[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月30日 13時18分18秒 ) | パスワード |
2017年の世界遺産登録の候補地として注目を集める福岡の玄界灘の孤島・沖ノ島では、4世紀頃から9世紀末まで盛大な祭祀が繰り返されてきた。戦後、沖ノ島への本格的な学術調査によって約8万点の奉納品が出土し、すべてが国宝に指定された。その数もさることながら、種類もまた多岐にわたった。
沖ノ島からは銅鏡、鉄剣、勾玉など、古代の祭具が数多く発見され、この島が国家あげての祭祀場だったことを物語っている。純金製の指輪や金銅製の装飾品、ペルシアのカットグラス碗など、アジア大陸から船でもたらされた宝物も少なくない。
また、様々な土器や人形、舟形も含まれ、当時の日本と世界を結ぶ証として、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれようになった。現在、これらの宝物は九州本土の辺津宮にある「神宝館」に所蔵、展示される。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月30日 13時21分24秒 ) | パスワード |
驚くべきことは、発見された宝物は「発掘」されたのではなく、表面採集──置かれたものを拾い集めたにすぎないという事実である。今も島を歩けば散乱した土器の破片を目にすることができる。そして、想像を超える数の宝物が、まだ土中深く眠るといわれている。
※週刊ポスト2015年10月9日号
沖ノ島って?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E5%B3%B6
沖ノ島(おきのしま)は、福岡県宗像市に属する、九州本土から約60キロメートル離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの孤島である。宗像大社の神領で、沖津宮(おきつぐう)が鎮座する。
「神の島」[2]と呼ばれ、島全体が御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも毎年5月27日以外の上陸は基本的に認められず、その数も200人程度に制限されている。 山の中腹には宗像大社沖津宮があり、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ。宗像大社HP参照)をまつっている。無人島であるが、現在は沖津宮の神職が10日交代で派遣され、常時滞在している。
エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、九州全土、特に宗像地方を中心に沖ノ島を世界遺産にする運動が行われており、2009年(平成21年)1月5日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成遺産の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年(平成27年)7月28日に文化庁文化審議会により2017年の審査対象として選出された。
島で一番高い一ノ岳の頂上には、海上保安庁の無人灯台がある。海面から灯火までの高さは253メートルである。
海の正倉院[編集]
出土した土器から縄文時代前期には漁民らが漁業の基地として使用していたらしい。その範囲は、北九州、瀬戸内海、山口県にまで広がっている。
沖ノ島で祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から4世紀後半頃と推測される。391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期に相当する。また、宗像氏がヤマト王権の力を背景に朝鮮半島や中国(当時は北魏)との交易に乗り出したのも同時期であり、そうした遺物も確認されている。
祭祀の終了は9世紀末頃とみられ、894年に遣唐使が廃止されたことや神道・神社の形式が確立したことによるものとされる。
17世紀前半、黒田藩が沖ノ島に防人をおいたことから発見されたが、島での見聞については「お言わずさま」といって一切口外が許されなかった。しかし、日露戦争時には、陸軍の防衛基地が設置されてから島の様子が世間に知られるようになった。
第二次世界大戦後、宗像大社復興期成会が結成され(発起人と初代会長は出光佐三)、三次1954年(昭和29年)- 1971年(昭和46年)の発掘調査が行われ、沖津宮社殿周辺の巨石に寄り添う23の古代祭祀跡から約8万点の祭祀遺物が出土(そのほか約2万点の縄文時代、弥生時代の遺物が出土)した。これらのうち第一次、第二次調査出土品は1962年(昭和37年)に国宝に指定、第三次調査出土品は1978年に重要文化財に指定された。2003年には上述の国宝と重要文化財を統合、同年と2008年には未指定物件が追加指定され、関連遺物全てが国宝に指定されている(約8万点とされる)。こうしたことから、沖ノ島は海の正倉院と称される[3]。 島のまわりの海底からは人工的な階段や道らしい遺跡も見つかっている。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月30日 13時22分25秒 ) | パスワード |
祭祀遺構[編集]
沖ノ島の祭祀遺構の特徴は考古遺跡ながら埋蔵文化財化しておらず、遺構や遺物が千年以上も地表に露出したまま荒らされずに残されている点にある。沖津宮が建つ黄金谷という奥行約100mの小谷地形に12個の巨石(磐座)と無数の岩が散乱する中に点在し、位置関係と遺物編年から四つの時期に区分される。[4]
1.4世紀後半から5世紀にかけての岩上祭祀/巨石の上で祭祀を行ったもので、三角縁神獣鏡などの銅鏡が見つかっており、宗像氏と関連がある津屋崎古墳群の副葬品と共通するものも多い:16・17・18・19・21号遺構
2.5世紀後半から7世紀にかけての岩陰祭祀/巨石の岩陰で祭祀を行ったもので、新羅の都・慶州の大陵苑王墓(世界遺産)から出土したものと同じ金製指輪など朝鮮半島由来の遺物が多い:4・6・7・8・9・10・11・12・13・15・22・23号遺構(22号は黄金谷外)
3.7世紀後半から8世紀前半にかけての半岩陰・半露天祭祀/岩陰に接する平場で祭祀を行ったもので、唐三彩など中国由来の遺物がみられる:5・14・20号遺構
4.8世紀から9世紀末にかけての露天祭祀/岩場から離れた平地で祭祀を行ったもので、遺物は滑石製形代類と呼ばれる人や馬に似せた祭祀専用の石製品になる:1・2・3号遺構
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月30日 13時24分19秒 ) | パスワード |
沖ノ鳥島とこんがらがってた・・・
[16] | 相良四郎さんからのコメント(2023年03月05日 12時50分13秒 ) | パスワード |
灯台と神社関係者が常住し、秋冬の漁期には大島から漁民が移住。
大規模な避難漁港がある。 百科事典マイペディアより
こういう観点では見ていなかったです。
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 Rapah. |