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 投稿番号:101505 投稿日:2015年12月22日 05時33分04秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LZ(M氏家譜21 +善地あたり)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101501_69.html
長上郡の服部氏族LVI(M氏家譜20 +諏訪あたり) スレッド56の続きです。


 自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月23日 14時43分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 善地は長く天領でありました。多くは中泉代官所の支配・管轄でありました
が、中泉代官所ではなく、市野氏や秋鹿氏の代官管轄の時もありました。
 例えば、寛文の頃(1661〜1672頃)には、秋鹿代官の支配・管轄でありました。
 また、元禄三年には、市野惣太夫代官の支配・管轄でありました。

 そして、本日調べている内に、今まで気が付かなかったのですが、この秋鹿
氏と市野氏は「浅井氏」という共通のキーワードでつながるということです。 
 秋鹿左京亮朝治が中泉に来てより十六代目の秋鹿朝正は「浅井長四郎朝正」
と「浅井氏」を名乗った。それは、三河の母方の叔父浅井六之助道多の養子と
なっていたからであります。父と長兄が相次いで亡くなったため、跡を継いだ
ということです。
 いずれにしても、「浅井家」というのはただの家ではなさそうです……。
 秀忠をコントロールした正室お江も含めて……。信長・秀吉・秀忠にパラサ
イトした……。

 そして、天領を治めた秋鹿氏、市野氏、そして大草氏…今と違って張り巡ら
せた情報網がないと統治はできない……はたしてその実態は?
   
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月23日 19時55分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:お市の方は信長の姪ということで、織田家にパラサイトというのは
間違いでしたので、訂正させていただきます。
 いずれにしても、浅井家の血が織田家と交わり、徳川家と交わり、天皇家
に伝わって行ったというのはすごいことです。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 22時22分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


浅井氏
また、原点に戻って考えないといけませんね。



ところで大草氏に関係があるのか無いのか分かりませんが
南朝方の所で「大草」というのを見たな
という記憶で調べてみました。




宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう
1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。


                  二条為子、という女性 and/or 彼女の母親がアヤシイかも。


同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。


             ココです

信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。


法名は尊澄法親王。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。



宗良親王が信濃方面に送られたそもそもの背景が関係するのかも。
    信濃と諏訪大社あたりとの後醍醐天皇との関係もアヤシイかも。


宗良親王と「大草」の関係が分かると良いですね。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 22時30分49秒 ) パスワード

これでちょっと分かるかも:



http://osirozuki.blog.fc2.com/blog-entry-192.html

長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

無知なる城址公園化はただの破壊でしかない!目を疑うような大草城址公園 



所在地・・・・中川村大草 



                〜 大草城の歴史 〜

南北朝時代に大河原に入った宗良親王(むねよししんのう)を守護したのが大河原城主である香坂高宗であった。

延元元年(1336、南朝年号)頃から始まった足利尊氏(北朝)と後醍醐天皇(南朝・宮方)との権力争いに当時、宗良親王は、(後醍醐天皇の第八皇子(第五皇子とも))延暦寺天台座主であったが後醍醐天皇の命により還俗し南朝方の一員として諸作戦に加わっていった。



暦応2年(1339)〜3年にかけて北朝方の攻撃にあい南朝方であった井伊氏の居城井伊城が陥落すると、宗良親王は井伊谷を脱出し越後・北陸へ行動していくことになる。




興国4年(1343)、勢いの振わなくなった宗良親王は信濃の宮方(南朝)の勢力を頼って大河原の香坂高宗のもとに身を寄せた。


(大河原周辺は南朝方が多く、藤沢氏・中沢氏・知久氏などがいた為とみられる。)



この大河原城主香坂高宗は、一説によると更科の牧之島城にいた香坂心覚の子であると言われ、北朝方の小笠原氏や村上氏らの攻撃にあい大河原まで移ってきたと伝えられている。




その後、香坂氏は徐々に四徳・大草まで精力を広げると元々大草を支配していた土豪である大草氏と血縁関係を結び徐々に基盤を固め大草氏と香坂氏は同族関係となって行ったようである。

「香坂系図」によれば、「香坂宗継の母は、大草次郎大夫経純の女であり香坂宗職の母は大草弥太郎の女」であると書かれていることから分かる。



その頃に今回の大草城が、大河原城の支城として築かれたと考えられ、諏訪・遠江を結ぶ街道を押さえ幕府軍(北朝方)に対する前衛拠点として一族を配していたようである。



宗良親王が大河原の地で亡くなり、南北朝時代が終わると香坂氏は山深い大河原の地から本拠を大草城へ移しているが、この頃はまだ大草氏と香坂氏は同族関係ではあるが別家であったようで、「諏訪御符礼之古書」によると、頭役を大草郷で務めているが15世紀後半の約30年間に大草氏と香坂氏が交互に務めていて、勢力はほぼ互角であったようである。



戦国期になると香坂氏・大草氏は一の勢力にまとまったようで「香坂系図」の香坂宗縁の所には、「永正4年(1507)大草館に生まれ、母は大草弥太郎の女で、大草・香坂の両家を相続する。」とある。また、宗縁は大草庄三郎とも大草休斎とも称している。





南信における武田氏・織田氏の支配時代の記録には大草氏は出てこないが、天正10年(1582)の本能寺の変後の信濃における北条氏・上杉氏・徳川氏の戦い(天正壬午の乱)の中で、南信は徳川氏・北条氏のせめぎ合いの場となっていた。

この時、一時没落していて徳川氏に助けられ南信の在地領主の懐柔を任されていた下条兵庫介に対して、徳川氏に従う旨の起請文を出した領主の中に「中澤衆 大草休斎」の名が見られる。



徳川氏に従った大草氏のその後としては、「香坂系図」に「休斎の子宗澄、宗澄の孫宗久に至り、天正年間に家を失ひ、大草村の農長(郷士)となる。」とある。

また、大草城に関しては天正19年の大草郷検地帳には大草城跡は畑地として記されており、城は天正10年の織田軍の伊那侵攻以降廃されていたものと考えられる。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 22時36分30秒 ) パスワード

香坂氏といったら信玄がらみの印象しかありませんでした。
望月氏とも関係する?


                ま、日本人ですから、みんな繋がっちゃいますからね

                南朝方ということでワタクシとも繋がりますね、って(笑)日本はロマンの国!



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%9D%82%E9%AB%98%E5%AE%97



香坂 高宗(こうさか たかむね、生年不詳 - 応永14年(1407年))

鎌倉時代末期から室町時代初期の武将。信濃国大河原城主。信濃宮宗良親王を30年に渡って庇護した南朝の忠臣として知られる。



人物[編集]

滋野氏(根津氏)の傍流とされる香坂氏は、北信濃の上水内郡を中心とした山間地に勢力を張った一族で、建武3年(1336年)に南朝方(北条残党)として牧城で挙兵した香坂心覚が記録に残されている。高宗の伊那香坂氏は戦いに敗れて伊那谷に逃れた香坂心覚の一族とする説や、香坂氏の本拠地に立ち寄った宗良親王に高宗らが同行して伊那谷に至ったとする説もあるが、根津氏では無く望月氏の傍流とされている点や時代的な関係(香坂心覚より前から存在していた可能性)から、香坂心覚との直接的な関連は定かではない。



高宗は、興国4年/康永2年(1343年)の冬(1344年とする資料もある)に居城の大河原城に後醍醐帝の皇子宗良親王を迎え、更に奥地の内ノ倉(現在の御所平)に仮御所を設け、諏訪神党に連なる知久氏や桃井氏など周辺の南朝方諸族らと共に宗良親王を庇護し続けた。


当時の伊那は天竜川東岸が南朝方の勢力圏、西岸は北朝方の小笠原氏の勢力圏となっており、高宗は東岸側の大草郷(上伊那郡中川村)から大河原(下伊那郡大鹿村)までを領していた。


そのため宗良親王には、「信濃宮」以外に大草郷に由来する「大草の宮」・香坂に由来する「幸坂の宮」との呼び名がある。



              これが宗良親王が「大草宮」とか「香坂宮」と呼ばれる所以でしたか



高宗自身の戦功は伝わっていないが、宗良親王に従って各地を転戦したと思われる。また親王を奉じた大河原の地は、信濃のみならず東国・北陸道の各地で戦う南朝方の策源地となったとされる。宗良親王は正平10年/文和4年(1355年)に、越後・信濃などの南朝勢力を結集して北朝方の信濃守護家小笠原氏との決戦(桔梗ヶ原の戦い)に及ぶが、敗北を喫する。

そして正平24年/応安2年(1369年)には関東管領で信濃守護職の上杉朝房が大河原に攻め寄せるが、高宗は大河原の地を守り抜いている。



文中3年/応安7年(1374年)、失意のうちに宗良親王は吉野に去るが、その後も度々大河原の地を訪れていたとされ、親王終焉の地の有力候補となっている。


高宗は応永14年(1407年)に大河原城にて死去したとされ、大正4年(1915年)大正天皇即位大典の日、宗良親王への忠節に対して特旨をもって従四位が贈られた。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 22時39分53秒 ) パスワード

流れで・・・・ちょっと長いので分割してアップ
面白いですよ。



http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm



   南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王

              −『浪合記』の再検討−

                                           宝賀 寿男

 


一 はじめに

 

 東大史料編纂所である系図史料を見ていたところ、南北朝動乱期に活動した人についての記事がかなり詳しくあり、それを見て、浪合合戦とそれを記す軍記『浪合記』について見直す必要を感じたので、種々検討のうえ、本稿を記した次第である。

 具体的には、その系図は『穂積姓井出氏系図前書』という駿河国富士郡の井出氏の江戸前期までの史料であり、そのなかの井出小源二郎重注(「注」は「経」のくずし字を誤読誤記したものではないかと推されるが、ここではそのママに記しておく)についての記事である。また、『浪合記』とは、南北朝末期ないし室町前期における後南朝の皇族尹良親王・良王親子二代の信濃国伊那郡浪合での遭難事件(「浪合合戦」と表示されることが多い)を中心にその前後の流浪の経緯や関係する南朝遺臣の後裔まで及ぶ軍記物である。

 

 『浪合記』のこれまでの取り扱われ方は、総じていうと、偽作か価値の乏しい史料とされ、浪合合戦自体も実際にあった事件のか疑問とされてきた。そうした評価をいくつかあげてみると、「現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が一七〇九年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性には疑いがあり、史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。」(『日本史広辞典』山川出版社、1997年)、「本書は1488(長享二)年の著作となっており、1709(宝永六)年天野信景が美濃高須の松平家の本を写したというが、おそらくは信景が偽作したもので、その記事内容は信用できないというのが渡辺世祐の論文にみえる」(村田正志氏執筆。『日本歴史大辞典』河出書房新社、1985年)というのが代表的なところであろう。

 長野県の歴史研究者である小林計一郎氏は、多少トーンが違っていて、『浪合記』の根底に史実があったこと・南信濃・三河の国境地帯の各地に「ユキヨシ様」伝説が残っていることを認めつつも、同書の「記事は矛盾が多く信用できない。…(中略)…これらの伝説をもとにして、良王供奉の士の子孫と称する天野信景が偽作した可能性が強い」と記されており(『国史大辞典』)、偽作説ということではほぼ同様である。

 浪合村には戦死したと伝える地・宮の原に、尹良親王を祀る浪合神社が鎮座するが、その祭神の変遷過程などから、尹良親王の実在性については、『浪合記』等による作為・捏造だとみられている(平凡社『長野県の地名』463頁)。なお、神社の西に接して尹良親王陵(円墳)があり、現在、宮内庁書陵部の管理下にある。

 これらの事情のせいか、日本史の全集的な刊行物や『長野県史』など歴史学界の書物では、浪合合戦はまったくといってよいくらい取り上げられない。森茂暁氏の『闇の歴史、後南朝』でも言及がない事情にある。

 

 こうして『浪合記』とその研究状況について概観してみると、問題点は多少重複するが、次の四点ほどになってくると思われる。

 @ 『浪合記』の史料的価値はどのようなものか。天野信景の偽作か、たんなる写本か。

 A 根底に史実があったのか、まったくの虚構か。

 B 浪合合戦があったとしたら、それは何時起きた事件だったのか、合戦は何度あったのか(『浪合記』では尹良親王親子が各々経験したとある)。

 C 事件関係者の具体的な名前は解明できるのか(尹良親王の実在性などの問題も絡む)。それらの後裔はどうなったのか(三河、尾張などに残って繁衍したのか)。

 こうした問題意識を持ちつつ、以下に具体的な検討を加えていきたい。上記の問題は、徳川家やその譜代家臣諸氏の起源問題とも深く絡んでおり、江戸期に新井白石も注目した書物であったのが、偽書説が広く知られるようになって、大正期の大著『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939年)より後では、『浪合記』についても浪合合戦についても十分な検討がなされてこなかった事情にもある。従って、本稿でも『信濃勤王史攷』の記事を基礎に考えていきたい。

 

 最近、インターネットで『浪合記』がいくつか取り上げられ、同書の内容やこの関係の情報が提供されているので、注意をもたれる読者がおられるかもしれない。管見に入った代表的なHPをあげておくと、次のようなものがあり、適宜参照されたい(両HPのご教示等にも感謝申し上げます)。


 a 志岐専弘氏による「中世日本紀略」のなかの 「俗書類従」の「『浪合記』(原初本)」

     http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/namiaiindex.html


 b 芝蘭堂さんによる「軍記で読む南北朝・室町」のなかの「浪合記」

     http://homepage1.nifty.com/sira/
 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 22時40分29秒 ) パスワード


二 天野信景偽撰説の誤り

 

1 天野信景という人物


 『浪合記』の現存する伝本には、天野信景による写本を元とするものが多いということで、まず、問題の渦中にある天野信景なる国学者を見ていこう。各種の歴史辞典などに紹介されるものを整理すると、その大要はつぎのようなものである。


 天野信景(あまの・さだかげ。1661〜1733)

江戸中期の国学者であり、通称は権三郎、源蔵のち治部、宮内といい、字は子顕、剃髪して信阿弥、白華翁といった。代々尾張徳川家に仕えた禄高四五〇石取りの尾張藩士(「祖父以来」とされることが多いが、系譜によると「曾祖父以来」)であって、第二代藩主徳川光友から第六代継友までの藩主に仕え、寄合に列し、のちに鉄砲頭となる。神道を伊勢の度会延佳などに学んだが特定の師は持たなかったようで、朱子学を基本にして歴史・文学・神道や有職故実など幅広く学殖をつけて国典に詳しく、漢学・仏典・地理・風俗などにも造詣が深かった。

元禄十一年(1698)、藩が『尾張風土記』の撰述事業を起こすと、信景は藩命によって吉見幸和、真野時綱らとともにその任に当たった。これは、翌年の藩主綱誠(第三代藩主)の死により中止されたが、のちに松平君山らに引き継がれ、宝暦二年(1752)に『張州府志』として結実した。同書は郡ごとに記述され、内容の正確さには定評があるとされる。

その人となりは温厚和平にして、博学多識といわれる。閑職を利して著述に専念したことで、著作には、最もしられる大著で歴史・神祇・故実等広範な分野の考証随筆『塩尻』(現存本は百巻だが、その数倍あったといわれる)があり、実証的精神に基づき、地道に考究につとめた一大成果であって、学問的価値が大きいといわれる。このほか、神祇関係では『尾張国神名帳集説』『神代巻聞書』『神祇本源抜粋』『倭姫記考異』などきわめて多く、『新撰姓氏録校考』『南朝紹運図』『職原抄聞書』などの書もある。『国書総目録』に収載されている書目は145種に及んでいる。

 

 こうした研究者としての経歴や学識をみれば、偽作説は本来、雲散霧消するのではなかろうか。偽作説を唱える人の見識が疑われる。信景には『浪合記』くらいの作品は能力的に偽作は十分可能かもしれないが、彼が偽作をするとした場合には、現伝の『浪合記』はもっとましな内容になっていたのではないかとさえ思われる。同書は、年代や登場人物の年齢などの点で、実証的ではないことがいくつもあり、上記の信景の学問的姿勢と大きく異なっている。

 信景の系譜については、たしかに『浪合記』に見える天野民部少輔遠幹・対馬守遠貞の後裔(遠貞の十世孫)であり、その系図は江戸末期の田畑吉正手写『幕府諸家系譜』(東大史料編纂所蔵、【請求記号】4175-1382)第31冊に見える。『浪合記』には七個所の「天野」が見えるが、天野遠幹・遠貞(遠定)が特別の手柄を立てたという記事がないなど、尹良親王親子の従士のなかでは天野氏はごく並の扱いとなっている。天野の取扱いが大きいわけでもないということで、そこに天野信景の先祖顕彰などのメリットが見出しがたい。普通に同書の内容を見ていくと、尾張津島社の縁起や大橋氏の出自・家伝が記載されるなど、津島神社関係者が同社に遺された史料や所伝などから整理し著述したものと考えられる。

 

2 『浪合記』原初本の存在など


 同書は、『改定史籍集覧』などに収められているが、昭和61年(1986)に安井久善編で『浪合記・桜雲記』として古典文庫に収められる。その解説は、問題点などをよく整理して優れており、ごく一部(以下のA(5)にあげる点とBの結論の一部、C(3)など)を除き、ほぼ適切と考えられるので、『浪合記』を考えていく基礎として、少し長くなるが漸次この引用をさせていただき、これにより説明する(内容により、A・B・Cに分けた)。

A 概要と評価・執筆動機

(1) 評価 『平家物語』以降の軍記作品の特徴をいくつか具え、江戸初期以降成立した軍記へ接続する過渡期の作品として、それなりの価値をもつものと考えられる、とされる。

(2) 内容は大略、次の三部であるが、総じて宗良親王後裔に対して同情的な筆致。 

@第一部 尹良親王の東国各地の転戦と浪合での最期まで

A第二部 良王君の誕生から浪合の危難、尾張津島までの動静

B第三部 良王君とその従者たちの後日譚(諸本によって大幅な出入りがあるため、本来の構成は@及びAだけだったものか)

(3) 執筆の有力な動機としては、宗良親王後裔たちが祖先の怨念を残し伝えることによって、由緒ある家系が存続していることを世に示そうとする点が考えられる。こう考えた場合、『信濃宮伝』という作品の存在は無視できない。

(4) 新田系の諸武家の多くが、良王君に随従して尾張津島に至り、やがて尾参遠等諸国の武家の祖先となったという話柄には、牽強付会の部分があり、この点から偽書説が広く流布するが、『平家物語』同様、「然るべき史実をふまえながら、必要な虚構を併せ持つものとみることも許されよう」とする。

(5) 諸伝本の本奥に見える「長享二年(1488)九月十八日」という日付は、この作品の第一、二部の記事に見える最下限の日付「永享八年(1436)十月」から数えて52年後になるが、応仁・文明の乱がほぼ終結して十余年を経て、大橋氏にゆかりの何人かが作品を執筆したか。良王君の逝去が明応元年(1492)三月で七十八歳と記されるから、この両部は良王君の意図による執筆とも考えられる。

 

B 成立事情の考察

(1)『浪合記』の成立事情を知る有力な手がかりとして、宮内庁書陵部蔵本がある。基本的な相違は流布本に比し、冒頭に『大橋歴代記』からの抜粋として、桃井義繁・宗綱父子の伝記を記しており、後半は大筋において一致している。この書陵部本系の祖本は流布本に素材を提供した原初本ということになろう。

(2) 書陵部蔵の蕗原拾葉所収本の奥に、この書は高須侯松平義行(崇巌院)の蔵本を宝永六年(1709)に天野信景が謄写し、これより世に伝わるが、信景は本書に見える天野民部少輔遠幹の裔という、との趣旨が記されるが、「天文二年」(1533)に書写の本奥で終わる流布本もあるので、すべてが信景の書写した本からの伝写とは断じえない。

(3) 江戸後期にも信景私撰説があったが、『浪合記』考証を試みた『浪合草露』の著者は、同時代の新井白石がその著『三家考』に『浪合記』を引用している事実を指摘し、その環境を考えて、信景私撰説を否定している。最近も、村田正志博士が『南北朝史論』で信景私撰ではないかと説くが、『浪合記』が尹良親王の事績のみを記したものではないこと、伝本の全てが信景の手から出たものではないことを挙げて反論する。

(4) 江戸中期頃写しの蓬左文庫蔵『信濃宮三代記』の著者は、天野信景以外の人物を『浪合記』の著者と考えていた。

(5) 書陵部蔵本の奥書に、貞享二年(1685)九月の日付で、最近世に出た『浪合記』について、幕臣酒井家の当主が、この書に見える酒井忠則は先祖の家系に見えないこと、酒井六郎貞信及びその子の七郎貞忠は他家の人だとして、偽書と断じ、子孫が間違えないように書き留めるとしている。貞享二年は信景二十五歳のときだから、信景偽撰としたら筆写流布の年月を考えると、信景がきわめて若年の筆とならざるをえない。流布本書写の二十数年前の貞享二年の写本をどう解釈するのかという問題があり、高須侯義行本とはまったく別系統の伝写本が貞享以前から存在したであろうことを是認せざるをえない。また、関係者が系図に見えないのは、室町幕府を憚って系図から削除する例が井伊家にもあって、それで偽書ということはできない。

以上のことから、信景偽撰説は否定されなければならず、同時に偽書説も甚だ根拠に乏しいものというべきである。

(6) なお、第一、二部の成立は長享二年以降天文二年頃までの間(1448〜1533)で、第三部の加筆は元和以降貞享に至る約七十年間のことと推定される。原著作者は不明であり、流布本系の作者はさらに時代が降る尾州人か。

 

C 研究史など

(1) 大饗正虎が楠木正成の勅免申請をし、これが認められて以来、時とともに逐次旧南朝系武族の裔孫に対する世評は好転していき、それとともに『浪合記』のような作品に対する関心を徐々に高めていったとみられる。

(2) 『浪合記』が注目された要因は、徳川将軍家の祖先が新田の支族世良田氏とされ、しかも三河徳川が世良田万徳丸政親の裔孫と考えられた点にある。三河徳川の前身たる松平氏が良王君随従の世良田政親を祖とするのは、『浪合記』が言わず語らず説くところであり、だからこそ幕臣の多くが自己の出自をこれに結びつけた第三部の話柄群を加筆するに至った。新井白石著『三家考』は、万徳丸が将軍家の遠祖たることを証明しようとした努力の現れであり、『浪合記』はそのための必須不可欠の資料であった。

(3) これに反し、信景の『浪合記』に対する基本姿勢は別であり、(1)の全般的風潮をふまえながらも、宗良親王後裔たる津島の大橋氏・氷室氏に対する尾州人の感情、自己の祖先と思われる遠江秋葉の天野氏の顕彰という意図が明らかに汲み取れる。

(4) 江戸後期になると、南朝思慕の時代風潮に関わって国学者を中心に『浪合記』についての多大な関心が持たれたが、明治以降の研究には見るべきものがない。その理由は、史学・文学両面において価値なし(後世の偽作、文学性皆無)とされていたからであるが、そのいずれも当を得た評価ではない。 

 

 以上に私が整理した要点は、編者の安井久善氏の見解とみられるが、以下に検討を加えることで、この見解の妥当性を論じていきたい。

 
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 22時41分13秒 ) パスワード

三 浪合合戦の史実性

 

1 『穂積姓井出氏系図前書』の記述


 東大史料編纂所には、『穂積姓井出氏系図前書』(箱田喜作氏寄贈史料1-14)及び『穂積姓井出氏系図』(同1-15)という系図史料がある。常陸国西河内郡と伊豆国君澤郡のうちに禄高七百石の領地をもつ旗本井出氏の系図である。両史料とも巻物の系図で、巻物中心軸の上・下端が朽ち欠けており、系図に一部切れ目も出るなど、傷みがかなりある。前者は一筆で先行の系図を筆写したとみられるが、読解が不明なまま写された個所があって、前者をさらに筆写した後者と照らし合わせることで、文字が分かるところもある。

 前者の最後の世代は家綱将軍に仕えた井出市五郎正兼(右肩に「正方」と書込あり)とその弟・姉妹であって、正兼の記事には、家綱公に御見得をし、延宝六年(1678)水野長門守組ヲ始テ御書院番相勤などがある。系図はそこで終わって、後者の系図は前者を写したうえで、正方に「市五郎藤左衛門」と記し、その子の「某 数馬」を系図最後の世代とし、以降は明治初期の人まで数葉の折込み紙で続けているものである。後者は転写の過程で、前者の記事をいささか略述している部分や誤解して転記している個所もあることに注意される。両系図の大きい差異は始まりの古代部分(平安末期の重家・重基兄弟より前の諸世代)にあり、新系図作成の際に他所からもってきた系図部分を書き込んで入れ替えており、明らかに前者のほうに価値があるが、ここでは本件問題に関係がないので、これ以上は触れない。


 両系図を比較することにより、前者はおそらく井出家所伝の系図を正兼の先代・正徳が筆写し(他人に筆写させたことも含む。以下も同様)、後者は市五郎正兼が藤左衛門正方という名になり数馬という子をもって後に筆写したことが推される。この井出正兼は天野信景とほぼ同時代の人であるが、その先代・正徳が筆写したとみられる前者には、浪合合戦の記事がその経緯も併せて書かれていることに留意される。つまり、江戸時代前期の旗本井出家には先祖が関与した事件として、浪合合戦の記憶・所伝が明確に残っていたのである。

 井出氏系図に拠ると、井出正徳の九代先祖に井出小次郎重実という者がおり、新田武蔵守義宗の笛吹合戦後に駿河国上井出に行って居住し在名を以て井出と号したと記される。これに続けて、応永四年(1397)に吉野宮尹良を桃井和泉守貞職と共に供奉し、尹良を丸山に移したときにこれを守って軍功があったとされる。浪合合戦に参加したのは、重実の弟の位置に記載される(その一方、「重実次男」と右肩に記入あり)井出小源二郎重注であり、その記事には次のように記される。


「尹良皇子丸山ヨリ甲斐国ニ移給時井出小源次郎重注鈴木越後守重季両人奉供奉上野国金山城ニ入…(中略)…信州ニ有…(中略)…其後永享七年十一月二日参州江赴リ所ニ野伏駒場小次郎飯田太郎道ニ起テ戦宮ノ原ニテ世良田三郎政義桃井貞綱羽河景康大井田井出等各廿三騎野伏之為自害…(中略)…宮ノ原江月院ト云寺ニホウムルヨシ、此戦ヲ遁テ参州ヘ落タル人世良田万徳丸桃井甲斐一郎満昌鈴木越後守重季酒井七郎朝治熊谷弥次郎大庭治部大夫景綱本多武蔵小八郎忠弘参州村々里々ニ蟄居」

 

 この記事は、良王の浪合合戦の日時を『浪合記』が永享五年十二月一日とするのに対し、別の永享七年十一月二日と記すなど、参加者の名前なども含めて同書とかなりの差異を見せる。敵方の駒場小次郎・飯田太郎や宮随従の世良田三郎政義・桃井貞綱・羽河景康(字形からみて、「康・庸」はもとの字は同じか)・世良田万徳丸・桃井満昌という主要な者や本多武蔵小八郎忠弘については同じであるが、他の者については名前の表記も含め微妙な差異を見せている。ここには、『浪合記』と異なる所伝の存在が明確に知られる。

 なお、「井出氏系図」に見える鈴木・井出一族の名前では、『浪合記』が尹良親王に関係するものとしてあげる駿河の富士十二郷の鈴木越後守正茂、同左京亮正武、井手弾正正弼正房とは異なっている。この差異がどこに出たのかは不明だが、総じていうと、上記「井出氏系図」に記載される名前が鈴木一族の一般に流布する系図に見える名前と異なっており、この辺も事情が分からない。とはいえ、鈴木一族が義貞の弟・脇屋義助に属して駿河国富士郷を所領とし、一部が在地名により井出を名乗ったことは一致しているので、後世の造作とは思われない要素がある。

 

2 浪合合戦は実際にあったか


 (1) 浪合合戦の史実

 浪合合戦は、『鎌倉大草紙』(別名『太平後記』といい、1379〜1479年の約百年間の記録で、史実と異なる部分も若干見られるという)という比較的信頼性の高い歴史書に記載があり、その存在自体は認めてよさそうである。ところが、同書では、『浪合記』の記す@応永三十一年(1424)八月十五日、A永享五年(1434)十二月一日の二回と大きく異なり、永徳年間(1381〜84)の後と記されて、大きな違いを見せる。

 『鎌倉大草紙』の記事では、次のように記されている。

 「去程に新田殿は去永徳の比まで、信濃国大川原と云所に深くかくれて有けるを、国中皆背申、宮を始め新田一門、浪合と申所にて皆討死して、父子二人うちもらされて奥州へにけ下り、岩城の近所酒邊と云所に隠給ひし……」


 また、『南山巡狩録』の元中二年(1385)三月条では、藤沢山縁起を引用して、『鎌倉大草紙』とほぼ同様な記事があり、そこには次のように記されている。

 「藤沢山録記に新田義宗朝臣の御子相模守行啓は信濃国大河原にかくれ、上野武蔵の官軍を催促せられしかば、世良田有親公をはじめ、新田の一門信濃に立ちこへ、義兵を挙げんとはかりごとをめぐらされたり。此使い二人梶原美作守が為に召捕られ、一門も多く信濃国浪合にて討死し給ひけり。されども、相模守行啓父子は奥州汐かまのかたにのがれ給ひて忍ばれしといひ、此の時有親公もまた父子ともに奥州にいたり給ふとも見ゆ」(原文に適宜濁点をつけて記述)

 

  要は信頼できる史料に見える浪合合戦はたった一度だけ、永徳年間(1381〜84)の後のおそらく元中二年(1385)三月に起きたということである。浪合が南信濃から三河に抜ける要路にあったとはいえ、同じ場所で南朝皇族親子とその随従者が二回、それぞれ同じ野伏集団に襲われてほぼ壊滅的な打撃を受けたというのは、まずありえない。次項にも記すが、当時の信濃守護小笠原氏がこの襲撃に関与していなかったとはとても考え難いのである。襲撃者が駒場小次郎・飯田太郎という地元の野伏(『浪合記』)というのは、事実の一端にすぎないのではなかろうか。
  ちなみに、飯田氏は伊那源氏の一党で、応永頃の飯田太郎の後裔と称する者が幕臣にあって、『寛政譜』に三家あげられる。応永七年(1400)の大塔合戦の際には、飯田入道が坂西・常葉などの小笠原一族とならんで、守護小笠原長秀方の武士に見えるから、それなりの南信濃の有力豪族であった。

 

 (2) 浪合で討死したのは誰か

 このとき浪合で討死した者のなかに「宮」がいたということで、この宮(「浪合戦死宮」)が誰だったかということが大きな問題になってくる。これについては、水戸藩の大日本史編纂に関わった佐々宗淳が『十竹筆記』で取り上げて、徳川家の秘説なりとして、「吉野帝ノ御孫上野御子ト申宮」が信濃大河原に隠れていたのを、小笠原らの国人が案内する京からの討手により攻め落とされ、「宮ハ信濃国波合ト云所ニテ生害、新田モ打死ニキワマリシヲ、一門ノ徳河殿身ガワリニ打死ナリ」と記している。

 この記述が何に拠ったのか不明であるが、従来学界では、この記事に基づき、『新葉和歌集』に「上野太守」であったと見える三人の南朝皇族(守永親王、懐邦親王、悦成親王)のなかからその活動状況により守永親王に比定する菅政友の説(『南山皇胤譜』)が多く支持されてきたようである。しかし、佐々宗淳の根拠が曖昧不明であるうえ、それが正しいとしても、「上野御子=上野太守」とは限らない。守永親王がどのような事情で信濃に来たのかという説明もない。
  広く上野国に関係ある皇族ということであれば、『太平記』巻31では正平七年(1352)の笛吹峠合戦に新田義宗と共に戦った宗良親王を「先朝第二宮上野親王」と記す事情にあり、その御子という見方もあろう。また、尹良親王の妻が上野国の世良田氏ということでも含まれるのかもしれない。長く信濃大河原に居た宗良親王の御子なら説明がつきやすい。

 ところで、浪合で討死した高貴な者としては、宗良親王(『大日本史』の推測や吉田東伍博士、大西源一らの説)や足利之義なる人物まで取り沙汰されている。宗良親王の薨去した時期・場所が不明なために混乱が生じているが、『南方紀伝』の伝える至徳二年・元中二年(1385)八月十日説、『南朝紹運録』でも同年に遠江の井伊城で没したと記されるのが一応のメドとなろう。おそらく伊那郡大河原の地で、1380年代半ば頃(『浪合村志』では1382〜88とみる)に薨去されたのではなかろうか。

 

  一方、足利之義なる者は、知久家の所伝にのみ見えるものである。それによると、知久祐超(四郎左衛門尉敦貞)を外祖父とする将軍之良(之義将軍)は、小笠原家が兵を出したため応永三年(1396)三月廿四日に浪合にて生害したというものである。この「将軍之良」については、『続本朝通鑑』の「信濃郷談」には「之良けだし宗良の子か」とあるに対し、「知久氏之伝記」には「之義将軍之父君錦小路直義将軍」とあり、後者の記事が取られている傾向にある。

 後者の「知久氏之伝記」は、元禄十一年(1698)三月になって阿島の虎岩甚五右衛門貞頼が記したものにすぎず、虎岩氏が知久祐超の後裔で室町中期に分かれた一族とはいえ、史料に信頼をおくのは疑問な姿勢である。足利直義の子に之義なる者があったという記事はほかに一切見えず、知久祐超と足利直義との接触にも疑問が大きい。『信濃勤王史攷』では、正平四年(1349)の京都騒擾のときに直義方についた武士のなかに知久四郎左衛門尉がいたと『異本太平記』にあるとして、知久祐超の娘が直義の妻妾に入ったことを認めるが、これだけの接触では両者の関係は認めがたい。そもそも、足利直義は1306生〜1352死だから、正平四年のときに四十四歳であり、仮にその直後の翌年に之義なる者が生まれたとしたら、応永三年には四十七歳にもなる。これだけ長く生きて、他の記録に一切現れない人物の存在を認めるのは、きわめて疑問である。『寛永諸家系図伝』(1643年成立)には、知久氏の「家伝にいはく、室町将軍家の君達之義」という表現があるが、これは「将軍」に引きずられてのものではないかと推されるのである。          


  知久氏の系図には、知久祐超の娘が尹良親王の乳母となると記されており、これが祐超の外祖父として転訛したとみられる。また、知久一族の小林氏の系図(『百家系図稿』巻三所収)には、小林山城守頼連の記事に「尹良王ニ仕フ」、その従兄弟で四郎左衛門尉敦貞(祐超)の妹に「宗良親王妃」と記されるから、知久一族と尹良親王との結びつきが知られる。そうすると、上記「信濃郷談」のほうが妥当だと考えられる。

 ここに至って、「之義(之良)=尹良」とみられるのである。「尹良」の訓みは定説がなく、普通には「タダヨシ」と訓まれそうでもあるが、「タダナガ」とか「マサナガ」、あるいは「コレナガ」と訓むものもあり(安井久善氏)、「ユキヨシ」ないし「コレヨシ」と訓むのが妥当ではなかろうか(おそらく、本来の訓みはコレヨシで、それが同音の之良とも書かれるうちにユキヨシに転訛したものか)。最初にあげたように、南信濃・三河の国境地帯の各地には「ユキヨシ様」伝説が多く残っているとのことであり、この事情も無視できない。ちなみに尹良親王の子とされる「良王」についても、「よしゆき」「よしよき」「よしたか」「よしぎみ」「よしのおう」などの多様な訓みがいわれるが、これに君ないし丸が付けられて表現されることから、素直に「よしおう」とか「りょうおう」とかいう訓みでよいのではなかろうか。

 浪合には尹良親王を祭神とする浪合神社がある。その創立年代は不明であって、棟札を見ると延宝〜正徳(1673〜1716)頃までは「行義権現」といい、明和二年(1765)以降は「尹良大権現」といったとされる。『長野県の地名』は、この棟札の変遷をあげ、「之義」を「行義」、次いで「尹良」と書き、ついに「尹良親王」が捏造されていく過程が、祭神の変遷からもうかがわれる、と記すが、これは疑問が大きい。同社の棟札の最古が延宝三年(1675)にすぎず、「之義」や「行義」が室町期に遡る古い表現であるとの証拠がないからである。「之」はコレとも訓むし、「行」は「伊(コレ)」の転訛ないし崩し字の誤読ではないかとも考えられる。


  問題は、「尹良親王」という名が信頼性のある史料に見えないことである。しかし、南北朝争乱期や室町前期には史料自体が乏しいし、とくに後南朝関係者には史料に活動が見えるものの実名の伝わらない皇族が数人いた事情もあるから、それだけで存在の否定はできない。関係する所伝から考えると、子の良王がせいぜいでも成人前の少年であるとみられるから、おそらく三十歳代(あるいは二十歳代)で逝去された宮であり、かつ各地を流浪した生涯であって、まともに活動したのが信濃くらいであったろうから、信頼性の高い史料に記録されなかったこともありえよう。むしろ、浪合合戦関係者の系図史料にかなり多数、尹良親王の記事があるから(詳しくは後述)、それらに拠り、存在を認めたほうがよいと考えられる。その生母も、遠州井伊谷の井伊道政の娘とされて、ほとんど異説がない(知久氏の場合は乳母の転訛と考えられることは既述)。実際に、僅かな活動くらいで殺害され、文書の上でもまた抹殺されれば、二度も抹殺された悲劇の主人公ともなろう。

 

 (3) 浪合合戦の時期は何時だったのか

 尹良親王遭難の時期が不明確であったことが『浪合記』をめぐる問題の複雑化につながったと考えられる。浪合合戦の時期について記す系図史料は数多くあっても、その時期が一定ではなかった。

 浪合合戦の日時を『浪合記』が応永三一年(1424)八月十五日(尹良親王)、永享五年(1433)十二月一日(良王)だとするのに対し、先に「井出氏系図」所伝の永享七年(1435)十一月二日をあげたが、別の説もある。

  例えば、鈴木真年翁は『新田族譜』で諸伝をあげている。このなかの「徳川家譜」では世良田政義について「応永三年(1396)四月二日」、その弟の義秋について「応永三年(1396)三月二四日」、政義の孫におく有親について「応永三一年(1424)八月十五日」と記す一方、「世良田系図」では世良田親季について「至徳二年(1385)」、さらに「世良田」では世良田政義について「至徳二年(1385)二月二四日」、親季についてたんに「至徳二年(1385)」と記し、その一族の吉田左衛門尉頼業にも「至徳二年浪合合戦後来三河国」と記ている。『華族諸家伝』では徳川家達条で、「至徳二年(1385)三月」のニュアンスを出している。おそらく、「徳川家譜」のほうは『浪合記』の記事に引っ張られたのではあるまいか。これがなければ、浪合合戦は至徳二年(1385)の二月ないし三月という時期に収束する。

 上記(1)に見るように、浪合合戦は元中二年・至徳二年(1385)三月に一回だけ起きたものとするのが史実の流れに適っている。それまで、高坂(香坂)氏の領地大河原に居た宗良親王など皇族と新田一族などの随従者は、足利氏とその与党小笠原氏に追われて信濃南部の大河原を出たが、その頃までに、宗良親王は死去したか宮将軍を息子の尹良親王に譲って政治活動から引退しており、新田一族などは尹良親王に随従して三河に転戦しようとした。このとき、浪合で起きたのが浪合合戦ということである。宮将軍尹良と世良田政義・義秋兄弟は討死し、世良田有親や新田相模守・刑部少輔は奥州に逃れた。この事件を契機に信濃の南朝勢力は大きく衰え、南朝方であった知久一族も小笠原氏に服属し、応永七年(1400)に起きて守護小笠原長秀が大打撃を蒙った大塔合戦では、小笠原方で戦っている。

  宗良親王らの年齢から考察しても、元中二年・至徳二年(1385)が妥当なことが分かる。すなわち、宗良親王は1311生〜1385頃死とみられるが、尹良親王は1354生、良王は1374生という所伝があり、その場合、1385年には尹良は三十二歳、良王は十歳ということになる。これが応永三年(1396)だと尹良は四十三歳、応永三一年(1424)だと良王は五十一歳ということになるうえ、世良田政義がきわめて高齢になる不都合が出てくる。

 

 (4) 良王君の尾張入り

  『新田族譜』には「大岡」系図に興味深い記事がある。それは、新田一族の大井田弾正少弼経氏の孫に安房守経宗・次郎重宗兄弟をあげ、前者は元中二年に世良田政義等と共に尹良親王に奉仕し同年四月に信州島崎城に赴いたとし、後者は応永三一年二月に良王君に従って尾張に到ったとされる。『浪合記』には、応永三一年に世良田大炊助政義らとともに大江田安房守、大岡次郎重宗及び大庭雅楽助景平らが尹良親王に随従して上野国を出、同年四月七日に信濃国諏訪の千野六郎頼憲の嶋崎の城に入ったと記されるから、同書に混乱が甚だしいことが分かる。これに続けて、浪合合戦で大井田が討たれたと記されるから、安房守経宗はここで最期を迎えたことになる。その弟の次郎重宗は、三河の大岡氏の祖となるのは『浪合記』の記事通りであるが、その当時はまだ大井田姓であり、この系統が大岡を名乗るのはその息子重辰が大岡右馬三郎助茂の婿となってからの話である。

  大庭氏の系図にも興味深い記事がある。『百家系図稿』巻十一所収の大庭系図に拠ると、大庭三郎景親の七世孫に治部大輔景頼・景郷兄弟がおり、景頼の子が雅楽助景平であって、この親子は尹良親王に仕えた。景頼は信州浪合で勇戦し、雅楽助景平は応永末年に三州額田郡深溝に入ってその子孫から稲吉氏が出た、とされている。『浪合記』では応永三一年の合戦に大庭治部太輔景郷が見えるが、「井出氏系図」では大庭治部大夫景綱と微妙に異なっている。

 

  ここで見るように、尹良親王の討死とその子良王君の三河尾張入りは一連の出来事ではなかったことが推されるが、その意味で、『浪合記』には良王君をひとまず嶋崎から下野国の落合城に帰したという記事があって妥当なものと思われる。良王君には桃井貞綱、世良田政親などが御供したとあり、このメンバーが応永時に三河尾張に入る行動をしたものである。同書に、良王君随行者にあげる長谷川大炊助重行が尾張国春日部郡如意郷に遷住したのが応永末期だとその系図に記されるから、それまでは上野国あたりに居たのであろう。

 良王君の活動期間については、『浪合記』に「良王君 明応元年三月五日、逝去。御年七十八。」とあるのは疑問が大きい。この記事のとおりだと、1415生〜92死ということになり、宗良親王の孫の活動世代としても、尹良親王の子の生年としても、きわめて不自然だからである。良王には、永享十年九月に六五歳で死去したという所伝があって、これだと1374生〜1438死で自然であろうと考えられる。なお、大橋氏の系図には、「明応元年三月五日」に死去したのは、兵部丞世長(良新ともいう)であって、良王の孫となるが、このほうが妥当である。

 このように、『浪合記』にとって最も肝要な良王の死去時期が史実と違っており、浪合合戦についての時期も違っているということは、同書の成立がこれら時期からかなり隔たって記憶が失われていたと考えざるをえない。そのため、『浪合記』は史料としての性格をかなり弱め、軍記という読み物となってしまったことになる。 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 22時42分01秒 ) パスワード

四 『浪合記』関係者の後裔たち

 

1 良王の後裔と津島天王神主家


 良王は尾張津島に落ち着いて当地の津島天王(津島神社)の神主となり、尹重と名を改めたという。尹重は大橋修理大夫貞元(良王の従兄弟)の娘を娶って中務大輔少輔弘重(初名神王)と和泉守信重の二人の男子、堀田尾張守正重の娘を娶って斯波左兵衛督義郷妻となる女子を生んだとされる。弘重の子の世長も神主となったが、男子なく、大橋貞元の孫・小田井大学助貞常(母は和泉守信重の娘)を後嗣として神主職を譲り、貞常は苗字を氷室と改めて、神主職を世襲したとされる。

 また、和泉守信重の系統は、定広−定安−重長……と続いて代々津島に住んだ。定広の子・広正は長田平太夫政広の養子となり、その孫が家康に仕えた永井伝八郎(右近大夫)直勝であるが、摂津高槻藩など三藩主家の祖である。

 大橋氏の系図は『浪合記』に見えて、平清盛の家人・肥後守平貞能の子孫と記すが、これは疑問が大きい。貞能は平家滅亡後は宇都宮朝綱に預けられて、その子孫は宇都宮家人の山田党となったからである。大橋氏の家祖・貞経(定経)は貞能の子ではなく、おそらく尾張の古族尾張宿祢姓から出たものとみられる。大橋氏では、大橋修理大夫定元が吉野から供奉して来て尹良親王に仕えた武士として『浪合記』に見えるが、年代的に疑問が残る。というのは、尹良親王の妹・桜子姫が大橋三河守定省に嫁いで、信吉・定元(貞元)を生んだと伝えるからである。

 尾張には、やはり平貞能の子孫と称する千窯氏がおり、愛知郡千窯邑に起こって、鎌倉期に薩摩や丹波に分かれたが、丹波の支族は承久の変の際の軍功で多紀郡酒井荘を賜って酒井党として当地で繁衍した。その後裔が『浪合記』に見える酒井七郎貞忠であって、たしかに貞享二年時に『浪合記』を見た幕臣酒井家の当主が、酒井六郎貞信及びその子の七郎貞忠は他家の人だとしたのも、そのとおりであった。

 

 津島天王の神主家はもともと紀朝臣姓の堀田氏が世襲しており、応永九年に死去した堀田修理大夫之盛が神主であった。神主職は之盛の子・之時、その子・之親と受け継がれて、その後、永享年間に良王(尹重)に譲られたものであろう。堀田一族からも尹良親王・尹重親子に仕えた者があり、『浪合記』には吉野から供奉して来た公家庶流として堀田尾張守正重をあげ、堀田一族として矢田彦七之泰もあげる。堀田正重は修理大夫之盛の子であり、矢田之泰は之盛の甥であった。下総佐倉藩など幕藩大名三家を出した堀田氏は堀田正重の子孫であった(実系は矢田之泰の後裔とも伝える)。

 

2 世良田政義一族と松平氏


 新田相模守・同刑部大輔は親子とも従兄弟とも伝え、その実名も系譜も伝えるところがまちまち(義睦、義則など)であって、確たるものをえないが、新田義宗の子とも脇屋義治の子とも伝える。世良田政義は新田相模守の身代わりとして信州浪合で討死にしたのちは、新田両人は奥州に落ちていき、応永十年には相模底倉で新田相模守が討たれて、新田本宗家は滅んだ。

 一方、世良田一族では、政義が浪合で死んだのちも変わらずに良王に仕えたのは、良王が政義の娘を母としたという親族関係にあった故であろうか。世良田一族の系譜も種々あって、系譜関係を確定することは難しいが、政義・義秋が兄弟でともに浪合で討死し、修理亮親季・有親(『浪合記』には見えない)は兄弟で政義の子、万徳丸政親は政義の子か孫とみられる。

 『浪合記』では、万徳丸政親が良王を供奉して永享五年に三河に入ったことを記すが、政親は後に政阿弥陀仏といって上野国に戻って万徳寺で修行し、文正元年(1466)十月に寂滅したと記される。政親に関しての記事では、遠江国秋葉の城に居住する天野民部少輔遠幹が、永享七年(1435)十二月、秋葉山の狩で兎を得て、富樫の林介に託し三州の政親に送ったと見える。一方、嘉吉三年(1443)当時、三河の富豪として松平太郎左衛門尉泰親がおり、同国に配流されていた洞院大納言実熙が帰洛の時、供奉したが、泰親の娘は実熙の妾であったと記される。

 松平泰親は家康の遠祖であるが、この泰親と世良田政親との関係はなんら記されず、両者の関係は不明である。むしろ、両者が同時代人として記されるから、ほかに世良田一族で三河来住者がいなければ、松平氏が世良田氏の後裔だということは否定される。つまり、これが『浪合記』の言うところであったなら、少なくとも万徳丸政親が将軍家の遠祖でないことを証明している。(もっとも、鈴木真年翁は『華族諸家伝』で、松平泰親が世良田親季の子・松寿丸の後身で松平信重の婿であり、親季が遊行僧として三河に来たと記しているから、この辺が否定されない限り、世良田氏が松平氏と無関係とはいえないが。)


  こうしてみると、『浪合記』が徳川氏顕彰の書でないことは確かである。

  なお、尹良親王・良王に仕えて信濃で活動した新田一族では、新田本宗・世良田一族のほか、すでに述べた大井田兄弟や、羽河安芸守景庸、同安房守景国、新田小三郎義一がいたと『浪合記』に記される。羽河(羽川)氏は越後の里見・大井田一族とみられるが、後裔が残らなかったか具体的な系譜は伝えられず不明である。新田小三郎義一は、大井田一族大島氏(家伝には新田義宗の子)の出で上野国甘楽郡丹生に居した後閑氏の祖・新田四郎義一と同人とみられるが、先に本国上野に帰ったものか浪合合戦には参陣しなかった模様である。他の史料では、別の場所で貞治三年(1364)に討死とされるから、『浪合記』の記事には疑問があるとみられる。
  いずれにせよ、これら新田一族と松平氏とを結びつけるものは、少なくとも『浪合記』には見えない。

 

3 その他の武家の後裔たち


 ここまで何人かの尹良親王・良王の随従者について記してきたが、それ以外の武家についても記しておく。

 『浪合記』では、良王が尾張に隠棲後に、宮方の武士は諸国に蟄居したが全ては書けないとして、それら武家の大略を記す(「 」は原文の記事で、※は当方の説明である)。

 (1)桃井大膳亮満昌:「三州吉良の大河内に居住。大河内坂本の祖」

※ 両王に仕えた桃井一族が大河内氏の祖ということはほかに管見に入っていないが、大河内氏の通行する系図には、「宗綱−貞綱−光将(満昌と同じか)」の三代が見えるから、正説なのかもしれないと当初は考えた。しかし、その後、大河内氏の系図を検討するうち、これは疑問と分かった。
  この問題については、当HPの「三河の大河内氏とその同族」を参照されたい。
 大河内氏は三河吉良氏の家令を務めたから、祖の宗綱が吉良有信の実子という所伝も正しいのかもしれない。


 (2)大庭雅楽助景平:「三州深溝に居住。稲吉の祖」

※ こうした系図があることは上述。

 (3)熊谷小三郎直郷:「三州高力に居住。三州熊谷、高力の祖」

※ 高力氏の系図からは確認できない。

(4)児玉庄左衛門定政:「三州奥平に居住。奥平の祖」。また、児玉貞広が良王に従い、浪合で討死とも見える。

※ 奥平氏の系図では、児玉庄左衛門定政が尹良親王に仕え、その子・貞広は尹重王に従い討死し、その兄弟・定家の子孫が作手の奥平氏となることを記す。

 (5)酒井与四郎忠則:「三州鳴瀬に居住の後、大浜下宮に蟄居。成瀬七郎忠房と太郎左衛門忠親は正行寺に居住。この三人は兄弟で、新田一族、大館太郎兵衛親氏の子」。

※ 鈴木真年翁の記事には、酒井・成瀬一族の起源としてこうした説があることをあげるが、大江広元後裔の海東一族坂井忠時の子という所伝もあるので、真偽不明。なお、酒井与四郎忠則の後は、娘が世良田政親に嫁して生んだ広親が継いで雅楽助家酒井氏となり、太郎左衛門忠親の後が左衛門尉家酒井氏となると伝える。成瀬氏には松平同族の賀茂朝臣姓という異伝もあって、判断しがたい。これら酒井二流と成瀬氏は幕藩大名を出した。

 (6)大岡忠次郎重宗:「三州大草に居住。大江田の末裔」

※ こうした系図があることは上述。大江田は新田一族の大井田と同じ。

 (7)鈴木三郎兵衛政長:「三州矢矧に居住」

※ 鈴木一族は三河で繁衍した。矢並の鈴木小次郎(左京進)重勝には尹良親王に仕えたという記事が見える。また、津島七名字の祖・鈴木右京亮重政が『浪合記』に見えるが、鈴木氏の系図には、三河の足助真弓山城主の鈴木越後守正成が良王君に従って津島に到ったという記事が見える。

(8)大草三郎左衛門信長:「信濃国小笠原七郎政季の弟、八郎政信(豊後守)の子、遠江国有王の高林善八郎政頼の弟」

※ この流れの幕臣大草氏が『寛政譜』に見える。永禄六年諸役人附に見える大草与三郎秋長も同族か。なお、遠州敷智郡高林に小笠原一族高林氏があり、幕臣六家が『寛政譜』に見える。

 (9)天野民部少輔遠幹:「遠江国秋葉城に居住。対馬守遠定の父。……」

※ こうした系図があることは上述。旗本や尾張藩士天野信景らの祖先で、子孫は三河に遷住し、松平一族とも通婚した。家康に仕えた天野三郎兵衛康景は駿河興国寺で一万石を領したものの、家臣の不行跡により改易されている。

(10)布施孫三郎重政:「小笠原の郎党。良王を供奉して、信州から三州に赴き野呂に居住」

※ 管見に入っていない。三河に三善朝臣姓の布施氏がおり、幕臣を出して『寛政譜』に見えるが、その先祖には孫三郎重政が見えない。

(11)宇津十郎忠照:「三州前木に居住。桐山和田の大久保の祖。駿河国富士郡住人、宇津越中守の二男」。尹良親王が駿河の富士十二郷で鈴木・井出一族と共に宇津越中守らから饗応されたとも記す。尹良親王のときの浪合合戦に宇津越中守道次が参陣と見えるが、道は「泰」の誤記である。

※ 宗良親王に仕えた駿河国有度郡人宇津越中守泰次の男で、比奈一族宇津氏の出。次の忠成は兄弟か従兄弟。

 (12)宇津宮甚四郎忠成:「三州大久保に居住」

※ 幕藩大名大久保氏の先祖であり、忠照の一族。

 (13)熊谷越中守直房:「近江国伊吹山の麓、塩津に居住。江州熊谷、雨森の祖」

※ 管見に入っていない。近江熊谷は直実の兄・直正の後という。

 (14)土肥助次郎氏平:「土肥三郎左衛門尉友平の子。尾張国愛智郡北一色に居住」

※ 管見に入っていない。

 (15)長谷川大炊助重行:「越中国名子の貴船山城主・石黒越中重之の子。尾州春日部郡如意に居住」

※ こうした系図があることは上述。石黒氏は利波臣姓で、宗良親王は越中国名子に赴いたこともある。

 (16)矢田彦七之泰:「堀田の一類。尾州春日部郡矢田に居住」    ※すでに説明済

 

 これらのほか、十田弾正忠宗忠は幕藩大名戸田氏の先祖であり、千村対馬守家通は幕臣千村氏の先祖(傍系?)で信濃の木曽一族の出であるが、実名の家通は疑問もある。津島四家の一、恒川左京大夫信規が『浪合記』に見えるが、凡河内宿祢姓広峰一族に恒川氏があり、その系図には左兵衛大夫信矩について、母は宗良親王女で永享七年十二月に来住津島と見える。分からないながら興味深いのは、「本多武蔵守忠弘」という人物で、この者が幕藩大名家本多氏と関係があるのかないのかも含めて不明である。

 以上に見るように、現段階では確認できないものがいくつかあり、更に検討を要するものの、尹良親王・良王親子に随従したという武家の子孫が津島社家の四家七党や三河・尾張及び濃尾地方などに後世まで血脈を伝え、具体的な系譜も残されている事実は無視しがたいものがある。『浪合記』の記事がまんざら誇張ではないことが分かる。

 


  五 (総括)


 長くなったので、そろそろまとめをしておこう。

@ 『浪合記』の記事については、天野信景偽撰説が成り立たないことは、安井久善氏の記事にのっとり既に述べたので多言を要しないが、「偽書説」についても、「偽書」の定義にもよるが、成り立たないといってよさそうである。
  もう少しいえば、『信濃勤王史攷』は、水戸彰考館図書目録に「浪合記 雨林本 僧実観撰」とあることによれば、浪合記の著者が僧実観であったことが判かると記すが、この者がいつの時代の人か分からない。また、諸伝本の本奥に見える「長享二年(1488)九月十八日」という日付のときには、どこまでが成立していたか分からない。そうした意味で、『浪合記』の史実性がかなり低いことは確かだととしても、偽作・偽撰の問題とは別問題であり、偽作と軽々しく決めつけることは避けなければならない。

A といっても、同書の内容が信頼できるかというと時間・場所など重要な点でも疑問が大きいものがかなりあって、史料性については相当の注意を要する。登場人物についても、正しい表記がなされているか、世代・時代が違う人物が紛れ込んでいないかなどのチェックをしっかり行うことが必要である。

B その一方、三河・尾張出身の幕臣の系譜について、示唆深いものもいくつかあって、史料性がかなり低いと思われても簡単に捨て去ることには問題が大きいと思われる。徳川将軍家についての記述も、冷静に評価しておくことが必要である。いずれにせよ、系譜記事については個別に十分な検討が必要なことは言うまでもないことである。

 まだまだ多くの史料を突き合わせて、『浪合記』などをさらに検討していく必要があるが、安井久善氏のいうように同書に対するこれまでの評価は当を得たものではないことを述べ、とりあえず、このくらいでここでの検討を終えておきたい。


コピペ終り
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月23日 23時15分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、本日新たな情報を得ました。信憑性についてはわかりませんが、善地
の永井家の一つのルーツの説として、池田藩と関係するという情報がありまし
た。どう関係するのかくわかりませんが、永井と池田は縁があることは確かで
…小牧・長久手の戦いで永井直勝が池田恒興を討ち取っている、赤穂城の城主
として、池田家―浅野家―永井家と続いている……。
 ただ、何で善地に永井氏が…? 私は大草家即ち永田家に関係する永井氏か
なとは思っているのですが……。丸に三つ柏と永井切り茄子が半々、一文字に
三ツ星が古い墓に一つ……。
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月24日 00時47分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 偶然です。浪合記に関する記述の最後の方に、「永井伝八郎直勝」が出て
まいりました!

 宗良親王は、三十二才(1344年)から六十四才(1376年)まで大河原(下伊那郡
大鹿村)に住み、その後はどうやら井伊谷に行ったようですね。知久氏、藤沢
氏、千野氏、香坂氏…南朝側ということで親近感が増大します。松島氏もその
延長線上にあるに違いないと感じております。永井、服部、松島、加藤、鈴木
…無理矢理でもつながらないことはない……。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月24日 04時41分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

当時は当たり前に分かっていたことだからワザワザ記録に残さない

それで21世紀になってどうして「鈴木・永井・加藤・松嶋・服部」がこんなに深く結びついているのか?と分からなくなってしまっている。

    鈴木氏といったら三河やと遠江の名家だと誰でも知っているし
    永井氏永田氏は前身が長田氏だから尾張や三河や遠江の名家だし
    松嶋氏は諏訪大社がらみの名家だと分かるし

    これらの家が南北朝の時にも関係があったんだろうなとは簡単に分かるし


でも時代の流れで味方ではいられなくなって敵になって、また、味方になって
そうこうしているうちにワケ分からない・・・




    善地の永井家の一つのルーツの説として、池田藩と関係するという情報がありました。
    どう関係するのかくわかりませんが、永井と池田は縁があることは確かで

        …小牧・長久手の戦いで永井直勝が池田恒興を討ち取っている、
         赤穂城の城主として、池田家―浅野家―永井家と続いている……。


ただ、何で善地に永井氏が…? 
私は大草家即ち永田家に関係する永井氏かなとは思っているのですが……。
丸に三つ柏と永井切り茄子が半々、一文字に三ツ星が古い墓に一つ……。




人間のことなので  長男はアッチ方でも三男はソッチ方について七男は・・・ という感じに同じ名字でもバラバラで

平和になれば敵だったもの同士で婚姻が行われて

という感じで紋まで合わせたりしたでしょうね


    その度に系図もちょっとハナシを盛ったりして(笑)




>浪合記に関する記述の最後の方に、「永井伝八郎直勝」が出てまいりました!


はい。
ここですね



1 良王の後裔と津島天王神主家                 まさに尾張服部家ホンヤさんに関係ですね


 良王は尾張津島に落ち着いて当地の津島天王(津島神社)の神主となり、尹重と名を改めたという。

  尹重は
     大橋修理大夫貞元(良王の従兄弟)の娘を娶って
     中務大輔少輔弘重(初名神王)と和泉守信重の二人の男子、
  
     堀田尾張守正重の娘を娶って
     斯波左兵衛督義郷妻となる女子を生んだとされる。


  

弘重の子の世長も神主となったが、男子なく、
大橋貞元の孫・小田井大学助貞常(母は和泉守信重の娘)を後嗣として神主職を譲り、
貞常は苗字を氷室と改めて、神主職を世襲したとされる。


また、和泉守信重の系統は、
定広−定安−重長……と続いて代々津島に住んだ。


定広の子・広正は長田平太夫政広の養子となり、
その孫が家康に仕えた永井伝八郎(右近大夫)直勝であるが、
摂津高槻藩など三藩主家の祖である。



名字がコロコロ変わるのでワケ分からなくなりますが
何重にも結び付いているのですね。


江戸時代の幕藩体制で国替えがあったからアッチコッチ飛ばされて
ホント
日本人は全くの他人と思っていた人が   えぇ?  と驚く関係だったことが分かったりして

分かった場合はラッキーだけど分からずに離婚というのもあったんでしょうね。
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月24日 08時49分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 メリークリスマス! 
 本日は筆の会の昼食会が京料理屋にて開催されます。
 これから出かけます―夕方より復帰します。
 
 蟻の一歩の歴史旅ですが、前進していることは間違いありません。時には
飛躍的に進むこともありますので、その日を楽しみに頑張ります。
 
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月24日 10時44分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


Happy Holidays!


>蟻の一歩の歴史旅ですが、前進していることは間違いありません。
>時には飛躍的に進むこともありますので、その日を楽しみに頑張ります。

はい
2000年を超える人間の歴史を研究しているのです
いきつもどりつ
なんとかご先祖さまの来し方が分かりますように!


三つ柏さんは普通の人では挑戦の難しい教養にも頑張っていらっしゃいます。
古文書が読めるようになるだけでもすごい成果です。
いつかご先祖さまの文書を三つ柏さんご自身で解読出来るとと良いですね。
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月25日 00時18分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そういえば、以前氏類の墓の家紋を調査した時、一家族の家紋が「丸に
抱き茗荷」でありました。「丸に三つ柏」の系統とどちらが古いのかにつ
いてはわかりません。氏類の付き合いはしておりました。その家系と永井
家は明らかな親戚だったそうです。
 いずれにしても六代前からの祖先が闇の中であります。

 何故善地に加藤、永井、服部、松島、鈴木がいるのか…加藤は系図から
言えることは「加藤光泰」の系統のようです。加藤を中心とした関係より
関連性を探ってみたいと思います。
 加藤家は秀次の事件後、池田村に隠棲―名を偽って逸民となり、帰農した
ようです。池田村も天領でありました。
 農民になってもすぐ食えるわけではないと思います。何か支援があったの
ではないか? 家族の内の女子は、池田村の荘官の家に嫁いだようです。つ
まり、荘園を管理する土豪の所へ。表面的には名を偽っても、荘官や代官や
あるいは庄屋はわかっていたと推察します。武家はすぐわかると思います。
 加藤家は池田から善地へ移動した。そして永井、松島、鈴木、服部と
縁戚関係になる。加藤家が中心になり、他の四家を取り込んだ? 何かの
つながり…キーワードは何か? 武士にからむものか、宗教にからむこと
か、代官は秋鹿氏、大草氏、市野氏……。やはり「家康」がらみか?
 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月25日 03時08分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


抱き茗荷は結構あるようですね。
沙羅さんのところも抱き茗荷だった記憶です。

   伊賀系は?尾張系は?矢のようですが。


本当にどこからそうなって行くのか実に不思議です。



現代でも何かあって挫折したら実家に戻るように
武士も離職したら本貫地に戻るのだと思います。
頼って行く先は受け入れてくれる所。

加藤家はもともと善地の永井氏や松島氏鈴木氏服部氏と関係があったのかなと。
善地が天領だった、というのがカギかなと思います。

    天領に徳川氏にとって目障りな家は置かないだろう、と。
    それこそ目障りな家は処払いで追い出すのでは?と。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月25日 10時27分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本年も、いよいよ大詰めを迎えております。私も本日(金)を過ぎれば、後
は月曜日の仕事納めのみ。
 二十ケ月という時間が知らぬ間に過ぎました。その間、いろいろとご指導
ご鞭撻・激励いただき、本当にありがとうございました。
 まだ、今後もよろしくお願い申し上げます。

 おかげさまで、見えないものが少しずつうすぼんやりと見えてまいりまし
た。時間と労力をかければ、見えないものが見えてくる―この実感をはっき
り感じるこの二十ケ月でした。
 まだまだ、調査不足の感は否めません。今後も根気強く調べてまいりたい
と存じます。
 「池田」については「善地」も大いに関係していますので、今後古文書・
研究論文等、深堀りしてみます。秦氏の松尾神社との関係、平家、源氏との
関係、その他すべての歴史に絡んできますので……。
 また、家康以前は磐田(中泉・見付・鎌田)が中心なので、磐田の調査にも
っと力を入れてみます。
 とりあえずは、豊田町(旧池田)の図書館へ近日中に行ってまいります。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月25日 14時14分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


20か月ですか。
過ぎた時間というのは早いものですね。


なかなかご先祖さまは姿を現してくださいませんね。

人間関係はいろいろな人達・家が絡んで存在するんですから
まずはお世話になった人達から知りなさいということかもですね。


豊田町=旧池田=の歴史を読みませんとね。
磐田の歴史も読まないといけないし。


とにかく読んで読んで読みまくらないと。
それから
現地に行かなくてはね。


高槻の神服神社との関係ももっと分かると良いですよね。
常に現場=原点=には戻らないといけませんよね。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月25日 17時31分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今夜は忘年会―ということで、思うようになりません。

 例の松島御三家というものがどういうものか、推測をしています。
 武将等の遠江での出世・ご褒美は、やはり次の点がポイントになります。
 @家康の遠江進出に貢献したかどうか。
 A関ヶ原の戦いに貢献したかどうか。

 松島氏には、対助の生家の「右衛門」系、対助養子先の「源右衛門」系、
それに十湖の「源左衛門」系があると推測しています。
 特に「源左衛門」というのは庄屋階級の人建に多いので、松島源左衛門が
どこまで活躍したのか、特定するのが難しいところであります。
 ただ、『浜松の歴史』の中で見つけましたが、笠井・羽鳥を領域として
「源左衛門」が大きく百姓を営んでいたということが書かれておりました。
十湖の家系は「源左衛門」であり、羽鳥・中善地を基盤としておりましたの
で、ほぼ間違いないのかなと思っています。
 この「源左衛門」が「松島」だったのか、それとも違う姓だったのかとい
う問題もあります、「源左衛門」家に松島家から養子に入った、またはその
逆。いずれにしても、「源左衛門」家は先行して遠江羽鳥地域に来ていた。
それは南北朝の時代か、源平の時代か、戦国時代か……。
 「右衛門」系と「源右衛門」系は対助より五代前の分かれであるのでほぼ
同族でありまする。
 これら、源左衛門、右衛門、源右衛門の枝をはっきりさせることが今後の
課題であります。

 もう一つは。「丸に一文字」家紋の謎……。市野氏、山村氏が正にその
家紋を使用しています。それとどう関係するのか……松島氏全体が「丸に
一文字」となっているのには、どういう経緯があるのかということ。

 それと松島十湖という天才が、家系のの中で突然出て来るということは
ないのではないか、レベルの高い家系・環境の蓄積の中から天才が現れる
のでは……と推察いたしております。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月25日 22時51分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


松嶋氏に3家ある、という発見。
養子で入って来たかも知れないという推測。
丸一文字紋の謎。


松嶋十湖の俳句の才能。


謎が謎呼ぶ、というのですね。
どなたか松嶋十湖について詳しく書いていらっしゃる本が見つかると良いですね。


ここまで分かったのですからたいしたものです。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月25日 23時22分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今忘年会から戻りまして、パソコンに向かっております。

 前レスの訂正:庄屋階級の人建→庄屋階級の人達

 『浜松の歴史』(大塚克美編著)の中に、源左衛門に関する記述がありました
ので、それを記してみます。情報としてはあいまいなので、困ってはおります。

 「熊野の御師である佐藤勘十郎(山城ともいう)は、享禄三年(1530)、自分の
  所有していた「遠江笠井の源左衛門子孫一門」をすべて売っている。笠井
  の源左衛門というのは同時代の『旦那場配分注文写』に「笠井一円羽鳥
  七郷」とあるように、現在の笠井町付近に居住する源左衛門のことであろ
  う(以上「米良文書」)。佐藤という熊野の御師は、笠井荘(『宗長手記』)、
  羽鳥荘(『新熊野神社文書』)といわれた地方のうち源左衛門という有力農
  民と思われる人とその一族を旦那(霞、縄張りともいう)として所有してい
  て、そこからの収益を財産とみなしていたのである。同様に文和三年(1354)
  には、井伊一門が、永正五年(1508)には、都田が売買されている(『米良文
  書』)。このように熊野の御師が、信者を財産と考えるようになったのは、
  遠江国が熊野新宮の造営料所に充てられていたから、南北朝時代以来国衙
  領の年貢を熊野に送るようになっていたことに由来すると思われる。」

   ここで言っている意味がよくわからないのですが、要するに熊野御師が
  在地領主層から祈祷料をいただくというような、個人的な祈祷師となって
  財を蓄え、それを利権としてなおかつ荘園全体を売買するほどの権利を有
  するまでになった。
   しからば、その売却先はどこ……? 佐藤勘十郎なんて聞いたこともな
  い……!。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 03時29分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


現代の日本史の授業では絶対に教えない「秘密」「暗黒の歴史」ですね。
すごいお話ですね。

わたくしが思っていた以上に   すごい人間関係  だったんですねえ。


今の表現の「居抜きで売る」の「付帯設備」には昔は「人間も設備の内」、だったんですねえ。



    確かに(例えば)航空会社が身売りする時には従業員も纏めて相手方に渡して
       買った方は従業員の中にいる不都合な人材・嫌いな人材は契約せずに追い出しますから

    でも現代では、売り飛ばされる(笑)従業員は、シニヨリティは確保したい、と交渉出来ますが



昔の国替えでも良い殿さまがヨソに転勤になると、その地元では新しく来る殿様が評判が悪い場合は、抵抗したり、ありましたね。



中世の人間関係って隷従とかいう言葉がありましたが
そういうことが行われていたというのを思い出しました。


オソロシイ世界を垣間見てしまいました。
すっかり忘れていました。


   逃散とか、そういう言葉がありましたね。
   逃げ出すこと。



逃散(ちょうさん)

日本の中世から近世にかけて行われた農民抵抗の手段、闘争形態である。
兆散とも言う。

古代の律令時代に本貫から逃れて流浪する逃亡及び律令制解体後に課税に堪えずに単独もしくは数名単位で他の土地に逃れる逃亡・欠落とは区別される。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 03時36分53秒 ) パスワード

御師


平安時代の御師には、石清水・賀茂・日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師である。熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話をしたのが熊野御師であった。当初は参詣のつど契約していたが、次第に御師を「師」とし参詣者を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。鎌倉時代には武家にも広まり、室町時代には農民まで檀那とするようになった。

鎌倉時代から室町時代初期にかけては、特に有名な伊勢神宮や富士講の御師が活躍したほか、松尾・三嶋・白山・大山の御師も活躍した。

江戸時代には百姓と神職の中間の身分とされ、経済の安定により庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つようになっていく中で、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師の制度が発達した。特に伊勢や富士では全国に檀那を持つまでに至った。例えば、伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の伊勢講の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図った。同様のことは各地で行われ、中世から近世にかけて、御師の間で師職(御師の職)や檀那の相続や譲渡・売買が盛んになり、勢力の強い御師のもとに檀那や祈祷料などが集まった。一方で熊野御師は熊野信仰の衰退とともに衰退した。

明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退する。明治2年(1869年)に明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。御師側はこうした動きに抗議したものの、明治4年(1871年)7月には御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入された[1]。御師は百姓や宿屋経営などに転じていくことになるが、富士講の御師を結集して扶桑教を結成するなど、宗教的な活動を維持しようとする動きもあった[2]。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 03時39分18秒 ) パスワード

ということは  御師も不在地主のような存在になっていた  ということですね。



御師もアチコチに個人の土地=財産=を所有してた、ですか・・・


    これは意外でした。
    というよりワタクシがアホだっただけですが


熊野の財産だとばかり思ってたけど個人の財産に化けてたんですねえ。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 03時43分52秒 ) パスワード

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/busi_myo2.html

武士と地名と名字
家名を表わす名字は、日本の歴史においていかにして発生し、変遷していったのか。

[INDEX] 名字の発生 ・初期の武士団と名字 ・武士の移住と名字 ・名字の固定と混乱


武士の移住と名字

 名字の分布を調べる際に、一番目につくのは、鎌倉武士の移住と名字の関係である。鎌倉武士の中でも北関東の小山等の豪族は、白河関を越えて陸奥の地方に移住発展している。しかし南関東の武士が本領をはなれて遠隔地に移住したのは、やはり幕府の政治力であった。将軍の頼朝は、平氏を平らげて後、平氏一族とその武将の所領を没収し、部下の将士に賞として与えた。なかでも、西国に分布していた平家の没官領の多くを源氏の御家人に分与したため、その地方には意外に多く鎌倉武士の植民地ができた。豊後国の所領を大友氏等、安芸国の所領を小早川・熊谷・吉川・毛利等の諸氏、越後にあった平家関係の所領を三浦・毛利・大見等に与えたのは、そのあらわれである。

■鎌倉武士の地方移住

つぎに頼朝の奥州征伐にあたり、功労のあった諸将は、それぞれ所領を奥羽の地に与えられているが、なかでも多くの所領を海道ぞいにもらったのは千葉氏であった。千葉氏では、常胤の次男師常が相馬郡を本領として相馬氏を賞し、陸奥では行方郡内村々の地頭職を与えられたが、相馬の名字は移住後も使用し、移住の地をも相馬と呼ばせた。これは移住地が未開発の地方で相馬氏の権力が圧倒的であったためである。三男の胤盛は、千葉郡の武石郷を領し、文治五年宇多・伊具・亘理の三郡に所領を賜ったが、その曽孫に至って亘理氏を称した。四男の胤信は大須賀保を本拠とするが、岩城郡に移っても大須賀氏を称した。なお、葛西七郡と称される地域にも千葉頼胤を始祖とする千葉氏の一族が居住しているが、この頼胤は常胤の改名とする説と常胤の七男とする両説があって、明らかではない。いずれにしても、葛西氏の重臣として千葉の一族が繁延し、その名字もこの地方一帯にひろがっている。葛西氏は郷里の地名をそのままに発展したが、居住地の地名を変えることはなかった。
 梶原氏の場合では、気仙郡唐桑村石浜に梶原景時と景季を祭ったお堂がある。これは景時の兄がこの地方に下向したとき、居宅のそばにお堂を立てたのがはじめであろう。梶原の名字もこの地方に多い。  本吉地方には熊谷氏が勢力を伸ばしている。その史料は系図だけであるが、この地域一帯の豪族となっている。安芸に下った熊谷氏は三入薗の地頭として発展していったが、近江と陸奥の熊谷氏も今後の研究で明らかとなることだろう。
 なお、北関東の小野寺・阿曽沼・小山の諸氏もそれぞれ所領を与えられ、一族が移住している。  関東武士団の地方移住として、つぎに大きな契機となったのは三浦氏の宝治合戦であろう。三浦氏は北条氏に対立する最大の武将であっただけに、その与党の没収せられた所領は大きく、北条氏に近い南関東の武士がその所領を与えられて、それぞれに移住した。三浦氏のなかで北条氏に近かった葦名氏が会津荘の地頭代、渋谷氏が薩摩の入来院の地頭に任命されるなど、地方でも北条氏、とくに得宗家の勢力がいよいよ増していった。この中でも注目されるのは、北条氏の御内人と称される伊豆の武士たちである。工藤・南条・曽我・狩野の諸氏がそれであり、ことに工藤氏は、北条氏の得宗領のあるところに必ずといっていいほど、代官として派遣されている。津軽・南部・寒河江・若狭等々、工藤の名字のあるところは、北条氏の勢力圏であったところということができるようだ。


次に諏訪氏の場合をアップ

[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 03時44分28秒 ) パスワード


●諏訪氏の場合

 信濃の諏訪氏も北条氏の発展にともなって、各地に活躍した。諏訪の上社の祭神建御名方の子孫は後世神家とも、諏訪氏ともいうが、本来は三輪氏であろうか。上社の社家には、神・小出・矢島・伊藤・長坂・花岡などがあるが『太平記』には神家の一党三十三家が挙げられている。下社の社家のは国造家の流れを汲む大祝金刺氏があり、このほか今井・志津野があり、さらに源氏の流れを汲むという滋野氏もいつのころからか諏訪の一族とまじわって行った。こうして諏訪氏の一族は約百四十氏ともいわれるが、諏訪とか神とか本来の姓よりも他姓を名乗るものが多い。北条氏は信濃に多くの得宗領をもち、諏訪の大祝を有力な味方にしていたから、東国各地の得宗領にも諏訪の一党が代官として派遣された。津軽に神の名字が多くあるのは、このためである。
………
諏訪氏の代表紋/梶の葉

●鈴木氏の場合

 熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。
 源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。
 伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。北上・鳴瀬などの大河川の流域にも熊野神社が建てられ、上流の宮崎には大崎氏によって大崎五郡の総鎮守である熊野神社が勧請され、その神輿は祭のときはるばる桃生郡にまで巡行したという。陸前唐桑の網主鈴木家も熊野系図に記しているが、その隣村に梶原堂のあるのは、鈴木と梶原が共に活動していたことを物語っている。また、熊野と鈴木氏の関係は北陸にも及んでいる。加賀山内の白川別宮ももとは熊野宮、城主の鈴木出羽守は藤白郷の出身という。
………
鈴木氏の代表紋/稲

●佐藤氏の場合

 佐藤氏も鈴木氏についで天下の大姓であり、鈴木が関東にもっとも多かったのに対し、佐藤姓は東北のすべての県で一位を占めている。その理由の一つに、佐藤基治のとき、阿武隈の上流の肥沃な信達地方をおさえ、平泉藤原氏政権の有力な武将として、各地に一族を分封させ、相当な地盤を形成していったことがあげられる。第二に佐藤一族が頼朝に降伏したあと、各地に発展したのは、その実力を各地の有力者に認められたためであろう。
 降伏後の佐藤氏の発展については、以下のように考えられる。
 第一、その本拠地信夫郡の佐藤一族では、基治の子隆治・継信・忠信・重光などがあり、継信・忠信の兄弟は義経に従って活躍し、戦死した。文治五年基治は許されて信夫庄に帰ったが、伊勢佐藤氏の系図をみると、基治の子継信の子孫は摺上川上流飯坂を中心として、信夫庄北東部にひろがっている。南北朝の内乱期、一部は葛西氏に従い、本吉郡馬籠に移った。
 第二、信夫の佐藤氏が移住した馬籠と津谷の両村は、早く佐藤庄司の妻の湯沐の地といわれ、ここに佐藤氏の所領があったのであろう。佐藤一族は、この地方を中心として大いに発展した。
 第三、出羽最上郡豊田邑に移住した佐藤一族、さらに田川郡にものび、酒田を経て、新潟・秋田等にひろがった。また一部は同じ出羽の長井庄に移り、最後に伊達氏に従い、仙台伊達の主流をなした。
 第四、宮城郡西根にも、戦いを避けてこの地に土着した継信・忠信の兄七郎の系統が伊達氏の家臣に取り立てられている。なお佐藤は宮城地方の豪族留守氏の執事にもなっているから、馬籠の佐藤氏が葛西氏の重臣になったこととあわせて、佐藤一族の繁栄を考えるべきであろう。
 また、湯の庄司といわれた佐藤氏が青根や秋保温泉の草分けになっていることも面白い。さらに、相馬藩の侍の約二十%は、伊達氏に追われた佐藤氏の流れを汲むものといわれ、全国でも珍しいほど佐藤姓の集まるところとなっている。
………
佐藤氏の代表紋/源氏車
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 03時45分10秒 ) パスワード

名字の固定と混乱

 名字がさかんにつくられたのは、武士の移住と開墾の行われた鎌倉時代のことである。南北朝の内乱後は、相続制も庶子の分割相続から単独相続に変化し、集合家族から、家父長的な直系家族がかたまってくる。嫡子以外の庶子が土地をもらって分家を構える率は少なくなる。分家創設の際も、住地の如何に拘わらず、長く本家の名字を称するようになり、しぜん新しい名字の続出もなくなった。
 しかしその反面、庶民の成長にともなって、庶民にして名字を名乗るものも多く、有名な名字を詐称するものも現われた。ことに戦国末期以降、下克上によって一城の主となったものは、系図をつぎつぎに改編し、氏素性を尊貴名物とすることに苦慮した。一方、戦乱によって主家が没落すると、その一族は名字を変えて領内にひそみ、また多少これを改めて他家に仕官したりした。
 たとえば、肥後の菊池氏のように戦国の末、その一族のなかに酒田や秋田に亡命するものもあり、先に南北朝内乱期、病身のため家督を譲って東北の各地を流浪したという菊池武士の子孫とともに、東北の菊地姓姓のもとをなした。安房の里見の一族や家臣も盛岡付近に亡命している。名字の移動と混乱は、戦国末期にその頂点に達したといえよう。
 名字が混乱すればするだけ、一家を象徴する名字の価値が加わってくる。永亨以来、御番帳には土岐何々とか、佐々木何々とか、有名な氏の同苗にあたる者の名が記されているが、これはその苗字によって政治上儀式上ちがった待遇のあることを示すものである。熊野の御師は佐々木名字とか里見名字とかを全国一円に檀那の対象とし売買している。
 こうして名字は家格を示すものとなり、すべての名誉や財産の象徴として尊ばれ、名字をつぐことが家督相続の大事な要素となったのである。毛利元就は、三子をいましめた自筆の書状に「毛利と申名字之儀涯分末代までもすたり候わぬように御心づかい肝心までにて候」と記している。長宗我部元親がその百箇条で名字を改めるのを禁じているのも、家来をして家の観念を重んじさせるためにほかならない。有力な武将は、一家の権威を高めるため、同じ名字をもつ部下にはその改名を命じ、部下も主家に遠慮して自発的に改名した。常陸の江戸氏が徳川氏の江戸に遠慮して、水戸氏に改めたのがそれにあたる。
 一方、主家は恩賞として部下に苗字を新しく与えた。豊臣秀吉は有力大名に羽柴姓を与え、徳川家康は島津など二十九家に松平姓を与えた。形式的にその一族たる処遇を与えて、その心をつなごうとしたのである。
 このように社会の混乱期には、名字を固定化しようという動きと新しい名字を創造しようとする動きがあったが、結局、後者はそれほど多くはなく、鎌倉時代につくられた武士の名字が大半を占めて、明治に至ったのである。

コピペ終り
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 04時17分02秒 ) パスワード

>熊野の御師は佐々木名字とか里見名字とかを全国一円に檀那の対象とし売買している。

へえ〜

     
ということは  頂いた松嶋家の家譜に出て来る對助さんの次のページの「里見なんたらかんたら」 とか「家紋」 の意味は

ここに関係しているのかもですね。


あの謎のページの解明の1%ぐらいは  熊野の御師  佐藤佐藤勘十郎 に関わっているのかもですね。
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月26日 08時31分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそくお調べになっていただき、ありがとうございます。「居抜き」の
例え、「会社ごとの身売り」の例え、よくわかります。

 本日は、午前中に家の大掃除をしてしまいますので、その後でゆっくりと
読解させていただきます。
 まずは、とりあえずお礼まで―
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 15時01分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


我々現代人は
昔の日本人が「土地に縛られる」とか「家に縛られる」とか「隷属」とか「主従関係」とか
の言葉の裏の厳しさを全く知らないでいたようですね。


          そう言えば高校の時の歴史の先生がなんかそんな話をちらっと言ってたようなと思い出しました


転居の自由が無かったこととか土地から逃げ出す自由が無かったのは知ってても
土地を離れれば、それが即ち「野垂れ死に」することであった、
ということも忘れていましたね。

          ものすごい厳しい生活があったんですねえ。



2015年は思わぬ世界をいくつも見ましたが、まさか、こんな基本的なことにぶち当たったとは。



          熊野の御師の佐藤勘十郎(山城ともいう)が、
          享禄三年(1530)、自分の所有していた「遠江笠井の源左衛門子孫一門」をすべて売っている
          とは、すごい発見でしたね。



佐藤勘十郎が誰に売ったのかは分かりませんが
自分で自分の身分を買い取った
ということも考えられますね。


この部分、もう少し分かると良いですね。



三つ柏さんの調査は行き詰って来たのかしらと思っていましたが
なんだか2016年は更に興味深い情報に出会えそうに思えて来ました。
ワクワクしますね。


今年はアチコチ旅行に行きまくって金銭的に贅沢なさいましたが
来年は経済的に行けると良いですね。
その算段も来年の目標になさってください。

    早く年金で遊べるようになるといいですね。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月26日 15時13分38秒 ) パスワード

あ、でも、年金を満額貰うとすると何歳まで待つことになるのかしら?
その年齢の時には老人世界に足を入れてる頃でしょうか?


年金のことは全く分かっていないのですが、毎年、金額が上がっていくので確かではないのですが


アメリカの満額の国民年金の最高額は今年70歳で引退する人は  月に3501ドル  のようです。

65歳が2663ドルなのかな?

62歳で引退してもらう人は  2025ドル  だそうです。


広報の中でこんな数字を見ました。


ワタクシは主婦の暇潰しというか社会見学レベルでしたから
(年金を貰えるほど働いてないので)
生活保護の人の方がずっと多いです。笑


70歳まで働いていたら元気で遊べるのは数年ですよね。
目的地に着いたら  グッタリ   ということになっては悲しいです。


ということのないように   体調にはくれぐれも気を付けて  忘年会や新年会を楽しんでください。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月27日 00時26分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 熊野御師、佐藤勘十郎(山城ともいう)―この人物を中心として、いろいろ
調べて行きたいと思います。

 八幡寺の謎…羽鳥神社の北、蛭子森遺跡のすぐ北側に八幡宮がありますが、
昔は「八幡寺」と言われていたということで、対助の叔父さん清八郎は、こ
の八幡寺の住職とほぼ確定しました。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月27日 03時19分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


頂いた松島家譜、また、見ています。


對助さん

直接の先祖の一族は  もとが左近流で  後に  屋号が忠兵衛と右衛門を名乗る2つの家になった?

                                      これがヤヤコシイですね



忠兵衛さん    弟が清八郎で八幡寺住職  
         子が 源右衛門さん   ここに對助が生まれる


         對助は源左衛門に養子に行くが実子が生まれてしまう


忠兵衛さんの生まれた年が永正2年=1505年

ということは忠兵衛宗次さんの父上の右衛門宗房が57歳の時に  (文明5年1473年生まれだから)


           熊野の御師の佐藤勘十郎(山城ともいう)から
          享禄三年(1530)、
          「遠江笠井の源左衛門子孫一門」を買ったのかもですね。



それで對助が源左衛門の家に養子に行くことになったのかもですね。

ところがところが

源左衛門さんに実子が生まれてしまって


市野惣太夫が間に入って

對助は     「古代より先祖を建る」=もともとの  左近流の家?を再興した?

           永禄11年生まれ  1568年

俗姓松島源右衛門 源姓忠吉の子となって  對助は右衛門家を建てて  さらに忠兵衛宗吉  を名乗った?


               この屋号がゴチャゴチャして面倒ですね。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月27日 03時35分41秒 ) パスワード

このややこしい一族の屋号が錯綜して


家紋はどうするか?という時に

對助さんのお嫁さんの兄上の市野惣太夫にあやかって  丸に一文字  になったのかもですね。


それに丸に一文字は
熊野の御師さんから檀那さん連中に売られた?里見家だの新田家だのと繋がる源姓の「1つ引両紋=大中黒紋=鍋の蓋」と似てるし?



推測でしかないですし
   とにかくややこしくてこんがらがって
   ワケ分からなくなって



でも熊野の御師さん関係でいろいろな家がいろいろな事情で繋がっていたということも考えられますし。
とにかく戦乱による混乱の歳月が何度もあったのですから。



名字とか家紋とかって、微妙な差がその家のアイデンティティですから、
日本人ってこういうので出来ているんだろうなと改めて思いました。


熊野の御師さんから買ったんだろう、という外野の推測は単純な下司の勘繰りに過ぎないのだろう、とも思います。

とにかくいろいろ情報が手に入ると良いですね。



              あ〜
              ややこしかった〜

[35]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月27日 11時25分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがであります、あを様の推理! 私からいうのも変ですが、かなり真実
に近い論理的構成ができましたね。

 例の家系譜、実物は宗家にありますが、それを見て翻訳したものが、図書館
に寄贈されたということであります。しかしながら、そこには間違いや、翻訳
記載しなかったデータもあるようで、総てを正確に翻訳したものではないよう
に思われます。但し、系図の骨組みはその通りには書かれていると思われます。

 間違いで言いますと、「右」と「左」の古文書での崩し字、「妹」と「娘」
の古文書での崩し字……これが翻訳のミスであるように思われます。従って、
この家系譜には源左衛門なる名称は出て来ませんということになります。
 市野氏の「妹」は、正確には「娘」であります。
 また、対助は独礼庄屋であるという情報も落ちています。その他、対助の六
代前以前の系図はなくなったこと、羽鳥庄司の家人云々という情報、身長・
力(何人力)―つまり武士としての力量(特に弓)等の情報も落ちています。
 従って、まだ未解明の崩し字部分もありますので新たな情報も浮上して来る
可能性はあります。
 対助の六代前の宗忠には官職名「尉」がついています。これは、国衙の在庁
官人を表します。また、「左近」なにがしという名前からも、宮中の警護を
行なった可能性があります。
 即ち、荘園などの土豪で荘園の警護等を行う内に力をつけ、中央の貴族や
社寺に土地を寄進し(虎の威を借る)、自分は荘官となって権威をつけた。平家
時代には、この武士達は「大番役」と呼ばれ、三年の間交代で京都にのぼり、
皇居の警備にあたらなくてはならなかったということです(『浜松市史』)。

 荘園の荘官・家人(家来)/庄屋クラスの地主百姓……それが右衛門・源右衛
門/源左衛門の関係だったのではないでしょうか。
 では、「松島」という苗字はどこから?……これは、やはり諏訪神党が北条
氏の得宗家として活躍したところから、この遠州の地に移動して来たのではな
いかと推察いたします。伊那箕輪の松島氏もからむ可能性がありますが、年代
的には1500年の後半となりますので、後発事象となり、論理的構成として
は、浜松に流れ来たり、姉川の戦い、三方が原の合戦、長篠の戦い、関ヶ原の
戦い等で戦功を上げ、ご褒美をいただいた(領地・地位)ということが推測され
ます。
 しかしながら、それを証明する文書類の記載は今の所見ておりません。
市野氏は表舞台にのるのですが、ひょっとして松島氏は市野氏の家来だった
のかも知れません。庄屋は領主によって任命されるということから考えても、
松島氏が庄屋に任命されたのは、市野氏によるのではないか。
 市野氏と松島氏を結ぶバックグランドの関係としては、対助の祖母は「袴田」
家の出身であった。そして市野氏の前姓は袴田であった(さらには寺田)。
袴田家が松島と市野をつないでいたということが推測されます。

 本日はここまでとします。
[36]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月27日 12時06分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 若干の訂正と追加―

 松島氏のイメージというものが、あの処刑された松島城主のイメージが強く
て、ついうっかりしました。松島氏を名乗った祖先(その前は藤沢、さらに千野、諏訪氏へと遡る)は、1200年代前半まで遡れますので、南朝、源平、
北条氏、知久氏等と関係して遠江に来ている可能性があります。松島城主の一
党がどのような形になったかは、今のところはっきりわかっておりません。
 源太夫堀で有名な小笠原源太夫の次男が、松島を名乗っているというところ
に、解明のヒントがあるような気がしているのですが、調査方法に手詰まりを
感じております……。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月27日 13時22分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。


崩し文字
本当に難しいですよね

わたくしの母方の家書でも   顕如上人のことなのか教如上人のことなのか  ハッキリしません。


市野惣太夫の「娘」でしたか。
これで納得ですね、妹だったら、すっごく年齢の離れた妹ということで  あれ?  でしたものね。


對助さんのお祖母さまは袴田家でしたか。
でしたら市野惣太夫が間に入った、という関係性がより分かり易いですね。


その上に對助さんは独礼庄屋だったなんて、すごい家だった、ということですね。



本当に、いろいろ読み直さないといけませんね。



で、加筆訂正になったのを国会図書館や浜松図書館などに寄贈なさってください。
もちろん川上比隈氏のご家族にもコピーを贈呈なさって。


ご自分の生きた証にもなりますし
川上比隈氏も草場の蔭で喜んでくださると思います。


一応「形」になさってください。
後世の方にも参考になりますし。


生まれて来て、こういう形で世の中に貢献できることも、「ライフ・ワーク」ですね。

さすが古文書の研究の結果が1つ成立となりますね。
完成にはまだまだお時間がかかりますが。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月27日 14時03分12秒 ) パスワード

何らかの理由があって熊野大社に源左衛門が借金をして
その返済が焦げ付いて
源左衛門の財産が御師さんの佐藤氏のものとなって
對助さんのお祖父さま達が買い戻した?


    身売り

    この言葉は借金のカタに女郎とかになる事かと思ってましたが
    こういうことにも使われたのかもですね。


    いやぁ〜
    スゴイ発見(自画自賛)



買い戻したのが  享禄三年(1530)  ですから
その前に何かすごい事件とか争いとかあったのかもですね。


    何があったのか調べたくなりますね。
  



1530(享禄3)年の出来事
1月29日 駿河守護の今川氏輝(いまがわうじてる)が富士本門寺を守護不入の地に制定
4月7日 北条氏綱(ほうじょううじつな)が藍染め職人に税徴収の特権を許可
10月8日 足利義晴(あしかがよしはる)が公家式の花押(かおう)を採用
11月6日 享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)勃発
12月9日 幕府が債務の一割を手数料として取る分一徳政令(ぶんいちとくせいれい)を発布
某月某日 絵師、狩野派の祖・狩野正信(かりのまさのぶ)が死去



1529(享禄2)年に生まれた武将
1月21日 上杉謙信(うえすぎけんしん)
1月3日 大友宗麟(おおともそうりん)
  吉川元春(きっかわもとはる)
  山内隆通(やまのうちたかみち)
  亘理元宗(わたりもとむね)


http://www.geocities.jp/hosinoufo3/nenpyou.html
   出来事の後の人物名は死没者の名前

明応2年4月1493年 畿内 重要 明応の政変    
4 伊豆国 重要 伊勢宗瑞(北条早雲)、伊豆討入り  
明応3   1494       上杉定正
明応4 9 1495 相模国    伊勢宗瑞(北条早雲)、小田原城を居城に  
明応5   1496        
明応6   1497        
明応7   1498        
明応8   1499        
明応9 10 1500 山城国   後柏原天皇が即位  

文亀1 1501
文亀2 1502
文亀3 11 1503 相模国 大森藤頼

永正1 9 1504 武蔵国   立河原の戦
永正2   1505      
永正3 9 1506 越中国   般若野の戦
永正4 1507 関東    扇谷上杉氏が山内上杉氏と和睦。(長享の乱の終結)
6 山城国 永正の錯乱
永正5 10 1508 甲斐国   坊峰合戦 油川(武田)信恵
永正6 1509      
永正7 6 1510 越後国   長森原の戦 上杉顕定
永正8 1511 山城国   船岡山の戦
永正9 1512
永正10 1513
永正11 1514
永正12 1515
永正13 7 1516 相模国   伊勢宗瑞(北条早雲)、相模国を平定 三浦道寸
永正14 10 1517 安芸国   有田中井手の戦 武田元繁
永正15   1518        
永正16 ? 1519 駿河国   今川義元誕生  
8 伊豆国      伊勢宗瑞(北条早雲)
永正17   1520        

大永1 11 1521 甲斐国   上条河原の戦 福島正成
11 甲斐国   武田信玄誕生  
大永2   1522        
大永3 8 1523 安芸国   毛利元就、毛利家を継ぐ  
大永4   1524        
大永5   1525        
大永6 4 1526 山城国   後柏原天皇崩御  
4 山城国   後奈良天皇即位  
6 駿河国      今川氏親
11 相模国   里見義堯、鎌倉へ侵攻  
大永7 8 1527 美濃国   西村正利(斎藤道三)、守護の土岐頼武を攻め越前国に追放  

享禄1 12 1528 周防国   大内義隆、大内氏を継ぐ  大内義興
享禄2   1529        
享禄3 1 1530 越後国   上杉謙信誕生  
享禄4 6 1531 摂津国   天王寺の戦


ここにヒントがあるでしょうか?
戦国時代の幕開け時代という感じですね。
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月28日 10時45分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、旧見付宿の鴨川べりにある「東福山 西光寺」に行ってまいりま
した。今まで、限りなくその前の道を自動車で走っており、一度寄ってみた
いなとずっと思っていたのですが、つい寄らずに今まで来てしまいました。
 今回は、五百メートル程北にある図書館に車を留め、車に積んでおいた
折り畳み自転車にて向かいました。
 ――来てよかった、というのがまずの印象でした。
 通りから入ると、門がありました。案内板を読むと、それは「中泉御殿」
にあった「大手門」でありました。
 その大手門の奥に、「椰(なぎ)の木」と「大樟」がどちらも高くそびえて
おりました。
 案内板には、パワースポット云々が書かれておりましたが、椰の木は、伊
豆の配流先に生えていた椰の木の下で、源頼朝が北条政子と愛を誓ったとい
うようなエピソードも書かれてありました。
 本堂にも自由に入ることができ、「薬師如来像」と「日限地蔵尊」の前で、
般若心経を二巻唱えさせていただきました。
 この薬師如来像は、平清盛公の嫡男遠江国守平重盛公が建立した「蓮光寺」
にあった重盛公ゆかりものと説明書きにありました。蓮光寺は西光寺に吸収
合併されたということです。
 日限地蔵については、二代将軍秀忠とお江の五女、和子姫が常に側に置か
れた念じ仏で、1620年、江戸城より京都へ入内のため向かう途中、西光
寺で休まれ、その時に賜われたものだそうです。その後火災にあってもこの
地蔵尊だけは災を逃れたそうです。「日を限り願えばすべてが叶う」と言わ
れる由縁はそこにあるのでしょうか。
 和子姫と藤堂高虎による入内へのバックアップの話もずっと私の頭に残っ
ておりましたので、和子姫のゆかりの仏像と出会えたことには感激いたしま
した。もちろん重盛公ゆかりの仏像にも、清盛・その嫡男重盛をより近くに
感じ、感慨にしたりました。

 西光寺の墓地も立派でありました。私の言う「立派」というのは、歴史を
物語る古くからの苔むしたお墓があるということです。
 まずビックリしたのは、「見付宿本陣鈴木家墓所」と「見付宿本陣神谷家
墓所」があったことです。
 墓地の高いところに鈴木家と神谷家の一団の苔むした墓石群がありました。
 なおかつ、一族関係者の墓もあちこちにあり、墓地の最上段には鈴木家、
そして小栗家の墓がありました。
 鈴木家の墓石の家紋は「鶴」、下の方にある鈴木家には「下がり藤」が一
軒ありました。
 小栗家は宝篋印塔。家紋は表示されておりませんでした。
 その他に気付いた姓と家紋をピックアップしますと―
 加藤家:丸に三つ柏
 大橋家:丸に違い鷹の羽
 沢木家:丸に木瓜(もっこう)
 桑原家:丸に木瓜
 小西家:丸に蔓(かずら)三つ柏(蔓柏)
 杉山家:丸に三つ柏
 堀内家:丸に三つ柏
 渡瀬家:丸に蔦(つた)
 山下家:丸に違い鷹の羽
 永田家:丸に片喰(かたばみ)
 そして、見つけました―服部家の墓が二つ飛び飛びにあり、両方とも「丸
に違い鷹の羽」でありました。
 神谷家は「蔦柏」でありました。
 柏関係の家紋が遠江の天竜川から大井川の間の地区には多いなとの印象を
持ちました。
 また、西光寺には「違い鷹の羽」が多いとの印象もうけました。それは、
家康がよくこのあたりへ鷹狩に来たという由縁からでしょうか……。

 いずれにしても、この寺には何か優しく迎え入れてくれるシンパシィのよ
うなものを感じました。
 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月28日 12時49分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


般若心経をわたくしの分まで、ありがとうございました。


加藤家:丸に三つ柏               この加藤家、アヤシイかも。
 
小西家:丸に蔓(かずら)三つ柏(蔓柏)

杉山家:丸に三つ柏

堀内家:丸に三つ柏


服部家の墓、両方とも「丸に違い鷹の羽」でありました。     へえ〜

神谷家は「蔦柏」でありました。


柏関係の家紋が遠江の天竜川から大井川の間の地区には多いなとの印象を持ちました。


      これも不思議ですね。



いやぁ〜、紋は難しい。
もうアイデンティティの主張競争みたいに複雑怪奇です。

わたくしの想像をはるかに超えてます、
負けを認めます。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月28日 13時32分53秒 ) パスワード

http://www.saikouji.pw/history/


時宗 東福山 西光寺の歴史

このお寺は鴨川道場東福山西光寺といい、阿弥陀如来をご本尊とする時宗の古刹です。 今から約730年前、文永2年(1265)4月8日に、真言宗の傾木和尚が、この地にお堂を建立されました。

その後、12年の年月を経てようやく寺院の形が整い、ご本尊の開眼を迎えるだけになりました。傾木和尚は、ご本尊の開眼を当時一切衆生の済度を志し、全国を遊行されている一遍上人にお願いしたいとお考えになりました。




二代将軍徳川秀忠公と正室江の五女、源和子(みなもとのまさこ)、後水尾天皇の中宮として入内、東福門院(とうふくもんいん)と称されました。



                 東福門院とはここからきてたのですか。



上洛の途次、西光寺にてご休息されたおり、ご自身の守り本尊として幼少時よりおそばに置かれた木像地蔵菩薩立像、および木像阿弥陀三尊立像、自らのお名前を冠した東福山の山号、そして七堂伽藍を賜りました。

傾木和尚の心が仏さまに通じたのでしょうか、建治・弘安年間(1280前後)一遍上人が化益のため見付にお入りになりました。傾木和尚は一遍上人をお堂にお迎えして開眼法要を勤修し、宗旨を真言宗から時宗に改めました。以来、傾木和尚を開創に、一遍上人を開山として時宗の念仏道場として現在に至っております。



              


時宗ということで春日局との関係(河野氏)をチェックしてみましたが
彼女のお寺は麟祥院で臨済宗でした。残念


麟祥院(りんしょういん)
東京都文京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天沢山。
徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺である。
周囲にカラタチの生垣をめぐらせていたので「からたち寺」とも呼ばれる。



歴史[編集]

寛永元年(1624年)、春日局の隠棲所として創建。はじめ、報恩山天沢寺と称したが、春日局の法号をもって「天沢山麟祥院」と号するようになる。

[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月28日 13時34分53秒 ) パスワード

東福山 西光寺を検索して最初に出てたのをクリックしたら「警告」が出ました。

     すぐに退出しました。
     大丈夫だったようです。


オソロシイですね。
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月29日 15時13分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 年末へ来て、通夜と葬式ができてしまいました。

 さて、御師について『豊岡村(池田のある豊田町の北隣)史』にも載って
おりましたので参考までに記します―
 「檀那(旦那)とは、寺社の参詣泊者のことで、霊山への登拝に際しては、
「先達」や「御師」から案内・宿泊などの便宜を受けた。先達や御師らは、
その見返りとして得分を得ていたが、次第にそそれぞれの先達らに属する
檀那の名簿が作られるようになり、それが郷村から国ごとにまとめられて、
一種の財産・権利となっていった。
 このような得分を得る権利は、檀那職と呼ばれ、売買の対象にもなって
行った。例えば、1439年4月には、大野七郎の娘ひろが、「遠江国野部
(のべ)の一族」の檀那職などを、代六貫文で十ケ年を限って廊之房に売却
するということもあったのである。」
 代、六貫文とは、一貫が百両ですので六百両、今の金額に直すと六千万円
位の価値でしょうか。すごいものです。それだけ、熊野信仰、団体参詣があ
ったということですね。そういえば、以前尾鷲から海岸線に沿って熊野に行
った時、一里塚のような道程標があって、確か「浜松から何里」というよう
に、静岡県の地名が謳ってあるのが何でかと不思議に思ったことがありまし
た。これで納得。昔の人はぞろぞろ歩いて熊野まで行ったのであります……。 
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月29日 22時51分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


そういう利権が存在してましたか。

檀那=布施  のあたりはなんとなく分かっていましたが。



だんな 【檀那・旦那】 〔梵 dāna〕


@
〘仏〙


布施。与えること。

〔梵 dāna-pati 檀那波底の略〕 檀越,即ち布施をする人を寺や僧の側からいう語。 《檀那》


A
家人・奉公人などが主人を敬っていう語。特に商家で使用人が主人を呼ぶ語。


B
妻が夫をいう語。現代では,主に他人に対して自分の夫をいう。また,他人の夫をいう語。
〔「だんな様」の形はきわめて敬意の高い言い方。「だんな」単独では敬意を伴わず,むしろぞんざいな言い方〕


C
女性と特別の関係をもち,生活の面倒をみている男。パトロン。 「 −持ち」


D
商人などがひいきにしてくれる男の客を呼ぶ語。また,俗に目上の男性を呼ぶ語。
「 −,もう一杯いかがですか」


E
「檀那流」の略。    これは知らないな(笑)
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月29日 22時55分30秒 ) パスワード

この部分、また考え直さないといけませんね。



 「熊野の御師である佐藤勘十郎(山城ともいう)は、享禄三年(1530)、自分の
  所有していた「遠江笠井の源左衛門子孫一門」をすべて売っている。


  笠井の源左衛門というのは同時代の『旦那場配分注文写』に「笠井一円羽鳥
  七郷」とあるように、
  現在の笠井町付近に居住する源左衛門のことであろう(以上「米良文書」)。


  佐藤という熊野の御師は、
  笠井荘(『宗長手記』)、羽鳥荘(『新熊野神社文書』)といわれた地方のうち源左衛門という有力農民と思われる人とその一族を旦那(霞、縄張りともいう)として所有していて、
  そこからの収益を財産とみなしていたのである。


  同様に文和三年(1354)には、井伊一門が、永正五年(1508)には、都田が売買されている(『米良文書』)。


  このように熊野の御師が、信者を財産と考えるようになったのは、
 遠江国が熊野新宮の造営料所に充てられていたから、
  南北朝時代以来国衙領の年貢を熊野に送るようになっていたことに由来すると思われる。」


新鮮な脳でまた考え直しましょう。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月29日 23時08分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正があります。一貫文が今のお金にしていくらかでありますが、小和田
哲男氏の監修による『豊田町史 資料集W』によれば―
 一五六九年頃における一貫文の値打ちは十五万円位ということであります。
遠江国野部(のべ)の一族の檀那職が売られたのは、六貫文でありますので、六
倍して九十万円ですが、年代的には十五万円だった頃より百三十年前のことで
ありますので、単純には言えませんが、需要・供給の関係がより高かったもの
と思われますので、仮に十倍としても九百万円位?……かなと思いますがどう
でしょうか。
[47]箱柳永田さんからのコメント(2015年12月30日 00時08分40秒 ) パスワード

 服部様 気が付きませんで、と言うか、あまりの速さに頭がついて行きません
 で、 後出しジャンケン」で申し訳ないです」。
10 >善地の永井家の一つのルーツの説として、池田藩と関係するという情報がありまし た。どう関係するのかくわかりませんが、永井と池田は縁があることは確かで…小牧・長久手の戦いで永井直勝が池田恒興を討ち取っている

  2年前位に鳥取の郷土史館で確認した件があります。
 旗本永井氏が池田家家老荒尾氏の分家の養子となり、分家を継ぎ、その後
  荒尾本家に跡継ぎが無く、再度荒尾本家に養子に行き、まんまと万石級の
 筆頭家老になってたことを、思い出しました。
 池田公が親の仇永井直勝の石高の低さに 嘆いて見せたのは
  昇給のお願い、なのか 家康の勤務評定を知るため? とか
 迷っていましたが、当家3代清蔵の孫 穂積之助が池田氏に仕えて(長篠の戦いでは鳥居元忠の与力)いる所を見ると、、どこかで身内であった と考えております。
 
 江戸期に 荒尾(地区名)永井家が塩を信州に運ぶ仕事をしており
  荒尾が交通の要所と考えられます。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月30日 03時01分43秒 ) パスワード

箱柳永田さん

荒尾

http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.03948777&lon=136.92149058&ac=23222&az=1&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%B8%82%E8%8D%92%E5%B0%BE%E7%94%BA



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B0%BE%E6%B0%8F
荒尾氏  あらおし

日本の氏族の一つ。尾張国知多郡(現在の愛知県東海市)より起こり、江戸時代には米子城城代職を務めた氏族が著名。


現存する文書[1]から、

鎌倉幕府の御家人としての荒尾氏が、南北朝期に荒尾郷および尾張国中島郡にその諸領をもっていたことが推定されている。

この一族が高階氏を名乗っていたのに対し、

戦国期に知多郡の木田城を本拠とした荒尾空善、その娘婿善次に始まる荒尾家は、後に在原氏を称した(実際は土豪と伝わる)。  

           すごい差別表現。せめて「豪族」あたりにしてあげれば良いのに。



寛政呈譜には「先祖より代々知多郡の荒尾村に住せしより屋号とす」とある。


末裔に鳥取藩主池田家に仕えた家老家があり、

1つは但馬守成房を祖とし、米子城城代を務めた家(荒尾但馬家、米子荒尾家)、

1つはその弟志摩守隆重を祖とし、元和一国一城令で廃城となった倉吉城(打吹城)下に陣屋を構えてこの地を領した家(荒尾志摩家、倉吉荒尾家)である。


鳥取・岡山二つの大藩は共に池田輝政を祖にもつが、
その輝政の母(善応院)は荒尾善次の娘である。

                 あ、そうなの。
                 へえ〜



善次の子成房を父にもつ鳥取藩家老「成利(荒尾但馬)」「山就(嵩就。荒尾志摩。叔父志摩守隆重の養子となる)」は輝政の従兄弟にあたる。


それゆえ鳥取藩代々の藩主は両荒尾家に、その所領支配に関して全権を委任し、幕末に至る200年以上の間、米子と倉吉の地は、荒尾家によって統治された(成利が米子城代となったのは寛永9年(1632年)である)。

これを自分手政治という。



鳥取県米子市のJR境線博労町駅を降りて左側の坂道をのぼると荒尾但馬家一族の菩提寺黄檗宗「了春寺」(同市博労町)がある。

荒尾氏の墓碑群のなかに異質の新しい墓碑が目立っている。

男爵荒尾之茂と縁組した冷泉家22代当主冷泉為系の長女須賀子の墓である。

墓所の前には2人が読んだ歌碑が建っている。

     ゆめかとも思う許りに故郷の 天守のあとに交す盃 之茂
     天主台のほりてみれはきりはれて なみちはるかに隠岐のしまみゆ 須賀子


なお荒尾志摩家の墓所は倉吉市仲ノ町、打吹山の西中腹にあり、ふもとにはその菩提寺曹洞宗「満正寺」(同鍛冶町1丁目2948)がある。


思わぬ所と思わぬ所が結婚によって結ばれているんですねえ。
ホント、日本人って、気付くとみんな親戚。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月30日 03時24分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


      一貫文が今のお金にしていくらかでありますが、
      小和田哲男氏の監修による『豊田町史 資料集W』によれば―
 
      一五六九年頃における一貫文の値打ちは十五万円位ということであります。


      遠江国野部(のべ)の一族の檀那職が売られたのは、六貫文でありますので、六倍して九十万円ですが、

      年代的には十五万円だった頃より百三十年前のことでありますので、単純には言えませんが、
      需要・供給の関係がより高かったものと思われますので、仮に十倍としても九百万円位?……かなと思いますがどうでしょうか。



年貢が運ばれたということなのでかなりの利権が伴ったのでしょうね。

今はお墓を移動するのに、お墓の魂を抜いて貰う(笑)のに500万円とかそういう金額を要求されるということですから

900万円あたりの価値があったのかもですね。


年貢で1年に数百万円分の価値を納めてもらってたのを売るのですから
その数倍は要求しますよね。



とにかく現代の我々にはそういう利権って想像を超えますね。


ヨーロッパでも日本でも宗教に縛られていた「中世」とはオソロシイ時代だったんですね。

今でも宗教に縛られた人々がいて、そこでは、命が宗教に支配されていますが
「歴史」って
調べてみれば調べるほど黒い歴史が浮かび上がって来ますね。


    なるほどね
    畿内の神社仏閣が武装してたって
    なるほどな〜

    ああいう組織を支える奴隷集団があったのか、ってね。

    氏子や檀家になったら大変!



今年の夏にローマ法王が世界行脚して
シリア難民を引き受けるように
という話で「早速」(イタリアの?)2つの教区がそれぞれ1家族ずつ引き取る美談が新聞に出てましたが



   シリアの難民希望者400万人(今は700万人か?)のうち
   すでに100万人がヨーロッパにいる?

   で、イタリアの教区で2家族引き受けた?


宗教って   よく分かりません。
仏教に熱心な家に生まれて、10年カトリックにどっぷり漬かって、いろいろ勉強したけど
結局宗教の本質に辿り着いていません。

宗教って
神様から精神的な保護を頂くためにコッチは肉体的物質的貢献をすることなのか
なんてね。


宗教の縛りから解き放たれた現在は混乱中。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月30日 15時00分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宗教と云うもの、本日の友達の葬儀(浄土宗でした)も併せて考えさせられま
した。浄土宗というのは、家康も勧めた宗派だと思いましたが、家康は一生懸
命「南無阿弥陀仏」の六文字を、百万遍かどうか知りませんが書いております。
「家康の死生観・宗教観」というものを一度まとめてみたいとも思っておりま
す。
 神様も仏様も、西方浄土も東方浄土も、宗教に関しては色々あり過ぎて、い
ったい日本の宗教は主流としてどんな流れであったのか、それを知らなければ
歴史は語れない、少なくとも何らかの影響は受けております。
 宗教と政治は結びつく、また反発し合ったりもする。まだまだ知らないこと
が一杯です……。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月30日 15時30分02秒 ) パスワード

箱柳永田様

 お久しぶりです。永井氏に関しては永田様が第一人者。ありがとうござい
ました。
 鳥取の郷土史館で確認されたことして、
 @旗本永井氏が鳥取の池田藩の家老荒尾氏の分家に養子となったこと。
 A池田公が永井直勝の石高が低いと言ったバックグランドについての推察。
 B荒尾の永井家の塩に関する役務。
と、これからの永井氏の探究にたいへんいいヒントを与えていただきました。
すごいことだと思っています。
 当方の善地、長上郡の北のはずれ、池田とも関係が深い。そこに永井氏が
何故いるのかの謎については、情報量が少なく、推察が思うようになりませ
ん。
 たぶん、三河から何らかの関係で、ここ長上郡の北のはずれにやって来
た……。
 加藤氏も秀次事件の際、池田村に逃れ、その後、故あって善地に来たとい
う。この加藤氏は加藤光泰の一族らしいのですが、その加藤光泰に永井白元は
仕えていたという関係があります。
 さて、服部と永井の関係でありますが、服部中保次から五代目の保房は、
永井伝八郎茂虎の娘を娶っております。そして保次以下、浜松の西部の大久
保と関係しております。

 すみません。突然ですが用事で中断します。また―
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月30日 22時47分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服部中保次から五代目の保房は、 永井伝八郎茂虎の娘を娶っております。

この永井家の家紋が丸に三つ柏紋だったらいいですね。


     千秋氏から丸に三つ柏紋が来たのかと思っていましたが。



まだまだいろいろ悩まないといけませんね。
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月31日 01時55分23秒 ) パスワード

箱柳永田様

 テンポが速いのは、一つテーマに対して何日も継続していける知識・情報
がないからで、カラになると次のテーマに移って行く。その内にまた情報が
たまり、再び元のテーマを再考するという具合で、大きなスパイラルを描い
ています。でも、一周するといろいろな情報・知識を得ますので、同じテー
マに対しても、違う見方ができる、新たな発見ができる……その繰り返しで
あります。

 さて、永井白元(あきもと 永井直勝の弟)でありますが、1590年の
小田原の役の後、加藤光泰に仕えております。そして文禄の役に従い、朝鮮
にて戦っております。現地で光泰が死す(石田三成に毒殺されたという説あ
り)と、一同は甲斐へ帰っています。光泰の子、貞泰が十四才であったため、
加藤家は甲斐24万石から黒野4万石に減封されてしまいます。その時に
家臣約600名余りが゛浪人となってしまいます。その中に白元がいて、
三河に帰っています。光泰と白元の関係は、こうして深いものがあります。

 その後、徳川側について関ヶ原の戦いを戦った貞泰は、1610年、伯耆
米子6万石の領主として転封されます。そこでは荒尾氏の養子となり米子城
代家老になった永井氏とクロスするような感じもするのですが、少なくとも
そこに通じ合うものがあったのではないかと推察いたします。

 永井家と服部家(服部保次系 服部中とも呼ばれる)の関係は、6代服部中
保房の妻が、永井伝八郎直勝の子「伝八郎茂虎」の娘であるということで
あります。即ち―
 初代の服部中保次は、桶狭間の戦いにて一番槍に近い活躍をします。
 その後、保次は1587年、引佐郡刑部村にて殺害されてしまいますが、
保次から3代目の保俊は浜松市西部地方の大久保に住み、新居の関所奉行と
なります。この服部中家は幕末まで大久保の代官職を勤めていましたが、
江戸詰の必要性から大久保には地代官をおいて管轄させています。
 この服部保俊から数えて4代目の「保房」の妻が永井伝八郎茂虎(直勝の子)
の娘であるということです。
 そして二人の男の子が生まれる。長男は保根(やすもと)また万五郎といい、
大久保〜神ヶ谷の領主(代官でも領主か)となったが、20代後半で亡くなって
います。二男も早世ということで、長谷川久大夫徳栄の長男が養子に入りま
す。
 保根に子孫がいたかのかも知れません。年齢的には、いてもおかしくない
年齢でありました。いれば服部家と永井家の子の子(孫)……であります。
 
 以上、加藤家と永井家と服部家の関係を列挙してみました。
 ちなみに、我が善地の加藤家は加藤光泰の血族であるとわかる系図(家譜)
を所有しています。家譜に書かれている秀吉より賤ヶ岳の戦いで褒美として
いただいた刀らしきものもあったそうです。

 服部中家と永井家と加藤家は、少なくともそれぞれが引力で引き合う仲で
あったということは明らかになりました。その収束地が善地になった……?

 以上が、現在の私のわかる範囲のまとめであります。
 
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月31日 09時27分24秒 ) パスワード

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/nagai1.htm
永井氏に対するQ&Aで  なんと!  熊野の名が下の方に出て来ます。



Q

□ 永井直勝の家系

小牧長久手の戦いで活躍し、その子孫からは大名三家、さらに名奉行として有名な遠山金四郎景元などを輩出した永井直勝ですが、華族類別、家伝によると永井氏は源義朝を討ち取った長田忠致と同族の尾張平氏流長田一族を称しています。


 ところが、江戸期には大江姓を称しており、理由として清和源氏末裔を意識し始めた家康の命令で大江姓に改姓させられ、替え紋として大江氏の代表紋として知られる一文字三つ星を用いるようになったとのことでした。さらに貴HPの桓武平氏概観にも「尾張平氏ではなく別の一族の出身」とあります。

 気になって太田亮博士の『姓氏家系大辞典』で調査したのですが、平姓とも大江姓ともとれる記述であり、双方の系図が示してありました。大江姓説に着目して読んでみると、大江広元の子である那波宗光を祖とし、宗光から六代目の宗元、その五代目の重光が長田平衛門を称し、その子の直時が永井姓を称したとありました。

  しかし、直勝の祖父広正と、この直時のつながりが分かりません。さらに尾張には春日井郡、愛知郡、知多郡に古来からの豪族と思われる永井氏がおり、このうち愛知郡の者が大江姓、知多郡の者が平姓長田氏流を称しているとのことでした。本姓の共通性からして武家華族永井氏は何らかの形でこの古来豪族と繋がりがあると思われますが、お気づきの点があればご教授願います。

[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月31日 09時33分58秒 ) パスワード

A

1 永井直勝は、幼名が長田伝八郎で、長田平右衛門直吉(重元)の子であり、生没が1563〜1625で家康の家臣として活躍し、右近大夫従五位下、下総古河七万石の大名まで出世した。その立身の糸口が長久手の戦いで池田勝入(恒興。輝政の父)を討ち取ったことにあり、家康に従い関ヶ原や大坂両度の陣にも参加し、夏の陣の後に加増されて大名となっている。



 その家系は平良兼流の尾張国知多郡野間庄(愛知県知多郡の美浜町に野間、その南の南知多町に内海がある)の長田忠致の族裔とされることが多く、主君の源義朝をだまし討ちにした長田忠致の族裔ということを憚って、家康の命により大江姓永井氏を称したともいわれるが、家系が平氏の長田忠致一族から実際につながっているか疑問もあり、かつ、大江姓那波氏や三河大橋氏からの養嗣も入ったと伝えて、きわめて複雑である。

 

 まず、一般に伝えられる家系の概要を見てみると、鈴木真年が『華族諸家伝』の永井直諒条で記したものが比較的分かり易いので、これを示すことにする。

 その家系は平五大夫致頼(平高望の子の良兼の孫)の子孫の尾張平氏とされる。致頼の四世孫長田荘司忠致の弟の長田右衛門尉親致の男の長田宮内丞政俊が承久の乱のときに関東の命に応じて軍功があり、その賞で三河国碧海郡志貴庄大浜郷のうちの地を賜り、その八世孫の長田平太夫広常は那波刑部少輔大江宗秀の女を妻としてその間に生まれた子に平太夫政広があり、平太夫政広は子がなかったので大橋中務少輔定広の四男伝八郎広正を養嗣として大浜の荘官を譲ったが、その孫が伝八郎直勝であって、家康に仕えて屡々軍功をたて、家康から、長田氏は源氏の仇であり、汝の祖は大江氏に由縁があるので永井と称すべきといわれて改名したとある。

 


2  尾張の長田荘司忠致が平致頼の子孫であることは疑いがないようなので、ここまでの系譜の検討は省略する。次ぎに、長田忠致の兄弟として長田右衛門尉親致がいたことも、まず問題がない。というのは、『兵範記』久寿二年(1155)九月廿三日条に「主馬署首右衛門尉平親致」が見えるからで、年代的にも命名的にも妥当であろう。



 問題は、平親致の子として長田宮内丞政俊がいたかどうかであり、ここで居地が尾張国知多郡から三河国碧海郡大浜郷(現碧南市大浜上町から南方にかけての一帯)に遷るからであるが、系図では、長田政俊の長子の平太定俊が知多郡野間庄を領して当地の長田・置沢両氏の祖とされ、その弟の平二郎重俊が三河の大浜に住み、以降は歴代が大浜に住んだとされるから、問題がなさそうにも見える。ところが、平親致の子として長忠・長致という二子を伝えるものがあり、名前のつながりからすると、この所伝のほうが妥当に見える。そうすると、永井直勝の祖としては、三河国碧海郡大浜郷にあった長田政俊があげられるものの、この政俊が尾張国知多郡の長田忠致の甥という関係は疑わしいということになる。



 平二郎重俊の後の系譜は、子の「俊致−俊広−俊政(仕北条高時、自害)−政道−政継−政俊、弟道俊−広常」と続くが、広常が長田平太夫と名乗るまでは、この一統の苗字は大浜であった模様である。大浜の東北五、六キロの地がいま碧南市長田町と呼ばれ、この地名が何時からあったかは不明であるが、この地に大浜から分かれて来たことで長田と名乗ったものか。この地に近接して東端村(現安城市東端町)があり、『二葉松』には「東端村屋敷は永井右近直勝」と見える。



 広常以降は鈴木真年の記すところとほぼ同じであるが、子の平太夫政広は実は大江宗秀の子ともいう。その跡を尾張津島の大橋氏から入った広正が継ぎ、その子が長田平右衛門直吉、さらにその子が永井直勝となる。大橋氏は平姓で清盛の家臣平貞能の後裔を称した鎌倉期からの尾張国海部郡津島の土豪であったが、鈴木真年は、後醍醐天皇の皇子の宗良親王の四世孫が大橋中務少輔定広だと記す。系図では、宗良親王の孫の尹重王が大橋定元の娘を娶り、その間に生まれたのが大橋和泉守信重であって、その子が中務少輔定広だとされる。



 広常の弟・平内左衛門信広は甲州に行って武田信綱に仕え永正五年(1508)に七一歳で死去したというから、広常の活動時期が十五世紀の後葉ごろであったことが分かる。信広の孫の永田徳本(号は知足斎。「長田」とも書く)は、「甲斐の徳本」「十六文先生」とも呼ばれ、「医聖」とも称された戦国後期の有名な医者であり、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者であった。



武田信虎の侍医となったといわれ、
信虎の領国追放後は信濃国諏訪に住み、
武田家滅亡後は東海・関東諸国を巡ったが、将軍徳川秀忠の病も治癒したともいう。

              武田と諏訪が出ました!





一伝に長田重元の弟、すなわち永井直勝の叔父とも伝えるが、一族(再従兄弟ということ)の訛伝であろう。徳本の著作には『梅花無尽蔵』(同名の書が三種類ある)が知られ、その生没年は一般に永正十年(1513)〜寛永七年(1630)とされるが、「長田系図」(後記)では生年が十年遅い大永三年(1523)となっていて、こちらのほうが妥当か。
 



                  直勝・白元(永井監物)の兄弟の家のお話

3 こうした永井氏の先祖について、どこまでが確かなのかが不明とみたのであろうか、東大史料編纂所所蔵の『永井家譜(大和櫛羅)』は、明治六年に調査のうえで提譜された系図であるが、直勝・白元(永井監物)の兄弟から系譜を始めて、その祖父を長田喜八郎平広正、父を長田平右衛門重元(後に直吉)と記すのみである。この辺の系譜記載は『藩翰譜』でも同様である。


 父の長田重元は松平広忠・家康に属し、本能寺の変の直後の家康の三河への逃避行にあたっては、伊賀越えの後は伊勢湾を渡海して常滑→成岩→大浜というコースのなかで、重元も関与した模様である。


 三河国碧海郡大浜郷の長田氏の一族とする大浜氏は、江戸幕臣にもあり、『寛政譜』にも見えて、その祖を長田宮内丞政俊という名ではなく、大浜太郎政俊とし、「長田忠致の兄、長田親致の子」で源頼朝に仕えたといい、
家紋は長田氏と同じく「柏葉」とする。

                   家紋は長田氏と同じ「柏葉」

     


大浜政俊が承久の乱のときの功で大浜を領したというのは『東鑑』の裏付けもなく、疑問である。この者は、中田憲信『諸系譜』第二冊の所収の「長田系図」では、政信という名で見えており、文治元年賜三州大浜地頭と記すが、このほうが妥当のようである。



 この辺の事情からみて、鎌倉前期の大浜太郎政俊(政信)が大浜・長田一族の祖としてよさそうである。この一族が平姓を称したからといって、しかも長田という苗字をもったからといって、尾張国知多郡の長田氏の族裔とは限らない。上に見たように、長田親致の子として大浜太郎政俊をみることは無理ではないかとみられる事情にある。



              ここから「熊野尾権現神職」のお話

 しかも、直勝の父・長田平右衛門重元の兄の甚助白重及び弟の喜八郎重吉は、大浜下宮の神主をつとめ、喜八郎重吉の子孫は代々、下宮こと熊野権現神主をつとめたというから、こうした神職の家柄は古族末裔と考えたほうがよさそうである。上記の「長田系図」では、室町前期頃の宮内少輔政継が大浜下宮神主になったといい、その長子の和泉守政俊も同神主であって、文明五年(1473)八月に死去している。


 大浜下宮はいま大浜熊野大神社といい、碧南市宮町に鎮座するが、長田白正なる者が紀州熊野権現より勧請したと伝える。碧南市にあるもう一つの熊野社、すなわち「上の宮」と呼ばれる大浜上町の熊野神社が北側にあって、南側の「下の宮」は上の宮から西南に三キロ余の地点に位置する。


 大浜の地は、平安中期の『和名抄』では幡豆郡大浜郷と見え、後に碧海郡に属したが、こうした地域で天孫系の熊野権現の神主として続いたということから考えると、物部氏族から出た三河国造の族裔とみるのが穏当なところか。熊野神社は安城市では藤井町・尾崎町にあり、岡崎市では羽栗町などに十社を超える数の同名社がある。延喜式内社の糟目犬頭神社(岡崎市宮地町)でも熊野三所権現を合祭する。

 やはり三河国造末裔が奉斎したとみられる知立神社の両神主の一に永井氏があり、宝飯郡の名族にも永井氏があった、と『姓氏家系大辞典』ナガヰ第13項に見える。これを考えると、長田・永井はもともと同族の苗字としてあったのではなかろうか。つまり、源氏の仇だとして長田を忌んだという伝承は疑問となってくる。大江広元の後裔の名族として「長井」氏があったことで、これに因んで大江姓とも名乗ったものであろう。これら三河の永井氏と尾張の永井氏との関係は不明であるが、知多郡緒川村(知多半島の付け根に位置する愛知県知多郡東浦町大字緒川)の永井氏がもと長田氏というから、これは水野氏と同族で長田忠致の族裔であった可能性がある。




 なお、『姓氏家系大辞典』オサタ条に見える第12項の大江氏流には、「宗元の五代目の重光が長田平衛門を称して三州大浜庄宮にあり、その子が永井直時」と記載があるが、これは重光が重元の誤記で、永井直時が永井直勝の誤記であることは、その譜註からも分かる。こうした誤記は往々にして系図に見られることにも留意しておきたい。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月31日 17時11分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 永井氏と熊野権現とのつながり、ありがとうございました。『出雲大社と千
家氏の秘密』からもわかるように、熊野大社はもともと出雲にあり、スサノオ
を祀っていた。出雲国造家は物部氏であり、大浜の神主の永井氏も三河国造家
の末裔であり物部氏であるということ。
 そして、遠江国造が出雲の建比良鳥命であり、羽鳥の服織神社に関係してい
るということ。羽鳥の服織神社の神主が誰であったかわからないが、その神主
家と永井氏は、何らかで結びつく可能性があります。遠江も物部氏、秦氏が
住んだ地域でありました。

 いずれにしても、少しずつ見えてまいります。

 本日は、大晦日。これから一杯やります―

 
[59]箱柳永田さんからのコメント(2015年12月31日 18時51分52秒 ) パスワード

 追加訂正になりますが、長田支流の箱永の説です、で、多少の割引をお願いします。
 
>大浜の東北五、六キロの地がいま碧南市長田町と呼ばれ、この地名が何時からあったかは不明であるが、この地に大浜から分かれて来たことで長田と名乗ったものか
 @静岡や山梨の長田さん達は考慮されてない!ですね。
 長田の屋号は伊賀上野西方の長田地区で、平高望の遺領を貞盛系統と公雅系統が分割相続と考えております。木津川は江戸中期まで長田川です。         碧南市の場合
 長田川(油が淵に流れ込む)が在りますので長田町です、池は周囲より埋め立てられ、現在からは想像しにくいのですが、平坂入り江から直接船が入る湖で、1600年位から矢作新川が開削され、以前は矢作古川だけですので、想像の枠を超えています。?油が淵に流れ込む3本の川も湖の後退に伴い護岸工事と延長がなされています。開拓された土地には、長田、永井、永田の関与があったらしい地名が(川も含む)使われていると思われます。
 長田の系図は幕府に提出されたものを、整理したものが世に知られています、
大浜熊野大神社の長田系図は故長田隆之氏(当代末弟)によるものが、碧南、岡崎の図書館に寄贈されています(知立豊田にも寄贈した可能性はありますが確認していません)興味がありましたら、お読みください。
 徳本に関して
>一伝に長田重元の弟、すなわち永井直勝の叔父とも伝えるが、一族(再従兄弟ということ)の訛伝であろう
  @我が家から徳本さんを、甥として認識しているのですが、永田清蔵の嫁と長田重元の嫁(長姉)は西尾鈴木家の姉妹ですので、徳本さんを義兄弟とする系図や直勝を甥とする家もあります。
この西尾平口鈴木家より信康に仕えたお初は、殉死をした事で知られています。
 
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月01日 00時00分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様 
箱柳永田様

 まもなく2015年が終わり、2016年になります―

 新年明けましておめでとうございます!
 
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月01日 02時15分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


明けましておめでとうございます

進展がありますように


三つ柏さんにはご先祖さまのご加護がありますように!


今年もよろしくお願いいたします
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月01日 22時36分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、井伊谷宮に初詣に行きました。例年とは全く違った風景――「女
城主井伊景虎」の宣伝効果ですごい参詣客で、入場待ちの行列ができており
ました。それでも二十分くらいでお詣りできましたのでホッとしました。
 本番の来年はとんでもないことになるなと感じております。
 井伊谷神宮の奥を通って龍潭寺に行きました。こちらの方はほぼ日曜日く
らいの混みようでしたが、希望者には茶の湯の接待もあり、前住職の武藤氏
も忙しそうに対応されていました。

 さて、本年はどんな年になるでしょうか? 年末には同級生が亡くなりま
したので、明日は我が身であることも念頭に、健康に気を付け、一日一日、
無駄に時間を浪費せず、着実に歴史のヴェールの向こうを垣間見たいと思い
ます。それと、二十か月の成果としての刈りいれもそろそろして行こうと思
っております。
 服部氏の謎……どこまでわかった? 自問自答しながら、わかる範囲で
整理してみたいと思います。
 1.服部氏の始祖は? 
 2.どこから来たのか?
 3.どこへ広まったのか?
 4.何をしたのか?
 5.残ったのは誰か?
 6.その他は何故消えたのか?
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月01日 22時55分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服部氏の謎……どこまでわかった? 自問自答しながら、わかる範囲で整理してみたいと思います。

はい
常に原点に戻って整理調整しなくては、ですね。


やはり大きな(ハトロン?)紙に  真ん中に「善地服部氏」と書いて取り囲む環境を記入していく式が良いかも。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月01日 22時58分57秒 ) パスワード

お亡くなりになったのは同級生でしたか。
それではドキッとなさいましたでしょうね。


わたくしもLDLが127もあって右頸動脈にプラークが蓄積し始めていると知って
(将来は脳梗塞か)
と思いました。


空腹時血糖値は76で
A1Cはちょっと上がってて5.4でした。
空腹時血糖値が76ならA1Cは4.7あたりなのに
やはり将来はII型糖尿病?

    え?
    糖尿病から脳梗塞コース?

と思いました。


健康にはくれぐれもご注意を!
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 02時18分19秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101507.html
2016年の始まりを記念してスレッド58を新たに立てました。

新たな気持ちで頑張りましょう。
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月02日 08時40分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は酔っていまして間違いに気づきませんでした。
 女城主直虎を景虎と書いてしまいました。恥ずかしくも申し訳なく、お詫び
かたがた訂正させていただきます(酔いのせいでなく歳のせいかも知れません)。
 女城主としては岩村城の信長の叔母にあたる人が先行してPRされ有名にな
り、お酒にも「女城主」としてブランド化がなされています。これがおいしい
んです。わざわざ岩村までそのお酒を買いに行く人もいます。私もその人種
に少しなりかけています(特に樽出しの生酒がうまい。冷蔵庫で冷やしておけ
ば、ブランディのようにどんどん芳醇になって行きます)。
 さて、女城主が大河ドラマになるということ…女性の時代が来る予感がいた
します。直虎の祖像ができましたが、美人に作られております。ほんとうは、
どうだったんでしょう。築山御前とDNAが共通している部分もありますので、
きれいな方だったかも知れません。
 いずれにしても、近くに歴史的人物が一杯いたということ、もっとイメージ
力を高めなければなりません。
 私の勤め先は昔の浜松城の武家屋敷のところにあります。家康や半蔵や井伊
直政やらたくさんの武将達をイメージして、その中に降りて行かなくてはなら
ないと思っております。イメージ力を高めるのは論文よりも小説の方が役立つ
のかなとも思っています。従って、小説も読み込んで行きたいとも思います。

 さて、昨日はあを様よりいただいた膨大な資料の中から、服部中保次の関係
部分を復習しました。桶狭間の戦いのあと、采地を安堵されますが、三河国の
岡本というところだったでしょうか、そこは足助の近くだと思います。
 褒美としていただく領土も、その人の属性にマッチした場所が選んで与えら
れたと思います。服部中保次は警備的属性が高かったので、交通の要衝を担当
させられたのかと思います。

 これから出かけますので、また―
 
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 13時53分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


>三河国の岡本というところだったでしょうか、そこは足助の近くだと思います。

ということは猿投の近くでもありますか?
そうすると  猿投の服部家  ということは?
中保次関係者?


知りたいところです。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 14時07分08秒 ) パスワード

服部保次(宗次・要介・小平太・中)


天正5年4月23日
遠江国および三河国岡村のうちにをいて120貫文の采地をたまふ



この三河国岡村ってどこなのかずっと考えているのです。


    遠江国浜名郡岡本村というのはネットにチラッと出てますが

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1368.html
東三河の秦氏 その35 養蚕と機織り

前回までで、神服部氏の古代から1155年に至るまでの動きを一通り(様々な問題点が想定されるので、あくまで一通りですが…)見てきました。このストーリーの中には遠江国浜名郡岡本村や渥美半島の先端近くに鎮座する伊良湖神社などが出てきます。そうした場所が重要な役割を果たしている背景には何があるのでしょう?既に部分的には触れていますが、もう少し詳しく見ていくことにします。

本シリーズの「その3」においてWikiより引用していますが、その中に以下の記述がありました。
垂仁天皇時代には、国造が三河国渥美郡の神戸を朝廷に寄進している(『太神宮諸雑事記』第一)


                              略




神服部氏の古代から1155年に至るまでの動きの中に浜名郡岡本村や渥美半島に鎮座する伊良湖神社などがあり、それらが重要な役割を果たしていました。その深源には、倭姫の元伊勢とそれに続く浜名神戸や渥美神戸の存在があり、伝説と史実が融合した形で綿々と続いていたのです。

             東三河の秦氏 その36 養蚕と機織りに続く
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 14時10分27秒 ) パスワード

神服部氏いついての復習です

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1367.html
東三河の秦氏 その34 養蚕と機織り



今回は神服部氏が浜名郡岡本村に移住した経緯を検討します。まずは「尾三文化史談」の画像を参照ください。



     URLに行ってください


「家祖天建羽槌命以来一子相伝の秘呪妖化體顯蟇目をもって祈祷し」とある部分が注目されます。何と神服部氏は機織りだけでなく、家祖天建羽槌命以来一子相伝の秘呪・妖化體顯蟇目を伝える一族だったのです。(注:蟇目とは鏑矢を用いる妖魔退散の術です。妖化體顯蟇目は、鏑矢を用いた妖魔を退散させる特別な術を体現したものとでも言いましょうか?なお、多くの神社で催行される奉射(ぶしゃ)神事は蟇目神事が元になっています)

851年に神服部氏が従五位下(貴族の末席に位置する)を朝廷より賜ったのは、神道や陰陽道の秘法である蟇目の術に精通していたことによると考えられます。つまり神服部氏は従来の伊勢神宮に神御衣を奉じる立場から、陰陽道を中心に据えた一族へと立場を大転換させたのです。察するに、彼らはこの時点で朝廷における立身出世を目指したのでしょうね。(注:天武天皇期に神服部連は宿禰を賜ったのですから、実際には地位が低下していることになります。地位の低下した部分のみ舊記に記載するのは妙ですし矛盾を孕んでいると思われ、追って検討します)

これらの点を理解した上で岡本村移住の経緯を探ります。神服部氏が久壽二年(1155年)に官を辞して山城国乙訓郡から遠州濱名郡岡本村に移り住む2年前、仁平3年(1153年)のことです。宮中に鵺(ぬえ)が出没したので、武勇の誉れ高い源頼政は鵺退治を命ぜられました。彼は神服部氏より蟇目の術を伝授され、首尾よく鵺を退治します。鵺の死体はばらばらに切り刻み、空舟(うつぼぶね)に乗せて鴨川に流したそうです。鵺退治の詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%BA

神服部氏は自分の秘術で源頼政の鵺退治を助け、面目を施しました。それが2年後になって、突然山城国乙訓郡から遠州濱名郡岡本村に移り住むことになったのです。この間にどんな事件が起きたのでしょう?そもそも乙訓郡では宮廷に出仕するのに遠すぎます。多分宮廷近くの役宅から乙訓郡に移り、そこから岡本村に移住したとの経路を辿ったはずです。

この問題を解くには、久壽2年(1155年)に鵺よりも強大な妖魔が出現したと考えるしかありません。もしかしたら神服部氏は、蟇目の術が通じない妖魔に敗れ去って、職を辞さざるを得なくなったのかも……。

と言うことで、どんな妖魔がこの年に出現したかを調べてみました。すると、いましたよ。かの有名な玉藻前(たまものまえ)が変身した白面金毛九尾の狐です。

久寿2年(1155年)、美貌の女官・玉藻前は鳥羽上皇に寵愛されていましたが、上皇は次第に病み衰えるようになりました。原因は不明であったため、陰陽師・安倍泰成に真相究明の命が下ります。

彼は上皇の病が玉藻前の仕業だと見抜き、真言を唱えます。泰成の真言により玉藻前は本性を現し、白面金毛九尾の狐の姿となって宮中から逃げ出しました。狐は那須野に隠れたのですが、三浦介義明、上総介広常などを将軍とした夥しい数の軍勢が派遣され、あえなく最後を遂げることとなったのです。

これほどの妖魔が出現したのに、なぜか神服部氏は登場してきません。ちょっと変だと思いませんか?そう、神服部氏は狐退治のメンバーに加えられなかったのです。彼らは一子相伝の秘呪・妖化體顯蟇目を操る一族でした。ほんの少し前には鵺退治に貢献もしています。なのに、狐退治から外された。多分神服部氏は、その恥辱に耐えられず官を辞し乙訓郡に引き籠ったのです。

では、なぜ神服部氏は狐退治のメンバーから外されたのか?全くの推測ですが、鵺退治の手柄を神服部氏にさらわれた陰陽道本家本元の安倍氏が、今回は巻き返しを図ったのです。出世競争は今も平安の昔も同じだったのですね。

朝廷に仕え立身出世を目指した神服部氏は、安倍氏の高い壁にぶち当たり、平安時代後期に至って望みが潰えてしまいました。いたく落ち込んだ彼らは、秦氏の拠点でもあった山城国乙訓郡に引きこもります。

神服部氏の心中を察した源頼政は、都を離れ遠州濱名郡岡本村(現浜松市北区三ヶ日町岡本)に移住し、一族本来の職掌である神御衣の織作に戻るようアドバイスしたのでしょう。頼政の言葉で目覚めた神服部氏一族は、勧めに従うこととしました。こうして久寿2年(1155年)、神服部家は倭姫命の元伊勢の地であるに岡本の地に移住したのです。

以上が1155年の初生衣神社創建に至る推定経緯です。神服部氏の動きが様々な歴史と連動していることに驚かされますね。


[70]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 14時11分34秒 ) パスワード

ではここで話を横道にそらせます。世阿弥作の「鵺」によると、源頼政に退治された鵺は空舟(うつぼぶね)に乗せられ鴨川に流されます。(注:世阿弥は秦氏の末裔と自称しています)九尾の狐の死骸もまた空舟で流されました。いずれも空舟で符合しますが、これらにはもう一つ不思議な符合があります。

大和岩雄氏は「天照大神と前方後円墳の謎」(六興出版)において以下のように書いています。

鹿児島県の大隅正八幡の縁起に、震旦国王の娘、大比留女(オオヒルメ)は日光を受けて七歳で懐妊したので、子と共に空船に乗せられて、流れ着いたのが、日本の大隅の磯で、この日の御子が八幡の神である、と書かれている。

天照大神の太陽を祭祀する巫女段階における別名は大日孁貴(おおひるめのむち)でした。つまり、天照大神の前身も空舟に乗せられ、その子は八幡神(=秦氏)だったのです。

そしてこれらにはさらに不思議な符合がありました。高齢となった秦川勝は世阿弥作の「風姿花伝」にあるように、攝津国難波の浦からうつぼ舟に乗って海の彼方へ向かい播磨に漂着したのです。

摂津国難波の浦より、うつぼ船にのりて、風にまかせて西海に出づ。播磨国、坂越(さこし)の浦につく。

以上から、鵺も狐も秦氏を象徴する存在となってしまい、それに天照大神まで絡んでいることになります。何だか現在書いている「東三河の養蚕と機織り」と同様に、とても錯綜した話になっていますね。

源頼政の鵺退治はほとんど伝説的ストーリーのように見えますが、実は一定の根拠もあります。三ヶ日町には鵺代、胴崎、羽平、尾奈の地名があり、鵺代は鵺の頭部、胴崎は胴体、羽平は羽、尾奈は尾を意味しており、それぞれがこの地に落ちたとの伝説が形成されました。それは源頼政が持ち込んだか、或いは神服部氏の移住がもたらしたものだったと推定されますが、武士が地名を持ち込むとは考えにくいので、神服部氏の移住に関係する可能性が高そうです。


[71]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 14時12分56秒 ) パスワード

でもなぜこんな場所に源頼政は神服部氏を移住させたのでしょう?調べてみると鵺代は、鵺を退治した褒賞として源頼政が帝より賜った土地でした。つまり、頼政は自分の領地の一部を神服部家に分け与えたのです。(或いは領地の近くを神服部氏が賜った)しかもこの場所は、浜名神戸の地。頼政と神服部氏の深い関係や移住先選定の妙が見て取れ、とても偶然とは思えません。神の配剤とでも言うべきでしょうか?ともあれ、以上のような経緯で神服部氏は岡本に移住したのです。

頼政はその後平家との戦いで自刃します。かろうじて生き残った一族は、鵺代に逃げ落ちて猪鼻氏を名乗り、その子孫は浜名氏となりました。

あれこれ書いているうちに横道に入ったので、話を元に戻します。初生衣神社解説板では由緒が久寿2年(1155年)から始まっていますが、前史は神代の時代から延々と続いていたと理解されます。しかもその流れをほぼ復元できるのですから驚きです。



東三河の秦氏 その35 養蚕と機織りに続く
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1368.html
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 14時24分57秒 ) パスワード

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1370.html
東三河の秦氏 その37 養蚕と機織り


                         これが面白い記事です



前回までで、神服部家の古代から1155年に至るまでの動きと、背景に何があったのかを見てきました。ところが、その中に東三河は少ししか顔を出さないし、秦氏の姿も見えず、もっと別の視点から再検討する必要がありそうな気さえしてきます。これらの問題は別途考えるとして、今回から御衣祭(おんぞまつり)に関連する流れをより具体的に見ていきます。

図書館で読んだ「渥美町史」にはおおよそ以下のように書かれていました。桓武天皇(737年〜806年)の頃に八名郡大野(鳳来町大野)の生糸(赤引の糸)を、渥美神戸の名によって伊勢神宮に奉納した。清和天皇(850年〜881年)の頃から、八名郡大野の糸を伊良湖神社に奉納し、ここで機織りされてから伊勢神宮に献上するようになった。八名郡大野の服部宮は繭や糸を供え、神事を行うために創建された。(注:9世紀前半(868年頃)に編纂された「令集解」には、謂。伊勢神宮祭也。此神服部等。斎戒潔清。以二参河赤引神調糸一。織二-作神衣一。とあり、「令集解」は養老令や大宝律令の注釈書なので、赤引の糸の奉納は天武天皇から持統天皇の時期からと思われる)

赤引の糸の奉納が始まる時期の問題はさて置いて、神服部氏が伊勢神宮に神御衣を奉献する前提には、赤引の糸があると理解されます。と言うことで、まず八名郡大野(鳳来町大野)の生糸(赤引の糸)発祥地に鎮座している服部宮(=服部神社、かつての服部郷に鎮座)を見ていきます。



                       特にココからが面白いです

「鳳来町誌」によれば、服部郷に関して、秦氏など帰化人で機織りを伝えた服部部にちなんだ地名と推測でき、新城市八名井にある旗頭山古墳群はその関係かもしれない。

一方、鳳来町大野に古来より服部神社が祀られ、「赤引の糸」を作り、遠州三ケ日の神服部家(初生衣神社)に送り、ここで伊勢神宮の神御衣(和妙)を織る原料とした…以下略。と記載あります。

あくまで「鳳来町誌」の推測ですが、ようやく秦氏が出てきました。



           服部神社鎮座地(新城市大野字奥林54)
           地図はURLでご確認を

           新城の服部神社ですよ


地図画像では大野神社となっています。服部神社は大野神社の境内に鎮座しており、この一帯が「三河赤引の糸」の発祥地と考えられます。地図画像には赤引温泉もありました。では、大野神社に行ってみましょう。神社は三河大野にあり、この地はかつての大野宿でした。大野宿において豊橋と別所(現在の東栄町)を結ぶ別所街道と、鳳来寺山から遠江国秋葉山の秋葉神社に向かう秋葉街道が交わり、数多くの巡礼者で賑わった場所です。と言うことで、少しだけ建物探訪モードに切り替えます。




赤引糸の神 服部神社
この地方は、大化の改新(645年)頃には服部郷と呼ばれ、沢山の野生の桑が繁茂し、生糸が紡がれていたが、その品質は全国屈指の優秀品で、赤引糸といわれて明治維新まで千余年間、伊勢神宮へ奉納されてきた。
この服部神社は赤引糸に関係した神で、数百年前野火にあい、伊兵衛沢からこの境内に舞い移ったと伝えられ、神殿前の古い欅の巨木は、それ以来のご神木といい、大野山名木の一つとなっている。

大化の改新(645年)頃には服部郷があり、生糸が紡がれていたとすれば、「その32」にて推定していたように、伊勢神宮が実質的に創建された天武天皇から持統天皇の頃には神服部氏が三河赤引の糸を織って神御衣を奉献していた可能性が高くなります。内容を「尾三文化史談」でもう少し詳しく見ていきます。




                        服部宮の神主が鈴木さんですって


大野から御衣の糸を献上したのは服部宮の神主である鈴木家から、桓武天皇の御世に渥美郡神戸の名によって奉献したのが最初らしいとされています。その後清和天皇の御世になって伊良湖神社に送られた糸を織って伊勢神宮に奉献されるようになりました。鈴木家は代々伊兵衛を襲名し、服部宮の神主でした。初めて生糸を奉献したのは四代目伊兵衛で、大野には伊兵衛の名を取った伊兵衛沢もあります。

服部神社はかつて赤引・伊兵衛沢にあったものが、こちらに遷座したとのことです。なお、赤引糸の生産地には別の説もあります。それが、赤孫郷に鎮座する赤日子神社(鎮座地:蒲郡市神ノ郷町森58) です。理由は赤日子の社名が赤引から転じたもので伊勢神宮に奉献された三河赤引の糸との関係が想定されることによります。

しかし赤日子神社は、祭神が彦火火出見尊、豊玉彦命、豊玉姫命と明らかに海人系であることから安曇氏が奉斎する神社であり、初生衣神社に見られるような壮大な伝承・儀式はありません。また、赤孫郷の名前から推定されるように赤日子は赤彦であり、赤引が転じたものとは考えられないことから、この説は間違いと思われます。

久寿2年(1155年)にまで時代を下り、ようやく初生衣神社が創建されます。神服部氏が遠江国神戸庄岡本村に移住してからは、八名郡大野の糸はここで織られることになりました。と言うことで、初生衣神社を実地に訪問します。


三河の秦氏 その38 養蚕と機織りに続く
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1371.html
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 14時29分32秒 ) パスワード

三河の秦氏 その38 養蚕と機織りに続く
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1371.html



初生衣神社


当社は往古より浜名神戸(かんべ)の地に鎮座、伊勢神明初生衣神社または浜名斎宮(さいぐう)とも称され、機織(はたおり)の祖天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)を祭る。神服部家(かんはとりけ)の旧記によれば、久寿(きゅうじゅ)二年(1155)以来、境内の「織殿」において、三河の赤引の糸をもって御衣(おんぞ)を織り、八百年の長い間毎年皇大神宮に奉献した古例を有する他社に比類のない古社であって、当社が遠州織物の発祥の地として遠近の崇敬を集めているも偶然ではない。先年奉献の古例が復興された。…以下略




史跡 織殿 往古「加止利」ト称スル文帛(シドリ)ヲ織リテ伊勢神宮ニ納メタコトガアッタガ、後年ハ生糸ヲ三河国大野ニ取リ神衣料荒妙絹ヲ織リテ之ヲ献ズル例トナッタ…以下略

この解説板の内容に関して別の視点から見ていきます。まず「加止利」とありますが、これは香取ではないかとの連想が働きました。(注:神社側は「固織りの儀」と言う絹のこととしています)香取と言えば香取神宮がすぐ頭に浮かびます。この神社に鎮座する神は経津主神(ふつぬしのかみ)で、この神と関係の深い武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀る鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように鎮座しています。

既に書いていますが、この2神は『日本書紀』では葦原中国平定の段において、悪しき神である天津甕星をまず誅すべきと天照大神に奏上しています。ところがその少し前には、2神に服従しないのは唯一星神である香香背男(かかせお)のみと記載あり、倭文神建葉槌命(しとりがみたけはつちのみこと)を遣わして服従させたとあります。「しどり」は倭文神建葉槌命と関連していました。ここまでで、経津主神、武甕槌神と倭文神である建葉槌命(=建羽槌神)が出てきています。

以上から、謎の星神・悪神である天津甕星を服従させた建葉槌命の子孫が神服部氏となります。最強の武神である経津主神と武甕槌神をもってしても屈することのなかった香香背男=天津甕星(あまつみかぼし)が、なぜ機織りの神に過ぎない倭文神建葉槌命には服従したのでしょう?不思議ですね。天津甕星は「熱田神宮の謎を解く」でも終わりの方で登場した謎の神です。現在のテーマからは脱線しますが、ちょっとだけ見ていきましょう。

建葉槌命は「古語拾遺」によれば、天照大神が天の石屋戸から出て頂くために、倭文布を織った機織りに神で、既に書いたように別名は天羽槌雄命など幾つもあります。また初生衣神社の祭神である天棚機姫命はこのとき神衣(かんみそ)を織った神とされます。倭文布は麻などの繊維で織った布を意味し、天羽槌雄命は濱名惣社神明宮摂社の祭神となります。初生衣神社だけでなく、濱名惣社神明宮の宮司も神服部家が勤めています。

天棚機姫命は棚機(たなばた)であり、織姫星と考えられます。となると天棚機姫命と対になっている天羽槌雄命は彦星と考えられ、星神です。星神である天津甕星を制することができるのは、同じ星神と推定される天羽槌雄命しかいないのではないでしょうか?

一般論としては、倭文は鞍などに使われた丈夫な織物とされています。それで星を絡め取ることができることから、天羽槌雄神は天津甕星を服従させることができたとされます。

しかし、上記の説はいずれも説得力に欠けます。では、どう理解すればいいのでしょう?神服部家は神御衣の調進のみならず、妖化體顕蟇目の神呪を操る家系とされていいます。この神呪は初生衣神社の略記によれば、天照大神が天羽槌雄命に授けたものとされます。それ故に天羽槌雄命は天津甕星を服従させることができたのです。

初生衣神社を見ていく中で、天照大神、天棚機姫命、天羽槌雄命、経津主神、天津甕星が出てきました。延喜式によれば、駿河国と常陸国から調布として倭文布が上納されています。当然のことながら、倭文神社はこの両国に多く鎮座しています。実に奇妙ですが、天津甕星を祀る神社も駿河国と常陸国に多いのです。駿河国の代表的な倭文神社に関しては以下を参照ください。
http://www.genbu.net/data/suruga/sitori_title.htm

解説板の由緒には以下の内容があります。なお、健羽雷神は天羽槌雄命と同神です。

古代高天ヶ原時代、当地に星神として君臨して居た香々背男が、貫戸、岩本付近の神々を糾合して、中央政府に反乱を企てたので経津主神と、武甕槌命は健羽雷神を遣して之を討滅せしめた。以後、健羽雷神は、星山に永住し、織物製紙の業を興したので諸神の崇敬を集め当神社に祀られた。

常陸国の大甕倭文神社に関しては以下を参照ください。
http://kamnavi.jp/en/higasi/oomika.htm

天津甕星は「熱田神宮の謎を解く」で書いたように、尾張国にも出てきました。尾張においては当初物部系がいたところに尾張氏が入っている点も書いています。だとすれば、天津甕星も物部系の神だったのかもしれません。調べてみると、「旧事紀」の天神本紀にニギハヤヒに従って天降りした人物に天津赤星(あまつあかぼし)がいました。

両者の名前はほとんど同じで、天津赤星は筑紫弦田物部の祖とされます。天津甕星は金星とされていますが、赤星も明けの明星が赤く見えることから付けられています。天津甕星が尾張にいるように天津赤星も例えば、愛知県愛西市の星大明神社は赤星明神として存在しています。

以上から天津甕星は天津赤星である可能性も浮上してきます。となると、本来は物部系の神である経津主命が同族の天津甕星を誅すべきと天照大神に奏上したのはちょっと理解に苦しみます。まあ、天津甕星ははぐれ物部氏なのかもしれませんが…。

神服部氏の祖は天羽槌雄命で、「加止利」から香取が連想され、香取神社祭神・経津主神が登場し、悪神、星神である天津甕星が出てきて、この神を服従させたのが、経津主神に遣わされた天羽槌雄命と、連想ゲームのようにぐるっと回って元に戻ってきました。よって、「加止利」は香取であるとの連想も何となく根拠がありそうに思えてきます。

とにかく、ほとんど日本唯一の星神であり、悪神とされている天津甕星を服従させたのが神服部氏の祖である天羽槌雄命なのですから、それが伝説に過ぎないにせよ、いかに神服部家が物凄い家系なのか理解できます。大脱線したので元に戻しましょう。




東三河の秦氏 その39 養蚕と機織りに続く
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1372.html
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 14時30分44秒 ) パスワード

続き


三河大野の服部神社から送られた赤引の糸はこの初生衣神社にて神御衣(かんみそ)に織作されます。神御衣は唐櫃(からびつ)に納められ、「太一(たいち)御用」、「おんぞ奉献」などの旗を立てた行列が濱名惣社神明宮へと向かいます。

そして摂社の天棚機姫命社に一時保管された神御衣を再び唐櫃に入れ、初生衣神社に戻ります。神御衣はその後、本坂峠を越えて豊橋市の湊神明社へ送られ、同神社での神事が終わってから、渥美半島伊良湖港よりフェリーボートに乗せられ伊勢湾を渡り、伊勢神宮に奉献されるのです。なお、輸送ルートに関しては後でより詳しく書く予定です。

濱名惣社神明宮は既に書いたように、倭姫命が天照大神を奉じて立ち寄った場所です。天棚機姫命は天照大御神が天の石屋戸にお隠れになった際、大神に献上する神御衣を織られた神です。記紀の記述からすれば機織女=アマテラス(太陽神に変身する前の巫女)となりますので、天棚機姫命は巫女アマテラスと同一の神とも見做せそうです。

話は変わります。三河赤引の糸に関してさらに調べたところ、「日本書紀」の持統天皇6年(692年)閏5月丁未(13日)条に以下の記載がありました。

伊勢太神奏二天皇一曰。免二伊勢国今年調役一。然応レ輸二其二神郡赤引糸三拾伍斤一。於二来年一当レ折二其代一。

伊勢太神が天皇に奏上して、「伊勢国の今年の調役は免除されることになったが、二つの神郡よりの赤引絲参拾五斤は(それがないと「神衣祭」が催行できなくなるので)徴収し、来年に相当分を免除することで対応させていただきたい」と申し述べた。

実際に神様が天皇に奏上することはないので、神託を受けた神官の言葉となります。この記事は赤引糸の初出と思われますが、内容に問題を含んでいます。二つの神郡とは度会郡と多気郡で、それらの郡の赤引糸となると三河赤引の糸ではないように理解されるからです。頭を抱えてしまいますが、この問題をどう考えればいいのでしょう?多分、赤引糸は三河国に固有の糸を指しているのではなく、神御衣用の光って美しく清浄な糸を意味しているのです。

それにしても、神様が問題を先送りするとは理解に苦しみます。来年に度会郡と多気郡からの赤引糸を免除すると、その時点でまた「神衣祭」は催行できなくなるからです。焦った神官たちは神前において対策を鳩首協議したのでしょう。

その結果、急遽、三河国より赤引の糸を調達するようになったのでは、と推定されます。すなわち、持統天皇7年(693年)より三河国赤引の糸が初めて伊勢神宮に献納されることとなったのです。

この少し前の持統天皇6年(692年)3月、持統天皇は伊勢行幸を決行しました。伊勢神宮の実質創建時期もこの頃と思われ、赤引糸の問題と妙にうまく時期的な辻褄が合っています。と同時に、新装開店間もない神社において、神官たちが慌てふためく様子まで目に浮かぶようでもあります。

次回は濱名惣社神明宮(鎮座地:浜松市北区三ケ日町三ケ日大輪山122) を訪問します。

             東三河の秦氏 その40 養蚕と機織りに続く

[75]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月02日 14時32分59秒 ) パスワード

ということで

熱田神宮の千秋家と服部家が絡むのかな?と。


やはり東三河の千秋家とか
野田城とか

是非お早目にいらっしゃってください。



あの三河国岡本って?
現在のどこでしょう?
[76]箱柳永田さんからのコメント(2016年01月02日 19時07分22秒 ) パスワード

 7対3位の確率でこの辺りですね
>>http://www.mapion.co.jp/address/23211/2453/
 豊田市亀首町岡本 
 少し上流に舞木町があり、近藤・永田組が開拓(450年前位かな)しているので、が箱永の推定根拠かな。
 @町が非常に多い豊田市でも、岡本町はありません。
 
[77]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月02日 19時44分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさん情報をいただきましたので、精読して読解いたします(少々時間を)。

 また、やってしまいました。訂正です(今後よく確認して書し習慣をつけま
す)。
 1577年に、服部中保次に与えられた采地の一つ:三河国「岡本」→
三河国「岡村」でした。

 岡村は豊田市に吸収されてしまっていて、地名は残されていないようです。
豊田市旭町や八幡あたりだと思います。即ち、「猿投」の東約二十キロメー
トルの所です。「足助」と「稲武」の中間、北には「明智」・「岩村」があ
ります。
[78]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月02日 19時51分34秒 ) パスワード

箱柳永田様

 ごめんなさい。訂正の方が遅れてしまいました。岡村でした。
 豊田市あたりも一度探索してみたいなと思います。特に「猿投」という地名
が気になっております。
[82]箱柳永田さんからのコメント(2016年01月02日 22時58分50秒 ) パスワード


 >『角川日本地名大辞典』23、p263(大草)・p307(岡)・p902(富保)・p1402(吉村)
 大草、岡村と吉村は合併し富保村、その後長篠村に合併 今は新城市

吉村 鳳来寺領(157石1斗6升) 吉村       3村で富保村
岡村 鳳来寺領(37石2斗6升2合) 岡村
大草村 鳳来寺領(81石4斗3合) 大草村     幕末ごろ

 @新城市富保のアベマキで検索すると 貴船神社の裏なのですが
  約1km南   県道32号 通称 伊那街道  
 (鳳来中学校横を北上)から北へ1km その付近が 安保岡です

 
   多分旧岡村です  探訪は2月13日以降をお勧めします。
 >https://shintomei.jp/upgrading/index.html#a_001
 新東名の開通後には新城インターが便利です。

  
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 01時52分05秒 ) パスワード

箱柳永田さま


またもや調べてくださいましてありがとうございました。

三河国岡村というのもちゃんとありましたか。
   現在の新城でしたら
   三河国岡村はそれこそ三つ柏さんが野田に行かなきゃと引っ張られている近所かも。


   そして千秋氏と行動を共にしてた服部氏がらみの場所かも。


恩賞で頂く土地って先祖がらみだったり、なにかイワクのある場所だったりしますから
もともと服部家は東三河に関係があったということかも。


   上記の東三河の秦氏関連で出ている神社の賽銭箱の神紋?がなんとなく三つ柏紋の下2つみたいにも見えますし。


ということで箱柳さんの調べて下さった地図から更に検索してみました:字名が「岡」で存在しててビックリでした。


http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.94525920&lon=137.57514766&ac=23221&az=111.107a&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E6%96%B0%E5%9F%8E%E5%B8%82%E5%AF%8C%E4%BF%9D%E5%B2%A1%EF%BC%88%E5%AD%97%EF%BC%89

今年早々
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 01時53分40秒 ) パスワード

貴船神社が目標になりますね。

そして  大草  もあります。
長篠のスグ近く。


ビックリです。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 02時00分37秒 ) パスワード

地図を見て改めてビックリ!

豊川==野田城==宇連川==岡村==浜松市====天竜川


土地勘が無いので地図を見て驚きました。



中服部家には  結構   「足回り」  って感じのエリアだったのかもですね。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 09時51分07秒 ) パスワード

寛政諸家譜でもう1度服部保次の家を読んで来ます。

http://books.google.com/books?id=cxi2gPgFtMwC&pg=RA1-PA3&lpg=RA1-PA3&dq=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&source=bl&ots=IuBWtW1MWX&sig=HRz-NppBrsXNS5pUqmzCp62iScY&hl=en&sa=X&ei=XDsmVICYOIWuogTjiYCwAg#v=onepage&q=%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F&f=false
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 09時56分00秒 ) パスワード

やはり「遠江国引佐郡をよび三河国岡村のうちにをいて120貫文の采地をたまふ」でした。
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月04日 10時15分36秒 ) パスワード

はしゃぎ過ぎて恥ずかしいので<79><80><81>は削除しました。大汗


またまた「猿投」の服部家が姿を隠しました。やっと見つかったかと喜んだのですが。残念
[89]丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月04日 14時04分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 猿投についてはサナギ(銅鐸・鉄鐸)から来ているようで、麻績の猿ケ馬場
のように猿(神の使い)は関係ないようです。金属技術集団・須恵器技術集団
がいたようです。
 浜松の佐鳴湖も元はサナギ池といわれ、金属集団、須恵器集団がいたよう
です。
 佐鳴湖の西側が神ケ谷・大久保であります。猿投と佐鳴湖西岸はつながっ
ていたと推察いたします。
 金属集団について深堀したいと思っています。

 とりあえずはこれにて―
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月04日 22時10分36秒 ) パスワード

ありがとうございます。

拝見してて(千秋だ!千秋だ!千秋と来た服部だ!)という感じを受けました。バカ


    まるで  養老の千秋服部さん     新城の千秋服部さん  その中間?かのように。


金属集団ですとものすごく古くからの集団ですね。
では千秋や服部の前からだったのだなと。謎


きっと猿投は古い古い時代からあった集落なんでしょうね。


面白いサイトを見つけました。
三つ柏さんのお話に似ていて、さらに池田という名称が出て来たのでコピペします。


http://blog.livedoor.jp/t_tera1040/archives/33219135.html
猿投神社の謎


猿投神社の謎 その1


名古屋の東部に隣接して、長久手市があります。そこには以前も取り上げた「景行天皇社」があります。参照→ヤマトタケルに関連して その1その長久手のさらに東が猿投町です。 猿投町は以前は、愛知県西加茂郡でしたが、現在は豊田市の一部となっています。
景行天皇は大勢子供がいましたが、その中でも小碓命(オウスノミコト)−つまりヤマトタケル−と双子の兄と言われる大碓命(オオウスノミコト)は比較的有名です。
古事記では、オオウスノミコトはヤマトタケルに殺されるのですが、彼を祀っている猿投神社では、猿投山に登る中途で蛇にかまれ死んだと伝えられています。
長久手の景行天皇社も珍しいと思いますが、オオウスノミコトを祀る神社は大変珍しいのではと思います。


この猿投神社の謎を幾つか考えましたので、箇条書きにしてみましょう。
1)猿投という地名は変わっているがその謂れは?
2)蛇に噛まれて死んだという意味は?
3)左鎌や棒の手は何かオオウスノミコトと関係があるか?
こういった事です。


まず猿投の地名ですが、猿投神社の社蔵文書などでは「景行天皇が伊勢国へ赴いた際に、かわいがっていた猿が不吉なことを行ったので、海へ投げ捨てた。その猿が今の猿投山に籠もって住んだとされることから、"猿投"と呼ばれるようになった」とされています。

私は、 「猿が不吉なことを行った」という部分は気になりますが、「猿」はやはり「猿田彦」の事であろうと考えています。実際猿投神社の祭神は、Wikipediaなどによれば、「大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説があった」とされています。また、猿投と長久手の間にある八草には、猿田彦を祀る白髭神社もあります。


整理すると、
猿田彦と秦氏
→猿田彦が渡来人である秦氏が崇拝した外来の神であるらしい事。
鏡と蛇
→鏡が製鉄技術を持つ出雲などと関係があり製鉄技術を持つ人たちには蛇信仰があった事。
中山神社の謎
→中山という名前が金山彦神と関係し金属製象と関わりがある事、高野神社神社の社地の裏山に、「蛇塚」があり、中山神社の摂社には、「猿神社」がありそれらは対だと言われている事。
こういった事柄です。

大雑把にいうと、猿田彦は製鉄技術に関係し、製鉄技術者と蛇とは色んな接点がある。といったことでしょうか。
ところで、猿投神社のある場所のすぐ南にあるインターの名前がなんと「中山インター」なんです。余談ですが、そのインターの一つ名古屋よりの「猿投インター」の所には池田1号墳という円墳があり、この辺りの豪族の墓と思われます。

「猿が不吉なことを行った」というのは、この辺りに住んでいた製鉄技術者(蛇信仰の人々)と景行天皇ないしはその代理人のオオウスノミコトとの間に何らかのトラブルが生じたのでは?という事を感じさせます。蛇に噛まれて死ぬのもそういった人たちに殺されたことを暗示しているように思います。

オオウスノミコトは、景行天皇は、長久手に祀られていますが、以前も書いたように岐阜県の可児市の久々利に数年居たと言われています。また岐阜市の岐阜城のすぐ下にある伊奈波神社の祭神は、景行天皇の兄−五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)です。岐阜市や可児市は、金属製造と関わりが深いと思われますが、こういった場所を当時の大王である景行天皇一族が征服していったのだろうと思うのです。

さて私は、「猿投」は猿田彦だと考えて論を進めましたが、これだと「猿」はいいのですが、「投」の方の説明ができません。
猿投を「サナギ」だと考えることもできると思います。「サナギ」とは元々、銅鐸や鉄鐸を表すとされています。諏訪大社に伝わる「鉄鐸」も「サナギ」と呼ばれています。
こちらの場合でもやはり銅や鉄とは関連が出てきます。


http://blog.livedoor.jp/t_tera1040/archives/33282514.html
猿投神社の謎 その2


    非常に難しいです。


[91]空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 09時30分40秒 ) パスワード

レス<66>に出た  三河国「岡」村の件ですが
いただいた   半蔵と影の一族の  135ページに  額田郡岡  という地名が書かれていました。


   「岡」村なのか「岡村」村なのか、判別がつきませんが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E9%83%A1

三河岡崎藩領・寺社領 -
裏町、伊賀村、八町村、能見村、岩津村、米河内村、上大門村、池金村、舞木村、岡村、       ←  ココ
下六名村、久後村、上明大寺村、針崎村、桜井寺村(1町14村)


1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行に伴い、額田郡に下記の町村が成立する。(1町26村)
岡村・保母村・和合村が合併して美合村となる。

                         美合といったら山の中というイメージです。
                         昔行ったことがあります。



岡村
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%BA_ (%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82)

現在の  岡町 (岡崎市)

岡町(おかちょう)は愛知県岡崎市大平地区の町名。郵便番号は444-3436。
人口 (2011年10月1日) - 計2,375人


地図1
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.94072817&lon=137.19450743&ac=23202&az=39&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E7%94%BA

地図2
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.94072817&lon=137.19450743&ac=23202&az=39&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E7%94%BA
男川駅と美合駅の間です!


地図見てビックリ!

   百々の東南!
       百々といったら伊賀忍者を調べてた時に百々の名字の忍者が出て来ましたよ。
   それも百々は青山氏の出身地ですよ!

           青山氏(あおやまうじ)は日本の武家の一つ。
           藤原北家花山院流。江戸時代の譜代大名でたびたび幕府の要職にも就いた。


           祖先は上野国吾妻郡青山郷(現・群馬県吾妻郡中之条町青山)の出身で、
           その後、三河国額田郡百々(どうどう)村(現愛知県岡崎市百々町)に土着し、
           百々城を拠点として松平氏に仕えたとされる。



地理[編集]    すごぉ〜い!  川がいっぱい! やっぱりアヤシイ!  舟で移動できますから 足回りの利便性確保!

岡崎市の南東に位置する。町内北端に乙川、西端に竜泉寺川、山綱川が流れ、乙川は大平町・丸山町・小美町との、竜泉寺川、山綱川が美合町、蓑川新町との境界線になっている。小字を持つが丁番は持たない。


歴史       ヲイヲイですよ!

額田郡岡村を前身とする。



史跡       ビックリ!
岡城跡      残念、載ってないです。
森東古墳



施設       1つも知らない

岡崎市消防本部東消防署
おかざき世界子ども美術博物館
国土交通省国道管理維持局岡崎出張所
経済連農地区産物衛生研究所
美合学区市民ホール
一畑山薬師寺
船橋神社



教育         1つも知らない

愛知産業大学三河中学校・高等学校
愛知産業大学短期大学
岡崎市立美合小学校
東部学校給食センター


参考資料[編集]
『角川日本地名大辞典 23 愛知県』、角川書店、1989年。
『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』、平凡社、1981年。

関連事項[編集]
岡町

関連項目[編集]
岡崎市

外部リンク[編集]
岡崎市役所




おかむら
岡村


廃止日
1889年10月1日

廃止理由
新設合併
和合村、岡村、保母村 → 美合村

現在の自治体
岡崎市

廃止時点のデータ



日本の旗 日本

地方
中部地方、東海地方

都道府県
愛知県


額田郡

隣接自治体
額田郡
大平村、丸山村、小美村、保母村、市場村、蓑川村、和合村

岡村役場


所在地
愛知県額田郡岡村
[92]箱柳永田さんからのコメント(2016年01月17日 13時08分00秒 ) パスワード

 一寸の補足です、
>その後、三河国額田郡百々(どうどう)村(現愛知県岡崎市百々町)に土着し、 百々城を拠点として松平氏に仕えたとされる。
 >http://tikugo.exblog.jp/15583391/  筑後川氏HPより
 このすぐ北に阿知波神社があり古くから拓けた処です、南には大樹寺を初め
 鴨田の九品院もあります、ただ百々の語源を川の音に求めると近くには急流は無く疑問に思ってました。 


 豊田市にも矢作川近くに百々があり(こちらは聞こえそう)
 >http://heritaging.blogspot.jp/2012/10/blog-post_31.html
 ここでは、人工石の水門など(多分 服部長七流)
    どっちが先の百々なのか、人の動きは水以上に読めないですね。
 
  >http://www.hb.pei.jp/shiro/mikawa/oka-jyo/
 岡城跡  整備されてないが、下方の地図が参考になるかな
 > http://www.hb.pei.jp/shiro/  城郭放浪記様 より岡城を抜粋しました。 館レベルも掲載されており、、色々空想が広がり、、、楽しいです。
[93]箱柳永田さんからのコメント(2016年01月17日 18時01分09秒 ) パスワード

 三つ柏さん

 池田という名称で、書き忘れ
 池田公に所属する当家の永田氏がいます、永田穂積之助、長篠の戦いで手柄。
遠祖、永田清蔵(当家3代)鷲塚住人。当時は城、川湊、真宗寺院があり
 平坂入り江、油が淵の島です。  蘇武、祖武は武士を選択した者には、信長公に直接お褒めの言葉を賜ったとして、当家限定の勇者名です。この子孫から幕末に永田秀蔵(次男)が出て、砲兵隊として活躍し、陸軍少佐で西南の役に鹿児島で戦死、までしか追えません。この家は蘇武助として事務方で活躍し、古文書の署名で多数見つかります。鳥取には数か所に数名ー10名くらいの永田姓の方が電話帳にて確認できますが、今時に蘇武之助、、、ないわなー。
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