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 投稿番号:101484 投稿日:2015年08月25日 16時00分03秒  パスワード
 お名前:足立 勗
二条天皇と二条院讃岐
キーワード:閑院 二条天皇 二条院讃岐 足立遠元 天野遠景
コメントの種類 :書籍・文献
本人によりコメントは削除されました。 2015年08月26日 12時26分35秒
[2]足立 勗さんからのコメント(2015年08月27日 22時44分20秒 ) パスワード
URL=http://nasa9187

服部明子様  長い間ご無沙汰しておりました。

久しぶりに平家物語を熱く語るを尋ね、月日のたったのを実感しております。

小生、この間しばらく病気静養致しておりました。というのも脳梗塞にやられ左足に麻痺をきたし、しばらく入院、そしてリハビリ、然し片足が麻痺すると云うことは大変なことなんですね、で三回顛倒して左右の肋骨骨折、三回目は忘れもしない自民党が大敗した総選挙の投票日、ついに腰椎圧迫骨折、それから四ヶ月程コルセットを身体に巻いて過ごしました。そのコルセットが外れて間もなく、思いもかけない病、心筋梗塞です。カテーテルで検査した医師は今すぐ入院して下さい。帰るなんてもってのほかです。冠動脈は三本有るんですが皆詰まっています。心筋の壊死が大分進んでる可能性があります。
それを聞いた途端、瞬間的に頭が真っ白になりました。
 病室に入りそれでも鼻歌を歌っていると、「足立さんは手術こわくないんですか。」と聞く、「こわいとかこわくないとかの問題ではないでしょう。それ以外の選択肢が無いのですから。オペは先生にお任せしますよ、それよりも手術代幾らかかるのかなあ・・・・・・と、そのことの方が気になりますよ生還してもしなくても手術代は変わりませんでしょうからね」「ははあ、そんなもんですか」先生あきれたようなかををしていた。
手術の前夜、コンセルジュのお嬢さんが一枚の用紙を持ってきた。「所定の事項を先生に書いていただいて、必ず明日中に区役所の福祉課に提出して下さい。」「なんの書類ですか」「さあー、もしかして玉手箱かもよ)
それなりその事は退院するまでわすれていた。只娘に区役所に行ってもらったことは覚えている。手術当日。手術室まで車いすに乗りますか、と問うのでいや、歩いて行きますと手術室前まで世間はなしをしがら歩いた。今でも不思議に思うのだが、部屋に入ってイスにかけた、そこで頭にキャブをかぶせられたのは覚えているが、そのあと麻酔をどの段階で打たれたのか全く記憶がない。家内に言い残したいことがあったはずだが・・・・・・とにかく室の入り口のイスに座ったまま私は昏睡状態に落ちたようだ。

 時間はわかららない、だれかが遠くで私の名を読んでいる。そう気が付いた途端。まるでトンネルから抜け出してくるように目が醒めた。医学用語では意識が回復したというのてあろうか、何しろ十二時間近くも意識不明で、その間私は胸を開かれて触られていたのである。
 後で聞くとバイパスそのものは問題ないがその繋いだバイハスを心筋に結合させてこそ成功と言えるのであるが、心筋がの壊死が進行すると心筋がぼロボロになつって血管を縫合できない。まさにこの状態であったらしい。私の手術は再三縫合、開胸をくり返し、胎内に出血していないかをポータブルレントゲンでチエックしながら進められたようだ。何しろ術前の判断では生存率一%というに難関である。前日の一三時頃始まって終わったのが二四時過ぎ妻と娘はオペ後の私の顔を覗いてから安心半分不安半分の状態態で半夜の道を家路に急いだ。
私が意識を取り戻した時、口の周辺の生命維持装置はすでにとりのぞかれいた.。一週間程もICUにいたろうか、そのあと院内のフロアーを歩かされ、そうして退院前後から約四ヶ月の心臓リハビリ、要するにパソコンに連動する自転車漕ぎである。その修了証書をもらってほっとした頃左の足腰が痛み出し、??と思いました整形外科にもかよっていたのでそちらでも診察を受けました。原因がわからぬまま日にちが過ぎました。その間、2・3の有名な整形外科の門を叩いてもみました。
矢も盾もたまらず私は神経内科(脳梗塞担当)の先生にどっちが原因なのかだけでも調べることは出来ませんか。と尋ねました。
その結果『神系伝導検査』を行うという、これは頭頂部と足のつま付に電極を置きその間をどう電気が走るかを調べるものであった。結論から言と、脳梗塞は無罪放免、原因の総ては整形外科の分野にあった。整形外科では漸く咳津随感狭窄症をみとめた。しかも頸椎官にも狭窄がある、と
 ただ手術するほどてもない。あるいはもうお年だからいまさら。・・・・・・ということなのか

というわけで今は介護保険でリハビリに通い、時どき美つょういんでブロック注射をうってもらっています。

そうそう可愛いコンセルジュにもらった玉手箱ですかが「要は身体障害者の申請書類てした。此の手続きをしますとその日を起点として「更生医療」の対象となり高額医療費よりも更に手厚い保護が受けれられます。
まさに玉手箱、最初は「更生医療保険」、その後は引き続いて「高齢重度障害者医療費受給者証」を支給してくれる   これはどう使うかというと

外来  一病院・一薬局 月 二回限り 一回六〇〇円まで    入院 二四〇〇円まで
 たいいんするとき、食事代と依院代しか受け取らなかった。入院代は保険証が届いてからで結構です。
届いた保険証をもって妻は精算の窓口に云った。放心したような顔で戻ってきた。
「どうした.?」「二四〇〇円やった」「フーウン・・・・」 私は心の中で(たまてばこーか)とつぶやいていた。


しかし歴史のことは片時も忘れなかった。もしかして麻酔中も考えていたかも知れない。

そこで今日ば二条天皇と二条院讃岐について語ろうと思う

但しWindows7をWindows10にバージョンアップしたおかげでパソコンの操作が思うように動かずアプリも狂い放しなのでミスプリが多くそうで不安である。かえって7のままの方が良かったと後悔している。

この二人も平家物語には深く関わる人たちであった。平治の乱に巻き込まれたからである

二条天皇は閑院流藤原家一族にとって待望の期待の星であった。天皇家は今まで摂関家全盛の時代を漸くにして藤原れを外戚に持たぬ後三条天皇によって伏原氏のクヒキを脱しようとしていた。しかし白河天皇によってその夢は打ち砕かれる。今度は内なる敵白川法王によって天皇家自体の内部崩壊の危機「保元の乱」を迎えるのである。そして近衛天皇が薨ずると、人品共に天皇の器であり得ぬ雅仁親王をたて、苦し紛れにこれは繋ぎの天皇だとうそぶく。では誰の繋ぎなのかとみていると雅仁こと後白河天皇の皇子守仁親王だという。此の守仁こそは後の二条天皇その人であった。此の守仁親王誕生には多くのドラマが隠されている。
先にも云ったように守仁の誕生は閑院流藤原家一族にとって待望の期待の星であった。彼の母は藤原懿子、彼女の祖父は藤原道長から四代目師実である母は閑院流始祖公季から五代目徳大寺實能の妹である。その姉妹に大連門院璋子が居る崇徳天皇・以仁王・後白河天皇の母である。實能にはもう一人の妹が居た。この人が後三条天皇天皇の孫、有仁王に嫁いでいた。その縁で懿子は有仁王の養女として育てられた。閑院流藤原一族と
後三条一族が結束したのである。しかし懿子は藤原では無く源懿子として入内したのである。あくまでも後三条家の一員としての閣を貫いた。懿子はコレラ皆の総意として後白河に嫁ぐ。むろん天皇親政という大志を抱いて。しかし不幸にも懿子は守仁親王を生んで間もなく無くなってしまった、懿子が持っている守仁養育の目的を知った誰かがまっさつしたのか。とりあえずおさな子は祖阿祖父鳥羽法皇の元に引き取られ美福門院得子が養育することになった。
 久寿二年(一一五五)七月近衛天皇が崩御し、雅仁親王か践祚して後白河天皇になると守仁親王はその翌月仁和寺を出て親王宣下を受け皇太子となった。

この頃守仁皇太子の元へ女房仕枝をしたいと強く志望している女性がいた。用明はわからない。源氏で唯一生き残った摂津源氏の統領、源三位頼政の娘であった。彼女は歌人である父の薫陶を受け幼時より和歌が堪能であった。また父は長らく大内守護を務め「鵺退治」などのよ有名をとどめている。念願叶って守仁親王の尿法になった彼女はそれからは二条院讃岐のなで歌壇に飛躍していった。
 ところが丹波国佐治庄地頭安達系図に不思議なことが書いてある。

---天野遠景

五郎 先于父死去 丹波足立初代
足立遠元-------------- 足立遠光------------------------------足立遠政
母源三位頼政女二条院讃岐

遠光の母は二条院讃岐というのである。 遠光は確か1165〜1168頃の生まれである。しかし「先于父死去」とはどういう事か丹波の足立系図を見ると必ず「先子父死去」となっている私は長い間これを疑っていた。ところが『尊卑分脈』の宇多源氏佐々木氏の中に「先于父死」として祖父が養子にしている例を発見した。その後、知人が鈴木真年収集の足立系図を送ってきてくれた。毛筆で書かれたその系図には「于」とはっきり書かれていたのである。「先于父死去」とは『子供が生まれる前に父か沁んだ』と理解するべきではあるまいか。


では何故足立遠元が養子にしたのか、少なくとも頼政・遠元・遠景・もちろん讃岐も父親がたれか知っていたはずである。其の上で尚伏せたのである。

問題は白河法皇の皇位継承の態度である。輔仁親王に皇位をという後三条天皇の意志に反して白川が自分の皇子に譲り、孫の鳥羽を経て大叔父子といわれる崇徳天皇へ、(待賢門院璋子が白川の種を宿したまま鳥羽天皇の女院となり生まれたのが崇徳天皇たった、という説。)その後、近衛天皇を経て、天皇の器ではあり得ない後白河天皇へと、倫理的にも政治的にも大きな問題を提起し「保元の乱」を惹起しました。当時後白河天皇は正統な皇位継承者ではないと考えられ、輔仁親王の王子有仁王への践祚期待が高かった。然し有仁王は白河法王によって臣籍に降下させられ源有仁になり。皇位への望みが絶たれた。ここに閑院家は藤原公実の娘公子が生んだ懿子に因果を含め源有仁の養女となし源懿子として後白河の後宮に入り二条天皇をうんだのてある。然し不幸にも懿子は出産後間もなく亡くなります。守仁は鳥羽上皇の妃美福門院得子が養育し立太子します。然し二条は1158年に天皇になっていつの頃からか父後白河上皇と天皇親政をかけて争うことになります。この思想を二条に植え付けたのは誰か。
 一方、讃岐は守仁親王(二条)が立太子した1155年頃東宮の女房として守仁のもとに上がりました。彼女はその後平治の乱を経て天皇が薨ずる1165年の直前まで二条天皇の傍近くに仕えていました。讃岐は父源三位の薫陶もあって和歌の道に秀で、後に「我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらね乾く間もなし」と読んで「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになるのであるが、二条院の崩御に際してなぜか追悼の歌一首も遺していないのです。彼女は此の時身重の末期だったのではなかろうか。
では何故足立遠元がその子を養子としてひきとったのか。遠元はその子の父を知っていたとしか考えられない。
 讃岐が守仁親王の元に女房として上がった同じ年遠元は天野遠景を猶子としている。

    久寿2年足立判官遠元為猶子
    改姓藤原名遠景
    仁安3年相続良仁卿天野御所

仁安三年は1168年です。1168年と云えば四条天皇を押しのけて、いよいよ平家の血筋高倉天皇が践祚した年です。天野御所は伊豆國にありました。頼朝の流刑地蒜が児島とは目と鼻の距離にあります。良仁は有仁の後継者であり、(熊谷家文書では遠輔となっている、以下同 文書・・・十月十日任大納言□□所提同年十一月、依無実被配流伊豆云々)、ここに伊豆の別業ができたとする。遠景は部分的であれ源有仁の一員となっていたのです。
では遠光は遠景を介して遠元の養子になったのでしょうか。この辺りが推敲の隘路です。遠景の素性は遠駿地方の工藤氏の一員であるという(尊卑分脈説)ところがこの系図では曾祖父の代から系線か点線で書かれていて素直には信用できない。それに較べて『熊谷家文書』にある遠景から九州の便として大江廣元にあてた手紙の綴じ代の空白部分に、頁をまたいで書かれた後三条からの系図がここにある。あるいは毛利家が家臣の経歴を集めた『萩藩閥閲禄』の中にある天野系図。これらは若干の違いがあるものの輔仁親王、有仁王そして天野遠景の系譜をうたっているのです。

さて、では『熊谷家文書』とはどんなものでしょう
これは大枝廣元から九州の天野党景に宛てた手紙の綴じ代の部分に複数枚に渡って書かれているため、閉じ穴によって字がつぶれて読めないところがあります。
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建久五年三月十日 奉
天野民部大夫殿 前因幡守廣元

 貴賀嶋追討事、被差遣子息則景之旨、披露候か?、又鎮西之輩、不随催促分、可被注進之由、依仰執達如件、     奉
建久五年八月十日 前因幡守廣元

天野民部大夫殿

系図

御母儀陽明門院 御母中納言 御母儀京極太政大臣
後三条院 親王 大蔵卿息女 花園左大臣 師実息女
 尊仁-----------------------輔仁----------------有仁 源氏 ----------------
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 民部卿少将 
母堤中納言---- 遠輔=============遠景 ---------------------------------
兼輔卿末孫隆□息女 母伊豆国司左中辨実藤卿
長承三年正月廿日
→ ○于藤原使、   ○   ○← 閉じ穴 →○
十月十日、任大納言
同年十一月、依無実被配流 息女、元暦二年三月十日建礼門            伊豆國     院女自西海入間、播州渡辺桟敷、                    文治二年十一月四日昇殿、干時
              依為九州長防両国守護、蒙皇宮並                    左大将家御下知、建久六年追討貴
               賀嶋了、同十年正月一三日、出家
       -法名蓮景
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天野和泉守 安芸前司 安芸三郎次・
------政景---------------景経--------------遠光------------------遠政
被 院宣候次第并糸啚如此候、任元祖遠景例相隋長防両国、如代々受領、被任遠政安芸守、卒両国群勢、可馳参之由、可下預 綸旨候、
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この文書がどうして熊谷家に渡ったのかは不明です。

この天野氏については、訓読本『吾妻鏡』の索引本の中で北条氏・二階堂氏と共に『鎌倉時代の天野氏について』と題して菊池紳一氏が研究論文を書いておられる。
天野遠景は上総介広常の謀殺。しなのげんじの一条忠頼の柳営内に於ける指殺。比企能員の謀殺と当時頼朝の政敵とみられていた有力武将を次々と殺し『殺しや天野』の異名までつけられていたし、伊豆で旗挙げして初戦で勝利した後、全員が石橋山方面に進撃したのに、彼だけは西へ走り、大派景親の群に紛れ込んで『二股をかける男』とも呼ばれた。実は、それは彼の本拠天野御所の地理的な条件もあったろうが、その本拠、遠駿は藤原南家系工藤氏の本拠でもあった。彼は駿河湾方面の海賊(俗に言う白波)を討伐する役目を負っていたのである。こうしたことから彼はに何らかのかたちで工藤氏と繋がりを持っていたのであろうと考えられる。そういった関係から遠景は木曽国に入り義仲の嫡男清水義高を人質として鎌倉に連れ帰ることに成功している。私は彼を足立遠元の諜報・工作活動の要員ではなかったかと推理している。そのために諸国の有力氏族と好を結び、後世その系図作成に混乱をきたしたのではなかろうか。
ちなみに工藤氏の遠祖は平将門の乱の時に翻弄された常陸国司藤原維幾の末裔であった。 そのほか藤原南家乙麿流・藤原北家魚名流・後三条源氏流・新田源氏流とさまざま、探せばきりがない。子孫は遠駿ばもとより目立つものは能登系・安芸系である。特に安芸の場合は大江博元の子孫毛利氏の被官として大いに栄えた。
 私か注目するのは讃岐が守人親王付きの女房として上がったその年、遠景が足立遠元の猶子になっていること、又平家系の高倉天皇践祚と時を同じくして遠景が天野御所を相続して居る点である。とすると源有仁家との関係はもっと古かったとも考えられ、もしかしたら懿子が閑院家から言い含められ守仁親王指南すべきその閑院家の遺志を早世した懿子にかわって指南したのが二条院讃岐てはなかったろうか。一条天皇に定子を通して仕えた清少納言や彰子を通して大きな影響を一条天皇に与えた紫式部のように、但し讃岐の場合はより直接的に呼びかけたであろう。なにしろ讃岐がいなかったら大騒ぎになるくらい守仁は讃岐にべったりだったらしいから。こうして父祖の悲願天皇親政の素地はつくられ守仁親王は践祚して二条天皇になると彼の父祖から受け継いできた血が本領を発揮しつつあった。  
大体閑院流藤原氏は天皇家にとって嫁の家といわれるぐらい多くの入内が過去にも行われ、そして未来にもそれは続くのである。
 一方後三条家は実質三代で歴史から抹消されていく、『尊微分脈』で見ても有仁以降は曖昧である。
 然し此の一族は珍しく後三条天皇の母方に藤原氏が入らなかった。
母は禎子内親王であるため口うるさい藤原系の外祖父を持たなかった。 そのため思い切った荘園整理事業が出来た。摂政の藤原頼通の天皇を蔑ろにしたおこないを兄後冷泉院の二十四年に及ぶ東宮時代に見てきており、そのため摂関の処遇にも厳しかった。然し高齢での皇位継承であり僅か五年にして貞仁親王(後の白河天皇)に皇位を譲ったが、むその後はかならす輔仁親王に渡すようにと遺言し、白川もそれを承知した。このことは宮廷内外で知らぬものはなかった。一応は二宮実仁親王を皇太子に立てたが、実仁が亡くなると三宮輔仁をという故後三条院の遺言にもかかわらず白川は 口を拭ってその約束を反故にし、さっさと我が子喜仁親王を立体子させてしまった。こうして喜仁が践祚し、堀河となると白川は上皇として権力を振るい。したい放題の後濫行が始まるのである。攝関政治は衰頽したが、此の時から同族同士が争う院政期が始まるのである。
 忘れてならないのが足立遠元の娘婿が閑院家の一員に連なっていると云うことである。

光能叔母
閑院流大徳寺
-------藤原實能-------------公能===================光能

 当サイト(スレット「 木工頭高倉範季の周辺』に書いていますように光能は重要な役目を担って行動し始めています。今後の書き込みで明らかになりますが高倉範季と源三位頼政は従兄弟どうしのかんけいです。
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