【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101486 投稿日:2015年09月05日 07時46分02秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族L(M氏家譜14+信濃麻績あたり)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101485_75.html
長上郡の服部氏族XL\(M氏家譜13+信濃麻績あたり)スレッド49の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月05日 09時17分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大変なミスでした。「大日本史」と書くところ、「新日本史」と書いて
しまいました。ご指摘、ありがとうございました。目の良さ=集中力・
注意力に比例します。そろそろ新しいメガネを調達しないと・・・合わなく
なって来ました。

 古事記や日本書紀も作るのは並大抵のことではなかったと思いますが、
「大日本史」もまた別の意味で並大抵ではなかったかと思います。

 本日はJ−DAYですので、また後で記します。
 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月05日 10時24分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


「大日本史」で良かったのですか。
了解です。


お忙しい時には  ん?  と一瞬振り返るのをカットしてしまうんですよね。

「大日本史」は「新・日本史・編纂」のことですから間違っているわけでは決してないわけで・・・


ネットでの入力ミスなんて、ぜんぜん、どうってことないです。
お仕事でとんでもないポカをなさらなければ良いのです。実害を生じては大変!



本当にこんがらがりますよね、
古事記編纂や日本書紀編纂を頭の片隅に置きつつ大日本史のことを書いていると、
新日本史にもなってしまいます。にっこり
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月05日 12時54分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。家のパソコンはノートパソコンなので、若干
やりにくいです。やはり画面が見にくい。デスクトップ型の方が断然見
やすいですね(今のものは反射しない)。どちらにしても、いずれ買い替
える時がきましたら、見やすい画面のものにしたいと思っています。

 話はそれますが、昨日の午後は浜松市飯田町にある、「龍泉寺」とい
うお寺に行ってきました。源範頼はこの地に住んでいたのでゆかりが深
い。深い割にはあまり知られていないということで(私自身もつい一年
前までは知らなかった)初めて訪れてみた訳であります。
 飯田小学校のすぐ西隣にありました。敷地は結構広い寺でありました。
 案内看板にはこう書いてありました―
 「曹洞宗
  この境内は源頼朝公の弟範頼公の別荘地であった。当時、京都の稲荷
 神社から稲荷明神を迎え、お祀りしていた。
  その後、享徳三年(1254年)勅特賜能満禅師天礀義倫大和尚を招いて、
 この別荘地を寺とし、稲荷山龍泉寺とした。
  以後、範頼公を寺の開基として境内の南東に供養塔を建立し、奉伺し
 ている。この塔から五十mほど南には、範頼公の愛馬を弔った駒塚がある。」

 ということで、範頼公の二m程の五輪塔に般若心経を二巻捧げてまいりま
した。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月05日 14時34分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


>範頼公の二m程の五輪塔に般若心経を二巻捧げてまいりました。

ありがとうございます。

範頼は立ち位置もリーダーの兄と人気者の弟の間という難しい立場で
本人はよく頑張ったけれど(政子の告げ口で?)最期は暗殺で亡くなってしまって
般若心経を二巻、詠んでもらって、ちょっとは慰められていたら良いですね。


>塔から五十mほど南には、範頼公の愛馬を弔った駒塚がある

      源範頼公ゆかりのお寺 龍泉寺
      http://biwakotocom.blog102.fc2.com/?mode=m&no=597
      範頼の愛馬の月の輪が、
      修善寺で主人範頼が暗殺されたのちに
      戻ってきた

戻って来た、というのはどこに戻って来たのでしょうね?
修善寺から鎌倉へ?
馬は賢いから、ちゃんと帰れたのですね。良かった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%AF%84%E9%A0%BC

範頼の死去には異説があり、
範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。

吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。

『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。

このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。

範頼の伝説に由来する蒲ザクラは大正時代に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。



人物[編集]
性格については、多くの小説などで「大人しい、温厚」という表現をされていることが多いが、『吾妻鏡』によると「私の合戦を好み・太だ穏便ならざるの ・由仰せらる」と残され、また御家人と乱闘を起こすなど、決して大人しいという事はない。

範頼が凡将、無能というように記述されているのは『源平盛衰記』だけであり、盛衰記は14世紀に作成されており創作部分が多いことから、正確性は低いと判断される。

『平家物語』でも、兵糧不足で停滞していた頃の範頼の遠征軍が、遊女と戯れ進軍を怠っている事になっており、宇治川合戦後の後白河法皇の御所への参院で範頼がいなかった事にされるなど、義経の武勲を引き立てるために範頼の活躍を矮小化している傾向がある。

頼朝が義経には朝廷との交渉や京都の治安維持を任せ、範頼には対平家戦などの軍事作戦に専念させる方針であったとする見方がある。

例えば、元暦元年8月27日に範頼が上洛し、2日後に平家追討の太政官符を受け取ると翌日には西国に出発している。これについて、九条兼実は藤原定能からの情報として、範頼は頼朝から「一日たりとも京都に逗留せずに四国に向かうように」という指示を受けているという話を記している(『玉葉』元暦元年8月21日条)[6]。


脚注[編集]

1.^ 『系図纂要』より。
2.^ 『尊卑分脈』による。いずれも出家している。
3.^ 『平家物語』では、範頼の三河守任官は元暦元年(1184年)8月6日の除目という。→佐藤謙三 校注 『平家物語』(下巻)〈角川文庫ソフィア〉11、角川書店、1998年、165頁。
4.^ 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』同日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。
5.^ ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある。
6.^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院、2011年)P87-90
[5]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月05日 17時35分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 龍泉寺の続きです―

 蒲ザクラについては、看板にこう書かれておりました。
 「石戸蒲ザクラ
  源範頼公ゆかりの地、埼玉県北本市より後継樹として寄贈された桜で、
 現地の原木は天然記念物に指定されたいる。」
 この桜の木は、まだ植えられてそんなに年月が経っていないように見え
ました。

 愛馬の塚はうっかりして見落としてしまいました。こんど行った時には
調べてみたいと思います。主人を亡くした馬がどうなったかは、ロマン的
には空を飛んで帰って来たとしたいですが、伝説があるはずですので、一度
調べてみます。

 なお、墓地について気が付いたことは、「宮下」家の墓が三基あったこと、
家紋は「丸に笹」、武田(家紋なし)が二基、山内が一基(家紋は山内柏)と
いうことで、「宮内」がちょっと気になりました。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月06日 01時24分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 光圀と芭蕉の時代、キリスト教関連をまとめてみますと―
 @1616 家康死す
 A1619 キリシタン60余人京都七条河原で火刑、人身売買の禁止
 B1627 島原にてキリシタン340人処刑
 C1628 徳川光圀生れる
 D1637 島原の乱
 E1640 キリスト教を厳禁す、長崎にてキリシタン61人処刑
 F1642 キリスト教禁止令
 G1643 松尾芭蕉生まれる
 H1657 「大日本史」編纂始まる(光圀30才)
I1663 キリシタン207人処刑
 J1685 生類憐みの令、「野ざらし紀行」
 K1689 芭蕉、奥の細道の旅
 L1694 芭蕉51才にて死す、「奥の細道」出版
 M1700 徳川光圀73才にて死す
 N1715 「大日本史」伝記部分なる

 世はキリスト教の台頭と弾圧・処刑の時代であった。
 光圀も芭蕉もそんな時代の中の人であった。
 光圀は本当は何をしたのか、日本書紀よりの伝統から神功皇后をはずし、
また、南北朝における正統を北朝としたことが「大日本史」の特徴である
という。
 でも、本当の目的は、ヘブライ隠しであったのではないか。キリスト教
の普及にとって、ヘブライの伝承はある意味その整合性・正当性を証明す
るものであるからである。ヘブライに関係する文書・口伝は取り上げ・禁止
しなければならなかった。
 また、幕府側からすると、天皇を天孫、ルーツを神とすることで、天皇の
権威を保ち、かつ天皇から国の政治・統治を委任されているという形なら、
一点の曇りもなく徳川の正当性は示され、国体が保たれるという考えが
あったに違いない。
 では、芭蕉はキリスト教とどう関係するのか・・・今のところその関係
の存在を証明する手がかりは見つかっていない。ただ隠密的なにおいはし
てくるのだが、もしそうだとすると何のミッションがあったのか・・・?
それらの真実を知りたいと思っています。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月06日 05時17分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


ビックリです。

>神功皇后をはずし、
>南北朝における正統を北朝としたことが「大日本史」の特徴

>本当の目的は、ヘブライ隠しであったのではないか。
>キリスト教の普及にとって、ヘブライの伝承はある意味その整合性・正当性を証明するものであるからである。
>ヘブライに関係する文書・口伝は取り上げ・禁止しなければならなかった。

>幕府側からすると、天皇を天孫、ルーツを神とすることで、天皇の権威を保ち、
>かつ天皇から国の政治・統治を委任されているという形なら、
>一点の曇りもなく徳川の正当性は示され、国体が保たれるという考えがあったに違いない。


すごぉ〜い!

目から鱗ですね。
いやぁ〜、こういう展開になるとは全く想像もしていませんでした。

ありがとうございました。


キリシタン禁教がこういう展開になるとは。。。


芭蕉は本当は何をやっていたのでしょうね。
諸国の情報収集は何についてだったのか
まさかキリシタン?



>それらの真実を知りたいと思っています。

面白いですね
俳句の師匠としてその土地の事情を探り易かった?

芭蕉のミッションは何だったのか知りたいですね。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月06日 09時34分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ヘブライというごも概念もひょっとしたら当時はなかったかも知れません。
 しかしながら、天孫降臨・万世一系をより堅固なものにしたということは、
ヘブライ的要素のある記録を一切排除したということになるので、同じこと
となる。
 林羅山は徳川体制の思想的分野の発信者であった。その羅山が亡くなった
1657年に光國は『大日本史』の編纂にとりかかっている。その時招いた
学者は、林羅山の門下生が多かった。
 @人見塘林
 A小宅處斉
 B辻端亭
 C真幸筆海
 その他著名な学者多数。契沖とも接触を保った。

 『大日本史』編纂中にこんな事件も発生している。
 @1679年 潮音『旧事本紀大成経』を刊行
 A1681年 伊勢神宮の神主『旧事本紀大成経』の刊行停止を幕府に上訴
        『旧事本紀大成経』及び版木を焼却。潮音・永野采女を処罰
 B1682年 『旧事本紀大成経』の発売禁止
 これは即ち、物部隠しであった。

 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月06日 12時26分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

こんなのがヒットしました:

http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage4-1.html

伊那の谷から古代が見える
 八意思兼尊(阿智彦)の 生い立ち 生涯が明らかになる。

古代史から消し去られた古代の六家の一つ、
阿智家の秘密を解く!

【 ホツマツタヱ 】
高皇産霊神の子であり、手力男神の父であるところの、八意思兼尊やごころおもいかねのみことの生い立ちや生涯が、ホツマツタヱに記されている。
子の手力男神は戸隠へ祀られて、やがて阿智の社家は 10世紀、村上天皇の御代に身を寄せるかのように全員戸隠に移ってしまった。
ホツマツタヱは、アズマツタヱであるとも言う。
しかし史実を裏付ける ホツマツタエ は、異端視されている。

『 先 代 旧 事 本 紀 大 成 経せんだい く じ ほん ぎ たい せい きょう 』

「 神 代 皇 代 大 成 経 序かんみよ すめみよ の おほひなる つねのりの ついでぶみ 」




一般に『先代旧事本紀』(略して『旧事紀』ともいう)と呼ばれているのは、聖徳太子撰 と伝えられる十巻の史書であり、その存在はすでに平安時代から知られていた。
また延宝七年刊の「先代旧事本紀大成経」は、神道を宗とする儒仏神三教調和思想のもと、神代からの世界の成り立ちと、天成、皇政の歴史、さらに人倫世界の日常の心得までもを記した、全七四巻の大著である。
長野采女、按察院光宥、広田担斎や、潮音同海らが係わったとされ、後に物議を醸す「先代旧事本紀 大成経」ではあるが、吾道家の存在が明らかになる。




先代旧事本紀大成経事件
延宝7年(1679)、江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』(七十二巻本)と呼ばれる書物が発見された。
この大成経の内容が公開されると大きな話題となり、学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになった。
大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、伊雑宮が日神を祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるようなものであることがわかり、内宮・外宮の神職がこの書の内容について幕府に詮議を求めた。
天和元年(1681)、幕府は大成経を偽書と断定し、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書物を持ち込んだ神道家・永野采女と僧 ・潮音道海、偽作を依頼したとされた伊雑宮の神職らを処罰した。

伊雑宮事件
この事件に先立つ20年前に、『伊雑宮事件』が起きていた。
伊雑宮の神人たちは所領回復のために明暦四年(1658)、「伊雑宮こそが日本最初の宮で、のちに内宮ができ、次いで外宮が鎮座したので、内宮、外宮は伊雑宮の分家である」という「伊勢三宮説」をであると主張し、再建願いを出した。
これをうけ、もともと十別宮のひとつである伊雑宮のことなど歯牙にもかけていなかった伊勢内宮としても、皇祖、天照大神鎮座社の地位を奪われかねない事態の発生を 看過してはいられなくなった。
元号は変わっても同じ年の万治元年(1658)、内宮はその上申書に添えられた証拠の神書を偽作と訴えて反撃に出た。
そして結局、朝廷によって、伊雑宮は内宮の別宮で、祭神は伊射波登美命と裁定された。
その結果として、寛文二年(1662)、幕府は伊雑宮を内宮別宮の一つとして再建することにした。
しかし、伊雑宮の神人たちにとってそれは承伏できないことであった。
四代将軍、家綱に直訴したところ、 寛文三年(1663)、神官四十七人の神人が偽書提出によって、伊勢・志摩からの追放処分の憂き目にあった。

大成経は、偽書と断定され今日まで来ているが、詰めていくと日本書紀の記述内容の論争に行き着く。 いわゆる宗旨の争いなのである。



上記の事件は、伊雑宮と伊勢神宮の権力闘争である。
大成経は、偽書と断定され今日まで来ているが、詰めていくと日本書紀の記述内容の論争に行き着く。 いわゆる宗旨の争いなのである。
はたして江戸時代の創作であるのか? 否である。 
大御食神社の社伝記と同じく、時の体制(既得権益者)にそぐわないものは排除されるという法則は、世の常であるが、しかしそれを偽と決めつけることは、正しくない。
徳川幕府により偽書とされた先代旧事本紀大成経は、まさに体制(既得権益者)にとってそぐわないものであったのである。



「神代皇代大成経序」から何が読み取れるのか?

神代皇代大成経序には、「吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の 六家の、祖先人のことを記した 家蔵の記録を集めさせ、云々・・」 とあることから、吾道家なるものが存在したことは間違いない。
別記記載 【ホツマツタエ】 には、阿智彦(思兼の尊)の存在が語られ、神代皇代大成経序では 吾道家の存在が明らかになっている。
しかしなぜ、正史からは 神代皇代大成経が偽書とされ、吾道家の存在が消されたのか?

例えば 大きなくくりの中の日本神道で、礼拝の方法(拍手の数など)で違いがあるのは、上古代に派が別れ、それぞれ統一されずに流儀を確立していった、と考えられる。

また、やはり古代文字で書かれた竹内文書などに記された、天神7代、上古25代、鵜草葺不合朝73代の天皇家の存在は、神武以降の天皇家を戴く勢力には、とても容認できることではなかった。
なぜなら、枝分かれした後継者らが それぞれの大義(正統性)を掲げて 権力継承を主張したら、内乱になったであろう。
それが、記紀を作成した理由に外ならない。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月06日 12時27分31秒 ) パスワード

http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage4-3.html

『 先代旧事本紀大成経 』
「 神 代 皇 代 大 成 経 序 かんみよすめみよのおほいなるつねのりのついでぶみ 」
 の 本文翻刻です。 

阿智家に関する部分を 記します。



【前段解説】
 推古天皇の言葉として記され、聖徳太子が奏上するには「わが国は 神国であり 天皇は 日の神の子孫である」と 述べる。そして神徳が盛んな時は 国は豊かゆえに 神道と 国家皇政の道が不可分であると 説く。
 しながら 神代は 年々が過ぎて いくごとに隔たり、先皇の行跡は 日々が過ぎて いくごとに 隔たるが、それは 「近世の史家(このごろの ふみつかさ)は、或いは秘し、或いは偏りて 而も 私無きことを得ず。」と 警告をする。
 それゆえに「天皇は、先代にあった出来事を 忠実に記して、後の天皇の永久の鏡として、それと 違わない法を 定めなければ ならない」と上宮太子は 訴える。

【続き本文】
 曰く、「皇太子の 慮(おぼ)す所、是又 朕恒の 慮す所也。 願わくは 大王、之を 権度。」
 即ち 大臣蘇我馬子の宿祢に 命て、内つ文、及び 吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪 六家の、祖神先つ人の 之を 録せる書記を 集めしむ。 中臣の御食子に命して、大臣と 与に 著録 を 奉行しめ下ふ。

【本文解説】
 これを聞いた 私(天皇)は 次のように 答えた。
「上宮太子の御意見は、また自分も兼ねて思慮していたことで ある。 どうか 大王上宮太子よ、御配慮なさって下さい。」と。
 そこで太子は、蘇我馬子の宿祢に 命じ、朝廷にある記録と、吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の 六家の、祖先人のことを記した 家蔵の記録を 集めさせ、また 中臣御食子に命じて、馬子大臣と共に 歴史の編纂をおさせになった。

 ・・・・この後 上宮太子は、集めた記録をご覧になってこう言われた。
「神代の事を見ると まだ 全く分明ではない。隠し文があるのではないか」と。
 忌部と占部が答えるには
「記録は 惜しんでないが、磐余彦天皇の御代に 本の祠に安置した、祖神の土笥(はにはこ) があります。」 という。
 平岡宮(忌部氏縁の社)と 泡輪(安房)宮から賜った 土簡五十筒の土笥は、上宮太子に 献上された。
そこには 神代の出来事が すべて明らかに 記されてあった。

  ・・・・以下 略
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月06日 12時31分29秒 ) パスワード

 吾道彦(思兼尊)の末裔・阿智神社社家が、
       戸隠神社へ移遷した理由は何か?

10世紀 村上天皇の御代、吾道家の社家は戸隠神社へ移遷してしまう。 
伊那谷に何があったのか? 中世日本の歴史が見えてくる。
神代皇代大成経事件が、神武朝の正統性を賭けたものだとすれば、阿智神社社家の戸隠移遷は、次なる支配者・藤原朝の覇権の影響にほかならない。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月06日 12時38分43秒 ) パスワード

http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage4-2.html

復習:去年読みましたが忘れていました。

ホツマツタエ    (国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀 (和仁估安聰訳述)
訳  高畠 精二
http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya01.html


ホツマツタエ 天の巻  1 アヤワカ姫の恋、和歌(ワカ)初め

 イサナミの父 トヨケ(伊勢外宮祭神・豊受大神)は、天神六代目のオモタルと カシコネの 両神(フタカミ)に 世嗣(よつぎ)の皇子(みこ)が無いのを 大変 心配しておりました。

 この神々は 八洲(やしま)を くまなく巡って 新田開発を 進め、民の暮らしを 豊かにし 国の統一を 計りました。 しかし嗣子(つぎこ)に 恵まれないばっかりに、両神 亡き後、国は 再び千々に乱れて 民は 土地を離れて さまよい、物乞や 盗みが 横行して 巷には 餓死者が あふれていました。 良き 君を失った 民の心に 暗雲が たちこめ、皆病に苦しんで いました。

 事ここに極まった時、トヨケは 一大決心をします。 自分の娘の イサコを、先祖の遠戚に当たる タカヒトと 結婚させ 七代目の皇位を 嗣がせることに します。

 本家筋の トヨケの願いとはいえ、イサコは ヒタカミの国(旧、陸奥)で育ち、タカヒトは ネの国(北陸)の出身です。若い二人とはいえ、言葉や習慣の違いを乗り越えるのには 時が必要で なかなか 同意しませんでした。 二人の仲を 最初に取り持ったのは ハヤタマノオですが、結果を急ぎすぎて 失敗に終わって しまいました。 次に仲人を買って出た コトサカノオは、じっくりと 事の大切さを解いて 聞かせた 甲斐あって、やっと 橋渡しに 成功して 二人は一緒になることに 同意しました。

 イサコの 慣れ住んだ 仙台地方と、タカヒトの育った 金沢から お互いに歩み寄った ツクバに 二人のために 新しい宮を 建てることに なりました。 この宮は イサ川(現・桜川)から 少し離れた 台地に 造られたので、イサ宮の離宮と 呼ばれました。

 新築なった イサ宮で タカヒトと イサコは、お互い 心を開いて うなずき合い、生涯一緒に 国の再建に 身を尽くすことを 誓い 合いました。 この日以来 タカヒトは イサナギを名乗り、イサコは イサナミを 名乗って 七代目の天神となりました。

 イサナギと イサナミが ツクバのイサ宮で 新婚生活に入った時の ことです。

 コトサカノオが お二人に なんとか 打ち解けてもらいたいと 考え、床入りの ササ神酒(みき)を お進めしました。先ず 男神が 女神に進めて、女神が先に呑んだ後 男神に進めて呑みました。 この後 男神が 女神の体調を尋ねると、イサナミが答えて、「私には 備わっていますが、何かが足りない 女陰(メモト)というものが ございます」

 イサナギも答えて、「実は私には 余りある物があります。 お互いを和合(アワ)させて 子供を産みましょう」 と言って 二人は床入りし、情熱のおもむくままに 交わって子供を孕(はら)み、誕生した女の子の名前は、昼に生まれたので ヒルコ と 名付けました。


             ヒルコって昼に生まれたから?

 しかしながら ヒルコが 生まれた年は、父 イサナギ40歳、母イサナミは31歳で、2年後には 男42歳、女33歳の天の節で 大厄に当たります。 運悪く この節目に 悪霊(あくりょう)が 宿れば、女の子は 父の汚(けが)れに 当たり、男の子は母の災いと なると いいます。

 ヒルコは両神の慈しみを 一身に受けて 育てられ、まだ三年にも満たないと いうのに、親の元から引き離されて岩樟船(イワクスフネ)に乗せ 捨てられました。 下流で カナサキ(住吉神)が拾い上げて、妻の エシナズの 乳を得て 何不自由なく 我が子同様に 育てられました。

 実は この時、妻エシナズは 不幸にも 我が子を 失ったばかりでしたので、それはもう 我が子に再開したような 喜び様でした。

 カナサキは いつも優しい 潮の目で ヒルコを目守ってやり、「アワウワヤ」と 手拍(てうち)をして あやしていました。ヒルコの 誕生日には 炊きごはんを 神様に供え、初めて食事の とり方を教えて、立居振舞も 手を取って 習わせました。

 三年目の冬には 髪置(かみおき)と言って、幼児が初めて髪を伸ばす儀式も 済ませました。 新年元旦は 餅をつき 天神地神に供えてから、親族が集まって 新年を祝いました。 三月三日の 桃の節句には 雛祭をして遊び、五月五日は 菖蒲(あやめ)を飾って 粽(ちまき)を食べました。 七月七日は 七夕(たなばた)祭で、九月九日は 菊の花と 栗を供える お祭です。

 五年目の冬には 男子は 初めて袴(はかま)をはいて、女子は被衣(かずき)を 着ます。又 5歳からは 常にアワ歌を教えて 言葉を 正します。

  カハナマ   イキヒニミウク
  フヌムエケ  ヘネメオコホノ
  モトロソヨ   ヲテレセエツル
  スユンチリ  シヰタラサヤワ

 この様な 年中行事を経た ヒルコ姫は、今では 美しい乙女に 成長しました。 厄も きれいに 川の水に 流された今、再び両親の元に 呼び戻されて、兄の 天照神の 妹(イロト)として復活し、ヒルコの名も ワカヒルメ と 変わりました。

 先に イサナギ、イサナミは ツクシ(筑紫)に行き、ツキヨミ(月読)を 産み 育てました。 ツキヨミは 日の光を受けて 輝く月 と して、兄天照の 政務を助けるように と、後に 宮中に上がりました。 その後 両神は、ここ ソサ(現・熊野)に来(キ)たりて 宮殿を建造して 静(シ)かに居(イ)ましたので、この地方を キシイ国(紀州)と 言いました。

 ここでも イサナギは、クニトコタチ(国常立)の 常世(とこよ)の花である 橘樹(たちばな)を植えて 国造りをして トコヨ里と呼びました。 先に捨てられた ヒルコ姫も、今は 母とともに 睦まじく生活(くら)しました。

頃は春、花の下(もと)で 歌を教えてもらっている最中に 母が出産し、男の子を産んだので 名前を ハナキネと 付けました。 成長して後の ソサノオ(須佐之男)です。

 ここ ソサ(熊野)で成長した ハナキネは、母譲りの 美貌と歌の才に恵まれた 姉に、歌について 質問をしました。

 「和歌は なぜ 五・七調に綴るのですか」 姉は、「それは 天地(アワ)の節(ふし)です」 と 答え、又 ハナキネが 問うて、「それでは 何故、祓(はら)いの歌は 三十二文字で、一般には三十一文字 なのですか」 すると姉は、「和歌の 三十一文字は大変理にかなっていて、天を巡る この地球(クニタマ)の 公転(メグリ)は 一年を 三百六十五日で回ります。 この一年を 四季に分け、又、上旬、中旬、下旬に分けると、約三十一となりますが、月の方は 少し遅くて 三十足らずです。 しかし 真(まこと)は三十一日です。五月から八月の間は 約三十一日強となり、後が 先に掛かるので 三十二日にもなります。 この変則の間(ま)を 窺(うかが)う 汚(けが)れや、災いを 祓う歌の数が 三十二です。

 美しく 四季られた敷島(しきしま)の上に 人として生を受けた 私達は、男子は 三十一日目に 産土神(うぶすな)にお礼参りをし、女子は三十二日目にお礼参りをするのも、この地の恵みに 感謝するためです。 これにより 敷島を 和歌の道 と 言います」

 その後、時移り アマテル神(天照神)が イサワの宮(伊雑宮)に坐して 政治(まつり)を 執っておられる時の事です。
 キシイ(紀州)の国から 矢継早に 伝令が飛びきたり、「キシイの 稲田(いなだ)に ホオムシが 大量発生して、稲が 大被害を受けました。 一刻も早く オオン神(天照神)の 御幸(みゆき)を お願いして、稲虫祓いを してください」と 繰り返し 願い出ました。

 運悪く その時 オオン神は、トヨケの神の亡き後を継いで アメノマナイ(真奈井)に 御幸(みゆき)後の事でした。民の嘆きを聞いた ムカツ姫(中宮・セオリツ姫ホノコ)は、何とかして 民の嘆きに答えたい一心から、とりあえず ワカ姫共々 現地に馳せ参じて、行動を 開始しました。

 ワカ姫は 先ず、田の東に立って オシ草(玄人)を片手に持ち、もう一方の手に 持つ 桧扇(ひおうぎ)で 扇ぎたてて、即興の歌を詠みながら ホオムシを 祓いました。 すると 虫が飛び去ったのを見たムカツ姫は、三十人の姫達を 二手(ふたて)に分けて 田の左右に 佇(たたずま)せて、皆一緒にワカ姫の作った 稲虫祓いの和歌の 呪(まじない)を 歌わせました。

 くりかえし、繰り返しして 三百六十回歌い続けて、最後に オシ草と 桧扇(ひおうぎ)を 皆が一斉に どよませ 大声を上げれば、虫はザラッと 一気に 西の海の彼方へと 飛び去り、稲田は 元の様に 鎮(しず)まりました。

 これが 稲虫祓いの 和歌の 呪(まじない)です。

 稲種(タネ)・畑種(ハタネ) 大麦(ウム)・小麦(スキ)
 ・大触豆(サカメ)、 大豆(マメ)・小豆(スメラ)の 
 ゾロ(稲)葉(は)も 喰(は)めそ、 虫(むし)もみな鎮(し)む

 この ワカ姫の歌により 無事災いは 祓われて、再び稲は 元通りに 若やぎ、蘇(よみがえり)りました。

秋には ゾロゾロと 稲穂も揃って実り、暗い鳥羽玉(ぬばたま)の夜が明けます。 この秋、民百姓は 大豊作を迎え、豊かな糧(かて)を得て 喜び祝いました。 民の顔も 明るく晴れて、お二人への 返礼として 感謝の心をこめ アヒノマエ宮(天日前宮)と タマツ宮(玉津宮)を お造りいたしました。

 アヒノマエ宮は 中宮ムカツ姫のご滞在になられた宮で、タマツ宮は ワカ姫のために 捧げられた宮です。 後にムカツ姫は イサワノ宮にお帰りになられたので、アヒ宮を クニカケ(国衛)として残し、ムカツ姫の 御陰(みかげ)を 世々に 伝えました。 (現・国懸神社)

 ワカ姫の歌の御霊(みたま)を 留め置くのが タマツ宮です。
 枯れたる稲を 歌の力で 若返らせた心意気を残そうと、この国の名を 和歌の国と 名付けて今日まで伝えています。 善良で 気持ちの良い キシイの民は、ワカ姫を 心から歓迎して お仕えしました。 ワカ姫も又、民の心ばえに良く応えて、この美しい和 歌の浦に 一人留まり、民の心を和して 政(まつり)を執り 静かな時を過ごしました。


 そんな ある日のことです。 アマテル神のオシカ(勅使)として タマツ宮に遣(つか)わされたアチヒコ(阿智彦)に会ったとたん、ワカ姫は 恋焦(こいこが)れてしまい、苦しい 女の胸の思いに耐え兼ねて 和歌の歌を詠み、歌冊(ウタミ)に染めて 思わずアチヒコに進めてしまいました。 アチヒコも 何気なく つい手に取って見れば、

  キシイ(紀州)こそ 妻を身際(みぎわ)に 琴の音(ね)の
  床(とこ)に我君(わぎみ)を 待つぞ恋(こい)しき

「紀州に いらっしゃい。 私は貴方の妻になって いつも御身(おんみ)の近くで 琴を奏(かな)でて さしあげましょう。 寝床ではいつも 我君(わぎみ)を恋しい思いで お待ちしています」

 これを見たアチヒコは 突然の恋の告白に たじろいで、思えば 仲人(ハシカケ)もなしに どうして 愛を結ぶことが できようか。 と、何とか返歌せねば と 思えば 思うほど 焦りが先にたって ついに返せず、言葉(コトノハ)に詰まって、「待って下さい。後日 必ずお返しします」と言うや、その場を 何とかつくろって持ち帰り、宮中に走り至ると 諸臣(もろとみ)に相談しました。 何しろアマテル神の 美しい妹に 恋されたのでは、うれしいやら困ったやらで 戸惑いを隠せません。

 と、一部始終を聞いていた カナサキ(住吉神)が 静かに お話しを始めました。 「この歌は、受けたからには もう絶対絶命、返事(カエゴト)が できない 上から読んでも 下から読んでも グルグル巡りの 回文歌(マワリウタ)です。 私も アマテル神の 御幸(みゆき)のお供で 船に乗っていた時のこと、暴風が激しくて 波が高いのを 打ち返そうと 回文歌(マワリウタ)を詠み、

  ながき夜(よ)の 遠(とお)の眠(ねぶ)りの 皆目覚(みなめざ)め
  波乗(なみの)り船(ふね)の 音(おと)の良(よ)きかな

 と詠ったところ、やがて風が止んで 波は静かになり、船は心地よく アワ(阿波)の湊に着きました」 と 話されました。

 しかし それを聞いても、アチヒコの心は未だに 乱れて 落ち着きません。

「ワカ姫に返歌をしなければ。 愛に どう答えれば よいのでしょうか」 と、又聞けば、ここで アマテル神の詔がありました。 「今こそ、カナザキの船に乗り受けて 夫婦(メオ)となるなり」

 この後、アチヒコと ワカ姫は カナサキの船が 縁をとりもち、今はヤス川(野州・やす)辺に宮を造り、名もアマテル神の妹 シタテル姫となり 幸せに暮らしました。

 この頃、中宮の セオリツ姫は 伊勢のオシホイ(忍穂井)の耳(みみ・縁)に 産屋(うぶや)を造って 日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)を無事 出産されました。 オシホイに因(ちな)んで 真名(イミナ)を オシヒトとつけ、称名(タタエナ)を オシホミミと 聞こし召しました。 イサナギ存命中は タガ(多賀)の若宮で育てられましたが、いよいよイサナギ臨終の時に及び、君はオモイカネと ワカ姫に 養育を託されました。

 今は アメヤスガワ(天野州川)辺で、オモイカネと ヒルコ姫は 皇子(みこ)オシヒトを守り育てられながら、ネ(北陸)と サホコチタルクニ(山陰)を同時に治めて、伊勢(男女の絆)を結んで 夫婦協力し 政(まつり)を執っていました。 この時期に誕生した男子の真名(イミナ)を シズヒコと言い、称名(タタエナ)はタジカラオ(手力男)です。

 宮中では、日増しに激しさを増す ソサノオ(須佐之男)の乱暴狼藉に ホトホト手を焼いていました。 ソサノオは アマテル神の后の一人を 過失とはいえ 死亡させるという 取り返しのつかない罪を犯して、今度ばかりは 宮号(みやごう)も剥奪されて、下民(したたみ)として 宮中を追われて サスラオに身をやつし さまよい歩きました。

 さすらいの苦しい日々に いつも思い出すのは、唯一やさしかった姉の ワカ姫です。 せめて 一度だけ会いたいと の願いが やっと許され、ヤスカワ辺へと 向いました。

 ソサノオが ヤスカワの宮に 近ずくと大地は 踏み轟(とどろ)いて鳴り動き、驚いた姉のワカ姫は、最近のサスラオが 狂暴で危険なのを 以前から聞き知っていたので、宮の戸を固く閉ざして 中に入れませんでした。 「弟(オトト)の来るのは、良いことなど ありえない。 たぶん 父母が ソサノオに遺言した 任命(ヨサシ)の国、ネ(北陸)と サホコチタルクニ(山陰)を取ろうと 窺(うかが)いに 来たに 違いない」と、言い放ちました。

 この時の ソサノオの風体(ふうてい)は、揚巻(あげまき)をして 裳裾(もすそ)を束(つか)ね 袴(はかま)とし、大きな身体(からだ)に 五百個の玉を巻き付けて、腕には 千本入りの靫(ゆき)と 五百本入りの 靫(ゆき)を 両肘にくくり付け、弓弭(ゆはず)を ブンブンと振り回しながら、片手に剣を持って 突っ立っています。 ソサノオいわく、「何を恐れているのだ。 昔、遺言により ネ(北陸)に行けと あったではないか。 姉に目見(まみ)えてから 後に行こうと、遠路はるばる 会いに来たのだ。 疑わずに 善意を見せてくれ」と。 姉いわく、「真意(サゴコロ)は 何(なに)」ソサノオ答えて、「ネ(北陸)に着いた後に 子をつくり、もし女子(メ)ならば 我が身の汚(けが)れ、男子(オ)ならば潔白なり。 これ誓いなり」と 言い残して 立ち去りました。

 実はワカ姫には、弟ソサノオの仕業(しわざ)の真意を質(ただ)すべき 心のわだかまりがありました。 それはアマテル神の后の一人 コマス姫 ハヤコ と 弟との密通事件です。 姉が唯 一心を痛めるのは、この不祥事の後に ハヤコが産んだ、まだいたいけな 三人の女の子の行く末でした。 アマテル神は 后と弟の情事を知ってからも、この子達は 自分の宝であるとは言ったものの、結局はツクシ(九州)の ウサ(現・宇佐八幡)に 遠流(おんる)と決まりました。

 ハヤコと ハヤコの 姉 モチコ及び 三人の女児の 5人は、不承ながらも 中宮 ムカツ姫の説得を受け入れて ツクシに下りました。 しかし、中宮の決定を 怨んだ モチコと ハヤコは、三児を ウサに置き去りにしたまま 故郷に 逃げ帰ります。 そして弟 ソサノオの名を語って、「功をたてれば 国神(くにかみ)にとりたてよう」との 流言を流し、アマテル王朝への反乱を計り、この後 八年間に及ぶ 内乱の苦しみの淵へと 国中が呑み込まれて いきました。

 又ある日 ある時、クシキネ(大己貴)が諸国を巡って 農業指導をしている時のことです。災害で 食糧の乏しい村民の訴えに、つい誤って 獣の肉食を 許してしまいました。 と、天罰が当たり その年の秋、村の稲田に 稲虫が大量に 湧き出て 葉を食い荒らして しまいました。 驚いたクシキネは シタテル姫の坐す ヤスカワに馳せ参じて、稲虫祓いの教え草を習い 覚えて 急ぎ帰り、オシ草(玄人)を持って 扇(あお)ぐと、やはり ホオムシは 去って稲は若やぎ よみがえりました。 その秋 豊作となったので、喜んだクシキネは、自分の娘の タカコ(高子)を シタテル姫の元に 奉りました。

 その報を聞いた アマクニタマ(天津国玉)も 感激のあまり、娘の オグラ姫(小倉姫)を これも捧げて 仕えさせました。 シタテル姫は 二若女(フタアオメ)を召して 八雲弾琴(ヤクモウチコト)の音(ね)を 二人に教えて 楽しみました。

 後に ワカ姫が日垂(ひた)る時(臨終)に、ヤクモ(八雲弾琴)と イススキ(五弦)と カダガキ(三弦琵琶)の奏法を タカ姫に免許皆伝し、タカテル姫の名前を 新たに賜わりました。 又和歌の奥義を記した クモクシ文(雲奇文)は、オグラ姫に捧げて、なおも 自分と同じ シタテル姫を襲名させ、神上(かみあ)がってから後に、和歌国(わかくに)の タマツシマ(玉津島)に祭られて トシノリ神(歳徳神)と称えられました。

 アマテル神は 自ら 日の輪(太陽)に お帰りになることを 決心され、諸臣、諸民を集めて、后(きさき)の ムカツ姫に 遺し法(のこしのり)を されました。

 「私の亡き後、ヒロタ(現・広田神社)に行って ワカ姫と供(とも)に 余生を過ごし、女意心(イゴコロ)を 守り 全うしなさい。 私も トヨケ埋葬の この地 マナイガ原で サルタに穴を掘らせて 罷(まか)ろうと思う。 我はトヨケと 男(オセ)の道を守らん。これ 伊勢(いせ)の道なり」と、のたまい 洞(ほら)を閉じさせました。                              

終り
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月07日 10時37分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様
 
 芭蕉の生きた時代におけるキリシタン弾圧の状況について少し訂正いた
します。
 芭蕉が生まれたのは、1643年(寛永20年)で、その6年前に島原の
乱があり、4年前には鎖国の完成をみ、1年前にはキリスト教禁止令が出
されている。芭蕉が生まれた年にも、キリスト教禁止令が出されている。
 従って、鎖国と禁止令を境にして、芭蕉が俳諧で活躍する頃には、キリ
スト教弾圧の嵐はピークをすでに越え、徐々に沈静化してきていたと思わ
れる。
 この辺については、実際はどうであったのか、キリスト教徒は深く潜行
し、かつ増えていったのではないか。
 歴史における宗教の影響について考察する必要があると思っています。

 『旧事本紀大成経』についても「物部隠し」と言ったのは短絡的であり
ましたので、少し詳しく述べてみたいと思います。
 『歴史読本』の昭和63年11月号に「消された歴史書―古史古伝」と
いうテーマの特集が組まれております。その中で、古史古伝について次の
ような分析を行っております―

 「@まず、古史古伝にほぼ共通しているのは、これらの文書なり文献の
  ほとんどが、苛烈な古代の政治闘争における敗者側の家系にひそかに
  伝えられた伝承だというパターンをとっていることである。

  A古史古伝の中には、神武天皇以前のウガヤフキアエズの王朝が数十
  代続いたと記されているものがある。たとえば代表的古史古伝とされ
  る竹内・九鬼・宮下の各文書、それに『上記』がそうである。

  Bこのウガヤ朝以前にも、たとえば天神七代・上古二十五代とか、天
  之御中世十五代・高天原天神七代・豊阿始原国神五代というように、
  複数の王朝ないし神朝をおく場合が多い。しかも、注目すべきは、各
  王朝の交替期には、ほとんど大異変がからんでいることである。つま
  り、大異変史観とでもいうべきもので貫かれた文明史的構造をとって
  いる。

  C多くの古史古伝が、古代ないし超古代の王朝の交替、つまり革命を
  はっきり示しているにもかかわらず、いやゆる体制側の史書と同じく、
  いや、それ以上に、万世一系の皇統の連続性を強調していることであ
  る。
   この矛盾については、その内容の危険さから体制の弾圧を逃れるた
  めのカモフラージュであったか、または体制迎合であったかの場合が
  考えられる。また、筆写の際、原文の表現をそのまま採ることの危険
  性を意識して偽装したこともありえる。

  D古史古伝の空間的拡がり、つまり古代史の舞台を、日本列島内に限定
  せず、より広く日本列島外にまで拡大延長していることが注目される。
  これを、外八州史観というが、これはイザナギ・イザナミ二神の国生み
  を、この日本列島を構成する主要な八つの島(八州)とせず、世界の陸地
  を構成する主要な八つの大陸や大島とする発想である。

  Eこれは古史古伝がいわゆる偽書とされる根拠ともなるものだが、神代
  文字が、多くの古史古伝に大きな役割を占めていることである。中に
  は、『上記』や『秀真伝』のように全文、神代文字で記されたものもあ
  る。

  F古史古伝が告げるものは、古代における権力闘争の苛烈・醜烈さであ
  る。もちろん、古事記や日本書紀などからも、その政治・権力闘争の存在
  ははっきりしているが、それらの史書は、その権力闘争の勝者側が作成
  したものである。」

 体制側に不利なものは弾圧を受ける・・・これは世の常である。古代から
の焚書坑儒的なもの、あるいは廃仏毀釈的なものは繰り返し行われて来た。
ただ、その時代に身を置くことができないので、皮膚感覚でそれらの状況を
とらえることはできない。
 従って、江戸時代にどの程度の言論の統制があったのか、徳川光圀が何を
行い・何を行ったかの内容については今は把握していない。想像でものを言
うのはよくないが、仮説として打ち出し、それに向けて検証して行くという
ことなら許されるであろうと思っています。
 水戸黄門が助さん角さんを連れての漫遊記、助さん角さんは調査員で各地
にある資料を出させ、内容によっては没収したり、禁止させたりしたのでは
ないかというのが私の推測です。出版については、やはり検閲が行われ(その
具体的方法は調査しないとわからないが)、体制にとってまずいものは発禁と
されたり没収されたり罰を受けた・・・これらの仮説はいずれ検証して行く
つもりです。
 





[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月07日 13時34分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


>外八州史観というが、
>これはイザナギ・イザナミ二神の国生みを、
>この日本列島を構成する主要な八つの島(八州)とせず、
>世界の陸地を構成する主要な八つの大陸や大島とする発想である。

驚きました。
この発想は無かったです。



     「@まず、古史古伝にほぼ共通しているのは、これらの文書なり文献の
      ほとんどが、苛烈な古代の政治闘争における敗者側の家系にひそかに
      伝えられた伝承だというパターンをとっていることである。


そうですね
公的には敗者側の記録は抹殺されたでしょうね。

でも密かに伝わってる可能性も有り得ます。
例えば写しがあるでしょうし。


暗号のように普通の人には読めないように書かれているというのも有り得るでしょうし。



いろいろ、ここ数日、驚きを超えています。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE
       大御食神社(おおみけじんじゃ)
       長野県駒ヶ根市赤穂にある神社。


ここを読んでいて思わぬ拾いものもしました。
十湖の1つの候補に 諏訪湖 もあったのかと。



いろいろな方向から考える・見るというのは脳をもみほぐすことになって
面白いですね。

頭が固くなっている、というのを認識します。
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月07日 14時19分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たまたま私のところに『先代旧事本紀大成経』について解説した後藤隆氏
の本があります。先代旧事本紀大成経については一言で表現すると―
 「天皇家と六家(吾道、物部、忌部、卜部、出雲、三輪)が隠し持っていた
 秘録を基に、聖徳太子と秦河勝が実用書として再生させた失われし超古代
 の叡智七十二巻・・・ヒッタイト文明にまで遡る世界で最大最後の古史
 古伝」
というものである。
 詳しい内容についてはまたにしますが、全72巻が1679年に出版され、
伊勢神宮(内宮・外宮)の神官達の反発に合い、幕府より発禁・回収・処罰
を受けてしまった。
 ただ、この時の裁きは、幕府に対しきちんと届出をせずに出版したことへ
の咎だということが表向きの理由になっているという。
 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月07日 22時31分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


>幕府に対しきちんと届出をせずに出版したことへの咎だということが表向きの理由になっているという。

ということは
「世間を騒がす」
という理由からだったのでしょうね。



>伊勢神宮(内宮・外宮)の神官達の反発に合い、幕府より発禁・回収・処罰を受けてしまった。

伊勢神宮というのは江戸時代政治的にも力を持っていたんですねぇ。

    平民にも伊勢参りは自由だったというのは知ってましたが
    伊勢神宮は政治的にもかなりの力があった?


こういう部分は目から鱗です。
ありがとうございます。



>「天皇家と六家(吾道、物部、忌部、卜部、出雲、三輪)が隠し持っていた秘録を基に、
>聖徳太子と秦河勝が実用書として再生させた失われし超古代の叡智七十二巻・・・
>ヒッタイト文明にまで遡る世界で最大最後の古史古伝」

すごいですね。
ヒッタイトですか

ということは
昔の日本人は世界の広さを知っていた
ということですね。


聖徳太子の一族が虐殺されて消された歴史ですね。


江戸幕府はそういう知識を改めて闇に隠した
そのまま日本人は200数十年を過ごした

だからワタクシが知らなくて当たり前だったのですね。


古代文字というのは古代の人が使っていたのかも知れないけど
実は古代の記録を時の権力者に弾圧されないように
一族の中でだけ分かる暗号化ということかもですね。

   だから古代文字は偽物という話になるのかも。
   「古代文字は、古代(のことを権力者から隠す秘密の)文字」と言えば良かったのかも。

    現代に於いて「古代文字」と縮めてしまったから「誤解を受けた」のかも。


歴史の闇は深いですね。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月08日 08時51分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の言われることそのとおりだと思います。

 ただ、門外不出の極秘文書が、なぜそんな簡単に出版されることになった
のかということが不思議であります。そして、問題は、@まず原本をどこで
入手したかということ。どこに秘蔵されていたのか。Aさらに、出版するに
当っては、何の目的で出版したのか、全七十二巻の内容をすべて理解した上
でのことだったのかどうか・・・?
 @については不明です。
 Aについては、出版した僧の潮音は―
 「余は、三部の紳史および三部の神経を閲読したが、それらを読んでも、
 神道や神体、伊勢神宮への天照大神の御鎮座などに関する説は、いずれも
 秘密めかすばかりで明瞭を欠き、巻を置いても溜め息が出るばかりであっ
 た。本朝は神国なのに、なんで神道の教えは塞がり。神体は混雑し、鎮座
 の次第が紛糾しているのかと思っていたが、図らずも大成経を見るに及ん
 で、神道の精通、神体のの清明、鎮座の顛末の一々が明白になること、日月
 を見、暗夜に明かりを点ずるがごときであった」
と、「五瀬(いせ)三宮二社鎮座本紀序」の中で述べているという。

 続く―
[18]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月08日 10時56分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 僧潮音をいろいろ調べてみましたが、特に深い謎・秘密にはぶつかりそう
にありません。ただ、五代将軍綱吉とその母桂昌院が黄檗宗(黒瀧派 不動寺)
に帰依しているということで、そこに何か謎はありそうです。

 一番怪しいのは、出版を依頼した主要人物の一人「永野采女」であります。
あを様、この人物に深い謎の源泉がありそうです!
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月08日 13時16分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


@まず原本をどこで入手したかということ。どこに秘蔵されていたのか。

どこかに秘蔵されていたというのは有り得ると思います。


永野采女:

http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/20146176.html
以下コピペ


 今、私の論考は、鹽竈神社の謎を検証しようとしているうちに、江戸期の鹽竈神社中興の祖、伊達綱村の思想背景にどっぷりつかっております。


                     黄檗宗!
                      ↓
 伊達綱村の思想とは、表面的には黄檗宗でありました。これは斯界でも認める厳然たる史実です。


                     潮音道海!
                      ↓
 そうなると、私としては当然、同時代に存在した日本における黄檗宗のパイオニア、潮音道海に言及せざるを得なくなってくるわけですが、

どうもその潮音は、一方で『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』なる「偽書」を絶賛していた、ということがわかりました。




 しかし、何を隠そう、この『大成経』は、山下三次さんの『鹽竈神社史料』において、はっきり「偽書」と断罪され、無視されていた史料でした。

 正直なところ、私にとって『大成経』が偽書か否かは、とりあえずどうでもいいことです。

もっと言えば、私も「偽書」に間違いないと思っているくらいです――この場合の偽書とは、成立年代や撰者に偽りがある、という意味です――。


 しかし、偽書だろうがなんだろうが、おそらくは綱村の思想に影響を与えたこ
とは間違いなく、それが激しく疑える以上、私には無視出来ません。

 いずれ、『大成経』が偽書であり、仮に、潮音の共犯者、永野采女の手によるものだとしても、潮音ほどの人物にその立場を忘れさせるほど“熱い気持ち”にさせたわけですから、その完成度がずばぬけて高かったということは間違いないでしょう。

              永野采女
               ↓
 その場合、永野采女という無名の神官がいかに怪物だったかをも思い知るのです。


 原田実さんによれば、采女はあの天海僧正に「神儒仏三教一致」の教えを学んだそうで、また『長野采女伝』には、彼と交渉があった名士として、雲居僧正、心月観公禅師匠、一条関白などの名を見ることができるそうです。どうやら、采女はそのようなコネクションをフルに活用していたと思われ、なかなかしたたかな人物だったようです。

 それにしても、一介の浪人に過ぎない采女が、何故それだけの名士らと交渉を持てたのでしょうか。身分のうるさい江戸時代にあって、これは驚くべき事実と言わざるをえません。

 おそらく、私は、この永野采女という人物は、平安時代の空海や、幕末の坂本竜馬クラスの史上稀なる天才ではなかった、と想像しております。

 実は、彼らに共通して思うことがあります。

 彼らの超人的な活躍は、よく考えると、とてもあり得ない不自然さであり、本当に彼ら単独で成し得たものなのだろうか、という勘繰りが芽生えます。

 もしかすると彼らの血統的な背景が、私にその勘繰りを助長させるのかもしれません。



 例えば、空海は傍系とは言え佐伯氏、つまり大伴氏系の血筋です。しかも、空海が生まれた讃岐地方は、秦氏ら、渡来系の農民たちが多かったようです――司馬遼太郎さん『空海の風景(中央公論新社)』より――。


 一方、坂本竜馬は長宗我部氏に仕えていた家柄の末裔、すなわち秦氏系の末裔に仕えていた家柄の出です。


 大伴氏と秦氏、いずれも歴史の裏舞台において底の知れない神秘性と実力を備えた一族と言って良いでしょう。


 ちなみに、潮音の母方は「波多野(はたの)」姓でした。
 いずれ機会があれば、このあたりをもっと深く掘り下げてみたいと思っております。

 さて、現段階で一つだけ気になる事を言い残しておくならば、永野采女の家には代々「物部之家伝」なる神道奥義が伝わっていたようです。


 それが『旧事紀』あるいは『大成経』の原典に近いものかどうかはわかりません。


 『旧事紀』や『大成経』の原典についての私の考えを述べるならば、やはり記紀以前に実在していたのではないか、と思っております。

 そして、その撰者は、秦河勝であり、蘇我馬子であったのではないでしょうか。
 彼らが推古天皇の権威のもとに――あるいは馬子にもそれだけの権威があったかもしれません――、

実際に六家から強制的に集めたものであったことでしょうから、現在私たちの目に触れるものとはかなり異なる内容であったと思います。


 想像ですが、特に、名族物部氏の雄、守屋を滅ぼしたばかりでしたので、その鎮魂の意味も添えられていたのではないでしょうか。


 批判を恐れず極言すれば、私は『旧事紀』編纂のきっかけは、物部守屋の怨霊鎮魂にあったのではないか、とすら考えております。

                     物部氏
                      ↓
 平安時代に入り、衰微しつつあった物部氏が復権を目指し、かつて自家が提供した控えを中心にして、『旧事紀』を世に出したと思われます。


 しかし、あくまで目的は物部氏の復権でしょうから、最低限それを裏付けられればいいわけで、ほとんどの内容はあたりさわりなく記紀に迎合していたのだと想像します。だから「偽書」にもされず、長い間信用されてきたのでしょう。おそらく当初のストレートな内容などで復活させていたら、物部氏はますます衰微していたに違いありません。


 その後、永野采女の時代まで、既に700年以上の時間が流れておりました。


 私の仮説としては、采女は自家に伝わる「物部之家伝」なる神道奥義に、なんらかの補正を加えてあの膨大な『大成経』を仕上げたのではないかと考えております。

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月08日 13時19分17秒 ) パスワード

妨害が入って?読めません。


http://ameblo.jp/aries-misa/entry-11477187991.html


伊雑宮が本当の伊勢神宮だった!

聖徳太子の没後、長い年月を経た延宝7年(1679)に、その「先代旧事本紀大成経」が、伊雑宮の神庫から神道家の永野采女(うねめ・男性)によって発見 ...
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月08日 13時20分55秒 ) パスワード

http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/text8.htm
文字化けで読めません。

「大成経」と伊勢神道 - DTI

また、戸嶋惣平衛は追放、この本を版元に持ち込んだ神道家・永野采女と僧・潮音道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪、と関係者一同の刑も定まり、『大成 ...


弾圧があった、ということですね。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月08日 13時25分48秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E7%B4%80%E5%A4%A7%E6%88%90%E7%B5%8C

もう1度読み直します。


先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう、先代舊事本紀大成經)

『先代旧事本紀』を基に江戸時代に作られたと推測される偽書。
この文献をめぐって「大成経事件」(先代旧事本紀大成経事件、伊雑宮事件)が起こった。


1679年(延宝7年)、江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』(七十二巻本)[1]と呼ばれる書物が発見された[2]。この大成経の内容が公開されると大きな話題となり、学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになった。しかし、大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、伊雑宮が日神を祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるようなものであることがわかり、内宮・外宮の神職がこの書の内容について幕府に詮議を求めた。

               利権を奪われるのではないかの争いということですか


1681年(天和元年)、幕府は大成経を偽書と断定し、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書物を持ち込んだ神道家・永野采女と僧 ・潮音道海[3]、偽作を依頼したとされた伊雑宮の神職らを処罰した。後に大成経を始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販売が禁止された。しかし、幕府の目を掻い潜って大成経は出回り続け、垂加神道などに影響を与えている。



関連書籍[編集]
『先代舊事本紀大成経』全9巻 須藤太幹解読 先代舊事本紀研究会 2001年(平成13年)
安本美典 (編集) 『奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる』付編「 偽書『先代旧事本紀大成経』事件(もう一つの『先代旧事本紀』?―『大成経』偽書事件)」 批評社 2007年
今田洋三『江戸の禁書』 吉川弘文館 2007年
後藤隆『謎の根元聖典 先代旧事本紀大成経』 徳間書店 2004年
藤原明『日本の偽書』 文藝春秋 2004年
野澤政直『禁書 聖徳太子五憲法』 新人物往来社 2005年
小川龍『高僧 道海と消された経典』 幻冬舎 2007年(小説)

関連論文[編集]
佐藤俊晃「近世仏教者の神国意識:『近代旧事本紀大成経』と徳翁良高著の『神秘壷中天』」(印度学仏教学研究, 97 (49-1))
佐藤俊晃「潮音道海の神国意識: 『先代旧事本紀大成経』との出逢い前後」 (印度学仏教学研究, 100 (50-2))
湯浅佳子「『先代旧事本紀大成経』の「帝皇本紀」: 聖徳太子関連記事を中心に」 (東京学芸大学紀要: 第2部門 人文科学, 49)
湯浅佳子「『先代旧事本紀大成経』の「神代皇代大成経序」」 (東京学芸大学紀要: 第2部門 人文科学, 50)
岩田貞雄「〈皇大神宮別宮〉伊雑宮謀計事件の真相:偽書成立の原由について」 (國學院大學日本文化研究所紀要:33、 1974年3月)
古田紹欽 「徳翁良高に於ける宗弊改革思想の淵源 ―黄檗潮音道海との関係―」 『大倉山論集』2
古田紹欽「潮音道海の神道思想」神道宗教 75



脚注[編集]

1.^ 本項目で解説した書は「延宝版」、「潮音本」、「七十二巻本」などと呼ばれることがある。『鷦鷯(ささき、さざき)伝本先代旧事本紀大成経(大成経鷦鷯伝)』(三十一巻本、1670年(寛文10年)刊)及び『白河本旧事紀』(伯家伝、三十巻本)は異本。すべて『先代旧事本紀』を基にして江戸時代に創作されたと言われている。後に多数現れる「古史古伝」のルーツ、種本とみる人もいる。

2.^ 1675年(延宝3年)、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」より『聖徳太子五憲法』と称する書物が刊行された。この書物は聖徳太子の憲法は「通蒙憲法」「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」「神職憲法」の五憲法であり、「通蒙憲法」が日本書紀の十七条憲法であるとする。1679年(延宝7年)に現れた『先代旧事本紀大成経』巻七十「憲法本紀」は1675年(延宝3年)の『聖徳太子五憲法』と同じ内容である。

3.^ 潮音道海(ちょうおんどうかい、1628年−95年)は黄檗宗の僧。著書に『摧邪輪(さいじゃりん)』『坐禅論』『霧海南針』などがある。



関連項目[編集]

先代旧事本紀
偽書
物部神道


外部リンク[編集]
先代舊事本紀大成經
偽史・偽書の世界
『先代旧事本紀』と『大成経』
伊雑宮偽書事件顛末記
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月08日 13時29分40秒 ) パスワード

伊雑宮事件 - ようこそmonologueへ
fumio.music.coocan.jp/tuki06.htm


偽作依頼者とされた伊雑宮神官と共謀偽作者とされた浪人、永野采女と黄檗宗の僧、潮音らは流罪。戸嶋惣兵衛は追放という処分が決定した。 しかし、潮音は有名な高僧で ...


ここも妨害が入るのか読めないです。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月08日 13時33分24秒 ) パスワード

        聖徳太子が著したといわれる「未然本紀」の現代語訳、もしくはそれに近いものを探している

        ということでの回答



http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000048913



提供館
(Library)
埼玉県立久喜図書館 (2110009)
管理番号
(Control number)
埼熊-2008-003

事例作成日
(Creation date)
2008/03/27
登録日時
(Registration date)
2008年11月13日 02時11分
更新日時
(Last update)
2008年11月21日 18時16分

質問
(Question)
聖徳太子が著したといわれる「未然本紀」の現代語訳、もしくはそれに近いものを探している。


回答
(Answer)
「未然本紀」の現代語訳に類する資料は見つからなかった。聖徳太子の著作としては、否定されているようである。
原文は、『続神道大系 論説編 先代旧事本紀大成経 4』に所収。p277-289「大成経69巻 未然本紀」にあり。(漢文)底本は武田本。


回答プロセス
(Answering process)
『国書総目録』によると、「未然本紀」は、「聖徳太子日本国未然本紀」。別名「聖徳太子未来記」「日本国未来記」「未来記」「未然本紀」ともいう。写本・版本あり、活字本なし。
以下の資料では、聖徳太子の著作としては、否定されているようである。
『聖徳太子の本』 「旧事本紀大成経」「太子未来記」「日本国未来記」についての記述あり。
『中世日本の予言書・未来記を読む』 「聖徳太子未来記」の記述あり。
小峯和明「「聖徳太子未来記」とは何か」(『歴史読本 1996年12月号』p134-140)
和田英松「聖徳太子未来記の研究」(『史学雑誌 第32編3号』)
『旧事大成経に関する研究』 「未然本紀」を偽書とした「未然本紀和解」(円海著)の記述の紹介が散見される。
『聖徳太子事典』 「潮音海道と永野采女の偽作」という記述あり。
『神道大系 古典編8 先代旧事本紀』 解題に「大成経」についての記述あり。
『「先代旧字本紀」考』p15 「『旧事記』の72巻本が「先代旧字本紀大成経」のこととあり。略して「「旧事大成経」。江戸中期、釈潮音と永野采女」が刊行」という記述あり。

「未然本紀」の記述がなかったもの
『旧事記訓解 白川家 30巻本』 「未然本紀」の巻なし。
『先代旧事本紀 訓注』『天理図書館善本叢書 41 先代旧事本紀』『続日本古典全集 7 先代旧事本紀 旧事記直日』『異端日本古代史書の謎』


事前調査事項
(Preliminary research)
《NDL-OPAC》を〈未然本紀〉で検索すると、「先代舊事本紀」が出てくる。
《埼玉県立図書館蔵書検索システム》を《先代舊事本紀》で検索すると、結果が32件表示される。


NDC

日本史 (210 9版)
著作.編集 (021 9版)


参考資料
(Reference materials)

『続神道大系 論説編 先代旧事本紀大成経 4』(神道大系編纂会 1980)

『国書総目録』(岩波書店 1990)

『聖徳太子の本』(学習研究社 1997)

『中世日本の予言書-未来記を読む』(岩波書店 2007)

『歴史読本 1996年12月号』(新人物往来社)

『史学雑誌 第32編3号』(山川出版会)

『旧事大成経に関する研究』(国学院大学内宗教研究室 1952)

『聖徳太子事典』(柏書房 1997)

『神道大系 古典編8 先代旧事本紀』(神道大系編纂会 1980)

『「先代旧事本紀」考』(ルーツの会 1987)




キーワード
(Keywords)


日本-歴史-古代 


聖徳 太子(ショウトク タイシ) 


未然本紀


著作



照会先
(Institution or person inquired for advice)


寄与者
(Contributor)


備考
(Notes)



調査種別
(Type of search)

その他

内容種別
(Type of subject)


質問者区分
(Category of questioner)

図書館


登録番号
(Registration number)
1000048913
解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
未解決
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月08日 13時38分04秒 ) パスワード

わたくしは現代人なので、疑ってかかる、という行動をとりたいのです。

ダメだ
と言われたら
納得できる理由を提示されなきゃ
アヤシイ
と思ってしまいます。


特に江戸時代以前は権力者が行政も立法も司法も支配してたわけですから
弾圧された理由に納得がいかないと反発します。


合理的な理由が欲しいものです。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月08日 15時03分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、ありがとうございました。

 永野采女が伊雑宮の神庫で発見したとされる「先代旧事大成経」、徳川
光圀は当然偽書としたということです。ただ、内容については解読したで
しょうから、日本の成り立ちの深い事情はより把握できたと思います。

 永野采女に伊雑宮の中に入れる資格・地位があったのかは疑問ですが、何
か「大日本史」編纂が始まった後に合わせて、陰の動きがあって大成経を世
に問うた。それはいわゆる確信犯的行為ではなかったのでしょうか。

 伊雑宮というのは、日本史上最大の謎を秘めているということが改めて
わかりました。先日伊勢に行ってきましたが、どうしても我々は内宮・外宮
ばかりに足が向いてしまいます。今度行くときには、伊雑宮へ真っ先に行っ
てまいります。

 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月08日 20時44分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


>今度行くときには、伊雑宮へ真っ先に行ってまいります。

いいですね。


>徳川光圀は当然偽書としたということです。

おいそれと認めるわけにはいかない事情というのがあったのかもですね。


    光圀という人は秩序を守る人でしたから
    後継者についても実子より兄上の子を後継者にというイメージですよね。


>それはいわゆる確信犯的行為ではなかったのでしょうか。

ですね。



明治時代でも、あ、昭和でも、現在でも?
日本人はずっと「自白主義」ですから
拷問でいくらでも当局の都合の良いように「証拠」が捏造されましたから

   光圀公が偽書と言っている  ⇔  光圀公も偽書と判断した

「光圀公」が決定したのかも知れないし
光圀の本心はどこにあったのか我々には分かりませんし


        わたくしは古代の神々のお名前が、各族によって呼び名が変わったから、たくさんあるのだ
        というのを知ったあたりの人間なので
        とても何も言う立場にありません。


        「古代文字」が漢字以前に日本にあったというよりは
         当局に弾圧されて自分達の先祖の歴史が消されるのなら
        「秘密文字」で記録しておこう 
         という方に1票です。


なので「先代旧事大成経」は貴重な財産だと思います。
永野采女が世に出したというのは(よくやった)と思います。

とにかくあの時代は「拷問」というのが合法だったんですから
     そういうことだったんだろうな
と思います。


光圀の性格を考えると(世の中を騒がせてはならない)というバイアスが働いたのかな
とも思います。


    1番の問題はわたくしには「読めない」という問題があるので
    偽書だと言われても素直に偽書だとは従えないです。

          国語力・読解力の問題があるので。



http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/20107125.html

伊雑宮は偽作を謀ったか
長谷川修さんの古代史観
「潮音道海」の陶酔

 黄檗宗黒瀧派を開いたほどの高僧潮音が、なぜ『大成経』の出版に携わったのかについて、彼はその理由にあたる心底を『五瀬三宮二社鎮座本序』の中で次のように述べております――後藤隆さん『謎の根本聖典 先代旧事本紀大成経 (徳間書店)』より――。

――引用――
「余は三部の神史および三部の神経を閲読したが、それらを読んでも、神道や神体、伊勢神宮への天照大神の御鎮座などに関する説は、いずれも秘密めかすばかりで明瞭を欠き、巻を置いても溜め息が出るばかりであった。本朝は神国なのに、なんで神道の教えは塞がり、神体は混雑し、鎮座の次第が紛糾しているのかと思っていたが、図らずも大成経を見るに及んで、神道の精通、神体の清明、鎮座の顛末の一々が明白になること、日月を見、暗夜に明かりを点じるがごときであった」

 これを受けて、後藤さんは次のような見解を語ります。

――引用――
 僧侶というのは、当時の知識階級である。その中でも潮音は、一つの宗派を立ち上げたほどの僧侶である。その彼が、古典をネタ本に偽作などを発表する必要があっただろうか。もし自分が書いたものであれば、堂々と自己の名で出版すればよかったはずだ。

 後藤さんの師匠である宮東斎臣さんは、『大成経』のウリでもある道徳及び政治思想を記す巻七十の「憲法本紀」の主題、「十七條五憲法」を、『聖徳太子に学ぶ十七條五憲法(文一総合出版)』なる本において、原書解説をしております。
 ちなみにその口語訳には後藤さんと青沼やまとさんという方が筆をとっております。

 『大成経』支持者に言わせれば、これこそが聖徳太子が提唱した真の「十七條憲法」だ、ということになるのでしょう。

 これは、原則となる17の理(ことわり)があり、それにのっとって全ての人に通ずる「通蒙憲法」、政治家への教えである「政家憲法」、儒者へ訓じた「儒士憲法」、神職へ訓じた「神職憲法」、僧呂に訓じた「釈氏憲法」なる5つの憲法を各々17條、合計102條を展開しているものです。

 俗に言う正式な十七條憲法の6倍の質量です。


 まず、これを見ただけでも、少なくとも伊雑宮の創作ではないことがわかるのです。

 それよりも、なるほど、これだけ体系化された立派な教義(?)を、仮に自らの発想で起草したのであれば――書籍の売り上げで印税が入る世の中ならまだしも――何も古典にこじつけて箔をつけることなどせず、自分の宗派の理論として発表しておいたほうが旨味があったのではないでしょうか。 

 なにしろ知識人の間で大流行するだけの説得力のある内容なのです。私なら自分の名前で発表すると思います(笑)。

 まあ、潮音と私を対等な次元で比べてはバチがあたるでしょうが――もちろん私に――、やはり、後藤さんの言うとおりかな、と思います。ただでさえ一宗派を立ち上げるほどの実力を持ち合わせ、権威においても将軍の師匠という申し分のない鎧を身にまとっている潮音が、何が悲しくて自分でも絶賛するほどの教義を、古典の偽作になどするものでしょうか。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月09日 08時01分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい大雨のようですが大丈夫でしょうか?
台風が近づいているようで無事に、お仕事、行って帰って来られますように。
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月09日 13時21分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今、台風17号が豊橋の西あたりに上陸しそうです。その影響で昨日から
大雨で浜松南部では冠水したところがあります。まだ雨は今後も降りそうで
すが、もう雨はうんざりです。

 さて、黄檗宗は短期間で飛躍的な発展をして行きます。その理由について
は、今後よく調べたいと思いますが、明〜清の文化のどこに魅力があったの
か・・・。儒教〜朱子学の流れが日本の国体の維持にマッチしたからであり
ましょうか・・・?
 1654年 明より禅僧隠元来朝。黄檗宗を伝える
 1657年 徳川光圀「大日本史」編集に着手
 1659年 朱舜水帰化
       隠元、宇治に万福寺を創建
 1675年 潮音道海(綱吉が帰依)、黄檗宗黒瀧山不動寺開山
       潮音『聖徳太子五憲法』刊行
 1679年 潮音『先代旧事本紀大成経72巻』を刊行

 そういえば、以前、京都宇治の万福寺に行ってお茶を飲んだことがありま
した。その時は、全く歴史・宗教を理解しておりませんでした。
 遠江の気賀には宝林寺がありますが、これは隠元の弟子、独湛が旗本近藤
家の帰依・加護を受けて創建しております。

 さて、こんな時代背景でありますが、元禄の少し前の時代から元禄の初期
にかけてが芭蕉の活躍期でありました。また、それは井原西鶴が生き、活躍
した時代とほとんど同じであります。庶民文学が興隆して来た時代でもあり
ます。

 芭蕉の実像の謎を解く鍵を探しております。しかしながらそう簡単には見
つかるはずもありません。
 今の所、あを様より教えていただいた、藤堂高虎との親戚関係と、10代
後半に奉公に入った旗本藤堂新七郎良精(よしきよ)・良忠(俳号蝉吟)との関係
が唯一の鍵であります。

 続く―

 
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月09日 13時48分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


>1675年 潮音道海(綱吉が帰依)

綱吉が帰依なんですか?
改めてビックリです。


http://kotobank.jp/word/%E6%BD%AE%E9%9F%B3%E9%81%93%E6%B5%B7-1091529

潮音道海 ちょうおん-どうかい

1628−1695 江戸時代前期の僧。
寛永5年11月10日生まれ。
黄檗(おうばく)宗。
山城(京都府)万福寺に隠元隆・(りゅうき)をたずね,その法嗣木庵性瑫(しょうとう)の弟子となり,のち法をつぐ。
寛文9年上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)藩主徳川綱吉にこわれ,広済寺をひらいた。
元禄(げんろく)8年8月24日死去。
68歳。
肥前小城郡(佐賀県)出身。
俗姓は楠田。
号は南牧樵夫。




潮音道海
ちょうおんどうかい
(1628―1695)

江戸前期の黄檗(おうばく)宗の僧。肥前(佐賀県)に生まれ、13歳で慈雲寺泰雲(たいうん)のもとで出家。

その後、医王寺の瑞巌(ずいがん)について修行、18歳のとき京都に上り学習した。近江(おうみ)(滋賀県)瑞石(ずいせき)山永源寺(えいげんじ)の如雪文厳(じょせつぶんげん)などに参学した。

1654年(承応3)長崎に行き、黄檗宗の道者超元について修行し、東明寺にとどまり、隠元隆(いんげんりゅうき)や木庵性(もくあんしょうとう)に学ぶ。

1661年(寛文1)京都黄檗山万福寺に赴き、ふたたび隠元、木庵に参じた。

64年、木庵とともに江戸に行き、池田秀峰(しゅうほう)、黒田泰岳(たいがく)に招かれて大慈庵に住し、
上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)の藩主徳川綱吉(つなよし)が創建した万徳山広済寺に招かれると、木庵を開山とし、自らは2世となる。

禅僧でありながら神道(しんとう)や真言(しんごん)宗の教義にも通じていた。

元禄(げんろく)8年8月24日に68歳で死去。

『摧邪輪(さいじゃりん)』『坐禅(ざぜん)論』『霧海(むかい)南針』など40巻余の著書がある。
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月10日 02時01分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 また古文書で時間をとられてしまいました。一字のために半日かかりまし
た。でも何とか解読できましたので気分はさわやかです。

 台風17号も雨はもたらしましたが、ひどい所でも床下浸水くらいですみ
ましたので、不幸中の幸いととらえた方がいいかも知れません。

 昨日は午後から浜北区の「万葉の森公園」へ10何年かぶりに行ってきま
した。その報告もしたいと思っています。特に柿本人麻呂関係であります。

 それと、芭蕉については、その謎を明示しておかなければ謎解きもできま
せんので、以下に述べておきます。
 その謎とは―
 (1)「奥の細道」即ち東北への旅の真の目的は何だったのか。
  @芭蕉は東北へ行って何を見て来たのか。
  A「奥の細道」は「狭き門」を意味しないか。

 夜も遅くなってしまいましたので、明日(今朝)にいたします。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月10日 04時58分18秒 ) パスワード

三つ柏さんへ


床下浸水あたりで済みましたか。
床下浸水でも「来た所」の人は掃除や後片付けで大変でしょうね。
お気の毒です。



ちょっとチョットちょっと!
すごいことになりましたよ!



賀茂真淵は浜松の人で
岡部政信の三男として生まれた。
岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で
御三卿田安徳川家の和学御用掛となって徳川宗武に仕えた。

    ここまではふんふんと読んでました。


賀茂真淵は教育者としても長じ、
門下には
本居宣長、荒木田久老、加藤千蔭、村田春海、楫取魚彦、塙保己一、内山真龍、栗田土満、森繁子
などがおり、県居学派と呼ばれる。



ここでビックリ
錚々たる人々です。

特に楫取魚彦には今年1番の驚きでしょうか?
伊能忠敬の親戚というのはどうでも良いのです。
わたくしが驚いたのは長州の楫取素彦との関係を知りたいのです。



楫取 魚彦(かとり なびこ、享保8年3月2日(1723年4月6日) - 天明2年3月23日(1782年5月5日))

江戸時代中期の国学者・歌人。
本姓は伊能氏で、父は伊能景栄(かげまさ)。名は景良。通称は茂左衛門。号は青藍・茅生庵(ちぶあん)。


生れは下総国香取郡佐原(現香取市)。
同郷で遠縁の親族が測量家の伊能忠敬(伊能三郎右衛門家)である。

       ということは「楫取」は「香取」から来ているのかもですね。



略歴[編集]
猩猩図 絹本墨画淡彩 江戸中期


はじめは俳諧をたしなみ、建部綾足の門に入って片歌をつくり、あわせて画を学んだ。画は余技であったためその作域は狭く、水墨の四君子、騰鯉図、富士山図、猩猩図などに限られている。

その後、賀茂真淵に師事して古学を修め、仮名遣いの書「古言梯(こげんてい)」を編集・出版した。賀茂真淵の四天王と称揚される。

著書には「古言梯」のほかに「万葉集千歌」「楢の嬬手(ならのつまで)」があり、歌集に「楫取魚彦家集」がある。


楫取姓の人々生息地    姓として第35,040位で生息者約100人いるかどうかの絶滅の危機
茨城県 7,373位 およそ10人
埼玉県 22,564位 およそ10人
千葉県 9,925位 およそ30人    
東京都 21,453位 およそ20人
大阪府 33,037位 およそ10人
兵庫県 25,271位 およそ10人
山口県 12,821位 およそ10人



楫取姓で有名なのは楫取素彦あたりでしょうか?
元の名は小田村伊之助。
そのまた前の名は松島。藩医・松島瑞蟠の次男。


     この松島は遠江の松島で良かったですか?
     それが小田村姓から江戸時代の終わりに楫取姓へ。

     なぜ楫取姓なのか?「舵取り」からならば納得ですが「楫取」というところに引っ掛かりました。


http://folklore.office-maeta.jp/a026.htm
関東地方の名字の特徴



伊能 ■ 伊能(いのう、いよく)
# 千葉県の名字で香取市に多くみられる。
# 伊能忠敬で有名な「伊能」は下総国香取郡大須賀荘伊能郷(千葉県成田市伊能)をルーツとし、豊後の緒方氏の一族。

# 群馬県吾妻郡東吾妻町の伊能氏は「いよく」と読む。
# 群馬県の伊能(いよく)家: 上野国佐位郡伊与久(群馬県伊勢崎市境)の出。後に岩井村(吾妻町)に移り住み、江戸時代には沼田藩士。


■ 香取(かとり)

# 千葉県北部の名字。
# 下総国香取郡香取郷(千葉県香取市)をルーツとする。
# 香取(かとり): 千葉県香取市。

      縑 = カトリ = 糸 ⁺ 兼 = 《「かたお(固織)り」の音変化》。目を緻密に固く織った平織りの絹布

     地名の由来は、縑取(かじとり)・楫取・梶取による説、縑織(かたおり)など縑絹(かとりぎぬ)による説、葛を採る葛取による説、神集(かんづまり)にちなむ説、経津主命が邪神を平定したことにちなむ勝取説、鹿狩りによる鹿取説、神鳥(かんとり)説など地名の転化に関して諸説がある。【角川日本地名大辞典】
# 参考地名: 香取(かんどり): 千葉県市川市香取。


そうしますと  楫取とはもともとは絹織物のことだったのかもですね。


楫取素彦はどうして「楫取」と名乗るようになったのでしょうね?


http://www.sankei.com/region/news/150307/rgn1503070054-n1.html

「楫取さんには先見の明」 松平NHK元アナが群馬知事表敬


公式ガイド本「NHK大河ドラマ『花燃ゆ』続・完全読本」の出版に向け、初代県令の楫取素彦(かとりもとひこ)の足跡をたどっている元NHKアナウンサーの松平定知氏が6日、大沢正明知事と楫取素彦顕彰会会長の中村紀雄県議を表敬訪問した。楫取が富岡製糸場や多胡碑などの保全に尽力したことを踏まえ、松平氏は「楫取さんには先見の明がある。群馬に来てすごい人だとひしひしと感じた」と語った。


        何故に「多胡碑」多胡がまたまた姿を現して不思議です。
        製糸工場も不思議です。カトリ  縑  がらみ?


 松平氏は4日から3日間の日程で県内の楫取ゆかりの地を訪問している。初めて訪れたという富岡製糸場には「陰の印象があったが極めて清潔で明るい建物だった」と振り返った。

 また、中村県議から当時“難治の県”と呼ばれていた群馬をうまく治めた功績などを聞き、「力によってリードするのではなくマインド、教育によって変えていくというのは大した政治家だ」と感心していた。

 表敬訪問終了後、松平氏は今回の大河ドラマについて、「楫取夫妻を知っている人は多くはないが、彼らの目を通して幕末から明治にかけての人たちの生き方をみていくと面白いのでは」と話していた。

 続・完全読本は産経新聞出版から発行され、5月末に発売予定。1千円(税別)。
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月10日 09時06分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 興味深いお話、ありがとうございます。ちょっとエンドルフィンが出かかり
ましたが、これから「かな文字の会」に出掛けます。

 帰宅後にまた―
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月10日 13時31分11秒 ) パスワード

三つ柏さん



(1)「奥の細道」即ち東北への旅の真の目的は何だったのか。
  @芭蕉は東北へ行って何を見て来たのか。
  A「奥の細道」は「狭き門」を意味しないか。



わたくしは  伊達藩の動向  を見に行ったのかな?と。
支倉常長を送っているし。


エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。

こうしてはるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所、仙台市青葉区北山にある光明寺(北山五山の1つ)、常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町に存在する。

その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。



Aについては「確かに変なタイトル」ですよね。
そして「狭き門より入れ」を連想しますね。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月10日 13時36分40秒 ) パスワード

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_163.html


松尾芭蕉の"奥の細道"に隠された深い意図


    すっごく面白いですよ。



一部コピペ



      枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

            訳:日が沈みかけた秋の暮に、ふと見ると、枯枝に烏がとまっている。

            延宝8年(1680年)、芭蕉37歳の作。
           (※なぜか、鹿島神宮の要石の傍に、この句碑があります)


      上記の句を詠んだ頃を境に、
      芭蕉は談林俳諧から脱し、蕉風俳諧へと転換していきます。。。

      言わば、芭蕉の転機となった頃の句です。



俳句についてはさっぱり分かりません。
ただ、芭蕉が芭蕉になっていく転換期の句、という説明が、へえ〜、でした。



以下略    芭蕉の句にカラスが詠まれているのは何故か?三本足のカラス?



[36]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月11日 01時08分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉がキリシタンであったという証拠は今のところ全くありません。だと
したら「戸来村」へどうしても行きたいという願望があったということは考
えにくい。もちろんキリシタンに対する理解がどの程度であったかは全くわ
かってはいない。ただ、奥の細道の旅に行く十年前に『旧事本紀大成経』が
出ている。芭蕉は門下生を通して見たかも知れない。少なくとも評判は聞いた
はずである。どんな評判だったのだろう? 天照大神はキリストだったという
ような情報があったであろうか・・・? この本は聖徳太子と秦氏が関係
している。厩の皇子というようなイメージはもたらされていたかも知れない。
でも、仮にあったとしても、芭蕉にとってそれがどんな価値があるのか・・
・疑問である。
 では「細き門より入れ」と「奥の細道」の似ているニュアンスについては
どう考えたらいいのか・・・? 私は奥の細道の結びの地大垣で詠んだ歌、
「蛤のふたみに別れ 行く秋ぞ」の二見ヶ浦、沈む太陽が海に映り蛤が口
を開けた形で輝いているというイメージにも、天照大神を感じるのですが
いかがでしょう。問題は天照大神がキリストであるということが本当かど
うかであります・・・? 飛鳥昭雄氏の本をまた読んでみます。

 それはそうと、一つ発見したのは、諏訪親族に岩波氏がおりましたね。
実は、芭蕉の伴の曾良は、もともとは岩波庄右衛門という名の武士、しかも
上諏訪の生まれでありました。前スレッドで岩波氏を調べていただきました
こと、ここでつながりました。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月11日 01時13分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:諏訪親族→諏訪神族
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月11日 03時35分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


曽良は河合さんだとばかり思っていました。
ビックリ!




曾良    そら    (慶安2年(1649)〜宝永7年(1710)5月22日)

 信州上諏訪の人。本名、岩波庄右衛門正字<まさたか>。


上諏訪の高野七兵衛長男として誕生したが、なぜか母の実家河西家に引き取られて成長。
その後、父の妹の婚家である岩波家に養子縁組して、岩波姓を名乗る。


『奥の細道』で「河合」姓が出てくるが、芭蕉の創作と思われる。 
曾良は、伊勢長嶋藩に仕えていたが、後に浪人となって江戸に上る。
貞亨年間の早い時期 (貞亨2年冬あたりか?)に入門した江戸蕉門古参の一人。

芭蕉より5歳年少。

「竹林の七賢人」ならぬ「深川の八貧」といって芭蕉庵に頻繁に出入りしていた芭蕉の最も信頼した弟子の一人(『雪丸げ』)。
後に、41歳の元禄2年『奥の細道』に随行。
その著『曾良旅日記』が残されたことで、『奥の細道』の旅の実際が明らかになった功績は大きい。

また、『鹿島詣』に 際しても宗波らと共に芭蕉に随行している。
曾良は、地誌や神道に詳しい教養人でもあったという。
すでに随行者として決まっていた路通に替わって曾良が『奥の細道』随行者となったのは、
彼に越後の村上にある旧主の墓参をしたいという都合があったこと、加えて地誌に精通していたこと が与かって大きかったらしい。 


曾良には、江戸幕府の御庭番(スパイ)を生業としていたなどという説があるがにわかに信じがたい。
ただ、宝永6年、61歳で徳川幕府派遣の巡見使に任ぜられて九州各地を監察して回り、
その執務中に対馬藩の壱岐勝本で死去したとされるなど、
幕府との関わりが有ったことは事実である。


壱岐で死んだというのに、
その後正徳6年に上州伊香保の温泉で曾良に会って旧交を暖めたという人が出てきたりして(並河誠所著『伊香保道記』)、
曾良の身辺はにわかにスリラーめいてきた。

宝永7年没。享年62歳。



すごい!
曾良が忍者なら芭蕉だってやっぱり隠密行動だったかも知れないですよね。


曾良が壱岐勝本で死んだことになっているのに、姿を見られていることは
ひょっとすつと半島や大陸に行ってたのかも知れないですよね。


歴史に名を残すような人はいろいろな所に行ってるのでしょうね。
そして
いろいろなことに精通もしている。


我々現代人のパック旅行や遠足や修学旅行感覚ではいけませんね。
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月11日 09時04分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 空の青様の「空」が頭の中で「曾良」に響いてしまいました。
 また、曾良の「曾」が蘇我氏(曽我氏)」の「曾」に響いてしまいました。

 本日、『高僧・道海(潮音)と消された経典』という本が届きます。
 『先代旧事本紀大成経』に本当のところどこまでの情報が示されている
のか検証したいですね。キーワードは「天照大神」と「伊雑宮」です。
伊雑宮と内宮・外宮の関係は、つまるところキリストと天照大神の関係で
しょうか。
 ただ秦氏がキリストをもたらしたとして、その時はキリスト教ではなく、
ユダヤ経に近い原始キリスト教であったので、ユダヤ教の下地の上にキリスト
を建てるということに違和感を感じます。
 神道の中で、それなりの「チェンジ」が行われたということでしょう
か・・・?

 芭蕉については結論を急がず、「急げば回れ」で行きたいと思っています。

 柿本人麻呂、空海もキリストの謎を知っていた・・・「咎なくして死す」
は空海説、人麻呂説があり、どちらも証人または参考人となる資格を有しま
す。もちろん、藤原不比等、持統天皇、天武天皇も同様です。でもやはり、
中核は藤原不比等・持統天皇ではないでしょうか。
 ところで、天照大神に卑弥呼をオーバーラップさせた張本人は誰でしたで
しょうか?

 藤原不比等は悪人(権力・自家繁栄の追及)なのか、それとも救済者(天皇制
国体維持)なのか・・・そこも最終的には結論を出さなくてはと思っています。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月11日 12時29分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 結論を急ぎ過ぎると失敗の元になりますので、積み木崩しのように
一つ一つ慎重に外して行きたいと思っています。

 徳川光圀についても、今のところよく把握をしておりません。徳川家
の中でも特異な存在であります。
 当然、水戸藩として忍者組織・隠密組織はあったはずです。そこを把握
しておく必要はあります。

 また、藤堂家は采女を中核として、当然ながら伊賀忍者・潜在忍者の全国
ネットを持っていたと思います。
 とすれば、芭蕉はその組織を利用することができたはずです。

 芭蕉でなければできなかったこと・・・そういえば思い出しました。忠輝
を保護したのは、諏訪家でありました。そして、忠輝はキリシタンで、伊達
正宗と親戚になっております。
 そして、曾良は諏訪神党。
 諏訪神党が諏訪関係者を偵察に行くということは矛盾しますので、二重スパ
イだったという方が理屈的には成り立ちます・・・。

 藤堂の伊賀ネットを芭蕉が利用しながら、伊達藩に対して二重スパイで情報
を入れ、そして、キリストについては、日本の神代の真実の確認のため戸来村
に行った・・・これが短絡的ではありますが、私の仮説であります。

 結論を急いでは失敗する・・・私のいつものパターンです。

 これで、曾良の存在の意味がわかりました

 
 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月11日 13時10分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


面白いサイトを見つけました。
特に古代の年表が良く出来ています。
http://karukantimes.com/archives/51431108.html



曾良はもともとは伊勢長嶋藩に仕えていたって
ここは伊勢長島一揆の場所で
尾張の服部家ホンヤさんの勢力下だった所なので
服部政信系とも結構繋がりが有ったのでは?と思います。

そうしますと服部保次系とも繋がりがあったかも知れず


そこへ芭蕉も絡むとすると   やっぱり忍者の使命を受けていたんじゃないか   と思います。



その上に信濃も絡むし。
麻績も絡むのでしょうね。


楽しいですね。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月11日 13時22分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


>ところで、天照大神に卑弥呼をオーバーラップさせた張本人は誰でしたでしょうか?


   大正時代に 和辻哲郎 が言い出して 安本美典 が受け継いだ?
   最近はいろいろな人が言ってますね。

_________________________


卑弥呼とは誰か?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC


人物比定

卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証はなく、別の王朝だった可能性もある。



神功皇后説

『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼を神功皇后と同一視できるように編集されている。

しかし、その前後の百済関係の記事は、卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものなので、そこに作為があったことが井上光貞ほかから指摘されている。



倭迹迹日百襲媛命説

孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。

近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。


『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。

同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。

当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。


この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。


『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。

また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。

もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。
そこで、『魏志倭人伝』は崇拝天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。


従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている[8][9]。


この説の弱点は、倭迹迹日百襲媛命が、皇族の一人ではあっても、「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは、考えにくいことである。

安本美典の批判するところによれば、「「魏志倭人伝」には、卑弥呼が亡くなって国中に争いが起きたと記述があるが、「日本書紀」等我が国の文献では、百襲媛命は天皇の親戚の巫女に過ぎず、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者を同一人物とするには矛盾がある」となる。しかし日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており[10]、国中に争いが起きたことは確かである。


倭姫命説[編集]

戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。



天照大神説[編集]

中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはず。ヤマト王権の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる[11]。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。

アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある[12]。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている[13]。

安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという[14]。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。

魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。

安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている[15]。

また、元衆議院議員で郷土史家の石原洋三郎氏も、卑弥呼女王を天照大御神としている。石原は、卑弥呼は、本来の意義として「ヒのミコ」であろう、と述べている。 石原は、高天原=阿蘇カルデラ台地=邪馬台国としているが、女王の支配地域・時代背景を考えた場合、女王は天照大御神の時代に重なる、と述べている。(高天原阿蘇カルデラ台地説・邪馬台国九州説)

魏志倭人伝で、女王の支配地域は、「女王國以北」・「周旋可五千餘里(約385km)」と記載されている。そのため、女王國が「阿蘇カルデラ台地」であれば、概ね「筑紫国・豊国・火国」の国産み神話における三面を支配していることになる。 女王は、出雲国・日向国・熊襲を支配地域としていないこととなり、天岩戸以前の時代背景となる。そのため、石原は、女王を、天岩戸以前に登場し人間関係が類似する、天照大御神としている。


また井沢元彦は『逆説の日本史』で、伊勢神宮はアマテラスを祀った施設で宇佐八幡宮はそのモデルとなった卑弥呼を祀った墓所であるとし、卑弥呼が祀られた理由をタタリへの恐怖心と断定している。

この説の難点としては九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に到着したとは限定できず、畿内で卑弥呼女王の邪馬台国や倭国連合も創立されたとする説も十分成り立つところである。また、そもそも「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえない説があり[16]、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王[17]が天と日を兄と弟としていた(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)とある。天照大神という神格は天武天皇の時代に始まるとする説もある[18]。また、天照大神は本来は男性の神とする説もある[19]。また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「〜ノメ」を巫女とする用例がなく(ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例はない)、根拠に乏しい。「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は説文解字に「女字也」とのみあることから、これは誤りである。



熊襲の女酋説[編集]

本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。 本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[20]。 宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、邪馬台国を筑後国山門郡に比定した。山門とはこの場合はヤマトと読む。「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は本居宣長にとって到底受け入れられるものではなかった。本居宣長は「魏志倭人伝」の記述から邪馬台国は九州にあったと結論し、九州の熊襲の女酋長であった卑弥呼が勝手に神功皇后の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は卑弥呼を姫児(ヒメコ)として、『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)に比定している[21]。那珂通世も、卑弥呼は九州の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。これらの考えは、九州王朝説へと引き継がれている。



甕依姫説[編集]

九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。



宇那比姫説[編集]

『海部氏勘注系図』『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする[22]。


また和邇系図では和邇氏の祖天足彦国押人命の子である押媛命と和爾日子押人命の母をこの宇那比媛命としており[23]、宇那比媛命には配偶者がいたことになる。天足彦国押人命の弟は孝安天皇であることから、卑弥呼の弟を孝安天皇と解釈することができる。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月11日 13時24分39秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E5%85%B8


安本 美典(やすもと びてん、1934年2月13日 - )

日本の心理学者・日本史研究家(古代史)。
文章心理学、計量比較言語学[1]日本古代史の分野で著書及び論文がある。日本行動計量学会会員。



人物・来歴[編集]

満州国奉天省鞍山市に生まれ、1946年に帰国し岡山県高梁市で育つ。岡山県立高梁高等学校を経て、京都大学文学部(心理学)卒。京都大学大学院文学研究科(心理学)修了。国家公務員採用上級甲種試験(心理職)にトップで合格し、旧労働省に入省。

旧労働省退官後、社会心理学者の南博(一橋大学教授)が設立した日本リサーチセンターに入社。産業能率短期大学助教授を経て、産能大学教授(2004年3月定年退職)。1972年に京都大学から文学博士の学位を取得。心理学・実験心理学専攻で博士論文は「心理測定のための因子分析法の理論的・実証的研究:文章性格学の方法論的基礎」

日本古代史の分野では、30数年来「邪馬台国=甘木・朝倉説」及び「大和への東遷説」を主張し続けている。「邪馬台国の会」主宰。『季刊邪馬台国』責任編集者。古代史研究は「数理文献学」(Mathematical Philology)の手法[2]に基づくとする[3][4]。

主張[編集]

邪馬台国に関する仮説[編集]

邪馬台国や古代史問題について次のような仮説を展開している。
日本神話は実際の歴史上の出来事が伝承として伝わったものである。
トロイ戦争など神話だと思われていたことが実際の出来事に基づいている例は多い。高天原は邪馬台国で天照大神は卑弥呼である。
天の岩屋戸の伝承は卑弥呼の死と台与の相続を暗示したものである。記紀では高天原は九州にあったとされるため邪馬台国は九州である。
神武天皇の東征などは基本的に事実を基にしているはずである。欠史八代の天皇など、架空とされた天皇は実在する。
天皇の在位年数は、時代を遡るにつれて短くなる傾向がある。多くの天皇が実在しないと仮定するよりも、記紀に書いてあるとおり実在し、その在位年数が信じられないと仮定したほうが、矛盾が少ない。平均10年の在位で計算すると欠史八代の天皇の前が神話の時代に相当し、卑弥呼の時代が天照大神に相当する。
数理文献学的分析によると古代の王の在位の平均は約10年である。記紀では欠史八代を直系相続としているが、実際は兄弟相続だった可能性もあり不自然ではないとする。
これらの仮説から次のように考えることができる。

卑弥呼と天照大神は同一視できる。『魏志倭人伝』のなかの地名との類似から邪馬台国九州説が有力である。文献によると邪馬台国には28万人もの人がいたとあり、そこから類推し、邪馬台国はいくつかの国の総合名称であり、吉野ヶ里遺跡は女王の支配国の一つであったと考える。つまり、卑弥呼の宮殿は筑後川の上流にあり、流域すべてが邪馬台国ではないかという説である(『歴史街道』1989年6月号)。

以下がその概要である。

年代論[編集]

地図に緯度と経度が必要なように古代史の問題を考える時には「年代」を考えることが根本的に必要であるとして、独自の年代論を展開している。すなわち、年代論の先駆者とも言える那珂通世は天皇の平均在位年数を約30年としているが、安本はその在位年数が歴史的事実として信頼できる用明天皇から大正天皇まで平均で14.18年と考える。またこれを4世紀ごとに区分して考えた場合、時代をさかのぼるにつれて在位年数が短くなる傾向にあり5世紀 - 8世紀では10.88年となる。西洋の王や中国の王の平均在位年数についてもほぼ同様の数字と傾向がある。これらのことから、1世紀 - 4世紀については「天皇」の平均在位年数は9年 - 10年程度であろうとする[1][5]。

古代天皇実在説[編集]

いわゆる欠史八代については実在説をとる。井上光貞をはじめとする非実在説派はその根拠として次のような点をあげている。
1.記紀には系譜の記述、すなわち帝紀的部分のみがあって、事跡の記述、すなわち旧辞的部分がない。
2.名前が後世的であり、後から作られた可能性が高い。
3.全て父子継承で不自然である。

これに対しては安本は以下のように非実在説を否定する。
1.欠史八代以外でも記紀に帝紀的部分のみがあって旧辞的部分がない天皇は多く、それだけをもって非実在の根拠とはならない。むしろ植村清二[6]が指摘するように記紀の原型は帝紀でありそれに旧辞が加わってできたものと考えられる。
2.名前が後世的というのはなはだ主観的で古代的といえば古代的といえる名前である。古代の天皇の名前が7世紀 - 8世紀の天皇の名前と似ていると主張されているが、7世紀 - 8世紀の天皇の名前の方が古代の天皇の名前にちなんでつけられたと考えることもできる。
3.全て父子継承であるのは確かに不自然であり、実際は兄弟あるいは甥などが継承したにもかかわらず確かな情報として伝わらなかったため父子として記述されたと考えられる。そもそも、父子継承が信じられるかどうかということと天皇が実在かどうかということは別問題である。
4.非実在派の中において、どの天皇が実在しどの天皇が架空であるかに意見の相違がある。研究者の恣意(どれを証拠として信用するか)で天皇の実在・非実在を客観的な基準によらず勝手に決めているとしか考えられない。

神武天皇及び天照大神の年代[編集]

以上のことから記紀に記載されている古代天皇の存在およびその順序、すなわち「代の数」は信じられるとする。ただし、父子継承は信じられない。また在位期間も引き伸ばされていると考えられるので信じることはできない。

これらの前提で天皇の平均在位年数を用いて神武天皇の活躍の時代を推定すると280年 - 300年頃となり、さらに記紀では天照大神は神武天皇の5代前となっているから約50年さかのぼれば230年 - 250年頃となり、まさに邪馬台国と卑弥呼の時代に重なる[2]。

卑弥呼=天照大神説[編集]

上述のように卑弥呼と天照大神は年代が重なること、また、二人とも女性であり神に仕える立場で宗教的な権威を持ち国を治めたこと、夫を持っていなかったこと、弟がいたこと、など共通点が多く見られることから、天照大神は卑弥呼の史実が神話化したものとして、二人は同一人物であるとする。また天照大神が天の岩戸に隠れると世界は闇に包まれ天照大神が岩戸から出てくると世界に光が戻ったが、天照大神は岩戸隠れの前と後で性格が変わっていることから、これは指導者の死と新たな指導者の登場を表したものだとし、卑弥呼の没後倭国は混乱したが台与の登場により平和が戻ったという記事と同じ出来事を伝えるものだとする。

この説は安本の独創ではなく彼は和辻哲郎がすでに大正時代にこの考え方を表していると述べている。諸説ある卑弥呼が誰であるかという説の中では神功皇后説、倭迹迹日百襲姫説などと並んで代表的な説の一つとなっている(「邪馬台国比定地一覧」には邪馬台国の比定地とその場合卑弥呼が誰であるとするかということが一覧にまとめられている)。

なお、安本はこの説をとった場合、台与は天照大神の息子天忍穂耳命の嫁である万幡豊秋津師比売に比定できるとしている(台与#人物の比定についての議論を参照)。

邪馬台国=高天原説[編集]

卑弥呼が天照大神であるという仮説からは派生的に次の「系」が導かれる。すなわち、卑弥呼が統治していた邪馬台国と天照大神が統治していた高天原は同一のものである。したがって、高天原がどこかということは邪馬台国がどこかということと同じである。

第二次世界大戦後、日本神話作為説が有力になったために現在ではほとんど忘れられているが戦前には高天原論争というものがあった。日本神話で伝えられる高天原は本居宣長がいうような天上にあったものでも、山片蟠桃がいうように作為的なものでもなく(安本は現在の日本神話作為説の元となっている津田左右吉の説は山片蟠桃の説の焼き直しだとしている)、新井白石がいうように大和朝廷の中心となった勢力の祖先が遠い昔にいた場所のことを伝承的に伝えたものではないか、したがって高天原とは地上のどこかをさすのではないか、という論争である。この高天原論争では有力な説としては邪馬台国論争と同じく「九州説」と「畿内説」があった。(なお、高天原地上説には海外説もあり、戦後でも江上波夫は騎馬民族征服王朝説で高天原は南朝鮮であるとしている)安本は古事記に出てくる地名を分析しても、また考古学的な玉・鏡・剣の出土状況をみても、高天原は九州である可能性が高いとしている。

邪馬台国=甘木・朝倉説[編集]

では邪馬台国=高天原は九州のどこと考えられるか。安本は以下のような理由からそれを福岡県の甘木・朝倉地方(現在の朝倉市一帯)であるとしている。
1.朝倉地方には「甘木」をはじめとして「天」に関係する地名が多く見られる、安川(夜須川)がある、香山(かぐやま)がある、岩屋・岩戸があるなど日本神話に現れる地名が集中的に残っている。
2.朝倉地方を中心とした北九州地方の地名と大和地方を中心とした畿内の地名に驚くほどの酷似があり、発音がほとんど一致しているだけでなく相対的な位置関係もほとんど同じである。[3]これはアメリカなどイギリスからの移民が行なわれた国々にイギリスと同じ地名があるのと同じで、この地にあった勢力が畿内に移る時に地名も一緒に移ったものと考えられる。これは後述の邪馬台国東遷説につながる考えであるが、この考え方も安本の独創ではなく鏡味完二が指摘しているものであり、また折口信夫も日本の地名に同じものが多いのは偶然ではなく民団の移動とともに地名も持ち運ばれたからであるとする説を述べているとしている。
3.朝倉地方には考古学的な遺跡が多く、佐賀県の吉野ヶ里遺跡に匹敵するかそれ以上ともいわれる平塚川添遺跡も発掘されている。安本は邪馬台国の政治の中心地は朝倉地方にあったが国としては筑紫平野一帯に広がった諸国の連合で吉野ヶ里遺跡もそれに含まれるとみている(実際吉野ヶ里と朝倉地方とは20有余kmの距離しかなく共に筑後川の北岸で途中はまったくの平野であり地勢的には同一である。)。
4.朝倉地方は古来より村落が多い地帯であり、朝倉街道という地名が残っているように九州の交通の要所であった(現在の朝倉地方には大分自動車道が通っており、甘木インターチェンジから東へ行けば大分方面へ抜ける。また西へ行けば九州を南北に走る九州自動車道と交わる鳥栖ジャンクションが近く、それを越えて長崎自動車道に入った最初のインターチェンジが吉野ヶ里遺跡に近い東脊振インターチェンジである。大宰府も近い。)。

邪馬台国東遷説[編集]

前述の「古代天皇実在説」、「卑弥呼=天照大神説」、「邪馬台国=高天原説」、「邪馬台国=甘木・朝倉説」に加え、『古事記』における九州・出雲地方の地名の頻出度の高さ(この2地域で『古事記』全体の過半数を占める)、甘木・朝倉地方を中心とした北九州と畿内の地名の類似点の多さ、及び鉄器の使用・副葬品などに見られる北九州の弥生文化と畿内の初期古墳文化との連続性などの点から、およそ3世紀後半から4世紀にかけて、記紀の「神武東遷」に対応する北九州から大和への勢力移動があったのではないか、という仮説が成り立つとした[4]。

日本語の起源[編集]

日本語の起源については、日本語の基層に「古極東語」を想定し、インドネシア系言語、カンボジア系言語、ビルマ系言語、中国語など複数系統の言語が順次流入・混合して日本語が成立したとする「流入混合説」を唱えている[7][8]。

その他[編集]
東日流外三郡誌について早い時期から偽書であると批判を行っていた。
新しい歴史教科書をつくる会に賛同していた[9]。
『文化評論』230号(1980年6月)に「「邪馬壱国」論の崩壊」を執筆している[10]。
騎馬民族征服王朝説、南方人基層説、邪馬台国大和説、また古代日本語が朝鮮語で解読できるとする主張等について批判している。
九州王朝説の古田武彦とは相互に激しい批判を行っている。
基礎的語彙を選び、統計学を駆使して、韓語と日本語の分岐が8000年以上前と結論づけた。基礎語での比較を行う理由は、文法比較は日本語・韓語のような古い分岐の言語には適用できないからと述べている。

論文[編集]

査読のある歴史学の学術雑誌に掲載された論文
「邪馬台国問題と神武東征問題の再検討--関氏の拙著批判」『歴史学研究』398号 歴史学研究会(編) 青木書店 1973年7月
国語学「邪馬台国の位置について」『計量国語学』39号 計量国語学会 1967年1月
「卑弥呼考--推計学の立場から」『国語国文』35(6) 京都大学文学部国語国文学研究室、中央図書出版社 1966年6月
心理学「文体統計による筆者推定-源氏物語・宇治十帖の作者について」[11]『心理学評論』Vol.2 No.1 心理学評論刊行会 1958年
学会における講演日本情報考古学会第17回大会「基調講演3 年輪年代測定法と炭素14年代測定法について」
共同研究統計数理研究所共同研究「著者推定の数理統計学的研究―日蓮の三大秘法稟承事の真偽判定―」[12]

著書[編集]

【日本古代史関係】

1『邪馬台国への道』(新書) 筑摩書房 1967年

2『神武東遷―数理文献的アプローチ―』(新書)中央公論社 1968年

3『数理歴史学―新考邪馬台国―』 筑摩書房 1970年

4『上世年紀新考』 風林書房 1971年

5『卑弥呼の謎』(新書) 講談社 1972年

6『高天原の謎』(新書) 講談社 1974年

7『邪馬台国論争批判』 芙蓉書房 1976年

8『新考邪馬台国への道』 筑摩書房 1977年

9『マスコミ的邪馬台国への疑問』 芙蓉書房 1977年

10『「邪馬壱国」はなかった』 新人物往来社 1980年

11『研究史邪馬台国の東遷』 新人物往来社 1981年

12『倭の五王の謎』(新書) 講談社 1981年

13『卑弥呼と邪馬台国』(新書) PHP研究所 1983年

14『古代九州王朝はなかった』 新人物往来社 1986年

15『邪馬台国ハンドブック』 講談社 1987年

16『邪馬台国と卑弥呼の謎』(文庫) 潮出版社 1987年

17『神武東遷』(文庫) 徳間書店 1988年

18『新版・卑弥呼の謎』(新書) 講談社 1988年

19『「邪馬一国」はなかった』(文庫) 徳間書店 1988年

20『高天ヶ原の謎 日本神話の世界』(文庫) 徳間書店 1989年

21『吉野ヶ里遺跡と邪馬台国』 大和書房 1989年

22『吉野ヶ里の証言』(ムック) 宝島社 1989年

23『吉野ヶ里・楼観からの報告』 毎日新聞社 1989年

24『邪馬台国への道』(文庫) 徳間書店 1990年

25『吉野ヶ里は邪馬台国なのか』(文庫) 徳間書店 1990年

26『奴国の滅亡』 毎日新聞社 1990年

27『騎馬民族は来なかった!』(ムック) 宝島社 1990年

28『卑弥呼は日本語を話したか』 PHP研究所 1991年

29『江戸の邪馬台国』 柏書房 1991年

30『「邪馬台国」人口論』 柏書房 1991年

31『巨大古墳の主がわかった!』(ムック) 宝島社 1991年

32『邪馬台国はその後どうなったか』 廣済堂出版 1992年

33『邪馬台国論争に決着が着いた!』(新書) 宝島社 1992年

34『邪馬台国見聞録』(文庫) 徳間書店 1992年

35『倭の五王の謎』(文庫) 廣済堂出版 1992年

36『日本誕生紀 1』 PHP研究所 1993年

37『日本誕生紀 2』 PHP研究所 1993年

38『東日流外三郡誌「偽書」の証明』 廣済堂出版 1994年

39『虚妄(まぼろし)の東北王朝』 毎日新聞社 1994年

40『虚妄(まぼろし)の九州王朝』 梓書院 1995年

41『POPな古代史』(監修) 同文書院 1995年

42『最新邪馬台国論争』 産業能率大学出版 1997年

43『邪馬台国の真実』 PHP研究所 1997年

44『よくわかる古代史』(監修) 同文書院 1997年

45『衝撃の古代出雲』 産業能率大学出版 1997年

46『巨大古墳の被葬者は誰か』 廣済堂出版 1998年

47『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』 廣済堂出版 1998年

48『日本史が危ない!―偽書「東日流外三郡誌」の正体―』(共著) 全貌社 1999年

49『封印された邪馬台国―日本神話が解き明かす77の謎―』 PHP研究所 1999年

50『応神天皇の秘密』 廣済堂出版 1999年

51『「邪馬台国機内説」を撃破する!』宝島社 2001年

52『魏志倭人伝』 株式会社G.B. 2003年

53『「倭人語」の解読』 勉誠出版 2003年

54『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』 勉誠出版 2003年

55『古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』 勉誠出版 2003年

56『邪馬台国と高天の原伝承』 勉誠出版 2004年

57『邪馬台国と出雲神話』 勉誠出版 2004年

58『大和朝廷の起源』 勉誠出版 2005年

59『日本神話120の謎』 勉誠出版 2006年

60『奇書「先代旧事本紀」の謎をさぐる』 批評社 2007年

61『「邪馬台国畿内説」徹底批判』 勉誠出版 2008年

62『研究史 日本語の起源』 勉誠出版 2009年

63『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(新書) 宝島社 2009年

64『天照大御神は卑弥呼である』 心交社 2009年

65『盗掘でわかった天皇陵古墳の謎』 宝島社 2011年

66『卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな! 誤りと偽りの「邪馬台国=畿内説」』 勉誠出版 2011年

67『古代史論争最前線』 柏書房 2012年

68『大崩壊「邪馬台国畿内説」』 勉誠出版 2012年

69『大炎上「三角縁神獣鏡=魏鏡説」』 勉誠出版 2013年

70『古代年代論が解く邪馬台国の謎』 勉誠出版 2013年

71『日本民族の誕生』 勉誠出版 2013年

72(監修者 安本美典、現代語訳者 志村裕子) 『先代旧事本紀 現代語訳』 批評社 2013年

73『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』 勉誠出版 2015年

【言語学関係】

1『ことば・文章―効果的なコミュニケーション―』(新書) 大日本図書 1968年

2『数理科学の諸問題』 筑摩書房 1971年

3『言語の数理』(共著) 筑摩書房 1976年

4『日本語の成立』(新書) 講談社 1978年

5『日本語の誕生』 大修館書店 1978年

6『日本語の起源を探る』(新書) PHP研究所 1985年

7『日本語はどのようにしてつくられたか』 福武書店 1986年

8『国語表現』(編著)建帛社 1988年

9『朝鮮語で「万葉集」は解読できない』(ムック) 宝島社 1990年

10『日本語の誕生』(新装版) 大修館書店 1990年

11『日本語の起源を探る』(文庫) 徳間書店 1990年

12『新説日本人の起源』(ムック) 宝島社 1990年

13『卑弥呼は日本語を話したか』 PHP研究所 1991年

14『新・朝鮮語で「万葉集」は解読できない』(新書) 宝島社 1991年

15『日本人と日本語の起源』 毎日新聞社 1991年

16『言語の科学 日本語の起源をたずねる』 朝倉書店 1995年

17『新説!日本人と日本語の起源』(新書) 宝島社 2000年

18『「倭人語」の解読』 勉誠出版 2003年

19『研究史 日本語の起源』 勉誠出版 2009年

【心理学関係】

1『文章心理学の新領域』 東京創元新社 1960年

2『創作の秘密―作家の性格と心理―』 誠信書房 1963年

3『文章心理学の手びき』 川島書店 1965年

4『文章心理学入門』 誠信書房 1965年

5『文章心理学の新領域―改訂版―』 誠信書房 1966年

6『創造と性格―才能がめざめる本―』 毎日新聞社 1969年

7『ビジネスマンの思考革新』 産業能率大学出版 1972年

8『説得の心得』 日本経済新聞社 1979年

9『広告の心理学』(新書) 大日本図書 1980年

10『因子分析法』 培風館 1981年

11『人づきあいの心理学』(新書) PHP研究所 1981年

12『説得の文章技術』(新書) 講談社 1983年

13『説得の心理戦略』(新書) 千曲秀版社 1985年

14『人づきあいの心理学』 PHP研究所 1986年

15『集中力をたかめる』 福村出版 1987年

16『説得の科学』(文庫) PHP研究所 1997年

17『新しい人づきあいの心理学』 産業能率大学出版 1998年

18『説得の文章術』(新書) 宝島社 1999年

19『説得の文章術』(文庫) 宝島社 2001年

20『挫折から立ち直れる人、立ち直れない人 ―「復活」の心理学―』 光文社 2001年

【数学・統計学関係】

1『数理歴史学―新考邪馬台国―』 筑摩書房 1970年

2『数理科学の諸問題』(共著) 筑摩書房 1971年

3『言語の数理』 筑摩書房 1976年

4『因子分析法』 培風館 1981年

5『言語の科学 ―日本語の起源をたずねる―』 勉誠出版 1995年

【その他】

1『母と子 魂の歌』(共著) リヨン社 2003年

脚注[編集]
1.^ 計量比較言語学については、安本美典『言語の科学-日本語の起源をたずねる』 朝倉書店 1995年 等を参照。
2.^ 林知己夫は「数理文献学mathematical text analysisとも呼ばれるべき新たな方法」「これは文献の統計的分析に基づき、仮説の設定、推測、検定を行なうもの」と述べている(林知己夫『計量的研究―我が国人文・社会科学研究の最近の動向』 南窓社、1974年) 。
3.^ 林健太郎は数理文献学の方法論を著書『歴史と体験 人と思想』(文藝春秋社、1972年) の中で紹介している。
4.^ 数理文献学に関連する著作として、安本美典『邪馬台国への道』 梓書院 1998年(改版)、安本美典『数理歴史学 新考邪馬台国』 筑摩書房 1970年 他。数理統計学及び数理言語学に関する著作として、安本美典、本多正久『現代数学レクチャーズ 因子分析法』 培風館 1981年、安本美典、野崎昭弘『言語の数理』 筑摩書房 1976年、安本美典、本多正久『日本語の誕生』 大修館書店 1978年 他。
5.^ 平山朝治は最小二乗法による説を発表している(『季刊邪馬台国』16号、安本美典『卑弥呼と邪馬台国』PHP研究所 1983年、「邪馬台国はどこにあったのか--最小2乗法による位置の推定」『数理科学』Vol.19 No.8、サイエンス社 1981年)。
6.^ 植村清二には次の著作がある。植村清二『神武天皇―日本の建国』 中央公論社 1990年
7.^ 安本美典 (1991)『日本人と日本語の起源』,東京:毎日新聞社
8.^ 安本美典 (1978)『日本語の成立』,東京:講談社
9.^ 「つくる会」賛同者 全賛同者309名(平成16年11月19日現在)。肩書きは「産能大学元教授」。現在は不明。『日本人の歴史教科書』(自由社)推薦人名簿(『史』平成21年9月号(通巻76号))には無い。
10.^ 古田武彦は「邪馬壹国の証明」を同誌に発表している(『文化評論』228号(1980年4月))。
11.^ 安本美典『文章心理学の新領域』 誠信書房 1966年(改定版)、安本美典「宇治十帖の作者─文章心理学による作者推定」『文学・語学』 第4号 全国大学国語国文学会、三省堂 1957年も参照。『源氏物語』の「雲隠」までと「宇治十帖」では、名詞、助動詞の使用頻度が異なることから、「雲隠」までと「宇治十帖」は作者が異なるとする。
12.^ 昭和63年度統計数理研究所共同研究 1989(平成元)年版年報平成2年度統計数理研究所共同研究1991(平成3)年版年報 (参考:村上征勝『真贋の科学 計量文献学入門』 朝倉書店 1995年) 参考:国語学185(1996年)展望特集号 数理的研究の展望 豊島正之。




外部リンク[編集]
邪馬台国の会
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月11日 13時32分55秒 ) パスワード

Q 卑弥呼は天照か?

A
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1020900630

1.
卑弥呼=天照大神とする説は以前からありました。しかし、このように考えると、皇室の祖神も卑弥呼ということになってしまいます。卑弥呼や邪馬台国は一応、天皇政権とは別の勢力ということになっています。卑弥呼の生きた時代は、神功皇后が政治を執り行っていた時期と重なります。天皇代位でいうと、14代と15代の間です。(実際は違いますが)記紀の記述がすべて正しいとすると、矛盾点が多数出てきます。明確な答えを出すには、考古学・史料学・民族学・宗教学など多くの分野を調査しなければならないので、あくまでも「そのような説も考えられる」ということです。

「卑弥呼」という字は中国語で表わされています。おそらく、日本(邪馬台国)での発音を当時の中国語で書き記したものです。以前、「邪馬台国」の読みに関する質問で、「中国語で音的に良いものを選び、日本語で表わしている」と答えました。ちなみに、「邪馬台」は中国語で「イェンマタァイ」という感じにになります。これは漢音と呉音という2種類の読みで読んだものです。「卑弥呼」も後世(江戸時代)に漢字から、音を探し、適切な音を選び読んだものだと思います。字はおそらく当て字だと思います。また、当時の国際関係・勢力上、魏の方が上でしたので、「卑」という字をあえて使用したのかもしれません。「卑」は書面上使う文字だそうです。




2.
卑弥呼の本来の字は、おそらく日巫女ですよ。

古事記には、スサノオが暴れてアマテラスの女官の陰部を指して殺してしまいます。
これを怒ったアマテラスは岩戸に隠れてしまう訳です。

その後、岩戸から出てくるのですが、岩戸後のアマテラスは急におとなしくなってしまい、実験は高木の神が取り仕切ることになります。

この高木の神が、天皇家が本来祭っていた神とされています。
その後、古事記を作った時に、主神をアマテラスに変えてしまいました。


さて、史実をつき合わせてみれば、248年に卑弥呼がなくなり、その直後に日食がおこります。

これが古代人の伝承に大きく影響したものと考えられています。
つまり、岩戸前のアマテラスが卑弥呼で、岩戸後がトヨではないかと。


さて卑弥呼の墓ではないかと考えられる、箸墓古墳に埋葬されたとされる、倭迹迹日百襲媛命(やまとととももそ姫)なんですが。

この人の死因が岩戸事件で殺された女官と同じなんですよ。

そして、倭迹迹日百襲媛命は占いによって天皇を助けたとされ、その死後に巫女に任命されたのが豊鍬入姫命(とよすきいり姫)です。こちらがトヨでしょう。




3.
卑弥呼が天照大神という説は邪馬台国東遷説とリンクして主張されています。


1 ヒミコが卑弥呼となったのは、当時の和国(倭国は蔑称と思うので)の音のヒミコを、当時の国際関係の中で、我が方を格下とあつかい、わざと卑弥呼と記したと考えるのが適当です。

ですから、日美子・日皇子・妃美子の方がいいですよね。

同様の例は勝者の歴史ではよくあることです。我が国なら蘇我本家の「イナメ・ウマコ・エミシ・イルカ」などを表す漢字もそうだと考えられます。


2 ヒミコ=天照大神の説を強く主張する学者に安本美典氏がいます。(『倭王卑弥呼と天照大御神伝承 』)

彼によれば卑弥呼の時代は神武天皇の存在の前になるそうです。
安本氏は邪馬台国(これも蔑称)が東遷し、大和朝廷になったということです。安本氏の説は実証主義歴史学界では無視されているようです。今はどうかわかりませんが。私は別の本ですが大変興味深く読みました。

神功皇后をヒミコに比定した説もありましたね。

答の確定していない「邪馬台国」ですから、いろいろ論争すればいいのにと思います。
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月11日 13時45分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ちょっと情報量に圧倒されてしまいました。大事なところは帳面にメモし
ないと、即忘れてしまう傾向にあります。これからメモいたします。

 昨日は、十湖の分析をしており、芭蕉について十湖程心酔した人はこれまで
になかったのではないかと思っております。いずれそのことについても触れた
いと思います。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月11日 14時18分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:伊達正宗→伊達政宗

 「諏訪頼信」は1616年に改易となった「松平忠輝」の身柄を預かり、
諏訪の地で終生面倒をみました。そこに何か隠された大きな理由があった
のではないかと思っています。

 忠輝の岳父は伊達政宗。
 
 忠輝の家老は「花井吉成」。
 この人は「松下氏」の一族。
 娘が「大久保長安」の6男の妻。
 また、もう一人の娘が「服部仲保」の後妻・玄芳院。
 妻は忠輝の母「茶阿局」の前夫との間の娘。
 従って、吉成と忠輝とは義兄弟、妻と忠輝とは腹違いの兄弟。

 忠輝と伊達家とはどうして繋がったのか。キリシタン関係か。また大久保
長安と伊達家とは金鉱関係でつながったのか・・・。

 諏訪・松平家と伊達家の間の密使・密書・・・ミッションを担った者は誰?
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月11日 22時30分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


諏訪と忠輝の関係は服部氏で繋がるのかもですね。
信玄の側室の諏訪の姫の母上は小見の方で麻績出身者。



忠輝の母「茶阿局」は諏訪に関係した家の出かも知れないですね。

忠輝の母について面白い記事を見つけました!
「出身・家系」の項です。
ビックリなさいますよ。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%98%BF%E5%B1%80

茶阿局(ちゃあのつぼね、? - 元和7年6月12日(1621年7月30日))

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。
松平忠輝、松平松千代の母。名は八。法名は朝覚院。

略伝[編集]

初めは遠江国金谷村の鋳物師の後妻となり、娘を生む。              ところが!ところが!です!

しかし、茶阿局が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が発生する。

茶阿局は3歳になる娘を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらおうと、鷹狩に来ていた家康の一行の前に飛び出して直訴し、代官は処罰されることになった。

家康は茶阿局を一目で気に入り、娘と一緒に拉致に近い形で浜松城に連れ帰り、側室にしたといわれている。茶阿局は聡明であったため、家康の寵愛厚い側室となり、奥向きのことを任され、強い発言力と政治力を持つようになったとされる。

また、故郷の金谷村周辺の寺を保護し、寺同士の紛争の解決にも尽力した。『能満寺寄進状』などの史料が現存している。



天正20年(1592年)に辰千代(後の松平忠輝)、文禄3年(1594年)に松千代を出産する[1]。
松千代は早世したが、忠輝は慶長7年(1602年)に元服し、信濃国川中島14万石を与えられた。

その際、茶阿は娘婿・花井吉成と甥・山田隼人正を忠輝の家老にしている。
慶長11年(1606年)、忠輝は伊達政宗の長女五郎八姫を正室として娶っている。


忠輝はその後、さらに越後国高田75万石を与えられた。
しかし、彼は剛毅ではあるが周到さに欠ける粗暴なところがあり、家康から疎んじられ、大坂夏の陣では出撃の時期を逸し戦功を立てられず、さらに徳川秀忠直属の旗本2人を彼の家臣が殺害しその犯人に身代わりを立てたことで家康を激怒させた。

家康からは最期まで疎んじられ、元和2年(1616年)には兄の秀忠により改易された上、伊勢国に流罪になった。
茶阿局は家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼し奔走したが、聞き入れられることはなかった。

茶阿局は元和7年(1621年)6月に病死した。墓は宗慶寺(東京都文京区小石川)にある。



出身・家系[編集]

既述のように、一般的に彼女は鋳物師の後妻であったが夫が代官に殺され、家康に訴え出たところを見初められて側室になったとされる。
この話は「東曜婦徳弁」[2]、「以貴小伝」などによる。

しかし青木昆陽がまとめた『諸州古文書』や『山田文書』、『津軽藩旧家伝類』によると、

茶阿局は金谷村一帯を支配していた地侍山田氏の出身で父は山田八左衛門という旨が記述されている。

現地には、彼女が幼少の頃に金谷村の寺洞善院の住職から手習いを受けていたこと、後年その恩に報いるために洞善院へ梵鐘を寄進しているという伝承が今も残っている。


また、平戸のイギリス商館長(カピタン)リチャード・コックスの日記に、改易された忠輝が配流される道中でこの地で「叔父の家に泊まった」という記述がある。


また、彼女が花井氏に嫁いで離縁された過去があること、             ウッソー!でした!!!
家康の側室になるにあたって地元の更に有力な武士河村家の養女になったことが記録に残っている(ただし没落して鋳物師の妻となっていた可能性は残る)。


茶阿の実兄・山田上野介は石田三成に仕え、重臣となっていた。           これにもビックリですよね。

佐和山城が落城した時、
上野介は三成の父や兄と共に自刃したが、
息子の山田隼人正(妻は三成の長女)を脱出させており、
親戚の孝蔵主は茶阿局のもとに送り届けた。

茶阿はこの甥を息子・忠輝の家老にして取り立てた。


                                        ね、ビックリの連続でしょ???!!!



補注[編集]

1.^ 天正20年に辰千代、松千代を双子で生んだという記録もある
2.^ 弁は旧漢字で表示できなかったもの
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月12日 08時24分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ビックリで唖然としています・・・!
 石田三成系で忠輝は成り立っていた・・・!
 茶阿の甥と三成の娘(夫婦)が茶阿の元にかくまわれた・・・!

 忠輝が家康から嫌われたのは、そんな事実を知ったからか・・・!

 少し頭を冷やします―
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月12日 09時04分16秒 ) パスワード

歴史って面白いですね。



>忠輝は慶長7年(1602年)に元服し、信濃国川中島14万石を与えられた。

>その際、茶阿は娘婿・花井吉成と甥・山田隼人正を忠輝の家老にしている。




忠輝  川中島に14万石を得る 

     川中島ってそれこそ  麻績  ですよ。あのあたり。
     たぶん阿茶さま関係が麻績あたりに関係するのかも。

        何かありますよね

     かつてお前の一族が麻績の地を失ったから、忠輝に川中島を上げよう、という家康の配慮?



また阿茶は昔、花井氏と結婚してた?
でも、感触からしますと、夫婦不仲の離婚ではなかったようですね。


つまり  阿茶さまの母方が?遠縁が? 麻績あたりのヒトだったのかもですね。
どなた?


歴史って楽しいですね。ワクワクします。


こうしていろいろ調べていると忠輝がちょっとは心慰められているように感じます。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月12日 12時52分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 話はいろいろな方向につながりますね。石田三成との関係が浮上するとは
・・・石田三成といえば、島左近。関ヶ原の合戦の後、二俣の山東に逃れた
来たという。確かにその子孫が残っている。
 何で島氏は敵地二俣なんぞへ・・・という謎はまだ解けていない。家康と
通じていたのだろうか。島氏と言えば、柳生氏と親密であった。特に宗厳(
むねよし 石舟斎)と松下おりんの仲をもったのも島左近といってもいいし、
また石舟斎の子厳勝の子の利厳ら島左近の娘が嫁いでいる。
 石田三成の重臣の山田上野介は茶阿の兄、その息子山田隼人正は三成の
娘を娶っており、落ち延びた・・・どこに?。

 実は去年、森町の隋松寺を訪れた時、お寺の裏山の中腹に、「山田七郎
左衛門」を検証する看板と、墓、慰霊塔を見つけた・・・
 その看板にはこう書かれていた―

 途中ではありますが、古文書セミナーへ出かけますので、あとで復帰しま
す―
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月12日 21時15分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>実は去年、森町の隋松寺を訪れた時、お寺の裏山の中腹に、
>「山田七郎左衛門」を検証する看板と、墓、慰霊塔を見つけた・・・

背筋がゾクゾクしますね。


http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/kanko/rekishi/choshi22.html

近世を通じ、遠江・駿河両国の鋳物師(いもじ)を支配したのが森町村の山田七郎左衛門家であった。
遠江一宮近辺を拠点とする鋳物師の存在は、南北朝期までさかのぼることができる。その後、蓮華寺・今川氏などとのつながりをもちながら、近世森町鋳物師へと連なっていくのである。
山田七郎左衛門は、1587(天正15)年、小牧の陣従軍などの功績により、徳川家康から「 駿遠 ( すんえん ) 両国鋳物師惣大工職」の朱印状を与えられた。当時の鋳物師は、大砲や石火矢など最新の兵器を製造する技術者でもあり、軍事的な必要性から徳川軍に組み込まれたのである。
幕藩体制成立後、平和な時代の到来とともに、鋳物氏の経営にも大きな変化が現れる。それまでの軍需中心の経営は行き詰まりをみせ、民間需要への転換が進められる。

このような変化のなかで、近江出身の鋳物師が駿遠に入り込み、在地の鋳物師の経営を圧迫していく。これに対し、山田家は約80年かけて、ようやく自らの支配体制を確立する。この支配の根拠が家康朱印状であった。
近世の鋳物師の主力製品は、鍋や釜であった。遠州では、鋳物師が鍋釜商人に山田家が定めた価格で請売りをさせる方式をとっていた。この他、栄泉寺・大洞院・可睡斎など各地の寺院に残る 梵鐘 ( ぼんしょう ) が鋳物師の活動を物語っている。
幕末期、山田氏は、森町などの知行主であった土屋氏の用達金などを賄い、また陣屋の代官に登用されるなど、鋳物師以外の活躍も大きい。


(1)暦応五年の綸旨
暦応五年の年号があるが、これは山田家が、1732(享保17)年に京都の真継家より、紛失による再発給という形で入手した偽文書である。 しかし、正式な発給手続きを経ているため、権威ある文書と見なされた。
(東京都 個人所蔵)


(2)徳川家康朱印状
1587(天正15)年、徳川家康により、山田七郎左衛門戸は、「駿遠両国鋳物師惣大工職」に任じられた。 当時の鋳物師は最新の兵器を製造する技術者でもあった。 この朱印状は、後に駿遠の鋳物師支配の根拠となった。 (東京都 個人所蔵)




http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e5%b1%b1%e7%94%b0%e4%b8%83%e9%83%8e%e5%b7%a6%e8%a1%9b%e9%96%80&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U
浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ


No     本文     刊本                  見出し



1     鋳物業の中心地である。その付近の森町の山田七郎左衛門は、徳川家康から鋳物師惣大工職を与えられ

浜松市史 一

中世編 第二章 鎌倉時代 第五節 社会と経済 産業
鋳物業


2  はその一例である。これは遠江森町の鋳物師山田七郎左衛門が天正十二年の小牧の役に家康に従って軍中

浜松市史 ニ

第二章 近世初頭の浜松と徳川家康 第十節 家康駿府移転後の浜松 領国経営
商工業者の保護
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月12日 22時15分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 森町随松寺で見た看板と、佐和山城での山田上野介親子の話を、合わせて
整理すると以下のようになります。
 @遠州森町に鋳物師「山田七郎左衛門」がいた。
 A七郎左衛門の「父」は「山田八左衛門」という。
 B七郎左衛門には兄弟があり、「山田上野介」と「茶阿(八 はち)」がい
  た。
 C山田上野介は「石田三成」に仕えた。
 D七郎左衛門は、家康の御用を勤めていたが、小牧・長久手の役(1584)に
  軍用奉仕した功により、天正15年(1587)、駿遠両国鋳物師惣大工職に
  任じられた。その後も大阪の陣(1614〜1615)にお供し、大筒の玉など
  を鋳立て、大いに活躍した。
 E茶阿(八)は、金谷村の鋳物師の後妻に入り、娘を生む。美人だったため、
  代官が横恋慕、夫が闇討ちされる。
 F茶阿(八)は、鷹狩に来ていた家康に直訴。代官は処罰される。
 G茶阿(八)は家康公に召し連れられ、金谷宿河村家(始祖 弥七郎)を在所
  とし、側室になった。
 H茶阿(八)は、文禄元年(1592)に辰千代(忠輝)を浜松城にて生み、茶阿局
  と呼ばれる。
 I山田上野介は、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、佐和山城にて石田三成
  と共に自刃。
 J上野介の息子「山田隼人正」と「三成の娘」(夫婦)は、茶阿の元に落ち、
  後に隼人正は忠輝の家老になる。
というストーリーになります。山田家、金谷での実態、石田家との関係、
忠輝の家老等、すっきりしない面が残ります。徳川方の茶阿が甥夫婦をどの
ようにかくまったかという問題もありますし、忠輝の家老になったというこ
とは、家康に許されてなったということでありますので、ここもどうもすっ
きりしない。
 森と二俣はすぐ近くなので、甥夫婦は島左近と一緒に逃れたのかも知れま
せんね。島左近は、関ヶ原の合戦時に、裏で家康と手を握っていたのかも知
れません。


 忠輝については、まだいろいろ探究すべきことがあります。諏訪氏、家老
の花井氏、大久保長安、伊達政宗との関係、さらに何十年後かの曾良と芭蕉
の「奥の細道」との関係・・・。
 しかしながら、本日はこれにて―また、明日!
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月12日 22時19分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスのタイミングがずれました。読ませていただきます。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月12日 22時26分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:[50](「山田七郎左衛門」を)検証→顕彰
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月12日 22時52分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<52>
ありがとうございます。

目からウロコでした。


鋳物師などの職人系は日本史の表には出て来ないので我々は知らないだけでしょうね。
たまたま阿茶さまの関係で出て来てビックリしているだけ。


大筒・・・大砲の改良者として、玉の改良者として大坂の陣の戦いには重宝されたのでしょうね。


いろいろな謎が少しずつ姿を現して来ました。
面白くなりました。

本当に情報をありがとうございました。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月13日 07時31分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 茶阿については、娘の名が「八 はち」という情報もありますが、その
娘は花井遠江守の妻となったようです。
 忠輝の家老に、山田氏がおりました。将軍家謀反の疑いで断絶しており
ます。

 用事を済ませてから復帰します。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月13日 09時13分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

復習http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E4%BA%95%E5%90%89%E6%88%90

花井 吉成(はない よしなり、? - 慶長18年8月21日(1613年9月25日))     松下の一族

江戸時代初期の武将。
松平忠輝の家老。
通称三九郎、後に松平遠江守の名を許される。

室は徳川家康の側室茶阿局の前夫との子於八(忠輝の異父姉)。


子に
娘(村上忠勝室)、
娘(大久保長安六男の大久保権六郎(右京長清)室)、           大久保長安の息子へ
玄芳院(服部仲保後妻)、                         服部仲保の後妻
花井義雄(主水正、よしたけ)、
花井義賢(のちに松下に復姓)、                      松下姓に戻る
花井義房。


三河国東部生まれで、松下氏の一族。
若くして徳川家康の近習として仕え、
慶長8年(1608年)、家康の命により家康の六男の川中島藩主で待城(松代城)城主松平忠輝の家臣となる。

慶長15年に忠輝は加増され、越後国高田藩主となったが、松代を含む北信四郡もそのまま領したので、吉成が城代を務めた。

吉成父子は北国街道の改修や、裾花川の瀬直しおよび犀川より川中島平へ用水路を引き水田開発をするなどの政策を行った。

そして、これらの土木事業は領民に感謝され、今でも花井神社として祀られている。


慶長18年、大久保長安事件の件に連座して、待城にて自害。
法名は摩尼宝殿覚月照徹大禅定門。
墓所は長野市松代町松代の西念寺。
吉成の没後、子の義雄が待城の城代となる。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月13日 09時44分51秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/takadamatudaira.html

 高田松平家 家臣団


  松平徳松 (?〜?)
 松平忠輝の子。「柳営婦女伝系」は「元和二年丙辰七月三日、父忠輝流罪之時、於武州岩槻城自害、時十八歳」と記す。誤記であろう。また、「柳営婦女伝系」は忠輝に二人の娘がいたとしている。長女は土屋民部少輔忠直に嫁いだ。しかし、「寛政重修諸家譜」からは確認出来ない。次女は花井左京亮義虎に嫁いだ。花井義虎は花井義雄の子である。

 


  花井遠江守 (?〜?)
 茶阿局の長女を娶る。「柳営婦女伝系」は遠州金谷村に居住していた時に生まれた娘で、商家の娘として育てられていたとしている。遠江守はこの縁で松平忠輝と義兄弟の契りを結んだ。

 

 

  花井義雄 (?〜?)
 花井遠江守の長男。母は茶阿局の娘。松平忠輝の従兄弟。松平忠輝に仕え、二万六千石を知行。家中重臣が藩政悪しと忠輝を幕府に訴えると、忠輝を弁護するため奔走。元和二年六月二十三日、戸田康長に預けられる。笠間にて没す。また、酒井忠世に預けられ、上州厩橋で没したとも云う。「柳営婦女伝系」は三人の姉がいたとしている。村上周防守義明室、大久保右京長清室、服部仲保後妻である。

 

  花井義虎 (?〜?)
 花井義雄の子。左京亮。元和二年七月三日、松平忠輝の伊勢朝熊配流に供奉。「柳営婦女伝系」はこの功により、忠輝の娘を娶ったとしている。妹は川窪七郎右衛門に嫁いだ。

 

 

  花井義賢 (?〜?)
 花井遠江守の次男。母は茶阿局の娘。松平忠輝の従兄弟。「柳営婦女伝系」に名がある。松平忠輝に仕え、一万石。松平の苗字を許され、松平左門と名乗る。元和二年七月、土井利勝に預けられ、古河に流される。後年、許され土井家臣となる。この時、松平の苗字を返し、松下を名乗る。

 

  松下義行 (1649〜1703年 55歳没)
 花井義賢の長男。母は秋山六左衛門の娘。「柳営婦女伝系」に名がある。三五郎、左門、左兵衛、主水。古河に生まれる。土井利隆、利重、利久、利益に仕える。知行千石。利益の代で不備があり、土井家を離れる。土井利益は義行が勝手に家を離れたことに激怒。後に許される。叔父本庄宗資を頼る。加賀前田綱紀に仕え、二百人扶持。左兵衛を改め、主水と名乗る。小川町に住む。後、子の義忠の不備から浪人となる。本庄宗資を頼り、閑居。元禄十六年二月十一日、五十五歳没。異母姉が一人おり、六角広賢に嫁いだ。姉の母は本庄宗資の姉である。

 

 

  松下作右衛門 (?〜?)
 花井義賢の次男。母は側室某氏。佐々木空性。「柳営婦女伝系」に名がある。大小神祇組に入り、不行跡を重ねた。そのため、松下一族は土井家を勘当される。旗本奴に加わることは禁制であり、作右衛門は職を失い浪人となった。護国寺の大僧正の下で数年を過ごす。後に六角治頼、松平綱清に仕えた。松平綱清からは三百石を知行していた。

 

 

  松下義忠 (?〜?)
 松下義行の長男。母は秋山六左衛門の娘と云う。誤記か。「柳営婦女伝系」に名がある。三五郎、権兵衛、内匠。六尺を超える偉丈夫。膂力に優れるも、力を暴悪に使う。不行跡が絶えず、老中安部正武は六角広治に命じて義忠を討たせた。これは秘密にされたが、事件を知った前田綱紀は激怒するもやむを得ず、松下義行に暇が出された。

 

 

  松下平九郎 (?〜?)
 松下義行の次男。義忠同母弟。「柳営婦女伝系」に名がある。妹は松平土佐守家臣花井半助に嫁いだ。

 

 

  大屋多門 (?〜?)
 松下義行の三男。「柳営婦女伝系」に名がある。本多政武家臣大屋小隼人の養子となる。

 

 

  松下三十郎 (?〜?)
 松下義行の四男。「柳営婦女伝系」に名がある。

 

 

  木全善八郎 (?〜?)
 茶阿局の長男。松平忠輝同母兄。父は山田氏。「柳営婦女伝系」に名がある。茶阿局の子分として弟忠輝に仕える。木全刑部の養子となり、五百石を知行。

 

 

  木全又八郎 (?〜?)
 茶阿局の次男。松平忠輝同母兄。「柳営婦女伝系」に名がある。茶阿局の子分として弟忠輝に仕える。木全刑部の養子となり、八百石を知行。

 

 

  山田勝重 (1576〜1655年 80歳没)
 隼人正。父は石田三成の重臣山田上野介。その縁から三成の長女を娶る。慶長十四年には松平忠輝の重臣となる。慶長十五年、越後蔵王城主。慶長十六年八月二十六日、上田城二万石。さらに十九年八月二十一日に六千石の加増。忠輝改易後は妻の縁で津軽信義の援助を受ける。明暦元年五月十七日、八十歳で没す。妻は正保四年八月二日に没す。子の富岡武兵衛と山田彦兵衛久寿は津軽家に仕え、重臣の家柄として明治に至る。子の山田喜庵は「佐和山落城記」を記した。

 

 

  松平信宗 (?〜?)
 松平忠輝の重臣。越後清崎城主一万六千五百石。筑後守。子は信直。

 


 

 【付記】
 【高田城の築城】

 慶長十三年閏二月三日、松平忠輝は越後福島城主となる。石高は四十五万石、六十万石、七十五万石と諸説ある。

忠輝の居城となった福島城は大きな問題を抱えていた。大雨になると周辺の関川、保倉川が氾濫するため、安定した城下町の形成が困難だった。そこで、幕府は水害の被害が及ばない土地に新たに城を築く事にした。忠輝の越後統治の支援の他、外様大名に築城普請を命じることでその財力を削ることも考慮された。

慶長十八年七月十三日、松平忠輝生母茶阿局は侍女考蔵主を通じ、金地院崇伝に築城の地の占いを求めた。金地院崇伝は松平忠輝の生年月日で立地を占い、本年中に南方に築城すると良いと伝えた。金地院崇伝の占いで築城地が決まったのか、先に築城地を決めてから占いで善し悪しを確認したのかは不明である。

慶長十九年一月、十三名の大名に築城が命じられ、伊達政宗が指揮を執った。

慶長十九年三月十五日、普請開始。普請奉行は滝川忠征、伊東政世、山城宮内。指揮を執る伊達政宗は四月八日、御仮屋に入った。五月上旬、大雨の影響で工事が遅れた。七月五日、工事の大半が終わったため普請奉行が国元に戻った。七月二十一日、伊達政宗も帰国。八月二十日頃、工事に参加した人夫らも帰国した。

 

                  怪僧・金地院崇伝がここにも登場!
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月13日 23時48分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日曜日は雑用が多くて集中力も失せてしまいます。今やっと少し集中力が
戻って来ました・・・。

 茶阿・山田・花井・忠輝・長安・・・この関係については、すべてが家康
の掌の上で動いておりました。但し、三成に関係した山田氏についてはクエ
スチョンマークであります。
 家康は忠輝と伊達政宗の娘とを政略結婚させ、なおかつ花井と長安を忠輝
につけて、伊達家の情報を探らせたという。何を知りたがったかというと、
伊達藩における金山と金の生産量と経済力についてが一番。もうひとつは、
キリシタン的な動きであった。

 さて、伊達政宗は1636年(寛永13年)に亡くなっている。そして芭蕉
は、政宗の死後6年目に生まれている。奥の細道の旅は1689年(元禄2年)
に46才で行っている。即ち政宗の死後52年が経過していたことになる。
 その頃には、忍者の役割は戦国時代とは変わり、一番の役回りとして隠密
が主流となっていた。
 柳生家に代表されるように、剣術指南ということで各大名に派遣される。
正々堂々とした隠密であったということ・・・。
 さて、芭蕉・曾良と隠密の関係は・・・?
 芭蕉が付けたという「河合」そして曾良という俳号・・・何か奥深い謎が
あるように響いて来ます・・・。もちろん芭蕉は全てを知っていた。
 その謎とは―
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月14日 01時56分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

>茶阿

茶阿、でしたね。
まちがえました。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月14日 02時01分23秒 ) パスワード

<58>の書き直し。

茶阿さまおお名前がこんがらがりました。



やはり  服部氏 ⇔ 松下氏・花井氏 ⇔ 阿茶の方 ⇔ 山田氏  ⇔ 石田三成 ⇔ 島左近 ⇔ 柳生家

                          ⇅
                         忠輝    ⇔ 伊達政宗娘  ⇔ キリシタン
                           ⇅
                          川中島
                          ⇅
                        大久保長安


みんな繋がってしまいますね。


忠輝が家康に嫌われた真相は
    関ケ原の石田三成との関係(とはいえ、花井氏や山田氏が疑われていたのでしょうね)
    大久保長安との関係
    伊達政宗との関係
ここでこの3つが出ましたね。


忠輝
生誕  天正20年1月4日(1592年2月16日)
死没  天和3年7月3日(1683年8月24日)



父・家康に嫌われた理由[編集]

忠輝は次兄の結城秀康と同じように、父親から生涯を通じて嫌われた。その理由は、忠輝同様に母親の身分が低かった秀康とほぼ重なるが、とりわけ忠輝については、その容貌を嫌ったという記録が多い。

「藩翰譜」は「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まじなりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」、と伝える。つまり、家康は生まれたばかりの新生児である忠輝の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたのである。

藩翰譜は慶長3年、忠輝が7歳の時、忠輝と面会した家康が、「恐ろしき面魂かな、三郎(松平信康)が幼かりし時に違ふところなかりけり」と語ったとも伝える。さらに「野史」の同年の記事には、家康が忠輝を見て「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」と言ったという記述がある。家康は、長男・信康の面影を忠輝に見いだしていたようである。

甥で同じく改易された松平忠直などと同様、忠輝は粗暴な一面があったとも伝えられている。



忠輝は順調に出世して最終的に75万石の太守となったことから、家康は忠輝に報いたとされることが多い。

しかし慶長11年(1606年)の川中島12万石の太守であった時点で、弟の義直(7歳)は甲斐府中25万石、頼宣(5歳)は常陸水戸藩25万石、頼房(4歳)には常陸下妻藩10万石を与えている。

しかも家康が忠輝に所領を与えたのは、政宗や茶阿局らの運動があったためとも言われている。

また、同母弟の松千代も幼くして長沢松平氏を継ぐ形で武蔵深谷藩を与えられていたのに対し、同時期の忠輝には特に何も与えられていなかった。弟の松千代の夭折によって兄の忠輝がその跡を継ぐという、逆の形になっている。




改易の理由[編集]

家康没後の元和2年(1616年)7月6日、兄の秀忠は忠輝に改易を命じた。
大坂夏の陣のとき、大和から大坂に攻め入る総大将を命じられていたが、遅参したため。

               秀忠は自分だって関ケ原に遅参してるのにね。



忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため(ただし、当時の軍法では戦中の追い越し、つまり乗り打ちは切り捨て御免となっているので、忠輝の処置は合法である)。
大坂夏の陣の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。


しかし、忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしていたため。

                   これはダメだ。


以上が、秀忠が改易を命じた表向きの理由である。
しかし実際は、以下の理由もあったのではないかとされている。


    真相は ↓ でしょうね

キリスト教ときわめて親しい関係にあったためという説。
忠輝の岳父が伊達政宗であったため、
また幕府内で奉行職を兼任し莫大な財力を背景に隠然と権力を振るっていた大久保長安と近い間柄であったことから、
古くから秀忠から警戒され嫌悪されてきたという説。
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月14日 12時04分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、私の大胆な仮説―「芭蕉はすべてを知っていた!」を述べてみます。
 以前、「空海はすべてを知っていた!」と仮説を立てたことがありました。
 それは何かといえば、この一点「天皇家の謎のすべて」であります。

 天皇家の謎のすべてとは、創世期からの成り立ちであります。それはもち
ろん『古事記』や『日本書紀』で物語られておりますが、それは建て前であ
って、いわゆる官軍(勝者)のプロパガンダに近いものだった。賊軍(敗軍)に
属するの者たち・民は地下に潜って真実を隠し伝え続けたのではなかろうか。
意外と知らないのは官軍だけて、底辺の民は真実を伝説的に伝え聞いて知っ
ていた・・・。
 現代でも、表向きの教科書的歴史はあくまで建て前として崩さず、だけど
本当はこうだという歴史観は国民は持っている。国民は賢いのである。

 昔から国民は賢かったのである。即ち『先代旧事本紀大成経』が芭蕉の壮
年期に出版されているが、芭蕉も知識人として歴史については当然いろいろ
知っていた。疑問も持っていたら違いない。その本の出版後、様々な意見が
知識人の間で交わされ、古代の真実がより鮮明にされたと思われる。
 昔の人は、想像以上に勉強していた。例えば、賀茂真淵記念館へ行ってみ
ると、想像を絶するほど、彼ら知識人は研究し、知っていたということを思
い知らされます。たぶんそれと同じくらい、芭蕉も知っていた。和歌も国学
も先生について学んでいた。
 ましてや、天正伊賀の乱のジェノサイトで負ったトラウマは、歴史への探
究心を数倍強くしたはずである。過去に遡れば、必ず天皇家につながるのは
間違いない。不比等の陰謀も当然わかっていたはずである。

 これは、私の仮説でありますが、「芭蕉は、すべてを知っていた」。
知らないのは、芭蕉が慎重で尻尾を絶対出さなかったからではなかろうか。
それは忍家出身の家系のなせる業ではなかったか。さらに俳句を純文学の極
みまで高めたという功績により、芭蕉は「俳聖」の領域に高められ、その神
聖さを侵すべからずという暗黙の了解ができてしまったのではなかろうか。
いずれにしても、その裏には芭蕉を生んだ「トラウマの熱きマグマ」があっ
た。そう感じるのは私だけであろうか。

 芭蕉の謎を解く鍵は、やはり「曾良」にあると思う。
 なぜなら―
 @「曾」はソシモリ、スサノウ、ソガを表している。
 A「良」は良い、正しいを意味している。
 B曾良は諏訪神党、即ち「ヤマト」に迎合しなかったまつろわぬ神に属す
  民である。
 C曾良は伊勢長嶋藩に属していた。長嶋は一向一揆で信長に立ち向かい、
  やはり皆殺し(火刑)の憂き目にあっている。
 D一向宗は浄土真宗で、これは根底にキリストが包含されている。親鸞は
  秦氏でもあった。
 E曾良は別名「河合」と芭蕉に名づけられた。「河合」の謎とは・・・そ
  れは、下賀茂神社にある河合神社のことではなかろうか。河合神社は
  すべての秘密を封印してひっそりとたたずんでいる。
 F河合神社の秘密とは、「伊雑宮」の存在ともオーバーラップする。即ち
  天皇家の最高機密である。
 
 しからばFの最高機密とは―
  
 
 
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月14日 16時34分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 記紀の秘密は危機の秘密。世界的大宗教に絡む秘密となれば、タブー中の
タブーなのかも知れません。それも、さらにその奥に秘密があり、エジプト
のピラミッドにも通ずるものであるとしたら・・・。

 芭蕉はそこまでは知らなかったと推察いたします。ただ、佐渡の空に横た
わる天の川と星々を見て、深い感慨にしたったのは事実でしょう。
 星の中でも、特に「オリオン座」です。ここに、伊雑宮、及び河合神社の
秘密が潜んでいる・・・。

 そこからの話はとりあえずは想像にまかせることにいたしましょう。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月14日 21時56分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


     E曾良は別名「河合」と芭蕉に名づけられた。
      「河合」の謎とは・・・それは、下賀茂神社にある河合神社のことではなかろうか。
       河合神社はすべての秘密を封印してひっそりとたたずんでいる。


わたくしも「河合」というのに妙に引っかかっていました。


曾良が河合と芭蕉に名付けられたのは知りませんでしたが
曾良=河合  とずっと思っていました。


そして「河合」って?
どこかで?

と思っていましたら下賀茂神社に関わりましたか。


スッキリしました。
ありがとうございます。




>特に「オリオン座」
>そこからの話はとりあえずは想像にまかせることにいたしましょう。

わたくしにも身近な人で「オリオン座」が特別な存在と言う人がいました。


なにかありそうですね。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月14日 22時04分15秒 ) パスワード

人類とオリオン座の関係はなかなか面白いです。


http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%80%80%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3%E5%BA%A7


暇潰しにでもどうぞ。
[67]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月15日 08時03分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 天皇家の謎は、ヤマトと出雲、神武天皇と応神天皇、卑弥呼と天照大神
あたりがわかればだいたいわかるのであるが、いろいろな本があり、表現
仕方も違うので迷ってしまう。ズバリこれが正解というテキストがないだ
ろうか・・・。私は船場俊昭氏の『消された物部氏 天津甕星の謎』が大筋
をよくまとめられているので私なりのテキストとしている。

 詳細は今は避けますが、その中でやはり諏訪のタケミナカタノカミが
ヤマト後の、まつろわぬ神として重要なポイントとになると思います。
 諏訪大社、そして諏訪神族・・・外物部―しいたげられた者達、真実を
知る者達ということになります。

 そして、時代は変わりますが、「曾良」が諏訪出身ということ・・・ここ
が重要な意味を持つと思います。

 一時中座します―
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月15日 08時31分13秒 ) パスワード

曾良


http://hyakka.seesaa.net/article/423635783.html
以下コピペ


「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。


<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。

その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の歌枕の旅が巧みに利用したというのが専門家の間では定説となっている。


その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、
北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に探索して回っている痕跡がある。


その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調和した形になっている事実には驚かされる。


きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の任務を受け入れことにやむを得ず、同調したのではないかと専門家は指摘する>。


こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、芭蕉に接近して弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を手なずけて幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。

果たして芭蕉の死後、「曾良」は、幕府巡見使九州班員に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこに無かった。公務を理由に葬儀に参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。 (了)   
    参考・ウィキべディア      2007年08月11日掲載



以上


      あらら・・・
      そうだったの???

[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月15日 08時44分13秒 ) パスワード

曾良


曾良旅日記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E8%89%AF%E6%97%85%E6%97%A5%E8%A8%98


抜粋

神社を訪れた際には「参詣」「拝ム」と記述するのに対して、寺は「見学」「見ル」等と記しているのは神道家でもあった曾良らしいといえる[10]。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


http://homepage2.nifty.com/anjintei/e-haiku-yomosugara.html
参考 (曾良の略歴・上諏訪は曾良生誕地)


俳聖・松尾芭蕉に付き添い、「おくの細道」を旅したことで知られる「河井曾良」は、慶安2年(1649)に上諏訪宿で酒造業を営んでいた高野七兵衛の長男として誕生した。曾良は、幼少期を諏訪地区で過ごした後、伊勢国長島(三重県桑名市長島)にある大智院住職であった伯父の元にへ身を寄せ、青年期を過ごしたといわれる。


元禄2年(1689)3月に江戸深川を出発して、陸奥から北陸を旅して5ヶ月経って、山中(石川県加賀市)に到着したころ、曾良は腹の病に罹り、青年期に過ごした大智院で治療するため、芭蕉に先行することとなった。


加賀の全昌寺で、曾良は「よもすがら」を詠んで芭蕉に書置した後、伊勢国長島の大智院に向った。大智院で約2週間、薬を服用して腹を治療後、大垣に向かい芭蕉と再会し、約2400qに及ぶ「おくの細道」の旅を終えた。


芭蕉没後の宝永7年(1710)、曾良は諸国巡見使の用人として九州に赴き、唐津領の巡見を経て、肥前国平戸藩内の壱岐島に渡って、風本(長崎県壱岐市勝本町)に滞在中に体調を崩し、5月22日に亡くなった。享年62才。


曾良の墓は、宿舎であった中藤五左衛門家の菩提寺・能満寺にあって、墓標に「賢翁宗臣居士 江戸住人岩波庄右衛門尉塔 宝永庚寅天五月廿二日」と刻まれているとのこと。


曾良の誕生地と終焉地の縁で、平成17年(2005)、諏訪市と壱岐市は姉妹都市となったという。上諏訪が曾良の生誕地ゆえ、諏訪市教育委員会では「河井曾良」と題した小冊子を平成21年(2009)3月に刊行している。


曾良の供養塔、旅姿立像および句碑がある桑原山正願寺(諏訪市岡村1−15−3)は、近代吟詠の祖といわれる木村岳風の生家(岡村1−7−16)と木村岳風記念館に極めて近いところにある。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月15日 09時03分29秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101487.html
スレッド51をご用意致しました。

切りの良いところでどうぞ。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.