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 投稿番号:101524 投稿日:2016年04月09日 10時36分54秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXW(16年の課題確認7)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族LXIII(16年の課題確認6)スレッド63
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101518_64.html
の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


スレッド63での目新しい情報として、
1.
花垣神社で般若心経を一心不乱に唱えている時に、
人の近づく足音と気配を感じ、
振り向きましたが、人っ子一人おりませんでした
という体験をしたこと
2.
勝手神社の屋根瓦に柏の紋がついていたこと。
3.
「賀」の道とは、
「加賀」―「多賀」―「甲賀」―「伊賀」―「賀名生」―「那賀」―「雑賀」
を結ぶ道のこと。


まだまだたくさんありました。


常に原点に立ち戻って、いつか謎が解けるよう、これからも頑張りましょう。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月12日 13時26分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 佐治一成の母が信長の妹、正妻が後の徳川秀忠の妻お江であったという
ことで、尋常ではない気配がします。この点についての謎はいずれ探究し
たいと思います。
 
 九鬼氏とは何とおどろおどろしい名前でしょうか! が、「鬼(オニ)」
というよりは、「カミ(鬼と言う字の頭にノがない字)」という字を書いて
「クカミ」と読むのが正しいらしい。けれど、世間一般的には「クキ」と
呼ばれているようです。

 九鬼家九代の「嘉隆」の祖先をたどって行くと、熊野別当の湛増に行き
つくという。湛増は最初平家方に、のち源氏方に加勢し、壇ノ浦で平家を
破っています。

 九鬼家九代嘉隆は戦国時代の水軍大名で、彼は熊野から志摩半島に移り、
鳥羽五万五千石を領していたが、関ヶ原の戦後、九鬼家は丹波の綾部と摂
津の三田とに分封された。この内、綾部の九鬼家が『九鬼文書』という古
史古伝を保管してきたという。

 九鬼家は、ただの水軍の長だけではなかったようであります。
 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月12日 22時09分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

>九鬼家は、ただの水軍の長だけではなかったようであります。

三鬼の方は平家と結びついたようですね。
でも九鬼の方はいろいろ変遷があったようですね。


http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101518_82.html
レス79  佐治氏のお話の中に  甲賀21家が出てますよね。

     ■甲賀二十一家
     ●柏木三家: 山中十郎 伴佐京介 美濃部源吾
     ●北山九家: 黒川久内 頓宮四方介 大野宮内小輔 岩室大学介 芥川左京亮 隠岐右近太夫 神保兵内 大河原源太

            佐治河内守               佐治の名が甲賀に出てる  というのが不思議ですね。


     ●南山六家:  大原源三郎 和田伊賀守 上野主膳正 高峰蔵人 池田庄右衛門 多喜勘八郎
     ●荘内三家:  鵜飼源八郎 内貴伊賀守 服部藤太夫


                               ここに服部藤太夫というのがあって
                               以前お話した母の従姉妹の夫になる人が  甲賀出身で丸に並び矢で  驚いたという件ですが
                               この名前からすると(この服部藤太夫の子孫なのかな?)と思いました。


                               また津島の服部さん(今川義元を槍で突いた人で小平太)の兄が小藤太でしたっけ?
                               それで  あれ?  と思いました。関連があるのかなと。
                               なんで服部なのに小藤太なのだろうと。


                                      ひょっとすると母の従姉妹の夫はもともとワタクシの母の夫(=父= 笑)とは同族あたりだったのかな?と。

                                      状況証拠?笑   全くの他人の関係と思っていたのにねぇ。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月13日 13時44分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 佐治氏、佐治一成を調べていたら、こんなサイトに出会いました。 

 http://www.nakanoprint.co.jp/sun/women/oghu.html

「大野城とおごう

 ―あの人は私との別れを知っていた。

おごうは、船上からいま自分がやって来た伊勢湾を振り返った。伊吹おろし
がさっと吹きつけ、彼女の前髪が舞い上がったとき、「ああ私は大野の人間
になるのだわ」と、覚悟が定まったような気がした。

天正十四年(一五八六)晩秋、おごうは大野城主佐治与九郎一成のもとに
輿入れして来た。大野は伊勢湾に面した尾張・知多郡にあり、城の櫓からは
湾内が一望できた。

大野の城は東西四町、南北一町、総郭九十二町一反だったといわれる。起
伏の多い丘陵の上につくられていたが、丘陵の持つその起伏の高低を利用し
て本丸、二の丸、櫓などが構えられ、その隆起を繋ぐ窪地を掘り下げて空壕
があつた。現在は城の天守閣をもじった展望台ができているが、当時は天守
閣はおろか、空壕には石垣もなく、壕をかき上げた際に出た土を固めただけ
の、いかにも土豪の城砦そのものであったと思われる。

おごうの輿入れの日は、秋とはいえ小雪の散らつく寒い日だった。熱田か
ら船出した一行は、途中まで出迎えた与九郎輩下の大野水軍の小舟の群れに
取り囲まれるようにして大野の浜へ着いた。

姉たちは、おごうの与九郎のもとへ輿入れが決まったとき、大野があまり
にも小大名なので大いに同情してみせたが、「私にはこの方がいっそ気楽な
のよ」と、おごうは、はるか安土城に残された茶々やはつに向かって呟いた。
姉たちに較べて地味な性格だった。

おごう十六歳、与九郎十八歳である。共に母親が姉妹なので、従兄妹同士
の若い夫婦ができ上がった。それがおごうの気持を楽にさせていたのかも知
れない。彼女の胸の中でやがて恋心が育っていったようである。

おごうは本丸の南側にある櫓へよく上がった。この櫓からは伊勢湾越しに
伊吹山や鈴鹿山脈が眺められ、特に夕陽を浴びた山々の残照の移ろう姿を彼
女は愛した。また、櫓からは夫たちの兵船の訓練の様子が手に取るように見
えた。おごうは兵船の動きをよく記憶していて、帰って来た夫の与九郎に自
分なりの感想を述べる。的を得ていないことの方が多かったが、それでも与
九郎はにこやかに耳を傾け 「ようそこまで見届けた。さすが水軍の女房よ」
と、必ず最後におごうを褒めた。

しかし、二人のままごとのような蜜月は長く続かなかった。

天正十六年春、大野城へ秀吉から淀城で暮らす姉の茶々の病気見舞いに出
向くようにという使者が訪れた。おごうは単純にそれを信じた。

旅立ちの日、思いつめた表情をしていた夫の与九郎が、にわかに長押の槍
を取り上げて、穂先をおごうに向けた。その目に炎のような激しさがあった
が、それを彼女は夫が自分に向けた愛情の所作のーつとして受取り、 「どう
ぞ」と、胸をさし出すようにした。おごうは微笑していた。しばらくおごう
を見つめていた与九郎だったが、やがて目が柔らぎ「ふむ」と、頷いてから
「道中無事でな」と、穂先で軽くおごうの胸を三度突く真似をしてから、そ
っと槍を引いた。夫の目が泣いていた。

 「すぐに帰ってまいりますものを」

 束の間の別れを寂しがる与九郎がいとおしく、逆に励ますように笑ってお
ごうは淀城へ向かって出発して行ったが、彼女は二度と大野城へ帰ることが
ができなかった。

 その後、おごうは秀吉の甥の羽柴秀勝(秀次の弟)に嫁し、死別したあと
徳川家康の三男の秀忠と再婚する。いずれも自分の意志ではなかった。

 おごうにとって初恋の人は初婚の人、佐治与九郎だった。秀勝に嫁ぐとき
も、秀忠に嫁ぐときも決まって想い出すことは与九郎との別れぎわのひとコ
マである。

  思いつめていたような与九郎の目、激しさを秘めていたあの槍。

 『あの人は本気で自分を刺すつもりだったのではなかったろうか。あの人
は自分との別れを知っていて穂先を向けたのに違いない。あまりにも無邪気
な笑顔を自分が見せたために刺せなかったのでは・・・』

 それを見抜けなかった自分の若さが悔やまれてならなかった。以後、大阪
落城で姉の一人を失い、将軍家の継嗣問題をめぐる政争の中に身を置くこと
になるおごうだが、心の休まる日々はなかった。たとえ短い月日だったとは
いえ、小さな大野城で過ごした与九郎との生活がささやかではあったが生涯
でもっとも安定していたときではなかったろうか。

 佐治家はおごうの去ったあと間もなく没落する。群雄が淘汰される中で彼
も犠牲になった一人であった。女性のおごうもまた、戦国期に生きた女性の
軌跡を示した人といえる。」

                       文・峰村逸足 (麦同人)

 お江は信長から家康〜秀忠〜家光までの間の、ある意味歴史に翻弄された
人、また歴史の真実―権力の恐ろしさ・悲しさを知り尽くした人であった。
でも、本当は平凡に生きたかったのでは……と思います。
 お江の目から生涯何回涙がこぼれたか知れませんが、上記の文章は「想像」
だとはいえ、私も涙をこぼさずにはいられませんでした。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月13日 21時34分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「灯台下暗し」でありました。佐治氏について何か深い謎はないかと探し
ていたところ、手元にある『禁断の古史古伝 九鬼文書の謎』を書いている
のが「佐治芳彦」氏である、ということに改めて気が付いたのであります。
 やはり、祖先からの何か目に見えない糸がそうさせているのでしょうか、
水軍の佐治氏の後裔が、水軍の九神氏の「古代の記憶」に挑んだということ……。

 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月13日 22時54分41秒 ) パスワード

三つ柏さん

泣けました。
ありがとうございました。



大野ってワタシの学校のヨット部の利用してた所だと、やっと、思い出しました。
すっごい田舎で、不便で。
大変な思いをしたことを思い出しました。

子供の時は海水浴に毎夏行きましたが父の車で行きましたから不便さは何も感じませんでした。
遠いのは知ってました。
でも海の透明さがきれいで、名古屋港のコーラ色の(笑)水とは、隔世の感がありました。



なるほど名古屋に行くより伊勢に行く方がラクだったのかなと思います。



>佐治氏の後裔が、九神氏の「古代の記憶」に挑んだということ……。

歴史は不思議ですね。

我々の先祖に通じるのでさらにロマンがありますね。



>やはり、祖先からの何か目に見えない糸がそうさせているのでしょうか

まさに!
ですね。


我々は日本人だからでしょうね。



大陸なんかですと異民族に何度も支配されましたから
   自分さえ良ければいい
というのが生まれますが

日本は、日本人は、連綿と続いて来ましたから
ああ、この人物と自分の先祖は関わったのだろうな、この場所には先祖も行ったんだろうな、という感傷が伴いますよね

まさに佐治芳彦氏も九鬼とご先祖さまとの関係に気づいたのでしょうね。


そして三つ柏さんのお手元に佐治氏の本があった・・・・
にっこり
それに気づいた

不思議ですね
何かのパワーが働いているんでしょうね。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月14日 08時57分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 佐治芳彦氏の著書は何冊か所有していますので、改めて見て見ます。昔
感じなかったことが、今新たな意味を持ってくるかもしれませんので……。

 それにしても、九鬼(本来の文字は鬼でなく、頭にノのないカミ。従って
本来はクカミである)は「九柱の神」と解釈すると、あのエジプトの「ヘリ
オポリスの九柱神」につながるような気がするのですが……。

 これから午後まで用事がありますので、それが終わりましたらまた復帰
いたします―
[7]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月14日 19時43分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 佐治芳彦氏の本は八冊持っておりました。それを列挙すると―
 @1984年 『謎の九鬼文書』
 A1984年 『日本超古代史の謎』
 B1990年 『日本神道の謎』
 C1992年 『甦る古代王朝 古史古伝の秘密』
 D1993年 『聖徳太子の陰謀』 
 E1993年 『古代東北王朝と藤原四代の興亡と謎』
 F1993年 『義経と山の民サンカの陰謀』
 G2003年 『九鬼文書の謎』
でありました。この中で完読しているのはFのみで、あとはつまみ読み程度
であります。今見ても、F以外はなかなか入って行き難いものがあります。
スイスイと入って行ける本と、入っていけない本……というのは厳然として
ありますね。構成の良さと内容のわかり易さと文章のやわらかさ……とても
大事だと思います。

 さて、これらの中を一通りペラペラとめくってみましたが、やはりFの
サンカについての記述が私にとっては一番興味深いものでありました。
 次回、少しこの点にふれたいと思います―
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月14日 22時32分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


あらあら、8冊もお持ちでしたか。

で、印象に残っていなかったというのは「その時期」に達していなかったからでしょうね。

これから読めるようになるのでしょう。「その時期が来た」のかも。


>『義経と山の民サンカの陰謀』

義経と秀吉って、人脈の広さ、ということなのかしら?


同じような人間と付き合ってるだけじゃダメということでしょう。


長谷川平蔵でもいろいろな人間と付き合ってたからこそ名奉行になれたのでしょう。



>スイスイと入って行ける本と、入っていけない本……というのは厳然として
ありますね。
>構成の良さと内容のわかり易さと文章のやわらかさ……とても大事だと思います。

書いてる人も分かってないんだと思います。笑
分かってないのに頑張って何とか書いた、ということじゃないのかな?


    15年ほど前だったか宇宙でハッブル望遠鏡を修理したストーリー・マスグレイブ博士とお話しした時
         義父の自爆装置を渡しに行ったのです
    その時に自爆装置について物凄く簡単に説明してくれました
         分かっている人は簡潔に説明できるんだな
    と思いました。

         以来、目からウロコです。

                 話している時、ヒトのことを(この人は頭いいなとか、アタマ悪いなとか)思うようになりました。

                 こういう風に人を批判するというのはワタシの人生には無かったです。汗



昨日高校の同窓会から広報が届いて名前を見ていたら「加賀爪」とか「市野」とかいう人達がいました。
三つ柏さんと知り合わなかったら、この名字に全く目が止まらなかったでしょうね。

不思議なご縁を感じました。
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月15日 01時06分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野氏については、その後情報の進展がありません。但し、馬がらみだ
と思いますので、馬についての情報を引き続き探しております。
 
 服部中と長谷川はつながっているということ、また服部保長系と加賀爪
もつながっているということ。

 さらにいろいろありますが、この辺の事情を事詳しく知りたいと思って
いますが、寛政重修諸家譜で知るのみであります……。
 
 善地は小さいながらも一村ずっと天領であった。ということは、そこに
は家康の意志がはたらいていて、情報収集及び警備をするものをそこに配
置したのではないか。
 長谷川家は服部本家(大本家に次ぐ)の真東八百メートルの高薗にある。
ひょっとして、長谷川家も昔は善地にあったのではないか……という可能
性もなきにしにあらず。「藤兵衛」という通称をつかっている庄屋が善地
にいた。これは事実。島田代官系の長谷川一党にも「藤兵衛」の通称をつ
かう系統がいた……これも事実。
 長谷川家から服部中家には二代にわたり養子が入っている。また妻も長
谷川家から入っている……。
 百年前のこともわからなくなっている。ましてや四・五百年前のことは
お手上げに近い。古文書を探して見つける他ないのでしょうか……。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月15日 07時33分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「藤兵衛」

何か繋がりがあるんでしょうね。


やっぱりいろいろとにかく読みまくらないといけませんね。
まだまだ時間はあります。
とにかく書いたものを集めまくって読みまくって   で、せっかくの情報がこんがらがりますが   笑  頑張りましょう。


「煙りの末」のp10。
穴山梅雪が殺されたのは  宇治田原の近く。
服部貞信のいた所の近くだった。

ということはやっぱりこの呉服神社の神官はアヤシイですね。

ドサクサで殺した、ということは兵法の1つですよ。
「混乱の中」の暗殺でしたら絶対い疑われない。
自分の命だって危ないのに梅雪の暗殺なんか仕掛けるワケが無いと世間は思ってくれますからね。



>古文書を探して見つける他ないのでしょうか……。

「時期が来れば」向こうから三つ柏さんの懐に飛び込んで来ますよ。


とにかくいろいろな物を読まないといけないのですから焦らなくていいですよ。
持ってた資料を読み返したら思わぬ事が書かれていたということもあります。

まだまだ先は長いですよ。


服部貞信が宇治田原で何をしてたのか、だんだん  あら?  と確信に。

子孫が後に活躍するのもそれなりの事が貞信の時にあったのだろうなって思いますし。
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月15日 09時17分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 確かに服部貞信の動き、注目に値します。この辺を解明したら何か陰謀
じみたものが見えてくるかも知れませんね。

 @秘密の漏洩を恐れた。
 A伊賀越えが計画されたものでないという状況証拠を作るため、襲われ
 た形をとった。
 B別人を殺し、穴山梅雪といつわり、梅雪は影の人になった。実際。首
 実検というけれど、死後の顔は日一日と原型を留めなくなって行くのが
 現実。
等々が想像されますね。

 家康マターに深く突っ込んで行くと、論理的な整合性を考える時、家康
ダミー説、巨大陰謀説の誘惑に魅かれます……。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月15日 10時29分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>家康マターに深く突っ込んで行くと、論理的な整合性を考える時、家康ダミー説、巨大陰謀説の誘惑に魅かれます……。

はい。
家康のことを考えますと三河の弱小子倅の(家康が本当に天下を取ったの?)と疑問が湧きますが
秀吉だって天下を取ったのですから家康が取ってもおかしくないですね。


「天下」ってそんなもんなの?と不思議です。
それだけ日本ってどんぐりの背比べの世界なのかなと。

だからこそ
信長のような合理的な人間が天下を手にし
秀吉のようないろいろな人間をたらしこむ人間が関白様になり
家康のような身内に厳しい人間が最終的に天下を支配したのかなと。

   身内のような三河以来の家来を譜代として安月給に抑え
   敵は大身にして地方に抑えておく

      こういう考えは三河人気質かも


とにかく人間を読むって面白いですね。


三つ柏さんもお友達が多そうですからきっとどこかで思わぬ情報を教えて貰えるかもですよ。



     @秘密の漏洩を恐れた。
     A伊賀越えが計画されたものでないという状況証拠を作るため、襲われた形をとった。


           有り得ますよね。


      B別人を殺し、穴山梅雪といつわり、梅雪は影の人になった。
        実際。首実検というけれど、死後の顔は日一日と原型を留めなくなって行くのが現実。

           これも有り得ますよね
           信長の死体も出てないそうですしね。

           武田家は滅んだとはいえ信長が死んでしまったのですから
           家康にとって梅雪など最早どうでも良かったでしょうね


実に楽しい空想ですね。
あはは


[13]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月15日 15時38分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日で丸二年が経過いたしました。明日より三年目に突入いたします。

 歴史の表層はかなり荒々しく掘り起こしましたが、これからはより深く
掘り起こさなければ新たな真実は出てこないと思いますので、ぞうぞ引き
続きよろしくご指導の程お願い申し上げます。

 情報を採取するのは金鉱堀と同じだと思っています。この五月にはまた
土肥へ行って、大久保長安の残存オーラを追いかけたいと思っています。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月15日 22時56分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


3年目記念!

まだ2年の研究ですね。
おおよそのところが見当ついてきた、あたりですね。
でもサッパリ分かりません。



>情報を採取するのは金鉱堀と同じだと思っています。

はい。
我々は「金 ゴールド」を掘っているのであって
石っころや泥じゃない
ということです。


なので何トンも掘って、それでも1gも出ないのです。
まだまだです。
頑張りましょう。

      あ、これはうちの持ってる株式をやってる金鉱会社の言い訳です。
      笑


>この五月にはまた土肥へ行って、大久保長安の残存オーラを追いかけたいと思っています。

いいですね。
何か情報が得られると良いですね。
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月16日 22時51分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 十四日から今日にかけて、熊本で大地震が続いており、本日も車の中で
もそのニュースを聞いておりました。今日の方が本震ということで、マグ
ニチュードが大きい。従って被害も大きい……。
 去年の今頃、熊本へ旅行に行って来た人達から、もう一度是非熊本へ行
きたいと聞いて、私も行きたいなと思っていたところだったので、余りに
も突然の地震にショックを受けております。
 亡くなられた方もさらに増えつつあるようですが、まずは合掌!そして
ご冥福をお祈り申し上げます。また、被災されたたくさんの皆様には心よ
りお見舞い申し上げると共に、今後の安全とご健勝、日常生活への早期の
復帰ができますよう祈願して止みません。

 本日はこれにて―
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月17日 04時09分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

今日は  阿蘇山と火の神様そして神武東征  なんかを考えていました。
古代の人にとってどんな意味があったのかなと。


    火の神様とアマテラスってイコールではないだろうな、とか。
    土蜘蛛って火砕流の冷えたことかな、とか。


古代の人が何を思ったかなんて結局何も分からず先入観に持っている情報で収めました。


三つ柏さん、般若心経を亡くなられた方や被災者に詠んであげてください。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月17日 09時59分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、名古屋へ行きました。通りには、はなみずきの白とピンクの花
がちょうど見頃で、私は桜よりもこちらの方が落ち着きがあって好きだな
あと感じました。
 昼時に覚王山の門前街のレストランで食事をしたついでに、覚王山日泰
寺を訪れました。名古屋市内には大須観音以外に、これといったお寺を知
りませんが、覚王山は名古屋一と言ってもいい位の大きなお寺でありまし
た。
 「覚王山日泰寺 タイ(シャム国)国王から寄贈された釈迦の舎利(遺骨)
 をまつるため、明治三十七年に建立された我が国唯一の超宗派の国際的
 寺院である。
  山号は釈迦を表す「覚王」、寺号は日タイの友好を願い「日泰寺」と
 名付けられた。」
ということであります。
 大きな「仁王門」のような門をくぐると、右手に五重塔が完璧な造形美
を誇っておりました。そして巨大な拝仏殿。そこにはタイ国王より贈られ
たタイ国宝の金銅仏の「本尊釈迦如来像」がまつられておりました。
 釈迦の舎利が収められた奉安塔は、拝仏殿の北東約三百メートルの所の
別院にあるということで、そちらに向かいました。
 全国でもまれな一大石造塔であるということで、いわゆるスツゥーパの
ことかと想像しました。着いてみると、拝殿の奥に「釈迦御真骨奉安塔」
と説明書きされた塔がありました。柵が設けられていて、その中には入れ
ませんでしたが、遠くより塔を拝しながら、般若心経を二巻唱えさせてい
ただきました。
 もちろん、第一には熊本地震で亡くなられた方に奉ずるため、第二に、
被災された方々の平穏無事を祈るためであります……。
 阿鼻叫喚に等しい巨大地震の恐怖は想像もつきませんが、名古屋の地に
あって、やさしいはなみずきの花に包まれている現在の自分との次元の差
に、妙なうしろめたさ、やるせなさを感じました。
 でも、いずれは自分たちも同じ目に遭うことになるのは間違いないとい
うことを、改めて自分に言いきかせ、でも人智を超える天災に遭っては、
どうしようもないだろうな、かなりの部分は運を天にまかせるより他ない
かとも思った次第であります―
 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月17日 13時25分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

昨日は覚王山でしたか。

あの近辺は末盛といって  織田信長の弟=信行=がいた所  だと思います。
信長が仮病を使って暗殺した憎っくき弟です。理由は母親に愛された弟だったから。


    あ、ちなみに信長が愛した弟は信興といってウチが殺しました。
    で、うちは信長によって村の人を2万人殺されました。


末盛城跡あたりは愛知学院大学がある所かも。



名古屋で名門のお寺というと

八事の興正寺かな?と思います。尾張藩のお寺さんという感じです。
もう1つは
現在は大須にある萬松寺(ばんしょうじ)ですね。信長の父の法要が行われたお寺。信長が抹香を投げつけた事件があります。

    万松寺は幼い家康が今川に送られる前に尾張に人質にいた時に居させられた所でもありますね。

    それから明治時代にタイから来た仏舎利が覚王山に行く時の行列の出発のお寺さん。




>運を天にまかせるより他ない

はい
我々は地球上にいる限り天変地異から無事ではいられないですよ。
運を天に任せるより他ないです。

カリフォルニアにはサンアンドレアスという巨大な断層があって、いずれ、カリフォルニア州は海の中に沈没する、と言われています。

で、地震の無いと聞くラスベガスに引っ越したらネバダ州には53もの断層があることを知りました。汗

こんなもんです。
どこに行っても地球上には無事な所なんか無いのです。

いろいろ考えます。
大昔の人達はこうして神話を創って来たのかな、とか。



>被災された方々の平穏無事を祈る

本当に!

ご不便な日々が一刻も早く解消されるように!

まだ始まったばかりです・・・




>阿鼻叫喚に等しい巨大地震の恐怖は想像もつきませんが、
>名古屋の地にあって、やさしいはなみずきの花に包まれている現在の自分との次元の差に、
>妙なうしろめたさ、やるせなさを感じました。


はい。

被災地では余震の恐怖だけでなく、この先、雨が降るたびに恐怖にさらされますしね。


現在無事でいる自分にも実は明日は我が身かという思いがありますしね。


2016年はついにイラン・サウジが激突するなんて前から言われてましたが
世界的にこの4か月間にいろいろあり過ぎて
とうとう日本の現実も目の前に姿を現しましたね。



人間にとって幸せとは何か
考えさせられますね。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月18日 15時03分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 週末の「九鬼・松坂・津」行きの準備をしていますが、私が最低回り
たい所は―
 @九鬼
 A松坂の「神服織機殿神社」
 B 〃 「神麻績機殿神社」
 C松坂城跡
 D津城跡
であります。

 食べ物はと言いますと―
 @九鬼では「ぶり」
 A松阪では「松阪牛」
 B津では「うなぎ」
であります。

 基本はこんなところです。後は「運」次第でどんな発見がありますか……。
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月18日 19時08分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様、丸三柏服部様
スレッド「平川家について」のミヤハラです。
横から申し訳ありません。

実は、以前から丸三柏服部様、空の青海のあを様のスレッド「長上郡の服部氏族」毎日、拝読させて頂いていました。
お二人の、書籍・文献、ならびに足を使った詳細な調査を拝見して、勉強させて頂いています。

丸三柏服部様、
覚王山日泰寺様での熊本地震で亡くなられた方に奉ずるため、被災された方々の平穏無事を祈るための般若心経をお唱えになられたと。
心よりありがたい事だと私も父も涙致しました。
丸三柏服部様の暖かいお気持ちは、お亡くなりになられた方々、被災地の方々にしっかりと届いた事と思います。
私の父も、若い頃から日々般若心経を唱えています。
熊本地震以降は、丸三柏服部様と気持ち同じく祈りながら般若心経を唱えています。
名古屋の地のやさしいはなみずきの花、どうぞご堪能して下さい。
決してうしろめたさなどお感じにならないで下さい。
人は其々別々の人生を歩みます。
花水木は、熊本市内の街路樹としても有名です。
今年の花水木も美しく咲いたね!と笑顔で言える日が熊本にも必ず訪れると信じています。

今、私は自分の調査を進める思考回路が全く働かない状況ですが、空の青海のあを様、丸三柏服部様の御調査は楽しみに拝見させて頂いています。
春になったとはいえ、一日の中で朝夕の冷え込みも続いています。
風邪などおひきにならないようお身体ご自愛下さい。

ミヤハラより
[22]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月18日 22時18分51秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 実は私もミヤハラ様の「平川家について」のスレッドに刺激を受けて、
「ガンバロウ」という気持ちを抱き続けておりますこと、逆に感謝申し
上げなければなりません―
 
 さて、昨年の五月に協力会の旅行があり、その皆さん、熊本と博多に
行ってまいりました。熊本では「馬刺し」がおいしかった、またぜひ今
年も行きたいと言っておりました。
 長野県の松本も「馬刺し」が有名ですが、熊本の馬刺しは特段にうま
いとのことで、私も一度連れて行ってもらいたいと思っておりました。

 そんな矢先の地震でありましたし、加藤清正の造った国宝の熊本城の
屋根瓦がズルズルと落ちて行く様は、信じられない光景でありました。

 友達も佐賀におりますし、親戚も別府にいます。熊本を中心として、
広範囲な地震となって来たようで、早くこの地震がおさまってほしいと
願うばかりであります。

 ぜひ、この危機的状況を耐え忍び、無事に脱せられることを祈っており
ます。

 ところで、当方の勤め先の社員にも掛川出身の「平川」君がいますが、
ミヤハラ様の「平川家について」とつながる可能性はあるでしょうか?
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月18日 22時35分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


以下は方向音痴のワタクシの書き込みなので影響されないように願っております。

    本心では  三重県では久居の榊原温泉にご宿泊  頂きたいのですが

    http://www.sakakibaraonsen.gr.jp/
    榊原温泉振興協会
    三重県津市榊原町5824-1
      059-252-0017


    榊原温泉とは、清少納言に書かれた「ななくりの湯」だったか、の記憶です。
    美人の湯、ということです。

       日本3大名湯  有馬温泉・玉造温泉・ななくりの湯  の1つです。



HPを見てビックリ!
わたくしの脳内マップでは   すっごい山の中  にあった記憶なんです。



多分ワタクシの脳内マップは1100年代の源平戦当時なんだと思います。
それで混乱しています。


   
ワタクシが思っている榊原温泉は久居にあって
今は久居は平成の大合併で津に合併されて津市久居町というようです。


      1670年(寛文10年)津藩主・藤堂高虎の孫、佐渡守・高通(たかみち)が宗家と分かれて支藩(久居藩)を立てる。
      そのとき、「永久鎮居」の意を込めて「久居」と命名した。



      松阪とも伊賀とも近くです。
      津市、安芸郡 美里村、一志郡 一志町、白山町、松阪市、伊賀市にかつて隣接。



記憶によれば久居から伊賀の千賀地まで忠清の息子と2人で歩いて行きました。
途中、平田の父の城に寄って。


あ、この近辺は北畠の支配下だったように思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E6%95%99

北畠 具教(きたばたけ とものり)
戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。

享禄元年(1528年)第7代当主であった参議・北畠晴具の長男として生まれる。



天文6年(1537年)従五位下・侍従に叙任。以後も天文21年(1552年)従四位下・参議に叙任されて公卿に列し、天文23年(1554年)に従三位・権中納言に叙任されているなど、朝廷から官位を授かって順風満帆な青年期を過ごした。この間の天文22年(1553年)父・晴具の隠居により家督を相続して第8代当主となる。



弘治元年(1555年)父・晴具の命により伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558年)に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで勢力を拡大し、永禄5年(1562年)5月5日に長野稙藤と長野藤定が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による暗殺説もある)。また永禄3年(1560年)には、小浜景隆ら志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の九鬼浄隆は戦死、弟の九鬼嘉隆は逃亡)志摩国での支配体制を固めた。さらに『勢州軍記』「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に大和国宇陀郡の国人領主・秋山教家が三好氏の婿[2]として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた。



永禄6年(1563年)嫡男の具房に家督を譲って隠居する。しかし北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。


ところが、永禄11年(1568年)以降尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。上洛を目論む信長は、北畠氏がその障害になると考え、永禄12年(1569年)北畠領内への侵攻を開始した。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末、遂に降伏した。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる。具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄(茶筅丸)に嫁ぐこととなった。


その後、元亀元年(1570年)5月に出家して天覚[3]、更に不智斎と号し、三瀬谷(現在の三重県多気郡大台町)に移る。しかし、少なくとも天正元年(1573年)9月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年(1575年)6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている[4]。また、天正3年(1575年)に具教は隠居城として伊賀国丸山城の築城を決め、同地域の土豪を説得、天正4年(1576年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。


天正4年(1576年)11月25日に信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代)ら)たちの襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害され、これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。


なお具教の首級は、加留左京進の家臣である伊東重内らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた芝山秀時、大宮多気丸らに奪い返され、秀時の父である芝山秀定により御所尾山に埋葬された[3]。



人物・逸話
具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護・援助していた。自身も塚原卜伝に剣を学び、奥義である一の太刀を伝授されたといわれる剣豪であり、他にも上泉信綱からも剣を学んだ。具教は、領土が隣接する柳生宗厳とは剣を通じて親交があり、上泉信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたといわれる。織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたという[5](刀の刃が腹心の佐々木四郎左衛門尉により潰されており、抵抗できずに斬殺されたとも[1])。

暗殺された20年後、上三瀬の具教の末裔を名乗る住人が具教の菩提を弔うために現在の大台町にある北畠神社の場所に国司堂を建てたとされる[6]。




あ、わたくしの脳内マップのことなので全くスルーで願います。赤面
いつか久居にもいらっしゃることがあるでしょうし。


久居藤堂家の武士関係のお寺には服部家のお墓もあるはずですから
いつか家紋を見て回って欲しいです。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月18日 22時59分31秒 ) パスワード

ミヤハラさん


http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&id=3953175&from=home&position=3 より
九州新幹線CM、再び話題に
「また笑顔が見たい」 
東北と九州、2つの震災を励ます



 2011年3月12日、東日本大震災の翌日に開通した九州新幹線のCMが話題になっています。

 ツイッター上では「久しぶりに見返した」「こういう時だから、この動画を見て元気を出していきたい」などの声が相次いでいます。

 熊本地震によって今も運休が続く九州新幹線。東日本大震災直後は、東北の被災者からも絶賛された名作CMが、再び注目されています。

動画
http://withnews.jp/article/f0160418003qq000000000000000W00810401qq000013302A


九州新幹線が開通した時の感激の涙とは違った感動の涙が溢れます。

またみんなが元気で幸せになれますように。


わたくしは1994年1月17日のロス地震を経験しています。
あの時の恐ろしさは一生忘れないと思います。
3か月後の余震も恐ろしかったです。

丁度1年後に阪神大震災があってスグに領事館に張り出しを見に行きました。
恩師は無事でしたが
友人の甥御さん(神戸大学)は亡くなりました。


今回の熊本地震では友人の実家が大変なことになり、さらに、母上が怪我をなさったとも聞きました。


とてもこれ以上は書けないです。
早く皆さんに笑顔が戻りますように。
すみません。
[25]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月18日 23時04分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。久居は今回検討したものの、時間的に苦しいか
なと思い、はずしました。次回に久居、榊原温泉、青山高原、阿保と訪れ
てみたいと思っております。また、伊賀町にて『萬川集海』を購入したい
と思いますし、上野天神様の前のある喫茶店でおいしいコーヒーを飲みた
いとも思っています。伊賀というところ、自分自身の中のDNAに共鳴す
るかどうか、まだ確認できておりませんので、いずれ地元の人とじっくり
話し合える機会を持ちたいと思っています。また、伊賀の人には美人が多
いと聞いていますが、まだそういう人には行き会えておりません。それも
一度確かめたいテーマの一つであります。
 訪れたい所は無限にありますので困ってしまいます―

 なお、前のレスで松阪と書いているつもりが松坂となっておりました。
あらためて訂正させていただきます。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月19日 09時01分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

『萬川集海』
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%8C%E6%9C%AC-%E4%B8%87%E5%B7%9D%E9%9B%86%E6%B5%B7-%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%AF%A4%E5%B7%B3/dp/4336057672

すっごく高価じゃないですか。
ホント!専門書ですね。笑
ま、1冊あるとコレクションが完璧になりますね。笑
基本のキですものね。


>訪れたい所は無限にあります

はい
そうですね。


限られた時間に訪ねるというのが良いですね。
悔しいけれど失敗しつつというのが。
また行けばいいのです。
[27]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月19日 10時35分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様、丸三柏服部様
温かいお心使い、本当にありがとうございます。

お二人、熊本市、佐賀県、別府市に御親戚、ご友人がいらっしゃるとの事で御心配ですね。
空の青海のあを様におかれましては、過去の悲しい記憶を思い出される事になりまして、申し訳ありません。

空の青海のあを様、お伺いした九州新幹線のCMを早速拝見致しました。
私も久しぶりに見たのですが、沿線の方々が笑顔で手を振り、九州全体が一つになる姿。
涙が止まりませんでした。
きっときっと、こうやって皆さんに笑顔が戻る日は必ず来ると信じています。
勇気が湧いてきました。
スマホやネットの情報を見る時には今はどうしても地震関連の情報を検索してしまう状況でしたが、空の青海のあを様から、「また笑顔が見たい東北と九州、2つの震災を励ます」こちらのサイトを御紹介頂いて、「九州新幹線のCMを見てよかった!」と心から思いました。
早速、被災地にいる友人にも紹介させて頂きます。
ありがとうございました。

丸三柏服部様
「平川家について」をご覧頂きありがとうございます。
刺激を受けているのは、私の方です。
気になる場所に、ご自身がみずから行かれての調査。すごい方だな〜と敬服致しておりました。
頂きましたお言葉「この危機的状況を耐え忍び、無事に脱する」、しっかりと心に刻みました。ありがとうございます。
所で、お勤め先の方に掛川出身の「平川様」がおいでとの事ですが、丸三柏服部様から頂いたコメントを父にむかって声に出して読ませて頂いていた所、
父が「掛川?お父さんの友達(球磨在住)の名前は”掛川”だけど静岡県の掛川市と何か関係あるのかな?」と。
私もうっかりしていました。
よく父より友人の「カケガワ」さんの話は聞いていたのですが、頭の中で「カケガワ」さんと「掛川」という文字が一致していませんでした。
丸三柏服部様から頂いたお話と父の言葉で初めて気が付きました。
この事態の収束のめどがたち、私の思考回路が回復致しましたら、早速「掛川の平川氏」「掛川氏」について調べてみたいと思います。
今は、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、行方不明の方々が早く救出される事をお祈りしています。
これ以上被害が拡大しない事、この事態の早期収束が心からの願いです。

空の青海のあを様、丸三柏服部
ありがとうございました。落胆するばかりではなく勇気を持ってこの事態を切り抜けます。
ミヤハラより
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月19日 20時55分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大変な地震となってしまいました。すぐにおさまるかと思いきや、広域
・多発地震化してしまい、何か積み木崩しのような、断層ブロックのずれ
の連鎖が起っているようであります。今、日本全国、国外からも支援の手
が差し伸べられつつあります……。

 私の住んでいる浜松も、巨大地震が来るといわれて久しいのですが、一
向に来る気配がありません。
 よく調べてみると、実は戦時中の昭和19年12月7日(今から72年
前)に大地震(東南海地震)に襲われていたのですが、その6日後に、アメ
リカ軍のB29爆撃機が613発の焼夷弾を浜松に投下したので大火災と
なり、地震での倒壊被害も、町が焼け野原となり、見分けがつかなくなっ
てしまいました。更に、約1ヶ月後には、B29が焼夷弾を1651発
投下。更に約2ヶ月後、約4ヶ月後、約5ヶ月後にも焼夷弾が投下され、
更に更に約6ヶ月後の6月18日の深夜零時12分、B29爆撃機100
機が浜松上空に飛来し、大型焼夷弾を何と6万5000発も雨あられのよ
うに投下しました。
 更に更に更に、約7か月後の7月29日の夜中には、遠州灘に到来した
アメリカ軍艦8隻より、1トン砲弾2000発が全市にぶち込まれ、炸裂
いたしましたので、浜松は跡形もなくなってしまった訳であります。
それから約2週間後に終戦を迎えることになりますが、大地震の被害の
ことは完全に吹き飛ばされ、語られこともあまりありません。
 100年サイクルで地震が起こるとすれば、あと28年で巨大地震が襲
って来ると算数上では一応言えます。
 君子は危うきに近づかずと言いますが、そういう訳にもいかず、一応の
備えはいたしますが、あとは運にまかせしかないようです。
 地震の前には何か変わった現象があるといいますので、そんな民間療法
のような予知も必要かと思っています……。

 いずれにしても、早く元の生活に戻れること、またご無事であられるこ
とを願うばかりであります―

 次回より、また歴史の話を進めたいと思います。このところ、九鬼水軍
を中心にして、水軍のことを探究して来ましたが、新たに知った事実がい
くつかありますので―
 
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月19日 22時54分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


九鬼水軍のお話
楽しみにしていますね。



http://matome.naver.jp/odai/2137775333953640001

戦中戦後の歴史に埋もれた「昭和の4連続超巨大地震」
敗戦をまたぎ、1943年から1946年にかけて、4年連続で日本列島を襲った巨大地震を知っていますか?。「戦中戦後の4大地震」とも呼ばれるこれら地震は、終戦間際から戦後間もなくという時代背景から、震災そのものが十分に伝えられていないのも事実です。そんな「4大地震」について、簡単にまとめています。

更新日: 2013年09月03日



1943年の鳥取地震、
1944年の東南海地震、
1945年の三河地震、
1946年の南海地震は、
「戦中戦後の4大地震」と言われている。



1944年12月7日 東南海地震(マグニチュード8.0)

三重県錦地区の津波被害状況

”現在の紀勢町錦支所に残されている『昭和大海嘯記録』という記録によると、「午後1時40分前後に遠州灘を中心とする一大地震が突如として起こり1分8秒に及んだ。町民一同驚き戸外に飛出津波の襲来を心配したが、10 数分にして大津波が押寄せた」「大半の民家は見る見るうちに将棋倒しとなり、間もなく津波はひき始め、倒壊家屋の古材が浦に充満した。」と書かれている。”




1945年1月13日 三河地震(M6.8*M7.1という説もある)

地震によって出現した、延長20kmの大規模な地震断層「深溝断層」        深溝は18松平家の1つとして記憶にあります。田園地帯でした。


”この三河地震によって、愛知県額田郡幸田町では延長20kmの大規模な地震断層が発生した。この断層は現在深溝(ふこうず)断層と呼ばれている”


             地元の人は「ふこうぞ」と発音してると思います。



東南海地震のわずか37日後、1945(昭和20)年1月13日午前3時に内陸直下型の三河地震が発生


この地震は昭和東南海地震の余震だとも言われています。

                               余震でこの大きさなんて悲し過ぎます。


三河地震については死者2652人と報告。未明の発生で「人的被害が非常に大きかった」とされている。


その他、負傷者3866名、住家全壊7221戸に上ったと言われる。死者が多数に上ったのは、全壊家屋の多さに加え、被災時が夜半で、ほとんど就寝中であったからと思われる。



       知り合いの家がこの三河地震で90度真っ直ぐ下に潰れたと聞きました。



浜松の地震の話は三つ柏さんのお話しか知りませんから
戦争中には結構地震がアチコチでも起きていたのに隠されたのかも知れませんね。


貴重なお話をありがとうございました。
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月21日 01時09分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 地震によって苦しんでいる方々もおられますので、その点を頭に入れて
少しずつ進めたいと思います。

 浜松市の西に位置する神ヶ谷(かみがや)の吉祥寺というお寺に行った時
に、不思議な仏像を見ました。それは「波切不動明王」というものでした。
私には、波の上をスイスイと滑走するサーファーのイメージが浮かび、何
とまあスゴイ仏像を作ったものだと、シュールな気持ちになった覚えがあ
ります。
 日本の航海術や水軍について調べていると、遣唐使船で唐に渡った空海
が、嵐の海をおさめるために、木材を刻んで不動明王像を作り、海に投げ
込んで経を唱えると、嵐がおさまったということで、「波切不動明王」が
登場することになったということであります。
 そこで、何で山の中の神ヶ谷に航海安全の仏像があるのかと疑問を抱い
たわけでありますが、江戸時代より前には、現在谷になっている所が入江
であったことがわかりました。即ち、幾度かの地震によって地盤が隆起し
たのです。それは、古地図でも確認しました。
 それと、九鬼水軍を調べて行ったら、「波切の九鬼水軍」というものに
出合いました。「波切(なきり)」と読みますが、志摩半島のいわば「肘」
の所に波切城というのがあって、そこを根城にして勢力を拡大し、志摩水
軍に成長して行ったようです。
 ちょうど波を切るような切れ立った岸壁の上にあるようです。今回そこ
は訪れませんが、いつか志摩半島に行ってみたいと思っています。ひょっ
として、波切不動明王に会えるかも知れません……。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月21日 02時35分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>何で山の中の神ヶ谷に航海安全の仏像があるのかと疑問を抱いたわけでありますが、
>江戸時代より前には、現在谷になっている所が入江であったことがわかりました。
>即ち、幾度かの地震によって地盤が隆起したのです。それは、古地図でも確認しました。


>それと、九鬼水軍を調べて行ったら、「波切の九鬼水軍」というものに出合いました。
>「波切(なきり)」と読みますが、志摩半島のいわば「肘」の所に波切城というのがあって、
>そこを根城にして勢力を拡大し、志摩水軍に成長して行ったようです。


なかなか興味深い情報をありがとうございます。



不動明王といえば「怒」「炎」のイメージですが
波切不動明王を教えて頂いて早速検索してみました。


http://www.google.com/search?q=%E6%B3%A2%E5%88%87%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B+%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%80%80%E3%81%AF&biw=1097&bih=521&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiToJfW2p3MAhUE2mMKHXOdBPAQsAQIGw&dpr=1.75

1番上の段の真ん中あたりの青いのがスゴイです。
いかにも「波切」という感じです。

        北斎の「波」も力強くて好きです。
          富士山の前の荒波にもまれる舟が木の葉のように翻弄されて
          乗っている客がゲロゲロ吐いている有名な絵のことです。


他の波切不動明王は「波」のイメージがデザイン化し過ぎていて海の恐ろしさという迫力に欠けます。


この青い不動明王は水の恐ろしさをよく表現していると思います。


日本人は海の恐ろしさ津波の恐ろしさを知っていたのだなあ、と。



それに・・・不謹慎ついでに書くと・・・

日本人ってこういう自然の圧倒的な力と、自然の前には我々人間などなす術も無いという弱さを芸術にしてしまうのがスゴイなと。

こういう思慮深さ奥深さが日本人の優れたところなんだろうなと。



避難した人々の家に空き巣に入る カーバー もいるそうで
こういう愚かさも人間は出してしまうのかと
自然とは、と言葉も無いです。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月21日 07時46分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 波切不動明王の特集、ありがとうございました。具体的な仏像を見ると
パワーが伝わってきます。
 熊本他九州の皆様にも、波切不動明王の加護がありますよう祈るばかり
であります。

 本日は一日、ドックに缶詰めとなります―
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月21日 21時52分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


いいですねドック。


ドックではないのですが
先月結構詳しい検査を受けました。
脳のMRI・・・・・・・・・・・・・・・・  その後、すごい頭痛に見舞われました。相性最悪。
CT
心電図
エコー
脳波も?
その他


で、お支払いの請求は全部出揃っていませんが、今の処、1万ドルを超えています。笑
保険がもってくれるのは50%<は>持ってくれるのでは、と期待しています。
3−4割の自己負担の覚悟はしています。


でも、ま、一応大丈夫のようなので受けて良かったです。
去年の11月の検査でLDLが127で右の頸動脈にプラークが溜まり始めているとの診断で
あらゆる努力をして今年の2月にはLDLを104まで下げました。

      3月の総合検査ではコレステロールの検査は無しでした。信じられない(怒)



日本は保険がしっかり払ってくれるのですから毎年でも(笑)ドックを受けて健康に気を付けてください。


だいたい定年まで大丈夫だった人はそのまま90歳ぐらいまで大丈夫のような気がします。

でも40代に大病した人は定年後にもガックリ来るようで
要するに疾病の芽は30代から始まっていたのだろうな、とゲスの勘繰りをしています。

    ワタクシの周りの人々の経験値です。


うちのマンションの韓国系の癌科医師が言うには
「カライ物好みの韓国じゃ胃癌と大腸が癌が凄いよ
うちの親戚も殆どみんな胃癌や大腸癌で死んでるよ
僕の父親は70歳で、今はまだ、糖尿病発症の段階だけど」

で本人はケンタが毎日の昼食で(安いから)
コレステロールが物凄いことになってると言ってました。

    ワタシなんてLDLが127で大騒ぎしてるのに


若い日本人は「激辛通」なんてイキガッテ真っ赤な物を食べてるけど
これでドジって大腸 → 膀胱に転移にした日本人医師がいます。
学業の偏差値的にはスゴイ人だったんですけどね。

    これ以上はネットでは書けないです。彼についてはもう過去形ですから。



静岡の人は緑茶と蜜柑で健康が守られているなんてテレビの健康番組で何度か聞いています。


三つ柏さんの場合は遊びの予定がしっかり詰まってるから90歳まで腕白小僧のまま行けそうですね。笑
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月21日 22時33分09秒 ) パスワード

これ、面白かったですよ。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1256315.html?from=navi_ranking


Q:日本人は漢民族ですか?
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月21日 22時44分12秒 ) パスワード

<12>の回答


漢民族は足の小指に第2の爪、子爪が出てきます。
日本人でこれが出てくる人はなかなかいません。



子爪なんて聞いたことが無い・・・・

でもハイヒールを履いてて、
割れて?爪が2つになってました。
これが子爪?

数年前に足の小指の爪をものすごく短く切って今は1枚の爪になって来てるけど
やっぱり端っこに今でも残骸がある。
これが子爪?


そうすると2200年前に大陸に居た?
広東の人に言わせると「アンタは中国人だよ」だそうですが。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月21日 22時47分51秒 ) パスワード

これは知らなかった・・・

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6970634.html?from=recommend
Q:自分が在日かどうか調べる方法



A3:
コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。

※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0〜20人程度)。

明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。

昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。

明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。

在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。

新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月21日 22時52分05秒 ) パスワード

子爪を検索していたら
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/0730/196493.htm
結構いるもんですね。


蒙古斑もあったし子爪もある?し、そうか、ワタシは本物の東アジア系ということか。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月21日 22時54分03秒 ) パスワード

http://kotoseikeigeka.life.coocan.jp/13fukusou.html

手術前の子爪の画像だそうです。

       それにしても汚い足・・・
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月22日 02時16分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 副爪の話、初耳でした。骨格ではないので、六本指ではないと思います。
世の中、我々の知らぬこと、不思議なことが実は一杯あるということです
ね。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月22日 07時33分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>世の中、我々の知らぬこと、不思議なことが実は一杯あるということですね。

はい。


本当にネットで世界が広がりました。

この世の中には知らないことがたくさんあってそれが画像で具体的に分かったり、そして、賢い人が物凄く大勢いらっしゃること。

知らないことを掘り下げるのが容易になりましたし。これもスゴイですね。


自分の周りにはいなかったような広い知識や深い洞察力を備えた人がいるのを知って
ちゃんと過去にもいたのでしょうけど気づけなかったのかなと今更残念に思います。



三つ柏さんのような行動力の有る人にも驚きました。
    機動力には資金力も必要ですしね。
    やはり子供の時からのお友達の多さとか遊び心の豊かさで今も身軽なんでしょうか?
    笑


伊良湖崎から伊勢に行くなんて鉄道開設以降の人間には逆転の発想です。
そうやって現実に行ってみようというのも「遊び心」が無ければ。
昔の人の交通手段が実は「舟」だった、ということ
目からウロコでした。


九鬼水軍や松阪などのお話を楽しみにしております。
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月22日 10時41分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まだちょっと調査が足りませんが、あの芭蕉が伊良湖岬を訪ねているの
です。目的は、弟子を訪ねるということでありましたが、芭蕉は「これは
というところ」へ必ず顔を出す。いわばある意味「歴史探偵」であるかの
ようにです。歴史探偵芭蕉……研ぎ澄まされた感覚で歴史のヴェールの向
こうに映る影絵を見る―

 歌枕としての地、過去に悲しい物語を秘めた地……そう考えると、伊良
湖という所は「麻績王」を喚起させます。そして、「麻績」は伊勢そして
松坂につながる。また麻績と服部は近縁の関係である。

 今回の旅の目的は、伊勢を中心とした(海で言えば、熊野灘、伊勢湾・
三河湾・遠州灘)歴史の探究―倭姫、伊勢神宮、服部・麻績氏、海部氏、
尾張氏、信長、家康、水軍……等について、少しでも土地勘を得たいと
いうローラー作業であります。

 伊良湖から鳥羽まで大型フェリーで五十分弱、伊良湖水道は干満の流れ
が早く、難所と言われております。伊良湖から神島まではすぐの所。ま
た鳥羽から答志島もすぐの所。私は釣りが好きですが、御前崎沖ばかりで
伊勢湾の方で釣り船にお世話になったことはありません。小さな船で行く
と一番海のことがよくわかるのですが……。

 いずれにしても、自動車のなかった時代、交通手段、また運搬手段は「舟
・船」で、海上、また川上には帆を上げた船が行きかっていたものと想像
いたします。この認識を常に頭に抱き、歴史を考えて行きたいと思ってい
ます。もともと日本人は海洋民族であったのですから……と思います。

 今はプレジャーボートとなりスポーツ・遊び感覚が主ですが、つい五十
年前は、波の打ち寄せる砂浜から、木造船を沖に漕ぎ出し、網をかけて漁
をしておりました。海は確かに怖いですが、知り尽くした人間にはなんて
ことはない、青色の空にあを色の海、白い雲、三百六十度自由な水平線、
緑の島影、白砂青松……本当に素晴らしい所なのです。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月22日 14時27分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>小さな船で行くと一番海のことがよくわかるのですが……。

はい
小さな舟でぎっちらぎっちら、
これでお伊勢さんに織物を届けた時の感覚がしっかり掴めますよね。


我々は遠江方向から伊良湖を見てさらに伊勢を見ていますが
下記のように  伊良湖は伊勢方向から伊勢の領内として見るのが妥当  だったのかもですね。



麻績王(おみのおう、生没年不詳)

7世紀末の皇族。麻続王、麻積王とも称される。

出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。


『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島の伊豆大島に流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。


また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)に流罪されたとある[1]。


さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある[2]。


『万葉集』には、伊勢国の伊良虜の島に流された麻績王の事を悲しんだ人が「打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります」と歌ったのに対し、麻績王が答歌として「うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む」と詠んだというの和歌が伝えられている。

なお、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。

注釈[編集]

1.^ 麻績王の皇女が、忌部子人の子弟に降嫁しており、忌部子人のとりなしによって、遠流にならずに伊勢神宮のある伊勢国流罪に決まったとする説もある。
2.^ 壬申の乱で、大友皇子側についた事が原因で流罪に処されたとする説もある。




>もともと日本人は海洋民族であったのですから

この視点、忘れがちです。


陸路をエンエンと何日も歩いて伊勢神宮まで布を納めに行ってたのかと思いきや
舟で数時間後には対岸に渡ってたようですね。
なんと地頭の柔らかいこと。

鉄道という簡便な乗り物のせいでアタマが固くなってました。恥



三つ柏さんでしたら潮の流れの感覚でいい情報がゲット出来そうですね。
この潮(風)の流れの時はどっちから舟を出せば渡り易いとか。

    飛行機でもジェット気流で成田ロス間の往路復路の飛行時間がずいぶん変わりますから。


楽しみですね。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月22日 14時35分44秒 ) パスワード

これにはビックリです。
        ↓

伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)


     あそこが伊勢国領だった?

     飛び地ですね。
     三河にあった伊勢の領土。

     伊勢神宮の領地だったのかしら?
         マルタとかジブラルタルみたいな海外領土だったとか?


面白いですね。
全く気付きませんでした。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月22日 16時21分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いつもながら適切な資料、ありがとうございます。勉強になります。
 麻績王については、信濃の麻績の服部氏も含めて考察したいと思って
います。どうも秦氏や巨勢氏が絡んでくる気配がします。 

 明日は、いよいよ早朝より出発いたします。明後日の夜には一筆啓上
できるとは思います―
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月22日 22時10分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


いよいよですね。
無理はなさいませんように。
無理してお仕事に影響が出てはいけません。
「またの日」の楽しみにとっておけば良いのですから。


でもこれまでの海釣りで体験して来た潮の流れとか風の流れとかを
明日は古代人の海路の実地分析?解析?検証?に応用する機会になりますね。

人間の経験って無駄にはならないものですね。

やっぱり人間はしっかり遊んでおくべきですね。
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月24日 23時01分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日夜七時に帰り、食事と風呂を浴びたあと、写した写真データを忘れ
ないうちに選別してプリントアウトいたしました。その数百枚程。
 今回はある程度の成果が得られ、満足感があります。その内容は、明日
より記述いたします。
 本日は、疲れ・眠気のため、これから爆睡に入ります―
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月25日 03時22分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


爆睡中でしょうね。
ご無事で何よりです。



手応えがあった由。
良かった!


では楽しみにしております。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月25日 06時56分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 爆睡しましたので、頭はスッキリしています。いわば爽やかな朝を迎えて
おります―

 1泊2日の旅を行程に沿って順に述べて行くのはまだるっこいとは思いま
すが、得られたエピソードを先に述べてしまいますと、つまり”手品の種明
かし”をしてしまいますと興味が失せてしますので、ここは我慢してあえて
”鈍行列車”で述べて行きたいと思います。

 <4月23日(土)>
 自宅より伊良湖までは距離にして約85q。天竜川沿いを走り、国道1号
線に入る。篠原より浜名バイパスに乗って海岸線を一直線に走る。舞阪、新
居、潮見坂。からまた国道1号線に戻り、右にカーブした上り坂を登り切っ
たところで左折し、42号線に乗り換える。ここのところだけがいわば”折
れ線グラフ”で、全体としてみると、遠州灘の海岸線に沿って真っ直ぐの道
をひたすら走るといったイメージであります。
 地図帳で見ますと、この42号線を「伊勢街道」と言うようであります。
 昔の人は、特に遠江より東の人々は、伊勢に行くのにどういうルートをと
ったのでありましょうか、一度詳しく調べてみたいと思いますが、多分、陸
路と海路があり、海路についてはいくつかの港(湊)があったと思います。伊
良湖もその一つだと思います。
 伊良湖より鳥羽までは、直線距離で約20q。海洋用語で言いますと5海
里であります。フェリーは時速12ノットで約55分で到着いたします。
 潮の流れと風の具合、海底の地形・深さははっきりしたことは私にはわか
りませんが、伊良湖より南西に向けて5qの所に三島由紀夫の『潮騒』で有
名になった「神島」があり、更にそこから南西7qの所に、あの九鬼水軍の
長、九鬼嘉隆が自害したという答志島があり、その島沿いをたどって行けば
鳥羽港であります。ひょっとしたら太古の氷河期には今よりも水位はずっと
低かったはずでありますので(即ち海退しており)、伊良湖と鳥羽は陸橋でつ
ながっていたか、それに近かったのではないかと推論いたします。

 ここで一旦切ります―


 
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月25日 11時14分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊良湖で歌を詠んだ芭蕉の話は、旅の一番最後にしたいと思います。また
伊良湖近辺に流された麻績王の話も同じくです。

 鳥羽に9時過ぎに着き、松下ジャンクションより「伊勢二見鳥羽ライン」
へ乗る。伊勢からは「伊勢自動車道」に切り替わり、勢和多気ジャンクショ
ンから「紀勢自動車道」に乗り換えて尾鷲北まで高速道路を走る。以前、尾
鷲まで行くのに下道を通って行ったことがありますが、高速道路が延長され
たおかげで、随分時間が短縮されました。
 尾鷲北から311号線で九鬼まで行く。九鬼に到着したのは10時30分
位ですので、鳥羽からは約1時間30分弱ということになります。
 鳥羽から九鬼まで走った距離は105q位。これを仮に船で行ったとする
と、地図で測ってみますとやはり110キロ位でありました。
 浜松と名古屋が100q前後ですので、鳥羽と九鬼はずいぶん離れている
ということにはなります。ましてや桑名の北より熊野川北岸まではずっと三
重県でありますので、随分と南北に長い県ということになります。ちなみに
静岡県は南北でなく東西に長い県であります。

 九鬼の湾というか入江の水の色は神秘的な色でありました。透明度も高く
潜ってみたくなるような優しい水のようでありました。スキューバダイビン
グのクラブもあるということで、いつか機会がありましたら潜ってみたいと
思っています。
 海の色の表現……これは、人によって感覚・記憶・イメージが違うと思い
ますので、何色と言ったらいいか迷ってしまいますが、ブルーには違いない
のですが……一度色の表現について研究してみます― 
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月25日 11時41分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そういえば、あえて意識しませんでしたが、私の趣味はブルーのショット
グラスやおちょこ・ぐい飲みを集めることであります。いつの頃からかは
忘れましたが、無意識的にDNAが欲しているのかも知れません。
 もちろんブルーが好きな人はたくさんいるはずで、「空の青海のあを」様
はその筆頭に近い人ではないかと推察いたします。
 但し、ブルーであればどんなブルーでもいいというわけではなく、その辺
のこだわりは誰にもあり、分析ができていないのではと思います。
 明る過ぎもせず、暗過ぎもせず、青過ぎもせず、また緑過ぎもせず、ひょ
っとして音にDNAにいいヘルツの音程があるように、色にもDNAにいい
波長の色があるのかも知れません。ちなみにDNAにいい音程は528ヘル
ツだそうです。細胞が癒され、DNAの傷が修復されるということです。
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月25日 12時05分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 九鬼については、実は不思議な偶然がありました。それは九鬼行きを決め
ちのは随分以前のことでありましたのに、4月の9日(土)の夕方、テレビの
番組「人生の楽園」を見ると、まさしく九鬼にちなんだエピソードが組まれ
ていたのであります。まさか、九鬼のような地図を虫眼鏡で見なければわか
らない所が特集されるなんて……何かの巡りあわせだったのでしょうか?

 それは村おこしにつながるある夫婦の人生航路のかじ切りでありました。
奥さんは九鬼の出身で、さびれる故郷をなんとかしたいという想いで、たぶ
ん還暦を機会に夫婦そろって九鬼に戻り、土日にレストランを開くことにし
たのだと思います。
 そのレストランの名前は「網干場(あばば)」、私が店の前に着いた時、そ
の御主人さんが店の前(即ち入り江の岸)に立っておられました。
 故郷の話、テレビ番組の話、またそのあたりの観光見どころの話等、次の
お客様が到来するまで、色々話をさせてもらいました。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月25日 12時57分43秒 ) パスワード

書き直し


三つ柏さん

へえ〜
伊良湖 ⇔ 鳥羽は直線距離で約20qですか。
そんなに近かったのですか。

フェリーで55分で着いただなんて、驚きでした。




528Hz Miracle (DNA Repair)  ソルフェジオ周波数のサイト:

http://matome.naver.jp/odai/2134053740608056601  528Hz Miracle (DNA Repair)
こういうのは好きじゃないです。コワイ夢を見そうです(笑)

http://www.youtube.com/watch?v=b-6B2zyoFsI
水音と鳥の囀りと尺八の音っていいですよね。
   
    我が家の睡眠時のBGMはこんな感じの水の音です。
    ただし我が家のは水音+雷鳴+落雷音で賑やかです。ベッドルームは爆雷に満ちてますよ  笑




ブルーのバリエーションはいろいろありますね。
   緑の勝ったブルーは好きじゃないです。緑色自体が好きじゃないのもあります。

   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92  
   「青緑」の1例  こういう色は落ち着かないです。もっと緑が多いともっと嫌いです。

   だいたい日本人に「緑」は似合わないと思いますし。
       でも植物は殆どの葉っぱが緑ですから「緑」は全ての花に合うはずなんですが。

   髪の色が褐色の白人は緑が結構似合うって思っています。

       某有名フランス女性に言わせると「日本人は青が好きだけど日本人の膚の色と髪の色に青は似合わない」だそうです。
       へぇ〜


一般的にブルーは淡いのから濃い藍色まで、紫も好きです。
反対色の黄色系も好きです。


三つ柏さんのお好きなブルーってどんなブルーでしょうね。



>九鬼については、実は不思議な偶然がありました。
>それは九鬼行きを決めたのは随分以前のことでありましたのに、
>4月の9日(土)の夕方、テレビの番組「人生の楽園」を見ると、まさしく九鬼にちなんだエピソードが組まれていたのであります。
>まさか、九鬼のような地図を虫眼鏡で見なければわからない所が特集されるなんて……
>何かの巡りあわせだったのでしょうか?

ご先祖さまのことを慕っていると「向うから」飛び込んで来ますが三つ柏さんにも起きるようになりましたね。

これから先、どんどんこういう不思議な偶然が向うからやって来ますよ。
でも偶然じゃなくて必然なんです。


ご先祖さまが見守ってくださっているんですよ。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月25日 14時08分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 網干場(あばば)でブリの刺身定食1000円也を食し、そのうまさに満足
しながら、九鬼沖でブリを釣り上げたいなあと思いました。何故なら、御前
崎沖でブリを釣ったのははるか昔になってしまっておりましたし、最近は海
水の流れのせいでしょうか、余り釣れないのであります。
 
 食事の後、いよいよ本題の歴史の探究にとりかかりました。
 九鬼水軍に関する歴史博物館位はあると期待していたのですが、聞いてみ
るとやはりない。歴史的遺物としては、九木(鬼)社と眞巌寺だけでありまし
た。
 九鬼城があったということですが、九木(鬼)神社の裏手には尾根伝いに石
垣等も所々あり、後で考えたらこれらが城跡ではないのかと推察いたしてお
ります。
 九木(鬼)神社は入江の岬の20メートル位の高さの所に建っており、鳥居
より階段が一直線に拝殿まで続いていました。
 その鳥居の左手に「由緒書き」が建てられておりました―
 
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月25日 15時41分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 その由緒書き―
 「九木神社  御祭神 菅原道真
  菅原道真は三重県尾鷲市九鬼町455番地、九鬼神社に鎮座す。
  時に真治年中(1367頃)、九鬼中将藤原隆信伊勢国佐倉に居住。家臣
 平賀蔵人謀逆によって、仁木義長に破られ、従者悉く離散す。同年初
 めて九鬼に蟄居し、直ちに城を築く。是九木浦の祖也。其の子宮内少
 輔隆治、南朝に仕え、一日勢州駒野之原を過ぐ。敵として徒卒に囲ま
 れ、逃るる由なく、既に自殺せんと欲す。此時、北野天満天神を祈り、
 加護に依て、急難を免れる。故に永和年中(1375頃)帰国の際、居城西
 北の隅に当て一祠を建て、天滿天神を祀りて弓箭を奉ず。時を経て、
 寛文二年(1662)壬寅(みずのえとら)仲老國州(老という字不明)と名付
 けて一峰(峰という字不明)あり。此地に遷宮す。」

 
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月25日 22時34分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


ブリの刺身定食が1000円だったなんて良かったですね。
   ワタシは養殖ハマチの刺身あたりで充分幸せです。安上がりなワタクシ。

小学生の時、魚好きの祖母のブリの煮付けが大好きでした。
ま、手っ取り早く養殖ハマチの刺身で満足してましたが。



九鬼は南朝方になってましたか。
これは知らなかったです。


>九鬼中将藤原隆信伊勢国佐倉に居住。

「佐倉」という地名が三重にあることは知らなかったです。
なるほど南朝方だと得心が行きました。




http://kukicho.jimdo.com/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E9%A4%A8/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%AE%B6/



九鬼家


九鬼宮内家


南北朝時代中頃の正平元年(1346)に、佐倉中将藤原隆信公が北朝方の仁木義長に攻められ、四日市奥の佐倉を棄てて九木浦へ移住してきました。この藤原氏の祖は中納言藤原隆家ですが、隆信は吉野南朝の宮廷に仕え、官位は中将であったため、佐倉へ移住してからは佐倉中将と呼ばれました。九木浦へきてからは藤原姓を改めて九鬼氏と称し、直ちに築城すると同時に水軍を養成しました。



二代を継いだ隆治の長男で、中和一由氏遺稿集によれば、年少のころ吉野の南朝に仕え、宮内少輔に補されていました。父の隆信が老境に入ったので九木浦に帰り、城の西北に天満宮を創建し、五人張りの弓と筋を奉納したといわれます。



三代を継いだ隆房も幼少の頃は南朝に仕え、刑部少輔に補されていましたが、南北朝合体のあと九木浦へ帰りました。隆房には二人の男子があって、長男の隆長も南朝に仕えて宮内大輔に補されていました。次男の隆良は波切に進出して築城し七島を領しました。これが九鬼家の第一分家です。九木浦に帰って四代を継いだ隆長も、弟の隆良の波切進出に際しては、総力をあげて後援したことは言うまでもありません。



五代を継いだ光長は剛勇で智略に溢れていました。永享年中(1429〜40)尾張三河の海賊が、熊野灘の沿岸にまで来襲し掠奪し、人々が家業を棄て山中にこもったとき、光長は軍船数隻をひきいて攻めたて、その海賊どもを滅ぼしました。

そのあと政長が六代を継ぎ、政長の弟の光信が九鬼家の第二分家の祖となり、九木浦で宮崎姓を名乗りました。七代を継いだ政隆は宮内少輔志摩守に任ぜられています。



八代が浄隆で、第一分家が波切から加茂岩倉(鳥羽市)の田城に進出したとき、浄隆は後顧の憂いのないよう波切城を守りました。天文元年(1532)に一向宗の一揆が北畠国司の居城を襲ったとき、浄隆、次男光隆、三男嘉隆が、兄の澄隆は田城の城主となり、弟の嘉隆の娘が堀内氏善の妻となったため、九鬼勢は三鬼氏を棄てて引き上げ、三木城は怱ち堀内氏の手に落ちました。



           ここに九鬼と三鬼が出ますか
           へぇ〜



天正6年織田信長の本願寺征伐のときは、九鬼光隆・嘉隆の水軍をひきいて進撃し、大阪湾において敵船30余隻を捕獲し、また続いて尾張の内海・大野の海賊を平定して武功をたてましたが、この時代が九鬼水軍として最も華やかな頃で、向うところ敵なく戦えば必ず勝つという状態でした。

九鬼家十代は恒隆がつぎ、慶長8年(1603)傷みの甚だしかった九鬼城は取り壊されました。十一代が昌隆で十二代を義隆がつぎましたが、この頃は徳川家の世も平和となり武器を手にすることもなく、義隆は医業を修めて家業としました。



十三代の豊隆も名医高木見利(見理)に学んで医業をつぎ宮内と称しました。これは九鬼家の先祖に南朝より宮内少輔などに補せられた人が多かったためですが、この故に人々はこの家を「宮内家」と呼びました。

九鬼宮内は当地方きっての名医として有名でしたが、そのあと九鬼家は立伯・右京・右膳と名医がつづき、わざわざ船で診察を受けにくる他所の人も多かったといいます。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月25日 22時48分49秒 ) パスワード

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/180159


健康寿命2位の静岡県
ですって。




最近発表されたのが静岡県の調査結果だ。同県は2013年の健康寿命が73・9歳で山梨県に次ぐ全国2位。県内の100歳以上の老人26人(男性6人、女性20人)に聞き取り調査したところ、73.1%が肉を毎週3日以上食べていると答えた。

 医学博士の米山公啓氏によると、人間は低カロリーの食生活のほうが長寿遺伝子のスイッチが入るようにできている。牛や豚、鶏などの肉は高カロリーのように思えるが、実は脂質に比べるとカロリーの比率は低く、長寿遺伝子が活発化しやすいという。



「タンパク質はアミノ酸を補給して筋肉を強くします。年をとっても体を動かすことができるため心臓が丈夫になり、脳が活性化して認知症を予防できる。運動することで動脈硬化の予防にもつながるから、長寿になるのです」

 ただし、食べ過ぎは禁物。米山氏によれば、長寿の3大条件は食事を腹7分目に抑え、1日40分散歩し、ストレスを解消することだ。

「豚肉は炒めると栄養価が落ちると考えられるので、とんかつのほうが健康効果が高いと思われます。衣に包むため肉に高熱が伝わらないからです。年をとってステーキや焼き肉が苦手になったという人はハンバーグを食べればいい。長寿のためには50代から肉を食べることをお勧めします」(米山公啓氏)

 ベジタリアンも肉食に方向転換するのではないか。
[61]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月26日 07時23分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 九鬼水軍 九鬼家について、よくわかりました。

 また長寿のための肉食について、ありがとうございました。
 肉と野菜食の方が炭水化物(糖質)主体の食事より長生きするということ、
私も多少心掛けてはおります。ごはんておいしいものだから、ついついたく
さん食べてしまいますし、また塩辛いものが合いますので、よけいよくない
ですね。

 一旦ここで切ります―
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月26日 15時38分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「藤原隆家」の後裔の「隆信」が「九鬼家」を興し、その九代孫の「九
鬼嘉隆」が信長に重用され、志摩水軍として大きな勢力を形成した。しか
しながら、織田についたため、長島の願正寺による一向一揆を攻めざるを
得なくなったことは誠に残念でありました。
 九鬼嘉隆は水軍では最も活躍した人であるが、関ヶ原の合戦では息子の
「守隆」を東軍に、自分は西軍についた。西軍が負けたため、嘉隆は答志
島で自害するはめになった―
 
 九鬼にあるお寺―曹洞宗「眞巌寺」を訪ねました。斜面に張り付くよう
な漁師町の”あみだくじ”のような細く折れ曲がった急な路地を登って行
きました。前方は家陰で全く見えませんので、ただ勘に頼って登りました
が、案の定、お寺とは違う方向へ出てしまいました。そこからは微かにお
寺の屋根が少し覗かれましたので、そちらに向けて歩いて行くと、墓群が
見えてきました。
 「九鬼」という苗字の墓を探してみましたが、意外と少ない。全部で5
基位であろうか。その内の1基は「九鬼宗家奥津城」と刻まれ、その前に
一坪位の土台が造られ、その上に円墳のような盛土がなされていた。
 また、その左右に同じような形の円墳型盛土があり、それぞれ、「宮崎
家奥津城」、「内山家奥津城」と彫られていた。いずれも一族であろう。
 このような円墳型盛土は珍しいと思いました。韓国に行った時にはあち
こちに見ましたが……。

 その他の墓を見ましたが、「三木家」というものを一基見付けました。
後は「川上家」がたくさんありました。そういえば、「網干場(あばば)」
の店を開Tかれたご夫婦も、確か「川上さん」だったことを思い出しまし
た。

 これで、九鬼についての報告を終わります。
 そうそう、一つ付け加えさせていただきます。ここにはただ一軒だけ
干物屋さんがありました。そこでブリやサンマやアジ・イシ他の干物を沢
山購入いたしました(昨日食べましたが、とてもおいしかったです)―
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月26日 21時15分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 九鬼についての追加―
 @九鬼嘉隆の墓は、答志島の築上山の山頂にあるそうです。鳥羽城の見
 える所に埋めてほしいとの遺言だったということです。
 A九鬼一族の墓は、志摩市大王町波切の仙遊寺にあるそうです。波切に
 は、自然の地形を利用した波切城がありました。
 B熊野大社の神職は、九鬼氏が代々継承しているそうです。
 C和歌山の紀伊宮原には、九鬼氏族の墓がたくさんあるそうです。
 D九鬼(くかみ)文書という古史古伝につきましては、九鬼水軍とは別に
 時間をかけて理解に努めたいと思います。

 新しいスレッドを用意していただきましたので、これからはそちらの方
に書き込みます。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月26日 23時00分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

>@九鬼嘉隆の墓は、答志島の築上山の山頂にあるそうです。
>鳥羽城の見える所に埋めてほしいとの遺言だったということです。

ほろっと泣けました。


1970年の初めに三鬼陽之助の「九鬼には負けてばかりの三鬼」というお話を読んで以降
九鬼は我が家の敵だとばかり思って来ましたが

三つ柏さんのレスを拝見し、いや、そうじゃなかったんだ
というのを知りました。



円墳は藤原秀郷のお墓も円墳でした。
これは唐沢神社のことでは全く関係ありません。

もしかすると平安時代の武将のお墓は円墳だったのかも。


山の中にあるうちの母方先祖の墓は濠がありました。
円墳みたいな感じでしたが。  こういうのを本来的には「塚」と呼ぶらしいです。
これも鎌倉時代の初めの武将の墓だと読みました。


もうちょっと下がった鎌倉中期の先祖の墓はいわゆる立派な石を組み立てた墓です。



あ、干物や乾物は無糖ヨーグルトで戻すとものすごく美味しくなるそうですよ。
だいたい重量の数倍のヨーグルトとかで、冷蔵庫で8時間とかで、戻すそうです。


1度干物の端っこででもお試しになってはいかがでしょう。


でも干物を食べなくても美味しい遠州灘の活き魚がいくらでも食べられますよね。
にっこり
[65]ときおさんからのコメント(2016年04月27日 02時14分02秒 ) パスワード

途中の横は入り、お許しください。

この手の塚について、私もはてな?と思っていました。

一つは戦国時代の高いマウンドの塚で我がご先祖様(兼康)の首塚
ではとうわさもありましたものです。時代が違いすぎですけどね。

もう一つは、今は僻地となっている山奥にも戦国時代か南北朝期で
は無いかと思われて、戦国期の山城の近くにも同様の高いマウンド
の塚を実見しています。


しかし失念していたものを下記のHPで思い出しました。

 超有名な「餓鬼草紙」です。
(鎌倉時代の初めに制作された「六道絵」の一つ)
http://japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial09.gaki.html   
盛土塚は貴族などの身分の高い者を土葬したもの、石積塚は火葬
または改葬後の墓だろうと思われる。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 03時00分25秒 ) パスワード

ときおさん


スゴイ絵ですね。ぞっとしました。ぶるぶる
http://japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial09.gaki.html



>この絵は、我々に多くのことを教えてくれる。

はい
知らないことばっかりでした。


>塚や死体の合間を縫うように餓鬼がうろついている。
>彼らはこの墓場に葬られた遺体から抜け出てきた亡霊なのである。

餓鬼って人が死んだら死体から出て来るのですか。
この餓鬼という存在はもともと地獄にいる地獄の構成員と思ってました。恥


>平安時代の末までは、身分の低い者の間では、遺体を野ざらしにする風葬が一般的だったのだろう。

京都の化野は昔は死体でいっぱいだったと読んだことがありました。
「野ざらし」にされていたとは思ってましたが
これが日本式「風葬」だったのでしょうね。


    死体を風化させるというのは考え付いてましたが
    これが「風葬」なんだということには思いが至りませんでした。


人が死んだら、いろいろな処理法があったということですね。

盛り土や石組みで葬られる人は身分があったり資力のある家庭の人なのでしょう
貴族や武家でない、一般人でもお金のある家の人はお棺に収められる
一般人でもお金の無い人間はそのまま打ち捨てられて風化に任される
そういう格差を描いているということなんでしょうね。




>仏教の教えでは、餓鬼とは六道の一つであり、死んだ人の霊魂の一部はそこでさまようこととなっていた。
>霊魂が墓場のまわりをさまよい、なおかつ、自分の亡骸と対面するなどというイメージは、当時の日本人が作り出したユニークな営みだったと考えられる。
>恐らく、日本人の霊魂観が、そこに深くかかわっているのだと思われる。

日本の幽霊映画の恐ろしさ怖さは  この日本的な霊魂観から来ているのかもですね。


     西洋や中国のお化けものには無いオドロオドロシさが日本の幽霊ものにはありますから。



>人々は死者の亡骸を葬送場所に放置したあとは、殆ど顧みることがなかった。
>そこは死者と餓鬼の世界であって、生きている者が近づくべき場所ではなかったのである。

へえ〜
これが「日本」なのか。



面白いサイトをありがとうございました。



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