[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月03日 07時36分38秒 ) | パスワード |
芸能界の卑弥呼=黒柳徹子
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月03日 07時54分48秒 ) | パスワード |
太陽=卑弥呼=天照
月==とよ==豊受
ではないかと。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月21日 22時29分16秒 ) | パスワード |
友人より
今一番邪馬台国の可能性が高いと言われている,奈良県桜井市の纏向遺跡です。右側に山のように見えるのが,箸墓古墳です。これも卑弥呼の墓と言う説もあります。興味があったら,見てください。JRの駅は,巻向になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1#/media/File:Makimuku_Ruins_ (Tsuji_area).JPG
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月21日 22時30分47秒 ) | パスワード |
続き
奈良県桜井市から天理市までは20km位ですけど,ここが大和朝廷の初期の中心地と言われています。
箸墓古墳は,日本書紀にはヤマトトトモソソヒメという,10代の崇神天皇の叔母の墓という記載があります。ここ天皇陵,陵墓参考地では唯一宮内庁が学術調査を認めた古墳ですけど,昔から卑弥呼の墓説があります。学術調査と言っても,古墳の長さを測量させただけですけどね。それで,3世紀くらいの古墳だということがわかり,卑弥呼の時代に構築されたということがわかりました。JR巻向駅の次が,JR柳本駅ですけど,ここに柳本古墳群と渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳群があり,ここに崇神天皇や景行天皇陵があります。特に,柳本古墳群の中にある黒塚古墳から,それまで出土した数の倍の三角縁神獣鏡が出土し,三角縁神獣鏡は魏の鏡でなく,国産鏡でないかという説が出たくらいです。
一か所から,これだけ多量の三角縁神獣鏡が発見されたことがなく,黒塚古墳を卑弥呼の墓とする学者もいます。大神神社や大和神社という,古代,国のまほろばと言われた神社もこのあたりに多く,神武天皇は,橿原で即位したのでなく,このあたりで即位したという説もあります。
ただですね,発掘されたのは,柱の跡だけですから,どのような建物かわからないし,纏向遺跡ですが,あまりにも大規模すぎて,いまだに全部発掘しきっていないということもあります。発見されてから10年くらい発掘しているけど,いまだに終わっていないそうです。まあ,予算の都合もありますけどね。(笑)
今度は黒塚古墳の画像です。よかったら見てください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3#/media/File:Kuroduka_kofun01s3872.jpg
これ天理市のHPですけど,天理市だけで,これだけ大量の古墳があるということがわかりますので,参考に。
http://www.city.tenri.nara.jp/kakuka/kyouikuiinkai/bunkazaika/kohun/1391479199918.html
今度は,出雲の遺跡だったと言われている,奈良県田原本町の唐古鍵遺跡の画像です。蘇我氏も,ここから出たという説もあります。唐古鍵遺跡は,古墳時代になったら衰弱しました。そして,纏向遺跡地帯と唐古鍵遺跡は,同時代に存在しましたが,敵対関係だったらしく,2〜3kmの距離にありながら,全く交流していなかったそうです。
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/ruins/karako-kagi.html
このあたり,古代史ファンには宝の山。聖地見たいなものです。(笑)
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月21日 22時31分47秒 ) | パスワード |
さらに続き
最近,斉明天皇陵である可能性が強くなってきた,牽牛子塚(けんごしづか)古墳です。江戸時代くらいまでは,別名,御前古墳とも言われそうです。牽牛子は朝顔の意味の古代語です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%BD%E7%89%9B%E5%AD%90%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3#/media/File:Kengoshizuka_201410a.JPG
これが蘇我馬子の父親の蘇我稲目の墓と言われる都塚古墳ですが,ピラミットと同じ形をしていた超巨大な古墳で,明日香のピラミッドと言われています。できた当時は,クフ王のピラミッド位あったのでは?という専門家もいます。石舞台古墳が,馬子の墓と言われていますので,稲目は息子を見下ろすところに墓があるわけです。
http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/images/miyakoduka/miyakoduka-02.jpg
これ,菖蒲池古墳です。蘇我蝦夷,入鹿親子の双墓(ふたつはか)説もあります。見た目が地味ですから,だれも発掘してこなかった。ところが,数年前,道路整備だったかで発掘したら,大王級の副葬品が出てきて,みなさんびっくり。聖徳太子と言われた,厩戸皇子説もありますが。甘樫丘の横ですので,蘇我蝦夷,入鹿親子の双墓と言われています。
http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/images/shobuike/shobuike-04.jpg
それと推古天皇と息子の竹田皇子の墓と言われている植山古墳です。植山古墳ですけど,今,古墳公園として整備中で,予定では来年完成するそうです。日本書紀に,推古が「今年は不作で,国民が苦労している。これ以上,国民に迷惑をかけたくないから,早世した竹田皇子と同じところに葬っておくれ。」と遺言したと書かれています。ただ,宮内庁は往生際が悪いですから,今でも大阪の磯長陵(しきながりょう)に後に改葬したと言い張ってますけど。考古学会は,植山古墳を推古天皇と竹田皇子合葬陵と認めています。天皇陵や陵墓参考地が,明治時代,いかに学術調査なしで決まっていったかという証明です。
http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/kankou/spot/documents/k047_02.jpg
菖蒲池古墳との関係図です。近いことがわかります。
http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/images/shobuike/shobuike-02.jpg
最近,明日香周辺で大騒ぎになった発掘成果です。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月21日 22時33分12秒 ) | パスワード |
さらにさらに続き
ご存じでしょうけど,桜井から天理に至る道を山の辺の道と言います。
山の辺の道は,古代の国道です。一回,自転車で通りましたけど,狭くて対向する自転車との擦れ違いも難しい場所もありますし,アップダウンが激しいので,歩く専用の道です。私は,明日香から天理まで片道40km位ありますけど,明日香でレンタサイクル借り,国道を走っています。このあたりは,古墳ばかりでなく,いくつかの古代天皇の宮跡もあります。天理で有名なのが,石上神社ですけど,この神社は物部氏の神社です。物部守屋が物部合戦でほろんだあと,持統朝で最高位の左大臣になる石上麻呂(いそのかみのまろ)は,物部本宗家の血を引いていると言われていますが,物部の復活は認められず,結局,自分の氏神様の石上神社を姓にしました。
蘇我もですけど,物部も出雲の豪族と言われています。清々しいの語源は,蘇我蘇我しいで出雲に蘇我神社という神社がありますが,この神社に参拝した時の気持ちが蘇我蘇我しいで,それがなまり清々しいになったと言われます。物部と蘇我は同族だったようです。しかも蘇我は,日本最古の女帝推古とも同族だったことが,日本書紀に書いてあります。(古事記にはないですけどね。)蘇我氏が大王で行政担当の王,天皇は祭祀担当の王だったという説もありますが,物部と蘇我の謎を解明できたら,日本古代史の半分以上は解明できると思いますけど,日本書紀や古事記が,意図的に物部と蘇我を隠しています。法隆寺ご存知でしょうけど,あそこの神様は,蘇我入鹿だったという説も濃厚で,天武天皇の父親は蘇我入鹿説もあります。
若草伽藍と言われた法隆寺を立派にしたのは,藤原不比等ですけど,藤原氏累代の連中が多額の寄進をしています。つまり,祟られる人物を若草伽藍に祭ったということと,日本書紀に,今の生駒山系に首都防衛のための城高安城(たかやすのき)というものを,天智が白村江の敗戦後作ったのですけど,天智がこの城に兵糧を運び込むと翌日に若草伽藍が必ず燃えています。日本書紀には,反政府活動が奈良盆地で起きていたと書いてありますけど,若草伽藍が反政府軍の本拠地とは書いていませんが,兵糧が運び込まれた翌日,必ず燃えたということが,数度書いてあると,偶然とは思えません。一度は全焼しています。そのたびに,建て替えられています。法隆寺を発掘した時,この火災の跡は確認されましたので,法隆寺に蘇我入鹿が祭られ,反政府軍の司令部になったと思っても間違いではないと個人的には思っています。
何回か書きましたが,京都の涌泉寺が天皇家の菩提寺で,神武天皇から昭和天皇までの位牌が置いてありますが,歴代天皇で唯一位牌のない天皇が天武天皇です。涌泉寺の住職は,テレビだったかで質問されて,「皇室から頂けなかっただけだ。」と答えていましたが,なんで頂けなかったのか?というのが最大の疑問です。古代史では,2代の綏靖から9代の開化までは存在しなかったというのが常識ですけど,涌泉寺には位牌がある。私は,天武天皇は天皇家の血筋でなかったから,皇室は位牌を作らなかったのだと思います。
すいません。半分以上私見ですけど。(笑)
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月21日 22時41分56秒 ) | パスワード |
上記の情報は下記のやりとりより始まりました:
ワタクシ
邪馬台国
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2015/0807/724519.htm?g=08
やっぱり迷ってしまいます。
友人
中国王朝には、1里が40cmと400mがあって王朝により変わってますので、邪馬台国はわかりません。12,000里ですけど、400mの場合、起点のソウル周辺から4,800km。40cmだと480km。ソウルから南に4,800kmだったら、沖縄も越えちゃう。480km九州から中国地方です。三国志の時代では、1里はどれくらいかわかってますので、書いてないわけで。しかも、書き方が簡単すぎて、北九州から方向が、放射状にも読めるし、連続しているようにも読めます。ただ、中国歴代王朝は1里40cmか400mが一番多いのですけど、たまに日本のように4kmのこともある。1里4kmだと地球2週位しますけどね。基準わかりませんから、邪馬台国はわからないと思いますよ。
ワタクシ
ありがとうございます
読めば読むほど、翻弄されるだけです。
中国のサイトは恐ろしいので行きたくないのですが
検索サイトの案内のみ。
最近は1里=500m ということでしょうか?
中国人も困ってますね。
1
起源於中國周代,當時一里為1800尺,後世實際長度?代 ... ?在一般1里等于500米,2里等于1公里。
2
1里地等于多少米?1尺等于多少米?1?米等于多少毫米?:“里”是“市里(?里)”的?称,各年代???度不等,近代1里大?等于500米,解放后的?一?准中定??5?
3
(1)准确来?,??是:1?里=500米=0.5千米(公里)。 (2)全世界的“里”的?短不一。如英里、俄里等。提到“里”?????明是?里、英里、俄里等。否?会??量和 ...
4
里"是"市里(?里)"的?称,各年代???度不等,近代1里大?等于500米,解放后的?一?准中定??500米即0.5公里"尺"是"市尺"的?称,各年代???度不等,近代1尺 ...
友人
まず邪馬台国は,国の名前ではありません。国名は女王国です。魏志倭人伝に,邪馬台国と書かれているのは一か所だけです。「邪馬台国。女王が都する所なり。」だけです。今で言ったら,総理官邸か内閣府の住所のようなものです。郵便番号はないですけど。(笑)卑弥呼の治めた国は,女王国です。それと,楽浪郡(ソウル周辺)から12,000里も正しいかも疑問があります。当時,司馬仲達は東の外交の責任者。司馬仲達の最大の政敵で,曹操のいとこに曹爽と言うのがいます,この人が,西の外交担当。ところが,フェルガーナ盆地にあった大苑と言う国が,卑弥呼と同じくらいに朝貢に来た。それで,司馬仲達が曹爽との対抗上,丁度来た卑弥呼の使いを,政治的に利用して,「こっちだって12,000里あらい。ドウディ,驚いたか〜。」と言った。実際は,12,000里なんかないけど,司馬仲達は,魏王朝乗っ取りのために,曹爽に負けれなかったので,過大に言ったと言う説も大変有力です。つまり,魏志倭人伝は眉に唾をたっぷりつけて読まないといけません。
だから,邪馬台国はここで決まりなんて本は絶対読みません。魏志倭人伝自体が,嘘書いている可能性が高いので,信用できないからです。でも,私は神話から考えると,出雲から丹後半島のどこかだと思います。
四国の足摺岬ご存知ですか?ここに唐人駄場遺跡と言う,謎の石積み遺跡があります。何の遺跡かわかりませんけど,卑弥呼の時代位だと言われています。ところが,最近,土佐湾を調査したら,陸地の沈んだ後のようなものが見つかりました。どうも,唐人駄場遺跡と同じくらいのころ,海面にあったようなので,唐人駄場遺跡と関連があると言う説も出てきています。そして,女王国の外に鬼国と言う国があると魏志倭人伝に書かれていますが,この土佐湾の海底に沈んだ陸地と唐人駄場遺跡が,鬼国でないかとも言われています。
最も,最近対馬の大きさから1里を算定しようと言う話はありますけど,当時,どのようなコースを取ったかが皆目わからない。私一時はまった,古田と言う学者がいますけど,こいつ対馬の縦横から1里を出した。でもね,対馬には大船越と小船越言うところがあります。丸木舟を陸に上げて,山越えをしたので,この名前がありますが,そこを指摘されて轟沈。こいつ,対馬を丸木舟で一周したと言い張り,対馬の地名の由来を指摘されて反論できなかったわけです。昔,朝日文庫でシリーズで出てましたけど,最近,誰も相手にしてくれなくなったようです。
友人
ここからは,私の邪馬台国説です。
私は,伊勢神宮の外宮,内宮の関係と天岩戸神話から,3世紀ころ日本のどこかにあった,女王国の卑弥呼と言う女王は,トヨに攻め滅ぼされ殺されたのだと思います。トヨが皇祖であると思います。最も,今上天皇と血のつながりはあるか疑問ですけど,今の天皇家の始祖がトヨだと思います。魏志倭人伝には,卑弥呼の後の女王を宗女と書いています。これ日本史の教科書がおかしいから,姪だと思っている人多いですけど,宗女は一族の女と言う意味で,養女でもよいわけです。禅譲と言う言葉があります。中国では王朝交代の場合,無理やり武力で脅かして,後継者にして王朝交代を行うのですけど,トヨは卑弥呼に禅譲を迫り後継者になったと思います。その後,用済みになった卑弥呼を殺した。魏志倭人伝の以て死す。は,中国では急死特に毒殺に使われることが多いみたいですので,卑弥呼は毒殺されたのかもしれません。
私は,草薙の剣のある熱田神宮も邪馬台国の重要比定地であると思います。
ワタクシ
尾張が 狗奴国 くぬ?こんな字でしたか? という説も読んだことがあります。
豊という漢字は古代の名称に多いな、と思います。
豊玉、とか。
読めば読むほど翻弄されてワケが分かりません。
友人
最近,邪馬台国有力地が一つ出てきました。JR巻向駅の前にある,纏向遺跡です。ここは,3世紀位の巨大宮殿跡ですが,大和の初期天皇の宮殿であることは間違いないようです。ただ,ここが邪馬台国なら,邪馬台国は九州と機微に滅ぼされ,卑弥呼は皇祖ではなくなります。ただ,親魏倭王の金印を魏は与えましたけど,これが見つかるか,卑弥呼の文字が見つからない限りは,ここが邪馬台国と言えません。
>狗奴国
あってますよ。狗奴国が出雲だと言う説もありますが,ここの王ヒミククヒコってのが,卑弥呼を倒して神武天皇になったと言う説もあります。私は,ヒミククヒコ=神武天皇説は正しく,ヒミククヒコは火の国(熊本県の菊池市周辺にあったと思います。
[8] | ときおさんからのコメント(2015年08月22日 00時16分48秒 ) | パスワード |
あを様へ
アベック台風が列島を怪しくして居ます。
じめじめと湿度も高く、今日は90%の25度で曇り空。
畦草刈りも進みません。体力を奪われます。
・・・・もっとも、私めは、パウチはせずに縫合で済んでいます。
白衣の天使城からの拘束を解かれてまだ14日目です。体力は長持ち
しませんね。
邪馬台国論争は留まる事無くつづいていますね。
私てきには、FBI超能力捜査官「ジョウー・マクモニーグル」のサイキック
考古学 「邪馬台国発見」(学研)で最終判決かなと思って居ました。
山口県に有る安徳天皇陵に推定されて居るのが卑弥呼の墓でその側に冬の
居城が有るとの事でした。奈良県の巻向遺跡の場所は夏の居城だとか言って
いましたね。
かなりの良い線を捉えて居るらしいです。ユーチューブでも見られるかもで
す。
蘇我馬子=聖徳太子で、馬子を抹消して聖徳太子にしてしまった。と言
う結論だったと思います。また、馬子は大王の位に居たらしいとも言ってい
ますね。
邪馬台国論からずれましたけど。最近は吉備の国こそ邪馬台国と論陣を張って
居るご人も居ます。
関という人は、吉備こそ物部氏で、この吉備の国こそ出雲をいじめた張本人
ともいって居ます。神功皇后こそ「とよ」で北九州から越後までの盟主。吉備
出雲・近畿・尾張の東国の緩やかな連合国家で有ったらしい。一番の権力者が
吉備の連中。後世にたたり神として祭られているのが、出雲であり、吉備=石上
の三輪神宮ですね。石上神宮の古社あ岡山県の旭川上流に存在しますね。
「とよ」は北部九州の女王国の主を殺害し、自分はその宗女として禅譲した形
を取ったと言っていました。
このとよ=神功皇后の跡取りが神武天皇だといっています。政権抗争でこの二人
は憂き目にあって後に、政権の正当後継者として引っ張り出されたのが神武東征
話に成って居るようです。
これもユーチューブに有るkさもですね。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月22日 02時07分44秒 ) | パスワード |
ときおさん
ありがとうございます。
そのユーチューブの画像が見られると良いのですが。
吉備は充分に邪馬台国の可能性があると思っています。
あれやこれや色々勘ぐるのは楽しいです。
縫合で済んで良かったです。
でも無理はなさいませんように。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月22日 21時46分10秒 ) | パスワード |
頂きました:感謝です
ジョー・マクモニーグルの邪馬台国発見 1〜11まであります。
http://www.youtube.com/watch?v=a5jTd010l5w&list=PLA58BC4A111F1E404
邪馬台国発見 プロローグ
出版本の紹介の文がまとめられています。
http://blog.livedoor.jp/salaryman_essay/archives/51954787.html
論説(歴史・文化)関裕二
古代史謎解き紀行 III 九州邪馬台国編/関裕二 4
神功皇后と応神天皇(九州で産み落とされた神功皇后の息子です)のヤマトへ
の凱旋を神話になぞらえたものが、いわゆる「神武の東征」ではないかと関さん
は言います。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月30日 12時18分10秒 ) | パスワード |
http://www.youtube.com/watch?v=21VFn7LVQn4
これまた見なくては。
日本古代史最大のミステリー 邪馬台国と三国志の関係に迫る (2012年)
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月04日 10時41分34秒 ) | パスワード |
教えて頂きました:
以下コピペ
決着が着いていた邪馬台国論争
HPより、引き出したほうが分かり易いと思い、切り貼りしてみました。
小名木善行 ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2032.html 邪馬台国論争
*神武東征は紀元前70年になるようです。長浜浩明氏の古事記と河内湖の形成時期の一致から導き出したものです。
古代日本「謎」の時代を解き明かす 神武天皇即位は紀元前70年だった ...
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に…
http://www.youtube.com/watch?v=O1FhRsPk7Ig
の50:40の所に出て来ます。
さて、邪馬台国の九州・畿内論争ですが、これにしても、実はとっくに結論が出ています。
では、どちらが正解か。
実は、答えは、両方正解でした。
魏志倭人伝よりも少し後の時代に書かれた、支那の旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、そのことがはっきりと書かれているのです。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」というのがそれで、意訳すると「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれているのです。
つまり、九州王朝と畿内王朝は、「どちらもあった」わけです。
要するに確たる証拠があがっているのですが、東大閥も京大閥も、どちらも旧唐書を認めていません。
認めないどころが、偽書である可能性が高いなどと、言い出している始末なのだそうです。不思議なことです。
この「旧唐書」というのは、完成したのが945年で、魏志倭人伝よりも600年ほどあとの時代のものです。
記載された内容は、唐の成立(618年)から滅亡(907年)までの約300年間の出来事で、その中に「倭国伝」と「日本国伝」があります。
その「倭国伝」の冒頭には次の記載があります。
======
倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。
======
東西五月行、南北三月行。世與中國通。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。
わたくしからの註:
阿毎氏=古代天皇家の姓
http://weekpedia.myht.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%8E%E6%B0%8F
倭国とは、古の倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り。というわけで、この頃の朝鮮半島は「新羅(しらぎ)」によって統一されていますから、そこから東南に海を渡った先にあるのが「倭国」だというわけです。
======
東西五月行、南北三月行。世與中國通
======
広さは、東西に五ヶ月の行程、南北に三ヶ月の行程であり、代々、支那と通じている。
ということは、四方を海に囲まれている島国だ、ということです。
そして支那と通商をしていた。
======
其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋
======
その倭国には、居住地に城郭はなくて、木でできた柵を塀として囲い、屋根は草葺き屋根だというわけです。
======
四面小島五十餘國、皆附屬焉
======
そして倭国の四方には小島がある。
国内とそれらの島々にある五十余国が、倭国の傘下にはいっている。
======
其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、
長腰襦、束髮於後、佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級
======
争いごとが起こると、這って前に進み出て訴えを起こすというわけですから、裁判制度がしっかりしていて、紛争の解決に武力を用いた戦争を好まなかったということがわかります。
そして「その地には女が多く男が少ない」、つまり、女性を大切にしていた。
そして「甚だ文字を知り、俗人は佛法を敬う」。
つまり、一般の民衆に至るまで読み書きが普及していて、仏教も敬われていたとあります。
さらに服装は、みんな裸足であり、幅の広い布の衣装を着ている。
貴人は錦(めん)の帽子をかぶり、百姓たちもマゲを結っている。
婦人の衣装は、鮮やかな色のスカートに、長い腰襦袢で、髮を後に束ねていて、銀でできた花のカタチの簪(かんざし)をさしている、というわけです。
優雅でみやびな生活のいったんが伺えます。
おもしろくなるのは、ここからです。
=======
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地
=======
「日本国は、倭国の別種だ」とあります。
そして、その日本国は、日の出の場所、つまり「倭国」からみて東方にあるというのです。
そして東にあるから「日本」と名づけたと書いてあります。
いささかわかりにくいのがこの後の文で、「倭国という名が雅(みやび)でなかったので、あらためて日本という名にした、あるいは日本は、昔は、小さな国だったのだけれど、倭国の地を併せた、というわけです。
この日本がどういう国かという記述が、この後ろにあります。
=======
其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國
=======
日本国の境目は、東西南北に各数千里、西のはずれと南のはずれは、いずれも大海であり、東の方角には大きな山があり、その山の向こうは、毛人の国だというのです。
冒頭で、「倭国」は四方を海に囲まれた島国であり、四方の海には多数の小島がある、と書いているわけです。
ところがこの段では、「日本国」は、西と南は大海に面しているけれど、東の方角には大きな山(富士山?)があって、その向こう(富士山の東)は、毛人(アイヌのこと?)の国である、としているわけです。
つまり、国の形状が「倭国」とは異なる。
実はこれについて、支那に唐の国が起こる前の隋(ずい)の時代に書かれた「隋書(ずいしょ)」に、おもしろい記載があります。
かなりストレートです。
=======
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行?祭。有如意寶珠、其色青、大如?卵
=======
倭国の真ん中には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執り行っている、というわけです。
倭国の中央には「阿蘇山」がある。
しかもその阿蘇山は、火を噴いています。
どうみても、この山は富士山ではない。
つまり「倭国」は、九州王朝だったということになります。
その九州王朝だった「倭国」とは別に、本州側に「日本国」が起きた。
そしてその日本国は、旧唐書には「倭国とは別種だ」と書かれていて、その日本国は「日の出の場所、つまり倭国からみて東方にあるから「日本」という名前がついている、と書かれているわけです。
では、すこしわかりにくい、「倭国という名が雅(みやび)でなかったので、あらためて日本という名にした、あるいは日本は、昔は、小さな国だったのだけれど、倭国の地を併せた」という記述は何を意味しているのでしょうか。
実は、このことについて、「旧唐書」のあとに書かれた「新唐書」に、次の記述があります。
========
日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居
(中略)
彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿・、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀
========
日本は、いにしえの「倭奴国」なり。
唐の都から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島である、というわけです。
島・・・ですからこれは旧唐書と同じことを言っていて、つまり九州だ、というわけです。
そしてその「倭国」に、彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿・、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という、というわけです。
彦瀲(ひこなぎさ)については、記紀にも記述があります。
「海彦、山彦」の物語でよく知られた「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)」と、海神の娘である豊玉姫(とよたまひめ)の子で、「古事記」には「天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、「日本書紀」では彦波瀲武??草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記されている神様です。
その末子の若御毛沼命(わかみけのみこと)が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ)で、後の神武天皇)です。
戦後の歴史学者は、古事記や日本書紀に書かれた出来事を、信憑性のないただの神話にすぎないと一笑に付し、教科書からも日本神話を削除していしまいましたが、日本ではなく、支那の歴史書(文献史料)にも、ちゃんと、神武天皇とその東征が書かれているわけです。
要するにこれは、神話に書かれている事実は、「あった」ということです。
さらにいえば、「新唐書」に書かれた神武天皇以降の天皇のお名前も歴代天皇のお名前と、一致しています。
そしてその新唐書に、「倭国にいた神武天皇が大和に移って統治をし、改めて天皇と号した」ということも、記載されているわけです。
記紀には「神武東征」が明確に書かれているわけで、九州においでだった神武天皇が、東へと向かい、大和の地を都と定めたとあります。
ここまでくれば、邪馬台国は、もともと九州にあった「倭国」を指し、その倭国が東に上って大和朝廷を築いたとわかります。
ちなみに九州にあった「倭国」は、「倭奴国」とも表記されます。
「倭奴国」といえば、後漢書東夷傳に、
======
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
======
という記述があります。
「建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」と読みますが、このときに下された印鑑が、江戸時代天明年間に発見され、昭和6(1931)年に国法となった「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」です。
つまり、九州にあった倭国は、1世紀には国際交易を行うだけの力を身に付けていたわけで、しかも金印を賜ったということは、印鑑を付くという習慣もあったということになります。
印鑑は、文書につくものですから、つまりその頃、すでに漢字を用いて文書を取り扱っていたということです。
そして、旧唐書によれば、倭国では「頗有文字」つまり、よく文書を用いていたとあるわけです。
戦後の学者は、記紀の神話を否定し、我が国の正史から削除し、そしてさらに邪馬台国について、あたかもいまだに九州説、畿内説の「対立」というドグマに陥っているのですが、そのいずれもが、史料によって完全否定されてしまうわけです。
そしてもっというなら、誰がどう考えても、この高温多湿で猛暑の日本で、毛皮の衣装など通常衣として用いる筈などないのに、縄文人は毛皮を着ていたと言い張る。
ここまでくると、言葉は悪いけれど、もはや子供の我執の世界です。
ヲシテ文字などについても、頭から偽書だとの決めつけがなされているようですが、そうしたさまざまな発見や調査について、もっとアカデミカルに議論され、調査され、試行錯誤されていく学会こそが、あるべき姿であろうと思います。
ちなみに、最近では、韓国系の在日学者などが、邪馬台国朝鮮説などという「とんでも説」をあたかも真説であるかのように宣伝さえし出しています。
邪馬台国朝鮮説などというものは、隋書・倭国伝によれば、
======
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居
======
とあり、これは「倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する」というわけですから、要するに倭国は、新羅や百済などの朝鮮半島南部の国から、東南の方角に海を渡った先にあるわけで、どうみても朝鮮半島内に倭国は存在し得ません。
もっというならこの隋書には、
=======
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行?祭。有如意寶珠、其色青、大如?卵
=======
とあります。倭国の真ん中に「阿蘇山」があって、その阿蘇山は火柱を昇らせて天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行うというのです。
倭国の真ん中には「阿蘇山」がある。しかも火を噴いている。
この、どこをどう読んだら倭国が朝鮮にあったということになるのか、見識を疑います。
そんなことで学者を名乗れるのなら、学者も地に落ちたものです。
せっかくなので、もうひとつ付け加えると、この隋書に、次の記載もあります。
=======
新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來
=======
新羅や百済は皆、倭を「大国」で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来しているというのです。
「隋」というのは、古代の支那に生まれた強大な軍事大国です。
そして「隋」の歴史書である「隋書」は、その強大な軍事大国である「隋」の公式文書です。
当然、記述は隋の立場で書かれているし、本来支那は中華思想の国ですから、朝貢を受ける国は自分の国だけだというのが大前提です。
にも関わらず、その隋が「倭国は大国だ」と書き、朝鮮半島にあった百済や新羅が日本に朝貢していたと、この一文には書かれているのです。
つまり、強大な軍事大国である隋でさえ、不承不承ながら、百済や新羅が倭国に朝貢することを事実上認めざるを得ないほど、倭国の実力が大きかったということが、この一文から明らかになるのです。
ついでにもうしあげると百済も新羅も、国王は後継ぎとなる長男の王子を、倭国に人質に出しています。
要するに、百済も新羅も、そこまでして倭国の実力を認めていたわけです。
そしてその倭国には、阿蘇山があった。
そのどこをどう読んだら、倭国(やまと国=邪馬台国)が朝鮮半島にあったことになるのか。
アホらしさを通り越して、呆れてしまいます。
いずれにせよ、いつまでも学閥や国家意思のようなドグマにとらわれるのではなく、論理的にも考証学的にも正当な学問的研究がちゃんと進む日本の学会になっていただきたいものだと思います。
なぜ、わけのわからない邪馬台国朝鮮半島論などが登場するのか。
要するに、我が国の学会にも、同様のドグマがまかり通っているから、つけ込まれるのです。
毅然とした日本というのは、何かを言い張ったりレッテル張りをしたりする日本のことではありません。
事実を事実として、冷静にちゃんと受け止め、謙虚に学び、語り、伝える。
そういうことが、これからはもっともっと大切になると私は思います。
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 Rapah. |