【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101489 投稿日:2015年10月03日 05時25分32秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LU(M氏家譜16+芭蕉あたり)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101487_75.html
長上郡の服部氏族LI(M氏家譜15+信濃曾良あたり)スレッド51の続きです。



自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月03日 06時57分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。観世信光=世阿弥の甥の第7子・・・これを知る
ことができただけでも大発見です。そして、遊行柳の話・・・柳の精が成仏
できたと夢に現れる・・・これもシテ(神)とワキ(人間)の、もう少し大きく
言えば、神の世界と人間の世界とのやり取り・往来・・・芭蕉はやはり俳諧
における、いはば「能のプロデューサー」兼「供養僧」だった!

 これから修善寺と土肥に行ってきます。帰宅後にご報告を―
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月03日 12時54分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

お気をつけて。
お風邪が悪くなりませんように!
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月03日 19時20分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今戻りました。往復200キロの旅。第2東名と伊豆縦貫道路がつな
がったため、時間的に非常に近くなりました。行きはナビを信用し過ぎて、
道を遠回りしてしまいました。ナビは購入した時点以前の地図で計算してい
るので、最新の道路事情には対応できていない・・・。ナビ半分、地図半分
の気持で行った方がベターですね。便利さも頼り過ぎては落とし穴があると
いうことをつくづく感じました。

 土肥へ行ったのは、土肥金山と大久保長安を調べるためです。地元で発行
している『土肥の金山』という資料を入手しました。
 修善寺では、まだ一度も訪れていない修禅寺、そして、近くにある源頼家
の墓、及び頼家の家臣十三士の墓を訪ね、あを様の分も合わせて般若心経を
二巻捧げてまいりました。

 心残りは源範頼の墓に時間の都合でいけなかったことですが、また今度行
った時に寄ろうと思っています。

 帰りは修善寺からちょうど2時間で家に着いてしまいました。
 
 詳細については、次回以降に記したいと思います。大久保長安にはすごく
引かれるものがあります・・・。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月03日 22時28分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

お帰りなさい。
ご無事で何よりでした。


そうですねカーナビに頼る前に大雑把な地図と行き方をメモなさっておいた方が良かったでしょうね。


我が家でも知らない所へ行くのに
カーナビを頼ったら目的地に全く着けなかったことがあります。

夫の受診だったのでキャンセルすることになりました。


わたくしの分も般若心経を唱えてくださってありがとうございます。

源氏系の皆さんの末路は気の毒でしたね。



>大久保長安にはすごく引かれるものがあります・・・。

何があったのでしょうね。



細川忠興・忠利父子の書簡という番組で
   大久保忠憐の失脚が近いだろう、とか
   駿河大納言の失脚が近いだろう、とか
そういう情報交換を父子でし合ってた話がありました。


   分かってたんでしょうかねえ

それよりもわたくしがこの番組を録画で見ていた頃に三つ柏さんは長安のことを同情なさっていたのかも
と思いますと不思議なご縁を感じます。



>心残りは源範頼の墓に時間の都合でいけなかったことですが、また今度行った時に寄ろうと思っています。

また行けますよ。
結構近いのですから。

   同じ県内でも片道2時間ですか
   遠いですね。汗

[5]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月04日 16時14分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保長安の死ぬ前と死後の本当の状況についての情報はなかなかありませ
んが、長安の周りには、情報収集のための隠密(忍者)が派遣されていたのは間
違いないものと思われます。

 長安の死因は、@中風、A脳軟化症、B下疳、C惨殺等、諸説があるようで
すが、長安の遺書といわれる書状が残っていて、死の四日前、家臣の戸田藤左
衛門に宛てて書かれているそうです。その中には、死後の処罰を予期している
ような書き方の文章が随所にあるということでありますますので、きっといろ
いろな情報・動きが身の周りにあった、死因も他からもたらされたものかも知
れません。ここら辺が大いに謎めいております。
 長安の当時の地位は、老中、全国金山奉行、伊豆奉行、代官頭、従五位、武
州多摩八王子城主(三万石)であった。

 さて、大久保長安は元は大蔵太夫藤十郎といい、禅竹(金春七郎)から数えて
五代孫となる。禅竹は世阿弥の娘婿であるので、世阿弥の血は長安にも流れて
いることになる。
 一方、芭蕉のルーツもまた世阿弥と同根であるので、世阿弥・長安・芭蕉は
つながっていることになる。そして、柳生宗矩は禅竹から数えて六代孫の金春
七郎を弟子として非常にかわいがったという。柳生家は藤堂家と通じるので、
芭蕉は、いろいろな人間関係に結ばれたということになる。もちろんそのこと
は知っていたに違いない。(芭蕉と柳生家は通底していたか・・・隠密として・・・?)。
 
 改めて、佐渡で詠ったあの句・・・ものすごい思い・感慨が含まれているこ
とになります・・・長安(秦氏)の思い・柳生氏(菅原の出=出雲族)の思い・・
・etc.・・・etc.・・・etc.
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月04日 22時33分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そういえば、室町時代に世阿弥も佐渡へ流されていました。また、その前、
鎌倉時代には日蓮が佐渡に流されておりました。
 日蓮宗といえば、大久保長安、藤堂高虎も日蓮宗であったと思います。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月05日 04時26分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


ものすごい御考察!
感服!


レス<4>で書きましたが
細川忠興と忠利親子の書簡のやり取りで「大久保忠憐の失脚が近い」などと書かれていたように
大久保長安の死後の弾圧も実は噂になっていたのかもですね。



>世阿弥・長安・芭蕉はつながっていることになる。
>そして、柳生宗矩は禅竹から数えて六代孫の金春七郎を弟子として非常にかわいがったという。
>柳生家は藤堂家と通じるので、芭蕉は、いろいろな人間関係に結ばれたということになる。
>もちろんそのことは知っていたに違いない。(芭蕉と柳生家は通底していたか・・・隠密として・・・?)。


はい
武士社会は小さな狭い人間関係ですから「芭蕉は知っていた」でしょうね。

それも自分の血筋に関係することですから当然知ってたでしょうね。

   現在の親戚関係より濃密に結ばれていたでしょうね。


そうでしたね
世阿弥も佐渡に流されていましたね。


芭蕉にとって佐渡と本土(出雲崎=越後)の間に横たわる日本海の存在は我々の想像を絶するものがあったのでしょうね。

   「つわものどもが夢の跡」

のように過去とは過去だとサラッと決別したような表現をしてても、
自分の血に繋がる人々のことを(もう過去の話だ)なんて思おうとしても慟哭は抑えられなかったでしょうね。


「荒海や佐渡に横たふ天の川」

    あちら側に流された人々
    その中には自分と同じ出自の者達がいた

    海は荒れて鳥も通えぬほどの遠さで隔絶されている

    でも彼らの思いは天の川を渡ってでもこちら側に来たいと願っていたのであろうか?


芭蕉はどんな思いで詠んだのでしょうね?
いよいよ深くなりましたね。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月06日 02時31分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保長安は隆慶一郎の言葉を借りれば次のようになります―
 「代官頭として百二十万石の支配所を持ち、佐渡金山、石見大森銀山、伊豆
 の金銀山、但馬の生野銀山、甲州の黒川金山などに奉行として関与し、東海
 道・中山道などの修理や伝馬制度の整備を行い、江戸城・名古屋城などの普
 請には、木材等の資材の調達に活躍した。正に怪物的な馬力である。」
 
 さらに検地も行っている。八面六臂の活躍で、実力者となっている。しかし、
死後は生前の活躍・功績をひっくり返される残酷すぎる結末が待っていた。
 この人物は単純な表面的な正攻法では捉え難い。裏に権力闘争がからんで
いるように思われます。  
 これらの点について、少し探究してみたいと思います。

 柳生宗矩についても、表面的な正攻法では捉え難いものがあります。
 さらに、秀忠は表面的には目立ちませんが、おとなしい人程あやしいと考え
た方がいいと思いますので、両者とも今後探究してみたいと思っています。
 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月06日 06時22分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

大久保長安は120万石相当でしたか。
とすると徳川家の次に実力を持ってた人ですね。

   危険人物。
   潰したかったでしょうね。
   で、だから、死ぬのを待ってたわけですね。


   大坂両陣の戦さのような戦後処理が大久保長安系の人々にあったわけだ。



>秀忠は表面的には目立ちませんが、おとなしい人程あやしいと考えた方がいいと思います

はい
大名のお取り潰しは秀忠の時に凄まじかったそうです。



細川忠興忠利の書簡によると
1616年に家康が亡くなって
諸大名は競って亡き家康さまに贈り物をしたそうですが
細川家はそういうことをしなかったそうです。

   だから逆に、秀忠の覚えめでたい、ということに。

      なぜなら秀忠はとっくに将軍になっていた
      徳川幕府は大御所家康と将軍秀忠の二元政治になっていて発言権は家康が勝っていた

      なので家康が死んだ後でも大御所家康さまに贈り物をするような大名は秀忠には腹立たしい存在だった、と。



大久保長安死後の弾圧とか
柳生の暗躍とか

真相が知りたいものですね。
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月06日 23時52分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 時間がたっぷりある時は、あれやこれやと気がふくらんでしまい、結局何も
まとまらないという結果になり気味です。しかしながら、それも必要なプロセ
スではあります。
 昨日はconference&sake-dayで時間なし、本日はoff-dayで時間たっぷりあり
で、大久保長安を中心に世阿弥、芭蕉、服部氏、藤堂氏、柳生氏、島左近、松
下氏、そして出雲や神道について調べておりました。いくつかの発見がありま
した。

 それらについて、推理を働かせ、ストーリー性をもって論述したいと思いま
すが、そろそろ眠くなって来てしまいました。

 明日は、job-day、conferenceがずっとありますので、自由が利きません。
明日の夜にはまとめたいと思っています―
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月07日 06時53分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やはり古代・神代にからんで来ると、途端に前に進まなくなります。そこ
はまさに迷宮、理論的にというわけにはいかない世界であります。

 先日、出雲に行った時、古代出雲歴史博物館に行き、時間がないため興味
のひかれる展示品について記録のための写真を撮ってまいりました。その中
に、「馬に乗った大王」のような像がありました。その人物像は、頭に冠を
かぶっておりましたが、それはよく見ると「十字架」のようでありました。
芭蕉の「奥の細道」もキリシタン的要素が感じられるのですが、それは古代
より通底する何かが、ずっと日本の根底にはあったのではないかという気が
いたしております・・・。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月07日 12時32分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


神代・古代は難しいですね。
   絶対隠された謎があるからですよね
   明らかにされていない・整理されていない
   それも政治的に隠された

だから我々は迷子になってしまう。
   誤魔化されたくないですから・納得できないですから。


>「馬に乗った大王」
>その人物像は、頭に冠をかぶっておりましたが、それはよく見ると「十字架」のようでありました。

どなたでしょうね。

十字架、ということはかなり時代が下がりそうですね。
キリスト教に関わるんでしょうか?
    ローマ時代より後?
    神聖ローマ帝国の影響でしょうか?


何なんでしょうね?
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月08日 00時11分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 島根県立古代出雲歴史博物館で写して来た「馬に乗った大王」風の実物大
像(材質はよくわからない)は、家に帰って古代関係の図書を二十冊程ピック
アップしそれぞれに目を通していたところ、その内の一冊に偶然にも掲載さ
れておりました。
 その本の名前は『日本人のご先祖様は聖書のアブラハム!』(小石豊著)
であります。その第一ページ目の真ん中にそれは掲載され、次のような説明
書きがされておりました―
 「出雲西部の大豪族(出雲市上塩冶築山古墳)
  六世紀後半の豪族の装いを上塩冶築山古墳の出土品から復元した像。冠
 や太刀、馬具は大和朝廷から与えられたもので最高位を示している。
  馬上の大首長像にある十字架・ハートマーク・・・それは十字架を飾っ
 た金銅製冠。」
  その冠は、十字の横一棒線が中心より三十度くらいの角度で、V字形に
 になっている。しかも十字架の先端部分は菱形である。
  そう、金色の三つ叉を金色のハジ巻でおでこに縛っているといった方が
 イメージ的にはわかり易いかも知れません・・・。

  ついでながら、この本の中には神道の始祖である卜部家の家紋として、
 「丸に三つ柏」が載っており、卜部氏を探究してみたくなりました。この
  姓を「うらべ」と読める人は少ないでしょう。私はむかし誤って「とん
 べ」と読んでいました・・・。 

  なお、この本は、内容的には「日ユ同租論」的な見地に立った本であり
 ました。

  出雲がらみで行きますと、もう一つの発見は、柳生氏のルーツでありま
 すが、吉田大洋氏の『謎の出雲帝国』によりますと次のように出ておりま
 した―
  「柳生氏は、大和国添上郡楊生郷(柳生庄)に起る菅原氏一族。―中略―
   柳生家はやがて江戸幕府のお庭番となるが、伊賀・甲賀屋敷に情報を  入れてこれを支えたのは、出雲の神子、諏訪の神子、出雲のお国らのグ
  ループ(出雲系サンカ鉢屋一族)であった。

   出雲神族の動きは、すべて反体制的である。壬申の乱では、吉野に逃
  れていた大海人皇子(天武天皇)につき、南北朝の乱では南朝方、戦国時
  代には家康を助けた。富氏の租で熊野大宮司家から出た村雄氏は西南の
  役時、西郷隆盛をかくまって追われ、宮崎に逃れたが、後に切腹自害し
  ている。家康こそ天下人となったが、天武朝は数代で切れ、南朝も中絶
  した。それにしても出雲神族間の連絡のよさは、驚くばかりである。
   出雲、大和、諏訪が一体となっている。この一事をしても、三輪氏、
  菅原氏(トミノ宿祢の末裔)、柳生氏、諏訪氏などが、出雲神族系だと
  言えるのである。」
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月08日 05時19分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

>島根県立古代出雲歴史博物館で写して来た「馬に乗った王」の像  画像


上塩冶築山古墳 で検索できました。


http://ew.sanuki.ne.jp/sangwbhk/picturesimane/daisyutyouzou.jpg

この冠が出土品なのでしょうね。


http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page1057.html

案内板の下 2枚目の画像は息が止まりそうなほど パワーを感じました。
それから下から2枚目と4枚目もものすごいパワーを感じました。

整理できないほどのパワーです。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月08日 05時27分00秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9C%E9%83%A8%E6%B0%8F



部氏(うらべうじ)は、「卜部」を氏の名とする氏族。

古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。

占部・浦部・浦邊とも表記する。



概要[編集]

卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職業とした品部。系統が異なる氏族が日本各地に存在するが、このうち伊豆・壱岐・対馬の卜部氏は神祇官の官人に任ぜられ、神祇官の次官(大副・少副)には伊豆卜部氏が、下級職員である卜部には伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の、それぞれ卜術に優秀な者が任じられた[注釈 1]。この三カ国以外の卜部氏は日本古来の卜占である太占に関係した氏族の後裔であるという[1]。



伊豆卜部氏[編集]

平安時代前期の卜部平麻呂(神祇権大佑)を実質的な祖とするが、平麻呂以前は明確ではない。平麻呂を大中臣清麻呂の孫にあたる智治麻呂の子とする系図もあるが[注釈 2]、後世の仮冒とされる[1][注釈 3]。三嶋大社に神官として仕えていた氏族であるという説や[注釈 4]、天児屋根命の後裔である五十手命を祖として伊豆卜部氏を中臣氏族とする系図がある[2]。姓は宿禰であったが、応安8年/文中4年(1375年)に吉田兼煕が朝臣姓に改姓。


平麻呂の子孫は後に吉田社系と平野社系に分かれ、代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務める。


吉田社の系統は冷泉のち室町を家名とするが、永和4年/天授4年(1378年)に足利義満が室町第に移ったことに伴い、吉田兼煕がそれまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田に家名を改めた。江戸時代には堂上家(半家)として三家(吉田家・萩原家・錦織家)を数えた。平野社の系統は江戸時代に猪熊家のち藤井家を称し、堂上家(半家)に列した。


なお、吉田社系の氏人に『徒然草』の作者吉田兼好がいるが、本来は「卜部兼好」が正しい。兼好は吉田に家名を改めた兼煕より前の時代の人物であり、「吉田兼好」の名は鎌倉時代および南北朝時代の史料にはまったく見られない[3]。




壱岐卜部氏[編集]

伊吉島造家の伊岐氏(伊岐直)の一族。神功皇后の四太夫の一人で、天児屋根命12世の孫にあたる雷大臣の子である真根子を伊岐直の祖とする系図や[注釈 5]、壱岐卜部氏の氏人である是雄の賜姓記事[注釈 6](伊伎宿祢姓)において先祖を雷大臣とするとの記載により、中臣氏族とする。一方で、中臣氏族とする系図は仮冒で、高皇産霊神の後裔月神命の子孫である壱岐県主の一族とする説もある[注釈 7]。姓は宿禰。

氏人には貞観5年(863年)に卜部宿禰から伊伎宿禰に改姓した、是雄・業孝がいる[注釈 8]。




対馬卜部氏[編集]

対馬県造家の対馬県氏(対馬県直)の一族。対馬県直については、祖である建弥己己命を天穂日命の曾孫とし、出雲氏族とする。




神社に仕えた卜部氏[編集]

        鹿島神宮の卜部(常陸国)[編集]

上古より鹿島神宮に仕え、太占に携わった家系とされ[1]、鹿島神宮の周辺には卜部氏が居住していたという[注釈 9]。天平18年(746年)常陸国鹿嶋郡の卜部5戸が中臣鹿島連姓を賜姓された[注釈 10]。


        葛城一言主神社の卜部(大和国)[編集]

平安時代の僧源信の父を卜部正親とし、葛城の神に仕えた古卜家の後裔とする[1]。


        宗像神社の卜部(筑前国)[編集]

奈良時代の筑前国の戸籍には卜部の氏人が多数見られ、古代宗像神社に仕えた家の後裔とする[1]。



        その他の卜部氏[編集]

前述のほか、陸奥国・下総国・駿河国・近江国・因幡国等の風土記・奈良時代の戸籍に卜部姓が見られる。



脚注[編集]


注釈[編集]

1.^ 『延喜神祇式』臨時祭条
2.^ 『尊卑分脈』『諸家知譜拙記』。「卜部氏系図」(『続群書類従』巻第179所収)では「治麻呂」の子とする。
3.^ 大中臣氏は朝臣姓であるため、宿禰姓の平麻呂が大中臣氏の後裔であることは考えられない。太田『新編 姓氏家系辞書』(1974)

4.^ 太田『姓氏家系大辞典』(1963)によると「平田氏の説に」とある。平田篤胤のことか。
5.^ 「松尾社家系図」(『続群書類従』巻第181所収)
6.^ 『日本三代実録』貞観5年9月7日条

7.^ 『日本書紀』顕宗天皇3年2月1日条における、壱岐県主の祖である押見宿裲が月神を祀ったという記載や、『先代旧事本紀』天神本紀の「月神命、壱岐県主等祖」との記載に基づく。太田『姓氏家系大辞典』(1963)
8.^ 『日本三代実録』貞観5年9月7日条
9.^ 『常陸風土記』香島郡条

10.^ 『続日本紀』天平18年3月24日条



参照[編集]

1.^ a b c d e 太田『姓氏家系大辞典』(1963)
2.^ 宝賀『古代氏族系譜集成』(1986)。原出典は鈴木真年『百家系図稿』巻6「卜部」
3.^ 安良岡「吉田兼好」『国史大辞典 第14巻』吉川弘文館(1993)p.403

参考文献[編集]
太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。
太田亮『新編 姓氏家系辞書』秋田書店、1974年。
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年。
安良岡康作「吉田兼好」国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第14巻』吉川弘文館、1993年3月。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月08日 05時31分40秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/okugesan_com/yoshida.htm


吉田    【よしだ】


本姓:ト部氏。華族類別録第六十五類。

本姓ト部氏。平野社預ト部好真の子兼延を祖とする。兼熈の時、昇殿を許され、 吉田(元称室町)を称した。


家紋 抱き柏。
家業 神祇道。唯一神道(吉田神道)宗家。
江戸期石高 766石。
明治期爵位 子爵。明治17(1884)年7月8日良義子爵授爵〔現代華族譜要〕。
菩提所 神楽岡神葬墓地。
居所 吉田村。

[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月08日 05時37分37秒 ) パスワード

>吉田大洋氏の『謎の出雲帝国』によりますと次のように出ておりました―


>「柳生氏は、大和国添上郡楊生郷(柳生庄)に起る菅原氏一族。
>    ―中略―
> 柳生家はやがて江戸幕府のお庭番となるが、
>伊賀・甲賀屋敷に情報を入れてこれを支えたのは、
>出雲の神子、諏訪の神子、出雲のお国らのグループ(出雲系サンカ鉢屋一族)であった。


特に  出雲の神子、諏訪の神子、出雲のお国らのグループ(出雲系サンカ鉢屋一族)であった  に驚きました。


柳生は出雲や諏訪を使ってましたか。

出雲のお国と言ったら、やはり望月千代女さんの「ハニートラップ」を真似ていたんでしょうね。
[18]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月08日 08時58分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそく調べていただき、さすがあを様と感服しております。
 馬上の大王、何と美しいではありませんか! 冠の謎、探究したいと思い
ます。 

 卜部氏についても調べていただき、いろいろ啓発されます。伊豆、三島と
の関連、調べてみます。

 本日は筆の会(草書)に行って来ますので、帰りましたらまた記します。
 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月08日 10時09分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


>馬上の大王、何と美しいではありませんか! 

はい


>冠の謎、探究したいと思います。

不思議な形ですよね。
いつごろの、どこの、形なんでしょうね。
 


>本日は筆の会(草書)に行って来ますので、帰りましたらまた記します。

よろしくお願い致します。




もう1度書きます:


     http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page1057.html
        上塩冶築山古墳   総合評価  
          もう失禁寸前です!


この人が書いている通り、すごいパワーです。
特に下から5枚目
本当に失禁モノです!

このブログ主さんにパワーが来てるんだと思います。

            他のサイトの写真はどーってことないですから。


   この古墳の被葬者、
   このブログ主のことを好きだって思いました。
   姿勢とか単純さとかが好きなんだろうな、と。


ワタシはここには行けないな、と思いました。
ものすごく立派な人だったんだろうな
と委縮しちゃいます。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月08日 23時57分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 馬上の大王の冠―これを十字架というべきか・・・ずっと調べておりまし
た。行きついた結論は、とりあえず次の五つであります。

 @ギリシャ神話のポセイドンが使用した武器―三叉鉾(トライデント)。
 A天鈿女命が天照の隠れた岩屋戸の前で持って踊った三叉鉾。
 B銅鐸に描かれた三本指の人物―これは、「鳥の指」を表し、即ち「巫」、
 「祝(ほふり)」を意味する・・・その一例として巫女王であった卑弥呼や
  台与・・・。
 C三位一体を表す(これは原始キリスト教でいう御父・御子・聖霊)。
 D古事記等でいう造化三神。

 本当のところは何なんでしょうか・・・またいつか、出雲とプラス因幡を
じっくり訪ねて調べてみたいと思っております・・・。

 さて、本日は「筆の会」の帰り道、蛭子森古墳と服織神社を訪ねてみまし
た。もちろん何回も来てはいますが、古代への思いがここに誘いました。
改めてここに立つと、私の住む善地と随分近いことを再認識しました。歩い
て三十分程であります。
 誘いのもう一つの要因は、松島氏がかつてある時期、服織神社の神職を代
々務めていたということ、また松島氏がやはり諏訪神族であったということ
がほぼわかって来たことであります。松島氏がわかると、他の善地の四姓に
ついても関連して推測が進む訳であります。

 この地方はまずは物部氏、そして出雲系土師氏の住んでいた場所でありま
す。そして秦氏等の到来・・・織物の生産がはじまりました。それは麻もあ
ったでしょうが、養蚕・絹織物が主流でありました。そこで服部=服織=羽鳥
村ができ、織物に関わる民(どちらかといえば物部・出雲系、秦氏系は指導者)
の氏神として、出雲より天穂日命を勧請したのであります・・・。後に建御
名方命も勧請。
 そして時代は変わって行く・・・今、服織神社創建より約千三百年の時が経
っております。原初の民は果たして土着のまま残っているのかどうか・・・。

 善地という地名についても改めて考えてみました。善という字は、分解する
と「羊」を「咅」(培う)、即ち「宗教的な意味」が含まれる地名ではないかと
推察しました。今までは単に「善い土地」とのみ思っていましたが、それなり
のいわくのある意味もあったのではないかと今思っております。

 善地の五姓―加藤、永井、服部、松島、鈴木―
 @永井は、永田・長田で神職系でもあります。
 A服部は、神服織神社や神服神社、服織・服部神社にからむ神職系でもあ
 ります。あるいは熱田神宮にもからむ神職系。
 B松島は、諏訪大社の神職系でもあります。
 C鈴木は、熊野権現の神職系でもあります。
 D加藤は、遡れば中臣鎌足につながるので、神職系とも言えなくもない。
 
 五氏の神職が善地に集まった理由は、なんだったのであろうか。結果的に
は宗教=神道がらみであろうと推測する。仏教の興隆が大きな要素なのかも
知れません。例えば、この地方を支配した今川氏は仏教を推進した・・・。
 
 以上が本日いろいろと思い(未完)を巡らせた内容です・・・。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 02時26分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

三叉については
    インドかな、とも思いますから
    次のレスでコピペします。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8A

トリアイナ(ギリシャ語: τρίαινα、tríaina)、トライデント(英: trident)は、先端が3つに分かれた漁具あるいは三叉槍の一種。


歴史[編集]

トリアイナとは、「3つの歯」を意味する。ギリシア神話の海神ポセイドーンが使用する三又銛、あるいは鉾としても知られる。もともとは漁師が魚を獲るために使っていたこともあり、ローマ時代の剣闘士の一種であるレティアリィはこの武器と網を使用し、主として魚の兜をつけたムルミッロと試合を行った。



関連項目[編集]

三叉槍 - トリアイナは、この一種である。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8F%89%E6%A7%8D


三叉槍(さんさそう)、三叉戟(さんさげき)は、3つの穂を有する槍、戟。
トリアイナ - ギリシャの三叉槍、トライデント。
叉 - 十八般兵器の一つ。
トリシューラ - シヴァの持つ三叉戟
トルィーズブ - ウクライナの国章に描かれている三叉戟
鐺鈀 - 中国、朝鮮の三叉槍。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%BA%E3%83%8F

鐺鈀(とうは、タンパ)は、中国、朝鮮で使用された長柄武器の一種。


概要[編集]               これは時代的に該当しないですね。

形状は三叉の槍である。明代の中国で農具から改良、対倭寇戦に使用された。特に17世紀以降の朝鮮では兵卒向けに多用されている。

朝鮮軍は太祖李成桂以来、弓術と馬術をその根幹として近接戦闘を軽んじてきたが、1592年から1597年の朝鮮の役で日本軍の猛攻を受けた国王宣祖は、日本軍の刀槍による死傷を考慮し、中国に学んだ刀剣、槍棍の訓練を命じた。軍上層部からは弓術軽視につながるとして反対意見が上奏されている。

教本として戚継光の『紀効新書』(1560年)を採用し、これを基にした『武芸諸譜』(1598年)、『武芸諸譜続集』(1604年)、ハングル訳の『武芸諸譜翻訳続集』(1610年)などが刊行、配布された。これらの書籍は絵図入りで操方が解説され、鐺鈀もその中に確認できる。以後、朝鮮でもこれらの武器が広まった。一部は朝鮮の役以前も存在はしていたものの、一般的では無かった。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 02時39分59秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B4%E3%82%A1

                         大黒さまとの関係も出てきます



シヴァ(शिव, Śiva)は、ヒンドゥー教の3最高神の一柱。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌに対してシヴァ神は破壊を司る。シヴァ神を信仰する派をシヴァ教という[1]。

日本では慣用的にシバともいう。


ヴェーダ神話に登場する暴風雨神ルドラを前身とし、『リグ・ヴェーダ』では、「シヴァ」はルドラの別名として現われている。暴風雨は、破壊的な風水害ももたらすが、同時に土地に水をもたらして植物を育てるという二面性がある。このような災いと恩恵を共にもたらす性格は、後のシヴァにも受け継がれている。



            三位一体の思想はココから出ているのかな?と。

ヒンドゥー教の三神一体(トリムールティ)論では、3つの重要な神の1人として扱われ、世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。



             えっ?シヴァって女性じゃなかったの?

シヴァの妻はパールヴァティーで、その間の子供がガネーシャ(歓喜天)である。軍神スカンダ(韋駄天)は、シヴァの精をアグニやガンガーに媒介させてもうけた子である。


また、シヴァ神の乗物はナンディンと呼ばれる牛で、ナンディンも神として崇拝されている。通常、シヴァの寺院の前にはナンディンが祭られている。



姿[編集]

シヴァの姿が人間的に描かれる時には、皮膚の色は青黒い色で、三日月の髪飾りをした髪の毛は長く頭の上に巻いてあり、裸に短い腰巻だけを纏った苦行者の姿で、

     片手に先が3つに分かれた「トリシューラ」と呼ばれる鉾を持っている。

                           これですね三叉鉾
        


「ピナーカ」と呼ばれる弓を持つ場合もあるが、しばしばトリシューラと混同されている。

別の腕には、ダムルーと呼ばれるワンハンドサイズの両面太鼓を持つ。首に蛇を巻いている姿でも描かれる。両目の間には第3の目が開いており、彼が怒る時には激しい炎(パスパタという投げ槍として現す事も)が出て来て全てを焼き尽くすとされる。額には白く横に3本の線が描かれる。腰巻は多くの場合虎の皮で描かれる。四面四臂の姿でも描かれる。


頭頂部からは小さな噴水の様に水が吹き出しており、絵画で描かれる場合には頭髪の中ではガンガー女神が口から水を噴出しているものも多い。これはヒマラヤ山脈におけるガンジス川の始まりの水を示す。また、首を持ち上げたコブラとともに描かれる。


ヒマラヤのカイラーサ山がシヴァの住いで、瞑想に励んでいるとも言われる。サドゥと呼ばれるヒンドゥー教の修行者の一部、特にヒマラヤ周辺の修行者は、上のシヴァの姿に良く似た姿をしている。


シヴァが第3の目を得た理由についてはこんな逸話がある。シヴァの瞑想中に、彼がかまってくれないので退屈したパールヴァティーが両手で彼の両目を塞いだ所、たちまち世界が闇に包まれた。すると、シヴァの額に第3の目が現れ、そこから炎が噴出されてヒマラヤの山々を燃やし、世界を再び明るくしたという。



異名[編集]

シヴァは教学上は破壊神であるが、民間信仰ではそれにとどまらない様々な性格を持ち、それに従って様々な異名を持つ。

マハーカーラ(大いなる暗黒)とも呼ばれ、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れるという。


                         大黒さま・大国主

マハーカーラは漢訳仏典では大黒天と意訳される。日本では神道の大国主の「大国」が「ダイコク」とも読める事から同一視され、七福神の1人として、シヴァの名前を使っていないが日本ではなじみ深い神である。


ピナーカを保持していることから「ピナーカパーニ」(ピナーカを持ちし者)と言う呼び名も持つ。


またマヘーシュヴァラ(Maheśvara)とも呼ばれ、漢訳仏典では大自在天あるいは摩醯首羅と訳される。降三世明王の仏像は足下にシヴァとパールヴァティーを踏みつけた姿で刻まれるのが一般的である(詳細は降三世明王を参照)。


ナタラージャ(踊りの王)とも呼ばれ、丸い炎の中で片足をあげて踊っている姿の彫像で描かれる。


乳海攪拌の折にマンダラ山を回す綱となった大蛇ヴァースキが、苦しむあまり猛毒(ハラーハラ)を吐き出して世界が滅びかかったため、シヴァ神が毒を飲み干し、その際に喉が青くなったため、ニーラカンタ(青い喉)(Nīlakaṇtha)とも呼ばれる。


また、「金で出来た都市」、「銀で出来た都市」、「鉄でできた都市」の3つの悪魔の都市をトリシューラで焼き尽くしたので、三都破壊者とも呼ばれる。


ハラとも呼ばれ、ハリと呼ばれるヴィシュヌに対応する。


その他、バイラヴァ(恐怖すべき者)、ガンガーダラ(ガンジスを支える神)、シャルベーシャ(有翼の獅子)、パシュパティ(獣の王)、マハーデーヴァ(偉大なる神)、シャンカラ、等などと呼ばれ、その名は1,000を超える。




シヴァの妃[編集]

シヴァ神の信仰を語るには、その妻たちの存在は欠かせない。シヴァ神妃たちはシヴァ神の最初の妻サティーが死亡した際、それを嘆き悲しんだシヴァは、彼女の体を抱き上げて都市を破壊しながら世界を放浪した。

それを見かねたヴィシュヌ神がチャクラでサティーの死骸を切り刻み、シヴァを正気に戻した。

そのとき、世界にサティーの肉片が飛び散り、落ちた地がシヴァの聖地となり、肉片はそれぞれシヴァの妃としてよみがえったとされる。

シヴァ神の妃は正妻は、前述のようにパールヴァティー神が位置づけられているが、その他にも数百の妃が存在すると言われる。

古い時代に見られたシヴァ神の暴力性や破壊性は、シヴァ神の異名や神妃たちに吸収され、ドゥルガーやカーリーのような破壊衝動の激しい女神となった。

シヴァの神妃の中でも正妻に位置づけられるパールヴァティ自身がサティーの転生とされる事から、数百に上るシヴァの神妃たちのすべてがパールヴァティのそれぞれの一面を示すものだとも解釈が可能である。

こうしたシヴァ神妃たちは、ヒンドゥー教が拡大する過程で、各地の土着の女神信仰を吸収するために多くの女神たちにシヴァの妃の地位を与えるための解釈と考えられる。



主なシヴァ神妃[編集]

サティー
パールヴァティ女神
ドゥルガー女神 - アスラの王によってマヒシャによって天界が占領された時、神々の怒りの炎から出現した女神。十本の腕を持つ姿で描かれる。
カーリー女神 - アスラと戦うドゥルガー女神の憤怒から生まれた女神 十本の腕と真っ黒でやせ細った体、生首のネックレスをした姿で描かれる



シヴァリンガ[編集]
詳細は「シヴァリンガ」および「ヨーニ(英語版)」を参照




リンガ(英語版)とヨーニ(英語版)




カイラス山
ヒンドゥー教のシヴァの寺院では、上の姿ではなく神体としてシヴァリンガがシンボルとして安置されており、それが礼拝の対象になっている。シヴァリンガは、リンガとヨーニの2つの部分からなり、内側が受け皿状の円形または方形のテーブルの横に油が流れ出る腕が付いているヨーニの中心部に、リンガと呼ばれる先の丸い円柱が立っている。

ヨーニは女性器の象徴で、リンガは男性器の象徴であり、性交した状態を示す。ただし、我々は性交しているシヴァを女性器の内側から見ている形になっている。これは、シヴァ神が女性と性交をして現われたのがこの世界で、それが我々の住んでいる世界という意味になっている。

リンガは半貴石を使って作られることが多い。新しい寺院では黒い石を使うことが多いが、古い寺院では赤黒い石を使ったり、白い石を使ったものもある。ヨーニは普通の岩であることが多い。個人が寺院以外の場所で礼拝する際には砂や土を盛り上げて作ることが多い。また、シヴァが住むとされるカイラス山自体もリンガとして崇拝される。[独自研究?]



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%87%AA%E5%9C%A8%E5%A4%A9


抜粋

大自在天(だいじざいてん、梵:महेश्वर、Maheśvara、マヘーシュヴァラ、音写:摩醯首羅、まけいしゅら)とも言う。

もともとはヒンドゥー教におけるシヴァ神である。

仏教では自在天外道の主神とされる。なお大聖歓喜自在天・他化自在天と名称が似ているため多く混同されるが、別の天部である(後述)。妻は烏摩妃(パールヴァティー)。



男根信仰             なるほどね

大自在天は万物の生本たる義によって、シヴァ派の人々は人間の男根を天神の神実(かみしろ)として祀る。

またシヴァ神はリンガ(男根)を象徴とし、男根崇拝と結びついて崇められる。

さらに、続高僧伝玄奘伝、西域記健駄羅国記、玄応音義25、大智度論5、同10などの文献にもその痕跡が伺える。



なお前出の通り、大自在天は他化自在天とよく混同される。

そのためリンガ信仰と混交し、魔王が六欲天の他化自在天の最高位の主であることから天魔である魔羅(マーラ, Māra)[4]を指し、これが次第に転じて俗に「男根」を魔羅、マラというようになったといわれる。

あるいは先に女根を毘摩羅(Vimalā - ヴィマラー)ということから、摩羅とは本来、男女根の名称にて邦語のマラはサンスクリット語のままを伝えられなかったか、あるいは日本の神である天津摩羅命、大摩羅神、赤摩羅、天照眞良(正字は一の下に艮)建雄命などに由来するという説もある。



        インドのヒンズー教も結構日本に影響を与えているんですねえ。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 02時46分22秒 ) パスワード

ウクライナの国章     きれいです。               




http://www.google.com/search?q=%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%AB%A0&biw=1097&bih=533&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CCoQsARqFQoTCL_OoOK1s8gCFUykiAodFHMLQg



 どこかの車のエンブレムもこんな感じだったような。
           マセラティ
http://www.maserati.co.jp/maserati/jp/ja/index.html



[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 02時49分24秒 ) パスワード

http://ew.sanuki.ne.jp/sangwbhk/picturesimane/daisyutyouzou.jpg




鉾の両脇の部分との角度が1番似ていると思います。
どこかで見たと思ったはずです。

[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 02時52分13秒 ) パスワード

比べて見たらそうでも無かったですね。
残念


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%A3


マセラティの紋章

ロゴマークはマセラティ創業の地、ボローニャのシンボルの1つである『ネプチューンの噴水』に因み、ネプチューンの持つ三叉の銛、“トライデント”がモチーフとなっている。

またマセラティ三兄弟の結束を表す。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 02時59分40秒 ) パスワード

>善地という地名についても改めて考えてみました。

>善という字は、分解すると「羊」を「咅」(培う)、即ち「宗教的な意味」が含まれる地名ではないかと推察しました。

>今までは単に「善い土地」とのみ思っていましたが、それなりのいわくのある意味もあったのではないかと今思っております。


ですね。

「善」という文字が 「羊」を「咅」に分解できるということに気がついた
というのは習字の勉強の成果でしょうか?


そうしますと「羊太夫」が思い返されます。


    なにかありますね。


>善地の五姓  加藤、永井、服部、松島、鈴木

祭祀がらみだったのでしょうか?


何かで結ばれているはずです。出雲族・物部氏・神職?
面白くなりましたね。



[27]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月09日 10時15分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一つ付け加えるのを忘れていました。善地における人口・戸数は江戸時代
では、今よりずっと少なかった。およそ六十戸くらいでした。五姓で割っ
ても一姓十二戸・・・その人たちが氏子として、善地に「天満宮」を勧請し
たのはほぼ間違いないことです。「天満宮」は浜松地域では今では三社くら
いしかないと言われております(天神社は結構あるのですが)。ここも何か要
因がありそうです。
 天満宮と天神社の違いは「怒り=パワー」の違いでしょうか・・・この地
ではパワーよりも土師氏・出雲との関係を重視したのか。特に永井氏のルーツ
は菅原氏=土師氏につながります・・・。
 服部についてはいろいろな可能性もあり、本当のところ断定はできていま
せん。神職というのはその中の一つの可能性で、また私自身の希望的観測で
もあります(丸に三つ柏の家紋より導き出されるものとして)。

 いろいろお調べいただきありがとうございます。マセラティのエンブレム、
ウクライナのマーク・・・勉強になりました。

 仮に、十字架とした場合、例の「十字軍」は頭に十字架をつけていた可能
性はあるのでしょうか・・・?


[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 13時50分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


十字架や十字軍の絵が結構出ています。
ああいう十字架は出てないですね。


やっぱりネプチューンやポセイドンの三叉鉾に似せた飾りでしょうか?



http://www.google.com/search?q=%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%AB%A0&biw=1097&bih=533&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CCoQsARqFQoTCL_OoOK1s8gCFUykiAodFHMLQg&gws_rd=ssl#tbm=isch&q=%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D%E3%81%AF




http://www.google.com/search?q=%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%AB%A0&biw=1097&bih=533&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CCoQsARqFQoTCL_OoOK1s8gCFUykiAodFHMLQg&gws_rd=ssl#tbm=isch&q=%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D+%E6%97%97



http://www.google.com/search?q=%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%AB%A0&biw=1097&bih=533&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CCoQsARqFQoTCL_OoOK1s8gCFUykiAodFHMLQg&gws_rd=ssl#tbm=isch&q=%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D%E3%80%80%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%80%80%E3%81%AF



http://www.google.com/search?q=%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%AB%A0&biw=1097&bih=533&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CCoQsARqFQoTCL_OoOK1s8gCFUykiAodFHMLQg&gws_rd=ssl#tbm=isch&q=%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E3%80%80%E3%81%AF
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 13時54分50秒 ) パスワード

>「十字軍」は頭に十字架をつけていた可能性はあるのでしょうか・・・?

頭につけていたとしたら王冠につけていたということでしょうね。

    エリザベス女王の冠には正面に十字架がついています。


でも戦っている時はしっかり防御してますから
せいぜい盾の飾りとか馬の馬具の飾りですねえ。


ああいう感じの頭に十字架というのは「平和」な時のいでたちでしょうね。



[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月09日 13時58分03秒 ) パスワード

>一つ付け加えるのを忘れていました。
>善地における人口・戸数は江戸時代では、今よりずっと少なかった。およそ六十戸くらいでした。

そんなあたりでしたか。
200−300人あたりの村?

身内だけって感じですね。
へえ〜
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月10日 22時33分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まだまだ持論を確実にするには情報収集不足だと思っております。この地域
の統治者の権力争い、宗教勢力の主導権争い等、具体的かつ詳細な情報の発掘
であります。いろいろな史料から、一つずつ広い集めて行く必要があると思っ
ております。少なくとも、図書館にある資料については全て知り尽くすくらい
の覚悟が必要かと思っています。

 さて、本日は古代史についていろいろ調べておりましたが、一度道を踏み外
すと、たちまち迷路に入り込んでしまいます。本によって基本となる考え方が
違う、説が違うからであります。結果、こんがらがってしまい、かえってわか
らなくなってしまいます。
 ま、それでもそれに耐えて、総合的な判断力をつけながら、前に進まなけれ
ばなりません。

 まずは、古代の大まかな流れとして、調べながらこう考えました―
  @素戔嗚・天照・・・2世紀
  A神武天皇・・・3世紀
  B応神天皇・・・5世紀
  C継体天皇・・・6世紀

 そうすると、大国主や天穂日は2〜3世紀、伊弉諾・伊弉冉は2世紀前半、
であるということになります。
 1世紀以前になるともう完全に神話の世界となります。

 日本には、いろいろな人達が集団で渡来してきています。それについては、
明日記すことにいたします。


 それはそうと、例の「三叉鉾」のような冠、いろいろ文献をさがしました
ら、また出て来ました。一つは長野県の桜ヶ丘古墳出土のもの。もう一つは
福井県の二本松山古墳出土のもの。後者は帯から上に伸びる形でなく、ヘル
メットの前頭部より三本の鉾が広がりながら伸びている。これと全く同じ物
が、同じく福井県の越前市にある継体天皇像が被っておりました。解説によ
ると大伽耶をルーツとするものだそうです。
 福井県の敦賀・・・武内宿祢が応神天皇をつれてしばらく隠れていたそう
です。芭蕉もたぶんそれを知っていた・・・応神天皇の謎=敦賀はある意味
日本の歴史の謎の中心であります。
 

  
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月11日 02時39分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


先祖探しはライフワークですね

古代や神代に遡るとワケ分からなくなりますね。


出雲市上塩冶築山古墳は6世紀の終わりから7世紀初めだろうと
    ということは
    古墳時代・飛鳥時代の人物の古墳でしょうか。


7世紀前後とは:


倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。

またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。

こうした内向政な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。

この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。



飛鳥時代

6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。

6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前半にかけて推古天皇とその甥厩戸王(聖徳太子)、大臣蘇我馬子が中心となって権力の集中がはかられた。第1次遣隋使派遣の反省から、冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。 第2次遣隋使では小野妹子が派遣され、中国の皇帝煬帝へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」[3]とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と柵封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、朝鮮諸国に対して優位性を示す意図があった。

7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる日本書紀の編纂が開始される。


____________________________

つまり大化の改新の前あたりの人物の古墳だった。

当時の有力者は蘇我氏  (物部氏が政治的には力を無くした頃)



出雲の歴史

http://www.iokikai.or.jp/kodai.izumo.html

 学校の日本史の教科書は、ほぼ7世紀から始まっている。

これは、『日本書紀の記述は6世紀以前は全く信憑性が無い、ましてや神話なんて、、』というのが史学会の常識だったからであろう。今山陰地方の考古学が進展したことにより、『出雲王国』が実在していたことが確証できた。古事記には、葦原中国(出雲王国)はわが子が支配する国だとして、神々を次々に降臨させるが、帰伏させる事が出来ず、ついに天照大御神は天鳥船神と建御雷(たけみかずち)神を大国主神のもとへ遣わした。そしてこの国は『天照大御神のご子孫に差し上げましょう』と言わせたのである(天孫降臨より)。



8世紀の大和朝廷は、出雲王国の実在を知っていたからこそ、出雲を神話にしてしまい、日本の歴史を抹殺しなければ政権の正当性と正統性を証明出来なかったのだ。


すなわち大和朝廷が出来る以前に日本には別の王国、出雲王国が存在していたことを、神話が語っているのである。


この王国が倭国の中心として、日本海沿岸はもちろん遠く瀬戸内海や中国,朝鮮半島と盛んに交易が行われていた。



 日本で文字による記録が残されるのは奈良時代の古事記(712年稗田阿礼が暗誦していた帝記を太安万侶が編纂した)と日本書紀(720年天武天皇の命を受け、舎人親王らによって編纂された日本最古の国史)である。しかし古事記の内容は、大化改新(クーデター)を起こした天智天皇と藤原鎌足の正当性を主張し、蘇我氏と須佐之男命を悪者扱いにしているが、その内容からは古代の人々の考え方や習慣が読み取れる。古事記の神話の1/3は出雲に係わった神話で占められている。 出雲の神様は、大国主命(別名大黒様)、恵比須様などの現世利益の神様と、須佐之男命のように祟りと暴れん坊の神様がいる。何故出雲の田舎(?)に日本一大きな出雲大社が出来たのであろうか?



 出雲風土記は713年五月に中央政府から出された命令により製作に着手させ、733年に完成した。出雲の由来が『八雲立つ出雲』とか、国引き『新羅の岬が余っているから綱をかけて引いて縫い合わせた』とか記載されている。

島根半島と朝鮮半島は300Kmの距離である。冬を除けば波穏やかな日本海であり、大陸との往来や西は九州、東は東北ともつながっていた。lこのように出雲は僻地ではなく、大陸や半島との文化の玄関口であった。 紀元前600年頃中国大陸や朝鮮半島から稲作と金属器を持った弥生人が対馬海流に乗って出雲に渡来して来た。渡来系弥生人と縄文人との間で衝突が起ったが、青銅器と鉄器を持つ弥生人が優位に立ち、縄文人は東に追いやられ、須佐之男命と奇稲田姫のように混血も進んでいった。


紀元160年の頃になると、新羅から渡来した須佐之男命の一族が出雲王国を作り上げ、山陰一帯を平定化すると、須佐男命は、今度は主力の一部を北九州に向わせ、不弥国、奴国を攻略し、次いで伊都国を攻撃した。これが倭国大乱(後漢書の146−189年)の始まりであり、ここ出雲は、北陸地方、近畿地方、東日本へ鉄素材を流通させる拠点となり、日本列島の中でも重要な地位を占めるようになった。弥生時代の出雲は、稲作農耕に関する祭祀に用いられた光り輝く銅剣、銅矛や銅鐸など青銅器の文化が華やかであった。魏志の倭人伝の邪馬台国と争っていた狗奴国が出雲王国ではないだろうか?卑弥呼の死後、倭国で最も繁栄していた出雲王国(須佐之男命の子孫の大国主神)は、4世紀中(350年頃)に倭建命(景行天皇の子、仲哀天皇の父)によって滅ぼされた。なのに古事記では戦いではなく話し合いで国譲りが行われたと記されている。これは天照大神と須佐之男命の争いでもあり、中国長江流域(呉の国)からの渡来人と朝鮮半島(新羅)からの渡来人の争いでもあった。



そうしますと、あの古墳は  スサノオ  (のモデル?)とされる人物の墓だった?

     そんな感じがします。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月11日 02時50分23秒 ) パスワード

>「三叉鉾」のような冠、
>いろいろ文献をさがしましたら、また出て来ました。

>一つは長野県の桜ヶ丘古墳出土のもの。
>もう一つは福井県の二本松山古墳出土のもの。後者は帯から上に伸びる形でなく、ヘルメットの前頭部より三本の鉾が広がりながら伸びている。

    これと全く同じ物が、同じく福井県の越前市にある継体天皇像が被っておりました。
    解説によると大伽耶をルーツとするものだそうです。



よく見つけたものです。


大伽耶とは:
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E5%A4%A7%E4%BC%BD%E8%80%B6%E3%80%81%E9%AB%98%E9%BA%97%E4%BC%BD%E8%80%B6/

大伽耶、高麗伽耶

前漢武帝が鉄の産地であった北朝鮮に楽浪郡をおいたころ、韓族は馬韓・辰韓・弁韓を樹立しました。ツングース系扶余族が楽浪郡を駆逐して高句麗を建国。建国者は朱蒙。同じツングース系靺鞨族(=満州人)が立てた濊(わい)、東夷を併合しました。やがて扶余族が百済を建国し、韓族の馬韓を滅ぼしました。韓族軍人が、靺鞨族の度重なる侵略で弱った辰韓を滅ぼして新羅を建国。複数の国家から成る弁韓は、伽耶となりました。伽耶には、金官伽耶、大伽耶、阿羅伽耶(安羅)、小伽耶、多羅伽耶(多羅)、高麗伽耶などがありました。

「大伽耶山」で、倭人諸部族の始祖神話は、はるか後代の「東国輿地勝覧」に記録されています。即ち高霊県の条で、「元は大伽耶国なり。始祖伊珍阿鼓(一に内珍朱智とも云ふ)から道設智王に至るまで凡そ十六世五百二十年、新羅真興王がこれを征服し、その智を大伽耶郡とす。」とあり、その注に「伽耶山の神、正見母主は天神、夷ヒ(田比)カ(言可)に感ずるところとなり、大伽耶王悩窒朱日と金官国王、悩窒青裔の二人を産めり。悩窒朱日は伊珍阿鼓の別称、青裔は首露王の別称なり。」(以上、「漢半島からきた倭国」李鐘恒著、兼川晋訳、新泉社、1990年)とあります


                 へえ〜
                   ↓

大伽耶とは固有の国名ではない。伽耶諸国の中の有力な国に対する呼称であり、正確には高霊伽耶という。没落以前の金官伽耶も大伽耶と呼ばれたことがあったという。高霊伽耶は金官伽耶が没落した後、大伽耶連盟を結成し、561年に新羅の軍門に下るまで、その盟主として他の国々を主導した。


池山洞古墳群遠望

三韓時代には高霊に半路という国があったと伝えられている。高霊地域は農耕に適した土地柄で、半路国は豊かな農業生産力を基盤にゆったりとした成長を続けたという。その国が伽耶社会で頭角を現す切っ掛けとなったのは、4世紀頃成立した治炉県を服属させたことによる。治炉県とは、現在の陜川郡治炉面から伽耶面の一帯で、鉄の生産が盛んだった。つまり半路国は治炉地域の鉄で鉄製武器を作りながら強力な軍事力を持つようなり、三国時代には伽耶諸国の中で一目おかれる高霊伽耶に成長したという。

その高霊伽耶が大伽耶へ発展した契機は、高句麗の広開土王が作った。広開土王は新羅の要請を受けて400年に新羅への救援出兵を決意し、慶州、洛東江流域まで進出した。高句麗軍郡のこうした朝鮮半島南部への進出は、金官伽耶の没落の切っ掛けとなったとされている。


池山洞32号墳から出土した金銅冠                      コレでしょうか?

そのため金官伽耶の残存勢力は、一部は倭国に、また一部は高霊へ逃れて、彼らが持っていた交易と鉄鋼開発のノウハウを伝えたとされる。それを切っ掛けに金官伽耶は飛躍的に成長していく。5世紀の高霊伽耶の成長をよく反映しているのが、池山洞古墳群である。


池山洞32号墳から出土した金銅冠は、大伽耶を代表する遺物としてよく取り上げられる。板模様の装飾1枚を額の正面に配置させた光背形のこの冠は、新羅の樹枝形あるいは鳥翼形の飾りではなくて、草の葉または草花の飾りを立てている。こうした金銅冠を独自に作り、自分の墓に埋葬させたことで、すでに高麗伽耶が大伽耶と呼ばれるにふさわしい勢力をすでに築いていたと推察されている。

                                    画像で見たいものですね


また、大伽耶王陵展示館で復元展示されている44号墳は、外護列石を巡らした径27x25mの楕円形墳であるが、主室の竪穴石室に平行、直交して各1基の福室が築かれ、さらに周囲には32基の小石室が配されていた。主室内には装身具・武器・武具・馬具などが副葬品として納められ、副室には土器と人骨が、また小石室には25体の殉死者が埋められていた。多くの殉葬者を伴うこの王墓は、王の権力と富のすごさの象徴と言えよう。

大伽耶連盟の盟主として、高霊伽耶の王たちは1世紀以上にわたって伽耶諸国の上に君臨してきた。その中の一人が5世紀の後半に東アジア世界に登場する。中国の正史『南斉書』の加羅国伝には、建元元年(479)、国王の荷知(かち)が使者を遣わして朝貢してきた、とある。南斉はそれに報いて「輔国将軍・本国王」の称号を授けた。倭王の武(雄略天皇)が宋に遣使して上表文を提出した翌年のことである。

田中俊明教授は、その著『大伽耶連盟の興亡と「任那」』の中で、荷知は宇勒(うろく)に伽耶琴の作曲を命じた大伽耶の嘉悉王(かしつおう)と同一人物であると推論しておられる。

日本書紀によれば
大和朝廷は新羅とは敵対的な記事が多い。(14件)
大和朝廷は百済とは友好的な記事が多い。(21件)
大和朝廷は伽耶諸国とは友好的な記事が多い(8件)だけでなく、その内の5件は伽耶が特別な関係であったことを思わせる記事である。(敵対的記事は0件である)

 つまり、大和朝廷は、新羅の前身・辰韓地域と敵対的なことが多く、百済の前身・馬韓地域とは友好的なことが多かった。そして、邪馬台国は伽耶の前身・弁韓地域とは特別に友好的であったことが推測できるのである。

『魏志倭人伝』は、馬韓は西にあって、五十余国あること、辰韓は馬韓の東にあり、十二国あること、弁辰(弁韓)はその南で、やはり十二国にわかれていた、と記している。弁辰十二国のなかに「弁辰狗邪国」があるが、これが『魏志倭人伝』では「狗邪韓国」として登場する。古くから日本列島と弁韓とのかかわりは深く、のちに『日本書紀』には「任那(みまな)」として登場するが、「加耶」とも称された。近年、調査研究が進み、この狗邪韓国は現在の釜山の西、洛東江近くの金海郡にあったのではないか、という説が有力。

「中国の三国志には弁辰(伽耶)からの鉄が、韓、穢(ワイ)、楽浪郡、帯方郡にまで、供給されていると書かれている」
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月11日 03時34分06秒 ) パスワード

http://www.iokikai.or.jp/kodai.izumo.html


このブログ、面白かったですよ。

>西谷墳墓群
>4世紀半ばには、出雲からも四隅突出墳丘墓がなくなり、前方後円墳30基(全国で140基)があることは、出雲王権が大和政権に服従した証拠である。


これは知らなかったです。



西の谷墳墓群は、弥生時代の出雲王の代々の墓であろうと考えられている。

 斜面と裾まわりを大量の石で飾られている。地下には2号墓展示室が再現されている。

2百数十個の土器が出土し、出雲の土器は2/3で、残りは丹後から越前,加賀に見られるものが60個、吉備の土器が30個あった。

 四隅突出型墳丘墓は、丹後や若狭には築かれず出雲から福井、富山県と飛び石状に伝播されている。
       これは出雲と越の間で海人の交易が活発におこなわれていたのであろう。


                   へえ〜


上塩治築山古墳

画像
右:6世紀後半、出雲の豪族の装いを上塩治築山古墳の出土品から復元したもの。上:大和朝廷の工房で製作された環頭大刀。北部九州と越に集中している。(古代出雲歴史博物館より)

 古墳時代中期から後期にかけて、刀剣の装飾は日本史上ほかに例を見ないほど豊かになった。この時代日本列島は大王や豪族を中心にまとまっていたが、装飾付大刀は最も高級な太刀で、彼らの権威を高めるための重要な道具であった。


 身につけた冠や大刀、馬に付られた馬具はいずれも大和朝廷で製作され、与えられたもので、
彼が出雲での最高位の豪族であることを大和朝廷が認めた証拠であった。


                    へえ〜

 装飾大刀は、金、銀、銅、漆、玉、布などで飾られた大刀です。
 7世紀中頃、日本は律令国家設立に向けて動きだし、やがて装飾大刀は作られなくなり、律令社会に変って行った。




>659   出雲大社を修造

       とすると、あの上塩治築山古墳の被葬者はスサノオか大国主?


このブログ、面白かったです。
でもやっぱり神代とか古代はやっぱりこんがらがります。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月11日 07時24分33秒 ) パスワード

桜ヶ丘古墳出土のもの


http://www.google.com/search?q=%E6%A1%9C%E3%83%B6%E4%B8%98%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%93%81%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%80%80%E3%81%AF&biw=1280&bih=621&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CBwQsARqFQoTCMvDjov4uMgCFQSWiAodKCUGXg&dpr=1.5

&seq=0">http://www.82bunka.or.jp/bunkazai/popup.php?no=2111&
&seq=0


これですね。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月11日 07時27分31秒 ) パスワード

二本松山古墳


http://www.google.com/search?q=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%80%80%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%93%81%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%80%80%E3%81%AF&biw=1097&bih=533&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CBwQsARqFQoTCOvSiZr5uMgCFRPNYwodKKUN8w


継体天皇の想像肖像画も載ってますね。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月11日 07時29分51秒 ) パスワード

あらら・・・・


もっと下の方に  陣羽織 ですが  三つ柏紋?  亀甲紋?  がついてますね。


それで想像しましたが  ひょっとすると三つ柏紋と三つ亀甲紋って  関係があるのかしら?
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月11日 17時03分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史における5W1Hを確定することが歴史学者の任務であると思いま
すが、日本中の歴史学者がまとまればできるはずであります。真実は一つに
収束するはず・・・数学と同じであるはずです。それができないのは、物的
証拠の裏付けがとれないということでしょうか。それとも、タブーを打ち破
ることを潜在的に避けているのでしょうか。

 渡来人が何派にも分かれて日本にとやって来ているわけですが、それをう
まく表現している文献になかなかぶつからない。中矢伸一氏の『封印された
日本建国の秘密』には、渡来の波を5派に分けて表現していますので、これ
をもう少しわかり易く解釈した上で記したいと思っています。

 それはそうと、象潟の蚶満寺ですが、ここには応神天皇の大きな像が飾ら
れておりました。芭蕉はこれを見たと思います・・・。やはり、芭蕉は応神
天皇に魅かれるものがあったのだと思いますが、それは一体何だったのか、
さらに探ってみたいと思います。芭蕉と応神天皇をつなぐもの・・・やはり
いはば俳句という能舞台の「橋がかり」からシテが下りて来る、つまり最高
の「霊性」を応神天皇の内に見ていたのでしょうか・・・?

 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月11日 22時30分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


芭蕉が応神天皇について何か書いているのが見つかると良いですね。


とにかく宮内庁が御陵の調査を許可しなきゃね。
とりあえず調査がなくては靴の外から痒いポッチはどこに出来ているのだろう、と無駄に掻いている感じ。

でも宮内庁にすると調査されたくないのかもですね。
過去の悪行がバレてしまう?



_________________________


それで日本武尊が鳥になって飛んで行ったということを客観的に考えてみました。


チベットの鳥葬の下準備の映像です。閲覧注意(笑)でも、なるほどな、と思いました。


http://tocana.jp/2015/10/post_7553.html?utm_source=nikkan&utm_medium=topright&utm_campaign=ctr


鳥葬は
   燃料が手に入らないこと
   場所的に腐敗しないから
だったのか。

なるほどね。



ということで友人からレスが来ました:

以下コピペ:

日本も昔は,鳥葬だったようです。

火葬は仏教が入ってきてから。



鳥葬も火葬も思想は同じです。

鳥葬の場合は,鳥が天国に魂を運んで行ってくれる,
火葬は,煙が魂を天国に運んで行ってくれると言う思想です。


神社に鳥居があるますけど,これ漢字のとおり,鳥居です。
鳥は,神聖な生き物ですから,鳥が結界を張って,悪いものを入れないと言う思想が古代日本にありました。

古代,神社の鳥居には,鳥の彫刻を彫った。



中国の土葬にも意味があります。
地中に黄泉と言う,黄色の地下水が流れていて,死者はそれに乗って天国に行くと言う考えがありました。


________________________________

日本人の遺伝子がチベットとどこやらの島の人と共通するという話。
    中国人や韓国人とは区別ができるという話。

鳥葬はチベット人との共通点だったのかなと。


神代・古代のことは実にロマンに溢れています。
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月12日 08時58分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 うっかりしてスレッドの<家譜10>の方に書いてしまいました。次回より
こちらに戻します。
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月12日 12時59分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

スレッド間違いをしましたので、こちらに戻しました―

 いわゆる鳥のトーテムを持った氏族というのは秦氏であると言われており
ますが、しかとはわからない。鳥居というのもその一端でありましょうか・・・? 鳥は空を飛ぶ・・・天界からの使者、地上と天上をつなぐ者と
とらえるのはしごく自然の道理ではあります。
 出雲の天穂日命の子は建比良鳥命、七世はクシミカトリミノ命と「鳥」の
文字が入っている。
 八咫烏、金鵄、ニワトリ、白鳥、・・・etc. 
 以前より、鳥をテーマに論考した本を探しているのですが・・・。

 さて、神功皇后、武内宿祢、応神天皇、継体天皇と出雲及び信濃は、
想像以上のつながりと謎があるようです。ここを少し探究してみます!

 


[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月12日 21時58分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


業務連絡です。

消しておきました。
このレスもその内に消します。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月12日 22時09分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


>いわゆる鳥のトーテムを持った氏族


うちのカナダの親戚(カナダのカナダ・インディアン)も「鳥」です。
カラスです。
色は「黒」です。


でも日本武尊は「白鳥」ですよね。
この意味は何なのかな?と。
「特別」ということなのかな?と。



チベットの鳥葬の鳥は灰色ですよね。
ハゲワシでしょうか?
黒でもない白でもないグレーゾーンのグレイですね。
   ってダジャレ。


>金鵄

金色というのは神武天皇に絡めた「権威」からでしょうか?



鳥は世界的に権威の象徴なんでしょうね。



>さて、神功皇后、武内宿祢、応神天皇、継体天皇と出雲及び信濃は、想像以上のつながりと謎があるようです。
>ここを少し探究してみます!

面白くなりましたね。



江戸時代、世の中が落ち着いてくると
日本人はどこから来たのかとか日本はどのようにして成り立ったのか
そういうのを、アイデンティティを、知りたくなったでしょうね。

芭蕉もたくさん読んだのでしょうね。
どこに行き着いたのでしょうね。

だから確認のためにも日本全国を歩き回りたかった?


   でも東北とか、北の方なんですよね。
   九州とかの、西ではなかった。


謎が謎を呼びますね。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月13日 08時46分57秒 ) パスワード

友人より


                       疑問に思うところには*をつけました


火葬を広めたのは,天武天皇です。             *広めた話限定?

薄葬令と言う,法令を出しました。             *孝徳天皇では?
中身は,古墳なんて無駄なもの作るな。
死んだ奴が古墳の壮大さなんかわかるか。
無駄だ。
その金を生きているものに使え。

と言う法律です。



ここで火葬を勧めるとともに,生き物の肉を食うな。
と言うことも法令に入っていました。


ただ,江戸時代までは,庶民は土葬が基本でした。
だから,人魂伝説が生まれます。
人魂は,骨の抗生物質リンと水が反応して発光する現象です。


この薄葬令で,八位以上でないとお墓作ってはいけませんという規則もありました。
要は公務員以外墓を作れませんでした。
門閥のない公務員は,最初,無位で公務員になり,何年か務めて小初位(しょうしょい)になり最初の官職を貰います。

その後定年の時に,八位になります。


大過なく勤めたらと言う話ですけど。


だから,普通の庶民は墓を作れませんから,遺体は川に流したり,山に捨てます。
京都の清水寺は,なんであんな高いところにあるかと言うと,ここ遺体捨て場でした。

仇野(あだしの)と言いましたが,仇は仇討でなく,幽霊や妖怪と言う意味です。
だから臭くて仕方ないので,低いところに寺作ったら,坊主匂いで卒倒します。それで,高いところに作りました。

音羽の滝なんか,喜んで水飲んだりしてますけど,後倭の滝???なんか死体置き場でした。

だから,赤痢なんか発生すると,遺体で鴨川氾濫します。


それで,天皇の居住区である大極殿にまで遺体が流れ着く。
それで,清和天皇だったと思いますけど,「朕に得がないので,庶民に迷惑をかける。」と言って,退位した天皇もいます。



_______________________________

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E8%91%AC%E4%BB%A4

薄葬令(はくそうれい)
大化2年(646年)、身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令。


『日本書紀』大化2年(646年)3月22日条によれば、大化の改新のなかで薄葬令が規定された。


中国の故事に習い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死殉葬を禁止し、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなどの制限が加えられた。 墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げる。




さまざまな解釈[編集]

中央集権化の一環であるとする解釈:大化の改新などにより大和朝廷は地方豪族を押さえ中央集権国家へと変貌していった。 薄葬令は、地方豪族の権力の象徴と言える古墳の造営を制限するものであり、全ての土地と人民は天皇に帰属するとした公地公民制の推進と関係がある。よって、一部の支配者層は、古墳の造営を続けることが出来た。



後付けであるとする解釈:簡易な葬送について、「以前から出されていた薄葬令に従うもので問題はない」との説明が付くように、後世の支配者が日本書紀に盛り込んだルールである。例えば、持統天皇は703年に崩御し薄葬だった。彼女は天皇で初めて火葬され、自身の墳陵を持たず夫の天武天皇の墓に合葬された。しかしそれ以前の、654年に崩御した孝徳天皇は薄葬ではない。




中国大陸[編集]

中国大陸では後漢末期(三国時代)の建安10年(205年)、曹操が薄葬令を発布している。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月13日 10時47分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すごい重要な情報、ありがとうございました。いわゆる時代考証という
ことで、その時代の状況・考え方をつかむことはすごく大事なことであり
ます。
 埋葬・墓に関する考え方=霊に対する考え方=宗教心との関係というこ
とで、いろいろなものが見えてきます・・・。

 ただ今、応神天皇・神功皇后で四苦八苦しております。あを様流に表現
すると、汗、汗、汗・・・!
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月13日 12時25分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

>ただ今、応神天皇・神功皇后で四苦八苦しております。

四苦八苦なさっていらっしゃるのは分かります。


非常に重要な人物達ではいらっしゃいますが
なんせ謎に満ちてますものね。


いろいろお読みになってスッキリ纏めてください。


1.
神功皇后

古事記によると、夫の仲哀(ちゅうあい)天皇は「西に金銀財宝に満ちた国があり、その国を帰順させよう」と神託を受けたが、偽りを言う神だと思い信じなかった。そのため神の怒りに触れて亡くなった。その後、神功皇后は新たな神託を受け、身重の体で軍を整えた。舟を並べて海を渡ると、魚は舟を背負って進み、追い風が舟を進め、新羅の国までたどり着いた。新羅の国王は恐れおののき、降伏して朝貢することを誓い、百済も従ったとされる。



2.
神功皇后【じんぐうこうごう】

仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后。和風諡号(しごう)は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。記紀によると三韓出兵物語の中心人物で,仲哀天皇の急死後,妊娠中でありながら武内宿禰(たけうちのすくね)とともに朝鮮半島に出陣し新羅(しらぎ)を討ち,また百済(くだら)・高句麗(こうくり)をも帰服させ,帰国後応神天皇を産んだという。




3.
神功皇后 じんぐうこうごう

記・紀にみえる仲哀天皇の皇后。
父は気長宿禰(おきながのすくね)王。「日本書紀」によれば,仲哀天皇8年天皇の熊襲(くまそ)征討にしたがい筑紫(つくし)におもむいたが,天皇が急死。翌年みずから兵をひきいて新羅(しらぎ)を征し,百済(くだら),高句麗(こうくり)を帰服させた。帰国後,応神天皇を出産。国政を69年間とり,100歳で没したという。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。



4.
神功皇后

記紀にみえる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊。『古事記』には息長帯比売命と記される。神と交感する能力を持つ巫女的な女性。夫の仲哀天皇が神の託宣を信じず祟りにあって頓死したあとを受け,託宣に従って新羅を攻める。このとき大小の魚が寄り集まって,船の進行を助けたという。新羅の王は皇后の軍団の勢いに圧倒されて戦わずして降る。高句麗,百済もこれに倣う。この軍旅に際し,皇后は臨月を迎えていたが,石をもって産気の鎮めとし,筑紫へ凱旋してから御子(のちの応神天皇)を生む。このときの鎮めの石は,鎮懐石の名で筑紫の地に実在を伝えられており,8世紀初頭の歌人山上憶良の歌に,具体的な寸法と共に人々が盛んに参っていた様子が描かれている。皇后は出産ののち,反逆の企てなども粉砕し,大和で御子を皇太子に立てて後見に当たる。記紀の記載上,皇后は皇位に就かなかったことになっているが,天皇に匹敵する存在であり,『日本書紀』でも天皇に準じた扱いをしている。この皇后と御子の組み合わせは,やがて母子神信仰に習合し,八幡宮の祭神として名を連ねて現在に至っている。<参考文献>直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』




5.
神功皇后

 『日本書紀[にほんしょき]』に出てくる仲哀[ちゅうあい]天皇の妻で、神のおつげに背いて亡くなった仲哀天皇の後をついで熊襲[くまそ]を征伐しました。さらに新羅[しらぎ]征伐も行い、朝鮮半島を従わせたと書かれています。




6.
じんぐうこうごう【神功皇后】

仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公,また応神天皇の母とされる。別名,気長足姫(おきながたらしひめ)尊(記では息長帯比売命)。
[神功皇后伝説の大要]
 熊襲(くまそ)を撃つため筑紫に赴いた仲哀天皇は,海のかなたの宝の国を授けようという神託を得る。この神言は武内宿禰(たけうちのすくね)が請い,神がかりした神功皇后を通じて告げられた。その宝の国とは先進文明に輝く朝鮮半島諸国のことであったが,これを信じなかった仲哀天皇は急死する。



7.
じんぐうこうごう【神功皇后】

記紀所伝の仲哀天皇の皇后。気長足姫(息長帯比売)(おきながたらしひめ)の漢風諡号(しごう)。天皇の死後,新羅(しらぎ)に出陣,凱旋(がいせん)ののち筑紫の地で応神天皇を出産,69年間摂政をつとめたという。「播磨風土記」などでは大帯姫(おおたらしひめ)とも。




8.
神功皇后
じんぐうこうごう

記紀や『風土記(ふどき)』などにみえる伝承上の人物。『日本書紀』によると、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。父は開化(かいか)天皇の曽孫(そうそん)、気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)。『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅(しらぎ)国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の5世の孫にあたるという。仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)(香椎宮(かしいぐう)。福岡市東区香椎町に所在)にきたとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)と住吉(すみよし)三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、臨月であったにもかかわらず新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)で後の応神(おうじん)天皇を出産。さらに大和(やまと)に帰還して坂(かごさか)・忍熊(おしくま)2王の反乱を鎮定し、応神が即位するまで69年間も政治をとっていたという。『書紀』にはさらに多くの日朝関係記事が記され、なかには干支(かんし)二運(120年)を下げれば史実と考えられるものもある。また4か所にわたって『魏志(ぎし)』や『晋書(しんじょ)起居注』が引用され、編者が神功を倭(わ)の女王(卑弥呼(ひみこ))に比定していたことは疑いない。
 この伝説は、古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた母子神信仰に基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜(つづき)郡に居住した古代豪族息長(おきなが)氏の伝承などが加わり、さらに7〜8世紀に古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられる。[塚口義信]
『塚口義信著『神功皇后伝説の研究』(1980・創元社)』




9.
世界大百科事典内の神功皇后の言及


【安曇磯良】より


…阿度部(あとべの)磯良ともいう。《太平記》巻三十九によれば,神功皇后が三韓に征するさい天神地祇を常陸の鹿島に招き軍評定を行ったが,ひとり海底に住む阿度部磯良のみが不参であった。諸神が神遊(かみあそび)の庭をもうけ〈風俗・催馬楽(さいばら)〉を歌わせたところ,磯良は感にたえかねて現れ出たが,容姿は貝や虫のとりつく醜い様を示しており,それを恥じて召請に応じなかったのだという。…


【鏡山】より


…標高284m。山名は,神功皇后が朝鮮出兵の戦勝を祈念して鏡を山頂に埋めたことによると伝える。また任那に渡る大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の軍船に向かって,土地の長者の娘松浦佐用姫(まつらさよひめ)がこの山から領巾(ひれ)を振って別離を悲しんだという伝説から,領巾振(ひれふり)山の別名があり,《万葉集》などに歌われている。…


【香椎宮】より


…福岡市に鎮座。祭神は神功皇后,または仲哀天皇といわれ諸説あるが,現在は仲哀天皇,神功皇后,相殿に応神天皇,住吉大神をまつる。旧官幣大社。…


【称制】より


…古来,称制の事例は,清寧天皇の没後に億計(おけ)(仁賢天皇),弘計(おけ)(顕宗天皇)両皇子が互いに辞譲して皇位につかなかった間,姉の飯豊青(いいとよあお)皇女が政務を執ったのを初例とし,ついで斉明天皇の没後,皇太子中大兄皇子が3年間称制した例,天武天皇の没後,皇后鸕野讃良(うののさらら)媛(持統天皇)が同じく3年間政務を執った例の3例がある。ところで《日本書紀》によると,仲哀天皇没後,応神天皇のまだ即位しない間,神功皇后が政務を執ったのを摂政とするが,摂政は天皇の在位しているときに,皇族等が天皇に代わって政治を執るのをいうことからすると,神功皇后の統治形態は摂政よりも称制に当たる。また《続日本紀》によると,文武天皇の没後,元明天皇が践祚に先立つ2ヵ月間に万機を摂行したのも,称制といえよう。…


【新羅】より


…しかし,これらの事情が687年ごろから変化し,日本が上位に立つ形で国交を行おうとして新羅と対立しはじめた。日本側はこの要求を出す根拠として,神功皇后新羅出兵の伝承を造作,強調した。新羅は733年に唐の渤海遠征を助け,一挙に対唐関係を好転させ,735年には懸案の領土問題が解決した。…

※「神功皇后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月13日 12時26分05秒 ) パスワード

http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper24.html


2.4 卑弥呼と神功皇后 −倭女王卑弥呼




<卑弥呼と神功皇后>

いままで論証したように、卑弥呼=天照大御神と考えられます。ところが、日本書記は神功皇后が卑弥呼であるような書き方をしており、これをどう理解すべきでしょうか。この問題の解明なくしては、卑弥呼問題が完全に解決したとは言えません。
1.日本最古の官撰正史『日本書紀』は、編纂に約40年を費やしている。『日本書紀』天武天皇十年(681年)の条に、天皇が川島皇子以下12人の皇族貴族を大極殿に集め て、「帝紀と上古諸事の記定」を命じたとあり、これが『日本書紀』の編纂のスタートであろう。そして完成は、元正天皇の養老四年(720年)である。

この約40年間の編纂の過程で、舎人親王を中心とする編者たちが中国の歴史書に目を向けたのは当然である。日本書紀研究の第一人者の小島憲之氏によれば、日本書紀の本文は、 史記・漢書・後漢書・三国志魏志・三国志呉志・梁書・隋書・文選・芸文類聚・最勝王経・北堂書鈔から3、191字の章句を借用している。

さて、日本書紀の編纂にあたっては、初代大帝神武天皇と皇祖天照大御神をどう位置づけるかが最大のポイントであったことは言うまでもない。

ところが、数多くの漢籍を見た日本書紀の編者達は、漢籍に頻出する著名な女帝卑弥呼が、皇祖天照大御神の人物像と一致し、同一人物であると認識せざるを得なっかたのである。
2.ここで、日本書紀の編纂に重大な障害が生じた。

第一の障害は、卑弥呼=皇祖天照大御神とすると、天照大御神が3世紀の人物となる。 しかし日本建国を太古の時代と設定したい大和朝廷にとって、これは是認しがたいことであった。日本書紀は大和朝廷=天皇家による日本支配を正当化し、大和朝廷の起源と発展を国内外に知らしめ、また後世に残すために国家的事業として作られた歴史書である。

このような政治的意図にもとづき、日本建国を中国に劣らず古い時代に設定する必要から、初代人皇神武天皇の即位を、推古天皇九年辛酉(紀元601年)から1260年(1蔀=21元)を溯った紀元前660年とした。これは、古代中国の辛酉革命の思想にもとづいたと言うのが、明治時代の学者・那珂通世氏以来の学会の常識であろう。

このように、神武天皇の即位を紀元前660年に設定すると、皇祖天照大御神すなわち卑弥呼は、それ以前の人としなければならない。ところが三国志をはじめとする中国側歴史書には卑弥呼・邪馬台が頻出し、卑弥呼が3世紀の女帝であることが歴然としている。このように、中国側であまりに有名な女帝卑弥呼を無視できず、日本書紀の作成にあたっては、中国側歴史書との整合性を意識せざるを得なくなったのである。
3.第二の障害は、卑弥呼と中国魏王朝との地位関係である。

卑弥呼は日本神話・伝承では皇祖天照大御神として、神聖不可侵の存在であった。ところが魏志倭人伝は卑弥呼と魏王朝を対等の関係に扱っていない。もちろん、3世紀邪馬台国時代の倭国は中国魏王朝の従属国ではなかった。卑弥呼は魏王朝から親魏倭王に制せられている。これは、同時代に中央アジアからインドにまたがる大国の大月氏の国王波調が、同じく明帝より230年に授与された親魏大月氏王と同格であって、倭国は実質的には魏王朝の友好国であった。

しかし魏の皇帝から卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容で、たとえば卑弥呼を「汝」と呼び捨てにするのが13ヶ所も出現する。また、「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」 「勉めて孝順を為せ」 「国家の汝を哀れむを知らしむべし」 「汝に好物を賜うなり」とある。このような表現は、対等な国家間の国書とは到底言いがたい。

このことを後の7〜8世紀の日中関係と比較すると大きな差がある。

たとえば、聖徳太子が607年に隋の煬帝に送った国書の 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや、云々」 の表現は全く対等である。また663年の朝鮮・白村江の戦いでは唐帝国と正面から戦戈を交えている。つまり7〜8世紀の大和朝廷にとっては、日本と中国はまったく対等との意識であって、このような状況下で日本書紀が編纂されたのである。

従って、卑弥呼が親魏倭王に制せられ魏の友好国としても、日本書紀の編者すなわち大和朝廷は、卑弥呼・邪馬台国を正面から認めることが出来なかった。以上の二点の障害から、日本書紀の編者は邪馬台国・卑弥呼の取り扱いに苦慮したと推定される。
4.日本書紀はこれをどう解決したのか。

そこで考案されたのが架空の人物 「神功皇后」である。天照大御神の実体は卑弥呼・台与であるが、これを実像とすれば、日本書紀はこの実像を神武天皇以前−−−−すなわち紀元前660年以前の神代に送った。さらに虚像・神功皇后を3世紀邪馬台国時代に設定するとともに、神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけて、中国側歴史書と年代の整合性をとったのである。

もう一つ注目すべき点は、日本書紀は神功皇后をあくまで皇后とし、天皇(女帝)とは扱っていないことである。神功皇后は仲哀天皇の皇后であったが、仲哀天皇の崩御後2 01年に摂政となり269年まで続く。この69年間は天皇空位の神功による摂政の時代である。従って、神功を第15代の天皇とする学説があるくらいである。

しかし、日本書紀は神功をあえて天皇としなかった。その理由は何か。日本書紀は神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけようとした。しかし、神功を第15代天皇の女帝と設定すると、後世の歴史家が神功と卑弥呼・台与を完全な同一人物と断定する危険性が生じる。その場合は、第15代神功天皇が中国魏王朝に臣従していたことになる。このよう な事態を避けるため、日本書紀の編者は二つの細工をした。

一つ目の細工は、日本書紀は神功紀に魏志と晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との表現を一切避けて、単に年代を合わせるにとどめたことである。そして神功皇后の人物像と治績は卑弥呼・台与とまったく異なる。このようにしておけば、神功が卑弥呼・台与であるような無いような微妙になって、あいまいにしておけるからである。

日本書紀は、神功皇后が卑弥呼・台与とは断定していない。また魏志および晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との文字を一切使用していない。ここに秘密が隠されている。

二つ目の細工は、神功を天皇とはせず、あえて皇后にとどめ、後世の歴史家がまんいち神功=卑弥呼・台与と断定しても、日本の最高指導者・天皇は中国に臣従していない、との伏線を張ったのである。

日本書紀の編者は、後世の歴史家が神功紀と魏志などの漢籍を比較考証することを想定 していたと考えられる。そのため、神功皇后の人物像と治績を卑弥呼・台与とは全く異なるものとし、神功皇后=卑弥呼・台与と断定出来ないようにした。そうすると、 卑弥呼・台与は時代こそ神功皇后と同じ3世紀でも神功皇后とは別人で、それこそ九州の女酋が中国魏王朝に臣従していたことになり、大和朝廷の権威を守ることができる。本居宣長氏をはじめ、後世の歴史家はみな、日本書紀の編者の術中に陥っている。

「天皇家による大和朝廷は、中国の歴代王朝に決して臣従していない、対等の関係である」 というのは、日本書紀をつらぬく根本思想である。すなわち、「大和朝廷が中国の歴代王朝に臣従していたという過去の事実関係は認めない」 、ということである。

この根本思想は、後に述べる倭の五王問題でも重大な役割をはたしている。
5.仲哀天皇に皇后がいたことは当然であろう。そして、この皇后を仮に 「神功皇后」 と 呼ぶとすれば、その意味では実在の人物である。仲哀天皇が朝鮮出兵を指揮するため、 また熊襲を征伐するために長門および九州へ下向した際、この神功皇后が同行したことは考えられる。

また、このいわゆる神功皇后が相当な女傑であって、政治外交面で仲哀天皇を補佐していたことも考えられる。従って、神功皇后像の多少の種は存在したであろう。しかし日本書紀が語る神功皇后像の本質は、@:69年間の天皇空位のままの摂政、A:時の最高権力者でありながら、また応神を出産する間際でありながら、さらには夫の仲哀天皇の喪中でありながら、みずから200キロの海を越えて朝鮮出兵したこと、B:神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけていること、−−−−以上の三点であって、これらの観点からすれば、神功皇后は架空の人物ということである。

すなわち神功皇后の実体は、仲哀天皇の皇后という実像の上から、卑弥呼・台与の虚像の半透明膜を覆いかぶせたものである。

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月13日 12時30分51秒 ) パスワード

面白くて、いろいろ捜して読みまくってしまいます。




神功皇后は実在した? 九州に数多く残る伝承地

2015/5/9 6:00
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86406480S5A500C1000000/


 日本最古の史書、記紀(古事記と日本書紀)には著名なヒロインが登場する。皇子を身ごもりながら兵を率いて外征した神功(じんぐう)皇后(日本書紀によると170〜269年)。戦後は神話上の人物とみられてきたが、近年は実在説を提唱する専門家も出てきた。伝承地が九州に数多く残ることなどが主張の根拠だ。実在の可能性を探ってみた。




神功皇后が三韓征伐の際に順風を祈願すると2つに割れ東風が吹き出したという「東風(こち)石」(長崎県壱岐市の爾自神社)



神功皇后が三韓征伐の際に順風を祈願すると2つに割れ東風が吹き出したという「東風(こち)石」(長崎県壱岐市の爾自神社)




 作家の河村哲夫さん(67)は福岡県職員だった1993年、趣味の活動を始めた。九州の神功皇后の伝承地を訪ねる旅。「神功皇后は神話の人物と考えていて、それ自体に深い意味はなかった。海で釣りをするなどレジャーを兼ねてだった」

 ところが気楽な趣味は、徐々に真剣な現地調査に様変わりする。没頭のあまり調査は2000年まで約7年続き、人生を賭けた探求になった。

 心を捉えた理由の一つは、伝説の人物にしては伝承地の数が多すぎたことだ。記紀などの文献、市町村史や地域の口伝を手掛かりに一つ一つ調査。神功皇后を祭る神社に加え、伝承が由来になった地名、腰掛けたと伝わる石などを含めると山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎6県の広範囲に3000カ所もあった。




九州の神功皇后の主な伝承地


香椎宮
(福岡市)
新羅征討の神託を受ける

松峡八幡宮
(福岡県筑前町)
熊襲討伐の前線基地が置かれた。「羽白熊鷲」と戦った逸話など周辺地に残る

宇美八幡宮
(福岡県宇美町)
皇子(応神天皇)を出産した。「産み」が町名の由来になったと伝わる

皇后石
(福岡県吉富町)
皇后の命でつくった船をつないだとされる巨岩

鎮懐石八幡宮
(福岡県糸島市)
出産を遅らせるため腰に巻いた石を祭る

東風石
(長崎県壱岐市)
船を走らせる追い風が吹くように祈願すると、祈りが通じて石が割れた、と伝わる

嬉野温泉
(佐賀県嬉野市)
皇后が外征の帰途に温泉を発見した伝説が残る。その時に「あな、うれしの」と言ったのが嬉野の地名の由来とも

宇佐神宮
(大分県宇佐市)
名物土産の「宇佐飴」は、皇后が皇子を育てる際、母乳の代わりに使ったとする御乳飴の由来を持つ



 しかも各地の伝承は記紀の記述とほぼ一致。伝承地を線でつなぐと▽14代仲哀天皇に同行、熊襲(くまそ)討伐のため九州入り▽神の啓示後、天皇が急死▽皇后の熊襲討伐▽朝鮮半島の古代国家、新羅に出兵▽凱旋帰国、皇子出産――という古代の足跡をたどれた。




 調査では、大和朝廷が自らの歴史を地方の民に押しつけた痕跡は認められなかった。「土地を訪ねて見聞きすると、名もない民が記紀成立の以前から各地で伝承を守り継ぎ、今に伝えていた」。成果をまとめた書籍「神功皇后の謎を解く」(原書房)を13年に出版。「神功皇后は実在したと確信している」と語る。


 「神功皇后伝承を歩く」(不知火書房)の上下巻を14〜15年に出した歴史作家、綾杉るなさんも実在説を支持する。09年から山口、福岡のゆかりの神社約110社と周辺を現地調査してきた。



 根拠として、記紀に記されていない事柄を表す伝承が各地に残ることを挙げる。たとえば山口県下関市の忌宮神社の「奉射祭」は、仲哀天皇と神功皇后が居住した宮を新羅が襲った伝承を由来とする。新羅出兵の動機として考えられ「記紀を補完する数多くの伝承があることは実在のリアリティーを裏付ける」



              新羅が襲ったなんて知らなかった・・・・


 さらに▽華々しい戦に関わるものだけでなく、凱旋後に産んだ皇子にここで母乳を与えたなど、生々しい1人の女性像を表す伝承も多い▽仕えた朝臣の末裔(まつえい)を名乗る人が今も神社や寺を守っている――点も肯定理由になるという。



 神功皇后は戦前、紙幣の肖像になるほど著名な人物だった。それが戦後に一転、神話の人物と位置づけられたことに、綾杉さんは「戦後は歴史学で皇国史観の反動運動が起き、神功皇后は存在を消された」とみる。



 伝承の現実味を裏付けるような遺構もある。福岡県那珂川町の古代水路「裂田溝(さくたのうなで)」。日本書紀によると、水路を掘っていると、大岩が塞がり作業ができなくなった。神功皇后が祈りをささげると、雷が岩を踏み裂き水路がつながったとされる。

 この「裂けた岩」の可能性がある遺物が同町教育委員会の2000年代前半の発掘調査で見つかった。日本書紀の記述通り、花こう岩の固い岩盤があり、古代に開削した痕跡が発見されたという。

 日本人の暮らしに神功皇后が今も影響を与え続けていることも、実在の可能性を強めている。



聖母宮は祭神として神功皇后を祭る(長崎県壱岐市)


 妊婦が腹帯を巻き、神社に安産祈願する日本独自の風習。皇后を祭神とする長崎県壱岐市の神社、聖母宮(しょうもぐう)の83代目宮司、川久保匡勝さん(45)は「懐妊中に外征した皇后は石を帯の間に巻き、体を冷やして出産を遅らせた。伝承が広く伝わり、安産風習として定着した。神話の人物だったとすれば、これほど影響力を持つだろうか」と話す。

 近年では神功皇后の伝承をまちづくりに生かそうとする動きも出てきた。1級建築士の東久仁政さん(42)は公益財団法人福岡アジア都市研究所の市民研究員だった10年度、福岡市内の伝承地20カ所の一体的整備を訴える研究報告を発表した。

 東さんは「皇后実在の是非はさておき、伝承は具体的で、人間性も感じられる面白いものばかり」と評価。「市民で各地の伝承を改めて学び直し、一体となって物語性をアピールすれば観光資源になる。同じ歴史を共有しているという連帯感も深まる」と期待をかけ、今後は同じ考えを持つ市民有志と連携して構想の実現を目指したいという。

(西部支社 諸岡良宣)
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月13日 15時11分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 神宮皇后についての情報、ありがとうございます。神宮皇后と応神天皇
はセットで考えると、応神天皇の時に秦氏が大量に渡来しているというこ
と・・・秦氏との関係がどんな関係であったのか、そして天孫族の中で、
どのような位置にいたのか・・・その当時、一番権力のある人間は誰だっ
たのか・・・?
 明瞭な答えが出せるのは、「失われた十氏族理論」のほうがストレート
でわかりやすいのかも知れません・・・。
 でも、疲れますが一応「国内理論」を頭の中で整理してみます・・・。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月13日 22時17分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>明瞭な答えが出せるのは、「失われた十氏族理論」のほうがストレートでわかりやすいのかも知れません・・・。


ストレートな説明の方が助かりますよね。



>でも、疲れますが一応「国内理論」を頭の中で整理してみます・・・。

国内の話ですと、やたらと「ここで腰かけた」というような(なんだ?こりゃ)のレベルの話があって
信憑性が逆に揺らぎますね。


     義経伝説でも「ここで腰かけた」という石があったりして


     そもそも「腰かけた石」という話の元(源)は何から来ているのでしょうね?



神功皇后と武内宿禰の男女関係の話でもオブラートに包まれていて
     この2人は出来ていたのかどうか
応神天皇の本当の父はどなたなのか?

     イギリスの伝説でしたらアーサー王の妻のジェヌビエーブはランスロットと出来ていたとハッキリしているのですが。



話をうやむやにするというのが日本人の特性なのかもですね。
神功皇后ともあるお方が間男してちゃいけないという日本人の道徳観からでしょうか?


     ま、応神天皇の母上は神功皇后だとハッキリしてれば良いのでしょうね。
     新羅を倒したとか熊襲をやっつけたとか、だから応神天皇には天皇たる資格がある、と。


読めば読むほど面白いのですが、いよいよ道に迷ってしまいます。


不思議なのは半島や大陸から人がどんどん日本にやって来ていることで
鑑真和尚は何度も失敗しているのに
実に不思議です。

そんなに簡単に日本と大陸・半島が行き来出来たのか、と。


と、せっかく積み上げた理解が根底からひっくり反ってしまいます。

    DNA鑑定をして欲しいところです。


ゴチャゴチャさせて、ごめんなさい。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月14日 12時38分52秒 ) パスワード



友人より:

古代史最大の謎の氏族が尾張氏です。

壬申の乱で,大海人皇子が勝ったのは尾張氏のお蔭ですが,日本書紀には一時半句も書いてない。

次の続日本紀には,大海人皇子は,尾張大隅のお蔭で勝ちましたと書いてあります。


この尾張氏ですけど,熱田神宮が氏寺???だったようです。
ここには,三種の神器の草薙の剣がありますから,尾張氏は,出雲最後の王大国主命の直系の子孫だったのかもしれません。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月14日 12時41分23秒 ) パスワード

友人より


蘇我氏ですけど,
大化の改新で族滅したと思っている方多いですけど,
族滅したのは,本宗家だけです。


持統の蘇我山田麻呂系列とかがいますが,古代最大の内乱壬申の乱では,近江王朝に蘇我果安がいて,副将になりますが,決戦の前夜,将軍を斬り殺し近江朝軍を空中分解させました。なぜそうしたのか分かりません。


大海人皇子軍は,蘇我氏のオンパレードで,蘇我氏が大量に将軍としています。


蘇我氏ですけど,平安時代までは,末裔がいて,記録では最後の人物は,四位でした。五位からが殿上人で公家ですから,高官だったと思います。



千葉市にある蘇我ですけど,これ蘇我入鹿の遺臣団が移住した土地で,蘇我だそうです。
京葉線の最後の駅がありますけど。


天武天皇が,蘇我入鹿の息子説が出てくるのも,壬申の乱で蘇我氏が大量に味方しているからです。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月14日 12時47分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やっと分かりました。神功皇后と応神天皇。

 昔購入した本が、その時は全く役立たずして、ずいぶん後になって活きて
来る。正にそれであります。関裕二氏も古代については専門家ということで、
何十冊も本を出されている。私も氏の本は三十冊位持っている。氏の本はわ
かり易そうではあるが、実はわかりにくい。情報量はたくさんあるのだが、
ありすぎてわからなくなってしまう。つまり焦点がぼけてしまう。羅列型と
いうことか・・・。
 本日活きてきたのは、次の2冊であります。
 
 神宮皇后については―
  A.『天皇家はなぜ続いたのか』・・・梅澤恵美子著。

 応神天皇については―
  B.『応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった』・・・林順治著。

 Aの梅澤氏の文の書き方は実に分かり易い。理数系の頭脳か、はたまた弁
護士や検事の頭脳化か、読んでいてすべてがわかるのであります。無駄は一
つもないといっていい位、神功皇后については論証されていました。
 結論から言うと、神功皇后は「トヨ」でありました。

 Bの林氏の方ですが、本のタイトルは敢て衝撃的な表現をしていますが、
中身は差別的なものではなく、ヤマトタケルについては全体の1/4であり
ます。
 結論から言いますと、応神天皇は、百済から来た「昆支」であると論述
しています。
 百済の武寧王は昆支の子供になります。韓国の公州に武寧王陵があり、
宝物等は公州博物館にあります。私は一度百済を知るため、扶余と公州を訪
れたことがあります。今上天皇が数年か前に武寧王に触れた発言をいたしま
したが、天皇家では筋をしっかりとらえられているように思います。

 詳細はいずれ叉の機会にいたしますが、この二人がわかっても、やはり
「失われた十支族」の問題はこの国内理論では全くのところわかりません。

 何と言いましょうか、国内の歴史と外来の歴史をつなぐミッシングリンク、
即ちその謎を解く決定的な「鍵」が見つかっておりません。ヘブライ色は隠蔽
されてしまっている。けれども、状況証拠はたくさん残っています。

 天皇陵にはその謎を解く鍵がある可能性があります。伊勢神宮にもその謎を
解く鍵があるかもしれません。諏訪大社にも可能性があります。

 諏訪大社に行くことにいたします。最短で今度の日曜日。諏訪神族のことも
知りたいし、松島氏の系図がみつかればさらに良し。

 本日はこれから掛川の事任八幡宮に行ってみようと思っています―
 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月14日 13時10分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった』

これはビックリですね。


ヤマトタケルは応神天皇なんですか?
そうすると母上のお相手は半島の人だった?



そして神功皇后はトヨだった?

    卑弥呼はお腹を刺されて殺されたとかって話を聞いたことがあります
    日食が当たらなかったのかな?

で、トヨが神功皇后だったら、彼女が卑弥呼を追い落とした?
ワクワク
面白いんですが。



諏訪大社でしたら結構近いですよね。
諏訪大社のパンフレットがたくさん手に入ると良いですね。
ホント、松島氏の系図が手に入ると良いですね。

まだ数日ありますからしっかり下調べをなさってね。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月15日 10時47分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史(天皇家、王家)は応神天皇が起点。遡って神武天皇までは過去の
伝説を具象化した仮の系図で点線表現が正しい。起点よりを正確に遡ると、
実線は朝鮮半島へ帰る。そしてさらには大陸を横断し、シナイ半島へ帰る
・・・。
 実線の系図をいつわり、伝説とフィクションで過去の系図を作った。何
のために? 
 神世からの万世一系の整然とした筋書きを作ることにより―
 @他国(中華思想・他)からの侵略を受けにくくするためのヘブライ隠し
 A渡来系であることを隠し、原産地日本ということにするため
 B神世からつながるという正当性を主張するため
 これは不比等一人の利己的な考えだけであったのでしょうか。そこはもう
少し検証する必要があります。藤原氏も結果的には秦氏の手の平の上で踊ら
されていたのかも知れません。
 守らなければならない何か大事な秘密があった。それは王家のいわゆる
レガリア的なものか、出自か、思想か、宗教か・・・。
 黒幕は秦氏、賀茂氏、八咫烏・・・。

 でも、芭蕉はこの辺を知っていたのではないでしょうか?

 「旅に病み、夢は枯野を駆けめぐる」の中に「枯野」という言葉がありま
すが、これは単に冬枯れの、またあの世のわびしい世界を表しているのと同
時に、実は更に深い意味を含んでいるのかも知れません。
 つまり―
 「枯野」とは、応神天皇が伊豆の国に命じてつくらせた巨船のことで、
『日本書紀』に書かれているということです。長さ十丈。名づけて「枯野(か
らの)」という。
 さらに、もっと遡れば「ラーの船」、この世とあの世をつなぐ舟のことを
暗示しているのかも知れません
 この「枯野」の船には、後日譚として、廃船後燃やして塩を作った。また
燃えカスで琴を作った。その音はさやかで遠くまでよく聞こえた。塩は五百
篭でき、あまねく諸国に下賜した。その代わりとして五百隻の船が建造され、
貢納された。
 武庫の港に集結していたこれらの船は、新羅の船の火災により、その多く
が類焼してしまった。そのため、恐れた新羅王は、優れた船匠を貢納して来
たとのことであります。
 
 芭蕉の『奥の細道』には、表層の見える部分が3パーセント、深層の見え
ない部分が97パーセントあると言ったら過言でしょうか・・・?
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月15日 20時31分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』手に入りましたので送ります。
 服部氏関係でこれ以上詳しく書かれた本はないと思います。

 さて、昨日は掛川にある「事任(ことのまま)八幡宮」に行ってまいりまし
た。摩訶不思議な名前ということで興味をいだきました。
 掛川市「八坂」という所にあります。この「八坂」も意味深であります。
 宮司は「誉田」氏でありまして、古来より宮司を務めておられます。この
「誉田」という名前も意味深であり、応神天皇の別名「誉田別命」の誉田か
ら来ているのでしょうか。ひょっとすると一族の末裔かも知れません。
 この神社について語ると長くなりますので、一つだけエピソード的なもの
を記します。あの「枕草子」にこの神社が出て来るそうです。古代から有名
だったということです。今の今まで、全く知りませんでした。

 ところで、卜部氏の一流に服部氏がいると知りました。あを様知っておら
れますか? 
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月15日 22時56分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
ぺこり!
ぺこり!
ぺこり!


>芭蕉の『奥の細道』には、表層の見える部分が3パーセント、
>深層の見えない部分が97パーセントあると言ったら過言でしょうか・・・?


「枯野」にそんな深い世界がありましたか。
驚きました。



芭蕉というか江戸時代の(戦国が終わって世の中が落ち着いた時代の)人は
日本人とは?
という問いに物凄い量の本を読んでいたのかもですね。


明治になって焚書が行われたのかも知れないですしね。
明治政府にとって不都合な書は消されたのかもですね。


>「誉田」

実はこの姓の女性がいらっしゃいまして・・・
でもそれ以上は書けないのですが。



>ところで、卜部氏の一流に服部氏がいると知りました

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100211.html
ここでそのような話が出たのかしら?



あまりにもすごい情報の数々で、驚くばかりでございます。
またゆっくり読み直しますね。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月16日 16時45分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日air-mailで送りました。

 出雲と伊勢・・・出雲の方はずっと昔から民衆に受け入れられていたそう
です。それに比べて、伊勢は江戸時代になってから浮上して来たといいます。
なぜでしょうか。江戸時代にお伊勢まいりが猛烈にはやりました。庶民の
ガス抜きとして幕府が利用したのでしょうか・・・その辺を一度調べてみた
いと思います。また江戸時代には想像以上に学問が発達していたということ
も合わせて、研究してみたいと思います。

 芭蕉と出雲の関係も調べたいと思っています。奥の細道の北陸への旅、
そこでは応神天皇の霊を偲んでいるような気がいたします。応神天皇と
いえば、八幡宮。伊賀に八幡宮がありました。芭蕉と伊賀八幡宮との関係、
その当時はどうだったのか。
 徳川家康は、伊賀の八幡宮を岡崎に勧請しました。私も昨年行って、お
守りを買い、始終身につけております。その当時の人々の八幡神宮への思
い、どんなだったのかリアルに感じてみたい・・・。

 応神天皇と出雲の関係も調べなければなりません。出雲は朝鮮半島と
交流がありました。出雲から大和へ、大国主から天照へ、国神から天神へ
との流れのなかでの応神天皇の位置とは。果たした役割とは?

 出雲と諏訪との関係、出雲と尾張・熱田との関係・・・これらも理解し
たいと思っています。

 出雲は心の底の何か遠い故郷のような感覚が最近しております。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月16日 22時17分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
楽しみにしております。



http://giftstotheearth.com/?p=2700
6人にひとりがお参り!? 江戸時代にあった伊勢参りブームの裏側がすごい
            -三重県伊勢神宮-



戦もなくなり、平和に暮らす時代となった江戸時代、庶民の間には旅ブームが起こったと言われています。その中でも特に有名なのがお伊勢参りブーム。その裏側についてまとめてみました。



きっかけは復興!? 伊勢神宮お参りブームのきっかけ

戦国の時代を経て、伊勢神宮は20年に一度行われる式年遷宮を行えないほど衰退。そこで、全国各地を廻り神宮の認知度を高めると同時に募金を募るなどの活動を行いました。

その結果、伊勢信仰が全国へと広まることに。街道の整備なども相まって伊勢神宮旅ブームへとつながりました。




各地を巡った御師(おんし)って?

全国各地を廻ったのは御師と呼ばれる伊勢神宮に属する神職の人たちでした。御師は普段、参拝客の案内や宿泊の手配までをうけおっており、寺社の近くには御師たちの御師街があったそうです。北は北海道から南は鹿児島まで各地を廻ったとか!



ピーク時には6人にひとりがお参り

初めの頃は代表者がグループの代表としてお参りすることが一般的だったそうですが、後に全国各地から子供からお年寄りまで個人個人が足を運ぶことになります。ピーク時には実に6人にひとりがお参りするほどのブームとなったそうです。



仕事を休んでも誰も文句は言えない!?抜け参り

ある日突然無断で伊勢へお参りにいったとしても不問とされたそう。これだけを見てもどれだけお伊勢参りが大切にされていたかが分かります。




約60年に1度! 数百万人規模のお参り

1705年には約350万人(当時の日本の人口は約2800万人)、1771年には約200万人(当時の日本の人口は約3110万人)、1830年には約428万人(当時の日本人の人口は約3220万人)が参ったと言われています。


平成26年は“おかげ年”

なぜ60年に1度大規模なお参りがあったのか、その理由ははっきりとしていませんが1771年以降、“おかげ参り”という言葉が生まれ、60年を周期として“おかげ年”と呼ばれる年ができました。2014年はおかげ年。例年以上にご利益があるそうです!

大金をもたずとも、伊勢参りの道中では道筋の家々が食べ物や滞在先を提供していたそうで、お金が少なくても旅を続けることができるのは神のおかげとしたのが“おかげ参り”の起源と言われています

[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月16日 22時29分22秒 ) パスワード

http://bushoojapan.com/scandal/2013/10/02/6629
コピペガード式なのでURLへどうぞ


面白かったですよ


日本人の1%しか知らない伊勢神宮7つの秘密


1.アマテラスの両親は祀られていなかったから両親と弟が怒って・・・
2.付属の仏教寺院があった(神宮寺)
3.お賽銭を投げてはいけない(賽銭箱が無い)
4.天皇が伊勢神宮を参ったことはなかった(明治天皇から)   やっぱり明治政府の陰謀ですね(謎)
5.伊勢神宮の地はヤマトの発展から取り残された地だった
6.アマテラスに仕える巫女(斎宮)は永遠に処女なのか
7.正殿の高床式は弥生文化なのか?
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月16日 22時34分06秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1061153095

Q:    江戸時代の二大観光地は伊勢神宮と善光寺だそうですが


     江戸時代の二大観光地は伊勢神宮と善光寺だそうです。
     しかし、神宮は分かるのですが、寺なら京や奈良にも由緒、歴史、権威で善光寺以上のものがいくつかありますよね。
     なぜ信濃の片田舎にある善光寺だったのでしょうか?


A:

現在確認できる現存日本最古の仏像は、奈良飛鳥寺の釈迦如来像(飛鳥大仏)ですが、「善光寺縁起」によると善光寺の絶対秘仏の本尊、一光三尊阿弥陀如来像は、日本の仏教伝来の時に百済から伝来した仏像で、その後の宗教紛争でうち捨てられていたものを、信濃の本田善光が持ち帰り安置したのが始まりで、確認ができればこちらが最古の仏像と伝わっています。

これは仏教、古代史ファンなら有名な事実です。


また寺の歴史は少なくとも白鳳時代(藤原京時代)まではさかのぼることができ、継続して法灯を伝えている寺院としてはかなり古い部類に属します。

そのことは平安時代にはすでに都でもよく知られており、それ以後起こった浄土信仰(阿弥陀仏を拝みます)の広まりとともに、善光寺聖(ぜんこうじひじり)が諸国を行脚して民衆に善光寺信仰の布教を行ったいったのです。

これにより全国に本尊の写しの仏像がたくさん作られました。そのため現在、善光寺式阿弥陀三尊像という様式で分類されています。


在所の仏様を毎日拝んでいれば、いつか本山のご本尊にお参りしたいと思うのは当たり前の心情です。

また善光寺は鎌倉仏教以前の、まだ寺院が宗派に分かれていない時代の寺院であるため、宗派の別なく、さらに女性信者の受け入れも積極的に行いました。

こうして一生に一度は善光寺参り。「牛に引かれて善光寺参り」という風潮が生まれます。



最近ではこれに、伊勢神宮の御師(おし)のような存在があったのではないかといわれています。

御師(おし、おんし)とは下級の神官で現在でいえば、寺院所属のツアーコンダクターです。

村々を回り善光寺信仰を広めてゆきます。いつかはお参りしたいという気持ちを起こさせ、期間を定めて旅行資金の積み立てをさせます。もちろん村全員が一度にいけるわけがありませんので、何人かが代表で、何年かに一度もちまわりで出かけるのです。その費用を村全体で積み立てます。講(こう)といいます。



お金が集まると御師を先頭に出発です。

善光寺に着くと、日本各地の在所ごとに宿坊が決まっています。そちらに泊まって、驚くようなもてなしを受けます。

翌日早朝、善光寺参拝。そこでは大勧進貫主さま、大本願上人さまからお数珠をいただき、読経を聞きます。さらにお籠もりという体験もさせてもらったそうです。

ふつうのお参りではできない体験を御師はさせるのです。
これはあくまで修行という形で行います。
そしてそれが終わると精進落としの大宴会が待っています。


こうして一生に一度の楽しい旅行を御師が演出したのです。
現在も善光寺周辺には宿坊が数多くありますが、もとはこうした御師の宿だったのでしょう。



これは伊勢参りでも同じです。

ようするに営業政策の勝利、ということなのでしょうか?


________________________________

ついつい脱線してアチコチ読みに行ってしまいます。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月16日 22時37分33秒 ) パスワード

http://www.okazakipark.jp/spot/detail_21.html

伊賀八幡宮    イガハチマングウ
開運の勝神、東照大権現を祀る


松平家(徳川家の祖)の4代親忠は、文明2年(1470)に氏神として伊賀八幡宮を勧請しました。

5年後に氏寺(菩提寺)として創建の大樹寺と共に、江戸時代にわたっても将軍家の厚い崇敬をうけました。


家康公も、大きな合戦の時には必ず参詣したといわれ、徳川家の武運長久・子孫繁栄の守護神。


3代将軍家光が境内整備をした本殿・隨神門・神橋など、ほとんどが国の重要文化財です。

岡崎の春の一大イベント「家康行列」の出発点であり、華やかに歴史絵巻が繰り広げられます。

[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月16日 22時40分04秒 ) パスワード

これは開かないです。




伊賀八幡宮:徳川家康 生誕の地 岡崎市を訪ねる旅


okazaki-city.forluck.info/300/110/


伊賀八幡宮は文明二年(1470年)、松平四代親忠が松平家(徳川将軍家の祖)の氏神として家運長久、子孫繁栄を祈願する為、三重県の伊賀国から三州額田郡井田村へ社 ...


             なぜ?
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月16日 22時42分39秒 ) パスワード

眼からウロコ




岡崎の「伊賀」って実は   です。   意外でした。


http://okazaki-juku.jp/activitiy/2014/01/2778/


『伊賀散歩@ 〜 ‘鬨の声をきけ’ 伊賀八幡』

2014.01.19

第13回「以賢会」(まとめ・深田賢之)
日 時:平成26年1月19日(日)11時〜14時
場 所:伊賀町界隈
内 容:伊賀散歩:明願寺〜伊賀八幡宮参拝〜伊賀川散策〜観音寺〜能見城跡
           〜伊賀大正庵〜昌光律寺〜濱喜屋〜茶房みえ

地名「堰處・位賀・伊賀」


伊賀。
伊賀八幡宮の壮麗さと伊賀川の美しい桜並木が迎えてくれるこの町は、
緑の木立の中に佇む朱塗りの社殿と青々とした蓮、
そして川面を埋め尽くす桜吹雪と、四季折々に華やかで美しい町です。

「伊賀」の地名は古く、大化の改新後、律令体制確立をいそぐ大和朝廷は、
国々に国司を派遣し、その配下に地方豪族を郡司として任命。
西暦740年頃には「国−郡−郷」の中央体制が整います。
穂国と合併した三河国には八郡が置かれ、
そのひとつ額田郡の中に「位賀」郷の名があります。
現在の伊賀町一帯から菅生川北辺までか。
その語源は農の水利からなる堰處(ゐが)で、
この地に井堰(いせき:水量調節のために川水をせき止めたところ)が
あったのではないかとのこと。
今も続く伊賀川の河川工事はこの町の宿命なのか…、
千年以上にわたる自然と人間の織りあいが語りかけてきます。

戦いの中で生まれた伊賀八幡宮


時は戦国幕開け。
京の都で応仁の乱(1467〜)が始まり、室町幕府と各地の守護の力が弱まる頃。
台頭してきた国衆の一派・松平氏は、
三代信光以来、岩津を拠点に南進政策を続け、勢力拡大を計ります。

応仁元年(1467)、井田野の戦いで尾張の品野氏、三河の伊保氏を退けた四代親忠公は、
文明2年(1470)、武運長久・子孫繁栄を祈願するため伊賀国から社を井田村に勧請、
「伊賀八幡宮」と称したと伝わり、松平氏の氏神とします。
当時は立派な社ではなく、簡素な祠(ほこら)程度だった模様。

戦いは続き、松平一族は安祥城・岡崎城を次々に進攻、
伊賀八幡創建の5年後・文明7年(1475)には、同じく四代親忠公が菩提寺・大樹寺を建立します。
戦いに明け暮れる日々の中で氏神と菩提寺が整っていくところに、
当時いかに神仏の加護が必要とされたのかを知るとともに、
二項相反するものが同時に生まれるこの世の因果をみるようです。
伊賀八幡宮の鳥居から社殿を結ぶ参道ラインは正確に南北を指し、
まっすぐ北へ延ばすと大樹寺にあたるとのこと。天上には北極星。
信仰と‘まちづくり’が一体となった当時の壮大な思想を感じます。

社殿は鳴動し、神矢が放たれる、・・・伝説とともに


「八幡宮」とは古来、応神天皇を主座とする弓矢の神を祀る神社のことで、
戦にまつわる伝説に包まれていることが多いもの。

ここ伊賀八幡宮も多分に漏れず、
松平七代清康公が守山崩れ(現名古屋市守山区)で急死すると、
勢いに乗った織田信秀は岡崎に進攻。
この時伊賀八幡宮の鳥居が井田野の方へ動き、天下の一大事を人々に知らせたといいます。

清康公の子・広忠公に率いられた岡崎勢八百の兵は、
井田野で信秀軍三千を迎え撃つも攻めたてられ、たちまち全滅寸前。
すると、白馬に乗った武者が現れ、敵陣に白羽の矢を放つと、
伊賀八幡宮の神殿が鳴動し、宮の森の上から黒雲湧きのぼり嵐をよび、
白羽の神矢が雨のごとく敵陣へ降り注ぎました。

意気を取り戻した松平方は「南無八幡大菩薩」と唱えながら盛り返し、
危機を救われたと伝わります。
この時の神矢が八幡宮の北に位置する明願寺の一角に落ち、
そこに湧き出ていた良質の泉水を「矢落井」と称し、
岡崎の七つ井の一つに数えられます。

その後も、桶狭間の戦いで岡崎へ引き返す家康公が矢作川の流れで往生していると、
伊賀八幡宮の遣いとされる鹿が渡瀬を導いたり、
関ヶ原の合戦や大阪の陣の折にも神殿が鳴動し石鳥居が西に移動したりと、
松平氏の頃から徳川将軍家の家門の守護神とされてきた伊賀八幡。
家康公も崇敬の念きわめて厚く、
初陣の参詣を吉例に、以後大きな合戦の際には必ず祈願したといいます。

松平・徳川家と伊賀八幡


家康公が松平姓を改め徳川と名乗り、あわせて三河守に任ぜられたことを祝って、社殿を大改修。
社殿には家康公自ら姓名を書いて献納しました。
さらに70年後の寛永13年(1636)、三代将軍家光公が大々的に造営。
本殿、幣殿、拝殿、透塀、随身門、神橋、御供所、鳥居が整い、
今日の姿となります(権現造)。その全てが国の重要文化財。

家光公は東照大権現(徳川家康公)をあわせ祀ることとし、100石加増し540石の社領とします。
1石は、大人1人の1年間分の消費量と言われるので、
540人を養えるだけの社領ということ。
ちなみに日光東照宮が10,000石、久能山東照宮が3,000石、大樹寺が600石。
家康公の命日である4月17日には東照宮本祭が行われ、
江戸時代には将軍の名代として岡崎藩主が毎年代参することが慣わしだったとか。
今は桜咲くこの時期、家康行列の出発地として賑わいます。

新春を告げる武者的神事


今年も1月、大寒の日に行われた江戸時代から続く武者的神事(むしゃまとしんじ)。
荒木弓に白羽の矢をもち、一矢は天に射、一矢は地を射、
そして36センチ四方の桧的に28m離れたところから矢を放つ。
的の割れ方と神事による占いを総合して、その年の各種農作物や商工業の吉凶を占います。
かつては立春に行われ、毎年江戸城に奉告されました。
今も徳川宗家に奉告は続き、
今年は「天候:上、米:下、麦:下、他の五穀:中、商業:下、工業:上、繊維:中」。
さてさて、どうなりますか?

鳥居をくぐらば、伊賀絵巻


電車通りから鳥居をくぐり、参道を通って桜の伊賀川を越えると、
石鳥居の先に迎えてくれるのは蓮池。
蓮(ハス)は泥池に咲く美しき花。
泥を戦乱の地にたとえ、命を落とした者の霊を鎮め、
浄土の花・蓮で満たそうと考えた家光公は、
家康公の悲願をこの池に表現したとのこと。

蓮池に架かる橋は、神橋。
こちらは神様だけが通ることを許された橋。
その先に壮麗な随身門、そして拝殿・弊殿・本殿。
すべて朱塗りで堂々と華やかな佇まいは男らしく、
まさに戦勝・武運を祈願するにふさわしい。
事始め、成人式、何事も正々堂々と歩んでいきたいもの。

  春、和装の女性と桜並木にいがまんじゅう。
  初夏、新緑の中に堂々と男らしく伊賀八幡。
  夏、蓮の花があざやかに彩る、浄土の世界。

参道に、今はなくとも茶店でもできればと思い、
醸「いがまんじゅう」の稿を思い出しました。
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月17日 07時47分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 善光寺と伊賀八幡宮の話、ありがとうございました。背景がよくわかりま
した。
 岡崎の岩津に岩津天満宮という神社があります。八幡宮ではないですが、
一度行ってみたいと思います。宮司さんは、「服部」氏であります。岩津に
は、何かありそうな気がいたしております。

 さて、昨日で十七ヶ月目に入りました。何とか続いて来れましたこと、御礼
申し上げます。石の上にも三年と言います。三年間はやってみたいと思ってお
ります・・・三年後の自分がどんなになっているか楽しみです。今も少し手ごた
えを感じてはおります。「蛾」から「蝶」へ変身できればと夢みております。

 さて、芭蕉の「古池や かわず飛び込む 水の音」ですが、これをどう読む
か・・・単なる古池にカエルが跳びこんでポチャッと音がしたというだけの
表象ですが、この十七語から宇宙の深奥にまで広がってしまうということは、
まさに禅の考え方なのかも知れません。
 しかしながら、日本の古代遺跡(福井県吉井町珍敷塚古墳)の後室奥壁の絵画
に書かれた壁画には、カエルが描かれており、中国からもたらされた思想と
いうことで、カエルは兔と同じように月を象徴する生き物であるということで
あります。即ち、「月の支配する夜の世界=冥界」へ誘うカエルの一瞬の合
図の行動であり、その音をかわきりに一瞬にしてすべてが深層イメージの世界
に入るという、いわゆる「どんでん返し」であったと解釈できるかも知れませ
ん。
 もっともカエルにもいろいろ種類があり、それを科学的に詰めて行くと、味
けないものになってしまいますが・・・?
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月17日 13時15分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B4%A5%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE


>岡崎 岩津天満宮


碧南の服部長七。
この人は昨年何度も出て来ましたね。

岩津天満宮(いわづてんまんぐう)

愛知県岡崎市にある天満宮である。岩津天神、芭蕉天満宮とも呼ばれる。
祭神は菅原道真。

岡崎観光きらり百選に選定されている。


宝暦9年(1759年)に信光明寺第22代の一誉が、伊豆国の芭蕉天神ないし相模国の荏柄天神を勧請したといわれる。


明治維新後の神仏分離令により、管理が信光明寺から、岩津村へ移すことになった。

しかし1879年(明治12年)、火災により境内は焼失した。
これを聞いた、三河へ布教に訪れていた富山県の芦峅寺の大阿闍梨鑁禪(佐伯鑁禪)が、
屋敷をねぐらとして借りていた碧南の実業家、服部長七に援助を依頼し、社殿を再建した。


1900年(明治33年)6月に臨時祭典を執行し、1911年(明治44年)に本殿を、1920年(大正8年)に現在の拝殿を造営した。


また、トヨタグループの創始者である豊田佐吉が病弱だった子供の頃、健康祈願のために歩いて参拝に来たというエピソードが残っている。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月17日 13時21分01秒 ) パスワード

「古池や かわず飛び込む 水の音」


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B1%A0%E3%82%84%E8%9B%99%E9%A3%9B%E3%81%B3%E3%81%93%E3%82%80%E6%B0%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3



「古池や蛙飛びこむ水の音」(ふるいけやかわずとびこむみずのおと)は、松尾芭蕉の発句。芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とされており[1][2]、芭蕉の作品中でもっとも知られているだけでなく、すでに江戸時代から俳句の代名詞として広く知られていた句である[3]。



季語は蛙(春)。古い池に蛙が飛び込む音が聞こえてきた、という単純な景を詠んだ句であり、一見平凡な事物に情趣を見出すことによって、和歌や連歌、またそれまでの俳諧の型にはまった情趣から一線を画したものである。芭蕉が一時傾倒していた禅の影響もうかがえるが[4][5]、

あまりに広く知られた句であるため、後述するように過度に深遠な解釈や伝説も生んだ。

                          へえ〜

初出は1686年(貞享3年)閏3月刊行の『蛙合』(かわずあわせ)であり、ついで同年8月に芭蕉七部集の一『春の日』に収録された。『蛙合』の編者は芭蕉の門人の仙化で、蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)二十四番に出された40の句に追加の一句を入れて編まれており、芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。このときの句合は合議による衆議判制で行われ、仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようである[6]。一般に発表を期した俳句作品は成立後日をおかず俳諧撰集に収録されると考えられるため、成立年は貞享3年と見るのが定説である[6]。

なお同年正3月下旬に、井原西鶴門の西吟によって編まれた『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で芭蕉の句が出ており、

これが初案の形であると思われる[7]。「飛ンだる」は談林風の軽快な文体であり、談林派の理解を得られやすい形である[1]。

                       へえ〜

『蛙合』巻末の仙花の言葉によれば、この句合は深川芭蕉庵で行われたものであり、「古池や」の句がそのときに作られたものなのか、それともこの句がきっかけとなって句合がおこなわれたのか不明な点もあるが、いずれにしろこの前後にまず仲間内の評判をとったと考えられる[8]。「古池」はおそらくもとは門人の杉風が川魚を放して生簀としていた芭蕉庵の傍の池であろう[4]。


1700年(元禄13年)の『暁山集』(芳山編)のように「山吹や蛙飛び込む水の音」の形で伝えている書もあるが、「山吹や」と置いたのは門人の其角である。芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が「山吹や」と置いたのを受けて「古池や」と定めた。「山吹」は和歌的な伝統をもつ言葉であり、そうした言葉との取り合わせによる華やかさや、「蛙飛ンだる」のような俳意の強調を退け、自然の閑寂を見出したところにこの句が成立したのである[9][10]。

なお、和歌や連歌の歴史においてはそれまで蛙を詠んだものは極めて少なく、詠まれる場合にもその鳴き声に着目するのが常であった。俳諧においては飛ぶことに着目した例はあるが、飛び込んだ蛙、ならびに飛び込む音に着目したのはそれ以前に例のない芭蕉の発明である[11]。



この句が有名になったのは、芭蕉自身が不易流行の句として自負していたということもあるが[12]、
芭蕉の業績を伝えるのにことあるごとにこの句を称揚した門人支考によるところが大きい[13]。

支考は1719年(享保4年)に著した『俳諧十論』のなかでこの句を「情は全くなきに似たれども、さびしき風情をその中に含める風雅の余情とは此(この)いひ也」として、句の中に余情としての「さびしさ」を見ており、この見方が一般的な見方として現代まで継承されていると思われる[14]。

ただし芭蕉の同時代には必ずしも他の俳人の理解が得られていたわけではなく、例えば前述の『暁山集』では「山吹や」を「古池や」に変えると発句にはならないとしている[5]。



また禅味のある句風から、『芭蕉翁古池真伝』(春湖著、慶応4年)に見られるように、
芭蕉がその禅の師である仏頂を訪れて禅問答を行い、そこで句想を得た、というような伝説も流布した[15]。


                      へえ〜


俳句の近代化を推進した正岡子規は、「古池の句の弁」(『ホトトギス』1898年10月号)においてこの種の神秘化をはっきりと否定し、「古池や」の句の再評価を行っている。この文章は「古池や」の句がなぜこうまで広く人々に知られるようになったのかと質問した客人に対して、主人がその説明をする、という態で書かれており、俳句の歴史をひもときながら、上述したように「蛙が水に飛び込む」というありふれた事象に妙味を見いだすことによって俳諧の歴史に一線を画したのだということを明確にしている。


また子規はこの句の重要性はあくまで俳句の歴史を切りひらいたところにあり、この句が芭蕉第一の佳句というわけではないということも記している[16]。

                         そうなの?


山本健吉は『芭蕉 ―その鑑賞と批評』(1957年)において、上五を「山吹や」とした場合には視覚的なイメージを並列する取り合わせの句となるのに対し、「古池や」は直感的把握、ないし聴覚的想像力を働かせたものであり、「蛙飛びこむ」以下とより意識の深層において結びつき意味を重層化させているのだとしている[17]。そしてこの句が「笑いを本願とする俳諧師たちの心の盲点」を的確についたものであり、芭蕉にとってよりも人々にとって開眼の意味を持ったのだとし、またわれわれが誰しも幼いころから何らかの機会にこの句を聞かされている現在、

「われわれの俳句についての理解は、すべて「古池」の句の理解にはじまると言ってよい」と評している[18]。

                        ですね


大輪靖宏の『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』(2014年)によると、

古池は古井戸の用法の如く、忘れ去られた池であり、死の世界であるはずである。

「蛙飛び込む水の音」は生の営みであり、動きがある。


蛙を出しておきながら、声を出していない。
音は優雅の世界ではない。ここでは優雅でなく、わび、さびの世界である。
古池という死の世界になりかねないものに、蛙を飛びこませることによって生命を吹き込んだのである。
それでこそ、わび、さびが生じた、と述べている。[19]

                       へえ〜
[69]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月17日 20時15分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部長七、もう一度復習してみます。岩津天満宮の服部宮司とつながって
いるかも知れませんね。

 さて、伊賀上野には天神宮がありました。私は二度伊賀上野に行っており
ますが、その当時は芭蕉よりも伊賀忍者に興味をもっておりましたので、こ
の天神宮については素通りしただけに終わっています。
 この天神宮(菅原神社)に対し、芭蕉は江戸に出る前、二十九才の時、処女
句集『貝おほひ』を出版し、それをこの神社に奉納しております。

 『奥の細道』において、芭蕉は応神天皇に対して畏敬を抱いているように
私は感じています。芭蕉と応神天皇の関係はどこから生じているのかを推理
しているのですが、やはりこの生まれ故郷において、醸成されたのではない
か・・・出雲と伊勢の関係を調べたいと思っております。
 この天神宮の相殿には、九社神社があり、アマテラス、オウジン、アメノ
コヤネ、オオヤマツミ、ウカノミタマ、タテハヤスサノウ、タテミナカタ、
イザナギを祀っております。また境内社として「松尾」神社があり、やはり
何か松尾芭蕉との因果関係を暗示しているような気がします。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月17日 22時42分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>この天神宮(菅原神社)に対し、
>芭蕉は江戸に出る前、二十九才の時、処女句集『貝おほひ』を出版し、それをこの神社に奉納しております。

アヤシイですね。

江戸に出る前にご先祖さま関係にご挨拶をなさった、ということなのでしょうね。
ご自分の出自に関係するんでしょうね。


>やはりこの生まれ故郷において、醸成されたのではないか・・・出雲と伊勢の関係

また神代を読み直さないといけませんね。
まだまだ掴めないですね。


>また境内社として「松尾」神社があり、やはり何か松尾芭蕉との因果関係を暗示しているような気がします。

芭蕉のご先祖さまなんでしょうね。



[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月18日 02時15分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

アタマが混乱して(笑)岩津天満宮の神紋を検索してしまいました。
バカですね〜

道真公ゆかりなら「梅」に決まってますのにね。
宮司さんの家紋が三つ柏紋ならいいですね。



で、三河あたりの三つ柏紋系をちょっと調べました。


http://kurokamon.blogspot.com/2011/12/blog-post_24.html



<使用家>

公家:
清和源氏では、今井氏・神尾氏・井上氏。
藤原氏では中御門氏・荻原氏・藤井氏・高橋氏・加納氏。
桓武平氏では長田氏など。
ほかに大江流の境野氏が「上り藤内に三つ柏」。

江戸大名では
山内氏・蜂須賀氏・中川氏・牧野氏で、代表的なのは、土佐山内氏と譜代の牧野氏である。
      牧野=槙野、槇=神聖な木=柏。



神官では、
伊勢の久志本氏は皇大神宮に奉仕し、尾張の千秋氏は熱田大宮司として奉仕した。

筑前の宗像氏、吉野神社の卜部氏等神官に柏紋が多い。    ←  卜部が柏紋?


備前吉備津神社宮司の大守氏は「庵に柏」という珍しい紋。



<かたち>
普通「葉」を模様化、「実」、「枝」もある。
葉の数は一葉から九葉、
形は「対い柏」、「抱き柏」、最も多いのは「三つ柏」


まずは柏紋について『日本家紋総覧』(千鹿野茂著)から引用すると
<成り立ち>

古代では柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていた。
柏が「神聖な木」と見られた。
柏手を打つとは神意を呼び覚ますことをいう。
柏は神社や神家と切っても切れない縁があるようだ。
柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だったようだ。

公家でも神道を司った卜部氏が用いた。

現在、柏を神紋としている神社は各県に一社はあるという。           へえ〜




参考までに 私が自分で収集した家紋集である『≪実録≫全国墓石家紋巡り』から代表的なものを列記します。


1枚葉 「八角に一枚柏」名古屋市平和公園 門田家

2枚葉 「丸に抱き柏」岡崎市大樹寺 西山家

3枚葉 「丸に3つ柏」刈谷市十念寺の寺紋、飯田市運松寺 牧野家

「丸に剣3つ柏」碧南市称名寺 金原家

5枚葉 「5つ樫の葉」刈谷市教栄寺 太田家

亀甲  「反り亀甲に蔓3つ柏」刈谷市昌福寺 角岡家




刈谷市十念寺の寺紋、飯田市運松寺  興味が湧きますね。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月18日 02時20分45秒 ) パスワード

刈谷市十念寺の寺紋、飯田市運松寺ということで検索。



刈谷市十念寺             残念ながら寺紋を確認することは出来ませんでした。
http://www.kariya-guide.com/sightseeing/000014.html

土井家の菩提寺 十念寺
刈谷藩主土井利祐をはじめ、土井氏親族のお墓があるお寺です。


このお寺は刈谷藩主土井家の菩提寺で、平安時代末期頃の作といわれている阿弥陀如来を本尊としています。また、土井家が刈谷転封の際に寄進した十一面観音菩薩立像は市指定文化財になっています。

 境内には、刈谷藩主土井利祐や土井氏親族のお墓のほか(土井家廟所は市指定史跡)、幕末の天誅組総裁・松本奎堂、俳人・中島秋挙のお墓があります。



住所
刈谷市広小路4−219

アクセス
名鉄三河線「刈谷市」駅から 徒歩5分

問合せ先
0566-21-0854




十念寺(じゅうねんじ)は日本各地にある寺院の名称。

新潟県上越市にある寺院。善光寺大本願別院。詳しくは別項浜善光寺を参照。
三重県桑名市にある寺院。詳しくは別項十念寺 (桑名市)を参照。
三重県伊賀市にある寺院。                                あらららら・・・

福島県須賀川市にある寺院。
埼玉県川越市にある寺院。

東京都江戸川区にある寺院。
長野県長野市にある寺院。

愛知県刈谷市にある寺院。
京都府京都市上京区にある寺院。詳しくは別項十念寺 (京都市)を参照。
大阪府大東市にある寺院。

兵庫県篠山市にある寺院。
奈良県奈良市にある寺院。詳しくは別項十念寺 (奈良市)を参照。
島根県浜田市にある寺院。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月18日 02時28分14秒 ) パスワード

飯田市運松寺       山門で松尾神社と絡みました!  下の方

http://www.nagareki.com/iida/unmatu.html


運松寺概要: 

運松寺の鐘楼門は案内板によると「 此の門は、享保20年(西暦1735年)に建立。

棟梁は飯田藩住の、南都工匠坂巻吉次の一族の坂巻新兵衛吉英 
大工は、その弟子による。


旧本堂の正面に在りて、素朴な建築で、構造形式一間切妻造 虹梁の絵様や、蟇股の形式は、18世紀の標準的n様式をよく示している。 

飯田市教育委員会 」とあります。鐘楼門は飯田市指定有形文化財に指定されています。



   
                        松尾神社の名前が出ました!

現在の本堂前にある山門は、案内板によると

      「 山門は、もと松尾神社の神宮寺のものであったが、
        明治初年に廃仏毀釈による廃寺となり、この寺に移築された。
        山門の構造は、薬医門形式、大屋根二重繁垂木で、骨組もしっかりしていて、彫刻も入念で見事なできである。
        諏訪出身の名工、立川和四郎(冨棟)の作と言われ屋根瓦の巴には小笠原の家紋である三階菱の残ったものもある。」とあります。


伊那西国観音札所第十四番札所。中部薬師四十九ケ所第十九番。伊那十二薬師一番札所。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月18日 02時41分03秒 ) パスワード

新スレッドをご用意致しました。http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101492.html

キリの良いところでどうぞ。




ひょっとすると  伊賀  三河  遠江  という転居・変遷があったかも知れませんね。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.