[1] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月02日 22時38分58秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、静岡の久能山浅間神社へ行ってまいりました。お正月の二日目、
ちょうど人が初詣等へ出かけ出す日であります。故に現地での駐車場がなく、
昼食を食べに行った食堂の駐車場が一台分空きましたので、車を滑り込ませ
ました。
約千二百段の階段を登り(往復して帰宅後は寝てしまいました)、浅間神社
にお詣りをし、その帰りに久能山東照宮博物館を訪れました。多かった展示
品は、歴代の冑(かぶと)及び刀剣でありました。何か新たな発見はないかと
探しましたが、特には見当たらず、帰り際に『久能山東照宮博物館100選』
と『日英交流四百年』という本を購入して来ました。まだ分析しておりませ
んが、とりあえず四百年前駿府が外交の中心であったということがうたわれ
ておりました。そして家康には、ウイリアム・アダムスという外交顧問がお
りました。家康の野望は世界に広がっていたのでしょうか。今後の探究テー
マにしたいと思っています。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 02時10分45秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
あの階段はスゴイですよね。
昔子供の時に行きました。
ウイリアム・アダムス イギリス人。
ヤン・ヨーステン こちらはオランダ人。八重洲の語源ですね。
南蛮と耶蘇は禁止しても、紅毛碧眼の方には鎖国は適用しない、ってのですね。
最近、家康が貰った西洋置時計の復元に成功したというハナシですね。
どんな音がしてたのかも復元できたとか。
ここ数日、久能山とか家康とか鳳来山とかの記事を読んでました。
不思議ですね。
テレパシーでしょうか?笑
[3] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月03日 11時15分28秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
徳川家康が服部中保次に与えた領地の安堵文です―
「服部中宛行本知行分之事
合百弐拾貫文
此内 百貫文者遠州刑部村 弐拾貫文者参州岡村
右、年来戦忠明鏡之上、今度境目就調略、若於討死者、宛行知行分、
息子つう丸ニ可申付、彼者幼少之間者、安孫刑部右衛門以異見、
知行分所務もの也、
天正五[丁丑]年四月廿三日
家康公御判
服部中殿」
この文章からは、「刑部村」と「岡村」が並列になっておりますので、
この「村」は地名につける「何々村」だと思われます。従って、「村」を
取ると「刑部」と「岡」になり、永田様のご指摘どおりとなります。
土地勘のない私も、地図を分析すると、岡崎城を中心として、織田や上杉
や武田や今川への備えとして、縦横無尽にルートが開かれている。中でも
「豊田」は「扇の要」となっております。豊田は岡崎の守り、いわば頭を
守る「かぶと」の役割を果たしたのではないかと思いました。
足元に当たる「衣浦」や「蒲郡」や「豊橋」は海への脱出口としての備え
のような気がいたしました。
三河だけでは不安であるような気もします。弓針山脈張山系の向こう側
――即ち、遠江をとれば東西の敵に対し、防御も攻撃もできる地の利が得ら
れると思うのは自然であったと思います。岡崎城と浜松城、このセットが
天下を生き抜くための東西の要となった、と思いました。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 12時28分15秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
誤字ではなかったですね。
>息子つう丸
保次の息子の「通丸」のことですね。
保正または保政(通丸・三十郎・中)
通丸が幼い間は 安孫刑部右衛門 を後見人にして
ということですね。
右は年来の戦忠が明確である上この度国境の調略でもし討ち死にした場合には宛行なう知行は息子の通丸に与える。
通丸が幼い間は 安孫刑部右衛門 を後見人にして知行の経営を行なうものとする。
安孫刑部右衛門ってどなた?
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 12時57分10秒 ) | パスワード |
安孫刑部右衛門を調べていたらなかなか興味深いお話に辿り着きました。
新居の関に面白いお話がありました:三つ柏さんならこの山崎村刑部右衛門という人が予想できるでしょうか?
http://hamaguru.com/sekisho/sekisho_history.html
関所の歴史
箱根関所は、天下の嶮といわれた箱根山におかれて、幕府の固めになったのである。
万丈の山が前に聳えるかと思うと、うしろには千仭の谷といった嶮岨の地であり、 一夫関に当れば、
万夫も聞きえないと歌われた険要の地点であった。
これに対して、同じ東海道で、浜名湖口の海上一里の今切を渡る新居におかれたのが 新居関所である。
箱根の関所と新居の関所とは山の関と海の関との差異こそあれ、ともに険要の地点を扼して、幕府の政策をよく維持した点で類似している。
新居関所は徳川家康によって設けられ、被官の江馬氏がその奉行に任命され刑部の家を移転して、それを番所とした。
箱根関所は元和4年(1618)の設置と推定されるので、 新居関所は箱根関所に約20年も先行しており、 家康が新居関所をとくに重要視したことがうかがえる。
この新居関所は、いつおかれたか。
『東海道新居関所研究資料』によると、 慶長5年に徳川家康は、はじめて新居関所を設けて、江馬与右衛門を関所の奉行に任じた。
与右衛門は今川氏の家臣で、父は加賀守といった。
家康は岡崎城から浜松に入城する時、引佐峠を越えるに際し、油田村のあたり23ヶ村より、野伏が起って家康にはむかった。 この時、浜名城兵の武士はそれを避けて井伊谷を通って浜松に入った。
この折に、与右衛門もそれに参加して功があったから、奉行職に任ぜられたのである。
関所は山崎村刑部右衛門の家を城町に移して、番所をしつらえ、これを守らせた。
これより続いて奉行職を置いたから、番所は次第に整備したという。
江馬氏が奉行になると、山崎村の庄屋であった刑部右衛門の家を城町、 すなわち半島が湖中に突出した阿礼崎を移築したのである。
江馬氏は奉行として、1290石の俸禄をうけ、早出村(浜松近辺)に住んでいた。
彼は慶長5年(1600)に関所を新設したが、元和4年(1618)ごろ、 紀州に転封になった。
同4年、彼の後任として奉行は2人になり、4000石の服部権太夫と、1000石を食んだ服部杢之助が着任し、ともに志都呂村に役邸を構えた。
二人ともこの地で奉行としての生涯を閉じた。
第3代の3000石の佐橋甚兵衛は橋本村に居住した。
第4代は承応元年(1652)、第5代は明暦3年(1657)と奉行は2人ずつ任命された。
第6代の寛文4年(1664)から奉行は1人になって、本田彦八郎が6000石という多額の 縁を食んで、死することになった。
同じく第7・8・910代いずれも奉行は一人ずつ任ぜられている。
元禄9年(1696)、11代目には、江戸幕府から、成瀬滝右衛門・佐野与八郎の、 二人が奉行となり、新居町の金山下に役宅を営んだ。
しかるに、同15年(1702)、成瀬、佐野両氏は、奉行職を免ぜられて、 奉行はここに終わりをつげた。
この奉行に代わって、吉田(今の豊橋)城主が、家臣を派遣して、 新居関所を守固することになった。
奉行が管理した慶長5年から元禄15年までの、 102年間、新居関所は代官の管轄に属したが、 その後は吉田藩主の所管に移り、関所所在地の新居駅もまた吉田領に属したのである。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 13時27分38秒 ) | パスワード |
地図:静岡県浜松市西区雄踏町山崎
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.71002400&lon=137.62263039&ac=22133&az=33&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%B8%82%E8%A5%BF%E5%8C%BA%E9%9B%84%E8%B8%8F%E7%94%BA%E5%B1%B1%E5%B4%8E
刑部右衛門さんは山崎の豪族だったのかもですね。
それゆえに保正が出世しても一緒については行かず、その地にとどまり、
後に権太夫一族に仕えることになったのかもですね。
[7] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月03日 14時39分57秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
また一段と深く解説・探究していただき、ありがとうございます。大変
興味深い内容ですので、じっくり読解させていただきます。
この采地を賜わったのは1577年。
中保次が刑部村で何者かに殺害されたのが、10年後の1587年。
殺害されたのは、神ヶ谷方面から刑部に来る途中だった。
荒井(あらい)の関所ができたのが、1601年。
その後、服部中の保俊が関所番になっている……
用事ができましたので中断します―
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 21時56分55秒 ) | パスワード |
1577年のできごと
11月8日(天正5年9月29日) - 彗星の出現:「九月廿九日戌刻西に当而希有之客星出来候也」『信長公記』
12月30日(天正5年11月20日) - 正親町天皇より織田信長へ右大臣宣下。
死去
3月24日(天正5年3月5日) - 直江景綱、戦国武将
11月19日(天正5年10月10日) - 松永久秀、戦国大名(*1510年)
>この采地を賜わったのは1577年。
随分家康に御奉公して後のことだったんですねえ。
もっと早いかと思ってました。
>中保次が刑部村で何者かに殺害されたのが、10年後の1587年。
桶狭間の戦いは永禄3年5月19日(1560年6月12日)
今川方の残党によって27年後に暗殺って アヤシイ と思いませんか?
27年後ってあまりにも後の世過ぎると思います。
でも某今川の武将の子孫に言わせると家康に対して良い感情は今でも無いようです。笑
>服部中の保俊が関所番になっている
保俊=保次孫(嫡男 保正の次男)が秀忠に仕えた後、1550石を知行し
弟に500石譲り
後に500石の加増を受け
慶長19年9月1日 荒井の関所番となり 服部杢助政次と同役。
翌20年に1000石の加増を受け 計3050石。
その後、采地が遠江国敷知郡長上2郡の内に移された。
ということで、三つ柏さんのご先祖の可能性がある、ですね。
この家の紋は16桁車の内横矢筈・向ひ蝶・揚羽向ひ蝶の内16葉菊
保俊の兄(つまり嫡男三十郎)は元和の大坂の役で戦死している。享年27歳
服部中保次の家は
平氏高棟流
弥兵衛宗清より出て
頼朝により伊賀国阿拝・山田2郡のうちに於いて32村の斎采地をたまひ
阿拝郡服部に住せしより子孫服部を持って屋号とす
保次は其の後裔伊賀守宗純が末孫なりといふ
ということは三つ柏さんの家は服部中保次関係の子孫関係かも。
で、嫡流and/or次男の流れでもなく3男以下あたりで何らかの関係で家紋を替えた?
土地勘が無いので空想が飛ばないです・・・
あびこさん、という家がどう関係するのか?家康関係なのか?今川関係なのか?伊賀関係なのか?土着の名家なのか?
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 22時15分37秒 ) | パスワード |
>保俊の兄(つまり嫡男三十郎)は元和の大坂の役で戦死している。享年27歳
この人が子孫を残している可能性だってありますよね。
27歳だったら子供が数人いてもおかしくありません。
お父さんの 保正の後見人だった 安孫さんの家で子供達が養われた可能性だって有りますし。
三十郎が討ち死にした時の主人 青山伯耆守忠俊 の元に居残ったかも知れないし。
あれれ?
服部平太夫正尚の弟は養子に行って 青山成重 になってますよね。
ということは 服部ー青山ラインで親戚ですね。
青山伯耆守忠俊
青山氏系図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%B0%8F
青山 忠俊(あおやま ただとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川幕府譜代大名。常陸江戸崎藩第2代藩主、武蔵岩槻藩主、上総大多喜藩主。青山家宗家2代。
経歴[編集]
天正6年(1578年)、遠江国浜松(静岡県浜松市)に生まれる。小田原征伐で初陣を飾り、兄・忠次の早世により嫡子となる。父・忠成が徳川家康に仕えていたため、最初は家康に仕え、後に幕府2代将軍・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)より伯耆守を称す。慶長8年(1603年)に5,000石を与えられる。慶長12年(1607年)に土井利勝、酒井忠世とともに徳川家光の傅役をつとめる。慶長15年(1610年)、5,000石を加増され1万石を領する独立した大名となる。慶長18年(1613年)には父・忠成の死により、常陸江戸崎藩第2代藩主となった。元和元年(1615年)には本丸老職となる。元和6年(1620年)5万5,000石をもって岩槻城主となる。
しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、元和9年(1623年)10月19日には、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、その後寛永2年(1625年)に除封され、下総国網戸・相模国溝郷・遠江国小林を経て、相模国今泉で蟄居する。秀忠の死後に再出仕の要請があったが断っている。
寛永20年(1643年)に死去、享年66。
父:青山忠成、母:天方通興女
兄弟
忠次、忠俊、朝比奈泰重、幸成、
天方通直、川口近次室
妻
正室:大久保忠佐女
関係が無いわけじゃないとは分かっていましたが思わぬ閨閥が出ましたね。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 22時37分15秒 ) | パスワード |
ということは 大久保長安事件で 青山家にとって服部家の者は重荷になったかも知れないですね。
大久保長安事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
大久保長安事件は、慶長18年(1613年)4月に起こった江戸時代初期の粛清事件。
8月には長安の子を青山成国として養子にした青山成重が減封の上蟄居。
なんとなく服部保俊の知行する長上郡に不遇の服部関係者が集まった背景が見えたように思います。
ということは長上郡は加藤光泰の不遇関係者、松嶋氏の不遇関係者、永井氏不遇関係者、鈴木氏不遇関係者が集まった?
[11] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月04日 01時17分24秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様の推理、するどいと思っています。青山氏は喜平の内藤家と親戚、
その小林の土地に小さな家を建て蟄居、市野氏も励ましに行っています。
服部正尚家と服部中保次家との関係、服部中家と青山家の関係については、
具体的な情報を持っておりませんが、何かありそうな気配がします。
ここ、羽鳥近辺には、青山氏、太田氏、長谷川氏等、関係ありそうな氏族
がたくさん存在していますので、それぞれつながる可能性はあります。
あを様の推理した隠棲グループ的な可能性も大いにあります!
ただ、材料はそろっているのですが、それをつなげて証明することが難し
いというところがもどかしいです。
従って、もっともっとその時代の記録を収集しなくてはと思っています。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月04日 03時26分19秒 ) | パスワード |
書き直し
三つ柏さん
>関所は山崎村刑部右衛門の家を城町に移して、番所をしつらえ、これを守らせた
1.安孫刑部右衛門は山崎村の有力者で家康の信任が篤かった?
2.のちの関所の代官服部権太夫・中服部の双方の指導補佐をした?この2つの服部家は一族だから協力し合えた
>服部正尚家と服部中保次家との関係、服部中家と青山家の関係
尾張服部家ホンヤ
服部権太夫の家
服部中の家
この3つの服部家は伊賀守宗純の子孫だから一族
こちらの2つの服部家は共に家康の父・清康に仕えた一族
服部半蔵の家 ⇔ 大久保家と閨閥関係
服部正尚の家 ⇔ 青山家と閨閥関係
服部中の孫・三十郎が青山伯耆守忠俊の配下となって元和元年1615年5月7日に討ち死に。享年27歳
この時には既に大久保長安事件があった
服部中保次の孫(次男保俊)は慶長13年に父・保正の1550石を相続していて
慶長19年に荒井の関所番となって慶長20年6月6日=元和元年=1615年には3050石。
ということは 兄=嫡男=三十郎の5月の討ち死にで弟・保俊が6月に加増に預かったのかもですね。
遠江国敷知長上郡に加増の1000石分の采地を貰って、経済的困難をきたしていた一族を受け入れることができた、のかも。
弟に保久がいて、500石もらって分家。
保正の3人の子供(三十郎・保俊・保久)の母は紀州家の家臣・川井重長の娘。
保俊の家は栄えに栄えて立派な家と縁続きになってますね。その1つに永井家もある。
武士は殿の馬前で(家康のことだけど)討ち死にするこそ誉れというのを嫡男の三十郎は遂げて
次男の家を栄えさせたのでしょうね。
そうすれば自分の幼い子供たちも引き立てて貰えるから。
ただし子供たちは歴史から消えていますね。
きっと長上郡あたりで育ったのかもですね。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月04日 03時39分55秒 ) | パスワード |
服部中の次男の家も興味深いですね。次男は保信。
保信
慶長2年 16歳で家康に仕えて、後に、御腰物奉行に(刀のことですね)
寛永17年に薨去 59歳
妻は内藤平右衛門の娘
内藤さんですよ!
保信の子2人
嫡男保重
妻は大久保次郎八郎忠重の娘
大久保さんですよ!
次男 保儀
弟だけど兄の養子になり妻は庄与左衛門直重の娘
孫は内藤十郎左衛門政康の5男
内藤から養子
この家は結構内藤家と関係があるようです。
保久の子孫に千村氏から嫁が来てますね。
[15] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月04日 13時50分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前レスの訂正:「喜平」→「貴平」
追加:羽鳥に住んだ人に「小栗氏」を追加
(どうもお正月ボケで、訂正が多く申し訳ありません。)
すごい情報、ありがとうございます。あを様の推理力、冴えわたってい
ます。
いろいろ用事ばかりで集中できません――これから外出しますが、帰って
来てからゆっくりかみしめて読解させていただきます。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月04日 22時55分45秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
でも 保正の3人の子供(三十郎・保俊・保久)の母は紀州家の家臣・川井重長の娘 なのに
何故家督が嫡男の三十郎でなく保俊に譲られたのか?
母が同じですから三十郎は長子ではなく嫡男なのに。
父・保正と嫡男・三十郎は一緒に、青山伯耆守に従って、元和の大坂の役について行って、三十郎は討ち死に。
ということは当時の三十郎は青山伯耆守忠俊の家臣で 政治的な重役になるべく 江戸にいた のでしょうね。
その前に服部半蔵の家は大久保長安事件で没落。服部正尚の家も没落。
保次・保正・三十郎の家は半蔵や正尚の家とはちょっと流れが違うから
半蔵の家や正尚の家の持っていた利権を得る可能性があったのかもですね。
青山忠俊の家が幕府の重臣で、老中にもなっていますから、将軍家に近い。
きっと三十郎には輝かしい将来が約束されていたのかもですね。
弟の保俊は兄の家族や家来を引き取ったのでしょうね。
父の保正は元和2年に52歳で亡くなっていますから三十郎の死がこたえたのかもですね。
葬られたのは江戸ですから江戸で亡くなったのでしょうね。
泣けて来た
三河国岡村や遠江国刑部の財産は次男の保俊が相続して
嫡男の三十郎は江戸幕府の重鎮になるべく手柄を立てる必要があった、
のでしょうね。
これは父・保正の夢でもあったのでしょうね
しかし三十郎は武運つたなく討ち死に。
ちょっと、、、泣けて来て、文章がバラバラで済みません。
青山伯耆守忠俊
天正6年(1578年)、遠江国浜松(静岡県浜松市)に生まれる。小田原征伐で初陣を飾り、兄・忠次の早世により嫡子となる。父・忠成が徳川家康に仕えていたため、最初は家康に仕え、後に幕府2代将軍・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)より伯耆守を称す。慶長8年(1603年)に5,000石を与えられる。慶長12年(1607年)に土井利勝、酒井忠世とともに徳川家光の傅役をつとめる。慶長15年(1610年)、5,000石を加増され1万石を領する独立した大名となる。慶長18年(1613年)には父・忠成の死により、常陸江戸崎藩第2代藩主となった。元和元年(1615年)には本丸老職となる。元和6年(1620年)5万5,000石をもって岩槻城主となる。
しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、元和9年(1623年)10月19日には、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、その後寛永2年(1625年)に除封され、下総国網戸・相模国溝郷・遠江国小林を経て、相模国今泉で蟄居する。秀忠の死後に再出仕の要請があったが断っている。
寛永20年(1643年)に死去、享年66。
父母
父:青山忠成、母:天方通興女
兄弟
忠次、忠俊、朝比奈泰重、幸成、
天方通直、川口近次室
妻
正室:大久保忠佐女
子
宗俊、宗祐、忠栄、正俊、
滝川正利正室、稲葉一通継室、
川口正信室、中根正次室
[17] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月05日 00時54分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いろいろとありがとうございます。まだイメージ力の方がついて行けません。
昔の武将・武士は今の人のように、一か所に定着して車で遠くへ出かけると
いうようなイメージでは全くないと思います。
蟻の一歩でも、テクテク遠くへ歩いて行ったと思った方がいいのではないか
と考えます。とにかく、徒歩でも行動範囲が広かった……。江戸詰めの人も、
動かなかったことはないと思います。その辺のイメージが今一つ湧いて来ませ
んのは、まだまだ勉強不足だなと思っています。
[18] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月05日 08時29分09秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
お正月気分も一新。本日より元のペースに戻りました。
あを様からの素晴らしく、また沢山の情報、まだ読解・分析が完全には
できておりません。この一両日中には終えるつもりです―
服部氏族については、再度古代から見直しております―
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月05日 10時54分14秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
何故服部氏なのに並び矢系のバリエーションじゃないのか?
その可能性をいろいろ考えますが、家紋は難し過ぎます。
神主だったから?
他の家との婚姻で?
それとも本流から外れたから家紋も替えた?
関所番の中服部家に遠慮して三十郎の子孫が家紋を替えた可能性は大きいと思います。
保次 → 保正 → 三十郎 が本来嫡流ですものね
でも遠江の実権は三十郎の弟の保俊がゲットしたのですから
三十郎の子孫が家紋も同じにしていたら混乱するだろうな、と。それで替えたのかなと。
この記録が見つかると良いのですが。
昨日まで暮れの大掃除の続きをしてましたが本日諦めました。笑
[20] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月05日 17時26分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部中の関係について、目からうろこがポロポロと落ちて行く感じがしま
す。かつてもあを様と探究しましたが、その時とは全然違うビビィットさ
であります。つまり、色々な関連情報を吸収したおかげで、今ではかなりの
広角で見渡すことができるようになりました……。
2代将軍になる秀忠の祖父(義理)の服部正尚の弟が青山家(私の義姉の嫁ぎ
先も青山です)に養子に行く前後にわたって、いろいろな事件がこの地域で
起こりますが、人間関係がただものでないほどつながっているということで
す。
信康事件では―
@「服部半蔵」と「天方通興」が介錯役でつながります。
A服部正尚の弟の「忠成」が「天方家」に婿養子に入り、両家はつながり
ます。
B青山忠俊の正室は信康のこもった二俣城主大久保忠世(長男)の弟忠佐
(次男)の娘で、「青山家」と「大久保家」はつながります。
C「青山家」と「内藤家」は三河の親の代でつながっています。
D「服部中家」初代の保次の次男系が「内藤家」と閨閥。
E「服部半蔵家」と「服部正尚家」と「服部中家」は同族関係。
次に大久保長安事件で―
@大久保長安と大久保家はもちろん養子関係でつながります。
A服部半蔵家、服部正尚家、青山成重家が事件により制裁される。
次に家光への諌言事件で―
@青山忠俊が制裁を受け、内藤家に一時蟄居、その後内藤家の小林(羽鳥庄
の西北)の土地での邸での蟄居。
D青山忠俊と市野氏は小林の邸で親交をはぐくんでいます。
まだまだいろいろな人間関係が見いだせると思いますが、結局のところ、
この地域では人間関係の表裏の関係が、ぐるぐると渦巻いていたということ
で、今のような平和な時代ではなかったということであります。
それにしても、服部中系統、半蔵家よりもクレバーな感じがして来ます。
保正の嫡子の三十郎、私の頭にしかと刻まれました。
保俊の長男の万五郎も、私の頭にひっかかっています。
これらのこの地に残した証左を必死で探してみます―
そうそう、一つ思い出しました。私の一門で、すでに鬼籍に入っております
人が、生前、善地の服部家について残していた簡単な系譜に、「川合家と親戚
――」の一文字が書かれておりました。これについては全くの謎で、本人に確
認するわけにもいかず、そのままになっております。この人は善地天満宮の氏
子総代をやっております。どこのカワイ家なのか、レベル的には五苗と対等な
一族だと思っていますが―
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月05日 22時23分36秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
そうでしたか
義姉さまで現在も青山家に繋がりますか。
三つ柏さんのお書きになったレスを拝見してて全身が粟立つと申しますか
寒ぼろが立ちました。
川合の地名は永田さまから教えて頂いたころ、地図を見てて
へ〜
こんなところに川合があるのか
と思いました。
>保正の3人の子供(三十郎・保俊・保久)の母は紀州家の家臣・川井重長の娘
この川井という名字も何やら引っ掛かりました。
万五郎については
保房の子の万五郎は手持ちの資料にありますが
ちょっと分からないです。
またいろいろ読んでみますね。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月05日 22時47分47秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>それにしても、服部中系統、半蔵家よりもクレバーな感じがして来ます。
はい。
だいたい半蔵の息子がアホ過ぎます。
たぶん、半蔵の子がバカ過ぎるから、半蔵の家の利権(同心の纏め役=忍者の監督)について
中服部家に預けたい
というハナシがあったのかもです。
>保俊の長男の万五郎も、私の頭にひっかかっています
この人物、三九郎保重でしょうか、分かりません。
寛永18年に父に先立ちて死す
と書かれています。
妻は柴田筑後守康長の娘、と書かれています。
>善地の服部家について残していた簡単な系譜に、「川合家と親戚―」の一文字
服部家と川合家
芭蕉と曽良 松島十湖先生
ホント
何か引っ掛かりますね。
[23] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月06日 13時04分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨夜来、ずっと考えていましたことは、川井氏のことと永井氏のことであ
ります。
川井氏がどこの出身か……紀伊家の家臣といえども、出身は紀伊とは限ら
ない。八流以上の川井氏があり、その中には遠江発祥の川井氏族が二流ある。
@袋井の川井村発祥の川井氏――藤原南家流、今川家臣、江戸時代には旗本
となった。
A磐田郡川井村発祥の川井氏――河合源氏流、吉見氏の庶家。
娘が「服部中保正」の妻となった紀伊家家臣「川井刑部重長」の出自がど
こにあるのか、今の所、それらの情報を見出しておりませんが、遠江出身と
あらば我が服部家ともつながる可能性はあると推測しております。
さて、もう一つの謎として、永井氏が何故ここ長上郡の北はずれにいるの
かというということであります。それも我が服部家とは仲良く、姻戚関係も
含めてであります―
以前に、永井白元は加藤光泰に仕え、戦闘を共にしたということを載せま
したが、いわゆる同じ釜の飯を食った仲……それも、文禄の朝鮮での戦いは、
塗炭の苦しみ、地獄であったそうです。ましてや、武断派の人間対文治派の
対立の中で、文治派の三成のはかりごとともいわれている光泰の毒殺という
疑いに対する怒りを背負ったまま帰還、更に甲斐二十四万石から減封され、
六百人の浪人が生れたという怒り、これは代々消えるものではなかったと思
われます。
つまり、この善地に永井氏がいるのは、加藤光泰の親族と行動を共にして
やって来たということなのではないかと推察いたします。
では一体何故「服部氏」とくっついたのかでありますが、服部一族が家康
の戦略の中枢にいたこともあるだろうし、その中でも服部中保次から数えて
六代目の保房が「永井直勝の弟、つまり白元の孫の茂虎の娘」を娶っている
といったような潜在的に近しい間柄にあったということだったのではないか
と思っています。
もっとも神君伊賀越えでは、服部中保次も永井直勝も共にしています。
善地というところが、周りの村と違ってずっと天領であり続けたというの
も、家康側からの何らかの配慮・思惑があったのではないか?と推察いたし
ます。
また、善地に「天満宮」が勧請されたのは、永井氏の強い願望があったか
らではないかと推察いたします。永井尚政は菅原道真を尊崇していた。永井
氏は、土師氏―菅原氏をルーツとしている……この点は再確認してみます。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月06日 14時29分38秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi53.htm
川井氏について全く分かりませんが ↓ の人物が引っ掛かってきました。
川井* (*)(河井)・与四郎。
今川氏真の側近。
離反した遠江久野城の久能氏を説得。勢力を分裂させる。
<庵原氏の外戚に川井氏あり。>
紀伊家の臣ということで その殿さまってどなた?
保正は 天正4年=1576年=に12歳。 数え年でしょうか? 1565年あたりに生まれた?
元和2年=1616年=に52歳で死去。
普通正式に結婚するとして20代の初めあたりでしょうか?
1586年あたりでしょうか?
紀州徳川家の祖は頼宣。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%AE%A3
1619年(元和5年)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。
入国の前に家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。
ということは 恐らく川井刑部重長は徳川頼宣の家臣ではないでしょうね。
それか、老いてから紀伊家に仕えたのかも。
時代的に1585年あたりの紀伊家といったら 豊臣秀吉の弟の秀長?
もし秀長の家来だったら 秀長の「長」の字を前にして 長重 という名にすると思うから
秀長の家来だったとは思えないです。 有り得るのかな?
秀吉の場合の「吉」はフツーに「ぴょん吉」とか使いそうだから
「○長」という秀長の家来に普通に許されてたかも???
戦国時代の紀州の殿様はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD
戦国大名
紀伊国は国人領主の力が強く、強力な戦国大名は誕生しなかった。
豊臣政権の大名 豊臣秀長・秀保:紀伊・和泉64万石、後に大和国を加え110万石(1585年〜1595年)。秀保死後は紀伊は豊臣秀吉の直轄領となる。
入山城(日高):青木一矩(1万石、1585年〜1587年)。播磨立石城主に移封。
猿岡城(粉河):藤堂高虎(1万石、1585年〜1595年)。伊予板島(宇和島)7万石に移封。
田辺(泊山城→上野山城):杉若無心・氏宗(1万9千石、1585年〜1600年)。関ヶ原の戦いの後に改易。
新宮城:堀内氏善(2万7千石、1585年〜1600年)。関ヶ原の戦いの後に改易。
和歌山城:桑山重晴・一晴(2万石、1585年〜1600年)。関ヶ原の戦い後も本領安堵され、紀州藩として存続。
結論:「紀伊家の臣・川井刑部重長」について該当関係を全く特定できませんでした。
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月06日 14時49分36秒 ) | パスワード |
もう1度「紀伊家の臣・川井刑部重長」について考えてみました。
もし紀州徳川家に仕えたとしたら
家康あたりの年代で非常に長生きした人物?
服部中保次は 天正15年=1587年=に62歳で亡くなっています。つまり1526年あたりの生まれ?
家康
生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日)
死没 元和2年4月17日(1616年6月1日)75歳 へえ〜
重長は中保次よりかなり若かったかもですね。
そうすると紀州藩に仕えた可能性が出て来ますね。
重長はとにかく静岡あたりの人で、晩年に紀州藩に席を置いた・・・いえいえ・・・紀州藩の禄を食んだ・・・のかもですね。
今、重長が「惜しい!ズレてる」と笑ったような?笑
[26] | 酒井ともさんからのコメント(2016年01月06日 15時06分36秒 ) | パスワード |
こんにちは。横レスです。
毎日、かかさずにおじゃまして楽しませて頂いています。
>川井氏がどこの出身か……紀伊家の家臣といえども、出身は紀伊とは限ら
ない。八流以上の川井氏があり、その中には遠江発祥の川井氏族が二流ある。
>@袋井の川井村発祥の川井氏――藤原南家流、今川家臣、江戸時代には旗本となった。
>A磐田郡川井村発祥の川井氏――河合源氏流、吉見氏の庶家。
手持ち資料ですが、
@の袋井の川井村発祥の川井氏は「陰陽師」だったようで、最終的には
紀州徳川家の久野氏の家臣になりました。
石高で云うと〜100石程です。ただ残念な事にのちには闕所。
この川井氏は徳川家康公と武田信玄さんが遠州を掛けて争った頃に
戦況を濁流の天竜川を越え、浜松城の家康公へ注進をして激賞された記録があります。
ご参考までに。
[27] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月06日 18時42分13秒 ) | パスワード |
とも様
お久しぶりです。よく研究なされておられますね。
川井氏が陰陽師であったということは、戦いの前に、吉凶を占ったり、
あるいは呪詛をかけたりと、戦いには必ず必要とされたと思われます。
天竜の濁流を越え、戦況を知らせを伝えに走ったというところは、あっぱ
れ、感激しました。どんなご褒美をいただいたのか、その他いろんな情報を
知りたいですね。
紀州徳川家に仕えた久野氏の家臣……袋井から付いていったんですね。
私の友達にも「川井」君がいました。意外にも近くにいました。「川合」
だと思っていたのですが……「河合」についてはたくさんいます。
これからもレスお願いします。楽しみにしています。
[28] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月06日 20時14分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
出雲氏より土師氏が出て、秋篠氏、菅原氏、大江氏が分派した。永井氏は
大江氏の流れ。ということで、永井氏は菅原道真=天満宮を尊崇していた。
とくに、尚政に関するエピソードは多いようであります。
さて、善地のすぐ東の高薗には長谷川氏族(江戸時代には庄屋をやっている
が詳しい出自は洪水等で失われている)がおり、すぐ南の石原には藤田氏族
(服部中の地代官系だと思われるが、いろいろな史料は豊田町図書館へ寄贈)
という具合に、服部中にかかわる氏族が身の周りにおられます。
しかし、いずれも匂いはすれど煙が見えないので、ジレンマに陥ります。
ま、根気よく行くしかないなと思っております。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月06日 22時47分27秒 ) | パスワード |
ともさん
情報感謝です。
そうしますとレス<24>で書いた
川井* (*)(河井)・与四郎。
今川氏真の側近。
離反した遠江久野城の久能氏を説得。勢力を分裂させる。
<庵原氏の外戚に川井氏あり。>
この人物関係でしょうか?
久野城の久能氏というのが 久野氏 かも?
で、久野氏って、
前に出て来ましたよね?
山下家関係でしたっけ?
松下氏関係でしたっけ?
こちらの人は九州に行ったんでしたっけ?
それにしても家康は神職や陰陽師というか占い師も結構大勢雇っていたのかもですね。
服部貞信もいましたよね。
背中に六ぼう星の紋をつけた人達も関ケ原にいましたよね。
陰陽師もいたのか・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%87%8E%E6%B0%8F
久野氏(くのし、くのうじ)は、日本の氏族。遠江国の国人衆が著名。「久能氏」とも呼ばれる。
元和5年(1619年)に徳川頼宣の家老、と下に出てますね。
瓜に三つ巴紋
本姓
藤原南家?
秦氏? あらら
家祖
久野宗仲
出身地
遠江国
主な根拠地
遠江国久野城
著名な人物
久野宗能
支流、分家
久野氏(武家・旗本)
概要[編集]
鎌倉時代、工藤清仲の子久野宗仲が遠江国久野に住したことに始まる。藤原南家為憲流と伝わるが確証(系図も複数あり)はなく、秦氏流ではないかとも言われている。代々今川氏に仕えていた。
宗隆は、久野城(現・静岡県袋井市鷲巣字上末本)を明応年間に築城し居城とし、子の元宗、宗経が桶狭間の戦いで討死すると、その弟宗能は、今川氏真を見限り、徳川家康に臣従し、高天神城の戦い、小牧・長久手の戦いなどに戦功を挙げ、天正18年(1590年)徳川家康が北条氏の旧領の関東に移封され、宗能は、下総国佐倉藩13,000石が与えられた。
宗能の嫡子宗朝は、慶長元年12月5日(1596年)、将軍徳川秀忠上洛に供して京に滞在していた時、私怨から刃傷に及び、同じ徳川家臣の三宅正次を殺害して改易処分となった。この時、隠居した宗能に1,000石が与えられ再勤することとなり、関ヶ原の戦いの戦功で8,500石が与えられ、旧領久野に復した。
慶長14年(1609年)に宗能が没し、宗朝の次男宗成(丹波守)が嫡孫相続し、元和5年(1619年)に徳川頼宣の家老、田丸城代となり、2,500石加増をされ、伊勢国田丸城10,000石を拝領し、紀州藩田丸領60,000石も併せて管理した。
久野氏は宗成の後、宗晴−宗俊−俊正−俊純−輝純−昌純−純固と続き、明治維新を迎えた。また、久野氏は、代々和歌山城下に屋敷を構え政務をとったため、一族を名代として派遣していた。一方で除封となった久野宗朝の三子宗次が召し出され、600石の旗本となった。
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月06日 22時57分01秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>根気よく行くしかないなと思っております
はい
多くの史料を読まないといけませんね。
そして現地に行かないと見えて来ないし。
とにかくライフワークです。
まだまだお若いのですから時間はたっぷりあります。
とにかく「煙」を見つけませんと
高見に登らないと見えて来ませんし。
[31] | 酒井ともさんからのコメント(2016年01月07日 09時31分53秒 ) | パスワード |
みなさま こんにちは。
横レスです。
>川井氏が陰陽師であったということは、戦いの前に、吉凶を占ったり、
>あるいは呪詛をかけたりと、戦いには必ず必要とされたと思われます。
先年ですが、偶々立ち寄った袋井市にて「遠州の修験道」の成り立ちを
聴講させていただきました。
憶えているのが、天下人の家康公が中泉御殿近くに修験道者を住まわせ
「草」のような役を与えていたと事でした。
「修験道」「陰陽師」等の集団も「忍者」とは違った形で徳川幕府に
溶け込んでいたんだと思いますが、明治時代になり政府にあまり好ま
れなかったようで、酷い仕打ちを受けた受難の時代だったようです。
>そうしますとレス<24>で書いた
川井* (*)(河井)・与四郎。
今川氏真の側近。
離反した遠江久野城の久能氏を説得。勢力を分裂させる。
<庵原氏の外戚に川井氏あり。>
この人物関係でしょうか?
手持ち資料の川井氏の諱は五郎左衛門ですので、川井与四郎とは諱が
異なります。
ただ、桶狭間で久野氏の嫡流系統が討死し、久野宗能が一族を掌握するまで
今川方と徳川方での駆け引きがあったのは資料に見て取れます。
その時に川井与四郎は今川方として、徳川方に傾きつつあった、久能宗能等
を排除する為の密使だったのですが、捕縛されて密事が徳川方の久野宗能に
筒抜けになり、今川方の久野一族を切腹や追放し、久野城を守ったようです。
資料にはこれしか出てきませんので、
川井与四郎と川井村の陰陽師の川井五郎左衛門の関係が分かりません。
ただ、川井五郎左衛門は実子には別姓を名乗らせているので、何か隠したい事が
あったのかもしれません。
>庵原氏の外戚に川井氏あり。
庵原氏は駿河の富士川下流地域の氏族のようです。
これが川井村の北東地域を治めた堀越氏の一族でしたら、今川了俊の嫡流系統
ですので面白かったのですが・・・。
[32] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月07日 10時55分39秒 ) | パスワード |
とも様
すごい情報――戦いの裏で繰り広げられる綱引き、そして暗躍する陰陽師、
修験者、忍者……思わず戦国の世に引き込まれてしまいました。
古文書に書かれていたんでしょうか?
本日はJOBのため、とりあえずお礼まで―
[33] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月07日 17時30分03秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
永井白元について、その人生を鳥瞰したいと思っているのですが、情報が
少なくて、いわゆる「八方塞がり」の状態であります。これを打開したいと
思っているのですが……。
いずれにしても、すべての情報が、どこかで限界にぶつかる――「八方塞
がり」という状態に陥ることがあります。
本日は、安全祈願で神社へ行ってきました。神社では「前厄・厄・後厄・
八方塞がり」…というような吉凶の分類があり、祈祷を受けるこによって、
一応、凶が封じられると信じられていますが、この「八方塞がり」という
言葉には、いつもながらうまい用語を考えたものだと感心してしまいます。
永井氏の情報も八方塞がりでありますので、お祓いを受ければよくなるの
か……そういえば、永井氏は神職にからむ氏族でした。なぜ永井氏が神職に
からむのか……この点に絞って情報収集をしてみたいと思います。
[34] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年01月07日 20時54分48秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
箱永です、 まずは永井系図から
>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html
良兼より7代後の親致に着目してください。親致は保元の乱に参加し隠棲します。長男戦死2男敗走後行方不明(信州又は駿河に落行)3男の政俊は幼少のため碧南市棚尾の乳母のもとに戦時避難し、成長します。成人して碧南市の八柱神社(当時は八王子神社)の神主になり、その後大浜熊野大権現を創建し以後
長田重元を含め第2次大戦後の農地解放まで(私設神社として)
以後は大浜熊野大神社として存在しています。
親致の親は門真荘(津島)の荘司で、門真姓も分岐しています。
長田重元の父親は津島大橋の4男で長田広正を名乗ります。
直勝の弟白元(なおもと)は旗本として(道中奉行?)東海道、中山道の
一里塚の整備に携わってます。 子の子孫のHP オルゴールが鳴ります 要注意
>http://homepage2.nifty.com/0305/keihu.htm
なお、平公雅は浅草観音に多大な寄進をしたことで、今も門前仲見世に
紹介されています。公雅は従4位下になりましたので、当時の法で
任官地以外は、畿内在住が義務ずけられているので、伊賀上野西の長田地区に転居します。伊賀上野付近は服部さんの地盤があるので、、、その当時からの付き合いかな、私は菅原道真さんを羽鳥で祭った時と考えています。
[35] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年01月07日 21時30分38秒 ) | パスワード |
三つ柏様
追伸 平高望(高望王)は伊賀長田荘の他にも 荘園を
所有しておりまして(坂東の地と伊賀で)国香を初めとする平氏で分割するのですが、貞盛系と公雅系だけが伊賀伊勢に引っ越してくる、、で、
争いの種は益々育つのね。 高望王が実際に住んだかは、疑問です。
永井白元の陣屋、、、跡、、地番しかわからない。
>http://utsu02.fc2web.com/shiro793.html
長田武蔵守平公雅の墓(御所見)がすぐ近くであるのを、発見しました。
貴兄の問いかけに感謝いたします。
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月07日 22時41分20秒 ) | パスワード |
皆さま
あ〜
なるほどね
と思いつつ
自分の言葉で語ろうとしますと 出来ない・・・涙
本当に思ってもいなかった、全く予想外の、いろいろな情報に感謝です。
でも頭の中はジャングルになっています・・・
最近脳の劣化が激しくて
でも、おお、そうか、と目からウロコがボロボロです。
やはりいろいろな人から情報を得ないと「近視的思考」になっているのに気付きませんね。
ありがとうございます。
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月08日 05時06分35秒 ) | パスワード |
家紋について考えているのですが
家紋はそれこそ12世紀=平安時代の末期あたりには家のアイデンティティとして
戦いがあれば旗印として集い、守って来たわけで
そういう何百年も大切に扱い支えにしてきた大事なものを他のものに替えたという点で何故丸に三つ柏紋なのか?
もともと丸に三つ柏紋だったのか?
途中で泣く泣く替えたのか?替えさせられたのか?
慶事があって替えたのか?戴いたのか?
何だろう?何故だろう?いつだったんだろう?
伊賀系服部氏だったら(三十郎の子孫が遠江の新居の関所番の服部家に遠慮したのなら)並び矢とか矢筈紋とかのバリエーションにするだろうし
それか葉菊紋か。
もともと神社関係で高槻の神服神社の紋なら合ってるし。遠江の神社もそうだった?
これは地元の史料に載っているかも。
長田氏関係?
もともと長田氏と古代から関係があったから?平家時代の関係とか?南朝時代にも関係があった?大橋さんを挟んでの関係で?江戸時代の遠江で?
この3つの内のどれかとしか未だに思い浮かばないです。
[38] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月08日 07時09分54秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
ありがとうございます。二日前の夜から体調がすぐれず(おいしい三ヶ日み
かんの食べ過ぎと夜更かし)、昨日は「永井氏」について「八方塞がり」とな
った気分で、精神的にも少し落ち込み、早々と寝てしまいました。
本日、「開けてビックリ、玉手箱」で急に元気が出て立ち直りました。
あを様のご指摘にもありますが、@家紋(丸に三つ柏)と、A永井家と一緒に
暮らしていること、姻戚関係があること、B加藤氏(光泰関係者)とも仲良く
(姻戚関係もできている)暮らしているということ――これが当方の服部家の
謎を解く鍵と思っています。
善地に住む永井氏の家紋は、半分が「永井切り茄子」、半分が「丸に三つ
柏」で、一部大昔の墓に「一文字に下三星」があります。
途中ですが、JOBに出掛けますので、一旦切ります――
[39] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月08日 09時20分18秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
一つ訂正:「永井切り茄子」→「永井切り梨」
何で茄子と書いてしまったのか、昨日「家康検定試験」という家康に関す
る知識の試験があるのですが、その本を読んでいて、家康が駿府で好んだも
のは何か、という質問の答え――「一富士、二鷹、三茄子(なすび)」を読ん
でいてそれが頭の中に残ってしまっていたというわけです。頭の中の配線が
少しずつ切れて行くのを感じております。
この一富士については、よくわかります。特に雪を被った富士山は、日本
一というより、世界一でありましょう。また、その高さも家康の心を捉えた
のでしょう。二鷹については、鷹は神の使いのように感じたのでしょうし、
・く舞い上がり、鋭い目で獲物を捕らえる―家康は、鷹狩が大好きでありま
した。それは何故なのか――深く探究すれば、何か秘密が出てくるかも知れ
ません。そして、三茄子でありますが、これについては、深く探究しており
ませんので、いずれその理由も調べたいと思っています。いずれにしても、
秋茄子は美味いし、茄子の糠漬け、茄子の天ぷら、茄子の煮物、全部美味し
い――家康の味覚は間違っておりません……。家康の最期は、茶屋四郎次郎
に勧められた「鯛の天ぷら(から揚げか)」の食あたりとなっておりますが、
本当かどうか、胃癌説もありますし、鷹狩による獲物の半生の肉には寄生虫
がいて、それにより亡くなった人もいるようです。
永井氏に関しては、お隣さんとして暮らして来ました(加藤家も然り)ので、
シンパシィを非常に感じております。何故、永井氏がこの長上郡の北はずれ
に来たのかの謎がわからなかったのですが、加藤光泰と永井白元との朝鮮で
の塗炭の苦しみ=地獄を経た間柄ということを考えますと、その思いは子孫
・一族にずっと残ったのではないかと推察いたします。
従って、この善地村に来た理由は、加藤光泰の一族の流れと共にやって来
たということが、筋として一番考えられる理由であります。
当服部家が永井氏と結びつくのは、服部中保次以来、神君伊賀超えのあた
りから始まっているのは事実であります。永井直勝は小姓組として井伊直政
等と一緒に浜松城にも属しておりました。その時、直勝の弟、白元はどこで
何をしていたのか……。浜松にも来ていたと推察いたします。
服部中家は、その後、浜松市西部の大久保というところで、服部正信の後
を継ぐ形で、代官職を務めました。従って、子孫も残していること推察いた
します。服部中保房(保房から五代目)が、永井白元の孫の茂虎の娘を娶った
という事実は、服部家と永井家の深い関係を意味しております。
加藤家が秀次事件の断罪の及ぶのを逃れ、池田村に逃れ、帰農し、故あっ
て善地村に来た。永井氏もそこに収束した。服部家もそこに収束した――
これが、私の直近の推理であります。
箱柳永田様にご意見をお伺いしたいと存じます……。
[40] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年01月08日 14時19分18秒 ) | パスワード |
三つ柏様
武家家伝より
>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/katou_m.html
>一部が三河へ流れてきた。それが、三河加藤氏の始めということになっている。 西尾安城あたりには、多い苗字です。
豊田今町には500年以上在住するという加藤さんがいます。
(聞き取り調査ですので、系図、過去帳の確認はしてません)
永田と加藤さん達は多数いますし、良好な関係のようです。
>http://exploredoc.com/doc/619401/2.-%E4%BB%8A%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA%E3%81%AE%E6%B2%BF%E9%9D%A9%E3%83%BB%E6%AD%B4%E5%8F%B2
最終近くの 町長?区長には 鶴田鳴瀬と共に名を連ねております。
長田忠致が豊田市司町の屋敷(現在は農地)に移った時に、又は篠田氏が
宮口に八王子神社(社主長田)を創建した時の移住と思うのですが、どうでしょう。 豊田長田党は500年前、長田家次の松平への仕官に伴いほぼ永田に改名しており、長田親致以前を伝承する家は極めて少ない。
>秀次事件の断罪の及ぶのを逃れ、池田村に逃れ、帰農し、故あっ
て善地村に来た。永井氏もそこに収束した。服部家もそこに収束した――
私の調査不足により、未だ判断ができません。浜松市和田町(天龍駅付近)には 長田忠致在住の話があります、静岡県では源氏に圧迫され改名した元 長田さんが、大浜宝珠寺に時折訪ねて見える、、という事ですが、前住職婦人は住所番地、電話番号まで記録していなくて、故長田隆之氏に連絡を取っていたようで最近時間が取れるようになった箱永には、もう少しかかりそうな状態です。
[41] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月08日 17時24分18秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
さっそくの情報ありがとうございます。一歩一歩の道のりですが、一歩の
貴重さが身に沁みます。一歩のためにどれだけの努力を費やすかということ
を考えますと、本当にありがたいです。
――帰宅後に、また記します(若干の訂正も含めて)。
[42] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月09日 00時43分51秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部中「政信」を「正信」と書いてしまいました。訂正いたします。
歴史の事実を知るためには、確かな物的証拠(物と古文書)が見つかれは゛
一番いいのですが、なかなかそうはいきません。となると、いわゆる状況
証拠を限りなく集め、そこから推測できることはこれだと結論づけるしか
ありません。問題は、どこまで状況証拠を集められ、その信憑性はどうで
あるのかということであります。
一年半前には推測も全くできなかったのが、あを様はじめ皆様のおかげ
で今はかなり見えてきました。あとは、どれだけ信憑性を高められるか、の
問題であります。年代的な整合性も調べなければなりません。同じ資料で
も、より情報をインプットした後には、違った発見があります。一字一句
もあろそかにできません。その一文字がヒントになる可能性があるからで
す。
さて、箱柳永田様より紹介のありました次のサイトを見ますと、永井白元
についての新たな情報を発見いたしました。
http://homepage2.nifty.com/0305/keihu.htm
それによりますと、永井白元は―
「永井氏祖(兄・永井伝八郎直勝)から分脈する。
表・家紋 裏・家紋
丸三ツ星横一 唐梨切り口
父・長田重元、母・鈴木八衛門女
第1代「白元」 永井平八郎白元
(永井氏祖 永井伝八郎直勝の弟)
・天正13年(1585年)
井伊兵部少輔直政家士「辻弥衛門」
の養子となる。
・天正18年(1590年)
直政に付き小田原御陣に参戦。
・天正19年(1591年)
・功績を請われ、加藤遠江守光泰の家士となる。
・文禄 5年(1596年)
御書院番 330石
・慶長 1年(1596年)徳川家康の
御側向務士 御書院番 330石
「直勝」と共に家康から「永井」性を賜
り、「旗本」の格式となる。
・慶長12年(1607年)
御使番 330石
・慶長14年(1609年)
御使番 330石
・慶長15年(1610年)
御使番 830石
・慶長17年(1612年)
目付役 830石
・元和 2年(1616年)
目付役 1,030石
・元和 8年(1622年)
目付役 1,530石
・元和 9年(1623年)
目付役 2,530石
・寛永 5年(1628年)
目付役 3,530石
・承応 9年(1660年)
・ 年( 年)
病死(号・永元院 巧運寺)」
ここでわかったことは、井伊直政の家臣「辻弥衛門」の養子になった
ということです。それはつまり井伊直政に仕えたということになります。
井伊直政も永井直勝も家康の小姓衆で浜松城にいましたので、白元も少
なくとも浜松城に出入りした可能性、また浜松に住んだ可能性大であり
ます。―これは貴重な情報です!
一歩前身いたしました―
ところで、「辻弥衛門」って何者?
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月09日 03時24分04秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
すごい情報がありましたね。
鈴木姓は日本で1番2番を争う大姓ですから当たり前かも知れませんが
母上が鈴木氏ですか。
鈴木さんって数が多い割りに江戸時代には鈴木姓は大名というより旗本ですよね。
不思議です。
ヨソの家のことは言えないですね、服部姓だって大名というより旗本で終わってますから。
大姓の鈴木姓に大名がいないというのも何故なのか?と疑問が湧き上がってきます。
丸に三つ柏紋は白元系ではないようですね。
以下はちょっと知ったハナシです:
山本周五郎 大草の出身ですって。驚いた
1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。
父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)。
周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある。
本籍地は北巨摩郡大草村(韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている。
実家は武田の遺臣で、北多摩の大草村若尾(現韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月09日 03時39分35秒 ) | パスワード |
辻弥衛門
という人物は見当たりませんでした。
しかし、こんな人物がいました。旧武田家臣 辻弥左衛門
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?tag=%E8%BE%BB%E7%9B%9B%E6%98%8C
武田遺臣六士の諫書
642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 16:19:50.47 ID:zS3t+lYj
壮年の井伊直政の鋭気を心配した徳川家康は、直政の配下に附けた武田遺臣の六士
曲淵宗立斎、菅沼雲仙斎、孕石備前守、馬場藤左衛門、広瀬治郎右衛門、辻弥左衛門に命じ諫書を作らせた。
「殿様(直政)は傷馬だろうが曲馬だろうが見事に乗りこなしカッコいいです……
ですが、御大将であらせられるのだからちゃんと良い馬にお乗りになってください」
「殿様は金の大天衝の脇立と背中まである白熊の毛を付けた小洒落た御具足で輝いています……
ですが、敵にもすぐに大将だとバレる目立つ格好で我々軍勢の先へ駆け出されるなどもってのほかです」
(常山紀談、井伊記)
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月09日 03時42分40秒 ) | パスワード |
更に調べてみました:
辻盛昌 つじ-もりまさ
1545−? 戦国-織豊時代の武士。
天文(てんぶん)14年生まれ。
甲斐(かい)(山梨県)の武田氏の家臣山県昌景(やまがた-まさかげ)につかえる。
川中島の戦いに17歳で初陣。武田氏滅亡後は徳川家康の配下となった。
通称は弥兵衛。
「辻弥衛門」さんに「ちょっと」近いですね。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月09日 03時46分18秒 ) | パスワード |
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?tag=%E8%BE%BB%E7%9B%9B%E6%98%8C
続き
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 18:52:34.28 ID:MED5YaXE
片手の武人(1/2)
>>54
この話に出てくる小幡昌忠の話(途中までは同じ話の詳しいバージョン)
天正壬午の乱において、元武田家臣で板垣衆覚えの者として名高かった平原宮内が
北条氏直に内通したとの疑いが発覚し、詮議が行われた。
罪を逃れ難くなった平原宮内が、その場で奥山新八郎の従者が刀を携えていたのを見て取り
馳せ寄ってこれを奪い取り斬り回ったため、手負い・死者が合計21人も出た。
ココ
辻盛昌(元武田家臣山県衆)はこれを素手で取り押さえようと立ち向かったが
面を斬られ目に血が入り進みがたく退いた。
土屋権右衛門重成は家康の御前の板戸を引き立てて御座に侵入させまいと支えた。
小幡昌忠は短刀を抜いて平原宮内に立ち向かい戦ったが、左手を負傷し少し間を取った。
その合間に永見新右衛門勝貞が鑓の石突で平原宮内を突き、平原が思わず倒れたところを
小幡昌忠が馳せよって平原を刺し殺した。
このときまだ20歳にもなっていなかったにも関わらず
剛の者に短刀で立ち向かい倒した小幡昌忠のこの働きを、家康は限りなく褒め称え、
医師2名を遣わして昌忠の左手の治療にあたらせ、
近臣の者に一日に2度も昌忠の傷の具合を問うほど気にかけたという。
しかし結局、このときの傷のため小幡昌忠の左手は不自由になってしまった。
68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 18:55:16.19 ID:MED5YaXE
片手の武人(2/2)
けれども、小幡昌忠は元来剛気だったのでその後もなお片手で近接戦闘をし、
信濃前山で味方が崩れかかった際に高名し、更に味方が退却しようとした際に
馬を返して首を挙げた他、信濃国岩尾、長久手など各地の戦いで高名を挙げた。
家康も、他の者が取った首は、大久保治右衛門(忠佐)らに実検させていたものを
昌忠が取った首は自ら実検し、その働きぶりに感じ入るほどだった。
天正13年、徳川氏が信州上田の真田氏を攻めて敗れた際も、
小幡昌忠は兵士6人ほどと染屋村に踏みとどまり、
追撃してきた敵を防戦して支えたので、味方は無事に退くことができた。
徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
片手でこのように危ない戦いをすれば、
討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。
こうして小幡昌忠は、(戦場で討死することなく)慶長4年に36歳で死んだ。
以上、干城録より抜粋訳。
小幡昌忠というのは小幡昌盛の長男で、甲陽軍鑑の編者小幡景憲の兄にあたる人です。
ちなみに下の逸話では、昌忠の左手は手首から先を斬り落とされたことになっています…
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6427.html
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月09日 03時49分33秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/yamagata.html
山県家家臣団
辻盛昌 (1538年〜1612年 75歳没)
山県衆。
第四次川中島合戦で功があった。
富士宮での北条家との戦では猪子才蔵とともに先陣を切り功をあげ、
高天神城合戦では膝頭を射られるも首級を挙げた。
山県衆本陣に引き返すと、戦の終わらぬうちに戻る奴があるか、と叱責されて奮起。
再び敵中に攻め入り、首級を挙げた。
三方ヶ原合戦では山県衆二番槍。武田滅亡後、四十騎の部下とともに家康に仕えた。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月09日 03時52分39秒 ) | パスワード |
http://1st.geocities.jp/minohazz/shiseki-shousai/enmeiji/enmeiji.html
辻氏といえば、辻弥兵衛盛昌が有名(少し?)ですね。現笛吹市一宮町を本拠とする辻一党(野呂一党)という武士集団の頭領である父は六郎兵衛盛良、母小畠山城守虎盛娘。その長男として天文十四年(1545)出生。ちなみに盛昌という名には永禄四年(1561)に改名しますが、同心していた山県三郎兵衛尉昌景と祖父の小畠虎盛から一字ずつ頂戴したんだとか。
盛昌は川中島合戦に初陣、見事首をひとつ討ち取り功名をあげます。永禄六年(1563)西上野箕輪攻めでも広瀬郷左衛門景房・三科伝右衛門形幸・早川弥三左衛門幸豊・曲淵正左衛門吉景らとともに多いに働き、その後三方原合戦では二番槍。天正元年(1573)3月15日?には上記の広瀬と三科に対し訴訟を起こしたりもしています。
屋敷跡なんですが、特に土塁や遺構はないんですが、一応この場所にあったということで雰囲気を感じとりましょう(笑)境内を中心とした地域にあったらしいです。
場所的には比較的わかりやすいと思うんですが、いかんせん小さいお寺さんってことでちょっと探したかなぁ。案内板なんかは、まったく期待しないで下さい(笑)ただ、近くには辻盛昌の子日守が開山した「徳本寺」があり、そちらには開山日守の石塔があります。
まわりはぶどう畑。一宮町さらには笛吹市は果実栽培盛んなんで、そこらじゅう、ぶどう・桃その他もろもろだらけです。春は花が咲き乱れ、そりゃキレイですよ!
笛吹市一宮町塩田にある龍雲院。
辻盛昌の関係するお寺だそうで、墓碑があるとか?すみません、見つからなかったです。
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月09日 03時57分39秒 ) | パスワード |
http://senjp.com/oyamada7/
天目山での武田の最期
ここに辻盛昌が裏切っていたとか、いやいや裏切ってはいなかった、というハナシが出ています。
コピペガードがしてあります。
地理的には 武田の辻氏関係者が井伊直政に雇われたというのはアリではないか と思います。
[50] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月09日 08時18分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
一つ訂正:一歩「前身」→「前進」(変換チェックミス)
天目山の戦い、今まで知りたかったところです。もうだめだというところの
散り際、あわれを誘います。一度、その地を訪れ、般若心経を二巻上げたいと
思っております。
辻弥右衛門は辻弥左衛門だと思います……。
永井白元が辻家に養子に入ったという1585年という年は、名実ともに
家康の第一の将になった年であります。それより三年前の二十二才の元服の
時、井伊万千代は井伊兵部少輔直政と名乗っています。そして、家康は、
万千代に旧武田藩家臣山県衆を付け、「赤備」を用いさせています。
―また通夜・葬式となってしまいました。
「青い空と碧い海」の水平線の彼方への釣行は中止といたしました……。
[51] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月09日 15時41分39秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は午前中より午後にかけて、藤枝へ行ってまいりました。目的は「と
ろろ汁」のおいしい「和(なごみ)」という店ができたということで、どんな
ものか一度味わってみようということであります。日坂の峠を越え、大井川
を渡り、島田を通り過ぎ、藤枝の瀬戸川に沿って北上すると、六〜七キロで
その店につきました。この店は、三十分のあるテレビ番組で紹介されたので、
遠くからもお客さんが押し掛けたそうです。今は一時よりも落ち着いたそう
です。とろろ芋も自然薯の最高級の黄金芋を使い、出汁も昆布、サバ節、を
使い、味噌は蕎麦みそだそうです。器は美濃焼の特注品、店は百年来の古民
家を改造したものです。
お味の方はというと、とても上品なバランスの味となっており、とろろの
泡立ち具合もまろやかにまたねばりもあり、素晴らしかったです。(ま、個人
の好き好きもありますので、私個人としては、味噌味の濃さが調節できると
さらにいいなとは思いました……。)
さて、そのあたり、瀬戸谷というところでありますが、全く予期せぬお墓
があることを知りました。それは、駿河大納言忠長のはかです。何でこんな
ところに……と観光案内パンフレットで調べましたら次のように書かれてお
りました―
「徳川三代将軍家光の実弟。五十五万石の大名として駿府に居城するも、
乱心のかどで寛永九年(1632)生涯を閉じたとされるが、徳川藩とよしみの
あった遠藤家に密かに匿われ、天寿を全うしたと言われています。」
ということで、墓参りに行ってきましたが、川を越える吊り橋が封鎖され
ていたため、断念。川のこちら側から向こう側の小山の中腹の墓群を眺め
ながら、般若心経を二巻唱えてまいりました。
家康の長男の信康にも、生き残ったという伝説があります。島左近にもあ
ります。本当のところはわかりません……。でもそうあってほしいと思う人
のロマンの心からでしょうか。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月10日 02時36分28秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
新しい年を迎えて、結構、お忙しそうですね。
なかなかご自分の時間が取れないようですが最後のお付き合いということでこなしてください。
きっと良いことが来てくれますから。
最近「遠藤氏」というのが目に入ります。
http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2102019/
遠藤屋敷
関連武将 武田信玄 遠藤傳左衛門熙正忠
武田信玄・勝頼に仕えた遠藤傅左衛門煕正忠の屋敷
遠藤氏は武田信玄及び勝頼に仕えた遠藤傳左衛門・正忠が、文禄年間(1592〜1595)に当地に、勝頼妹於市殿を伴って来住し、この地を開発して、その子五大夫正勝の時、新田の名前をとって遠藤新田と名づけたといわれる。
(『駿河国新風土記』、『駿河志料』他)
遠藤屋敷は、静岡市北部、安倍川西岸に位置し、足久保と境をなす山の小谷地南麓に立地している。
屋敷は谷合奥の神明社に通ずる道路の西側にあって、特別な遺構は認められないが、広い屋敷地を3段に分かち、中段に母屋が建っている。
屋敷前方尾根先端に遠藤家歴代の墓所があって、この地に至って夫婦となったといわれる於市殿(慶長2年没)と遠藤正忠(寛永8年没)夫婦の竿石の墓塔が建っている。
上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています
静岡県の名字ランキングtop30
「鈴木」率の高さは静岡県ならでは
「静岡県の名字ランキングtop30」の第1位は、県民数およそ19万9,000人の「鈴木」さん。静岡県の人口は372万3,000人(2013年10月1日現在 総務省統計局調べ)であるため、静岡県民の5.3%が「鈴木」さんということになる。ちなみに、日本全国の「鈴木」さんはおよそ179万9,000人で、日本の総人口1億2,729万8,000人の1.4%であることからも、静岡県における「鈴木」さん率の高さが分かるだろう。
2位は「渡辺」さんで、静岡県に住む人数はおよそ5万6,000人。摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県の一部)の西成郡渡辺がルーツのひとつとされているものの、現在では中部地方、関東地方に多くみられる。3位は県内におよそ5万2,000人みられる「山本」さん。語源のひとつには山のふもとから来ているという説もあり、富士山のふもとである静岡県で上位にランクインすることとなった。
ちなみに「遠藤」姓のルーツは、現在の静岡県西部である遠江(とおとうみ)の「藤原」氏だという説もある。
希少姓「良知」の68%が静岡県民
静岡県にみられる珍しい名字は、「雲母(きらら)」さん(全国人数およそ80人)、「一言(ひとこと)」さん(およそ300人)、「松風(まつかぜ)」さん(およそ400人)など。「良知(りょうじ)」さんにいたっては、全国人数およそ2,500人のうち、およそ1,700人(68%)を静岡県民が占めている。
また、県名と同じ漢字表記の「静岡」さんは、全国におよそ200人という珍しい名字。静岡県の地名と同じ名字として、29位の「清水」さんの他にも、「浜松」さんや「富士山」さんなども全国には存在している。
加えて、30位以内にランクインした「望月」さん、「杉山」さん、「佐野」さん、「大石」さん、「増田」さん、「村松」さん、「土屋」さん、「松下」さんは、各名字別で静岡県民の数が最多となっており、名字分布における静岡県の独自性が見てとれる。
ちなみに久能祐子さん。お名前からするとご先祖は遠江のご出身でしょうか?
実際には山口県の下松市出身だそうで
あちらの方にいらっしゃった方の子孫かもですね。
京大を出て、生命科学の研究者で、
緑内障と便秘の薬を開発して資産400億円だとか。
ワシントンDCのジョージタウンに20億円だったかのお屋敷を買ったことで
ワシントンで1番高い家を買ったのは日本人女性
と話題にもなったそうです。
ご本人の趣味は家を買うことだそうで
1番好きなことは研究だそうです。
アメリカンドリームを実現した女性ということで昨年脚光を浴びたそうです。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月10日 02時39分47秒 ) | パスワード |
15位から30位が落ちていました
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月10日 07時44分31秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
窓8のイヤなところは変な変換を勝手にやるところですよね。
後で読み返すととんでもない変換になっててビックリします。
笑
>天目山の戦い、今まで知りたかったところです。
>もうだめだというところの散り際、あわれを誘います。
>一度、その地を訪れ、般若心経を二巻上げたいと思っております。
はい
わたくしの分もよろしくお願い致します。
武田勝頼の母方お祖母さまは服部氏の出身だということで
ひばりさんの家でしょうけど
わたくし達にもちょっとは御縁のある女性でしょうから
勝頼の死を哀れに思うのは当然ですね。
>辻弥右衛門は辻弥左衛門だと思います……。
少なくとも一族でしょうね。
兄弟か従兄弟か、はたまた親子か祖父孫か。
何か少し松嶋家との関係を感じます。
>万千代に旧武田藩家臣山県衆を付け、「赤備」を用いさせています
辻家から仕官した人がいたと思います。
「辻弥衛門」「辻弥兵衛盛昌」あたりの関係者。
蕎麦味噌は手がかかる贅沢品ですね。
これだけでも高価なお食事だったのが分かります。笑
そう言えば数年前に「自然薯」の番組を見たことがあります。
なかなか手に入らないって。
それにしても遠くまでいらっしゃったものですね。
静岡県って 横に広い んですよね。
新幹線でもエンエンと走ってますものね。
駿河大納言忠長の墓に出会えてラッキーでした。
服部氏の中にも浪人になった人がいましたね。
良い供養になりました。
[56] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月10日 09時26分10秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は母方の実家の大石家の葬儀になりますが、大石家に嫁に来た祖母は
平野家であります。今の私には、二十か月前の自分と違って、過去の人脈・
出自がおおぼろげにわかるようになりました。つまり、現代の人間も、過去
に遡れば、それなりに活躍した一族にルーツをもっているということです。
この遠江の歴史の層(レイヤー)を見ると、南朝系、今川系、徳川系、武田
系、信濃武士系が入り乱れ、全体として徳川の網がかかっております。もち
ろん古代からの流れ、その他たくさんの流れのあることも事実であります。
その中でも、やはり南朝系の色彩は色濃いような感じがいたしております。
そういった点では、来年の大河ドラマ「女城主 直虎」は、南朝に仕えた
井伊家の物語でもありますので、どのように「南朝」を取り扱うのか、表現
するのか、興味のあるところではあります。静岡大学名誉教授の小和田哲夫
先生が「官兵衛」に引き続き、時代考証をやられるとのことです。
明日は、「井伊直虎」のセミナーが細江町の気賀において開かれますので
行ってまいります。井伊直虎(女性)は、血のつながりからいいますと、井伊
「直政」、そして「築山御前」の子「信康」と「はとこ」になります。従っ
て徳川家康とは築山御前を通じて、正室の一族ということになります。
家康の長男信康は築山御前との間の子。二男結城秀康はお万の方との間の
子、三男秀忠は西郷局との間の子。レベル的にいえば、次郎法師、直政、
信康、秀康、秀忠は「はとこ」のレベルの人間関係の位置にあります。
ところで、お万の方は知立神社神主氷見貞英の娘でありましたが、確か
永井氏も知立神社の神主をやっていたと思いますが……?
そろそろ出かけます―
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月10日 12時50分43秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
わたくし的には「平野氏」=尾張=南朝方です。
ということで調べて来ました:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%B3%B0
平野 長泰(ひらの ながやす)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
平野長治の子。諱は初め長勝。
平野氏は鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫という。 これは知らなかった
一説には長治は清原業賢の子(清原宣賢の孫)とする。
生涯[編集]
尾張国津島の出身で、若くして羽柴秀吉に仕えた。
本能寺の変の後、対立が激しくなった秀吉と柴田勝家が天正11年(1583年)近江国賤ヶ岳で決戦をした(賤ヶ岳の戦い)際に福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして賤ヶ岳の七本槍と称えられた。
その後、秀吉の天下統一の戦いの中、長泰も戦功を重ね、大和国十市郡田原本近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられた。
慶長2年(1597年)、従五位下遠江守に叙任され、豊臣姓を下賜された。
関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。
秀忠が率いた軍は関ヶ原の本戦に間に合わなかったため、目立った手柄を立てることはできなかった。
大坂の陣では豊臣方に合流しようとしたが、江戸留守居役を命じられ留め置かれた。
終始豊臣方であり続けようとする気骨などが災いして、七本槍の中で唯一人大名とはなれなかったが、
子孫は九代続いて明治まで生き残り、明治新政府の高直しにより大名・田原本藩となった。
田原本藩(たわらもとはん)
大和国十市郡田原本(現在の奈良県磯城郡田原本町田原本)の田原本陣屋に藩庁を置いた藩。
ただし、正式に藩(大名の所領)であったのは明治維新期のごく短期間であり、江戸時代を通じては交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)平野家の知行地であった。
平野氏は鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫という。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月10日 13時21分55秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hirano_k.html
ビックリ!
平野氏はもとは横井氏の出で(へ〜)
横井さんは北条氏(というのは知ってました)
上司が横井家のご嫡男で「通字」が「時」でしたし。
尾張藩のご重役の家柄です。家老だった記憶。
幕末の尾張藩のゴタゴタにもしっかり巻き込まれています。
どっち方だったかは記憶に無いのですが。
平野氏
丸に三つ鱗/九曜
(桓武平氏北条時政後裔)
平野氏の祖については、北条時政十三代の後裔横井政持とされている。
横井氏は代々、尾張国海東郡赤目の城主であった。
政持の長男宗長姉の夫である業忠が平野邑の所領を譲り受けて平野を家号とした。
平野氏は、津島の”四家・七名字・四姓”の土豪よりなる南朝方「十五党」の一員であった。
尾張服部家ホンヤさんは7名字の1つです。
四家の長は大橋氏で、大永二年に美濃国高須城を築造あるいは修築している。
美濃高須藩は美濃国にあった尾張藩の飛び地で、ここから幕末に5つの藩の藩主になりました。
尾張徳川家・ 浜田藩越智松平家・一橋家・会津松平家・桑名久松松平家の養子。
大橋氏は重長のとき、尾張国清洲城主の織田彦五郎と領地を争う。
”大橋の乱”である。
尾張国には織田信貞の子で勝幡城主織田信秀がいた。 ← 信長の父親だと思う
重長の室は信秀の娘であったことから、やがて信秀に属するようになった。
重長の高須在城は天文三年(1534)までで、以後、弘治二年(1556)までは高津直幸が城将となった。
そして弘治三年から永禄三年(1560)までは、十五党の”縁者”が守将に名を連ねる。
平野長治・鷲巣光康・秋山信純・林長正・稲葉成政などである。
このうち、稲葉成政は春日局こと斎藤福を後妻とする人物である。
なお十五党には、のち秀吉に仕え、さらには徳川幕府の老中まで上りつめる堀田氏の先祖もいた。
なるほどね
ココに 津島の服部家=服部小平太 がからむのか。
ホンヤさんの感じでは服部小平太は「あそこは津島の服部さん」という表現で
敵!
という感じでした。
ホンヤさんの家が織田家とは「犬猿の仲」というのがこの時のイザコザからだったのかもね。
その前からイロイロあったとは思うけど。
織田家が越前から尾張に来て斯波家の中で頭角を現した頃から(なんだ?アイツ!)というのがあったんじゃないかなとゲスの勘繰り。
乱世を生きる
長治の養父・平野賢長は、津島の奴野城に居したが、
信長のために没落して加賀国に至り、
その後は北条氏康に属して駿河国善徳寺城に住した。
ということで平野家が服部家と親しく出来たわけだな
さらにまた流浪して津島に還り住んだと伝え、万久と号したとされる。
この万久の養子となったのが、長治である。
長治は舟橋枝賢の実子で、堀田正貞の女を妻とした。
堀田さんが出ました!
津島に住し、信長・秀吉に仕え、天正十年(1582)には播磨国姫路城の留守居役を命じられている。
長治は本物の平野さんじゃないからね
なるほどね〜
長治のあとを継いだのが三男の長泰である。
天正七年より秀吉に仕え、同十一年”賤ケ岳合戦”では旗本六人の士とともに衆に先だって槍を合せ、”賤ケ岳七本槍”の一人として、勇名を顕わした。
戦後、河内国・近江国において采地三千石を賜り、感状を与えられている。
その後、”小牧・長久手の戦い”に功を挙げ、文禄四年には旧功を賞されて感状を賜り、大和国十市郡において五千石を知行し、田原本に住した。
慶長三年には豊臣姓を与えられ、従五位下遠江守に叙任している。
関ヶ原の合戦では家康に従い、その後は江戸にあって秀忠に勤仕した。
慶長十九年”大坂の陣”にさいしては秀忠の仰せにより駿府に参り、家康より江戸に返して福島正則・黒田長政・加藤嘉明らに加わって本城つまり江戸城を衛るべしとの仰せを蒙る。
翌年にも江戸城の御留守居を努め、「特例」をもって一万石、諸侯の列に準じられた。
長泰は同じ「賤ケ岳七本槍」の加藤清正・福島正則らが、十万石以上の大名となっていくなかで、長く秀吉に仕えながら、一万石に満たない知行しか与えられなかった。
これが、秀吉の長泰に対する評価であったのだろう。
加藤と福島は秀吉の親戚だもの、大大名にもなれるけど
平野は秀吉の目上の家だから(秀吉の母は御器所の人で御器所は平家の土地だから当然南朝方だったろう)
秀吉にしてみれば
舟橋家自体が天武天皇の子孫の名家だし
さらに尾張15党の1つの平野家だし
出自に劣等感のある秀吉が長治をことさら目のカタキにして無能扱いしたのはなんとなく合ってると思う。
[59] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月10日 22時24分46秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
前レスで小和田先生の哲「男」を哲「夫」と書いてしまいました。お詫び
申し上げますと共に訂正させていただきます。
遠江で有名な平野氏といえば―
平野三郎右衛門重定(ひらのさぶろううえもんしげさだ)
生年未詳〜1624(寛永元)年
寺谷用水の開発者。美濃国(みののくに)平野庄(現岐阜県安八郡神戸町
<あんぱちぐんごうどちょう>)出身で、斎藤道三と織田信長との戦乱を
避け、一族で遠江国豊田郡加茂村(現在の磐田市加茂)に移り住んだと伝
えられている。最初、今川氏に仕えたが今川氏が滅亡した後、引馬(曳馬)
城主の飯尾氏と共に徳川家康に従ったという。1572(元亀3)年武田信玄が
遠江国に攻め入った際、家康は重定に加茂に砦をかまえさせた。翌年武田
軍の夜襲を受けた際、これを撃退した。この時の戦で重定の妹おこんにま
つわる伝説が残っている。
その後、遠江国のすべてが徳川氏に帰すると、家康は後に中泉代官となる
伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)に天竜川の治水と新田開発
を命じ、重定もこれに従った。
この頃、寺谷付近より分かれて磐田原の西を流れる天竜川の支流があり、
これを重定は3年ほどの期間で用水として改修して寺谷用水を完成させ、
天竜川の豊富な水を引き入れ、新田を開発すること2万石に及んだという。
重定が当初指揮して掘りあげた12キロの堀は、「大井堀」と呼ばれ、豊田
南地区の「井通村(いどおりむら)」の名前の由来ともなっている。
―磐田市立図書館「磐田の著名人」より
『披沙揀金(ひさかんきん)』という書物について―
徳川家康(1542-1616)が全国を制覇し幕府を開くまで、家康と艱難(かん
なん)を分かち共に戦った徳川の家臣の中には、主君に忌憚(きたん)なく
諫言する、大久保彦左衛門顔負けの強者がすくなくありません。林述斎が中心
になって編纂した家康の言行録『披沙揀金』には、泰平の世の幕臣たちには
考えられないような家臣の言動や、主従の親密な関係をうかがわせる逸事が
多数収録されています。
書名の「披沙揀金」は、砂をよりわけて金を取り出すという意味。諸家の
記録や古老の筆記雑録から東照宮(家康)の言行に触れているものを抜き出
した本書から、貴重な教訓を見出してほしいという願いがこめられています。
『岩淵夜話別集』『落穂集』『駿河土産』『武功雑記』ほか多数の文献を
引用して、家康主従の姿をいきいきと甦らせています。成立は天保7、8年(1836,37)か。
―国立公文書館
この『披沙揀金』の中に、加茂村代官平野三郎右衛門、郡代大石重右衛門
も載っています。
『披沙揀金』は、徳川家康公の「逸話集」です……時間をかけて、内容を
チェックしたいと思います。
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月10日 22時59分29秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>『披沙揀金』の中に、加茂村代官平野三郎右衛門、郡代大石重右衛門
も載っています。
ということは 平野家と大石家がここにも表れている ということですね。
やはり今に至る閨閥の背景には過去からの関係があったからですね。
>平野三郎右衛門重定
>寺谷用水の開発者。
>美濃国平野庄(現岐阜県安八郡神戸町)出身で、
>斎藤道三と織田信長との戦乱を避け、
>一族で遠江国豊田郡加茂村(現在の磐田市加茂)に移り住んだと伝えられている。
この名前「重定」を見て、竹中半兵衛重治を連想しました。
美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子。
ま、ご近所さんだったんでしょうね。
堀田家や稲葉家・斎藤家にも近かったのだろうなと。
>遠江国豊田郡加茂村に移り住んだ
ということは、北条時代の縁か、南朝方時代の縁を頼ったか、加茂ということで古代からの関係があったのか
ロマンですね。
<58>の 勝幡城主織田信秀
勝幡といったら蜂須賀家ですから
小六は秀吉に説得されるまで信長の下に付くのはイヤだったんでしょうね
蜂須賀家には大橋家から正妻が来て小六には継祖母になるんだったと記憶しているので
蜂須賀の方が最近デカい態度の織田なんかより格上という意識があったのかも。
こういう時代背景があって平野三郎右衛門重定の家は磐田に転居したのかもですね。
戦国時代にはその前の南北朝時代の人間関係なんかを引き摺ってたんじゃないかなと考えました。
> 『披沙揀金』
アネクドート、小話集ですね。
面白いです。
こんな処に思わぬ貴重な情報が隠れていましたね。
ご先祖さまのお名前が出ててラッキーでした。
にっこり
[61] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年01月11日 01時02分16秒 ) | パスワード |
あを様
>大姓の鈴木姓に大名がいないというのも何故なのか?と疑問が湧き上がってきます。
熊野御師の活躍により、全国の熊野神社には神主の鈴木さんが広がるので
数は多いが庶民層に厚くなります。
三河鈴木党を中心とする旗本衆は、多くは一向一揆の主力となる、一向宗から浄土真宗に取り込まれた方ですので、、、家康に嫌われてます。
一例としては、旗本中根家は転宗を拒否し、浪人して後の再雇用です。
大目付を輩出している家が、大名でない不思議を調べた結果です。
@三つ柏さん
細江町、引佐町辺りに長田の航路と開拓が伝承(浜名湖北岸)されてます。
長田永田の多い地域もあり、我が家と同じ関係と見ています。
長久手では 永井直勝は井伊直正の与力として参加してます、家康からの密命は、万千代に手柄をあげさせて!です、幼名は両人とも万千代です。
永井は武士として井伊さんは将として、高名したと理解してます、
安藤直次さん(だったかしら)GJですね。
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 02時01分53秒 ) | パスワード |
箱柳永田さん
中根家といったら三河の有力豪族なのに、何故?と思っていた疑問が解けました。
なるほど。
信仰で家康に嫌われたのですか。
三河鈴木家も有力豪族なのに、
と思っていましたが熊野神社は一向一揆に関わっていましたか。
今でも鈴木家が(も)熱心な浄土真宗なのはこの時のことがあって今に至るからかもですね。
我が家も熱心な浄土真宗なのは伊勢長嶋一揆で信長と激突してますから
意地でも!
というのがあるんでしょうね。21世紀になっても。
安藤 直次(あんどう なおつぐ)
安藤といったら尾張人のワタクシ的には美濃というイメージでしたが
この人は三河安藤氏なんですねえ。
紀州に家老として行かされて気の毒でもありますね。
戦国時代から江戸時代前期の武将。
安藤基能の長男で、紀伊田辺藩(紀州藩附家老)初代藩主。
慶長5年(1600年)から元和2年(1616年)までは幕府老中を務めた。
幼少期から徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いを皮切りに長篠の戦いにも参戦した。
天正12年(1584年)からの小牧・長久手の戦いでは敵将・池田恒興や森長可を討ち取る活躍をし、家康から弓を拝領した[3]。
天正18年(1590年)に家康が関東に移されたとき、1,000石の所領を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の使番として従軍し、慶長8年(1603年)の家康将軍宣下にも参加して、慶長10年(1605年)正月には武蔵国において2,300石の所領を与えられた[3]。そして、本多正純や成瀬正成と共に家康の側近として初期幕政を取り仕切った[3]。
慶長15年(1610年)、家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられた[3]。
その後も大御所 (江戸時代)家康の側近として駿河政権に参画し、遠江横須賀藩主・大須賀忠次の後見人にもなった。
あらあら
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、附家老として年少の頼宣に代わって軍を率いて参戦するほか、駿河年寄として成瀬正成と共に軍議に参加し、自藩のみならず諸大名を統制する役割を担った[4]。このとき、夏の陣で長男の安藤重能が戦死している[3]。
元和3年(1617年)、遠江掛川城主となった[3]。
元和5年(1619年)7月19日、頼宣が紀伊和歌山城に移ると、紀州藩附家老と
して移り、同国田辺城に3万8,000石の所領を与えられた[3]。頼宣からは厚く信任を受け[3]、後に頼宣は「自分が大名としていることができるのは、直次がいてくれたからだ」とまで述べている。
寛永12年(1635年)5月13日、死去。墓所は三河国妙源寺。
人物・逸話[編集]
大坂の陣[編集]
大坂夏の陣で嫡子の重能が戦死して軍が混乱した。従者が重能の遺体を収容しようとしたが、直次は馬上でそれを見ていた。そしてその従者に「(息子の遺体を)犬にでも喰わせろ」と言って見向きもせず、軍の建て直しを優先した。このため軍はいち早く再建された。直次は戦後に重能の死を深く悲しんだという(『常山紀談』)[5]。
冬の陣が終了したあと、家康は大坂再征を考えていたが、それは重役の一部しか知らない機密事項であった。あるとき、家康は重役と次の間で大坂再征について密談していたが、そのときたまたま隣の間にいた直次はその密談の内容を聞いてしまったため、密かに陣触れが出ることに備えて出陣準備をした。
そして慶長20年の春に家康の陣触れが出ると、直次は一番に家康のもとに着到した。家康は直次が一番にやってきたことや準備をしていたことを褒めたが、直次は家康に密談を聞いてしまったことを正直に明かして「今後の密談は障子を外し、遠方も一目で見通せる座敷がよろしいでしょう」と注意したという(真田増誉の『明良洪範』)[5]。
その他[編集]
直次は同年代の同僚達が1万石の大名に出世しても5,000石のままだった。
だが直次は文句を言わず、家康に忠実に従った。のちに成瀬正成から、直次だけ加増されていないのに文句を一言も言っていないことを聞かされた家康は、直次の篤実な性格を賞賛して一度に5,000石を加増して大名にし、10年間与えるべきであった分を納米として5万石与えた(『安家伝記』、『武将感状記』、『明良洪範』)[5]。
あ〜
そうでしたか
これは知らなかった
成瀬正成は義直の付家老にされて城持ちになったのは明治維新直前で
この人も気の毒でした。
それだけに安藤直次の気持ちが分かったんでしょうね?
本多正純が家康・秀忠の下で権勢が全盛だった頃、直次は「正純はいずれ改易されるだろう」と予言した。だが正純は加増された。だが直次は「この後を見られよ」と言うだけだった。しかし正純は宇都宮藩に大幅に加増された。多くの者は直次の予言は外れたとみたが、直次は「これで正純の滅びはますます近づいた」と述べた。
ココすごい!
本多 vs 大久保のバトル、見えてたんですねえ
その理由を尋ねると「正純は上(秀忠)様が上田城の合戦で真田安房に敗れて遅参したとき、その責は軍監であった本多佐渡にあるから切腹させるべきと神君(家康)に申された。父親を息子が切腹させようなど言語道断の曲事であり、いずれ天罰が下るものだ」と述べた。直次の予言どおり、まもなく正純は宇都宮釣天井事件で改易された(『常山紀談』、『雨夜燈』、『燈前夜話』)[5]。
見える人には見えるもんなんですねえ
脚注[編集]
1.^ 生年には天文13年(1544年)、天文23年(1554年)説もあり、詳しく分かっていない。
2.^ 明治維新までは大名とはみなされなかった。
3.^ a b c d e f g h i 北島正元「安藤直次」『国史大辞典』吉川弘文館
4.^ 白根孝胤「徳川一門付家老の成立過程と駿府政権」1999年3月(『徳川林政史研究所研究紀要33』)
5.^ a b c d 朝倉治彦・三浦一郎『世界人物逸話大事典』(角川書店 1996年2月)、P62-63
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 02時12分16秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101508.html
スレッド59を立てました。
キリの良い所でどうぞ。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 02時20分18秒 ) | パスワード |
大石氏 ヲイヲイじゃないですかァ〜
やはり南朝方がらみいですね。
http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-12029350371.html
遠江国榛原郡千頭(本川根町)に藤原教長を祖とする大石氏がある。
建武の頃、千頭城主大石左衛門尉信親が南朝方に属し、敗れて千頭に隠棲したという。
孫の左衛門大夫是親の時、南朝方の楠木正行の子池田正佐と、その子宗親が千頭に来て、宗親は是親の娘を妻として、大石氏を継いだという。
宗親の代には、大井川河口に大船を有して吉田海賊と呼ばれていたという。
水軍のことですね
系図は壊れますからURLでご確認を。
+大石是親─娘++++++┌幸親
++++++×──────┼定親
正行┬正佐┬宗親(直正)++└国親
++└正秀└光正
宗親 始め直正、兵衛と称す。大石氏の婿となり、大石兵衛佐と称す。
*********************
楠木氏後裔大石家系図
敏達天皇之皇子難波皇子玄孫正一位左大臣諸兄公九代之孫正二位大納言橘好古之男
┌橘為政─────────────────────────┐
│+住河内金剛山西麓+++++++++++++++++++│
└敏正────────────則隆++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
├行資───────────成経─────────────┐
└政友───────────正光────────────┐│
┌───────────────────────────┘│
└正武───────────正助+++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
└盛仲──────────────────────────┐
┌────────────────────────────┘
│楠木河内守
├正康──────────────────────────┐
│++++++++++++++++++++++++++++│
│和田六郎++++++++++++++++++++++++│
├正遠++++++++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
│+兵衛尉++++++++++++++++++++++++│
└正玄─────────────────────────┐│
┌───────────────────────────┘│
├正俊───────────正廣+++++++++++++│
└正長++++++++++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│河内守兼左衛門尉
├正成──────────────────────────┐
│+河内太夫判官+++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
│+始正氏、和田七郎+++++++++++++++++++│
└正季─────────────────────────┐│
┌───────────────────────────┘│
├行忠 新兵衛尉+++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├高家───────────正直+++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
└賢秀 新発意++++++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│+河内守 帯刀
├正行──────────────────────────┐
│+兼左衛門尉++++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├正時+五郎+++++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
│+河内守++++++++++++++++++++++++│
└正儀─────────────────────────┐│
++兼左馬頭++++++++++++++++++++++││
┌───────────────────────────┘│
├正勝+右馬頭++++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
└正元+次郎+++++++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│+池田太郎
├正佐──────────────────────────┐
│++++++++++++++++++++++++++++│
└正秀+二郎+++++++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│+始直正、兵衛
├宗親──────────────────────────┐
│+大石左衛佐++++++++++++++++++++++│
│+元中九年申十月南北御和睦之後浪人+++++++++++│
│+来遠州千頭大石左衛門太夫是親養子+++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
│+五郎左衛門尉++++++++次郎+++++++++++│
└光正────────────正理++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│+左衛門尉
├幸親──────────────────────────┐
│+七郎左衛門++++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├定親+次郎左衛門++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├国親+三郎兵衛+++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
└女+今川家奥女中++++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│+左衛門太夫
├朝親──────────────────────────┐
│+市郎左衛門尉+++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
└正村+新兵衛++++++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│+左衛門尉
└良延──────────────────────────┐
++兵衛尉++++++++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│+左京亮
├清親──────────────────────────┐
│+彌五郎++++++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├女+安間権太夫室++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├女+小笠原興八郎室+++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├重親+左衛門次郎++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
└了眞++++++++++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
│+左衛門尉
├正親──────────────────────────┐
│+太郎左衛門++++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├佐親+大和田次郎++++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
├女+石橋兵衛少輔室+++++++++++++++++++│
│++++++++++++++++++++++++++++│
└女+小長井長門守室+++++++++++++++++++│
┌────────────────────────────┘
└明親─明道─利道─清道─儀道─頼道─幸傳─古道─────┐
┌────────────────────────────┘
└嘉次─由家─一道─実道─敬道─直嗣─直廣─好孝─────┐
┌────────────────────────────┘
└直衡─直善─良平─麗司
系譜に二郎正秀、光正、正理を含む。正秀・光正・正理が正行の裔というのはわかるが、正佐の子というのはさすがに違うと思われる。この正佐とは佐正ではなく正綱を指すらしい。
正行┬正佐┬宗親
++└正秀└光正─正理
正行┬正綱─正倶┬正隆─正理
++└某++++└某
正綱が正佐で、某が正秀となる。この場合、大石氏は教正系とは別系となる。しかし、大石氏の入った直正は佐正の子というのが正しいようである。
+++++++++大石左兵衛佐
正行─教正─佐正─宗親
正行┬正綱
++├正佐=佐正?
++└教正
一般に佐正は父とされる教正よりその年齢が年長の可能性が強く、正佐が正行の子とすると正綱と教正の兄弟とした方がよい。この場合、正佐と佐正が同人とすると正行の子というのは正しいことになる。
次郎正秀は正勝の子というのが正しいであろう。ただし、次郎正秀は異世代にもう1人いる。この人物は次郎正頼と同人らしい。しかし、この人物は正隆の弟の某の位置付けが正しい。或いはこの二郎正秀とは正佐の兄弟とすると正綱を指すか。
正行─正綱┬正倶
+++++└光正
正行─正光─光正
光正は正行の孫とする系譜も幾つか伝えられており、大石氏系譜の主張どおり正佐と正綱が同人とすると完全に否定することは出来ない。ただし、正理が光正の子とすることについてはどうかと思う。このあたりは系譜を編纂したときの混乱や史料不足からする誤解という可能性が強い。宗親の兄弟が、光正しか伝えられておらず、正理が宗親の甥とする伝えから、光正の子とされたのではないかと思われる。
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 02時30分00秒 ) | パスワード |
http://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/14708/1/keijihakubutsukan_11_29.pdf
中世におけるこの地域は丶 山城国南禅寺領遠江国榛原郡御槍荘であ. る。 初倉荘 ..... 精算を、 前記池谷清次郎等三名と大石藤左衛門がしているが、 大石氏. は吉永村名 ...
P31に吉永村庄屋大石藤左衛門分家利右衛門・・・と名前が出てます。
その他にも土佐の山内の名や忠長卿の名や長谷川氏の名など興味深い人物の名が出ています。
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/.../keijihakubutsukan_11_29.pdf
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 02時33分55秒 ) | パスワード |
上のレスの最後のhttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/.../keijihakubutsukan_11_29.pdf
はアクロバットで出さないといけません。
他のも面白いのが2つありました。
[DOC]「tougokuniokerusengokukinotenkai_10.doc」をダウンロード
taroukun-rekishi.cocolog-nifty.com/.../tougokunioker...
Translate this page東国では伊豆・相模・武蔵を制した後北条氏、駿河・遠江・三河の今川氏、甲斐から信濃 ..... 尉為清は、北条早雲から三河国(愛知県)における戦功を賞され、同年遠江国引佐郡 ....
正月二十五日に府中分倍河原の合戦で負傷し死亡した大石氏重仲の子とある。
ご先祖さまでしょうか?
通字が「重」ですから関係者ですよね。
家紋でたどるあなたの家系 - Page 7 - Google Books Result
https://books.google.com/books?isbn=4797102322 - Translate this page
千鹿野茂 - 1995 - Heraldry
多門氏三河国額田郡大門村に住み大門と称し、のち多剣片喰。
大畠氏藤原 ... 大石氏未勘源氏〔寛政譜^〕の定紋。替え紋は ... 市野氏遠江国長上郡市野より起こる。藤原氏 ...
あらあらあら、ですね。
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 03時08分41秒 ) | パスワード |
[DOC]「tougokuniokerusengokukinotenkai_10.doc」はオープン出来なかったです。
家紋
http://books.google.com/books?id=9_D6dNY4AlMC&pg=RA3-PA7&lpg=RA3-PA7&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=6kquBRr_9J&sig=Oza1Ne7YDaYf9Wj0ICgCcaAgEQU&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiDr4e635_KAhXD8z4KHRlJAQwQ6AEIUTAH#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
市野氏も大石氏も「蔦紋」も使用だった?
市野氏は長上郡市野より起こる。藤原支流。定紋は丸に一文字紋。
大石氏は未勘源氏(寛政譜 20)定紋が「蔦」になってて替え紋が「丸に大文字」
未勘源氏という珍しい単語を調べていたら下記のようなのに出くわしました。
地下家の大半は明治に入り士族となった(ごく一部は華族に列し男爵を賜わる)。
興味深いのだけ抜き書きしました。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXX 家というのは俗姓で氏というのが本姓ですXXXXXXXXXXXXXXXXXX
服部家というのもいろいろあるんですねえ。
縫殿寮 小畠家→服部家→小森家 和気氏 従六位下 従五位下
小畠氏って昨日のレスに出てきましたよね。
内舎人 辻家 源氏 正六位下 従五位上
検非違使 服部家 源氏 正六位下 従五位下
内舎人 小畠家 和気氏 正六位下 正六位上
右近府兄部 大石家 秦氏 無位 無位
図書寮 服部家 源氏 従六位上 従六位上
在江戸 辻家 多氏 正六位下 正五位下
上北面 松下家 賀茂氏 従五位下 従五位下
内膳進物所膳部 松下家 伴氏 従七位上 従七位上
聖護院宮侍 辻家 源氏 従六位下 従六位下
実相院侍 辻家 源氏 従六位下 従六位下
曼殊院宮侍 小畠家 和気氏 従六位下 従六位上
[68] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 03時18分15秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oisi_k.html
源氏の大石氏
やっぱり南朝方で
松嶋氏に引っ掛かるかも
で、大久保長安にも関わる?
大石氏
銀杏の二葉
(清和源氏義仲流)
???意味不明???始まるとされ、のちに信濃へ移り鎌倉時代末期に至ったという。
大石氏の系図は鎌倉末から南北朝期にけけ???の記事が詳しく、
当時の家督は信重であった。
また、南北朝時代以前の系図の記述には、仁科・三富・諏訪・風間といった信濃国の武士との姻戚関係がみとめられ、大石氏が信濃出身の武士であったことをうかがわせている。
あらあらあら
さらに、禅僧万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵』巻六に収められた「万秀斎詩序」に、「武蔵国の長官の本営に勇気と力のある秀れた家臣がいる。これを大石定重といい、木曽義仲の十代の子孫である。武蔵国の二十余郡はすべて掌握している。その忠節は日を重ね、終始一貫している(後略)」と、みえている。これからも十五世紀末には、大石氏が木曽義仲の後裔と認識されていたことがわかる。
あらあらあら
関東の政治体制
鎌倉幕府の滅亡後、鎌倉には関東支配を室町将軍から委任された鎌倉公方がおかれ、それを補佐する管領がおかれた。公方の初代は足利尊氏の弟直義で、ついで尊氏の嫡男義詮、義詮が将軍職を継ぐと弟の基氏がその職を努めた。基氏以後、かれの子孫が関東公方職を世襲した。一方、管領職は、初め畠山氏が公方の執事としてその職にあたったが、畠山氏没落後は上杉氏が世襲した。
ところで、室町時代の守護は、南北朝の動乱のなかで、鎌倉時代の守護よりも強い権力として地域に君臨した。それは、戦乱を乗り切るため、より多くの権限を集中させることで国内の支配を強めていった結果であった。さらに、本来は国守の下にあった国衙機構をも吸収し、一宮などの有力寺社に関与することで、国内の段銭・夫役徴集権も掌握した。また、使節遵行といって荘園や在地領主にまで直接介入することもあった。しかし、守護は在京を原則とし、ふだんは都に屋形を構えて将軍に仕えた。関東の守護は在鎌倉によって公方に奉公した。いずれにしろ、守護は補任された領国に常駐していなかった。
守護に代わって領国の政治にあたったのが守護代であり、守護代は幕府や守護の命令を現地に伝え、あるいは守護に代わって実質的な領国支配の任にあたった。当然、守護代には守護から厚い信頼を受ける部下か、現地の有力な領主が任命されることが圧倒的に多かった。
大石氏で公文書に初めて名を表すのは大石能重である。応永三年「隼人佐能重」なる人物が能憲の指示により武蔵国比企郡竹沢郷の所領を藤田氏へ渡す命令書を発している。この文書は守護代が出したものである。能重は武蔵守護である上杉能憲に仕え、名乗の能重は能憲から一字を賜ったものと思われる。さらに能重は、上杉氏が守護に任じられた武蔵・上野・伊豆の守護代を務めている。 同じころ、康暦元年(1379)上杉憲方のもとで大石遠江入道が武蔵守護代としての任務を果たしており、至徳三年(1386)まで武蔵の守護代についていた。
大石氏の登場と台頭
さて、大石氏は上杉氏の守護代として歴史上に姿をあらわしたが、それは系図からみて南北朝時代の信重あたりである。
そして、系図にみえる信重の略歴は、木曾家教の三男として正慶三年(1334)に生まれ、大石為重の養子となり、貞和年間(1345〜49)に関東管領上杉憲顕に仕えた。そして、観応二年(1351)に新田義貞の子義宗が上野国で挙兵したとき、上杉軍の先陣として笛吹峠で新田軍と戦った。戦後、その戦功として、延文元年(1356)に入間・多摩両郡内に十三郷を与えられ武蔵国目代職に補任された、というものである。
今日まで残された信重関係の古文書には「大石遠江入道」などの名で登場し、武蔵国守護の上杉憲方や憲実からの命令を下位の者へ伝達する文書が多いことから、信重は武蔵国の守護代を務めていたようである。しかし、先述のように能憲に仕えて武蔵・上野・伊豆の守護代を務めた能重がおり、信重と能重とは同一人物とは考えられない。また、信重の在世期間は九十年間で、当時にあって珍しい長寿の人物であった。とはいえ、南北朝期における大石氏の行動が信重ひとりの行動と考えるには、疑問が残るといえよう。加えて、信重とするのは系図のみで信頼できる文書には信重の名は一切あらわれていない。
守護に代わって在国して政治一切を取り仕切る守護代を、大石氏はどのような経緯で務めるようになったのだろうか。ひとつに、信濃から出て上杉氏に仕えて信任を得るようになったとする説、もうひとつには、もともと武蔵に居を構えていた武士であったとする説とがある。結論的には大石氏は武蔵以外の国から入ってきたと考えられる。それは、能重・信重が武蔵・伊豆・上野の守護代を同時に行っており、これは在地性が薄い武士でなければ務まらないものである。在地性の強い武士であれば、自分と関係のない国の支配を引き受けたとは思えなし、現実的に困難なことであったろうと思われる。
また、能重・信重らの活動が顕在化してくるのは、応安元年(1368)に武力蜂起した平一揆が鎮圧された直後であることも注目される。平一揆は河越・高坂氏を中心とした武士団で、河越氏は鎌倉初期より武蔵国の「留守所総検校職」を保持していた。この役職には国内武士団の統率権が含まれていた。平一揆は「観応の擾乱」に際し尊氏に加担して勢力を伸ばしたが、擾乱に直義方の中心勢力であった上杉氏が管領職として勢力を振う鎌倉府に対抗して滅亡、河越氏が有していた権限は上杉氏の手中におさめられた。
信重が入間郡・多摩郡で所領を与えられたとする系図の所伝は、多摩に多く存在する国衙領、入間郡にあった河越氏らの旧領を与えられたことを示したものかも知れない。さらにいえば、信重は大石氏へ養子に入ったとされているが、実は、国衙の在庁領主との縁組をそのように書き記したものとも想像できる。そして、大石隼人佐能重と大石遠江入道(信重?)は同時期に武蔵・伊豆・上野の守護代をつとめて、上杉氏の権力基盤を固めることに尽力した。二人がどのような関係かはわからないが、上杉氏が分流していくなかで、大石一族も分派していったのだろう。
関東の戦乱
遠江入道信重のあとは遠江太郎憲重が継いだが、憲重と記した文書はなく系図に憲重とあるばかりである。憲重の時代、下野における大石隼人佑の活動が知られ、隼人佑はのちに石見守と名乗っていることから、能重の後継者にあたる人物であったと考えられ、その後もさまざまな文書に石見守系の人物が散見し、大石氏の分派活動が確認できる。
さて、憲重は山内上杉憲基に仕えた。関東公方に持氏が就任すると、管領犬懸上杉氏憲(禅秀)と対立するようになり氏憲は管領を辞任した。この辞任は持氏の専制を戒める気持ちもあったようだが、持氏はただちに憲基を新管領に任命した。この持氏の態度に憤った持氏は、応永二十三年(1417)与党を結集して兵を挙げ持氏を攻撃した。禅秀の挙兵に際して管領上杉憲基の下へ集まった軍勢は、長尾出雲守・大石源左衛門らであった。源左衛門は大石氏嫡流代々の名乗りで、このときの源左衛門は憲重であった。
憲重は下総や武蔵などの守護代を務め、正長二年(1429)に没した。あとを継いだ憲儀は上杉憲実に仕え、父憲重と同じく武蔵国守護代として活躍した。禅秀の乱を鎮圧したのち、持氏は禅秀に加担した関東諸将を討伐した。さらに、京都扶持衆とよばれる幕府寄りの諸将も討伐し、みずからの専制体制の確立に狂奔した。
管領上杉憲実は、持氏の行動が幕府との対立に発展することを危惧して再三に渡って諫言を行ったが持氏は聞き入れることはなかった。かえって持氏と憲実の間は険悪となり、永享九年(1437)持氏が信濃への出兵を計画したとき、実は憲実討伐の出兵であるとの噂がたち両者は一触即発の危機を迎えた。事態の収拾策として、持氏は直臣の一色氏らを三浦へ移させ、管領方の大石憲儀と長尾景仲の処分を求めた。このことから、大石氏が長尾氏とともに反持氏派の中心人物であったことが分かる。翌十年、持氏と憲実の対立は武力衝突となり、「永享の乱」となった。幕府は憲実を支援して乱に介入し、敗れた持氏は捕えられて鎌倉の永安寺に入った。このとき、永安寺を警固したのは上杉持朝・千葉胤直、そして大石憲儀であった。
永享十二年、持氏の遺児春王丸と安王丸が結城氏朝に擁立されて挙兵すると、持氏恩顧の関東諸将はこれに加担して結城城に集結した。持氏の重臣であった野田氏は古河城へ立て籠り、さらに野田氏の家臣らは野田城に集まり上野方面への進出を図った。このとき、上野守護代の任にあった憲儀は、国内の一揆に号令をかけて野田城攻めを行おうとしたが、一揆は動かなかった。やむなく憲儀は自分の手勢だけを率いて野田城を攻撃し陥落させた。一方の結城城の総攻撃には、大石石見四郎・同源左衛門尉が参加していた。憲儀は結城合戦の最中に陣没したようで、大石勢は憲儀の弟重賢と思われる大石石見四郎が、ついで嫡子源左衛門尉房重が率いて攻城軍に加わったようだ。そして、憲儀の死とともに武蔵国目代・守護代の地位は長尾景仲に移り、大石氏の勢力にも翳りが見えるようになってきた。
打ち続く戦乱
結城合戦後、関東は上杉氏を首班として戦後処理が行われた。しかし、上杉氏の専制を快しとしない諸将たちは関東公方を主とする鎌倉府の再建を幕府に願った。その結果、持氏の遺児で唯一残っていた千寿王丸が赦され、成氏と名乗って関東に下向し鎌倉府が再興された。ところが、新公方となった成氏と管領上杉憲忠とが対立するようになり、享徳三年(1455)持氏は憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が起こった。
享徳四年、成氏は武蔵府中に陣を構えた。これに対して上杉方は扇谷上杉顕房・犬懸上杉憲顕・長尾景仲らが上野・武蔵に軍勢を引き連れて南下した。そして、両軍は分倍河原で衝突、激戦を展開した。合戦は翌日まで続き、次第に上杉勢は劣勢に立たされ上杉顕房・憲顕は負傷のうえ自害、長尾景仲は遠く常陸まで退却を余儀なくされた。大石氏では房重・重仲がそろって戦死し、大石一族は大打撃を受けたのである。以後、上杉方では長尾景仲が中心となって勢力回復につとめるが、大石氏の活動はほとんど知られない。
房重・重仲の戦死がいかに大きな打撃となったかがうかがわれる。その後、大石氏が登場するのは十六年後の文明三年(1471)のことである。この年、上杉勢は成氏の居城古河へ大攻勢をかけ、各地で公方方の城を攻略した。大石氏は立林要害の攻撃に参加し、将軍足利義政から感状を受けた。感状の宛名は大石源左衛門尉・同隼人佑・同新左衛門尉で、源左衛門尉は房重のあとを継いだ顕重で、大石氏は顕重が成長したことでようやく勢力を回復することができたのであった。
これより先の長禄二年(1458)、顕重は居城を鎌倉街道の脇道である秩父道の武蔵高月へ移している。その前年に扇谷上杉氏は河越・岩付・江戸城を築いて古河公方に対抗していることから、大石氏の高月移動もそれに応じたものであろう。ここに至って、上野・武蔵・伊豆の守護代をつとめてきた大石氏も、本拠を武蔵国多摩郡に定め、地域的領主としての基盤を固めるようになったのである。
勢力の拡大
顕重が大石氏の勢力回復を果たしたとはいえ、大石一族は顕重のもとに結集していたわけでもなかった。文明八年(1476)長尾景色春が管領上杉顕定に叛して挙兵すると、多くの国人領主が景春に加担して、上杉氏の陣営は深刻な打撃を受けた。この事態に扇谷上杉氏の家宰である太田道灌は、叛乱軍の鎮圧に転戦した。一方、この乱に際して大石氏は、一族に景春に加担する者も出るなどして去従は微妙であった。しかし、有力な一門が景春派に加わったことで、この乱を通じ顕重は一門に対する統制を強めることができた。つまり、この動乱を乗り切ったことで、源左衛門尉系大石氏が一門に対する主導権を発揮することができるようになったのである。
景春の乱が一時終熄した文明十四年、幕府=上杉方と古河公方との和睦が成立して、長い間関東を覆った戦乱は一応の終結をみせた。ところが、それから四年後の文明十八年、扇谷上杉定正は太田道灌を殺害した。道灌殺害の理由は明確ではないが、享徳の乱・景春の乱に活躍した道灌の名声が上がったことで扇谷上杉氏の勢力が拡大し、それを危惧した山内上杉顕定が定正を挑発して道灌を殺害したのだともいう。また、幕府=上杉方と古河公方との和睦が山内上杉氏の主導で行われたことに定正は不満を持ち、景春の乱によって道灌と顕定とが接近したことも許せなかったのだともいう。いずれにしろ、扇谷上杉氏と山内上杉氏は道灌殺害を引き金として武力衝突し、「長享の大乱」と呼ばれる長い内部抗争を繰り広げることになる。この乱に際して大石氏がどのような行動をとったのかは分からないが、山内上杉氏の家臣である以上、顕定に従って各地に戦ったものと想像される。
このころ、京都聖護院門跡の道興が関東を歴訪し、大石信濃守の館に宿泊した。この信濃守は顕重と思われる。また、万里集九が京都の「応仁の乱」を避けて、近江・美濃・尾張各国に遊び、文明十七年(1485)太田道灌の招きに応じて江戸に赴き、以後、長享二年(1488)まで関東に滞在した。かれは道灌から江戸城内の一隅に宿舎を提供され、それに梅花無尽蔵と命名し、この名はまたかれの漢詩文集の書名ともなった。その『梅花無尽蔵』のなかに、大石定重の館を訪れ乞われて館内の亭を万秀斎と命名したことが記されている。その序文によると依頼したのは定重で、定重は顕重の嫡子でありすでに元服して独立していたようだ。そして、定重の城は景勝の地にあり、領内がよく治められていたとも記している。
永正二年(1505)扇谷上杉朝良が降服して長享の乱は終わったが、今度は古河公方家内部で政氏と高基父子の争いが始まった。管領上杉顕定の調停によって内紛は一時おさまったが、越後に出陣した顕定が戦死したことで、山内上杉氏内部に後継者をめぐる内紛が起った。まさに関東は、乱が乱をよぶという慢性的な戦乱状態にあった。この状況を捉えたのが新興の伊勢宗瑞で、宗瑞は扇谷上杉氏の家臣上田政盛を支援して権現山で挙兵させた。顕定の子憲房は扇谷上杉朝良と共同して権現山の攻撃にあたり、その軍勢のなかに成田下総守・長尾勢らとともに源左衛門定重が加わっていた。権現山は上杉軍の攻撃によって陥落したが、このころから伊勢宗瑞の武蔵侵攻は本格化してくるのである。
定重は、永正十三年びに相模三浦氏が北条早雲に敗れ去った直後で、高月城では防備に不安があるとして、永正十八年(1521)加住丘陵でも一段と広大な地域に複雑堅固な構造をもった滝山城を築いて根拠地をそこに移した。
その後、後北条氏の勢力は拡大を続け、それを阻止せんとする管領山内上杉憲政は天正十四年、扇谷上杉朝定と結んで河越城を攻撃した。これに古河公方晴氏も加わり連合軍は八万と称される大軍となった。この合戦に定重の子定久は上杉軍に属して参陣した。翌十五年、北条氏康の率いる後北条軍の決死の夜襲によって連合軍はまさかの敗北を喫し、扇谷朝定は戦死、山内憲政・古河公方晴氏らはそれぞれの居城に逃げ帰った。
小田原北条氏の傘下に入る
河越合戦における敗戦をきっかけとして、大石氏は後北条氏の軍門に降り氏康の二男氏照を養子に迎えて滝山城を譲り、自らは戸倉に蟄居したのである。以後、大石氏は後北条氏の麾下に組み込まれることになった。すなわち、大石氏は上杉氏の重臣時代以来の権力基盤をそのままに、後北条氏の支配に奉仕する存在となったのである。しかし、永禄三年(1560)上杉憲政を擁して関東に出陣してきた長尾景虎の陣営に大石石見守が加わっている。このとき、景虎が記録させた『関東幕注文』には、岩付衆に把握され「一てうのは二葉」を幕紋としていたことがみえている。この石見守は庶流大石氏で嫡流と袂を分かち、太田氏らと結んで後北条氏に抵抗していたようだ。
結局のところ、大石氏は自立した戦国大名になりえなかった。これは、大石氏の経済基盤が関東管領上杉氏を通して任された鎌倉公方の料所であったようで、これを基盤に独自の領域支配を展開するまでには至らなかった。また、軍事的基盤としての、南武州一揆の支配についても、同時代の戦国大名がさかんに試みていた国人の直属家臣団化を実現できなかったことに求められよう。後北条氏に属した大石定久の一族からは氏照の奉行人となり、下総国関宿城代となったもの、伊豆国獅子浜城を守ったものなどがいる。
ところで、戸倉城に隠居した定久は、その十年後に自刃して果てたという。しかし、これは大石氏の事蹟が後北条氏によって塗替えられていくのを惜しんだ人々が、定久を悲劇の主人公に仕立て上げた作り話であり、定久は戸倉城にあって天寿を全うしたものと思われる。とはいえ、定久の政治的立場は、後北条氏に降り名跡を養子氏照に譲った時点で終わったといえよう。戦国乱世に身をおいた定久の晩年は、時代の激動とは別に静かなものではなかっただろうか。
大石氏の名跡を継いだ氏照は、大石姓を名乗ったこともあるが、普通、北条陸奥守氏照で通っている。初め滝山城主であったが、のちに八王子城主となり、さらに天正年間からは下野国栗橋城主をも兼ね、後北条氏の北関東制圧における司令官的立場として活躍した。天正十八年(1590)の小田原城開城ののち、兄北条氏政とともに切腹して生涯を終えた。後北条氏没落後の大石氏は、定久の実子定仲と養子定勝が、八王子千人同心として大久保長安に仕え、以後同地に土着したという。
あらら
大久保長安の名が・・・・
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 03時33分43秒 ) | パスワード |
http://homepage1.nifty.com/joichi/1-4o.html
文字化けで読めません。
オ 1/3 (オ〜オオワン) - nifty
homepage1.nifty.com/joichi/1-4o.html
大ノ国(後の百済)からの渡来集団を阿部(おべ)と称し、のちにアベと称された。 ..... の居住地は、出雲国意宇郡、大和国十市郡飫富郷、同国式上郡小夫郷、遠江国磐田郡 ..... 三 諸書等による大石氏 〇鎌倉大草紙に「応永二十三年、大石源左衛門等は上杉憲 ...
こんな記事が出てるらしいです。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 03時41分42秒 ) | パスワード |
http://blog.livedoor.jp/kiseki612-hanno/archives/23830608.html
飯能市の大石氏。
コピペガードにつきコピペ出来ません。
この大石氏は佐久郡大石郷の出身らしい。
藤原氏秀郷流の沼田氏の出身で木曽義仲の子孫を養子に迎えて木曽源氏に。
北条氏康の3男を迎え
その後秀吉に負けた。
銀杏紋の旗本・大石氏は武蔵守護代の子孫を名乗らず陸奥国信夫郡大石出身としたのは出自を隠したのか?
URLでご確認を。
[71] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月11日 08時52分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
箱柳永田様
貴重な情報、ありがとうございます。朝起きてより、今まで解読・読解を
しておりましたが、「井伊直虎」のセミナーに行く時間となってしまいまし
たので、帰宅後に一生懸命読ませていただきます。
久しぶりにエンドルフィンが脳内に抽出してまいりました―
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月11日 13時29分14秒 ) | パスワード |
NHKの大河「真田丸」を見ました。
最初は馬で逃げる堺雅人のおかしな顔が映ってて(三谷幸喜のお笑いか)とガッカリでしたが
その後、泣けました。
(でも、この気持ちはワタシの気持ちじゃない)って思いました。
木曽氏に裏切られ、穴山氏に裏切られ、そして小山田からも裏切られる勝頼(平岳大の演技がいい!)に涙でした。
今回の大河は最初っから人物が描き分けられているな。と。
脚本もいいし。
勝頼の最期は来週あたりでしょうか?
「気の毒」
ですね。義経ほどではないんでしょうけど、日本人の琴線をかき鳴らす武将の1人ですね。
[73] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月12日 01時39分33秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
1338年、宗良親王は、嵐にあい、白羽の湊へ漂着し、そして井伊谷城
へ向かった。私の母方の祖父の家は、その白羽のすぐ近くの中田島という所
にあります。また、井伊谷にも大石姓がありますが、そちらは井伊家か宗良
親王に仕えた氏族のようです。
大石氏については、たくさん情報をいただきましたので、今後の参考にし
て行きたいと思っております。
箱柳永田様の言われた引佐地区に、永田姓の友達がいました。どの程度の
永田姓が存在しているか、一度調べてみようと思います。
直虎のセミナーについては、明日(あっ、本日か)にします―
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月12日 02時28分36秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
中田島
よく行きました
幼稚園のあたり。
どうして行ったのか?
たぶん撮影で。
父の趣味がカメラだったから。
でもやっぱり南朝方がらみだったからかもですね。
その土地の記憶がDNAに刷り込まれているんでしょうね。
そう言えば小学校の時の幼友達に大石君という可愛い男の子がいて、玉葱みたいな顔をしてました。
赤穂浪士の家老を連想してましたが
もしかすると宗良親王に仕えた子孫同士だったのかもですね。
大石内蔵助良男:
大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。
意外ですね。近江で佐々木と言ったら浅井長政がらみになって行くのかも。
その後、大石氏は応仁の乱などで没落したが、大石良信の代には豊臣秀次に仕えた。
あらら 秀次が出て来ましたね
秀次失脚後、良信の庶子にして次男の大石良勝(良雄の曽祖父)は京で仏門に入れられたが、京を脱走し江戸で浪人した後、浅野家に仕えるようになった。
良勝は、大坂夏の陣での戦功が著しかったため、浅野長政の三男浅野長重(長矩の曽祖父で常陸国真壁・笠間藩主)の永代家老に取り立てられる。
長重の長男・長直は赤穂に転封されたので、大石家も赤穂に移ることになる。
良勝の長男大石良欽も赤穂藩浅野家の筆頭家老となる。また良勝の次男大石良重も家老となり、浅野長直(長矩の祖父)の息女鶴姫を妻に賜っており、その子の二人はいずれも浅野長直に分知されて幕府旗本(浅野長恒と浅野長武)になった。
大石良欽は鳥居忠勝(鳥居元忠の子)の娘を娶り、その間に大石良昭を長男として儲けた。その良昭と備前国岡山藩の重臣池田由成(天城3万2,000石を領する大名並みの陪臣。また実際には岡山藩池田家の本家筋に当たる。詳しくは池田氏や岡山藩を参照のこと)の娘くまの間に長男として、播州赤穂城内に生まれたのがこの大石内蔵助良雄である。幼名は松之丞(一説に竹太郎)。
第6代将軍御台所熙子とは大石の一族、小山氏が代々近衛家諸太夫を勤める縁戚関係でもある。このため、熙子の弟、近衛家熈が義士碑に揮毫している。
[75] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月12日 10時25分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日の「直虎セミナー」は地元の「歴女」グループが講師を務めました。
内容的には、龍潭寺より提供された最も信憑性のある系図をもとに、直虎
を中心とした祖父から万千代(直政)の時代までを地元密着の資料を駆使して
行われました。
内容的には、ちょうど下記のサイトと同じような構成になっていましたの
で参考に引っ張りました―
http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html
「箕輪初心★井伊直政=井の国千年物語後編 <作成日時:2012/12/04 07:31 >
F井伊虎松誕生&父:井伊直親の死
・永禄4年(1561) 2月9日井伊直政(幼名虎松)が生まれる。
・永禄5年(1562) 井伊直親が今川氏真により呼び出され、
遠州掛川にて朝比奈泰朝に誅殺。
供18人も抹殺。
理由・・井伊直親が松平元康(徳川家康)と仲良し
◆◆ 箕輪初心★井伊家の歴史:井の国千年物語前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_3.html
◆◆ 箕輪初心★箕輪城54【井伊直政】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.html
G井伊直平の毒殺
・永禄6年(1563) 20代:井伊直平が飯尾備前守に毒殺された。
→ 家臣の大石が川名の渓雲寺に埋葬。 (大石氏のことが書かれています!)
H曳間城攻め
・永禄7年(1564) 新野左馬助・中野信濃守直由が
曳馬城(現浜松城)攻めで討死。
新野左馬助は2歳の虎松を命に代えて守った。
※新野左馬助の妹は祖父:井伊直盛の妻である。
→当時、府中(松本)の小笠原長時の支配下にあった信濃市田郷
(現長野県伊那郡高森町)の松源寺に逃げた。松源寺は松岡貞利の
松岡城の5の郭下にあった。松源寺は、井伊谷の龍譚寺の開祖が
出たお寺であった。松岡貞利は井伊直政を2歳〜14歳まで庇護
し、学問や武士の心得を教えたのだった。
I女性地頭:次郎法師登場
・永禄8年(1565) 井伊直盛の娘:次郎法師祐圓尼が女性地頭になる。
井伊家の男は5歳の虎松だけだった。
※虎松の母は、浜松の松下家に再婚していた。
・永禄11年(1568) 中野信濃守直由が井伊谷を支配。
家老:小野但馬、井伊領を横領。
井伊谷三人衆、井伊領を治める。
小野但馬を追放。
J徳川家康の遠州進出
・永禄11年(1568) 12月15日、徳川家康が三河→奥山→遠州侵攻。
道案内は「井伊谷三人衆」だった。
近藤康用(やすもち)・鈴木重時・菅沼忠久だ。
多くの小野但馬の地は徳川家康配下になった。
しかし、虎松は鳳来寺へ逃れた。8歳〜14歳まで鳳来寺で過ごした。
虎松の実母:井伊直親内室は松下源太郎と再婚。
K堀川城の合戦
・永禄12年(1569) 徳川家康が気賀の堀川城・掛川城を攻略。
→今川氏滅亡。
L三方が原の合戦
武田信玄の遠州への侵攻
・元亀3年(1572) 10月 仏坂の戦い
山県昌景 VS 井平軍
12月、三方原合戦。
徳川家康は大敗。
家康の脱糞伝説・・・
・天正元年(1573)武田信玄の野田城攻撃
菅沼忠久の敗戦
※武田信玄が死亡。
M虎松、徳川家に出仕
・天正3年(1575) 養母の直虎=次郎法師に育てられていた直親遺児の
井伊直政は、養母・実母などが相談して、今川氏を滅ぼした徳川家康
を頼ることにした。
徳川家康の三方が原での鷹狩りの時、次郎法師に付き添われて謁見した。
徳川家康は、虎松の父:直親が家康に味方しようとして今川に殺された
ので、不憫に思い、家来にした。
徳川家康は虎松の300石を与えた。
◆◆ 箕輪初心●箕輪城シリーズ54「井伊直政」◆◆
◆第四章 「井伊直政の活躍」
・天正元年(1573)1月、武田軍井伊谷へ乱入。
龍潭寺が炎上。
・天正3年(1575) 虎松が徳川家康へ出任。
徳川家康は万千代の名を与え、300石を与える。
井伊万千代の名で旧知行地の井伊谷を賜った。
※武田信玄が駒場で没。
※長篠の戦い
@万千代の初陣
・天正4年(1576) 高天神城の戦い
徳川家康・信康 VS 武田勝頼
万千代は徳川家康の寝所に忍び込んだ間者=スパイ=殺し屋を討ち取
った。
戦功・・・3000石に加増。
・天正6年(1578) 万千代が10000石に加増。
・天正9年(1581) 高天神城の戦いA
徳川家康は5000人の軍勢を率いて、高天神城を攻撃。兵糧攻め。
武田勝頼は甲斐から援軍を送ることができず、城将は今川旧臣:
岡部元信の城兵全員が討って出て、玉砕したと言われている。
●井伊直政は、高天神城の攻略の戦功
A武田軍滅亡・・本能寺の変
・天正10年(1582) 22歳で元服。直政と名乗る。
3月 新府城→天目山で武田勝頼が自害・武田氏が滅亡。
甲州:若神子城・獅子吼城の戦い・・・服部半蔵の活躍。(半蔵です!)
北条氏の大導寺政繁との交渉で徳川方の使者として政治的手腕を発揮。
徳川家康が武田氏の旧領:信濃国・甲斐国を支配。
→武田家の旧臣達を多数与力に抜擢。
●井伊直政は武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属された。
兜や鎧など使用する全ての装備品を赤色で統一→「井伊の赤備え」と
呼ばれる部隊の大将となった。
理由・・山県昌景の意志を尊重し、朱色の軍装を復活
赤は目立ちやすく、自分の部下達がどこにいるか分かる。
●井伊谷4万石に加増。
B徳川家康の伊賀越えに井伊直政が活躍
6月2日 本能寺の変・・・家康の伊賀越えに従い、堺から帰還。
本能寺の変後、甲州平定において、北条との交渉→井伊直政が正使・
木俣守勝がの副使になった。(浜北区に木俣が多いです。)
木俣守勝は井伊直政を補佐し、北条家との交渉をうまく進めた。
この後、井伊直政付きになり、筆頭家老となった。
万千代元服。井伊兵部少輔直政を名乗る。
C井伊直政の結婚&井伊家再興
天正11年(1583)徳川家康の養女で駿河沼津三枚橋城主:松平康親の娘で
ある花後の唐梅院)と結婚。
●旗本先手役に任ぜられて、本多忠勝や榊原康政の同僚となる。→徳川
四天王
D井伊の赤備え
・天正12年(1584) 徳川家康は井伊谷3人衆(近藤康用・鈴木重時・
菅沼忠久)に対し、井伊直政に仕えるよう命じた。
・天正13年(1585) 小牧・長久手の戦い
井伊直直政は短気で家臣に非常に厳しかったと言われている。
徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵の羽柴軍の総大将である羽柴秀吉
(=豊臣秀吉)や配下の武将達も「井伊の赤備え」には大変手こずった
という。
井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」「徳川家臣団最強の部隊」と
見なされ、本人は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名に恐れられるように
なった。
自ら先陣に立って戦うことを好んだため、筆頭家老:木俣守勝がその役
目を果たしたと言われている。
→●井伊直政は井伊谷6万石の大名になった。
・天正13年(1585)井伊直政の実母、浜松松下源太郎宅で没。
・天正14年(1586)徳川家康は浜松より駿河へ移る。
井伊直政も家康に従って駿河へ移る。
E大政所の警備
※豊臣秀吉は、徳川家康に上洛し、家来になるように迫った。
→徳川家康は「NO/」
・天正16年(1588) 井伊直政は聚楽亭へ徳川家康に御供した。
井伊直政は、岡崎→京都を警護。
井伊直政は豊臣秀吉の計らいで侍従に昇格した。
・天正16年(1588) 井伊谷3人衆の近藤康用が井伊谷において没(72歳)
F父の恩人:松岡氏を救う。
・天正10年(1582)織田信長の伊那侵攻。
松岡頼貞は織田信長の家臣となり。本領を安堵された。
6月、本能寺の変。・・・織田信長は急死。
・松岡貞利は徳川家康と豊臣秀吉のどちらに就くか去就を決めかねていた。
徳川家康に誓詞を入れ服従を約することにした。でも、松本の小笠原
貞慶が徳川方の保科氏の高遠城を攻めた際、松岡貞利は小笠原氏に味方
して高遠の攻撃に加担した。それを家臣に密告された。
・天正14年(1586) 信州伊那の松岡家は、小笠原貞慶の命令で、徳川家康
の敵であった。
・天正16年(1588) 松岡貞利は徳川家康から改易を命ぜられ、所領を没収
された。約500年続いた松岡氏の支配は終わりを遂げた。しかし、
井伊直政の嘆願により、死罪は免れた。
井伊直政が弁護し、松岡貞利は救われ、家臣になった。」
大体のところ、こんな具合です。
来年の大河ドラマ「女城主 直虎」は「真田丸」とも遠江・信濃で縦の線
でつながっていますので、つなげて見るといいかもしれませんね。先日上田
城へ行ってきたばかりです。家康と真田家とは縁戚関係だそうです。また家康
は、幸村の幼き時からの境遇にシンパシィを感じていたようです。
井伊家の系図は、龍潭寺の武藤前住職の著書に収められています。
簡単に述べますと、井伊直虎は宗家の一人娘であった。父直盛の従兄弟の
直親は直虎のいいなずけであったが、今川にその父直満を殺され、直親は
伊那の市田の松源寺に隠れる。
直虎の父親も桶狭間で亡くなったので、直虎は法師になり、女領主となっ
た。1555年、直親が戻り、奥山氏の養子となり、奥山氏の娘と結婚。
やがて虎松(直虎)が生まれる。
ところが、、直親が今川に疑われ殺されてしまうので、次郎法師直虎が
直政の後見人となって育てた。
つまり、直政は直虎にとって「はとこ」というよりも、元いいなずけの
子供であった。
[76] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月12日 14時06分16秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございました。
共も18人殺された、なんて
気の毒ですが戦国時代はこんなもんだったんでしょうね。
>永禄6年(1563) 20代:井伊直平が飯尾備前守に毒殺された。→ 家臣の大石が川名の渓雲寺に埋葬。
この情報、ラッキーでしたね。
来年の大河は今年の大河の続編ということで楽しみですね。
>直政は直虎にとって「はとこ」というよりも、元いいなずけの子供であった。
「母代わり」「父代わり」で、すごいことですね。
でも直虎には幸せな生き甲斐だったんだなって思います。
自分の「子供の代わり」だったんでしょうね。
立派な大名になって直政もよく直虎に応えました。
[77] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月12日 14時16分48秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
新しいスレッドの方へ移動します―
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月16日 22時39分03秒 ) | パスワード |
遠江国の河村氏・カワイ氏について<2>に書いたもののURLをここにも記しておきます。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/site3/sub1.htm
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