改正 宝暦武鑑」(1763年頃(宝暦13年))
【弘化4年武鑑】=参考文献12所収。/江府書林・千鍾房・須原屋茂兵衛蔵版/「新版改正 弘化武鑑」(1847年頃(弘化4年))
【嘉永4年武鑑】=参考文献12所収。/御書物師・出雲寺万次郎蔵版、「大成武鑑」(巻之二)(1851年頃(嘉永4年))
【元治元年武鑑】=参考文献12所収。/江府書林・千鍾房・須原屋茂兵衛蔵版/(1864年頃(元治元年))
【小諸年譜】=「小諸藩主牧野氏年譜」(小諸藩古文書の一部を編年体でまとめた簡易製本の資料)(1932年)非売品
【牛久保年譜】=「牛久保牧野氏年譜」(牛窪記を中心に、牧野氏に関する文献や伝説を編年体でまとめた簡易製本の資料)(1985年)非売品
【稲垣家譜】=「藤姓・稲垣家家譜録」(長岡市立中央図書館の蔵書目録には藤姓・稲垣家家譜禄とある)。 
【越佐伝】=「近世越佐人物伝」(越後国の旧藩家臣・著名人などを紹介)(1898年)
【三根山藩】=参考文献14
【再興長岡】=参考文献15
【古格旧法】=参考文献4(pp203-204)所収。参考文献16 所収「長岡古格旧法・全」。
【新潟県姓氏と家紋】=参考文献17所収。
【日本歴史地名大系】=参考文献18
【新訂寛政譜牧野氏】=参考文献19所収。/寛政重修諸家譜
【新訂寛政譜三間氏】=参考文献20所収。/寛政重修諸家譜
【諸役人留】=参考文献21所収。/『天保十亥年正月 貞享元子年より諸役人留』/天保10年(1839年)筆写。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月16日 13時58分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤原・日野氏系の服部伊賀守というのは、家長とはどうも別系のように
思われます……? (麻績服部氏もこの点に関係してくる。)
 鎮基が日野姓から服部姓に改めたのは十三世紀後半のようであります。
 家長が生まれたのは十二世紀半ば頃、その孫の代で古代氏族系の服部氏
が入ってくる。
 この古代氏族系の服部氏も、藤原・日野氏系の服部氏とは別のように思
われるのでありますが……。
 結局、藤原・日野氏系の服部伊賀守が謎です。従ってそこから派生して
来る牧野氏というのも謎です。今、壁にぶち当たっています。
 この関係は、時間をかけてじっくり調べて行きたいと思います。

 頭の中を一度リセットいたします―
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月16日 22時56分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


>藤原・日野氏系の服部伊賀守というのは、家長とはどうも別系のように思われます……? 

はい
全く別人ですよ。と言いたいのですが、昔は養子を貰ったりしてるから途中からゴチャゴチャですよ。

          

<38>
家長は平安時代末期の人で源平戦に登場する人物で一応平姓服部氏。
麻績服部流の祖は、承久の変以前の鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。    

         ヒバリさんの説明では藤原氏に仕えた人、で
         伊賀に行ってたけど、後に、信濃の地頭になった。その子孫がヒバリさん。


            藤原氏に仕えてたということで
                藤原姓に化けたのかな?
                鎌倉幕府に滅ぼされた平氏系服部氏とは違う、ということなのかな?


    もともと服部氏はいろいろあったし。
    秦氏系もあったし、服部氏系もあったし、平氏系(うちです)もあったし。他にもあったのかも。
    その1つが藤原姓服部氏なんでしょうね。


藤原姓服部氏が考えられるのは平家が力を持ってた時に平家の親戚になる藤原家に行ってた服部氏が
平家本流の服部家と違って壇ノ浦には行かず
その後
承久の変以前に藤原の主人に代わって伊賀に行ってたということかな?と。




>家長が生まれたのは十二世紀半ば頃

いえいえ、もう少し前に生まれた人です。

というのは義経の命令で那須与一が射殺(笑 弓矢で射殺)した平家の老人の家員(とうい名前だったような)は
50代半ばの老人で家長の弟だった記憶なので
家長は源平戦時代には前期高齢者だったと思いますよ。

     知盛さまと一緒に入水したと言われている乳兄弟は「家長の息子」だと思います。
     なんせ家長は忠盛の昇殿に父家貞と一緒に護衛に行ってて当時16歳あたりだったような。

http://history.kaisetsuvoice.com/Tadamori.html    1132年だそうです。
この時、16歳ですから、50数年後にはやはり前期高齢者だったのでは?


とにかくゴチャゴチャしててややこしいけど
一応
流れが違うけど共通点は伊賀の服部には関係している。
そして家長や半蔵にも関係している
というのは本当なんでしょうね。

ヒバリさんの先祖は藤原姓の方だった。また子孫も鎌倉に遠慮してたんでしょうね。


もう出掛けます。
また読み返して訂正します。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月17日 00時26分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。伊賀の服部氏の祖の出自、混沌としている、
またミックスされているということですね。
 でもいつかはっきりしてほしいと願っています……。

 藤原氏においては、道長のような公家のイメージをついつい抱いてし
まいがちですが、武士系の藤原氏も秀郷流、利仁流等があり、多くの武
家を輩出しています……。

 藤原氏と伊賀を結ぶものとして、「藤原千方」の窟(いわや)というもの
がありました。つまり伊賀と藤原氏はつながっています。

 本日はとりあえずここまでとし、エネルギーが切れて来ましたので、
チャージすることといたします―
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月17日 04時33分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>伊賀の服部氏の祖の出自、混沌としている、またミックスされているということですね。

はい
ミックスし過ぎて1本の系で語るのはムリだと思います。
どの時代を祖とするかでもグチャグチャになりますしね。



>つまり伊賀と藤原氏はつながっています

はい
もともと平氏と藤原氏は仲が良いし   (源氏と藤原氏も仲が良いですね)
藤原秀郷と平貞盛の関係(=平将門を討った)でも、子孫が共に伊勢に行ってるから、仲が良いし(伊勢の藤原氏は平家一門)



一応  服部氏=伊賀出身  でしょ、というのはかなり言えますね、これは 服部半蔵 のお蔭でしょう。
でもコレが全てじゃないし。



服部氏もいろいろある。

秦氏系も、
藤原系貴族に仕えてた服部氏系もあれば平氏系もあれば武士系藤原氏系もあるし源氏系もあるし、
他にも廉価な労働者だったただの職人が称した服部系もあるでしょうしね。
出身地が服部というだけのもあるし。


半蔵の家は帰化人系じゃないと断っていますね、でも否定するところがアヤシイと言えば言えるし。
とはいえ、何百年も前のことは他の人なんかには分からないだろうし、
実際に桓武天皇の子孫の平氏で平家の一門だった服部家長は武士層には承知の事実だったろうし。

江戸幕府に提出した家譜は先祖をでっち上げる絶好の機会だったろうし。



寛政諸家譜でもいろいろな服部氏が登場。


一応系図上の先祖の名を同じに突き合せても、細かいところで違うのは何故?
    それがアイデンティティということ。
    うちは後醍醐天皇のお召しに預かるまでは伊勢の鈴鹿あたりにいた=これは半蔵の家とは違う=コレが言いたい。
    半蔵の方にすれば、じゃ、ウチはもっと前から名家なのを言いたいからほのはやひの子孫で允恭天皇がらみの服部連の子孫にしておこう。


これはしょうがないじゃないですか、人間は結婚するし移動するし。
母方で服部かも知れないし父方の服部かも知れないし養子が入って服部になったかも知れないし。
他人みたいだけど繋がってるし・・・ムカシは親戚とか一族で結婚してたし。


寛政諸家譜を見てると  クスッと笑ったり  かなり見栄張ってるね  とか  本当にこの人の子孫?と思ったり  面白いです。



藤原系服部氏もいろいろでしょうね。

藤原氏が持ってた土地に縛られた  ただの織物工  出身者とか
藤原氏が伊賀に土地を貰って俗姓で服部を名乗ったとか
藤原秀郷と仲の良かった平貞盛との関係で服部を名乗った武士系藤原姓とか
平貞盛の子孫が1006年に伊勢に行って京都の藤原貴族と繋がりが出来て藤原という姓を名乗ったのかも分からないし
平家との関係で服部を名乗った<平安時代末期の新しい>藤原姓服部氏は当時けっこういたと思いますし。

   「力」があればみんなその「力」に寄って来ますからね
    服部という土地の出身だから名乗っただけもあるでしょうし
    服部と言ったら仕官が叶ったというのもあるでしょうし


名字も出自も一本の筋じゃ語れないと思います。

それで天皇家の価値が高いんじゃないですか?途中いろいろありましたが、取り敢えず、万世一系と言うことで。
そうでないと日本人の系譜の根拠が崩れるし(笑)

    戦国時代の終りに足軽も入れた武士系は人口の5%あたりだそうですから
    公家や宗教関係なんかを除いた殆どの人々は  90%あたり? は出自も名字も関係無い人達。


逆に小さな武士の世界だから、あんまり大きなウソはつけない。すぐにバレる。


だから系図や出自の違いとかは結構事実なんだと思う。
差は、記憶を辿って、どの時代とかどの人物とかに焦点を当てたかで違って来るんだろうと。


家譜を提出しろと命令されて戸惑った面々を想像します。
(え゛〜、そんなん分からないよ〜)
という悲鳴も
(だいたいのところでいいんだよ)
というテキトーな人も


そこに行くと服部氏の場合はいくつか服部家があって

家康に仕えた
   服部半蔵の家は伊賀の千賀地の出身とハッキリしてる
   服部中保次と政信の家は元は伊勢の出身
   服部貞信の家は伊賀の神職だし

元は武田の蘆田に仕えた服部正吉
今川に仕えた服部康高
たぶん今川に仕えたのだろう服部直次

      これらの3つの家は伊賀出身だの平氏出身だの以外には声高に出自を語れずにいる。


  
「力」関係ってそういうこともあると思います。新参者は半蔵の家や中保次に遠慮しなくっちゃね。




http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/428791695
ヒバリさんのブログ
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月17日 04時54分33秒 ) パスワード

ヒバリさんの麻績服部氏:復習も兼ねて再度コピペ


麻績服部流の祖は、鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。


朝臣とは、皇族だけど、天皇とは血縁関係が遠い臣姓。
その高貴な人の配下にあった服部(はとりべ)の家柄ということ。

〜守というのは、一国の民政、裁判を司るために、中央政府から派遣される地方官に与えられる役職。
つまり、伊賀守とは、伊賀の国の地方官ということ。



ヒバリさんの先祖の服部伊賀守は、朝廷から与えられたきちんとした役職。
この服部伊賀守は、承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。
つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。


もっというと服部半蔵の祖先ということ。

その服部半蔵の祖先の服部伊賀守が、伊賀守の任期を終え、承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、今度は地頭として派遣された地が、信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。


この麻績の地は、承久の変以前は、朝廷の直轄地だったので、地頭はいなかったのだが、承久の変以後は、幕府領になったので、地頭が置かれた。


では、なぜ、服部伊賀守を起用したのか?

それは、伊賀も朝廷の直轄地だったので、武士の勢力の及ばない土地の民の扱いに慣れていたことが、この抜てきの理由だろう。

ともかく、この服部伊賀守が、伊賀から連れて来た民衆と、もともと縄文民族の末裔の多い信濃の民衆との技術が錬磨されたのが、麻績服部流忍術の源流なのである。

その服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃に、完成したのが、麻績服部流忍術なのである。



__________________________

ということで藤原朝臣らしき伊賀守を調べてみたのですが下記の2人のうちのどれかかも。





山内首藤経俊





移動先: 案内、 検索






凡例
山内首藤経俊

時代
平安時代末期 - 鎌倉時代初期

生誕
保延3年(1137年)

死没
嘉禄元年6月21日(1225年7月27日)

別名
滝口三郎

官位
刑部大夫、伊賀・伊勢守護

氏族
秀郷流山内首藤氏

父母
山内首藤俊通、山内尼

兄弟
俊綱、俊秀、経俊


重俊、通基

山内首藤 経俊(やまうちすどう つねとし)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。藤原秀郷の流れをくむ刑部丞俊通の子。母は源頼朝の乳母である山内尼。相模国鎌倉郡山内荘を領した。

生涯[編集]

平治の乱では病のため参陣せず、源氏方で戦った父・俊通と兄・俊綱の戦死により家督を継ぐ。治承4年(1180年)8月の源頼朝の対平家挙兵に際し、頼朝から乳母兄弟にあたる経俊にも加勢を呼びかける使者として安達盛長が派遣されたが、経俊は要請に応じず暴言[1]を吐いたという(『吾妻鏡』7月10日条)。なお三井寺にいた経俊の兄弟である刑部房俊秀は、頼朝挙兵に先立って以仁王の挙兵に加わり、南都に落ち延びる道中で討ち死にしている(『平家物語』)。

経俊は平氏方の大庭景親の軍に属して石橋山の戦いで頼朝に矢を放っている。景親降伏後の10月23日に頼朝軍に捕らえられて山内荘を没収され、土肥実平に身柄を預けられた。11月26日、経俊は斬罪に処せられる事が内々に決められたが、母の山内尼が頼朝の元を訪れ、涙ながらに父祖である山内資通入道が源義家に仕え、源為義の乳母父であった事など源氏への奉公を訴えて経俊の助命を求めた。頼朝は尼に対し、経俊が自分に放った矢の刺さった、当時自身が着用していた鎧の袖を見せると、尼はそれを見て顔色を変えてさすがにその場は引き下がった。結局、経俊は赦されて頼朝に臣従する。

その後、元暦元年(1184年)5月の志田義広、7月の平家残党の反乱の追討に出陣。この年に伊勢国の守護となっている。また大内惟義の後を受けて伊賀国の守護も兼ねており、特に戦功もない経俊にこのような重任が課されたのは、ひとえに頼朝の乳母子であるためと思われる。翌文治元年(1185年)4月に頼朝の怒りを買った無断任官者24名の内の1人になり、頼朝から「官職を望んでも役に立たない者である。無益な事だ」と罵倒されている。ここまで失態を重ねた上に、頼朝からの人物評価は低いが、それでも乳母兄弟である経俊の地位は保全された。その後、源義経の家臣・伊勢義盛と交戦して破る。奥州合戦、頼朝の上洛にも供奉。

頼朝死後の梶原景時弾劾に参画。元久元年(1204年)に伊勢国・伊賀国などで起こった三日平氏の乱で経俊は平氏残党の反乱鎮圧に失敗した事により、伊勢・伊賀の守護職を解任され、両国の守護職は経俊が逃亡した後に乱を鎮圧した平賀朝雅に移された。その後、朝雅は失脚し、経俊の子の六郎通基に殺害された。その後、職の回復を願ったが許されなかった(『吾妻鏡』同年9月20日条)。

『吾妻鏡』では建保4年(1216年)7月29日に源実朝に供奉して相模川に赴いた記録が最後である。

嘉禄元年(1225年)6月21日、89歳で没(『山内首藤氏系図』)。


_______________________________

大内惟信





移動先: 案内、 検索






凡例
大内惟信

時代
鎌倉時代前期

生誕
不詳

死没
不詳

官位
正五位下、帯刀長、検非違使、左衛門尉、
駿河守

幕府
鎌倉幕府

主君
源実朝、藤原頼経

氏族
河内源氏義光流、平賀氏

父母
父:大内惟義
母:藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)


惟忠(? - 1221年(承久3年)、美濃国目代、帯刀左衛門尉)、惟時、惟基、ほか

大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。

生涯[編集]

元久2年(1205年)に叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長、検非違使に任じられ、南都神木入洛を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした。建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺された後、父惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。しかし、鎌倉幕府は源氏将軍を断絶させた北条氏主導となり、源氏門葉であった平賀(大内)氏は幕府の中枢から離れていく事になる。

承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙した。敗北後、逃亡して10年近く潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され、寛喜2年(1230年)12月、武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された。捕縛の際、力は強いが刀は抜かなかったという。その後、惟信の協力者として仁和寺の僧や郎党3人が捕らえられた(『明月記』)。その後一命は許されて西国へ配流となり、ここに平賀義信以降、源氏一門として鎌倉幕府で重きをなした平賀(大内)氏は没落した。





伊賀守

礪波志留志
伊賀朝光
島田清田
平経盛
平知忠
橘成季
二条定高
藤原公則      150年ほど前のヒトだから違う
源光清従五位上


守護[編集]

鎌倉幕府[編集]
1184年〜1186年 - 大内惟義
?〜1204年 - 山内首藤経俊
1204年〜1205年 - 平賀朝雅
1205年〜1221年 - 大内惟信
1247年〜1275年 - 千葉頼胤
1275年〜1312年 - 千葉胤宗
1312年〜1333年 - 千葉貞胤
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月17日 05時38分22秒 ) パスワード

藤原朝臣服部伊賀守については該当人物が分かりませんでした。


山内首藤経俊 ===== 藤原氏ですね

大内惟信======== 母が藤原氏です



次に地頭で調べてみました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A6%8B%E6%B0%8F
小見、麻績(おみ)氏は、日本の氏族の一つ。

    1 平姓小見氏======== 千葉氏で千葉県が該当なので無視
    2 源姓麻績氏@@@@@@@@ ヒバリさんのご先祖は村上氏家臣だから源姓麻績氏に関わっていたのかも
    3 藤原姓小見氏======= これもちょっと方向が違うと思う





平姓小見氏

下総国香取郡小見郷(現・千葉県香取市小見)発祥の小見氏(小海氏)は房総平氏の氏族で、以下の流れがある。
匝瑳党小見氏と呼ばれる上総氏の流れ
千葉常胤の弟胤隆の流れ
椎名胤光の子胤澄の流れ
東胤頼の子木内胤朝の孫胤直の流れ

鎌倉時代以降、千葉氏のもとで歴史に名を残した。

______________________________


源姓麻績氏

麻績氏(小見氏)は、信濃国筑摩郡麻績郷(現・長野県東筑摩郡麻績村)の豪族。
その始まりは鎌倉時代に遡り、小笠原長親が麻績の地頭となり麻績氏を称した。即ち小笠原氏の庶流であり、阿波小笠原氏や石見小笠原氏と同祖である。

このことは「中興武家系図」に、
麻績、清和、本國信濃、小笠原阿波守長房の男、四郎長親これを称す。
とあることからも伺える。

一族の詳しい動向や系図は不明だが、諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原の家臣 小見(麻績)氏の娘とされており、麻績氏の一族と伝わる青柳氏の青柳清長(麻績城に入り麻績清長と改名)が武田信玄の下(軍役は10騎と伝えられている)で活動している。

生島足島神社に残された武田信玄配下多数の起請文の中に麻績清永の物は2通あって異彩を放っている。

前日付の決まりきった内容と異なる翌日の再提出文は国侍同士で仲良くしないこと。
特に互いに元村上氏の配下であって領地を接している屋代氏や室賀氏、大日方氏とは殊更仲良くしないことを誓わされている。

これらのことから、少なくとも戦国時代までは武家として存続していたようである。



______________________________

藤原姓小見氏

小見(麻績)氏は、藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族である。

                    %%%この足利氏は足利尊氏とは別の平家に仕えた藤原姓足利氏%%%


戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まり。

また、武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏とは同族である。



___________________________________

信濃村上氏 (満快流)

源満快の曾孫で信濃国司(守)に叙任された源為公の子、源為邦(村上為邦、村上源判官代を号す)は頼清流村上氏からの養子であり、夏目氏などの祖となった。

平安時代

保元・平治の乱

越前に配流になっていた顕清の次男村上為国(崇徳院判官代、「尊卑分脈」では「号 村上判官代」)とその子信国と基国(高陽院判官代、「号 村上判官代」)が、

保元元年(1156年)の保元の乱で崇徳上皇に味方し参加。

敗戦し囚われたのち、兄弟の生母(為国の妻)が、後白河天皇の側近藤原通憲(信西)の娘であることを理由に赦免された
(一説に基国は後白河天皇方で、父の助命を求めたともいう)。


平治の乱(1159年)では藤原通憲(信西)方につき勝利する。

なお、為国は叔父の村上盛清の養子となっているが、顕清の後を継いだ兄の宗清も「村上蔵人」を称している(「尊卑分脈」)ことから、

養子以前(父の顕清や祖父の仲宗の代)から村上姓になっていたと考えられる。

為国の弟・盛国は八条院判官代となり筑摩郡波多荘に拠って波多判官代を号した。

                                                      筑摩郡波多荘ですって

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%94%B0%E7%94%BA
波田町(はたまち)は、かつて長野県中西部の東筑摩郡に存在していた町。
長野県全体の人口が減少している中、県内トップクラスの人口増加率を誇っていた。




htt://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%91%A9%E9%83%A1
筑摩郡(つかまぐん、ちくまぐん)は、長野県(信濃国)にあった郡。


郡域[編集]

現在の下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。
塩尻市、木曽郡の全域
松本市の一部(島内・梓川倭・梓川梓・梓川上野・安曇を除く)
安曇野市の一部(豊科田沢・豊科光・明科光・明科中川手・明科東川手)
東筑摩郡の大部分(生坂村のうち東陸郷・東広津を除く)
岐阜県中津川市の一部(山口・馬籠・神坂)

信濃国内では伊那郡に次ぐ広大な面積を有した。

歴史[編集]

国府があった現在の松本市を中心とした地域。大宝律令によって束間評から筑摩郡と改められた。二十巻本の和名類聚抄(巻5・17)には万葉仮名で「豆加萬(つかま)」と訓が記載されており、延喜式(巻10)でも「つかまのこおり」となっている。古来「つかま」と呼ばれていたが、明治時代に「ちくま」に変更された。しかし、松本市内の町丁や筑摩神社、市立筑摩小学校のように「つかま」の名も残る。

木曽地域は鎌倉時代に美濃国恵那郡から編入された部分である。また、古代には麻績郷を含む筑北盆地(虚空蔵山以北)が更級郡に属していた。郡衙の位置は未詳だが、松本市が最有力と見られる。天平勝宝4年(752年)には郡司大領に他田国麻呂の名が見える。

院政時代の荘園として、捧中村荘・捧北条荘(八条院領)、洗馬荘(蓮華王院領)、桐原荘(知行主不明)、岡田郷・浅間社(岩清水八幡宮領)、会田御厨・麻績御厨(伊勢神宮領)、北内牧・南内牧・大野牧(左馬寮領)が見える。

近世以降の沿革[編集]
所属町村の変遷は東筑摩郡#郡発足までの沿革、木曽郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照17世紀後半 - 犬飼村・小宮村・上平瀬村・下平瀬村・ 稲核(いねこき)村・大野川村が安曇郡に編入。
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。下記のほか寺社領が存在。国名のあるものは飛地領。(1町237村) 後の東筑摩郡域(1町205村) - 幕府領(松本藩預地、飯島代官所)、松本藩、高遠藩、高島藩
後の西筑摩郡域(32村) - 尾張名古屋藩

慶応4年2月17日(1868年3月10日) - 幕府領の一部(飯島代官所)が名古屋藩の管轄となる。
明治2年2月30日(1869年4月11日) - 幕府領の一部(飯島代官所)が伊那県の管轄となる。
明治3年 - このころ幕府領(松本藩預地)が伊那県の管轄となる。
明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により藩領が松本県、高遠県、高島県、名古屋県の管轄となる。
9月 - 名古屋県の管轄区域が伊那県の管轄となる。
11月20日(1871年12月31日) - 第1次府県統合により全域が筑摩県の管轄となる。

明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により長野県の管轄となる。
明治12年(1879年)1月4日 - 郡区町村編制法の長野県での施行により、筑摩郡のうち、北深志町(松本)ほか2町44村の区域に東筑摩郡が、福島村ほか24村の区域に西筑摩郡(現・木曽郡)がそれぞれ行政区画として発足。同日筑摩郡消滅。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%B8%BE%E6%9D%91
麻績村(おみむら)は、長野県東筑摩郡の村である。

1186年(文治2年)3月 - 吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載が見える。




地図

波多村は現在松本市波田町に昇格?ラッキー!  で、いいのかな?
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%80%80%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%80%80%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E3%80%80%E6%9D%B1%E7%AD%91%E6%91%A9%E9%83%A1%E3%80%80%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E3%80%80%E3%81%AF


麻績村
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=36.45764945&lon=138.04795540&ac=20446&az=1&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E6%9D%B1%E7%AD%91%E6%91%A9%E9%83%A1%E9%BA%BB%E7%B8%BE%E6%9D%91%E9%BA%BB
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月17日 06時42分57秒 ) パスワード

あ〜
そういうことかな〜
      というのは分かりました。


自分なりにヒバリさんのブログや系図に書かれていない部分を想像で埋めています。



ヒバリさんのご先祖(服部清信公)が「清」という偏諱(へんき)?を使っているのは
服部中保次の先祖が宗清だから?   ⇔  彼女のご先祖さまが半蔵の先祖  って書いてあることから。
または
村上氏の家臣になったから?


>1186年(文治2年)3月 - 吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載が見える。

伊勢国との関係は  なるほどな  と。下に「地頭」についてコピペしました。



ヒバリさんのご先祖さまは
鎌倉時代の初めに?藤原朝臣で伊賀に行ってた。
その後、信濃国麻績に地頭で行って、麻績服部氏になった


ということで服部中保次の寛政諸家譜からコピペ:

    服部中保次
    (宗次・要介・小平太・中)

    今の呈譜に平氏高棟流にして弥兵衛宗清より出
    宗清頼朝将軍より伊賀国阿拝山田二郡のうちにをいて32村の地をたまひ
    阿拝郡服部村に住せしより子孫服部をもって家号とす。

    保次は其の後裔伊賀守宗純が末孫なりといふ。





     地頭は、
     幕府及び荘園領主・国司からの二重支配を受けていたと見ることもできる訳である。

     実際に、幕府が定めた法典御成敗式目には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職を解任するといった条文もあった。

     むしろ、幕府に直属する武士は御家人と地頭の両方の側面を持ち、
     御家人としての立場は鎌倉殿への奉仕であり、
     地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。




平弥兵衛宗清って清盛の継母(藤原宗子さま=池禅尼=頼朝を救った人)と池大納言平頼盛母子の家の家令で
壇の浦には行かず、
平家が滅亡してから頼朝によって伊賀国柘植を貰った人。


    だからヒバリさんのご先祖さまが「藤原朝臣」というのは、なるほどね、とだいたい分かるような。

    当時は頼朝ワールドですから伊賀で1番の力を持った人は宗清ですから。なんせ頼朝の命の恩人ですから。

    ヒバリさんのご先祖さまが宗清に平氏を称させず
    藤原朝臣を名乗ったというのも政治的に分かります。
  
    世間では宗清は平家を滅ぼした人物であり
    頼朝がらみで源氏方を称するより
    宗清の女主人の姓である藤原の方が良かったのでしょうね。



で、その後、宗清の子孫が信濃国麻績に地頭として麻績御厨を任された、ということでしょうね。


この流れですとなるほどなと納得出来ます。


ここで服部氏の系図にハナシを変えます:

服部時定の孫(が宗清の曾孫の家に養子に行って観阿弥世阿弥の先祖を出す)
服部公清の子(ここから伊賀守宗純やその子孫の中保次や政信、別系統で半蔵が子孫)
服部家長の孫(幸田や藤井に変化)
    この3つが交錯しているんです。



それでヒバリさんが半蔵達の先祖だというのが分かります。


__________________________

要するに三つ柏さんやワタクシがヒバリさんのブログの「藤原朝臣服部伊賀守」に迷子になったのは途中が省略されているからでした。

だといいね。にっこり


___________________________

http://a011w.broada.jp/oshironiikou/shirobetu%20hattoritokisada.htm

服部時定館
住所 三重県伊賀市服部町1515 現在 台上寺


服部六郎時定の屋敷は当台上寺域に有ったと伝えられて居る。
本堂の東と北に残る土塁は東西に100米、南北に70米で堀跡と推定される。
水田、畑地が有って、中世土豪の屋敷跡とされ、当服部町に残る貴重な遺跡である。


服部六郎時定とは伝承上の人物で「三国地志」には服部村の「宮城氏宅跡」を、時定後裔の地に当て

「伊水温故」には「源頼朝郷の従士、服部六郎時定、当郷の産出にて源氏服部の元祖也と記されて居る。

「平家物語」の「泊瀬六代」には「信太三郎先生義憲が伊賀の地へ落ぬと聞えしかば、服部平六、先として伊賀国へ発向す」と有り、

義憲を現大山田千戸の山寺で自害せしめた功により、平家領として没収された服部郷を復されたと言う。

この服部平六時定と同人と伝承されて来た。

たしかに先祖は「源平盛衰記」巻一の「五節夜闇」にあらはれる「平六家長」とする話が加はり、平六家長、服部平六、服部六郎時定と三人が重なって来る。

文治2年(1186)「吾妻鏡」に平六時定が大和の国宇多郡で源義経の聟伊豆有綱を討って自殺させ、左右兵衛尉に任じられたと有る。


又、平六時定は治承4年(1180)8月20日に源頼朝が伊豆から相模に向った時に従った一人(吾妻鏡)とされ、
平六時定が文治2年(1186)頃伊賀付近で活躍しており、
それらが重複して服部六郎時定なる人物像が出来た様である。

それに台上寺の当地移転以前に有った土豪屋敷が服部一族と結び付き、
近世になって時定屋敷跡と言はれる様になった。

尚当寺の秘仏で有る「愛染明王」は服部六郎時定の持仏で有ると伝えられ33年目に一度の御開帳時に、姿を拝む事が出来る。



この時定は家長と同一人物の他に家長の子とも噂があるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E9%95%B7

平 家長(たいら の いえなが、生年不詳 - 元暦2年(寿永4年)3月24日(1185年4月25日頃)

平安時代末期の伊賀国(現三重県)服部の武将。
桓武平氏庶流。
左衛門尉。平内左衛門家長。

伊賀家長とも。平家貞の子。服部時定の父?。


『平家物語』で平知盛の乳兄弟とされ、水島の戦いにその名が見られる。
壇ノ浦の戦いで平家が敗れると、知盛と共に入水した。

服部氏は家長を開祖と称している。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月17日 07時18分43秒 ) パスワード

頼朝に仕える服部時定という人物が謎とされているのは「そんな人物はいなかった」と思いたい平家贔屓の心情からかもですね。


宗清が藤原朝臣だったというのも分かります。

    平家を滅ぼしたのだから自分でも悔やんでも悔やみきれないものがあったでしょうし
    後白河院から藤原姓を頂いたのかも知れないし
    宗子さまや頼盛の後押しがあったかも知れないし。


当時の公家や武士はホンの一握りの人口でしたから、みんな親戚ばっかりだったでしょうね。
争いの時代はツライですよね。


http://blogs.yahoo.co.jp/kenichiuematsu/22102162.html

藤原宗子は、歴史上、池禅尼という名で知られている。平治の乱の後、源義朝を討伐した継子の平清盛に、十四歳の源頼朝の助命嘆願をした人物である。

 その一事において、藤原宗子は、本人の意図に関わらず、源氏と平家の運命を、そして、日本の歴史の歯車を決定的に転換させた女性であった。

 藤原宗子の父は、隆家流藤原氏の藤原宗兼である。藤原隆家は、藤原道長の長兄、道隆の四男で、1019年、大宰権帥に任官中に発生した刀伊の入寇事件において、九州の武家を率いて海賊達を撃退した、当時の公家には皆無に等しい、武勇に優れた人物であった。

 隆家の長男の良頼は、正三位権中納言に昇り、次男の経輔は、正二位権大納言に昇っている。宗子の父の宗兼は、良頼の曾孫で、鳥羽天皇の中宮藤原璋子(待賢門院)の近臣であったらしい。

 一方、経輔の五世孫、藤原忠隆は、鳥羽院の近臣で、その次男は、平治の乱の首謀者藤原信頼である。

 また、信頼の兄は、『奥州』章『六道輪廻』編で登場した、奥州藤原氏の三代目御館、藤原秀衡の義父、藤原基成であった。

 上記の通り、隆家流藤原氏は、院政期に入ると院近臣を輩出しており、同じく院近臣として台頭した伊勢平氏と結びつくのは、自然の流れかもしれない。

 1120年頃、藤原宗子は、平忠盛の正妻として迎えられ、1123年に家盛を、1133年に頼盛を産んでいる。

 忠盛には、既に、嫡子の清盛がいたために、家盛は、正妻の子ではあるが、次男として扱われた。

 清盛の母が、祇園女御、もしくは、その妹であれ、白河院の寵妃であったため、家盛は、正妻の息子であっても、嫡子となることはできなかったようである。

 1140年、崇徳天皇の第一皇子、重仁親王が生まれると、藤原宗子は、親王の乳母となった。

 その前年の1139年、崇徳天皇は、鳥羽院によって、強引に異母弟の体仁親王(近衛天皇)を皇太弟に立てさせられていた。

 重仁親王は、生まれてすぐに、体仁親王の生母、藤原得子(美福門院)の養子となっているから、宗子は、得子とも交流が深かったと推測される。

 当時の皇室と院近臣は、璋子派と得子派に分裂しつつあったため、璋子の近臣を父に持つ宗子は、複雑な状況に置かれたに違いない。

 平忠盛の次男で、宗子の息子の家盛は、清盛の五歳下の弟で、十二歳で蔵人に任官し、二十一歳で従五位上、二十五歳で正五位下、二十六歳で従四位下と順調に昇進を重ねるが、十代で四位に昇進した兄の清盛と比較すると、その昇進速度は緩やかであった。

 一方、忠盛の五男で、同じく宗子の息子の頼盛は、十五歳で従五位下、十八歳で従五位上、二十一歳で従四位下と、兄の家盛よりも昇進が早い。

 しかし、頼盛は、家盛の十歳年下であり、十年の間に平家の家格は上がっていたため、単純な比較はできない。

 家盛は、1147年、兄の清盛が、後述する祇園闘乱事件で処罰されると、家盛は、清盛に代わって忠盛の後継者となる可能性が俄かに高まった。

 同年の十二月に常陸介に任官。翌年、1148年の正月には、従四位下の右馬頭に任官し、清盛を脅かす勢いで迫っていた。

 しかし、翌年の1149年、鳥羽院の熊野御行への御供の最中、宇治川の落合で病没してしまう。享年二十七歳であったと言われる。



以上

頼朝は、この家盛に似ていたから、助命されたと言われてますね。


では頼朝の母:由良御前について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E8%89%AF%E5%BE%A1%E5%89%8D
由良御前(ゆらごぜん、生年未詳 - 保元4年3月1日(1159年3月22日))

平安時代末期の女性。本名未詳、熱田神宮の伝承で由良姫と呼ばれ、系図では大進局とある。源義朝の正室で、源頼朝の母。


経歴

熱田大宮司・藤原季範を父として尾張国に生まれる。系図類では女子の三番目に記載されているが正確な生誕の順序ははっきりとは判らない。当時の熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士となるものが多く、女子には後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕える女房がいるため待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場にあったと思われる。由良御前自身も上西門院の女房であった可能性が示唆されている。

久安年間頃に源義朝と結婚したと推測され、義朝との間に頼朝、希義、坊門姫の三子をもうける(義門も彼女所生ではないかとの説もある)。

保元元年(1156年)に起きた保元の乱においては由良御前の実家熱田大宮司家は義朝の軍勢に兵を送って援護した(『保元物語』)。また、由良御前の子である源頼朝は保元3年(1158年)、熱田大宮司家と縁の深い統子内親王の立后にあたり皇后に仕える「皇后宮少進」に任命され、翌保元4年(1159年)2月に統子内親王が女院号宣下されると頼朝はその蔵人に任命された。

同年3月1日、由良御前は死去した(『公卿補任』源頼朝項)。平治の乱の9ヶ月前のことであった。


             ↓この話もスゴイ

平治の乱では由良の兄弟である藤原範忠は義朝敗死後に甥の希義を捕らえて朝廷に差し出している。
一方、弟の祐範は頼朝の伊豆国配流の際に郎従を1人派遣し、その後も毎月使者を送っている。

文治4年(1188年)、奥州藤原氏を滅ぼそうと考えていた頼朝は「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明している。翌文治5年(1189年)6月9日、頼朝は鎌倉で亡母の追善のため、鶴岡八幡宮に塔を建立し、都から導師を呼んで盛大な供養を行い、後白河院から馬や錦を贈られている。
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月17日 07時32分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀における服部氏の出自の解説、わかりやすく、視界が開けてまいり
ました。ここが一番のポイントですので、今後もきる限り情報を収集して
行きたいと思います。ありがとうございました。
 
 
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月17日 07時32分16秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101537.html
長上郡の服部氏族LXX(16年の課題確認13)
スレッド70をご用意致しました。

キリの良いところでどうぞ。
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月17日 08時24分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差いたしました。更なる情報、ありがとうございます。読解
させていただきます。

 先日の豊川行きの報告の続きですが、簡単にまとめます。
 @牛久保の曹洞宗 東勝寺では、服部家の墓を一つ見つけました。
 家紋は、「下がり藤」でした。
 A御油(ごゆ)は東海道と姫街道が交差する所の宿場町で、松並木が保存
 されています。「松並木資料館」というものがあり、宿場の各種資料が
 展示されていました。
 B御油の浄土宗 東林寺へ行きました。ここは徳川家康が二回程訪れて
 いるそうです。「ごゆ観音」と言われておりまして、「十一面観世音菩
 薩」が祀られています。十一面観音と言いますと、長谷寺を思い浮かべ
 ます。これらの関係に、秘められた謎がありそうです。
 B御油の西には、「赤坂宿」というものがありました。赤坂の南側に、
 「宮路山」というものがあって、持統天皇の三河行幸と関係しているよ
 うです。「嶽ヶ城跡」というのがあって、ここでは壬申の乱の時、草壁
 皇子と美濃・尾張・三河の豪族が守備についたと言われています。
  赤坂から宮路山を越えれば、蒲郡はすぐそこです。
  この辺には、持統にまつわる歴史の大きな謎が秘められている気がい
 たします。
  いずれにしても、そう遠くない時期にまた訪れる時が来ると思ってい
 ます―
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月17日 09時29分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


@牛久保の曹洞宗 東勝寺では、服部家の墓を一つ見つけました。家紋は、「下がり藤」でした。

          家紋は難しいですね。
          この服部氏は藤原姓かな?と思うのが簡単でしょうけど
          そうとは言えませんものね。


A宿場の各種資料が展示されていました。

          東海道53次の宿場ですね。
          鉄道が御油には来なかったから繁栄から取り残されて気の毒ですね。


B白蓮院招賢山 東林寺

          HPに行ってきました。http://www.toyokawa-map.net/kanko/torinji.php
          祐天大僧正も行ったことがあるということで検索しました。
          5代将軍綱吉、その生母桂昌院がらみでした。


          祐天(ゆうてん、寛永14年4月8日(1637年5月31日)- 享保3年7月15日(1718年8月11日))

           浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師。
           字は愚心。号は明蓮社顕誉。
           密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという。



           祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、
           暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。
           不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。

           5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、
           幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、
           正徳元年(1711年)増上寺36世法主となり、大僧正に任じられた。

           晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。
           享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した。

           その間、明応7年(1498年)の大地震によって堂宇が損壊し、それ以来、
           露坐となり荒廃が進んだ鎌倉大仏を、浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得て、養国とともに復興を図る。
           そして鎌倉大仏の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興に成功し、
           当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺 (鎌倉市)の「奥之院」に位置づけた[1]。


           累ヶ淵の説話

           祐天の奇端で名高いのは、
           下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の
           累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話である。

           この説話をもとに多くの作品が創作されており、
           曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』や、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などが有名である。


C持統天皇の三河行幸と関係しているようです。
「嶽ヶ城跡」というのがあって、ここでは壬申の乱の時、草壁皇子と美濃・尾張・三河の豪族が守備についたと言われています。
赤坂から宮路山を越えれば、蒲郡はすぐそこです。

持統天皇の三河行幸は謎ですよね。

http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11131729090.html
持統上皇三河行幸 その五 伊勢から三河行幸の理由を考える@

藤原京から伊賀国隠駅家=なばりのうまや=を通って伊勢国円方から三河国引馬野へ海路を行った?
地図あり

なかなか興味深いです。




引馬野 ひくまの

愛知県豊川市御津(みと)町の一地区。
『万葉集』に「引馬野に  にほふ榛原(はりばら)入り乱れ  衣にほはせ  旅のしるしに」と歌われた引馬野は、
豊川市御津町御馬(おんま)一帯で、
古代は三河国国府(こくふ)の外港、近世は三河五箇所湊(ごかしょみなと)の一つだった。

音羽(おとわ)川河口の低湿地に位置し、引馬神社がある。



豊川へ?
とビックリです。

豊橋がムカシは「穂の国」と呼ばれていたそうですから
伊勢から穂の国に行くということは政治的に重要な旅だったのでしょうね。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.