[1] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月09日 12時16分09秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
新しいスレッドありがとうございます。
例の家譜の本物のコピー(古文書)を一部入手し、引き続き解読をしており
ます。少しずつ情報が明らかになって来ます。自分では解読できない崩し字
もありますので、わかりそうな人に訊いてみようかなと思っております。
いずれにしても、いきなり武士が代官になることはあり得ても、庄屋にな
ることはないと思います。少なくとも帰農して三代位の時間をかけ、大地主
にまでなることが必要かと推察いたします。
でもひょっとして、褒美として領地をもらい、領主兼代官を務め、やがて
代官兼庄屋となるという可能性はあるかも知れません……。
家紋についてはいつから「丸一」としたのかわかっていません。というか、
泰助あたりからしか墓も残っておりませんので確認できません。小笠原系山下
氏についても「丸一」という情報はなきにしもあらずですが、実際のところ
見つかっておりません。市野氏でしたら「丸一」ですので、市野家より来た奥
さんの家紋をとり入れ、一族関係者がそれにならったということなら筋は通り
ます。―ここは謎です。
実は、もう一つヒントをつかみかけていることがございます。それは「源
左衛門」でありまして、『浜松の歴史』(大塚克美編著)の中で見付けていま
す。大まかな情報なので、詳細については確定できておりませんが、引き続き
とりまとめ中であります。
永井家についても、あの伊賀の永井城の永井氏(百地氏に仕える)をもう少
し探究してみたいと思っています。百地氏についてもですが、根来に逃避し
た―そして根来寺の社紋は「三つ柏」であるという。百地は服部でもあり、
何か点と線がつながるような気配も少しあります……。根来と熊野。遠江は
真言宗や熊野との関係が強い……。
そしてさらにもう一つのヒント―それは「天領」ということです。善地は
不思議な事に唯一と言っていいほどずっと天領であり続けた。その秘密とは?
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時28分18秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
いろいろ面白い情報が出て来たようですね。
市野と善地というより善地は秋鹿代官?
http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020?hid=ht002510
浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
浜松市史 ニ
第四章 浜松藩の確立 第三節 浜松藩領の成立と他領 浜松地方の天領・旗本領・寺社領
天領の代官
142 〜 143 / 686ページ
天領を支配するのが代官であり、元禄期の代官の管轄区域は前述の領主分布表から察せられる。【市野氏 惣太夫 浜名代官】近世初期の浜松地方の代官としては、中泉(なかいずみ)村(磐田市)の秋鹿家と市野村(当市市野町)の市野惣太夫家が注目されるが、ここでは後者について述べる。『新訂寛政重修諸家譜』によると、市野氏の先祖は近江の浅井氏の一族で、真久(さねひさ)(惣太夫)の時(永禄年間)から家康に仕え、とくに馬のことにくわしく(『駿府記』に「慶長十六年十月一日、遠江国住人市野、生姜を献ず、すなわち御前に召し……牧馬の談あり、市野馬を知ればなり」と)馬掛りとして活躍し、慶長五年(一六〇〇)遠江の代官となり浜名十郷その他を支配し(『随庵見聞録』に浜名代官「浜名十郷辺ハ慶長五年ハ堀尾殿領浜松分、同六年ノ暮ヨリ市野五郎右衛門殿御代官九年之勤」)、慶長九年には長上郡市野村のうちで十七石余の屋敷地を賜わり、その後家号を市野と改めた。元和二年死去(市野村の宗安寺に葬る)するや、代官職と惣太夫の称号は実次(さねつぐ)・実利(さねとし)・真防(さねあき)とうけつがれた。寛文のころの市野・秋鹿両代官支配地の一端を上表に示そう。
村名 石高 家数 天領(公料) 浜松領 旗本領 備考
市野 894 118 代官市野惣太夫 488
笠井新田 528 62 〃
石原 228 35 〃
寺嶋 381 57 〃
新寺嶋 184 29 〃
上石田 615 94 126 代官市野惣太夫 相給
安間新田 24 代官秋鹿内匠
木平(貴平) 470 31 〃
善地 136 48 代官秋鹿内匠
浄光 96 16 42 代官秋鹿内匠 54 相給
片草 62 11 26 (8軒)〃 35 (3軒) 〃
宇布見 1084 684 (97軒)〃 400 (72軒) 〃
神ヶ谷 786 66 144 〃 110,232,200 〃旗本3人
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時29分48秒 ) | パスワード |
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【市野村】ところで、市野家の真防は元禄十年(一六九七)代官職を辞し、小普請に就任し、正徳四年(一七一四)致仕(ちし)し、市野村に住んだ。『元禄高帳』には市野村九百五十二石余のうち、除地十七石六斗九升八合が市野惣太夫屋敷と記されている。真防の子真則は元禄六年小十人となり廩米(りんまい)百俵を給せられ、同家はその後代々主として小普請に就任して十七石余の采地(さいち)と廩米百俵をうけついでいた。
【土豪代官】市野代官の治績については不明であるが、市野氏が前に述べた初期の浜松藩の代官と同じような土豪的給人的性格の代官であること、また元禄期に代官職からはなれているという点は代官制度の転機を示すものとして留意したい。
代官秋鹿氏も元禄十年以後は無役となり、本来の遠江国府八幡宮神主に専念している(『秋鹿家文書』)。
あらら
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時31分34秒 ) | パスワード |
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元禄期遠江の旗本三十六人(前掲領主表)の知行高の内訳をみると三千石以上のいわゆる大身が二十二人におよび、大身層の多かったことが注目される。一般に旗本領の基礎は寛永(かんえい)二年(一六二五)台徳院殿朱印状に負うところが大きいといわれている。
【金指気賀の近藤氏 大久保の服部氏】このことは当地方の伝統的な旗本である金指(かなさし)・気賀(きが)の近藤氏、堀江(ほりえ)の大沢氏、大久保の服部氏などの場合にもあてはまる(葵文庫蔵『記録御用所本古文書抄』)。
【知行地】このうち、服部氏についてみると、寛永二年十二月十一日付の朱印状により服部権太夫(政信)は敷智(ふち)郡のうちで四千石(山崎・小人見・高塚・大窪・志都呂・篠原・神ケ谷・伊左地の八か村)と「所々開発之地」二百九十五石七斗余を合して四千二百九十五石七斗余の知行地を得ている。
【関所奉行】権太夫はこの当時今切の関所奉行(前後二十一年間)であった。
【新居関所奉行志都呂役屋敷】慶安(けいあん)元年(一六四八)から、服部中(保俊)が権太夫に代わって関所奉行となり、歴代の今切関所奉行の役屋敷(敷地は四千百七十一坪あったという)は元和五年から元禄九年まで、新居へ舟路二里といわれた志都呂(しとろ)村(当市志都呂町)に設けられていた。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時33分00秒 ) | パスワード |
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元禄八年から九年にかけて松平半右衛門(忠明)が関所奉行をつとめ、その知行地は役料千石を含めて七千石に達した。
【知行地】服部・松平両氏とも今切関所奉行の要職にたずさわり、服部氏は知行地の大窪(大久保)村(当市大久保町)に、松平氏は志都呂村にそれぞれ陣屋を構え、幕末にいたったのである。
『元禄高帳』によると服部中は三千七百七十一石(敷智郡二千六百七十一石、長上郡千九十九石)、松平半右衛門は六千二百二十九石(敷智郡)を所有し、また嘉永元年(一八四八)当時の『志都呂領内村々』によると「新所・古見・鷲津・志都呂(しとろ)・大人見(おおびとみ)・下都田・上都田・小林・木舟・木舟新田・打上・寺嶋・寺嶋新田・上石田・笠井新田・貴平・前野・草崎・大当所・家田・岩村・片瀬・大平」の二十三か村が松平氏の所領となっている(貴平町『内藤家文書』)。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時36分22秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aika_kz.html
秋鹿氏
秋鹿氏
折敷に三つ巴
(橘姓/藤原を称す)
秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。ちなみに、秋鹿氏は「あいか」と読む。
朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。
室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。
戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。
他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の女が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。
■府八幡宮(ふはちまんぐう)
天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。
【府八幡宮】
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時37分38秒 ) | パスワード |
ということは
秋鹿氏との関係も調べなくてはいけませんね。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時42分47秒 ) | パスワード |
http://base1.nijl.ac.jp/~eadfa/db/internal/ocl-JALIT-DHD/changeview.cgi?xmlfdir=ac1964007&xmlfname=39G_ead-src.xml&xslfname=EADFAentire.xsl
遠江国豊田郡中泉久保村秋鹿家文書目録 1603-1871
史料群記号: 39G
史料館 国文学研究資料館
史料館シール DHD-seal
連絡先情報:
編集:
完成:
EADコード化:
安藤正人。
1996年3月。
丸島和洋, 2003年5月。
© 1996、国文学研究資料館史料館
【記録史料の概観 Descriptive Summary】
資料名称
Title:
遠江国豊田郡中泉久保村秋鹿家文書
資料記号
Reference code:
39G (ac1964007)
出所・作成
Origination/Creator:
秋鹿家
要約 Abstract:
府八幡宮神主秋鹿家の文書。社領である久保村の村文書を含む。
年代
Date:
慶長8年−明治4年 (1603-1871)
物的状態(抄)
Physical Description/Extent:
点数 275 点
収蔵
Repository:
(担当) 記述:安藤正人。
まえがき
このファイルには、史料館所蔵「遠江国豊田郡中泉久保村秋鹿家文書」の記録史料記述を収めた。
「遠江国豊田郡中泉久保村秋鹿家文書」は、まだ仮整理の状態にありながらも、これまで史料仮目録(A)によって公開してきた。このファイルの記録史料記述は、仮目録の各記述をそのまま収め、記録史料群全体の記述としては『史料館収蔵史料総覧』(名著出版、1996年3月)の記述をそのまま採用している。記録史料記述として不十分な内容かもしれないが、編成途上にあっても記録史料を公開している現状にあわせ電子的な検索手段も公開しようとするものとしてご了解いただきたい。
※本目録の表示に使用しているスタイルシート(XSLTファイル)は、もとコーネル大学図書館でEAD化した収蔵資料情報表示に使用しているスタイルシートを改変したものである。コーネル大学図書館における検索手段のEAD/XML化プロジェクトについては、次のURLを参照されたい:
http://cidc.library.cornell.edu/xml/
遠江国豊田郡中泉久保村秋鹿家文書目録 解題
収蔵: 国文学研究資料館史料館
出所・作成: 秋鹿家
史料群記号: 39G
タイトル: 遠江国豊田郡中泉久保村秋鹿家文書
年代: 慶長8年−明治4年
物的状態:
点数 275 点
(形態の特徴) 書架延長1m。133冊、137通、2枚、1綴、2袋。ほかに未整理3箱。
履歴
秋鹿家は中世以来の土豪で、代々府八幡宮神主をつとめてきた。八幡宮領は南北朝期以来守護使不入の地であったが、1603(慶長8)年徳川家康より改めて中泉村のうち250石(久保村分)が社領として寄進された。記録によれば、1600(慶長5)年に秋鹿弥太郎直朝が幕府代官に登用され(史料番号59)、朝正、朝重、道重と四代にわたって幕府代官職を継いでいる。支配地は1619(元和5)年には遠州川西筋56か村、7300石余であったが、元禄期には敷知・浜名・引佐・長上・豊田・山名郡の合わせて2万石以上に増加している。しかし1697(元禄10)年に道重が没した後は代官職から離れ、府八幡宮の神主専職となって明治にいたっている(『磐田市史』通史編中巻近世、『磐田市郷土資料目録』)。
範囲と内容
本文書群は、未整理の文書を除いて考えると、(1)幕府代官文書、(2)府八幡宮領久保村文書、(3)府八幡宮神官文書、(4)神官以外の公役関係文書、(5)秋鹿家の家文書、から構成されるといえよう。(1)の幕府代官文書としては、「元和五年遠州池田川西御代官所高帳」などがあるが、少数である。(2)の府八幡宮領久保村文書はかなりの数量にのぼり、「慶長八年遠州豊田郡中泉神領御縄打水帳」をはじめとする土地関係帳簿、「御年貢勘定目録」等の年貢関係文書、その他、村役人勤方や酒株関係などの文書がある。(3)の府八幡宮神官文書としては、「八幡宮本地堂月並勤行記」「八幡宮社本末社并建造物書上」「八幡社諸例式覚書」等のほか、祭礼関係の文書などがある。(4)の神官以外の公役関係文書としては、さしあたり文化年間の塩硝献上に関する文書をあげておく。(5)の秋鹿家の家文書には、由緒書や貸金関係の文書がある。ほかに親類書や秋鹿家宛て書状などが多数未整理文書に含まれる。
【利用者のための管理情報】
制限
未整理分は閲覧できない。
複写等利用制限
受入に関する情報
直接の入手源は原蔵者。
伝来あるいは記録史料の履歴
1964年度に原蔵者より譲渡。
整理に関する情報
他の検索手段
国文学研究資料館史料館 史料仮目録A も使用できる。
関連記述単位
磐田市中泉久保町秋鹿成文氏が元和−元禄期の幕府代官年貢勘定目録などを所蔵(『磐田市郷土資料目録』、磐田市誌編纂委員会、1985年)。そのうち中世および近世初期の文書の一部は『静岡県史料』第5輯(静岡県、1941年)に掲載されている。
出版物
<付記>
【索引事項】
関係地
遠江国豊田郡中泉久保村、
静岡県磐田市中泉久保町[現在]
職業
幕府代官、
神官
組織
府八幡宮
人名
主題
府八幡宮領
以下文書の件なので略します
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時46分45秒 ) | パスワード |
ココ面白かったですよ。
出雲が出て来ました。
http://www4.tokai.or.jp/nakaizumi/aikatei.htm
秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、その後、二十代の後裔・出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に地頭として住し、その地名をもって秋鹿を称した。ちなみに、秋鹿「あいか」と読む。
* 橘諸兄(たちばなのもろえ) 奈良時代の政治家。国政は、事実上橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐する事になる。
橘朝芳の四代の孫・朝慶は、鎌倉4代将軍・藤原頼経(ふじわらの よりつね)に仕え、その一族に列して姓を藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治(さきょうのすけ ともはる)のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。
室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。
戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めたが、以後、子孫は徳川旗本として続いたが、19代綱吉の時に故ありて代官を罷免され、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。
他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の娘が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。
秋鹿家について
秋鹿氏は、室町時代末期にその初代・左京亮朝治が出雲国秋鹿郡(現・松江市)から遠江国羽鳥庄 貴平郷(とうとうみのくに はとりのしょう きへいのごう)と中泉郷、南郷の地頭であり、神官でした。
秋鹿家の祖先は橘諸兄であると言われている。
以来三十代にわたり、ある時は武将、旗本として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。
今川範国に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めていましたが、その後、徳川家康に仕え、代官となりました。代官職を辞したのち府八幡宮(250石)神主に専従しました。
第十四代・右馬助(朝延)が永正元年に秋鹿家の菩提寺である泉蔵寺(石原町)を寄進しました。
最初は遠江国羽鳥庄貴平郷に居住していましたが、その後、磐田市御殿に屋敷を構え住んでいましたが、その地に徳川家康の御殿を建てることになり、代わりに府八幡宮領地である久保村の現在地に移り住みました。
そのお屋敷(幕府からの拝領地)は、明治維新に於ける廃藩置県により、一時、明治政府に返上し、お屋敷跡は中泉公園として親しまれました。そして明治政府により払い下げられ、再び秋鹿家の所有となりました。
明治の中頃には一部が料亭(旧・開莚楼)、遊郭(上・写真)、芝居小屋(明治22年〜42年まで照日座/その後、中泉座と改名)、借家、一般住宅として使用されるようになり、現在はそれらの建物は存在しないが、当時の中庭と池は今もその面影を残している。
旧中泉公園について
幕府より拝領された秋鹿家の屋敷は、明治維新により所領没収となり、浜松県の収めるところとなりました。そして、明治6年11月3日より中泉公園として開園しました。その後、元の所有者である秋鹿家に払い戻されました。
その庭園内には歴代当主が趣向を凝らした常磐木の巨木が深い林を成し、中に梅桜の林、楓の森があり、庭石の奇観、草花が彩りを添え、全景が松島を模した扇子池があり、遠州に於いて有数の名園といわれた。
池の北東側には、趣味の集会等に使われた「不老斎」と名付けた平屋の建物がありました。
公園内では、明治13年8月9日〜12日、園内に小屋がけして芝居が上演されたり、同14年には日本伝統の最後の手品師といわれた養老瀧五郎の手品が演じられたりした。明治22年には「照日座」が建てられ、後の明治42年に建て替えられ「中泉座」と改名される。そして戦時中に戦火を避けるために取り壊されたが、戦後、昭和21年には中泉座の跡地にスバル劇場が建てられ、映画、芝居、歌謡ショー、成人式、立会演説会等々に利用され、大衆に親しまれた社交の場でした。その頃、旧「開苑楼」「遊郭・常磐楼、三浦楼」なども建てられたと思われます。
現在、その地の一部(池の周りの敷地約千坪)は磐田市の公園「中泉歴史公園」として、住民の憩いの場として存在しています。
*明治34年の春、当時の朝鮮の志士で朴泳孝が、同志の金応元、鄭東淳とともに此処(不老斎)に滞在して、朝鮮における政権再興のための秘策を練っていたことがあった。当時の朝鮮は政変が繰り返されていて、明治33年には朝鮮の内閣を転覆させ、李太王を率いて帰国し、政権を掌握しようという朴泳孝の陰謀が暴露されてしまった。朴泳孝は全宏集内閣の内務大臣を務めた人である。
現在の公園
現在は、旧中泉公園の一部(約1000坪)が市の公園として残されています。
2008年に旧開莚楼が所有していた敷地を市が購入しましたが、10数年間手入れがされていなかったため、荒れ放題になっていて、行政としては大胆な公園整備計画を予定していましたが、財政不況に伴い、予定していた公園化事業が頓挫しまして、2009年春より、地元有志のボランティアにより、密林のように生い茂っていた樹木の剪定、伐採、遊歩道の整備、池の清掃、石垣等の修理、竹柵設置等々を行い、2009年の10月から『中泉歴史公園』として、一般開放されています。
現在も植樹、剪定、草取り、荒地の開墾等を継続し、公園整備を行っています。
庭園と里山の風情を併せ持った昔ながらの風情を残した公園として、地元市民の憩いの場として愛されるものにしていきたいと思っています。
最近では、カワセミの姿も見ることができます。
遊郭の人々
<昭和10年撮影>
明治時代、秋鹿家は大きな変革を余儀なくされた。それまでは幕府から禄高を与えられ、収入の心配はなかったが廃藩置県等による情勢の変化に伴い、現金収入を得るために遊郭等に土地を貸した。そのひとつが遊郭・三浦楼である。
*秋鹿家は敷地の一部を遊郭、料亭、芝居小屋、医院、借家等に貸し、生計を立てた。
中泉遊郭(俗称・公園と呼ばれていた。)は明治中頃から昭和33年まで営業されていました。
(売春防止法制定により廃止)
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時53分09秒 ) | パスワード |
泣けてきますね。報復人事というのですね。
http://www.geocities.jp/tanbou06/aikayasiki.htm
秋鹿屋敷あいかやしき
静岡県磐田市中泉
--不老斎跡--
交通 JR東海道本線「磐田駅」から徒歩15分。
築城年代 1573〜1593年(天正年間)
築城者 秋鹿氏
形式 屋敷
主な城主 秋鹿馬之助
国府八幡宮神官を務めた秋鹿氏屋敷跡。
秋鹿氏は出雲国秋鹿郡(島根県)の豪族の出で、後に遠江国羽鳥庄に地頭として住し、以後代々500年余に渡り国府八幡宮神官を務めた。
元々秋鹿氏の屋敷は、後に中泉御殿が建造される地にあり、徳川家康も宿泊地にあてていたが、1578年(天正6)御殿建造の為にこの地を代替地として与えられ移った。
明治新政府が成立すると、秋鹿氏は江戸幕府から認められていた250石の朱印地を没収される。長く努めてきた神主職も辞めさせられ、広大な屋敷も明治6年に寄付という形で取り上げられると、屋敷跡は浜松県が管理する中泉公園となった。
その後元の神主家秋鹿氏に払い下げられるが、後に屋敷跡は大きく変貌し、不老斎と呼ばれた平屋建ての建物や映画館、料亭(開莚楼)が建てられ、現在は駐車場となっている。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月09日 22時56分53秒 ) | パスワード |
読むことがたくさんありますね。
http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e9%81%a0%e6%b1%9f%e5%9b%bd%e5%ba%9c&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U
浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
No 本文 刊本 見出し
1
たり、見付の国府の近辺にあるはずとして、遠江国府近くに今浦(いまのうら)という地があった
浜松市史 一
古代編 第五章 平安時代の政治と社会 第二節 軍事と交通 諸駅の推定位置
引摩駅
2
しまう。この富士川から敗退ののち、平維盛は遠江国府(磐田市)に留まって、京都からの援軍を待
へえ〜
あ、そう、だったの
浜松市史 一
中世編 第二章 鎌倉時代 第一節 鎌倉幕府の成立 源頼朝の挙兵
遠江武士の去就
3
える兵力をもち、いまの磐田市見付にあたる遠江国府で援軍を待った。ここはすでに千騎の軍隊を
浜松市史 一
中世編 第二章 鎌倉時代 第一節 鎌倉幕府の成立 守護と地頭
遠江守護所
4
名寺の収入であったからである。平安時代に遠江国府(磐田市)と京都とのあいだを租税を運ぶ人
浜松市史 一
中世編 第二章 鎌倉時代 第五節 社会と経済 交通
天竜川
5
安貞元年(一二二七)に流罪の途中の隆寛と遠江国府で面会し、そののちは浄土宗の布教につとめ
浜松市史 一
中世編 第二章 鎌倉時代 第六節 宗教と文化 仏教
遠江と浄土宗
6
秋鹿氏も元禄十年以後は無役となり、本来の遠江国府八幡宮神主に専念している(『秋鹿家文書』
浜松市史 ニ
第四章 浜松藩の確立 第三節 浜松藩領の成立と他領 浜松地方の天領・旗本領・寺社領
秋鹿氏
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月10日 03時01分22秒 ) | パスワード |
ということで
秋鹿氏は思っていた以上の名家の出ということでしょうね。
出雲出身で
古くから遠江に縁があって?
それで橘諸兄の20代後裔が南北朝期には北朝方で
室町時代の終わりに遠江に地頭に来て
遠江では古くからの豪族で
今に至る?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84
橘 諸兄(たちばな の もろえ、天武天皇13年(684年)- 天平勝宝9年1月6日(757年1月30日))は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)[1]で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。
和銅3年(710年)無位から従五位下に叙せられ、翌和銅4年(711年)馬寮監に任ぜられる。
元正朝では、霊亀3年(717年)従五位上、養老5年(721年)正五位下、養老7年(723年)正五位上と順調に昇進する。
神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく従四位下に叙せられる。神亀6年(729年)正四位下・左大弁に叙任され、天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。天平4年(732年)従三位。天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。
橘三千代
藤原不比等の後妻で光明皇后の母上!!!
天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行によって太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまい、9月には出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。そこで朝廷では急遽、鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えた。翌天平10年(738年)には諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍朝廷の中心的存在となる。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄・をブレーンとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。
天平12年(740年)8月に大宰少弐・藤原広嗣が、政権を批判した上で僧正・玄・と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行う[2]。しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判及び藤原氏による政権の回復を企図したものと想定される。9月に入り、広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸する。さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。
天平15年(743年)従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年(749年)にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。
しかし、同年孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。天平勝宝7年(755年)聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、翌天平勝宝8年(756年)辞職を申し出て引退する。
天平勝宝9年(757年)1月6日薨去。享年74。最終官位は前左大臣正一位。
諸兄の没後間もない同年5月に、息子の奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。
http://www.fu-hachimangu.jp/info/info/about/
府八幡宮 これもスゴイ情報ですね。
府八幡宮は、天平年間(729〜748年)に遠江国司(現在の知事にあたる)であった天武天皇の曽孫桜井王(さくらいおう)が、遠江国府の守護として赴任された時、遠江国内がよく治まるようにと府内に奉られたのが、始まりです。
遠江国府は、最初に現在の二之宮・御殿地区に勧請(かんじょう)され、その後、見附地区に移転されるまでの間、一時、府八幡宮内に置かれていた、と伝えられています。
寛永12年(1635年)に建立された楼門(ろうもん)は静岡県の文化財に、中門・本殿・拝殿および 幣殿は市の文化財に指定されています。境内の建物の多くは、江戸時代に建造されたものです。
<国 府>こくふ
国府は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市を指す。
国衙ともいいます。
<国 司>こくし
国司は、古代から中世の日本で地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で四等官である、
守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。
郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、
中央からの支配のかなめは国司にありました。
国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていました。
奈良時代の聖武天皇(在位724年〜749年)のころ、「桜井王」という皇子(聖武天皇の曾孫といわれている)が、遠江国の国司となって国府(国の役所)に着任しました。
王は、地域全体の平安を願って「府八幡宮」を建立しました。
国府のあるところの八幡宮であるから、「国府八幡宮」ともいわれてきましたが、今は「府八幡宮」が正式名称です。
地元の人たちは、親しさをこめて“八幡さま”あるいは“中泉の八幡さま”とも呼んでいます。
秋鹿氏は桜井王の頃 and/or その前にも来てたかもですね。
ということで善地あたりは古くから出雲大社や秋鹿家と繋がりがあったのかもですね。
もともと秋鹿氏は土地の有力者だったから善地あたりの代官だったのかも。
やはり大昔からの歴史を読まないといけませんね。
[14] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月10日 08時44分35秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
新たにパースペクティブが広がりました。さすがにあを様であります。
磐田の国府=国衙という偉大さを再認識しなければなりません。
昨日も、磐田の国府のすぐ近くまで出かけておりまして、坂は多いのです
が、緑もあり、立派なお寺もあり、いい町だなと感じておりました。未探究
の場所がたくさんあるので、改めて探索に来ようと思っていたところでした。
秋鹿氏で思いだすのは、出雲の秋鹿郡です。宍道湖の北側に位置し、その
日本海側であります。出雲に行ったなり、出雲地方についての分析を余りし
ていませんので、これから少し探究してみます。
秋鹿氏の菩提寺の泉蔵寺にはご縁があるようです。住職の息子さんと親戚
の方が私の勤める会社に関係しております。
その親戚の方は郷土史家で、秋鹿氏についての論文をいくつか発表してお
られます。
秋鹿氏は中泉代官所の代官も務めたと思います。ここは遠江と信濃の天領
を管轄統治していましたので、善地もその支配下にありました。
家康の指示によるストレートな行政が可能でありました。伊賀の乱や秀次
事件の逃避者を隠し住まわせたという可能性がありそうです……。
本日はこれから「筆の会」等へ行きますので、夕方に復帰します。色々書く
べきことがたくさんあります……。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月10日 10時45分03秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
秋鹿氏の関係者からいろいろお話が聞けると良いですね。
古い古い時代のお話から聞くことが出来ると良いですね。
>色々書くべきことがたくさんあります……。
楽しみです。
秋鹿氏
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A7%8B%E9%B9%BF
【全国順位】 14,408位
【全国人数】 およそ400人
現島根県である出雲国秋鹿郡秋鹿郷が起源(ルーツ)である、古代氏族であり
美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏
(後世、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)を称す)
などにもみられる。
北海道 調査中 調査中
青森県 調査中 調査中
岩手県 調査中 調査中
宮城県 7,428位 およそ10人
秋田県 調査中 調査中
山形県 調査中 調査中
福島県 調査中 調査中
茨城県 8,717位 およそ10人
栃木県 調査中 調査中
群馬県 調査中 調査中
埼玉県 調査中 調査中
千葉県 4,345位 およそ100人
東京都 16,325位 およそ30人
神奈川県 14,599位 およそ20人
新潟県 調査中 調査中
富山県 調査中 調査中
石川県 調査中 調査中
福井県 調査中 調査中
山梨県 4,821位 およそ10人
長野県 調査中 調査中
岐阜県 調査中 調査中
静岡県 4,106位 およそ40人
愛知県 調査中 調査中
三重県 調査中 調査中
滋賀県 調査中 調査中
京都府 調査中 調査中
大阪府 18,242位 およそ20人
兵庫県 23,369位 およそ10人
奈良県 調査中 調査中
和歌山 調査中 調査中
鳥取県 1,339位 およそ60人
島根県 970位 およそ100人 さすが
岡山県 8,417位 およそ10人
広島県 18,907位 およそ10人
山口県 調査中 調査中
徳島県 調査中 調査中
香川県 調査中 調査中
愛媛県 調査中 調査中
高知県 調査中 調査中
福岡県 調査中 調査中
佐賀県 調査中 調査中
長崎県 調査中 調査中
熊本県 調査中 調査中
大分県 調査中 調査中
宮崎県 調査中 調査中
鹿児島 調査中 調査中
沖縄県 調査中 調査中
浜松市中区 およそ10人
磐田市 およそ10人
沼津市 およそ10人
袋井市 およそ10人
富士宮市 およそ20人
[16] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月11日 00時28分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
秋鹿氏が中泉に来てからの十五代目が「直朝」。直朝は家康に召される。
その直朝の次男「朝正」は、三河の母方の叔父「浅井六之助道多」の養子
となる。道多の父親「浅井六之助道忠」は、家康の生母於大の兄「水野信元」
の家臣。信元は今川方を去って織田方についていたが、桶狭間の戦いで今川
義元が討ち取られると、いち早く「道忠」を使者として今川方の元康(家康)に
伝えて来た。ということで、「道忠」は家康の恩人となったわけである。そ
道忠の子が「道多」。父「直朝」の死後、家督を継ぎ代官となった。
秋鹿氏と家康との関係は、秋鹿屋敷、八幡宮を中心として、いろいろ深い
ものがあります。
続きは明日―
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月11日 03時21分12秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ここで三河の「浅井氏」が出ますか。
ちょっと浅井氏について分かった感じ。
http://folklore2006.jp/156.htm
■ 浅井(あさい、あざい)
# 268位
# 上代の物部守屋の後裔と言われる
また藤原実雅の末裔とも言われる。実雅の子の三条大納言氏政の子の重政が近江国浅井郡丁野(ようの)に住んで浅井氏を称した。
# 宇多源氏の佐々木氏族、桓武平氏の千葉氏族、藤原氏の小堀氏などにみられる。
# 関連姓氏: 朝井、朝夷、朝居、阿佐井、阿佐伊、麻井。
# 愛知県の特に岡崎市や一宮市や長久手町に多くみられ、他に東海、近畿、北陸地方にかけて多くみられる。
# 近江の浅井氏は近江国浅井郡(滋賀県長浜市付近)をルーツとする。
戦国武将の浅井氏はこの系統。
# 三河の浅井氏は三河国幡豆郡浅井(愛知県西尾市)をルーツとし、橘氏の出。
なるほど、この「橘氏」の浅井氏なら秋鹿氏とも先祖がらみいなれるでしょうね。
■ 淺井(あさい・あざい)
# 15283位
# 全国に約400人
# 宇多源氏、桓武平氏、藤原氏などにみられる。
# 俳優の北大路欣也(本名:淺井将勝)は京都府京都市の出身。
■ 朝井(あさい)
# 関西地方から福井県にかけてみられる。
# 近江国の浅井氏から転字した。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月11日 03時31分31秒 ) | パスワード |
寄り道
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/asai/asai2.htm
三河の橘氏族浅井氏の出自
前略
諸国の「橘姓」の諸氏の系譜は、後になって系譜仮冒して中央官人の橘朝臣氏に符合させていることが多い。
そうした橘氏の例は、駿遠や伊予、熊野などに見るように、実際の系譜が物部氏族かその近縁氏族に出た諸氏に出た場合が多いとみられる
(なぜ、これら氏族が橘姓につなげたのかは事情が不明)。
近江国の橘姓も、浅井氏などがその例に漏れないとみられる。
だから、高島郡の田中氏も同様であって、中央官人の橘朝臣氏ではなく、
本来、浅井郡の浅井氏の同族という古族の流れではなかったかとみるのが自然である。
三河の浅井一族
浅井という地名は各地にあるから、三河にもともと浅井村があっても、とくに不思議とはいえない。
しかし、伯耆守田中宗兼が三河に遷住して、六之介忠清となったというのは、命名からみても不自然である。
忠清の活動年代は十六世紀前葉頃とみられるが(後述)、その四代前の浅井橘六実宗が南北朝期に碧海郡浅井村を開墾したというほうが妥当であろう。
天保七年完成の『参河志』には、幡豆郡須美村の天王社の神主の浅井弥次右衛門や碧海郡下青野村の椿大明神・天神社・薬師の神主の浅井甚之丞、として浅井氏が見えるから、こうした祭祀事情も古族後裔を示唆する。
「天王・天神・薬師」は少彦名神後裔氏族に多く見られる祭祀であった。
だから、『百家系図稿』の浅井氏系図に見えるように、近江古族の浅井宿祢の後裔が三河に来て、浅井の地名が生じたとするほうが自然のように思われる。
近江古族の浅井直・宿祢の一族の系統については、確たる史料でいうことはできないが、「直」のカバネや称橘姓、地域事情などからみて、美濃西部にあった古族の三野前国造(物部同族で、少彦名神後裔であって、山城の鴨県主と同族)と同族ではないかとみられる。
近江の宮川氏と同族かどうかは不明であるが、美濃西部の不破郡にも宮川氏があった(源姓を称するが、疑問)。著名なのが信長・秀吉等に仕えた大垣城主宮川吉左衛門安定であり、その一族の宮川権之助安済の居城が上笠村の上笠古城とされるが、「笠」も少彦名神後裔に関係する地名・氏族名である。
浅井橘六実宗の孫・橘六実賢の諸子から分岐が見える。
@実賢の諸子には、次郎兵衛忠賢・次郎兵衛定賢・三郎左衛門有賢・隼人助久賢・八郎道賢がおり、前二者が子孫を残す。定賢の後は、子の孝忠・恒忠兄弟、恒忠の子の「図書頭綱忠−勘五左衛門雅忠−平蔵成忠」、
A次郎兵衛忠賢の子に六郎左衛門忠清・兵部忠待兄弟、兵部忠待は加茂郡にあって、その子の「基忠−七郎兵衛澄忠−七郎助教忠……」で、教忠は慶長十七年卒、子孫が旗本にある。また、七郎兵衛澄忠の弟の「平右衛門幸忠−道右衛門為忠……」で、この子孫も旗本にある。六郎左衛門忠清は、この世代配置から活動した時期がおよそ推測できる。
略
B六郎左衛門忠清の諸子には、又六郎忠友・右馬允政清・五郎左衛門元清・宮内季忠があり、それぞれ子孫を残す。又六郎忠友の後は、その子の「六蔵忠元−六之助道忠……」で忠元は碧海郡に住。
右馬允政清の後は、その子の「利清−女」で終わり。五郎左衛門元清の後も碧海郡に住み、その子の九郎左衛門元重は清康〜神君に歴仕、その子孫が旗本にある。
この元重を祖とする浅井氏が藤原姓として『寛政譜』にあげられる。
宮内季忠は幡豆郡須美村に住して、その子の「勘解由右衛門宗忠……」、ということで、これ以下の世代のメモはありません。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月11日 03時44分12秒 ) | パスワード |
続き (服部氏が出て来ますから)
愛知県南設楽郡(新城市)の西部に、かつて千郷村と呼ばれた地域があり、合併前は幾つかの村に分かれておりました。
この詳細を記した郷土史『千郷村誌』を読んだところ、以下のような記述がありました。
(1)字片山・・・(略)仏教弘通の世となり朝廷より番匠を派遣せしめ、ついで竹下、阿部、浅井の一族が来村した。(略)
●阿部=武淳川命の裔、家紋違鷹羽
●浅井=安部の族、家紋三剣鳩酸草
ココ
(2)字稲木・・・(略)稲置府を開いた時に稲置壬生公は服部と春田との一族を率い来住、次いで浅井が来・・・(略)
●浅井=江州浅井郡安倍氏族、三ツ剣酢漿草
これを読むと、浅井橘六実宗が三河国の浅井村を開墾した時代より遥か昔に、南設楽郡に浅井姓が来村していたことがわかります。
@武渟川命の裔・阿部氏の一族であるという、字片山の浅井氏
A江州浅井郡の安倍氏族であるという、字稲木の浅井氏
場所や時代から考えても、これら@Aはいずれも同族と思われます。
そこで思うのが、
この千郷村の浅井と、浅井村を開墾した浅井橘六実宗は、果たして別系統なのだろうか?という事です。
もしこの2系統が、元は同じ祖から分かれただ同族だとしたら、浅井橘六実宗の祖・浅井直筑紫雄は、実は安部氏の一族だったという事にならないでしょうか。
ぜひ、ご意見を伺いたく、ご連絡させて頂きました。
(樹童の感触)
残念ながら不明です。
中世浅井郡の豪族で見える浅井、丁野、柴田、伊部、中野、河毛、月瀬、大橋、山本、岡崎等の一族も橘姓ないし物部姓といいますが、
本来は古代浅井直の族裔かともみられます。
物部姓でいうと、
近江に物部連の同族があり、
美濃には東部の三野後国造、
三河の三河国造が物部氏族ですし、
美濃国西部の大族・三野前国造は物部氏族と同祖関係にある鴨県主の分岐とみられます。
近江の浅井直について、物部との関係を考えるのは、「直」という古代国造に多く見えるカバネをもっていたこと、
古代物部氏族の後裔の多くに橘姓と称する例がかなり見えること(駿遠や熊野、伊予など)からの推測です。
その一方、近江では湖西に渡来人系統の大友村主・志賀史・穴太村主などが繁衍し、
その一族の可能性がある穴太氏が坂田郡にも有力な豪族として見えることから、浅井直をこの同族ではないかという見方もあります。
2 貴信に見える三河国設楽郡の浅井氏は、はるか昔の古代に美濃東部から三河の北方の山間部を経て入ってきた可能性がありますから、
三野前国造か三野後国造かの同族だったのではないかと思われます。
この浅井氏が阿倍氏族と称したのは、近江との縁があったことを伝えていたのかも知れません。
近江には佐々貴山君など阿倍氏族が繁衍しましたが、浅井氏が阿倍氏族だというのはカバネからいって無理ではないかと思われます。
ココに続く
稲置壬生公というのは、稲木に関連してのことだと思われ、
垂仁天皇の子と称する大中津日子命(鐸石別命)の後裔に稲木別・稲城壬生公という姓氏があって、
尾張国丹羽郡稲木郷に居住したと伝えますから、この関連があったのかもしれません。
春田は治田連の後で、この氏は彦坐王後裔と称する氏族であって、近江や尾張国海部郡に居住が知られます。
そうすると、数行上のあの服部氏は尾張系の服部さん?
浅井氏も尾張国中島郡などにあったことが知られますから、稲木の浅井氏は尾張との関係がありそうでもあります。
3 設楽郡の浅井氏は三河に来た時期が相当違うとはいえ、浅井橘六実宗とは遠い先祖が同族であった可能性があると思われます。
服部氏もいろいろなんだとビックリ!
服部氏で尾張だったら伊賀系の「丸か車に並び矢か矢筈あたりの紋」かと思ってたら違うのもあった?
この服部さんはどういう家紋なのかしら?まさか三つ柏?
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月11日 03時51分03秒 ) | パスワード |
寄り道
http://6327.teacup.com/maeda/bbs/444
東三河地方と聖徳太子(4)
7)石巻村=神々村と呼ばれた根拠
この古文書には、神代の神々、古代天皇、法王様が石巻村=神々村におられたことを記しており、その証拠能力は高い。 齊明天皇が来られていたことは、天武天皇の出自にも関係し重大事である。別資料によれば、齊明天皇は石巻神社に佳田50束を奉じたとされている。
8)鞍作鳥関連地
聖徳太子の彫像を彫った、鳥仏師は、千郷・野田市場に在住し、彫像作りを行ったといわれ、その跡が、鐘鋳場という地名として残っている。 鳥仏師(地名):字野田市場89番地、氏は鞍作、鳥は名である。仏師なる故、世に鳥仏師と称した。
梁の帰化人で推古天皇の御代大和に住した一族が鍛冶匠と共に来住して仏像を造ったのである。永正の頃鍛冶工の退出に際し、残って田畑の鳥追い役を命ぜられた。奈良・法隆寺内の中宮寺に白布で捲かれて封印されていた救世観音像は、鳥仏師作とされる。
9)山背の大兄皇子の東国壬生関連:千郷村の稲置壬生公 ココ
成務天皇5年、県・邑を定め、国造を置いた。
麻野県主は、土居氏で紀の国の人で、稲置壬生公である。
垂仁天皇の皇子・鐸石別(ぬてしわけ)命の孫が稲置壬生公であり、
日本武尊の従兄弟ということになる。
壬生は、聖徳太子の子・山背の大兄皇子が、蘇我入鹿に攻められたとき、
生駒山に逃れて、挽回するならとの、家臣の三輪公との会話で、
「もし東国壬生の国に戻り、兵を集めて戦えばきっと勝つだろう。しかし、自分の保身のために、殺生を起こしたくない。」
といって、斑鳩寺で自ら一族もろとも火の中で滅びていった。
10)多米町の萬象寺:鑑真渡航と聖徳太子の謎に関連して
東大寺を建立の時、聖武天皇に戒位を授けるために、唐の高僧「鑑真」は、5度の渡航失敗、果ては両目失明にも屈せず、
12年目にして、ついに渡海に成功した。
その鑑真が、掛錫(かしゃく=禅僧などが修業のために寺に逗留すること)したといわれる寺が、豊橋市多米町の萬象寺であったと三河国総国風土記に載っている。
「東征伝」(鑑真伝)によると、鑑真の日本渡航の真の理由は聖徳太子の国だからという。
唐大和上「東征伝」は、鑑真の弟子「淡海三船」の書とされるが、その詳細な著述は、山陰道使・三河守を歴任して都にいなかった三船によるものである。
鑑真が三河・多米の萬象寺に、掛錫したということも、まんざら根も葉もないものとはいえない。
多米の徳合長者が、聖徳太子の勝蔓経の講義を聴きにいったという伝承もある。
鑑真は、その真の聖徳太子を偲んで日本渡航をされたのが真相のようだ。
このあたりのお話は三つ柏さんから去年 教えていただいたお話に合うような記憶です。
[21] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月12日 01時12分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
私が依然千秋氏は野田城の城主だったと書いたことがありました。今回の
あを様の情報を更に追及してみましたところ、「千郷村」(ちさとむら)は、
明治39年(1906)に「千秋村」(ちあきむら)と「西郷村」が合併してできた
ということです。「ちあき」は本当は「せんしゅう」ではないかと思われま
す。なぜかというと、この地区には、野田、大野田、稲木という地域があり、
また元亀2年には大野田城の戦いがあり、野田地区にある千郷神社は野田城
での戦いでなくなった兵士達の霊を祀っているという。その野田城の城主が
「千秋氏」(せんしゅうし)であったのである。千秋氏は服部氏を名乗った時
期もあります。この服部氏なら、三つ柏紋を使用した可能性は大でありま
す……。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 02時11分03秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
思わぬ貴重な情報を感謝です。
>>>「千郷村」(ちさとむら)は、明治39年(1906)に「千秋村」(ちあきむら)と「西郷村」が合併してできたということです。
なにか「千郷村」という名称に引っ掛かるものの分かりませんでした。
合併はいけませんね、由来や正体が分からなくなります。
とはいえ、分からなくならねばならない場合もありますが。
http://www.suzukigroup.jp/groupblog/?p=4993
千秋郷をネットで調べても現在の三河には出てきません。「千秋(ちあき)」は古称です。どなたかの検索の資料になることを願い、ここらで当地の成り立ちを紹介しておきましょう。
新城市西部地区は現在は千郷(ちさと)といいますが、住所には出てきません。千郷村は昭和30年、新城町に合併吸収されて番地として残らなかったからです。千郷村も明治39年、千秋村と西郷村の合併による合成地名です。
鉄道以前の千秋郷は陸湊(りくのみなと)で海路の終点・陸路街道の始点でした。風もよく帆掛け舟が飽海川(あくみがわ/豊川=渥美湾)から海倉渕まであがることができました。
交易に重要な土地として古来人が往来し、大化4年(648年)に稲置府(稲木)が置かれるなど時の中央とも繋がりがありました。
ココですね。
私が参照している千郷村史は地名別にその成り立ち・住人・出来ごとを記したもので、
年代的に、和銅年間(708-715)から各令制国の国庁が編纂した風土記(ふどき)の調査資料が発端ではないかと考えます。
まあ、それ以前は文字がなかった訳で、どうしてもこの頃からになります。
和紙の束として寺社に伝わる資料を先人が何百年おきかにまとめて、現在は現代語訳・本にしてあります。
検地等の詳細資料は別にして、物語資料で纏めています。
これ以前の記録はありませんが、石器の出土、縄文遺跡や古墳群があります。
領主項の初めに紀州や信州の一族が土佐の一族と抗争やら協調やら長者をしていたらしい話があります。
交易にかかわる部族が渥美(あつみ)から長野の安曇(あずみ)まで移動する間の事のようです。
あらら・・・
アヤシイ
野田村主・賀茂郷司中村氏・野田郷司長谷部氏・諏訪部曲と続き、
寛治7年(1093年)海上交易の大勢力・熱田の尾張氏が稲木の依田長者を攻め退去させてこの土地を領有しました。
初代の藤原季兼はここを熱田の神領のごとく領有し四代目の千秋清季が安元元年(1175年)川近くに野田館を築城しました。
永正13年(1516年、起工1508年)菅沼定則が戦国の世に対するため上ノ山に野田城を築城するまで、海倉渕に隣接した野田館が代々の領主の居城でした。
せんじゅううじ【千秋氏】
藤原南家、熱田大宮司家の一流。11世紀末,藤原季範(すえのり)が外祖父尾張員職より熱田大宮司職を譲与されて以後,同職は尾張氏より藤原氏の世襲へと移行,季範の子範忠,範信,範雅の子孫がこれを継承した。
このうち千秋氏は範信の子憲朝(本名有範,のち信綱と改名)が千秋を号したのに始まる。
その号は三河国設楽郡千秋の地名を以て名字としたと言われている。(武家家伝より、うちの村史と若干違います)
へえ〜
尾張氏とは古事記にも登場する古代の一族で現在その名を冠する地方を支配していました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は草薙剣を尾張の宮簀媛命 (みやすひめのみこと)のもとに残したまま伊吹山の魔人退治に出かけ、氷雨にあって病で命を落とします。
尊の魂は白い鳥となって媛命のもとを訪れた後、伊勢の方角に飛び立ったといいます。
媛命の一族は熱田の地に草薙剣を祀り神宮を創建して大宮司となりました。
あら、そうだったの
へえ〜
その後裔、松御前が藤原南家の藤原季兼と婚姻して大宮司家は藤原姓になり、美濃尾張三河の三国を領有したといいます。
この藤原季兼こそ、寛治7年(1093年)に千秋郷を熱田の封建領土として領有した人物で、
松御前の孫娘(由良御前)の子が後に鎌倉幕府を開く源頼朝、
同じく孫(信綱)が千秋を号し、
その子が野田館を築城した千秋清季となります。
源頼朝が伊豆で平家の手より生きながらえることができたのも、熱田の後ろ盾によるものです。
気づかれたと思いますが、尾張と婚姻した藤原氏が「千秋」を名乗ったのは領地の名前からで、領主の名字から地名がついたのではないことです。
なるほどね
千秋とは漢詩から転じて終わり≠意味する言葉です。お芝居の千秋楽はここからきます。
個人的に思いますに鎌倉時代・武士の時代の到来に藤原・尾張の名字は因習を引きずりすぎていたのではないでしょうか。
古代に学のある誰かが三河の辺鄙な地に航路の終点終わり≠ニ尾張≠かけて「千秋」と読み、
それを藤原信綱が熱田大宮司一族の号として採用したのではないかと密かに思っております。
以上引用
わたくし的には 出雲大社の千家の「千」と秋鹿の「秋」から千秋となったのかなと思っていました。
その人々が三河に千秋の地名を残したのではないのかなと。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 02時18分19秒 ) | パスワード |
復習
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sensyu.html
千秋氏
千秋氏
蔓柏/帆掛船*
(藤原氏南家季範流)
*羽継原合戦記に記述あり。
千秋氏は藤原南家季範の子孫・熱田大宮司家の一流で、季範の娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。それ以後、大宮司家は源氏と強く結びつき、次第に武士化していった。憲朝の代に至り、三河国設楽郡千秋の地名を以て、名字としたのに始まるとされる。
室町幕府に仕え「永享以来御番帳」などに複数の千秋氏が確認され、室町将軍家の奉公衆を構成していた。将軍の御的始めの射手を度々務める等、射芸に秀でた家柄であった。そのためか、将軍足利義政やその妻日野富子の寺社参詣や猿楽見物等には、必ず御供衆に加えられている。また、将軍家の息災祈願を司る祈祷奉行は、千秋家の世襲するところであった。
乱世に身を処す
千秋氏は代々京都に在住し、尾張・美濃・三河の広範囲にわたる所領の支配は下級の神官にまかせていたのだが、戦国時代にいたって、尾張知多郡の羽豆崎城に移ってきた。社領を直接支配する必要に迫られたのであろう。しかし。この頃には、かつて三国にも及んでいた社領もわずかに残るのみであった。
尾張に乗り込んだ千秋氏は、守護代の一族として急速に勢力をつけてきた織田信秀と結び付く。世は戦国時代、実力がものをいう世界、熱田宮の「大宮司」としての特殊性を認められていても、世俗的には尾張の国人の一人に過ぎなかった。かくして千秋氏は信秀の指揮のもとに各所での戦に駆り出される。天文十三年、当時の大宮司千秋季光は、稲葉山城攻めの時に戦死。長男の季直も戦死か、なんらかの闘争に巻きこまれたかで自然死ではなさそうな若死。その弟の季忠は、すでに神官という性格でじゃなく、まったく武士そのものであった。彼は大宮司とは名ばかりで、信長の一部将として活躍している。そして。桶狭間の戦いのとき、今川軍の先鉾隊に戦いを挑んで戦死してしまった。
季忠の嫡子、のちの季信は、この時母胎内にいた。母は実家の浅井氏に戻って、季信を生み、育てたという。季信は十五歳で、初めて信長に謁した。そして、「これからは軍事にたずさわることを止め、大宮司に専念するようにせよ」と言われたという。その後も信長の統一戦は続くが、千秋季信がそれらの戦いに参加したという記録はない。信長のことばに従って大宮司職に専念したようだ。
尾張の服部家は織田家と手切れになる前は織田家ともヨシミを通じ、また、千秋氏とも「あった」んじゃなかったかなと。
うろ覚え
では家紋をコピペ
『見聞諸家紋』に見える千秋氏の柏紋。
羽継原合戦記より
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 02時28分49秒 ) | パスワード |
レス<19>
字稲木・・・(略)稲置府を開いた時に稲置壬生公は服部と春田との一族を率い来住
この部分の「春田」ということは(元は伊賀の春田さんかな)と妄想が行くのですが
三重県は春田さんは少ないようです。
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)足利氏流がある。
現愛知県である尾張藩、鳥羽藩、足利藩、現鹿児島県である薩摩などにみられる。
北海道 3,679位 およそ140人
青森県 6,579位 およそ10人
岩手県 4,635位 およそ10人
宮城県 5,720位 およそ10人
秋田県 3,103位 およそ10人
山形県 4,996位 およそ10人
福島県 5,891位 およそ10人
以上は無視
茨城県 2,032位 およそ140人
栃木県 2,924位 およそ50人
群馬県 1,466位 およそ150人
埼玉県 1,241位 およそ760人
千葉県 1,335位 およそ620人
東京都 1,631位 およそ990人
神奈川県 1,781位 およそ610人
ここは東京圏ということで無視
新潟県 6,455位 およそ10人
富山県 1,077位 およそ170人
石川県 1,167位 およそ150人
福井県 1,186位 およそ90人
山梨県 2,815位 およそ10人
長野県 5,636位 およそ10人
ここも無視
岐阜県 560位 およそ600人
静岡県 908位 およそ540人
愛知県 803位 およそ1,200人 ホント多い。何故?
三重県 2,407位 およそ70人 少な過ぎ!怒
滋賀県 1,526位 およそ110人
京都府 955位 およそ380人
大阪府 1,425位 およそ810人
兵庫県 1,443位 およそ500人
奈良県 1,294位 およそ150人
和歌山県 7,256位 およそ10人
鳥取県 調査中 調査中
島根県 2,573位 およそ20人
岡山県 2,011位 およそ110人
広島県 1,886位 およそ190人
山口県 2,364位 およそ60人
徳島県 1,663位 およそ60人
香川県 3,419位 およそ20人
愛媛県 3,523位 およそ20人
高知県 982位 およそ90人
福岡県 744位 およそ1,100人
佐賀県 1,797位 およそ40人
長崎県 630位 およそ370人
熊本県 827位 およそ320人
大分県 1,893位 およそ70人
宮崎県 643位 およそ290人
鹿児島県 211位 およそ1,500人 何故?その上に愛知より多いではないか。
沖縄県 1,538位 およそ40人
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 02時59分16秒 ) | パスワード |
やはり東三河の千秋氏関係を調べて欲しいです。
東三河と遠江国は一衣帯水だと思うのです。
同じ政治圏・同じ宗教圏だったのではないかと。
そこに服部氏が絡んでて
三つ柏紋の服部氏が存在したのではないかなと。
それで「源氏」とも絡むのかなと。
[26] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月12日 08時01分17秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さすがです。またパースペクティブが広がりました。おかげさまで、千秋
家については、いろいろわかって来ました。服部を名乗った事実のあるのは、
養老の千秋氏であります。服部氏の血が入ったのでしょう。養老という場所
も調べると交通の要所、関ヶ原から牧田街道があり距離十キロ、また美濃三
湊があって河川交通とつながる。
千郷村も河川交通の終点ということ。そういえば、熱田も昔は海岸線に近
かった訳で、水運というキーワードで、養老―熱田―千郷はつながります。
養老の千秋氏も「季信」を含めて十代遡ると祖先が兄弟であり、その父親
は藤原初代大宮司の二男系で、長男系筋に養子に入っている。それは星野系
より野田系へ養子にと言い換えることもできます。
もっとも、あを様の推測されるように、尾張の服部家の血が、千秋家のど
こかに入り込んでいる可能性は、養老千秋系以外にもあるのかも知れません。
千秋氏が具体的にどこで服部氏を名乗ったのか……今の所、養老千秋系し
か証左を持っておりませんので、今後の課題として探究したいと思います。
[27] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月12日 13時47分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
野田のすぐ東10キロが三ヶ日であります。
熱田大宮司家になった藤原季範は、額田冠者とも言われ、額田郡に領地を
持っていた。額田郡の東のはずれに本宮山があり、三河一宮の砥鹿神社の奥
の宮がある。そこから坂を東に下れば、稲木、そして野田に出る。野田には
野田城があった。今は野田城跡となっている。野田には豊川が緩やかに流れ
ている。地図で見ると、野田を中心として上流・下流それぞれ3キロメート
ルが川幅が太い。特に、野田の所は船着き場のような広さと、川筋がやや折
れていて、流れが停滞するように思えます。川は北東から南西に流れ、川筋
に別所街道が伸びており(今では151号線という)、北上すれば信州飯田に
到着する。
野田から3キロ上流が新城です。更に6キロ北上すると長篠となります。
野田から南東に301号線(昔は何道と言ったのか?)が伸びており、6キ
ロ行くと宇利峠、さらに4キロ行くと三ヶ日の町となります。
こう考えると、正に野田は交通の要の場所であったことがよくわかります。
さて、わが遠江長上郡についても、鳥瞰的に考えてみました。
遠江は江戸と都(奈良・京都)のほぼ中間点、西から来れば浜名湖にぶつか
り、東から来れば天竜川という大河にぶつかる。その間にはさまれた長上郡
は、いわば天然の要害にさえぎられた別天地。しかも天竜の肥沃な土壌に覆
われた作物の良く育つ豊饒の土地であります。
また、天竜は水運の道として、またその河口の掛塚湊は、熊野・伊勢・美
濃・尾張・三河とつながり、東は駿府・伊豆・江戸へとつながっている。
天竜川に沿って北上すれば、伊那・信濃へ抜ける。逆に伊那から天竜を
下れば、あっという間に浜松へ着くことができる。逃げるにはもってこいだ。
高天神城を制す者が遠江を制すと言ったが、もっと大きく言えば、浜松を
制すものが天下を制すと言っても過言ではない。浜松在城17年間の内に、
家康は数々の難関を乗り越え、天下取りの基盤を作り上げました。
そう、話は変りますが、確か3日前の夜10時からだったと思います。
NHKの「歴史ヒストリア」で「服部半蔵」をテーマとする特集があり、
大変うれしく、ありがたく視聴させていただきました。やはり本・文字だけ
の世界では、イメージ不足で、一体どんな世界であったのだろうと想像する
のが難しかったのですが、今回の一連のストーリーの中で、具体的な画像で
示していただけましたので、私の中でもイメージ作りができました。
半蔵と家康及び天正伊賀の乱の関係、半蔵と信康との関係。特に信康自害
との関係。家康と伊賀越えの関係。伊賀衆と家康との関係…しみ入るように
よくわかりました。
そこで、よく考えてみますと、家康はかつて敵であった他国の者をよく受
け入れ味方にしています。そこには家康の慈愛もあり計算もあり、それが戦略
であったのだとは思います。服部半蔵親子の関係からか天正伊賀の乱で追われ
た伊賀の者達も受け入れて戦力にし、また結果伊賀越えのピンチでは彼らに助
けてもらっています。
秀吉の根来寺攻めの後も、根来衆を浜松に受け入れ、成瀬氏に預けておりま
す。根来といえば百地三太夫が天正伊賀の乱から逃れた所、根来寺の社紋は
「三つ柏」と聞きます……。半蔵と百地との連絡網があったのではないかと
推察いたします。百地氏は謎の人物…これから深堀したいと思っています。
秀次事件でも、やはり処罰者の関係者・家族が浜松に逃れて来ています。
そういった意味では、長上郡の北境界あたりの善地は、天領でもあり、隠棲
するにはもってこいの土地だったかも知れません……。
次回は天領について、司馬遼太郎の考えをまとめてみます。
[28] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月12日 14時01分53秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
明日は、久しぶりに洋上の人となります。深夜に起きて早朝より、空の青
海のあをの色彩のはざまで、豆粒ほどの点になり、大魚を追います……。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 14時20分43秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
さすが土地勘のある方の距離感の掴み方は的を射てますね。
ワタクシにはサッパリでした。
西三河まではなんとかアッチとかコッチとかの方向性は見当が付きますが
東三河はサッパリ分かりませんし東三河から遠江や信濃は更にワケが分かりませんでした。
確かに養老〜熱田は近いです。
これが熱田〜千郷や野田に繋がって行くのはさっぱり見えませんでした。
来年の予定をそろそろ立てませんとね。
百地家の紋が分かると良いですね。
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 14時26分04秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/6213/sinobi.htm
百地丹波
伊賀上忍 生没不詳 天正九年(1581)九月の伊賀の乱で死したといわれる。
百地氏は服部氏の一族であると思われる、それは百地氏の家紋が七曜星に二枚矢羽根、服部氏の家紋も矢羽根である。
戦国期の丹波は三太夫の名前「絵本太閤記」で登場するが、忍者ではなく、ただの郷士で石川五右衛門の奉公先としてである。
天正七年(1579)九月、織田勢の第一次伊賀攻めのとき、丹波は鬼瘤峠で織田勢めがけ弓、鉄砲で攻撃し、敵の大将柘植三郎左衛門は戦死、織田勢は敗退した。
同九年九月、織田勢は信雄以下、四万四千の大軍で攻め込んだ。今度は、先年の失敗もあるので、大砲も持ち込み刃向かう者すべてを潰し、神社仏閣を焼、僧侶男女の区別無く殺害した。丹波は比自山、柏原城、と逃れ最後まで織田勢に抵抗したが十月二十八日に開城、降伏した。丹波の最後は解らず、以後消息を絶った。
俗説、丹波は藤林長門守の一人二役で生き残ったともいわれる。
藤林長門守
伊賀上忍 生没不詳 湯舟(三重県阿山郡阿山町)を本拠として、伊賀北部を支配した土豪
上忍とは、音もなく、人に知れる事も無く、勇ましい武勇も無く、功績も記されず、と言われる。実際の上忍の働きは解らない。ことに藤林氏のことは余りにも知られていない。一つ登場するのは、「第二次伊賀の乱に東湯舟村 富士林氏」として見られるくらいである。
伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏とともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあるが、戦って滅んだ百地三太夫と同一人物ではという説があるので、面白い人物である。
石川五右衛門
伊賀流忍者 盗賊の首領 生年は不詳 伊賀の石川村(三重県阿山郡阿山町)の生れ。身長は六尺九寸(約207Cm)あったという。
父が病死すると、名を石川文吾に改め、田畠を売り払い、忍者百地三太夫の弟子になる。文吾は三太夫の妻と共謀して、三太夫の妾を殺し井戸に投げ込み三太夫の妻と駆け落ちする。その三太夫の妻も切り殺し、金を奪って京へ逃げる。京に出た文吾は、五右衛門と改名する。奪った金も使い果たした。そこで忍者の技を使って、石田三成の屋敷に忍び込み盗賊を働く。以上がよく知られる五右衛門の姿だ。
また、絵本太閤記によれば、生まれは伊賀交野郡。名張の山中で異人の僧で臨寛と出会い、臨寛の弟子になる、忍術の話を聞き、法術を十八ヶ月習い、一を聞いて十を知り、というくらいで、すべて習い覚え、十九歳の夏、暇をもらって百地三太夫の弟子になる。
その他、遠州浜松の大名、大野庄左衛門の家老真田蔵之進としたり、大明の京祖慶の遺児としたりする話があるが、勿論作り話。五右衛門に対して、確かな素性、事蹟はない。
文禄三年八月二十三日、「晴天、盗人、スリ十人。また一人は釜にて煎られる。同類十九人、ハリツケにかかる。三条橋間の川原にて成敗なり、貴賤群集云々」と山科言経の日記にある。
寛永十九年(1642)に編纂した「豊臣秀吉譜」には、文禄のころ、石川五右衛門という盗賊が、強盗、追剥、悪逆無道を働いたので、秀吉が京都所司代、前田玄以に逮捕させ、母親以下、同類二十八人とともに、三条川原で煎り殺した、とある。
来日していたスペイン人の商人によると、当時、京都、伏見、大坂、堺に凶悪な強盗団がいたと伝える。其のうちの幾人かは捕まり、拷問にかけられ、頭目は生きたまま油で煮られ、妻子、父母、兄弟は、五親等までハリツケに処せられたと記してある。イエズス会宣教師ペトロ・モレホンによれば「1594年(文禄三年)の夏、油で煮られたのはIxicaragoyemon(石川五右衛門)と家族九人か、十人だった。一味は兵士のような服装だった」とその名を記している。
文禄三年(1594)八月二十三日没
服部半蔵正成
伊賀上忍 「徳川隠密頭 忍者頭目」 また伊賀組同心八千石の旗本。天文十一年(1542)生れ。
服部氏は、平家の伊賀平内左衛門家長からはじまっており、
家長の子保長には三人の子(平太郎尹行)、(平次郎康頼)、(平十郎安則)、
それぞれ上服部(平太郎尹行)、中服部(平次郎康頼)、下服部(平十郎安則)元々服部氏は伊賀の大庄で、機織を中心に文化をもたらしたと言われる。
半蔵の父半三保長は上忍であったが、伊賀を出て、将軍足利義晴に仕える。そして伊賀の乱、天正九年(1581)に敗れ、三河に逃れた後、松平清家の元へ行き、広忠、家康に仕えた。半蔵は保長の五男で、後を継いで、家康に仕えた。
半蔵の初陣は、十六歳の時で、三河宇土城の夜討、遠州掛川城攻め、姉川の役、長篠の役など、徳川家の戦にすべて参加し手柄をたてる。しかし、これは忍者というより、武将としての手柄で、忍者らしい働きとしては、武田家の隠密、竹庵という者が潜入したのを討ち取った事位である。
天正七年九月、二俣城で家康の子信康が自害した時、半蔵は検使として赴いた時、あまりに哀れで介錯出来なかったので、共に行った、天方山城守が介錯した(この時、介錯した刀が村正と言われる)。家康は「鬼の半蔵も主人の子の首は打てなかった」と語った。
天正十年六月、本能寺の変の時は、家康と共に堺にいた。周りは明智勢や野武士、土民等で帰国するにもできなかった。その時半蔵は、伊賀、甲賀の者を集め、御斎峠から伊賀を経て、白子浦から家康を無事帰国させた。この伊賀越えで手柄をたて、千貫の禄が与えられ、半蔵はその取締役を任命された。伊賀組同心の始まりである。慶長元年(1596)十一月 没 五十五歳
村正
伊勢国桑名(三重県桑名市)の人。1490?〜159?頃までの約九十年間、三代にわたって活躍した。また、村正は、徳川家に不幸を招く刀として、有名である。
村正系と言うべきか、村正派と言うべきか、とにかく村正の切れ味は最高で、徳川家の家臣本多平八郎忠勝の槍も村正の一門、正重作である。、この槍には、蜻蛉(トンボ)切という名がついていた。この蜻蛉切のいわれは、平八郎忠勝が合戦の合間、槍を立てて休息していると、その槍の穂先に一匹の蜻蛉が触れたところ、真っ二つに切れたところからついた。
どのような災いが、徳川家にもたらされたのか。家康の祖父清康が、天文四年(1535)家来の阿部弥七郎に、誤って殺されてしまった。この時の刀が村正である。また、家康の父広忠は、岩松八弥という家来に村正の脇差で怪我をさせられる。家康も二回村正で怪我をする。そして家康の子、信康を介錯したもの村正で、このようにして村正が徳川家に対し、数々の災いをもたらした為、妖刀と言われた。しかし、島津など、徳川をよく思わない外様大名は、好んで持っていたと言う。また、村正の刀を持っているのが、徳川に知れると、叛意があると思われるので、名を消したり、改名して所有していた。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 14時31分55秒 ) | パスワード |
復習
http://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=1107
伊賀の豪族といえば、
北部は服部氏、
南部は大江氏が栄えていました。
百地氏は大江氏の一支族です。
百地氏の系図や史料から推察すると、
室町時代に大江氏の一支族が名張の「モモジ」を拠点とし、地名から百地氏を称したと考えられます。
代々、百地丹波守を名乗り、大和の興福寺(奈良市)と結びつきながら、土豪として成長したものと考えられます。
百地丹波の城は、伊賀竜口(三重県名張市竜口)と大和竜口(奈良県室生村竜口)との境界線の通称「城山(しろやま)」にあったと言われ、
いずれの場所にも子孫がいます。
さらに、北伊賀の喰代(三重県上野市喰代)にも百地砦跡が残っています。
喰代に進出した百地氏は、服部氏と結びついて勢力を伸ばしていきました。
ココなんでしょうね
百地氏の家紋は七曜星(しちようぼし)・二枚(にまい)矢(や)羽根(ばね)で、
伊賀服部氏の矢羽根と似ていることから、結びつきの深さがうかがえます。
喰代の百地氏は、藤堂高虎の馬まわりを勤めるなど、江戸時代にも有力土豪として地位を保ち、藤林氏とも縁を結んでいます。
ということはやはり 服部==百地==藤林==服部 という感じで強く結びついていたんでしょうね。
百地三太夫は、
江戸初期の徳川四代将軍・家綱の時代に書かれた長編小説「賊禁秘(ぞくきんひ)誠談(せいだん)」や
11代将軍・家斉(いえなり)時代の「絵本(えほん)太閤記(たいこうき)」に登場します。
三太夫は創作上の人物かというと、そうとも言えません。
上野市予野の郷土史家、故・吉住完元氏の説によりますと、1571年に現在の名張市中村の地で、父・清(せい)右衛門(えもん)と母・クレハとの間に生まれた実在の人物と言います。
六歳の頃に叔父の百地丹波を頼って竜口に住んでいたそうです。
伊賀竜口の百地家は、三太夫の異母(いぼ)弟(てい)・四太夫が祖先と伝えられています。
上野市予野でしたら服部家の出身地ですから
この吉住完元氏も服部家ゆかりの人かもですね。
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 14時35分38秒 ) | パスワード |
http://p.twipple.jp/9ug6Y
百地三太夫の家紋で中には矢だそうです。
この家紋は見たことが無いですが、珍しいです。
でも確かに服部家の家紋の戦国時代の初め頃にアチコチで使われてたのに似てると思います。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 14時43分44秒 ) | パスワード |
http://smcb.jp/ques/54361
面白い情報です!
Q
七曜星二枚矢羽、という家紋をネットで見ることができるサイトのURLを、ずばり、教えてください。
A
伊賀忍の百地氏の家紋「七曜星二枚矢羽」
百地氏については不明なことが多いみたいですね。服部半蔵らの一族だと言われているみたいですが・・・。
百地城跡で百地氏の家紋も出ています。http://nagata.kanagata.net/ise_shiseki/Iga_Momochi.. 繋がりませんでした
回答、助言へのコメント
ずばりの、御回答、ありがとうございます。
実は、当方、伊賀竜口について調べています。
こちらの本家百地の家紋は、蔓柏(つるかしわ)です。 ココ
蔓柏はまさに 千秋家の家紋 でしたよね。
百地家で蔓柏紋を使ってるいる家があった?
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 14時56分16秒 ) | パスワード |
http://hototogis.dtiblog.com/?i&no=635
伊賀系服部氏の古い紋も矢がこんな感じに横を向いているのがあったりします。他にもヴァージョン有り
上に手書きで百地の家紋を載せましたが
ここのサイトには下記のものがありました。
以下コピペ
昔ちょっと調べたときは伊賀忍で使ってる家紋は
「源氏車に向かい鷹羽」じゃないか見たいなのをどっかで見たんですが
百地氏の家紋は「七曜星に二枚矢羽根」らしい?
正直いろいろわからないんですが少なくとも鷹羽ではないようなので
後者なんだろうな程度の理解ですが
百地氏の家紋の写真が「七曜星に二枚矢羽根」なのかどうか
それすらもわからないというくらいなので
家紋に詳しい人に聞いてみたいところです
今度新しくなる家紋は「入れ違い矢」だろうと思います
それなりに面影を残しているとも言えるし
省略しすぎというか変えすぎというところもあるんですが
画面上でつぶれて見えないのが変更理由だと考えれば
このくらいすっきりしないといけなかったのかもしれません
そのあたりは理解できるとしても
心情的にはやっぱり今までの家紋に愛着もあったりするもんで
どうにかこうにか残しておけないかと言うことを考えたわけです
そこそこちゃんとした画像データなりあれば
それでもよかったのかもしれませんが
信Onのゲームで使われている家紋というのは
非常に解像度がコンパクトなのでたいしたものがありません
ゲーム内ではどう見ても潰れるし
公式サイトなどなど見渡してみても
大きな画像の伊賀忍の家紋なんてものはなかったりします
そこで背に腹は代えられないと言うことで
現状の家紋を手元に残しておく手段としてとったのが
昇り旗の獲得です
武功500と交換できる家具アイテムの昇り旗ですが
紋育成もままならない状態での武功500はとてもとてももったいないんですが
そうも言ってられないという状態なので仕方ない
来週から家紋が新しくなると言うことで
昇り旗に入っている家紋も当然変わってしかるべきですので
家具などのデータ自体が家紋情報を呼び出しているわけでないなら
今週中にとってしまえば今の家紋がそのまま残るだろうという算段です
もし来週以降になって昇り旗を交換しても今のままだったら
ファッキン開発は箪笥の角に小指を全力でぶつければいいと思います
冗談抜きで家紋変更とか言っておきながら
その辺が抜けているとしたら本気でくそったれです
そんなこんなで昇り旗を勢いでもらっちゃいまして
ついでに鴨居なんかも交換しちゃって武功1000も飛ばしたわけですが
でっかい家紋を見ようと思って近くで見たものの
やっぱり潰れてよく見えないという残念な次第
それでも今の愛着ある伊賀忍の家紋が残せたということで
ある程度の充実感なんかもあったりするところです
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 15時13分31秒 ) | パスワード |
名字由来ネット
http://www2.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%99%BE%E5%9C%B0
百地
現奈良県である大和国宇陀郡の豪族にして北畠氏の武将。
近年、三重県名張市に多数みられる。
北畠の家来だったら当然南朝方だったということになります。
ということは百地氏は古くから存在してた家になりますね。
ひょっとすると 平家以来?
本当に服部家と深いつながりの家だった?
【全国順位】 13,581位
【全国人数】 およそ440人
北海道 14,056位 およそ10人
茨城県 8,823位 およそ10人
埼玉県 11,792位 およそ20人
東京都 16,460位 およそ30人
神奈川県 25,825位 およそ10人
静岡県 5,151位 およそ30人 結構いますね
三重県 1,304位 およそ170人
京都府 15,595位 およそ10人
大阪府 9,174位 およそ60人
兵庫県 11,974位 およそ20人
奈良県 1,981位 およそ80人 当然ですね
札幌市北区 およそ10人
札幌市清田区およそ10人
江別市 およそ10人
浜松市中区およそ10人
浜松市南区およそ10人
沼津市 およそ10人
袋井市 およそ10人
周智郡森町 およそ10人
伊賀市 およそ40人
津市 およそ10人
名張市 およそ120人
[37] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月12日 22時09分30秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
百地丹波、三太夫についてはまだ不勉強で推論がなかなかできません。
ただこのサイトはかなり正しいのではないかと思われます。
http://www.m-network.com/sengoku/ninja/ninja03.html
「不詳の人物・百地三太夫
竜口の百地砦跡(三重県名張市)
さて甲賀の山中大和守と同様に伊賀にも不詳の人物がいる。ご存じ「百地
三太夫」なる人物である。講談や小説などでは忍術の達人で、石川五右衛門
の師匠として描かれることの多いこの人物、百地家の系図にはその名はない
のだが、さてその実体は・・・。
百地三太夫は架空の人物と見る向きも多いが、ある資料によると三太夫は1571年に百地清右衛門の子として伊賀国名張中村に生まれた実在の人物
である。前述の天正伊賀の乱以前は名張竜口の地に住んでいたらしいが、乱
の少し前に喰代(ほおじろ)の里へ伯父の百地丹波とともに移ったという。し
たがってこの記録に見る限り、天正伊賀の乱で国人のリーダー的存在となっ
た人物は三太夫ではない。なぜなら当時三太夫はまだ十歳だったからである。
百地氏は伊賀の竜口と喰代、大和の竜口にそれぞれ拠点があり、一族も
多い。喰代のほうは戦国期に砦を築いただけで、どうやらその本拠は竜口の
ようである。また、「百地」は「ももち」と読むのが普通だが、現地では
「ももじ」と読むとのこと。これは現地での取材時に「ももじ」と名乗る
おばあさんからお伺いした話である。
乱は柏原城を開城して終結したが、このとき三太夫を含む百地丹波守以下
百名ほどは高野山に下り、やがて紀州根来の里に定着したという。百地三太
夫はこれをもって歴史から消えるのだが、しばらくして思わぬところで今度
は百地丹波の名が再び現れてくる。
やがて、大坂の陣や島原の乱も終わって、ようやく平穏な世の中になった
1640年、伊賀城代家老に藤堂釆女なる人物が任命されたのだが、この人
物、元の名を保田元則といい、父は千賀地半蔵則直。すなわち服部半蔵正成
の兄なのである。
彼は紀州に隠棲していた百地丹波の子・保武を呼んで伊賀藩士に取り立て、伊賀の名門藤林家を再興させる。そしてこの藤林保武が後に忍術書の最高峰
と言われる「萬川集海」を著すのである。また、紀州に残った弟の正武も忍
術新楠流の開祖となり、これも名高い「正忍記」を著す。
つまり、忍術秘伝書の双璧と呼ばれるこれら二書は、どちらも百地丹波
の子によって完成されたのである。改易された服部家に代わって半蔵の甥が
伊賀の城代家老になって国を治め、百地丹波の子が藤林家を再興し「萬川集
海」「正忍記」を後世に残した。これには泉下の半蔵正成もきっと喜んでい
たことだろう。
ちなみに丹波は一度伊賀に帰ってきたものの伊賀には住まず、天正伊賀
の乱の最後の砦・柏原城にほど近い大和国竜口に隠棲して生を終えたという。」
ところで根来寺の社紋は「三つ柏」であり、以前行った「神服神社」の
三つ柏を連想しました。根来寺についても探究すれば何か新事実が出てきそ
うです。
先日伊賀に行って書店に入ったら、『萬川集海』が平積みされており、さ
すが伊賀だなと思いましたが、その本は六千円以上しましたのでやめておき
ました。いずれ入手したいとは思っています。
来年は三月に伊賀の南部に行きます。今度は百地氏に関する情報を収集し
てみたいと思っております。
それにしても、徳川家康という人物、その人脈の築き方・使い方・人心掌
握といったもの、改めてすごいなと思います……。
追伸:明日の釣りは、波が荒くて中止になりました。年末の忙しい時期な
ので、かえってよかった―
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月12日 22時44分58秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>『萬川集海』が平積みされており、
>さすが伊賀だなと思いましたが、
>その本は六千円以上
いい商売やってますね。
きっと藤林さんは悔しがっているでしょうね「印税払え!」
笑
それにしても無料で宣伝してくれて陰のベストセラーでしょうね。
>明日の釣りは、波が荒くて中止になりました。
>年末の忙しい時期なので、かえってよかった―
エルニーニョのせいでお天気がかなり不安定ですから中止で良かったかもですね。
こんな時期に暑かったり、ホント、変な年です。
でも、お友達とは万障繰り合わせて遊んであげるべきなので、
暇を作ってあげてください。
いろいろ行動範囲を広げていますとインスピレーションもひょんな事から湧くものです。
友達と趣味は多い方が良いです。
ただ時間がね
時間だけは平等に限られているのがツライですね。
ふふふ
また伊賀に行けると良いですね。
でもその前に東三河にいらっしゃってね。
養老にも行かないといけませんね。
そして猿投の服部捜しもあります。
この服部はどういう関係だったのかサッパリ分かりません。
半蔵の祖父関係で分かるとは思うのですがナカナカ到達出来ません。
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月13日 03時21分26秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
百地姓が静岡に多いというのも不思議ですね
まだまだ我々が知らないことが沢山あるということでしょうね。
歴史ヒストリアの「転職忍者ハットリ君」は見ました。転職というよりは「復職」の方ですよね。笑
なぜ信康を介錯できなかったのか
それは父親代わり母親代わりだったからでしょうね。
そして21歳で死なすなんて
それもいろいろやったものの命を助けるほどには到達できなかった
その悔いもあるし。
自分の無力さも堪えたでしょうね。
あの深川の?和菓子屋さんの紋
いかにも正当な服部家の紋でしたね。
伊賀伊勢系のお顔でしたし。
今に至るも日本各地で我々の一族が生き抜いているのを知るのは嬉しいことです。
また世界中で愛されるキャラクターにもなってて、これまた、嬉しいことです。
日本=忍者 なんてね。
今回のポケモンも忍者の話でした。
こういう形でも繋がっていくところに忍者の精神や鍛錬には世界を納得させる「知恵の使い方」があるのだなと
不思議です。本来は表に出るべきじゃないのに。
服部半蔵正成という人、死して世界に名を残した、ですね。
[40] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月13日 19時26分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、歴史とは関係なく、新居と豊橋の境にある潮見坂の「道の駅」に行
ってまいりました。ここは道路も整備され、施設も新設・整備され、眺めはも
ともとすばらしいところでありますので、道の駅としては申し分なしであり
ました。
眺めといいますのは、遠州灘が大パノラマで見渡せるということ。また目を
閉じれば、海の向こうにハワイをはじめいろいろな国が海でつながっていると
いうこと……。不思議な事に、道の駅の店中には「ハワイの深層水」という水
のペットボトルが売られておりました一
さっそく一本購入して飲んでみましたところ、みるみる体の中にハワイの水
が浸み込んで行き、やがてハワイのあを色の海に潜っている気分になりました……。潮見坂の海岸線に迫る山並みも何だかダイヤモンドヘッドに見えて、
椰子の木があったらもっといいのにと思いました……いい一日になりました。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月13日 22時59分34秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>椰子の木があったらもっといいのにと思いました
提案なさったら良いのに。
とはいえ、あの木は傾くし
それに実がなったら危険ですし
ゲッコー(やもり?いもり?)が卵を産み付けるし
やはり提案なさらないほうが良いですね。
笑
「ハワイの深層水」とか「水素水」とか
効く人には効くそうで
こちらでも流行っています。
我が家は今は鉄管ビールですが。
今年はエルニーニョのせいで、いつもは枯れた色のダイアモンドヘッドが緑だらけだそうです。
1年中、クーラーをガンガンにかけてキンキンに冷やしている世界ですが
今年はエアコンが全く効かず
冬季でも25度設定にしていても室温が32度とかです。
昨日も暑かったです。
いつもは血圧が90/60なのに昨日は130/90にまで上がってフラフラでした。
暑かったです。
今朝は94/64でしたから戻ってました。
あ、今日はホノルルマラソンの日です。
[42] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月14日 01時49分43秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
松島氏の謎解きのヒントらしきものと感じております。
それは、千野氏です……。
続きは明日(本日ですが)に―
追伸:ホノルルマラソン、当社の人間も過去に三人参加しております―
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月14日 04時28分22秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>松島氏の謎解きのヒントらしきものと感じております。
>それは、千野氏です……。
ワクワク
何でございましょう。
早く拝見したいです。
[44] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月15日 14時34分04秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
いろいろ調べていたら底なしとなりました。時間が経ってしまいました。
千野氏は初代「諏訪有員」から数えて十二代目の「敦真」の子「光親」が
「千野」を名乗り、その子「光弘」へとつながって行きます。光弘の兄弟の
「清貞」が「藤沢」を名乗り曾孫の「朝清」へとつながって行きます。朝清
の兄弟の「清信」が「松島」を名乗ります。有員から数えて十七代目となり
ます。年代は1200年代、承久の変あたりとなります。
従って、諏訪、千野、藤沢、松島は血族となります。
松島氏の系統はこれより正確な記録がなくなり、1520年頃に「貞実」
が、続いて「信久」が登場するくらいとなります。
―まずは、千野氏と松島氏が血族であったということ。
遠山氏と山村氏と千野氏は関ヶ原の戦いで大久保長安に仕えているが、こ
の三者はその後も木曽材の関係のでつながる。
―従って、遠山、山村、千野、松島は親戚であるということ。
千野氏は榑木(くれき)奉行となり下伊那から二俣船明(ふなぎら)まで材木
を送り、チェックして更に下流の掛塚へ材木を送る役目を担った。
二俣と掛塚の間に羽鳥・中善地があり、船着き場もあった。そこに松島氏
は居住し、繁栄した。
千野氏と松島氏の具体的な交流は見えていないが、天竜川を通じて何らか
の恩恵関係は存在したのかも知れません。
武田との戦いの中で、色々な人が家康を頼って浜松にやってきています。
小笠原氏、諏訪氏、知久氏、遠山氏の室、その他……。
遠山氏は「加藤光泰」とつながります。
山村・千野氏は「木曽義仲」とつながります。
千野・松島氏は「諏訪氏」とつながります。
遠山・山村・千野氏は「大久保長安」とつながります。
大久保長安の失脚後のいわゆる長安事件、さまざまな影響を及ぼします。
遠山・山村・千野の三氏も影響を受けます。山村氏は逮捕されます。
その他―
服部半蔵家も影響を受けます。
服部正直・青山家も影響をうけます。
(服部中家は長安の六男の妻を後妻にしていますがどうだったのでしょうか)
加藤光泰家も一柳氏の切腹があり、影響を受けているはずです。
渡瀬家も切腹ということになりました。
この大久保長安と遠江、特に長上郡との関係を探究をしようとしましたが、
壁にぶつかっております。今後時間をかけて、追及して行きたいと思います。
今回は、理路整然とはなりませんでした。無念です。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月15日 22時49分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
繋がりましたね。
大変な作業を、簡潔に流れを書いてくださいまして、感謝です。
>二俣と掛塚の間に羽鳥・中善地があり、船着き場もあった。そこに松島氏は居住し、繁栄した。
ここに至って背筋が続々しました。
肌が粟立ちました。
すごい!
なるほど
それで 松嶋宗忠の前の20代分が略されている ということなのですね。
1221年あたりですか。
>今回は、理路整然とはなりませんでした。無念です。
いえいえ、すごい解明です。
>大久保長安と遠江、特に長上郡との関係
これは服部家がらみ芸能世界がらみ忍者がらみかもですね。
隠している関係かもですね。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月16日 04時45分45秒 ) | パスワード |
ドンキに行って源氏パイを買って来て早速頂きました。
バターの風味がたまらなく香って
相変わらず美味しく頂きました。
[47] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月16日 11時01分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「源氏パイ」は三立製菓が作っています。同じようなパイで「うなぎパイ」
は春華堂が作っております。
源氏パイは庶民的で、よく食べました。それとよく似たお菓子ではあります
が、「うなぎパイ」は「夜のお菓子」という謳い文句で、その当時未成年であ
った私は、何だか禁断のお菓子を食べるという罪悪感にとらわれながら食べて
いた覚えがあります。
広報戦略の質・量で春華堂の「うなぎパイ」は全国ブランドになりました
が、源氏パイはメジャーな存在にはならず、それでも味・質感・食べやすさで
地味な存在ではありますが結構流通しています。
この「源氏パイ」の会社―三立製菓は、松島十湖の子供が作った会社がで
あります。
いずれ、松島十湖について論究をする時が来ると思います。芭蕉について
論究したのもその伏線であります。
松島十湖は江戸時代(幕末)に生まれていますので、今の人が知らない秘密
をたくさん知っていたと推察します。芭蕉に異常に傾倒したのも、何か秘密が
ありそうです。それは、松島氏族の秘密……だったのかも知れません。
独礼庄屋という大庄屋があります。江戸時代前後より武家社会の階級制度
は想像以上に厳しいものとなりました。藩主に単独でお目にかかれるという
ことは、士分ということかされに等しいということであります。
松島対助が1600年前後に突然独礼庄屋になったという謎…ほかの独礼
庄屋についてはいろいろ記録が残っているのですが、松島氏については記録
らしきものがない。ただ市野氏との婚姻関係や源氏関係者であることを標榜
していることが、中途半端ではありますがその家譜に記載されています。こ
の点と点の情報を線で結び5W1Hの線にしなくてはなりません……ジレン
マを感じているところであります。ただ、繁栄して大族になったことは間違
いありません。
時間をかければこの謎を解くことができるのでしょうか、毎日が「蟻の一
歩」であります。
当家の「服部」についても、いろいろな推論はできるのですが、決定ずけ
るような証左が出てきません。祖先は様付で呼ばれていましたので、士分か
庄屋か神主であったかも知れません。
最近調べたところ、善地の1800年過ぎの庄屋の名前がわかりました。
「藤兵衛」という名前で、神主であったようです。苗字関係については今の
ところわかっていませんが、善地五苗の内の誰かだとは思います。
加藤、松島、永井、服部、鈴木…加藤家を除き、いずれも神主と関係する
ところの氏族でもあります。
隣村の上善地には庄屋や村の記録が残っているのですが、本家本元の善地
には不思議なことにない……善地の謎、天領であるがための謎か?。
松島家には記録があったけれど、浜松中央図書館へすべて寄贈してしまった
……その中にまだ知られていない秘密・記録があるかも知れない……。再考
です。
最近、調べていましたら、大久保代官を務めた服部正信系の後に続いた服部
中系ですが、幕末まで代官を何代かにわたって務めている。本人たちは江戸住
まいで地元の地代官に仕事は任せていた。その中の一人に藤田氏がいて、この
藤田氏は小野氏とルーツが一緒、小野篁(たかむら)であります。不思議なこと
に、その篁の墓が長上郡の北西隣りの尾野村(昔は小野村と書かれたそうで、
そういえば小野口という村もあります)にあるという。
その藤田氏が善地と羽鳥の間はさまれた「石原」というところに結構おられ
るのです。中心となる藤田本家には結構資料もたくさん残されていて、それら
を豊田郡(今は豊田町という)の図書館へ寄贈したということを、つい最近浜松
中央図書館で聞いたところであります。そちらも調べる価値がありますね。
ひょっとしたら、服部中や松島氏のことが出て来るかもしれません……。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月16日 13時18分51秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
独礼庄屋
http://roy.hamazo.tv/e4276459.html
名門といわれる「家」がある。
代々、庄屋などを務め、藩主から独礼庄屋として厚遇された家もあった。
武士階級ではないのに、彼らは苗字(みょうじ)帯刀を許されていた。
もともとが土地の有力者ですからね
土地を治めるのにこういう家に任せたらうまく行きますからね。
その地域の人たちと苦楽を共にしたことであろう。文化人であり、祭祀(さいし)を司る家もあった。村落共同体の中で精神的な拠(よ)り所であった。そうした名門の血筋は継承されてきた。
《中村家》西区雄踏(ゆうとう)町
中村家の起こりは、源 範頼(のりより)(頼朝の弟、義経の兄にあたる)の庶子が、大和国の中村郷に住んでいたことによる。中村家は戦国期に今川家に仕えていた。代官、そして今切運船奉行として浜名湖の舟運を取り仕切っていた。徳川家康は遠州を攻略する際に、中村家に協力を求めている。
家康の二男・於(お)義(ぎ)丸(後の結城秀康)は、この中村家で生まれている。家康の正室・築山御前の側女中・於万(おまん)の方が、家康の子を宿したことに御前は激怒。母子を保護するため、家臣が於万の方を中村家に預けたといわれる。長男の信康が自刃したので、本来なら二男の秀康が家康の跡目として第二代将軍になるのが筋であった。屋敷内に於義丸の出産時の胞衣(えな)(胎盤など)を埋めた塚が現存する。
当家第二八代当主の貞則は、勤皇思想により遠州報国隊結成の主要メンバーでもあった。
中村家住宅は国指定の有形文化財(建造物)として公開されている。
《鈴木家》東区中郡(なかごおり)町
鈴木家は古くからの独礼庄屋である。このほかに高林家(有玉南町)、山下家(笠井町)、岡部家(東伊場)が、この地方の古独礼庄屋といわれた。
この四家のうち鈴木家は最も格式が高いとされていた。家康は鈴木家に万斛(まんごく)組といわれる組織を編成させ、代官としての役割を担わせた。
家康は側室・阿茶(あちゃ)の局(つぼね)を鈴木家に住まわせていたので、鷹狩りの際にしばしば立ち寄った。局は大坂冬の陣における豊臣との和睦交渉も行うほどの才智があり、駿府での家康の最期を看取(みと)ったのも阿茶の局だ。武田の家臣の出自であり、家康が最も寵愛(ちょうあい)した女性である。
鈴木家の住宅は広大な敷地の中にあり、母屋のほか屋敷門や米蔵、弓道場などがあった。
すごいですね
大昔からの豪族だったということですね。
《竹村家》西区入野町
竹村家は、代々酒造なども行ってきた豪農である。
第八代当主の又右衛門尚政(なおまさ)は俳人として知られ、息子の又右衛門尚規(なおのり)は国学者の本居宣長に師事し、細田村(西区協和町)の石塚竜麿(たつまろ)に歌道を学んだ。国学の高林方朗(みちあきら)とも親交があったという。まさに、この地域の文化的リーダーであったといえよう。江戸時代中後期に、伊能忠敬(ただたか)が佐鳴湖を測量した際には、竹村家に投宿している。
入野地区には竹村姓が多く、本家は「本竹様」と呼ばれた。入野町の帰帆橋という交差点のところに公園がつくられている。ここが竹村家にゆかりの場所だ。
《竹山家》東区天王(てんのう)町
竹山家は、戦国時代以来の旧家であり、徳川家康名も訪ねてきたほどの名門である。
元来、鷹森姓であったが、屋敷内に竹藪があったことから徳川家康が竹山姓を与えたという。かつて家康お手植えの梅の木・鷹宿(おうしゅく)梅(ばい)があった。
幕末から明治にかけての当主・竹山梅七郎は教育にも熱心で、自宅に吾憂(ごゆう)社という教場を開いた。息子の謙三は啓蒙社という学塾で教壇に立ち、福沢諭吉の教えを伝授した。
『ビルマの竪琴』著者の竹山道雄、銀行頭取を務めた竹山謙三、さらに一族からは静岡県知事の竹山祐太郎など有能な人材を輩出した。謙三は遠州報国隊にも参加している。
第一五代当主の竹山恭次著『平左衛門家始末』は、幕末から昭和期にかけての遠州の変遷を知る上での好著だ。
《田代家》天竜区二俣町
天竜川の筏(いかだ)問屋として、また名主として田代家は代々重要な地位を占めていた。家康の遠州経営に協力したことにより、朱印状をもらっている。当主は代々嘉平治を襲名(しゅうめい)し、第一〇代、一一代当主は続けて二俣町長に就任している。
明治以後も、田代家は天竜川の水運に重要な役割を果たした。材木だけでなく、久根鉱山や峰之沢鉱山から採掘される銅、王子製紙の紙製品などの水運により栄えた。
母屋は幕末から明治初期に建てられたもので、老朽化しているが天竜川沿いに現存する。
冠木(かぶき)門(屋根の替わりに横木を渡したもの)があり、番所としての威厳を感じさせる。明治期に田代家から次女が前述の竹山家へ嫁ぎ、三女が偉人伝で取り上げた建築家の中村與資平の妻となっている。
《御室家》天竜区佐久間町
御室(みむろ)家は、先祖が後醍醐天皇の民部(みんぶ)卿(きょう)(長官)として仕官していた。南北朝期には宗良(むねなが)親王の警護を務め、北朝の足利軍と戦うため船で出陣した。嵐で船が難破して遠江国白羽湊に漂着した。御室氏は流転を経て、この地に土着した。
大坂の役にも出陣し、家康から褒美をもらったという武家であった。藤原家の血筋であり、代々名主を務めてきた由緒ある家柄だ。
現在も御室屋敷が天竜区佐久間町に保存されており、長屋門は浜松市の指定有形文化財となっている。
現当主は御室健一郎で、二〇代目にあたる。浜松信用金庫理事長、そして浜松商工会議所会頭の要職を務める。
ここにあげた名門・名家では、江戸時代以前から大きな屋敷を構え、広大な田畑や山林なども所有する大地主であった。作男(さくおとこ)や使用人も多くいたことであろう。
明治政府は全国共通の貨幣を普及させた。それまで農民は租税として年貢米を納めていたのが、金納となった。そのため、農民たちは庄屋などに田畑を買ってもらい、税金を納めた。そのため、農民の多くは小作人になった。
第二次大戦後の農地解放は、大地主にとっては晴天の霹靂(へきれき)であったろう。所有する土地のほとんどを手放さなくてはならない事態を招来した。そして、小作人であった農民は自作農に戻ることができた。大地主にとっては理不尽なことであった。
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月16日 13時29分19秒 ) | パスワード |
http://kominka.hamazo.tv/c578603.html
鈴木家の紹介ブログ
地元の人にとっては事実上の殿様ということなんですよね。
どこの馬の骨か分からないような藩主とか代官とかより
こういう家の方がずっと村人の尊敬を集めていたからこそ
江戸時代には独礼庄屋という身分があった
ということですね。
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/shise/koho/koho/hodohappyo/h26/6/documents/2014061602.pdf
浜松には古独礼と新独礼の2つがあって鈴木家は古独礼の筆頭だったそうです。
[51] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月16日 17時29分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
高林家の古文書に目を通していますと、ところどころに松島氏やらその他
の庄屋の名前が出てきます。ただ松島家については、点と点が具体的につな
げないという情報量の現状であります。
でも、地道に調べていけば必ず謎は解けると思っています。
ただ、一つ、甲斐の松島出身の松島氏がいるようで、そちらの情報も入手
したいのですが、ほとんどわかっておりません。一度、甲斐にも行ってみる
必要があると感じています。
鈴木家には「阿茶の局」がいたという。「茶阿の局」もいるので紛らわし
いですが、一体何でこんなややこしい似た名前を付けたのでしょうか。謎で
す。
庄屋についても、江戸時代の庄屋一覧表、また神主についても神主一覧表
のようなものが、年代順に整理されていれば本当に助かるのですが、残念な
がらありませんので自分で調べる他ありません……。
茶といえば、「茶屋四郎次郎」という人もおりました。「茶」には、何か
秘められた意味があるのかも知れません。茶屋も浜松に来ています。
いずれにしても、伊奈氏、大久保長安、小栗氏は遠江にいろいろ関係しま
す。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月16日 22時37分00秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
本当に大変な作業ですね。
しょうがないですよね
何百どころか1000年を超える史料を読まないといけないのですから。
でもネットがあって助かりますね
おおよその処はちょっと読めますから。
まだまだ道のりは遠いですね。
You still have a long way to go. まだまだですね〜
人間を調べているのですから大変です。
頑張りましょう。
[53] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月17日 09時14分13秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日はstock-holder conferenceであり、夜はsake-dayでありますので、
自由がききません。
先日言いました司馬遼太郎の「天領」について、氏が述べている部分を
『街道をゆく 熊野・古座街道、種子島みちほか』から、ところどころを抜
き出して記します―
「日本の農村を考える場合、その土地が、江戸期において天領(幕府領)で
あったか、それとも大名領であったかを考えておくことが重要であるように
思える。
天領は、もともと豊かな土地が選ばれていたが、その上、租税も安く、農
家はそのために年々の生産に余剰を得て、その余剰分が商品経済に関係して
行ったりして、百姓屋敷なども立派な場合が多い。
江戸幕府は、天領の行政は諸藩に対する模範であろうとする意識が強く、
そこへ赴任させる郡代や代官なども、いわゆる旗本八万騎の中からよく人を
選び、極端な性情の持主などは避け、温和で教養のある人物を差し向けてい
たように思える。」
中泉代官所は天領の管轄を行ったが、それ以前からの「秋鹿氏」そして
中泉代官所になってからの「大草氏(永田氏)」は、まさに教養・性格とも
家康の信頼にかなう人たちであった=機密保持についても絶大な信頼をして
いた。全国的な天領の統括については、伊奈氏と大久保長安の二人に任せた
ということは、実はそこからも推察できることであるが、年貢だけでなく、
情報・警備・取締りということも含めての代官であった。ここが重要な部分
である。取締りといえば、いわゆる忍者関係者の与力・同心等を情報収集
のために配置した可能性が考えらます……。秋鹿氏、大草氏、市野氏はそん
な忍者関係者を組織の下部に備えていた……これが私の推論です。
ということは、天領善地についても、ある意味警備・情報収集のための
氏族を配置したと考えることもできる。
ということは、当家服部は永井(永田=大草)氏とともに、警備・情報・統
括を担った可能性も出てまいります。即ち「服部中」の一門(地代官の一門
の藤田氏族もすぐ側の石原にいる)だった可能性が浮上してまいります。
「大草」という名前も何か意味深であります。「草」は忍者のことを示し
ています。
徳川家康は忍者を使うプロ中のプロ=上忍中の上忍であったといってもいい
と想います。ということは、家康を中心として、同心円状に忍者網が張り巡ら
されていたと言っても過言ではありません。
「情報収集・警備」というものが、天下を統率するにはまず一番の重要事
であったと確信をもって言うことができます―
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月17日 09時43分46秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
お忙しいところを入力してくださって。
なるほど
天領とは(幕府にとって都合の良い土地だった)というのは想像出来ましたが
諸藩に模範となるよう
それなりの教養などを供えた立派な人格の旗本から選ばれた
ですか。
この部分は自分に欠けているので全く想像もしていませんでした
幕府にとって都合の良い人間、というのは想像出来ましたが。汗
人間性に難のあるのがバレバレ
伊奈氏が重宝されたというのは分かりますが
大久保長安も絶大な信用を得ていたんですねえ。
と、いうことは子供か親族がアホだったかも知れないですね。
疑われるような横柄な態度とか言動があったのかも知れないですね。
改めて 大久保長安とはどういう人物か 気になりました。
善地の服部氏も根本的な謎が出て来ましたね、天領なだけに。
[55] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月18日 09時34分24秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
訂正があります。千村氏と千野氏を混同しておりました。
天竜二俣船明の榑木代官は、千野氏でなく千村氏でありました。
千村氏は木曽氏の後裔になります。諏訪氏とは関係しますが、千村氏と松島
氏の関係は、千野氏と松島氏のような血縁関係とは程遠いと思います。
従って、榑木奉行と松島氏の天竜水運の恩恵関係は、ひとまずゼロクリア
ーとさせていただきます。すみませんでした。
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月18日 13時47分44秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
名前ってこんがらがりますね。
千村と千野
茶阿と阿茶
>千村氏と松島氏の関係
千野と松島ほどの近さ濃さ強さではないかもですね。
[57] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月19日 08時52分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は、飲み過ぎ後の体調のケア及び、図書館での資料探し、資料の速・
通読で一日が終わりました。ここのところ、郷土史関係の図書を五冊程借りて
おりますが、これといっためぼしい発見には出会っておりません。
それでも、あらゆる角度から、一歩一歩進めて行くと、全体がおぼろげに
見えて来るということはわかりました。
今、特に興味のあるところは、律令制の崩壊と荘園の発達、及び武士階級
の勃興というところです。
荘園の警護ということで、「より強く」なるためには、@今の「戦車」くら
いに該当する「馬」の確保と飼育・訓練、及びA種子島以降の「鉄砲」に該当
する「弓」の強さと技に注目が集まったものと推察いたします。
つまりは、流鏑馬に見られるような、「騎馬と弓」が戦力の象徴であったと
と思われます。
従って中世の世の中を理解するには、「馬」と「弓」―これがキーワード
になるのではと感じております。
「馬」の大きさ、強さ、速さは、やはり人間にとって「脅威」を感じますし、
また「矢」を正確に、またより遠くへ飛ばすことができれば、戦闘においては
圧倒的に優位に立てたでしょう。
まさに「騎馬」は、今の「戦車」に匹敵したと言っても過言ではないと思い
ます。
中世の武士にとって、馬をうまく乗りこなすことは必須条件であった。また
馬の供給―繁殖、飼育、調教は武士階級にとっては、最重要事項になりますの
で、各武士団は荘園の中に「牧」をもうけ、馬の専門職を置き、戦力を向上さ
せたと思われます。
ここの「馬」を中心とした中世のイメージが、まだ鮮明に見えて来ておりま
せん。もっとも戦力としての機密事項にもなりますので、記録は残さなかった
のかも知れませんし、残してあったとしても消してしまった、あるいは消され
てしまったのかも知れません。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月19日 13時51分36秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>特に興味のあるところは、律令制の崩壊と荘園の発達、及び武士階級の勃興というところです。
古代の終焉 ⇒ 中世 ⇒ 武士の台頭 ⇒ 幕府 → 戦国時代 → 江戸幕府
土地の私有化は日本にとっての核ですものね。
つい最近まで続いた「土地神話」が形成された時代ですものね
中世が分からなきゃ歴史は分からないです。
>「馬」を中心とした中世のイメージが、まだ鮮明に見えて来ておりません。
馬といっても現代のサラブレッドやアラブ系の俊足の馬ではなくて
脚の短い小さな体で
畠山重忠は自分の馬を担いで坂を降りた・・・
『源平盛衰記』では鵯越の逆落としで
大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている
という話があるので、(いろいろなバージョンがあります)、ウイキでも調べてください。
馬を背負ってというより
愛馬を傷つけないように先導役として馬の先を行った
という話が伝説化したのではないかなと。
とにかく現代の我々が連想する「馬」とはいろいろ違ってたのではないかなと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC
日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬について、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。また、古墳時代には馬骨や馬歯、馬具が考古遺跡から出土しており、日本在来馬の存在が確認される。
古墳時代では小形馬が主流であり、一部中形馬が存在し、奈良時代になると平城京を中心に中形馬が増加するが、小形馬も地方を中心に依然として残る分布状況であったとみられる[1](したがって、古代では近畿圏の方が馬の体格は大きい[2])。
『日本書紀』欽明天皇15年(554年)、百済が朝廷と会談して、援軍千人、馬百匹、船四十隻派遣の約束をした記事があり、6世紀中頃にもなると、日本が馬を軍事的に海外へ輸出する状況もあった。16世紀の琉球王国の場合、商人が中国に対して琉球産の馬や貝を出しており[3]、自国の馬が特産品であるとの自覚がこの頃には形成されていた事がわかる。これは本土が馬を軍事品・武備と認知していたのとは対照的といえる(琉球人にとっては馬も商品となっていた)。
日本在来馬は、すべて小型馬・中型馬であり、ポニーに分類され、これはモンゴルの他、中国や朝鮮半島でも最も一般的であった蒙古馬系に属する。
競馬等で親しまれているサラブレッドなどの近代軽種馬と比べた場合の特徴として、全体としてずんぐりした体形、具体的には、やや大きめの頭部、太短くて扇形の首つき、丸々とした胴まわり、体格のわりに長めの背、太くて短めの肢、豊かなたてがみや尾毛、などが挙げられる。顔面や四肢の白微はなく、背中に鰻線(まんせん、背筋に現れる色の濃い線)をもつものが多い。ただし、各馬種ごとにも体形には違いが見られる。
日本在来馬は体質強健で、よく粗飼に耐える。消化器官が発達しており、そのため、野草のみでも育成できると言われる。体は丈夫で、寒冷地でも年間放牧が可能であるとされる。平均的に骨や蹄が堅く、骨折などの事故はあまり起きない。この「蹄が堅い」という在来馬の特長から、日本では雪国で馬にはかせる藁沓(わらぐつ)を除いて、蹄鉄が発達しなかった。
さらに、特徴的な歩様(歩き方)として、日本在来馬は「側対歩」、すなわち、前後の肢を片側ずつ左右交互に動かす変則速歩で歩く。この歩様は上下動が少ないため駄載に適し、特に険しい山道での運搬には向いている。体格のわりに力強く、特に後ろ脚が発達していることもあり、日本在来馬は傾斜地の歩行をあまり苦としない。 また、比較的温和な性格のため、ハミをかませる必要もなく、容易に扱うことができたとされる。このことが原因の1つとなって、日本では明治に至るまで、去勢術が定着しなかった。
一方、平坦地のスピードにおいては、日本在来馬は、スピード競争のために品種改良が重ねられたサラブレッドに遠く及ばない。全馬種のなかで最も高速で走るサラブレッドが平坦地で時速60km 以上のスピードで走れるのに対して、木曽馬は時速40km程度である。
続く
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月19日 13時57分58秒 ) | パスワード |
続き 面白いですよ
中世日本では、馬の体高は四尺(120センチ前後)を基準として、それ以上の個体を寸で数えた[11](なお、この場合、寸はキと読む)。『宇治拾遺物語』(13世紀前半成立)では、丈八寸、つまり四尺八寸余(144センチ前後)の馬が登場している。また、『吾妻鑑』の文治5年(1189年)8月10日条に、西木戸国衡と言う武士が、奥州第一の駿馬「高楯黒(タカダテグロ)」と号す馬を所有していたが、九寸(147センチ)の大きさであったと記されている[12]。このことからも、小型な和種馬でも、個体差が大きかったことが分かる。
古墳時代では、モンゴル文化の影響から、馬が魂を運ぶ動物と認識されたため、古墳上には舟形埴輪と共に馬形埴輪も置かれるようになった。こうした馬形埴輪の近くからは馬飼の人物埴輪(俗に、踊る埴輪と呼称されるタイプ)も出土する。古墳時代以後は、馬が他界へ送る動物と認知されていないことを考えれば、当時の権力者の間に認識されていた信仰観といえる。
『日本書紀』の雄略期の話の中に、応神天皇陵の馬形埴輪が赤馬に化け、人を乗せ(後々、その人物は応神天皇の皇霊と解釈される)、早く走ったといった怪異話があり、古代から馬に関する怪異は語られてきた。
江戸時代になると、和種馬に関連した妖怪文化も盛んとなる。馬憑き、馬の足、首切れ馬などは、和種馬の妖怪である(鞍野郎のような馬具の妖怪もいる)。逆にいえば、近世と違って、和種馬が身近ではなくなった現代において、こうした和種馬関連の怪談や妖怪話は皆無に等しい。例えば、馬憑きの話は現在ではほとんど症例がないが、これも日本在来馬の文化といえる。
『徒然草』(14世紀成立)の第183段には、「角で人を突く牛なら角を切り〜(中略)、人に噛みつく馬ならその耳を切ってその印とする」とあり、犬にしても馬にしても、人に噛みつく動物を飼う事は律(刑法)で禁じられており、印をつけないのは飼い主の責任であると記している。中世においても馬に関して社会的なルールが決められていた事が分かる記述である。
前近代、軍馬として用いられた在来馬は、「相手の馬に噛みつき、歩兵を蹴りつけ、踏み殺し、時に乗り手の命令に従わぬ荒々しい馬が求められた」とされるが、そうした荒い気質の馬が求められたのは、一騎討ちが盛んであった南北朝時代までである。
室町時代から戦国時代に移行する時期では、集団騎馬戦が重要視されてきた為、従順で調教の行き届いた統率の取れる馬に改良が求められた。それは馬術流派にも変化を起こしており、小笠原流といった一騎討ち全盛の馬術から馬具や馬の改良によってきめ細やかな動作を可能とした大坪流の時代へと変化させた[14]。
『源平盛衰記』には、武蔵武士が「乗りかえ馬三騎[15]」と活動している様が記述されているが、和種馬が小型であり、大鎧(冑など含め、全重量30kg前後)といった重量のある甲冑を着用する武者を乗せた場合、体力が足りない為、長期的な合戦には数頭用意した為である[16]。その為、騎射が全盛であった中世前期の武士は馬を数頭必要とした。
ビックリ
前述のように、前近代の日本では去勢術が定着しなかったことにより、発情期の際は荒々しく、こうした時期に戦が重なった場合、それを乗りこなす技量が必要であった。このことが海外馬と比べて、和種馬は荒い馬であると認知された一因と見られる。
馬を養う為には人の約十倍もの塩の摂取が必要とされ[17]、古代の遺跡から出土する馬骨の付近からは製塩土器も見つかっている。
従って、騎馬軍団=人馬共々を維持する為には膨大な塩が必要となり[18]、補給する場所の確保も条件となる。
戦国期に、上杉家が敵である武田家に塩を贈る逸話があり、
甲斐国領民が苦しんでいるという噂から人道的支援をした語りとなっているが、
内陸の騎馬軍団にとって重要なのは、馬を維持する為の塩の方といえる。
へえ〜
「敵に塩を送る」って話の実の所は「敵の馬に」塩を送ったのですか?
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月19日 14時04分42秒 ) | パスワード |
北海道に入植した朝比奈さんの子孫の話では
熊が馬を襲うのに
馬は腰を抜かす?恐怖で動きが取れなくなる?から つまり熊には襲い易くなるので
熊は馬に死を覚悟させて諦めさせるように
移動しながら(臭いがいろいろな方向から臭うようにして)近づいて襲う
と聞きました。
牛は逆に臆病ではないので
熊は牛より簡単な馬を襲うと聞いたような。
[61] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月19日 17時23分22秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
あを様、大発見ですね。馬には大量の塩が必要! 塩の道は人間様ばかりに
必要な物と思っていましたが、馬に必要だったとは……。「塩の道」は改めて
考え直さなければなりませんね。
そういえば、私が子供(幼稚園以前)の頃、祖父が馬力方(今でいう運送業)
をやっていて、馬のエサの飼い葉の入った桶の中に、塩を振りかけるのを見て
おります。牛もそうでした。
馬も気性が荒いもの、また荒い時があるらしく、祖父は馬に噛まれて人差し
指をもぎ取られてしまったようで、左手側の方がありませんでした。
あを様、これは想像の世界ですが、モータリゼーションの革新がなく、車
(自転車も含む)というものがなかったとしたら、我々はたぶん馬に乗ってい
ると思います。馬で通勤、馬で仕事、馬で出張、馬で旅行……。
そうすれば二酸化炭素の問題に悩むこともなかった……。
わたしは、近い内に馬に乗るのが夢です。木曽に行った時にと考えており
ます。
宮下玄覇氏の『信濃武士 鎌倉幕府を創った人々』という本には、次のよ
うに書かれておりました―
「信濃国に武士が多く生まれた理由を考えるに、馬の名産地であることが
あげられる。下伊那郡の後期古墳からは、馬具が多数出土しており、古来
より乗馬文化が盛んであったことがうかがわれる。それが明確になるのが
律令時代であり、多くの「馬牧(うままき)」が設けられていた。朝廷直営
の馬牧は「馬寮(めりょう)」が管轄したが、その御牧(勅旨牧)は―
@信濃に16枚
A甲斐に3枚
B上野(かみつけ)に9枚
C武蔵に4枚
であり、信濃はこの中でもその数の突出している最大の貢馬(こうめ)の供
給地であることがわかる。」
ということであります。
以降は明日―
市史を調べていましたところ、松島氏について、一つだけ新たな発見があ
りました。これも次回以降に記します。
明日は朝から名古屋へ行きますので、夜に記します。
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月19日 22時51分50秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
面白い発見がありましたね。
中でもお祖父さまは運送業でしたか。
だから三つ柏さんは特に「馬」にご縁があるのかもですね。気になるというか。
馬は気を付けてくださいね。
高校の時の英語の女性の先生のご主人がアメリカで落馬して亡くなられました。
お子さんが5人もいたのに。
>朝廷直営の馬牧は「馬寮(めりょう)」が管轄したが、その御牧(勅旨牧)は―
@信濃に16枚
突出してますね。
信濃の馬とか木曽の馬とか、昔から、良い馬の産地だったのでしょうね。
[63] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月20日 20時32分52秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
朝、こちらは8℃、1時間後に名古屋について6℃、やはり名古屋は息吹
山に近いせいかこちらより寒いです。
さて、前回の続き、『信濃武士』(宮下玄覇)より抜粋しますと―
官営の御牧は、律令国家の衰退後もその機能自体は維持され、馬を算出し
ていたということで、更に荘園や武士階級の興隆に伴って牧は増えて行った。
信濃での状況は以下の通りです―
@諏訪社周辺―大塩牧、塩原牧、岡谷牧、小野牧、立野牧、平出牧、宮所
牧、笠原牧
A佐久郡・小県郡の東山道沿い―望月牧、新張牧、塩野牧、長倉牧
B水内郡・高井郡の千曲川流域―常盤牧、南笠原牧、中野牧、金倉井牧、
高井野牧、吉田牧
C国府松本周辺―猪鹿牧、多々利牧、大野牧、内田牧
この@からCまでの地域と武士の分布関係については以下の通りです―
@の「諏訪社周辺」は、諏訪・金刺氏など神氏と称されるような諏訪大社
に関わる武士団の中心的な基盤地域
A「佐久郡・小県郡の東山道沿い」は、滋野三氏と称される望月・海野・
祢津三氏の基盤地域
B「水内郡、高井郡」は、後庁を囲むように、井上源氏、村上源氏などが
ひしめくように蟠踞する地域
Cの「国府付近」は、桐原・白河・神林・捧田・波多など鎌倉御家人が集
中する地域
Bの高井郡井上郷にも馬の牧があり、黒毛の名馬が後白河院に寄贈された
ようであります。その後白河院の秘蔵の馬は、平宗盛の内大臣就任の祝
いとして贈られ、それを平知盛が預かっていた。一ノ谷の合戦に敗れて、
沖の助け舟に乗らんとする知盛は、その名馬を巧みに乗りこなし、助か
ったということであります。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月20日 22時54分16秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
興味深い情報をありがとうございました。
佐久などは、義仲の息のかかったエリアだったのだろうなと、空想がいきました。
名将の条件には名馬も必要でしょうから。
>一ノ谷の合戦に敗れて、沖の助け舟に乗らんとする知盛は、その名馬を巧みに乗りこなし、助かったということであります。
日本のお話の中に記録されて
この馬も名誉を得ましたね。
[65] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月21日 17時17分38秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『浜北市史 通史 上巻』千四百頁を飛ばし読みいたしましたところ、一
ケ所で収穫(発見)がありました。それは松島氏に関すること。
これは、後程、自宅にて記します―
もう一つ『浜北市史 資料編 近世W』の方を調べましたところ、寛政三
年(1791)、即ち今から二百二十四年前の当方、善地村の様子が書かれており
ました。それらを列挙しますと―
@名主(庄屋)の名前 藤兵衛
組頭 〃 五郎右衛門
同断 〃 佐五兵衛
百姓代 〃 次郎太夫
同断 〃 五郎兵衛 …(この家号は加藤家と推定されます)
A神主の名前 藤太夫
B百姓の家の数 四十一軒
C人口 二百六十四人(男子百十五人、女子百三十六人)(内下人八名)
D馬数 三疋
E馬医 無
F馬喰 無
G目医師 壱人
H油屋 壱軒
I酒屋 無
J切支丹本人幷 類族 無
K穢多・猿廻し・ゑびすおろし 無
K名主組頭御給米 有
L船役 有(末嶋、中善地、善地、上善地にて)
M朝鮮人・琉球人来朝の節は池田渡にて御舟役(末)嶋、中善地、善地、上
善地にて)
名前の主がどこの誰か確定できれば言うことなしなのですが、ただ一つ、
加藤家の系図から、「五郎兵衛」は加藤家の家号だろうと推察できました。
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月21日 22時20分30秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
貴重な情報をありがとうございます。
名主と神主 藤兵衛さんと藤太夫さん
何か似てますね。
藤原姓系なのかなとか。
善地の神主の家というとかなり限定されるのではないですか?
名主とか神主はそれこそ その土地の古い古い名家 でしょう。
神主さんは特にいくつもあるわけでなし。
屋号から推測出来そうな気がします。
@名主(庄屋)の名前 藤兵衛
組頭 〃 五郎右衛門
同断 〃 佐五兵衛
百姓代 〃 次郎太夫
同断 〃 五郎兵衛 …(この家号は加藤家と推定されます)
A神主の名前 藤太夫
このあたり、善地の名家でしょうね。
>加藤家の系図から、「五郎兵衛」は加藤家の家号だろうと推察できました。
ということは上記6家はかなり特定できると思います。
[67] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月21日 22時50分21秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さて、いよいよ松島氏の件ですが、『浜北市史 通史上巻』によると―
市内のあるお宅に、元亀三年(1572)八月十日付の「武田信玄」の朱印状が
所蔵されていたということである。それは、信玄より信濃伊那高遠城主、保
科氏に宛てられたもので、二十八カ条にも及ぶ長文の「覚」である。その中
の三つの条に「松嶋」という名前が出て来る。それを列挙してみます―
「一、松嶋並小丹同心之大草衆、證人を相添、悉奥山へ加勢可(二)相移(一)
之事
付、小丹、高遠在城、青助者帰府之事
一、奥山ニハ、此間之加勢衆並松嶋、大草衆可(二)在城(一)、大洞ニハ
曲厩同心之知久衆、跡美同心の知久衆在番之事
一、為(二)松嶋番替(一)、黒河内可(ニ)指越(一)之事」
注) (一)(二)は返り点と同じで、一から二へ戻れという意味です。
松島城の松島氏は、木曽を攻めたということで、、弘治二年(1556)、信玄
により、例の狐島の八人衆として処刑されていたので、この時にはいません。
つまり、処刑十六年後に信玄の指揮下に松島氏がいるということは……?
推測するに、殿様一人が死んでも、家族・親族は生き延びたということ…
具体的には、処刑された松島氏の弟の源五郎がその後信玄に取り立てられ、
半地で家名を再興したもようである。
その後、つまり処刑より二十六年後(1582年)、武田氏が滅亡、織田による
掃討により、松島氏はバラバラになった。
つまり、整理すると、松島氏は土豪として武田に反抗し、結果兄は処刑さ
れたが、弟は信玄側に降りた。その松島氏に対し、信玄が三方ヶ原の戦いを
前にして指示を出していたということになります。
条文の中に「知久氏」もいます。知久氏もその後、家康を頼って浜松に落
ち延びて来ています。
ということは、松島氏の一部も、知久氏らとともに浜松に落ち延びて来た
可能性が非常に高くなります。羽鳥の松島御三家の一つは、この系統の可能
性が高いと推察いたしております。
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月21日 22時56分05秒 ) | パスワード |
面白いですね、知らないことばっかり!
C人口 二百六十四人(男子百十五人、女子百三十六人)(内下人八名)
この計算、どういうことなんでしょうね。
115+136が264ということは赤ん坊や幼児などは数のうちに入らない?
下人は8人って
この下人ってどういう意味なんでしょうね。
奴婢?小作?売買された奴隷?
D馬数 三疋
ちょっと悲しい数ですね。
E馬医 無
F馬喰 無 なるほど馬喰もいない土地だからですね。
ここから分かるのは「馬」が特別な存在だったということですね。
でも善地には馬はほんの3頭でせいぜい 名主and/or神主 あたりの家にいただけ?
G目医師 壱人
H油屋 壱軒
I酒屋 無
J切支丹本人幷 類族 無
これは、いても「いる」とは書けない数字合わせですよね。
いたら大変!
いたとは絶対書けない。
村の公然の秘密ですよね。
K穢多・猿廻し・ゑびすおろし 無
要するに今で言う被差別部落は無かったということですね。
ゑびすおろしって古くからあった人形を使う放浪生活者で、曲芸や歌舞を業とする者のこと。
こういうジプシーみたいなのは存在を許されていなかったのは
天領だったから「品性正しい人」しか許されてなかったのかも?
K名主組頭御給米 有 これもビックリ。
手当が出たのですか。
L船役 有(末嶋、中善地、善地、上善地にて)
M朝鮮人・琉球人来朝の節は池田渡にて御舟役(末)嶋、中善地、善地、上
善地にて)
こういう記録もあったのですねえ。へえ〜
知らないことばかりでした。
ありがとうございました。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月22日 05時34分21秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101505.html
スレッド57を立てました。
キリの良いところで移ってくださいね。
[71] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月22日 05時45分55秒 ) | パスワード |
閑話休題
http://inasa.pos.to/iinoya/rekibun3.html
井伊谷の歴史
なかなか興味深いですよ。近藤家の話なども出てます。龍潭寺の名も出てきます。
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月22日 05時56分10秒 ) | パスワード |
組頭 の 五郎右衛門さん を捜してて下記がヒットしただけです。
でもキイワードには抵触しますでしょ。
江戸崎五郎右衛門
ひょっとして松嶋氏とは先祖が大昔に知り合いだったかも。
寄り道
新城の人で信玄の家来だった堀無手右衛門について
http://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/shitaragahara/hori/index.html
堀無手右衛門は武田家の武将。
天正3年5月長篠設楽原の戦いで、武田勝頼軍が織田・徳川連合軍に大敗した時、殿りとしてとどまって敵の追撃を防ぎ、奮戦して戦死。
墓は五反田川の甲田橋近くにある。
また、このすぐ近くには、家宝の甲(かぶと)を捨てて甲州に引き上:げて行き、後にその甲が田の中から出てきたといわれる 甲田 がある。
家康から無手右衛門と名乗るように指示があったそうです。
遠江国高天神城主、小笠原弾正小弼に反応してクリックしてみましたが
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html
文字化けで読めませんでした。
徳川家康より無手なる働き、と賞されて「無手右衛門」と改名するよう命じられる。 .... 先祖は江戸崎五郎右衛門で常陸国江戸崎城主。 .... 遠江国高天神城主、小笠原弾正小弼の家臣であったが小笠原氏没落後秀康に召し出される(文禄年中)。 ... 城に乗り込むとき、父久右衛門組下の者が疲労していたため瀬左衛門が旗を持って .... 高屋善右衛門.
[73] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月22日 06時01分06秒 ) | パスワード |
http://www.d2.dion.ne.jp/~okamoto1/ono.rekisi.edo.html
尾野の歴史
これも面白かったですよ。
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月22日 06時03分23秒 ) | パスワード |
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/04tyubu/22_sizu31.htm
これも文字化け
市町村変遷:静岡県 - nifty
佐野郡・城東郡→小笠郡(遠江国) .... 千浜村,坂里村,国安村,国包(くにかね)村,久兵衛新田,喜右衛門新田, 千浜村 ... J:磐田郡[・山名郡・豊田郡](遠江国) .... 中善地村,羽鳥村,倉中瀬村,末島村,中瀬村,常光村,恒武村,貴平村,石原村,善 ..... 村,次広村,別久村,渡瀬村,西大塚村,領家村,北長十郎新田,三郎五郎新田村,小池 ...
[75] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月22日 06時27分10秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>松島氏の件
『浜北市史 通史上巻』によると―
市内のあるお宅に、元亀三年(1572)八月十日付の「武田信玄」の朱印状が所蔵されていたということである。
それは、信玄より信濃伊那高遠城主、保科氏に宛てられたもので、二十八カ条にも及ぶ長文の「覚」である。
その中の三つの条に「松嶋」という名前が出て来る。それを列挙してみます―
「一、松嶋並小丹同心之大草衆、證人を相添、悉奥山へ加勢可(二)相移(一)
之事付、小丹、高遠在城、青助者帰府之事
一、奥山ニハ、此間之加勢衆並松嶋、大草衆可(二)在城(一)、大洞ニハ
曲厩同心之知久衆、跡美同心の知久衆在番之事
一、為(二)松嶋番替(一)、黒河内可(ニ)指越(一)之事」
松島城の松島氏は、木曽を攻めたということで、、弘治二年(1556)、信玄
により、例の狐島の八人衆として処刑されていたので、この時にはいません。
つまり、処刑十六年後に信玄の指揮下に松島氏がいるということは……?
推測するに、殿様一人が死んでも、家族・親族は生き延びたということ…
具体的には、処刑された松島氏の弟の源五郎がその後信玄に取り立てられ、
半地で家名を再興したもようである。
その後、つまり処刑より二十六年後(1582年)、武田氏が滅亡、織田による
掃討により、松島氏はバラバラになった。
条文の中に「知久氏」もいます。知久氏もその後、家康を頼って浜松に落ち延びて来ています。
ということは、松島氏の一部も、知久氏らとともに浜松に落ち延びて来た
可能性が非常に高くなります。
羽鳥の松島御三家の一つは、この系統の可能性が高いと推察いたしております。
面白い情報を得ました:上田合戦(2回ありましたね。最初の合戦のことです) 真田 vs 徳川
http://books.google.com/books?id=h0gI40L0zq8C&pg=PT141&lpg=PT141&dq=%E5%A4%A7%E8%8D%89%E8%A1%86%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=424xtKBr7w&sig=Z842MrmQsmSqB5LHJpsio_6GvQY&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiSoI_F7u3JAhUGcD4KHbYyBtwQ6AEIMzAD#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E8%8D%89%E8%A1%86%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
ここに知久衆や大草衆の名が出てます。
真田幸村はまだ10代の少年です。
松嶋氏はこの時にはどうなっていたのでしょうね。
[76] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月22日 12時11分43秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「ゑびすおろし」って何かなと思っておりました。その意味するものがわ
かりました。ありがとうございます。
「上田合戦」…確かに「知久衆」、「大草衆」、「遠山衆」、諏訪頼忠等
なんといったらいいか家康ゆかりの人達が出て来ました。それぞれに語られ
るべき戦国の物語があります。
知久氏については、以前少し取り上げました。神之峰城の知久頼元の妻は
家康の実母於大の姪にあたります。
大草氏は代官の大草氏を思いだしますが、もともと松平一族ではなかった
でしょうか。大草氏についてはもう少し調べてみたいと思います。
[77] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 05時33分23秒 ) | パスワード |
大草氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/okusa_k.html
大草氏
庵に三階菱/轡に松皮菱*
(藤原氏支流)
*「見聞諸家紋」に掲載された
大草氏の家紋。
家伝によれば、三郎左衛門尉公経が足利尊氏に仕えたとあり、公経をもって始祖にしている。
三河国額田郡大草を領して、大草を家号にしたと伝える。
公経は正平四年正月、河内国四條畷における、足利軍と楠正行軍との合戦に出陣、先駆けして討死した。
以後、足利家に仕えたが、世系が中絶し、公経より公重に至るまでの代々は詳らかにはできない。
足利義政のころに成立したといわれる『見聞諸家紋』をみれば、奉公衆二番で大草伊賀守公延の名がみえる。家紋は「轡に三階菱」である。
この公延は大草氏の通字である「公」があるところから、足利義政の時代における大草氏の一人であったものだろう。しかし、先にも記したように系譜的に位置付けることは不可能としかいいようがない。
公重は将軍義輝に仕えていたが、三好・松永の乱によって義輝が殺害されると、山城国加茂に蟄居した。その後、細川藤孝の招きに応じて、丹波国田邉に至り、同地で死去した。嫡男公政も義輝に仕えたが、その死後牢人となった。
公重の女子が秀忠室に仕えていたことから、公政、は秀忠に召されて拝謁した。
公政には子がなく、妹が嫁いだ大舘伊予守晴忠の子らを養子にしていた。すなわち。公継・与六郎・高政の三人であった。公継・高政は秀忠に召されて、それぞれ知行を賜った。公継は上野国碓氷、下野芳賀両郡のうちにおいて采知六百石、高政は七百石であった。その後、高政の家は孫高忠の代に三千五百石の知行となっている。
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 05時37分00秒 ) | パスワード |
こちらが三つ柏さんのお考えの大草氏でしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8D%89%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6
大草松平家(おおくさまつだいらけ)は、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身の松平氏。岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする。十四松平・十八松平の一つとされる。初めは岡崎松平家と称した。
宗家に対抗的で、3代・松平昌安(信貞・弾正左衛門)の時に松平清康に叛したが敗れ[1]、4代・松平昌久は三河一向一揆で一揆側に付いた。このため大草松平家は一時追放されたが、再び一門に復し、7代・松平康安の時、徳川家康に忠を尽くして旗本(6千石)となった。しかし9代・松平正永の代で無嗣のため絶家した。
出自・沿革[編集]
文明年間(1469-1487年)、岡崎城主・西郷頼嗣は松平信光と争って敗れたので、岡崎城を信光に譲り自身は自領の大草郷に隠退した。
この時、信光は五男・松平光重(紀伊守・号榮金)に頼嗣の娘を娶らせ岡崎城主として光重を岡崎に分出させた。
その後、光重の嫡子・松平親貞(左馬允)は無嗣のまま早世し、西郷頼嗣の実子とされる信貞が養子入りして親貞の跡を継いだ。
信貞は一説に実父の西郷姓に復して、西郷弾正左衛門と称したとされ、新たに山中城を構え近隣を押領して、宗家・安城松平家の松平清康に叛意を示したが、属城の山中城を清康に攻め落とされると恐怖して降参した。
信貞は祖父の先例に同じく岡崎城を清康に譲り、嫡女の於波留(おはる)を清康に嫁がせると、自らは父祖の地額田郡大草郷に移住した。以後子孫は暫く同地の大草城を根拠にしたので大草松平家と呼ばれた。
信貞の子・昌久(七郎)は宗家の徳川家康に背き三河一向一揆に加担したが、一揆軍が敗北したため逃亡して所領の大草を没収され、これより一族は浪々の身となる。6代・松平正親の嫡男・康安が家康長男の松平信康の旗本として復帰したとされる[2]。
松平康安(石見守・善兵衛)は家康の嫡子松平信康に仕えて、鉄砲射撃を得意とし、足軽大将として対武田氏・北条氏戦で活躍した。家康死後、将軍・徳川秀忠より六千石を給与された。7代・松平正朝は家康・秀忠に仕え、後に駿河大納言・徳川忠長付きとなったが忠長の改易・除封に連座して所領を収公された。後に水戸徳川家に仕官して家老になったが、子の正永は無嗣で絶家した。
歴代[編集]
1.松平光重(みつしげ、通称は紀伊守・号榮金)
2.松平親貞(ちかさだ、通称は左馬允・岡崎左馬允)
3.松平信貞(のぶさだ、信貞・別名昌安(一説に法号)、通称は弾正左衛門、西郷を称す)
4.松平昌久(まさひさ、七郎)
5.松平三光(みつみつ・かずみつ、通称は善四郎・善兵衛・源太郎)
6.松平正親(まさちか、通称は善四郎・善兵衛)
7.松平康安(やすやす、通称は善四郎・善兵衛、官職名は石見守、官位は従五位下)
8.松平正朝(まさとも、通称は善四郎、官職名は壱岐守、官位は従五位下、)
9.松平正永(まさなが、通称は善四郎、官職名は壱岐守・因幡守、官位は従五位下)
[79] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 05時42分21秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC%E5%AF%84%E5%90%88%E5%B8%AD
旗本の大草氏のことがちょっと書かれているような
大草家
3,500石遠江国榛原郡・豊田郡・山名郡・城東郡、駿河国志太郡内初代・大草高正[19]の義母・大草局[20]の縁で徳川家光の抱守を勤め、700石。二代・大草高盛は累進し、800石、後に1,000石加増。三代・大草高忠が1,000石加増され、寄合に列する。
註
19.^ 大舘晴忠の四子。大草公政の養子になる。
20.^ 大草公政妻。徳川家光老女。
[80] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 06時01分51秒 ) | パスワード |
下の方に「大草姓」の人が足軽支配役として1名あります。
たいした情報ではありません。
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/nagano.html
長野家 家臣団
長野憲業 (?〜1514年)
長野憲業の長男。永正十一年、討死。家督は弟信業が継いだ。
長野信業 (?〜1551年)
長野業尚の次男。兄憲業が永正十一年、討死すると家督を継ぐ。一説に憲業の討死は享禄三年とも伝わる。弾正忠、信濃守。鷹留城主。家督相続後は箕輪城主。天文二十年十一月七日没。法名「南方長宗」。子は業氏、業正、直業。家督は次男業正が次ぐ。「和田山極楽院長野氏系図」によると、信業の長男は亀寿で早世。業氏は次男としている。
【名城 箕輪城】
永禄九年九月二十九日、長野業盛は箕輪城御前郭持仏堂にて自刃。箕輪城への籠城策を取るも、すでに兵力が足りず防戦は困難なものだったと言う。信玄は長野旧臣として上泉信綱、花形勝業、町田吉信、八木原家方、矢島貞勝らを登用した。
箕輪城落城について甲陽軍鑑は、「二万の兵で攻め、長野信濃守(業政)の女房、子供を悉く成敗した」と記している。箕輪城ぶは内藤氏が新たに居城とした。その後は後北条家が占拠し、井伊直政時代に廃城となった。
箕輪城の発掘により小田原城に匹敵、あるいは凌駕する規模の堀(20m級)や石垣が確認された。昭和二年、古城跡の御前曲輪から偶然に古井戸が見つかる。その底からは多数の石塔が掘り出され、それが長野氏累代の墓であると確認された。箕輪城からは明の古銭、磁器、瀬戸産の天目茶碗などが発掘されている。箕輪城は由良氏の居城である金山城と並ぶ屈指の名城であり、鷹留城と攻守を連結させた「別城一郭」の形式であった。
由良氏が出て来るんですよねえ。
家臣で有名な上泉氏やその他の有力家臣団は省きます。
【上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録】
永禄元戌午正月廿九日改軍評定着到帳
小津善七 清見幸四郎 本木九左衛門 五十嵐七郎左衛門 小川作左衛門 丸子市兵衛 賀森四郎右衛 武中五郎兵衛 戸賀野九右衛門 吉原三左右衛門
福井富左右衛門 松沢喜左衛門 泉賀市之助 草辺勘兵衛 小堀又九郎 砦花清介 富田久七 久下文六 井原九内 根小屋瀬兵衛 戸所甚内
後藤平吉 中原十左衛門 中山門蔵 島田平蔵 城田善左衛門 黛半七 横井五左衛門 福田三郎兵衛 半田勘三郎 中谷次郎左衛門 糖塚藤兵衛
下里長兵衛 神宮惣八 中島小作 松本八郎兵衛 飯野源八 稲荷山定市 宮路兵左衛門 佐野文九郎 時田善内 生方伊四郎 和瀬徳兵衛
落合利兵衛 岩松信介 横山門外 内野団七 安方磯平 玉上喜八 大田五八 国分岩右衛門 飯田幸七 菅野内蔵 深野小兵衛 岡山源七
岩村忠平 浜名伝蔵 真下太兵衛 神田利左衛門 神田甚八 亀井市之丞 前田召助 生方市之丞 倉島喜左衛門 五味九十郎 下谷甚右衛門
倉嶋の名があるということは
お天気博士の倉嶋厚 とか その兄上で朝鮮総督にいた長野市長の倉嶋氏はこの子孫かも
午山定八 越路友蔵 善九茂兵衛 富田八九郎 山名十郎右衛門 高田文六 宮下徳蔵 山本十六郎 白井市七 底神源七 那和又市 関本逸蔵
篠崎金内 中瀬安兵衛 箱崎次右衛門 小柏四右衛門 竹本助次郎 氏家久内 成田清左衛門 米沢大右衛門 馬山金兵衛 木村豊八 加納清九郎
蔵越佐太平 八束利喜平 吉田平次兵衛 関守宇左衛門 藤井喜和右衛門 橋本次郎助 新手万右衛門 佐渡原源蔵 披世増平 勝田蔵右衛門
水沢四兵衛 大善友右衛門 津田喜代作 榛山勘蔵 三条七右衛門 神山茂喜平 母北十郎三郎 祖母崎団右衛門 葛沢八左衛門 佐藤文七
滝沢太七 畑門次郎 水上吉兵衛 上夜四郎兵衛 白岩十郎左衛門 関守丈内 勝山源右衛門 藤塚又市 鳥山武七 大石兵右衛門 一瀬十内
宮沢兵右衛門 根岸伝蔵 鳥野宇右衛門 成川藤三郎 花形与次右衛門 宮山小善次 藤岡九平 新保市左衛門 浅見五左衛門 奥原新次郎
田島伝兵衛 大森小左右衛門 庭田又左衛門 中川金六 大塚初平 小安又十郎 戸石久作 小林若内 小林清内 小林軍内 吾妻平次右衛門
石原儀助 青木三郎兵衛 川越七右衛門 一関七九郎 吉原与三右衛門 中宿金右衛門 梅沢京助 丸山藤左衛門 芦川友之助 茯島八之亟
山岡品平 所島十五郎 田原藤左衛門 松山勘太兵衛 大胡一良兵衛 石堂重兵衛 若林千太左衛門 古暮五左衛門 関守一平次 下平吉兵衛 「同医師」米沢立円
【徒士】
勢田三左衛門 五条武右衛門 佐野平門七 小暮九郎次 小家野甚平 福田伊左衛門 剣持源兵衛 正観寺文右衛門 鳥山与茂七 高尾庄内
山中藤三郎 田中新右衛門 小和田半吉 鳥沢常右衛門 本宿八郎左衛門 千木良平七 山王堂角右衛門 大宮喜作 鬼石久蔵 有間定助
熊谷幸左衛門 武蔵島七助 阿久津島右衛門 南部藤治 横川清八 水沢主馬蔵 唐沢清左衛門 吉井勝之丞 高木三吉 高平梶内 小倉千右衛門
白是千蔵 長島唐之亟 西山郷蔵 大山平二兵衛 香藤三左衛門 岡崎畑右衛門 芝塚段六 伊勢島小十郎 樋口定蔵 松本大八 小和瀬本次郎
片山佐次右衛門 藤田源左衛門 均田勘左衛門 立花仁左衛門 稲月十良次 山岡源右衛門 雪野今蔵 花木七之丞 尾藤与十郎 金崎藤左衛門
今泉泉七 山崎小七 細井一内 田村又九郎 柴田久八 米沢武右衛門 室田長吉 近藤源七 袋井湯八 富塚代六 飯沼幸右衛門
「同撃剣士」飯沼幸右衛門
【徒士以下同じ】
月岡勘九郎 横井亀六 粟田一平 今宮小左衛門 遠北正内 半田弥五郎 笠時金弥 海野喜六 宇津雪八 渥見伝喜 久米角内 植村出来助
藤沢惣右衛門 足立兵五郎 高柳小金太 渡良瀬団右衛門 小島喜三 宮崎喜蔵 大竹差左衛門 片岡十兵衛 藤木甚左衛門 赤坂権七
片山七左衛門 原田八右衛門 井野門作 沢尾九平次 生田門左衛門 岡山与四郎 滝沢伝内 星野長作 寄居彦兵衛 神原安兵衛 西島三太夫
頼瀬喜兵衛 袖沢九右衛門 丸山又左衛門 池野谷太七 坂戸半左衛門 富田善八 榛原郡内 魚沼奥右衛門 郷原茂助 本山治右衛門
沢田覚之丞 宮城甚之丞 高山十平次 又倉新之助 峯岸八百七 広田源兵衛 松井太郎八 須川角右衛門 鳥巣原梶平 関下門九郎 小出定右衛門
河田喜太郎 荒木彦次郎 大貫喜内 川崎権右衛門 黒川佐七 山下庄太夫 菅名次郎七 岸田助次郎 長沢藤左衛門 佐藤加七 水野十三郎
西堀勘蔵 本庄市之進 戸蔵平蔵 板屋又十郎 猿島又蔵 沼田幸助 上川門兵衛 千坂軍蔵 松田作左衛門 町田九左衛門 黒田兵介
畔切長七 三国藤作 木俣文七 石原義平 速見源治 内山権太郎 三浦又平 藤田右衛門七 月岡作太夫 無塚兵吉 雪下金右衛門
小平三吉 花輪作右衛門 戸所甚兵衛 戸塚七郎兵衛 中野左平次 宇津木甚助 杉原甚内 奥山小六 高山正八 清水勘太郎 落合又九郎
南条又六 臼井彦八 足利国平 青柳次左衛門
【小姓以下同じ】
内野利助 伝山瀬左衛門 今井半平 大沢喜兵衛 賀森甚作 小野関庄右衛門 山下左吉 浅山加平次 山口伝八 藤巻馬之助 狩野助太夫
由井小右衛門 河合文七 大村源七 山角五郎次郎 鈴木九蔵 柴島長蔵 下田宇平次 松原権兵衛
【中小姓以下同じ】
後藤清次郎 若宮伝九郎 田子彦九郎 今村弥七 正木宇右衛門 夏目小三郎 吉津藤内 大野茂七 須田長次郎 島田正九郎 野田滝右衛門
松本三右衛門 大塚伝八 下田又左衛門 中田要蔵 阿久津七右衛門 金沢市郎左衛門 山下小平 二宮金弥 小野市之丞 篠崎平蔵 塚越伴七
中里彦次兵衛 原口弥吾八 八崎源太郎 横江定右衛門 関根八右衛門 綿貫丈左衛門 菊池甚左衛門 浜川次郎右衛門 那須三郎右衛門
加藤佐平次 桜井儀七 奥原益右衛門 梶山勝右衛門 真黛代助 佐藤忠助 小田切助右衛門 小暮三左衛門 神山吉右衛門 成瀬時八
中井兵左衛門 志水源次 筥田文治郎 佐島増平 富岡金右衛門 久保島十左衛門 桐山覚助 川島源作 小間兵弥 大友七左衛門 渡辺金八
林平之丞 塚田文右衛門 戸塚十郎兵衛 萩原太七 大石伝七 富田左兵衛 大島団六 山下正六 金井伝右衛門 湯沢喜右衛門 森山伊助
塚田又左衛門 渋川藤左衛門 宮沢源七 永井左太夫 荻野助右衛門 荻野小十郎 多子文内 古市小八 菅内半内 今宮作兵衛 石田蔵内
篠崎弥十郎 中泉角太夫 時森十内 多目小平次 土屋清兵衛 山本平次兵衛 小林又九郎 青柳十左衛門 飯塚森七
【大小姓以下同じ】
藤沢藤八 仙石久内 中尾喜助 腰元半右衛門 梅沢忠助 今夜利兵衛 日野原武助 富永小七 高井直八 東原母七 長谷川弥太七
北原勝之丞 片岡甚平 南牧弥四郎 瀬口佐助 北城定右衛門 岸伊右衛門 曾家大八郎 谷中藤吉 茂木政右衛門 小野善左衛門 常磐丈七
野上三蔵 五十嵐伝左衛門 内田伝介 桜林弥五郎 小平彦助 岡部左源太 岩崎仙次郎 市川五郎作 田村久作
【給人以下同じ】
百塩甚助 三浦庄兵衛 長井平九郎 関戸門之丞 三浦伝六 秋谷平次右衛門 里見兵左衛門 竹本喜六 井伊勘蔵 松本四助 三沢喜左衛門
橋上段九郎 浦野団七 遠原伊八 富原伊助 富沢伊助 矢野友右衛門 田島新五郎 大森次郎七 渋江藤右衛門 佐保田久内 荒川次郎左衛門
佐原関右衛門 穴戸九郎次 巻田半七 小久山民右衛門 松村泉七 土井三郎兵衛 南瀬口六兵衛 布施万右衛門 志村又内 鳥屋八郎右衛門
石原文六 里見久右衛門 口島吉次右衛門 小山文右衛門 橋本伝兵衛 北山五左衛門 新波新右衛門 坂田甚内 小倉茂十郎 広木伊右衛門
亀田佐十郎 富沢十郎兵衛 中村三左衛門
【給人】 下谷善右衛門
【郡代奉行】 岩田肥後 矢沢日向 土屋清喜
【同兵器係】 松坂団右衛門 小田切帯刀
【同寺社方】 大森磯之丞 羽田数馬
【御用人】 稲垣球馬 倉内式部 神部志摩 妻有国八 粟土佐渡
【諸士頭】 亀山丹次 松浦宮内
【同台所兼務】 福原六郎右衛門 椿山多宮
【近習】 平戸文右衛門 磯部九部兵衛 古河内膳 谷口主税 神谷刑部 穐保伊織 真木主膳
【弓術指南】 古畑主水
【鎗術指南併祐筆】 河東周防
【祐筆】 門倉右近 松下治部右衛門
【奥用人】 福田安房 福田杢之丞 森下内記
【同撃剣士】 塚原右門
【蔵奉行】 花形民右衛門 阿呆野弥左衛門
【同武具方】 町田兵庫 神尾図書
【金奉行】 戸塚外記 西部主殿
【同賄方】 島田備前 片原左内
【大目附】 大森十左衛門 有馬主馬
【徒士目付】 長沼長八郎 寺尾豊前
【馬術指南】 鷺宮能助
【茶道指南】 森山道義
【儒者】 中野一閑
【榛名神社神主歌道指南】 森山伯耆
【医士】 森川左仲 赤沢主計 樋口加蔵 橋爪左膳
【国絵図引】 久保十蔵 矢島久左衛門 後閑今右衛門
【勘定奉行】 内山播磨 安藤九郎左衛門
【旗奉行】 大久保民部 畑屋新蔵
【錦奉行】 利根木大蔵 首藤又兵衛
【弓奉行】 島方源六 山田与九郎
【伝令使番頭】 田口兵庫 八木原源太左衛門
【鉄炮奉行】 八木原伊勢 道寺久助
【小荷駄奉行】 梶山因幡 岡田讃岐 戸石大善
【普請奉行】 白川五郎 白川惣四郎
【代官】 青柳治辺右衛門 藤井孫六 藤井又次郎 矢島善兵衛 高浜六郎
【中奥頭小姓】 白井伊勢 小出讃岐
【足軽支配】 大草大哉 白石助左衛門 やっと大草姓が出ました!
【小人目附】 乾六郎右衛門 赤尾民部助
以上、五百九十一人
【一ノ執権】
藤井豊後守友忠(浜川城主)
【家老四家城詰衆】
下田大膳太夫正勝
内田因幡守頼信
大熊備中守高忠
八木原下総守信忠
【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)】
石井左京大夫讃岐守信房(室田鷹留城主:軍師)
高橋隼人正勝則(八重巻出城城代)
鷺坂常陸守長信(本郷砦住定居)
清水玄蕃頭長政(保渡田砦住定居)
北爪周防守政勝(新井砦住)
青柳金王丸忠家(本居勢田郡青柳村三ツ子砦住)
木暮丹後守直政(本居勢田郡木暮村引間砦住)
小沢治部兵衛亮信繩(本居勢田郡小沢村和田山砦住)
上泉伊勢守時則(本居勢田郡上泉村下柴砦住定居)
吉田伊豆守文頼(豊岡砦住)
飯塚左衛門丞忠則(並榎砦住定居)
岸監物頭忠清(板鼻砦住)
[81] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 06時10分29秒 ) | パスワード |
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長野の城
木曽方面
福島城
木曽郡木曽福島町城山
武田、織田、豊臣、徳川と時代に揺らいだ悲運の山城。
★★★
阿島陣屋 知久氏は伊那の名族と書かれています
下伊那郡喬木阿島
伊那の名族・知久氏の陣屋跡。
★
山村代官下屋敷
木曽郡木曽町福島大手町
木曽代官・山村氏の代々の屋敷跡。
★
上之段城
木曽郡木曽町福島
永正六年(1509)木曽義在が築城。
★
小丸山城
木曽郡木曽町福島 応永年間(1394〜1428)木曽親豊が築城。
★
伊那方面
上田城
塩尻市北小野
小笠原氏の伊那街道筋の一中継点。
★★
高遠城
上伊那郡高遠町東高遠
滅びゆく武田勝頼を最後まで守って壮絶な落城。
★★
竜ヶ崎城
上伊那郡辰野町大字伊那富城山
小笠原長時がここに出陣するも武田氏の板垣信方に追われる。
★★
羽場城
上伊那郡辰野町大字伊那富羽場手長神社
上伊那十三騎の一騎として活躍した紫氏が居住。
★★
荒神山城
上伊那郡辰野町大字樋口荒神山公園
武田信玄が伊那地方攻略の拠点として布陣。
★
樋口城
上伊那郡辰野町大字樋口
武田信玄の伊那攻略で記録に残らないほどあっけなく降伏。
★
古式部城
上伊那郡辰野町大字樋口小式部城山
武田信玄が伊那攻略で落とし、その後も重視した山城。
☆
上の平城
上伊那郡箕輪町大字東箕輪 知久氏武田に滅ぼされる
武田信玄に滅ぼされた伊那地方の名族・知久氏の当初の拠点。
★★
荒城
上伊那郡箕輪町大字東箕輪長岡
福与城の出城として武田軍に抵抗。
☆
大出城
上伊那郡箕輪町大字中箕輪大出
福与城藤沢氏の臣・藤沢織部が在城も福与城とともに武田氏に落とされる。
★★
松島城 ご存知松嶋
上伊那郡箕輪町大字中箕輪松島
福与城に属していたが、武田信玄に攻められて降伏。
★
箕輪城
上伊那郡箕輪町大字中箕輪木下
福与城主藤沢頼親の養子・重時がここに拠ったが1582年に田中城の藤沢頼親とともに滅亡。
★★
福与城
上伊那郡箕輪町大字福与
上伊那の大拠点であったが武田信玄によって落城。
★★★
北の城
上伊那郡宮田村中越
要害の地にあって戦国時代も活躍したか。
★★
橋場城
伊那市大字富県南福地
武田勝頼に従い、城主は高遠城で仁科盛信とともに討ち死。
★★
あら城
伊那市大字富県荒城
武田勝頼に従い、城主は高遠城で仁科盛信とともに討ち死。
☆
殿島城
伊那市大字東春近中殿島
武田信玄によって落とされるが、武田氏滅亡とともに没落。
★★
春日城
伊那市大字伊那春日公園
武田信玄によって落とされるが、武田氏滅亡とともに没落。
★★★
上穂城
駒ヶ根市赤穂
城主は武田信玄に抵抗して討ち死。
★
赤須城
駒ヶ根市下平
武田信玄に抵抗して落とされるが、後に武田氏とともに没落。
★★
高見城
駒ヶ根市中沢
武田信玄の侵攻に徹底抗戦して落城し廃城。
★
唐沢城
上伊那郡飯島町飯島
戦国時代を含めた長期にわたって使用される。
★
大草城 大草ですよ〜〜〜〜
上伊那郡中川村大草
古代の城で戦国時代の役割は不明。
★
舟山城
上伊那郡中川村片桐
武田氏に属していたが織田信長によって落城。
☆
坐光寺城 知久氏関係
飯田市座光寺
知久氏滅亡後は武田氏に従い、その後織田信長に攻略された。
★
知久平城 知久氏の城
飯田市下久堅知久平
名家・知久氏が拠点を移した先で、徳川家康も重視。
★★
神之峰城 知久氏の城
飯田市上久堅
名門・知久氏が最後に築いた頑強な山城も武田氏によって落城。
★★
鈴岡城
飯田市駄科
一族同士の哀れな内訌を伝える城。
★★★
松尾城
飯田市松尾代田
一族同士の哀れな内訌を伝える城。
★★
伊豆木城
飯田市伊豆木
織田信長によって落ち、現存の居館を建築する。
★★
長姫城
飯田市追手町2丁目
織田信長・徳川家康・豊臣秀吉が重視した伊那の中心地。
★
大島城
下伊那郡松川町元大島
武田軍の築城技術三昧の攻防の地。
★★★★
坂牧城
下伊那郡高森町下市田
伊那地方の周囲を監視する土豪の城。
★★
吉岡城
下伊那郡下條村陽皐
下條氏が代々拠った山城で街道を監視。
★★
和田城 遠山氏関連
下伊那郡南信濃村和田
遠山氏の拠点であったが徳川家康によって取り潰される。
★★
[82] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 06時14分18秒 ) | パスワード |
長野の城
麻績の服部家に関わるエリア
となった政治の拠点。
★★★★
麻績城
東筑摩郡麻績村麻績
武田勝頼の血をたどる麻績氏の本拠。 勝頼の祖母でしたね。
★★
矢倉城 東筑摩郡麻績村麻
青柳城の支城か。
★★
青柳城 麻績の服部家が負けて青柳家が支配することになった城ですかね?
東筑摩郡坂北村青柳
川中島の合戦に向けて武田信玄と上杉謙信の攻略の的となった悲運の城。
★★★★
宇留賀城 東筑摩郡生坂村宇留賀
川中島合戦までの200年間、宇留賀支配の根拠地。
☆
金戸山城 東筑摩郡生坂村宇留賀
宇留賀氏の物見の山城か。
☆
日岐氏館 東筑摩郡生坂村大字北陸郷裏日岐
小笠原・武田・織田・上杉・徳川と揺れ生きてきた一族の屋敷地。
★
日岐小城 東筑摩郡生坂村大字北陸郷裏日岐
武田氏滅亡とともに戦乱に巻き込まれた山城。
★★★
日岐大城 東筑摩郡生坂村大字北陸郷大城山
信濃の名族仁科氏の48城中、最も堅固だった山城。
★★★
高松薬師城 東筑摩郡明科町大字東川手
すざまじい山奥にある日枝大城の支城。
[83] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月23日 06時20分48秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E5%B2%A1%E5%9F%8E
鈴岡城 悲しい話があったそうですね。
天文23年(1554年)武田信玄の伊那侵攻の時、松尾小笠原氏の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は信濃先方衆として活躍し松尾城を回復したが、(2)鈴岡小笠原氏の小笠原信定は敗れ、落城した。
毛賀沢川の谷を挟んだ北側には松尾小笠原氏の松尾城があり、その後は松尾城の支城として使用された。 現在は鈴岡公園として整備されている。
(2) 小笠原政秀の代で一旦滅亡していたが、松尾小笠原氏への対抗上、府中小笠原氏から信定が入り再興させた。
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