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 投稿番号:101473 投稿日:2015年07月15日 09時40分00秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XLY(M氏家譜10+市野氏解明済?)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101468_71.html
長上郡の服部氏族XLX(M氏家譜9+市野氏解明済?)スレッド45の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月19日 22時14分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉についてはいつか取り組みたいテーマであります。俳聖と呼ばれ、近づ
き難い存在ですが、服部党と同じく伊賀に根ざしておりますので、何かアプロ
ーチの方法はあると思っています。
 嵐牛蔵美術館にも芭蕉にからむ資料が多々ありますので、それらの中にも何
かヒントは出て来るものと確信しております。
 昨年、特別展を開いたそうですが、テーマは「ふるさとの俳人 嵐牛とその
仲間たち ―芭蕉から十湖まで―」であったということで、正に私が挑みたい
芭蕉と十湖の関係でありました。
 と申しましても、ただ今の知識で挑むのは失礼になりますので、あせらず、
じっくり知識を蓄積したいと思います。『奥の細道』も最低一回は通読しなけ
ればいけない。伊賀の生地にも行ってみなければいけないと思っております。
 今後、新たなる発見に出会いましたら報告させていただきます。

 明日は暑い中、早朝より一日芝刈りです。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月20日 02時42分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


>昨年、特別展を開いたそうですが、
>テーマは「ふるさとの俳人 嵐牛とその仲間たち ―芭蕉から十湖まで―」であったということで、
>正に私が挑みたい芭蕉と十湖の関係でありました。

惜しかったですね。


伊藤嵐牛
「伊藤」という姓から「服部」との関係が浮かび上がりますね。

遠江の伊藤さんが平家がらみ・南朝がらみだと伊藤・服部の線が確信できますね。
当然  芭蕉  との関係も!


ぼちぼち頑張りましょう!





[3]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月21日 00時38分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、梅雨があけました。太陽の光がシャツを素通りして肌に突き刺ささ
るようでした。スコアはままならず、暑さも手伝って疲れだけが残った一日
でした。

 さて、このところのレスの推移の中で、未掲載の事項を拾って記します。

 @遠州の俵藤太とは、『撃剣叢談(げっけんそうだん)』という本の中で、
 上泉伊勢守秀綱の先祖として示されているといいます。

 A島左近の子孫が二俣にいるということで、それを題材にして隆慶一郎は
 『影武者徳川家康』を書いたといいます。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月21日 12時29分04秒 ) パスワード

三つ柏さんへ


夏生まれなんですか?
夏の子は灼熱の太陽の下でも元気だそうですが
熱中症にはくれぐれもお気をつけくださいね。

芝刈りってそっちの草刈りでしたか。



>遠州の俵藤太とは、『撃剣叢談(げっけんそうだん)』という本の中で、
>上泉伊勢守秀綱の先祖として示されているといいます。

http://www.eonet.ne.jp/~tailon/kengou/kamiizumi-isenokami.htm

新陰流兵法流祖、氏隆(小笠原)流軍学伝承者、大胡城主、永正五年(1508)?上野国桂萱郷上泉(前橋市上泉)の産幼名秀長、のち秀綱、永禄八.九年(1565,6)ごろ信綱、通称伊勢守、永禄のころ上京して武蔵守。

父武蔵守秀綱(憲綱、義秀とも)の没後、大胡城主となる。天文24年(1555)北条氏康に攻められ、開城降伏。

のち長尾景虎(上杉謙信)に協力して大胡城を奪回、箕輪城主長野信濃守業正の麾下となって戦功があり、長野十六人槍に数えられ、さらに上野一本槍の感状を受けた。

業正の死後、嫡子右京進業盛が城主となった永禄六年、武田晴信(信玄)のため箕輪落城、秀綱は箕輪城士200人とともに武田軍に編入されたが、新陰流兵法並氏隆流軍学の修行弘流の希望を述べ、武田家を辞した(「甲陽軍艦」)。時に秀綱56歳。



秀綱は兵法を松本備前守政元または塚原ト伝高幹に、それぞれに新道流・新当流など香取・鹿島系の兵法を学んだとも、念阿弥慈恩にはじまる念流を学んだとも伝えられているが、その流名新陰流でも察せられるように、愛洲移香斎久忠にはじまる陰流を中心に諸流を勘案して新流を立てたようだ。

陰流を誰から学んだかについては、享禄二年(1529)秀綱二十二歳のとき、七十八歳の移香斎から陰流の皆伝されたという説(「正伝新陰流」)と、陰流二代の小七郎から学びはしたが、それはヒントを得たにすぎず、松本備前守正元の新道流を主流としたもの、とする説(「上毛剣客史」) がある。もし伝書史料によって判断するならば、「正伝新陰流」の説をとらざるをえない(「日本剣豪史」)。

信玄のもとを辞した秀綱は数人の門弟とともに京洛をめざし、途中伊勢の国司北畠具教を診い、南部(奈良)に入り宝蔵院道場で覚禅房胤栄と柳生新左衛門宗厳に会う。秀綱五十六歳、胤栄四十三歳、宗厳三十五歳、数日滞在し、乞われて柳生家の客となる。

永禄七年の二月に嫡子常陸介秀胤が下総の鴻の台で討死する。

その後、入京した秀綱は、将軍足利義輝に会い兵法の問いに答え、小笠原氏隆伝兵学を話、新陰流兵法を披露した。そして、京都を中心とした彼の道場は元亀二年(1571)まで、六年間続く。その間に、再度柳生を訪ね 宗厳、胤栄、丸目蔵人佐長慶にそれぞれ新陰流の印可を与えている。彼の新陰流は、 柳生石舟斎宗厳、丸目蔵人佐長慶、 奥山休賀斎公重等により発展する




上泉伊勢守秀綱の系統
 


  疋田文五郎(疋田陰流)

     山田浮月斎   戸田清玄(戸田流)

  神後伊豆(神宮流)

  奥山休賀斎(奥山流、家康の師)

     小笠原長治(真新陰流、新陰三代目) 針ヶ谷五郎右衛門夕雲(夕雲流・無住心剣流・破想流)

     小田切一雲純


  丸目蔵人(タイ捨流)

     柳生宗厳(柳生新陰流) 阿部頼任(剣道) 浅山一伝(浅山流) 

     伊藤不伝(不伝流) 柳生宗矩(柳生流)

  松田織部之助(松田新陰流)
  那河弥左衛門 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月21日 12時34分01秒 ) パスワード

群馬の松嶋氏もからむのかもですね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%83%A1%E5%9F%8E

大胡城(おおごじょう)は、群馬県前橋市河原浜町にあった中世の日本の城(平山城跡)で、大胡氏・上泉氏の居城であった。後に近世初頭に徳川氏の臣・牧野氏が入り城主になった。

天文年間(1532年 - 1555年)に築城されたとされ、元和2年(1616年)廃城となった。


大胡城は大胡氏の居城であった。
大胡氏は藤原秀郷の子孫であり、                        ココ
東毛地方で勢力を扶植していた豪族であった。



「吾妻鏡」の建久元年(1190年)の記事には大胡太郎の名前が見えるので、鎌倉時代の初期にはすでにこの地域の有力な支配者であったと思われる。しかしこの頃の大胡氏の居館は、現在の大胡城ではなく、城の西300mほどの所にある養林寺の辺りであったのではないかと推定されている。また、現存の城趾には近世大名牧野氏の城主時代の縄張りや構造が認められる。


歴史・沿革[編集]

古河公方・横瀬氏との戦い[編集]

南北朝時代、観応の擾乱に際して大胡氏は山上氏らと共に足利尊氏に与し、足利直義方の桃井直常、長尾景忠と笠懸野で戦って敗れたが、やがて尊氏は勢力を回復し直義を自害に追い込んだ。

その後しばらく大胡氏の動静はつかめないが、享徳の乱のさなかに古河公方足利成氏は配下の岩松持国に赤堀・大胡・深津氏を攻撃させているので、この大乱において大胡氏は上杉方に加担していたものと思われる。また、文明元年(1469年)に川越城で行われた太田資清主催の連歌会に大胡城主とみられる大胡修茂の名が見えている。

子孫の牛込氏の伝えによれば、天文10年(1541年)、新田金山城の横瀬氏(由良氏)の勢力が強大となってきて、圧迫されるようになったため、大胡氏は当地域をすてて江戸に赴き、牛込城に移ったといわれる。少なくとも永禄2年(1559年)以前には江戸へ出ており、既に後北条氏配下にあった(『大胡町誌』)[1]。

越後上杉氏の越山[編集]

しかし大胡氏の一族はなお当地方に残っていた模様で、永禄年間、上杉謙信に従う者を書き連ねた「関東幕注文」には大胡氏の名前が見える。しかし大胡氏に大胡城を維持するだけの実力はなく、新田金山城主横瀬国繁方となった大胡城には、配下の益田氏(大胡氏と同じ秀郷系藤原氏と伝)が居城したという。益田氏系図略記および益田氏菩提寺の縁起(『大胡町誌』収録)によれば、益田行綱が大胡城を築城し、行茂(嘉吉元年戦死)、修茂(享徳年間に横瀬国繁に属す)と続いたが、4代目の茂政のとき大胡城が落城し新田へ移住、横瀬景繁の娘を娶り続いたとある。大胡一族の上泉氏の家伝や上泉氏子孫の上泉信綱関連の書物によれば、信綱や上泉氏一族などが城主だったともいわれる。

その後、上杉、北条の抗争の中で、大胡城も転変にさらされていく。横瀬成繁が北条方に寝返ると、上杉謙信は大胡城を攻め落とし、配下の北条高広を城主として入れた。しかしこの北条高広も後には謙信を裏切ってしまう。後に越・相同盟が成立すると、北条高広は謙信に許され、厩橋城(前橋城)に復帰した。高広は前橋城を子の景広に譲り、自身は大胡城に隠居したと言われている。

御館の乱と本能寺の変[編集]

天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、その跡目を争って長尾氏系の景勝と、北条氏政の実子で謙信の養子になっていた景虎とが抗争を繰り広げた(御館の乱)。この戦いで後北条氏と親しい高広は、景虎を支援した。しかし結果は景虎の敗北となり、厩橋城主の景広は越後で戦死、天正7年(1579年)2月、北条高広は内藤昌月らを通して武田勝頼に従属した。この時、厩橋城には北条高広、大胡城には大胡高繁が入った(大胡高繁は北条高広の親族と思われる)。

しかし、天正10年(1582年)、その武田氏も織田信長に攻められて滅亡、その後信長の家臣滝川一益が上野一国を与えられて厩橋城(前橋城)に入りこの地方を支配したが、本能寺の変で信長が殺害されると織田氏の勢力も一掃された。神流川の戦いで北条氏直に敗れ滝川一益が上野を去った後、天正11年(1583年)9月、沼田城の真田昌幸と連携し独立を保っていた北条高広の厩橋城が北条氏邦に落とされ、この地方は厩橋城に入った氏邦の支配下に置かれることとなる。

牧野氏の入城とその後[編集]

その後、関東地方で最大勢力を誇った後北条氏も天正18年(1590年)、小田原征伐で没落、大胡高繁の所領も没収され、戦後は徳川家康が関八州の支配者となった。大胡城には徳川氏家臣の牧野康成が2万石で大胡城に入城した。しかし、入城後約25年の元和2年(1616年)、牧野氏は越後長峰に5万石で転封され、大胡領は前橋城主酒井氏の管轄となり、それにより上部構造物が撤去されて大胡城は廃城となった。

[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月21日 12時57分45秒 ) パスワード

おやおやビックリ!

藤原秀郷の子孫の足利氏の名が出てきましたよ。それも源氏方で。
この藤原姓足利氏は大胡氏として源氏方。


藤原秀郷の子孫で足利を名乗る平家方の足利さんもいるからややこしいですね。
こちらの方が正嫡の藤姓足利氏でしょうね。


ますます松嶋氏の謎が深まりました。群馬の松嶋氏と長野の松嶋氏は関係が無かったように思いますが、あったのかなとも思い始めました。




http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.ohgo.htm

 藤原秀郷の子孫足利成行の子重俊が大胡太郎を名乗り、大胡に住した。
現在の大胡城址に平安末期の武士が城館を構えていたとは考えにくく、
重俊の居館は周辺の山麓にあったものと考えられる。

城址西麓の養林寺には二重の堀跡が残り、
ここを重俊の居館跡とみる説も有力である。
しかし、二重堀は明らかに後世のものであり、重俊の館跡とする確証とはいえない。

 「大胡太郎」は、『平家物語』において治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に呼応した関東武士の1人として登場している。
『吾妻鏡』の建久三年(1190)の記事にも大胡太郎の名がみられ、これが確実な史料に現れる大胡氏の初出とされる。


観応元/正平五年(1350)、足利尊氏方の大嶋義政が大胡氏、山上氏らとともに、笠懸野で足利直義方の桃井直常・長尾景忠らと戦い、敗れている。

この後、大胡氏の消息は一時絶え、南北朝期を経て没落したものと推測されている。

大胡城は金山城主横瀬国繁に攻め落とされたとする伝承があり、これが正しければ、遅くとも15世紀中ごろまでには、現在の城域に城が築かれていたものと考えられる。国繁は、家臣増田氏(益田氏とも)を城代に派遣したとされる。増田氏は大胡氏と同じ秀郷流を称しており、あるいは大胡氏一族とも推測されるが、詳細は不明である。益田(増田)家に伝わる系図には、益田行綱が大胡城を築き、その孫の修茂は享徳年間(1452〜54)に城主を務め、修茂の子茂政の代に、那波氏に敗れて新田へ落ちたとされる。他方、文明元年(1469)に川越城で開催された連歌会に、大胡修茂なる人物が参加していたとされる。大胡城主増田(益田)修茂が、大胡氏を継いだと考えることに一応の整合性は担保できるが、確証はない。
      
     天文年間(1532〜54)に、重俊から数えて10代目と称する大胡宮内少輔重行が、後北条氏を頼って武蔵国豊島郡へ移った。重行の子勝行は牛込城を築き、牛込氏を称した。ただし、重行の出自について、大胡氏の系譜上のどこに位置する人物であるかは不明である。


            !!!上泉城主上泉秀綱登場!!!

この頃の大胡城や大胡氏についてはかなりの混乱がみられる。重行の大胡落ちは厩橋城主厩橋長野氏の圧迫によるものとされ、その後長野氏の一族が大胡氏を称したとも伝わる。他方、大胡氏一族とされる上泉城主上泉秀綱が、大胡氏を称して大胡城に在ったとされる。

秀綱は、後に剣聖と謳われた伊勢守信綱のことであるが、その前半生についてははほとんど不明である。
   
おそらく、『言継卿記』などに「大胡武蔵守」として登場することからの推測と思われるが、「大胡」が単に姓を表したものであるとすれば、必ずしも秀綱が大胡城主であったとはいえない。また、永禄三年(1560)に長尾景虎(上杉謙信)が関東へ進出した際の『関東幕注文』には、秀郷流大胡氏の子孫とみられる大胡氏の名が記載されているが、大胡城主であったか否かは定かでない。


               由良氏登場

永禄九年(1566)、金山城主由良成繁(横瀬氏から改姓)が上杉から北条へ寝返ったため、謙信は由良氏方の大胡城を攻め落とした。このときの城代は増田繁政とされる。謙信は、城に北条高広を入れたが、高広も翌十年(1567)に北条氏に通じた。大胡城で戦闘があったのかは不明だが、高広はまもなく謙信に厩橋城を逐われている。同十二年(1569)に越相同盟が成立すると、高広は上杉家への帰参を許され、厩橋城主に復帰した。天正二年(1574)高広は家督を嫡子景広に譲り、自身は大胡城へ隠居した。また、天正に入り、上杉家臣として大胡常陸介高繁の名が現れる。高繁は毛利姓を称したことから、高広の一族と考えられているが、大胡城との関連は不明である。同七年(1579)の御館の乱に巻き込まれて景広が横死すると、高広は武田勝頼を頼った。このときに高繁が大胡城主となったともいわれるが、確証はない。

高広は、天正十年(1582)に武田氏が滅ぶと、代わって進出してきた織田家重臣滝川一益に従い、同年に本能寺の変が起こると上杉氏に属したが、北条氏直によって上野国を逐われた。

大胡城は由良氏に預けられ、由良家臣増田伊勢守が城代として派遣されたとされる。しかし、翌十一年(1583)に由良氏の城である金山城と館林城の借り受けを巡り後北条氏との間に騒動が起き、大胡城は北条氏の直轄とされ、山上郷右衛門顕将が城将となった。
           

天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅び、徳川家康が関東に入封すると、大胡城には牧野康成が2万石で入城した。元和二年(1616)、康成の子忠成は越後長峰5万石へ加増転封となった。ただし、大胡は牧野家領として残っていたようで、一説には忠成は長峰城と城下の建設を大胡にとどまって指揮していたといわれる。しかし、同四年(1618)に長峰城の完成を待たずに長岡へ加増転封となり、大胡は前橋藩領となった。藩主酒井氏は城代を派遣したが、主城域の建造物は撤去されたものとみられている。寛延二年(1749)、酒井忠恭が姫路へ転封となるに至って、大胡城は完全に廃城となった。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月21日 13時10分39秒 ) パスワード

藤姓足利氏の平家方  足利忠綱

平家の許しを得て東国に去ったという話を読んで来たように記憶しています。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%BF%A0%E7%B6%B1


足利 忠綱(あしかが ただつな)は、平安時代末期の武将。父は足利俊綱。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の嫡流。下野国足利荘(現栃木県足利市)を本拠とする。治承・寿永の乱において、平氏方について戦った猛将。




時代
平安時代末期

生誕
長寛2年(1164年)?

死没
不詳

改名
王法師(幼名)、忠綱

別名
又太郎

墓所
京都府宇治田原町          うっそぉ〜   どうして宇治田原が???

氏族
藤姓足利氏

父母
父:足利俊綱


藤姓足利氏は下野国足利荘を本拠として「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称されていた(『吾妻鏡』養和元年閏2月23日条、9月7日条)。

『吾妻鏡』によると治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において、小山氏が以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏が受けなかったことを恥辱として平氏方に加わったという。

忠綱は17歳であったというが一門を率いて上洛し、
平氏の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。
宇治川の戦いでは先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた。
                ↖          
                  平家の武門担当だった本姓藤原俗姓伊藤忠清の名が出てますね


忠綱は勧賞として俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを平清盛に願い出た。

しかし他の足利一門が勧賞を平等に配分するよう抗議したため撤回となった。

巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて嘲笑されたと伝えられる(『源平盛衰記』)。

藤姓足利氏は足利荘を本拠としながらも本来の地盤は上野であり、一門を束ねる権威として上野大介の地位を望んだと思われるが、この勧賞撤回騒動は藤姓足利一門の内部分裂の萌芽といえる。

忠綱は恩賞の不満からか東国に戻り、一時的に源頼朝に帰順していた形跡が見受けられる[1]。



その後、養和元年(1181年)になると現地で競合する足利義兼・新田義重が頼朝に帰順し、一門からは佐貫広綱が頼朝の御家人となり、佐位七郎弘助・那和太郎は木曾義仲に従って横田河原の戦いに参戦するなど結束が崩れ、藤姓足利氏を取り巻く情勢は厳しいものとなっていった。


寿永2年(1183年)2月、忠綱は常陸国の志田義広の蜂起に同意して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗北し、上野国山上郷龍奥に籠もった(『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条)。その後は郎党・桐生六郎のすすめに従い、山陰道を経て西海へ赴いたと『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条にあるが、その後の消息は不明である。9月、頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野国に下った(『吾妻鏡』養和元年9月7日条)。俊綱は追討軍が到着する前に家人であった桐生六郎に裏切られて殺害され、藤姓足利氏の宗家は滅亡した[2]。


『吾妻鏡』は、忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。なお、忠綱は平氏方として西海に赴いたとされるが、「頼朝に背いた先非を悔い」平氏方に加わるというのは腑に落ちない行為であり、汚名返上のために平氏追討軍に参加したとも考えられる。『吾妻鏡』文治元年(1185年)4月15日条は無断任官者を列記した周知の記事であるが、頼朝に「本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼の人かな」と罵倒されている兵衛尉忠綱は境遇が一致しており、足利忠綱の可能性もある。



史跡[編集]

足利市緑町の福厳寺は忠綱が開基となって父母の供養のため寿永2年に創建されたとされる。


脚注[編集]
1.^ 『玉葉』治承4年(1180年)9月11日条に「介の八郎広常、ならびに足利太郎〔故利綱の子と云々〕等も与力し」とあり、『源平盛衰記』では「足利又太郎」が大庭景親の子を斬首している。
2.^ なお俊綱の滅亡は志田義広の蜂起と同年に起こったとするのが一般的な解釈であるが、『玉葉』養和元年(1181年)8月12日条に俊綱謀反の記事があること、寿永元年(1182年)が『吾妻鏡』最終所見である和田義茂が、寿永2年(1183年)に追討軍を率いることは不自然であることから、義広蜂起と俊綱滅亡は別個の事件とする見解もある。



[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月21日 16時58分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 小堀遠州といえば、こちらでは引佐の龍潭寺の庭園が有名ですが、小堀氏
は「藤原秀郷」の流れという。父は「浅井氏」に仕え、正室として「藤堂高
虎」の養女をいただいている。子の一人に「多羅尾光忠」がいる。そして
「千利休」から茶の手ほどきを受けている。
 何やら秀郷の血脈というのは「裏世界」とつながるような気がします・・・?
 小堀遠州について掘り下げてみる必要がありそうです。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月21日 22時40分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


>小堀氏は「藤原秀郷」の流れという。
>父は「浅井氏」に仕え、正室として「藤堂高虎」の養女をいただいている。
>子の一人に「多羅尾光忠」がいる。
>そして「千利休」から茶の手ほどきを受けている。

アヤシイですね。


>何やら秀郷の血脈というのは「裏世界」とつながるような気がします・・・?

   大勢力ですからね
   我々のような者には理解するのに一筋縄にはいかないでしょうね。

   でも武士の間では先祖がらみで繋がっていたのかもですね。
   とはいえ関係は麻のようにグチャグチャだったでしょうね。



一体  松嶋氏とは?  
おそらく上野国の松嶋氏と信濃国の松嶋氏とは繋がっていたのでしょうね
でも武運拙く表舞台には立てなかった

なかなか繋がりが分かりませんね

でも   由良氏  とかチラチラ絡みますね。


[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月22日 22時47分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 また台風が近づいております。雨・風の影響がなければ、今週末、また
伊那地方へ松島氏の手がかりを探しに行ってまいります。
 行程としては―
 <飯田>
  @小笠原資料館
  A開善寺(小笠原氏菩提寺)
  B松尾城跡
 <上伊那・箕輪>
  @箕輪博物館
  A明音寺(松島氏菩提寺)
  B箕輪城跡・養泰寺(箕輪氏)
  C福与城跡(藤沢頼親、松嶋信久)
を予定しています。松島氏は資料が少ないので少しでも手がかりがほしい。

 さて、小堀遠州ですが、いろいろ裏世界とつながっている気配はするので
すが、そういった具体的な情報が全くない。今後調べて行くうちに、そんな
情報と巡り合うことを期待している・・・。
 作庭家として名をなした。遠江(遠州)には龍潭寺、本興寺、長楽寺の3寺
の庭が遠州作である。
 茶人としても遠州流を興した。
 歌道も書道も藤原定家の流れをくんだ。
 こんなきらびやかな表の世界ばかりが目に入って来る・・・。

 藤堂高虎とは太いパイプで結ばれているはずである。
 その理由として―
 @遠州は近江長浜の生まれ、父は豊臣秀長の家老だった。高虎は秀長の
 家臣だった。従ってここで関係ができたはずである。
 A遠州は、高虎の8人娘の下から2番目の娘を嫁にしている。ちなみにそ
 の兄弟は、高次、高重であった。高次には子供が16人いて、高通は久居
 藩祖、高堅は久居藩主、基恒は堀江城主の大澤家に、女子の内の1人は、
 井伊直勝の孫の室になっている。
 B高虎は築城家として有名であるが、遠州は作庭において有名である。
 同じ現場として、江戸城、大阪城、二条城があった。

 次に、柳生宗矩ともパイプで結ばれているはずである。
 @宗則は家光の指南役にもなった。遠州は家光の茶道師範であった。家光
 を介して関係ができたはずである。ちなみに、遠州の側室の三沢局は4代
 将軍家綱の乳母となっている。

 
 
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月23日 01時30分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


台風に邪魔されないと良いですね。


小堀遠州の謎、いよいよ背筋がゾクゾクしますね。


さてこんなものを見つけました:

http://honto.jp/netstore/pd-book_25615387.html

滋賀県謎解き散歩


琵琶湖、比叡山、姉川古戦場、小堀遠州、彦根城から竹生島、近江商人、
甲賀流忍術、曳山祭、フナズシまで 東日本と西日本を結ぶなかで育まれた「近江学」を学ぼう!

(新人物文庫)

取扱開始日:2013/05/09
出版社:中経出版
サイズ:15cm/287p
利用対象:一般
ISBN:978-4-8061-4729-9

文庫
国内送料無料


1000円ほどです。



商品説明

滋賀県ってどんなとこ? 彦根城の魅力とは? 琵琶湖から水田に水を引く知恵とは? 歴史、人物、城郭、琵琶湖、滋賀県トリビア、民俗といった分野別に滋賀県の謎を解き明かす。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月23日 08時46分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「滋賀県謎解き散歩」、さっそく購入依頼しました。小堀遠州の謎について
少し書かれているということもありますし、近江商人の謎についても少し分か
るかもしれないと思いますので。

 表だけの歴史では学校の授業になってしまい、おもしろくない。水面下の真
実こそ知りたいと願っています。
 藤堂高虎と忍衆との話ももっともっと浮上してほしいし、島左近もしかり。
柳生・松下・服部を中心とした忍衆(裏世界)の真実も、もっともっと知りたい
と思っています。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月23日 10時44分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

>水面下の真実こそ知りたいと願っています。

はい
いくら教科書的な勉強をしても「人間像」が読めないですよね。

立体的にたくさん読まないといけません。


でもみんな秘密を抱えたまま、この世を去りました。
服部半蔵の家は足許をすくわれました。
上には上がいたということですよね。


そういう世界の話を若い時に読むべきだったと思います。
もう遅いですが。


今はギリシャのツィプラスがスゴイと思っています。

経済問題をいつの間にやら政治問題にすり替えて
フランスやスペイン・イタリアを抱き込んでドイツを孤立させたとは。
                            ドイツ系の学校に10年行ってたので

更に借金棒引き作戦にIMFまで抱き込んで
こんなスゴイ政治家がいたとはと驚いています。


日本の戦国時代にもスゴイ人達がたくさんいたろうし
色々読んだつもりだったけど
ツィプラスの戦略は全く予想できなかったです。

   ということは自分は読んでたつもりでも読めてなかったってことですよね。


まだまだ勉強が足りませんね。
頑張らなくては。


頑張りましょう。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月23日 13時38分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代のゲリラ戦術というのは、現代戦にも通ずるものがあります。
孫子の兵法も現代に通じます。ただ、人間を性悪説で考えるか性善説で
とらえるかで、戦略も180度変わってしまいます。日本も性悪説の世
の中になりつつあり、嘆かわしい毎日の事件の連続です。

 自己責任というのは何なのか、本当は表面的な言葉の遊びでなく、良心
に基づいた行動、良心の呵責をともなう責任の取り方がなければならない
はずで、自己責任なら何をやってもいいということではないと思います。

 ただ、良心とは何かというと一言では言えない難しさがあります・・・。
 人間として失ってはならないもの、人間としてのアイデンティティー
ということでしょうか・・・。

 家康も戦国の世ではずいぶん残酷なこともせざるを得なかったけれど、
心は「厭離穢土 欣求浄土」で、人を殺めるのは本当は好まなかった。
信長を反面教師としたのでしょうか、人心掌握術を心得ていたように思わ
れます。

 家康の打った政策は取り巻き人の知恵、主張が入っていたとは思います
が、戦国の世を終わりにする政策はまずは見事であったと言えると思います。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月23日 14時06分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


>戦国の世を終わりにする政策はまずは見事であったと言えると思います。

そうですね。
根絶やしにはしてないですね。

信長を反面教師にしてもいましたね。


>良心とは何かというと一言では言えない難しさがあります・・・。
>人間として失ってはならないもの、人間としてのアイデンティティーということでしょうか・・・。

はい
過去に学ぶのではなく、「自分の良心」が問われるということですね。


天下統一後、家康の温情をうまく理解できずに、結局は自滅した大名もいました。


自分自身が問われますね。
[16]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月24日 02時56分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は久しぶりにアルコール麻酔を脳に施しましたので思考能力ゼロに陥
ってしまいましたが、熟睡したため集中力はたかまっています。

 @島左近、A柳生宗矩、B藤堂高虎、C小堀遠州あたりを今うろついてい
るわけですが、政治の裏方として@からBまでは確実に存在価値、即ち実績
を残していると思います。Cは今のところ未知数です。

 レス10で、小堀遠州と藤堂高虎のパイプについて記しましたが、島左近
と藤堂高虎とのパイプは羽柴秀長という武将に仕えたという事実の下にあり
ました。即ち島左近も高虎とは「秀長」の家臣となった時期がありました。
島左近はその前には、「筒井氏」に仕えており、即ち、伊賀国の支配者側に
いましたし、またその前には伊賀勢の逆襲により重傷を負ったりしています。
つまり、「伊賀」という共通項もあります。
 柳生氏は三好傘下の筒井氏に抵抗するも落ち、島氏の仕えた「筒井氏」
傘下に入っているので、柳生氏と島氏はパイプがあったということになりま
す。
 従って、藤堂氏と柳生氏は島氏を通じてパイプがつながることになります。
 藤堂氏や柳生氏が関ヶ原の合戦まえに、西軍の取り込みに活躍したという
事実があります。
 島左近は関ヶ原で討死したと言われていますが、藤堂氏や柳生氏とのつな
がりから考えて、小早川氏と同じようなパフォーマンスを裏で演じたかもし
れません。首は上がっておりませんので、あるいは上がっていたとしても、
その子孫が東軍の地、遠江に逃れてくるということは常識では考えられませ
ん。

 藤堂高虎と小堀遠州は一体とみなされますので、結果的には@からCの氏
はつながっていた、徳川の勝利と繁栄にに大きく貢献したということになり
ます。

 柳生氏は松下氏とつながっていますし、藤堂氏は服部氏とつながっている。
つまり服部系と柳生系とがそれぞれ時代にマッチしたかたちで活躍したとい
うことになります。

 殺人剣から活人剣への流れ、服部系から柳生系への流れと一致します。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月24日 05時30分41秒 ) パスワード

小堀氏も父の代には秀長に仕えているそうです。


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kobori_k.html

小堀氏
輪違いに花菱
(藤原氏秀郷流)


 小堀氏の名字の地は近江国坂田郡小堀村で、藤原氏秀郷流と伝える。すなわち俵藤太秀郷の後裔にあたる。左近将監光道のとき、小堀村を領し、はじめて小堀氏を名乗るようになったという。


 正次は『寛政重修諸家譜』によれば、天文九年(1540)の生まれで、
はじめ浅井氏に仕えていたが、天正元年に浅井長政が滅んだため、
羽柴秀長に仕えるようになった。                                ココ
秀長の所領が大和にあったとき、正次は葛上・宇知二郡の内で三千石を領していた。


 『寛政重修諸家譜』の正次の項に、「慶長五年東照宮上杉景勝を征したまふのとき供奉し、下野小山にいたる。これより御麾下に列し、九月関ヶ原の役にもしたがひたてまつり、十二月旧領を賜ひ、備中国において一万石を加増あり。すべて一万四千四百六十石余を領し、台命によりて備中の国務をつかさどり、松山城を守り、…後略…」とあるように、正次は備中総代官として備中松山城に入り、城の復興を行っている。


 正次のあとを継いだのが政一である。かれは茶人として、また作庭家として、さらに築城家として有名な遠州で、
名護屋城や駿府城の天主閣造営などに腕を振るっている。

なお、政一が小堀氏発祥に近い近江国東浅井郡小室に移されたのは元和五年(1619)で、
『寛政重修諸家譜』には「五年頼宣卿の封地を紀伊国にうつさるるにより、仰をうけたまはりて彼地にいたり、国務をはかる。
この年備中国の旧地を近江国浅井郡のうちにうつさる」とある。


 政一のあとは正久がつぎ、正久は弟に分知し、後代にも分知が続いて一万石を割り、大名の列からは外れた。
そして、3男の子・政方にいたって改易となり宗家は断絶している。



 小堀氏の家紋は政次の代は「鶴の丸」ついで「丸に卍」を、政一のとき「輪違いに花菱(花輪違い)」に変えられ、
以降、小堀氏の紋は「花輪違い」に定着した。




「卍字紋」というと蜂須賀が有名ですよね。

そして服部貞信の家も万字を使ってましたよね。
      ここは宇治田原にいたし。


やっぱりアヤシイ。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月24日 05時31分39秒 ) パスワード

小堀氏系図


[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月24日 05時35分57秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/yamajirooumi/2520311.html


小堀氏舘



◆ 城郭の概要
別  名 :
所在地 : 長浜市小堀町
築城年 : 室町期
形  式 : 平城(居舘)
遺  構 : 堀          


◆ 歴   史
小堀氏の屋敷跡である。同氏は、山門領平方荘上郷内の小堀村に居住した土豪で、室町期から近くの総持寺の土地の寄進主・売主として戦国初期まで登場する。

戦国期は浅井氏に仕え、のちに浅井氏の滅亡を待たず秀吉の旗下に入ったとされる。

政一(小堀遠州)の父・新介正次は、秀吉の命により弟秀長の家臣となり、天正10年(1582)の本能寺の変後、秀長が播磨姫路城に封ぜられ、小堀新介正次もこれに同行し、家老として領地の一つである但馬出石城を預かった。


小堀氏は、秀長に従い天正10年頃までに小堀村を離れ中国地方に移住し、天正13年(1585)には大和郡山へと移っている。


慶長5年(1600)上杉征伐に従軍し、徳川家康の麾下に列して、関ヶ原の戦いでは東軍として戦功を上げ、備中松山城を賜り、備中総代官として松山に赴いた。


慶長9年(1604)に正次が死去し、その遺領1万3千石を政一が受け継いだ。政一は茶人として、また作庭家として、さらに築城家として有名な小堀遠州で、名古屋城や駿府城の天主閣造営などに腕を振るっている。


なお、政一が小堀氏発祥に近い近江国東浅井郡小室に移されたのは元和5年(1619)で、『寛政重修諸家譜』には「五年頼宣卿の封地を紀伊国にうつさるるにより、仰をうけたまはりて彼地にいたり、国務をはかる。この年備中国の旧地を近江国浅井郡のうちにうつさる」とある。



◆ 構造と感想
小堀氏の屋敷跡である。慶長7年(1602)の検地の際に作成された絵図で移住直後の小堀氏舘の状況を知ることができる。

所在地は、小堀町小字東方の一部で、絵図には「小堀新助殿屋敷」と記され、絵図中の屋敷付近は、縦横に道と水路がめぐっており、何処までが屋敷であるのか判断出来ない。

また、同村に残る検地帳では、6畝7歩を「新助殿やしき」として登録しているが、あまりに小さ過ぎる。

慶長絵図には、南に「馬かけ場々」、「下司村堀」があり、屋敷との関連が指摘されている。


後者は細長い池で現在も水をたたえており、地元では「ばんば堀」と呼ばれている。この堀が屋敷をめぐるものであれば、屋敷地はもう少し東へ広がるとされる。


現在では、碑があるのみで、残る遺構らしきものは「ばんば堀」程度で他には何もない。



◆ 道 案 内
県道37号線の長浜IC交差点から西に550m程行った山科町交差点で左折する。県道510号線に入り南に1km程進んだ交差点(総持寺北西角)で右折する。西に100m程行って十字路で左折する。南に70m程行った左手側が屋敷跡で、少し手前の小堀町公会堂に駐車できる。
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月24日 20時54分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『滋賀県 謎解き散歩』(中井均編著)が届きましたが、小堀遠州についての
新たなる発見はございませんでした。

 明日は早朝より伊那へ向けて出発です。はたして、どんな収穫があるでしょ
うか・・・?
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月24日 22時38分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうなんですか。
ガッカリですね。


今時はネットの方が情報が多いのかもですね。
残念でした。


伊那行き、お気を付けて!
たくさん収穫がありますように!
[22]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月25日 05時41分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 滋賀県=近江を理解するには、この本が役立ちます。近江と遠江は気質的
にも似ているところがあります。進取の気風、合理的な想像力、それは商業
と工業という形の違いはありますが、考え方、県民性は似ています。
 私も近江の人に「近江商人」とはを随分教えられました。基本は、「読み・
書き・そろばん」です。特にその人は、そろばんと交渉事(三方よし)は得意で
した。今思うと、いい勉強をさせてもらったと感謝しています。

 では、行ってまいります。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月26日 00時51分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、行ってまいりました。450qの旅でございました。
 成果はというと、結論から言うと松島氏(小笠原氏系)の歴史のヴェールを
解く手がかりは、今のところまだ分析をし終わっていませんが、直感的には
それに直結するものはやはり得られなかったようだという雰囲気です。

 時間的には各所を急ぎ足で回ったので、とりあえずは写真をパチパチと撮り、
墓があれば墓を回ってというパターンでしたので、じっくり腰を据えて調査、
また聞き込み調査したわけではありません。写真もまだ再生してよく見てい
ませんので、何か新しい発見がひょっとしたら拾えるかも知れません。

 飯田では―
  @「松尾城跡」を探しましたが、「松尾城」という地名はあったけれど
   城跡はありませんでした。
  A「開善寺」は立派なお寺でしたが、墓地が見つからなかったのが残念
   です。
  B「小笠原資料館」は素晴らしい近代的な建物で、内部には資料もたく
   さん展示されておりましたが、小笠原長巨(ながおん 松尾小笠原系)
   の屋敷の一部(書院)と氏一族にからむ資料でございましたので、もう
   少し分析をしてみます。

 北伊那・箕輪では― 
  @「箕輪町郷土博物館」は考古学的資料と近代以後の生活・風俗資料
   のみでした。以前、松島氏にからむ資料のコピーを送っていただいた
   ので、お礼を申し述べてまいりました。
  A「明音寺」は敷地も広く、立派な建物群があり、抱いていたイメージ
   よりずっと良かったですが、古くからの墓群が見つからなかったので
   これまた残念でした。
  B「福与城跡」は夏草に覆われて、蛇が出ましたので、飛び跳ねて見て
   まいりました。が、あまり感慨はなかったです。
  C「箕輪城跡」は探しましたが見つかりませんでした。

 ただ一つ、行ってよかったなと思えるものは、「小笠原資料館」で頒布し
ていた『伊那谷にこなんことが』(久保田安正著)という本を購入できたこと
です。地元の人間が書いた地域・氏族に根ざした資料ですので、目を通した
感じでは、色々な発見が得られそうです。
 もう一つ、箕輪町で手に入れたパンフレット『伊那高遠の地が育てた歴史
上の巨人 名君保科正之公』を読み、正之公を見直すことができ、よかった
なと思っています。

 来月は、松本、安曇野、麻績へ探索に行く予定です。
 
[24]ともさんからのコメント(2015年07月26日 09時02分29秒 ) パスワード

こんにちは。

市野真利

その昔古本屋で「歴史と旅」等を何冊か購入し、
数年後に手元に置きたかったのですが、痛みが激く、
廃品回収に出しました。ところが全部出した
はずでしたが二冊だけ残っていました。

先日、ふと池田家が治めた岡山城の
成り立ちに目が止まり読み始めました。

その一章に「岡山烏城悲史 郷土史家 庭田尚三」
があります。

中略

「ここで、私事にわたって恐縮だが、私はこ
の岡山城とは深い因縁がある。私の先祖は伊
岐遠江守真利といって、伊岐流九尺長柄の槍
術の創始者で信長、秀吉、家康に仕えた。特
に秀秋が小早川隆景の養嗣となって九州に行
く時、彼の乱暴を監視するため、秀吉の特命
をうけて、後見役を承った。そのため彼は大
名の禄一万二千石を秀吉から直接頂いて、決
して秀秋の家来とはされなかったのである。 

秀秋が岡山に転封せられた後、家康は
自分の家臣として待遇し、秀秋の御意見役と
していた。そして秀秋の乱業に対して苦言を
呈していたので、秀秋も彼に対しては頭が上
らない。そこで慶長七年七月、彼に禄四千八
百石余を加増して児島の常山城主とし、目の
上の瘤を除き、側から遠ざけたのであった
が、十月十八日に原因不明の非業の死を遂げ
たのであった。その時の知行方目録私の家
に伝わっており、その署名には「秀詮」と書
いてある。

小早川氏はここで断絶したが、伊岐家は小
早川氏の家臣でなく、家康の家臣であったの
で、そのまま岡山城に留まって池田侯の客分
となり、五世まで記録は残っているが、その
後は判らない。私の祖は真利の二男半左衛門
て紀州藩に仕え、その子孫が明治維新の時に
紀州藩の御典医であったが、野に下って町医
者となったのである。

 関ヶ原合戦の時の秀秋の取った行動は、伊
岐真利らとの協議によったものである。もと
もと徳川方の東軍に心を寄せていたが、秀秋
は北政所の甥であることから、関ケ原に着く
までは西軍と言わなければ無事に徳川軍と合?
することが出来なかったのだと、秀秋の曲忠
説の誤りなるととを伝える史料が、私の家に
残されて仏?る。

 昭和四十一年、私が家庭の事情で、玉野市
から岡山市に転居した年、奇しくも岡山城が
再建されたので、これを記念して再建記念詩
集を発刊した。また四十八年には岡山市開府
四百午記念として、天主閣裏に開祖宇喜多顕
彰碑を建立し、金烏城の由来を刻して、岡山
市から感謝状を頂いた。

次いで昭和五十一年には、祖先の仕えた小
早川秀秋の墓が、空襲で焼け残った番町屋敷
内の瑞雲寺の本堂内にあるのに、関ケ原の曲
忠説を信じている市民は、これを敬遠して、
詣でる人もない有様なので、彼の死後三百七
十五年の命日に、卒塔婆を建てて、供養を営
み、また彼のために、「小早川秀詮曲忠説雪
冤論」を書いて、市民にその冤(無実)を訴
えたのである。

そこでこのたび、私の家に秘めていた、慶長
五年、関ケ原合戦の立役者であった宇喜多秀
家と小早川秀秋との対決の悲劇の真相をここ
に披露して、歪められた歴史の曲を正したい
と思う。」

Webより、
庭田尚三 経歴
1888年6月29日 現在の和歌山県橋本市高野口町名古曽で生誕。
1901年      仝伊都郡九度山町の高等小学校を卒業。
 其の後       奈良県五条中学校から、京都第三高等学校卒業。
 其の後       東大造船学科在学中、海軍依託学生に採用される。
1915年      東大卒業後、海軍造船官として、27年勤務。
1942年      「戦艦大和」「戦艦武蔵」を建造し、海軍技術中将で
軍籍を離れる。
1943年      岡山県児島の<三井造船>常務取締役玉野造船所技術副長。
 其の後       商船増産・特殊潜航艇「蛟竜」量産。

1945年〜敗戦後、海軍と三井財閥解体以来、
小早川秀詮(ひであき)の後見人で有った、
先祖伊岐遠江守真利(いきとおとみのかみさねとし)の常山城跡の見える、
岡山市妹尾東畦に住み、以来、児島高徳公が戦後の歴史から抹殺され、
津山市院庄の児島高徳公を祀る<作楽神社>が荒廃に任せた侭なのに憤慨、
一念発起して、作楽神社境内に、「噫忠義桜十字詞之塔」を建立以後、
『児島高徳公顕彰忠桜会』を組織。



市野惣大夫実利の子孫は海軍中将にて、かの「戦艦大和」「戦艦武蔵」の設計者なんですね。



自分は秀吉公の特命で小早川家に仕えたが、
実は徳川家康公の密命をも帯びていて、
小早川家改易の後は、尚も池田家に仕えた、
とあるように歴史上ではあまり知られていない
諜報部隊長や策士のような人物だったのではと思いました。

Webより
「市野 実利 いちのさねとし (伊岐真利)
市野惣大夫実利、自称・伊岐遠江守真利、
棒術、槍術、弓術、柔術、水練の達人として
小早川家に仕官した、武術指南役として五百石、
秀秋の乱心で家老のほとんどが出奔し必然的に家老となった、
しかし小早川家断絶後に牢人、その後徳川秀忠に仕えた。」



関ヶ原の合戦時に小早川家に市野惣大夫という武術指南役がおり

同時期、長上郡市野家にも市野惣大夫という遠江代官がいた
のは面白いことですよね。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月26日 09時17分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


忙しい旅だったのですね。
ごゆっくりお休みを。


来月は北ですね。
川中島とか横田原とかの戦いの行われた。

麻績で何か見つかると良いのですが。
宮下さんにも会えると良いのですが。
どんな紋なんでしょうね?



全く関係無いのでしょうけど
    上杉謙信が関東に進出することになり
    小田原城間近に迫ったものの兵站線が伸びて間に合わず越後に引き返しましたが

    この関東進撃では関東の武士がこぞって上杉についたとか。

上杉は武田の敵ですから
武田の敵である信濃の松島氏と上野の松島氏が手に手をとったというのは有り得るのかな
と考えておりました。


謙信もしっかり忍者を活用してたそうですよ。
だから王手をかけそうな段階でも「逃げた」って。



開善寺       お墓はありませんでしたか。      
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%96%84%E5%AF%BA_(%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%B8%82)

寺伝によると1335年(建武2年)小笠原貞宗が清拙正澄を開山として創建されたとされる。
1427年(応永34年)には室町幕府より十刹に列せられた。

室町時代後半になると寺は衰え、1499年(明応8年)には火災による堂宇の焼失もあった。
しかし1549年(天文18年)、松尾城の小笠原信貴により復興され、1601年(慶長6年)には寺領35石になるまでに至った。

この復興の頃、現在の妙心寺派に転派した。




http://www5b.biglobe.ne.jp/~myouon/
明音寺さん

昔のお墓がありませんでしたか。
悲しいですね。

武田滅亡後に松島氏のお墓が建てられていたら良かったのですが。


でもホント蛇にはかまれないようになさってください。
草むらは危ないです。
マムシに噛まれたら走ってでも医者に行け、と言うそうです。

   青大将なら良いのですが。


来月の旅は楽しみにしております。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月26日 12時48分50秒 ) パスワード

とも様

 伊岐遠江守真利とその子孫庭田尚三の貴重な話、よく見つけられました。
 真利が城主となった常山城も鶴姫以下34人の女軍の墓があるそうで、お
どろおどろしい雰囲気がありますね。

 浜松の市野氏はその前2代は袴田氏、それ以前は寺田氏を称していたとい
います。家康より、市野という地名にちなみ市野(惣太夫)姓を賜ったといい
ますが、その市野氏と枝の違う市野茂左衛門義久系があるようです。

 また、伊岐(市野)氏は柳生氏と関係しますが、柳生宗矩の息子の宗冬の遺
言状の中に、「市野七郎右衛門」儀の文章が出て来ます。この人が具体的に
どんなひとであったかはわかりませんが、宗冬が気遣いをしている武芸者の
ような感じがいたします。いずれにしても市野氏は謎の多い氏族です。

 また、市野氏、袴田氏、寺田氏の近くに松島氏がいて、市野氏と同じ家紋を
使っているのですが、こちらも謎めいていて、まだその謎が解けておりませ
ん。
 
 松下之綱は柳生宗則の岳父になります。この両者と同じく、柳生氏と市野
氏は武術や諜報でつながっていたのかも知れません(伊岐氏の方の市野氏はつ
ながっていた)。まだまだ謎解きはできておりませんが、柳生〜伊賀・甲賀〜
遠江市野・頭陀寺〜信濃・甲斐は「忍衆」でつながっているような気がして
なりません。
[27]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月26日 22時07分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は昨日の伊那行きの総括をすべきところ、松島氏にからむ一事実につ
いて確認したく、調べに行って来ました。それはどこかと申しますと、天竜
側の対岸の旧豊岡村、今は磐田市の「三家(みつえ)」という所にある「松久
院」というお寺です。

 そのお寺には、予想したとおり、松島氏、それも「丸に一文字」の松島氏
の墓が役30程あり、また同じ家紋で他の姓の墓もたくさんありました。
 従って、この近辺としては、天竜川西岸の羽鳥の源長院、その北の善地
の東泉寺、そして川を渡って更に北の松久院に「松に一文字」の松島氏の
墓が一団で存在するということになります。家紋が同じであるということは、
古来よりの一門衆であるに違いありません。

 「丸に一文字」・・・敵なしの天下無双という意味にとらえるならば、
これらの墓群は何とすごい主張をしているのか、ひまわりが太陽に向かって
咲き誇っているようだと改めて感じ入った次第であります。

 「丸に一文字」の謎・・・合わせて「丸に三つ柏」の謎・・・。

 いままで墓を見て来たなかでいえるのは、同じ姓で同じ家紋が10あれば、
同じ家紋で違う姓がその隣に2〜3あるという事実です。それは即ち、嫁に
行った、または養子に行った先の家紋を元の自分の家の家紋にしたというこ
とになります。
 女紋というものがありますが、これは嫁に行く時に、もとの家の家紋が入
ったいわゆる紋付等を持って行くので、その母一代はいわゆる女紋も併用が
許されたという現実的な習慣が基本的にはあったようです。その運用も厳格
でなくなると女紋が定紋となる可能性もあったのでしょうか。
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月26日 22時10分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一部修正:天竜側→天竜川
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月27日 05時38分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい発見ですね。
興奮の余り指が動かないです。


磐田の三家って天竜川の向うですが  善地のすぐ  じゃないですか!


>今は磐田市の「三家(みつえ)」という所にある「松久院」というお寺です。
>そのお寺には、予想したとおり、松島氏、それも「丸に一文字」の松島氏の墓が約30程あり、
>また同じ家紋で他の姓の墓もたくさんありました。


一族なんでしょうね。
なんだか泣けて来ます。


その松久院には是非お早目にお伺いできると良いですね。
でも8月のお盆頃は御迷惑ですが。


一体どういうことだったのでしょうね。
磐田に?


>合わせて「丸に三つ柏」の謎・・・

服部政信の先代あたりの系統で母方の千秋氏の家紋を使ったというなら分かり易いのですが
なかなか出て来ないですね。

服部氏だったら車と矢あたりの紋と思いますが
それを敢えて三つ柏というのが  そこに意味=アイデンティティがあるわけ  ですから

やっぱり養老の千秋家+服部家近辺も調べないといけませんね。
そして丸に三つ柏紋の服部氏の墓が磐田あたりにあるのかも。

希望が出て来ましたね。
それにしましても意外な所で松嶋一族の行方がキャッチ出来たのかも。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月27日 05時40分56秒 ) パスワード

南に「惣兵衛新田」というのがありますね。
これまたどういう惣兵衛なんでしょうね?
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月27日 09時24分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 訂正:レス[27] 役30→約30・・・暑さのため注意力散漫になっています。


 惣兵衛新田について―

 http://lib.city.iwata.shizuoka.jp/iwata/chomei/mizunosoube.html

『発見!いわた 磐田の著名人(いわたのちょめいじん)』(磐田市立図書館)


 水野 惣兵衛(みずの そうべえ)

 1781(明和5)年〜1855(安政2)年


 江戸時代後期の開拓者。平松村(現磐田市平松)の歴代の有力名主であった
登屋(のぼりや)の次男。掛下村の横井伝右衛門と同時期に新田開発を行った。
旧豊岡村の惣兵衛下新田の地名は、彼の名前に由来している。

 水野惣兵衛の先祖である、水野治郎左衛門・孫右衛門・孫左衛門の三兄弟は
農業を志して、平松の里に移り住み荒地の開拓をした。三人は水難の守り神と
して宮坂に小さな社を作って祭り、治郎左衛門は神主として神を祭るかたわら、
兄弟で力をあわせて開拓に精を出したという。その努力が認められて孫右衛門
は名主となり、孫左衛門は組頭(くみがしら)となって、郷内の開拓に尽くした。

 水野惣兵衛は孫右衛門の子孫である。孫右衛門の家では宝暦年間(1751〜
1761)に忠四郎と名を改めて代々「忠四郎」を名乗り、屋号を登屋とよんでい
た。

文化年間(1804〜1817)に忠四郎の弟栄吉は分家して、荒地の開拓をしていた
が、後継者が育つと家督を息子に譲り、自分は「惣兵衛」と名を変えた。1833
(天保4)年に代官所から新田開発のため組頭役に任じられた。

 1835(天保6)年に惣兵衛は荒地を開拓した惣兵衛新田に家作りをし、名主
役に任じられ、平松村の宗門改人別帳(しゅうもんあらためにんべつちょう)
から除外された。そのとき惣兵衛は54歳で、惣兵衛新田は家数1軒、村人数4人
であった。4人とは惣兵衛と妻と息子、養女であった。

 その後も開拓を進め、彼が開拓した地域の面積は20町歩になった。しかし
新田開発は水害で計画は大きく狂い、借金に苦しんだという。

 1888(明治21)年、4月25日市制及び町村制が新たに公布されて、翌年広瀬
村ができたとき、いままで平松村の属地扱いであった惣兵衛新田も独立して
「惣兵衛上新田」「惣兵衛下新田」となった。「惣兵衛下新田」は現在も地名
として残っている。

 参考文献
 •岩崎道夫『豊岡物語 増刊号』 豊岡村 1988年
 •豊岡村社会科資料作成委員会『わたしたちの豊岡』 豊岡村教育委員会
  1991年
 •豊岡村社会科資料づくり委員会『わたしたちの豊岡村』豊岡村教育委員会
  1994年
 •豊岡村史編さん委員会『豊岡村史 通史編』 豊岡村 1995年
 •豊岡村史編さん委員会『豊岡村百話 豊岡村史別巻』 豊岡村 1996年


 江戸時代には新田開発が奨励された。それは藩や幕府の財政を豊かにするの
が目的であった。庄屋や名主もその延長線上にあったと思われるが、一度この
土地制度・新田開発についてまとめなければならないと思っています。

 江戸時代も徐々に地震・津波・洪水・干ばつ等で苦しくなり、百姓一揆が
頻発するようになって行きます。
 庄屋や名主というのは藩・旗本・大名あるいは幕府の下での管理者であり、
ある意味村を治める長(民事・税務・行政)であったと思います。ただ単に田
を増やせば庄屋になれるわけではなかったと思われます。その辺の具体的事例
を知りたいと思っています。
 私の親戚にも農地解放まで庄屋さんだった家がありので、過去何で庄屋にな
れたのかも知りたいと思っています。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月27日 11時49分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
水野惣兵衛は想定外でした。
惣兵衛では出なかったです。


大変な思いをしていたのですねえ。
天竜川は暴れ川ですから大変だったでしょうね。
今に地名が残っているんですから草葉の蔭で安心して欲しいです。



新潟も米どころになったのは江戸時代なんですってね。
上杉謙信の軍資金は、だから米だったのではなくて、金=砂金=だったそうです。
勿論物流でお金を作っていたけれど
砂金で
当時の日本の金産出量の3分の1が越後だったんですって。


新田開発は確かに世の中が治まってないと出来ないですよね。
新潟だから米どころと思うのは早計。

新潟=潟=と付くほど越後は湿地帯が多くて、それに川が多くて  米作りには向いてなかったんですって。



ですから遠江も天竜川があるから天竜川流域は大変だったのが分かります。
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月27日 13時54分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

「松久寺」で撮った写真の分析ができました。
 松島家関連では―
  丸に一文字→32基
  丸に剣片喰→8基
  丸に三蓋松→3基
  丸に五三根笹→1基
の合計44基でありました。その他に、丸に一文字紋の伊藤家が3基ありま
した。
 その他の氏で目立ったものは、「秋山氏」、「大須賀氏」、「大澤氏」、
「寺田氏」くらいです・・・。

 次に、松久院から1キロ程南へ行った所の「最廣寺」で撮った写真を分析
しました―
  丸に一文字:村松→5基
    〃  :・田→4基
でございました。
 その他の氏族では鈴木姓が多かったです。
 寺の紋は「三蓋松」でございました。

 丸に一文字紋を伊藤、村松、・田も使っている。何かにあやかっているよ
うな感じがいたします・・・。

 3蓋(階)松は、小笠原氏の3蓋(階)菱の代わりに使われていることもある
でしょうか? この地方では袴田氏に多いようですが、もう少し探究して
みます。
  
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月27日 13時58分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一字、文字化けしてしまいました。
 「たかだ」と打ったのですが(高田ではなく旧漢字の・田)。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月27日 14時39分27秒 ) パスワード

http://www.harimaya.com/kamon/column/matu.html


三階松は、甲斐国の古くからの豪族であった三枝氏
以下略


文字化けで読めません。


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/k_saegsa.html

三枝氏


ここも文字化けで読めません。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月27日 14時42分50秒 ) パスワード

http://www.aim-corp.co.jp/saigusa/saigusa/history.html

三枝博士のおしりクリニック
三枝クリニックについて
-三枝を「さいぐさ」と読む理由、三枝氏の歴史-


 さいぐさは比較的珍しい名前と思います。「さえぐさ」、「みえ」「みつえだ」時には「さんし」と呼ばれることの方が多く逐一訂正を要するので辟易します。


  では、三枝という苗字の由来について簡単に述べておきます。


  我々の祖先は古く、大和朝廷時代に遡るのですが、九州で防人をして夷狄の侵略を防いだ功労が認められ天皇から姓を下賜されました。それが「三枝」姓です。


なぜ「さいぐさ」と読むかというと「さいぐさ」は「さきくさ」に由来するのです。つまり「きKI」のKがとれて「Iい」となり、「く」が濁り「ぐ」なって「さきくさ⇒さいぐさ」に変化したのです。


では「さきくさ」とは何でしょう。「さきくさ」は「咲き草」つまり百合の花のことです。では百合は何を意味するのでしょうか。百合は神武天皇の妃の象徴の花です。つまり恩賞として神武天皇の妃の象徴から姓を下賜されたのです。これで三枝は「さえぐさ」でなく「さいぐさ」であることが分かって頂けたでしょう。


  ではなぜ「さえぐさ」という苗字があるでしょうか。これは明治時代にあやかってつけたものと思われます。確かに「さえぐさ」の方が語感も良いですし、言いやすいです。


  時代は奈良に下り、三枝氏は今の山梨県に移り住み、土着の豪族となりました。

ですから山梨県では誰でも知っている苗字です。

三枝氏は武田信玄の武田氏よりも古く甲州にいたのですが室町末期に武田家の腹心となりいわゆる「武田二十四将」の一人となりました。


それが三枝勘解由左衛門守友です。
守友は長篠の戦で銃弾に斃れ戦死します。
この時の鎧兜は血痕も生々しく保管されています。


武田氏滅亡後、三枝氏は主に東京、伊豆方面に落ち延びます。
ですから、三枝姓は東京、伊豆方面にも見られます。

守友の父虎吉は嫡男を失い悲嘆に暮れつつも武田氏のため藤枝の田中城の攻防戦で奮戦していたので、
家康は「これは使える律義者」と見込み、落城後暫く信長の目の届かない寺に隠し、
本能寺の変の後に徳川配下に組込みます。

まるで変を予見していたかの様です。


ここが家康の真骨頂、殺してしまう信長よりやはり一枚上手です。
家光時代に三枝守恵は家光の弟、駿河大納言忠長(春日局の陰謀で切腹、守恵も殉死、春日の局は明智光秀の家臣斉藤氏の娘)とともに駿府に赴任します。


今の静岡赤十字病院の所に屋敷がありました。


三枝氏は江戸時代中に幕閣として徳川家を支えましたが、明治維新とともに録を失い没落します。
明治維新後、薩長は政権の中枢を藩閥で独占し、財界と癒着し汚職にまみれ、挙句に日本を悲惨な戦争に導きました。

今日の日本の官尊民卑思想、官僚の天下り、お手盛り政治、大企業優先、増税庶民イジメは明治維新の失敗が根源です。


権力は常に腐敗するとはよく言ったものです。

[37]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月27日 17時47分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 三枝氏勘解由守友の話、勘解由という言葉で「宗安寺」にあった勘解由氏
の墓を思い出しました。謎の姓氏「勘解由」、三枝氏の場合は官職名を入れ
たのでしょうか。
 それにしても、掘れば掘るほど知らない人や事項が発掘されますね。つま
りは知らないことが一杯ということですね。
 武田の滅亡とともに徳川方に吸収された武田家臣達・・・身近なところに
結構いるのかも知れませんね。もちろん、元今川方も・・・小田方も、豊臣
方も・・・!
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月27日 17時54分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:小田→織田・・・パソコンが新しいので、文字の変換が素人っぽい。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月27日 22時21分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

PCが変わりましたか。
慣れるまで面倒ですね。


ウインドウズは無くなるという話です。
それで窓10が最後だとか。

窓8でも使いこなせなくて辟易としています。
窓7の時は文字化けも自分で直せたのですが。

もう歳かも。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月29日 00時37分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は市野・袴田・寺田・松島について見直しをしておりましたが、松島
のミッシングリングは依然わからない。昔からその名前をつかていたのか、
あるいはある時から替えているのか・・・。

 松島氏は市野氏から嫁をもらう。市野氏はその前後で天領の代官となって
いて、松島氏はその前後で庄屋になっている。

 庄屋はどういう人がなるのか調べてみました。

 浜北市発行の『郷土 はまきたの歩み』より―
 「村の行政の責任者で代表が庄屋である。庄屋は村の旧家地主の中から
 領主が任命するが、給料ははとんど出なかった。庄屋を助けるのが組頭で
 数名置かれたが、これも地主が多かった。庄屋・組頭が村内の行政を公平
 に行うのを見届け、一般村民の意見を代表するのが百姓代である。庄屋は
 年貢の取りまとめ、村民の戸籍である宗門人別帳の管理、運用、領主から
 の命令の伝達、村の治安から、村民の借金の保証までした。組頭は庄屋を
 助けて村の行政をすすめたもので、庄屋、組頭、百姓代を村方三役といい、
 村の行政を取り仕切っていた。」
  当然、庄屋は読み・書き・そろばんができなくては務まらない。まるっ
 きりの百姓ではつとまらない。それなりの教養がある者・・・元侍で帰農
 した人なら務まる・・・。
  土地を持つということは、戦功として領地をもらう、新田開発をする、
 いずれにしても田んぼで米を作り年貢を納めることが必要不可欠となる。 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月29日 04時24分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


庄屋のお嬢さんの書いたものを見たことがございますが
若いのに達筆で、文章もしっかりしてて
精神年齢が非常に高いと思いました。


ただの百姓だったら寺子屋で読み書き算盤を習うのでしょう。
ここで優秀な子供は商家に紹介されたり庄屋の家に奉公に行ったりの道が開けるでしょう。

   でも田んぼ要員ですから、なかなか機会は無かったでしょうね。


庄屋は役人に帳簿を提出したり俵の計算とか田んぼの測量とか
いろいろ勉強しなくてはいけなかったでしょうね。

そういう脳を持っているとか学ぶ資金とかを用意できるのは
もともとその場所の豪族関係者ですよ。

    小作は借金に縛られているでしょうし
    自作農は田んぼを増やしてなんとか3町歩にして自分も庄屋になりたいと頑張るのに精いっぱいですよ。



庄屋と名主の違い;拾ってきました


庄屋と名主とは職制上は同じです。

地域によって呼び方が異なり、
西日本では「庄屋」、東日本では「名主」と呼ばれることが多く、東北地方では「肝煎」と呼ばれることもあります。


庄屋(名主)、小頭、百姓代を村三役と呼び、徴税の代行を含めた村の行政を行います。

庄屋、小頭は世襲の任命制、またはその位の格式を有していた家で持ち回りなどが一般的でしたが、
百姓代は名の通り一般百姓の代表なので名目上は村衆による選出がされました。

     (上で決めて承認を求めた場合も多いが)


庄屋、、、などが置かれる村落は、現在の行政区より小さく、
天領の旗本知行地などでは村に数人の御領主さまが存在して、
数戸で行政上の一村を構成する場合もあり、
数〜数百戸をまとめていたのが村役人で、
その長が庄屋(名主・肝煎)ですが、
それらの村落数十をまとめる役の「大庄屋」「寄せ場名主」がまた存在しています。


地主は「土地所有者」です。

一般的には、所有の土地を小作人に耕作させる場合、自家に小作人(下人)を住まわせて従業員として使う場合には「地主」ではなくその家の旦那ですが、
耕地を小作料(私年貢)を納めさせる約束で小作農家に賃貸地していた場合が「地主」です。

したがって村役人のような職制とは無関係で、
決して裕福でなくても、地主に働き手が少なく(幼少・老人等)て賃貸地する場合もあります。


江戸時代、農家でなければ農地を所有できませんでしたが、
町人請負新田など新規に開拓した場合には町人、商人であっても耕地を持つことができるようになり、
また、脱法行為で借金のかたに耕地を所有した商人などが「地主」として小作人に耕地の賃貸地していた例が多く見られるようになります。

[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月29日 04時29分42秒 ) パスワード

庄屋や名主の家が立派な理由



またもや拾って来ました:


司馬遼太郎も書いてる内容を紹介するが、
    江戸の庄屋名主は、江戸の出来星大名より遥かに由緒があり、
    家柄が中世からの名門が多数で、
    屋敷も藩家老並にでかい・・・
と書いている。


庄屋名主は元々の地域を仕切ってた層の武士階層が戦国時代を経て百姓になってのが多い。
だから財産や力があり、幕府も屋敷などには文句言えなかった。


また下級武士は元々貧困層が戦国時代を経て武士になったから
極貧ボロ長屋暮らしを強要されても文句いえないんだろうな。


やはり意味があるからその差が必然的にうまれてんだろう


間違いなく言えるのは、戦国時代で上でかいたような、「身分」自体は逆転現象が起きてる。


だが「財力」などは身分が逆転、変化してもあまり戦国以前からの状況と変わらない。


江戸時代の初めの各家の財力みれば戦国時代より前からの力がすごく反映されてるよ
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月29日 13時21分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今まで、能というものをまともに見たことはなかったのですが、歴史を
勉強し出して、やはり能楽というものを理解しないといけないなと思うよ
うになりました。観世流の「高砂」の第一パートは覚えました。
  高砂や〜 この浦舟に帆をあげて〜
  この浦舟に帆をあげて〜
  月もろともに出で潮の〜
  波の淡路の島影や〜
  遠くなるほど 沖に出て〜
  はや 住吉(すみのえ)につきにけり〜
  はや 住吉(すみのえ)につきにけり〜
 たったこれだけの唄でありますが、一言一言に背景的な意味を持つ。その
バックグラウンドを理解するには歴史を学ぶ必要があります。また逆に歴史を
学ぶことにより、その意味が解けて着ます。

 「高砂」、「淡路」、「住吉(すみのえ)」、またこの続きの「相生」等、
それぞれ深い意味を宿しています。

 俳句も「枕言葉」等でバックグラウンドの世界を広く・深くしています。
 これもまた歴史を学ばなければ真の理解ができません。

 芭蕉については、今少しずつ研究しています。できれば、十湖をからめて
探究したいと思っていますので、いずれよろしくお願いします。

 能楽ですが、9月に池田の会館にて、「熊野」が上演されますので見に
言ってきます。新城や奥山方広寺でも能がありますが、あいにく都合が合い
ません。「羽衣」もその内ぜひ見たいと思っております。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月29日 13時35分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


「高砂」は将来どなたかの結婚式にお願いされるように練習なさってください。
般若心経同様、重宝されますよ。


住之江と松
住吉明神と松
高砂の松と住吉の松とは相生の松

本当に神道も勉強しないといけませんね。
深く深くなってしまいますね。
にっこり



>9月に池田の会館にて、「熊野」が上演されます

いいですね。
楽しみですね。

ちゃんと予習していかなくてはね。
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月30日 04時57分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 島左近について引き続いて調べていますが、旧天竜市二俣山東に子孫が
いたことは、ほぼ間違いない。私も島氏(たぶん後裔)の葬式に参列したこ
とがある。隆慶一郎も同じく二俣の島氏にインタビューし、小説『影武者』
を書いたという。その中で、島左近は関ヶ原で撃たれたり怪我をしたが、
生き延びたと書かれている。山本泰生の『嶋左近』では、討死して家臣が
わからぬよう焼いたと書かれている。死体としては上がっていないのであ
る。生き残ったかあるいは埋められた・焼かれたか・・・180度の違い
がある。
 そこで、ウェブを探してみました―


 http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sakon_c.html

「左近の消息と墓

身分は三成の一家臣でも、その軍事能力は東軍方諸将も認めた島左近。し
かし、彼の消息ははっきりとは判っていません。京都と奈良には歿日時の
異なる2つの墓が存在します。


左近の消息

 負傷して引き上げる左近  前述稿の補足の形となるが、関ヶ原合戦の際
に三成の前面に二重の柵を設け、左近たちはそれを背に、まさに「背水の陣」
の覚悟で戦に臨んだ。その面々を『関ヶ原町史』により少し詳しく紹介する
と、三成の笹尾山本陣から見て左端に左近。以下、右へ順に島新吉・同十次
郎・大場土佐・大山伯耆・高野越中・舞兵庫・森九兵衛・蒲生備中・同大膳
・同大炊・北川平左衛門・同十郎・蒲生監物・近藤縫殿・後藤又助・百々宮
内・早崎平蔵・分田伊織・浅井新六郎・中島宗左衛門・香楽間蔵人・三田村
織部・町野助之允・馮渡内記・川崎五郎左衛門ら六千である。

戦闘もたけなわとなってきた頃、左近は密かに回り込んできた黒田(菅)隊
に側面から銃撃を受け負傷、柵内にかつぎ込まれた。左近は精兵を率いて開
戦直後から奮戦、後に黒田家の者をして「もしあの時鉄炮で撃っていなかっ
たならば、今頃我等の首は左近の槍に刺し貫かれていたことだろう」と言わ
しめたほどであったという。
 この画像は『関ヶ原合戦図屏風』(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)に描かれた、負傷して両脇を兵に支えられながら退却する左近の姿である。画像から推察
すると、足か腰を撃たれたのではないかと思われる。
※当画像は関ヶ原町歴史民俗資料館の許可を得て撮影・掲載しています。無
断転載は堅くお断りいたします。

ここで、左近の消息について記した書物についてであるが、ざっと紹介す
ると―
「被弾し倒れる」・・・『関ヶ原合戦大全』、『落穂集』、『黒田家譜』、
 『故郷物語』等
「戦死」・・・・・『関ヶ原合戦誌』、『関ヶ原合戦大全』の一説、『関
ヶ原軍記』、『戸川記』等
「生死・行方不明」・・・・・・『関ヶ原状』、『慶長年中ト斎記』、
『武徳安民記』等
「対馬へ脱出」・・・・・・『関ヶ原軍記大全』
「西国へ脱出」・・・・・・『石田軍記』

となる。しかし『関原合戦図志』によると、「戦死」説の記述のある『関ヶ
原合戦大全』では、「島勝猛ハ黒田ノ家人菅六之助ガウタスル鐵炮ニ當リテ
死亡セシト云ヘルハ實事ナルベシ」と、被弾して死亡した旨の記述があるが、
その後も左近が三成と応対している様子が所々に見られ、また三成が敗走す
る直前に左近の死を聞いて悲嘆し、共に討死しようと馬を出しかけ
たところ、近習たちが三成の馬を押さえて納得させ戦場から離脱させたとい
う話が記載されている。
これはおかしい。左近の推定被弾時刻は午前九時から十時の間で、三成の
敗走は「未の刻(午後二時)」前後かそれ以降である。朝に死亡した島左近の
ことを、わずか二町(約220m)離れた本陣にいる三成が午後二時頃まで知ら
ないなどということは、どう見ても考えられない。
「行方不明」説を採る『関ヶ原状』は、『信長公記』で知られる太田牛一
が、この戦いの翌年に著したものである。また『慶長年中ト斎記』は信憑性
の高い資料として知られており、同説を採る他書の多くはこれらをそのまま
信用したと思われ、前出『関原合戦図志』の著者神谷道一氏は、当時はまだ
本格的な研究が進んではおらず、世上に伝えられた「左近は行方不明」との
風評をそのまま書いたのであろうと評されている。
つまり、私見ではあるが、左近は朝の被弾負傷時には落命してはいなかっ
た。柵内にかつぎ込まれた左近は、手当を受けた後、再び突撃する機会を待
っていたのではないか。


左近の墓

 左近の墓  話は戦いからそれるが、近年左近は戦場を脱出して生き延びた
のではないかという説が囁かれている。
その根拠は『関ヶ原町史』によると、「慶長八年の合戦図」(典拠不明)に
おいて、琵琶湖の竹生島に「十六日夜島左近宿す」との記述があることと、
左近の墓(=写真)がある京都市上京区の立本寺教法院(りゅうほんじ・きょう
ぼういん)過去帳ならびに位牌に、「妙法院殿前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀 島
左近源友之」との法名と、寛永九(1632)年六月二十六日に歿したとする記録
が残されていることが主なもののようである。
この立本寺は日像上人を開山とする日蓮宗一致派の本山で、元亨元(1321)
年に中京区四条大宮に創建され、後土御門天皇から勅願寺の綸旨を賜ったと
伝えられる名刹である。同寺はいわゆる「天文の法乱」後に三回ほど移転し、
天正年間に上京区寺町通今出川に移された。しばらく同所にあったが、宝永
五(1708)年に火災で類焼し、現在の地に移されたという。
左近の墓が建てられた時期は判らないが、死後すぐに建てられたとするな
ら、それは寺町通今出川の地ということになり、移転の際に寺とともに現在
地に移されたものであろう。


左近の位牌  

さらに同町史では、左近の末裔の方が蔵する古記録に「島左近勝猛 又ノ
名ヲ友之ト云フ (中略) 関ヶ原ノ役ニ謀士ノ長トナリ、戦ニ敗レ、囲ヲ衝キ
テ奔ル、後、京都立本寺ニ隠レ、寛永九申壬年六月二十六日歿ス 妙法院殿
前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀」なる記述があることを紹介し、併せて同書に母
と共に京都にいた左近の二男彦太郎忠正が関ヶ原の敗報に接し西国へと逃れ、
坪島彦助と改名して安芸西条四日市に住んだとあることも紹介している。
もしこの通りだとすると、左近は関ヶ原の後三十年以上を生きたことにな
り、歿時の推定年齢は九十歳前後にも達するかと思われる。しかし、その間
何の記録も残されていないというのは、いくら徳川の世とは言え腑に落ちな
い部分があり、やはり現時点では左近の消息については不明と言わざるを得
ない。左の写真は立本寺教法院に残る左近の位牌だが、これは明らかに後世
に作られたものである。
ここで左近の年齢について少し言及すると、『和州諸将軍傳』には彼の生
年月日の記述が見られ、それによると左近は天文九(1540)年五月五日生まれ
とされている。その説に従うならば関ヶ原では61歳ということになるが、
同書の信憑性にはやや問題があることから、残念ながらはっきりと断定出来
るまでには至らない。ただ永禄年間から筒井順慶のもとで活躍したことを考
えると、これくらいの年齢であったのは事実であろうと思われる。


左近の墓  

ところで、左近の墓はやはり大和にもあった(=写真)。この墓は奈良市の
三笠霊苑東大寺墓地(通称伴墓)にあり、昭和五十七年に田原本にお住まいの
郷土史家が発見したという記録が残っていたことから、平成四年に元奈良市
長(故人)が調査確認されたものであるという。中央が左近の墓で、これは
「舟形五輪塔」と呼ばれる形式のものだそうである。大きさは縦82cm×
横35cm×厚さ10cmで、中央に「嶋左近尉」、その右には「庚子」、
左には「九月十五日」とある。つまり言うまでもなく、この墓は左近が合戦
当日に歿したということを示しているのだ。
問題はこの墓の建てられた年代だが、五輪板碑の形状や傷み具合などから、
室町末期から江戸初期頃の特徴があるとされ、関ヶ原合戦からさほど遠くな
い時期に建てられたものであろうとのことである。
こうなってくると、左近は果たして生き延びたのか、それとも関ヶ原に散
ったのか、ますます判らなくなってくる。


左近の供養墓

 この他にも対馬の島山(長崎県美津島町)や陸前高田市の浄土寺にも左近の
墓と伝えられるものがあり、対馬の墓は こちら に別に画像を掲載している
のでご覧頂きたい。
さらに、左の写真は大阪市淀川区の木川墓地にある左近の供養墓で、これ
は昭和九年に左近の末裔である島吉次郎氏が、先祖の島清兵衛翁の五十回忌
に際して建てられたものという。
同墓地内には左近の妻の一人とともに大坂に逃れてきた娘の子と伝えられ、
江戸時代初期に中津川(淀川)の治水事業に多大な功績を残した島道悦忠次
(1611〜1654)の墓があることで有名であるが(同墓地には島氏一族の墓もあ
る)、供養墓とは言え左近の墓がここにもあることはあまり知られていない
ようである。
墓の下部正面には三行で「五十回忌供養 島左近之墓 次男吉次郎建之」、
墓横に立つ碑には二行で「島清兵衛五十回忌 昭和九年七月為菩提 次男
吉次郎」と刻まれてあり、一般刊行物ではあまり目にすることのない画像
なので、参考までに掲載させていただくことにする。」


 山口正之氏の『忍者の生活』の中に、「浅井長政と伊賀忍者」という項が
あり、その中で浅井長政に仕えた武将の中に「島若狭守秀安」という人物が
出て来て、実際に伊賀忍者を雇い、米原の太尾城を攻めたということが載っ
ている。この人物が左近なのか、その親なのかはっきりしないが、いずれに
しても島左近という人物は、忍の世界と通じた謎の人物であることには間違
いない。
 隆慶一郎の『影武者』は上中下の三冊本であり、内容も濃いので読み応え
があり、大変おもしろいです。 
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月30日 09時12分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。URLのサイトは文字化けしてましたが。

http://www.m-network.com/sengoku/sakon/index.html
目次も興味深い数々ですね。


あの赤い兜の武将ですか。
死ぬほどの怪我ではないようですよね。


一段と分からなくなりましたね。
  生きていたのか亡くなっていたのか。
  でも死んでいたなら首が必要ですよね。
家康方は必至に捜しますしね。


とにかく簡単には死なないように、首を取られないように、算段してますよね。

伊賀忍者、甲賀忍者、は使ってますよね。
その他に大和も。
そして忍者だけでなく僧侶や神官も。

まさか三成が捕えられるなんて思ってなかったでしょうから隠れてたでしょうね。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月31日 00時07分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 島左近の家紋は確か「丸に三つ柏」でしたね。

 自分の所の「丸に三つ柏」についても、また永井家、松島家についても、
もう一度詳細に調べてみようと、地元の寺に行ってみました。
 その結果は―
  「丸に三つ柏」の服部家:6基
     〃   の永井家:7基
  「丸に九枚笹」の永井家:2基
  「梨の切り口」の永井家:19基 (「永井梨の切り口」と呼ばれる)
  「丸に一文字」の松島家:19基
  「五三桐」の長田家:1基
  (もちろん鈴木家も加藤家も存在しますが、今回は上記4家にしぼりま
  した。)

 この結果、「丸に一文字」の松島と、「永井梨の切り口」の永井とは、堂
々とその存在感を示しているような気がしました。
 「丸に三つ柏」の永井と服部は、やはり同門のような感じがし、仲良く助
けあって暮らして来たという感じがいたしました(その過去の詳細な関係に
ついてはわかっておりません)。
服部が永井紋をつけるようになったのか、その逆か、あるいはそれぞれ
偶然にも一緒だったのか・・・答えはその三つの中にあります。

 ついでですが、本日笠井のあるお寺を訪れた時、「丸に三つ並び矢」の服部
家の墓を1基見つけました。服部家の墓ってまとまって見つかることって少な
い。いつもほとんどポツンと1基だけっていうのが多いです。さびしい限り
ではあります。  
 
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月31日 02時09分53秒 ) パスワード

三つ柏さん



興味深いお話をありがとうございます。


     「丸に三つ柏」の服部家:6基
        〃   の永井家:7基
     「丸に九枚笹」の永井家:2基
     「梨の切り口」の永井家:19基 (「永井梨の切り口」と呼ばれる)
     「丸に一文字」の松島家:19基
       「五三桐」の長田家:1基


永井家と松嶋家あ19基ずつというのはこのお寺さんの大旦那さんの家になるんでしょうかね?

そして「梨の切り口」の永井家と「丸に一文字」の松島家は、出自が納得ですね。


「丸に三つ柏」の服部家と永井家は謎ですね。柏紋の平氏系長田氏の流れなんでしょうか?

          そうだったら寛政重修家譜の平氏で服部で丸に三つ柏紋の旗本というのが
          もしかすると長田または永井がらみだったんじゃないか?
          とも納得できるんですが
謎ですね。


9枚笹の永井家はまた別なんでしょうか?
いよいよ謎ですね。


>ついでですが、本日笠井のあるお寺を訪れた時、「丸に三つ並び矢」の服部家の墓を1基見つけました。

>服部家の墓ってまとまって見つかることって少ない。
>いつもほとんどポツンと1基だけっていうのが多いです。さびしい限りではあります。  


三つ並び矢というのは4男以下とか庶流とか、「並び矢」を遠慮させられた家
、と聞いてるけど
三つ並び矢紋は珍しいですね。


     三つ柏紋に引っ張られて?と思いましたが  その場合は形を三ツ矢紋にするだろうし。



http://www.ippongi.com/2009/01/19/ya/
狩野探幽の紋


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10103292215
知恵袋より

「丸に並び矢」紋の家系の例は、
    梶原、菊池、太田、服部、須田、植松、松田、矢作、矢沢、矢部、阿部、堀切、谷地、深井。
などの名家があります。


しかし、殆どは、「並び矢」は2本(3本では無い)です。

並び矢紋で最も、有名なのは、鎌倉幕府の長老で、北条氏と争った大姓の「梶原」氏ですかな!
気仙沼の近く、宮城県本吉郡唐桑半島辺りに、「梶原神社」を囲む、梶原氏の集落があります。

神社の紋は、この「並び矢」です。


家紋は、名字以上に複雑怪奇で、分からないですね。



お盆が近くなりました。
進展があると良いですね。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月31日 05時05分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 引き続き、島左近については更に追跡して行きたいと思っています。

 @松下加兵衛之綱(今川→豊臣→徳川)=A柳生宗矩=B島左近=C藤堂
 高虎=D服部半蔵=E服部中保次=F服部常慶安綱(今川→井伊=徳川)

 この@からFまでが1つのリングとしてリンクしているという事実であります。
 この内、島左近と藤堂高虎が以外とわからない。つまり表面的な経緯・経歴
でなく、裏の本当の姿=わかりやすく言えば忍衆とのつながりの実際の具体的
部分がまだベェールに包まれている。

 松下一族については、冨永公文氏の著作が2冊あり、かなりのことがわかり
ます。最近その最初に出版された古い方の本を読んで新たな事実を発見しまし
た。それは、松下加兵衛の祖は、六角佐々木氏の初代泰綱から数えて5代目の
高長であり、その正式名は「壱岐 出雲守 九郎左衛門尉 高長」であったとい
うことであります。「壱岐」というのはどこか聞いたことのある名前でありま
すが、小早川秀秋に仕えた家老、「伊岐 遠江守 真利(市野氏)」を想い浮かば
せます。これは、「柳生つながり」でしょうか。
歴史というのは隠れた・隠されたものが一杯あって、しつこくしつこく掘り
下げて行かないと真実に巡り会えないとい感じがします。
 この松下氏については、じっくり読み込んで整理して行きたいと思っていま
す。

 市野氏の謎、松島氏の謎・・・わからなくしているのは、ひょっとしてある
ことを忘れているからか・・・それは、「世良田二郎三郎」の存在、家康の影
武者といわれている人物の存在です。

 いずれ、この点についても探究・言及してみたいと思っております。

[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月31日 05時16分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:「壱岐出雲守九郎左衛門尉高長」→「壱岐九郎出雲守左衛門尉高長」

 ひょっとすると、名前の並びからすると「壱岐九郎 左衛門尉 高長 出雲守」
かもしれません。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月31日 07時23分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

Fが服部姓になってしまってますね。



壱岐高長は出ないですね。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%A3%B1%E5%B2%90
壱岐氏は

【読み】いき,いさき,いちき,いちぎ,いちぬき,いつき

【全国順位】 3,488位  
【全国人数】 およそ3,800人


壱岐国造、壱岐県主、壱岐朝臣、伊伎氏、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
越智氏(物部氏の子孫)等がある。 



宮城県 1,006位 およそ200人
福島県 2,343位 およそ50人
京都府 3,231位 およそ70人
鳥取県 842位 およそ100人
島根県 3,559位 およそ10人
山口県 1,215位 およそ200人
福岡県 3,281位 およそ100人
大分県 2,023位 およそ60人
宮崎県 179位 およそ1,200人
鹿児島県 1,034位 およそ300人



西の方ですね。
殆どが九州。
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月31日 09時27分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そう、「松下」常慶安綱でした。松下と服部は婚姻で一部一体化した
可能性はあります。
[53]ともさんからのコメント(2015年07月31日 22時05分50秒 ) パスワード

こんばんは。横スレです。

伊岐遠江守

伊岐流の槍は、伊岐遠江守から出でたのであるが、
この人は柳生但馬守の許で劍術を修業し後に直鑓
〔すぐやり〕の一流を立てゐたのであるが、信長、
秀吉、家康、秀忠に及んで切り組み仕合の術を上
覧に供へ、殊に家康よりは上意を蒙つて下野國や
ないそふといふ深山に三ケ年引籠り、九尺柄、柄
[借字]槍〔つかやり〕の勝術を工夫して鍛錬成
就した上、駿府に於て家康の前に上覧に供へ厚く
賞美されたのである、その以後、切組仕合〔きり
くみしあひ〕、共に他見を許さず、平素の稽古も
免許状相傳も非常に正しく嚴かに行はれた。

(甲子夜話)

奥州へ修行に行っていますね。


次は市野五右衛門に関係あるのでしょうか?

寺田、中西、白井
一刀流の中西忠兵衛子正の門下に寺田五右衛門、
白井通といふ二人の組太刀の名人があつた、何れ
も劣らぬ豪傑で一見識をたてゐた人々であるから
その門に居ながら師家中西氏の・へ方とは違つて
一つ道場に於て寺田派、白井派、中西派と三派に
分れ、もみ合つて稽古し、その都度稽古が一致し
ないで議論が沸騰して來たといふから面白い。

寺田五右衛門=市野五右衛門?

[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月01日 00時45分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 島左近について、冨永公文氏の『松下加兵衛と豊臣秀吉』の中には次のよう
な記述があります。
 それは―
 「島左近は有名な人物であるが、良質な史料に恵まれないために不明なこと
 が多いのも事実である。
  松下加兵衛之綱の娘と柳生宗矩の婚姻にはこの島左近が大きくかかわって
 いたのである。
  これは奈良市柳生の芳徳寺(大和柳生家の菩提寺)の住職のお話によるもの
 だが、島左近の屋敷(場所は多説あり)に松下加兵衛之綱の娘が武家奉公して
 いた時に、そこを訪れた柳生宗矩がこの娘を見そめて結婚したという。
  浜松の鈴木遠音氏は『浜松周辺の古跡漫歩』の中で、「石田三成の紹介で
 松下之綱の娘、おりんが、島左近の屋敷において行儀作法を教えていたとこ
 ろ、たまたま訪ねてきた宗矩が、おりんを見そめて、ふたりは結ばれた」と
 記しておられる。
  私は、この松下家と柳生家の関係を興味深く思っていたが、松下加兵衛
 之綱と豊臣秀吉とは主従を越えた親戚あるいは兄弟のような関係であったと
 考えているから、豊臣秀吉子飼いの石田三成の重臣となった島左近の存在は
 注目に値するものだ。
  とすれば、豊臣秀吉のもとにあって、松下一族は石田三成や島左近とも近
 い関係にあったということも推察できる。」

 「慶長四年(1599)二月の末、家康と石田三成の間が一触即発の状態であった
 とき、家康は柳生又右衛門(宗矩)が島左近と同国のよしみで親しかったこと
 を知って、柳生又右衛門を左近のもとにおもむかせ、世間の成り行きについ
 てどのように考えているか対話させている。」

  
 では、なぜ「おりん」が島家に行儀奉公していたのかといえば、冨永氏は
『遠州 松下加兵衛之綱とその一族』の中で次のように述べている―
 「さらにつけ加えると、次のような事実がある。
 加兵衛の三女と柳生宗矩の婚姻というのがそれだが、私は次のように見てい
 る。
  先ほど私は、上泉信綱という人物の名を上げた。詳しく述べる余裕はない
 が、彼は上野国(群馬県)小勢多郡大胡の出身で、はじめ秀綱と名乗った。彼
 もまた諸国を遍歴して多くの門弟を作っているが、柳生宗矩の父、柳生石舟
 斎宗厳がその一人であることは、はっきりしている。私は、松下之綱の父、
 長則もまた同じく門弟の一人ではなかったかと推定している。つまり、そう
 いうつながりの上に宗矩と、長則の息子之綱の娘との婚姻があったのだと。」

 さらにこんな事実もある―宗矩の兄、厳勝の次男兵庫助利厳は、島左近の娘
をめとっている。
 また、利厳を加藤清正に仕えさせたのは、島左近のプロモートによるという。

 結論的には、柳生家と島家、柳生宗矩と島左近とは、そうとうな関係・仲で
あったということができます。ということは、松下家と島家も同様に関係が深
かったということになります。
 そして、松下家のルーツは佐々木家、すなわち甲賀忍者を臣下としてしてい
たので、伊賀忍者より甲賀忍者の方が関係が深かったのではないかと推測され
ます。
 つまりは、(島)・柳生・松下グループ vs. 藤堂・服部グループというグル
ープ分けができます。そして後には、秀忠側 vs. 家康側という関係になり、
柳生系が繁栄し、服部系は衰退させられて行きます。

 最後に―
 島氏あるいはその一族が徳川方の遠江二俣に逃げて来たとすると、手引きし
たのは、やはり柳生・松下系であったのではなかろうか。地理的にいっても
井伊谷を通って二俣の方が隠れやすかっただろう。従って井伊直政も承知して
いた・・・? 家康、秀忠のどちらかが指令を出した・・・? その背景には、
山崎の合戦において島左近とは密約があった・・・兵を出さぬようにとの?
徳川の大陰謀は関ヶ原までもまだそれからも続いた・・・?
 これらの推測はあくまで仮説でありますので、今後できれば裏付け努力をし
ていきたいと思っています・・・。

 
 
  
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月01日 09時23分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


丁寧な説明をありがとうございます。


>上泉信綱という人物
>彼は上野国(群馬県)小勢多郡大胡の出身で、はじめ秀綱と名乗った。
>彼もまた諸国を遍歴して多くの門弟を作っているが、
>柳生宗矩の父、柳生石舟斎宗厳がその一人であることは、はっきりしている。

>松下之綱の父、長則もまた同じく門弟の一人ではなかったかと推定している。

>つまり、そういうつながりの上に宗矩と、長則の息子之綱の娘との婚姻があったのだと。

>宗矩の兄、厳勝の次男兵庫助利厳は、島左近の娘をめとっている。

>また、利厳を加藤清正に仕えさせたのは、島左近のプロモートによるという。


ビックリですね。

昔の人間関係というか友達の輪は、やっぱり世間が狭いだけに、緊密ですね。



特に
>宗矩の兄、厳勝の次男兵庫助利厳は、島左近の娘をめとっている。

なるほどね。


島左近が遠江に隠れ住んでてもちっともおかしくないし
松下だけでなく柳生によっても生かされたのかも知れないし


面白いですね。


やっぱり持つべきものは友であり婚姻関係ですね。
子が素性の分からない馬の骨と結婚するのを親が反対するはずです。
命がかかっていたんですから。


>松下家のルーツは佐々木家、すなわち甲賀忍者を臣下としてしていたので、
>伊賀忍者より甲賀忍者の方が関係が深かったのではないかと推測されます。

>(島)・柳生・松下グループ  vs. 藤堂・服部グループというグループ分けができます。
>そして後には、秀忠側 vs. 家康側という関係になり、
>柳生系=甲賀=が繁栄し、服部系=伊賀=は衰退させられて行きます。

なるほどね。
「影の軍団」になって行きますね。


面白いですね。
よくここまで解明なさいました。



>島氏あるいはその一族が徳川方の遠江二俣に逃げて来たとすると、
>手引きしたのは、やはり柳生・松下系であったのではなかろうか。
>地理的にいっても伊谷を通って二俣の方が隠れやすかっただろう。
>従って井伊直政も承知していた・・・? 
>家康、秀忠のどちらかが指令を出した・・・? 
>その背景には、山崎の合戦において島左近とは密約があった・・・兵を出さぬようにとの?
>徳川の大陰謀は関ヶ原までもまだそれからも続いた・・・?


島右近さんと出会えると良いですね。
にっこり

きっとどなたかのお引き合わせで島左近関係の方にお会い出来ますよ。

三つ柏さんはお友達が多そうなので、友達の輪で、行きつけますよ。
得な性格ですよね、付き合いが良いって。


先祖調べは時間がかかります。
地道に、いろいろな人と出会わなくては。
まだ始まったばかりです。

遠江には江戸時代からのお寺のダンナ衆が今でも頑張っていますから
山下家にもお会い出来るかもですね。

たくさん読んで、大勢と知り合って、アチコチ行って
そこからやっとご自分のご先祖さまへの道が出来ますよ。

島左近の子孫の方に会えたら良いですね。
服部氏が何故三つ柏紋なのか
ひょっとしたら瓢箪からコマが飛び出て来るかもですね。



[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月01日 12時54分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「瓢箪から駒」は何らかの形で必ずあるものと信じ、歴史の地層を掘り起
こし、深層(真相)を探り当てて行きたいと思っています・・・あきらめない
で。

 歴史の教科書に書けないこと・書かれていないこと・・・それらの真実を
知ることができれば、自称「歴史探偵」冥利に尽きます。

 あを様にはいつも感謝です。

 歴史は勝者の書いた歴史ですので、敗者の立場は無視されたり歪曲された
り、矮小化されます。これは歴史の常。

 ひょっとしたら、「大久保長安」事件もびっくりするような事実が出て来る
かも知れません。この夏、土肥金山を訪ねてみたいと思っています。また、源
氏ゆかりの地、修善寺にも足を延ばしたいと思っています。

 それと最近思うのは、「松尾」という土地名や「松尾山」という山の名前
がいろいろ歴史にからむので、何か日本全体として特異な名前なのかと興味
を抱いております・・・。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月01日 15時09分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


地名)

松尾の地名はやっぱり秦氏の氏神の松尾大社がらみではないかと。


名字)

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9D%BE%E5%B0%BE

松尾社社家、伴姓、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)頼政流、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)柘植氏流など様々な流派がみられる。

現京都府である山城、現大阪府である河内、和泉、現在の大阪府、兵庫県である摂津、現和歌山県である紀伊、現徳島県である阿波などにみられる。

松尾芭蕉は、伊賀国阿拝郡柘植村の出。



http://folklore.office-maeta.jp/719.htm
松尾(まつお)


# 98位

# 代表家紋: 五瓜に唐花。
 清和源氏、桓武平氏などに見られる。

# 「神木(松)が生えている、山の裾が延びた土地(尾)」を表す地形由来の名字。「松」の字は縁起が良い

# 地名姓で各地に見られるが、特に九州西部に多く見られる。

# 甲斐の松尾氏は甲斐国巨摩郡松尾(山梨県甲斐市・甲州市塩山)をルーツとする清和源氏で、武田信賢が甲斐国松尾(山梨県)に移り住み松尾氏を名乗ったのが始まりと言われる。

# 信濃の松尾氏は信濃国伊那郡松尾郷(長野県飯田市)をルーツとする清和源氏_小笠原流。

# 奥の細道の松尾芭蕉は伊賀国阿拝郡柘植(三重県伊賀氏)の出身で伊賀国藤堂藩の料理人の松尾一族の出。

# 愛知県の松尾家: 名古屋の茶道家で松尾流の家元。

# 歌手の松尾和子は東京都出身。女優の松尾嘉代は東京都出身。タレントの松尾貴史は兵庫県神戸市出身。タレントの松尾伴内(本名:憲造)は長崎県大村市出身。

【戦国大名家辞典 森岡浩 東京堂出版】より
# 島根県の松尾氏: 出雲国の尼子氏の家臣。

■ 松尾(まつお): 長野県飯田市松尾。地名は松生で、松が生い栄る地の意とも言われる。

■ 松尾(まつお): 山梨県甲斐市大下条松ノ尾。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月02日 00時58分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 寺田五郎右衛門は天心一刀流の祖で、生存したのが1745〜1825であるとい
うことですので、一人前になる歳を20歳とすれば1765年・・・10代将軍
家治の時代に生きた人間ということになります。とも様の「市野家親類書」
によれば、眞郷より4代目の惣十郎正勝が宝暦14年(1764)云々、の時代以後
のこととなります。
 寺田氏系袴田惣太夫が市野惣太夫となったというのは、現子孫さんが言って
いるので間違いないとして、どこでつながるのか浅井氏流市野氏があり、市野
茂左衛門義久の時、家康に仕えたと『静岡県の苗字』の渡辺光義氏は言ってい
ます。
 いずれにしても、市野氏は謎の多い氏族には違いありません。しかも家康
にからみ、小早川、柳生、そして地元では青山氏ともからんで来る。松島氏
ともからむ。市野の代官・・・それも秋鹿氏と同じく天領の代官となってい
る。市野氏の菩提寺としては宗安寺がありますが、もうひとつからむのが、
謎の寺「安養寺」。先日伊那へ行って伊那にも安養寺があるのを知りました。
この「安養寺」が市野にあります。市野氏がからんでいます。
 その他にも、上野国新田郡、近江国犬神郡、近江八幡市、掛川市にそれぞ
れ「安養寺」があります。何か意味深な土地群です。
 調べてみますと、伊那の「安養寺」は「知久氏」が開祖。真言密教の修験
道場ということであります。また、知久頼氏は1583年、浜松城にて不慮の自害
をしております。
 その子、則直はその時6才、やがて23才の時、家康の小姓組として関ヶ原
に出陣しています。

 まだ深堀りしてありませんので、これくらいにしておきます。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月02日 06時25分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 寺田氏についてですが、あを様先日ご指摘されました「遠江の名家であっ
た原氏は市野氏の前進である袴田・寺田とつながる。原氏は竹原の小早川家
に逃げた。だから市野の子孫が小早川家の重臣になってもおかしくない」と
いうことですが、これは正に当たっています。
 私の知人が福田にいますが、昔は別珍コールテンで有名なところでしたが、
「寺田」が多いです。それは何故なのかと調べましたら、寺田氏は原氏が元
祖でありました。
 原氏の10代目が「原忠政」
    11代目が「原忠頼」
    12代目が「原頼景」
    13代目が「原景泰」・・・この景泰が寺田氏の元祖

 遠江もまたいろいろな氏族の勢力地図の変遷・栄枯盛衰があったわけです
が、「原氏+斯波氏」 と「 北条氏+今川氏」のせめぎ合いがあり、原氏グ
ループは敗け、原氏一族は原野谷川を下った。寺田氏の一部は福田に隠棲し
た。原野谷川河口は福田港である。つまり、原野谷川は水運・交易の動脈で
あった。そこは、水軍・海賊(海の豪族)とつながっている世界であった。
 武田氏も水軍を持っていた。原氏は武田水軍と近く、それを利用して竹原
に行ったようです。というか、逃避する前に水軍・海賊との関係が築かれて
いた。一例として、16代原頼清の妻は、大三島(瀬戸内海)の三島水軍武将
重見氏の娘であったということです。

 また、寺田氏は武術家を輩出しています。寺田真宗(初代市野惣太夫の祖
父)の同族に寺田清兵衛がおり、この一族の子孫に江戸後期、周智郡園田村
(森町)の住人、日置(へき)流印西派弓道家「寺田信富」がおり、また志太郡
大住村の住人「寺田八平」は田中藩本多氏の砲術師範となったということで、
市野氏の周りは武術にからみます。惣太夫の得意分野の馬も騎馬、即ち武術
にからみます。
 柳生氏との関係、さもありなんであります。
 
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月02日 11時43分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


驚きました。


寺田氏の前身が原氏で妻で三島水軍と関係があり更に小早川に繋がるのですか。
浜松と竹原は地図上では物凄く離れていて全く関係が無いように見えてイエイエ実は

    問題は物理的な距離じゃない

ということですね。「血」ですね。


我々日本人は何重にも血で結ばれているんですねえ。知らないだけで。
三つ柏さんとワタクシも名字だけの繋がりじゃない、実は、血でも繋がっていた
ということですね、
知らなかっただけで。
[61]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月03日 00時59分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 猛烈な暑さでたまりません。おまけに湿度が高いので、冷房なしでは熱中
症になってしまいます。日本も熱帯化して来ました。このままで行くと、夏
は40℃に達するのは間近でしょう。

 さて、小堀遠州についてですが、ある本にこんな文章がありました。
 「忍者の職掌的な意味での出自はお庭番であり、山野を駆け巡って適当な
 庭石や庭木を探し、それを運んで造園することだったから云々」
 小堀遠州はある意味お庭番として、情報収集の役割を果たしていたのかも
知れません。

 情報収集といえば、「茶の湯」が正にそうでありました。
 小堀遠州は「古田織部」に茶の湯を学んだ。織部は千利休の七哲の一人と
言われる。 
 茶人としては、利休と並び、今井宗久、津田宗久が「天下三宗匠」として
有名である。

 古田織部は、徳川方について、茶の湯の弟子であった常陸の大名佐竹義宣
を関ヶ原の合戦では石田三成に加担しないよう説得して、家康から1万石の
加増を受けたという。
 しかしながら、大阪城落城後は一転、豊臣方への密通の嫌疑をかけられ切腹。
 千利休もまた秀吉に切腹させられている。
 利休と織部、つまり師匠筋は二人とも切腹というおそろしい結末を迎えて
いる。
 小堀遠州は、遠州流茶道を確立し、しかも「伊賀」焼という茶器を創出して
いる。
 「お庭(番)」「茶道」「伊賀(焼)」・・・遠州の謎ははますます深まります。
 
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月03日 02時10分37秒 ) パスワード

伊賀焼き


始まった頃は水瓶や種壺、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じ古琵琶湖層由来だったため、信楽焼とほとんど区別がつかなかった。


だが桃山時代の天正年間後期に入ると、伊賀領主となった筒井定次が、阿山の槙山窯にて茶の湯に用いるための茶壺、茶入、花入、水指などを焼き始めた(筒井伊賀)。


これらにはビードロ釉(ゆう)と呼ばれる緑色の自然釉が見られる。焼き締まった赤褐色の土肌に吹き出た無数の長石粒と折り重なり、質朴でありながら風流な焼き物となったのである。


                     ココからですね↓

その後は小堀遠州によって「遠州伊賀」と呼ばれる伊賀焼が焼かれた。

これは前者の「筒井伊賀」とは対照的に瀟洒な茶器である。

その後は藤堂高次による「藤堂伊賀」も発生したが、これはすぐに衰退している。


その後興廃を繰り返すが、江戸中期には京都や瀬戸の陶工を招き、施釉陶の技術がもたらされた。

これらの時期を「再興伊賀」と呼ぶ。
そして「再興伊賀」以降は茶陶はほとんど焼かれなくなる一方、土鍋や行平、土瓶などの日用食器が中心となっている。

1982年11月には国から伝統的工芸品の指定を受けている。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月03日 02時12分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本の湿度で38度を超えたら、もうぐったりですよね、
今年は40度近くある所が結構ありますね。
熱中症にはくれぐれもお気を付けください。


ラスベガスのような砂漠では湿度が低いので40度を超えてても過ごし易いです。


こちらの最高気温ははせいぜい34度あたりかな?と思います。
湿度は結構高いのですが
それでも朝夕は快適ですよ。


   

50年住んでる人によるとやはり湿度も気温もここ数年非常に上がっているそうです。

太陽さえ出てなければなかなか快適なんですが。

太陽が出たらUVインデックスがすごいことになります。
直射日光はものすごく厳しいです。
サングラスが無ければ目が痛くなります。

   若い時はサングラスはしてなかったんですが
   今は確実に白内障に突撃の世界です。笑
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月03日 02時19分03秒 ) パスワード

なるほどね


良い隠れ蓑ですね。
   市野惣太夫は「馬」を隠れ蓑に諸国を歩き回り
   小堀遠州は「庭石」を隠れ蓑に諸国を歩き回ったのかもですね。


そして小堀遠州の「伊賀焼き」ですか。
まさか「伊賀」という名称が出て来るとは。


茶室って
茶の席では野暮な話はしない
        というのは大勢いる時のハナシ

師匠と客1人だけの時は実は生臭いハナシをしていたのかもですね。
そしてその場を提供してたのかも。

        今で言う「密室」「密談」ですね。


小堀遠州って表の顔とは随分違っていたということですね。
本当の顔は  ヒ・ミ・ツ  だったんでしょうね。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月03日 02時33分30秒 ) パスワード

なるほどね
小堀遠州と市野氏の前身は浅井家で繋がるのかもですね。

     市野氏の先祖がどの時代に浅井に仕えてたか、近江のどこに住んでたのか、
     これが分かると良いですね。

実は昔々から市野氏と小堀家は親しい関係にあったのが
市野氏は遠江に転居したから我々には市野氏と小堀氏が赤の他人に見えただけ
かも。


     小堀遠州の「遠州」も何か意味があって官位に「遠江守」を頂いたのかもですね。



http://guide.travel.co.jp/article/6764/
養源院



「小堀遠州と四季折々の養源院」

父親が浅井家・豊臣家に仕えた、作庭師・小堀遠州による庭があります。

阿弥陀ケ峯を遠くに望む形で庭園が造られ、茶室もあったそうです。
現在、その庭は本堂の裏手となっていて、開放していません。
しかし山門から参道、本堂周辺は、春には八重枝垂れ桜、秋には楓紅葉と四季折々の風景が楽しめます。
また伏見城から移築した、秀吉手植えの「やまももの木」も樹齢400年。
大きな存在感を放っています。



遠州
天正7年(1579年)、小堀正次の長男として生まれる。

父・正次は近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、
縁戚であった浅井氏に仕えたが、浅井氏滅亡後は羽柴秀長の家臣となった。

天正13年(1585年)、秀長は郡山城に移封されると、正次は家老となり、政一もともに郡山に移った。



父・小堀 正次(こぼり まさつぐ)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
備中松山藩初代藩主。小室藩小堀家初代。
小堀遠州の父。

略歴[編集]

天文9年(1540年)、小堀正房の長男として近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、出家したが還俗して磯野員昌の娘と結婚した。

員昌が浅井家から離反したことにより再び出家するが、またもや還俗して羽柴秀長に仕えることになる。

最初は1,000石の知領だったが、秀長・秀吉の元で政治手腕を買われて、主に紀伊国や大和国の検地代官を務め(紀伊や大和は寺社勢力が多く、検地が容易でない事からも、その手腕を買われていた事がわかる)、次第に加増して5,000石に達した。

秀長の没後は秀吉に仕えて大和・和泉・紀伊の郡代に任ぜられている。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、会津征伐に従軍。戦後、備中松山に1万4,000石を与えられ、備中における天領の管理も任された。また、備中や近江における幕府の検地などにおいても、大いに功績を挙げ、慶長6年(1601年)には、伏見城の作事奉行も務めている。

慶長9年(1604年)、江戸へ参勤に向かう途上、藤沢で急死した。跡を長男の政一が継いだ。
[67]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月03日 06時37分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ほんと、昔は夏が好きであったのですが、最近は夏が怖くなりました。命
の危険を感じます。へたをすると、蒸風呂の中と一緒で体温が上がってしま
うので。湿度さえなければまだいいんですが・・・。

 市野氏と小堀氏に共通するキーワード―
 @近江
 A浅井氏
 B代官・検地
 C伏見城
 D関ヶ原・東軍
 ひょっとすると、龍潭寺(小堀遠州庭)の「井伊直政」も関係してくるかも
知れません。
 また、「藤堂高虎」(小堀遠州の妻は高虎の娘)も関係してくるかも知れま
せん。
 いずれにしても、市野という場所の歴史、市野氏の経歴をもっと調べなけ
ればなりません。
 また、「養源院」―即ち、浅井三姉妹も関係してくるかも知れませんね。
 養源院についてもっと調べてみる必要がありそうです。
[68]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月03日 11時26分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私が最近入手した古文書で「市野」に関するものがございます。
 それは小作人と庄屋との間の「賃貸契約書(米による年貢の取り決め)」で
ございます。その中でわかったことは、小池村と市野村の関係ですが、もち
ろん隣り合わせになっている訳ですが、正式には「市野小池村」ということ
で、市野の中に小池村が含まれる形となっていました。
 ということは、小池村といえば服部半蔵の領地でありましたので、市野氏
は半蔵の支配を受けていた可能性があります。

 そして一連のつながりが見えてきました―
 @寺田系市野氏―水軍―A小早川隆景―B小早川秀秋=C浅井氏―D伊岐
系市野氏―E柳生氏―F松下氏―G島氏―H藤堂氏(=I小堀遠州)―J服部
半蔵―@寺田系市野氏

 文献や記録の少ない人は忍衆とつながっている可能性あり。特に市野氏は
アヤシイ。松下系ともつながっていた可能性も大です。市野と頭陀寺はそんな
に遠くない。市野には昔、砦があったようですし、井伊氏の祖先もかかわって
いた可能性もあります。市野を詳細に調べる必要があります。
 
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月03日 14時49分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


1番下に小堀遠州の母方祖父についてコピペしました。
なかなか興味深いですよ。



市野氏の前身の寺田氏+袴田氏が浅井家とどう関わっていたのか
もしかすると
本当に小堀氏と近江で関係してたかもですね。

     小堀遠州の母上は浅井と親戚の磯野氏の娘ですから
     市野氏の前身はこの辺りの家臣だったかも。


わたくしの母方も秀吉や浅野(浅井ではなく浅野)に絡みますから
    まさか、市野氏とも先祖達が知り合いだったのではないか?
    が現実を帯びて来ました。
    笑



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%87%8E%E5%93%A1%E6%98%8C

小堀遠州の母方祖父:
磯野 員昌(いその かずまさ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏の家臣。近江佐和山城主。

                                     佐和山城主だったとは!!!


浅井氏家臣時代[編集]


磯野氏は代々京極氏の家臣であったが、浅井亮政の台頭に屈する形で浅井氏の配下に加わる。員昌の父・員宗は磯野氏の一族筋から養子として佐和山城を本拠に持つ磯野員吉に迎えられている。

主家筋の磯野山城を本拠に持つ磯野氏は浅井亮政によって滅ぼされている。


父の死後、叔父の員清が家督を継ぎ、その跡を員昌が継いだ。員昌は佐和山城を本拠とし、武勇に長けたことから対六角氏戦で度々武功を重ね、合戦では浅井軍団の先鋒を任されるようになる。


元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いでは、織田軍に深く斬り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫ったが、後に控えていた織田側の稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就らが駆け付け、その後、朝倉軍を撃破した徳川家康軍の増援もあり、浅井側は総崩れとなり敗退した。この員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残る(浅井三代記)[1][2]。



織田氏家臣時代[編集]

姉川の戦いの後、浅井氏の小谷城との陸路は横山城を拠点とした織田軍により分断され、佐和山城は敵中に孤立する状態となっていた。そのため、員昌は翌元亀2年(1571年)2月24日、佐和山城を攻撃された際に信長に降伏した(信長公記 巻3)。

降伏後、員昌は佐和山城と引き換えに、近江国高島郡を与えられている。この頃、織田家の宿将は、琵琶湖周辺に配置されており、この高島郡の拝領は、「横山の木下藤吉郎、佐和山の丹羽長秀、安土の中川重政、長光寺の柴田勝家、永原の佐久間信盛、宇佐山の明智光秀」と同等という破格の待遇であった。員昌の武功は織田家でも認められていたと考えられる。但し、信長の甥・津田信澄を嗣養子とさせられている(丹羽家譜伝)。


その後、員昌は天正元年(1572年)9月の杉谷善住坊の捕縛(信長公記 巻6)、天正3年(1574年)8月の越前一向一揆の鎮圧(信長公記 巻8)に従軍している。

しかし、天正4年(1576年)正月には、津田信澄が高島より上洛しており(兼見卿記)、また、同年12月に朽木商人宛に、天正5年(1577年)閏7月には横江祟善寺宛に、津田信澄が安堵状を発行していることから、この頃には員昌の権益は縮小、又は家督の譲渡が行われていたと考えられる[3]。



出奔とその後[編集]

天正6年(1578年)2月3日、員昌は信長の意思に背いて叱責され出奔し、領地の高島郡は津田信澄に与えられた(信長公記 巻11)。信長の叱責の内容は不明であるが、一説には家督を譲るよう、信澄や信長が迫ったが拒んだためともいう。

出奔後の員昌も行方は確かではないが、本能寺の変において信澄や信長が亡くなると高島郡に戻って帰農し天正18年(1590年)に死去した。享年68歳[3]。


息子(磯野行信)以下の一族は石田三成、後に藤堂高虎(高虎は天正年間に、員昌に仕えていた)に仕えて家名を存続させた。孫の磯野行尚は、大坂の陣で藤堂軍に属して八尾・若江の戦いで増田盛次を討ち取る功績を上げている。

娘は小堀正次に嫁ぎ、茶人・小堀政一を生んでいる。

[70]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月04日 01時27分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 つまり、小堀遠州は身辺に有力者の後光が光っていたということになります。
 @父は豊臣秀長の家老であった。
 A母は元佐和山城主で勇猛だった磯野員昌の娘であった。
 B妻の父、即ち義父は藤堂高虎であった。
 C義父高虎の正室の血縁者が金地院崇伝であった。

 藤堂高虎は家康によく仕え、信頼が最も高かったので、遠州もおおいに活躍
できたことになる。造園は、藤堂高虎(築城)とのコラボであったといっても過
言でない。
 藤堂高虎や金地院崇殿、あるいはその関係人脈との人間模様を探ってみたい
と思います。ようやく小堀遠州の全体像が見えて来ました。

[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月04日 07時58分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


>ようやく小堀遠州の全体像が見えて来ました。

ですね
ちょっとどんな人か見えて来ましたね


で、何故遠州と呼ぶのか、分かりました。
http://www.geocities.jp/dachikun2004/koboriensyu.html

滋賀県の生まれ。

1608年に普請奉行として駿河城を築城した功で遠江守に任ぜられた。

                  駿河城築城とはビックリ!
                  ということは家康から物凄く信頼されてた、ということですよね。

                  「遠江守」の官位をもらったこと以上に驚きました。


                   家康との関係を深く探る必要がありますね。
                   市野惣太夫がなにやら絡んで来る気配があります。



様々な場所に庭園を造った。三大茶人の一人である。


三代将軍家光の茶道師範を務めた。

               これまたビックリですね。
               家光とは。

               秀忠はすっ飛ばしたのでしょうか?


「人間」って興味深いですね。
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月04日 08時43分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家光というと柳生宗矩、金地院崇殿(そしてその後の沢庵和尚)、将軍家に
近づく環境は整っていたということです。あとは能役者が誰だったかという
ことになります。この辺を調べてみます。
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月04日 08時50分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 養源院というお寺、京都の東山の三十三間堂の北側にあったと思います
が、かつて一度訪れていますが、以前は歴史にあまり関心がなかったので、
あまり覚えていません。たしか小堀遠州作の庭園があったようですが・・
・。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月04日 10時24分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

江戸初期の能楽者についてちょっと調べました。
http://www.the-noh.com/jp/trivia/116.html


能は、どのように江戸幕府の式楽となったの?

豊臣秀吉の能好きは有名ですが、徳川家康も大の能好きでした。
家康は、秀吉の軍門に下る以前から、室町将軍家に倣って謡を始めていましたが、天下をとると、
当時豊臣家直属であった四座(観世、宝生、金春、金剛)を、大阪から自分のお膝元の駿府に移し、保護しています。


続く徳川秀忠は、金剛座の名人で、一時は大夫にもなった北七大夫長能(きたしちだゆうながよし)の姓を喜多に改めさせて、取り立て、後に喜多流が創設されます。


                  喜多って去年しきりに出て来たような?


秀忠や次の家光の喜多流びいきに、多くの地方大名が倣い、喜多流は全国へ広まります。
このように、江戸初期の武家社会での能の普及・発展は、将軍家の覚えをめでたくしようとする諸藩大名の外交辞令的な面もありました。



能が幕府の公式行事で演じられる「式楽」として定着したのは、三代・家光、四代・家綱の時代です。

この頃には、老中や若年寄といった官僚制度の中で、能役者や上演演目が管理されるようになりました。


能役者は、武士の身分に取り立てられ、俸禄を与えられましたが、一方で、政治的な影響も強く受けるようになったのです。




江戸時代の、能役者出身の大名とは?

江戸時代初期に幕府の式楽となった能は、17世紀後半〜18世紀初頭にかけて隆盛期を迎えます。
5代将軍・綱吉の能好きは有名ですが、6代将軍・家宣もまた能の愛好家でした。

それを示す一例が、能役者から「お側御用人」になり、大名にまでなった間部詮房(まなべあきふさ)のエピソードです。

詮房は、家宣が甲府藩主・徳川綱豊であったころの藩士・西田清貞の息子でした。
喜多流の樹立を許されたシテ方の喜多七太夫の弟子となっていた詮房は、甲府藩主時代の綱豊の目に止まり、用人に取り立てられました。

1704年に綱豊が6代将軍となると詮房も幕臣となり、将軍の「お側御用人」となり、ついには高崎藩5万石の大名となります。

能役者から大名になった例は、詮房の他にはありません。


詮房は、新井白石とともに家宣の治世を支え、「正徳の治」といわれる政治改革を断行しました。

また一方で、当時将軍が好んだ能の珍曲探しに奔走し、復活上演するなど、能に関わることにも力を発揮しています。

家宣時代の能の上演記録に、詮房が「籠祇王」を舞ったという記述がありますが、この曲は、おそらくこれ以前には上演されたことがない、珍しいものです。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月04日 10時28分58秒 ) パスワード

http://www.the-noh.com/jp/trivia/102.html

能・浜松・家康もちらっと出てます。



Question102 戦国時代の能のパトロンは誰?

応仁の乱からの戦国時代、幕府の威光が失われ都が荒廃すると、足利将軍家の庇護を受けていた能も窮地に追い込まれました。畿内を本拠としていた能役者たちは、一座を維持するため、新たなパトロンを求めて地方に下りました。


金春禅竹の孫、金春禅鳳は九州の大友氏を頼りました。


宝生家は、小田原の北條氏に仕えたといわれます。


                                   浜松が出てますよ!

また当時、都で人気のあった観世元忠は、浜松に下って早くから徳川家康の保護を得ています。


一方、大鼓方の大蔵二助虎家は、上杉謙信の贔屓を受けて越後(現新潟)に滞在した後、京へ戻って名を上げました。


都から地方へ、地方からまた都へと文化が流動する動きが生まれていたようです。


戦国時代の群雄割拠は、能文化の全国的な普及を後押ししたと言えます。
後の安土桃山時代、江戸時代に能が隆盛する下地になったことでしょう。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月04日 10時51分11秒 ) パスワード

三つ柏さん  

事件ですよ!
服部保長系次男の子孫に関係する福王家が  能  に関わってました!  福王流ですって。

       服部保長の三男が半蔵です。


父・服部宗巴(福王盛親)   子・服部宗磧(福王盛信)など


実は服部保長の次男の家=保正の子孫の家の流れ
     ここは加賀爪・小野・青木・真田・松平・向井・朝倉・足立などと関係して

    寛文3年1663年家綱の時代の服部保昭(やすてる)の妻が福王平右衛門信定の娘。

         また後妻が井上から来ている。


    保昭の子の保苗(やすみつ)の妻が福王平四郎定長の娘


ということでビックリ!



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B1%B1%E4%B9%9D%E9%83%8E%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80

片山 九郎右衛門(かたやま くろうえもん)は、シテ方観世流能楽師の片山家の当主が代々名乗る名である。片山家は初代以来現在に至るまで京都で活動し、江戸時代には禁裏御能に出勤するとともに、京阪地方の観世流の統括役でもあり、「観世流の京都所司代」と目された[1]。また京舞井上流との関わりでも知られる。


能の家としての片山家は、初代・豊貞が丹波国氷上郡片山村(現・丹波市山南町)から出て、京都に移住したことに始まると伝えられる。豊貞は1728年(享保13年)に没したとされるが、その生涯、出自については詳しいことは解っていない[2]。

玄人の能役者として、本格的に活動するようになったのは2代・豊慶(幽室)以後と見られる。幽室は当初観世流の素人役者・阿佐太左衛門の教えを受けていたが、若くして父を喪い、その後江戸に出て14世観世大夫清親の弟子となった[3]。


                           ここです!服部宗巴(福王盛親)の息子 服部宗磧(福王盛信)

当時京都では、9世観世大夫黒雪の甥である服部宗巴(福王盛親)以来、型・囃子を伴わない素謡による演能が盛んに行われていた(いわゆる京観世)。宗巴死後はその門人の竹村甚左衛門・小川庄右衛門、のち宗巴の子・服部宗磧(福王盛信)がこれを主導し、また彼らの門弟である岩井・井上・林・浅野・薗が、京観世を代表する家として五軒家と称された[4]。そして1721年(享保6年)に宗磧が没した後は、その未亡人である智清尼が京都の福王流、ひいては京観世全体を取り仕切る立場にあった[5]。

そんな中で京都に戻った幽室は、宗家の直弟子であり、また京都では数少なかった型の修業をした立方の役者であったことから周囲の信望を集め、自然と京都観世流の中心人物となっていった。そして以後、歴代の片山家当主がこの「関西の観世流の総支配人」と言うべき地位を代々継承していくこととなる[6]。また明和年間からは禁裏での演能にも出演するようになり[7]、この役も代々引き継ぐこととなった。

明治以後も京都観世流の名門として、関西における流儀の中心的な地位を担う。また幕末〜明治期の当主であった6代・晋三が京舞井上流家元・3世井上八千代と結婚して以来、井上流と密接な関係を持ち、4世八千代は8代・博通の夫人、5世八千代は9代・幽雪の娘である。7代・博祥(観世元義)を養子に迎えて以来観世宗家とも血縁にあり、24世観世宗家・左近(元滋)は片山家から出ている(元義の長男)。

1996年(平成8年)、片山家能楽・京舞保存財団を設立。

2010年(平成22年)1月、9世九郎右衛門(幽雪)が当主を長男・清司に譲り、清司は2011年(平成23年)1月に10世片山九郎右衛門を襲名することを発表している[8] 。

歴代当主[編集]
初代 - 豊貞
2代 - 豊慶(幽室)
3代 - 豊正
4代 - 豊泰(真助)
5代 - 豊尚
6代 - 豊光(晋三)
7代 - 博祥(観世元義)
8代 - 博通
9代 - 博太郎(幽雪)
10代 - 清司

主要な関連人物[編集]
3世井上八千代(6世の妻、8世の祖母)
観世清孝(7世の父)
観世元滋(7世の長男、8世の実兄)
4世井上八千代(8世の妻、9世の母)
片山慶次郎(8世の次男) 片山伸吾(慶次郎の子息)

杉浦元三郎(8世の三男、杉浦友雪の養嗣子) 杉浦豊彦(元三郎の子息)

5世井上八千代(9世の長女)
9世観世銕之丞(5世八千代の夫)
[78]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月04日 10時54分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 能楽師の件、調べていただき本当にありがとうございます。これで、大福
寺にいた喜多流能楽師の服部親子の謎が少しわかりそうです。

 最近能楽に興味がわいてきました。世阿弥の「秘すれば花」と「柳生新陰
流」は底流してしていそうですし、芭蕉の「蕉風」の俳句の世界にも底流し
ているような気がしています。芭蕉の謎にはまだ迫れませんが、いずれはと
思っております。

 幽玄の世界から湧き出して来るイメージは、いわゆる今という一瞬の現実
空間に、時間も空間も超越してしまった霊的世界が広がるといったイメージ
を感じております。

 能楽がどんなものか、今後いろいろ経験してみたいと思っております。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月04日 10時56分12秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101478.html

そろそろスレッド47に移ってくださいね。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月04日 11時02分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<77>もお読みくださいね。


喜多流の能楽師は確か伊勢に行ったんじゃなかったでしょうか?

伊勢の桑名は半蔵の子孫が失脚して桑名に引き取られましたよね。


そうしますと半蔵関係者からも能楽師が出てた?


すごいことになって来ましたね。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月04日 11時11分24秒 ) パスワード

http://www.bea.hi-ho.ne.jp/eizo-eye/takiginoh_006.htm

  天正3年の長篠の戦いの際、功績をあげた奥平信昌が、家康の命で新城(しんじょう)を築き、この竣工祝いで翌年、二の丸にて勧進能を四日間興行。この時、観世与三郎(後の九世観世右近太夫)を招いて行いました。
          (太田白雪「新城聞書」)

 1586(天正14)年7月10,11日
  家康が駿河、遠江、三河、甲斐の四カ国に下知して、それぞれ二カ所で勧進能を興行させ、三河では吉田(今の豊橋)と新城で行われました。
 観世大夫による能と城主奥平信昌による鼓も行われました。 (当代記)

  祭礼能を始めた当初は、掛け小屋式の屋根もない簡単なもので敷き板のみで行われたそうですが、途中で組立式に代わりました。その後1802(享和2)年8月に建立の棟札が、さらに1826(文政9)年に再建の棟札が現存の能舞台に残っています。
 普段は戸板で閉ざされていますが、秋の祭礼の時には、二週間ほど前から祭礼当日までの間だけ開けられます。(富永神社所蔵)

  新城菅沼家三代目城主定用(さだもち)公の家督相続を祝って、元文元年8月14日、町民が天王社(現在の富永神社)祭礼時に社前で舞囃子を奉納しました。これが例となって、以降毎年、神社大祭(現在、10月に祭礼)に氏子たちが社前で能を奉納するようになりました。社会情勢で一時中断の時期もありましたが、祭礼が行われない年も能だけは奉納し続け277年の今日に至っています。
 元文元年以降の祭礼能の経過は、故大原紋三郎著書「祭礼能番組帳解説」に上演年、番組、出勤者などを始めとして詳細に記されています。市無形文化財保持団体「新城能楽社」
 

  1648(慶安元)年
  丹波の亀山から菅沼定実(さだざね)が当地へ7千石で移封されましたが、風流な城主で桜淵(豊川河川を中心にした桜の名所)を開発され、特に能を愛好し、それが町民の間にも普及して盛んに行われるようになりました。




宝永5年1708年  新城能楽喜多流起源
                        ココ

  菅沼家二代目城主定易(さだやす)の許しを得、遠州三ヶ日の喜多流能役者服部三左衛門正信(伊勢国菰野の藩士で宗家二代目左京直能の弟子。しばらく三ヶ日の大福寺に寓居していた。)と友清親子が新城裏野(本町)で勧進能を2月9日から12日にかけてひらいたところ好評により22日まで延長しました。
[82]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月05日 01時37分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は炎天下で草刈り(芝刈りではない)、草刈り機で刈る草刈りをいたしま
して結果、野草の花粉による花粉症(目・鼻)、日焼け、あせも、疲れと、ひど
い状態にあります―

 能楽の世界は怪しく不思議な世界ですねえ。幽玄というのは忍術に似ていま
す。もっとも似て当然なのです。楠木家や服部家が創成時よりからんでいる。
情報収集のネットワークを担っている。
 観世流、喜多流とあを様調べて下さった。

 大蔵流と言えば、あの「大久保長安」がまさにその能楽師の家系の人間であ
ります。父親は「大蔵太夫金春七郎喜然」といい、「長安」はその次男である。
 曾祖父は「禅竹」即ち「世阿弥」の娘婿の「金春流五世七郎氏信」である。
 大蔵太夫の家は金春坐の中でも特に有力な傍系で、金春宗家に次ぐ名門であ
ったという。

 そして金春七郎と言えば、あの柳生宗厳より新陰流の印可を受けた「金春
七郎氏勝」とつながる。「氏勝」は「氏信(禅竹)」の七世孫となる。即ち、
「禅竹」を初代とすると四代目が「長安」、七代目が「氏勝」ということに
なる。
 その金春家と柳生家は関わりあいが深く、互いに奥儀の交換を行っていたと
いうことです。
 服部―観世―柳生―金春・大蔵/大久保長安とみごとにつながります。

 さらに、それぞれは大和に近く、また観阿弥率いる「観世座」は春日大社
の神事能に奉仕しており、柳生の祖は春日大社の神人であったということて゜
あります。

 さらに、長安はいわゆる長安事件により本人も、七人の息子もすべて処刑
されてしまいますが、その時、東北の松島大明神の大宮司の娘を母とする長安
の二才の息子がおり、事件に無関係の松島を名乗り、宇都宮兵庫という家来
に養育されたということです。当初は近江にすみ、やがて石見に移ったとい
うことであります。
 松島という名前には何か不思議ないわくが付きまといます。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月05日 02時22分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


夏の炎天下の草刈りは危ないですね。
熱中症にもならないように気を付けてくださいね。


>服部―観世―柳生―金春・大蔵/大久保長安とみごとにつながります。

はい
能の世界でも忍者と繋がりますね。

服部半蔵の子孫が大久保長安と関係を持ったというのも納得ですね。




福王氏

【読み】ふくおう,ふくお
【全国順位】 26,648位
【全国人数】 およそ100人      絶滅の危機ですね。


徳川家に仕える幕臣福王氏は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
近年、関東地方に多数みられる。
「福」は深・吹などが転化したもの。



http://www.geocities.jp/tokaigakko/page-175.hukuo.html

福王山・尾高山 598m・533m/三重県菰野町       ←  菰野が出ましたよ  ビックリ


                  この近辺は平家の藤原忠清一族が敗戦後隠れ住んだ所じゃないかと思います。

                  信長の時代に服部友貞が謀殺された近所じゃないかと。


          ということは福王氏はもともと平家方とか南朝方だったのかな?と想像します。




 岐阜、愛知と続いたW低山の第三弾は三重県にしました。鈴鹿にぴったりの低山があります。その近くを東海自然歩道が通っている菰野町の福王山と尾高山です。

 麓には福王神社と尾高観音があります。神社には聖徳太子が1200年前に毘沙門天を安置しました。また観音には、太子作の千手観音を安置した六角堂が佇んでいます。

 由緒ある所です。一帯は釈迦ケ岳の東側山麓であり尾高高原と呼ばれています。教科書の著者西内氏が、福王山で「一度は訪ねてみたい山」という文章を挿入しました。


 それは一度で十分という意味か、確かめてみましょう。


福王神社本殿に着き参拝。造営1200年になるそうですが、当時かかわった人々は、1200年後を想像できたでしょうか。




http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/aiueo-zenesi/se-zenesi/sessin-hukuou.html

浮世絵文献資料館


☆ せっしん ふくおう 福王 雪岑

〔 ? 〜 天明5年(1785)3月18日・享年未詳〕


 ☆ 天明五年(1785)
 
 ◯『増訂武江年表』1p215(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
  (「天明五年」)
  三月十八日、福王雪岑卒す(御能役者、福王茂右衛門也。一号白鳳といふ。
   英家の画を学び、宝暦の頃より能の図を画けるもの、巻物掛幅等数多なり。深川心行寺に葬す)




 ◯『日本美術画家人名詳伝』下p362(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)
  福王雪岑
   名は盛動(ママ)、雪岑は其の号、又白鳳軒ト云フ、通称ハ茂衛門、初英一蝶ノ画風ヲ学ビ、後チ土佐ヲ
   慕ヒテ、能及ビ狂言ノ図ヲ巧ニス、毎画彩色緻密ニシテ上品ナリ、其ノ遺蹟世ニ散在ス、然レドモ山
   水花鳥及ビ水墨ノ画ハ未ダ之ヲ見ズ、天明五年三月十八日歿ス、深川浄深寺ニ葬ル
 
 ◯『野辺夕露』(坂田篁蔭諸遠著・明治二十五年(1892)成立・国立国会図書館デジタルコレクション所収)
  福王雪岑墓
   深川浄心寺に在り、天明五年三月十八日死、雪岑俗称福王茂右衛門、観世太夫の脇師、能役者本業也、
   一号を白鳳と云、英家の画法を弄て大に其風を得たり、宝暦の頃より能の舞図を画ける巻物、或は掛
   物等有(り)、今は稀也、在れば珍画也
 
 ◯『浮世絵師便覧』p240(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
  雪岑(ギンのルビ)
   一世一蜂の門人、名は盛勝、白鳳軒、旭翁と号す、俗称福王茂右衛門、能役者にして、善く能狂言の図
   を画く、天明五年死
   〈雪岑の読み「せっしん」を誤植したか〉  




福王氏、名は盛勝、俗称茂右衛門、白鳳軒・旭翁と号す、能役者にしてよく能狂言の図を画けり、深川浄心寺に葬る。




http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/kita/shoukai/shoukai/machishoukai/1-3-6.html

厳嶋神社(獅子舞宮)(南僧尾) バス停:神姫バス 南僧尾バス停

創建年月は、永正11年(1514)。神社に伝えられている獅子舞は、中世に居住していた能の一派「福王氏」が創設して奉納したものであり、類例の少ない雄獅子で古い伝統を有するものである。



             中世から?



http://fussball-leben.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_a5f1.html
サッカーの「ロアッソ熊本」の福王忠世

                            すっごく立派なお名前ですね。


福王の父は能楽師である福王流十六世の福王茂十郎氏、上の二人の兄も能楽師ということでも知られている。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月05日 02時27分24秒 ) パスワード

宇都宮兵庫は分かりませんが宇都宮氏は平家に仕えてました。

源平戦の末期に本拠地に戻って行きましたが
平家が滅びてから服部家の者が宇都宮氏を頼って落ちて行ったりしています。



松嶋さんというお名前は最近やたらと目に入って来ます。
つい最近も何かの取材に答えている方が「松嶋さん」でした。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月05日 02時30分12秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12103578577

幕臣福王氏



御家人分限帳に9家見られます
石高はどの家も低いです250俵前後で
一族の通り名は・・信(信之、信美、信近、信俊・・・)



鳥羽伏見の戦いの直前、
旧幕府軍が京都で警備にあたる部署を定めた記録の中に、「大津より三条橋 福王駿河守床勘之助歩兵一大隊」とあります。
守名が付いているところをみると、身分はそれほど下でもないようです。
この守備割はかなり知られており、鳥羽伏見の戦い関係の本にはよく出てきます。
手元にあるのは『七年史』です。
[86]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月05日 09時19分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正をさせていただきます。
 うっかりしました。大久保長安は生前には処刑されていませんが正解です。
何と、死後に裁かれています。

 さて、宇都宮氏の話が出てまいりました。この宇都宮家から出ているのが
大久保氏であります。大久保忠世の子、忠隣は小田原城主を世襲しています。
家老は服部氏。従って、その関係の背景には平家方の服部氏が宇都宮氏を頼
って落ちて行ったという事実があったことと整合性がとれます。

 忠隣は長安事件のあおりをくってしまいます。
 また、青山成重(服部正尚の弟、青山忠重の養子)は、大久保長安の三男を
養子としていたためにあおりをくってしまった。
 また、服部半蔵正成の次男正成重は、長安の娘を室にしていたためあおり
をくらう。
 もう一人の娘は大蔵正座衛門信弘(休岸)の後妻になり子供をもうけている。
その子(娘)が大蔵流(狂言)十四代の大蔵弥右衛門(栄虎)の妻となって、長安
の血は萩藩の松島氏とともに受け継がれている。

 そして、福王氏。たまたま自分のノート(この16カ月でA4のノート6冊
になっている)を確認していましたら、以前「千寿姫」の墓を探しに磐田へ行
った時のメモが残っておりまして、千寿観音堂の石碑に「福王26世亮三」と
いう文字が刻まれていたということが記録されていました。この人がどんな
人か知りませんが、たまたま記録しただけなのに、まあ何と後でつながって
くるとは、偶然の一致に驚いています。


 
 
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月05日 13時37分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


驚きでした。

ここで語り合っているのは中世から戦国時代あたりの人間像ですから
本当に日本人とは、ま、日本人の中でも狭い武士の世界の話ですから当たり前でしょうけど、
武士階級はみんな繋がってしまうんでしょうね。

   公家は公家でもっと身近く繋がりますからね。

PCの調子が悪いので、ここで終わります。
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