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 投稿番号:101478 投稿日:2015年08月04日 10時55分12秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XLZ(M氏家譜11+市野氏解明済?)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101473_77.html
長上郡の服部氏族XLY(M氏家譜10+市野氏解明済?)スレッド46の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月04日 12時04分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 掘れば掘るだけ収穫がありますね。服部は根が広がっている。能の世界で
もですね。もともと観阿弥・世阿弥の出自からしてそうだったですものね。
観世流の宗家は服部といっても過言でないですよね。
 服部保正の後裔が観世流中興の祖であったということになりますね。そし
て現在の片山・井上がある。もっと早く気が付けば、京都ももっとおもしろ
く楽しめたのにと思います・・・。
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月06日 00時17分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、市野・小池・上石田・下石田にあるお寺をすべて回ってみました。
服部半蔵や服部中、そして市野氏や松島氏について何か拾えるかなと思った
訳であります。8ヶ寺を回りましてお墓にある墓標の名前と家紋をこれはと
思うものを記録してまいりました。

 今の所、大発見はないようです。上石田・下石田は服部中の知行地であり、
実際に管理を行った代官は馬渕氏であったので、馬渕氏の墓が多かったです。
 松島氏で家紋が「丸に五葉根笹」のものを上石田で5基見つけました。
 南有玉も1ヶ寺回りましたが、そこは高林家と有賀家が等しくたくさん並
んでおりました。

 小池町は姫街道と秋葉街道が交差する要衝にあることがわかりました。
 服部半蔵の形跡は拾えなかった。

 丸に三つ柏を使っているものが氏の数としてはけっこう見られました。
 例えば、寺田、間淵、杉山、杉浦、高林・・・。

 お寺巡り用のノートを専門に作りました。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月06日 02時12分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服部半蔵の形跡は拾えなかった。

半蔵は駿府に行ってますから、浜松には一族の墓も無いのかもですね。



>丸に三つ柏を使っているものが氏の数としてはけっこう見られました。
>例えば、寺田、間淵、杉山、杉浦、高林・・・。


ということは、市野氏の家紋の原形(笑)は丸に三つ柏紋で、寺田氏または袴田氏で留まった人の紋かもですね。


大きな収穫だと思います。


>間淵

珍しいですね。
馬淵さんから変わったのかもですね。名字の由来を見て来ますね。

【名字】間淵

【読み】まぶち

【全国順位】 14,455位
【全国人数】 およそ400人

現山梨県である甲斐国巨摩郡曲淵村が起源(ルーツ)である清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏流がある。 


群馬県 1,935位 およそ90人
静岡県 3,847位 およそ50人        おやおやおや!
                              これはこれはこれは!



ちなみに馬淵さんもチェック

【名字】馬淵
【読み】まぶち,ばぶち,ばふち,うまぶち,うまふち,うまづめ

【全国順位】 4,200位  
【全国人数】 およそ2,900人


現滋賀県である近江国蒲生郡馬淵村が起源(ルーツ)である宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)。
ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)佐竹氏流、武田氏流などにもみられる。

                                 近江ですか。


青森県 3,389位 およそ20人
秋田県 2,040位 およそ30人
茨城県 3,385位 およそ60人
群馬県 3,757位 およそ30人

埼玉県 3,894位 およそ100人
千葉県 3,194位 およそ200人
東京都 2,240位 およそ600人
神奈川県 2,482位 およそ400人

富山県 1,784位 およそ90人
石川県 3,685位 およそ30人
福井県 1,979位 およそ50人
山梨県 1,346位 およそ50人

岐阜県 1,079位 およそ200人
           静岡県 3,071位 およそ80人     意外と少ないですね
愛知県 3,588位 およそ100人

滋賀県 3,480位 およそ30人                    意外と少ないですね。

鳥取県 1,307位 およそ60人
福岡県 3,095位 およそ200人
熊本県 2,436位 およそ70人
沖縄県 2,282位 およそ20人



>お寺巡り用のノートを専門に作りました。

いいですね。
ご先祖さまのお知り合いだったでしょうから良い御供養になりますよ。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月06日 22時13分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は神様が二つ微笑んでくれました。地道に探せば出て来るものですね。

 それは、一つは市野氏・袴田氏に関すること。

 即ち、『静岡県の名字』(渡辺三義著)によりますと、市野氏に2流あり。
 その1つは浅井系市野氏で、もう1つが寺田系市野氏。
 寺田系市野氏は、寺田右京進眞宗を祖とする。
 また、遠江袴田氏は、寺田右京進眞宗を祖とする。
 ということは、寺田系市野氏と遠江袴田氏は、同族ということになる。
 更に、寺田氏は原氏の分派であるので、ルーツは1つ、原氏ということに
なる。つまり、これはあを様がご指摘されたことと奇しくも一致した。
 但し、袴田氏にも古くからの諸流があるので、更に検討は続けたい。

 そして、もう1つは松島氏に関することである。

 偶然にもここの図書館(磐田中央図書館)にその本はあった。
 その本の作者は「松島茂光」氏、著書の名前は『苗字の話―先祖探しの
方法』である。
 この本には、著者のルーツ、伊那の松島氏のことが書かれていて、信憑性
が格段に高いと思いました。詳しくは次回に述べることといたします。
 とりあえず本夜も熱いので、頭脳がオーバーヒート気味、性能も燃費も落
ちていますので、これから涼しい所で睡眠に入るとします。

 でも、探せ続ければ、神様はいつか微笑んでくれる・・・何かそんな感じ
を強くしています。
 松島氏がわかると、服部についても推測がしやすくなってまいります。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月07日 03時48分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい!
すごい!スゴイ!その調子で頑張って!

思わず叫んでしまいました。



>市野氏に2流あり。
     その1つは浅井系市野氏で、
     もう1つが寺田系市野氏。寺田系市野氏は、原氏の子孫の寺田右京進眞宗を祖とする。また、遠江袴田氏も、寺田右京進眞宗を祖とする。
         つまり寺田系市野氏と遠江袴田氏は、同族ということになる。


          そうしますと原氏と寺田氏と袴田氏で紋が@または他の何かの紋で同じだったら一族ですね。
           楽しみが出来ましたね。


やはり書は万巻読まないといけませんね。



>「松島茂光」氏、著書の名前は『苗字の話―先祖探しの方法』。
> この本には、著者のルーツ、伊那の松島氏のことが書かれていて、信憑性
が格段に高いと思いました。


どうしますと「磐田系松島氏」は伊奈出身ですか。

浜松の松島氏との関係を知りたいところですね。



頑張っていますと、丸に三つ柏紋の服部氏が姿を現すかも、ですね。
だんだん苦労が報われて来ていますね。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月07日 06時35分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:熱い→暑い

 変換後、よ〜くチェックしないといけませんね。以前、「意外に」と書い
たつもりが「以外に」となっておりました。これも今訂正しておきます。
 あを様は、漢字の間違いが1つもありませんので、すごいなと思います。
バイリンガルな生活であっても、忘れないということ、おみごとです。

 磐田の図書館は浜松へ行くより若干近いですし、信号が少ないのでスムー
スに行けます。おまけに建物が平屋建てで登り降りがなく、体育館のように
広いのでストレスがない。そしてクーラーが程良く効く。本も充実している。
もちろん駐車スペースも十分あるということで、文句のつけようがありま
せん。さすがかつては国府のあったところ。見直しております。

 たまたま磐田で見つけた松島氏の著作は、全国版であり、アマゾンで探し
たら一冊ありましたので、さっそく貴重な資料として注文いたしました。
この松島氏の本の内容を理解するのに、やはり先日行った飯田、下伊那、
上伊那での体験が役立ちます。また飯田の小笠原資料館尾で仕入れた本、
久保田安正氏の『伊那谷にこんなことが』がバックグラウンドを理解するの
に役立っております。それはそうと、飯田の近くに浪合があり、宗良親王や
尹良親王のゆかりの地ということで、近い内に一度訪れてみなければいけな
いと思っております。

 伊那の松島氏を語るのにはその辺のバックグラウンドを頭の中で整理する
必要がありますので、ちょっと集中してみます。若干の時間を下さい。
大きく分けると@南北朝の戦い、A武田の侵略、B徳川の攻略があります
・・・。
[7]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月07日 13時59分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「浪合」というといろいろ因縁がある場所柄ですね。

 例えば、この場所で、「織田信長」は「武田勝頼・信勝親子」の「首実検」

を行っております。

 ここは何かを引き付ける魔力のようなものがある所なんですね。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月07日 14時24分56秒 ) パスワード

三つ柏さんへ


窓8になってから思わぬ変換間違いが、アップになってから見つかる、という苦い思いをワタクシもしております。

      言い訳・・・汗

しょうがないですね、校正係がいないのですから。




浪合記は是非お読みになってください。
南北朝時代、誰が自分の先祖だったか、分かります。

取り敢えず現代語訳で
http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html

浪合村まで転戦して、結局、尾張に定住することになったワタクシの先祖。
袂を分かって別の場所に落ちて行った昔のお仲間。

明治維新で、当然、浪合記は否定されましたが
でも、おおよその南朝方の動きが分かりますから、先祖の生き様がちょっとは分かります。



>この松島氏の本の内容を理解するのに、
>やはり先日行った飯田、下伊那、上伊那での体験が役立ちます。

本当に、万巻の書を読み、万里の道を旅をしないことには、いけませんね。
先日いらっしゃった飯田、下伊那、上伊那が理解を助けてくれるなんて良かったですね。


松島氏は  @南北朝の戦い、A武田の侵略、B徳川の攻略 を経ていましたか。
泣けて来ますね。
    250年ほど?
そういう幾星霜を経て現在のご親戚関係が出来上がりました。

なので松島氏を介してきっとご先祖さまに出会えます。

    それにしても、大きな収穫がご自分の直接のご先祖さまでないのが、ちょっと残念ですね。



でも、ご自分がこの世に生まれて来た何百年間もの長い過去の道がだんだん見えて来て
何故ご自分が今生きているのか、分かります。


わたくしの場合は今の夫と結婚したからいろいろ分かりました。

   最近アメリカの南部で白人の青年が黒人の教会で銃を乱射して9人もの人を殺してしまいました。
   それでアメリカの旧南軍の旗が引き摺り降ろされ博物館に収められました。


南軍の旗が下ろされるのは、もの凄く悲しかったです。
サザンベルだった過去生が悲しませたのでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=TFFHMNBiYvM

この曲を初めて聞いた時、滂沱の涙でした。「南軍の少年兵」の歌です。

夫が「恋人が戦死して君の所に戻って来た時にこの曲がきっと演奏されたんだろうね」と言いましたが、余計に泣けました。

今でもこの曲を聞くとやはり涙がいっぱい溢れます。
  北軍の歌には興味が無いですし、←  曲も歌詞もかなり共通しているんですけどね
  南軍の他の曲にもたいして泣けません。


英語を勉強するのが苦になりませんしね。そうだったのかなあ、とも思います。


「心の旅路」の果てを経て、三つ柏さんにもご先祖さまは必ず現れてくださいますよ「よく見つけたね」と。


いやいや、三つ柏さんのご先祖さまですから「あ〜、とうとう見つかっちゃった」とお茶目におっしゃるかもですね。
にっこり
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月07日 16時35分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「浪合記」わかりやすく読みやすいようで、もっと早く読んでおくべき
でした。感謝です!

 その中で「世良田次郎三郎」が出てきましたので、これまたビックリで
す。いずれこの人については探究しなければならないと思っていましたの
で・・・。
 南北朝時代の本(古文書に近い)を一冊持っておりましたが、読めず、こ
の「浪合記」なら今回読めそうです・・・。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月07日 22時43分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html
浪合記の下のリンク

三木屋 
津島神社の近くの和菓子屋さんのホームページです。
津島の郷土史家・森平氏の著作集が置いてあり、津島の歴史を詳細に論じた『津島の歴史』や、
大永元年(1521)から元禄十二年(1699)までの天王祭の記録『筏場祭礼記』の翻刻などがあります。

『筏場祭礼記』には、天正五年に織田信長が天王祭を見物したことや、天正十年の本能寺の変の記事も出て来ます。


秀吉も見たそうです。
この天王祭りには服部家のホンヤさんも神職として羽織袴で参加なさっていました。
現在のご当主も参加なさっていらっしゃるかも。



>浪合で「織田信長」は「武田勝頼・信勝親子」の「首実検」を行っております。

信長の対武田へのメンタリティは  平家方+南朝方  ということだったのかしら?



とにかく遠江の井伊谷・信濃の浪合・尾張の津島は南朝方の子孫にとって
          ここは何かを引き付ける魔力のようなものがある所なんですね。
ですね。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月07日 22時55分59秒 ) パスワード

>信長の対武田へのメンタリティは  平家方+南朝方  ということだったのかしら?


自己レス



信長は平資盛子孫を名乗り
先祖の越前は本来は平家方+南朝方
ですから。

>浪合で「織田信長」は「武田勝頼・信勝親子」の「首実検」を行っております。

ま、自称の出自的政治パフォーマンスということでしょうね。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月08日 06時50分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は松島氏についてまとめようとしましたが、ちょうどパサパサのごはん
でおにぎりを握る時のように、うまくまとまりませんでした。

 まだ半煮えのようですが、なんとかまとめに入ってみます。

 宗良親王が、東海・北陸での戦に負けて、下伊那郡大鹿村に入られたのが
興国5年(1344)でありました。
 その時、親王についた土豪は、「知久氏」「藤沢氏」「黒河内氏」でありま
した。この内、知久氏と藤沢氏は明らかに諏訪氏から派生しているいわゆる
「諏訪神家」(すわみわけ)であります。
 ここがまずスタートの第一歩となります。

 松島茂光氏の『苗字の話』によると、『諏訪大祝の系譜』という資料があ
って、その中に諏訪氏の系譜が書かれているが、そもそも諏訪氏の系譜は古代
にまださかのぼり、初代のタケミナカタノカミあたりは神代で、10代目の
有員(ありかず)あたりから歴史上の人物となる。有員は平安時代、8世紀の
ひとである。さらに10代ほど下ったところからは次のようになる。
 ここに松島氏のアイデンティティが見出されることになります。
 即ち―

 為仲―為次―為貞―敦真(諏訪次郎)―光親(千野)―親貞(藤沢)―清親(二郎)

 ―清親(四郎)―時親(左近将監)―光朝(左衛門五郎)―清正―@正頼(大祝)
                            A清綱(松島) 
 の兄弟へとつながって行きます。
 従って、松島氏のルーツは清綱(藤沢)にあります。
 系譜によれば、諏訪氏、千野氏、藤沢氏、松島氏の少なくとも4氏は同族
であります。

 また、南北朝時代に小島法師が書いたといわれる『太平記』の中に、南朝
方の信濃宮宗良親王に味方した信濃国の武士団が記載されてれており、その
中に神家(みわけ 諏訪神家のこと)一党の32家が次のように載っていると
いう。
 即ち―

 関屋、深沢、皆野、三塚、四宮、若尾、不覚、保科、神野、笠原、千野、
 藤沢、松島、座光寺、栗原、上原、栗林、矢崎、風間、平島、平方、栗沢、
 遠山、向山、中村、西保、真志野、真野、脇間、薗屋、大妻、小島、中野、
 中島、祢津、浦野、大垣、有賀、平井、平出、神田、神内、知久、桓原、
 宮所、小坂、安倍、元沢、高遠、原、安部

の32氏であります。並び順についてを関係の深い順と解釈すれば、千野、
藤沢、松島、座光寺は濃い関係になります。

 この松島氏はさまざまな記録に残されていて、享禄元年(1528)から天文
16年(1547)まで、諏訪神社における大県介という役職を松島氏がほとんど
独占している。つまり、諏訪神社における神官としての地位は高く、また
確固たるものであったということであります。

 藤沢氏については、鎌倉時代の初めには諏訪上社領の地頭人として藤沢谷
を管掌していたので地名をとって藤沢氏と称したという。諏訪神社が鎌倉
幕府の崇敬を得ていたので、諏訪氏の一族が幕府に多数出仕している。その
一人に「藤沢二郎清親」があり、源頼朝の側近として、隔心なき者22人の
一人にあげられて活躍していることが、東鑑には文治3年(1187)から建仁
元年(1201)までの間に、21回も記録されているという。
 清親は2代あって、四郎清親のほうは東鑑には建仁から建長までの間に
13回名前が見ている。さらに、康元から文応にかけて藤沢左近将監時親
の名前が見えている。そして正元、文応の頃から藤沢左衛門五郎光朝の名前
も見えている。このように、鎌倉幕府における藤沢氏の勢力が並々ならぬ
ものであったことが理解できる。
 たぶん、左衛門五郎光朝の頃に、藤沢谷から上伊那郡箕輪の福与にある
鎌倉城に本拠を移したと思われる。
 光朝の子が清正である。清正の子に政頼と正綱がいる。政頼は諏訪上社
の大祝となり、弟の清綱の方が松島氏の祖となった。
 即ち、上伊那郡箕輪町松島の松島を名乗ったということになる。たぶん
1300年代のことと推測される。そこから松島氏はスタートということに
なり、藤沢氏の側近として箕輪の地で行動を共にして来たのは間違いない
事実ということになる。

 従って、私が箕輪町松島に行っていろいろ調べたけれど、諸説あって松島
氏を特定できなかった。それは信濃地区の戦国時代の複雑な変遷による情報
の混乱・誤謬によるもので、その地に生まれ、実態を知る松島氏の子孫が
自分の祖先を知るために地道に調査されたこれらの結果は、信憑性がとても
高いものであると思われます。

 この結果、上伊那郡の松島氏は、小笠原氏や海野氏の分流滋野氏がルーツ
ではなく、諏訪神氏、即ち諏訪氏がルーツ、諏訪一族であるという結論に達
しました。
 松島氏は諏訪神社の位の高い神官でありまた武将でもあり、祖先の時代には
源氏に仕え、頼朝の信頼を得ていた家臣であった・・・。

 ここで区切ります。 
                          
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月08日 07時46分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 清綱(藤沢)と書いてしまいましたが、これは清綱(松島)ということで、
元藤沢氏の松島氏というイメージであります。

 上伊那郡箕輪町松島、二度行きました。一度目は松島城跡、松島氏のものと
思われる墓標を見て、図書館での調査、そして松島神社を訪れた。
 二度目は、南伊那の飯田で小笠原氏関係を調べ、北上して松島城跡、そして
箕輪郷土博物館に寄り、松島氏の資料を送ってくれたことへの感謝を伝え、そ
のあと福与城址、明音寺を訪れた。
 これら一連の調査のなかで、松島氏に関する手がかりの情報はほじけた糸の
ようで一本にならなかった。
 資料としては、『箕輪町史 歴史編』、『信濃史料叢書第二巻』、『下諏訪
秋宮造宮帳』、『信陽城主得替記』、『明音寺』、『和睦(小沢さとし著)』、
『伊那谷にこんなことが(久保田安正著)』を参考にしている。
 そして、今回、地元の松島茂光氏の『苗字の話』により、松島氏の情報が
取捨統合され、一本の太い芯となった・・・という訳であります。

 とはいえ、100パーセントわかったわけではありません。さまざまな情報
の整合性を検証しなければなりません。50パーセントというところですか
・・・。


[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月08日 13時00分13秒 ) パスワード

<13>の書き直し
藤沢氏、でしたね。
失礼をば致しました。


三つ柏さん


諏訪氏の中での松島氏誕生の経緯はさすがですねーヨソモノには全く想像もつかない系図です。
ありがとうございました


鎌倉時代は頼朝方でしたか。
これは隣の木曽の義仲と何か争い事があったからかもですね。


    本姓藤原・俗姓足利氏がゴチャゴチャあって平家についたように
    信濃の諏訪系<藤沢氏>は源氏の頼朝に付くか義仲に付くか迫られた時に頼朝を選んだのかも。

       義仲の父・義賢  vs 頼朝の父・義朝 の代からの戦いに巻き込まれていたのかも。



また宗良親王に味方した信濃国の武士団の1つである「 原氏 」は後に市野氏と名を替えたのでしょうか?


興味深いお話が出て来そうですね。
続きをよろしくお願い致します。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月08日 13時09分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


何百年もの戦いに松島氏も一枚岩ではなかったでしょうね。
なかなか厄介な作業ではありますが

   『箕輪町史 歴史編』
   『信濃史料叢書第二巻』
   『下諏訪秋宮造宮帳』
   『信陽城主得替記』
   『明音寺』
   『和睦』
   『伊那谷にこんなことが』
   『苗字の話』

こんなにたくさんの資料です、ぼちぼち纏めてください。
読み直したら、また、違う記述に当たるかも知れません。
行ったり来たり、大変だと思います。
[17]ともさんからのコメント(2015年08月08日 21時38分55秒 ) パスワード

こんばんは。横レスします。

知人のAさんのお話です。
Aさんが、御前崎の釣場にて隣り合った初老の方は磐田方面の人で、Aさんに

「私は寺田姓だけど、昔は久能氏に仕えた武家だったが、当家は伊勢には移住しなかった。」

Aさんは、私にこのような逸話が有ったのかと聞いてきたので、
久野家は徳川頼宣が紀州へ転封時に、伊勢田丸を領有したようです、
きっと寺田姓にも久野家に従った家と遠州に残った家が有ったんだしょうね。

と話をしました。

ところが、最近になって調べると久野家改易以前の「小田原の役」には
寺田勘兵衛が参陣してますが、久野家兇変を経て遠州久能へ再封後の
「大阪両陣」の陣役には寺田姓はありませんでした。


ちなみに佐野郡、原氏一族の寺田氏は、
向笠村(磐田市)の六所神社神主や熊野権現神主を出しているようですので、
初老の方はこの関係の方かと考えられます。

ところで、市野家は旧姓は寺田→袴田→市野とありますが、
この初老の方の寺田姓とは関係あるでしょうか?

久野・原・橋爪の三氏は古族(物部氏族の久努国造)の末裔との解説もあるようです。

南北朝以前には久能清仲の長子が橋爪維次(遠州橋爪居住 通称橋爪五郎)
            次子が久能宗仲(遠州久能居住 久能六郎 雲外軒)
            三子が原 清延(原四郎 清行とも)→清益(原三郎)

寺田氏は原氏の分かれ、その寺田氏は久野家に仕えています。

次に橋爪氏が治めた橋爪村は確か長上郡でしたよね。

久野氏は遠江各地に所領を持っていたようです。
長上郡にも所領があった可能性があります。

取り留めのない文ですみません。

[18]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月09日 07時01分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 原氏については、あを様ご指摘のように、ひょっとしたら諏訪神家の原氏
と関係しているかも知れません(今のところはあくまで推測の段階・・・)。
 もしそうだとすれば、神職系ですので神主はおてのものかと思います。

 人が姓氏を変えるということは、婚姻をもととするものが主だと思います
ので、一族全体が寺田→袴田→市野と入れ変わるということはまずないもの
と思います。

 とも様の疑問関係は、
  http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kunosi.htm
にかなり載っていますのでご参照下さい。

 久野氏、原氏については今後勉強いたしたいと思っています。
 
 寺田、市野氏は何か謎を秘めています。寺田氏は武芸関係者を輩出しており
ますし、市野氏は「神君伊賀越え」の中の伊賀衆の一人に「市野源右衛門」と
いう人物が入っているし、また浅井流の市野氏もここ市野にやって来てややこ
しくしている。
 私が、今月行こうとしている信濃麻績村にも市野川があり、近くに市野に
ある寺と同じ名前の「安養寺」がある。

 この市野氏全体が解明されれば、新たな地平線が見えてくるに違いありません。
 家康は関ヶ原前後より、柳生を中心とする情報収集システムに切り替えてお
ります。その中に市野氏がいることは間違いないところだと思います。忍者と
いう定義には当てはまらないにしても、裏世界とつながっていたように思いま
す。



[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月09日 07時10分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は芝刈りです。本当は山より「青海原」の方がいいんですが・・・。

 松島氏については、伊那のややこしいところを整理しています。ここを抜
け出せれば、あとは垂直移動(伊那から遠江へ)となり、知久氏との関連に迫
りたいと思っています。

 帰りましたら記します。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月09日 07時57分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

本日は「芝」刈りですか。
熱中症にはお気をつけて。

信濃にも「市野」がありますか。


http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kunosi.htm
ややこしい
読めば読むほどワケが分からなくなりました。


    人間のことですから単純にまとめられないですよね。


3 久野・原・橋爪の三氏はいずれも遠州の地名に因り起こる氏であり(それぞれ周智郡久野、佐野郡原、長上郡橋爪)、駿河の駿東郡原に起こる原氏があっても、これとは別の氏で、みな古族(物部氏族の久努国造か)の末裔かと思われます。

『尊卑分脈』の為憲流系図では、駿河の原氏に遠江の原・久野・橋爪三氏を接ぎ木したものと考えます。

久野氏については、世代数が足りない形で接合されていると考えます。
江戸期の佐野郡本郷村(掛川市)の八幡社神主家に原氏があります。

原一族の寺田氏も、向笠村(磐田市)の六所神社神主や熊野権現神主を出しています。

  太田亮博士も、為憲流の久野氏は駿河国安倍郡久野(久努、久能)より起るもので、遠江久野氏とは別ものとし、遠江久野氏はおそらく久努直の裔なるべしと早くに指摘しています。


4 遠州の原氏では、東寺文書により元徳三年(1331)時の遠江国原田庄細谷郷地頭の原小三郎忠益が知られます。

原忠益は『尊卑分脈』に記載の最後に置かれる彌三郎範忠の孫(忠泰の子)であり、
その子忠清−忠政−忠頼−頼景(遠江守、文明年間)−頼方−頼郷−頼延と続き、
頼延のとき武田氏に属して、元亀四年徳川方石川家成・久野宗能等に攻められ没落したとされます。


一方、『尊卑分脈』では工藤大夫維仲から原氏の系図が始まり、原権守師清から四代目の原三郎清益までは駿河の原氏だとみられます。
原三郎清益は『源平盛衰記』に駿河郡原邑にあったと記され、また一ノ谷合戦では源義経に従い、曾我兄弟討入りの際には疵を負ったと記されます(『東鑑』など)。

分脈には清益の子に記す右兵尉忠安は、『東鑑』に原左衛門尉忠康と見える者(承久三年十二月〜暦仁二年に見)とみられますが、同書建長二年(1250)三月の閑院殿造営時点には原左衛門跡とありますので、既に死去していたことが知られます。

『東鑑』の記事からは、忠康の出身地は直接には知られませんが、この閑院殿造営工事では次に浅羽の人々があげられるので、遠州浅羽庄司と近い地に居たことが考えられます。

おそらく、実際には清益と忠安(忠康)との間に断絶(接合)があったのではないかと推されます。


  なお、前掲の久野系図では、久野宗政の弟に中四郎宗雪・原四郎為重(その子に原五郎大夫、子孫ありと記す)が記載されますから、久野氏の一族に別の原氏が出たことも知られます。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月09日 09時11分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出発前の時間を利用して―

 伊那箕輪松島の松島氏の出自については、諸説入り乱れております―
 @『伊那武鑑』では、「海野―矢島説」をとっています。
 A『上伊那郡史』では、「小笠原説」をとっています。
 B『上伊那誌人物篇』では、「諏訪氏族説」をとっています。
 C『新陽城主得替記』では、「海野―矢島説」をとっています。
 D『伊那温知集』では、「小笠原説」をとっています。
 E『明音寺』では、「小笠原説」をとっています。
 F『箕輪町誌歴史編』では、諸説を紹介した上で、どちらかといえば      「千野―藤沢説」のようである。

 松島茂光氏ははっきり「諏訪親族説」をとっており、「滋野―海野―矢島
説」はきっぱりと否定しております。「小笠原説」には、はなから触れてお
りません。名門小笠原氏が松島と名前を変えるということは、特別な事情が
なければちょっと考えられないことではあります。
 松島氏は藤沢氏に従っていますが、同族ということなら理解し易い。
 小笠原氏が藤沢氏に従うということは、少し理解がし難いと思います。

  
[22]ともさんからのコメント(2015年08月09日 10時21分50秒 ) パスワード


こんにちは。横レスです。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kunosi.htm

思い出しました。お客さんのAさんの問いにWebで色々と調べて
報告したときに勉強させて貰ったサイトでした。

ただ、今読んでも、難しくて理解出来ませんが・・・。



>寺田、市野氏は何か謎を秘めています。寺田氏は武芸関係者を輩出しており
>ますし、市野氏は「神君伊賀越え」の中の伊賀衆の一人に「市野源右衛門」と
>いう人物が入っているし、また浅井流の市野氏もここ市野にやって来てややこ
>しくしている。


お二人のレスを読んで、この謎の一党には沸々と興味が湧いて来ました。

直ぐに休眠状態にはいりますが(笑)

ただ、その休眠時間が新たな情報がWebや活字本などが
発行され、また楽しく勉強させてもらうことが出来ます。




ところで簡単な資料なので信憑性は判りませんが、

南北期より以前より、久野氏より分かれた
橋爪五郎維次・久野六郎宗仲・原四郎清延の兄弟。

時代が下がって久野氏より分かれた
久野三郎宗政・中四郎宗雪・原四郎為重の兄弟

個人的には市野村の寺田氏は久野系の橋爪氏と共闘した
久野系の原氏近い系統だと考えますが、書き過ぎでしょうか?



袴田姓の家紋でこんなサイトがヒットしました。
家紋が独特ですよね。
 
http://kurokamon.blogspot.jp/2012/06/blog-post_8858.html

袴田の一流は朝日将軍木曽義仲の裔を称しているのですね。
最近何故、お二人の遣り取りに南信濃の氏性情報が散見するのか
解るような気がします。

[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月09日 12時45分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


諸説入り乱れてますか。

   諏訪系    古代から?
   滋野海野系  10世紀以降?
   小笠原系   源義光=新羅三郎=子孫ということで平安時代後期から?
 
   松島茂光氏ははっきり「諏訪親族説」をとっており、「滋野―海野―矢島
説」はきっぱりと否定しております。


ということは元々が諏訪系で、
そこに源氏系が入って来て、婚姻で、更に争いで、グチャグチャに複雑になっていった、ということかしら?


松島氏も一筋縄では語れない争いがあったのでしょうね。
兄弟は他人の始まり、と言いますから。

地名の松島は、諏訪大社の時代から存在してたのかも、ですね。


ホント難しいですね。
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月10日 07時24分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 袴田氏については大友系と渡会系の二流があるということです。
 大友系といいますと、白羽の山下氏(小笠原氏が養子に入っている)を思い
浮かべます。
 渡会系といいますと、鎌田神明宮の宮司家の袴田氏(三十数代続く)を思い
浮かべます。

 原氏の後裔寺田氏(原氏から寺田氏に分かれた)、そして寺田氏の支流に
袴田氏が入り、そして市野氏が起る。

 木曽義仲の後裔という袴田氏については・・・源氏ということ、小笠原氏
とつながるということにもなる。すなわち山下氏とつながるということにな
ります。

 朝日重政ははじめ「袴田千助」。遠江に生まれ、通称丹波。朝日の昇る頃、
西郷伊予を討ち取ったので、朝日の名前を賜る。大阪冬の陣に従軍。真田丸
の攻防で奮戦。この袴田氏はどこにつながるのか・・・。

 原氏と久能(久野)氏は藤原系工藤氏を祖とするので同族となる。武田と徳川
についたため、原氏は家康の命により久野氏等に攻められる。同族相食むは
戦国の常識。原頼延は、安芸竹原に落ち延びる。そこにはすでに同族がいた。

 原氏(小早川家を頼って落ち延びた)と市野氏は結果的につながるので、小早
川家の家老伊岐氏(市野氏)は遠江市野氏とつながることにもなる。しかして
浅井系市野氏と寺田系市野氏というのは、市野においてどんな親しき関係だっ
たのか、ここが最大のポイントとなります。

 原氏の居城高藤城、今は城跡、近くに長福寺。一度行ってみます。
[25]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月10日 10時49分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 上伊那箕輪の松島氏についてですが―
 松島茂光氏の『苗字の話』の中に書かれていることを参考にします。

 『諏訪大祝の系譜』の中で、松島氏は諏訪氏の32代目にあたる兄弟、政頼
と政綱の時、西暦1300年から1310年頃、弟の政綱が松島氏を名乗って
いる。その頃に、つまり箕輪松島と深いつながりが出来上がっていたというこ
とになります。
 松島氏の存在と活躍を証明する古記録は沢山残っている。
 @1370年頃の『太平記』の中に、宗良親王に味方した信濃武士団のこと
  が書かれていて、その中で千野、藤沢、松島、座光寺氏は並んで書かれて
  いる。その他には、遠山、有賀、知久・・・他25氏である。
 A1485年の『守矢満実書留』には、「内県宮付 松島」の記載がある。
 B1528年の『神使御頭之日記』には、「大県介 松島(此年松島殿死去)」
  と書かれている。
 ちなみに、松島氏初代と言われている松島対馬守頼実は1531に亡くなっ
ている。
 C同じく、1534年、「大県介 松島」の記載あり。
 D同じく、1541年、「大県介 松島」の記載あり。
 E同じく、1547年、「大県介 松島」の記載あり。
 F同じ年に、『守矢文書』には、「松島満清」の記載と「花押」が見られる。
 G1554年のやはり『神使御頭之日記』には、「大県介 松島」の記載あ
  り。
 その翌年に福与城落城。
 その11年後、松島信久、その弟も含め、8人処刑されている。
 松島城にからむ城主は、頼実(政行?)・貞実、信晴(?)・信久と二説あるの
で、ここが一番ややこしくさせているところである。
 また、松島氏と小笠原氏の関係であるが、松島氏の本家を藤沢氏とすると、
1540年前後に、小笠原長時の妹が藤沢頼親に嫁いでいるので、その点か
ら言えば、縁戚ということにはなる。だから松島氏は小笠原氏だというのは
無理がある。
 もう1つややこしくしているのが、明音寺にあるという『小笠原氏系譜』と
松島一族離散後に、宮津藩に仕えた小笠原源太夫が墓参りのためたびたび来た
ということである。個人の発行した手紙、覚え書きというなら信憑性があるが、
あとからまとめた系図やら聞き伝えなどは、必ずしも正確とは限らない。むし
ろ都合のいい方向に曲げられている場合が多い・・・。

 松島茂光氏の主張の中で、一番現実的な話は、福与城落城後の織田方による
残党狩りを恐れて、松島一族は離散したが、信久の弟の松島源五郎は一族郎党
とともに、天竜川を下って、親戚筋の下伊那の座光寺に逃れた。そしてさらに
食うための土地を求めて、筏で南山の下村・今田村・千代村へ、さらに小川郷
の喬木村へ、そして最終的には、源五郎は親族を市田村に残し、諏訪氏につい
て、武蔵国比企郡奈良梨へ行き、さらに諏訪氏の転封と共に、上野国総社、そ
して最終的には一族は70年余を経て信濃国高島、即ち上諏訪、故地へ諏訪氏
と共に帰って来たのである。従ってそこには松島氏約350年の重い歴史が
肩に食い込んで存在するのである。

 今回はここまでとします。
 あとは、天竜筋の垂直移動、「伊那から遠江へ」の事実関係を松島氏と同族
の知久氏にスポットライトをあて、探究してみたいと思います。



[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月10日 13時27分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

<3>をご覧ください。


遠江の袴田姓と豊川の羽鎌田
そして袴田姓は元は三重県伊勢市由来?伊勢神宮に関係があった?

この関係もなかなか興味をそそりますね。
でもこれ以上は分かりませんでしたが。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%B0%8F

朝日氏(あさひし)は、日本の氏族の一つ。


1.武藤氏(少弐氏)庶流の朝日氏。
少弐盛経の子の資法を祖とし、鎌倉時代末期から戦国時代初期にかけて、肥前朝日山(旭山)を周辺の地に割拠し、少弐氏の勢力を支えたが、室町時代以降、大内氏との抗争に少弐氏が敗れ衰退すると、ともに没落の道を歩み、享禄年間に最後の当主頼貫が死去し(大内義興との戦いで戦死したとも、大内氏に服属したものの田手畷の戦いで討たれたとも)、断絶した。朝日氏の旧領は大内氏の代官が支配した。



2.戦国期は武田信玄に仕えていたという尾張藩士朝日文左衛門家[1]

    神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』1984年9月(中公新書・740)ISBN 9784121007407


3.朝日将軍木曾義仲の後裔で遠江出身の袴田氏[2]が後に改姓し、朝日重政が菅沼定利から徳川家康・結城秀康・松平忠直・松平直政へ歴仕して出雲松江藩家老連綿となった家系。

    袴田、羽鎌田

       ハカマダ 袴田 静岡県。

          @三重県伊勢市磯町付近(旧:袴田)から発祥。
          A創賜。江戸時代にあった門割制度の袴田門から。
             位置の例。宮崎県えびの市大明司、宮崎県えびの市灰塚。


       ハカマダ 羽鎌田 愛知県豊川市。袴田の異形。

                        へえ〜



4.藤原氏庶流と伝わる津軽朝日氏。
康永3年(興国5・1344)、藤原藤房が津軽に入り、その子景房が飯詰城を築き朝日氏を名乗ったという。陸奥飯詰城主。南部氏配下。天正6年(1578)、朝日行安が大浦為信に居城を攻められ、一族は皆殺しにされ滅亡した。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月10日 13時39分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>従ってそこには松島氏約350年の重い歴史が肩に食い込んで存在するのである。

350年の歴史ですか。
そうですね、紆余曲折、いろいろあったんでしょうね。



>1540年前後に、小笠原長時の妹が藤沢頼親に嫁いでいるので、
>その点から言えば、縁戚ということにはなる。
>だから松島氏は小笠原氏だというのは無理がある。

   多分、ここで、松島氏は or 松島氏の一部は 小笠原一党に化けたのかも。
   藤沢頼親が小笠原長時の下に付いた時に藤沢グループに入っていた松島氏の一部も小笠原一党に吸収合併したのではないか?



ややこし過ぎ・・・・


>天竜筋の垂直移動、「伊那から遠江へ」の事実関係を松島氏と同族の知久氏にスポットライトをあて、探究してみたいと思います。

よろしくお願い致します。


350年の時の重さを感じます。
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月10日 22時24分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様のご指摘のとおり、松島氏と小笠原氏は養子縁組でどちらかに接ぎ木
されたという可能性はあります。松島氏純潔説と小笠原説の二つが残るなら、
その中をとった混合説も同等に可能性としてある、いやむしろそのほうが、明
音寺関係のその後の事実関係を裏付けることにもならないだろうか。
 つまり、小笠原を名乗る子孫と松島を名乗る子孫が、後の世に菩提を弔いに
やってきているということ・・・納得性があります。

 さて、本日は浜松中央図書館へ行き、地元の資料を漁っておりましたところ、
たまたま『河匂の庄・芳川の生い立ち』という本の中に、「安松」のことが
書かれていて、私の叔母の嫁ぎ先がそこの元庄屋だったので興味深く読んだ
ところ、次の記述があり、少しビックリしています―
 「津島市の牛頭天皇(スサノウノミコト)を祭神とする津島神社より分霊を
 仰ぐ際、津島市の郊外、安松町より出張された神主が、此の土地に土着され、
 安松の名を此の地に銘名した。」
 実は、親戚の苗字は三輪といい、何となく古代よりの、また神社系の感じ
がしておりましたので、偶然の一致だとしても、この話すんなり納得してしま
いました。

 それとは別に、知久氏を論述するために、少しネットサイトを閲覧している
内に、知久氏と浪合、宗良親王との関係、そして世良田氏との関係等、並々な
らぬものに遭遇し、さらに最終的にはあを様の関係する津島神社、そして永井
伝八郎直勝にまで至りそうということで、いい加減なことは書けないなと思い、少し思案に暮れております。

 そことはできるだけ切り離して論じてみたいとは思いますが、いかがなも
のでしょうか。少し頭の中を整理してみます。

 でも、知久氏が何故浜松に逃げて来たかの謎は、正にそこに隠されていた
ということで納得しています。信濃・伊那から高度700メートルの落差を
垂直移動して来る誘因としては、やはり南朝がらみが一番の要因でしょうか、
松島氏の場合も同様に、同じ諏訪神家、知久氏と一緒に行動して来たたと考
えると、一番納得の行けるストーリーとなりそうな感じがしています。
 この知久氏は神君伊賀越えにも同行している。また本家おおもとの諏訪氏
は忠輝の面倒を見ている。ということは、大久保長安とも両服部家ともから
んで来る。知久氏は伊賀越えで井伊直政、永井伝八郎とも近い関係になる・
・・ということで、結論的な方向性の安売りをしてしまいました。
 うまく説明できませんが、きっと「何かある」のは間違いありません。

 本日は、話を膨らめ過ぎてしまいました。明日から地道に行きたいと思っ
ています。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 04時13分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


松島氏家譜をまた読んでいました。

    天正9年1581年3月当国高天神城落城

    このページの6男さんが大瀬村袴田清兵衛養子となる
                      又助と云ふ
                      延宝2甲寅出生 1674年


    この人は松島忠兵衛源宗吉  幼少  對助さん=古宝盛郷居士 の孫ですね


その後、白羽の山下家のお名前が出たり

ずっと下がって  松島忠兵衛宗術  瑞巌?梁嶋居士の娘が

                      茂岡妻となる
                      森本村大橋紋太郎妻
                      見付宿本陣神谷三郎右衛門へ嫁す
                      浜松旅籠町本陣伊藤平左衛門に嫁す
                      森本紋太郎妻死去に付、後妻に遣す
                      前野村鈴木五郎八妻となる

へえ〜
などと読んでいました。


そこへ三つ柏さんのレスを拝見することになり

河匂の庄 の名が出て来ました。


    服部政信の父・政光は遠江国  河の内の庄にをいて3000貫の地をたまふ

とあったな、と思い出しました。
河の内の庄が今1つどこか分からない、という話を去年していました。

    ひょっとすると  河匂の庄かも  と?




安松氏
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%89%E6%9D%BE

 【名字】安松

【読み】やすまつ

【全国順位】 3,977位  
【全国人数】 およそ3,100人

【解説】
静岡県浜松市がルーツのひとつ。    なるほどね。

関連姓は康松。   関連は不明

近年、福岡県、大分県や静岡県に多数みられる。 

語源は砂地で松のある地域。

群馬県 2,193位 およそ70人
東京都 3,967位 およそ300人

      静岡県 1,952位 およそ200人

愛知県 3,616位 およそ100人
三重県 3,957位 およそ30人
大阪府 3,476位 およそ200人
鳥取県 2,589位 およそ20人
島根県 1,038位 およそ90人
広島県 1,865位 およそ200人

香川県 1,231位 およそ100人
高知県 1,230位 およそ60人

      福岡県 754位 およそ1,000人    どうしてでしょうね?

佐賀県 2,770位 およそ10人
大分県 692位 およそ300人



【名字】康松

【読み】やすまつ

【全国順位】 91,843位
【全国人数】 およそ10人    絶滅の危機ですね。

【解説】

康松はまだ登録されていません。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 04時19分54秒 ) パスワード

安松という地名も名字も珍しくて、なるほど、浜松特有だったのかと
でも元は尾張?


    「津島市の牛頭天皇(スサノウノミコト)を祭神とする津島神社より分霊を仰ぐ際、
     津島市の郊外、安松町より出張された神主が、此の土地に土着され、安松の名を此の地に銘名した。」


     実は、親戚の苗字は三輪といい、何となく古代よりの、また神社系の感じがしておりましたので、偶然の一致だとしても、この話すんなり納得してしまいました。



津島の牛頭さんは大橋家か祖父江さんか、  でも  三輪さんも有り得るな  と思いました。


津島の大橋さんは平家の服部の兄ですし  つまり平貞能の後の名字
が大橋で
大橋氏は尾張南朝方の頭領ですし
家康とも親戚になりますし


で、津島の神職さんが遠江に定着したというのは何重にも当たり前だな、と納得です。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 04時54分06秒 ) パスワード

現在の愛知県あま市七宝町安松ですか。
どんな所か土地勘が無いので検索してみました。

安松あたりのバスの地図です。
http://www.rosenzu.com/brai/bra23.html

七宝病院の西の東神守あたりかな?と思います。


七宝町
ここは昔は服部村の中にあって七宝産業は明治時代から始まったと思います。
産業の七宝から町の名前が付きました。


七宝町の1番の有名人は   前田利家夫人のお松さんです。
父上の名字は篠原さんだったかな?
戦死して母上が再婚することになって、
川向うの名古屋市中川区荒子の、母方の伯母の嫁ぎ先の前田家に引き取られて
従兄の利家と結婚。


大治には服部家ホンヤさんの菩提寺があったような記憶。不確か。



七宝町の右?東?の 甚目寺じもくじ  も 服部が多いところだったような。


南の中村公園は秀吉が生まれたところ。


七宝の西の  勝幡しょばた は蜂須賀の出身地であり信長が生まれた処でもあるのかな?
蜂須賀小六の祖父の正妻が大橋家から嫁に来てたと読みました。


蟹江とか佐屋なんてモロに服部家の庭みたいなもんです。

   親戚の加藤家に養子に行って首相になった高明は佐屋の人だったかな?
   このあたりは服部家ホンヤさんの目の前という感じ。


方向音痴なので  アテには出来ないですよ〜
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 05時00分41秒 ) パスワード

>知久氏を論述するために、少しネットサイトを閲覧している内に、
>知久氏と浪合、宗良親王との関係、そして世良田氏との関係等、
>並々ならぬものに遭遇し、さらに最終的にはあを様の関係する津島神社、そして永井伝八郎直勝にまで至りそう


時代が下がっていよいよややこしくなりますね。


http://homepage1.nifty.com/sira/namiai/Iinoya/iinoya01.html
井伊谷の史跡1


 井伊谷(いいのや)は浜名湖の北、現在の静岡県引佐(いなさ)町にあたり、古代から井伊氏が治めていた場所でした。

 延元元年(建武三、1336)、井伊道政が宗良親王(後醍醐天皇第四皇子)をこの地に迎え入れ、井伊谷は東国における南朝の拠点のひとつになりました。宗良親王の第二皇子が、『浪合記』の前半に登場する尹良親王です。

 宗良親王は、後醍醐天皇と藤原為子(藤原定家の曾孫二条為世の子)の子として応長元年(1311)に産まれました。元徳二年(1330)、二十歳の時に天台座主となり、元弘元年(1331)に元弘の乱で讃岐国に流されますが、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡すると、再び天台座主となります。

 その後、南北朝の動乱の中で延元二年(1336)に還俗すると、井伊谷、越後寺泊、信濃大河原など、東国各地で南朝勢力を挽回するための活動を続けました。そして、弘和元年(1381)に完成した新葉和歌集の編者として名前が見えるのを最後に、確実な史料からは名前が見られなくなります。

 没年は不詳ですが、『南朝紹運録』には元中二年(1385)八月十日に井伊城にて死去とあります。また、井伊谷の西には宗良親王の弟の無文禅師が開山となった方広寺がありますが、宗良親王がこの地に埋葬された際には無文禅師が導師として奉仕されたと伝えられています。

 井伊谷宮は明治の初めに宗良親王を祭神として建てられた神社で、本殿の背後に宗良親王の墓と伝えられる塚があります。



宗良親王の墓。

松の木が生えているところが宗良親王の墓。

墓所には寛保二年(1742)に信濃国伊那郡阿島の知久監物源頼人が奉納した宝筐院塔があるそうですが、立入禁止になっていて見ることはできませんでした。

知久氏は、南北朝時代に宗良親王に従って南朝方として活動した一族です。


          知久監物源頼人
          ということは源姓ですか。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 05時09分42秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

尹良親王(ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、正平19年/貞治3年(1364年)[1]? - 応永31年8月15日(1424年9月7日)?)

      服部家ホンヤさんでは「いずよし親王」とお読みします。

『浪合記』『信濃宮伝』などの軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女[2]とされる。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在性を疑問視する意見が多い。

源尹良とも。

『浪合記』『信濃宮伝』の間では年紀などに少なからず異同が見られるが、『南朝編年記略』などを援用しつつまとめると、およそ以下のとおりになる。

遠江井伊谷の館で生まれる。初め上野に移ったが、天授5年/康暦元年(1379年)吉野に参候し、親王宣下を蒙って二品に叙される。後に兵部卿を経て、元中3年/至徳3年(1386年)8月8日源姓を賜って臣籍に下り、同時に正二位権中納言に叙任され、左近衛大将・征夷大将軍を兼ねた。元中9年/明徳3年(1392年)南北朝合一後もなお吉野に隠れ留まる。

応永4年(1397年)2月伊勢を発して駿河宇津野(静岡県富士宮市)へ移り、田貫左京亮の家に入った。同5年(1398年)春に宇津野を出て上野へ向かうが、鎌倉の軍勢から攻められたために柏坂(迦葉坂か)でこれを防戦。武田信長の館に入って数日逗留した後、8月上野寺尾城(群馬県高崎市)に赴いた[3]。


                   ということは上野国の松島氏も姿を現す?



同10年(1403年)頼みとしていた新田義隆(義則か)が底倉で害されると、世良田有親らを伴って下野落合城(栃木県上三川町)に没落。次いで桃井満昌・堀田正重など旧功の士100余騎を率い、高崎・安中・碓氷の敵を討って信濃入りし、島崎城(長野県岡谷市)の千野頼憲を頼って再興の機会を窺った[4]。

                千野さん降臨


同31年(1424年)8月三河足助へ向かおうとし、諏訪を発して伊那路に差し掛かった折、待ち受けていた賊徒飯田太郎・駒場小次郎ら200余騎が阻んだため、浪合にてこれと奮戦した(浪合合戦)。味方は80余騎であったが、結局世良田義秋・羽河景庸・熊谷直近ら以下25人が討たれ、最期を悟った尹良は子の良王君を従士に託した後、大河原の民家に入って自害した。


                良王君よしたかのきみ  の母上は津島神社の大橋さんだったと記憶 

                良王君が 亡くなったのは  服部家だったと聞きました。



  墓所[編集]





尹良親王墓
長野県下伊那郡阿智村浪合字宮の原に所在する円墳に治定されており、陪塚3基とともに宮内庁の管理下にある。

親王の首を埋めた場所と伝えられ、その隣接する地に建立された浪合神社は親王を祀る。天保年間には既に親王碑建立の企てもあったが、実現に至らないまま明治時代を迎えた。ところが、明治13年(1880年)6月明治天皇西巡の際、供奉先発の勅命を奉じて飯田に来た品川弥二郎に対し、浪合の増田平八郎らが資料を携行して親王墓の公認を懇請した。品川は使命が民情視察にあるとしてこれを一旦斥けたが、増田らは品川と旧知の松尾多勢子に仲介を頼んで更に懇願したところ、心を動かされた品川は木曽福島の行在所にて委曲を奏上した。天皇は直ちに侍従西四辻公業を勅使として浪合に派遣し、親王の事績を調査させた。その結果、翌14年(1881年)2月宮内省によって現墓が治定されて諸陵寮の管轄となり、昭和の改修を経て、現在に至っている。

なお、陪塚は「千人塚」と呼ばれ、世良田義秋・羽河景庸など、親王に殉じて討死した者らを葬った所と伝えられる。


異説[編集]

岐阜県の東濃(中津川市・恵那市)の伝説では、親王は浪合で死なず、従士の逸見左衛門九郎朝彬を召し連れ、柿の衣に笈を掛けた山伏姿に身をやつして美濃笠置山の麓の毛呂窪の郷に落ち延び、松王寺で再起を図った。大河原で敗残した従士達も集まって農耕をしながら20年余を経たが、やがて足利方の知るところとなって敵兵が来襲したため、従士49人が討死し、親王もまた自害したという。中津川市蛭川と恵那市笠置町毛呂窪に親王の墓所と伝えられる石塔が残っている。




系譜[編集]
父:宗良親王(1311-1385?)
母:井伊道政女[2]

兄弟姉妹:興良親王?、桜姫(大橋定省室)
室:世良田政義女 男子:源良王(尹重) - 子孫は大橋家を継承

男子:氷室良新 - 津島神社社家氷室家の祖
女子:蜂須賀正秋室?            蜂須賀さん御臨場

以下略  
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 05時20分53秒 ) パスワード

続きもアップします。


ユキヨシ様[編集]

親王の名は信用すべき同時代史料に見えないばかりか、まとまった伝記である『浪合記』・『信濃宮伝』も内容に矛盾や時代錯誤が多く、近世前期成立の偽書と推定されていることから、学界では親王の実在性そのものが疑われている現状にある。

しかし、『鎌倉大草紙』によって弘和頃に南朝の某宮(守永親王とも)が浪合で戦死したことは史実と思われ、また、伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯には「ユキヨシ様」を祀る習俗が広く分布しており、親王伝説を単なる机上の創作とは切り捨てられない。


              知久氏登場
もっとも、知久氏の伝記によれば、浪合合戦で戦死したのは足利直義の落胤之義(ゆきよし)であり、その年月日を応永3年3月24日(1396年5月2日)と伝える他、延宝から正徳頃までの浪合神社の棟札には、祭神を行義権現と記しているものがあるなど、「ユキヨシ様」信仰の展開が一元的ではないことも確かであろう。


この「ユキヨシ様」信仰に関して、民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。

                    津島神社御師さん登場

柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。

これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。


柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上では示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。


脚注[編集]

1.^ 『南朝編年記略』・『南朝公卿補任』記載の年齢から逆算。ただし、『氷室系譜』などは何によってか、正平9年7月5日(1354年7月25日)の生誕とする。

2.^ a b 異説には、知久敦貞の女(『南山巡狩録』)や香坂高宗の妹・紀伊后(大鹿村の伝承)とする。

また、この知久氏の女を親王の乳母とする系図もある。


3.^ 『信濃宮伝』には、柏坂の合戦の件は見えず、寺尾城入御を応永7年(1400年)1月のことと記す。

4.^ 『浪合記』には、寺尾城に長らく留まったとし、島崎城入御を応永31年(1424年)4月のことと記す。


参考文献[編集]

信濃教育会編 『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』 信濃毎日新聞、1939年、NCID BN07522032

渡辺世祐 「信濃宮伝及び浪合記について」(『國史論叢』 文雅堂書店、1956年、NCID BN04023309。初出は1952年)

柳田國男 「東国古道記」(『定本柳田國男集 第2巻』 筑摩書房、1980年、NCID BN00286929。初出は1949年)

浪合村誌編集委員会編 『浪合村誌 上巻 歴史編』 浪合村誌刊行会、1984年、NCID BN06995800

安井久善 「宗良親王の後裔とその活動」(『宗良親王の研究』 笠間書院、1993年、ISBN 9784305400567)

小和田哲男 「井伊氏の成長と三岳城」(『争乱の地域史―西遠江を中心に』 清文堂出版、2001年、ISBN 9784792404956。初出は1991年)

関連項目[編集]
後南朝
宇津峰宮
貴種流離譚
四家七名字
大龍寺 (津島市) - 親王の菩提寺として子の良王が建立した伝えられる
後醍醐源氏        服部家ホンヤさんも後醍醐源氏になるのかな?
高根城 (遠江国)
清原業忠
富岡鉄斎 - 尹良親王伝説の信奉者であり、浪合神社の復興にも寄与した


外部リンク[編集]
尹良親王伝説 - 愛知県豊根村、川宇連神社前に親王の銅像が立つ
宝賀寿男 「南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王」(古樹紀之房間)
「尹良親王陵墓略図」 - 信州デジくら
浪合記現代語訳・原文など(芝蘭堂)
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 05時24分02秒 ) パスワード

明治天皇は大室寅之助だとも言われてて
明治天皇は「皇室の正統は南朝だ」と言ってるし。
明治天皇が伊藤博文の言い分を聞かないと「もとの身分に戻すぞ」と脅した話もあるし。

[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 05時32分51秒 ) パスワード

三つ柏さん

>知久氏が何故浜松に逃げて来たかの謎は、正にそこに隠されていたということで納得しています。
>信濃・伊那から高度700メートルの落差を垂直移動して来る誘因としては、やはり南朝がらみが一番の要因でしょうか、

> 松島氏の場合も同様に、同じ諏訪神家、知久氏と一緒に行動して来たたと考
えると、一番納得の行けるストーリーとなりそうな感じがしています。

>この知久氏は神君伊賀越えにも同行している。
>また本家おおもとの諏訪氏は忠輝の面倒を見ている。
>ということは、大久保長安とも両服部家ともからんで来る。
>知久氏は伊賀越えで井伊直政、永井伝八郎とも近い関係になる。


ですね!ですね!
と大賛成です。


ま、諏訪家が全部が全部じゃないでしょうし、知久氏も全員じゃないでしょうし、松島氏も全部じゃないでしょうし


レス<33>で
松島氏の中には上野国に残って活躍した松島氏もいたのだなと納得しました。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月11日 07時19分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宗良親王関係の説明、ありがとうございました。天皇・親王は取り巻き陣が
絶対自害させないでしょうから、生き延びたと考えた方が正しいのではないか
と推察いたします。

 私の尊敬する龍潭寺の前住職の武藤氏は、諸説を踏まえた上で、どの説も
確証はないこと、井伊谷終焉も可能性として高いということを説いておられる。
氏の『遠江井伊氏物語』にはいろいろな史料が示されています。
 ちなみに、宮内庁管轄で見ることができない「宗良親王宝篋印塔」も69頁
に載っていますのでご覧になって下さい。
 なお、金地院というお寺の写真も載っていますが、一度訪ねてみたいと思い
ます。井伊道政の娘重姫を祀っています。重姫は尹良親王の母とみなされてお
ります。このお寺、金地院崇伝と関係あるのでしょうか・・・。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 09時20分51秒 ) パスワード

「金地」というのが元々「臨済宗」がらみの名称なんでしょうか?



浜松気賀の金地院は井伊道政の娘=駿河姫?=が亡くなった時の法号の一部「金地院殿」からでしょうね。

http://ameblo.jp/goshuincho/entry-11504188748.html
ここに由緒書が出てます。

お近くですから、どうぞ、いらっしゃってください。
姫の名は  駿河姫  で良いのでしょうか?



金地院(こんちいん)

京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。
同派大本山南禅寺の塔頭の1つで、江戸幕府の外交僧・以心崇伝が住したことで知られる。

崇伝の依頼により小堀政一(遠州)の設計で建てた三畳台目の茶室があるそうですよ!!!

                                   小堀遠州!

                                   それに長谷川等伯の絵もあるそうです!!!


                           

http://rekishi-club.com/kijin/kontiin.html

『奇人・怪人伝』

金地院崇伝 豊臣氏を追い詰めた方広寺鐘銘事件に深く関与した怪僧

金地院崇伝は臨済宗の僧でありながら、江戸幕府を開いた徳川家康に招かれ、やがて幕政に参加。寺院諸法度、武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定などに関係した。

また、豊臣氏を滅亡に追い込むきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」にも深く関与。


時にはかなり強引とも思える手法で、政務を断行し、徳川政権を支え、安定に寄与したといわれている。同じように家康に招かれ、権勢を誇った南光坊天海とともに「黒衣の宰相」と呼ばれた“怪僧”だ。

金地院崇伝の生没年は1569(永禄12)〜1633年(寛永10年)。



金地院崇伝は武家の名門、足利将軍家の家臣一色氏の一門、一色秀勝の第二子として京都で生まれた。

1573年に室町幕府が滅亡し、父秀勝も没落。

父の没後、南禅寺で玄圃霊三に師事し、南禅寺塔頭の金地院の靖叔徳林に嗣法、さらに醍醐寺三宝院で学んだ。

1594年に住職の資格を得て、福厳寺、禅興寺に住持している。この頃から彼は「以心崇伝」を名乗るようになった。


以心崇伝は1605年(慶長10年)、鎌倉五山の一つ、建長寺の住職となった。そして同年、彼は古巣で臨済宗大覚寺派の本山、南禅寺の270世住職となった。臨済宗の最高位に就いたのだ。このあたりの経緯については定かではない。

1608年(慶長13年)以心崇伝は、豊臣政権に代わり江戸幕府を開いた徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり、外交関係の事務を担当。やがて幕政にも参加するようになった。1612年から閑室元佶や京都所司代・板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係した。


以心崇伝はかなり強引な手法も交え、政治では辣腕を振るった。

例えば「方広寺鐘銘事件」がそれだ。
1614年、崇伝は家康から豊臣家を追い落とす方法はないか−と相談を受けた。そこで彼が持ち出したのが方広寺の鐘銘だった。

その鐘銘に『国家安康』『君臣豊楽』という文があった。これを彼は『国家安康』は家康公の名を引き裂いており、『君臣豊楽』は豊臣家を主君として楽しむ−と取れると言い、これで言いがかりをつけては、と提案したのだ。

強引で勝手な解釈による、あきれるほどの言いがかりもいいところだが、これを大問題にしてしまったのだ。これにより、「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を開戦に走らせたわけで、家康の思いを叶えた良策となった。崇伝の“怪僧”の面目躍如?といったところだ。


こうした強引で卑劣な策略をも用いたため、崇伝は庶民には全く人気がなかった。

庶民は彼を「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名し、大徳寺の沢庵宗彭(たくわん そうほう)は「天魔外道」と評している。こんな世評にも崇伝は全くめげない。


1616年(元和2年)、家康が亡くなると、神号をめぐり崇伝は、南光坊天海と争った。

天海は神号を権現として神仏習合神道で祀りたいとし、崇伝は神道で祀り大明神の神号を奉りたいと、意見は真っ向から対立、二人の間で激しい論争が繰り広げられた。

だが、明神は豊臣氏の豊国大明神とつながって不吉−と主張する天海側に大勢が流れ、結局は天海の主張する権現に決まり、崇伝は敗れた。


1616年(元和4年)、崇伝は江戸・芝に金地院を開き、翌年僧録司となって五山十刹以下の寺院の出世に関する権力を握り、名実ともに禅宗五山派の実権を掌握した。1626年(寛永3年)、後水尾天皇より円照本光国師の諡号を賜った。

(参考資料)司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」


        2つとも読みましたが記憶にありませんでした。恥
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月11日 20時53分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、さっそく金地院を見に行ってきました。今まで知らなかった、という
か、主要道路からは気が付かない奥まった山の上にありました。山の上からは
浜名湖が見え、地上では33℃はあったはずですが、海からの風が心地よく、
暑さはそんなに気にならなかったです。
 山の上でロケーションも良く、広々していてストレスがたまらないというか、
お寺も立派でありましたし、墓石群も、段々畑のような敷き地の中で、全部が
浜名湖の方向、南を向いて並んでいました。
 金地院の説明書きには、こう書かれておりました―
 「金地院
  山号は常光山。宗派は臨済宗妙心寺派。開山は紀州興国寺法燈国師の法孫
 杲厳和尚。建武年間(1334〜1337)の創建と伝える。
  後醍醐天皇の皇子宗良親王の妃、駿河姫を祀る。姫は井伊道政の娘。延元
 三年(1338)三月、親王が足利軍との戦いに井伊谷より出陣のおり、姫も同道
 したが、この地に至って急逝、当山にて葬送し、法号を金地院殿慶岩寿永大
 禅定尼と贈り、以後開基として祀る。墓所は境内西方にある。
 安政六年(1859)勤王の書家永知楽が当山にて自刃、墓とその書がある。」

 ということで、墓を詳しく調べると、まずは「浅井家」の墓が四つ程目に
入った。そして「松原家」の墓が多いなと思った。書家の墓らしいものはだ
いたいわかった。登って行くと、一番上のいい場所には古くからの「鶴見家」
の墓石群が並んでいた。その下にやはり「平田家」の墓が多く並んでいた。
その他には、「山崎」「石野」「名倉」「竹内」「山村」「松原」・・・。
 駿河姫の墓らしきものには出会わなかったが、あったのだろうか・・・。
 せっかく来たので近くのお寺も回ろうと思い、ナビで一番近い寺へ向かった。

 そのお寺の名前は「長楽寺」。ここで私は貴重な話を聞くことができた。

 本日も蒸暑いので涼しい部屋で寝ることにいたします。
 この続きは、明日―
  
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 22時17分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


どうして「駿河姫」なんでしょうね。
これは  呼び名  でしょうね。
本名は    重姫  の方で、  惧れ多くて本名では呼ばず  駿河姫  とお呼びしたのでしょうね。


だけど何故  駿河姫?
ま、遠江姫では長過ぎた?


>墓所は境内西方にある

見つかりませんでしたか?



http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/site3/sub1.htm      読み難い文章!怒

ここに遠江国の鶴見氏が出ているようなので読んでいたら
なんと寺田氏が!!!   なので最初っから覚悟してお読みくださいね。


秋本氏は、原氏一族寺田氏の出自である松堂高盛が、河井宗忠の戦死に際して詩偈を贈ったことに象徴される河井氏との親密な基調を、『円通松堂禅師語録』の底流に見たことで、河井氏が原氏と連携を保っていたとしたのであろうか。

とすれば、例えば孕石氏と河井氏とを比較したとき、歴然たる原氏の血族であり、原野谷川沿いに原氏と領地を接していた孕石氏は、河井氏より一段と強固な連携を原氏との間に保っていてもよさそうであるが、そうとも断定し得ない。実際、明応六年(一四九九)、孕石氏は原砦を攻撃している(51)。
本氏は河井宗忠反今川説の根拠を、さらに『円通松堂禅師語録』の一節に求めている。
  しかし、同(明応)五年になると、松葉城主川井成信の戦死という事件が起こ  ってくるが、これも前記語録によって明らかにされる。
             悼輔菴宗忠菴主                         明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
       因野衲述贅言一章。為帰郷一曲以餞行去。
        因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
        端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。



ここでアップします。
わたくしは「鶴見氏」の箇所を捜しているので。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 22時24分18秒 ) パスワード

捜しているのは

今川氏に属した河村氏は、その後、本貫地遠江国河村荘に還住を許され、
今川方の遠江 .... 今川義忠麾下の河井氏が、      鶴見氏の横岡城   に対する拠点として大代字天王山を ...

の該当部分なんですが
面白いのを見つけたので上記の記事を捜すのを止めました。



http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/yokooka-jyo/
遠江・横岡城

           島田市役所の北北西?


                            別名 志戸呂城!!!


史跡指定  市指定史跡
別名 志戸呂城,鶴見城,宇田城
形態 丘城(120m/30m)

歴史
築城年代は定かではない。
明応5年(1496年)鶴見因幡守栄寿が城主のとき今川氏親によって攻められ落城、鶴見因幡守も討死した。
これによって鶴見氏は滅亡したという。


説明
横岡城は西の山塊から東へ伸びた台地の南東端に築かれていた。台地の上に城之檀、下には城下という地名が残っている。

現在台地の上は茶畑や民家などあり遺構は殆ど残されていない。
台地の南東端に下へ降って行く道があり、そこに案内板が設置されている。

城主 鶴見氏 所在地 静岡県島田市横岡字城之檀



やはり島田の服部家というのもお調べになってください。
まだ遠過ぎますね。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月11日 22時56分35秒 ) パスワード

問い
鶴見氏は掛川にも関係する?
答え
鶴見氏は   遠江国佐野郡掛川の小豪族  だった。


http://takayama.tonosama.jp/html/kakegawako.html    読み難い!

   
掛川古城(かけがわこじょう)

駿河今川氏が遠江国の支配権を回復するための橋頭堡


近世の掛川城(掛川市掛川)から北東約500mの場所にかつての掛川城である掛川古城の城跡が存在する。

現在は天王山龍華院(りゅうげいん)となっている。

近世の掛川城がそびえる山を龍頭山、掛川古城が存在した子角山(ねずみやま)を龍胴山、その北側の龍尾神社(掛川市下西郷)が鎮座する山を龍尾山と呼び、昔はこれらの山が尾根で繋がっており、あたかも巨大な龍が地上に横たわっているように見えたため、そのように呼ばれたという。





遺構の多くは宅地や道路などになって消滅し、本曲輪、大堀切、東曲輪、腰曲輪の一部を残すのみである。

本曲輪の上段には、江戸幕府3代将軍の徳川家光(いえみつ)を祀る龍華院大猷院霊屋がある。

大猷院(たいゆういん)とは、慶安4年(1651年)家光の死後、後光明(ごこうみょう)天皇から賜った法号である。


この霊廟の東側に掛川古城の説明版が建っている。
その先には土塁があり、さらに先が大堀切となっており、この深さは9mもある。

ここの土塁や大堀切が掛川古城の最大の見所である。

東曲輪は子角山公園となっており、遺構は見当たらないが眺望はよい。


                                   ここ                                    
応永年間(1394-1428年)遠江国佐野郡掛川の小豪族である鶴見氏が築いた城砦が、掛川城の起源となる。

室町時代中頃、鶴見氏は掛川を支配し、現在の掛川市城西あたりに居館を構えたとみられる。

『掛川誌稿』の「鶴見氏故居」の条に「鶴見因幡守栄寿ト云人、父子三代五十余年此所ニ居リシト云」と記されている。鶴見氏は駿河・遠江国守護職を相伝する駿河今川氏に属したが、今川了俊(りょうしゅん)の失脚に伴って遠江守護は斯波氏へ交替したため、その後は斯波氏に従っている。


永享9年(1437年)室町幕府6代将軍の足利義教(よしのり)は、駿河国守護職で駿河今川氏5代当主の今川範忠(のりただ)に対し永享の乱の戦功として、今川姓を範忠の子孫のみに許し、それ以外の同族庶流に使用を禁じる「天下一苗字」の恩賞を与えた。これにより、今川了俊を祖とする遠江今川氏は、やむなく堀越姓に改称している。長禄3年(1459年)堀越範将(のりまさ)は越前・尾張・遠江国守護職の斯波氏に対して、いわゆる中遠一揆という叛乱を起こすが敗死しており、所領であった遠江五郷は室町幕府に没収されて将軍家直轄領となった。これにより、堀越氏に従っていた河井氏も本貫地を失うことになる。河井氏は新たな領地を求めて掛川に入部し、掛川を居城とした鶴見氏を横岡城(島田市横岡)に追った。この出来事は、河井氏が本貫地を失った寛正6年(1465年)から、河井宗忠(そうちゅう)を開基とする長松院(掛川市大野)が創建される文明3年(1471年)までの6年間に限定できる。



以下 朝比奈氏が出現する第二パラグラフより抜粋

懸革荘の北面を押さえるため、河井蔵人成信(しげのぶ)を倉見川筋に配置し、松葉城(掛川市倉真)を築城させた。

ところが、文明8年(1476年)今川義忠は横地氏、勝間田氏など抵抗する遠江の国人領主たちと戦い、これらを討ち取っているが、帰国途中の塩買坂で残党に襲われて落命した。


これにより、今川氏の遠江攻略は一時頓挫しているが、その後も朝比奈氏は掛川城を維持しており、河井氏も松葉城を居城としていた。


                                    ココから鶴見氏
明応5年(1496年)遠州三十六人衆のひとりである横岡城の鶴見因幡守栄寿(えいじゅ)は、勝間田播磨守とともに松葉城の河井宗忠を襲って滅ぼしている。

これはかつて、河井氏によって鶴見氏が掛川の居城を追われたことも遠因にあったと考えられる。

明応5年(1496年)7代当主の今川氏親(うじちか)は、ただちに勝間田播磨守を滅ぼしており、
鶴見氏に対しては大井川東岸の相賀村に偽旗を押し立てて陽動作戦を展開、
背後の長者原から横岡城を襲撃して鶴見因幡守を討ち取った。

                                   鶴見因幡守殿御討ち死に


現在、城跡は茶畑となり、その中に直径2mほどの丸石で積んだ井戸が残っている。


落城の際、鶴見因幡守の奥方がこの井戸に身を投げたといい、後に井戸の中に赤い唇の小蛇が棲息するようになると、人々は奥方が化けたものとして畏れたと伝わる。

現在も横岡城の対岸に旗方(はっさし)という名を残すという。

           http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/site3/sub5.htm

           今川氏親は鶴見・勝間田殲滅戦の火蓋を切る。

              『掛川誌稿』「鶴見氏城跡」の条に、
              「今川家の時、大井川の東相賀村に偽旗を張り、
              奇兵を長者原より下して此城を陥たりと云傳ふ。」
 
             とあり、現在も横岡城の対岸に旗方(はっさし)の地名を残している。
             また、鶴見因幡守が討ち取られ、
             井戸に身を投げた奥方はやがて唇の紅い小蛇と化して井戸の中に棲息し、
             人々に畏れられたとも伝えられる。



最後のパラグラフより抜粋                      ビックリの情報です!!!


北条氏重とは保科正直(まさなお)の四男だが、
慶長16年(1611年)小田原北条氏の一門で北条五色備えの黄備えを担当した「地黄八幡(じおうはちまん)」こと
北条綱成(つなしげ)の孫にあたる北条氏勝(うじかつ)の養子となっていた。

そして、氏重は徳川家康の甥に当たるが、子供は5人とも女子で男子がいなかったため、
この龍華院大猷院霊屋を建てて、お家存続を計ったと考えられている。


しかし、万治元年(1658年)氏重の死去に伴って北条家は断絶、領地は没収された。


この氏重の5人娘のひとりが、旗本の大岡美濃守忠高(ただたか)に嫁いで、名奉行として有名な大岡越前守忠相(ただすけ)を生んでいる。

大岡忠相は伊勢国の山田奉行の時代に、紀州藩領である松阪との境界争いを徳川御三家の威光を恐れることなく公正に裁いた。


文政5年(1822年)当時の掛川藩主であった太田資始(すけもと)によって再建された。この太田道灌(どうかん)の末裔である太田氏が掛川藩5万石で7代続き、明治維新を迎えている。


話がアチコチしましたが  ビックリ!
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月12日 08時22分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鶴見氏の話、ありがとうございます。私の友達にも鶴見氏がいて、たぶん
つながりがあるのでしょうね。金地院の鶴見家の家紋は鶴が羽を上に丸く開
いた鶴紋でした。
 重姫がなぜ駿河姫と呼ばれたか、それは御手洗清著『歌人 宗良親王』の
中にこんな記述がありました。即ち、伊勢から井伊谷にやって来た後、井伊
城のふもとの井伊氏の館に住んでいた時のこと―
 「宗良親王はこうして、井伊城の館に、井伊介道政の一族と起居を共にし
 ていて、道政や高顕の、真面目な武士らしい真心に、一段と心打たれるの
 だった。
  それと共に、道政の娘重子の美しさにも、心をひかれるのであった。
  重子はその頃、宗良親王より二つ下の、二十二才でった。重子は顔の美
 しいだけでなく、心だてのやさしく、それでいて気丈夫な、武士の娘らし
 い女で、駿河姫とも呼ばれていた。重子は親王の身のまわりの一切をはじ
 め、総てに気を配って仕えていた。
  そうした重子を見るにつけ、親王の心は動いた。
   寝ては見え 寝ては忘れぬ面影を 夢ばかりには 如何なすべき
 と歌っている。
  宗良親王は、こうして歌に詠む心の内を、ある日井伊道政に打ち明けた。
 道政としては、天皇の皇子との後婚約である。何の不足を申す余地があろ
 うか。
  戦いの中である。心ばかりの、簡単な御婚礼式を挙げるのであった。
  道政は涙の流れるのを、止めることが出来なかった。
  新しい宗良親王御夫妻は、井伊家の館の隣に、小さいながら新居を作っ
 て、仲良くお住まいになられていた。そしてその翌年、皇子興良(おきなが)
 親王がお生まれになり、続いて桜子女王がお生まれになって、親王の御一家
 は、春風の吹く思いであった。
  併しその春風は、長くは続かなかった。天下の風雲は急を告げている時
 とて。」
  重子は、駿河の国の富士のような気高さと美しさを備えていたのでしょう
 か。

 また、太田資始が太田道灌の末裔ということで、一つ勉強になりました。
太田道灌という人は江戸城の原型を作った人ということでも評価が非常に高
いので、一度探究してみたいと思っています。藤堂高虎もその後江戸城に手
を加えておりますが、「助役普請」となっております。

 さて、昨日の続きに入ります。
 「空の青海のあを」様を縮めると、奇しくも「空海」になりますが、私も
尊崇の念を持って、一時期空海に心酔し、修行をしたりいたしましたが、そ
の空海が遠江に来て造ったのがこの「長楽寺」でありました。今回、改めて
そのことを知った訳ですが、これもあを様のおかげと感謝申し上げます。

 金地院からは、目と鼻の先でありました。
 名前の割に古びた、というか古びたままの姿、例えば土塀等・・・。龍潭
寺と比べると寂れている感じがしました。住職代理が居られて、親切丁寧に
説明をしてくれました。感謝です。

 まずは、長楽寺の説明書きから―
 「平安時代初期の大同年間(約1200年前)に弘法大師によって開かれた
 といわれ、この寺の北に陽光を受けて光る巨岩を霊地と見、お堂を建てた
 事にはじまる。のち今川、徳川の信仰を集め、巨岩のふもとに七堂伽藍が
 立ち並び、寺領二十五ヘクタールをもって繁栄した。
  雑木林を開いて実をとるために植えた梅が、毎年春になると白、紅の花
 をつけ、辺りに芳香を漂わせる。
  満天星(ドウダン)ツツジが植え込まれた庭は、小堀遠州作といわれ、四
 季折々にその表情を変えます。隠元禅師の高弟、独湛禅師の筆である「長
 楽寺」の扁額(へんがく)がかけられている山門や土塀は、室町時代の作。
 本尊は馬頭観音。松島十湖作のの大句碑が残っている。」

  私にとって、三つのキーワードが並んだ。即ち、空海、小堀遠州、十湖。
 何とタイミング的にピッタリであるではないか。これも何かの御縁・・・。
  副住職の話によると、弘法大師開創の寺としては、浜名湖舘山寺よりも
 先であるという。龍潭寺の庭には「借景」はないが、この長楽寺にはそれ
 がある。その借景とは緑の山で頂上へ向かってスロープになっている。その
 頂上の下に「光岩」と呼ばれる巨岩がむき出しになっていて、陽光を反射し
 て輝くという。弘法大師はこの岩に霊力を感じ長楽寺を開き、山号を光岩山
 としたという。なお、この光岩は別名行者岩とも呼ばれ、かつてはその上で
 行者が修行をしたようだ。

  そして、住職代理の話がすごかった! 即ち、この光岩は寺の庭の真北に
 位置し、その上に北極星が浮かぶというのである。即ち、北斗七星が北極星
 を中心として回る。そんな星空がこの長楽寺の庭の空を飾っているのである。
 何と、鳥肌の立つ思いである。

  その光岩に行ってみることにした。何かの力に引きつけられるような感じ
 で、山道を登った。途中、梅の木のトンネルをくぐり、堂宇のあったらしい
 中腹に宝篋印塔、更にそこから急こう配になり、木をつかみながら、岩山に
 登った。そこからは、浜名湖、遠く遠州灘までが見渡せた。
  そこに平らな岩があったので、安全のため座り、かつて覚えた真言宗の
 陀羅尼とお経を心をこめて唱えた・・・。
  満足感で、しばらくそこを離れようとする気が起らなかった。

  帰りにはシマヘビが一匹、顔を出し、消えて行った。これもよくあるパタ
 ーンである。

  小堀遠州については、とっておきの寺があるという。磐田の「医王寺」と
 いう寺である。かつて一度訪れたことがあるが、その時は遠江四十九薬師
 巡礼の旅の途中で、庭のことは知らなかった。その寺には遠州の書が残され
 ているという。すぐに行ってみたいと思います。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月12日 09時19分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


背筋がゾクゾクするお話の連続でございました。
ありがとうございます。


「蛇」の出現は何かを表しているのかもですね。
勿論、暑いから、蛇もにょろにょろ出て来るのでしょうけど
何かメッセージがあるようですから、蛇に向かって「気をつけなさいね」ぐらい、声をかけてあげてください。


鶴見氏はもともと遠江国佐野郡掛川の小豪族だった、ということ。
三つ柏さんの周りにいらっしゃっても不思議じゃないのですね。
それも有力者だった、とは。
驚きですね。


武士は人口が少ないから狭い世間で婚姻・養子をしているけれど
驚きますね。まさか家康の甥の保科→北条→大岡越前に繋がったり。


井伊の重姫が駿河姫と呼ばれていたこと、ありがとうございました。
井伊家には他にもたくさん姫がいらっしゃったでしょうから国名で姫達を呼んでいたのかもですね。
昔は直接の名で呼んだりしなかったので。


>住職代理が居られて、親切丁寧に説明をしてくれました。感謝です。

ラッキーでしたね。
この時期は1年で最もお忙しいのに。


>寺領二十五ヘクタール

これまたスゴイ敷地ですね。25町歩で良いのかしら?
3025坪 x 25ha  = 7万5000坪強で良いのかしら。


>弘法大師開創の寺としては、浜名湖舘山寺よりも先であるという。
>龍潭寺の庭には「借景」はないが、この長楽寺にはそれがある。

すごいですね。



>この光岩は寺の庭の真北に位置し、その上に北極星が浮かぶというのである。
>即ち、北斗七星が北極星を中心として回る。
>そんな星空がこの長楽寺の庭の空を飾っているのである。
>何と、鳥肌の立つ思いである。

すごいですね。
あの時代の土木技術で。

ホント背筋に来ますね。


>そこに平らな岩があったので、安全のため座り、かつて覚えた真言宗の陀羅尼とお経を心をこめて唱えた・・・。

良いことをなさいました。


南朝方の武士達だけでなく北朝方の武士にも供養になりましたし
戦国時代の武士達の供養にもなりました。

丁度時期も合いますし。


>磐田の「医王寺」

近々、行けると良いですね。


本当に素晴らしいレスでした。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月12日 09時33分09秒 ) パスワード

磐田の「医王寺」
http://www.youtube.com/watch?v=TmLtf8F7K9k

しんごんしゅうちさんは    かまたさん  いおうじ
真言宗      智山派        鎌田山 医王寺


「鎌田山」というのが意味深ですね。


苔が素敵です。


智山派の総本山は京都、東山七条の智積院(ちしゃくいん)です。
 医王寺では、薬師如来をご本尊としてお祀りしております。
 小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作庭と伝えられる枯山水の庭園、山門から続く苔の参道は、見る者の心を癒してくれます。


http://www5.plala.or.jp/iouji33HP438/sub40.html
医王寺の枯山水の庭園は、江戸時代初期の元和年間(1620頃)に造園されたようです。客殿の西側と南側を合わせて約1,000平方メートルになります。

 作者は、小堀遠州こぼりえんしゅうとも、本山京都智積院化主猊下第7世運敞僧正うんしょうそうじょうとも言われ、残念ながら寺伝等に記されているものは見付かっておりません。しかし、石組みや作風など、小堀遠州の作庭する庭とよく似ています。

 また、小堀遠州の旅行記が医王寺に残っていることから見ても、何らかの関係があったことは確かです。
 
 植栽はサツキ、ツツジを中心とした刈り込みものでまとめてあり、その中のソテツが唯一の高木になっています。客殿と庭園の石組みの間には一面スギ苔で覆われていて、枯瀧かれたきより海に至る様子がよく表現されています。


庭園の西から北にかけて築山として、写真の正面より左の一番高いところに、三尊石組を据えています。
 その下に枯瀧石組をし、枯流れ護岸石組にして深山の渓谷を表しています。


医王寺の枯山水の庭園で主石となる、三尊石です。

 庭園全体に目を向けてみますと、五群に分けられた石組は、それぞれが表情を示しております。
 石組に使用されている石は、地元天竜産の青石をはじめとして、紀州石の名石も多く使われています。

 石のほとんどが建てて組まれていて、静岡県のこの地方に多く残っている、小堀遠州作の庭と同じ造りです。

 サツキが咲き終わった5月下旬には、植木の刈込みを行うため、庭園がもっとも整った姿をご覧頂けます。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月13日 07時50分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、連日の暑さに耐えかねて、標高1800メートルの「しらびそ高原」
へ行ってまいりました。片道120キロ、往復240キロの道程でした。

 しらびそ高原は下伊那飯田の山1つ東側の南アルプスのはずれにあります。
 20年程前に2度いったことがありましたが、久しぶりに道はどうなってい
るのか、良くなっているのか知りたいと思いました。また伊那へ行くのに、
三河から151号線を通って北上し伊那へ行くルートと、遠江の北のはずれの
水窪から152号線を通って北上し、高遠に至ったのち伊那へ入るルートのど
ちらが楽な道なのか、昔の人はどちらを利用しようとしたのかを、ある意味
比較検証してみたいと思った訳であります。

 151号線ルートは最近は2度経験しておりました。その印象はまだ残って
おります。その印象対今回の印象は・・・結論から言いますと次のようになり
ます。
 @151ルートの方が、周辺。道沿いの人口も多く、産業も発達しているの
 で、伊那・飯田・三河/遠江をつなぐ幹線道路として、また天竜川の水運と
 共により利用されて来たと思われます。
 A152ルートの方は、高遠から静岡県県境までは比較的まっすぐでなだら
 かな道ですが、最大の問題は、県境にある山脈を越えなければならないとい
 うことです。武田信玄が伊那から遠江に入ったルートはこの山脈越えであり
 まして、県境の分水嶺は「兵越峠」と呼ばれております。
  実際車でこの山脈を越える道を通ってみますと、細くうねうねと急こう配
 で想像以上に時間を費やされてしまいました。はっきり言ってもう2度と通
 りたくないと思う位の山道です。この山脈のふもとにトンネルを掘ってくれ
 たら152ルートは利用価値が出るし、ルート沿いの伊那谷も発展するのは
 間違いないとは思いますのですが。ただ中央構造線と「青崩れ」と呼ばれる
 もろい岩盤が問題であります・・・。

 しらびそ高原での温度は21℃、浜松では33℃前後。涼しさ満点、南アル
プスの眺めも満点でありました。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月13日 08時26分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


>しらびそ高原での温度は21℃、浜松では33℃前後。

21度でしたら、寒いぐらいですね。



>151ルートの方が、周辺。道沿いの人口も多く、産業も発達しているので、
>伊那・飯田・三河/遠江をつなぐ幹線道路として、また天竜川の水運と共により利用されて来たと思われます。

昔っから、こちらのルートだったのでしょうね。


昔の人が身近になりますね。
南朝方の武士達もこの道を行ったのかな?とか
戦国時代にはこのルートで逃げて来たのかな?とか

興味深い検証ドライブになりましたね。


いよいよお盆が近づいて、忙しい毎日になると思いますが、一族の皆さまと実りの多いおしゃべりが出来ると良いですね。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月14日 00時39分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代に伊那で起こったことを、久保田安正氏の『伊那谷にこんなこと
が』、松島茂光氏の『苗字の話 第四章 中世末期の南信濃の松島氏』、知久
豊氏の『知久氏の興亡』を参考にして、下記のとおりまとめてみました。
 @1541年 小笠原長時 韮崎(山梨)に出陣 負け
 A1542年 小笠原長時 甲州へ侵入 負け
 B 同    武田信玄  諏訪へ侵入 上原城を落とす
 C1544年 武田信玄  伊那谷荒神山城を落とす
 D1545年 武田軍   高遠城を落とす
 E 同年   武田軍   福与城を攻撃
 F 同年   武田軍   竜ヶ崎城を落とす
 G 同年   武田軍   福与城を落とす   
 H1548年 小笠原長時 下諏訪板垣信方を攻める 負け
 I1550年 小笠原長時 桔梗ヶ原で信玄と戦う 負け
 J1551年 小笠原長時 南安曇郡倭村の戦い 好戦
 K1553年 小笠原長時 安曇野より越後の上杉謙信方へ逃げる
 L1554年 武田軍   下伊那神之峯城を落とす 知久氏敗退
 M 同年   武田信玄  伊那谷を掌握
 N1556年 松島信久  木曽義昌を攻める のち松島信久ら8人処刑
 O1573年 武田信玄  死す
 P1582年 織田信忠  伊那谷に侵攻
 Q 同年   武田軍   伊那谷失い、勝頼自刃
 R 同年   明智光秀  本能寺の変 信長死す
 S1590年 徳川家康  伊那谷を勢力下にするも、信濃を秀吉に譲り
              関東へ移動 信濃の家臣も関東へ
 (21)1600年  徳川家康  関ヶ原の戦い勝利 元伊那谷の武将を伊那谷へ

 このように伊那谷は翻弄され続けます。1582年の織田軍の侵攻により
武田方が不利になり、武田方の軍門に下っていた伊那谷の武士達は、織田の
執拗な落武者狩りを恐れて離散する。
 その中で、松島城主の信久の弟であった松島源太郎は、一族郎党と天竜を
下り、親戚の座光寺氏をたより南下・・・。
 時代的にはおおよそこの辺で知久氏も落人となって、南朝でつながる家康
を頼り浜松へ下っている。同じ松島氏の一部は、知久氏と一緒に浜松へ来た
か、あるいは自分達だけで来たか、可能性としてはどちらも大いに考えられ
る。
 また、その後松島氏は知久氏の下で、小田原攻め、関ヶ原の戦いなどに
参戦して戦功を上げ、褒美として土地を賜ったという事は考えられないだろ
うか。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月14日 03時39分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


@〜㉑の戦いの連続を拝見して、恐ろしさ・辛さ・叫び、そういうものが鬼気迫ってきました。

そういう時代があって今の平穏があるのだなと。



>松島城主の信久の弟であった松島源太郎は、一族郎党と天竜を下り、親戚の座光寺氏をたより南下・・・。

背筋がゾクゾクしました。

   松島源太郎
   この人のことが詳しく知りたいですね。



http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/matsushima-jyo/

松島氏は信濃国伊那郡松島発祥で小笠原長清の末葉が松島に住んで松島氏を名乗ったことに始まるといわれるが、出自に関しては諸説あるようである。

松島氏は天文年間(1532年〜1555年)頃には福与城の藤沢頼親に属して武田信玄と戦ったが敗れたという。




知久氏
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/chiku.htm

このサイトの系図がなかなか興味深いです。
科野国造の子孫?
金刺から始まって  他田 諏訪大祝氏 小笠原 座光寺 と関係。
一族の他田が源義家の配下についた。ここで源氏に化けた?

     要するに  信濃の昔っからの名家  ってことですね。
     時代にもまれて江戸時代に徳川がらみで源姓を落としどころにしたということでしょうね。家の歴史が古過ぎ。


 知久氏は信濃伊那郡の小豪族で、『寛政重修諸家譜』では清和源氏満快流を称し、清和源氏の祖源経基の子満快の子孫中津小太郎頼継を知久氏の祖としていますが、どうもその出自は諏訪上社・下社の大祝家と先祖を同じくする他田直に溯るようです。

 他田左衛門尉信隆の三男信貞が上社大祝敦光の子知久十郎敦俊の養子となり知久右衛門尉を称し、伊那郡の土豪として続きました。南北朝の頃は南朝に属しました。頼元は武田信玄と戦い没落しましたが、その子頼氏は信長・家康に仕え、その子則直の時に采地三千石を賜い交代寄合に列しました。

 昌直の代に叔父直次に三百石を分知し、二千七百石で明治維新まで続きました。

http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/tikuhira.htm

知久氏は、諏訪氏分流の大祝氏からわかれた神族と言われ、当初上之平城(上伊那郡箕輪町)を居城としていたが、承久の変の軍功により、伴野庄知久平(現飯田市下久堅)の地頭となり、この地に受け居を構えた。

 室町時代に知久氏は、居城を神之峰城への移し、知久平城は出城となった。 天正10年に武田氏が滅亡すると、この地は徳川家支配地となり菅沼定利の居城となった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E4%B9%85%E6%B0%8F

宗良親王の子尹良親王の生母は知久氏の女とも伝えられている。
また知久敦貞は尹良親王の下で活躍したと伝えられるも、個々の事跡に関しては資料的な裏づけを欠く。

この時期、尹良親王との関係から、家紋をそれまでの「梶の葉紋」(諏訪大社の神紋、諏訪神党の諸家に多い)から「御所車」に改めたと伝えている。



生母の出自が錯綜するのは、
昔は身分ロンダリングで身分がより高い家の養子・養女・融子の関係にするから
わけ分からなくなりますが、しょうがないですね。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月14日 05時34分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 知久氏に関する情報、ありがとうございます。ここ浜松では、知久氏といえ
ば「お弁当・お惣菜』チェーンで有名になり、自前の畑で野菜も栽培している
ようです。二十年位前には、総ての味の良さにビックリしたものですが、今は
コンビニ系の競争と切磋琢磨が日夜なされているので、ちょっと味が落ちたり
値段が高かったりすれば、消費者は敏感に反応するので大変です。何せ、浜松
はコンビニの異常出店合戦が続いて、コンビニの前にコンビニ、コンビニの
陣地取り合戦が正に戦国時代さながらに行われております。
 知久氏も宗良親王を支えた名族であり、井伊谷宮の霊廟に宝篋印塔を捧げて
いる名門でありますので、がんばってほしいと思います。

 系図を見ますと、諏訪族は諏訪族同士で婚姻というかたちで、濃くなったり
また薄くなっていったり、小笠原氏ともやはり婚姻という形で混合されて行き、
これを見ると、やはり松島氏にも同じことがいえるのかなあと思いました。
 小笠原氏も「長時」そしてその弟の「信定」も伊那側の味方でしたが、いず
れにせよ、武田、織田、徳川、上杉のせめぎ合いの中で、翻弄されて行くのは
無理からぬことであります。
 知久氏が武田に折れなかったのは、諏訪氏の一族としてのプライドがあった
、また宗良親王の側近としてのプライドがあったということだと思います。

 知久氏については、また諏訪氏については非常に興味深いので、更に探究し
てみたいと思います。

 一度切ります。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月14日 07時40分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


浜松はコンビニ戦国時代ですか。
そうなると潰し合いですから大変ですね、消費者も。消費者は一見トクな気になりますが、大間違い。


そういう資本主義の負の部分をロス時代に経験しました。

日系で細々とやっていたお店が、日本からの巨大資本の前に店じまいして消えて行きました。

で、結局、その巨大資本の大型店も消えました。


1番ソンをしたのは消費者でした。

途中、大型店独占で値が上がってビックリし、更に、結局は大型店も消えたのですから
遠くに買い物に行かなくてはならなくなりました。


日系人がお店をやっていた時はちょっと歩けば買い物が出来たのですけどね。



こういう事は他の分野にも言えますね。
センチメンタルになるのは日本人だから。アメリカ人は「競争に敗れただけ」です。



>やはり松島氏にも同じことがいえるのかなあと思いました。

はい
同じだと思います。
どこに付くのか、決断を迫られて党首は大変だったと思います。

激突になっても大変だし、負ければもっとみじめですし。
負けたら遠い遠い親戚を頼って落ちて行くことになります。

本当にすごい時代があったと思います。


お盆には自分の先祖に感謝せねば。
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月14日 08時24分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いずれにしても、山間部での行軍、戦い―これには相当高度の戦略・作戦が
要求されることは、山に行ってみると実感としてわかります。桶狭間と同じよ
うな道がずっと続く訳ですから、一列縦隊ということにならざるを得ません。
とすれば、敵は横から攻めれば何無く崩せるということになります。川があれ
ばそこで渋滞してしまい、一網打尽となってしまいます。食料や水、武具他を
馬に積んだとしても、山登りではたくさんは詰めません。また、必然的に馬の
数は、かなりの数必要となります。日頃から馬をどんどん増やし、軍馬、運搬
馬として訓練し、維持し続ける必要があります。
 山道でありますので、警戒のため、斥候を先々まで派遣しておく必要があり
ます。また情報は一刻も早く知らせる必要があります。そうなるとやはり特殊
部隊、鎧を付けず、身軽に走り回れ、さまざまな術を心得た者―そう、究極の
ところは忍者部隊であります。
 武田軍は忍者部隊をたくさんかかえ、積極的に利用したといわれます。
 城攻めは彼らのもっとも実力を発揮できる舞台であったと思います。
 情報収集、情報攪乱、忍び入り、暗殺、奇襲、夜襲ありとあらゆる影の作戦
を展開したものと思われます。
 1つの例として『伊那谷にこんなことが』(久保田安正著)では、武田軍が、
知久氏の「神之峯(かんのみね)城」を攻略するに際し、山本勘助に城攻めを
任せた。勘助は透波(すっぱ 忍者)を集めて、城の周りの地形・建物の配置を
探らせた。その結果として城内の穀蔵を焼き討ちすることにした。つまり兵糧
攻めである。この作戦はみごと的中し、兵糧を失った知久軍は降伏したという
ことである。表面に出ない部分は忍衆や特殊部隊が動き回って活躍していたの
である。歴史はほとんど表面だけの記録で形成されている。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月14日 13時33分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


情報収集はホント重要ですね。

   昔々、当時は皇太子だった天皇のご学友の橋本明さんご夫妻がスイスからいらっしゃった時に
       「いいですね、情報が早くて」
   などと言ってしまいました。バカ丸出しですね。ま、わたくしも当時は若かったし。笑


山本勘助の「知久氏神之峯城攻略」を拝見して、思い出しました。

   あの後、橋本明さんの情報収集法を別のルートから知りました。


        なるほど情報収集とはこうするのか、
   という早道です。



とはいえ山本勘助も川中島の戦い(第4次でしたか?)で裏の裏を上杉にかかれて敗れて戦死していますから
忍者達の情報収集戦などの「暗闘」というのは凄まじいものなんでしょうね。


孫子の兵法、いかに読み解くか
知能戦ですね。



山本五十六が行方不明になる前に通信士が当日の五十六の行動予定も逐一発信していたとかですが
これもアメリカ軍は傍受していたんでしょうか?


日本がアメリカに敗れたのはソフト面でも負けていたんでしょうね。
今となれば負けるべく開戦に日本は一丸となって飛び込んだ、ということだったんでしょうか。


>歴史はほとんど表面だけの記録で形成されている。

表面の、そのまた、ほんの外側の薄紙しか我々は見てないですね。
知らないことばかり。


   でも歴史の本質を読める人もいますから
   そうでない我々はフツーの人間であるのが悲しいですね。


だからこそたくさん読んで、アチコチへフィールドトリップして、多くの人にお話をしてもらって
最終的に探し求める先祖の姿を捉えましょう。
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月14日 23時01分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日も暑さを逃れるため、磐田の図書館へ行き、雑多な調べものと何かお
もしろい情報が書かれていないか、地元の文献・資料を漁っておりました。

 丸に三つ柏を神紋とする神社があるという情報がありました。それは『第
七回姫街道検定』という問題集の中の質問の一つで、三社択一でどの神社が
そうかという問でありました。レベル的には非常に高いというか、マニアッ
クな質問が多い問題集であります。三社の中の一つの神社は場所が判明しま
したので、帰りに行ってきましたが、神紋はありませんでした。後の二社は
文献を探して全く出てこないので、家に帰ってインターネットで調べること
にいたしまして、帰宅後調べましたら、二社とも本日も行った見付の図書館
の近くにあることがわかりましたので、明日行ってみることにいたします。
なお、そこだけではもったいないので、医王寺その他をからめて見て来たい
と考えております。

 いずれにしても、頭が働くのは早朝の涼しい時、それ以外は集中力・根気
が湧かず文章がまとまりません・・・。

 では明朝にといたします―
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 02時13分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>二社とも本日も行った見付の図書館の近くにあることがわかりました

こういう事ってありますね。




ちょっと方向が違いますが。

http://mamearuki.info/archives/805/

伊古奈比・命神社(白濱神社)
〒415-0012 静岡県下田市白浜2740

主神:伊古奈比・命
相殿:三島大明神(事代主命)・見目(海竜王)・若宮・剣の御子


丸に三つ柏紋

ご神木の真柏は別名を伊吹やビャクシンと言い、樹齢2000年を超えています。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 02時29分46秒 ) パスワード

伊  古  奈  比  口羊  命  神社  (白濱神社)
について更に調べました!

ビックリです。
大久保長安に辿り着きました!   → 大久保長安奉納の鰐口(静岡県指定文化財)


     静岡県指定文化財
        有形文化財

          鰐口(工芸品)

             径42.3センチメートル、厚10.8センチメートル。両肩には釣手を有する。
             慶長12年(1607年)3月、伊豆代官大久保長安の奉納によるものである。
             当時長安は縄地金山奉行であり、金山の隆盛を祈願して奉納したものといわれる。

             地金は青銅であるが、金の成分が相当含まれていると伝える。
             昭和31年10月17日指定。[78]






三島大社の神様の妻です。これにもビックリ   つまり大三島神社に関係?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8F%A4%E5%A5%88%E6%AF%94%E3%82%81%E5%91%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

伊古奈比・命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は、静岡県下田市白浜にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。通称は「白濱神社(白浜神社)」。


静岡県東部の伊豆半島先端部、白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま/ひたつやま)」に鎮座する。この火達山は伊豆諸島を祀る古代遺跡でもあるが、その祭祀は現在まで伊古奈比・命神社の祭祀として続いている。伝承では、主祭神の伊古奈比・命は、伊豆諸島開拓神の三嶋神の后神であるという。また、三嶋神は三宅島から白浜(当地)、そして伊豆国一宮の三嶋大社(静岡県三島市)へと遷座したとも伝える。

境内の火達山は、祭祀遺跡として下田市指定史跡に指定されている。また、火達山に自生するアオギリ樹林は国の天然記念物に、ビャクシン樹林は静岡県指定天然記念物に指定されている。そのほか、大久保長安奉納の鰐口(静岡県指定文化財)に代表される文化財数点が伝わっている。


現在の社名は、主祭神の伊古奈比・命の名を掲げた「伊古奈比・命神社」である。この社名は、平安時代の『延喜式』神名帳に記載されるものである[1]。当社がこの『延喜式』所載社であることを伝える史料としては唯一、江戸時代の慶長12年(1607年)の鰐口にある「伊古奈比・命大明神」の銘が知られる[2]。

通称の「白濱神社(白浜神社)」は、鎮座地の地名に由来するものである。「白浜」とは海岸の白砂を表した名称であるが、その起こりは明らかではない[3]。この呼称は江戸時代に広く見られ、当社は「白濱大明神」「白濱神社」「白濱大社」「白濱五社大明神」等と称されていた[4]。うち「五社大明神」は、祭神数に由来するものである[5]。そのほか、三嶋神の旧鎮座地(古宮)であるという伝承から、「古宮山大明神」「古宮山五社大明神」という呼称も使用された[6]。明治期に正式社名は現在の「伊古奈比・命神社」に定められたが、現在も「白濱神社」と通称されている[7]


祭神[編集]

祭神は次の5柱[8]。神体は5柱とも神鏡である[9]。

主祭神
伊古奈比・命 (いこなひめのみこと) 三嶋大明神の后神。後妻さん?

相殿神
三嶋大明神 (みしまだいみょうじん) 伊豆国一宮の三嶋大社(静岡県三島市)祭神。別名を事代主命(ことしろぬしのみこと)とする。
見目 (みめ、見目大神) 女神。三嶋大明神の随神。
若宮 (わかみや、若宮大神) 男神。三嶋大明神の随神。
剣の御子 (つるぎのみこ、劔御子大神) 男神。三嶋大明神の随神。



祭神について[編集]

『続日本後紀』所載の三嶋神系譜

正后:阿波神
(阿波命神社)
<神津島村>

三嶋神
(三嶋大社)
<三島市>

後后
(伊古奈比・命神社)                       コレ
<下田市>


物忌奈乃命
(物忌奈命神社)
<神津島村>


上記のように伊古奈比・命神社祭神は5柱と定められているが、この制は江戸時代には遡りうるものである[10]。主祭神の伊古奈比・命(いこなひめのみこと)は、三嶋神の后神とされる[11]。『続日本後紀』[原 1]の記述を基にすると、三嶋神の正后が阿波・命(神津島の阿波命神社祭神)、後后が伊古奈比・命神社にあたるとされる[12]。また、『伊豆国神階帳』に見える「一品当きさの宮」や『三宅記』に三嶋神の后として見える「天地今宮后」もまた、伊古奈比・命に比定される[13][注 1]。後述のように、夫神の三嶋神には歴史的に事代主命説・大山祇命説があるため、伊古奈比・命にも三嶋溝樴姫(事代主命妃)説・大山祇命妃説があった[14]。これらに対して伊古奈比・命神社社誌では、記紀神話との比較はせず「伊古奈比・命」という独立の神格を見ている[15]。神名の由来は明らかでないが、『日本三代実録』[原 2]に見える遠江国の伊古奈神(所在不明)との関連が指摘される[16]。






三嶋大社(静岡県三島市)
伊古奈比・命の夫神である三嶋神を祀る。
相殿神のうち、筆頭の三嶋神(みしまのかみ)は、現在の三嶋大社の祭神を指す。上記のように現在伊古奈比・命神社では、この三嶋神を記紀神話に見える事代主命にあてる。しかし三嶋大社祭神については、古くは『東関紀行』(仁治3年(1242年)成立)を初見として、伊予国一宮の大山祇神社(愛媛県今治市の大三島)由来の大山祇命説が唱えられていた[17]。事代主命説は、文化年間(1804年-1818年)頃の平田篤胤の提唱に始まるものである[17]。平田篤胤の主張は多くの賛意を得たため、現在まで伊古奈比・命神社含め伊豆各地では事代主命説が定着している。ただし、当の三嶋大社では大正頃から大山祇命説が再浮上したため[18]、祭神は事代主命・大山祇命の2柱に改められている。近年ではこれらとは別の説として、「ミシマ = 御嶋」すなわち伊豆諸島の神格化が三嶋神の発祥であるとして、事代主命・大山祇命のいずれも「ミシマ」の音から来た後世の付会とする説が有力視される[19](三嶋神の詳細は「三嶋大社#祭神」参照)。

見目・若宮・剣の御子の相殿神3柱は、『三宅記』に三嶋神の随身として見える神である[20]。3柱の詳細は明らかではない。境内から出土した御正躰には嘉禄元年(1225年)銘とともに「若宮」の銘があるため、これら3柱の祭祀は鎌倉時代初期に遡りうるとされる[20]。


歴史[編集]

三嶋神・伊古奈比・命の変遷    [表示]

創建[編集]

三宅島(東京都三宅村)

社伝(由緒書)によると、まず三嶋神は南方から海を渡って伊豆に至った。そして富士山の神・高天原の神から伊豆の地を授けられ、白浜に宮を築き、伊古奈比・命を后に迎えた。さらに、見目・若宮・剣の御子の3柱や竜神・海神・雷神などとともに伊豆諸島の島焼き(造島)を行なった。島焼きによって、初島に始まり神津島・大島・三宅島・八丈島など合計10の島々を造り、自身は三宅島に宮を営んだ。その後しばらくして、白浜に還ったという[22]。以上の伝承は、伊豆地方に伝わる縁起『三宅記』(鎌倉時代末期と推定[23])に記載されるものである。同書では島焼き以前に白浜を宮としたかについては記載はないが、孝安天皇(第6代)元年に三嶋神は天竺から至り、孝安天皇21年から島焼きを行なったとする。

伊古奈比・命神社の鎮座する火達山からは多くの祭器具が見つかっており、当地では古代から祭祀が行われていたものと推測される[24]。また、上記『三宅記』に見えるように、三嶋神は伊豆府中の現在地以前には白浜にあったとされており[25]、後述の天長9年(832年)記事の「神宮二院」の表現や、『延喜式』神名帳の賀茂郡における三嶋神・伊古奈比・命の登載はそれを示唆するものとされる[26]。加えて『宴曲抄』「三島詣」や『矢田部氏系図』では、天平年間(729年-749年)頃の三嶋神の国府遷祀を伝える[27]。伊古奈比・命神社社誌では、これらを総合して、三嶋神は奈良時代頃に国府近くに新宮として勧請、その後元宮は衰退して治承4年(1180年)[原 3]までには地位が逆転したとする[28][注 2]。また、元宮の地については、伊古奈比・命神社北西の神明(かみあけ)の地と推測されている[29](ただし、以上については異説もある)。


概史[編集]

平安時代[編集]

阿波命神社(東京都神津島村)
祭神の阿波・命は三嶋神の本后。対して伊古奈比・命は後后とされる。
国史での初見は天長9年(832年)の記事[原 4]で、三嶋神・伊古奈比・命神の2神が地2,000町(約2,000ヘクタール[注 3])に神宮二院・池三処を作るなど多くの神異を示したことにより、名神に預かっている[11][注 4]。同記事の3日前の記事[原 5]では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比・命神と同一神とする説もある[30]。

『続日本後紀』の記事[原 1]によると、承和5年(838年)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋大社の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波・命:阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた[31]。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比・命神社を指すものとされる[32][注 4]。この記事を受けて、約一ヶ月後[原 6]には、阿波・命と物忌奈命(阿波神の御子神:物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った[12]。

その後、伊古奈比・命は阿波・命と物忌奈命とともに、嘉祥3年(850年)[原 7]に従五位上の神階が授けられたのち、同年[原 8]には官社に列し、仁寿2年(852年)[原 9]には正五位下に昇った[11]。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、伊豆国賀茂郡に「伊古奈比・命神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[11]。伊豆国賀茂郡には全国でも突出する密度(1郡で46座、1郷平均9.2座)の式内社が記されているが、名神大社に列したのは伊古奈比・命神社のほか、伊豆三島神社(三嶋大社)、阿波神社(阿波命神社)、物忌奈命神社の4社のみであった。

承平年間(931年-938年)頃の『和名抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比・命神社に基づく郷名とされる[11][33][注 5]。

以下略
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月15日 06時07分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「伊古奈比・命神社」について調べていただきありがとうございます。
 そして三島大明神というのが、事代主命であり、伊古奈比・命を娶り、
その後三嶋大社へ遷座したということ―すごい発見・勉強になりました。
また、伊古奈比・命神社に大久保長安の名前が出て来るということ、何か
長安がこちらに呼びかけているようです。いずれ近い内に長安にスポット
ライトを当て、真実を探りたいと思っています。
 
 例の「原」氏が落ちて行った竹原において、十六代頼清の妻は、大三島
の三島水軍の武将重見氏の娘とありましたが、この「三島」も、ルーツは
事代主でしょうか、あを様ご教示願えましたら幸いです。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月15日 06時49分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 知久氏について完結したいと思います・・・。

『伊那谷にこんなことが』には―
「山本勘助に攻められ、、三才の万亀(後の則直)と母、及び後見人の知久
右馬之助等は、落城間際の神之峯城より抜け出し、浜松へ向かった。則直
は成長すると大久保七郎左衛門に従い、小田原城攻め、関ヶ原の合戦に従軍。
その戦功により、下伊那郡喬木村に帰ることができた。
 一方、捉えられて山梨で幽閉されていた頼元の次男、知久頼氏、三男の
頼龍(よりたつ)は、脱出してやはり浜松へ逃げる。頼氏は天正十二年(1584)、
自噴している。」

 これらはすごくはしょった書き方でありますので、もう少し検証する必要
があります。則直は頼氏の長子でありましたし、頼氏の山梨から脱出のところ
が今ひとつ実態がわかりません。

 浜松へ逃げる方法も、見つからないように逃げるのは、天竜川を下ること
であります。危険ではありますが、コロラド川よりはまし、でもリバーオブ
ノーリターンには違いありません。

 頼氏は於大の方の親戚にあたるようですが、これらもよく検証する必要が
あります。

 いずれにしても、知久氏と諏訪氏、それにからめて松島氏はさらにその謎
を追及・検証する必要がありそうです。

 引き続き、調べて行きます・・・。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 12時57分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


次々と興味深いお話が出て来て頭の中が収まりません。


大久保長安の謎が新たに出て来ました。
知久氏の謎が新たに出て来ました。お大さまに関係しそうですか?
神代の時代がまたもや出て来ました。そして大三島・三島水軍との関係?


なんだかすごいお盆になりました。
「ねえねえ、僕らのことも忘れないでよ」
と語りかけて来ているのかしら。


去年の4月の初めに服部氏の系譜をいろいろ書いた時に
服部氏と下田のこともちらっと書きましたが
その蒸し返しを下に書きますね。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 13時03分23秒 ) パスワード

前置き

東京都のお城


 東京都は武蔵と呼ばれ、古くから武蔵七党と呼ばれた武士らが主に活躍して戦乱が絶えない土地であった。南北朝時代末期、観応の擾乱の結果、高師直が死去、以後関東管領職と武蔵守護職をめぐって、両上杉氏の攻防が武蔵の地を安穏たらしめることはなかった。

 室町の時代のキーマンとなるのが太田道灌である。後の徳川家康の江戸城の土台となる旧江戸城の城主である。道灌の活躍によりほぼ均衡が保たれてきつつあったが、やがて彼も主家扇谷定正の館で謀殺されてしまう。

 その後は後北条氏が台頭し、関東制覇の偉業を達成することとなる。が、その北条の世も長くは続かず、天正十八年(1590)徳川家康の江戸入城とともに、以降は徳川の治世として江戸城の改修とともに磐石の時代を歩んでいくのであった。


 なお島嶼部は伊豆に属していた。


いよいよ本題の服部氏について:


http://www.siromegu.com/castle/tokyo/hattoriyasiki/hattoriyasiki.htm

服部屋敷跡

所在地: 八丈町樫立


歴史

画像
服部屋敷前の石垣 服部屋敷虎口


 服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、小舟方(こぶねがた)のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた。


しかし、船方さんの一生を図で示すが如く、その歴史は波乱に富み、悲劇的な色彩を帯びて、豪勢を誇った家屋敷も、今では此処が毎日観光客に郷土芸能を披露する名所となっている。


 屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたものである。

             『服部屋敷跡案内板』より


ブログ主:

ここは城なのか?という話は今更なのでさておき(笑)、幕府御用船を管理していた服部氏の屋敷跡です。

比高10メートルほどの高地にあり、石垣がまさに城跡らしい雰囲気を出していますね。

正面の入口は喰い違い虎口状となっており、期待感をあおります。


 しかし、敷地内に入ると完全に拍子抜けでした。商売をしていたのであろう建物の状態を見ますと、すでに廃墟となってしまったのでしょうか?案内板にあるように「樫立踊り」や「八丈太鼓」などの郷土芸能を見せる名所であった面影はなさそうですね。

屋敷跡には大ソテツが所狭しと茂っているだけでした。
以上
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 13時07分01秒 ) パスワード

http://www.siromegu.com/castle/tokyo/ookubojinya/ookubojinya.htm


大久保長安陣屋跡
所在地: 八王子市小門町、産千代稲荷神社


画像
住宅街の中に建つ神社には大きな陣屋の碑が  

歴史

天正十八年(1590)豊臣秀吉から関東移封を命じられた徳川家康は江戸城に入城した。

領国経営が急務となった家康は、武田家に仕えていた大久保長安に八王子一円を統治させ、甲斐との国境固めをさせた。

長安はその期待に答え、民政の手腕を大いに発揮した。

しかし慶長十八年(1613)に長安が没した後、大久保忠隣と本多正信との争いから罪を問われることとなってしまい、長安の遺子は死罪となった。


大久保氏の後に陣屋には近山氏が入ったがやがて江戸へとその中心を移すようになると次第に八王子の陣屋はその姿を消すようになっていった。


            『日本城郭体系5』新人物往来社刊参照


ブログ主

大久保長安陣屋は、八王子駅から西八王子駅へと線路脇を進んでいく途中にある神社が建っているところでした。

大きな石碑が建てられており「大久保石見守長安陣屋」とあるので非常に分かりやすいです(笑)。

それにしても八王子駅からの繁華街の風景が一気に閑静な住宅街へと移り変わっていくあまりにも大きいギャップには驚きでした。

当時の八王子はどんな様子だったのか長安に聞いてみたい、そんな朝駆けの1シーンでした。
以上

[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 13時36分39秒 ) パスワード

続家紋でたどるあなたの家系
edited by 千鹿野茂

http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA3-PA33&lpg=RA3-PA33&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E4%B8%8B%E7%94%B0%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXf0SoHfNf&sig=6TqZLRO74qXFWymOWktK9TdiqWE&hl=en&sa=X&ved=0CDEQ6AEwA2oVChMInLjww5iqxwIVwaSICh3K7gsE#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E4%B8%8B%E7%94%B0%E3%80%80%E3%81%AF&f=false




柏紋が今日は読めるのが不思議です。
やはりお盆でご先祖さまが読めるようにしてくださったのかしら?


P72からが柏紋です。  
P75に服部氏   これは桓武平氏系で寛政譜 20   これは既出の医者の服部氏でしょうか?



P82下の段の3行目に柏紋の服部の名が「蜂須賀家の吉田氏の項にまとめて」出てますよ。
多分 丸に抱き柏紋の項 and/or  定紋が丸に三つ柏紋か  ハッキリしませんが。


P84には丸に鬼三つ柏紋で馬宮氏のところに「市野」の名があります。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 14時00分52秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E5%B8%82


下田市
伊豆半島南部に位置する都市。明治以前は旧伊豆国賀茂郡。     賀茂郡?!


1683年:6代目下田奉行、服部久右衛門、井戸水に切り替え、水道木管を辻の木戸とする。


服部久右衛門
どうやら  伊賀の呉服明神の神主だった貞信の子孫のようですね。


後世の人物
服部 貞勝(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))は、江戸時代後期の旗本。松前奉行、勘定奉行などを務めた。服部貞徳の長男。母は酒井忠香の養女。通称は久太郎、頼母、久右衛門。官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。室は戸田氏朋の娘。子女に服部貞陽ら。

ゴローニン事件を解決した人。



http://www.shimonoseki-library.jp/nenpyou/_SWF_Window.html?pagecode=56
下関市年表
1681年7月24日に服部久右衛門の名がある





http://familysearch.org/eng/library/fhlcatalog/supermainframeset.asp?display=titledetails&titleno=1198058&disp=%5B+%26%23x8429%3B%26%23x85e9%3B+%26%23x


[ 萩藩 遠近付 服部久右衛門家譜録 ]    藤原氏ですって。笑



Format:

Manuscript/Manuscript on Film



Language:

Japanese



Publication:

ユタ州ソルトレーク市:ユタ系図協会撮影, 1975



Physical:

マイクロフィルム 1 リール ; 35 mm.
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Notes

原図書: 写本、明和 3 [ 1766 ]。1 冊。

所蔵者: 山口県文書館。

毛利家記録課: 譜録、は - 33。

要約: 藤原姓。服部傳右衛門智次男忠智 - 忠誠 - 久右衛門(1700 年代後半の人)三代の服部家略系幷傳書を収録。





http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002686_20040929054827652.pdf

これは見られないです。
[PDF]駿河記 - 静岡県立中央図書館

化政文化とよびますが、このころ地誌編さんが全. 国各地で盛んになります。駿河にあっても時の. 駿府奉行服部久右衛門貞勝が ...

[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 14時06分23秒 ) パスワード

文字化けで読めません:

マイナー武将列伝・佐久間 盛次 - Biglobe



www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/.../oda_051.htm



Translate this page久六郎。久右衛門尉。大学助。 『旧参謀本部日本の歴史 桶狭間・姉川の役』に佐久間盛重の子 ...
共に佐久間氏の城とも、それぞれが佐久間氏、服部氏の城とも伝わる。   

                              どこでしょう?


           感触としては御器所城か?

           御器所は平清盛が父から相続した場所の1つで
           秀吉の母の出身地


           御器所に服部氏、いましたよね。その人の城か?
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月15日 22時00分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は八月十五日ということで、磐田市の連城寺にある平清盛・重盛公の
供養塔にお参りに行き、般若心経を唱え捧げてまいりましたこと、まずもっ
てご報告申し上げます。

 
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 22時19分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。


 連城寺 

   静岡県磐田市新貝1556
   TEL:0538−32−5548



http://kiratemari.blog134.fc2.com/?mode=m&no=89

磐田市には千手の墓地以外にも平重盛が建立したという寺院があります。


遠江国と平家とは意外に関わりが深く、保元3年(1158年)に平清盛が知行国主となり、国司に長男の重盛を任じて以来、その後も宗盛、基盛、頼盛と平家一門内で持ち回りのように国司を歴任しています。


平重盛の在任期間は記録上では保元3年(1158)8月10日〜平治元年(1159)12月27日(同日付けで宗盛が就任)で、国司に任じられても在京のまま目代を派遣するという例も多かったその当時、重盛が実際に赴任したかどうかは定かではないものの、この地には重盛が建立したと伝えられる三つのお寺、通称「三連寺」と呼ばれているものがあります。



 ・連覚寺(磐田市竜洋中島)
 ・連福寺(磐田市二之宮)
 ・連城寺(磐田市新貝)

「連」は「蓮」に通じ、この他にもかつて「蓮光寺」と名乗っていた現「西光寺」も重盛開創の寺とされているようです。


連城寺

寺号の故
先ほど「連」が「蓮」に通じると書きましたが、「城」も「浄」に通じそれぞれ置き換えて逆に読めば「浄蓮」となり重盛の法名と一致するという次第です。


境内にある頌徳碑の碑文によれば、1179年(治承3年)に建立とあり、これは正に重盛の没年に当たります。遠江守在任中ではなく、死期を悟ってから(重盛の出家が5月25日)、あるいは死後(7月29日死去)の遺命により建てられたということでしょうか。

松林の中に清盛、重盛の供養塔


画像はURLへ。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月15日 22時24分26秒 ) パスワード

http://www.asa1.net/siseki-meguri/t17-tairanosigemori.html


平 重盛(1138〜79)

   平安時代末期の武将。清盛の子。12歳で蔵人となって以来、保元・平治の乱(1556・59)で父清盛に従って活躍。長寛元年(1163)従三位に叙せられる。平氏政権確立とともに、官位が累進し、仁安2年(1167)従二位権大納言、翌年病により官を辞したが、承安元年(1171)権大納言に復し、治承元年(1177)正二位内大臣左近衛大将。小松第にいたので「小松内府」と呼ばれた。鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀事件(1177)で後白河法皇(1127〜92・天皇在位1155〜58・69年以降法皇)を幽閉しようとする父をいさめて、法皇の罪を不問とした。同3年(1179)病のため職を辞し入道(出家)した。「平家物語」には、道理をわきまえた人物として描かれている。


(注)磐田市内に見る、重盛創建といわれる三ヶ寺(「遠州の三連寺」)  

  平重盛が父清盛(1138〜79)の専制に不満をもつ人々の報復を恐れて諸国に三ヶ寺を建てて冥福を祈ったといわれる。


                この文章、日本語、おかしいですね。
                重盛は清盛より先に亡くなっていますから。


 @三白山連城寺
   ◎清盛(1118〜81)・重盛(1138〜79)の位牌と供養塔
    ☆位牌名
      祖父太政大臣 平朝臣清盛公   城海大居士
                            両台霊
      小松内大臣     重盛公   城連大居士
    ☆供養塔
      秋葉山古墳の中腹
   ◎寺宝
     「三角縁四神四獣鏡」(県指定文化財)
    直径22cm、青銅製、「経塚古墳」より発見。
   ◎連城寺古墳群…連城寺の裏山(国指定)
    「秋葉山古墳」(円墳)・稲荷山古墳(前方後円墳)・経塚古墳(前方後円墳)


   ◎大草太郎左衛門の墓…裏山墓地

    家康の小姓であった大草太郎左衛門が新貝村の豪族・水田三郎二郎の婿養子(家康の命)になり、代々大草太郎左衛門を襲名した。新貝村在陣中の大草氏は、代々中泉代官を勤めたが、土地の開墾・農業用水・灌漑施設・橋梁の架設等に尽力し、特に農業開発に功績があったという。 また、神社仏閣の再興、特に私財を投じて貧民救済に当たった。新貝村の邸は明和年間(1764〜71)に廃し、中泉陣屋に移った。太田川沿いの新貝小字駒洗に大草代官屋敷跡がある。
 



 A龍池山連福寺
   ◎平重盛の供養塔
   ◎連福寺古墳
    径50m以上の円墳か全長50m以上の前方後円墳?
    「三角縁三神五獣鏡」出土。
   ◎閻魔堂
    「木造閻魔大王坐像」(指定文化財)鎌倉末期〜室町初期の作。高さ180cm。閻魔堂の扁額は山岡鉄舟(1836〜88)の書。B瑞嶽山蓮覚寺




 B瑞嶽山蓮覚寺
    安元元年(1175)平の重盛(1138〜79)が遠江国守として見付国府在任中に開いた遠州三連寺の一つとして創建したと伝えられる。創建時は、真言宗で現在地より東500mにあったが、南北朝時代(1332〜91)臨済宗に、天正十三年(1585)曹洞宗に改宗し、天龍村の郷士門奈美作守左衛門が経営する聖寿寺の末寺となった。元禄十三年(1700)雷のため焼失し、現在地に移転した。
   現在の本堂は、文化十三年(1816)、表門は掛塚住人大工小栗博吉により、天保十三年(1842)に建立され、安政の大地震(1854)で倒壊したため、そのまま引き起こし、参道が変わったため、明治十年(1878)現在地に移転した。
   山門の様式は「薬医門」で町内最大最古の山門である。

[69]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月16日 09時13分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスの<asal.net/siseki-meguri>の情報に誤り(たぶん文字の誤認)があ
りますので指摘させていただきます。
 このサイトによると、大草太郎左衛門は「水田二郎三郎」の「婿養子」と
ありますが、磐田市の発行する『中泉代官』によれば、「水田」は「永田」
の間違え、「婿養子」は「娘婿」の間違いで、永田政吉に男子がなかったの
で、三河以来家康に仕えていた大草次郎右衛門義正の長男政次を娘婿に迎え
た。家康の御前へ御召の都度、大草大草と呼ばれるところから、家康の命に
よって家号を大草に改めたということです。
 なお、永田については元々は長田で、その先祖長田喜八郎広正は、初め三河
国大浜に住んでいたが、のち遠江国山名郡新貝村(現磐田市新貝)に移り、長田
を永田と改めたということであります。

 実は、連城寺の墓地の最上段の一角に大草家の墓碑群がありますが、その
下には永田家の墓が16基、永井家の墓が2基ありました。今回1基ごとに
写真に収め、家紋を分析しました―
 @丸に桔梗   7基
 A丸に蔦    3基
 B丸に木瓜   1基
 C丸に抱き茗荷 1基
 D丸に立ち沢瀉 1基
 E丸に違い鷹の羽1基
 Fなし・読取不可2基
 G丸に隅立て井筒2基・・・これは永井家

 家紋については「一種類に固まる場合」と、「多種にばらける場合」が見
られます。これは過去の経験で言えることですが、この家系はこの家紋だろ
うと思って行ってみると、意外や期待を裏切られる場合がよくありました。
 永田家の場合、多種にばらけるケースであります。

 さて、永田氏に関連しますが、磐田図書館で見つけた『坂本神社の話』
(永田数馬著)という本ですが、この連城寺の真北約4キロ程のところに、
「坂本神社」というお宮がございます。本によると―
 「坂本神社、即ち明治維新前の山王権現社の、この社の神官の永田平兵衛
 家は、数百年の昔よりして、代々永田平兵衛数馬を世襲して名乗り、神官
 を務めて、この地の地頭であり、大庄屋であり、勢力の強い郷士であった。
  その初めは、順徳天皇(1212〜1225)の頃の関東の執権、正四位大膳太夫
 因幡守大江広元の後胤で、長田庄司大江直衡の長子、永田左近太夫平兵衛
 数馬が、この地の地頭として赴任し、篠原の地に定住してから始る。
  その頃の家名を、伊右衛門太夫というのであったと。又、永禄元亀年間
 の戦いでは、戦功をたたえられて、賞詞や朱符田を貰うのだった。
  今の坂本神社宮司、坂本数馬は、三十七代目であって、坂本数馬は符八
 幡宮の宮司も兼ねている。」

 さて、ここに永井直勝のエピソードがからんで来る―
 「永井直勝は文禄三年(1594)、神官長井直勝、従五位右近太夫に叙される。
 家康の御小姓になった人で、幼名を伝八郎と言った。
  ある夜、霊夢を見る。遠州の坂本山山王権現に祈願せよと。そこで伝八郎
 は、八・八・六十四日の祈願を始めた。〜省略〜
  やがて、家康の奥小姓に用いられ、永井家の第十三世を継ぎ、従五位右近
 太夫将監として、幕府の重要な役についた。」
ということであります。
 永田家がここに移住してきて、神主をはじめ庄屋等務め、やがて代官を
輩出するようになった。また永井直勝は一門衆の神社に参拝・祈願したという
ことか・・・。
 永田・永井は神職、一宮系鈴木も神職、柏紋を使っている。
 
 ここで区切りにします。
[70]ともさんからのコメント(2015年08月16日 12時10分15秒 ) パスワード


こんにちは。

横レスです。


書籍名  伊岐遠江守と私の間−秀秋知行状から四百年の謎 著者名  

秋山 哲 著者紹介 同志社大学卒。毎日新聞社常務取締役、奈良産業大学経済学部教授などを歴任。
発行社   総頁数  164 定価・頒価   発行日  平成19年03月31日 2007

はじめに 伝来する「知行方目録」

〔T〕常山城主・伊岐遠江守
 1:瀬戸内海の司令塔を預かる
 2:児島湾岸に展開する領地

〔U〕小早川秀秋の家臣として
 1:「壱岐家文書」の発見
 2:筑前で秀秋に仕える
 3:備前で藩主側近から家老へ

〔V〕伊岐流槍術を創業
 1:『甲子夜話』の伝える伊岐流
 2:柳生第一の門弟
 3:黒田藩に伝わった伊岐流
 4:今に残る秘伝書

〔W〕出自は河野水軍か
 1:遠祖と見られる萱岐守通遠
 2:遠江守の妻は春日局の妹

〔X〕和歌山藩に仕官した壱岐家
 1:見つかった和歌山の「系譜」
 2:藩士から町医者に
 3:浮かび上がってくる不思議と謎
 4:立啓から尚庵へ

〔Y〕吉川姓を名乗るまで
 1:亀山城主・湯川氏が家系に登場・
 2:「吉川村の医者」と呼ばれて・
 3:壱岐家を離れる

〔Z〕包丸の時代
 1:零落した吉川家
 2:名町長となるまで

〔[〕吉川の子孫たち
 1:活躍した三兄弟
 2:伊岐家再興という計画

あとがき 「小さな穎脱」の四百年
巻末資料
参考文献一覧

こんな本もあるようです。

伊岐遠江守のご子孫は立派な方が多いでようです。

>遠江守の妻は春日局(お福)の妹

あれっと思いWeb調査しましたが、お福さまに
ヒットするような妹はいませんでした。



[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月16日 13時09分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


訂正をありがとうございました。
「水田」ではなかったのですか。


永田家は家紋がいろいろあるんですねえ。
これまた不思議ですね。
でもそれだけ裾野が広いということで繁栄したということなんでしょうね。



それで自分なりに大草太郎左衛門を調べていたら  中之条代官 蓑笠之助 に至りました。   ビックリ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E6%9D%A1%E9%99%A3%E5%B1%8B


中之条代官
15 蓑笠之助 天保3年(1832年) 〜 天保5年(1834年)   ←  蓑笠之助 = 服部正尚 とインプットされてましたからビックリ

            結論は服部正尚の子孫で
            大久保長安事件に連座して・・・
            というのを下の方にコピペしました。

            「源姓」にしてます。これまたビックリ
                後醍醐源氏ということなのか?謎


中之条陣屋(なかのじょうじんや)は長野県坂城町にあった天領代官所(代官陣屋)のひとつ。建物は現存しない。前身は坂木陣屋(さかきじんや)。

元和8年(1622年):松代藩主酒井忠勝の転封により天領となり、坂木に陣屋を置く。
寛永元年(1624年):越後高田藩領となる。
天和元年(1681年):松平光長改易に伴い、松代藩預かりとなる。
天和2年(1682年):坂木藩立藩。
元禄15年(1702年):坂木藩廃藩により、再び天領となる。
宝暦9年(1759年):坂木陣屋廃止。中野陣屋他の出張陣屋となる。
明和4年(1767年):坂木陣屋が火災で焼失。
安永7年(1778年):中之条に陣屋を置く。


http://shinshu.fm/MHz/90.97/archives/0000311682.html

画像の灯篭には「蓑笠之助 源正路」と陰刻されています。

「みのかさのすけ」、「♪天気も良いのに みのかさ つけて・・・」
山田の案山子の名前ではありません。
この灯篭は天保2年から4年間、ここ御影陣屋の代官だった蓑笠之助が、この地を去る際に寄進したものです。


さらに調べました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E6%AD%A3%E9%AB%98

蓑 正高(みの まさたか、貞享4年(1687年) - 明和8年8月7日(1771年9月15日))

江戸時代の猿楽師。
後に抜擢され江戸幕府の幕臣となり、関東の農政に携わる。
通称は庄次郎。
妻は田中休愚(田中喜古)の娘。

天正の頃より蓑家の者は「蓑笠之助」を名乗っていた[1]。


蓑笠之助[編集]

蓑家の祖先は、元は徳川家康の天正の伊賀越えを助けた服部氏で、
その時の働きを賞されて「蓑 笠之助」の名を授かったと家伝にある[1]。

伊賀者であった服部正尚が家康を自分の蓑や笠で変装させ無事帰国させたという[2]。

しかし、慶長18年(1613年)、4代目・笠之助正長の時、大久保長安の罪に連座させられ、一時士籍から離れる[18]。

赦免後は大和猿楽四座の宝生座に入れられて無役となり、
名は「蓑」を「巳野」と改め、「笠之助」は使わず謹慎の意を表した[2]。

以後は猿楽師となり、3代目[19]の正高の代までそれが続く[1]。

正高が幕臣となった際に「巳野」を「蓑」に戻す[1]。


脚注]
1. 『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 379頁   ネットでは出なかったです。残念!




また 「大草家のおしゃべり掲示板」 によりますと小日向服部坂(服部貞信の子孫の住んでた)近くに大草氏が住んでたようです。

http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=okusa3&dd=17&p=7

    May 9, 2013 - 10 posts - ‎2 authors
    例の大草兼利は兼時の3代後に位置づけられており、大草氏・益田氏(藤原 ....
    特に小日向服部坂に江戸時代に旗本大草氏が在住していたことをご存じで ...

    しかしこの記事は削除されたのか見つかりませんでした。



お盆ですね。
皆さんが出て来てくださったのでしょうか?

[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月16日 13時33分54秒 ) パスワード

蓑笠之助のコピペ   続き


脚注[編集]
1.^ a b c d e f g h i 『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 379頁           ココ
2.^ a b c d e f g 富士山噴火災害文献調査報告書東京大学社会情報研究所廣井研究室、2003/11/14
3.^ 関東の新田開発や治水などの農政を掌る役職。

4.^ a b c 『撰要類集』。
5.^ 大岡越前守と武蔵野新田の開発真下祥幸、江戸東京博物館友の会会報『えど友』第84号 平成27年3月

6.^ 田中休愚は享保15年(1730年)に病没。
7.^ 翌年の暮から5年間で返済するという条件での拝借となっている。
8.^ 普請工事の終了後、東岸は小田原藩領となったが、治水が不十分なため流域の住民たちが支配替えを願い、享保17年4月に東岸地域も幕府領となった。

9.^ 困窮民に扶持米を支給するための普請事業。
10.^ 小松郁夫「酒匂川治水の地方巧者蓑笠之助と大岡越前守」、中根賢「町奉行大岡忠相の小田原領支配―享保十〜十七年の酒匂川治水を中心に―」、同「町奉行大岡忠相の地方御用とその特質―享保十七〜延享五年の酒匂川治水を中心に―」、『開成町史・通史編』、『神奈川県史・通史編3・近世2』。
                                   ココも



11.^ 追加された支配地は小宮領・三田領・府中三町・玉川通・新座郡・入間郡の土地の中から割り当てられた。
12.^ 『徳川実紀』。

13.^ 正高とともに酒匂川普請を行った伊沢為永の子。

                         佐屋ってことは服部家ホンヤさんの家も絡むのかも
14.^ 『蓑笠之助家系由緒之事』(佐屋町史編集委員会編集『佐屋町史』史料編二、愛知県佐屋町史編纂委員会発行、1980年)


15.^ a b c 『大岡越前守忠相日記』(大岡家文書刊行会編)。
16.^ 正高とこの時ともに御目見えをした田中善乗は、まだ御家人身分だったため、対面形式の謁見ではなく、将軍が奥へ入御する際に白書院勝手に平伏したままの通御(つうぎょ)の御目見えであった。

17.^ 『新編相模国風土記稿』第5巻。
                                ココからも
18.^ 『蓑笠之助家系由緒之事』311頁。
19.^ 猿楽師・蓑笠之助の3代目。

参考文献[編集]
『大岡越前守忠相』 大石慎三郎著 岩波新書
『大岡忠相』 大石学著 吉川弘文館 ISBN 4-642-05238-0
『吉宗と享保の改革』 大石学著 東京堂出版 ISBN 4-490-20427-2
『享保改革の地域政策』 大石学著 吉川弘文館 ISBN 4-642-03329-7
『代官の日常生活 江戸の中間管理職』 西沢淳男著 講談社選書メチエ ISBN 4-06-258314-3
『綱吉と吉宗』 深井雅海著 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-06431-6
『神奈川県の歴史』 山川出版社 ISBN 4-634-32140-8
『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 株式会社続群書類従完成会
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月16日 13時34分33秒 ) パスワード

書き直し


Title 寛政重修諸家譜
Author 堀田正敦      
Publisher 榮進舍出版部, 1917
Original from Keio University
Digitized Aug 4, 2009
Length 1062 pages


この著者は佐倉家がらみの方かしら?

千葉の佐倉家から  ホンヤさんのお話では、  ごく最近は尾張徳川家に養子に入ってます


ホンヤさん宅に挨拶に来た時に  尾張徳川家は1代おきに養子を迎える  とお話しになって行ったそうです。
例え3代目に男子が生まれても。



寛政重修諸家譜 18 蓑笠之助


Page 60
天和二年十二月十八日家を糠・三年闇五月二十一日御小性組の番士となり、元祓九年
十二月二十二日としごろcc精勤を賞せられて黄金二枚を賜ふ。十四年八月六日常番の
日 ... 年三・几八日西城に復す。妻は蓑笠三助正寅が女、後妻は杉 m 藤藏武明が女。






三つ巴

堀田氏(ほったし)は、日本の氏族。      下の方で「秦氏」も絡んでます。笑



出自[編集]   堀田さんは南朝方です。ワタクシ的には尾張中島郡堀田村出身に決まってるでしょ、です。笑

堀田氏は、尾張中島郡堀田村に興った土豪としている本も多いが、近畿地方にも室町時代以前に遡れる堀田氏が多いことから、疑問視されている。

家紋学や地理的見地からすれば、堀田氏は祇園八坂神社社家(紀姓堀田氏)の流れ、つまり八坂氏と見るべきである。京に残った系統と同社家分流の尾張国津島神社社家の二つの流れがあり、後者の系譜が尾張系である。この尾張系は、八坂氏直系の子孫たる祇園執行・八坂(堀田)俊全の子である、尾張津島天王祠官・堀田俊重の系統である。その津島神社に残る神官の堀田氏系図こそが、本来の彼らの出自を示していると思われる。

前述の土豪の一族も津島神社系堀田氏の分家である可能性が高い。

                 ですよ!
                 どっちにしろ津島神社がらみですよ、南朝方なんだから。


八坂神社と津島神社は同じ牛頭天王社であることから八坂神社社家から津島神社社家が生まれたのは自然である。そのため、堀田家の家紋は、八坂神社の紋である三つ巴か木瓜[1](津島神社の紋は八坂神社由来の木瓜 [2][3])のいずれかである場合が殆どである。木瓜紋は、堀田木瓜や織田木瓜などに派生しており、織田氏はその氏神を祀る津島神社の木瓜をそのまま使い、尾張系の堀田氏は堀田木瓜を使う場合が多い。京の系統は三つ巴の方が多いが、堀田氏の大半は尾張系であり、堀田木瓜を使う場合が多い。

この津島神社社家に由来する堀田氏のうち、南北朝期に活動した堀田正泰の子孫の一部が武士化して津島を基盤に発展。仕えた織田氏、豊臣氏の全国制覇とともに歴史の表舞台に登場していった。これが近世大名の堀田氏である。家紋は堀田木瓜である。また、津島神社社家を代々務めた堀田氏は「右馬太夫家」といわれ、武士化した一族とは別に津島で発展した。また、この系統から派生した「番頭太夫家」は近世に商家として発展した。

堀田正泰系の堀田氏は「寛政重修諸家譜」において自らの出自を紀長谷雄の子孫とし、浦上氏・安富氏の本家筋にあたるとしている。但し、これは室町時代に武家の名門として中央で活躍し、同じ紀姓を名乗っていた両家の威光を利用し自らの出自を粉飾したものであるという説もある。この系譜は確かに疑わしいものの、前述のように堀田氏の祖を八坂神社の社家に求めるならば、紀長谷雄の血が入っている可能性は高い。紀長谷雄の曾孫忠方の娘の血が八坂神社・津島神社の社家に入っているからである。[4][5]


                      以下に「秦氏」がらみのお話

なお、八坂氏の流れが堀田氏を名乗った理由であるが、八坂神社は秦氏の祇園信仰を推進するために建立されたとする説もあり、音の類似からも、秦氏と何らかの深い関係があったと考えられている。八坂神社と秦氏の関連性には荒唐無稽な説も存在するが、客観的見地からしても強い関連性がある。平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)は、都が平安京に移って早々広峰神社から勧請されたものであり、祭神の牛頭天王(素戔嗚尊)が分祠されたとされている(つまり、広峰神社は祇園社の元宮)。[6]広峰の地である播州平野はもともと秦氏が開いた野であり、すなわち本貫地であり、広峰の祭神は秦氏が祀っていた韓神(からかみ)である。その韓神の日本における神名が素戔嗚尊(及び同一視される牛頭天王)になっている。当然、広峰神社の紋は八坂神社や津島神社と同じ木瓜紋である。また、八坂神社のもう一つの紋である三つ巴は、同じく秦氏と関連性の強い八幡神社と同じ紋である。そもそも八坂神社の方でも、八坂氏は同族の他の系統と区別するために八坂と名乗っていたが、それは氏でなく家の名前であって、実際は一族としては秦と名乗っていた可能性がある(藤原氏の中で家名が多くあったのと同じ)。


戦国時代[編集]

江戸時代以前においては、斎藤氏、ついで織田氏、豊臣氏に仕えた堀田盛重が著名である。もともと豊臣恩顧の一族であったが、堀田氏のうち堀田正吉が関ヶ原の戦い以後に徳川氏に仕えたといわれる。



江戸時代[編集]      春日局との関係

正吉の子の堀田正盛は母が稲葉正成の先妻との間の子であった縁で、正成の後妻・春日局の支援をうけ、3代将軍徳川家光に近侍し重用された。若年寄・老中も歴任し、寛永19年(1642年)、下総佐倉藩11万石の大名になった。跡を嗣いだ正盛の長男・堀田正信は不祥事から佐倉藩を改易されてしまう(松平信綱と対立したためとも、佐倉惣五郎事件の責任を問われたとも言われるが詳細不明)。しかし正盛の功績により正信の長男・正休はお家再興を許され、この系統は上野吉井藩、後に近江宮川藩主となった。

正盛の3男の堀田正俊は春日局の養子となり、5代将軍徳川綱吉の時代に大老まで上り詰め、その子孫も譜代大名として幕府の要職を占めて佐倉藩に戻ったため、こちらの系統が本家と見なされるようになった。幕末の老中堀田正睦は諸外国の交渉に奔走、息子で最後の佐倉藩主堀田正倫は譜代大名大藩であったこともあり、江戸幕府を擁護して改易の危機にたたされたが、家臣の奔走により免れることができた。そして明治維新を迎えた。


明治時代以降[編集]

明治17年(1884年)、最後の宮川藩主であった堀田正養は子爵に、佐倉藩主であった正倫は伯爵となり華族に列した。しかし正倫は後継者となる男子に恵まれなかったため鍋島直柔の息子・正恒を婿養子として迎えた。その後の昭和2年(1927年)の大恐慌は堀田家をも襲い、財産を失って貧窮の極みであったという。

このことが後に政商・小佐野賢治が正恒の娘・英子を妻とするきっかけにもなったといわれる。

                 ロッキード事件のね。             


戦後、正恒の長男・堀田正久は昭和34年(1959年)に佐倉市長に当選、昭和50年(1975年)まで4期に亘って務め、佐倉市の開発に貢献、彦根市長となった井伊直愛とともに「殿様市長」といわれた。

また、福島正則に仕え尾張に残った一族は、後に津島に帰郷し、更に酒造業を営んで財をなした。その邸宅は「堀田家住宅」として国の重要文化財に指定されている。その他、正則に仕えて安芸に赴き、正則の改易時も同地に残った堀田家もある。同家は、福島の重臣小河安良(若狭守)の遺骨を同地の本照寺[7]に埋葬し、長年同寺総代を務めていた。明治期に武道具商に転身し、原爆投下時まで同業を営んでいた。

京都系では、元検察官の堀田力等が有名。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月16日 13時41分08秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101481.html

スレッド48を立てました。
切りの良いところで移動なさってくださいね。
[77]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月16日 23時34分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 これより移動します。
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