[1] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月24日 12時03分29秒 ) | パスワード |
早速、平川家について25コメント78からの続きを(..)
直接、先祖「伊予橘氏」そして「平川家」に繋がる事ではないのですが・・
球磨に下向された方々の中に藤原氏利仁流の「永井氏」も・・との情報を見つけました。
あさぎり町のホームページで文化財のページを見ていて偶然見つけました。
あさぎり町公式ページより
http://www.asagiri-town.net/q/aview/52/421.html
黒革威腹巻練革叩塗兜
兜1点と大袖付きの具足。鑑定では、南北朝時代という。
永井家は平安時代末期の武将斎藤実盛の末孫と伝え、長井別当と呼ばれた。
源義朝の忠実な武将だったが、後に平家に仕え重用された。
平惟盛の後見役。
加賀国篠原の戦いで敗死。江戸時代、永井実正は、鎧櫃に「実盛公之御具足」と箱書きした。
指定区分 町指定有形文化財
名 称 黒革威腹巻練革叩塗兜
種 別 工芸品
所在地 上南 麓
その他 くまがわ鉄道免田駅から南へ3.8km
永井家所蔵
(゜-゜)
※永井家は平安時代末期の武将斎藤実盛の末孫と伝え・・
※江戸時代、永井実正は、鎧櫃に「実盛公之御具足」と箱書きした。(鑑定では、南北朝時代という。)
(゜-゜)南北朝時代という事は斎藤実盛使用の「黒革威腹巻練革叩塗兜」ではないようですが・・しかし、上村麓の永井家は斎藤実盛末裔となるようです。
上村南麓と言えば、先日コメントした上村城跡付近一帯です。
http://www.asagiri-town.net/q/aview/36/423.html
上村城跡
上麓地区にある山城で別称麓城、亀城と呼ばれた。人吉城の支城で高城、中城、下城に別れている。上村氏第11代三河守直頼から上村頼孝までの居城であった。永禄10年(1567)上村氏没落後は犬童美作の居城。麓地区全体が城内で麓馬場は侍屋敷の地割りが残り、古い城下形式を今に保ち郡内では珍しい。
(゜-゜)私の地元旧岡原村も山城である「宮原城」の下に「宮麓」、そして同じく山城である「岡本城」下に「岡麓」
共に、藩士と郷士の住む集落でした。
永井家も上村城跡の麓地区にあるのですね。
藤原氏利仁流。今までの調査で何度も登場された系です。
日本の苗字七千傑様の藤原氏利仁流 姓氏類別大観を拝見致しました。
※子孫は斎藤氏族とも呼ばれる。
こちらの系に藤原師高を一族と呼んだ「富樫氏」がありました。
富樫氏から良峰姓の「前野氏」「坪内氏」に繋がっていました。
河合斎藤氏/勢多斎藤氏から長井斎藤氏 姓氏類別大観を拝見致しました。
「岩永氏」も見えます。
多良木平川家と同じ地区(迫田)に岩永家があり、多良木平川家の遠い親戚だと聞いた事があります。
今日の調査は私の先祖調査ではありませんでした。
しかし、「球磨」そして「上村」に藤原氏利仁流の系が下向されていたという事が理解出来ました(^・^)
では(^・^)
[2] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月24日 16時16分46秒 ) | パスワード |
棒踊りについてですが・・
父に聞いたところ「湯前にもあるけど、伝承の年代は明治?かな?」と言うので調べました。
湯前町公式ページ
http://www.yunomae.com/index.php?type=article&mode=articleView&articleid=1178&categoryid=24
市房山神宮 里宮神社
浅鹿野棒踊り
明治38年頃、多良木町前原より林田芳太郎氏が習い伝えたといわれています。県内では、球磨・芦北地方に広く認められ、鹿児島より伝来したものとされています。
他にも
http://yunomaenet.com/index.php?%E6%B5%85%E9%B9%BF%E9%87%8E%E6%A3%92%E8%B8%8A%E3%82%8A
同様の記述があります・・
※球磨・芦北地方に広く認められ、鹿児島より伝来したもの
鹿児島県公式ページ
https://www.pref.kagoshima.jp/ab10/kyoiku-bunka/bunka/museum/shichoson/satumasendai/bou.html
棒踊りの由来は,遠く戦国時代にあるといわれています。百姓町民は,いつも戦いの犠牲となり,安住の日とてなく,武器を持つことが許されなかったため,木製の薙刀(六尺棒踊)や木刀(三尺棒踊)・鎌(鎌踊)等で自衛するより他になく,それらを用いた防御・攻撃術が踊り化されたものと推察されています。
この踊りは男性6人で踊られ,3人が鎌,残りの3人が三尺棒を持つ,勇壮活発な踊りです。鹿島の棒踊りは(鎌と三尺棒)は,本土で一般に踊られているものと歌詞が異なり,語り物音楽風が特徴です。
各種大会や祝賀行事・祭りの催し等で踊られ,郷土芸能として残っています。
何だかピンとこないな・・(..)・・と思いもっと調べたところ・・
どうやら、棒踊りは「沖縄」から北上してきたようです。
コトバンクの記述を読んでいたら、そう理解出来ました。
コトバンクはリンク不可なのでピックアップして転記します。
世界大百科事典 第2版の解説
民俗芸能。棒を打ち合わせて踊る踊りで,鹿児島,熊本,宮崎,沖縄,高知県などに分布する。豊年踊の一種として,また棒術の芸能化として,氏神の祭りや豊年祈願に行われることが多い。鹿児島県に最も多く,若者組が中心になって行う。そろいの着物に白鉢巻,白だすきをつけて2人一組に向かい合い,棒を激しく打ち合わせて踊る。所によっては棒の代りに薙刀(なぎなた)や鎌,刀,尺八などを持って踊る。薩摩藩が郷民に武術奨励のために行わせたと伝えるが,棒を打ち合わせることによって悪霊を鎮め,豊作を祈り,村の安泰を祈る呪術として行われたと考えられる。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
棒を持って踊る風流(ふりゅう)系の民俗芸能。普通には2人が一対、ときには3人が一組になり、数対で一組をつくる場合が多い。棒は六尺棒が一般的で、三尺棒が組み合わされることも珍しくないが、これを打組みに打ち合いながら踊る。棒踊の棒は基本的に神霊の依(よ)る聖なる用具の杖(つえ)と同じ呪具(じゅぐ)としての性格をもち、これを振ったり打ち合わせたりして悪霊を鎮めたり祓(はら)ったりするが、また武術の棒術との関連において、村落の青年の鍛錬と自衛の手段の意義を兼ね備えている。棒は薙刀(なぎなた)、槍(やり)、刀、鎌(かま)、花棒など種々のバラエティーをもつようになり、東北地方から沖縄までさまざまな姿形で散在している。たとえば、岩手県宮古(みやこ)市田老(たろう)の「七(なな)つ物(もん)」、埼玉県鴻巣(こうのす)市の「原馬室獅子舞(はらまむろししまい)」の棒、愛知県の「棒の手」、高知県の「太刀(たち)踊(花取(はなとり)踊)」、熊本県人吉(ひとよし)市の「大塚の棒踊」、沖縄県の「南の島(ふえーぬしま)」などである。規模の大きさ、芸能色の濃さでは南九州のものが典型的で、歌を伴い、4人対、6人対のものまでもあり、華麗である。[西角井正大]
世界大百科事典内の棒踊の言及
【沖縄[県]】より
祭りをにぎわす芸能で全域的に行われるものに棒術,棒踊の類があるが,棒術は真棒(まあぼう),組棒などといって,2人1組の男が三尺棒,六尺棒などを激しく打ち合わせるもの,棒踊はそれの舞踊化で,土地によって赤毛をかぶって曲技を演じたりする。これを南島(はえのしま)などというのは,南中国などから伝来したとの由来談があるからである。…
(^・^)・・
という事で、ここまで行き着きました(^・^)
おそらく、南方から伝わって、沖縄を経由して九州では鹿児島に多くみられ、さらに北上して球磨に伝わったのかな?と推測します。
結局、沖縄では古代の踊りが継承されていたという事でしょう。
では(^・^)
[3] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月24日 17時40分06秒 ) | パスワード |
マタマタの登場です。
\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!きゃ〜あ!!
御先祖様から(-_-)/~~~ピシー!ピシー!と叱られま〜す!!
コメント1で書いた旧上村の永井家。
平安時代末期の武将斎藤実盛の末孫と伝え・・
この記述に対して、おバカの私は
※直接、先祖「伊予橘氏」そして「平川家」に繋がる事ではないのですが・・
とか
※今日の調査は私の先祖調査ではありませんでした。(^・^)
ナドト書いていましたが・・
武将斎藤実盛。この方は、私の先祖と関係オオアリの人物でした!
(よくお見かけするお名前だな〜( ^^) _旦~~・・と思っていました・・トホホ)
どこで見かけたのかな?と思っていましたが・・
この方こそ!先祖「橘公長」平家離脱の理由の一つとなった若かりしき頃の「喧嘩」のお相手でした!!私の脳は梅雨空のようなどんよりとした・・カビさんが生えて・・トホホ
橘公長 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%85%AC%E9%95%B7
経歴[編集]
弓馬と知謀に優れ、元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛と片切景重と喧嘩になった際、頼朝の祖父・源為義が朝廷に訴えず斎藤・片切を諫めた事から、公長は源家への恩を忘れず、縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かったという[5]。なお、実際には片切景重(原文「片桐」)は平治の乱(平治元年(1159年))で討ち死に、為義はそれ以前の保元の乱(保元元年(1156年))の直後に刑死していることから、原因となった喧嘩は治承4年(1180年)より相当前に発生したものと考えられる。
吾妻鏡より
★ 橘公長
生没年未詳。右馬允。元は左兵衛督平知盛の家来であったが治承4年(1180)十二月蔵人頭平重衡が関東を攻めようとした時に従軍することとなっていたが、平家の衰運を感じ、また先年、源爲義の家来の長井斎藤別当実盛、片桐小八郎と喧嘩をした時に、廷尉爲義がそれを怒りもせず許し、むしろ自分の家来の斎藤と片桐を叱責したことへの恩を忘れることなく源氏への忠誠し鎌倉へ下る。(「吾妻鏡」)
先ほど、久しぶりに渋江系図を見ようかな!と思い画面を出して・・
http://tatibanaya.web.fc2.com/shibue.html
ぎゃお\(◎o◎)/!と・・なりました。
今朝、「永井家」の情報を見つけた時に「すご〜く」気になってコメントしたのですが・・・
なんだろう?私の頭は「こんな風におバカさん」ですが、きっと記憶のDNAがしっかりとお名前を記憶していたのでしょうか・・??
という事で、コメント1で御紹介した上村の永井家の御先祖様「長井斎藤別当実盛」という方は、宮原一族の先祖「橘公長」が粟田口で「喧嘩」をした方だった・・
という事です。
では(..)・・トホホ(今頃!!との叫び声がパソコンを通して聞こえてきたような・・)
[5] | 白石さんからのコメント(2015年06月24日 21時53分52秒 ) | パスワード |
こんばんわ
今日は暑かったです。梅雨が明けたかと思うくらいです。
>こちらの四浦晴山の平川家とは、父の親友の方がいらっしゃるので、お付き合いをさせて頂いています。
おそらく、同じ四浦という事で白石様の御親戚の「平川家」とは姻戚関係もあるのでは?と思っているのですが・・
お父様は 子孫様の年齢から考えて 60代でしょうか?
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永井家
川向の 初神に同じ苗字の家がありました。でも 失火で 夫婦とも焼け死んだそうです。かわいそうなことでした。
前野家
野原だったと思いますが 一級上におられました。もしかしたら 前多かな?
男性です。
少年時代はたいていそうですが 細見 面長 眉は描いたようなきれいなまゆ
だったと 思います。
もう少し上流が五木で 五木も 師高所領なので 前野がいたのもありうると思います。
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棒踊り
上杉の棒踊り の誕生も新しいようですが
上杉と長尾の関係
新興勢力である後北条氏に押され、山内上杉家の 当主上杉憲政は、越後守護代として勢力を台頭させていた三条長尾家の長尾景虎(後 の上杉謙信)に上杉の名跡を譲った。
三条長尾氏は
関東地方に興った武家長尾氏は 本姓を平氏(坂東八平氏)とした。
又
長尾 能景(ながお よしかげ)は、越後国の戦国大名。長尾重景の子。長尾為景の父。上杉謙信の祖父。越後国守護代。信濃守。
戒名 天徳院殿★高岳正統
長尾に関して 前に コメントしたと思いますが 高岡でした。
他に 長尾市からは 新羅の天日鉾がいる。
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なんでもかんでも 古代に結び付けるわけではありませんけど
新羅は 古代は 琉球 台湾あたりだった。
あかるひめ を 追いかけまわした 天日鉾は出石に落ち着いた。
そして
天之日矛は前津見(『日本書紀』では摩多烏)と結婚して、多遅摩母須玖(『日本書紀』では但馬諸助)を生んだ。 その子孫は多遅摩斐泥−多遅摩比那良岐と続き、この比那良岐の子が多遅麻毛理、多遅摩比多訶、清日子の三人である。
三宅連(三宅氏)祖
また あちこちの抜粋ですが
県犬養橘三千代(県犬養氏)の先祖である「天羽雷雄命」
そして
阿波・安房忌部氏の先祖である「大麻比古」
「天羽雷雄命」「大麻比古」この方々は兄弟である・・・
県犬養氏と坂上氏は平安時代初期の球磨に係わる方に繋がっていました。
姓氏類別大観. 【県犬養氏】 度会氏と同じ神皇産霊尊を祖とする天羽雷雄命の後裔と 伝える
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 昔 氏
天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」で有名な児島高徳は、天日槍 命を遠祖とする田道間守の後裔と称する。 高祖神社に崇敬の厚かった恰土県主五十迹 手も、天日槍命の裔。
昔氏は 鹿島氏が にぎはやひ となぞらえた氏。
熱田神宮から出てきた 平川。
これは 関や八木のことばがあった。
又 神宮内は 武内のことばがあった。
南朝竹内氏
ーーーーーーーーーーーーー
棒術・杖術 竹内流備中伝
竹内流では「棒」を武器術の修行の基本としています。棒は「打たば太刀 払えば長刀 突かば槍 とにもかくにも はずれざりけり」と道歌にうたわれているように、各種武器の 基礎となることから、竹内流では棒術の稽古をかかさず行います。
[6] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月25日 21時46分44秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
白石様御教示ありがとうございます(^・^)
今朝、主人が3時に家を出る勤務で、その後、私も病院で定期健診の日でしたのでお返事遅くなりました。すみません。
父の親友の平川さんですが、こっちに帰ってから知ったのですが、平川家に婿養子に入っていらっしゃいました。
個人情報になるので旧姓は・・先日コメントした多良木平川家がある「地名」と同じ姓です。
父は現在73歳です。(^・^)
〉長尾に関して 前に コメントしたと思いますが 高岡でした。
(゜-゜)やっぱり、家と繋がっているのかな・・?という気がするのですが・・
宮原の先祖・・
橘公業の3人目の妻であり、橘公員の母は梶原景時の二男梶原景高の娘。
橘公員の妻であり、橘公綱と平頼綱は同母兄弟で、母は豊田五郎景基の娘。
現在、豊田五郎景基という方が何方なのか解りませんが、あくまでも推測ですが「長尾景基」・・この方なのかな???と。
ちなみに、橘公綱の妻は南部実継の娘。
白石様のコメントにあるように高岡家と長尾氏が繋がっているという事であれば、やはり、宮原の先祖とも繋がってくるような・・
・・・・\(◎o◎)/!
以前、コメントしていた内容を読み返していたのですが・・
平川家について21です。コメント1で藤崎氏系図について書いていましたが・・
コメント2で、日本の苗字七千傑様に頂いた御教示
転記します(..)
============================================
羽後の藤崎氏は阿部姓ですが、橘姓新荘氏と関係がありますね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208a.htm#003
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201a.htm
いずれも羽後小鹿島との関連濃厚でしょう。
羽後からの地名遷移じゃないかな?
秋田と飽田も偶然じゃないでしょう。
肥前松浦郡にも小鹿島が有り、松浦党の中にも安倍(阿部)姓系あり。
小鹿島系の後裔は肥前に栄えていますね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01053a.htm
========================================
マタマタ、理解不足でした(..)
平川家について24で槻木の地頭であった阿部氏。地頭阿部貞親 地頭阿部貞継 阿部貞繁。阿部氏について調べていたのでした・・何でピンとこなかったのだろう・・(..)
さらに・・白石様から何度もお伺いしていた「安東氏」。
こちらも平川家について21コメント55で調べていて・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101407_80.html
安東氏一族の所領は現青森県地方・道南地方に留まらず、鎌倉中期から橘氏の支配を離れた出羽小鹿島が北条氏の所領となり、安東氏がその地頭代となったのではないかとする説もあり、惣領家とは別の安東一族の海を通じた広がりが推定されている。鎌倉時代後期[32]から室町時代[注釈 7]には、南下し秋田郡に拠った一族は上国家を称した。
※出羽小鹿島は 橘氏(宮原先祖) → 北条氏(地頭代 安東氏)
(..)・・こういう事も調べていたのでした・・何だかやっと点と線が繋がって見えてきました・・
そして・・三位房 日進。こちらも同じく平川家について21コメント55で・・
「日進上人は嵯峨源氏安倍貞任の後裔である。」という事を調べていたのでした・・
何でも、すぐに理解出来ないので本当に自分でも悲しくなります(..)
では(..)
[7] | 白石さんからのコメント(2015年06月26日 07時34分44秒 ) | パスワード |
おはようございます。
お父様が73歳でしたら 私 平川家に婿養子に入られた方のことはわかりませんね。私の頃は 団塊の世代で 一学年68人(都会ぼえでは少ないでしょうが)で同級生の顔を覚えるのが 精一杯でした。
それに私人見知りする方だったので・・・
豊田は菊池も子孫が豊田を名のっているし 大内も一子相伝で豊田をなのっているけど これは 時代が少しさがってからですね。
ーーーーーーーーーーーーーー
藤原のこと
藤原がよく話にでますが
関係があるのかどうかは?ですが 白石を打ち込んだら
藤岡市 鏑川下流域 鮎川流域 白石丘陵公園 (白石古墳群)
白石稲荷山古墳 国指定
がでました。
そして
七輿山古墳 知見
高句麗部族が継体天皇の先兵となって毛野国に進出。
日本書紀では上毛野祖 「荒田別」の子 田道が連れ帰った4村の民は「胡族」で、胡人が多く住む場所なので「多胡」と呼ばれたとあります。群馬の古墳を調べると4世紀頃には新羅、伽耶、胡人が住み着いている。
引用するときは 吉田と書いてくださいと書いてありました。
こえから 仕事で ざっとしか 目をとおしていませんが
帰ってから 書きます。
[8] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月26日 09時11分58秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、御教示ありがとうございました(^・^)
父の友人の平川さんは、北岳神社の氏子総代を長らく務めていらっしゃいますよご出身は相良村か?どうかは父に確認してみます。(^・^)
所で・・
橘公員の妻である方について
橘公員の子「橘公綱」と「平頼綱」は同母兄弟で、母は豊田五郎景基の娘。
今朝は「豊田五郎景基の娘」の記述から「豊田五郎」という名称?について調べました。
以前の調査では豊田五郎を名乗った方で
豊田氏 http://www.myouji.org/toyoda.htm
桓武平氏鎌倉氏族 − − 相模国大住郡(中郡)豊田荘より起こる。大庭氏の族なり。
源平盛衰記に「大庭平太の弟、豊田次郎景俊」とあり。景俊は大庭庄司景宗の子にして名字五郎と称す。東鑑巻一、治承四年八月二十日條に「大庭平太景義、豊田五郎景俊」とあり。家紋、違柏。
上記の大庭庄司景宗の子「豊田五郎景俊」という方は調べていました。
今朝の調査で別の「豊田五郎」を名乗られた方を見つけました。
板津氏の系図 より
http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/keizunew.htm
藤原利仁流 林氏の系より「林光成」この方が豊田五郎 を名乗っていらっしゃいました。
※太平記の巻八に富樫・林が一族云々とあるはこの一党なり・・とあります。
日本の苗字七千傑様の藤原利仁流 《林 氏》姓氏類別大観 を拝見しました。
事ある毎にこちらの系に繋がるという事は・・やはり偶然では無いと思うのですが・・
さらに、驚いたのは「林氏」の家紋でして・・丸に一の文字が・・
以前からコメントしていますが、祖父の軍刀掛けに使用していた兜。兜の周囲を取り囲むように「一の文字」と「違い鷹の羽」の紋が・・
と思いながら、画面をスクロールすると・・
《兼松氏/豊田氏》・・兼松氏の紋は「丸に違い鷹の羽」・・??!!!!
何だろう??ものすごい!偶然?なのかな?それとも偶然ではないのかな・・?
林氏・・「林」・・?
木造釈迦如来坐像。平河氏建立の荒田寺、観音堂内にあり、県下で三例目の墨書きで胎内腹部前面に「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」の銘文が書かれています。
※木造釈迦如来坐像に残された手掛かりによって
「天台僧林与」こと川野林与・・川野・林与
さらに、荒田寺別当 良峯依高・・でした。
「林姓」が気になりまして調べたのですが・・
林氏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B0%8F
こちらの上記には
この項目では、日本の武家の林氏について説明しています。
それ以外の日本の林姓については「林 (日本姓)」をご覧ください。
漢姓の林については「林 (漢姓)」をご覧ください。
田丸氏の庶流については「林氏 (田丸流)」をご覧ください。
とあります・・うんがっ?!!「田丸氏」の庶流?「林氏」・・あっ!「田丸氏」です!!(AKIちゃん見てるかな?)
(゜-゜)転記を続けます
尾張林氏
定説では河野氏一族の河野通広が美濃国に定着したというが疑わしい。実際は稲葉氏の一族であり、稲葉通村の代に、姓を「林」と改めたという。
戦国時代に織田信長に重臣として仕えた林秀貞が有名。しかし秀貞は1580年に追放されてしまい、林氏は没落した。子孫は藩士となって尾張藩に仕えた。
子孫については、その後九州の黒田藩(現在の福岡県福岡市)に仕え、そこで家老の職に就いていたとのこと。
また、美濃国の稲葉氏とは同族で、林政秀の子の正成が稲葉重通の養子となり、稲葉正成として稲葉氏家督を継ぐなどの密接な関係が見られる。
林通政の弟の林通起の子孫の林十蔵が伊藤博文の父であると言われている。
周防林氏[編集]
林氏(伊藤氏)
林氏は本姓越智河野氏の支流といわれる。伊藤博文の実家の家系で、家紋はもと「折敷に三文字」だが、伊藤姓に改姓以後「上がり藤」を用いた。
博文自身の語るところ[1]によれば、「先祖は河野通有の裔で、淡路ヶ峠城主の林淡路守通起である」という。また「実家は周防国熊毛郡束荷村の農家で、博文の祖父林助左衛門は、林家の本家林利八郎の養子となり本家を継いだ。林助左衛門の子、十蔵は萩藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、安政元年(1854年)水井武兵衛が周防国佐波郡相畑の足軽で藤原姓を称する伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した[2]」という。伊藤十蔵の長男が、伊藤博文公爵である。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨の甥)が継いだ。
(゜-゜)
「周防国熊毛郡束荷村」・・熊毛郡ですね・・そう言えば山口県にも熊毛郡がありました・・
仙台藩士越智姓林氏[編集]
「角川日本姓氏歴史人物大辞典4 宮城県姓氏家系大辞典」に平士150石の仙台藩士に越智姓で稲葉氏一族の四門氏を祖とする林氏がある。稲葉通富の子である林通兼の子の林新左衛門通安の数世孫の四門四郎兵衛を祖とする。
三河林氏
甲斐源氏・小笠原氏の傍系であり、松平親氏の頃より松平氏(徳川氏)に仕えたとされる譜代家臣。
加賀林氏
藤原利仁の子である藤原叙用(斉藤叙用)の流れを組む斎藤氏の傍系。富樫氏とは同族である。
\(◎o◎)/!こうやって確認すると!
尾張林氏・周防林氏・仙台藩士越智姓林氏 ・・「越智氏」に繋がる「同族」!ですね。
そして・・
加賀林氏
藤原利仁の子である藤原叙用(斉藤叙用)の流れを組む斎藤氏の傍系。富樫氏とは同族である。
「橘公綱と平頼綱は同母兄弟で、母は豊田五郎景基の娘。」
ここから調査を始めて・・
※藤原利仁流 林氏の系より「林光成」この方が豊田五郎
※林氏を調べると・・
●尾張林氏・周防林氏・仙台藩士越智姓林氏・・越智氏・・伊予橘氏である宮原一族の先祖とも同族・・
●加賀林氏 藤原利仁の子である藤原叙用(斉藤叙用)の流れを組む斎藤氏の傍系。富樫氏とは同族である。
※富樫氏・・藤原師高を富樫氏の一族と呼んだ・・
※平河氏建立「荒田寺」。木造釈迦如来坐像胎内銘文に「天台僧林与」こと川野林与という方の名が残る・・
全て繋がっているような気がするのですが・・
系の違う「林氏」・・
さらに・・
「豊田五郎光成」(林光成)・・太平記の巻八に富樫・林が一族云々とあるはこの一党なり・・藤原利仁流「豊田氏」。
「豊田五郎景基」・・宮原の先祖「橘公綱と平頼綱は同母兄弟で、母は豊田五郎景基の娘。」・・桓武平氏鎌倉氏族「豊田氏」
すごくモヤモヤしています・・
では(..)・・(゜-゜)
[9] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月27日 13時00分31秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>全て繋がっているような気がするのですが・・
源平の戦い→戦国国盗物語→本能寺の変→決戦関ヶ原→家康天下統一→
大奥システム確立→幕軍敗残兵の淀城入城拒否→伊藤博文の初代首相就任等。
源平の戦いでは、折敷に三文字紋(越智氏)と三鱗紋(北条氏)の連合で平家滅亡。(越智姓河野水軍の源氏方寝返りが痛いね)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01112.htm
これらの重大事件の裏に、必ず「折敷に三文字紋」がはためいている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206b.htm#003
>子孫については、その後九州の黒田藩(現在の福岡県福岡市)に仕え
本能寺の変の実質指揮者齋藤利三の娘春日局は徳川大奥総取締に就任。
利三の末裔は福岡黒田藩士へ、林氏とは同族。
黒田藩は佐幕であったが、稲葉氏の幕府への裏切りに連動して官軍側へ。
何故、折敷に三文字紋は凄いかと言えば、
東予と大山祇神社のある大三島の間には潮流が難所の来島海峡がある。
この海域で活動したのが操船に長けた越智姓村上水軍である。
平成の現代でも大型船舶は国際的な航行基準が適用されずに、
潮流の向きにより航行制限を受ける世界でも稀な海峡なのである。
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/kurushima/succor/guide/Contents/Menu.html
[10] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月27日 13時05分31秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
上記はこちらのURLを
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/kurushima/succor/guide/
[11] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月27日 17時45分13秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。
〉本能寺の変の実質指揮者齋藤利三の娘春日局は徳川大奥総取締に就任。
〉利三の末裔は福岡黒田藩士へ、林氏とは同族。
〉黒田藩は佐幕であったが、稲葉氏の幕府への裏切りに連動して官軍側へ。
昨日のコメントで御紹介した「尾張林氏」
※定説では河野氏一族の河野通広が美濃国に定着したというが疑わしい。実際は稲葉氏の一族であり、稲葉通村の代に、姓を「林」と改めたという。
※子孫については、その後九州の黒田藩(現在の福岡県福岡市)に仕え、そこで家老の職に就いていた
※美濃国の稲葉氏とは同族で、林政秀の子の正成が稲葉重通の養子となり、稲葉正成として稲葉氏家督を継ぐなどの密接な関係が見られる。
頂いた御教示、そして上記のウィキの記述・・これで、しっかりと理解出来ました・・全て、繋がっているのですね。
〉源平の戦いでは、折敷に三文字紋(越智氏)と三鱗紋(北条氏)の連合で平家滅亡。
〉重大事件の裏に、必ず「折敷に三文字紋」がはためいている。
宮原一族の先祖「伊予橘氏」・・元越智姓・・越智氏「折敷に三文字紋」
そして・・三鱗紋(北条氏)
家の親戚には「おがた」姓の緒方家と尾方家があります。
平家落人伝説を継承する親戚の緒方家(五木)ですが、三鱗紋です。
緒方家は五木以外に椎葉村と水上村の県境辺りの山も所有しています。
球磨の緒方姓は三鱗紋が多いようです。
緒方家(三鱗紋)・・平家落人伝説を継承
北条氏(三鱗紋)・・越智氏「折敷に三文字紋」と繋がる・・
北条氏と言えば・・
宮原の先祖「橘公綱と平頼綱は同母兄弟で、母は豊田五郎景基の娘。」・・桓武平氏鎌倉氏族「豊田氏」 ?
もしや?この方?と推測してしまう長尾景基と言う方ですが・・
実は昨日、気がついた事がありました。
長尾景基の父「長尾 景忠」の正室は「北条時隆の娘」です。
ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%99%AF%E5%BF%A0
長尾 景忠(ながお かげただ)は、鎌倉時代の武士。
長尾氏一族が宝治合戦において三浦氏に殉じたためその殆どが滅亡し、景忠は数少ない生き残りとなった。
父母 父:長尾景茂、母:葛西時清の娘
兄弟 定村、景氏、為村、景忠
妻 正室:北条時隆の娘
子 景基、景能
(゜-゜)・・こちらの「景基」という方も「北条氏」と繋がっていました・・
源平の戦い・南北朝の戦い・・様々な戦いにおいて、其々の「氏族」が系を残す為の保険として系を二つに別けて戦っていた・・とお伺いしました。
先祖、「伊予橘氏」も同じく「源平の戦い」で系が別れました。
「伊予橘氏」でも、別れた系は滅んでいます。
南北朝の戦いにおいても、先祖は「球磨」の中でさえ、系を残す為に北朝と南朝に別れて戦いました。
全ては後の世に「系」を残す為ですね・・他の「氏族」も同様の記述を多数目にしました。
最近は球磨の古代に興味を持っていますが、いつの世も其々の「氏族」は系を残す為の手段を選択して来られたのだと思います。
全ての繋がれてきた「命」は大事にしなければいけないと・・
それこそが、真の先祖に対する感謝であり、先祖供養なのだと考えました。
来島海峡
〉潮流の向きにより航行制限を受ける世界でも稀な海峡なのである。
御教示頂いたサイトを拝見しました。
来 島 海 峡 の 特 徴
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/kurushima/succor/guide/
来島海峡の自然環境
1 潮流
(1) 潮流の状況
来島海峡は、その中に存在する島々により4つの水道(西水道、中水道、東水道、来島ノ瀬戸)に分けられており、これらの強水道においては、潮流は最強時は10ノットを超えることがあり、また、所々に急潮や渦を生じます。また、島陰などは反流区域となり、一般に潮流が弱く流向も不定となっています。
(゜-゜)すごく興味が湧いて、サイト内の様々な記述を読ませて頂きました。
来島海峡を熟知・・
「この海域で活動したのが操船に長けた越智姓村上水軍である。」という事なのですね。
来島海峡・・くるしま・・くる(来)・・あっ!!そういう事か!!
古代・・中世・・近代・・が、グルグル繋がっている事も解りました(^・^)
日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございました。
[12] | 白石さんからのコメント(2015年06月28日 00時01分02秒 ) | パスワード |
こんばんわ
>父の友人の平川さんは、北岳神社の氏子総代を長らく務めていらっしゃいます
晴山の小山勝清先生とこは 池井さんとこと親戚で
私の父のもう一つ上の世代の人が 神職でした。
父と同世代の人は 校長先生をしていました。
小山さんとこは 池井さんの家の坂を少し登ったところの 村山さんとことも親戚でした。村山という苗字は 伊勢神宮社家にありました。
そこを すこし上がると 小野で 宮田・松本もありました。これらも伊勢神宮の社家にありました。小野には 観音堂もありました。
池井さんは 北嶽神社にも関与しておられますが
北嶽神社のひひ踊りの振り付けは 勝清先生の娘さんが したそうです。
私の同級生のおかあさんですね。
池井さんは 初神の白鳥神社の神職をしておられました。
初神白鳥神社 谷の対岸にある霧島の白鳥神社の分身とされていまる。
また 池井という苗字は 近畿の方の百済の王族の陵の周りの家にあると 前に 新聞で見ました、
[13] | 白石さんからのコメント(2015年06月28日 00時26分34秒 ) | パスワード |
つまり
北嶽神社に関係している家と同じ集落にあり 元士族のうちの平川。
これらと 姻戚関係はないけど
中村を介して つながっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
集落の少し上に 林はありました。
平川の叔母に言わせたら 自分たちは 屋敷と いっている ということでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の母方・佐田の親戚に 神力という家があり 山本という家と同じく佐田から嫁に行っていました。
つまり
母の母は 山本といとこどおしで 結婚していたのです。
そして
神力という家にも 代々嫁に佐田からいっていて こちらとも いとこどおしの間柄なのです。
そこから嫁に来ていた 人の墓が
母がいうには
古前というところにある安養寺というのでした。
母の教えてくれたお寺の呼び方が地元の人がいう呼びかただと言って お寺様が教えてくれましたが
お寺は 村上水軍の姫が 塩田で働く人の犠牲者が余りに多いので 嫁ぎ秋の毛利氏の援助で建てたお寺だそうです。
神力は はま人の旦那様と 言われて いつも 人を引き連れていたそうだけど佐田に来たら 土間に座って 佐田の当主は座敷で話をしていたそうです。
現在家に婿養子に入っている人は 武田の血を引く人で 戦に負けて武田を名乗れず 広島の浅野の殿様から 真木 という姓をもらったそうです。
このひとにも 神力の血が入っています。つまり 佐田の血母の若いころは 神力の家から船を出して 毎年 金毘羅様へ
[14] | 白石さんからのコメント(2015年06月28日 01時02分59秒 ) | パスワード |
>このひとにも 神力の血が入っています。つまり 佐田の血母の若いころは 神力の家から船を出して 毎年 金毘羅様へ
つまり 佐田の血
母の若いころは 神力の家から船を出して 毎年 金毘羅様へ遊びに行っていたそうです。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ところで 子孫様
ダムの建設が中止になって 清らかな水を守れました。
うなぎや アユは 私の子供の頃は 毎日でも 食卓に上っていました。
栄養源のすくないところでは 貴重なものでした。
kウナギやアユは 自然に任せていては 捕獲量も減るのではなかろうか?
稚魚の養殖など 進んでいるのだろうか?と思い 検索しましたら
合併後の会長には日鰻連の白石 嘉男会長、副会長には全鰻連の村上寅美会長がそれぞれ就任した。
という文字が出ました。
この人たちは 私は 知らない人ですが
そして ウナギやアユは 自分がうまれた川にかえるのではなかろうか?と おもうので 川辺川や 子孫様のそばの川の水を使って
稚魚を育てて 放流するのもいいな と 思います。
すでに 取り組んでおられるかも しれませんが。
やはり 日本人の食文化に深く根付いている食べ物ですからね。絶滅のうれいがないようにしたいですね。
[15] | 白石さんからのコメント(2015年06月28日 02時20分40秒 ) | パスワード |
言っていた 白石古墳群について書いてあることに関連して
仁徳紀(倭建)五三年(四三四)の 記事だが、上毛野氏の祖豊城入彦五世の孫という竹葉瀬と弟田道は★荒田別の子である 。
荒田という言葉は良峯師高の墓にありました。
尾張氏の子供を産んだ大荒田の女子は 稲一束とほうの葉をいただいたということでした。
これをよんだ当時 一束?と思いましたが
これを植えれば ずいぶん増えるのですよね。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
竹葉瀬(たかはせ=多遅麻比多訶だそうです。
とすれば 田道 も 多遅麻で
天日鉾の子孫の 田道間守と同族?
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
群馬県★★吉井町池にある多胡(たご)記念館に保存された碑
多胡碑文
上野国片岡郡、緑野郡、甘楽郡をあわせた地から300戸を郡として羊に与える。
左中弁正五位下 多冶比真人 三宅麿。太政官二品 穂積親王(天智天皇の皇子)左大臣
二位石上尊 石上麻呂 右大臣 正二位 藤原尊(藤原不比等)
3多胡とは
日本書紀では上毛野祖 荒田別の子 田道が連れ帰った4村の民は胡族で、胡人が多く住む場所なので多胡と呼ばれたとあります。群馬の古墳を調べると4世紀頃には新羅、伽耶、胡人が住み着いている。
日本の苗字7000傑吉井を見ると
平川が出る 光盛の弟・基家の筋の安村氏から吉井が。
お願い。この羊太夫解明記事をリンク又は引用の場合吉田説と出典を明らかして下さい。
[16] | 白石さんからのコメント(2015年06月28日 03時00分17秒 ) | パスワード |
田道が連れ帰った胡人は緑埜で採鉄製鉄を行った
で
藤原ですが
まず 車持氏
21代雄略天皇の御代に美麗な輿車を献上して「車持の姓を賜う」(新撰姓氏録)
。
他の資料に 気長足姫尊(おきながたらしひめみこ=神功皇后)の御世に現古君が韓矢田部姓を賜った。その後裔が雄略天皇かから車持姓を賜ったとあります。
532年欽明天皇の勢力拡大が東国に及ぶ。鉄を産出する緑埜(みどの)を屯倉として接収。反抗した豪族は車持氏と同族でその後歴史にあまり登場しない現古君(うつしこのきみ)辛矢田か或いは地名が残る八束氏かもしれない。辛矢田(からやた)は韓矢田部と同一。上毛野の祖、田道(荒田別の子で竹葉瀬の弟)が新羅から連れ帰った4村の民に該当する。田道が連れ帰った胡人は緑埜で採鉄製鉄を行った。
鎌足の妻と言えば、天智天皇より賜った鏡王女と藤氏家伝に定慧・不比等の母と記され ている、車持与志古娘(くるまもちよしこのいらつめ)がいます。
藤原 不比等(ふじわら の ふひと、 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月9日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の二男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。
崇神天皇を祖と称する部族は上毛野六腹と呼ばれている。
上毛野朝臣(上毛野氏) · 下毛野朝臣(下毛野氏); 大野 朝臣(大野氏); 池田朝臣(池田氏); 佐味朝臣(佐味氏); 車持朝臣(車持氏)
これでみると 藤原には半分胡人の血がはいっているように見える。
[17] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月28日 06時25分31秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、御教示ありがとうございました。
川辺川の清流。守られて本当に良かったですね。
球磨に戻り、川辺川沿いをドライブするとツクヅクそう思います(^・^)
うなぎ。(^・^)食いしん坊の私ですので、コメントを拝見するだけでお腹が「ぐ〜っ」と鳴ってしまいました(^・^)
所で「日鰻連」は全国の組織で球磨と直接は関係ないようです・・
http://www.wbs.ne.jp/bt/nichimanren/kaiinkumiai.htm
(何でも興味が出るとすぐに調べたくなります(p_-))
「荒田」
こちらは、木上の地名です。
木上小学校から200メートル程先の地域名となります。
荒田地区の球磨川に近い場所、周囲を田畑に囲まれた所に、岩がむき出しとなった、まるでその場所だけ「隆起」?したような要塞のような・・その場所こそが、平河義高が居城した「岩城」跡です。
解りやすい写真をサイトで見つけました。
御紹介する写真の右方向の木々がこんもりと茂っている場所が「岩城」跡です。
http://ameblo.jp/setoyama425425/image-12031635311-13319352634.html
荒田大王神社(木上大王神社)については平川家について24で御紹介したように
球磨郡誌より
木上大王神社
荒田にあり。祭神は本地の地頭であった平川右衛門三郎義高の霊を祀ってある。
藤原頼親公の御願に依り草創せりと。又、藤原頼俊公の時草創とも言う。
應永年中再興、永禄十年義陽公の改造あり。明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。
平河師高を御祭神とする神社は
木上平川にある平川大王神社です。
球磨郡誌より
平川大王神社
平川にあり。平川右衛門義高の三男師高の霊を祀ってある。明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。
上記の木上平川地区は荒田地区のすぐ隣の地域で、先日、コメントした「天子の水公園」や天子神社のある、あさぎり町深田地区とも道をはさんで隣接しています。
深田には平河氏の外城「高山」があります。
木上平川地区や深田の「天子の水公園」や天子神社が鎮座する地区は、切り立った崖?の上にある高台(丘)?にあります。
おそらく、太古の昔、球磨が湖だった頃の名残じゃないのかな?と思うのですが・・
地域の雰囲気?が解りやすい写真がサイトにありました。
写真奥の民家が建っている地域は横方向に県道33号線沿いです。その奥に平川地区などがある崖の繋がりが見えます。
この崖は県道沿いに2キロほど続いていて、崖の上は高台です。
写真向かって右方向に続いています。
http://ameblo.jp/setoyama425425/image-12031635311-13319353074.html
地図もありました。
http://www.mapion.co.jp/m2/32.22714875967823,130.8450638888889,16/q=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E7%90%83%E7%A3%A8%E9%83%A1%E9%8C%A6%E7%94%BA%E5%A4%A7%E5%AD%97%E6%9C%A8%E4%B8%8A%E6%9D%B1%2B%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E7%90%83%E7%A3%A8%E9%83%A1%E9%8C%A6%E7%94%BA%E6%9C%A8%E4%B8%8A
先日も、コメントしましたが・・
平川地区は上記の崖の上の高台で、小さな「小川」しか流れていません。
以前、日本の苗字七千傑様より、木上平川地区の地図を御紹介頂いて、「現地調査」が重要とのお言葉を頂きました。
こちらの地区の下を通る県道33号線は、近道が大好きな私にとっての、人吉へ行く生活道路になっていますので、週に数回は通るのですが、何故「川も無いのに”平川”なのだろう??」と思っていました。
所が・・
その疑問を解く「鍵」なのでは?と思う記述・・「言葉」を昨日見つけました。
日本姓氏語源辞典より
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2885814.html
ヒラカワ 平川 福岡県、熊本県、千葉県。@滋賀県野洲市付近(旧:平川)から発祥。位置不詳。岡山県高梁市備中町平川は経由地。人名からと伝える。千葉県千葉市緑区平川町は江戸時代から記録のある地名。平川氏の人名からの可能性のある地名。地名は「平河」とも表記してヒラカの発音もあった。栃木県栃木市大宮町の平川城の城主にあった。A鹿児島県薩摩郡さつま町平川発祥。B沖縄県南城市大城の小字の平川から発祥。C秋田県能代市浅内では平河姓からの改姓で山形県鶴岡市の出と伝える。類音に平賀姓あり。D鹿児島県大島郡知名町下平川発祥。同地に分布あり。E創賜。鹿児島県肝属郡南大隅町佐多伊座敷に江戸時代にあった門割制度の平川門から。宮崎県小林市南西方に江戸時代にあった門割制度の平川門から。Fコリア系。東京都練馬区で1954年11月24日に帰化の記録あり。本姓は潘。※和歌山県日高郡日高川町平川(ヒュウガワ)に分布あり。
(゜-゜)上記の中にあった
C秋田県能代市浅内では平河姓からの改姓で山形県鶴岡市の出と伝える。類音に平賀姓あり。
以前、コメントしましたが「平河」を江戸時代の僧の方が「平賀一族」と呼ばれていた事を思い出しました。
そこで「平賀」を調べると・・
日本姓氏語源辞典より
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2885814.html
ヒラガ 平賀 岩手県盛岡市、三重県、広島県。@平鹿の異形。A長野県佐久市平賀(ヒラカ)発祥。鎌倉時代から記録のある地名。Bアイヌ系。北海道沙流郡日高町平賀(ビラガ)発祥。アイヌ語のピラ・カは「崖・の上」の意。
\(◎o◎)/!アイヌ語のピラ・カは「崖・の上」の意。
これだっ!!
平らな川というイメージよりも、”ピラ・カは「崖・の上」の意。”こちらの言葉が、木上平川地区にはピッタリと合います。
偶然かな?祖母の実家の「平川家」も井口川にある球磨では珍しいと言われる「シラスで出来たむき出しの崖の上」に建っています。
(これは偶然だと思いますが(ー_ー)!!)
しかし、球磨に戻って以降、ず〜っと疑問だった「川も無いのに何故平川?」。
この疑問は「アイヌ語」のピラ・カは「崖・の上」の意、で解けたような気がするのは私の思い過ごしでしょうか??
という事で今朝は、木上平川の地名の由来は?というお話でした。
では(^・^)
[18] | 白石さんからのコメント(2015年06月28日 14時24分42秒 ) | パスワード |
こんにちわ
鰻連とつながっている と いうわけではなく
意味合いが違いますよ。
あれは
球磨がきれいな川 水 土地を利用して 全国の台所になればいいなあ
天然にまかせれば ふえるのは 遅いから 誰か 稚魚の要職を知っている人がいないかなあ
と思って検索したら出てきたのです。
同じような意味合いでは
安曇に堀川がいて 水車で電力をつくていますが
これも
四浦の堀川がつながっているわけではないですね。
でも
同じ苗字の人で 頑張っている人はいるんだなあ と 思います。
きっと 歴史をおりてくるどこかで わかれているのでしょうけど・・・
平賀は 山口 白石もそうです。
結局どうやっても つながるものは あるんですね。
これも 急角度で ちょっけつしているということではありませんよ。
平賀の場合 漢王室もからんでくると思います。
同じような意味合いということでは
徳川家のよめかたに 入り込んでいるのですね。。
[19] | 白石さんからのコメント(2015年06月28日 14時27分57秒 ) | パスワード |
養殖です。
変換がおかしかったです。
[20] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月28日 18時04分10秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
白石様、御教示ありがとうございます(^・^)
日鰻連・・コメントの意味理解出来ました(^・^)
球磨川の清流を保つための取り組みとして、錦町に郡内の排水を集め浄化する設備が出来ています。
郡内に張り巡らされた下水道よりも、土地の低い場所は各家庭が合併式浄化槽を設置して、排水を綺麗な水に変えて、川に流すようになっています。
(私も、故郷に帰って来て、この事を知りました(^・^))
田舎でも、環境の事を真剣に考えて住民が取り組んでいるのです。
でも・・残念な事に空気が・・
中国からのPM2.5の影響がひどく、盆地の山はかなり霞んで見えます。
特に人吉から八代に抜ける谷間は、国道沿いも、高速道路でも、空気が滞留して真っ白になっています。
折角の美しい景色が台無しです。霞んだ山は泣いているように私には見えます。
九州北部だけではなくPM2.5は偏西風にのって九州南部や中部にも大きな影響を与えているようです。
先日コメントしたように、白髪岳頂上付近のブナ原生林は、かなり枯れてきています。
とても悲しい事です(..)
話は変わりますが・・
〉平賀は 山口 白石もそうです。
そうなのですね。・・(p_-)
系という事とは別に「アイヌ語のピラ・カは「崖・の上」の意。」・・平賀・・平河。
球磨は、古代において九州アイヌの本拠地でした。
おそらく、地名にも、その名残が多数残っているのではないのでしょうか・・?
今朝、木上周辺のコメントをしましたが、祖母は実家「平川家」の事をどう言っていたのか?この頃、父とよく話をしていました。
※平川家は豪族だった。
※宮原家よりも、もっと早くからの球磨の豪族だった。
※ばあちゃんは「平川義高」の末裔
※家(平川家)は元々「木上」にあった。
※平川義高公の最期の言葉「我が一族の女・子供に危害を加えるならば、(相良家)末代まで祟りが及ぶだろう」
この言葉のお陰で、今、皆生まれてこれた・・と祖母は言っていました。
同様の事を、多良木の平川家や湯前の平川家など、平川の親戚は皆聞いて大きくなったと言っています。
白石様の御親戚の平川家の方々も同じではないのかな・・・と思います。
お聞きになられた事はありませんか?
祖母の実家の平川家で、もう一つ気になる事があります。
平川の私の曾祖父(写真に写っていた)の兄弟は、久米堂山の平川家・湯前平川家・久米田山家・切畑黒木家の其々跡を継ぎました。
気になるのは切畑の黒木家です。
平川家について25コメント43で書きましたが・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101460_78.html
転記します。
岡原村史によると、切畑地区は明治12年まで湯前村の飛地でした。
明治12年に宮原村に編入されて7戸が湯前村の戸籍から宮原村の戸籍に移されました。
7戸とは星原姓(5戸)宮原姓(1戸)犬童姓(1戸)とあります。
=======================================
黒木家が含まれていません。
明治12年です。おそらく、その後、平川の曾祖父の弟は「黒木家」の名跡を継いだのでは?と思うのです。
切畑の黒木家は私が知っている限り、宮原谷の麓の山を所有していましたし、農地も多数あり、家で仕事をする方もいらっしゃったとの事です。
という事は、切畑地区が宮原村に編入された後に「切畑地区」に新たに来た「家」とは考えられないのですよね・・?
所有する山や土地はもしかしたら、おじに譲られた平川家の土地や山だったのかな?とも・・?
それか・・上記に含まれた星原姓(5戸)宮原姓(1戸)犬童姓(1戸)のいずれかの家に「黒木姓」との縁があり、平川のおじが名跡を継いだのかな?とも。
いずれにせよ平川の曾祖父の弟は、何らかの縁を元に「黒木」の姓を継いだのか?と推測する事も出来ますが・・勝手な推測はダメですよね。今度、椎葉のおじに聞いてみます(..)
ちなみに祖母の妹は多良木の平川家に嫁いでいますので、先々代までは、養子に入ったり、嫁いだりとする家は「平川の同族」が多いような気がします。
あっ!そうか・・祖母は「宮原家」に嫁いできました・・
何せ、すごく両家は近いですので・・
そう考えると・・
祖母の実家の「平川家」はいつからあの場所に来られたのだろう?
以前コメントしていましたが、先祖「橘薩摩」を良峰安世流と書かれていたサイトがありました。
もしかしたら・・単純に考えて見ると・・
「平川」と「宮原」が姻戚関係を早くに結んだから?なのかな?と・・
単純過ぎました(..)・・でも・・可能性はないのかな?(?_?)
しかし・・家の仏壇には分霊された「平川の先祖」と「宮原の先祖」が同居?されていますし・・(?_?)
(?_?)・・・?
では(..)・・・・(?_?)・・・?
[21] | 白石さんからのコメント(2015年06月29日 06時24分14秒 ) | パスワード |
おはようございます。
※平川義高公の最期の言葉「我が一族の女・子供に危害を加えるならば、(相良は家)末代まで祟りが及ぶだろう」
こうまでくわしくは誰もきいていなかったのではないか?と思います。うちの平川は余計に叔父が高岡から入り婿・その上世代のおばあさんも初神の緒方からの嫁なので
おじいさんの頃は どうだったか?
私もかすかにそのおじいさんは覚えています。が、その頃は どこもそうだったけど 平川は夜の夜中まで脱穀機をごいごいとまわして収穫に必死という時代でしたから 近所のもしかしたら昔源氏方についた家に対して敵対意識があったかどうか ?
ただひとつ 私 ?と思ったことは
集落の尾方のおじさんが選挙に立候補したとき 私に
「声がいいからウグイス嬢をばしてくれんね」と言われ
引き受けたとき 平川のおばが 怒ったことです。
そして しばらくして 尾方のおじが
「もう 源氏だ平家だというてる時代じゃなか」
と 言っていたこと。
尾方という表記については 子供でも 緒方がよかっげな 尾方はちいっとようはなかっげな などと言っていて
それは 私 後になって 球磨郡誌だったか 太田氏の辞典だったかを呼んで
尾方について
平氏とぞ 信じがたし と 書いてあるのと
緒方 は 源氏という認識をもっていたのとが 一致した時。
その 尾方の家は
うちの父が戦後 山へ行くのに買い求めた今のうちの家の前身で
つまり 平川のすぐ隣で
尾方の前は 黒肥地の家だったことは
反対隣の林田の家と境界でもめたとき 尾方のおじが 自分が黒肥地から買った時 ここの土手を築いたのだ と 言ってくれておさまったのだと聞いていること。
黒肥地所有だったことまではわかっていること。
平川はその前からそこに家があったようだ こと
です。
私は 同級生から 四浦の人は
五木あたりから時代をおりて 移ってきていると聞いていること
村について書かれているのにも 同じ。で 縄文時代 平家城 相良外城と遺構が重なっているようだということがかかれていること。
家家を 整理して
たとえば 父と平河のおじ 高岡のおじは いとこどおしで 高岡。
その高岡は 同じ山の田山 田中他 と姻戚関係で 地域の認識は
「高岡は 昔からあそこに おらいたっじゃんもんな」ということ。
又 高岡から白石へ嫁 山口 下益城の平江も同じく白石へ嫁
うちの 平川嫁のおばあさんは初神尾方からだけど 先ほどの尾方のおじさんは大谷の吉田から そして 松本も同じく吉田から
というように 整理すると 住んでいた 字と 苗字から浮かび上がるものが 歴史に符合すること
初神は 曹洞宗のお寺で うちの白石も お寺は違うけど 曹洞宗の流れで
集落の吉田から来ているという尾方はうちの高岡と同じ 深田 善正寺で
私の弟が亡くなった時 お経をよんでくれた田山のおじ(市房神宮のお鏡を預かっていると聞いているうちの高岡の親戚の家)が お坊様がかける何でしょう ものをかけて お経を唱えてくれたこと ・・ 多分同じ宗派。
などです。
[22] | 子孫よりさんからのコメント(2015年06月29日 08時39分06秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様コメントありがとうございました(^・^)
あの・・
私が白石様のコメントの「意」を理解出来ていないのであれば申し訳ありませんが・・
※平川義高公の最期の言葉「我が一族の女・子供に危害を加えるならば、(相良家)末代まで祟りが及ぶだろう」
この言葉のお陰で、今、皆生まれてこれた・・と祖母は言っていました。
という話は白石様のおっしゃった
〉昔源氏方についた家に対して敵対意識があったかどうか ?
とは意味が異なるのですが・・(白石様の意図を勘違いしているのであればすみません)
平川義高公の最期の言葉とは、平河一族が相良長頼からの奇襲を受け、平川義高が自害された際の最後の言葉です。
この言葉を受けて、その後、逃げていた女・子供は、相良家より迫害を受ける事なく、逆に擁護されたと聞いています。
祖母の実家の「平川家」や多良木「平川家」そして曾祖父の弟達が養子に入った各平川家には代々伝承されている言葉・話です。
今でも事ある毎に親戚が集まると、必ずこの話が出てきます。
先祖様が子孫を守って下さった。感謝しなければいけない・・と皆口々に言っています。
800年近くも言い伝えられているという事はすごいなと思います。
ただ・・この「言葉」は球磨郡誌や相良家文書などの平河氏に関する記述の中のどこを探しても載っていません。
実は、球磨に戻ってすぐに、父に対して
「相良氏よりの平河氏に対しての”奇襲”は本当にあったのかな?鎌倉時代の遺文など幕府関係の記録には全く記述がないのだけど・・」
と言うとすごく叱られました(..)
「消された事実でも、子孫が伝承していかんでどうするとか!!お前がそんな事を言うと御先祖様が悲しまれるぞ!」と・・
かなり、反省しました(..)
この事を教訓に、今後は「記録に残ってはいないけれども、代々、家や親戚に伝わっている話」などがあったら聞き集めていこうと思っています(^・^)
では(^・^)
[23] | 白石さんからのコメント(2015年06月29日 21時39分31秒 ) | パスワード |
こんばんわ
子孫様 きゅうりの収穫ははじまっていますか?
うちのきゅうり 2本だけ植えたけど お花の根っこにちょっこんとつきはじめました。となりのおじさんが ふたつあって 上のは とれるわあ と 言っていました。
楽しみです。
義高公と長頼
私 あんまり 理解できていませんね。
長頼公は
一説 畠山重忠をうった功で 球磨へ下向した とも。
そして
球磨一郡を範囲としていた球磨荘が平家没官領とみなされて鎌倉幕府によって解体され
この時起きた出来事かしらん ?
と 思いますが・・・
それで 平川ー平家方 相良ー源氏方 と 私単純図式で。
ーーーーーーーーーーーーーーー
[24] | 白石さんからのコメント(2015年07月01日 02時23分37秒 ) | パスワード |
こんばんわ
ヘルストロン
子孫様 わたくし 宣伝代をもらっているわけではありませんし、こんなところで特定のものを宣伝してはいけないとは思いますが
ヘルストロン という ものがあって
前に書いた 水晶からつくるケイ素水みたいに 血の流れを整えてくれます。
ペースメーカーを入れてしまったら使えないけど
つかっていると 狭心症 心筋梗塞などでも だんだん良くなって 元気になっている人を結構見ます。毎日見る70才の人なんか 若者のように さっさと歩いていつもはつらつとしています。心筋梗塞を過去に起こして その機械にかかっているのだそうです。
他にも アトピーとかですね。よその子ですが 子供が喜んで自分で通っています。症状は選ばず いろいろと効能があるようです。
私が通っているのは お試し期間で 近くで使わせてくれるところがあるので
利用しているのですが もちろん 買いこんで家に持っている人もいます。
私 近くにあるので 通ってかかっていましたら
足の静脈瘤が大蛇がのたくったようになっていて ひきつるように痛かったのがうそみたいに おさまってきました。
それに 右足の甲の痛さですね。
そして 過去には 寝ていても 足が冷えて 骨がわかるくらいで それがぽきんとおれそうにな感じでしたが 今は足がポカポカと して ぐっすり眠れます。。子孫様も 糖尿から きている差し障りがあるとか・・きっと 血の流れをよくすると 症状が改善されると思います。
やっぱいいものはいい ほんまもんや で
運動選手も結構使っているようです。どこに会社があるのだろうと検索してみたら長崎県佐世保でした。九州です。
体に悩みを抱えておられる方も皆元気になって 元気で年を重ねていけたらいいですね。
[25] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月01日 07時12分15秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、コメントありがとうございます。
昨日は、来客があり、「勉強」が出来ませんでした。
お返事遅くなりましてすみません(..)
お身体の調子がだいぶ良くなられたとの事で、安心しました(^・^)
血流が良くなると様々な症状がが改善されるのですね(^・^)
ちなみに、私の家族・親戚は遺伝性の糖尿病が多いので私も気をつけます。
実は一昨日、嘉島町に用事があり、主人と五木経由で宮原(氷川町)に抜ける道路を通って行きました。
五木頭地より宮原(氷川)まで35キロでした。
久しぶりの晴天で、川辺川の水は本当に綺麗でしたよ(^・^)
四浦も、もちろん通りました(^・^)
今朝の球磨は夜中から大嵐です。
大雨洪水警報も発令中です。
梅雨時は、体調を崩しやすいので、お身体には十分お気を付け下さい。
私も、気をつけます(^・^)
[26] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月01日 22時24分28秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
今日は幾つかの発見がありました(^・^)
まず、宮原観音堂(みやのはる観音堂)の御詠歌についてです。
平川家について25コメント70でご紹介しました。
【御詠歌】
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし うき身も終の 宿ぞここなる(武親)
〇秋草の 葉すへにむすぶ 露のみや のはらのかぜに 明日も散りなん(美辰)
この御詠歌は相良三十三観音にゆかりの「井口武親」そして末裔の「井口美辰」が詠んだ歌なのですが・・
見ててください(p_-)
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし うき身も終の 宿ぞここなる
この歌をひらがなに直すと
●つゆのみやのはらにおくとよむふらしうきみもついのやどぞここなる。
※つゆのミヤノハラにおくとよむふらしうきみもついのやどぞここなる。
続けて
〇秋草の 葉すへにむすぶ 露のみや のはらのかぜに 明日も散りなん
この歌をひらがなに直すと
●あきくさのはすへにむすぶつゆのみやのはらのかぜにあすもちりなん。
※あきくさのはすへにむすぶつゆのミヤノハラのかぜにあすもちりなん。
(p_-)・・ナルホド・・「ミヤノハラ」という言葉が隠れていました・・
何故?この事に気がついたのか・・偶然なのですが、旧岡原村時代のうちの家屋や周囲の田や林などの正式な地名?が解りまして・・
以前から「外園」と言っていたのは「字」ではありませんでした(ー_ー)!!「外園」は何だろう?通称??
正式な「字」は「宮野」でした。
岡原村大字宮原字宮野・・でございました。合併前は岡原村大字宮原○○○−○だったので「字」までは知らなかったのです。
そこで頭の中で「宮野」・・「みやの」と繰り返していたら、宮原観音堂の御詠歌に隠された?「ミヤノハラ」という言葉に気がついたのであります(^・^)
では、続けて気がついた事は
「橘遠江」と呼ばれた方についてです。
コレマタ偶然なのですが・・祖母の実家「平川家」がいつこの土地に来たのかな??と思い、色々見ていたのですが・・気がついたのは「平川家」についてではなく「宮原家」についてでした。(p_-)
ウィキの相良定頼についての記述からです
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%AE%9A%E9%A0%BC
(p_-)南北朝時代の記述が多数あります。
必要な部分のみを転記します。
建武の新政後[編集]
南北朝の動乱期において、相良氏の宗家・分家は双方の陣営に分かれて戦った。相良家内の争いは定頼の代では収まらず、以後約100年続くことになる。
建武2年(1335年)、父頼広が日向国で足利家の所領を攻撃した一方で、定頼と祖父長氏入道は、当時九州で最も有力な武士であった少弐貞経・少弐頼尚親子に服属して、武家政権を支持した。
(p_-)・・少弐頼尚は「平河」を名乗ってもいました・・
続けて転記します(p_-)
建武3年/延元元年(1336年)、大隅国の南朝方肝付兼重を討伐せよとの足利尊氏の教書を受け取たが、球磨郡内に南朝支持者が多くて動けず、家臣の税所宗圓(宗円)を派遣した。他方で新田義貞攻めの兵を京師へ送るようにも指示されたが、これに応じて家臣の税所延継が兵を率いて上京したようであるが、ほどなく足利尊氏は京を追われ、豊島河原合戦で敗れ、九州に落ち延びて少弐頼尚に迎えられた。
この政変の影響で、球磨郡でも多良木経頼[3]が義兵(南朝)を上げて蜂起。定頼はこれと戦うのに忙しく、足利・少弐に援兵を送ることはできなかった。定頼は木上城を攻略するが、上球磨の多良木氏の勢いは衰えずになかなか鎮定できなかったので、尊氏が九州探題として残した一色範氏は家臣橘公好を派遣して助力させた。また今川助時を肥後国の鎮定に派遣していたが、彼は榊源三郎をして名和氏(南朝)の代官内河義真が守る八代城(球磨への交通の要所)を攻めさせた。
(p_-)尊氏が九州探題として残した一色範氏は家臣橘公好を派遣して助力させた。
橘公好・・宮原公好との記述も他の書籍に多数あります(゜-゜)
続けて転記します(p_-)
延元2年/建武4年(1337年)4月、相良氏一族で一武[4]の地頭犬童重氏[5]が上京して北朝軍に加わって軍功を上げた。同年10月、筑前国嘉摩郡での合戦に、定頼は大蔵松石丸を名代として豊前成恒荘より兵を出した。しかし依然として球磨郡は鎮定されていなかった。
延元3年/建武5年(1338年)の初め、一色範氏は南朝方の南肥後の拠点となっていた多良木経頼を討つべく、相良定長(孫二郎)[6]を球磨に下向させた。他方、菊池武重との決戦を控えた少弐頼尚は、相良氏を懐柔して味方に留めておくために初代長頼の時代に没収された人吉庄北方の所領(旧北条氏領)を、長氏への恩賞として与えた。長氏入道はこの所領を孫に譲り、定頼は名実ともに人吉城主となった。
興国元年(1340年)、叔父相良祐長が長氏に不満[7]を持って、経頼に内通して、山田城[8]にいた少弐頼尚の代官を放逐して南朝に従うことを宣言し、定頼に反旗を翻した。少弐頼尚は怒り、相良定長にこれを討つように命じた。同時に一色範氏も、相良定長と相良長氏に軍勢催促状を出して討つように命じた。しかし多良木経頼は頑強に抵抗したので、少弐頼尚は甥の筑後経尚を名代として送った。経尚は相良定長・相良景宗・税所宗圓などを率いて、経頼と祐長を分断するために中球磨にある砦を次々と落とした。経頼は城を出て野戦したが、築地原合戦で敗れて退いた。経尚は西に戻って山田城を攻囲して落とし、東に進んで多良木氏の根拠地である鍋城を攻略した。経尚は城から脱出した南朝諸将に対して警戒を怠らぬように定頼に訓示して帰還したが、経頼・祐長は西村[9]にある小牧城に再び立て籠もった。
興国2年(1341年)、定頼は小牧城を攻撃したが落とせなかった。興国3年(1342年)、少弐頼尚は再び相良定長らに攻撃を命じたが、今度は逆に多良木経頼の反撃にあって、久米郷木原合戦では双方に大きな被害があった。
征西府と観応の擾乱[編集]
興国4年(1343年)、少弐頼尚は薩摩に上陸した懐良親王の北上を阻むべく南九州の南朝諸将を懐柔しようとして、多良木経頼にも所領安堵を約して、定頼と一時的に和睦させた。正平元年(1346年)、親王の先導を務める中院義定(中院定平)は定頼にも義兵を要請したが、定頼はこれを拒否して少弐頼尚に従った。少弐頼尚は南朝に呼応した恵良惟澄と戦って守山城を攻めて、 定頼も出陣して八代城を攻める筑後経尚の軍勢に合流した。結局は、両城とも落とせなかったが、翌年、頼尚は定頼に八代郡の7ヵ所の所領を恩賞として与えた。正平3年/貞和4年(1348年)、懐良親王は宇土に上陸して阿蘇惟時に迎えられ、無事に御船を通過して、菊池氏の本拠隈府城に入ってこれを征西府とした。これにより肥後国の形勢は南朝側に大きく傾いた。
さらに正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏に追われた長門探題足利直冬が側近河尻幸俊の助けで肥後に入った。所謂、観応の擾乱であるが、直冬は南朝勢と通じつつ、大宰府を目指して北上し、少弐頼尚と連合して、一色範氏と争うという、複雑な対立構造となった。同じ頃、球磨郡では、多良木経頼が再び挙兵して、久米[10]の領主橘道公も同調し、河尻幸俊を通じて直冬とも組した。定頼はすぐに攻撃したが、またもや鎮定することができなかった。頼みの少弐頼尚は中立となって助力はしてくれず、一方で一色範氏は相良側に恩賞を与えて都督していたが、結局は範氏は直冬に博多を追われた。
足利尊氏は九州下向を予定していたが、東国での足利直義の挙兵により中止。援軍のあてを失った一色範氏は窮余の策として南朝と連合した。正平6年/観応2年(1351年)、中央政界でも「正平一統」があって、南朝は大友氏泰(一色方)に直義・直冬の追討を命じた。ところが、直義が急死すると、後ろ盾を失った直冬は南朝に降ってこれと連合。尊氏も再び北朝を擁したため、範氏と南朝の連合は崩れた。
大友氏、島津氏、相良氏と連合する一色範氏は、定頼のもとに家臣一色範親を球磨に派遣して、南肥後の鎮定を目指した。正平7年/文和元年(1352年)に一色範親は相良定長と共に葦北湯浦秀基の野角城(のずみじょう)を攻略し、正平8年/文和2年(1353年)、目田河原合戦でも南朝側に勝利した。同じ頃、日向守護畠山直顕は直冬方で、大隅国や真幸院を巡って薩摩国島津貞久と争っていた。一色範氏は島津からの援軍要請を受けて、西方の球磨からは相良勢と一色範親を、北からは大友氏時と一色範光に攻めさせ、島津勢と合わせて三方から攻撃した。しかし畠山直顕はこれに屈せず、南朝方の多良木経頼や須恵彦三郎と連携を密にし、薩摩の南朝義兵を蜂起させて葦北の内河義真に呼応させたので、島津師久は逆に碇山城を襲われた。直顕は菊池武光の援兵も得て、結局、一色範親らの攻撃を撃退した。範親と定頼は再び矛先を多良木経頼へ向けるがこれは上手く行かず、直顕は一色勢の苦戦をみて、逆に大隅に進出して島津貞久を攻撃した。
(p_-)・・・
直冬は南朝勢と通じつつ、大宰府を目指して北上し、少弐頼尚と連合して、一色範氏と争うという、複雑な対立構造となった。同じ頃、球磨郡では、多良木経頼が再び挙兵して、久米[10]の領主橘道公も同調し、河尻幸俊を通じて直冬とも組した。定頼はすぐに攻撃したが、またもや鎮定することができなかった。頼みの少弐頼尚は中立となって助力はしてくれず・・・
(p_-)久米の領主橘道公も同調し・・
\(◎o◎)/!久米の領主橘道公
この方こそ!「橘遠江」を名乗った方です!
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/21647/5_%E7%AC%AC%E2%85%A2%E9%83%A8-2.pdf
524ページに登場!しています。
なお同じ橘佐渡氏の中でも公好と敵対した人物として橘佐渡八郎の名がみえる。また観忠擾乱時に直冬党として活躍した人物に橘遠江入道々公がいるが、彼は八郎の系譜を引く人物であろう。
\(◎o◎)/!という事は・・久米郷の領主「橘道公」・・直冬党として活躍した人物に橘遠江入道々公。
そうか・・(..)先日もコメントしましたが、宮原一族は北朝と南朝に分かれて戦っていました。
ちなみにウィキの記述にあった橘公好・・宮原公好についても
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/21647/5_%E7%AC%AC%E2%85%A2%E9%83%A8-2.pdf
523ページより
次に弥八跡夜叉童丸についてであるが「橘佐渡弥八公好」という人物がいる。先に述べたように、橘佐渡守公綱(左馬大夫)肥後球磨郡での行動が確認できたが、橘佐渡弥八公好の基盤も球磨郡である。
彼が最初に登場するのは、実は京都であった。建武元年(1,334年)九月、足利尊氏が後醍醐政権の内部にとどまっていた時期に、賀茂社行幸に供奉した尊氏の隊列の中に公好の名を見出すことができる。つづいて建武三年(1336年)、京都での合戦に敗れて足利尊氏が九州に下向した際には。公好は四月二十日に球磨郡を出発し、尊氏の上洛に供奉した。
四月二十二日の八代庄における合戦では、他族である相良氏の親類・若党らの討死や疵までを公好が注進しているから、公好が大将格であったことは間違いない。
但し公好は菊池武重や阿蘇惟澄らとの合戦に敗れて討死している。
中略・・(゜-゜)
また「祢寝文書」には正平廿四年(1369年)頃、佐渡守公頼、永和三年(1377年)に橘公冬がいるが、佐渡守を称したのは公綱流における嫡流意識のあらわれといえる。
以上球磨郡における橘佐渡氏の行動をみたが、公員−公綱流、即ち大崎一族の主要な拠点が実は肥前長嶋庄からは遠く隔った球磨郡にあったことが確認できた。また弥八公好が建武四年に戦死していることから、弥八跡と記すこの年欠文書・村立事の作成上限をこの年に置く事ができた。
村立に参加した人数は少ないが、課品が高く位置づけられている村は大崎村、大渡村等であった。この両村は仁治から正安にかけて公員−公綱流に譲られた村々だった。
公員は公業が嫡子に認定した人物である。したがって公員流には出羽男鹿嶋の地もかなりの部分が譲られていたはずである。長鳴庄・塚崎庄に関する村立に大崎・大渡の村の参加者が少なかった理由は、おそらく彼らが肥後や出羽に拠点を有していた為であろう。
(゜-゜)・・北朝・南朝に分かれた「宮原の一族」についてでした。
がっ!これでは終わりません。(ー_ー)!!
ウィキに書かれていたように当時の久米郷東方下分の領主は「橘遠江入道々公」・・橘道公であったという事が判明したのです!
さらに「橘道公」。この方について、私は以前コメントしていました。
南北朝期九州守護の研究 - 300 ページ より
かっての「球磨郡凶徒」の中核相良氏惣領経頼や同郡久米揶の三池親元.橘道公等は終始「直冬与同」と相良氏。
人物叢書より
橘道公と道猷方の相良定長が肥後国球磨郡の所々で合戦している。このように一族で両勢力に分かれて戟うことも決して珍らしいことではなかった。
(゜-゜)同郡久米揶の三池親元.橘道公等は終始「直冬与同」
三池親元とは・・「三池貞家」の子です!!
\(◎o◎)/!ああああああああああああああっ!!そう言えば・・
久米郷東方下分内の土地を何故か「三池貞家」が譲渡された・・という事を以前コメントしていました!三池道智の娘の譲渡状のお話です!
という事は・・・\(◎o◎)/!
私が住んでいる「この辺り」ですね・・・(?_?)・・\(◎o◎)/!・・「平河貞家」・・マサカ??(マダマダ推測の範囲です・・)
しかし・・先祖「伊予橘氏」である「橘遠江」と呼ばれた久米郷の当時の領主「橘道公」と「三池氏」の繋がりが見えてきました(p_-)
所で「橘遠江」について、以前、日本の苗字七千傑様に御教示頂きました。
平川家について8 コメント46です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101343.html
転記させて頂きます。
============================================
>先日調べた内容で橘薩摩と橘遠江は姻戚関係にある事も理解できました。
日蓮宗関連も調査の様ですが、宗祖日蓮大聖人の俗姓が貫名で遠江国山名郡貫名邑が祖先発祥地です。(城飼郡のお隣ですね)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
井伊氏と同じ三国姓ですが、家紋は同じ橘紋です。
恐らく遠江橘氏と何らかの関係が有るものと思われます。
母系の大野氏に因み、鶴丸紋を寺紋として使用している寺も多く存在します。
=============================================
\(◎o◎)/!この時は、マダマダ勉強不足でした。でも、今は理解できます。
「宗祖日蓮大聖人」
先祖、橘公綱の妻は南部実継の娘。
南部実長・南部実継。この方々は ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7
南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。
「文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。同11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。」
日本の苗字七千傑様の御教示
〉恐らく遠江橘氏と何らかの関係が有るものと思われます。
私も御教示の意味がはっきりと理解できました。
きっと何らかの関係があると思います!!
では(^・^)
[27] | 白石さんからのコメント(2015年07月02日 20時24分47秒 ) | パスワード |
こんばんわ
@>日蓮宗関連も調査の様ですが、宗祖日蓮大聖人の俗姓が貫名で遠江国山名郡貫名邑が祖先発祥地です。(城飼郡のお隣ですね)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
井伊氏と同じ三国姓ですが、家紋は同じ橘紋です。
恐らく遠江橘氏と何らかの関係が有るものと思われます。
母系の大野氏に因み、鶴丸紋を寺紋として使用している寺も多く存在します。
A>「宗祖日蓮大聖人」
先祖、橘公綱の妻は南部実継の娘。
南部実長・南部実継。この方々は ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7
南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。
わ
@Aに関与してくる話が高岡・佐田にありますが
この中の 南部光行
過去に地域の子供向けにメールしたときのものの抜粋ですが
母の法名「和徳」から
うちの宗派は 一字妙をつかい もう一字は本人の人柄を表す字がつかわれるが なぜだろうと 思っていたこと。高岡には 長尾(上杉)に高岳が戒名におりこまれていること から 祖先の出自をあらわしているのではないか?と思いしらべたことがあること
和徳 ヤマト
A奥州ヤマト条をみよ。尚、浅瀬石あせいしとよむ 石川 大光寺 南部 大浦等の条参照
浅瀬石・・・「奥南深秘抄」南部氏
汗石・・・・・「津軽異聞録」千葉氏
石川・・・・@★武内宿禰の末
大光寺・・桓武平氏蘇我氏族
★藤原姓・・津軽大浦氏祖も大光寺にありといい、前項と混同しているという。
清和源氏南部氏族・・・「南部系図」南部二十代時信の弟から出る。子孫津軽にあり、・・・大光寺南部遠州★源政行。
南部・・・攝津の国百済郡に南部郷
紀伊の国日高郡に南部郷
@清和源氏武田氏族
「清和源氏系図」 加賀美三郎遠光・・・・・・宗光・・・
(秋山系図) 宗光おほじ★實長は日蓮上人の弟子・日本法華経の始め
※ 秋山氏はもと甲斐国八代郡川合郷常葉の住,甲斐源氏の一族
奥州下向・初代光行(遠光三男母は★和田左ヱ門尉義盛女子)
光行次男から分かれ、源頼朝の石橋山合戦で功有り。「南部氏」を称する。
光行の子供の兄弟の話になるのですが
(秋山系図) 宗光おほじ★實長は日蓮上人の弟子・日本法華経の始め
として
清和源氏武田氏族がでています。
白石も 清和源氏武田氏 義光の系 佐武氏の系なので 同族。
[28] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月02日 22時41分40秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
白石様、御教示ありがとうございます。
南部光行。この方は南部実長の父ですね。兄弟に小笠原長清(加賀美長清)。
小笠原長清、この方は、宮原一族の先祖「橘公長」と幼馴染であり、「同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。」となります。
南部光行の曾孫である南部実継の娘が、宮原一族の先祖「橘公綱」の妻。
お伺いした
〉白石も 清和源氏武田氏 義光の系 佐武氏の系なので 同族。
という事は、家の系とも繋がっているという事ですね(^・^)
所で、今日も幾つかの発見をしました。(p_-)
昨日、コメントした家の「字」宮野についてです。
個人別土地名寄確認表という書類に「字名」宮原宮野 となっていました。
住所には「宮野」とついていないので初めて知ったのですが・・
私は、「宮野」とは家の辺りの「字」なのかな?と思っていたのですが違いました。
色々調べたのですが、土地価格相場のあさぎり町の基準点の中に
「熊本県球磨郡あさぎり町岡原北字宮野1294番13」
とあり、地図を見ると岡原小学校付近でした。
「字」は住所では出ません。
という事は土地の正式名称?なのかな????と。
岡原小学校付近は家からかなり離れているので、もしかしたら、旧岡原村大字宮原の地区は「字」が宮野なのかな?と。
大字「宮原」の地区とは旧宮原村となります。
という事は宮原村字宮野・・という事だったのかな・・
「みやのはる」とは「宮野原」だったのかも・・
妙にこの「宮野」という「字」が気になりまして調べました(p_-)
すると・・宮野という地名と「橘遠江」そして宮野という姓と「楠氏」さらに宮野という村と武雄市(橘公業所領地)は・・繋がっていました。
まず・・
宮野という地名と「橘遠江」について です。
日本姓氏語源辞典より
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2886073.html
ミヤノ 宮野 東京都、千葉県、北海道。埼玉県所沢市三ヶ島の中氷川神社の神主に江戸時代にあった。宮城県栗原市築館の上宮野・下宮野から発祥。南北朝時代から記録のある地名。福岡県八女市宮野発祥。平安時代から記録のある地名。広島県神石郡神石高原町高光に室町時代に居住していた宮氏の後裔が称したと伝える。岩手県花巻市東宮野目発祥。同地での伝承。石川県金沢市丸の内が藩庁の加賀藩士に江戸時代にあった。
(p_-)・・上記の中の「宮城県栗原市築館の上宮野・下宮野から発祥。」
すごく気になりました。何故なら宮城県栗原市には「橘遠江」の名跡が残っているからです。
大日本地名辞書 栗原郡より
http://www.st.rim.or.jp/~success/dainihon_kurihara.html
こちらのサイトのまずは「宮野」から 転記させて頂きます。
宮野(ミヤノ)
今、宮野村といふ、築館の北にして、即一迫川の左辺に縁れり。(宮野の南隣なる成田、留場は今築館へ入る)
一書に、一迫宮野村成田に、式内栗原郡表刀神社ありといへり。表刀は、ウハトと訓みたる者あれど、信け難し。表は袁の誤にて、ヲトとよむべし、本郡七座の一に、雄鋭とあると、同名異文のみ。
封内記云、宮野邑、一宮権現社、伝曰、安寧帝皇子、嘗流落于此地、今其所曰一宮、帝崩御之後、皇子築陵于此地、以祭之、邑名亦本之、二宮権現社、土人不伝其来由、称帝一宮、称皇子二宮、而祭之乎下宮野邑、有市店而駅也、八幡宮、旧邑主宮野豊後定弘、勧請大崎八幡、熊野社、文亀三年八月、旧邑主宮野駿河直定勧請、其後大崎彦三郎高兼、建華表、弘治三年四月、加美郡高根城主仁木遠江、献鰐口。○天文中の古川状に、大崎家の一家に班せる、宮野中務と云ふ人見ゆ。
(p_-)・・
※勧請大崎八幡、熊野社、文亀三年八月、旧邑主宮野駿河直定勧請
※大崎家の一家に班せる、宮野中務と云ふ人見ゆ
(p_-)・・何だろう??偶然なのか?系は違うとは思いますが「大崎氏」「宮野中務」という文字が・・
昨日、コメントしたように
「公員−公綱流、即ち大崎一族の主要な拠点が実は肥前長嶋庄からは遠く隔った球磨郡にあったことが確認できた。」とあって、何やら家の一族は「大崎一族」と呼ばれていたようですね・・(p_-)
転記を続けます(゜-゜)
清水(シミヅ)郷
和名抄、栗原郡清水郷。○今、築館村、宮野村、一迫村(真坂)、金田村(川口)、長崎村、等にあたる。即、一迫川の上游にして、玉造郡、及び旧新田郡の辺堺とす。清水の遺名は、真坂駅の辺に存す。
封内記云、一迫清水邑、古塁一、伝曰、鹿野和泉所居、和泉凡三、伝曰邑名所以出也
(p_-)・・今度は「長崎村」でございます・・宮野村・長崎村は和名抄では、「栗原郡清水郷」だったのですね。
続けて転記します(゜-゜)
鶯沢(ウグヒスサハ)
今、鶯沢村といふ、二迫川の水源なる山村とす。稲屋敷の西南二里半、川口の北一里半、細倉鉛山は之に属す。乙森(オトガモリ)は、鶯沢、文字の西北嶺、山勢涌出の状あり、火山岩に属し、標高六五〇米突。
中略・・
封内記云、鶯沢邑、有熊野権現祠、土人曰、天喜五年、源頼義東征之時、建以祭之、馬神社、■源義経所乗騎、号大夫黒、立祠祭之、古塁、橘遠江所居、鉛山、在号細倉(ホソクラ)地。○山崎氏云、細倉鉛山の鉱脈は、輝石富士岩、及び粒状富士岩を以て貫通せる、第三紀凝灰岩中に胚胎せられ、走向不規則にして、或は東北より西南に走り、或はこれを横断す、脈幅は凡二尺より十五尺に至る、鉱石は、主として銀分を含める方鉛鉱にして、其の他、閃亜鉛鉱、黄銅等をも随伴し、方解石、石英、螢石、粘土等を脈石とす、毛状鉱も屡出づることあり、去る三十四年の産出高は、銀五百貫目、鉛百二十万斤、銅四千六百斤にして、ことに鉛の産出を以て有名なりしが、現今其業を休止す。
(p_-)・・■源義経所乗騎、号大夫黒、立祠祭之、古塁、橘遠江所居、鉛山、在号細倉(ホソクラ)地。
※橘遠江所居・・漢字ばかりで難しいですが・・「橘遠江所居」とあります。
どうやら栗原郡には橘遠江の名跡が残り、偶然かな、家の「字」と同じ宮野村には系は違うかもしれませんが「大崎氏」の名跡が残っているようです。
では続けて「宮野という姓と”楠氏”について」です。
橘系図より
http://tatibanaya.web.fc2.com/kusunoki.html
※★ 楠正頼(柏原正頼)
柏原正親の男。河内国に住し、国司の畠山家に仕える。
※★ 梶川正治(楠正頼の男)
河内国没落時に美濃国に住み池尻氏に数年出仕する。尾張織田家織田氏族の梶川信時(政盛)は正治が勇材と聞き、家督を譲る。
※★ 梶川正作(宮野正作)・・梶川正治の曾孫
梶川正包の男。長谷川秀一に仕える。秀一の老臣宮野新助の養子となり宮野氏を継ぐ。後に池田氏に仕える。
(p_-)・・こちらは 楠氏 → 梶川氏 → 宮野氏となり・・「後に池田氏に仕える」
となるのですね・・
では続けて「宮野村」と橘公業についてです。
多摩の地名と記紀と邪馬台国 より
https://books.google.co.jp/books?id=1TZKf32sz7IC&pg=PA217&lpg=PA217&dq=%E5%AE%AE%E9%87%8E+%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD&source=bl&ots=hgLd0tgEUx&sig=sGkCNOay3BLPtmgEM1nwpOcnHmg&hl=ja&sa=X&ei=YseUVdqjOJP_8QXnjoHADg&ved=0CDQQ6AEwBA#v=onepage&q=%E5%AE%AE%E9%87%8E%20%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD&f=false
217ページ付録 九州地方最後の天皇は誰であったか より
(23)住吉(すみのえ)
スミヌエを原音とすれば、ここは現在の武雄市の中心部に相当するであろう。そこは言葉通りの地形を示し、小楠・宮野・八並 なる地名がみてとれるからである。
(p_-)・・橘公業所領の地「武雄市」にも小楠・宮野・八並 なる地名がみてとれる・・「宮野」という地名がありました。
ここまで調べて何となく解ったのですが・・
家の「字」宮野は先祖「橘氏」に繋がる地名遷移なのかな??と・・
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観「宮野氏」を拝見したのですが
※清和源氏義康流《大崎氏》姓氏類別大観 大崎義隆 →「隆尚」(宮野氏)
※紀姓梶川氏 姓氏類別大観 先ほどの 楠氏 → 梶川氏 → 宮野氏 の繋がりがしっかりと理解出来ました。
「宮野」・・「宮野原」・・みやの・・
気になって調べた結果をご紹介いたしました。
では(^・^)
[29] | 白石さんからのコメント(2015年07月03日 02時22分47秒 ) | パスワード |
>梶川正治(楠正頼の男)
日本の苗字7000傑予橘氏系から楠木正儀流の平姓梶川氏へ
橘姓 楠木正頼の子供・池尻正治が スライドして
織田庶流梶川信時子供正治になっていますね。
楠木嫡流では 楠木正遠の系に 正行がいて 教正から紀姓池田氏が出る。
平姓梶川氏からは アゲハチョウ紋をつかう。トップをみたら
勝幡系織田氏へ戻る とあり 相良氏がアゲハ蝶紋をつかうこともあったのはこういうつながりかと思います。
また 森氏 毛利氏も みえる。
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高岡からは
柏原に関与する高岡があったと思って 日本の苗字7000傑「柏原氏」を打ち込んだら
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 橘氏【5】が出て 上のとおり。
肥後高岡系図では
柏原彦兵衞定勝の二男とあります。
系をたどって
元眞(1843-1920) という人がいて
高岡元殷の養子、本姓宇野氏。字は牧次。元眞と号す。肥後熊本藩細川侯典醫なり。
とあります。
細川家の典医をしています。
【世系】肥後高岡氏の祖定徳は、柏原彦兵衞定勝の二男なり。幼にして本能寺に入り本證坊と称す。天正10年(1582)還俗して柏原勘四郎と云ふ。 のち高岡氏の養子となり高岡徳左衞門と名を改め、細川侯に仕へ肥後へ入國す。
[30] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月04日 08時32分44秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、御教示ありがとうございました(^・^)
肥後高岡系図拝見しました。
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-higo-takaoka.html
〉【世系】肥後高岡氏の祖定徳は、柏原彦兵衞定勝の二男なり。幼にして本能寺に入り本證坊と称す。天正10年(1582)還俗して柏原勘四郎と云ふ。 のち高岡氏の養子となり高岡徳左衞門と名を改め、細川侯に仕へ肥後へ入國す。
「柏原彦兵衞定勝」
柏原姓と言えば、今までの調査で、橘公長の系・橘公業の系そして楠氏と「柏原姓」を名乗った人物を多数確認出来ています。
「伊予橘氏」と密接な繋がりのある「姓」なのではないでしょうか?
「柏原彦兵衞定勝」という方の系「柏原氏」を詳しく調べてみられたらいかがでしょうか?
白石様のお父様のご実家「高岡家」は橘紋ですよね・・
上記の事から推測してもとても気になるのですが・・
先日、コメントしたように熊本県内の「高岡姓」は八代方面に多くいらっしゃいます。
熊本県には高岡氏は174戸。
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E9%AB%98%E5%B2%A1&firstname=&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C
熊本市 30戸 八代市 19戸 玉名市 14戸 宇城市 13戸 上益城郡山都町 12戸 玉名郡和水町 11戸
球磨郡内では相良村が、他町村を抜いてだんとつですね7戸。五木3戸。
白石様のお話にある「下益城」の御親戚の件ですが、
益城郡について調べてみました。 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E5%9F%8E%E9%83%A1
益城郡(ましきのこおり・ましきぐん)は肥後国にかつて存在した郡である。
歴史[編集]
江戸時代に上益城郡と下益城郡に分割される。
(p_-)という事は江戸時代まで上益城郡と下益城郡は一つ。益城郡であったという事ですね。
球磨に戻り、だいぶ土地勘が出て来たので、ピンと来たのですが・・
高岡姓・・八代市 19戸 宇城市 13戸 上益城郡山都町 12戸
地図でご覧になると解るのですが、全部隣接しています。集中しているような気がするのですが・・
上益城郡山都町・・ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%83%BD%E7%94%BA
2005年2月11日に上益城郡矢部町、清和村、阿蘇郡蘇陽町が合併して誕生。熊本県下ではあさぎり町・氷川町とともに「まち」でなく「ちょう」と読む数少ない町である。
隣接自治体
八代市、
上益城郡御船町、下益城郡美里町、
阿蘇郡南阿蘇村、西原村、高森町
宮崎県:西臼杵郡五ヶ瀬町、
東臼杵郡椎葉村
(p_-)・・上益城郡山都町までは五木から道が繋がっています。
ちなみに、白石様のお父様のご実家「高岡氏」御先祖様は相良藩士だったのでしょうか?
実は、家の親戚の中にも細川氏と共に肥後に下向したという事が解っている「家」があるので、球磨には相良藩士だけではなく、後世(時期は聞いていませんでした(..))、球磨に来られた細川藩士であった「家」もあるという事は知っています。
白石様
勝手に推測してすみません。昨日の白石様のコメントが気になりまして・・
では(^・^)
[31] | 白石さんからのコメント(2015年07月04日 22時37分02秒 ) | パスワード |
こんばんわ
>「柏原彦兵衞定勝」
この方の前の系がわかればいいな と 思うのですが
その前に
柏原氏で 武家家伝をみれば
武家家伝_祁答院氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/kedou_in.html - キャッシュ
祁答院記』によれば、★祁答院渋谷氏の初代重保は★吉岡重保と称し、鶴田郷柏原に館を 構えて柏原氏とも称した。 ... 南北朝の争乱期、祁答院・入来院・東郷らの渋谷一族は 南朝方に属して武家方守護島津氏と対立した。
と表題にあり 開けてみると
・祁答院氏は桓武平氏秩父党の一派である渋谷氏の一族である。
.家紋は二枚重ね扇
・(鶴田氏を除き山北(渋谷)四族と称される)
・東郷・高城氏
・祁答院氏の一族、久富木・大村氏は敗退し、さらに東郷重国も泊野城の戦いで敗れて★山田城に退きあげた。
・始祖・★平高望
・武家家伝・渋谷氏では
渋谷貫臣の娘は薩摩藩藩主★島津宗信の生母
※吉岡重保 この人と次に書く人が
つながっているかどうかわかりませんが
武家家伝吉岡氏でみれば
吉岡氏は大友氏初代大友能直の孫野津頼宗を元祖とする大友野津氏の分かれ
とあり
鶴崎城に消息があり のち細川藩士になったらしく 肥後藩士として幕末を迎えている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここで いったん 話は変わって 武家家伝渋谷氏では
・重国は、平治の乱の源義朝方に味方して所良を没収された★近江源氏佐々木秀義が、奥州めざして落ちのびてきたのをひきとめて自分の手元におき二十年にわたって保護している。
・東京の繁華街の一つ★渋谷の発祥をなしている。
近江源氏は宇多源氏で佐々木氏。
近江源氏高岡系図を打ち込んだら
出雲源氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/出雲源氏 - キャッシュ
宇多源氏佐々木氏流に属し、近江源氏の分流にあたる。 ... 平安時代中期に近江国 蒲生郡佐々木庄に土着した宇多源氏の源成頼の子孫で、鎌倉時代初期の佐々木秀義 の五男佐々木義清が、 ... 隠岐氏、塩冶氏、富田氏、高岡氏、佐世氏、湯氏、末次氏 など。
とでました。
ーーーーーーーーーーーーー
ここで また 話が変わって
溝口氏
溝口は 過去には 宇多源氏としてネット検索にかかっていましたが 今は清和源氏ででます。
なぜかなあ と 思っていましたら 宇多源氏の男子と清和源氏の女子とけっこんしていることがあるのですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
溝口という苗字には相良氏と絡まる話がある。また
四浦の溝口の家の柱は
熊本城で使われていた材を持って
きている。
現あさぎり町に住んでいた白石の祖母によくしてくれてよく家に来ていた溝口のおばさんがいて その家は 五木に家族ともども移住して 洪水で一家全滅した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なんとなく 宇多源氏高岡がうかんできて 清和源氏もうかんできています。
太田氏は 相良氏は 摂津源氏渡辺党の人らしく思われ と 書いています。鵺退治で有名な
渡辺党の棟梁・源頼政は 後白河天皇皇子の以仁王に加担して子孫低迷するが
この頼政のほうから 池田氏に関与してくる(微妙にずれながらだけど)
摂州多田院御家人高岡系図より
源姓馬場下野守仲政の四男奉政を養して氏を継がしむ。
奉政は頼政の兄弟で
系図がみにくいですが 頼政の系と思われる 頼兼の子供は 「高田光円」。
頼政は 確か 阿部晴明と したしかったようで
阿部 高田には その昔阿部高田姫がいる。
また 高田専修寺が出る。微妙にずれながら つながっているのかどうかわからずですが・・
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高岡肥後の守貞望は 池田氏と同祖。(摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔)
摂州池田氏は、もと物部伊居太足尼(五十言宿禰)の後胤にして、 中絶ののち紀朝臣長谷雄の孫、紀維實が之を嗣ぐに依りて紀姓を称す。 維實の玄孫、池田蔵人大夫奉貞は、継男子無くして源姓馬場下野守仲政 の四男奉政を養して氏を継がしむ。 またその末流、藤原姓尾藤玄蕃允信平の男を婿に入れて氏を継ぎたるによりて藤原姓を称す。 あるいは遡りて馬場仲政は、源頼光の支流にして 清和天皇の苗裔より出づるに依りて後裔源姓を称す。
ーーーーーーーーーーーーーーー
摂州多田院御家人高岡系図より 一番上のぽっちりをおし 池田氏系図をだし
51あたりで楠正行を見て(この人は先日話題に出ました)
70あたりで徳川・相良から養子にはいっているのを確認
68あたりでは 島津から養子。
ーーーーーーーーーーーーーーー
うちの高岡が昔は武士だったか との ご質問ですが
高岡のおばからは 源氏でも平家でもない
母からは 高岡は地方の旧家
と 聞いています。
高岡女子なんぞは 私は百姓のむすめだから
と 言っていました。
姻戚関係から 武士だった様な感じです。
また
高岡のおじのありようをみていたら
座るとき すっと身を浮かせる感じで そのまま すとんと体を沈めてすわる 普通の人が やれやれ どっこいしょ と 座るのとは違うとか
食事の仕方とか 会合の席では 当たり前のように上座に座っていた とか いろいろなことから
武士だったと思います。
一帯に地域は 戦後の復興を経て 格差が出来たようで 父は 自分の子供のころはどこも 似たようなものだった と いい
昔は 歩いて移動 または 馬で・・の時代ではあまり暮らし向きの差は関係なかったと思います。
どころか 飢饉の頃など人吉で多くの餓死者が出たときも一人の餓死者も出さず
川下の川辺も よその村が収穫を終えたころ かえって豊穣の時を迎え とあり
袴谷は 字のように 武士だったようで 恒松など先生が 昔はぶしだったんか?と聞くのに うなづいていました。ここに 高岡親戚の田山がおり また 山北という家もあったと記憶しております。
うちの高岡は 真宗なので 自分たちで書いていない限り 先はわからないそうです。わたくしが取り寄せた戸籍では 一番最初の人の妻の父が文政うまれなので時代は似たようなものだろうと思います。
戸籍廃棄(これが多分壬申の戸籍)によりこれより先を知るにあたわず と あります。
その長男の人が 「高岡の遺跡を継いで」とあるので たぶん武士だったのだろうと思っています。
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子孫様
先日 ぶな林などは 中国からのpm2・5でやられてしまった ということでいた。
劣化する地球環境 〜砂漠化の広がりを止められるか - 田中優の'持続 ...
tanakayu.blogspot.com/2014/05/blog-post_24.html - キャッシュ
田中 優 より ◇□□□□ 『劣化する地球環境 〜砂漠化の広がりを止められるか〜』 □ 内モンゴル砂漠植林ツアー 4月中旬、中国の内モンゴルのウランバハ砂漠に植林に 出かけてきた。 しかし砂漠化は今に始まったことではない。原因となった ...地球の砂漠化はとめられるか? と打ち込んで検索したら
が出ました。
全文を読んで見られたら わかりますが 日本の人の便利な瀬活を追い求めるありようにも原因はあるのですね。
こういう問題は 単純に国をとった とられた と いったことでなく
大きく 人類皆兄弟 地球号といった観点から
ながめて 限りある資源を上手に使って できる限り子孫が生きていけるようにみんなで考えるべきでしょうね。
ずいぶん 長く なりました。
[32] | 白石さんからのコメント(2015年07月04日 23時28分20秒 ) | パスワード |
私が進路選択をするとき 代用教員の道を強く勧める先生に 早くお金をかせがせたいから と母が就職させました。
来阪するとき 見送りに来た岩本のおじさんが
「あんたのおとうさんの出はただんもんじゃなかったっじゃでな」と 言った言葉が奇妙に心に残っています。
又 地域の家は 山の傾斜を利用して建てられており
下側は 石垣をくんであるのですが
現在のような 人がすくなくなってではとてもそんなことはできない。
昔は結構な人数で 合力しながらつくりあげていただろうと思います。
萩の家のところまで 坂道は 馬でも上がれるように 整備されていました。又水を取るのに山から流れる水は ただ 土を掘って伝う水路をつくっているのでなく ちゃんと整備されていました。
ただそこにいた というだけでなく 何らかの力があってできている集落だと思います。
[33] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月05日 09時39分08秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、御教示ありがとうございました(^・^)
白石様!!!!!!
〉>「柏原彦兵衞定勝」
この方の前の系がわかればいいな と 思うのですが
私はついに見つけましたよ!!!!!!!!!
肥後高岡系図
【世系】肥後高岡氏の祖定徳は、柏原彦兵衞定勝の二男なり。幼にして本能寺に入り本證坊と称す。天正10年(1582)還俗して柏原勘四郎と云ふ。 のち高岡氏の養子となり高岡徳左衞門と名を改め、細川侯に仕へ肥後へ入國す。
こちらの「柏原彦兵衞定勝」という方を調べてついに見つけましたよ!!
肥後高岡氏はやはり宮原の先祖「橘公綱」と繋がっています!!
私の二十世紀八十八年の旅 著者: 岡ひろし氏
https://books.google.co.jp/books?id=Nx-klUBILasC&pg=PA95&lpg=PA95&dq=%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%8B%98%E5%9B%9B%E9%83%8E&source=bl&ots=7Xyd_vKF8t&sig=4MPJKNhV3kUUDtgLjCYo2aCX7dA&hl=ja&sa=X&ei=wGKYVcDdNpCE8gXE1KaYBA&ved=0CCIQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%8B%98%E5%9B%9B%E9%83%8E&f=false
94ページから95ページにかけてです。
勝手ながら転記させて頂きます。
私は我が家の歴史についてわかることなら、肥後・熊本時代から更に遡り、氏祖定徳が大和より肥後に入る前までの足跡をいずれは訪れてみたいと思っていたが・・
中略・・
時に江州甲賀郡を賜り柏木の荘に在った飛鳥井大納言雅親、文明五年発己致仕後柏木大納言入道栄雅と改称、その孫宗雅の時大和国高岡を併領す。
その子定輔は後年剃髪して東漸寺を創設す。柏木定勝は佐世喜三衛門(佐々木六角の庶子江州柏原に居住す)の女を娶り柏原彦兵衛と改称す。
その一子定良は後年東漸寺に入り入道道喜と改称、二子定徳は幼時本証坊と称して本能寺に在り、後還俗して柏原勘四郎定徳と改称、佐々木惣右衛門又は佐世喜右衛門と称し、大和・高岡潜居の時兄定良(道喜)に請われ、その子柏原新佐衛門定治を補翼し、名を高岡徳左衛門入道道光と改め肥後に入るの項であった。
(^・^)続きは高岡・柏原・柏木などの名に関する土地の調査について著者がお調べのようです。お読みになられて下さい(^・^)
上記の書籍から「転記」させて頂いた部分にはおそらく「高岡氏」「柏原氏」「柏木氏」「佐々木氏(六角氏)」「飛鳥井雅親」「飛鳥井氏」「平頼綱」「橘公綱(宮原一族先祖)」の繋がりが「見えている」のだと思います。
まず・・
肥後高岡氏
飛鳥井大納言雅親(柏木大納言入道栄雅) → 孫「宗雅」(大和国高岡を併領) → 柏木定輔( 東漸寺を創設)→ 柏木定勝(佐世喜三衛門”佐々木六角の庶子”江州柏原に居住す)の女を娶り柏原彦兵衛と改称す。
一子 柏原定良(入道道喜)
二子 柏原定徳は幼時本証坊と称して本能寺に在り、後還俗して柏原勘四郎定徳と改称。大和・高岡潜居の時兄定良(道喜)に請われ、その子柏原新佐衛門定治を補翼し、名を高岡徳左衛門入道道光と改め肥後に入る。
飛鳥井大納言雅親(柏木大納言入道栄雅)・・飛鳥井氏ですね。
平川家について22 コメント5でご紹介した件
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101413_64.html
転記します。平川家について22 コメント5より
===========================================
「先祖「橘公綱」の母であり、平頼綱の母でもあった女性「豊田五郎景基女」
橘公綱は平頼綱と異父兄弟であった・・」
平頼綱の妻は大江広元のひ孫である「飛鳥井 雅有」の娘でした。
飛鳥井 雅有 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%9C%89
飛鳥井 雅有(あすかい まさあり、仁治2年(1241年) - 正安3年1月11日(1301年2月20日))は、鎌倉時代の公家・歌人で羽林家の飛鳥井家の当主。初名は雅名。父は飛鳥井教定。母は北条実時女、『尊卑分脈』では源定忠女。子に雅顕。養子に雅孝。 父の教定とともに関東祗候雲客諸大夫の一員として、鎌倉幕府に信用され、京都・鎌倉で活動した。
父の飛鳥井教定 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E6%95%99%E5%AE%9A
系譜
氏族 飛鳥井家
父母 父:飛鳥井雅経、母:大江広元の娘
妻 北条実時の娘、源定忠の娘
子 雅有、忠輔、宗有、基長、娘(二条為氏室)
と言う事で平頼綱の妻は大江広元のひ孫「飛鳥井 雅有」の娘でした・・
=========================================
宮原一族の先祖「橘公綱」の同母兄「平頼綱」の妻は「飛鳥井 雅有」の娘。
飛鳥井家3代当主。
肥後高岡氏の祖である「飛鳥井雅親」この方は飛鳥井家8代当主ですね。
飛鳥井家 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E5%AE%B6
飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。
歴史[編集]
鎌倉時代前期、難波頼経の子雅経に始まる。代々和歌・蹴鞠の師範を家業とした。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府2代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で雅経は後鳥羽上皇に近侍し藤原定家などとともに『新古今和歌集』を撰進し、和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。 応仁の乱で、一族が近江国や、長州に移住し、家業を広めた。
室町時代には将軍家に近侍した雅世・雅親父子が歌壇の中心的歌人として活躍した。飛鳥井雅世は、『新続古今和歌集』の撰者となり、飛鳥井雅親は、和歌・蹴鞠のほかに書にも秀で、その書流も蹴鞠と同じく飛鳥井流と称される。雅親の弟・雅康(二楽軒)も歌人としての名声が高く、足利将軍家や若狭守護武田元信などの有力な武家と深い親交があった。
戦国時代から江戸時代初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。江戸時代の家禄は概ね928石であった。幕末の飛鳥井雅典は武家伝奏をつとめている。
明治維新の後、飛鳥井雅望の時伯爵に列せられた。また、明治維新に伴い、邸宅は東京に移転したが、それに伴い空き地となった邸宅跡に創建されたのが白峯神宮である。飛鳥井家が蹴鞠の師範だったこともあり、境内地に地主社として蹴鞠の守護神が祀られており、現在はサッカー・球技全般の神とされている。
※肥後高岡氏の祖は「飛鳥井大納言雅親(柏木大納言入道栄雅)」
さらに、気になる事が「柏木姓」ですね・・・平川義高の家臣も「柏木氏」。
ちなみにご紹介した書籍には 104ページに 雅親の弟、洛陽の乱を逃れて甲賀柏木の里の閑居せらる。興地志略に依れば大字北脇は飛鳥井家の所領なりと云う。
とあります。「甲賀柏木の里」は気になる所です(p_-)
(゜-゜)皆様、思い出されて下さい。
「平頼綱」と「橘公綱」は同母兄弟ですが・・もう1件、繋がっているのでは?という「家」がありました。「平河家」です。
平川家について21 コメント 57・58でご紹介しています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101407_80.html
重要な所を転記します。
===============================================
※尼妙阿とは「犬童女」の法号である
※・・この犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物と推定される。
※平永綱は ... 犬童丸名地頭であつた西信は平永綱(法名西心)と同一人物と考えられる。
※長頼女の一人を犬童女と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹であり、永綱の母 ...
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である。平姓であるから長頼妹(または姉)※犬童女こと「尼妙阿」を母とし平某を父とした。
※平永綱 法名西心とは実は 相良頼員 法名西信 ・・・同一人物
※「尼妙阿」は良峯氏に嫁いで「良峯氏女」と呼ばれていた・・
山江村誌にも、上記に関係する記述が記されていたのです。
球磨の図田帳に記されていた「人物」に関する調査内容でした・・
肥後国球磨郡図田帳より
蓮花王院人吉庄六百町
領家 八条女院
預所 対馬前司 清業
下司 藤原友永 字人吉次良
政所 藤原高家 字須恵小太良
地頭 藤原季高 字合志九良
藤原茂綱
藤原真宗 字久米三良
尼西妙
(゜-゜)上記の 地頭 藤原茂綱についての推測が「山江村誌」にありました。転記します。
山江村誌より
藤原茂綱の字名は不明であるが、寛元元年(一二四三)十二月二十三日の関東下知状に見える「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
また、相良頼景との関係と通字「綱」から「田部氏系図」(多良木町、源嶋明美所蔵)に見える「緒綱」も候補の一人である。そして、もう一人「平永綱」がいる。
永綱は、「伯父永頼法師」という関係であるから、永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。
尼西妙については不明である。工藤敬一氏は「平河氏か」とも推測されている。税所氏の可能性もある。
(゜-゜)藤原茂綱という人物の推論
@「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
A「田部氏系図」に見える「緒綱」も候補の一人
B永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。
上記にある「可能性が高い」と言われた「平左衛門尉盛綱」とは?・・調べました。
平 盛綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E7%B6%B1_ (%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%85%B5%E8%A1%9B%E5%B0%89)
平 盛綱(たいら の もりつな、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の執権北条氏の家司。内管領長崎氏の祖。
仁治3年(1242年)に出家して隠退。『吾妻鏡』により、建長2年(1250年)3月には既に死亡していることが知られているが、詳細は不明である。法名は盛阿。
平禅門の乱で著名な平頼綱は、その孫である。
「平左衛門尉盛綱」と「平盛綱」が同一人物?
「平盛綱」の子 平盛時 平左衛門入道と称す・・
清和源氏義光流「竹内系図」の中に
平賀盛義の系・・小野義行の妻であり小野時綱の母が「平左衛門尉盛綱女」とあり
山江村誌の記述にあった
※藤原茂綱の字名は不明であるが、寛元元年(一二四三)十二月二十三日の関東下知状に見える「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
上記の「藤原茂綱」の可能性が高い「平左衛門尉盛綱」とは「平盛綱」である事が判明。
山江村誌の記述を基に推測すると
※「平左衛門尉盛綱」こと「平盛綱」は「藤原茂綱」と同一人物である可能性が高い
※永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。
そして今までの調査で解かっていた事は
※尼妙阿とは「犬童女」の法号である
※・・この犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物と推定される。
※平永綱は ... 犬童丸名地頭であった西信は平永綱(法名西心)と同一人物と考えられる。
※長頼女の一人を犬童女と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹であり、永綱の母 ...
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である。平姓であるから長頼妹(または姉)※犬童女こと「尼妙阿」を母とし平某を父とした。
※平永綱 法名西心とは実は 相良頼員 法名西信 ・・・同一人物
※「尼妙阿」は良峯氏に嫁いで「良峯氏女」と呼ばれていた・・
※平賀盛義の系・・小野義行の妻であり小野時綱の母が「平左衛門尉盛綱女」
※平盛綱(長崎盛綱)の系は遡れば「藤原家成」にも「藤原師澄」にも繋がっていく
==================================================
そして・・決定打?は平川家について22コメント1での発見。
平盛綱(長崎盛綱)の孫(子?)平頼綱と橘公綱は同母兄弟であった・・という事でした。
※平頼綱の妻は大江広元のひ孫である「飛鳥井 雅有」の娘。
(゜-゜)
かなり長くなりましたが・・
肥後高岡氏(祖・飛鳥雅親)・・由縁のある球磨の地に来られるという事は十分考えられる事ではないのでしょうか?
白石様から肥後高岡氏系図を御教示頂いたお陰で、益々「見えてきました」(p_-)
では(^・^)
[34] | 白石さんからのコメント(2015年07月06日 00時11分53秒 ) | パスワード |
>こちらの「柏原彦兵衞定勝」という方を調べてついに見つけましたよ!!
肥後高岡氏はやはり宮原の先祖「橘公綱」と繋がっています!!
子孫様 やっぱり すごいです。うちの方がはっきりいないから なんですけどかなり 濃いい 情報です。
ところで
1582年6月21日(天正10年6月2日)は本能寺の変があった年です。柏原彦兵衞定勝の二男・定徳は天正10年(1582)還俗して柏原勘四郎と云ふ。
なんなのでようね。そして 高岡家へ養子に入って 肥後細川氏へ仕える。
細川氏は足利の管領をしていた家柄。明智光秀は足利将軍家に仕えていた人。
[35] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年07月06日 00時53分48秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>細川氏は足利の管領をしていた家柄。明智光秀は足利将軍家に仕えていた人。
歴史の表面には出ないが、卜部姓吉田氏を頂点として朱印貿易で栄えた京都の豪商角倉家につながる閨閥が形成されている。
ここにも折敷に三文字紋が絡んでいますね。
下記系図を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051d2.htm#007
更に周縁部には朱印船制度を継承した徳川家康も控えている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206b.htm#003
[36] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月06日 21時53分46秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。
まず、最初に新たな発見をご紹介致します。
肥後高岡氏について「熊本大学学術リポジトリ」細川家家臣略系譜に記述がありました。
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/13950/1/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%B6%E8%87%A3%E7%95%A5%E7%B3%BB%E8%AD%9Cr.pdf
33ページをご覧ください
十八 高岡数弥
@徳左衛門(初柏原勘四郎後道光)A彦七 B善右衛門(自栄) B吉右衛門 C英助 D吉右衛門 E周八 F彦太郎 G一太郎 H数弥
と記載されています。
ページをご覧頂くと解るのですが、ものすごい偶然ですけど「た」行なので、お隣がなんと「高田 露」という方で・・以前、コメントした岡原村岡本に滞在して神殿原を開拓した人物です。
日本の苗字七千傑様、《吉田氏》姓氏類別大観を拝見致しました。
饒速日命を祖とする宮道姓「蜷川氏」・越智姓「稲葉氏」・藤原利仁流「斎藤氏」・細川氏・明智氏・・・
このように繋がっているとは・・本当に驚きました。
《林氏/稲葉氏》姓氏類別大観。こちらには紀姓「池田氏」・織田氏も繋がって・・「徳川家」も繋がって・・
私が、調べている「事」には、このような背景が存在しているのですね・・
織田氏・・
日本の苗字七千傑様の【斎部氏】姓氏類別大観には
※戦国大名織田氏は桓武平氏を称するが、織田神社神主家と同族の斎部氏説が有力である。
とあります。阿波の麻植氏とは同族ですね。
細川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hosoka_awa.html
細川氏は足利義康の四代目にあたる義季が、三河国額田郡細川に住んで細川を称したことに始まる。南北朝の動乱期、細川氏一門は足利尊氏に従って活躍、とくに頼春は刑部大輔・侍所頭人となってのちの管領家の基を開き、和氏・師氏の兄弟も阿波守・淡路守となって、それぞれ阿波・淡路の守護となった。
頼春は文武に秀でた武将で、建武三年春、宮中の射礼に能射の名をあげ、それを賞した後醍醐天皇が御衣を賜ると、即座に和歌を詠んで献上したという挿話が伝わっている。暦応元年(1338)、和泉石津の戦いで北畠顕家を討ち取る功をあげて阿波・備後の守護となり、康永元年(1342)、南朝方伊予守護の大舘氏明を討ち取った。さらに、観応の擾乱が起こると足利尊氏に属して活躍、義詮を助けて京都を守った。そしして正平七年(観応三年=1352)、都へ侵攻してきた南朝軍と戦って七条大宮で戦死した。文字通り、頼春は足利幕府創業の功臣であった。かくして、頼春の系が細川氏の嫡流となるのである。
頼春のあとを継いだ嫡男頼之は阿波・伊予守護職を兼帯し、延文元年(1356)、尊氏から中国管領に任ぜられ、備中守護にも補任された。頼之は幕府と対立する直冬党と戦い、南朝方に降った細川清氏を討ち取り、南朝方と直冬党を壊滅させることに成功した。その後、中国管領の任を解かれた頼之は、讃岐と土佐の守護職に任ぜられ、これまでの阿波・伊予守護職を併せて四国全土を治め四国管領とよばれた。
※讃岐と土佐の守護職に任ぜられ、これまでの阿波・伊予守護職を併せて四国全土を治め四国管領とよばれた。
「阿波」に「伊予」か・・・・皆、古からの大きな流れで繋がっているような気がします・・
「古からの大きな流れ」が歴史を動かしてきた・・のかな・・と・・
御教示、ありがとうございました。
では(^・^)
[37] | 白石さんからのコメント(2015年07月06日 23時20分57秒 ) | パスワード |
こんばんわ
7000傑様 ありがとうございます。
> 卜部姓吉田氏を頂点として朱印貿易で栄えた京都の豪商角倉家につながる閨閥が形成されている。
>周縁部には朱印船制度を継承した徳川家康も控えている。
2チャンネルを見ていたら
越智清武は徳川家光の次男、綱重の息子
とありました。
また
越智─河野氏の秘伝的家伝書『水里玄義』には、その祖を秦徐福と神饒速 日命とする二つの異伝承が書かれているからです。
ともありました。
徐氏は 贏姓で徐福は斉人。
あっているでしょうか?
高岡は にぎはやひ 子孫 や 高陵氏とか etcいろいろ系図がありますが・・・
[38] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年07月07日 01時50分12秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>越智清武は徳川家光の次男、綱重の息子とありました。
家臣越智喜清に養育され、養父死後越智家の家督を継ぎ越智姓を称する。
>徐氏は 贏姓で徐福は斉人。
中華史は所詮オリエント史の借史。
建前としては良いが、まともに信じてはいけない。
懐公はペルシャのキルス2世・・・孝文王がダリウス3世。
あまりにもピッタリ符合するのが、不気味ですね。
ベッソス(荘襄王子楚)の時にペルシャを追われて滅亡。
始皇帝からが漢土の西方から破竹の進撃で帝国樹立。
秦帝国滅亡後は辰韓王、辰韓滅亡後は来朝。
始皇帝の焚書により証拠隠滅。
漢土外の遼に僅かに焚書を逃れる。
遼の史官・耶律羽之が撰録した「倭人興亡史」等を読めば目が覚めるでしょう。
[39] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月07日 13時25分18秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^・^)
日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。
〉懐公はペルシャのキルス2世・・・孝文王がダリウス3世。
あまりにもピッタリ符合するのが、不気味ですね。
ベッソス(荘襄王子楚)の時にペルシャを追われて滅亡。
始皇帝からが漢土の西方から破竹の進撃で帝国樹立。
秦帝国滅亡後は辰韓王、辰韓滅亡後は来朝。
以前、頂いた御教示により
※アイヌ族の権利を示すのが黒原山。
※辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳。
という事が理解出来ています。
ペルシャ → 秦帝国 → 辰韓 → ・・・という事になるのですね。
所で・・ちょっと過激な内容なのですが、気になる情報を見つけました。
ご紹介するサイトのやり取りはすごく過激なのですが、その中で一つだけすごく気になる情報が載っていました。
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/117.html
(゜-゜)上記サイトより
但、南原の箔・菌・籍。凶狼にして格らず、神祖伐って之を海に放つ。
疏に曰く、箔・菌・籍は三邦の名にして鳥人クマソの族なり。
後海を歴て難渡を踏み。ウトに拠り、巨鐘を猾し、ついに辰番に入るものは。
その遺児と云ふ。」
(日韓正宗溯源 浜名寛祐 p428 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706 )
近代デジタルライブラリ 画面 コマ番号237 です。
転記はしませんが・・中に「魚目」という記述もあります。
書籍発行当時の政治的意図が含まれているのかな?と、サイトの会話の過激だし・・とは思いますが・・
しかし、気になるのは、今までの調査及び御教示により、
※朴氏初代の朴赫居世
※昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
※多婆那国の比定地
この脱解の出身地である多婆那国は、脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内の地域に比定されている。比定地は、丹波国[12]、但馬国、肥後国玉名郡などの説がある。『三国遺事』では龍城国とされる。(Wikipedia)
上記の内容は・・
「肥後」
「熊国(球磨国)」・・熊襲・・邪馬台国・・これらを調べて解った事に繋がっていました。
ペルシャ → 秦帝国 → 辰韓 → ・・辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳
辰韓 → 新羅・・朴赫居世・昔脱解・・??
そう言えば熊襲の背後には「新羅」がついていたのですよね・・
故郷球磨の地名・呼び名も
旧岡原村(おかはる村)の森園(モイノソン)
宮原は(ミヤノハル)
白石様の故郷の「四浦」は球磨人は「ヨ〜ラ」と呼んでいますね・・
「球磨」と新羅や百済との関係は切り離せないようですね。
では(p_-)
[40] | 白石さんからのコメント(2015年07月07日 23時14分29秒 ) | パスワード |
こんばんわ
7000傑様ご教示ありがとうござい。
ました。私がまどうのは
@ 高丘(高岡)は高陵君の系図がある。
(今はうちがつながっているかどうかは別として)
そして 始皇帝子孫という島津氏は サダになる。始皇帝の父母は 呂不韋が趙姫を始皇帝の父に与えているといういきさつがある。
★司馬遷の「史記呂不韋列伝」では呂不韋が自分のお妾さんで ある踊り子「趙姫」なる女が呂不韋の子供がお腹にいるのに、後の秦の★荘襄王(当時の 名乗りは「子楚」)にあてがって産まれた子供が秦の始皇帝こと「政」であると書いており ・・・
★この趙姫なる人が 良い方にとって 高の趙の姫 だったとして 女の筋で 秦王室とつながる。
又 呂氏のとき はるか昔太公望呂尚の斉が 田(陳)の斉に代わったといういきさつもある。
別に高岡には
ニギハヤヒの系がある。
ということなのです。
高岡とサダがすりかわっている感じなのです。
こまかなことは おいといても 過去に地域の子供たちにメールした時
高姓は
高句麗 百済 周 秦 (魏)梁 燕 扶余 濊(穢) 他は 皆同族で高姓。
「氏姓源流」で すべからく 他の 氏も 高姓に入る。その「高姓」は「黄帝」の子孫。
中国の歴史はオリエントの借史でしょうけど。
[41] | 白石さんからのコメント(2015年07月07日 23時33分07秒 ) | パスワード |
子孫様
よーら は 私たちは 軽く う を入れて ようら と 言っていました。
そして
父母の仲人をしてくれた人は
「わしらあ 高岡の殿さん いうとったったいな。山ばわけてわけてあぎゃあなったったいな」
と 言っていました。
[42] | 白石さんからのコメント(2015年07月07日 23時41分54秒 ) | パスワード |
以下は今日おはなししたいことからはずれていますが
★北魏の頃 「南涼」という国がある。禿髪氏で鮮卑族がたてた国。397〜414
北魏を建てた ★「拓跋氏」と同族。魏は 「黄帝」の子孫だとしている。
★アマテラスについて
藤原鎌足の弟・稽文恵が春日で アマテラスを名のったという。
稽氏は 拓跋氏の族。
★この 南涼に 源氏についての話がある。
南涼の禿髪破羌(壇の子・源賀)が北魏に降ったとき、もともと拓跋氏と同族だったことから源氏を与えられ、こ
の一族は非常に重用されている。この話は 後 日本にも伝わり、皇別である源氏の氏族名の由来となった。
※ 韓半島の 壇君朝鮮は 朝鮮の一番初めの国家だが、壇君は 「鮮卑」。
スサノオは 「檀君」を称したという。
[43] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月08日 07時33分46秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、御教示ありがとうございました(^・^)
四浦は「ヨ〜ゥラ」。確かにそうですね(^・^)
〉「わしらあ 高岡の殿さん いうとったったいな。山ばわけてわけてあぎゃあなったったいな」
という事は・・球磨に下向される前に何処かの土地を所領していた領主だった・・という事ですか?
この部分も包囲網を全国に広げて調査すると何か見つかりそうですね(p_-)
私の概念?では殿=相良藩主 となっています。そうなる理由があります。
今は建て替えられていますが、私が子供の頃は、曾祖母の実家深水家は江戸時代に建てられた武家屋敷のままで、玄関が二つありました。
宮原の祖父の実家や椎葉家も平川家も同じような造りをしていて、玄関が二つあり、どう言ったらいいのかな?・・形は・・
屋根の下にさらに玄関用の屋根?のようなものがあって、その下に石?かな土間?が二畳ほどあり、登り台?のような厚い大きな長い板?があってそこを登ると板の間になり、板の間の先はガラガラって開く、大きな開き戸になっていて、開き戸の先が部屋だったと・・何となくおぼえています。
子供の頃「何で玄関が二つあるのかな??」とず〜っと疑問でして、椎葉のばあちゃん(祖母の姉)に聞いたのです。
すると椎葉のばあちゃんは「一つは普段使う玄関。もう一つはお殿様がお見えになった時にお迎えする玄関」と教えてくれました。
「お殿様ってだれ?」と聞くと
「相良の殿さまタイ」と「この子はもう(ー_ー)!!」と云う風に教えてくれました。
だから・・相良の殿さまは、家族が普段使わない玄関でお出迎えする、本当に偉い方なのだな〜と思った訳です。
という事で、私の頭の中で「殿さま」と言えば「相良藩主」となっている・・と。
椎葉家はリフォーム?してあったのですが、昔からの名残の玄関はそのままでした。
親戚のおばさん達は、皆、其々の家の玄関にある登り台?のような厚い大きな長い板をいつも雑巾できれいに拭きあげていて、板は黒光りしていたのをしっかりと憶えています。
※玄関リフォームで検索したら、この板は「式台・敷台」と言うそうです。(トホホ(..)家にもあるのに今まで言葉をしりませんでした(..))
白石様のお父様のご実家高岡家を「殿さま」と呼ばれていた方の御先祖様も、御一緒にどちらかの土地から下向されてこられたのでは・・
今日は、白石様のコメントから、今はみな建て替わってしまった、子供の頃の親戚の家々の懐かしい景色を思い出す事が出来ました。(^・^)
では(^・^)
[44] | 白石さんからのコメント(2015年07月08日 20時18分06秒 ) | パスワード |
こんばんわ
殿=相良氏 相良氏は鎌倉以来一度のお国替えもなく 明治を迎えたので
そうですね。
うそのちの高岡がいつごろどこから 来たのか?です。
地域では 昔からあそこにおらいたったいな です。
家のことは 前にも 私が育った家は 戦後 父が 山に行くのに買い求めて物で黒肥地の家だった というところまでは わかっています。
その前は わかりませんが
家のつくりは 簡略化されていますが 書院つくり?
前に 家の建て方の本を見たことがあり
床の間がある部屋の隣が 仏間で間にふすまと上に欄間がありました
それらのてな絵に 大きい部屋があり 私たちは そこを 寝間にしていましたが ・・・ 仏間の前は 板張りで 歩くと 鳴るので ふるいからかなあ と 私は 下から覗き込んだり しましたが
本や お寺でしりましたが
鴬張り。
こらべやnの部屋は 板戸で仕切られて 仏間の横は小さな部屋で私はそこを勉強部屋にもらい 前の大きい部屋は囲炉裏があって 小部屋の隣は納戸でその隣はまた大きい部屋があって でも その頃はつかっていませんでした。
兄たちが
本来 そこの部屋で寝るのを 布団を運んで 私たちが寝間にしていたところで寝ていたのを覚えています。
そして 前に台所があって 入口は 確かに 座敷へ上がるのと 台所へ入るのと別々で 私たちは 台所に入る方から入っていました。
座敷へはいる方は 大きな木を縦に真っ二つの割 10センチくらいか の暑さの板をおいてありました。
私たちは とにかく 戦後引き上げてきているので 荷物も何も・・・
テレビで見るような ちゃぶ台で食事するたびに 母の
あっち(山口)にいれば よかったのに。立派な台(座卓のこと)で食べていたのに・・・という言葉を聞きながら
ならば 来なかったらよかったのに と 私は心で反発していました。
わずかに 長持ちがあって
子供が増えると 服の整理に困り 私は 床の間の横の あいている板の間を利用して服を整理していましたが
後に お花をならうようになって 発表会に連れて行ってもらったり
本で その板の間のところに 飾り物を置いたり お花 掛け軸をかざるんだ と 知って
なんとまあ 無粋な生活をしていたものだ と 思ったことでした。
そして 仏間が 段違いの板の間があって そこに 仏様を置くのだろうと思ってみていたのですが
それも 3体おけるようになっていて
先日書きました 天野宗主の家に似たり の 様でした。
萩の高岡の家のつくりは はっきり 知りません。
盆 くれ 又 山に行くとき
通るのですが 子供なので 家にはあまり入れてもらえず 子供たちで家の裏の探検や 隣の家は どこだろうか ?とか そんなことを していました。
でも 台所は やっぱり 入口は 別でした。
母は 「あのつくりは ただんもんじゃなか」と いっていゃぶ台で嘆いて っちゃぶ台で嘆いて 高岡の家のことを 尋ねたときのことです。
父はかわいそうでした。育ちざかりになる前の小さな子を3人も残されて先妻をなくし 何もかも戦争でなくして(どこもそうでしたでしょうけど)
いちからやりなおしでしたので。
ーーーーーーーーーーーーー
話が変わりますが ヘルストロン
いい仕事をしている元気印という人を 前から紹介いていますが
きょう いったら
原田さん という 言葉を聞きました。
ネットで見たら 原田さん そして 会長に原さん がいました。
ーーーーーーーーーーーーーーー
子孫様 子孫様のところや うちが ここへ つながるという話ではないですよ
。
同じ苗字の家が いい仕事をしていますね。頑張っていますね と いうことで書いているのですが
原は 宮原かも 知れなかったですね。
そして
原田は 漢王室子孫 坂上一族の系の岩門氏の別れにおり
岩門から 木原 山口の系
岩門から 大蔵 原田の系と別れていきます。
日本の苗字7000傑より
ーーーーーーーーーーーーーーーー
原田水軍には 源平の頃 平氏に味方をしていた他の水軍が次々と源氏に寝返り原田にも誘いの手が伸び 困った重臣の 高氏などは 半島へ逃げ
そのとき 連れていたおなかの大きい女性が出産になり トラにねらわれているのを おってきた源氏の兵が射殺し その兵は 褒美に半島の王からさらに三国を賜ったと いうことが 吾妻鏡に書いてあるそうです。
大蔵の系は近くに 秋月がおり 秋月の
女子が徳川の子を産んでいますね。
また 松田聖子さんの蒲池家も系におり 聖子さんのご先祖は阿蘇神社に関与していて 神功皇后に仕えていたと聞いたことがあります。
曹洞宗で 宗派つながりだあ と 過去に 思ったことがあります。
[45] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年07月09日 00時46分52秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>★北魏の頃 「南涼」という国がある。禿髪氏で鮮卑族がたてた国。397〜414
五胡十六国時代以降の中国では、鮮卑系の台頭がめざましく華北に北魏を建国する。
漢民族が統一した隋・唐にしても漢化した鮮卑族を外戚に持つ鮮卑系帝国なのである。
古事記上つ巻に「御毛沼の命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡りまし」とあるが、これは神武天皇の皇兄が鮮卑系の燕へ派遣された事蹟であり、五胡十六国時代の前燕(307-370)ではないかと思われる。 (常世は燕の別称)
[46] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月09日 11時01分29秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^・^)
日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。
白石様、
〉私たちは とにかく 戦後引き上げてきているので 荷物も何も・・・
戦争が全てを変えたのですよね・・
家も全く同じ事を皆、言います。平和な時代に育った、私達は、こういう事を後世に伝えていく義務があるのだと思います。
沢山の大事な命が失われて、戦争は罪です。
人の命を奪う事には「理由」「大義名分」なんて無いと思います。全て「罪」です。
戦争を始めた「国」としての「罪」は、今後、戦争を起こす事がない、平和な時代を築いていく「人達」を育てていく。この事を継承していく事こそが償いだと思うのですが・・(偉そうに言ってすみません)
戦争の悲惨さを知っている世代に育てられた、私くらいの年代までは「いじめ」など無かった・・
でも、私達の年代が育てている子供達の世代では「いじめ」が横行している。
今の時代の子供達の「親」の世代(私も含めて)の責任ですよね・・
所で・・(^・^)
玄関二つのお話ですが、台所(大きな土間)の入り口とはマタ別です。
玄関と呼ばれる「スペース?」が2か所あったという事です。
家の真ん中辺りに「大きな玄関」そして脇に「もう一つの玄関」です。
玄関で思い出したのですが・・
子供の頃、玄関の敷台(憶えました(^・^))に紙を広げてマジックでお絵かきして遊んでいたら、叱られまして・・(..)
その時、その玄関はお葬式でも使うと言われて、急に怖くなって・・
「バチが当たったら怖い(..)・・(意味が解らないでしょう。何せ子供ですから)」
「大きな玄関」と「脇の玄関」とどっちの玄関の事だったのか思い出せないのですが、それ以降、色々解り辛いし・怖いし・めんどうだな〜と思って、玄関は使わずに台所(土間)の方から其々の親戚の家に入っていた・・という懐かしい思い出が・・
日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。
〉五胡十六国時代以降の中国では、鮮卑系の台頭がめざましく華北に北魏を建国する。
漢民族が統一した隋・唐にしても漢化した鮮卑族を外戚に持つ鮮卑系帝国なのである。
古事記上つ巻に「御毛沼の命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡りまし」とあるが、これは神武天皇の皇兄が鮮卑系の燕へ派遣された事蹟であり、五胡十六国時代の前燕(307-370)ではないかと思われる。 (常世は燕の別称)
※漢化した鮮卑族を外戚に持つ鮮卑系帝国
鮮卑 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
こちらの記述ですごく興味を持ったのが言語です。
言語系統[編集]
「アルタイ諸語」も参照
鮮卑の言語は烏桓と同じである[6]。
鮮卑の言語系統について、古くは テュルク系であるとする説[7]があったが、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語、鮮卑語(中国語版)はモンゴル系であるという説が有力となっている[8]。
但し、中国文献に音写された少数の単語が、今日のモンゴル語,テュルク語で解読されたとしても、鮮卑語がどの系統に属すかというのはまだまだ断定できないのが現状である[9][10]。
(゜-゜)こちらの記述の「テュルク系」とは・・?
テュルク諸語 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF%E8%AB%B8%E8%AA%9E
テュルク諸語(テュルクしょご)/突厥諸語(とっけつしょご)は、中央アジア全体やモンゴル高原以西にあるアルタイ山脈を中心に東ヨーロッパ(トルコに属する東トラキア地方のみ)から北アジア(シベリア)に至る広大な地域で話される、言語系統を同じくする諸言語の総称。
ソグド文字[編集]
ブグト碑文と呼ばれる突厥碑文のソ連のクリャシュトルヌィ、リフシツらによる研究から、碑文の建てられた佗鉢可汗(在位:572年 - 581年)の時代の突厥可汗国の公用語がソグド文字/ソグド語であったことが明らかにされた。
古テュルク文字[編集]
テュルク諸語の最古の文献は、第二可汗国時代の686年から687年頃に建てられたチョイレン銘文と呼ばれる突厥碑文で、古テュルク文字(テュルク・ルーン文字、突厥文字)で書かれた。その他の突厥碑文は、モンゴル高原の各所に残る。745年に突厥を滅ぼしたウイグルも古テュルク文字を受け継いだ。
ウイグル文字[編集]
モンゴル高原から中央アジアに移住した後、8世紀にはソグド文字を改良したウイグル文字(Old Uyghur alphabet)を使用し、天山ウイグル王国(856年 - 13世紀)を建てると公用語となった。なお、古ウイグルがウイグル文字で記したテュルク諸語の古ウイグル語は、後述のチャガタイ語に連なる現代ウイグル語とは異なる。ウイグル文字からは契丹文字(10世紀)やモンゴル文字(13世紀)等が派生し、さらにモンゴル文字からは満州文字(1599年)が派生したが、いずれもモンゴル諸語に用いられた文字である(契丹文字については異論がある)。
アラビア文字[編集]
イスラム教を受け入れたカラハン朝(840年 - 1211年)では、アラビア文字でテュルク語(トルコ語版)を書き取るようになり、『クタドゥグ・ビリグ(英語版)』のような文学作品が著された。その後、イスラム教の浸透とともにアラビア文字による表記は広く用いられるようになり、中央アジアではチャガタイ語、アナトリアではオスマン語がそれぞれアラビア語・ペルシア語の要素を取り入れた典雅な文章語として発展した。
(゜-゜)ソグド文字・・ ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B0%E3%83%89%E6%96%87%E5%AD%97
ソグド文字
ソグド文字は、アラム文字から派生した、中世イラン語のソグド語を表記するための文字。右から左に書かれ、アブジャドに属する。
ウイグル文字やモンゴル文字の元となった。
(゜-゜)
ソグド語 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B0%E3%83%89%E8%AA%9E
ソグド語は、中期イラン諸語のひとつであり、ザラフシャン川流域のソグディアナ(現在のサマルカンド、パンジケント、フェルガナなどを中心としたウズベキスタンやタジキスタンの一部に相当)で用いられた言語。現在では死語。
歴史[編集]
より早期のタイプの言語(古代ソグド語)が存在したという確証は得られていないが、古代ペルシア語の碑文によるとアケメネス朝の時代(紀元前550年-323年)には独立した存在としてのソグディアナが認識されていたようである。
ソグド語は、中世ペルシャ語(英語版)やパルティア語と並んで、中期イラン諸語の中でも重要な言語のひとつであり、多くの言語資料が遺されている。ソグド語は文法や形態論は中期ペルシア語と比べてより伝統的な形である。ソグド語はイラン語派の北東語群に属する。ソグド語は中央アジア(トランスオクシアナ)における交易言語であり、中国人商人とイラン人商人との間の共通語でもあった。ソグド語は経済的・政治的に重要な言語であったため、8世紀初頭にソグディアナがムスリムによって征服された後も数世紀にわたって使用され続けた。
最も初期の近世ペルシア語はサーマーン朝支配下のソグディアナで発展したため、近世ペルシア語にはソグド語由来の語が多く取り入れられている。
現在タジキスタンのザラフシャン川上流のヤグノビ峡谷(英語版)でヤグノビ人(英語版)に話されているヤグノビ語(英語版)は、ソグド語の一方言が残存したものと言われている。
表記体系[編集]
初期のソグド文字の例はソグディアナ地域において発見されている。これらはアラム文字を元にしたものであり、表記と発音が大きく異なっていた。ソグド文字からはウイグル文字が派生し、ウイグル文字は後にモンゴル文字の元となった。
法隆寺で見つかった650年頃のものと思われる香木に、ソグド文字が書かれていた例がある[1]。
アラム文字 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%96%87%E5%AD%97
アラム文字(アラムもじ)は、かつての中東の国際語(リンガ・フランカ)であった古代アラム語(英語版)(Old Aramaic、Official Aramaic、Middle Aramaic、Late Aramaicなどのアラム語に属すen:Neo-Aramaic languagesの祖語)の文字。中東系文字の大部分は、この文字から派生した。フェニキア文字と密接な関係がある。
アラム文字は、ユーフラテス川上流からシリア地域にかけて定住し、地域の交易を担ってきたアラム人によって、近隣地域で用いられていたフェニキア文字を転用する形で生み出された。新アッシリア・新バビロニア・アケメネス朝ペルシャなどの帝国が地域の覇権を握った時代に、領内にアラム人・アラム語と共に広がり、かつてのメソポタミア・バビロニア地方にて使われていた楔形文字から代替されると急速に普及した。また、古代ユダヤ人が使用していた古ヘブライ文字は、アラム文字に代替されたが、アラム文字からは現ヘブライ文字が生み出されている。
アラム文字は時代・地域によって非常に多くの字形があり、アラム文字から派生した他の言語の文字も非常に多い。ペルシア帝国時代に行政言語としてエジプトからアフガニスタン・中央アジア、インドまで広範囲に渡って普及し、紀元前後にはアラム語の諸方言のみならずパルティア語やソグド語などの中期イラン語の表記にもメソポタミア地方で使用されていたアラム文字が用いられた。
(゜-゜)
鮮卑の言語を調べたら・・結局・・「ソグド文字」や「アラム文字」に繋がっているのですね・・
〉古事記上つ巻に「御毛沼の命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡りまし」とあるが、これは神武天皇の皇兄が鮮卑系の燕へ派遣された事蹟であり、五胡十六国時代の前燕(307-370)ではないかと思われる。 (常世は燕の別称)
※鮮卑系の燕へ派遣された事蹟
※鮮卑の言語・・「ソグド文字」や「アラム文字」に繋がっている・・
御教示本当にありがとうございました。
では(^・^)
[47] | 白石さんからのコメント(2015年07月10日 02時37分58秒 ) | パスワード |
こんばんわ
7000傑様 子孫様 ご教示ありがとうございました。
家のこと
こちらには 駅前再開発の波に洗われているとはいえ まだまだ大きな門構えの家があり 門の前には竹で組んで通れませんよの 合図をしています。横の小さなところからはいるのですね。なので 大きな門の先は玄関へ。小さな戸どころかぐるりとまわって 勝手口から入ると 先の玄関から続く座敷の横の台所へ行くのです。
後水之尾天皇がたびたび遊びに来られたというところでもあり ゆかしい感じです。この天皇の后と 加賀前田家の室とは姉妹なのですね。
あ
戦国時代をへているので どうか とは 思いますが
こちらの三島鴨神社に大きな太鼓があり 前田と書いてあるのが気になります。
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突厥
ウィキより
沙陀族 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/沙陀族 - キャッシュ
沙陀族(さだぞく、さたぞく)は、8世紀から10世紀頃まで、華北からオルドスから山西 近辺の地域で繁栄したテュルク系民族・突厥の一部族。中原北部に定着して、次第に 漢化していった。 いわゆる五代十国の華北を支配した五代王朝の後四王朝は、いずれ も沙
8から10世紀というけど その前からいたと思う。唐に真珠を売りに行っていて唐の外戚。又 漢王室とも姻戚関係あり。
1
mikiomiyamoto.bake-neko.net/uigurhistory1.htm - キャッシュ
隋書』の作者自身が混乱し誤謬を犯しているが、石碑などから、★突厥は鉄勒から発した 同族の民族ということがわかっている。史書にその名 ..... ウイグルの重税、徴発に 苦しめられていた沙馳(さだ)突厥やカルルク、白服突厥(白眼突厥)は吐蕃に喜んで降った。 ウイグルの ...
★鉄勒は唐の皇帝(陳)の弟・三蔵法師が天竺へ行くとき通った「高昌国」を構成している族にありますね。
又 過去に辞典で見たのですが
さだ突厥は漢王室と姻戚関係で後に 清王朝をたてた。
とありました。清は アイシーン で 西にいた 雑種で 中国風では 董になる。
★突厥は王女でも戦ったのですね。
[48] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月10日 19時07分04秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^・^)
白石様、御教示ありがとうございます(^・^)
今朝、無性に「佐田家」が気になって、マタマタ勝手ながら、私なりに調べてみました。
白石様のお母様は山口県の佐田家のご出身。
以前お伺いしていた事は
お母様のご実家佐田家。
※苗字帯刀を許されて、醤油の製造を営まれていた。
※14代前の女性の時に本流から分かれた
※白石様のお爺様(佐田家)は三男で、現代の本家(二男の方の系)は武田の血を引く 「真木」家から 婿養子が入られている。
※豊前宇都宮流佐田氏 (「佐田家文書」を持つ)。
※上記の佐田氏と白石様のお母様の実家「佐田家」は 同紋の 三つ巴を使う。
※上記の佐田氏(「佐田家文書」を持つ)は 毛利家 黒田家 大友家 細川家と仕えて来られた。
ここまでの情報を元に調べてみたのですが・・
すごく解りやすいサイトがあったのでご紹介いたします(^・^)
佐田家のルーツを求めて ― 鎮西宇都宮佐田氏系図 ―
http://c007jp-sam.blogspot.jp/2014/08/blog-post_27.html
ピックアップして転記させて頂きます。
佐田氏の始祖は、15世紀の室町時代に活躍した武将、佐田親景(ちかかげ)とおもわれます。佐田氏は、下野(しもつけ)(現 栃木県)の国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身、宇都宮氏の流れをくんでいます。
宇都宮氏は、もともと石山寺(一説には大谷寺)の座主であった藤原宗円を祖とし、源頼朝から「坂東一の弓取り」と絶賛された、宗円の孫の朝綱(ともつな)より宇都宮氏を称しているようです。有力な鎌倉御家人だったようです。
その後、嫡流の宇都宮氏より庶流の豊前宇都宮氏(城井氏)、伊予宇都宮氏、さらに筑後宇都宮氏(蒲池氏)へと分家したようです。佐田氏の祖である佐田親景(ちかかげ)は、豊前宇都宮氏(城井氏)の流れをくんでいます。つまり、朝綱(ともつな)の嫡男である宗綱が宇都宮氏を引き継ぎ、その弟である宗房の嫡男信房が豊前国に地頭職を賜って、中津郡城井に居住し、鎮西宇都宮氏の始祖となっています。
信房のあと、景房、信景と続き、正応3年(1290)、信景の嫡男、通房が幕府より足立五郎左衛門大尉遠氏の知行地である宇佐郡佐田荘(現 大分県宇佐市安心院町(あじむちょう)佐田)を地頭職として代わりに領するよう命じられています。
建武3年(1336)には、その通房の孫(息子頼房の第5子)である公景は、足利尊氏の軍事指揮下に属しています。公景は、初代九州探題、一色道猷を支えた有力武将の一人であったようです。九州において威勢を誇っていたことがうかがえます。
しかしながら公景は文和3年(1354)に戦死し、公景のあとの経景も筑後国山崎で戦死しています。ときの九州探題、今川了俊は経景の子息親景に対し、跡目相続を安堵しましたが、経景の弟氏治(親景の叔父)が佐田の所領・所職を押領してしまいました。しかし応永7年(1400)、そのときの九州探題、澁川満頼が親景を薩摩守に推挙し、本領を安堵しています。
この宇都宮親景が、佐田氏の始祖です。親景の通称は因幡(いなば)次郎で、法名は昌節となっています。親景は、応永6年(1399)、標高300メートルほどの佐田荘青山に佐田城(地元では青山城と呼ばれているようです)を築き、豊前城井(きい)郷菅迫より移住し、宇都宮を改めて佐田姓を称し、名を佐田親景としています。ちなみに佐田の語源は、狭田、小田からきているといわれ、また、陸と海を限定する岬からきているともいわれます。
佐田城址には、いまでも土塁、空堀、土橋、一部石垣が残っているようです。尾根を巧みに利用した大規模な山城だったようです。佐田には、大分県の有形文化財として指定されている佐田郷の総鎮守社、佐田神社もあるようです。
【佐田城(別名青山城)と佐田氏】
応永6年(1399)佐田親景(ちかかげ)が城井(きい)谷菅迫(現 福岡県みやこ町犀川城井)から佐田青山に移って築城したといわれています。
佐田氏は、有力な鎌倉御家人である宇都宮系城井氏の分家です。九州探題が九州に下向する場合は必ず宇都宮氏に強力を要請しています。
この地は豊前国と豊後国の境界に位置しているため、大内・大友両氏の抗争の舞台となっています。佐田氏は、大内氏支配の時には宇佐郡代に任命されています。天正15年(1587)黒田孝高(よしたか)(如水)が豊前6郡を支配すると、大友氏を頼って豊後へ赴いています。しかし、文禄2年(1593)に大友氏が豊後国から去るにあたり佐田に戻り、元和元年(1615)には細川氏の家臣となり、熊本転封に同行しています。
宇佐市教育委員会
佐田地区の歴史を考える会
佐田氏は、もともと宇都宮氏と同族であるため、周防の大内氏に従っていたようです。その後、大内氏が豊前国を領するようになると、もっとも有力な佐田氏は宇佐郡代に任じられています。資料によると、享徳3年(1454)に佐田盛景、延徳4年(1492)俊景、永正15年(1518)泰景、大永6年(1526)朝景、天文19年(1550)には隆居(たかおき)がそれぞれ郡代だったことが確認できるようです。
宇佐郡代の職務は、宇佐宮寺の造営用材木の採用や社納人足の催促、訴論地の打ち渡し、宇佐宮諸職の打ち渡し、直轄領違乱に対する成敗などから、宇佐宮造営・諸神事の奉行などであったようです。また、この地域は豊前・豊後の境界に近く、大内・大友両氏による抗争の舞台ともなり、大友軍はしばしば佐田氏を攻撃しているようです。
明応7年(1498)には、大友氏(親治)は佐田泰景を攻撃し、泰景は父俊景とともに菩提寺に立て篭り奮戦し、翌年10月には、宇佐郡院内衆とともに妙見岳城で大友軍に抗戦しています。天文3年(1534)には、大内義隆は豊前方面から豊後を突こうとして進出し、これに対して大友義鑑は大友方の佐田朝景を攻撃しています。この年に「勢場ケ原の合戦」が起こり、佐田氏が活躍したようです。
その後、大内氏は陶晴賢(すえはるたか)の謀反により没落すると、弘治2年(1556)、大友義鎮が豊前制覇のため宇佐郡に進出し、翌年、宇佐郡衆は豊後大内氏に従うようになったようです。このころの佐田氏の被官として、佐田一族をはじめ、加来・永松・高並・平群・小田氏等がいたようです。
大内氏から大友氏へ仕えるようになると、とくに佐田家14代弾正忠佐田隆居(たかおき)は、宇佐郡衆の中心的存在として、大友軍に属して各地に転戦して活躍しています。この隆居と息子の15代弾正忠佐田鎮綱(しげつな)は、大友宗麟・義鎮父子の信頼も厚かったようです。隆居の嫡男は大友義鎮より「鎮」の字を賜り鎮綱と称しています。大友宗麟の生涯を描いた遠藤周作の小説、『王の挽歌』の作中にも、佐田氏の名がでてきます。
天正期(1573〜92)になると大友氏勢力が次第に弱体化しはじめ、天正6年(1578)、有名な「日向耳川の合戦」において大友氏が島津氏に大敗してしまいます。それによって多くの国人領主が大友氏を見限り離反しますが、佐田隆居と鎮綱父子は変わることなく大友氏に従ったようです。同11年(1583)正月、安心院麟生が竜王城に拠って大友氏に背くと、隆居はこれを攻め、本領安堵の条件を出して開城させています。佐田氏の大友家への強い忠誠心がうかがえます。
天正15年(1587)、豊前六郡(京都、築城、上毛、下毛、宇佐)に黒田官兵衛孝高が入部してくると、佐田氏は領地を追われてしまいました。黒田家の部将・母里太兵衛(NHK大河で速見もこみちが演じている)が城を預かったようです。それによって佐田氏は、8代、188年間守り抜いた城地を去ることになります。その後、大友氏を頼ったようですが、文禄元年(1593)、大友義統が改易となり豊後除国に伴い佐田に戻ったようです。
佐田一族は、その後黒田氏に降り、その客分となり、のち元和元年(1615)、細川忠興の家臣となり、細川氏の熊本転封にともないそれに同行したようです。まさにそこには、激動の戦国時代の荒波に揉まれ、佐田一族の維持と繁栄のため奮闘した歴史があります。
細川家へ仕えるようになった初代・五郎右衛門や代々の佐田家については、元和5年の「細川忠興公判物」「佐田五郎左衛門知行方目録」(佐田文書)等が残されており、代々能吏として藩に仕えたようです。
(゜-゜)以下はサイトに細川氏に仕えた佐田氏について詳しく記されています。
すごく、長くなりましたが、私も宇都宮流「佐田氏」について勉強させて頂きました。
でっ!!
気になります!!
白石様の御親戚の山口県の「佐田家」
本家は本流から分かれて14代目。・・14代目とは何百年なのだろう??
しかし!サイトから転記した内容を見ると
※宇都宮親景が、佐田氏の始祖
※応永6年(1399)、標高300メートルほどの佐田荘青山に佐田城(地元では青山城と呼ばれているようです)を築き、豊前城井(きい)郷菅迫より移住し、宇都宮を改めて佐田姓を称し、名を佐田親景としている。
※佐田氏は、もともと宇都宮氏と同族であるため、周防の大内氏に従っていたようです。その後、大内氏が豊前国を領するようになると、もっとも有力な佐田氏は宇佐郡代に任じられています。
(゜-゜)周防の大内氏に従っていた・・山口県ですね!
(゜-゜)その後・・
※大内氏から大友氏へ仕えるようになる
※佐田一族は、その後黒田氏に降り、その客分となり、のち元和元年(1615)、細川忠興の家臣となり、細川氏の熊本転封にともないそれに同行した。
先日、調べた肥後高岡氏も細川氏の熊本転封にともないそれに同行。
「佐田氏」と「高岡氏」は肥後において細川氏の家臣であった・・
すごく繋がっていると思うのですけど・・
山口県・・大内氏の本拠地。
肥後・・細川氏に従い同行。
山口県と熊本県。佐田氏と高岡氏。・・偶然かな??・・でも私、偶然ではないような気がするのですが・・
宇都宮氏には宮原の先祖も繋がっていました。
※宇都宮頼綱の妻は「梶原景時」の娘。
橘公業の妻であり橘公員の母であった「梶原景高」の娘。
すなわち宇都宮頼綱の妻と橘公員の祖父「梶原景高」は兄妹です。
コレマタ偶然ではないような気がするのですが・・
勝手に調べてすみませんでした(..)
でも・・すごく気になりまして・・・
では(^・^)
[49] | 白石さんからのコメント(2015年07月10日 22時40分48秒 ) | パスワード |
こんばんわ
子孫様
まあまあ ありがとうございます。
以前は 国史辞典の佐田をみただけで これほど 詳しくはわかりませんでした。
どこからどう動いたかが よくわかります。
大きく動いているのですね。あ
佐田は 又
新田氏佐田系図にあるとき 徳川家康にもかかわってきて 過去に調べたことを書いてみます。
どこかの代で枝分かれした人の系だろうと 思いますが・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
武家家伝佐田氏を検索すると 画面に
「筑後佐田・新 田氏系図」の言葉が出る。
新田 朝氏(にった ともうじ)は、新田氏本宗家の7代当主。新田基氏の長男で、新田義貞・脇屋義助の父。
脇屋 義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男で、新田義貞の弟
脇屋義助の子・義治の妻が★皃島高徳の女子。
皃島高徳 と 新田 と 佐田 と 徳川家康 の関係
義助(脇屋)室高徳女子徳子ー脇屋義治(政義女子脇屋義治室)
義明(妻は佐田義久(脇屋義治の末子)の娘) 義隆.
家時(新田源太郎)ー満義ー政義女子脇屋義治室
(源)新田義重ー★義季(得川四郎)ー★頼氏(世良田)ー教氏ー家時ー満義ー政義ー親季ー…★松平清康━広忠ー★徳川家康
ーーーーーーーーーーーーー
豊前う都宮流佐田氏の系は 限りなくうちと似ていると 思います。
そして うちは祖先の人が女子で分かれているけど うちは 佐田から嫁入った家とまた縁組していて 母は 一族の中では 自分が一番佐田の血が濃いいのだと言っていました。
ーーーーーーーーーーーーーー
源氏
源氏のいわれを 先に書きましたが
貞条で
母三国氏の過失により 源氏になれず 嵯峨の違勅により貞朝臣をもらう とあ ります。
三国氏は松葉氏と同族で橘氏(かなり漠然とだが)にかんよしてくる。
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 三国氏/酒人氏【1】
www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233.htm - キャッシュ
姓氏類別大観. 【三国氏/酒人氏】 継体帝閨閥図 継体天皇の子椀子皇子の後裔にして 、天武天皇13(684)年に三国真人姓を賜姓。 旧説で藤原氏良門流と称する大名井伊家 (2家)は三国真人の末裔である。 菟皇子の後裔も同年に酒人真人姓を賜姓、能楽の ...
日蓮聖人の誕生(2)系譜について 高橋俊隆
www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index39.html - キャッシュ
また、日興上人が書いたという『産湯相承事』(日蓮聖人の滅後、100年ころの室町中期 に成立したという)には、日蓮聖人の父親は「東条片海の三国大夫」で母親は畠山一類 の「梅菊」と書かれているところから、これをもとに「三国氏は継体天皇の後裔で梅菊は ...
ほ
安芸国★賀茂郡高屋保に拠った国人領主★平賀氏が、井伊氏と同じく藤原利世を祖とする系図を有している。 共保の子共宗から七代の孫松葉資宗が源頼朝に仕えて出羽国平賀郡を賜り、子孫は平賀を名乗り、元寇に際して安芸の 所領に下ったというのだ。『古代氏族系譜集成』の三国真人系図にも井伊氏と松葉氏とは同族としてみえ、 両家は三国真人の流れを引いた武家とすることの方が違和感がないように思われる。・・・・・・・ 井伊谷を本拠とした井伊氏は、井伊谷城を常の居館にして、詰めの城として三岳城を築いたようだ。そして、 井伊氏を惣領家として多くの庶子家を分出している。盛直の子からは赤佐氏、貫名氏が出たが、赤佐氏からは井伊家を 凌ぐ勢いを見せた奥山氏が分かれ、★貫名氏からは日蓮宗の宗祖となった★日蓮が出ている。弥直の子からは田中・伊平・ 谷津・石岡氏、さらに田中氏からは田沢・松田氏らが分出した。これらの庶子家の名字を地図上においてみれば、 浜名湖の東方一帯が井伊氏の勢力範囲であったことが浮かび上がってくる。
か
サダは源氏になる家系ともいえ
又 一世二世を源氏 三世以降を平氏にした。 という説もあるけど
・・・・・
そして
佐田をみていたら いつのまにか 白石・高岡の話から出ていた話になってしまっていました。
河野氏に白石がついている。
楠木に高岡が。
子孫様
きょう熊本にいる弟が 体調をこわしたと電話が来て 頭がまとまりません。
長くなってしまいました。
[50] | 白石さんからのコメント(2015年07月12日 22時15分53秒 ) | パスワード |
脇屋義助は宗良親王が出る話にからまるが?と思い
菊池に関与して四国にも関与する話はないか?と探したら
※ 後醍醐天皇の皇子である★懐良親王を★伊予国の★宇都宮貞泰に護らせて九州へ派遣し、★ 菊池氏は肥後国★隈府城(菊池城)で迎える。
というのがありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
武家家伝_伊予宇都宮氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/iyo_utu.html - キャッシュ
また、元弘三年(1333)の忽那重清の軍忠状に「守護参河権守貞宗」とあることから、 鎌倉末期の伊予守護として「宇都宮貞宗」が見出せるとしている。 伊予宇都宮氏のはじめ 貞宗を記す系図は『尊卑分脈』のみで「宇都宮氏一族の武茂氏祖泰宗の子」である。
宇都宮貞泰
宇都宮泰宗の子。武茂系図によれば、宇都宮景泰(後の貞泰)は、「京都烏丸に住み、その子の宇都宮宗泰については三河守で伊予住人」とあり、伊予宇都宮系図には貞泰については「六郎、始景泰、美濃守、遠江守、野州宇都宮の住人、後京都に住す、法名蓮智」とある。
>「貞宗,子,おら,伊予,宇都宮,氏,祖,豊房,豊前,頼房,三男,養子,なる」を使っ ...
english.cheerup.jp/corpus/search?name...豊前... - キャッシュ
貞宗には子がおらず、伊予宇都宮氏の祖の宇都宮豊房(豊前宇都宮氏の宇都宮頼房 の三男)が養子となる。 ... 伊予宇都宮系図は、伊予国守護となった貞宗を長子として いるが、下野宇都宮系図その他では、豊前宇都宮氏に入嗣した義綱を長子としている。
>下野宇都宮系図その他では、豊前宇都宮氏に入嗣した義綱を長子としている。
>(16) 長享・延徳の乱
choukyoueitokunoran.seesaa.net/index-16.html - キャッシュ
... 後醍醐天皇の皇子である★懐良親王を★伊予国の★宇都宮貞泰に護らせて九州へ派遣し、★ 菊池氏は肥後国★隈府城(菊池城)で迎える。 .....
ーーーーーーーー
又
徳川家康は平氏だった というのは 私の子供の頃の通説みたいでしたけど
平清盛の母は 賀茂氏。
賀茂氏は 高氏です。(平熱の中のどこかのスレッドでみました)
家康の母系をたどれば賀茂氏にいきつきます。
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[51] | 白石さんからのコメント(2015年07月12日 23時26分18秒 ) | パスワード |
こんばんわ
きょう 佐田関係と 石丸 白石関係
として 過去にネットから拾ったのを読んでいたら次のようなものがありました。
★永富家播磨国揖西郡新在家村
恵仁の長兄は上嶋太郎右近太夫、次兄元就(元成)の三男は★観世家の始祖清次=観阿弥だそうです。 ... 観世★福田系図に依れば、この人は世阿弥元清の曾孫の一人になり、「播磨国揖保庄永富播磨入道預入母★世良田木與介信貞娘」となっています。 ...
永富・・・相良ですよね。福田・・・うちの白石は福田から入り婿?
元就って 元就って まさか・・・なんでもかんでもくっつけないでください と いわれそうです。 世良田・・・家康がくっついた
系の名ですね。いずれどこかの代で枝分かれした人たちでしょうが・・・
つながってでてくるのがおもしろいですね。
[52] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月13日 09時38分29秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、御教示ありがとうございます。
お返事遅くなりましてすみません。弟様、体調を崩されたとの事で、御心配ですね。
遠くにお住まいなのですか?
早くお元気になられたら良いですね。
私は、この数日、パソコンを触っても、スマホを触っても、電磁波(なのかな?)を強く感じてしまい、すぐに気分が悪くなっていました。(コメント出来ませんでしたすみません(..))
昨日は朝から、まるで、身体の表面に薄い膜?が出来ているような感覚で、風にあたるとその「膜」をす〜っと撫でられたような感じで・・
解りやすく言うと・・
子供の頃にやった、下敷きで摩擦を起こして遊ぶと産毛が逆立つような・・あの感じが全身に・・という(想像していただけましたでしょうか・・(..))
今朝、主人が3時に起きる為に昨晩は早く寝ようとしたのですが、布団に入っても同じで「ムズムズ」して、寝つきが悪かったのですが・・
今朝、3時前に地震で目が覚めました。
主人が出勤して、父にこの事を話そうかな・・と思っていた所・・
父が突然「昨晩は身体中がムズムズして、一睡も出来んかった(..)」と言うので・・同じだったようです。父は眠れないほど「ムズムズ」していたようです・・(私より強いですね)
きっと、私達親子は動物の異常行動と同じように「シグナル」を感じてしまう・・言うなれば「進化」していない人間なのだと思います(^・^)
しかし・・主人も・・
昨晩、「ガァオ〜」とイビキをかきながら・・頻繁に腕から何かを振り払うような仕草をしていたので、彼も進化していない人間の一人なのかもしれません(p_-)
「ムズムズ」はしばらく取れていたのですが・・マタ少し「ムズムズ」しています・・
脱線しました(..)
お伺いした御教示、今からじっくりと読ませて頂きます(^・^)
では(^・^)
[53] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月13日 14時33分43秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^・^)
白石様から頂いた御教示をもとに私も勉強させて頂きました。
〉永富家播磨国揖西郡新在家村
永富家について ウィキより(永富家住宅)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%AF%8C%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85
永富家住宅(ながとみけじゅうたく)は兵庫県たつの市揖保川町にある江戸時代後期に建てられた庄屋家屋。国の重要文化財に指定されている。
永富家について[編集]
永富家は揖保川下流域西部の、たつの市揖保川町付近の大地主であった。永富家の出自は伊賀国辺りといわれており、関ヶ原の戦い前後の1600年(慶長5年)頃には、この地に居住していたという記録が残っている。龍野藩時代には代々この地の庄屋を務めた。江戸時代中期以降は逼迫する藩財政とは逆に次第に裕福となり、藩に資金を融通したり、年貢の大坂への運搬を請け負うなど藩内で重要な地位を占めた。このため藩主の脇坂家より「在郷家臣」として上級武士の待遇を受け名字帯刀を許されていた。 明治以降も農民の営農相談や物資の斡旋を行うなど篤農家として農協のような役割を果たしていた。
代々の当主は好学で勤勉であり、教養が高かったと言われている。特に明治時代の当主であった敏夫は漢詩の世界では「撫松」の号で著名を馳せた。敏夫の四男の守之助は鹿島家の養子となり鹿島建設を発展させ、政治家としても活躍した。
(p_-)・・こちらの「永富家」は「出自は伊賀国辺りといわれており」とあります・・
白石様の御教示
〉恵仁の長兄は上嶋太郎右近太夫、次兄元就(元成)の三男は★観世家の始祖清次=観阿弥だそうです。 ... 観世★福田系図に依れば、この人は世阿弥元清の曾孫の一人になり、「播磨国揖保庄永富播磨入道預入母★世良田木與介信貞娘」となっています。
(p_-)こちらの御教示から
観阿弥 ウィキより
http://wiki.ju.edu.jo/ja/articles/%E8%A6%B3/%E9%98%BF/%E5%BC%A5/%E8%A6%B3%E9%98%BF%E5%BC%A5.html
観阿弥の出自
観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。
また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。
ところが、1962年(昭和37年)、三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀、服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。正成の甥が観阿弥ということになる。この説は、この上嶋家文書の真偽をめぐって意見がわかれ、後に発見された播州の永富家文書がこの文書と関係をもつことを傍証に、この記載を真とする意見もある[要出典]。ちなみにこの説をもとに、1975年に永富家子孫によって、上野市(現・伊賀市)に観阿弥の妻(世阿弥の母)の彫像が立てられた。
しかし、上嶋家系図の観阿弥についての記載が後世の付会でないとするなら、決定的にそれを証明する観阿弥の同時代の文書が必要という意見も有力である[要出典]。そのような文書がでないかぎり、観阿弥の息子世阿弥が『申楽談義』で書いた、観阿弥は大和の山田大夫の三男であるという記載を信ずべきであるという意見である。
このように2006年現在においては、観阿弥と楠木正成の関係は不明というほかない。
(p_-)・・とありました。でもやはり「伊賀」ですね・・
「伊賀、服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。」
そうか・・・
「伊賀」・・この頃ず〜っと気になっていた「ある」事に繋がっているのかな・・???この事は追々コメントさせて頂きます(..)
所で「福田家」が登場しましたが・・
家の親戚にも「福田家」がありますが・・
ただ・・
家の場合は先祖と直接関係のない系を「繋がる?」と考えると「御先祖様がはらかきなる(お叱りになる)」と父から強く言われているので・・(何でだろう?意味はよく解りませんが、言い伝えかな?・・)
今日の所はやめておきます(ー_ー)!!・・(..)
しかし・・色々な「姓」が見えてくると興味は湧きますね(^・^)
では(^・^)
[54] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月13日 18時05分42秒 ) | パスワード |
追記
先ほど「福田氏」についてコメントしましたが、字は似ている?けど「副田氏(そえだ氏)」とは何らかの繋がりがあったのでは?とは考えています。
宮原一族の先祖橘公業が西園寺公経と替地をして所領した豊前「副田庄」。
以前もコメントしましたが
豊前佐々木氏
http://homepage3.nifty.com/ganryu/sub/soeda.htm
サイトより転記させて頂きます(..)
大蔵姓原田氏
郷土史家の原田夢果史氏によると豊前佐々木氏は本姓を添田(副田)氏といい、大蔵姓原田氏の一門だという。大蔵氏は漢の高祖の末裔を自負し、朝廷で大蔵の職に任じられたことからこの姓を称したという。大蔵春実という人物が藤原純友討伐に功績があり、対馬守に任じられて初めて九州に下った。後に筑紫の原田郷に住んで、子孫が原田姓を名乗ったという。
戦国時代の国人領主、秋月種実や高橋元種はこの一族である。そして、この二人の名に共通する「種」の字が大蔵姓原田氏に代々受け継がれたという。天正十五年十月、岩石城に立て籠もった一揆勢を率いたのは佐々木雅楽頭(うたのかみ)種次であった。
田川郡副田庄地頭副田氏
副田氏が副田庄の支配者として記録に現れるのは鎌倉時代である。
『到津文書』と呼ばれる古文書に正応五(1292)年三月十六日、副田四郎左衛門尉法師(法名西念)、同六月に「副田二郎左衛門入道の名が見られる。『田川市史』によると、副田氏は鎌倉幕府の御家人であったという。
次に文保元(1317)年の『島津文書』には、副田二郎三郎種信の名がある。この時、副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職がゆだねられた。
さらに『姓氏家系事典』や『応永戦乱』に、応永・正長の頃、副田九郎の名があるという。地頭職は追われたが、在地勢力として生きながらえたのであろう。その後も時代の波にもまれながら有力地場勢力として戦国時代を迎えるのである。
秀吉九州征伐
天正十五年四月、秀吉自らが九州に下向し、島津征伐がはじまった。岩石城は島津に味方した秋月氏の支配下にあり、城代熊井越中守・芥田悪六兵衛らが守りについた。
『太宰管内志』に「添田雅楽助所籠之岩石城」とあるように、佐々木種次も秋月勢の主要人物として加わっていた。
天然の要害を誇る岩石城も天下人の威信をかけた総攻撃の前に一日で落城してしまう。熊井・芥田らは討ち死にしたが佐々木種次は助命された。
豊前武将一揆
十月、宇都宮鎮房の檄に呼応して豊前武将一揆が勃発する。佐々木種次も一党七百余人とともに岩石城に立て籠もる。しかし、毛利輝元・吉川広家勢の攻撃を受けて十月二十五日には落城してしまう。この時も種次は助命されたらしい。
いずれにしても豊前佐々木(副田)氏は地場勢力として命脈を保ち、明治維新を迎えたようだ。秀吉の九州征伐以降、彼の地の支配者となった毛利(勝信)・細川・小笠原の各氏がこの地方豪族の手綱取りに苦慮したであろう事は想像に難くない。
(゜-゜)長くなりましたが・・
平川家について14 コメント29以降他コメント51等でご紹介しましたように・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101362.html
「正和3(1313)年正月24日『尼しんねん譲状』(『三池文書』:柏市史所収)」
譲り渡す、阿久里御前の分、
上野国大八木郷、下総国我孫子村、備後国(肥後国)久米郷、百五十一町の内二十町は
六郎殿の方へ去り与へ候ぬ、残る百三十一町を、半分かりんかたを、永代を限りて、
阿久里御前に譲り与うる所なり、御公事に於きては、分限に従ひて懈怠なく勤仕せられ
候べく候、但しかやうには、面々に譲り与ゑてのち、あるいは子孫の中にも、
もし違乱不思議を致す物あらば、阿久里御前を嫡女として、かの分領を申し給はるべきなり
よって後の證文のために戒めおく所の状、如件、
正和二年十二月廿八日
尼しんねん(花押)
※「尼しんねん」とは
三池道智(杢助入道)と後家尼如円の間にうまれた娘
「尼しんねん」は島津忠宗の妻。
「尼しんねん」と島津忠宗の子が「島津貞久」と「阿久里御前」
尼しんねん譲状より解るのは
橘公業 → 橘公員 → と譲渡された球磨郡久米郷の一部が「三池貞家」に渡ったという事が解ります。
さらに「島津忠宗」が「島津貞久」へと譲渡した土地について
文保2(1318)年3月15日『島津忠宗譲状』
譲り渡す
嫡子三郎左衛門尉貞久
薩摩国守護職
十二嶋の地頭職
薩摩郡の地頭職
山門の院
市来の院
鹿児島郡 同永吉
讃岐国櫛無保 上村下村
信濃国太田庄内南郷
下総国相馬内布川村、下黒・同発戸、
日向国高知尾庄
豊前国副田庄 副田三郎次郎種信跡、 ★
但散在名をは除く、
右所々、貞久に譲り与うる所なり、女子分子なくば、
その一期の後は、惣領貞久知行すべきの状、如件、
文保二年三月十五日 沙弥道義(花押)
(゜-゜)上記により
橘公業が替地により所領した「豊前国副田庄」が何故か?「島津忠宗」より島津貞久へと譲渡された事が解ります。
豊前佐々木氏 サイトに記述されていた事でも確認出来ますが
※副田氏が副田庄の支配者として記録に現れるのは鎌倉時代である。
『到津文書』と呼ばれる古文書に正応五(1292)年三月十六日、副田四郎左衛門尉法師(法名西念)、同六月に「副田二郎左衛門入道の名が見られる。
※文保元(1317)年の『島津文書』には、副田二郎三郎種信の名がある。この時、副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職がゆだねられた。
(゜-゜)先祖「橘薩摩」が球磨郡久米郷宮原に下向したのは「1299年」。
橘公業が西園寺公経と替地をした
肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷
のうちの2か所が「三池道智」「三池貞家」「島津忠宗」「島津貞久」この方々へと繋がっている・・????
さらに、平川家について14コメント51でも書いていますが
「平河」も確実に島津忠宗・島津貞久・島津師久とは御縁があります。
※この時期、平河師頼・平河師里は日向国真幸院・馬関田荘・他吉田村などの、預所となっていた・・
※一旦、球磨の平河惣領は相良氏によって殲滅されますが、鎌倉後期〜南北朝期にはいり、突然、「平河師種」・「平河師頼」が人吉荘の「預所」となり、平河師里は日向国真幸院・馬関田荘・他吉田村などの、預所となった。(急な復活?)
(゜-゜)鎌倉後期〜南北朝期・・復活・・???
ここまで書いた内容から、全て・・宮原の先祖「伊予橘氏」である橘薩摩の九州下向そして球磨郡久米郷への下向が何らかの形で関係しているような気がしてならないのです・・
今日のコメント内容を私は完全に見過ごしていたのではないのでしょうか?
もっとしっかりと調べていきます。
では(..)
[55] | 白石さんからのコメント(2015年07月14日 06時48分48秒 ) | パスワード |
おはようございます。
地震の予知能力
疲れますね
今日台風の話をしていたら 台風がくるまえから気分が悪くなり頭が痛くなるひとがいる と いうことを聞き込みましたが 本人は大変だろうと思います。
昨日 永富が相良氏ですね と 書いた後 頭で書いたので不安になって 7000傑様サイトを 永富氏で見てみたら ありました。
吉川との直接のつながりは書いて無く 相良長続のところのぽっちりは機能せずでしたが。
南家・入江清定から船越・吉川へ
池越から吉川・・・毛利元就入り婿 ・・・・安芸吉川へ(吉川宗家)
※吉川元春と熊谷女子と結婚。つまり毛利は熊谷ともつながってくる。
安芸吉川家は 吉川宗家
吉川は藤原南家為憲流。 吉川では南家の血は女性で伝わる。
入江氏は 美智子妃殿下 紀子妃殿下お妃教育にもあたられた。
観阿弥は伊賀服部氏の一族である。
ーーーーーーー
永富は
相良氏
www.yumechiyo.jp/yatsushiro/sagara1.html - キャッシュ
(1448). 永富長続が下相良家を継ぎ、球磨郡統一。 寛正6 (1465). 長続、名和氏より 八代高田郷350町を得る。 明応2 (1493). 為続、七ヶ条法度を制定。 永正1 (1504). 長 毎、菊池氏と結び、名和氏を八代地方から追う。相良氏八代古麓城入城。 天文3 (1534 ).
相良長続(さがら ながつぐ)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/相良長続-1077690 - キャッシュ
肥後国(熊本県)球磨郡山田城主永富実重の子。下(人吉)相良氏の一庶子家で人吉 荘内永富名が本貫か。文安4(1447)年幼少の当主尭頼は,上(多良木)相良氏の頼観・頼 仙兄弟の攻撃を受け没落。頼観らを駆逐し人吉を回復した長続は,尭頼に復帰を要請 する ...
人吉相良氏のことですね。う〜ん。
[56] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月14日 09時33分10秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、御教示ありがとうございます。
「永富家」
確かに相良氏「永富家」はありますね。
かなり、以前コメントしましたが永富長続(相良長続)、この方が球磨・人吉を統一。
ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E7%B6%9A
相良 長続(さがら ながつぐ)は、相良氏の第11代当主。分家の永留氏の出身。山田城主として多良木兄弟の乱を鎮定し、第10代当主相良堯頼の客死により、宗家を相続した。通称は藤五郎または左近将監。
生涯[編集]
相良氏の第2代当主相良頼親の子頼明八世の孫にあたる永留実重(治部少輔)の子。肥後国球磨郡の山田城(現山江村)の城主。
文安5年(1448年)2月、まだ15歳の相良氏第10代当主相良堯頼に対して、上相良氏の多良木頼観(よりみ)・多良木頼仙(よりのり)兄弟が謀反を起こした際、堯頼は人吉城を追われたが、長続は山田城から兵を率いて駆けつけて頼観を破り、城から追い出した。その後、菱刈氏を頼って薩摩国牛屎院(菱刈郡山野・現伊佐市大口山野)に落ち延びた堯頼を探し出して復帰を願い出たが拒まれ、3月23日、その交渉中に堯頼が亡くなったために、5月13日、群臣に推された長続が宗家を継いで人吉城主となった。
なお、堯頼は人吉に復帰した後に亡くなり、その後に長続が家督を継いだ[1]とする異説もある。
8月、再び兵乱があり、多良木頼観が鍋城、多良木頼仙が古多良木(ふるたらぎ)で挙兵し、久米の砦でもその家臣源島某が兵を挙げた。4日、長続は出陣すると、兵を三つに分けて久米雀ヶ森の堀川[2]に伏兵を置き、まず久米の砦を襲って源島を斬り、煙を見て救援に駆けつけた頼観・頼仙兄弟と手勢を伏兵で破って、両将の首を取った。(雀ヶ森合戦 / 久米雀ケ森の合戦)
多良木氏を滅ぼした[3]ことで、相良頼景より数えて8代220年余り分裂してきた上相良氏と下相良氏の争いはついに解消され、多良木・久米・湯前・湯山・江代の五村[4]を支配下にいれ、相良氏は初めて球磨郡内の統一を果たした。
(゜-゜)以前のコメントで書いていたのですが「相良 長続」この方の別名 通称:藤五郎[1]、初名:長重
平河の系図にも「藤五郎」がありなお且つ「長重」という名もあるのですよね・・??
ただ・・こちらの「永富家」
〉永富家播磨国揖西郡新在家村
〉福田系図に依れば、この人は世阿弥元清の曾孫の一人になり、「播磨国揖保庄永富播磨入道預入母★
こちらの「永富家」は「播磨国揖西郡」すなわち兵庫県の「揖西郡」
「播磨国揖保庄」・・兵庫県揖保庄
昨日コメントしたこちらの「永富家」ですね。
※永富家について ウィキより(永富家住宅)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%AF%8C%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85
永富家住宅(ながとみけじゅうたく)は兵庫県たつの市揖保川町にある江戸時代後期に建てられた庄屋家屋。国の重要文化財に指定されている。
永富家は揖保川下流域西部の、たつの市揖保川町付近の大地主であった。永富家の出自は伊賀国辺りといわれており、関ヶ原の戦い前後の1600年(慶長5年)頃には、この地に居住していたという記録が残っている。
龍野藩時代には代々この地の庄屋を務めた。
(゜-゜)「龍野藩」? ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%87%8E%E8%97%A9
龍野藩(たつのはん)は、播磨国龍野周辺を領有した藩。藩庁は龍野城(現兵庫県たつの市)に置かれた。
江戸時代初頭は播磨一国を支配する姫路藩池田氏の領有する地であった。元和3年(1617年)池田利隆が33歳の若さで没すると、嗣子の幸隆(後の光政)は幼少であったため、鳥取藩に転封となった。播磨の所領は、松平信康の娘・峯高院が嫁いだ小笠原秀政の明石藩10万石、同じく妙高院が嫁いだ本多忠政の姫路藩15万石及びその部屋住料10万石。更に忠政の次男本多政朝の龍野藩5万石と、徳川家康の娘・良正院の遺領を分配した赤穂藩3.5万石、平福藩2.5万石、山崎藩3.8万石とその池田氏一族の鵤藩1万石、林田藩1万石の中小藩に分割された。このうち龍野には上総国大多喜藩より譜代大名の本多政朝が5万石で入封し、龍野藩が立藩した。政朝は鶏籠山上の山城であった龍野城を山麓に移し、近世平山城として再構築した。
寛永3年(1626年)、実兄で姫路藩主の本多忠刻が嗣子なく没したため、政朝は寛永4年(1627年)に宗家である姫路藩を嗣いだ。代わって、忠刻の甥小笠原長次が龍野領5万石に忠刻の妻千姫の化粧料10万石のうち1万石を与えられ、計6万石をもって入封した。長次は寛永9年(1632年)、2万石の加増を受け豊前国中津藩に転封となった。これにより一時、龍野は幕府直轄となった。
寛永10年(1633年)、岡部宣勝が美濃国大垣藩より5万3千石で入封した。しかし寛永13年(1636年)には摂津国高槻藩に転出した。これにより再び幕府領となった。
(p_-)・・・・・
「池田氏」「小笠原氏」「本多氏」「岡部氏」・・
何だか・・「モヤモヤ」してきました・・
相良氏続「永富氏」と龍野藩時代は代々この地(たつの市揖保川町付近)の庄屋を務めた「永富家」の関係は解りませんが・・
でも、ウィキに書かれている「龍野藩」の記述を読むとこちらにも「古来からの大きな流れ」が関係しているような気がしています。
所で・・
相良長続。この方のウィキの記述にあった
※多良木頼仙が古多良木(ふるたらぎ)で挙兵
※上相良氏と下相良氏の争いはついに解消され、多良木・久米・湯前・湯山・江代の五村を支配下にいれ・・
古多良木は宮原の曾祖父の実家「久保田家」があった場所で、元々は球磨郡久米郷東方下分の内であり、宮原(伊予橘氏)の所領地でした。
「多良木・久米・湯前・湯山・江代の五村」・・「久米」・・この時に宮原一族は相良氏の支配下に入ったと言う事ですね。
さらに「多良木・久米・湯前」は祖母の実家「平川家」の親戚関係となる「平川家」が多く(曾祖父の弟により湯前・久米の平川家は系を繋いでいます)、多良木中心部の平川家(多良木平川本家)とも近い親戚関係で・・
なお且つ、家の宮原家・祖母の実家「平川家」・そして平河家伝授巻を残した多良木の平川家は共通に「蓑毛家」との姻戚関係が幾重にもある・・
相良氏族「蓑毛氏」と言えば※蓑毛祐長(相良長氏の子)
相良長氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E6%B0%8F
相良 長氏(さがら ながうじ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。相良氏の第4代当主。第3代当主相良頼俊の長男、ただし一説には次男とも言う。通称は六郎三郎。
生年不詳。弘安10年(1287年)、父頼俊から家督を譲られて当主となった[2]。
延慶4年(1311年)、相良一族の心得や家法のようなものを記した長文の置文を書き残した。
嘉暦元年(1326年)、7代将軍惟康親王の薨去に伴い、剃髪して「蓮道」と称し、家督を子の頼広に譲ったが、隠居したものの後見人として実務に留まり、晩年、孫の定頼の頃まで相良家で大きな影響力をもった。
元弘の乱が起きると後醍醐天皇勢力に味方し、元弘3年(1333年)、尊良親王が豪族江串三郎に擁されて挙兵し、筑前国原山に在陣中と聞いて、頼広、朝氏、祐長の三子を派遣して、その軍に加わった。このとき長氏はすでに老齢で馬にも乗れないので、朝氏と祐長はその名代であると説明している。
この軍は、少弐貞経・少弐頼尚親子の離反・合流により、鎮西探題北条英時を滅ぼし、大宰府を落とすに至った。その後も、度々出兵要請に応じて、天皇側に従った。
しかし建武3年(1336年)足利尊氏が後醍醐天皇に逆らうと、足利方の少弐頼尚は、長氏とその孫の定頼にも同調を求めた。頼広は一時南朝に従ったが、定頼は北朝に従って功があった。
延元3年(1338年)、少弐頼尚は、長氏の祖父長頼の時代に没収された人吉庄北方の所領(北条氏領)を恩賞として与えた。長氏はこの領地を、頼広ではなく、孫の定頼に譲った。一族の多良木経頼(相良頼氏の孫)が南朝側について蜂起し、息子の相良祐長がこれに同心して長く戦乱となるが、長氏は説得して和議を成立させた。また真幸院で反乱があった際にも、長氏が兵を率いた。
長氏は、没年も不詳で、文和4年(1355年)の4月14日とも2月14日とも言い、貞和元年(1345年)2月14日や正平7年(1352年)4月14日とも言う。しかし第5代当主の頼広よりも長命であったようである。廟所は佐牟田迎蓮寺[1]、牒所は称明寺[1]。
(゜-゜)・・・そうか・・
※延元3年(1338年)、少弐頼尚は、長氏の祖父長頼の時代に没収された人吉庄北方の所領(北条氏領)を恩賞として与えた。
(゜-゜)人吉庄北方の所領(北条氏領)。こちらの地頭は「平河氏」でした。当時の人吉庄の預所も平河氏。
という事は・・この時に「平河一族」の人吉の所領地は相良氏に移ったのですね。
※多良木経頼(相良頼氏の孫)が南朝側について蜂起し、息子の相良祐長がこれに同心して長く戦乱となる・・
(゜-゜)息子の相良祐長(蓑毛祐長)ですね。後世に渡って、うちの「宮原家」と上球磨地方の「平川一族」は相良祐長(蓑毛祐長)の系と姻戚関係を結び続けているという事か・・
日本の苗字七千傑様の《相良氏》そして《人吉相良氏》姓氏類別大観をあらためて拝見しました。
相良祐長からの系・・【蓑毛氏】【澄河氏】【深水氏】
\(◎o◎)/!あああああああああああああああああああああああああっ!!
ビックリしました!
「深水氏」もですね!!(今更!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!との声が・・聞こえたような(..))
何だか・・私のDNAには「相良祐長」という方が強く繋がっているような・・
宮原の高祖母は「蓑毛家」から嫁いでこられていて・・平川の曾祖母は深水家から嫁いで来られていて・・その前も何百年も同じように繋がっていて・・(?_?)
さらに・・日本の苗字七千傑様の《相良氏》そして《人吉相良氏》姓氏類別大観の中には「犬童氏」「佐牟田氏」他・・平川と宮原の親戚の姓がずらり・・と。
宮原の曾祖母は「新堀家」から嫁いで来られて・・「新堀氏」は相良頼景、この方の多良木下向と共に球磨に来られています。
しかし・・よ〜く考えてみると・・
平河家は人吉庄の所領地を失い・・宮原家は相良氏の配下に入り・・
でも・・「平川」も「宮原」も第二次世界大戦の敗戦まで、久米郷の旧橘薩摩所領地の内のかなりの土地(最初の所領地に比べればすご〜く少ないのですが・・)は持ち続ける事が出来て・・
私は全くダメな人間ですが(..)・・
うちの「宮原家」と祖母の実家「平川家」は鎌倉後期〜南北朝期は「上相良氏」との姻戚関係、後世は「相良氏族」との姻戚関係を繋いで現在まで「系」と「土地」をも繋がる事が出来てきたのだな〜と
あらためて理解出来ました。
やっぱり、「相良氏」を勉強しなければ、中世の先祖については理解出来ないという事がしっかりと解りました。
すごく長くなりました。すみません(..)
では(^・^)
[57] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年07月14日 23時23分01秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>やっぱり、「相良氏」を勉強しなければ、中世の先祖については理解出来ないという事がしっかりと解りました。
ようやく理解出来た様ですね。
移動の多かったのは鎌倉時代から戦国時代末までで、
江戸時代に入ると転封などで武士が移動するなどを除き、移住は極めて少なく、
現在の苗字分布の大勢は江戸時代初期に形成されている。
いち早く鎌倉御家人となった島津氏は薩隅日の三国守護として領国下向するが、
随従した家臣団に鎌田、名越、二階堂、秩父、千葉、渋谷、足立、児玉、吉見、
川越、豊島、宇都宮、梶原など関東発祥の苗字が多数存在する。
他に鎌倉武士の工藤氏(北海道、青森県)、千葉氏(岩手県、宮城県)、
三浦氏(秋田県)、佐々木氏(岩手県、島根県)、
後藤氏(山形県、岐阜県、大分県)等の一族移住、信濃発祥の望月氏(山梨県、静岡県)、
村上氏(愛媛県、熊本県)、甲斐発祥の丸山氏(長野県)、
近江発祥の近藤氏(愛知県、徳島県)等の一族移住が顕著である。
また明治以降、都市部では他郷よりの流入人口が多く天下の大姓と言われる苗字が増加したが、郡部においては流入人口が少なく比較的昔からの地方特有の苗字の比率が高い傾向にある。
相良氏族の場合は、遠江からの下向組が多いことを念頭に置くと良いだろう。
但し小野姓愛甲氏は相模など藤原姓・良峰姓でない関東からの下向組も存在。
九州とは言え関東(特に相模)からの下向組が意外と多い。
旧国名別苗字大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/map/map.htm )で、
近国(日向・薩摩・大隅など)に土着した関東発祥の苗字も多いことを理解して下さい。
例えば、相模発祥の二階堂氏は県境を越えた鹿児島県薩摩地域に多い。
[58] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月15日 18時10分02秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。
〉移動の多かったのは鎌倉時代から戦国時代末までで、
江戸時代に入ると転封などで武士が移動するなどを除き、移住は極めて少なく、
現在の苗字分布の大勢は江戸時代初期に形成されている。
島津氏随従した家臣団
〉鎌田、名越、二階堂、秩父、千葉、渋谷、足立、児玉、吉見、
川越、豊島、宇都宮、梶原など関東発祥の苗字が多数存在する。
〉近国(日向・薩摩・大隅など)に土着した関東発祥の苗字も多いことを理解して下さい。
例えば、相模発祥の二階堂氏は県境を越えた鹿児島県薩摩地域に多い。
お伺いした「苗字」の家々の中で
千葉氏・渋谷氏・宇都宮氏・梶原氏・・・今までの調査で伊予橘氏である宮原の先祖「橘薩摩」との縁戚関係が確認出来ています。
さらに二階堂氏は平河の訴訟・越訴にも関係・・
〉相良氏族の場合は、遠江からの下向組が多いことを念頭に置くと良いだろう。
相良氏族との姻戚関係は、昨日のコメントで書かせて頂いた通りで、やっと「本当の意味」を理解する事が出来るようになりました。
さらに、今日も再度、日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観を拝見していて、あらためてナルホド!と。
「井伊氏」「貫名氏」・・相良氏はと同族ですよね!(今更とお叱りを受けそうです(..))
井伊氏というと・・どうしても三国氏と考えてしまっていましたが・・橘紋を使用する「井伊氏」「貫名氏」は相良氏とも二階堂氏とも繋がっているという事がすごく重要な事なのだという事を【藤原南家為憲流】姓氏類別大観を拝見してやっと理解出来ました。
平川家について21 コメント26で日本の苗字七千傑様からお伺いした御教示
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101407_80.html
>「南部実継」「南部実長」
南部氏、波木井氏の家紋は対い鶴。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01013e.htm#007
日蓮大聖人の母方大野氏の家紋は鶴丸。
その由縁から。静岡大石寺、京都本能寺、本満寺、住本寺等の寺紋は鶴丸。
父方の遠江貫名氏の家紋は遠江井伊氏と同じく井桁に橘。
東京本門寺、京都久遠寺、京都常照寺等の寺紋も井桁に橘。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
安房の日蓮大聖人の本国が遠江と言うのも、
信長が最後を迎えた京都本能寺も微妙な縁ですね。http://rabbitah.img.jugem.jp/20130830_22794.jpg
さらにコメント43での御教示
井伊は遠江の地名。
三国姓井伊氏と藤原姓井伊氏は、泰直で合流。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
藤原姓三国氏を遡ると、藤原南家の周時(井伊祖)、周頼(相良祖)の兄弟が祖。
井伊氏/相良氏の遠祖というわけだ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022.htm
遠祖も貫名や赤佐を名乗る者が居り、遠江本貫地が明らか。
平川氏も遠江が本貫地であることは濃厚。
東京の紀尾伊町の周辺に平河(川)天神や相良藩邸があることは偶然か?
紀尾伊町は紀州家、尾張家、井伊家の藩邸から命名されたが?
======================================================
※南部実継の娘は橘公綱の妻
※日蓮大聖人の有力壇越として知られる「南部実長」「南部実継」
※日蓮大聖人の父方の遠江貫名氏の家紋は遠江井伊氏と同じく井桁に橘
※遠江貫名氏と同族の遠江井伊氏は・・藤原姓三国氏を遡ると、藤原南家の周時(井伊祖)、周頼(相良祖)の兄弟が祖。
※東京の紀尾伊町の周辺に平河(川)天神や相良藩邸がある
※紀尾伊町は紀州家、尾張家、井伊家の藩邸から命名された
「相良氏」「井伊氏」「貫名氏」「南部氏」そして先祖「橘氏」さらに先祖「平川氏」・・球磨以前に確実に繋がっていたような気がしています。
宮原の先祖「橘公長」の吾妻鏡における記述でず〜っと気になっている事があったのです。
ウィキの記述にもその事が書かれています。
橘公長 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%85%AC%E9%95%B7
経歴[編集]
弓馬と知謀に優れ、元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛と片切景重と喧嘩になった際、頼朝の祖父・源為義が朝廷に訴えず斎藤・片切を諫めた事から、公長は源家への恩を忘れず、縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かったという[5]。なお、実際には片切景重(原文「片桐」)は平治の乱(平治元年(1159年))で討ち死に、為義はそれ以前の保元の乱(保元元年(1156年))の直後に刑死していることから、原因となった喧嘩は治承4年(1180年)より相当前に発生したものと考えられる。
「京に馴るるの輩」という事で頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席した。
(゜-゜)・・宮原一族の先祖「橘公長」は
※縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かった・・
ここなのです!!平家離脱後、鎌倉の源頼朝の麾下に入るという重要な「転機」を迎えた先祖「橘公長」は鎌倉に直接入る事をせずに、その大事な転機に際して「遠江国」の縁者のもとを訪ねた!
すごく「大事な縁者」の方だったのだと思います。
でも・・遠江国の縁者とはいったいどなたなのか・・????
「宮原家」と「平川家」の関係も、昨日、冷静に分析していたら、見えてきました。
祖母の実家、旧宮原村の「平川家」の親戚の「平川家」。内、湯前以外は皆、先祖「橘薩摩」の旧所領地「久米郷東方下分」もしくは旧「久米郷西方」に集中しています。
湯前の平川家は曾祖父の弟が継ぎましたが、湯前は「深水家」の所領地でした。
現在の平川氏・球磨郡では
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%B9%B3%E5%B7%9D&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C
球磨郡あさぎり町 30 球磨郡多良木町 14 球磨郡湯前町 9
球磨郡錦町 9 球磨郡相良村 8 球磨郡山江村 6 球磨郡五木村 4
球磨郡水上村 1 球磨郡球磨村 0
郡内に81軒。内 上球磨地区には54軒。多良木「14軒」の内少なくとも5軒は親戚です。
相良家文書にて橘遠江入道「道公」の跡、いくらかの土地を相良氏が継いでいるのが解ります。
「相良氏」「相良氏族」「宮原」「平川氏」・・代々「縁戚関係を繋いできた」という事。私が、その意味をしっかりと理解出来ていなかったのですね・・
そう言えば・・「橘遠江入道」・・橘「遠江」でした・・
「遠江」を抜きには何も見つからないようです・・
では(^・^)
[60] | 白石さんからのコメント(2015年07月16日 20時14分31秒 ) | パスワード |
こんばんわ
豊前佐々木氏 副田氏 原田氏
佐々木と原田が気になって 原田氏を見ていました。
副田氏は・川(松平)義方の母。義方の子孫は幕末尾張徳川家に入り 反幕府の動きをする。
[61] | 白石さんからのコメント(2015年07月16日 20時21分14秒 ) | パスワード |
原田氏は漢王室子孫と伝える坂上一族。
秋月・原田系図は 安徳天皇は原田氏に養われたという伝えを残している。
豊前佐々木氏=大蔵氏=漢王室子孫・高貴王と斉明天皇の間の子から
はじまる。
秋月、大蔵、丹波、坂上;系図 - TOK2.comより
http://www42.tok2.com/home/toyotane/keizu.html
皇極・斉明天皇 - 邪馬台国大研究
inoues.net/tenno/saimei_tenno.html - キャッシュ
【第35代皇極(こうぎょく)天皇/第37代斉明(さいめい)天皇】 異名: 宝皇女(たからひめ )、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらし ... 元年(655)〜 斉明天皇7年( 661) 父: 敏達天皇の孫・茅渟王(ちぬおう/ちぬのおおきみ) 母: 吉備姫女王(きびつ ひめ) 夫: 舒明天皇 皇妃: 皇 ... この女帝の就任は、山背大兄皇子(やましろのおおえ のおうじ)に気がねする蘇我蝦夷によるものだったが、病気がちで次第に登朝しなくなっ てき ...
[62] | 白石さんからのコメント(2015年07月16日 20時41分52秒 ) | パスワード |
又陸奥国梁川藩の第2代藩主 ・松平義方の母は副田氏。養母は★丹羽光重の娘。実母は副田氏。
梁川藩(やながわはん)は、江戸時代の一時期、陸奥国伊達郡に存したj。
こちらはこちらで詳しく見ないとわからないけど、義方の子孫が尾張家に入り
幕末藩徳川の動きをする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
原田家・秋月家の伝え
原田種直の夫人が平継盛の妹で、夫人の父が平重盛です。
秋月家の女子を母にするのが 家康6男忠輝。
結構徳川のよめかたにいると 前に書きましたが 代表格は
秀忠の母は西郷の局で菊池氏
ーーーーーーー
豊前佐々木氏 - nifty
homepage3.nifty.com/ganryu/sub/soeda.htm - キャッシュ
郷土史家の原田夢果史氏によると豊前佐々木氏は本姓を添田(副田)氏といい、大蔵姓 原田氏の一門だという。大蔵氏は漢の高祖の末裔を自負し、朝廷で大蔵の職に任じられ たことからこの姓を称したという。
[63] | 白石さんからのコメント(2015年07月16日 20時46分50秒 ) | パスワード |
原田種材の父・岩門種平の弟・種綱の系から木原。山口が出る。
後漢献帝の子・石秋王は魏の明帝の女子をめとり この末が「阿智王」である。
その子「阿多部王」(高尊王・高貴王)とする。
その妻は 敏達天皇の孫・茅渟王の女子とする
※この人は 皇極・斉明に対応するとする。
3人の子をもうけ
一人は 志努王(坂上姓)、次を山本直(大蔵姓)、次を爾波木直(蔵内姓)。
[64] | 白石さんからのコメント(2015年07月16日 20時54分29秒 ) | パスワード |
阿智王は応神朝来朝したとされている。その賜姓の時
半島を下ってくる時 みんなが 新羅百済などに分かれ散れり なので 皆をよびあつめたい と いっており
沢山の人を連れてきて
はじめ
阿智王と高姓の人は高市郡ひのくまに住んだが いるところ狭くなり 全国に分かれ散れり と。
一方 秦王室子孫という弓月君も大勢を引き連れ応神朝に来朝。
このような筋が違う人たちが多勢なだれ込む現象は 民族対立の歴史にかんがみ ありえず 我が国も又 東胡であったことが 知られると。
[65] | 白石さんからのコメント(2015年07月17日 19時47分03秒 ) | パスワード |
こんばんわ
以前河童の話が出ました。
相良っぱまつり もあるということで 書いていました。
これは 近年はじまったようです。私の子供の頃の思い出にはありません。
って
牛島さん という人が小学校の頃の同級生にいました。
バレーをならっていたようで 一年生の時 教室で踊って見せてくれました。バレーは他にもお何人かならっていたようで 佐々木先生の娘さんもおどっていました。
地域は中村から血がまわり 尾方へ行き 尾方からうちの平川へ嫁。
牛島は 後藤がいた集落におり 後 熊本の親戚を頼って熊本へ行ったときいています。本人平川の娘婿に入った高岡の本家。萩のこせきでは 「五藤」となっ
[66] | 白石さんからのコメント(2015年07月17日 20時00分44秒 ) | パスワード |
またまたパソコンがおかしくなり
地域は中村から血がまわり 尾方へ行き 尾方からうちの平川へ嫁。
牛島は 後藤がいた集落におり 後 熊本の親戚を頼って熊本へ行ったときいています。本人はなくなりました。
平川の娘婿に入った高岡の本家。萩の戸籍では 「五藤」となっ ていますが、平川女子に聞いた話では 親せきづきあいをしているのは 後藤ということでした。
中村 牛島 五藤 とあれば 橘氏が考えられ
うちの高岡 白石 坂本 集落の尾方は 橘紋をつかい
「佐田文書」では 橘薩摩氏が肥後の守護職であったことが書いてあるという。
[67] | 白石さんからのコメント(2015年07月17日 21時36分26秒 ) | パスワード |
五藤は山内容堂がいる山内家にも関与していた。過去に個人がつくっていた系には五藤もついており ながい年月で姻戚関係をもったか?
又 板垣家とも姻戚関係がある。
橘姓 五藤系図より
www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-kitsu-goto.html - キャッシュ
【中興祖】五藤三郎左衛門橘淨基 【世系】五藤氏は、敏達天皇の後裔にして橘諸兄に出 づ。 【歴史】五藤淨基は尾州郷戸川の船中におひて、山内盛豊に初めて拝謁す。而して 之に仕ふるに功多く、 続きて山内一豊に仕へ、世々其の股肱の臣と為す。
この系の左上ぽっちりを押せば 菊水紋の楠木氏が出る。
楠木正行の子が 池田教正の養子になる。
★山内(林)勝久室になる女子がおり、押してみれば 榧之内 三文字の越智姓林氏系図が出る。
家紋が博文の紋とおなじだから 関係があると思われるが 調べてみます。
[68] | 白石さんからのコメント(2015年07月17日 21時53分28秒 ) | パスワード |
一方牛島は
潮見山大明神
www.sysken.or.jp/Ushijima/jinjya-shiomi.htm - キャッシュ
潮見神社 中宮. 潮見神社 由緒. 中宮社の屋根瓦の御神紋. 郷めぐりへ戻る 橘姓渋江氏 系 牛島氏へ戻る. ○ 水の神、山の神、田の神: 飛鳥の猿石と河童(五来重 石の宗教: 第五章 道祖神信仰より). 梅宮(御神紋:橘紋) 片白三地区 http://g.co/maps/xppey.
の牛嶋氏より 人皇三十一代敏達天皇の五代目の後胤である葛城王の末。
五藤と同族とみてよく
四十六代称徳天皇から、
「天地元水神」を氏神として付けるよう勅許があった(その時腸わった御綸旨は、いまも渋江家の本家にある)。
橘朝臣公村の時、はじめて、姓を渋江と改め、その弟三人は分家して、牛島・中村・中橘を名乗った。
[69] | 白石さんからのコメント(2015年07月17日 23時00分36秒 ) | パスワード |
もののけが湧く書庫 - 『河童をヒヤウスベと謂うこと』毛利龍一 ... - FC2
で
予が家とあるので 誰を刺しているのだろうと思うが 文中 我毛利家とあるので毛利氏とわかる。
予が家は代々河童の主たる渋江氏を祀れる佐賀県杵島郡橘村潮見の潮見神社の神職 であるから、本誌第二巻第三号の河童の話は非常な興味を以って之を読んだ。潮見 神社の祭神は橘諸兄橘奈良麿橘公業橘島田麿及橘朝臣渋江等の橘氏一族で、末社
毛利氏は遠祖・菅原道真であり 平野神社には 道真と敦実親王とに血縁関係があったことg書いてあり
このこともよく調べてみようと思う。
相良氏も梅鉢紋を使い なんらかの形で 関与しているのではないか?と思う。
池田氏のアゲハチョウ紋についてはネットで
美濃池田家からおこったとされる岡山藩池田家 の家紋、池田蝶は平家由来ではなく宇多源氏敦美親王ゆかりの舞からきている。
美濃源氏フォーラム掲示板
2014年11月30日 - 天神信仰は宇多天皇が重用した菅原道真公ゆかりですが、佐々木系堀部祖成綱嫡男( 4男)氏綱の母は菅原真長女のよう .... 北条と土岐家の縁戚関係は普通ですからこの 記録の信頼性は高いと思われます。 .... 美濃池田家からおこったとされる岡山藩池田家 の家紋、池田蝶は平家由来ではなく宇多源氏敦美親王ゆかりの舞「 ...
鹿児島県川辺町の資料と「美濃源氏」 - 宗文研ゼミ『紫苑』掲示板
rokuhara.sakura.ne.jp/bbs/?id=3957 - キャッシュ
美濃源氏フォーラム15周年記念事業 瑞浪市共催事業 第15回美濃源氏フォーラム in 瑞浪 『再考、美濃の中世社会−東西文化の結節点、蠢きまわるモノや人たち』 日 時: 平成17年7月23日(土)開場9時/開会10時〜17時 場 所: 瑞浪市 ...
というのもありました。
河辺 川辺川が地域にある。
なにか う〜ん もやもや。
.
[70] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月18日 08時48分51秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
白石様、沢山の御教示、本当にありがとうございます。
コメント61にあった
〉原田氏は漢王室子孫と伝える坂上一族。
こちらのお話なのですが・・
平川家について16コメント68より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101373.html
山江村誌より
人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる。
他、書籍にて・・
領家は八条女院で、鳥羽院皇女・子内親王である。預所は対馬前司中原清業で、平頼盛の後見侍であり、大隅守・備後国目代・播磨国目代・大宰少弐などを歴任した、史大夫である。
それだけに「球磨臼間野庄」から「人吉庄」の成立まで積極的に係わった一人である。
「人吉庄」の預所は平光盛(後見として中原清業)。
平光盛(後見として中原清業)から中原盛通。
徳治二年預所が中央势力である中原盛通から在地势力の平河師種に代った。
※史大夫中原清貞の子・・中原清業。
コメント81より
「中原清業」は「坂上清業」であった
※中原清業とは「中原氏」に養子に入った坂上重盛の子息「清重こと清貞」の子であったと言う事です。
=================================================
(゜-゜)とこのように調べていました。
「人吉庄」の預所は
平光盛。後見として中原(坂上)清業→ 中原盛通 → 平河師種
※中原(坂上)清業・・後漢霊帝の後裔「坂上氏」
平河師種・・「種」の字。
〉豊前佐々木氏は本姓を添田(副田)氏といい、大蔵姓 原田氏の一門だという。
先祖、橘公業が替地にて所領した豊前副田庄。
コメント51で書いたように
豊前佐々木氏 より
http://homepage3.nifty.com/ganryu/sub/soeda.htm
田川郡副田庄地頭副田氏
副田氏が副田庄の支配者として記録に現れるのは鎌倉時代である。
『到津文書』と呼ばれる古文書に正応五(1292)年三月十六日、副田四郎左衛門尉法師(法名西念)、同六月に「副田二郎左衛門入道の名が見られる。『田川市史』によると、副田氏は鎌倉幕府の御家人であったという。
次に文保元(1317)年の『島津文書』には、副田二郎三郎種信の名がある。この時、副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職がゆだねられた。
島津忠宗と「豊前副田庄」・「球磨郡久米郷」の関係は、コメント51で書いた通りです。
ちなみに・・
私がネットで調べていた『尼しんねん譲状』についてなのですが、地元「あさぎり町」の図書館にあった「多良木町史」にも取り上げられていました。
「多良木町史」は館内閲覧のみだったのですが、興味のある記述が沢山あり、幾つかのページはコピーしてきました。
「変貌する須恵村」。この書籍も図書館にあって(館内閲覧のみ)やはり気になる記述はコピーさせて頂きました。
地元の図書館には「多良木・免田・須恵・深田・湯前・錦・山江・相良・水上・岡原・球磨」といった町村の「町史・村史」が全て揃っていました。
しばらくは、図書館通いが続きそうです。(^・^)
「町史・村史」の中に新発見が続々出てきまして\(◎o◎)/!
今後、まとめながらコメントさせて頂きます(^・^)
所で「牛島氏」についても白石様の御教示にありましたが・・
橘姓牛島氏と宮原は橘公業を祖とする同族です。
ちなみに牛島の地名は、先祖が所領した久米郷東方下分の内にある現在の多良木町と旧岡原村の境にもあります。地名遷地かな?と(^・^)
曾祖父の実家「久保田家」があった「古多良木」や「牛島」は旧岡原村と隣接する地域です。
宮原家の家督相続の際に、私の祖父が譲られた土地の中に「牛島」近辺や、旧岡原村の「伊勢元」近辺の土地などもあり、その土地は「おば」に託されて、今でも親戚が家を建てて住んでいます。
私が子供の頃、家に「牛島のおばさん」と呼ぶ方が来られていたのは覚えているのですが、その方が親戚だったかは?父もよく解らないと言っていました。
「潮見神社 」は
橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。
という由緒の神社です(^・^)
http://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-11809543268.html
〉うちの高岡 白石 坂本 集落の尾方は 橘紋をつかい・・
橘紋なのですよね・・
何か繋がっているのかな・・?
宮原の親戚筋で、現在橘紋を使っている所(家)はあったかな?近隣では無いような・・?。
(先日、お寺に伺ったのですが、境内の天井に家名と家紋がびっしりと装飾されていました。橘紋も数軒あったのですが、その「家」が親戚かどうか?は解りません)
家の場合は「深水家」「平川家」「椎葉家」「宮原家」そして「蓑毛家」も丸に剣方喰紋でした。
きっと、堅い絆?の「証し」なのかもしれないな〜と、その時考えたのです・・?
白石様の御親戚も何かの「証し」として橘紋を使用されているのでは・・?
ちなみに、何百年も前からの「橘紋」なのでしょうか?
その辺りがお解りになると「橘」との繋がりも見えてきそうですね(^・^)
では(^・^)
[71] | 白石さんからのコメント(2015年07月19日 10時42分53秒 ) | パスワード |
おはようございます。
台風の影響で山手は避難勧告が出され 近くの川はチョコレート形のブロックがあと四段位まで水位があがっていたと近所の人がいっていました。
我が家は大丈夫ですが・・・・
お寺へ行ってくださったのですね。ありがとうございます。お寺様は糖尿病になられたと聞きましたが
お体は大乗うだろうか?と思いおります。
>何百年も前からの「橘紋」なのでしょうか?
いつからかはわかりません。お寺は祖父の代に 川辺の本家の長男に生まれた人が幼くして親を亡くし 叔父夫婦だかに育てられ ために家を出て
今のお寺様に酔ったと 聞いています。なので うちは 二重丸橘紋だと。
その前の白石は前にも書きましたが
人吉永国寺の流れの 古見院で
明治の頃の村役場がおかれたところ です。
お寺に位牌をあずけてあるということで 箱いっぱいあるということです。
そこに紋をたずねましたら やはり 橘紋だということでした。
父は 高岡のでで 高岡も橘紋です。
母は ありゃ 父ちゃんの紋ばい と いっていましたが
どちらも 橘紋です。
京都の方のお寺で近衛文麿が扁額を書いているお寺の説明では
橘紋は 藤原の紋です ということでした。
高岡は深田善正寺 。 集落の同紋を使う尾方もここです。
私の娘の稚児参りもここでしました。
善正寺には明の国から持ち帰った経典が1000巻あるそうです。
おもしろいのは 了円手と善正寺は山号が同じ 確か 「吉祥山」なのです。
500メートル位しかはなれていません。
一度 両方に先祖の枝分かれとか関係があるのか 尋ねたことがありますが うちのお寺の方は佐賀から養子にこられているということで先祖の事はわからない ということでした、
又 山号がおなじだから といって 血系があるとは限らないということでした。
お寺様のことを穿り返すものではない と聞いてはいますが
うちのお寺様は 「川津氏」 歴史の始まりの頃 川津姫がおります。つながっているかどうかは?ですが。又
善正寺の方は 「前原氏」で これも歴史のはじまりの九州王朝3代があったという北部の吉野ケ里遺跡をみおろすあたりに 前原という地名があるそうです。
ついでといってはなんですが
母方・佐田は防州最古の真宗寺院で 香川氏。
お手紙を過去にいただいており うちの佐田は檀家筆頭。ということでした。
香川氏を単純にさかのぼれば 梶原氏 鎌倉氏などがでてきます。
又
陰徳太平記は
毛利 一族の岩国吉川家の家臣香川正矩,堯真共編。寛文年間 (1661〜73) に成立したもの を正矩の次男宣阿が補訂して元禄年間 (88〜1704) に完成。正徳2 (12) 年刊。『太平 ...
岩国吉川家
磐国のことばは母からよく出ていて
おばは うちのおばあ様は毛利様から院号をいただいた と いっていまいた。
佐田は三つ巴紋です。
[72] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月19日 14時10分39秒 ) | パスワード |
白石様、コメントありがとうございます(^・^)
〉お寺へ行ってくださったのですね・・
お寺なのですが、家や平川家・深水家・椎葉家がお世話になっている地元のお寺の事でして・・すみません(..)
相良藩の時代は浄土真宗は禁止されていましたので、家や親戚は地元にあった曹洞宗のお寺様だったのですが、明治初期に免田にそちらのお寺が移転された事により、深水の高祖父が、縁のあった芦北の佐敷から僧の方をお招きして建立された浄土真宗のお寺です。
こちらのお寺の建立には椎葉のおじの祖父の方も尽力されたと聞いています。
〉京都の方のお寺で近衛文麿が扁額を書いているお寺の説明では
橘紋は 藤原の紋です ということでした。
???どういう事なのでしょうか・・・?
所で(^・^)
〉高岡は深田善正寺 。 集落の同紋を使う尾方もここです。
深田善正寺は「四浦」との繋がりがあるようですよ(^・^)
浄土真宗本願寺派 善正寺について
http://www.zensyoji.net/about
【善正寺】 あさぎり町深田東七八九−二
善正寺と球磨地方とのつながりは、文化年間(1804〜1817)、四浦村深水の伊七という篤信の隠れ念仏の徒を中心とた球磨十七日講を通じてのもので、伊七は八代郡野津村・東光寺住職環仲のもとに通い、念仏をよろこんだ。環仲は、この十七日講の育成、拡充のために熊本善正寺の慶恩住職と共に力を尽くした。これが、善正寺と十七日講との接点となり、環仲が往生のあと、熊本善正寺慶恩によって、さらに天保十一年(1840年)に善正寺の第七世住職を継いだ道晃も禁制下の球磨地方に潜入し、布教伝道を行った。
現在、善正寺の御内仏の本尊は、道晃が球磨での隠れ法座で奉持した、広如上人御染筆のものである。
開教時代に入ると、1872年、本願寺宗主の明如上人の九州巡教により、本願寺派の開教が開始された。これに呼応して明治六年、熊本善正寺の前原峰春住職が、球磨地方に入って各地で説教を行った。
明治十一年に本願寺派の人吉説教所(現・人吉別院)が竣工し、球磨の十ヶ村におよぶ十七日講の中央に位置する深田村にも、熊本の善正寺を誘致しようという気運が盛り上がり、明治十三年九月、熊本から移転の善正寺本堂が深田村に竣工した。そして善正寺は、八世峰春から九世の西浄、十世の眞覚、十一世の弾勤、十二世の弾邵へと住職が継承されていった。
(善正寺十三世住職・前原眞昭)
とありました。
熊本の善正寺が明治十三年九月に移転されてこられた。
現在の御住職が熊本時代からを含めて十三世となられるという事ですね。
流れは・・
※善正寺と球磨地方とのつながりは、文化年間(1804〜1817)、四浦村深水の伊七という篤信の隠れ念仏の徒を中心とた球磨十七日講を通じてのもの・・
※熊本善正寺慶恩によって、さらに天保十一年(1840年)に善正寺の第七世住職を継いだ道晃も禁制下の球磨地方に潜入し、布教伝道を行った。
※開教時代に入ると、1872年、本願寺宗主の明如上人の九州巡教により、本願寺派の開教が開始された。これに呼応して明治六年、熊本善正寺の前原峰春住職が、球磨地方に入って各地で説教を行った。
※明治十一年に球磨の十ヶ村におよぶ十七日講の中央に位置する深田村にも、熊本の善正寺を誘致しようという気運が盛り上がり、明治十三年九月、熊本から移転の善正寺本堂が深田村に竣工した。
やはり、「相良藩の時代は浄土真宗は禁止されていた」この部分が、家のお寺様と同じく、深田や四浦の方々の「熊本の善正寺を誘致しようという気運」に繋がっているのだと思いました。
所で・・
今日、私は、コピーしてきた「変貌する須恵村」そして「多良木町史」のパソコンでのデータ化を朝から行っています。
ぜひ、皆様にもご覧頂きたい記述が沢山あります。
後ほど、コメントさせて頂きます。
では(^・^)
[73] | 子孫よりさんからのコメント(2015年07月19日 14時46分25秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様、白石様、沢山の御教示本当にありがとうございます。
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今後とも、どうぞよろしくお願い致します。
平川家について27へ続きます(^・^)
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