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 投稿番号:101508 投稿日:2016年01月11日 02時11分28秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族L\(2016年の課題確認 2)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101507_62.html
長上郡の服部氏族L[(2016年の課題確認)   レス58の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


これまでの調査目的を改めて纏め直します:

     1.服部氏の始祖は? 
     2.どこから来たのか?
     3.どこへ広まったのか?
     4.何をしたのか?
     5.残ったのは誰か?
     6.その他は何故消えたのか?

捜査で浮かび上がった人物達を掘り起こし新たな心で頑張って調べて行きましょう。


徳川家康公の逸話集である『披沙揀金』の中に
(現磐田市)加茂村代官平野三郎右衛門、郡代大石重右衛門の名が記録されていたことは
貴重な発掘でした。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月12日 15時55分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 物的証拠がなくても、状況証拠を限りなく積み上げて行けば、最後は
「クロ」となりますでしょうか……ここで問題なのは、状況証拠の信憑性
だと思います。数学的に言えば、確率ということになるかと思います。
普通ではありえない確率であれば、信憑性は高くなるでしょう。
証言というのは、頭の中の記憶でありますので、どうしても主観・想像が
入りますので、余りあてにはなりません。
 過去の歴史の真実は、物的証拠のないものが多いわけで、では一体どの
ように最後の詰めを行うのか…やはり、物的証拠がない限り、「〜と推測
される」くらいの書き方に落ち着くのか……。

 昨日は、長谷川氏について調べておりました。というのは、この善地の
東隣には長谷川氏族が住んでいて、江戸時代は庄屋もやり、現代に至る
代まで、T大を四代続けて輩出している特異な存在であり続けているか
らであります。覚園寺という有名な寺の近くなのですが、通字として「栄」
という字を代々名前に持ちます。ひょっとして、徳栄―正栄の家系とつな
がる家系なのか、証明するものとしては家紋くらいしか考えられません。
天竜川の洪水で文書類が失われてしまったようです。
 もし、徳栄の家系と関係するなら、服部中の家系の中に養子として二人
入っていますし、女子も妻として入っている。
 そうすると、服部と長谷川(服部と永井は既述)がなぜ近くに暮らしている
のかという謎が解けると思うのですが……。
 長谷川氏が当服部の謎を解く鍵かなと思うようになりました。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月12日 22時38分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>長谷川氏が当服部の謎を解く鍵かなと

昨年、火付盗賊改の鬼平と服部氏が親戚関係にあったのを寛政家譜で見てビックリしました。

三つ藤巴紋で良いのかな?
これは黒田官兵衛が荒木村重の有岡城から救出されて後に、忠臣3人を表すとした家紋と同じで良いのかな?


長谷川氏家紋は、
秀郷流が三つ藤巴、釘抜、藤丸、八ツ藤。
橘氏族は橘や桧扇。他に、丸に立て三つ引両や鷹の羽など。



     長谷川 宣以(はせがわ のぶため、延享2年(1745年)[1] - 寛政7年5月19日[2](1795年6月26日))

     江戸時代の旗本。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。
     幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)[3](銕は鉄の異体字)。

     家督相続後は父・長谷川宣雄と同じく平蔵(へいぞう)を通称とした。



     「銕」の字
      服部家にも使用しているヒトが数人いて驚きました。



藤原秀郷系 長谷川氏[編集]

中臣鎌足の流れを汲む藤原秀郷を祖とした一族で、尾藤氏流と下河辺氏流の2つがある。 『系図研究の基礎知識』(近藤安太郎著)によると、藤原秀郷流の主要五氏(他は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏)の一つとある。

尾藤氏流 佐藤氏の分家・尾藤氏のさらに庶流にあたる。佐藤公清の庶子・公澄の4世孫・知宗(兄・知広が尾藤氏を名乗る)の末裔で、22代後の宗茂が長谷川氏を名乗ったという。宗茂の曾孫が長谷川宗仁で、宗仁の子・守知は一時美濃長谷川藩を立てている。この系統は守知の息子のとき分割相続により旗本となったが、本家は無嗣断絶し分家が存続した。

下河辺氏流 小山氏の一族たる下河辺氏を出自とする地方豪族。下河辺氏の祖たる下河辺政義の子・小川政平の末裔である。 政平の子孫・政宣が大和国長谷川に住んだため、長谷川氏を名乗ったという。

長谷川政宣の系統は駿河国小川郷(現・静岡県焼津市)に拠り、小川法永長者と称されたとされる。この長者の子孫が今川氏に仕えた。 その後正長の時、君主今川義元が桶狭間の戦いで討死したため没落、再度徳川家康に召抱えられるも三方ヶ原の戦いで討死した。



長谷川正長には正成・宣次・正吉の3子があり、
   正成系は1750石(のち分割相続により減り1450石)で江戸時代を存続した。
   宣次系は400石で続いた。 この家系から長谷川宣以(平蔵)が出ている。
   正吉系は4070石(一時500石を加増されたが分割相続により減った)で幕末に至った。



        ひょっとすると服部家と長谷川家の関係は
        服部氏が伊賀にいて、長谷川氏が大和国長谷川時代以降のお付き合いなのかもですね。  


        名古屋の長谷川さんはもともとが南朝方だったようで、なるほど名古屋の長谷川さんと服部さんは仲が良いわけだ。



長谷川氏の家紋の代表の1つ:http://ameblo.jp/wolf001/entry-11756127136.html



長谷川さんを捜せ:    http://www.tabi-magazine.com/report/rootsofhasegawa/


時代劇がらみでいえば池波正太郎原作でテレビ時代劇『鬼平犯科帳』主人公の鬼平こと「長谷川平蔵」という名は本名である。正式には長谷川平蔵諱宣以(のぶため=長谷川宣以)という、父の宣雄も京都町奉行まで勤めた有能な武士であった。

天明3(1783)年の浅間山大噴火や大飢饉の後田沼意次が失脚し、天明7(1787)年、松平定信が老中に就任。経済不安から世情は乱れ犯罪は凶悪化していくなか、長谷川平蔵が火付盗賊改の長官となったのは、同年10月のこと。以来、平蔵は没するまでの8年間に渡って火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)を務め上げた。過去、火付盗賊改方という激務を8年も務めた旗本はいない。

平蔵は江戸市中を巡回し、放火や殺人・強盗などの凶悪犯罪を捕え、取り調べ、裁判する権限まで与えられていた。神稲(しんとう)小僧や妖盗葵小僧の逮捕から、人足寄場の設置と歴史に刻んだ平蔵の功績は大きい。また、長谷川家の家紋は三つ藤巴で、平蔵が捕物に際して被る陣笠や、装束の紋所にもなっている。
ちなみに長谷川平蔵の墓は東京都新宿区須賀町の戒行寺にあるので、長谷川さんなら一度は墓参りに行くのもいいだろう。


この長谷川平蔵のルーツをさかのぼれば、三方ヶ原の戦いで武田軍の前に華々しく散っていった長谷川正長(はせがわまさなが=駿河国小川城主)や、正長の祖父である駿河国益頭郡小河の小川長者法栄に辿りつく。では、藤原北家藤原秀郷流の長谷川平蔵のルーツを求めて大和国へ行ってみよう。

──藤原秀郷流の長谷川氏は、古墳時代、奈良県桜井市の初瀬(長谷)川の地を支配していた県主(あがたぬし)が、川にちなんで長谷川を名乗ったのが始まりという。「初瀬(はせ)」とは牡丹で有名な長谷寺(奈良県桜井市初瀬=初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる)のある場所で、昔は「はつせ」と読んでいたとか。長谷(ながたに)の初瀬川(はつせがわ)が転じて長谷川ととなったのだ。長谷川さんならぜひぜひ長谷寺に参拝せねばなるまい。
長谷寺はまさに長谷川さんのパワースポットでもあるのだ。近くには長谷山口坐神社(はせやまぐちにいますじんじゃ)も鎮座している。この地の氏神だからあわせて参拝を。


ちなみに鎌倉にある有名な長谷寺も、天平8(736)年、大和の長谷寺の開基・徳道を藤原房前が招いて開いたというからやはり長谷川さんのパワースポットといえよう。

その他の長谷川氏は、長谷川党で知られる大和国式上(しきじょう)郡長谷(初瀬村)を発祥とする在原氏族と同じ大和国十市(といち)郡の中原氏族、摂津国能勢郡長谷(現在の大阪府豊能郡能勢町長谷)を発祥とする清和源氏満政流、また越中国の藤原利仁流や美濃国の橘氏族などもある。

大阪府豊能郡能勢町長谷(ながたに)は棚田が200枚ほど残る棚田の里でもある。鎮守社である岐尼神社(きねじんじゃ)は、782(延暦元)年創建の古社。一帯は枳根庄(きねのしょう=枳禰庄)と呼ばれた荘園だったのだ。


静岡県焼津市や名古屋市にも長谷川さんゆかりの地が

長谷川氏関係で訪ねたい場所は、まず静岡県焼津市西小川に平蔵の祖先である法栄(前出)の「法永長者屋敷跡」という小川城跡がある。ここは屋敷とはいえ、その周囲に長大で複雑な堀を巡らし、戦闘に対する防御機能を備えた城郭的構造になっていたと思われる。昭和54年からの、小川地区遺跡群発掘調査により、屋敷の周囲に堀をもつ本格的な中世屋敷跡が発見されている。素掘りの堀は幅が15m〜16m、深さが1m〜2.6mというからまさに城郭。屋敷跡からは陶器や中国産の輸入陶磁器、漆器や曲物など、刀・釣針・古銭、斎串・呪符・人形・舟形などの呪術資料が出土し、往時の繁栄がしのばれる。またその孫の長谷川正長(前出)が開基した焼津市小川の長谷山信香院(静岡県焼津市小川3481-7)には、長谷川正長の墓碑が建っている。この寺は永正14(1517)年秋の暴風雨で大破したのを長谷川正長が支援して再建開基。
家康に仕えた長谷川正長は、元亀3(1572)年の三方原の戦いで、武田勢を相手に奮闘したが討死し、信香院に葬られている。
小川城跡を必死に訪ねても、そこには碑が立っているくらいだから、まずは信香院を目ざすのが長谷川さんにとっても、長谷川平蔵のファンにとっても賢明といえよう。


さらに、かつて長谷川党が大和の武士を代表して春日若宮おん祭に参列していた春日大社や、名古屋市北区如意にある別名・長谷川城と呼ばれる如意城跡、映画俳優の「長谷川一夫の寺」と呼ばれている宇治市六地蔵の極楽寺なども興味深い。京都で生まれた長谷川一夫(本名)も名流の家系である。
このなかで注目なのは名古屋市にある長谷川城の跡(名古屋市北区如意2丁目)。現在は如意山瑞應寺(ずいおうじ)という寺になっているが夢窓疎石の創建と伝えられる寺だから名古屋周辺の長谷川さんは一度出かけてみるのもいいだろう。
南北朝時代に南朝に仕えた越中国(富山県)貴船城の城主・石黒重之の子、石黒重行は1393(明徳4)年、長谷川重行と名乗ってこの地に住んだ。楠の里と呼ばれる一帯は、味美古墳群などがあり古代の尾張国の中心地。


話を長谷川平蔵に戻せば、平蔵は江戸・赤坂築地中之町に生まれてから、父・宣雄の屋敷替えで、築地鉄砲洲湊町や本所二ツ目などに居を替えるが、自身が火付盗賊改の長官であった組屋敷は、『鬼平犯科帳』では四谷坂町、旗本の系譜や家紋を記した『改定大武鑑』には目白台と記されている。

もし目白台だとすると、そこは護国寺近くの「御手先与力同心大縄地」であったのだろう。そして、中央区佃一丁目あたりが、その昔、人足寄場のあった石川島である。区立佃公園の一角に、古式灯台を模して作ったという石川島灯台があり、灯台脇の看板に、江戸時代の地図入りで人足寄場の由来が記されている。

長谷川姓は新潟で大姓7位、北陸から東北にかけて多く、四国、九州には少ない。
家紋は、秀郷流が三つ藤巴、釘抜、藤丸、八ツ藤。橘氏族は橘や桧扇。他に、丸に立て三つ引両や鷹の羽など。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月13日 10時03分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長谷川氏族の江戸時代の大元(ルーツ)が、長谷川正長ということになります 
ね。正長は三方ケ原で戦い、華々しく亡くなった。どんな戦いぶりだったので
しょう。その氏族も一緒に行動したと考えられます。焼津にいた長谷川氏が、
三方ヶ原の戦いの時に徳川氏に付いていたというのは、焼津の方は今川・武田
の勢力が強かったので不思議です。高天神城の決戦で勢力図が逆転するわけで
ありますので。長谷川氏の動きを追ってみなければなりません。

 池田の北五キロ位の所の天竜川西岸に高薗があり、覚園寺・八幡神社があ
ります。この神社あたりに高薗城があったということです。そこのすぐ近く
に、例の長谷川一族がいます。不思議な事に、その周りに昔からいる氏族に、
「小杉」・「本間」氏がいます。

 池田の南五キロ位の所にも長谷川氏族がいて、「長谷川貞雄」が有名であ
ります。この長谷川家は地元の八雲神社の神主と酒造業をやっており(庄屋
の可能性あり)、雄踏宇布見の名門中村家から養子として貞雄をもらっていま
す。中村家も神主で神主同士のネットワークも関係している。また賀茂真淵
の国学が中核の思想として貫ぬかれていた。遠州報国隊にも加わった。雄踏
の加茂家とも同等に近い地位を築いたようであります。
 浜松の信愛学園高校、開誠館高校の創立にもかかわっております。

 いずれにしても、庄屋というのは農民なのか、帰農した武士であるのかで
ありますが、特に秀吉の検地制度によって身分がはっきり分けられてしまっ
たので、中間というものがなくなり、農民か武士か二者択一ということに
なってしまった。従って、やむを得ず農民でも、元武士である人も多かった
と思われます。
 庄屋・名主等は、その教養(読み・書き・そろばん)の必要性から言って、
やはり元武士が多かったのではないかと推察いたします。
 庄屋と代官、このレベルも人によっては近かったと思われます。庄屋から
代官も兼ねた人もいます。
 いずれにしても、読み書きそろばん等の教養が地域の発展に寄与した、即
ち、武士が日本の礎を作ったということになります……。

 本日は、この地域の長谷川氏の痕跡を訪ねてみようと思います―
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月13日 12時52分59秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E9%95%B7


長谷川 正長(はせがわ まさなが)

戦国時代の武将。駿河国小川城主、一色城主長谷川氏当主、紀伊守。

今川義元に仕えていたが、桶狭間の戦いで義元と父元長が戦死すると、今川氏真に仕えたが、
永禄13年(1570年)に甲斐の武田信玄に駿河を攻められると遠江に逃れ、三河から進出してきた徳川家康に仕えるようになった。

元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いに参加、徳川軍が大敗すると父同様、奮戦して討死にした。


享年37。 たった37歳で?!
墓所は焼津市の信香院。



次男の伊兵衛宣次は天正10年(1582年)から家康の小姓を務めると、やがて別家を興したという。
その子孫が江戸時代に活躍した火付盗賊改方の長谷川宣以という。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月13日 12時59分14秒 ) パスワード

http://www59.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/2115.html

ゲームの話のようですが
ちょっとはイメージがつかめるのかも。


武将名 はせがわまさなが
長谷川正長

      桶狭間の戦いで父を喪い、徳川家の家臣となる。
      

      元亀3年、徳川軍が三方ヶ原の戦いで敗れると、家康を守るため奮戦して討死した。


                        ま、そうなんでしょうけど。
 
                        そういう人物でしたか。
                        ならば、さもありなん、ですね。



出身地 駿河国(静岡県)


兵種 槍足軽                   これはそうだったのかもですね。


[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月13日 13時06分50秒 ) パスワード

http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/hasegawa.html


長谷川平蔵という人は本当にいました。小説に出てくる長谷川平蔵は長谷川平蔵宣以(のぶため)で、お父さんも長谷川平蔵です。お父さんは長谷川平蔵宣雄(のぶお)といい、御先手弓頭・火附盗賊改から京都西町奉行に出世して従五位下備中守に叙された人です。  

 長谷川家とはどのような家系かというと、もとは今川義元に仕えていた武士でしたが、義元は例の桶狭間(永禄三年 1560年)で織田信長の奇襲でまさかの戦死を遂げ、今川家は衰退していきます。

 進退極まった長谷川家は一族寄子総勢300名程を率い徳川家の軍門に加わることになりました。この時の長谷川家の当主は長谷川藤九郎正長(まさなが)という人です。  

 しかし元亀三年(1572年)12月、徳川軍は武田信玄二万七千の兵との遠江「三方ヶ原の戦い」に敗れ、長谷川正長は敵陣に突入し壮烈な戦死を遂げてしまいます。

 この戦は家康が唯一敗北したもので、家康は敗走中に恐怖のあまり馬上で脱糞したことは有名な話です。

 家康は武田軍の武勇をたたえ、武田家滅亡の後に、その残党を召し抱えています。

 また家康は戦死した自軍の末裔にはたいへん配慮し、この長谷川家にも代々旗本として高禄を与えています。長谷川平蔵の系統は本家筋ではなく、正長の次男宣次(のぶつぐ)の系譜で、長谷川平蔵宣以(鬼平、幼名銕三郎・本所の銕)はその八代目にあたり、代々家禄四百石を賜っていました。(何千石の旗本というのは何人もいないので、四百石というのはマアマアというところでしょうか。勝海舟は家禄41石です。)




鬼平銕三郎(てつさぶろう)の青年期


 さて、鬼平銕三郎(家督相続するまでの名)が青年の頃、本所・深川で無頼の限りをつくしていたというのはフィクションではなく、史実のようですです。

 何故そのようなことになったかというと、その生まれにあったようです。


 銕三郎は実は父宣雄の正妻の子ではなく、宣雄が長谷川家に行儀見習いに来ていた家女に産ませた子です。(延享三年 1746年)


 その人を小説「鬼平犯科帳」では巣鴨の大百姓三沢仙右衛門の娘で園ということになっていますが、今では長谷川家の知行地である上総の武射、山辺両郡(現在の千葉県北東部)から奉公に来ていた名主か豪商か豪農の娘で戸村品左衛門の娘であろうということになっています。




 寛延三年(1750年)五月、赤坂築地の長谷川平蔵屋敷547坪と、鉄砲洲築地の津田七右衛門屋敷479坪が屋敷替えになっています。この時の長谷川平蔵はお父さんの宣雄です。

 この時銕三郎は五歳くらいでした。上のスタンプは八丁堀ですから、生誕の地が鉄砲洲になっていますね。まあいろいろな説があるのです。

 また、この年の七月に平蔵宣雄の正妻が亡くなっており、小説では継母にいじめ抜かれ、家に居られずグレて悪の道に走ったとありますが、五歳の子がそのようなことになるはずもなく、この辺はフィクションでしょう。

 常識的にはしばらくは千葉の本当の母親のところにいたのだと思うのですが、「鬼平 長谷川平蔵の生涯 重松一義」さんの著書では、家女の実家の本所の持ち家か、長谷川家の本所の抱え屋敷に預けられていたのではとの御説があります。

 したがって、少・青年期を自由奔放に本所・深川で過ごしたことが考えられます。


 本家筋正長(まさなが)の七代目の長谷川正直(まさなお)は1763〜1765年まで火付盗賊改を務めていました。銕三郎はその時17〜19歳でしたので、密偵のように市井に紛れ込み正直の役を手伝っていたのではないかという話をどこかで読んだことがありますよ。 250年前の話ですので誰も分からないし、いろいろな御説があり、それがかえって面白いのかも。



再び屋敷替え

 明和元年(1763年)銕三郎十八歳位のころ、また屋敷替えがありました。

    築地湊町の長谷川平蔵屋敷479坪が松平阿波守(徳島藩)へ

    松平阿波守の白金の下屋敷の内、500坪を桑島元太郎(小普請、先祖は馬医)へ

    南本所三之橋の桑島元太郎屋敷1238坪を長谷川平蔵へ

という三方相対土地替えです。


 これは長谷川家が望んだものであり、将来を見越してのことでしょうか。事実翌年明和二年には鬼平のお父さんの平蔵宣雄は御先手弓頭に、また明和八年には火付盗賊改方になっています。


 築地鉄砲洲の479坪が1,238坪になるのですから、桑島元太郎方へ何百両(?)かの費用が掛かったことが推測されます。


 屋敷は役宅となるのであって、厩、白洲、牢屋、配下の詰所、住込みの人々の部屋など、ある程度の広さは必要であったのです。



 小説では役宅が清水門外、目白台が本邸となっていますが、長谷川平蔵の屋敷はあくまでも本所三つ目で、目白台は御先手与力同心の組屋敷ということになります。清水門外の役宅は切絵図に「御用屋敷」とあるのを小説の都合上(本所のはずれから市中探索では様にならない)役宅としたのでしょう。

 しかし小説は楽しく読むもので、これでいいのでしょう。役宅はお城の外の清水門外で恰好が付きます。

 また部下は目白台から通ったということになりますが、目白台とは池袋の手前の護国寺あたりです。ここから南本所の菊川町まで歩くと、当時の屈強の人でも一時間半位かかったと思われますが、当時の人はよく歩きました。

 平蔵長谷川のお父さんの宣雄は安永元年(1772年)に京都西町奉行になり、翌年には過労で京都にて急死してしまいます。その後平蔵宣以(鬼平銕三郎)は家督を継ぎ、小普請を経て西の丸御書院番士→西の丸御徒歩頭→御先手組弓頭→火付け盗賊改方と順調に出世いたしました。火付け盗賊改での活躍は小説や映画、コミック等でご存知の通りです。



では火付盗賊改方とは?

 この役職は天和三年(1683年)に中山勘解由が任命されたのが初めと言われ、武官の先手組頭か御持筒(おもちづつ)頭からの加役による出役でありました。

 明暦の大火(1657年)後、江戸に放火犯や盗賊が流入するようになり、火付盗賊改はそれに対する役職であったのですが、初期には博徒も取り締まりました。

 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、天明六年(1786年)先手弓組第二組の頭でありましたが、天明七年(1787年)火付盗賊改1500石に任じられました。火付盗賊改には与力5〜10騎、同心は30〜50人が付属しておりました。

 火付け盗賊改めは一種の特殊警察で、捜査・逮捕の権限を有しており、後には裁判権も持つようになりました。手にあまったならば、切り捨て御免であったようで、歴代の長官には強引で、荒っぽい人が多く、岡っ引きの密告により拷問などを行ったので庶民からは嫌われた悪役であったようです。

 凶悪化する火付けや武装盗賊団に対しては文官の町奉行では手に負えず、武官であったこういう組織が必要であったのでしょう。



先手組(さきてぐみ) 頭の役高は1500石

先手組は先手弓頭・先手鉄砲頭からなる幕府の先鋒隊。江戸中期は弓9組、鉄砲20組あった。

一組の頭に与力(200石)5〜10騎、同心(30俵2人扶持)30〜50名が付いた。
平時は交替で、江戸城蓮池・平川・下梅林・紅葉山下・坂下などの諸門を警備し、将軍が寛永寺や増上寺への参詣の際は諸門を固めた。臨時に江戸の町を巡回して江戸の治安を担った。

火付盗賊改方へ出役もした。

持組(もちぐみ) 
持弓組と持筒組があり、将軍の弓・鉄砲隊である。
持弓頭・持筒頭は持之頭という。将軍の床几の左右について護衛する役で、平時には江戸城本丸の中門、西丸中仕切門、二の丸銅門などの守備にあたり、将軍の外出先を警護した。


持弓頭 布衣 1500石 三組三人
持筒頭 布衣 1500石 五組五人
それぞれその下に与力・同心が付いた。


加役

恒常的な役職を本役というが、冬の間だけ先手頭一名を補助として任名することがある。これを加役というが、広義には火付盗賊改を直ちに加役とも呼ぶ。
江戸の治安が悪化した時に、先手組から臨時に増員されることがある。これを増役と言う。





火付盗賊改が石礫を投げられたこと

 元文・延享の頃(1740年ころ)、お玉が池に旗本、藤掛式部(伊織)という人がおりました。この人は御先手頭を務め、火付盗賊改の役を受け持っていましたが、あまりに厳しく、また過酷に責めたてるので市民が困り、幕府もこれを免職といたしました。まあいわゆる憲兵という感覚で、侍ではない火付人や盗賊を責めたのです。

 免職されますと、何と市民が藤掛式部の屋敷を襲撃したのです。
 その数、4〜500人。石や瓦を投げ、玄関を打ち壊します。しかし屋敷の内までは入り込みません。それは斬り殺されても仕方のない身分社会でありましたので、町奉行が出張って2〜3人を捕えたという事件です。

 過酷な拷問は冤罪を生むわけで、そんな話はいくらでもあったのでしょう。
 市民が侍を襲うという前代未聞のお話です。
                  江戸ッ子/三田村鳶魚(中公文庫)より


石川島の人足寄場

 天明の大飢饉・江戸の打ちこわしなどの不穏の中、長谷川平蔵は無宿・無頼の対策として、手に職をつけさせて社会に復帰順応させようという更生施設「人足寄場」の設立を建言しました。

 長谷川平蔵には敵も多く、ライバルに「火付けや盗賊を捕えて仕置きをするのではなく、そういった輩が出ないように工夫するのがご政道というものだ」と陰口をたたかれて発奮したのか、あるいは下情に通じた平蔵にとって無宿や貧困ゆえの無頼を見るに耐えかねたのか、役人が不浄であると嫌がったこの仕事に率先して取り組んだのです。



 これらの件は前から佐渡送りや、深川の無宿養育所など、いろいろな策が試みられましたが、役人が嫌がったり、下層民と見下したりで皆巧くいかなかったものなのです。

 寛政二年(1790年)、当時の老中松平定信により認可され取扱を任された長谷川平蔵は、佃島と石川島の間の一万六千坪を埋め立て、工房を兼ねた長屋を造ったのです。この土は大川端浜町河岸の中州にあった三俣という歓楽街を取り壊して得たものです。

 人足寄場に収容された人数は弘化二年の508人が最高となっており、作業により得た賃金は三分の二が毎月三回に分けて支払われ、残りの三分の一を貯金して、十貫文に達した時に釈放されたようです。(留置期間の三年ほどで貯まる金額か? 長い間、一両は四貫文であったが、天保十三年/1842年には一両は銭6貫500文になった。※一貫は1000文)

  作業は大工・左官・屋根ふき・鍛冶・炭団作り・紙すき・表具・蝋燭・細工・彫刻・足袋草履つくりなど多岐にわたりました。また月に三度の休みには心学の講義もあり、正月には雑煮、暑気払いに枇杷葉湯、夏にはどぜう汁、盂蘭盆には素麺、月見には団子汁と、収容者は人情のある扱いを受けたのです。(もちろん脱走や怠慢には厳しい仕置きがありました。)

 この人足寄場は日本の囚獄制度のモデルとなったといわれています。
  長谷川平蔵は江戸の治安維持に尽くした火付盗賊改の長官ということよりも、無宿・入墨者の更生施設としての石川島人足寄場の設立したということが最大の功績と言えるでしょう。



平蔵の死

 長谷川平蔵宣以は火付盗賊改方加役を天明七年9月から翌八年4月まで、本役を天明八年9月から寛政七年5月まで合計8年勤め、寛政七年5月19日50歳で没しました。奇しくも平蔵の実母がその4日前に亡くなっています。

 屋敷は平蔵宣以の孫で宣昭(のぶあき 平蔵宣以の長男宣義<のぶのり>の次男)の時に遠山金四郎の屋敷に替わっています。孫の宣昭は御船手頭を勤めていましたが、部下の不手際でお役御免、閉門とになり、小日向向上五軒町の二百坪の屋敷に移ったようです。

 安政三年版の地図(朝日新聞社版「復元江戸情報地図」安政三年1856年)には割下水のところに長谷川平蔵と小さな屋敷が見えますが、ここがその後の長谷川家の屋敷でしょうか? 誰か教えて!
(当サイトNp.28の美濃岩村藩のページの一番上の地図左上を参照)





引用文献 :
鬼平 長谷川平蔵の生涯/重松一義(新人物往来社より)
長谷川平蔵 その生涯と人足寄場/瀧川政次郎(朝日新聞社)
「鬼平」を歩く/佐々木明・重松一義(下町タイムス社)
時代考証事典 /稲垣史生(新人物往来社)
素材提供:幕末維新新撰組和風素材集

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月13日 13時09分19秒 ) パスワード

あらあら

長谷川 正榮(はせがわ まさよし、1945年(昭和20年)9月9日 - )は第11〜13代浜北市長。浜北市(現・浜松市)出身。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月14日 02時02分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長谷川正栄氏が高薗の現在の長谷川家当主です。
 「長谷川馺栄言行録」によると―
  ・曾祖父  兵左衛門 庄屋
  ・祖父   栄三郎  竜池村村長 郡会議員
  ・父    馺栄   高校教師 最後は愛知県立第一高等女学校校長
  ・本人   重栄   高校教師
 となり、その後に
  ・息子   正栄   大蔵省 浜北市長
  ・孫
 となります。

 当方の服部家は、高祖父より前に分岐した同族が当方も含めて四家あり、
大本家もニ家の内どちらかわからない状況ですが、羽鳥に一番近く、高薗
の長谷川家から真西約一キロに位置し、服部さまと呼ばれ、明治の半ばよ
り三代医家を続けている服部家がひょっとして大本家になるのか、今はす
でにわかる世代がいなくなってしまいました。

 覚園寺で見てきた長谷川家の家紋は、二種類あり、「九曜」と「木瓜」
でしたが、果たしてこの長谷川家のものかどうかは確定できませんでした。
なお、善地のお寺にも長谷川家の墓があり、それは「丸に蔦」でありまし
た。この家紋を持つ長谷川氏は、尾張国春日井郡の利仁流にあるようです。
 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月14日 02時28分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


>愛知県立第一高等女学校

現在の、明和、で良いのかしら?
超優秀な県立高校です。今は共学だと思いますが。

   尾張南部で超優秀というと  旭ヶ丘・明和・それと私学の東海。
      (北部のことは知らないし、敵地だし)



ちょっと占ってみました:

総合イメージ=ツマ先までお堅そ〜な痩身のイイ男

具体的には  
170センチ以下でお尻が小さく華奢。カッコイイ。色白。
姿勢が良い。
定番のグレーや紺のスーツやジャケットを好み、ワイシャツは白が多い。
爪はいつもキレイ。


性格
冷静沈着で失敗許さない努力家

どんなことが起きても常に冷静で慎重なタイプ。
臆病で何ごとも失敗したくないため、経験したことがないことをやりたくない。

頭で考え過ぎるため「とりあえずやってみよう!」ができない。

普段はマジメ過ぎて物足りない印象だが、目標を決めると地道な努力の末、確実に達成する。
自分から進んで人に話し掛けることが苦手。


太陽は嫌い。
酒はソコソコ呑むが食には興味がない。
占いは結構好きかも。


こんな感じで合ってますか?
もし合ってるようでしたら、気になる人の生年月日をメールにてお知らせください。
あはは
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月14日 02時40分56秒 ) パスワード

家紋は、アイデンティティということで、美意識もあって
複雑怪奇ですね。
使ってる人達でさえ「何故違うのか?」その由来が分かってないでしょうね。


先祖伝来の家紋を使いたいものでしょうけど
遠慮して替えるでしょうし
または
替えさせられるし

もし名誉なことがあって拝領したなら、その話は伝わると思いますが。
伝わってないということは不承不承替えたのでしょうね。
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月14日 08時44分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は「筆の会」へ行きます。

 家紋について頭を悩ましておりましたところ、下記のサイトに「家紋の
掟」なるものが詳しく載っておりましたので、その一部を引っ張ってきま
した。全体としては複雑すぎて、理解しがたいですが、一定のルールが
あり、また混乱を促す時代もあったということで、なるほどと思うことが
たくさんありました。今後も「氏家と家紋」とはずっと付き合っていかな
ければなりませんので、少なくともこの「家紋の掟」だけでも理解してお
きたいと思っています。

http://ringonohanatoryu.blogspot.jp/2015/09/blog-post_36.html
林檎の花、龍の爪
波間に浮かぶ士魂。ある士族のルーツを訪ねます。
2015年9月8日火曜日

「家紋掟
  「丸付き紋」の有無で「氏の構成具合」は評価できるのです。
  普通は次の要領で判断されていました。

a 嫡子が存在する場合
  本家筋の末裔と分家筋の末裔に分離する。
  嫡子が同紋を引き継ぐ。
  本家筋の嗣子には家紋部分変更を行う。
  分家筋の嗣子には丸付き紋を付ける。
  妾子には丸付き紋を付ける。
  因縁性のある嗣子に丸付き紋を付ける。

b 嫡子が存在しない場合(女子がいる場合)
  婿養子先家紋に変紋し、婿養子が妾子の場合は丸付き紋を付ける。
  (養子先本家の許可)
  この場合は変紋時、正式略式の場合の使い分けを行う。
  婿養子に嫡子が出来ると元の家紋に戻る。(本家の許可)
  2代続きの婿養子では親の婿養子先の家紋に確定する
  (女系化 婿先系の新氏発祥)
  確定時に丸付き紋の有無の許可を婿養子先に求める。

c 嫡子が存在しない場合(子供居ない場合)
  養子婿を迎え嫁を取る場合、丸付き紋に変紋する(本家の許可)
  養子婿先の家紋に丸付き紋を付ける。

d 嫡子が存在しない場合(縁者より養子の場合)
  家紋は変わらない。(最も一般的で多く採用された方法)

  大きな氏は原則、「丸付き紋」で対応する事に成りますが、
  次の要素により3つの変紋の手段が採用される場合があります。
   「時代の変化」
   「地理的な変化」
   「氏の拡大」
   「全体の氏性」
  以上が原因で大きい氏は確実に把握が困難と成りました。

  この自然淘汰による履歴の把握が困難に加えて、家紋経過には
  次の事が起こりました。
 室町末期(新興勢力 氏のステイタス)
  「下剋上」と「戦国時代」で混乱 奈良時代から始まった氏の構成が
  新興勢力に新しく変化した。
  この為に氏を示す家紋も新しく発生した。

 江戸初期(下級武士 氏の判別)
  新興勢力の氏は自然淘汰されて、氏の安定期に入り、それまで氏を構成
  しなかった下級武士が改めて興し独自の氏と家紋を持った。

 明治初期(庶民 家柄の誇示) 
  「氏家制度」の崩壊で明治維新の「契約社会」へと変化し、全ての国民
  が苗字を持ち氏をあらためて構成し始めた。当然に家紋も併せ持った。

  以上の3乱期には第3氏が「丸付き紋」を採用しました。
  この為に「丸付き紋」の採用は一族性に問題を生じて来ました。
  ただ、氏家制度が無くなり身分制度の無く成った社会慣習の明治初期
  以降に使用された家紋が、この家紋掟を護られたかは疑問ですが、a、
  b、c、d、イ、ロ、ハ、ニ、等の方法の中でただ「養子縁組」になると
  「丸付き紋」だけを一時使用していた事は確認されています。
  現在では家紋の持つ意味も核家族社会の中で無くなり殆ど護られていない
  事と思います。

  そこで次の4つの方法が採用されて来ました。
  上記abcを繰り返して行くと次の方法が採用されて来ました。
  イ 部分変紋(最も多く用いられた方法)
  ロ 囲い込み紋(糸輪紋含む)
  ハ 陰紋
  ニ 類似変紋(イの変化)

  #1 嫡子の本家筋ルートは次第に分家化する。
  主に家紋の「部分変更紋」で何処の本家筋かを判別する方法を採用した。

  #2 嗣子の分家筋ルートは次第に分家化する。
  丸付き紋が細分化すると丸は採用できなくなる為に、主に「囲い込み紋」
  を採用して分家筋を判別する方法を採用した。更に「部分変更」を加えて
  対処した。

  #3 妾子の分家筋ルートは次第に支流化する。
  「丸付き紋」が細分化すると重複して維持できなくなる為に、一族性を
  保持する為に家紋の明暗を逆転して主に「陰紋」を作りだした。

  #4 #2 #3のabcが進むと次第に傍系化する。
  更に血縁性が不明確に成り傍系支流化すると「類似別紋」を採用した。
  「部分変紋」にはその違いの大小に依って「類似変紋」に変化する事も
  起こる。

  大小の氏では時代性が異なるが#1から#4の経過を辿っています。

  (本来は6つの掟)
  1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
  2 嗣子と妾子分類
  3 宗家の許可
  4 配流子孫の区別
  5 男系跡目の継承
  6 養子縁組
  7 嫡子尊厳
  8 身分家柄の保全    」

 従って、当家の「丸に三つ柏」の理由は、永井家からの婿養子が例えば
二代続いたという可能性が考えられます。永井家の「丸に三つ柏」と服部
家の「丸に三つ柏」は、善地の墓地において仲良く並んでおります―

 これから出かけます―
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月14日 09時23分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


URLに行って読んで来ました。
アタマ、痛くなりました。


この話って   未勘源氏を検索してた時に  青木氏  が出てきました。
その青木氏関係者かも。


あの長々しい説明から
     当家の「丸に三つ柏」の理由は、永井家からの婿養子が例えば二代続いたという可能性が考えられます
というのが導き出せたというのは快挙です。



本家さんにいらっしゃって戒名を書いた札を見せていただけると良いのですが
こういうことは分不相応とされるかもですね。
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月15日 01時19分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 高薗の長谷川家は、現当主の高祖父が庄屋でありました。曾祖父は治水
土木で財をなし、竜池村村長、郡会議員になっております。
 当家筋(六代前以前の別れ)の服部家は、「服部さま」と呼ばれ(幼い頃の
記憶としては、うっすらと覚えがある)、明治の三十年代より三代にわたっ
て医者を輩出している。ということは、明治の初期において相当財力があっ
たということであります。本日、姉から聞くところによりますと、明治時
代に、一握りの人達のみに選挙権があり、「服部さま」にはこの選挙権が
あったと聞いているということでした。会社経営の痕跡は見当たらないので、
大地主だったのかも知れません。そうなると、ひょっとして庄屋もやって
いたかも知れません。東の長谷川家と一キロ真西の服部家、一本の道でつ
ながっていたかも知れません。長谷川家の家紋の調査は引き続きして行き
たいと思っています。
 昨日、池田の南、竜洋の北の「長谷川家(貞雄)」について、「八雲神社」
の神主だったということで、調べに行ってきました。神社の入り口に大きな
石碑が建っており、そこには「遠州報国隊」云々の話が刻まれていました。
写真を撮っておりますが、劣化して判読するのは難しく、途中でやめました。
いずれにしても、地域のあちこちに庄屋(同時に神主も)や財があって地域の
中核になった人が点在しているように思えます。それは小さな庄屋というよ
りも、大庄屋(大地主)に近い存在だったのかも知れません。この八雲神社の
すぐ近くにお寺が二軒程ありましたので訪ねたところ、「長谷川家」と刻ま
れた墓は結構あり、家紋は「丸に蔦」が多かったです。善地のお寺にある
長谷川家の墓も、やはり「丸に蔦」でありました。

 次回は、平野三郎重定と中泉の代官について触れたいと思います―
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 04時37分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


明治時代は制限選挙で、
25歳以上の男子で、その上に、国税の納税額が15円以上でないと選挙権が無かったとかで
限られた国民しか選挙権が無かった・・・
   だから国民の1%も選挙権は無かったのかも。


そして候補者の数と有権者の数がほぼ同数だったとか

その上に記名式で・・・
     オソロシイ時代でしたね。誰に投票したかバレバレ。



その後
納税額が下げられていったとか。



今は成年男女共に、公民権を停止されていない限り、納税額に限らず、
ということで   これ以上はワタクシは書かない方が良いかも。笑
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 05時00分20秒 ) パスワード

神紋は家紋同様、難しいですね。

八雲神社の神紋は三つ巴紋だったり木瓜だったり
家紋同様に複雑怪奇のようです。


蔦紋の代表使用家に長谷川氏が出てなかったし。(藤紋で出てました)

柏紋には平氏系で服部氏が載ってました。


    あ、そうだ!思い出した!
    寛政家譜の20あたりの服部家で医者の家がありましたよね。
    丸に三つ柏紋ではなくて、そのバリエーションでしたよね。ヒゲがついてたんでしたっけ?


    とすると「服部さま」の可能性として寛政家譜に載ってた医家の服部家の可能性はないでしょうか?


3代続く医者の服部さまの家紋が分かると良いですね。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 05時17分42秒 ) パスワード

ということで、一昨年!、三つ柏さんが教えてくださった医者の服部氏の関係レスを引っ張ってきました:




http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101391.html
長上郡の服部氏族]Y(服部氏7+2家)


[84](2014年11月17日 03時50分29秒


    『寛政重修諸家譜』全21巻の目次に目を通し、服部関係を当たったところ、
     主要筋はすでにコピーしてありましたが、新たに20巻目の中に、
     2系統の服部氏の記載がありました。


      それは、
      
              1.服部順定(もとさだ)
              2.服部保好(やすよし)
      の2系統でありました。


     この内、1の順定の方が、「三つ追い柏」を使っていることがわかりました。
      但し、この家系は医家の家系でございました。


      頑張ります。




良かったコピペしておいて!
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 05時21分22秒 ) パスワード

三つ追い柏紋


http://www.e-sozai.com/c/shokubutsu/223




ヒゲじゃなかったですね。
シッポを追い掛けてる感じの3つ柏紋ですね。



柏紋について:
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E4%B8%89%E3%81%A4%E8%BF%BD%E3%81%84%E6%9F%8F%E7%B4%8B%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%80%80%E3%81%AF
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 05時28分40秒 ) パスワード

http://www.ippongi.com/2011/12/23/kashiwa/

使用者:


御木本幸吉    1858年3月10日 - 1954年9月21日、 実業家。
志摩国鳥羽浦出身。うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、御木本真珠店(現・ミキモト)を創業。真珠王と言われた。家紋は丸に一の角字と三つ追い柏。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


香山滋 。1904年7月1日 - 1975年2月7日、 小説家。
東京府出身。本名は山田・治(やまだ こうじ)。読みは、かやましげる。ゴジラの原作者として知られている。代表作は『霊魂は訴える』『海鰻荘奇談』『オラン・ペンデクの復讐』など。家紋は三追柏。画像は新宿区愛住町浄運寺の墓所にて撮影。



西村晃 。1923年1月25日 - 1997年4月15日、 声優。
北海道札幌市出身。大東亜戦争中は特攻隊員であったが、出撃直前に終戦を迎えている。テレビドラマ『水戸黄門』の二代目・徳川光圀役として有名。代表出演作は「赤い殺意」「黒蜥蜴」など。家紋は三つ追い柏。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 05時41分24秒 ) パスワード

御木本幸吉翁の家紋の丸に一の角字紋というのがあるそうで
これは  己 という字に似てて、  一 の字の変形で  意味は「勝」らしいです。



以下コピペ

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1363616993

「己」と書いている家紋だが、実は「一」を変形したモノ。
正式には【丸に一の角字】
一般には【文字紋:もじもん】の『一の字(いちのじ)紋』
また『一文字(いちもんじ)』『一字(いちじ)』ともいう。

一番乗り、一番槍など好まれ、『一』を『カツ』とも読んで『勝』にかけた。
源平の戦で、扇の的を射った【那須与一】はこの『一文字』紋。
『一文字』紋の代表家は藤原氏首藤(すどう)氏。
その子孫はみなこの紋を使用している。



画像もパクって来ました:

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 05時47分47秒 ) パスワード

御木本姓について調べました。


伝統的な名字である。御木本幸吉は真珠王として著名。近年、三重県鳥羽市鳥羽に集中してみられる。


長野県と三重県に各10人ずつあたり。


【全国順位】 74,395位
【全国人数】 およそ10人    計算が合わないけど。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 05時50分32秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2886017.html


ミキモト 御木本 三重県鳥羽市。三重県鳥羽市鳥羽に江戸時代にあった。同地では阿波幸の屋号でうどん、小麦粉を扱っていたと伝える。


ということは元々は 徳島  出身?
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月15日 05時53分46秒 ) パスワード

服部保好

服部保次系のような印象ですね。

               通字が「保」というのは江戸時代に於いて先祖が同じなら許されたでしょうけど
               もし違っていたら服部中家に遠慮して他の字を使いそうですから。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月16日 01時10分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「服部さま」の家紋も「丸に三つ柏」であります。江戸時代に医者という
ものがどの程度いたのか、確か善地に眼医者ありという江戸時代の記録はあ
りました。

 さて、昨年の十月に出版された長野正孝氏の『古代史の謎は鉄で解ける』
を近日中に送ります。鉄は古代史だけでなく、戦艦大和に至る迄、武力の
中核として存在し続けました。鉄の歴史を理解すれば、総ての背景が見えて
くると思います。

 もそもそしていたら夜も更けてしまい、眠くなってしました。眠いと思考
力が極端に落ちます。明日は新年会―
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 02時26分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
楽しみにしております。



>「服部さま」の家紋も「丸に三つ柏」であります。

ということは、この家と一族なのは確定ですね。



>確か善地に眼医者ありという江戸時代の記録はありました。

はい
ありましたね。


ということは「丸に三つ柏紋」の医者の服部さまは「三つ柏さん」とは同じ一族。

服部さまと旗本の医者の服部順定の家がどういう関係なのか分かると良いですね。
    紋が違うから、違う家かなと思いますが、でも基本的には「柏」で同じですよね。

    ということは旗本の医者の服部順定の家は並び矢の服部家とは関係無いかも
    並び矢の服部系よりは三つ柏に近い家?


    微妙に近くて遠いというのは見て取れますよね
    もっと確かな状況証拠が出て来ると良いですね(笑)
    欲しいのは決定的な証拠ですが。きっぱり



以下の丸に三つ柏紋の家、どういう関係か分かると良いですね。

加藤家:丸に三つ柏
杉山家:丸に三つ柏
堀内家:丸に三つ柏

                この3家、どういう関係でしょうね?
                加藤家は分かりましたが杉山家と堀内家は何故に丸に三つ柏紋?


山下家:丸に違い鷹の羽
服部家:丸に違い鷹の羽
大橋家:丸に違い鷹の羽

                この3家もどういう関係でしょうね?

                服部と山下、  服部と大橋の関係はなんとなく分かりますが
                大橋と山下の関係はどういうご縁なんでしょうね?

 

神谷家:蔦柏
永田家:丸に片喰
小西家:丸に蔓(かずら)三つ柏(蔓柏)
渡瀬家:丸に蔦
沢木家:丸に木瓜
桑原家:丸に木瓜

 
名字も面白いですが家紋も面白いですね。何があったのかなと外野で空想するのは楽しいです。ゴシップ好きのおばさんって感じ(汗)
[25]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月16日 11時55分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろな地域のお寺を回ってみますと、その地域、その村により、墓に
表示された家紋について、どの家紋が多いのか―の傾向が見られます。
 ただ、世帯数の自然増―仮に人が生まれ、25才で結婚し同時に2人の子
供を得、75才で死ぬというような単純計算でも、100年経つと16倍の
世帯に増えます。戦争・天災・飢餓・病気もあるので、その半分とみなして
も100年経つと8世帯、200経てば64世帯まで増えることらなります。
 従って地域の家紋の傾向というものは、ある特定の氏族が繁栄するかどう
かにすごく影響されるということになります。
 そして、明治8年の「平民苗字必称義務令」によって、またいろいろな傾向
が出てきてしまった。家紋も然り。そして年月が経ち、さらに混沌化……。
 
 この地区で、「丸に三つ柏」というと「白柳」氏がほとんどそうであります。
 もちろん、「牧野」氏――神官だった……。
 熱田の千秋氏も三つ柏ということでありますが、郷土史の本を読んでいて、
笠井に笠井城があったのですが、何故かその城は「笠井千秋城」と呼ばれた
と書かれていました。それ以上の説明は一切ありませんので、この突然の遭遇
にはとまどっております―
ます。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 15時09分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部順定医師について寛政諸家譜がもし読めるようでしたらお願いします。
どんな背景だったのか知りたいです。


>笠井に笠井城があったのですが、何故かその城は「笠井千秋城」と呼ばれたと書かれていました。

またまた「千秋氏」の亡霊が・・・


http://www2.wbs.ne.jp/~ota/hansobodoannaishiryo-2.pdf

29の8の18にちらっと出ています
御殿山は笠井氏が築いた笠井千秋城の跡と言われる

      あたりの情報です。



このサイトにはなかなか面白い情報がありまして
29の10の26に鈴木権右衛門家が古独礼庄屋の4家の中でも1番格の高い家と書かれています。

代官的な役割を果たし
阿茶の局を預かっていた
と。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 15時16分06秒 ) パスワード

ここは  三つ巴紋  でした。残念
以下無駄情報


府八幡宮
  Fu-Hachimangu




●どんな神社なの?
 【御祭神】  足仲彦命(たらしなかひこのみこと=仲哀天皇)
        気長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
        誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)
 【例祭日】 10月第1土曜日〜日曜日

 府八幡宮は、第40代天武天皇の曾孫である桜井王が遠江国の国司として赴任された折、国内がよく治まるようにと庁内に祀られたのがはじまりといわれ、「府八幡宮」という社名も、祭祀の起源に準じているのではないかといわれています。

 桜井王が遠江に着任した時期は、一説によると元正天皇が在位していた719年(養老3年)ごろではないかと伝えられ、奈良・平安時代のものと思われる社宝が今も残っています。

 鳥居は1863年(文久3年)に新門辰五郎によって建てられたもので、以前は1657年(明暦3年)に造られた青銅製の額がありましたが、現在はかけられていません。
 楼門は1635年(寛永12年)に建立されたもので、県の文化財に指定されています。
 





●東照宮
 【御祭神】 源朝臣命(徳川家康公)
 【例祭日】 6月10日

 東照宮ははじめ、寛文年間(1661年〜1672年)遠江国中泉の御殿山に鎮座されていましたが、1873年(明治6年)の1村1社の布達により、府八幡宮の神宮寺址(現在の社務所のある場所)遷座されました。現在地に祀られるようになったのは1912年(明治45年)5月のことです。
 現在の社殿は、1977年(昭和52年)に建造されたものです。


  所在地 静岡県磐田市中泉112-1
 

  問合せ 0538-32-4762
  URL 未確認
  参拝時間 (社務所は8:30〜17:00)
  駐車場 50台くらい
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 15時26分31秒 ) パスワード

http://pchansblog.exblog.jp/18650262/

結論:
御殿山と呼ばれた経緯=徳川家康の御殿の裏手にあったので、そう呼ばれて
いるらしい、と書かれています。

笠井氏が城を築いた意味と価値が分かったように思いました。



【遠州駿州紀行】蒲原宿(後編)


広重の「蒲原夜之雪」で有名な、東海道53次の第15番目の
宿場、蒲原(かんばら)宿にて(後編)

蒲原宿は、東西約1kmくらいの範囲の宿場であり、昔からの
町並みも一部残り、風情があるが、観光地化されている
訳ではなく、きちんとした観光案内所も無い。

いちおう色々話が聞ける、ということで”志田邸”という
場所に向かう。

実のところ、ネットからダウンロードしてプリントした
観光マップは持っているし、あまり多くの情報は期待して
いないのだが、そうしたガイドブックとかでは得られない
なにか面白い情報があるのではなかろうかと思っての事だ。



蒲原宿の東海道のすぐ北側には、写真のように山がそびえ
立っている。(ちなみに写真手前の車は、ここが街道である
事を示す為に、わざと車が通過するのを待って入れている)

この山は御殿山と呼ばれている。
なんでも、徳川家康の御殿の裏手にあったので、そう呼ばれて
いるらしい。

地元の桜の名所として有名で、つり橋もあるらしいが、それ以外の
情報はあまりなく、観光案内所代わりの”志田邸”でも、
「ああ、山に登るなら、この横の道を通って・・・」と、
簡単な道案内をされた程度だ。

あまり登る人はいないのかもしれないな・・ と思いつつ足を
進めて行く。



                     略



一応、山頂近くまでは自動車道があって、普段、ちょっと
山の上から景色を見たいと思う地元の人達は、車で登るという
ことなのであろう、桜の時期以外に歩いて登る酔狂な人は
地元民も観光客も含めて少ない、という事なのだろうと思われる。

つり橋を過ぎてさらにしばらく歩くと、御殿山公園に到着、
まだ、ここは山頂ではなく、標高120mくらいの中間点だ、
ただ、すでに景色はかなり良い。


                       本当に素晴らしい眺めです


ここから160m強の山頂までは、さらに15分ほど登るようだ、
山頂は狼煙場と言われている。

山道は、これまでよりもさらにキツくなり、これはまあ、
登るのは良いが、降りる時が足に負担がかかりしんどそうだ。

だいぶ疲れてきたが、ようやく山頂の狼煙場が見えてきた、
狼煙場付近は、広場となっている。
狼煙を上げる場所もレプリカで再現されている。

ここからは遠く、富士川やその周辺の町並みが綺麗に見える。

富士山については、方角的にはなんとか見えるのであるが、
夏場は雲がかかっていて、全体の姿を見ることはできない
場合が多い(2つ上の写真参照)
昨年からドラゴンボート撮影の関連で何度か静岡県を訪れて
いるのだが、確かに夏場では、なかなか富士山の姿を見る
機会はなく、ましてや、山頂に雪がかかった典型的な富士の
姿は冬季でないと見ることができない。

山頂広場には、観光用の望遠鏡もあるのが、かなり古そうだ、
おまけに不思議なことに、この手の望遠鏡はコインを入れて
数分間覗くようになっているのが普通なのだが、何故かここの
望遠鏡はコインを入れずしても見えてしまう普通の望遠鏡だ。

望遠鏡のレンズにカメラを押し付けて見て(撮って)みよう。


まあ、普通に蒲原の町の景色が見えるだけだ(笑)

この手の望遠鏡を前にすると、いつも思うのだが、何故、
人は、これで景色を見たいと思うのだろう?という事だ。
だいたい、今、望遠鏡で見ている町から登ってきたのだし、
また、そこに降りていくわけで、わざわざ遠くから見る必要は
無いのだが、何故か望遠鏡があると覗きたくなってしまう(笑)

ちなみに、望遠鏡越しのこうした撮影は、コンパクトカメラが
やりやすいのだが、一眼レフではMF(マニュアルフォーカス)
に切り替えて、望遠鏡で写る映像にピントを手動で合わせて撮る、
コンパクトでもMFが可能な機種では、それを使うと良い。

10月初旬の初秋とは言え、気温は25℃を超え、ましてや
山登りをした後では結構暑く感じる、用意してきたペットボトル
の水も、ほとんど飲んでしまった。
ここでしばらく素晴らしい景観を見ながら汗がひくまで待って
その後は一気に蒲原の町まで降りていくことにしよう。


以下略
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 15時34分02秒 ) パスワード

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E7%AC%A0%E4%BA%95%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF

ココ 笠井氏について参考になるかも ということでコピペしておきます。




笠井城 - Wikipedia


http://ja.wikipedia.org/wiki/ 笠井城



笠井城(かさいじょう)は、静岡県浜松市東区笠井町(遠江国)にあった日本の城。 ... 年(1458年)には、城は存在したと思われて築城者は、武田家臣の笠井氏と考えられる。




「遠江国へどうぞ」 - 史跡夜話
ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/enshu.html


ようこそ 史跡夜話「遠江国へどうぞ」の史跡一覧です。 遠江国は ...



浜松市中区元城町

苦難の家康を支え続けた城/他.


笠井城

浜松市東区笠井町

忠死の誉れ、笠井肥後守の故城.




続家紋でたどるあなたの家系 - Page 32 - Google Books Result
http://books.google.com/books?isbn=4797107324 - Translate this page

千鹿野茂 - 1998 - ‎Heraldry
川井近江国蒲生郡河井邑より起こるか。宇多源氏、またはい釘抜き紋を用いる。笠井遠江国浜名郡笠井庄より起こる。桓武平氏族、他に違垣部藤原氏支流〔宽政譜^〕。



延喜式神名帳 東海道 遠江國toomi - 神奈備にようこそ
kamnavi.jp/en/toomi.htm

延喜式神名帳に所載、遠江国浜名郡五座の内猪鼻湖神社也。勧請は景行天皇十九年と伝う。 ..... 静岡県浜松市笠井町1348-1 阜嵐健 六所神社 式内多賀神社の項に掲載 ...


熊野那智大社文書 6: 総索引 - Page 50 - Google Books Result
http://books.google.com/books?isbn=4797104066 - Translate this page

続群書類従完成会 - 1991
風間出羽守〈美作国〉 063 かさま殿く伊予国北郡〉 2 171 花山法皇〈天皇,法皇〉 5 ... 阿波国穴吹〉 1 91 葛西河内守—重村葛西河内四郎左衛門尉—友村笠井小三郎左衛門— ... 川西殿 2 217 葛西けいつ(系図) 2 54 かさい(葛西)の源さ衛門子孫一門く遠江国〉 ...



目次へ - ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム
http://trc-adeac.trc.co.jp/.../2213005100100020?dtl=a...

Translate this page第一節 松平氏のおこり. 松平氏の発展. 桶狭間の戦の意義 ... 遠江国侍の来降 · 引馬城の内紛 · 家康引馬城入城 ..... 笠井市閉鎖令. 増産と興産. 新田開発 · 新源太夫堀.



笠井城 - Wikiwand
www.wikiwand.com/ja/笠井城



Translate this page笠井城(かさいじょう)は、静岡県浜松市東区笠井町(遠江国)にあった日本の城。 ... 年(1458年)には、城は存在したと思われて築城者は、武田家臣の笠井氏と考えられる。


[PDF]
奧山半僧坊道案内資料Tはここをクリック
www2.wbs.ne.jp/~ota/hansobodoannaishiryo-1.pdf


Translate this page江戸時代よ り笠井村では 「笠井市」が開かれ,. 遠江国における流通経済の拠点であったが). 商人により合計4 0の店舗が並び, 賑わった。 明治3 2年には笠井街道が市場の ...



(注)報国隊について
www.asa1.net/siseki-meguri/.../h7-houkokutai.html


Translate this page国学者、遠江国長上郡参(さんじ)野(の)(現浜松市参野町)に生まれる。初め式部、 .... 初代勝彦は長上郡笠井村(浜松市笠井町)で稲荷明神の神官も勤める。二代勝定の ...



カメの集まるスポット
katumasa1225.hamazo.tv/

Translate this pageApr 23, 2012 - 笠井の市」は遠州織物の集積地として全国的にも有名でした。 笠井に ... ・) 永暦年間(1160ごろ) 京都新熊野神社へ遠江国羽鳥(はとり)庄を寄進する。


今日はもう寝ます。
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月16日 16時39分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いただいた情報の中に、宝物の情報があるかも知れません―
 続群書類従の中の「源左衛門子孫一門」云々です……。

 これから新年会です―
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 22時25分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


良い子の三つ柏さんはそろそろ御帰還になってる時間帯かもですね。
友達は多い方が良いのでお付き合いは大事です。
どこからどんな情報が入るか分かりませんからね。


で、昨日、何かを検索してたら   川井  川井  川井  という名字が数回目に入って来て
なんでしつこく  川井氏が出て来るの?捜してるのは川井氏じゃないのに  と思いつつ


    あれ?何だっけ?川井氏って何の関係だっけ?


こんな感じで<全く>思い出せなくて(汗)寝ました。

    歳ですね
    今朝起きて来て  「おー!おー!おー!」  と思い出しました。汗

記憶が続かなくなってます。近い情報ほど記憶に残らない。。。汗
もうかなり老人脳ですね。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 22時33分46秒 ) パスワード

どこで見たのか?おそらく御殿山と笠井氏を検索してた時ではないかと思いますが見当たりません。


で、http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/site3/sub1.htm  に河村氏について書かれていて
この中に  カワイ氏  についての項目があります。


その部分コピペ:


 応仁の乱のさなかに上洛した今川義忠は、将軍に謁見して、遠江国懸革荘の代官となるべき勅命を承け、その後の東遠は、今川氏と斯波氏による遠州争奪戦の渦中となった(39)。 

◎曹渓山法泉寺末寺分布図[『遠州曹洞宗小末寺帳』(大日本近世史料)
        及び『曹渓山法泉寺開創五百五十年記念誌』]

@観応寺  上西郷北袋                二世即庵 文明カ
A林慶庵  上西郷梅ケ谷               三世徳扶 文明後期カ
B宝寿庵  上西郷長間                四世久山 天文元年
(久山の示寂と一致しない)
C粟林寺  五明                    四世久山 
D海蔵庵  五明                    (不明)
E徳雲寺 上西郷御堂ケ谷               六世正室
F法正寺  金谷町大代                四世久山

◎大代河村氏の縁戚分布図(近世)[竹内理三編『荘園分布図』上巻]

@桶田村
元禄十一年(一六九八)
 佐々木五郎左衛門家
A宮脇村
享保九年 (一七二四)
                           市平弟孫太夫婿入
B牛淵村
天保十四年(一八四三)
                           渡辺伝平・平重家より嫁入
C板沢村
十一代河村市平の妻
                          栗田孫右衛門家より嫁入
D西方村
十二代河村宗平の姉
伊藤傳九郎家へ嫁す
E曹渓山法泉寺
F龍燈山法昌院
G河村家

 今川義忠麾下の河井氏が、鶴見氏の横岡城に対する拠点として大代字天王山を選び、その砦を守るべく、争乱の地河村荘から河村氏を招いたのは、この時期であったと考えられる。
 横地氏の所領に接する河村荘に、相模から移住してきた河村氏は、今川方に属して斯波方横地氏との均衡を保っていたが、その地が主戦場となるに及んで、河井氏の招きをうけ入れ、居住地を大代に移したものであろう。
 大代の地は、西に粟が嶽をへだてて、今川家被官の朋友河井氏が松葉城を居城としていた。河井氏は、平治の乱のとき、河村氏と同様に義朝方に与して敗れ、遠江に土着した中納言宗忠の末裔であるとされている(40)。やがて三百年の歳月を経て、はなれていた二つの糸がふたたび絡みあうように、河井宗忠三女は、大代河村家の初代宋心に嫁すことになる。(『安養寺過去帳』等には、河井宗忠三女を「松葉城主三女」、初代宋心を「助二良父」と附記している。) 
大代河村家と松葉城とを繋ぐ古道は、現在も部分的に利用されている。
 河村家から三本沢沿いに、通称たけ山の山頂へ向かう山越えのこの道は、途中までは舗装された林道であるが、斜面の中腹から林に入り、地図の上では赤線の道となって山頂に達している。山頂から松葉へ下る道は、四十九折れの道から松葉の滝に通じていて、今でも林業関係者はこの道を利用している。
 多くの人馬がこの古道を行き来していた頃、山頂付近で、松葉へ向かう河村家の馬が絶命し、葬られたとき建てられたという馬頭観世音の墓標は、今も草むらに埋もれている。
 以上を要約すれば、相模国河村城落城の二年後、本貫地遠江国河村荘付近へ移住した河村氏を追って、河村氏と同族の舂屋宗能が、河村氏と深い因縁を有する糟屋氏を伴って訪れ、河村荘の西北約二里の滝の谷に曹渓山法泉寺を創建、のちに、法泉寺四世久山芝遠は、さらに大代へ移住した河村氏の菩提寺として、龍燈山法昌院を建立したものと考えられる。


   二  今川氏と河井宗忠

    (一) 天王山城と河井宗忠

大代天王山の山頂付近にある大きな井戸は、今は茶園造成の土砂に埋もれて、みるかげもなく草むらに覆われているが、ほんの最近まで、常時十トンほどの豊かな清水をたたえ、中世と変わらぬ空の色を映していた。一間四方もある丸太組のこの井戸が、農業用水として使われなくなったのは、昭和の末年ごろのことである。
そこから、尾根をへだてて百メートルほど西に、現在も絶えることなく透き徹った水の湧く泉があって、昭和二十年代頃まで、その山頂の泉のまわりには、水田が耕されていた。その昔、天王山を守っていた兵士たちの喉を潤すには充分の水量である。
 また山頂の茶園から、無数のかわらけとともに出土した古鏡は、明治四十三年まで天王山の山頂に建っていた大宝神社(42)の宝物と思われるが、のちに大代神社に奉納されたあと、紛失して行方がしれない。
 『遠江古蹟図繪』の三十九「野守池」の一節に、夢窓国師が金谷に滞留し、「寺を一箇寺建立したまひ開山と成る。寺号を龍燈山安養寺と云ふ。」と記されている。
 『静岡県榛原郡誌』上巻には、この一節をうけて、
  因みに云、前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此処に居り、其付近に法昌  院を創して自ら開基となり、安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも後年又別地に  安養寺を再興せるもの即現時の寺其ものなりと云ふ。
 とある。
 現在の安養寺は、河村家よりも谷間の奥にあり、砦として使えそうな急峻な地形の上に立っている。本尊は、慶長年間に利生寺に移され、その製作年代は、鎌倉期あるいはそれ以前の作とされる(42)。また、安政二年(一八五五)の『安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳』に、「比帳面ハ奥乃村長松院様ヘ相納候帳面ニ御座候以上」とあり、長松院と安養寺との関係が確認された(43)。
 また、法昌院の鎮守は、白山妙理大権現と宗忠八幡大菩薩とされ、宗忠八幡は今でも法昌院の境内に建っている。河井八幡とも呼ばれ、昭和二十六年九月十五日の河村小次郎による祭文も残されるなど代々河村家によって祀られてきた(44)。
 『静岡県榛原郡誌』上巻に、現存する龍燈山法昌院について、次の記述がある。
  大代村法昌院の寺記中に(今井氏の載録せられたるものに據る。)
法昌院 開創、當院奮記に觀應二年三月五日臨濟宗夢想國師開山とあり、後    文祿元年二月川合宗仲公其奮跡に就て精舎一宇を
  建立し、歸依に依り當國佐野郡上西郷村法泉寺八世玄達和尚を
請して開山と為す、故に川合公を開基と稱す云云(法昌院明細書)。
過去帳寫
開山 通山玄達和尚 應仁三月廿四日化す
    二世 揚山順番和尚 文明二年十一月二十二日寂す              
   開基 法昌院殿補庵宗忠大居士   明應五年九月十日
   月桂院殿慶室妙讃大師川合宗仲妻  明應五年九月十日
但夫婦共佐野郡奥野長昌寺池の傍に自殺
とあるも、蓋後人の傳承を記述したるものなるべければ年代其他に杜撰多きが如  し(夢想國師は観應二年九月遷化なれば少しく訝しけれども、斯る類例は他にもなきにあらず、   されども文禄は應仁元年より百二十餘年の後なれば長祿などの誤にやあるべき )、されど何  等か因縁を有したることは自ずから窺知せらるるのみならず、郷人平井磯次氏の  談に法昌院の附近に一地區あり、之れ今川氏の臣河合宗忠の城址なりと傳ふと云  へり、

この、文中にある「一地區」こそ、天王山であったと推定される。
その根拠は、諸書に記されているが、平成九年三月十九日の現大阪大学村田修三教授の御説は、それを決定づけるものと思われる。
当日、村田教授は御体調を崩されて、現地視察こそされなかったが、天王山付近の立体模型と地図、資料等に基づいての御説を、金谷町教育長室において約一時間にわたって披露され、町史編纂専門員片田達男氏と私とで拝聴した。
村田教授の論旨を要約すると、次のようになる。
  @時代についても、平面的にも、河井氏と河村氏との連合軍が、この地域を領し   ていたものと考えられる。
  A大宝神社は、河井氏の宗教領域の境界を示すものであろう。
 B天王山が、茫漠とした城として用いられた可能性は充分ある。茫漠とした城と   は、堀や堀切をつくらず、自然の地形をそのまま要害とした戦闘拠点であるが、   平時には、例えば大宝神社のように民衆ともかかわっていた。

   (二) 今川氏と河井宗忠

 本章の主題である今川氏と河井宗忠との係わりについては、以下『掛川市史』の河井宗忠に関するいくつかの論点について考察を加えながら記してみたい。

(1)『掛川市史』上巻五一八頁・四行目
 同時代史料である『円通松堂禅師語録』には「菊源氏川井成信」と書かれ    ているのである。河井も河合もまちがいではないが、ここでは川井と書くこ    とにしたい。
『掛川市史』上巻五一八頁・一一行目
    『松堂高盛禅師語録』にははっきりと「菊源氏川井成信」と書かれている

『円通松堂禅師語録』に「菊源氏川井成信」と書かれている個所は認められない。また、『松堂高盛禅師語録』なる書は『新纂禅籍目録』(駒澤大学図書館・昭和三十七年六月発行)には掲載されていない。
明應五年(一四九六)九月十日、今川氏親の家臣河井宗忠が、松葉城在城のとき、鶴見因幡守と勝間田播磨守の連合軍に急襲されて戦死したとするのは、深沢山長松院十世中興活山鉄獅和尚の『当院開基来由扣記』(45)を根拠としている。
『当院開基来由扣記』とは、寛延三年(一七五○)、大阪天満の松景山冷善院主である義誉上人の質疑に答えて、活山和尚が上人宛に送った書簡の写しで、長松院は元文四年と宝暦元年の二度の火災によって書物を悉く焼失していたために活山和尚が伝承などをもとに『当院開基来由扣記』を記したものである。
即ち、『円通松堂禅師語録』にみえる「菊源氏成信 」「宗忠菴主」を、今川氏親家臣松葉城主河井宗忠と同定したのは、『当院開基来由扣記』に初見である。
また姓については、文明三年(一四七一)〜同五年(一四七三)に、長松院開山石宙永珊によって筆録された『人天眼目抄』に「懸河河井氏」とあるのが初見である。『当院開基来由扣記』もまた河井としていることから、姓は河井と書くのが妥当であろう。

 (2)『掛川市史』上巻五四四頁・三行目
 …川井成信の戦死の日を明応五年九月一○日としている。なにによって     その月日が記されたのかはわからないが…

河井宗忠について、『円通松堂禅師語録』にみとめられるのは、僅かに次の三個所である。
        悼輔菴宗忠菴主
  明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
  因野衲述贅言一章。為還郷一曲以餞行去。
  因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
  端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
         宗忠菴主初七日經
  向一毫端上。七莖  紅。無三無二妙。不滅不生宗。
  剣樹刀山壊。 湯爐炭融。鷲峰與今日。貫卻寸心忠。
 悼宗鏡童子
 源氏成信侍中之二男。法諱宗鏡童子者。文明丙午之歳孟夏之月初誕也。
 容顔美麗。精神聰敏。如越谿蓮。似荊山玉矣。父母慈愛鞠養。朝暮不離      懐抱。恨成人遲。期長生計。已及丁末僅二歳也。茲仲呂二十八日。忽得      病苦。逾月累日。將向季夏。而爺孃酸辛謹致丹誠。 爾上下神祇。頻加      醫藥。以療養。嗟吁天哉。不得靈驗。不幸短命而死矣。二親慟哭。戀慕      切也。余雖阻重山復水。傳聞其餘哀不淺。感慨不止。故寄伽陀一章。以      欲截愛河之流。拂迷雲之暗。誠是 錐不達之謂歟。一如他南泉指庭前花。     召大夫云。時人見此一株花如夢相似者乎。若能一撥 轉。豈唯公與陸公      執手而合。天地同根萬物一體之道而已哉。宗鏡童子忽免不孝之罪過。爲
  導雙親之孝子必爾矣。
 「明應丙辰秋之季十日」とは明応五年季秋十日、即ち陰暦九月十日を指しているものと思われる。あるいは秋之季(あきのすえ)と読んでも、やはり陰暦九月十日を指すものであろう。
 本文中屡々『円通松堂禅師語録』が引用されているにもかかわらず、「なにによってその月日が記されたのかはわからない」とするのは、不思議なことである。

(3)『掛川市史』上巻五四三頁・一〜三行目
 早雲は、徐々に原氏と共同歩調をとる国人領主たちを追いつめていったの    である。
その具体的な戦いの経過がわかるのが、明応五年(一四九六)の松葉攻     めである。松葉城は前の章でみた国人領主川井成信(号宗忠)の居城であっ    た。

『掛川市史年表』(46)には、明應五年九月十日の項に「河井宗忠、反今川勢により松葉城で倒れる。」とあり、同時に刊行された『掛川市史』の右の記述と『掛川市史年表』とは矛盾している。 
河井成信を反今川とする説の発生は、どの論文を端緒としているのだろうか。
ここに小木早苗氏の「今川氏の遠江支配」(48)がある。掲載誌の発行は昭和五十四年である。
 その河井氏に関する一節を抜粋してみる。
  …(原氏は)以前より付近の土豪とも一揆的結合があったらしく、川井氏など  もこれに同調していった。
二十年近くの空白を経て氏親が遠江侵入を開始するのは、明応三年(一四九四)  のことと思われる。氏親の遠江における初見文書は、明応五年(一四九六)七月 ◎遠州東部
@河村荘
A堀内城
B横地城
C長松院
D山口
E法泉寺
F松葉城
G安養寺
H河村家
I法昌院
J天王山
K横岡城
L勝間田城
M孕石
N湯日

◎遠州中部
@原田荘
A高籐城
B円通院
C堀越
D川井
E友永
F掛塚

  十八日長松院(現掛川市日坂町)に出した禁制である。
長松院は川合氏の菩提寺であり、川合氏は氏親の遠江侵入開始とともに滅ぼさ  れたものである。
この説の根拠を注釈にみると、
  広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にして  ー」(『地方文化の伝統と創造』地方史研究協議会編)(48)
「長松院文書」(『静岡県史料』第四輯、二二四頁)
 とある。
 「長松院文書」ではもとより河井氏を今川方としているので、ここでは昭和五十一
年に発行された広瀬良弘氏の前掲論文の一部を抜粋してみる。
   …これらの多くは原氏一族と思われ、原野谷川流域に居住していたものと思わ  れる。また、やはり原氏と連繋を保っていた菊源氏川井成信は原野谷川上流で孕  石(原氏一族の孕石氏の居住地)の東方、松葉に根拠に置いていた。(傍点筆者)
この説の典拠を注釈にみると、
 『円通松堂禅師語録』四
とある。
広瀬氏前掲論文の次の一節には、明らかな地理的誤解がある。
   …原野谷川上流で孕石(原氏一族の孕石氏の居住地)の東方、松葉に根拠に  置いていた。
河井氏の居城松葉城は、原野谷川上流ではなく、原野谷川から東へ尾根をいくつか越えた倉見川上流にあって、原氏の居城高藤城から、直線距離にして十キロほど北東に離れている。
 また『円通松堂禅師語録』に、菊源氏成信について記されているのは、前掲の三個所だけであるが、そのいずれにも、河井氏が原氏と連繋を保っていたとは書かれていない。広瀬氏が、「連繋を保っていた」とする根拠は不明である。
ところで、広瀬論文の二年前、昭和四十九年に、秋本太一氏が「今川氏親の遠江経略」(49)を発表している。その一節に、
 …(原氏は)松葉の川井氏等とも連携を保っていたことも、同語録によって知  ることができる。(傍点筆者)
とあり、広瀬論文(前掲傍点部分)の表現は、この秋本論文と酷似していることがわかる。また、秋本氏も、「連携を保っていた」とする根拠を明らかにしていない。
秋本氏は、原氏一族寺田氏の出自である松堂高盛が、河井宗忠の戦死に際して詩偈を贈ったことに象徴される河井氏との親密な基調を、『円通松堂禅師語録』の底流に見たことで、河井氏が原氏と連携を保っていたとしたのであろうか。とすれば、例えば孕石氏と河井氏とを比較したとき、歴然たる原氏の血族であり、原野谷川沿いに原氏と領地を接していた孕石氏は、河井氏より一段と強固な連携を原氏との間に保っていてもよさそうであるが、そうとも断定し得ない。実際、明応六年(一四九九)、孕石氏は原砦を攻撃している(51)。
 秋本氏は河井宗忠反今川説の根拠を、さらに『円通松堂禅師語録』の一節に求めている。
  しかし、同(明応)五年になると、松葉城主川井成信の戦死という事件が起こ  ってくるが、これも前記語録によって明らかにされる。
             悼輔菴宗忠菴主                         明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
       因野衲述贅言一章。為帰郷一曲以餞行去。
        因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
        端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。

続く
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 22時34分32秒 ) パスワード

この川井氏の事件については、古くより今川氏のために戦死したと伝えられて  いるが(『遠江風土記伝』『掛川誌稿』)、同語録の内容からみると原氏に殉じて  今川軍に討たれたとみるのが妥当のように思われる。最後の皇州も.駿州とみる  より原氏の遠陽州を指したと解すべきであろう。これに対する今川側史料として
  は、明応五年七月十八日長松院に掲げた氏親の禁制が認められる。(『長松院文  書』)。深沢山長松院(掛川市大野)は、川井氏の居城松葉城(同市倉見)に近  く、氏親の禁制は同城攻撃に際して出されたものとみられる。ついで同年九月廿  六日、氏親は同寺院に寺領を寄進しているが、これは戦斗の終了を意味したもの  であろう(長松院文書)。
『円通松堂禅師語録』に、「皇州」という言葉は、この七言絶句の他には認められない。また、「皇州」を、遠陽州と読むべきであろうか。
 「皇州」の使用例を各種の漢和辞典から引用してみる。
    (T)辞源三(商務印書館)
指帝都。南朝宋鮑照氏集二代結客少年場行詩¨“昇高臨四關’表裏望皇州。”       唐李白李太白詩二古風之十八¨“衣冠照雲日’朝下散皇州。”
(U)辞海(上海辞 出版社)
犹帝都。謝眺《和徐都曹出新亭渚》詩¨“宛洛佳邀遊’春色満皇州。”
(V)辞海下冊(臺灣中華書局)
猶言帝都謝眺詩『春色満皇州』
  (W)大漢和辞典(大修館書店)
  帝都〔鮑照、代結客少年場行〕升高臨四關、表裏望皇州。
    〔謝眺、和徐都曹出新亭渚詩〕宛洛佳邀遊、春色満皇州。
      (X)増補辞源(角川書店)
帝都をいふ。鮑照詩「繁霜飛玉關、愛景麗皇州」
 (T)〜(V)は中国版、(W)(X)は日本版である。これらの使用例はすべて、「皇州」を帝都の意味で用いている。
 使用例のないものとして次例がある。
(Y)大字典(講談社)
我が國の稱。神州。
 このように使用例の限られた特殊な「皇州」という言葉を、十五世紀中葉の足利学校に学んだ英聖松堂高盛が、遠陽州を指す言葉として用いたとするのは無理があるように思われる。一心忠義徹皇州、の解釈は、河井成信の一心忠義は京都(帝都)にまで知れ渡った、とするのが妥当ではなかろうか。
つぎに、明応五年七月十八日長松院に掲げた左記の氏親の禁制に、松葉城攻撃の文言は認められない(52)。
      (花押)
  於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、仍而如件、
    明應五年七月十八日
 明応五年当時、長松院住職は氏親の叔父とされる教之一訓で、長松院開基である河井成信は存命中であった。秋本氏の説によると、長松院二世教之一訓は、生存している開基河井成信を討たんとする今川氏親に、礼銭を携えて禁制を求めたことになる(52)。生きている開基を討つ側にその寺の和尚が与するとは奇怪なことで、後世まで喧伝されるたぐいの話であろうが、そのような風説は寡聞にして知らない。逆に『当院開基来由扣記』には、「公夫妻嘗参院二代教之和尚而聴法」と記されている。
 即ち、この禁制は、長松院付近一帯が戦場となるために、長松院が反今川勢力を恐れて、開基河井成信の主君今川氏親に禁制を求めたとする解釈が妥当であろう。
つぎに、明応五年九月廿六日の氏親の寺領寄進文書に、戦闘終了を意味する文言は認められない。
   遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺並五段田事右、為料所     奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
      明応五年九月廿六日
                       五郎(花押)
            長松院
 長松院への寺領寄進は、今川期には、氏親が明応五年と永正弐年、義元が天文六年と天文十一年、氏真が永禄三年と、今川氏代々寄進が受け継がれている(53)。徳川期にも寄進は続けられるが、今川期に寄進された寺領の内「金屋郷深谷・下西郷内仏道寺並五段田」が減じられていることが次の朱印状写(54)からわかる。
 徳川家康朱印状
   遠江国佐野郡奥野村之内五十八石七斗任先規寄附也并山林竹木諸役等
   免除証者仏事勤行修造等無懈怠可勤仕之状如件
    慶長八年九月十九日 家康朱印
秀忠の代にも五十八石餘、家光の代には四拾八石餘と減じられて爾後家綱以下家茂に至るまで同文の朱印状写が、長松院に保存されている。
 今川期の寄進石高は記録にないが、明治十三年七月に記された『曹洞宗長松院明細帳』の「由緒」の項に「○慶長八年九月十九日徳川家康公ヨリ更ニ五拾八石餘ヲ受ク 傳ヘ云フ今川氏ヨリ受クル所ノ二十分ノ壱ナリト」とある。
これを袋井市春岡の西楽寺と比較してみると、今川期には、義元が天文十二年と二十一年、氏真が永禄四年と永禄八年、永禄十年に寺領を安堵している(55)。豊臣期には、天正十八年十二月廿八日豊臣秀吉寺領寄附朱印状に遠江国西楽寺領事として合百七拾石とあり、徳川期にも、慶長八年九月十一日の徳川家康寺領寄附朱印状写に西楽寺領事として合百七拾石とある(56)。今川から豊臣の間に、寄進された寺領に変化がなかったと思われる根拠は、天正十八年の豊臣秀吉寺領寄附朱印状の次の一節である。
   然上者如有来門前諸役・山林竹木等令免除候也
 即ち、今川、豊臣、徳川と、時代の変遷に伴う地理的価値等の変化によっても、西楽寺においてはさほど寄進の石高に変化がなかったものと思われる。
 このように比較してみると、長松院への今川氏と徳川氏の寄進額の多寡から、今川氏が開基河井宗忠の戦死を悼んで、如何に長松院を厚遇したかが推測される。
即ち、明応五年九月廿六日、氏親の寺領寄進文書は、今川氏親家臣河井宗忠の戦死を悼んで、河井氏を開基とする長松院に与えられたとするのが妥当であろう。(58)
 河井氏を反今川とする説の形成過程は、ほぼ明らかになった。
昭和四十九年の秋本論文、昭和五十一年の広瀬論文、昭和五十三年の小木論文、この三論文によって、約五百年間に渡って語り継がれた史観は逆転したかにみえたが、その三論文の根拠をたどれば、『円通松堂禅師語録』をでていない。新たな史料が発見されたわけでもなく、『当院開基来由扣記』から約二百三十年後に、単に『円通松堂禅師語録』の解釈を反転させたというにすぎない。


続く
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 22時35分25秒 ) パスワード


三  河井宗忠と大代河村氏


明應五年(一四九六)から『当院開基来由扣記』の書かれた寛延三年(一七五○)までは約二百五十年の歳月を経ているが、寺を子とすれば開基と開山とはその父母にも比すべきもので、来歴を重視する寺の日課の回向文として、歴代の住職に日々詠み継がれるものであるから、『当院開基来由扣記』に記された長松院草創期の内容は、概ね正しいとみてよいと思う。
 即ち、私は、『円通松堂禅師語録』にみえる「菊源氏成信」は松葉城主河井宗忠であり、また宗忠が氏親の家臣であったために、明應五年九月十日の宗忠戦死を悼んだ氏親が、同年九月二十六日に長松院を香華所として土地を寄進したとする説を是とする。
  (一)

 第一の根拠は、河井氏あるいは山名郡川井村と遠江今川氏との関わりあいは古く、その歴史を背景に、やがて斯波氏との火蓋が切られんとする文明の初年、朝比奈備中守が掛川城を築くころに、河井宗忠も今川義忠の家臣として松葉城主に取り立てられたと推論しても不合理ではないからである。
『今川家譜』によれば、三河国今川荘の今川氏は、弘安八年(一二八五)ごろから遠江との関わりをもちはじめている。
 遠江における直轄地は極めて少なく、建武四年(一三三七)の足利尊氏下文にある河会郷と八河郷の二カ所が知られているにすぎない(58)。即ち、後に遠江今川氏と河井氏との関係が生まれる以前に、すでに駿河今川氏と河会郷との関連が認められる。
 応安四年(一三七一)には、今川貞世の九州下向に従軍した武士として「合戦ニ相伴フ侍、遠江・駿河ノ人々、横地・勝間多・奥山・井伊・笹瀬・早田・河井」とある(59)。また貞世が九州探題を罷免されたあと、応永の乱に荷担したとして誅伐されんとしたとき、「忽に可致誅伐よし、鎌倉へ被仰付しを、甥の泰範は日比争論事有り、了俊とは不快にて有りしかとも、かかることは肉親の恨なり、比時、いかてこらうへきとて、身命をなけうち、頻に御訴訟申、了俊父子、其身安穏にて漸々遠州堀越・川合・中村を懸命地に安堵し、此処にて閑居有り」とも記されている(60)。
 のちに堀越氏を名告る遠江今川氏の本貫地堀越に隣接しているのが川井であり、川井を本貫地とする河井氏と遠江今川氏との関係は密接であったことが、地理的にも窺える。堀越川井と掛川は、今川了俊系の勢力下にあったものと思われ、将軍家奉公衆の闕所地であった(61)。
 長禄三年(一四五九)八月、今川範将を盟主とする中遠一揆が勃発したが、範将は駿河葉梨郷に敗死、寛正六年(一四六五)、堀越川井は御料所となって狩野七郎右衛門に与えられている(62)。堀越河井両氏は本貫地を没収されて勢力が衰え、この時期の今川氏陣立てに名を連ねることはなかったであろう。
 ところで、原田荘を本貫地とし、中遠を代表する国人領主であった原氏は、中遠一揆のとき、堀越氏を盟主としてその麾下にあった。応仁の乱においては、『今川記』に、「今川義忠いつまてかくて有へきとて、分国の勢千余騎引率、先陳原・小笠原・笠原・浜松・庵原・新野を先として、後陳は高木蔵人・葛山・朝比奈丹波守等也」とあるところをみると、少なくとも文明八年(一四七六)の義忠戦死の頃までは、原氏は河井氏とともに今川方に属していたものと思われる。松堂高盛(一四四一〜一五○五)が、日高山円通院の住職を継いだのは応仁元年(一四六七)のことで、『円通松堂禅師語録』はその年から始まっている(63)。即ち松堂禅師は、発生以来今川氏への一心忠義に徹している河井氏と、応仁から文明初期までは今川方であった原氏がやがては斯波氏に属してゆく姿とを明確に識別しながら、『円通松堂禅師語録』を記述したものと思われる。
 文明二年(一四七○)、今川義忠は、細川勝元の要請により、斯波方の後方攪乱のために遠江へ進入する(64)。
 文明三年(一四七一)、河井成信は石宙永珊を招いて開山とし、自ら開基となって、懸河大野に深沢山長松院を開創した。『人天眼目抄』によれば、「懸河河井方、母儀点海妙愛ノ佛事ノ用意ニ罷越留守ニ此聴聞ハアリ」とある。これは河井氏の初見文書であり、川僧慧濟のこの講筵は文明三年から五年の間であることが、中田祝夫氏によって明白になった。同氏は、東京大学史料編纂所本『人天眼目抄』の筆者は石宙永珊であろうとしている。
 即ち、長松院創建の文明三年以前に、すでに河井成信が懸河に拠点を築いていたことは明らかである。長松院末として文明十年に創建された聖寿寺(遠江国豊田郡岡村)(65)及び文明十三年創建の養勝寺(遠江国榛原郡下湯日村)が、ともに天竜川と大井川河口の湊に近い要衝地であることを考えれば、河井成信による深澤山長松院の開創は、今川義忠の後押しによる斯波方への一連の布石の端緒であったと推測される(66)。また聖寿寺と養勝寺は、ともに後の長松院二世教之一訓を開山としている。
 懸河に居城をもつ鶴見氏が、文明以前に、河井氏によって横岡城へ追われたことは、後の鶴見氏松葉城攻めの遠因となったのかもしれない。その横岡城の背後から、古瀬戸後期四段階のものと思われる古窯が発掘された。藤沢良祐氏(瀬戸市埋蔵文化財センター)は、これを一四五○年前後から一四七○年代までのものであろうとしている。これは、推論した鶴見氏移住の時期と一致しているし、また、川根沢窯及び三ツ沢窯からの遺物が、横地氏・勝間田氏関連遺跡からの出土遺物と一致していることは、鶴見氏と横地・勝間田両氏との交流をも裏付けているものと思われる。また、瀬戸は当時斯波氏の勢力下にあって、そこから志戸呂へ陶工が移住し高度な窯業技術を伝えていることは、鶴見氏が斯波氏に属していたことを窺わせるものである。 
 『掛川誌稿』「鶴見氏故居」の条に、つぎのように記されている。
 郭中中西ト云所、木戸口ノ内ニ鶴見氏ノ屋敷跡ト呼所アリ、相傳昔遠州ニ三十六  人衆ト云士アリ、其中鶴見因幡守栄壽ト云人、父子三代五十餘年此所ニ居リシト  云、又栄壽ノ城跡、今榛原郡ノ志戸呂横岡ニアリ、此人明應五年、倉見松塲ノ城  主河井宗忠ヲ襲テ討レ、宗忠モ亦死ス、此事奥野長松院ノ記及松堂録ニ載タリ、  然レバ鶴見氏ノ掛川ニ住セシハ、築城以前ノ事ナリ、
 横岡に移住した鶴見氏が大代から安田を抜けて、長松院の脇を流れる逆川を下ると、やがて文明七年(一四七五)の戦場となる山口に出る。山口は南の河村荘に接し、さらに南は横地氏の所領へと続く。長松院の立地は、鶴見氏と横地氏との連携に楔をさし、河村荘の河村氏を援護するための絶好の地点に今川氏の支城として位置している。
この河井成信の遠江復帰を足掛かりにして、今川義忠は、遠江への本格的攻略を開始した。
 文明五年(一四七三)、将軍警護のために上洛していた今川義忠は、幕府に働きかけて、今川方河井成信の勢力下にある懸革荘の代官職を拝命すると、直ちに帰国し、遠江国守護職奪回のための布石を東遠に打ちはじめる(67)。
『駿国雑志』は、この経緯を次のように記している。
 又義忠上京、前将軍義政公、並細川勝元に拝謁す。止る事二百余日、其後臺命あ  り、急ぎ分國に下向し、三遠の賊徒を退治せしめ、海道一遍の管領たるべきの承  命あり。義忠領承し、急ぎ皈國す。家臣朝比奈備中に命じて、遠州掛川に新城を  築く。文明七年春、遠州の住人横地某、勝間田某等謀叛す。
義忠が預け置かれた懸河荘は、南の横地氏、東の勝間田氏が反旗を翻したとき、それに呼応して、横岡の鶴見氏が大代川を遡行して倉見川源流から一気に南下すれば、目前に懸革荘が現れ、鶴見軍は容易にその北面を衝くことができる。その倉見川を押さえるために、河井成信を松葉城主として配したものと思われる。
 このように、懸革荘の北面にあたる倉見川筋に今川方の河井松浦両氏を配した後に、重臣朝比奈備中守に命じて掛川城を築城したものであろう。
 河井成信が、横岡城鶴見因幡守への備えとして、相模から本貫地遠江国河村荘に還住した河村氏を、大代天王山城を守るべく招いたのは、河村荘一帯が一触即発となる文明五年(一四七三)の頃であったとみるのが妥当と思われる。
 今川義忠にとって、松葉城と長松院とが、きたるべき斯波方との戦に備えて掛川城を守るための重要な布陣であったように、河井宗忠の松葉城にとって、三女を嫁がせた河村宋心(助二良父)の守る大代天王山城は、東の鶴見・勝間田両氏に対峙するための要衝であった(68)。
大代河村氏が鶴見因幡に備えて守ることとなった天王山城の山頂に、明治四十三年まで建っていた村社大寶神社(69)について、現大阪大学村田修三教授は、この大寶神社は、松葉城主河井宗忠の宗教領域の境界を示すものであると考えられている。   一方、現在の掛川市倉見川のほとりに建つ松葉神社の、「大寶天皇」と刻まれた鳥居の額について、宮司の戸塚操氏のお話では、「大寶天皇は松葉城の頃からあり、河井宗忠公の勧請によるという伝承が残っている」とのことである。 
 『神社名鑑』によると、大宝天王社、大宝社、あるいは大寶神社は全国に九社のみ記載され、また静岡県神社庁の調べでは、現在それらの名を冠する神社は静岡県内には認められない。
 即ち、松葉城と天王山城とに、ともに祀られていた大寶天王社の名が歴史上極めて稀少な社名であることは、松葉城主河井宗忠と天王山城主河村宋心(助二良父)とを繋ぐ証左のひとつであると考えられる(70)。
  奉寄進大法天王鰐口、願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日、大工又二郎
藤枝市安楽寺にこの銘文が刻まれた鰐口がある(71)。これは大代河村家二代目助二良が、天文七年(一五三八)、地名を冠して大代助二郎を名告り、天王山城内の大寶神社に鰐口を寄進したものと思われる(72)。
 文明六年(一四七四)、義忠は遠江見付府中城にあった狩野氏と吉良氏被官の巨海氏を討ち滅ぼし、引間に進出して斯波氏と対峙。このとき中遠一揆に敗死した今川範将の子貞延が、兵一千余騎を義忠に付けられて引間城を攻めている。 翌年、文明七年(一四七五)、義忠は、斯波方の国人横地勝間田連合軍と小夜の中山付近で戦い、そのとき前出の遠江今川氏堀越陸奥守貞延が戦死する。翌文明八年(一四七六)、義忠は横地・勝間田軍を殲滅するが、凱旋の帰途、塩買坂で残党の襲撃を受けて落命した(73)。
 『静岡県史』によれば、今川義忠戦死のあと文明の内訌を経て、突然三通の河村荘関連文書があらわれる。
 最初は、文明十五年(一四八三)五月二十日、二通目は、長享二年(一四八八)三月十八日、ともに後土御門天皇が、遠江国河村荘等を鴨祐長とその子鴨祐平に安堵すると云う内容で、甘露寺親長から中御門宣秀にあてられた奉書案である(74)。河村荘がもともと賀茂社領であったことは、寛治四年(一○九○)七月十三日の寄進文書によって明らかである(75)。
 三通目は、延徳二年(一四九○)二月十八日に、中御門宣秀から清閑寺家幸に送られた綸旨案で、後土御門天皇が、遠江国河村荘を清閑寺家幸に安堵すると云う内容である(76)。
 すなわち、三通の文書は、鶴見氏に対峙するために河村氏が大代へ立ち去ったあとの、荘園所有権の混乱に対する奉書案と見れば、河井氏に追われた鶴見氏の横岡城築城は寛正から文明初年、河村氏の大代移住は文明中、三通の文書は文明末から延徳と、矛盾なく年代順に整列する。
『尊卑分脈』によれば中御門家は河村荘を立券した観修寺家の一門であり、甘露寺親長は中御門宣秀の外祖父、のちに宣秀の妹は今川氏親の妻となり、また氏親の家臣として河井宗忠、宗忠の三女が嫁した大代河村家、そして河村氏の本貫地が奉書案の
河村荘であることを思うと、同時代に河村荘をめぐる人々をつなぐ細い糸が見えてきたようにも思われる。

  (二)

河井宗忠と今川氏とを繋ぐ第二の根拠は、深沢山長松院開基河井宗忠が、開山の石宙永珊、二世の教之一訓にともに参じていることである。開山石宙永珊とは『人天眼目抄』に、二世教之一訓とは『当院開基来由扣記』に確認される。特に教之一訓は、今川氏親の叔父ともされている(77)。この一訓和尚が、開基河井成信の居城を攻撃しようとする今川氏親に、礼銭を携えて禁制を求めたとする説は、どのように考えても頑じ得ないことは前述した。

(三)
                                       河井氏が今川方であったとする第三の根拠は、河井成信の居城松葉城落城の二年前
、明應三年(一四九四)に、伊勢長氏が原氏の高藤城を攻撃したことである(78)。『円通松堂禅師語録』によれば、文明の初年までは明らかに今川方であった原氏が、この頃は斯波方の勢力下にあって、その発生から宗忠戦死に至るまで今川氏への一心忠義に徹した河井氏とは、すでに袂を分かっていたものと思われる。おそらくは、原氏が血族の孕石氏と決別したのもこの時期であろう。
 原氏の居城高藤城は、松葉城から西へ尾根を幾つか越えたところにある。もしも河井成信を反今川とすれば、明應五年(一四九六)に、長松院に禁制を出してまで攻撃しようとした松葉城を見過ごし、掛川を通過して南から高藤城を攻めたことになる(79)。これでは、高藤城を攻めている際に、河井・松浦両氏にたやすく背後を突かれ
たであろうし、退路を断たれたであろう。
即ち、伊勢長氏は、河井松浦両氏を親今川として退路を確保した後に、高藤城を攻撃したと考えるのが妥当であろう。
 今川氏親は、明應五年七月十八日と、同年九月二十六日に、長松院宛文書を発行しているが、これ以前の今川氏の動向を年代順に整理してみると、まず、『円通松堂禅師語録』によれば、明應三年(一四九四)八月、伊勢長氏が原谷郷に侵攻し、松堂高盛の円通院が焼失する(80)。翌明應四年八月、伊勢長氏は伊豆国から甲斐国に侵攻し、直ちに講和を結んで退却(81)。同年九月、長氏は、鹿狩りを装い、突如小田原城に大森藤頼を攻め、手中に収める。ところで、『静岡県史』によれば、明應三年八月から明應五年六月までの約二年間に、伊勢長氏あるいは今川氏親が発給した文書の宛先は、長氏が伊豆国に対して一通(82)、氏親が駿河国に対して四通である(83)。すなわち、
河井成信戦死以前の約二年間、伊勢長氏は、伊豆国から関東を固め、氏親は駿河国の支配強化に努めていたことを窺わせる。
 明應五年(一四九六)七月十八日、氏親の叔父一訓和尚からの要請によるものと思われる長松院宛文書がある(84)。
          (花押)
  於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、
  仍而如件、
   明應五年七月十八日
 この書状を契機に、長松院開基として氏親の叔父一訓和尚に深く参じ、今川氏被官である河井宗忠は、斯波方鶴見勝間田両氏と、一触即発の対立関係に発展した。
 明應五年九月十日、その日の河井成信の所在は知る由もないが、長松院裏手の宝篋印塔と五輪塔、また今なお長松院境内に祀られている若宮権現「鎮守護法宗忠居士」を人々が尊崇していることを思うと、自決の地は、氏親の叔父一訓和尚の待つ長松院境内であったと考えるのが妥当と思われる(85)。
 直ちに今川氏親は鶴見勝間田殲滅戦の火蓋を切る。
 『掛川誌稿』「鶴見氏城跡」の条に、
  今川家の時、大井川の東相賀村に偽旗を張り、奇兵を長者原より下して此城を陥  たりと云傳ふ。
 とあり、現在も横岡城の対岸に旗方(はっさし)の地名を残している。また、鶴見因幡守が討ち取られ、井戸に身を投げた奥方はやがて唇の紅い小蛇と化して井戸の中に棲息し、人々に畏れられたとも伝えられる(86)。
 明應五年九月二十六日、氏親は河井成信の死を悼み、長松院に采地を寄進する旨の書状を、叔父の長松院二世教之一訓和尚に送っている。この経緯を『深沢山長松院誌』は、次のように記している。
 公の戦死を聞いて今川氏親は大いに悼み、采地として
  『遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺 五段田事右、為料所     奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
      明応五年九月廿六日
                       五郎(花押)
       長松院』
 を寄進し長松院を香華所とし、永く菩提を弔い堂内に、霊牌を祀りて開基英檀と  称し、門外に一宇を設けて鎮守の神と恭敬せり
法名は 宗忠 川井院殿補庵宗忠大居士
御内 月渓院慶室妙讃 大姉
明応五年九月十日卒

(四)

氏親の反今川勢力掃討戦は、鶴見氏のつぎにふたたび原氏に向けられる。
河井氏が今川方であったとする第四の根拠は、原氏一族の孕石氏が反今川方の原氏を攻めたことである(87)。
明応三年九月に、伊勢長氏が原氏を攻撃。同五年九月十日松葉城主河井成信討死。同六年、氏親、孕石氏に命じて原氏を討伐。同七年十一月十三日に、氏親は孕石行重に国衙を給与している。
仮に倉見川筋の河井氏が反今川であったとすると、今川方孕石氏は、東に河井氏、南に原氏の反今川勢力に挟撃され、明応七年に原氏の要害を攻める以前に滅亡していたであろう。
 天文八年(一五三九)、原田荘本郷の一分地頭である孕石光尚が「原田荘本郷之内孕石譜代相伝之知行分坪付石米納所帳」および「国役納所之覚書」という二つの帳簿を書写したことは『県史通史編2中世』に詳しい。その文中に、「この文書に現れる地名は、本郷内とはいっても、原野谷川上流の山間部に点在しており、田地より畠・山野が圧倒的に多い地域である。」とある。また、孕石氏知行分田地の総計は多くみても六・三町(別帳簿は五・六四町)にすぎない(88)。一方、原氏の本貫地原田荘の初見史料である弘長二年分の原田荘細谷村正検取帳の写しを見れば、細谷村の総田数は四十七・七一町である(89)。これは原田荘地頭職原氏知行分一村のみの田数である。河井氏の田数は不明だが、氏の細谷村一村で比較しても原氏と境界を接する孕石氏が、南の原氏と東の河井氏の挟撃に耐えられるほどの勢力を有していたとは思われない。
 従って、孕石氏一人が今川方として、反今川勢力に包囲されていたとするには、地理的にも、その勢力においても無理がある。即ち、河井成信は孕石氏とともに今川方として、東方から孕石氏を援護していたものと推論される。
  本節を概観すると、河井成信については『人天眼目抄』を初見文書とし、つぎに『円通松堂禅師語録』に成信戦死の詩偈と初七日經、また二男宗鏡童子の死を悼む一文があって、それから約二百五十年後の『当院開基来由扣記』に、初めて後世に伝わる河井氏観の始源が記された。河井成信を語る史料は、以上の三点のみである。
 『当院開基来由扣記』が書かれてから約二百三十年後の昭和五十年前後に、『円通松堂禅師語録』をもとに、視座を逆転させるかにみえた三論文(秋本太二「今川氏親の遠江経略」『信濃』二六巻一号、広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」『地方文化の伝統と創造』、小木早苗「今川氏の遠江支配」『駿河の今川氏』第四集)が現れたが、その根拠は脆弱で、五百年に渡る史観を揺るがすほどのものではなかった。


続く
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 22時36分16秒 ) パスワード

おわりに

以上、河村氏の発生から中世末期までの過程を検討した本稿の概要は、次の通りである。
保元三年、波多野義通の弟秀高は、遠江国河村荘に土着して初めて河村姓を名告り、後に嫡男義秀は相模国波多野本庄の西へ招かれて河村郷を起こした。そのとき遠江国河村荘に残った三郎高政は、建久二年十一月、北条時政に荘園を寄進している。
 永享十年八月、相模河村城は持氏方大森氏に滅ぼされ、同年九月初旬に、将軍義教方の先鋒今川範忠が河村城の南約一里の地、関本(おそらく本陣は最乗寺)に陣を取っている。そのとき、落城した河村氏は今川軍に属したものと思われる。
 永享十一年一月、今川方小笠原正行が河村荘堀之内に配され、永享十二年には、最乗寺四世舂屋宗能禅師が河村荘の北西二里の地に法泉寺を創建している。おそらくそのころ、大森氏に追われた西相模の豪族は、今川氏によって、東遠に散在する斯波氏闕所地に配されたものと思われる。城を失い今川氏に属した河村氏も、本貫地河村荘内に還住の地を与えられ、その後、今川と斯波の遠州争奪戦の一翼を担うことになったものであろう。
 文明五年、今川義忠は、懸革荘代官職を任命された頃に、従来からの今川氏被官河井成信に深沢山長松院を創建させた後、松葉城主として配置し、懸革荘の北面にあたる倉見川筋に親今川勢力を布陣したものと思われる。また、河井成信は、掛川から横岡へ移城した鶴見氏に対峙するために、三女の嫁した河村宋心(助二良父)を河村荘から招いて、大代天王山城を守らせた。その後河井成信は、今川家お家騒動の時期に原氏が斯波方に属しても、山名郡河井郷に発生して以来仕えてきた今川氏への一心忠義に徹し、明応五年、斯波方鶴見・勝間田軍に襲撃されて戦死した。その死を悼んで今川氏親が長松院に寺領を寄進して以来、今川氏は代々多額の寺領寄進をつづけている。
天文七年十一月、大代河村家二代目助二郎は、外祖父河井成信、亡父河村宋心の遺志を継いで、天王山城の山頂に大宝神社を勧請した。
 奉寄進大法天王鰐口、願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日、大工又二郎
右の銘文が刻まれた鰐口は、今も藤枝市安楽寺に保管されている。
 今後の課題は、戦国末期における大代河村氏と金谷宿河村氏の一家両属の結果、武田に属した大代河村氏は土着して大代村の名主となり、徳川に属した金谷宿河村氏は島田金谷に柏屋屋敷を拝領して金谷宿本陣となってゆく両家の過程を究明することである。


年代│ 十二世紀末  十三〜十四世紀   十五世紀   十六世紀 │
│巻│ 秀清 │
州│大│ 大巻城 │
│内│ 秀基元中元年、斯波氏に追われて佐比内に居館を移した│
奥│比│ 河村館 │
│佐│ 舂屋宗能(出奥州藤原氏) │
模│北│ 舂屋宗能 │
│ │ 義秀 最乗寺四世 │
相│山│ 河村郷    河村城落城 │
│川│ 舂屋宗能 │
│ │ 秀高 高政 法泉寺創建 法泉寺四世久山芝遠 │
│菊│ 河村荘 河村荘を北条氏へ寄進 河村氏移住 │
│ │ 法昌院創建 │
江│代│   天王山城主 │
│ │ 忠學宋心居士 │
│ │ 自雲妙性大姉 助二良 │
│ │  松葉城主三女   大寶天王鰐口寄進│
遠│大│    安養寺 │
│ │ │
│川│  松葉城主 河井宗忠 大寶天王 │
│掛│ 長松院創建 │


平成十一年二月十九日  完


   註

(1) 『新編相模國風土記稿巻之十六』村里部 足柄上郡巻之五
(2) 『駿河記』附録四七五〜四七六頁
(3) 『尊卑分脈』左大臣魚名公五男
(4) 『静岡県史』資料編4古代一四五九号
 賀茂御祖皇大神宮諸国荘園〇賀茂社文書 京都府賀茂御祖神社所蔵
日供料
庄園十九箇所
御厨九箇所
寛治四年七月十三日、賀茂御祖社被奉不輸田七百四十五町、為御供田、
近日依有夢想、被供御膳也、且是依神税不足也、又分置御厨於諸国、       俗諺曰、将亡聴政於神、此謂也、
官符
遠江国河村庄  公田三十町
(以下 庄園十八箇所略)
右依有託宣、自寛治三年漸有御沙汰、或社司経奏聞、或公家召注文、
件日被始進云々、自而以降大八膳也、
御厨散在所々
播磨国   伊保崎
(以下 御厨七箇所略)
抑御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也、仍櫓棹通路浜      可為当社供祭所之条、寛治以来代々宣旨以下勅裁分明也、見旧記
○鴨脚秀文文書「代々聖主勅願祭奠并御起文遷宮之年記新加崇重         御遊神領御寄附之事」の記事に「遠江国河村庄 公田三十町」の         記述が見える。

    『掛川誌稿』巻十城東郡河村庄(静岡新聞社、一九九七年)
      河村庄 本所、半済、加茂、西方、富田等ニ続タル諸村ヲ、河村庄七十 村ト称ス、サレトモ其村ハ詳ニセス、又其内ニ友田、和田、澤水賀、西 深谷、倉澤、石神ヲ、河村庄七村ト称ス、
(5) 『保元物語』上・中・下
『吾妻鏡』治承四年十月十七日条
      十七日丙申。為誅波多野右馬允義常。被遣軍士之處。義常聞此事。彼討 手下河邊庄司行平等未到以前。松田郷自殺。子息有常者在景義之許。此 殃義常姨母者中宮大夫進朝長母儀。典膳大夫久經為子。仍父義通就妹公 好。始候佐典廐之處。有不和之儀。去保元三年春之比。俄辞洛陽。居住 波多野郷云々。
(6) 『吾妻鏡』治承四年十月十七日条
(7) 『吾妻鏡』文治五年八月九日条
九日、丙申、入夜、明旦越阿津賀志山、可遂合戦之由被定之、爰三浦平      六義村・葛西三郎清重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・ 藤沢次郎清近・河村千鶴丸年十三才、以上七騎、潜馳過畠山次郎之陣、越 此山、欲進前登、是天曙之後、与大軍同時難凌嶮岨之故也、(後略)
    『吾妻鏡』文治五年八月十二日条
     十二日己亥。一昨日合戦之時。千鶴丸若少之齢而入敵陣。發矢及度々。
      又名謁云。河村千鶴丸云々。二品始令聞其号給。仍御感之餘。今日於船
      迫驛。被尋仰其父。小童為山城権守秀高四男之由申之。依之。於御前俄
      加首服。号河村四郎秀清。加冠加々美次郎長清也。此秀清者。去治承四      年。石橋合戦之時。兄義秀令与景親謀叛之後。牢籠之處。母二品官女号      京極局。相計而暫隠其号。置休所之傍。而今度御進發之日。稱譜第之勇      士。企慇懃吹擧之間候御共。忽顕兵略。即開佳運者也。晩景令着多賀國      府。(後略)
(8) 『静岡県史』資料編中世一ー三五六号
    吾妻鏡
廿三日、戊辰、以遠江国河村庄、本主三郎高政奉寄附
北条殿、有愁訴之故也、
(9)『新編相模国風土記稿』巻之十六村里部足柄上郡巻之五
      般若院 室生山 往古は恵華山と号せり、是文殊を安ずるが故なる由、(中略)
      智積寺と号す古義真言宗、開基は河村山城守秀高と云、縁起に見ゆ、往古      川村郷の領主たり、(中略)文殊を本尊とし、愛染を置く(後略)
『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世L─四七四

   天保六年
 文殊堂建立施主附帳
    未 九月吉日

      大代村 同
        正地 渡辺三郎右衛門 印
      鍵取 組頭
        高柳重三郎 印 杉山平馬 印
      願主 同
       御林守 孕石平蔵 印
        河村市平 印
       世話人 金谷町本町世話人
        山内清兵衛 印 一金弐分弐朱 河村八郎左衛門
       同 一金壱分 櫻井浅右衛門
        渡辺清左衛門 印 一金壱分   永寿講連中
       御林守 一金弐朱   塚田弥五右衛門
        山中庄兵衛 印 一金壱朱   塚田弥惣八
        (後略)
(11)『神奈川県史』資料編五九七四号
    川村章一『川村家の歴史』(私家版、昭和三十八年)
(12)『吾妻鏡』文治五年八月十二日条
    『吾妻鏡』建久元年八月十六日条
十六日戊戊。馬塲之儀也。先々會日。雖有流鏑馬競馬。依事繁。今年始 被分両日也。二品御出如昨日。爰流鏑馬射手一両人。臨期有障。已及闕 如。于時景能申云。去治承四年所与景親之河村三郎義秀。為囚人景能預 置之。達弓馬藝也。且彼時与黨大畧預厚免訖。義秀獨非可沈淪歟。斯時 可被召出哉者。仰曰。件男可行斬罪。由下知畢。于今現存。奇異事也。 然而優神事。早可召進但非指堪能者。重可處罪科者。則招義秀。召仰此      旨之間。射之訖。二品召覧其箭之處。箭十三束。鏑八寸也。仰曰。義秀 依達弓箭有驕心。与景親之條。案先非。今更奇恠也。然猶可令射三流作 物。於有失礼者。忽可行其咎者。義秀又施其藝。始終敢無相違。是三尺 手挟八的等也。觀者莫不感。二品變欝陶。住感荷給云々。
『吾妻鏡』建久元年九月三日条
三日甲寅。大庭平太景能申云。河村三郎義秀。於今者可被梟首歟者。仰 曰。申状太不得其意。早可處其刑之由雖被仰付。景能潜扶之歴多年也。 依流鏑馬賞厚免訖。今更何及罪科哉者。景能重申云。日来者爲囚人之間。 以景能助成活命。 以蒙免許之後。已擬餓死。如當時者。被誅事還爲彼 可爲喜歟者。于時二品頗令咲之給。可還住于本領相模國河村郷之旨。可 下知者。
(12)桐田幸昭『中世小夜中山考』一○六頁、(私家版、    年)
(13)『静岡県史』資料編中世三ー一三七号
(14)『静岡県史』資料編中世三ー三五七三、三ー三五七四、四ー八二四、
     四ー一八七六号等
(15)拙稿「冑佛考」(『甲冑武具研究』一○五号、一九九四年)
拙稿「続冑佛考」(『甲冑武具研究』一一三号・一一四号、一九九六年)
(16)『太平記』十・十四・二十五・三十一・三十二・三十三・三十八
『鎌倉九代後記』史籍集覧所収
(17)『神奈川県史』資料編五九七四号
(18)『川龍院(大代河村家永代院号)家先祖累代霊位(位牌)』(河村家所蔵)
『永代家系記録』(河村勝弘編、河村家所蔵)
(19)拙稿「続冑佛考・第二回」(『甲冑武具研究』一一四号、一九九六年)
(20)『重続日域洞上諸祖伝』巻第二
     最乗寺舂屋能禪師傳
    師諱宗能。號舂屋。出奥州藤原氏。師状貌魁壘。気宇英邁。稍長慕佛師 學。歸最乗大綱和尚室而給侍焉。綱令師研究本来面目話。師日月孜孜不 已。一日過農家。聞舂米聲。忽然撞著。這面目回告所解。綱曰。麼生會。 師曰。去年梅今歳柳。顔色聲香依舊。綱然之。師 辭去遊方。路徑遠州。 渇掬河流飲之。其味甚美也。自謂。渓上必有靈境。乃溯流至源。雙山競 秀而有一帯瀑布。恰似支那曹渓山。側有老尼。縛茆而居。師就求其地卓      庵。後作寶坊。今曹渓山法泉寺是也。(後略)
『曹渓山法泉寺開創五百五十年記念誌』一○頁
     四世 久山芝遠大和尚
      三世徳扶宗健大和尚の後を継ぎ法泉寺四世となり曹渓山の法燈をまもる。
      後五明村に高覚山栗隣寺を開山、又長間に長閑山法寿庵を、更に榛原郡      大代村に龍燈山法昌院を開く。享禄元年(一五二八)十二月二十九日示 寂
『法昌院明細書』
(22)『重続日域洞上諸祖伝』巻第二
    『新編相模国風土記稿』
『大雄山誌』
(22)『吾妻鏡』建久元年十一月七日条
(23)『静岡県史』資料編中世一ー三九二号
(24)『神奈川県史』資料編五九七四号
河村城責落候、目出候、雖不始事、今度其方忠節無是非候、
      殊式部少輔振舞感悦至候、巨細奕首座可物語候、謹言、
八月廿一日     (花押)
大森伊豆守殿
(25)『今川記』(『続群書類従』巻六百二今川記第四)
     然に今川上總之介泰範。京都の仰を蒙り。關口四郎。小笠原掃部助。斉      藤加賀守葛山を先かけの大将として。足柄山を越て關本の宿に陣を取       る。
(26)『静岡県史』通史編2中世三八八〜三八九頁
(27)『掛川市史年表』一○頁(掛川市史編纂委員会、一九九七年)
永享十一年一月 小笠原正行、河村荘堀之内(菊川)に配され堀内を名     乗り、子行重堀之内城主となる。
(28)大塚勲「遠江堀内城主堀内氏」(『地方史研究大井川』第三号、大井川地方史    研究会、一九七九年)
(29)『吾妻鏡』文治五年八月十二日条
(30)『静岡県史』資料編中世四ー一七五九号
      曹渓山法泉禅寺者、舂屋大和尚開山塔頭之霊地也、(後略)
(31)『大雄山誌』附録の二
(32)『掛川誌稿』第二巻佐野郡二日根上郷上西郷村(静岡新聞社、一九九七年)
『掛川市史』上巻五八五・五八六頁
(34)『遠州曹洞宗小末寺帳』(大日本近世史料『諸宗末寺帳』所収)
       遠州法泉寺末寺  通幻派
観應寺 同國西江村     四石
林慶庵  同國同村      壹石
宝寿庵  同國五明村     壹石五斗
      粟林寺  同國西江 壹石
海蔵庵  同國西江 壹石五斗
徳雲寺 同國同所      壹石六斗
法正寺 同國大代村     六石
    『掛川市史』上巻三七三頁表3・三八五頁表4
『曹渓山法泉寺開創五百五十年記念誌』
(34)『掛川市史』上巻三七三頁表3・三八五頁表4
『曹渓山法泉寺開創五百五十年記念誌』
(35)『掛川誌稿』第十巻城東郡桶田村(静岡新聞社、一九九七年)
       桶田村
  小笠山ノ東南ニアリ、庄屋五郎左衛門カ先祖ヲ、佐々木桶田殿ト称ス、 依テ其宅辺ノ田地ヲ桶田垣戸ト呼フ、後一村ノ名トナル、
(中略)
佐々木五郎左衛門 旧家ナリ、今竜崎氏ト称ス、世々庄屋ヲ務ム、先祖 京師ヨリ来リテ住ス、佐々木桶田殿ト称セシニ依テ、宅辺ノ田七八反ノ 間ヲ桶田垣戸ト呼フ、墳墓モ亦其中ニアリ、先祖ノ遺物槍一本、鐙一双 ヲ蔵ス、按ニ太平記ニ、佐々木道誉カ舟岡山軍ノ時、五郎左衛門高秀、 五郎左衛門定詮ト云二人ノ五郎左衛門アリ、一人ハ道誉カ子、一人ハ其 従弟ナリ、此村ノ佐々木氏サル名家ノ名ヲ称スルヲ見レハ、定詮等カ一 族京ヨリ来テ土着セシニヤ、今佐々木氏両家アリ、本家ヲ五郎右衛門ト 云フ、庶流ヲ五郎左衛門ト云、
(36)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世D―92
         乍恐以書付を奉願上候御事
      一、大代村名主市平儀去十月病死仕倅八十吉・幼年ニ而御役儀難相勤奉      存候ニ付、後見相立市平・倅ニ名主役被仰付候様ニ村中百姓共奉願上候、      大代村・之儀ハ前々より市平平馬両人ニ而御役儀相勤来リ候・在所ニ御      座候得ハ古来之通り両人相立申度奉願候・市平儀も草切以来之名主ニ御      座候、村受八十吉十六才・ニ罷成り候得ハと少シ間後見仕候ハゝ末々名      主役も相・勤り可申与乍恐奉存候、依之市平弟孫太夫義・弐十ヶ年以前      ニ懸河御領宮脇村へ養子参住所・仕候得共、市平分地をも所持仕、其上      当村出生之者ニ・御座候得バ気立も存知罷有候ゆへ右孫太夫後見・ニ而      八十吉ニ役儀被仰付被下置候様ニ惣百姓とも奉願上候御事・右御願申上      候趣平馬方へ数度訴申候得共存知寄御座候得ハ奥印不罷成候由申候ニ付      乍恐拙者とも名印・計リニ而御願申上候御慈悲ニ被為聞召訳願之通リ被      為仰付被下置候ハゝ末々之者迄難有奉存候以上
                 寛保三年亥三月
以下百六名印(傍点筆者)
(38)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世X―500
(39)『安養寺過去帳』(『永代家系記録』、河村勝弘編、河村家所蔵)
(40)『静岡県史』資料編中世二ー二六○九号
(41)『深沢山長松院誌』昭和三十二年四月発行
(42)『静岡県榛原郡誌』上巻
    『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―2・3・4・他
    『榛原郡神社誌』
    戸籍謄本
(42)『金谷町史地誌編』四三○頁
(43)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世L―477・479
     L―477「安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳」
     L―479「金銭諸払作米取立葬式諸般結算帳」
(44)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―23・25
(45) 掛川市長松院所蔵(原本)
(46)『掛川市史年表』(掛川市史編纂委員会、一九九七年)
(47)小木早苗「今川氏の遠江支配」(『駿河の今川氏』第四集、今川氏研究会、一    九七九年)
(48)広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にし    てー」(『地方文化の伝統と創造』地方史研究協議会編、雄山閣、一九七六     年)
(49)秋本太一「今川氏親の遠江経略」(『信濃』二十六ー一、信濃史学会、一九七    四年)
(50)『静岡県史』資料編中世三ー二五四号
 「孕石殿    氏親」
遠江国山名郡内貫名郷国衙引田之事
右、去年丁巳於原要害依抽忠節、為其賞宛行之了、弥可嗜忠節状如件、
      明応七年戊午十一月十三日
                     氏親(花押)
                孕石殿
(51)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(52)『静岡県史』通史編2中世六五○頁
    『国史大辞典』4「禁制」
(53)『静岡県史』資料編中世三ー二二一、三ー三八八、三ー一四三九
     三ー一六○六、三ー二八二六、三ー二四七○号
(54) 掛川市長松院所蔵(写)
(55)『静岡県史』資料編中世三ー一六二五、三ー一六二六、三ー一六二八
三ー一六二九、三ー二一一二、三ー二一一三、三ー二九八○
三ー三三○五、三ー三三○六、三ー三三九九号
(56)『静岡県史』資料編近世一ー四一二、一ー四一三号
(57)桑田和明「戦国大名今川氏による寺領安堵についてー駿河・遠江を中心に     ー」一一一頁(『駿河の今川氏』今川氏研究会、一九八七年)
      このように、今川氏一族、今川氏と関係の深い人物が葬られた菩提所は、      寺領を寄進された他、多くの特権を菩提所であるということで安堵・寄      進されている。
(59)『静岡県史』資料編中世二ー一七八号
(60)『静岡県史』資料編中世二ー八二五号
(61)『静岡県史』資料編中世二ー一二六九号
(62)『静岡県史』通史編2中世三八八〜三八九頁
    『掛川市史』上巻五○七〜五○九頁
(62)『静岡県史』資料編中世二ー二三四四、二ー二四七○号
(63)『静岡県史』資料編中世二ー二五二七号
(64)『静岡県史』資料編中世二ー二五二六号
(65)開基は門奈美作守。
   『寛政重修諸家譜』巻第九百三十
      藤原氏  支流
       門奈
        今の呈譜に、秀直は波多野三郎義通按ずるに義道は尊卑分脈秀郷流にみえたり
            が後裔門奈玄蕃允昌通が男なりといふ。
      ●直友
         五郎大夫 今の呈譜に、藤太郎秀直に作る。
          今川義元に仕ふ。某年死す。年七十六。法名等専。

      ●直宗
         太郎兵衛 母は某氏。
      今川義元及び氏眞に歴仕し、今川家没落の後めされて東照宮につかへた      てまつり、遠江國豊田郡岡村駒場村にをいて采地をたまふ。天正十二年      五月十八日死す。年六十三。法名淨水。
    (◎この附記によれば、門奈氏は、波多野義通の後裔として、文明十年には、    すでに遠江國豊田郡岡村に勢力を有していたものと考えられる。とすれば、    西相模武士団の一つ波多野氏流の門奈氏が、河村氏や糟屋氏とともに移住し    てきた可能性もある。)
(66)『可睡斎史料集』第一巻寺誌史料、二三三頁(思文閣出版、一九八九年)
(67)『静岡県史』資料編中世二ー二六○九号
(68)『川龍院(大代河村家永代院号)家先祖累代霊位(位牌)』(河村家所蔵)
『永代家系記録』(河村勝弘編、河村家所蔵)
(69)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―2・3・4
(70)『金谷町史』資料編一古代中世一五一号
拙稿「鰐口考」(『金谷町教育委員会主催御林守展資料』、一九九六年)
(71)『静岡県史』資料編中世三ー一四八○号
(72)拙稿「鰐口考」(『金谷町教育委員会主催御林守展資料』、一九九六年)
(73)『静岡県史』資料編中世二ー二四九四〜二四九六号
(74)『静岡県史』資料編中世三ー三八号
         三八    甘露寺親長奉書案  親長卿記
        鴨社河合禰宜祐長申、越中国寒江庄・越前国志津庄御米分・備後国勝      田本庄・遠江国河村庄、任当知行之旨、可令領知之由、可被書遣
      綸旨之由、被仰下候也、謹言、
           五月廿日    親長
          蔵人弁殿
    『静岡県史』資料編中世三ー一一二号
         一一二 甘露寺親長奉書案  親長卿記
       鴨社前権禰宜祐長遺跡并当社領越中国寒江庄、除庶子部分、越前国志      津庄御米分・備後国勝村本庄・遠江国河村庄、任故祐有卿譲与旨、代々      相伝当知行不可有相違之由、可令不知比良木社権祝祐平給之由、被仰      下候也、謹言、
            三月十八日
        進上    蔵人左少弁殿
『静岡県史』資料編中世三ー一一三号
         一一三   後土御門天皇綸旨案 宣秀卿御教書案 
鴨社前権禰宜祐長遺跡并当社領越中国寒□庄除庶子割分、越前国志       津庄御米分・備後国勝田本庄・遠江国河村庄等事、任故祐有卿譲与旨、
代々相伝当知行不可有相違者、
      天気如此、悉之、以状、
        長享二年三月十八日    左少弁判
        比良木社新権祝館
(75)『静岡県史』資料編古代一四五九号
(76)『静岡県史』資料編中世三ー一三七号
         一三七  後土御門天皇綸旨案 宣秀卿御教書案
      故海住山大納言家領遠江国河村庄・近江国勅旨田等事、就被遺跡相続、
      任武家下知之知行不可有相違之由、
      天気所候也、仍執啓如件、
        延徳二年二月十八日    左少弁判
      謹上 右中弁殿  表書名字也、
(77)『金谷町史』資料編一古代中世一四○号頭注(6)
(78)『静岡県史』資料編中世三ー一九三号
(79)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(80)『静岡県史』資料編中世三ー一九五号
(81)『静岡県史』資料編中世三ー二○九号
(82)『静岡県史』資料編中世三ー二○四号
(83)『静岡県史』資料編中世三ー一九八・二一○・二一二号
(84)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(85)『当院開基来由扣記』(原本・掛川市長松院所蔵)
(86)『町の文化財』(金谷町教育委員会、一九九四年)
(87)『静岡県史』資料編中世三ー二五四号
(88)『静岡県史』通史編2中世五二二〜五二五頁
(89)『静岡県史』通史編2中世五一八〜五一九頁
 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 22時54分21秒 ) パスワード

静岡県史によると


   河井氏は、平治の乱のとき、河村氏と同様に義朝方に与して敗れ、
   遠江に土着した中納言宗忠の末裔であるとされている(40)。

                  (40)『静岡県史』資料編中世二ー二六○九号


やはり土地の情報は図書館や教育委員会などにお願いしてゲットしてたくさん読まないといけませんね。


まさか義朝が出て来るとは思いませんでした。



宗忠とはどんな人物かと検索したら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B8%AB%E9%A0%BC
源師頼の所に出てました。


源 師頼(みなもと の もろより、治暦4年(1068年) - 保延5年12月4日(1139年12月26日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の嫡男。修理大夫・橘俊綱の養子[1]。官位は正二位・大納言。小野宮大納言と号す。

左近衛少将・左右中弁などを歴任し、寛治8年(1094年)6月蔵人頭に任ぜられる。承徳2年(1098年)参議として公卿に列し、康和元年(1099年)従三位に叙せられる。

嘉承元年の年末(1107年1月)、自分より後に参議になった藤原宗忠・源基綱が先に権中納言に昇進した[2]ことをきっかけに、師頼は朝廷への出仕を取りやめてしまう[3]。加えて、天仁元年(1108年)には3年間出仕しなかったことにより殿上籍を削られたが、このことにより却って師頼は隠遁の意思を強くしてしまい、父・俊房の没後の大治年間に入るまで20年以上も出仕しなかった。また、師頼の籠居は父の俊房を深く悩ませたという。


^ 『中右記』

2.^ 藤原宗忠・源基綱の権中納言任官時期は嘉承元年12月27日(1107年1月29日)。2人の参議任官時期は、藤原宗忠:康和元年12月(1100年1月)、源基綱:承徳2年12月(1099年1月)。(『公卿補任』)

3.^ 藤原宗忠は「其後嘉承元年予并任基綱中納言後籠居」(『中右記』大治4年9月7日条)と記している。なお、藤原宗忠は、のちに師頼が中納言になったことを聞いて、彼が18、9年出仕しない間に18人が(参議であった)師頼を飛び越して中納言になったと嘲笑する記述も残している(『中右記』大治5年10月5日条)




時代的に宗忠の孫のあたりの子孫かもですね。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 02時40分32秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E4%BA%95%E5%9F%8E

笠井城(かさいじょう)は、静岡県浜松市東区笠井町(遠江国)にあった日本の城。

概要[編集]

笠井城は、資料が無く城史は不明だが長禄2年(1458年)には、城は存在したと思われて築城者は、武田家臣の笠井氏と考えられる。

城主には、笠井肥後守がいる。

笠井城には、遺跡が無く御殿山稲荷が立っている。また御殿山稲荷は、明治29年(1896年)に尾張国の画工・司馬老泉が笠井に来住した時に御殿山稲荷の再興に携わり、参道入り口には老泉翁の書で、明治33年(1900年)に建てられたもの。



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http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/seien/kasai.j/kasai.j.html

笠井城(かさいじょう)

                   浜松市東区笠井町 


忠死の誉れ、
        笠井肥後守の故城


 天正三年(1575)長篠の戦い(設楽原古戦場)。武田勝頼率いる一万五千と織田信長、徳川家康連合の三万五千の大軍が設楽原で激突。信長の用意した大量の鉄砲戦術で武田勢は信玄以来の重臣の多くを犠牲にして敗退した。


 現在、長篠の古戦場史跡を訪ねると七十余ヶ所に石碑などが建てられて紹介されている。その内のひとつ、長篠城址から3`ほど寒狭川に沿って北上したところに「笠井肥後守、滝川某相討ノ地」の石碑が建てられている。武田勝頼が設楽原の戦いに敗れ、戦場を脱してここまで来たとき馬が疲れて動かなくなってしまった。これを見た笠井肥後守満秀が自分の馬を主君勝頼に勧め、自らは追手を喰い止めるためにこの地に止まり、徳川方の滝川助義と戦って討死を遂げた。という話しが伝えられている。滝川助義はこの時深手を負い、後日果てたので結果的に相討ちとなった。


 この笠井肥後守満秀の城がここ笠井城であると云われている。城跡といっても稲荷社があるだけで遺構らしきものはなさそうである。静岡県教委の中世城館跡の対象には含まれていないので単なる伝承に過ぎないのかと見過ごされてしまいそうでもある。


 ここ笠井城址の200bほど南に定明寺がある。この寺の開基が長禄二年(1458)笠井備後守定明となっているのである。寺の名もこの人からきている。したがってこの頃には笠井氏の城館が当地に築かれていたとしてもおかしくはないのである。


 笠井肥後守満秀(高利ともいう)が備後守定明の何代目になるのかは分からないが、所伝によれば南朝の臣新田義貞の配下で湊川の戦(1336)において敗走中に主君義貞に自分の馬を与えて踏み止まり足利勢と戦って討死した小山田高家の十二代の後胤であると云われている。


奇しくも満秀は先祖と同様の死に方をしたことになる。小山田氏から笠井氏に至る系譜の詳細は分からないが、武田家重臣の小山田氏との縁によって武田方に身を投じたのであろうか。


 その後、満秀の子の孫右衛門慶秀は大谷吉継に仕え、関ヶ原後は井伊家に仕えたという(「長篠合戦余話」)。



 また他の伝承によれば、徳川家康は武田家ゆかりの側室於都摩の方に産ませた五男の万千代を慶長六年(1601)に元服させて武田家を再興させた。武田信吉と名乗った。翌年には水戸二十五万石の藩祖となり、水戸には武田の旧臣らが集まった。慶秀も弟とともに水戸へ赴き信吉に仕え、信吉急逝の後も水戸徳川家に代々仕えて明治に至ったとも言われている。


 満秀の戦死後、その忠死の美談は後世に語り伝えられたが、笠井城は荒廃するにまかせ、時とともに忘れ去られてしまった。


 明治二十九年(1896)、尾張の画工司馬老泉が笠井に来住、城址御殿山稲荷の復興に携わった。参道入り口の城址碑は老泉翁の書で、明治三十三年に建てられたものである。


画像
長篠古戦場史跡のひとつである「笠井肥後守滝川某相討ノ地」左側と「瀧川助義笠井肥後相討ノ地」右側の石碑(愛知県新城市出沢)。
左が大正3年(1914)、右は平成元年(1989)に建てられた。



http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=PA32&lpg=PA32&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E7%AC%A0%E4%BA%95%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXhVVtMaUd&sig=nFqH-wRB0xUfZXqvsQfOxP8i7D0&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjikvWV7q7KAhVO4GMKHUwJAB4Q6AEILjAC#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E7%AC%A0%E4%BA%95%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

家紋は井筒紋・井桁紋

桓武平氏系、他に違い釘抜き紋も。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 03時45分23秒 ) パスワード

熊野那智大社文書 6: 総索引


http://books.google.com/books?id=zCA8Y7Ydc-0C&pg=PA50&lpg=PA50&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E7%AC%A0%E4%BA%95%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=f5z_Y-DpAf&sig=UuK4oLyM84kFgR5M_92xBAJKYdo&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiv_7v1_K7KAhVFKWMKHXPPDbUQ6AEIOjAE#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E7%AC%A0%E4%BA%95%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


49ページの終りから50ページにかけてカサイ氏です。


・笠井が伊勢国の名字で   葛西は陸奥国の名字
・笠井左衛門が多いですね
・かさい(葛西)の源さ衛門子孫一門<遠江国> B24


となっています。
かさい(葛西)の源さ衛門子孫一門<遠江国>とはどなたでしょうね?

[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 03時52分41秒 ) パスワード

http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/rekidai3.htm
葛西宗家の一門


                      文字化けして読めません


こんな記事があるらしいです:

和田左衛門尉義盛がただちに駆けつけ、これを説き鎮めたという。

.... 米良系図』の笠井氏系図によれば、葛西清重の二男として「伊豆守」が見えるが、時代的に孫世代に当たる。
... 北條六郎, 越後五郎, 遠江六郎, 武藤四郎, 相模八郎, 相模三郎太郎


..... 葛西四郎左衛門尉重村の子孫一門は熊野那智の勝覚院が代々先達職を継承していたが、 ...



ということで葛西四郎左衛門尉重村を検索してみたところ

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%9B%9B%E9%83%8E%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%B0%89%E9%87%8D%E6%9D%91%E3%80%80%E3%81%AF

+―清員 |(壱岐新左衛門尉) | +―重村―――――友村―――――――+―平氏女 (河内守) (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女) | +―清友 (丸子八郎).


ということで   丸子  なんて静岡ですよね。 続く
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 04時03分16秒 ) パスワード

前スレに 丸子 なんて静岡ですよね、と書きましたが
こちらでは  武蔵国丸子  だそうです。


まだ
葛西氏について
熊野那智大社文書 6: 総索引に出て来るカサイ氏の件は <3> です。


壱岐三郎時清とか壱岐六郎左衛門に過剰反応しました。市野氏の子孫に壱岐を名乗ってた人物がいたような記憶なので。




http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kasai1.htm


いわゆる著名な学究といわれる人の著作にも、誤りが散見していることが分かり、愕然とした事情もあります。

 

葛西氏の概観をまず記しますと、下総国葛西御厨に起った称平姓秩父一族であり、豊島氏から分かれています。その本宗は、鎌倉後期ごろには陸奥国牡鹿郡の石巻に遷った模様で、戦国後期には寺池(宮城県登米市登米町寺池)に本拠を移しましたが、秀吉軍に敗北するまで陸奥の雄族として栄えました。一般に、源頼朝にその挙兵以降従い源平合戦・奥州征伐に活躍して奥州惣奉行に任ぜられた葛西三郎(右兵衛尉)清重を家祖としますが、秩父武基の弟・武恒を祖とするこの系統は清重の数代前から豊島と並んで葛西の苗字も併用していたことも考えられます。

 

2 葛西清重は、建保七年(1219)正月までに壱岐守に任じ、承久三年(1221)の承久の変に際しては宿老の「壱岐入道」(清重が出家して壱岐入道定蓮)は上洛を免ぜられて鎌倉におり、貞応三(1224)年閏7月1日、執権職をめぐる確執の中で、北条政子は泰時邸に三浦義村や「壱岐入道」等を招きます。これが『東鑑』の記事としては清重の活動の最後に現れるものとされますが、寛喜二年(1230)正月四日の将軍家供奉に見える壱岐前司は葛西清重のことではないかと私には考えられます。その後、同書の建長二年(1250)三月条には「葛西壱岐入道跡」が見えますから、この頃までには清重は死去しており、暦仁元年(1238)九月十四日に七十七歳で死去したという所伝(「盛岡葛西系図」)は概ね妥当(嘉承三年〔1237〕説もある)なのかも知れません。

清重は「弓箭ノ道」に優れた武者であったとされ(『沙石集』第六巻)、文治五年(1189)七月の奥州合戦のときは、父の豊島権守清光(清元)、弟の葛西十郎(実名は清宣か)とともに従軍し、翌六年(1190)二月の大河兼任の乱に際しても従軍しています。建仁三年(1203)十月条に叡山の堂衆により討ち取られたと見える葛西四郎重元も、清重の弟とみられます。

 

3 葛西清重の子としては、熊野那智大社所蔵の『米良文書』のうち「笠井系図」に嫡子伯耆前司、二男伊豆守、三男井沢七郎左衛門尉、四男葛西河内守重村があげられており、これらが各々順に清親、朝清、時重、重村(清秀)に当たるものと考えられます。この四名の名は、『続群書類従』所収の「千葉上総系図」にも同じく記されており、桓武平氏の系譜のなかでは比較的信頼性が高いとみられる「桓武平氏諸流系図」(越後の三浦和田氏の惣領家中条氏に伝わるもので、『中条町史』等に所載)にも同じく見られます。ただ、後者の諸流系図には、重光の名も清重の子のなかに入れて長男の位置におきますが、重光は弟(上記の葛西四郎重元にあたることは譜註記事から明らか)であり、その譜註記事も清親の記事との間で混乱があります。

  清親は『東鑑』には仁治二年(1241)三月に伯耆前司と見え、宝治元年(1247)十二月に葛西伯耆前司と見えるまで同書に現れますが、途中、寛元二年(1244)八月には伯耆前司清親と見えております(寛元三年八月条の伯耆前司清時はおそらく誤記)。しかし、これは清親が壮年になってからの現れ方で、それ以前に葛西三郎左衛門尉あるいは葛西左衛門尉として安貞二年(1228)二月〜十月に現れる人物が清親にあたるのではないかと考えられます*1。なお、寛元元年(1243)七月十七日条の葛西三郎左衛門尉は清親の息子か伯耆前司との重出ではないかとみられます。

次ぎに、朝清は寛元二年(1244)八月から正嘉二年(1258)三月まで『東鑑』に見え、壱岐六郎左衛門尉あるいは壱岐六郎左衛門尉朝清と記されます。「笠井系図」により、後に伊豆守になったことが知られますし、建治元年(1275)の京都六条八幡宮の造営注文写には「葛西伊豆前司」(年代からみて、「跡」が欠落か)と見えます。『東鑑』には、仁治二年(1241)正月の射的の射手として「葛西六郎」が見えますが、これも朝清とみられます。その二八年も前の建暦三年(1213)の和田合戦のときにも「葛西六郎」が見えますが、御家人制研究会編の『吾妻鏡人名索引』では、この二つの「葛西六郎」を別人として扱っています。これが正しければ、建暦三年のほうは清重の弟に当たりそうですが、この辺は判断材料がありません。
 更に時重は、壱岐七郎左衛門尉時重として建長二年(1250)五月〜康元元年(1256)六月まで同書に見え、途中の建長三年(1251)正月には単に葛西七郎時重と見えます。朝清及び時重は、「壱岐」の通称から見て清重の子であり、年代的に見て伯耆前司清親の弟であることは問題ないと思われます。
  時重は、陸中磐井郡黒沢邑から起こった黒沢氏の祖と称されますが(「笠井系図」の井沢は伊沢郡に因るものか)、管見に入ったところでは、その子に宮野弾正重国と孫次郎清国(町野氏の祖)が見えます。



『六条八幡宮造営用途注文』(『北区史』資料編古代中世)によれば、建治元(1275)年5月、京都六条八幡宮の新宮用途のため、七十貫を負担している「葛西伯耆前司跡」と記されますから、この時点で清親は既に死去していることが分かり、所領を引き継いだ人物(後記のように三郎左衛門尉時清か)が担当したと思わます。他に、「葛西伊豆前司」「同壱岐七郎左衛門入道跡」「同河内前司跡」「同三郎太郎跡」とありますが、各々朝清、時重、重村、□清(□は欠字。清親の長男)とみられます。

 河内守重村の子としては、葛西河内四郎左衛門尉友村があり、その子に平氏女と丸子八郎清友(弘安三年の葛西八郎清基と同人か)があったことは、上記「笠井系図」に見えます(系線では、平氏女と丸子清友は友村の弟妹におくが、記事からは子女とするのが妥当)。武蔵国丸子に清重が領地を賜ったことは、『東鑑』治承四年(1180)の記事に見えます。



*1 『吾妻鏡人名索引』(御家人制研究会編、吉川弘文館刊)では、安貞二年(1228)二月以降に現れる葛西三郎左衛門尉を清重の事績として整理するが、この時点では壱岐前司、壱岐入道となっており、疑問が大きい。太田亮博士『姓氏家系大辞典』の記述のほうが妥当である。この辺の話は後ろでも記述する。

 

4 清親の子としては、三郎太郎□清、伯耆三郎左衛門尉時清、伯耆四郎左衛門尉光清が考えられます。

三郎太郎□清は、『米良文書』のうち「笠井系図」に「西三郎(ママ。「葛」の脱漏ありか)」の子で、小三郎左衛門平光清の兄と見えます。その子に「又太郎兵衛」を記しますが、これが『東鑑』寛元三年(1245)八月十六日の八幡宮放生会に際して行われた競馬の五番に出場した「葛西又太郎」であろうと推されます。葛西又太郎はその後、正嘉二年(1258)正月、文応元年(1260)十一月にも見えており、文応元年時には葛西又太郎定度(ママ。定広か)と記されます。三郎太郎□清は、清親の長子であったにもかかわらず任官もしないうちに早世して、清親の嗣子としては、その弟の時清があげられたものとみられます。又太郎兵衛の子孫は続き、「笠井系図」にはその子(欠字が多いが、前後の関係から左衛門三郎安重か)の子に彦三郎清安、その子に三郎太郎行貞まであげられています。

 

次ぎに時清は、当初は壱岐三郎時清と見え(文暦二年〔1235〕六月)、のちに嘉禎三年(1237)六月には「壱岐小三郎左衛門尉時清」と見えますが、父清親が伯耆守になった後の建長四年(1252)四月には伯耆三郎左衛門尉時清と変わり*2、その四年後の建長八年(1256)年六月の放生会供奉人決定の際にも「伯耆三郎左衛門尉」が見えます。上記「笠井系図」には光清の子として新左衛門尉時清があげられますが、これは系線の引誤りではないでしょうか。

その弟の光清は、宝治四年(1248)八月に伯耆四郎左衛門尉光清と見えてから、弘長三年(1263)七月十三日条まで『東鑑』に現れます。その子に清氏がおり、同日条には光清の子息五郎清氏と見え、同年八月にも伯耆左衛門五郎清氏と見えます。上記「笠井系図」には葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏、その子彦五郎重勝が正応五年(1292)在判で見えます。

また、建長三年(1251)八月十五日条に見える葛西壱岐新左衛門尉清員は、世代と称号から考えると朝清の子ではないかと推されます*3。その前年の建長二年八月十五日条には葛西新左衛門尉清時と見えるのも、清員の誤字ではないかとみられます。



 *2  時清の位置づけについては、「壱岐小三郎左衛門尉」→「伯耆三郎左衛門尉」という呼称の変化から見て、清親の子であり、その嗣子で本宗家督となったことは疑いないが、なぜか清親の弟に置くものが多く、不思議に思っていた。清親の弟とするのは、関東武士研究叢書『葛西氏の研究』(名著出版刊、1998)の編者で同書のなかで「鎌倉時代の葛西氏」を著した入間田宣夫東北大教授の誤解にすぎず、これに依拠したものが多いようだと感じる。

なお、同書所収の今野慶信氏の論考「鎌倉御家人葛西氏について」では、時清について正当な位置づけをされている。『石巻の歴史』第六巻・特別史編の第三章で、葛西氏の系譜をとりあげる石田悦夫氏の見解でも、清親の子で、清経の父におかれている。

*3 清員については、必ず信拠のおける系図ではないが、朝清の子にあげるものも見られる。

 

5 時清の子としては、清経、清時があげられます*4。

清経は、建長四年(1252)十一月の将軍家御出供奉に伯耆左衛門三郎清経と見えるのを初出に、同八年(1256)八月の放生会供奉人として伯耆新左衛門尉清経が見えており、また『香取文書』には文永八年(1271)十二月十日の香取神社仮殿正神殿遷宮の惣奉行として葛西伯耆前司入道経蓮が見えます。  

清時は、建長四年(1252)四月に伯耆左衛門四郎清時と見えます。



*4 清経、清時については誤解が散見する。すなわち、清経を清親の子としたり、清時を時清と混同する例であり、これらは上記の時清の位置づけ同様、当時の武士の呼称、とくに「新」「小」の使い方の誤解に起因している。太田亮博士も、時清と清時とを混同している。

 

かなりクダクダと書いてしまいましたが、この辺りをきちんと整理しておくことが問題解決のために重要であり、以上で『東鑑』に見える葛西一族を殆ど記したことになります。こうして鎌倉期の葛西一族を見てきただけで、いわゆる「盛岡系」の葛西氏系図が疑問なことが分かります。

 

6 清経以降の鎌倉期の葛西本宗をみれば、清経の子は葛西系図では宗清(清宗)とされており、その子が南北朝期に南朝方で活躍した清貞とされております。葛西三郎平宗清は、弘安七年(1284)十二月九日に新日吉の小五月会で流鏑馬を披露したと『勘仲記』にあります。正応元年(1288)七月九日付の『中尊寺文書』「関東下知状」の中には「葛西三郎左衛門尉宗清」「惣領宗清代」という名前が見えており、平泉毛越寺・中尊寺と葛西宗清との争論の裁決をした下知状ですので、宗清が「惣領」であったことが分かります。

  次ぎに、「香取社造営次第案」(『香取文書』所収)に拠りますと、元徳二年(1330)六月に遷宮を担当したのは、葛西伊豆三郎兵衛尉清貞であり、清貞の父が葛西伊豆入道明蓮であり、親父伊豆入道が相論間、遷宮が延引されたと記されます。「葛西伊豆守清宗入道明蓮」は、香取神宮の文書や京都の寺社造営など他の文献にも現れておりますが、葛西三郎左衛門尉宗清との関係が不明です。両者が同人とみれば、系図上の問題はないのですが、そうは言い切れない事情(次ぎにあげる@A)があり、悩ましいところです。

すなわち、@正応元年(1288)に「惣領」である「葛西三郎左衛門尉宗清」が中尊寺・毛越寺を相手に論争をしていますが、その際、葛西伊豆太郎左衛門尉時員・葛西彦三郎親清も宗清とともに争ったとされるからです。

 葛西伊豆太郎左衛門尉時員・葛西彦三郎親清ともに葛西一族の系図には見えませんが、年代と呼称から見て、時員は伊豆守朝清の子孫で、前出の新左衛門尉清員の子(あるいは孫)ではないか、彦三郎親清は前出の彦三郎清安と同人ではないかと私は推しています。

また、A中尊寺蔵の永仁二年(1294)執達状の宛名が「壱岐守殿」となっており、これも葛西三郎左衛門尉宗清を指すものと解されます。

そうすると、時清と清時とが別人であったように、宗清と清宗とは別人であった可能性が大きいものと考えられます。壱岐守宗清と伊豆守清宗とはほぼ同時代人ではないかとみられますが、別人と考えるわけです*5。その場合、伊豆守清宗の位置づけをどう考えるかということになりますが、この頃には葛西本宗家が確立していたのではないかとみられますので、現段階では、伊豆守清宗は伊豆守朝清の子孫ではなく、壱岐守宗清の弟くらいの位置におくほうが比較的自然ではないかと考えています(あるいは、朝清の子孫の伊豆守清宗が本宗の壱岐守宗清の跡を承けたものか。「伊豆」を重視して、こう考えれば、盛岡系の系図の歴代に朝清があげられる事情にもつながるかもしれない)。



*5 宗清と清宗とを別人に考える説は、管見に入ったものでは、ネット上のHP「千葉一族」くらいである。しかし、このHPの記事では、清宗を宗清の次の家督としながら、「葛西六郎左衛門尉朝清の子(ママ)か」と記しており、これは年代的にも疑問が大きい。あるいは「子」というのは「子孫か」とする意であったか。

 

7 南北朝期の葛西氏については、葛西三郎兵衛尉清貞の活躍が知られます。

早くは葛西三郎兵衛尉が『太平記』巻三の元弘元年(1331)の笠置軍事に北条方として見えますが、鎌倉幕府滅亡後は南朝方として活躍します。『白河結城文書』の延元三年(1338)十一月十一日付け「沙弥宗心書状」のなかに「葛西清貞兄弟以下一族、随分致忠之由令申間、度々被感仰畢」と記されます。それより二年前の延元元年(1336)正月に、北畠顕家軍に従って京都神楽岡で討死し新田義貞と見間違えられた「葛西江判官三郎左衛門」がおります(『梅松論』)。

小林清治氏は、「清宗(また宗清とも)は元弘の乱に幕府軍として上洛し、のち後醍醐天皇方に転じ建武三年〔1336〕京都神楽岡に戦死した」と記述しますが(『国史大辞典』)、『香取神宮文書』には既に元徳二年(1330)六月遷宮の際、葛西伊豆三郎兵衛尉清貞とその親父伊豆入道として見えますので、「葛西江判官三郎左衛門」が清宗のはずがなく、この記述は誤りと考えられます。『梅松論』の記事に疑問があるとも感じられます。江刺郡の江刺氏は葛西氏の配下にあり、葛西の族とも千葉の族ともいわれますから、「江判官」は「江刺判官」(渋江説もある)の誤記ないし誤脱ではないかとも思われます。 

葛西清貞は、北畠顕信を助け奥羽各地で戦い多賀国府の奪還に活躍し、興国六年(1345)には和賀・滴石の諸氏とともに斯波郡の北朝方と戦った形跡がありますが、その後の消息は知られません。観応元年(1350)に死去したと伝えます。この頃から葛西氏は北朝方に転じたことが石巻地方に残る板碑の記年号から推されるといいます。



このように史料に現れる葛西清貞ですら、「盛岡系」の葛西氏系図に見えません。鎌倉期の系図については、「仙台系」系図のほうが妥当だとみられます。その後の室町期の葛西本宗については、『余目記録』などの各種史料に照らしてみる必要があります。「仙台系」が良いか「盛岡系」が良いかは難しい面もあるのですが、後者のほうが妥当だという見解もみられますから、「盛岡系」にあげられる歴代もかなり有力であったのでしょう。ただ、「盛岡系」系図には、朝清が清親の先代家督として見えますが、これも上述した朝清の位置づけからみて大きな疑問があります。紫桃正隆氏は、「両系の当主は異名同一人の可能性が強い」と評価しますが、両系統の名前にどこに共通性があるのか極めて疑問です(卒去年月日の酷似はあるので、別途の事情ありか)。
  葛西氏は室町・戦国期には石巻と寺池という二系統に分裂していた模様でもあります。あるいは、鎌倉中期の清経・清時兄弟の時に二系統となって、前者の後が宗家で石巻におり、後者の後が分家で寺池にあって、それが最後の当主晴信の祖父晴重の代ころに合一となり、その頃から寺池に本拠を置いたのかもしれません。石巻から寺池に遷ったのが天文五年(1536)という所伝(龍源寺蔵「小野寺系図」)もありますが、これに否定的な説もあり、この辺も難しいところです。
  『歴名土代』の従五位下条には坂東葛西三郎晴重があげられ、大永二年(1522)十月に左京大夫となったことが記されています。

  最後の当主・葛西晴信は秀吉の小田原攻めに遅参して天正十八年(1590)に所領没収となりますが、その弟※といわれる右衛門尉胤重の子の式部大夫重俊(流斎)の子孫は、伊達氏に仕えて、仙台と宇和島に残りました。
 ※右衛門尉胤重を晴信の弟とすることに疑問な見解(石田悦夫氏)もあるが、胤重の生年(1532年頃)と命名から、晴胤の子とするのが妥当とみられるが、晴信の兄だったかもしれない。

  (04.5.7 掲上、後に若干追補)

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kasai2.htm   に続く
こちらは奥州の葛西氏のお話になって行きます
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月17日 06時52分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 葛西氏については、下記部分がいつまでも印象に残ります。どういう訳
か、主君を守るために我の命を捨てるという忠心には、思わず瞼が熱くな
ります。

「 現在、長篠の古戦場史跡を訪ねると七十余ヶ所に石碑などが建てられて
紹介されている。その内のひとつ、長篠城址から3`ほど寒狭川に沿って北上
したところに「笠井肥後守、滝川某相討ノ地」の石碑が建てられている。
 武田勝頼が設楽原の戦いに敗れ、戦場を脱してここまで来たとき馬が疲れ
て動かなくなってしまった。これを見た笠井肥後守満秀が自分の馬を主君勝頼
に勧め、自らは追手を喰い止めるためにこの地に止まり、徳川方の滝川助義
と戦って討死を遂げたという話しが伝えられている。滝川助義はこの時深手
を負い、後日果てたので結果的に相討ちとなった。

この笠井肥後守満秀の城がここ笠井城であると云われている。城跡といって
も稲荷社があるだけで遺構らしきものはなさそうである。静岡県教委の中世
城館跡の対象には含まれていないので単なる伝承に過ぎないのかと見過ごさ
れてしまいそうでもある。

ここ笠井城址の200bほど南に定明寺がある。この寺の開基が長禄二年(1458)
笠井備後守定明となっているのである。寺の名もこの人からきている。した
がってこの頃には笠井氏の城館が当地に築かれていたとしてもおかしくはない
のである。

 笠井肥後守満秀(高利ともいう)が備後守定明の何代目になるのかは分から
ないが、所伝によれば南朝の臣新田義貞の配下で湊川の戦(1336)において
敗走中に主君義貞に自分の馬を与えて踏み止まり足利勢と戦って討死した
小山田高家の十二代の後胤であると云われている。

奇しくも満秀は先祖と同様の死に方をしたことになる。小山田氏から笠井
氏に至る系譜の詳細は分からないが、武田家重臣の小山田氏との縁によって
武田方に身を投じたのであろうか。

その後、満秀の子の孫右衛門慶秀は大谷吉継に仕え、関ヶ原後は井伊家に
仕えたという(「長篠合戦余話」)。

満秀の戦死後、その忠死の美談は後世に語り伝えられたが、笠井城は荒廃
するにまかせ、時とともに忘れ去られてしまった。」

 関ヶ原の合戦後に井伊家に仕えることができたのも、先祖の忠心が人の心
に焼き付いたからでしょう。忠義な部下を持つこと―これは、武将冥利に
つきることだと思います。自分のために命を張り、命を捨ててくれる(捧げ
てくれる)―現代においてもこんな気概の部下は大事にされないはずはありま
せん。こう書いている私も、思っただけで涙が滝のようにあふれ流れてしま
いそうになります。

 葛西氏と永井氏も井伊家に仕えたということになりますので、両者は井伊
直政あるいは直勝を通じて親しい関係になったかも知れませんね。記録が残
っているといいのですが……。
 定明寺は当家、あるいは善地の五苗の人々の菩提寺でもあります……。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 07時20分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


>定明寺は当家、あるいは善地の五苗の人々の菩提寺でもあります……。

きっと関係があったのですよ。
今は伝えられていないけれど。

過去の、先祖の記憶がDNAに残っているんですよ、だから涙が止まらないのですよ。


地元の史料を掘り起こして、よく読んだら、どこかで繋がっているのが分かるかも。


良い供養になったと思います。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 09時35分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101505_91.html
長上郡の服部氏族LZ(M氏家譜21 +善地あたり)  
スレッド57の懸案事項だった、三河国岡村のことが特定できたのかも、です。


以下重複しますがコピペ:

レス<66>に出た  三河国「岡」村の件ですが
いただいた   半蔵と影の一族の  135ページに  額田郡岡  という地名が書かれていました。


   「岡」村なのか「岡村」村なのか、判別がつきませんが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E9%83%A1

三河岡崎藩領・寺社領 -
裏町、伊賀村、八町村、能見村、岩津村、米河内村、上大門村、池金村、舞木村、岡村、       ←  ココ
下六名村、久後村、上明大寺村、針崎村、桜井寺村(1町14村)


1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行に伴い、額田郡に下記の町村が成立する。(1町26村)
岡村・保母村・和合村が合併して美合村となる。

                         美合といったら山の中というイメージです。
                         昔行ったことがあります。



岡村
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%BA_ (%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82)

現在の  岡町 (岡崎市)

岡町(おかちょう)は愛知県岡崎市大平地区の町名。郵便番号は444-3436。
人口 (2011年10月1日) - 計2,375人


地図1
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.94072817&lon=137.19450743&ac=23202&az=39&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E7%94%BA

地図2
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.94072817&lon=137.19450743&ac=23202&az=39&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E7%94%BA
男川駅と美合駅の間です!


地図見てビックリ!

   百々の東南!
       百々といったら伊賀忍者を調べてた時に百々の名字の忍者が出て来ましたよ。
   それも百々は青山氏の出身地ですよ!

           青山氏(あおやまうじ)は日本の武家の一つ。
           藤原北家花山院流。江戸時代の譜代大名でたびたび幕府の要職にも就いた。


           祖先は上野国吾妻郡青山郷(現・群馬県吾妻郡中之条町青山)の出身で、
           その後、三河国額田郡百々(どうどう)村(現愛知県岡崎市百々町)に土着し、
           百々城を拠点として松平氏に仕えたとされる。



地理[編集]    すごぉ〜い!  川がいっぱい! やっぱりアヤシイ!  舟で移動できますから 足回りの利便性確保!

岡崎市の南東に位置する。町内北端に乙川、西端に竜泉寺川、山綱川が流れ、乙川は大平町・丸山町・小美町との、竜泉寺川、山綱川が美合町、蓑川新町との境界線になっている。小字を持つが丁番は持たない。


歴史       ヲイヲイですよ!

額田郡岡村を前身とする。



史跡       ビックリ!
岡城跡      残念、載ってないです。
森東古墳



施設       1つも知らない

岡崎市消防本部東消防署
おかざき世界子ども美術博物館
国土交通省国道管理維持局岡崎出張所
経済連農地区産物衛生研究所
美合学区市民ホール
一畑山薬師寺
船橋神社



教育         1つも知らない

愛知産業大学三河中学校・高等学校
愛知産業大学短期大学
岡崎市立美合小学校
東部学校給食センター


参考資料[編集]
『角川日本地名大辞典 23 愛知県』、角川書店、1989年。
『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』、平凡社、1981年。

関連事項[編集]
岡町

関連項目[編集]
岡崎市

外部リンク[編集]
岡崎市役所




おかむら
岡村


廃止日
1889年10月1日

廃止理由
新設合併
和合村、岡村、保母村 → 美合村

現在の自治体
岡崎市

廃止時点のデータ



日本の旗 日本

地方
中部地方、東海地方

都道府県
愛知県


額田郡

隣接自治体
額田郡
大平村、丸山村、小美村、保母村、市場村、蓑川村、和合村

岡村役場


所在地
愛知県額田郡岡村
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 09時38分23秒 ) パスワード

あ、それから、あの本に出てた  義元に1番槍をつけた服部小平太に信長から褒美が無かったと書かれていますが


1981年あたりに放送になった「おんな太閤記」(ねね様:佐久間良子・秀吉:西田敏行)では
    服部小平太は5000貫を頂いた
とありました。
[45]箱柳永田さんからのコメント(2016年01月17日 13時53分09秒 ) パスワード

 あを様
> 義元に1番槍をつけた服部小平太に信長から褒美が
 信長公は、一番手柄は情報をもたらした、梁田正綱(やなだまさつな)
 一番先に槍を付けた服部小平太を二番とし、首級を挙げた毛利新介は
 三番にとどめた事を、山岡壮八の徳川家康(だったかしら)で語ってます。
信長の 新しい価値判断の基準を教え、さりげなく質問した家康への好意と
 抜け目のなさを評価して描きつつ、信長の器の大きさを知らしめるように書かれていました。
 >岡崎市の南東に位置する。町内北端に乙川 (岡城付近)
 
 おとがわを下ると岡崎城南を流れ、土場があります、城の西を流れる伊賀川が合流した後に矢作川に合流します。この辺りの川船には長田の息がかかった者が多い筈なのですが、表に出ている資料では難しいですね。
 >http://www.hb.pei.jp/shiro/mikawa/okazaki-jyo/
 城郭放浪記さま 岡崎城  拡大すると 季節限定で大花見団子を売る
 藤棚売店があります。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 22時33分54秒 ) パスワード

箱柳永田さん


あちらもこちらも、貴重な情報をありがとうございます。



>この辺りの川船には長田の息がかかった者が多い筈なのですが

土地的に多いはずですよね。



花見団子?
気づかなかったです。
花見や花火は見に行きましたが。
河原に見世物小屋が出てて見に行ったこともあります。

  鳥女とか蛇女の記憶があるような???   遠い昔
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月18日 00時37分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 昨日の新年会の二日酔いもさめやらぬ朝より、佐久間町で催される「新
そば祭り」に行ってまいりました。佐久間は信州とも近いので、信州そばの
伝播・影響があります。二十年近く「新そば祭り」は開催されているようで
す。今回、六種類のそば(出店者がいろいろな所から来ている。例えば戸隠…)
を食べてみましたところ、「会津高遠そば」が一番おいしかった、というか
戸隠そばと同等のお味でございました。
 「会津なのになぜ高遠なの?」と訊いてみますと、昔、高遠城主保科正之が
出羽を経て会津城に転封になった。その結果、高遠のそば文化が会津に伝承
されることになったということです。久しぶりに保科正之の名前が出まして、
高遠ファンとしてはうれしくなりました。

 明日へ―
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月18日 11時34分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 寒いと早朝に起きるのは躊躇してしまいます。朝の方が頭の働き・集中力
があるのですが、最近は夜型となってしまい、生活リズムのパターンとして
は、不効率・不経済・不健康、健康のためにも、十一時までには寝たほうが
いいとのではないか……と思いつつ、なかなかパターンは変えられません。
  
 さて、「美合」ですが、東名高速道路のサービスエリアがあり、私自身は
数えきれない程車で側を通っております。もちろん立ち寄ることもあります。
「味噌キャラメル」がおいしいので時々購入したりします。岡崎の手前です。
岡崎・豊田方面は今後もっと探索したいと思っています。

 青山氏――岡崎市百百城にいた……。改めて青山氏について探究してみた
いと思います―

 青山氏は藤原氏の出。花山院師賢の次男―信賢の孫―師重が上野国吾妻郡
青山郷を拠点として「青山」を名乗ったことより始まる。
 @師重―A忠治―B光長―C光教―D忠治―E長光―F忠世―G忠門―
  ―H忠成―I忠俊―J宗俊―K忠雄―L忠重―
と続く。
 特筆すべきことは―
 @「忠世」の子「忠門」が岡崎百百へ来住してから、その子「忠成」があの
   信康の介錯をする(した?)「天方通興」の娘を娶る。
 A「忠世」の弟「忠教」の娘が服部半蔵のいとこの服部正信に嫁ぎ、「服部
   正尚」と「服部七右衛門」を生む。
 B服部正尚は、西郷の局の継父となる。つまり二代将軍秀忠の義利の祖父。
 C「七右衛門」は一旦正尚の養子となり、その後「忠世」の子「忠重」(L
  の忠重ではない)の養子となり、「成重」と改名、秀忠の子守役として
  江戸城へ上り、代々青山宗家を継ぐ。
 D「忠成」の次男「忠俊」は大久保忠佐の娘を娶り、子に「宗俊」、孫に
  「忠雄」、同じく「忠重」をもうけ、いずれも浜松藩主となり青山家を
  継いで行く。
 従って、青山家を母体にして、服部家と天方家の血が入り(大久保家の血も)、
 秀忠の側近親族として中枢を占めることになる。実質的には、青山宗家は
 「服部家」となる。
  また、「忠成」の五男「通直」は天方家を継ぐ。即ち「天方家」は実質
  的には「青山家」となる。
 
 これは服部一族の陰謀か?……そう簡単には言えない。まだ難がある―
肝心の徳川家のの存在であり、家康がすべてを理解してそうさせたなら陰謀
ではない。無理やりそうさせられたのなら陰謀かも知れない。
 家康としては当然全てを知っていた。知っていてそうしたのか、またそう
せざるをえない事情があったのか……されば、その理由とは何だったのだろ
うか?

 服部一族とは何? 本当のところ何を考え、どんな動きをしていたのだろ
うか?
 
[49]酒井ともさんからのコメント(2016年01月18日 12時22分15秒 ) パスワード

みなさま こんにちは。
横レスです。


「掛川古城」より抜粋します。

1、長禄3年(1459年)堀越範将(のりまさ)は越前・尾張・遠江国守護職の斯波氏に対して、
いわゆる中遠一揆という叛乱を起こすが敗死しており、所領であった遠江五郷は室町幕府に
没収されて将軍家直轄領となった。これにより、堀越氏に従っていた河井氏も本貫地を失うことになる。

河井氏は新たな領地を求めて掛川に入部し、掛川を居城とした鶴見氏を横岡城(島田市横岡)に追った。
この出来事は、河井氏が本貫地を失った寛正6年(1465年)から、河井宗忠(そうちゅう)を
開基とする長松院(掛川市大野)が創建される文明3年(1471年)までの6年間に限定できる。



2、遠江朝比奈氏が史料上に明確に表れるのは、この泰煕のときで、掛川に築城していたことが『宗長手記』にみえる。
朝比奈泰煕は現在の掛川城の北東にある子角山に掛川城を築いた。
現在の龍華院のあたりを主郭とする連郭式平山城で、こちらを掛川古城と呼び近世の掛川城と区別している。

また同時に、懸革荘の北面を押さえるため、河井蔵人成信(しげのぶ)を倉見川筋に配置し、
松葉城(掛川市倉真)を築城させた。



3、明応5年(1496年)遠州三十六人衆のひとりである横岡城の鶴見因幡守栄寿(えいじゅ)は、
勝間田播磨守とともに松葉城の河井宗忠を襲って滅ぼしている。
これはかつて、河井氏によって鶴見氏が掛川の居城を追われたことも遠因にあったと考えられる。



上記の内容ですと、堀越氏の叛乱に加担した、河井氏は河井村より追放されて、
掛川の鶴田氏を追って掛川古城に入部、その後、朝比奈氏に掛川を譲り、
倉真に松葉城を築城するが、元の領主である、鶴田氏に攻め滅ぼされたようです。

ただ、手持ち資料に出てくる「陰陽師」の河井氏のように、河井村に残った一族がいたと考えられます。


[50]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月18日 15時02分40秒 ) パスワード

とも様

 朝比奈氏といいますと掛川城主でありますが、泰熙の曾孫の泰雄の養子
として、「青山忠成」の息子で、「忠俊」の弟、「泰重」が養子に入って
おります。
 青山家は実質服部家のようなものですので、縁戚関係でのつながりの背後
に、何か意図が見えてくる感じがします。

 服部系、松下系、青山系、天方系がネットワークでつながっていて、さら
に朝比奈系もネットワークに組み込まれたと考えることができないだろうか―
[51]酒井ともさんからのコメント(2016年01月18日 18時01分17秒 ) パスワード


みなさま、こんばんは。


青山氏に詳しくないので、ネット検索しました。

それによりますと 安祥譜代7家の1つであり、そこには次のようにある。

「一、三河安祥之七御普代、酒井左衛門尉、元来御普代上座、大久保、本多、元来田ニ作(?)、
 中興ニ至テ美濃守故有之多ニ改。阿部、石川、青山、植村、右七家を云」

酒井・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村の七家の内、
植村家は少し石高で劣るでしょうが、どの家も五万石以上の大名家を輩出したように、
松平(徳川)家のまさに石柱だったんでしょうね。

尚、植村家に関しては、直々将軍家より代々の名に「家」の字を賜った程の忠孝があったようです。
(確か本多平八郎の母親は植村氏で、忠高に嫁ぎ平八郎を産むのですよね)




>服部系、松下系、青山系、天方系がネットワークでつながっていて、さら
>に朝比奈系もネットワークに組み込まれたと考えることができないだろうか


当時の遠州地方の城主級は
掛川(朝比奈)久野(久野)高天神(小笠原)引馬(飯尾)二俣(松井)犬居(天野)井伊(井伊)

朝比奈家も一世紀以上、掛川城主を務めたのですから、当然闇で暗躍する部隊があったのでしょうが、
一度は今川家と命運を共にして、徳川家に出仕後の本能寺の変までの僅かな期間でどれだけの活躍が出来たのか。


朝比奈泰重は青山忠成の三男にて、掛川城主一族であった紀伊藩士、朝比奈泰勝の養子。

この紀伊藩士の朝比奈家が、どれ程の規模の家なのかが判りませんので、何とも言えませんが、
青山家の直系の三男を養子に迎えたのには、興味がありますね。


ところで青山氏の家紋ですが「無地銭」なんですね。
先ほど初めてこの「無地銭」の存在をしりましたが、瞬時に真田家の「六文銭」を思い起こしました。

どうでしょう?御旗に「無地銭」を掲げる青山喜左衛門が
鄙びた百百屋敷の囲炉裏の炉縁にて、刀や鑓の手入れをする三河武士か、
囲炉裏を囲んで密談をする諜報部門を司った頭目のどちらが見えてきますか?

自分は青山氏は安城松平家の諜報部隊の一部門を束ねていたのかなと、おぼろげですが感じました。

ただ最近になり、なるほど皆様が、家紋は各家のアイデンティティだと探究されるのが、
家紋に全く疎い、私にも少し頷けるようになりました。


[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月18日 22時49分35秒 ) パスワード

昨日見た「真田丸」のショックで何も出来ない状態ですが


   真田の岩櫃山は上野国吾妻郡東吾妻町
   青山は上野国吾妻郡青山出身でしたよね


それで無地紋・六文銭の関係について
あれれ?
です。


何か遠い関係ってあったのかなと。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月19日 03時17分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

>家康としては当然全てを知っていた。知っていてそうしたのか、
>またそうせざるをえない事情があったのか……
>されば、その理由とは何だったのだろうか?

これは推測ですが   南朝方  で纏められるんじゃないかなと。

上野国ですしね。
上野国といったら  新田ですから  南朝方。
家康にしてみれば先祖代々信用できる、というのがあったのではないかなと。


    川を挟んで足利は  下野国  です。


「貴殿の家とは先祖以来の関係」と言っておけば自分を裏切ることはないだろうとの家康の思惑があったのではないかなと。


上野国出身の新田一族の家康・上野国出身の青山氏・同じく南朝方の服部氏。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月19日 03時40分19秒 ) パスワード

>掛川の鶴田氏

「鶴田」のことを考えていたら  ともさんから掛川の鶴田氏の名前が出て  ちょっと不思議な感じ。



朝比奈氏と服部氏は江戸時代に関係してますね。

中保次の長男の家の保時の子の保均?の娘が
朝比奈忠四郎昌方の養女に行ったのか養女に来たのか?
      記録した本人が分かってなくてすみません。 字が汚くて自分の字が自分で読めない(汗)


次男の昌保は朝比奈喜三郎昌幸の養子。養子に行ったのかな?養子に来たのかな?



服部直次の家は鉄砲御用役の稲富喜太夫直賢と深く関わりがあったものの嗣なくして家絶ゆ。
しかし直次の娘が朝比奈藤左ヱ門忠利の妻になっている。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月19日 04時01分14秒 ) パスワード

青山忠成は丹波篠山・美濃郡上藩主家の祖。

少年時代家康の小姓としてかわいがられ
後に内藤清成とともに秀忠の「フ」傳=お守り役=に挙げられていた。

初代の江戸町奉行となったが
後に家康の勘気を蒙って清成と共に屛居=ヘイキョ=した。


家紋は普通青山菊と呼ばれる「葉菊紋」に「丸に九曜」「無文銭」=青山銭を併用した。



つまり服部家が用いていた  葉菊紋って青山菊のことだったようですね。
これは青山氏との関係で!?



ということは青山氏の「無文銭紋」は  銭紋がもともと滋野氏の紋だそうですから  滋野氏からパクったのかも。

真田の六文銭は幸村の父の代から滋野氏の銭紋を使うようになったということから

やはり青山氏と真田氏には滋野氏を挟む何らかの地理的な理由があったのかも。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月19日 04時07分44秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%88%90


内藤 清成(ないとう きよなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。後の高遠藩内藤家初代。内藤氏は岡崎譜代。


父:竹田宗仲、養父:内藤忠政


清次、清政、正勝、
 娘(木造某室)、 娘(伊沢政信正室)、娘(日向政成室)、 娘(小浜光隆正室)、娘(松平親良室)


弘治元年(1555年)、三河国岡崎にて竹田宗仲の子として生まれる。

内藤忠政の養子となり、19歳で家督を継いだ。
浜松にて徳川家康に召し出され、小姓を務めて信任を得る。

天正8年(1580年)、徳川秀忠(当時2歳、清成は26歳)の傅役を任された。
天正18年(1590年)正月には、秀忠の供をして上洛した。

同年、家康が豊臣秀吉の命で関東に移封された時、清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務め、
国府路(甲州街道)と鎌倉街道の交差付近に陣を敷き、遠見櫓を築いたという。

同年9月、家康より四谷から代々木村にかけて20万余坪もの広い屋敷地を賜る。

この拝領地は後に新しい宿場(内藤新宿)開設のため相当分が返上されたが、明治維新まで内藤家の江戸藩邸として使用された(現在の新宿御苑周辺)。

江戸入り後の清成は関東八州庶務奉行・関東総奉行・江戸町奉行、老中などを歴任、行政面にて大きな功績をあげ、

秀忠の傅役時代からの同僚である青山忠成と共に、幕府初期の治世を支えた。


また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従い上田合戦に従軍している(江戸で留守居を務めていたとする資料もある)。


所領・官位の面では、天正20年(1592年)に相模国東郡に5000石を与えられたのを始め、
文禄4年(1595年)には従五位下修理亮に叙任し、豊臣姓を下賜された(村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、40頁)。

慶長6年(1601年)、常陸国・上総国・下総国内で1万6000石を加増されて2万1000石となり、大名に列している。


                        ココですね
慶長11年(1606年)1月、大御所家康の怒りを買い、秀忠によって青山忠成と共に関東総奉行の職を停止され籠居を命じられる。

家康が江戸近郊の狩場へ鷹狩に出かけたところ、禁猟であるはずの狩場内に狩猟罠が仕掛けられており、これを許可したのが両名であったためとされる。


本多正信らのとりなしにより切腹は免れ、11月には勘気が解かれたものの、以後は政治面から遠ざかることとなった。


       本多正信だったら罠を仕掛けそうですよね。


この事件は秀忠の征夷大将軍就任の翌年に起きたため、
背景に家康と秀忠の実権争いがあるとする説や本多正信による陰謀とする説などが存在するが、真相は不明である。


慶長13年(1608年)江戸にて54歳で病没した。跡を長男の清次が継いだ。
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月19日 09時21分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 とも様の―
  「無紋銭紋」を真田家の「六文銭」に結びつける推理、
 そして、あを様の―
  真田氏の岩櫃山上田国吾妻郡東吾妻町
  青山氏の上野国吾妻郡青山
 とを導き出す推理、また先祖来の南朝方同士の信頼関係という推理、
 いずれも感服いたしました―さすがです。

 青山氏のイメージがすごく見えてきました。

 青山の「青」、長谷川の「長谷」=「初瀬」、いずれも死者の埋葬に
関係している可能性があり、修験に関係するか、もっと遡って土師氏に
関係するか、一度探究してみたいと思います。
[58]酒井ともさんからのコメント(2016年01月19日 12時01分21秒 ) パスワード

みなさま、こんにちは。
横レスです。

>家紋は普通青山菊と呼ばれる「葉菊紋」に「丸に九曜」「無文銭」=青山銭を併用した。

青山菊についての解説がありました。
青山氏の「軸付き葉菊」は、青山家の先祖が南北朝時代に南朝方について功をたてたことで
日月紋と菊の御紋をあしらった錦の御旗を与えられ、同時期に旗紋に菊の御紋を与えられていた
楠木家との区別のために菊花の両手に葉を書き加えたとされています。

日月紋とは「丸に九曜」紋で良いのでしょうか?
でも調べると「九曜」紋は星紋になるような

家紋 066-17
青山菊
あおやまぎく
http://www.butudan.co.jp/kamon/index.php?kamon058

   >上野国出身の新田一族の家康・上野国出身の青山氏・同じく南朝方の服部氏。

>真田の岩櫃山は上野国吾妻郡東吾妻町
   >青山は上野国吾妻郡青山出身でしたよね

青山氏は上野国が発祥の地になるのですね。それも南朝方。

大族滋野氏が割拠した信濃小県・佐久、上野吾妻。
その滋野御三家の海野氏は「六文銭」、根津氏は「丸に月」、望月氏は「九曜」を
表紋に使っていますので、青山家の「丸に九曜」は望月氏の関連紋でしょうか?

青山氏は藤原北家流を称していますが、
案外と滋野氏と密接な関係があったのかもしれませんね。

滋野望月家に嫁いだ「望月千代女」は忍び巫女を育てた、有名な「くの一」ですよね。

[59]酒井ともさんからのコメント(2016年01月19日 12時31分59秒 ) パスワード


続いて、レスします。

甲賀望月氏(近江国)

望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、
これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行っていた。

そこから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる
望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり。尚、三郎は望月家嫡男に多い幼名であり、三男を意味しない)が
朝命により赴任し、近江国甲賀郡主となり十六ヶ村を贈った。これが甲賀望月の祖である。

恩賞としてその後、信濃の望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展し、戦国時代には、
後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月」と称されるようになる。

望月出雲守が望月城(現:甲賀市甲南町)を築城するなどの記録が残されており、
望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。

なお一族の望月千代女(もちづきちよめ)が、信濃の望月氏当主・望月盛時に嫁入りし、
武田家専属のくノ一として根津歩き巫女を養成して情報収集活動を行うなど、交流は長きにわたり続いたと考えられる。


青山氏

青山氏は、寛政重修諸家譜に「花山院(後醍醐天皇の忠臣)の子 信賢、
その子 師資、其の嗣 師重、初めて青山と称す」とある。

その後裔忠門のとき、近江国から三河国へ移り三河国額田郡百々村の城主となった。


  
  青山氏は近江より三河に移住したとの記述もあります。
  
  

  何故近江甲賀に信濃の望月家が定住したのは「馬」関係だったんですね。
  しかも、平安時代から戦国期までも一族同士での繋がりがあったのは驚きです!!

[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月19日 13時02分09秒 ) パスワード

日月紋=皇室のお印ですね。天皇のお印ってイメージ。

明治維新の倒幕の時の「錦の御旗」に日と月をつけた。
でも当時の倒幕方にはどんなのか分からないから困ったって何かで読みました。
結局テキトーに日と月を旗につけたとか。


桐もありますよね。でも桐の方はちょっと格が落ちて朝廷って感じ。
業務担当系用。
外務省もテーブルウエアは「桐」紋ですものね。
みんな盗んで帰宅するのかもね。



ということでちょっと検索して来ました:


http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/43731930.html

日月紋

元来皇室の御紋は、「日月」(じつげつ)でした。現在でも天皇が即位なさる際には、「日の丸」と「月」がそれぞれ錦の御旗(にしきのみはた)に掲げられます。太陽は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月は月読尊(つきよみのみこと)を表しています。


「日像纛旛」(にっしょうとうはん)、「月像纛旛」(げっしょうとうはん)です。
瑞雲文様、長さ約5.5m、巾約90cmあります。
京都御所紫宸殿の前庭に立てられ、昭和天皇の即位式に使われました。




五七桐花紋

この紋章は本来皇室の紋章です。

古くから桐は鳳凰の止まる木として神聖視されており、日本でも嵯峨天皇陛下の頃から天皇陛下の衣類の刺繍や染め抜きに用いられるなど、「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされた。


また中世以降は天下人たる武家が望んだ家紋としても有名で、足利尊氏や織田信長、豊臣秀吉などもこれを天皇陛下から賜っている。
このため五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになった。

近代以降も五七桐は「日本国政府の紋章」として大礼服や勲章(桐花章、旭日章、瑞宝章)の意匠に取り入れられたり、
菊花紋に準じる国章としてビサやパスポートなどの書類や金貨の装飾に使われたり、
「内閣総理大臣の紋章」として官邸の備品や総理の演台に取付けられるプレートに使われている。



皇室の菊花紋(十六八重表菊) 国章

鎌倉時代には「桐紋」が皇室に定着していたのですが、
時の後鳥羽上皇が「菊」を好みあそばされ、「菊」を自らの印とし、
その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が「菊」を印として継承し、
慣例のうちに「菊花紋(十六弁八重表菊紋)」が天皇陛下・皇室の「紋」となったそうです。

菊紋が公式に皇室の御紋とされたのは明治二年(1869年)の太政官布告195号によります。
この時に、天皇陛下の紋章として「十六弁八重表菊紋」が、その他皇族方の紋章としては「十四弁一重裏菊紋」がそれぞれ定められ、また、明治四年(1871年)には皇族以外の菊花紋の使用が禁止されました。
が、戦後は解禁されています。

「菊の御紋」とは「十六弁八重表菊紋」のことを指し、皇族でもこの紋を使用することはできませんでした。



ちなみに日本のパスポートの表紙は「十六弁一重表菊紋」であり、皇室の正式な御紋を「八重」から「一重」に略したものです。

[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月19日 13時13分18秒 ) パスワード

>望月氏は「九曜」を表紋に使っていますので、青山家の「丸に九曜」は望月氏の関連紋でしょうか?


最近何かで  忍者の青山家  について読みました。
その時の記憶では  甲賀  みたいでした。
それで  甲賀?  伊賀じゃないの?  あれ?  と思ったのです。

でも百々に住んでたなら忍者活動もできたんだろうなと思いました。



まさか今日ココでその関連性を読むことになるとは思いませんでした。
しっかりメモしておけば良かった!

     とはいえ自分の字が自分で読めない悪筆だから意味無いけど。



>青山氏は近江より三河に移住したとの記述もあります。

ということなら  甲賀の青山氏  も有り得ますね。
でも元々は  伊賀の青山氏  だったのかも。
甲賀と伊賀は山の向うとこっちの違いですから。
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月20日 00時08分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 青山氏についての情報、一層深くなりましたね。

 私の方からもひとつ―

 桶狭間の戦いにおいて、今川義元の首級を上げるのに貢献のあった「服部
中保次(やすつぐ)」についてであります。保次の孫の保俊は今切関所奉行
を務め。またそれ以後、浜松西部にあります大久保陣屋の代官を明治維新
まで代々務めます。大久保陣屋についての説明書きによりますと、保次の
出自は―
 桓武天皇―葛原親王―高棟王―実雄…宗清…宗純…
 保次の先祖は楠氏の一族にて、足利尊氏征討の折、後醍醐天皇より綸旨(り
んじ)の日月錦旗、節刀、菊水の旗印を受けたと書かれております。

 とも様より説明のあった青山氏―先祖が花山院、即ち後醍醐天皇の忠臣で
あり、南北朝時代に功をたてたことにより、日月紋と菊の御紋をあしらった
錦の御旗を与えられたということ。そしてその「青山菊」は同時期に菊の御紋
を与えられていた楠家との区別のため、葉を書き加えたということ。

 つまり、「服部中保次の祖先」と「青山氏の祖先」は、「南朝の後醍醐天皇
に仕えたトップクラスの忠臣」であったということになります。
 これは、服部一族と青山一族の関係を明らかにする大発見であります!

 服部半蔵家と服部正尚家は同族、服部中家は服部宗家と言われております
が、私は服部家全体のしっかりした系図を持っておりませんので、その辺が
グレイとなっております。あを様は服部家研究の第一人者ですので、詳しく
理解されておられると思います。

 なお、長谷川氏も伊賀と大和の境にあって長谷川党なるものを形成してお
り、世阿弥や服部氏と通じている。当然楠氏とも通じていると推察いたしま
す。

 当地(高薗)の長谷川氏のたぶん本家筋だと思いますが、その墓に標された
家紋が「九曜」であったのが異様な感じでしたが、ひょっとすると一筋の糸
が奈良や京都、吉野の隠れ里(柳生、初瀬、名張、伊賀、甲賀)につながって
いるのかも知れません―
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月20日 02時37分57秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101510.html
スレッド60  長上郡の服部氏族LX(2016年の課題確認 3)を用意致しました。

キリの良いところでどうぞ。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月20日 03時29分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


>長谷川氏も伊賀と大和の境にあって長谷川党なるものを形成しており、世阿弥や服部氏と通じている。
>当然楠氏とも通じていると推察いたします。

はい。



>一筋の糸が奈良や京都、吉野の隠れ里(柳生、初瀬、名張、伊賀、甲賀)につながって・・・

はい
繋がっていますよね。
土地的に近いですから。
一衣帯水というのですね。



ワタクシ的にはここ数日で  服部半蔵の家と服部中の家は思っていた以上に密接だった  と分かって驚いています。
やはり「血」か、と。


>桶狭間の戦いにおいて、今川義元の首級を上げるのに貢献のあった「服部中保次(やすつぐ)」について
>保次の孫の保俊は今切関所奉行を務め。
>またそれ以後、浜松西部にあります大久保陣屋の代官を明治維新まで代々務めます。

半蔵のお兄さん=長兄=の名前も「保俊」だったんですよね。
三河国高橋の合戦で亡くなっています。

    
    寛政家譜は何度も読んだのに2016年1月にやっと分かりました。遅過ぎ。
    半蔵と中、そしてワタクシ、時空を超えて結ばれていたのが分かりました。
    ヤバ過ぎて書けない。落ち着いたらメールでしょうね。


    日本人は何重にも何重にもがんじがらめで結ばれているのを実感しました。

    「家」を大事にしない現代はますます何も知らないで「日本人とは何か」を忘却するんだろうな、と思いました。



>桓武天皇―葛原親王―高棟王―実雄…宗清…宗純…
>保次の先祖は楠氏の一族にて、

これは楠正成の姉?妹?が服部氏に嫁いで観阿弥を生んだ話ですね。


 
>足利尊氏征討の折、後醍醐天皇より綸旨(りんじ)の日月錦旗、節刀、菊水の旗印を受けたと書かれております。

節刀は討伐の将軍(征夷大将軍)が頂くアレですね。田村麻呂とか平貞盛とか。
天皇からコレを頂いて討伐に行く、というのですね。

すごい名誉。

    だから時代劇で殿から刀を拝領することは武士にとってすごい名誉になるわけです。


菊水はわたくしの母方も貰ってましたね。
南朝方で戦った時は菊水紋を使用してた、と聞きました。
そしてこの時に  源氏に変わってますね。後醍醐源氏、というのです。困



>つまり、「服部中保次の祖先」

この人が現在の三重県鈴鹿とか津のあたりにいて「後醍醐天皇のお召し」に応じた服部伊賀守宗純です。


>「南朝の後醍醐天皇に仕えたトップクラスの忠臣」であった

これが吉野朝忠臣 4名家7名字4なんとかという15家の1つ  ということです。

大橋さんは4名家の1つで
服部家は7名字の1つ。

     大橋さんは(平姓服部氏平六伊賀家長の兄である)平貞能の子孫です。

         服部家も後醍醐源氏になってますね。



青山氏のことは分からないです。空想ではいくつか思います:

A
青山氏の場合は上野国出身なので新田義貞グループになるんじゃないかな?
青山氏について知りたいとしたら新田グループについて読まないといけないんじゃないかな?

B
青山氏はあの当時既に三河国百々にいたのかしら?
そうするとグループが違うんでしょうね。
酒井氏のグループなのか?鈴木さんのグループなのか?天野さんのグループなのか?

C
もっと東の井伊氏グループかも。ちょっと東過ぎるかな?


D
うちは伊勢尾張あたりのグループだったのかなと思います。
青山さんは三河遠江信濃グループ?


分かりません。空想です。
松嶋家は遠江信濃グループなのかなあと(ねぇねぇ、忘れないで)と肩を突かれてる気がする。
信濃は上野国吾妻とグループだろうし。


とにかく読まないと。


徳川家は新田の子孫が三河の松平に定住して酒井氏と縁づいて
という家なので三河では新参者・・・

やっぱりたくさん読まないといけませんね。人間関係は線引きが難しいですね。
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月20日 13時26分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酒井とも様

 現在に生きる人間もずっとずっと過去からのエニシ―血脈でつながってい
ます。現在は拡散しばらけてしまっている血脈も、たどればいくつかのルー
ツに収束すると思います。現代に生きる人間の多くは、それを知りません。
せいぜいルーツといえば祖父祖母で終わってしまいます。
 もっとも祖先をたどるということは、なかなか根気のいる作業であり、簡
単ではありませんが……。

 とも様のおかげで青山氏の過去がわかりました。快挙であります。これも
とも様との御縁―エニシかなと思っております。酒井様というお名前からは、
私は三方ヶ原の戦いで逃げ帰って来た後の浜松城での「酒井の太鼓」をたた
いた酒井忠次を頭に浮かべます……。

 青山氏にもいろいろな流れがあるようです。この地域では、室町時代に
二俣に土着し、林業家となった青山氏がいます。江戸時代には屋根材(杮=
こけらと読む。こっぱと呼ばれる薄い板)で財をなした「板屋(家号)善右衛
門」がおります。江戸時代の民家はほとんど杮葺き(こけらぶき 板葺)であ
ったと言われております。
 明治になっても、青山氏は天竜及び浜松の木材協同組合及び連合会組合の
創立組合長として君臨しております。
 また、別の青山氏ですが、こちらは磐田中泉―かっては武将で中條氏を
名乗っていたそうです。伊良湖崎の城主であったこともあり、その後青山と
改姓。戦国時代に今川により三河を追われ、中泉村岡田に逃れ住む。その
後、この地を抑えた家康の命により、庄屋となり、鷹狩り場の管理者になる。
鷹狩り御殿とは、中泉御殿のことである。菩提寺は御殿の中心にある中泉寺。
江戸期に帰農し、庄屋の傍ら、見付にて郷宿「松田屋」を営み、財をなした
と言われております。
 私の親戚にも青山氏がいますが、どうも磐田に関係しているような気が
いたしております(二俣にも関係しておりますが)。

 本家本元の青山氏は羽鳥貴平の内藤家と縁戚関係。浜松城主を三代務め
ています。
 
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月20日 14時01分20秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/pcscd431/25742508.html

徳川・松平家の家臣に南朝・新田氏に関係の深い家系が多い理由



これは歴史ミステリー小説「東毛奇談」の「第三章徳川改姓のこと」で書きました。
内容的には煎本増夫氏の『戦国時代の徳川氏』からの引用で、徳川家臣団と南朝との関係が詳しく書かれていました。
そこから抜粋してみましょう。




@天野氏……家康時代に康景は三河三奉行の一人と呼ばれた譜代家臣。
          天野氏は南朝に仕え、秋葉山要害地に城を築き、宗良親王を守護した。
          その後三河国額田郡中山荘へ移動。



A荒井氏……新田始祖の義重のときに上野国大間々の新田領地を管理していた。
          新田宗家が滅亡するまで付き従い、その後三河へ移住。
          松平・徳川の旗本となった。
          この系統から新井白石が出る。



B青山氏……新田氏族や南朝・尹良親王に従った。
          その後三河国碧海郡に浪人として入国。
          青山氏の出身地は、上野国吾妻郡青山、今でも青山屋敷跡が残っている。



C奥平氏……出身地は上野国奥平郷(現 多野郡吉井町)。
          新田・南朝方に味方し、三河に隠れ住む。
          吉井町には奥平氏の菩提寺・仁叟寺と屋敷跡がある。
          奥平氏は一時武田家に仕え、その後家康に内通して徳川家に仕えることになる。



D成瀬氏……松平家始祖の親氏からの家臣。
          三河国上平村に住む。上平村は信濃・伊那街道に通じて、今朝村、平村村、足助村へと続く。
          足助村が南朝の拠点であることは述べた。
          しかも足助八幡宮には、徳阿弥(松平親氏)の筆とされる大般若経が所蔵されている。



Eそのほかにも、三河譜代(松平時代からの家臣)で新田・南朝の伝承を持つ家臣は、
柴田氏(小笠原氏と祖は同じ)、林氏、高力氏など多数に及ぶ。



ここまでをまとめると、松平家に仕えた家臣は、

      1に新田・南朝と関係がある。
      2に多くが関東特に上野国からの移住している。
      3にその経路が伊那街道を抜け足助に至り、そこから東三河の山間に入っている。
      4に松平親氏のように浪人であった者が多い。



それに、酒井氏……酒井家と松平家の祖は、元々同じで、松平親氏・徳阿弥である。
      この徳阿弥とは、新田義重の四男義季の子孫である。
      義季は世良田家の始祖であり、得川郷にも領地があったため『得川殿』とも呼ばれた人物である。
      その六代後が世良田政義で、新田義貞と行動をともにする。
      そして政義の三代後が世良田(徳川)親氏、つまり徳阿弥である。
      親氏は、永亨の乱で鎌倉公方足利持氏に味方し、敗れた。
      室町幕府の追及が厳しく、
      親氏は、時宗の僧に身をつやして、諸国を巡り、三河に流れ付くと、酒井郷の土豪に養子に入って、そこで生まれたのが酒井家の祖となる広親である。


      その後親氏は、妻がなくなったために、松平郷に移り、松平信重のところに婿に入る。
      そこから九代目が家康となる。


      つまり酒井家と松平家は同系となる。
      そして家康の時代、酒井家は酒井忠次であり、徳川四天王といわれ、家康家臣の中でも一番の重臣であった。
      だから酒井家は源氏を名乗っています。



A井伊家……井伊家は遠江国井伊谷城主であった。
      南北朝時代には後醍醐天皇の子・宗良親王が東下した際、ここを南朝拠点として戦った。
      宗良親王は、その後信濃大河原城へ行くが、井伊家は南朝方として足利と戦う。
      宗良親王が没すると、井伊家菩提寺・龍潭寺に祀ったのである。井伊家の南朝寄りはこれだけでもわかる。


      南朝衰微後、井伊家は今川家に屈してその家臣となる。
      井伊直政のときに家康の小姓として仕え、この後頭角を現して徳川四天王の一人となり、
      家康関東入国の地割りでは、家臣一番の所領である上野箕輪城十二万石を賜った。
      また直政は、武田遺臣を引き継ぎ『赤備え』の最強軍団を率いた。



ここで一つの疑問が湧く。
なぜ家康は、新参家臣の直政に甲斐の武田遺臣をつけたのだろうか。
井伊家の伝承に、武田遺臣たちが引き付けられたというのは考え過ぎだろうか。武田家と徳川家は反目し合っていたが、なぜか結び付くものも多い。
家康が信玄を尊敬していたこともあるが、武田家が滅んだ後に多くの家臣を召抱えた。(大久保長安など) 
そして武田家から徳川家に仕えたものも多い(天海、奥平家など) 
また武田へ内通していたかどで、殺された家康嫡男の信康や正室の築山殿、なぜか内通を疑われるのは武田家が多い。
しかも武田家が滅んだあとに、徳川の軍法を武田流に変えてしまった。
武田家と徳川家になにか結びつけるものがあったのか。


一つ考えられるのは、武田家の領地である甲斐・信濃にまたがる銀山、鉱山である。
信玄はこれらにかなり力を注いでいた。
山の民、百足といったキーワードがこの結び付きを解く鍵になるだろう。
(ここから家康、信玄親子説が出てきたとも言える)




B大久保家……大久保家は家康時代に、忠世や忠隣を出し、一族の武功は三河武士の見本とまで云われた。
      また一族の忠誠心は家臣の中で群を抜くほどで、三河国を二分した一向一揆でも一族の誰一人も家康を背くことはなかった。
      その大久保家であるが祖先は宇都宮氏の庶流で南北朝時代は新田方についた。(本家は足利方)


      大久保泰藤は新田義貞が討たれるまで付き添い戦っていた。
      が、京都に義貞の首が晒されているのを知ると、足利方の警護の目を掻い潜り義貞の首を密かに持って逃げたという。
      そして、三河和田町に隠れ住み、義貞の首を妙国寺に祀った。
      その妙国寺が大久保家の菩提寺となった。

      その妙国寺は、松平家の本拠地である愛知県岡崎市にある』



というわけで、徳川家の家臣は競うように、昔から徳川・松平家に仕えていたこと、かつては新田方、南朝方であったことを喧伝します。

なぜでしょうか。

それは仕えていたのが、昔であればあるほど、徳川家に忠誠心があるということになって箔がつくからです。
「我らは松平家○○の時代からの譜代である」と各々譜代大名は名誉にしていました。
だから競うように新田伝承や南朝伝説を我がもののようにしたのです。



では、それらの伝承を徳川家臣らはどこから引っ張ってきたのでしょうか。
伝承、伝説、系図がいきなり現れることはないので、それらを橋渡しした者がいたはずなのです。



その謎は奥三河にあり、そこに登場してくるのが「児島高徳とその子孫」ではないかということです。
まあそれは、小説の方で。

第三章から入れます。http://daikiti431.blog112.fc2.com/blog-entry-54.html
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月20日 14時03分45秒 ) パスワード

そうか・・・
足助ねぇ


足助というか猿投の服部家というのがどうしても知りたいところです。

きっと信濃と結びついているのではないかと。
地理的に有利ですからね。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月20日 14時08分22秒 ) パスワード

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.288816167971732.1073741838.248668201986529&type=3


【闘茶体験→吾妻の地の南朝足跡発見→TOKYO青山の関係線】


By 歴茶 · July 12, 2014 · · Taken at 群馬県 吾妻郡中之条町


「夢見る茶畑」のみなこ茶匠のお誘いで、13日、日本茶インストラクター協会主催のお茶講体験に参加。南北朝時代に流行した闘茶を国内で唯一「講」で継承し、古来の様式を残しているのが、群馬県吾妻郡中之条町白久保集落。そのご当地で闘茶を体験できるというレア体験を楽しみました♪

9時に高崎駅で集合後マイクロバスで1時間半、白久保集落の寄棟造りの茅葺き農家に到着。さっそく講の町田さんの軽妙な進行で、茶講開始。まず、甘茶、渋茶、チンピ(ミカンの皮)の配合を変えた4種のブレンド茶を事前に試飲します。その後が本番で7回のお茶を味わい、どの種類かを告げて、最後に答え合わせ。

適中すると、1回ごとに配当の飴が配られます。私も7種のうち4種当てることができました!飴の配給がこれほど嬉しいとは。甘茶やチンピ(陳皮)のコクが気に入ったし、理屈抜きに楽しい♪南北朝の頃は馬などの超豪華賞品もあり、過熱防止で禁止例が出たそうな。

当時、婆娑羅な佐々木道誉たちの闘茶は、南朝側の討幕会議の隠れ蓑でもあったのですよね。京都エリアで開催されたはずの古来の様式が、何故関東のこの地に残っているのか。「南朝の落ち武者の関係ではないのですか?」と質問しましたが、確かな記録は残っていないとのこと。ただ、当時青山氏という有力者がおり、縁のあったお寺に文献が残っていたそうな(中之条の闘茶様式の最古の文献は1799年のもの)。

その後道の駅で美味しいそば定食をいただき、次に向かうは「中之条町歴史と民族の博物館」。こちらはハイカラな小学校だった重文の建物。そして!此処で発見。青山氏は、やはり南朝方でした!

展示解説によると、南北朝時代末期、征夷大将軍尹良親王(宗良親王第2王子)を奉じて上野国に下った藤原四家のひとつ・花山院家の師重が、吾妻郡青山郷に居住して青山氏を名乗ったそうです(後醍醐天皇は失地回復を狙い、全国にたーくさんの息子たちとお供を放ちました)。同じように当時南朝方に属して武功を立てた、信濃源氏村上氏も吾妻の地を訪れたらしい。宗良親王は長野の大鹿村に隠れたので、地理上納得もいきます。“中之条町は南朝の隠れ里だったのね〜そこで京を偲んで闘茶を開いたのかも…”と、ひとりこっそり盛り上がり。

青山で思い出したのが、東京のオサレなメッカのほうの青山には昔、まんま青山氏という大名がいて。青山は忍者の育成場所でもあったらしい等々と、『武士の家計簿』の歴史学者、磯田道史氏の本を思い出し。246=青山通り=江戸の旧称大山通りは修験者ストリートだったかも、といつもの妄想物語を帰途茶匠に語っていたのですよ。

ところが、その夜うきうき探るうちに、この二つの青山は同じルーツだった史実を見つけました♪東京の青山家のルーツは、近江(佐々木道誉も)の花山院家。尹良親王に従い中之条に居住した青山家そのものだったのでした。青山の名刹、梅窓院のホームページで見つけましたわ。青山家は三河に移り住み徳川家の最古参の譜代となり、青山忠成は家光の守役に抜擢された。「青山」は、中之条の美しさから命名された名であり、中之条町にもまた「青山」の地名が残るそうで。梅窓院は青山家の菩提寺だったのでした。

となると、忍者云々も、本能寺の変での家康の伊賀越えなどなど、あながち無縁ではないのかも…。青山は私がうん十年前、初めて就職して仕事に通った場所でした。群馬中之条の地・そして遠い南朝の記憶にもつながっていたとは。これから東北関東をもっと探検しようと、誓いを新たにしたのでした〜〜〜
[69]酒井ともさんからのコメント(2016年01月20日 15時57分03秒 ) パスワード


みなさま、こんにちは。


      >日月紋=皇室のお印ですね。天皇のお印ってイメージ。

 観てきました。初めてこれが紋だと知りました。
 てっきりと錦の御旗のデザインなのかと思っていました。

 家紋は奥が深いというか、無知ぶりをさらけ出しました。



      >D成瀬氏……松平家始祖の親氏からの家臣。
       三河国上平村に住む。上平村は信濃・伊那街道に通じて、今朝村、平村村、足助村へと続く。
       足助村が南朝の拠点であることは述べた。
       しかも足助八幡宮には、徳阿弥(松平親氏)の筆とされる大般若経が所蔵されている。

 
      >それに、酒井氏……酒井家と松平家の祖は、元々同じで、松平親氏・徳阿弥である。
      この徳阿弥とは、新田義重の四男義季の子孫である。
      義季は世良田家の始祖であり、得川郷にも領地があったため『得川殿』とも呼ばれた人物である。
      その六代後が世良田政義で、新田義貞と行動をともにする。
      そして政義の三代後が世良田(徳川)親氏、つまり徳阿弥である。
      親氏は、永亨の乱で鎌倉公方足利持氏に味方し、敗れた。
      室町幕府の追及が厳しく、
      親氏は、時宗の僧に身をつやして、諸国を巡り、三河に流れ付くと、酒井郷の土豪に養子に入って、
      そこで生まれたのが酒井家の祖となる広親である。

 
 酒井姓の発祥は人伝に聞いていたのは、上記の通りですが、

 成瀬氏や酒井氏には下記のような伝承もあるようです。
 これによれば、南朝方の大館氏関係でしょうか?


      >天野源蔵が著した、南北朝の動乱を描いた『浪合記』には、
      三河国の南朝側武将として大舘氏親という人物が記され、
      その子孫から酒井氏、成瀬氏が出たという。

      >譜代大名系の酒井氏や成瀬氏の家紋は酢漿草紋であり、
      大舘氏の別紋の酢漿草紋と同じであり、浪合記の記述もなんらかの
      事実・伝承に基づいている可能性がある。

 
 

 ちなみに当家の家紋は「丸に剣酢漿草」になります。
 
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月21日 08時31分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酒井とも様

 『東海道遠州見付宿』(昭和49年刊)という磐田市発行の本をめくってお
りましたら、酒井の陣太鼓についてふれている部分がありましたので記しま
す。

 どういうわけか「当時の酒井の陣太鼓と伝える古太鼓が、今見付の町有と
なり、町の中央五階堂に安置されて明治以来時の鐘に代わって打ち鳴らされ
ているのも面白い。(註 伝酒井の太鼓は、現在、見付地区共有となり、矢
奈比売神社に保管されている。)」とありました。
 磐田見付〜中泉が当時は栄えていたことの一端だと思います。家康は鷹狩
りと称して、中泉に諸臣を集めて大阪方に対する策源地としたということで
あります。
 「やがて、中泉に代官所が設置され、遠参二州十万石を支配するに至った
のも故なきではない。」(初期の頃)

 出かけます―
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月21日 09時49分02秒 ) パスワード

機転の利く部下を持つ大将はラッキーですね。
こういう人が何人もいて天下人に押し上げるのでしょうね。

さて自分は?と問えば
アタマ悪いとしか。

せめて最期は美しく死にたいものです。


昔、若い時に、
ある知り合いの老婆が(当時60歳代の終り)
自分が死ぬ時は交通事故で死にたい
と言ったのです。


意味が分からなかったら、
その老婆が、自分は子に何も残してやれないから
せめて交通事故で死んで補償金を残してやりたい、と言ったのです。


こういう発想は無かったので
自分の死を換金する
そう考える人もいるのかと驚きました。

    戦国時代でしたら子孫のために殿の御馬前で派手に討ち死にを遂げるタイプでしょうね。


大将たるもの、いろいろな人材を手元に置いて窮地を脱する、というのは
大将たる者の器かと思います。


あの老婆も戦国時代に男性に生まれていたらナカナカの処までは行けたのかも、ですね。


あ、ワタクシは無芸大食・人畜無害なので真っ先にやられて犬死にするタイプです。
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月22日 01時00分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 掛川に興味をもっています。それは、服部忍者グループが何故二百人も
掛川の西郷に住していたかという問題であります。西郷の局となるお愛を
守るためなのか、それとも掛川城が我々の想像以上に重要な拠点であった
のか……。
 掛川にまつわる話をいくつか載せたいと思っています―

 明日(本朝)―
 
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月22日 02時14分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


掛川は朝比奈が築城したぐらいですから要衝の地だったんでしょうね。

朝比奈氏
藤原氏または平氏を名乗る。
左三つ巴



藤原北家の堤中納言兼輔の子孫たる堤公国の子・五郎国俊が、駿河国志太郡朝比奈郷(現在の静岡県藤枝市岡部町)を本貫とし、朝比奈氏を興すとされる(朝比奈家譜)なお彼の弟の公俊は岡部氏の祖になっている。

別の伝承では、朝比奈氏は、三浦一族の和田義盛の息子・朝比奈義秀から興ったという。


      *朝比奈義秀の母は出自が不詳なので、巴御前というのは創作。
           http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%AF%94%E5%A5%88%E7%BE%A9%E7%A7%80


系譜が錯綜しているため、正確な系譜は不詳。中世・近世に登場する朝比奈氏の位置づけも系統がはっきりせず、一族の関係も不明である。




戦国時代に入り、朝比奈氏は今川氏に仕える。

このころ既に遠江朝比奈氏と駿河朝比奈氏の2家に分かれていた。

    遠江朝比奈氏は、朝比奈吉俊の子・朝比奈泰煕が掛川城を築城し、掛川城主として今川家に仕え続けた。
    今川氏真が領地を失うと没落している。


    一方朝比奈俊永の系統である駿河朝比奈氏は、朝比奈信置のとき今川家から武田氏に旗幟を変え、武田の武将として活躍した。

    その子宗利は、武田氏滅亡後に徳川氏に仕え、幕臣となった。

    

          服部氏と朝比奈氏が親戚になっているのはこのあたりの事情からかもですね。
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月22日 17時11分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 朝比奈氏と養子・養女が服部中家へ入るのは、初代「保次」の三男「保久」
の次男「保高」から四代目の「保均」(やすひら)の時であります。保均の娘
が「朝比奈忠四郎昌方」へ養女に、「朝比奈喜三郎昌幸」が保均家へ養子に
入っております。年代にして1780年前後かなと思われます。本居宣長あ
たりの時代です。
 また、ちなみに「保高」の妻は「小栗仁右衛門信政」の娘であります。

 朝比奈氏はあまりなじみがないので、これからは掛川を中心として諸々に
ついて探索してたいと思います。

 実は、以前から情報は得ていましたが、掛川城のすぐふもとに服部家があ
るのです。料理旅館をやっているようなので、一度言って調べたいと思って
おります。確か家紋は「向い蝶」と親戚筋から聞いた覚えがあります。家紋
はあてにならない場合が多いので、何とも言えませんが、忍衆に関係する可
能性はあるかも知れません……。
 掛川でも多くの血が流れたようで、逆川という川は、血が遡ったと確か聞
いた覚えがあります。平家の落人もいたようでひょっとすると美人谷(びじが
や と読む)には平家の落武者の妻や娘がいたのかも知れません―ちょっと
ロマンの膨らませ過ぎかも知れませんが……。
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月22日 21時10分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドに移ります―
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月22日 22時54分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

次のスレッドに行きましょう。


掛川の向かい蝶の服部さん
どういうお家なんでしょうね。


ワタシの知り合いの掛川の人は伊藤さんとおっしゃるものすごい良家のお嬢様です。
でも詮索はしませんでした。あはっ


   きっと平家繋がりかも。

   蝶紋の服部氏とは   伊賀平六家長の流れではない=半蔵とか中とか権太夫系ではない  ということかも。


で、調べたら  蝶で服部は載ってませんでした。


是非その料理屋さんにいらっしゃって何かお勧め料理を!
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月23日 04時55分15秒 ) パスワード

蝶紋使用者を調べて来ました:


平氏系
島   柘植   織田   関   神戸  神部   山路   山中   堀屋   

北   奥   津田   生島   伊勢   関根   杉原   北条   中根   金子   河野   

宮村   佐野   南条   豊田   原田   堀谷   久留   三井   坂本   宮川   


斎木   湯浅   深沢   田中   平松   西洞院   長谷   交野   石井




源氏系
松崎   本目   小栗   谷   羽田   奥山   逸見   山高   

小佐手   浅羽   窪田   飯島   須田   三河口   池田   大河内   高屋   牧村   

多田    土方   依田   米田   石丸   小泉   高月   斎田   武川   柿沼   

羽根    久保田    建部   間宮   野村   松永   喜多村   河尻   植崎    西村




藤原氏系
森   佐野   大河原   神谷   鳥居   磯谷   新庄   伏見   

鎌田   山崎   武蔵   黒川   山菅   小林   谷田   篠木    小村    大草   

大導寺    内田   金丸   松坂   玉井   小宮山   藤沢   松岡   中根




三善氏系
町野




大江系
宮城



高階系
志村



菅原氏系
伏見   半田




だろうな、と思う家の名もありますし
え?この家がこの氏系になるの?という家もありますし
名字と家紋は複雑です。


掛川の服部さんはどうして蝶紋なんでしょうね?
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