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 投稿番号:101496 投稿日:2015年10月31日 16時25分40秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LW(M氏家譜18+芭蕉・出雲・伊勢あたり)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族LV(M氏家譜17+芭蕉あたり)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101489_73.html
スレッド53の続きです。



自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月31日 23時11分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は250キロの旅でございました。
 高遠の紅葉はまだ桜で言えば6部咲きといったところでしょうか、これから
の1週間か10日間の内にピークを迎えるのではと思われます。それでも高遠
城址公園においてもみじ祭り・「高遠そば」新そばまつりが行なわれて、店が
たくさん出ておりましたので楽しめました。
 そばは2種類食しました。1つはもちろん「高遠そば」・・・これは汁に辛
味大根・焼味噌・ネギを入れて食べます。辛味大根は水分が少なく、辛い。焼
味噌は浜納豆のようなコクのある味であります。この味噌の味がミソでありま
す。
 もう一つ食べましたのは、「すんきそば」であります。これは木曽の特産の
赤かぶの葉を乳酸発酵させた漬物で、京都の「すぐき」の味ににています。温
かい掛けそばの上に「すんき」の刻んだものが載せられ、そばと一緒に食べま
す。これもまたやみつきになりそうな味でございました。来月はすんきそばの
本場の木曽へ行くことにいたしました。もちろん木曽義仲の探究をかねてでは
ありますが・・・。

 さて、歴史的な探索は余りできない今回の旅でありましたが、「絵島」の
墓を訪ねに蓮華寺へ行ってまいりました。この寺は高遠城下街の中にあり、
また小高い所に建っていますが、門の横に日蓮の立派な像が建てられており
ました。絵島の墓は、寺の裏山を登って一番高いところにございました。絵島
の着物姿の立像が建てられており、面長で美人のようでありました。その像の
隣に絵島のお墓があり、あを様ご指摘のとおり、般若心経をしっかりと2巻唱
えてまいりました。絵島が幽閉されたのは29才の時、それから61才で死ぬ
まで囲み屋敷で幽閉され続けたということであります。日蓮宗に帰依し読経・
写経の毎日であったということであります。絵島事件は「正徳の大疑獄」と呼
ばれ、大奥の女性達の権力闘争と幕府の大奥改革の波に巻き込まれたというこ
とでありましょうか。何せこの事件で罪を負ったのは1500人を超えるとい
うことですので、なんとまあめちゃくちゃな事件でありました。7代将軍家継
の時代でありました。
 墓地にある墓標の姓氏を見てまいりましたが、絵島の墓の前に、大久保家の
墓があったのが何か不思議でした。あとはやはり宮下という姓氏は信濃では多
いのでしょうか、見つけました。
 墓参りに来たおじいさんと話をしましたところ、高遠は冬は寒いけど、雪は
そんなに積もらないということを知りました。長野県でも豪雪地帯とそうでな
い所があるようです。

 この1年半で7回信州に行きました。やはり、諏訪を中心として歴史の謎の
数々が横たわっております。まだその謎の入り口に立ったところであります。

 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月01日 04時40分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

般若心経、わたくしの分まで、ありがとうございました。


すごいですね、江島さまの立像が立ってましたか。
観光客に人気というのが分かりますね。




真相は分かりませんが、
   門限に遅刻した
ということだけだったのかも。



    規則があったなら守らなきゃね
    そうか
    規則は破るとこんな面倒なことに発展するのか
    へえ〜


「連座制」のあった時代だから、誰かが規則を破ったら関係者はすべて処分される、という事だったんでしょうね。

江島さまの兄上の斬首には驚きました。
     
     

以下コピペ:

正徳4年1月12日(1714年2月26日)、七代将軍徳川家継生母月光院に仕える御年寄・江島は主人の名代として前将軍徳川家宣の墓参りのため、宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。

当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。この事件は天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会であった。天英院は家宣・家継の元で正徳の治を断行、幕政を牛耳っていた白石・詮房を追い落とすため、譜代大名や5代将軍綱吉時代からの老中 秋元喬知とこの事件を画策したという説がある。



処罰[編集]

評定所や江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。

江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。

連座して、旗本であった江島の兄の白井平右衛門は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟の豊島常慶は重追放となった。月光院の嘆願により、江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けとなったが、事実上の流罪であった。

江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。

この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。


このほか、取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出され、最終的に50人近くの人が罰せられた。



影響[編集]

この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に家継が亡くなると、天英院が推していた(月光院が推していたとする説もある)紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍となった。そのため、この事件が将軍決定を巡る謀略との見方もあるが、江戸幕府を牛耳っていた白石・詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたという説もある。



文学と芸能[編集]

この事件については、大正元年(1913年)、長谷川時雨の台本『江島生島』が歌舞伎座で初演され、昭和28年(1953年)、東京新聞に連載された舟橋聖一の小説「絵島生島」が巷で評判となり、事件のあらましが世の人々に広く知れ渡った。(歌舞伎や多くの芝居物では、江島が生島を大奥に連れ込んで情事に及んだ事になっているが、それはあくまで脚色で事実ではないとされている)[要出典]。

以降、多くの小説家がこの事件をテーマに小説を執筆、また他にも長唄に詠まれたり、最近では映画やテレビドラマにも取り上げられている。




要するに、長谷川時雨と舟橋聖一が話を盛りに盛ったというのがスキャンダルの真相かも。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月01日 10時06分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

本日「天皇家はなぜ続いたのか」を頂きました。
ありがとうございました。


「天皇の正体」
語ろうとすると確かに「うっ」とつまりますね。


    余りにも身近でありながら遠い存在。

説明できるようになれると良いのですが。
ありがとうございました。

[4]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月01日 12時09分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 蓮華寺で見つけたのは不思議な家紋であります。今まで一度も見たことがな
い家紋でありました。家紋というより社紋というべきなのかも知れません。
 それは「糸輪に北斗星」というものでありました。細めの丸の中に北斗七星
が描かれているようです。右側には伏せた柄杓の器、左手に向ってサソリが尾
を持ち上げたような柄、柄のさきには剣が付いている。見た感じではサソリが
尻尾に付いた剣を振り上げているといったようである。
 日蓮の説く信仰の方法は「南無妙法蓮華経」の七文字を一心に唱えること。「妙法蓮華教」の五文字の中には、法華経八巻がすべておさめられているいる
ということである。そして、出家しなくても在家のままで成仏できる、女性も
もちろん成仏できると説いた。罪業感にとらわれている侍、5障(5つの罪障)
を抱えているとされる女性、それらの人々が日蓮宗に帰依して行くのは当然の
流れであったかも知れない。
 正に絵島も日蓮宗に帰依、読経・写経の毎日で、精神的には救われたので
はなかったのかと思われる。
 そういえば、森町にも蓮華寺(天台宗ではありますが)がありますが、桜御
前という女性が隠棲していました。「蓮華」寺は女性の駆け込み寺のような
所と解釈してもいいのかも知れません・・・?
 北斗七星の7(星)は、「何無妙法蓮華教」の7(文字)とつながるのではな
いか。社紋から推測すると、日蓮宗は妙見信仰とつながっているのではない
かと推測しています。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月01日 22時06分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


糸輪、というのを初めて認識しました。
確かに細い輪の紋、というバリエーションは知らなかったわけではないのですが
認識はしてなかったです。


http://kamondb.com/kika/wa_ito.html
輪:糸輪いとわ


輪はその名の通り丸形の輪の形をした紋です。

輪は旧い時代には少なく、戦国時代に大いに流行したそうです。
他家との識別に便利であるように、あるいは宗家分家との区別など、様々な意図で用いられたのでしょう。

輪にはふとさの順に、厚輪、太輪、中太輪、丸輪、中輪、細輪、糸輪、毛輪など、たくさんのバリエーションが見られます。
具象的な変形としては波輪や雪輪があります。


輪だけを幾何的に組み合わせた輪違いというのもあります。
輪はそのままで用いられることは少なく、たいていは他の紋の外輪として使われています。丸形にするとシンボル性が明確で、どんなものにも配置しやすいからでしょうか、大変好まれており、通常よく使われる紋のうち、三分の二が丸形らしいです。日本人は丸が大好きなのですね。



>北斗七星の7(星)は、「何無妙法蓮華教」の7(文字)とつながるのではな いか。


なるほど。


>社紋から推測すると、日蓮宗は妙見信仰とつながっているのではないかと推測しています。

実は友人が茨城にいまして
この部分、非常に納得しました。

[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月02日 11時44分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日もいろいろ情報を収集(各図書・資料に目を通す)しておりました。

 今、探究しようとしている核(テーマ)としては、芭蕉を中心とした出雲・
諏訪・伊賀との関係、及び修験道ネットワークとの関係ということでありま
す。これらについて、飛躍的な情報には今のところあまり出くわしておりま
せん。それは一つには芭蕉についての情報収集が少ないからだと思っており
ます。芭蕉の育った環境・勉学・日々の生活とかせぎ・交友関係・人生観・
宗教観・世界観・・・芭蕉とはどれだけのスケールの人間なのか、まだ把握
できておりません。つまり、まだまだ勉強不足ということであります。

 芭蕉にとって俳諧とは人生そのものであった。人生の生き方そのものであ
ったと言うのは間違いではないと思います。
 欲望を捨て、あらゆる虚飾を捨て、最後は禊を受けたかのような魂・肉体
だけが残る。そして今生きているという「現在」があり・その存在は「過去」
とのつながりの中にある。さらに強いて言えば「未来」への漠たる想いもあ
る。現在から過去へ、そして過去から再び現在へ、されば現在から未来へは
(我々への問いかけ 余韻)?
 この生き方、修験道の生き方に似ている・・・。

 
 

 
 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月02日 12時53分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


芭蕉についてですがちょっと勉強したことがございますので書きますね。



平安時代の書に「散らし書き」というのがあって

例えば「あけましておめでとうございます」というのを散らし書きにしますと

      あけまして
              おめでとう  
                          ございます


こんな感じにずらしていくのですが




これを2つの歌を1枚の紙に平安時代風に色紙に書くとしますと

四角の紙の  真ん中に  斜めに「川」を配置して   
         右半分の下の方を「此岸」しがん
         左半分の上の方を「彼岸」ひがん
として歌を2つ書くわけです。



この配置が   日本人には「美」なんですって。


それで芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」の風景が日本人の美意識にぴったり重なるということかと驚きました。

  
彼岸には佐渡
真ん中に日本海=天の川
此岸に出雲崎(おのれが立っている)



つまり平安時代からの美意識が芭蕉にもあるということです。


芭蕉を勉強し出していきますと、深すぎて、捕まえられないです。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月02日 13時25分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 ありがとうございます。

 キーワードは「此岸」と「彼岸」ですね。

 これは人間にとっての宿命・カルマ的命題ですね。

 それを芭蕉は俳句の世界で表現しようとした。

 世阿弥は能の世界で表現しようとした・・・。

 中世から近世にかけての死生観・宗教観について探究する必要があり

ますね・・・。

 

 

 
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月03日 10時38分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今週の土曜日に伊賀へ行くことにいたしました。目的は「芭蕉」関係の
情報収集です。
 特に、芭蕉と修験道との関係について調べたいと思っております。

 なぜならば―
 @甲賀・伊賀には、中世以前からどこの附属ともつかぬ陰陽師山伏が、
  ここそこに住んでいたということ。
 Aそこへ、修験派の諏訪神人が諏訪信仰を携えて入り込んで来た。
 Bこの両者は融合した。
 C伊賀一之宮の敢国神社は、この諏訪信仰の中心となった。
 D山伏は不動明王や大日如来の秘印を結べばそれらの仏に変身できると
  説き、それは「忍術」に密接に関係した。
 E伊賀の乱で敢国神社は信長に焼かれたが、その後これを復興したのは、
  「山伏小天狗清蔵」であった。
 F諏訪大社に対し、美濃の南宮大社は「中の宮」、伊賀の敢国神社は「ち
  ごの宮」であると『梁塵秘抄』ではうたわれている。敢国神社の近くに
  も南宮山がある。諏訪大社の祭神「建御名方」も古くは「南方刀美(み
  なかたとみ)と呼ばれ、「南」の字が入っていたという。
 G敢国神社は阿拝郡(あえぐん)にあります。祭神は大彦命(オオヒコ)、少
  彦命(スクナヒコ)、金山比・命(カナヤマヒメ)であります。オオヒコは
  孝元天皇の長男で、大和朝廷が全国を平定するときに活躍した武人。特
  に北陸・東海を征討する役目を果たし、その後伊賀の阿拝郡に定住した
  ということです。その後、「阿拝氏」を名乗ります。その子孫は、敢、
  阿閉、阿部、安倍と呼ばれるようになる。その中から、遣唐使として有
  名な安倍仲麻呂や、陰陽師の安倍晴明が出る。
 H @の陰陽師山伏と安倍晴明はつながる可能性が大いにあります・・・。
 I芭蕉の父は阿拝郡の人。
 J1688年、芭蕉は父母の墓参で伊賀に帰省した時、敢国神社に参拝し
  「手はなかむ 音さえ梅の 匂ひかな」を詠っている。
 K敢国神社はCのとおり、諏訪修験の中心。
 L芭蕉は木曽義仲をことのほか愛し、自らの亡骸を「義仲寺」に埋めた。
 M木曽義仲は、諏訪大社祝金刺氏の娘婿、即ち諏訪神家であった。
 N奥の細道同行者の河合曾良は、諏訪神家岩波家の養子であった。

 これらの状況を総合すると、芭蕉の義仲へのシンパシィは、つまるところ
諏訪信仰・修験でつながっていたと思います。芭蕉自身も諏訪信仰・修験者
ではなかったろうか。
  
 この自論を検証したいと思っております。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月03日 22時38分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

興味深いお話をありがとうございます。


雪が降る前に伊賀にはいらっしゃるのが良いと思います。

    D山伏は不動明王や大日如来の秘印を結べば
     それらの仏に変身できると説き、
     それは「忍術」に密接に関係した。


それで忍者は印を結ぶのですか。
何やってんだろうと思ってました。


     ダメですね
     結局は基本のところが分かってないです。


>この自論を検証したいと思っております。

はい。


楽しみにしております。



[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月04日 21時43分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「南宮山」が、諏訪大社、美濃の南宮大社、伊賀の敢国神社(近くに南宮山
あり)を結ぶキーワードであります。
 「南宮山」には、どんな意味が隠されているのでしょうか。

 関ヶ原の合戦の前、石田三成は東軍を押しとどめるため大垣城に入った。
 作戦として籠城作戦を考えた。但し、敵に城をあえて包囲させた上で、そ
の外側から今度は自軍が包囲する。即ち内側と外側からの「はさみうち作戦」
(後詰決戦という)を考えたとのことであります。
 そのため、後詰要員として、毛利秀元、吉川広家を「南宮山」に、小早川
秀秋を「松尾山」に布陣させた・・・。

 この「松尾山」も芭蕉を思い出させます。「南宮山」ももちろんでありま
す。芭蕉は大垣に三回ほど訪れていますし、『奥の細道』の「結び」の地と
しています。
 大垣に何か大きな意味・謎がありそうな気がいたします。

 近い内にまた大垣に行って、芭蕉の関係について調べて来たいと思います。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月05日 05時25分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

大垣は岐阜県ですが
伊勢(伊賀)の近くですよ。
名古屋からも近いですし。
養老の近くですし。


   養老の千秋=服部氏も関係するのかもですね。


          そうしますと猿投の服部氏も気になります。
          この家は半蔵の家と親しかった記憶です。


南宮大社(なんぐうたいしゃ)は、岐阜県不破郡垂井町にある神社。
旧称は南宮神社。
式内社(名神大社)、美濃国一宮。

旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E8%A1%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE

              別表神社(べっぴょうじんじゃ)とは、
              神社本庁が定めた、神社本庁が包括している一部の神社のことである



概要[編集]

昭和21年(1946年)2月2日の神社の国家管理の廃止に伴い、公的な社格の制度(近代社格制度)が廃止されたため、それに代わるものとして昭和23年(1948年)に定められた。社格制度廃止後は、全ての神社は対等の立場であるとされた(伊勢神宮を除く)。しかし、旧の官国幣社や一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすることと定めている。その対象となる神社が同規程の別表に記載されていることから、「別表に掲げる神社」(別表神社)と呼ばれる。

別表神社は、人事の面で以下のような特別の扱いがされる。
一定以上の基準に達すれば宮司の下に権宮司を置くことが認められる
宮司・権宮司は明階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では権正階以上)
禰宜は正階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では直階以上)
権禰宜は権正階以上の階位を有する者でなければ任用されない(一般神社では直階以上)
宮司・権宮司の在任中の身分は特級、一級・二級上以外の者は二級とする
宮司・権宮司の任免は各都道府県の神社庁長の委任事項としない(神社本庁統理の直接任免とする)

当初の別表神社は旧官国幣社のみであったが、昭和26年(1951年)に「別表に掲げる神社選定に関する件」という通達が出され、官国幣社以外で新たに別表神社に加える神社の選定基準が示された。それは以下のものである。
由緒
社殿・境内地などの神社に関する施設の状況
常勤の神職の数
最近3年間の経済状況
神社の活動状況
氏子崇敬者の数および分布状況

この規定により、旧府県社・内務大臣指定護国神社を中心に別表神社の数は次第に増加し、平成18年(2006年)現在で353社となっている。

別表神社は社格のような神社の格付けではなく、あくまでも神職の人事のみにかかわる区別である。しかし、別表に掲げられている神社は社殿、境内、神職の数などの面で比較的大きな規模の神社であり、一般には一種の格付けとして捉えられている。

なお、社格同様、伊勢神宮は別格として別表神社に入れられておらず、神宮大宮司は、「神宮規則」により、勅裁を得て任免するとされ、さらに特別の扱いがなされている。





長野県
諏訪大社
    上社本宮 長野県諏訪市
   上社前宮 長野県茅野市
   下社春宮 長野県諏訪郡下諏訪町
   下社秋宮 長野県諏訪郡下諏訪町
その他


岐阜県
南宮大社 岐阜県不破郡垂井町
その他


静岡県     浜松近辺のみ
井伊谷宮
小國神社
秋葉山本宮秋葉神社
五社神社・諏訪神社 静岡県浜松市中区
その他

愛知県
熱田神宮
真清田神社      蜂須賀小六の奥さんの実家だったような
大縣神社
津島神社
知立神社
その他


三重県
多度大社   桑名
敢國神社
北畠神社
椿大神社   鈴鹿!   伊勢の一宮!  うっそー
その他


滋賀県
多賀大社
その他


京都
賀茂さん   賀茂別雷神社  賀茂御祖神社
その他有名どころ
松尾大社も


大阪でしたら住吉大社とか。


南宮大社って大事な神社だったのですねえ。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月05日 05時43分39秒 ) パスワード

椿大神社(つばきおおかみやしろ)    三重県鈴鹿市山本町字御旅1871


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A4%BE


     鈴鹿ってウチのご先祖さま=服部宗純=が後醍醐天皇に召し出されるまでいたところだったような。

     それが伊勢の一宮!

     さらに修験道がらみ!

     猿田彦大神の末裔の行満大明神は修験道の開祖であり、
     役行者を導いたとのことで、
     中世には修験神道の中心地となった。

     現宮司は、行満大明神の末裔であるという。



椿大神社(つばきおおかみやしろ)は、三重県鈴鹿市にある神社。式内社、伊勢国一宮。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。三重県では伊勢神宮・二見興玉神社に次いで3番目に参拝者数の多い神社であり、2013年には1,455,000人が参拝した[1]。

猿田彦大本宮とも呼ばれる。猿田彦大神を祀る神社の総本社とされる。



社伝によれば、垂仁天皇27年、倭姫命に下った神託により、猿田彦大神の墳墓の近くに「道別大神の社」として社殿が造営されたのを創始とする。書物における初見は、天平20年(748年)6月17日の『大安寺伽藍縁起並流記資材帳』である。当社は一般に『延喜式神名帳』に記載される「椿大神社」として伊勢国一宮に比定されるが、同市一ノ宮町の都波岐神社を「椿大神社」とする説もある。

社伝によれば、猿田彦大神の末裔の行満大明神は修験道の開祖であり、役行者を導いたとのことで、中世には修験神道の中心地となった。なお、現宮司は、行満大明神の末裔であるという。

明治4年(1871年)に郷社、昭和2年(1927年)に県社に列格。昭和10年(1935年)、内務省神社局の調査により、全国約2千社の猿田彦大神を祀る神社の総本社「地祗猿田彦大本宮」とされた。しかし、それらの神社で当社と実際に関係があるものは少数である。一方で、「椿大明神」を祀る「椿神社」は全国各地に存在している。

昭和62年(1987年)、アメリカ合衆国カリフォルニア州にアメリカ椿神社(現・アメリカ椿大神社(ワシントン州))を創建し、神道の普及活動を開始。

社宝に、吉備真備の奉納と伝わる獅子頭があり、獅子舞発祥の社ともされる。



あらら・・・・

そうしますとヤッパリ我が家もアヤシイ?
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月05日 05時54分24秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%A4%BE


南宮大社再び。   !!!南宮大社は全国の鉱山・金属業の総本宮だから!!!

                         ビックリ




南宮大社(なんぐうたいしゃ)は、岐阜県不破郡垂井町にある神社。旧称は南宮神社。式内社(名神大社)、美濃国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。


岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座する。「国府の南に位置する宮」として「南宮」を名乗るようになったとされる。鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、国の重要文化財に指定されている。



主祭神
金山彦命 (かなやまひこのみこと)

配神
彦火火出見命
見野命



社伝では、崇神天皇の時代に創建されたとされる。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記載され名神大社に列している。また、美濃国一宮とされた。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで焼失し、1642年に徳川家光が再建した。

1868年、神仏分離により神宮寺が分離移転した(現 朝倉山真禅院)。

近代社格制度のもとで、1871年に「南宮神社」として国幣中社に列し、1925年に国幣大社に昇格した。戦後、「南宮大社」と改称した。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

崇神天皇       神武天皇説あり。



318年(または258年)没と推測する説もあり。

258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。



日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。このように崇神天皇を大和朝廷の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神天皇のかかわりをどう考えるかが問題になってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国と大和朝廷は同一であるという認識のもと、水野正好による「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」という説、西川寿勝の「崇神天皇は『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などが提唱されている。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国は大和朝廷とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓や武光誠などの説などが存在している。



『日本書紀』の記述では、神武天皇が畿内で即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて日本の広範囲の出来事の記述が出てくる(崇神天皇による四道将軍の派遣派兵など)ことから、崇神天皇が初代天皇ではなく欠史八代が史実を反映していると見る立場から、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月05日 05時55分45秒 ) パスワード

ということは南宮大社とはかなりの力のあった神社ですね。
認識を改めねば。
[16]ときおさんからのコメント(2015年11月05日 09時02分32秒 ) パスワード

南宮大社再び。   !!!南宮大社は全国の鉱山・金属業の総本宮だから!!!

お気付きでしたね。あを様

金属の鉄生産の民はひと種類では無さそうです。「砂鉄製鉄の民」と「鉄鉱石製鉄の民」と一番古い植物などに付着した鉄分などから製鉄した民のグループの民が居た様です。
思い出せないのですが玉五十鈴とかの「いすず」の「すず」がキーワードだったような
覚えです。伊勢の五十鈴川っも関連したように思います。
もちろんのこと南宮大社も美濃の南宮大社も南宮の本山·信濃の諏訪大社も関わっていましたね。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月05日 13時32分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 別表神社、椿大神社(つばきおおかみやしろ)、南宮大社等につき、お調べ
いただきよくわかりました。ありがとうございます。
 「南宮」について諏訪大社で入手した「しおり」を調べておりましたら、
その一頁目にこう書かれておりました―
 「(諏訪大社は)昔から諏訪大明神、諏訪南宮法性上下大明神、叉はお諏訪
さまとしたしまれ・・・云々」とありました。武田信玄は、「諏訪南宮法性
大明神」の旗印を先頭に出陣しているとのこと。

 伊賀の敢国神社が一宮諏訪社と言われたという記録があるという。また、
諏訪社が諏訪南宮と呼ばれる場合があるという。
 甲賀三郎が諏訪に行き、諏訪明神になったという有名な話もある。

 ここら辺の謎を解くキーワードは、「金属師」・「鉱山師」・「修験」
あたりであろうか。金属と修験は一体とみてもいい。金属の民・産鉄族が
山に分け入り奥深くまで入って行った・・・。

 「南宮山」に対し「本宮山」というものがある。やはり、一宮にからむ。
三河一宮の砥鹿神社、遠江小國神社のすぐ近くに本宮山なるものがあるの
である。南宮山・本宮山の違いは何なんだろうか。南宮山の場合は、建御
名方命がからみ、本宮山は大国主がからむのだろうか・・・?
 とすれば、大国主系と建御名方系、即ち出雲系と諏訪系の二系統の違い
となる・・・。

 明後日に伊賀にいきますが、敢国神社にはもう一度行ってみます。小宮
(おみや)神社の中にある小宮(こみや)神社も気になりますので(こちらに
も小宮があるので)、行ってみたいと思っております。

 本日は、はっとりきょうと様のスレッド『服部家の歴史』を改めて読んで
おりました。姫沙羅様、箱柳永田様も登場してなつかしく思いました。さな
え様の熱意も感じられ、またはっとりきょうと様の確かな知識にも感激をし
つつ、さらば「服部」とはということで、さらに真実を探究して行きたいと
思っています。源氏の天下、平家の滅亡あたりに「服部」「服織」「羽鳥」
等々にからむ記録が消えてしまったという不思議な話をここで読みましたが、
それはどうしてであったのでしょうか、各地の服部・服織・羽鳥郷が略奪の
憂き目にあったということでしょうか。この地の羽鳥荘は源氏の天下の前に
は平清盛に属し、新熊野神社に寄進されています。
 その後、源氏の統括下に置かれ、源氏により何がどうされたのか。北条
氏もからみますが、武士の乱世となって略奪合戦のようなものが繰り広げ
られたのでしょうか。
 源平興亡時代からの武士の世の様子を探究する必要があります。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月05日 14時30分16秒 ) パスワード

ときおさん


>金属の鉄生産の民はひと種類では無さそうです。
>「砂鉄製鉄の民」と「鉄鉱石製鉄の民」と一番古い植物などに付着した鉄分などから製鉄した民のグループの民が居た様です。


ありがとうございます。


ついつい日本人はホモジーニアスという固定観念でいろいろ考えてしまうのでいけません。

アタマを柔らかくしなくてはいけませんね。
地頭力ゼロだなあとガッカリです。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月05日 14時44分49秒 ) パスワード

 「南宮山」「本宮山」


http://blog.goo.ne.jp/reizan2007/e/f43e89260122b6da67f0c53d2aa6255c
本宮山

      ブログ主さん:
      神々のいる山を訪ねる
      巡礼登山家を目指して修行中、 一人淋しく霊山を訪ね歩いています。



                  ワタクシの感想:本宮山は「穂の国」の世界なのかなと思いました。

                          大国主命と天御中主命のそもそもの始まりの世界だったのかなと。


三河富士とも呼ばれる本宮山(標高789M)は古代より信仰の山で 境内には大小の磐座が点在しています。千年近い大木の杉檜が林立した頂上附近の自然林は神域として保護され数百種の草木が繁茂し、愛知県天然記念物として指定されています。 頂上には 三河国一宮砥鹿神社の奥宮が鎮座し、大己貴命(大国様)をお祀りしています。


頂上まで本宮山スカイライン( 現在無料) が開通しており アンテナが林立する山頂一体は風情も何も無いが 奥三河の山々の後に南アルプス連峰、富士山、浜名湖など展望に恵まれており、名実共に三河国唯一の霊山です。  


神社側の一帯は奥宮神域として保護され、杉の巨木が林立している。
「天の磐座」 国見岩
神話によると 大己貴命がこの岩山に神霊を留め、、”穂の国造り”にあたり この岩上から国見をしたところからの名称、この奥に岩戸と呼ばれる岩石の割れ目があり その奧に末社・岩戸神社が鎮座する。

磐座の事を調べていると言ったら、本宮山奥宮の方が 新城市にある石座神社を教えてくれたので足を延ばした


石座(いわくら)神社。

背後にある雁峯山の磐座信仰が行なわれていたと考えられる。古代祭祀場を髣髴とさせる静かな中にも荘厳さが漂う境内。
ご祭神は天御中主命、古く大和朝廷の時代から存在していた事をうかがわせる。


格式の高い神社の風格がある。砥鹿神社の縁起には、701年、文武天皇の病気平癒のため当地に遣わされた草砥鹿公宣は砥鹿神が化身した老翁に出会い当社を創建、歴代宮司の祖となったと記載されている・・・・。エライっちゃ偉いが、何でも話は都合の良い後付けのような気がする。 家康の庇護の下、三河国を庇護する社として発展してきたのは花火や流鏑馬など祭り事にも色濃い。 古代は本宮山と磐座信仰だったろうに・・・・。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月06日 09時13分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよ明朝出発となりました。

 今回は、まずは敢国神社のそばにある「南宮山」に登ってみたいと思って
います。
 ここは、織田信長が天正伊賀の乱の時にここに登り、伊賀の国を見渡しな
がら、戦略上の判断をしたようです。

 いずれにしても、服部に関係する者は、伊賀に何らかの形でかかわるもの
と考えております。服部半蔵、松尾芭蕉・・・服部のDNAとは何なのか、
体の中から湧き上がるものとはなんなのか・・・感じてまいります。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月06日 15時22分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


伊賀はもうかなり寒いのではないかと思います。
風邪を引かないようになさってください。


たった今、「Wood Job!」=樵の話=を見終わったところです。是非機会がありましたら御覧になってください。

また撮影場所も三重県の美杉村です。

美杉村はうちの先祖=友貞=が伊勢の守護の北畠具教の所へ正月の挨拶に行った
という場所だと思います。
そして帰路だったと思いますが、信長の部下の滝川一益だったと思いますが謀殺されました。


村の神事で「大山祇大神」?も出て来ました。

このずっと西が奈良県吉野ですから何重にも父方母方で関係した場所だなと感慨深かったです。


山の掟なども描かれていて、良い作品でした。
古代日本人の過去にちょっと触れた感じです。



この作品は2010年にNHK-FM放送「青春アドベンチャー」でラジオドラマ化、
2014年に『WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜』(ウッジョブ かむさりなあなあにちじょう)のタイトルで染谷将太主演で映画化された。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E5%B1%B1%E5%9F%8E

霧山城(きりやまじょう)または多気城(たげじょう)は、伊勢国一志郡多気(現在の三重県津市美杉町上多気および美杉町下多気[1])にかつて存在した日本の城。城跡は国の史跡に指定されている(史跡「多気北畠氏城館跡」のうち)[2]。

伊勢国司から戦国大名となった北畠氏の本拠地であり[1]、16,000騎を有する大将にふさわしい城郭であった[3]。


多気は伊勢国と大和国を結ぶ伊勢本街道沿いにある交通の要所であると同時に、7つの経路のどれをとっても峠越えとなる天然の要害であった[3]。城郭本体だけでなく、麓の城下町まで含めて、大要塞を成していたとも解釈できる[4]。城下には3,500戸ほどが建ち並び、700人から1,000人の家臣が暮らしていた[5]多気から南西へ16里行けば南朝の拠点である吉野へ、南東へ12里行けば伊勢神宮へ至ることから、どちらで非常事態が発生しても1日で駆け付けることができた[3]。南朝へ米や海産物を運び込む上でも好都合であった[6]。また北朝の都・京都に比較的近いことも利点の1つであった[3]。

城の名前は『三国地誌』・『勢陽五鈴遺響』では霧山城と多気城の両方が用いられている[1]。北畠氏の本拠であり、240年に渡り難攻不落の城としてそびえたっていたが、織田信長勢に攻められて落城した[7]。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E6%95%99

北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。


享禄元年(1528年)第7代当主であった参議・北畠晴具の長男として生まれる。

天文6年(1537年)従五位下・侍従に叙任。以後も天文21年(1552年)従四位下・参議に叙任されて公卿に列し、天文23年(1554年)に従三位・権中納言に叙任されているなど、朝廷から官位を授かって順風満帆な青年期を過ごした。この間の天文22年(1553年)父・晴具の隠居により家督を相続して第8代当主となる。

弘治元年(1555年)父・晴具の命により伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558年)に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで勢力を拡大し、永禄5年(1562年)5月5日に長野稙藤と長野藤定が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による暗殺説もある)。また永禄3年(1560年)には、小浜景隆ら志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の九鬼浄隆は戦死、弟の九鬼嘉隆は逃亡)志摩国での支配体制を固めた。さらに『勢州軍記』「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に大和国宇陀郡の国人領主・秋山教家が三好氏の婿[2]として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた。

永禄6年(1563年)嫡男の具房に家督を譲って隠居する。しかし北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。

ところが、永禄11年(1568年)以降尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。上洛を目論む信長は、北畠氏がその障害になると考え、永禄12年(1569年)北畠領内への侵攻を開始した。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末、遂に降伏した。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる。具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄(茶筅丸)に嫁ぐこととなった。

その後、元亀元年(1570年)5月に出家して天覚[3]、更に不智斎と号し、三瀬谷(現在の三重県多気郡大台町)に移る。しかし、少なくとも天正元年(1573年)9月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年(1575年)6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている[4]。また、天正3年(1575年)に具教は隠居城として伊賀国丸山城の築城を決め、同地域の土豪を説得、天正4年(1576年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。

天正4年(1576年)11月25日に信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代)ら)たちの襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害され、これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。

なお具教の首級は、加留左京進の家臣である伊東重内らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた芝山秀時、大宮多気丸らに奪い返され、秀時の父である芝山秀定により御所尾山に埋葬された[3]。



具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護・援助していた。自身も塚原卜伝に剣を学び、奥義である一の太刀を伝授されたといわれる剣豪であり、他にも上泉信綱からも剣を学んだ。具教は、領土が隣接する柳生宗厳とは剣を通じて親交があり、上泉信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたといわれる。織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたという[5](刀の刃が腹心の佐々木四郎左衛門尉により潰されており、抵抗できずに斬殺されたとも[1])。
暗殺された20年後、上三瀬の具教の末裔を名乗る住人が具教の菩提を弔うために現在の大台町にある北畠神社の場所に国司堂を建てたとされる[6]。

父:北畠晴具[7]
母:細川高国の娘[7]
妻:六角定頼の娘[7] 男子:北畠具房[7](1547-1580)

生母不詳の子女 男子:長野藤教[7](1552-1576) - 長野藤定の養子
男子:北畠親誠[8](1560-1576)
男子:北畠具成[9]
男子:徳松丸[8](?-1576)
男子:亀松丸[8](?-1576)
女子:堀江教賢室[9](?-1619)
女子:田丸具安室[9]
女子:飯貝門跡室[9]
女子:津川玄蕃室[9]
女子:雪姫(?-1592) - 織田信雄室[7]
女子:不破直光室
[22]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月06日 21時13分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今から434年前、天正9年(1581年)9月、織田軍は4万余の兵を4軍に
分け、4つの峠から伊賀に攻め込んだ。
 その4軍の編成は―
 @甲賀(こうか)口・・・北畠信雄、滝川一益、甲賀衆・・・・・・
 A信楽(しがらき)口・・・堀秀政、多羅尾光太・・・・・・
 B加太(かぶと)口・・・滝川雄利(かつとし)、伊勢衆・・・・・・
 C大和(やまと)口・・・筒井順慶、大和衆・・・・・・
 甲賀口には全軍の半分以上、即ち2万以上が集まったという。
 滝川一益は甲賀忍者と書く本もある。人を殺して村を追いだされ、諸国を
流浪して信長に仕えたという。何か特異な能力があったには違いない。人を
説得する(だますことも含めて)ことのできる口達な人物だったかも知れない。
 天正11年(1583年)に滝川一益は秀吉に下っている。

 いずれにしても、天正伊賀の乱の後、徳川家康には次々と局面の変わる
事態が訪れる。秀忠出生、築山殿殺害、信康切腹、高天神城の戦い、本能寺
の変、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い・・・正に怒涛の
時代であった。
 この辺の表と裏が日本の歴史のヘソであると思います・・・。

 それでは―
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月07日 08時57分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


>いずれにしても、天正伊賀の乱の後、徳川家康には次々と局面の変わる事態が訪れる。
>秀忠出生、築山殿殺害、信康切腹、高天神城の戦い、本能寺の変、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い・・・
>正に怒涛の時代であった。

はい。


やっぱり人間関係は大事ですね。
日頃からいろいろな局面で役立つ人材を手持ちにしてないと、間に合わないです。
友達の向うにいる役に立つ人材というのもいますしね。
またちゃんとそれだけの能力を備えていなきゃ付け焼刃では間に合わない。

友達はたくさん欲しいですね。


昨日は Wood Job! というドラマを見て
忍者が姿を消すという謎の1つが分かりましたよ。

   木に登る
   木と一体になる

樵が高い木に登って枝打ちをするのに自分と木を結ぶ輪っかを忍者は持っていたのだろうなと。

山の中で追手が来ても木に登れば敵の視野から逃れられますからね。
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月07日 22時05分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は400キロの旅でした。ちょうど信州の飯田へ行ってきた時とほぼ
同じ。そんなに遠くはない。時間にして片道2時間半(内、下道30分)。実
際には、四日市と鈴鹿の間でいつもどおりの渋滞で、プラス30分の3時間。
 帰って来て総括してみましたが、満足度は70点くらいか。図書館へ寄っ
て調べものをする予定が、今回はできなかった。一番初めに寄った敢国神社
と南宮山に時間をとられてしまったのが原因・・・。

 今少し書こうとしましたが、昨夜来からの睡眠不足やら運転疲れ、山に登
った疲れで眠くなってきましたので、明朝にいたします。おもしろい話はい
くつか拾ってまいりましたのでご期待?下さい・・・。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月07日 22時24分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


400kmですか。
お疲れでしょうね。
しっかりお休みください。


鈴鹿出身のアルゼンチン人の田中という知り合いがいます。
父にそっくり!
2人を並べたら全く似ていないのでしょうけど
皮膚の下の骨格が同じなんでしょうね。

   祖父と父親が海軍で
   海軍と陸軍が喧嘩をした時に軍人は辞めて帰農して
   戦後アルゼンチンに渡ったんですが

三重県人会にも属し
マラソンの瀬古とも知り合いで
鈴鹿の本家には里帰りする人で


まさかワタクシの先祖が鈴鹿にいたというのは知らなかったです。
知っていたらDNAが共通していたということで納得したのに。


ホントに隠れていることってたくさん有りますね。
1枚、覆いがあるから正体が分からない。

でもこの覆いをどうやって矧ぐか
これが難しい。


お仕事がある身では時間が限られますからなかなか100%満足な調べものが出来ませんが
逆に定年退職して時間があり過ぎると逆にいつでも出来ると思って行動出来なくなります。

大変でしょうが、次回、しっかり準備なさってカバーなさってください。


ご無事でお帰りになって安堵しております。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月08日 09時03分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 瀬古さんにはある元陸上選手の結婚式でお合いしたことがございました―

 さて、今回の旅の目的は、全体としては「芭蕉についての情報収集・蓄積」
でありましたが、その他にも伊賀・服部・忍家についての情報収集という目的
がありました。それらの中で、これだけは今回是非やり遂げたいと心に決めて
いた行動基準は次の通りであります―
 @敢国神社に行き、修験関係の気配があるかどうかを調べること。
 A天正伊賀の乱の時に信長が登ったという南宮山に登ってどんな感じか体験
  してみること。
 B小宮神社に行き、神主であった服部氏の関係の情報を拾うこと。
 C芭蕉の記念館他一連の建物を見に行き、芭蕉の時代・生活を肌で感じる
  こと。
 D芭蕉が『貝おほひ』を納めたという上野天神社に行き、何か情報はないか
  調べること。
 E服部土芳の蓑虫庵を訪ね、土芳・芭蕉の交流の状況を知ること。
 F上野図書館に行き、芭蕉の祖先を調べること。また、服部氏に関する新た
  な情報を収集すること。

 これらについて、順番に報告して行きます。
 まずは―

 @敢国神社について
   一年前にも敢国神社に来ていますが、ああこんな所かで終わっており
  ます。今回は、修験関係に的をしぼっておりましたので、特に「諏訪」
  との関係について調べようと、「甲賀三郎兼実」の祠を探し回りました。
   天気は曇っておりましたのでまず雨は大丈夫と思っておりました。軽
  くて折りたたみ式の自転車を購入して積んで行きましたので、自転車で
  の境内散策となりました。駐車場から本殿までは境内が細長く続いてい
  る。全体的には上り坂となっている。人の姿はまばらであるが、今回は
  五〜六人の黒装束の人に出会った。多分「黒党祭(くろんどまつり)」の
関係者であろうと思われた。今年は11月の23日に行われるそうであ
る。もともとは「服部氏族」のみの祭りであったという。黒装束は何を
  意味しているのであろうか・・・ストレートに忍者?。
   「くろんどまつり」は来年見てみたいと思っています。11月の下旬。
  糠(ぬか)漬けの日野菜もうまくなる季節です・・・。
   さて、探し物はどこにあるのか、境内には末社がたくさんあったけれ
  ど、肝心な「甲賀三郎兼家」を祀る社が見つからない。ひょっとして、
  本殿に祀られているのかと思い、本殿前の拝殿に歩を進める。手水舎(ち
  ょうずや)で手・口を清め、拝殿に、硬貨を「二枚」賽銭箱に投入し、二
  礼二拍一礼をする・・・。神殿で小太鼓を叩く音がした。どちらかとい
  うと祈祷に合わせた叩き方のようなリズム・調子である。一人の神職が
  見えた。祈りを捧げていた。
   拝殿の右側に回りこんで本殿を見る。すると本殿横に小さ目の祠が目に
  入った。たぶんこれが・・・と思いながら。何枚か写真におさめる。
   神職の小太鼓は終わっていた。拝殿を出るところだった。勇気を出して
  訊いてみた―
   「すみませんちょっと教えて下さい。本殿横に祠がありますが、あれは
  甲賀三郎兼家をお祀りしているのですか?」
   神職は、やや目を見開いて私を見据え―
   「そうです。」
   私はこの際とばかり、続けざまに質問をした―
   「南宮山へは車でいけますか?」
   即座に答えは返って来た。
   「車では行けません。」
   「では歩いて行くにはどちらの方から行けばいいでしょぅか?」
   「―神社の鳥居を出て左へ曲がり、コンクリの道をしばらく行くと、
   やがて細い林道に変わります。そこの右手に山への登り口がありま
   すので・・・今の季節、落ち葉ですべりやすいですよ―」
   一応これで南宮山へ上る方法がわかった。
    敢国神社と諏訪の関係については、甲賀三郎兼家を本殿と同じ位置
   て祀っているということで、並々ならぬ背景がそこにあることを感じま    した。
  

 次回は「南宮山」の話になります。
 
 本日は、これからフェスタ佐久間へ出かけ、「そば」を食して来ます。
  
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月08日 10時27分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


消してしまいました。不思議




甲賀三郎兼家、
敢国神社に祠があって良かった。
安堵しました。



「黒党祭り」は観光客用に<も>あって良いと思います。
それでお金を集めて欲しいです。


http://www.youtube.com/watch?v=9XgG1W1Or00
物部の子孫だと言ってますよ。
上服部ですって。


    だからワタクシにとって敢国神社って違和感があるのかなぁ、と思いました。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月08日 10時37分59秒 ) パスワード

http://www.ninja-museum.com/ninja-database/?tag=%E9%BB%92%E5%85%9A%E7%A5%AD
忍者オフィシアルサイト


この「史跡」のサイトがいいです。
花垣神社
千賀地城跡
甲賀稲荷社
五右衛門塚の画像が怖かったです


2ページ目の
比自山砦     天正伊賀の乱で北伊賀の地侍達が立籠もり最も果敢に戦った
百地砦跡

3ページ目


いろいろ参考になりますよ。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月08日 10時45分32秒 ) パスワード

忍者の人物の木津家もなかなか面白いです。


      千賀地の服部関係で出て来たんでしたっけ?保田家関係で?
     

玉瀧にある伊賀で残る最大の土豪屋敷。玉瀧は玉瀧庄として東大寺領荘園であった。しかしながら、争いが絶えなかった。

『東大寺文書』には、興福寺や北接する近江信楽庄と争いがあったとある。南北朝時代には、守護仁木義直・悪党服部持法が東大寺より玉瀧庄を押領し、東大寺が訴えるが実効はなかった。

木津家はその流れを引くと考えられる。一説に木津川下流の木津一族が戦国時代、上流伊賀に一族の勢力を拡大したともいう。

いずれにせよ、玉瀧の木津家が本家であろう。木津家には、天文13年(1544)の宮座文書がある。敢国神社の次第に、客人として伊賀有力土豪「喰代ももち殿」の名等が見える。

江戸時代には、藤堂藩伊賀者として、『高山公実録』や城下町絵図に、木津伊兵衛の名がみえる。寛永13年の分限帳に、伊兵衛以外に伊之助がみえる。伊兵衛の一族だろう。




http://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=551
曽我一族のところに  修験者の名が出ています。

下阿波には代々藤堂藩に伊賀者として仕えていた阿波庄右衛門、植田覚左衛門、曽我五郎兵衛の3人の伊賀者の名が、『宗国史』や『伊賀付差出帳』に記される。

曽我五郎兵衛は、慶長19年(1614)にも記されている。大坂夏の陣の戦闘要員であっただろう。

3人の伊賀者うち、五郎兵衛だけが、上野城下の忍町に、伊賀者屋敷の一人に名を連ねている。

曽我家はその後、200石取として、藤堂藩軍師に出世しているのも特筆される。曽我一族の菩提寺の神幢寺(じんのどうじ)は天正伊賀乱にて焼失したが、
その後、修験者林昌院が再興。侍墓ともいわれる。
 
          曽我一族関係者でしょうか?



同寺の墓地には烏八臼(うはっきゅう)と俗称される字を頭に入れた珍しい石碑がある。これは救縛の故事になぞらえた成仏保障の呪文。


[30]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月09日 00時26分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 [26]の訂正:「合った」→「会った」

 伊賀は、四日市―鈴鹿での渋滞がなければ、距離的には200キロですの
で、ひとっ走りで着いてしまう距離だと感じました。
 一人で調べに行ったのは今回が初めてでありましたが、伊賀の地図を見れ
ば、まだまだ行って調べたい所が沢山ありますので、今後、5回位は行きた
いと思っております。

 曽我氏、木津氏・・・調べれば調べる程知らないことが出て来ますね。そ
こがおもしろい所ですね・・・。

 さて、南宮山でありますが、標高300m強の山。登り始めると結構きつ
いというかアップダウンがなくアップばかりなので、踊り場のような遊びが
ない。しかも道が水分を含んでいて川床のよう。所々にイノシシの掘った穴
というかほじくった跡がある。かなりたくさんの跡である。急にこわくなっ
て来た。猪が突然出てきたらどうしよう・・・という訳で大きな声を出しな
がら登って行った。中腹よりさらに急傾斜になる。竹棒を拾い、杖とする。
 登り始めて20分ぐらいと思われるが、やっと頂上の尾根に到着した。
 木が生えているので、見通しがよくない。北の方から自動車の走っている
音が聞こえる。少し北へ移動。すると林の間から伊賀の田園が切り取ったよ
うに見えた。
 信長の時代には、この山頂はもっと見晴らしが良かったに違いない。信長
は、ここより伊賀の盆地を見渡しながら、これから始まる焦土作戦・皆殺し
作戦に血を沸騰させたに違いない。
 ホラ貝の音、人馬の音、雄叫びが地底から湧き上がって来るようだった。
一体何人の伊賀の民衆が郷士が亡くなったのだろう。二度目の乱ゆえ、あら
かじめ逃げだした者もかなりいたのではないか。身寄りを頼って近隣諸国へ
逃げこんだ人も結構いたのではないか・・・でも憎き信長軍に徹底して戦っ
い死んでいった人達も沢山いた・・・。
 誰もいない山頂にて、戦いで亡くなった戦士や伊賀住民の霊に対し、ゆさ
ぶるように般若心経を「二巻」唱えた・・・。
 般若心経を上げ終わると、もと来た道をたどって下り始める。大きな声で
不動明王真言「ノウマク、サンマンダー、パーザラダン、センダー、マー
カロシャーダー、ソワタヤ、ウンタラター、カンマン」を唱えながら下った。
 ところがである。途中どういう訳か道を間違えてへんな所へ出てしまった。
山あいのやや開けた所である、背の高いススキのような草が密集して生えて
いる。やや遠く、草の間に人影のようなものが見えた。他人の土地だったら
まずいと思いながら、まあその時はその時とばかり、草をかきわけ進み出し
た。人影はじっとして動かない。ちょんまげを生やしているようだ。ひょっ
として落武者か?・・・寒気が襲った。そこで不動明王真言を大きな声で腹
の底から絞り出すように張り上げた・・・勇気がみなぎって来て、何があろ
うと怖くない状態になった。矢でも鉄砲でも幽霊でも化け物でもといった感
じで戦闘モードに・・・鳥肌の波がブルブルと襲った・・・。
 足早に駆け抜けようと、その人影の横を通る・・・見れば、マネキン人形
に衣装を着せた百姓風の案山子である。リアルすぎる案山子・・・侍に見え
た、落武者と見えた・・・こちらの勝手な想像・邪念。でも一瞬戦国時代へ
タイムスリップしたようであった・・・幸い数分後には現在へ戻ることがで
きましたが。
 コンパスはいつも携えているので、方角はわかった。北へ向かう。田んぼ
道に出た。民家も現れる。そこがどこかわかった。登り口の反対側の山すそ
に下りていたのである・・・それも一キロ程も離れて。


 次は、小宮神社と服部氏について記します。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月09日 04時39分27秒 ) パスワード

頂きました:
以下コピペ

http://www.nippon-bunmei.jp/topics/turedure/%E3%80%9068%E3%80%91-%E5%85%83%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%8E%9F%E5%83%8F%EF%BC%88%E4%BA%94%EF%BC%89-%EF%BC%8D%E8%A3%BD%E9%89%84%E5%8F%B2%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E7%A5%9E%E9%81%93.html

南宮・一宮に信濃の諏訪大社の関連について保存していたものです。


“スズ(鈴)”からの製鉄 産鉄 五十鈴

【68】 元伊勢原像(五) −製鉄史で読み解く神道− | にっぽん文明研究所



ひょっとこ踊り



鉄の起源は古い。数十年前に古代オリエントの膨大な粘土板文書が発見された。その存在が知らされ、現在のトルコ国内にあって忽然と消滅したヒッタイト帝国が、紀元前十五世紀ころには製鉄を始めていた。だが、十何年か前にヒッタイト以前の製鉄炉跡が新たに発見され、製鉄開始は数百年さらに遡る。かの地にはいまから四千年も前に精錬技術があった。それに較べて中国での製鉄開始は、一千年以上遅れる。日本にその技術が導入されるのはさらに遅れるが、鉄器だけは縄文晩期に中国、朝鮮を経て輸入されていたようだ。



皇學館大學で教鞭を執られ、八坂神社宮司を経て現在は住吉大社の宮司職を務められる真弓常忠先生は、ご自分の視点から、倭姫命の巡幸地は、原始的な産鉄の地だったと謂われる。鉄分の多い河流や湖沼の水辺には葦や茅が生えている。それらの根元の茎に、微生物の作用で付着した褐鉄鉱石を含有した“スズ(鈴)”が筒状に蓄積され生育していく。古代の製鉄は、このスズ(鈴)を原材料に生産されていたという。当時の土器を焼く程度の熱度で鉄に還元されたらしいが、大量の植物材を火に燃やすだけで鉄を抽出する、まさに原始的な製鉄法だ。それは五・六世紀の帰化系の技術者による当時の進歩的な製鉄技術で普及した、磁鉄鉱石からなる砂鉄での「たたら製鉄」が行われる一時代前とのことだ。



この後に主流となるたたら製鉄は、さらに高い熱度の火力を得るためには簡単な溶鉱炉でも送風装置を必要とする。初めの頃は長いあいだ、もので煽ぐ方法や人間の口で筒などを使って吹くシンプルな方法が採られていた。大学に戻っていたとき三橋健教授が、“ひょっとこ”の語源は、たたら製鉄での“火を吹く男”が転訛したと言っていたことを覚えている。ひょっとこ面を付けて踊るユーモラスな安来節は江戸時代の末期に完成したが、どじょう掬いは“土壌を掬う”で、上古から出雲地方に伝わる川中の砂鉄採取の砂鉄と砂を振り分ける動作を取り入れたものだ。火吹き男が口で吹く作業も、後には進化してフイゴを用いるようになる。そのフイゴには鹿皮が最良とされた。鹿と製鉄もまた深い関わりがあった。鹿は藤原氏の象徴ともいえるが、藤原氏も当然武器を造る鉄の生産に関与していた。



鉄にまつわる説話には、倭姫命にかぎらず多くの神々の姿が投影されている。真弓先生は、製鉄に先行して造られていた銅鐸の“鐸”とはサナギを意味し、イザナギ・イザナミの両神は、このサナギの神だと謂われる。また、銅鐸と同じように鉄鐸もあり、それらは褐鉄鉱石のスズを多く収穫できるよう祈願を籠めて造られたものだそうだ。



時折、お励ましのお手紙をくださる山陰神道の山蔭基央先生から最近またお手紙を頂戴した。常陸の鹿島・香取は鉄の集積地で、出雲・豊後の鉄とはどちらが古かったかを設問されておられる。そして神道は思想的には“畏み・恐み”であっても「国家経綸の大道」であり、太古神道は産業との関わりを無視することはできない、と言われる。国家の経綸は“兵道”にあり、兵道の基礎は“兵站”にあり、兵站の基礎は産業にある。さらに稲作は“水平を作り出す大土木工事”を主務とするもので、併せて道路や都の建設も大土木工事の事業であった、と仰る。



神道は時勢と共に動く。古代の争いや国造りの発展のために、神道も多くの神々がそれぞれの役割での働きを見せてくれる。それが史実と仮構が神道を絡めてない交ぜとなり、物語や伝承を生んでいく。日常生活の規範ともされる神道には、太古から持ち得ている“自然風土に宿る”神々の神威を頒かちあう信仰心と、“神と共にあるべき道”を探求して和を尊ぶ中庸の精神性が基底にある。“かくあらねばならぬ”という強制の確たる教義や教典を持たないことで、神道の曖昧さは抗争や排除より協調と融合の道を選ぶ。



弥生時代の後期、阿知使主(あちのおみ)は中国の戦乱を逃れ、十七県(あがた)の民を率いて帰化し、後の倭漢氏(やまとのあやし)の祖として大和朝廷に仕えた。政治経済の機構や軍事兵法の伝授を始め、製鉄製錬や土木建設、農耕養蚕、酒造、織物製紙など、あらゆる分野に帰化系の人々が当時の先端知識を駆使して仕事に従事していた。そのあたりのことは山蔭先生の大著『日本の黎明』や『日本神道の秘儀』に詳しいが、我われの先祖は、海外から渡来する人や文化や信仰を伴う宗教までも受け入れ、良いと思うものはそれを学んで吸収し、あるいは習合させ、風土に適した習俗や行事を新たに生み出して来た。それを定着させながら今日に到っている。



さらに真弓先生は、銅鐸が姿を消して弥生時代が終焉し、古墳時代がはじまったのは、さきのスズを採取しての原始的鉄生産から、砂鉄を採取する方法を会得したことによる、と謂われる。その後のいっそう大規模な製鉄技術は、天日槍などの神の名で語られる帰化系の技術者によって飛躍的に増大し、それは畿内では四世紀後半から五世紀初頭にあたり、“それが伊勢に及んだのが、外宮の鎮座を伝える雄略天皇の御世である。”という。



なぜか日本書紀には外宮の起源は書かれていないが、第二十一代の雄略天皇は五世紀後半に即位し、宋に上表文を送り『宋書』に記された“倭の五王”の一人の武王に擬せられている。多くの人を殺害して残虐な大王としても後世に名を残している。



さて、それでは原始的な初期の製鉄が行われ、倭姫命の巡幸と関わりがあったとされる時期とは、一体いつ頃なのか。当然それは当時を記した文書に拠るべきだろうが、はからずも『記・紀』の曖昧さを露呈させてしまう。



記紀の検証は、明治以降には万世一系の皇国史観に基づいて為されてきたが、戦後、それまでの神典から単なる古典に転落したことで様々な議論が沸騰した。第二代の綏靖天皇から九代開化天皇までは実在せず、後に創作された架空の天皇とする欠(闕)史八代説、初代神武天皇の即位が紀元前六百六十年ではなく、西暦百八十一年とする倍年説、天皇の不自然に長い寿命は、中国史書の“春耕秋収をはかり年紀となす”から半年を一年とする二倍年暦説などだが、天皇実在に破綻はないとする擁護説もまたある。



従来通りに神武天皇の即位を紀元前六百六十年として、日本書紀の記事に拠れば、紀元前九十七年に即位した十代崇神天皇の御世に天照大神の御霊代を皇女豊鍬入姫命に託し、倭笠縫邑に祀らせたのが紀元前九十一年。老いた豊鍬入姫命から離して天照大神を託された十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国の五十鈴川上に天照大神を祀ったのが紀元前三年前だ。時は弥生時代中期である。



(奈良 泰秀 H19年4月)


コピペ2:

“スズ(鈴)”からの製鉄

倭姫命の巡幸地は、原始的な産鉄の地だったと謂われる。鉄分の多い河流や湖沼の水辺には葦や茅が生えている。それらの根元の茎に、微生物の作用で付着した褐鉄鉱石を含有した“スズ(鈴)”が筒状に蓄積され生育していく。古代の製鉄は、このスズ(鈴)を原材料に生産されていたという。当時の土器を焼く程度の熱度で鉄に還元されたらしいが、大量の植物材を火に燃やすだけで鉄を抽出する、まさに原始的な製鉄法だ。それは五・六世紀の帰化系の技術者による当時の進歩的な製鉄技術で普及した、磁鉄鉱石からなる砂鉄での「たたら製鉄」が行われる一時代前とのことだ。



“ひょっとこ”の語源は、たたら製鉄での“火を吹く男”が転訛したと言っていたことを覚えている。ひょっとこ面を付けて踊るユーモラスな安来節は江戸時代の末期に完成したが、どじょう掬いは“土壌を掬う”で、上古から出雲地方に伝わる川中の砂鉄採取の砂鉄と砂を振り分ける動作を取り入れたものだ。火吹き男が口で吹く作業も、後には進化してフイゴを用いるようになる。そのフイゴには鹿皮が最良とされた。鹿と製鉄もまた深い関わりがあった。鹿は藤原氏の象徴ともいえるが、藤原氏も当然武器を造る鉄の生産に関与していた。



原始的鉄生産から、砂鉄を採取する方法を会得したことによる、と謂われる。その後のいっそう大規模な製鉄技術は、天日槍などの神の名で語られる帰化系の技術者によって飛躍的に増大し、それは畿内では四世紀後半から五世紀初頭にあたり、“それが伊勢に及んだのが、外宮の鎮座を伝える雄略天皇の御世である。”という。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月09日 04時53分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


般若心経、わたくしの分も、ありがとうございました。


実は拝見しながら、伊賀の知り合いが

     ホラ貝の音、人馬の音、雄叫びが地底から湧き上がって来るようだった。
      一体何人の伊賀の民衆が郷士が亡くなったのだろう。二度目の乱ゆえ、あらかじめ逃げだした者もかなりいたのではないか。

     身寄りを頼って近隣諸国へ逃げこんだ人も結構いたのではないか・・・
 
     でも憎き信長軍に徹底して戦い死んでいった人達も沢山いた・・・。


この光景が見える人の話をしてくれたことがあったので背筋がゾッとしました。



コンパスを持っていたのに登り口の反対側に出たってどうしてなんでしょうね。
天正伊賀の乱の時、信長方はまさに「案内人」が必要だったということでしょうね。
山自体が忍者なのかも。コンパスさえ使わせないような。

何か不思議な力の働く山なのかも知れないですね。
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月09日 07時00分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 産鉄の話、非常にわかりやすくまとまっておりますので理解が進みます。
 よく読ませていただきます。ときおさまの言われるように、三つのタイプ
の製鉄があったということ。家康の租、鴨族も水辺で植物から鉄を精製して
いたということらしいです。古代の人の知恵は、現代人をはるかに超えます。
大学で勉強・研究した訳ではありませんのに。金属精錬の歴史、ヒッタイト
時代から一度把握する必要がありますね。錬金術の歴史と近似するかも知れ
ませんが・・・。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月09日 16時37分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 敢国神社には、芭蕉の句碑がありました。境内への入り口付近でありま
す。その歌碑には、次の句が刻まれておりました。

 「手ばなかむ おとさへ梅の にほひかな」

 その句諏として次の解説が書かれておりました。

 「早春のこととて、梅の花が今盛りを迎えている。その匂いの中に立っ
ていると、傍らでふと手鼻をかむ音がした。そんなはしたない音さえも、
田舎らしい趣が感じられてくる。」

 次の小宮神社へは下道で車で20分くらいであった。服部川(結構大きい
川)に囲まれるように服部村がある。服部姓の者としては、服部川と服部村
は本当に生まれ故郷のゆりかごのように気持ちいい。幸せな気分になれる所
である。
 服部というバス停があった。その横が小宮神社と公民館である。その公
民館の駐車場に車をとめ、神社に向かった。

 一旦ここで切ります。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月09日 22時43分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


「手鼻かむ」というのは  「 Wood Job! 」で伊藤英明がやってました

ああ、ああいうのが「手鼻」かと初めて知りました。



>服部川(結構大きい川)

一級河川だった記憶です。
一級河川は<国>が管理してたけど、今でもそうなのかしら?

     建設大臣、なんて今は存在しないですよね。

昔見た時は、草の生えた土手があって、フツーの川のように思いました。
今はコンクリの土手かもですね。


では続きを楽しみにしております。
[36]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月10日 02時20分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 小宮神社は「おみやじんじゃ」と読み、この「おみやじんじゃ」の中に、
今度は小宮神社「こみやじんじゃ」があった。
 小宮「こみや」は浜松にもあるので、どういういわれか知りたいもので
ある。
 「おみや」は麻績「おみ」から来ているという説もあるようです。
 いずれにしても、服部氏の神社であることには間違いない。御祭神は呉
服姫命である。

 本殿の前に行くと、社紋の入った幕が目に入った。それは「丸に並び矢」
であった。屋根の瓦にも「丸に並び矢」紋が付けられていた。
 お賽銭を「二枚」投げ込み、二礼二拍一拝。祖先の霊に深く祈りを捧げた。

 伊賀の「呉服明神」とは、この呉服姫命を祀る小宮神社のことであろうか。
これについては百パーセントの確信はございませんが、神君伊賀越えの時
に同行した「服部貞信」が神官を務めていた。この美濃守貞信については、
あまり情報が入手できておりません。詳しく知りたいところですが。

 本殿の東側に「皇大神宮遥拝所」と書かれた大きな石碑が建っていました。

 小宮神社の南側に「服部町公民館」があり、何か集りがあるようで、厨房
からは、お蕎麦のツユを煮ているのようないい匂いがしておりました。
 ついでに、公民館の玄関の中に入って何か情報は落ちていないか調べる。
 すると、壁に自治会名簿が貼られていた。十七班あり、その中には「服部」
は残念ながら見あたらなかった。この服部村に服部がいないという現象は、
各地で結構あるようである。どうも中世、源氏に象徴される武家の世の中にな
り、今までの朝廷・貴族の荘園等の土地所有体制がくつがえされた。即ち、
武家の荘園所有、そしとて御家人への下賜というように所有者が変わったこ
とが原因なのでろうか・・・。特に絹織物にたずさわっていた服部村は朝廷
への絹の貢ということで、朝廷直轄が多かったのではないか・・・。
源氏の世の中になって、服部・羽鳥関係の情報が消えてしまった・・・源氏
というと言いすぎというなら、武家の天下となってからと言ってもいい。
 いずれにしても、このことに関しては今後も探究して行きたいと思ってい
ます。

 とりあえずはここまで。次にはすごい発見に出会ったことを記します。

 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 06時15分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうなんですか。。。


服部に服部さん無しですか。
ガッカリ

http://myoji-yurai.net/myojiPrefectureRanking.htm?myojiKanji=%E5%B0%8F%E5%AE%AE

小宮とは
現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国多摩郡小宮村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)秩父氏流がある。

ほか現佐賀県と長崎県である肥前の豪族である日向氏などにもみられる。

「宮」は神社を表す。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 06時25分52秒 ) パスワード

小宮神社

        服部貞信の呉服明神が分からなかったのが残念です。


http://shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/158.htm

三重県の新羅神社(7)


@ 小宮神社と新羅

小宮神社は伊賀市服部町に鎮座。(式内社・伊賀国拝郡鎮座)。

伊賀上野の寺町から芭蕉翁生家を過ぎると服部川である。旧の大和街道であろうか。服部川は現在では川幅は広いが、花畑やグランド、雑草などが生い茂り水の流れは細い。服部川に架かる橋を渡ると神社の森が見える。広い境内地で道路に沿って石の玉垣が100mくらい続いている。小宮神社玉垣はコンクリートの土台の上にある。中央に石造りの大きな明神鳥居があり、鳥居と道路の間にこれも石造の、幅1mくらいの太鼓橋がある。鳥居の両側には石灯篭が置かれ、左側の灯篭の左手に石碑があり、延喜式内小宮神社と刻まれている。参道には狛犬や石灯篭が並び、小粒の砂利道である。右側に橿原神宮遥拝所と刻まれた石碑が西向きに立っていた。杉の大木の間を入ると神社の社殿が左側にあり、社務所や参集殿が右側にある神社参道を真っ直ぐに進むと駐車場があり、その背後は田んぼである。参道は東向き、社殿は南向きである。入母屋造りの拝殿は比較的大きい。瓦屋根で中央に太めの注連縄と鈴と麻縄が吊り下げられている。左右は白壁とガラス窓の壁である。簡素な登り高欄と宝珠柱や架木があり板の間に玉ぐし案がおかれている。玉ぐし案の上にある頭貫に大きな額が掛けてある。金色で仰霊と書かれている。拝殿の奥の梁には中央に金縁の立派な大きい扁額が掛けられており、太い金色の文字で小宮神社と書かれている。その右側に蛭子社、左側にも扁額があり、春日社、狭伯社、津島社の三社の名が書かれている。拝殿の手前に手水舎がある。拝殿の背後に石造の玉垣があり、本殿は流造であるが、屋根には千木や堅魚木などがついている。中には組高覧などがついている。


唯一神明造に似た建物である。境内社は本殿の左右に一社ずつあり、右側の神社は切妻造の覆屋の中に流造の社殿がある。蛭子社である。右側の神社は切妻造で石垣の上に石の玉垣でかこまれて建物がある。

こちらは同村字夏ハセ四九七番地鎮座の狭伯社(建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命)にその境内社であった津島社、と大字服部字中之房の春日社を合祀したものである。

                     津島社?



神社の祭祀氏族と新羅

 私が訪ねた時には、本殿の杉の大木が根を張りすぎて、石の玉垣を壊すということで、この大木を除く工事をしていた。総代と思われる人がおり、由緒書はまだ作っていないとのことで、神社の説明をしてくれたが「インターネットをみていただいた方が良くわかります」と言われて時代の流れを感じた。


それでも、ここは服部町の中心部で、この神社は服部氏の神社である。祭神は呉服姫命であるという。呉服と書くのは服部のことで、近くを流れる服部川もかつては呉服川といっていた。この姫は応神紀三十七年に高麗国に渡り呉に行き、呉の王から縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えたとの記載がある。しかし、祭神については、「惣国風土記」に園韓神とし、「延長風土記」には服部氏の祖先が小宮大明神と狭い伯大明神を祀ったとする(建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命)。


また、「伊水温故」は秦酒君の霊社で服部氏の祖神なりとし、
「三国地誌」が俗伝として諏訪大明神というのが小宮宮で、
牛頭天王というのが狭伯神と伝えている。


                    諏訪大明神?
                    牛頭さんと言ったら津島神社?




「姓氏録」には大和国神別に「服部連。天御中主十一世の孫天御桙命之後也」とある。

園韓神については、延喜式で宮中三六座の中の園神・韓神のことであるが、
この二神は大和王権の時代から祀られていた秦氏系の神の可能性が強く、
平安京に移っても内裏の中に祀られていた。


この二神は元々、京都盆地に入植した秦氏が祀っていた産土神かもしれない。
伊賀の服部氏については阿拝郡服部郷にあり。呉織という言葉は、呉と織という意味の二つに分かれる。

「はとり」は機織りのことであるが呉とは当時の倭の五王が使いを出していた南朝の宋国であろうか。

南朝へ行くには海路が便利であり、高句麗を経由しても北魏があるので、直接には困難であることから考えるとこの呉はせいぜい高句麗のことであろう。

しかし、小宮社については、先に見た穴石神社の項で式内社の穴石神社は小宮神社との説もあった(度会延経「神名帳考証」)が、

「三国地誌」の引用している「天平風土記」に久礼波之登利須々杵川とあり、「伊水温故」所引の「伊賀記」に倶礼羽川とある。


                        くれはとり?
                        すずき?

更に、平城京出土の木簡に「伊賀国安拝郡服部郷俵」などがみられることから、当地には養蚕、機織の技術をもった集団として伴造秦氏の下にいた呉服部が居住していたものといわれる。

神社の祭祀氏族は勿論、服部氏であり、秦氏の一族として開拓と共に神の信仰も厚かったと思われる。

当社の祭神とされる園神・韓神は延喜式で宮内省に坐ます神とされている。


園神も韓神も新羅の神とされ祭神は大己貴命とされている。

もともとは農耕神であったのであろう。

ちなみに、当地の服部氏は寿永二年(一一八三)服部平康行が源氏に忠勤して御家人となり、東大寺の領地を侵略したらしい。


服部氏も全国にみられ、大和では山辺郡に服部郷があり、波止利と称し、
大和、摂津、河内、伊勢、伊賀、駿河、武蔵、など全国的にみられるが、
元来機織り部門を担い機織部からハトリベとなり、綾部、錦織部、衣縫部、赤染部などに名残をとどめる。




A 敢国神社

この神社は伊賀市一之宮に鎮座している。佐那具にある御墓古墳が比較的近い。

小宮神社から車を使って一〇分くらいで着く。旧大和街道の国道25号に近い場所にある。広い境内地は南宮山の山裾の丘陵地である。伊賀の一宮だけあって、立派な社殿が並んでいる。表参道と裏参道がある。神社の駐車場が西にあり、その前から裏参道が登っている。「元国幣中社敢国神社」と刻まれた石碑があり、隣に、三段の石段に乗った石の灯篭があった。一番低いところが、集落のあるところに面した道がある。表参道と書かれている。


敢国神社 参道となっている道路の東側は民家が並んでいる。石灯篭を過ぎると芭蕉の句碑が石を並べた土台の上に立っているが、苔が生えて文字の判読が難しいためか、横に説明板が建てられている。「手ばなかむおとさへ梅のにほひかな ばせを」。しばらく東に歩くと朱塗りの黒木鳥居とこれも朱塗りの一間社流造の神殿、木の灯篭も朱塗である。境内地の周りには池がある。市杵島姫者(弁天社)である。参道の東の端に朱色の両部鳥居がある。金色の文字の扁額がかかっている。東隣は手水舎。鳥居のしたから見上げると真っ直ぐに石段が伸びていて、はるか上段に社殿がみえる。鳥居から少し北に入ると左手に社務所と崇敬者会館が一緒になった大きな建物がある。


社務所で由緒書をもらった。拝殿に登る石段の右手に石碑があり、御神水井戸 敢国神社と書かれて四隅を注連縄で囲んだ四角い井戸があり蓋をしてある。その奥に注連縄のかかった一つの岩があり、石の玉垣で囲まれている。桃太郎岩という。説明板には「古伝により、この桃太郎岩は今を去る五百五十年前、南宮山頂(前方に聳える山)からお遷申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩として全国各地より信仰を集めて居ります。御祈願を社務所のかたに…」とある。

神社の栞には南宮山上に鎮座の木華開耶姫命を祀る浅間神社から霊を遷したと記されている。

長い石段を登ると大きな境内地があり、唐破風の庇を持つ大きな拝殿と背後に祝詞殿がある。その背後には玉垣で大きく囲まれた中に三社殿が建てられており、中央が本殿、左が九所社、右が六所社である。拝殿には大きな扁額(敢国大明神)と白地の布に菊の紋章の入った幕が垂れていた。拝殿の内部の奥の梁に大きな扁額が掛けられており、中央に大彦命、右に少彦名命、左に金山比・命の三柱の神名が書かれていた。祝詞殿の階段の奥に本殿の建物があり、切り妻、平入りのような建物である。社殿は全て南向き。拝殿の前から西側へ裏参道が下り坂になって伸びている。拝殿の隣には、神饌所、神輿蔵、若宮八幡宮、子授けの神、神明社、大石社などが並んでいる。「南宮山の浅間神社はとても登れませんよ」と言われ、登るのを止めた。



秦氏族の祀った神

神社の由緒については、神社の栞に概略、次のように記載されている。「当社は今から千三百年以上前の七世紀の中頃、六五八年に創建された。創建当時は大彦命・少彦名命の二柱であった。創建以前、当社の主神である大彦命は三五〇年頃第八代孝元天皇の長子として大和国に生まれたその子の建沼河別命と共に北陸東海を征討する役目を負われ四道将軍の一人として第一〇代崇神天皇の命をうけ、東国の攻略をされた。


この大彦命が大和朝廷に帰服(第七代孝霊天皇)して以来、伊賀の国を本貫の地として居住、子孫は伊賀の国中に広がった。伊賀国の阿拝郡を中心に居住し、阿拝氏を名乗るようになった。古代伊賀地方には外来民族である秦族が多数居住しており、彼らが信仰する神が当社の配神である少彦名命であった。

当時は現在の南宮山の山頂付近にお祀りしていたが、創建時には南宮山から現在地に遷してお祀りして現在に至っている。私たち伊賀人はこの二神の混血の民族であります…其の後南宮山の神社跡には美濃国の南宮社の主神である金山媛命を勧請した…九七七年にこの媛神社を合祀した…秦族は外来民族で色々な技術文化をてくれている。

例えば、伊賀の組み紐・伊賀焼・酒造などがある…芸能でも田楽の祖・観阿弥は伊賀の出身者で…」とある。まだ、続くが、要は、土着の神と渡来の秦氏族とが一緒になって伊賀の文化を作ってきたので、祖として祀ってあるという。この神社のある一宮地区は古墳が多く、昭和六年の県道の開通工事のために大岩古墳が消滅したが、古墳跡から須恵器、土師器が七〇〜八〇個、ヒスイ勾玉二個、メノウ勾玉数個、碧玉管玉一個が出土している。更に祭祀用の高坏や榊につけたと思われる臼玉などが見つかっている。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 06時27分09秒 ) パスワード

http://kamnavi.jp/en/mie/omiya.htm

おみや神社


文字化けで読めません。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 06時28分22秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/engisiki/iga/bun/ig070109-01.html

社紋は丸に並び矢ですね。

ここも文字化けしています。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 06時31分28秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/iga/omiya_title.htm


小宮神社   おみやじんじゃ
             三重県伊賀市服部町1158




式内社 伊賀國阿拝郡 小宮神社
旧村社

御祭神
呉服比賣命
配祀
健御名方命 大山祇命 健速須佐之男命



三重県伊賀市にある。
伊賀上野駅から南東に、直線2Kmの服部町にある。
服部川の北、服部バス停の前に鎮座。

境内入口は西側の道路に面している。
境内に入り、参道を東へ歩くと南向きの社殿。
拝殿後方、垣の中に、中央に本殿。
左に、狹伯社。右に、蛭子社。
本殿の幕には、並び矢の紋がついていた。

『惣國風土記』によると、天武天皇三年三月の奉祭。

社名、小宮は「おみや」「をみや」と読む。
祭神・呉服比賣命に因んで、麻績(おみ)から来たものだとか。
伊賀一宮・敢国神社の大宮に対する、伊賀二宮としての小宮であるとか。

祭神に関しても諸説ある。
『惣國風土記』では、園韓神。
『伊水温故』『伊乱記』では、服部氏の祖神として酒君。
『三国地誌』では、諏訪明神。
『神社覈録』では、天鉾御命。
現在の祭神は、服部の地名から、機織の神・呉服比賣命となっている。

境内に入って左手に、ひとつの境内社がある。
大事に祀られている様子だが、社名は不明。
『平成祭データ』には、摂末社として、3社記されており、
狹伯社、蛭子社の他に、小宮神社(こみやじんじゃ、祭神少彦名命)とあった。
本社が、小宮(おみや)で、境内社が小宮(こみや)というのは面白いが、
この境内社が、そうであるかどうかは知らない。
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月10日 11時11分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ちょうど一年前に伊賀に来た時は、伊賀市の中心街(上野城の城下)のお寺
を見て回ったので、今回は余裕があれば郊外のお寺、それも服部村のお寺を
回りたいと思っておりました。

 地図を見ると、小宮神社の西側、およそ300m程行った所にお寺があっ
た。寺の名前は「台上寺」。行ってみて驚いた。正門の隣に案内看板が建て
られ、その内容は―
 「服部六郎時定
  服部六郎時定の屋敷は、当台上寺域にあったと伝えられている。本堂の
 東と北に残る土塁は、東西に100m、南北に70mで堀跡と推定される。
 水田、畑地があって、中世土豪の屋敷跡とされ、当服部町に残る貴重な遺跡
 である。
  服部六郎時定とは、伝承上の人物で、「三国地志」には服部村の「宮城
 氏宅跡」を、時定後裔の地に当て、「伊水温故」には「源頼朝郷の従士、
 服部六郎時定、当郷の産出にて源氏服部の元祖也と記されている。「平家
 物語」の「泊瀬六代」には「信太三郎先生義憲が、伊賀の地へ落ちぬと聞
 こえしかば、服部平六、先として伊賀国へ発向す」とあり、義憲を現大山
 田村千戸の山寺で自害せしめた功により、平家領として没収された服部郷
 を復されたと言う。この服部平六時定と同人と伝承されて来た。確かに、
 平家服部一族は、その後の伊賀の各地に広がっているが、さらに先祖は、
 「源平盛衰記」巻一の「五範夜闇」にあらわれる「平六家長」とする話が
 加わり、平六家長、服部平六、服部六郎時定と三人が重なって来る。
  文治二年(1186)「吾妻鏡」に平六時定が大和の国宇多郡で源義経の聟(む
 こ)伊豆有綱を討って自殺させ、左右兵衛尉に任ぜられたとある。又、平六
 時定は、治承四年(1180)八月二十日に、源頼朝が伊豆から相模に向った時
 に従った一人(吾妻鏡)とされ、平六時定が文治二年(1186)頃、伊賀付近で
 活躍しており、それらが重複して服部六郎時定なる人物像ができたようで
 ある。それに台上寺の当地移転以前にあった土豪屋敷が服部一族と結びつ
 き、近世になって時定屋敷と言われるようになった。
  尚、当時の秘仏である「愛染明王」は服部六郎時定の持仏であると伝え
 られて、三十三年目に一度の御開帳時に、お姿を拝むことができる。
                       平成三年    台上寺」
と書かれていた。

 少し分かりにくいが、去年上田城にて購入した『伊賀旧考/伊乱記』(伊賀
に残されている藤堂藩以前の歴史資料はこの二種類しかない)を見ると、結局
のところ、次のようになる―
 「服部氏に「漢」「秦」の二流がある。応神天皇の御世に、酒君が絹を織
ったり、縫ったり、綿をつむいで糸にしたりする女達を連れて渡って来た。
 呉の国より来た織姫を「呉服」と呼んだ。漢朝より来た織姫を「漢姫」と
呼んだ。また呉服の姫達を「秦氏」とし、漢服の姫達を「漢氏」と呼んだ。
酒君はその両女を守護し、長として統括管理をした。そこに所務する者を
「部」と呼んだ。酒君は阿拝郡服部の里に領地を持ち、居住した。呉服の
「呉」と「部」の字を以って「服部」と称した。服部の里に「小宮」の社が
あるが、これは酒君の霊殿である。
 その後、遥かな世代を経て、服部氏に三流ができた。
 一つは、服部平内左衛門家長の流れ。
 一つは、服部六郎時定の流れ。
 一つは、敢国神社を祀る服部氏の流れ。
 この六郎平左衛門の一流と家長の一流は度々の兵乱で昔の種姓を忘れ、こ
とごとく家長の流れと化してしまった。」
ということです。
 この場合の呉や漢は、朝鮮半島由来ということだと思いますが、一度詳しく
探究したいと思っております。

 ここで切りにします。次は台上寺にあるお墓についてビックリした話を記し
ます。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 13時46分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


ビックリのお話をありがとうございました。

服部家が錯綜していることは3つの流れだけじゃないのかもですね。



>台上寺にあるお墓についてビックリした話

何でしょう?
楽しみです。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 13時53分09秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/iga/hibiki_title.htm

ここも社紋が丸に並び矢です。

比々岐神社
ひびきじんじゃ
三重県伊賀市北山1426


      北山って服部一族だったか忍者だったかで出て来たような。



式内社 伊賀國伊賀郡 比々岐神社
旧村社

御祭神
比々岐神
武甕槌神 経津主神 天兒屋根命 建速須佐之男命 大日孁貴命
速玉男命 事解男命 伊邪那美命 誉田別命 大物主神 大山祇神
火産靈神 市杵嶋比女神 綾門日女神 事代主神 宇迦之御魂神



三重県伊賀市にある。
伊賀上津駅の北東1Km。上津小学校のそばに鎮座。
木津川に沿って、旧青山町から旧大山田村へ向う道の側。
その道にも鳥居があり、そこから境内へ入った。
道を少し登ると、境内の左手に出る。
綺麗に整備されて明るい境内だったが、巨木もあっていい感じ。

表参道から入ると鳥居があるが、鳥居扁額には「八幡宮」とある。
参道を北東方向へ歩くと境内。正面に社殿がある。

創祀年代は不明。
一説には大宝年代(701〜703)の創祀という。
式内社・比々岐神社に比定されている古社。

明治三十九年、村社六社、無格社六十社を合祀したらしい。
明治の合祀のため三重県の神社の祭神は異様に多いのだ。
当社の現在の祭神も、覚えられないほど多い。

式内・比々岐神社としてのオリジナルの主祭神は、やはり比々岐神だが、
比々岐神に続く鹿嶋・春日の神々が勧請される以前は、
八幡宮と称していたらしく、鳥居扁額にも残っている通り。

『伊水温故』には、当地の地主の根源・由気忌寸を祀るとあるらしい。

伊賀国式内社に比自岐神社という社があり、
山を越えて、当社の北西3Kmの場所に鎮座している。
『式内社調査報告』では、社名の類似と距離の近さから、
比々岐は、比自岐の変化したものであるとする説も紹介している。

本殿には、並び矢の紋が付いていた。

参道には提灯が飾られ、社殿前に神輿が出され、
なにやら祭の気配。
参拝した日が例祭日なのか、あるいは、その前後なのかな。


比々岐神社
 当社は往古より現社地に鎮座し、創建年月は不詳といえども 延喜式神明帳見在の古社にして、旧記・古書を按ずるに創建は 大略大宝の頃と思料される。明治四十年村内の諸社六十余社を 合祀し鬱蒼たる社叢にいだかれ上津の里の総氏神として尊崇維 持せられ現在に至る。


[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 14時01分11秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/ise/hatoriitoma_title.htm

服部なのにhatoriの   服部伊刀麻神社旧地  はとりのいとまじんじゃきゅうち
                       三重県松阪市出間町  



式内社 伊勢國多氣郡 服部伊刀麻神社

御祭神
大命津姫命 あるいは 速佐須良比賣神


三重県松阪市にある。
松阪駅の北東8Kmほどの出間町に鎮座(していた)。
松阪駅から北上し、23号線に入って東へ。
櫛田川を渡ってから2Kmほどで北へ入った場所。

出間町集落の東端に生垣に囲まれた四角形の区画がある。
その区画の中に「式内服部伊刀麻神社舊地」と刻まれた石碑が立っており、
その傍らに山神が祀られている。

ここは、式内社・服部伊刀麻神社に比定されていた神社の古社地。
鎮座地名の出間(いづま)は伊刀麻(いとま)から変化したものと考えられており、
服部伊刀麻とは「服部地区の伊刀麻集落に鎮座する」という意味らしい。

服部伊刀麻神社の創祀年代や由緒に関しては不詳。
宝徳三年(1451)正月の「はたとのの御神事之日記」に「いつま社」とある古社。

布カケ社とも俗称された出間町の産神で、
元は出間町の北東(現在地の北側)に、田カナド明神として祀られていたという。

明治四十一年四月七日、許可を得て柿木原の宇氣比神社(二十五柱神社)に合祀された。

祭神は、明治十一年の神社明細帳に大命津姫命とあり
『式内社調査報告』では大食津姫命のことではないかとしている。
また、多氣郡合祀済神社明細帳には速佐須良比賣神とあるらしい。
さらに、飯豊比売とする説や、「伊刀麻」を糸女=織子と解して天八千々姫命とする説もある。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月10日 14時07分09秒 ) パスワード

織殿神社
おりどのじんじゃ
三重県多気郡明和町佐田12
http://www.genbu.net/data/ise/oridono_title.htm

三重県神社誌には神紋は「無」とある


ということは  三重県神社誌  を手に入れたら神紋が見られ易いということでしょうね。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月11日 00時37分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 台上寺の墓地へ入って行って驚いた事は―
 それは、「丸に三つ柏」紋が結構見られたということであります。姓氏を
上げると―
 @石橋(一番多かった)
 A南
 B杉本
 C北口
 D近藤
 たくさんの寺を回っていますが、「丸に三つ柏」紋が意外とたくさんあっ
た寺は、過去に一か所ありました。墓地で家紋が一緒ということは、ほぼ親
戚であると考えられます。
 但し、丸に三つ柏の服部がなかったのは残念でしたが、服部家の墓は二つ
見つけました。服部村の服部です。家紋は―
 @丸に剣片喰(けんかたばみ)
 A丸に木瓜(もっこう)
でした。
 服部家には「丸に並び矢」を期待していたのですが、その家紋は―
 @南
 A山岡
の2家の家紋がそうでありました。
また、「丸に違い矢」として前川家がありました。

 その他には「轡(くつわ)」が吉川家、「丸に十文字」が吉田家でありまし
た。
 「丸に三つ柏」を久々にたくさん見て、なんだかうれしくなつかしく思い
ました。今後も、さらに服部村を中心に服部家の墓を探しに行きたいと思っ
ております。

 いずれにしても、立ち去る前、服部家の墓の前で、般若心経を「二巻」心
より上げさせていただきました。

 次回からは、芭蕉に関して記して行きます。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月11日 04時25分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


般若心経、わたくしの分まで、ありがとうございました。
先祖で繋がっている人々でしょう。
喜んでくれていると嬉しいですね。


それにしましても衝撃の書き込みでございました。

台上寺のお墓:

丸に三つ柏紋のお墓。
   だけど服部氏のは無い。


丸に並び矢紋に服部氏のは無い。
   なんで?

服部氏の墓の家紋は @丸に剣片喰(けんかたばみ) A丸に木瓜(もっこう)
   木瓜は尾張系と申しますか織田系ともうしますか、服部氏が何故木瓜を?謎


不思議ですね。
家紋は奥が深いですけど、伊賀だったら丸に並び矢紋だったら服部氏の墓がゴロゴロ目に入りそうでしたのにね。


ということは台上寺さんじゃないお寺さんなんでしょうね。
なにかあったのかもですね。
やはり、いつか再び、伊賀にいらっしゃらないといけませんね。


でも予野の千賀地でしたら服部氏のお墓や丸に並び矢紋の服部氏がゴロゴロいそうですが。

   わたくし的には  敢国神社は(違う)と思いました。
   小宮神社も何か違うと思いました。

   わたくし的にはやっぱり予野の千賀地にDNAの繋がりを感じます。
   花垣神社にも。

       芭蕉ゆかりの神社です、桜の花のことで。

           一里はみな花守の子孫かや



是非是非、千賀地の花垣神社とその近辺のお寺にもお運びを。
物凄く泣ける固有名詞でございます。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月11日 06時17分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀には、少なくとも三回、できれば五回は行きたいと思っております。
 方面で分けると―
 @北伊賀(柘植を中心として甲賀まで)
 A中伊賀(予野を中心として)
 B南伊賀(名張を中心として)
C伊賀中心街

 中伊賀と南伊賀は同時に回ろうとは思っていますが、来年の三月にホテル
を予約いたしました。
 北伊賀は年内に一度行ってこようと思っております。

 本日、『伊賀甲賀 忍びの謎』(ちょうど一年前に発刊されていた。文庫本)
を送ります。

 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月11日 07時31分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
楽しみにしております。


来年3月はお泊りで伊賀行きですか。
丸に三つ柏紋の家が見つかると良いですね。


久居も行けると良いのですが
でもムリはいけません。
人生はまだまだ長いのですから機会はあるでしょう。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月11日 11時08分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉に挑んでいるのは、その俳句というよりも、
 @その出自と服部氏及び伊賀との関係。
 A芭蕉の人生観・死生観・信仰心・詩的感覚などと伊賀との関係。
 即ち、芭蕉の中に伊賀と言う特殊要素がどう関係しているのかを知りたい
ということであります。

 芭蕉には服部という弟子が二人いた。
 @服部土芳
 A服部嵐雪
 土芳はもちろんのこと、嵐雪も伊賀に関係していると推測しています。
 この辺のこともよく調べたいと思っています。

 もちろん、今後、芭蕉にあこがれ蕉門を最終的に引き継ぎ今芭蕉と言わ
れる「松島十湖」についても、芭蕉との関連において記して行きたいと考
えております。

 話は変わりますが、服部嵐雪の掛け軸が身近なところに売りに出されて
います。手頃な価格ですので、是非手に入れたいと思っています。

  
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月11日 13時55分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


嵐雪と横須賀・浜松・掛川を結ぶ線が見えました(かも)。殿様の井上正利がらみです。



服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))

江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。

淡路国三原郡小榎並村(現:兵庫県南あわじ市榎列小榎列)出身。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。


服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、
長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。
若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった。

延宝元年(1673年)、松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人となる。延宝6年(1678年)、不卜編『俳諧江戸広小路』に付句が2句入集したのが作品の初見である。延宝8年(1680年)には同門宝井其角の『田舎之句合』に序を草し、『桃青門弟独吟廿歌仙』に入集、以後『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などに作品を採用された。

元禄元年1688年には『若水』を刊行し、同年立机して宗匠となり、同3年(1690年)には『其帒(そのふくろ)』を刊行して俳名を高めた。元禄7年(1694年)、『露払』の斤にからんで深川蕉門との対立を生じ、代えて『或時集(あるときしゆう)』を刊行。また翌年には芭蕉の一周忌追善集『若菜集』を刊行した。

作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し、元禄5年(1692年)3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えたが、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生していた。元禄7年(1694年)10月22日、江戸で芭蕉の訃報を聞く。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下に かくねむるらん 雪仏 」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の蛭」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった。

宝永4年(1707年)10月13日没。享年54。追善集に百里斤『風の上』など。その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した。




井上 正利(いのうえ まさとし、慶長11年(1606年) - 延宝3年11月8日(1675年12月24日))

江戸時代前期の譜代大名。寺社奉行・遠江横須賀藩第2代藩主、常陸笠間藩初代藩主。浜松藩井上家2代。


井上正就の長男。母は市川氏。従五位下・河内守を称する。
正室は谷村藩主・鳥居成次の娘。
子に正任(長男)、正信(五男)、正興(六男)、
娘(植村家貞継室)、
娘                   (***青山幸実正室***)、
娘(森川重信正室)、
娘(小出英利正室)ら。

寛永5年(1628年)、父正就が暗殺されたため、10月に遺領5万2500石のうち、横須賀藩4万7500石を継ぐ。
慶安2年(1649年)、5万石をもって常陸笠間藩に転ずる。
明暦4年(1658年)7月4日、寺社奉行に任ぜられる。(7月23日に万治元年となる)
寛文7年(1667年)12月18日、寺社奉行を辞職する。

寺社奉行在職当時、老中(後の大老)だった酒井忠清とはそりが合わず、井上家の隣にある忠清の藩邸に何度か招かれたが、応じることがなかった。そのことから下手三味線とあだ名された。忠清の官職である「雅楽頭(うたのかみ)」にかけて、歌にあわない、という意味である。




で、父上の井上正就について:母が秀忠の乳母だった!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AD%A3%E5%B0%B1

天正5年(1577年)、徳川氏家臣・井上清秀の三男として遠江国に生まれる。
母が徳川秀忠の乳母であったため、正就も早くから秀忠に近侍した(なお、多くの書で混同されているが、
大姥殿と称された秀忠の乳母は岡部氏で、
正就の母の永田氏とは別人である[2])。

慶長20年(1615年)1月、1万石加増と同時に小姓組番頭に就任した(同時期の小姓組番頭は他に水野忠元、成瀬正武、板倉重宗、日下部正冬、大久保教隆)。また、大坂夏の陣にも参陣した。

元和8年(1622年)、5万2500石をもって横須賀藩主となる。この頃より江戸幕府老中職につく。


暗殺された経緯

旗本で幕府目付・豊島信満は、正就の嫡子・正利と大坂町奉行・島田直時の娘とを縁組し、仲人を務めることに約定していた。しかし、3代将軍・徳川家光の乳母で、当時権勢並びなき春日局が正就に鳥居成次の娘と縁組みするように持ちかけ、正就は直時との縁組みを破談した。

仲人としての面目が丸潰れとなったことを恨んだ信満は、寛永5年(1628年)8月10日、登城した江戸城西の丸廊下で行き会った正就に対し「武士に二言は無い」と叫んで脇差で斬りかかった。

番士の青木義精が信満を羽交い締めにして取り押さえたが、信満は脇差を自分の腹に刺し貫いた。脇差は羽交い締めにした義精にまで達し、結果、正就と信満それに巻き添えを食った義精が絶命した。

井上氏はお咎めなしで正利への相続が認められた。

豊島氏は老中酒井忠勝の配慮により嫡子継重の切腹と断絶の処分のみが下り、他の一族への連座はなかった。

島田直時はこの事件への責任を感じて自害した。


墓所は静岡県掛川市の本源寺にあり、これは正利が父のために建立したものである。




(***青山幸実正室***)
この青山家は服部正信の次男が婿に行った青山家の親戚で明治まで続いた家の方です。
こちらは天方氏とも親戚になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%B0%8F
系図でご確認を。



ということは  遠江国とも繋がりますね。だから松島十湖にも繋がるのかも。

     江戸時代故に表面だけでなくて内面でも繋がっていたのかもですね。
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月11日 15時45分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すごい情報、ありがとうございました。実は、十湖は若い頃、横須賀の
撰養寺で修行をするのですが、なぜ「横須賀」なのか疑問に思っておりま
した。

 「横須賀」藩の初代は大須賀氏で、大須賀氏は位が高かった。大須賀衆
という第一級の家臣集団をかかえており、その者達は大須賀に移り住んだよ
うです。結果として文化水準も高くなった。服部半蔵正成、槍の渡辺蔵、
松下嘉兵衛、松下源太郎(清景、直虎の養父)、神谷権六、・・・etc.
 横須賀藩主の実質第六代目が井上正利ということになります。そして浜松
に転封・・・。
  もちろん、この頃芭蕉も十湖もまだ生まれてはおりません。芭蕉と遠江
の関係についてもよく調べたいと思っていますが、島田には俳句の関係で
二回ほど訪れ、泊まっています。
 いずれにしても、嵐雪と十湖をつなぐ要素の一つは井上氏にあることは
間違いないと思います。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月11日 16時27分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:大須賀に移り→横須賀に移り
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月11日 22時07分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

何か「ある」んですよね。
表面には出て来ない何か。



服部嵐雪の出身が淡路国ということで
どういう家かと想像し淡路国の歴代主君を検索してみました。



国司

淡路守

   御輔真男、承和8年(841年)任官
   伴益友、天安2年(858年)任官
   三善氏吉、貞観元年(859年)任官       
   時統諸兄、貞観5年(863年)任官          ときとう(時任氏のこと)でしょうか?
   善道継根、貞観9年(867年)任官
   伴貞宗、元慶5年(881年)任官
   佐伯清氏、仁和3年(887年)任官
   源頼親
   三善為長、延久4年(1065年)任官
   平教盛、仁平元年(1151年)任官
   平宗盛、永暦元年(1160年)任官



守護

鎌倉幕府[編集]
1190年〜1193年 - (小野)横山時広
?〜1200年 - 佐々木経高
1200年〜1213年 -(小野) 横山時兼
1213年〜1221年 - 佐々木経高
1221年〜1230年 - 長沼宗政
1230年〜1243年 - 長沼時宗
1258年〜1283年 - 長沼宗泰
1283年〜1299年 - 長沼宗秀
1331年〜1333年 - 長沼秀行


室町幕府[編集]
1336年〜1348年 - 細川師氏
1348年〜1387年 - 細川氏春
1387年〜1392年 - 細川満春
1398年〜? - 細川満俊
1402年〜1404年 - 細川満久
1407年〜1441年 - 細川満俊
1446年〜? - 細川持親
1467年〜1485年 - 細川成春
1485年〜1519年 - 細川尚春


戦国大名[編集]
三好氏 安宅氏
野口氏
田村氏

豊臣政権 仙石秀久
脇坂安治
加藤嘉明



武家官位としての淡路守

江戸時代以前[編集]
長沼宗政
金井秀景
雀部重政
細川師氏
細川成春
細川尚春
脇坂安治


江戸時代
播磨龍野藩主 脇坂安照、第2代藩主
脇坂安清、第3代藩主
脇坂安興、第4代藩主
脇坂安親、第7代藩主
脇坂安宅、第9代藩主・老中


美濃大垣新田藩主 戸田氏成、初代藩主
戸田氏房、第2代藩主
戸田氏之、第3代藩主
戸田氏養、第4代藩主
戸田氏宥、第6代藩主
戸田氏綏、第7代藩主
戸田氏良、第8代藩主


信濃須坂藩主 堀直重、初代藩主
堀直升、第2代藩主
堀直英、第5代藩主
堀直堅、第7代藩主
堀直興、第10代藩主
堀直武、第21代藩主


肥前五島藩主 五島玄雅、初代藩主
五島盛利、第2代藩主
五島盛勝、第4代藩主
五島盛道、第7代藩主


三河刈谷藩土井家 土井利以、第5代藩主
土井利祐、第7代藩主
土井利教、第9代藩主


備中足守藩木下家 木下利当、第3代藩主
木下利貞、第4代藩主
木下利彪、第8代藩主


江戸時代その他 前田利次、越中富山藩主
土井利庸、三河西尾藩主
本多忠周、三河足助藩主
水野重良、紀伊新宮藩主
水野重期、新宮藩主
鳥居忠房、甲斐谷村藩主
蜂須賀宗員、阿波徳島藩主
蜂須賀茂韶、徳島藩主
松平康映、和泉岸和田藩、播磨山崎藩、石見浜田藩主



    服部嵐雪の先祖がいつから淡路国に住んでいるのか分かりませんが
    ひょっとすると  平家  がらみかも知れないですね。

    これは淡路島の図書館なら分かるかも、ですね。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月11日 22時28分24秒 ) パスワード

もし服部嵐雪のご先祖さまが平家がらみであったら???!!!
当然、芭蕉のことは大好きですよね。


ということで嵐雪の家紋を調べてみましたが分かりませんでした。


お祖父さまのお名前  服部弥次兵衛  からしますと伊賀系かなと?贔屓の引き倒しで。笑

父喜太夫は大阪落城後浪人ということで、確か、関ヶ原の戦いの時に西軍についた服部氏がいましたよね。


     常陸国麻生藩新庄直時
     常陸笠間藩主井上正利の家臣となる

     ということで新庄直時との関係が知りたいですね。





http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F
服部嵐雪    承応3年(1654)〜宝永4年(1707)



承応3年 淡路小榎列村(南あわじ市榎列)で出生  (本名服部彦兵衛)

祖父は淡路の武士服部弥次兵衛   父服部喜太夫高治の長男
父喜太夫は大阪落城後浪人淡路徳島と移転後江戸湯島に定住 
常陸国麻生藩新庄直時に仕え のち常陸笠間藩主井上正利の家臣となる

嵐雪は幼名久馬之助 通称孫之丞 嵐亭 治助 雪中庵 不白軒 寒蓼斎 玄峯堂など
貞亨2年 井上相模守正利に随行した服部嵐雪 越後高田で紀行俳文「胡塞記」を著す
貞亨3年 服部彦兵衛(嵐雪) 笠間藩を致仕俳諧師に転身
貞亨4年 春 宗匠として立机  
宝永4年 10月13日没 享年54才    一葉散る咄ひとはちる風の上 辞世句

[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月11日 22時33分06秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%84%E7%9B%B4%E6%99%82


新庄 直時(しんじょう なおとき)

常陸麻生藩の第4代藩主。後に再任して第6代藩主となる。



生涯

寛永3年(1626年)、初代藩主・新庄直頼の四男・新庄直房の次男として江戸で生まれる。

寛永20年(1643年)6月27日に御書院番に任じられる。
慶安2年(1649年)12月14日、父・直房の遺領である甲斐山梨郡・八代郡など500石の所領と家督を継いで旗本となる。


本家の麻生藩第3代藩主・新庄直好の実子・直常が早世したため、明暦2年(1656年)12月1日に直好の養子として迎えられる。

万治3年(1660年)に直好に実子・直矩が生まれたが、寛文2年(1662年)に直好が死去したときは3歳の幼少であったため、そのまま直時が第4代藩主として家督を相続した。12月27日に従五位下・隠岐守に叙位・任官する。


寛文3年(1663年)7月に大坂加番に任じられる。寛文9年(1669年)2月には関宿城の守衛を務めた。延宝2年(1674年)8月9日、幕府に嘆願して許されたため、15歳に成長していた直矩に家督を譲って隠居した。ただしこのとき、直矩が若年であることから、幕命により直時には藩領から7000石を分与され、直矩は2万3000石を相続することとなり、さらに直時は直矩の後見役を命じられた。


延宝4年(1676年)4月30日、直矩が急死する。直矩には継嗣がなかったため、新庄一族は幕府に無断で新たな後継者を立てようとしたが、そのため幕命により改易となった。

しかし6月21日、幕府は隠居していた直時に3000石を新たに加増して1万石の大名として麻生藩の再興を許したことにより、直時は第6代藩主として再任することとなる。



延宝5年(1677年)、幕命により大坂城守衛を務めていたが、病に倒れて7月27日に大坂で死去した。享年52。跡を長男・直詮が継いだ。



     この殿様はなかなか波瀾の人生だったようですね。
     で、嵐雪の父は井上家に仕官したのかもですね。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月12日 01時37分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀で自転車に乗って回った芭蕉に関する施設は―
 @上野公園にある「芭蕉翁記念館」(公園内は自転車乗り入れ禁止でした)
 A芭蕉翁生家
 B芭蕉翁故郷塚・愛染院
 C蓑虫庵
 D上野天神宮
であります。

 これらの中で特に印象深かったのは、BとCであります。

 芭蕉翁故郷塚の前には、何と「松島十湖」の歌碑が建てられておりました。
 その歌は「白菊に 紅さしてくる はつしぐれ」でありました。
 このいきさつについてはわかりませんので、今後の課題にしたいと思います。

 蓑虫庵は、小さな庵だけかなと思いきやいくつかの建物があり、お庭もあ
り、本当のところ江戸時代にはどうだったのかを知りたいと思いました。

 伊賀に来てよかったと思えるのは、芭蕉記念館で小冊子三冊を買えたこと
です。その内の一冊は『幕府御家人 伊賀者の研究』という本で、伊賀の忍者
等の働き・伊賀越え後の成り行きを知ることができます。
 また芭蕉翁生家では小冊子を二冊購入でき、その内の一冊は『芭蕉の高弟
服部土芳と蓑虫庵』という本で、土芳について知ることができます。

 土芳について知ったことは、土芳の祖父が「木津」氏であったこと。そし
て祖母が服部氏であったこと。土芳は服部平左衛門の養子になったというこ
とであります。

 本日はこれにて―
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月12日 03時42分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

>土芳について知ったことは、土芳の祖父が「木津」氏であったこと。
>そして祖母が服部氏であったこと

だから服部家に養子に出たのですね。


伊賀で芭蕉とは繋がるということですね。




>芭蕉翁故郷塚の前には、何と「松島十湖」の歌碑が建てられておりました。
>その歌は「白菊に 紅さしてくる はつしぐれ」でありました。

    「紅」って?
     
    「白菊」「はつしぐれ」と「紅」ってどういう関係でしょう?
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月12日 03時53分54秒 ) パスワード

嵐雪と新庄氏の関係についてもっと知りたいと思いました。
嵐雪の家が大坂方だったことは分かっていました。


そして(近江出身の)新庄氏も秀吉と関係がありました。
更に新庄氏は足利将軍家に(義晴にも)仕えていたということで
ひょっとすると嵐雪の家もこういう前々からの関係があったのかもですね。

それで大坂方が負けた後、新庄氏を頼ったのかも。



http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sinzyo_k.html

新庄氏

巴/左藤巴/葉菱
(藤原北家秀郷流)
家紋はもと「巴紋」であった が、「藤巴」にデフォルメさ れたという。


 新庄氏は藤原北家秀郷流で、近江国坂田郡新庄から起ったという。

藤原秀郷は「俵藤太」の異名をもつ武将で、 三上山の百足退治の伝説で知られる。
また、平将門の乱に際しては、平貞盛とともに乱平定に活躍、戦後、鎮守府将軍に 任じられ、さらに下野守・武蔵守を歴任して関東に一大勢力を築いた。



 藤原秀郷は一説に近江国栗太郡田原郷から出たというように近江と縁があり、近江北部には秀郷の後裔を称する武士が多い。

蒲生氏、今井氏、堀氏、泉氏、井戸村氏、小堀氏、そして新庄氏らは、
すべて藤原秀郷の後裔季俊の末となっている。

季俊 の兄にあたる行俊は内藤氏の祖で、その子孫からは丹波、周防、三河の内藤氏が出て、 三河内藤氏は近世大名として続いている。


 さて、季俊の後裔俊綱は今井氏を名乗り、曾孫の遠俊は足利尊氏に従って功があった。

その子俊名は足利二代将軍義詮に仕え 近江国坂田郡新庄に居住して新庄を称したのだという。

以後、新庄氏の代々は足利幕府に仕えるが、本家筋にあたる今井氏 と比べるとその動向は詳らかではない。



新庄氏の軌跡

 戦国時代、足利十二代義晴に仕えた直寛は、命により近江国伊吹山の麓に出陣、菱の浮葉紋を賜ったという。

そして、天文 七年(1538)、同地で戦死したと伝えられる。

天文のころは、幕府管領細川氏の内訌から、将軍、幕府の権威は失墜し、 義晴も京を逃れて近江朽木氏の庇護を受けることが多かった。

直寛は将軍に仕え、みずからの本貫地のある江北で 事が起こると、所領確保もあって出陣をしたものであろう。


 直寛が戦死した翌年、あとを継いだ直昌は幕府御料所の朝妻に新たに城を築いた。
当時、江北は京極氏の被官から台頭した 浅井氏が着々と勢力を拡大、それに対する江南の大名六角氏との間で合戦が絶えなかった。

一族の今井氏は箕浦城を本拠に京極氏の 有力被官として勢力があったが、京極氏の衰退とともに、ときには六角方に、 あるいは浅井方へとその去就は揺れざるをえなかった。


新庄氏も将軍被官とはいえ、乱世を自力で生き抜く しかなく、今井氏同様に難しい状況におかれていた。


 両細川氏の乱は混沌の度を深め、将軍をはじめ六角氏らも否応なく細川氏の動向に翻弄された。さらに、細川晴元と かれの有力被官であった三好長慶が対立、ついに合戦騒ぎとなった。天文十八年(1549)、三好長慶が兵を挙げると 直昌は晴元に味方して摂津に出陣した。この戦いに六角氏も晴元に味方して出兵したが、 六角軍が到着する前に晴元方は江口の戦いに敗戦、この戦いで直昌は戦死してしまった。 直昌の嫡子直頼は少年の身ながら父の跡をついで朝妻城に拠り、弟の直忠が新庄城に拠った。


 その後、浅井氏は長政が家督となり、永禄三年(1560)、野良田の戦いで六角軍を打ち破った。 一躍、江北の有力大名となった長政は、尾張の織田信長と同盟を結び、近江の戦国大名へと駆け上ったのである。その間、 新庄氏の動向はようとして知れない。しかし、江北の領主が浅井長政に属するなかで、新庄氏も浅井氏に属するようになった ものと思われる。そして永禄八年、将軍足利義輝が三好三人衆と松永久秀によって殺害されると、新庄氏は 将軍被官という立場を捨て浅井氏旗下の武将として行動するようになったのではなかろうか。


 永禄十一年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛、上洛を阻止しようとした六角氏は没落した。かくして浅井長政が 近江随一の大名となったが、元亀元年(1570)、信長が越前朝倉攻めの軍を起こしたことに反発、浅井氏は織田軍と対立関係 となった。そして、同年六月、浅井長政は朝倉義景と連合して、織田・徳川連合軍と姉川で対峙した。浅井軍の 先陣は猛将磯野員正で、二陣は浅井政澄、三陣は阿閉貞秀、そして四陣は新庄直頼で千人を率い本陣浅井長政の前衛 にあった。磯野をはじめいずれも名のある武将で、新庄直頼が浅井旗下の有力武将であったことが知られる。


 姉川の合戦は浅井・朝倉連合軍の敗戦に終わり、以後、浅井氏は織田氏の攻撃にさらされることになる。小谷城への 押さえとして横山城に入った羽柴秀吉は、浅井氏との対峙を続けながら浅井方の有力武将を調略、新庄直頼ら新庄一族にも調略の手が 伸びたことは想像に難くない。その後、直頼ら新庄一族は浅井氏を見限って織田家に転じ、 浅井氏滅亡後に江北を与えられた秀吉に仕えるようになったのであろう。



近世へ生き残る

 天正十年(1582)、明智光秀の謀反による本能寺の変で織田信長が横死、つづく山崎の合戦で光秀を討った 羽柴秀吉が幅を効かすようになった。翌年、ライバル柴田勝家を賤ケ岳の合戦に破り、北の庄城に滅ぼすと 秀吉が一躍天下人へと成り上がった。賤ケ岳の合戦に際して直頼は近江国坂本城を守備、その功によって翌十二年、 嫡子直定とともに近江国大津一万二千石を賜った。以後、豊臣秀吉に従って各地を転戦、 文禄三年(1594)に大和国宇陀城に転封、翌年には摂津国高槻三万石に出世した。やがて、直頼は秀吉の御伽衆となり、 慶長三年(1598)に秀吉が没すると、秀頼に仕えた。

 秀吉没後、徳川家康と石田三成との間が険悪となり、洛中洛外に不穏な空気が漂うようになると、 加藤清正・浅野幸長らとともに夜ごと伏見向島にあった家康の館を警固した。慶長五年(1600)、石田三成が 挙兵すると意に反して三成方に味方するはめに陥り、関が原の戦いでは伊賀国上野城に筒井定次を攻めて 同城に立て籠った。結果、改易処分となり、身柄は蒲生秀行に預けられた。

 家康は直頼の心底を察知していたようで、関ヶ原の合戦後、家康が蒲生秀行にいわく
「直頼父子すでに賊徒に与すといえども、旧交を忘るべきにあらず。蒲生と新庄とはその先同国の因あれば、 会津に相具して居住せしめよ」と、語ったという。同国の因とは、新庄氏が近江国の坂田郡、 蒲生氏が近江国の蒲生郡に起こったことをさしている。加えて、新庄氏と蒲生氏が元をたどれば 祖を同じくする一族であったことをさすものでもあった。



 かくして、直頼は会津の蒲生秀行の預かりとなり、四年後の慶長九年、駿府にあった家康に拝謁。 ついで江戸に赴いて秀忠に拝謁、その甲斐あって赦免となり、常陸国・下野国の内において三万三百石余を賜った。 以後、直頼は行方郡麻生を居所とし、そのあとは嫡男の直定が継ぎ常陸国麻生藩の二代藩主となった。

 直頼の弟で新庄城に拠った直忠は、兄とともに織田信長、豊臣秀吉に仕え、文禄四年(1595)、 近江各地に統べて一万五千石を領する大名となった。その間、天正十九年、枯死した琵琶湖八景の一「唐崎の松」 を植え替えて景勝復興に力を尽くしている。また、文禄の役には朝鮮に渡海。文武両道の武将であった。


関が原の合戦には西軍に属したため、戦後、所領没収となったが、
徳川家康と昵懇だったことで 近江国坂田郡柏原に知行をえて子孫は徳川旗本として続いた。

              あらあらラッキー!
 

              それで嵐雪の父上は新庄家に仕官が叶ったのですね。
            
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月12日 03時54分52秒 ) パスワード

新庄家の系図


[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月12日 04時08分05秒 ) パスワード

これで服部嵐雪の家の流れがちょっと分かりましたね。


秀吉に仕えた服部家というと
秀次の失脚で詰腹を切らされた津島の服部小平太がらみかも知れないですね。


というとわたくし達に近い関係なのかもですね。
「淡路国」で攪乱されましたが。




服部嵐雪の経歴の書かれた本が手に入ると良いですね。
承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日)

延宝元年(1673年)、松尾芭蕉に入門



服部 土芳
明暦3年(1657年) - 享保15年1月18日(1730年3月6日)

貞享2年(1685年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会

     

ということは嵐雪と土芳は交流があったでしょうね。
ということは!ということは!
アヤシイ!アヤシイ!

ただの俳句の師弟関係・兄弟弟子関係じゃないですね。
そこに曾良も1枚噛む?
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月12日 08時37分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部嵐雪、服部土芳・・・やはり芭蕉も服部の系統ということで、通底す
るものがありますね。曾良も通底するものがある。「伊賀」がらみというこ
とでしょうか。
 土芳には木津氏=北伊賀の土豪の血が・・・木津氏の菩提寺は、あの長田
の西蓮寺・・・そこには、芭蕉と土芳のいわば連歌碑が建てられています。
 「やがて死ぬ けしきは見せず せみの声」芭蕉
 「こゑに皆 鳴しまふみや 蝉のから」土芳

 いわゆる芭蕉の門「蕉門」に通底するもの・・・ひょっとして「伊賀の心」
かも知れません(DNA)。その「伊賀の心」なるものの匂いを嗅ぎ分けたいと思
っています(犬の嗅覚)・・・。 
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月12日 13時03分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>>> 「やがて死ぬ けしきは見せず せみの声」芭蕉

この句は意味深ですね。

声はすれども姿は見せず
まるで「忍者」ですよね。

蝉に自分達の姿を投影したのでしょうか?




>>>「こゑに皆 鳴しまふみや 蝉のから」土芳

蝉の一生も哀しいけれど自分達忍者も哀しい存在だ
という意味でしょうか?


http://www1.clovernet.ne.jp/yrb00414/509sairenji.html
西蓮寺 天台宗真盛宗別格本山     上野市長田   

服部土芳墓

芭蕉翁の高弟伊賀蕉門の元締めである上野本町通り豪商木津三郎兵衛保好の弟孫三郎保向の三男に生まれ、
藤堂藩士となったが
貞享五年官を辞し伊賀蕉門の指導に当たった、

芭蕉死後芭蕉句集芭蕉文集奥の細道などを編纂享保十五年一月十八日七十四歳で没した。


芭蕉も藤堂藩に仕えてましたね。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月13日 01時49分59秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101499.html
長上郡の服部氏族LV(M氏家譜19 +芭蕉・伊賀あたり)
スレッド55をご用意致しました。

キリの良いところで移ってください。

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