[1] | ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月15日 10時52分37秒 ) | パスワード |
岡原霧島神社について
岡原霧島神社は球磨郡旧岡原村(現あさぎり町)の岡本谷と宮原谷に挟まれた尾根の麓に位置しています。
明治42年(1009年)に岡本の大炊神霧島神社と宮原の中島霧島神社(宮原神社)の合併が許可され、翌年現在地に移転し社号を改めたとあります。
御祭神は天津彦火火出見命ほか二十二神。
村内数か所に鎮座の神社を、大炊神霧島神社と宮原の中島霧島神社(宮原神社)の合併の際に合祀されました。
中島霧島神社(宮原神社)※麻郡神社私考では中嶋大権現とあり。
大炊神霧島神社は大同年中(806年〜810年)草創。日向国霧島神社と同体。
中島霧島神社は大同元年(806年)草創。日向国霧島神社と同体。※地元の言い伝えでは大同元年より草創はさらに遡るという事です。
岡原霧島神社に合祀となった神社に稲積神社(稲積妙見)があります。
稲積神社(稲積妙見)御祭神 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)「右五神」別天津神(ことあまつかみ)
※御祭神 天之御中主神 高御産巣日神 神産巣日神 宇摩志阿斯訶備比古遅神 天之常立神
麻郡神社私考より
※八代郡白木社妙見同體
※當郡妙見勧請ノ最初也・・球磨郡内において最初の妙見宮勧請であった。
※草創年紀未考
※社人 椎葉久左衛門
※明應五年丙辰(1496年)
藤原為續(相良為続)公・相良長輔公 御願トシテ 中興
※中興に関わった人物
綾 末續(綾 末続) 宮原出雲橘續久(橘 続久)
石井太郎兵衛尉 阿部貞豊等
岡原霧島神社についてを簡単に御説明致しました。
所で・・この岡原霧島神社について書かれた
免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行 に大変興味深い記述がありました。
御紹介させて頂きます。
取材当時(昭和48年〜49年1月頃)岡原霧島神社の宮司であった横瀬家の方でしょうか?横瀬安住氏の談です。
(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
@子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。
A七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)
B弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式があった。明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。
とあります。
昭和49年発行の書籍ですから、当時の方(横瀬氏)は平成27年の現代では殆どの人が知らない、古くからの岡原村の伝承をしっかりと記憶されていたのですね。
感動しました。
ど素人の私ですが、「弓」を鳴らす儀式?が岡原村にはあった、継承されていたと言う事は解りました。
「弓」を鳴らす儀式について調べているとこのようなサイトを見つけました。
岡原村の伝承とは単なる偶然かな?とは思うのですが・・・
石上神宮
http://www.a-namo.com/guest/akisan/tochugesha/2002/0206/isonokami/isonokami.htm
こちらのサイトページ一番したにある記述です。転記させて頂きます。
古(いにしえ)、神宮の神庫には歴代天皇や諸氏族から奉献された楯・鉾・太刀・玉・装身具など、多くの神宝が『延喜式』にある伴、佐伯の2殿に納められていたという。平安京への遷都に伴い、桓武天皇の時に、その神宝を山城国葛野郡の兵庫(京都府)へ運ぶのに延べ15万7000人が働いたが、異変があり、再び元の神庫に戻されたとも伝える。
石上を支配していたのは、かの大化の改新に登場する物部(もののべ)氏。“モノ”は精霊を意味し、平安朝になったモノの怨霊と解せられて“モノノケ”といわれた。この“モノ”を取り扱うのに著しい呪術を伝えたのが物部氏で、中でも十種神宝をもって、天皇の霊を扱ったという。
大嘗祭(天皇が即位後、最初に行う新嘗祭)の時、物部氏が宮門の威儀に立ち、大楯を楯、弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い、悪霊を追放する役目を務めた。この呪術にたけ、部門の棟梁であった物部氏が、のちの“モノノフ=武士”の原型でもあるという。 ――同神宮パンフレットより
私の故郷、旧球磨郡久米郷にある「岡原」の伝承「弓引きの式」・・??
皆様の故郷やお住まいの地域にもこのような風習が残っているのではありませんか?(^−^)
では。
[2] | ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月26日 08時02分26秒 ) | パスワード |
伊勢神宮と市房杉について
昭和51年6月発行の 免田郷土研究会 郷土 第4号 にとても興味深い記述を見つける事が出来ました。
井上快竜氏(故人)の「梵字のふる里」という論文です。
井上氏はカンボジアのクメールの民と、球磨郡久米郷との関係についても書かれていました。
さらに、市房山参道の神木についてこのように書かれていました。
中略・・
市房山参道の神木が、宮中御造営に使用されたり、又、米良・椎葉・球磨にまたがる市房山から伊勢神宮式年祭用の神木養成のために、伊勢神宮の徳川宮司が下向されたりと・・
と書かれています\(◎o◎)/!
市房山参道の神木が、宮中御造営に使用された事は知っていましたが、(以前コメントさせて頂いています)「市房山から伊勢神宮式年祭用の神木養成のために、伊勢神宮の徳川宮司が下向された」とは、知りませんでした\(◎o◎)/!
「伊勢神宮式年祭用の神木養成」・・伊勢神宮式年遷宮
2013年の伊勢神宮式年遷宮の際は、日本の苗字七千傑様よりありがたい御教示を頂いていました。
昭和51年に故井上氏は、上記の事について「(球磨との繋がりが)何か解っているのではないか?」と疑問を書かれています。
私の心の中にあるモヤモヤした気持ちと同じ事を感じ取っていた方が今から約40年前にいらっしゃった・・という事です・・
でも、この「モヤモヤ」を感じ取っているのは、私や故井上氏だけではありません・・
色々な方とお話していると、皆、大きく口に出さずとも、「モヤモヤ」を感じていらっしゃる事は会話の節々でわかります・・
という事で今回は
「伊勢神宮と市房杉について」を御紹介いたしました。
では(?_?)
[3] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年07月26日 08時08分35秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
久しぶりにこちらのスレッドの方にコメントを書かせて頂きます。
古代の熊国(球磨国)を考えるにあたって、松野連系図は非常に重要な「鍵」を持っていると考えています。
※『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
スレッド「平川家について」の方でご紹介させて頂いていました
ネット公開されている
『鈴木 真年』注記 の入る「松野連〈倭王〉系図」
久留米地名研究会様のサイトより
http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1223.gif
http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1224.jpg
呉王夫差 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%B7%AE
夫差(ふさ、? - 紀元前473年)は、中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓は姫。春秋五覇の一人に数えられることがある。
先代の呉王闔閭の次男。越王勾践によって討たれた父・闔閭の仇を討つため、伍子胥の尽力を得て国力を充実させて覇を唱えたが、勾践の反撃により敗北して自決した。
======================================================
中国春秋時代の呉
この地域は今のどの辺りなのか・・?
そう言う基本的な事も解っていない自分が恥ずかしくなりますが
勉強しました(..)
呉 (春秋) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_ (%E6%98%A5%E7%A7%8B)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉(こうご、くご)。 勾呉の表記もなされる。
中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。 国姓は姫(き)。
==================================================
※現在の蘇州周辺を支配した。
蘇州 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B7%9E%E5%B8%82
中略・・
地理
長江の南側にあり、長江デルタの中心部、太湖の東岸に位置する。東北側には、上海蟹の産地として名高い陽澄湖がある。
北京から南京を経て、昆山、上海を結ぶ京滬線が通り、蘇州駅には特急が停車する。
中略・・
歴史
古くから長江の南に位置する、江南の主要都市として栄えてきた。春秋時代に呉の都が置かれ、呉文化圏の中心であった。伝説によれば、諸樊がこの地を本拠と定め、諸樊の子孫の闔閭が呉の都として整備したと言われている。臥薪嘗胆、呉越同舟の舞台である。
※古くから長江の南に位置する、江南の主要都市として栄えてきた。
球磨の古代を調べる時にも必ずと言って良い程、この長江南側「江南地方」が登場します。
続けてウィキの記述より(..)
秦以後には会稽郡、後には同郡から分離した呉郡の役所が置かれた(同時に呉県の役所も設置された)。
隋代に蘇州の名が始まったが、南朝最後の陳末の民衆反乱(589年)で町が破壊されて郡の役所なども他の町に移されており、本格的な再建は役所を蘇州に戻した唐の太宗時代以後のことになる。
五代十国時代には呉越国の都となり、北宋の神宗時代に府(首都に准じる都市)への昇格に伴って平江府、元には平江路と呼ばれるようになった。この間、金の南宋遠征軍が平江府を攻撃して再度町は大規模な打撃を蒙った(1130年)が、南宋政府によって再建されている。元末の張士誠も呉王を称して蘇州に都した。明になると、蘇州府が置かれて以後は現在の蘇州という名称が固定化された。
中国地名の変遷
@秦 呉県
A前漢 呉県 泰徳県
B後漢 呉県
C三国 呉県 呉郡(222年)
D西晋 呉郡
E東晋十六国 呉郡 呉国(326年)
F南北朝 呉国 呉郡(421年) 呉州(503年)
G隋 蘇州 呉州(大業年間)
H唐 蘇州 呉郡(742年) 蘇州(758年)
I五代 中呉軍
J北宋/遼 蘇州 平江府(1113年)
K南宋/金 平江府
L元 平江路 隆平府
以下略します(..)
※北宋の神宗時代に府(首都に准じる都市)への昇格に伴って平江府、元には平江路と呼ばれるようになった。
※J北宋/遼 蘇州 平江府(1113年)K南宋/金 平江府 L元 平江路 隆平府
気が付いたのですが・・・
呉 (春秋) ※現在の蘇州周辺を支配した。
蘇州を調べると
※北宋の神宗時代に府(首都に准じる都市)への昇格に伴って平江府、元には平江路と呼ばれるようになった。
北宋の時代から古代の呉国の地域は「平江府」「平江路」と呼ばれるようになった。
「平江」・・・
北宋・南宋と言えば日宋貿易を思い浮かべました・・
日宋貿易 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AE%8B%E8%B2%BF%E6%98%93
日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。
中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。
概要
貿易は朝鮮半島の高麗を含めた三国間で行われ、日本では越前国敦賀や、鎌倉時代には多くの宋人が住み国際都市となった博多が拠点となった。
歴史
平安時代
960年(日本の天徳4年)に成立した北宋は、貿易を振興する目的で各地に市舶司を設置し、日本、高麗との貿易や南海貿易を行った。日本では大宰府の監督のもとで鴻臚館貿易が行われていたが、大宰府は平安時代になると、機能が消失したわけではないものの衰微する。日宋間の正式の外交貿易は行われず、一般人の渡航は禁止され、宋の商人は主に博多や越前敦賀へ来航し、私貿易が行われていた。
1126年(日本の大治元年)に発生した靖康の変、それに伴う南宋の成立は、日宋貿易にも影響を与えることになった。
華中・華南の経済的発展に加えて、金の支配下に入った華北・中原から逃れてきた人々の流入に伴う南宋支配地域の急激な人口増加によって、山林の伐採に伴う森林資源の枯渇や疫病の多発などの現象が発生した。
前者は南宋における寺院造営や造船、棺桶製作のための木材を周防国などの日本産木材の大量輸入でまかなうことになり、阿育王寺舎利殿の造営には東大寺再建で知られる重源が、天童寺千仏閣再建には臨済宗を日本に伝えた栄西が日本産木材を提供している。
後者は南宋における漢方医学の発展を促して最新の医学知識や薬品が日本へと伝えられることになり、鎌倉時代後期のことになるが梶原性全が宋の医学書を元に『頓医抄』を編纂し、吉田兼好が『徒然草』(120段)の中で「唐の物は、薬の外に、なくとも事欠くまじ」と述べているのは、裏を返せば日宋貿易なくして日本の医療が成り立たなかったことを示している。
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。
平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する水銀などを輸出品に貿易を行った。
平治の乱の直前の1158年(保元3年)に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。
また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。
1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行う。
一方で、宋銭の大量流入で貨幣経済が発達し物価が乱高下するようになったり、唐朝滅亡以来の異国に対する社会不安なども起こっている。
1199年(日本の建久10年)7月、高麗と日本の商人に銅銭の交易は禁止された。
=======================================================
※越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。
※平治の乱の直前の1158年(保元3年)に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。
「宋」との貿易。
当時、古代の呉国の地域は「平江府」「平江路」であった。
「宋」国内の情報は、もちろん日本へと伝わって来るはずです。
※保延3年(1137年)平忠盛が熊野本宮を造営した功により、平清盛は肥後守に任じられる。
肥後の六殿神社(六殿宮)
六殿神社(ろくでんじんじゃ)は、熊本県熊本市南区に鎮座する神社である。長寿寺(木原不動)と同じく雁回山(木原山)にある。
1178年(治承2年)、平清盛の子である平重盛が、自身の祈願所であった武蔵国の六孫王大権現を勧請したことにはじまる。また、木原山に城を築いた源為朝(鎮西八郎)の創建という説、さらには、平安末期に当地を治めていた木原氏の創建という説もある
宮司家は本姓「平」である「平江氏」。
創建以来初代より三大の宮司を祀る氏子同姓平江姓の始祖神なり 中王宮
中王宮
祭神 平江三郎為歳命 平江判官為宗命 平江左衛門尉為示命
由緒
當六殿宮創建以来 初代ヨリ三代ノ大宮司職ナリ
創建ト同時ニ高倉天皇ノ御綸旨ヲ奉ジ紀州宇田ヨリ当社神職トナリ平氏ノ一族ニシテ平江姓ヲ名乗リ氏子同姓ノ始祖ナリ
============================================================
※六殿宮の大宮司家は「平氏ノ一族ニシテ」、紀州宇田ヨリ「肥後」に来られて当社神職トナリ、「平江姓ヲ」名乗られた・・
※「宋」との貿易。
当時、古代の呉国の地域は「平江府」「平江路」であった。
「宋」国内の情報は、もちろん日本へと伝わって来るはずです・・
さらに「ヒゴタイ」の花・・
ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B4%E3%82%BF%E3%82%A4
ヒゴタイ(Echinops setifer)は、キク科ヒゴタイ属の多年生植物。
和名の漢字表示については「平江帯」(貝原益軒の大和本草)または「肥後躰」(肥後細川家写生帖)などがある。
※「平江帯」(ヒゴタイ)
★呉王夫差の後裔は「住火国山門」。火国すなわち「肥国」後の「肥後国」。
★古代呉国は後の蘇州。北宋・南宋時代は「平江府」「平江路」であった。
★平安時代後期の日宋貿易の中心人物は平忠盛・平清盛。
★保延3年(1137年)平忠盛が熊野本宮を造営した功により、平清盛は肥後守に任じられる。
★平治の乱の直前の1158年(保元3年)に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化。
★肥後の六殿神社(六殿宮)は1178年(治承2年)、平清盛の子である平重盛が創建。
★肥後の六殿神社(六殿宮)、大宮司家は「平氏の一族であり」、紀州宇田より「肥後」に来られて六殿宮神職となり、「平江姓」を名乗られた。
★「平江帯」(ヒゴタイ)・・・貝原益軒の大和本草
こうしてまとめて見ると・・
私は、これらが偶然であるとは思えないのですが・・
さらに、私見ですがこう考えてしまいます・・
平清盛公は「肥後」の古代について良く御存じであったのではないか・・
熟知されていたのではないのか・・・
と・・
皆様はどうお考えになられますか・・。
古代呉国と平安時代の肥後の繋がりを考えてみました(..)
では(..)
[4] | ミヤハラよりさんからのコメント(2017年09月02日 11時27分58秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
古代「熊国(球磨国)」と「曽国」に関連するサイトは数多く、今まで拝見していたのですが
今日は、
「熊国(球磨国)」「曽於国」「熊曽(熊襲)」「隼人」
そして「狗奴国」「狗邪韓国(金官加羅)」
を様々な方向から研究された方の独自の論説が書かれたサイトを見つけましたので
ご紹介致します。
サイト 八に隠された秘密 様より
http://ohmononush.exblog.jp/17774928/
様々な説があると思いますが
拝見して面白かったです(^'^)
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 Rapah. |