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 投稿番号:101462 投稿日:2015年06月12日 03時16分22秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XLW(M氏家譜8+市野氏解明済?)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族XLV(M氏家譜7+市野氏解明済)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101459_74.html    スレッド43
の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時19分55秒 ) パスワード

市野氏につきましては


   家譜:市野家物語 市野康彦 著

をお読みになるのが1番確実かと思います。



出版社
東京図書出版会

出版年
 2005

大きさ、容量等
215p ; 19cm

JP番号
20916567

出版年月日等
2005.7

件名(キーワード)
市野 (氏)


NDLC
GB43

NDC(9版)

288.2:系譜.家史.皇室

対象利用者
一般

資料の種別
図書

言語(ISO639-2形式)
jpn:日本語

国立国会図書館蔵書(NDL-OPAC)
請求記号:GB43-H145

東京 本館書庫
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月12日 14時34分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私も捜査官の悪癖にそまりつつあります。自分の思い描くストーリーと
違うとおもしろくない。できれば自分のストーリーに添わせたい願望・・・
それこそ悪徳捜査官の誕生です。

 ただ、歴史の真実は本当のところ分からない。特に文明開化以前は・・・。
 ということで、市野氏も謎の部分があるのだが、謎の部分は表に出したく
ない部分であると推測いたします。特に忍者系・隠密系の人は「私はスパイ
です」とは絶対言わないはずです。表はただの人、裏は別人・闇の人。
 服部半蔵―服部政信・服部中―松下之綱・常慶―柳生宗矩・・・徳川の
CIAの幹部が市野を中心に全部つながっているではないですか。歴史のね
つ造(記録のねつ造・改竄)も可能ですし、まずは肝心なところはワイプアウ
トしてしまうでしょう。
 女性は女性で情報網を持っていたのではないか・・・阿茶の局は市野の隣
の万斛(まんごく)の鈴木邸にいた― そしてお江(秀忠=服部忍者系)―春日の
局(服部系も関係)。情報を集め、また逆に流す。市野はそういった意味の情
報ネットワーク本部ではなかったのだろうか。市野氏もいろいろなネットワ
ーク(寺田氏、袴田氏、浅井氏)を利用し、かつ裏では一族郎党を各方面へ派
遣したのではないか(密命をおびて、馬の買い付けと称し敵情視察)・・・?
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月13日 19時28分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『家譜 市野家物語』(市野康彦著)によれば、「市野氏の3代目は眞利
で、別名、實利、といい、台徳院殿(秀忠)につかえたてまつり、御代官を
つとむ。延寶4(1676)年6月18日没す。75歳。」とある。
 そこから誕生年を逆算すると1601年となる。小早川秀秋は1602
年に亡くなっていますので、その時眞利は一歳ていうことになりますので、
これが正しければ、小早川秀秋に仕えたのはこの人ではないということに
なります。その人が市野惣太夫を名乗ったかどうかの確証は今のところあ
るかどうかはわかりません。
 柳生宗矩ともつながっているということです。柳生と松下はつながって
います。松下と小野がつながり、小野と鈴木、松島、市野は庄屋レベルで
つながる。時間をかけて調べていけば新事実を見つけ出すことができるか
も知れません。
[4]ともさんからのコメント(2015年06月13日 20時35分17秒 ) パスワード

こんばんは。

参入します。「とも」です。

当家所持の慶応元年の「親類書」によれば、

元和元年、市野惣太夫眞久病死。
倅惣太夫正次被跡勤

内匠眞郷次男にて別家。
其の後、数代市野村に住す。

内匠眞郷より四代目惣十郎正勝
とあります。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月13日 21時05分43秒 ) パスワード

ともさん


情報をありがとうございます。


>内匠眞郷より四代目惣十郎正勝

通字が「眞」「實」ではなくなっているんですねえ。
名乗りも「惣太夫」ではないし。


分家だからでしょうね?
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月13日 21時12分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『家譜 市野家物語』(市野康彦著)によれば、
>「市野氏の3代目は眞利で、別名、實利、といい、台徳院殿(秀忠)につかえたてまつり、御代官をつとむ。
  延寶4(1676)年6月18日没す。75歳。」

>とある。
>そこから誕生年を逆算すると1601年となる。



あらあら・・・

そうしますと小早川秀秋の家老を勤めた伊岐真利は別人ですね。
ハッキリして良かったです。



ではこの伊岐真利という人物はどなた?
市野真利という人物がもう1人いたということになりますね。

良くて市野実久に近い一族でしょうね。
または市野一族の別系統。



とにかく眞久の孫ではなかったとハッキリして良かったです。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月13日 21時29分34秒 ) パスワード

藤堂高虎は苦労人だったから

という話の1つに、「忍者に武士としての身分を与えた」があるそうです。

他にもいろいろあって関ヶ原で敗れた石田三成にかけた言葉が他の武将とは違って
    他の武将は悪しざまに罵ったけれど
 
藤堂高虎は「うちの軍の働きをどう見たか?」と質問をし
石田三成は「先手のリーダーが身分が低いから軽んじられて足を引っ張られ充分に動けなかった」と答えたそうで


藤堂高虎は調べたらその通りだったからその先手のリーダーの石高を上げたそうです。


その他にも
二条城?の縄張りの図面を2枚秀忠に見せて秀忠に選ばせたとか。

   2枚見せて決断を秀忠にさせたということで
   決定は将軍家がしたということになり
   自分の手柄を将軍家に譲ったという気働きをしたということです。


藤堂高虎もなかなかの人物だったけど
石田三成もなかなかの人物だったのだな、と。


でもここで  この2人って近江の出身だから  もともと友人として通じてたのかな?  とも思いました。


と考えると市野惣太夫実久は当時60歳あたり  アラカン?だから
この2人より20ぐらい年上だったでしょうね。

同郷人?として、どういう思いでこの2人の活躍を見てたんでしょうね。
[8]ともさんからのコメント(2015年06月14日 00時48分22秒 ) パスワード

こんばんは。ご参考までに。

当家の所蔵の「市野家親類書」ですが、

抜粋、
眞郷より四代目惣十郎正勝、宝暦十四年申三月(六月に明和元年に改年)
御〇様江附属・・・(他の数通の書状を鑑みて尾張藩?)


巻末の年号は、
慶応元年 乙丑 五月

堀田左〇次様
浅野三八郎様 宛にて

本国遠江 生国武蔵
遠江長上郡市野村居住
市野内匠正継 花押(名は他の書状・文書を鑑みて)

「市野家親類書」に依ると、内匠正継夫婦は
市野隼之進の両養子のようで

内匠正継の実父は
気賀の近藤登助(宗家)の家老、長瀬与兵衛(没)の次男、
母は交代寄合、近藤縫殿助(気賀近藤)家老の松井〇郎兵衛の妹
兄は近藤登助の家老長瀬與八郎
弟は近藤登助の目附長瀬眞〇〇

とあります。

当方全く詳しくないので質問なのですが、
長上郡市野村には同様な市野家の分家が存在していたのでしょうか?


ちなみに近藤家の祖、近藤秀用の娘は、
由良貞繁室及び、徳川家康の子でキリシタンの小笠原権之丞室なんですね。

なんだか、牧野康成の娘で、福島正則の継室昌泉院の逸話のようです。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月14日 04時28分30秒 ) パスワード

小笠原権之丞


小笠原 権之丞(おがさわら ごんのじょう、1589年(天正17年)? - 1615年6月3日(慶長20年5月7日))

安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
徳川家康の隠し子の一人とされる。

母は三条氏。

本来ならば六男の松平忠輝の兄にあたるともいう。
洗礼名はディエゴ。

妻は近藤秀用の娘。一男二女があったという(息子は早世、娘二人は間宮信勝と中川飛騨守(年代から中川忠幸と思われる)に嫁ぐ)。
以下は全て、伝承に基づく。



経歴[編集]

家康の手がついた母が懐妊したまま、家康家臣の小笠原広重[1]次男の小笠原越中守広朝[2]の妻となったため、広朝の子として成長し、長じて小笠原家を継ぎ、6000石を領した、とされる。

キリシタンに傾斜したため、1612年に家康により改易・放逐された。[3]


大坂の陣に際し、豊臣方として参戦し、徳川家に敵対し、夏の陣の天王寺の戦いで戦死したとされる。

一説には大坂の陣の際、同じキリシタンである明石全登の養子になったともいわれる。



小説[編集]
火坂雅志『家康と権之丞』(朝日新聞社、2003年)


脚注[編集]

1.^ 信濃国の府中小笠原氏の小笠原長棟の弟・定正より、広正、広重と駿河今川家家臣。水軍の将であったとされる。広重の代に本多忠勝の勧誘により徳川氏に仕える。
2.^ 兄の船手頭・小笠原信元は房総富津に2500石。広朝は兄に付属して家康に仕えたが、兄をも越える所領を預かっていたとする史料はない。広朝は兄に先立ち1603年没。
3.^ 船手頭で当主の信元は同年に没している。信元の遺領は信元弟の広忠の子・信重を生前に養子として、さらにその子の信盛が相続している。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月14日 04時53分55秒 ) パスワード

小笠原権之丞(1589年生まれ)の母が三条家出身ということで一瞬お福さま(春日局)(1579年生まれ)を思い出しました。

      従姉弟かハトコあたりの関係?


お福さまの母上は三条西家出身ですから、一応、母同士が三条家つながり、かと。

      母達が従姉妹かハトコでしょうか?



小笠原権之丞の心は、まるで(斎藤道三の子・実は土岐頼芸から拝領した側室の生んだ子の)義龍みたいですね。

これは辛いですよね。

父親が実は・・・なんてね。


そりゃあ反発があったでしょうね。


[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月14日 05時17分01秒 ) パスワード

>御〇様江附属・・・
>(他の数通の書状を鑑みて尾張藩?)


もし尾張藩なら、忍者のところに市野という名前が出てましたね。
この関係でしょうか?

http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/ninja-database-nihon.pdf
    1番下の枠の2番目です。2行目の最後の家の名は安藤家  です。
 
     尾張藩の隠密組織    徳川幕府の隠密   大野一英  作家   の右側2行目の右の方に  市野   が出ています
     本のタイトルは  尾張藩、名古屋城落城  から始まっています。


福山 松翠. 人類科学研究所. 1953年11月. 260円. 実験奥義 忍術極意秘伝. 書 全 ...... 服部半蔵奉納、仁王像、練馬区、御獄神社、鬼半蔵正成、寛政重修諸家譜、半三保長、万 .... 同心200人、石川五右衛門、日本武道全集、第4巻、中忍11人、百地三太夫の .... 家、広田家、忍術、潜水の達人、諏訪家、市野家、牧野家、松永家、豊島家、安藤家、.

[12]ともさんからのコメント(2015年06月14日 21時22分42秒 ) パスワード


こんばんは。

長上郡市野家系統が忍者(隠密)だったのでしょうか?

当家の書状等を読むと武家同士の改年の遣り取りや、
旦那寺の宗安寺に関する書状や手紙があります。

市野家の所領石高は20石弱、他にも代官としての収入が合って
潤っていたのでしょうか。

20石弱ですが武家。一般ですと庄屋並収入ですよね。

不思議な武家ですね。

江戸時代初期は何か別系からの密命を帯びて存在した家だったのかも。


小笠原権之丞の養父は府中小笠原系統の方なんですね。

権之丞はつらかったでしょうね。
兄弟は後の征夷大将軍や大大名ばかりですものね。

同じ兄弟なのにってグレちゃうのも解かる気がします。





[13]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月15日 07時01分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 昨日は、早朝より(夜中に近い)出発して、一日中御前崎沖で鬼カサゴを
中心に竿を上げ下げしておりました。帰宅後、パソコンに向かい、とも様
のレスをありがたく拝見し、書き出し始めましたが、疲れと睡眠不足から
麻酔が効いたように眠りの世界に落ち込んでしまいました。本日は快調で
すが、jobがありますので、断片的な書き込みになると思いますがあしから
ずお許し下さい。

 とも様の情報、たいへんたいへん貴重なもので、市野家の謎の解明の
ウラ付けになると思います。あを様の尾張藩の忍家市野家の情報もスゴイ
発見だと思っています。
 いずれにしても、当時の世界は表の世界と裏の世界があり、その裏=
「情報戦」が一番大事であった。「情報を制する者は世界を制す(天下を取
る)」ということで、いわば日本中が忍者・隠密・間者で一杯であった
とも言えます。どこまでを忍者というのかという定義の問題もありますが、
職業的忍者集団(請負業)とするならば、伊賀の忍者が代表的存在であると
思います。

そんな背景の中で、市野氏という存在はどうであったかということであ
りますが、今まであを様と探究し合ってまいりましたが、いわゆる「匂う」
「くさい」感じがしております。浜松の市野家の子孫の書いた「家譜 市野
家物語」という資料を読みましたが、忍術的な話は一切ないのですが、やは
り先祖にいろいろな説がある。身内同士でいざこざがある。分家が支流とし
て拡散(古くから)している。小早家に仕官した武術家もいる。また家康との
関係、市野という立地的背景等を考えますと裏の情報ネットワークに根をお
ろした氏族ではなかったのかという感じを抱いております。

 市野家の家系図もやや複雑ですので、とも様からいただいた情報と照らし
合わせてこれから調べてみます。

 一旦、ここで切ります。


 
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月16日 00時52分18秒 ) パスワード

 あを様の情報によりますと、小笠原権之丞の母は三条家(公頼)の出身と
いうことですが、この三条家の長女は細川晴元の室に、次女は武田信玄の
室に、三女は本願寺の顕如の妻にと、歴史に残る人々と姻戚になっている
ことになります。権之丞が家康の落とし子とすると、近藤家のプライドは
さもありなん、井伊家とは対等の気持ちがあったのではないかと思われま
す。また顕如の妻と秀吉の正室とが相通じていたということ・・・歴史は
正に人間関係の結果の記録であると言えます。
 三条西家からお福の母が出ている。お福はのちの春日局、ということは、
三条家と浅井家(お江は秀忠の室)は徳川家を理解するキーワードになるの
ではないかと考えます・・・今後興味をもってあたって行きたいと思いま
す。
 ところで、浅井家の祖は藤原鎌足の後裔の三条公綱と浅井一族の娘と
の間にできた亀若丸とのこと、ここでも三条家が関係して来ます。
 一体三条家とはどんな氏族だったのでしょうか? 京都の三条通にちな
んだ名前だと思いますが、私もかつてその近く高倉六角にいたことがご
ざいますのぜひ知りたいと思っています・・・。

 さて、市野家でありますが、現代に生きる市野家本家十六代目当主の明
らかにする家系図によりますと、以下の通りになります(長くなりますので、
四代までとします)。
 まずは、初代の前の二世代前から―
  @寺田右京之進眞宗
  A袴田利宗
 続いて
  B袴田五郎右衛門
  C初代 袴田(市野)惣太夫眞久
  D二代 市野惣太夫清原正次(實次)
  E三代 市野惣太夫眞利(實利)
F四代 市野惣太夫眞防(孫四郎)
となります。ちょっと複雑で、わからない点が多々あります。つまり、当
初は寺田であって、寺田右京之進は天正十七年から始まる五ヵ国総検(検地)
の奉行の一人に抜擢されている。次の代の袴田についての情報はありません。
 次の代の袴田五郎右衛門と袴田惣太夫眞久でありますが、市野家の口伝に
よれば、徳川家康が馬で市野を通過中、馬が具合が悪くなり、袴田家に立ち
寄った。徳川家康が市野村を通過したのは、地理的に見て金指から橋羽に向
う途中と考えられ、永禄十一(1568)年十二月十四日のことと推察されている。
袴田家では家康を快く迎え、代わりの馬として袴田家で飼っていた馬を差し
出した。同時にかつお節を丸い盆に入れて差し出したとのことである。かつ
お節は「勝武士」という意味で縁起を担いだようであるとのこと。
 その後、袴田家は市野という名前を賜り、家紋としては丸い盆にかつお節、
すなわち「丸に一文字」を永久家紋とせよと命ぜられたとのことである。

 この兄と弟の関係であるが、当初は主として惣領の惣太夫五郎右衛門が
家康に対応していたとのことであるが、家康の関東への移封とともに市野氏
への江戸への着任要請を兄が病気ゆえ断り、代わりに弟の眞久が江戸へ行き、
天領の代官を命ぜられ、実質の初代となっている。
 後にこの兄弟間で跡目相続のいざこざが置き、兄は江戸へ護送される途中、
金谷の宿で自害してしまったという。お家騒動はこの他にもいくつかありま
すがまたの機会とします。
 初代眞久の兄、五郎右衛門の家系も残って市野を名乗る。

 二代目は市野惣太夫清原正次(實次)で、弟がとも様のいう眞郷で、幼名は
内匠、その後吉兵衛と名乗る。眞郷の子の分家筋に内匠正勝がいるというこ
とになる。
 三代目は市野惣太夫眞利(實利)。
 四代目は市野眞防(孫四郎)。その妻は、水戸中納言家中勘兵衛尉清原忠明
小畠快の娘ということである。
 四代目には男子が生れなかったので、自分の兄弟の四男を五代目とする。

 五代目は市野孫三郎眞明(源右衛門 のち準之助と名乗る)。この人は生涯
独身で終わったので、三代目眞利の四男長左衛門眞政の子長左衛門が家を引
き継ぐことになる。

 とも様の言われる内匠正継及び近藤家とのつながりについては触れられて
いないようです。
 
 近藤家については、由良家、三条家、府中小笠原家とのつながりがあると
いうこと、それはつまり上野、京都、信濃と関係するということですので、
これからいろいろ調べてみます。

 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月16日 14時42分03秒 ) パスワード

三条 公頼(さんじょう きんより、1495年(明応4年) - 1551年9月30日(天文20年9月1日))

戦国時代の公卿。本姓は藤原氏。

家系は藤原北家の流れを汲む閑院流嫡流の三条家の当主。
太政大臣三条実香の子。

官位は従一位左大臣。後龍翔院左大臣を号す。


経歴[編集]

三条家は、転法輪三条家とも呼ばれる。三条家は藤原北家の藤原師輔の十二男藤原公季の子孫、三条実行を祖とする清華家の一つで、極官は太政大臣。家風は信仰心が篤く質素倹約を旨としたという。しかし他の公家同様、戦国時代に入ってからの生活はかなり苦しくなっていったようである。


公頼は明応4年(1495年)、三条実香の息子として生まれた。永正11年(1514年)に権中納言、天文10年(1541年)に内大臣、天文12年(1543年)に右大臣、天文15年(1546年)に左大臣に任じられた。

天文5年(1536年)3月、公頼は甲斐国国主、武田信虎の嫡男・晴信(後の信玄)の元服にあたり、京から勅使として赴いている。そして同年の7月に次女の三条の方が晴信の元へ輿入れした。

天文20年(1551年)8月には、周防国(山口)の大内義隆を頼り下向している。三条家と大内家は古いつきあいで、文明11年(1479年)4月には公頼の祖父三条公敦が周防の大内家を頼り下向している。しかし、公頼は天文20年(1551年)9月1日、大内家臣の陶晴賢の反乱(大寧寺の変)に巻き込まれ殺害された。 墓所は山口県大寧寺。

公頼には息子がおらず三条家は断絶となるが、後に分家筋から三条実教(正親町三条公兄の子)、続いて三条実綱(三条西実枝の子)が三条家を相続した。

官職および位階等の履歴[編集]

※日付は旧暦
1510年(永正7年)3月13日、従五位下に叙し、侍従に任官。10月23日、正五位下に昇叙。
1511年(永正8年)5月7日、従四位下に昇叙。
1512年(永正9年)2月23日、少将を経ず左近衛権中将に任ず。12月14日、従四位上に昇叙。
1513年(永正10年)7月26日、正四位下に昇叙。11月10日、右近衛権中将に遷任。
1514年(永正11年)1月5日、従三位に昇叙。7月2日、参議を経ず権中納言に任ず。
1517年(永正14年)10月28日、正三位に昇叙。
1521年(永正18年)7月1日、権大納言に任ず。
1522年(大永2年)1月5日、従二位に昇叙。
1526年(大永6年)1月19日、正二位に昇叙。
1529年(享禄2年)4月3日、守護畠山義総を頼って能登国に下向。5月25日、帰洛。
1533年(天文2年)12月9日、方仁親王(のちの正親町天皇)別当となる。
1534年(天文3年)10月、守護大内義隆を頼って周防国に下向。
1536年(天文5年)3月、守護武田信虎を頼って甲斐国に下向。5月29日、帰洛。
1538年(天文7年)1月8日、右近衛大将を兼ねる。
1539年(天文8年)6月20日、左近衛大将に転ず。
1541年(天文10年)3月28日、内大臣に任ず、左近衛大将元のごとし。
1542年(天文11年)6月13日、左近衛大将を辞す。
1543年(天文12年)7月28日、右大臣に任ず。
1545年(天文14年)4月5日、守護朝倉孝景を頼って越前国に下向。6月2日、右大臣を辞退。7月9日、帰洛。
1546年(天文15年)1月30日、左大臣に任ず。3月25日、左大臣を辞退。
1547年(天文16年)1月5日、従一位に昇叙。
1551年(天文20年)9月1日、周防国において大寧寺の変のために殺害される。享年54。死後、後龍翔院左大臣と称した。


系譜[編集]
父:三条実香
母:不明
妻:勧修寺尚顕の娘

生母不明
長女:細川晴元正室
二女:三条の方(1521-1570) - 武田信玄継室
三女:如春尼 - 六角定頼の猶子、細川晴元の猶子、本願寺顕如室


    三女は本願寺顕如の妻となるのに六角定頼の猶子、細川晴元の猶子となったのでしょうかねえ?父が計3人?

    細川晴元の
          正室:三条公頼女で 継室は六角定頼女

          正室は三条公頼の長女であり、
          その縁から武田信玄・本願寺法主顕如の義兄に当たる人物でもある。


    六角 定頼(近江の守護)

          娘(細川晴元の後室)、娘(土岐頼芸室)、北の方と呼ばれていた女性?(北畠具教室)、娘(武田信豊室)

          養女:如春尼(三条公頼の娘を養女にして顕如夫人にさせた)




参考文献[編集]
上野晴朗『信玄の妻-円光院三条夫人』 新人物往来社、1990年、238頁。 ISBN 440401791X
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月16日 14時45分40秒 ) パスワード

三条(さんじょう、正字体:三條)家


藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。

公家としての家格は清華家。

明治にいたって華族として公爵を授けられた。
家業は笛と香道。
家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも言う)を使用。

通字は『公』と『実』を交互に用いる。


分家ではあるが、
家号を略して単に「三条」と称することが多かった正親町三条家・三条西家と区別して
転法輪三条(てぼりさんじょう)家とも称す。



明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。
うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。

大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。



支流、分家

正親町三条家(大臣家)
三条西家(大臣家)
滋野井家(羽林家)
姉小路家(羽林家)
花園家(羽林家)
鹿園家(奈良華族)
東三条家(華族(男爵))
宇喜多氏(武家


閑院流は、白河院政・鳥羽院政期に上皇・天皇の外戚の地位をほぼ独占し、摂関家の弱体化の間隙を突いて廟堂に重きをなした。閑院流の嫡流である藤原公実の二男実行を祖とするのが三条家である。実行は八条とも称したが、子の公教、孫の実房が三条高倉に屋敷を構えたことから、三条の家号が定まった。

2代公教は鳥羽上皇の後見役として権勢をふるった。3代実房は「愚昧記」の著者として知られ、公事の師と仰がれていた。実房の跡は、長男の公房が継ぎ、父と同じく三条を称したが、三男の公氏も三条を称したため、公房の流を転法輪三条(てぼりさんじょう)、公氏の流を正親町三条(おおぎまちさんじょう)と呼び区別するようになった。

戦国時代の当主三条公頼は、防長二国の戦国大名大内義隆を頼って山口に滞在していたが、その地で大内家の重臣陶晴賢の反乱に巻き込まれ、殺害されている。公頼の跡を継いだ養子実教も早世したが、分流の三条西家から実綱が養子に入って家名を保った。

江戸時代の家禄ははじめ269石余、のちに469石余。公家としての家格は摂家に次ぐ清華家で、代々、笛と装束の調達を家業とした。

幕末・明治時代には、明治維新の功臣三条実万・三条実美父子を輩出している。特に三条実美は、内閣総理大臣が置かれるまでの日本の首相にあたる右大臣や太政大臣の職を務めたことで著名である。

1884年の華族令の施行に当たり、旧清華家の当主は原則として侯爵とされたが(徳大寺家と西園寺家は後に公爵に陞爵)、三条家のみは、当主実美が維新に勲功があったとして、当初より公爵に叙された。

[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月16日 14時56分07秒 ) パスワード

>小笠原権之丞の母は三条家(公頼)の出身

三条家の中でどういう身分の女性だったのでしょうね?


正妻でも側室でもなく、おたわむれの女性から生まれた娘だったんでしょうか?

日本は古代から婚外で生まれたのがもし女子なら父に引き取られた  (しかし男子の場合は母の実家のもとに)
ということで

小笠原権之丞の母は三条家(公頼)の出身でも、
母の身分が低かったのでしょうか?


それで家康に捨てられた?
秀吉の時代に生まれていますが、どんな事情だったんでしょう。

[18]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月16日 17時28分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 三条家についてよくわかりました。稼業が「笛」と「華道」ということで、
たとえば「宝生流」とか「池坊」とか有名な流派を排出しているのでしょう
か。笛と華道・・・いかにもお公家様らしく優雅な世界を想像いたします。
 「笛」についても戦国時代はいろいろな悲話の中ででてきます。野田城で
エピソードがございました。家にて拾ってみます。
 それはそうと、「東京ロマンチカ」のリードボーカルに「三条正人」とい
う人がいましたっけ。今頃「三条」の意味が分かるとは遅すぎた・・・!?
 いずれにしても一つ賢くなりました。
[19]ともさんからのコメント(2015年06月16日 20時04分51秒 ) パスワード


こんばんは。

徳川家康公の愛情薄い落とし子達!!

永見貞愛=結城秀康の双子の弟は犬腹と云う理由で永見氏に預けられる。

松平民部=厄年の子だから、結城秀康の養子に

小笠原権之丞=キリシタンに傾斜したので・・・。

三子共々、40歳までは生きられず、子孫は残せなかったようですね。


ところで、井伊氏と松下一族について教えて下さい。

城東郡新野村の領主は井伊直政の恩人、新野左馬助。

松下平八は高天神落城後に城東郡新野村に致仕。

松下助左衛門範久入道如伯は徳川頼宣の家臣として駿府代官を務め、井伊谷の北岡の東の川を埋め水田にした。

松下清景の子孫は(井伊)与板藩の家老。

清景の弟、安綱(常慶)の配下は家康の草創期の「影」の集団で、秋葉神社の神札配りに変装して各地を巡り情報収集。

松下安綱(常慶)の子孫は「御先手弓頭」「火付盗賊改め方」を勤める。

松下之綱は松下安綱(常慶)の姉か妹を娶る。

松下之綱の娘のおりんは柳生但馬守宗矩に嫁ぎ、柳生十兵衛を生む。


戦国末期より徳川黎明期に當たり、井伊谷周辺が家康公の情報収集基地だったのでしょうか?

[20]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月16日 23時44分08秒 ) パスワード

 とも様の明示された松下家の情報はかなりのものです。松下一族もかなり
分岐拡散しております。松下家について書かれた本は余りなく、冨永公文氏
の『松下加兵衛と豊臣秀吉』という労作がありますので、一読をお勧めいた
します。

 とも様の言われるように、井伊谷周辺が家康公の情報収集基地であったか
どうかですが、遠江には大きく松下系特殊部隊と服部系特殊部隊は存在し、
家康を中心にネットワークを組んでいたというのが今まで調べてきたところ
の推測です。浜松を中心として東西南北に張り巡らされていたと推測されま
す。それは敵方の侵入を防ぐ、防御する。情報を取りに行く、また情報を受
けて伝えるということであります。
 これらの推測については絶対的証拠があるわけではありませんが、いろい
ろの状況証拠、断片的記述を集約するとそういう推測に至っております。

 もちろん当方も現在探究中でありまして、今後もいろいろな情報を拾って
いきたいと思っています。とも様の推論は大枠で考えれば当たっていると言
ってもいいと思います。
 いずれにしても一番困るのは、忍者の活躍は秘密主義で証拠を残さないと
いうのが鉄則でありますので、なかなか尻尾をつかめないというのが現実で
あります。

 ちょっと抽象的でありますが・・・これにて。
 
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月17日 11時44分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長篠の野田城祉に行くと、下記の話に基づく看板があります。


http://www1.cncm.ne.jp/~seifu/nodajyou.htm


野田城の笛

 

 三方が原の攻防で勝利した信玄は、浜松城をそのままに、元亀3年(1572年)

12月24日、祝田の坂を下って刑部に布陣した。

しかし、ここで不思議な事に、信玄は年を越した。

年越しの間に、平手汎秀の首級を岐阜の織田信長の所に送り、信長が盟約を破って

家康に援軍を送った事を厳しく責め、絶交を宣言した。

翌年には信長が謝罪をして来たが、信玄は聞き入れなかった。

外交上の駆け引きもあろうが、この段階で、信長は信玄を恐れて、まだ戦いたくなかった。

 

 信長・家康同盟軍の包囲網も危うい所で、難を逃れた。というのは、北近江の朝倉義景が

軍を引き揚げていた。

この朝倉義景は温和な人で、自分からは攻めないし、同盟の浅井長政に対しても戦意はなかった。

ただ、自分の領土が安全ならば、出たくなかったのに、しかたなく出された感じである。

これにも信玄は三方が原の戦勝を伝えると共に北近江から撤退した事を詰門した書状を送った。

その後、武田軍は三河に侵入し、正月11日には野田城を攻めた。

 

この野田城は豊川の上流右岸に築かれた規模の小さい山城だが、守備するのは城主の菅沼定盈と

援軍武将の松平忠正の指揮する400人である。

この城を奪取すれば甲斐の甲府から伊那を経由して京へと繋がる道が確保できる。

信玄にとっては是が非でも落としたい場所の城であった。

 

 信玄は全軍を持って正面から攻めたが、四方を山で囲まれている城の守りは堅く、

武田軍を寄せ付けなかった。

家康も吉田城まで救援に駆けつけたが、先の三方が原の敗戦もあって手も足も出ない。

そこで家康は上杉謙信に書状を送り、信濃への出兵を要請した。

しかし謙信も越中・富山城攻略の最中であり、家康の要求には応じなかった。

野田城攻略の2週間目、落ちないので信玄は甲州から金堀人足を呼び寄せ、城壁に横穴を掘って、

そこから井戸の水を断つ作戦に出た。

2月10日、ついに菅沼定盈らは降伏、その身柄は徳川軍との人質交換の材料にされた

 

 この時場内に「村松芳林」という尺八の名手がいて、毎夜櫓に上り、名残の

一管を吹いていた。

明日にも知れぬ命の味方はもとより、敵兵の中にも城に近寄り、その音を慕うものが

次第に増えてきた。

その夜「芳林」は明るい月に向かい、心魂を込めて尺八を吹いた。

城外では従者を従えた一人の武将が床机に座り、妙なる音に聞き惚れていた。

そのとき、城内では遠目の利くものがいて「床机の武将は信玄だ!」と城主に告げた。

城主はすぐに鉄砲の名人、「鳥居半四郎」を呼び、狙撃を命じた。

 

「半四郎」は神に念じ、狙いを定め、轟然と一発、「手応えあり!」と叫んだ。

尺八の音はハタと止み、武将は騒然と従者に囲まれて去り、四辺は寒月鋭く照っている

のみとなった。

 

信玄の傷は深く、もはや進軍することができなくなった。

療養のため、武田方の菅沼正貞が守る長篠城に入った。

医師が懸命に治療にあたったが様態は悪くなる一方で、信玄も死期を悟った。

信玄は軍団に引き上げを命じ、武田軍は病の信玄を護り、三州街道を北へ

信濃に向かって引き揚げた。途中、伊那谷の駒場で勝頼以下諸将を集めて

遺言を残して死んだという。遺言の中では自分の死を三年間は隠すことや

謙信と和睦すること、信長に注意し合戦を控えることなどを言った。

そして、いつか必ず京都に攻め上るよう伝え、この世を去った。

天正元年、五三歳で天下掌握の夢なかばのことであった

 

こんな話しもある。

そして信玄は、足助を通り尾張瀬戸(海上)に入り、サクラ池のほとりで山田佐右衛門庄に

助けられたが、長い間の高熱の末、他界した。

このおりの礼金七百五十両、村人一戸あたり十三両を配布し、手厚く埋葬され、喪は固く

秘にされた。

その墓は信玄公家臣の鈴木(足助の方)が守っていたが、後世まで秘にされていた。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月17日 14時33分06秒 ) パスワード

三つ柏さん


貴重なお話をありがとうございました。


鈴木さんも家康と仲の悪かった家がありましたが
なるほど、そういうことだったのですねえ。

足助というのは全く想像もできなかったです。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月17日 16時12分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 野田城で武者が吹いていたのは、横笛(篠笛)ではなかっただろうかと思い
ました。若武者が横笛を吹く方が絵になるし、なんとも美しくもの悲しい。


http://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/f70b5549834ef700183c85f9b6800b5c

笛か尺八か?

2010-08-02 09:18:20 | 戦国武将と城


「武田信玄が野田城を攻めた時、毎夜城内から聞こえてくる
笛の音に感じ入り、城に近づき、床机に腰掛けていたところを
狙撃されて負傷した」という話は、結構流布している。

江戸時代に書かれた『菅沼家譜』には、「笛の主は、伊勢山田
の村松芳休。鉄砲を打ったのは鳥居半四郎」と、名前まで記され
ている。

信玄は病も患っていた。「信玄が病死した」とするよりは、「鉄砲
傷がもとで死んだ」という方が、菅沼家の武勇伝になるから、創作
されたという考えも無いわけではない。

もし事実だとして、村松芳休が吹いたのは「横笛」だったのか、
あるいは「一節切尺八」だったのか。

映画などでは「笛」の方が、音色も冴えわたり、絵にもなるが
我々尺八家としては「一節切尺八」であって欲しいと思う。当時
武将たちの間では「一節切」が流行していたからだ。

横笛は、能の「能管」。雅楽の「龍笛」、祭り囃子などの「篠笛」が
あるが、それぞれソロで吹くことはあまりないように思われる。

ところで、「五条の橋で尺八を吹く牛若丸」の浮世絵を見つけた。
牛若丸が吹くのは「尺八」ではどうにもサマにならない。

お箏の先生で、尺八のことを「お笛をお願いします」などと言われる
方もいらっしゃる。一般には「笛」と「尺八」も同じと感じられて
いるようだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
 確かシルクロードの絵に描かれた天女も笛を吹く姿で描かれていました・・・。




[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月17日 22時30分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


>若武者が横笛を吹く方が絵になるし、なんとも美しくもの悲しい。


>映画などでは「笛」の方が、音色も冴えわたり、絵にもなるが
>我々尺八家としては「一節切尺八」であって欲しいと思う。
>当時武将たちの間では「一節切」が流行していたからだ。


目からウロコです。


矢張り平家の敦盛の例=タメシ=もあって
美しい若武者+美しい笛の音のイメージは   横笛   ですよね。


尺八では虚無僧のイメージになってズッコケます。

でも尺八の音も腹に響く良い音です。


そうか・・・
これからは「笛」と聞いたら「横笛」と「尺八」を連想しなくては。


[25]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月18日 20時15分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 最近分かったこと―

 @浜松地区では、市野氏の後裔の現代における世帯数は意外と少ない。
  5年前の電話帳で調べると約40世帯位しか載っていない。服部氏の
  10分の1位でありました。子供が生まれなかったり、分家して遠く
  へ行ってしまったり、騒動があったりで、氏族としては繁栄(増加)し
  なかったのかも知れません。

 A対助の叔父が八幡寺の住職になったという説明書きがありましたが、
  羽鳥にも八幡神社があり、昔は八幡寺であったという事を正光寺の
  発行する歴史話の通信の中で見つけました。従って、住職になった
  のは甲斐の八幡寺でなく、羽鳥の八幡寺であったと思われます。
   羽鳥八幡宮は、3代将軍から14代将軍まで、5石1升の御朱印
  をいただいております。

 さて、本日は、主目的としては天方氏の「丸に一文字紋」を調べるこ
とで、それに関係する天竜二俣の清瀧寺(せいりゅうじ)と天方氏に関係
する森町の天方城跡に寄るということで出かけました。
 まずは、二俣の清瀧寺へ行きました。といっても、そのすぐ隣に「本田
宗一郎ものづくり伝承館」がありますのでそこへ車を止め、館の中へ入る
つもりでしたがまだ9時前でオープンしていなかったため、先に清凉寺へ
行くことにいたしました。
 伝承館の駐車所のすぐ南に祠があり、信康の木彫りの像が立っておりま
した。その隣に信康公に関する説明の刻まれた黒い石盤があり―
 「岡崎三郎信康
  信康は徳川家康の嫡男として、戦国時代の永禄2年(1559年)3月6
  日、家康人質の今川家支配の駿河で生誕。母瀬名(築山御前)は関口
  義弘の娘で、今川義元の姪に当たる。信康は永禄10年(1567年)
  5月、信長の娘徳姫(五徳)と結婚、共に九歳。今川の血を引く築山
  御前と、今川を滅ぼした織田の娘の嫁姑の確執と、若夫婦不仲から、
  徳姫は天正7年(1579年)父信長への12個条の手紙の中で、築山御
  前が武田と内通と書かれ、信長は信康の切腹、築山御前の殺害を要
  求、同年9月15日、信康は幽閉先の二俣城で切腹。介錯役の服部
  半蔵正成は何としても、刃を向けられず、検視の天方山城守通網が
  介錯したと伝えられる。享年21歳。
   信康の類い稀な能力の、将来を恐れた信長厳命と云う通説のほか
  諸説はあるが、安泰・大平の世を築いた家康草創の頃の、信康夭折
  は徳川300年の礎となった運命の若武者であったと言うことがで
  きるのではないか。」
  
 祠の右手に坂道があり、またその右側に池と塩地蔵尊の祠があった。
坂道を登り清瀧寺に着く。過去に2回来ていますが、歴史自体にはあま
り興味のなかった頃でしたので(ただの興味本位)ほとんど覚えていない。
但し信康の廟だけはうっすらと記憶には残ってはいる。

 この続きは明日に―
 
 
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月18日 22時32分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


とても良い日になりましたね。


そうなんですか市野氏は40件ほどでしたか。
東京にも出てますしね。だから東京に結構いるのかもですね。調べてみますね。


それにしても服部氏はその10倍ですか。



【名字】服部

【読み】はっとり,はとり,はとりべ,ふくべ,ふくい,はった

【全国順位】 134位  
【全国人数】 およそ153,000人

生息地

北海道 238位 およそ3,500人

青森県 712位 およそ300人
岩手県 527位 およそ300人
宮城県 476位 およそ600人
秋田県 1,172位 およそ80人
山形県 420位 およそ400人

福島県 139位 およそ2,500人

茨城県 273位 およそ2,200人

栃木県 397位 およそ900人

群馬県 267位 およそ1,500人

埼玉県 214位 およそ6,100人
千葉県 240位 およそ4,600人

東京都 158位 およそ13,000人
神奈川県 146位 およそ9,700人

新潟県 168位 およそ2,500人

富山県 774位 およそ300人
石川県 422位 およそ500人
福井県 217位 およそ700人
山梨県 463位 およそ300人

長野県 344位 およそ1,200人

岐阜県 36位 およそ8,100人       岐阜も結構多いんですねえ。


静岡県 103位 およそ6,800人


愛知県 24位 およそ38,000人       愛知が1番多い!!!  これは知らなかった〜!!!
三重県 14位 およそ11,000人       三重も多い!!!

滋賀県 75位 およそ2,900人
京都府 105位 およそ4,200人
大阪府 188位 およそ8,000人
兵庫県 201位 およそ4,700人
奈良県 160位 およそ1,500人

和歌山県 361位 およそ500人
鳥取県 605位 およそ200人
島根県 158位 およそ900人

岡山県 132位 およそ2,600人
広島県 329位 およそ1,500人

山口県 422位 およそ600人
徳島県 241位 およそ700人
香川県 816位 およそ200人
愛媛県 879位 およそ200人
高知県 486位 およそ300人

福岡県 297位 およそ3,200人

佐賀県 375位 およそ400人

長崎県 598位 およそ400人

熊本県 345位 およそ1,000人
大分県 721位 およそ300人
宮崎県 382位 およそ500人
鹿児島県 607位 およそ500人
沖縄県 1,367位 およそ50人
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月18日 22時38分32秒 ) パスワード

【名字】市野

【読み】いちの,しの

【全国順位】 1,941位  
【全国人数】 およそ8,300人


現静岡県西部である遠江国長上郡市野が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。

ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)公季流、三枝氏などにもみられる。

現島根県西半部である石見にもみられる。

「野」は自然のままの広い地を表す。



生息地

青森県 2,212位 およそ50人
山形県 3,484位 およそ10人
福島県 2,870位 およそ40人
茨城県 3,010位 およそ80人

     埼玉県 2,607位 およそ300人       埼玉に結構多いですね。謎

千葉県 2,520位 およそ200人
東京都 2,416位 およそ600人            東京は意外と少ないですね
神奈川県 1,669位 およそ600人

新潟県 2,230位 およそ80人
富山県 2,284位 およそ60人
石川県 1,416位 およそ100人
福井県 1,364位 およそ70人
山梨県 2,736位 およそ10人
岐阜県 2,238位 およそ60人

      静岡県 611位 およそ900人

      愛知県 473位 およそ2,500人     愛知に多いのは何故?就職?尾張藩がらみ?

      三重県 676位 およそ400人

滋賀県 3,026位 およそ40人
京都府 1,687位 およそ200人
大阪府 2,625位 およそ400人

      兵庫県 1,287位 およそ600人     ここにも結構いますね

奈良県 2,286位 およそ70人
和歌山県 2,037位 およそ60人
福岡県 2,467位 およそ200人
熊本県 1,422位 およそ200人
鹿児島県 1,729位 およそ200人


[28]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月19日 12時51分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野氏の家康から市野姓を拝命した1568年当時の世帯数の試算―

 @人口を世帯数に直す。1世帯平均3人と仮定すると―
    8300人÷3人≒2767世帯

 A100年で1世帯が4世帯に増えると仮定すると―
    100年前は、2767÷4≒692世帯
    200年前は、692÷4≒173世帯
    300年前は、173÷4≒43世帯
    400年前は、43÷4≒11世帯
 即ち、A.D.1600年には市野氏は11世帯となる。

 市野氏が家康から拝名したのは1568年、この時点で兄弟で2世帯は
あったはずであるので、1600年までに1世帯4人の男子を設け、その
子たちがまた世帯を持てば、ほぼ11世帯近辺にはなる計算である。ちょ
うどうまくあてはまる!?
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月19日 14時16分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


世帯数の試算って
こういうのがあるんですねえ。
驚きました。


そうしますと関ヶ原あたりの時代に市野氏は11世帯。

へえ〜


その内、遠江で確実なのは市野惣太夫とその兄。
そしてその子孫は江戸やその他に移動したり戻ったりのプラスマイナスで静岡に900人。


愛知に多いのは何故でしょうね?
戦後愛知に就職で移動したのでしょうか?
それとも江戸時代に尾張藩に仕えた関係者の子孫でしょうか?

いろいろ空想が行きますね。
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月19日 15時01分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、清瀧寺の前に出る。建物は硝子戸が使われているので、近年建て替
えられているように思われる。硝子戸には「三つ葉葵」の御紋が描かれてい
た。正面を横切って左手に回ると、そこには信康廟の看板があり、幅1メー
トル前後の階段が30段程森の奥に向かって続いている。そして、両脇から
取り囲むように、たくさんの墓が並んでいた。それは主君をガードする家臣
のようにも思えた。その両脇の墓を見ることにする。
 まず目に飛び込んだのは、服部氏の墓であった。家紋は「丸に剣片喰」。
どうやら服部半蔵一族とは関係なさそうである。山下家があり、「丸に葛」。
加茂家、「三つ巴」(これは定番)。永井家、「丸に三つ柏」「丸に切茄子」。
遠山家、「丸に二両引」。木下家、「丸に橘」。鈴木家、「丸に片喰」。
小栗家、「丸に七曜」。榊原家、「丸に蔦」。その他多数・・・。
 信康廟は閂が架けられていて中には入れない。格子の間から中をのぞき見
るといった形である。門の隣に説明看板があった。
 「天正7年(1579年)9月15日岡崎治郎三郎信康が信長の口難に遭い、二
  俣城において自刃した。この時、浜松へ二俣村役人共が呼び出され、二
  俣には浄土宗の寺院何ケ寺あり寺の名は何というか書き出せとお達しが
  あった。
  ところが浄土宗の寺は1寺もないという。それでは庵室でもよいからと
  いう次第で、庵室のあったこの地に信康の廟所、位牌堂、其の他諸堂を
  建立した。ここには殉死した吉良於初(初之丞)、当時二俣城主だった
  大久保七朗右衛門忠世、三方原で戦死した中根平左衛門正照、青木又四
  朗吉継の墓もある。」

 今回は自分自身何か真剣であった。半蔵や天方氏のつらい気持、信康のど
ん底の気持、家康の複雑でつらい気持ちが身にしみて来る。半蔵が私の中に
降りてくれればとも思う。
 ただ、歴史の真実は本当のところわからない。明智光秀と同じように替え
玉が使われたという説もある。まさにDNA鑑定をしなければわからない。
家康自身も影武者説がある。
 それはそれとして、いずれその問題にも取り組みたいと思った。
 身震いをしながら、声を張り上げて般若心経を唱えた。あを様の分として
もう一回唱え、その場を後にする。「でも、なぜに半蔵と天方氏が人選され
たのだろう」・・・。

 以降は明日に―
[31]ともさんからのコメント(2015年06月19日 21時26分50秒 ) パスワード


こんばんは。

関ヶ原当時の市野家の戸数は11軒ですか。
戸数の算出方法なんて考えたことが無いので、お見事だなぁっと思います。

今は御二人の過去レスを遡りながら勉強をさせてもらっています。
長上郡市野家の成り立ちが分かって楽しいです。

ところで、読めない当家の市野資料には市野家へ宛てた手紙が有り、
その中の一つに市野内匠は尾張に住み、長上郡の市野家へ宛てた封筒がありました。ただ肝心の中身が封筒と離れていますので、内容までは判りません。


岡崎信康が祭られているのが清瀧寺なんですね。

昔まだ父が存命中に、紫陽花の盛りの頃に森町の極楽寺に行きました。
確か本堂裏の狭い空間に二俣城の木戸(襖)が展示してあったような
覚えがあります。

参拝の帰路、紫陽花の天麩羅が乗ったお蕎麦を啜ったのも良い思い出です。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月19日 22時33分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの分も般若心経を唱えてくださいまして、ありがとうございます。


気の毒な若者でした。
戦国時代はこういう事があちこちで起きていたのでしょうね。

うまく対処出来た家は存続、でも、うまく処理出来なかった家が殆どだったのでしょうね。

わたくしもうまく処理出来ないタイプですし。


>「でも、なぜに半蔵と天方氏が人選されたのだろう」・・・。

本当に何故だったのでしょうね?
そのようなお役目は絶対にやりたくないのに。

でも早く介錯をしてあげないと苦しみが長引くばかり。


家康にとってはためらう半蔵と決断をした天方がいて、家康も救われたでしょうね。


三つ柏さんが般若心経を唱えてあげたのは本当に良いことでした。
亡くなったかたには(あなたのことを忘れてはいませんよ)と声をかけて上げるのが供養になると思います。


信康も哀れでしたが家康も気の毒でした。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月20日 09時59分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 市野家で「内匠」を名乗るのは、初代市野惣太夫眞久の次男、即ち、二代
目の市野惣太夫清原正次(實次)の弟、市野内匠吉兵衛藤原眞郷の家系であり
ます。眞郷の長男伊右衛門が早世したため、孫の儀左衛門が浜松から丹波に
お国替えとなった青山忠重のお供をして丹波笹山に行ったとのことでありま
す。尾張に住む市野内匠家はいずれにしても、この眞郷(初代の次男、二代目
の弟)の系統であると思われます。

 井伊家を中心に忍者組織が動いたというのは大枠で正しいものと思われま
す。なぜならば、家康は井伊直政を亡き信康の代わりと思える程かわいがり
というか加護し、武田滅亡後の家臣や忍者達を直政に付けたという。また、
武田ゆずりの赤備えの甲冑を着用させ最強の軍となした。関ヶ原では文字通
り軍監として、ナンバー2の働きをした。甲賀・伊賀忍者も使ったといいま
すから、上忍と言っても差し支えないのではと推察いたします。

 信康事件の真相を掴みたいと思っています。家康や半蔵がどれだけ賢いか
ということの探究となります。家康も戦術的にはいわば上忍、半蔵も上忍
(中忍でもある)ということは、天災的な策略家と言い換えてもいいと思いま
す。その彼らが、あらゆる知略を駆使しなかったはずがありません。歴史に
残っているのはうわべだけのつくろいで、真相はもっと闇の世界で、謀略・
知略を秘密裏に行っていたと思います。
 信康事件の一連の動きも、なんだかうさんくさい感じがいたします。信康
を家康は恐れていたという説もありますが、信康の妹の亀姫は家康からかわ
いがられています。天方氏が首を切り、出奔し、高野山へ行き、やがて秀康
に拾われる。また天方家には青山氏が婿に入っている。また青山氏と松下氏
とはつながっている。即ち、忍者系でつながった半蔵と天方氏であったとい
うことにもなる。単に首を斬るだけの任務なら他の武将でよいはずである。

 明日は、天方城跡へ行って何か情報を得たいと思っています。

 昨日の続きとしては、清瀧寺の隣の「本田宗一郎ものづくり伝承館」に寄
りましたので、その話を次回したいと思います。

[35]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月20日 21時50分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「本田宗一郎ものづくり伝承館」に寄りましたので、少しだけ触れたい
と思います。
 本田宗一郎の人生は、戦後のゼロからの「兆戦」の人生でした。それは
ポンポンと呼ばれる原動機付き自転車からスーパーカブ、CVCCエンジ
ンに代表される「技術」への挑戦、そして同時に「マン島、F1レース」
に代表されるスピードへの挑戦、そして、もちろん合わせて「世界」への
挑戦でありました。中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」の歌が、
その生き様にぴったりマッチしていて、本多総一郎の録画画像を見たり、
音声を聴いたりしている内に、妙に熱く感動してしまいました。
 宗一郎についてのエピソード―
 @小学校で昼時には清瀧寺の境内ででよく弁当を食べたそうです。時に
  は早弁をされたそうです。
A絵を描くのが大好きで、水彩画の玄人はだしの絵がたくさん残されて
  いました。これには本当に驚きました。
 B奥さんは飛行機のライセンスを取ったそうです。
 Cアート商会は浜松市にありましたが、宗一郎も移転し、昔の浜松城の
  城内(焼け野原から戦後家が立ち並んだ)に家がありました。
 D奥さんもポンポンの試験運転で家の周りを走らされたと聞いています。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月20日 22時13分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


>二代目の市野惣太夫清原正次(實次)の弟、市野内匠吉兵衛藤原眞郷の家系であります。

「清原」は「藤原」のタイポですか?typo

     二代目の市野惣太夫清原正次    こちらは「清原」姓を名乗ってた?

     弟、市野内匠吉兵衛藤原眞郷    こちらは「藤原」本姓



>眞郷の長男伊右衛門が早世したため、
>孫の儀左衛門が浜松から丹波にお国替えとなった青山忠重のお供をして丹波笹山に行ったとのことであります。

青山忠重の父は宗俊で、その先代は父:青山忠俊、母:大久保忠佐の娘
   祖父は忠俊でその父:忠成、その母:天方通興女
   さらに曽祖父は忠成でその父:青山忠門、母:卯野某の娘で正室は天方通興の娘

   戦国時代に生きた高祖父は青山 忠門(あおやま ただかど )で

   青山氏は、上野国の出身で、
   忠門の時に近江国から三河国へ移り、
   額田郡百々村を領して松平広忠に仕えた。家康の父ですね。

         ここに百々が出てますね。
         忍者にいましたね、百々さん。

   青山忠門は第二次小豆坂の戦いにも参戦した。

   広忠死後は一時、今川義元の麾下に入るが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは
   広忠の子・元康(のちの徳川家康)の寄騎となり、
   義元死後は元康に帰属する。

   永禄6年(1563年)、三河一向一揆の際も元康側につき、岡崎城を守備した。



   つまり青山忠門の時代には服部家とよしみを通じてたということですね。

          復習:青山成重は服部正尚の弟です。



>尾張に住む市野内匠家はいずれにしても、この眞郷(初代の次男、二代目の弟)の系統であると思われます。

この人の系統が名古屋で子孫をたくさん残すことになった、ということですか。


>信康事件の一連の動きも、なんだかうさんくさい感じがいたします。

はい。

実は、家康は信玄と密約をしてたということなので
   家康が信玄と手切れになっても
妻は武田とは通じたままだったのかなと。

それが信長の娘によって暴露されて

家康にしてみれば「自分の首を信長に差し出す流れになった」から
   自分が死ぬか松平家を存続させるかの選択を迫られて
信康に死んでもらったのではないか?
と想像しています。



信康の命か三河松平家の存続か
ここの決断で信康を捨てたのだろうと。


信長からの真意は「家康、お前はワシを裏切ってたな」だったんじゃないかと思います。
[37]ともさんからのコメント(2015年06月20日 22時39分49秒 ) パスワード


こんばんは。

市野内匠家の尾張関係文書で少し言葉が足りませんでした。

当家の関係資料ですと、
「尾張名古屋桑名町四丁目 〇〇竹蔵家 同居市野内匠」
とある市野内匠が差出文があります。

ただ封筒だと考えますが、宛名が切れているのか、判りません。

あと、目ぼしいところでは、
上石田村の奉公文書の宛名が確か、
「尾州市野内匠家中 植松〇〇様」が有りますので、
市野内匠家と尾張藩はそれなりの関係だったと思われます。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月20日 22時50分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


本田宗一郎氏は立身出世中のトップで
さらに
豊田家も元々は遠江の出身でしたね。


そう言えば  ノーベル賞の天野浩さんも浜松でしたね。


すごい!
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月21日 11時01分05秒 ) パスワード

とも様

 市野村の隣の上石田村に住んだ市野氏は、二代目「市野惣太夫實次(正次)」
の四男「市野長左衛門眞政」の家系があります。この家系がづっと続き、
最後に元の代官屋敷にもどり、本家筋として残りました。その他にも同族が
住んでいた可能性はあります。

 「植松〇〇様」について、浜松に「植松」という町がありますので、関係が
あるかも知れませんので調べてみます。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月21日 11時51分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 青山氏と家康とのバックグラウンドでの関係、勉強になりました。天方氏
と青山氏(青山家から天野家へ養子に入る)、青山氏と服部正尚家(正尚の弟が
青山家に養子に入る)との関係。結局のところ―
 
  服部正尚家=青山家
  青山家=天方家
 ∴服部正尚家≒天方家

ということになります。
 服部正尚家と服部半蔵家は同族ですので、信康の処置に向った服部半蔵正成
と天方通綱は最高機密を知り、また最高知略を施し得る立場にあったというこ
とになります。ここで複雑な関係、正尚は秀忠の継父という立場であったとい
うこと。秀忠に二代目を継がせたい強烈な思惑はあっただろう。半蔵正成は
家康とは年齢的にも兄弟同然、一心同体であるので信康は殺せない・・・。
 とすると、やはり最高の知略としては、信康の影武者を信康の身代わりとし
て処刑し、信康をどこかわからない所にかくすことにした・・・@
 あるいは、服部家と関係する秀忠を二代目とするために、半蔵もぎりぎり
のところでやむを得ずと判断し、信康の処刑を決行した・・・A
 @とAとどちらが可能性があるか、二俣城主も大久保忠世であるので、半蔵
としては工作はし易かった。Aは岡崎衆との関係もあり亀裂が生ずる。
 @もAもぎりぎりの決断であるが、以後の家康にとって一番悪影響を及ぼさ
ない形が選択されたと思われる。どうしたのか・・・?
 今後この点についてさらに探究したいと思います
 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月21日 13時41分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


青山家の系図です。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%B0%8F

見てると面白いです。




信康の死をめぐるAはなるほどねえ、
とナカナカ興味深いです。

有り得ますね。
[42]ともさんからのコメント(2015年06月21日 13時59分36秒 ) パスワード


こんにちは。過去レスを読んでの横レスです。


天方山城守通綱の本姓は首藤氏なんですね。相模国山内を領して「山内」とあります。

とすれば、土佐の山内家とも関係あるのしょうね。


天方通綱は永禄末より元亀初期の「久能内乱」で
恩顧今川寄りの久能弾正、同采女等に加担して失速し、武田領へ走ります。

元亀四年(天正元年)に通綱は天方・白山両城に久能弾正と籠り、徳川勢に攻略され、
久能弾正は再度武田領へ落ち、通綱は徳川方へ降伏します。

その六年後に天方通綱は三郎信康の首を落とし、次いで高野山へ落居するようです。

家康公の使命を帯びた、三河譜代の服部正次が落涙で果たせぬのを
再登用組の天方通綱が介錯し、責めを一身に受けたのでしょうか。

ちなみに元亀四年には石川・久能衆による再びの各和城攻めがあり、久能同族の原氏(原川氏)が滅亡したと考えられています。

[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月21日 22時43分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 本日は、再度、森町へ行ってまいりました。目的は、とも様より明示され
た「あじさい寺」の「二俣城の木戸(襖)」を見に行くことと、天方城祉に先週
行きそびれていたので、是非今度はということで出かけました。 
 天気は雨がしとしと・・・あじさいには却ってちょうどいいのかと思いな
がら車で二十分。
 結構、観光客が来ていた。シーズン真っ盛りの日曜日である。普段は閉ま
っているお店(お土産屋さん、まんじゅう屋さん)も店を開いていた。
 入場料は500円。以前来た時は、あじさいのシーズンでなかったので無料
だったのかと思いながらも、寺の中に入る。あじさいが満開・・・確かに雨
に濡れたあじさいの方が風情があるような気がする・・・そう、涙に濡れた
乙女の頬といった感じである。青系、赤系、ピンク系、白系とさまざまな色
の花々である。そのあじさいの花をしばらく見ていたら、何か心が大変癒さ
れた感じになりました。やさしい気持ちになりました。カップルの写真をか
って出て撮ってあげました。
 さて、肝心の「木戸」はと思いながら、本堂へ入りました。にぎやかに色々
な物を売っていました。そこを通過して、本堂の奥へ回り込むと、ガラス戸
の中に刀をさした鎧冑が据えられておりました。誰のものとも書いてはあり
ません。その右側に細い廊下があり、壁に色紙のようなものが張られ、何か
書いてあります―
 「石ずりの戸
  二俣城遺品 松乃間の襖絵
  松乃間は、徳川家康公の長男・松平信康が切腹自害した場所としても
  有名                    森町指定有形文化財」
と書いてあるではないですか。がーんと頭を叩かれたようでくらくらとした。
高野山金剛峰寺で秀次が切腹したという柳の間を見た時のことを思い出し
た・・・。
 よく見ると、確かに板でできている。たぶん元は背景が白で塗られていた
のだろうか、今は剥げてしまっている。黒の線で描かれた松が、3枚の襖戸
全体に枝を広げていた。
 何で二俣城の襖がここ森町の極楽寺に移されたのだろうか? このことに
ついての説明書きはありませんでした。(調べたいと思います。)

 帰りにもう一度入口の看板を見た―
 「遠州七福神霊場
   極楽へ往く人の乗る 紫の色なる あじさいの花
                        曹洞宗 極楽寺」
と出ていた。

 次に向かったのは「ききょう寺」(香勝寺)。あじさい寺から7〜8分位の
所にある。ここもシーズン真っ盛りであった。観光客もひっきりなし。桔梗
の青い花々が広い庭一杯に咲き乱れておりました。
 ここで偶然見つけたのは、「一宮荘代官職武藤氏の墓」でありました。
 説明書きには、次のように書かれておりました。
 「遠江の守護であった武藤氏は、初代遠江守護安田義定の使者として治承
5年(1181)3月に武藤五郎が遠江から鎌倉に参着したと、「我妻鏡」に記さ
れている。
 一宮荘の武藤氏は「御前落居記録」に、永享4年(1432)12月2日、先の
代官(一宮荘代官職)大谷豊前入道玄本と争って武藤用定が一宮荘代官職とな
ったことが記されている。中央の大きな石塔(宝篋印塔)はこの用定あるいは
それ以後の地頭のものと思われる。また、永享9年(1437)には橘谷(大洞院)
の本主は武藤という人であるとも記され(如仲置文)、室町中期には草ケ谷に
居を構えて一宮荘の代官職に任ぜられていたことがうかがわれる。
 武藤用定の末裔と思われる武藤刑部丞氏定は、天文14年(1545)飯田山
崇信寺九世を招請して、鹿苑山(古くは一宮山ともいう)香勝寺を開いた。
 一宮荘の代官職であった武藤氏の詳細はよくわからないが、一宮小国神社
の武家神主であったと言われている。その後、武田方に加わった武藤氏は、
高天神城に籠って天正9年(1581)に戦死した。
                         森町教育委員会
                         森町文化財保存会」

 本日はここまでとします。明日は、天方城跡について記します。 
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月22日 02時12分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


文章の中に紫陽花の美しさが良く出ています。

でも桔梗って今の季節も咲いているのですか?
こちらでも美女に出迎えられたようでラッキーでしたね。


切腹の間の遺品ですか。
何か特別な感慨に襲われますね。
文字で知ってた世界が証人に登場されたようで。

武藤氏は、武田方だったのですか。
なんだか泣けて来ます。
M氏家の家譜の書き込みから一層特別な身近に思うようになったからでしょうね。
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月22日 17時29分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 森町には、あじさい寺(極楽寺)、ききょう寺(香勝寺)、はぎの寺(蓮華寺)
と花にちなんだ寺があります。この町に「一宮」(小国神社)があるというこ
とは、それなりに遠江の文化的・宗教的中心として賑わっていたのかと推測
します。全国の一宮がどんな所にあるのか、その立地について一度調べてみ
たいと思っています。一宮の奥に「本宮山」があるというのも特徴でありま
す。
 北の春野には秋葉山があり、南の袋井には可睡斉があり法多山がある。
 秋葉街道は別名信州街道とも呼ばれ、塩の道、物資の道でもありました。
 そういう意味において、森町は要衝の地であったことは間違いないと思い
ます。

 さて、天方城址ですが、先週行ったけれどどこにあるかわからなく、また
時間も限られていたのでやむなく帰ったわけですが、その時ただ一つ、天方
氏の菩提寺だけは見つけて訪れました。寺の名は「蔵雲院」。天方という所
にありました。主要道路から橋を渡って山に入るのですが、看板も小さいの
で、今まで何回も側を通っていますが、見落としていました(もちろん興味
レベルも低かった)。

 蔵雲院の入り口には看板がありこう書いてありました―
 「正保4年(1647)の「蔵雲院門前屋敷諸役免許に関する書状」によると、
 天方郷18代の地頭山内山城守が、崇信寺5代の助吟和尚を請じて山居
 に開山したと伝えられます。
  山門をくぐって階段を登ると、正面に本堂が建ち、本堂の背面に位牌堂
 と開山堂が続き、本堂の東に庫裏が繋がっています。
  棟札によると、現在の本堂は延亨5年(1748年)に上梁を迎え、それから
 3年後の寛延4年には、花島善兵衛によって須弥壇前の前机が奉納されて
 おり、このころには内部の造作も完了していたと考えられます。
  西側には、天方氏の墓と伝えられる五輪塔印塔が苔むしています。天方
 氏3代の墓がありますが、誰のものかむはっきりしていません。」

 ここで一旦切ります。
  
[46]ともさんからのコメント(2015年06月22日 20時57分33秒 ) パスワード


こんばんは。

極楽寺へ二俣城の戸板襖を見に行かれたんですね。
もう数年行ってませんが、門前にお土産屋があるのは変わってませんね。

極楽寺の紫陽花(額の花)には「森の白糸」だったかなぁ。
お寺の裏山で、数十年前に発見された珍しい原種があり、
当家にもその分株があり、今年も綺麗な花を咲かせました。

ところで、武藤氏と云えば、真田昌幸が信玄公の奥方、大井夫人の実家の
大井氏支流の武藤氏を継いでいたのを思い出しました。

信玄公の両眼と言われて頃ですね。

後に九州の名族になる「大宰少弐家」も本姓は武藤氏ですね。


森一宮に「真田城」があり、城主は武藤氏でした。
武藤刑部に関係あるのでしょうか?

ただ、勝頼が攻略した高天神城の時に徳川家に残った、
西退組に武藤源右衛門がいて、この武藤氏が城主だったかも。

次に、武藤源右衛門を検索すると
「岡山藩御家中先祖并自分勤仕抜書」に武藤源右衛門の名があり
これが西退組の本人かもしれません。

ちなみに岡山藩、池田家は三河吉田城主を務めた関係でしょうか。
お二人が調べている、服部氏が数名おります。

武藤氏も多いです。ただ、松下氏と市野氏は居りませんでした。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月23日 00時40分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 このお寺ではここまででした。というのは、階段を上がり、本堂の裏手に
天方氏の墓があると看板に書いてあるのに、墓所への入り口がシャッター式
の門扉で閉じられ、鍵がかけられておりました。小さな看板が取り付けられ
ており、「昨今寺荒らしが多いので、不審者は警察に通報します」と書かれ
ていた。残念の一言であきらめましたが、未練は残りました。

 ところで、天方氏は元は山内氏だったという。つまり、天方氏は、飯田荘
の地頭であった首藤山内氏からの分かれである。14世紀後半に山内豊後守
通秀が天方城に住し、天方氏を称したという。
 山内一豊とは、同族であるかどうかははっきりしないようです。同根の
可能性はあると思いますので、今後は興味を持ってあたって行きたいと思い
ます。

 さて、天方城の位置については、あじさい寺でいただいた「森町の御案内」
マップに出ていましたのでわかった次第です。それによると天方城は3つも
あったようです(但し今は城址となっている)。
 @天方新城
 A天方本城
 B天方古城

ここで一旦切ります。
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月23日 00時46分21秒 ) パスワード

とも様

 すれ違いました。「真田城」・・・何で森町に?と興味しんしんです。
 一度見に行ってみます。

 いただきましたレスの内容について、よく読んで理解したいと思います。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月23日 05時00分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

>@天方新城
>A天方本城
>B天方古城

かなりの豪族だったのですね。



寺荒らし対策ですか。
悲しいですね、そういうことをする人がいるというのは。

盗む人もいればイタズラする人もいますし墓石を削る人もいますしね。

   最近神社系に油を撒いた人もいましたね
   NYの婦人科医らしいですけど。
   http://trendboxs.com/zinzya-hannin-honmyou-daigaku/
   キリスト教は油で清めますからね。


ま、昔から墓場荒らしとうのは洋の東西問わず存在してますね。


お寺さんに前以てご挨拶してからでないといけませんね。


>山内一豊とは、同族であるかどうかははっきりしないようです。
>同根の可能性はあると思います

はい
元は同根なんでしょうね。

でも山内一豊は尾張の人ですから・・・・北尾張の人なので北朝方だったのかなと想像しています
どこかで分かれたんでしょうね。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月23日 09時50分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 天方三城址の内、新城祉、本城祉には行って来ました。古城祉は道がわか
らず行けておりません。

 新城祉には、例の「蔵雲院(天方氏の菩提寺)」の前の道をずっと登って行
きました。途中から車一台しか通れない山道で草が生い茂って来ていました
のでちょっと怖くなりましたが、何とか頂上付近までたどり着きました。
 そこには公園があり、「城ヶ平公園」と書いてあり、「天方城跡」の石碑
が建てられておりました。駐車場も、トイレも、展望台も整備されていて、
立派な公園でしたが、城の形跡は全くありませんでした。
 案内看板もあり、いろいろ書かれていましたが、大変長い案内文なので、
ここに記すのはやめておきます。内容的には、天方氏の戦乱の歴史でありま
した。

 本城址も案内看板が出ていないので、だいたいの見当をつけ、天方小学校
を目指してみました。するとそこに天方本城跡の案内看板が出ておりました。
これは短いので記しておきます。
 「天方本城の戦い
  (1)文亀元年(1501)秋、遠江侵攻の今川氏親と遠江国守護斯波義寛の攻
   防戦があった。天方本城は、一時斯波方に占領されたが、間もなく今
   川方が奪い返した。この時の城主は、天方家5代の天方通季(法名 通
   分)であった。
  (2)永禄11年(1568)12月、遠江に侵攻した徳川家康に遠江の諸城主
   や土豪たちは家康に屈服したが、天方城主天方山城守通興と飯田城主
   山内大和守通泰は、家康に従属しなかったため、翌年6月19日天方
   本城と支城の白山城は徳川軍に攻略され、通興は降伏し許された。
    因みに、飯田城は陥落し、大和守通泰以下城兵残らず討死した。
  (3)元亀4年(1573)3月、徳川家康は、前年12月、三方原合戦で武田
   軍に大敗したため、遠州での劣勢挽回を図るべく、平岩七之助親吉を
   大将に千余名の軍勢で、天方本城と白山城に陣取る武田方の遠州先方
   衆で守将の久野弾正宗政、反徳川の遠州の小侍達ら100余名を攻略
   した。天方通綱も久野弾正と行動を共にして来たが、降伏し許される
   が、弾正宗政は甲州へ遁走する。
  (4)天正2年(1574)4月、徳川家康は犬居城主天野宮内右衛門藤秀を攻
   撃のため出陣するも、豪雨と兵糧の欠乏により余儀なく退去する。
    その時に三倉の田能・大久保で武田軍の樽山城兵と光明城兵の待ち
   伏せにあい徳川軍は惨敗する。
    家康は三倉に逃げ込むが、要害の城でないと馬を進めて、天方本城
   に入った。
           平成14年3月 森町天方地区社会教育推進協議会」

 ここで犬井城の天野氏が出て来ますが、犬居城と天野氏については次回に
記すことにいたします。

 天方本城祉へは徒歩で登りました。4駆のジムニーなら登れると思います
が、細く急な道でありました。途中に猪の罠(檻式)があり、猪が出るのだな
とちょっと怖くなりました。手持ちの笠ではたちうちできないなあと思いな
がらも笠をバットのように振っておりました。猪が出て来た時の対策のイメ
ージトレーニングをしながら急な坂道をハァハァ言いながら登り切りました
が、どこにも城址はみつからず、壊れた小さな看板を見て、更に雑木の生え
た山頂を目指しました。苦労した割には山頂にも城址らしきものはなく、た
だ疲労だけが残りました。
 
 天方古城祉についてはまた探しに行きます・・・真田城跡も併せて。でき
れば本日。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月23日 14時28分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

恐怖満点の城跡訪問でしたね。
イノシシが出なくて良かったです。


>天方城主天方山城守通興と飯田城主山内大和守通泰

一族なんですねえ。
通字も「通」で同じですね。


>因みに、飯田城は陥落し、大和守通泰以下城兵残らず討死した。

思わず眼頭が熱くなりました。


つい去年までは全く知らない一族でしたが
こうしてココで拝見してますと
思い入れが生まれてきます。


夏草やつわものどもが夢の跡で般若心経を唱えてあげてください。
この人達の死があって今のわたくし達の平和で幸せな暮らしがあるのかと思いますと
哀悼を捧げたくなります。
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月24日 00時19分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 本日は森町の崇信寺(そうしんじ)、飯田城跡、天宮神社、天方(あまがた)
古城跡、真田城跡へ行ってまいりました。
 まず崇信寺ですが、ここには山内家三代の墓がありました。
  @山内対馬守道美公
  A山内対馬守久通公
  B山内大和守通泰公
 墓はいずれも小さな石塔でした。一木氏の墓、鈴木氏の墓がたくさんあり
ました。

 飯田城跡は崇信寺の西500メートル位の所にありました。城址というも
のの、石垣も建物跡も全くありませんでしたが、案内看板はしっかり立てら
れていました。
 「飯田城跡
   飯田城主山内氏は、備後国を本拠とし、弘安4年(1281)に飯田荘上郷
  (天方地区)内の筥嶋(はこじま、鍛冶島)・西俣・加保(亀久保)村等の地
  頭を安堵された山内道茂を祖とし、山内道弘・通秀(天方氏)の頃に遠江
  に赴き、天方本城を築いたとされている。」
 
 次に天宮神社に寄りました。案内看板にはこう書いてありました。
 「天宮神社
   天宮神社は、由緒書によれば、人皇29代欽明天皇の御代筑紫国宗像
  3神を勧請し、文武天皇慶雲2年(705)に社殿を造営したと伝えられ、国
  一宮小國神社とは金胎両部(密教用語で金剛界・胎臓界)の1社にあると
  いう。
   社殿(本殿・拝殿)の造営は、天正17年(1589)に徳川家康が寺田右京亮
  を奉行となし、幕下棟梁福島新左衛門・一宮大工高木五郎左衛門父子に
  よって完成した。」とありました。
   ここで寺田右京亮が出て来ましたが、この人は市野惣太夫初代の曾祖父
  と関係するのではないかと思われます。

  一度ここで切ります。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月24日 05時01分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス14からまたまた発展ですね。


>ここで寺田右京亮が出て来ましたが、
>この人は市野惣太夫初代の曾祖父と関係するのではないかと思われます。


>社殿(本殿・拝殿)の造営は、
>天正17年(1589)に徳川家康が寺田右京亮を奉行となし、
>幕下棟梁福島新左衛門・一宮大工高木五郎左衛門父子によって完成した。

寺田右京亮は市野関係者というのは十分に考えられますね。
祖父・大伯父・大叔父・伯父・叔父系または従兄弟系かもですね。


というのはよく似た名前の方を見つけましたから。

鶴岡八幡宮年表  372ページ  には  寺田右京亮安吉  ですね。

http://books.google.com/books?id=2NmdrPZwD-MC&pg=PA1591&lpg=PA1591&dq=%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E4%BA%AE%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=XjHl6-WHvh&sig=FrgJ8v1H2vuUuXA4-UrlTaNa0CA&hl=en&sa=X&ei=gLSJVetmxe-gBNLYm8AC&ved=0CCUQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E4%BA%AE%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


文禄元年1592年の四月廿日   鶴岡八幡宮の下宮の修営なり(奉行寺田右京亮安吉)


安吉というのは市野惣太夫実久の家とは  通字が違う?  と思います。
ということは別系統?でも寺田右京亮の名をもらっている。
つまり非常に身近の人物?



さらに後の世の近江一揆を引き起こした幕府の勘定方検地役人市野茂三郎とはどういう関係でしょうね。

関東に移った市野・寺田一族でしょうか?


市野惣太夫も流山で馬の牧を管理してた、とありますね。
http://blogs.yahoo.co.jp/diftuiheiji/11124515.html
慶長期(1596〜1614)の頃,馬の鑑定の名人といわれた市野惣太夫の管理する牧があったことにちなむとも,
真言宗円東寺,あるいは,天神社付近に市がたったことによるともいわれる。


市野惣太夫は慶長5年1600年に遠江の代官になってますよね。


『新訂寛政重修諸家譜』によると、市野氏の先祖は近江の浅井氏の一族で、真久(さねひさ)(惣太夫)の時(永禄年間)から家康に仕え、とくに馬のことにくわしく(『駿府記』に「慶長十六年十月一日、遠江国住人市野、生姜を献ず、すなわち御前に召し……牧馬の談あり、市野馬を知ればなり」と)馬掛りとして活躍し、慶長五年(一六〇〇)遠江の代官となり浜名十郷その他を支配し(『随庵見聞録』に浜名代官「浜名十郷辺ハ慶長五年ハ堀尾殿領浜松分、同六年ノ暮ヨリ市野五郎右衛門殿御代官九年之勤」)、慶長九年には長上郡市野村のうちで十七石余の屋敷地を賜わり、その後家号を市野と改めた。元和二年死去(市野村の宗安寺に葬る)するや、代官職と惣太夫の称号は実次(さねつぐ)・実利(さねとし)・真防(さねあき)とうけつがれた。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月24日 17時36分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 寺田氏を調べていましたら、結構武術に秀でた氏族のようであります。
 代表となるのが中西道場の「寺田宗有」(1745〜1825 剣術)であります。
 遠江では森町牛飼の「寺田作左衛門」「寺田七右衛門」(弓術)であります。
 その他、柔術の「寺田左衛門定安」「寺田勘右衛門正重」。
 武術関係は柳生等との関係が底辺にあるような気がします。

 市野惣太夫が元々は「浅井」→いつからか「寺田」→そして「袴田」→
最後に「市野」を名乗る。「市野」のいきさつはわかるとして、寺田・袴田
に名を替えたいきさつがわからない(養子に入ったのだとは思いますが)。

昨日の続きとして、「天方古城の跡」を調べに行きましたが、探しても探
しても道らしきものはありません。だいたいの場所は見当がついているので
すが・・・。山裾のお宮に行きましたが、それ以上登る道はない。中腹の墓
地に行きましたら、地元の人が花を替えているところでしたので、訊いてみ
ましたところ、我々地元の人間も見たことない、話ではここら辺のとなり位
にあったとは聞いているが・・・とのことでした。これ以上探すとなると、
蝮の出そうな山奥へ雑草や灌木をかき分け、さらに急斜面をということです
のであきらめることにいたしました。

 次に「真田城の跡」ですが、これは意外な所にありました。即ち、昔から
よく来るまで通った所にありました。一宮小國神社から500メートル程南
へ下った所に看板が立っていました。
 そこへ車を止め、奥へ入って行きましたところ、20分位山を登った所に
城跡はなかったけれど、小さな祠があり、結界が敷かれておりました。
 なぜ真田というのかは今後調べてみますが、真田昌幸がらみでしょうか?

 いずれにしても、崇信寺でも、飯田城跡でも、天方古城跡の近くの墓地で
も、真田城跡におきましても、心を込めて般若心経を捧げてまいりました。
[55]ともさんからのコメント(2015年06月24日 20時26分08秒 ) パスワード


こんばんは。

森一宮周辺を真田城主として武藤家が領していたのは、何となく知っていましたが、
最後の武藤刑部は、武田側として高天神で討死したんですね。

元亀頃に武田側の目代武藤刑部氏定(事任奉斎)は宮代・真田山に築城。

一方、神主小国家(鈴木氏)は徳川家に靡いたようで、その対立の余波で一宮社殿は消失したようです。

刑部、天正元年には一旦、家康公に降伏し、移住した佐野郡亀甲村に事任神社を勧請。

刑部、天正九年に再度反抗して高天神に籠り、討死し、子孫は亀甲村に居住したようです。


古代社の成り立ちは難しいので避けます。

ただ壮麗な遠州一宮小國神社にも、戦国期に過酷な争いの時代が有ったのですね。


ところで、目代って鎌倉時代の名残ですよね。
時代は下るんでしょうが、領家・地頭方・半済の名残は地名で残っていますね。


じゃ、武藤源右衛門って誰でしょうか?

高天神記等に名は「宗清」「季喜」で記載があります。

ちなみに武藤源右衛門の娘が嫁いだのが、
西退組長の一人、小笠原右京進義頼ですので、
武士階級としても、そこそこの領地持ちだったようです。

[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月25日 03時20分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

蝮に噛まれては大変!
本当にお気をつけください。
夏場の草むした所は危ないですよね。
蝮だけでなくムカデとかの虫も出ますから。


真田氏

江戸時代の大名家のひとつ真田家は現長野県である信濃国小県郡真田庄が起源(ルーツ)である、滋野氏(中世以来の豪族。信濃の族は清和天皇の子孫)。

ほか桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)などにもみられる。


へえ〜
平氏系や源氏系も?


>寺田氏を調べていましたら、結構武術に秀でた氏族のようであります。

やっぱり昔の時代からアヤシイのかもですね。
武術の道場を開いていれば人の出入りは自然ですから都合が良いですね。

[57]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月25日 08時57分32秒 ) パスワード

とも様

 高天神城の関係、お詳しいようですので、また教えて下さい。小笠原氏
関係は複雑で頭を悩まします。義頼は氏興の弟ですね。四人兄弟?の三番目。

 高天神城にどんな氏がいて守ったのか、どんな氏が攻めたのかを知りたい
と思っています。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月25日 09時05分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、筆の会へ行きます。崩し字の勉強をしてきます。
 姉が講師を務めております(草書体)。

 姉の仲人は、小野篁の子孫でした。本日はその系図を届けます。

 この地区にはいろいろな歴史が眠っています。

 武藤氏も近藤家と同根のようです。

 帰ってから復帰します。

 天方氏が何故半蔵とタッグを組めたのか、そこを解明したいと思って
います。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月25日 10時36分45秒 ) パスワード

高天神城

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%9F%8E

歴史

遠江国城東郡土方(ひじかた)(現在の静岡県掛川市上土方・下土方)にあった日本の城。


高天神城には治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城されたとの伝承があるが、それと確認できる文献も考古学的発見もなされていない。

確実な文献としては16世紀初頭に今川氏の家臣であった福島助春が城代として土方の城(土方は高天神城のある地域の地名)に駐屯したとの記述が初見である。

ただし、発掘調査によると15世紀後半から16世紀初頭と推定できる陶器などの出土があり、今川氏進出以前に菊川下流域の在地勢力が「詰めの城」とした可能性が指摘されている。



鶴翁山 高天神城略年表[編集]

913年 藤原鶴翁山頂に宮柱を建つ

1180年 謂伊隼人直孝山砦を築く                  後の井伊家ですね

1191年 土方(ひじかた)次郎義政城砦を築く             土方歳三の先祖かもですね。


1446年 福島佐渡介基正城主となる
1467年 戦国乱世、城飼郡内大いに乱る
1471年 福島上総介正成城主となる

                                 しかし福島氏は1536年の花倉の乱(今川家のお家騒動)で没落


1536年 小笠原右京進春儀城主となる                今川氏方
1542年 小笠原彈正忠氏清城主となる
1560年 城兵、桶狭間に出陣す

1564年 小笠原与八郎長忠城主となる                              
1568年 当城徳川氏に従属す                     徳川方に
1569年 城兵掛川に出陣す

1570年 城兵姉川に出陣す
1571年 3月武田信玄兵二万五千騎来攻包囲す。城兵二千騎籠城す
1572年 城兵三方原に出陣す

1573年 城兵諏訪原に出陣す
1574年 5月武田勝頼兵二万騎来攻包囲す。6月18日大手門の戦。6月28日二の丸陥落す。7月2日休戦・長忠降伏す。

          大河内源三郎は武田への降伏を拒否して石牢に幽閉された
 
          旧今川家臣の岡部元信が城を任される

          1575年5月、武田氏長篠の戦いに敗れる


1580年 9月、徳川軍高天神城攻撃(第二次高天神城の戦い)。

1581年 3月22日夜10時 食糧の尽きた高天神城より岡部元信討って出る。敗死
 
            大河内源三郎救出される

高天神城は落城後、廃城に。


こんな流れかと。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月25日 14時21分47秒 ) パスワード

天方氏と服部半蔵の邂逅について推測してみました。

            もともと今川氏の下で知り合いだったでしょう

            1569年と1570年の2回 天方通興が家康に敗北
            1572年天方氏武田に襲われ家康に走る

                   この後、親しくなる?

            1574年天方通興、大久保忠世の配下で動く

                   このあたりには、かなり天方通興と服部半蔵が親しいような?
                      更に青山氏ともよしみが出来たでしょうし
                         娘が青山忠成の妻ですから

            1579年  松平信康  切腹
                       服部半蔵  介錯役 ムリ
                       検分役の天方通綱が介錯


     1572年以降天方氏と服部半蔵と青山氏の家は表だってよしみを通じたでしょうね。



経緯:

天方本城

応永年間 (1394年 - 1427年)、山内対馬守道美が築城した。これを天方本城 (静岡県森町大鳥居にあったとされる城) と言う。

天方氏が飯田荘の地頭であった首藤山内氏から分かれたものであり、
14世紀後半 (南北朝後期 - 室町初期) に山内豊後守通秀が天方城に住し、天方氏を称したとする。

天方氏は、天方九カ村を支配し南周南一帯に勢力を伸ばしていた。


数代を経た明応三年 (1494年) 、当主通季のとき、今川氏親は中遠の原氏討伐のために後の北条早雲 (伊勢新九郎盛時) を大将とする大軍を進攻させてきた。

今川軍は中遠三郡である佐野郡、山名郡、周智郡(現在の掛川市、袋井市、森町周辺)を席捲し城主の通季は、今川氏に降った。

文亀元年 (1501年) 、遠江守護の斯波氏は信濃の小笠原氏と連合して今川氏に対する反撃の行動に出た。

この時の戦場となったのが座王 (久野) 城と天方本城であった。


通季は斯波の大軍襲来の前に城を捨てて今川方に身を寄せた。


その後、今川方の武将、本間宗季らとともに城を奪還している。
戦後、堅固な城の必要性を痛感した通季は城の南側に新たな城 (白山城) を築いた。

その後、遠江は今川氏の支配するところとなり、平穏な時期が続いた。通季は道芬と号し、上京して和歌、連歌に興味を寄せたことでも知られている。



天方新城

天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。

その通興がより堅固な城塞を求めて築いたのが、現在の静岡県周智郡森町向天方に残る天方城である。

それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が今川義元の死後斜陽化、これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年 (1568年) 、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。

通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12年 (1569年) 6月19日、家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、榊原康政、天野康景、大久保忠隣を先陣にして、まず飯田城へ殺到してたちまちの内に攻め落してしまった。

飯田城主山内対馬守通泰とその一党が悉くが討死したが、通泰の庶子伊織が、家臣の梅村彦兵衛に伴われて三河 (今の愛知県) へ落ちのびた。

それから天方城攻略のため進撃。郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。通興もよく防戦したがついに力尽きて降伏。

                                天方通興 家康に降伏
 

翌、元亀元年 (1570年) 10月位には武田による北、中遠方面に対する誘降工作が活発となり、天方城にもその手が伸びた。

「天方山城守、兵備を整え不穏なり」と命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったとして再び大須賀康高、榊原康政ら徳川の軍勢に攻められた。

通興は徳川勢が外曲輪に迫ると、二心のないことを誓って、開城し、再び徳川家康に降った。

                              天方通興、再び、家康に降伏


武田・徳川の攻防戦

元亀3年 (1572年) 9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて犬居城主天野氏の案内で天方城にせまった。

天方山城守通興は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に通興は一戦も交えることなく城を出て徳川方に身をよせた。

                              天方通興、武田に恐れをなし、家康に走る


そこで信玄は久野弾正忠宗を城将として守らせた。翌元亀4年 (1573年) 3月家康は、武田の手に落ちた諸城の奪回戦を開始した。久野弾正は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らは烈しく攻め、ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、兵糧を断たれた久野弾正は夜陰に紛れて逃走、城は徳川の手に帰した。

遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となったが、天正2年 (1574年) 3月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め3日のうちに攻略、この城に軍兵を置くとある。


天正2年4月には、犬居城主天野景貫を討つために出陣し、このとき通興は、大久保忠世に属して道案内をしている。

                               天方通興、大久保忠世に配下

                               ということは半蔵と親しくなりますよね、大久保忠世がらみで


しかし途中、大雨で大水が出て兵糧もなくなったため、退却することになった。すると犬居城主天野景貫は追撃を開始し、さらに光明城、樽山城の城兵、郷民らの待ち伏せにあったため、家康は天方城へ逃げ込んだ。

                               家康、天方城に逃げ込む

                               ということは家康は天方城に恩を感じたでしょうね



その後

天正7年 (1579年) 7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山殿と長男・松平信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。

この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。

家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日、かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。


このとき服部半蔵が介錯人を務め、天方通興の子、通綱が検分役であった。


信康が切腹した際、服部正成が涙のあまり刀が振り下せず介錯できなかった為、通綱が代わりに介錯人をつとめた。

このため主君である家康の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山に登り仏門に入った。そしてその後に、越前松平秀康 (結城秀康・家康二男) に仕え、越前天方氏の宗家となり、その子孫は明治まで松平氏に仕えた。


通興は、通綱が高野山に登った為、天方家の存続をはかるため、外孫の青山忠成の五男、通直を養子にした。

                              天方通興の外孫に青山忠成の5男、天方氏を継ぐ  天方通直



その後通興没後まもなく城は、廃城となった。

また、通興の養子となった通直は幼稚のときより家康に奉仕して慶長19年 (1614年) の大坂の陣に供奉している。慶長20年 (1615年) の大阪の陣の際には、徳川秀忠に従い天王寺・岡山の戦いに戦功をあげている。後に御書院番に列し、元和6年 (1620年) 正月には御小姓組頭となり、さらに元和9年正月に、御書院の組頭に栄転し同年9月より江戸城西城に勤仕した。寛永2年 (1625年) 11月23日には、上総国武射、下総国葛飾、香取相模国高座四郡のうちにおいて2,250石の朱印状を給わる。そして、寛永3年従五位下備前守に就任さる。通直より4代後の通展のとき (享保17年 (1732年) 閏5月15日) に請て家号を青山に改めている。
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月25日 16時10分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 青山平太夫忠教の娘が服部平蔵正信に嫁ぎ、服部正尚と七右衛門を生む。
 七右衛門は正成の養子となった上で、青山平太夫忠教の弟忠世の息子の
忠重に子がなかったため養子に入り青山家を継ぐ。

 天方通興の娘が青山忠世の孫忠成に嫁ぎ、忠俊以下五男をもうける。五男
の道直は天方家に養子に入り、天方家を継ぐ。

 従って、服部家が青山家にスライドし、青山家が天方家にスライドした。
結果として服部家≒天方家ということになる。

 青山忠成は秀忠の傳人(もり)であった。
 天方道綱は豪の者であった。

 半蔵とのタッグはそのあたりから生まれた・・・。

 でももう少し、秘密があるような・・・。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月25日 21時54分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>でももう少し、秘密があるような・・・。

はい。

            1569年と1570年の2回 天方通興が家康に敗北
            
            1572年天方氏武田に襲われ家康に走る


ここなんですが、天方は2回も家康に負けていて、武田に襲われてやっと家康のもとに逃げ込んだ
ということから

実は  天方は家康方の旗下に入る機会を待っていたのかな?   と思うのです。

    天方としては今川に礼を尽くさなくては武士の面目が立たないと考えたでしょうし
    何か決定的な機会を待っていたのかな?と。
    それが武田との衝突だったのかなと。


当然、今川時代に松平家とは駿府や浜松で知り合いだったから
家康には気持があったのかなと。


実はその前に
岡崎時代の青山家や服部家と知り合いだったかもですね。

    百々がからんでいるのかもね。
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月26日 16時00分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 森町の真田城は、武藤氏の居城であった。なぜ真田というか・・・やはり
真田昌幸と関係があった。
 真田昌幸は、永禄年間(1560前後)に、信玄の母系・大井氏の氏族である
「武藤家」の養子となっていて、天正3年(1575)に長篠の戦で長兄・次兄が
討死したため、真田氏に復し、家督を継いだということである。
 つまり、武藤氏=真田氏ということにもなる。
 真田城と命名したのは、真田氏の指導があったからか、本人が来たからか、
あるいはまた一族の誰かが来たからか、上田城にあやかったからか、具体的
にはわかっていない。

 近江国犬上郡「百々村」(彦根)出身の「百々氏」は、「浅井氏」に属した
という。
 百々氏は、山内一豊配下として1609年に「亀山城」の築城に参加して
いる。

 青山氏の出身は、岡崎「百々村」の出身で、忠成の妻は「天方通興」の娘
である。その曾孫の忠重は11702年に浜松藩から「丹波笹山藩亀山城」
に転封となっている。

「市野氏の内匠系」も忠重について亀山に行っている。

 百々氏と市野氏は、浅井氏の関連氏族でもあり、これもまた不思議なめぐ
りあわせでもある。
 
 また、ひょっとすると、天方氏と市野氏(寺田氏)は、森においてつながり
があったかも知れない(今川氏の家臣でもあった)。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月26日 22時01分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


ということは   もともとは  百々  というのがアヤシイのかもですね。


【名字】百々

【読み】ささ,ひゃくびゃく,ひゃくも,とと,どど,とど,どんど,どうど,どうどう,どんと,もも,ももどう,ももひゃく,ももも,とうどう


             忙しい名字!

              そしてビックリ!
              最後の読みの「とうどう」に  エッとなりました。
              「藤堂」に通じるではありませんか。




【解説】

現滋賀県である近江国坂田郡百々村が起源(ルーツ)である宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏流がある。

         モロにアヤシイ。


ほか古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏がある。

         へえ〜

三ケ月藩、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵などにみられる。


【全国順位】 3,867位  百々さん都道府県別ランキング!!
【全国人数】 およそ3,300人





宮城県 632位 およそ400人
神奈川 3,816位 およそ200人
石川県 3,690位 およそ30人

岐阜県 2,286位 およそ60人
静岡県 2,778位 およそ90人
愛知県 2,588位 およそ200人

三重県 1,775位 およそ100人
滋賀県 1,048位 およそ200人
京都府 1,740位 およそ200人

大阪府 2,000位 およそ500人
奈良県 2,341位 およそ70人
和歌山県 3,217位 およそ30人

鳥取県 3,339位 およそ20人
広島県 2,029位 およそ200人
徳島県 1,488位 およそ70人
香川県 1,099位 およそ100人
高知県 1,182位 およそ70人
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月27日 06時18分21秒 ) パスワード

【名字】藤堂

【読み】とうどう,ふじどう,ふじとう

【全国順位】 2,256位  
【全国人数】 およそ6,800人


現滋賀県である近江国愛智郡長野郷藤堂が起源(ルーツ)である中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)説、
中原氏説も有。
ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)



百々とは近くですね。
ということは百々と藤堂はかなり親戚関係があるんでしょうね。


藤堂氏

北海道 2,584位 およそ200人
岩手県 3,032位 およそ30人
宮城県 3,477位 およそ30人
群馬県 3,748位 およそ30人
埼玉県 3,138位 およそ200人

千葉県 3,346位 およそ200人
東京都 2,766位 およそ500人
神奈川県 3,253位 およそ300人

富山県 1,354位 およそ100人
石川県 2,058位 およそ70人
福井県 845位 およそ100人

岐阜県 3,342位 およそ30人
愛知県 2,257位 およそ200人
三重県 1,202位 およそ200人             三重なのに信じられないぐらい少ない!

滋賀県 622位 およそ400人              意外と少ない
京都府 1,776位 およそ200人
大阪府 1,564位 およそ700人
兵庫県 1,382位 およそ500人
奈良県 1,937位 およそ90人

鳥取県 2,511位 およそ20人
岡山県 2,027位 およそ100人
広島県 818位 およそ500人
山口県 2,284位 およそ70人

徳島県 1,880位 およそ50人
香川県 992位 およそ100人
愛媛県 374位 およそ700人          愛媛は結構おおいんですねえ。どうして?
高知県 1,143位 およそ80人

福岡県 3,338位 およそ100人
熊本県 2,226位 およそ80人
大分県 3,058位 およそ30人
宮崎県 1,409位 およそ100人
[69]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月27日 08時05分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 森町に「百々」という蕎麦屋があるといいます。今度一度行ってその由縁
を聞いてまいります。

 百々氏も藤堂氏も築城に秀でていた。ということは、穴太衆と関係があっ
たということになる。

 穴太というのは地名であり、大津市坂本にあった。そこには穴太者といわ
れる石工の集団がおり、坂本の城主明智光秀は、信長に助言し穴太衆に石垣
造りをさせたという。

 石工というと、あのエジプト以来のフリーメーソンを思い浮かべる。石積
みの構造力学をマスターしていなければ、石垣は崩れてしまう。

 いずれにしても、日本には城が無数にあり、見事な石垣が多い。そこには
長い長い技術の蓄積(秘伝)を感じます。

 そういえば、太田道灌、加藤清正も築城の名手であった。もちろん武将一
人でできる訳がないので、当然優秀な石工集団を抱えていたということ。そ
して、石や木材の運輸(水運・陸運)の専門集団、建築の専門集団を抱えてい
たということになります。
[70]ともさんからのコメント(2015年06月27日 14時02分23秒 ) パスワード

こんにちは。

「戦国史城 高天神」に、歴代城主の記載があります。

今より約七百七十年前、建久二年、源右大将頼朝公の時
代、土方義起、土方次郎義政が始めて鶴翁山高天神に城砦
を築いた。其の後士方直久修造したとあるも事蹟は何れも
不詳である。

五百四十七年前、室町時代、応永二十三年、関東管領足
利持氏が弟持仲と兵乱を交えた時、持氏が駿河の今川泰範
に援けを求めた故、今川氏は持氏応援の一助として、泰範
は叔父の貞世(了俊)と相謀って、子の範政に鶴翁山高天
神に城郭を築かしめ、応永二十五年には山内玄蕃正を城代
に命じた。


1.城代 山内玄蕃正久通(通忠)
応永二十三年(1416)、今川範政は了俊の助力を得て、高天神を
築城したが、応永二十五年に今川氏の家臣、飯田城の山内
玄蕃正久通を城代とした。永享元年(1486)迄十ニケ年在城した。
 其の後今川範政、子範忠共に関東の騒乱と京都に於け
る赤松満祐の乱にと東奔西走して居る間に遠江も大いに乱
れ、高天神の史実も詳かでない。

2.城主 福島佐渡守基正
足利八代義政将軍の頃、文安三年に今川氏の家老福島佐
渡守基正か城主となった。福島氏は別に九島とも称した。
清和源氏頼光、頼国の後裔で、馬場氏の流れ、摂津西成郡
福島庄に住んだ氏盛が福島と称し、その裔、駿河の今川氏
に仕えたのが始まりである。基正は善九郎、左衛門太夫と
も称した。

3.城代 山内玄蕃正久通(通忠)
享徳三年関東に再び大乱が起り、今川範忠、鎌倉攻めに
出陣の際、城主福島佐渡守基正従軍する事となり、飯田城
の山内玄蕃正を以って城番とした。事蹟は未詳である
享徳の乱。1455〜1483



これによると、初代高天神城の城代を任されているのが、
飯田城の山内対馬道美(通継)の子の玄蕃正久通(通忠)
です。

ただ、城主には成れない理由があったのか、あくまでも
後年城主となる、福島家の留守居に城を預かっただけなのか、
史実として、眉唾無のか・・・。

福島氏や小笠原氏ように近辺に事蹟や子孫等は残してないようです。

きっと同根であろう、掛川時代の山内一豊の家臣になる土方久元のご先祖も
玄蕃正久通の事蹟などを知っていれば、一豊さんに報告して、
「ほぉー、そうじゃったか!?」って、山内家はもっと高天神城跡を
大事にしたかもしれませんね。

事実、高天神廃城後は歴代城主が務めていた、「高天神社」の祭司は、
麓の名主、大石五郎左衛門家が継承したようです。


[71]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月27日 18時30分27秒 ) パスワード

とも様

 高天神城の歴代の城主等についての情報、ありがとうございます。この遠
江の歴史のバックグランドには、この今川・武田・徳川の三つ巴の力関係が
ありますので、ここをよく理解する必要があります。特に小笠原氏とその家臣、関係一族の同行が複雑であります。
 いずれにしても、1568年に信玄と家康が同時に今川領に侵攻、氏真は
掛川城へ逃げる。この侵攻の直前に小笠原氏興・長忠は今川から家康にねが
えったということになります。そして第一次から第三次までの高天神城の戦
いがあり、家康が制す・・・ということになって行きます。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月29日 21時01分28秒 ) パスワード

このお休み中に集められた情報をお知らせくださいね。
楽しみにしております。
[73]ともさんからのコメント(2015年06月29日 21時12分30秒 ) パスワード


こんばんは。

高天神城跡には遠足で登ったきりです。その時の余りの過酷さが身に沁みついているのでしょう。
会社では毎年に富士山登山がありますが、全く手を挙げる事無く過ごしています。

永禄末期より元亀に掛けては、駿遠が武田・徳川で上手に分割領有が出来たのに、
あっという間に遠州は武田方に浸食され続けます。

今のように簡単に情報が手に入る時代ではないので、絶えず各陣営が情報を得ようと
あの手この手を使っていたのでしょうね。

それをじっと考えて晩酌でもしていれば、直ぐに時間が経っています。
自分のような非戦闘員はとても戦国時代には住めませんが、
江戸時代のそこそこな旗本の家に生まれたかったなぁって思います。


高天神城主の続きです。

4.城主 福島上総介正成
応仁の乱起るに及び、文明三年(1471)、福島基正の子士総介正
成父に継いで城主となり、駿河の丸子城主を兼ねた。文明
八年、美濃関の二世刀匠兼明が高天神に来る。
 同年、今川義忠、榛原の勝問田氏、城東の横地氏を滅し
ての帰途、牧野原塩買坂に於いて勝間田・横地の残党の奇
襲に遭って討死した。従士等直ちに主君の仇を討って駿府
に帰った。時に嗣子竜王丸幼少の為、義忠の従弟に当る今
川新五郎範満が駿府に入城して今川七代の継嗣と名乗って
今川家は内紛に陥った。
 正成は竜王丸の母北川殿とその弟伊勢新九郎長氏と協力
して、七才の竜王丸を居城丸子城に迎えて擁護した。爾来
四十年間、今川氏親の為に、懸命の奉公を尽した
永正十七年(1520)、主君氏親甲州出陣に従い武田信虎と戦い、
氏親の身代りとなって飯田河原に戦死した。 院号を玉仙、
法名を華岳と言う。

さっきまで福島正成は地黄八幡、北条綱成の父親だと記憶してましたが、
現在では福島上総介正成の存在が否定されている見解もあるんですね。


小笠原弾正忠と共に著名な武将だったのに・・・。

でも地黄八幡北条綱成を否定する人はいないでしょうから、良しとします。
[74]箱柳永田さんからのコメント(2015年06月29日 21時35分54秒 ) パスワード

  丸三柏服部様
 高天神城について
 キノサンの書き込みを紹介します
 >http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/a19eb9c7f7dc3fdc88684e1cf45224ec
   最初のページ からを お勧めします。
 http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/b7aa43e7b3a32374f862c299925c8b67
 11p(高天神城跡案内板)他 
 http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/385d071e028b8aa40799d64703ef4d61
  12p 籠城の場所と持ち場の侍名が出てきます。
 
 
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 03時06分30秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101468.html
スレッド45を開設いたしました。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 03時10分23秒 ) パスワード

これですね。

「遠州高天神記」

戦国大名の先駆けで、駿河、遠江に絶大な力を持っていた今川氏は、義元が桶狭間の戦いに敗れて、急速に力を失っていた。その空白を埋めるように、東から武田信玄、西から徳川家康が侵出してきて、大井川を境に西を徳川、東を武田に二分するという密約を両者は結んで、旧今川領を分けあった。

とはいっても、戦国の世では、領界がそのままで済むはずはない。そんな中、「高天神を制するものは遠州を制す」といわれた高天神城は、難攻不落の山城で、武田と徳川は高天神城を巡って、取ったり取られたりの攻防を続けた。「遠州高天神記」はその攻防を記した物語である。

遠州高天神城(跡)は掛川市土方(ひじかた)にある、標高132メートルの高天神山の尾根に造られた山城である。100メートルほどの標高差ではあるが、周囲は急峻な崖で、それを登って攻めるのは相当難しい。難攻不落の城と云われた由縁である。

[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 03時22分57秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/b7aa43e7b3a32374f862c299925c8b67


         いましたよ!松嶋さんも!西の丸に!百々もいました!


松下さん   松下助左衛門
鈴木さん   鈴木五郎太夫、鈴木権太郎
山下さん   山下与五右衛門、松嶋五平
松嶋さん   松嶋五平
百々さん   百々徳右衛門



先ず高天神の城主小笠原与八郎本丸に居ます。
当年廿壱歳なり。
本丸介添えに、渥美源五郎、松村郷右衛門、福岡太郎八、大村弥兵衛、曽根孫太夫、三井孫左衛門など、
武者奉行として、都合五百騎なり。


三の丸大将、小笠原与左衛門を大将として組み合い、
丹羽縫右衛門、村松郷八、野山七左衛門、鈴木五郎太夫、鈴木権太郎、中根日野、松下助左衛門、小笠原庄太夫、
この外小笠原の一類多し。
右の者ども武者奉行として、弐百五拾騎なり。

西之丸の大将は、
本間八郎三郎清氏(この親、五郎兵衛へは去年掛川天王山にて討ち死なり)、
同大将丸尾修理亮義清(これは同国山名郡赤尾村を知行す丸尾和泉守子なり。
                この丸尾は代々赤尾長者と云う当国にて隠れなき者なり)、
両将ともに兄弟なり。

              本間八郎三郎清氏と丸尾修理亮義清は兄弟。



組合には
丸尾三郎兵衛、同五郎三郎、同新五郎。
本間源左衛門、同五太夫、同兵右衛門、
浅井吉兵衛、同五六郎、
権田惣右衛門、

山下与五右衛門、                 山下!!!
松嶋五平、                    松嶋!!!

大河内孫右衛門、
福冨市平、
小笠原治右衛門、
岡平藤右衛門、
大原新平、
高岡七兵衛、
三井孫七、

百々徳右衛門、                     百々!!!

佐和戸市兵衛、芝田四郎兵衛、喜井八郎右衛門、西郷市郎左衛門、岡本久弥、市川紋太夫、高岡弥五右衛門、同瀬左衛門、村山八右衛門、箕浦茂左衛門、杉浦一學、同源七、柘植八左衛門、西村清左衛門、同八兵衛、朝比奈新助、同十右衛門、都合三百騎なり。


[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 03時27分39秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/385d071e028b8aa40799d64703ef4d61


(高天神籠城の事 後)

御前曲輪大将、斎藤宗林入道(これは中村を知行す)、小笠原河内守。組合、村松左近、長男六郎右衛門、馬渕半七、杉浦能登郎、武藤源右衛門、匂坂牛之助、安田越前、池田奴津平(これは毛森を知行す)、伏木久内、梶川魚兵衛、浅羽治郎左衛門、漢人十右衛門、伊達藤十郎、朝比奈佐太夫、倉地嘉兵衛、福島十郎右衛門、戸塚九兵衛、小嶋与五右衛門、同武左衛門、海福久右衛門、黒田九郎太夫義則、同玄忠入道義得(この黒田は、足利下野守義次、越前国黒田に有りて、黒田と名乗り、その子日向守は紀州に住す。三男式部少輔義理は遠州城飼郡を前代に領す。義理が四男黒田監物義重、同郡平川村を領す。その子今の九郎太夫義則まで八代なり)、永田太郎左衛門清佐(同郡丹野村に住す)、糟谷善左衛門則高(掛川の西郷村を知行す)、斎藤権兵衛、同五郎七、池田左内、同十内、村井太左衛門、荒瀬弥五左衛門、伊藤入道、松下平八、犬塚市平、同五右衛門、田中平助、赤尾孫助、客和平助、石野藤助(この両人は掛川客和が一類、与八郎を頼み来るなり)安方伝内、桜井九郎左衛門、同源吉、小川久助、浅田伊助、都合弐百騎なり。



高天神口裏門搦め手の大将、渡辺金太夫(当所土方村を知行す。武功の者なり)、小笠原長左衛門、林平六、三人なり。土方村の郷の入口まで城を取り惣門有り。この口より城中へ水木の用事、自由に調え出入の方、組合、松浦佐太夫、長坂新五郎、佐々安右衛門、上田新左衛門、久野平太夫、同兵三郎、同三郎五郎、戸塚五左衛門、同半弥、河上平太夫、松原権左衛門、村松佐太夫、宮地三郎太夫、森善右衛門、奥垣八内、都合弐百五拾騎なり。
※ 水木(すいぼく)−水と薪。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 03時33分41秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/f99ffebfd281976683747f0be5079918

遠州高天神記 巻の弐 1


甲州勢と合戦したお話    松下助左衛門の名前あり。


   高天神より出張の者、甲州勢と合戦の事
一 かくて信玄公、高天神より辰巳の方、塩買坂と云う所の原に、段々備え御旗を立て給い、高天神を見給わば、その間二里半程有り。この間に城東郡川有り。その下に大なる沼池、湖水満々と湛えたり。
※ 塩買坂(しおかいざか)− 現菊川市高橋。今川義忠が戦勝凱旋の帰路に横地城残党の待ち伏せにあい、非業の死を遂げた古戦場である。
※ 城東郡川 − 現、菊川。

この池の下、南海方に国安村と云う所に渡り有り。また池の上、北の方に渉るべき処見ゆる。物見走り廻り、具(つぶさ)に様子申し上げる。兼て先陣は、内藤修理亮承りてければ、押し向う。
※ 国安村−現掛川市国安。獅子ヶ鼻の南方3〜4キロ


高天神にも諸手より武功の人々抜け出し、出張り手当てあり。城東郡川の中の渡り、獅子ヶ鼻へは本間八郎三郎、丸尾修理亮、斎藤宗林。雑兵どもに、弐百五十人。弓鉄砲を多く持たせ、経々と物見に出る。
※ 獅子ヶ鼻 − 菊川市大石。小菊荘の裏山。



下の瀬渡り、浜手道筋、国安村の西要害と云う所へは、大将にて、中山是非、池田縫平、客輪両人。吉原又兵衛、赤堀大学、伊達与兵衛、坂部三十、川田平兵衛、渥美源五郎、福岡太郎八、渡邊金太夫、久世三四郎、小笠原久兵衛、小池左近、大石外記、村越半右衛門、荒瀬弥五左衛門、林平六、波切金右衛門、竹田右衛門、松下助左衛門、久野平太夫、杉浦能登郎、武藤源右衛門、黒田九郎太夫、三井孫七、芝田四郎兵衛、花井八郎右衛門、椙浦一角、丹羽縫殿左衛門、村松郷左衛門、同郷八、野々山七右衛門、中根日野、丹羽五郎右衛門、木村長兵衛、曽根孫太夫、木村又右衛門、大村弥兵衛、村松郷右衛門、三井孫左衛門、馬渕半市、梶川魚平、桜井九郎右衛門、安西越前、これらを頭分と蒐引の下知役として、与八郎が家来の内よりも、物馴れたる者ども撰出し、都合五百人、弓鉄炮を多く持たせ、大手より大坂村表、三俣村の北、要害の渡りを志し出張りし。段々に足軽を立て、魚鱗に備えて待受ける。
※ 蒐引(しゅういん)− 引き集める。
※ 魚鱗(ぎょりん)− 兵法で、陣立ての一。魚のうろこの形のように、中央部を突出させて、人の字形に配置した陣形。


甲州方よりこの躰を見て、内藤修理亮、先陣にて川を越し、三段に備えを立て、一手は懸けて戦を始んとす。一手は構えず。南西へ押出し、後ろへ廻り、高天神と出張の勢の間を取り切らんとする。一手は東より北へ廻り、獅子ヶ鼻の出張りを押え、・翼に備えて掛かる。
※ ・翼(かくよく)− 兵法で、陣立ての一。鶴が翼を広げたような形に兵を配置し、敵を包囲しようとする陣形。


この時獅子ヶ鼻へ出たる勢は、この方へ向うもなし。いざや三俣村の手に合戦在るは横矢に掛けて追い散らさんと走り来る。この時、甲州勢は塩買坂より一度に下り、長蛇の陣方にて、国安村まで引き続きたり来るを見て、いよいよに三保村出張の勢の跡を黒めんと押し出し、南を指して駆け向う。


[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 05時55分45秒 ) パスワード

巻弐 2


さて、三俣へ出張の者どもは、塩買坂より打ち続き来たるを見、ここにて強みは、返って味方の弱みなりと見切りて、弓鉄砲を多く打ち掛け、颯っと引かば、獅子ヶ鼻の手と一所に成る。敵も左まで急にも攻め蒐(あつま)らず、しつしつと跡を慕い蒐る。その間に右京、三度輪乗りをして後、殿(しんがり)し、下知して云えり。
※ 右京−高天神城、大手池の段の大将、小笠原右京氏義。
※ 輪乗り(わのり)− 馬術で、輪を描くように馬を乗り回すこと。

仮粧軍の蒐引と云うは、ここ成るぞ。今ここにて強みを出し戦わば、二万余の大軍に取巻かれ、城へ付け入らせられん事、猜(うたがい)なし。手早やに兵を(引)上げよと、頭分の者どもに下知をなし、兵を(引)上げる所に、大坂村の山の際、狭所に逸り雄の若者ども、折り敷きて、両方の山崎に、弓鉄砲段々に立て、中道に鑓衾を作りて、慕い来る敵を追い拂わんと慕いける。
※ 化粧軍(けわいいくさ)− うわべだけの戦。
※ 逸り雄(はやりお)− 血気にはやる者。
※ 折り敷(おりしく)− 銃撃などのために、片ひざをついた姿勢をとる。
※ 鑓衾(やりぶすま)− 大勢が槍をすきまなくそろえ並べること。また、その状態。
※ 慕う(したう)− 逃げる相手を追う。

右京大きに怒りて、蒐も引も敵による。この勢と取り合う内に、跡の大軍に囲まれ、城へ付け入らせられん事必定なりとて、鐸にて、急き立て急き立て引き上げる。老巧頭分の者ども、この所は手早やに兵を上げるが手柄ぞと、声々に下知して、兵を上げたりけり。
※ 鐸(たく)− 大きな鈴。昔、命令を発する時に鳴らして大衆を諌めたもの。

あの内藤が三段の備えは、心深き事在り。両頭の蛇の如く、中の手へ掛れば、跡先にて返り打ち、頭へ掛れば尾にて打ち、尾へ掛れば頭にて撃つ。その如くに、中へ掛れば先手後へ廻り取り切らんとす。先手へ掛れば跡の手、城と出張りの間を切らんとす。惣掛りにせんとすれば、塩買坂の大軍続き来る。兵を上げるより上の手はなきぞと見切りて、兵を上げたる武者使い天晴れぞと、敵方にも後々までも評判有るなり。城中には手に汗を握り見居たり。甲州方にも、この武者使いを能き図と武功を感じ、とにかく城中に能き者多しと称すなり。

さて跡に付いて内藤、大手の惣門近所まで追い込み、弓鉄砲を厳しく打ち掛け、早々繰り引くに、引き取る城中の若者ども、喰い止め、一合戦遂げんと門を開かんとせし所に、与八郎本丸より使番を走らせて、塩買坂の坂軍下へ下り、国安まで続きたり。それよりこの間五十町なり。喰い止め合戦最中に、二万余の勢にて付け入り、惣攻めに致すものならば、この城危うかるべし。今度始めて逢う敵と云い、その肌も知り難し。先ず構えず様子を見合う、もっともなりと云ければ、喰い止めず、内藤を静々と引かせけり。信玄公、内藤を褒美在りて、高天神の者どもをも誉め給うと云々。
※ 繰り退く − 退却にあたって全軍が一度に退却すると、総崩れになるので、一部から順に整然と退却すること。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時05分48秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/4ff0935a9a8bb9a48c8cdd3dd397058e


巻弐  11

     小笠原与八郎の守る高天神城も、信長、家康の援軍もなく、落城寸前へ追い込まれている。
  
     本間・丸尾兄弟お討ち死に




与八郎驚き、手を取って感涙を流し、その段は御心安く思し召され候え。弓矢取り身のかように手負い、御忠を抽して給うは誰も本望の所なり。この旨、早々浜松ヘ言上仕るべし。御妻子御在所に候えば、この御事どもも、御心安く思し召せ。与八郎後見仕るべく候。委細申され暇乞いして、その日巳の刻に死す。行年二十八歳。丸尾和泉守嫡子なれども、一類故に本間五郎兵衛養子と成り、上様より御直の証文、御居へ判。元亀二年(1571)未三月十三日に頂戴して本望なりと云って終るなり。
※ 巳の刻 − 現在の午前10時ごろ。また、その前後の2時間。
※ 御居(おい)− 証文の末尾。「御居処(おいど)」は女性言葉で「お尻」のこと。

その弟、丸尾修理亮は同日午の刻に堂の尾にて、胸の真ん中打ち抜かれ、即時に死す。年二十六歳。兄弟同日に打ち死にして、西の丸大将これ無き故、斎藤宗林、その外、組付どもに助け来たると云う。
※ 午の刻 − 現在の昼12時ごろ。また、その前後2時間。

厳しく竹束、亀の甲を押し立て、猪垣屏(べい)を破り切るにも、槍にも、構わず雅責めにして、えいえい声にて、大勢掛かる。堂の尾二重釣り屏を切って落し、多き敵を亡すと云えども、また跡より大軍込み入り、岡部治部、同次郎右衛門、朝比奈金兵衛と名乗り掛け/\込み入るを、城中よりも切って出、火花を散らし戦いたり。この時、敵味方ともに多く討死有り。
※ 竹束(たけたば)− 近世の軍陣用の楯の一。矢玉などを避けるため,竹を束ねて一抱えほどにしたもの。
※ 亀の甲(かめのこう)− 戦国時代に城攻めに用いた兵車で、外面を生の牛皮などで覆ったもの。
※ 雅責め(がぜめ)− 兵員の損傷を度外視した正面突破の攻め。

西の丸分内狭くして、大勢籠り防ぎ難き所故に、是非なくその日の内に甲州方へ乗っ取られ、井戸曲輪を撞(つ)きて防ぐと云えども、最早この城、怺(こらえ)難く相見えける。この手にて、今日百五十二人討死す。残る者ども皆手負い、半死半生者ばかりなり。

この与八郎、浜松へ注進す。西の丸の大将両人ともに討死。西丸も乗り破られ、本丸へ奮入。必死の覚悟に存じ切り、井戸曲輪にて仕切り、敵を支え、昼夜の差別もなく防戦候。城中皆疲れ果て、兵粮も玉薬ともに尽き、今五十三日の籠城危うく、必死の旨申し上げるなり。
※ 玉薬(たまぐすり)− 銃砲弾を発射するのに用いる火薬。だんやく。

この時、岡部治部一番に屏へ乗り、治部は城中より討ち取り、岡部忠次郎、鈴木弥次右衛門、勝れて働き有り。甲州方にも多く討死有るなり。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時16分09秒 ) パスワード

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     巻の参  6     井伊直政

  勝頼遠州発向の事
天正七年(1579)己卯三月下旬、勝頼、遠州国安村に発向して陣取る故に、牧野の城より注進す。家康公、信康公御父子、三州、遠州の諸勢を率し給い、廿五日夜に入り、馬伏塚に御着陣有る。それより廿六日に横砂へ御陣居(す)え給う処に、勝頼如何思いけん、廿七日に国安を引払い、小山へ行き、廿九日に大井川を渡して、甲州へ引き取しかば、家康公御父子も四月三日に浜松へ御帰城有り。信康公も三州岡崎へ御帰城なり。

一 同四月廿三日、勝頼また駿河江尻に出張りし、廿五日、国安村に着陣有り、兼ねて三州へも御注進有る故、信康公も廿七日の暁天にこの処に御着陣まします。諸勢は見附宿に陣取り、家康公御感悦浅からず。早速着陣有る事、左様の武者遣い神妙なりと御褒美有る。翌日、三州勢、袋井まで押出し陣取る。然る処に、如何成る思い入れにてやありけん、国安を引取り、廿九日大井川を渡し引払う旨、注進ある故、また浜松へ御帰城、信康公も三州御帰城なり。三州勢も面々の居城へ帰り休まれける。

  家康公、駿州田中へ御働きの事
一 同五月には、家康公牧野城へ御着陣有りて、田中近所まで、田を踏み散らし、日々騎馬、足軽を出し給い、大井川表にて度々の迫め合い有り。伊井万千代丸、若年なれども毎度先を掛かる。諸人これを感じける。この時、榊原康政と本多忠勝、その外若武者とも大井川を越し、田中の城、揚土曲輪まで押し詰め、既に引き破り入らんとする処に、一條右衛門が手の者ども、城中より切って出、門外にて鑓を合わせ、火花を散らし戦いけり。
※ 伊井万千代丸 − 後の井伊直政。家康の重臣の一人。もと遠江井伊谷(いいのや)の豪族で、今川氏の家臣。十五歳のとき浜松で家康に対面し、小姓に取り立てられ、若年で家康旗本軍の有力武将となった。赤色の具足は「井伊の赤備(あかぞなえ)」と呼ばれ有名。関ヶ原の功によって近江佐和山城主に封ぜられ十八万石を領した。

中根善治郎、鷺坂宗十郎、本多平八、伊井万千代丸、真っ先進み戦うと云えども、城兵勝色に成りける故、能き時分見合い颯っと引く。城兵も跡より家康公の大軍続き、付け入りにせんと気遣いしける故に、その侭城戸をさして堅く固めたり。この時城中より跡を慕うか、また強く切って出たらば、皆討ち取るべきものを、遠慮して引っ込むは、偏(ひと)えに長篠以後は武田の鉾先挫けたりと万人の風聞なり。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時18分24秒 ) パスワード

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巻の参 7             松下助右衛門???


  大須賀康高伏兵を構う事
一 天正七年卯九月七日、大須賀五郎左衛門尉康高、熟々と思案して、我れこの城に有りて敵と白眼あいて居るばかりにては詮もなし。何卒、高天神の城兵を挫き、忠節を尽くし、当城拝領の御恩を報ぜんと思い、組方家の子、家臣の武功有る者と蜜々談じて、城兵を偽り引き出し、討ち取らんと、高天神の城下、三峯山に伏勢を設けたり。

武功者、物馴れたるを簡出し、小笠原久兵衛、同与左衛門、同長左衛門、福岡太郎八、久世三四郎、浅井九左衛門、鷲山伝八、大須賀五六左衛門、坂部三十郎、曽根孫太夫、松下助右衛門、野々山七左衛門、渥美源五郎、これらを頭分として、歩行(かち)立て五拾人、弓鉄砲の者、かれこれ都合百五拾余騎、忍ばせ置き、康高は諸勢を率いし、渥美源五郎、小笠原長左衛門をば先陣として、城東郡焼働きに出でける。
※ 簡出し(かんだし)− 寄り分け出し。
※ 焼働き − 稲や麦を刈り取って略奪する「刈働き」に対して、時間・暇がない時に、稲や麦を焼き払ってしまうことを「焼き働き」という。

高天神よりこれを見て、討って出ると、伏兵跡を取り切り、包み討ちにせんとの方便なり。然るに城兵、伏兵有る事を聞き出し悦び、壱人も洩らさず討ち取らんと、城戸を開き伏兵へ切って掛る。されども大須賀、究竟の切り処に待受け、士卒を配って下知し戦い、再三弓鉄炮にて相掛りしに、
※ 究竟(きゅうきょう)− 物事をそのきわみまで突き詰めること。また、そのきわみ。

城兵の内より中野郷左衛門と云う者、時分能きぞ、鑓を入れよと云う侭に、三番鑓にて蒐入りて討ち取りたり。伏兵と康高が本陣、両方よりはさみ立て戦う内に、渥美と小笠原は城と兵との跡を取り切って、城へ付け入らせんと、横矢に掛かるを見て、城中より金鼓をならし、引き揚げけり。

城兵叶わず漸々城へ逃げ込み、門戸を閉して、城を取られぬを手柄として、息を
継ぐ。この時多く追い討ちにて討れたり。

城近所まで思う侭に焼き働きして、康高、横須賀へ帰る。源五郎、長左衛門首五つずつ取り、与左衛門、久兵衛、福岡、浅井、曽根、野々山、その外皆々首を取る。松下、久世、鷲山、一番、二番の鑓を合わせ、首を取る高名有り。仮初めの迫め合いにて、首数五十七取り、則ち目録を以って注進、首を献上す。
※ 仮初め(かりそめ)− 一時的なこと。また、そのさま。

公、限りなく御感悦にて、それぞれ御褒美下さる。味方には討死十一人、手負少し有るばかり、軽卒、鉄砲にて死者。敵に首をとられし者なし。よって斯くの如くなり。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時20分10秒 ) パスワード

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巻の参 8


 公、駿州御発向御働きの事
一 同月十七日、公、浜松を御出馬有りて駿州へ御進発なさる。北條氏政と御合躰なり。翌日十八日、駿州ヘ入せ給う。諸勢も二つ山に充満す。
※ 合体(がったい)− 心を一つにすること。共同すること。

十九日、松平甚太郎家吉、牧野右馬亮康成に用宗城を攻めさせ、この日、田中の赤池に御座有りて、それより榊(神)原まで焼き働き、藤枝に引き取らせ給う。近辺の苅田をなされ、この時駿州由井、倉沢焼き働き有り。勝頼は沼津に居す。北條は三島に居す。

廿五日、康高と松平周防守と後殿(しんがり)して、敵を拒(こばみ)き。馬筏にて大井川を打ち渡り、晦日に牧野城に入らせ給う。十月朔日、浜松へ入らせ給う。甲州勢も引入るなり。

  高天神向い城、御取り立ての事
一 十月中旬に、家康公横須賀へ御出馬有りて、高天神近辺、御勢を押し出させ給い、高天神南の方、大坂村、三井山と云うは、山の頂上に清水の出る井、三つ有り。古来より三井大日堂有り。山上水たくさんに出る高山、四方嶮岨なり。東脇南の方に谷口有り。風呂の谷と云う深き谷有り。東北も峙(そばだち)鳥も翔けり難きなり。高天神追手筋を目下に見て、城東郡中、皆一目に見ゆる。水木の便有る能き砦なり(三井山砦)。

次に小笠山砦、これは先年掛川天王山合戦の節、御城取り成られ、御本陣に成る故、御殿と云々。往古より小笠山権現社地なり。これ故に、城東郡を小笠原庄と云々。小笠原氏神を祝し奉るとなり。小笠原山と云うを、云い能きままに、小を上略して、笠原と云うなり。また小笠とも云々。下略すなり。先年吉例によって、今度また砦に成され、甲州より後詰めに勝頼出る時、御本陣に成さるべしとの御支度と云々。

また中村郷の田の中に有る山を砦に築き(中村砦)、堀を深く掘り、高土居をつき、高屏を掛け出来(しゅったい)して、さてまた横砂城をも丈夫に仰せ付けられ、御機嫌浅からず、今よりこれを城東郡と申すべきと命ぜられるゝなり。それより浜松へ御帰城ましますなり。

一 天正七年十一月廿七日、勝頼また国安村へ出張り有り。公も見附まで御出陣ある処に、勝頼、如何思し召しけん、二、三日有りて、甲州へ引き入り給う。公も浜松へ御帰陣なり。

遠州高天神記巻之参 終り

[86]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時26分37秒 ) パスワード

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巻ノ四 1


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        2


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        3


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        4



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        5     とった首の数

この度討ち捕らせ給う処の首級を算えさせ給うに、凡そ七百三十五なり。
(以下の首数を合計すると、737となる。古文書にはこんな違いはよくある。現代人のように厳格ではない。)

   首帳の次第
一 百三十八 鈴木喜三郎と同越中守、手へ討ち取り
一 七つ   内藤三左衛門
一 十五   水野国松丸
一 十八   本多作左衛門
一 五つ   本多庄右衛門
一 六つ   菅沼次郎右衛門
一 五つ   三宅惣右衛門 
一 四十弐  酒井左衛門尉
一 廿一   本多彦四郎
一 七つ   戸田三郎右衛門
一 十六   石川長門守
一 百七拾七 大須賀五郎左衛門
一 四十八  石川伯耆守
一 十八   松平上野助
一 二十四  本多平八郎
一 六つ   植村庄右衛門
一 六十四  大久保七郎右衛門
一 四十一  榊原小平太
一 十九   鳥居彦右衛門
一 壱つ   松平玄蕃頭
一 三つ   久野三郎左衛門
一 壱つ   牧野菅八郎
一 壱つ   山瀬清助
一 二つ   近藤平右衛門
一 三つ   鳥居儀左衛門
一 四十九  廿三日に山林にて探し出し、
       雑兵どもに、かくの如しなり。

一 高天神、既に落城に及びしかば、その翌廿三日、諸手へ討ち取る処の首とも、実見に及ぶと云えども、宗徒の者どもの首は、さまでなく、その上討ち洩らされたる城兵、近辺の山林に逃げ隠れ居る由。その聞え有りければ、諸将に命じせさせ給い、深い山谷まで尋ね探しける処に、雑兵等は数十人尋ね出して、討ち取りしかども、宗徒の者どもは、壱人も居らざりけれ。所々より切り抜けて、甲州へ落ちて行く者も、数十人ある由、風聞あるなり。
※ 宗徒(むねと)− ある集団の中で主だった者。中心となる者。

[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時29分33秒 ) パスワード

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「遠州高天神記 巻の四ノ6」

                     孕石主水切腹
                     大河内伝左衛門

   孕石主水切腹の事
一 孕石主水と云う者、天正九年辛巳三月廿二日の夜、高天神落城の時、生け捕りに成り、切腹仰せ付けらる。これは竹千代公六歳に成らせらる頃より十九才まで、駿河府中の少将の宮の町に、御気遣い成られ御入りの時、隣屋敷にて、上の原へ鷹野に御出、孕石が林へ、御鷹前はねて入る時、居の上に入り候えば、参州の忰に飽き果てたると度々申しつる。我も覚えた、孕石も存ずべしとて、我れ飽き果てたる孕石なれば、兎に角、腹を切らせよと、上意下る。孕石に申し渡す。
※ 鷹野(たかの)− 鷹狩りのこと。
※ 御出(ぎょしゅつ)− 貴人が外出すること。おでまし。
※ 飽き果てる − すっかり飽きること。

孕石承り、その儀なり、悔しき事もあらずとて、南に向いて腹を切るを、傍より申しけるは、流石孕石ほどの者が、最期を知らず。西へ向いて腹を切ると云う。汝は物を知らざるなり。仏は十万仏土中、無二また無三、除仏方便説と説き給う時は、西方ばかりに極楽は有ると思ふか、あら胸狭(せば)き事なり。何の極楽を嫌わんやと、南に向きて腹を切りたりける。
※ 仏は十万‥‥ − 法華経方便品第二の文。意は「十方仏土の中に、(ただあるのは一乗の教えのみで)二乗も三乗も無い。しかし、仏が方便して説くは除く。」


 大河内が事
一 大河内伝左衛門と申す者、駿府に御気遣いの時、細々御前へも参り、御用をも達し、御奉公ぶりを致したる者なれば、城より何時切って出たるとも、御助け有るべき思し召しの処、石川伯耆守攻め口の前に、先年丸尾和泉守が子、修理允が古屋敷の跡に、石風呂有り。この中へ入りて居たりけるを、命を御助け成らるのみならず、色々の物を下され、送りを付けて、国へ御返えし有ける。御情けの程こそ有り難けれ。
※ 大河内伝左衛門 − 大河内の高天神城籠城については2つの説がある。一つは、天正二年に武田勝頼により落城した際、籠城側であった大河内は、高天神城からの退去を拒んだために、石牢に繋がれていたが、七年後に無事救出されたという説である。もう一つは、大河内は武田方に寝がえり、そのまま高天神城に留まったとする説である。高天神記は、どうやら後者の立場を取って書かれている。前者では石牢が、後者では石風呂となる。但し、現在の高天神城跡には大河内が繋がれたという石牢の跡が残っている。
※ 石風呂(いしぶろ)− 蒸し風呂の一種。岩屋や石室でする蒸気浴。石を焼いて水をかけたり,海藻を焼いたりして,蒸気を発生させる。

さて、高天神の城、天正二年戌の年、甲州へ攻め取られ、同九年辛巳の年、浜松へ御取り返えし、城東郡御手に入る事、天下泰平に御治め成らるべく相なりとて、上下さざめき、御感悦限りなく、浜松へ御帰城成られ、諸士に御褒美、加増など下され、御暇給わりて、各諸将、在所々々へ帰り、万歳を唱え休足あるこそ目出度けれ。
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時34分29秒 ) パスワード

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   巻ノ四  7


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        8

          大坂方渡瀬小次郎、当関白秀次公御謀叛により切腹


今日より3回は「遠州高天神記 巻の四」の追記である。

これより世間申し伝える古今聞き書き、また今見る処、昔の跡を記す。

一 渥美源五郎は横須賀七人衆の内なり。関ヶ原御陣の翌年、関東のくるり(久留里)と云う処より、本(もと)知行とて、横須賀、昔の知行所へ御返し成らる事有り。大須賀出羽守殿御代に、関東横田にて三百石ずつ、右横砂衆、妻子料として公より下され、則ち右七人とも妻子置き、その身ばかり横須賀へ参勤するなり。

大須賀五郎左衛門尉、実子なき故に、榊原式部殿御舎弟、国千代殿と申すを養子として、出羽守殿と云々。この出羽守殿、御病気に依って、有馬へ湯治に御上り、伏見において、二十七歳にて死去。御男子二歳、国千代殿と云々。御家督仰せ付けられ、後見に五郎左衛門殿舎弟、大須賀五郎兵衛殿、遠州久野城主五千石取り給うを仰せ付けられ、横須賀御支配なり。

よって五郎兵衛殿、横須賀を御下知有る故、七人衆思いけるは、一家の御主人と云うなら、五郎兵衛殿御下知ならんも、謂われなく、我々元は遠州代々の国有る人、今川家官令として数代随う故に家臣となれり。大須賀とも傍輩なれども、時の運による事なり。いざや横田へ引っ込みて、天下より下し置かれる知行にて、世を遁れんと、久世三四郎、坂部三十郎は立ち退き、渥美は我が元大勢にて苦労に成る親類多し。横田の知行ばかりにては成るまじく、さらば在郷し、我が知行所へ篭居せんとて、病気と云いて、土方村上下残らず知行なる故、ここへ引き篭り、病気と云い久しく居て、終にここにて病死なり。
※ 天下(てんか)− 一国を支配する者。天子・摂関・近世の将軍など。ここでは、家康のこと。
※ 篭居(ろうきょ)− 外に出ず家の中に閉じこもっていること。

二代の源五郎、横須賀へ出て、国千代殿補佐の臣と成り、国千代十一才にて大坂冬御陣の御供の時、源五郎も御供申すなり。源五郎甥、大坂村大石喜平次を召し出し、一疋一両の御供相勤めさせたり。同源五郎甥、大石彦左衛門、これは出羽守殿御代より召し出され、御奉公申す。国千代殿御守役にて、大坂御陣御供申すなり。翌年、大坂夏御陣場にて、国千代殿、榊原の家督仰せ付けられ、御越しの節、大石彦左衛門も御供して、榊原の家へ行くなり。
※ 一疋一両 − 戦国時代、馬一匹、具足一式で軍役に服した、下級武士で普段は農耕に従事した。土佐の長曾我部氏の「一領具足」、阿波の蜂須賀氏の「一領一疋」、薩摩の島津藩の「外城衆」など、同じ類いである。

一 大須賀五郎左衛門康高、天正十六年子の六月廿三日、横須賀にて病死、撰要寺に葬る。男子これ無き故に、その世継ぎは榊原式部少輔御舎弟、大須賀国千代忠政と云々。上総国久留里と云う所へ、天正十八年に拝領して、御国替え有りて、その跡、横須賀は大坂方渡瀬小次郎、大坂より拝領後に、左衛門尉と云う。当関白秀次公御謀叛に組む証文判形これ有り。よって、文禄四年に流人と成り、臼井峠にて切腹なり。
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時36分56秒 ) パスワード

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巻ノ四  9


                     再び松下助左衛門!!!



「遠州高天神記 巻の四」の追記

一 横須賀は文禄四年より慶長六年まで、有馬玄番頭拝領在城なり。この内に城東郡三万石の所を、五万八千五百石余に玄番頭検地して打ち詰まり、今に百姓悪(にく)む悪地頭と云々。

一 慶長六年より大須賀五郎左衛門殿嫡、国千代忠政、久留里より本知帰りと云いて拝領す。引っ越し給う後、大須賀出羽守殿と云う。慶長十二丁未年、病気、よって上京、有馬へ湯治して、九月十一日、城州伏見において卒去し給う。行年廿七才。法名
  華馨院殿前羽州泰岩典安大居士
則ち、榊原故式部大輔忠次の親父なり。
※ 城州(じょうしゅう)− 山城国の別名。
※ 卒去(そっきょ)− 身分のある人が死ぬこと

一 右忠次十一才にて、大坂冬御陣ニ御出立、十二歳にて夏御陣。大坂において榊原式部少輔死去故、跡式ニ仰せ付けられ、彼の家を相続して、榊原式部大輔忠次と云う是なり。横須賀家中は足軽まで駿河御公御請け取りと成り、掛川の御城主安藤帯刀殿、御下知にて、武藤万休、松下助左衛門郡代にて支配これ有る後、紀州へ遣され、元和六年に引っ越すなり。

一 久世三四郎、坂部三十郎は横田に引っ込み居す処に、大坂御陣の時、公より御尋ね有り。横須賀七人者には先年妻子料取らせたり。今その内、坂部と久世は見ざると仰せられる。横田に引っ込みある旨、申し上げる時に、公、幸いの事なりとて、則ち召し出され、上意には昔の血臭き事に遭いたる者は、大方死してなし。汝らは我が目前にて勇功有りし者どもなりとて、五千石ずつ下され、今度大坂へ供して、我が籏本の若き者どもに、血臭き目を教えよと、上意あり。誠に弓馬の道に叶いたる有難き上意なりと、人々唱えけり。これ天運の引く処なりと、世上にてその頃申すと、ある老人、能く様子知りて語るなり。

一 ある老人の物語に曰く、横砂七人者に横田にて妻子料知行下し置かれる事は、その頃は未だ大坂と云う大事有り。天下に御気遣い専ら有る時分なり。国千代殿若年なり。忠政、関東より遠州へ御返し有る事を御心元なく思し召し、かの家の大身者七人の妻子を、何となく人質に、横田に止め置く時は、国千代殿は若輩と云うとも、慥に思し召すとの御事なり。

一 竹田左衛門(後に十左衛門というなり)、これは横須賀後の国千代君忠次の御供して、榊原家へ行く故に、紀州へ参るなり。この時、御供申す者、大石彦左衛門、村野三之丞、竹内十左衛門、その外、五、六人御供なり。今に子孫これ有るなり。大石彦左衛門は、その後、紀州の木村長兵衛と云うは舅なり。この長兵衛、男子なく跡絶ゆる故、長兵衛歎き招くに付、榊原を御暇願い候て、紀州へ参る。木村彦左衛門と云うなり。
[90]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月30日 06時42分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様
箱柳永田様

 高天神城に関していろいろな情報ありがとうございます。

 この時代の背景は実にややこしいので、いただきました情報を基に、一度
整理してみます。

 併せて、あを様ご指摘の松下氏、松島氏等に関しても考察したいと思います。

 新たなスレッドを作っていただきましたので、そちらの方へ記したいと思い
ます。
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時42分44秒 ) パスワード

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巻ノ四 10  最後        角替次郎兵衛

                  柄本明の奥さんの角替和枝のご先祖さま?
                  角替氏は最近は静岡県小笠郡大東町に多く400人ほどみられる。
                  日本全国で500人だそうです。


一 渥美源五郎は横須賀の城、三ノ丸に居す。知行は土方村上下残らず領す。故源五郎が墓とて、上土方村に印の松大木有るなり。源五郎が鑓三本、高天神落城の節、預け置くとなり。子隣村、角替次郎兵衛と云う、名主の所に一本有り。大身長一尺八寸有り。或いは一尺五寸有るなり。渥美屋敷は土方村、今名主、五郎左衛門屋敷なり。

一 相良の城はその後、公折々御鷹野に成らせられ候故、御殿を立て給う故に、相良御殿と云々、今にその跡有り。

一 高天神向い城、六ヶ所の砦城、今に有り。四方の山々切り立て柵を付けたる跡も、今にあり。この向い城の心は、亀六の備えと云う謀策たるべし。甲州より後巻き有れば、六ヶ所の砦城に篭り蟄居し、後巻なき時は城を攻め、或いは喰い止め、信長を引出し両旗にて、長篠の如く敵を討ち取るべき御軍法なり。
※ 向い城(むかいじろ)− 敵の城を攻めるため,それに対して構える城。つけじろ。

誠に深々妙々の御事と、今思うも楠正成この術を能く用いたる方便、亀六の備えと云いて、子孫ヘ遺言に申し置きたる事有り。古事有り、曰く仏書修行禄に出たるを見るに、昔、天竺にて、ある僧、貪慾を離れんとて、十二年川辺に蟄居して、悟らんと思えども及ばず、これをなげく処に、ある夕暮に方一尺ばかりの亀這い出て、僧の居たる庭へ出て這い廻る。水犬来てこれを食わんとする時、かの亀、四足、首と尾を胴の内へ引っ込む。水犬、亀を舐り廻し石かと思いけるか、外へ行き去るなり。時に右の亀、四足と首尾と六つを出し、這いて河水に入り、水犬の難を遁れたり。

水犬とは何のことなのか。意味が調べられなかった。

これを僧見て悟り、六足は則ち六根なり。眼、耳、鼻、舌、身、意の六根を知らぬ時は貪慾に離るゝと悟りけると有り。この意を正成軍に写し、千早の城に用いけるとなり。誠に千歳を経るとも、その心通り達する事なりと、愚かなる我が心驚くばかりなり。

一 高天神より三町ほど北の山際に、石風呂の跡有り。これは西の丸を預る丸尾和泉守長子、修理亮が陣屋敷に有るなり。和泉守は数代、同国高部に知行有りて、この時分、老衰なり。この石風呂の内に大河内が隠れ居て、死を御免有りしとなり。

一 高天神西の丸辺を、今所の者、丹波曲輪と云々。これは大将岡部丹波守、西の丸を出、林ヶ谷にて討ち死に故に、雑人の云い伝えて云うかと了簡いたすなり。


一 横田甚五郎、桐木市兵衛は西の丸を出、坤の方、犬戻り猿戻りと云う難所の山を抜け出るなり。今に甚五郎抜け道と所の者云い伝えるなり。
  時に、嘉永三戌年三月吉祥に、これを写し畢(おわ)んぬ。
 嘉永年中                頭主
                      柴田氏

終了
[92]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 06時46分16秒 ) パスワード

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そろそろ切りの良いところで上記URLへ移動しましょう。
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