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 投稿番号:101515 投稿日:2016年02月22日 04時45分44秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LⅫ (2016年の課題確認5)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101511_59.html
長上郡の服部氏族LⅪ(2016年の課題確認 4)のスレッド61の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


これまでの調査目的を改めて纏め直します:

     1.服部氏の始祖は? 
     2.どこから来たのか?
     3.どこへ広まったのか?
     4.何をしたのか?
     5.残ったのは誰か?
     6.その他は何故消えたのか?



ここで原点に立ち戻り『新撰姓氏録』の服部連についての考察で
「はとり」の『は』の音から浮んだ9つの謎:


 @蚕(カイコ)の足は「八対」であるということ
  八に見事に関係した虫(神の虫)であること。

 A天照大神が高天原で神御衣を織っておられたことから
  機織りの服部族は、
  いはば祭祀の中心に近いところに位置していたのでは。

 B伊勢神宮の外宮の豊受大神の出自は、
   天降りした「八天女」の中の一人。
   外宮は月神で、「羽衣」とつながります。
   ハトリのハは「羽」のことを指すのでは。

 C天皇が「天の羽衣」を着ることは、天上に昇る力を身につけること。
   ハトリとは祭祀・呪術では。

 D天皇の玉座の高御座は、
  八角形で、しかも屋根にあたる部分の八つの角には
  鳳凰のような鳥(とり)が備え付けられている。

   これは、正に「ハトリ(八鳥、羽鳥)」である。

 E鳩(ハト)。
  鳩を分解すると「九」の「鳥」。
  9とは「神」を表し、神の国と地上をつなぐ鳥が鳩。

  ノアの方舟でも、放たれた鳩がオリーブの枝を加えて来た、
  という話がある。


 F服部連の祖は二系統。

     大和の服部連が「天御中主」、摂津・河内の服部連が「熯之速日命」。
     天御中主は旧約聖書の「ヨブ」に比定される。
    「ヨブ記」を書いたのはモーゼと言われている。
    ハットリはヨブを祖とするのでは。


  Gハトリ・ハットリの音。
   現トルコのアナトリア地方にある、ハットゥシャシュ(ハッティ國首都)、ハッチ=ハッティ=ハッタイト
   そしてその後のヒッタイトの音に通ずるのでは。

   Hモーゼはエジプトにいた。
   エジプトは太陽神ラーを崇拝。
   そのラーは「ホルス」でもあります。
  
   ホルスとハトホル夫婦の物語は七夕神話の原型では。

    デンデラのハトホル神殿にはサナトリウムがあった。
 
    伯家神道の祝之神事は、古代エジプトのハトフル神殿の儀式に由来しているのでは。


服部氏の謎について以上9つの関連性が浮びました。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月22日 11時24分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドの趣旨、うまくまとめていただきましてありがとうござい
ます。

 「ハトリ」の謎に迫った人はあまりいません。当地方の歴史研究者に一人
おられます。この方の主張もまとめてみます。但し、表層の追及に終わって
おります。真相に迫るには、古代ヘブライ語・アラム語あたりを少なくとも
理解していないとできないとは思っています。言語学的に言っても、現在の
日本語が確立されるのは、万葉集や日本文学の古典が生み出される頃だと
思います。「訓読み」というのが基本的には当時の口語であったのかなあと
思われますが、それが確立するまでは当然子音的発音も、アイウエオ的でな
い中間的な発音もあったのではないかと思われます。
 ということは、「ハトリ」は[hatori]と発音されたのかどうかという問題
が生じます。「ハットリ」についても同様です。古文の時間に、平安時代は
hの発音はpであった(fかも知れませんが)と教えられた覚えがあります。そ
うすると「はは(母)」は「ぱぱ(パパ)」になってしまう。その当時の発音が
録音されている訳がないので、正しいかどうかは確認できませんが、この説
によれば―

 I「ハトリ」は「パトリ」になり、「パトリアーク」を連想させます。
   その意味は、「族長」「司教」等であります。

 J「ハ」を「神」とすると、「ト」は「人」、「リ」は「里」で、「ハト
 リ」は「神に仕える人たちの里」、「神人の村」という解釈ができるか
  も知れません。
  
 いずれにしても―

 K神は旧約の(ヤ・ハ・ウェ)か、また「八」はキリストを表す整数とも言
  われていますので、物部系でしたら前者、弓月の秦系でしたら後者なのか、
  ゲマトリア(数霊)の知識が必要になって来ます……。

服部氏はやはり謎深い氏族であります―祭祀にかかわる氏族―物部氏、
忌部氏、斎部氏、中臣氏、賀茂氏、秦氏等に近い関係……。

 L服部氏は「服織神社」を祀っている、ある意味祭祀族だったかも知れま
 せん。而して、「服織神社」の祭神は―「天御中主命」「熯速日命」「天
 穂日命」等でここに秘密とヒントが隠されている可能性があります。

 ここで切ります―
 
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月22日 13時25分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

> hの発音はpであった(fかも知れませんが)

はい。
「は行の音」の歴史は h ← f ← p ですね。
pの音が先にあって fに変化し  江戸時代あたりにhになったと習った記憶です。

「『母』の音は元がはパパで、その後、パパがふぁふぁになって、ふぁふぁがハハになった」と習いました。



ということでウイキから引っ張って来ました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E

/h/と/p/

文献以前の日本語には[p]音が存在していたと考えられているが、
これが上代日本語末期までには既に摩擦音[ɸ]となり、
さらに近世日本語において[h]音へと変化して現在に至る。

                                 ↖ ココですね。
                 

         音の話は文字では説明が難しいですね。笑

中世日本語には上代までに一旦消えた[p]が再び現れたが、[ɸ]と並立することから[ɸ] (音素/h/としておく)とは異なる、新しく導入された音素/p/として扱われる。


「さんぱい」「にっぽん」のような漢語だけでなく、
「ぴんぴん」「ぱっと」などの擬態語にも使われる。


語頭以外の/h/は平安時代中期に/w/と統合したため、中世には/a/・/o/が後に続くときには[w]音になるが、その他の母音の前では発音されない。

よって語頭以外のハ行は下記の通りとなる。
「-は」: /wa/: [wa]
「-ひ」: /i/: [i]
「-ふ」: /u/: [u]
「-へ」: /ye/: [je]
「-ほ」: /wo/: [wo]

                  なるほどね〜

以下略




家父長制:patriarchy

patriarch はそもそも語源がギリシャ語ですから「はっとり」は中東あたりの語だったかもですね。

    聖書はもともと古代ギリシャ語に訳されて(紀元前4世紀あたりかららしい)
    その後ラテン語になって、更に後の世に地方の言語に訳されたのですから

    「はっとり」の語源が解明されると良いですね。


פַּטרִיאַרך  ← きっとここにはヘブライ語は印字出来ないでしょうね
でも、この発音を聞きたいです。
ネット検索では出ないです。残念


「はっとり」の語源は実は中東あたりから出た、かも、なんてロマンですね。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月23日 14時17分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ハトリ(ハットリ)について、色々考え調べておりました。どうも秦氏とは
違うというか、弓月の秦氏より物部氏(秦氏)に近いような感じがいたします。
ハトリ(ハットリ)を理解するには、「服(ハ)」「神(太陽神 鳥と蛇)」「エ
ジプト」についてもう少し掘り下げる必要があるのではないかと思っており
ます。エジプトというのはモーゼがからみます―
 今、色々な情報に目を通しております。渾沌とした状態です。この渾沌の
中から言葉の糸を紡ぎだす―紡ぎ出した糸を重ねて撚り、そして織るという
織物を作る作業と同じような作業です。
 バラバラの情報を、線でつないで論旨を作って行くという作業―さてどう
なりますか。
 
 最近思うようになりましたが、現代のように科学的考え方が浸透した時代
でない昔の世界では、何事も神に祈るという風潮があったと思います。そし
て重大なことを決断せねばならない時には、「神がかり」が必要だった。そ
れは、自分が神がかりの状態になれれば良いが、なれねば誰かに頼むという
ことになる。神主、僧、山伏、巫女、呪術師、シャーマン……、人間にとっ
て不可避な事であるのかも知れません。

 ハトリ(ハットリ)の謎は、「服・布・衣」と「祭祀・祈祷」と「太陽神」
の三条件を満たすものがわかれば、解けるのではないかと推測しています。

 ここで切ります―
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月23日 14時27分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


「神がかり」「神だのみ」その他
便利な思考ですね。


右利きなら左手
左利きなら右手の第一関節の
筋の上に  へ  または   )← 横に寝かせてください のような筋があると
「仏眼」
という相だそうで(笑)
霊感のある人がコレを持っているそうです。


ワタシは崩れて来ています。
もうご先祖さまからのオカルトパワーは来ないようです。

[6]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月24日 02時29分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 なかなか言葉の糸が紡げませんが、考えてみれば、「言葉」とは何気なく
使っていますが、不思議ですね。よく創ったものだと思います。
 例えば「とり」(鳥)……何で鳥のことを「とり」と言ったのでしょうか?
 今この答えはわかりません。

 古代においても「とり」という訓があったのかもしれません。さらにその
昔に何故「とり」といったのか……?
 「と」という言葉に言霊があるような気がします。

 エジプトに「トト」神があります。この神は「トキ」(朱鷺)の頭をした神
であります(ヒヒもシンボル)。
 トリ(鳥):トキ(朱鷺)、トビ(鵄)、ハト(鳩)……やはり「神」にからんで
来ます。

 エジプトのヒエログリフを少し勉強していますが、クレオパトラを表すヒ
エログリフには、二つの鳥が入っています。発音では「ア」らしいですが。

 いずれにしてももう少し時間がかかります……。
 

 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月24日 06時59分48秒 ) パスワード

http://gogen-allguide.com/to/tori.html
コピペガード付き


「鳥」の語源
   「とるもの」  (狩りの獲物、手に入れるものの≪とるもの≫)
   「とぶもの」


では「と」とは本来何か?ですね。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月24日 17時29分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「ハトリ」を追及ということで、エジプトのヒエログリフや神々や、宗教
思想、言霊まで調べに入りました。
 超古代も足を突っ込んだら底なし沼でありました。いろいろなことがわか
りましたが、それをまとめて今伝えるだけの理解力はまだありませんので、
暫くは頭の中で温めておきます。いずれ、理路整然と述べられる時が来ると
思います。本当に歴史というのは一筋縄にはいかない複雑なものであります
ね。
 「ハトリ」については、オーソドックスなところで整理しますと、以下
全部「ハトリ」であります―
 @執翳  即位などの大礼で、天皇が高御座(たかみくら)にある時、左右
     八人ずつ並び、翳(さしは)をかざして天皇の顔を覆う女官のこと。
 A服部 服部村の表現に使用されている。
 B羽鳥 羽鳥村の表現に使用されている。
 C服織 服織神社の表現に使用されている。
 D織部
 E織
 F波登利 万葉仮名のふり方による表現。
 G波止利      〃
 これらは状況証拠というものに近いレベルであります。
 ここからは本当の語源・意味はわかりません。

 では、「ハトリ」を文字の組み合わせとして、分解してみます―
 @「ハ・ト・リ」
 A「ハト・リ」
 B「ハ・トリ」
 C「ハタ・トリ」(タとトが合体してトとなる)
 D「ハタ・トリベ」(同上。プラス、ベが脱落する)

Dは「はた」の「部族、部民」ということで、この「はた」を「秦」と
解すれば、「秦の部族」となり、「服(はた)」と解釈すれば、「服にかかわ
る部民」ということになります。
 「ハ」だけに注目しますと、「服」「羽」、いずれも「ハ」と読みます。

 ここで切ります―
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月24日 22時37分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


何千年もの悠久の時間があって現代に至ったその間に変化しまくったのですから

でもいつかハッキリ言える時が来ると良いですね。



>執翳
これは100%知らなかったです。


>翳をかざして

かざす、という雅な平安文化のアソビはココから来てるのかなと
一瞬よぎりました。



知らないことばかりですが
三つ柏さんのお蔭で日本文化を改めて考える機会になっています。
にっこり
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月25日 11時11分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「明衣」と書いて「あかはとり、あかは」と読みます。これは神事を預か
る者が着る「浄衣」(清浄な、無垢な衣)のことであります。

 「衣」も「ハトリ」と読む……おそらく、「ハトリ」に対する「当て字」
として、「服」、「衣」、「織」、が宛てられ、さらに波及概念として「そ
れにからむ人」及び、「それにからむ村」まで「ハトリ」と呼ばれたと総括
いたします。

 「ハトリ」に対する当て字が意外とたくさんあるということは、やはり、
概念としての「ハトリ」、「音としての「ハトリ」が先行してあり、それに
漢字を当てはめたというのが正解でしょうか。「機織り」から「ハトリ」に
なったというのも逆説的ですが、遠からず近からずの説でしょうか。

 昨日は、『上記』、『ほつま』、高橋良典氏の書籍に目を通してみました
が、「ハトリ」を解するヒントには出会いませんでした。ただ、「言霊(こと
だま)」として、「ハ」「ト」「リ」を一度解釈してみたいものだと願望し
ております。「大和言葉(言霊)」の本がどこかへ行ってしまいましたので、
探しております……。

 「ハトリ」についてですが、類似した言葉として、「シトリ」「カトリ」
もあります。ひょっとして、これらの関連から「ハトリ」の語源が探れるか
なとも思っています。

 「ハトリ」を「衣、服、羽」とすれば、広義の意になるが、羽は軽いので、
      絹布を意味している可能性があります。
 「カトリ」は「縑」と書き、「目を緻密に固く織った平織りの絹布」のこ
      と。
 「シトリ」は「倭文」と書き(倭の文、倭の国の文=アヤの意味)、楮(こ
        うぞ)、麻、苧(からむし)の繊維に赤青の原色の横糸で乱
        れ模様に織ったもの。

 「ハ」と「カ」と「シ」の違いで、「トリ」という概念が共通する可能性
があります。

 ここで切ります―
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月25日 14時43分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


またまた貴重なお話をありがとうございます。



>「トリ」という概念が共通する可能性があります。

はい。

「とり」って
結局何だったのでしょうね。


いよいよワケが分からなくなって来ました。

「鳥」なんでしょうか?
「羽」のこと?


確かにハワイの王の?アクセサリーに鳥の羽をものすごい数を使ってネックレスのようなものがあるのを見たことがあります。


日本では鳥の羽のような軽い衣類=絹が王の神性の象徴だったのかなと思いました。


とにかくすごい所に行き着いたのかもです。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月25日 16時27分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ちょっとびっくりの本日のヒラメキです―

 「ハ・トリ」は「8・tri(3)」と分解できます。即ち「888」と解せ
ます。

 「888」はゲマトリアでは「イエス・キリスト」のことであります。
 もっとも、それは=「ヤハウェ」のことでもあります。

  その中を取り持つのは、「ケルビム」(天使)でありましょうか。
  従って「ハトリ」は「天使」即ち神と人(キリスト)とをつなぐ霊媒の
ような、つまりは忌部氏や中臣氏のような「神職」……。

 遠からずとも当たっていると思いますが……。

 賀茂氏は秦氏の中の秦氏と言われていますが、服部氏もひょっとしたら
秦氏の中の秦氏なのかも知れません。けれど、何か故があってあいまいに
されている……奥深く隠された謎の可能性があります。

 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月25日 22時01分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


すっごいインスピレーションですね。
にっこり


「ヤハウエ」もひょっとすると  日本語で数字に直すと  888  かも知れないですね。

ヤ・ハ=88で  ウエが8なら  ピッタシ!笑



三つ柏さんは勘が鋭くなって来た「鴨」ですね。
あはは
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月26日 11時50分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 久保有政氏の『ゲマトリア数秘術』という本、歴史の謎を解くのに必要と
判断し、思い切って購入いたしました。再販されていませんので、プレミア
ム価格となっております。
 ヘブライ語にも現代語と古代語があり、また、当時の民族・国のせめぎ合
い、栄枯盛衰もあり、どの言葉を基としたのか―ここを押さえなければなり
ません。

 久保氏によれば、「ヤハウェ」の古代ヘブライ語表示は四文字で、「神聖
四字」と言われ、信仰者は神聖で畏れ多いものであるので、口にすることを
避けたということです。
 また、その短縮形の「ヤハ」もよく用いられ―
 「ハレルヤ」は「ハレル・ヤハ」で、「ヤハ(ヤハウェ)を賛美せよ」とい
う意味だそうです。

 あを様のご指摘の「ヤハ」ですが、古代ヘブライ語においては、そのゲマ
トリアは「15」で三角形(トライアングル)を表すそうです。
 「ヤ・ハ」=「10+5」=「15」

 また、「ヤ」だけでも「ヤハウェ」を表し―
 「ヤ」=「10」
がその聖数となるそうです。

 ゲマトリアは、もっともっと奥深く複雑なので、神業のように感じます。
 「イエス・キリスト」の古代ヘブライ語表示のゲマトリアは―
 「イェシュア」=「386」
だそうです。

 これを、今度はギリシャ語表示のゲマトリアで表現すると―
 「イエスース」=10+8+200+70+400+200=「888」
となるのだそうです。
 
 また、ただ単に「8」がキリストを表し、「9」が最高神を表すとも言わ
れておりますので、その辺の整理も一度してみたいと思っております。
 たぶん、単純じゃない、歴史の変遷とともに、いろいろな要素を取り入れ
たり、変更したりがあったと推察いたします。

 赤を表したり、銅を表したり、蛇をあらわしたりする「カカ」が、音韻変
化して「ハハ」になったと言われています。
「ハハ」は日本的数字変換をすると「88」です。
「カカ(蛇神を表す)」上が「母(ハハ=ヤハ)」上になったと言うことができ
ますので、あを様の言われた「88ウェ」は「母上」=「神様」ということ
になり、大正解であります!

 「日本的なゲマトリア(音自体を数字に表す)」は誰が考えたのでしょうか
ね。この謎を解くのは、記紀の作者・編集者、あるいはそれらに深くかかわ
ってきた人々……にフォーカスしなければなりませんね、あを様!
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月28日 00時02分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「ハトリ」の謎についてはとりあえずこの位にいたしますが、では服部と
いう「機織りにかかわる氏族」が「アマテラスが機織りをしていたという話」
や「天棚機姫」とどうつながっているのかということに、とても興味を抱いて
おります。
 それともう一つは、秦氏との関係をはっきりしなければと思っております。

 私が思いますに、服部氏(服部連)はの祖は、大きくは物部系、または和邇・
海部系に近いのではないかと推察しています。秦氏には後になって吸収され
たのではないかと思っています。

 これからは、その辺に挑んでみます―
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月28日 03時47分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


ゲマトリアに限らず数字に意味を持たせるのは中国もそうですし
古代の人間に共通なのかも。

色にも意味がありますしね。赤でしたら血とか力とか。

    意味があったのだろうというのは分かりますが。。。



>「アマテラスが機織りをしていたという話」

なぜ機織りだったのか?
不思議ですね。
壺作りとか踊りの練習中でも良かったですものね。


意味があったのでしょうね。



父方の祖母は暇にあかせて機織りをしてたと聞いています。
    記憶にある祖母は麦藁帽子を編んでましたが。

母方の継祖母は絹のクズ糸を繋いでた記憶があります。



天照の機織りにはどんな意味が込められていたのでしょうね。
孟母の断機の戒めも連想します。

スサノオはとんでもないことをやった、という意味でしょうけど
元々のところの意味が分からないということに気付きました。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月28日 07時22分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 これは私の「勘」ですが、どうも「蚕」―「蛹」―「繭」―「絹」―「蛾」
のサイクルは「再生(甦り)」の象徴として、宗教的か核になり得るもの、そ
してまた「純粋無垢で光沢があり、羽のように軽い絹布」は天の贈り物にふ
さわしい、即ち「天使の衣=羽衣」となったのだと推察いたします。
 織女―巫女―依代―羽衣―天皇―再生……そこに服部氏が介在した?
 しかしながら、服部氏は服部連以後、歴史の陰に潜んでしまう。そして中世
から戦国に復活して来る……そんなイメージを抱いております。

 本日は、名古屋・中津川にこれから行ってきます―
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月28日 22時49分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


名古屋・中津川ですか。

猿投の服部氏の件もそのうちにお願いします。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月29日 11時25分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、引佐〜豊田間が開通した「第二東名」を走ってみました。トンネ
ルの多いこと―即ち、山並が豊田まで続いているということであります。あ
る意味、伊賀・甲賀のように隠れ里だったとしてもおかしくない地域でもあ
るような気がしています。余り知られていない地域だけに、今後、豊川の本
宮山より西、岡崎の猿投あたりまでを探索してみようと思っています。
 足助に関する新たな資料も入手しております。いずれは、そちらにも話題
を向けたいと思っております。

 中津川には「すんき蕎麦」を食べに行きました。「すんき」とは、京都の
「すぐき」のようなやや酸っぱい漬物で、日本で唯一塩を使ってない漬物だ
そうです。冬の間だけの短い期間しか出回りません。二月迄ぐらいか、遅く
とも三月末あたりまでで、「すんき蕎麦」は食べられなくなります。
 味は最高……と言っても、そば通は、冷たい水をくぐらせた「ざる蕎麦」
が一番だと言うでしょう。でも、この「すんき蕎麦」、蕎麦の味云々ではな
く、トータルで「うまい」と私は思っています……。

 さて、古代の歴史については、おととしと去年、色々やりとりをさせてい
ただき、その時の資料を再度読んでみますと、その時にはピンとこなかった
ことが、約二年に近い勉強の成果からか、内容が広く深く理解できるように
っており、理論が組みられそうな気配がしております。

 今、それらの資料に目を通しておりますので、しばらくお待ちください―

 直近の課題は、天照以来、「絹織物」がどれほどのステータスのものであ
ったかということです。そしてそこに携わった服部氏族がどんなステータス
を得ていたのかということです。その辺のことが、希薄となっております―
 希薄にされたということかも知れません……その疑いの方が濃いような予
感がしています。
 服部氏のよみがえりは、伊賀中心のアンチ権力の「悪党」を起点としてお
りますことをみても、そうではないかと思われます―
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月29日 22時47分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


塩を使ってない漬物ってあるですか。
ビックリ
だから気温が上がって来たら食べられないわけですね。
珍しい。



猿投・足助
ここは非常に気になっています。

よく遊びに行ったところですが、半蔵関係で意識したことは無かったので、「山の中」以外の印象が無いのが残念です。



>その時にはピンとこなかったことが、約二年に近い勉強の成果からか、内容が広く深く理解できるように

歴史は深いですからね。
そうは簡単には「読めない」ですね。

まだ人生の先は長いのですからボチボチいきましょう。



「機織り」と「はっとり」の関係
さらにアマテラスとの関係

何だったのでしょうね。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月01日 14時39分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「論理」は後からしっかり考えるとして、まず「状況証拠」的な事実を
ランダムに抽出してみます―

 @絹は,古代イスラエルの時代から織られていた。
                 (久慈力著『祇園祭の大いなる秘密』)
 A古代イスラエルにおいても、染色や刺繍が発達していた。
                 ( 同上 )
B霊能者とは神と一体になることのできる特殊能力の持ち主。
                 (今熊野神社『神当講座テキスト』)
 C卑弥呼・壱与の所属する一族に神の御心と一体になるための「秘儀秘法」
 が伝わっており、その効力を万人が認めたから邪馬台国は治まった。
                 (      同上 )
 Dつまり、「禊祓え(みそぎはらえ)」とは、天皇家に伝わる秘儀秘法で、
 イザナギ命から天照大神に相伝(秘密厳守のため個人から個人へ口述)され
 たもの。天皇家は「禊祓え」を所持していたため、その宗教的権威で他の
 氏族の上に君臨できた。 (      同上 )

 E神意を人間に伝える際の神の媒介者とされたのが、「巫女」であり、
 卑弥呼のような「日女(ひるめ)」であり、「神主」であった。
(学研『神道の本』)
 F元伊勢伝説の出発点に当たるこの倭笠縫の三輪山も、そうした太陽祭祀
 の場であり、太陽神が祀られていた。
  太陽神はもともと男神であり、その男神を祀るのが”日の巫女”のヒルメ
 であった。彼女たちは「神と率寝る(いねる)」もの、神の妻であり、妻で
 あればこそ、神の言葉を取り次いだ。そうした名もないヒルメたちが、各地
 の太陽神信仰の一元化と並行して、のち、豊鍬入姫命と倭姫による遷宮伝説
 に重ね合されていった。     ( 同上   )

 Gこのように、奈良時代の初めにあっても高級絹織物の技術は中央に独占
 されていたわけで、これ以前の機織り技術の実情も推して知るべしである。
 また、こうした状況から、我が国の古代社会では織女自身がきわめて特別
 な存在であったことが知られる。 (平林章仁著『七夕と相撲の古代史』)
 Hもちろん、こうしたタナバタで織られた高級絹織物類は稀少な貴重品で
 あり、それを着用できたのも一部の限られた人であった。織物それ自身が
 貴重品であり、その貴重性ゆえに神への代表的な供物となり、幣帛(みて
 ぐら)と称された。さらに、神に供える大切な布を織ること自体が、神を
 迎えて喜ばせる予備的行為とみなされ、機織りが祭祀と不可分な儀礼とな
 っていったのである。祭儀にかかわる神話・説話の多くに織女があらわれ
 る理由の一半は、ここにある。  (       同上       )

 Iいずれにしても、衣通郎姫(そとほしのいらつめ 允恭紀の説話)の名の
 背後に高級な絹を織った機織り文化が存在したことは間違いない。
  また、物語の歌謡が衣通郎姫との一夜の共寝を主題にしていることから
 も明らかなように、彼女が一夜妻であったことも重要である。〜略〜
 一夜妻の本質は、神との共寝、一夜の神の妻にあった。
                  (       同上       )
 J倭の五王の中国南朝との交渉にともない、機台付の機やその技術をもつ
 織女らと共に七夕の儀礼や説話ももたらされ、彼らだけではなく、国内の
 機織り集団に新しい器具や技術とともに受容されたと推察される。そうし
 た中、応神紀四十一年二月条の、呉から渡来した工女を胸形大神へ奉納し
 たとの所伝は、かつては胸部に鱗型の入れ墨をしていたという宗像系海人
 の拠点として知られる福岡県宗像郡玄海町鐘崎に、延喜式内名神大社の織幡
 神社が鎮座することと結びつくであろう。
                 (       同上       )
 K神と織姫の結びつきには、二つの理由が考えられる。その一つは、神に
 捧げる貴重な布を織ること自体が、神を迎えて喜ばせる予備的行為とみな
 されたことである。もう一つは、織姫が神の一夜妻となるという神婚儀礼
 であるが、この両者は対立するものではなく、同時的かつ一体的に存在し
 たとみてよい。         (       同上       )

 Lつまり、中国南朝からの、機台付の機や高度な機織り技術をもつ織姫ら
 の渡来が、単に機織りだけでなく、当時の我が国の祭祀・儀礼・神話など
 にも強い影響を与えた可能性が大きい。巫女が水辺で機を織りながら寄り
 来る神を迎えるという、我が国の神話によく見られる織姫の神婚を格とす
 る物語も、渡来した機織り文化や集団との関係を除外しては考えられない。
                 (       同上       )

  ここで一旦切りますが、まだまだ続きます―


 

[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月01日 22時55分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。
よく書いてくださいました。


    太陽神はもともと男神であり、その男神を祀るのが”日の巫女”のヒルメであった。
    彼女たちは「神と率寝る(いねる)」もの、神の妻であり、妻であればこそ、神の言葉を取り次いだ。
    そうした名もないヒルメたちが、各地の太陽神信仰の一元化と並行して、
    のち、豊鍬入姫命と倭姫による遷宮伝説に重ね合されていった。 



    衣通郎姫(そとほしのいらつめ 允恭紀の説話)の名の背後に高級な絹を織った機織り文化が存在したことは間違いない




この2つ、非常に納得です。



衣通郎姫の光り輝くさまというのは
昔、まだ1980年代の初めだったか、李王朝に嫁がれたマサコさまとおつきの女官達がまさに衣通郎姫とそのお取り巻きの関係でした。


あれは着ていらっしゃった「絹」の輝きなんですけど
絹は本当に特別です。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月02日 14時45分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 引き続き、古代の「機織り」・「織女」に関係する記述を拾い出します―

 M要するに、銅鐸に描かれた「工の字型器具」を持つ人物像は、祭儀にか
 かわる機織りの情景を表したものである。それが西王母、あるいはアマテ
 ラスの原像の一部をなすものか否かは分明でないが、弥生時代にも水辺で
 の儀礼的機織りがあったことは間違いない。但し、それが我が国独自のも
 のであったか否かや七夕との関係の有無については明らかでない。
                (平林章仁著『七夕と相撲の古代史』)
 N日食神話ともいわれる天岩戸神話には、あまたの罪穢を祓い除いて清浄
 にする大祓、稲の収穫祭である新嘗、体内に魂を安鎮させて健康を祈る鎮
 魂、さらには伊勢神宮の神嘗祭や神衣祭といった祭儀の反映が指摘されて
 いる。但し、単なる祭儀の寄せ集めではなく、政治神話として再構築され
 たものだという。
  また、そこには新嘗に殺されて再生する王の影も見えるが、アマテラス
 の機織りに新嘗が意識されていることは確かである。これがアマテラスの
 原像の一部なのか、それとも後に付加された特徴なのか判然としないが、
 天岩戸神話に占めるその位置を見れば、おそらくは前者であろう。アマテ
 ラスは新嘗に神衣となる機を織る織姫でもあった。『古語拾遺』がこの
 神話の末尾に、「蚕職の源は、神代に起これり」と記すのも、故なきこと
 ではない。
                (        同上       )
 Oつまり、神聖である神衣・神調は、穢れに触れぬよう俗界から隔離され
 扉も閉じた建物の中で、秘かに織られるものであることを物語っている。
 この機織りは神を迎えるという神事の始まりを告げるものであって、この
 間の織姫は神界の存在と観念され、昔話「鶴の恩返し」でも知られるよう
 に、俗界の人々がその機織りを見たり彼女に触れたりすることは、彼女や
 彼女の織る布の聖性を失わせることになり、禁忌であった。さらに、こう
 した織姫の多くはコノハナサクヤヒメやメトリのように寄り来る神を迎え
 る一夜妻でもあったわけで、彼女らの性を含めて禁忌は厳重であつた。
  機織りをもって神事に供奉した織姫の死とは、神衣を織って一夜妻とな
 るために俗界との厳しい隔絶情況に置かれたことの神話的表現であった。
 カムハタヒメも、長幡部が伝えたこのような織姫のひとりである。
                 (       同上       )
 Pそれはさて措き、織姫伝承の中のヒメコソには、中国南朝との関連が窺
 われ、カムハタヒメは倭漢氏系の渡来系機織り集団であり、イヅシヲトメ
 やメトリについても渡来系の機織り技術との関係が推察された。もともと機
 織りの技術や文化が海外より伝来したものである以上それも当然であるが、
 機を織ることをもって祭事に織姫が供奉するという祭儀自体、機織り文化
 複合の一部として伝来したものである可能性が高い。要するに、巫女が水辺
 で機を織りながら、寄り来る神を迎えるという祭儀や神話も、説かれるよう
 に我が国内部で独自に成立したものかどうか、再考が必要である。
                 (       同上       )
 ここで一旦切ります―

                 
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月02日 17時31分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 更に「巫女」・「鳥」・「羽」について拾い出します―

 Q卑弥呼の「鬼道」について大林太良は、「従来鬼道をシャーマニズムと
 解する人が多かった理由は、日本においては女性の宗教的職能者が、巫女
 として登場する伝統があるからであろう。そして日本の巫女は憑依型であ
 る点において華南や東南アジアのものと共通するところがある。こう考え
 てくると、倭人伝には卑弥呼の鬼道の内容は全く記されていないが、憑依
 型のシャーマニズムだった可能性は考慮に入れてもよい」と書くが、倭迹
 迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)を『日本書紀』は、神が憑依する巫女
 ・神妻として書いている。
              (大和岩雄著『箸墓は卑弥呼の墓か』)
R倭迹迹日百襲姫について、大野晋は日本古典文学大系『日本書紀 上』
 の頭注で、「トトビ」は鳥飛び、モモは百、ソは十の意であろうか。トトビ
 は魂の飛ぶことの比喩となることがある」と書く。上田正昭はこの説を採
 って、「鳥のように飛んで行くたくさんの魂にちなんだものであろうか」と
 書き、「ヤマトトトビモモソヒメという名は、女人が神まつりに従った、魂
 の司祭につけられたもので、特定の個人名というよりは、普通名詞的な名
 乗りであったのではないかと思う。だから、孝霊天皇の娘にも、孝元天皇
 の娘にも、このヒメの名が出て来るわけだ」と書く。
                 (       同上       )
 Sこうしたシャーマン(巫)を「祝(はふり)」という。私は拙書『神社と
 古代王権祭祀』で「祝」について―『大言海』は放(はふり)と同じで、罪・
 けがれを放る(はふる)義と書く。この説を『日本国語大辞典』や『岩波古語
 辞典』は採るが、私は祝の語源を放説の「ハフ・リ」でなく「ハ・フリ」
 と解したい。新井白石は『東雅』で祝を「袖振(そでふり)」の義とし、谷川
 士清は『和訓栞』で『羽振りの義。羽は衣袖をいふ。立ちまふ袖などをよ
 りよめる意なるべし。又、鳥の羽根にかよはしめる歌あり』と書く。新井
 白石や谷川士清は歴史に詳しい学者てせあり、羽(袖)を振ることが神事で
 あることを理解していたから、「羽(袖)振り」と解したのであろう―と書
 いた。
                 (       同上       )


  ここで切ります―
 
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月02日 22時14分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


>西王母

この人の「桃」の話は日本では言わないですよね?

日本で「桃」と言ったら「桃太郎」の話あたりじゃないかと。


でも「3鳥」の話は「はっ鳥」に通じるのかなあ、と思ったりします。
大謎


ということでちょっとウイキから:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8D


西王母(せいおうぼ、さいおうぼ)


中国で古くから信仰された女仙、女神。姓は楊、名は回。

九霊太妙亀山金母、太霊九光亀台金母、瑶池金母、王母娘娘などともいう。


王母は祖母の謂いであり、西王母とは、西方の崑崙山上に住する女性の尊称である。すべての女仙たちを統率する聖母。東王父に対応する。




周の穆王が西に巡符して崑崙に遊び、彼女に会い、帰るのを忘れたという。また前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、三千年に一度咲くという仙桃七顆を与えたという。


現在の西王母のイメージは、道教完成後の理想化された姿である。本来の姿は「天・五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る鬼神であり、『山海経』の西山経及び大荒西経によると、

      「人のすがたで豹の尾、虎の歯で、よく唸る。蓬髪(乱れた髪)に玉勝(宝玉の頭飾)をのせていて、穴に住む。」


という、半人半獣の姿である。


また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。




一方、『荘子』によれば、西王母を得道の真人としているし、『淮南子』では、西王母が持していた不死の薬を、姮娥(恒娥)が盗んで月へと逃げたと記している。

人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」というイメージに変化していった。

やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。

王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。

また、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びている。



漢末の建平4年(紀元前3年)、華北地方一帯に西王母のお告げを記したお札が拡散し、騒擾をもたらしたという記述が、『漢書』の「哀帝紀」や「五行志」に見える。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月03日 01時21分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 機織り・織女・巫女と古代のシャーマニズム的秘儀についていろいろ書き
出してみましたが、結論として、絹を織るということ自体が神を迎えるとい
う神聖な行為にあたり、また同時に神が巫女に降りて言葉を伝えるとともに、
大王と一心同体になるまでを神降ろしの秘儀とした。おおよそこんなパター
ンがわかってきました。

 もう少し、このあたりでハトリと結びつくものはないか探してみます―
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月03日 03時41分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。


絹の服の光り輝く神々しさは太陽の光りのある所で光りを放ちますから一段とよく分かります。


>もう少し、このあたりでハトリと結びつくものはないか

はい



          インドや西洋だったら太陽の光りに負けない輝きといったら「ダイアモンド」金剛石かなと。



絹は本当に別格の力を持っています。

それゆえに「はとり」の存在が一段と神秘性を増します。

     だからこそ徐福伝説や不老不死の薬伝説と秦氏がからむのかなと。


          絹の価値はアマテラスを超えるのかなとか。


贔屓の引き倒しになって行きます・・・赤顔
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月03日 11時15分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 見切り発車をしたため、論理の方がついてきておりませんので、資料の
収集もランダムなものになっていますが、古代史はとにかく難しく、絞り
きれないというのも現状であります。

 これまでの所で、心の中(感性)にひっかかっているものがいくつかありま
す。それは―
 @天の岩屋戸のスサノオの横暴により死んでしまった「忌服屋」の「天の
 服織姫」であります。どうも「服(ハタ)」の音が「服(ハトリ)」を喚起す
 るのです……。この「服織姫」は古事記に書かれる位の人ですから、相当
 の地位にあってしかるべきなのですが、一介の織女のように書かれていま
 す……この人、一体、誰?
 A「倭迹迹日百襲姫」とは誰? この人も服織姫のように死んでしまう。
   一体、何故?
 B「倭姫」とは誰? というか、歴史書に書かれているような表層でなく、
  深層の部分を知りたい……。

 頭の中で、論理の糸がいろいろからまっていますので、この糸を解きほぐ
し、美しい絹糸にし、さらに艶のある絹布に仕上げたい……と思っています。

 気分転換に、掛川に行き、梅の花(寺の梅園)を見てまいります―

  
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月03日 22時35分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


倭迹迹日百襲姫

   わたくし的には孝霊天皇の娘
   箸墓古墳の被葬者

      でしたが、違う意味があってビックリしました。


以下コピペ:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD


倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと[1]/やまとととびももそひめのみこと[2]、生没年不詳)


記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。

第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。

                                      ココまでは分かってました。汗


『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される[1]。名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある[2][3]。


                                      ココでビックリしました。




なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される[4]。また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる[1]。




系譜[編集]

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、意富夜麻登玖邇阿礼比売命<おほやまとくにあれひめのみこと>/絚某姉<はえいろね>/蠅伊呂泥<はえいろね>)との間に生まれた皇女である[1]。

同母兄弟として、『日本書紀』によると彦五十狭芹彦命(比古伊佐勢理毘古命/吉備津彦命/大吉備津日子命)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命(日本書紀なし)の名を記載する。

『日本書紀』では、百襲姫は大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという[1]。



記録[編集]

『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳[注 1])に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという[1]。

同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視される[1][4][注 2]。

また同書崇神天皇10年9月27日条では、四道将軍の1人の大彦命が和珥坂(現・奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を歌う少女に出会い、引き返して天皇に報告した。百襲姫はこれを武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆であると告げ、果たして謀反は起こったが鎮圧されたという[1]。


続けて、同書では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという[1]。

『古事記』では母母曽毘売(百襲姫)の事績に関する記載はない。同書では、三輪山の伝説は意富多々泥古(大田田根子)と活玉依毘売(活玉依媛)の説話として語られている[1]。

なお、『多氏古事記』逸文[5]においても「倭迹迹媛皇女」と大三輪大神との神婚譚が記されている[1]。

続く
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月03日 22時36分47秒 ) パスワード

墓[編集]


倭迹迹日百襲姫命の墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか、位置)に治定されている[6][7]。公式形式は前方後円。考古学名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」。墳丘長278メートルで、全国第11位の規模を誇る前方後円墳である。

前述のように『日本書紀』では百襲姫は「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている[8]。墓は同書天武天皇元年(672年)7月23日条において「箸陵」とも見えるが、『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では記載を欠いている[8]。上記古墳を箸墓に比定する伝承は幕末まであり、慶応元年(1865年)4月には営築とともに長役・守戸の付置があった。また明治8年(1875年)に墓域が国有地として買収され、明治19年(1886年)に拝所・参道用地も買収、明治21年(1888年)に修営された[8]。

この箸墓古墳は、全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造と推定されており、邪馬台国畿内説の立場から、『魏志』倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定する説がある(詳細は「箸墓古墳」を参照)。しかし『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている[9]。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される[9]。



考証[編集]

『日本書紀』の記す伝承は、人と蛇神との三輪山型(苧環型)の神婚を表すとともに、妻問婚の習俗を表すとされる[3][1]。また、『古事記』での活玉依媛伝承のように神・人が結ばれて子が産まれる型(神人交流型)ではなく、別離し死去する(神人隔絶型)であるという特徴を持っている[3]。

また百襲姫の地位・巫女的性格から、『魏志』倭人伝に見える卑弥呼を百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説や、前述のように箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある[1](詳細は「卑弥呼#倭迹迹日百襲媛命説」を参照)。

信仰[編集]

「吉備津彦命#伝承・信仰」も参照

上記の通り彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の姉神として扱われるため、旧吉備国の周辺地域(主には備前国・備中国・備後国・讃岐国)に根強い吉備津彦信仰において女性の守護者ないしは水神として祀られる事が多い。特に讃岐国一宮である田村神社では地域の水神と習合し、主祭神として扱われている。

脚注[編集]

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注釈

1.^ 「神浅茅原」の比定地として、奈良県桜井市笠の浅茅原または桜井市茅原とする説があるが明らかでない (倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) 2010年)。
2.^ 「倭迹速神浅茅原目妙姫」の名は、神浅茅原で神憑ったことによる讃称とされる (倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) 2010年)。

出典

1.^ a b c d e f g h i j k l m 倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) 2010年.
2.^ a b 倭迹迹日百襲姫命(古代史) 2006年.
3.^ a b c 倭迹迹日百襲姫命(国史).
4.^ a b 倭迹速神浅茅原目妙姫(古代氏族) 2010年.
5.^ 『萬葉集註釈 一』所収『土佐国風土記』逸文「三輪川(神河)」の引用文(武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)167-168コマ参照)。なお、逸文中の「多氏古事記曰はく」以下は風土記の文章でない可能性が指摘される。
6.^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
7.^ 『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。
8.^ a b c 大市墓(国史).
9.^ a b 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 18-20。

参考文献[編集]
『国史大辞典』 吉川弘文館。 上田正昭「倭迹迹日百襲姫命」、石井茂輔「大市墓」(倭迹迹日百襲姫命項目内)。

上田正昭 「倭迹迹日百襲姫命」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。ISBN 4479840656。
『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588。 「倭迹迹日百襲姫命」、「倭迹速神浅茅原目妙姫」。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月03日 22時38分47秒 ) パスワード

「鳥」というのは「飛ぶ」力があるだけに
古代の人には特別な意味があったんだろうな
と改めて思いました。

    小学生の作文みたい(笑)
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月04日 11時50分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、掛川のあるお寺で梅の花がきれいだということで、お茶(深蒸し茶)
を買いに行きながら、見に行くことにいたしました。
 聞いていた寺の名前をナビで検索したところ、ない―。場所を移動しながら
再検索、再々検索するも、ない―。一体どこにあるのかと思いながら、では
お茶を販売しているJAの店で訊いてみよう―ということにいたしました。
 店にて訊いたところ、何とすぐ側(約700m)に「しだれ梅」で有名である
「龍尾(たつお)神社」があるという。
 行ってみて驚いた。意外にも大きな神社で、駐車スペースもたくさんありま
した。今まで近くには何回も来ているのに気が付かなかった。
 神社の階段を登り、社務所に行き、そこで由緒書きを見て、また驚きまし
た―何とこの神社は「山内一豊公」の尊崇が厚く、2代目の忠義公が氏神と
したということであった。一豊公の志を継ぐ忠義公は、高知城から使者「占部
兼里」を掛川に遣わせ、「御分神」を高知城下に勧請、「掛川神社」と号し、
大切に祀られたということであります。
 また、徳川家康は、今川氏真との攻防において、神社境内に本陣を構えて、
今川氏真が籠る掛川城を攻撃したということであります。掛川城の真北約1q
の所に位置しております。

 梅園は、それはそれは見事でありました。「しだれ梅」の白・ピンク・赤
の花びらと甘い匂い…といっても花粉症の私には匂いが感じられませんでした
が、子供たちがそう言っておりましたので確かだと思いました。

 梅園は神社の北側の背後にあり、一番高い所から掛川城が見えました。
 掛川城攻略には服部半蔵も活躍したので、きっとここから掛川城を見たのだ
ろうと思うと、心は暫くの間、戦国時代にタイムスリップして行きました―。

 さて、話は機織りと服部氏の関係の方にもどしますが、服部氏は一般的には
秦氏であると簡単に言ってそれで終わっていますが、『新撰姓氏録』に書かれ
ているように、服部の祖「服部(ハトリの)連」は―
 @大和系服部連 :「天御中主の命」
 A摂津系服部連 :「熯之速日(ヒノハヤヒの)命」の12世孫「麻羅宿祢
          (マラのスクネ)」
 B河内系の服部連 :Aと同じく「熯之速日(ヒノハヤヒの)命」
ということで、秦氏とは明らかに元々の出自が違っております。きっと、後に
秦氏に吸収されたとみる方が正しいのではないかと推察されるところでありま
す。

 もう一方で、機織りの関係で行きますと、高級な織物技術は、「呉織(クレ
ハトリ)、及び「漢織(アヤハトリ)」がもたらしたということですので、服部
氏の祖先は、この「呉織」に関係するのではないかと推察されるところでも
あります―。

 平林章仁氏は、『七夕と相撲の古代史』と『三輪山の古代史』の中で織物
文化・伝承について詳しく述べておられます。その後者の本の中で、服部氏
の出自について、はっきりと一つの結論を出していますので、次回はそれに
ついて書き出してみます―

 ここで切ります―

 
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月04日 12時13分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一部修正:服部の祖「服部連」は → 服部の元祖「服部連」の祖は
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月04日 22時52分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


ゾクゾクしました。
そういう由緒ある神社のすぐ近くを何度も通っていたのに
全く知らないでいたのに

今回は驚くほどの情報を得た!

こういうのも本当にこれまでの研究の成果故ですね。



梅の香りって本当に気高い芳香ですが
花粉症では分からないのですか
惜しいですね。




>平林章仁氏は、『七夕と相撲の古代史』と『三輪山の古代史』の中で織物文化・伝承について詳しく述べておられます。

>その後者の本の中で、服部氏の出自について、はっきりと一つの結論を出しています


楽しみです!

ワタシは
うちの場合は先祖が10世紀以降11世紀の初めあたりに伊賀に来て服部の名字を名乗ることになった
と解釈しています。

   屋号に使われた地名だったのか?
   婚姻による血名(笑)なのか?

こんなあたりだろうと思っています。



その本物の伊賀の服部さんがどこの誰だったのか近づけそうですね。
にっこり
楽しみにしています。


今は「はっとり」の「トリ」は「鳥」の「トリ」と語源的に同じなのかなと疑っているところです。
[35]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月05日 09時20分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は一日conferenceです。

 とりあえず、私の今までの理解では、「トリ」の意味は―
  @「鳥」―(「ト」は飛ぶの意)
  A「取る」
  B「人+里」
  C「トライブ=族」(古代ヘブライ語では何というのでしょうか?)
  D「高貴な」(止利仏師のトリ)(「ト」は神の意味)
 トーラー(虎の巻)も「ト」が付きます。
 これはあくまで推測で、間違っているかもしれません。
 いずれにしても、「ハトリ」という言葉(音)は、漢字で表記されるように
なる以前(古代)から存在していたようです。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月05日 11時44分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「ハトリ」という言葉(音)は、漢字で表記されるようになる以前(古代)から存在していたようです。

はい。


わたくしの中でも「機織り」という言葉から「はっとり」になったという促音便説はアヤシクなりました。


「ハトリ」は古くから日本にあった言葉なのかもですね。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月05日 12時54分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昼休みですので―

 古代の歴史はいろいろなもののミックスだと思いますので、ヘブライ
一色の想定は行き過ぎかなとも思うようになってきました。今、注目して
いるのが、中国南朝の「呉」について、その謎を探っています。また、呉
と百済の関係も、「海洋民族」・「海人」がキーワードと推定しておりま
す……。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月05日 22時43分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本へ「呉服」が来たのはいつの時代のことだったのでしょうね。
    三国時代の呉が盛んだった時代なのか?
    呉が滅びて呉の人々が難民となって日本に来たあたりなのか?


すっごいロマンですね。


$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_ (%E4%B8%AD%E5%9B%BD)

三国時代

中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指す。最狭義では三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。

229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』および、さらに後世の三国時代を扱った書物によって、広く知られている。

以下略



++++++++++++++++++


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1_ (%E4%B8%89%E5%9B%BD)


呉の滅亡

三国時代の最終期の戦争である、晋(西晋)が呉を滅ぼし中国を統一した歴史事象であり、その戦いについて説明する。西晋の元号から「太康の役」とも呼ばれる[1]。


呉滅亡
年月日:279年11月〜280年3月15日   奇しくも間もなくですね。何か御縁があるような?


場所:荊州、揚州一帯(現在の安徽省、湖北省、湖南省、江蘇省等)

265年、魏の朝廷を掌握した司馬昭が蜀を滅ぼした後に病没し、司馬昭の息子の司馬炎(武帝)が権力を継承した。司馬炎は同年に曹奐(元帝)の禅譲を受けて皇帝に即位し、晋王朝を建てた。その後、279年に司馬炎は6方向より呉を攻めるように命令した。晋軍は破竹の勢いで呉軍を破り、280年3月15日に孫皓が降伏したことにより、中国を統一した。

以下略

**************************

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称[1]。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた[2]。

『魏志倭人伝』
(ぎしわじんでん)
『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷



著者
陳寿

発行日
3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)

ジャンル
歴史


西晋

言語
漢文

形態
紀伝体の歴史書

前作
『三国志』中の「魏書」第29巻

次作
『三国志』中の「蜀書」第31巻

コード
(ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08044-9
(岩波文庫)ISBN 4-00-334011-6
(講談社学術文庫)ISBN 978-4-06-292010-0
(中公新書)ISBN 978-4-12-102164-9



『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく[3]、「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述がある[4]。従って倭人に関する条のみならず、東夷伝のすべてを通読しなければ意味がないという考え方[5]もある。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は「『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)(二三三〜二九七年)の世界観や政治状況は、約三十七万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之(はいしょうし)〔三七二〜四五一年〕の注は、本文に匹敵する約三十六万字)のすべてに目を通すだけではなく、世界観を形成している儒教(じゅきょう)の経典(けいてん)に通じなければ分からない」と述べている[6]。

中国の正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している[7]。

当時の倭(後の日本)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国[8])を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本を知る史料となっている。

しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと[9]から、邪馬台国に関する論争[10]の原因になっている。 また一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。岡田は位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける点[11]を根拠として挙げている。渡邉義浩は『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹(そう)魏(ぎ)の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪(ゆが)んだ記述)が含まれている」と指摘している[6]。



以下略
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月06日 08時34分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「呉」について探究し出したのですが、大掛かりな探究となり、かなりの
時間がかかりそうです。私の狙いは、ハトリの祖先が呉から来たのかどうか
ということを確かめたいということであります。『新撰姓氏録』では、服部
(ハトリ)連の祖は、「天御中主」や「熯之速日命」となっているということ
で、では果たして呉とどう関係するのか、どう整合性がとれるのかというこ
とを探り出す……とほうもない冒険の旅なのかも知れません。でも正直な所、
そこまでの時間はかけておれませんので、できればショートカットで行きた
いと思います。

 「点」と「線」―点を「状況証拠」とすると線は「論理・ストーリー」で
あります。
 現段階ではストーリーにつなげそうな「点」がいくつかあります―
 @ハトリは呉からやって来た。
 A呉は滅びて人々はボートピープル―難民移動があった。
 B安曇氏等の海人族は日本に広がっていた。
 C海人族は航海術を得意とした。
 D百済もまた海洋大国(新しい概念)であり、呉や越の国あたりに領土があ
  ったという。
 E丹後の海部氏は尾張氏でもあり、何と「神服部(カムハトリ)」氏であっ
  た。つまり、服部氏である。
  熱田神宮の千秋氏が服部氏であった由縁かも知れません。
 F海部氏は和邇氏でもあった。
 G秦郷というのはあまりないが、ハトリ郷、ハトリ村は全国に存在し、長田
  郷や長田村と共存する形が多い。即ち、海人族として沿岸部、河川の河口
  等に入植・開拓したのではないか。
 H海部氏の祖は、ホアカリノミコトであります。
 I日本の神様の名前はいろいろ複合的に名前をもっています。
  ホアカリノミコトとはニギハヤヒノミコト、即ち服部連の祖でもあります。

 「点」だけ並べました。あとは「線」、即ち論理的なストーリーで点を結ぶ
ということであります―

 これから、舞阪の牡蠣小屋へ焼牡蠣を食べにでかけますので、また後で―


[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月06日 10時19分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


呉と孫で、孫の字のつく地名で有名どころは  我孫子 ですよね。  
去年いろいろ調べてた時に  安孫  安孫子 という名字が出ましたよね。

   この時に  アビコ  って地名が千葉にあるなと思ってました。
   その関係は  鎌足  かなと。鹿島神宮とか?と。

   安孫って名字は山形に多いそうです。


日本で呉って  呉服・呉音  こんな感じであんまり大きな影響は無い感じですよね。
呉の覇者の孫氏も「孫」の字のつくような日本の名字になってないし。

 
でも、ひょっとすると呉服って絹織物のことですから 服部 に関係があるのかもですね。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月06日 10時26分56秒 ) パスワード

Dの越の国ですが


木をくりぬいて死者を収めるというの
ベトナムの古代歴史として書かれています。


日本の風習だと思ってましたが世界史的にはベトナムになっています。
ということはベトナムから日本に伝わった?



牡蠣は焼き牡蠣のようで安心です。
絶対に生食はなさいませんように。ものすごい下痢になったりしますから。笑
フランス式にレモンでチュルッと食べるのが美味しいのですが
オソロシイです。笑
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月06日 17時15分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「焼牡蠣」というか「蒸し牡蠣」を食べてきました。久しぶりにおいしい
物を食べたという感じで大満足です。蒸し牡蠣というのは「あさりの蒸し焼」
と同じ原理で、ブリキの缶の中に殻つきの牡蠣と日本酒を入れ、蓋をして十五
分位火であぶり蒸し焼きにするものです。ここの店(元漁師、幸福丸)では、
「ガンガン焼」と言っております。浜名湖の牡蠣は冬の間だけですが、全国
から仕入れる形で、年中食べられるような体制をとっています。今まで、こう
いう店がなかったので、本当にうれしいです。

 さて、風呂敷を広げ過ぎて、まとめるのが大変です。
 たたし、以前読ん丹後の海部氏に関する本で、金久与市氏の『古代海部氏
の系図』という本に目をと通していたら、忘れかけていた事がはっきりと目
の前に書かれていましたので、それをまず記すことにいたします。
 丹後の籠神社(元伊勢)の海部宮司家に伝わっているものに四つのものがあ
り―
 @宮司家海部氏の古代から連綿と続く直系子孫だけの縦書きの「本系図」
 A始祖の彦火明命からその直系子孫の兄弟姉妹までを記した「勘注系図」
 B伊勢神宮が伊勢に鎮座する前に、籠神社が元伊勢であったことを書き記
  した「丹後国一宮深秘」
 C伊勢神宮の内宮に伝えられて来た「倭姫命世紀」
その中の「勘注系図」には、「彦火明命(ニギハヤヒ)」の六代孫「建田勢命
(タケタセのミコト)(別名、高天彦命)」のことを―
 「神服連(カミハトリのムラジ)、海部直、丹波国造、但馬国造等祖」と
記しています。
 このことは、非常に重要なことだと思います。海部氏と服部氏が同族で
あるということを示しているのではないか―
 この海部氏を追跡して行くと、秦氏とは別の意味で、服部・機織りとから
んで来ます。それについてまだ論理の組み立て、文章化が渾沌としておりま
すのて、今後少しずつ前進して行きたいと思っております―
 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月06日 22時10分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「ガンガン焼き」

海の男の漁師の料理法ですね。
にっこり
これでしたら食中りになりませんね。
安心です。

貝は牡蠣だけに限らずオソロシイです。




>海部氏と服部氏が同族であるということを示しているのではないか―

いいところに記憶が戻りましたね。


読めば読むほど翻弄されて重要な情報を忘れてしまうところでした。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月06日 22時27分57秒 ) パスワード

「はっとり」より「はとり」が基本形なのかなと思ったので
ちょっとコピペ。


     ここのところ「はっとり」は何故促音便になったのか?と考えていて
     うっとり、おっとり
     しっとり、
     てっとり、とっとり!
     ねっとり、のっとり 
     はっとり、べっとり

この中で「鳥取」って地名ですし固有名詞ですし「服部」との関係を考えたのです。


以下コピペ:

鳥取はなぜ「とっとり」とよぶのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1015297045

    普通に読むと「とりとり」「ちょうとり」ですよね。。。
    都道府県で唯一、読み方が変わっています。


回答1)

語源は、“鳥を取る”から「鳥取り」で、名詞なので送り仮名が省かれるのです。

“犬を飼う”のは「犬飼い」で「犬飼」、「犬養」になりますし、
“鷹を取る”のは「鷹取り」で「鷹取」になります。

読み方は、おっしゃるように「とりとり」が「とっとり」に変化したのです。
促音便ですね。

以下略
   


回答2)

その昔、鳥取市のシンボル久松山(きゅうしょうざん)山麓一帯は因幡(いなば)国邑美(おうみ)郡鳥取(ととり)郷と呼ばれていました。

戦国時代、その久松山に城ができ、鳥取城と呼ばれ、城下が鳥取藩となりました。

そして廃藩置県により鳥取藩が鳥取県となって現在に至っています。


さて、そもそもの「鳥取」とは何なのかということですが、
大和朝廷に直属していたといわれる職業集団の一つ、白鳥を捕獲して朝廷に献上する人たち「鳥取部(ととりべ)」に由来しています。

鳥取部は全国数か所に見られましたが、それが県名、市名の大地名として現在に残っているのは鳥取だけ、ということです。


http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/1_4.htm
http://chimei-allguide.com/31/000.html (ここには「水鳥を捕獲する鳥取部」と書かれています。



ここから以下はワタクシが調べたものです:


回答3)

http://lance3.net/yurai/z327.html
奈良時代の垂仁天皇には、言葉が話せない皇子がいた。ある日大きな白鳥が飛ぶのを見て、初めて皇子が声を出したんだ。それを見た天皇は、従者に白鳥を捕まえるよう命じ、「鳥取部」という役職を与えた。その従者が白鳥を捕まえて持ち帰ったところ、皇子は白鳥をとても可愛がり、白鳥と遊んでいるうちに言葉を話せるようになったんだ。

鳥取は、鳥取部を命じられた従者の領地があった場所。ここから、鳥取という地名になったんだって。



回答4)  他の国にもあったとは!   これは知らなかった!

http://www.city.hannan.lg.jp/kakuka/syogai/syogai_s/bunkazai_shokai/bunkazai_arekore/1371512696332.html


阪南市一帯は、古来より和泉国いずみのくに日根ひね郡ぐん鳥取とっとり郷ごうと呼ばれてきました。この地名は930年代に編纂へんさんされた『倭わ(和)名類聚抄みょうるいじゅうしょう』(わが国最初の漢和辞典)に初めて見られます。「鳥取」の地名については、それより200年以上も前に書かれた『 日本書紀』に以下のような説話が記されています。 

垂 すい仁にん天皇の第一皇子である誉津別王ほむつわけのみことは三十歳になっても児のように泣き、ことばを発しませんでしたが、白鳥が空を飛ぶ様子をみて「 あれはなにか」と初めて声をあげました。 天皇は喜び、臣下に「あの鳥を捕えよ」と命じ、天湯河板挙あめのゆかわたなが白鳥を追って出雲いずもの国で捕えました(但馬たじまの国で捕えたという説もあります) 。その後、誉津別王はこの白鳥をもてあそび、物を言うことができました。 この功により、天皇は天湯河板挙に鳥取造ととりのみやつこの姓を賜り、鳥取部を定めました。 

『日本書紀』は説話的な色彩が濃いですが、これらの記述は古いにしえの当地域と大和朝廷との つながりを物語るものではないかと思われます。 また、『倭名類聚抄』には「鳥取」と名のつくところが和泉国の他、河内国かわちのくに、越中国えちゅうのくに、丹後国たんごのくに、因幡国いなばのくに、備前国びぜんのくに、肥後国ひごのくににもみられます。



[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月06日 22時33分04秒 ) パスワード

ということで「はっとり」の元の形は、「鳥」にも関係していたのかな?、「はとり」だったのかな?と思いました。

「羽鳥」や「服鳥」にも関係しているのかな?と。


何か深淵なる謎を感じます。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月07日 09時10分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正「:あさりの蒸焼き」→「あさりの酒蒸し」
 自分でも恥ずかしいほど記憶=回想の回路がつながらなくなって来ました。
つまり今までは複線回路でいろいろバイパスをもっており、主回路が詰まっ
ても、他の回路で補完できたたけれど、今は単線回路でそれが詰まると全く
お手上げになってしまう……シナプスが劣化して来たということてしょうか。
 毎日ブログを書くことにより、劣化を遅らせたり、新たなシナプスのう回路
を創成させることができるものと信じたいですね。

 呉服(クレハトリ)が呉服(ゴフク)として残ったということは、呉服(着物)
の伝統が末永く残ったということでしょうか。呉服と漢服の違いというもの
がよくわからないので何とも言えませんが。
 
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月07日 16時01分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


>呉服(クレハトリ)が呉服(ゴフク)として残ったということ

クレハという会社がありますよね。前身は  呉羽紡績  だそうですから
いよいよ  あれ?  と思います。


呉の服と漢服の違いは判りませんが
女性用の漢服は朝鮮服とも日本の着物とも違うというのは分かります。
    



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410627529

呉服の由来

日本の”呉服”とはかつて中国の呉の国から由来した物と中国では言われています。
また多くの呉の国の中国人が日本へ渡ったと言われています。
よって日本人と今の華東(上海を中心とした地域)の人の顔がにていると言われて
います。
この説は本当でしょうか?


回答

確かに呉服の「呉」は中国の呉です。
呉で作られていた織物の織り方を日本で取り入れて、
その織物のことを「呉服」または「呉織」と書いて「くれはとり=くれ・はたおり」と呼んでいました。
それが織物のことを大きく指す言葉になり、生地・反物を商う店を呉服屋と呼ぶ由来になりました。
ですから呉服が直接呉の服を指すのではなく、呉の織物を模した製品が日本で生まれたということなんです。
呉の技術や製品が日本に伝わったことはここからもわかりますが、
呉の人たちが多数日本にやってきたかどうかはこの語からだけでは証明できないと思います。

参考にしたサイト: http://gogen-allguide.com/ko/gofuku.html




http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1062705930;_ylt=A2RiGE4JJt1WoHMAnBVzAPR7

呉服は中国の呉の織方をまねたので、その名がついたということですが、春秋時代、三国時代、五代十国時代のどの時代の『呉』のことなんでしょうか?

春秋時代だとするとたとえば日本に伝わったのが邪馬台国の時代だとしても700年以上のタイムラグが生じてしまいます。どのようにとらえるべきでしょうか?




回答

春秋時代の呉が原点です
http://www.j-cfa.com/activity/katsudokikou/index58.html

明の張瀚が著した松窓夢語などに記載があるようなので原文を探してたのですが原文が見つからなかったので漢文は書きません


ルーツは春秋時代でも日本に伝わったのは4世紀ですね
日本書紀には雄略天皇14年に呉国から漢織·呉織が渡来して帰化し伝わったとあります

あの年代で呉というと近いのは三国時代の呉でしょう


こっちにも書いてありますのでhttp://www.geocities.jp/engisiki/kawachi/html/041309-02.html をご参照ください

できれば松窓夢語を見て原文を見て判断したかったのですが…
日本書紀などには書かれているのは確かなんですけど…
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月07日 16時06分13秒 ) パスワード

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%91%89%E6%9C%8D%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F

漢服の画像
1番上の列の画像と真ん中の列の1番左です。



いわゆる女性のスリットの入った体にピッタリしたチャイナドレスは
あれは清の服です。

だから清の服と漢服は全然違います。


とはいえワタシも元は日本人なので中国人ほどは分かってませんが。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月08日 00時29分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 亀山勝氏の『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』の中に、呉に
ついてまとめた部分がありますので記します―
 中国史を概観すると、呉という国名は、時代によって何度か出て来るとい
うことで―
 @呉越同舟の言葉で知られている春秋時代(BC772年〜BC479年)の呉
 A前漢時代(BC206年〜AD8年)に漢に対して起した呉楚七国の乱の呉
 B後漢が滅びて建国した魏・蜀・呉の三国時代(AD225年〜264年)の呉
が一般的によく知られているということであります。

 一旦、ここで切ります―
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月08日 09時07分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


「呉」がどの「呉」なのか、いよいよ謎が深まりますね。ま、だいたいBの「呉」でしょうけど。

@では古過ぎ。

Aは可能性があると思いますがちょっと古い鴨かも。笑
    でもこの時代が背景にあるのかなとも思いますし。謎



それよりも驚いたのは「真田丸」の出浦氏。
昨日の回で真田昌幸に仕える決心をするシーンが描かれてました。


で、この出浦氏
http://pleasure-bit.com/1082.html
コピペガード付きです。

出浦昌相は別名出浦盛清といい、もともとは武田に仕えた忍者の頭領のような存在だったそうです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E6%B5%A6%E7%9B%9B%E6%B8%85

出浦 盛清(いでうら もりきよ、天文15年(1546年) - 元和9年8月18日(1623年9月12日)[1])

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。真田氏の家臣。主水佐、上総介(守)、対馬守。信濃国埴科郡坂城町出浦の生まれ。実名は昌相(まさすけ)。幸久(ゆきひさ)とも伝わる。清和源氏信濃村上氏の一族である出浦清種の次男とされ、更級郡の上平城主(出浦城主)や、上州岩櫃城代などを務めた。

甲州透破(忍者)の統率者。


村上義清が武田信玄に敗れ、越後に逃れると武田家に臣従し、甲州透破(忍者)を統率した。武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国衆たちはほぼ全員が長可を裏切ったが、盛清は撤退に協力した。長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。

その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・真田信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻めでも活躍した。

松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。この頃は出浦対馬守を称している。関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡の群馬原町に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。

子の出浦幸吉は、松代藩で1000石を領する家老となっている。

敵城へ配下の透破を潜入させる際、それより先に自分が忍びに入って探索し、配下の透破の報告の正確度を確認するといった逸話が残されている。

     寺島進のイメージにピッタリですね。笑



脚注[編集]
1.^ 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書、2015年) 280頁



当時の弱小名の存在は悲しいですね。
いよいよ室賀正武が殺される番ですね。


「真田丸」を見ていると(ワタシなんか最初に血祭りに挙げられる存在だな)と思います。








[51]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月08日 23時32分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出浦盛清の話、ありがとうございます。甲州透破を統率したということで、
興味深々であります。吾妻忍び衆を統率。また松代藩では忍者の頭領。関ヶ
原合戦後に上州吾妻郡に住む。「吾妻」という所にも興味深々であります。

 さて、亀山勝氏は『安曇族と徐福』の中で、安曇族について―
 「春秋時代の呉は、長江河口の南で海に接した地域にあり、現在の浙江省
 にある太湖の東の蘇州付近に首都を置いていました。その春秋時代の呉の
 人が、北部九州に渡ってきて安曇族になったのです。
  〜略〜
  弥生時代を理解するには、海人の安曇族の活動を調べなければなりませ
 ん。言い換えると、安曇族を知ると弥生時代が理解できるのです。なぜ
 海人の安曇族かというと、弥生人は海を渡って日本列島へ来て弥生の産業
 改革を進めましたが、この海を渡ることは海人を抜きに語れませんし、そ
 の海人の代表が安曇族だからです。
  〜略〜
  呉は、「南船北馬」の言葉に表されているように、船を使った航海や戦
 闘を得意とする海人を主力とする集団でした。その呉が、BC473年に
 亡ぼされると、呉の人たちの一部が北部九州へ渡って来ました。その中で、
 博多湾の入り口にある志賀島を根拠地にした海人の集団が、安曇族です。
  呉と越は、一括して越族と呼ばれるように、いわば兄弟国でしたが、両
 国の関係は、「臥薪嘗胆」の言葉で表されているように、お互いを仇敵と
 していました。ですから、呉は越に滅ぼされて日本列島へ退いても越への
 復讐心は忘れませんから、仇敵の情報収集と軍資金・兵力確保のために、
 海人として身につけていた漁撈・操船・航海術を使い、中国大陸との間を
 往来して交易を始めました。
  時代が経過して、BC334年に、仇敵だった越が楚に滅ぼされると、
 安曇族はその復讐の目的を失いますが、それまでの交易で身につけた商人
 として発展します。いわば、闘争集団から経済集団へ転換し、中国大陸か
 ら日本列島への移住を望む人たちの運搬の支援をしています。その一方で、
 水田耕作・金属器・養蚕・機織・造船・陶工などの技術を日本列島へ導入
 するために技術者(工人)を招いて、それらの技術を日本列島に根付かせま
 した。その結果が弥生時代の産業革命です。
  AD57年に、安曇族は、現在の福岡市早良区・西区に当たる室見川
 流域を領域とする「奴国」として後漢の光武帝に朝貢し、「漢委奴國王」
 の金印紫綬を授かっています。これで後漢の外臣として公認され、交易を
 より盛んにしました。
  AD220〜221年に、中国大陸では魏・蜀・呉が建国して三国時代
 に入ります。日本列島では、卑弥呼が率いる邪馬台国が、奴国に隣接する
 伊都国(現在の福岡県前原市)を窓口に魏へ朝貢するなどして、魏と結びつ
 きます。半面、安曇族は、先の金印授与による公認交易の効力を失います。
  AD3〜5世紀の応神天皇の代に、日本列島各地の漁民が朝廷に従わな
 いので、安曇族が鎮め、漁民の統率者になったのです。
  663年に、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が朝鮮半島の白村江
 (現在の忠清南道公州付近)で戦った時、安曇比羅夫に率いられた安曇族は、
 日本の水軍として参戦し、大敗して壊滅的な痛手を受けました。この時が
 安曇族の絶頂期で、以後、海人としての活動は衰退して行きます。
  安曇族は、日本列島へいわば裸一貫で渡来して、日本を背負って立つ水
 軍にまで成長したわけですが、その活躍した期間は約1100年間です。」

 呉と安曇族(海人)の関係を拾ってみましたが、この流れのなかで、漢織・
呉織等の来朝があるわけであります。
 平林章仁氏の『三輪山の古代史』の中に―
 「さて、この苧環(おだまき)型三輪山神婚伝承では、夜毎に訪れ来る神の
 裳裾に女が閉蘇紡麻(へそを 麻糸のこと)を縫い付けることが物語展開の
 格となっていて、このことから機織集団や機織文化との関連が推察される。
 これについてはつとに黒澤幸三氏も指摘されるように、雄略紀14年(AD
 471年)3月条に、身狭村主青(むさのすぐりあを)らが呉(くれ)国(中国
 南朝)から伴い帰国した「漢織(あやはとり)」・「呉織(くれはとり)」・
「衣縫(きぬぬひ)」の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)のうちの衣縫の兄媛を、
 大三輪山に奉献したとあることと関わろう。なお同条は、弟媛は漢衣縫部、
 漢織・呉織は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫の先祖であると記している。
  〜中略〜
  蚕織やそれに従事する織姫たちは、祭祀にとって不可欠なものとなって
 いき、王や王権の崇敬篤い有力神に織姫らが貢進されたのである。
  応神紀41年(AD360年)2月条に、呉国から帰国した阿知使主らが
 求めに応じて筑紫の胸形大神(延喜式内名神大社の宗像神社)に工女(ぬひめ)
 の兄媛を奉献したとあるのも、その一例である。
  崇神紀7年(AD471年)8月己酉条の大物主神と倭大国魂神の祭祀に
 関わって伊勢麻績君が見え、雄略紀14年3月条に、漢織・呉織の後裔に
 伊勢衣織が見えることも、その例といえる。『延喜神祇式』伊勢太神宮条
 には、4月と9月の神衣祭に用いる和妙衣(にぎたへ)は服部氏、荒妙衣(あ
 らたへ)は麻績氏が織造するとあるが、この麻績氏は右の伊勢麻績君氏で
 あり、服部氏ともども雄略紀14年3月条に見える伊勢衣縫の後であろう。」
ということであります。つまり、服部氏は漢織・呉織の後裔であるというこ
とになります。

 ここで切ります。
 呉、機織の服部氏、海人の安曇氏・海部氏、そして物部氏、秦氏他との関
係……これらのつながりを探究して行きます―
  
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月09日 11時27分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:崇神紀7年(AD471年)→崇神紀7年(AD187年)
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月09日 13時33分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<41>の越の国のお話について
とんでもないポカをしてました。


三つ柏さんは浙江省の越の国をお書きなのに
ワタクシはベトナムの越南国=つまり越の国=と勘違いしてました。
赤面
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月09日 13時37分51秒 ) パスワード

>服部氏は漢織・呉織の後裔であるということ


すごい情報をありがとうございました。
言葉も出ません。


後ほどもう1度しっかり拝見しますね。
驚きでいっぱいです。
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月10日 00時08分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 呉から来た氏族に安曇氏があった。金久与市著『古代海部氏の系図』に
よれば、安曇氏、海部氏、服部氏、伊福部氏、和珥氏、尾張氏、葛城氏は
同族、または通婚で同族に近い関係という。そして、徐福集団の八十物部
氏族も同族ということになる。別の言い方をするならば、古代の天皇(大王
)系統にからむ氏族とも言える。神武以下の天孫族系ではないということ。
応神紀に来た秦氏とは表面的には別系統と言えます。

 古代豪族はほとんどつながってしまう。豪族から大王が輩出される。そ
の中で天皇になれるのは一体どういう人なのか。そもそも天皇ってどうい
う人なのという原初的問題も突き詰める必要があります。アブラハムの直系
を言うのか、キリストの直系を言うのか……。そして秦氏は何者? 天皇
にはなれないの? 天皇になれる必須条件は、血脈、レガリアか?

 ちょっと荒っぽい疑問の表現となってしまいました。いずれにしても、
呉なしには日本は考えられないということはわかりました。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月10日 02時13分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

>いずれにしても、 呉なしには日本は考えられないということはわかりました。

はい。


考えれば考えるほど混乱していくので簡単に 呉なしには日本は考えられない で収めておきます。


秦あたりから日本に来るより呉あたりからの土地から日本に来る方がずっと早かったんだろうなとは思ってました。汗 

タイムマシンが出来たらいいですね
本当のところが知りたいものです。
わたし達って一体何者なんでしょうね。
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月10日 08時55分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代朝鮮語で、「海」のことを「パタ」というそうですが、
 「海」「秦」「服」もみんな「パタ」ですので、共通して海人でもあった
のかも知れません。秦氏は二系統ありますので、古・秦と新・秦と分別する
必要はありますが。

 海人族と物部氏族の関係も、物部氏が目立ち、海人族の方が目立ちません。
古代日本の勢力地図は、大きく分けて、天孫系、内物部系(天孫族に譲歩)、
外物部系(天孫族に反発)の三つの勢力に分かれるのでありましょうか。
 服部連に二系統あり、大和系vs.摂津・河内系、天御中主vs.熯之速日、服部
vs.羽鳥……の違いは、内物部と外物部の違いのせいかも知れないと推察する
ところであります。この点については、さらに詰めて行きたいと思います。

 本日は、これから筆の会(草書)へ出かけますので、また―
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月10日 09時29分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


「パタ」ですか。
「ハ」の元の音は「パ」ですから「はた」の前は「パタ」だったというのは説得力がありますね。


いつから「パタ」が日本語に入ったのでしょうね?

    もともと中国南部から朝鮮半島経由で日本に来て「パタ」が使われていた?
    
    朝鮮半島からの人々が「パタ」という言葉を日本人に教えた?


こういう空想は楽しいですね。



>服部連に二系統あり、
    >大和系 vs. 摂津・河内系、
    >天御中主 vs. 熯之速日、
    >服部 vs.    羽鳥
>……の違いは、内物部と外物部の違いのせいかも知れないと推察するところであります。
>この点については、さらに詰めて行きたいと思います。


よろしくお願い致します。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月11日 00時06分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 海部氏、物部氏、秦氏そして服部氏……この関係を追ってみます。

 明日に―
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月11日 03時00分36秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9


絹の生産は紀元前3000年頃の中国で始まっていた。

伝説によれば黄帝の后・西陵氏が絹と織物の製法を築いたとされ、
一説には紀元前6000年頃ともされる。


少なくとも前漢の時代には蚕室での温育法や蚕卵の保管方法が確立しており、
現在の四川省では有名な「蜀錦(中国語版)」の生産が始められていたという。

               蜀は三国志の劉備で有名な国ですね



『斉民要術』によれば現在の養蚕原理がほとんど確立していた事が判明している。
また、北宋時代には公的需要の高まりに伴って両税法が銭納から絹納へと実質切り替えられ(1000年)、
以後農村部においても生産が盛んになった。


一方、他の地域では絹の製法が分からず、
非常に古い時代から絹は中国から陸路でも海路でもインド、ペルシア方面に輸出されていた。

これがシルクロード(絹の道)の始まりである。

紀元前1000年頃の古代エジプト遺跡から中国絹の断片が発見されている。


古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、
紀元前1世紀にエジプトを占領すると絹の貿易を求めて海路インドに進出、
その一部は中国に達した。

だが、ローマでは同量の金と同じだけの価値があるとされた絹に対する批判も強く、
アウグストゥスが法令で全ての人間の絹製の衣類着用を禁止した。


マルクス・アウレリウス・アントニヌスは絹製のローブが欲しいという后の懇願を拒絶して模範を示したが、
それでも絹着用の流行は留まることはなかった。


6世紀に絹の製法は、ネストリウス派を通じて、東ローマ帝国に入った。

中世ヨーロッパでは1146年にシチリア王国のルッジェーロ2世が自国での生産を始め、
またヴェネツィアが絹貿易に熱心で、イタリア各地で絹生産が始まった。
フランスのフランソワ1世はイタリアの絹職人をリヨンに招いて絹生産を始めた。
リヨンは近代ヨーロッパにおける絹生産の中心となる。


              中略


日本にはすでに弥生時代に絹の製法は伝わっており、
律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、
品質は中国絹にはるかに及ばず、

               以下どうでも良い情報

また戦乱のために生産そのものが衰退した(室町時代前期には21ヶ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。


このため日本の上流階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていた。
明代に日本との貿易が禁止されたため、倭寇などが中国沿岸を荒らしまわり、
この頃東アジアに来航したポルトガル人は日中間で絹貿易を仲介して巨利を博した。

鎖国後も中国絹が必要だったため、長崎には中国商船の来航が認められており、国内商人には糸割符が導入されていた。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月11日 03時09分51秒 ) パスワード

ということは紀元前3000年以前に日本にも絹は知られていたのでしょうね。

    思ってたより古かったです。


レス<49>の情報をここにコピペ:


     @呉越同舟の言葉で知られている春秋時代(BC772年〜BC479年)の呉
    A前漢時代(BC206年〜AD8年)に漢に対して起した呉楚七国の乱の呉
    B後漢が滅びて建国した魏・蜀・呉の三国時代(AD225年〜264年)の呉


ということは  絹自体は呉越同舟の春秋時代の「呉」の時代には日本に既に、とっくに、伝わっていたんでしょうね。

この時代よりずっと前に少量来てたんでしょうね。


    絹の光沢に代わるものとして「鳥」の羽が利用されていたのかなと
    ハワイの事情から想像しました。



人間の歴史とは、想像を超えます。
先人の生きてきた道とは物凄いものがあるんだなと改めて思いました。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月11日 03時21分58秒 ) パスワード

http://www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_yousan.html


養蚕の歴史


カイコを育てて繭(まゆ)をとることを養蚕(ようさん)といいます。
養蚕は、中国の黄河や揚子江流域で野生のクワコを家畜化したのがはじまりといわれます。
今から5,000〜6,000年も前のことです。



はじめは中国の宮廷内だけで秘密に行われていた養蚕も、
紀元前1000年くらいになると、一般の農家に養蚕をさせるようになりました。
でも、できた絹は、宮廷ですべて取り上げてしまいました。



紀元前200年くらい、漢の時代になると西域との貿易が始まり、異民族を支配するためのほうびとして使われました。


こうして、絹の魅力は、中近東へ、そして、ローマまで広まっていきました。


やがて、この交易ルートが「シルクロード」(絹の道)といわれ、東西文化の交流に多くの役割をはたしました。



                         日本です!

卑弥呼の時代には中国に絹織物を贈っていた 


日本への養蚕技術が伝わったのは紀元前200年くらい、稲作といっしょに中国からの移住者(日本人の祖先のひとつ)が、伝えたといわれています。


さらに195年には百済から蚕種が、
283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。

                  この辺りが日本の養蚕の史実ということになるんでしょうね。



奈良時代には、東北・北海道を除き全国的に養蚕が行われ、産地ごとに等級が決められていて、税として朝廷に集められました。



以下略



日本史的には前漢時代あたりに入って来た。
しかし実際にはもっと前から存在してたんでしょうね。



前漢時代:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BC%A2


前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)

中国の王朝である。
秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、
長安を都とした。

7代武帝の時に全盛を迎え、

その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、
14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡、

その後漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。

前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。



光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年[1])

後漢王朝の初代皇帝。

南陽蔡陽(湖北省棗陽市)の人。

王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。

諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された[2]。

「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。

中国史上で唯一、一度滅亡した王朝の復興を旗印としてこれに成功した君主である。


在位期間   25年 - 57年

都城     雒陽(洛陽)

姓・諱    劉秀
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月11日 17時00分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 呉から来た安曇族について、レス<51>にて―
 「AD57年に、安曇族は、現在の福岡市早良区・西区に当たる室見川
 流域を領域とする「奴国」として後漢の光武帝に朝貢し、「漢委奴國王」
 の金印紫綬を授かっています。これで後漢の外臣として公認され、交易を
 より盛んにしました。
  AD220〜221年に、中国大陸では魏・蜀・呉が建国して三国時代
 に入ります。日本列島では、卑弥呼が率いる邪馬台国が、「奴国」に隣接
 する伊都国(現在の福岡県前原市)を窓口に魏へ朝貢するなどして、魏と結
 びつきます。半面、安曇族は、先の金印授与による公認交易の効力を失い
 ます。
  AD3〜5世紀の応神天皇の代に、日本列島各地の漁民が朝廷に従わな
 いので、安曇族が鎮め、漁民の統率者になったのです。」
と亀山勝氏の『出雲族と徐福』から引用しましたが、この「奴国」を引き継
いだ「狗奴国」の有力者が沼津の「高尾山古墳」に祀られているという説が
あります。また静大の原名誉教授は物部氏第6世代で開化天皇、崇神天皇の
大臣だった「伊香色雄命(いかがしこをのみこと)ではないかと仮説を立てて
おられます。東日本最大の古墳ということで、その国は邪馬台国と並ぶ国規
模であったと思われ、またこの遠江〜駿河にも大いに関係してきますので興
味深々であります。一度見に行ってこようと思っています。

 海部氏については、帰宅後に記します―
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月12日 00時30分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 村井康彦氏の『出雲と大和』という本は岩波新書であるが、非常に分かり
易い本であります。
 その中で海部氏と諸氏の関係次のように述べておられます―
 @海部氏と物部氏は同族
 A海部氏と尾張氏は同族
 B海部氏と和珥氏は同族
 C海部氏と宗像氏は同族
 D海部氏て鴨氏は同族
ということであります。

 明日は海部氏と徐福、その他について記します―
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月12日 02時19分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


>海部氏と徐福

待ってます!
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月12日 09時13分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 追加:海部氏と伊福部氏も同族でした。

 では、服部氏はどうかということになるのですが、海部氏の租「火明命(ほ
あかりのみこと)」より数えて六代孫の「建田勢命(たけたせのみこと)、叉の
名を、高天彦命(たかあまひこのみこと)」が『先代旧事本紀』の「天神本紀」
の中で、「神服連(かんはとりのむらじ)、海部直、丹波国造、但馬国造等の租」
となっていることが、唯一のヒントであります。
 「神服部(かんはとりべ)」とは、太田亮氏によれば、「服部の一種で、神
服を織る部民である」ということであり、また「神服連」(いくつか系統か
ある)の一つは、天孫本紀に「建田背命が神服連の租」と書かれているとあり、尾張氏族でもあると言う。
 従って、神服連は、服部氏の中の服部氏、神服氏の中の神服氏ということ
になり、天皇の祭祀の中枢にかかわっていたと推察される。この点を更に
探究して行きたいと考えますが、今の服部氏で服部連を祖としている系統が
あるわけですが、服部連=海部氏とすると、その系統は元々は海部氏であっ
たということになります。もっとも、海部氏がいつから海部氏を名乗ったの
かという問題もあります。部は部曲から付けられてのでしょうから、元々は
「海氏」または「天氏」であったのかも知れません。あるいは、発想を逆に
して、服(はとり)氏が元祖で、後に海氏になったのかも知れません。
 いずれにしても、この辺の謎についてさらに突っ込んで調べたいと思いま
す。

 さて、あを様より飛鳥昭雄氏の「徐福」関係の紹介が新たなスレッドにて
ありましたが、私も本日、飛鳥昭雄氏の説に触れようとしていたところであ
ります。正に以心伝心であります。
 飛鳥氏は秦氏、物部氏、賀茂氏、徐福等に関して研究の最前線を走ってい
ます。この人の右にでる人はないでしょう。データも豊富であり、深掘りも
されていて、物事を断言されますのでわかり易い。
 但し、冷静に、客観的に捉えて行きたいと私は心掛けてはいます。

 ひとまず、あを様の飛鳥氏に関する新しいスレッドをこれから見て来ま
す―
 

 
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月12日 13時42分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい!


     「神服部(かんはとりべ)」とは、
      太田亮氏によれば、「服部の一種で、神服を織る部民である」ということであり、
      また「神服連」(いくつか系統かある)の一つは、
      天孫本紀に「建田背命が神服連の租」と書かれているとあり、尾張氏族でもあると言う。


       従って、神服連は、服部氏の中の服部氏、                 はい、まさに!
       神服氏の中の神服氏ということになり、
       天皇の祭祀の中枢にかかわっていたと推察される。


       この点を更に探究して行きたいと考えますが、今の服部氏で服部連を祖としている系統があるわけですが、
       服部連=海部氏とすると、その系統は元々は海部氏であったということになります。

       もっとも、海部氏がいつから海部氏を名乗ったのかという問題もあります。

        部は部曲から付けられてのでしょうから、元々は「海氏」または「天氏」であったのかも知れません。



                   ですね                                             

        あるいは、発想を逆にして、服(はとり)氏が元祖で、後に海氏になったのかも知れません。


                はい。

                服⇔はた・ぱた⇔海  ですから卵と鶏と同じくハトリが先だったかもしれないですね。

                服部氏=海部氏   服=海 昔は区別せず同じことだったのかも知れないですね。



実に面白いですね。
昔は1つの言葉がいろいろな意味を持っていたでしょうからね。



古代は面白いですね。ロマンに満ちています。でもこんがらがって行きますが。笑
[68]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月12日 23時21分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は午後より掛川桜を見に行ってきました。掛川桜と呼ばれる、丁度伊豆
の河津桜のような赤い桜です。掛川城のすぐ側を流れる逆川の両岸に植えられ
ていて、お城を見ながら桜も楽しめるというわけです。
 桜といえば即座に「おでん」「甘酒」、これが私の条件反射でありますが、
ソフトクリームやたい焼きの方が今の若者には好かれるのでしょうか、私の
楽しみの機会は徐々に少なくなってきました。

 橋の袂のお土産物屋さんに入りました。掛川らしくお茶やお茶を利用した
お菓子類がたくさんありました。二軒目の店は、グッズの店で、時代物を集
めておりました。本もあり、よく見ると伊賀の服部半蔵の名前が出ておりま
したので、本を取り表紙をみますと、『伊賀流忍術秘伝之書 煙りの末』と
いう伊賀上野観光協会の発行する本でありました。内容的には、幅広くいろ
いろなことが書かれておりましたので即仕入れました。
 一週間後の日曜日には、伊賀に一泊で行ってまいります。伊賀といっても、
今度は名張です。赤目四十八滝をまず見て、時間の許す限りいろいろ足を伸
ばそうと思っております。翌日は京都の東寺弘法市へ行きます―。

 
 
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月13日 03時10分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『伊賀流忍術秘伝之書 煙りの末』

犬も歩けば棒い当たる
三つ柏さんが外出すると面白い本に出会う




ホント!
あちこちに出掛けて、資料を仕入れることが出来たら、一石二鳥ですね。




>グッズの店

ついでにご当地系の家紋のついた小物も売れば良いのにね
三つ葉葵とか、井桁とか、半蔵の紋とか。


1週後でしたら、伊賀や名張はまだ寒いかもですね。
京都は寒い内の方が人出が少ないかもですね、少ない方が良いですね。って・・・笑
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月13日 13時17分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日購入した『煙(けぶ)りの末』に「今まで知らなかった情報」、「今ま
でよりさらに深い情報」、も入っていましたので、今後取り上げて行きたい
と思っています。但し、名張より帰ってきてからといたします。

 海部氏の続きをすすめたいと思います―
 飛鳥昭雄氏の『失われた徐福のユダヤ人 物部氏の謎』という本の神髄は、
次のとおりです(少し集約します)―
 「最初の航海で徐福集団がやってきたのは若狭湾であった。そして七年間
 丹後に居住し、拠点を築いた。彼らは聖なる磐座(いわくら)を中心に神殿
 を建設した。これが後の籠(この)神社となった。
  しかも、徐福集団は絶対神ヤハウェを海神として祀った。彼らは祭祀集
 団として籠神社に仕え、後に「海部(あまべ)氏」と称した。「海部」と書
 いて「アマ部」と呼ぶのは、大陸からやってきた渡来系の天孫族としての
 「天部」の意味を込めたからだ。
  また、徐福集団の祭司は民族の始祖を「火火出見命(ほほでみのみこと)」
 と呼んだ。火火出見命は後に「天火明命(あめのほあかりのみこと)」とも
 呼ばれるが、後者の名をかかげたのは海部氏と同族である尾張氏である。
 三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)を祀る伊勢神宮の元伊勢、籠
 神社に仕えるのが海部氏であるように、同じく草薙剣(くさなぎのつるぎ)
 を御神体として祀る熱田神宮に仕えるのが尾張氏だ。彼らはともに徐福集
 団のなかでも祭司レビ人の末裔だったに違いない。」

  ここで私の意見―海部の「部」は朝廷の氏姓制度に組み込まれてつけら
 れたもので、当初は「海(あま)・海人(あま)」氏と呼ばれていたのではな
 いだろうか……。
  また、「火火出見命」は海氏の納得した呼び名ではなく、正式名は「天
 照国照彦天火明櫛玉饒速日命」であり、少なくとも尾張氏がかかげた名前
 までは少なくとも名乗らせたかったものと推察いたします。

 今週、名張へいくまでに、この続きを完結させます。
 今回はここまで―

[71]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月13日 14時23分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


へえ〜
面白いですね。


徐福達は、最初若狭に来たのだろう、ですか。
籠神社を考えると、なるほどな、って思います。


続きを待ってます、お願い致します。
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月14日 01時11分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 飛鳥昭雄氏『失われた徐福のユダヤ人 物部氏の謎』の神髄部分の続き―
 「二度目の航海で徐福が上陸したのは九州であった。北部九州の西側、お
 そらく長崎か佐賀のあたりだろうか。
  ここには有名な弥生時代の遺跡、吉野ケ里遺跡がある。稲作などの弥生
 文化が一気に花開く時期と徐福の渡来時期はぴったりと重なる。しかも、
 吉野ケ里遺跡のすぐ側には徐福伝説を今に伝える金立神社が存在する。
  考古学的に北部九州の弥生文化は筑紫平野を中心に、遠賀川流域に展開
 する。遠賀川流域は、まさに物部氏が密集していた地域である。九州に上
 陸した徐福の童男童女と技術者たちは、高度な文化をもとに筑紫平野全域
 に広がり、後に物部氏と呼ばれた。北部九州に形成された徐福の王国こそ、
 まさに原物部王国だったのだ。
  籠神社の海部宮司は、海部氏が物部氏の中の物部氏であると強調する一
 方で、海部氏と物部氏では格が違うと述べるのは、ここなのだ。海部氏も
 物部氏もどちらも徐福集団に変りはないが、渡来時期と上陸地点が違うの
 だ。
  しかも、海部氏は祭祀レビ人であるという自負がある。もちろん、物部
 氏にも祭祀レビ人はいただろうが、基本は童男童女と技術者である。神道
 祭祀においては海部氏が格上だったのだ。おそらく海部氏は祭祀レビ人の
 中でも、大預言者モーゼやアロン直系の大祭司コーヘンの血統であった可
 能性が高い。」

 ここで切りますが、まだまだ続きます―
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月14日 02時21分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


徐福の九州上陸が出て来て落ち着きました。


その後も徐福達は日本のアチコチに出没するワケですね。



やっぱり徐福が最初に若狭の国に上陸して
その後九州に来た
と考えると落ち着きます。

そして日本のアチコチに徐福の足跡があると思うと
なるほどなって。


ありがとうございます。


続きを楽しみにしています。
[74]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月14日 14時51分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 飛鳥昭雄著『失われた徐福のユダヤ人 物部氏の謎』の神髄部分の続き―
 「物部氏の東遷と邪馬台国
  九州に上陸した徐福集団は「ヤマト」という名前を持ち込んだ。ヤマト
 とは、中央アジアにあったイスラエル人の集合場所と考えられるオアシス
 国家である。失われたイスラエル10支族のほか、ペルシア経由でやって
 きたユダヤ人もこの名前を忘れていなかった。なぜなら、ヤマトとはへブ
 ライ語で「神の民」を意味するからだ。
  九州には福岡の山間部や熊本の菊池郡山門など、ヤマトと発音する地名
 が数多くある。これらのヤマトは、かつてそこに邪馬台国があった証拠で
 あると、邪馬台国=九州説を支持する学者たちは指摘する。邪馬台国はヤ
 マタイ国ではなく、本来はヤマト国と発音することが言語学的に判明して
 いるからだ。もっとも「ト」についとは、当てる漢字によって甲音と乙音
 が使い分けられており、邪馬台と山門では異なる発音だという指摘もある
 ものの、九州説の学者にいわせれば、転訛の範疇であるという。
  だが、籠神社の極秘伝からすれば、邪馬台国があったのは畿内である。
 九州にあったのは邪馬台国ではなく、原邪馬台国である。原邪馬台国が九
 州各地のヤマトの地名として残ったのだ。もっといえば、ヤマトとはクニ
 名でない。部族の名称といっていい。九州各地にはヤマト族がいたのであ
 る。
  このヤマト族こそ5世紀に部民制度ができたとき、物部氏と呼ばれるよ
 うになる徐福集団のユダヤ人だったのである。九州に拠点を築いた物部氏
 たちは、2世紀ごろに発生した倭国大乱に乗じて畿内へと侵出する。筑紫
 平野を中心とする北部九州の地名がことごとく畿内に見出せるのは、物部
 氏の集団移住を意味する。これらの地名を冠する物部氏たちが大王ニギハ
 ヤヒ命に従って畿内に降臨したことが『先代旧事本紀』に詳細に記されて
 いる。
  こうして畿内に誕生したのが「魏志倭人伝」でいう邪馬台国である。邪
 馬台国とは、畿内における物部王国だったのだ。」

 ここで切りますが、更に続きます― 
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月14日 15時59分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 飛鳥昭雄著『失われた徐福のユダヤ人 物部氏の謎』の神髄部分の続き
(一部要約)―
 「卑弥呼はユダヤ人預言者だった―
  畿内の邪馬台国にあっては、かなりの混乱があったことが推察される。
 畿内における先住民にとって、物部氏は征服民に等しい。大陸仕込みの圧
 倒的な軍事力をもって侵攻してこなければ、いくら古代であっても、地名
 がそっくり入れ替わるほどの集団移住は実現できなかったはずである。
  いや、軍事力だけでは無理である。軍事力のほかに、周辺の倭人を納得
 させるだけの権威が必要だったに違いない。古代における権威とは神秘的
 な力、今日でいう霊能力や超能力だったはずである。これらを持ち合わせ
 ていたのが、卑弥呼だった。実際の統治は弟が担い、ひたすら祭祀に没頭
 し、神々の託宣を下した卑弥呼の存在あってこそ、畿内における邪馬台国
 は成立しえたのである。
  当然ながら、卑弥呼は「物部氏」である。しかも、ただの物部氏ではな
 い。物部氏の中の物部氏、即ち「海部氏」だった。徐福が率いてきたユダ
 ヤ人のなかでも、大祭司コーヘンの血を引く祭司レビ人だった。おそらく
 女性預言者ともいうべき存在だったのだろう。
  籠神社が所蔵する国宝「海部氏勘注系図」には、天火明命の子、天香語
 山命(あめのかぐやまのみこと)を初代として、第8代目の丹波国造に日本
 得魂命(やまとえたまのみこと)なる人がおり、その娘の名が「日女命(ひる
 めのみこと)」と記されている。日女命はヒメ命、もしくはヒルメ命と読む
 ことができるように、太陽神に仕える巫女を意味する。これは太陽神の巫
 女=日巫女、つまり卑弥呼のことなのである。
  しかし、ここで忘れてはならないことがある。若狭湾に上陸した徐福集
 団は「海部氏」になり、九州に上陸した徐福集団は「物部氏」となった。
 ともに同じ徐福集団とはいえ、住む地域も異なり、両者は別のクニを形成
 していた。物部氏が九州から東遷してきたとき、畿内に影響力をもってい
 た海部氏がすんなりと集団移住を受け入れたとは考えにくい。
  おそらく海部氏と物部氏の間でなんらかの取り引きがあったのではない
 だろうか。思うに、それが卑弥呼だった。海部氏の血を引く霊能者の卑弥
 呼を女王とするならば、邪馬台国を認めようという話になった可能性が高
 い。神秘的な力を持つ巫女を女王とすることで、物部氏は畿内の先住民た
 ちを納得させることができ、海部氏もまた王家に一族の者を送り込むこと
 で影響力を行使し、物部氏の持つ強大な軍事力を味方につけることができ
 たというわけだ。
  こうして海部氏ユヤダヤ人預言者、卑弥呼が女王として君臨することに
 よって、無事に邪馬台国が成立した。九州と若狭湾から畿内を押さえたこ
 とで、物部氏=海部氏は西日本の「倭国」を支配することが可能となった
 のである。ひょっとすると、これは徐福の戦略だったのかもしれない。若
 狭湾の次に九州に上陸することで、最終的に西日本の倭国を両側から挟み
 打ちする青写真を描いていた可能性は十分ある。」

 ここで切ります。さらに―    
  
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月14日 16時06分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごいお話!


http://plaza.rakuten.co.jp/kotoha/7006/


「ヤマト」という国名は、「ヘブライ民族」との関わりが濃厚です。

なぜなら、大和(ヤマト)という言葉、実はヘブライ語で読み解けるからです。

『古代日本と失われた環太平洋文明の謎』(飛鳥昭雄)より、その部分をみてみます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そこで直系ヘブライ人である、「大和民族」について申し上げる。
じつは、大和という言葉は、「ヤ=絶対神ヤハウェ」と「ウマト=民族」が合わさった複合名称なのだ。
つまり、大和は「ヤ・ウマト」となって、「神の民」の意味を持つヘブライ語だったのである。
正確には、ヘブライ語の方言「アラム語」のことだが、イエス・キリストの時代はアラム語を使っており、ヘブライ語は『旧約聖書』を読む時以外に使わなかったのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


つまり、このことをまとめると、

●「ヤマト」=「ヤ・ウマト」=「絶対神ヤハウェ・民族」=「神の民族」!

大和とは、「神の民族」を意味するヘブライ語の方言アラム語であったということになります。

「大和」も、普通は「ヤマト」とは読めません。
明らかに「大和」という漢字に「ヤマト」という言葉を当てています。


「大和」の「和(わ)」は、「倭(わ)」に通じますので、ヘブライ民族が、これを利用して、さらに大きな和(倭)という意味合いで「大和」という言葉をつくり、そこに「ヤマト=神の民族」というヘブライ語を当てはめたのでしょうか。
これは全くの推測ですが。

いずれにしても、「倭」から「大和(ヤマト)」となったため、「倭(わ)」という読みも、大和朝廷が成立して、「大和(ヤマト)」となった後、いつの頃からか、「倭=やまと」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

だから「倭」は「わ」とも「やまと」とも呼ぶ、と。


+++++++++++++++++++++++++++

いやいやいや・・・・
すっかり大和をヤマトって読むって忘れてましたよ。
わ〜、オソロシ〜
[77]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月15日 13時54分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 飛鳥昭雄氏の論究の続きですが、今年の2月に飛鳥昭雄・三神たける著
『失われた卑弥呼の金印「親魏倭王」の謎』が出版され、「大和」につい
て何故「倭」・「大倭」から「大和」に表記変えしたのかということに触
れていますので、後半にて引用本を切り替えます。とりあえずは『失われ
た徐福のユダヤ人 「物部氏」の謎』から(一部要約)―
 「大邪馬台国とユダヤ教
  九州から集団移住した物部氏によって「邪馬台国」は誕生した。『魏
 志倭人伝』によると、この時点で女王卑弥呼に従う倭国のなかで、邪馬
 台国に匹敵するクニは投馬国しかなかった。
  邪馬台国が畿内にあったのに対して、投馬国は中国地方にあった。い
 わゆる「邪馬台国畿内説」では、投馬国を鞆(とも)の浦や吉備、出雲、
 丹波などに比定するが、実際はもっと広範囲な領域を誇っていた。山口
 から丹波まで、瀬戸内海沿岸はもちろん、日本海側も含めて投馬国だっ
 たのである。
  投馬国の中心はいうまでもなく徐福集団が最初に上陸した若狭湾、籠
 神社のある丹後地方にあった。丹後とはいうものの、古代にあっては丹
 波、丹後、但馬はひとつの国、丹波国であった。実は、この丹波国こそ
 投馬国のことなのだ。
  海部氏のシャーマンを「邪馬台国の女王」とすることに成功した投馬
 国=丹波国は以後、急速に勢力を拡大していく。丹波国を中心に西は中
 国地方全域、さらに東は琵琶湖から東海地方へと至る。このころ、東海
 地方を支配下に治めた海部一族が「尾張氏」となる。
  さらに、丹波国の勢いはとどまらず、伊勢国や志摩国はもちろん、熊
 野国に至り、持ち前の「水軍力」によって、紀伊半島をぐるりと支配下
 に収めてしまう。もはや、投馬国は丹波国、もしくは丹波王国というレ
 ベルではなく、「大丹波王国」ともいうべき存在だった。
  こうなると、物部氏の「邪馬台国」と海部氏の「投馬国」は完全に勢
 力が逆転、邪馬台国の領域へと大丹波王国は侵出する。
  しかし、これは「戦争」で領地を広げていったのではない。籠神社の
 海部光彦宮司にいわせれば、あくまでも平和的な併合であるという。
  勢力を拡大した投馬国は、ついに邪馬台国を併合することでひとつ
 のクニとなった。これが後期邪馬台国、すなわち「大邪馬台国」である。
 4世紀の初めのことである。 

 『失われた卑弥呼の金印「親魏倭王」の謎』によりますと、内容的には
 ほぼオーバーラップしますが―
 「西日本列島の倭国を政治的に支配したのは邪馬台国であっても、宗教的
 に支配してきたのは投馬国である。邪馬台国の女王になった卑弥呼と台与
 は、いずれも投馬国、後の丹波王国の海部氏の血を引くシャーマンであっ
 た。彼女たちが亡くなった後、投馬国はすんなりと邪馬台国による支配を
 認めただろうか。
  実際、卑弥呼が亡くなって、男王を立てようとしたら、国は乱れた。お
 そらく海部氏による反抗であったのではないか。男王が物部氏ではあった
 ものの、投馬国の人間ではなかったがゆえに、投馬国の人々の不満が爆発
 した可能性は十分考えられる。
  そこでなんとか投馬国出身で、同じ海部一族である台与を女王として立
 てたものの、その次が続かなかった。優秀な霊能者など、そうはいない。
 ましてや女王に君臨するだけの器をもった人物となると、100年にひと
 りだろう。
  結果、どうなったか。籠神社の極秘伝から察するに、投馬国が一気に台
 頭してきたのだ。投馬国が周辺に勢力を拡大してきたのだ。尾張に進出し
 た海部氏は尾張氏となり、熱田神社を建立し、ここを拠点とする。
  さらに、そこから伊勢や熊野へ進出する。後に伊勢神宮が鎮座すること
 になるのも、もともと海部=尾張氏が支配していたからにほかならない。
 伊勢神宮の祭司である度会(わたらい)氏の本貫地は丹波である。
  いずれにせよ、4世紀に投馬国は急速に勢力を拡大し、圧倒的な「水軍
 力」によって紀伊半島をぐるりと支配下に収めてしまう。伊勢国や志摩国
 はもちろん、熊野国に至るまで、すべて物部氏が主要な拠点を抑えてしま
 う。
  囲碁ではないが、こうなると倭国連合の宗主国ともいうべき邪馬台国は
 投馬国に囲まれる形となり、ついには勢力は逆転する。邪馬台国の領内に
 海部氏が浸出してくる。大和地方の石上に「丹波」や「出雲」といった地
 名があるのは、何よりの証拠である。
  ただ、このあたりの事情について、籠神社の海部光彦宮司は、慎重に言
 葉を選ぶ。投馬国の邪馬台国領内への進出は、決して征服ではない。あく
 までも平和的な併合であり、その証拠が「ヤマト」という名前、すなわち
 「大倭」だという。
  どうも、倭国の連合国にして、物部氏のヤマト族が支配する邪馬台国は
 「倭=ヤマト」だが、拡大してた投馬国によって併合された邪馬台国は、
 「大倭=ヤマト」なのだということらしい。
  これを筆者なりに整理すれば、物部氏のヤマト族が作ったヤマト国=
 邪馬台国は、投馬国の海部氏であり、かつヤマト族でもある卑弥呼と台与
 が女王として君臨し、当時「倭」国=「ワ」国と呼ばれていたクニは、や
 がて「ヤマト」国となった。
  だが、卑弥呼と台与が亡くなって、投馬国が邪馬台国を併合すると、
 「大きなヤマト」国という意味で「大邪馬台」国となった。同時に対外的
 にも「大きなヤマト」国=「大倭」という意味で邪馬台国と称すようにな
 った。かくして「倭」が「和」と表記されるに及び、「大邪馬台国」=
 「大倭国」=「大和国」と呼ばれるようになったというわけだ。
  この大邪馬台国こそ、前期大和朝廷である。投馬国と合体した邪馬台国
 が中央集権国家を作る段階に入ったことを意味する。」
ということです。

 さて、「倭」と「大和」ですが、もっとわかり易くいうと、「倭」という
のは、卑弥呼の「卑」と同じで、中国に蔑みの意味を込められて呼ばれた言
葉であった。従って、「大和」に変えたということは、自信を取り戻した国
家像が垣間見られると同時に、対外的な宣言とも受け止められます。

 飛鳥氏の論究はだいたい正しいのではないかと思われますが、ヘブライ色
が濃いことと、実証主義を飛び越えたところがありますので、いわゆる学術
論文とは言いにくいですが、その先見性には目を見張るものがあり、いずれ
時間とともに実証されていくものと信じております。

 なお、出雲との関係、神話との関係、及び秦氏との関係における整合性に
ついて、今後追跡したいと思います。また服部氏がどこに埋没しているのか
ということももちろん―

 名張行きまで、あと丸4日あります―

 
[79]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月16日 12時08分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 飛鳥氏の言及の及んでいない事項は―
 @徐福伝説が、丹後や北九州以外にもたくさんあるのはなぜか?
 A徐福はどこを出発して、どのルート(海路)をとったのか?
 B徐福船団というものの実態―造船費用・物資・航海術…etc.
 C福船団の人選はどうやって決めたのか?
D秦始皇帝も本当はミッションを理解していたのではないか?
 E徐福船団だけで弥生時代の産業革命がなされたのかどうか?
 F徐福は熯之速日命なのか?
 G徐福は天皇家の血筋としての条件を満たしているか?
 G天磐舟とは徐福船団のことか?

 この辺のことを、追及したいと思っております。今年に入り、前田豊氏
の『徐福と日本神話の神々』という本が出版されましたので、近々購入し
てみようと思っています。

 航海術というのも、実際に船に乗ってみると大変であることがわかりま
す。ましてや今のように動力がなかった時代、手漕ぎの時代であった。海流
・風向・天候・海図・位置の確認・岩礁や浅瀬・上陸先の対応…、一番の
敵は風雨と波・海流・闇夜ではなかろうか…人間の力ではどうしようもない
……。
 船を造るということも大変であったと思われます。材木・製材・造船技術
・港……。
 いずれにしても、徐福船団の実態を細かく分析する必要があります。

[80]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月16日 12時52分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうなんですよ
当時の舟って一体どんな?


ま、方向だけは大丈夫でしょうけど、その他はどうしたんでしょうね?



ハワイからポリネシア諸島やミクロネシア諸島に行くのはしょっちゅう実験航海をやってますが
大陸から沖縄諸島(奄美諸島?)を島伝いに九州に来たのかな?と。


半島からはアヤシゲな舟がウロチョロ来てるらしいけど
結構漂流難破もしているようで
北半島からは難しくても南半島からは易しいのかなと思ったりします。


それにしても2000年も前に3000人も来たんでしょうかねえ?
[81]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月16日 15時40分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 飛鳥氏の丹波王国、原邪馬台国、投馬国、邪馬台国、大丹波王国、大和国
の成立過程が正しいとしても、研究者によりその成立過程の表現方法はいろ
いろあり、また異論もあるかと思います。
 歴史の出来事を説明するのは並大抵でない。一つの事象を確認するのに関
連事項のすべてを明らかにしなければならない。また、視点を変えても全然
表現は変わってしまう……。
 でも、早く「正史」が確立されんことを望むばかりであります。

 徐福が来たのはBC3世紀初頭からBC2世紀終わりにかけてだと思いま
す。3000人が多いのかどうかといえば、日本にやって来た渡来人の数は、
トータルでその100倍も300倍も来ているようです。ユダヤ系だけでは
なく、いろいろな民族が混じっているのは間違いありません。
 ユダヤ系という表現だけでなく、シュメール系だとかポリネシア系だとか
いろいろな表現もあります。
 民族の移動と混合により新たな民族に変わって行く。単純ピュアな民族な
どはっきり言ってないわけで、ユダヤ教に帰依しているからユダヤ人だとい
うのはひとつの卓見なのかもしれませんね。
 失われた10支族等は大陸を年数も何十年もかけて移動して行くわけで、
その間単純ピュアなの血縁家族の塊であり続けるのは不可能であったと推察
いたします。
 また、彼らの心のベクトルが、シオニズムのようにずっと強かったのかど
うかということも証明しなければなりませんが、本当にそうだったのでしょ
うか?
 ユダヤ教徒、原始キリスト教徒の信仰心の厚さを知りたいと思います……。

 
 
[82]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月16日 17時12分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日本に来た渡来人について、いつ頃、何人位来たのかというデータは、
応神紀に弓月君と共にやって来た民は有名ですが、それ以前のことについて
は記録は薄いようであります。
 飛鳥氏と同じくヘブライに詳しい西沢徹彦氏は、『古代日本とヘブライ一
掃政策』の中で、ヘブライの民の日本への渡来について、その概略を次のよ
うに述べています(要約)―
 「古代日本列島へのヘブライ人の移住は―
  @紀元前1100年頃、ヨブを王とするエドム一族がやって来た。
  A紀元前700年頃、ヒゼキヤ王時代のユダ王国の民。イザヤの3人の
   子供が中心となって推進。
  B紀元前400年頃、いわゆる失われたイスラエル10支族がやって来
   た。預言者のエズラが推進。
  C紀元31〜33年頃、邪馬台国の祖「ザブダイ」親族がやって来た。
  D紀元400年代初頭、大量の秦氏のグループが渡来。」

 このDについて、西沢氏はこう言っています―
 「秦氏の場合は、前述4つの渡来とは異なり、ヘブライ一掃の事情をよく
 知らないまま、移住して来たと思えます。それ故、秦氏は日本においてユ
 ダヤ色文化を振りまき、その跡を残したのですが、結局は日本国の方針に
 従って、ヤダヤ教を捨て日本国の方針に従って、ユダヤ教を捨て日本国に
 同化したと見られます。」
  但し、この部分については、秦氏の渡来をいつとみているのか、日本国
 の成立をいつとみているのか、秦氏は原始キリスト教だったのにユダヤ教
 とは?……少しこんがらがっているように思われます。

  では、飛鳥氏はこのあたりについて何と言っているか―次回にこのこと
について記します。
 
    
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月16日 22時54分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


楽しみなご旅行が近づいているのに、ありがとうございます。


ユダヤ人ですが
中国のユダヤ系は中国の政策に同化している話を聞きました。
確かにユダヤ系が虐殺されたというような話は聞かないですよね。


しかしイスラム教についてはご存知のように活発に反政府運動を展開している。
共産中国を倒す西の勢力として警戒する中国政府も中国人を投入して子を産ませて中国化させる1手もとっている
なんてことも聞きます。


ということで日本に入って来たユダヤ人が日本に同化したというの、非常に分かります。



   仏教はヒンズー教の1派
   キリスト教もユダヤ教の1派   (つまりイスラム教もユダヤ教の1派)

       ということで西沢氏の世界宗教観ではユダヤ教と景教は同祖なのかなとも思いました。


       インド人の知り合いから仏教はヒンズー教の1派だと言われて仰天しましたが
       それでキリスト教もイスラム教もユダヤ教の中のカルトなのかなと。


            キリストはユダヤの子だし
            アラブ人というかイシュマイルはアブラハムの子だし


中国のユダヤ系はこの先もおとなしくしているのかな?と思いました。
           
[84]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月18日 01時52分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 西沢氏の言うヘブライ関係の渡来の内容―
@BC1100年頃:ヨブを王とするエドム一族がやって来た。
 ABC700年頃:ヒゼキヤ王時代のユダ王国の民。イザヤの3人の
          子供が中心となって推進。
 BBC400年頃:いわゆる失われたイスラエル10支族がやって来た。
          預言者のエズラが推進。
 CAD31〜33年頃:邪馬台国の祖「ザブダイ」親族がやって来た。
 DAD400年代初頭:大量の秦氏のグループが渡来。

 飛鳥氏は、『失われた徐福のユダヤ人 物部氏の謎』の中で、日本にや
って来た3つの秦人の要因と流れについて、次のように指摘しています
(要約)―
 @BC722の北朝イスラエル王国の滅亡での失われたイスラエル十支族
 ABC586年の南朝ユダ王国の滅亡による
 BAD70年のユダヤの滅亡による

 ちょっと比較が難しいので、別の表現のところを引用することにいたしま
す。いずれにしても、古代において、いつ、どんな民が日本にやってきたの
かということは、はっきりしたいところであります。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月18日 03時24分26秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101518.html
スレッド63をご用意致しました。

キリの良いところで移ってくださいね。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月18日 04時29分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


西沢先生と飛鳥さんの渡来説。
どっちにしろ3000年ぐらい前あたりから日本方向に向かって移動してたようですね。



失われた10支族の落ち着き先は
東の果てが日本
南の果てがアフリカのケープタウンやオーストラリア
西はスエーデンで、スカンジナビアからエリクソン達の子孫が南北アメリカ大陸へ。



古代イスラエルの歴史

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F10%E6%94%AF%E6%97%8F

『聖書』によると、族長アブラハム(紀元前17世紀?)がメソポタミアのウルの地からカナンの地を目指して出発したことによりイスラエルの歴史がはじまる。孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。


奴隷の時代が400年程続いた後にモーセ(モーゼ)が民族をエジプトから連れ出し(紀元前13世紀?)、シナイ半島を40年間放浪し定住を始めた。

200年程かけて一帯を征服して行く。


     ダビデ王(紀元前1004年?‐紀元前965年?)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。
     しかし、ソロモン王(紀元前965年?‐紀元前930年?)の死後、南北に分裂し、
     サマリヤを首都に10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれた。


ここらへんまではフムフムと納得


     北王国では首都サマリヤやその他の地に金の子牛の像をおいて祭祀の中心としていた[2]。


                 牛頭さん信仰と関係あるのだろうなと納得



     北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10支族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された[3]。


     この10支族の行方が文書に残されていないため、2部族によって「失われた10支族」と呼ばれた。

     これで北の住民である10支族は、次第に10支族としてのアイデンティティを失った等といわれてきた[4]。



                 異存無し


     拉致をまぬがれ現地に留まった人々は、周辺の異民族や、アッシリアによって逆に旧北王国の地に移住させられた異民族と通婚し混血することもあった[5]。


     サマリアにはゲリジム山を中心に、後世に独自に発達したユダヤ教と一部を共有する古来の祭祀が残存し、
     サマリア人としてユダヤ人と異なる文化とアイデンティティーを保ち続け、現在に至っている。


                     異存無し


            南王国のユダは、紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされた。
            指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが(バビロン捕囚)、宗教的な繋がりを強め、
            失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとし、
            宗教的・文化的なアイデンティティを確保するために異民族との通婚を嫌い、
            異民族と結婚したものをユダヤ人のコミュニティから排除する排他的な純血至上主義が信奉されるようになった[6]。

            彼らはアケメネス朝ペルシアによって解放され、イスラエルに帰還した[7]。
            解放後、ユダヤ人と解放者であるペルシア帝国は良好な関係を継続し、エルサレム神殿も復興された[8]。
            ペルシア人はその支配下にあるすべての民族の宗教を平等に扱ったため、
            同様の恩恵はサマリア人も受けていたと考えられるが、
            ユダヤ人はその純血主義によってサマリヤ人を異民族との混血と蔑み、北王国の末裔と認めず、
            祭祀を異にする点からも異教徒として扱う等、
            南北両王国時代の対立を民族的偏見として引き継ぐ形となった[9]。

            ペルシア帝国がアレクサンダー大王によって滅ぼされ、
            ヘレニズム時代が開幕すると、ユダヤ人はアレクサンダー大王やその後継者であるギリシア人政権と
            激しく対立していった様子が旧約聖書外典等にみえる。
            バビロン捕囚時代・ペルシア時代・ヘレニズム時代の3つの時代を通じて、
            ユダヤ民族としての独自性を保つための基礎が作られ、宗教としてのユダヤ教が確立した。

            ローマ時代にはローマ帝国にユダヤ属州が置かれた。
            「ユダヤ」の名は直接にはこれからきている[10]。



            研究者のなかには、2世紀初頭のバル・コクバの乱でローマ帝国によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、
            サマリヤ人の大部分とユダヤ人の一部はこの地に残り、
            のちにイスラム教に改宗し、現在のパレスチナ人の遠祖となったと指摘するものがある。

            一方、いわゆるシオニズムを支持する学者の一部は、こうした指摘を否定している。

            ユダヤ人はのちに商人的な性格を強くし、商業を営みつつ世界に広がっていくことになる。



                 いわゆるユダヤ人ですかね。




12支族のリスト[編集]

『聖書』の記述では、イスラエル12部族とは、以下の者達を祖とする部族のことである。

父:ヤコブ、母:レア(ラバンの娘)から生まれた6子
長兄ルベンの末裔ルベン族
次兄シメオンの末裔シメオン族
三男レビの末裔レビ族
四男ユダの末裔ユダ族
五男イサカルの末裔イサカル族
末弟ゼブルンの末裔ゼブルン族


             以下が小林先生が10年ぐらい前に平熱でお書きになってた「ガド」と「ダン」の族ですね

父:ヤコブ、母:ジルパ(レアの下女)から生まれた2庶子
兄ガドの末裔ガド族
弟アセルの末裔アセル族


父:ヤコブ、母:ラケル(レアの妹)から生まれた末子
ベニヤミン の末裔ベニヤミン族


父:ヤコブ、母:ビルハ(ラケルの下女)から生まれた2庶子
兄ダンの末裔ダン族
弟ナフタリの末裔ナフタリ族


父:ヨセフ(ヤコブとレアの妹ラケルの子)、母:アセテナ(エジプトの祭司ポティ・フェラの娘)から生まれた2子
兄マナセの末裔マナセ族
弟エフライムの末裔エフライム族


以上を合計すると13部族となってしまうがこれについては以下の4通りの処理の仕方がある。


1.ヤハウェに仕える祭司職であるレビ族については慣例として数に入れないので12部族となる。
         通常はこのレビ族を入れない計算法が採られる。
         この場合、レビ族は部族扱いされていないだけで「古代イスラエル人」の中には祭司として含まれる。


2.どうしてもレビ族を数に入れたい場合には、かわりにエフライム族とマナセ族をあわせて「ヨセフ族」として1部族とする方法もある。これは実質的には上記の方法と同内容をさすことになる。


3.特に対処せず、12部族ではなくそのまま13部族とする。これも実質的には上記の方法と同内容をさすことになる。


4.ダン族を除外して12部族とする。かなり後世になってできたもので比較的珍しいが『ヨハネ黙示録』などが採用。この場合、形式的にも実質的にも、ダン族は含まれていない。



失われた10支族

                     ここらから混乱


失われた10支族とは、上記のうちユダ族・ベニヤミン族・レビ族を除いたものをいう。南王国ユダの2支族とはユダ族・ベニヤミン族で、これにレビ族を加えた3部族がユダヤ民族の直系の祖となったとされる。実際には南王国には2部族でなく3部族が存在したわけだが、上記の通りレヴィ族は数えないのが慣例であるため「2部族」と呼び習わしている。



ところが、イスラエルの12支族は、聖書の記述でも考古学による考察でも、北王国の10支族とユダヤ2支族とに当初から完全に分かれてはいなかったことと、王国分裂後にも相互移住があったことが明らかになっており、現在では多くの聖書学者が南北両方に分住した支族が少なくとも6部族あったことを認めている。


南北分裂以前、「ヨシュア記」などによるとシメオン族に与えられた17ないし18の都市はすべて南王国の内部に散在していたと考えられる[11][12]が、シメオン族が北王国にいなかったということではない[13]。南北分裂の際には、海沿いのダン族の地とベニヤミン族の地は領域内に国境線が引かれたことから、この2部族は両王国に分かれ住むことになった。その後、ヤラベアム1世の北王国からエフライム族、マナセ族、シメオン族の一部がアサ王の治世下のユダ王国へと下った[14]。またヤラベアム1世はレヴィ族を追放して北王国の領内から一掃し、エフライム族から祭司を任命した。またどの部族かを問わず、北王国滅亡後、南王国に逃れてきた人々は明確な記録がなくとも当然に存在したろうと推測されている。アセル族は北王国滅亡後に関しての詳細な記述が存在している[15]。
こうしてみると、北王国滅亡後、ユダ王国の内外には主流派のユダ族の他、レヴィ族・シメオン族・ベニヤミン族といった非主流の3部族、及び、少なくとも少数のダン族・エフライム族・マナセ族・アセル族がいたことになるが、これらの人々はみな、バビロン捕囚の時代以降、各部族としてのアイデンティティを失い、ユダヤ人(ユダ族)に同化していった。


            ついてけない・・・・



このように北は11部族、南は8部族、南北に分住していたのは6部族であり「北は10部族、南は2部族」と簡単に分けられるような実態はなかった[16]。そのため「10部族と2部族」という言い方は厳密なものではなく、多分に便宜的で形式的なものとする説があり、また別の説では「10部族と2部族」という言い方は12という数字を十の桁と一の桁にわけて多数派と少数派を表わしただけとも言われる。




失われた10支族の行方

以下に挙げる4説は伝承または仮説として立てられたもののうち、イスラエル政府によって比較的有望とされた説であるが必ずしも10支族だけを問題とした説ではない。また、いずれも通説には至っていない。



一部はアフガニスタンに。
パシュトゥーン人にはヨセフ族(エフライム族+マナセ族)の末裔という伝承をもつ部族がいる。10支族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れたという説があり、その地はスキタイ人と同系のサカ族または月氏族が居住し、現在のアフガニスタンの一部を含むものであった[17]。


一部はエチオピアに。
イエメンを経由してアフリカに入ったもの。イスラエル建国後にエチオピアから相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住していた[18]。


一部は中国に。
宋代まで開封にはユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のうち、かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説もある。


一部は日本に。
大陸からの帰化氏族である秦氏がユダヤ人(もしくは10支族)ではないかという説。一時は国際的にも有名だった説である[19]。



以下に挙げる7説は学術的な検証という意味では上記の説以上に問題があるとされるが参考までに列挙する。

一部はインドのカシミール地方に。
カシミール地方にキリストの墓[20]とモーセの墓と言われるものがある。

一部はインド東部に。
マナセ族の末裔と称するブネイ・メナシェという人々がいる。

一部はミャンマーに。

一部は朝鮮[21]に。

一部は日本に。
いわゆる「日ユ同祖論」といわれる説[22]。
また、かつて北海道の先住民族アイヌ人は、周囲の諸民族とは異なるヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔だと思われていたこともあった。


一部はイギリスに。経緯不明のユート人はエフライム族、またはダン族であると言う説。

            あらららら・・・
            そうするとワタクシとオットはやはり「ダン族」の子孫で繋がってた?
            小林先生の説は正しかった!(笑)



一部は新大陸(アメリカ)に。
ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーはアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっているが、19世紀にはマウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。



関連項目
イスラエル
ユダヤ民族
ブネイ・メナシェ - 10支族の一つマナセ族の末裔という伝説を持つ
アミシャーブ - 失われた10支族に関する調査機関

脚注
1.^ 聖書学では「支族」はあまり使われないが誤りではなく[要出典]、一方「部族」と「氏族」は聖書学では区別された定訳であり、氏族は部族の中の小単位で、氏族が集まって部族を構成している。
2.^ これは子牛を崇拝したのではなくエロヒムの台座として置かれたものである。当時のイスラエル民族は、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった。学問的にはサマリアのエロヒム信仰もエルサレムのヤハウェ信仰も、ともに多神教の一種(拝一神教、単一神教)だったと考えられている。
3.^ ただし、虜囚の拉致連行はかなりの長期間の間に数度にわたって領土を奪われる度に段階的に行われたため、最後の前722年の捕囚の段階では北王国は首都サマリアとその周辺をわずかにたもつだけの事実上の都市国家に転落していた。この時の虜囚はサルゴン碑文によると2万7290人であったが、これはこの滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1と推定されている。
4.^ が事実とは大きく異なり、虜囚にされず故郷に残った人々のほうが多かった。そのため、指導者の一部を連行によって失いアッシリアの支配下に置かれても、彼らの支族としての文化や一体感に打撃を与えることはなかった。
5.^ が、異民族との混血は王国時代のユダヤ人(南王国人)も同じである。
6.^ 聖書の一部も原資料はこの頃に書かれたと考えられている。
7.^ ただし、ペルシアからイスラエルに帰還した人々が多数だったのか、ごく一部が帰還しただけで信仰の自由が保証されたペルシアに留まった者が多かったのか、そもそも虜囚とされずイスラエルに居続けた人々と帰還組との人口比率はどうだったのか等は、聖書学者によって様々な見解がある。
8.^ 聖書の一部にはペルシアの宗教であるゾロアスター教の影響がみられるが、それはその原資料の一部がこの頃にかかれたものが含まれるためである。
9.^ サマリア人への差別はイエス・キリストの時代までも続いた様子が新約聖書からも窺われる。
10.^ このユダヤ属州には、かつての旧北王国の本土にあたるサマリアが含まれたが、さらに北部のガリラヤは含まれず、東部のギレアドもそのほとんどが含まれなかった。
11.^ 関根正雄・訳 (1956). 旧約聖書 創世記. 岩波文庫. p. 244. ISBN 4-00-338011-8.
12.^ その中でも最も主要なベール・シェーバのシメオン族は、本来はユダ族を構成する6氏族の中の一つだったと考えられている。このため、聖書学者の中には、南の2部族といった場合に念頭に置かれていたのはユダ族とベニヤミン族ではなく、ユダ族とシメオン族をいったものであるとの説もある。
13.^ シメオン族は旧約聖書では「イスラエルに散らされる」と屡々書かれているが「ユダに散らされる」とされた例がなく、早期にイスラエル全域に離散して南北問わず各部族の領内に分散して町(都市)を与えられたレヴィ族と同様だったらしい。南王国側の地名しかない「ヨシュア記」の都市一覧は誤記(脱漏)の可能性が高い。
14.^ 歴代誌下 第15章9節による。さらに歴代誌上 第9章3節によると彼らのうちエフライム族、マナセ族は南王国の首都エルサレムに居住した。
15.^ アセル族は北王国に属していたが、滅亡後に存在した記録から、虜囚にされなかったアセル族の一部はユダヤ教に改宗し、ユダヤ人に同化していったことがわかる。
16.^ しかしまた一方では、南王国の8部族のうち、上述のように部族の相互移動を詳細にみていくと、南王国にのみ居住し北王国にいなかったのはユダ族とレビ族の2部族だけであったことが判明するので、南王国の2部族とはユダ族とベニヤミン族ではなく、本来はユダ族とレビ族をさしていたのではないかとする説がある。また北王国は、ユダ王国のように部族名ではなく一貫してイスラエルと名乗っていたことから、12部族制を守っていたのではないかともいわれる。聖書の記述ではマナセ族はヨルダン川の東西に分かれそれぞれ半部族といわれ、一方はマキル族という名で呼ばれることもあった。が、他の諸部族には古い時代のフラトリー制(胞族制)の名残りと思われる2部族ごとのカップリングが見られるが、マナセ族にはそれがないので、史実は、もともと別の2部族がマナセ族として統合されたと考えられる。マナセ族を2部族と数えれば、ユダ族とレビ族ぬきでも北王国には12部族を数えることができた。またダン族も、西の海沿いの部族と北のライシの部族に分かれていて2部族と数えることができる。


17.^ 後に遊牧性を利用して、さらに東アジアへ向かったと言う説もあり、後述の「日ユ同祖論」と繋げる説もある。またスキタイ人と同様の遊牧民であるカザール族(トルコ系の遊牧民)は10部族の連合体であった(10部族の連合体という形をとるのは多くの遊牧民に一般的な風習であり特別なことではない)が、そのうちの3部族は、ルベン族・マナセ族・ガド族の末裔だったという。


18.^ 一説では古代にエチオピアからジンバブエを通過して南アフリカにいった一派もあり南アフリカのレンバ族はレビ族の末裔という。


19.^ 後述のいわゆる「日ユ同祖論」の一部をなす。ただし日本人の全部または主流の祖先がユダヤ人(もしくは10支族)だったという説ではなく、日本に渡来した多くの帰化氏族の中には、ユダヤ人(もしくは10支族)もいたのではないかという説。しかし現代では後述の「日ユ同祖論」の一部に利用されるのが常である。



20.^ [1] キリストが磔にあったのち、救い出されカシミールに逃れて100歳以上まで暮らしたという伝説がある。


21.^ 日本に渡った10支族は朝鮮半島を経由した折りに、ダン族などの一部支族が定住したと言うものである。



22.^ 上述のように秦氏がユダヤ人ではないかという説があるが、ダビデの星などのマークが日本古来の籠目紋や麻の葉紋と似ていることなどをその根拠に、秦氏に限らず日本人の民族や文化の主流総体としてユダヤ人及び10部族と結びつける説。秦氏については、秦氏がそのものが主題ではなく、秦氏は日ユ同祖論という議論を補強するための一部として位置付けられる。小谷部全一郎は「帝(みかど)」という日本語は古代ヘブライ語でガド族の王と云う意味(ミ・ガド)であるとしたが、酒井勝軍はこれに反論して皇室の祖先はエフライム族であるとした。
[87]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月18日 15時55分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はかなり暖かくなり、四月の雰囲気であります。もうすぐ桜も開化、
華やかな世界が広がり始めます。

 名張の桜はまだ少し早いでしょうか……。
 名張では、服部半蔵の氏神様の「花垣神社」、服部半蔵保長によって築か
れた城の跡「千賀地城跡」、第二次天正伊賀の乱で伊賀衆が立てこもった城
の跡「柏原城跡」……感性を研ぎ澄ませタイムスリップしてみたいと思って
おります。さて、どうなりますか―

 ヘブライの民の日本への渡来の年代とその人数の探究は、今後も引き続い
て探究して行きたいと考えております。
 飛鳥氏は「信仰」の観点から、渡来とそのもたらした変化を『失われた徐
福のユダヤ人 「物部氏」の謎』の中で次のように述べておられます(要約)

 @古代日本にはイスラエル系縄文人とイスラエル系弥生人たちが信仰の拠
 り所としていた磐座や磐境、そして神が宿るとされたご神木などの依代が
 あった。意外かもしれないが、これは古代イスラエル人の風習である。預
 言者アブラハムは聖地エルサレムに巨大な樹の柱を立て、また、預言者ヤ
 コブは枕にしていた長い石を立てて、これらを神の御魂が宿る依代として
 祀ったことが『旧約聖書』に記されている。同じことをイスラエル系縄文
 人とイスラエル系弥生人も行っていたのである。

 Aそこへ徐福が引き連れて来たヤダヤ人、すなわと海部氏と物部氏がやっ
 て来る。彼らは特別に社や祠を建てる。いわば神社の始まりである。物部
 氏は日本各地の聖地に神社を建設し、そこで神を祀った。物部氏はユダヤ
 人ユダヤ教徒であるから、彼らが建設した神社はユダヤ教の神殿であると
 いってよい。

 B応神天皇が海部(=物部)氏の王家に入り婿として入り、大和朝廷を開い
 たことで、朝鮮半島の伽耶で待機していた秦氏が大集団で渡来して来る。
 当時、朝鮮半島の情勢が不安定であったこともあって、ほとんど亡命に近
 い形で秦氏はやって来た。ユダヤ人原始キリスト教徒であった秦氏は同族
 である応神天皇の周辺で活動しながら次々とイスラエルの神殿、つまり神
 社を建設し出す。

 Cユダヤ教の物部氏が建設した神社をことごとく乗っ取って行ったのが、
 この秦氏である。秦氏は多くの神社を建設する一方で、物部氏の神社を
 次々と乗っ取って行く。神社支配の急先鋒となったのが秦氏中の秦氏、
 賀茂氏である。陰陽道の呪術師集団であった賀茂氏は、神職である禰宜
 を送り込み、長い年月をかけた神社すべてを支配するに至る。

  秦氏がユダヤ教の神社をなぜ原始キリスト教に変えて行ったのか……
 どう解釈すればいいのだろうか―

  ここで切ります―

 
[88]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月18日 15時58分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 次回より、新しいスレッド(ありがとうございます)に移動します―
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月18日 21時29分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


花垣神社には是非いらしてください。
桜には1か月は早いでしょうね。


橘逸勢がらみの阿保親王の墓もありますね。青山駅の近くらしいです。
     伊賀では阿保の地名では  あお  らしいです。
     伊賀は万葉仮名の世界で読み方が難しいです。笑


お土産話を楽しみにしております。


最近読んだ馬淵睦夫の「アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ」は面白かったですよ。
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月18日 22時32分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


先週仲の良い香港人にお礼で「源氏パイ」をあげたのですが
反応はまだ来てません。


中国の食べ物ってゴッタ煮というかアレコレぶち込んでるというか
1つの物にいろいろなものを際限無く詰め込むのが好きなのか?
「源氏パイ」は高尚過ぎたかも。笑


封を切ったら袋に閉じ込められてたバターの香りがあたりに広がる瞬間が「美味しさ」の始まりと思うのは日本人だからかも。

その上、サクサクした歯応えも日本人には「美味しさ」の1つだけど
そういう感覚も違うのかも。


      悔しい!
      あげなきゃ良かった!
      笑


美味しいものは民族の異なるヒトにはあげずに自分達民族だけで堪能するのがやっぱり1番でした。
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