[1] | ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月27日 17時17分24秒 ) | パスワード |
こちらは平川家について28コメント76より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101490_76.html
前スレッドでは椎葉のおじより以来の「源一おじいさん」の父について調査を行いました。
実は・・
家の大掃除をしていても頭がモヤモヤする事を沢山見つけていまして・・
これは、コメントとして文書化するしかないな!!
このままでは、スッキリとした頭で新年は迎えられない(ー_ー)!!と思いまして!
書かせて頂きます(-.-)
先日からお伝えしているように、椎葉の源一おじいさんの父方の系を調べていて、私は一つの間違いを犯しました。
調べる系の間違いです。
「高岡」という地名から進んで行って途中で間違ってしまったのです。
その系とは・・「島津氏豊州家」と「島津加治木家」です。
「島津氏豊州家」と「島津加治木家」は其々が偶然にも幕末から明治初期にかけて
父「島津久長」子「島津久宝」という同姓同名となっています。
そこで私は間違ってしまいました・・(..)
相良家と繋がっているのは「島津加治木家」であり「島津加治木家の島津久宝」の養子が相良氏から入り、日向高岡の地頭であったのは「島津豊州家の島津久長」であり、継承したのは「島津豊州家の島津久宝」でした。
私は以下のように間違えた調査を行ってしまいました(..)
「島津豊州家の島津久長の調査」から違う系の「島津加治木家の島津久宝」この方をすこし調べた所で「あっ!違う!」と間違えに気が付き「島津豊州家の島津久宝」に調査を戻した・・
でも・・それによって何か変だな??と気が付く事がありました。
皆様にも「私の間違った調査」を御紹介致します(..)
まず・・
椎葉のおじより聞いた「高岡」という地名と「島津家老家」をもとに調べました。
島津久長 (豊州家) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E9%95%B7_(%E8%B1%8A%E5%B7%9E%E5%AE%B6)
島津 久長(しまづ ひさなが、生年不詳 - 天保5年6月18日(1834年7月24日))は、幕末の薩摩藩士。島津斉興に仕える。島津豊州家14代目で家格一所持。私領は薩摩国黒木。諱は久長。通称は初め藤次郎、後に内膳、丹波に改称。家老まで進む。また、大隅国内之浦郷や大崎郷、小根占郷、日向国高崎郷地頭を務める。
経歴[編集]
『文化朋党実録』に「島津藤次郎」として登場し、文化5年(1808年)1月26日に小姓組頭番頭であった久長は用人勤めを命じられ、同年6月に樺山久言の親類に家老頴娃信濃の令達を伝えている。
文政9年(1826年)5月28日に家老となり、家老就任中に死去する。家督は子の島津久宝が継承した。
年譜[編集]
(月日は旧暦)
文化6年(1809年)1月11日:内之浦郷地頭に就任。
文政2年(1819年)10月17日:内之浦郷地頭から大崎郷地頭に転じる。
文政7年(1824年)12月30日:大崎郷地頭から小根占郷地頭に転じる。
文政9年(1826年)11月28日:小根占郷地頭から高岡郷地頭に転じる。
(-.-)
※文政9年(1826年)11月28日:小根占郷地頭から高岡郷地頭に転じる。
※家督は子の島津久宝が継承した。
島津久宝 (豊州家) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%AE%9D_(%E8%B1%8A%E5%B7%9E%E5%AE%B6)
島津 久宝(しまづ ひさたか、久寶とも、享和元年正月24日(1801年3月8日)- 明治6年(1873年)1月14日)は、幕末の薩摩藩家老。別称・直次郎、愛次郎、藤次郎(藤十郎とも)式部、主計。号して豊山。
家系[編集]
島津久豊の三男季久を祖とする一所持・島津豊州家の15代目、島津久長(丹波)の子で父も家老を務めていた。母は島津久大の娘。通称「豊後」は先祖代々の官名であり家名でもある。薩摩国黒木郷(現鹿児島県薩摩川内市祁答院黒木)を領した。室は山岡久宝の娘カネ。
経歴[編集]
島津久風が隠居すると出水郷地頭を兼務する。
天保5年(1834年)家督を継承。島津斉彬に仕え、天保10年(1840年)家老となり、勝手方と琉球方掛を任じられ、弘化2年(1845年)には城代家老となった。 安政5年(1858年)斉彬が没すると、前藩主島津斉興の指示で家老島津久徴を罷免し、斉彬の近代化政策を逆行するように保守的な政策を実行した。また勤王家月照の保護を拒否したため、月照を匿っていた西郷隆盛は責任を感じ、共に入水自殺を図った。これらの政策により志士たちの反感を買ったという。
安政6年(1859年)斉興が没し、藩主忠義の実父島津久光が実権を握ると、久光は斉彬の政策を復旧させようとしたため、久宝は罷免され、失脚した。
人物など[編集]
生没年月日ともに異説があり、誕生日を正月29日、没年月日を明治6年1月17日とするものもある。
芳即正の「島津斉彬」(吉川弘文館)では島津斉彬の目の上のたんこぶ的な存在であったとしている。また西郷隆盛は斉彬生存中に久宝の解任を斉彬に進言したことが山田尚二の『詳説西郷隆盛年譜』(西郷南州顕彰会)にある。
(-.-)
※勤王家月照の保護を拒否したため、月照を匿っていた西郷隆盛は責任を感じ、共に入水自殺を図った。これらの政策により志士たちの反感を買ったという。
※西郷隆盛は斉彬生存中に久宝の解任を斉彬に進言したことが山田尚二の『詳説西郷隆盛年譜』(西郷南州顕彰会)にある。
(?_?)(?_?)・・高岡の地頭であった島津久長の子「島津久宝」は勤王家月照の保護を拒否しさらに西郷隆盛とは敵対していた・・・(?_?)
※別の文献等にも西郷隆盛氏と島津久宝(豊州家)の対立が多数記述されていました・・
(?_?)(?_?)(?_?)・・・?????
椎葉家の源一おじいさんの父は西郷隆盛氏からの書簡を複数持ちなおかつその内容は「帰ってくるように」との再三の誘いであって・・さらに・・瓢箪まで頂いて・・さらに・・椎葉家には今でも「西郷隆盛氏と成就院月照」の石版画を大切に飾ってある・・・
私には・・何だかすご〜く違和感があります・・・(?_?)(..)
では「父 島津久長」「子 島津久宝」と同姓同名の加治木島津家について(..)
まず、私が間違ってしまったきっかけとなった記述からご覧ください(..)
加治木島津系譜
http://www1.bbiq.jp/gorin/kajikishimazukekeifu.html
こちらの
10代 久(ひさ)宝(たか)(9代久長嫡子)について勝手ながら転記させて頂きます(..)
10代 久(ひさ)宝(たか)(9代久長嫡子)
○嘉永5(1852)年11月12日生〜明治20(1887)年8月14日卒 (35歳)
○ 名 岩松, 又八郎, 兵庫, 久宝
○当主相続 安政4(1857)年4月1日(6歳) 家老,新納仲左衛門時成等が領政を補佐
○万延元(1860)年 日木山窯(主取 白欣円)磁器を作る。
○慶応3(1867)年10月6日 東目総督を命ぜられる。
○慶応4(1868)年 1月3日 鳥羽・伏見の役が起こり,戊辰戦争へ発展。
当主久宝は日 州高岡に赴き隣境の警備に当たる。戊辰戦争に加治木からも従軍189名(別説 ,170名)〜大砲隊としても参戦。新政府軍は北上し反政府勢力を鎮圧しながら, 明治2(1869)年5月函館五稜郭の戦で戦争は終結。 教科書「高校日本史」
○明治元(1868)年神仏判然令(分離令)により,薩摩は「排仏毀釈」の運動が最も強く〜加治木は長年寺・能仁寺・本誓寺以外の寺や仏像等は無差別に破壊される。
○明治2(1869)年残った長年寺・能仁寺・本誓寺もすべて破壊される。
○退任@ 8月25日 「版籍奉還」の発表を受け,加治木島津家当主久宝は領邑(りょうゆう)(所領)をすべて奉還(返還)し,加治木を去り鹿児島邸へ移居する。
(..)・・こちらのサイトの記述を上から順に読まずに一気に島津久宝この方の記述に目を向けてしまいまして・・
※当主久宝は日 州高岡に赴き隣境の警備に当たる。
上記の記述を読んで「日州高岡」って書いてある!と思いこんでしまったのです(..)
でも・・こちらは「加治木島津家」であって「豊州島津家」ではありません(ー_ー)!!
さらに・・加治木島津家の系を見たのです・・
世界帝王辞典 島津家(加治木家)より
http://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%8A%A0%E6%B2%BB%E6%9C%A8%E5%AE%B6%EF%BC%89
※島津久長
生没年:1818-1856
父:加治木家当主 島津久徳
1850-1856 加治木家当主
妻:
1845-1920 貞姫 光子(左大臣 近衛忠房室、義父:薩摩藩十一代藩主 島津斉彬)
1852-1887 久宝
※島津久宝
生没年:1852-1887
父:加治木家当主 島津久長
1857-1887 加治木家当主
妻:島津富子-1874(父:島津貴柄)
妻:島津健(父:島津久徴)
1881-1926 (養子)久賢
1884-1944 直(夫:男爵 島津久賢)
※島津久賢
生没年:1881-1926
父:肥後人吉藩十五代藩主 相良頼基
義父:加治木家当主 島津久宝
初名:基直
1897-1926 男爵
貴族院議員
妻:島津直(父:加治木家当主 島津久宝)
1907- 澄(夫:男爵 島津久英)
1902- (養子)久英
(..)・・こちらに相良頼基の子息「島津久賢」が養子に入られた・・と言う事です。
ちなみに・・島津久宝(加治木家)の姉妹「貞姫 光子(左大臣 近衛忠房室)」
近衛忠房と言う方は成就院月照を擁護した「近衛忠熙」この方の四男。
前スレッドのコメント42で勉強致しました(..)
※月照の身に危険が及ぶのを危惧した近衛忠熙が西郷にその護衛を託し、西郷は薩摩に連れて行きます。
とありました。
加治木島津家「島津久宝」・「相良氏」・「近衛忠房」・「近衛忠熙」・「成就院月照」・「西郷隆盛」
上記の皆様は繋がっているのですね・・
でも・・あくまでもこちらは「加治木島津家」です。
相良頼基の子息「島津久賢」。
相良頼基の姉妹「於保」。この方は「宮原健之助の室」です。
宮原健之助(健吉)この方の系はもちろん「橘公業」からの系ですが、八代の「宮原公忠」から繋がる系とは別系で、「宮原公忠」この方から繋がる系とは”南北朝時代”に分かれているようです。
実はかなり以前御紹介した球磨村に伝承のある「岡原の豪族」と呼ばれたのは上記の「宮原健之助(健吉)」に繋がるこちらの系である事が、墓石調査の内容から解りました。
この事は次のコメントで詳しく書かせて頂きます(..)
岡原(旧宮原村)に繋がる宮原健之助(健吉)、この方の義理の甥「島津久賢」が島津久宝の養子に入った・・
でも・・あくまでもこちらは「加治木島津家」です。
(ー_ー)!!・・・・・
しかし・・私の違和感が・・・
そこで、椎葉のおじには素直に一度間違えた事、そして「島津氏豊州家」と「島津加治木家」両方を調べた結果を話しました。
私の「モヤモヤ」を解決する為に椎葉のおじに
「そもそも・・源一おじいさんの父が高岡から来られたと誰に聞いたのか」と尋ねたのですが・・
椎葉のおじの言葉を書きます(..)
「”高岡”という言葉はばあちゃん(おじの母。私の祖母の姉)に子供の頃から聞いていた。”高岡におんなった(居た)”とばあちゃんは言っていた。”高岡”と言えば宮崎県。だからおじさん(自分)は源一じいちゃんの父は”宮崎の高岡”から来られて”宮崎の高岡”に帰って行ったと思とった(思っていた)」と。
・・・ナンデスト(?_?)
椎葉のばあちゃんは「”高岡におんなった(居た)”」と言っていた。
(ー_ー)!!いえ「”高岡におんなった(居た)”」と「言っただけ」で・・
「源一じいちゃんの父は”宮崎の高岡”から来られて”宮崎の高岡”に帰って行った」と言うのはおじさんの推測・・???!
う〜ん・・でも、おじさんも話を聞いていたのは子供の頃なので仕方ないですし、「”書簡”を調べさせて下さい」と言われて貸したのにその書簡を貸した方が大事な書簡を紛失したと言う事が一番の問題ですから。
椎葉のおじさんはこの時少し「シュン(..)」とされていたので、それを見た私は益々調査本能?に火が付いたのでした!!
「おじさん!源一おじいさんのお父さん、必ず見つけようね!!」と!!
島津豊州家の情報をもっと調べていこうと思います。
しかし!!
私が「島津氏豊州家」と「島津加治木家」を間違ってしまった事がきっかけで!!
もっと「モヤモヤ」する事を沢山見つけてしまいました!!
以前からお伝えしていた大きな蜘蛛の糸がしっかり見えてきたのです。
予告編です(..)
※球磨村に伝承した「岡原の豪族」とは?!
※宮原の曾祖母の実家「新堀家」と遠江国「横地氏・勝間田氏」について
※「新堀氏」と「宮原健之助(健吉)」に繋がる「宮原氏」との関係
※球磨の「勝間田氏」。「勝間田」から「宮原」に姓を変えた「宮原氏」があった!!
※橘姓「宮原氏(宮原健之助氏の系)」と「新堀氏」と「勝間田氏」とさらに「久保田氏」と「豊永氏」との関係
などなど、コメントしなければ、気持ちよく新年が迎えられません(ー_ー)!!
(何を言っているやら・・)
今から夕飯を作りますので・・
続きは明日にさせて頂きます。
では(..)
[2] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年12月29日 22時41分01秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
ミヤハラさんへ
相良氏と縁戚の横地氏を介して、八幡太郎源義家に繋がっている。
更に河野氏(越智姓)を介して鎌倉幕府北条一族に繋がっている。
桓武平氏維将流 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01112.htm
越智姓と言えば、伊予橘氏でしょう。
伊予北条氏(折敷に三文字紋)と伊豆北条氏(三鱗紋)は偶然の一致ではないですよ!
伊豆三島神社神主家の物部姓矢田部氏は、折敷に三文字紋。
伊予三島と伊豆三島も神紋は折敷に三文字紋、偶然の一致ではないでしょう。
[3] | ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月30日 10時25分52秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。
先日、”予告編”として書いた”事”。
コメントを書いた時は一気に続けて書かなければと勢いがあったのですが、時間が経つと「でも何故??」とモヤモヤが増して、続けて書きすすめる事に躊躇しはじめていたのですが・・
しかし!!
御教示を頂きその「モヤモヤ」が一気に晴れてきました!
〉相良氏と縁戚の横地氏を介して、八幡太郎源義家に繋がっている。
更に河野氏(越智姓)を介して鎌倉幕府北条一族に繋がっている。
〉越智姓と言えば、伊予橘氏
〉伊予北条氏(折敷に三文字紋)と伊豆北条氏(三鱗紋)〉伊豆三島神社神主家の物部姓矢田部氏は、折敷に三文字紋
〉偶然の一致ではない
このお言葉を伺い”やっと”「でも何故??」と考えていた事の意味が理解出来ました。
私が調べて気が付いた事は御教示頂いた「歴史の大きな繋がり」に基づいた「球磨での繋がり」だったと言う事を。
日本の苗字七千傑様、本当にありがとうございます。
書く勇気が湧いてきました。
早速御紹介させて頂きます。
私の宮原の高祖父の名前は「蔵吉」です。高祖父「宮原蔵吉」の養子となったのが久保田家に生まれた曾祖父「宮原留蔵」。
曾祖父「宮原留蔵」の妻、すなわち曾祖母は「新堀家」の娘(長女)です。
曾祖母の妹は以前コメントした、祖母の実家平川家から、分家したもう一軒の「平川家」に嫁いでいました。
この事をおじ(父の弟)から聞いた時から「新堀家」がとても気になっていました。
その時点で「宮原公忠」この方とは同族ではありますが別系の「宮原健之助(健吉)」に繋がる「宮原氏」と「新堀氏」は繋がっているのでは?と推測してしまう”情報”に気が付いていたからです。(この内容は後でコメントします)
旧宮原村(特に宮麓地区)には「新堀氏」の名跡が多数残っています。
中島霧島神社(宮原神社)に寄進された大きな石灯篭の前面に「新堀藤助」の名。(隣の灯篭は”出田氏”です)
今は岡原霧島神社拝殿の前に置かれています。
溝下地区には地蔵堂そして地蔵菩薩を建立。礎石には「新堀市助 十二人衆■」と刻まれています。
上記以外にも庚申塔・他など。
曾祖母の実家は村に点在した”旧宮原村の新堀家”の本家であり、近くには新堀家の隠居家と呼ばれる家もあり、”隠居家”ここは、今は改装してありますが別の方が住んで現存しています。
曾祖母がうちの宮原家に嫁いだ後、他の方々(旧宮原村の新堀一族)は殆どが多良木の黒肥地地区に移って行かれたそうです。
球磨の新堀氏の祖は、相良頼景に随行した「新堀又四郎頼兼」。
新堀又四郎頼兼の妻は相良頼景の末娘で、母は須恵氏の娘となります。
※須恵氏の本拠地「須恵村」の惣公文であった「平景俊」は梶原景時の後裔(すでに調査されていました)で橘公員・橘公綱とは姻戚関係(血縁関係)がありました。この事も後々コメント致します。
球磨に来られる前の「新堀又四郎頼兼」。全く調べていませんでした。反省しています。
日本姓氏語源辞典
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/cat_77985.html?p=12%20?iframe=true&width=100%&height=100%
こちらのサイト「新堀氏」勝手ながら転記させて頂きます。
シンボリ 新堀 神奈川県、鹿児島県、茨城県。埼玉県日高市新堀(ニイホリ)発祥。同地では草分けで和歌山県南部・三重県南部(別名:熊野)から来住したと伝える。茨城県(旧:常陸国)に南北朝時代にあった。鹿児島県薩摩川内市永利町では静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀から熊本県球磨郡多良木町を経て来住したと伝える。静岡県牧之原市勝田の付近が比定地。鹿児島県霧島市福山町福地新堀発祥。岩手県花巻市石鳥谷町新堀(ニイボリ)発祥。室町時代から記録のある地名。
※鹿児島県薩摩川内市永利町では静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀から熊本県球磨郡多良木町を経て来住したと伝える。
\(◎o◎)/!静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀。 静岡県牧之原市勝田の付近が比定地。
勝麻田=勝間田→「静岡県牧之原市勝田」調べました!ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%96%93%E7%94%B0%E6%9D%91
勝間田村(かつまたむら)は静岡県の中部、榛原郡に属していた村。現在の牧之原市北西部にあたる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、勝間村、静谷村、勝田村、切山村、中村、牧ノ原[一部]が合併して発足。
そして、
横地城 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%9C%B0%E5%9F%8E
横地城(よこじじょう)は、静岡県菊川市東横地にある日本の城跡。別名金寿城。現在はわずかな遺構が残るのみである。横地城跡は平成16年(2004年)9月30日に国の史跡に指定された菊川城館遺跡群の一部分になっている(菊川城館遺跡群は高田大屋敷遺跡と横地氏城館群で構成されており、横地城跡は後者に属する)。
歴代城主[編集]
初代: 横地太郎家永(1052 - 1126)源頼義の子八幡太郎義家の落し子
2代: 横地太郎頼兼(1107 - 1142)横地系図の一族、次男は勝間田に住む
3代: 横地太郎長宗(1132 - 1176)保元の乱で後白河天皇方に味方し活躍
4代: 横地太郎長重(1162 - 1222)源義経に従い、源平合戦で功をあげた
5代: 横地太郎長直(1214 - 1276)幕府御家人として、御所奉公した
6代: 横地太郎師重(1235 - 1277)弓の名手で、鎌倉鶴岡八幡宮の弓始儀式を勤めた
7代: 横地太郎師長(1257 - 1307)従五位下、山城守として、反幕謀反に勲功
8代: 横地太郎長国(1279 - 1332)鎌倉住まい、笠置城攻めで功をあげた
9代: 横地太郎長則(1314 - 1361)北条氏滅亡、足利氏へ
10代: 横地太郎家長(1337 - 1409)従五位下、山城守青年武将(太平記)
11代: 横地太郎長豊(1383 - 1437)遠江守で、将軍の御供衆として京都に滞在
12代: 横地太郎長泰(1413 - 1439)永享の乱 箱根水呑戦で戦死
13代: 横地太郎長秀(1434 - 1494)足利義政に仕えたが、応仁の乱で敗北
14代: 横地太郎秀国(1465 - 1506)北条早雲の反今川攻撃により、転戦後討死
15代: 横地太郎元国(1505 - 1554)武田信虎を頼って甲斐国へ、再興ならず駅 : 済
(p_-)
初代: 横地太郎家永(1052 - 1126)源頼義の子八幡太郎義家の落し子
2代: 横地太郎頼兼(1107 - 1142)横地系図の一族、次男は勝間田に住む
※横地太郎頼兼の次男は勝間田に住み、その勝間田(勝田)新堀から熊本県球磨郡多良木町に来られた「新堀又四郎頼兼」。
横地氏に繋がりました\(◎o◎)/!
横地太郎頼兼(1107 - 1142)・・「新堀又四郎頼兼」は1193年頃多良木に来られた・・
横地太郎頼兼(次男は勝間田に住む)と新堀又四郎頼兼は姻戚関係もしくは親子・孫等の関係があるのでは?!
日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観、そして《横地氏》姓氏類別大観を拝見致しました。
実は・・
昨日、日本の苗字七千傑様より御教示を頂く前に「新堀氏」・・「勝間田・勝田」そして「橘氏」がどう繋がるのか気になって色々調べてみたのですが(勝田・勝間田・橘等のワードをもとにネットで検索)
偶然、登場したのがナント日本の苗字七千傑様の《楠木氏》姓氏類別大観でして・・
楠木成綱の系に「勝田氏」がありました。
これは・・・偶然か??と昨日までは・・思っていた所であります。
他にも
相良藩士分限帳には「勝間田氏」が名を残していて、このお話も今後詳しくさせて頂きますが中に「父、浜松にて頓死」という「勝間田氏」もいらっしゃいます。
日本の苗字七千傑様に頂いた御教示は、私が今後コメントする内容に強力な”繋がり”を持っていると思います。
ありがとうございました。
[4] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月02日 12時43分53秒 ) | パスワード |
皆様、明けましておめでとうございます。
本年もどうかご教示の程よろしくお願い致します。
日本の苗字七千傑様、新春早々ですが、ご一読して頂きたい情報が見つかりました。
勝手ながらメールを送らせて頂いております。
よろしくお願い致します。
[5] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年01月02日 21時07分01秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
宮原氏は肥後国八代郡宮原に居住して宮原を称する。
肥後各地に宮原の地名あり(球磨にも)。
明応年間の宮原左右衛門尉公忠は後裔。
系図も多種多様。元を辿れば同祖。本家争いに注意!
肥後宮原氏の家紋は、丸に橘、三つ割り橘、橘枝丸。菊水など。
[6] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月03日 09時14分52秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。
〉宮原氏は肥後国八代郡宮原に居住して宮原を称する。
そうか・・八代なのですね。
八代宮原から肥後の球磨の方に地名遷移したという事でしょうか・・?
鎌倉後期から南北朝時代前期にかけての球磨の記述には宮原という地名や名が出ているので、その頃は分かれた「宮原氏」が球磨宮原の地に来られていたと推測出来るのでしょうか・・。
もしくは、同族の別の系が「球磨宮原の地に来られた」という事なのかな?
九州各地に伊予橘氏は散らばったようですので・・
なるほど(p_-)
〉元を辿れば同祖
”同祖”と言えば・・
元旦におじ(父の弟)と従兄や椎葉のふた従兄が家に集まったのですが、おじは家に泊まったので色々話を聞く事が出来ました。
実は10数年前に八代の「伊藤家」で”八代伊藤家祖”の方の没後400年(だったかな?)もしくは八代在400年(だったかな?そこの所はよく聞いていませんでした(..))・・の”末裔”の方々の集まりがあったそうです。
おじと叔母は仕事で行けなかったので従兄と叔母の姪とで伺ったそうなのですが・・
大きなホールを貸し切っての集会で、そこに集まった方々が数百人!!
最初に八代に着任された「伊藤氏」この方の末裔が数百人一同に会した!と言うわけです。
一人の人間から・・400年以上も経つと子孫は・・頭ではもちろん想像できますが、目の当たりにすると”あっかん!!”だった!と。
でも「伊藤家」はこうやって「子孫」が集会を開かれる程、団結力が強いのだ!とおじは言っていました。
でも、従兄の話では「不思議と皆似ていた・・」と言っていました。
〉系図も多種多様
いずこかの大名家ではないので祖を同じくする「宮原の一族」は本家争いなど無いと思います。(ー_ー)!!
うんがっ(?_?)・・家は何処から分かれてきているのか解りませんが(きっと静〜かに村で過ごしていた宮原一族の一部でしょうから)・・本流筋では何かむか〜しにあったのかな??(p_-)
(ー_ー)!! 大丈夫です 物部の系を持つ「伊予橘氏」は団結力は強大です!(-.-)・・でも面白そうだから調べてみようかな(p_-)・・
(こらっ!!と天からの声が・・(..))
日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございました。
本年もどうかご教示の程よろしくお願い致します。
[8] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月04日 16時28分39秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
昨日のコメント・・私は御先祖様から叱られてしまうような事を書いてしまったようです。
〉家は何処から分かれてきているのか解りませんが(きっと静〜かに村で過ごしていた宮原一族の一部でしょうから)
(..)まるで、宮原村の人々がの〜んび〜り静か〜に過ごしていたかのような内容を書いてしまいました(..)
このコメントを書いた後
「ばかた〜ん!!」
「おい達(わし達)は村で静か〜にの〜んび〜り過ごしてなどおらん!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
と天からお叱りの声が聞こえたような気がしまして・・
よ〜く考えてみると・・
\(◎o◎)/!の〜んび〜り静かに過ごす事など出来ません!(ー_ー)!!
だって球磨郡宮原村には・・
相良藩の大事な財政を支える「銀山」!!がありました!!
日明貿易の拠点でした!!
さらに・・
相良氏の第18代当主相良義陽の時代には
相良義陽のおじの方々、上村城主「上村頼孝」弟の上村頼堅(豊福城主)、稲留長蔵(岡本城主)が反乱を起こしたのでした!
稲留長蔵(岡本城主)方には現えびの市”飯野”、そして同じく現えびの市真幸の”真幸衆”と呼ばれた北原氏が加勢に来られて「岡本方」と「人吉方」の大激戦が繰り広げられたのでした。
「歴代嗣誠濁集覧」には「岡本城落城之事」の記述には
右同日人吉方手分ノ一勢ハ押寄岡本ニ候処ニ、此処ハ僅ノ籠城故乍チ致ニ落城、長蔵モ日州飯野ヘ退去也、然処ニ岡本貝ノ崎久保田ト申処ヘ北原勢少々相残候由因ニ注進ニ、是モ追懸討取申候
上記の「貝ノ崎」や「久保田」と言う字名は岡原村の時代にも残っていました。
ちなみに「貝ノ崎」は「貝崎」でこちらでは「きゃんさき」と呼んでいます。
ブログに旧岡原村の字名をアップしていました。
よろしければご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12090249542.html
この激戦地「貝ノ崎」や「久保田」は家のすぐ近くです((+_+))
岡本方の討死された方々の名前が記述されているのですが・・
「新堀右衛門」・・\(◎o◎)/!新堀氏の名があります。
新堀氏は岡本方だったのですね・・そうか・・
さらに「歴代嗣誠濁集覧」には「岡本城落城之事」の記述続けます(..)
翌日岡本衆并真幸衆宮ノ原ニ相残候由相聞ヘ、是モ雑兵六十余人御当家ヘ討取申候、宮原麓首塚是也、又奥野ニテ敵方ノ余党 田中民部、田中安芸、同左近討死
とあります。
真幸衆は宮原村に残り、翌日、討たれてしまわれた・・
宮原麓首塚是也・・今でも、岡原霧島神社のすぐ近くの丘に亡くなった60余人の方々をお祀りする首塚があります。(云われは全く知りませんでした(..))
上記の内乱以降も内乱続きの相良藩・・
さらに・・考えてみると球磨郡宮原村の黒原山を越えればすぐそこは島津領「須木村」。
ぎゃお!!いつ何時「島津藩」に攻め込まれるか解りません(ー_ー)!!
時代を下ると・・
明治初期の「西南戦争」の時「黒原山には官軍があり」と球磨郡誌に書かれていまして、薩摩軍より宮原村(黒原山)の官軍拠点は攻められたとの記述がありました。ここでも激戦だったようです・・
こうやって書いてみると・・
宮原村の「宮原氏」も「平河氏」(寛政10年の分限帳では宮原村の「ひらかわ氏」は「平河」姓となっています)も・・他多数の皆様方・・
の〜んびり〜などされていなかったはずです(T_T)
さ・ら・に!!やっと自分なりに理解出来た事が!
以前、コメントしましたが、
宮原村・・安永三年(1774年)には軒数二八四、うち諸奉公人以外の郷士一四二。人口一千三二二。とあり、郷士の軒数が全体の半分を占める。
郷士の軒数が全体の半分を占める、宮原村。
郷士。普段は農作業等をされていますが、いざ藩の一大事となれば、鍬を刀に持ち替えて戦いに挑む!言わば”戦闘集団”へと変わるわけです。
山を越えれば”島津領”、”銀山もある”という宮原村には「いざ!」と言う時には村の軒数全体の半数を占める”戦闘集団”となる郷士の方々が「待機」していた!と言う事なのでは・・
と私なりに考えました。
宮原村は実は”戦闘集団”の村だった(何だか・・かっこいい(*^_^*))
※あくまでも・・私の推論ですが\(◎o◎)/!
「きっと静〜かに村で過ごしていた」何て書きまして、ご先祖様、ごめんなさい(..)
今日のコメントで「奥野村」の記述を書きましたが、家から500メートルもない距離の奥野村には公人として「筑紫氏」他多数の方々の名が。
「筑紫氏」・・奥野村にいらっしゃったのですね・・
静かに過ごしていたなどと書きまして・・当時の宮原村の公人・郷士の皆様・他宮原村に関係の方々、いえ(ー_ー)!!球磨郡中の村々の皆様
本当にすみませんでした(..)
では(..)
[9] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月06日 12時15分45秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
前スレッドで今後ご紹介致します(..)・・とお伝えしていました”お話”に進んで行こうと思います(..)
宮原町郷土誌(現八代郡氷川町)に記載の“宮原家系譜”を拝見すると「氷川町宮原の宮原城主であった宮原公忠」この方に繋がる系と、宮原健吉(健之助)この方に繋がる其々の「宮原家」は、おそらく時代で言うと南北朝時代の頃に分かれた”同族”ですが別系となるようです。
でも”元を辿れば同祖”ですね(^'^)
宮原町郷土誌(現八代郡氷川町)“宮原家系譜”より、貞享三年肥後国相良藩士分限帳(人吉藩に残る最も古い分限帳)に最初に名前が登場する方までを御紹介致します。(解りやすくする為にお名前の前に番号をふりました(..))
まずは※宮原公忠(現氷川町宮原の宮原城主)。この方に繋がる系
@橘公業 → A橘公員 → B公綱(1299年人吉願成寺記述にその名あり) → C公資(宮原彦次郎 一書公氏トモ 自此代称宮原氏肥後宮原居) →
D公高(四郎) → E公次 (但馬守 法名素秀)→ F公忠(宮原中興祖 始相良氏仕 ※1500年代前半より現氷川町宮原の宮原城主)→ G公久(筑前守)→
→ H公重(次郎大夫)→ I公家(十郎 於豊後国高森戦死)→J頼真(“公家”弟 縫殿允)→ K頼重(玄番允 肥後合志郡之内窪田村)→
→ L公久(縫殿助 始人吉移住)→ M公時(四郎兵エ)※貞享三年肥後国相良藩士分限帳(一高二百石とあり)
※上記の系図説明として宮原町誌(現八代郡氷川町)には
橘公資が肥後に下向して八代郡宮原荘に居を定めたことに始まるとあり、なお且つ、上記のI公家の子「公孝」古保山住 四方之助伝右エ門 とあり、
松橋町誌には「公家死後の天正15年6月、その子四方助(後の公孝)は母に抱かれて逃れ、古保山の当尾山麓に隠れ住んだ。
現在四方助という地名となっている・・・と記述されています。
※上記I公家こちらの方の弟J頼真。この方の孫であるL公久。この方から「始人吉移住」とありますので、宮原公久。こちらの方から人吉に来られたと言う事ですね。
(以前コメントして下さった”人吉宮原家”様はこちらの直系となられるという事ですね(^'^)そして宮原町郷土誌記載の“宮原家系譜”(系図)は”人吉宮原家”様の数代前の御先祖様が御作りになられたと言う事ですね(^'^))
続けて「宮原健吉(健之助)」この方の”宮原家”の系をご紹介致します(..)
@ 橘公業 → A橘公員 → B公綱 → C公資(宮原彦次郎 一書公氏トモ 自此代称宮原氏肥後宮原居) →
→ D公繁(為分家称宮原 法名真照)E公昌(法名光照) → F公吉(法名西光) → G公興 → H公久 → I續歳(続歳) → J公歳 → K長住 →
→ L頼慶 次郎 内記少輔 (宮原内記)→ M公全(宮原宇右衛門 法名怒雲英忠居士)※貞享三年肥後国相良藩士分限帳(一高三百石とあり)
(p_-)・・八代の”宮原家”とこちらの”宮原家”は「C公資(宮原彦次郎 一書公氏トモ 自此代称宮原氏肥後宮原居)」までは同じですが・・
Dの公高(四郎)そして公繁(為分家称宮原 法名真照)。こちらの方々の代で分かれたという事ですね(p_-)
※「K長住」は球磨老者として1500年代に球磨の地にその名を残しています。
※L頼慶は「宮原内記 八代13人衆の一人として」八代でその名を残しています。しかし・・その後・・
宮原内記という方は「犬童清兵衛、津軽藩お預かりの際」の”箱根関所”の記録で従者を二分された・・という記述の中に「宮原内記」の名前があります。
“宮原家系譜”ではM公全(宮原宇右衛門)この方の代で新たに系が分かれていまして・・
M公全(宮原宇右衛門)の弟(もしくは次男)が長盛(次郎正市丞 剃髪而称一斎房山伏也) → 公行(金兵衛)
とあります。
続けて公全(宮原宇右衛門)からの系をご紹介致します。
M公全 宮原宇右衛門 三百石 怒雲英心(忠)居士 元禄五年(1692年)六十九歳 元禄四年隠居料申付 十五人扶持
↓
N宮原彦七 宮原宇右衛門嫡子 三百石 元禄六年相続
↓
O宮原喜兵衛 宮原彦七嫡子 二百石 元禄一四年相続
↓
P宮原(佐牟田)武左衛門 宮原喜兵衛嫡子 延享三年相続
↓ ※肥後国相良藩士分限帳では「宮原武左衛門」ではなく「佐牟田武左衛門」とあり。十三人扶持
↓
Q宮原内記(佐牟田)武左衛門嫡子 天明八年相続 老神馬場二〇〇石
↓※祖父「宮原喜兵衛」より「二百石」を相続
R宮原宇右衛門 宮原内記嫡子 寛政十二年相続 江戸留守居役・用心を勤める 老神馬場二〇〇石
↓
S宮原健吉 健之助と称す 弘化二年相続 近習・組支配を勤める 老神馬場 二〇〇石
★妻 肥後人吉藩 第十三代藩主 相良頼之の娘 於保
※M公全 宮原宇右衛門 三百石から事情により隠居申付けとなりました。
球磨と相良氏の歴史・近世5より
http://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei5/kinsei5.htm
岩下門跡
総曲輪の南西にあり、胸川に向かって門あった。元禄4年、家老の宮原右衛兵門が造築したが、幕府への申請許可に問題があったらしく、宮原右衛兵門は隠居を命じられている。現在は石垣の一部を残しているのみで、殆ど痕跡を残していない。
(-.-)家老の宮原右衛兵門(宇右衛門)は幕府への申請許可に問題があったらしく隠居を命じられた・・・
(?_?)・・家老で・・三百石で・・隠居されて・・あっ!!やっと記憶が繋がりました・・ナルホド(p_-)(何のコトヤラ・・との声が・・)
まず、今後の私の数々のコメントに欠かせない「公全 宮原宇右衛門」という方の系をご紹介致しました(..)
皆様
かなり以前です、平川家について24コメント66で御紹介させて頂いた「岡原村の豪族」そして「露幻童子(ろげんどうじ)」という方のお話を覚えて頂いていますでしょうか?
平川家について24コメント66
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101455_81.html
転記します(..)
球磨村15区(毎床・茂田・俣口・遠原)
http://www.sangaura-tourism.jp/area15
51 遠原阿弥陀堂
今から340年前、岡原村の豪族が「露幻童子(ろげんどうじ)」を供養するために建てられたといわれている。例祭日には、地区住民による接待がおこなわれる。
(-.-)私は平川家について24コメント66で続けて
(゜-゜)あんれっ??岡原村の豪族?この時代はすでに豪族?とは呼ばれていないとは思うのですが・・でも「岡原村」と書かれているし・・340年前と言えば1600年代後半かな??旧岡原村の庚申塔数か所の記述を見ても確かにその当時は宮原姓は一番多かったような・・それに旧岡本村福留地区の庚申塔には最下部に「施主 橘公貞 作之」ともありましたし・・何だか気になります・・
===============================================
(-.-)と書かせて頂いていました。
遠原阿弥陀堂
今から340年前、岡原村の豪族が「露幻童子(ろげんどうじ)」を供養するために建てられたといわれている。
こちらの「露幻童子」と言う方のお墓が見つかっています。
そこは・・以前ご紹介した東林寺南側墓地の「宮原家墓地」
こちらは宮原宇右衛門(公全)の墓所でもあり、宮原宇右衛門(公全)のお墓のすぐ傍に「露幻童子」と言う方のお墓がありました。
岡原村の豪族とは?「露幻童子(ろげんどうじ)」と言う方は?・・と実はず〜っと何故か気になっていたのです。
やっと「見つかった〜良かった〜(^'^)」という気分です。
さらにこちらには
「貞享三丙寅(1686年)春彼岸」「橘姓宮原家累代先祖十二世 三界万霊七世父母等」など書かれた
橘姓宮原家の先祖供養塔も建立されています。
続けまして・・
系図のお話に戻りますが・・
先ほど
※M公全(宮原宇右衛門)の弟(もしくは次男)が長盛(次郎正市丞 剃髪而称一斎房山伏也) → 公行(金兵衛)
とあります。
と書きました。
こちらの公行(金兵衛)と言う方をあらゆる書籍等そして肥後国相良藩士分限帳で「宮原公行」「宮原金兵衛」という方を探したのですが全く見つかりませんでした。なおかつ肥後国相良藩士分限帳には当時「金兵衛」と名乗った人物は二名しかいらっしゃいませんでした・・
「岡原村の豪族」と呼ばれた系であり、家老(三百石)であった宮原宇右衛門 公全の甥(または孫)である 「宮原金兵衛」さんはいずこへ!!(?_?)
ところが・・当時・・
「宮原金兵衛」ではなくて「宮原村の」「金兵衛」さんはいらっしゃいました。
宮原村の 地頭は 「新堀金兵衛」です。(肥後国相良藩士分限帳より)
宮原金兵衛・・宮原村 地頭 新堀金兵衛
宮原金兵衛・・宮原村の金兵衛さん・・・・あんれっ???(?_?)偶然かな??
しかし(ー_ー)!!
こちらのスレッドで
相良氏・横地氏・新堀氏・そして伊予橘氏・伊予橘氏・伊予北条氏の「繋がり」を日本の苗字七千傑様からの御教示により私は理解する事が出来ました。
宮原村の金兵衛さんである「新堀金兵衛」と「宮原金兵衛」
偶然ではないような・・推測ですが予感がします・・
とても長くなりましたが
次回は豊永氏が「結ぶ縁」。そして宮原村の「有馬氏」と「新堀氏」などの
お話をさせて頂こうと思います。
では(^'^)
[10] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月06日 23時05分03秒 ) | パスワード |
コメント9の追記です。
先ほどのコメントで宮原宇右衛門 公全、こちらの方の系が「岡原村の豪族」と呼ばれた系と書きましたが、岡原村(旧宮原村)と繋がっているのは、こちらだけではなく、もちろん祖を同じくする宮原氏一族は全て何等かの形で球磨郡旧宮原村とは繋がっていた!と私は思っています。
だって、ここは”元を辿れば同祖”の橘公業が西園寺公経と替地をして所領した土地なのですから(^'^)
八代方面と繋がっていた事は明らかだと思います。
だって・・
旧岡原村には明治初期に八代方面から来られた方々(家々)が今でも沢山いらっしゃいます(^'^)
私が子供の頃のこの村の「行政の長」は鏡氏です。
鏡町。以前は八代郡でしたが今は合併して八代市になっています。
私が子供の頃の、村の”行政の長”「鏡氏」と八代郡鏡町との関係は良く解りませんが、こちらの家も八代方面から来られたと聞いています。
家の親戚の「伊藤家(秋岡家)」も八代方面。
他にも親戚の「小池家」もうろ覚えですが八代方面から来られたんじゃなかったかな?
どちらも色々な形で繋がっている・地縁があるのでは?と私は推測しているのですが・・(あくまでも私見ですが)
と言う事でコメント9の追記でした(^'^)
[11] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月08日 12時19分56秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
コメント9でご紹介したお話の続きをさせて頂きます。
宮原宇右衛門 公全の甥(または孫)である 「宮原金兵衛(公行)」
宮原村の同時代の地頭は”金兵衛さん”である「新堀金兵衛」
新堀家の娘であった私の曾祖母。曾祖父「宮原留蔵」の妻となる・・
モヤモヤが尽きませんが・・・
ちなみに・・同時代のもう一人の「金兵衛」さんは一武(現錦町)の「犬童金兵衛」と言う方です。(肥後国相良藩士分限帳より)
私が所有する肥後国相良藩士分限帳 佐藤光昭氏編は
「貞享3年(1686年)」「享保3年(1718年)」「天明4年(1784年)」「天保元年(1830年)」「安政年中(1854年〜1859年)」の分限帳5冊がまとめられているものです。「熊風土記」に記載の「分限帳」を復刻したものであると「まえがき」に記述されています。
宮原村の新堀家についてコメント3でも書かせて頂きましたが、続けて、ご説明致します(..)
肥後国相良藩士分限帳「貞享3年(1686年)〜安政年間(1854年〜1859年)」までを見ると宮原村に公人としてあった「新堀氏」は
貞享3年(1686年) 「新堀金兵衛」
享保3年(1718年) 「新堀金兵衛」
天明4年(1784年) 「新堀 藤助」
天保元年(1830年) 「新堀 藤助」
安政年中(1854年〜) 「新堀 藤助」
ご覧頂くと・・「金兵衛」と言う名(通称)から天明4年(1784年)以降は「藤助」という名(通称)に変わっています。
「藤助」という名(通称)を私は以前「宮原村」に関係した資料の中で見た記憶があるぞっ(p_-)と・・色々確認したのですが・・
ありました(p_-)
求麻郷土研究会発行 郷土第31号 記載の「球磨郡あさぎり町岡原地区 庚申塔調査」
こちらの「あさぎり町岡原北宮麓地区」の承應4年(1655年)建立の庚申塔(私の家からとても近い場所です)には28名の氏名が刻まれています。
その中のお一人が「有馬 藤助」という方です。(有馬氏は3名の方の”名”があります)
有馬氏でおそらく通称(名)が「藤助」と言う方ですね(p_-)
同じ村でなお且つ「宮麓地区」でご近所だし・・「新堀氏」と「有馬氏」に姻戚関係が発生しても不自然ではありませんよね・・(p_-)
「新堀 藤助」・・「有馬 藤助」・・通称を継いだのかな???
以前、こちらの庚申塔についてコメントした時は
「あんれっ??何故、有馬氏がここに・・」などと書いていましたが・・
あの時は今以上に私は歴史に関して「おバカ」だったので、今なら少しは解ります(-.-)
椎葉村は・・高橋元種改易後は「有馬氏」の領地となり、その後人吉藩(相良藩)の支配下に入ったのは明暦2年(1656)。
家の近くの庚申塔の建立は 承應4年(1655年)※有馬氏の名が残る
椎葉村・・有馬氏→相良藩 明暦2年(1656)
なるほど(p_-)
高橋元種と言う方の改易には「相良藩」は深〜く関わっていたようですね。
以前ご紹介したサイトを(..)
http://www42.tok2.com/home/toyotane/sagarabunsyo.html
何はともあれ・・相良藩と有馬氏は御縁が深いようです(-.-)
あっ!そうか!・・椎葉村・・椎葉氏・・むむっ(p_-)(-.-)
所で・・今回のコメントでは「通称」という言葉を何度も使いましたが・・
日本の苗字七千傑様から以前頂いたご教示をもう一度復習したのであります(^'^)
日本の苗字七千傑様のQ & A
Q14.通称から出自がわかりますか?を拝見致しました(^'^)
宮原健吉(健之助)・・宮原公吉・・「吉」の文字が・・
そうか!でも偶然かな??(?_?)私の高祖父の名は「宮原蔵吉」・・クラキチ?クラヨシ?どっちだろう??
今日は宮原村の「藤助」という通称をもつ方々についてもご紹介させて頂きました。
では(^'^)
[12] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月08日 15時55分48秒 ) | パスワード |
追記
と言うか・・先ほどのコメントとは関係ないのですが・・今年の正月に初めて知った事を(..)
前スレッドで度々登場の椎葉のおじさん。
平川家について28コメント37で、椎葉のおじさんの妻である”椎葉のおばさん”の実家尾方家について書いています。
平川家について28コメント37より転記します(..)
〉熊本県神社誌に椎葉のおじの妻である「椎葉のおばさん」の兄の名前が載っていまして・・尾方○○(尾方のおじさんの名)「姓 大神 氏 尾方」と書かれています。
大神氏・・通字は「惟」ですね。
さらに平川家について28コメント47では
〉免田某地区の中村家本家から尾方家に嫁いでこられたのが「椎葉のおばさん」のお母さんで・・その方の姉が・・免田某地区中村家本家から平川家に嫁いできた「みなみのおばさん」。
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔尾方家⇒椎葉家
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇒平川家(椎葉のおじの妻である椎葉のおばさんの母と平川家の私の祖母の兄嫁は姉妹で其々中村家から嫁いで来られた)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔うちの宮原家
矢野家系図。
橘姓矢野氏系図とあり、三十代敏達天皇より出て橘諸兄をへて上野国(栃木県)宇都宮城主であったが、信貞の時、伊予国(愛媛県)矢野城主となり矢野伊予守と称した。
「貞広代従菊池肥後守武朝公筑後国三原於中村之庄十二丁賜之同於三池郡六丁預給之都合十八丁領代々住中村仍而改矢野苗字号中村氏」と記されている。
=====================================================
(-.-)と私は書いていたのですが・・
椎葉のおばさんの兄、尾方のおじさんは・・
国宝青井阿蘇神社の第68代の宮司でした!
今の宮司様は第70代宮司 福川義文氏。
お話が熊本県観光課のページに記載されています。
No.149 「青井阿蘇神社、かたりつづける物語」 講師/青井阿蘇神社宮司 福川義文 氏
http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=149&pre_page=8
福川宮司様は、実は私の高校の一つ上の先輩で、椎葉家の私のふた従姉とは同級生(椎葉のおじから聞きました)
国宝青井阿蘇神社 第70代福川宮司様の先々代の宮司(第68代)が椎葉のおばさんの兄である尾方のおじさんだった・・と言う事です。
尾方のおじさんが青井阿蘇神社にいらっしゃった事は知っていたのですが・・
その・・何というか・・”御立ち場”というのかな?は全く知らなかったのです(..)
正月に親戚が集まって偶然「尾方のおじさんはお元気かな?」という話になって椎葉のふた従兄と一緒に皆が話しているのを聞いていて突然私が・
「ええっ!!そうだったの?!知らんかった・・」
と言うと、皆
「えええ〜っはこっちタイ!お前知らんかったとか!!?」と・・
本当に知らんかったとですタイ(..)
その数日後、椎葉のおじが家に遊びに来られて一緒にお茶を飲んでいる時に私がその話をすると・・
椎葉のおじも「なんかっ??おまや(お前は)知らんかったとか!??」と・・
ハイ(..)・・知りませんでした(..)
確かに・・歴史研究家の方々と球磨の神社について話をしていると、頻繁に「尾方のおじさん」の名前が出てくるので・・
「あんやっ??おじさんは結構有名なんだな〜(^'^)」と思っていたくらいで・・(..)・・
父いわく
「お前はむか〜しの親戚関係の事はよ〜調べてきた。それはヨカことばってん。この頃の親戚の事をいっちょん(全く)しらん!」
と叱られました・・(..)・・反省(..)
しかし!!
むむっ!!(p_-)
橘姓「矢野氏」「中村氏」そして「大神氏」・「平河氏」・・・「惟」の文字・・
何だろうこれは(p_-)・・・・(p_-) むむっ!!
と言う事で今年の正月は最初から知らない事を知る良い年初めとなりました。(^'^)
(うんっ??何処からか・・そう言う事は早くから知っておくべきだっ!との声が・・聞こえた様な・・)
では(..)
[13] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月09日 11時50分34秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
昨日のコメント11では「あさぎり町岡原北宮麓地区」の承應4年(1655年)建立の庚申塔について触れましたが、宮麓地区の「承應4年(1655年)建立の庚申塔」は実は二か所にありまして、昨日コメントした「庚申塔」には姓名(氏名)が刻まれている方々が28名。そしてもう一か所の「庚申塔」には38名の姓名(氏名)が刻まれています。
二つの「庚申塔」の距離はそんなに離れてはいません(ー_ー)!!
実はこのように多数の姓名(氏名)が刻まれている「庚申塔」は球磨・人吉では他に例が無く、極めて貴重な「庚申塔」だと言う事です。
苗字帯刀を許された「郷士」の方々が多数この地にいらっしゃったと言う事を、宮麓地区の「庚申塔」が物語っているのかな・・と(p_-)
あと・・宮麓地区といえば
相良氏の第16代当主相良義滋の妻(豊永氏の娘)の菩提寺であった「庭柏寺」。
こちらには
第19代 相良忠房公 第20代 相良長毎(頼房)公 第21代 相良頼寛公 の供養塔が建っています。
※第19代 相良忠房公 供養塔 総高129センチ 中央幅39センチ 厚さ22センチ
相良忠房公は天正13年2月15日(1585年3月16日)に亡くなっていますが、供養塔の建立は寛永18年(1641年)と刻まれています。
※第20代 相良長毎(頼房)公 供養塔 総高178センチ 中央幅47センチ 厚さ22センチ
寛永十三年丙子 六月十三日 と刻まれています。・・寛永13年6月13日(1636年7月15日)
※第21代 相良頼寛公 供養塔 総高165センチ 中央幅47センチ 厚さ37センチ
寛文七丁未暦 六月二十九日 と刻まれています。・・寛文7年6月29日(1667年8月18日)
こちらのすぐ近くに球磨郡宮原城の最後の城主と思われる「宮原十兵衛(犬童十兵衛)」この方の墓碑があります。
寛永十二年(1635年) 宮原十兵衛 菩提 心涼祐傳禅定門 三月二十八日 宮原谷中 敬白
あの・・こうやってコメントに書いてみて気がついたのですが・・
第19代 相良忠房公 第20代 相良長毎(頼房)公の藩主供養塔と宮原城主「宮原十兵衛(犬童十兵衛)」の墓碑建立時期がとても近いという事が解りました・・
あと・・もう一つ気がついた事が・・
相良 忠房 父母 父:相良義陽、母:了信尼(豊永長英の娘)
相良 頼房 父母 父:相良義陽、母:了信尼(豊永長英の娘)
相良 頼寛 父母 父:相良頼房、母:秋月種実の娘
上記の三人の方々は其々が了信尼(豊永長英の娘)の子であり孫であったと言う事ですね・・・・。
実は今日のコメントでは本当は「豊永氏」について書こうと思っていたのですが、別の内容を書いているとやはり「豊永氏」が登場してきて・・あれっ?
こうなるとずっとコメントしようかどうか悩んでいた事があって、やはり気になるので書きます。
平川家について28コメント27
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101490_76.html
こちらで
犬童彦右エ門高政(平河高政)について書かせて頂きました。
肥後国相良藩士分限帳には「犬童彦右エ門同十兵衛」と書かれています。
犬童十兵衛を名乗った「犬童彦右エ門高政(平河高政)」。
通称は「彦右エ門」であり「十兵衛」である。
実は、南藤蔓綿録二三七ページに
一 豊永彦右衛門 了心禅尼舎弟也 武篇堅キ侍也
と書かれているのです。
※豊永彦右衛門・・彦右エ門
豊永氏とは・・犬童姓から改姓して豊永氏となった・・
※了心禅尼・・ウィキに記述が・・相良義陽の妻子の項に
側室:了信尼(天文19年(1550年)- 寛永6年7月11日(1629年8月19日)) - 豊永長英の娘。「了心尼」とも。と書かれています\(◎o◎)/!
さらに・・
肥後国相良藩士分限帳では貞享3年(1686年)「犬童彦右エ門同十兵衛」の後に登場する「十兵衛」と言う方は・・享保3年(1718年)の「豊永十兵衛」なのです・・
※豊永彦右衛門・・彦右エ門 了心禅尼舎弟也★相良義陽の妻(豊永長英の娘)の弟?
※犬童彦右エ門同十兵衛・・実は 犬童彦右エ門高政(平河高政)
通称は「彦右エ門」であり「十兵衛」である。
※肥後国相良藩士分限帳 享保3年 豊永十兵衛
※豊永氏とは・・犬童姓から改姓して豊永氏となった・・
※相良氏の第16代当主相良義滋の妻(豊永氏の娘)の菩提寺であった「庭柏寺」。
※第16代当主相良義滋の母は蓮乗院(豊永氏)
※「庭柏寺」に建立された球磨郡宮原城最後の城主「宮原十兵衛(犬童十兵衛)」の墓碑・・心涼祐傳禅定門
まとめてみればみるほど・・何か全て・・
繋がっているような気がする〜〜〜〜〜〜〜〜!!\(◎o◎)/!
先日〉次回は豊永氏が「結ぶ縁」と書きましたが、今日書いた内容とは全く違う事を書こうと思っていたのです。(他にも実は沢山の豊永氏の縁が・・)
宮原宇右衛門の系も「豊永氏」と繋がって(姻戚関係)にあります。
久保田氏も「豊永氏」と繋がって(姻戚関係)にあります。
この記述は次回にさせて頂きます。
皆様・・
今日、私が書いた事は偶然と思われますか?
私は・・偶然なのかどうなのか今の時点ではよく解りません・・
では(..)
[14] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月10日 10時03分07秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
「豊永氏」と各家々の姻戚関係に進もうと思ったのですが、私、一つ書き忘れていた事がありました。
昨日のコメントでも書いた
〉犬童彦右エ門同十兵衛・・実は 犬童彦右エ門高政(平河高政)
この方の「系」についてです。
ブログにアップした系図のA〜Bをご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html
肥後国相良藩士分限帳と照らし合わせてみると
犬童彦右エ門同十兵衛・・一高 百石
↓
長男 犬童五兵衛 早世 尾州宮ニテ死
娘 将親姉 久保山金右エ門養女(久保山金右エ門・・一高 百六十石)
二男 将親 平河彦右エ門実高政二男 ・・一高 百石
↓
長男 則光 平河伊兵衛 享保二年 平河彦右エ門跡を継ぐ・・一高 百石
娘 則光姉 黒木市左エ門室(黒木市左エ門・・一高 百石)
娘 則光妹 豊原角兵衛室 (豊原角兵衛・・一高 百八十石)
二男 長雄 樅木伊左衛門 樅木家相続 ・・一高 百石外五十石役料
↓
長男 久貞 平河伊兵衛則光の長男 妻 宮原権左衛門の娘
宝暦七年丑家中有事時因失誤被没収家秩百石入獄七年出獄□塔原郷数年後有免赦移住人吉青井邑亦数年先之壮年之時仕官而於東都邸師鈴木徳左衛門滝盛而得疋田流鎗術道綂伝帰郷里有門弟数多流義益進是以召朝襄之賜一世一口月棒也
※「宝暦七年丑家中有事」とは「御手判銀事件」の事でした。(他、関連した方々の記述等あり)
ネットでも少し書かれていたので引用します。
人吉藩 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9
竹鉄砲事件[編集]
竹鉄砲事件(たけでっぽうじけん)は、8代藩主頼央が鉄砲により暗殺された事件である。別名、御手判銀事件とも呼ばれる。元々相良家の記録にはなく、秘匿されていた事件であるが、渋谷季五郎が相良家近世文書を整理中に偶然発見し判明した。
発端は7代頼峯の宝暦5年(1755年)に領内を襲った大水害である。藩は当時すでに財政が逼迫していたが、この大水害により藩士の生活は壊滅的な打撃を受けた。翌宝暦6年(1756年)、藩士救済策として、家老・万江長右衛門らの大衆議派が希望者に対し御手判銀の貸し付けの触れを出した。しかしこの貸付は、その借り高に応じて家禄を渡す分を差し引くというものであり、100石取り以上の上給者らは、その返済方式では実質的に知行の削減となり藩士が一層貧困に喘ぐとして異を唱え、門葉方に訴え出た。実際、上給者で借り受けを請う者は無く、万江ら一同は謹慎に及ぶ。一方、相良頼母(後の頼央)ら門葉は、この一件を江戸の頼峯への報告する際、速やかに処分すべく万江を切腹にし、他の者を逼塞すべしとの密書を送っている(万江らは処分されず、謹慎も解かれた模様)。
宝暦7年(1757年)、藩主・頼峯は、帰国に際して従前どおり門葉(実は弟)の相良頼母を仮養子にしようとした。頼母は門葉の中心的人物であったため、家老・万江らはこれに反対し、連判状を提出するにいたった。しかし頼峯は、強硬な反対を押し切って頼母を仮養子として帰国した[4]。ところが、頼峯を毒殺し頼母の擁立を企てがあるという遺書を残して、藩医・右田立哲が自殺するという事件が起こった。頼峯は吟味のうえ小衆議派を処罰した。
宝暦8年(1758年)、頼峯は江戸参府の途上発病し、江戸到着後死去した。死去により頼母が出府し、8代藩主・頼央となった。翌宝暦9年(1759年)6月に帰国した頼央は、その2ヶ月後に急死する。相良家の記録では、7月に体調を崩し薩摩瀬の別邸で療養していたが、病状が悪化し死亡したとされている。
しかし言い伝えによれば、薩摩瀬の別邸に滞在中の7月、鉄砲により狙撃され8月に至り死亡したという。藩は、銃声を子供の竹鉄砲(爆竹)であると誤魔化し、調査を求める訴えを取り上げなかったという。大衆議派と小衆議派が対立する中、小衆議派の中心人物であった藩主の抹殺を謀ったものと言われている[5]。
また、これにより藩主相良家の血統は断絶し、以後約10年間、他家から晃長、頼完、福将、長寛の4人を相次いで継嗣に迎え入れるという不安定な家督相続を続け(内密の藩主すり替えも行っている)、なんとかお家断絶の危機を切り抜けていった。
※宝暦7年(1757年)・・頼峯は吟味のうえ小衆議派を処罰した。
(-.-)ここです。
犬童彦右エ門高政(平河高政)この方の系は続けて調査していますので、今後、機会をみてコメント致します。
では(^’^)
[15] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月11日 10時09分44秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
昨日、川辺川の清流を見たくなり(主人が川辺川が大好きなのです)、川を眺めながら五木村までドライブしました。
白石様、ご覧になっていらっしゃいますか?
以前、白石様が「四浦の先、山を越えると椎葉、とおじ様から聞いた」とコメントされていたと思いますが・・
私、昨日、四浦の先山を越えて「椎葉」まで行ってきました。
でっ!解った事があります!
こちらの椎葉は宮崎県(日向)の椎葉村ではありません。
こちらは相良村の椎葉地区です。
道路の案内板に「相良村 ・椎葉」 と書いてあって、方向音痴の私は頭の中の地図が「グルグルぐる〜(?_?)」何で、こっちに椎葉村が??と(どう考えてみても先は八代郡では・・)。
そこで、椎葉村に行った事が無いので主人と行ってみよう(^'^)と山を越えて向かったのです・・
すると、そこには「椎葉」という集落がありました。
「おんやっ(p_-)ここは椎葉村か??」と・・
「いやっ?もっときっと進むのだ(p_-)」と進んで行くと、到底一般の車では通る事が出来ないような山道と変わりまして・・
やっとここで気がつきました(-.-)
あの道路の案内板の意味が・・「相良村 ・椎葉」
相良村の椎葉地区だったのです・・\(◎o◎)/!
謎が解けました(^'^)
でも・・「椎葉」という集落名であり、めちゃくちゃ山の中にあるのどかな集落で・・ここはやはり平姓の「椎葉氏」に関係しているのじゃ〜あ〜りませんか?(p_-)(五家荘も近いような・・)
水の透明度が10年連続日本一に輝く川辺川の上流の写真をブログにアップしました。
皆様に「球磨のパワー」をお届けします(^'^)
ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12116159610.html
では(^'^)
[16] | あきさんからのコメント(2016年01月11日 19時43分29秒 ) | パスワード |
仕事で行ったことがあるのですが、椎葉地区には、椎葉さんと尾方さんがおられます。1件は緒方さんと聞いてます。
[17] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年01月11日 22時36分38秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>こちらの椎葉は宮崎県(日向)の椎葉村ではありません。
こちらは相良村の椎葉地区です。
熊本県の椎葉は相良村だけでなく、相良村の北の五木村にも椎葉の地名は存在します。
また宮崎県米良地区は、元々は肥後に属していましたからね。
宮崎県の椎葉村からは米良領を経由して、相良領椎葉に地続きだったのですよ。
米良氏は幕臣(交代寄合)で5年に一度参勤交代、かつ相良藩に付庸という特殊な立場でした。
[18] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月12日 12時52分13秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)。
日本の苗字七千傑様、あきちゃん、ご教示ありがとうございます。
あきちゃん。
〉椎葉地区には、椎葉さんと尾方さん・・1件は緒方さんと聞いてます。
相良村の椎葉地区にはおそらく家は4〜5軒(もっとあったかな?)くらい建っていました。
その中の椎葉・尾方・緒方という姓の家々。
(?_?)・・なんじゃろか??ねえあきちゃん・・家の「平川家繋がり」の親戚関係と全く同じだと思いませんか??
あっ!平川家繋がりの親戚関係で思い出しました。一軒忘れていました「和田家」です。深水家の集合写真左端に移っている背の高いスーツ姿の方が和田氏です。(あきちゃんの御舅さん(^'^)である私のおじさんから聞きました)
話を戻します(..)
そう言えば・・「緒方家」と言えば・・
サイト 秘境五家荘・五木の里・人吉 より
http://www.iokikai.or.jp/itukinosato.htm
勝手ながら転記させて頂きます(..)
秘境五家荘
全国有数の秘境としてまた平家落人の伝説で知られるのが熊本県泉村の五家荘だ。椎原村、久連子村、葉木村、樅木村、仁田尾村という5つの集落の総称である。五家荘の中心を川辺川が流れ、人吉市で球磨川となって八代海に注ぐ。山々と滝、吊り橋そして澄み切った空気これぞ秘境。
村の伝承(果たして何処まで信用するかは難しい、、)によると、
壇の浦で源氏に敗れた平清盛の孫、清経は豊後竹田に逃れ、緒方実国の娘を妻に迎えて緒方姓を名乗った。後、現在の五家荘に隠れ住んだ。やがてその子孫たちはそれぞれ緒方姓を名乗り3家が庄屋を務め椎原、久連子、葉木に別れ住んだ、という。
※椎原の緒方家
平清経は源氏の追討を逃れるために入水と見せかけて、四国伊予今治、阿波国祖谷さらには豊後竹田へ。その後、姓を緒方と改めて泉村椎原に住み着き、この地を支配した。築300年、2階の隠し部屋や切腹部屋もある。
また平家の落人が住み着く約200年前、藤原一族の陰謀によって、筑前太宰府に流された菅原道真には二人の子供がいた。道真の死後、この兄弟の仕返しを恐れた藤原一族は、筑前に軍勢を差し向ける、しかし兄弟は肥後の山深い樅木、仁田尾に左座(そうざ)姓を名乗って隠れ住んだ。その子孫の2家が庄屋として村を治めた。
※平清経は源氏の追討を逃れるために入水と見せかけて、四国伊予今治、阿波国祖谷さらには豊後竹田へ。その後、姓を緒方と改めて泉村椎原に住み着き・・
(?_?)あんれっ!!
菅原道真には二人の子供がいた・・兄弟は肥後の山深い樅木、仁田尾に左座(そうざ)姓を名乗って隠れ住んだ。・・「樅木」?
コメント14で書いた平川家系図をもとにした調査・・
二男 長雄 樅木伊左衛門 樅木家相続 ・・一高 百石外五十石役料
モヤモヤしはじめました・・・(?_?)
実は、昨秋11月に調査で伺った相良村柳瀬の十島菅原神社。
http://yumeko2.otemo-yan.net/e360577.html
こちらの境内の到るところ(鳥居・石灯篭等)に「平川氏」の名が刻まれていたのです。
「平川五兵衛」と言う方の系の方々と聞きました。
あっ!!そうだ!あきちゃん!!
あきちゃんの仕事場の前に「古〜い」お墓があってすごく気になるって言ってたでしょ!あのお墓は・・「平川五兵衛」と言う方のお墓でしたよ!
先日、従兄のJ君にあきちゃんの今の仕事場を教えてもらってビックリしました。
「平川五兵衛」と言う方のお墓は11月に相良村深水・柳瀬地区の調査の時に行ったので、お墓のすぐ後ろの建物があきちゃんの仕事場だとはその時には知りませんでした・・
日本の苗字七千傑様から以前伺った「偶然と奇縁」のお話、まさしくそうだっ!と私は思いました・・
それと・・上記の調査の時に気がついたのですが・・数十メートル離れた場所にあるこちらの平川家の比較的新しいお墓。その場所にはお墓が並んで二基のみ。平川家のお墓と渕田家のお墓でした。
祖母の実家、岡原の平川家。私の平川の高祖母は「渕田家」から嫁いで来られているのですよね・・・??あんれっ??
・・うん?あれっ?(マタマタですが)「平川五兵衛」・・長男 犬童五兵衛 早世 尾州宮ニテ死
「五兵衛」・・五兵衛・・!!あっ!!(コメントを書いていて今気がつきました!)
実は、相良村の柳瀬・深水地区に調査に行った時、何だかモヤモヤしていたのです・・妙に「苗字」が家の親戚関係と一致するな〜?と。それに・・旧宮原村にも繋がっている方も・・
相良三十三観音16番札所 深水観音にある深水長智(別名宗方・宗芳)の墓所(深水家墓所)に伺ったのですが・・
深水長智のお墓に並ぶように横に建っていたお墓は・・天瑞和尚のお墓でした。
天瑞和尚は旧岡原村(宮原村)の伊勢元の皇大神宮を天和二年(1682年)再興した方で、その他、岡本の福元庵(現在の福元寺)を天和二年(1682年)開基。
熊野神社(旧宮原村熊野地区)を天和二年(1682年)再興。
ちなみに・・上記の岡本の福元庵(現在の福元寺)横にある元禄五年(1692年)建立の庚申塔の最下部には「施主 橘公貞 作之」と刻まれています。
この調査の時に郷土の歴史研究家の方と話していて、私の曾祖母は深水家から平川家に嫁ぎ、その平川家から家の宮原家に祖母が嫁いできた・・というお話をしていると
「人吉の東林寺のお墓の並びみたいやね!深水宗芳(長智)の墓碑が一番前で大口(薩摩)に向かうように建っていて(大口に向かって墓を建てろ!大口からの侵入は自分が防ぐ!との遺言でこちらに墓碑が建てられたそうです)、その斜め後ろに平河源兵衛さんの墓(願いの一つは叶えてやる!との遺言があり、お参りする人が絶えないそうです)そして、その横に球磨郡宮原城最後の城主「犬童十兵衛(宮原十兵衛)の墓碑。曾ばあちゃんが深水家。ばあちゃんが平川家。そして宮原家に嫁いで来られた・・何か縁やね〜」
と言われました・・不思議です・・
菅原神社。
宮原村の宮麓にもありました。明治時代に岡原霧島神社に合祀されています。
場所は・・現在、祖母の実家の「平川家」所有となっている「水田」です・・あんれっ??(マタマタですが)
そう言えば・・「樅木氏」・・肥後国相良藩士分限帳の補足資料によれば旧宮原村に樅木氏いらっしゃいました。
椎葉のおじさんや私の叔父さんから聞くと「宮麓」だったそうです。(今は、十数年前に上村から樅木さんが来られて住んでいらっしゃいます)
うんっ??岡原霧島神社の数年前までの数代に渡る宮司家は「横瀬家」でした・・??
平川の曾祖父の弟が継いだ家は「黒木家」・・娘 則光姉 黒木市左エ門室(黒木市左エ門・・一高 百石)・・???
「平川家」「樅木家」「横瀬家」「黒木家」・・・
ああああああああ〜っ!!いっ一族じゃあ〜あ〜りませんかっ!!\(◎o◎)/!
「椎葉」のワードから進んで行くと何故か「繋がり」が見えてきました・・!?
日本の苗字七千傑様、
ご教示ありがとうございます。
〉熊本県の椎葉は相良村だけでなく、相良村の北の五木村にも椎葉の地名は存在します。
〉宮崎県の椎葉村からは米良領を経由して、相良領椎葉に地続きだった・・
知りませんでした!!
と言う事は・・平姓「椎葉氏」に繋がる土地が「椎葉村」だけではなく「五木村」「相良村」にも!
地続きと言う事は、やはり、平姓「椎葉氏」が其々の「椎葉」という地名の場所に住んだ・・と言う事ですね。
〉米良氏は幕臣(交代寄合)で5年に一度参勤交代、かつ相良藩に付庸という特殊な立場でした。
米良氏が「幕臣(交代寄合)で5年に一度参勤交代」・・こちらも全く知りませんでした!ご教示本当にありがとうございます。
実は、宮崎の西都に行く途中に”西米良”には数回立ち寄りました。
今は道路が整備されていて、湯前から車で25分くらいで西米良の村所地区に行けます。
米良氏はもと「菊池氏」ですね。
菊池 能運の末裔となる米良氏・・
菊池 能運 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E8%83%BD%E9%81%8B
明応2年(1493年)、父・重朝の死去により12歳の武運(たけゆき、初名、後に能運と改名)が家督を継ぐ。
文亀元年(1501年)、大叔父・宇土為光が再度反旗を翻し、武運留守中の隈府城を攻撃し陥落させた。武運は肥後・筑後の兵をもって隈府城に迫り、同年5月、玉祥寺原において宇土勢と激突した。菊池方は奮戦するが戦況は不利で、菊池重安(父重朝の従弟、為光の甥)や黒木為実(親実の祖父)らの将が討死、数百人が戦死する大敗北を喫してしまう。何とか玉名まで逃れた武運は、有馬氏を頼った。
有馬氏に庇護されている頃に、名が「不運」に繋がるという理由で菊池氏の通字「武」の字を捨て、「武運」から「能運」に改名したと言われている。
熊本県の菊池神社には能運の肖像画とされる「絹本著色伝菊池能運像(国の重要文化財)」が所蔵されている。
\(◎o◎)/!・・あんれっ??
菊池神社です!尾方のおじさんの子(椎葉のおじさんの甥)は菊池神社の宮司をされていました!
菊池能運は宇土為光の謀叛で肥後を追われた際に、家族を弟・重房に預け、日向国米良谷に逃亡した。能運の子は米良で成長したが後難を恐れ、菊池姓を隠し、米良重次(米良重為)と称し、米良に土着した。
その後、米良の領主として伊東氏や相良氏と結び、島津氏と争うなど、勇猛かつ政略にも長けた地方豪族として勢力を拡大し、江戸時代以後も子孫は代々大名並の扱いを受け幕末に至った。
明治維新後、菊池武臣の代に男爵を授けられ華族に列している。大名としては滅亡した名門菊池氏ではあるが、その流れを現代に伝えている。
子 養子:政隆、武経
武経・・菊池武経 / 阿蘇惟長 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E7%B5%8C
菊池 武経(きくち たけつね、文明12年(1480年)- 天文6年(1537年))は、菊池氏の第24代当主。肥後守護。もとは阿蘇氏の第17代当主(阿蘇神社大宮司)で、初めは阿蘇 惟長(あそ これなが)と名乗り、後に武経となるが、出奔して再び惟長に戻し、萬休斎[1]と号した。
(?_?)(?_?)(p_-)・・あ〜何だかモヤモヤします。
これまた「椎葉」というワードから「米良」に進んで行くと・・「惟」の文字に繋がります・・!!?
しかし(ー_ー)!!
私は日本の苗字七千傑様、そしてあきちゃんの御教示から
何だか「椎葉」というワードは全てに繋がっているような気がします!!
長いコメントになりました。
では(^'^)
[19] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月12日 13時10分34秒 ) | パスワード |
追記
ぎゃあ〜〜〜〜〜〜〜〜\(◎o◎)/!
わっ忘れていた!!(あきちゃんごめんね(..))
あきちゃんの御先祖様はっ!!
那須の大八郎こと「那須宗久」。
那須宗久 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%AE%97%E4%B9%85
那須宗久(なす むねひさ)は鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎。
弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
あっあきちゃんの御先祖様”那須の大八郎こと「那須宗久」”
この方こそ「椎葉村」に関係オオアリ!!の方でした\(◎o◎)/!
私の従弟のJ君とあきちゃんは恋愛結婚。
これぞ!!日本の苗字七千傑様から伺った「偶然と奇縁」のお話、まさしくそうです!!
\(◎o◎)/!
では。
[20] | あきさんからのコメント(2016年01月12日 21時39分22秒 ) | パスワード |
私の祖母からの話で、お互いの祖父が知り合いで、孫の代くらいで結婚できたらと話していたこと…その後、実際に結婚したこと…そして、ここで読ませてもらい、偶然というより縁なんだろうなと、何度も思いました。
これからも、楽しみに読ませてもらいます♪
[21] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月13日 09時51分09秒 ) | パスワード |
あきちゃん(^'^)
お互いの祖父同士が知り合いだったと言う事を全く知らずにあきちゃんとJ君は偶然出会い、そして結婚。
そして、二人の祖父(宮原の私のじいちゃん”祖父”でもありますが(^'^))が若い頃に「孫の代くらいで結婚できたら・・」と話していた事が解った・・
こういう事って本当にすごい”縁”ですよね!!
私が考えるに”縁”とはお互いの先祖同士の”結びつき”だと思います。
ご先祖様を敬う心。
とても大事な事ですね。
今、私の調査を、あきちゃん・J君・叔父さん・椎葉のおじさんおばさん・R兄ちゃん・M姉ちゃん・・他沢山の親戚の皆さんが応援して下さっています。
私は、本当に心強いです。
心から感謝しています。
よ〜し!!今年はさらにパワーアップして”強い絆の一族”の歴史を調べるぞ!!
そして
日本の苗字七千傑様、白石様、そしてこちらのスレッドをお読み下さった皆様
今後ともご教示の程よろしくお願い致します。
では(^'^)
[22] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月13日 12時03分00秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
先ほどのコメントで”縁”について書いたのですが・・
”縁”を考えれば考えるほど、やはり気になっている事は調べなくては・・と思いまして・・
今年、うちのお寺様に頂いたカレンダーにも一月の言葉
「見過ごすこと 言わないこと 知らないこと は悲劇の始まり」と書いてあります・・(何を言っているのか皆様チンプンカンプンですよね(..))
私は去年からず〜っと気になっていた4つの事をコメントに書いていませんでした。
理由は、「根拠がない」と・・そう感じ取る方がいらっしゃるかもしれない・・その事が怖かったからです。
でも、最近の調査や頂くご教示がどうしても関連しているような気がして・・
意を決して書かせて頂きます。
まず最初は
相良村で見た「豊永家の家紋」についてです。
昨日のコメントで書いたように昨秋相良村深水・柳瀬地区に調査に伺ったのですが、この時の墓石調査の際に比較的新しい(現代)の1軒の豊永家墓石が目に留まりました。(もちろん、現在球磨人吉には何十軒もの豊永家は存在されています。それは良く理解しています)
墓石に刻まれていた家紋なのですが・・三角形が三つ。すなわち「三鱗紋」だったのですよね・・??
実は、先に家紋に気がついて、名前を見たら「豊永家」だった・・と言うのが正しい状況です。
何度も言いますが現在球磨人吉には何十軒もの豊永家は存在されている事は解っていますから、私が見た「豊永家」が偶然に「三鱗紋」だった・・という可能性の方が強いのだと思いますが・・何せ相良村の深水・柳瀬地区はどう考えても、家の方の平川家や深水家と何か繋がっているような気がしてならないので、頭の中に「三鱗紋」がず〜っと浮かんでくるのです・・
ちなみに・・うちの宮原家は少なくとも昭和20年代前半までは「豊永家」とはかなり近しい親戚関係にありました。(祖母が書いた書類が残っています。近しい親戚で有った事は書類の内容で解ります。でも、祖父も早くに亡くなり、祖母も亡くなって、何も聞いていない父は何処の豊永家なのかさえ解らない状況ですが・・)
続けて・・
球磨に戻り、椎葉のおじから聞いた「最初の言葉」について・・です。
球磨に戻り二日目、椎葉のおじが家に来られました。その時に、歴史を調べている事を話すとおじさんが
「平川は米良から来なったとやろ」と言ったのです。
私が、平河氏の系を簡単に説明すると椎葉のおじは「何か?子供の頃米良から来なったって聞いたと思っていたばってん(けど)・・違ったとか?じゃあおじさんの記憶違いかな?・・」と。
この時はそれで終わったのですが・・「米良」という地名がずっと頭から離れないでいました・・なので・・実は、主人と一緒に西米良に何度か行ってみたのです・・
西米良の村所にある道の駅に立ち寄ると、米良に古くから伝わるお話が絵本になって販売されていました。
題名は「大王様」でした。パラパラと立ち読みしたのですが・・
大王様・・内容は、昔、天皇様の皇子が名前を変えて肥後に住んでいらっしゃった・・その方が戦いで追われて米良まで逃げて来られた・・米良に数年住まわれて、その後、その方は(子供さんだったかな?)は肥後に戻って行かれた・・
というお話でした。
大王様・・何方なのだろう??
でも・・平河一族が祀られた球磨の神社四社は其々「大王神社」とついています・・
米良の大王様はきっと菊池氏に繋がるお話が伝えられているのかな?
球磨の平河氏に関連する神社は球磨「四天王」という敬称から付いたという通説がありますが・・そういう理由で、明治初期に神社庁が「大王神社と名乗るように」と一社の平川神社が「平川大王神社」に名称を換えられた・・そういうものなのかな??と考えるのですが・・。
続けます・・
祖母の実家の平川家にあったお堂について です。
球磨に戻ってしばらく経ち、私が歴史研究会に入る前の話です。
椎葉のおじが祖母の実家平川家にあった古いお堂について話してくれました。
今から40年以上前、平川家にあった古いお堂の木が腐ってきて、場所を変える事になったそうです。
こちらのお堂がいつ頃建てられたのか誰も知りません。でもりっぱな木で建てられていて木が腐る程のかなり古いお堂だったそうです。(私もこちらのお堂については何となく記憶しています)
まず、青井阿蘇神社の宮司であった尾方のおじさんが御祓いをして、さらに建て替える場所もお清めをされたそうです。
椎葉のおじは尾方のおじさんの妹婿でもあり、二人は父親同士が兄弟のいとこ同士でもあります。
椎葉のおじも、作業をお手伝いしたそうです。
古くなったお堂を初めて開けてみると、中は祭壇のようになっていて、その祭壇のような場所には何か掛軸のようなものが正面に掛っていて、何故かりっぱなでもとても古そうな”鏡”があったそうです。
そしてその掛軸のような物の上に文字が刻まれていて・・
その文字は”皇”だったと。
椎葉のおじと尾方のおじさんはそれを見て、何故、ここに”皇”の文字が??ととても不思議に思ったそうです。
椎葉のおじは平川家のお堂で見た”皇”の文字がず〜っと気になっていたそうで、私に何か解らないか?と聞いてきたのですが、私も、もちろんそう言う事は全く解らない素人なので・・解らない??と答えました。
お堂の他にも祖母の実家の平川家敷地内には「平川家に仕えて来られた方のお墓」と呼ばれるお墓が数基建っています。
そのお墓以外に古いお堂の近くにはとてもりっぱなお墓?かな供養碑かな?よく解らないのですが梵字が刻まれた石塔がありました。
平川のふた従兄が知り合いの方に一度見て頂いたそうですが、こちらの梵字が何かとても珍しい梵字だそうで・・今だ解明はされていません。
りっぱなお墓?か供養碑かは解らないりっぱな石塔は他にも敷地内に数基あります。
何時か、専門家の方にお願いして、しっかりと調べてみたいと思っている所です。(もちろん平川のふた従兄に了承を得た上です)
最後に・・
理由はよく解らないのですが、父の従兄である平川のおじさんは、今は岡原には住んでいません。人吉に住んでいます。(岡原には私のふた従兄が住んでいます)
平川のおじが今住んでいる場所なのですが・・豊永氏の本拠地であった人吉の旧原田村と呼ばれた地区なのですよね・・
偶然かもしれませんが・・平川のおじさんに今度会ってゆっくり話を聞いてみたいと思っています。
色々書かせて頂きましたが・・
椎葉のおじと尾方のおじさんが見た”皇”の文字。
文字と書くのも何せ気が引ける”文字”なので、今までコメントすることを控えていました。
椎葉のおじさんが「聞き違い、思い違いだったのかな??」と言った”米良”から来られたという話。
でも・・何か米良という場所が気にかかります・・
と言う事で、今日は、今まで書けなかった事を書かせて頂きました。
では。
[23] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月13日 17時15分51秒 ) | パスワード |
追記
先ほどのコメントで”皇”の文字が刻まれていたと書きましたが、正確には書かれていただったと思います。
掛軸の上の木(壁?)に書かれていたが正しかったかと。(何せ数ヶ月前に聞いたので、あやふやな所は椎葉のおじにもう一度確認します(..))
この話を聞いた時は何かの信仰かな?とも思ったのですが・・
おじが気にしていたのは、この時に見た”鏡”の行方です。
あの鏡はきっととても大切な鏡だから粗末にすると罰かぶる(罰をかぶる)と言っていました。(今度、おじと確認をしてきます・・)
昨年、椎葉のおじにお堂の話を聞いてすぐに父にこの事を話したのですが・・
その時父が一言「やっぱりな」と言ったのです・・?
その言葉も妙に気になり、今日、コメントを書いた後に父に
「何故、椎葉のおじさんから聞いたお堂の話をした時にお父さんは”やっぱりな”って言ったの?」と聞いたのですが・・
父は
「それを調べるのはお前の役目」と笑って言うだけなのです・・
何だか、調べる事が又一つ増えたようです・・(p_-)・・(..)
と言う事で先ほどのコメントの追記でした。
では(..)
[24] | 白石さんからのコメント(2016年01月13日 20時26分42秒 ) | パスワード |
>深見氏は渤海王高歓の苗裔
子孫様ごぶさたしていました。
松もとれ・・・この頃ははやいのですね。神社でもどんど焼きはもう終わりました。なんだか季節がとっとと過ぎていくようで味気ない思いです。
が もう いいかな 穢れに会ったけど と思い コメントにさんかさせてもらいます。
7000傑様 ありがとうございました。深見氏の詳しい系がわかりました。渤海には前身があり もっと上の世代があるわけで 興味があります。
そして
大国主にかかわってくる人に (ネットからの拝借ですが)
深淵之水夜礼花の神 (フカフチノミヅヤレハナ)がおり
名義は「深い淵の水が遣られ始めること」。
「深淵」は、水が淀んで深い淵をなしているところ。「水夜礼花」は従来未詳とされた。一案を出しておく。 「夜礼」は「遣る」(自動詞四段)の受身形(下二段)であろう。深淵の水が目に見えない力によって送り出されて流れてゆく。 その流れ始が「花」(「端・はな」の借訓)とよみたい。水の運行の神格化。
須佐之男命の子孫十七世神の第三世。布波能母遅久奴須奴神と 日河比売(前項参照)との間に生れた神。天之都度閇知泥神(次項参照)を妻にして 淤美豆奴神を生む。
日河比売 (ヒカワヒメ)は
名義は「霊的な川」。
「日」は「霊性」を表す接頭語。霊川に奉仕する巫女。水神淤迦美の神 (「闇淤加美の神」の項参照。)の娘。 須佐之男命の子孫十七世神の第二世「布波能母遅久奴須奴神」の妻になり、 深淵之水夜礼花神(次項)を生む。
神々の系譜が書かれている出雲神話
古事記の神話で神々の系譜が逐一書かれているのは、出雲神話だけの特徴です。
スサノオから大国主神に至る系譜、さらにその子孫十七世までの系譜。別に大年神の系譜が
あります。
古事記によれば、天之冬衣命は須佐之男命の五世の孫で大国主命の父。
大国主命の母は、刺国大神の娘の刺国若姫
天之冬衣命の
父は淤美豆神。
母は布怒豆怒神の娘「布帝耳神」
布怒豆怒神の系はわからない。
淤美豆奴神は
天之都度閇知 泥神と
深淵之水夜礼花神の子ども
深淵とか 日河とかのことばがあるのが興味があります。
そしてスサノオも天から来た人で
出雲の人たちとの婚姻などにより子孫が出来てきたのではないか?。
でなければ 天の一族だけの間の姻戚関係か?
萩の山の向こうは椎葉。
はぎ という 地名は 古く中国の 殷 周 などの 都したところの地名にあると書かれた本をみたことがあるのですよね。
[25] | 白石さんからのコメント(2016年01月13日 20時48分13秒 ) | パスワード |
三足烏
すこし 平家物語からははずれるのですが
私 前にも 自分にかかわることの時 予知夢を見ると書いたことがありますが
お正月に 茨木市の総持寺に 熊野牛王神符をいただきに行きました。
額にゴオーッと 言って 押していただくのですが
これを受けると 初夢を見るのですね。それも 楽しい夢なので うれしいことですが。
今年のは
私が学生時代百済観音みたい と イメージしていた小山さんが赤ちゃんを抱いているのです。
百済観音は男性のようですが その人の学生時代のイメージは 吉永小百合さんみたいで 腰も方もほそっとしていて 目は黒々していた と 記憶しているのです。
そして 抱いている赤ちゃんの事を 私は
「私の血筋の子だ」と思っているのです。私はまだ孫がいないけどなあと 思いながら・・・
そして 重たいだろうと抱き取ろうとしたら その子が にっこり笑って 自分から私の方へ体を乗り出して 抱かれようとしてきて
抱いたら 案外に 重さはなくて 夢の中で
ああ この子は 仏様の子供で 私の血筋 だなどと 思っているのです。
子供は神様からの授かりものだというから ・・・と。
そして 何とも ほのぼのとして 目が覚めました。
お寺で引いた おみくじは 大吉だったし
富田の三輪神社に戎さんで行って いっぱい 福をもらってきたし
気持ちよく 新春を過ごしました。
[26] | 白石さんからのコメント(2016年01月13日 21時53分39秒 ) | パスワード |
熊野大社のお札をネットで見たら 本宮・新宮のは 北嶽神社の神紋にあったうんちっちのスライムみたいな 宝珠 が 描いてあるのですね。おもしろい と 思いました。
厳島神社
平清盛が信仰したゆかりの地であり、日本三景のひとつでもある安芸の宮島、厳島神社
「御島廻式」は厳島の神の鎮座地を求めて初代神主の佐伯鞍職(さえきのくらもと)が島を廻った故事に基づく、
養父崎(やぶさき)神社。
「島廻祭」の最重要行事である「御烏喰(おとぐい)神事」が行われるところ
厳島神社の鎮座においてその先導となった雌雄一対の神烏(おがらす)を祭る養父崎神社
御床(みとこ)神社。
厳島神社が現在地に鎮座する前、一時この地に鎮座していたと伝えられる。
つまり、この島で初めて厳島の神が鎮座したところ、元宮ということになる。
厳島神社の神紋である「三つ盛亀甲剣花菱紋」はここから生まれたと伝えられている。
この紋は 浅井長政の紋にも使われているという。
[27] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月14日 10時20分16秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
白石様、お久しぶりです(^'^)
ご教示ありがとうございます。
〉深淵之水夜礼花の神
〉「深淵」は、水が淀んで深い淵をなしているところ。「水夜礼花」は従来未詳とされた。一案を出しておく。 「夜礼」は「遣る」(自動詞四段)の受身形(下二段)であろう。深淵の水が目に見えない力によって送り出されて流れてゆく。 その流れ始が「花」(「端・はな」の借訓)とよみたい。水の運行の神格化。
深淵之水夜礼花神 お孫さまが大国主神。
ご教示ありがとうございます。
あの・・白石様の”言葉”は私に色々なヒントを与えて下さる・・何かの伝道者のような・・(すみません(..))
まず・・
〉出雲の人たちとの婚姻などにより子孫が出来てきたのではないか?。
意味は異なりますが・・
おそらく、この一文にあきちゃんは驚いているのでは?ねえ〜あきちゃん?
あきちゃんの実家のT中家は・・「出雲」から球磨に来られているのです・・
〉北嶽神社の神紋にあった・・
北嶽神社には今年も従弟と息子ちゃんのR君、主人、私の四人でお参りに伺いました。
神紋をよ〜く見たのですが、宝珠を包む羽のように見えるのは「柏」の葉のように見えました。(でも違う可能性もあります(..))
あと・・今まで完全にスルーしていた事が・・
一昨年、北嶽神社にお参りさせて頂いた時に、偶然、父の親友である相良村の北嶽神社氏子総代の”平川さん”にお会いしました。
(この時、私は平川さんが父の親友の方である事は全く知りませんし、平川さんも私が父の娘である事などもちろんご存知なかったのですが・・)
平川さんは、私と従兄とあきちゃんを、通常、立ちいる事が出来ない拝殿裏の本殿まで案内して下さいました。
北嶽神社の本殿はとてもりっぱで、ただこの時は扉が閉まっていました。
その扉にはとても大きく(左右の扉一面に)並び鷹の羽が描かれていました。
この時は「わぁ〜大きく並び鷹の羽が・・」とビックリしただけで・・
何も考えていませんでした・・並び鷹の羽・・あれっ???
続けて白石様のご教示より
〉萩の山の向こうは椎葉。
はぎ という 地名は 古く中国の 殷 周 などの 都したところの地名にあると書かれた本をみたことがあるのですよね。
萩・葉木・はぎ・・「読みが同じ・・地名・・」
あああああああああああっ\(◎o◎)/!
ものすごいヒントです白石様!!!
私、完全にスルーしていた事にマタマタ気がつきました!!
あの・・!!実は!!平河家所領地の「木上村」ですが、そもそもこの木上村という地名は平安時代から鎌倉時代中期頃までは存在していない(確認出来ない)のです。じゃあ今、木上村と呼ばれる一帯は当時(平安時代から鎌倉時代中期頃まで)何と呼ばれる村だったのか・・
それは「目良村」です!!
木上村史に書かれていました\(◎o◎)/! 完全にスルーしていました・・(..)
木上村史から転記させて頂きます。
木上村史−木上村の民話と歴史−高田素次編著 木上村史編纂委員会 より
相良家史料を見ますと、寛永十一年(1634年)の郷村高辻帳に木上村と目良村とが各別に出ています。それでいて寛文四年(1664年)六月の球磨郡一円四十一箇村の中には目良村はあって木上村は見えていません。
しかし、宝暦以後となりますと、目良村が消えて木上村だけとなってしまいます。・・中略
建久二年(1191年)五月三日の平河三郎師高重代所領田数注文(平河家文書)には、目良生の村というのは見えていますが、木枝村も木上村も見えていません。
建武五年(1338年)八月の相良兵庫允定頼申状案(相良家文書)に初めて木枝城というのが出てきますが、これが多分今の所キノエという名前の記録に上に出て来る最初のように思われます。けれども木枝村という村名は遂に江戸時代になるまで、記録の上には現れてこないようです。
この事から考えられます事は、今の「馬場・岩城・覚井・迫・野間・山下」にかけた一帯が多分木上村であり、今の「荒田・目野・平川・古町」にかけた一帯が多分、目良村だったのではあるまいか、と言う事です。
中略・・古くはこの目良村の方に政治の中心があって、木上村まで支配していたのではなかったであろうか・・中略・・それがいつか木上村の方に政治の中心が移り、目良村まで支配するようになったのではと言う事が考えられて参ります。
目良村には葉山城と阿加城があり、目良権現を中心として出来た村であったのに対し、木上村は岩城と蔵城があり葛掛権現を中心に出来た村であったのではあるまいか・・略。
木上村史−木上村の民話と歴史−高田素次編著 木上村史編纂委員会 より
(-.-)木上村史、上記以降 河口家文書が取り上げられています。
河口家文書には
平河彦次郎殿一所ノ内 三町 永吉庄目良谷 平 八町河口殿へ
とあり”永吉庄目良谷”と書かれているようです。
ちなみに「河口家」とは
河口伊賀守平重群は河口平内太郎平重泰の兄とあり、その末裔となられるようです。
子細あって九州に下向、肥後国求麻郡永吉庄たいらの村に落付・・と河口家系図にあるようです。
目良・・(もくろう)と呼ぶようですが、私は「もくろう」という言葉のみが頭にインプットされて目良の別の読みに気がついていませんでした。
目良・・めら・・と読めますね。
そう言えば今の免田は古文書では「目田」でした。
目良・・米良・・めら・・
モヤモヤがまた一つ増えました・・・
白石様、ご教示ありがとうございました。
[28] | 白石さんからのコメント(2016年01月14日 23時54分05秒 ) | パスワード |
子孫様こんばんわ
高岡のおじは 椎葉を教えてくれた時 くるっと後ろを向いて 「ここからは市房がまっすぐみゆっと」と言ったのです。
市房がまっすぐ見えるということは 前にも書いたと思います。
また
2〜30年前 歴史読本で 熊野に 米良氏がいることを書いてありました。それを思い出して 熊野の米良氏で検索しました。
あちらは 別当家でした。ウィキより
那智山の神職・社僧・御師を務め、歴代幕府や諸大名の御用を務めた。2系統有り米良 湛知の後裔は目良氏に改姓し・・・
その祖は藤原実方中将といわれ,・・・コトバンクより
『母の血を遡上する』 ― 米良家三五〇年を訪ねて ―
札幌の米良姓の人の手紙
米良一族の本家、熊野別当家、実方院の直系です。先祖の姓は昔から米良ですが、呼び名は熊野別当何某と呼ばれておりました。私どもの古文書では、米良、妻良、目良は、一族なりと記されています。
↓
母の血を遡上の作者のご先祖は
細川家に仕えていたようです。
湛増(たんぞう、大治5年(1130年) - 建久9年5月8日(1198年6月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧(法躰)で、21代熊野別当である。18代別当湛快の次子。源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる(『延慶本平家物語』)。
たんぞう | 第21代熊野別当 湛増のファンサイトより
平清盛の異母弟、平忠度(たいらのただのり)の妻は、湛増の妹
※湛増という人は 前にも話題になりましたよね。
又 平忠度という人は お父様によれば
こちらでは 忠度もいきとっとよ だったか?ということだったと思っております。
熊野に興味があったのは
家があった集落に米良先生がおられました。
そして 家の下に 岩本家があり そこの おじさんが
「あんたのお父さんの出は ただんもんじゃなかったっじゃで」と いっていたのですが ・・・ その ただんもんじゃ なかった のは だれなのか? きけばよかったのですが・・・
今 岩本家を検索すると
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏師尹流【2】
《鳥居氏》 熊野別当へ戻る. 【鳥居氏】【長田氏】【金剛寺氏】【小和田氏】【河顔氏】【富田 氏】【山門氏】 【大門氏】【高千氏】【玉井氏】【高玉氏】【岩本氏】【宇井氏】【江田氏】【中氏 】【平岡氏】 【滝本氏】【岩野氏】【宮崎氏】【和田氏】【佐野氏】【小芝氏】【相模氏】【中房氏 】 ..
熊野別当家と 同族の岩本家があるのですね。
熊野にルーツがあるのか 細川にいたのか? 興味があるところです。
九州の米良氏は
続菊池一族の興亡・滅亡編 C義武の章 ( 歴史 ) - 鳳山雑記帳 - Yahoo ...より
菊池家の血脈は、日向米良庄に逃れた能運の子重 次によって伝えられます。
↓
一族の一人の子孫は 一子相伝で 豊田をなのり
菊池に複製し
明示の頃 男爵。
[29] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月15日 16時29分16秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
白石様、ご教示ありがとうございます。
白石様!!やっぱり白石様は伝道者?のような方です!!(どなたの意思かは??)
まずはマタマタ(ー_ー)!!と言われるかもしれませんが・・
あの・・私の主人の伯母の嫁ぎ先は岩本家です。
主人の曾祖父が望月家から中村家に養子に入り、その中村家から岩本家へ伯母さんが嫁いだ・・と言う事です。
白石さんはご近所の岩本家から「岩本氏」をお調べになられたのですから、私の話とは全く関係ないのですが・・
でも・・ピンポイントでビックリしました。 偶然と奇縁・・ドキッとしました。
ここまではマタマタ(ー_ー)!!のお話かもしれませんが・・
ここからは史実に基づいたお話です(-.-)
昨日、ご紹介した木上村史によると
天授四年(1378年)北朝 永和四年 新宮伊豫守行定に木上岩城を賜う。(新宮家譜)
新宮光家、八代高田郷より来りて木上岩城に居る。(熊風土記)
上記の新宮家について墓石調査で以下の事が解っています。
免田郷土研究会 昭和55年3月発行 郷土 第八号より
岩城 新宮行定の墓
木本神社に登る途中にある自然石の墓で、天室宗春大禅定門 嘉慶二(1388年 北朝年号)中略・・三月廿九日と正面に刻まれ、左側から背面、右側にかけて新宮家初代初代行家からの由緒が朱入りで刻まれている。
行家は八幡太郎義家の子源為義の十男で、行定は行家七代目の末裔らしい。
墓碑銘最後に寛政五年(1793年)とあるので、この墓は405年後の建立である。
※天授四年(1378年)北朝 永和四年 新宮伊豫守行定に木上岩城を賜う。
新宮伊豫守行定(新宮行定)。
新宮家初代初代行家(新宮行家)・・八幡太郎義家の子源為義の十男で、行定は行家七代目の末裔
(p_-)という事ですね。
調べました(p_-)
新宮氏 (紀伊国) ウィキより
清和源氏の一族である新宮氏は、源為義の子の行家(新宮十郎)を祖とする。行家は治承・寿永の乱の際に以仁王の平家追討の令旨を全国の源氏に伝え挙兵を促すなど活躍したが、平家滅亡後に甥の源頼朝と対立し、敗れ殺害された。紀伊の新宮地方には新宮姓を名乗る一族が存在し、南北朝時代から戦国時代まで支配を続けた。この一族は行家の子孫とも熊野別当家の一族ともいわれる。新宮行栄の代で堀内氏(新宮堀内家)との抗争に敗れ、その後、新宮は堀内氏が支配したが、堀内氏善の子が新宮姓を称し新宮行朝と名乗った。行朝は関ヶ原の戦いで西軍に属し敗れ改易され、新宮氏の紀伊支配も終焉した。
\(◎o◎)/!ピンポイント!!です。
※この一族は行家の子孫とも熊野別当家の一族ともいわれる。
さらに!!もう一度!
※新宮家初代初代行家(新宮行家)・・八幡太郎義家の子源為義の十男で、行定は行家七代目の末裔
\(◎o◎)/!と言う事はなんですか〜!!岩城(木上)に居城した新宮行定と言う方は・・源義家の末裔・・すなわち、横地氏と同族でなお且つ・・横地氏と言えば・・
横地氏 2代: 横地太郎頼兼(1107 - 1142)横地系図の一族、次男は勝間田に住む
そして!こちらの勝間田(勝田)と言えば・・
新堀氏 静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀から熊本県球磨郡多良木町を経て来住したと伝える。静岡県牧之原市勝田の付近が比定地。
\(◎o◎)/!・・何だかみんな繋がっているような・・・
あっ!!そう言えば!!他の新堀氏について
※シンボリ 新堀 神奈川県、鹿児島県、茨城県。埼玉県日高市新堀(ニイホリ)発祥。同地では草分けで和歌山県南部・三重県南部(別名:熊野)から来住したと伝える。
\(◎o◎)/!ぎゃあ〜〜〜!!グルグル回って「熊野」に繋がっちゃいました!!
(?_?)(?_?)・・・(p_-)
これはっ!?偶然とは思われませんな〜(p_-)
ちなみに補足を。
岩城(木上)の新宮行定と言う方のお墓のすぐ近くには
上記の新宮行定、この方より200年程後世の同じく木上岩城に居城した木上地頭「窪田(久保田)越後」と孫の「窪田(久保田)大蔵」のお墓があります。
窪田(久保田)氏の系図等、資料は持っています。
今後、コメントさせて頂きます。(..)・・私の曾祖父は久保田家から宮原家に子供の頃養子に入り、妻は新堀家から嫁いで来られた・・(-.-)
(-.-)岩城居城「新宮行定」と言う方は新宮行家七代目末裔。
新宮家初代初代行家(新宮行家)ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E5%AE%B6
源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。
生い立ち[編集]
熊野三山の要職に就いていた新宮別当家嫡流の行範(のちに19代熊野別当に就任)の妻となった鳥居禅尼(たつたはらの女房)の同母弟として生まれ、しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した。平治元年(1159年)の平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する。治承4年(1180年)、摂津源氏の源頼政に召し出され、山伏に扮して以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した。八条院の蔵人に補され、行家と改名したのはこの時である。なお『平家物語』によると、行家の動きは熊野別当湛増に気付かれて平家方に密告され、以仁王の挙兵が露見する原因になったという[2]。
挙兵[編集]
甥の源頼朝に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を目指したため不和となる。三河国、尾張国で勢力圏を築きつつあったものの、養和元年(1181年)、甥の源義円らと共に尾張国の墨俣川の戦い、三河国矢作川の戦いで二回に亘り平重衡ら平家方と交戦。壊滅的な敗北を喫し、頼朝のもとに逃れて相模国松田に住み着いた。しかし、頼朝に所領を求めるも拒否されたため対立、以降は甥の源義仲の幕下に走っている[3]。義仲の下では能登国の志保山の戦いに参加、上洛に当たっては伊賀方面から進攻し平家継と合戦を演じた(『吉記』)。
入京[編集]
寿永2年(1183年)、義仲とともに入京、後白河院の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、従五位下・備後守に叙任されるが、義仲と差があるとして不満を述べ、すぐに備前守に遷任する。更に平家没官領のうち90か所余りを与えられている(『延慶本平家物語』)。山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族達の不興を買う一方、近畿育ちで弁舌が立つ行家は院内にいりびたり、法皇の双六の相手などをして取り入った。しかしほどなく義仲とも不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。播磨国で平知盛・重衡軍との室山の戦いでまたしても敗北を喫し、河内国の長野城へ立て籠もったが、そこでも義仲が派遣した樋口兼光に敗れて紀伊国の名草へ逃げ込んだ。生来交渉力があり、扇動者としての才と権謀術数に長けてはいたが、軍略面での才能には乏しかったようである[4]。
最期[編集]
義仲が頼朝の派遣した源範頼・義経の軍勢に討たれた後、行家は元暦元年(1184年)2月に院の召しによって帰京している。その後の鎌倉源氏軍による平家追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって和泉国と河内国(河内源氏の本拠地)を支配していた。元暦2年(1185年)8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受け、「四国地頭」に補任される(義経は「九国地頭」)。しかし行家らに賛同する武士達は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、行家・義経一行は都を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けてこれを撃退するも(河尻の戦い)、大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏する。翌年の5月、地元民の密告により露顕し、北条時定の手兵によって捕らえられ、長男・光家、次男・行頼とともに斬首された。
(-.-)・・
所で白石様のご教示にもある・・熊野別当家
米良氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%89%AF%E6%B0%8F
米良氏(紀伊国の豪族)[編集]
紀伊国熊野地方の豪族。那智山の神職・社僧・御師を務め、歴代幕府や諸大名の御用を務めた。2系統有り米良湛知の後裔は目良氏に改姓し新熊野(いまくまの)神社(現・京都市東山区今熊野椥ノ森町)別当職を代々務めた。
紀伊国の米良氏に伝来した『米良文書』は、南北朝時代から江戸時代にわたる朝廷、将軍家、その他の武家からの書状等の多数の文書から成る文書群であり、重要な史料とされている。
あの・・昨日のコメントにも書きましたが・・現在の球磨木上地区にあった目良村は「目良権現を中心として出来た村であった」と木上村史には記述されていました・・?
「熊野」「権現様」というお話繋がりで・・
今日のコメント最後に皆様にご報告が(^'^)
私の調査を応援して下さる親戚の方がもうひと方増えました(^'^)
青井阿蘇神社先々代宮司であり、岡留熊野座神社そして築地熊野神社(築地熊野権現)の宮司家当主である「尾方のおじさん」です!!
椎葉のおじが、私が「岡原村の歴史そして親戚の絆の謎?」を調べている事を尾方のおじさんに話した所
「そりゃヨカ事たい(^'^)」と。
私もとても嬉しいです。尾方のおじさんから色々伺えると思うととても心強いです(^'^)
椎葉のおじからみて、尾方のおじさんはもちろん嫁の兄でありますが、父親同士が兄弟の従兄同士でもあります。
そして、早速、昨日、椎葉のおじ経由で、尾方のおじさんから私に言付けがありました。
その@
尾方のおじさんの築地”尾方家”は、遡れば菊池氏に繋がっている。
と言う事です\(◎o◎)/!(聞いた瞬間に・・思わずヤッパリ!!?と叫んでしまいました・・)
そのA
尾方のおじさんや椎葉の伯母さんの母、そして祖母の実家岡原の「平川家」の長男の嫁(みなみのおばさん)の実家である築地”中村家”。
(つまり、尾方のおじさんは、祖母の実家の平川のおじさんとは従兄同士でもあります。)
築地地区の中村家・矢野家を、親戚は皆「四国(しこく)」と呼んでいる。
\(◎o◎)/!私も実は先日まで完全に忘れていました。
椎葉のおばさんが「母の実家の四国(しこく)」と言ったのを聞いて、私の祖母は「築地のしこく」と親戚の事を呼んでいたのですがそこが「中村家・矢野家」だったと言う事に初めて気がついたのです!。
尾方のおじさんは築地地区の「中村家・矢野家」が何故、「四国(しこく)」と呼ばれていたのか、私が調べた事を椎葉のおじから聞いて・・
私に「意味が解った!」と言っとってくれ(^'^)との事でした。
(むむっ??意味が解った??・・?)
そのB
「四国(しこく)」は解ったけど、じゃあ、家は築地の”古屋敷”と呼ばれるのは何故なんかな??
これは尾方のおじさんから受けた私の宿題です・・
所で・・
おじさんの尾方家には賀吽の絵馬が保存されています。賀吽と言う方は「胎蔵院権大僧都頼賀」とも称されていたようです。
裏に「奉書鳥権現本地阿弥陀如来。檀那中村主計守。筆者常州之住呂賀吽房。当院主秀善。隆誉。元亀元年庚午十一月八日敬白」と墨書きされています。
さらに尾方家が宮司家である築地熊野神社(築地熊野権現)の境内には五輪塔が八十一基。
其々の五輪塔に刻まれている年代は1500年代初頭(永正年間)〜寛文十二年(1672年)の間のようです。
築地熊野神社(築地熊野権現)のすぐ横が、尾方家です。
そして、ここは「古屋敷」と呼ばれている・・という訳です・・
(p_-)・・宿題解けるかな・・??(?_?)(..)
非常に長くなりましたが、今後の調査、がんばります(^O^)/
最後に・・先日書いた「平川家」のお堂の件ですが・・
昨日椎葉のおじに詳しく聞いたのですが、私、聞き間違い、記憶違いが沢山ありました。
訂正を兼ねて、明日にでもコメントさせて頂きます。(..)
では。
[30] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月16日 12時00分15秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
今朝は、祖母の実家、旧岡原村の平川家のお堂について書こうと思ったのですが、昨日、コメントを書いた後読み返しながら・・
うちの「宮原家」の親戚であり、平川家そして椎葉家そして尾方家とは近しい親戚である「中村家」。
さらに、主人の母方は中村家(曾祖父が望月家から跡継ぎとして養子に入る)こちらは小倉ですが・・
「中村氏」は”天下の大姓”である事は解っていますが、こんなに偶然にも”中村”という姓が二重三重の姻戚関係となる事は強い”縁”があるんじゃないのかな??と。
(マタマタという合唱がいずこから・・・(..))
でも・・私のヒラメキは何か”縁”を感じ取る動物の感のようなものから来ているような気がして・・
あの・・皆様・・マタマタ(ー_ー)!!と言わずに聞いて下さい(..)
肥後国相良藩士分限帳 寛政十年(1798年)〜天保元年(1830年)の球磨郡旧宮原村の相良藩公人の複数の名の中にある平河氏の名前(通称かな?)は
寛政十年(1798年)「平河 甚吉」
天保元年(1830年)「平川 甚吉」
平河甚吉・・「甚」「吉」
肥後国相良藩士分限帳を見るとこの「甚」という”字”は稲冨氏に多く例えば木上村を例にあげると「稲冨甚五郎」「稲冨甚兵衛」と「甚」が付く方が数代に渡ってありました。今までは「甚」という文字は稲冨氏と縁があるのかな??と思っていたのですが・・
ところが・・肥後国相良藩士分限帳から免田村公人であった「中村氏」を今朝見たのですが・・
中村甚左衛門 中村甚兵衛 中村忠八 中村直蔵・・・
こちらも「甚」が付いている・・?
平河 甚吉 (宮原村)
中村甚左衛門(免田村)
中村甚兵衛 (免田村)
昭和の初めに岡原村の平川家には免田の中村家からおばさんが嫁いで来られた・・
江戸時代から縁があったのかな〜!?と思いながらも、もう一つ気になるのが・・
平河 甚吉・・「吉」の文字。 私の高祖父の名は宮原蔵吉・・「吉」の文字。
宮原宇右衛門の系である「宮原公吉」「宮原健吉」この方々も・・「吉」の文字。
さらに・・免田村の中村氏には「中村直蔵」と言う方もいらっしゃいます。「蔵」の文字・・
かなり以前、京都の公忠公の末裔様より頂いたご教示「平河家について(続5)コメント16」で、公忠公の末裔様の御先祖様、そして私の曾祖父・祖父の名、皆名前に不思議と「蔵」が付いている事に関して
〉この〜蔵というのは諱ではなく通称だったのでしょうかね?
と・・。確かに肥後国相良藩士分限帳を見ると、宮原姓で「蔵」の付く方を多数目にします。
宮原姓・・「蔵」や「吉」の文字・・
平河甚吉 中村甚左衛門 中村甚兵衛 中村直蔵
何だかグルっと繋がっているような気がしてきました・・
そこで、もう一度
日本の苗字七千傑様のQ & A
Q14.通称から出自がわかりますか?を拝見致しよう(^'^)と画面を開きふと見ると「Q13.苗字のみで出自がわかりますか?」が目に止まりまして・・
むむっ(p_-)
中略・・中でも中村姓は、異流の多い苗字の中でも筆頭と言われる。 (詳細は中村地名と中村氏を参照)
(^'^)「中村地名と中村氏」!!これは見なければ(^'^)と・・
そこで・・・\(◎o◎)/!・・・ナンデスト!!
日本の苗字七千傑様・・勝手ながら転記させて頂きます(..)
〉近江国甲賀郡杣庄の豪族から大名(泉州岸和田→近江水口→駿河国府→伯耆米子)になった中村氏は橘姓渋江氏を称しているが、出自が正しいと仮定すれば肥前国藤津郡中村発祥の橘公業の後裔中村氏と同族である。
\(◎o◎)/!・・・・\(◎o◎)/!
出自が正しいと仮定すれば・・橘公業の後裔中村氏と同族
伯耆米子の大名家「中村氏」と言えば
中村 一忠 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%B8%80%E5%BF%A0
中村 一忠(なかむら かずただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。伯耆米子藩主。中村一氏の子。徳川秀忠より偏諱を受け、忠一(ただかず)と改名した。
中村 一氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%B8%80%E6%B0%8F
妻 正室:安養院(池田恒興女)
子 一忠、甚左衛門
一族・縁者
正室:安養院(池田恒興娘)
子:一忠
米子藩初代藩主。
子:甚左衛門
細川藤孝に仕える。関ヶ原の戦いにおける田辺城の戦いでは、禁裏への使いという密命を受け田辺城を脱出した(「中村甚左衛門田辺御籠城御使者一件」参照)。
孫:弥一
甚左衛門の子。細川忠興の命により「沢村」に改姓、細川家家老沢村大学一門と同様の処遇を受けた。
曾孫:正辰
熊本藩主加藤忠広に仕え500石、改易後に新藩主細川忠利に仕え1,000石。
上記の「中村氏」は以前調べていましたが・・あらためてしっかり見ると・・
甚左衛門の子。細川忠興の命により・・細川忠興・・\(◎o◎)/!こっ小倉に繋がった!!!
うんんっ??甚左衛門??中村甚左衛門??
偶然かな??免田の中村氏も「中村甚左衛門」・・「甚左衛門」繋がりです\(◎o◎)/!
そう言えば・・近江国甲賀郡杣庄の豪族・・こちらの中村氏と「望月氏」は姻戚関係にありました\(◎o◎)/!
\(◎o◎)/!・・と言う事は
中村 一氏の系は〉出自が正しいと仮定すれば肥前国藤津郡中村発祥の橘公業の後裔中村氏と同族であり・・
なお且つ中村 一氏の系は・・豊前小倉にも来られて・・なお且つこちらの系は肥後熊本藩主加藤忠広に仕え、改易後に新藩主細川忠利に仕えた。
主人の母方の「中村氏」(望月家と姻戚関係にある)
免田の中村家・・「本姓橘」・・
もしや、もしや!!皆、同族ではあ〜りませんか\(◎o◎)/!????
平河 甚吉 (宮原村)「甚」と「吉」
中村甚左衛門(免田村)「甚」
中村甚兵衛 (免田村)「甚」
中村忠八 (免田村)「忠」
中村直蔵 (免田村)「蔵」
宮原公吉 宮原健吉 「吉」
宮原蔵吉 「蔵」と「吉」
京都公忠公の末裔様からのご教示・・・「蔵」の文字・・
そして・・小倉にて偶然にも私と知り合って養子に入り「宮原姓」となった主人。
何だか、み〜〜んな繋がっているような気がします〜!!
では。
[31] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月17日 10時01分05秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
昨日、〉何だか、み〜〜んな繋がっているような気がします〜!!
と書きましたが、これはあくまでも、「気がする」だけで、それを実証するものは何も現段階ではないので・・しっかりと今後調べます(^O^)/
所で・・
私の故郷「球磨郡旧宮原村」を調べるにあたり、肥後国相良藩士分限帳を見る場合は一つポイントがあるそうです(p_-)
旧宮原村の宮麓地区は他の村の飛地が二か所あります。
切畑地区は「湯前領」。そして、元々うちの宮原家があった場所すぐ近くの稲積妙見宮は「久米領」。
故郷の歴史研究家の方々から伺うと、住居は宮麓でも分限帳では例えば「久米村」に名がある・・という方々が多数・・と。
解りやすく言うと「転勤」と一緒だそうです。
ですから、旧宮原村の歴史を調べようと思ったら、分限帳では「宮原村」「岡本村」「久米村」「湯前村」「奥野村」等もしっかり参照しなければいけない・・と言う事です。
所で・・分限帳なのですが・・見落としがありました(..)
コメント11で「新堀金兵衛」「新堀藤助」という通称の新堀家について書きました。
転記します(..)
貞享3年(1686年) 「新堀金兵衛」
享保3年(1718年) 「新堀金兵衛」
天明4年(1784年) 「新堀 藤助」
天保元年(1830年) 「新堀 藤助」
安政年中(1854年〜) 「新堀 藤助」
ご覧頂くと・・「金兵衛」と言う名(通称)から天明4年(1784年)以降は「藤助」という名(通称)に変わっています。
と書いたのですが・・
分限帳を見落としていました(..)
「金兵衛」という通称はに宮原村の別の姓に続いているようです。「馬鞍金兵衛」と言う方です。(新堀藤助の横に書かれていたのにページが分かれていたので気が付いていませんでした(..))
さらに年代も間違っていたので修正させて頂きます。すみません。
貞享3年 (1686年) 「新堀金兵衛」
享保3年 (1718年) 「新堀金兵衛」
寛政10年(1798年) 「新堀 藤助」「馬鞍金兵衛」
天保元年(1830年) 「新堀 藤助」
安政年中(1854年〜) 「新堀 藤助」
馬鞍金兵衛と言う方は「転勤?」で天保元年(1830年)には岡許村にその名があります。
つまり
寛政10年(1798年)「馬鞍金兵衛」(宮原村)
天保元年(1830年)「馬鞍金兵衛」(岡許村)
そして、宮原村には、今はおそらくいらっしゃらないのかな?という姓の公人の方々の名が多数あります。(もちろん新堀もそうですが・・)
「湯山氏」「谷口氏」「知賀氏」(別の資料には智賀とありました)「出田氏」「味岡氏」(そう言えば奥野には筑紫氏でした・・)
あと・・昨日、通称について触れましたが・・
平河甚吉 谷口和吉 山本吉兵衛 谷口岩吉・・「吉」がいっぱいです(?_?)
何だか気になってきたので・・お隣の久米村を見ると・・
田中吉左衛門 宮原吉弥 蓑毛忠吉
「吉」の文字に昨日こだわったけど、宮原村も久米村も「吉」の付く方は多いので・・偶然だったのかな??
田中吉左衛門・・南藤蔓綿録にだったかな?田中公長という方の名があったのでちょっと気にはなりますが・・
先ほど奥野村の「筑紫氏」に触れましたが、あまり球磨では見かけない姓の方が久米村にはいらっしゃいます。「家城氏」「堀川氏」・・久米村にも「出田氏」がいらっしゃいました。
今朝は、先日のコメントの修正および追記と分限帳についてでした。
では(^'^)
[32] | 白石さんからのコメント(2016年01月17日 12時03分10秒 ) | パスワード |
こんにちわ
おもしろいですね。名前って。
うちの平川には 平吉 という 平川の人間も知らない人がいたそうです。
今の若嫁が 言っていました。。
そして 故人になった 私の一つ下の 平川の子は 吉平。
父が名付け親です。
金は
同級生の堀川の 父・昔村長をしていた。
金六さん みたいです。
そこと 川向の中村とつながっていて
中村から 兄弟が多いので あちこち つながりがあって
尾方とも つながって
その 尾方のむすめが 平川定長に嫁入ってきて(私から見れば おばあさん位の年の人)
・・・ このころまでは 平川は 士族
その ひとりむすめの 平川のおばさんに 高岡から 婿養子。
先に来た人は死んで 兄弟の高岡のひとが 後夫? に きていて 今の平川兄弟が うまれています。
この 婿養子に来た人と 私の父が 高岡 で いとこどおし。
なので
[33] | 白石さんからのコメント(2016年01月17日 12時20分18秒 ) | パスワード |
なので
ひらかわきょうだいと 私は いとこはんです。
[34] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月17日 18時54分06秒 ) | パスワード |
白石様
ご教示ありがとうございます。
〉うちの平川には 平吉 という 平川の人間も知らない人がいたそうです。
今の若嫁が 言っていました。。
そして 故人になった 私の一つ下の 平川の子は 吉平。
と言う事は・・
白石様の御親戚の四浦の平川家は明治時代以降「吉」の付く名前の方がいらっしゃった・・と言う事ですね・・むむっ(p_-)
うちの方は分限帳で見ると
寛政十年(1798年)「平河 甚吉」(宮原村)
天保元年(1830年)「平川 甚吉」(宮原村)
安政年間(1854年〜1859年)「平川幸作」(久米村)
となっているようです。(明治以降、久米村の平川家二軒は、私の曾祖父の弟二人が其々継いでいるので・・おそらく、上記が家の先祖なのかな・・??と)
ちなみに家の方は明治以降は「吉」の字は無かったと思います(おそらくですが)
平川の高祖父は「平川丈蔵」。曾祖父が「平川堅蔵」(以前、ブログに写真をアップしていたました(^'^))
高祖父の兄弟は良く解らないのですが(今度椎葉のおじに聞いてみます)ただ曾祖父の兄弟は名前には、殆どは「義」一人の方に「源」が付いています。(曾祖父は兄弟が多いので他の方々は良く解りません(..))
私の祖母の兄には其々「義」が付いていますが・・平川家の長男はそれ以降何故か皆「公」が付いています。(今に続いていて、長男の系以外は”公”は付きません)実は・・この全く同じパターンが深水家なのです・・(何故だろう??)
昨年、郷土の歴史研究家の方々から、此の事を逆に指摘されて(皆さん平川と深水のおじ達の名前を御存じでして・・)、質問されたのですが・・私も父も「全く意味は解りません(?_?)」とお答えしました。
父は「何も意味は無いでしょう(ー_ー)!!(^'^)」と笑っていました。
コメント31で宮原村や久米村に「吉」の字がいっぱい??と書きましたが・・
家のお寺様の本堂の天井には各家々の名とその家の「家紋」が描かれていまして、橘紋が結構多いのです。檀家の方々は「旧岡原村」「旧奥野村」「旧久米村」「旧湯前村」が多いそうです・・。
家の親戚(宮原・平川・深水・椎葉)は揃って「丸に剣片喰」ですが、他の親戚は丸に剣柏の紋が多いのですよね・・??
所で・・
四浦村の外城地頭の方なのですが・・ちょっと気になりまして・・
貞享三年(1686年) 宮原五右衛 蓑田又左衛門 同藤六
享保三年(1718年) 宮原長兵衛 蓑田又六
外城 四浦
寛政十年(1798年) 宮原又七 蓑田藤兵衛
天保元年(1830年) 宮原貞助 蓑田又左衛門
安政年間 宮原伴作
四浦村”外城”の地頭は一貫して「宮原氏」「蓑田氏」なのです。
(他現地(四浦村)公人として「岩崎氏」「永井氏」があり)
白石様・・御実家そして御親戚・・橘紋だという事でしたが・・四浦村は宮原の一族と関係がとても深いようです・・(p_-)
それに・・宮原氏と蓑田氏は何かとても関係が深いような気がします。
ちなみに、宮原村の地頭家でもあった「蓑田氏」なのですが・・
私、一つ気が付いていた事があります。
肥後国相良藩士分限帳より 宮原村
貞享三年(1686年)蓑田十左衛門
享保三年(1718年)蓑田忠助 ※貼紙の上に新左衛門とあり
享保三年(1718年)宮原弥太七 ※父新左衛門跡継ぐとあり
(p_-)・・宮原村の蓑田氏は・・”宮原”氏に姓が変わったようですねぇ・・(p_-)
最後にもう一つ
高岡氏は細川藩(旧熊本藩)にその名がありますが・・
実は明治17年〜19年にかけて細川藩(旧熊本藩)の元藩士の方々二十余名が木上高原地区に移住してこられていました。
後日詳しく書きますが、気になるのが中に「平川儀一郎」という方がいらっしゃる事です。
すなわち・・細川藩士だった”平川氏”も球磨にこられている・・と言う事です。
こちらの件は、先にも書きましたが後日詳しくお伝え致します。
では(^'^)
[35] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月17日 22時59分16秒 ) | パスワード |
追記
危なく平川の曾曾じいちゃん(高祖父)に叱られる所でした(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
父と話していて気が付きました。
先程のコメントで
〉平川の高祖父は「平川丈蔵」。曾祖父が「平川堅蔵」
〉高祖父の兄弟は良く解らないのですが(今度椎葉のおじに聞いてみます)ただ曾祖父の兄弟は名前には、殆どは「義」一人の方に「源」が付いています。(曾祖父は兄弟が多いので他の方々は良く解りません(..))
私の祖母の兄には其々「義」が付いていますが・・平川家の長男はそれ以降何故か皆「公」が付いています。
と書きましたが・・
「義」「源」「公」だけではありません(ー_ー)!!
実は高祖父「丈蔵」の「丈」。「丈」の字は「義」の字と同じくらい多いです。
曾祖父の弟(湯前の平川家を継ぐ。ちなみに湯前の二軒の別々の平川家を曾祖父の二人の弟が継いでいます)
私の祖母の兄、長男。名前は義丈です。
義丈おじさん(みなみのじいちゃん)の二男、名前は丈■。(この辺りになるとこの頃なので名前は控えます(..))
他、曾祖父の兄弟の子供達の中にも「丈」の字が続いています。
やっぱり冷静に考えると「義」と「丈」が一番多いような・・。
何か意味があるのかな?? 「義」・・「丈」。
う〜ん??良く解りません(ー_ー)!!
「丈」を忘れとるぞ!!っと、あぶなく曾曾じいちゃんに叱られる所でした。
では(^'^)
[36] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月18日 19時31分05秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^'^)
今日は、今回のスレッドを最初から読み返していました。
そしてあらためて、白石様の御親戚の”平川家”と私の祖母の実家、旧宮原村の”平川家”の其々の親戚関係が非常に似ている事がやはり偶然では無いと・・
白石様の御親戚の平川家と尾方家
白石様のご教示より
〉尾方とも つながって
その 尾方のむすめが 平川定長に嫁入ってきて(私から見れば おばあさん位の年の人)
・・・ このころまでは 平川は 士族
さらに、白石様の御親戚にも「田山家」がありますね・・
私の平川の曾祖父は男子の兄弟が沢山いました。
昨日コメントしたように
※湯前の二軒の平川家を曾祖父の弟二人が其々継ぐ。
※久米の平川家二軒を曾祖父の弟二人が其々継ぐ。
※黒木家を継ぐ
※久米田山家を継ぐ
曾祖父の弟は皆実は婿養子では無く、跡継ぎとして養子に入っているのです。
今まではこの事を「そうだったんだ〜」と軽く考えていたのですが、しかし、冷静に考えると・・かなり妙な話です。と言うか、此の事は明治以降に確実に「系」を後世に繋げる手段だったとしか考えられないのではないか・・
白石様の御親戚の”平川家”と少なくとも二軒「尾方家」「田山家」と共通の姓の親戚関係が家の祖母の実家の”平川家”にも存在する。
実は、今朝起きてからず〜っと「四浦村」について調べていました。
そして、気が付いたのです。
球磨郡誌によれば、明治初頭まで五木村と四浦村は一つの行政区になっていたという事を。
白石様も以前、この事をおっしゃっていました。
先日、相良村の椎葉地区に偶然行きました。
日本の苗字七千傑様から頂いたご教示
〉熊本県の椎葉は相良村だけでなく、相良村の北の五木村にも椎葉の地名は存在します。
また宮崎県米良地区は、元々は肥後に属していましたからね。
宮崎県の椎葉村からは米良領を経由して、相良領椎葉に地続きだったのですよ。
白石様の故郷”四浦”は五木村の隣・・
白石様の御親戚の”平川家”と家の祖母の実家”平川家”の親戚関係が酷似している事・・
深水家長男の妻は五木村より嫁いで来られた・・何故?五木から岡原村へ??
\(◎o◎)/!私は五木村について殆ど理解していませんでした。
そして、一つのキーワードを見つけました。
「五木谷三十三人衆」です。
五木村には複数の集落に其々”旦那家”と呼ばれる地頭の方々が在していた。
一つの例を
五木村公式ページより
http://www.vill.itsuki.lg.jp/q/aview/5/662.html
大久保の地頭田山氏は、東俣庄屋渡辺氏より妻を娶り、その時枡形山の一部を化粧田として持参しました。その後、田山氏は渡辺氏にすすめられて松本屋敷を開いた時に葛八重にあったこの三基の墓石を移設したといわれています。
五木の地頭衆の一軒「田山氏」東俣庄屋「渡辺氏」。
「旦那家」についてはこちらのサイトに詳しく書かれていました。
週刊ひとよし 「私的“五木紀行”」
http://www.geocities.jp/itsuki_mura/shukanhitoyoshi_3.html
こちらのサイトには東俣庄屋「渡辺氏」について
ダンナのいない田口にも、古くは渡辺姓のダンナ家があったのだそう。田口の隣りの集落、下手の五木荘裏手の川べりには、渡辺の墓と言われる石碑が今も残ります。荒削りの石碑の表には、三つ星に一文字、「渡辺紋」と言われる家紋が刻まれています。五木は現在でも川辺川左岸を東俣、五木小川沿いを西俣と呼びますが、渡辺家はその東俣庄屋だったと伝えられています。元禄12(1699)年には、東俣は渡辺六郎左衛門、西俣は土屋平右衛門立ち会いの下、五木茶を上八代へ出していたとあり、口銭(仲介料、保管料)として一俵に付き一分を受けていたと古い記録に残っています。
(勝手に転記させて頂きました(..))
さらに・・
五木村頭地の田口集落にはダンナ家がないが、古くには渡辺姓のダンナ家があったと書きました。より正確には渡辺家はダンナ家とは異なり、いわゆる「三十三人の地頭衆」には含まれていません。相良家から使わされた庄屋元で、地付きのダンナ衆とは出自を異にしていました。田口には元々「地付き」のダンナ家はなかったのですが、相良藩支配下になってのちに渡辺家が長く田口に居を構え、実質的な田口ムラのダンナ的存在となっていたようです。
(勝手に転記させて頂きました(..))
そして今現在私が調べた五木谷三十三人衆の姓は
「田山氏」「尾方氏」「黒木氏」「土屋氏」「土肥氏」です。
(他の方々は調査中です)
見て下さい「田山氏」「尾方氏」「黒木氏」です。
そこで五木谷三十三人衆をもっと調べてみたのですが・・
Nihon minʼyō taikan, 第 1 巻 googlebookより
昔、源平の戦いに敗れた平家の一族が、五木村の隣の五家荘村に落ちた。そこで
源氏は梶原、土肥の武者を五木村に住まわせて、平家の動向を監視させたと伝え
られる。この源氏の子孫が主になつて、「三十三人の旦那衆」とよばれる村の支配者となった。
\(◎o◎)/!えええええええええええええっ!!
五木と言えば平家落人伝説!と頭の中が固定されていたようです。
ナンデスト\(◎o◎)/!
※源氏は梶原、土肥の武者を五木村に住まわせて、平家の動向を監視させた
※この源氏の子孫が主になつて、「三十三人の旦那衆」とよばれる村の支配者となった。
かっ梶原・・梶原氏!!ええええええええええええっ!!
「梶原氏」は須恵氏にもさらに伊予橘氏・橘公員・橘公綱にも繋がっているではありませんか!!
本当にビックリしました!!
そう言えば・・相良村四浦だったか五木村だったか、「梶原」という集落があって、いつも車の中から標識を見て????と気にはなっていたのですが・・
私は本当に知らない事だらけでした・・
今日は大きなキーワードを見つけたのかもしれません・・
では(-.-)
[37] | 白石さんからのコメント(2016年01月18日 19時56分32秒 ) | パスワード |
こんばんわ
子孫様 いろいろしらべてくださり ありがとうございます。
細川藩 こちらも 何かと 藩士としてつながりがありそうな感じです。むむっという感じです。
というのが
豊前宇都宮流佐田氏 三つ巴紋で 我が家の佐田と同じ紋。 佐田文書を持っておられ 熊本の上の地域の方には
橘薩摩氏が肥後の守護であったことが書いてあるそうです。
この佐田氏は山口県で 毛利氏に仕え 黒田 大友 細川氏に仕えて 戦国時代を乗り切った。
書いていいのかな?
娘さんは 細川の二男さん?と 結婚されている
以上の事を 国史辞典やご本人から教えていただいたりして知識にしていました。
なので 細川藩と あながち 関係ないとは思えませんが・・・
前にはメールで 高岡の顔など送りましたが、あのとき 木下の顔はおくっていませんでした。その後 木下家に弟のことがあったのでれんらくしてみたのですが木下と直接関係はなく
あさぎり町に高岡家があり
そこと 関係あるように 教えていただきました。
こんど 調べてみようと 思っています。
岡原に 萩の高岡から 女子が 嫁入っているのですよね。
平川の嫁は 一武から来ているし。木上の川向ですね。恋愛なのか 見合いなのか聞き漏らしましたが・・・
晴山の小山勝清先生は 出所は 熊本のようです。
明治の頃は 武士は 今言うところの リストラなどで 生活のため新天地にやってきたのかも・・・
ただ
地域の人は むかあしから あそこ・・萩・・におらいたったったい
と言っていました。
蔵がつく名は 坂本 高岡で 二人くらいしかいませんが この 字は金庫番とか そんな 仕事をしていたとき ついている とかは 本にありましたが・・・
「北嶽神社の神紋」
宝珠のまわりにあるものは 柏をデザインしている?
そうでしたか・・・
私は てっきり くじゃくの羽かと 思っておりました。^^
くじゃく は 鳳凰になぞらえられ
鳳凰は 皇后のシンボルで 皇后の印に使われる。
鳳凰は 夏に いきつく ものがある。
風師もこの 筋にいる ということを 過去に本で見ましたが・・・
北嶽神社は 大山祇神 で この人の娘が ににぎの皇后にたつひとですね。
柏のとき
崔氏というのが 高句麗の武臣政権をになっているのですが
崔か?と ??があるのが 西園寺実氏の子孫としている福島の笹井氏で 新羅の古書とかいうのを 持っておられます。
こちらの お寺様に 剣カタバミと もうひとつ流れが違うという家の違い柏紋を使う 笹井家があり
昔は 柏は 神聖なもので あった と いうことでした。
高句麗 新羅 ??
春山の霞壮夫 という人が 神功皇后に入る筋におり 新羅の王子という天日鉾の筋の人と結婚して いるのですね。
新羅は 辰韓を母体にできていて 秦だと?秦なら高岡 佐田などもかんよしてくるなあ とは 思います。
そして 天を 冠する人は 秦の人のように おもえるのですね。
出雲にまいおりた さひめ という人も 新羅の人だと ネットで見ました。
[38] | 白石さんからのコメント(2016年01月19日 18時50分42秒 ) | パスワード |
こんばんわ
高岡氏は細川藩(旧熊本藩)にその名がありますが・・
実は明治17年〜19年にかけて細川藩(旧熊本藩)の元藩士の方々二十余名が木上高原地区に移住してこられていましたほ。
うちの高岡の一番初めに書かれる人は
藤在で これより先を知るをあたわず
とあります。
本籍地は萩で 萩とはかいてありませんが、地番からわかります。
妻の生まれ年は 文政十二年十一月十日
跡取りの長男の生まれ年は安政元年九月六日
この人が 高岡の遺跡相続をしています。
藤在の長女で 生 安政三年十月二十六日のキソという人が
白石に嫁入っています。
明治よりもう少し前世代ではすでに 住み着いていたようです。
川下の平川集落にいる 高岡家・・親世代は村長をしていた家があり うちの高岡とはちいーっと 筋のちがうとですもん と いう。
でも お寺は うちや 白石と 同じお寺をいうのですよね。
随分前のご先祖様の頃に分かれたのか?です。
集落の尾方・・橘紋は 深田禅正寺といっていました。
親世代の嫁は 五木から来ています。
[39] | あきさんからのコメント(2016年01月20日 22時22分00秒 ) | パスワード |
お疲れさまです♪
仕事で四浦方面に行ってたころ、「四浦はほとんどの家が深田のお寺の檀家ばい」とよく聞いてました。
[40] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月22日 13時03分02秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
白石様、あきちゃん、ご教示ありがとうございます。
お返事遅くなりましてすみませんでした(..)
日本全国を覆う大寒波ですが、球磨に戻って初めての冬。
あさぎり町の氷点下の環境にマダマダ身体が慣れず・・ちょっとだけ体調を崩していました(..)
人間、都会の環境に何十年も浸っていたら・・こうなるのだ(..)っと反省(..)
一昨日は主人が朝三時過ぎに家を出て・・すると・・えびのに向かう交通網は全て「通行止め」・・小倉生まれの小倉育ちの主人はビックリしていました・・
二人で、環境に慣れなければ(-_-)/~~~ピシー!ピシー!・・と反省しました(..)
主人が働くえびの市飯野は白髪岳の反対側。えびの市飯野側から白髪岳は目の前に見えます・・
トンネルが出来たらいいのに(-.-)
うんがっ??(p_-)・・コメント8で書きましたように・・
〉稲留長蔵(岡本城主)方には現えびの市”飯野”、そして同じく現えびの市真幸の”真幸衆”と呼ばれた北原氏が加勢に来られて「岡本方」と「人吉方」の大激戦が繰り広げられたのでした。
〉長蔵モ日州飯野ヘ退去也
稲留長蔵(岡本城主)は飯野へ退去されたのでした・・
そうか!山を越えれば目の前は”飯野”だった・・むむっ(p_-)・・何だか御縁がありますねぇ〜(p_-)
この話は置いといて(ー_ー)!!
白石様!
〉あさぎり町に高岡家があり
そこと 関係あるように 教えていただきました。
岡原にも”高岡家”一軒ありますよ!!
偶然、知りました!
父から、父の友人の方の電話番号を調べるように言われて、電話帳を見ていて気が付いたのです!
気が付いたのが、ナント、白石様がコメント37を書かれた1月18日の昼間です。
だから、白石様のコメントを読んだ瞬間に、本当にビックリしたのです\(◎o◎)/!
こちらの高岡家の方は、椎葉のおじの兄と同級生だそうです。(昨日、椎葉のおじさんが家に来たので聞いて解りました(^'^))
あきちゃん(^’^)
〉仕事で四浦方面に行ってたころ、「四浦はほとんどの家が深田のお寺の檀家ばい」とよく聞いてました。
(p_-)そうか・・。確かに相良村四浦地区は深田村とはお隣同士ですね・・
何かあるのかな・・・?(p_-)
所で・・白石様、私が書いたコメント36「五木谷三十三人衆」のお話は読んで頂けましたでしょうか。
五木にも高岡氏がいらっしゃいますね。
※Nihon minʼyō taikan, 第 1 巻 googlebookより
昔、源平の戦いに敗れた平家の一族が、五木村の隣の五家荘村に落ちた。そこで
源氏は梶原、土肥の武者を五木村に住まわせて、平家の動向を監視させたと伝え
られる。この源氏の子孫が主になつて、「三十三人の旦那衆」とよばれる村の支配者となった。
コメント36でも書きましたが
宮原一族の先祖「橘公業」の3人目の妻は、梶原景時の二男梶原景高の娘。
梶原景高の娘は肥後国球磨郡久米郷東方下分を所領した「橘公員」の母であります。
※湯前町に今でも東方という地名が残っています。それと・・気になるのが湯前には「上村」「下村」という地名も残っているのですよね・・肥前の上村・下村を所領したのは橘公員の兄「橘公義」の系なのですよね・・ちなみに・・肥前橘氏系図の「橘公義」の項には「一書、公員ノ父ト有リ。三百五十丁領」とあります。
すなわち・・橘氏系図には「橘公員」の父は実は「橘公義」だった・・?と一書されている訳です・・(p_-)(?_?)
湯前町は肥後国球磨郡久米郷東方であり、そこには今でも「上村」「下村」の地名が残る・・地名遷移かな????
(-.-)ちょっと話がソレマシタ(..)
さらに・・球磨の須恵氏と梶原氏の関係なのですが・・
球磨の郷土歴史研究家、故恒松光蔵氏が「平景俊について」という題の論文を書かれています。(ちなみに恒松光蔵先生は私の恩師で、私の祖母とも親しくされていました。)
「平景俊について」恒松光蔵氏著 より
二、鎌倉氏(大庭氏)と梶原氏
中略・・梶原景時は、一族の大庭景親にしたがい平氏方に属したが、まもなく頼朝に仕えて一ノ谷などの合戦を転戦し、頼朝を助け一ノ郎党となり、一時は侍所別当、所司となり豪勢をふるったが、頼朝の死後、正後二(一二〇〇)年駿河国(静岡)清見関で北条氏のために子の景季、景高、景茂とともに敗れ滅亡した。
ところで景茂の家系は、景俊、景綱まで続き、その名を読むことができるが、景俊については数年前から調査していた懸仏(御正体)に読まれる人物、平景俊ではないかと推察される。
次にその懸仏の所在を揚げると
一 奈良国立博物館蔵
銘文 銘=建保六年(1218年) 中略・・
二 須恵村諏訪神社
銘文 銘=承久二年(1220年) 中略・・
三 熊本市
銘文 銘=寛喜元年(1229年) 中略・・
※ここで・・
上記「懸仏(御正体)」とは以前からこちらのスレッドで御紹介していた
奈良国立博物館収蔵 山王十社本地懸仏 1面(金銅山王十社御正体)です。
詳しくは平川家について24コメント61に書かせて頂いています。
奈良国立博物館のページ 山王十社本地懸仏 1面
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-738-0-1.html
文化遺産オンラインページ 金銅山王十社御正体
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199483
転記に戻ります(..)
「平景俊について」恒松光蔵氏著 より
この懸仏の制作は、三枚共に日吉山王(滋賀県)であろうと思われる。銘文については、ここでは詳細に述べる事は省略するが、三枚共に背面に針書きされた銘文であり、平景俊の名が読まれる事から、全く個人的な奉納で、子々孫々までの領掌知行(支配)を願った願文であると思われる。
次に主要な部分のみ揚げると
『一、 預所院主惣公文 二、子子孫孫之永代為領掌知行也 三、預所●院主惣公文 子子孫孫永代為』
いずれも、鎌倉前期の懸仏であるが、先に述べたように景時一族は正治二年(1200年)北条氏によって、子の景季、景高、景茂等は討たれ滅亡しているが、系図に見られる通り景高は景信、景家(上坂)と続き、景茂の家系は景俊、景綱と続いている。
一、 の建保六年の懸仏の銘に『預所院主惣公文』とあるが、寛喜元年(1229年)の懸仏にも同銘が書かれており、預所院主の意は、平等寺の院主であろうと考えられる。惣公文はこの時代の中央の公文所の事で、惣公文はその頭の意と思われる。
三 懸仏と阿蘇神社
この承久二年の懸仏は、何時頃、誰が、何処へ奉納したかが問題となるが、勿論主人公は平景俊で、その名代と奉納した人物は、豪族須恵氏と思われる。
須恵氏は平景俊の荘官と思われ、阿蘇谷には平等寺もあり、建久八年(1197年)閏六月の『肥後国球磨郡田数領主等目録写』によると、人吉庄六百町歩は蓮華王院領であり、当時、須恵地区を基盤として一武、西村付近まで領有していた豪族である事から、平景俊の名代として須恵村内及び郡内の寺社に奉納するには十分な人物と思われる。
以下省略・・
(..)私、かなり以前「平景俊」と言う方を別の方と勘違いしていたようです。すみません(..)
球磨の「山王十社本地懸仏 1面(金銅山王十社御正体)」銘文を残した須恵阿蘇谷惣公文「平景俊」。この方は「梶原景時」の孫。
すなわち・・
※宮原一族の先祖「橘公業」の3人目の妻は、梶原景時の二男梶原景高の娘。
※梶原景高の娘は肥後国球磨郡久米郷東方下分を所領した「橘公員」の母。
※梶原景高の兄弟「梶原景茂」の子「梶原景俊」。この方が、球磨の「山王十社本地懸仏 1面(金銅山王十社御正体)」銘文を残した須恵阿蘇谷惣公文「平景俊」。
\(◎o◎)/!橘公員(久米郷東方下分を所領)の母と、球磨の須恵阿蘇谷惣公文であった「平景俊」は“いとこ”同士となるわけです!!
私は上記の関係は“平河氏”とは無関係とは思っていません・・・・
何故ならば・・
平河氏が近衛中将実春朝臣(徳大寺実春)に対して起こした永吉庄“西村”に関わる訴訟。
訴訟状にあった「六十余名による署名」。
皆様、覚えて頂いていますでしょうか・・?
私は、宮原一族の先祖“橘公業”と梶原氏との関係を全く知らない時に、「梶原景時」という方を勉強して・・平河氏の「六十余名による署名」と梶原景時に起こされた「六十六人の署名」が・・何だか似ている?と書いていました・・。
さらに・・
藤原公国(徳大寺公国)の子が近衛中将実春朝臣こと「徳大寺実春」と「徳大寺実重(妻:平光盛娘)(二人の母は大江広元の娘)
そして、西園寺公経の姉妹は徳大寺公国の室だった。
※平光盛(父:平頼盛)は人吉庄預所。
※大江広元は永吉庄預所。
※宮原一族の先祖“橘公業”が“西園寺公経”と替地して所領した「球磨郡久米郷東方下分」
北九州に住んでいた時に調べていた事にどんどん繋がってきました\(◎o◎)/!
なるほど・・(p_-)・・どんどん見えてきましたよ・・・・・(p_-)
平河氏が近衛中将実春朝臣(徳大寺実春)に対して起こした永吉庄“西村”に関わる訴訟。
あの・・訴訟状は本当は・・いったい誰が書いたのだろう???
訴訟状の中にあった数々の言葉「六十余名による署名」や「師高の冤罪により一族の中には大宰府にある者あり、十分忠義は果たした・・」他にも色々書かれていました。
(p_-)もう一度、以前の調査を読み返して見ます(p_-)
マダマダ書きたい事は山ほどあるのですが・・このままだと知恵熱を出しそうなので今日はこの辺りまでにしておきます(..)
では。
[41] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月23日 11時09分05秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
先日からず〜っと寒いですね〜(..)
皆様、お身体の方は大丈夫ですか?虚弱な私が言うのも何ですが
風邪をひかないようにお身体には十分お気を付け下さい(..)
我があさぎり町は明日の最高気温1℃。最低気温は−4℃。明後日は最高気温3℃。最低気温−7℃。
こっ!ここは九州南部じゃあないのかぁ〜〜〜〜〜〜〜!!((+_+))
所で・・
昨日、「書きたい事は山ほどある」と書きましたが、その”書きたい事以外”に一つ。
若干、薬によりぼわ〜っとする頭で、朝、気が付いた事があるのでそのお話をさせて頂きます(..)
昨日、祖父の従姉の娘である”おばさん”と用事があり電話でお話をしたのですが、この”おばさん”の家が、旧岡原村(宮原村)の熊野の権現様のすぐ横(かな?)でして・・
先日から「熊野」と言う言葉をこちらのスレッドで頻繁に書いているな〜と・・?
宮原の曾祖母の「新堀家」を調べても・・
〉シンボリ 新堀 神奈川県、鹿児島県、茨城県。埼玉県日高市新堀(ニイホリ)発祥。同地では草分けで和歌山県南部・三重県南部(別名:熊野)から来住したと伝える。茨城県(旧:常陸国)に南北朝時代にあった。鹿児島県薩摩川内市永利町では静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀から熊本県球磨郡多良木町を経て来住したと伝える。静岡県牧之原市勝田の付近が比定地。
熊野・・熊野・・くまの・・球磨・・くまくま繋がりです・・(薬のせいで頭がぼわっ〜と・・)
そこで・・
日本の苗字七千傑様の「姓氏類別大観」をじ〜っと見ながら【熊野氏】(熊野国造)こちらがとても気になりまして・・
【熊野氏】(熊野国造)姓氏類別大観 を拝見しました。
〉成務朝に饒速日命(物部氏の祖)の後裔、大阿刀足尼が熊野国造に任じられ・・
(p_-)熊野国造・・饒速日命(物部氏の祖)の後裔
そうか・・伊予橘氏「橘公業」に繋がる「宮原一族」はもちろん御縁があるのですね・・と思いながら系図を見ていると・・
あれっ????あれれれれっ???
【熊野氏】(熊野国造)姓氏類別大観、そして《和田氏》姓氏類別大観に見える「姓」が・・・(?_?)
「掲載姓氏」を再度じ〜っと拝見すると・・
【小池氏】【和田氏】【長田氏】【永田氏】【石川氏】・・親戚の「姓」が・・
【熊野氏】(熊野国造)姓氏類別大観、そして《和田氏》姓氏類別大観の掲載姓氏「29氏」の中に、家の親戚の「姓」が「5氏」あります??
5/29・・これって偶然なのでしょうか????
若干の熱でぽわ〜んとした頭ですが・・
日本の苗字七千傑様の【熊野氏】(熊野国造)姓氏類別大観を拝見して、「シャキーン!!」と目が覚めたようです。
では(..)
[42] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年01月23日 18時19分06秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
ミヤハラよりさんへ
橘氏、越智氏、熊野国造は密接な関連。
偶然じゃありませんよ。
以下を参照して下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#030
また日本で二番目に多い鈴木さんは、熊野神社とともに日本の各地へ移住。
特に静岡県に多い印象多い。
小生の静岡件の知人の鈴木さんの極端に多いこと!
そういえば、相良氏は静岡県から来たんじゃなかった?
[43] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月23日 22時04分40秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。
>橘氏、越智氏、熊野国造は密接な関連。
偶然じゃありませんよ。
Q30.楠木正成は左大臣橘諸兄の末裔か?
拝見致しました。
\(◎o◎)/!わ〜〜〜〜あ!! 本当だぁ〜〜〜〜〜〜!!と。
朝、じ〜っと日本の苗字七千傑様の【熊野氏】(熊野国造)姓氏類別大観を拝見して、気が付いた事は、「橘氏、越智氏、熊野国造の密接な関連」に基づいていた事が解りました!
何でしょう・・すごく感動しました。
古(いにしえ)の繋がりが関係していたのですね・・。
>日本で二番目に多い鈴木さんは、熊野神社とともに日本の各地へ移住。
特に静岡県に多い印象多い。
>相良氏は静岡県から・・
実は、今日、青井阿蘇神社第五十一代大宮司 青井采女佐大神惟董が元禄十二年(1699年)に編纂した「麻郡神社私考」(平成復刻本)を読んでいたのですが、人吉・球磨地方には「熊野神社」「熊野権現」様々な市町村・地区に数多く「紀州熊野神社同體」の神社様が鎮座されていました。
その事に気が付いた後で、日本の苗字七千傑様の御教示を拝見しまして、頭の中の点と線が繋がりました。
所で熊野神社からは離れますが・・
旧宮原村の中島霧島神社、旧岡本村の大炊霧島神社ですが、正式には
旧宮原村 中嶋大権現 旧岡本村 大炊神権現 です。
「日州霧島神社同體」とあります。
上村の白髪神社は正式には 白髪大権現 です。
こちらは「日州鵜戸神社同體」とありました。
「鈴木姓」なのですが・・
不思議と人吉・球磨ではあまりお見かけしません・・??
球磨の宮司家に「鈴木姓」は見かけませんが、「麻郡神社私考」を拝見すると圧倒的に「尾形氏」が多いです・・
「麻郡神社私考」では「尾方」ではなく「尾形」と書かれています。
球磨の宮司家「尾形(尾方)」氏は大神氏・・
岡留熊野座神社・・築地権現・・宮司家は親戚の尾方家・・大神氏・・「鈴木氏」ではない・・・
妙に・・何だかすごく気になりました。
尾方と尾形はおなじ・・だけど・・「尾形」・・気になりだしたら止まりません。
日本の苗字七千傑様のサイトを「尾形」で検索したのですが・・
\(◎o◎)/!・・・・\(◎o◎)/!・・・
《緒方氏》姓氏類別大観 だけではなく・・・
【物部氏/石上氏】姓氏類別大観 \(◎o◎)/!
《物部大連家》姓氏類別大観の系図の中に「尾形氏」が見えます!!
偶然かもしれませんが・・でも「鈴木さん」の極端に多い「静岡県」から来た相良氏の「相良藩」には「鈴木さん」は殆どみえない・・けど「尾形さん」は極端に多い(「麻郡神社私考」より確認)
そう言えば・・
親戚の「尾方家」は・・橘姓の矢野氏と中村氏と姻戚関係にありました・・(?_?)
また一つ・・モヤモヤが発生しました・・・(?_?)
でも・・今日は
【小池氏】【和田氏】【長田氏】【永田氏】【石川氏】という家の親戚関係の秘密が理解できました。(^'^)
日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。
[44] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年01月24日 00時24分32秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>「鈴木姓」なのですが・・
不思議と人吉・球磨ではあまりお見かけしません・・??
肥後南部で鈴木姓は八代郡に多い。
宮原姓も八代郡から球磨郡に移動したのだから、不思議でも何でも無い。
肥後の鈴木姓は、鈴木重慶の後裔。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02105.htm#001
しかし緒方氏(尾形と通ず)と北条氏(越智姓伊予北条氏と関係ある)が、同じ三鱗紋と言うのも不思議?
世の中は判で押した様にはならないのが常。
[45] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月24日 09時22分54秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。
>肥後南部で鈴木姓は八代郡に多い。
肥後の鈴木氏について(と言うか”鈴木氏”について)全く勉強していませんでした。(..)
八代郡・・氷川町宮原には立神熊野座神社が鎮座されています。
http://blog.goo.ne.jp/kumamoto-amakusa/e/9fc13da21b45160e1c801ff7b201f4d2
由緒書きから創建は743年とあります。
ネットで見ただけなのですが、天草には代官鈴木重成・正三・重辰を天草の守り神として祀った鈴木神社が建立されていたのですね・・
鈴木神社
http://yumeko2.otemo-yan.net/e473085.html
>肥後の鈴木姓は、鈴木重慶の後裔。
肥後の鈴木氏勉強させて頂きます。
>緒方氏(尾形と通ず)と北条氏(越智姓伊予北条氏と関係ある)が、同じ三鱗紋と言うのも不思議?
三鱗紋ですよね・・
ちなみに・・家の親戚は「緒方氏」も「尾方氏」もあり・・???
あっ!「緒方氏」で思い出しました。
脱線しますが・・
五家荘にあるせんだん轟の滝。
http://koyo.walkerplus.com/detail/ar1043e12896/
緒方家から嫁いでこられたおばさんからのお話ですが、せんだん轟の滝がある裏山周囲の山一帯はおばさんの実家の緒方家の山だそうです。
(この話は父も椎葉のおじもおばさんから聞いていまして・・)
ビックリしました・・むむっ(p_-)・・
緒方家の方々は先日ブログにアップした深水家の集合写真に載っていらっしゃいます(^'^)
あと・・
先日からとても気になっていた「五木谷三十三人衆」のお話ですが・・
父が「緒方家の事も含めて詳しく知りたかったらおじさんにちゃんと聞きなさい!!」と・・
あの・・実は・・コメントしていなかったのですが・・
父のふた従弟は・・あの・・(..)・・御縁があって五木村教育委員会の委員長をさせて頂いていまして・・・(..)
黙っていまして・・すみません(..)
やはり気になるので、父のふた従弟のおじさんに聞いてみます・・
父は
「親戚の縁のお陰で、お前は色々な人から話が聞けるのだから、ありがたいと思いなさい。」
と言っています。
確かに、本当にありがたい事だと思います(..)
日本の苗字七千傑様
御教示本当にありがとうございました。
[46] | 白石さんからのコメント(2016年01月25日 04時11分16秒 ) | パスワード |
子孫様 皆様 おはようございます。
子孫様 あさぎり町の高岡家 子孫様の椎葉のおじ様のお兄様の同級生。ということは 椎葉のおじさまは もともとは あさぎり町の方だったと思っておりましたが・・・椎葉のかただったでしょうか?
ただ 四浦は 郡部の人と 通婚しており 五木の人とも通婚していて 集落の深田善正寺が旦那寺の尾方氏の嫁も五木から。萩の永田の同級生は結婚して五木に住んでいて 今は 川下に います。
尾方は 吉田から 親世代に婿に来ていて 吉田姓は 小山勝清先生の本によれば 維新の頃 かに 真っ先に帰農している。
あさぎり町の高岡家は 木下によれば 兄の連れ子 という人が うちに関係しているようです。高岡と木下は 女のつながりのようです。
それが 四浦では 木下は 曹洞宗のお寺の下に墓があり そこなのか どうなのかわかりませんが お寺の下の墓に 父の母・・高岡 は 入れられているそうです
曹洞宗といえば
川辺の古見院もそうで 人吉永国寺の流れ。永国寺は願成寺と共に 相良家中。西郷さんがよった寺でもあり 西南の役は 士族の反乱とも・
平川の高岡は まわりからの話では 善正寺をあげたり 古見院をあげたり 初神の慈法院をあげたり ・・・近い親戚の人は 天台宗といっています。こんど四浦に帰った時に しっかり 本人・・同級生 に 聞こうと思っています。
ぐるぐるつながりながら 歴史をおりてくるごとに 宗派も変わったのかな?と 思います。
[47] | 白石さんからのコメント(2016年01月25日 04時23分12秒 ) | パスワード |
実は 兄の
ことに 続いて 今度は私の生活管理が行き届かなかったのか? がんばらなければ透析をしなければならない と 言われました。
身体は本当に 微妙ですね。
コントロールを上手にしなければ 免疫機能が次々とやれれて しまうのは 弟の時にわかりましたので 真剣に取り組まなければと思います。
兄は 酒におぼれ たばこに逃げて 結果 脳梗塞を起こし おつむが半分っ位に委縮して 痙攣を 起こしやすくなって もてあまし状態ということらしいですが 施設から病院に移り
つまり 安静を保たなければ ならないので 梅祭りへの外出は取りやめになりました。
痴呆も入ってきているのか
ああいう人は 凶暴性を出す人と ただ にこにこ しているだけの人と 二種類あるのだそうですね。
過去に 妄想がとりついて 兄嫁を殺そうとしたことがあるそうで 股関節をやられて 歩けなくなって かえって よかった と 思っています。大変ですものね。
何かのきっかけで そうなるのでしょうが
私の夫も 凶暴に 走る方だと わかっているので 気をつけなければ と 思います。生きていくのも 大変ですね。
[48] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月25日 09時05分45秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、コメントありがとうございます。
>椎葉のおじさまは もともとは あさぎり町の方だったと思っておりましたが・・・椎葉のかただったでしょうか?
(..)私の文章が解りづらかったのですね、すみません(..)
親戚の椎葉家は江戸時代後期頃から旧宮原村の宮麓にあり、それ以前は奥野村でした。(椎葉家に記録が残っています)
もちろん、椎葉家のおじ・おじの兄は岡原の小学校を卒業しています。
椎葉のおじの兄と岡原の高岡家の方は小学校の同級生。
すなわち、岡原の高岡家は昭和初期にすでに岡原村にあったという事ですね。
椎葉のおじの兄は学校の教員になりましたので、戦後の農地改革後、残った岡原の椎葉家の農地は二男の椎葉のおじが農業をして継いできた・・と言う事です。
椎葉のおじはそれまで、農業をした事が無かったので、周りの方に色々聞かれて勉強。自分でも一生懸命勉強したそうです。
所で・・
白石様。白石様が聞かれた”あさぎり町の高岡家”とはもしかしたら”岡原の高岡家”の可能性は・・??
岡原は”あさぎり町”ですが・・・・。
ちなみに・・今朝の我があさぎり町の最低気温は−13.5℃。
ニュースでは県庁所在地の情報が主ですが、家の前は雪国で、朝起きたら、窓の室内側が凍っていました((+_+))
全国を襲っている大寒波。
皆様、風邪をひかないように、お身体、お気を付け下さい。
[49] | 白石さんからのコメント(2016年01月25日 19時30分08秒 ) | パスワード |
子孫様
こんばんわ
岡原の高岡家の可能性
あると 思います。
岡原には 萩の高岡から 嫁入っている家があります。
しかし 何しろ 私は お付き合いがなく
教えていただいた 木下の人も 随分な落としで 話すにも気をつけなければならず四浦の冠婚葬祭などには 欠かさず来てくださっていたのですが 私の姉のことはおぼえておられますが 私の事は 小さい子供だったし 知らんと・・・姉は覚えていました。
ところで
今日 職場で 兄の信じられない変貌を話したところ
聞いていた人の奥さんのお母さんも 脳をやられて 窓から飛び降りをするのだそうです。
そして 施設から 病院に移ったら もう もとへはもどれず 他の施設を探すのだそうです。そういう ややこしい 人を預かるのをいやがるのですね。かぞくにとっては 難儀なことです。兄嫁もペースメーカーをつけるかどうかというところまで 体を弱らせていて しかし どうにも してやれません。
[50] | 白石さんからのコメント(2016年01月25日 19時32分13秒 ) | パスワード |
落とし
↓
お年です。すみません。
[51] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月26日 09時50分41秒 ) | パスワード |
白石様
透析を受けなければいけないかもしれないという事ですが、そうならないように、しっかりとお身体ご自愛ください。
故郷四浦の、お兄様お義姉様、ご心配ですね。
ご自分の身体、そして故郷のお兄様、と心労が重なっていらっしゃるのですね。
無理をなさらないで下さいね。
まずは、ご自分の身体を一番に考えて、健康を取り戻す事では・・。
白石様がお元気になられたら、故郷四浦に帰る事もお出来になるし、白石様のお顔を見れば、お兄様もお喜びになられる事でしょう(^'^)
異常気象の続く今、春が本当に待ち遠しいですね。
でも、必ず春はやってきます。
白石様の健康回復を心より祈っています。
[52] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月26日 09時57分54秒 ) | パスワード |
追記
白石様、私の事は「子孫」ではなく「ミヤハラ」と呼んで下さい。(^'^)
あっ!!「ミヤちゃん」でもいいですよ(^O^)/
(可愛すぎるかな???年が・・・(..))
では(^'^)
[53] | 白石さんからのコメント(2016年01月27日 19時27分54秒 ) | パスワード |
ミヤちゃん・・・ですよね。^^年を考えるとそうなるかな?
こんばんわ
兄は 都会にいます。きょうだいはみな 都会にいます。長兄は80才をすぎ 弟のみ熊本にいました。なので 誰もほいほいと動けるものがおらず 私一人で葬儀屋にお願いして 火葬や公への届など皆していただき 話に出ていた兄の家に運び今お仏壇の前においてあります、
肝心の兄が施設に行き 今は病院に移り
施設なら 家に行くこともできたかも?とは思うのですが 病院は安静にしなければならず
しかも
ややこしい人は 施設に帰れない という微妙なことになっているのです。
知り合いのお義母さんは
施設で飛び降りをやらかして やはり 病院に入れられ その後その施設には二度と帰れず お嫁さんはあちこち 探したそうです。家から遠くなると 行ってやりたくても年金生活では さびしい思いをさせてしまいますね。
ミヤちゃん 心配をかけてすみませんね。
今日 病院へいったら 目のレーザー治療やむくみをとる注射が様子を見ましょうということになりました。
透析に関係するところの数値を見て ふん とか うんとかいっておられましたが これは 危ないよとはいわれませんでした。
次は 二か月後です。
がんばらなければ ・・・ですね。
腎臓関係は 父方 イライラして 具合が悪くなるのは 母方から 引いていると思っています。
[54] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月27日 23時12分37秒 ) | パスワード |
白石様、今晩は(^'^)
>これは 危ないよとはいわれませんでした。
良かった〜(^'^)
頑張らなければ・・と、プレッシャーになってもいけませんよ(ー_ー)!!(^'^)
ご心労が重なっていらっしゃるのも要因でしょうね・・
イライラも良くない・・と言う事は・・
そうだっ\(◎o◎)/!
白石様に私のポワ〜ン(^−^)とパワ〜をお送りします(^'^)
ポワ〜ンポワ〜ンポワ〜ン!(^−^)
届いたかな??
二か月後と言えば・・春ですね(^'^)
暖かくなると血管の急激な収縮なども少なくなってくるでしょうから待ち遠しいですね(^'^)
所で・・
昨日、祖父の従姉であるおばさんと会いまして。
色々聞く事が出来たのですが・・
沢山の事が解りました。
あの・・・ナント・・・・\(◎o◎)/!
平川の高祖母(明治生まれ)は・・宮原の曾祖父(慶應生まれ)の姪でした\(◎o◎)/!
私は聞いた瞬間に「なっ!ナンデスト〜〜〜!!\(◎o◎)/!」と。
さて、このお話の続きはまた明日。
では。(..)
[55] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月28日 11時45分26秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
まずは・・ふ〜っと一度深呼吸を・・・・
では、早速お話をさせて頂きます(-.-)
まずはプロローグから(-.-)
うちの宮原家の親戚関係に疎い私は、旧岡原村の熊野地区に住む祖父の従姉の娘である”おばさん”に話を聞く為に、家に伺いました。
(父も宮原の親戚関係は疎くあまり解っていません)
おばの家におじゃまして、まず最初に仏様にお参りを(..)
すると仏壇のある部屋に一枚の写真が飾ってありまして・・
私の祖父が中央に写っていて、隣は祖母。周りは40人近い人が写っています。
祖母が父の兄を妊娠して、安定期に入ったので、祖父が祖母を連れて岡原に帰って来た時の写真でした。(昭和12年です)
祖父は、軍人ですから、祖母を岡原に残して中国に帰らなければいけませんので、帰る前に親戚が集まって送別会を開いてくれたそうで、写真はその時の物でした。
おばさんがその写真に写っている人達を説明してくれたのですが・・
平川の曾祖父の弟達(当時の湯前町町長であった曾祖父の弟他)、平川家の祖母の姉妹、多良木の平川家親戚一同・・とおばが説明してくれた所で・・
私は「おんやっ??(?_?)」と。そこでおばに
「おばさん!宮原の親戚は?今の所、平川の親戚ばかりだけど・・?」と言うと・・
おばは
「な〜んば言いヨットね(ー_ー)!!宮原家と平川家は元々親戚た〜い!!」と・・
「何ですと??(?_?)」・・・???
ここから・・私は驚愕?の事実を知る事になるのでした\(◎o◎)/!
では、ここからが!本題です(-.-)。御説明を(..)
多良木の久保田家に四男として生まれた私の曾祖父「留蔵」は、子供の頃に岡原の宮原家に養子に入ります。
曾祖父留蔵の久保田の「兄弟姉妹」の一人が多良木の渕田家に入ります。(嫁いだのか婿養子なのか養子なのか?は解りません)
渕田家で産まれた娘達は「平川家」と「桑原家」に嫁ぎ、さらに岡原に分家した渕田家兄弟の娘は子供が無かった「宮原留蔵」の養女となります。
「平川家」に嫁いだ娘こそ!私の平川の高祖母です。
つまり平川の高祖母は私の曾祖父「宮原留蔵」の姪です\(◎o◎)/!
\(◎o◎)/!と言う事は・・私の祖父「宮原石蔵」と平川の高祖母はいとこ!!
(私の祖父は、曾祖父が50歳になる頃に産まれたので・・ややこしいですが(..))
平川の高祖父「平川丈蔵」と高祖母の間に産まれたのが・・
平川の曾祖父である「平川堅蔵」、湯前町町長であった「平川源市おじ」他兄弟は他の湯前町平川家一軒、久米の平川家二軒、黒木家、久米の田山家を継ぎました。
うんがっ(?_?)・・つう〜事は??
私の父の祖父となる「平川堅蔵」。父と祖父「平川堅蔵」二人は宮原家から見ると・・ぎゃあ!!ふた従兄です!!!!!!(ややこしい((+_+)))
この辺りを考えると頭が混乱しますので、置いといて(ー_ー)!!
と言う事で、私の祖父が中国に帰る時に集まった親戚の中に数多くの「平川一族」があった・・と言う訳です。
所で・・私の曾祖父「宮原留蔵」の実家「久保田家」ですが・・
昭和三十年代に婿養子に入った方は、上記の説明に書いた「桑原家」からの繋がりで・・
「桑原家二男(私の曾祖父の姪の子)」が恒松家に養子に入り、その恒松家から、私の曾祖父の生家「久保田家」に婿養子に入った・・と言う事で「久保田」の血はグルリ巡って「久保田家」にまた戻って行った・・となります(..)
さらに・・
宮原の曾祖父の姪の方々は、解っているだけで・・(曾祖父の姪と言う事は祖父の従姉になります)
@熊野の畠山家に嫁ぐ
A福永家に嫁ぐ
B多良木の宮原家に嫁ぐ
(-.-)・・Aの福永家の娘さんの嫁ぎ先が・・
犬童清兵衛居館跡に住む「柳瀬家」で・・\(◎o◎)/!犬童清兵衛屋敷を訪問した時に「○○ちゃん?!」と声をかけてこられたおばさんは・・
\(◎o◎)/!私の父のふた従姉となるのでした!!。この方は平川家の娘である私の祖母からしてもふた従妹。ぎゃあ\(◎o◎)/!
おばさん・・ごめんなさいです。どおりで・・親しい親戚関係にあったのですね\(◎o◎)/!
(父と二人で反省(..))
最後に・・
熊野のおばより「何故?曾祖父”留蔵”が久保田家から宮原家に養子に入ったのか?」の謎に繋がる有力情報を得ました(p_-)
宮原の高祖父「宮原蔵吉」と曾祖父「宮原留蔵」を繋ぐ重要な親戚が解りました。
※ 熊野の「宮原家」
※ 熊野に以前あった「千葉家」
おばの話では曾祖父「宮原留蔵」からみると
@兄弟AいとこBおじおば・・のいずれかに該当する親戚らしいです(おばも、詳しくは解らないけど、@ABのいずれか位のとても近い関係らしいです)
(p_-)・・むむっ(p_-)・・うんがっ(?_?)・・・「千葉家」・・千葉・・\(◎o◎)/!
ナンデスト〜っと!!聞いた時にビックリしました。
(p_-)・・千葉家と言えば・・偶然かな??
これはもしや南北朝時代の「例の件」と繋がってきたりして・・もちろん偶然かもしれませんが(ー_ー)!!
でも・・(?_?)(?_?)・・何で「千葉家」??
千葉家と伊予橘氏「橘公業」の娘の系とさらに「球磨郡久米郷」の土地の譲渡の話は以前から何度もコメントしていました。?????
上記の話には「三池貞家」、この方も繋がっていて・・
そして・・「貞家」と言えば「平河氏」にも「平河貞家」があって・・・・(?_?)
偶然かな????
(ー_ー)!!置いといて・・
と言う事で、うちの「宮原家」と祖母の実家「平川家」の真実!をお話しました。
では(^'^)・・(?_?)・・(p_-)
[56] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月29日 12時23分53秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
昨日、私が知らなかった「うちの宮原家」と「祖母の実家平川家」の繋がり(親戚関係)を書かせて頂きました。
聞いた話より、うちの宮原家の相関図を簡単ですが紙に書いてみたのですが・・
両家を繋げる「糸」は宮原の曾祖父の生家である「久保田家」であった事が何となく理解出来ました。
所で・・
曾祖父「宮原留蔵」の妻であった曾祖母は新堀家から嫁いできた・・と言う事は以前からコメントさせて頂いていました。
さらに新堀家には、宮原村の地頭の一人であった「新堀金兵衛」という方がいらっしゃった事、そして同じ時代の「宮原金兵衛(公行)」と言う方は・・
遠原阿弥陀堂
今から340年前、岡原村の豪族が「露幻童子(ろげんどうじ)」を供養するために建てられたといわれている。
上記の「露幻童子」と言う方のお墓は宮原宇右衛門(公全)のお墓のすぐ傍にあった・・と言う事もコメント致しました。
宮原宇右衛門(公全)、この方は相良藩の300石取りの家老でした。
宮原宇右衛門(公全)の甥もしくは孫が「宮原金兵衛(公行)」。
今回、祖父の従姉の娘であるおばに話を聞いて、様々な事が解ったのですが・・
上記の曾祖母の実家の「新堀家」の親戚が「森家」でした。
「森家」は新堀家の親戚だったんだ〜(-.-)と。(てっきり宮原の繋がりかと思っていたのですが・・)
森氏・・森・・森・・・
実は、相良氏族である「久保田(窪田)氏」については系図や分限帳などで色々調べてはいるのですが・・
一つ、気になる事がありまして・・
相良藩士分限帳享保三年幼少扶持分限帳に記されている「久保田氏」の「名前」なのですが・・
※久保田 可圓
※久保田 可順
久保田氏で・・「可圓」「可順」・・。
この方々の名前は通字が「可」のようなのです・・・・????
「幼少扶持分限帳」なので、「可圓」「可順」という名は通称ではないようです。
久保田氏の相良藩士分限帳で解る”通称”は例をあげると「久保田吉助」・「久保田吉右衛門」(二代に渡る)他「久保田惣右衛門」・「久保田与三右衛門」他地域によって多数あります。
”通称”と”通字”は違いますよね・・※久保田 可圓 ※久保田 可順・・??
昨日コメントしたうちの宮原家と親戚関係にある「千葉家」・・
森氏と千葉氏・・球磨郡久米郷の土地の譲渡・・??
モヤモヤするのですが・・偶然かもしれないし・・
日本の苗字七千傑様の【清和源氏義隆流】姓氏類別大観を拝見したのですが
森義隆→若槻頼隆 → 森頼定(妻:橘公業の娘”薬上助局”)
《森 氏》そして《森 氏(重泰以降/可房以降)》姓氏類別大観を拝見すると
「可」の文字が付くお名前が沢山いらっしゃいます・・
※久保田 可圓 ※久保田 可順・・考えすぎかな?偶然でしょうか・・
モヤモヤしていた事を今回はコメントさせて頂きました。
では(..)
[57] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年01月31日 11時11分47秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^'^)
新しい事実が解りまして・・
曾祖父の生家「久保田家」は多良木の通称(親戚が呼んでいる)”御堂さん”と呼ばれる地区にあります。
現在はその”御堂さん”と呼ばれる地区には沢山の「久保田家」があります。
その・・”御堂さん”地区なのですが・・
前スレッド「平川家について28」コメント48でご紹介した深水家の集合写真に写っている70代後半に瑞宝章を受賞された深水家長男(私の祖母の従弟)、母は”御堂さん”から嫁いで来られた方だったそうです\(◎o◎)/!
昨日椎葉のおじから聞きました\(◎o◎)/!
さらに椎葉のおじは「たしか・・平川の堅蔵じいちゃん(私の曾祖父)の弟か、もしくは平川の丈蔵じいちゃん(私の高祖父)の弟は”御堂さん”(地区)に養子に入いっとるゾっ!」と。
ナンデスト(?_?)\(◎o◎)/!
もう、頭の中がグルグルグルとなってしまいました(..)
上記の事は・・さて置いて(..)
以前からお話していたうちの「宮原家」に残っていた文書の数々についてなのですが・・
曾祖父宛ての手紙についてご説明をさせて頂きます。
事の発端は・・
うちの宮原家が当時所有していた「旧久米村」の土地が関係していました。
宮原家所有の「旧久米村」の土地を巡り、某家(三家)の方々と宮原の曾祖父は”ある契約”を結びました。
契約を取り交わす書面には、その土地は米に換算すると三十五石分だとあります。(三十五石分の土地のイメージが湧きませんが(?_?))
ところが・・その後、その某家(三家)の方々が曾祖父との契約に違反する行為をされたようで、曾祖父はあらためてその方々に「契状」を書かせて、今後契約に反する行為を行わない事を誓ってもらったようです。
ところが・・その後さらに某家(三家)の方々は曾祖父との契約に違反する行為を行ってしまった・・
仏の顔も三度迄?曾祖父はおそらくものすご〜く怒って、苦言を言ったようです。
すると・・某家(三家)の方々の代表の方が、祖父に陳謝の手紙を送って来られた・・
この手紙がかなり以前に取あげた事がある”あの手紙”だったと言う事です。
手紙の最後には、何故か曾祖父を「葦原様」と・・?????
うちは「宮原さん」で「葦原様」ではありません(ー_ー)!!????????
でも・・何故「葦原様」なのか???
そう言えば・・佐賀県武雄市の橘一族が所領した土地、今では「橘町」ですが以前はこの地域「葦原」だったのですよね・・・
その関係かな?とは思うのですが・・??
でも・・何だろう「物部氏」一族に関係した言葉?のような気もするし・・
と言う事で宮原の曾祖父宛ての手紙をブログにアップ致しました(遂に・・)
よろしければ皆様ご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12121660870.html
他にも別の写真などもブログにアップしたのですが・・説明は次回のコメントで(..)
では。
[58] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月01日 18時11分01秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^'^)
昨日もちょっとだけ書きましたが
昭和12年にうちの宮原家で撮影された写真をブログにアップ致しました(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12123383239.html
父の兄を妊娠した祖母を祖父が故郷岡原村に連れて帰り、その後、祖母を残し、祖父が軍に戻る際に宮原家で撮られた集合写真です。
曾祖父は昭和9年に亡くなっていましたが、新堀家から嫁いで来られた曾祖母は健在でしたので、軍人になり故郷を離れた私の祖父の代わりに、祖父の従姉夫婦が宮原家に住んで曾祖母と暮らしていたそうです。
ちなみに、祖父の従姉の夫(星原のおじ)の母は、こちらのスレッドコメント31でご紹介した「山本吉兵衛」と言う方の孫娘だそうです(^'^)。
軍服姿の祖父と祖母を中心に親戚が揃って写っています(^'^)
ブログにも書いているのですが、写真の中には久米平川家(二軒)・湯前平川家(二軒)・多良木平川家(二軒)そして他にも黒木家や田山家を継いだ平川の曾祖父の弟達、などの平川一族(男性)が大集合?しています(^'^)
ブログにアップした一番下の写真は、岡原村斉堂(ときどう)の正八幡宮前の井口川に新しい橋が架かり、記念式典が行われた時の写真です。
この橋を何故か?村民代表で最初に渡ったのは祖母の実家平川家の三代。
曾祖父母を先頭に、祖母の兄夫婦(通称?みなみのじいちゃん・ばあちゃん)そして長男夫婦の三代で、この催し?ネーミングが「平川三代橋渡り」と呼ばれています。(何故だろう???)
女性陣は留袖を着て渡ったそうです。
父に聞くと「村の繁栄を祈っての事だったそうだっ(-.-)」と言っていました。
(?_?)・・・きっと三代に渡る家族なので、縁起が良いという意味なのかな?と思いました。
所で・・
話は変わりますが・・
平川の高祖母の実家は渕田家。宮原の曾祖父の兄弟姉妹のいずれかが入っています。(だから高祖母は宮原の曾祖父の姪なのですが・・)
「あさぎり町岡原北宮麓地区」の承應4年(1655年)建立の庚申塔には「淵田」氏の名前が三名。(渕田ではなく淵田です)
でも・・今は宮麓に淵田家はありません(ー_ー)!!
そう考えると・・
庚申塔や分限帳に名前はあるけど、今、こちらには住んでいらっしゃらない姓が多数・・「淵田氏」「有馬氏」「原氏」他・・
こちらのスレッドコメント31でも書きましたが
「出田氏」や「知賀氏」他・・多数の家々・・
ちなみに「知賀氏」は「智賀」でもあり、書籍では「値賀」とあります。
気になって調べると
日本姓氏語源辞典
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1239675.html
チガ 値賀 熊本県、長崎県平戸市。長崎県北松浦郡小値賀(オヂカ)町発祥。佐賀県東松浦郡玄海町平尾付近(旧:値賀(チカ))は鎌倉時代から記録のある地名。
チガ 知賀 徳島県、兵庫県、大阪府。値賀姓あり。熊本県人吉市麓町が藩庁の人吉藩士に江戸時代にあった。
チガ 千雅 千葉県山武市。千葉県山武市松尾町水深に分布。値賀姓あり。
(p_-)・・
チガ 値賀
長崎県北松浦郡小値賀(オヂカ)町発祥。佐賀県東松浦郡玄海町平尾付近
熊本県人吉市麓町が藩庁の人吉藩士に江戸時代にあった・・
松浦?????
有馬氏とか値賀氏とか・・何だか佐賀県や長崎県に繋がっていないか〜っ??
と思って調べたら\(◎o◎)/!
ナント!!「淵田氏」も「松浦」方面に繋がっていました!!\(◎o◎)/!
偶然かもしれませんが・・(?_?)・・(p_-)
でも、すご〜く気になるので次回のコメントでご紹介致します(..)
では(..)
[59] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月01日 19時37分55秒 ) | パスワード |
ぎゃあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!\(◎o◎)/!
日本の苗字七千傑様〜〜〜!!!白石様〜〜〜〜〜〜〜!!皆様〜〜〜〜〜!!
先程のコメント58で書いた
旧宮原村の地頭の一人であった知賀氏(値賀氏)
長崎県北松浦郡小値賀(オヂカ)町発祥。佐賀県東松浦郡玄海町平尾付近
熊本県人吉市麓町が藩庁の人吉藩士に江戸時代にあった・・
長崎県北松浦郡小値賀(オヂカ)!!!!!
こっここは〜〜〜!!
平河師高が地頭職に補任された場所でした!!!!!
今までこちらの「平川家について」で何度も何度も書いたあの場所!でした!!
(今、気が付きました\(◎o◎)/!)
★藤原家基の叔父「尋覚」が本来、平河師高が地頭に補任されるはずであった小値賀島地頭職に補任された。
松浦の小値賀でした\(◎o◎)/!
ついに!!!ついに!!!
ここ数年来の調査が繋がってきました!!!!!
嬉しくて涙が出てきました。
[61] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月02日 14時41分36秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
昨晩書いたコメント59ですが「小値賀島地頭職」について、再度ご説明を(..)
「小値賀島地頭職」の件は
平川家について12・13以降〜平川家について18 の間に頻繁に取り上げていました。
特に平川家について15コメント2では詳しく周囲を取り巻く関係を書かせて頂いていました。よろしければ、皆様、再度ご覧ください(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101367.html
小値賀島地頭職に繋がる内容のみをピックアップして転記すると
平川家について15コメント2 より
※藤原忠宗(父:藤原家忠)の兄弟について
@藤原家光 - 橘俊綱の子(藤原家忠養子)・・球磨での呼称「須恵小太良」こと「藤原家基」の父。
A尋覚・・「平河師高」に対して、文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任とあったが、実際に補任されたのは「尋覚」。
B藤原忠兼・・大江忠成(父:大江広元)の母(出自不詳)の養父。
(p_-)上記にある
藤原家基・・『肥後園球磨郡図田帳』における「須恵小太良」。
平河師高・・『肥後園球磨郡図田帳』では永吉庄地頭 良峯師高子息平紀平次とある。
大江広元・・『肥後園球磨郡図田帳』における永吉庄の預所。
尋覚・・「平河師高」に対して、文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任とあったが、実際に補任されたのは「尋覚」。
旧宮原村の「平河氏」「宮原氏」「深水氏」「新堀氏」「蓑田氏」「出田氏」「恒松氏」等他 その中の地頭の一人であった「知賀氏(値賀氏)」
宇野御厨小値賀島・・長崎県北松浦郡小値賀。長崎県北松浦郡小値賀発生・・「知賀氏(値賀氏)」
肥後国相良藩士分限帳を全ページ朝から見たのですが、「知賀氏(値賀氏)」は宮原村のみに見えるようです(見落としがあるかもしれませんのでもう一度確認してみます(..))
(p_-)
日本の苗字七千傑様のサイトで「値賀氏」を検索しました。
すると《融流源氏》姓氏類別大観にたどり着きました。
《融流源氏》姓氏類別大観を拝見すると・・
源 融 → 昇 → 仕 → 箕田 宛 → 渡辺 綱
箕田氏・・・みのだ・・・蓑田・・??
さらに・・
《上松浦党》姓氏類別大観に進むと・・
【値賀氏】!!ありました!!
こちらには「山本氏」そして「有馬氏」も見えます・・
《下松浦党》姓氏類別大観にも「値賀氏」が見えます。
さらに・・こちらには森田氏もありますね・・(祖母の実家平川家の分家であるお隣の平川家の婿養子に森田家の方が入られています)
鶴田氏もこちらに見えますね・・
掲載姓氏を拝見すると気になるのが「久保氏」です。
私の家のすぐお隣の家・・祖母や親戚は皆「久保」と呼んでいるのですが、姓は「久保元」です(昭和初期に久保本に変わっています)
「久保元(本)」だけど・・祖母の年代の人達までは「久保」と呼ばれていました。(江戸末期に久保元津(権か?)左衛門と言う方がいらっしゃったお家です)
ちなみに・・相良氏族「久保田氏(窪田氏)」も、系図を拝見すると、江戸末期に久保田から「久保」に姓が変わっています・・
(偶然だとは思いますが・・)
あの・・実はコメントには書いていなかったのですが・・集合写真の中央下に赤ちゃんを抱いて座っている女性が戸籍上の祖父の従姉(正確には従姉の娘です)。
こちらの女性が「お公」おばさんなのですが・・お公おばさんの妹の嫁ぎ先が「渡辺家」です・・・
渡辺家・・そう言えば・・五木にもいらっしゃいました・・(先日、コメントしていました)
《渡辺氏分流系図》姓氏類別大観に進んで拝見致しました。
藤並 明 → 伝 → 悟 ・・この方から・・「宮原氏」もあるのですね・・
掲載姓氏を拝見すると「岩崎氏」「原氏」が見えます。
「あさぎり町岡原北宮麓地区」の承應4年(1655年)建立の庚申塔にも
「原氏」と岩崎氏(三名)の名が残っています・・
肥後国相良藩士分限帳「宮原村」の相良藩士に見える
「蓑田氏」「知賀(値賀)氏」「山本氏」「宮原氏」。
「あさぎり町岡原北宮麓地区」(旧宮原村宮麓)の承應4年(1655年)建立の庚申塔に見える
「有馬氏」「原氏」「岩崎氏」「宮原氏」
《融流源氏》姓氏類別大観から進んだ《渡辺氏分流系図》・《上松浦党》・《下松浦党》姓氏類別大観の中に掲載された姓氏の中に・・
宮原村に関係した「姓氏」が沢山見えます・・
さらに・・「あさぎり町岡原北宮麓地区」(旧宮原村宮麓)の承應4年(1655年)建立の庚申塔に見える「淵田氏」なのですが・・
《上松浦党》波多氏の家臣団に「淵田氏」の名前がありました!!
東松浦郡史 に詳しく書かれています。
ネットにも公開されていますのでご紹介致します。
東松浦郡史
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/higasimatuuragunsi.html
東松浦郡史サイト内に
其七 三河守鎮が家臣 の項があります。
その中に
淵田祐四郎秀里 橘 秀里 立川村(西松浦郡立川)三百石
とあります。
他
値賀伊勢守森昌 菅原森昌 値賀村 二百石
値賀三郎太吉渡 源 吉渡 同 百 石
原 善四郎源佐 秦 源佐 大川野村(西松浦郡大川野)三百石
他、こちらのサイトにも解りやすく書かれていました。
画面をスクロールすると「波多三河守親の家臣」の項が出てきました。
http://hizenkoku.sagafan.jp/d2013-08.html
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里 立川村(西松浦郡立川)三百石
松浦郡の「淵田氏」ですね・・
宮原村宮麓にあった「淵田氏」と直接繋げる訳にはいきませんが、ただし・・
宮原村の淵田氏は明らかに
値賀氏・が在する宮原村宮麓の承應4年(1655年)建立の庚申塔に
「有馬氏」「原氏」「岩崎氏」「平河氏」「宮原氏」と共に名前を刻んでいます・・
球磨郡旧久米郷宮原村と肥前国松浦郡は「かなり縁が深かったのでは?」と推測するのは私の妄想でしょうか?
今日、コメントさせて頂いた事は偶然なのでしょうか・・??
では・・
[62] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月03日 11時10分00秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
公業は早くから頼朝に従い、伊予、肥前、肥後、薩摩などに領地を賜う。
小鹿島公業は奥州征伐の折、羽後男鹿島に領地を賜う。
この関係から安倍氏、嵯峨源氏松浦氏との姻戚関係が出来た。
松浦氏との姻戚から、公業の後裔は肥前松浦郡小鹿島が本拠。
後裔の多くも肥前に栄え、渋江氏は直胤。
[63] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月03日 13時36分31秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
>小鹿島公業は奥州征伐の折、羽後男鹿島に領地を賜う。
この関係から安倍氏、嵯峨源氏松浦氏との姻戚関係が出来た。
>松浦氏との姻戚から、公業の後裔は肥前松浦郡小鹿島が本拠。
伊予橘氏 橘公業の系と松浦氏、そして肥前松浦郡との関係、しっかりと理解出来ました。
球磨郡旧久米郷宮原村と肥前松浦郡の各氏との繋がりも偶然ではなかったのだと理解する事が出来ました。
本当にありがとうございます。
所で・・昨日コメントした
東松浦郡史
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/higasimatuuragunsi.html
其七 三河守鎮が家臣 の項にある
淵田祐四郎秀里 橘 秀里 立川村(西松浦郡立川)三百石
淵田氏で本姓「橘」の淵田祐四郎秀里・・橘 秀里
この方について新たに解った事があります。
淵田祐四郎秀里・・橘 秀里 この方は『松浦古事記』には別の名前で載っていました。
松浦古事記
http://tamatorijisi.web.fc2.com/matuurakojiki2.html
波多三河守の家臣 の項に
野田祐四郎橘秀里 立川村 三百石 とあります。
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里 立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里 立川村 三百石 ※松浦古事記より
明らかに同一人物と思われるのですが・・
野田祐四郎橘秀里と言う方は後に淵田祐四郎橘秀里 と名乗ったのか・・
本姓「橘」とする「野田氏」・・
非常に気になりまして、早速、ネット検査を用いて、日本の苗字七千傑様のサイトで「野田氏」の検索を行ったのですが・・
登場したのは、姓氏類別大観 熊野氏(熊野国造)\(◎o◎)/!・・マタマタ登場です!!
検索サイトでピックアップされた他多数の姓氏類別大観○○氏の中に
姓氏類別大観 橘氏
姓氏類別大観 嵯峨源氏
\(◎o◎)/!・・・・・・・(p_-)
早速 熊野氏(熊野国造)姓氏類別大観を拝見しました。
《和田氏》姓氏類別大観 系図の中姓氏類別大観の系図に見える「楠木正俊」の子「正実」この方から「野田氏」です!
さらに検索であがった「姓氏類別大観 橘氏」に進みました。
《楠木氏》姓氏類別大観 を拝見すると上記の「楠木正俊」の子「正実」(野田氏)
\(◎o◎)/!・・そうか!!こちらの「野田氏」は伊予橘氏である我々宮原の一族と同族!!\(◎o◎)/!
さらに・・
検索にあがった「姓氏類別大観 嵯峨源氏」に進みました。
昨日コメントした《渡辺氏分流系図》姓氏類別大観が登場!
「渡辺 定」こちらの系に「野田氏」ありました!あっ「和田氏」も見えます!
あの・・上記以外に「姓氏類別大観 良峰氏」にも「野田氏」が見えました。
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里 立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里 立川村 三百石 ※松浦古事記より
野田祐四郎橘秀里と淵田祐四郎橘秀里は同一人物・・
上記の事が非常に気になり調べた結果が・・何だか全て繋がっているような気がします・・
さらに、
松浦古事記 に記述されている内容の「吉志峯城主 波多三河守代々法號並ニ略系」というか・・「吉志峯」って・・????(?_?)
http://tamatorijisi.web.fc2.com/matuurakojiki2.html
波多氏の居城「岸岳城」は別名「吉志峯城」なのですね!
吉志峯城・・よしみね城・・よしみね・・\(◎o◎)/!・・・
モヤモヤが頂点に達しそうです((+_+))
さらに・・上記サイトの「吉志峯城主 波多三河守代々法號並ニ略系」を拝見すると
波多伊勢守好政
波多丹波守橘好度
波多三河守橘好久
波多信濃守橘好教
波多三河守橘好清
一翁了好大禪定門 三河守嫡男孫三郎法名
こちらはおそらく「伊予橘氏」との姻戚関係が”濃厚”なのではないのでしょうか・・??
今日は
「吉志峯城主 波多三河守」の家臣であった
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里 立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里 立川村 三百石 ※松浦古事記より
おそらく同一人物であっただろう「野田氏」本姓「橘氏」をヒントに調査を致しました。
宮原の曾祖父の姪である「淵田家(渕田)」の娘達は其々、一人は宮原家の養女となり、一人は平川家(本姓良峰)に嫁ぎ・・
と言った事からやはり「淵田家」はとても気になります。
(..)
[64] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月03日 17時21分27秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
岸岳城の別名は貴志岳城、鬼子城、吉志峯城、岸獄城など。
全てキシダケジョウ、良峯氏とは関係なし。
波多氏は好の通字から、渋江氏同様に橘好古の後裔を称したかったのでは?
もちろん渋江氏も橘好古の後裔ではない!
[66] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月03日 23時16分12秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。
〉岸岳城の別名は貴志岳城、鬼子城、吉志峯城、岸獄城など。
全てキシダケジョウ、良峯氏とは関係なし。
吉志峯城・・キシダケジョウと読むのですね。
私は、てっきり「よしみね」と読むのかな?と・・とんだ勘違いでした。
お恥ずかしい(..)
〉波多氏は好の通字から、渋江氏同様に橘好古の後裔を称したかったのでは?
もちろん渋江氏も橘好古の後裔ではない!
そうですよね!渋江氏は橘好古の後裔ではありません(ー_ー)!!
そう言えば・・「好」の字
南北朝時代に球磨に名を残した「橘 公好」も「好」の文字が・・
橘好古の後裔を称したかった・・と言う事ですね・・
しかし渋江氏は橘好古の後裔ではありません(ー_ー)!!
所で・・
今までのコメントには書いていなかったのですが
平川の高祖母の実家「淵田家(渕田家)」ですが、宮原村宮麓の承應4年(1655年)建立の庚申塔には名を残していますが、その後多良木に移ったようです。
(現在も宮麓地区には渕田家はありません)
享保三年(1718年)の分限帳には
多良木村横目 渕田大七
多良木村庄屋 渕田六兵衛
とあり、平川の高祖母の実家の「渕田家」は庄屋家でした。
明治維新以降の多良木村初代村長・第四代村長も渕田家。多良木町初代町長も渕田家です。
ちなみに・・
平川の曾祖父の弟の一人が跡継ぎとして養子に入った湯前の平川家ですが、江戸末期の湯前村の庄屋家で当主「平川芳左衛門」は明治維新後に「平川栄一」と名を変え、人吉県時代、村長制度が始まる前は湯前村の戸長となりました。
「平川芳左衛門(平川栄一)」の養子に入ったのが、平川の曾祖父の弟「源一」です。
源一おじさんは、湯前村が「町」に変わって、その湯前町の初代町長となりました。
ブログにアップした写真の右端椅子に座って子供を前にしているのが源一おじです。
高祖母の実家の「淵田家(渕田家)」。そして「平川家」・「宮原家」「久保田家」は二重三重の姻戚関係が結ばれている・・と言う事です。
日本の苗字七千傑様、おっちょこちょいの私ですがどうぞ、今後ともご教示の程よろしくお願い致します。
[67] | 酒井ともさんからのコメント(2016年02月04日 14時48分47秒 ) | パスワード |
こんにちは。横レスです。
来年のNHK大河ドラマは「女城主 直虎」に決まり
静岡県浜松市は大いに盛り上がっているところです。
ところで、プチ盛り上がりをみせているのが、
浜松市を少し東に進むとある御前崎市新野地区。
何が盛りあがっているかと云うと、
「女城主 直虎」の母親「祐椿尼」の故郷が新野地区になるそうで、
尚且つ殺されかけた「井伊虎松直政」を助命嘆願し匿い育てたのが
「祐椿尼」の兄の「新野左馬助親矩」なのだそうです。
その新野地区を中継地として、信濃へ続く塩街道を北にたどれば、起伏はありますが、
距離にして5・6キロにて「横地太郎」本拠地の横地城に至ります。
最近知りましたが伝承では
横地太郎の父親は八幡太郎義家、母親は相良庄司維頼(光頼)なんですね。
>球磨の新堀氏の祖は、相良頼景に随行した「新堀又四郎頼兼」。
>新堀又四郎頼兼の妻は相良頼景の末娘で、母は須恵氏の娘となります。
旧榛原町(現牧之原市)の地名は詳しくないのですが、
新堀なる地名があるのですね。
別所ですが、浅羽庄司が治めた浅羽庄に新堀の地名もあります。
横地系図では勝間田氏の祖は横地太郎の子、権ノ守が勝間田氏を名乗り桃原に住する。
同系図では新野氏の祖は横地三代長宗の次子が新野を名乗る。
簡単に文字地図にしますと、こんな感じでしょうか。
東海道
火剣山
横地城
平川堤城
浅羽庄 新野城 相良庄 勝間田城
遠州灘 駿河湾
新野城に関しては、新野古城・新野新城・天ケ谷城など四城の遺構が確認できるそうです。
ただ今川文書等では、戦国期の新野を治めていたのは、「高橋氏」になるそうです。
自分はこの高橋氏こそが、横地系新野氏の末孫ではないかと考えているのですが、どうでしょうか。
高橋氏の新野天ケ谷城の隣地区は旧小笠町の大字「高橋」になりますので、
新野氏の一族が高橋氏を名乗ったのではと、思い巡らせているところです。
戦国期 天ケ谷城には「高橋左近将監」が籠っていましたが、
最後は永禄末期より天正初期に武田家に滅ぼされた文献があるそうです。
その関係でしょうか、現在新野地区には「新野」姓は一軒もないそうで、地元の方々も
何故、新野氏の子孫が残らなかったのか不思議に思っています。
それと、先の新野左馬助親矩の新野氏はどうやら、横地系新野氏ではなく、今川系の新野氏だそうです。
[68] | 酒井ともさんからのコメント(2016年02月04日 17時15分49秒 ) | パスワード |
すみません、訂正です。
「火剣山」の南に「横地城」
「横地城」の南西に「平川堤城」があります。
次に「勝間田城」の南が「駿河湾」になります。
御前崎灯台より大井川河口までを通称「釘ケ浦(くぎがうら)」です。
[69] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月04日 23時15分43秒 ) | パスワード |
酒井とも様
御教示ありがとうございます。
相良氏は静岡県から熊本県球磨郡へ。
球磨の新堀氏の祖は、相良頼景に随行した「新堀又四郎頼兼」。
ちなみに、太田氏も相良頼景に随行して球磨に来られました。
多良木太田家住宅
http://www.town.taragi.lg.jp/q/aview/28/1804.html
静岡県に縁の深い球磨・人吉です。
〉浅羽庄司が治めた浅羽庄に新堀の地名もあります。
浅羽庄の新堀ですね!。実は、こちら(球磨・人吉)には新堀という地名は無いのです。
とても参考になります。ありがとうございます。
〉新野地区を中継地として、信濃へ続く塩街道を北にたどれば、起伏はありますが、
距離にして5・6キロにて「横地太郎」本拠地の横地城に至ります。
横地氏は相良氏と同族ですね。
〉「井伊虎松直政」を助命嘆願し匿い育てたのが
「祐椿尼」の兄の「新野左馬助親矩」
井伊氏と新野氏には強い繋がりがあったのでしょうか?
ちなみに井伊氏の家紋は丸に橘(彦根橘)。
井伊氏 → 貫名氏 貫名氏からは日蓮聖人が・・
日蓮聖人を擁護した南部 実長・南部 実継親子。
南部実継の娘は私共、宮原の一族の先祖「橘公綱」の妻となります。
何か、全てが繋がっているような気がするのですが・・
文字地図 すごく解り易かったです(^'^)
所で・・私の勉強不足で全く知らなかったのですが・・「平川堤城」 驚きの名前です(p_-)・・
〉「横地城」の南西に「平川堤城」があります。
横地城と平川堤城は近いのですね・・
御教示頂いた「平川堤城」をぜひ勉強したいと思います。
酒井とも様
ご丁寧に文字地図までお書き頂き、本当にありがとうございました。
私はやはり静岡県について勉強不足です。反省致しました。
今後ともご教示の程、どうぞよろしくお願い致します。
[70] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月05日 12時00分27秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>私はやはり静岡県について勉強不足です。反省致しました。
平川氏の発祥地は、遠江国城東郡平川邑ですよ。
建久9年(1198)、相良氏と共に遠江から肥後に下向したのですから。
下記URLもご参考に。
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/04tyubu/22_sizu31.htm
[71] | 酒井ともさんからのコメント(2016年02月05日 14時01分00秒 ) | パスワード |
こんにちは。横レスです。
平川の堤城ですが、築城が比較的新しく、1500年頃とのことです。
しかも、城主の松井氏が北遠の二俣城主となり、その時に廃城したようで、
地元に伝わる、血なまぐさい戦乱の悲話等は無いようです。
横地城より平川の堤城までは、平坦な道で徒歩1時間程の距離でしょうか。
この松井氏が移住した二俣城ですが、昔は横地太郎の養い親の二俣氏が城主だったようです。
横地太郎の養い親の二俣氏一流は横地城の北面の神社宮司になった記述があります。
時代は下がりますが、横地城も破却され、横地の地も松井氏が統治していたと考えます。
その松井山城守が、その二俣城へ城主として栄転するとは、何か因縁を感じます。
ちなみにこの松井家は室町幕府御家人らしく、同族には熊本藩八代城主の松井氏もいます。
>井伊氏と新野氏には強い繋がりがあったのでしょうか?
>ちなみに井伊氏の家紋は丸に橘(彦根橘)。
>井伊氏 → 貫名氏 貫名氏からは日蓮聖人が・・
藤原南家〔藤原鎌足十一代目〕武智麻呂の四男乙磨の末裔[藤原為憲]工藤氏流。従五位下、
木工助(木工助藤原を略し工藤を号する。)駿河国・伊豆国守護。甲斐国・遠江国権守。
横地家・勝間田家・浅羽家・内田家・原家・相良家・西郷家・井伊家・赤佐家・貫名家・
狩野家・宇佐美家・天野家・新(仁)田家・田代家・北条家・南条家・伊東家他諸家祖。
上記の記述によれば、横地・勝間田・浅羽・相良・井伊・貫名氏は皆一族になります。
新野家の記載はありませんが、伝承では横地家の分かれなので為憲系になりますね。
横地家や井伊家にしても神秘的な伝承がありますが、工藤為憲が家祖になるのでしょうか。
実際に井伊直政の彦根藩家老職を務めた横地家や重臣の小幡(勝間田)家
戸塚(勝間田)左太夫家(幕末に勝間田に改姓)等の所縁の家があります。
>日蓮聖人を擁護した南部 実長・南部 実継親子。
>南部実継の娘は私共、宮原の一族の先祖「橘公綱」の妻となります。
この南部家は南朝方として活躍した、南部師行の家系なんですね。
ところで、菊川市の平川ですが、調べましたら、明治22年の町村制の施行により、
下平川村、堂山新田、嶺田村、上平川村が合併して城東郡平田村が発足。
バス停にも確か「上平川」「平田」「下平川」はありますし、
「平川の親戚」などの会話が自分の耳に残っていますので、馴染みな地名なんですね。
平安末期から鎌倉初期頃に「平川氏」が有ったのかは勉強不足で分かりませんが、
横地地区同様に、平川地区は牛渕川による水の恩恵を多分に受けれた土地でしょうし、
横地氏の一族、もしくは従属者が居たことは間違いないでしょうね。
[72] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月05日 22時32分18秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様、酒井とも様、ご教示ありがとうございます。
日本の苗字七千傑様
〉平川氏の発祥地は、遠江国城東郡平川邑ですよ。
建久9年(1198)、相良氏と共に遠江から肥後に下向したのですから。
※建久9年(1198)、相良氏と共に遠江から肥後に下向・・
御教示を拝見して、一瞬「何何なに????」となってしまいました。
でも・・
じっくり考えてみたのですが、定説で平河氏が最初に下向したと言われる康平六年(1063年)。
この年号を知り得るものは、あくまでも「平河氏伝授巻」。すなわち平河氏が後世に書き残した文書のみです。
「高野山文書」
天養1年12月19日 高野山文書又続宝簡集百二
久万郡住人貞倫并舎弟六郎重平等、追掃同郡住人守高城内、押既収種種雑物人馬 虜領彼所領田畠事、与力人日向国真幸院住人字小郡司貞重波多利三郎別当正晴入田太郎貞明和良比草次末平草藤次貞守当国住人八代藤三重永同所従字四郎別当同舎弟○文中天養元年十二月十九日トアルニ依リ姑クココニ改ム。
この時に襲われた人物ですが「同郡住人守高」とあり「平河」と言う姓は実は出ていないのです・・
相良氏と共に下向した人物「遠江国城東郡平川邑発祥のA氏」が平安時代に在した球磨の豪族某氏の跡を継ぎ、「平河氏」となった・・と言う事でしょうか。
真実は、視点を変えないと決して見つからないという事ですね。
酒井とも様
「平川の堤城」お調べ頂きまして本当にありがとうございます。
〉松井家は室町幕府御家人らしく、同族には熊本藩八代城主の松井氏もいます。
松井家は肥後に繋がっているという事ですね。
〉下平川村、堂山新田、嶺田村、上平川村が合併して城東郡平田村が発足。
実は・・平川の曾祖父の弟が継いだ旧久米村の平川家なのですが、「久米村の堂山」という地区にありました。
〉横地地区同様に、平川地区は牛渕川による水の恩恵を多分に受けれた土地でしょうし、
横地氏の一族、もしくは従属者が居たことは間違いないでしょうね。
横地氏・・宮原の曾祖母の実家「新堀家」とは縁が深いのでは?とは感じていましたが・・
しっかりと、調査します。
ありがとうございました。
所で・・
熊本県文化財調査報告第237集 小 枝 遺 跡
が2015/12/24ネットに公開されました。
気が付いたのは今日なのですが、こちらの135ページに渡る中に「平河氏の研究」記載されています。
深田村の小枝遺跡に平河氏が深く関わっていると思われるという序文から始まります。
74ページ〜81ページにかけて「文献に見る平河氏」(士野雄貴氏著)の表題の論文が記載されています。
内容については明日コメントさせて頂きます。
リンクが張れないようですのでアドレスを御紹介します。
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/.../15924_1_小枝遺跡.pdf
もし表示されないようであれば
熊本県文化財調査報告第237集 小枝遺跡 で検索されて見て下さい。
日本の苗字七千傑様、酒井とも様、今後ともご教示の程よろしくお願い致します。
[73] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月05日 23時56分04秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>※建久9年(1198)、相良氏と共に遠江から肥後に下向・・
御教示を拝見して、一瞬「何何なに????」となってしまいました。
教科書的なものに頭が汚染されているからですよ。
平川氏の康平六年(1063年)下向も建前で、平安中期以降常識の遙任だと思いますよ。
本当は相良氏の建久9年(1198)下向でさえ怪しい。
実際の所、補任辞令だけと思いますよ。
なぜなら薩摩の島津氏でさえ、初代忠久、二代忠時は鎌倉在府、下向は三代久経からですよ。
家臣の多くも下向したものの前任者が居座り、実効支配までほぼ百年かかった様子。
また相良氏も平川氏も初期は八代あたりを実効支配、内陸部支配は少し後世になってからでは無いかな?
[74] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月06日 22時27分46秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^'^)
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
〉教科書的なものに頭が汚染されている・・
やはりそうなのですね・・
〉平川氏の康平六年(1063年)下向も建前で、平安中期以降常識の遙任だと思いますよ。
本当は相良氏の建久9年(1198)下向でさえ怪しい。
遙任・・日本の奈良時代・平安時代などに、国司が任国へ赴任しなかったことを指す。遥授(ようじゅ、遙授)ともいう。遥任国司は、目代と呼ばれる代理人を現地へ派遣するなどして、俸禄・租税などの収入を得た。
一定の租税額が確保できたことを背景として、朝廷は国司へ徴税・軍事などを委任していった。この体制を国司請負制ということがある。広範な権限を与えられた国司は、現地の有力者を登用したり、代理人(目代という)を派遣したりして、現地支配を行うようになった。そうなると、国司が任国へ赴任する必要が薄れて、実際に任国へ赴任しない国司が次々と現れた。これが平安期の遥任であり、時期を追うごとに遥任国司は増加していった。こうした状況に対し、913年(延喜13年)、醍醐天皇が遥任国司を取り締まる法令を発したが、効果はあまりなかった。
平安中期ごろには、遥任は一般的に見られるようになっていた。そして、実際に任国へ赴任した国司のうち、最高責任者を受領と呼ぶようになっていた。本来、国司の最高職は国守だったが、遥任により現地に在住しなかった場合は、介・掾・目 のうちから受領が出ていたのである。
その後、国司が実質的に消滅する室町時代まで、国司の遥任が収まることはなく、常態化していった。
ウィキで勉強しました(..)
やっと理解出来ました。
〉相良氏も平川氏も初期は八代あたりを実効支配、内陸部支配は少し後世になってからでは・・
やはり”八代”辺りがキーワードなのですね・・
そう言えば平河氏は”肥後山本郡”という地名も実際に出ていました。
※薩摩の島津氏でさえ実効支配までほぼ百年かかった様子
日本の苗字七千傑様のご教示を念頭に置き、先入観を取り払い、今日、論文や文献を読んでみたのですが・・
ナント!相良氏・平川氏ではなく・・球磨郡久米郷東方を支配した「橘氏」について気が付いた事がありました!!
求麻郷土研究会 郷土 第十八号(平成二年三月発行)
こちらに記載の論文、「上相良藩の興亡 園田健昌氏著」。
第三代六郎頼宗の項に
「永仁元年(1293年)に父、頼氏の跡を継いだ様である。
頼宗の代に久米の地頭、橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行した様である。
橘氏は肥前の国へ・・
\(◎o◎)/!・・
相良六郎頼宗は橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行!!
相良六郎頼宗とは上相良二代弥五郎頼氏(相良長頼の次男)の子。
さらに・・ 相良六郎頼宗の子「頼吉」こそが久保田(窪田)氏の祖となります。
あんれっ??久保田(窪田氏)の祖は・・「頼吉」・・「吉」??でした・・
今頃気が付きました・・(..)
相良六郎頼宗の治世は短く九ヵ年位で正安三年(1301年)卒。法名蓮空。
上記の記述に気が付いてあらためて考えてみると・・
家の前の川は「井口川」。井口です・・井口氏は後世の相良藩士(人吉城下)のイメージが大きくて(先入観がじゃまをしていました)スルーしていたのですが、井口氏の祖は・・
橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行したと言われた相良六郎頼宗の孫「相良頼召」でした!!
相良六郎頼宗と橘薩摩氏との関係は・・引継いだという事は何等かの姻戚関係が発生したのでしょうか?!
相良六郎頼宗の子「頼吉」久保田(窪田)氏の祖・・
相良六郎頼宗に久米郷東方を引継ぎ「肥前の国」へ・・の橘薩摩氏ですが、その後「久米郷の地頭」としてやっと?名前が登場するのは・・
人吉・球磨 郷土史年表 永野博蔵氏著 で確認出来ます。
康永二年(1343年)六月頃 橘遠江禅門下着せり
こちらの記述からですね・・
橘遠江禅門とは橘遠江入道道公か?と推測します。
「下着」と言う事は何れかより、久米郷東方に下着した・・と言う事ですね。
橘遠江禅門こと橘遠江入道道公は
”正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏に追われた長門探題足利直冬が側近河尻幸俊の助けで肥後に入った。所謂、観応の擾乱であるが、直冬は南朝勢と通じつつ、大宰府を目指して北上し、少弐頼尚と連合して、一色範氏と争うという、複雑な対立構造となった。同じ頃、球磨郡では、多良木経頼が再び挙兵して、久米[10]の領主橘道公も同調し、河尻幸俊を通じて直冬とも組した。”
とウィキ「相良定頼」の記述にも登場します。
その後・・
「相良定頼并一族等所領注文」で橘遠江入道道公跡は相良式部丞他三名分
同一族討死分として
式部丞跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地貳拾町
日向国三俣院内南方田地
木公左衛門尉跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地貳拾五町
日向国財部郷田地
中務丞跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町
日向国三俣院内南方田地
同新三郎跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町
日向国財部郷田地
さらにその後・・
橘薩摩公多所領譲状より
肥後国久米郷東方分宮原・豊前国副田庄の内、大屋敷並に地頭職を左衛門が処に譲与する・・
となります。
橘薩摩公多とは渋江系図に見えます。
公多の子か?「橘公頼」そして「橘公冬」・・と球磨久米郷に名を残した「橘氏」です。
久米郷東方の橘薩摩氏と上相良氏との繋がり・・
今日は教科書的な考えを一旦消して・・調査をまとめてみました。
日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。
[75] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月07日 16時00分07秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
昨晩のコメントの追記(訂正)があります(..)
求麻郷土研究会 郷土 第十八号(平成二年三月発行)にある「上相良藩の興亡 園田健昌氏著」。
昨日は途中まで読んだところでこちらのコメントを書いてしまったので、「上相良藩の興亡 園田健昌氏著」の最後に追記がある事さえ気が付いていませんでした(..)
追記の項に
校正も終わり印刷にかかった頃、貴重な史料の発見を得た。それは士族有志と記した明治廿一年の記録である。
とありまして・・
六郎頼宗 建武元年二月十三日
と書かれています。
建武元年と言う事は「1334年」ですね。
※康永二年(1343年)六月頃 橘遠江禅門下着せり・・・
上相良氏と伊予橘氏である「橘薩摩」の一族との関係は全く解りませんが、
橘十郎公義よりの渋江系図、公村より三代目「渋江公経」。
渋江公経。
服部英雄氏著 景観にさぐる中世 記載の「橘薩摩氏系図」を拝見すると
渋江 公経(公頼)とあり「頼」の文字が見えます。
偶然でしょうが・・相良氏の通字は「頼」ですね・・
橘十郎公義・・橘公義この方の通称は「十郎」ですね。
ただ・・さらに気になる”通称”が・・
※薩摩弥次郎 公経 ※渋江弥次郎 公重
服部英雄氏著 景観にさぐる中世 記載の「村立時にみる課品数」をみても
※弥三郎入道厳蓮 ※弥十郎公胤 ※弥次郎久治布留 ※弥二郎入道持蓮
※弥五郎公家 ※弥二郎公頼 ※弥四郎公豊
あの・・偶然だとは思いますが・・
上相良氏
第 二代 弥五郎頼氏
第 三代 六郎頼宗
第 四代 弥三郎経頼
第 五代 十郎頼仲
偶然だとは思いますが・・・・・・・
偶然とは思いますが・・ただ、今まであまり調べていなかった「上相良氏」。
(だいたい、曾祖父が久保田氏から養子に入っているのに・・非常に反省(..))
調べると・・モヤモヤがますます膨らんでしまいます(..)
あと一つ、
上相良氏「相良頼吉」を祖とする「窪田(久保田)氏」。
そもそも・・窪田(久保田)って・・いったい何処の地名?なのでしょうか???????
私の頭に浮かぶ「窪田(久保田)」と呼ばれた”その土地”は・・
東北の”あの国”の”あの場所”なのですが・・・・
(ー_ー)!!・・ダメダメ・・
でもな・・?? 球磨郡には「窪田(久保田)村」とかあったかな?????
(?_?)・・(-.-)・・(..)
では。
[76] | 酒井ともさんからのコメント(2016年02月08日 10時13分11秒 ) | パスワード |
こんにちは。横レスです。
横地太郎が崇拝した、上平川の春日神社の成り立ちです。
車では何度も往復した道ですが、知らない神社が沢山あります。
菊川の東岸に鎮座する。
当社の背後に奈良淵という地名があり、北は奈良野に接しているから
「奈良神社」の社名がつけられたものと推測される。
中世「奈良春日」と称し、後に「奈良」の文字を省略して「春日大明神」と称した。
神社の南側に前方後円墳(大塚古墳と称する)があり、
「崇神天皇第六世の孫、奈良別之命が奈良の淵のほとり大官屋敷に住まれ、
崩じて大塚古墳に葬られた『池村の王』であり、その御霊を祀つたのが
延喜式内の奈良神社即ち現在の上平川春日神社である。」と記されている。
春日神社
創建年代詳ならず。古老の伝承するところによれは、延喜式神名帳所載の遠江城飼郡二座の
一奈良神社にして中古奈良春日と唱え後世奈良の文宇を省略して春日大明神と称し奉る。
当社の背後に奈良野と呼ぶ所有りその所の古記を接するに八幡太郎義家及其妾腹の男
遠江国城飼郡横地の城主横地太郎家永深く当社を崇敬し、東横地藤谷山に分霊す。
此今の藤谷神社なり。明治6年3月郷社に列格する。
【延喜式神名帳】奈良神社 遠江国 城飼郡鎮座
【現社名】春日神社
【住所】静岡県菊川市上平川春日 30
北緯34度43分7秒,東経138度4分53秒
【祭神】天児屋根命
「伊勢神宮大祭主」天倭忍穗耳大神
【社格】旧郷社
【由緒】神亀2年(725)創建
明治6年3月郷社
同44年11月2日神饌幣帛料供進神社指定
【関係氏族】
【鎮座地】移転の記録はない
【祭祀対象】
【祭祀】江戸時代は「春日神社」と称していた
【社殿】本殿流造木造板葺
拝殿・幣殿・社務所・手水舎
【境内社】貴船神社・十二神社・金刀比羅神社・天白神社
諏訪神社・水神社・天神社・塩竈神社
実は、平川の堤城跡にも下平川の春日神社があります。
ただ、上平川の春日神社は横地氏発生よりも古いので、
堤城址の春日神社は松井氏関係が勧請したのか、
もしくは下社として創建されたのかもしれません。
>あと一つ、
>上相良氏「相良頼吉」を祖とする「窪田(久保田)氏」。
>そもそも・・窪田(久保田)って・・いったい何処の地名?なのでしょうか???????
>私の頭に浮かぶ「窪田(久保田)」と呼ばれた”その土地”は・・
>東北の”あの国”の”あの場所”なのですが・・・・
>(ー_ー)!!・・ダメダメ・・
>でもな・・?? 球磨郡には「窪田(久保田)村」とかあったかな?????
関係は無いのでしょうが、上平川の春日神社に境内社として
「久保之谷池水神社」が祀られています。
地図上でみれば、西に「菊川」東に「牛渕川」戴く、
水に恵まれた土地だったことが良く分かりました。
あと、上平川春日神社の北側地区を「奈良野」と云いますが、
奈良春日大社よりの謂れがあったんですね。
[77] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月08日 11時47分09秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>でもな・・?? 球磨郡には「窪田(久保田)村」とかあったかな?????
あくまでも推測だが、遠江掾橘遠保の後裔橘公忠(小鹿島公業の兄弟)も遠江に住する。
恐らく後裔は遠江国周智郡久保田邑に住したものと思われる。
後に後裔が肥後国球磨郡久多良木に移ったのと考えるのが妥当であろう。
[78] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月09日 05時02分40秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
酒井とも様、日本の苗字七千傑様、
御教示、本当にありがとうございます。
コメント遅くなりまして申し訳ございません。
酒井とも様
〉横地太郎が崇拝した、上平川の春日神社の成り立ち
大変詳しくご教示頂きましてありがとうございます。
御祭神
天児屋根命
「伊勢神宮大祭主」天倭忍穗耳大神
〉平川の堤城跡にも下平川の春日神社があります。
〉ただ、上平川の春日神社は横地氏発生よりも古いので、・・
非常に参考になります。
遠江国・・菊川市上平川・下平川の春日神社。
【延喜式神名帳】奈良神社 遠江国 城飼郡鎮座
御教示を頂き、ネットで検索したのですが、
春日神社
http://www.geocities.jp/engisiki/toutoumi/bun/to121101-01.html
菊川の東岸に鎮座する。
当社の背後に奈良淵という地名があり、北は奈良野に接しているから「奈良神社」の社名がつけられたものと推測される。
中世「奈良春日」と称し、後に「奈良」の文字を省略して「春日大明神」と称した。
神社の南側に前方後円墳(大塚古墳と称する)があり、「崇神天皇第六世の孫、奈良別之命が奈良の淵のほとり大官屋敷に住まれ、崩じて大塚古墳に葬られた『池村の王』であり、その御霊を祀つたのが延喜式内の奈良神社即ち現在の上平川春日神社である。」と記されている
奈良別之命
ウィキより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%88%A5
奈良別(ならわけ)は、古代日本の人物。表記は「奈良別王」とも。
下毛野君の祖で、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の子孫とされる。
記録[編集]
『日本書紀』では事績は記されていない。また、下記のように記載のある文献においても、四世孫か六世孫かで異同がある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。
『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。
後裔氏族[編集]
『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
皇別 左京 吉弥侯部 - 上毛野朝臣同祖。豊城入彦命六世孫の奈良君の後。
下毛野国造
ウィキより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%AF%9B%E9%87%8E%E5%9B%BD%E9%80%A0
下毛野国造(しもみつけぬのくにのみやつこ・しもつけぬこくぞう・しもつけののくにのみやつこ・しもつけのこくぞう)は下野国を支配した国造。もと毛野国造で、仁徳天皇朝〜孝徳天皇朝に上毛野国造と分裂した。
古代、香取海に注ぐ毛野川流域には、崇神天皇の皇子豊城入彦命を祖とし出雲神を祀る一大豪族が毛野国(けのくに)を形成し、大和朝廷においても強大な発言力を有していたが、その後毛野国は下毛野国と上毛野国(上野国)に分割された。古来より下毛野国は香取海に注ぐ毛野川流域であったが、利根川東遷事業により利根川に注ぐ毛野川流域地域となり、領域は現在の栃木県とほぼ同じである。
祖先[編集]
『日本書紀』によると、崇神天皇の皇子の豊城入彦命が東国統治を命じられ、上毛野国造や下毛野国造などの祖先になったという。また、その孫の彦狭嶋王が景行天皇朝に東山道十五国都督に任じられ、その子御諸別王も引き続き、善政を行ったという。『旧事本紀』によると、仁徳天皇朝に豊城入彦命の4世孫の奈良別が下毛国造に任じられたという。
氏族[編集]
下毛野氏。姓は君。天武天皇13年(684年)に朝臣を賜った。延暦2年(783年)には降伏した蝦夷に下毛野姓が与えられた。
子孫[編集]
下毛野古麻呂 …… 飛鳥時代の官人。刑部親王・藤原不比等・粟田真人らとともに大宝律令を選定。
下毛野虫麻呂 …… 奈良時代の学者。式部員外少輔。文章に優れていた。
下毛野年継 …… 平安時代の官人。官奴正。従五位上。
下毛野公時 …… 平安時代の武人。相撲使。藤原道長の随身。金太郎のモデルといわれる。
下毛野公忠 …… 平安時代の武人。近衛舎人。藤原頼通の護衛。
※下毛野公時
下毛野 公時(しもつけの の きんとき、1000年(長保2年) - 1017年(寛仁元年)[1])は、平安時代の官人。童話「金太郎」のモデルとなったとされる
\(◎o◎)/!・・球磨太鼓踊りの異風の歌詞 以前コメントした記憶があります。
木上だったかな?深田だったかな?「金時」という方の名があります。
再度、コメントを見直してみます。
酒井とも様、思わぬ展開となりました。ありがとうございました。
日本の苗字七千傑様、
〉あくまでも推測だが、遠江掾橘遠保の後裔橘公忠(小鹿島公業の兄弟)も遠江に住する。
恐らく後裔は遠江国周智郡久保田邑に住したものと思われる。
後に後裔が肥後国球磨郡久多良木に移ったのと考えるのが妥当であろう。
\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!・・失礼いたしました(..)・・でも、ビックリしました。
早速「遠江国周智郡久保田邑」について勉強しました。
周智郡
ウィキより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%99%BA%E9%83%A1
周智郡(しゅうちぐん、すちのこおり)は、静岡県(遠江国)の郡。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる[1]。
浜松市
天竜区の一部(春野町各町・水窪町各町)
袋井市の一部(村松・山科・久能・鷲巣・春岡・宇刈・上山梨・月見町・可睡の杜)
森町の大部分(三倉・嵯塚・牛飼および一宮の一部を除く)
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配
久保田村・・幕府領
近隣の森町も気になり調べたのですが・・
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、森町村、向天方村、橘村、天宮村、城下村が合併して(旧)森町が発足
こちらには「久保田山」があるのですね!
橘公忠
サイト 渋江系図より
http://tatibanaya.web.fc2.com/shibue.html
橘公忠
生没年未詳。鎌倉初期の武士。橘公長の男。源範頼の家人。建久4年(1193年)8月源範頼の配流先の伊豆国、浜の館にて討たれる。
日本の苗字七千傑様の《伊予橘氏》 元越智姓 姓氏類別大観を早速拝見しました。
橘公長 → 公忠 → 公高・・矢野氏
あっ!!!!「矢野氏」です。
偶然か?家の親戚にも「矢野家」さらに「中村家」・・
橘公忠は源範頼の家人。
源 範頼 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%AF%84%E9%A0%BC
源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。
遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。
武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。
妻 安達盛長女・・妻は安達氏ですね・・
子 範圓、源昭
※源 範頼。この方も遠江国の生まれなのですね・・・
源 範頼は書籍等で「源頼範」と記述されているものもありました・・
※橘公忠・源 範頼。死没 建久4年8月17日(1193年9月14日)
あの・・・単なる偶然かとは思うのですが・・
相良頼景が「平原次郎頼範」と「新堀又四郎頼兼」等と共に多良木に追放?されたのは「建久四年」です・・・
多良木に伝わる伝承では「ボロボロの姿で多良木に来られた・・」と言われています。
偶然の「建久四年」だとは思いますが・・
私の調査は新しい境地に入ってきたのでは!と感じています。
日本の苗字七千傑様、酒井とも様
御教示本当にありがとうございました。
[79] | 酒井ともさんからのコメント(2016年02月09日 15時51分27秒 ) | パスワード |
こんにちは。横レスです。
>あくまでも推測だが、遠江掾橘遠保の後裔橘公忠(小鹿島公業の兄弟)も遠江に住する。
>恐らく後裔は遠江国周智郡久保田邑に住したものと思われる。
>後に後裔が肥後国球磨郡久多良木に移ったのと考えるのが妥当であろう。
周智郡久保田邑とは現在は浜松市(旧春野町)で良いのでしょうか。
旧春野町でも、なかなかに山の方になりますね。
久保田の砦 浜松市天竜区春野町宮川字久保田
>そもそも・・窪田(久保田)って・・いったい何処の地名?なのでしょうか???????
>私の頭に浮かぶ「窪田(久保田)」と呼ばれた”その土地”は・・
>東北の”あの国”の”あの場所”なのですが・・・・
参考に東北のあの国のあの場所って、どこなんですか?
しばらく前に 某旅番組で「上毛新聞」や「上毛線」の上毛とは何ぞや?
と地元民に聞いていましたが、その場面では回答が無かったと記憶しています。
下野国は昔、下毛野国「下(しもつ)毛(け)野(の)」、
同様に上野国は上毛野国「上(こうず)毛(け)野(の)」の読みだったですね。
両国合せて「毛野国」だとは、これは勉強になりました。
ところで、菊川市奈良野と云う地名の由来は
「奈良別之命」が住んだので奈良野になったのかな?
それとも奈良春日神社の名残なのかな?
でも、地方とは云え「下毛野国」の統治した方が、
配流でもされない限り、遠州の奈良野には住まないような気がするので、
奈良春日大社の関係でしょうか。
>※下毛野公時
>下毛野 公時(しもつけの の きんとき、1000年(長保2年) - 1017年(寛仁元年)[1])は、
>平安時代の官人。童話「金太郎」のモデルとなったとされる
昔は童話で、最近は某携帯電話のCMで活躍中の「金太郎」って
源頼光四天王の渡辺綱、卜部季武、碓井貞光、坂田金時の
坂田金時の他に 下毛野公時説があるとは知りませんでした。
歴史の妙を感じます。
>日本の苗字七千傑様の《伊予橘氏》 元越智姓 姓氏類別大観を早速拝見しました。
>橘公長 → 公忠 → 公高・・矢野氏
>っ!!!!「矢野氏」です。
>偶然か?家の親戚にも「矢野家」さらに「中村家」・・
旧榛原郡相良町(現牧之原市)には神主の「中村家」
確か庄屋を務めた「矢野家」がありますね。
[80] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月09日 18時00分45秒 ) | パスワード |
酒井とも様
御教示ありがとうございます。
〉周智郡久保田邑とは現在は浜松市(旧春野町)で良いのでしょうか。
調べてみたのですが久保田村は1876年(明治9年)に合併により宮川村となり1889年(明治22年)4月1日 その「宮川村」が合併により「気多村」となり・・
さらに
気多村は・・ウィキより
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により気田村、宮川村、豊岡村、小俣京丸村、石切村が合併して発足。
1957年(昭和32年)8月1日 - 春野町と合併し、改めて春野町が発足。同日気多村廃止。
2005年(平成17年)7月1日 - 春野町が浜松市に編入。
2007年(平成19年)4月1日 - 浜松市が政令指定都市に移行し、旧町域が天竜区となる。
とありますので酒井様の御教示にある
〉周智郡久保田邑とは現在は浜松市(旧春野町)
〉久保田の砦 浜松市天竜区春野町宮川字久保田
と言う事になるようですね。
久保田の砦・・興味が湧いてきました!
所で
〉参考に東北のあの国のあの場所って、どこなんですか?
宮原の一族の先祖「橘公員」所領の出羽国「秋田県」です。
柳田 (秋田市)ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0_(%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%B8%82)
歴史[編集]
1239年1月10日(嘉禎4年12月4日)の橘公員宛将軍家政所下文に「出羽国秋田郡内楊田」とあるのが初出資料である[1]。文治5年(1189年)の大河兼任の乱平定に対し恩賞として橘公業に与えられた所領の1つで、公業の11子である公員が父から譲り受けたことを示す[1]。
その後、室町時代後期から安東氏(秋田氏)の支配下に置かれたものと考えられている[1]。1592年9月27日(文禄元年8月22日)の「秋田家分限帳写」に「馬場広面(屋)村 994石余」とあり、これは本来馬場村と広面村が併立しているものの連記であって、うち馬場村が近世の柳田村の一部であると考えられている[2]。
江戸時代には久保田藩領であり、「正保国絵図」では本田当高275石、「享保黒印高帳」では村高576石余・当高564石余(うち本田324・本田並173・新田67)となっている[1]。「寛政村附帳」では親郷目長崎村の寄郷とされ、「秋田風土記」では511石余・61軒となっている[1]。
(..)・・と言う事です酒井様。
〉菊川市奈良野と云う地名の由来
春日神社
http://www.geocities.jp/engisiki/toutoumi/bun/to121101-01.html
菊川の東岸に鎮座する。
当社の背後に奈良淵という地名があり、北は奈良野に接しているから「奈良神社」の社名がつけられたものと推測される。
中世「奈良春日」と称し、後に「奈良」の文字を省略して「春日大明神」と称した。
神社の南側に前方後円墳(大塚古墳と称する)があり、「崇神天皇第六世の孫、奈良別之命が奈良の淵のほとり大官屋敷に住まれ、崩じて大塚古墳に葬られた『池村の王』であり、その御霊を祀つたのが延喜式内の奈良神社即ち現在の上平川春日神社である。」と記されている
とある事から・・どうなのでしょうか?
奈良別之命・・お名前から「奈良」という地名なのでしょうか??
所で・・昨日コメントしました
〉下毛野国造(しもみつけぬのくにのみやつこ・しもつけぬこくぞう・しもつけののくにのみやつこ・しもつけのこくぞう)は下野国を支配した国造。もと毛野国造で、仁徳天皇朝〜孝徳天皇朝に上毛野国造と分裂した。
下毛野国造・・上毛野国造・・
私もどう言う関係なのか勉強不足なのですが・・
相良長頼 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E9%A0%BC
寛元元年(1243年)12月23日、甥(山井宗頼の子)の相良頼重[5]と泉新荘(肥後国山鹿郡)を巡って争ったことを幕府に咎められ、所領の人吉庄のうち、北部を北条氏の領地として取り上げられてしまった。一方で、宝治3年/建長元年(1249年)3月27日、執権北条時頼によって豊前国上毛郡成恒庄の地頭に任じられた。
※執権北条時頼によって豊前国上毛郡成恒庄の地頭に任じられた。
こちらは「豊前国上毛郡」なのですよね・・・
何だか、モヤモヤします・・
〉旧榛原郡相良町(現牧之原市)には神主の「中村家」
確か庄屋を務めた「矢野家」がありますね。
相良町の「中村家」そして「矢野家」ですね・・御縁を感じます・・
酒井とも様、ご教示ありがとうございました。
所で、新しいスレッド「平川家について30」を立ち上げました。
今回のスレッドにおいても、沢山の御教示を頂きまして、本当にありがとうございます。
皆様、今後とも御教示の程、どうぞよろしくお願い致します。
「平川家について30」に続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101512.html
[81] | 南国さんからのコメント(2016年08月23日 20時36分13秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2016年08月27日 17時45分48秒
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