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 投稿番号:101523 投稿日:2016年04月03日 09時44分26秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について32

コメントの種類 :その他  パスワード

日本の苗字七千傑様、白石様、酒井様
数々の御教示本当にありがとうございます。

今後とも、どうぞよろしくお願い致します。

こちらは平川家について31コメント81より続きます。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101516_80.html

[1]白石さんからのコメント(2016年04月03日 22時50分09秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
桜が満開なのにあいにく昨日今日 風が強く雨模様です。
日本人はやはり桜!!

ところで みやちゃん 相良長頼は佐々木氏。
何だか話が佳境に入ってきたような。

佐々木氏として考えるより 私 過去に 人吉のとある老舗旅館の女優をしている娘さん・富田千晴さん・だとおもうのです・・・昭和天皇も行幸された・・・ここが 富田さんだと思うのですが・・・鍋屋旅館ですね。
よそのことなので 私断定できなくて申し訳ないですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして
高岡条に 高岡は富田進士か?とあった ともかきました。
そして
こちら 高槻富田の地にある 本照寺は 別名佐々木城。
近くに賀茂神社があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なので まず 富田高岡系図を打ち込んで
富田系図を出します。
【始祖】富田肥後守源義泰
【世系】富田氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の四男、四郎義泰が出雲國意宇郡富田を領してより富田氏を名乗る。
広田氏→富田氏

次に義泰のところのぽっちりをおしたら 宇多源氏が出ます。
【世系】出雲源氏は宇多天皇の皇子敦實親王の御子雅信王に出づ。 後裔佐々木五郎源義清が承久兵乱の後、隠岐・出雲を賜りてのち両國に源氏繁榮す。

この親王の子孫は 道長と結びついた方は貴族になっていき、京極とつながった方は武士化していった。

【氏神】沙沙貴神社(滋賀県蒲生郡安土町常楽寺)
★★★笹佐貴神社って 青井阿蘇神社と似た形ですね。

ここで 高岡氏
高岡八郎左衛門尉源宗泰
Takaoka Muneyasu
(1255-1326)
隱岐出雲両国守護佐々木五郎左衛門尉源★★義清の孫。 (隱岐泰清の八男)御母は葛西伯耆守平清親の女なり。出雲高岡氏の始祖。 諱は宗泰。致仕してからは覺念と号し、幼少の名は千手麿という。官は左衛門尉。 八郎と号す。佐々木宗泰とも称す。紋は花輪違。
ーーーーーーーーーーーーー
ここらをたんねんにみていると 後藤氏がありました。
【後藤氏系図】
あった !!うちの平川の親戚は後藤。ここにつながるかどうかは?だけど 高岡つながりで でました。

【本國】美作・播磨

【世系】後藤氏は藤原利仁流。その先は大職冠公に出ず。 後藤又兵衛は大坂の陣の時華々しく討死したるといふ。

伯爵になった後藤象二郎の系から岩崎弥太郎の妻になった人がいる。
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【隱岐氏系図】Oki clan

【始祖】隱岐太郎左衞門尉源政義  【本貫】隱岐國

【世系】隱岐氏は宇多源氏隱岐佐々木流。佐々木義清の嫡男太郎左衞門尉政義が、隱岐國守護を相続したるにより、 隱岐氏を称す。政義の遺跡を弟の二郎泰清が継ぎて隱岐氏を称し以後この裔流が隱岐氏を称す。
――――――――――――――
【世系】鹽冶氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の三男、三郎左衞門頼泰が出雲國神門郡鹽冶郷を領してより鹽冶氏を名乗る。

【歴史】世々出雲守護職を相続し、鹽冶判官高貞が大樹尊氏の執事高武蔵守師直の讒言により、暦応4年(1341)4月3日出雲國宍道に於いて自害する。
※大樹尊氏とは 足利尊氏のことか?
※塩谷氏の最後の頃に ★★★宮原又右衛門室★★★がありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一方近江源氏とは
源扶義の子孫の佐々木氏は、近江国 を本貫として繁栄し、嫡流は六角氏、京極氏と分流して近江源氏と称されて繁...
近江源氏 - Wikipedia
宇多源氏佐々木氏流。平安時代中期に近江国蒲生郡佐々木庄に下向した宇多源氏源 成頼の子孫で、武家として繁栄し代々近江の守護としてね勢力を持った佐々木氏の一族。 世々源氏の郎党となり、成頼の玄孫にあたる佐々木秀義は、保元元年(1156年)保元 ....
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
明治時代に★★★住友財閥★★★を起こした伊庭貞剛も近江佐々木氏の支流、★★★三井財閥★★★も同様に佐々木氏支流の出身で、尼子氏支流の山中氏(あの「七難八苦」の鹿之介の山中です)を祖とする★★★鴻池財閥★★★もまた佐々木一族ということになります。

以上 うちの高岡 からの言葉つながりから見てみました。

これらの系図を見ている中に 遺跡をつぐ という言葉が出てくるのですよね。







 






石井氏 - Wikipedia

@伊勢関氏は平貞衛の子孫
伊勢関氏一族の系図に「安芸守盛光−豊前守盛重−左近将監盛そ治−五郎大夫盛経( 石井氏の祖なり)」と載せてある。その後裔 ... 江州中原氏系図』に井口堯経の子として 石井入道是経の名が見える。 ... 宇多源氏系の近江源氏佐々木氏の一門に井口氏あり 。

平姓石井氏略系図[編集]
桓武天皇─葛原親王─高見王─高望王(平姓)─良文─忠通─為通(三浦姓)─為継─義継─義明─義澄─義村―朝村─員村─盛明─義継(石井太郎)─1.重義(大隅下向)
義継(石井太郎)


[2]白石さんからのコメント(2016年04月03日 23時20分18秒 ) パスワード

すみません 余計なことが入っていました。
それに 伊勢関氏は 資盛の子孫ですね。
下は皆いまのところ なしです。
石井氏 - Wikipedia

@伊勢関氏は平貞衛の子孫
伊勢関氏一族の系図に「安芸守盛光−豊前守盛重−左近将監盛そ治−五郎大夫盛経( 石井氏の祖なり)」と載せてある。その後裔 ... 江州中原氏系図』に井口堯経の子として 石井入道是経の名が見える。 ... 宇多源氏系の近江源氏佐々木氏の一門に井口氏あり 。

平姓石井氏略系図[編集]
桓武天皇─葛原親王─高見王─高望王(平姓)─良文─忠通─為通(三浦姓)─為継─義継─義明─義澄─義村―朝村─員村─盛明─義継(石井太郎)─1.重義(大隅下向)
義継(石井太郎)
[3]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年04月04日 00時42分47秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>渡会氏祖先は 天穂日命だというのです。
 
伊勢神宮と出雲大社をごっちゃにしたヨタ話ですよ。
度会氏は伊勢外宮で地祇系海神族。
出雲氏は天穂日命後裔で天孫系。

[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月04日 09時12分50秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様
度会氏。かなり以前「平川家について16」コメント71・72・73
コメント71で私が書いた
>既に「物部氏考」の項で述べてきたように、現在では一般的には、物部氏と尾張氏は天孫族である「天火明(あめのほあかり)命」即ち「饒速日(にぎはやひ)命」を始祖とした、同族とされている。

上記にかんして、日本の苗字七千傑様よりコメント72で御教示を頂いていました。
「平川家について16」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101373.html
〉尾張の熱田と薩摩の阿多(吾田)は同じで、火神族と海神族は深い親戚。
バビロニアを故郷とする陸のシルクロード経由と海のシルクロード経由の合流。
〉饒速日命は別名の火明命が示す通り、火神族でしょう。
※陸と海・・
海路と陸路の合流・・まるで、私の家の親戚関係のようです。

白石様
「高岡氏」の様々な系。色々な所で登場されるのですね。それだけネットワークが大きかったと言う事でしょうか。
白石様の御親戚の「平川家」と縁戚関係にある「後藤氏」。
肥前の後藤氏と肥前の橘薩摩一族は姻戚関係にあります。
平川家について14 コメント1 で御紹介しています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101362.html
@渋江公勢 
生没年未詳。渋江下野守公忠の男。右馬頭・薩摩守。妻は後藤職明の女。長島庄河古日鼓岳城主。相続争いにより大永7年(1527年)3月次男の公政・公政乳母これとともに三男公親に毒殺される。
妻は後藤職明の女
A後藤職明 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%81%B7%E6%98%8E
後藤 職明(ごとう しきあきら/しきあき 生没年不詳)は、戦国時代の武将。肥前後藤氏の第17代当主(武雄領主)。第16代当主後藤正明の子。
応仁の乱の後、西肥前は、小城の千葉氏や、高来の有馬氏、平戸の松浦氏の勢力下にあり、後藤氏はこれらに囲まれた存在であった。これらに対抗するため、文明15年5月(1483年6月)、職明は、同様の存在であった長島庄潮見城主橘姓渋江公直、伊万里城主の伊万里仰、鹿島の在尾城主の大村胤明と同盟を結んでいる。その後、職明、渋江公直、大村胤明の三者は橘姓中村公継に藤津郡大草野(現在の嬉野市塩田町大草野)の北部を与えたという。
子がなかったことから自らの娘と潮見城主である橘姓渋江公勢の間の子(後の純明)を養子とした。
B後藤澄明 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E7%B4%94%E6%98%8E
後藤 純明(ごとう すみあきら/すみあき ? - 天文22年3月18日(1553年4月30日))は、戦国時代の武将。肥前後藤氏の第18代当主(武雄領主)。第17代当主後藤職明の養子(実父は渋江公勢)。幼名千代童丸。
長島庄潮見城主である橘姓渋江公勢と第17代当主後藤職明の娘の間に生まれる。後藤職明に子がなかったため、職明の養子となる。永正16年(1519年)、後に武雄鍋島氏の菩提寺となる円応寺を開く。大永7年(1527年)、実父渋江公勢が毒水を飲んで死んだのを好機として、渋江氏を攻略し長島庄を自己の領地とした。享禄3年(1530年)、有馬晴純が武雄の塚崎城を攻め、山内の住吉城にまで迫った。純明は、勝利を黒髪山に祈り、三間坂の白水原に陣取っていた有馬軍を奇襲して勝利した。このとき、戦勝を祝って足軽達が踊ったのが今も続く武雄の郷土芸能「荒踊り」の起源であるという。その後、純明と有馬晴純は和睦し、純明は有馬晴純の妹を妻として両者は義兄弟の間となった。
天文14年(1545年)、大村純前の実子(庶子)であった又八郎(後の貴明)を養子として武雄に引き取った。
C後藤家信(竜造寺家信)
竜造寺隆信の三男。妻は後藤貴明の女。後藤貴明の養子。後藤家は竜造寺一門に列らなることになり、隆信の跡を継いだ竜造寺政家より竜造寺の姓を賜り竜造寺姓となった。しかし竜造寺宗家の断絶に伴い、鍋島直茂が豊臣秀吉に認められ国政を執ることとなり、子孫は鍋島家へ仕え、鍋島姓を賜る。家信はルイス=フロイスの『 日本史』に、キリスト教への理解を示した人として紹介されている。
★竜造寺隆信の三男。妻は後藤貴明(渋江公勢の曾孫)の女。後藤貴明の養子。
===============================================

肥前白石氏・肥前の橘薩摩一族・後藤氏・・
私には、白石様の周囲には「肥前」の同族の影が濃く見えるのですが・・違いますでしょうか・・

では(..)
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月04日 10時39分18秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^O^)/
コメント4では肥前の橘薩摩と後藤氏・竜造寺氏・有馬氏・大村氏・有馬氏との関係を書きました。(..)

いつもタイトルを変更してすみませんが(..)
今後のコメントは
@先入観を持たなければ見えた!
A相良長頼が賜った「素性法師萬代松の詠」
B異説「相良長頼の出自」
と題して書かせて頂きます。

@先入観を持たなければ見えた!
「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」
永富相良氏の出自について 原田史教氏著 で、原田氏は「人吉庄南方の寅岡名地頭職に対する総論の証拠として作成されたものでその信憑性は高い」と記されています。
この争論に関わった人物が「良峯氏」に嫁いだ相良長頼の娘「尼妙阿」とその娘「阿夜」です。
皆様に「どうしても見て頂きたくて」勝手ながら加工してブログにアップさせて頂きました(..)
皆様、どうか先入観を持たずに「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」と「平河氏系図」のナンバーAを見て下さい。
「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12146170264.html
「平河氏系図」(Aを見て下さい)ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

※「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」には相良長頼の子として「平河三郎長貞」の名があります。平河氏は元来”通称「三郎」”を惣領としている。
※「平河氏系図」Aには”相良弥三郎頼貞”と”相良藤三郎長貞」が見え、後の「平河氏」に繋がる系は”相良弥三郎頼貞”を祖としている事が解ります。
すなわち・・
先入観を持たなければ見えます。
平安時代末期の「球磨の良峯氏(平河氏)」を継いだのは「相良氏」です!!
様々な書籍では単に「相良氏」と「平河氏」の姻戚関係をクローズアップしているだけです。もちろん私も「その事だけ」を重視していました。
でも、先入観を持たずに系図を見たら気が付きました。
気が付いた瞬間に「何て私は馬鹿だったんだろう。素直に系図には書いてあるじゃないか!!」と。
ちなみに争論となって人吉庄南方寅岡名は比定地は見つかっていないようです。
様々な方々が「人吉市内の南方では?」「いや上村あたりでは?」と推測されているようです。がっ・・
「人吉庄南方寅岡名」の”人吉庄”については荘園公領制の成立と内乱 工藤敬一氏著 で、工藤敬一氏は
〉球磨荘と人吉荘は実態的には同じものを指していると見てよい。
〉相良氏側はかならず「人吉庄」と呼んでいるが、領家側は、少なくとも鎌倉時代前半期には人吉荘といわず、「球磨庄」あるいは「球磨御庄」と呼んでいる。
と記されています。

「人吉庄南方寅岡名」・・寅岡名はすなわち球磨荘(人吉荘)南方に位置している・・
相良長頼の”娘”は一つの田が”一丁三反三畝六歩”にのぼる”化粧田”を父より譲られました。
その場所は旧宮原村と旧奥野村に跨る場所に比定されています。(以前、コメントさせて頂いています)
偶然か?※以前(1596年まで)は、青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、上球磨は南は宮原の中嶋大権現、北は黒肥地の王宮大明神、中は上村に白髪大権現の支配であった。

先入観を持たなければ系図では「平河氏」の系を継いだのは「相良氏」であると見えてきました。
ただ・・「平河氏を継いだ相良氏に繋がっている」のは現段階で見えているのはおそらく「三浦氏(佐原氏)」と・・伊予橘氏である「橘公長」の系そして橘薩摩ではないのか?と私は推測しているのですが・・理由は「通称」です。(今後コメントします)

A相良長頼が賜った「素性法師萬代松の詠」
求麻外史より
公(相良長頼)、大将軍源頼朝・頼家・実朝・藤原頼経・頼嗣・宗尊親王の六世に歴事して屡々(しばしば)功あり。前後賓賜優渥なり。
一日(年月■く)公、実朝に藹す。実朝筆を走らし、素性法師萬代松の詠(萬代松の詠は素性法師、女に代わりて良峰經世四十の壽を賀する國歌なり。古今集に見ゆ)を扇(金扇松鶴を書く)に題し、以って之を賜ふ。

※素性法師・・素性(そせい、生年不詳 - 延喜10年(910年)?)は、平安時代前期から中期にかけての歌人・僧侶。桓武天皇の曾孫。遍照(良岑宗貞)の子。俗名は諸説あるが、一説に良岑玄利(よしみねのはるとし)。 三十六歌仙の一人。
※相良長頼は源実朝より、源実朝が直々に筆を走らせた「良峰宗貞(遍照)の子素性法師の”萬代松の詠”」が書かれた「金扇松鶴」を賜った。
と言う事です。

こちらも先入観を持たなければ見えてくる記述ではないでしょうか??
ただ・・殆どの「相良氏を研究した書籍等」には上記の記述はクローズアップされていません。
殆どの研究者・学者の方々が気にされない「素性法師萬代松の詠」。
私が、相良長頼が賜った「素性法師萬代松の詠」を気にするのはきっと私の中に「相良氏続の血」と「平河の血」がしっかりと流れているからでしょう。(何を言っているのやらとの声が何処から・・)

まずは
@先入観を持たなければ見えた!
A相良長頼が賜った「素性法師萬代松の詠」
でした。
では(..)
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月05日 12時07分26秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日のコメントに続けて
B異説「相良長頼の出自」 という内容を御紹介致します。

人吉市史 第一章 第一代 相良長頼(蓮仏) 第一節 長頼時代 (註1)(註二)より

(註1)
長頼の出自について、成恒文書(大分県)の六、伊佐成恒氏并相良氏等略系(切紙)に行綱・・中略・・政綱・・頼泰・・伊佐源内・・永頼 伊佐三郎 母相良氏 法名蓮仏 とある。
もし永頼が伊佐家より相良氏をついだとすれば、相良氏相続については、何らかの理由がなければならない。
洞然居士状(相良家文書三一九)の三六一項に「・・・多良木村被ニ宛レ行、下着候後者、長頼二男頼氏御養子候、雖ニ眼前候、被レ憚ニ公儀候歟、一色之内別色被ニ用來候之通申傳候」とあり何らかの関わりあるか。後考に備える。

(註二)より
なお、長頼は、地方の土豪であったとも考えられるという説(杉本尚雄)や、長頼は人吉に下向したのでなく、代官をおいたとの説(松本寿三郎氏)の説がある。それぞれの理由が挙げられている。相良氏の系図は必ずしも一定せず(相良一族、日本家系協会)いろいろの疑問があるので、さらに多くの討論が必要であろう。
ただ、相良家の宗主権が、元来、上相良にあるとの意向が、上相良氏にあったとの考察は、前記のごとく、相良氏の成恒文書から考えられると思う。
すなわち相良家文書一〇には左記のごとく「・・・成恒名住人」は前記成恒文書と関わりがあると思われる。

一〇、鎌倉将軍家 藤原頼嗣下文   藤原頼嗣(花押)
下、豊前国上手郡内成恒名住人・・(住人に留意)
 補任地頭職事
  相良三郎(長頼) 法師法名
右人補任ニ被職畢、守先例、可レ致ニ沙汰之状如件
  寛治三年三月廿七日

右の成恒文書(後世の記録であるが)の長頼が、頼景の甥であると仮定すれば、長頼は外祖父に代わり鎌倉で戦功あり、人吉荘を与えられ、また所生地成恒庄の地頭職にも補任されたのであろう。

=============================================
と記述されています。
※伊佐成恒氏并相良氏等略系
行綱・・中略・・政綱・・頼泰・・伊佐源内・・永頼 伊佐三郎 母相良氏 法名蓮仏

上記の伊佐氏を調べました。
伊佐氏には※藤原北家山蔭流 ※桓武平氏繁盛流大掾氏族である多気氏の庶家 ※宇多源氏佐々木氏流で六角氏の分流とする一族 などがありました。
伊佐氏であり「行綱」「政綱」と言う名の方が見える一族とは・・
日本の苗字七千傑様のサイトで「伊佐氏」を検索して見つけました!!

《佐々木氏》姓氏類別大観 から進む「伊佐氏」です!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051a2.htm
《伊佐氏》姓氏類別大観 を拝見すると
確かに「行綱」「政綱」という名の方々が見えますね・・(p_-)

異説 相良長頼(蓮仏)
永頼 伊佐三郎 母相良氏 法名蓮仏

というお話を御紹介致しました。
では(..)
[7]白石さんからのコメント(2016年04月05日 15時43分45秒 ) パスワード

みやちゃんほ
こんにちわ
7000傑様お久しぶりです。

伊佐氏
なつかしい言葉!! 実は 過去に地域の子供たちにメールをしていたときに伊達氏が伊佐氏というらしい。とか 鹿児島に伊佐というところがあり 藤原頼通の荘園があるようだ とか 長崎にも あるようだとか書いたことがあります。


あの頃は本に頼るほかなく なかなかその先に進めませんでしたが ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鎌倉幕府は遠江に開かれましたが、頼朝は摂津のか多田の館で 義経は近江の多田の館で生まれているのですね。

摂津とはどのあたり?と思っていましたら 伊丹市あたりが中心部のようです
ーーーーーーーーーーーーーーーー
秀吉は母方つながりで福島正則 加藤清正などといとくmこやはとこの関係とか
うちの平川に加藤がいないなあと思っていました。ら 同級生がいつぞや熊本城の写真を送ってくれて 加藤清正公のお城と言っているのです。そういえば若い頃県人会で 熊本を意識するとき 加藤清正公を意識していたと思います。
ーーーーーーーーーーーーーー
7000傑様サイトの加藤氏
 藤原利仁流A伊丹氏から基清龍後藤氏のところに後藤又兵衛 ・・・象二郎がおります。


日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏長家流【1】

姓氏類別大観. 【藤原氏長家流】 道長の六男長家に始まるこの流は、御子左家とも呼ば れ藤原定家を代表とする代々歌道宗家として続いている。 堂上家としては、冷泉家(2家 )、藤谷家、入江家の4家がある。 加藤清正の出自は、権中納言忠家の子正家(加藤 ...

加藤清正の出自は、権中納言忠家の子正家(加藤武者)後裔と伝える。
 下野国那須荘を本拠とする★★那須氏★★と大名の★★山内氏★★は、長家の子通家の後裔と称する。
 また、★★財閥三井家★★は右馬助信世後裔二十代越後守高久が伊勢で越後屋を創業したことに始まる。

そして 「大江広元」もついてるんですね。
武藤・少弐氏も。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
山内容堂の系譜で検索
容堂の先祖の枝分かれの子孫に黒田長隷(右側豊)の次女が室。
黒田系図で検索
あの藤がぐるぐるついている紋がでました。

【世系】黒田氏は宇多天皇の後胤、源姓佐々木氏の支流なり。京極満信の二男、佐々木四郎左衛門尉宗満が近江國伊香郡黒田村に住して、黒田判官と称し、依りて遂に氏と為す。

黒田如水の女子は池田右近大夫室になっている。
島津からも 藤堂からも養子が入っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
話がぐんととびますが・・・無関係のところに
菊池から阿蘇へ抜けるあたりの大津市平川村に 平川淀姫神社があります。
私何かで この話をみたことがあると思うのですが ・・・
淀姫神社 玉かずらという大層な美人 襲ってくるしのび。
神に祈ったら武者たちが現れ姫は救われたという話。

祭神
淀姫神 竹内宿禰神 比・御子神

祠官宇野河内の記に「(前畧)佐々木氏合志郡主時分も神領寄附有之 候趣相見え申候。

 宮  司   宇野 正輝
   禰宜   宇野 勝彦



[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月06日 16時05分38秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

相良氏と佐々木氏(伊佐氏)。
行綱・・中略・・政綱・・頼泰・・伊佐源内・・永頼 伊佐三郎 母相良氏 法名蓮仏
時間軸では、相良長頼と「永頼 伊佐三郎 母相良氏 法名蓮仏」では合わないのでは?と。
気になる所ですが、しかし、「伊佐成恒氏并相良氏等略系」に記載の”事”は相良氏と佐々木氏との繋がりを示唆していると捉えるのが現段階では妥当なのか?と思っています。
佐々木氏については、かなり以前、コメントした事も含め書きたい事はあるのですが、又、あらたな別の事実を掴んだので「前に進む事」を優先して、佐々木氏関連のコメントは後日書かせて頂きます。(佐々木氏は大族なので、全てに繋げる訳にはいきませんから(..))

菊池郡大津町平川の平川淀姫神社。(^'^)私も以前コメントしました。
菊池郡大津町平川を発祥の地とする平川氏は合志氏の一族です。
※肥後国合志郡平川発祥の菊池氏流合志氏族の平川氏。
合志氏族・・合志氏と言えば平安時代末期以降私の住む旧岡原村の岡本と上村の永里の領主でした。
後世では合志氏の岡本河内守すなわち岡本頼氏(頼真)が領主であった事でも知られています。
岡本城跡は、家の二階の私の部屋の窓を開ければ目の前に見えます。800メートル程先で、周囲に高い建物など全く無い田園地帯ですので、オーイ(^O^)/と手を振れば振り返してもらえそうな感じです。(誰が振り返すの?との声が・・)井口川、私の家の前では対岸は20〜30メートルと近いです。対岸からが旧岡本村。700年以上前は、ここは合志一族の所領地だったんだな〜と(p_-)

平川淀姫神社の宮司様は宇野氏なのですね(p_-)
平川淀姫神社の公式サイトで実は非常に気になる事を見つけたのですが、こちらも、今日、見つけた”新たな事”を書く事を優先に、後日コメントさせて頂きます。

新たに見つけた”事”は次のコメントで(..)
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月06日 18時20分52秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^'^)

早速、あらたに見つけた事を書かせて頂きます。

題して
矢瀬主馬助の出自 人吉市史より
@矢瀬氏は八瀬氏?
A矢瀬主馬助を頼って球磨に来られた「菖蒲氏」の一族
B現代に残る「菖蒲氏一族」のみが崇敬する屋敷神「貴船神社」に残る「二つ引き両紋」「三つ引き両紋」「七つ引き両紋」

では、早速(..)
@矢瀬氏は八瀬氏?
人吉市史より
まず、矢瀬の地名を調べると、京都案内記に「山城国愛宕郡八瀬庄は、元鞍馬村古くは小野郷に属し、中世は八瀬庄、八瀬は矢背とも書き・・中略
次に八瀬姓については、姓氏家系大辞典には、「清和源氏、山城国八瀬より起こり、多田満仲の遠裔と伝ふ。播磨揖保郡中垣内の名族。中略・・
ここでは、八瀬庄より出た八瀬氏が、矢瀬主馬助と関係があると考えてよいと思う。
中略・・人吉市字水無部落には、正月に片松を立てて、矢瀬氏の冥福を祈ったという伝承行事がある。
これに似た矢瀬氏に関する伝承行事が、人吉市馬草野の小字菖蒲の菖蒲一族が祭祀する貴船神社にある事に注意せねばならぬ。
※相良長頼と平河義高が矢瀬主馬助を胸川に誘い出し、だまし討ちをした日は、大晦日で、矢瀬氏の家臣は主君の悲劇に驚いて、飾りの途中であった門松は片方のみが残ったままであった・・という伝承が残っています。

A矢瀬主馬助を頼って球磨に来られた「菖蒲氏」の一族 人吉市史より
菖蒲一族と貴船神社、小字菖蒲は馬草野(人吉市大字原田)の中心で、北辺の丘陵下の山水が湧く所で裏山の丘陵からはこの地帯が一望に収められる要害の地で・・中略・・若し他領より人吉に移住したとすれば、その最初に選ばれる良地と考えられる。
中略・・この菖蒲と名乗る一族始めは六軒であったと言う。現在六軒が主体で、前は共同の井戸を利用していた井戸跡も残っている。
菖蒲一族の伝承によれば、鎌倉時代頃にこの地に移住し、矢瀬氏に頼ったという。
菖蒲一族が此の地に移住した折にその崇敬する貴船神社(貴生弥と書した木幹があったという)を勧請した貴船神社がこの部落に近接して祀られている。中略・・神社の裏に宮田がある。この神社のある谷を菖蒲谷字小園と俗称している。
この神社は、元禄時代に青井氏が編纂した求麻郡神社記には記載されていないところを見ると、あるいは故意に省いたのか、恐らくは菖蒲一族のみの崇敬する屋敷神であったからと思われる。
貴船神社の本社は山城国愛宕郡鞍馬村で・・
八瀬庄は、元鞍馬村、貴船神社も鞍馬村が本所であり、矢瀬氏と貴船神社と関係が全く無関係とは考えられないし、また菖蒲氏は山城国八瀬郷に近い菖蒲からの移住者と称していることを考えれば、前記供養石の「貴」はこの貴船神社の「貴」を意味するのではないか、そう考える事はあながち不当とは断じられぬと思う。※矢瀬氏の供養石の上部に「貴」の文字があると記されていました。

B現代に残る「菖蒲氏一族」のみが崇敬する屋敷神「貴船神社」に残る「二つ引き両紋」「三つ引き両紋」「七つ引き両紋」
人吉市史より
菖蒲一族と貴船神社の神紋 貴船神社は前述の通り、菖蒲一族の祭祀神であるが、この神社の瓦には、この神社独特の神紋、すなわち「引両紋」が使用されている。
登龍を意味する次の三様である。両は龍で、玉と円は海龍の常食・オパール・真珠を表すという。
拝殿 二つ引き両  瓦 三つ引き両  本殿 七つ引き両
この神紋は、水神を祀る神社の本来の紋様伝えたもので、菖蒲一族が球磨郡人吉庄に移住した当時、この地に貴船神社を創建した当時からの紋様と思われる。

中略・・

以上のような諸資料によれば、矢瀬主馬助は、八瀬庄に起こった八瀬氏、即ち播磨国揖保村の八瀬氏の一族と考えられる。
播磨国は瀬戸内海に臨み、平氏の勢力圏であり、吾妻鑑によれば平頼盛の家領の内在田庄 這田庄 布施庄は共に播磨国にあり、矢瀬氏が平氏と関係がある豪族として頼盛の代官として人吉庄に派遣されたものであろう。

(p_-) 以上
矢瀬主馬助の出自 人吉市史より
@矢瀬氏は八瀬氏?
A矢瀬主馬助を頼って球磨に来られた「菖蒲氏」の一族
B現代に残る「菖蒲氏一族」のみが崇敬する屋敷神「貴船神社」に残る「二つ引き両紋」「三つ引き両紋」「七つ引き両紋」
でした。

検証は明日にでもコメントさせて頂きます(..)
では。
[10]白石さんからのコメント(2016年04月06日 19時45分00秒 ) パスワード

みやちゃん っこんばんわ
淀姫神社のこと 宮ちゃんのコメントだったのですね^^
どこかで 聞いたなあと・・・


松田聖子さんのご先祖様は神功皇后に仕えていたとその時おしゃべりして あちらは曹洞宗だと書いたのでした。

神功皇后は その母が葛城高額姫でつまり 先日の 高田から出る葛城直につながる人。
父は息長宿禰王。

さかのぼれば どんどん つながってくるようですね。
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[11]白石さんからのコメント(2016年04月06日 21時15分58秒 ) パスワード

宇野氏
★宇野氏は、村上源氏の後裔 と称し、山田入道頼範の子為助(将則という説もある)を祖とする。
戦国時代、播磨国西北に位置する宍粟郡長水山城に拠った宇野氏は、村上源氏の後裔 と称し、山田入道頼範の子為助(将則という説もある)を祖とする。

赤松氏
称・村上源氏
つまり 宇野氏と赤松氏は同族
有馬氏も赤松同族といい 四浦にも有馬家があった
ところで
南朝の重鎮・北畠親房
この人のところは 村上源氏で中院家などある。
一時 とぎれかけるのか 後に 久我家がついでいる。北畠はほろんだのではなく ほそぼそつながったのか?
前に 久我侯爵家に伝わる広大な池の大納言家領というのはこの家に伝わっているのでしょうか?
久我氏は村上源氏嫡流です。
[12]白石さんからのコメント(2016年04月06日 21時30分25秒 ) パスワード

先日書いていた 大樹氏は やはり足利尊氏で
大樹寺は徳川家の菩提寺でした。
ウィキより
大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)は、愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗の寺院。山号は成道山。正式には成道山松安院大樹寺(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)と称する。

徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。大樹寺から岡崎城が眺望でき、直線上にマンション等の高層建築物を建てることはできない。
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四浦には柳原家などもあったと過去に書きました。
井上先生などもおられました。
井上浜松系図などがこうかいされていて
下へスクロールすると高岡のことばがあるなあ と 思います。
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井上家 – nifty
前に他のスレッドでおしゃべりした時に見たのですが
浜松 など 先日から話題になっていましたね。
児島高徳や脇屋儀助や 家康に関わるひとのことは書きましたかしら?
脇屋儀助は佐田ですね。
うちの場合 佐田が山口県にあるので四浦の高岡とは関係ないように思えますが
山口の富田の地に父は戦時中一時期家をかりていたことがあるのです。。

[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月07日 10時56分23秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございました。

先日より白石様の御教示に登場する「柳原氏」。
調べてみたのですが
熊本県内に柳原氏は48軒。
球磨・人吉地区では12軒 内訳は
人吉2軒 錦町3軒 あさぎり町1軒 多良木町6軒 他郡内町村0軒
球磨・人吉圏内では多良木町が多いようです。内3軒は黒肥地地区でした。
ちなみに、コメントしていませんでしたが私の同級生にも柳原さんがいました。

井上氏も調べたのですが
熊本県内に井上氏は1893軒
球磨・人吉地区では112軒 内訳は
人吉37軒 錦町10軒 相良村2軒 山江村0軒 あさぎり町32軒 多良木町18軒 湯前町8軒 水上村3軒 五木村0軒 球磨村2軒
球磨郡内で井上氏は軒数の多い順に あさぎり町・多良木町・錦町・湯前町となるようです。
参考までに調べてみました(^'^)

次のコメントではコメント9の検証を書かせて頂きます。
では(..)
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月07日 15時36分09秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)マタマタの登場です。

先程のコメントで書きましたように、今回はコメント9の検証をさせて頂きます。

題して
@菖蒲氏の故郷「山城国八瀬郷に近い菖蒲」とは?
A八瀬氏について
B菖蒲氏について
です。

@菖蒲氏の故郷「山城国八瀬郷に近い菖蒲」とは?
コメント9で書いたように
〉菖蒲氏は山城国八瀬郷に近い菖蒲からの移住者と称している
上記から山城国愛宕郡八瀬庄に近い「菖蒲」という地域、さらに一族の方が「神社のある谷を菖蒲谷字小園と俗称している。」というキーワードをもとに山城国愛宕郡の「菖蒲」という地名を探しました。

京都市左京区の町名 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%B7%A6%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E3%81%AE%E7%94%BA%E5%90%8D
京都市街地の東北方、鴨川(賀茂川)の東岸に位置し、北方の大原、鞍馬などの山間部を含んだ広大な面積を有する。区域は南北に長く、最北端は標高959メートルの三国岳山頂である。区の東は京都府と滋賀県の府県境をなし、滋賀県大津市及び高島市に接する。府県境に位置する比叡山の西側は当区に属する。区の南は東山区及び山科区、北は京都府南丹市(美山地区)、西は右京区(京北地区)及び北区に接し、南端近くの一部が上京区及び中京区に接する。
中略・・
区の中部から北部は人口密度の低い山間部である。東には国道367号(鯖街道、若狭街道)が通り、比叡山の西の登り口である八瀬地区、三千院や寂光院のある大原地区を通って若狭方面へ通じている。西には京都府道38号京都広河原美山線(鞍馬街道)が通り、鞍馬寺のある鞍馬地区、花脊、広河原を通って南丹市方面へ通じている。区の最北端の久多地区はかつて京都府愛宕郡(おたぎぐん)に属したが、地理的には東の滋賀県方面とのつながりが強い。
中略・・
明治21年(1888年)編入地区の町名 より
鹿ケ谷菖蒲谷町
町名に「鹿ケ谷」(ししがたに)を冠称する地区は、もとの愛宕郡鹿谷村である。鹿谷村は、市制町村制施行以前の明治21年(1888年)、当時の上京区に編入され、上京区鹿ケ谷町となった。明治22年には京都市制に伴い、京都市上京区鹿ケ谷町となった。大正7年(1918年)には鹿ケ谷町を廃し、「鹿ケ谷」を冠称する6町、若王子町(冠称なし)が成立。残余は「町」字を付さない「鹿ケ谷」となる。これら8町は、昭和4年の左京区成立後は、同区の町となった。その後、昭和4年に法然寺西町、昭和33年に西寺ノ前町、上・下宮ノ前町が成立した。
昭和40年(1965年)、当時の京都市内各所に残存していた「字XX」の区域はすべて「XX町」と改称された。この際、「左京区鹿ケ谷」として存続していた区域は「鹿ケ谷」を冠称する8町(大黒谷町、菖蒲谷町、栗木谷町、不動山町、若王子山町、善気山町、徳善谷町、多頂山町)となった。以上により、現在は「鹿ケ谷」を冠称する町名は18となっている。
===========================================
見つけました!
山城国愛宕郡八瀬庄に近い「菖蒲」という地域は「明治21年(1888年)編入地区の町名」に残る鹿ケ谷菖蒲谷町。
※町名に「鹿ケ谷」(ししがたに)を冠称する地区は、もとの愛宕郡鹿谷村である。
(゜-゜)・・・
このような形で「鹿ケ谷」に繋がるなんて・・・・
あらためて「鹿ケ谷事件」について ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%82%B1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80
鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われたとされ、このように呼ばれる。近年では、この陰謀が平清盛によってでっち上げられたものだとする説など解釈に諸説あり、「鹿ヶ谷事件」と著す学者もいる。
中略
陰謀発覚[編集]
出撃直前の6月1日、清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告した(『平家物語』、ただし『愚管抄』は清盛が福原を立つ前に行綱と会見していたという)。『愚管抄』によれば、後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布30反が与えられたという(ただし、慈円はこの事件に関する記述については「一定の説は知らねども」と真相を確認した訳ではないとも記している)。また『平家物語』によれば、成親が立ち上がって瓶子(へいじ)が倒れ、後白河が「あれはいかに」と問うと成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。なお、この会合を比叡山攻撃の方針を確認した会合に過ぎなかったとする見解もある。多田行綱は明雲捕縛に失敗したという行きがかりがあり、会合の目的が延暦寺攻撃・平氏打倒のいずれにしても何らかの軍事行動に加わる立場にあったと推定される。
清盛は直ちに西光を呼び出して拷問にかけ、全てを自供させると首を刎ねた。同じく呼び出された成親も拘束された。成親の妹を妻にしていた重盛は、命だけは助かるようにすると成親を励ましたという(『愚管抄』)。西坂本まで下っていた山門の大衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送り敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。4日、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。9日、尾張に流されていた師高が、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺、成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず殺害された。
謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側(清盛)が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。後白河は「こはされば何事ぞや、御とかあるべしとも思し召さず」と白を切ったという。また、清盛も後難を恐れて院御所への出仕を拒む諸臣に出仕を命じている(『玉葉』6月3日条)ことから、この時点で後白河への処分を見送ったと考えられている。
※清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告
※捕えられた方々
 藤原成親(妹は平重盛の妻)・西光(藤原家成の養子)・俊寛(姉妹は平頼盛の妻)基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など
※尾張に流されていた西光の子「藤原師高」が、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺された・・

山城国愛宕郡八瀬庄に近い「菖蒲」という地域は・・旧愛宕郡鹿谷村の菖蒲谷だった・・・・・・・
偶然か・・奇縁か・・震えがきています。

A八瀬氏について
矢瀬氏は八瀬氏か?と言う事で・・
日本の苗字七千傑様のサイトで「八瀬氏」を検索して見つけました!!
【清和源氏頼光流】《多田氏》 姓氏類別大観の「掲載姓氏」に※属流は不明だがとあり中に「八瀬氏」・・は多田氏族を称する。 とあります!
偶然か・・奇縁か・・震えがひどくなりました。
※清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告・・多田行綱。この方の名が”しっかりと”八瀬氏の名が書かれている日本の苗字七千傑様の【清和源氏頼光流】《多田氏》 姓氏類別大観に見えます!!

※義理の兄弟を鹿ケ谷事件で亡くした「平頼盛」。
※人吉城では平頼盛の代官「矢瀬主馬助」が城の明け渡しを拒んでいた。
※矢瀬氏は八瀬氏につながるのか?八瀬氏は多田氏族を称する。
※清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議「鹿ヶ谷の謀議」を密告。
※矢瀬主馬助を討ったのは「平河師高」に繋がる「平河義高」と「相良長頼」。
※矢瀬主馬助を頼って人吉に来られた菖蒲氏の故郷か?・・愛宕郡鹿谷村菖蒲谷。
しかし・・多田 行綱についてウィキでは
※この密告の史実については疑わしいとする見方もある。・・とも記されています。
さらに「鹿ヶ谷の謀議」についてもウィキでは
※謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側(清盛)が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。

頭が混乱しそうですが・・調べた事は偶然とはいえないのでは・・

B菖蒲氏について
日本の苗字七千傑様のサイトで「菖蒲氏」を検索して見つけました!!
【藤原氏秀郷流】《佐藤氏》⇒ 《波多野氏》姓氏類別大観に「菖蒲氏」が見えます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b1.htm#004
さらに《菖蒲氏/沼田氏》姓氏類別大観を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b2.htm#003
沼田氏も同族なのですね。
しかし・・【藤原氏秀郷流】《佐藤氏》⇒ 《波多野氏》
こちらに繋がる様々な系の姓氏類別大観を私は今まで何度も拝見してきた記憶があります・・
さらに・・《佐藤氏》姓氏類別大観に秋元氏が見えますが・・
今朝、「矢瀬主馬助」この方の故郷と言われる「山城国愛宕郡八瀬郷」を調べていて「秋元氏」の名が登場してきました。
秋元神社 サイト
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000001
秋元神社
内容概要
八瀬天満宮の境内にある神社。元禄年間(1688-1704)幕府の老中であった秋元但馬守喬知を祭る。喬知は当時比叡山と八瀬との境界争いを村民側に立って解決。この報恩のため没後村民が喬知の霊を祭ったのが起こり。
正式名称
秋元神社(あきもとじんじゃ)
【住所】左京区八瀬秋元町639八瀬天満宮社内

秋元但馬守喬知という方は《佐藤氏》姓氏類別大観から進む「秋元氏」の姓氏類別大観の中に名前がありました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b5.htm

真実の一片が見えてきたようです。
では(..)
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月07日 17時35分32秒 ) パスワード

追記
八瀬氏の名が見える日本の苗字七千傑様の【清和源氏頼光流】《多田氏》 姓氏類別大観はこちらです。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004a1.htm
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月08日 14時24分59秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

コメント14・15では矢瀬主馬助という方と菖蒲氏について検証しました(..)
矢瀬主馬助と言う方については「平川の血」を受け継ぐ人々にとっては、名前を聞くだけで神妙な気持ちになる方だと思います・・
私も、出来るだけ何故か触れないようにしていました。
実は今年の正月と数日前に続けて父の弟、すなわち伊藤(秋岡)の叔父から
「所で・・矢瀬主馬助という方は本当は誰なのか?解ったか?」と聞かれて、調べてみようと思ったのがきっかけです。
昨日のコメントで、「頭が混乱する」と書きましたが、多田行綱という方は、結局、肥後天草まで逃げて来られて墓所は熊本県天草市御所浦島にあります。
密告の件も実際の所は解りません。
平河義高が矢瀬主馬助を討ったという話も実際の所は解りません。
時代の大きな流れに皆翻弄されたと言う事でしょうか・・
しかし、その時代の中心域に”皆”いらっしゃった・・と言う事なのだと推測しています。
今後の調査の中で昨日調べた事がきっと色々繋がってくるのだと・・

私は今、他にも沢山気が付いた事がありますので、ドンドン前に進んで行こうと思っています。

また、あらたに気が付いた事がありますので、次のコメントで御紹介させて頂きます。
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月08日 16時11分06秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^'^)

今回のコメントのテーマは「名前」です。
@南北朝時代からの絆?(鎌倉時代からは下りますが、たまには(..))
A「連」の文字と「重」の文字が見える相良氏族の3家。

まずは・・
@南北朝時代からの絆? から (..)
以前、宮原村の宮原与四右衛門は私の高祖父の「蔵吉」かな?と書いたのですが違いました(ー_ー)!!
人吉市史に書かれていました(..)(しかし、新堀の高祖父の話といい・・私が知りたい事は人吉市史にかなり書かれていて本当にありがたいです)
父宮原与四右衛門跡相続 宮原芳治 と明治7年の資料に書かれていました。
蔵吉じいちゃんではありませんでした(ー_ー)!!
ちなみに・・高祖父蔵吉の妻の父の名前が大夫解ってきました。(役場のパソコンに保存の当時の筆書きの戸籍を、拡大して見て頂きました(^O^)/)
宮原蔵吉の妻の父の名前は
久保大津太衛門もしくは久保大津左衛門のようです。しかし・・どちらにしてもなが〜い名前です(p_-)
久保田家から宮原家に養子に入った曾祖父を主戸籍とした場合、曾祖父の「養祖母」は「蓑毛家の娘」でした。
蓑毛家とは、他にも二重に姻戚関係があります。
と言う事は・・・うん(?_?)・・・(p_-)
私の・・平川の曾祖母は深水家の娘で・・宮原の高祖父の母?は蓑毛家の娘・・
あんれっ?(?_?)・・深水家も蓑毛家も同族で祖は相良氏の第4代当主「相良長氏」の子「相良祐長(蓑毛祐長)」
南北朝時代からの繋がりかな???・・すごい古い繋がりですが・・
相良長氏〜相良定頼の時代ですね・・
※多良木経頼(相良頼氏の孫)が南朝側について蜂起し、相良長氏の息子の相良祐長がこれに同心して長く戦乱となる・・
※正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏に追われた長門探題足利直冬が側近河尻幸俊の助けで肥後に入った。所謂、観応の擾乱であるが、直冬は南朝勢と通じつつ、大宰府を目指して北上し、少弐頼尚と連合して、一色範氏と争うという、複雑な対立構造となった。同じ頃、球磨郡では、多良木経頼が再び挙兵して、久米[10]の領主橘道公(橘遠江入道道公)も同調し、河尻幸俊を通じて直冬とも組した。定頼はすぐに攻撃したが、またもや鎮定することができなかった。頼みの少弐頼尚は中立となって助力はしてくれず、一方で一色範氏は相良側に恩賞を与えて都督していたが、結局は範氏は直冬に博多を追われた。

(p_-)球磨郡が南朝方と北朝方に別れて激しく戦っている時ですね・・
この時、橘遠江道公と三池氏(三池兵庫助)は同調しています。
しかし・・南朝方についた「橘遠江道公」「三池兵庫助」は結果敗戦となって相良定頼より一族の所領注文には
東方橘遠江入道跡 田地七五町 相良式部丞 他三名分
西方三池兵庫助跡 田地七〇町 相良遠江守 他四名文
とこのように要求された・・
(p_-)この時に、相良定頼は一族として平河氏に所領を与えていたのでした。
何だか平河氏はいいなぁ〜(-.-)
しかし(ー_ー)!!橘氏は
※一三六六年に橘薩摩公多が、久米郷東方下分宮原を左衛門に所領を譲っています。久米郷の橘薩摩氏 佐藤光昭氏著では
「観応争乱で失った所領を回復したか、又残っていた分であるか?」と書かれています。
しかし(ー_ー)!!平河氏は相良定頼より一族として所領を与えられただけではありません(ー_ー)!!
文安五年(一四四八年)相良長続によって球磨は統一領知され、相良長続は文明年間に多良木・奥野・西方等の田地を給地として一族や平河氏に与えている。久米郷の橘薩摩氏 佐藤光昭氏著より。
滅ぼされた上相良氏の領地ですね。
何だか平河氏はいいなぁ〜(-.-)橘遠江入道道公の土地や上相良氏の土地を相良定頼や相良長続に与えられて〜(-.-)
多良木とか奥野とか・・うん(?_?)・・旧宮原村・多良木・奥野・久米・湯前・・あんれっ??(;一_一)
私の平川の曾じいちゃん(曾祖父)の弟達が継いだ其々の平川家は・・おんやっ(p_-)
(;一_一)・・・(p_-)

南北朝時代に遡ると、家の強い絆の一族の「宮原家」「平川家」「深水家」そして「蓑毛家」が見えて来るのでありました(p_-)
というお話でした。

A「連」の文字と「重」の文字が見える相良氏族の3家。
こちらは明日にでもコメントさせて頂きます(..)
では(^'^)
[18]白石さんからのコメント(2016年04月08日 20時08分28秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
菖蒲氏
私の方の 平川の親戚は後藤という言葉からは
 利仁流ー長良流ー後藤氏へ戻る ー《基清流後藤氏》ー基重ー播磨後藤ー後藤又兵衛…後藤象二郎とつながっていますとp


初めの頃は 佐藤氏 その前は秀郷流トップです。

トップを見ると坂上と秀郷がかさなるようになっていて
秀郷の方から 成重以降は、桓武平氏貞季流関氏(後裔は新見関家)の系と同じ。
とあって 
新見藩 - Wikipedia


父母
父:森長継、母:湯浅氏
養父:関長政

兄弟
森忠継、森長武、森長俊、長治、森長基、
森長直、森衆利、万(松平吉品正室)、
鳥居忠則正室、一条冬経室、
兼(森三隆室)、毛利元次正室、
瑞光院(保科正賢継室)、
大(松平信政正室)、松平康雄正室


正室:成瀬正親の娘


養子:長広

関家は、のち子爵となり華族に列した。

秋元氏はウィキでは 宇都宮族ですね。


[19]白石さんからのコメント(2016年04月08日 21時57分36秒 ) パスワード

多田という言葉は何だろうと思っていましたが
多田満仲という人の多田院が 兵庫県にあったのですね。

こっちなら京都に近いなあと 思います。

京都貴船神社
貴船には夏川床料理によく行っていました。体調が悪くなってからは行っていませんが・・・行くとすがすがしく気分が洗われるようです。

この神は 伊弉諾が火の神・かぐつちを切った時生まれた 神様で貝塚の方では事代主と共に航海神としてまつられる。

おかみ神

淤加美神、または、龗神(おかみのかみ、Okami 10.5pt.png神)は、日本神話に登場する神である。

罔象女神(みつはのめのかみ)とともに、日本における代表的な水の神である。

加美神、または、龗神(おかみのかみ、Okami 10.5pt.png神)は、日本神話に登場する神である。

罔象女神(みつはのめのかみ)とともに、日本における代表的な水の神である。

『古事記』においては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、スサノオの孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の孫が大国主神であるとしている。
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結社(ゆいのやしろ
大山祇神の娘で木花乃咲夜姫の姉・磐長姫命を祭神
※この神は北嶽神社の祭神ですね。
※雨宮神社は京都貴船神社と同体と伝える。





[20]白石さんからのコメント(2016年04月08日 22時24分16秒 ) パスワード

鹿ヶ谷の謀議でとらえられた人の中で

藤原成親は西光の義兄(西光は成親の父である藤原家成の猶子)であった。

伊達氏同族つまり大友氏同族・魚名流―善勝寺流初代・藤原顕季―藤原家成―藤原成親
   家成の融子・西光(藤原師光)―子・師高
   師光は阿波国の豪族・麻植為光の子

平 康頼は(信濃権守・中原頼季の子
上にある藤原藤原顕季か?
明法道(法律)の家柄である中原氏に生まれる。十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となる。そして平姓を賜姓されたか。

平 康頼のウィキの説明では康頼の嫡男・平清基(二代目清基)と承久の乱のところで
麻植保 佐々木氏 小笠原氏 などの言葉が出る。

[21]白石さんからのコメント(2016年04月08日 23時13分47秒 ) パスワード

大樹氏は足利・・・徳川
大樹と字が違うが 大喜氏が熱田神宮におり、
過去に 大喜氏 守部氏はなにかのことでしらべたことがあり、
大喜氏は
姓氏類別大観 【尾張氏】
 天火明命の後裔で、崇神朝頃までは大和国葛城郡高尾張邑を本拠とする。
 以後は美濃、飛騨などに移居するが、14世孫乎止与命が尾張国造となる。
 尾張の地名は、尾張氏の移住により生じたものと思われる。
 尾張国造の末裔は熱田大宮司となるが、後に藤原南家巨勢麿後胤の季兼が系嗣する。  

※大宮司職を藤原氏にゆずった武内氏は「八剣神社」を創建する。
※異説として 海神の子ども・振魂命を遠祖とするが 神宮では 二〜三十年前に振魂神に変えられた。
尚 熱田氏の本姓は 安曇氏である。

※守部氏がついているが 振魂命の後裔。


姓氏類別大観


【守部氏】
 振魂命の後裔にして、神亀4年(727)鍛冶造大隅は守部連を賜姓され、大宝律令撰定に功ありて、後に大学博士たり。 長保2年(1000)に守部以済は宿禰姓を賜る。
 後裔の資信に藤原資清を養子に迎え、守部氏は那須、須藤の2家に分立、更に山内、鎌田、蓑和、小野寺などの諸家が派生する。

※藤原資清
7000傑様サイトでは
秀郷流の公光―通家―資清で
もうひとつは長家流通家―資清で
那須国造・那須s貞信の女子と結婚

同じ流れに 首藤氏 山内氏 鎌田氏があります。
少し雑談ですが
奥州後三年記 – Wikipediaより
静賢法印は平治の乱で源義朝に殺害された信西(藤原通憲)の子で、後白河院の信任を得て蓮華王院(三十三間堂)執行(寺院総括者・上座)を任じられ、『後三年絵』を始めとした絵巻に関与した。以下これを現存貞和本『後三年合戦絵詞』と区別するため、以降承安本『後三年絵』と記す。


この蓮華王院の承安本『後三年絵』の存在は思わぬところにもうひとつの傍証があった。武蔵国の秩父、阿久原牧を管理していた有道一族が、武蔵七党のひとつ、児玉党の長となるが、その庶流に、源頼朝の御家人となった小代氏がいる。鎌倉時代後半に、その小代伊重が残した子孫への置き文が伝わっており、その中に、鎌倉時代の初めの頃、当時京都守護であった平賀朝雅とその一行が、蓮華王院の宝蔵に秘蔵されていた絵巻を見せてもらったとある(後述)。
[22]白石さんからのコメント(2016年04月09日 06時33分18秒 ) パスワード

iおはようございます。
山内系図で検索
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【山内氏系図】

【始祖】山内俊通  【本貫】相模國鎌倉郡山内庄

【世系】山内氏は、大職冠藤原鎌足公の7世孫藤原秀郷に出づ。 秀郷の9世孫首藤刑部丞義通の嫡男俊通が相模國鎌倉郡山内庄を領し山内を称す。

【家紋】白黒一文字、土佐柏
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左上ぽっちりをクリック
藤原系図が出る。

その前に 首藤資清ー資通と見えています。
21の
 後裔の資信に藤原資清を養子に迎え、守部氏は那須、須藤の2家に分立、更に山内、鎌田、蓑和、小野寺などの諸家が派生する。
このことでしょうか?

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藤原系図を見ると
乙麿の子孫に工藤為憲がおり その子・「理文」が 相良氏祖であると。

山内君は同級生にいました。

[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月09日 11時11分42秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

コメント18の御教示「新見藩」についてを頂きましたが
父「森長継」・・森氏そして関氏 宮原の一族の祖である橘薩摩の系に繋がっています。
宮原の一族の先祖となる橘公綱は平頼綱と「同母である異父兄弟」。
平頼綱 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%B6%B1
頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は平姓関氏の流れとする。伊豆国出身で古くからの北条家家臣の一族と見られる。頼綱は代々北条氏嫡流の得宗家に仕える御内人として時宗に仕え、時宗の命を実行に移す役割を担っていた。弘長元年(1261年)の頃に父盛時から侍所所司を継承し、文永9年(1272年)以前には得宗家の執事となっている。
※実際は平姓関氏の流れとする。

続けて、白石様の御教示にあった「森長継」
森長継 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E7%B6%99
森 長継(もり ながつぐ)は、美作津山藩の第2代藩主。後に備中西江原藩の初代藩主となる。
慶長15年(1610年)、森忠政の重臣・関成次の長男として生まれる。忠政の実子は全て早世したため、忠政の外孫に当たる長継が忠政の養子に選ばれた。寛永11年(1634年)、養父の死により家督を継いだ。
父母 父:関成次
母:於郷(渓花院、森忠政の三女)
養父:森忠政

※母:於郷(渓花院、森忠政の三女)
森忠政 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%BF%A0%E6%94%BF
森 忠政(もり ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃川中島藩主、後に美作津山藩の初代藩主。
本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れ。八幡太郎義家の四世孫・森伊豆守頼定を祖とする。
補足※森伊豆守頼定の妻は、宮原の一族の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」。

元亀元年(1570年)、美濃金山城で織田信長の家臣、森可成の六男として生まれる。母は美濃の豪族林通安の娘えい(後の妙向禅尼)。
兄弟 可隆、長可、成利(蘭丸)
長隆、長氏、忠政
うめ(木下勝俊正室)、 碧松院(関成政正室)
妻 正室:チボ(中川清秀の娘)[1]
継室:岩(名古屋山三郎妹・豊臣秀長養女)
側室:お竹(山内之豊の娘)

あっ\(◎o◎)/!今気が付きました\(◎o◎)/!
森忠政の妻は!!正室:チボ(中川清秀の娘)!!

中川清秀・・・えええええっ!!\(◎o◎)/!

中川清秀 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B8%85%E7%A7%80
中川 清秀(なかがわ きよひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
幼名は虎之助。通称は瀬兵衛(せびょうえ)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田源氏(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と称した。父は中川重清(しげきよ)、母は中川清村(きよむら)の娘[1]。子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫。妹は古田重然(織部)室。キリシタン大名である高山右近は従兄弟にあたる[1][2]。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死した後は右近と行動を共にして羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。翌天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、大岩山砦を右近、三好秀次らと守っている時、柴田勝家軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したものの戦死した。享年42。墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。
家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した。

\(◎o◎)/!次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり!!
中川久盛は中川秀成の長男!
※久保田氏十五代 九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正(中川久盛)に仕え五百石を賜う。
\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!
繋がりました!!!!!!

ありがとうございます!!!白石様!!!!!!
白石様の「関氏」に関するご教示から、ナント、「久保田氏」の謎に繋がりました!!!

あと・・もう一つあるのです!関連あるか?(..)

大阪・・相良藩大阪御蔵屋鋪の役人であった「久保田氏」はどうも私に直接繋がってくるのでは?と・・(父も知っているのですが、「祖母の話と一致する」、ある事件に関連していまして・・この事は後日、意を決してしっかりとコメントします)
こちらの久保田氏の子に関連する二人の名前に「可」の文字が付くのですよね・・??(..)

白石様、久保田氏と中川氏の繋がりが「何か」見えてきました。
ありがとうございました。
[24]白石さんからのコメント(2016年04月10日 12時39分34秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
久保田氏から中川氏のこと うちには久保田家との姻戚関係はないので山内からみたことを書きます。
はあるか遠くの話ですが

幕末ごろ土佐に山内容堂というひとがいてそこの姻戚や父母ですが ウィキより
氏族 土佐山内氏

父母 父:山内豊著 母:瀬代(平石氏)
  養父:山内豊惇

兄弟
山内豊盈

妻 三条正子(烏丸光政女、三条実万養女)
※三条は三条西にも通じますよね。
※柳原家と烏丸家は尾内藤原北家真夏流。

子 山内豊範、豊尹、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)
※ 北白川家が 陳子というひとがいて 平頼盛からのつづきでしょう?
※ 小松宮彰仁親王 (伏見宮邦家親王の第 8王子)...久邇宮朝彦親王は兄、北 白川宮能久親王は弟にあたる。
 声久邇宮家は島津っだととあるブログで過去に見ました

※ 秋元興朝という人は
戸田忠至(宇都宮 藩家老で、間瀬和三郎と称する)の次男。
※ 戸田家は三正規町三条庶流。ただ 本で見たときは松本藩士戸田家は近衛流  とあったんですよね。
※系の途中で貞長という人が中川に改めあとで 堤に改めるとありました。
※ 女子(綱子〔明治天皇御降誕と大阪〕、中山忠頼室。忠能母) なんぞもありました。
※一族の中にはこのような人もいて 戸田家は ー実興 ━ 実光〔戸田〕とあります。

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山内豊著
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父・山内豊策
豊策の正室:融相院 順姫(父:伊勢津藩九代藩主 藤堂高嶷)
※藤堂は前に 平川の方で出ましたよね。

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豊策父・山内豊雍
うえ〜の人たちは あっちやこっちや 遠くに姻戚をもっておられるが
みやちゃん 
我々球磨の家の名で考えると 近くに感じますね。

[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月10日 15時15分49秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。
白石様の同級生の「山内」様と白石様は親戚関係になられるのですか?
私の親戚関係には「山北家」は親戚ですが「山内家」は知っているだけですが親戚関係には無いと思います。(詳しくは調べていませんが・・)

久保田家から、宮原家に養子に入った曾祖父ですが、曾祖父の兄弟姉妹の子の嫁ぎ先は今の所解っているのは
「宮原家3軒(旧宮原村熊野・多良木・旧久米村)」「平川家」「桑原家」「畠山家」「千葉家」「福永家」等です。
曾祖父の生家がある古多良木地区には久保田家の他、中神家、尾方家などがあり、こちらの尾方家からは、新堀家から嫁いできた宮原の高祖母の弟が継いだ「久保大津太衛門もしくは久保大津左衛門」家に嫁いでこられています。

古多良木はウィキの相良長綱の記述にもあるように
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E7%B6%9A
8月、再び兵乱があり、多良木頼観が鍋城、多良木頼仙が古多良木(ふるたらぎ)で挙兵し、久米の砦でもその家臣源島某が兵を挙げた。4日、長続は出陣すると、兵を三つに分けて久米雀ヶ森の堀川[2]に伏兵を置き、まず久米の砦を襲って源島を斬り、煙を見て救援に駆けつけた頼観・頼仙兄弟と手勢を伏兵で破って、両将の首を取った。(雀ヶ森合戦 / 久米雀ケ森の合戦)

多良木頼仙の本拠地であったようです。
求麻外史には「相良長続」の項に
井口・窪田・岩崎・新堀・黒肥地・乙益の六氏、嘗て頼観(多良木頼観)を諌むるも聴かず、去つて須恵村に移り、遂に難を免ると云ふ。
と書かれています。
上記の「窪田(久保田)」「新堀」「黒肥地」は家の親戚ですから、家は「上相良色」が濃いな〜と痛感します。

しかし、白石様の同じ「姓」から調べる発想力はすごいな〜と思います。
お陰で、久保田氏が何故中川氏に仕える事となったのか?謎を解く鍵が見えてきました。ありがとうございます。

所で久保田大蔵の最期の記述が詳しく書かれた「南藤蔓綿録」(日朝関連記事)の現代語訳がネットに公開されていました。
後ほどコメントさせて頂きます。
その記述を皆様に読んで頂いた上で、コメント17で書いたA「連」の文字と「重」の文字が見える相良氏族の3家。を書かせて頂きます。
(私はこの流れで調査した事によって色々見えてきましたので(..))
では(..)
[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月10日 19時09分56秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^'^)

早速、「南藤蔓綿録」(日朝関係記事)の現代日本語訳 についてご紹介させて頂きます。
ネットでは、PDFでダウンロードする形式ですので、リンクするアドレスが御紹介出来ませんが、ブラウザ(google等)の検索ワードに
「久保田大蔵 相良」と入力するとピックアップされるサイトの中に
[PDF]南藤蔓綿録  と出ますので、クリックすると画面左下にダウンロードされたnantou()PDFというファイルが出ますので、そちらをクリックすると読めます。

「南藤蔓綿録」(日朝関係記事)の現代日本語訳には、久保田大蔵の最期の記述他、非常に気になる記述も多く記載されています。
今回は、私が気になる記述のみピックアップさせて頂いて転記させて頂きます。

文禄元壬辰年(一五九二)二月一日癸卯、 〔相良頼房公は、朝鮮国出陣の〕首途として青井宮へ参詣された。 この日、 〔青井阿蘇神社の〕神前において奉行の深水新五郎頼蔵〔の名乗り〕を相良左馬介とお改めになり、犬童軍七頼兄〔の名乗り〕を相良兵部とお改めになられた。また、青井〔阿蘇神社の〕大宮司権左衛門尉惟延〔の苗字〕を犬童、矢黒若狭介を深水の苗字に改められた。
同十五日、 〔相良頼房公は〕井口八幡宮にお参りされ、弓・箙(矢を入れて携帯する容器)をご奉納になり、ならびに〔奉納〕連歌の興行があった。同二十四日、 〔相良頼房公は〕愛宕山に参詣され、直に別当延命院にお入りになって、 〔朝鮮国出陣の〕御供の惣人数(軍勢)は神水(神に供えた水を飲んで誓約すること)をした。それより御諚目(主君の命令)の誓紙の裏に血判(血で署名すること)をした。同二十五日、 〔相良頼房公は〕十嶋山天神御参詣になり、三百韻連歌の奉納興行があった。 惣て 〔相良〕 左馬介、 〔相良〕 兵部と誓紙をとりかわし、神水を仰せつけられた。もっとも本書〔の内容〕は委しくは違っていないので、故にこれを記す。

※青井〔阿蘇神社の〕大宮司権左衛門尉惟延〔の苗字〕を犬童、矢黒若狭介を深水の苗字に改められた。

中略・・
御陣立ての次第は、御兜は橋口、御具足(鎧)は四郎丸、山口。御弓、長柄(槍) 、鉄炮いずれも御譜代(代々家臣の家柄の者)から段々に順番があった。御中間頭は金田、赤川一党、人足は合戦峰、蓑野下、七地、原田、大柿〔の者ども〕であった。全員で御供の軍勢は七百六十余人であった。
中略・・
朝鮮国へお発ち前に犬童休矣(頼安) 、子息兵部へ教訓の事、ならびに弓箭批判の物語。
この度朝鮮国に出立について、かどでに大体のことを語り聞かせよう。よく聞きなさい。先年宮内大輔〔相良〕義滋公御在世の御時、宇土(名和氏)と度々戦い、二度まで当家(相良家)が破れた。その節〔相良〕義滋公が仰せ出されたのは、球磨・八代・芦北三郡の諸侍のうちに鑓柱(槍働きに秀でた人物)と思われる者を吟味いたし、一人ずつ三郡にて三人選出し、 八代へ遣わすようにと仰せられた。 よって三郡の諸侍で吟味して、球磨より岩崎藤左衛門、八代からは蓑田三浦介、芦北からは竹下播磨の以上三人を撰出申し上げたところ、まず蓑田三浦介を御前に召し出されて仰せられたことは、八代には鑓数は全部で何本あるかとお尋ねなされたので、十二本ある旨を申し上げた。八代一郡数百人の侍中に十二本は劣の事少ないと、ご機嫌以ての外であった(悪かった)以下略・・
※八代からは蓑田三浦介 蓑田氏・・三浦介

或る書に、文禄元年(一五九二)三月朔日、 〔相良頼房公〕御当地(人吉)を出発、同八日名古屋(名護屋)御着、同十二日ご出船とある。
頼房公朝鮮御渡海御供の人数 
相良左馬介 相良兵部 深水帯刀 同図書 菱刈次郎右衛門 久保大炊介 
稲富雅楽 同筑後 久保田大蔵

その外 内田 高橋 山井 山北 西 東 犬童 樅木 有瀬 鶴田 薗田 村山 左牟田 豊永 奈須 恒松 小玉 新堀 原 林田 早田 赤池 溝口 渕上 平津 中山 小田 西橋 蓑毛 上村 万江 柳瀬 松木 外越 竹下 出水 山本 後代院 井口 右田 亀山党 沢木 守永 横田 山口 源嶋 中村 大石 平田 黒木 黒肥地 丸目 岩崎 浄音寺 乙益 白石 桑原党
その外、全員で軍勢は七百九十三人である。
☆相良左馬介 相良兵部 深水帯刀 同図書 菱刈次郎右衛門 久保大炊介 
稲富雅楽 同筑後 久保田大蔵
その外、多数の士氏 軍勢は七百九十三人
中略・・
さて名古屋(名護屋)御普請はだいたい整ったが、大名たちは秀吉殿下にご対面なされ。高麗国政罰(征伐)の儀を懇ろに仰せつけられ、三番の船積りをもって書立て仰せ出された。
一番 加藤主計頭・小西摂津守・相良宮内少輔・島津兵庫頭〈忠平(義弘) 〉 ・伊東民部太輔・秋月三郎・同少将家久・高橋九郎・ 鍋島加賀守・鍋島信濃守・松浦刑部法印・宇久淡路守(五島純玄) ・寺沢志摩守・壱岐甲斐守(日高喜?) ・森豊前守・太田飛騨守・島津中納言(忠恒)
御目(横目)衆
中川修理之進・高橋主膳・森民部太輔(毛利高政) ・竹中源助(隆重) ・福島右馬介(福原長尭) ・熊谷半次(直盛) ・立花左近允(宗茂)
二番 浅野弾正忠(長政) ・同左京太夫・毛利右馬允(輝元) ・小早川隆景〈毛利家老〉 ・長曾我部土佐侍従・池田伊予守・生駒雅楽助・同讃岐守(一正) ・蜂須賀阿波守・加藤右馬介(左馬介、嘉明) ・藤堂佐渡守・脇坂中務
総勢十五万
※一番には相良宮内少輔 中川修理之進 といった方々です。
中略・・
高麗国は昔から赤衣装の国(赤国・全羅道) ・青衣装の国(青国・忠清道) ・黄衣装の国(黄国・平安道)の三つに分かれていた。それぞれの国境にはその色に彩色した人形を作って建てた。秀吉は高麗の地図を取り寄せ検討して、まず青の国・黄の国を勢力下に置くことを命じた、都(漢城)は青の国の中にあった。
中略・・
★続けて「久保田大蔵」最期の記述があります。
中略・・日本軍は手痛い目にあった。その後、大石を以って打ち崩しにかかったが、 日本軍に多くの死傷者が出た。 相良頼房公は真っ先に進んだので、梨子打鳥帽子の真ん中を石で打たれたが、兜が丈夫であったので大丈夫であった。また馬上で参戦しており足を射られてけがをしたが幸い浅傷だったので、少しも構わず城攻めを命じ、即時に城を乗っ取ることができた。
木上地頭の久保田大蔵は紺糸の鎧に白毛の兜を身につけて縦横に駆け巡って活躍したが、城内から見下ろして半弓で打ちかけられ、わたかけ(肩上・綿噛。P11図を参照)の外側に的中して、その場で戦死した。同じく蓑田助七郎・深水弥助・深水小兵衛も戦死した。その後、城乗りに成功し、 〔敵の〕大将の木曾(牧使)判官は相良家臣深水新左衛門が討ち取った。それからさらに軍を進めること八〇日、高麗の都に進軍した。もくそ城(晋州城)責めのときに戦死した久保田大蔵が着用していた鎧をあとで調べてみたが、子札(鎧の材料の小さい板)の厚い立派な具足で、矢に当たって戦死したとは不思議だと、皆が着用してみたが少しも矢の貫ける隙間がない程であった。いろいろ確かめたところ、シコロ(錣。P11図を参照)の外側、少しばかりの隙間から矢が貫いたものと思われた。これは不運としか言いようがない出来事であった。
深水平内左衛門はこの戦場には裸同然で出陣し、雨のように半弓で射掛けられながら一つも当たらず無事であった。彼の場合、碁石程の灰吹き銀【 2】 を紙に包んで帯に結びつけていたが、その銀の真ん中に矢が命中して裏側に膨らむほどであったが、身体にはかすり傷一つなかった運がよかったとはいえ、久保田大蔵とは天と地ほどの差であった。長々と書いたが後日の覚えに書き付けた。

※木上地頭の久保田大蔵は紺糸の鎧に白毛の兜を身につけて縦横に駆け巡って活躍したが、城内から見下ろして半弓で打ちかけられ、わたかけ(肩上・綿噛。P11図を参照)の外側に的中して、その場で戦死した。
久保田大蔵が着用していた鎧をあとで調べてみたが、子札(鎧の材料の小さい板)の厚い立派な具足で、矢に当たって戦死したとは不思議だと、皆が着用してみたが少しも矢の貫ける隙間がない程であった。シコロ(錣。P11図を参照)の外側、少しばかりの隙間から矢が貫いたものと思われた。これは不運としか言いようがない出来事であった。

中略・・
高麗に七年間在陣中に各地での討死者の名前
犬童源七兵衛・犬童伝右衛門・深水甚七・深水東市・蓑田助四郎・深水弥助・久保田大蔵・深水小兵衛・西玖兵衛・深水勘六・稲富惣左衛門・西弥三郎・溝辺善左衛門・西与四郎・深水新右衛門・恒松平左衛門・深水弥四郎・緒方助三郎・渕上藤四郎・犬童弥助・深水藤左衛門・右田伝兵衛・恒松伝右衛門・大門左近・芦原伝右衛門・皆越新右衛門・皆越久助・赤池清兵衛・上田源十 郎・早田隼人助・西彦兵衛・椎葉藤内・淵田太炊左衛門・稲富内蔵助・小田新右衛門・尾方新三郎・益田彦三郎・長半左衛門・深水久平衛・山北助九郎・恒松善兵衛・恒松市助・神瀬源助・郡助
使者として行く際に難風のために死去した者
犬童弥助・有瀬久助・犬童孫太郎
病死した者
稲富雅楽・小田三蔵・恒松蔵人佐・湯前佐渡守・菱刈次郎左衛門・深水帯刀・西九兵衛・桑原治部右衛門・樅木玄蕃・犬童久助・西新次郎・深水小才次・奈須平助 以上、討死が四十七人 病死が十三人である。 以下略。
※淵田太炊左衛門・・この時すでに淵田氏は相良藩士として高麗にて討死されているのですね・・

木上の地頭、久保田大蔵がこの戦で討死をされて、幼くして、父と母を失った「木上地頭の子供達」は、木上から、大村(現相良村 柳瀬・深水地区)の他家で養育されました。
久保田氏 十五代 九介そして弟 甚助です。
そして、甚助はその後、加藤家に仕えのちに中川内膳正(中川久盛)に仕え五百石を賜う。という事になります。

豊臣秀吉・・この方は、何の為に他国(高麗国)に戦いを挑んだのだろう。
本当の事をいうと・・私は・・歴史上の人物の中で、豊臣秀吉と言う方を好ましく思っていません・・
特に上記の戦は、怒りがこみ上げてきます・・
(こういう事を書く事は良くないと解っていますが・・)

久保田大蔵が亡くなったのは、もくそ城(晋州城)責めのとき。
偶然ですが、私の父が生まれたのは「晋州」です。

「南藤蔓綿録」(日朝関係記事)の現代日本語訳 についてご紹介させて頂きました。
では(..)
[27]白石さんからのコメント(2016年04月10日 23時16分32秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ

山内は 高岡の嫁方が五藤 平川の親戚が後藤から 出てきた言葉です。
同級生にいました。

関は 秀吉の母 から出ました。
木下は おねの方から・・

木下は 父方祖母が 木下の墓に一緒に入っているということを 平川のおばがおしえてくれました。

(つまり 平川おばは 高岡から婿養子に来た人の妻ですから。そして その母は 初神の尾方から来ているので 同じ初神集落の墓の行方を知っていたということです。)
父が入院しているとき 私が子供の頃父と一緒に行った初神の墓に行ってきた と平川のおばに話したら
「今 ばあちゃんな 初神の寺の下の木下の墓に一緒にはいっとんなっばい」
と教えてくれたのです。
父にそういうと うれしそうに していました。

その頃は 木下は父の義兄弟と聞いていたのですが 
この間 いつも 冠婚葬祭に来ていた人に聞くと そうではなくて あさぎり町の高岡がそうで 自分の兄の連れ子だと 言っていました。

その木下から いつも 冠婚葬祭に来ていたのは確かです。

あと 同級生にも木下がいました。
私の書き方が悪かったですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

四浦は もとは 五木とひとつ。
人吉の人は 四浦は 平家んしゅうのおらいたところ と言っていました。

子供の頃 人吉に買い出しに行くと
「あんた どっからきとっと?」と聞かれ
四浦 というと 
おばさんたちは そういっていたのです。

そして
「四浦は べっぴんさんの多かもんな」と 付け加えるのです。
まあ そこらは おばさんたちの口でしょうけど

四浦は 平家んしい ・・・ の  認識の有るところ。


[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月11日 12時58分12秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

白石様、コメントありがとうございます。
白石様は、御家そして御親戚を平家落人の末裔とお考えなのでしょうか?

平家落人伝説は八代の五家荘。五木村のお隣ですね。
家の親戚の緒方家は五家荘から五木に来られて、代々落人伝説が家に伝わっています。
場所は離れますが、私の住む旧宮原村宮麓地区には平景清(藤原景清)公の姫様のお墓もあり、近くにはお供の方々のお墓もあります。
平景清公の母様は宮麓集落の切畑大明神に鎌倉時代に御祭神として合祀となります。
親戚の椎葉家には代々「平家一門の守り観音」がお祀つりされています。
椎葉村伝説で有名は那須大八の末裔は私の従弟の妻。
別の那須家には私の祖父の姉が嫁いでいます。
上村の皆越集落の皆越氏は、壇ノ浦から九州山地を越えて逃げて来られた平家一門の方々のうち、中には深い谷底に落ちて亡くなった方もいらっしゃったようで、球磨に辿り着いた時に「皆は越えたか?」とその場に辿り着いた方々が、この場に辿り着けた者達、皆、「皆越」と名乗るべし・・という由来だそうです。
私の集落にも皆越氏はいらっしゃいますが、年に一度、皆越姓を持つ球磨郡内の方々が一同に集まる会が催されているそうです。
球磨郡全体に平家落人伝説は残り、関係する其々の家々には代々何らかの伝承が残されています。
白石様、故郷の御親戚にも何らかの伝承が残されているのではありませんか?
それが見つかれば、別の方向からの御先祖様の調査が出来て楽しみですね(^'^)

日本遺産となった球磨・人吉
熊本県公式ページ こちらに昨年の認定時のページが記されています。
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_11054.html
文化庁は、4月24日(金曜日)、「相良700年が生んだ保守と進取の文化〜日本でもっとも豊かな隠れ里・人吉球磨〜」ほか17件を「日本遺産」に初認定しました。「日本遺産」認定制度創設後初の認定であり、また、本県での認定第1号になります。
人吉球磨地域の「日本遺産」の概要
 ○申請団体  人吉球磨10市町村連名
 ○タイトル
  相良700年が生んだ保守と進取の文化〜日本でもっとも豊かな隠れ里―人吉球磨〜
○ストーリーの概要
  人吉球磨の領主相良氏は、急峻な九州山地に囲まれた地の利を生かして外敵の侵入を拒み、日本史上稀な「相良700年」と称される長きにわたる統治を行った。その中で領主から民衆までが一体となったまちづくりの精神が形成され、社寺や仏像群、神楽等をともに信仰し、楽しみ、守る文化が育まれた。同時に進取の精神をもってしたたかに外来の文化を吸収し、独自の食文化や遊戯、交通網が整えられた。保守と進取、双方の精神から昇華された文化の証が集中して現存している地域は他になく、日本文化の縮図を今に見ることができる地域であり、司馬遼太郎はこの地を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記している。

※「日本でもっとも豊かな隠れ里」とは誰が考えたキャッチコピーなのかな?と思っていたら、(ー_ー)!!司馬遼太郎先生がこの地を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記している事からだったのですね。知らなかった(..)

人吉球磨日本遺産活用協議会 公式ページが立ちあがったようです(^'^)
皆様、私の住む人吉・球磨です。
どうぞご覧ください(^'^)
http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/

同ページ 日本遺産について
http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/about/
こちらの写真は青蓮寺阿弥陀堂(多良木町)。
青蓮尼は須恵氏の娘で、相良頼景の妻。
青蓮尼の娘が、新堀又次郎(四郎)頼兼の妻となりました(^'^)

同ページより(..)
日本遺産に認定された人吉球磨のストーリーの軸となるものが、相良氏による明治維新まで続いた700年という長きにわたる統治です。同じ領主がこれほど長い間同じ地域を統治した例はとても珍しく、全国でも人吉球磨の相良氏以外には、3例しかありません。その700年の統治が現在の人吉球磨の地域に遺したものは、有形・無形にかかわらず日本の歴史そのものを語るために重要である文化財群です。しかも、その文化財群が、人吉球磨の現在の暮らしのなかに脈々と受け継がれ、この地域の日常の風景として溶け込んでいるのが特徴的です。歴史小説家・司馬遼太郎が、その著書『街道をゆく』で、人吉球磨地域のことを「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記しています。昔から愛され、守られてきた地域の文化を守りつつも、したたかに先進的な外の文化を吸収しながら歩んできた相良700年をひもといてみましょう。

※歴史小説家・司馬遼太郎が、その著書『街道をゆく』で、人吉球磨地域のことを「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記しています。
なるほど(..)そうだったんだ(..)

多良木相良氏関係史跡
http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/heritage/heritage25.html
相良氏が入国した後の鎌倉時代から室町時代中頃までは、相良氏の惣領家(跡継ぎの本家)は多良木相良氏であった。館跡や灌漑用水(かんがいようすい)などの史跡が多く残っている。

(..)結構、上記の事を知らない方が多いのですよね(..)
というか・・私も球磨に戻るまでは知りませんでした(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

皆様
ありがたい事に私のスレッドをご覧頂いていらっしゃるコメントを頂いた事の無い方々もいらっしゃると思います。
どうぞ、球磨・人吉とはどのような場所なのか皆様、ご覧ください(^'^)
http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/

では(^'^)
[29]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月11日 19時15分35秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^) マタマタの登場です。

コメント17で書いた
「連」の文字と「重」の文字が見える相良氏族の3家。
こちらを御紹介させて頂きます。

@「連」の文字を持つ方々
人吉市史記載の 相良永留氏系図
「故黒田清光氏の、大口市。菱刈氏、粟野町、薩摩町、牧園町他十敷町の全域に互る詳細な中世古塔調査による」と記されています。

人吉市史記載の 相良永留氏系図より
一代 永留頼明(第二代頼親ノ嫡子 山田城主 法名観元)
二代 頼常(彌三郎 元弘三年北条高時ノ反ヲ新田義貞ニ従ヒ鎌倉ニ戦死 法名西安)
三代 頼積よりもり(彌五郎 法名道忠)
四代 長滋(左近将監 法名道性)
五代 頼均よりひと(彌正忠 法名寂元)
六代 頼道(彌三郎 法名道心※道元)
七代 頼連よりつら(藤五郎 法名不存一物)※兄弟 長俊(伊勢守) 長廣(治部少輔) 頼基(土佐守)
八代 實重(治部少輔 法名道宥 内室 頼廣ノ女)※兄弟 長名ながかた(出羽守⇒子 右馬頭) 頼澄(讃岐守⇒子 又八) 長連ながつら(大膳大夫 ⇒ 子※十代頼福 式部大輔 文五郎 帯刀)
九代 長續※長続 左近将監 始藤五郎永重(長重)本家ヲ嗣グ 姉妹あり
※九代 長続 相良長続。人吉・球磨を統一して相良家を嗣いだ方です。
★永留(永富)氏 第七代 永留頼連(よりつら)子 永富長連(ながつら)「連(つら)」の文字が見えます。
永留(永富)長連の子「式部大輔頼福」この方が第十代永留氏となります。
相良長続は山田城主・・と伝わりますが、上記の永留(永富氏)一代 「永留頼明」以降の永留(永富氏)の墓石等は山田村では一切見つかっていません。
相良長続の居城は山田城だけではありません。以前、コメントしましたが、私の住む旧岡原村の左近城は「永留長続の居城跡」と伝わり、その証拠に以前コメントした藤崎八幡宮が城跡近くに鎮座しています。
永留頼連 永留長連 ・・「連(つら)」の文字。
「連(つら)」の通字と言えば佐原氏・・とヒラメクのはは私だけでしょうか?
佐原義連 子 盛連、政連、景連
佐原時連 通称は遠江(とおとうみ)六郎。法名は観蓮
佐原氏は三浦氏の本拠・相模国衣笠城の東南・佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため、佐原氏を称する。

「連」の文字を持つ「永留(永富)氏」というお話でした。
明日は、
球磨以外の「善」「重」の文字を通字とし、矢野姓が見える某系と
@「重」の文字を通字とする相良氏族の2系。
A「善」の文字が見える相良氏族1系(矢野氏に繋がる)
というタイトルでコメントさせて頂きます。(回りくどいとの声が・・(p_-))

では。
[30]白石さんからのコメント(2016年04月11日 21時05分00秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
平家の末裔・・・高岡 は 辞典にニギハヤヒ子孫が第一項にあり たどりたどればそこらにいきつくのでは?と思っています。

しかし その前に
集落的に特定できそうなところとして 
袴谷は相良氏に関係していそうです。
 恒松 森永 山北 山代(城) 田山 ○○(忘れた)
から 
袴谷は そのとおり 袴をはいていた人たちではないか?
先生が 「恒松の家は元は武士か?」と問われたのに 恒松女子がうなづいていたこと

その子の関係で これは もうひとりの 同級生から聞いた話だけど
恒松は 山田に子供がいて うちの 坂本女子と最初結婚

しかし 離婚
その後 同級生の宮田女子が 結婚。

結婚するときに 私に 結婚してもよかろうか?と 聞いてくるので 私が言いも悪いもいうことではないが と 思いながら よかよー と 返事をしたことを憶えています

この 宮田の女子は 小野集落と 親戚です。
小野には 観音堂があり 村山 宮田 松本などおります。
 
恒松は 相良晴広側室に恒松氏がいる。


相良晴広女(島津義弘室後上村長陸室) - 戦国島津の女達

相良晴広の娘。しかし”相良義陽の妹”としてよく知られる。義陽とは異母兄弟。 島津忠平 (後の島津義弘)と結婚し、飯野(現宮崎県えびの市)に輿入れしたが、程なく ... 年度 不明), 誕生 父・相良晴広、母・側室恒松氏(御東殿), 「南藤蔓綿録」巻之五巻頭系図.

父の出所の萩の 高岡の姻戚になる 田山の持つ市房神宮のお鏡については みやちゃんから 現在お鏡は ならの博物館にあると教えていただきました。

それならば それは いつから? ということですが
平成3年に ご開帳されたとき 兄も行っており

その後 私が どんなお鏡か 見せていただけないか?とお願いした時
田山の返事は 自分たちでも 白布の上から拝むだけで 誰も触ることはできないという 返事でした。

山北は
↓ 世界帝王辞典に 相良頼景の男子
相良氏 − Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜

生没年:; 父:相良頼繁; 正室:: 1177-1254 長頼: 山井宗頼:「 山北頼平」: 佐原頼忠: 河馳 頼綱: 高橋頼之: 長綱. 相良長頼. 生没年:1177- ... 相良頼親. 生没年:1197-1264; 父: 相良長頼: 初名:頼宗: 通称:四郎、兵衛尉: 従五位; 正室:伊東氏: 永留頼明. 相良頼俊.

他にもちょこちょこっと あるのですが
推考すると 相良氏にからんでいると 思います。

お向かいの初神の川下 せばせ というところに 四浦平家城跡があったわけ
ですが

縄文時代 平家 相良外城と 遺構がかさなっているようだとのことです。
案内には 箕田(蓑田?)さお
んが 立っておられるとのこと。

蓑田さんも 同級生におりました。
大体 私の 学年は 段階の世代なので 分母が大きく ほぼ 地域の家
の名があります。

田代集落の話ですが 
佐々木先生ももちろんおられました。
若い頃の印象ですが
細身で 相良氏の肖像?の写真紹介とそっくりで
林の男子とも似ていました。文武両道タイプですね。体育もすごかったし
バイオリンを弾いて聞かせてくださったり
川辺川の絵を描いたのが 随分長いこと 学校に飾ってありました。 

まずは 袴谷は 相良氏とかかわりがあると 特定できそうだという花井でした。
[31]白石さんからのコメント(2016年04月11日 21時52分11秒 ) パスワード

高岡に関して
いろいろ祖先はネットでみることができますが
おもしろそう と おもうmのがありました。
高岡氏の源流と打ち込んでみたら

庄川 - Wikipedia が出ました。

庄川(しょうがわ)は、岐阜県北部および富山県西部を流れる、庄川水系の一級河川で ある。 流域には、合掌造りで知られる白川郷や五箇山などがある。古称は「雄神川( おがみがわ)」で、これは、谷口(谷の入口の意)付近にある雄神神社に因むものとされ...

雄神神社
水神の高龗神・闇龗神(たかおかみ・くらおかみ)を主祭神とし、瀬織津姫神を配祀する。

おかみ神の神裔が 「大国主」であることは この間書きましたが

瀬織津姫神
瀬織津姫(せおりつひめ)は、大祓詞に登場する神である。古事記・日本書紀には記されない神名である。とありますが

過去に 市房神宮の尾方宮司様から頂いたお手紙では 12神の内の
1柱におられます。

『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると記述される。

『ホツマツタエ』(学者により「偽書」とされている)では日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織津姫と同一神とし、天照大神の皇后として、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが記されている。

瀬織津姫は天照大神と浅からぬ関係がある。天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。兵庫県西宮市、西宮の地名由来の大社である廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。廣田神社はかつて六甲山全山を領地としていたが、六甲山は元は向津(むかつ)峰と呼ばれ、それが武庫(むこ)となり、江戸時代ごろより六甲(むこ)と表記され、明治以降「ろっこう」と音読みされるようになった。『元亨釈書』には空海とともに神呪寺を創建した淳和天皇妃、如意尼=真名井御前の眼前、六甲山・甲山に廣田神社祭神が出現されたことが記されている。[1]吉田東伍も『大日本地名辞書』広田神社の項(p594)に、祭神名への考察として「向津は武庫津というに同じ」と指摘していることもあり、祭神向津姫の名前が六甲山の山名由来とも考えられる。その裏付けともいえるのが、山頂付近に鎮座し、山名の変遷と共に祭神名を変更してきたと思われる六甲比命神社(ろっこうひめじんじゃ)の壮大な磐座である。[独自研究?]

その他では宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている。
祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀る。伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づく。


向津姫は 過日お話しましたが 出雲に4000年前くらいから来ている人たちの子孫のお家の向家の人が (国造家とは違う)

向家の姫のことだと あかしておられました。

高岡は 古い記憶を持っていると思っています。
なお 川向 初神集落の中村女子は 
地域は 五木から だんだんと おりてきたらしい と 学者先生から聞いたと言っておりました。

[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月12日 09時22分25秒 ) パスワード

白石様
メールを送らせて頂きました(^'^)

ご覧ください。
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月12日 09時33分58秒 ) パスワード

コメント32には親戚の個人情報が含まれていましたので削除させて頂きました。(..)

白石様すみません(..)

奈良国立博物館収蔵の市房神社に伝わった山王十社本地懸仏はお鏡ではありませんでした。
さらに山王十社本地懸仏は市房神社から日吉山王に鎌倉時代にはすでに寄進されていました。
私が、以前早合点してコメントしてしまいました。
本当に申し訳ありませんでした。

白石様の御親戚のお家に預かっていらっしゃったお鏡の件は、先日コメントしましたように、親戚の宮司家の尾方家が市房神社下宮に関わりがありますので、尾方のおじに、「白石様の御親戚とお鏡の件」必ず確認させて頂きます。
お待ち下さい(..)
[35]酒井ともさんからのコメント(2016年04月12日 11時34分59秒 ) パスワード


皆さん、こんにちは。

毎日、拝見させてもらっています。
ただ、球磨地方に土地勘が全く有りませんので、専ら傍観しています。



ところで、少し前の話に戻りますが遠江における「新堀」の地名調査です。

>スレッド31より

>[48] ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月22日 17時22分54秒 )

>人吉市史より
 A上相良氏系図・・平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の出自について

 人吉市史第一巻 の巻末附録記載の上相良氏系図に平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の項がありました。
 平原次郎頼範・・一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子
 新堀又次郎頼金・・一説頼範ノ弟
 右二人ハ頼景下向ノ折随身猶子トナリ、弟分トナル、頼金(頼兼)ハ頼景ノ女ト合縁
 とあります。
 日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観を拝見しました。
 ※一説藤太頼寛ノ甥・・相良氏初代相良頼寛ノ甥・・と言う事は横地氏に繋がる可能性もあり・・と言う事ですね。
 もしくは・・
 ※工藤太夫光頼ノ弟ノ子・・木脇光頼は工藤周頼の養子に入って相良頼寛の父となる・・




「平原・新堀姓」
平原・新堀氏は相良氏の創成期頃の分家子孫との伝承が残されているのですね。

本題です。
日曜日まで、遠江における 平原・新堀に繋がる由来地名等を現牧之原市を中心に探しました。

特に旧榛原町の大字「勝俣」「仁田」「勝間」「勝田」などに属する小字を調べましたが、
調査不足なのか、発見できませんでした。




「東浅羽村誌」
ところが、平安より鎌倉初期に、浅羽庄司が治めた
現袋井市(旧浅羽町)の東浅羽村誌に面白い記述を見つけました。

原文ですと、にいぼり 新堀
遠州灘に注ぐ弁財天川下流右岸に位置する。
地名は周辺の他村より新しく開墾された地に由来するかという(浅羽風土記)

次に戸塚氏の先祖17人が従者を引き連れて当地に土着したとあります。
(もしかしたら、戸塚氏の先祖が17人の従者を引き連れての土着かもしれません)

おそらくですが、未開墾地に戸塚氏主従が土着して、開墾したと思われます。


その戸塚氏ですが、旧榛原町の故実には、
横地氏族にして勝間田氏の一流として伝承されています。

この戸塚氏の由来ですが、勝間田遠江守長清の招きにより、
時宗の二祖の一人、他阿上人が、勝間田周辺での布教活動時期に
他阿上人の自坊がありました、相模国の地名を持ち込んだようです。

勝間田周辺には現在も「川崎」「藤沢」「戸塚」「大磯」の由来地名があります。

戸塚氏はその相模由来の「戸塚」を姓に頂いた一族だったようです。


その戸塚一党が新堀村の立村に大きく関わったとすれば、
何か謂れのある名である「新堀」を称した可能性があります。


ただ、現時点では「新堀」がどのような史実に基づいているかは想像するのみです。

では、その戸塚主従がいつ頃、新堀村土着したかと考えると、
武家の勝間田氏が歴史上より消える、明応の頃(1490年代)頃でしょうか。

それとも今少し下り徳川家康が遠江に侵攻した永禄11年(1568年)頃でしょうか。



「新堀・戸塚両村」
陸奥国(現岩手県)稗貫郡にありました、
新堀村・戸塚村は明治22年に合併して新堀村となったようです。

合併後の新堀村の村長には工藤氏の名前もあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%A0%80%E6%9D%91_(%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C)

陸奥国の新堀・戸塚両村の成り立ちが解かりませんが、
奥州工藤氏と共に移住した一族が立村した可能性もありますね。



「平原」
最後ですが「平原」の由来に関しては、糸口すらも見つかっておりません。


余談ですが、遠江に生まれてから住み続けていますが、馬が走り廻る、
美しい草原や平原(へいげん)なだらかな丘陵地を今のところ視た記憶がありません。

ただ、平安期には「笠原牧」「相良牧」「白羽牧」などの馬の飼育が盛んな地もありました。
「平原」の地名はその頃のもので現在は風化されてしまったのかもしれません。


[37]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月12日 19時50分28秒 ) パスワード

酒井様
御教示本当にありがとうございます。

〉日曜日まで、遠江における 平原・新堀に繋がる由来地名等を現牧之原市を中心に探しました。
酒井様、感激して涙が出ました。感謝申し上げます。

〉にいぼり 新堀
遠州灘に注ぐ弁財天川下流右岸に位置する。
地名は周辺の他村より新しく開墾された地に由来するかという(浅羽風土記)
〉戸塚氏ですが、旧榛原町の故実には、
横地氏族にして勝間田氏の一流として伝承されています。

戸塚氏 日本の苗字七千傑様のサイトで検索したのですが、横地氏 姓氏類別大観に横地家永の子「戸塚正重」と言う方がしっかりと見えます!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022d4.htm
掲載姓氏 横地氏】【井野氏】【戸塚氏】【小田切氏】【久米氏】
あれっ??今、気が付いたのですが小田切氏・・?
確か、望月氏を調べた時に滋野御三家「海野氏」の系にも小田切氏があったと記憶しているのですが・・ 
私が、今後、コメントしようと思っていた事に繋がって来るのかもしれません。
私は、相良氏・横地氏族・望月氏・海野氏そして伊予橘氏である橘公長の系は何らかの形で全て繋がっているのでは?と実は推測しているのです。(あくまでも私考ですが(..))
酒井様から頂いた御教示から「戸塚氏」を調べる為に日本の苗字七千傑様の横地氏 姓氏類別大観を拝見して、ますます、その気持ちが高まってきました。

〉その戸塚一党が新堀村の立村に大きく関わったとすれば、
何か謂れのある名である「新堀」を称した可能性があります。
すごくワクワクして参りました!

〉新堀村・戸塚村は明治22年に合併して新堀村となったようです。
ウィキの新堀村 (岩手県)を拝見しました。
昭和30年(1955年)まで岩手県稗貫郡にあった村。

稗貫郡 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%97%E8%B2%AB%E9%83%A1
稗貫郡(ひえぬきぐん)は、岩手県にあった郡。令制国下では陸奥国(のち陸中国)に属す。
幕末時点では陸奥国に所属し、全域が盛岡藩領であった。

あっ!盛岡藩です!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E8%97%A9
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。
南部氏の始祖・南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町 (青森県)相内地区に宿をとった。それから、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し移転している

※南部氏の始祖・南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で・・
南部光行の孫「南部実継」の娘は、宮原の一族の先祖である橘公綱の妻です。
中略・・
天正19年(1591年)九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが、津軽為信に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっており、蒲生氏郷や浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。

さらに・・盛岡藩(南部藩)は、相良清兵衛(犬童頼兄)配流の地です・・

新堀村・戸塚村は盛岡藩(南部藩)領の稗貫郡にあったという事ですね。
昭和30年代までの新堀村には工藤氏の名が見える・・
物凄い”偶然”?を私は見ているような気がしています・・

酒井様、「平原」について実は、一昨日気が付いた事がありました。
多良木町に「平原」という地名が残っていました。
(ナント偶然にも一昨日「平原」周辺の住宅地図が回覧板に記されていました(^'^))

地名はしっかりと”多良木町”に遷移されているようです。

「平原」の由来・・
私も、もう一度、文献を見直してみます。

酒井様、重ねて、御教示ありがとうございました。
[38]あきさんからのコメント(2016年04月12日 22時05分18秒 ) パスワード

お疲れさまです。先日は、ありがとうございました。
ところで、私の実家から人吉方面に行き、川辺川にかかる橋を渡ったところが平原(ひらばる)地区と言います。
[39]白石さんからのコメント(2016年04月13日 01時11分50秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
人吉外史?には 相良氏は佐々木氏と書いてある?

同級生が 合志に住んでいます。
溝口と木下君と ・・・過去の職場の縁で仲が良かったからか?

で この 溝口君が 新発田藩主溝口氏の子孫だったとき
溝口氏は 宇多源氏になるので 

たわむれに 武家家伝合志氏を出してみました。

合志氏は 姓系辞典にも 相良系図に載る合志九郎とあります。

@藤原姓菊池氏流合志氏、中原姓竹迫氏流合志氏、そして佐々木氏流合志氏の三 つの系統があったと『合志川芥』に記されている。

佐々木合志氏は系図によれば、佐々木四郎高綱の子重綱の後裔ということになっている。すなわち、重綱の後裔四郎左衛門長綱は、正応三年(1290)三月の浅原八郎為頼の乱に与して比叡山に逃れた。比叡山座主法燈僧正は密かに長綱を匿って、延暦寺領の肥後合志郡に遣わし寺領奉行とした。そして、長綱は現地に赴き、合志郡真木村に住んで合志と称したというのである。

A 宇多源氏佐々木氏系図をみれば 
出雲 但馬 高岡氏系図で検索
左上ポッチリを押して【出雲 宇多源氏佐々木系譜】

高綱を探して ↓クリック
子孫 大山公爵や 陸軍大将乃木希典などいる。
※逆をたどると義清が出るので 高綱の兄弟の筋か?
重綱のあとは 残念ながら書いてありませんが
武家家伝に詳しく書いてありました。

B
出雲 但馬 高岡氏系図

佐々木義清の息子で隠岐泰清の八男、 八郎宗泰が出雲國神門郡鹽冶郷高岡邑を領し てより高岡氏を名乗る。 【歴史】暦応4年(1341)4月3日鹽冶判官高貞讒死のち山名時氏 に仕へ、 明徳兵乱の後(1392)一旦但馬へ遷るも、山名氏領備後國の代官となりて、 ...

宇多源氏の仲間に 高岡もおり 富田氏でもある。

C恩師に古荘先生 山崎先生がおられました。
 古荘先生は大友氏に関与している と 見当しておりましたが

山崎は 平江の親戚にもあったのです。
そして 山崎はどの筋になるのか ?だったのですが

上のように 宇多源氏の話がある時
佐々木行定の系に 山崎があり 永原氏なども出す。
永原氏は土佐藩家老。

 ∴山内(永原)刑部高照
(59)郷高(  -  )  高盛(  -  )                    一照(1558-1620)初代土佐國本山領主
                                       |天正12年(1584)仕 山内一豊公賜偏諱一字因改名一照
                                       +――――――――+
                                       |山内但馬    |乾金右衛門
(60)                                    一長(  -  )  正行(  -1649)
                                       |        ↓乾加兵衛正信為養子
                                       |
                                       |永原(山内)辰之助
(61)                                    勝秀(  -  )

乾加兵衛正信は 「板垣退助」の 直系の先祖にあたる。


みやちゃん
平原は 私わかりませんが 鹿児島主審の人で 平原さんがいました。

又 
吉野ケ里遺跡あたりに 平原遺跡があり
卑弥呼の お母さんの 話があるのですね。





[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月13日 13時53分19秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

あきちゃん、白石様、ご教示ありがとうございます。

あきちゃん。
川辺川の橋を渡った所・・と言えば、旧柳瀬村ですね。
柳瀬村に平原(ひらばる)地区があったという事か・・すごく参考になりました。
ありがとうございます(^'^)

白石様
溝口氏ですが相良藩士にあります。
ちなみに、1655年建立の家の近くの庚申塔にも「溝口氏」の名が残っています。
私の父の航空自衛官時代からの親友だった溝口さんは、八代の旧宮原町の出身の方です。
溝口姓は、あさぎり町ではよく見かける姓です。
熊本県内に溝口姓は265軒。
内、県内で多い順に 水俣市42軒 八代市40軒 熊本市39軒 あさぎり町37軒 人吉市18軒
人吉・球磨郡では
人吉市18軒 山江村1軒 相良村4軒 錦町3軒 あさぎり町37軒 多良木町2軒 水上村2軒 五木村1軒 球磨村0軒。
となり、あさぎり町は球磨郡市内では一番多く、県内でも4番目ですね。

白石様の同級生(相良村)の方は・・〉新発田藩主溝口氏の子孫だったとき・・
ムムッ(p_-)よく解りませんがこれは、いささか飛躍しすぎのような気がするのですが・・(..)
あと・・新発田藩主溝口氏は甲斐源氏ですね。

県内の溝口姓の分布をみると
人口比率から考えて水俣・八代・あさぎり町に注目するのが良いのかと・・
相良氏三郡支配(球磨・芦北・八代)の時代に関係しているような気がします。水俣ももちろん当時は相良氏の勢力下にありましたので・・

甲斐源氏に着目すると解ります。
日本の苗字七千傑様の甲斐源氏綱要 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01013b1.htm
こちらから《逸見氏/安田氏》に進むと溝口が見えます。
こちらの溝口氏は安田氏と同族と言う事ですね。

私が気になる溝口氏はもう1系ありまして
日本の苗字七千傑様の【宇佐氏】姓氏類別大観に見える溝口氏です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02128.htm
球磨郡と宇佐の交流は平安時代前期よりもっと以前まで遡れますから(後日コメントします)

どちらにしても「溝口姓」は相良氏や球磨に深い縁を以っていらっしゃるようです。

〉合志氏は 姓系辞典にも 相良系図に載る合志九郎とあります。
こちらが藤原姓菊池氏流合志氏ですね。
私の住む旧岡原村の岡本地区の平安後期からの領主が「合志九郎」

〉佐々木合志氏は系図によれば、佐々木四郎高綱の子重綱の後裔ということになっている。すなわち、重綱の後裔四郎左衛門長綱は・・
「長綱」というお名前は何だか気になります・・

あきちゃん・白石様
御教示ありがとうございました(^'^)
[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月13日 17時11分14秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

平原次郎頼範・・実は以前、気が付いていた事があったのですが、関連性が解らなくてコメントしていなかった事があります。

平原次郎頼範・・「平原次郎」を名乗った人物を、実は、海野氏関連のサイトで見つけていました。
海野氏興亡史
http://musha.mobi/index.php?%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F%E8%88%88%E4%BA%A1%E5%8F%B2
こちらのサイトをスクロールしていくと
横田河原合戦 の項が見えます。
その中に「平原次郎」を名乗った人物が登場します。

勝手ながら転記します。
義仲周辺の一連の不穏な動きは、たちまちにして京の平家方や隣国越後の大豪族、城氏の知るところとなりました。
 一方義仲は、越後軍が横田河原に出陣したとの知らせを聞くと、ただちに依田城を出て、治承5年(1181)夏の6月10日前後のころ、海野氏の氏神、白鳥神社に隣接する白鳥河原(千曲川敷)に集結した主な武将は
 上野国の足利義清・長瀬義員など高山党の面々。
 滋野一族からは、木曽四天王の一人根井小弥太行忠(根井行親の嫡男)を筆頭に・木曽四天王の一人盾六郎親忠・矢島四郎行重・根井小次郎行直・望月三郎重忠と嫡男小室太郎忠兼・次男の中村太郎忠直・根津小次郎行直・根津三郎信貞・余田二郎忠朝・千野太郎栄朝・諏訪三郎朝次・塩田八郎高光・丸子小中太・小林二郎家員・志賀八郎・桜井太郎・手塚別当光重・手塚太郎光盛・桜井二郎・野沢太郎・本沢次郎。
 海野弥平四郎幸広(のち海野氏9代)・海野二郎幸平・海野十郎幸久・井上太郎光盛・高梨高信・高梨頼高・仁科太郎盛弘・仁科二郎盛宗・藤沢二郎清親・伊那の泉太郎維長・村上基周。そして木曽からは、木曽四天王の一人樋口二郎兼光・木曽四天王の一人今井四郎兼平・落合五郎兼行・岡田太郎義親・木曽与次・与三・進士禅師・金剛禅師・検非所八郎・平原次郎景親・石窪次郎らおよそ3千騎の精兵でした。

(p_-)
※そして木曽からは、木曽四天王の一人樋口二郎兼光・木曽四天王の一人今井四郎兼平・落合五郎兼行・岡田太郎義親・木曽与次・与三・進士禅師・金剛禅師・検非所八郎・平原次郎景親・石窪次郎らおよそ3千騎の精兵でした。
「平原次郎景親」・・平原次郎・・?

最初は、偶然かな?と思ったのですが、しかし、「木曽四天王の一人今井四郎兼平」今井氏が見えてあれっ!?と・・

平川家について31 コメント19で書いた相良長頼球磨入部の際の随行者
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101516_81.html
「今井某」・・今井氏があったのですよね・・?

さらに他のサイトでも
よりぬき木曽殿
http://homepage2.nifty.com/miyataya/Gityu_Mania/kis_yorinuki02.html
【信濃横田川原軍事】 の項に
【木曽軍出陣と開戦】
養和元年六月十四日の辰の一点。
源氏方より進む輩、
上野国には那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、
信濃国には根井小弥太、其子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平が子息根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、石突次郎、平原次郎景能、諏訪上宮には諏訪次郎、千野太郎、
下宮には手塚別当、同太郎、
木曾党には、中三権頭兼遠が子息樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次、与三、木曾中太、弥中太、検非違所八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師
郎等乗替もなく百騎轡(くつばみ)を並べて筑摩河を渡り、北上する。

城太郎軍四万余騎、入れ替りながら戦うが木曾軍百騎の勢に苦戦し退却、木曽軍も河を渡って帰陣。

(p_-)信濃国には根井小弥太、・・平原次郎景能
と、以前はここまで調べていて平原次郎景親と平原次郎景能という方は同一人物かな??とこの位の所で私の調査は終わっていたのですが・・

\(◎o◎)/!海野氏・望月氏の名が沢山ある所から今日、すごく気になってもう一度しっかり調べた所!何だか驚愕の記述を沢山目にしてしまいました!!

サイト「十八女・氏素性」の海野氏・ルーツ・興亡史・物語という項です!
http://www.geocities.jp/widetown/jishuu/jishuu013.htm
気になる記述をピックアップします!
●滋野系は小県から佐久へかけての名立たる土豪、真田・岩下・矢沢・根々井・楯等々滋野氏の後と称するものはあまりに多い。中には小室・矢島・落合・志賀・平原・春日などの諸氏まで、滋野氏の一族に数えられる説もある。

\(◎o◎)/!
※中には小室・矢島・落合・志賀・平原・春日などの諸氏まで、滋野氏の一族に数えられる説もある。 

●このころ海野郷一帯には渡来人にかかわる伝承が多く残されており、浅科村八幡(現在の佐久市八幡)には「高良社」が祀られている。また、北御牧村下之城(現在の東御市下之城)の両羽神社には善淵王とダッタン人と言われている船白(代)の二基の木造が安置されている。この地方の伝承によれば、その一基の船白は、渤海国(現在の中国東部に興った国)からの渡来人であり、善淵王の師と言われている。  
古くから馬の飼育・調教などを渡来人である渤海国の人達から伝授を受けて、朝廷に献上する馬を飼育していた。  
中略・・
渤海国は朝鮮半島の高句麗の旧地を合併して栄え、わが国の奈良朝の聖武天皇のころより、しばしばわが国にも朝貢をしていた国である。  
その渤海国からの国使が帰国するにあたり、延暦18年(799)に、その見送りに随伴したのが、「式部少禄正六位下滋野宿祢船白」である。  
これは滋野氏が中央の名族として、朝廷とかかわった古い記録(日本後記)に見られることである。  
その船白の像と伝えられている古像が、滋野氏との関係の深いと言われている善淵王像と、一緒に祀られていることは、望月牧の馬飼養の技術導入と牧経営にかかわった人たちから、繁栄の基礎を学び、習得したのではなかろうか。 (北御牧村村誌より)
\(◎o◎)/! 渤海国!!!・・深水氏!!日本の苗字七千傑様から頂いた御教示!!
※渤海国からの国使が帰国するにあたり、延暦18年(799)に、その見送りに随伴したのが、「式部少禄正六位下滋野宿祢船白」である。\(◎o◎)/!

(p_-)記述をかなり読み進めると・・横田河原合戦の記述が出てきました。
先程、ご紹介したサイト同様・・
海野氏の氏神、白鳥神社に隣接する白鳥河原(千曲川敷)に集結した主な武将の中に「平原次郎景親」この方の名前がありました。
うん(?_?)海野氏の氏神、白鳥神社・・人吉市・球磨郡内中、到る所に数多くの白鳥神社は鎮座されていますが・・(?_?)

中略・・
自分(木曾義仲)は頼朝に敵対心を抱く理由は何もない、と宣言し、和睦の条件として、さらに頼朝に二心のないことを示す証として、嫡子義高を頼朝の長女大姫と結婚させることを条件に、人質として鎌倉に送ることにしたのです。  
お供に海野氏10代海野小太郎幸氏(海野氏8代海野小太郎幸親の三男)のほか望月・諏訪・藤沢など、一人当たり1,000の兵がつけられた。  
義仲が心配した通り、義仲の死後、義高は入間の河原で頼朝に殺されますが、鎌倉の義高は、大姫に兄のように慕われ、二人の純愛は育まれていて、義高の死を聞いた大姫は、悲嘆のあまり食事も取らず、ついに廃人のようになって、19才の生涯を終えています。義高の墓は鎌倉市大船の常楽寺に、また終焉の地の狭山市には義高を祀る清水八幡があります。
\(◎o◎)/!木曾義仲の嫡子義高を鎌倉に送る際の隋兵「海野氏」「望月氏」・・あれっ??(-.-)・・「義高」・・「海野氏」「望月氏」
こちらの部分・・いつもの妙な感がモワ〜ッと湧きあがってきますが・・(-.-)

記述を読み進めると「■大洞院開基の如仲天・ 」という項もありました。
酒井様から御教示頂いた「大洞院」ですね。

さらに読み進めると
■鎌倉で元服  
海野氏24代海野小太郎幸数・25代海野信濃守持幸父子はおのおの、宝徳元年(1449)、鎌倉で元服し、幸数は上杉憲基を烏帽子親とし、また持幸は足利持氏から一字を拝領しているから、関東管領家に属し、船山郷(現在の埴科郡戸倉町・更埴市)の地頭御家人であった。  
『諏訪上社御符礼之古書(新編信濃史料叢書)』によれば、宝徳元年(1449)に海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。  
また海野氏26代海野信濃守氏幸は25代海野信濃守持幸から継承して延徳(1490)頃まで海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。  
この時期の海野氏の所領は、東は東上田・海善寺・海野本郷、北は小井田・林、西は桶沢・房山・踏入、南は千曲川端までとされており、庶子である海善寺や太平寺の氏の一族を代官として従い、さらに深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配していたという。  

(-.-)・・実際には、こちらのサイトはまだ、しっかりと読んではいないのですが、しかし、ここまでで、十分解る事は・・
滋野一族・・海野氏・望月氏と「平原氏」は繋がっているようだぁー!!と言う事は解りました(p_-)

平原次郎頼範・・・・”平原次郎景親・平原次郎景能”???

日本の苗字七千傑様のサイトで「平原氏」を検索したのですが
横田原合戦の記述に依田城が登場していましたが・・
【清和源氏頼親流】《宇野氏》姓氏類別大観に見える「平原氏」が何だか気になります(..)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01005a.htm
宇野氏・・そう言えば・・系は違いますが海野氏の「宇野太郎(海野太郎)」。
コメントしていませんが、「久保田(窪田)氏」と「宇野氏」の関係で一つ気が付いている事があります(後日(..))

日本の苗字七千傑様のサイトで拝見すると
【藤原氏山蔭流】姓氏類別大観にも平原氏が見えます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02018.htm


平原次郎頼範。
相良頼景信州善光寺参詣時の随兵望月氏。そしてすぐ脇には「海野氏」でした。

平原次郎頼範・新堀又次郎(四郎)頼兼・・
滋野一族 望月氏・海野氏・・平原次郎・・”平原次郎景親・平原次郎景能”

昨日、コメントに書いた「私考」は、益々高まっています(..)

では(..)
[43]酒井ともさんからのコメント(2016年04月14日 11時43分34秒 ) パスワード


皆様、こんにちは。

「平原」
☆「平原」について実は、一昨日気が付いた事がありました。
 多良木町に「平原」という地名が残っていました。
 (ナント偶然にも一昨日「平原」周辺の住宅地図が回覧板に記されていました(^'^))

☆地名はしっかりと”多良木町”に遷移されているようです。


□人吉方面に行き、川辺川にかかる橋を渡ったところが平原(ひらばる)地区と言います。


☆川辺川の橋を渡った所・・と言えば、旧柳瀬村ですね。
   柳瀬村に平原(ひらばる)地区があったという事か・・すごく参考になりました。



相良頼景公下向に随身した平原氏の関係地が出てきましたね。



「平原次郎影能」
>平原次郎頼範・・・・”平原次郎景親・平原次郎景能”???


>平原次郎頼範・・一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子
 新堀又次郎頼金・・一説頼範ノ弟
 右二人ハ頼景下向ノ折随身猶子トナリ、弟分トナル、頼金(頼兼)ハ頼景ノ女ト合縁

このお二人は「弟分トナル」

ただ何代前に分出したとしても、一族は一族ですよね。

弟分になるのは、多面ありますが、同等の姓(かばね) 同等の経歴 同等の領主等の子弟ですよね。


>相良頼景信州善光寺参詣時の随兵望月氏。そしてすぐ脇には「海野氏」でした。

木曽義仲が滅びて、平原次郎は故郷の信濃小県にて雌伏をしている時に
馬の産出地繋がりである、相良頼景の善光寺参詣の折りに随身して多良木にお供した可能性がありますね。

これはロマンがありますね。

平原次郎の信濃の居城と伝わっています。
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/010nagano/008hirahara/hirahara.html



ところで、先日まで「平原」の起因になるかもしれない参考を考え始めていましたが、

信濃の平原次郎説が出て、一気に傾倒し考えが冷めました。

ただ、遠江相良氏の参考になるかもしれませんので、時間を掛け報告したいと思います。


[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月14日 13時20分14秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

酒井様、ご教示ありがとうございます。

〉平原次郎の信濃の居城
拝見致しました。ありがとうございます(^'^)
平原城
所 在 地 長野県小諸市八満
築城年代 鎌倉時代
築 城 者 平原景能

平原景能・・と言う事は平原次郎景能は平原景能
と言う事は・・平原次郎は・・通称ですね!!
同じ通称を持つ「平原次郎頼範」・・となりますね。

すごい!一気に謎が見え始めました。

〉先日まで「平原」の起因になるかもしれない参考を考え始めていましたが
ぜひ、お聞かせ下さい!
多方面から検証する事が重要だと思います!

所で・・
3日程前の出来ごとです。
私の家の前、道を挟んだ井口川の川岸近くに笹竹が原生林?のように生い茂ってしまっていたのですが、そこを、新堀家から養子に入った「平川家」(祖母の実家のお隣)を今に継ぐおじさんと、同じく新堀家から養子に入った「深松家」を今に継ぐおじさんが、綺麗に伐採してくれたのです。(何せ、家は父も私もそう言う事は全くの苦手で(..))
その時に、二人のおじさんと話をしていると、平川のおじさんが、急に「新堀家について何か知らんのかな?」と聞いてきたのです。
それから・・其々の新堀の系が入った3人(3家)で新堀家とは?・・という話をしたのですが、おじさん達は、とても「新堀家」について知りたい様子でした。
ただ、平川のおじさんが「どうも、槻木(旧久米領)の方の系とも繋がっているらしい」との事を言っていました。
槻木の方の系と言えば・・阿部家(安部家)です(p_-)・・
今、私の集落「旧宮原村宮麓侍村」では、「新堀家とは?」という話題で盛り上がっています(親戚だけですが(ー_ー)!!(^'^))
親戚関係も含めて、球磨の歴史を調べている事をおじさん達に伝えると、平川のおじさんは「○○ちゃん(私)がこっちに帰ってきたのも、何かあるとバイ(p_-)」と言っていました(p_-)
雑談ですみませんでした(..)

酒井様、ご教示ありがとうございました。
[46]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月14日 22時18分07秒 ) パスワード

皆様、私は無事です。

激しい余震が続いています。

県内の被害が大変心配です。
[47]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年04月14日 22時19分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

平原は平原朝臣の後裔、源平盛衰記に平原景能。
信濃国佐久郡平原邑発祥、清和源氏小笠原氏族、清和源氏宇野氏族。
他に紀伊国那賀郡安楽川庄平原など。
 
肥後の平原氏は藤原南家相良氏族、上相良の小苗字として平原、新堀、
窪田、岩崎、黒肥地、岡、鍋倉、井口、乙益の九氏。
[48]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月14日 23時16分33秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

かなり、激しい余震が続いていて、動揺しています。
明日、しっかりと御教示を確認させて頂きます。

ありがとうございました。
[49]酒井ともさんからのコメント(2016年04月15日 08時25分01秒 ) パスワード


おはようございます。

一夜明けて熊本の被害状況が放映されています。

未だ予知出来ぬ地震の被害には驚くと共に悲しくなるばかりです。

ミヤハラさんに置かれましてはご無事とのこと安堵しました。

まだ余震が続いているようです。ご自愛下さいませ。
[50]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月15日 10時00分37秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

酒井様、お気使いありがとうございます。
御心配をお掛け致しました。

県内の特に益城町、熊本市の被害が深刻です。
球磨は震源地から離れているのですが、昨晩、コメントを書いた後も
12時過ぎにはかなり激しい揺れがあり、その後も一晩中余震が続き眠れずに朝を迎えました。
熊本県内の殆どの方が同じ状況にあると思います。
私の幼馴染の親友は現在益城町に住んでいるのですが、地震直後からスマホのラインで連絡を取り合い、今、彼女は益城町の避難所にいます。

地震は予測不可能で、まさか、熊本で震度7を記録するような大地震が発生するとは夢にも思っていませんでした。

今、コメントを書いている間にも、又揺れています。

被害が拡大しない事を心から祈っています。

静岡県と熊本県。離れていますが、ありがたいコメントを拝見して、心が繋がっていると思い、涙が出ました。
酒井様、御心配頂き、重ねてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月15日 11時59分25秒 ) パスワード

追記
先程のコメントで〉まさか、熊本で震度7を記録するような大地震が発生するとは
と書きましたが・・
これがいけないのですよね。
私は、福岡西方沖地震も経験しています。
九州の人は、本州の方々に比べて地震に遭遇する確率がおそらく低いので、どうしても「うちの県では大きな地震は発生しないだろう」と言った深層心理があるのだと思います。
私がその一人だったと言う事です。
日本は地震大国です。
いつ、何時、何処で地震が発生しても不思議ではない国に皆住んでいる。
痛感致しました。
[52]ミヤハラさんからのコメント(2016年04月16日 03時11分32秒 ) パスワード

私は無事です
激しい揺れです
怖いです
[54]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月16日 18時41分18秒 ) パスワード

皆様、
明け方の地震以降、数分おきの余震で、昨晩も殆ど眠れぬ夜を過ごしました。

明け方の地震により、沢山の尊い命が失われ、多数の怪我をした方々がいらっしゃいます。
お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
怪我をされた皆様の一日も早い御回復をお祈り申しあげます。

熊本県内だけではなく大分県を震源とする地震も発生しています。

甚大な被害の数々。
阿蘇神社の御拝殿 楼門も倒壊してしまいました。
私達、熊本県民の心の拠り所であった、阿蘇神社の倒壊したお姿を見て、自然の脅威には人間は何もなすべき力を持たない、無力なのか・・と心が切り裂かれる気持ちになりました。

県内の被害は深刻です。
球磨・人吉は、震源地より離れていますが、震源域にお住まいの方々の恐怖がいかばかりであったかと。
震源地より離れた球磨・人吉でも、家の倒壊や、相良村晴山地区などの山間部では国道に亀裂が走るなどの被害が出ています。
願成寺町の相良家墓地の石灯籠五基も倒れてしまいました。
夜に入りこれから、明日にかけて大雨となる見通しです。
地震により地盤がゆるんでいる為に、土砂災害が懸念されています。
私の住む、あさぎり町では町内各所に避難所が設けられ、自主避難を呼びかけるアナウンスが朝から何度も流れています。

皆様、ご心配をおかけして申し訳ありません。
現在の状況をお伝えさせて頂きました。
[55]白石さんからのコメント(2016年04月16日 20時01分19秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ
大変ですね

私 18日の同窓会 古希の祝いを楽しみに この間から 休養をしていて 世情に疎くなっていて 朝 あちらから 会の中止の連絡を受けて えーっとなった次第です。 


本当に怖いでしょう。
ホテルの人の話では 今朝の地震は 震源地が変わって 阿曽をかけのぼってますばい ということでした。

球磨 四浦地方も温泉がありますが
筋が 阿蘇山の方なのか 桜島の方なのか どっちだろうと 思っていたのですが どうやら 桜島 霧島の方の筋なのでしょうね。

大谷の親戚の話では 家の近所の細い通路の石垣の石がとびでてしまったということでした。かなりの力が加わったと思います。

そして
ああいうところは 避難所に行くと言ってもその道中が危ないのですね。山がくずれないか 洪水がこないか 生きた心地はしないと思います。
息子が同居をしている様子。松橋まで 出勤しいようとして道路が寸断されていて 帰ってきたと言っていました。陸の孤島になりかねませんね。

さしおり
車には常に毛布や水 食料を積んで おいてね と 言って電話を切りましたが
聞いている私も 足が震えました。

[56]白石さんからのコメント(2016年04月17日 10時59分06秒 ) パスワード

地震が縁になって 卒業以来話すことがなかった人から連絡が入り 
その人から 
自分の父方が 晴山犬童家 綱木家 初神尾方家 
母方が こがしわ集落の こがしわさん
だと 聞き込みました。


は 確か 下手の集落の先生をしていた方のつながりで
佐々木先生と 姻戚になるようです。

ぐるぐるつながっていますね。

尾方家は 平川へおばあさんが 嫁入っていて
そのもとは 中村という家から 出ていて
中村から あちこち つながっている形です。

犬童さんは 監督の 犬童一心さんが おられます。
東京出身の説明ですが もともとの 出所は 四浦晴山ということです。

本人は 今 渕上雅代さん 歌手 の 追っかけをしていると言っていました。
年言ってからの楽しみだとお。
雅代さんは 天草が もともとの出所とのこと。

美形ですね。

[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月17日 11時50分29秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様
コメントありがとうございます。
昨晩、球磨はかなりの雨でしたが、幸いにも今朝は雨もあがり、晴天です。
しかし、県内全ての場所でゆるんでしまった地盤の上に土壌が水分を含んでいる為、少しの揺れでも危険な状態です。

相良村四浦の御親戚も御心配ですね。

今朝も頻繁に余震が発生しています。
少しずつ、身体が揺れに慣れてしまっています。それも、本当は危険な事なのだと思います。

御心配頂き、ありがとうございました。

皆様、申し訳ありません。
未だ、今まで通り、調査を始める気持までは至っていません。
この事態の収束を心から願うばかりです。
[58]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月18日 17時55分47秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

今日は曇り空で、時折パラパラと小粒の雨が降っていました。
相変わらず、余震は続いています。

全国から集まって来られた、自衛隊員の方々、警察官の方々、消防員の方々、他沢山の方々の自らも危険にさらされながらの懸命の救助活動。
心からありがたいと感謝してテレビを見ていました。

地震は熊本だけではなく大分県でも深刻です。
昨日から、北東部だけではなく、南部の八代市を震源とする地震も発生しました。
八代市を震源とする地震の時は、横揺れではなく、縦にズドンとつき上げられるような感じでした。
今朝の全国放送の報道番組から、幾つかの番組が「熊本地震によって影響を受けた可能性の高い周囲の活断層について」を何度か取あげています。
ご覧になられた方もいらっしゃるかと思います。

各番組内で地図上に書かれた県内外の上記の活断層の中に「人吉盆地南縁断層」がありました。
「人吉盆地南縁断層」とは球磨郡湯前町から旧久米村・旧奥野村・旧岡原村・旧上村の山の麓を通り錦町に抜ける活断層です。
実は、人吉盆地南縁断層は私の住む旧岡原村宮麓集落を通っています。

幾つかの番組で取り上げられた事を受け、恐怖に駆られてばかりではいけない!と父と「もしも」の時のシミュレーションをしました。

今から、三十分ほど前に、町の防災無線で、町の総合福祉センターに夜間自主避難所を開設した事、そして避難を呼びかける放送が繰り返し流れました。

地震の収束のめどはたっていませんが、とりあえず、期間は本日から21日までと言う事になっています。
町の総合福祉センターは家から7〜8キロ程離れた平野部の中心にあります。

このような事態となってからは、「まさかこの場所に限っては・・」という言葉は封印しなければいけないと痛感しています。
想定外は存在しない!という現実を数日間でしっかり認識しました。
其々の大切な命を守る為に「万が一に対しては確実に備える」という行政の対応だと思います。

しかし、
これ以上被害が拡大しない事、この事態の早期収束が心からの願いです。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月18日 21時44分18秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 横レスさせていただきます。

 大変な事態が続いておりますね……ただただ、御無事であることをお祈り
いたします。これ位のことしか言えないことがはがゆく思われます。

 地面がグラグラするというのは、世界が崩れてしまうようで、大変なショ
ックを受けられたと思います。

 でも、般若心経なりお経を唱えると心強くなれると思います。私も、般若
心経を唱え、おりんを叩いて、遠い彼方よりその念波だけでも送らさせてい
ただきます―
[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月19日 11時01分58秒 ) パスワード

丸三柏服部様

御心配頂きまして、ありがとうございます。

頻繁に続く余震で、本当の所、「この先どうなっていくのだろう・・」と心が滅入っていました。
お言葉を頂き、身体がポカポカと暖かくなり、心強くなりました。
心と心の繋がりが、強い気持ち、勇気を受け取る事が出来ると云う事がしっかりと解りました。

被災地の友人に連絡を頻繁にとっているのですが、私が滅入っていたら、もっともっと苦しい思いをしている友人には温かいパワーは決して伝わっていなかったと反省しています。
心を強く持ち、今の事態の早期収束を願います。

丸三柏服部様、重ねてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
[61]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月20日 11時15分36秒 ) パスワード

皆様、今日は。

昨日の夕方、熊本県八代市で震度5強を観測。
その後、同じく八代市で震度5弱を観測。
私の住む球磨郡あさぎり町でも、震源が近い為、かなり揺れました。
いつ、何処が震源となるのか全く解らない状況ですが、縦に長い断層の下、すなわち熊本県南部を震源とする地震も多発しはじめました。
夕方以降、ズドングラッといった比較的短い、おそらく、震度1〜2の揺れが続いています。
震度1〜2の揺れは、テレビの地震速報には表示はされません。
私だけでは無いと思うのですが、ズドングラッと揺れると、「今、何が起きたのか情報を確認したい」という意識が働きます。情報を目にすると、それだけで、何故か「ああそうなのか」と納得し変な云い方ですが安心します。
ネットの速報やテレビを見るのですが、先程も書いたように規模の小さい余震はもちろん出ません。

そこで、福岡西方沖地震以降、幾度か見ていた
国立研究開発法人 防災科学研究所 HI−net高感度地震観測網 こちらを利用しはじめました。
http://www.hinet.bosai.go.jp/?LANG=ja

こちらでは、テレビやネットで表示されない震度1〜2クラスの余震も速報で詳細が表示されます。

過敏に成り過ぎていると思われる方もいらっしゃるかと思います。
しかし、データ(情報)を処理する仕事を何十年も続けてきた私には、詳細を見る事によって、変な話ですが、心が落ち着きます。
専門家でもなんでもない私が上記の情報を見てもどうしようもない事なのですが、私を例にあげると「人は情報を見る事によって不安を和らげる事が出来る」という事なのだと思います。

国立研究開発法人 防災科学研究所 HI−net高感度地震観測網はスマホでも見れます。
検索ワードに「HI−net 地震」と入力するとピックアップされます。

私は今は殆どパソコンを起動する事はないので、スマホで見ています。

精神的に少し不安定なのかもしれませんが、でも、「心を安定させ強く持つ手段」を自分なりに模索しています。
でも、私がこんな事を言っていたら被災地の方はもっともっと辛い苦しい思いをされているのですから申し訳ありません。

日本全国何時何処で、地震が発生するのか全く解らない状況です。
私と同じ不安を抱えている方もいらっしゃると思います。
国立研究開発法人 防災科学研究所 HI−net高感度地震観測網
(検索ワードに「HI−net 地震」と入力するとピックアップされます。)
を御紹介させて頂きました。
[62]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月20日 13時46分15秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2016年04月20日 14時34分37秒
[63]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月20日 14時34分18秒 ) パスワード

コメント61の補足ですが

〉震度1〜2の揺れは、テレビの地震速報には表示はされません。
上記は最大震度の事を指します。 言葉足らずですみません。

コメント58に書いた
〉あさぎり町の総合福祉センターに夜間自主避難所を開設された
上記はあくまでも自主避難所です。
高齢の方々など、揺れが怖くて家では眠れないという人達が夜間の自主避難所として利用しています。
ですから、コメント58で書いた
〉避難を呼びかける放送が繰り返し流れました。
とは、「夜間自主避難所の利用を呼び掛ける放送」と書いた方が正確だと思います。
すみませんでした。

先程、情報が錯綜しているという事をテレビで見て、あらためて、「言葉」は動いていると感じ、自分のコメントを読み返して、ここで訂正させて頂きました。

ただ、残念な事は、ネットを悪用した悪戯のような書き込みが発生している事です。
悲しい事です。
[64]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月20日 15時39分37秒 ) パスワード

続けて書かせて頂きます。

昨日の地震で、熊本県南部八代市では震度5強、芦北町震度5弱を記録しています。
鹿児島の薩摩川内市では震度3でした。

日奈久断層帯の南西部の地震です。
鹿児島には出水断層帯もあります。
私の住む、球磨郡には人吉盆地南縁断層があります。
ここから書くのはあくまでも私が感じている事ですので、多数の方がそう考えているか?は解らない事ですから御了承下さい。

熊本県南部を震源域とする地震の場合、もちろん、私の住む町も強く揺れます。
しかし、すぐに頭をよぎるのが津波は大丈夫か?「薩摩川内市」はどうなのだろう?という事です。
とても怖くなります。

薩摩川内市には川内原子力発電所があります。
熊本県内で強い地震が発生した場合はいつもテレビで「川内原子力発電所」の状況が報道されます。
毎回、「先程の地震による影響はみられません」という回答が原子力規制委員会から発表されます。

私が怖いのに川内原子力発電所の近隣地域に住む方々はもっと怖い思いなのだろう・・と悲しくなります。

私は原子力発電所の賛否を問うような活動をしている訳でも何でもありません。
ただ、普通に生活している所に突然襲った今回の熊本地震に怯える普通の主婦です。
一定の地域だけではない、様々な場所を震源とする地震が多発している、それをグラグラ揺れながら身体で直に感じている住民の一人です。
尋常ではない事態に「この先どうなっていくのだろう」「何処で何が起こるか解らない」と不安いっぱいの主婦です。

川内原子力発電所・・「先程の地震による影響はみられません」
影響が出た時に、対応する・・と考えると不安が一層増してきます。

不安ばかりではいけないと少し勉強してみました。
サイト NHK NES WEB
タイトル 原子力規制委員長 川内原発の運転止める必要ない 4月18日 16時57分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160418/k10010486821000.html

熊本県などで活発な地震活動が続いていることを受けて、原子力規制委員会の田中俊一委員長は、稼働中の川内原子力発電所について、「不確実性があることも踏まえて評価しており、想定外の事故が起きるとは判断していない」として、今のところ運転を止める必要はないという考えを示しました。
記者会見では、気象庁が今後の活動について正確な予測ができないとしていることから、予防的に止めることはないのかと質問が出されました。
これに対し、田中委員長は、川内原発の審査の過程で今回の震源とみられる布田川・日奈久断層帯の地震を含め、不確実性があることも踏まえて評価しているとして、「川内原発で想定外の事故が起きるとは判断していない」と述べ、今のところ、川内原発の運転を止める必要はないという考えを示しました。
今後の地震対応については、「法律上、安全上、懸念がある場合は止めることができるが、今のところ科学的根拠がない。大きな地震を起こす震源と原発の距離が重要で、原発の間近で大きな地震が起きたのであれば行政で止める判断もありえると思う」と述べ、今後の地震の動向を注視する考えを示しました。
また、川内原発より震源に近い熊本県益城町では、防災科学技術研究所の分析で1580ガルの地震の揺れが観測されたことが分かっていますが、川内原発で想定される最大規模の地震の揺れが地下の岩盤の部分で620ガルとされていることについても質問が出されました。
これに対し、原子力規制庁の担当者は、観測された場所や周辺の地質によっては揺れが増幅されることもあるとして、今後分析する考えを示し、これを受けて田中委員長は「地質構造などいろんなことが影響するので一概には評価できないが、今判断を変える理由はないと思う」と答えました。

川内原発の「基準地震動」とは
原子力発電所であらかじめ想定する最大規模の地震の揺れは「基準地震動」と呼ばれ、これを基に原子炉建屋や冷却設備など重要な施設の地震対策を取ります。
新しい規制基準では、原発の周辺にあるすでに存在が分かっている活断層による地震の揺れと、存在が分かっていない活断層による地震が起きた場合の揺れのいずれについても、過去の地震や周辺の地質構造を調べて、基準地震動を決めるよう定めています。
川内原発の場合、まず、存在が分かっている活断層による地震の想定では、熊本地震の震源とみられる布田川・日奈久断層帯を含めて検討が行われ、原発の南に20キロほど離れた断層を震源とする地震の影響が最も大きいとして、基準地震動を540ガルとしました。
また、存在が分かっていない活断層による地震の想定では、震源に近い観測点で比較的精度の高いデータが得られ、地質学的にもありうるケースの地震として、2004年に起きた「北海道留萌支庁南部地震」の記録を基に最大の基準地震動を620ガルとして妥当とされました。「北海道留萌支庁南部地震」のケースでは、震源に近い地表の観測設備で1127ガルという揺れが記録され、地下の固い岩盤の表面での揺れは585ガルと推計されています。九州電力はこの評価結果を参考に不確実性があることも踏まえて620ガルという値を導き出したとしています。
中略・・
====================================================
最初の地震発生直後から今まで、怖いと考えても実際には全く勉強していなかった事でした。
勉強してみると何だか・・さらに不安になりました。
※田中委員長は、川内原発の審査の過程で今回の震源とみられる布田川・日奈久断層帯の地震を含め、不確実性があることも踏まえて評価しているとして、・・
でも・・今は上記の審査の過程の時とは、明らかに状況が違うと思います。
気象庁は「予測不可能な状況」と発表されていたと思います。

※法律上、安全上、懸念がある場合は止めることができるが、今のところ科学的根拠がない。
※原発の間近で大きな地震が起きたのであれば行政で止める判断もありえると思う
大きな地震が起きた時に止める判断・・その時、専門家ではないので解らないけれど間に合うのでしょうか・・

※川内原発より震源に近い熊本県益城町では、防災科学技術研究所の分析で1580ガルの地震の揺れが観測されたことが分かっていますが、川内原発で想定される最大規模の地震の揺れが地下の岩盤の部分で620ガルとされていることについても質問
※これに対し、原子力規制庁の担当者は、観測された場所や周辺の地質によっては揺れが増幅されることもあるとして、今後分析する考えを示し・・
※これを受けて田中委員長は「地質構造などいろんなことが影響するので一概には評価できないが、今判断を変える理由はないと思う」と答え・・

何度も書きますが、私は、原子力発電所に関わる反対運動に参加しているとかそういう事は全くありません。
ただ、今、こうやってコメントを書いている間も、家が「ガクッ!ビシッ」と激しい音を鳴らすような余震の中に生活する普通の主婦です。

不安を取り除きたいと考えて、少し勉強してみようと思いサイトを色々検索してみて見つけた情報です。

取り越し苦労と言われる方もいらっしゃるかと思います。
でも、この状況下にいると・・
勉強して、私の感想は・・ますます、怖くなりました。
[65]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年04月20日 18時08分18秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>取り越し苦労と言われる方もいらっしゃるかと思います。
でも、この状況下にいると・・
勉強して、私の感想は・・ますます、怖くなりました。
 
地震で最も怖いのは津波でしょう。
「川内原発」について
http://www.kyuden.co.jp/library/pdf/csr/2015/csr2015_leaflet_01.pdf

怖くなった時は敷島の道ですよ。
契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末(すゑ)の松山 波越さじとは

          清原元輔(42番) 『後拾遺集』恋四・770
 
末(すゑ)の松山は標高15m
東日本大地震の際も、津波は末(すゑ)の松山を越えませんでした。
福島原発は海に対して野ざらし同様だったからね!
川内原発の技術者も、敷島の道を念頭に置いたのかな。

[66]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月20日 18時57分42秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。

私は精神的に少し気弱になっているのだと思います。
もっともっと苦しい辛い思いをしている方々が沢山いらっしゃる中、皆さんに申し訳ない限りです。

「川内原発」について
サイトを開き、印刷して読みました。
心の不安が大夫解消しました。
ありがとうございます。

どうしても「これから先、何が起こるのか」と不安ばかりつのり、何でも悪い方へ悪い方へと考えてしまって・・
強くあろう!と頭では考えるのですが、ギシギシ、ギシギシと音を立てる家の中にいると、心の中の弱い部分がどんどん増してしまっていました。

日本の苗字七千傑様
悪い方へと思考が傾いていた私に、冷静になれる、知らなかった情報を届けて下さって本当にありがとうございます。
コメント64で私は
〉不安ばかりではいけないと少し勉強してみました。
と書いていましたが、全く「勉強」していなかった事が良く解りました。

日本の苗字七千傑様
私、冷静になれました。 ありがとうございました。

日本の苗字七千傑様、酒井様、丸三柏服部様、空の青海のあを様、白石様、そしてスレッドをご覧頂いている皆様。
皆様の温かいお心を頂いているのに、私は気弱になっていました。
本当に皆様すみませんでした。

余震が続いているとはいえ、水も出て、ガスも使え、電気も使える環境にある私が心が弱くなってしまって・・
大変な状況下の中必死に頑張っていらっしゃる被災地の方々に心からお詫びしたいです。すみませんでした。

心強くあります。
[67]ミヤハラさんからのコメント(2016年04月23日 10時46分53秒 ) パスワード

皆様、
ご心配をお掛け致しまして申し訳ありません。
一昨日、昨日とギシギシ家が音を立てるような地震は
少なくなってきました。
このまま、収束に向かう事を心から祈っています。

皆様
本当にありがとうございます。
[68]ミヤハラさんからのコメント(2016年04月23日 10時57分50秒 ) パスワード

皆様、ご心配をお掛け致しまして申し訳ありません。
一昨日、昨日とギシギシ家が音を立てるような地震は少なくなってきました。
このまま収束に向かう事を心から祈っています。

皆様、本当にありがとうございます。
[69]白石さんからのコメント(2016年05月18日 23時55分45秒 ) パスワード

みやちゃn
こんばんわ
お久しぶりです。

私 先月18日から一か月 いやも応もなく病院に押し込まれていました。今日やっと退院してきて みやちゃんのコメントにありましたところを開いてみました。

今日は福島で地震。鵜和あ という思いです。あっちもこっちもですもんね。
病院にいる間 四浦に電話したら いつものようにお茶罪をしたとのこと でも 夜は車の中で寝泊まりしているそうで 

本当に恐ろしいのだと思いました。
微々たるお金ですが 現金収入がほしかろうと いつもの量をお願いしました。
いつもより多くしいたけが 入っていました。

故郷のシイタケ 味が濃い胃様な気がして お茶と一緒に毎年お願いしているシイタケ どうか  地割れなどで お茶畑などがやられないようにとただただ願うばかりです。

祈り ですね。大自然の前では 祈るしか・・・

熊本市内にいる同級生と 一人だけ 電話が通じないのだと もう一人の同級生が言っていました。携帯などで 安否の問い合わせは控えるように 携帯の会社の案内が出るので 控えていましたが 気になることです。

みやちゃん
本当に 口ばかりで何もできませんが 気を強く持って お父様を励まして差し上げてくださいね


[70]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年05月22日 11時04分42秒 ) パスワード

皆様、お久しぶりです。
御心配をおかけして、申し訳ありません。
一日の間に発生する震度1以上の地震はかなり減っていますが、未だ被災地で大変なご苦労をされていらっしゃる方々の事を考えると地震の収束が見えるまではコメントを控えようと思っていました。
昨日、被災地に住む幼馴染に電話をすると、彼女は、余震の不安から続けていた車中泊をやめて家に帰って来たと言っていました。
「久しぶりに庭に出たら、草が伸び放題で・・だから今草むしりをしているの!気分も紛れるしね!」といつもと変わらぬ明るい声に戻っていて少しだけホットしました。
働きながら、子育てをして、彼女・息子さん・娘さんの三人家族で、一連の地震を、三人で力を合わせて乗り切ろうとしています。
一日の地震の回数が減ったとは言え、昨日も明け方から震度3の地震が立て続けに三回起きて、私の住む球磨は震度1、彼女の住む地域は震度3。
不安だろうな・・と思い電話をしたのですが、彼女は
「心配掛けてごめんね。私が揺れた揺れた!と騒ぐと子供達が”うん揺れた。お母さん落ち着いて”と子供の方が冷静に騒ぐ私をおさめようとするの」と笑っていました。
彼女の声から、笑って不安を吹き飛ばそうと、今を必死に乗り越えようとしている彼女の強い力を感じました。
来月には私の家に泊まりに来る事になり、その時にネットでささやかれている”球磨の活断層”の話になりました。
私の声から私自身の不安を感じ取ったのか、彼女は
「もう、何処にいても一緒!揺れる時は揺れるんやけん!地震はいつ何処で起こるか解らんとやけん!不安でいても仕方なか!不安ばかりじゃ前には進めん!」
と。
私よりずっと怖い思いをして、今でも大変な状況にある彼女から、私は励ますどころか、逆に励まされているようで、自分自身が恥ずかしくなりました。
よしっ!!
ぼ〜っとしてはいられません(ー_ー)!!
私も前を向いてしっかりと進んで行かなければ!!

友達が最後に私に
「○○ちゃん(私)。お父さんの所に帰って来ててよかったね。私、ずっと思ってた。もし、おじさん一人やったら、今の状況は本当に不安だったろうな〜って。ホント、○○ちゃんがおじさんの側におって(いて)良かった〜」
私も、実は、地震が発生した以降、ずっと同じような事を考えていました。
もし、私が、去年球磨に戻って来ていなかったら、父は一人で地震にあい、不安な日々を過ごしていたんだな・・と。
そういう状況であったとすれば、私自身も、父が心配でたまらなかったはずです。
人の人生は、不思議なものです。

子供の頃から、私は父を「強い人」と思ってきました。
実際に父は空手や銃剣道の有段者で、強い気持ちを持った人です。
しかし、今回の地震で、父の流す涙を何度も見てしまいました。

父は前職で、熊本県南部の防災会議に何度も出席していました。
想定される被害を知っていた・・だからこそ、「市房ダムの決壊」への不安や、原子力発電所への不安が大きくなって夜も眠れない状態になったようです。
日本の苗字七千傑様より御教示を頂いた資料で父の原子力発電所への不安は減り落ち着きました。
日本の苗字七千傑様、本当にありがとうございました。
父も高齢になってきたのだと痛感しました。

父だけではなく高齢者の方は多くの不安を抱えていると思い、私に出来る事は何かを考えました。
私の住む集落には独り暮らしの高齢者の方や、高齢者の御夫婦だけの家などがあり、地震以降は、出来るだけ、「おじさん!元気ですか!」とか「おばさん!昨日揺れたけど家は大丈夫だった!?」とか声かけをするようにしています。
皆様ご存知の通り?私はおっちょこちょいなので、近所の家に行っては声かけをした後は、無駄話?をして、おじさんおばさん方を笑わせています。
私には何も出来ませんが、地域のお笑い担当?として、高齢者の方々の気持ちが少しでも晴れたらな〜と思っています。
私の近況でした(..)

白石様、ご心配をおかけいたしました。
温かいお言葉、ありがとうございます。
入院されていらっしゃったとの事ですが、今はもう大丈夫なのですか?
お身体、無理なさらないで下さいね。
私も、もう少ししたら、必ず本来の「平川家について」の調査に戻ります!
待ってて下さい!

では、皆様、
どぎゃんかなる!頑張ります!
[71]白石さんからのコメント(2016年05月23日 22時22分12秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ
元気そうでよかったです。

4月18日から5辰18にちまで 入院してやっと退院しました。

心不全とネフローゼでした。
しかし
自分では苦しくもなく ンッという感じでしたが
要するに体が慣れて馬鹿になって まかり間違えばそのまま痛みもなくしんでいたかっもしれなかったんだ ということd江一命をとりとめたと言うことです。

ただ
その前に 我が家の生活の利便性から転院希望を伝えていて それがなかなか紹介状がもらえずに行ったとき 
[72]白石さんからのコメント(2016年05月23日 23時00分16秒 ) パスワード

ごめんなさい
また パソコンがおかしくて とりあえずアップしました。

紹介状のはなし
心不全ではいって 体が まだ 頑健にかえっていないのに ランナーに乗って 心拍210の負荷をかけて 走ってもらうと言うのです。
それで 循環器の先生にそんなことをしたら 倒れてしまうのは目に見えているのに 倒れたらどうなるのか と 効くと

その時は 速攻でここで入院してもらう といい
それをしなければ 糖尿の先生から怒られるから

どうしても いやなら 当日キャンセルを入れると良い という返事。
医師の独自性がないのか?と思うけど とにかく 再検査の日にちがせまっているので 息子が 病院にきやすい道筋にある ということを 言い立ててその病院への 

紹介状をもらいなさい と 開業医の救急車を要請してくださった先生からおしえてもらい
こんど 強力にそういって 紹介状をもらおうと 思っています。

病院が不気味なのです。無理にでもやりにでも透析に持ち込んで 一度来た患者をのがさずの勢いで 
クレアチニンが 1.8とかそういう値で 腎移植とか腎透析 とかいって
そういうのって 一度はじめたらいっしょうつづけるのでしょう?

いとこたちが 腎臓で全滅しているので どれくらいの値で透析などはじまるのかきくと
まだ 早い と言いました。少し びよういんがおおげさなんじゃないの? 2〜3か所あたってみたら ? 6とか8とかになってからするのよとと言っており 
自分の体調も これで 透析なのか?と思うところもあり ランナーなどにのって体に無理をしなければ そのまま この状態を維持して生活すればよいのでは?

とも思い やはり 転院のお願いをしてみようと思います
今は快調に生活しているのです。
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