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 投稿番号:101511 投稿日:2016年02月07日 03時45分34秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LⅪ(2016年の課題確認 4)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101510_66.html
長上郡の服部氏族LX(2016年の課題確認 3) スレッド60の続きです。



自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


これまでの調査目的を改めて纏め直します:

     1.服部氏の始祖は? 
     2.どこから来たのか?
     3.どこへ広まったのか?
     4.何をしたのか?
     5.残ったのは誰か?
     6.その他は何故消えたのか?

捜査で再び浮かび上がった服部連や秦氏を掘り起こし新たな心で頑張って調べて行きましょう。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月07日 20時54分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いつも越すに越されぬ大井川ならぬ藤原不比等様であります。たった一人の
ためにこんなに歴史がゆがめられてしまっていいものでしょうか。もっと多様
性があってしかりと思うのですが。
 これはたぶん国民全体が承知していた、すなわちみんなが確信犯であったと
いうことに他ならないのではと思います。
 日本には日本独自のいわく由縁・歴史があるのだという一種の自覚が芽生え
た、即ち大陸から隔離されたこの日本において、オンリーワンの新たな概念の
世界観が作り出されることに異論はなかったということではないでしょうか。
 あるいは、余りにも違和感なく溶け込んでしまった。それは元々こちらから
出て行って、またこちらに戻って来たものだったから……。
 あるいは歴史として残っている文献的世界は一部であって、歴史に残ってい
ない世界が現実の世界で、それは語られていない……のかも知れませんね。

 『神社仏閣に隠された日本史のなぞと闇』の結論は、次の通りです―
「いずれにしても、日本建国の秘事を恐れた藤原不比等は、それゆえ物部氏と
十種神宝をはじめ彼らに関する神名をバラバラに分け、別々の時代に振り分け
て行くことで、歴史の闇の中に封印し、彼らを鬼にすることで、日本史から
見事に消し去ってみせたのであろう。」
 無難な解釈だと思いますが、藤原氏が秦氏に飲み込まれていたとしてたら、
そこには更に恣意的な施策があったのではないかと推察いたします。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月07日 22時31分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


>藤原氏が秦氏に飲み込まれていたとしたら

発想の逆転ですね。
普通は秦氏が藤原氏に飲み込まれたと考えますが。


それで平安遷都以降秦氏が日本史の表舞台から姿を消したといわけですか。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月08日 17時26分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 不比等に関する評価・記述は、九十パーセント以上、ネガティブなもの
ばかりであります。不比等一人が悪者になっております。
 私は、こういう傾向は一つの操作の表れ(プロパガンダ)だと疑っており
ます。
 不比等に関して、擁護的な記述はないか、本日はその探索に時間を費や
しておりました。

 一つ不比等の擁護ではありませんが、その時代の必然性のような歴史環境
を述べているサイトが見つかりました―「神輿の黙示録」というサイトで、「(15) 藤原氏と秦氏の謎」というテーマにおいて、読みこなせない程で
ありますが)述べられております。
 ただ今、読解中でありますので、整理し直した後、記したいと思います。

 そのサイトは―
 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/843.html
であります。

 花粉症のうっとうしい症状が続いております―
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月09日 03時45分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

エフライムが出て来て
あれ?エフライムって牛(仔牛)を崇拝する人達だったっけ?

ということで  牛頭さん  って?
だから秦氏はエフライムの子孫?と思いました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B


牛頭天王(ごずてんのう)


         この部分無視
         仏教における天部の一つ。
         インドのインドラ神の化身の一つ(もしくは別名)ゴーマヤグリーヴァデーヴァラージャが仏教に取り入れられ[要出典]、
         釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。

         これが中国に入り4世紀頃には神農とも習合して盛んに信仰されたが、唐以降は次第に衰えた。


ここからお読みください:

奈良時代までには日本にも入り、
蘇民将来説話の武塔天神と同一視され神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。

           つまりスサノオの本来の姿!あら、そうなの?!


           本地とは
           @仏・菩薩(ぼさつ)の本来の姿。
            衆生(しゆじよう)を救うためにとる神などの仮の姿を垂迹(すいじやく)と呼ぶのに対していう。 → 本地垂迹説

           A本来の姿。物の本源。
           B正気。本心。
           C漆器の下地の一。
            水を入れずに下地用の粉末と漆を混ぜたものを塗り重ねてゆく最も丈夫なもの。本地塗り。



京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。

また陰陽道では天道神と同一視された。


           天道神とは
           陰陽道で,方角神の一。
           正月は南,二月は西南と月ごとに移る。
           その月その方角に向かって事を起こせば万事に吉とする。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%81%93
天道(てんとう)は太陽または日輪である。太陽が空を通過する経路をいう。

日本では、一般的にお天道様(おてんとさま)とも言うように、太陽神としても知られる。太陽は神として祀られたのである。信仰心が伴わなくても太陽を「お日様」と呼び、お月様、お星様と同様に自然崇拝の対象であった。

天照大神は天道の神格化であり、仏教の大日如来とも習合した。また対馬の天道信仰においては日の神の子として、天童(てんどう)という言葉もある。

日本人はてんとうむし(天道虫と書く)を太陽に見立てた。

千葉県では、旧千葉郡を中心として、天道念仏と称し、春2月・3月に祭壇を作り、踊り念仏で作物の豊作を祈るなど、農耕儀礼に展開した[1][2]。


修験道も関わり、祭壇には出羽三山を祀った。中央に湯殿山を拝していたのは太陽崇拝であり、湯殿山は、胎蔵界大日如来を本地、天照大神を垂迹とした[3]。

地名では、名古屋市天白区天道、福岡県飯塚市天道、鹿児島県出水郡長島町の天道山、山形県天童市などがある。

戦国末期の仏教・神道・儒教の統一思想に広がれた説がある。[4]これで、太田牛一は、『信長公記』で、人の行為、戦争や生死は、「天道」がすべて定めている、幸運な時は「天道照覧」、主君などを反逆などで殺すと因果は巡り復讐され悪逆後の死は「天道恐ろしき事」と、各所にあり、運命論者として天道思想が基底にある[5]。



修験道も関わり、祭壇には出羽三山を祀った。中央に湯殿山を拝していたのは太陽崇拝であり、湯殿山は、胎蔵界大日如来を本地、天照大神を垂迹とした[3]。


地名では、名古屋市天白区天道、福岡県飯塚市天道、鹿児島県出水郡長島町の天道山、山形県天童市などがある。


戦国末期の仏教・神道・儒教の統一思想に広がれた説がある。[4]これで、太田牛一は、『信長公記』で、人の行為、戦争や生死は、「天道」がすべて定めている、幸運な時は「天道照覧」、主君などを反逆などで殺すと因果は巡り復讐され悪逆後の死は「天道恐ろしき事」と、各所にあり、運命論者として天道思想が基底にある[5]。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月09日 04時11分21秒 ) パスワード

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/843.html

挫折しました
神経衰弱のように記憶力を試されました。

すごく複雑なので 称徳天皇の死  までしか読めなかったです。



       行幸翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。
       このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、
       道鏡は崩御まで会うことはなかった。

       道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた[13]。

       8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。
       病気回復を願う祈祷が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張がある[14][要高次出典]。



称徳天皇はとんでもない女性でもあったようなので。これ幸い、だった?
そして、実は、道鏡は毒消しを持っていた?
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月09日 17時19分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤原不比等の関係諸問題、日本史最大のタブーの部分でありますので、
難しい。藤原氏を擁護しているものがないか調べましたが、今の所皆無で
あります。
 ま、今すぐ結論をといっても到底無理ですので、今後の継続探究課題に
いたしたいと思います。
 でも、乗っ取り、改竄……本当のところの真実が、どんでん返しの結論
があるような気がしてなりません。歴史探偵の血が騒ぎます。
 藤原氏は悪者=陽動作戦なのではないか?

 残念ながら、今の私にはこの謎をくずせません。
 
[7]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月10日 09時27分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨夜来、「鎌足・不比等・記紀」について書かれているものがないか、
自分の蔵書を一冊ずつめくり、探すことにいたしました。まだ十分の一も
行っていませんが、早くも十冊以上は見つけました。
 もっとも、古代に関する歴史の記述は、ほとんどが「記紀」がヘソにな
っておりますので、記述があって当然のことではあります。
 私が知りたいのは―
 @藤原氏が私利私欲のためのみに真の歴史を捻じ曲げ、隠蔽したのかど
  うかということ。
 A私利私欲のためでないとすると、何のためだったのか。
 Aそもそも藤原氏は何者、ユダヤ系支族なのかどうかということ。
であります。
 今の所の資料では、かなり奥底の謎が見えそうな気がいたしております―

 整いましたらまた記します―
 
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月10日 16時47分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「藤原・不比等・記紀」関係の記述、あるある百冊近くの本にありました。
今までいかに興味を抱いていなかったか、ということがよくわかりました。
 さて、こんなたくさんあっては内容を見極めるのが大変……。
 これから大急ぎで目を通してみます……。
 それでも、その中に最近の本『八咫烏の超日本史』があり、その第七部に
「ゆがめられた古代史『記紀』編算/なぜ一度敗れた藤原氏(天智系 百済)
が歴史の勝者となっていったのか」という記述がありますので、この本から
まず読解して行きたいと思います。さて、藤原氏が単なる私利私欲だけの悪者
だったのかどうか―私のバトルは始まります。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月10日 22時18分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


>その第七部に「ゆがめられた古代史『記紀』編算/なぜ一度敗れた藤原氏(天智系 百済)が歴史の勝者となっていったのか」という記述があります

読んだことがあるのに
思い出そうとしても何故だったのか記憶にありません。
つまり理解していなかったということです。


簡単なところで知恵袋からコピペ:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14114743049



「九州倭国が列島の歴史」を展開していた所に、642年に百済国内で政変があり、百済義慈王により、百済武王一族が島流しになります。

この時、「百済武王の息子である、翹岐王が列島に亡命してきます、これが「中大兄皇子、天智」です。


彼は、「百済王の皇子」ですから、近畿地方で丁重な取り扱いを受けたものと思われます、ですが、亡命直後は政治的基盤も、支援勢力も未熟で、列島の最高権力ではありません。


この時の列島の最高権力者は、「九州倭国王」で関東地方から東北地方までが勢力範囲です、「郡評問題の評制」の及んでいる範囲を見れば明らかです。


「九州倭国の王族」と「天智系の王族」との政略的は婚姻が双方で進行します。


九州倭国から天智系に「十市皇女、額田王」。


天智―藤原系からは「大田皇女、大江皇女、鸕野皇女、新田部皇女、御名部皇女」などなどです。


一般に「天智は実の弟天武に何故、多くの娘を嫁がせたのでしょう」と言うのがありますが、これは嘘です。


天武(大海人皇子)と言うのは、「九州倭国王筑紫君薩野馬(大皇)の弟で(大皇弟)と言われている人物です。


こんなことを、やっているうちに、唐と半島三国の情勢が複雑になり、唐―新羅の連合軍で、百済―高句麗の討伐を開始します。


「九州倭国サイド、筑紫君薩野馬」は、「百済―高句麗側」に組し、660年の百済の滅亡にともなって、百済の復国運動と、高句麗の支援の為に、「白村江」に軍隊を派遣し大打撃を受け、筑紫において唐側による戦後処理で大混乱に陥ります。


この混乱の最中に、「天智」が近江に、滅亡した百済からの王族や遺民を結集して政権を樹立します、「九州倭国に対する天智の乱」です。



672年に唐の捕虜となっていた「九州倭国王筑紫君薩野馬」が帰還してきます、そして「弟の大海人皇子と息子の高市皇子」に「天智近江朝」の討伐を指示します、これが「壬申の乱」で、最初から天智側には勝算はなく一旦「天智―大友」の皇統が途絶えます。



その後「九州倭国」は、九州から新益京(藤原京)に遷都してきます。

「九州倭国側」は、政治運営において「白村江」で大打撃を受けていますので、官僚が不足していて、「政略的な婚姻関係により天智系を使わなくてはなりませんでした」。

これが、「奈良朝政治の、九州倭国系と天智ー藤原系の暗闘」の始まりで、トラブルを挙げていたら限りがありません

    (長屋王の変、藤原広嗣の乱、藤原仲麻呂の乱、吉備真備、玄・の左遷などなど)

           暗闘が暗闘のまま推移したのは、「壬申の乱」の再現を両者が極端に恐れたからです。


このような状況の中、「聖武が男子の後継者に恵まれず、孝謙称徳が九州倭国系の皇統の維持の為に道鏡や、聖武と県犬養広刀自の子、井上内親王や不破内親王たちを使ってまで、努力しますが万策尽きて断絶です」。



「光仁(天智の孫)、桓武」で、天智系が復権するのです。

「日本書紀、続日本紀」は、「天智―大友」以後の皇統が、「光仁、桓武」まで断絶していることを隠蔽するために「色々な策を施しています」。ですから歴史が理解しにくいのです。



「天智と天武は実の兄弟」、「持統の称制と即位」、「文武の出自、文武は高市皇子と阿閇皇女の子」、「元明、元正の即位」等々です。


長くなりましたが、そんなこんなで「天智系が復権」したのです。



最後に、「天智」は「乙巳の変にも、白村江」にも関与していません。


「乙巳の変」の時は、亡命直後で、そんな力がまだありません。「白村江」は、成り行きを近畿地方で静観していたものと思われます。


「天智」は、「九州倭国系」により、狩りの途中に暗殺されました。


     不可解な死の謎は実は暗殺だった?へ〜
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月10日 22時34分15秒 ) パスワード

別の回答


天智系・天武系というのは後世の分類ですので、当時の人にそのような意識はなかったでしょう。

当時の人の気持は当人にしかわかりませんので、あくまでも推測ですが。

持統天皇は、自らの血筋に何としても皇位を継承させていきたかったのでしょう。持統天皇は蘇我遠智娘の娘でしたので、それは皇統に蘇我の血が受け継がれていくことでもありました。

文武天皇が早世した後、その母と姉が連続して皇位につきますが、これは藤原宮子の子首皇子を皇位につけたくはなく、吉備内親王の血筋に皇位を継承させたかったからではないでしょうか?吉備内親王の夫長屋王の母は元明天皇の同母姉で、姉妹の母は蘇我姪娘。吉備内親王と長屋王との間の子どもたちは、首皇子よりも、元明・元正母娘との血の繋がりは濃いですし、拡大していく藤原氏への警戒心もあったでしょう。しかし、藤原氏の謀略により、吉備内親王夫妻と子どもたちは粛清されてしまいました。



やがて、藤原氏を祖母と母に持つ称徳天皇の時代になりますが、この方は、持統天皇や元明天皇の子孫でもありました。その後を継いだ光仁天皇は称徳天皇の異母姉井上内親王のお婿さんで、二人の間には他戸親王がいました。つまり、称徳天皇の甥に皇位を継がせるための中継ぎだったはずでした。しかし、井上内親王母子は粛清され、桓武天皇が即位、持統天皇の血筋は絶えたのです。



こう見ると、光仁天皇の即位よりも、桓武天皇の即位の方がターニングポイントだったのではないでしょうか?




追記

天智天皇が精神疾患だったという話は聞いたことがないのですが、そのような説があるのですか?(遠智娘がそうだったという説ならばありますが。)


天智天皇には子どもが大勢いましたが、ほぼ全員が天武天皇か、その子どもと結婚していました。この時代の皇族は近親婚で、お見合いをする必要はありませんでしたので問題なかったでしょう。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月10日 22時42分38秒 ) パスワード

別の説


天武天皇の皇后である後の持統天皇が天智天皇の娘で天智系です。
      彼女の皇子は草壁皇子です。


その草壁皇子の後継者ライバルであった大津皇子の母親は亡き持統天皇の姉(天智の娘)でこれまた天智系。
      最大のライバル大津皇子は父崩御後に陰謀による亡くなります。
そこまでしたのに肝心の息子(草壁皇子)は即位する前に病死。

草壁皇子忘れ形見である孫(後の文武天皇)を即位させるために持統天皇は頑張ります。


当時は兄弟相続が優先され長子相続は重要とされませんでした。
しかも天皇の直系とは言え天皇に即位していない皇子の子でまだ成人でない孫と天武天皇のたくさんの成人した皇子では孫が不利。
そのために孫が成人になるまで即位。
当時は皇后は皇族以外はなれませんでしたがその代わりに皇位を継承できました。


そして彼女の敵は後継者になれる可能性がほぼない天智系の皇子ではなく天武系の皇子です。

      天武系の皇子を排除します。

      そして孫である文武天皇が即位。



彼女がここまで自分の血統にこだわったのは母親故なのか自らの天智系存続のためかはわかりません。

      そして彼の皇子は奈良の大仏さんを作った聖武天皇です。


彼の母親が皇族でない藤原氏です。



持統天皇は孫の即位した時の後ろ楯に当時は新勢力であった藤原氏を選びます。
その後は自分の血統&勢力を守りたい藤原氏によって藤原氏以外の有力な皇子・皇族は排除されます。
皇族以外の皇后まで誕生させました。
しかし皇后・光明子の皇子は夭逝。


彼らの最後の頼みの綱が日本史上初の女東宮である後の称徳天皇です。
彼女の息子を誕生させて次の天皇に即位させる気はなかったと思います。
ただ彼女を即位させて時間を稼ぎ藤原氏の血統の皇子を誕生させて次の天皇に即位させるつもりだった。
ところが色々あって天皇は坊主と共に藤原氏に反旗を上げよくわからん事態。
その後も陰謀と後継者争いをしてる間に天武系の皇子はほぼいない状態になり、独身である称徳天皇の死後に残ったのは政治の中枢から長年に弾き出された天智系だったのです。


      殺すほど重要でなかったのでほっとかれただけです。


持統天皇や藤原氏が血統の継承のためにライバルを抹殺し過ぎて自滅しました。

      清盛より頼朝に近いな。


          身内争いでライバル蹴落とし過ぎて源氏の直流が途絶える。
         最後に残ったのが傍流とは言え平氏の北条氏みたいな。



追記
大友皇子の息子は生きてます。
天武天皇の娘の子だし、ここまで同族同士で結婚してたらどちらかの一族根絶やしは難しいと思います。


天智系天武系は他にも婚姻を結んでいて母系辿るとどっち系統??感じです。
草壁皇子の奥さまは天智系だし天智系関係ない高市皇子の奥さまも天智系だよね。
その息子長屋王の奥さまも・・・・
歴史の裏に母系あり。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月12日 08時17分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 testing……
 昨日は、平熱のサーバー関係が原因か、投稿が掲載できませんでしたが、
本日はいかがでしょうか……?
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月12日 08時40分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、せっかく書いたものが掲載できず、おまけに消えてしまいました。
 本日は復旧できたようです。管理人様に感謝申し上げます。
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月12日 08時52分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、「不比等・藤原氏・記紀」に関係する八十冊余りの本に目を通し
ました。
 結果、ほとんどが「不比等=ギルティ」でした。

 よく考えてみますと、これは「歴史の改竄」に関与したということですの
で、第一義的、あるいは常識の世界ではそう判断されても致し方ないのでし
ょう。

 問題は、その本質部分であります。歴史の本質部分は奥深い底流の部分に
あるのではないかと推察します。

 何人かの著者は、その本質部分に言及していますので、これからそれを
紹介したいと思います。

 一度ここで切ります―
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月12日 11時18分50秒 ) パスワード

三つ柏さん

昨日は半日止まっていたようですね。

消えてしまって残念でした。


それにしても80冊ほども目をお通しになったのですか?
すごい!


楽しみにしていますね。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月12日 12時35分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは、まず最初に、
 @山科誠著『日本書紀は独立宣言書だった―明かされた建国の謎』より―

 「この日本書紀を解読するには、ただ文章の意味を解読するだけでなく、
 一つのキーワードが必要なのだ。ところが、残念ながら、多くの学者達は
 このキーワードを見逃したまま、解釈しようとしている。その結果、多く
 の部分で意味不明となり、それがために彼らは、日本書紀をもっとも難解
 で信憑性に欠ける、粉飾された歴史書であると非難することになるのであ
 る。
  しかし、私はそうは思わない。
  日本書紀解読のためのキーワードとは何か? それはつまり天武天皇が
 命じた「編集方針」にほかならない。壬申の乱(672年)前後の歴史の真実
 をそのまま記述することは自分にとって不都合が多いと感じた天武天皇は、
 日本書紀の編纂を命ずるにあたって、「削偽定実」という方針を打ち出し
 た。この言葉の本来の意味は、偽りを削り、真実を定めるということだが、
 実際は天武天皇にとって都合の悪い真実を削り、都合のよい偽りを定める
 ことであった。 
  〜略〜
  それでは、天武天皇にとって、日本書紀の編纂とはどのような意味があ
 ったのか。なぜ、新たな歴史書を作る必要があったのか――
  実は、日本書紀以前にも歴史書はあった。それは「倭国史」という名前
 で呼ばれていた。
  倭国、すなわち中国、高句麗、新羅、百済といった先進国から見た日本
 は、残念ながら遅れた未開の土地だった。そこへ長い間にわたり、大陸か
 ら多くの渡来人がやって来て、すぐれた大陸の文化や技術が輸入されたの
 である。つまり、ある意味では古代日本は大陸の人々が統治した植民地で
 もあったのだ。しかし、いつしか倭国は独立できるほどの力を身につける。
  折しも西暦660年、百済が強国唐に攻められ滅亡する。670年には、
 それまで同盟していた新羅と唐が対決し、唐は平壌以北を占領する。この
 ような状況下で、天武天皇は今までの宗主国百済からの独立をめざして、
 天武10年(681年)に日本書紀の編纂を命じたのである。そして、その時か
 ら倭国は「日本」へと国号が変わったわけだ。
  そう、もうおわかりになっただろう。日本書紀とは、古代日本が大陸、
 つまり朝鮮半島の三韓の国々からの独立を明確にするための歴史書であっ
 たのだ。
  いわば日本という国の「独立宣言書」。それが日本書紀に託された役割
 だったのである。つまり、日本書紀における天武天皇の編集方針とは、過
 去の植民地の歴史を新しい独立国としての「日本」の歴史に書き換えるこ
 とだったのだ。従って、そこでは神代の始まりから、日本はあくまでも独
 立国として誕生したという由緒正しい歴史を新たに創り出さねばならなか
 った。また、倭国の最高権力者は、それまで「大王(おおきみ)」と呼ばれ
 ていたが、それもこの時から「天皇(すめらみこと)」という称号に変更す
 ることにしたのである。 
  このような背景があったために、日本書紀の編纂、即ち倭国の”歴史
 改編”作業は40年という長い歳月を要したのだ。」
 
  今回はこれにて―

[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月12日 13時13分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


「独立宣言」でしたか。
へぇ〜

ビックリです。
でもなかなか興味深い説ですね。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月12日 14時56分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、中見利男著『神社仏閣に隠された日本史の謎と闇』(文庫本)、送り
ました。
 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月12日 20時51分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
感謝です。


楽しみに待っております。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月13日 08時02分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 次に、飛鳥昭雄・三神たける氏の『失われたイエス・キリスト 天照大神
の謎』から―
 「多くの場合、藤原不比等は悪者である。自らの地位を確立するために、
 政略結婚を積極的にプロデュース。のちの藤原氏の黄金時代の基礎を作る。
 女帝、持統天皇を巧みに操った戦略家にして、野心家というのが、大方の
 評価である。
  しかし、藤原不比等の真の姿を見抜いた人間は少ない。残念ながら、紙幅
 の都合で多くは語れないが、簡単にいうなら、彼は、秦氏の持つ奥義カッ
 パーラを理解した数少ない人間である。
  藤原不比等の父、藤原鎌足は、カッパーラを手にした預言者のひとり。
 さらに、その背景には、聖徳太子がいた。聖徳太子こそ、古代日本最大の
 大預言者である。
  従って、藤原不比等は、持統天皇の策略においても、カッパーラを使っ
 た。カッパーラを使って、神話を改竄した。日本神話の奥義をけっして損
 なうことなく、表面的な操作をしたのである。
  表向き、主人公が男から女に、子供が孫に、いやいやストーリー自体が
 大きく変わっても、本質は変わらない。見る人間が見れば、本質は理解で
 きる。日本神話が後世にまで残るために仕組んだトリックは、すべて解く
 ためにしかけたものである。」

  ここで一旦切ります。
  次は飛鳥氏の『聖徳太子の秘文開封』の中の鎌足について記します。
 
 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月13日 09時33分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


鎌足や不比等は何を知ってたんでしょうね?



http://www.kabbalah.info/japanese/what-is-kabbalah.html

カバラとは?

カバラの起源は今から4000年以上も昔、遥か古代バビロニア時代にまで遡る。しかし、カバラ思想は今日に至るまで秘密のベールに隠されてきた。この神秘主義こそカバラに潜む魅力のひとつである。ニュートンやライプニッツ、ピコ・デラ・ミランドラなど、各国の著名な科学者や哲学者がカバラの科学を探求し理解しようと試みたが、今日に至るまでカバラを本質的に理解しいている者は、ほんの僅かな者に限られている。



カバラの科学は、現実世界について述べているのではない。だから、本質的に一般の人々とは相容れないのである。目に見えぬものや認知できないのもの、また、経験出来ない事を理解するのは不可能だ。数千年にわたり人々はカバラに対して魔力や呪縛、奇跡に至る、あらゆる解釈を施してきた。しかし、カバラ本来の科学的側面に目が向けられることはなかった。過去4000年以上もの間、カバラ思想は常に、間違った認識と誤解に苛まれてきた。それだけにカバラの科学は何よりもまず明瞭な解釈が求められるのである。カバリストであるイェフダ・アシュラグは著書「カバラの本質的英知」の中でカバラを下記のように定義付けている。


「カバラとは、最上位に位置する究極的な英知の根源であり、そこから“原因と結果”という定められた法則に従って、創造主に対する敬神という現実世界における唯一、かつ高貴な目標を達成するために下方に延びている。」



カバラの科学的定義は複雑で厄介だ。この内容をもっと詳しく考察してみよう。


上層世界には天の力、創造主がいて、そこから支配・統治する力が人間の世界に下降した。どれだけの力が舞い降りたかは不明だが、その数は問題ではない。私達は創造主と呼ばれる天の力により創造され、この世に存在しているのだ。



現実世界で私達は、重力、電磁力、思考力など様々な力に慣れ親しんできた。しかし、それ以上に神秘のベールに隠された、より秩序づけられた天の力が存在するのだ。私達は、絶対的で包括的な力を創造主と呼ぶ。創造主は世界中のあらゆる力の集積であり、支配統治力の最高位に位置している。



天の力は上層世界を創造し、そこには全部で5つの世界(Adam Kadmon, Atzilut, Beria, Yetzira, Assiya)が存在する。次に上層世界と現実世界を分断するのが「マハソム(Machsom)」(ヘブライ語で“障壁”の意味)である。



天の力、つまり創造主は永遠の世界(Ein Sof)としても知られているが、この力が世界中に下降して下層の現実世界と人間を創造したのだ。カバラの科学は、従来の科学の様に現実世界について探求するのではなく、マハソム(障壁)を超越した神の世界に存在するあらゆる事象を探求する。



前述のカバリスト、イェフダ・アシュラグは、「この英知は、究極的根源であり、“原因と結果”という定められた法則に従って、そこから下方に延びている。」 と述べている。



厳密な法則に従えば、上層世界を上回る力は存在しない。また、アシュラグが述べるようにこの法則は定められ、絶対的かつ全てを包括している。またこの法則は完全に支配されているので、人は現実世界で自然万物を支配する絶対的力を顕示することが出来る。


人はこの力を十分に顕示し、登りつめる世界を完全に認識し、下降した力と同様の法則に従い、それにより永遠の世界に到達するまで人間世界から離脱することは出来ない。では、この「離脱」とは一体何を意味するのだろうか?



つまり、人はより高度な力を獲得したいという欲求が生まれるまで、進化しながら一つの人生から次の人生へと、現世で繰り返し生まれ変わるしかないのだ。



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http://www.kabbalah.info/japanese/home/1/266.html

カバラに対する誤解


カバラは数秘術、魔術、レッドストリング、そして他の多くのものに関連していると一般的に考えられています。ここではカバラに対する一般的な誤った通念を解消することを目的とします。




カバラにまつわる10個の神話


神話1:カバラは宗教の一種である

真実:カバラは科学 - 全域にわたる現実についての物理学 - です。それは私達の感覚器官からふだん隠された現実を包括的に明らかにする英知です。



神話2:カバラはレッドストリングや聖水と関係がある

真実:それらとの関係はまったくありません。レッドストリング、聖水、その他の製品は過去20年間にわたり製造されてきた、金儲けのため商業的発明です。



神話3:カバラは少数の人のためのもので、40才以上の男性だけが学習することを許されている

真実:追放(イスラエルの民の)の期間、カバラは選ばれた少数の人だけによって研究されてきました。しかし、アリ(Ari)の時代(16世紀)以降、カバラはすべての人々に公開されています。



神話4:カバラは魔術を取り扱っている

真実:カバラでは魔術やその他の妖術を取り扱いません。カバラは現実を対象とした実用的な研究を取り扱います。



神話5:カバラはセクトである

真実:カバラはすべての人に公開されている知恵と科学であり、どんな制約もありません。



神話6:カバラは「ニューエイジ」と関係があり、一種の流行(一時的な現象)である

真実:カバラは人類における最古の知恵です。その発祥は約5000年前に遡ります。



神話7:カバラは数秘術、タロットカード、占星術と関係がある

真実:数秘術、タロットカード、占星術における謎めいた行為は、カバラに対する誤解から関係づけられてきました。



神話8:カバラにはお守りがある

真実:この世界にある物質的なものでスピリチュアルなことを生じさせるものはありません。お守りなどは人を「心理的な支え」としてしか助けることができません。



神話9:カバラにはメディテーション(瞑想)がある

真実:カバラにメディテーションは含まれません。この数世紀におけるカバラに対する誤解および混同のなか、メディテーションは 非カバリストたちが「カバラ」という言葉に結びつけた1つの要素です。



神話10:カバラの勉強をする前にトーラーとタルムードを学習しておく必要がある

真実:カバラなしでは、それらの聖典のスピリチュアルな意味を理解することはできません。さらには、それらが物理的な出来事や活動について言及しているという考えに凝り固まってしまい抜け出せなくなります。

[23]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月13日 21時53分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、西三河の一色へうなぎを食べに行ってきました。前回は「兼光」
という新しい店、今回は「三水亭」という老舗に行き、味を比較してみよう
と思った次第であります。
 結果、どちらも香ばしい焼き方で、あとは「たれ」の味についての好みと
いうことになりますか。浜松と比べると、三河や名古屋は全体的に「しょっ
ぱい」感じがいたします。うなぎの「たれ」もややしょっぱめかなと思いま
した。
 ま、土地により、人により、味は好き好きでありますので、いいとか悪い
とか何とも言えませんが、薄味か濃い味かで食文化圏の違いがわかるので、
一度、三遠南信地方の食文化の関連性の探究をしてみたいと思います。

 カッパーラの解説書を手に入れようとしましたが、古本として非常に高額
になっていてなかなか買えません。
 飛鳥昭雄・三神たける氏の本『失われたカッパーラ 陰陽道の謎』の中で、
我々日本人の理解できそうなカッパーラの説明を抜き書きします―
 「神道の儀式のほとんどは道教に由来する。道教とは中国の民間宗教で、四
 神相応や風水、奇門遁甲、易など、数多くの呪術を含む。古来より中国の影
 響を受けて来た日本は、道教思想をダイレクトに受け入れたといっても過言
 でない。
  正月行事、雛祭り、七夕、十五夜……と、いわゆる民間行事のほとんどす
 べては道教に関係するものであるといっていい。
  では、いったい道教とは何か。結論からいおう。これがカッパーラである。
 かなり早い時期に、セムの子孫がアジアに伝えた思想である。道教とカッパ
 ーラの関係については、いずれ深く述べるが、神道との関わりで重要なのは
 「陰陽五行説」である。
  もとは陰陽家が唱えた思想から始まった。この世を、すべて陰と陽に分け
 て、その関係で説明しようとする神秘思想だ。光と闇、男と女、プラスとマ
 イナス……と、世界は二元論で語ることができるというのが特徴だ。
  これが日本に入って来ると、神道は大きく変わる。そこから山岳修行に
 主眼を置く「修験道」、もっと呪術的な色彩を強める「陰陽道」が生れて
 来る。
  中でも陰陽道は、日本版道教であるといっていいだろう。ただ、中国の
 道教にはない思想まで折り込んだ、かなり異形の思想であるともいえる。
  しかし、道教思想の根底にカッパーラがある以上、当然ながら陰陽道も
 カッパーラを継承した。というより、より深くカッパーラを理解し、実践
 して来た。日本における陰陽道は、神道に隠されたカッパーラを具現化し
 ている。陰陽道を知らずして、神道を理解することはできないといってい
 いだろう。
  何故なら、隠されたカッパーラを世に知らしめたのは、イエス・キリス
 ト。その直系であるエルサレム教団、ユダヤ人原始キリスト教徒「秦氏」
 が道教の本質を見抜き、陰陽道を作り上げたのだから。」
ということであります。

 
 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月13日 22時58分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


難しいですね。


もともとにカバラがあって中国生まれの道教が出来て更に日本で陰陽道が生まれた?


陰陽道も道教もカバラもさっぱり分かっていないので日本書紀が読めないのが当たり前ということでしょうね。


キリスト教は10年やりましたが結局は中世に変質したキリスト教(カトリック)ですしね。


日本書紀を読み解くにはカバラを理解した人が解説してくれないと鎌足も不比等も理解できないということですか。


日本書紀は盲が象を語るように一般人には部分しか読めないということですね。
ワタクシの場合はその部分も  (へ〜  そうなの?)  です。
残念っ


自分なりに理解しておかないと、解説を読んでもやっぱり分からないですから、
   日本書紀は自分が理解してた英雄譚ではなかった
というのが分かった段階です。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月14日 12時14分22秒 ) パスワード

http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33783418.html


日本書紀の年代の謎〜二倍年暦・辛酉年・卑弥呼・皇位継承の混乱


邪馬台国をはじめ、日本の古代史の解明を困難にしているのは、日本側の文献の研究が大きく停滞しているのが大きな原因である。

日本側の現存する最古の文献が、西暦8世紀初頭に編纂された古事記や日本書紀であり、これらの文献に書かれている年代が大きく矛盾している。これらに書かれている記載、人物の寿命や天皇の在位期間が異様に長かったりし、また、古事記と日本書紀との間にもズレがあって、それが文献解明への大きな障害になっている。

記紀の研究は、戦前は皇国史観の影響で大きく制限され、戦後は戦前の皇国史観への強い反発からマルクス史観などの台頭で逆の意味で大きく制限されてしまったのが大きな要因である。

では、これら日本書紀や古事記が全くの出鱈目なのか?そんなことはない。日本の古代史を解明する上で、日本書紀や古事記の研究をすることは、非常に重要なことだ。

では、日本書紀や古事記に書かれている不可解な年代は、どうやって誕生したのだろうか?そのへんを詳しく分析できれば、日本古代史の解明に大きな前進をもたらすと思う。

一般的に、日本書紀や古事記に記載されている異様に長い寿命や天皇の在位期間は、上古代の日本が二倍年暦だったのが大きな要因だと言われている。

(参照ページ:二倍年暦・春耕秋収をはかり年紀となす)


しかし、古事記の場合、記述自体が少なく、年代についても、天皇の寿命とか干支崩年という曖昧な形でしか年代が記載されてなくて、日本書紀の場合、二倍年暦だということを計算していても、日本書紀に書かれている年代の矛盾を修正することが出来ない。

これらのことから、二倍年暦だけを考慮しても、上古代の日本の年代を解明することが無理なことが分かる。では、どうすればよいのだろうか?


まず、古事記の場合は、日本書紀に比べて、書かれている量も圧倒的に少なく、年代に関しても、天皇の寿命や干支崩年という曖昧な記述しかなく、古事記の著者の意図的な改竄の可能性は小さいように思う。むろん、古事記は稗田阿礼の暗礁を少人数で記録したものであり、古事記の著者の勘違いや記憶違いの箇所もあるだろうが、何か意図的に改竄するという必要性は感じられない。


一方、日本書紀の場合は、古事記と違って、日本国家から正史と見られていた書物であり、書かれていることも膨大で、年代に関しても、事細かに書いてある。そのために、古事記よりも詳細に歴史を知りやすい反面、編纂者や国家の思惑も大きく影響を受けた可能性も非常に強いと思われる。とくに、年代に関しては、かなり引き伸ばしや改竄が加えられた形跡があり、辻褄が合わないことや矛盾が大きく生じている。

では、日本書記に書かれている年代のどこに改竄が加えられているのか?


日本書紀の年代は、編纂者側の意図的な改竄を受けた箇所は、神武天皇即位紀元「辛酉年春正月庚辰朔」の箇所と、神功皇后の在位期間(魏志倭人伝に出てくる倭の女王の時期に近い)である。これらのために、他の天皇の箇所の年代などを意図的に改竄・引き延ばしをした可能性が高い。

日本書紀の編纂者らは、上古代の日本の暦が二倍年暦だったことに気がついてなく、そのことを考慮しないまま、歴史書を記していた可能性が高い。このことは、二倍年暦を考慮しないままの年代で神功皇后を卑弥呼の年代に合わせようとしたことや、応神天皇の出生に関して、苦し紛れの言い訳を無理にしたことから分かる。

(参照ページ:日本書紀の編纂者は神功皇后を女王卑弥呼だと考えた)


また、改竄ではない別の要素としては、一部の天皇と天皇との間に、在位期間がダブっていたりしている可能性がある。これは、ある天皇が生存期間中に譲位をしたり、皇位継承争いで天皇が二人いた時代があったからなのでは?と思われる。これは、日本書紀に記載されている先帝の葬られた時期からも想像できる。

(参照ページ:古墳と記紀・日本書記にある天皇陵墓の記述)


以上のことをまとめると、次のようになる。


日本記紀の年代の謎 A. 日本書紀の前半部分の天皇の在位期間や寿命が長い理由は、その時代の日本の暦が二倍年暦(現在の一年を二年と計算)だったからである。


B. 日本書紀の編纂者は、二倍年暦だったことを考慮しないまま神功皇后の活躍年代を魏志倭人伝の女王の活躍期間の年代に合わせようとしている。そのために、彼女の後に活躍した天皇の在位期間を改竄して引き伸ばしをしている可能性がある。


C. 応神天皇の出生については、二倍年暦だったことを考慮すれば生物学的に問題ではないが、日本書記の編纂者は、かつて二倍年暦だったことを知らなかったために、応神天皇の出生を不審に思い、無理な言い訳をして納得しようとしている。(ただし、生物学的には問題ないが、夫の仲哀天皇の崩御後に産まれた子供ではあるので、古代の人から見たら、あまり好ましいことではなかったのかもしれないが...)


D. B、Cから、日本書紀の編纂者は、上古代の日本の暦が、二倍年暦だったことに気がついてなかったように思われる。日本書紀が編纂された西暦8世紀の日本にとって、かつて二倍年暦だったことは完全に忘れ去られていた可能性が高い。


E. 日本書紀の編纂者は、神武天皇即位紀元を革命年である「辛酉年春正月庚辰朔」にするために、一部の天皇の在位期間を改竄・引き伸ばしをしている可能性がある。


F. 皇位継承時の混乱によって、日本書紀に記載されている天皇の在位期間に混乱がある可能性がある。一部の天皇と天皇との間に、在位期間がダブっていたりしている可能性があり、これは、ある天皇が生存期間中に譲位をしたり、皇位継承争いで天皇が二人いた時代があったからなのでは?と思われる。


G.古事記は、年代に関して、天皇の寿命や干支崩年という曖昧な記述しかなく、古事記の著者の意図的な改竄の可能性は小さい。間違っていても、それは意図的な改竄ではない可能性が高い。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月14日 12時21分05秒 ) パスワード

http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34349051.html


日本書紀の編纂者は神功皇后を女王卑弥呼だと誤解した


魏書などの中国史書に出てくる邪馬台国の女王卑弥呼。これは一体、誰なのか?現代でも永遠と続く論争なのだが...

しかし、この女王卑弥呼は、現代人だけではなくて、日本書紀を編纂した1300年前の人たちにとっても、最大の謎の一つだったことは意外に知られていない。

そこで、次の表の神功皇后の在位期間を参照してもらいたい。



日本書紀に記載されている
天皇の在位期間

代数 天皇名 在位期間 代数 天皇名 在位期間
 
33 推古 592-628 16 仁徳 313-399
32 崇峻 587-592 15 応神 270-310
31 用明 585-587   神功皇后 200-270
30 敏達 572-585 14 仲哀 192-200
29 欽明 539-571 13 成務 131-190
28 宣化 535-539 12 景行 71-130
27 安閑 531-535 11 垂仁 BC29-AD70
26 継体 507-531 10 崇神 BC97-BC30
25 武烈 498-506 09 開化 BC158-BC98
24 仁賢 488-498 08 孝元 BC214-BC158
23 顕宗 485-487 07 孝霊 BC290-BC215
22 清寧 480-484 06 孝安 BC392-BC291
21 雄略 456-479 05 孝昭 BC475-BC393
20 安康 453-456 04 懿徳 BC510-BC477
19 允恭 412-453 03 安寧 BC549-BC511
18 反正 406-410 02 綏靖 BC581-BC549
17 履中 400-405 01 神武 BC660-BC585





1300年前の日本書紀の編纂者たちは、神功皇后を女王卑弥呼だという結論を出して、編纂したと思われる。日本書紀の年代では神功皇后は、中国史書に登場する女王卑弥呼や女王台与と同時期を生きた人となっている。


そして、次の日本書紀や中国史書の記載を見ていただきたい。
是年、晉武帝泰初二年。晉起居注伝、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢献。
この年、晉の武帝の泰初(泰始の誤り)二年。晉の起居注に伝わく、武帝の泰初(泰始の誤り)二年十月、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。
引用元:日本書紀 神功皇后 摂政紀 (六十六年)
立其宗女臺輿爲王。【魏略云、倭人自謂太伯之後。】其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢。
その宗女台与を立て王となす。【魏略に伝わく、倭人は自ら太伯の後という。】その後また男王立ち、中国の爵命を受く。晋の武帝の太始初(泰始初の誤り、泰始二年)、使を遣わし訳を重ねて入貢す。
引用元:通典 東夷伝

「日本書紀 神功皇后 摂政紀 (六十六年)」に引用されている西暦で266年の朝貢記事である。ここには、倭の女王とある。実は、これを女王とするのは日本書紀のみである。日本書紀は、この朝貢も神功皇后としている。

中国の史書「通典 東夷伝」は、梁書と晋書の記事も紹介しながら書いてあるのだが、この通典の記述が本当なら、泰始二年(西暦266年)の朝貢は台与ではなく、次の男王となる。真偽は分からないが、この著者は梁書の『其後復立男王、並受中國爵命。』の男王を賛から武までの倭の五王とは別人として解釈している。


これらのことから、1300年前の日本書紀の編纂者は、中国史書に出てくる二人の女王(卑弥呼と台与)を、年代の引き伸ばしをしてでも、神功皇后に当てはめようとしていたことが分かる。


しかし、この日本書紀の年代は、上古代の日本が二倍年暦だったということを考慮していない年代である。ということは、日本書紀の編纂者は、上古代の日本の暦が違っていて二倍年暦だったことに最後まで気がつかないまま、日本書紀を編纂したことになる。科学の発達していない古代の編纂者たちは、上古代の人物の異様に長い寿命を、本当にそれだけ長く生きたのだと解釈したのかもしれない。

日本書紀の編纂者が、上古代の日本の暦が二倍年暦だったことに最後まで気がつかないまま、日本書紀を編纂したのだろうと思われる箇所としては、応神天皇の出生に関しての記述でも分かる。応神天皇は、父親の仲哀天皇の死後、一年くらい経ってから産まれたことになっており、そのことを日本書紀の編纂者たちは、生母の神功皇后が無理して出産時期を遅らせたというふうに言い訳している。

しかし、上古代の日本の暦が二倍年暦だったとしたら、実際は仲哀天皇の死後、半年で産まれたことになり、仲哀天皇の最期まで神功皇后は一緒だったことから、生物学的にも不思議なことは無い。このことからも、日本書紀の編纂者は、上古代の日本の暦が二倍年暦だったことに最後まで気がつかないまま、日本書紀を編纂したことが分かる。

日本書紀に登場する上古代の天皇の寿命や在位年数が異様に高いのは有名だが、これらは上古代の日本の暦が二倍年暦だったことが大きな原因だったというのは、当サイトでは何度も説明している。しかし、日本書紀では、それだけを考慮しても、年代に矛盾が生じていることも有名だ。これは、それ以外で何らかの改竄を年代に加えられていたことが推測される。

その年代に加えられた改竄の一つが、中国史書に出てくる女王卑弥呼に神功皇后を当てはめるために、その前後の天皇の年代を改竄した可能性が高い。

神功皇后の年代を卑弥呼に合わせるために、彼女の後に生きた天皇でも、生存期間、在位期間、記述の内容が合わない天皇が何人かいる。その一人が仁徳天皇であり、神功皇后を卑弥呼の年代に合わせるために、彼の在位期間の引き延ばしを加えたのではと思われる。


むろん、なかには、年代を引き伸ばしただけではなくて、神功皇后という全くの架空の人物を作り出したという説を提唱する人もいる。


しかし、もし完全に架空の人物を作るのなら、卑弥呼と台与という二人の女王に対応させるために、二人の神功皇后のような人物を作り出せば良いのである。しかし、それをしなかったことを思うと、神功皇后のような人物は一応、存在したのであり、だからこそ、彼女一人で二人の女王(卑弥呼と台与)に対応していると、日本書紀の編纂者たちは納得するしかなかったのである。

また、神功皇后と卑弥呼では全く経歴が違いすぎる。魏志・魏略などの中国史書の記載では、卑弥呼は生涯独身であり、その活動範囲は倭国内に限定されており、死の直前の10年間である西暦239年〜247年は、対中国(魏)外交、倭国内の紛争と詳細に記載されている。しかし、日本書紀記載では、神功皇后は生涯独身ではなく子も産んでおり、その活動範囲は海外出兵もあり、魏志に書かれた卑弥呼の死の直前の10年間である西暦239年〜247年は、朝鮮半島出兵に勤しみ、その半島情勢も魏の帯方郡の形跡がないなど大きく異なっている。

これらのことから、神功皇后は実在の人物であり、日本書紀の編纂者はその人物を卑弥呼だと自己流に解釈して、無理に二人の活躍時期を合わせようとしたのだと思う。


以上のことから、日本書紀の編纂者たちは、中国史書に出てくる女王卑弥呼に神功皇后を当てはめるために、その前後の天皇の年代を改竄した可能性が高いと思われる。これらのことを参考にして、日本書紀の年代の改竄された部分を修正していくと、上古代の日本の歴史の真の年代が導き出されるかもしれない。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月14日 12時28分26秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/kamisama.htm

大和朝廷正当化のために、存在抹消・経歴査証
消された神様たち
 
 
神話のミステリーを紐解くおもしろさ



一般的に日本神話と呼ばれる物は、奈良時代に、大和朝廷=天皇家がこの国を治めるのに、ふさわしい家系である事を知らしめるために書かれた物です。
現在この科学の発達した世の中で、神話を100%事実と考える人はまずいないでしょう。
それなら、100%作り話かと言うとそうではない。
なぜならば100%作り話なら、国内を納得させられるはずがないからです。

たとえば、私がある老舗の会社の社長にいきなりなったとしましょう。
当然今まで先代社長と苦労をともにしてきた社員たちは不満ムンムンです。
しかし、そこに私が先代社長の孫だった・・・という看板を背負えば社員は納得します。

しかし、そのうち「結婚もしていない先代社長に孫がいるわけない!」と、痛いところを突かれます。
そこで、先代社長が若い頃に関係のあった女性の孫という話を作るとします。
しかし、まったくの作り話では、社員の理解が得られません。

そこで、先代社長が苦労時代に、何かと世話をしてくれた近所のやさしいお姉さんがいたという事実を利用します。
本当はそのお姉さんとは、単なる友人だったとしても、実は男女の関係になっていた・・・という事にすれば、話はがぜん真実味をおびてきます。

しかし、そうやって事実と作り話をつなげていってるうちに、いつしかつじつまがあわなくなってきます。
私と先代社長の年齢が祖父と孫の関係にあるまじき年齢だったり、社長の拠点が関東なのに、私が関西人だったり・・・という風に。

そのつじつまを合わせるために、またつじつまを合わせる・・・。
神話の中には、そうやって、存在を消された神様、経歴を査証された神様が数多くいるのです。

現在残っているのは、『古事記』と『日本書紀』そして、出雲・常陸・播磨・豊後・肥前に残る『風土記』。
この中の神代の時代の話を総称して神話と言います。

これらの書物のなかで、『風土記』はそれぞれ各地に残る神話や、名産品、名所なども書かれた平たく言うと各地方の紹介パンフレットのような物。
『日本書紀』は、漢文で書かれている事からも、海外向けに日本の成り立ちを紹介する物。
そして、『古事記』は、国内向けに天つ神=大和朝廷=天皇家を正当化する物、と言えるでしょう。

神代の昔から受け継がれた皇国・日本の誇りと伝統を大切にしつつ、神話のなかに埋もれたつじつまの合わないほころびをひっぱり出して、何が事実で何が創作か・・・群雄割拠する壮大なストーリーを推理する楽しさは、まさにミステリーです。



出雲の英雄スサノヲノミコト(須佐之男命・素戔鳴尊)

乱暴を働き、太陽神・アマテラス大御神を天岩戸に隠れさせた荒ぶる神、人身御供として捧げられる娘の嘆きを知りヤマタノオロチを退治する英雄神、どちらが本当のスサノヲノミコトでしょうか?
この対照的なふたつの顔を持つスサノヲノミコトは、まさに古代出雲の首長たちの誇りを隠しきれなかった大和朝廷の産物です。


まず、大和朝廷が勢力を伸ばすもっと以前から、出雲にはちゃんと統制のとられた国があって、そこには、荒ぶる自然(ヤマタノオロチ)を統治したりっぱな王がいた事を、無視するわけにはいかなかったのです。

神話によるとヤマタノオロチ(八俣大蛇)は、その文字が表すとおり、八つの谷、八つの峯にまたがる大蛇だったと言います。

想像してみて下さい・・・・少し高い所から、地図を見るように・・・まさしくヤマタノオロチは、川以外の何者でもありません。
川が毎年氾濫して多くの人を犠牲にし、作物に被害をもたらした事を、人身御供に捧げられる娘に例え、土木工事をして水害を防いだ大王を神と崇めました。
 

神話の中でヤマタノオロチは、古志(こし)のヤマタノオロチと呼ばれています。
古志とは、『越』つまり現在の北陸のあたりで、出雲と海路によって交易がなされていた事もわかっています。
なにげに、この大王は出雲だけでなく、北陸地方も平定していた事を物語っているのです。

その英雄の影をどうしても消せなかった大和朝廷は、英雄を同族(アマテラス大御神の弟)に取り込みます。
しかし、出雲に降りた理由が必要なので、悪事を働いて追放された事にして、いったん出雲の国を治めさせておいて、最終的には、姉のアマテラス大御神に屈服して、宝剣(草薙の剣)を献上する、というストーリーです。

これなら、出雲の王は同族・兄弟なので侵略ではなく、あくまで和解となるわけです。

しかし、この時点では、あくまで和睦を結んだに過ぎません。
大和朝廷に屈しない出雲王朝は存在しています。
なぜなら、この後もスサノヲノミコトの息子(古事記では六代目)のオオクニヌシノ神がしっかりと出雲を統治しているからです。




抵抗勢力の代表オオクニヌシノ神(大国主神)

記紀神話に登場する神様は、大きく分けて2種類です。
『天つ神(あまつかみ)』は、高天原に住む天上の神様で、もう一つは『国つ神(くにつかみ)』、こちらは地に昔から住む土着の神様です。
はっきり言って一言で言うと記紀神話は、天つ神の子孫が、国つ神の子孫を征服する話です。
国つ神は、大和朝廷が統一する以前から、この国に住んでいた人々の事だと言っていいでしょう。

そんな、国つ神の代表格が、オオクニヌシノ神です。
オオクニヌシ神は、古事記ではスサノヲノミコトの6代後の子孫、日本書紀では、子供となっています。

おぉ!すでにもう、つじつまがあっていな〜い。
スサノヲノミコトは、天つ神であるアマテラス大御神の弟ですから、当然天つ神でその子孫(子供)なのに、国つ神。
記紀神話でオオクニヌシノ神は、かたくなに天つ神には加えられません。
それどころか、いじめられ、試練を与えられ、やっとの事で治めた出雲の国をアマテラス大御神の孫・ニニギノミコトに譲った事になっています。

よほど、同族に加えたくない抵抗勢力がそこにあったとしか思えません。
その証拠と言えるかどうかわかりませんが、オオクニヌシノ神を祀る出雲大社のご神体は、正面を向いていないのです。
これは、大和朝廷に背を向けるため、抵抗勢力の意地とも言えるのでしょうか。
参拝のしかたも、通常の神社とは異なっていて、出雲大社独特の参拝作法があるのです。

そんな反抗的な出雲大社に年に一度十月になると、八百万(やおよろず)の神が集まる・・・というのも不可解な話です。
ひょっとして、大和朝廷は、オオクニヌシノ神に、気をつかってる?
十月を古い言い方で『神無月』と呼びますが、これは全国の神様が日本の国を生んだイザナギノミコトの命日に集まって、宴会する用の酒造りのため出雲に出張するので、地元にいなくなるため神無月と呼ばれます。
逆に出雲では、『神有月』と呼ぶ・・・っと言う話はけっこう有名です。

当時としては、日本一を誇る大きな大きな神殿をを建てて、オオクニヌシノ神を祀った気の使いようも、国譲りの一言では片付けられない大きな抵抗勢力との大乱があって、大きな犠牲のもとに大和朝廷の支配が成立したとしか思えません。

その事は、オオクニヌシノ神の二人の息子の物語によって、明らかにされます。



信濃の王者タケミナカタノ神(武御名方神)

オオクニヌシノ神ミには、二人の息子がいました。
古事記による国譲りのシーンでは、天孫・ニニギノミコトの使いとしてタケミカヅチノヲノ神が出雲にやってきてオオクニヌシノ神に「この国を譲るのか、譲らないのか!」と迫ります。
オオクニヌシノ神は「私は年老いているので、ひとりで返答はできない。二人の息子に聞いてくれ」と言います。

一人目の息子・コトシロヌシノ神(言代主神)は「恐れ多い事です。それならば、この国は天神の御子に差し上げたらよろしいでしょう」とすんなりOKしますが、その後すぐ船に乗り、まじないをし拍手を打って、船に神座を造り、この世を去る呪術を行うとそのまま姿が見えなくなった・・・となっています。

不可解です・・・国を譲れ・・・はい譲ります・・・と素直に言った人間がなぜすぐ死ななければならないのか・・。
このコトシロヌシノ神の死は、やはり国を譲ったのではなく、奪った証拠だと言えます。

そして、もう一人の息子・タケミナカタノ神(武御名方神)は、腕に覚えがるらしく、果敢にタケミカヅチノヲノ神に戦いを挑みます。
しかし、力くらべに負けてしまい、その場から逃走します。

逃げた先が、信濃の諏訪湖のほとり。
そして、2度と信濃の国から出ない事、すなおに国を譲る事を条件に、命を助けてもらうのです。

その、二人の息子の成り行きを聞いたオオクニヌシノ神は、「高天原に届くような高い宮殿を建てて、私を祭ってください。私の子供たちは天孫の家来となってお仕えするでしょう」と言って亡くなります。

オオクニヌシノ神とコトシロヌシノ神が死に、タケミナカタノ神が諏訪湖に逃げて、子孫は家来になる・・・。
やはり、明らかにここで侵略戦争が起こっていますね。
オオクニヌシニ神のために建てた出雲大社は、大きな犠牲に対する恨みつらみが大和朝廷には怖かった・・・と言うところでしょうか。

ここで注目すべきは、信濃に逃げたタケミナカタノ神。
信濃の国を出ない事を条件に許した・・・というよりは、信濃まで大和朝廷の力が届かなかったとするべきでしょう。
タケミナカタノ神は、諏訪大社の祭神ですが、その諏訪大社は後々まで朝廷から特別扱いの待遇を受けています。
奈良時代に国司が派遣されてきますが、諏訪大社はその国司の命令を聞かず自治を行っても良い事になっていました。

やはり、それは信濃の地に大和朝廷が隠しきれない歴史上の大きな異国家が存在していたという事でしょう。

出雲の国にしても、信濃の国にしても、何もなければ神話にその話を盛り込む必要のない話です。
別に、国譲りの話など入れなくても直接、天孫降臨の話を進めても物語的には、何の支障もありません。
わざわざ、回り道をしてこの話を入れなければならないくらい、出雲と信濃の国つ神たちが強かったわけです。




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もうひとりの天孫・ニギハヤヒノミコト(邇義速日命)と義兄弟・ナガスネヒコ

タケミカヅチノヲノ神が、国譲りで出雲を平定した後、アマテラス大御神の孫・ニニギノミコトが日向の高千穂の峯に、古事記では賑やかに、日本書紀ではややひっそりと、天から降りてくるのです。
これが、有名な『天孫降臨』の物語です。

しかし、ここにもうひとり、神の国から天下った天孫・ニギハヤヒノミコトがいます。

ニニギノミコトの移動手段は天鳥船(あめのとりふね)ですが、ニギハヤヒノミコトの移動手段は、天磐樟船(あめのいわくすふね)と呼ばれ、現在大阪の枚方・交野から生駒山を越えて奈良へ向かう168号線沿いにある磐船神社のご神体となっている巨石がそれです。

彼は、この生駒山麓に降り立ってから、生駒の登美(とみ)に住む豪族・ナガスネヒコ(那賀須泥毘古・長髄彦)の妹を妻にして、河内一帯を治めていたのです。 天田神社 そこへ西のほうから、この地を征服しにやっってきたのが、あの高千穂に降り立ったニニギノミコトの4代目の子孫・カムイヤマトヒワレビコノミコト・初代天皇となる神武天皇です。

当然、ナガスネヒコは自分たちの国を護るべく戦わなければなりません。
彼らにとっての天つ神はニギハヤヒノミコトただひとりです。

瀬戸内海を通って難波(大阪)に上陸した神武天皇ご一行は、東へ東へと軍隊を進め、ナガスネヒコたちと合いまみえる事になります。
最初の戦いは、ナガスネヒコ側の完全勝利でした。
神武天皇は、この戦いで兄・イツセノミコトを失い、一旦海へと逃走します。


そして、「太陽神の子である自分たちが、日の方向(東)に向かって戦ったのがいけなかったのだ。今度は太陽を背にして戦おう」と、紀伊半島を回り込み、和歌山の方から上陸して、熊野・吉野を抜け、今度は奈良の方から生駒に攻め入るのです。

そして、2度目の戦いは、日本書紀では、金の鵄(トビ)が天皇の味方をして光輝いて、そのまぶしさでナガスネヒコが目がくらんで弓が引けずに敗走した後、なんとニギハヤヒノミコトがナガスネヒコを殺し、神武天皇の家来になります。

古事記では、ものすご〜くあっさりと、神武天皇がナガスネヒコを倒してし、ナガスネヒコが死んだ後にやはりニギハヤヒノミコトが、わざわざ神武天皇の陣中におもむいて、宝物を献上し臣下に収まります。

自分こそが天孫であるはずのニギハヤヒノミコトが、自分のために戦った忠臣を裏切ってまで、神武天皇の傘下に入るものでしょうか?
しかも、奥さんであるナガスネヒコの妹と末永く仲良く暮らし、その子孫は飛鳥時代に大きな権力を手にする物部氏なのです。

人の心情を考えた時、神武天皇の傘下に収まるつもりなら、ナガスネヒコが戦う必要も殺される必要もありませんし、たとえ殺さなければならなかったとしたら、妹である奥さんとも縁を断ち切らなければつじつまが合いません。




洗濯中により続く
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月14日 12時30分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本当に正しい「年表」がほしいものです。
 日本の古代史が正しいのかどうか……それは天皇家の歴史が正しいのか
どうかという一大問題に発展してしまうので、タブーということになるの
かと思います。
 但し、学問というのは真実を求めますので、この流れには逆らえない。
本当の歴史の証明は、古墳の調査によってもたらされるものと思われます。
豪族と古墳。大王と古墳。天皇と古墳。これらが特定・比定されれば、歴史
のハードの部分(系譜=血筋)が確定できる。少なくとも、こういう人物は実
在したということが確定できる。あとは、ソフトの部分(来歴=何をしたか)。
どんな人で、どんなことをやって、どんな人間関係があったのか……。
 そういう観点から考えますと、古代の天皇家の歴史というものは、大きく
次のパターンに分けられると思います―
 @ 天皇の系譜は正しい。そして、その来歴も正しい。
 A 天皇の系譜は正しい。しかし、その来歴は正しくない。
 B 天皇の系譜は正しくない。しかし、その来歴は正しい。
 C 天皇の系譜は正しくない。そして、その来歴も正しくない。
 これらの内、どれが正しいのか、強いていえば、Cということになるので
はないでしょうか。
 但し、実際はそんな単純なパターンではないので、@からCまでにあては
まらないパターン、即ち―
 D 天皇の系譜は寄せ集めである。そしてその来歴も寄せ集めである。
   但し、天皇家としての血脈は、どの筋を一本の天皇家の筋というのかは
   別として、かろうじてつながっているのではないか。
来歴は、神話的創作の延長であるが、謎解きのヒントは残されている
   のではないか。
 西暦720年の8月に藤原不比等がなくなりますが、その5月には「日本
書記」が完成しています。その18年前には「古事記」が完成しています。
 これにより、日本の古代の歴史は、古代史劇場として語られ演じられる
物語になってしまった。即ち、藤原不比等原作の「日本史物語(持統まで)」。

 日本史の鍵は、やはり「藤原不比等」が握っている―

 飛鳥昭雄氏は1998年に、『聖徳太子の秘文開封』という本を出されて
いる。この『未来記』と『未然紀』は国会図書館に所蔵されているそうであ
るが、それは一般公開されていないという。縁あってその中身を閲覧した結
果として、この本は書かれているが、その中に、「藤原鎌足」と「藤原不比
等」に関する部分が記されているので抜書きいたします。1つの「鎌足・不
比等」探究のヒントになればと思います―
 「『未然紀』(初文第3章)
独り中臣鎌子は考えて曰く。聖皇は時々に夢殿に入りたまう。臣は度々
  微(め)され見て入るを得たり。
  
  この意味―中臣鎌子が言うには、聖徳太子は時々、夢殿に入っていた。
       私は、時々呼ばれて入ることもあった。

  中臣鎌子とは、後の鎌足の幼名であり、「聖皇」とは聖徳太子のことを
 指す。
  事実、太子の戒名は「真至聖皇」といい、夢殿とは、斑鳩宮の名前であ
 る。
  その夢殿に、鎌足が、5、6歳の頃から、出入りしていたことが、ここ
 に記されている。
  中臣鎌足といえば、中大兄皇子と共に「大化の改新」(645年)を起こし、
 蘇我入鹿を討った歴史的人物である。
  その功績で、天智天皇(中大兄皇子)から、「藤原」の姓を賜って藤原家
 を興し、祖となったことで知られる。
  『古事記』と『日本書紀』編纂の際には、表向きにも裏でも大きく作業
 に関わった「不比等」も藤原氏であり、鎌足の次男だった。
  不比等は、聖徳太子が仕掛けた壮大な国仕掛けを引き継いだ鎌子をさら
 に継承し、国史編纂の際に影響を与えたのかも知れない。
  太子が仕掛けた壮大な仕掛けとは、到底短い紙面の中では説明できるも
 のではないが、大まかに言えばこういうことだ。
  七五三や初詣や村祭りの風習から始まって、神社を稲荷神社、八幡神社、
 松尾神社、金毘羅宮等々の各系列神社に区分けしたのも、日本人が意識し
 ていようといまいと、日本人の国民性に関わる細部までもが、太子によっ
 てその基礎が築かれた、ということなのだ。
  〜略〜
  今はまだ、『記紀』が、そういう国仕掛けの一環として、ヘブライの奥
 義を究めた太子の意向を元に作られた国の正史であることを知っていただ
 ければ十分であろう。
  その証拠に、日本の正史の『古事記』と『日本書紀』は、やはり合わせ
 鏡になっている。」
ということであります。

 鎌足や不比等の細かな出自は別として、また聖徳太子についての云々も別
にして、カバラの預言者としての聖徳太子―鎌足―不比等という系譜は、古
代の謎解きの要になるかも知れません。
 特に、鎌足の方が聖徳太子に近いだけ、歴史の鍵を握っているかも知れま
せん。
 昨年、旧摂津、高槻市を訪れた時、「鎌足の墓(古墳)」が控えめにひっそ
りと存在していたということについて、何か一抹の寂しさと謎を感じた覚え
があります。鎌足については、今城塚古代歴史館で『中臣鎌足と阿武山古墳』
という本を仕入れたものの、鎌足に対する興味が余り強くなかったので、そ
のまましまったままになっておりました。この際、読解してみようと思いま
す。


[29]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月14日 13時25分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 レスがすれ違ってしまいました。[25]〜[27]を読解させていただきます。

 話は変りますが、先日、箱柳永田様より、永田姓で細江に関係する系統が
あるということを伺い、気に留めておりましたが、本日、『重修 浜名史論
上・下・完』をひも解いていましたら、偶然その箇所に出くわしましたので
記しておきます―

「〜大江助朝父子については、明徴しえないのであるが、後南北朝期貞治四
年(1365)に二体の掛佛を只木神明宮に奉納しその背板墨書銘に「願主 大江
末光 敬白」と記されてある人の先にして、室町以後三ヶ日町岡本に栄えた
永田(長田)氏の祖ではなかったか。頼朝の片腕として活躍した大江廣元の
子孫を調べるに、大江系図(尊卑文脈)に「廣元―那派掃部介宗光―左エ門
政茂―左近将監頼廣―式部宗廣(上總介)―四郎教元―弥五郎宗光―五代重光
(長田平エ門三州大浜庄官)―直時(永井)」とあげられているのである。ここ
に注目されるのは、大江系長田姓を称する重光があることで、この人は三州
大濱の庄官とあり程遠からぬ地域の住人である。ところが、濱名神戸の本拠
たる岡本区内の旧家に永田(古くは長田と書く)氏数軒が現存しているので
あり、同家は古来より神目代初生衣神社の社家として伝わった家であり、そ
の系図によれば永田重右衛門親郷を応永年代岡本居住の祖として、その後
初生衣神社に奉仕し、荒妙調進見送りの副使神官を勤めた由を記しているが、
これこそ先に掲げた大江系長田氏と同一系統に属するものではないか。」
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月14日 13時36分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

>『未来記』と『未然紀』は国会図書館に所蔵されているそう

そうなんですか?
実在するんですか?
驚きでした。



古墳の研究は宮内庁が絶対阻止でしょうね。
ついでに『未来記』と『未然紀』も阻止されているんでしょうね。



> C 天皇の系譜は正しくない。そして、その来歴も正しくない。

これはそう思います。
でも、そうすると自分の拠って立つアイデンティティが・・・・




> D 天皇の系譜は寄せ集めである。そしてその来歴も寄せ集めである。

これはいいですね。
多分コレだと思います。


> 但し、天皇家としての血脈は、どの筋を一本の天皇家の筋というのかは別として、かろうじてつながっているのではないか。

繋がっているといいですね。


ま、継体天皇以降は繋がっているということで良いのでしょうか?



頑張って『中臣鎌足と阿武山古墳』読んでください。
どんな人だったんでしょうね。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月15日 09時05分24秒 ) パスワード

昨日の続き
http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/kamisama.htm



ヤマトタケル(倭建命・日本武尊)の真実

とにかくヤマトタケルノミコトは、日本神話の中では、群を抜いたヒーローです。
くわしく知らなくても名前だけなら、おそらく神話に興味のない人でも知っている人物でしょう。
しかし、彼もまた不可解な2面性を持っています。

兄を平気な顔で殺してしまう凶暴な性格のために、父・景行天皇から西に住む熊襲(クマソ)征伐を命令されたはずなのに、西の地方を平定して帰ってくれば、一言の褒め言葉もなしに、今度は東を平定しろと命令され、休む間もなく旅立って行きます。
その生涯のほとんどを地方平定の戦いに費やします。

兄を殺してしまう凶暴性と、泣く泣く父の命令に従う従順さと二つの性格を併せ持つ彼は、始めヲウスノミコト小碓命)と名乗って西へ向かい、今度はヤマトタケルと名乗って東に向かいます。

おそらくは、ふたり・・・いやもっとたくさんの勇者たちの総称がヤマトタケルであったと思われます。
タケルとは、猛々しい者、強い者という意味で、名前の意味からしても、ヤマトのタケル=日本の勇者という事です。
地方を平定した何人かの軍人たちの様々な戦いがヤマトタケルという一人の人物として描かれたのでしょう。

しかし、たとえヤマトタケルが何人かの軍人の総称だったとしても、神話の中でのヤマトタケルに少しの疑問が残るのです。
大阪の古市には、ヤマトタケルの墓とされる白鳥陵とヤマトタケルを祀る白鳥神社がありますが、その白鳥神社には、あのスサノヲノミコトも祀られています。
ヤマトタケルを祀る神社は、西日本よりも東日本に多くありますが、やはりスサノヲノミコトも祀られている事がよくあります。

この二人の接点は何なんでしょう?
しかも、なぜ、タマトタケルが征伐をしに行った東日本に多く祀られているのでしょう?
凶暴な性格と英雄の性格を併せ持つところも似ていますし、同じ草薙の剣を扱うところも似ています。

また、ヤマトタケルが戦いにおもむく時、何かと相談に行くのが、伊勢神宮の神官をしている叔母のヤマトヒメのところ。
伊勢神宮と言えばアマテラス大御神を祀る神社。
そこにも、何かしらの接点を感じるのです。


勝手な想像ですが、西に行ったヲウスノミコトと戦い終わって帰ってきたヤマトタケルは当然別人で、しかもそのヤマトタケルは出雲の出身ではないか?と思うのです。
オオクニヌシノ神は国譲りの所で、「子供たちは天孫の家来となって仕えるでしょう」という言葉を残しています。
つまり、多くの戦いがそうであるように、負けた王や王族は殺されても、国民はたとえ他国に征服された形であっても、そのまま生き残るわけですから・・・。

そして、征服された側の人間は、当然戦いの場で最前線にたたされ、勝っても褒美などもらえるわけもなく、次から次へと戦いに駆り出される・・・。
そんな、植民地化された出雲出身の軍人の総称だとすれば、攻め込んだはずの東日本に多く祀られているのも納得できます。

そう、東日本は、国譲りの時タケミナカタノ神が逃走して造った国だからです。
征服者に逆らえず、気持ちとうらはらに、褒美もなしに最前線で戦う彼らに、同じ出雲の祖を持つ人々が共感を持った事は、充分考えられます。

白鳥陵・白鳥神社のくわしい場所は『歴史散歩・大阪』古市古墳群へGo






神話に対する私的な思い

戦後、日本神話は、軍国主義の象徴として、小学校の教科書から姿を消しました。
今の子供たちはどのくらい神話の事を知っているのでしょうか?
世界に数多く残る神話は、今も語り継がれているのに、なぜ日本神話はこのような事になってしまったのでしょう。
それは、世界中の神話の中で、唯一、今も生き続けている神話だからではないでしょうか。

世界に残る神話はすべて過去の遺産。
しかし、日本神話は現在にもつながり、今も生き続けている、・・・たぶんそれが問題なのでしょう。
でも、逆にそれは、世界に誇れる財産でもあります。

日本は単一民族ではありません。
古代に生きた人々が、ある時は征服し、ある時は統合し、隠し切れなかった過去の物語を神話の中に見つけた時のワクワクする気持ち。

もし、物語の中に多少の創作が混じっていたとしても、そこには、それが生まれた背景という史実があり、それが長きに渡って受け継がれて来たという史実があり、それらを探る事によって、より真実の出来事に近づいていけるのではないでしょうか?

軍国主義とは関係のない所で、この宇宙から始まる壮大なドラマを、脈々と受け継いでいってもらいたいものです。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月15日 13時10分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 2000年に飛鳥昭雄氏が出版した『聖徳太子の予言書 未然紀が解き明
かす 真・日本史』という本があります。買って読んだ当時は余り記憶に残
らなかったのですが、今回再び読んでみますと、聖徳太子―中臣鎌足―藤原
不比等が線でつながっているということを改めて知らされました―

 「中臣鎌足も中大兄皇子も、聖徳太子を神同然に考えていたことは間違い
 ない。
  だからこそ、聖徳太子の偉業を後世に残す手筈を整えたのである。
  それは同時に、聖徳太子の仕掛けた"国仕掛け"を整えることでもあった。
  『古事記』『日本書紀』の編纂は、その結果において生まれてものであ
 り、裏で支えていたのが、中臣(藤原)鎌足の息子である藤原不比等だった。」

 「聖徳太子の長男である山背大兄皇子の墓が、未だに明確でないとは一体
 どういうことか? その最大の謎が"法隆寺"である。
  "法隆寺"は、聖徳太子が建立した寺で、山背大兄皇子を祀るのは当然と
 なるが、ここに山背大兄皇子が一切祀られていないのである。
    〜略〜
  一方、同じ聖人とされた中臣鎌足には霊廟が存在している。
    〜略〜
  しかし、両者が同一人物であれば、すべての謎が氷解するのである!」

 「そう、聖徳太子の子孫である上宮一族は、藤原氏となって、歴史の中で
 着実に生き延びていったのではないのか! もしそうなら、聖徳太子が天皇
 とならずに摂政を常としたように、朝廷最大の側近として藤原氏が補佐し
 た構造も理解できる。
    〜略〜
  中臣鎌足と山背大兄皇子が同一人物でありね聖徳太子の子孫は殺される
 ことなく、藤原氏となって栄え、現在も子孫が繁栄していることになるの
 だ。
  なぜなら、藤原鎌足の子孫は、絶えることなく繁栄すると神の約束事に
 あるからである。
  事実、秦氏の根城である京都の山背(山背)に、秦氏中核の「山背派」と
 いう秘密組織が存在したが、その地名は山背大兄皇子に由来している。
  実際、桓武天皇に「平安京遷都」を進言した和気清麻呂も、山背派のメ
 ンバーだったのである。
  そして、760年の道鏡事件で「宇佐八幡宮」を訪れ、神璽を通して
 八幡神から天啓を聞いたのも和気清麻呂だった。
  山背派には、聖徳太子の末裔がからんでいると見て間違いない。」

ということであります。

 聖徳太子と山背大兄皇子と中臣鎌足と藤原不比等……一番最後まで生きた
のは藤原不比等……本当の真実は?

 長上郡羽鳥には、蛭子森古墳があり、聖徳太子の三皇子を秦氏が連れて
来たということですが、この古墳(墓)と高槻市にある阿武山古墳―鎌足の
古墳(墓)とは、何か似ている感じがいたします。小形の古墳であります。
『中臣鎌足と阿武山古墳』を読みましたが、シンポジュームのレジュメの
ような内容で、大きな発見は今のところ見当りませんが、もう一度細かな
部分を精読・解読してみます。但し、鎌足の遺骸(ミイラ)のエックス線写
真はありました。ろっ骨を骨折しておりました……。

 聖徳太子はいたのかいなかったのかという問題もあります。また鎌足が
誰だったのか、不比等が誰だったのか、天智天皇が誰だったのか。天武天
皇が誰だったのか、持統天皇が誰だったのかという問題もあります。
 天皇もどこからが日本に実在した天皇だったのかという問題もあります。
 これらの一つ一つの謎に取り組んでいくわけにもいきませんので、とり
あえずは、飛鳥氏の推論は推論として、頭に入れておきたいと思います。

 次は、更に歴史の奥に隠された秘密についてです―
  
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月15日 21時17分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


ビックリです。

そうすると藤原氏とは聖徳太子の子孫?
だったら藤原氏が栄えた理由が分かりますね。



あ、肋骨は折れてても別にどうってことないのですよ。

    簡単に折れて簡単に治癒するから。

実はオットが2年前に転んで10本傷つけて、折れたのはそのうちの数本でしたが、
1か月で治ると聞きました。

内臓に突き刺さるような骨折でないということで何の手当ても無しで、ただ、安静にしていれば良いとのことでした。

    他の科の医者も同じ事を言いました。

    オットは1か月で折れたのを忘れたぐらいです。

ただし安静を1か月ちゃんとしてないと、また、1か月安静にしていないといけないという繰り返しになる、ということでした。

    オットは必要無かったです。


    肋骨は1本1本は折れ易いけれど全部繋がってますから
    腕や脚の骨が折れるのとは全く違う骨折なんですって。

              説明はウイキあたりで読んでください。


風習で死者の脚を折るとかが民族によって存在するとか聞いたことがあるので
鎌足のアバラの骨折は転倒によるものなのか、おまじないからなのか、そこは謎ですね。



非常に興味深い情報でした。
ありがとうございました。


余計に謎が深まりました。
にっこり
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月16日 11時38分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 聖徳太子が誰であったのか、あるいは概念的人物像(偶像)であったのかは
別問題として、また神道の物部氏を滅ぼしたが崇仏派の蘇我氏に子孫が滅ぼ
されるといった矛盾も別問題として、聖徳太子の側近として「秦氏」がいた。
秦氏と中臣氏の関係について言及したものはほとんどないのではないかと思
いますが、聖徳太子が残した予言集『未来記』と『未然紀』の中に実は記述
があったということ、そしてそれは歴史の表には出なかった。
 藤原不比等は記紀の編纂にあたって、自分の名前をことごとく抹消するよ
うにさせたという。その目論見がその後の歴史の中であばかれることもなく、ずっと生き続けたということになる。
 不比等は、いずれ後の世のどこかで「国仕掛けの謎解き」=真実が明かさ
れることを計算の上、だがとりあえずは正史に封印=蓋をすることにした。
勿論、これは不比等一人でできることではないので、バックアップした体制
というものがあったはずである―それが秦氏勢力ではなかろうか……。
 秦氏というと秦川勝一人のイメージが秦氏というものを代表してしまうが、
果たして何者達であったのか…古代の文明に寄与するには、@に「鉄器」、
Aに「馬」、Bに船、Cに「財」、Dに「神の力(宗教)」ではなかろうか。
秦氏はそれらをすべて携えていた、そして血筋は言うまでもない。
「鉄器」は武器であり、農具であり、工作具、であり、権力の強化と農林水
産物の増産に寄与。「馬・船」も権力の強化、農林水産物の増産、それと
物流・交易に寄与。そして蓄えられた「財」は全国への神社の敷設を可能に
する。「国仕掛け」とは、神社による宗教心・習慣・思想の統一だったので
はないか―私は、今こんな感じを抱いておりますが……。

 武光誠氏は『真説 日本古代史』の中で、飛鳥氏とは多少違った観点か
ら、秦氏と中臣氏、天智・天武天皇の関係を捉えています―
 「天智天皇がこの動き(大王に権力を集中し過ぎたことに対する豪族の反
感)の中で、中臣鎌足の養子にしていた"自分の皇子"に、王家を支える新た
な"貴族の家"を興させようと考えた。そのために天智天皇は、自分が即位し
た年の翌年(669年)に中臣鎌足が逝去したとき、"藤原氏"をつくらせたので
ある。
 この企ては、大きな成功をおさめた。藤原氏は明治維新直前まで第一位の
貴族として活躍した。天智天皇の没後、皇位は天武天皇の系統に移る。天武
天皇は、実は天智天皇の弟ではなく、王家の傍流の出身者であった可能性が
高い。
 天武天皇は、壬申の乱によって皇位を傍流である自家にもってきたが、奈
良時代の終りに、皇位は天武天皇系から天智天皇系に戻される。これは、上
級貴族の過半数を自家で占めるようになった藤原氏の策謀によってなされた
ものだといえる。
 今日の宮家のような皇族氏族をいくつか立てて、王家を支援させる形をと
ることもできたのではないかという疑問をもつ方もいるであろう。しかし、
古代にあっては王家(皇室)は"神々をまつる神聖な家"とされていた。
故に、大王や王族だけでなく皇親においても、自らの手を血で穢したり、
策略を用いてはならないと考えられていた。つまり、皇親氏族がいくつあっ
ても万一の時に役にはたたない。そこで、天智天皇は、自由な立場で動き、
汚い部分も引き受けて、王家を支える家として、藤原氏を必要とした。」
 「大化改新以後のあいつぐ朝廷の内紛が王家に危機感を持たせ、藤原氏を
生み出したのである。藤原不比等が"天智天皇の子"であることは、宮廷では
広く知られていたろう。しかし"藤原氏が皇親である"ということは王家の意
向に背くものとして禁忌とされたのだった。」
 「古代の山城国といえば、古代史家はまず秦氏を思い浮かべる。渡来人の
有力な集団である秦氏は、五世紀末に日本に移住してきて、当時未開発であ
った山城国から近江国南部にかけての広大な土地を開いて広がった。彼らは
強い経済力をもっていた。七世紀半ばに中大兄皇子(天智天皇)を操って、
大化改新を断行させ、都を自分たちの勢力圏である大津宮にもって来させた
のは秦氏であった。
 しかし、天智天皇と秦氏に対する不満から壬申の乱が起った。これは大伴
氏等の大和国に拠る旧勢力や秦氏と対立する渡来系の大豪族、東漢(やまとの
あや)氏によって起こされたものだ。
 そして、壬申の乱に敗れたことで秦氏は大きく後退した。乱のあと天武天
皇は、都を飛鳥の浄御原(きよみはら)に営んだ。そして、王都は藤原京を経
て平城京と、大和の国内にもうけられて行った。 
 秦氏のその時期の中央での活躍はほとんど見られない。彼らは、本拠地で
ある山城国、近江国南部に勢力を張ることに力を注いだ。〜略〜
 秦氏は、平城京の繁栄と、そこにおける天武系の天皇の全盛を不満の目で
眺めていたのだろう。大化改新を後援して以来、秦氏は天智系の皇族に近い
立場を保ち続けた。そのことによって、彼らは天智系の皇族を支える立場に
ある"藤原氏"との婚姻関係を持ち、機会があれば藤原氏と結んで日の当たる
場所に出ようともくろんでいた。」
 「天武系の天皇の時代は、宝亀元年(770)の称徳天皇の崩御によって終った
といえる。その年に天智系の光仁天皇が立ったことが、秦氏に勢力挽回の機
会をもたらすことになった。」

ということであります。秦氏グループの暗躍というものが大きく何を目指し
ていたのか、そして服部氏はこの流れのどこに位置するのか……ハ・ト・リ
の意味するところとは……?

 次は、大杉博氏の『天皇家の大秘密政策』を取り上げたいと思います―
 
[35]ときおさんからのコメント(2016年02月16日 13時50分35秒 ) パスワード

三柏様
あを様
途中入りお許しください。
部分しか理解していないですが興味ある部分についてですが。

古代吉備の国内には今でも「藤原」を称する人々が多く存在をしています。
鎌足を遠祖とする一族ではありませんね。吉備の国の藤原氏の方が古いです
ね。ですから、鎌足系は古代氏族の名跡でも継いだのでしょうかね?。ある
いは、同族だったのでしょうかね?。

以下のHPには少し辛辣ですが、妥当な線をいっていると思います。

出雲との関わりが深い吉備の国ですしね。出雲をいじめて居たり、国譲りを
中心で率先して推し進めたのが吉備の国の一派とも言われていますからね。

http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index6.htm
l 
秦氏と藤原氏
もくじ
1.猟奇的な犯罪者だった藤原鎌足と中大兄皇子
2.テロリスト集団だった藤原氏
3.秦氏と藤原氏の戦い
4.秦氏と聖徳太子(聖徳太子は蘇我氏(秦氏:新羅系)だった)
(蘇我善徳という人物は、蘇我入鹿であり、聖徳太子でもある)
K国ドラマに「全徳女王」と言うのがありますね。個人的ですが
この女優さんは倭人の遺伝子系かなとも思われます。日本人好みの
・・・私好みかな?。

インチキが得意な役人・藤原氏系 等の手厳しい辛辣なご意見も載せていま
すね。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月16日 14時37分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


やっぱり、またまたワケが分からなくなって来ました。




ときおさん

     ダメでした。 The webpage cannot be found. が出ました。



また考え直してみます。
[37]ときおさんからのコメント(2016年02月16日 15時44分40秒 ) パスワード

あを様へ
「秦氏と藤原氏」で検索すると下記が出てきます。
時々、URLにつながらない貼り付けになることがあります。すみませんでした。


秦氏と藤原氏
日本の歴史−秦氏と藤原氏 - Ne
猟奇的な犯罪者だった藤原鎌足と中大兄皇子. 残虐非道な藤原氏の政治手法. 藤原氏のルーツは、あの大化の改新で登場した藤原鎌足である。 藤原鎌足は百済出身で豊璋(百済王子)だが、百済から豊璋を呼び寄せた家臣の鬼室福信を勝手に謀反の疑いを ...
www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index6.html  
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月16日 20時54分35秒 ) パスワード

ときおさん


ありがとうございました。


http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=www.ne.jp%2Fasahi%2Fdavinci%2Fcode%2Fhistory%2Fjapan%2Findex6.html+%E3%80%80

いろいろ出てますね。


http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/
日本の歴史

まず、ここから読まないとですね。

http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index1.html
応神天皇と秦氏も面白そうです。


ゆっくり初めから読まなくては。
ありがとうございました。
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月16日 23時58分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ときお様

 正しい歴史書がほしいと思うのは私だけではないと思います。誰もが程度
の差はあれそう思っているはずです。でも天皇家がからむので畏れ多い……。
 その日本史のタブーに挑んだ方がおられます。山下重良氏であります。記
紀の呪縛を取り除き、『古代日本原紀』という古代史の本を書いておられま
す。WEBでも見られます。一度読んでみて下さい―
 http://www.syamashiya.net/history/kodaishi/damasareta.html

 古代の真実は一筋縄にはいきません。いろいろな説があります。鎌足にし
ても百済のナンバー2の智積だったという説、新羅の金庾信であったという
説、また唐の郭務悰であったという説、……etc.どれを信じていいやらほと
ほとまいってしまいます。誰の言うことを信じていいの?であります。
 従って、各種の説を比較し検証した結果、私はこの人のいう事を信じます
と言い切るしか今の所方法はありません。もっとも100パーセント正しい
情報というのはあり得ないので、常により正しい方向へ修正して行く必要が
あるのではないかと考えます。

 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月17日 03時12分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


http://www.syamashita.net/history/kodaishi/damasareta.html

古事記・日本書紀に騙された日本の古代史


    記紀の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている。
    高天原とはどこだったかの詮索は無意味であって、これは全くのお伽話だった。

    強いて云えば八世紀の飛鳥朝廷における持統女帝を天孫と見立てた百済王族の居た宮殿とみることができる。


あっちゃ〜




古代史は余りにも昔なので「お話」ということで楽しんでいます。
    ま、そんなとこか、で妥協して、
    で事実はどのあたりなのかな、と自分なりに想像するのが楽しいです。
 
    いろいろ読めば読むほど振り回されてワケ分からなくなりますが
    そこは「ロマン」ということで都合良く妥協しています。


古代の日本にはいろいろな民族がいたのかも知れない
で、淘汰されて、いくつか残って
さらに内部抗争と粛清があって
現在に至るんだろうな、と。


とにかくたくさん読まないといけませんね。
そして「ああ、そういう解釈もあるのか」と視野を広げ。
     ワタクシはこの右往左往右顧左眄の段階で

ネットであれこれ見つけてたくさん読んで結局ワケ分からず振り出しに戻ります。
でもそういうのが楽しいです。
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月17日 16時48分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 記紀の編集目的―
  レベル1 私利私欲のため、都合のいいように改竄した。
  レベル2 勝者の立場で、都合のいいように改竄した。
  レベル3 唐に対して、自国の都合の悪いところを改竄・隠蔽した。
  レベル4 唐と対等であることを示すため、日本独自の歴史を改竄・隠
       蔽した(ある意味、独立宣言)。
  レベル5 古代ヘブライの民であること、日本での発祥地、そして契約
       の箱があることを完全封印すべく、歴史改竄を行った。

 このレベル5の編集目的について、ただ一人述べているのが、大杉博氏で
あります。1995年に『天皇家の大秘密政策』、2000年に『古代ユダ
ヤと日本建国の秘密』を出版している。この2冊は内容的にはほぼ一緒なの
で、新しい方を基にしてその内容を抽出してみますと―
  @記紀神話の本当の舞台は、四国の「阿波」だった。
  A四国・剣山に世界の秘宝アークが隠されている。
  B記紀と風土記は、日本(大和)の発祥地をカムフラージュした。
  C『延喜式』『万葉集』『釈日本紀』は、記紀神話の偽装工作書。
  D空海が四国八十八ヶ所を開設したのは、本来の大和朝廷の発祥地へ
   他国の者を入らせないようにするためだった。
ということであります。
 せんじつめますと―
 「大和朝廷が、これほどまでして"大秘密政策"を貫いたのは、世界の秘宝
 アークが日本に隠されていることが唐の皇帝に知れると、皇帝の命令で唐
 の軍隊がどっと押し寄せてきて、日本民族が滅びる恐れがあったからであ
 った。」
 では、いったい誰がこの極秘政策を考え実行したのであろうか。この本の
中には、残念ながら中臣鎌足・藤原不比等は出てこない。出て来るのは、
天皇家である。六百七拾九年に、"吉野宮の会盟"というものを天武天皇は行
った。出席者は―
  @天武天皇
  A皇后
  B草壁皇子
  C大津皇子
  D高市皇子 
  E河嶋皇子
  F忍壁皇子
  G芝基皇子
の八人である。
 そこで決め、さらに実行に移した内容は―
  @皇族たちが、大和朝廷の発祥地が四国にあることを、絶対に言わない
   ように誓約した。そしてもしこの誓約を破った場合には命がなくなる
   ということも申し合わせた。
  A次に、大和朝廷の発祥地が四国にあることを隠すためカムフラージュ
   を施した記紀を編纂した。
  B『記紀』の記述をより一層信用させるため、各国々に『風土記』を編
   纂させ、その中に『記紀』の記述を裏付けるような記事を挿入させた。
  C全国各地に、カムフラージュ用の神社を創建した。
  Dカムフラージュ用の山(名前)までも作った。
  E朝廷の発祥地(阿波等)へ、他国者を入らせない方法を考案した。
  F『万葉集』を編纂し、歌の上でも朝廷の発祥地を隠した
  Gカムフラージュ用に『延喜式』を編纂した。 
  Hカムフラージュ済みの『記紀』の記述が質問攻めにあったので、模範
   解答マニュアルの『釈日本紀』を編纂した。

 その後、大津皇子、長屋王、和気王、伊予親王が自害等に追い込まれてい
る。これは、吉野宮の会盟の誓いを破った・抵触したからであろうと著者は
推測しています。

 中臣鎌足・藤原不比等は、黒子または実施責任者となり、プロジェクトを
忠実に実行したということでありましょうか。大義がすべてに優先したとい
うことでありましょうか。悪役になったけれど、いい思いもした、いい思い
をするために悪役になった、どちらだろう。不比等に会って訊いてみたい―
 
   
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月18日 02時41分35秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%81%AE%E7%AE%B1


契約の箱

(けいやくのはこ、ヘブライ語: ארון הברית‎ aron habrit、英: Ark of the Covenant)

『旧約聖書』に記されている、十戒が刻まれた石板を収めた箱のことである。証の箱(あかしのはこ)、掟の箱(おきてのはこ)、聖櫃(せいひつ)、約櫃(やくひつ)[1]とも呼ばれる。ただしユダヤ教・キリスト教において、「聖櫃」は「契約の箱」より広義のものをも含む語彙である。

        聖櫃(せいひつ)とは、キリスト教・ユダヤ教において使われる、特別な箱を指す言葉。

        ユダヤ教においては、
        聖櫃(せいひつ, אֲרוֹן קֹדשׁ ărōn (haq)qōdheš アローン・(ハッ)コーデーシュ, Holy Ark, Ark of the Law)とは、
        エルサレム神殿にあった品物に由来する言葉。冠詞ハーが付くと、エルサレム時代の唯一つの箱(契約の箱)のことである。




神の指示を受けたモーセが選んだベツァルエルが、神の指示どおりの材料、サイズ、デザインで箱を作成し、エジプト脱出から1年後にはすでに完成していた[2]。

アカシアの木で作られた箱は長さ130cm、幅と高さがそれぞれ80cm、装飾が施され地面に直接触れないよう、箱の下部四隅に脚が付けられている。持ち運びの際、箱に手を触れないよう二本の棒が取り付けられ、これら全てが純金で覆われている。そして箱の上部には、金の打物造りによる智天使(cherubim ケルブ)二体が乗せられた[3]。

モーセの時代に、この中へマナを納めた金の壺、アロンの杖、十戒を記した石板が収納される[4]。しかし、ソロモン王の時代には、十戒を記した石版以外には何も入っていなかったと伝えられている[5]。

荒野をさまよっていた時代には祭司たちが担いで移動させていたが、ヨシュアの時代以降は、主にシロの幕屋の至聖所に安置される。サムエル(紀元前11世紀の人物)を養育した大祭司エリの時代には、ペリシテ人によって奪われるが、ペリシテ人を災厄が襲ったため、彼らはこの箱をイスラエル人に送り返す[6]。また、ソロモン王(紀元前925年没)の時代以降は、エルサレム神殿の至聖所に安置される。

ソロモン王の死後、統一イスラエル王国は、紀元前930年頃に分裂した。南のユダ王国は、ユダ族とベニヤミン族から構成されており、北のイスラエル王国は、それ以外の十部族からなっていた。しかし、アッシリア帝国が勃興すると、紀元前722年に、北のイスラエル王国は滅ぼされてしまった。その後、ユダ王国は、アッシリアに服属する形で存続していたが、紀元前609年にはエジプトの支配下に入り、 紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちは首都バビロニアへ連行されること(バビロン捕囚)になった。

レビ族は、ヤコブの子レビを祖とするイスラエルの部族(氏族)の一つである。レビはヤコブの12人の子供の1人であるが、祭司の一族として特別な役割を与えられ、継承する土地を持たなかったため、レビ族はイスラエルの十二支族には数えない[7]。レビ人は、全国に居住の町を与えられて、そこに住んだ。そして、レビ人は、祭司の奉仕の報酬として奉納物の十分の一が給付された。古代イスラエル王国が誕生すると、神殿が建設されて、レビ人の神殿礼拝は政治と結びつくようになる。その後、イスラエル王国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してからも、レビ人はダビデ家に忠誠を尽くしていた。北イスラエルに序住していたレビ族は、南ユダに移住し、南ユダ滅亡まで続いた。契約の箱の下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、レビ族が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てた。しかも、かつぐための2本の棒は、絶対に抜いてはならなかったように、棒を差し込んだまま保管されていた[8]。

『聖書』ではヨシヤ王(紀元前609年没)の時代に関する『歴代誌下』 35章3節の契約の箱の記述を最後に、比喩的に用いられる以外に直接言及される部分はなく、失われた経緯についても不明である。このことから、失われた聖櫃(The Lost Ark)と呼ばれることもある。

現在、聖櫃(契約の箱)を保持しているとして、これを崇敬しているのは、エチオピア(エチオピア正教会)だけである。

脚注[編集]

1.^ 主神我が救世主イイススハリストスの神現祭 - 正教会の祈祷書。「イイススナワィンの記の讀。(三章)」の部分。「イイススナワィンの記(三章)」はヨシュア記(3章)のこと。(日本語)
2.^ 『出エジプト記』 40:2-3
3.^ 『出エジプト記』 25章
4.^ 『ヘブライ人への手紙』 9:4, 『出エジプト記』 40:20, 16:33-34, 『民数記』 17:10, 『申命記』 10:2
5.^ 『歴代誌下』 5:10
6.^ 『サムエル記上』 6章
7.^ 中川健一 (2003). 日本人に贈る聖書ものがたり族長たちの巻. 文芸社. pp. p.612. ISBN 9784835558516.
8.^ http://hexagon.inri.client.jp/floorA3F_hb/a3fhb010.html
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月18日 03時40分37秒 ) パスワード

>レベル5 古代ヘブライの民であること、日本での発祥地、そして契約の箱があることを完全封印すべく、歴史改竄を行った。





恐らく  THE聖櫃   と   one of 聖櫃s  の混同ではないかと思います。



    ・THE聖櫃とはモーゼの10戒の板やアーロンの杖などを入れた箱で唯一無二。
              エチオピアにもあるって言ってる?
              ということはモーゼの聖櫃は世界中に沢山存在してた?


    ・剣山にあると言われている聖櫃とは、世界中のシナゴーグ(ユダヤ教会)なら必ずあるはずのトラ―(ユダヤ教の経典)を納めた箱のことではないのか。


この2つが混同されて語られているんじゃないかと思います。



確かに日本にもイスラエルの民やユダヤ人が来ていたでしょう
そして彼等のお寺にはトラ―を入れた入れ物が必ず安置されていたことでしょう
その箱にはトラ―が入っているからありがたいんだから聖櫃としてユダヤ人の宝物として扱われていたでしょう



こういうハナシがいつのまにか
日本に来たユダヤ人(イスラエル人)が特別なユダヤ人(消えたイスラエルの民)にすり替わって
トラ―を入れた箱がモーゼの10戒を刻んだ板を入れた聖なる箱に化けたんじゃないのかな?



本当に剣山の聖櫃が  本物のTHE聖櫃だったなら  ワタクシの周りにいたユダヤ人の1人ぐらいはその話をしてくれたのではないか
と思います。


日本人はユダヤ人を好きだけど
日本人の女性でユダヤ人と結婚した人でも結構離婚してるし
    離婚してなかった知り合いを敢えて言うと
    うちのロスの家の近所のパリセイズに住んでた(今でも住んでる?)  作家の  米谷ふみ子さんだけは離婚してないかも

          昔、作家の某氏が「米谷ふみ子の寝込みを襲いに行こう」なんて言って
          (やだ、あのおばさん、怖いから)断ったことを懐かしく思い出しました。



最近杉原千畝のビザの件で日本人は改めてユダヤ人を好きになってるようですが
ま、ワタシが知ってるユダヤ人はロス近辺限定の数百人だからか
モーゼの聖櫃が日本にあるなんて誰1人として言ってなかったですよ。


    ユダヤ教会は必至でモーゼの聖櫃を捜していると思うけど
    見つかったとか日本にあるとか
    そういうハナシは聞いたことが無いような記憶です。

    THE聖櫃が日本にあったのならなんでワタシが知らないんだろう?
    それが1番の謎です。

            ノアの箱舟がトルコのアララット山で見つかったとかの話は聞いたけど
            でも聖櫃のことはエチオピアのとインディ・ジョーンズ博士が見つけたアメリカのしか知らないような



可能性としてユダヤ人が日本に来て
「日本の神輿はモーゼの聖櫃に似てるね」「あれは大切な物を入れるありがたい箱だよね」と言った、
というハナシなら納得します。


ワタクシ的には剣山のハナシは  THE聖櫃  じゃなくて one of them だと思うのですが。
だから剣山だけじゃなくて日本の他の所でも聖櫃があったと思います。



ユダヤ人に会ったらちょっと訊いてみますね。  
剣山のハナシが本物だったらユダヤ人は聞いてると思うから。
聖櫃はユダヤ人にとっては心の拠り所ですから。
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月18日 09時09分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 失われたアーク・ソロモンの秘法等に関する本も十冊前後読んでおります
が、確たるものはないのが現状です。
 四国の阿波にあるというもの、京都のある六芒星の線引き中にあるという
もの、伊勢神宮の内宮にあるというもの、その主張はおよそこの三カ所にし
ぼられてはいます。
 これは最大級の謎ですので、わかってしまったら大変なことになります。
今年の五月に、伊勢志摩サミットが行なわれるというのは、何か裏の世界で
の「匂い」がいたしますがどうでしょうか?
 いずれにしても、「秦氏」の果たしてきた役割は大変大きいものであり、
不比等、記紀についても一度は乗り越えなければならない関門であります。
 基本的な知識を頭に入れた上で、「服部氏」の謎に挑みたいと思います―

 本日はこれから書(崩し字)の会へ行きます―
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月18日 22時57分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


>今年の五月に、伊勢志摩サミットが行なわれるというのは、何か裏の世界での「匂い」がいたしますがどうでしょうか?

裏の理由は何でしょうね?真珠?

    でも、さるユダヤ系の富豪によると、養殖真珠?(本物を知らないの?バッカじゃないの!)でした。
    「養殖なんか巻きが甘いし、真珠だって天然物でなきゃ」と言ってました。

    日本人にとっての埃・・・じゃなかった誇り・・・はコテンパテンに叩きのめされました。
    ま、今は「養殖もの」というのがどういうものか真珠だけでなくて「鮭」でもヒシヒシと迫ります。

    やっぱり人工は限界がある、と。


    ということで「迎賓館」にしろ「真珠」にしろ、パクリあたりは恥ずかしいです。



表の理由は警備上では?と思います。


東京で何度も(3回?)開催されて、それが迎賓館で、あれはベルサイユ宮殿のパクリでしょ?恥ずかしいですよ。
それよりも日本的な建物の方が良いのにと思います。


他にも沖縄や九州、そして北海道の洞爺湖で開かれましたよね、今回は三重県の賢島?

「自然豊かな所」が1番です。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月19日 10時00分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 中臣鎌足については今後も時間をかけて探究して行きたいと考えており
ます。聖徳太子・天智・天武・持統・不比等・人麻呂・空海、そして秦氏
……何やらつながっていそうです。キーワードは「皇統」ということでし
ょうか……。
 この謎を解いていくためにはそうとうな情報量が必要。とりわけ正確な
出自の情報が必要。古墳も偽装の場合もあるらしいので、本当にこの時代
の解明は、ややこしく難しい。
 ま、いずれにしても時間をかけて調べていくしか方法はありません。

 秦氏を知りたいという思いは、実は服部氏を知りたい思いからでありま
す。秦氏が賀茂氏とも藤原氏(中臣氏)とも姻戚関係を結び同族化して行き、
そして表から消え、裏に潜っ低て行く。それは神国日本の完成か、天皇家
と全国の神道組織を、ある意味伊勢神宮を中心にしてつなげたということ。
 武家の起こりまでは計算には入れてなかったと思はれます……。

 秦氏は殖産興業の民という色合いが濃いですが、賀茂氏や藤原氏(中臣
氏)も取り込むといったような神道の運営主体でもある。

 服部氏については、秦氏と同族だという説(つまり、秦氏の中の機織部が
服部氏になったという説)、それと、出自からいって別族だという説(新撰
姓氏録の出自記載による)がある。呉服織。漢服織というのも、ことをやや
こしくしています。
 いずれにしても、「織物」に特化された氏族のようではあります―

 服部の秘密は「ハ・ト・リ」に集約されると考えます。今後は、そこに
的を絞りたいと思います―

 とりあえず、一旦ここで切ります―
 
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月19日 12時24分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部もいろいろですからね
ひょっとすると全く別な服部さんに入れ揚げてるかも知れないし。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9C%8D%E9%83%A8

A)古代の服部伴造の子孫が主流である。
B)古代の職業から
C)ほかに源・平・藤・橘などの様々な流派
D)地名
E)その他   神社の氏子?


著名な氏は現京都府である山城国、現奈良県である大和国、現大阪府、兵庫県である摂津国、現三重県である伊賀国、伊勢国、現愛知県である三河国、現在の東京、埼玉、神奈川の一部である武蔵国などにみられる。


語源は、古代の機織職業部から起こり、地名にも存在する。服部の居住地が多く、衣類を織る職業姓に属す。


現在も愛知県、岐阜県、三重県に多くみられる。家紋は矢筈車、菊など。

                                      *これは伊賀系の平姓服部氏の事だろうな、ですね。



やっぱり本家に当たらないと、どの筋なのか見えて来ないでしょうね。
本家の更なる総本家を突き止めないことには。



三重県の秦氏系の服部さんの家紋はここに書けないのが残念ですが全く想像出来ない家紋です。
三つ柏さんの家紋とも異なります。



高槻の神服神社系なら簡単なんですが。

服部村にあり。『延喜式』に出づ。此所の生土神(うぢがみ)とす。
例祭四月八日。『姓氏録』に云ふ服部連は速日命十二世麻羅宿禰の後なり。
允恭帝の御時織部司に任じ、諸国織部を惣領す。

神服神社は、927年に編纂された『延喜式』に記載されている律令時代の神社で、ヒノハヤヒノミコト、マラノスクネ、スサノオノミコトが祀られています。この地は、奈良時代、摂津国島上郡服部郷にあたり、服部連(はっとりのむらじ)の本拠地であったとされています。

第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります。

さて神社の名前ですが、服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。明治時代には、宮之川原の春日神社や稲荷神社、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀し、現在に至っています。塚脇の上宮神社は、かつて連塚(むらじづか)とよばれる古墳の上にあって、祭神が服部連となっていることから、この塚は同連の墳墓であろうという伝承として息づいています。




どなたか三つ柏さんのご先祖さまをご存知のご親戚の方が必ずいらっしゃるはずなんですが。
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月20日 13時06分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『新撰姓氏録』は、桓武天皇の命により取り掛かり、嵯峨天皇八百十六年
に出来上がったものであります。原本は目録を合わせ三十一巻、五畿内一千
一百八十二氏の出自系が載っているそうです。しかしながら、現在残ってい
るのは写本で、それも抄略本であるということであります。
 新撰姓氏録が正しいか正しくないかは、当然何らかの恣意的なものも入っ
ていると思われます。それは個々の氏族の願望であったり、誤謬であったり、
朝廷の恣意的なものであったり、また誤謬であったりしている部分が必ずや
あるはずであります。
 しかしながら、その間違いを正すという能力も知識も時間もありませんの
で、一応『新撰姓氏録』はスタンダードであるということにして進みたいと
思います。

 服部連以前の服部氏の出自について考察をしておりましたが、理路整然と
文章がまとまらない。何から始めてどうまとめようというストーリーがまと
まらない。それでも素材だけはある程度集めたので、見切り発車で進めて行
きたいと思います。

 「服部(ハットリ)」の前の読み方は―「ハトリ」だと推察いたします―

 初期には、「服」だけで「ハトリ」と読みました。
 また、「織」だけでも「ハトリ」と読みました。
 さらに「羽鳥」「羽取」「服織」「波登理」「波止利」と表記されるもの
もあります。
 後に「部」がついて、「服部(ハトリべ)」となった。つまり「服織(機織
ハタオリ)を職とする品部」という職業職種の名前・意味である。
 漢字が先かヨミ(音)が先かといえば、ヨミ(音)がまずあった。古代語で
あり、その当時としてはヘブライ系の口語であったのだと推察されます。

 「ハトリ」がもともとどういう意味をあらわすのか、その根源を探ってみ
たいと思います―
 秦(ハタ)氏ともからみますが、ややこしくなるので秦氏にはとりあえずは
触れないでおきます。
 ハトリの「ハ」は「八(ハチ)のハ」でもあります。
 また、「ハ」は「ヤ」とも通じます。同じく「ハー」と「ヤー」も同じこ
とが言えます。
 さて、「ハ」の世界は、古代の中心的言葉であります。特に「八(ハチ)」
は古代天皇家を中心とした世界を表す言葉として頻繁に出て来ます。これ
だけで一冊の研究本が出ております―書名は『古代天皇家「八」の暗号』
(畑アカラ著)であります。この本の内容については、必要に応じて今後引用
させていただきます。

 この「ハ」に関してですが、やはりハトリは絹織物の生産と加工―即ち
養蚕から製糸、織布、裁縫までに関わると思われますので、この「絹織物」
というキーワードにしぽって論じたいと思います。

 昨日来、「ハ」について色々調べました。ランダムに記載いたします―
 @ビックリしたのは、蚕(カイコ)の足は「八対」であるということであり
  ました。何という偶然にも―「八」です……具体的には胸脚が三対、腹
  脚が四対、尾脚が一対、合計八対でありました。その成長過程も八段階
  に分けて考えられますので、八に見事に関係した虫(神の虫)であります。
 
 一旦、ここで切ります―
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月21日 01時32分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 引き続き、ハトリの「ハ」・「ハト」・「ハトリ」について―

 A天照大神が高天原で神御衣(かんみそ)を織っておられたと記紀では伝
 えていますが、その頃の機織りは神と一体の高貴で門外不出的なものだ
 ったと推察されます。特に絹はそうであったのではないかと思います。
  神御衣祭は、春と夏に天照大神に衣服をお供えする祭りであります。
 『儀式帳』『延喜式』などによると、神御衣祭とは、大神宮司・禰宜・
 宇治内人(うちんど)らが神服織職女(かんはとりしょくじょ)八人、神麻
 続織女八人を率いて、服部(はとり)・麻続(おみ)の織女の織れる和妙衣
 (にぎたえのみそ)・荒妙衣(あらたえのみそ)などを共進する祭儀であっ
 たそうです。ここに「八」の「ハ」が二重に出てまいります。機織りの
 服部族は、いはば祭祀の中心に近いところに位置していたということを
 物語っているような気がいたします。

 B伊勢神宮の外宮の豊受大神の出自は、天降りした「八天女」の中の一
 人とされるということです。外宮は月神で、「羽衣」とつながります。
 ハトリのハは「羽」のことを指すようでもあります。

 C天皇が「天の羽衣」を着ることは、天上に昇る力を身につけることを
 意味するということです。
  ここまで来ると、ハトリは祭祀・呪術に関係してくる気配がいたしま
 す。

 D天皇の玉座の高御座(たかみくら)は、八角形で、しかも屋根にあたる
 部分の八つの角には、鳳凰のような鳥(とり)が備え付けられています。
 これは、正に「ハトリ(八鳥、羽鳥)」であります。

 ここで、一旦切ります―
 

 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月21日 07時09分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


本日、2月20日、土曜日、日本史の謎と闇の本を頂きました。
目次で既に興奮しています。

さすが日本の寺社!
第一印象は、大昔から敗者の魂も鎮魂するんだ、と!
コワイから、だと思いますが。


本当に面白そうな本です。
ありがとうございます。


思ってもいなかった意外なお話も載っているようでワクワクしています。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月21日 10時11分42秒 ) パスワード

今、午後の配達(大きい郵便物用の配達)を見に行ったらユダヤ人渡来伝説の本が入ってました!
ありがとうございました。


ずっしり重くて驚きました。
文字も大きくて、読み易そうです。


ありがとうございます。
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月22日 01時02分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 第二東名の引佐〜豊田間が先週開通しました。来週には名古屋へ行きます
ので通ります。本日は、下道を通って設楽・長篠方面へ行ってきました。歴
史の探索という程のものではなく、豊橋で老舗の田楽屋で昼食を取り、そし
て151号線を北上して新城の「道の駅」へ、そしてついでに長篠城跡史跡
保存館へ寄ったという次第であります。目的は、近くの野田城の歴代の城主
についての資料はないかということでありましたが、資料はありませんでし
た。本来なら新城の図書館へ行くべきところでありました。ま、次回、第二
東名で行こうと思っています。

 さて、ハトリ(ハットリ)についての続きです―

 E鳩(ハト)は何故ハトと呼ばれるのでしょうか。鳩を分解すると「九」の
 「鳥」。9とは「神」を表し、神の国と地上をつなぐ鳥が鳩ということに
 なるのではないでしょうか。ご存じノアの方舟でも、放たれた鳩がオリー
 ブの枝を加えて来たという神話の世界があります。

 F服部連の祖は二系統ありました。大和の服部連が「天御中主」、摂津・
 河内の服部連が「熯之速日命」。天御中主は旧約聖書の「ヨブ」に比定さ
 れるといいます。「ヨブ記」を書いたのはモーゼと言われているようです。
 ということは、ハットリはヨブを祖とするということになります。紀元前
 何千年の話になりますでしょうか。相当古くにルーツがあるということに
 なります。

 Gハトリ・ハットリという音の響きから、類推されるのが、現トルコのア
 ナトリア地方にある、ハットゥシャシュ(ハッティ國首都)、ハッチ=ハッ
 ティ=ハッタイトそしてその後のヒッタイトであります。

 Hモーゼがエジプトにいたということで、エジプトは太陽神ラーを崇拝し
 ていました。そのラーは「ホルス」でもあります。
  ホルスとハトホル夫婦の物語は七夕神話の原型に近いといわれています。
  デンデラのハトホル神殿にはサナトリウムがあったそうです。
  伯家神道の祝之神事は、この古代エジプトのハトフル神殿の儀式に由来
 しているようです。

 ここで切ります―
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月22日 03時28分34秒 ) パスワード

ヨブには子供が10人いて(男子7人、女子3人だったかな)
140歳まで生きた

という言い伝えがあって(140歳まで生きた、という言い伝えが日本の神話に似ているなと思います。2倍暦、と言いましたっけ?)


でもユダヤ教のタルムードではヨブは実在じゃなくて
お話としては紀元前2000年ころの人、という設定だそうです。



      でもやっぱり理解できないです。




引っ張って来ました:
http://www.logos-ministries.org/old_b/job1-2.html

 ヨブ記1章を開いてください、今日から聖書通読の中で新しい部分に入ります。今日はヨブ記1章と2章を学びますがここでのテーマは、「神が与える苦しみ」です。私たちがこれまで旧約聖書を学んできたのは歴史に関することでした。創世記から始まり、その各時代に何が起こってきたか物語風に描いている部分です。前回まで学んだエステル記は、バビロン捕囚以後のペルシヤで起こった出来事を描いていました。

 そして私たちがこれから学ぶ箇所は「詩歌」と呼ばれています。つまり詩や歌、また譬えなどの文体で書かれているところです。ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌です。その後は預言書になりますが、旧約聖書はこの三つの部分、つまり物語と詩歌と預言書に分類できます。そして詩歌の部分についてですが、その順番はだいたい古いものから順番に並べられています。ヨブ記が一番古く、その次にダビデなどが書いた詩篇、次はその子ソロモンが書いた箴言、同じくソロモンが書いた伝道者の書と雅歌です。

 ヨブ記が書かれたのは、実は創世記よりも古いと言われています。創世記から申命記までのモーセ五書は、モーセが著者であり紀元前1,400年当たりのことです。けれどもヨブ記は、アブラハムやイサク、ヤコブが生きていたときの族長時代のときではないかと考えられています。(だから、ヨブ記が聖書の中で最初に書かれた書物だと言うことができます。)創世記10章を開いてみてください。そこにノアの子孫の系図、というか民族図がありますが、セムの子孫の一人に「ヨバブ」という名が出てきます。10章の29節です。この人物がヨブと同一ではないかと言われています。するとヨブはアブラハムと同時代、紀元前二千年頃に生きていた人ではないかと言われています。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月22日 03時37分23秒 ) パスワード

出るかな?





[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月22日 03時39分23秒 ) パスワード

続き

[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月22日 03時41分22秒 ) パスワード

されてさて


[57]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月22日 03時44分06秒 ) パスワード

やっとモーゼ



右記より  http://www.chojin.com/keizu/kaisetsu.htm
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月22日 04時16分31秒 ) パスワード

2005年〜2006年あたりのバブルの頃に岡山の小林先生が  ガドとかダンとかが日本に来て  どーたらとご指導くださったものです。



gen10:1 これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。

          gen10:2 (白人の先祖)ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。

                  gen10:3 ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。

                  gen10:4 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。

                  gen10:5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。



gen10:6 ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。

                  gen10:7 クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。

                              gen10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。

                              gen10:9★彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。《と言われるようになった。

                              gen10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

                              gen10:11 その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、

                              gen10:12 およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。

          gen10:13 ミツライムはルデ人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、

          gen10:14 パテロス人、カスルヒム人――これからペリシテ人が出た――、カフトル人を生んだ。

          gen10:15 カナンは長子シドン、ヘテ、

          gen10:16 エブス人、エモリ人、ギルガシ人、

          gen10:17 ヒビ人、アルキ人、シニ人、

          gen10:18 アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。

                        gen10:19 それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かってレシャにまで及んだ。

                        gen10:20 以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、その国により示したハムの子孫である。




ここからが重要ですね

gen10:21 セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。

gen10:22 セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。

          gen10:23 アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。

          gen10:24 アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。

                       gen10:25★エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの吊はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の吊はヨクタンであった。

                       gen10:26 ヨクタンは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ、

                       gen10:27 ハドラム、ウザル、ディクラ、

                       gen10:28 オバル、アビマエル、シェバ、



           
↓         ↓         ↓ ヨブのもとになったいう「ヨバブ」はここですね                  
gen10:29 オフィル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみな、ヨクタンの子孫であった。

             gen10:30 彼らの定住地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯であった。

             gen10:31 以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。



gen10:32 以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。


*************************************************


ということで  ヨブはノアの子孫であり  ノアの長男のセムの系統。


つまり一応、日本人がノアの子孫という話は系図的には合いますね。



それにノアが葡萄酒を作って酔っぱらって裸になって、この大失態がハムに嫌われて
という話は草なぎ剛に通ずるものがあって最近では清原和博に似てて

日本人のこういうハナシに寛大なところがセムやヤペテの受け取り方に通ずるかなと
ああ、やっぱり日本人はノアの子セムの子孫なのか、と納得。


     清原さんはとっても良い人でしたよ
     まだ清原さんがプロになって間もなくのことですが
     良い思い出があります。

        ワタシもご先祖さまに習ってセムやヤペテにならなくては。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月22日 04時47分39秒 ) パスワード

重くなって来ました。
   って、重くしたのはワタクシですが。汗


ということで
長上郡の服部氏族LⅫ(2016年の課題確認5)スレッド62をご用意致しました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101515.html
[61]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月22日 09時18分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨夜来、お腹で苦労しています。消化の悪い物を、食べ過ぎた感があり
ます。やはり控えめな食事を心掛けなさいということでありましょうか。

 旧約の話、さすがあを様であります。今回、知識を強化することができ
そうです。
 二千年前、三千年前の世界は、今の世界と全然違っていたと思いますの
で、今の世界の常識をリセットしなければなりませんね。たぶん、気候等
の大きな変動周期もありますが、文明が発達したということは豊かな環境
であった。但し、ノアの方舟に表されている大変動は、いろいろな説があ
りますが、紀元前一万年前後にあったんでしょうね。海進・海退もあり、
天災もあったでしょう。ノアの方舟だけでも、すごいテーマとなりますね。


 もうしばらくは、「ハトリ・ハットリ」の謎を追及したいと思います―
 新しいスレッドへ移行します―

 一つ忘れていました。昨日珍しい物を見ました。それは、「木曽馬」だ
と思います。豊川の一の宮、砥鹿神社の近くの民家で買われていました。
背高は低くて、シマ馬位でしょうか。たぶん、砥鹿神社の行事に必要とさ
れているのだと思います。
 砥鹿神社というと、いろいろ謎めいています。本宮山を登って峠を越え、
作手村方面にも足を延ばして、できれば猿投のほうまで一度行きたいと思っ
ています。
 更に、帰り道で都田のパン屋さんに寄りましたが、そこでは山羊を飼っ
ており、イスラエルの民は、山羊や羊等の動物と一緒に、遊牧民のように
旅をしたのだろうなあと感慨深く思いました。
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