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 投稿番号:101487 投稿日:2015年09月15日 09時01分57秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LI(M氏家譜15+信濃曾良あたり)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101486_69.html
長上郡の服部氏族L(M氏家譜14+信濃麻績あたり)の スレッド50 の続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月15日 12時01分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 スレッド51ありがとうございます。
 それにしても、曾良が芭蕉の元に突然舞い込んで来たとはちょっと思えな
いのですが、やはり二人の間に介在する何かがあったとみた方が自然であり
ます。連歌師なども、ある意味隠密だったこともあるわけで、俳諧師もその
流れの延長上にあるのではなかろうかとも思います。
 嵐山光三郎氏はなかなかの芭蕉の研究家でありますが、『悪党 芭蕉』と
いう本の中で、曾良について次のように書いております―
 「曾良こと岩波庄右衛門は幕府おかかえの秘密調査官である。東照宮改築
 工事にあたって、伊達藩と日光奉行との間で金銭の対立があり、その詳細
 を調べることが曾良の仕事であった。そのあたりは村松友次著『謎の旅人
 曾良』に詳しい。曾良はのち二千石の旗本の用人となって莫大な金を扱っ
 た。
  日光までの旅は、曾良の公費出張で、旅費費用は幕府から出た。東照宮
 改築にあたる伊達藩の動静を探るための隠密の旅である。隠密であること
 をカムフラージュするためには、芭蕉という風雅なる俳諧宗匠を連れて行
 くのはうまい方法だ。芭蕉が、そういった曾良の本業を知らぬわけはない
 だろう。」
 また―
 「『奥の細道』は、旅を終えてから五年後に書かれた。芭蕉は『細道』の
 メモ原稿を持ち歩いて、紀行の構想を五年間あたためていた。これは長す
 ぎる。
  紀行文は、帰郷後、遅くとも一年以内に書くことが通常で、五年もたて
 ば忘れてしまう。五年間の歳月は『細道』を歌仙方式にし虚実ないまぜに
 して再構築するための作業であったのだが、と同時に、曾良が調査員であ
 るため、それを、すぐに発表することがはばかれたと思われる。少なくと
 も、芭蕉生存中には板本になってはいけない旅行記であった。実際、『奥
 の細道』は、原本は芭蕉の兄である松尾半左衛門に渡された。刊行された
 のは、芭蕉没後八年目の元禄十五年(1702)、井筒屋板本であった。兄半左
 衛門が没した翌年である。」
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月15日 22時48分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい暴露話をありがとうございます。


芭蕉も曾良もなかなか喰えない御仁達ですね。
すっかり騙されます。


そして芭蕉の兄上の没後に刊行というのも「死人に口無し」ですから
計算の上だったでしょうね。


芭蕉も曾良もお互いにそれぞれの正体と旅の目的は知っていたでしょう。


曾良が2000石の旗本になっていたとは。
それだけの仕事をしていたということでしょうね。


どなただったか服部氏の中でも日光奉行になっていたのがいましたよね。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月15日 22時55分14秒 ) パスワード

服部中保次の長男の家でした。

長谷川家から養子に来た保房です。
時代が下がりますね
元文4年9月22日日光奉行に進み12月16日従5位下大和守に叙任す
とあります。


残念でした。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月16日 13時12分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 保房の件、1739年ですので、2世代程のズレがあります。
 服部で思い出しました。政季系に千秋系から嫁に入っているということで
したよね。
 新城の千秋氏だと思いますので、一度新城の図書館へ行って調べてみたい
と思います。野田城の城主をやっていたはずですので。

 深井雅海著『江戸城御庭番』に徳川監察政治について、次のように出てお
りましたので記します―
「江戸幕府の政治は、数多くの触書や法度を制定・公布し、そうした法令を
全国津々浦々に行き渡らせることによって維持されていた。一方、これらの
法令を遵守させる観察制度の確立にも意が注がれた。公的制度として、常置
職の「大目付」・「目付」のほか、臨時職の、おもに大名領に派遣される
「諸国巡見使」や「国目付」などがそれである。」
 曾良は正に「諸国巡見使」であった訳である。
 柳生宗矩は、たしか「大目付」でした。芭蕉より世代的に2世代位早かっ
たですが・・・。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月16日 21時53分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


>保房の件、1739年ですので、2世代程のズレがあります。

はい
残念です。



>服部で思い出しました。政季系に千秋系から嫁に入っているということでしたよね。

政信の少し前ですから、尾張時代かと思いますが、
尾張に拘っていてはいけませんね
人間足がありますから。


実は1時間ほど前に、千秋家について考えていました。
服部家の者でも母方に関係が深かったら家紋を母方にするのはアリだなと。


>新城の千秋氏だと思いますので、

新城なら、尾張より遠江の方が圧倒的に物理的にも心情的にも近いですよね。
可能性は高いと思います。


>一度新城の図書館へ行って調べてみたいと思います。野田城の城主をやっていたはずですので。


はい
是非。

大きな進展があると良いですね。
新城の千秋氏と服部氏の関係に光が当たりますように!
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月17日 13時33分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉について、多方面から見ていますが、まずはその出自(祖)について、
代表的な説は次の二つです。

 @平季宗説(蝶夢による)・・・季宗の子は宗清であり、宗清から数えて
  七代目の清正に五人の男子あり。その五人は、「山川」「勝島」「西川」
  「松尾」「北側」に分かれたという。芭蕉はその松尾の末裔という。

A木曽義仲説(去留による)・・・木曽義仲の子、義憲が頼朝の命を受けて
  伊賀国に入り、「服部時定」を自害させたことがあったが、この時、
  義憲の血統が残り、松尾氏ができたという。芭蕉はその末裔というもの。

 芭蕉がことの他、義仲寺を愛したという謎が、Aによれば納得が行く。

 それにしても、何か底流において服部とつながりそうです・・・。


 今、三位一体のルーツ(キリスト以前)を探究しています。それがわかれば、
またおもしろい展開ができるのですが・・・。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月17日 22時37分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


>三位一体のルーツ(キリスト以前)を探究しています

3つなら安定している、という意味でしょうか?


でしたら、中国の「鼎立」という言葉はいかがでしょう?


三位一体はカトリックの言葉でしょ?
三国志  魏・蜀・呉 はそれより前に存在してた言葉なのでは?と。


     違ってるかも。



芭蕉に義仲子孫説があるんですか?
驚きました
でも義仲の子孫なら芭蕉が義仲を大好きだったという理由がハッキリしますよね
へえ〜


残念ながら、ハッキリしたお話がまだ検索出来ていません。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1083483880

Q源義憲とは?

     

A1.
一般には"志田三郎義広"と言った方が分かり良いと思います。

河内源氏為義の三男に成りますが、長兄の義朝とは異腹、次兄の義賢とは同腹の可能性が有ります。此の関係は其の儘、二人の甥頼朝(義朝子)と木曾義仲(義賢子)との関係に迄尾を引く事に成ります。

最初常陸に志田荘を立てた事から、"志田"を名乗る事に成った様です。常陸と言う土地柄から同じ源氏の佐竹氏との関係も考えられます。又、志田荘の本所が美福門院→八条女院、預所が池ノ禅尼→平頼盛だった事から、保元・平治の乱には関与し無かった模様です。実際に、何某かの賞罰を被った形跡は無い様ですから。

異母弟行家が八条女院に仕えて居た事から、高倉宮以仁王(女院の養い子)の令旨を受けて挙兵しますが、彼義広は頼朝には付かずに義仲側に付く事を考えた事から、鎌倉側と交戦し敗走、義仲を頼る事に成ります。

以後は義仲と浮沈を共にし、伊勢で最期と言う事に成ります。
頼朝側から見た場合、常陸・佐竹及び義仲と言う二重の絡みから、叔父と言うよりは身内の敵と言った方が良かった様ですし、義広の方も其れは十分承知して居た様です。

尚、義広と義憲又は義範が如何言う経緯のモノかは、敗軍の将と言う事で、今と成っては不明と言うより無い様です。



A2
源義憲=源義広は、河内源氏の源為義の子供です。つまり、義朝の弟になりますね。

木曽義仲の父、義賢と同母弟になるようです。早くから、東国に下向し、保元、平治の乱には参加せず、東国にいたようです。源頼朝が打倒平家で立ち上がった時も、頼朝軍には参加しなかった為、頼朝とは対立し、合戦におよびました。頼朝に負け、血の繋がった甥である義仲を頼り、義仲と共に京都へ進軍。
しかし、義仲軍は、義経に追われ、義憲=義広も討死します。

子孫は志田氏を名乗っているようですよ。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月18日 02時29分19秒 ) パスワード

なかなか義仲がらみの義憲に辿り着けません。


 源(志太・志田) 義憲(義範・義廣)   不詳(1129年前後?)〜元暦元年(1184)   没年齢 53歳前後
.

源為義の三男で生母は六条大夫重俊の娘。

若い頃には兄義賢と同様に帯刀先生(皇太子の近衛隊長)を勤め、後に関東へ下り常陸国志太荘(茨城県稲敷市)を本拠地とした。大蔵合戦で義賢が殺された後は志太荘の管理に専念し、保元と平治の乱を通じて常陸から動かなかった。頼朝が富士川合戦の後に佐竹秀義の金砂城を落とした時に頼朝に面会したが合流はせず、その後も常陸南部で勢力の拡充に努めた。
.
寿永二年(1183)には藤姓足利氏と共にアンチ頼朝で挙兵したが下野で敗れて兄義賢の子・義仲に合流、義仲は生涯を通じて叔父にあたる義憲を庇護し続けた。元暦元年(1184)に宇治川で義経率いる鎌倉軍に敗れ、更に伊勢に逃れて抵抗を続けるが合戦の後に捕われて斬首された。
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月18日 11時57分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉については謎が多いということであります。それは芭蕉が忍家出身
であったからだと思います。秘密は洩らさないというのがまずは鉄則であ
り、また本家には忠実であらなければならないということです。

 そんな自身の置かれた環境の中で、自身の感情をギリギリのところで吐露
した・・・『奥の細道』というテーマの言葉に、隠された意味があると疑っ
てしまうのは、「下衆の勘ぐり」でしょうか・・・。
 
 「奥」とは神様のいる場所を指し、「細き」は「狭き」で「狭き門」を
暗示させる。節目節目に「烏」の歌が歌われ・・・これは「八咫烏」を
暗示していると・・・。

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、宗教的なものを追い求めるものではなく、
過去の歌枕等の確認とその心象をつづる旅であったか・・・自身の俳諧で
の生きる姿勢・道は、求道者のような細いく厳しい道であったのは確かで
あります。
 出羽三山にも登っていることにもなっている。修験者同然の心構えがな
ければならない。
 いずれにしても、求道(俳諧道)の道は、正に物理的にも心理的にも「奥」
へ続く「細」い道には違いなかった。

 仮に、伊達藩の視察を兼ねていたとしても、それは曾良に便宜を与え、
自分がその見返りを受けたということではなかろうか・・・。
 
 いずれにしても、本当のところはまだわかっていない・・・。

 「佐渡によこたふ天の川」に芭蕉は何を思ったのか・・・何か特定のメッ
セージが隠されているのではないかと疑うのは、「下衆の勘ぐり」であろう
か? でも、あきらめきれない・・・。
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月18日 12時50分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「三」は「聖なる数」としても、一体どこから始まったのだろうか?
 
 古代エジプトでは、オリオン座は冥界の王オシリスの象徴とされ、オシ
リスは、妻イシスと息子ホルスと共に、エジプト神話の絶対三神を構成
するという。
 よって、三大ピラミッドは、オシリス・イシス・ホルスの神殿である
ことを暗示。しかも、これら古代エジプトの絶対三神「御父と御子と聖霊」
と対応しており、伊勢三宮の祭神である造化三神に通じると飛鳥昭雄氏は
『失われたキリストの聖十字架 心御柱の謎』の中で言う。
 また、伊勢は「三」の数が基本となっており、出雲は「四」の数が基本
となっているともいう。
 その訳は?・・・来週出雲に行った時に、その謎を解明するヒントを探
してみます。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月18日 21時19分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

>出雲は「四」の数が基本となっているともいう。

出雲大社では  4回  叩く  と聞いています。
それで「四」なのかと納得。


でも何故4回なのか?四なのか?そこの所は分からないです。


>その訳は?・・・来週出雲に行った時に、その謎を解明するヒントを探してみます。

分かると良いですね。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月19日 07時49分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出雲はやはり日本の歴史の源泉のような所ですので、体感してまいりたいと
思っています・・・あと五日後ではありますが。

 さて、芭蕉は唐の李白や杜甫等の詩人を好きだったということで、漢詩を調
べてみましたところ、「荒海や 佐渡によこたふ 天河」に匹敵する、あるい
はそれよりもスケールの大きい(中国らしく大げさな)李白の詩を見つけました
ので記します。但し、日本語訳で―

 「廬山の瀑布を望む
  日は香炉を照らして 紫煙生ず
  遥かに看る 瀑布の長川を挂(か)くるを
  飛流直下 三千尺
  疑うらくは是れ 銀河の九天より落つるかと」

 この「銀河の九天より落つる」という部分と、芭蕉の「佐渡によこたふ
天河」が、夜空に広がる銀河(天河)の広大ななスケールを感じさせ、しばし
の間、何も言えなくなって、ただただ圧倒されるばかりという境地にさせら
れるところが共通しているような気がいたします。

 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月19日 10時50分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

「望廬山瀑布」ですね。


ここから世界遺産の廬山の峰の1つ、白居易の「香爐峰雪撥簾看」を思い出し
さらに「香炉峰の雪は簾をかかげてみる」で枕草子になっていきますね。



中国の詩は日本文学の基礎ですね。


コピペ大好き人間のわたくしなんぞが言ってはいけませんが
唐詩を日本人が超えたというのがいいですね。

   芭蕉しかり、清少納言しかり。



>夜空に広がる銀河(天河)の広大なスケールを感じさせ、
>しばしの間、何も言えなくなって、ただただ圧倒されるばかりという境地にさせられる


はい



しかし、わたくしが思ったのは
    服部半蔵の次男=正重の事件でございます。


芭蕉は佐渡と出雲崎の距離を詠んだのでは?と思いました。


    正重は、佐渡で待てというのを越後の出雲崎まで迎えに出て結局失脚しました。


芭蕉はこの事件を句に込めたのでは?と思っています。


    半蔵の(長男は正就で)次男が正重。
     正重の妻が長安の娘。
     3000石をもらっていた。
     長安とかわるがわる佐渡の役人をしていた。

     慶長18年7月9日?
         長安の息子の藤十郎は罪に問われたけれど服部正重は問われなかった
     
     しかし目付から、佐渡で待て、というのをわざわざ越後の出雲崎まで目付を迎えに出て家康の逆鱗に触れた。



ここから服部半蔵家は往年の力を失っていきました。
きっと芭蕉はこの事件を知っていたと思うので、芭蕉なりの感慨があったのでは?と。


以下ウイキより
1612年の大久保長安事件ではお咎めなしであったが、目付より佐渡で待てと言われたものの、佐渡で待たずに佐渡島の対岸の出雲崎で目付一向を出迎えたため、徳川家康の逆鱗に触れ、3千石を没収され浪人となる。

その後、越後国(新潟県)の3藩に家来として仕えるが、どの藩も藩取り潰しやお家断絶、家督争いにより再び浪人となり、5年後、兄嫁の実家久松松平家の松平定綱に召し抱えられ、2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は存続することとなる。正重は1652年、73歳で没した。

なお、桑名では正重の子孫の家を大服部家、正就の子・服部正辰の子孫を小服部家と呼ぶ。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月19日 10時59分26秒 ) パスワード

そうそう!1つ忘れていました。


服部半蔵の長男の正就の妻が   桑名の松平定勝(家康の父違いの弟の久松松平家)の長女松尾。


この松尾と芭蕉の松尾が共通しますし
何か芭蕉は思うところがあったのでは?と。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月19日 11時17分44秒 ) パスワード

わたくしのバカ話としましては


正重は天の川を渡ってはいけなかったのですよ。
男=正重=が  男=目付=に会いに行ってはいけなかったのですよ。

そんな事をしたから正重は罠にかかってしまった。
せっかく大久保長安事件では放免されてたのに。



ロマンチストの三つ柏さんは天の1番高い所から囂々と落ちる瀑布を連想なさったようですが
現実主義者のわたくしは  芭蕉は自分の家の運命  を思い返していたのかなと。

    結局人間は最後には滅びていくのだと。
    義仲の最期も、母方の百地家の零落も、半蔵家の没落も。

    正重は荒海を渡って佐渡からわざわざ出雲崎まで目付を迎えに行ったけれど裏目に出てしまった。


    芭蕉は出雲崎にいて、対岸の佐渡には行きたかったのでしょうけど、わざわざ諦めたのじゃないかな。と。
    「いや、渡らない方が良いのだ」と。


    ということでワタクシはこの句に「距離」を感じます。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月19日 11時28分24秒 ) パスワード

出雲崎って日本では珍しく石油が(原油が)出る所じゃなかったですか?

忍者が石油を使わないはずがないです。
天然ガスも出たかも知れないし。


芭蕉は何を考えていたのかな?と気になります。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月19日 17時42分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 確かに、佐渡は服部政重の長安がらみのなんだかかわいそうな事件があり
ました。佐渡で長安は金山奉行であり、伊達藩も金山があり、忠輝の岳父が
伊達政宗、そして忠輝の家老には長安が付けられていた。キーワードは、
「金山」、「長安」、「服部」、「伊賀」の四つか・・・。

 佐渡は流刑の地でありますので、奥深いさまざまな叫びがありますね。

 さて、芭蕉の門下生で服部と名の付く人は二人おります―
 @服部嵐雪・・・湯島生まれの浪人
 A服部土芳・・・伊賀生まれの愛弟子

 この服部土芳の句碑を、以前伊賀に行った時、長田村の「西蓮寺」(藤堂
采女家の菩提寺)で見付け、カメラに収めておりました。
 それは芭蕉の句と土芳の句がセットとなってこんなことが書かれておりま
した―
 「無常迅速(人の世の移り変りが早く、人の死が速かであるというテーマ)
  芭蕉の詠んだ句
  ・やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声 」

 「その句を、西蓮寺の盂蘭盆の施餓鬼会に参詣の際に見て―
  土芳の詠んだ句
  ・皆身を 鳴きしまふてや 蝉のから 」

 芭蕉にとって、天正伊賀の乱は阿鼻叫喚の地獄絵として心の中にあったは
ずであるが、はっきり吐露しているところはない。
 俳諧の道は、悟りへ至る道でもあったのだろう・・・。

 ところで、「荒海や 佐渡に横たふ 天河」を詠った夜は、雨が強く降り、
佐渡も天の河も見えなかったと『曾良日記』には書かれているという。
芭蕉はその光景を心眼で見、詠んだのである。
  
 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月19日 22時45分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

>皆身を 鳴きしまふてや 蝉のから

1.
「蝉の殻」の「殻」に 椅子に腰掛けていられなくなりました。


     物凄い激しい人だな、と感じたから。
     まるで刀の切っ先を喉元に当てられて「死ね!」と命じられた気分でした。


それに比べて芭蕉の   やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声   には
なんと穏やかな、と思いました。
この気分が「芭蕉」だな、と。人間が練れているというか超えているというか。



2.
しかし  「蝉のから」から、源氏の「空蝉」を連想したら   
いやいや土芳は芭蕉よりも穏やかな人だったのかなと。


     空蝉とは、
     セミの抜け殻のことで、古来空しいこと、はかないことの例えとして用いられた言葉。
     しかし語源は「現(うつ)し人(おみ)」で、「現実の人間」のこと。

     仏教思想により、生きている現実の人間ははかなく空しいものだと考えたところから、
     「うつしおみ」→「うつせみ」という言葉に「空蝉」という漢字が当てられ、
     この言葉自体が「セミの抜け殻」「空しい世の中」「はかない人間」といった意味で用いられるようになったものだといわれている。

     もちろんこの「空蝉」は、はかないものコレクターの紫式部のコレクションにもしっかり収まっている。



      「空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」
      「空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖かな」


>やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
>皆身を 鳴きしまふてや 蝉のから

      土芳の方が  静か  ですよね。
        その情景が 「無」 になっている。

        もう、蝉の声もしなくなっている。
        残っているのは蝉の殻のみ。


こんな感じで源氏の「空蝉」のシーンを連想しました。

  


番外

服部 土芳(はっとり とほう、明暦3年(1657年) - 享保15年1月18日(1730年3月6日))

江戸時代前期の俳人である。松尾芭蕉と同郷の後輩で、蕉門十哲の1人に加えられることもある。芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残した。

          ここ
           ↓
     伊賀上野に生まれた。本名は保英、通称は半左衛門。
     藤堂藩士・木津三郎兵衛保向の三男に生まれる。
           ↑
          ここ

             保英とか半左衛門とか木津氏とか
             いかにも藤堂采女の一族の繋がるという感じがしませんか?



服部家の婿養子となり藤堂藩に出仕する。幼いころに芭蕉に俳諧を学び、はじめ蘆馬(芦馬)と号した。貞享2年(1685年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し、翌年、藩を致仕して俳諧に専念する。貞享5年(1688年)、庵を開き、訪れた芭蕉の「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句から蓑虫庵と呼ばれる。



芭蕉と土芳は藤堂家を間にしてかなりの繋がりがあったのかなと。




>ところで、「荒海や 佐渡に横たふ 天河」を詠った夜は、雨が強く降り、
>佐渡も天の河も見えなかったと『曾良日記』には書かれているという。
>芭蕉はその光景を心眼で見、詠んだのである。


    情報をありがとうございました。

    そうですか
    雨でしたか


    正重はあの時、台風でも来てて出雲崎に行けなかったら、あのような罠にはかからなかったかも知れないのですか。



    >芭蕉はその光景を心眼で見、詠んだのである。


    芭蕉の心象風景は一体何だったのか、いよいよ知りたくなりました。



正重が目付にどんな報告をしようと焦って出雲崎に馳せ付けたのか?
あの時、天候が荒れていたなら?
もし佐渡で足止めになっていたら?

荒れた海も渡ったのだろうか?


荒海や佐渡に横たふ天の川

   今、わたしの目の前の出雲崎と佐渡の間の海は大荒れに荒れている
   しかし
   正重は目付に会いたい、是非とも会わねば、と天の川を急いで渡った
   いや、渡ってしまった

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月19日 22時47分39秒 ) パスワード

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=334

この記事、面白かったです。

以下コピペ:

侍から足軽まで100人超―津藩伊賀城代・藤堂采女家の家臣団構造


 津藩の成立は、1608(慶長13)年の藤堂高虎の伊賀・伊勢国入封による。その際、伊賀領国を支配するにあたり、藤堂出雲など重臣を伊賀上野城へ配置した。そして、二代高次時代の40(寛永17)年になり、伊賀国の土豪出身の藤堂采女元則を伊賀城代家老に取り立て、伊賀国の采配を任せた。
今回は、伊賀城代家老藤堂采女家の家臣団構造について紹介したい。
  近世大名家の藩政を支える上級家臣は、藩主から多くの知行を宛行(あてが)われ、家来(直臣)を召し抱えている場合が多かった。それは、上級家臣がもともと土豪・小領主として譜代の家来を召し抱えていたからであり、自身が大名家の家臣に組み込まれることで、譜代の家来がそのまま陪臣として大名に召し抱えられることになったのである。
そして、武家には知行を与えられる代わりに軍役(ぐんやく)が課せられたが、采女家は、藩の規定により、騎上7騎・鉄炮15挺・弓2張・鎗18本、その他若党、道具持ちなどの供廻り31人が課せられた。これらの軍役は家臣によって果たされたわけであるが、一般的に家臣団は侍(知行取)・徒士(かち)・足軽等武家奉公人などの階層に分かれた。
 藤堂采女家の場合、1657(明暦3)年の「切米帳」で見ると、侍層として佐脇小左衛門の200石を筆頭にして、50石の渡部与左衛門までの家来19名が記されている。例えば、200石の佐脇少左衛門の場合、その内訳は100石が所知行、残り100石のうち、35石が蔵米として伊賀で渡された。所知行とは、直接に年貢徴収することのできる村落(知行地)を宛行われることであり、おそらくは采女家が知行していた伊賀・伊勢国の村落の一部を宛行われたのであろう。当時、所知行からの収入は、年貢率が「四つ物成(40%)」となっていたから40石ぐらいで、蔵米との合計では75石ほどとなる。ただ、蔵米として渡される分は人によって異なり、50石取りの渡部与左衛門の場合は蔵米だけの支給で、15石であった。
  なお、采女家は知行高7000石で、40%に当たる2800石の実収入があったが、こうした侍層の俸禄合計が664石で、約4分の1が侍層の俸禄として使われたのである。
  ところで、これら侍層の由緒については、藤堂采女元則の隠居前年の1650(慶安3)年と思われる藤堂監物・四郎右衛門宛ての書状の中で「知行取は19人おり、4人は大坂にて手をもふさぎ申もの」、残り15人が「私取たてのもの」であったという。前者は大坂の陣まで敵方であった者が後に家来となったものと推測されるが、詳細はわからない。また、この書状からは「長門(元則息子)に「一人もちらし申さざるようにかたく申し聞かせたく候」と、代替わりに際して、家来を解雇するのではなく、継続して取り立てられるよう配慮したい旨が述べられている。
  次に、徒士層と考えられる階層について見ると、禄高は一部を除き10石前後で、その人数は37人ほどであった。これらの階層は、主人の身辺警護や侍層に供奉(ぐぶ)したと考えられる。そのほか、合力米を給された馬医・外科医・坊主など、十数人も抱えられていた。
  それに、足軽等の武家奉公人がいた。徒士層以上と足軽層と間に大きな格差があった。武家奉公人は、一年切りでの採用が多く、支配農村(伊勢国では今徳・草生・高座原村など、伊賀国は予野・南・比土村など)からの取立が多かったと言われている。禄高は2〜6石で、道具持ち・草履取り・馬の世話・門番・人足などで軍事の補助や采女家の日常生活に関する職務を担っていた。伊勢国で25人、伊賀国で26人が雇われている。
以上のように、采女家一家に仕える家臣は100人を優に超えていた。こうした多くの陪臣を抱えた上級家臣はほかにもあり、津藩全体となれば相当数の家来がいたことになる。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)


[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月20日 07時27分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 李白から白居易、そして清少納言の「香爐峰の雪は簾をかかげてみる」ま
での関連を瞬時に理解するあを様の能力には驚きました。

 また、「蝉のから」から源氏物語の「空蝉」を連想し、空しくはかない静
かなる境地を土芳に見たあを様の洞察力はすごい、その通りだと思いました。

 佐渡の対岸の出雲崎の原油の話に、探究心を刺激されました。何故「出雲」
なのか・・・出雲=砂鉄を連想。砂鉄の採れるところには原油も出そうな気
もします・・・一度調べてみたいと思います。

 さて、芭蕉の母が桃地(=百地)系=服部系でありますし、土芳は「服部家」
の婿養子となったということですね。その服部家とは、采女系(藤堂→保田
→服部)の服部だったんでしょうか?

 いずれにしても、芭蕉も土芳も服部でつながりますよね。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月20日 10時16分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


はい
出雲崎は出雲に関係するようですよ。


まだ良いサイトに出会っていません。


でも新潟は越の国ということで昔っから港が発展していましたから
その  海の道  で出雲と繋がっていたのでしょうね。



>土芳は「服部家」の婿養子となったということですね。
>その服部家とは、采女系(藤堂→保田→服部)の服部だったんでしょうか?

木津姓でピンときました。


保田家を調べていた昨年あたり、
保田家が紀州にも関係があったり木津氏と関係があったりというのを見ました。


     http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101357.html

ここみたいですが レス<24>とレス<27>とレス<28>あたり。

服部 土芳
(はっとり とほう、明暦3年(1657年) - 享保15年1月18日(1730年3月6日))は江戸時代前期の俳人である。

松尾芭蕉と同郷の後輩で、蕉門十哲の1人に加えられることもある。
芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残した。


                                  ここですね
伊賀上野に生まれた。
本名は保英、通称は半左衛門。

藤堂藩士・木津三郎兵衛保向の三男に生まれる。            ここですね
服部家の婿養子となり藤堂藩に出仕する。

幼いころに芭蕉に俳諧を学び、はじめ蘆馬(芦馬)と号した。
貞享2年(1685年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し、
翌年、藩を致仕して俳諧に専念する。

貞享5年(1688年)、庵を開き、訪れた芭蕉の「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句から蓑虫庵と呼ばれる。



藤堂新七郎良勝家を挟んで芭蕉と土芳が関係する、と自分で書いていました。



ここで一旦切ります。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月20日 10時31分27秒 ) パスワード

また違う芭蕉像が読めます。


http://kouyaakiyosi.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/14/index.html
全文はURLへ


[芥川龍之介]の『芭蕉は大山師だ』という原稿が、没4年後の1931年(昭和6年)に雑誌に発表されている。

いわく、
[[ 芭蕉の伝記は細部に亘(ワタ)れば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけは下(シモ)に尽きると信じている。

彼は何らかの失敗をして伊賀を出奔し、江戸の来て遊里などへ出入りしながら、いつしか大詩人になった。


彼は文覚上人(モンガクショウニン=1139(平安末期)〜1203年(鎌倉初期)の武士、その後に真言宗僧侶)さへ恐れさせた[西行(サイギョウ=1118(平安末期)〜1190年(鎌倉初期)の武士、僧侶、歌人)]ほどの肉体的エネルギーもなかったことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落とした西行( この状況は、帝に仕える武家社会の出世のための様々な駆け引きに嫌気をさした23歳の荒武者[佐藤義清(西行の俗名)]が、なにもかにも捨て去り残りの人生を一人で生きるために、駆け寄る幼い娘を縁側から蹴落とすことにより俗界から完全に離れ、そこに2度とは戻らなかった)ほどの神経的エネルギーもなかったことも確かであろう。


芭蕉の伝記もあらゆる伝記のように彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。彼は実に日本の生んだ三百年前の[大山師]だったのである。]]と、こきおろしている。

 芥川龍之介の業績は立派ではあったが、1927年(昭和2年)7月24日に出版社との約束の作品原稿を書きあげておいて、35歳で服毒(睡眠薬)自殺した人物である。芥川龍之介のどの写真を観ても、疲れ果てた顔をしている。疲れを癒すのには毒薬ではなく、風呂上りに適度の酒を飲んで早めに寝床へ入いり、いやな奴の顔を思い出さないようにして眠ることが一番なのに、彼はそれを知らなかったのだろうか。だいたいにおいて、233年前に亡くなった芭蕉の悪口をいっている場合ではなかったのだ。


 実は、芥川龍之介もまた、
 『白木蓮に声を呑んだる雀かな』
 『青蛙おのれもペンキぬりたてか』
 『藤咲くや日もうらうらと奈良の町』その他の俳句を詠み、[我鬼(ガキ)]という俳号を持つ俳人でもあった。

 上記は文豪[芥川龍之介]が若いおりにいったのだろうが、現在の純文学部門で相当の権威を持つ[芥川龍之介賞]に名を冠せられたからといって、生前の言動の全部が的を射て真理の裏づけがあるわけではない。上記の文中には正解も含まれているが、やや見当はずれの部分もあるのだ。

 ただ、西行法師が生きた時代から以後を通して、名のある歌人、茶人、文人、俳人、その他の伝統芸術に身をやつした人々、現代に生きる様々な芸術に携わる人々が例外なく西行法師の偉大さを口にしているのは事実だ。
[中津文彦]著の[闇の弁慶]という歴史ミステリーとでも呼ぶべき壮大な物語がある。内容は『平家撲滅を目的に源平の合戦を企てたのが熊野水軍に生まれた弁慶で、その密命を弁慶に発した謎の人物が[西行法師]だ』というものである。小説はある仮説を元に本当のことと寸分違わないほどリアルに物語を構築するから読者を魅了する。歴史上の魅力溢れる人物が歴史小説の題材として登場するわけだが、多くの場合の小説は歴史に沿った物語であっても歴史そのものではない。

 歌人としての西行のセンスは第一級品で、平安時代前期に編まれた[古今和歌集]の311年後の鎌倉時代初期の1216年(建仁元年)に編まれた[後鳥羽上皇]の勅撰和歌集[新古今和歌集]に収録されている1979首の中には西行の短歌が94首とダントツである。当代髄一といわれた[藤原定家(フジワラノサダイエ=テイカ)]さえ、収録数では6番目である。
 現代もを含めた後世の人々が西行を慕うのは歌詠みとしての西行の人物像だけでなく、栄華を捨て去り厳しい仏門に身をやつして旅に明け暮れる孤高の聖人としての西行を追い求めているのだ。
 『さまざまのあはれをこめて梢(コズエ)ふく風に秋知るみ山辺の里』
 『おしなべてものを思わぬ人にさへ心をつくる秋のはつ風』 
 新聞への読者投稿短歌は私には難しすぎるが、約800年前の西行の歌は心にすんなりと入ってきて小さな焚き火をしてくれる。難しい言葉を多用したり、眼にするものが知りもしない歌枕を得意になって使われても、その詠んだ人と同じ教養が誰にでも備わっているわけではない。
 『ねがはくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃』  これも西行の詠んだ歌である。
 [たった一つの願いは、桜の花が開く春に死にたい。二月(旧暦)の満月の夜に花びらの散る下で死にたい]の意味らしいが、釈迦が死んだのが旧暦2月15日(きさらぎの望月)である。西行の死去したのが1190年の2月16日[きさらぎの望月の翌日]である。1573年間で1日の誤差しかなかったなんて、誰にでもできるものではない。

 西行の死んだのは、源頼朝が奥州藤原氏を滅ばした翌年にあたる。奥州藤原氏の頭領の[藤原秀衡(フジワラヒデヒラ)]は、その4年前の1187年に死去している。西行と秀衡は強いきずなで結ばれていて、西行26歳(1143年)のときと、晩年の69歳(1186年)のときの2度奥州への旅をしてその途中に数多くの歌を詠んでいる。

 西行の生き方を善しとして後世の芭蕉や蕪村はその精神を追及して足跡をたどるが、西行の孤高の精神に近づく者があっても、それを超えた者は未だにいない。



 松尾芭蕉が[おくのほそ道]の旅に出たのは1689年(元禄2年)の46歳のおりで、その5年後1694(元禄7年)10月12日午後4時ごろ死去したので『旅に出たのは晩年だ』というべきであろう。芭蕉の場合は[おくのほそ道]に出るまでに名を成し人格形成もすんでいたが、西行の場合は26歳の新米坊主である。この最初の大きな旅では、僧侶としての修行と数寄(風流、風雅に心を寄せること)とを兼ねたもので、旅を終えた時には出立つするときの何倍にも人格形成がなされていた。その後の仏門内での活動と文藝の完成が西行の名を高めたようだ。

芭蕉も、蕪村も、一茶にしても、約500年前の西行はビックスターであり、挑戦したとしても勝負にはならない人物であった。


 江戸時代とは、1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に任命され江戸に幕府を樹立してから、1868年(明治元年)までの265年間をいう。


1616年(元和2年)に家康が75歳で没して28年後の三代将軍家光の治世の1644年に、[松尾芭蕉]は伊賀上野に松尾与左衛門の次男として生まれている。

芭蕉が21歳のとき俳諧集「佐夜中山集」に発句2つを残している。その内の1句が三重県の伊賀上野駅前に建つ句碑、
 [月ぞしるべこなたへ入(イ)らせ旅の宿]である。これが、芭蕉の公に記された最初の発句であった。

 芭蕉は29歳まで伊賀上野で俳諧に精を出し、1672年(寛文12年)俳諧の師匠をめざして江戸にのぼる。その後の芭蕉の16年間は、江戸と伊賀上野を行き来するなかでの多くの俳諧人との交流があり、旅をもとにした[野ざらし紀行]、[鹿島紀行]、[笈の小文]、[更科紀行]等を世に出したのは死後であったが、旅の中で詠んだものや日常の句会での夥しい作品が句集として出板されることで俳諧師の地位を不動のものにしていく。

 当時、俳諧では誰もが認める芭蕉の[おくのほそ道]の旅へは、弟子の曾良が随行している。すでに俳諧で不動の地位を築いた芭蕉には、彼に教えを請う弟子や孫弟子達が様々な地に根付いていた。さらに、あの当時の地方文化人は、侘び寂びの境地を確立した芭蕉を崇拝していたことで、旅を通して弟子や先々の宿場の文化人が便宜をはかったものと考えられる。

 芭蕉と曾良は江戸をでてから日光を目指したあとに奥州街道に戻り、ほうぼうで脇道にそれながら平泉まで北上し、日本海側の酒田、敦賀を経て岐阜県南西部の都市[大垣]で旅は終わる。かくして、150日間、旅程600里(2,400Km)の旅が終わったが、二人の宿泊費や食費を現在のお金に換算すると約100万円と割り出した人がいる。1日当たり6,666円となり、徒歩なので交通費は0としている。また、2,400Kmを150日間で移動すると単純計算で一日15Kmとなるが、移動しないで知人宅に逗留していた日数を引いて計算し直すと、実際には一日50Kmもの距離を歩いたことになる。大人の平均歩行速度は時速5Kmぐらいなので、50Kmは10時間かかることになる。

 しかし、毎朝、窓の外の道路を命に執着するかのように急ぎ足で通過していく若作りの60歳代の夫婦が電柱間を通過する速度から計算すると、時速5.5Kmとなる。この速さなら、50Kmを踏破するのには9時間となる。[おくのほそ道]道中の2人の姿が俳画として残されているが、腰をまげたジッチャンに描かれている。ところが当時の芭蕉は、46歳で中肉中背の見るからに絶倫タイプの男だ。若作りとはいえ60歳過ぎのあの夫婦より遅い歩調だとは到底思えない。もっとも、昔の旅人は1日40Km歩いくことで手一杯だった。

[去来抄(キョライショウ)]は、蕉門10哲の中でも京都はもとより西日本の蕉門を束ねて[西国33ケ国俳諧奉行]と称された芭蕉のお気に入りの[向井去来]が、芭蕉の死後に著した師芭蕉からの伝聞をもとにした俳諧論書である。
4部4冊の[去来抄]のなかの第一番目の[先師評(センシヒョウ)]に芭蕉の臨終時の様子が書かれている。

[[ 先師が大阪で最後の病床についておられたとき、そこにいる弟子たちに『句を作れ』と命じた。芭蕉は弟子たちに『もう私は死んでいるものと思え。一字なりとも相談してはならぬ』とつけ加えた。いろいろの句が出たが、内藤丈草(ナイトウジョウソウ=近江の義仲寺境内の無名庵に棲み死後の芭蕉の追善に生涯をかけた弟子)の、
  『うずくまる薬罐(ヤクワン)の下のさむさ哉』
 の句を『すばらしい出来だ』といってほめた。この言葉を聞いて、自分ははっと悟るところがあった。師が死ぬときはこうした気持ちしかおこるまい。興あることを言おうとしたり、そこにふさわしい景趣を思案する余裕はあるまいと思い知った。

 このとき弟子たちが詠んだ句は、
  『病中(ビョウチュウ)のあまりすするや冬ごもり』   去来(キョライ)
  『引張(ヒツパ)つて布団の寒き笑ひ声』       惟然(イゼン)
  『叱られてつぎの間へ出る寒さ哉』         支考(シコウ)
  『思ひよる夜伽(ヨトギ)もしたし冬籠(フユゴモ)り』  正秀(マサヒデ)
  『鬮(クジ)とりて菜飯たかする夜伽哉』        木節(ボクセツ)
  『皆子也(ミナコナリ)蓑虫(ミノムシ)寒く鳴き尽くす』 乙州(オトクニ) である。  ]]



 芭蕉が弟子とするの者は、まず[豪商]、つづいて[医者]、屈強な[藩士]、藩士くずれの[浪人]、さらに[神道家]、そして[乞食僧]や[僧侶]などである。豪商や藩士や医者は、芭蕉より家柄は数段上である。


 芭蕉は伊賀上野の山奥より出てきた俳諧を商売とする文人である。俳諧がうまいという以外に力があるわけではない。それが去来や許六といった名門の藩士を簡単に配下にしてしまう。

 なぜ、一介の俳諧師が文武両面にわたる300名を超える直弟子を擁する奇跡のネットワークをはり巡らすことができたのかは、『松尾芭蕉が天性の戦略家だったのだ』といわなければ、説明がつかない。

蕉門3000名の中での其角は、トップの芭蕉に伯仲した存在である。奇跡のネットワークのキーマンはいつの場合にも其角であった。

 松尾芭蕉を広域暴力団の組長(貸元)に例えれば、其角はさしずめ代貸の位置にあり組織を束ねていたのであろう。

 元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ芭蕉は死去した。大阪の花屋仁左衛門の屋敷奥で、多くの門人に看取られての51歳の生涯であった。死因は、句会の席に出された食事での茸の食中毒ということになっている。

 生前の10月8日、門人にかきとめさせた、
 [旅に病んで夢は枯野をかけ廻る]が辞世の句となった。

 其角が著した[芭蕉翁終焉記]には、
[[ 元禄7年(1694年)10月12日になると芭蕉が死に、死に顔が美しく眠れるが如くである。夜になって長櫃(ナガビツ)に入れ、川舟に乗せた。同乗者は@去来(キョライ)A乙州(オトクニ)B丈草(ジョウソウ)C支考(シコウ)D惟然(イゼン)E正秀(マサヒデ)F木節(ボクセツ)G呑舟(ドンシュウ)H次郎兵衛(寿貞の子)*そして其角である。

 元禄7年(1694年)10月13日、伏見着き、伏見より義仲寺にうつして葬礼、義心を尽くし、京・大阪・大津・膳所(ゼゼ)の連衆、被官従者(ヒカンジュウシャ=武家や寺社の奉公人)までも、此翁(コノオキナ)の情を慕って招かざるに馳来(ハセク)る者三百人。

 元禄7年(1694年)10月14日、義仲寺の直愚上人を引導として、木曽塚の右に埋葬し、冬枯れの芭蕉を植えて名のかたみとした。人々は7日間こもって追善の興行をして翁をしのんだ。伊賀にいた土芳(ドホウ)と半残(ハンザン)は12日に手紙を見て大いに驚いて、すぐに大阪花屋へ行き、さらに棺を追って14日に義仲寺に到着した。

 元禄7年(1694年)10月15日早朝、其角以下の門人は墓に詣でて無縁塔を建て[芭蕉塚]の三文字を刻した。
 元禄7年(1694年)10月18日、門人による追善句会が行われ、其角の発句、
  『なきがらを笠に隠すや枯尾花』で、大津、膳所、京都、大阪、伊賀からはせ参じた43人が参加した百韻が興行された。

 元禄7年(1694年)11月12日、京都で芭蕉追悼の百韻が興行され、江戸の嵐雪(ランセツ)、桃隣(トウリン)、岩翁(ガンオウ)が、名古屋の荷兮(カケイ)、俳書出板元の井筒屋主人の重勝(シゲカツ)ら21人が参加した。 ]]

 これらの追悼句会のすべてを其角が仕切り、『芭蕉のあととりは其角だ』と内外にアピールした。


[焦門十哲]とは俳聖[松尾芭蕉]の直弟子の内で特に優れた10人をさすが、人によっては7番から10番目までの名を入れ替えることがある。それらを加算すると14名になるが、15とすればなおキリが良い。

 (1)[宝井其角(タカライ キカク)]1661年(寛文元年)〜1707年(宝永4年)。
  本名[竹下侃憲(タダノリ)]で、近江国膳所藩(オウミゼゼハン=現在の滋賀県大津市近辺で本田家7万石)の御殿医の長男として江戸堀江町で生まれる。1670年代の初めのころ、父の紹介で15歳のおりに芭蕉の弟子に加わる。まもなく蕉門第一の高弟に数えられ、芭蕉の死後に江戸座(俳諧流派の一つで、其角の性格が反映された快活で洒脱な都会的ムードの排風)を開き、江戸俳諧で一番の勢力となる。
 酒を愛した其角の作風は、平明かつ口語調の洒落風(シャレフウ)を全面に押し出してはいたが、博覧強記(ハクランキョウキ=知識が豊富なさま)の句の解釈に取り掛かった人は其角の句に潜む難解さに驚かせられた。例えば、
 『切られたるゆめはまことかのみのあと(其角)』を、去来(キョライ)が芭蕉に、
 「其角は本当にたくみですよね。たかが蚤が喰い付いただけの事を、誰がここまで言い尽くせるでしょうか」というと、芭蕉は、
 「確かに、彼は藤原定家卿(鎌倉時代初期の公家で、天才的歌人、連歌師で能楽や茶道にも造詣の深かった芸術家)だよ。ちょっとしたことを大げさに表現する修辞に巧みなところが定家に似ているね」と評した。

 芭蕉が俳諧師を目指そうとして伊賀上野を出るにあたり当初大阪に上ろうと思ったが、大阪にはすでに芭蕉より2つ年長の談林派を代表する[井原西鶴(浮世草子の売っ子作家で『好色一大男』等が有名になり名人藝の俳諧が霞んでしまった)]という俳諧師がいた。彼がいるので大阪を嫌って江戸に向かったというイピソードを持つほど芭蕉がライバル視していたのが西鶴であったが、其角の場合、師匠が嫌っていることなどどこ吹く風で井原西鶴とも交流を持ち、彼に会うために2度大阪に行っている。

 其角に関する逸話のなかに1703年1月30日(元禄15年12月14日)の赤穂浪士の討ち入り前日(旧暦12月13日)に47士の1人[大高忠雄(通称-源吾)]は俳諧の道で知り合った其角に会い関西に下ると話をすると、其角が、
 『年の瀬や水の流れと人の身は』の一句を贈ると源吾が、
 『あしたまたるるその宝船』と付けて暗に明日の討ち入りをほのめかした。47士の活躍する忠臣蔵は、当時から歌舞伎や文楽、演劇、映画に何百回も取り上げられていくうちに切ったり繋いだりしたものだから、劇中での真実部分は僅かだと思われる。いつしか噂などを含めたフィクション部分が真実に入れ替わり一人歩きを始めるが、それが世の定めでもある。

 なお、其角本人は永年の飲酒がもとで47歳で死んでいる。死因は肝硬変以外考えられない。
 『闇の夜は吉原ばかりが月夜かな』
 『暁の反吐(ヘド)は隣か時鳥(ホトトギス)』 前の句はともかく、後の句は声に出しては読み難い。

 (2)[服部嵐雪(ハットリ ランセツ)]1654年(承応3年)〜1707年(宝永4年)。
  其角と並んで蕉門の双璧をなす高弟で、芭蕉の生前から雪門を興しその祖となっている。
 淡路の武家の出の父服部喜太夫高治は常陸麻生藩主[新庄直時]に仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時常陸笠間藩の[井上正利]に仕えたことがある。だが嵐雪の若いころは相当の不良青年で、悪所通いは日常茶飯事であった。
 蕉門に入ったのは1673年(延宝元年)の19歳のおりの最古参弟子の一人で、1678年(延宝6年)の不卜編[俳諧江戸広小路]に付句2句が入集したのが作品の初見がある。1680年(延宝8年)には同門の其角の[田舎之句会]に序を草し、以後はさまざまな句集に入集されている。
1688年(元禄元年)に[若水]を刊行したあと立机して宗匠になる。1690年(元禄3年)には[其袋]を刊行して俳名をたかめた。1694年(元禄7年)に[或時集]を刊行し、翌年の芭蕉一周忌に追善集[若菜集]を刊行している。
 嵐雪の作風の柔和な温雅さを芭蕉はことのほか評価して、1692年(元禄5年)3月3日の桃の節句に、
 『草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり』と称えている。だがどういう訳か、芭蕉の奥州行脚に嵐雪の送別吟が見当たらないので、この時期に師弟関係に軋みが発生していたようだ。
1694年(元禄7年)10月22日、江戸で芭蕉の訃報を聞いた嵐雪は、その日の内に一門を集めた句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られている膳所(ゼゼ=現在の滋賀県大津市)の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、
 『この下にかくねむるらん雪仏』であった。
 蕉門の鬼才[其角]と実力は伯仲していて、芭蕉をして「両の手に桃や桜や草の蛭」と詠んだほどで、芭蕉没後は当然のように江戸俳壇を其角と二分する趣があった。
1707年(宝永4年)10月13日、享年54で没。追善集に[風の上]があり、嵐雪の門流は雪門として、嵐雪の中後期以後に一派を形成した。
 『一葉ちる咄(トツ)ひとはちる風の上』が辞世の句となった。


 (3)[森川許六(モリカワ キョリク)]1956年(明暦2年)〜1715年(正・5年)。
  晩年になり入門した画の名人で、芭蕉に画を教える。
 佐々木高綱(ササキタカツナ=平安末期から鎌倉初期にかけてその名を馳せた豪傑で、平家物語、源平盛衰記などにも登場する源氏方の武将)を遠祖とする300石取りの彦根藩士[森川與冶右衛門]の子として彦根城下に生まれる。
 武士として剣術、馬術(悪馬新当流)、槍術(宝蔵院流槍術鎌十文字槍)の名人であった。また許六は若いころから漢詩を修めて、絵は狩野探幽の弟で奥絵師の[狩野安信(中橋狩野家の祖)]に習っている。また自著[俳諧問答]によると、延宝の初めに北村季吟(江戸初期の歌人で俳人。松尾芭蕉の師でもある)と田中常矩(ツネノリ=江戸初期の俳人)に和歌と俳諧を学んだとして談林派の俳諧に属していた。
1691年(元禄4年)ころから本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参[江左尚白]の門を叩き、1691年(元禄4年)江戸下向のおりに其角と嵐雪の指導を受けた。
1692年(元禄5年)江戸深川にいた芭蕉に入門し、六芸に秀でた多芸の才人であると芭蕉から[許六]という号を授かれれた。入門に際し許六が詠んだ、
 『十団子も小粒になりぬ秋の風』という句を芭蕉が激賞した。許六が芭蕉より指導を受けたのは10ケ月に満たなかったが、芭蕉が許六に俳諧を、許六が芭蕉に絵を教えた。1693年(元禄6年)彦根に帰る際に芭蕉から[紫門の辞]と俳諧の奥伝書を授けられた。
1710年(宝永7年)、出仕先の井伊家を辞し家督を養子の百親に譲る。
1715年(正・5年)9月23日享年59で死去する。
 『もちつきや下戸三代のゆずり臼』 彼のこの句が私は好きだ。


 (4)[向井去来(ムカイ キョライ)]1651年(慶安4年)〜1704年(宝永元年)。
  去来の本名は[向井平次郎]で、肥前長崎の儒医向井玄升の次男として生れている。父は当代切っての名医で、後に宮廷儒医(現在の宮内庁病院長)とし名声を博す。兄もまた宮中の儒医を勤めていて、去来も父の意志を継いで医者を志す。

 去来と芭蕉との出会いは、貞亨元年に上方旅行中の[和田蚊足(ブンソク=京都生まれの江戸俳人)]の紹介で去来と其角とが会い、その其角の紹介で始まっている。

 去来に対する評価は、篤実とか温厚とかで高い点数だが[西国33ケ国の俳句奉行]とあだ名されように、京都はもとより西日本の蕉門を束ねた実績は、単に温厚篤実だけではない卓越した人心掌握の技量も合わせ持っていなければ成すことはできなかっただろう。

 京都嵯峨野に別荘[落柿舎]を所有し、そこは、旅の途中の芭蕉がたびたび利用している。[野沢凡兆]とともに芭蕉より[猿蓑]の編者に抜擢される。
 『たけの子や畠隣に悪太郎』風の彼の句は、芭蕉や其角とは異なる趣がある。



 (5)[各務支考(カガミ シコウ)]1665年(寛文5年)〜1731年(亨保16年)。
 
          略


 (6)[内藤丈草(ナイトウ ジョウソウ)]1661年(寛文2年)〜1704年(寛永元年)。
 
           略

 (7)[杉山杉風(スギヤマ サンプウ)]1647年(正保4年)〜1732年(亨保17年)。
  
            略


 (8)[立花北枝(タチバナ ホクシ)]生年不詳〜1718年(亨保3年、享年未詳)。
 

             略

 (9)[志太野坡(シダ ヤバ)]1662年(寛文2年)〜1740年(元文5年)。
      
            略 


  *[上記(7)、(8)、(9)、(10)の代わりに次の4人を加える十哲もある]




 (7-2)、[河合曾良(カワイ ソラ)]1649年(慶安2年)〜1710年(宝永7年)5月22日。
 曽良の職業である[巡遣使(ジュンケンシ=幕府の大名領内の調査員)]の随員日誌に曽良の没した記録が無いために正確な没月日は不明。
 信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれたが、両親が亡くなってから伯母の養子となり[岩波庄右衛門正字]と名乗る。12歳のおり養父母が亡くなったため伊勢国長島の親類の家に引き取られた。
1668年(寛文8年=20歳)前後から長島藩主[松平康尚]に仕え[河合惣五郎]と名乗る。1681年(天和元年)に致仕(チシ=職を退く)し、江戸の[吉川惟足(ヨシカワコレタリ=江戸前期の神道家)]に吉川神道を習う。
1689年(元禄2年)に芭蕉の[おくのほそ道]に随行して[曾良旅日記(253後の昭和18年に所在判明)]を残した。
1709年(宝永6年)に幕府の巡見使随員として九州を廻り、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見途上に62歳で病没している。正式な[巡見使]は配下を引き連れた上級旗本3名が堂々と各大名の領地にのり込み、民生を含む政治、経済、藩主の思想に至るまで調査する。曾良の役目は旗本の配下に就いた末端の調査員で、場合によっては忍まがいの単独行動もしたかもしれない。領内で幕府に知られたくない部分に深入りした場合などは暗殺されることもあり得る。
 『春にわれ乞食やめても筑紫かな』
 『行き行きでたふれ伏すとも萩の原』  これは、曾良自身の運命を詠ったような句ではないか。



 (8-2)[広瀬惟然(ヒロセ イネン)]1648年(慶安元年)〜1711年(正・元年)。

                略



 9-2、[服部土芳(ハットリ トホウ)]1654年(明暦3年)〜1730年(亨保15年)。
  土芳(トホウ)は芭蕉と同郷(伊賀上野)の後輩で、藤堂藩士[木津三郎兵衛保向]の3男として生まれ、後に服部家に養子に入り藤堂藩へ出仕している。
 幼きころから芭蕉に俳諧を学び、1685年(貞亨2年)に水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会した。翌年(1686年)、藤堂藩を致仕して俳諧に専念する。1688年(貞亨5年)に庵を開き、訪れた芭蕉が詠んだ『みのむしの音を聞にこよ草の庵』から、[蓑虫庵]と呼ばれた。1689年(元禄2年)号を[土芳(トホウ)]に改め、編著書に[三冊子(芭蕉晩年の俳論の整理書)]、[蕉翁句集]、[蕉翁文集]で芭蕉の俳論や俳句を残したほかに、[横日記]、[蓑虫庵集]などの日記を残し、当時の俳諧世界の価値ある文献としている。
 『包丁のうしろに明かりや初がつお』
 『柿の葉の風砕けたるすずみかな』  正直な話、俳句は難しくてわからないけれど、土芳の句は少なくても陰気臭くなくて好みにあっている。



 (10-2)[天野桃隣(アマノ トウリン)]1639年(寛永16年)〜1719年(亨保4年)。
  伊賀上野出で、芭蕉の従弟だといわれている。15年間ほど大阪で『利をいとひ遊民となって暮した』と本人がいっているが、その暮らしは欠陥人間の生きかたでもある。その後に江戸に出て、40歳を過ぎてから芭蕉の援助で俳諧師として独立した。桃隣(トウリン)の将来を危惧していた芭蕉が1694年(元禄7年)に没して後ろ盾を失ってからは、次第に凋落の一途をたどった。晩年は惨めな暮らしであったが、人によっては好色本作家の[桃林堂蝶麿]と同一人物だという人もいるが、蝶麿は好色本と合わせて浮世絵師とタイアップして絵草子として結構な売り上げがあったらしい。後世の人は「彼の作品に秀作はなし」といっているが、芸術性の高い好色本ができて前半期の芥川賞の候補にあがるようなら、その好色本は失敗作である。
 好色読み物などは、どの物語も3分の1行ったあたりから「青少年は読んではいけません」の指定を受けるような内容なので、桃隣が[桃林堂蝶麿]と同一人物なら少なくとも経済的面で芭蕉が心配する必要はない。ゆえに、[桃隣]と[桃林堂蝶麿]は別人である。
 『初雪や人の機嫌は朝のうち』は、桃隣らしい句である。一般の人はそうかもしれないが、行くあてがないばかりか雪が融けるまで外出しない方針の私にとり、雪は多ければ多いほど機嫌は良い。なんだったら、大晦日に降り出して2月の28日まで降り続ける異常気象が来れば、おおかたの日々は笑顔で過ごすことになるだろう。



[俳諧師『松尾芭蕉』の十哲以外の弟子]
 @[宝田洒堂(タカラダ シャドウ)]生年不詳〜1737年(元文2年)
  晩年の芭蕉は洒堂(シャドウ)の才を認め、ことのほか可愛がった。酒堂は近江膳所出身で、大阪に住んで医を生業としていた。元禄2年に焦門に入り、幻住庵(ゲンジュウアン)に入った芭蕉に親しく接し腕をあげてゆき、元禄3年には[ひさご集]の編者になっている。元禄5年には江戸に下り芭蕉庵で越年し、[俳諧深川]を編んだ。いつしか、芭蕉が其角より洒堂を重んじるようになると、自信過剰で跳ね上がった。
 元禄6年、洒堂は大阪市中に移り住んで同7年に[市の庵(イチノイオリ)]を編み、大阪で勢力を伸ばそうとしていたが大阪俳壇の[槐本之道(エノモト シドウ=薬問屋の主人)]との折り合いがつかず芭蕉に仲裁を依頼した。大阪を仕切っていた[之道]にしても、才にまかせた洒堂が入ろうとしても「ああそうですか」と歓迎すべきことではなかった。賭場荒しならぬ俳場荒しというわけで洒堂は窮地に陥っていたのだ。結局、芭蕉の仲裁は失敗に終わった。
 芭蕉が客死したのは、洒堂に頼まれて、しぶしぶ病身を大阪まで運んだことが原因となった。そして医者である洒堂の薬では芭蕉の病は治らなかった。
 芭蕉は1694年(元禄7年)に没し、10月14日、義仲寺で入棺式が行われ、京都、大阪、大津より芭蕉を慕う者300余人が会葬した。そこには[洒堂(シャドウ)]の姿はなかった。
  洒堂は芭蕉を憎むあまり葬儀に出なかった。結果、其角はじめ焦門の激しい非難の的にされ、酒堂は焦門の外にはじき出された。俳階道は教育界現場のように悪知恵がうずまく孤島でもある。洒堂は俳諧主流から消された。
 『いろいろの名もむつかしや春の草』
 『日の影やごもくの上の親すずめ』 変に理屈の潜まない、あたたかな句である。

 A[菅沼曲翠(スガヌマ キョクスイ=曲水)]1659年(万治2年)〜1717年(亨保2年)
[曲翠(キョクスイ)]の本名は[菅沼定常]で、膳所本田家の中老という重職に就いていた。
 元禄3年に芭蕉が4ケ月間住んだ幻住庵(ゲンジュウアン=現・大津市にある)は、曲翠の伯父幻住老人が住み古した跡地を改築したものである。曲翠は芭蕉の最強の庇護者だった。
 芭蕉が没した1694年10月12日での[曲翠(キョクスイ)]の年齢は、其角と同じく34歳であった。
 曲翠は、芭蕉没23年後の享保2年(1717年)に、家老曽我権太夫を斬殺して自刃するに至る。その子の内記も切腹を命じられ、曲翠の妻は尼になった。曲翠が家老を殺した理由は『家老の奸(カン)を憎む正義感』からと伝えられているが、尋常の性格ではない。尋常でない人物が芭蕉の好みなのである。
 『おもうことだまっているかひきかえる』
 『念入れて冬からつぼむ椿かな』 気のせいか、曲翠の俳句には怨念が込めれているように感じる。

 B[凡兆(ボンチョウ)]1640年(寛永17年)〜1714年(正徳4年)
  加賀国金沢から京都に上り医者になり、[笈の小文]で京都に立ち寄った芭蕉に会い師事し、めきめき腕をあげた。俳諧七部集の随一といわれた[猿蓑(サルミノ)]に41句もの彼の発句が収録されているほどの実力者である。彼はまた、元禄6年に罪を犯して獄舎につながれ、獄中で、
 『猪の首の強さよ年の暮れ』という珍句を作った。
 芭蕉晩年から没後の焦門の重鎮は、裏切り者あり、斬殺犯あり、獄中俳人ありで、まさにスキャンダルまみれであった。本当のはなし、一歩間違えば芭蕉自身も罪人になるところだった。[凡兆(ボンチョウ)]は[猿蓑]以後に芭蕉に離反し、芭蕉が存命中に入牢している。1691年(元禄4年)ごろ出獄して[京都所払]により江戸に移住、1714年(正徳4年)病没している。彼は写生派俳人として豊かな才能を持っていて、俳諧界で「実に惜しい人を亡くした」と、死んでからいわれた。この言葉は、芸能界の誰かが死ねば、コメントを求められた名の通った人物がいう言葉でもある。本当はどうだかわかったものではない。
 『市中は物のにほひや夏の月』
 『呼(ヨビ)かへす鮒売みえぬあられ哉』 先入観があるためか、凡兆の句には犯罪の臭いがする。最も、当時の犯罪のほとんどは、野良犬や野良猫に石を投げて外れても[生類哀みの令義務違反]がほとんどなので、年寄りの金を巧みにだまし盗る現代の犯罪よりは公序良俗に照らしても恥じることはない。

 C[谷木因(タニ ボクイン)]は大垣の舟問屋の主人で、名古屋の俳人に芭蕉を紹介して、芭蕉の新風樹立に協力した人物である。彼は、元禄2年8月下旬に[おくのほそ道]の旅を終えた芭蕉を迎えている。芭蕉は[野ざらし紀行]のたびの終わりにも木因宅を宿としている。
 おくのほそ道まで親密だった木因が、芭蕉の没する5年前から芭蕉に反旗をひるがえしてピタリと会わなくなっている。[ほそ道]の終わりに芭蕉を迎えた1ケ月もしない元禄2年9月8日興行[一泊まり]歌仙以降は芭蕉から離反したことになる。
 大垣を流れる[水門川]沿いの高橋のたもとに[おくのほそ道むすびの地]の碑があり、そこに芭蕉を迎える木因の銅像が建っている。銅像の木因は礼儀正しい名家の翁といった気品に満ち、芭蕉・木因像の横に[おくのほそ道の最後の句]の『蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ』の句碑がある。
 大垣から伊勢に戻った芭蕉は9月15日付けで木因へ礼状を出した。『此の度さまざま御馳走、誠に以て痛み入り、かたじけなく・・・』とある。
 芭蕉の[おくのほそ道]の足跡をたどる芭蕉ファンの最後も大垣で、大垣の水門川にかかる住吉橋の柳の葉がしな垂れかかる赤い欄干越しに川辺に繋がれた川船が水面に陰を作る風情に触れ、『ああ、ここで旅が終わった』と感慨にふける木因と芭蕉の友情が、芭蕉ファンの胸を打つのである。だが現実は、木因は掌を返すように離反している。
[おくのほそ道]の大垣の項を見ると、[木因]の名はどこにもない。
 大垣の項に出てくる人物名は、[路通(ロツウ=敦賀まで出迎えた弟子)]、[如行(ジョコウ=大垣藩士)]、[曾良(ソラ=ほそ道の随行者)]、[越人(エツジン=出迎えた北越の弟子で、後に離反)]、[前川子(ゼンセンシ=大垣藩士)]、[荊口(ケイコウ=前川子の息子)]のみである。200字にも満たない原稿に6名の固有名を出していることから芭蕉は感情的である。そして自分に反旗を翻した木因を無視した。
[おくのほそ道]の旅から帰った芭蕉が最終稿を書き上げるまで5年間かかっている。そして書き上げた元禄7年に芭蕉は没した。旅の後に木因が裏切ったので、芭蕉は意図的に木因の名を記さなかった。
[おくのほそ道]が井筒屋板本として出まわったのは芭蕉没後8年の元禄15年で、この年の暮れに赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあった年である。
 木因は享保10年(1725年)の80歳まで生きていたので66歳の彼も[おくのほそ道]を手にシタことだろう。そして、さぞかし無念の思いで[おくのほそ道]を読んだことだろう。私は陰険極まりない芭蕉を責める。「それとこれとは違うだろう、芭蕉さんよ!」

 D[荷兮(カケイ)]1648年(慶安1年)〜1716年(享保1年)
 荷兮は、実力者揃いの名古屋俳壇の中心的存在であった。尾張藩士と伝えられる荷兮が37歳の時に、芭蕉7部集の第一集[冬の日]を編集して一躍名をあげた。荷兮が[冬の日]を編んだことは江戸蕉門を震撼させた出来事だった。その後に第二集[春の日]、第三集[阿羅野(アラノ)]まで編して、7部集のうちの3部まで仕切って名を上げた。
 阿羅野に入れた、
 『こがらしに2日の月のふき散るか』 によって評判を得て、以後の彼は[凩の荷兮]と称賛された。保守的誹風の荷兮は、芭蕉晩年向けて次々に提唱する俳句の革新についていけず、特に[軽み]などには批判的で、同門の去来などの理論派から師風を嘲ったとして非難を受け、蕉門を勘当された形に陥る。
 『春めくや人さまざまの伊勢参り』
 『あたらしき茶袋ひとつ冬篭』 芸術論争に善悪はない。荷兮の人柄が忍ばれる句である。

 E[八十村露通(ヤソムラ ロツウ)]1649年(慶安2年)頃〜1739年(元文3年)頃。
  露通の境涯はいっさいがわからず、芭蕉が草津守山を行脚中に乞食をしていた彼を拾いあげ俳道に導き入れたが、芭蕉の生涯を通して最大の重荷となった。その直後に江戸深川の[採茶庵]に芭蕉を訪ねたとされ、1688年(元禄元年)9月10日に江戸[素堂亭]での[残菊の宴]と、それに続く[十三夜]に[其角]、[嵐雪]、[越人]などと共に参加したのが、最初の路通の記録となっている。
1689年(元禄2年)3月27日に芭蕉と曾良が[おくのほそ道]の旅に出ると、路通も別に近江湖南あたりに漂泊の旅に出て、芭蕉と曾良が[おくのほそ道]の終わりころ越前敦賀に迎え出て、終わりの大垣まで同道している。さらに芭蕉が伊賀上野に帰郷すると、一緒に行った路通は住吉神社に千句奉納を行った後に近畿周辺をさまよった。1690年(元禄3年)に大津に出てきた芭蕉の下で[洒道]との唱和をし、その直後に師のたどった[おくのほそ道]を逆順路で分け入った。
 後年は芭蕉の偽筆を書いて売った。芭蕉門下の中でもひときわ評判が悪く『破門せよ』との多くの声が上がったにもかかわらず芭蕉が可愛がったので、それが元で蕉門から離反した者も多数いた。
1693年(元禄6年)始め頃に芭蕉は路通を勘当した形をとった。だが、1694年(元禄7年)10月12日、芭蕉は臨終の席で[去来]に向い「自分が亡き後は路通を見捨てず、風雅の交わりをせらるるよう、このこと頼み置く」と申し添えて破門を解いた。
1738年(元文3年)7月14日に路通は死亡したことになっているが、これも定かなものではない。
 『いねいねと人にいはれつ年の暮』
 『芭蕉葉は何になれとや秋の風』 路通の句には特に落ち込んでいるとは思えないので、底抜けに楽天的な面を持っていたのだろう。

 F[坪井杜国(ツボイ トコク)]生年不詳〜1690年(元禄3年)2月20日。
 杜国は名古屋の御園町の町代を務めた大きな米穀商であった。[冬の日]の5歌仙の連衆に加わり、その才を芭蕉に認められた。だが杜国の女にしたいほどの美貌の若衆姿に、芭蕉は心を奪われた。
 しかし杜国の家業である御法度の[米延商(コメノベアキナイ=空売り)]が発覚し、(貞亨2年)8月19日御領内追放の刑に処せられた。家屋敷、店舗などいっさいを没収のうえ、畠村(現愛知県渥美郡田市福江町)に流刑となった。以後晩年まで伊良湖岬に近い保美(ホビ=渥美半島南端)に隠棲した。監視のない流刑のことで抜けだして[野仁]と称し芭蕉とともに[笈の小文]の旅をしている。
[笈の小文(オイノコブミ)]は、芭蕉と杜国との極秘の旅日記で、本来なら刊行してはならぬ禁断の書である。この旅は、芭蕉に誘われた杜国の死を覚悟しての旅であった。この紀行が流罪人を連れ出した旅であったので、表沙汰になれば杜国は死罪となり、芭蕉にしても重罪になる犯罪行為を犯したことになる。杜国は34歳で亡くなるが、芭蕉はこの旅の6年後に51歳で死んでいる。笈の小文は芭蕉のふてぶてしい確信犯の旅と見て良い。芭蕉毒殺説が出るのはこれらが関連しているのかも知れない。
 『霜の朝せんだんの実のこぼれけり』
 『こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉』 見かたによれば、妖しき味が含まれているような杜国の句である。

 番外1、[山口素堂(1682年〜1716年)]
 素堂は、甲斐国巨摩郡上教来石村(現・北杜市)に酒造業の家の長子に生まれ、幼少時に甲府に移る。20歳の時に家業を弟に譲り江戸に出て漢学を学び一時は仕官をしている。
 俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された[伊勢踊]に句が入集されたのが初見。
1674年(延宝2年)、京都で北村季吟と会吟し和歌や茶道、書道などを修める。
1675年(延宝3年)に初めて松尾芭蕉と一座して深川芭蕉庵の近くの上野不忍池付近に退隠し、芭蕉の門弟ではなく北村季吟同門の友人として交流した。
 『目に青葉山ほととぎす初鰹』の句は有名である。

 番外2、[小沢卜尺(オザワボクセキ=江戸日本橋大舟町の名主)]
 京都の芭蕉の師[北村季吟]の元で共に学んだ江戸日本橋大舟町の名主で、芭蕉に日本橋小田原町の住居の提供をした最初の後援者である。芭蕉は、ここを活動の基盤として積極的に俳諧の道を究め、1677年(延宝5年)万句興行(広く多くの句を集めて評点しする規模の大きな興行)を果たし、俳諧宗匠として立机した。

 番外3、[仙化(センカ=生没年不詳)]
  江戸蕉門にあって[蛙合句会]の段取りを整え、その後すぐに編集者して板行するや、これがたちまちベストセラーとなり、芭蕉の名を江戸中に轟き渡らせた。
  『三尺の鯉はねる見る春の池』
  『蛍みし雨の夕べか水葵(ミズアオイ)』   なんとものどかな風景ではないか。

 番外4、[小川破笠(オガワハリツ=1663年〜1747年)]
  本名は[小川尚行]で、漆芸家で浮世絵師で俳人。英一蝶(ハナブサイッチョウ=画家、芸人)と同郷で、[英一蝉]とも号す。青年期に芭蕉庵に出入りして芭蕉、其角、嵐雪の交流があった。芭蕉の死んだ元禄7年以降は足取りが途絶えたが、50歳過ぎてから漆芸を始めたらしく再度世間に登場してくる。晩年には大和絵の琳派の画風を学び、肉筆の浮世絵、風俗画を少数残している。改行1741年(延亨元年)に描いた師匠芭蕉の肖像画は、本人を間近に知るもの手になるもの(出光美術館所蔵)で、資料的価値は大きい。1747年(延享4年)85歳で没。

 番外5、 [千里(チリ)]
  千里は41歳のおり、芭蕉が1684年(貞亨元年)8月に江戸を出立した[野ざらし紀行]に随行した。千里の本名は[粕谷甚四郎]で、1716年(享保元年)7月1日に69歳で没した。

 番外6、[草壁挙白(クサカベキョハク=生年不明〜1696年)]
  芭蕉の早期の弟子で、おくのほそ道にも名が入っているはずだが、どの部分だろう。元禄9年没。

 以上が、芭蕉の300名以上いる直弟子の内の、ほんのさわりの人々である。この他の蕉門の方々の句の中にこそ飛び抜けた名句が無数にあることが知られている。要は、自分が感銘を受けた句が名句であり、名文であり、名画なのだ。

  永遠という言葉は言葉としてあるだけで、この宇宙空間には存在しない。銀河系の恒星も惑星もいつかは消えていく運命だ。ましてや地球上に群がる国家や、各国に犇めく企業にも永遠の生命は有り得ない。人間に寿命があるごとく、いかなる組織にも寿命はある。
 芭蕉の死後、蕉門は分裂に分裂をかさね、やがて消えた。蕉門の一人ひとりが『我こそが一番だ』と思っていても互いの句を褒め合った俳諧は、発句だけが残され俳句と名を変えてかすかな痕跡をのこしているにすぎない。
 けれども、芭蕉の名と、カエルが水に飛び込んだ句とは、日本人が我が列島に生き続ける限りは忘れられることはないだろう。たぶん。




[おくのほそ道(尾形仂現代語訳・角川文庫)]
[悪党芭蕉(嵐山光三郎著・新潮文庫)]
[日本史快刀乱麻(明石散人著・新潮新書)]  から。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月20日 11時12分44秒 ) パスワード

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake25.html
三重県城郭一覧(市町村別で読む方がラクかも)
視力検査のようにゴチャゴチャしているので見落としがあるかも。



伊賀にも木津氏関連の城がありますね。


木津氏城 伊賀市    阿山町玉滝   木津 越前    土豪木津氏の居城。
鈴鹿一号城 伊賀市   阿山町玉滝   木津氏の支城。
鈴鹿二号城 伊賀市   阿山町玉滝   木津氏の支城。
木津氏館 伊賀市大野木字高畑      木津 勝右衛門  土豪木津氏の居館。


松尾城もありました
松尾氏城 伊賀市 伊賀町下柘植 松尾氏 不明。
松尾氏城 伊賀市 青山町種生 松尾氏 不明。
山出城  伊賀市 伊賀町山出 松尾氏 福地城の支城。



服部半蔵の千賀地=予野=あたりにもたくさん城があります。
筒井順慶の城もありました。

千賀地城 伊賀市予野字上出 服部 保長 忍者服部氏の本拠地。半蔵出生地。


   以下は服部正就にストライキを打った伊賀忍者の皆さんでしょうか?

    浅井氏城 伊賀市予野字上出 浅井 弥次郎 六角氏の家臣。
    木原氏城 伊賀市予野字前出 木原氏 不明。
    荘賀氏館 伊賀市予野字前出 荘賀 富之助 丘端にあった。
    山中氏城 伊賀市予野字城之谷 山中氏 丘端にあった。
    杉山氏城 伊賀市予野字森田前 杉山 八三郎 丘端にあった。  
    吹井氏城 伊賀市予野字西ノ谷 吹井 大三郎 天正伊賀の乱で信長と戦う。
    一条殿館 伊賀市予野字馬田 一条氏 不明。
    小殿館 伊賀市予野字馬田 小殿氏 不明。
    勝島氏城 伊賀市予野字馬田 勝島氏 不明。
    柏尾城 伊賀市予野字柏尾   不明。
    鷹岡氏館 伊賀市予野字柏尾 鷹岡氏 丘端にあった。
    萱氏館 伊賀市予野字天満 萱氏 不明。
    千部氏館 伊賀市予野字千部 千部氏 丘頂にあった。
    槇氏館 伊賀市予野 槇氏 不明。


筒井氏城 伊賀市予野字尼ヶ谷 筒井 順慶 天正期に築城。


服部関連:

千賀地城 伊賀市予野字上出 服部 保長 忍者服部氏の本拠地。半蔵出生地。


宮城氏館 伊賀市服部 宮城氏 服部時定の一族。     ちょくちょく出て来る人ですね
服部氏館 伊賀市服部 服部時定   土豪服部氏の居館。
若森氏館 伊賀市荒木字川原 若森氏 不明。
荒木氏館 伊賀市荒木字石田 荒木氏 荒木又右衛門の出生地。  服部一族です
服部氏館 伊賀市荒木字上清水 服部氏 服部平内左衛門が居住。  平家の家長のことでしょうか?
服部氏館 伊賀市高畑 服部右衛門    土豪服部氏の居館。
服部氏城 伊賀市千才 服部氏 不明。
葉出羽城 伊賀市 阿山町上友田 服部出羽    菊永氏の兄。
服部氏城 伊賀市 阿山町槙山 服部氏 不明。
服部氏城 伊賀市 阿山町西湯舟 服部氏 不明。
服部氏城 伊賀市 阿山町東湯舟 服部氏 丘頂にあった。
服部氏城 伊賀市 阿山町玉滝 服部氏 不明。

七栗一色城 津市 一色町馬屋敷 服部民部少輔 北畠家家臣。     榊原温泉にある「七栗の湯」でしょうね
                                 清少納言も「湯は七栗」と書いています。湯=温泉


藤林氏城 伊賀市 阿山町東湯舟 藤林 長門守 伊賀上忍藤林氏の居城。    千賀地の服部・喰代の百地・東湯船の藤林 が3大上忍の家ですね


百地関連:

百地氏城 名張市竜口字城山 百地 丹波 忍者百地氏の城。
竜口城 宇陀郡室生村竜口 百地氏 山頂にあった
百地氏城 伊賀市喰代字城谷 百地 泰光 伊賀忍者百地氏の居城。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月20日 11時14分26秒 ) パスワード

筒井氏城 伊賀市予野字尼ヶ谷 筒井 順慶 天正期に築城。


    筒井氏の伊賀の服部城というのはコレかもですね。

    筒井氏の城は他にもありますが。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月20日 21時01分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[22]からの情報、明日の夜にじっくり読解させていただきます。
明朝二時半起き、三時出発で御前崎沖、そらの青海のあをの水平線で
ゆりかごのように揺られながら、竿を上げ下げ致します(三か月ぶり)。

 本日は、井伊谷宮へ行ってまいりました。松島十湖ま歌碑が新たに
建てられたということで。もちろん井伊谷宮と井伊道政親子を祀る宮
もあったので、両方のおまいり、あを様の分も捧げてまいりました。

 では―


[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月20日 22時10分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


あと4時間ほどでしょうか
しっかり眠って
楽しんで来てください。



>本日は、井伊谷宮へ行ってまいりました。
>松島十湖ま歌碑が新たに建てられたということで。
>もちろん井伊谷宮と井伊道政親子を祀る宮もあったので、両方のおまいり、
>あを様の分も捧げてまいりました。

ありがとうございます。

再来年の大河が面白いものになると良いですね。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月20日 22時27分44秒 ) パスワード

http://tokyo-izumozakikai.jpn.org/newsinwa2.html
出雲崎の神話と名称の由来


                 要するに出雲との確固とした関連は無い?
                 物部の命?
                 諏訪明神?
                 佐渡とはやはり関係が深い?



      出雲崎の名称は、
      神社や寺院の由来縁起等に、出雲の国が分裂して此処へ付着せしとか、出雲の材木が漂着せしとか、
      いろいろに書いてあれど、
      此れらは附会の説にて取るに足らず。



出雲崎の惣社石井神社の真体は出雲の大神、大国主之命を祭祀す。
故に出雲崎と云う。
この説やや首肯するに足る。


この地は延喜式駅伝に大家とある土地なりとの説あれど確定致し難し。


とにかく出雲崎の三字は、延喜後中世の命名ならん。
如何となれば、
延喜民部式に「凡諸国部内郡里等名併用二字必取嘉字」とあり、
其の頃までは朝令厳に行われて国守任務を尽くせり。


其の後王朝衰え武家跋扈の時代となり、地名官名等いろいろ私称するに至れり。


出雲崎の名の古文書に見えたるは
後冷泉天皇の康平三年に出来たる越後図に柏崎、比角、荒浜、椎谷、出雲崎、寺尾泊、のつみ、とあり云々。(以下略)



「出雲崎夜話」耐雪翁旧著

出雲崎開発の由来からお話した方が順序であろうと思われます。


何分にも茫々太古の事でありますから、口碑と伝説を辿って遠い昔を想像する以外道が無く、説を樹てる上に幾多の古文書漁って見ました



@古事記より……………この豊葦原中ツ国は我が御子知ろしめす処である。然るに至る所荒神が多く在って神命に随わぬため、八百万の神達が神議の結果、天菩比命を遣わし征討せしめた。ところが天菩比命は大国主之命に媚びつき三ヵ年経っても復命せず。と書いてあります。

           又、古事記の一節には八千矛之神即ち大国主之命は将に高志の沼河比売と婚せんとす。其の夜沼河比陪の家に行幸して云々と書いてある。大国主之命の越後征討の事実を考えるに大国主之命は少名彦名之命と戮力して天下を経営し。凶暴なりし豪族を服従させ皆和順せしめ、其の上北方の邪神を平定せんと頚城郡の居多の里へお着きになった。そこで嬌婉なる沼河比売を見初め相合い座なされ、建御名方之命(諏訪明神)をお挙げになった。



A吉田東伍博士の「古代略論」より………
又石地の御島石部神社の碑銘をを見ますと(略)、沖から磯の方をご覧になると、桟のような巌が海中から砂浜へ続いてあるのを怪しみ、其処へお船を着けられ「面白きみつの島石部なるかも」とお言葉があった。

それで御島石部神社と讃え奉った。

また大神が石部山にお登りになって「此処は我が意に愛しとおもう石部の地」と言われ御剣を留め置かせられた」と刻んであります(出雲大社教官長の名により記された銘碑)。



B石井神社遷座年記略伝より…………
建速須佐之男命の曾孫、大国主之命が頚城(居多)よりこの里に移りたもうて海面の孤島(佐渡)を平治せんと欲し給えど船を造る巨木の無いのを憂いられ宮居近き石井の水を大地に注ぎ給いしに、不思議にも一夜のうちに12株大樹が忽然と生えた。

其の霊樹で船を造りて島へお渡りになった。

その時大小の魚族がお船を佐け護り、無事にお渡し申したので、その孤島をタスケワタシ(佐渡)の島と云いまた、鱈をスケトウと云う。

佐渡を平定し去られるに臨み、この地・かの島を往来するには良き処である、航海の船を保護せんと云々。

12株の石井の辺りに宮造りし海上鎮護の大神と崇め奉る。其の旧地は井之鼻の十二林山と伝えれれている。



C式社考証より…………
出雲崎の十二神は延喜式三島郡石井神社なり。

旧井之鼻にありて出雲大神を祀る。

和銅四年現況に移すと云えり。

しかし地理を察するに古の三島郡の地にはあらず。井之鼻と云うに付けて石井神社に引当、石井町の名も命ぜられしならん……。と「大日本地名辞書」に吉田博士が述べられています。



いずれにせよ、幾多の神話伝説が、かくまで整然と系統だって残っている以上、我が出雲崎の地が神代遠く開発されたことだけは疑う余地がないのであります。


私は恍惚として、三千年の遠い遠い昔を夢見て、その光景をさまざまと頭の中に描いて見ました。

多居(頚城)の浜から繰り出した出雲の神人が直江津、犀潟、柿崎、鉢崎と人家の無い海岸の波打ち際を進んで、米山三里の峠越しに、 鵜川、剣野から曽地へ迂回して、二田方面から石地の浜に出ます。そこへ船手の一隊が海岸近くを漕ぎ寄せて軍隊と合流し、わが出雲崎の港から佐渡が島船へ出する、何ともいえぬ伸びやかな風景ではありませんか。


神話で有りますから一夜の内に十二株の大樹が忽然と生えたと、いひますが其れは佐渡へ渡るべき巨大な材木を海岸近い井之鼻山で発見して切り出したものであらうと思われます。

 出雲で化石になって残っている須佐之男命のお乗りになった天之磐船や、熊野の諸手船などから考えて、佐渡への渡海のお船も丸木舟から独木(ウツロ)船で、余程巨大な材木を選んで軍兵を乗せるやうに刳ったものでありませう。

十二隻の船を造るにはかなりの月日を掛けたでせう。

大国主之命越後征伐年月日、おそらく居多(頚城)に次いで出雲崎が長かった御滞留地として、そこに何らかの神事が残っているのではありますまいか。

                ⇅
           真相はこのあたりか?
                ⇅

 「此地、渡海の要津なり。吾能く航路を保護せんといい給ひし…」から見ても、出雲民族の高志民族政略の根拠地として、天然に半成せる港湾がいかに出雲の神人をして喜んで利用せしめ、これに記念すべき故郷の名を留めしめたものと思われるのであります。



 然るに世は刻々と進み、大国主之命は経営の国土を天孫に奉還し出雲杵築の地へご隠退になりました。

  しかし皇意遠く及ばず、高志民族は依然として服せぬので、神武天皇の御東征あり、大和橿原に皇居をご造営あるや、天照大神の皇孫、天之香具山命を征討使として、越の国へおくだしになりました。
 

   彼は部下の物部之命と神船を二手に分かち、間瀬の浦浜へ上陸し、弥彦・国上を本塁として、浦浜、寺泊を海上発展の要衝とし、中越以東の開拓に腐心せられ不逞の輩、高志族を掃討し、越後の地に高千穂民族創業の偉業をお挙げになりました。


    別手の神将、物部之命は我が尼瀬の港へ御上陸になって、上越方面に向け征討になったと云うことです。
 


    二田物部神社日記というものが「温古の栞」19篇に載っています。
物部之命が天の磐船の御着所を天瀬といい、今、(尼瀬)と云う。

     香具山之命のご停船の地もまた天瀬と云い、いま、(間瀬)という。


    物部之命は神宮所を定め日向の方へ向かひ、皇孫の天地無窮を臨み給う所をいま、いま(勝見)と云う。且見(カツミ)と云うは復見(マタミ)る意である。香具山之命の方も今訛って(野積)と云う里名である。


    物部之命の鎮座地を常磐堅盤に栄えまさんことを祈って、磐地と云う今訛って(石地)と云う駅地である。
 

    香具山之命もまた然り。今訛って(石瀬)と云う。

     共に遷宮の地である。


     物部之命は且見(カツミ)より磐地へ遷宮の後宮殿が廃止になった。
時の人呼んで社崩れと畏怖。今訛って(蛇崩れ)と云う地である。



以上を以って神代に関する出雲崎の記事は大略述べました。
 
 次に尼瀬の名称で、関甲子次郎氏は、東鑑に余戸(アマルベ)の庄がある。余戸と云うは「令義解」に凡そ五十戸を以って里となし、長を置く等、尼瀬は出雲崎の余戸で、余戸が訛って(尼瀬)と転化したのではないかと云われている。

 又、「尼瀬諏訪神社縁起上申書」には、往昔西の越と唱え候由の処、八島壇ノ浦、文治の末頃、奥州信夫郡丸山の城主、佐藤庄司が妻音羽の前が、其の子嗣信、忠信の別れを悲しみ、せめて討ち死の後にても見ばやとあこがれ出で、寺泊浦に辿り着たり子供の追善をなし。それより当所に来たり善勝寺釈迦堂に居住し、尼となれり。よって(尼瀬)と称し侍る由と幕府へ上申してあります。



 出雲崎では(大国主之命)。尼瀬ではその御子(建御名方命)を祀って村社として崇め祀る以上、私達の祖先が出雲民族として遠い遠い大昔に高志族を征服して、この地を越後の首府となし、更に徳川三百年間は、越後の政治産業の中心地として活躍したことは私どもの誇りであります。
       (以上出雲崎編年史稿第一巻一)
    
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月20日 22時50分14秒 ) パスワード

出雲崎って新潟だけじゃないんですねえ。
和歌山の南端にもありました。


そのお話:

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a41ca88292478034e53b8f61f03c41cc


出雲大社−道後山−吉備津彦神社−出雲崎(潮岬)は一直線上にあります。
ですから、とりあえず、吉備津彦神社−出雲崎−伊勢神宮・内宮は直角三角形になります。(この前やったように、少し、出雲崎、クレ崎では角度が小さい)
また、伊勢神宮・内宮−吉備津彦神社の線上に、三輪山・大神神社がのります。
また桜井には出雲という地名があります。そこを通ります。
そして、潮岬・出雲崎から桜井・出雲に線を引くと、吉備津彦神社−伊勢神宮・内宮の直線とほぼ直角にぶつかるようにみえます。
箸墓は少し外れます。
伊勢神宮・内宮−平城京・朱雀門−出雲大社と福井の直角三角形と同じ形になりそうです。(それぞれの角度は違っていますが)

http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/45098542.html
失われた吉備王国    2012/11/19(月)

これを読ませていただきますと、もちろんまだつかみきれませんが、色々面白いことがありそうです。
普通だったなら、箸墓・三輪山・大神神社に注目して桜井の出雲を思い出すことはなかったでしょう
ということで、出雲でつなげてみます。
(吉備国は征服されたそうです。まるっきりの空想で書くのも恥ずかしいですが、その原因は、二人の卑弥呼が殺害された時に、吉備が手助けをしたからではないか、と考えます。
卑弥呼の子孫が戻ってきた時に、邪魔な力を持っていた吉備を追い落とすために、卑弥呼の復讐という名分が立ったのではないでしょうか。・・・何を言っているのかわかってもらえないでしょうが。)

また、吉備津彦神社は平城宮跡の真西になります。
ちょうど、熱田神宮の真西が道後山・比婆山だったように、です。


以下略
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月22日 09時29分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉の弟子の森川許六。この号は六芸に通じたという意味だそうです。
 「十団子も小粒になりぬ秋の風」の俳句は、静岡の丸子路の宇津谷という
所の名物「十団子」を詠ったものですが、宇津谷にある慶竜寺の縁起によれ
ば、昔この谷に人肉を喰う鬼がいて旅人を悩ませた。在原業平が東下りの時、
下野国のそうめん谷の地蔵に祈願すると、地蔵尊が化身となってここにあら
われて、鬼を小さな十粒のかけらに砕いて飲んでしまった。それからは安全
な峠となったが、「十団子をわが前に供え、信心堅固にして、これを食し、
これを所持したならば、道中安全諸願意の如くならん」と、夢のお告げがあ
りました。以来道中安全諸願成就、魔除けの団子として、街道名物となった
と伝えられているそうです。
 この句を許六は芭蕉への入門の際発表し、芭蕉から絶賛されたといいます
が、芭蕉も十団子についてはよく知っていたのだと思います。東海道を通れ
ば、必ず丸子の宿は通るはずであり、芭蕉もやはり丸子を何回か通ったので
しょう。丸子に関する句を詠んでおります。それは―
 「梅わかな 丸子の宿の 登路ゝ汁」
という句で、内容的には、芭蕉の大津の弟子の乙州(おとくに)が江戸へ遊行
に出かける際のはなむけに、「これからあなたが江戸へ行かれるが、丁度
その頃丸子の里は梅が咲き薫り、若菜の緑も萌えている頃でしょう。名物
とろゝ汁も一番おいしい季節です。まろやかな風味豊かなとろゝ汁を、是非
食べてごらんなさい。」
と詠んだということであります。

 この丸子の宿へはとろゝ汁を食しに何回か行ったことがあります。自然薯
と味噌汁を麦ごはんにかけて食べますが、自然薯の風味と出汁の味がうまく
からまって、食した後もしばらく続き、もう一度食べたいなという気持ちに
させられます。
 丸子の宿、手児(てこ)の呼坂、木枯の森、蔦の細道(宇津谷)、小夜の中山
等は歌枕でつとに有名であります。小夜の中山(佐夜中山)は、芭蕉が十九才
の時、初めて入選した京都貞門松江重頼編の句集の名でもあります(=『佐夜
中山集』)。

ちなみに、宇津谷の十団子ですが、「小堀遠州」が秀忠の大阪城築城の作業
奉行として、大阪に上る時の『辛酉(しんゆう)紀行』(1621)にも取り上げら
れているということです。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月22日 13時04分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


小夜の中山ですが
ここにあった石の本物の方をNHKの番組で林家三平?一平?   弟の方  が尋ねるのですが


怖かったですよ。
女性の顔が浮き出てました。


なのに三平?一平?はふざけて撫でたりして  見てたワタクシの方がハラハラしました。


    女の人の顔、分からないの?
    と画面に叫んでました。


その続編の時だったかに三平?一平?は 
  「あれはああいう事をすべきじゃなかった。すごい(不思議な感じが)あった」
とフォローしてました。


女性の顔でした。
痩せ衰えた?病人のような?死相の出た?顔でした。

1つの番組を作るのに10人+あたりの人が同行するのに誰も見えなかったの?と不思議でした。



>宇津谷にある慶竜寺の縁起によれば、
>昔この谷に人肉を喰う鬼がいて旅人を悩ませた。
>在原業平が東下りの時、下野国のそうめん谷の地蔵に祈願すると、地蔵尊が化身となってここにあらわれて、
>鬼を小さな十粒のかけらに砕いて飲んでしまった。
>それからは安全な峠となった

こういう伝説の素になった元の事件というのがあったのでしょうね。



小夜の中山の石をテレビで見て
機会がありましたら1度お出掛けになって般若心経を唱えてあげてくださいね。

    明治の博覧会に出品された石の方です。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月22日 17時08分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[30]ダブリにつき削除しました。ダブルこと自体、想定外のことであ
りました(コピーしない限りあり得ないと思うのですが・・・)。

 「小夜の中山」のお土産は「水あめ」で、小さい頃、たまにいただいたこ
とがあります。今では、「夜泣き石」の伝説も色あせ、車社会となりました
ので小夜の中山は素通りしてしまう人が多いです。インターネットサイトよ
りその解説文をとりました―

「夜泣き石の伝説[編集]
 小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂の続く
難所である。曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年)(1805年)によれば、そ
の昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもと
の菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の
松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。そこを通りがかった轟業右衛門と
いう男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると
斬り殺して金を奪い逃げ去った。

 その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗
り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれ
た。生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、
音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師
の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。

 そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれし
ているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石
の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこ
の客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである。

 その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号をきざんでいったと
いう。」

 本当の話かも知れません。今度通りかかった時には寄ってお経を上げてま
いります。

 さて―
 許六は絵士として才能があり、「奥の細道行脚の図」ということで、たぶ
んあを様もご覧になっておられるかとは思います。蕪村の「奥の細道画巻」
もよく見かけますが、許六の絵の方が写実的で表情も豊かであります。その
許六の絵によりますと、二人とも僧のようないでたちで、頭は絵では見えま
せんが剃髪していたということです。許六の絵としては、彦根の龍潭寺に
五十六枚の襖絵を描いているということですが、去年私が旅行で訪れた時に
は、許六のことを全く知らなかったので、襖絵についてもたぶん見ていると
思いますが、残念ながら記憶として残っておりません。
 彦根藩士であった故、井伊家とはつながりはあった。井伊家は松下家(之綱
、清景、常慶)を介して柳生さらには服部ともつながっている。許六も佐々木
系であるので松下とは同系になり、従って、合わせて柳生や服部ともつなが
ることになり、伊賀出身の芭蕉とも裏でつながっていたと言えるかも知れま
せん・・・。

 いよいよ、明朝出雲へ出発です―
 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月22日 22時23分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

許六と蕪村の絵を見比べて来ました。


確かに許六の方が写実的ですね。
蕪村の方は漫画チック。色紙に描き添える感じですね。


許六の絵は確かにしょっちゅう目にして来ました。



指摘して頂かなかったら一生気付かずにいる所でした。
ありがとうございます。



芭蕉の謎がまた増えました。
彼の弟子に集まった多くの人々の中には裏で繋がった人がいたのだなと。


   最近つくづく思います
     友人はたくさんいるのがいい
     その友人も各人個性が有るのがいい

     いろいろな才能を持った人々を友人に持っていると
     道が明るくなるな、と。




ご無事の出雲旅を祈っております。
たくさん資料が集まりますように。

お土産話を楽しみにしております。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月22日 22時44分14秒 ) パスワード

小夜の中山のお話は一応ちょっとだけ知っていました。
   女が毎夜、夜中に飴を買い求めることから
   赤ん坊が救われてお寺で育てられたことまで


でも続編は知りませんでした。
弘法大師が出て来るのは全く知りませんでした。


石が2つ存在することは三平?一平?の番組で知りました。
本物は坂の下の方にある、と。



    本来の場所に戻してあげるのが良いと思います。


いつか、いらっしゃたら、「ごめんね、戻してあげられなくて」と一声おかけになってあげてくださいね。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月23日 05時21分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 夜泣き石の話、最近では顧みられなくなっていますが、今の時代犯罪が
多く、簡単に人を殺めてしまいます。因果応報のことわりの教育・道徳は
真実必要であると思います・・・。

 さて、出発ですが、バスの中の時間が長いので、『出雲大社と千家氏の
秘密』(中見利男著)をもう一度読んで、特に不比等について考察してみた
いと思っております。

 では―
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月24日 22時51分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 走行1200qの一泊2日のバスツアー、ただ今戻ってまいりました。
 出雲ではたった70分しかありませんでしたので、出雲大社と出雲古代歴史
博物館を駆け足でまわって終わりという旅でした。旅行会社の観光ツアーです
ので、自分の目的とは半分以上一致しておりませんので、いたしかたないとい
えばそれまでです。それでも、現地を実際に訪れ、自分の目で見、体で感じて
きたことはそれにりに今後役立つものと思っています。

 まずは無事に帰って来たこと、あを様の分も併せて出雲大社に祈願をしてま
いりましたことをお伝えし、まとめはまた明日以降にいたしたいと存じます。

 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月25日 04時20分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


お帰りなさい。
情報はたくさん仕入れてお帰りになれましたか?



わたくしの分までお祈り下さって感謝です。
ここの所、天皇家より高貴な格式のある家があるとしたら、出雲の千家さんか京都の賀茂さんか、と考えていました。


わたくしは今は水軍の活躍を読んでおります。
ありがとうございます。


現地滞在時間  70分  ですか。

名古屋から日帰りで長崎や角館に行った時がそんな感じでした。
タッチしてとんぼ帰り、って感じでした。


でも今回は顔合わせということで
集めていらっしゃった資料を読み込んで、いつかじっくり、お時間かけて参拝なさいますように。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月25日 06時49分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代の話はややこしく、半分あきらめておりましたが、出雲へ行き、古代の
歴史の謎を解くモチベーションはたかまりました。芭蕉の話は出雲とつながら
ないかも知れませんが、もし出雲とつながることがあれば大発見となります。
しばらくは芭蕉は横において、出雲関係のテーマでいろいろ考察してみたいと
思っています。

 今回の旅行について、何か得るものがあったのか、自分ながら分析を今いた
しております。それらの話から、まずは始めたて行きたいと思っています―


 
 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月25日 15時10分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


はい
古代のおハナシは本当にワケ分からないです。

お蔭様で神様のお名前がいくつもあることは三つ柏さんのご協力で納得出来ました。


でもなかなか理解にはなりません。分かったつもりに一瞬はなるんですが。


お寺とか神社とか、心が洗われると言いますか、パワーを感じます。


   でも伊勢神宮に行った時ミーハーし過ぎて土産物店の商品に心を奪われました

       ステキな神棚とか
       小さいサイズもあったりして
       欲しい神棚がたくさんあり過ぎました



次回はアマテラスに会いに行くのを主目的とします。
感動をこっちに集中しませんとね。

       過去は土産物に感動を集中し過ぎて失敗でした。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月25日 15時12分56秒 ) パスワード

いかがでした?


三つ柏さん的に、伊勢神宮と出雲大社の感じは違いましたか?
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月26日 10時55分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日はjob&sakeーdayで、プラス、古代の歴史に関する図書をもう一度
洗い直し、大筋の流れを推察しておりました。私のいう古代とは、桓武
天皇以前〜神武〜神代までをひとくくりにしています。
 この古代について、これが正解という年表があるでしょうか? 事実
と虚飾が一緒くたになっていて、、迷宮の世界を形成しています。過去
へ行けば行く程、ファンタジーの世界となって行きます。
 これを、是非整理したい、事実の歴史はこうであると組み直したいと
思っています。事実はフィクションよりも奇なりという言葉があるとおり、
事実もまた複雑だと思いますが、少なくとも、概略の歴史、大筋の歴史
の流れは把握したいものだと思っています。
 とりあえず、二十冊程の古代に関する図書を手元においております。
もちろんさらに何十冊か関連の図書はあります。
 図書も人によって説が違いますので、まずはどれを選択するかで方向性
が決まってきます。どの説を本筋とするかは、いろいろな図書に目を通さ
なければなりませんが・・・。

 さて、前置きが長くなりましたが、これより今回の出雲の旅で得たもの
についてまずは記すことにいたします。
 @宿泊地の玉造温泉
  ここは単に出雲に近い古くからの温泉街とだけ思っていましたが、実
 は、名前からもわかるように、古代より玉を造っていた場所(玉造部のい
 た場所)であったということです。そして、現在でも瑪瑙で「勾玉」を造
 る店が並んでいます。
 千田稔氏編著の『海の古代史』によれば―
 「古墳時代における玉造り遺跡では、出雲の花仙山に産する碧玉(青瑪瑙)
を利用した出雲玉造り遺跡がよく知られている。松江市の玉造温泉の地に
 所在し、『出雲国風土記』にも、出雲国造が神吉事を捧上しに朝廷に参向
 する際、「御沐(みそぎ)の忌玉を作る」と見えている。」
  また、三種の神器について―
 「八坂瓊勾玉の瓊(に)は、玉の意である。「八坂」については、長大の意
 味とする説と、「弥栄ニ(霊力)の勾玉」とする説があるが、ここでは前者
 の説に立つ。草薙剣や八咫鏡と同様、八坂瓊勾玉は古墳出現以前の(弥生
 時代のものか)大形の硬玉ま勾玉かと推定する。その際、「魏志倭人伝」
 に見える「青大勾珠」が参考になるだろう。大形であること、その色が
 宝器とされた背景にある。
  その色は、現在では「緑」と表現されるが、古代では「アヲ(青)」の
 概念に含まれる色であった。アヲ色は神秘的で、生命の根源に結びつく
 色だったかと思われる。ヲトコ(男)やヲンナ(女)、ヲトメ(乙女)のヲで
 あり、若返りの水であるヲチミヅ(変若水)やヲツ(変若つ)のヲでもあっ
 た。そして、青は「月光」の色でもあった。
  勾玉の形態が何に由来するのかについては、諸説がある。魚形起源説
 ・腎臓模倣説・胎児模倣説・釣針起源説・獣牙起源説などであるが、水野
 祐氏の三日月模倣説は魅力的である。月は不死のシンボルでもある。
  このように考えると、鏡は日神の、勾玉は月神の依り代だったと解釈
 できるし、日本神話のアマテラスとツクヨミとも対応する。月神への信仰
 は縄文時代にまで遡るが、六世紀に入ると、衰退していったかと思われる。
 硬玉生産の衰えや、日本神話におけるツクヨミの活躍が希薄なこととも
 結びつく。八咫鏡と草薙剣の二種の神器説が生れたのも、こうした背景
 があったのではないだろうか。」

 今回はここまで―
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月26日 14時03分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


>まずはどれを選択するかで方向性が決まってきます。
>どの説を本筋とするかは、いろいろな図書に目を通さなければなりませんが・・・。

はい
読めば読むほど混乱します。



>勾玉の形態が何に由来するのかについては、諸説がある。
>魚形起源説・腎臓模倣説・胎児模倣説・釣針起源説・獣牙起源説などであるが、
>水野祐氏の三日月模倣説は魅力的である

へえ〜
腎臓と三日月は考えたことが無かったです。


「八咫鏡」の「八咫」って何なんでしょうね。



ということで調べてみました:

1.
や た 【八咫】
〔「やあた」の転。「咫(あた)」は長さの単位〕

大きいこと。長いこと。
「中枝には−の鏡を懸け/日本書紀 神代上訓」

鏡の直径の巨大なことにいう。



2.
中国[編集]

「咫」(シ、zhǐ) は古代の長さの単位である。 『説文解字』九、尺部「咫」に、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也。」とある。一般にはこの文章は「周代の尺で8寸を咫という」という意味に解釈されている。「尺」字の説解にも「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞諸度量、皆以人之体為法。」とある。

日本[編集]

「あた」は動詞「あつ(当)」を名詞化したもので、手を開いて測ることを意味する。具体的には手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さを咫としており、これは尺の元々の定義と同じである。実際、日本書紀では「咫」と書いているものを、古事記では「尺」の字で書いているもの(八尺鏡など)がある。日本神話では、八咫鏡、八咫烏など「八咫」という長さがよく登場する。

「あた」は「さか」とも言う。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、「尺」の字が宛てられているが本来は「あた」である。


八咫鏡に関する特殊な説[編集]

上記『説文解字』にいう「周」を円周と解釈して、咫とは円周の単位であり、円周率は約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫としたという説がある[1]。

この説によれば、日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。

後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、現在 4 枚の出土例がある。

へえ〜
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月27日 02時36分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 余談―

 芭蕉と出雲との関連を『奥の細道』の中で見つけました。
 @新潟で「荒海や佐渡に横たふ天河」を詠った所が「出雲崎」。
 A敦賀で泊まった宿屋が「出雲屋」。
 B月山神社は「月読命」を祀っている。
 C湯殿山神社は「大己貴神」等を祀っている。
 D御釜神社は「塩土老翁」を祀っている。塩土老翁=武内宿祢は蘇我氏の
  租。出雲系。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月27日 10時01分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


出雲崎以外にも芭蕉と出雲を結ぶような出雲関係がありましたか。



ちょっとズレますが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E6%B0%8F
甲賀望月氏(近江国)[編集]

望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行っていた。そこから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり。尚、三郎は望月家嫡男に多い幼名であり、三男を意味しない)が朝命により赴任し、近江国甲賀郡主となり十六ヶ村を贈った。これが甲賀望月の祖である。

恩賞としてその後、信濃の望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展し、戦国時代には、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月」と称されるようになる。望月出雲守が望月城(現:甲賀市甲南町)を築城するなどの記録が残されており、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。

なお一族の望月千代女(もちづきちよめ)が、信濃の望月氏当主・望月盛時に嫁入りし、武田家専属のくノ一として根津歩き巫女を養成して情報収集活動を行うなど、交流は長きにわたり続いたと考えられる。



家紋

九曜紋が一般的といわれているが、望月城跡などには七曜紋が残され使われている。また甲賀流忍術屋敷には、丸に九曜が残されている。

本姓である滋野氏の家紋は「月天七九曜」であったとされ、望月氏、海野氏、根津氏が分かれる際、望月氏が「月輪七曜」、海野氏が「月輪七九曜」、根津氏が「九曜」が与えられたとされるが、海野氏真田氏が「六連銭」に、根津氏が「丸に月」改めたと同様に、望月氏も望月という名称自体が満月を意味することから、中央の星(満月)を八星が囲む「九曜紋」や、六星が囲む「七曜紋」になったとされる。

佐久市の望月城跡には戦国時代以降の物と思われる「七曜紋」の入った石造龕が残っている。ただそれより遥かに昔い平安時代に、信濃国から近江国に移り住んだとされる甲賀望月氏の家紋が、現存する甲賀流忍術屋敷から「丸に九曜紋」であることを知ることができ、

一族が難を逃れた先の山梨県や静岡県に「九曜紋」や「丸に九曜」を家紋とする望月姓の者が多くいることから、織田軍もしくは徳川軍に敗れる以前は「九曜紋」や「丸に九曜」。

以降は望月の地にとどまった一族が「七曜紋」を利用したのではないかと考えられる。




戦国時代の望月氏(静岡に結構逃れて来ているそうです)


天目山の戦いで武田軍が織田軍に敗れ、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、
印月斎(信雅)や望月権兵衛など難を免れた者達は、富士川流域の山間(現在の山梨県南部(南部町や身延町、早川町)から、静岡県富士市や静岡市北西部からあたり)に身を隠し移り住んだ。

現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。


印月斎引退後、跡目は望月昌頼が継ぐことになったが、一族の出身かは不明(同名の盛時の兄とは年代的に別の人物と思われる)。

昌頼は後北条氏の傘下に入るが、

                    この依田信蕃は蘆田信蕃ですよ。後述します
                       ↓

天正10年(1582年)9月、徳川軍の依田信蕃一か月に及ぶ攻城戦の末に望月城は落城し、

望月昌頼は十八歳の若さで自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。




依田信蕃 = 蘆田信蕃

旗本の服部左衛門の家が仕えていました。

   服部正吉  和泉守   蘆田に仕えた
   
   その子正長 七左衛門  蘆田に仕え、家康に仕え、本田正信・正純父子に仕え、のち駿河大納言忠長に仕える


       菩提寺は吉良家と同じ市ヶ谷の万昌院で、また、服部康信の家と同じ
           おそらく今川時代のよしみ?





   正長の長男系の孫が出世頭の正久で御蔵奉行になったり天草の代官になっていたようです。
       この人の弟がバカで喧嘩して切腹になった人


      この家の家紋は源氏車の内両矢筈2本、向ひ蝶、かたばみ(鳩酸草)紋
   


   正長の次男・長次も駿河大納言忠長卿に仕え不運に。

   さらに長次の子(三男)が綱吉に仕え徳松殿に仕えたものの夭逝。

   でもずっと後に子孫が田安家の近習になっています。

      この家の家紋は源氏車の内両矢筈2本、九曜。

      菩提寺は万昌院。



人間の運不運は塞翁が馬ですね。


思い出したので書いて置きました。


   レスの出雲から望月氏に行って蘆田が出て来て服部家に至りました。汗
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月27日 11時03分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 余談(続き)―

 E敦賀の気比神宮は仲哀天皇、神功皇后、ヤマトタケル、応神天皇、玉妃、
  武内宿禰を祀っている。武内は出雲系。
  武内宿禰が若狭湾に向かったのは、若狭湾の小浜にて「お水送り」がさ
 れる、即ち「戦いのけがれを清める禊のための聖なる水」を求めたという。
 芭蕉も、最後は旅のあかをおとすことを目論んだのか・・・。
 
 ところで、敦賀で芭蕉の案内役になった「天屋五郎右衛門」は廻船問屋で
あったが、似た名前で「天野屋三郎右衛門」という服部氏がいる(富山、高岡)。
何か関係がありそうな気もするのだが・・・。

 なかなか出雲本題に入っていけませんが、いろいろ資料をあたったりして
おりますと、すぐ時間が経ってしまいます。

 本日は、「熊野」の能楽を鑑賞しに行きます。また報告いたします。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月27日 13時37分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「天屋五郎右衛門」は廻船問屋

金ケ崎や敦賀はそれこそ南朝方の息のかかった所で
宗良親王の同母兄、尊良親王は、新田義貞の嫡男の義顕に切腹の作法を習いながら一緒に亡くなりました。


そういう場所ですから、芭蕉も西行の跡だけでなく南朝方の息吹のある場所を訪れたのかも。


また、  新田義顕には天野顕政という子供がいるそうです。


       http://4travel.jp/travelogue/10749984
       気比の松原からほぼ敦賀湾に沿って東に進んだ蓬莱町に、天屋玄流宅跡がある。

       天屋玄流は当時回船問屋を営んでいた本名室五郎右衛門。

       天屋家は明治に至るまで北前船主として財を成し、
       今は空地の天屋玄流宅跡は平成14年まで洋館建てのビルが建っていたと案内板にある。

       玄流は翌日、芭蕉を種が浜(現敦賀半島の色浜)に案内しているが、
       敦賀文化協会の”奥の細道「芭蕉の足跡」によると、
       当日の金が崎辺りの観光と2日続けて案内役を引き受けているようだ。

               国々の 八景更に気比の月  芭蕉

       この句は奥の細道に記載されている句ではなく、昭和34年に大垣でたまたま発見されたと案内されていた。



室氏:名字の由来ネットより
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)流
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)流、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)熊谷氏流、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)道長流、師尹流、菅原氏などにみられる。



で、大室、という名字が引っ掛かりました
明治天皇替え玉説の大室寅之助の大室姓って?ということで調べました。

現長野県である信濃国埴科郡大室牧が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)小笠原氏ともいわれる。
ほか満快流、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)山蔭流などにみられる。


明治天皇は皇室の正統は南朝方であるとおっしゃって伊藤博文などを慌てさせたとか。
実はご自分が実は南朝方だから?宗良親王の子孫?
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月27日 13時59分02秒 ) パスワード

>「天野屋三郎右衛門」という服部氏がいる

これは去年だったかレスに出ましたね。服部南郭がらみでだったか。



http://www.amano-ya.com/news/kakei9.html

天野屋傳兵衛(服部家家系図) 



先 祖   「紀ノ木莵宿禰」 (紀ノ武内宿禰の弟)

    家紋は木瓜を使う?(服部嘉十郎先生、広瀬喜太郎著) とあったが、木瓜は一般的な家紋であるので何を使ったのか不明。


    服部党の多くは、「重ね矢」など変化させた家紋が多く使われている。

    天野屋の家紋は、「角にかたばみ」である。服部家の屋号が「天野屋」である。

    菩提寺が高岡市片原町、妙国寺(日蓮宗)にあるなどから、先祖が同じ可能性がある。

    (しかしながら確証は取れていない。)



   「服部伊賀守紀宗純」 服部の先祖は伊賀の国阿拝郡(服部郷)の出である。

   宗純は同志50余家の人々と共に、宗良親王等に奉じ、東国地方に転戦したが破れ、
   50余家は参河、尾張、近江などに分散した。

   宗純は尾張国津島に移住。

   その後戦乱の時代になったので、服部の名前が見つからないが、
   元亀、天正の時代(室町時代、1570年頃)になって服部周伍というものが現れた。

   その子に「躬林」(通称 弥助)がいて、そのまた子が「連及」(甚吉)である。


   甚吉の本国は、美濃の国郡上に住み、天正年中、前田利家公、越前府中城時代に御用商人として召しだされている。
   その後文禄年中、三ヶ国へ追随した。


   尾張の国の七党の一つ、服部党と呼ばれた、豪族、末裔は同じ一族となる。

         尾張の七党というより「吉野朝忠臣七名字」がホンヤさんからお聞きした表現だったと思います。
                

   (服部党−服部友貞が有名、伊勢長島城の城主を務め、長島一向一揆を主導、
    1568年、織田信長の謀略にかかり、打ち破られている。↞ 謀殺された

    服部半蔵は、別系統)

   


初 代   服部連休(通称、甚吉)、改め天野屋三郎右衛門と名乗り町人となる。

      天野屋は服部家の屋号である。(菩提寺が同じ片原町、妙国寺である。)

       なぜ屋号に「天野屋」を名乗ったかは不明。



ちなみに同じ町宿老であった「横町屋」(富田家)の屋号のいわれはおもしろい。

初代富田新左衛門尉道信(1530〜1590)は越前朝倉義景の家臣であった。
朝倉義景の遺命により大阪本願寺に在留するも朝倉滅亡後流浪の身となり、砺波郡蟹谷庄安養寺の横町に住んでいた。

二代目富田弥三右衛門宗清の時(天正年中)前田利家の越前府中時代に召しだされ、伏見大阪に御用を務めた。
その後利長と共に守山城に移りその横町に宅地を拝領して住んだ。
利長もその人望を買っていた部分もあって、いつも横町に住んでいたことから、
「よこちょ、よこちょ」と呼ばれ可愛がられた。
そのような経緯から屋号が「横町屋」となったのである。
その後、富山城に移られた官舎に移住。


三代「富田弥三右衛門可教」(1564〜1635)の時、高岡築城と同時に高岡に移り材木などを拝領、
高岡の宿老役を仰せつかった。
正式に「横町屋」を称したのは四代目からである。

 

       天野屋もまた前田利家公没後、
       前田利長公に仕え、
       守山城ならび富山城へ引越しされてからも追随し、御用を勤めたとある。
       その後町人になることを願い出て、天野屋三郎右衛門を名乗った。
      (高岡市史など参照)
      (三郎左衛門ではなく三郎右衛門と確認したい)


       慶長14年(1609年)3月富山城が焼失し、
       利長は新城と新しい城下町の建設を、関野の地(現在の高岡)に建設を決め、
       それに伴い高岡の地に一町(109m四方)という広大な敷地と材木を、今の御馬出町に拝領し、住居を構える。

          (高岡町の町建てに一番の責任を受けたのか?)。

       前田利長公は高岡に入城して僅か5年で亡くなり、幕府からも一国一城令が出され、
       高岡に住む家臣団はことごとく金沢に引き揚げてしまうのである。
       後に残った高岡の町民は、僅か650所帯、2500人余りの人々は、途方にくれ、町を離れる人も出るのであった。


       これを何とか止めなければと利常公は、他所転出禁止令を出すのであった。


       天野屋はその後町の運営どころか、家の存続もままならない状況に陥った為、城主に願い出て、潰すのは惜しいということで認められ、越中の米場を設立するのである。


       越中の米56万石の相場を司ることで、何とか息を吹き返し、高岡も経済的発展したのであった。

       慶長15年(1611)4月、横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門と共に初代「町年寄」を務める。
      (初めは「宿老役」といったが、元和6年より「町年寄」と称し10人体制とする。)

      (寛文6年6月18日登城して、後継問題についてお伺いをたてている)


       寛永6年(1629)7月12日病死 法名 浄照院連久日清
       妻 武藤半兵衛娘 寛永21年(1644)2月23日68歳 法名 華徳院理玄妙蓮
 





        二 代  天野屋三郎左衛門正知(南郭の祖父、初代の長男) 後に「天野屋傳兵衛」と改める。
        寛永6年(1629年)〜貞享元年(1684年) 38年間家督を継承



                   略



服部南郭の子孫が現在も長野県にお住まいになっておられるとのことであった。(二代元雄、三代元立、四代元雅、五代元済、六代元続)。

七代元彰は明治維新による廃藩後は内務省に出仕、地理局第三部編纂課長となり、八代元彦は東京大学古典講習科に学び、国語・国文学者として活躍した。(現在長野県に在住)

しかし南郭の直系である子として二子は、長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。

よって門人「西村元雄」を季女に配して家を継がしむ。とある。
つまり南郭の直系に繋がるDNAもそこで途切れているのかと思ったがそうではなかった。


以下略
全文は  http://www.amano-ya.com/news/kakei9.html   へ
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月28日 00時13分49秒 ) パスワード

そらの青海のあを様

 本日、池田の熊野で開かれた「能」を見に行って来ました。能を理解しよ
うと本格的に行ったのは初めてであります。内容的には仕舞「松風」と狂言
「昆布売」と能「熊野」でありました。
 結果として、狂言「昆布売」は滑稽で、また言葉が比較的分かり易く、動
きもありましたので、それなりに楽しめました。
 仕舞「松風」は、謡の中で「須磨の浦」という言葉が出て来ましたので、
「高砂」と近いなと思い、親近感を感じました。
 能の「熊野」は動きが少なく、その割に一時間近く演じられたので、退屈
になってしまいました。ただ、笛、小鼓、大鼓、掛け声は素晴らしかった。
能は見る物という先入観から、聞くものだという考え方に変えなければなら
ないと思いました。謡曲の言葉を理解した上で、耳で聞く、聞いて想像する、
そのイメージの手助けとして役者がいる・・・。
 解説では、能楽はジャズセッションと同じで、ぶっつけ本番だそうです。
よって、一回ごとのパーフォーマンスの出来不出来の差が表れるということ
でありました。
 今後さらにいろいろな能を見て、いや聞いて、能とは何かを追及してみた
いと思っています。
 
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月28日 00時22分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出雲旅行の話―足立美術館と宍道湖の中にある大根島、そして稲佐の海岸
について、明日に記したいと思っています。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月28日 03時29分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

>能楽はジャズセッションと同じで、ぶっつけ本番だそうです。
>よって、一回ごとのパーフォーマンスの出来不出来の差が表れるということでありました。

へえ〜   そうなんですか
アドリブでいろいろ変わったり
観客の反応でも変わったりするようですか。


    怖いですね
    (今日のはつまらなかった = 観客が良くなかった)が有るのかもですね。


狂言は結構楽しめます。
テレビの放送のをちょこちょこ見たりします。

    能の方は解説を聞きながら または プログラムを読みながらでないと  言葉が  分かりません・・・・


能は幽玄の世界と申しますか、
   是非、心の中で般若心経を一緒に唱えてあげてください。


「須磨の浦」「松風」と聞きますと、源氏物語の須磨の話を連想します。
明石の御方の身の上を気の毒に思います。


能はとにかくすごいですね。

   日本の神道の世界でもあり、
   仏教の世界でもある。

さまよえる魂を救うのは我々観劇者でもある。
やっぱり般若心経が詠めるのはいいですね。



>出雲旅行の話―足立美術館と宍道湖の中にある大根島、そして稲佐の海岸について、
>明日に記したいと思っています。

よろしくお願い致します。



[53]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月28日 13時33分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「能はセッション」と申しましたが、それは表現のアドリブのことでは
なく、各所からいろいろな役・パートの人が一ヶ所へ集まり、練習もなく
いきなり本番に入るということで、音楽で言えばチューニングなしで音楽
を弾き始めるというような形です。そういった意味で、互いに目を合わせ、
耳を傾け、阿吽の呼吸で調子を合わせて行くということは、ある意味アド
リブ的能力を必要とすると言えるかも知れません。

 さて、出雲に関しての余談を片付けたいと思います。
 その余談とは、出雲と遠江の関係についてであります―

 @島根県の安来市に「足立美術館」という私立の美術館があるのですが、
 そこの庭は、「日本庭園」という素晴らしい芸術作品(外国からの評価が
 日本一の庭園)となっております。
  その庭園を造ったのが「中根金作」氏で、遠江(磐田市)の出身でありま
 した。その庭を見ると、完ぺきな庭芸術となっており、氏は現代の「小堀
 遠州「と呼ばれているそうです。磐田の医王寺・井伊谷の龍潭寺に小堀
 遠州作の庭園がありますので、それに刺激を受けたのかもしれません・・
 ・。

 A宍道湖に続く東側の湖「大根島」は、牡丹で有名ですが、この牡丹は約
 300年前に八束町の全隆寺住職が、遠江の秋葉山に修行に訪れた時に、
 薬用として持ち帰り、境内に植えたのが最初という。遠州(遠江)では秋葉
山の本山である可睡斎が牡丹で有名であります。
  秋葉山と出雲とどういう関係にあったのか興味あるところです。
  なお、大根島の大根とは、朝鮮人参が盗まれないように、わざと安っぽ
 い言い方で呼んだとのことです。

 B出雲大社から日本海側に出ますと、そこに「稲佐浜」という看板が海岸
 道路に建っております。それを見て、私は一瞬、遠州(遠江)の「引佐」に
 来たような錯覚にとらわれました。遠江の引佐は、万葉集にも詠われてお
 ります―
 「遠江 引佐細江の 澪標 我れを頼めて あさましものを」(巻14-3477)
「 みをつくし」とは、航路を示す印・杭のことであります。即ち、万葉集
 の時代から、浜名湖には船が行き来し、航路を示す杭が打たれていたとい
 うことになります。
  出雲の稲佐も字は引佐と書くことがあります。引佐という名前はどちら
 が先についたのか、あるいはそれぞれ独立してつけられたのか・・・東三
 河出雲説も浮上しており、権現山古墳が大国主の古墳であるという説から、
 豊川の本宮山に国見の岩があり、大国主がその上に立ったという伝説やら
 があります。いずれにしても、三河・遠江は出雲と関係がすごく深い所で
 あります。
  ちなみに、風の向きを言うのに「いなさ」は「東南」、「こち」は「東」
 を言います。この「方向」に出雲稲佐・細江引佐の謎を解くヒントが隠さ
 れているのかも知れません。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月28日 14時06分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

やはり古代のお話はこんがらがりまくります。


「いなさ 伊那佐」もあるのですねえ。



>風の向きを言うのに「いなさ」は「東南」

http://twitter.com/yatagarasujbot/status/460948576806244352

【伊那佐山】

「いなさ」とは「東南の風」という意味だといわれている。
古代、鉄を精錬するためには風がとても重要で、製鉄に由緒のある神社は東南向きに建てられることが多いとか。

そんな御縁からか当地には伝説の刀匠・天国(あまくに)の言い伝えも残されています(名刀「小烏丸」は彼の作品)。



http://www.yatagarasujinja.net/inasayama.htm
八咫烏神社


コピペ出来ると良いのですが。


[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月28日 14時15分31秒 ) パスワード

ここのHPからしますと

八咫烏と三足鳥は混乱されているけれど
全く別物だそうです。

   字が細かくて読めなかった・・・


左下の「八咫烏について」をクリックなさってください。

[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月28日 14時26分15秒 ) パスワード

ごめんなさい
左下の「八咫烏について」は出てないですね。

http://www.yatagarasujinja.net/gosaijin.htm

このページに行ってください。


最後の「思われます」の下に横書きで2行あります。




熊野の三本足の烏は八咫烏だと思ってました。

   ダメです・・・
   金鵄もこんがらがってます。



「いなさ」というのは日本各地に支店(支点)のように存在しているんでしょうね。
出雲のいなさも、遠江のいなさも、大和のいなさも、
日本の始まりに深く関わっているんでしょうね。

    大国主も神武天皇もこんがらがっているのかなと。
    またまたワケが分からなくなりました・・・
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月29日 00時27分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いなさの話、ありがとうございました。「いなさ」が「方向」を表すとな
ると、何か意味のある角度ということだと思います。出雲大社の東南方向と
いうと、熊野大社あたりになるのではないでしょうか。
 ま、それはそれで探究してみます。

 さて、遠江と出雲に関連するものとして、もう一つありました―

 C遠江の国学者の内山真龍ですが、1786年に出雲へ行って踏査し、
 『出雲風土記解』3巻3冊を完成しています。

 真龍は出雲まで歩いて行ったのでしょうか・・・?
 本居宣長や谷川士清から『出雲国風土記』の写本を借覧し、自分の持って
いる写本と照合したところ、疑わしいところがあり、現地調査に行くことに
なったということです。
 
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月29日 04時44分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


ダメです・・・
古代はスグにワケ分からなくなります


>本居宣長や谷川士清から『出雲国風土記』の写本を借覧し、自分の持っている写本と照合したところ、
>疑わしいところがあり、現地調査に行くことになったということです。


さすがですね。

ワケ分からなくなったら現地調査ですか。
尊敬


http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/uchiyama.html

内山真龍(ウチヤマ・マタツ)

 元文5年(1740)1月1日〜文政4年(1821)8月22日。遠江国豊田郡大谷村の庄屋の家に生まれた。
幼名、市六。通称、弥兵衛。


宝暦10年、浜松を訪れた真淵に出会い、同12年入門。国学を習う。
また、明和2年(1765)、渡辺蒙庵に師事する。
蒙庵は竹亭と号し、遠江の古文辞学派の拠点でもあり、真淵の漢学の師でもある。

師・真淵没後は宣長と連絡を取り合い研究に勤しんだ。


古典の中でも『風土記』研究に熱心で、諸国を実地踏査して『出雲風土記解』、『遠江風土記伝』を相次いで完成。


また、『日本書紀』の注釈の集大成を目指した『日本紀類聚解』は朝廷に献上された。

著書はほかに『新撰姓氏録註』等。


門人には石塚龍麿がいる。




やはり実地調査に出向いてますね。
すごいですね。



http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4e83dffa4af43.html


内山真龍   うちやままたつ



誕生地    現:浜松市天竜区大谷

生年     1740(元文5)年
没年     1821(文政4)年



江戸時代後期の国学者。門人には石塚竜麿(いじづかたつまろ)等がいる。
国学については文献のみではなく現地調査に基づいた研究を行なった。



生涯

1740(元文5)年、遠江国豊田郡大谷村(現:天竜区大谷)の名主の長男として生まれた。

1760(宝暦10)年には病身の父に代わり名主となる。
その後、名主の教養として和歌を学び、1762(宝暦12)年に賀茂真淵に入門。

1787(天明7)年に奈良時代に成立した『出雲国風土記』に解説・注釈を加えた『出雲風土記解』を出版。

その後、遠州地方の他誌として今なお不動の地位を占める『遠江国風土記伝』や『国図』なども出版している。

1811(文化8)年には『日本書紀』を解説した『日本紀類聚解(にほんぎるいじゅかい)』を著し、翌年には光格天皇に献上した。

1821(文政4)年に他界している。



国学の普及

真龍は国学を研究するだけでなく、遠州に国学を広め、多くの弟子を育てた。
当時、多くの門人を指導していた賀茂真淵の下で学ぶ者の大半は神官であったが、真龍は神官だけでなく、近くの村で名主を務めているような有力な農民や町の有力な商人たちも弟子にしている。さらには優秀な弟子に対し、賀茂真淵の弟子であった本居宣長に弟子入りできるように仲介するなど、懐の広さを示している。


関連項目

内山真龍資料館
内山家長屋門



参考

『輝く静岡の先人』(静岡県)



なんだか涙が出てきました。
お家が実力のある家だったから、実地調査にも行けたんですよね。

また  出歩く許可も  出たということですよね。


それだけ認められていた人なんでしょうね。


出雲風土記に関してどうして精読する気持ちになったのでしょうね。
やはり「引佐」という地名が絡んだのかもですね。

こういう天才が今の時代に生まれていたら、もっと研究が進んだのでしょうね。

そう思ったら涙で一杯になりました。

[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月29日 04時51分57秒 ) パスワード

http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB10087764
出雲風土記解 3巻


内山, 真龍
ウチヤマ, マタツ

書誌事項


出雲風土記解 3巻

内山真龍撰


和田龍次郎 [写], 1904



.
文字資料(書写資料)
タイトル読み
イズモ フドキ カイ



大学図書館所蔵 1件 / 全1件



京都大学 文学研究科 図書館国文        ここに連絡すれば読めるのでしょうか?謎

上CjII||1108925, 中CjII||1108925A, 下CjII||1108925B


OPACをクリックしますと

http://kuline.kulib.kyoto-u.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=286&op_param=ncid%3D%2542%2542%2531%2530%2530%2538%2537%2537%2536%2534&search_mode=detail&lang=english#catdbl-BB04282429



出雲風土記解 3巻

内山真龍撰 ; 上, 中, 下. -- 和田龍次郎 [写], 1904. -- [手稿 manuscript text]. <BB04282429>


Functions:
Bookmark Output As File Send Email Export

Volumes


0001 上 Letters Library JapaneseLit. CjII||1 200026233106
0002 中 Letters Library JapaneseLit. CjII||1 200026233115
0003 下 Letters Library JapaneseLit. CjII||1 200026233124

Title and Author
出雲風土記解 3巻 / 内山真龍撰
イズモ フドキ カイ

Publication
[書写地不明]:和田龍次郎 [写] , 1904

Physical Information
3冊 ; 25.6×18.5cm

General Material Designation
Manuscript text

Note
巻尾に「右出雲風土記解参冊據旧越後國新發田/藩主溝口侯所藏冩本謄冩明治三十七年/八月晦終功于時旱天五十有餘日此日時雨/始下萬物悉蘓□/白陽閑客和田龍次郎識」とあり

Note
原奥書に「天明七[1787]年二月十四日遠江國豊田郡大谷邨内山真龍白」とあり

Note
無辺無界9行

Note
冊次は扉題による

Note
全[255]丁 (上: 95丁 . 中: 90丁 . 下: 70丁)

Note
和装, 帙入

Note
印記: 「杣田/藏書」

Note
虫損有り

Volume Information


Volumes



Volume Information


Volumes



Volume Information


Volumes



Language
Japanese

Author Link
内山, 真龍(1740-1821)||ウチヤマ, マタツ <AU00363090>

NCID
BB10087764
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月29日 04時58分39秒 ) パスワード

http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98_%E5%86%99%E6%9C%AC

出雲国風土記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/14 05:25 UTC 版)

写本

現存する写本は70種程あるが、
その中で最も古いと考えられるのは慶長2年(1597年)に細川幽斎が書写させたもの(細川本)である。

また倉野憲司が所蔵していた写本(倉野本)も、奥付を欠いてはいるがほぼ同時期に書写されたと考えられる。

そのほか尾張徳川家に伝わった写本(徳川家本)や
上賀茂神社に伝わる万葉緯本など、
近世初期から多くの写本がつくられ各地に広まった。


尾張徳川家徳川義直により寄進されたと伝えられる日御碕神社所蔵の写本(寛永11年(1634年)書写、通称日御碕本)は島根県指定有形文化財となっている。


研究史

江戸時代初期より研究が進められており、多くの注釈書や解説書が出されている。

•岸崎(佐久次)時照『出雲風土記鈔』(天和3年(1683年))
•内山真龍『出雲風土記解』(天明7年(1787年))
•千家俊信『訂正出雲風土記』(文化3年(1806年))
•横山永福『出雲国風土記考』(弘化3年(1846年)頃)
•後藤蔵四郎『出雲国風土記考証』(大岡山書店、1931年)
•加藤義成『出雲国風土記参究』(原書房、1962年)
など


参考文献
•沖森卓也、佐藤信、矢嶋泉 編著『出雲国風土記』 2005年 山川出版社 ISBN 978-4-634-59390-9
•荻原千鶴『出雲国風土記 全訳注』(講談社学術文庫、1999年) ISBN 4-06-159382-X
•関和彦『『出雲国風土記』註論』(明石書店、2006年) ISBN 4-7503-2376-4
•『怪vol.0035』 角川書店(原著2012年3月28日)。ISBN 9784041300183。







http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kokuzou/kokuzou1.html

ここはなかなか面白そうですが日本語なのに漢文をみているようで早々と落伍。


第一節出雲風土記における「国造と朝廷」

荷田春満の『出雲風土記考』、内山真竜の『出雲風土記解』等がその先達をなす。そして彼等は、右の理解の根本の視点と矛盾する、あるいは十分に適合しにくい史料事実に ...
[61]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月29日 16時29分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 油断をして若干風邪気味(喉痛程度)、でも今回復いたしました。

 本日は、もう一度古代本の精査をしていました。使える本と使えない本と
に仕分け、それに「テキスト」と書いた付箋紙を貼り付けました。
 数えてみると、丁度二十冊。脱落した本も丁度二十冊。先日出雲大社横の
出雲古代歴史博物館で購入して来た『解説 出雲国風土記』は現地の貴重な
史料なので、テキストの一冊といたしました。

 いろいろな本をペラペラめくっておりましたところ、『地図でわかる天皇
家の謎』(歴史謎学倶楽部)という本に、興味深いことが書かれておりました―

 「国譲りの神話に登場した神々を祀る神社を見てみると、実に興味深いこ
 とがわかる。物語に関係した神々が、ひとつのラインに沿って祀られてい
 るのだ。
  まず、オオクニヌシを祀る出雲大社がある。そこから逃げたタケミナカタ
 が籠ったのは現在の諏訪大社だ。そしてタケミナカタを打ち倒したタケミカ
 ヅチは現在、茨城県にある鹿島神宮の祭神となっている。この三つの神社
 を結ぶと、ほぼ東西一直線のラインになっているのである。
  それだけではない。このラインには、『日本書紀』ではタケミカヅチと
 ともに派遣されたことになっているフツヌシを祀る千葉県の香取神宮、
 オオクニヌシのもうひとりの息子であるコトシロヌシを祀る島根県の美保
 神社もこのラインに入っている。物語に関係する神々が見事に一本のライン
 で結ばれているのだ。
  しかも―。東西の端に位置する神社の御神体の配置を見てみると、さらに
 興味深いことがわかる。
  西の端にある出雲大社は南を向いた本殿を何重もの柵で―まるで封じ込
 めるかのように―囲んでいる。おそらくこれは、オオクニヌシを幽閉した
 神話が今も生きているということなのだろう。しかも御神体は大和のある
 東ではなく、顔を背けるかのように西へ向いている。一方、東の端の鹿島
 神宮では本殿も拝殿も北を向いているが、これも大和のある西ではなく、
 御神体は東を向いている。
  おそらくこのラインは、出雲を支配したあとで東へ勢力を延ばしていっ
 た大和朝廷の「結界」になっていたのではないだろうか。
  つまり、「反乱」の危険があるオオクニヌシには朝廷の方角を向かせず、
 東へ移動し防衛ラインに配備されたタケミカヅチには、北の蝦夷に対して
 睨みを効かさせた。その古代の大和朝廷の支配圏拡大の名残りが、この
 ラインに隠されていると考えられるのである。」

 緯度・経度をどうやって図ったのであろうか、すごく離れた地点を結ぶ線
である。たぶん星の計測術によったとした考えられません。占星術のような
ものが、どの程度発達していたのか一度調べてみたいと思います。

 さて、芭蕉でありますが、古代(広義で出雲)と関係する部分をもう一つ見
つけました。それは「象潟」でありました。その水辺に「御陵があり、神功
皇后の御墓である」と芭蕉は書いております。
 芭蕉はどうも観阿弥や世阿弥の能楽師のように感じております。つまり
秦氏の系統ではないかと思っています。姓の松尾は松尾大社もあるとおり
秦氏と関係するのではないか・・・。
 そして、奥の細道は能の世界でもあるような感じがいたします。八咫烏、
道祖神(猿田彦)、翁(塩土老翁 塩釜の御釜神社)・・・。
 そして奥の細道の最後の方で、気比神宮に訪れる。ここは大変意味のある
所―仲哀天皇・神功皇后、日本武尊、応神天皇、武内宿祢等を祀る。
 ここにすべての秘密を解くカギが隠されているような気がします・・・?
 
、 
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月29日 22時23分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『地図でわかる天皇家の謎』(歴史謎学倶楽部)

詳しく丁寧にご説明くださって感謝です。
背筋がゾクゾクします。


神様達の関連性が1つの線で繋がっていましたか。
そこに
「位置」もちゃんと関係している
不思議ですね
古代人はどうやって知ったのでしょうね

    東西南北は分かったでしょうけど

           >緯度・経度をどうやって図ったのであろうか

              伊能忠敬が出現する前に既に日本にはそういうのが分かる人達がいたんですねえ
              
              やはり古代メソポタミアやエジプトの技術を持った人々が日本に来てた?



出雲大社や諏訪大社や鹿島神社が繋がるというのは  へえ〜  と驚くばかりです。


そうなんですか
大国主命は閉じ込められた神様だったのですか。
これは驚きです。



風邪にはお気を付けください

知り合いがペルーで風邪を引いて
ハワイに着いた夜に高熱を出し、肺炎ということで入院しました。

やはり出雲は遠かったと思います。
肉体的にお疲れかも。
精神的には興奮なさっていらっしゃるのでしょうけど。
精神力でご無事なのかもですね。

お仕事があるのも精神力をしっかりさせているのかもですね。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月29日 22時37分54秒 ) パスワード

>芭蕉
>古代(広義で出雲)と関係する部分をもう一つ見つけました。
>それは「象潟」でありました。
>その水辺に「御陵があり、神功皇后の御墓である」と芭蕉は書いております。


ということは「松尾」は松尾大社がらみ・秦氏がらみだった?



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%B6%E6%BA%80%E5%AF%BA
蚶満寺(かんまんじ)は、秋田県にかほ市に所在する曹洞宗の寺院。山号は皇宮山、本尊は釈迦牟尼仏。

古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が訪れ、『奥の細道』に

     “ 此寺の方丈に座して簾を撒けば・・・ ”

と紹介した。


仁寿3年(853年)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えられる。蚶方(きさかた)の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したという。

神功皇后の伝説とは、神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着し、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、そのとき皇后は臨月近かったので清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えたという『蚶満寺縁起』所載の伝承。その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという。蚶満珠寺の名は、干珠・満珠を皇后が持っていたことに由来するとされる。

ただし、『古寺名刹大辞典』 (1992) では、のちに真言宗に転じ、カンマン(不動明王の真言の一部)という梵語より寺号がおこったという説もあることを紹介している。

中世[編集]

正嘉元年(1257年)8月、鎌倉幕府5代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、「四霊の地」と定め20町歩の寺領を寄進し再興している。

近世[編集]

天正15年(1587年)1月(『古寺名刹大辞典』 (1992) では、この年を文禄元年(1592年)としている)、地元の金又左衛門(こん・またざえもん)らの懇請によって、松ヶ崎(秋田県由利本荘市)光禅寺九世栄林示幸が、光禅寺の開山直翁呈機を開祖に勧請して曹洞宗に改めた。

江戸時代になって仁賀保院内(にかほ市)の禅林寺との間に本末争論が起きたが、元禄9年(1696年)に加賀大乗寺(石川県金沢市)の預かり末寺となって解決した。

江戸時代の蚶満寺は、十五世の無学絶宗の時に僧堂を開いたといわれ、多くの名僧を得て、曹洞宗の叢林として「羽海法窟」の名を天下に高めた。

文化の大地震と蚶満寺[編集]

象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。

象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。

天保6年(1835年)二十八世の活山和尚も再興に力があった。



『奥の細道』最北の地[編集]



ネムノキ

元禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』のなかで、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している。ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施[1]を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、

     “ 象潟や 雨に西施が ねぶの花 ”

(雨にけむる象潟は、あたかもまぶたを閉じた西施のように美しい)と詠んでいる。芭蕉はまた松島(宮城県松島町)の景観との比較もおこなっている。このなかで「干満珠寺」として登場するのが蚶満寺である。

にかほ市は、この句が縁で、西施が生まれた中華人民共和国浙江省諸曁(しょき)市と姉妹都市提携を結んでいる。

司馬遼太郎と蚶満寺[編集]

司馬遼太郎は、紀行集『街道をゆく』でかつての同級生に会うため蚶満寺を訪れ、

     “ 芭蕉の感覚では、象潟の水景は雨に似合うのである ”

と述べている。

また、「蚶満寺」の名について司馬は、「象潟(きさかた)」は古くは「蚶方」[2]とも表記したことから、「方」が「万」の字に変わって「かんまん」と音読みしたのではないかと考察している[3]。



思わぬ勉強をすることになりました。
感謝

        へえ〜
        驚きました
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月30日 10時19分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 虷満寺を調べていただき、ありがとうございました。

 そこからまたいろいろなことがわかりました。
 @小浜宿祢  → 若狭の小浜出身ということで、小浜との関係=奈良東大
          寺二月堂のお水取り=ゾロアスター教との関係
 A象潟の鰐淵 → 出雲に「鰐淵寺」という寺院があります。出雲大社の
          北東の方向の山の中です。
          このお寺は出雲大社とは関係が深い(詳しくはまた調べ
          てみます)。信濃とも関係が深い。信濃出身の智春上人
          が推古天皇の目の病気を祈願して治したということで、
          勅願寺として開山されております。
          また、あの「武蔵坊弁慶」が若いころ修行を積み、その
          後比叡山で義経と出会い、また壇ノ浦の合戦後に、ここ
          に身を寄せていたということであります。

 越後(新潟)までは、出雲王国であった(中間に丹波王国もありますが)可能性
がありますので、調査してみたいと思います。

 神宮皇后は象潟で応神天皇を生んだ。夫は仲哀天皇ではありますが、応神
天皇は、武内宿禰の子とも言われています。武内宿祢と猿田彦・塩土老翁・
山幸彦・浦島太郎の伝説との関係を一度調べたいと思っています。

 いずれにしましても、芭蕉の見る場所(特に枕言葉の地)は、過去の歴史が
重層的に重なっていて、それは一体どこまでの深みまでつながっているのか
・・・芭蕉になったみなければわかりませんが、芭蕉の時代の宗教観・歴史観
というものを把握したいと思っています。
 現代の日本は、宗教観は概して上辺だけになってしまいましたが、五十年
遡ればまた違った宗教観になる。大黒様も恵比寿様も秋葉様も共存していた
ような感じがいたします。さらにさかのぼって、芭蕉は大黒様をどうとらえて
いたのでしょうか。ここがわかれば、芭蕉と出雲の関係が分かってくると推察
いたします。
 芭蕉は、奥の細道へ出かける前年に例の「鹿島神宮」にお参りしています。
表向きの理由と本当の理由があると思います・・・。

 芭蕉は秦氏だったと推察しましたが、母方・父方のまた両祖父・両祖母の
血脈もありますので、可能性はあるとは思っています。『知られざる大江戸
ネットワーク』(KKベストセラーズ)の中で、火坂雅志氏は次のように言って
おりますので、更なる調査が必要になりました―
 「芭蕉の生家松尾家は、もとは北伊賀の福地城を拠点としていた福地氏と
 いう忍家であった。伊賀の国には、この福地氏のほか、服部、柘植、あるい
 は滝野、百地といった、そのかず百を超える忍家が谷ひとつごとに割拠して
 いた。いわゆる、伊賀忍者である。
  織田信長が伊賀一国を焼き打ちした天正伊賀の乱の時、伊賀の忍家は、四
 万をこえる織田軍に対して徹底抗戦をこころみた。このとき、芭蕉の先祖で
 ある福地氏のみは信長方につき、伊賀攻めの案内役をかって出た。のちに、
 スポンサーの信長が本能寺の変で倒れると、福地氏は伊賀の裏切り者として
 糾弾され、一族離散することになる。芭蕉の先祖が福地から松尾と改姓した
 のも、そのためであった。」

 伊賀に行っていろいろ調べる必要が出てまいりました―
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月30日 12時11分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正 神宮皇后→神功皇后
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月30日 12時44分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうなんですか
芭蕉の先祖は本来は福地姓だったのを松尾に変えていますか。

そりゃあ信長が死んでからは周りから恨みや冷たい目で見られたでしょうね。


としましたら、芭蕉の立ち位置もかなり変わってきますね。
先祖のしたことでトラウマがあったでしょうね。




>象潟の鰐淵   出雲の「鰐淵寺」

古代って侮れないですね。
名前を付けるのに意味無くしてつけるわけはないですから。



象潟について:

http://www.t-aterui.jp/akita/a-kisakata6.html

出羽風土記には

『象潟は上古よりの名勝にてその創始を知らず 

一説に嘉祥年間の地変に出来(なれ)りというも未だ確(さだ)かならず 
その景色の勝れたるたるは奥の松島と並称せられて古歌にも多く詠み絵画にも写し世人の普く知る所なり・・・

斯かる名勝も文化元年六月の地震に埋没して水漏れ沙現れ空く島嶼のみ残りし
岸高く松緑に八十八潟九十九森の疇昔(むかし)彷徨たりしも如何にせん 

年振るに従い無情の農夫等が松を伐り島を崩し己が随意開墾し今は美壌良田と成りたるも
僅か八十余年に其間に名負勝池も頓(突然)に絶えなんとす…』

とある   




象潟の唐戸石

唐戸石 象潟は文化元年(1804)の大地震で一瞬のうちに陸と化したのです 
この石こそ隆起した高さを立証する物的証拠で隆起する前に波によってできた浸食跡がはっきり残っている 
海面から浸食跡まで標高差2.4mが隆起したのです


袖掛地蔵堂 

神功皇后が臨月のため産屋の有った所と云われている 

ここで皇后は霜月15日に応神天皇を出産された 
翌年4月吉日修理の終えた舟で入り江鰐淵から筑紫の香椎宮へ向かわれたと言う 


猿丸太夫姿見の井戸

百人一首「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」は平安初期36歌選の一人猿丸太夫の歌と言われる 

然し彼の実像は歌ほどは殆ど知られていない 
あちこち伝説や墓石があるらしいが流浪の果てにここ象潟にきて小道の傍らの井戸で我が身を映して都の雅な己とは余りにも変わり果てやつれた姿をを見て嘆いたと言う井戸である 


      猿丸太夫については芭蕉は関心があったと思います
[67]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月01日 07時00分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は医者に行き、風邪薬をもらい、寝てしまいました。一旦風邪になると
抜けるまでに一週間位かかると思います。うっとうしいですが、幸いまだたい
したことはないので助かっています。

 昨日、芭蕉の租、柘植氏を調べていましたら(Wik)、次の説に行きあたりま
した―
 「『古代氏族系譜集成』の服部連携図に、柘植氏の系図が掲載されている。
  それによると、平貞盛の末裔、季宗の子で平頼盛の家人だった宗清が祖
  にあたるとする。そして、宗清には宗俊、清春、俊忠の三子があり、宗俊
  が柘植を名乗り、清春は「福地」を、俊忠は「北村」を名乗り、それぞれ
  その祖となったとある。」

 ということは、やはり芭蕉は服部とつながる。また北村という姓から、北村
季吟を思い浮かべました・・・?
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月01日 16時22分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

書き直し:


服部家も人間関係が錯綜しててワケ分かりません。
親子関係が今のような単純ではなく、養子・融子でグチャグチャですから。


服部季宗  −−−  柘植宗清 −−−  家清 ーーー長男家俊・次男福地清春・三男北村俊忠


                家清は三日平氏の戦いで死亡


服部季宗の孫の家俊の家に、服部時定の孫の宗保が入って来て、清正を名乗り、その子供が5人いて山川宗政・柘植宗成・西川正俊・松尾宗広・北川清俊


そして柘植宗成の孫に観阿弥、曾孫に世阿弥が出る




また平家の服部家長と時定の孫の代で養子が入って混乱しますが
この子孫の服部正清の子に
             
          1)平蔵正信 −−−青山成重・服部正尚
          2)出羽守保章ーーー明智光秀妻・近江の北村に住し北村氏を名乗る
                     がいます。


服部氏の家系図もなかなか難しいです。養子や融子や貰いっ子でゴチャゴチャです。


実はワタクシの血の繋がりの無い三重の親戚の女の子のことですが、
    (どうして、あなたがワタシの子供の時の写真を持ってるの?)
と思ったのですが、

もしかすると家長の子孫同士みたいです。
それで顔がそっくりだったのかも。

      なんとなく「三重繋がり」で顔が似てるんだと思っていましたが
      いえいえ実は家長の子孫同士のようです。



そしてまたワタクシの大学の時のクラスメートだった三重の人ですが
どうやら同じく家長の子孫同士みたい。


知らないだけで、今は他人同士みたいだけど、実は先祖は同じだったのかも。


三つ柏さんとわたくしもどこかで繋がっているのかもですね。
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月02日 13時39分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 風邪薬のせいで、すぐ眠くなり頭が働きません。困ったものです。

 古代史を前にして、さまざまな説がありますが、記紀の呪縛から解き放たれ
たテキストをと、再度精査しましところ、やはりこの本に行きつきました。古
い本ですが、はなから記紀のからくりを潜り抜けて、カラクリの裏側から歴史
をとらえようと試みた本です。著者は原田常治氏。著作の名前は『古代日本正
史』です。初版が出版されたのが今から39年前ということで、考古学の発見
等により新たなる事実が明らかになったこともあるでしょうが、その辺は気
をつけながら、また疑わしき所にも気を付け、この本を基本テキストにしたい
と考えております。

 まずは、原田氏は貴重な資料に巡り合う。それは松山市の井門家に残されて
いた『小千・河野・井門家系図』である。その系図は記紀の影響を一切受けて
いない貴重な資料であるという。
 何故ならば、第八代孝元天皇は、雀部・穂積両氏のクーデターによって擁立
され、そのことを何とか歴史から消そうと記紀はこの八代の間の天皇を全部抹
殺して、新しく歴史を書き換えた。そのためにどう読んでも辻褄が合わない歴
史ができたということであります。

 第七代孝霊天皇の子供は七人あり、その一番下の彦狭島王の子孫に今の越智、
河野、井門の三家がある。この系統は、瀬戸内海の制海権を握っていた。従っ
てクーデターによる影響を跳ね返す力があった。そして井門家に残された系図
(家系譜)は記紀の影響を全く受けずに記録することができたということである。
 原田氏の著作は、この井門家の系図を基に論評しています。

 本日は、ここまでとします。今後詳細に触れたいと思っています。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月02日 13時56分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

>第八代孝元天皇は、雀部・穂積両氏のクーデターによって擁立され、
>そのことを何とか歴史から消そうと記紀は
>この八代の間の天皇を全部抹殺して、新しく歴史を書き換えた。
>そのためにどう読んでも辻褄が合わない歴史ができたということであります。

逆からの発想ですね。
すごい!

それで8代8人の天皇の存在はウソなんて言われてるのですか。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月02日 14時03分15秒 ) パスワード

風邪薬の眠くなるのは  アンタイヒスタミン系  だからかな?
わたくしは夜寝る時に眠くなる系を服用します。

朝からはそういうのは服用しないです。
車を運転する人は特に危ないです。


コンタックが良く効きましたが、2年目には舌が割れてきました。
きつい薬を服用する時は胃薬も一緒に服用しないとね。


まだまだ大変のようですね。
やはり出雲行きは肉体的に大変だったようですね。

お大事に
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月03日 02時23分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉と気比神宮にこだわっています。ここに祀られている仲哀天皇は、
父が日本武尊で、妻が神功皇后、子が応神天皇ということで、天皇家の
事実上のヘソになります。

 ここで詠った芭蕉の句 ―
 「月清し 遊行が持てる 砂の上」

 気比神宮を整備するために、遊行上人が白砂(や石)を主殿の周りに敷き
詰めている姿を煌々と月光が照らしている風景です。
 仲愛天皇の霊がシテとなり、遊行上人がワキとなってあたかも能の世界
=幽玄の世界を醸し出しています。

 応神天皇は日本史最大の謎の天皇であるのです。秦氏、弓月の君と関係
する・・・。
 道祖神の招き(=猿田彦の招き)から始まり、神功皇后と応神天皇(=神武
天皇という説もあり)に最後はつながる・・・奥の細道の旅は、「狭き道」
を代弁=天皇家の過去を探索する旅でもあったのではないでしょうか。
 とすると、戸来村を見に行った可能性は高まります。
 芭蕉は、天皇家のことをどこまで知っていたのでしょうか。ヘブライ関係
を理解していたのでしょうか。応神天皇の本当の出自を知っていたのでしょ
うか・・・?
 まだまだ理論的には未熟ではありますが・・・こんな推理をしてみました。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月03日 05時11分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


応神天皇以降は歴史的に存在したと言われていて
それ以前の天皇はアヤシイとされているそうで


        父は先帝仲哀天皇で、母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされるが、異説も多い。

        その理由は異常に出産が遅れたことにある。

        父として「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社の『神代記』)とある住吉大神や、
        あるいはまた武内宿禰とする考えもある。

        このような出生の神秘性は、
        本来応神天皇が前王朝との血統上のつながりを持たず、
        新王朝の開祖であるとされたことを物語っているとするものもある。


                  へえ〜  

                  父上が 武内宿禰  というのはよく見掛けますが
                  住吉大神、というのは初めてでした。


仲哀天皇は気の毒に思ってましたが、住吉大神が応神天皇の父親だったなら、日本の天皇として正当性がある、ってことなのかな?

住吉大社の位置を改めて認識しました。  



>仲哀天皇の霊がシテとなり、遊行上人がワキとなってあたかも能の世界=幽玄の世界を醸し出しています。

いいですね。


どんどん奥深い世界に入っていきますね。
芭蕉の知識教養はどのぐらい深いものだったんでしょうね。




http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno38.htm

遊行二世の上人:

     遊行一世の上人は一遍上人のこと、
     よって二世は他阿弥陀仏上人、または他阿上人。遊行柳参照。


遊行の砂持:

他阿上人の古事にならってその後も代々の時宗の上人はここに来るたびに砂や石を社頭の前後左右に運び敷き詰めることがならわしになっていたという。

それゆえ参詣人は土足で参内せず必ず社前の木靴に履き替えて参詣したという。


              へえ〜
              これは100%知らなかったです


________________________________

奥の細道   (遊行柳 元禄2年4月20日)

又、清水ながるゝの柳*は、蘆野の里*にありて、田の畔に残る。
此所の郡守戸部某*の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを*、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ 。



田一枚植て立去る柳かな

西行の、「しばしこそとてたちどまりつれ」 に誘われて、
芭蕉もここに立ち止まったのである。

その瞬間から芭蕉は西行の時間の中に居る。

その夢想の時間の間に早乙女たちは一枚の田んぼを植え終えた。
田を立ち去る乙女たちに同期して芭蕉一行もこの場を立ち去ったのである。

当時の田んぼの一枚がどのくらいの面積か想像できないが、
田植時間もそう短いものではないだろうから、早乙女達の手際のよい作業に見とれるように芭蕉一行は夢幻の時間を過ごしたのである。


それは又謡曲「西行」の幽玄な時間でもあったのだろう。



この句には古来様々な解釈が施されてきた。

@早乙女たちは田を一枚植えて、その場から立ち去った、という「ああ、そうですか」解釈。

A早乙女たちが田を一枚植え終えたので、芭蕉らはその場から立ち去った、という「暇つぶし」の解釈。

B早乙女たちが植えている田植に芭蕉たちも手伝って、一枚植え終えたので立ち去った、という「ボランティア精神」、などである。


共通して言えることはこれらは全て「柳」の存在が消えてしまった解釈であるということ。

  

清水ながるゝの柳:西行の歌「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」とあるによる。 栃木県那須郡那須町芦野にある柳がその舞台。

ただし、『西行一代記』などによれば、この歌はここ芦野でこの柳のために詠んだのでもなんでもなく、鳥羽殿の障子に描かれた柳の絵に西行が画讃を入れたのがこれだという。

しかるに、ここが 観世小次郎信光作の謡曲『遊行柳』の舞台 となったことで、観光地として一躍脚光を浴びるようになったというのである。


                あら、そうなの?!ビックリ!

                観世信光(かんぜ のぶみつ、旧字体:觀世信光、
                永享7年(1435年)または宝徳2年(1450年) - 永正13年7月7日(1516年8月5日))

                日本の室町時代の猿楽師(能楽師)、猿楽(能)作者。観世小次郎信光とも表記される。

                世阿弥の甥の第7子だそうです。


                芭蕉はこの観世信光の存在も知ってたのかもですね。

                    観世家と芭蕉の家はレス<69>に記したように近い関係だったからでしょうか。


          服部季宗の孫の家俊の家に、服部時定の孫の宗保が入って来て、清正を名乗り、
          その子供が5人いて山川宗政・柘植宗成・西川正俊・松尾宗広・北川清俊


                         そして柘植宗成の孫に観阿弥、曾孫に世阿弥が出る


                



「遊行 <ゆぎょう>」の原意は、僧侶がぶらぶら歩くこと、転じて布教のための行脚などをさしたが、ここでは浄土宗系時宗のこと。

謡曲『遊行柳』では、この柳は朽ちていたが、一遍上人(遊行上人)(1239-1289)と思しき僧が訪れたとき柳の精 の化身らしき老人が現れて、朽木の柳にいざない、西行の出家と奥州下向の話をした。


僧が「南無阿弥陀仏」を10辺唱えるとこの老人は消えた。


その夜、柳の根方で眠る僧の夢枕に柳の精が現れて、ようやく成仏できたと礼を述べる。
夜が明けるとそこにはもとのように朽木の柳が立っているばかりであった。

この能の舞台は白河関より北にあるとされているので、地理的には一致しない。


謡曲の作者観世小次郎信光の誤りであろう。
芭蕉はここではすべてを肯定したまま一句を詠んでいる。


芦野の里:<あしののさと>と読む。現栃木県那須町芦野、奥州街道の宿駅。


郡守戸部某:<ぐんしゅこほうなにがし>
芦野3,000石の領主で旗本の芦野民部資俊(あしののみんぶすけとし)、
俳号桃酔<とうすい>のこと。
江戸蕉門の一人。
「戸部」は中国の古い官名で、ここでは「民部」に宛てて付けたのだろうが、下記のような理由で、故意に名を隠したのである。

ところで、資俊について。
この人は、元禄5年6月26日に死去したが、芭蕉が芦野を訪れたときには生きていた。

ところが『奥の細道』の初稿では、「此所の郡守故戸部某」と書いた。
ということは、芭蕉が『奥の細道』を執筆したのは早くとも元禄5年7月であり、それより後であったということが分かっている。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月03日 05時16分04秒 ) パスワード

今、閃いた!


きっと芭蕉の家からも観世家に養子とかで入っているのかもね。
逆に観世家から松尾家に入ったものがいるやも知れず
また、忍者行動をするのに観世家で能の指導を受けたのかも。


忍者が情報を集めるのに能の役者とか関係者として紛れ込めば容易いですものね。


観世家と松尾家の関係
ひょっとするとひょっとするのかも。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月03日 05時26分56秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101489.html
長上郡の服部氏族LU(M氏家譜16+芭蕉あたり)スレッド52を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月03日 13時02分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


>観世信光=世阿弥の甥の第7子・・・これを知ることができただけでも大発見です。

>そして、遊行柳の話・・・柳の精が成仏できたと夢に現れる・・・
>これもシテ(神)とワキ(人間)の、もう少し大きく言えば、
>神の世界と人間の世界とのやり取り・往来
>・・・芭蕉はやはり俳諧における、いはば「能のプロデューサー」兼「供養僧」だった!


まさに!
ですね。

まさか「能」と芭蕉が結びつくとは思っていませんでした。


もう1度詳しく:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E4%B8%96%E4%BF%A1%E5%85%89

観世信光(かんぜ のぶみつ、觀世信光、
永享7年(1435年)または宝徳2年(1450年) - 永正13年7月7日(1516年8月5日))

日本の室町時代の猿楽師(能楽師)、猿楽(能)作者。観世小次郎信光とも表記される。


世阿弥の甥音阿弥の第七子として生まれる
(生年については従来1435年といわれていたが、近年表章などの研究により1450年説が有力になってきており、この項では両説を併記した)。

いずれにせよ信光が生まれた頃には、観世座の主導権は世阿弥父子から音阿弥家へと移行しており、
彼の生涯はその音阿弥直系の大夫たちを補佐することに捧げられることとなる。

                   へえ〜
                   芭蕉に評価されて良かったですね

音阿弥の弟・弥三郎に師事し、はじめ大鼓方をつとめていた。

景徐周鱗の書いた「観世小次郎信光画像讃」や『四座役者目録』などよると、
15歳の時後花園天皇の御前での猿楽に参加し、
天皇の扇を同席した足利義政の手添えで授けられるという栄誉を受けたといい、早くからその才能を表していた。

傍流の囃方という身ではあったが、                            ビックリ!
時の観世大夫観世三郎之重が幼少であったため、それを助ける形で活発な活動を見せた。

前述の『四座役者目録』は「乱舞道の名人」、また諸道において暗きところなし、と評しており、
囃方という枠にとらわれず、役者としても優れていたことが窺える。

ことに彼の子孫にワキ方の役者が多かったことから、ワキの名人だったともいう(『四座役者目録』の記述を信用しない説もある)。

後述のように能作者として活動したほか、
過去の謡曲の保存・継承にも心を砕き、二百余りの作品を「青表紙本」と呼ばれる形で整理したと伝えられる。


老境に至るまで大夫の補佐役として第一線で活躍し、「権守」の称号を受けた。

乱世を越えて音阿弥家、ひいては観世流が栄える礎を作った人物として高く評価される。

また晩年に書かれた「観世小次郎信光画像讃」ではその生涯とともに、観世家の出自が詳しく語られ、
近代に至るまで観世家を語る上での基礎資料として認知されていた。


息子に長俊、信重、元供がいる。



能作者として

多くの作品を書いた。
信光の作品は、おおむね華やかでわかりやすく劇的展開にみちている。

「幽玄」を時に過剰なまでに追求した世阿弥・元雅の作品とは対照的に、
信光の作品は、ショー的要素、同時代でいう「風流(ふりゅう)」を多く取り入れた華やかな作品が多い。

これは、応仁の乱を経験する信光の時代は、
上流武家、公家のバックアップを受けていた世阿弥時代に比べて、
そのような層の後援が減り、地方興行も多く、幽玄よりもスペクタクル性が求められたためといわれている。


この芸風は息子長俊に受け継がれ、彼もまた能作者として活躍している。




代表作

船弁慶
紅葉狩
鐘巻(道成寺 の原型)
遊行柳
羅生門
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