[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 06時42分12秒 ) | パスワード |
梶原景季の紋って
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 06時45分59秒 ) | パスワード |
1番上が佐々木高綱
真ん中が梶原景季
1番下が義経かな?
宇治川の戦い(うじがわのたたかい)
平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。
寿永2年(1183年)7月、信濃国で平家打倒の挙兵をした源義仲が数万騎を率いて入洛した。義仲軍は京で乱暴狼藉を働き、やがて皇位継承を巡って後白河法皇とも対立した。9月、義仲軍は備中国水島の戦いで平家軍に大敗、後白河法皇は義仲を見放した。10月、後白河法皇は鎌倉の源頼朝に東海道・東山道の支配を認める院宣を下し、頼朝に接近する(寿永二年十月宣旨)。
11月、起死回生をはかった義仲は院御所の法住寺殿を攻撃、後白河法皇を幽閉して政権を掌握した(法住寺合戦)。孤立を深める義仲は平家との和平を打診するが、拒絶される。12月、義仲は後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を発出させる。そして翌寿永3年(1184年)1月、義仲は征東大将軍に任命された。1月20日、頼朝は近江にまで進出させていた範頼、義経に義仲追討を命じた。
入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北と状況の悪化により脱落者が続出して千騎あまりに激減していた。義仲は義仲四天王の今井兼平に500余騎を与えて瀬田を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。
義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れる。佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」はこの時のことである。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 07時04分48秒 ) | パスワード |
調べて来ました:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1424951299
1)
姓や家紋は自由に名乗れるようになってしまったので一概には断定できません。
相模国鎌倉郡(今の神奈川県鎌倉市)の梶原一族の分家が使っていたのは「並び矢筈」。
梶原氏は
本家が相模国鎌倉郡梶原村(梶原郷)にあって、
残念ながら(?)悪名の方が高い梶原景時の次男と三男の子孫が神奈川県以外の各地に移り住むようになりました。
「本家」の梶原景時は直系なので「丸の内石畳」と言う梶原家伝来の家紋を使いますが、
その三男である三郎兵衛尉景茂の家が「分家」として「矢筈」紋を使い、
その子孫は現在の東京や群馬県などに広がっていきました。
1427年頃には武蔵国(東京都)に「梶原美作守」と言う名前が見えます。
鎌倉期には分家にするたびに家紋を少しずつ変化させていくので、
「矢筈」>「並び矢筈」>「丸に並び矢筈」と言う流れの可能性があるとは言えると思います。
2)
平家の梶原家の子孫が多数、お住まいの特異地帯があります。
例えば、宮城県と岩手県の県境の本吉郡です。
特に、気仙沼に近い陸中海岸の唐桑町です。
高石浜には、梶原神社もあり、一族の方々の団結の表徴になっております。 (私、訪問したことあります。 新しい立派な神殿でした。 正に、この矢筈の紋が ありましたよ。)
鎌倉幕府の出来た昔、奥州・藤原秀衡の4男に、本吉四郎高衡タカヒラが居りました。
源義経の偽首を頼朝公に届けたと云われます。
(その兄の3男が、泉三郎忠衡タダヒラで、義経に味方し、行動を共にした伝説の主です。)
頼朝の死後、北条一門と争った梶原一統を、奥州・本吉郡に、引き取ったと云われます。
梶原一族は、源頼朝らと違い、団結が固く、見上げたものです。
詳しい資料が公刊されています。
梶原 等:「梶原景時(増補改訂版)-知られざる鎌倉本体の武士」新人物往来社、2004.3、pp.545
岐阜県知事・梶原 拓氏の序言付きです。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 07時07分58秒 ) | パスワード |
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub3kajiwara-ke.htm
梶原家の子孫の方。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 07時11分46秒 ) | パスワード |
http://www.minamiawaji.ed.jp/nushima_jhs/11sougou/2002/13saihakken/13kagetoki/kajiwara.htm
矢はずの並びたて
○1200年 沼島城主に梶原景時の一族がなる
○1340年 沼島城主、梶原太郎左衛門、細川軍と対戦
○1436年 梶原俊景が沼島八幡宮を創建する
○1429年〜41年
梶原播磨守が淡路上本荘古城主郷丹後守を攻め、福良にて自害に追い込む
○1521年 足利十代将軍義植が流浪の末、沼島に来て梶原の庇護を受く
○1533年 梶原越前守景節が沼島八幡宮と西光寺を再建
○1579年 高砂城主、梶原平三兵衛(景秀)沼島から引田へ移る
○1580年 梶原秀景が沼島八幡宮を再建する
○1581年 梶原秀景が阿波三好勢に攻撃を受け、沼島浦「殿とび」の岩頭より入水
梶原氏の治世終わる
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 07時13分40秒 ) | パスワード |
梶原家嫡流の紋:丸の内石畳
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 07時17分11秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kaziwara.html
梶原氏
丸の内石畳
(桓武平氏鎌倉氏流)
梶原氏は、桓武平氏鎌倉氏流で、相模国鎌倉郡梶原村に景久が住んだのが始まりだと言われ、坂東八平氏の一つとされる。
梶原景久のひ孫にあたる梶原景時は、石橋山の戦いで平氏側・大庭景親の軍について戦った。この時、頼朝らが隠れている場所を見つけたがそしらぬふりをして見逃した。その後しばらくして鎌倉の頼朝の元へやって来て、御家人となった。
景時は長子・梶原景季と共に平氏と戦い、武功を残した。梶原親子は、宇治川の合戦での景季・佐々木高綱の先陣争いや、景時と義経の不仲など、戦場でのエピソードは多く残されている。また、景時は当時の武士としては教養があり、それゆえ頼朝からの厚い信頼を得た。
しかし、景時の仕事ぶりは、時に御家人の反感を買った。それが爆発したのが、頼朝が死んで間もない正治元年(1199)のことである。御家人の一人・結城朝光の一言から、景時は朝光に謀反の疑いありとして将軍・源頼家に讒訴した。この噂を聞いた朝光は焦り、仲の良かった御家人・三浦義村に相談をする。義村はそれを聞いて御家人を集め、景時を弾劾することにした。その数、六十六名。これには、鎌倉のほとんどの有力御家人が加わっているという大規模なものだった。
景時は弾劾を受け、一族を連れて、領地である相模国に下った。景時らは武田氏を将軍にしようとするも、その前に追討され、討死した。一族のほとんどはこの時に討死し、景時の次子・梶原景高の子景継は再び幕府に仕えた。また景時の三男・梶原景茂の子孫は室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へも梶原一族は広がっていった。
足利氏被官─梶原一族
その後の梶原氏は足利氏の被官として歴史にみえている。建長六年(1254)、将軍宗尊親王にオウ飯を、足利義氏が献じたとき、献上の馬をひいた御家人のうち梶原景綱がいた。景綱は景俊の子で、梶原景時とともに討死した三郎景茂の子孫であった。その後に起こった承久の乱に、梶原一族は幕府方として活躍し、復活を遂げたようだ。景俊は御家人としてしばしば『吾妻鑑』にあらわれ、やがて、北条氏一門や足利氏嫡流の被官(御内人)となっていったのである。
鎌倉幕府滅亡ののち、後醍醐天皇によって建武の新政が開始された。その武者所の所司に梶原景直が登用され、この景直の一族は京都将軍家に仕えた。これに対し、鎌倉に残った梶原氏は、鎌倉公方足利氏満の御所奉行人であった梶原道景が知られる。また、暦応三年(1340)足利義詮の病気平癒の祈願を鶴岡八幡宮に寄進し、美作守の受領を得ている。かれは名を景寛といい、美作守を称した道景と同一人物を考えられている。
道景の一族は「美作守」」を称し、至徳二年(1385)、梶原美作守の代官が新田相模守の使者を捕らえた。この使者は、相模守が上野・武蔵両国の軍勢に対し謀叛を呼び掛けた廻状をもっていたのである。このことから、鎌倉府による関東支配が、新田氏の残党を忍び込ませる余地のないほど浸透してたことを知らせてくれる。
鎌倉公方に仕えた梶原氏には、能都守の系統もあった。応永二十四年(1417)に起きた「上杉禅秀の乱」には、能都守・但馬守らは公方に味方して戦い、但馬守は討死した。但馬守は名を季景といい、常陸国鹿島郡徳宿郷内の鳥栖村を知行したことが知られている。
禅秀の乱で、鎌倉御所は焼けてしまい、そのため公方持氏は梶原美作守の屋形に入った。応永二十五年、下野国御家人の長沼義秀が孫憲秀への遺蹟相続を申請したのに対し、公方持氏の許可するとの意志を伝えた美作入道禅景であろう。この禅景は先の道景は父の関係と思われる。
応永三十四年ごろ、京都東福寺領の武蔵国木田荘の年貢を押領したと訴えられた梶原美作守は、その地の土豪平山三河入道に率いられた武蔵国南一揆と行動をともにしている。彼も道景・禅景の流れをくむ公方の奉行人であったとみられる。
梶原氏の軌跡を辿る
ところで『系図纂要』の「梶原系図」に持景─経景─時景とあるが、持景は御所奉行人として応永年末の史料に見える。その持景の子である経景は系図に「武蔵国荏原郡馬篭」」に住むと注記してある。また『応仁武鑑』に、経景について「梶原美作守経景 武蔵国荏原・豊島・多摩三郡内田六百三拾町」とある。梶原氏の所領が武蔵国にあたことが確認できる。ただ、戦国時代に梶原氏は馬篭を所領としていることから、それ以前に同地を支配していたことも考えられる。
永享の乱で、鎌倉公方足利持氏は殺害され、公方不在という事態が生じた。そこで、持氏の子で京都にいた永寿王を迎え鎌倉公方とした。このとき、「御所奉行人」として佐々木氏らの名が記され、そのなかに梶原美作守もいた。
このように梶原氏は鎌倉時代から足利氏の被官であり、その後足利政権の成立とともに、京都将軍家に仕えるものと鎌倉公方奉行人となる一族に分かれた。それは、最後の公方足利義氏の時代まで続いていることが知られる。
ところで、『異本小田原記』に、太田道灌のあとを継いで武蔵岩槻城主となった太田資正は、その子を梶原上野介の後家の養子として、梶原源太政景と名乗らせたとみえる。そして、最後の関東管領となった上杉輝虎(謙信)は、鶴岡八幡宮への拝賀に際し、由緒ある梶原姓の政景に太刀を持たせている。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 07時20分04秒 ) | パスワード |
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梶原さんと言ってもいろいろあるんですねえ。
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