[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時09分54秒 ) | パスワード |
市野氏の謎が解明されました。
スレッド42からの転載です。
[63] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月04日 18時26分45秒 )
実は『家譜 市野家物語』には、
市野氏の家紋「丸に一文字」の由来の説明が出ておりました。
少し長くなりますが、引用します。
「市野家の口伝によれば、
徳川家康の馬が市野を通過中、具合が悪くなり、袴田家(市野氏と名乗る前)に立ち寄った。
徳川家康が市野村を通過したのは地理的に見て、金指から橋羽に向う途中と考えられ、
永禄11(1568)年12月14日のことと推察される。
袴田家は祖父、寺田右京進眞宗、実は今川の家臣であったようである。
袴田家では家康を快く迎え、代わりの馬として袴田家で飼っていた馬を差し出した。
同時にかつお節を丸い盆に入れて差し出したとのことである。
かつお節は勝武士(かつぶし)という意味で縁起を担いだようである(「か
つぶし」とは浜松地方の方言である)
差し出した馬が気に入った家康は、その場で家臣の厩別当(うまやべっと
う)を呼び、袴田と馬談義をさせた。
二人の会話を楽しそうに聞いていたとのことである。
天正17(1589)年、鷹狩に来た家康公から、
在名市野を姓とし、丸い盆にかつお節一本の「丸に一文字」を永久家紋とせよとの仰せがあった。」
ということであります。
「丸い盆にかつお節一本」=「勝武士」という話にはビックリです。
[64] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月04日 21時23分20秒 )
さて、ご子孫がまとめた市野氏の系図ですが、これも想定外のビックリがあります。
では―
@寺田右京之進眞宗:市野の前は袴田、袴田の前は寺田でした。
↓
A袴田利宗:宗安寺には袴田の墓標がたくさんありました。
↓
B袴田五郎右衛門:惣太夫眞久の兄です。
当初、家康との対応をしていましたが、関東移封のとき同行を病気のため断り、
弟の眞久が行くことになった(代官になった)。
元和年中、本家・新家の争い、弟系の代官を相手取り騒動を起こしたということで裁かれ、護送中に金谷の宿にて切腹。
↓
C初代 袴田(市野)惣太夫眞久:家康公三方原御陣の節、御馬御用仰せつけられ、御調馬御用承り信陽関東処所にてお馬を調べ、鹿毛馬を差し上げた。
天正17(1589)年、御鷹狩に来た家康公から在名市野を姓とし、丸に一文字を永久家紋とすべき仰せを蒙る。
慶長5年京都に呼び出され、家康公に差し上げたお馬を預り、遠州在所に於いて天領の代官を命ぜられる。
江戸には兄の代わりに出仕する。
↓
D市野惣太夫清原正次(實次):父に代わり御馬を預り御代官をつとむ。
紀伊大納言頼宣卿駿遠両国を領したまうとき附属せられ、また紀伊国に封を移されしのち、秀忠公に仕え奉り、御代官をつとむ。
↓
E市野惣太夫眞利
↓
F市野惣太夫眞防
↓
G市野孫三郎眞明
ザラッとこんなところです。
名前が、寺田、袴田であったというところをもう少し探究したいです。
また、代官職・家督相続で新屋(代官)にたてついたということで死罪とは、何とまあビックリ。
松島系とどうつながるのかを探っていますが、家紋はこちらからいただいていると思います。
また、寺田が親戚にいるというのも共通しています。
松島は源氏にこだわっていますので、やはり小笠原系の松島ということになるのではないかと思います。
では箕輪の松島氏が何故袴田氏と懇意になったかという理由・・・謎解きのポイントです。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 06時02分49秒 ) | パスワード |
M氏と袴田氏の接点捜し:
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101457_87.html
レス<73>より
袴田姓の出自:
『全国名字大事典』(森岡浩著)によると
袴田【はかまだ】静岡県の名字。
県西部に集中しており、特に浜松市に多い。
戦国時代は井伊氏の家臣に袴田氏があった。
江戸時代には遠江国各地に袴田家があった。
このあたりでしょうか?
以下は当たらないような。
豊田郡二俣村(浜松市)の袴田家は橘姓といい、代々名主を務めた。
つまり饒速日の子孫の物部氏?
M氏は源姓なので当たらないような?
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 06時04分54秒 ) | パスワード |
レス<75>より
松嶋忠兵衛源常茂の6男が大瀬村袴田清兵衛の養子となっています。
昔のよしみからでしょうね。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 06時26分02秒 ) | パスワード |
レス<80>より
遠州袴田氏は木曽義仲の末裔。
レス<81>より
朝日将軍木曾義仲の後裔で遠江出身の袴田氏が後に改姓し、朝日重政が出雲松江藩家老連綿となった。
朝日姓は家康からの拝領ですって!
朝日重政
遠江に生まれる。初名・袴田千助。
徳川家康の家臣。
1573年、武田家との戦いで駿河田中城にいた西郷伊予という勇将を朝日が昇る時間帯に短銃で討ち取る。
それにちなんで家康から朝日の名字を賜った。
1601年、結城秀康の家臣となり、通称を丹波に改め松平直政の守役となる。
大坂冬の陣に従軍し、真田丸の攻防で奮戦。直政の移封にも従い、出雲松江に移封された際に7千石を与えられた。
1641年死亡。
管理人・・・重政が直政の守役になった経緯について下記のような話があります。
結城秀康が江戸にいた頃に火事がありました。
この時、重政の息子が秀康の小姓として勤めていましたが、
物を取ってくるように言われたものの重くて持っていけませんでした。
そのため、秀康が
「父に劣る子だ」
と叱責。
息子は気に病み自殺してしまいました。
秀康は重政に詫び「この子を自分の子と思って育ててくれ」
と言って直政を預けています
(『鶴の毛衣』)。
朝日家は代々松江藩の家老を務めており、
後裔の茂保は松平治郷(不昧)と共に火の車だった松江藩の財政を立て直しています。
参考文献:三百藩家臣人名事典・島根県歴史人物事典
「父に劣る子」はお前だろーがー > 秀康
松平直政
時代
安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕
慶長6年8月5日(1601年9月1日)
死没
寛文6年2月3日(1666年3月8日)
改名
河内丸→国丸(幼名)→直政
戒名
高真院勤誉一空道善
墓所
島根県松江市外中原町の月照寺
和歌山県高野山奥の院内
官位
従五位下、出羽守、従四位上、左近衛権少将、贈従三位
主君
徳川秀忠→家光→家綱
藩
上総姉ヶ崎藩主→越前大野藩主→信濃松本藩主→出雲松江藩主
氏族
越前松平家
父母
父:結城秀康、母:月照院(三谷氏)
兄弟
忠直、忠昌、(直政本人)、直基、直良、喜佐姫(毛利秀就室)
妻
正室:久姫(松平忠良の娘)
子
綱隆、近栄、隆政、直丘、
駒姫(松平直矩正室)、鶴姫(佐竹義処正室)、 竹姫、万姫、亀姫、喜耶姫、松姫(大久保大善夫人)
松平 直政(まつだいら なおまさ)は、江戸時代前期の大名。上総姉ヶ崎藩主、越前大野藩主、信濃松本藩主を経て出雲松江藩の初代藩主。直政系越前松平家宗家初代。
生涯[編集]
慶長6年(1601年)8月5日、越前北ノ荘藩主・結城秀康の三男[1]として誕生。近江国伊香郡河内で生まれたため、河内丸と名付けられた(のち国丸)。
慶長10年(1605年)、家臣の朝日重政に預けられて養育され、慶長12年(1607年)に父・秀康が病死すると、その跡を継いだ異母兄・忠直の庇護を受ける。
慶長16年(1611年)4月17日には、忠直の計らいにより京都二条城で祖父・徳川家康に謁見した。
のちに、朝日重政と忠直それぞれの偏諱により直政を名乗るようになった。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣に出陣し、冬の陣では真田信繁(幸村)が守る真田丸にて戦った。大坂夏の陣では忠直に従って活躍し、忠直軍は敵将・真田信繁をはじめとする多くの敵将兵の首を獲り、大いなる戦功を挙げている。大坂の陣後、その戦功を祖父・家康から褒め称えられ、家康の打飼袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えられた。
忠直も直政の活躍を賞賛し、自身の領内に1万石の所領を与えている。
元和2年(1616年)5月6日には、江戸幕府から上総姉ヶ崎藩1万石と同年6月には従五位下出羽守に叙任され、正式な大名となった。
元和9年(1623年)、兄・忠直が乱行や叔父・徳川秀忠との不仲から家督の座から隠退させられて豊後国に配流されると、直政は寛永元年(1624年)6月、越前大野藩5万石に加増移封され、同年8月6日に従四位下に昇叙(出羽守如元)した。寛永3年(1626年)8月19日、侍従を兼任する。
寛永10年(1633年)4月22日、信濃松本7万石へ加増移封となった。寛永11年(1634年)、松本城に月見櫓、辰巳附櫓を建てて、城門の修復を行うが、これは将軍徳川家光が上洛の帰路に木曾路を経て善光寺参詣の後、松本に立ち寄る予定だったためという[2]。寛永13年(1636年)には松本に新銭座を起こして寛永通宝松本銭を鋳造するなど、家光の従兄弟として小藩では許されない大事業を認可されている[1]。また職人の人足役を免除し、松本町の地子年貢(地役)も免除するなどした[3]。
寛永15年(1638年)2月11日、出雲松江18万6千石(及び隠岐1万4千石を代理統治)へ加増移封され、国持大名となった。直政は領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主・堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい。寛文3年(1663年)3月25日、幕命を受けて大沢基将とともに霊元天皇即位の賀使となり、上洛した。同年5月26日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任した。出羽守如元。しかし、同年11月26日に病となり、寛文6年(1666年)2月3日、江戸藩邸にて病死した。享年66。家督は長男の綱隆が継いだ。墓所は松江市の月照寺。
1907年(明治40年)5月10日 - 特旨を以って位階追昇される。贈従三位[4]。
なお、1927年に松江城本丸に米原雲海による銅像「直政公初陣像」が建立されたが、1943年に金属供出で失った。2009年、島根県庁前に倉澤實による銅像「松平直政公像」が再建された。
人物・逸話[編集]
口達者な人物で、「油口」と影では言われていたほどであったという。ちなみに、直政が家康からもらった打飼袋は月照寺にある。
大坂の陣のとき、生母に「祖父(家康)の目にかなうよう、卑しき母の子として生まれたと後ろ指を差されることのないように」と言われた(『藩翰譜』)[5]。
なお、大坂城の真田丸攻めで奮戦したことから、家康に賞賛されたという(『君臣言行録』)[5]。
大坂冬の陣の際に、生母の身分が低く部屋住みの身分にあった直政には軍資金がなかったが、家来の神谷兵庫が西本願寺から2千両もの大金を借りてきたおかげで出陣できたといわれている。
大坂夏の陣の際に、直政の家臣・武藤太兵衛が直政の性器(陰嚢)を握り、「人は怖気づいた時は縮むものですが、殿のは縮んでおりません」と述べたといわれている。
隠岐諸島・海士にある後鳥羽天皇陵の修繕、および新社殿の造営を行った。
出雲入府の際、武名の高かった福島正則旧臣の大橋茂右衛門を6千石で召し抱え、家老としている。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 06時34分06秒 ) | パスワード |
M氏と袴田氏の関係は
ということで「信濃つながり」でしょうか?「さらに源氏」つながり。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 06時56分15秒 ) | パスワード |
http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht163610
『長野県立歴史館/信濃史料』 信濃史料
巻十六 天正一一年(1583)〜
天正一五 朝日重政、伊那郡淵井市左衛門の知行地を注す、 某貫高覚書
499 / 586 ページ
天正一五年九月一五日(1587) 朝日重政、伊那郡淵井市左衛門の知行地を注す、 某貫高覚書
[出典]
淵井文書・○・上伊那郡箕輪町・淵井清氏所蔵
淵井文書・○・上伊那郡箕輪町・淵井清氏所蔵
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 07時02分16秒 ) | パスワード |
知行地を注す
の意味が分かりません。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 07時12分36秒 ) | パスワード |
伊那郡淵井市左衛門とはどなた?
「信濃史料」 巻十六 (300頁〜)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Etc/2000710100/topg/16004.html
天正一四年正月一四日 1586 菅沼定利、伊那郡淵井市左衛門に知行を宛行ふ、 397
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E4%BC%8A%E9%82%A3%E9%83%A1%E6%B7%B5%E4%BA%95%E5%B8%82%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E3%80%80%E3%81%AF
[PDF]Page 1 Page 2 Page 3 Page 4 Page 5 箕輪町は、 伊那谷の ...
箕輪町は、 伊那谷の北部、 歴史の古い蒲原の里にあり、 南北に連なる東西の山々 と、 そこから流れる. 中小河川、 ..... 地誌等では、 延享3年 (ー746) に、 箕輪郷の関盛胤が、 伊那郡各郷村の変遷. を記述した ... 同じ頃、 淵井市左衛門住す。 天正中菅沼大膳 ...
[PDF]Page 1 Page 2 箕輪町は伊那谷の北部にあり、 豊かな自然に ...
江戸時代に入り、 延享3年 (ー7船) に、 箕輪郷の関盛胤が伊那郡各郷村の変遷を記述した 『伊那字昂、 ... 同じ頃、 淵井市左衛門住す。 ... 行なったのは市村成人氏である。
開けられないです。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 07時20分10秒 ) | パスワード |
フチイ 渕井 長野県上伊那郡箕輪町。
フチイ 淵井 長野県上伊那郡箕輪町。長野県上伊那郡箕輪町東箕輪南小河内で1586年(天正14年)に記録あり。
http://www2.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%B7%B5%E4%BA%95
【名字】淵井
【読み】ふちい
【全国順位】 48,628位
【全国人数】 およそ40人 絶滅の危機!
現長野県である信濃起源とも言われる。
大村藩にみられる。
近年、長野県に多く特に上伊那郡箕輪町に集中してみられる。
戦国時代にはM氏や袴田氏と知り合いだったのかもですね。
[10] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月05日 09時24分57秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
たくさんの貴重な情報、ありがたく読解させていただきます。袴田、朝日
そのあたりに謎解明のカギがありそうです。
そういえば、宗安寺に松島で三つ巴の墓が1つありました(頭の隅で気に
なっていました)。
「松島」はアイデンティティーだと思います。先祖からの名前を守ったに
せよ、新たに改名したにせよ、そこには特別な意味合いがあったはずです。
そのアイデンティティーとは何か?
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 13時24分39秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ホントにM氏のアイデンティティは何だったんでしょうね?
M氏は源姓なのは確かですね。
では、どの源氏か?
小笠原系?
木曽義仲系?
その他?
里見・新田、こんなあたりでもあるようですし。
家紋が一体何なのか?
鍋の蓋=@=新田系だったのを市野氏との関係で「お盆に鰹節」に替えたのか?
まだまだ史料捜しに奔走しなくてはいけませんね。
山下氏の@紋はどうしてなんでしょうね?三蓋菱は分かりますが。
M氏で丸に三つ巴紋は服部家の丸に三つ柏紋のマネだったんでしょうか?
なかなか分かりませんね。
[12] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月06日 08時38分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨夜はもう一度M家の系譜にもどって一つ一つの文言・名前をかみ砕いて
おりました。
その中で、一つ気になった事がございます。八幡神宮・八幡社と言えば当
然神社ということになりますが、対助の伯父さんにあたる清八郎が「八幡寺」
の住職であったと書かれておりました。八幡寺という概念がそもそもわかり
ませんが、いったいそんな寺があるのかと調べましたら、一番近い所で山梨
県南アルプス市古市場、即ち富士川沿いに国道52号線北上すると身延町に
出ます。さらに北上すると富士川町、その北になります。近くに清水八幡宮
があり、安藤家住宅もあります。この寺は弘法大師の創建といわれています
が、それ以上の情報がありません。
対助の伯父さんがもし甲斐と関係しているならば、祖先も甲斐に関係する
可能性があり、甲斐源氏の線も洗わなければいけないなと思っています。
甲斐市にも松島という所がございます。松島に住んだ源氏の松島氏もひょっ
としたらいるのではないかと想像しています。
本日は、井伊谷の龍潭寺に行く予定です。井伊氏の理解の強化と井伊氏に
視点をおいた浜松でのパースペクティブを捉えてみたいと思っています。
家康のナンバー2であった直政は、浜松では意外と理解されていません。
直政は家康の浜松時代、どこに住み、地元にどんな活動の足跡を残したのか、
そしてどんな人脈、影響力があったのか、井伊谷だけでなく浜松全体の問題
として捉えたいと思っています。
龍潭寺で史料を仕入れることができましたら、明後日の月曜日にお送りし
ます。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 14時00分23秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
新しい史料が手に入りましたらよろしくお願い致します。
もう1度「松島姓」について引っ張って来ました。
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9D%BE%E5%B3%B6
【全国順位】 359位
【全国人数】 およそ59,400人 けっこういらっしゃるもんですね。
○諏訪神党、
○滋野氏(中世以来の豪族。信濃の族は清和天皇の子孫)、
◎清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
?安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)、
?熱田神宮社家(大原真人)、
?紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)などにもみられる。
「島」は一定の小区画を表す。
北海道 519位 およそ1,700人 明治維新で屯田兵で移住?除外
青森県 868位 およそ 200人
岩手県 865位 およそ 200人
宮城県 1,324位 およそ 100人
秋田県 708位 およそ 200人
山形県 1,619位 およそ 40人
福島県 912位 およそ 300人
茨城県 605位 およそ 900人
栃木県 134位 およそ2,800人 結構多い
群馬県 81位 およそ4,600人 すごい数 ココはアヤシイ
埼玉県 331位 およそ3,700人 すごい数 ココもアヤシイ
千葉県 487位 およそ2,000人
東京都 354位 およそ6,000人
神奈川県 419位 およそ3,400人
新潟県 922位 およそ 400人
富山県 136位 およそ1,300人 結構多い。何故?
石川県 319位 およそ 600人
福井県 446位 およそ 300人
山梨県 610位 およそ 200人 意外と少ない。驚き
長野県 250位 およそ1,700人 まあまあ。でもそんなに多くはない
岐阜県 820位 およそ 300人
静岡県 184位 およそ3,700人 すごい数
愛知県 561位 およそ2,000人
三重県 248位 およそ1,300人
滋賀県 585位 およそ 400人
京都府 674位 およそ 600人
大阪府 414位 およそ3,400人
兵庫県 515位 およそ1,800人
奈良県 429位 およそ 500人
和歌山県 464位 およそ 400人
鳥取県 295位 およそ 400人
島根県 298位 およそ 500人
岡山県 383位 およそ 900人
広島県 271位 およそ1,900人
山口県 649位 およそ 400人
徳島県 262位 およそ 600人
香川県 1,087位 およそ 100人
愛媛県 692位 およそ 300人
高知県 704位 およそ 200人
福岡県 435位 およそ2,100人
佐賀県 941位 およそ 100人
長崎県 172位 およそ1,500人
熊本県 297位 およそ1,200人
大分県 1,387位 およそ 100人
宮崎県 1,650位 およそ 90人
鹿児島県 802位 およそ 400人
沖縄県 441位 およそ 400人
栃木・群馬・埼玉系は 新田系?
富山に多いのが不思議
長野は諏訪系か?滋野系か?
静岡のは?
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 14時09分44秒 ) | パスワード |
奥州安倍氏系松島氏
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%B0%8F+%E7%AC%AC%E5%85%AB%E4%BB%A3%E5%AD%9D%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF
奥州安倍氏の信仰
安倍氏の信仰の核には、早池峰大神・松島大明神でもある瀬織津姫 .....
由緒 人皇八代孝元天皇二十代(西暦二百十四年)の末裔安部三郎実任皇第七十 ...
松嶋神社:
速見郡大字内河野字潰祓[つぶればらい]には松嶋神社が鎮座していて(写真11〜13)、同社の由緒案内には「元亀年中(一五七〇〜七二)大友氏の臣で内河野村地頭安倍備後の勧請せし所なり」とあります。安倍備後なる人物の勧請によって松嶋神社の祭祀がはじまったわけですが、大正十四年に成る『速見郡史』には、次のように書かれています。
村社 松島神社
祭神 大山祗命六柱
社は中山香村内川野に在り。元亀年中奥州安倍氏の族安倍備後、大分郡笠和郷白木より内川野村地頭となりて来るに際し、同地に氏神として鹽竈明神を勧請せり。是れ松島神社にして、祠は寛文八年に至り社殿を造立し、元禄六年修理を加へ、更に寛永四年造替し、享保四年又之に修理を加ふ。
短い由緒文ですが、ここには、重要な事項がいくつか書かれています。まず「奥州安倍氏の族安倍備後」の故地は「大分郡笠和郷白木」とされることです。先にみたように、安倍貞任の子・貞言の孫・述嗣の伝として、「初めて豊後守護大友能直[よしなお]に仕え、白木において二千貫の食地を与えられた。その後は平穏無事に十八代貞享に及んだ」とありましたから、安倍備後は貞言に連なる出自をもっていたことが想定されます。次に、この白木の地から「内川野村地頭となりて来るに際し、同地に氏神として鹽竈明神を勧請せり」とあり、これは、白木の鬼神は、安倍氏内部の認識では「鹽竈明神」とみなされていたことを想像させます。三つめは、この「鹽竈明神」をまつって、「松島神社」という社号を付したことです。これは、松島明神と鹽竈明神を同体とみなす安倍氏内部の認識があったことを示しています。この松島・鹽竈明神を同体とする安倍氏の認識は、白木の鬼神社のように、現在からは傍証的痕跡を集積して推定するしかありませんけれども、結論的には正確であるといわざるをえません。
日本の神まつりの表層からはたとえその名が消去されているにしても、安倍氏本宗の信仰意識は自らの「氏神」を忘却することがなかった、その一点の信心によって、日本の神まつりの深層を照射しているといえます。
貞任の子・貞言の直系にあたる安田幹太氏は、『安倍宗任』の著者・安川浄生氏に、いくつかの所見を開示したことが同書に記載されていますが、そのなかに、「伊予佐田岬と鼻突き合わせる豊後佐賀関に古くから在る神社の世襲宮司は、代々安倍を名乗って(い)る」とあります。この佐賀関の古社とは早吸日女神社のことで、同社に確認をとったところ、世襲宮司ではないが、代々の神職としてたしかに安倍氏がいるとのことです。早吸日女神社の表層祭祀を洗い出してみますと、ここには関大神、つまり豊予海峡(速吸瀬戸)という海峡の女神として、瀬織津姫神、つまり安倍氏の氏神の名がみえてきます(大分県・「関大神社と早吸日女神社」)。
安倍氏は、筑前大島においては宗像神の祭祀にも仕えていて、安倍氏の「皇神を敬するの念」の「志」は、北部九州の東西を貫いている感さえあります(郷土資料・写真:白龍)。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 14時26分27秒 ) | パスワード |
http://ameblo.jp/9zaemonn/entry-10837706356.html
熱田神宮の神官 大原氏
名古屋市昭和区伊勝=瑞穂運動場の近く=の大原氏は、熱田神宮の神官であったと伝わります。
地元には次のような話が伝わっているそうです。
愛知県半田市亀崎に伝わる「中切組祭典役割帳」には、文政十年(1827)に熱田神宮社家の大原紋二に謝礼を払ったという記録がある。
尾張・熱田の牛巻(現名古屋市瑞穂区牛巻)に昔、牛巻ヶ淵という沼があり、
そこに住む大蛇を熱田神宮の大原真人武継という神官が弓矢で退治し近くに埋めた伝わる。
その地豆田(現名古屋市瑞穂区豆田町)には蛇塚が残る。
この人の子孫が松島氏?
大蛇退治は単なる伝承としても、これらから推測すると大原氏は、代々世襲の神官として熱田神宮に仕えていたと考えるのが妥当かもしれません。
以前お話した佐久間盛政一族と縁のある熱田神宮大宮司・千秋氏も、
源頼朝の奥方の実家であった熱田大宮司・藤原氏の末裔だと言われています。
熱田神宮の所領であった伊勝村を神官・大原氏が代官として治めていたのではないかと、この方も考えておられます。
伊勝に根を下ろした佐久間一族がその繁栄の過程で、
より重要で広範な地を求めて熱田神宮縁の御器所にその中心を移して行ったが、
伊勝の地も御器所に次ぐ要の地として機能は失わず保たれ、
そこには御器所西城の佐久間一族宗家より城主が入っていたのではないでしょうか。
それが佐久間盛政が最後の城主だと言われる所以だと考える事もできます。
南北朝期の佐久間氏の動向はハッキリしていませんが、これら地元に残る史料等から少しづつ解明される事を期待しています。
平清盛が父上から相続した御器所って熱田神宮ゆかりだったの?
これは知らなかった。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 14時29分00秒 ) | パスワード |
紀姓松島氏は 和歌山 でした。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 14時31分48秒 ) | パスワード |
八幡寺のことはさっぱり分かりませんでした。
八幡とは秦氏でもあると最近読みました。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 14時42分57秒 ) | パスワード |
http://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA14-PA18&lpg=RA14-PA18&dq=%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD%E3%80%80%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=LXfWRtPeOe&sig=6tjcjsnpHdEHRvhlQYjb6b4ZkuM&hl=en&sa=X&ei=K4ZyVYeRIdCwogTB3IHIBQ&ved=0CC4Q6AEwAg#v=onepage&q=%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD%E3%80%80%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
続家紋でたどるあなたの家系
edited by 千鹿野茂
P438
加賀藩給帳にある松島氏は三階松系
紀伊国名草郡松島村発祥の紀姓松島氏の家紋は 雪輪に三階松
これまた不思議。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 14時46分54秒 ) | パスワード |
松島村 (山梨県)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%9D%91_ (%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C)
廃止日
1927年4月1日
廃止理由
新設合併
松島村、福岡村 → 敷島村
現在の自治体
甲斐市
郡
中巨摩郡
廃止時の総人口
3,232人
(国勢調査、1920年) 古い!
隣接自治体
中巨摩郡福岡村、池田村、貢川村、竜王村
西山梨郡千塚村、大宮村
北巨摩郡登美村
所在地
山梨県中巨摩郡松島村
松島村(まつしまむら)は山梨県中巨摩郡にあった村。現在の甲斐市南東部、中央本線竜王駅の北東一帯にあたる。
[20] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月06日 15時47分23秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、久しぶりに井伊谷宮と龍潭寺に行ってまいりました。
まず、井伊谷宮では、あを様の祈りも併せて祈ってまいりました。
井伊谷宮の奥から井伊家他の墓地を回って龍潭寺へ行く。今回の目的は
資料本の入手であったが、墓も再度見て回った。井伊直政公をはじめ井伊
家の墓石群。松下氏族の墓。近藤康用の墓。井伊谷三人衆の墓。小野家の
墓。そして、服部家の墓が1つあった。家紋は「七宝に花菱」であった。
次に、入場料を払って龍潭寺に入る。中では特別展をやっていた。いつ
も何らかの特別展示をしているようである。本日は土曜日で観光客も結構
多い。特別展の中で注目されたのは次の3つであった。
@井伊直平公が家康より拝領した朱印状
龍潭寺に96石7斗5升
家康は徳川を名乗る前の一時期「藤原」を使った。
「天正14年9月7日 三位中将藤原家康」の署名があった。
A直政が拝領した御紋(葵)付茶碗
B赤備えの甲冑
家康は天正10(1582)年、武田氏滅亡後甲州入り。山形衆を井伊氏
に付け、赤備えを用いさせた。
そして、館内を巡り、今回は「書院」の中に注目した。
「井伊大老直弼公御直坐の席」というものが公開されていた。私は目の
前のその座布団の上に座る井伊直弼公の姿を想像した。嘉永4(1851)
年、6月5日、36代井伊直弼公御参詣の折、ここに坐し、西方に
井伊家の先祖代々をお祀りしている「御霊屋」を拝し、茶礼を受けら
れたということです。
お多賀さんのことも想い、あを様の祈りも込めて般若心経を一巻唱
えてまいりました。
そしていよいよ売店である。探していた本はすぐ目に入った。そしてそ
の著者である武藤前住職も店で手伝いをしておられた。著書を購入すると
ともに武藤前住職に話かけてみた。快く受け答えしていただけました。
冨永公文さんの話もすると、あの方には松下家の件でお世話になったと
余計に親密に話をしていただけました。私は特に直政が家康浜松城時代に
どこに住んでいたのかを知りたく、聞いてみました。氏の言われるには、
「小姓」として家康のすぐ近くにいたので、浜松城内のどこかにいたので
はないか。養父の松下家の家はどこにあったのでしょうという質問に対し
ては、頭陀寺ではないでしょうかとのことでした。駿府に移ってからは
「鷹が峰」に住んだものと思われるとのことであった。
憧れの武藤先生に会え、話もすることもできましたので、本日は本当
に良い一日になりました。
月曜日には資料送ります。10日くらいはかかると思います。
[21] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月06日 15時57分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
レス交差です。じっくり読ませていただきます。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 22時16分24秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
重ね重ね、ありがとうございます。
武藤前住職さんにお目にかかれてラッキーでした。
>服部家の墓が1つあった。家紋は「七宝に花菱」であった。
どの関係なんでしょうね?
七宝に花菱紋をいろいろ調べましたが コレ というのが見つかりませんでした。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月06日 22時45分57秒 ) | パスワード |
全然願っているものが出なかったです。
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%80%8C%E4%B8%83%E5%AE%9D%E3%81%AB%E8%8A%B1%E8%8F%B1%E7%B4%8B%E3%80%8D%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF
七宝に花菱の家紋の大橋家について - 日子の島TOP
hikoshima.com/bbs/heike/100867.html
Translate this pageFeb 23, 2006 - 南北朝時代に尾張の津島神社の関係の大橋さんがいますし(当然服部氏 ... 七宝に花菱紋」で有名なのは大蔵氏系の日向高鍋藩主秋月氏だそうですよ。
薬屋の小西家+丸に抱き茗荷紋の大橋家
www.hikoshima.com/bbs/heike/100325.html
Translate this page
Jul 7, 2002 - 42 posts - 1 author
出遅れましたが隈さんのスレッド「茗荷紋の服部氏」の[6]に書き込みましたが ..... 服部家:源輪に並び矢・七宝に花菱・丸に揚羽蝶・丸に並び矢・八つ矢車。
家紋でたどるあなたの家系 - Volume 1 - Page 11 - Google Books Result
https://books.google.com/books?isbn=4797102322 - Translate this page
千鹿野茂 - 1995 - Heraldry
千鹿野茂 三ニ一定紋は丸に三階松。 ... に花菱。一柳氏藤原氏支流〔寛政譜^〕の替え紋。定紋は七宝が出る。す。重吉、重章の系の替え紋。 ... 服部氏伊賀国阿拝郡服部郷 ...
家紋を探る-近畿
www.harimaya.com/o_kamon1/saguru/kinki.html
Translate this page長澤氏は中沢氏ともいい「酢漿草紋」、波々伯部氏は「松喰い対い鶴紋」、酒井氏は「 ..... また伊賀は、服部・百地・藤林らの忍者で知られ、服部氏は「矢筈紋」を用いていた。 ... 源氏甲斐武田氏の一族という湯川氏が「花菱紋」、児玉氏は「団扇紋」を使用している。
Missing: 七宝
武家家伝_服部氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_hato.html
Translate this page伊賀国阿拝郡に服部郷がある。『延喜式』をみれば、阿拝郡に小宮神社ありと記されている。『伊賀考』には、「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、『三国 ...
Missing: 七宝 花菱
伊賀服部氏は渡来人だった! - 忍者とは何か?
www.iganinja.net/gktorai/
Translate this page芭蕉は偉大な詩人である。もし、忍者に近い意味でよぶとしたなら情報伝達者にすぎない。そんな風流な芸能者(総じて文化人とよんでいいが)はずいぶんいた。各種メデイァ ...
Missing: 七宝 花菱
家紋の一覧 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/家紋の一覧
Translate this page
立ち沢瀉(たちおもだか)・沢瀉(おもだか)- 稲垣氏 - 澤瀉屋市川猿之助家(歌舞伎); 丸に立ち沢瀉(まるにたち ..... 六つ矢車(むつやぐるま)- 服部氏 - 矢部氏; 七つ矢車(ななつやぐるま)- 石原氏; 丸に三つ矢(まるに ..... 花菱(はなびし); 丸に花菱(まるにはなびし); 丸に三つ花菱(まるにみつはなびし); 四つ花菱(よつはなび .... 花輪違(七宝に花角).
一本気新聞 www.ippongi.com 家紋、アニメ、ビートルズ - Part 10
www.ippongi.com/page/10/
Translate this page家紋の七宝に花菱紋は、水戸の江林寺墓地内の墓所写真にて確認。 佐々紅華 。1886 ..... 実家服部氏は徳川家康に仕えた服部正成(服部半蔵)の系譜につながる。桑名藩 ...
有名人の家紋検索(た行〜わ行) | 一本気新聞 www.ippongi ...
www.ippongi.com › 歴史・家紋
Translate this page田辺茂一, たなべもいち, 出版事業家、紀伊国屋, 花菱紋系 ..... 戸川秋骨, とがわしゅうこつ, 評論家、文学者, 七宝紋系 ..... 服部半蔵, はっとりはんぞう, 武士, 車紋系.
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月07日 06時28分18秒 ) | パスワード |
とりあえず 宮城県の松島神社系の松島氏は無関係か と思います。
でも九州に松島氏が存在するのは、この安倍氏系なのかなと思います。
長曾我部盛親は大坂の陣にも敗れて長曾我部氏は滅亡し
江戸時代は「長曾我部」を名乗ることは許されず「島」氏を称してたそうです。
現在の長曾我部氏は17代目で東京にお住まいだそうです。
この「島」氏は長曾我部の家来だったそうですが
もしかすると「島左近」の「島氏」かもですね。
なんせ長曾我部氏は秀吉の家来になってるし、三成と運命を共にし、その後も秀頼方だから。
三成の家老だった島左近ゆかりの人物が長曾我部氏の家来になってて当たり前ですものね。
[25] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月07日 09時29分04秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
松島氏のミッシングリンクについては、今のところ上伊那松島氏由来、
源氏由来の二つの由来が可能性としては高いのかなとは思っていますが、
これ以上のリンクの証左が出てこない・・・壁にぶつかっています。
こんな時はあせらず回り道でもいい、とにかくその時代の背景を浮かび
あがらすことだと思っています。
そういう意味で、井伊氏に軸足をおき、関連の松岡氏(信濃市田出身)、
新田喜斎(新田氏末裔)から松島氏とのリンクを探そうと考えています。
家紋的には、松島氏の墓に「丸の内に一つ引き」が1つ見られました
ので、また調査に出掛けます。
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月07日 13時37分25秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
はい
煮詰まった時は全く関係無いところに行って頭を休めるのが良いです。
で、宮城の松島系は安倍系だから関係無い、なんて書きましたが
もう1度松岡氏を読み直して えっ?! っと驚いています。
信濃松岡氏
http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/matsuoka-jyo/
松岡本城
歴史
築城年代は定かではないが松岡氏によって築かれたと云われる。
松岡氏は平安時代の前九年の役で敗れた安倍貞任の次男仙千代が、乳母に連れられて市田郷の牛牧村へ逃れ、その後郷民に推されて地頭となり、
松岡平六郎貞則と名乗り松岡古城に住んだのが始まりと云われる。
鎌倉時代の動向は定かではないが、「吾妻鏡」によって弓始の射手を勤めたことがわかっている。
応永7年(1400年)の大塔合戦では守護小笠原氏に従って松岡次郎が参陣し、永享12年(1440年)の結城合戦にも参陣している。
天文23年(1554年)甲斐武田信玄が伊那へ侵攻し、小笠原氏の鈴岡城や知久氏の神之峯城などが攻められて落城すると、松岡氏は武田氏に降った。
天正10年(1582年)織田信長が信濃へ侵攻し、大島城や高遠城が落城し武田氏が滅亡すると、飯田城主となった織田氏の部将毛利秀頼に従った。
しかし、同年信長が本能寺の変で倒れると、松岡氏は徳川方の高遠城を攻めた小笠原貞慶に味方し改易となった。
松岡城は天竜川西岸にある段丘の上に築かれている。
松岡氏の檀那寺であったと云われる松源寺から南東へ伸びた段丘の上に空堀で区画された五郭の曲輪で構成されている。
大手の北西には三日月堀があったといわれ、そこから南東の段丘の先端にある主郭まで空堀で区画された曲輪が五郭ある。
後世の開墾などに影響を受けているものの、空堀などは良好に現存している。
主郭は南東の先端にあって広大な平地があり、二郭と区画する空堀に面して土塁が残る。南下には横堀や帯曲輪が残っている。
案内
松源寺の駐車場が利用でき、そこに松岡城のパンフレットが置いてある。
所在地 長野県下伊那郡高森町下市田字新井
地図 Mapion MapFan いつもガイド 国土地理院(電子国土) GoogleMaps
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月07日 13時58分48秒 ) | パスワード |
さらにレス<15>の熱田神社神職・大原真人武継の話に「うしまき」が出てますよね。
尾張・熱田の牛巻(現名古屋市瑞穂区牛巻)に昔、牛巻ヶ淵という沼があり、
そこに住む大蛇を熱田神宮の大原真人武継という神官が弓矢で退治し近くに埋めた伝わる。
レス<26>の信濃の松岡氏のお話で 市田郷の牛牧村へ逃れた、と書かれています。
松岡氏は平安時代の前九年の役で敗れた安倍貞任の次男仙千代が
乳母に連れられて市田郷の牛牧村へ逃れ、
その後郷民に推されて地頭となり、
松岡平六郎貞則と名乗り松岡古城に住んだのが始まりと云われる。
市田郷にはたぶん乳母の実家があったのかも。
牛巻と牛牧の違いはありますが
この共通点は?
こうして考えますと 安倍氏系の松島氏の可能性も出て来ました。
長野県下伊那郡高森町下市田字新井
ここって、箕輪よりずっと南ですものね。
安倍氏系松岡氏 だったら松島姓があってもおかしくないですよね。
そして天竜川に沿って更に南に下ったら浜松。
それも南区。松島氏。
[28] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月08日 00時20分07秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は源長院のご住職と話ができ、有意義な日となりました。昨日は龍潭寺
の前住職と話ができましたし、開ける時には開けるものだなあと感激しており
ます。
松岡氏が安倍氏直系、黒川の松島氏も安倍氏の後裔でありましたので、一部
が行動を共にしたとも考えられます。
松岡氏は井伊直政の父親を伊那でかくまっておりますし、井伊氏の関係で
は新田喜斎は新田義貞の子孫、上野国新田郡岩松が本貫地であります。上伊那
群箕輪町出身の知久氏とは南朝木寺宮家即ち後二条天皇の後裔の康朝の次女が
最初新田家に嫁ぎ喜斎(友作)を生む。後に知久頼氏に嫁いでいます。井伊氏の
家臣の菅沼氏は飯田の知久平城に居しています。井伊直政は上州箕輪12万石
の藩主になりますし、井伊氏の関係でも遠江〜伊那(信濃)〜群馬(上州)はつな
がります。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月08日 04時12分01秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
良かったですね。
>本日は源長院のご住職と話ができ、
>昨日は龍潭寺の前住職と話ができました
>開ける時には開けるものだなあと感激しております。
本当に良かった!
菓子折り1つ持ってお邪魔したら良いのですよ。彼岸時とかお盆時とか師走でなかったら結構お相手してくださるかも。
「本物」の世界の人ですから、そういう情報は貴重です。
そのお寺に伝わるお話は貴重です。
松嶋氏は調べれば調べるほど分からなくなりますね。
でも源氏なのは確か。
おそらく新田系であろう。
その背景は数百年のうちにいろいろな「氏」がからんでいるから分からなくなっている。
高天神城の落城という記事が書かれている意味が分かると良いですね。
武田が負けてガッカリしたという意味なのか?
一体M氏は当時家康に対してどうだったのか?今川方だったのが武田方になったのか。
こういう話はやはりお寺さんでないと聞けないのかもですね。
でも反家康だったら場所的に秘密にしてなかなか口外出来ないのかも知れないし。
M氏の有名どころがネットにチラチラ出てますから
そういうM氏とお近づきになれると良いですね。
[30] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月08日 15時13分46秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日8日、武藤全裕著『遠江井伊氏物語』(歴史書)を送りました。10日
間位お待ち下さい。
井伊直政について、一番の驚きは、若くして「神君伊賀越え」に同行して
いるということです。
そしてもう1つの驚きは、関ヶ原では軍監としてまた猛将として活躍し、
鉄砲傷を受けてしまう。その後、42歳の若さで亡くなってしまったという
ことです。
風のようにやって来て、存分の活躍をし、また風のように駆け抜けてしま
った直政であった。
我が子のように思っていた家康の嘆きと悲しみはいかほどであったか、そ
の辺の様子も調べてみたいと思っています。
また、直政にも忍者部隊がついておりました。その辺にもスポットライト
をあててみたいと思います。
高天神城の戦いの悲しくもせつない話がありましたので、紹介します。静
岡新聞社の『ふるさと100話 2』より―
「栗田刑部丞
栗田氏は村上の支流である。天正8年(1580)武田氏に従って高天神に入
った。高天神落城の迫った時、能の幸若三太夫が徳川方の陣中にいるこ
とを聞き、寄せ手に向かって「城兵の命はきょうあすを期し難い。この
ため、太夫の一さし舞うのを見てこの世の思い出にしたい」と申し出た。
家康はこれを聞いて「やさしき者共の願いよ」と刑部丞の願いを聞き届
けた。太夫は城近く進み寄り「高館」を謡った。城兵は皆、へいぎわに
寄り集まって、耳を傾け涙を流して聞いた。舞い終わって城中から茜の
羽織を着た若武者が一騎出て、織物などを太夫に与えた。このようにし
て城兵は、次の日いさぎよく討ち死にした。特に茜を着た若者はあっぱ
れなる働きをして死んだ。
首実検の時、顔付は16〜17才で薄化粧し歯を黒め髪をなでつけ、
男女いずれとも見分けがつかなかった。家康は「その目を開けて見よ、
白目ばかりなら女だ。黒目が見えたならば男である」と言った。笄(こ
うがい)で目を開けてみると、瞳が明らかであったから男の首だとわか
った。あとで聞けば、これは栗田刑部丞最愛の小姓で、時田鶴千代と
いう者であった。」
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月08日 21時36分57秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
楽しみい10日ほど過ごします。
何が書かれているのかしら?
>高天神城の戦いの悲しくもせつない話
背筋がゾクゾクしました。
美しいお話ですね。
まるで平安時代の平家のお話みたい。
こういう美しい最期を遂げた武士達が戦国時代にもいたのですねえ。
「正々堂々、先祖の名に恥ずかしくない」死への美しい旅立ち。
そうなんですか
女性は白目を剥いて死んで行くんですか。
やっぱり女性は殺したら怨みが恐ろしいんですね。
いろいろと興味深いお話でした。
ありがとうございました。
[32] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月09日 13時00分32秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
市野氏について、現代のご子孫が書いた系譜・説明ですが、身内だからわ
かること、身内だからわからないこと(というよりも、門外不出にしている
こと、あるいは隠蔽してしまった、消し去ってしまったこと)があるのでは
ないかと考え直しました。
その、身内だから分からないこと(あるいは隠蔽されていること)は、外部
に多少なりとも客観的事実として残っている、と考えます。
従って、市野氏の家系譜によりある意味で現実的な事象を明示されました
が、戦国時代から徳川時代までの市野氏の立ち位置・人間関係は、身内では
できない外部による考証がやはり必要かと強く考えるようになりました。
松島氏を解くのに市野氏は必須条件と推察しています。
市野氏は旧姓袴田、更に旧姓寺田、更に旧姓浅井のようですが、寺田以前
の系図はわかっておりません(それこそ隠蔽したのか)。
それはそれとして、3代目の実利が棒術・槍術・弓術・柔術・水練の達人
であったという。並大抵の人間ではなかったということ。どこで誰の指導を
受け修行したのか、少なくとも10年はかかっただろう。浅井家所属の忍者
系の指導を受けた可能性はあると思いますがどうであろうか。
小早川家はもともと毛利家が乗っ取った形。忍者としては世木忍者(元々
は今川系、市野にも近い正光寺出身の雪斉が統卒)がからんでいた(今川滅亡
後どうなったかは未調査)。
その小早川家に仕官し、家老にもなっている。その間、関ヶ原の戦いに
も参加しているはずであり、いわゆるキャスティングボード的動きにより
東軍、家康に勝利をもたらした。大功績を上げたといえる。その後、どの
ような褒賞をあたえられたのか(これも未調査)。
藤堂氏も元は浅井家の家臣、また浅井家の血筋にも藤堂氏が取り込まれて
いる。藤堂氏は六角氏の支流であり、松下氏も六角氏の一族である。藤堂率
いる服部系忍者と、井伊直政率いるであろう松下系忍者系列は、底流で、そ
れも浜松でつながっていたと推察する。
浜松で市野氏はその服部系と松下系の間に置かれたものと推察する。
服部系忍者と松下系忍者はどのようにつながっていたのかは、これからの
研究課題としたい。また、市野を探ればまだまだ何かが出てくるはずだと思
っています。市野のすぐ北の万斛(まんごく)には独礼庄屋・代官の鈴木家あ
り、阿茶の局がおり(秀忠の母代りになる)、調べればいろいろな事象が出て
くるはずである。
阿茶の局は馬術・武術にもすぐれ、若武者姿で戦場にも出ていたといわれ
ています。小牧・長久手の戦場で流産し、それ以後子供ができなくなったと
いわれていますが、家康が最も信頼した女性であったということです。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 13時48分30秒 ) | パスワード |
寺田氏
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AF%BA%E7%94%B0
現鹿児島県である薩摩国薩摩郡寺田村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)(現静岡県西部である遠江)、
服部氏など様々な流派がみられる。
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 13時49分29秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
寺田なんてどこにでも転がっている名字だと思っていました・・・・
驚愕。
やっぱり市野氏、アヤシイ!
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 13時53分11秒 ) | パスワード |
寺田氏って静岡にメチャメチャいらっしゃるじゃないですか。
これまたビックリ!
思わず 寺田氏って静岡特産なんですか? と入力しちゃいました。
北海道 270位 およそ3,300人
青森県 238位 およそ1,000人
岩手県 776位 およそ200人
宮城県 741位 およそ300人
秋田県 231位 およそ700人
山形県 817位 およそ100人
福島県 974位 およそ200人
茨城県 128位 およそ4,300人
栃木県 537位 およそ600人
群馬県 457位 およそ700人
埼玉県 325位 およそ3,800人
千葉県 205位 およそ5,200人
東京都 272位 およそ8,100人
神奈川県 298位 およそ5,000人
新潟県 940位 およそ300人
富山県 158位 およそ1,200人
石川県 110位 およそ1,700人
福井県 327位 およそ400人
山梨県 502位 およそ300人
長野県 762位 およそ400人
岐阜県 387位 およそ1,000人
静岡県 47位 およそ11,000人
愛知県 225位 およそ5,600人
三重県 202位 およそ1,800人
滋賀県 52位 およそ3,900人
京都府 183位 およそ2,600人
大阪府 130位 およそ12,000人
兵庫県 176位 およそ5,200人
奈良県 147位 およそ1,600人
和歌山県 272位 およそ700人
鳥取県 707位 およそ100人
島根県 530位 およそ200人
岡山県 788位 およそ400人
広島県 224位 およそ2,200人
山口県 258位 およそ1,000人
徳島県 916位 およそ100人
香川県 788位 およそ200人
愛媛県 359位 およそ800人
高知県 245位 およそ700人
福岡県 397位 およそ2,400人
佐賀県 186位 およそ1,000人
長崎県 128位 およそ2,100人
熊本県 277位 およそ1,300人
大分県 1,172位 およそ100人
宮崎県 239位 およそ900人
鹿児島県 163位 およそ1,900人
沖縄県 1,167位 およそ60人
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 13時59分38秒 ) | パスワード |
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kunosi.htm
久野姓について
久野って松下家の九州に行った人が叔父甥の間で久野姓では厄介だから
甥の方は久野を名乗ったって読んだような?
1 久野一族の系図は『尊卑分脈』にごく一部掲載されますが、平安後期〜江戸前期の歴代を記す系図は『姓氏家系大辞典』にも記載がありません。管見に入ったところでは、『浅羽本系図』(水戸彰考館・東大史料編纂所等に所蔵)に「久野系図」があり、これが最も詳しいものかもしれません。この系図等を踏まえて、以下の記述をします。
2 『尊卑分脈』に記載の最後に置かれる久野三郎清宗以下は、直系のみを記すと、その子清成(正平六年〔1351〕尽軍忠)−その子宗政−三郎右衛門(実名不記載)−忠清−宗弘(兄弟に文明八年塩貝坂討死の清憲)、と続きますが、その次の世代に挙げる宗忠(永禄三年桶狭間討死、二十四歳と記すが、これは宗忠の子の元宗の記事か)との間に数世代の欠落があると推定されます。宗忠の次は養嗣宗安(宗能。宗忠の妹が同族宗重に嫁して生んだ子で、宗忠女婿。今川氏真の命により相続)−宗秀(佐倉城主、慶長元年伏見にて死、四十三歳)−丹波守宗成(仕大納言頼宣卿、寛永二年十二月二十九日卒四十四歳)−宗晴(外記従五位下)−丹波守宗俊(宝永三年五月於紀州卒)、とあります。
3 久野・原・橋爪の三氏はいずれも遠州の地名に因り起こる氏であり(それぞれ周智郡久野、佐野郡原、長上郡橋爪)、駿河の駿東郡原に起こる原氏があっても、これとは別の氏で、みな古族(物部氏族の久努国造か)の末裔かと思われます。周智郡や佐野郡等には、久野を名乗る祠官家・庄屋が多くあります(『静岡県姓氏家系大辞典』)。『尊卑分脈』の為憲流系図では、駿河の原氏に遠江の原・久野・橋爪三氏を接ぎ木したものと考えます。久野氏については、世代数が足りない形で接合されていると考えます。江戸期の佐野郡本郷村(掛川市)の八幡社神主家に原氏があります。原一族の寺田氏も、向笠村(磐田市)の六所神社神主や熊野権現神主を出しています。
太田亮博士も、為憲流の久野氏は駿河国安倍郡久野(久努、久能)より起るもので、遠江久野氏とは別ものとし、遠江久野氏はおそらく久努直の裔なるべしと早くに指摘しています。
4 遠州の原氏では、東寺文書により元徳三年(1331)時の遠江国原田庄細谷郷地頭の原小三郎忠益が知られます。原忠益は『尊卑分脈』に記載の最後に置かれる彌三郎範忠の孫(忠泰の子)であり、その子忠清−忠政−忠頼−頼景(遠江守、文明年間)−頼方−頼郷−頼延と続き、頼延のとき武田氏に属して、元亀四年徳川方石川家成・久野宗能等に攻められ没落したとされます。
一方、『尊卑分脈』では工藤大夫維仲から原氏の系図が始まり、原権守師清から四代目の原三郎清益までは駿河の原氏だとみられます。原三郎清益は『源平盛衰記』に駿河郡原邑にあったと記され、また一ノ谷合戦では源義経に従い、曾我兄弟討入りの際には疵を負ったと記されます(『東鑑』など)。分脈には清益の子に記す右兵尉忠安は、『東鑑』に原左衛門尉忠康と見える者(承久三年十二月〜暦仁二年に見)とみられますが、同書建長二年(1250)三月の閑院殿造営時点には原左衛門跡とありますので、既に死去していたことが知られます。『東鑑』の記事からは、忠康の出身地は直接には知られませんが、この閑院殿造営工事では次に浅羽の人々があげられるので、遠州浅羽庄司と近い地に居たことが考えられます。おそらく、実際には清益と忠安(忠康)との間に断絶(接合)があったのではないかと推されます。
なお、前掲の久野系図では、久野宗政の弟に中四郎宗雪・原四郎為重(その子に原五郎大夫、子孫ありと記す)が記載されますから、久野氏の一族に別の原氏が出たことも知られます。
5 久野氏が明治に華族にならなかった事情は、明治史までは手が回らない私には不明です。
同じ紀州藩では家老であった安藤氏(紀伊田辺3.8万石)、水野氏(紀伊新宮3.5万石)が明治17年に男爵となり、重臣で1.5万石取りの三浦氏も明治33年に男爵になり、他の雄藩でも万石取りの武家の多くが華族に列したことの対応からして、伊勢田丸で万石を領していた久野氏が同様な処遇を受けてもしかるべきであったともいえそうですが、……。
なお、久野氏は紀伊藩では初代宗成以来8500石を領していましたが、第六代の近江守暉純の代、寛政7年9月に1万石に加増され、第八代の純固のとき明治維新を迎えています。
(02.2.17に掲示)
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 14時06分51秒 ) | パスワード |
島津氏
日本の西南の端っこの鹿児島や宮崎あたりの家かと思っていたら
信濃にも御縁があったとは知らなかったです。
信濃にも太田庄があったとは
それも知らなかったです。
島津忠久は鎌倉に下って頼朝に仕え、文治元年(1185)、信濃国塩田荘地頭職ついで南九州の島津荘総地頭職に補任され、その後薩摩・大隅・日向守護職に補任された。さらに、承久三年(1221)信濃国太田荘地頭職を与えられ、同年に起った承久の乱に活躍したことで、一時的ながら越前国守護職にも補任された。
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 14時16分05秒 ) | パスワード |
http://ameblo.jp/pitapen/entry-11946145296.html
今川氏とは?それで北条氏と仲が良かったの?ビックリ!
今川義元の父・氏親は今川家7代当主であり、今川家最初の戦国大名といわれています。
そして他の戦国大名に引け目を持たないほど波乱万丈の人生を送っています。
彼の父・今川義忠が亡くなったのは文明8年(1476)、
守護の斯波氏との戦いに勝利し、遠江からの凱旋の途中、塩貝坂という地で不慮の死を遂げます。
このときの氏親はまだ幼名の龍王丸を名乗る6歳前後の少年でした。
そこで一族の小鹿範満が代行者となったのですが、
時の将軍足利義政が龍王丸を相続者として認めたことで内紛が表面化します。
一時龍王丸は母と共に身を隠したとも伝わっています。
この争いを調停したのは伊勢新九郎、後の北条早雲でした。
龍王丸の母・北川殿は新九郎の姉とも妹とも伝わっており、龍王丸にとっては叔父(伯父)だったのです。
伊勢新九郎はこれを契機に京から駿河に移り住み、
長享元年(1487)今川館を急襲して小鹿範満を殺害、家督を龍王丸に譲ることに成功します。
伊勢新九郎はこの功績で伊豆との国境に近い駿河の興国寺城城主となります。
ここからいわゆる国盗りが始まります。
明応2年(1493)新九郎は足利将軍家で堀越公方の足利茶々丸を攻めて伊豆を手に入れます。
この『下剋上』の行為で新九郎=北条早雲は戦国大名の始めといわれます。
早雲は明応4年に小田原を領土とし、相模の平定に力を注ぎます。
いわゆる後北条氏の始まりです。
一方元服して氏親と名乗るようになった龍王丸は駿河の統治と共に遠江、三河への侵攻を図ります。
早雲は例えば義元における太原雪斎のような軍師的な立場で同行したり今川軍を率いたりしました。
遠江での今川検地に早雲が関わったという話もあります。
どうやら早雲自身は亡くなるまで今川当主の氏親の後見役をしているつもりだったようです。
彼の残している文書で氏親は『屋形様』として表現され、自身を目下としているそうです。
北条早雲といえば大変な野心家で、50歳を過ぎてから戦に明け暮れ国を盗ったというようにいわれていましたが、実際はどうも違うようですね。
へえ〜
意外でした。
知らなかった〜
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 14時32分25秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%BF%A0
今川 義忠(いまがわ よしただ)
室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第6代当主。義元の祖父にあたる。
生誕 永享8年2月10日(1436年2月26日) 〜 死没 文明8年2月6日(1476年3月1日)
父: 今川範忠、母:上杉氏定の娘
幼名:龍王丸(今川家嫡男代々の幼名)
太田道灌も絡むんだ〜。へ〜
義忠最期の原因の小鹿氏とは従兄弟関係なんですって
嘉吉3年(1441年)、嘉吉の乱に際して父・範忠の名代として1,000騎を率いて尾張国まで出陣している[1]。
康正2年(1454年)、享徳の乱で室町幕府より今川氏へ鎌倉公方・足利成氏討伐が命じられ、父の名代として出陣して鎌倉を攻略し、第8代将軍・足利義政より感状を受けた。この前後には元服して将軍・義政の偏諱(「義」の字)を受け義忠(「忠」は父・範忠の1字)と名乗っている。寛正2年(1461年)に父の危篤を受けて駿河守護職を継承。家督を継承した義忠は、将軍・義政よりその庶兄である堀越公方・足利政知への援助を申し受けている。また、寛正6年(1466年)には甲斐国の武田信昌と共に鎌倉から古河へ移った成氏の討伐を命じられている。
今川氏は本拠の駿河以外に遠江国の守護を保持していたが、応永26年(1419年)以降は遠江は斯波氏の分国となっていた。また、遠江にあった今川了俊系の分家の所領が今川範将が反乱を起こして討たれた後に、斯波氏の被官の国人に奪われており、今川氏と斯波氏との対立が深まっていた[2]。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、政知と相談の上で1,000騎を率いて上洛する。山名宗全は義忠を西軍を引き入れようとするが、将軍警固のために上洛したことを理由に東軍が占拠している花の御所へ入り、そのまま東軍へ属した。かねてから対立している遠江守護の斯波義廉が西軍であったために東軍に属したと考えられている[3]。
北条早雲との関係
この上洛中に伊勢新九郎(北条早雲)の姉妹の北川殿と結婚したと考えられている[4]。新九郎は長年素浪人とするのが通説で、北川殿は側室とされていた[5]。しかし、近年の研究で新九郎は幕府政所執事の名門伊勢氏の一族で備中伊勢氏の幕臣伊勢盛時であることがほぼ明らかになっている[6]。上洛中に義忠は政所執事・伊勢貞親をしばしば訪ねており、盛時の父・盛定が今川家との申次衆を務めていた。その縁で北川殿が義忠に嫁いだと考えられ、正室とするのが妥当である[7]。北川殿との間には文明5年(1473年)に嫡子・龍王丸(後の氏親)が生まれている。
応仁2年(1468年)、細川勝元の要請で東海道の斯波義廉の分国を撹乱すべく駿河へ帰国。帰国した義忠は積極的に遠江への進出を図り、斯波氏や在地の国人と戦った。
文明5年(1473年)、東軍の三河国守護・細川成之が美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃を受けたため、将軍の命により三河へ出陣している。その為に将軍から兵糧用として預けられた所領を巡って同じ東軍の尾張国守護・斯波義良(乱発生後、西軍方の斯波義廉に代わって遠江守護に任じられていた)及び三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人巨海氏、狩野氏と対立して、これを滅ぼした。そのため、同じ東軍の義良、成之と敵対することになった。
文明7年(1475年)東軍は西軍の義廉の重臣・甲斐敏光を寝返らせ遠江守護代として、義忠と敵対。遠江の情勢は混沌とする[8]。義忠は遠江へ出陣して斯波義良方の国人と戦った。
討ち死にの経緯
文明8年(1476年)、遠江の国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮が義忠に背き斯波氏に内通して見付城を修復して抵抗の構えを見せたために、500騎を率いて出陣して勝間田城と金寿城(横地氏の拠点)を囲んで、両人を討った。その帰途の夜、遠江小笠郡塩買坂(現在の静岡県菊川市)で横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われた。義忠は馬に乗って指揮をとるが、流れ矢に当たって討ち死した。塩見坂は金寿城から駿府に戻る経路とは反対方向にあり、金寿城で敗走した義忠は坂の南にあった今川氏方の新野城に落ち延びる途中で討たれた可能性もある[9]。
『今川記』などでは、横地・勝間田の両名をあたかも幕府に背いた謀叛人であるかのように記しているが、内通したのが幕府が任じた守護の斯波義良であれば、むしろ両名は幕府・守護の指示に従っただけで、これを攻撃して討たれた義忠の方が幕府に反抗した謀叛人という事になってしまう。義忠の不慮の死により、僅か6歳の龍王丸(のちの氏親)が残されたが、龍王丸は幼少である上に義忠の行為によって室である北川殿や龍王丸も反逆者の家族として討たれる可能性が生じた。このため、今川氏では義忠の従弟の小鹿範満が家督継承を主張して内紛状態になり、範満の縁戚でかつ享徳の乱では幕府(東軍)と協力関係にあった扇谷上杉家(実際は家宰太田道灌)が介入することになるが、範満や道灌は龍王丸を討つことも考慮していたとみられている[10]。幕府は今川氏嫡流である龍王丸の討伐までは考えていなかったものの、義忠死去の経緯から幕府が龍王丸の保護に乗り出す必要が生じていた。そのため、今川氏の内紛を調停(実際は龍王丸の保護)するために、それを調停するために長年駿河・遠江の問題に関わってきた伊勢盛定の息子で北川殿の兄弟でもあった幕府申次衆の伊勢盛時が駿河へ下向している[11]。このことが盛時と今川氏との絆を強め、後の盛時の関東進出と後北条氏誕生の契機になる。
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 14時35分06秒 ) | パスワード |
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/kisiwada-keizu.htm
遠江久野氏
文字化けして読めません。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 14時41分31秒 ) | パスワード |
遠江三十六人衆
移動: 案内、 検索
遠江三十六人衆(とおとうみさんじゅうろくにんしゅう)は、遠江国において存在した、一定の勢力を持つ国人や土豪などの総称。遠州三十六人衆とも。室町時代に入り今川氏が遠江に侵攻した際、これに従ったと伝えられる。『柳園雑記』には、
初馬 河合宗忠
西郷 西郷殿
倉真 松浦兵庫助
掛川 鶴見因幡
本郷 原氏
平川 赤堀至膳
原谷 孕石
小山 増田周防守
増田 松浦治郎右衛門
袋井 堀越殿
その他は不明。
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/ensyuukuno_so.htm
遠江久野氏・原氏・橋爪氏は親戚?兄弟?
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 14時50分42秒 ) | パスワード |
遠江久野氏の祖を探る
遠江久野氏の祖は遠江久野氏の系図では久野宗仲とし、特に紀州藩家老久野家の先祖累功書では「宗仲初ハ工藤ヲ称シ、鎌倉右大臣実朝公ニ仕エ、建保元年五月、和田義盛謀反ニテ御所ヲ攻ル時、宗仲先陣ヲカケ軍功アル故、勧賞トシテ遠州久野ノ庄ヲ給リ、久野六郎ト号、是ヨリ代々久野氏ト称号ス、此宗仲ハ久野和泉守宗俊ヨリ十八代ノ祖也」として袋井市域の久野の地を賜り名字の地としたことが明記され、『鎌倉武鑑』では「原清行が兄弟に久野四郎宗仲橋爪五郎維次といふあり何れも武勇の人々なり」としていますが、静岡県の古城研究家である林隆平氏は遠江久野城の久野氏について、「久野氏は藤原南家の工藤介為憲の末裔で原氏三代清行の孫忠宗を始祖と伝えているが、中世における久野氏の事蹟はまったく不明である。」と言われており、鎌倉時代から約300年間の久野氏の袋井市域での活動は他家の古文書などには一切見当たりませんが、弘安年中(1278〜1288)に遠江国の住人として久野四郎兵衛入道とその子乙増丸の存在が平泉中尊寺文書で確認されています。
そこでまず駿河久野氏との家紋のいわれなどを比較整理し、遠江久野氏の源流をたどっていこうと思います。
以下略
URLへ
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/ensyuukuno_so.htm
遠江久野氏は藤原南家の末流である藤原為憲(駿河工藤氏)の後裔を称する。
家紋は
久野宗隆の叔父で育ての親でもあった原頼景が戦功により将軍・足利義尚から瓜を貰ったことを契機に「瓜の中に左三つ巴」を家紋にしたとする。
駿府久野氏は祖先を秦河勝の末流である秦久能の後裔を称し、藤原雄友より藤原姓を賜ったとされる。
家紋は
平安時代に家紋である「瓜の中に三つ星」を神紋とし、新たに「瓜の中に左三つ巴」を家紋にしたとする。
江戸時代の初めにこの「瓜の中に左三つ巴」を神紋とし、新たに「丸に下がり藤」を家紋とした。
この「丸に下がり藤」は工藤氏に縁があったことにちなむとされている。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 14時56分54秒 ) | パスワード |
原氏について 小早川家が出ます!
http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/chuen/takafuji.j/takafuji.j.html
追われた一族
戦国時代とは、強力な武将によって淘汰されゆくなかで、数多くの一族がその去就に迷い、そして浮沈を賭けた戦いに臨んだ時代であったともいえる。
そして一族の保全を勝ち得た者、反対にその地を追われ流浪の身となった者、あるいは一族もろともこの地上から消え去ってしまった者と様々な戦国絵巻が繰り広げられた時代である。
とくに有力な庇護者を失った地域に於ける国人、土豪らの運命はまさしく戦国という名の荒波に翻弄されたといえるであろう。遠江国本郷を本拠とする原氏もその荒波に翻弄された一族であった。
原氏の歴史は古く、平安期に遡る。その原氏がここ本郷に城館を構えるようになったのは鎌倉時代、原氏の始祖出羽守師清が原谷(原殿神廟)に足を踏み入れてからおよそ百年後の四代三郎清益のときであるとされている。
清益は平家追討の源義経の軍に従い、一の谷の戦いに参加した。その軍功によってここ本郷の地頭として領地を安堵され、その後数代を経る間にその領地も隣接する細谷郷にまで及んだ。
鎌倉の御家人として安定していた時代が過ぎ、南北朝争乱の時代へと世は移る。
北朝方の隣国駿河の今川範国が遠江の守護となるにおよび、原氏は自己防衛のために南朝方についた。
これでワタクシの心に引っ掛かってたのかも
高藤城が築かれたのはこのときである。残念ながら高藤城が南朝方としてどのような戦いを演じたかは、史料の散逸、改竄、抹消などによって闇の中である。
文明十三年(1481)頃、世は戦国となり、遠江は駿河の今川氏親による武力侵攻にさらされることとなる。原氏は再び高藤城を拠点に防衛戦を展開することになった。相手は後の北条早雲こと伊勢新九郎であった。戦禍は数年に及び、領内は荒廃、無残の極に達したという。原氏十二代頼景のときであった。
こうして幾度かの危難を乗り越え、五百余年にわたり存続しえた原氏であったが、十五代頼延の代にいたり運命の時を迎えることになる。
徳川家康の遠江進攻と時を同じくして武田信玄も軍を遠江に進出させ、家康の動きを牽制していたが、元亀二年(1571)信玄みずからが遠江を席捲した。この際に頼延は武田方に属した。こうして武田の支援を受けて頼延は各和城に兵を進出させて徳川方の来攻に備えることになった。
元亀四年、徳川勢の反攻が始まった。
各和城が石川家成、久野宗能の軍によって落とされると、原頼延は抗戦ではなく逃避の道を選び、
西国の小早川隆景を頼って安芸国竹原へと落ちて行ったのであった。
↖ 小早川です
その後、遠江における原氏の遺跡は荒廃するにまかせ、原氏の歴史も日陰のような存在となっている。
画像 十二代頼景によって再興された長福寺。
この門前の字名は古城(ふるしろ)と呼ばれ、原氏の古城跡(本郷城)と伝えられている。高藤城の北約1.5`の地にある。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 14時57分58秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tot_hara.html
遠江 原氏ですが文字化けしています。
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 15時02分26秒 ) | パスワード |
http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/history/01/0003.php
静岡戦国記
前略
伊豆堀越の戦いの翌年の明応3年(1494)。早雲の視線は早くも西を捕える。数千の兵を率いて遠江へ侵攻する今川氏親軍の軍師を務めたのだ。
原氏敗北
佐野・山名・周知の遠江三郡を狙い、原氏の居城・高藤城(殿合城)を攻撃。
民家を幾千万焼き払い、山林も灰燼帰すというほど激しい戦いの末、落城させた。
この戦い以降、早雲は氏親と共同しながら繰り返し西へと侵攻する。文亀元年(1501)は早雲が信濃・三河国境まで進軍。次に文亀3年(1503)に氏親が浜名湖周辺をほぼ制圧する。それを受け永正2年(1505)早雲が三河へ侵攻。さらに永正3年(1506)には遠江を平定すると同時に、連続して三河進攻。連戦連勝の勢いだった。しかし永正5年(1508)の三河進攻での敗北を機に、早雲の西への侵攻は途絶える。武蔵、相模など関東侵攻の情勢が急を告げたためだ。
そして永正7年(1510)、早雲不在の間隙を襲うように斯波氏が遠江奪還へと動く。ここから毎年、氏親と斯波氏との激戦が続いていく。それでも永正10年(1513)、氏親は自らの力でついに斯波氏に勝利。遠江を支配下に置く。まさに早雲に導かれて獲得した成果だった。
後略
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 15時21分30秒 ) | パスワード |
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh25_bushi/sh25_bushi.htm
復習
1番下に今川の松井氏の同心衆の山下弥十郎と太田又三郎の名があります。
遠江と駿府と伊豆
およそ東国には、古くから多くの牧場が発達し、馬の生産において質・量ともに西国を凌駕した。 狩猟牧民集団から弓射騎兵軍、そして中世武士団への展開過程において、牧(まき)の存在は密接不可分の関係にあったに違いない。 遠江国には、律令制下に白羽官牧(しろわのかんまき)があり、やがて荘園化して白羽荘(しょう)とも称し、笠原(かさはら)牧や相良(さがら)牧という私牧を分出させた。 両私牧とものちには荘とよばれた。白羽牧の故地は御前崎西方の砂丘地帯から北方の牧之原台地におよび、相良牧と笠原牧は、それぞれ榛原郡相良町と小笠郡浜岡町丁大須賀町)付近とに措定(そてい)される。 これらの牧の地域・周辺には、勝間田・相良・新野・横地・内田・浅羽などの武士団が輩出した。
駿河国には、岡野(大野)・蘇弥奈(そみな)の二官牧があった。 岡野官牧は愛鷹山の東南麓、現沼津市の大岡・金岡・愛鷹を中心とする地域に存在し、のちには大岡牧あるいは大岡荘とよばれる荘園になった。
蘇弥奈牧の位置は明確ではないが、やはり、現静岡市街地の西北、安倍川と藁科(わらしな)川とに囲まれた牧ケ谷から美和の内牧に至る一帯の山地と理解するのが妥当だろう。 大岡牧の周囲には、葛山(かつらやま)・大森・小泉・金持(かなもち)・原氏などが発祥し、蘇弥奈牧の近辺では、岡部(辺)・朝比奈・藁科・工藤・長田(おさだ)・手越の各氏、今の清水市域南部には、入江氏を始め多数の武士団が簇生(そうせい)した。
伊豆国では官牧の存在を検証しえないが、現田方郡修善寺町に牧之郷という地名があり、この付近を根拠として伊豆各地に同族を分出した大武士団(狩野・工藤・伊東・河津氏など)の私牧の遺称地かと考えられる。
牧の近隣には、八幡・大見(おおみ)・田代・堀氏が勃興し、駿河の大岡牧との中間地帯には三戸(みと)(津)・天野・南条・北条・江間・近藤・那古谷(なごや)・仁(新)田・沢などの諸氏が分布した。 伊豆国においても駿河や遠江と同様に、牧と武士(団)との深い関わりを認めてよいであろう。
略
平氏政権下の在地武士団
平治の乱により源氏主力が壊滅した結果、武力の項点に立つ清盛の地位が固まった。 清盛は乱の翌年に、武士としてはじめて公卿となり、以来わずか7年後の仁安二(1167)年には、従一位太政大臣にのぼって位人臣をきわめた。
やがて治承二(1178)年十一月、娘の徳子(建礼門院)が高倉天皇の皇子言仁(ときひと)(安徳天皇)を生むと、嬉しさあまった清盛が、富士の綿(駿河国富士郡所産の真綿(まわた))2000両・砂金1000両という途方もない贈り物を後白河法皇に進上し、人びとのひんしゅくを買ったとする所伝がある(『平家物語』)。
富士の綿にせよ砂金にせよ、駿河国や奥州など、平氏政権と東国諸国との深い関わりを抜きにしては考えられぬ話である。 以下、平氏全盛時代の駿・遠・一旦二国支配の状況を一瞥しておく。
駿河国は治承三年正月以前に平宗盛の知行国になり、国守平維時(これとき)・日代(もくだい)(代官)橘遠茂(たちばなとおしげ)があった。
また大岡荘(牧)や、蘇弥奈牧の故地と推定される服織(はとり)荘は、ともに平頼盛が領知する荘園であり、大岡牧は母方の叔父牧宗親(まきむねちか)があずかり知行していた。
宗親の娘が前述の牧の方である。 そのほか、益頭(ましず)荘(藤枝市・焼津市)・富士神領(旧富士郡一帯カ)に平氏の領有権がおよんだのは、ほぼ確実とみられる。
こうした、知行国・荘園制という原理を媒介にする支配の拡大方式のほかに、武家権門としての平氏は、国家の軍事警察権を専掌することによって、諸国の武士を支配下におく方策もあわせとった。
遠江・伊豆や他の近隣諸国の場合と違って、駿河武士について平時における平氏との関係を直接に語る史料はみいだせないが、のち、頼朝の挙兵準備の報を、いちはやく平氏中枢に注進したのは、国府(静岡市)近くの武士長田入道某だった。 また、岡部五郎・荻野五郎・阿佐摩(あさま)二郎(浅間三郎とも)は、頼朝に敵対した(駿河)武士として、物語文学に名をとどめている。
彼らにかぎらず、多くの駿河武士が源平内乱(治承・寿永(じしょうじゆえい)の乱)の初期段階では、目代遠茂に率いられ、平氏方として参戦したこと自体は間違いない。
遠江国は保元三(1158)年以来、重盛・宗盛・基盛(もともり)・頼盛ら平氏一門が国司の任を重ねたところであり、平氏領となった荘園なども少なくなかったと思われる。 とくに重盛に関しては、笠原荘を起源とする広大な荘園)の初代「地頭」とする、かなり信頼性の高い所伝がある。
鎌倉幕府の地頭職に先行する平安時代の「地頭」の存在は、すでにいくつか知られているが、東国にその例は珍しく、しかも平氏「地頭」が直接鎌倉幕府の地頭職に転換したと主張する点で貴重である。
また、当国の武士浅羽宗信(むねのぶ)・相良長頼(ながより)らの一族は多数が平氏に属し、あるいは遠江の出身と推定される橘公長(きみなが)、同子息公忠(きみただ)・公成(きみなり)らは平知盛(とももり)の家人になっていた。
公長の弟橘五(きつご)は、のちの一の谷合戦に平氏方として参戦した。
伊豆の国政については、頼朝挙兵の直前(治承四年六月)に平時忠(ときただ)(清盛の妻時子の弟)が知行国主、その猶子時兼(ときかね)が守になり、伊勢平氏の分流山木兼隆(やまきかねたか)が日代に起用されるまで、平氏一門とのあいだにとくに深い関係は認められない。 むしろそれ以前、平治の乱後は、摂津源氏の伸綱(なかつな)が何度も伊豆守になり、父の頼政が長年の知行国主だった。
有力在庁の一族工藤四郎・五郎兄弟は仲綱の郎党となり、近藤国平も同様の存在かとみられるが、そもそも頼政は、平治の乱に義朝を裏切って清盛方につき、晩年、清盛にすがってようやく公卿の座を得た人物である。
頼朝に先行して頼政が挙兵したのは確かにしても、頼政や仲綱がはやい段階から反平氏の立場をとり、その結果が在地におよんでいたとは、とうてい思われない。 だから頼政父子の国政は、平氏の軍事支配が伊豆をおおうさいの妨げにはならなかった。
伊東祐親は源氏重代の家人でありながら平氏に鞍替えし、逆に「平家重恩の者」とさえ称されるようになった。 祐親は平氏の政権下で京都大番役をつとめ、北条時政も一時上洛していたようだし、工藤祐経(すけつね)もその所領久須美(くすみ)荘の領家平重盛につかえていた。
そして祐親は、のちの早河合戦(石橋山合戦)において、300騎を率いて頼朝を攻撃するなど、伊豆における平氏方武士団の中心勢力を形成した。なお、石橋山会戦のおり祐親の軍に属し、時政の男宗時をうちとった平井久重も当国の武士かと考えられる。
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh29_nanbokuchou/sh29_nanbokuchou.htm
南北朝
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh30_sengoku_doran/sh30_sengoku_doran.htm
戦国動乱
今川氏親の遠州平定
文亀年間(1501〜04)の攻防戦はかなり激しかったようで、今川方の本間宗李(むねすえ)の軍忠状によれば、中遠地方の座王御城(ざおうごじょう)=久野城(袋井市)・天方城(周智郡森町)・馬伏塚城(まむしづかじょう)(磐田郡浅羽町)などでも激戦があった。
永禄三(1560)年十二月九日付けで、氏真から松井宗恒(むねつね)に対して二通の文書がだされている。 一通は父宗信(むねのぶ)が五月の桶狭間の合戦で抜群の働きをして討ち死にしたため、嫡子宗恒に遠州所々の知行を安堵したものである。 もう一通は「松井八郎奏者人数」として、若干の例をのぞいて、個人名で28氏50人が書きあげられている。
19番目に山下弥十郎
23番目に太田又三郎
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 15時38分14秒 ) | パスワード |
続き http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh32_takeda_tokugawa/sh32_takeda_tokugawa.htm
武田と徳川
この家康の遠州侵攻にいち早く呼応して、その先導役をつとめたのが、菅沼・近藤・鈴木のいわゆる井伊谷三人衆であった。
家康は十二月十二目付けで「今度遠州入りについて、最前両三人忠節を以て井伊谷筋を案内せしめ、引き出すべきのよし感悦の至りなり。 その上彼の忠節について、出し置く知行の事」として、遠州の諸所2500貰文をあてがっている。
ほかにもこの時期今川氏を見限って家康にしたがった遠州の諸氏は多く、久野城(袋井市)の久野宗能(くのむねよし)を始め、匂坂・中山・大村・加々爪(かがつめ)・小笠原・江馬・松下・都筑(つづき)氏などが、翌年初めにかけて家康から所領を安堵されている。
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh33_tokugawa_5koku/sh33_tokugawa_5koku.htm
徳川
18番目 寺田康吉
下の方に秀吉の寄進の話が出てます。
で、思ったのですが、頭陀寺のある河匂庄内というのが
「服部権太夫政光(政信の祖父の方)が遠江国河の内庄にをいて3000貫の地をたまふ」
に相当するのでは?と。
ということは!
服部氏権太夫家と松下氏はココでも繋がるのでは?
ビックリ!ビックリ!ビックリ!
まさか頭陀寺の河匂庄のことだった???
[48] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月09日 17時26分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ビックリの発見! 家にていろいろ調べてみます!
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月09日 21時35分33秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服部系忍者と松下系忍者はどのようにつながっていたのかは、これからの
研究課題としたい。
松下と服部(権太夫の家)は 河匂庄≒頭陀寺 で繋がったらしい。
だから服部系忍者と松下系忍者も繋がるであろう。
市野氏の前身である袴田・寺田は 遠江の名家であった原氏 で繋がるのかも。
原氏は竹原の小早川に逃げた。
だから市野の孫が小早川の重臣になっていてもおかしくないのかも。
そして原氏と久野氏が繋がり
久野氏は松下氏と繋がる。
今川は北条と元々が今川義元の祖父の時代に親戚だった。
そして太田道灌も登場。
義元あたりに今川・北条・武田の鼎立。
遠江の豪族達にとって家康が共通の敵でもあった。
今川の陪臣に山下氏や太田氏が 今川>松井>山下・太田 の順位でいた。
M氏は 今川系・北条系・武田系(小笠原) シンパであった?
つまり家康の敵だった?
[50] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月11日 00時56分05秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
宗安寺、源長院にて「寺田」の家紋を調べましたら「丸に一文字」であり
ました。ついでに村木家にも「丸に一文字」紋がありました。
市野氏について、図書館で調べ直しましたら、二流ありということで、そ
の説を信ずべきかどうかと迷います。即ち―どちらも市野村に来た。
@藤原氏族浅井氏流、市野茂左衛門義久が家康に仕える。
(井桁の内鷹羽、抱き橘紋)
A寺田氏流、寺田右京進真宗の孫惣太夫真久が市野に住む。
(丸に一文字、蔦、六葉柏紋)
新たな説、行きつ戻りつ・・・でも、もう少し市野氏を調べてみます。寺田
氏流の真久は浜岡村の閑田院を開基したと書いてありましたので・・・。
本日は、小野氏について『小野篁と遠州小野一族』を調べていました。中学
校の頃の親の知り合いに教育関係者で県会議員になった小野先生という人、正
にその主流の末裔として載っていました。今更ながらビックリです。
いずれにせよ、市野氏と小野氏について、改めて報告いたします。
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 02時26分18秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
教えて頂いた名前を検索しましたら、こんなのがヒットしました。
@藤原氏族浅井氏流、市野茂左衛門義久が家康に仕える。
⇅
近江一揆の原因になった 市野茂三郎 という代官がヒットしました。
この人物を調べたら藤原姓浅井流市野氏が分かるような?
わたくし的には市野惣太夫はAでは?と思います。
@とAがどう関係するのかですが。
この一揆事件の背景が「六角」「甲賀」ですから え?え?え? となります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E4%B8%80%E6%8F%86
近江天保一揆(おうみてんぽういっき)
江戸時代後期に起こった百姓一揆。
甲賀騒動・甲賀一揆・三上騒動・百足山騒動・天保十三年近江天保一揆などとも言う。
典型的な『惣百姓一揆』(代表越訴型一揆と異なり、庄屋等の村役人層に指導された全村民による一揆、大規模で政治的要求を掲げた)である。
天保13年10月16日((新暦)1842年11月18日)近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民が、
江戸幕府による不当な検地に抗議し、
『検地十万日延期』の証文を勝ち取った。
一揆後、幕府により数万人を超える農民に対して苛烈な取り調べが行われ、
土川平兵衛等指導者11人が江戸送りとなった他、千余人の一揆参加者が捕縛され、
その中の多くが獄死や帰村後衰弱死したと伝えられている。
これら犠牲になった人たちのことを近江天保義民(天保義民)と言う。
ものすごく長いので割愛。
鎌倉時代以降近江は佐々木家が治め、室町時代より戦国時代にかけて近江天保一揆が起こった湖東・湖南域は佐々木一族の嫡流六角家が長らく守護大名として君臨していた。織田信長の近江侵攻により六角家が滅亡すると同家臣の多くが帰農した。近江の庄屋層や豪商の多くは先祖を佐々木家一族や六角家被官とし[6]、強い連帯感が存在した。実際、近江商人においては明らかな郷党意識があり[7]、甲賀郡では六角家と関係が強い甲賀五十三家や野洲郡には三上七党がおり、中世より『一味同心』・『惣国一揆掟之事』などで強く結ばれていた[6]。
一揆指導者野洲郡三上村(現野洲市)庄屋土川平兵衛の家は、戦国時代以来の湖南地侍・一向門徒衆の家であり[2]、土川平兵衛が検地阻止について相談を行った、野洲郡上永原村(現野洲市)庄屋野依又右衛門は佐々木定綱の後裔で中世近江守護代であった馬渕氏の一族であった[8]。三上藩郡奉行平野八右衛門、三上村大庄屋大谷治太郎・三上藩地方役人大谷治之助兄弟、小篠原村庄屋苗村安右衛門などは三上七党の出であり、平野と大谷兄弟は従兄弟同志でもあった。
また、灌漑用水分配を巡って、近江国内の川筋に沿って一村、又は複数の村が連合して井組が作られていた。井組内部の水配分については無論のこと、他の井組との交渉・協議も絶えず行われており、支配領主を超えた共同体が存在していた[6]。土川平兵衛は野洲川の水利触頭で、川筋庄屋は全て旧知の仲であった[9]。
略
仁保川筋・野洲川筋の見分[編集]
見分役人[編集] i幕府勘定方市野茂三郎!登場
天保12年11月(1841年12月)、京都町奉行は突然草津川・野洲川・仁保川筋及び湖水辺の蒲生郡・野洲郡・栗太郡・甲賀郡375ヶ村の庄屋を呼び出し、『各村先の空地、川筋・湖辺の新開地の見分を行うので用意して沙汰を待て。今般の見分は公儀(幕府)が行い公役(幕府役人)が直接行うので愁訴・嘆願がましいことは許さない。』との口達を行い、各庄屋より請書を徴した[12][18]。同年12月(1842年1月)には、水野忠邦自ら幕府の事業として湖水縁りや諸川の新開場見分のため幕府勘定方市野茂三郎を派遣する旨の通達を出した[2]。
天保13年1月11日(1842年2月20日)、老中水野忠邦から与えられた見分親書を持ち幕府勘定方市野茂三郎が京都奉行所与力、大津・信楽(現甲賀市信楽町多羅尾)代官所役人の出迎えを得て近江水口宿(現甲賀市水口町)に到着した。京都にて打ち合わせを行った後、市野茂三郎以下、普請役大坪本左衛門・藤井鉄五郎、京都町奉行所与力2名、大津・信楽代官所手代より各3名が検地役となり、絵師・医師・下働きの者を含め総勢40余名にて、野洲郡野村(現近江八幡市)より江頭村(現同市)・小田村の仁保川筋の検地に取り掛かった[12]。
この時、検地に先立ち回村予定の各村に『触書』が出された。内容は『今回の新開田畑の見分は国益を増進させる目的である。』『新田は余所者(江戸町人大久保今助等)に背負わせず村請にすることから村にも益がある。』『新開場があると聞いているので見聞する。』『近江は一旦請書を出しても彼是申し立てる悪弊があるが、今回は認めない。』であった[12]。『触書』と共に、京都町奉行所は仁保川筋の蒲生郡・野洲郡・栗太郡・甲賀郡各村の庄屋を呼び出し、『近江国では何かと意義を唱え、騒ぎ立てる悪弊があるが、今回は絶対させない』との一項が入った『通達に違約しない』旨の請書を提出させていた[2]。
細則も定められ『見分役人の回村前夜までに、その宿泊所に村役人は新開場所の絵図面・村絵図・高反別明細帳・検地帳を提出すること』『見分役人の接待には無駄を省き、食事は一汁一菜にし馳走しないこと。仮に酒肴、菓子、心ざしを出しても就き返す。もし下役の者が私欲がましいことをしたら申し出ること。休み場所に気をつかうな』等と定められていた[12]。
検地と見分[編集]
幕府からは見分との言葉が用いられていたが、見分とは『空き地や新開できる場所を見つけ出す』行為であった。しかし、市野一行は既に検地帳に記載されている田畑(本田)まで5尺8寸を一間とした(文政年間大久保今助が行った検地同様の)棹で測量し、余剰地を空地として石高をつけた。本田を検地することは『石高が動くことなれば容易のことにあらず』『公儀の御免なければ諸侯も欲しいままになし給うこと能わず』と定められ、容易に検地や石高変更を行うことができないはずであった。これに対して市野等は、新田の見分は『検地条目』によりでき、あくまでも今回は見分だと主張した[12][18]。
諸藩の対応[編集]
水口藩(藩主加藤明邦 2万5千石)の井口多兵衛は大津代官所において、御慈悲の御見分であれば良いが『御無慈悲の御見分と相成候ては、騒ぎ立て申すまじき御請け合いはいたされず』と語り、無慈悲な見分であったならば一揆等が起こっても責任は持てないとした。また、近江の多くの小領主は財政難の時に隠れ持っていた田畑が見分により取り上げられることは避けたいと当然に思っていた[12]。また、領主である大名・旗本は領地の豪商や大庄屋から借り入れを行っており、実際三上村に陣屋を置く三上藩(藩主遠藤胤統 1万石)では大庄屋大谷家から支援を受けていた[12]ことから、庄屋層の疲弊は自分達のためにも避けたいものであった。
膳所藩の対応は明らかではないが、先の大久保今助による検地に際して、見分中止と共に膳所藩領先の新田を幕府領とされたことに対して、天保5年(1834年)に享保・安永の幕令より『膳所藩領に囲まれた新田は幕府領ではなく膳所藩領』となるはずとの考えから返還を申し出たが、琵琶湖は幕府の物と言い出し新田は膳所藩領だけに囲まれている訳ではないと主張され、2年後に漸く返還された苦い経験を持っていた[15]。彦根藩が天保3年(1832年)に同様の趣旨で見分中止を申し入れあっさりと受け入れられた[15]だけに、幕府への不信感は強いものがあると想像される。
見分の実態[編集]
市野一行が称する所の見分は、野洲郡野村から小田村・江頭村へ仁保川筋を遡って実施されたが、仁保川筋の各村は、既に大久保今助による検地が行われていたこと、及び草津川・野洲川より小さい川である仁保川は後回しになると思っていたため、大いに動揺したことが伝えられている[18]。しかも、用いられた棹は5尺8寸を一間とするもので、この棹で測ると、一反の田から22坪の余剰地が算出されることになる[12]。
最初の野村では触書細則通り厳格な態度であったが、小田村ではあまりに厳しい見分と称する検地が行われたため、庄屋三崎佐太郎の老母が二朱金を忍ばせて市野に渡したところ、態度は一変しそれ以降村方に有利な見分を行った[12][18]。
小田村での出来事はすぐに各村に伝えられ、江頭村では庄屋井狩三郎兵衛が千余両を贈賄し一切検地は行われなかった[12][18]。
市野一行の食事に際し近江八幡の料理屋より仕出したが、市野が村に支払った料金は一汁一菜分であり、差額は村に負担させた[18]。
蒲生郡弓削村(現蒲生郡竜王町)の庄屋松瀬伊兵衛は村中に諮り440余両を贈賄し、新開場の査定を有利に値切ることができた。各村は、検地により算出された新開場の開発を負担せねばならず、加えて下働き役人にも5両から10両の付け届けを求められた[12]。
蒲生郡金屋村(現東近江市)には庄屋金八の『留書』が残されており、それによれば『鮒鮨、かしわん、鯛大、猪口以下其外御酒、御肴等申し付けおく』と豪勢な昼食を用意せねばならず、休憩所は盛り土に三方葭簀で囲い、出迎えは袴着用とされた。金八は1朱もする菓子箱に小判3両を挨拶に際して持参したことが伝わっている。
江頭村見分の後、仁保村(現近江八幡市)から仁保川を渡り、蒲生郡田中江村(現同市)から伊勢国境に近い原村(現蒲生郡日野町)・西赤寺村(現同町)を回り、佐久良川筋左岸を下り野洲郡野田村(現野洲市)・蒲生郡鏡村(現蒲生郡竜王町)の見分を終え、6月25日(8月1日)在国大名である仁正寺藩(藩主市橋長富 1万7千石)領野洲郡大篠原村(現野洲市)に入った。
2月(3月)、市野一行は水口藩領日野(現蒲生郡日野町)において豪商矢野新右衛門に対し新田開発資金1万両の無利息貸し出しを要求し、藤嶋惣兵衛にも同様の申し入れを行い、二重の上納を求めたが、両商人は水口藩に働きかけどうにか辞退することができた[12]。
3月(4月)、家斉時代の老中であった井上河内守(館林藩6万石)の領地であった蒲生郡桜川寺村(現東近江市)では厳しい検地を行い、1町6反歩の新開地を検出したが、隣村である彦根藩領綺田村では藩より『いかなる空地と言えども家康公より拝領した土地である。村役人が市野等へ空地・隠田などと申し立て、明らかにしたら承知しない』と厳しく通達され、市野等は彦根藩の対応に屈し『御領分一統、御差除に相成り』と彦根領は見分対象から外された。但し、彦根藩も『彦根様より御料理参る』との記録があり、別途市野一行に気遣いを行っていた[12]。
野田村では、先の大久保今助による検地で従来の石高1,029.12石に280石が上乗せされていたが、今回の見分によって更に5町5反歩(55石)が積み増しされた。庄屋木村定八等より『(大久保今助による)先の検地より村の困窮甚だしい』旨訴えたが、市野等は格別の憐憫をもって5町5反歩としたので不服なら実地に測量を行うと村役人を叱りとばした[18]。
6月(8月)、大篠原村での検地結果から、庄屋甚兵衛等より『高請地減免の嘆願書』が見分役人に提出されており、それによると『開田畑一町歩は年貢を負担する。未開場一町歩は今後開発する。しかし、添地(本田畑に続く空地を新開田畑とする)を出せと言われるが、全て本田であって、その様な余裕はないので容赦願いたい。』とし、5尺8寸棹を用いた本田検地による余剰地を新開田として供出するよう強要されたことがわかる[12]。
8月(9月)になり蒲生郡北野庄村(現近江八幡市)・浅小井村(現同市)・神崎郡伊庭村(現東近江市)の湖水縁から信楽代官所支配の野洲郡須原新田村(現野洲市)に入った後、野洲村(現野洲市)周辺を対象地とした。10月に入り6日(11月8日)富波新町(現同市)、同7日(同9日)小堤村(現同市)の見分を行い、同9日(同11日)小篠原村(現同市)、同11日(同13日)に野洲郡三上村に入る[12]。
小篠原村は仙台藩伊達家領と旗本斎藤家領に分かれる。市野等は他の村々で行った『村全体の面積・石高から宛推量で開発可能面積を割り出す』やり方で新開田畑を算出し、両庄屋に承諾を強要したが、仙台藩庄屋(沢口丈助)より拒否され一筆ごとの見分を求められた結果、斉藤領(庄屋苗村安右衛門)のみ検地を行い、仙台領には『甲賀郡が終了後再度見分する』として手をつけなかった。この様な大藩(尾張藩・彦根藩・仙台藩)への諂いに対して『(市野)茂三郎殿の嫌いは、尾張大根と彦根かぶらに陸奥の魚なり』と言う落首が流行った[12][18]。
続く
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 02時28分32秒 ) | パスワード |
一揆への道程[編集]
野洲・栗太・甲賀郡庄屋会議[編集]
野洲郡の動き
見分開始以来の接待・贈賄の強要、雄藩への諂い、田養水地や荒野開発等の無理難題、そして5尺8寸棹を一間とした手続きに本田石高を変更させようとする違法な検分(検地)が行われ続けた。この様な幕府による違法な行為に対し、土川平兵衛と甲賀郡市原村(現甲賀市甲南町)庄屋田島治兵衛・杣中村(現同市水口町)庄屋黄瀬文吉とが密に相談し、見分繰り延べを求めるため四方の同士を糾合することに決した[18]。
市野一行が伊庭村周辺に入った8月6日(9月10日)、土川平兵衛より上永原村の野依又右衛門に対して『三上村周辺の村では意見が統一した。上永原村等野洲郡北郡17ヶ村でも早急に打ち合わせを行われたい。名目は以前からの申し出の通り、諸物価は下がったが鰊肥値段が高騰続けているので、その対策のためとして欲しい。参会費は36文、弁当は各自持参とする。このことは戸田村(現守山市)を取締役とする53ヶ村が開いた打ち合わせにおいても同じである。53ヶ村の打ち合わせで野洲郡北郡の内容を報告するので、急ぎ開いて欲しい。召集の連絡は大篠原村の庄屋が良いと思う』との文が出され、野依又右衛門は直ぐに大篠原村庄屋小沢甚七へ依頼して17ヶ村に召集状を出状した。8月12日(9月16日)、既に打ち合わせ済の野洲川下流域戸田村を中心とする53ヶ村・野洲川上流域三上村・野洲村・小篠原村を中心とする打ち合わせに続き、大篠原村を中心とする17ヶ村の打ち合わせが大篠原村浄土宗東方山浄勝寺で開かれ、入町村(現野洲市)他15ヶ村(長嶋村・高木村・小南村・仁保村・江頭村・小田村・野田村・富波新町・富波沢村・五ノ里村・紺屋町村・永原村・上永原村・小堤村・大篠原村)が集まり庄屋会議が開かれた[8]。
9月17日(10月20日)野洲郡桜生村(現野洲市)浄土宗桜生山宝樹寺において、大篠原村・入町村による打ち合わせに集まった16ヶ村と三上村他5ヶ村(行合村・小篠原村・野洲村・南桜村・北桜村)が加わり、22ヶ村の庄屋による合議が行われた。召集は16日に回状が出され、両グループの間ですり合せが行われたと伝えられている。これら打ち合わせの他に、他の村の集まりや野洲郡ばかりでなく甲賀郡や栗太郡でも数回に亘り打ち合わせが行われたものと思われる[8]。
9月26日(10月29日)野洲郡戸田村(現守山市)の浄土真宗富田山立光寺において野洲郡・栗太郡合同による庄屋会議が開かれた。既に検地が終わった仁保川筋を除く地域より60余ヶ村の庄屋が集まり、戸田村鵜飼彦四郎・今浜村今川直右衛門・播磨田村西村甚右衛門・矢島村林宗右衛門(以上現守山市)、三上村土川平兵衛・大篠原村小沢甚七・行合村小谷忠衛門・小篠原村苗村安右衛門・同沢口丈助・上永原村野依又右衛門(以上現野洲市)が中心になり打ち合わせが行われ、同日開かれていた甲賀郡庄屋会議と同じく『血気に逸らず野洲郡栗太郡の衆は野洲川原に、甲賀郡の衆は横田川原にて待機し、その間に代表者が市野等に直談判の上、市野から京都町奉行所への見分中止の訴願状を提出させる。承諾を得られなかった場合は本陣に押し寄せる。』との結論が導き出された[8][18]。
甲賀郡の動き3月20日(4月30日)、水口藩では領内20余ヶ村より見分中止の嘆願書が上がり、同21日にも領内大庄屋他から再度嘆願書が出され、藩では郡奉行樋口七郎兵衛を江戸に送り幕府に対し見分中止の伺いを行っていた。幕府からの回答がない中、水口藩は郡奉行樋口等を三上村に派遣し、市野に対し水口藩として庄屋達の見分中止の嘆願書を幕府に提出し裁定を求めていることから、裁定が来るまで見分は受けるが、見分結果に対する承諾書の提出は待って欲しいとの談合を試みようとしていた[8]。
一方庄屋達は、戸田村で野洲郡・栗太郡合同の庄屋会議が開かれた同日に水口宿の旅籠『万屋伝兵衛』方と『丸屋金兵衛』方の2ヶ所に分かれ、甲賀郡137ヶ村の内70余村の庄屋が集まり会議を開いていた。両会合場所で指導的な役割を担ったのは市原村庄屋田島治兵衛・宇田村(現甲賀市水口町)庄屋藤田宗兵衛・松尾村(現同市同町)庄屋中藪喜兵衛・杣中村庄屋黄瀬文吉と黄瀬平三郎・岩根村大庄屋藤谷弥八と谷口庄内・深川村中安右衛門等であった。甲賀郡においては、『江戸への直訴を行うべき』『市野等が甲賀郡に入って来たら斬殺已む無い』など強硬な意見が出たが、『江戸幕府に直訴するには時既に遅い。京都奉行所への訴願では弱い。市野一行を襲うことは双方に犠牲者が多く出る。そこで京都町奉行所への見分中止の訴願状を市野から提出させる。そのために市野等の本陣に人数を出し取り囲む。その間代表者が市野等に直談判を行い、承諾を得られなかった場合は総勢で市野の本陣に押し寄せる。』と野洲郡栗太郡庄屋会議同様の結論が導き出され、各郡指導者間で既に綿密な打ち合わせが行われていたことがわかる[8][18]。
一揆直前[編集]
10月11日(11月13日)、市野等見分役人が野洲郡三上村に入り、市野等は大庄屋大谷治太郎宅を本陣とし、一行は近隣の宝泉寺・庄屋粂川家その他に分宿し、本陣の前には三上藩の陣屋があった[19]。市野一行は三上村で近江入国以来9ヶ月に及ぶ見分を行っていたため休憩を取りつつ、今後の見分予定地である野洲川上流甲賀郡についての情報収集を三上藩郡奉行平野八右衛門などから行っていた。
暫く市野一行が野洲郡から甲賀郡への入り口である三上村に留まったことから、甲賀郡庄屋田島治兵衛と黄瀬文吉は土川平兵衛に使者を派遣し野洲郡・栗太郡の状況を確認しようとしたところ[18]、10月13日(11月15日)土川平兵衛より好機到来として田島治兵衛と黄瀬文吉に『野洲・栗太郡は15日を期し、かねての打ち合わせ通り野洲川原に集結する。甲賀では今さら何をためらって当地の動静を気遣っているのか、急ぎ動員の廻状を手配されたい。』との書状を使者に託した。治兵衛・文吉は早速藤田宗兵衛と蜂起の懇談を行い、関係各村に対し廻状を出状した[19][18]。
廻状には『一.此度川筋・山辺等に至るまで御見分に付き、村々残らず矢川社へ罷り出で申すべく候様、即ち一昨夜より罷り出で、今十五日夜本揃に候間、残らず出立致し申さるべく候、不参の有るにおいては、其村へ押し寄せ打ち壊し申すべく候者也。』と記されていた[19]。矢川神社(現甲賀市甲南町森尻)は中世来甲賀郷士が評議のため参会した場所で、同所と水口宿郊外より三上に向かう途中にある横田河原(現甲賀市水口町泉。横田川は野洲川のことで、横田渡しは幕府により定められた東海道十三渡しの一つ)が集合地として指定された。
廻状が廻された事を察知した水口藩は、横田河原に隣接する泉村(現甲賀市水口町)に逐一河原の様子を知らせるよう指示すると共に農民集結に備えた[19]。
近江天保一揆[編集]
甲賀郡での蜂起[編集]
10月14日(11月16日)矢川神社の鐘が打ち鳴らされ、四方八方より農民が参集し法螺貝を鳴らし太鼓を打ち鯨波の声をあげ、横田川原へ向かった[18]。10月15日(11月17日)丑の刻(午前1時)、泉村に隣接し横田川原の南にある酒人村(現甲賀市水口町)より各所で法螺貝が鳴り響き野洲川南の村々が騒然とした状況にあるとの一報が水口藩に入り、水口藩では大庄屋山村十郎右衛門を同道し、野洲川と杣川に挟まれた酒人村から氏川原村(宇川村、現甲賀市水口町)周辺に出張った[19]。資料によると一揆参加者は寺庄村(後の寺庄町、現甲賀市甲南町)の場合参加率は66.3%の55名、葛木村(現同市同町)は56.6%とされ、それだけでもかなりの人数になるが、当時一揆後は村を守るため参加者を少なく報告するのが常であり、実態は相当の割合に上ったと思われる[19]。『甲賀郡志』では1万2千人、『野洲郡史』では2万人、『浮世の有様』では3万人が甲賀郡で一揆に参加したと記されている。また、一揆勢の出立ちは蓑笠に杖状の竹を持ち、あくまでも談判が目的であることから刃物類は勿論のこと武器となる鋤鍬なども一切携行していなかった。
15日の夜明けには矢川神社から杣川にかけ農民で溢れていたところ、一揆指導者は農民に血気に逸らないことを求めていたにも関わらず、見分作業の前に市野一行の下調べに協力した五反田村(現甲賀市甲賀町)庄屋孫丸郎宅・田堵野村(現同市同町)庄屋伝兵衛宅・三大寺村(現甲賀郡水口町)酒造家和助宅・菩提寺村(現湖南市)庄屋佐兵衛宅・森尻村(現甲賀市水口町)庄屋徳右衛門宅・杉谷村(現甲賀市甲南町)庄屋九兵衛宅への打ち壊しが行われた。田島治兵衛・藤田宗兵衛・中藪喜兵衛等の指導者は、家屋への打ち壊しは今回の嘆願に害こそあれ何の益も無いことを説き、訴願の目的達成にのみ行動するように求めた[19]。
水口藩では農民結集後打ち壊しまで起こったことから、一揆勢を抑止説得するため横田川原方面に物頭市橋総兵衛以下を、矢川神社方面に同じく物頭細野亘・郡奉行岡田勘右衛門以下30余名を派遣し鎮撫に当たらせた。矢川神社方面に出張った藩士等は多勢に無勢のため、横田川原方面の藩士と合流し泉村の横田橋にて物頭細野と郡奉行高田弥左衛門が一揆勢阻止を図ったが、水口藩以外の農民も多く同藩の指示に従う必要なしとして次々に渡橋した。15日夜、一揆勢は横田川原で篝火を焚き気勢をあげる中、水口城下より一揆勢に対して炊き出しが行われた[19]。なお、細野亘と岩根村大庄屋藤谷弥八とは親戚の関係にあった。
当初の約定では甲賀一揆勢は三上村での談判結果が出るまで横田川原にて待機する予定であったが、一揆勢は横田川原から甲賀郡石部宿(現湖南市石部町)方面への移動を開始した。記録によれば、この時白装束に白髪の老人が『諸行無常』の小旗を持って『我こそ一揆の発頭人である。後に続け。』と叫んだと伝えられている[19]。一揆勢は途中三雲村(現湖南市甲西町)で地元の人達より炊き出しを受けた。石部宿には一揆の通報を受けた膳所藩が中村式右衛門以下170余名を警備のため派遣していたが、三上村への移動は阻止せず、中村自体が一揆勢に同情的で宿場の福島治郎兵衛に命じ50余俵の炊き出しを行った。一揆勢は途上、前述の菩提寺村庄屋佐兵衛宅を打ち壊し三上村へ向かった[19]。
三上村[編集]
野洲郡・栗太郡における一揆前後の資料はほとんどなく。両郡の農民がどのようにして野洲川原に参集したか、どれ程の人数であったか定かでない。野洲郡・栗太郡の一揆勢は既に三上村の川原で待機していたところ、甲賀郡一揆勢と合流したとされ、一揆総数は2万5千人とも4万人とも伝えられる。三上村5ヶ寺に加え近隣の寺々の鐘が鳴る中、10月16日(11月18日)早朝から昼に掛け続々と一揆勢は三上村に入り、法螺貝や鯨波の声をあげ見分役人の本陣を取り囲み、仁保川筋以西の新たな検地帳を破棄した上で『検地十万日延期』の請文を勝ち取った[20]。市野は三上山の洞窟に逃げ隠れ、一揆勢には三上藩郡奉行平野八右衛門・地方役人大谷治之助等が対応、一揆勢が三上村を引き払った後大津代官所に市野以下見分役人一行は移動した。なおこの騒動の間、本陣には普請役藤井鉄五郎と信楽代官所手代柴山の二名しか残っておらず、京都まで逃げ帰った者もいた。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 02時31分42秒 ) | パスワード |
一件上申書[編集]
一揆当日の様子については、平野八右衛門が一揆翌日に記述し藩主に提出した『一件上申書』が詳しく、以下同書[21][18][16]を引用する。なお、『一件上申書』は10月23日(11月25日)藩主遠藤胤統より幕府に提出された報告書の元となった資料である。
11日夕方、勘定方市野茂三郎等の一行が三上村に到着し、翌日三上村新田見分のため三上藩陣屋からも1名立会いをさせていたところ、15日深夜になり三上藩領甲賀郡朝国(現甲南市)の庄屋がやって来て『どの村の者かわからないが、川上から大勢やって来て鐘・太鼓の音までする。』と報告してきた。そこで三上村庄屋(土川)平兵衛より一行の普請役に伝えたところ、市野に直接報告しろと言われ直接事情説明に出向いたが、市野からは『打ち捨て置け。』と言われ、何もせず夜明けまで時を過ごした。
翌16日早朝、三上藩領甲賀郡植村(現甲賀市水口町)の庄屋から『横田川原周辺が群集で溢れ、水口藩が取り締まりのため出動したが、対処できないと考えたのか引き取ったと言う噂が有る。』と連絡して来たことから、この旨市野に報告したが、『見分についての嘆願であろう。三上村が騒動を起こさないように取り締まれ。』と命じられた。更に、三上村に近づく群衆の声が激しくなる頃、市野の本陣より使えが来て『三上藩士は警備につけ。』と言われ、陣屋は配下に任せ平野本人は本陣に詰めた。普請役藤井鉄五郎が『本陣へ乱入させぬよう門前で制止せよ。嘆願と言うことであれば取り次がせよ。』と言うことなので門前を三上藩士が固めた。
その内数万人の足音が本陣周辺に響き渡り、各寺の鐘が乱打された。三上村の家々には食事を乞う人々で溢れ、三上村の者から『夜明け方から今、昼前頃までにどの家も米を炊き出し、黒米まで炊き尽くし、年貢米まで底を着いた。公役人(市野一行)さえ三上にいなかったらこの様なことにはならなかった。もう1日続いたら三上村は潰れてしまうので、遠藤藩の名において公役人が三上村を退去するよう取り計らって欲しい。』との申し出があった。また、下役人から群集に『訴願の件は叶える手段を講じるので、門前にいる三上藩士に内容を申し出よ。』と伝えたところ、群集から『発頭人と言うような者はいない。老人がいるが、この者を探し出して尋ねよ。』『とにかく三日三晩何も食べておらず空腹のため説明できない。』など取りとめも無いことばかり言い立てていた。
平野は市野に対して『この様に一揆勢が四方から結集したからには、早急に解決できない。武器を取り篭城の覚悟で向かわねば鎮圧できない。(分散しているのは得策ではないので)三上陣屋へ移動して欲しい。陣屋周りは十分固める。』と申し出たが、市野からは『出来るだけ陣屋には移動したくない。もう一度お前から一揆勢との解決を取り付けよ。』と言われ、三上藩士が手分けして群集の中に入り『訴願の件は承諾を取り付ける。』と触れ回ったところ、群集からは『有り難いこと』と言う者もあれば『市野さえ突き殺せば本望』と叫ぶ者もあったが、数名の年輩者が『この様に大勢が集まったのは人間業ではない。その理由は、見分さえ無ければ細々渡世もできようが、見分があるばかりに困窮の上落命にまで追いやられる。だから死を覚悟の上妻子を捨てて出掛けて来た。今後何回見分に来ても、命を懸ける一揆勢の反対に出会うであろう。従って、これ以降一切見分は行わないと言う請文を受け取ったならば、一揆勢は引き上げるであろう。』と言った。平野は『道理である。何とかして市野から承諾を取ってくるから、その間騒動を起こさずに控えていよ。』と申し渡し、群集は門前に控えた。
三上村年寄り役内堀善左衛門も市野に面会し三上村からの立ち退きを要請し、市野一行は騒動が下火になったら大津代官所に引き取る準備をした。平野は市野に一揆訴願の事情を説明し、『見分についての百姓への請文は、一揆勢を引き上げさせる方策であり、適宜な処置を。』と申し入れ、普請役藤井鉄五郎などが『再び野洲川筋見分の義は為相見合候事(野洲川見分の件は見合す)。』との請文を書き、一揆勢にその請文を門前で掲げて見せたところ、口々に『印判がない。』と抗議するので、道理であるとして藤井などに捺印を求めたが、既に印判は大津に引き取るために片付けられており探すのに時間を要した。
門前で待つ群衆も、偶々一人が小石を投げたことが契機となり(痺れを切らして)一斉に石・瓦が本陣に投げ込まれ、また大勢が門内になだれ込む騒動に発展した。市野は印判・書類を懐中にしまい三上山に逃げようとしたが、一揆勢に見つかり追われ、逃げ惑う市野を三上村の百姓甚兵衛と久右衛門が庇い、三上山中の『姥が懐』又は『百足穴』と俗称される洞窟に隠れさせた。本陣には普請役藤井鉄五郎と信楽代官所手代柴山の二名しか残っておらず、他の者は逃げ去っていた。本陣であった大谷家屋敷は壊され、見分役人の長持も破壊された。平野は『こうなったからには少々手荒なこともやむを得ない。』とし、藤井も『公用物まで破壊したのだから已む無し』として、本陣大谷家の槍で一揆勢を牽制し『この請文で承諾せよ。余計な命と思うなら打ち殺す。』と鉄砲に玉を仕込み威嚇した。
群集より一人の者が平野に対して『請文さえ頂ければそれで良い。』と申し出たので捺印した請文を渡したところ、『大勢のことなので皆と相談し了解であるならば引き上げるが、異論があれば申し出る。』とのことであった。再び本陣にて待っていると『見分見合わせると言うのでは曖昧であるので、十万日の日延べと期限を画して欲しい。』『見分役人衆の署名捺印も願う』との申し入れがあり、門前を警護していた地方役の大谷治之助がその通りに処置し、『一.今度野洲川廻村々新開場見分之義ニ付願筋も之有候間十萬日之間日延之義相願候趣承届候事』との請文を手渡した。そして周知徹底のため障子に『今日から十万日の日延べ』と大書きして一揆勢に示すと、一揆勢は『有り難いことだ。』と了解の上、七つ過ぎ(午後5時頃)になり三上藩陣屋に一礼した後に引き上げていった。
一揆勢が三上村を退去後、三上山から市野を迎え入れ、市野は平野等の適切な処置に対して謝意を呈した。市野等も三上村を退去し、守山宿を抜け大津には子の刻(深夜12時頃)に着いた。市野等は大津にて一夜休息を取った後、翌10月17日(11月19日)京都町奉行所に辿り着き、すぐさま江戸に使いを出し進退伺いを行った。11月12日(12月13日)、漸く江戸より帰府を命じられ、帰途に着いた[18]。なお、大津へ退去する際、野洲川対岸の栗太郡辻村(現栗東市)に待機していた膳所藩警備隊に大津代官所手代柴山が助力を要請したが拒絶された[19]。
事後の処置[編集]
近畿では例を見ない大規模な一揆の勃発に対して、幕府は驚愕すると共に威信回復のためその取調べは峻烈を極めた。
10月19日(11月21日)、京都町奉行所より内偵調査のための役人が甲賀郡・野洲郡に派遣され、同月22日(同月23日)には京都西町奉行与力目付田中寛治郎・東町奉行同下田定之進及び同心10余名により取調べが開始された。川筋の村々の農民を呼び出し尋問を行い、指導的役割を果たしたと思われる人物を次々に捕縛していった。また、一揆勢に対した諸藩の藩士・代官所役人等の取調べも併せて行った[22]。
天保13年12月14日(1843年1月14日)、幕府より評定所留役関源之進・同戸田嘉十郎他3名が大津代官所に着き、12月16日(1843年1月16日)捕縛した農民を京都町奉行所の二条獄舎より大津代官所へ多くの番卒と共に移送した。大津代官所での取調べは捕縛者からの自白を得ることにあり、残酷な拷問が農民達に加えられた[22]。
一揆参加者への取調べ[編集]
甲賀郡では京都町奉行所役人が水口宿の旅籠桝屋に本拠を置き、10月22日(11月24日)市原村庄屋田島治兵衛、杣中村庄屋庄屋黄瀬文吉・黄瀬平兵衛等8名など10余名を捕縛し、翌23日(同月25日)には岩根村庄屋藤谷弥八など80余名を捕縛した。野洲郡・栗太郡では守山宿脇本陣辻八兵衛方を本拠とし、三上村庄屋土川平兵衛・大篠原村庄屋小沢甚七・戸田村庄屋鵜飼彦四郎・小篠原村庄屋苗村安右衛門・同沢口丈助・行合村庄屋小谷忠衛門他20余名が捕縛された。捕縛者は京都二条獄舎に送られ昼夜拷問と虐待の日々を送ることになった[22][18]。
関源之進・戸田嘉十郎他3名が大津代官所に着任後の12月16日(1943年1月16日)、捕縛者は大津代官所に移送された。幕府は関等の派遣にあたり農民が騒いだ時は鉄砲で撃ち殺せとまで申し渡していた。大津においても鞭打ち・海老責・算盤責・木馬責・釣責などあらゆる拷問が加えられた。天保14年1月(1943年2月)には野洲郡・栗太郡・甲賀郡・仁保川筋の500余村に対して宗門人別帳を提出させ、各村より庄屋1名・年寄り1名・百姓3名を召還し、数万人を超える農民が尋問を受け、千余人の一揆参加者が捕縛された。千余人の入牢者を抱えた大津代官所では牢獄が足りず急遽牢を増築したが、獄中で絶命した者が続出し、記録されているだけで40余名が獄死した[22]。
入牢者に対する拷問の凄さは獄舎から聞こえる呻きや尋問だけで終わった召喚者の話から伝わり、関係各村の神社では除災安全の祈願や捕縛者延命の祈りが捧げられた。『山村十郎右衛門日記』では水口藩領関係者の除災を7日間に亘り平松村(現湖南市)の天台宗美松山南照寺で祈祷が行われたことを記録している。また、仁孝天皇は凄惨な拷問の事情を憂慮し比叡山延暦寺に下命され安全祈祷の護摩修法を厳修させた[22]。仁孝天皇ご自身も近江の湖東湖南域に領地を持つ宮門跡や公卿から、一揆及びその後の状況を耳にされていたと思われる。
天保14年2月末(1843年3月末)、大津代官所での拷問責による取調べは一応の決着がつき、その罪状を凡そ確定して幕府へ報告しその裁断を待った。その結果、江戸送りの者を除き、甲賀郡では岩根村庄屋谷口庄内・久右衛門、花園村岩次郎、泉村長蔵、氏川原村庄左衛門、石部宿の三五郎・岩吉、野洲郡では戸田村庄屋鵜飼彦四郎、小篠原村庄屋苗村安右衛門・同沢口丈助、行合村庄屋小谷忠衛門などは引き続き留置処分とし、その他入牢者は一時出牢帰村させ江戸の沙汰を待たせることとした。江戸送りは12名と決まったが、杉谷村庄屋西浦九兵衛は江戸送り出立直前の2月24日(3月24日)獄死したため、11名が江戸送りとなった[22]。
甲賀郡獄死者(名前が伝えられている獄死者は33名)
(現甲賀市甲賀町)
油日村:山下豊松、瀬古源七上野村:清蔵
大原上田村:豊次郎須山村:源助、清蔵
和田村:利平治、吉弥
神村:易蔵
(現甲賀市水口町)
牛飼村:丈右衛門氏川原村:市之丞宇田村:金七、忠兵衛、彦次郎、金兵衛、宗
三郎北貫内村:久右衛門酒人村:市右衛門、金三郎
新城村:吉郎兵衛杣中村:黄瀬文吉、黄瀬平兵衛、栄蔵、甚兵衛、栄吉、茂兵衛
西内貫村:吉右衛門伴中山村:伝三郎水口宿:八郎兵衛
(現甲賀市甲南町)
市原村:政右衛門
上馬杉村:幸助
下磯尾村:正道(山伏)
杉谷村:西浦九兵衛
(現湖南市)
岩根村:八右衛門
花園村:作左衛門、清左衛門
野洲郡獄死者(野洲郡・栗太郡資料は乏しく獄死者として僅か2名名前が伝えられるに留まる)
(現野洲市)
大篠原村:小沢甚七
野洲村:坂口重蔵
江戸送り[編集]
大津での取調べ[編集]
土川平兵衛平兵衛は早々に捕縛されたが一切口を結び、大津移送後関源之進による取調べにおいて『拷問の結果の生死は貴公に預ける。が、刑囚として私の体を束縛することが出来るが、精神を縛ることは出来ない。獄舎にて悶死しても、私の魂魄は江戸の白洲で見分の不正、収賄、非道を述べるであろう。』と語ったことが伝えられ、大津においても一切口を開かなかった。天保14年3月4日(1843年4月3日)11番目の唐丸籠に乗せられ江戸送りとなり、石部宿において家族近親者に加え近郷近在の人が集まり別れを惜しみ、『人のため 身は罪咎に 近江路を 別れて急ぐ 死での旅立ち』と平兵衛惜別の和歌が残された。罪状は『一揆発頭人』であった[2]。
田島治兵衛関源之進による治兵衛への尋問において、治兵衛は『京都奉行所からの通達は、新開田畑を見分して廻るとのことであった。が、現実は5尺8寸の間棹で本田まで検地し、多くの面積を検出した。このままでは百姓は生計が立たず、いつ一揆が起こるかもわからない状態であった。そこで肥物値段引き下げ嘆願にかこつけて、見分中止の嘆願を公役市野殿へ申し入れる手筈であった。が、野洲川原に待機させていた百姓達は一斉に三上の本陣に打ち寄せてしまった。この野洲川原へ結集する廻状は自分一人の考えで出したものであるから、その責任は自分一人にあって他にはない。自分一人を江戸へ送り処刑せよ。』、また『十万日日延べ』の証文の有効性について尋ねられると『一旦、署名捺印された証文は公文書である。それを今さらとかく言うのは幕府自ら天下の法を踏みにじることである。』と答えた。幕府が証文の有効性に拘っていたことがわかる[22]。
江戸の白洲[編集]
江戸送り11名の内3名が途上死去したため、残る8名が3月20日(4月19日)頃江戸小伝馬町の百姓牢に入牢した。月番奉行である北町奉行所で8名は取調べ尋問を受けた。当時有罪判決を下すためには被疑者の自白がなければならなかった。このため拷問による自白の強要が当たり前の如く行われていた。厳しい拷問により、入牢者8名の内7名が僅か1月余りの内に獄死した。
北町奉行阿部正蔵が土川平兵衛を担当し、『存命であれば獄門に行うべき也』との判決を死後受けた。存命時取調べにおいて平兵衛は幕府から派遣された見分役人市野茂三郎の検地に対する非違行為を訴えた。それは『第一に、実測もせずに空地の面積を算出し、その生産額を割り出して村へ売りつけた。第二に、それを拒否すると長逗留をして諸雑費を貪った。第三に、11尺6寸の間竿に、12尺2分の目盛をつけて2間竿と称し、本田まで測量し検出した余分地を空地として年貢上納地とした。第四に、検地の見舞金の名目で金品贈与を強要した。第五に、旗本や小藩に対しては過酷な検地を行い賄賂を取るが、尾張・仙台・彦根藩領へは検地の足も踏み入れず、公卿領内を通行するにおいてはわざわざ京まで使いを出すなど、大藩や公卿には低姿勢であった。』『第六に、新開場見分の請書は提出したが、本田見分の請書は提出していない。これら六つの事項はいずれも幕府の『検地掟』に違背した行為であり、市野茂三郎は公役と言う偽名を負った大盗賊に他ならず、その天下の大盗賊を追い払ったまでで、決して一揆徒党して幕府に敵対したわけではない』と理路整然と主張した[22]。
他の者達も同様の主張を行い、市野の不正行為を実証を挙げて平兵衛の主張を補足し裏付けた[22]。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 02時38分03秒 ) | パスワード |
略
一揆参加者への判決[編集]
天保14年11月(1843年12月)、江戸より一揆参加者への判決が裁断され、京都東町奉行伊那忠吉より11月23日(1844年1月12日)以降12月中旬(2月初め)に掛け、次々に処分が通知され実行されていった。獄門・死罪者は既に獄死しており、『重追放・軽追放・所払い・手鎖・過料・押込み・急度叱(きっとしかり)・叱』で、加えて『闕所・御役御免』等の措置が告げられた[22]。
甲賀郡志によれば、同郡の処罰者は獄門から叱まで12,571人に対して判決が出された。野洲郡・栗太郡については資料が残されておらず不明。なお、獄門となった土川平兵衛は獄死したため首は晒されず、罪状を記した獄門札だけが三上村に建てられ、その家族は野洲川原で『敲(たたき)』の上『所払い・闕所』が申し渡された[22]。
入牢者への判決[22]
庄屋 谷口庄内 甲賀郡岩根村 所払い・闕所
庄屋 鵜飼彦四郎 野洲郡戸田村 所払い・闕所
庄屋 苗村安右衛門 野洲郡小篠原村 所払い・闕所
庄屋 沢口丈助 野洲郡小篠原村 所払い・闕所
庄屋 小谷忠右衛門 野洲郡行合村 所払い・闕所
その外、野洲郡内で記録に残る処罰者は戸田村年寄り1名・百姓2名、小篠原村百姓3名は手鎖・押込み。今浜村庄屋今川直右衛門は手鎖、矢島村庄屋林宗左衛門は役儀取上げとなった(期間は1月から100日)[18]。
諸藩士の処罰[編集]
諸藩士の一揆勢への対応は、積極的な取締りを行わず極めて好意的で寛容であった[19]ことに対して、幕府派遣役人は疑惑を大いに感じた。実際、三上藩の平野や大谷が他藩領とは言え野洲川筋庄屋の顔を知らない訳はないはずであり、水口藩士細野亘は一揆指導者の一人で江戸送りとなった岩根村大庄屋藤谷弥八とは親戚関係にあった。平野・大谷と一揆勢との遣り取りを見る限り、一揆勢の目的を良く理解し張本隠し(首謀者を隠す行為)にも関与している節がる。膳所藩については、過去の大久保今助の検地から幕府のやり方に藩自体が大いに不満を感じており、湖水縁・川筋の新開場が農民・領主にとっていかに不条理なものであるかを理解していた。天保14年に大阪の医師により書かれた『浮世の有様』では、『此度役人衆(市野等)の働き振りに、間数を多く打ち出し、賄賂に貪り、6尺に余程足らざる棹を用いて多く打ち出せしと言う、是故に諸侯も、百姓も大いに憤り、此度一揆せしを諸侯の向も密に悦べる程のことなれば』と書かれている。
三上藩士
天保13年12月22日(1843年1月22日)夕、三上藩郡奉行平野八右衛門に対し召し状が届き、翌日大津代官所において幕府より派遣された関・戸田の尋問を受けることになった。26日には『十万日日延べ』請文を扱った地方役人大谷治之助・一揆当日警備に当たった神山鞆二郎・川上某も出頭を求められ、見分役人であった大津・信楽代官所手代4名も同席し取調べを受けた。事情聴取の結果、最後には見分役人として信楽代官所手代柴山と京都町奉行所柴田以外は全て避難したこと、勘定方市野は逸早く三上山の洞窟に身を隠し京まで逃げた役人もいたことに、その臆病さにあきれ返った。ただ大谷に対しては『十万日の日延べ請文を百姓の要求通りに書き改め手渡し、その間百姓と話をしたにも係わらず名前を知らないと言うことに疑念がある。』、『一時的な方策と言いながら請文を渡し、更に持ち帰えらさせた点、平野共々手落ちである。』とされ、天保14年11月29日(1844年1月18日)京都東町奉行伊那より平野と大田は『第一手弱の取計らい、右始末不埒に付き、押込め仰せ付ける』判決が出され謹慎刑を言い渡され、神山・川上には『急度御叱り』と訓戒処分を下された[21]。
水口藩士
三上藩士取調べ後天保14年1月23日(1843年2月21日)大庄屋山村十郎右衛門を以下捕縛された者以外の庄屋を次々に大津代官所に呼び出した。幕府から派遣された戸田は山村に対して『多くの藩士や大庄屋達まで一揆の鎮圧に当たりながら、領分の者まで大勢騒動を起こしているのに一人として召し捕らえなったとは何たる仕打ちか。』との叱責を受けた。2月7日(3月7日)には鎮圧に当たった物頭細野亘・郡奉行岡田勘右衛門以下16名の藩士が大津に呼び出された。一揆当日、『一揆勢の蜂起を止めなかったばかりか却って炊き出しなどを行い、後援して三上へ決行に行かしめた』として細野以下16名は100日の『閉門』、あるいは『押込み』を後日言い渡された[21]。
膳所藩士
膳所藩は一揆当日藩士中村式右衛門を隊長に石部宿へ170名ほか合計で260余名の藩士を繰り出し十分な鎮圧体制を取っていたにも係わらず、『一揆勢の進行を抑止せず、炊き出しを行い後援し、しかも16日夜には引き上げる一揆勢一人ひとりへ十万日日延べ請文の写しを手渡した。』ことについて中村式右衛門は厳しい追及を受け、江戸へ送られた上江戸十里四方・近江国などでの居住を禁止される『追放』刑に処された。その他23名の藩士に対して『押込み』を言い渡された[21]。
見分役人 市野氏は更迭逼塞
逼塞とは
江戸時代の刑罰の一つ。武士や僧尼に科せられ,『公事方御定書』には,
「門を閉ざし,夜間くぐり戸より目立たないように出入りすることはさしつかえない」とある。
また病気や火事の場合は閉門のときと同様この限りではなかった
見分責任者であった勘定方市野茂三郎、普請役藤井鉄五郎・大坪本左衛門は、天保13年11月12日(1842年12月13日)に帰府命令を受け11月25日(12月26日)に大津を出立し水口宿に一泊し江戸に向かった[21]。僅かに水口宿大庄屋『山村十郎右衛門日記』の天保14年3月21日(1843年4月20日)の項に『今日植野瀬兵衛様が来られ、噂によれば当月11日江戸表にて川筋御裁許これあり、即ち御役御免・逼塞 市野茂三郎様、追込 藤井鉄五郎様・大坪本左衛門様、京都奉行所の柴田様上田様も押込み』と処罰の話が記され、見分派遣役人の処置を知る唯一の資料となっている[22]。
一揆が与えた影響[編集]
近江天保一揆は、典型的な惣百姓型の一揆で、複数の領主・郡・村に跨る数万の農民を数名の指導者が極めて計画的に推し進めたことに最大の特色がある。一揆勢を川原に待機させる、打ち壊しは行わない等の当初計画を守れなかった点もあるが、一人の犠牲者を出すことなく目的達成後は群集を淡々と解散させたことは驚くべき事である。江戸時代を通して『検地反対』を訴えた一揆は94件に及ぶが、『近江天保一揆』は検地阻止を完全に勝ち取った唯一の一揆で、天保の改革における最重要目標の一つであった年貢増徴政策を事実上失敗に追いやった[9]。一揆後、幕府により計画されていた日本各地の検地は中止され、幕府の財政難は明治維新まで続いた[23]。この一揆は経済的面と面目の点で幕府衰退の遠因の一つとなった。農民が幕府政策に多大な影響を与えた事は当時としては驚愕であり、幕府威信を著しく傷つけたことは間違いない。
天保の改革は、推進者の水野忠邦の失脚によりわずか2年で中止となった。この一揆において、水口藩・膳所藩・三上藩などの在地の武士が、一揆勢を押さえなかった責任を問われて処分を受けたが、これら諸藩の武士は明らかに一揆の行動に対し同情または傍観の態度をとり、幕府の強引な検地に背を向けていた[9]。従来であれば、一揆を抑止する立場にある武士の態度は今までに無かった行動と言える。
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 02時40分02秒 ) | パスワード |
年表[編集]
読み難いのでURLどうぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E4%B8%80%E6%8F%86
近江天保一揆略年表[1]天保12年(1841) 閏1月7日、「天保の改革」始まる。11月、草津川筋・野洲川筋・仁保川筋並びに湖水廻り西江州筋の375ヶ村の庄屋を京都町奉行所へ呼び出し、見分の申渡しと共に請書の提出を命じられる。天保13年(1842) 1月11日、幕府勘定方市野茂三郎等が見分のため水口宿より近江に到着。1月19日、野洲郡野村より仁保川筋の野洲・蒲生郡の見分を開始。2月14日、上駒月村の見分を終え、大野村を経て甲賀郡土山宿(現甲賀市)に到着。2月17日、土山宿(幕府領)を見分し下駒月村へ移動。その後蒲生郡日野・大窪(現蒲生郡日野町)を見分。3月、蒲生郡桜川寺村・綺田村(現東近江市)を見分。6月16日、蒲生郡鏡・西横関村(現竜王町)付近を巡見。6月25日、野洲郡大篠原村(現野洲市)を見分。8月、湖辺の蒲生郡北之庄村・浅小井村(現近江八幡市)、神崎郡伊庭村(現東近江市)、野洲郡須原新田(現野洲郡中主町)付近を見分。8月6日、野洲郡三上村(現野洲市)庄屋土川兵兵衛より野洲郡上永原村(現野洲市)庄屋野依又右衛門宛、見分阻止のための庄屋会議開催を提案。8月12日、大篠原村庄屋小沢甚七名で17ヶ村に回状が出され野洲郡大篠原村浄勝寺に野洲郡16ヶ村の庄屋が集まる。9月17日、野洲郡桜生村(現野洲市)宝樹寺に野洲郡22ヶ村の庄屋が集まる。9月26日、甲賀郡庄屋会議、野洲・栗太郡庄屋会議が開かれる。(甲賀郡は水口宿の旅籠萬屋伝兵衛方と丸屋金兵衛方に分かれ開かれ庄屋137名中70名が参加。野洲・栗太郡は野洲郡戸田村(現守山市)立光寺で開かれ庄屋136名中60名が参加)。9月29日、野洲郡野洲村(現野洲市)近辺を見分。10月6日、野洲郡富成新田から小篠原村(野洲市)を見分。10月11日、検地役人市野茂三郎ら一行約40人、野洲郡三上村に到着し、本陣を構える。10月13日、三上村庄屋土川平兵衛より甲賀郡杣中村の黄瀬文吉・市原村田島治兵衛に緊急に出状され、黄瀬・田島に宇田村藤田宗衛門が加わり甲賀郡内に「廻状」が回る。10月14日、未明、矢川神社(矢川寺)の鐘を合図に農民集結。10月15日、夜明けとともに杣川沿いを駆けのぼり、田堵野・五反田の庄屋宅に押しかけ「検地下調べ役」を引き受けたこと理由に乱暴に及ぶ。藤堂家、国境に陣を構え事態に備える。杉谷村庄屋宅に詰めかける。森尻村庄屋宅に押し寄せる。森尻村庄屋等の注進により水口藩物頭・細野亘以下約70人、矢川神社境内に出張、警固の陣を構え西下を阻む。一揆の勢杣川沿いに下る。途中、三本柳庄屋宅を打毀わし、三雲を経て石部宿に到る。10月16日、未明五反野村・田堵野村・三大寺村・菩提寺村庄屋宅に乱暴後、甲賀郡一揆勢が三上村に到着し野洲栗太郡一揆勢に合流、検地役人本陣(三上藩の大庄屋・大谷治太郎宅)を包囲し、交渉両三度、遂に「検地十万日日延ベ」の証文を得る。一揆勢三上村を退去し、膳所藩、石部宿にて「日延べ」の書付の写を交付し帰村。検地役人一行、大津代官所を経て京都町奉行所に到り対策を協議。12月、市野茂三郎「帰府」の命を受ける。10月22日、京都町奉行所より役人が派遣され、守山・石部・水口・土山の各宿にて一揆参加者の取調べを開始。田島治兵衛らを捕縛。10月23日、岩根村庄屋藤谷弥八ら80余人を水口・桝屋市兵衛の旅籠に召喚し、京都町奉行所に関係者を引渡す。12月14日、幕府、関源之進・戸田嘉十郎を大津代官所に派遣。12月16日、京都二条の監獄に留置中の土川兵兵衛以下、関係者を大津に移す。天保14年(1843) 1月、甲賀・野洲・栗太郡各村の「宗門人別帳」を提出。領主毎に庄屋1人、百姓3人ずつ、計5百余村から2千余人に連日大津代官所に出頭を命ぜられる。大津代官所牢獄を増築、入牢者1千余人を数え、獄中に絶命するもの続出。2月、水口藩士約130人・膳所藩士約270人が大津代官所に呼出され、取調べを受ける。3月4日、土川平兵衛等11人、唐丸籠に入れられ大津を立ち江戸に向かう。3月5日、宇田村庄屋藤田宗兵衛、江戸送り途中石部宿にて死去。3月7日、深川村庄屋田中安右衛門、江戸送りの途中桑名宿で死去。3月12日、氏川村百姓山中庄五郎、江戸送りの途中藤枝宿で死去。3月20日、江戸送り存命者8人江戸小伝馬町の牢に入る。4月18日、針村百姓宮島文五郎、小伝馬町で獄死。4月25日、三上村庄屋土川平兵衛・岩根村庄屋藤谷弥八が江戸小伝馬町で獄死。その後、市原村庄屋田島治兵衛・杣中村庄屋黄瀬平治・松尾村庄屋中藪喜兵衛・上野村百姓田島九兵衛が相次いで獄死。油日村百姓杉本惣太郎のみ実刑(佃島に流罪)。11月23日、京都町奉行所より一揆参加者に対し仕置きが下される。甲賀郡誌によれば同郡だけで仕置き対象者は12,571人に上った。明治元年(1868) 9月8日、「大赦」により一揆関係者の罪が許される。
近江天保一揆を扱った書籍・演劇他[編集]
一揆に関わる資料・研究書『沖野・長谷野新開場 御見分御用留』(金屋村庄屋金八著 天保13年(1842年))
『日記』(富波新町庄屋角俵五郎 天保13年(1842年))
『一件上申書』(三上藩郡奉行平野八右衛門 天保13年(1842年))
『浮世の有様 江州一揆』(大阪医師著 天保14年(1843年))
『山村十郎右衛門日記』(水口宿庄屋山村十郎右衛門著 天保14年(1843年))
『百足再来記』(筆者不明 嘉永4年(1852年))
『近江国 御見分 騒動写発端より御裁許まで』(筆者不明 文久元年(1861年))
『滋賀県史 第3巻』 P701「村落生活と農民一揆殊に天保騷動」の項(滋賀県編 滋賀県 1928年)
『野洲郡史 下巻』 P693「天保の農民騒動」の項(橋川正編 野洲郡教育会 1927年)
『守山市史』(守山市史編纂委員会編 守山市 1974年)
『水口町志 上巻』 P362「天保三上一揆」の項(水口町志編纂委員会編 水口町1959年)
『甲南町史』 P247「天保の農民一揆」の項(甲南町史編纂委員会編 甲南町 1967年)
『石部町史』(高橋良暢編 石部町教育委員会 1959年)
『天保義民録』(河村吉三著 高知堂 1893年)
『近江経済史論攷』 P437「近江檢地史上に於ける天保年間湖東三上山檢地の性格」の項(喜多村俊夫著 大雅堂 1946年)
『天保の義民』(松好貞夫著 岩波書店 1962年)
『徳川時代百姓一揆叢談 上冊』 P267(小野武夫著 刀江書院 1969年)
『日本史のなかの湖国 地域史の再発見』 「近江天保一揆の軌跡」の項(苗村和正著 文理閣 1991年)
『てのひら文庫 滋賀県6年』(滋賀県小学校教育研究会国語部会編 文渓堂 1992年)
『夜明けへの狼火 近江国天保義民誌』(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
『江戸時代 人づくり風土記 滋賀』 「増税をめざす検地を阻止した天保大一揆と義民たち」の項(農山漁村文化協会 1996年)
『郷土の偉人』(天保義民顕彰事業・第9回全国義民サミット開催実行委員会副読本部会編集 野洲市教育委員会 2005年)
一揆について掲載した新聞『甲賀蜂起録』(日出新聞 1891年11月3日より11日)
『三上颪琵琶激浪』(京都滋賀新報 1882年8月5日より10月26日)
天保義民を扱った書籍『義民庄屋土川平兵衛』(土川平兵衛の徳を讃える会編 土川平兵衛の徳を讃える会 1982年)
『天保の義人 土川平兵衛』(白井広次 編 白井広次 1968年)
『郷土に輝くひとびと』(滋賀県厚生部青少年対策室編 滋賀県 1970年)
『日本義民実伝』 P192「土川平兵衛」の項(樋口二葉著 晴光館 1910年)
『庄屋平兵衛獄門記』(宇野宗佑著 青蛙房 1971年)
『近江人物伝』 P50「土川平兵衛」 P226「田島治兵衛」の項(木村至宏他著 弘文堂書店 1978年)
小説・戯曲戯曲『義民』(宇野長司著 全国遺業顕彰会 1934年)
戯曲『蜂起』(藤森成吉著 日本評論社 1939年)
小説『燃ゆる甲賀』(徳永真一郎著 光風社 1961年)
その他音楽ドラマ『天保義民に捧ぐ 魂「炎」の如く』(寺島保行作曲・演奏)
『天保義民伝・土に生きる 幕府に勝った一揆』(テレビ東京 1999年10月17日放送 脚本:愛川直人、監督:津島勝、制作会社:インターボイス、音楽:石田大士、企画:『天保義民』制作推進委員会)
供養塔・顕彰碑他[編集]
天保義民碑:三上山麓(滋賀県野洲市三上)
天保義民之碑:伝芳山(滋賀県湖南市三雲伝芳山)
甲賀騒動義民の霊位五倫塔:大徳寺(滋賀県甲賀市水口町本町3-3-46)
メモリアルタワー:矢川神社前(滋賀県甲賀市甲南町森尻)
田島治兵衛の慰霊碑:西願寺(滋賀県甲賀市甲南町市原430 )
西浦九兵衛の慰霊碑:勢田寺(滋賀県甲賀郡甲南町杉谷2031)
田中安右衛門の慰霊碑:浄福寺(滋賀県甲賀市深川1631)
土川平兵衛の石像:野洲市立三上小学校(滋賀県野洲市三上111番地)
土川平兵衛の供養塔:三上墓地(滋賀県野洲市三上2170)
一揆の史跡[編集]
近江三上陣屋跡:三上藩の陣屋が置かれていた。陣屋の前が見分役人市野等の本陣跡。(滋賀県野洲市三上455他一帯)
玄亀山常永寺:三上陣屋表門は常永寺に移築され山門として現存。(滋賀県甲賀郡甲西町岩根1043)
東方山浄勝寺:野洲郡大篠原村を中心に16ヶ村の庄屋の会合地。(滋賀県野洲市大篠原2064)
桜生山宝樹寺:野洲郡大篠原村・三上村を中心とする22ヶ村の庄屋の会合地。(滋賀県野洲市小篠原216)
富田山立光寺:野洲郡・栗太郡庄屋の会合地。(滋賀県守山市立田町1623)
御上神社:土川平兵衛の家は御上神社の仲衆であった。(滋賀県野洲市三上838)
矢川神社:矢川神社(矢川寺)の鐘を合図に甲賀郡農民が集結した。(滋賀県甲賀市甲南町森尻70)
三十八社神社:甲賀庄屋に出された一揆廻状が戦後発見された。(滋賀県甲賀市水口町伴中山2645)
別れの一本松跡:甲賀一揆勢の集合地の一つ。(滋賀県甲賀市甲南町深川)
横田河原(横田渡常夜燈):甲賀一揆勢最終集合地、水口藩兵が通行を阻止しようとするができず、一揆勢はここから三上村に向かった。(滋賀県甲賀市水口町泉355)
美松山南照寺:近江湖南27名刹霊場第12番、水口藩領捕縛者の除災を7日間に亘り祈祷した。(滋賀県湖南市平松264)
脚注[編集]
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1.^ a b 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P191「近江国天保義民誌略年表」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
2.^ a b c d e f g h i j k 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P26「義民土川平兵衛の家と人柄」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
3.^ 「図説 滋賀県の歴史」 巻末資料P14「年表」(河出書房新社 1987年)
4.^ a b 「幕藩制国家の政治史的研究 天保期の秩序・軍事・外交」(藤田覚 校倉書房 1987年)
5.^ a b 「図説 滋賀県の歴史」 P197「井伊氏と本多氏 細分化された84万石」(河出書房新社 1987年)
6.^ a b c d 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P1「湖東・湖南の風土」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
7.^ 「図説 滋賀県の歴史」 P225「強い郷党意識」(河出書房新社 1987年)
8.^ a b c d e f 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P76「一揆決議までの足どり」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
9.^ a b c 「江戸時代 人づくり風土記 滋賀」 「増税をめざす検地を阻止した天保大一揆と義民たち」の項(農山漁村文化協会 1996年)
10.^ a b c 「図説 滋賀県の歴史」 P216「近江文人の系譜」(河出書房新社 1987年)
11.^ 「滋賀県会議員正伝」 P25「岡田逸治郎」 P28「今川正直」の項(天怒閣 1892年)
12.^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P53「天保のころの政情と、湖水べり・仁保・野洲川筋見分」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
13.^ 「図説 滋賀県の歴史」 P206「街道と宿場町」(河出書房新社 1987年)
14.^ 「西川貞二郎」(近松文三郎著 近松文三郎 1935年)
15.^ a b c d e f g 「経済学論叢53(4)」 P766「近世後期における琵琶湖の新田開発 大久保新田を事例に」の項(本村希代 同志社大学経済学会 2002年3月)
16.^ a b c 「庄屋平兵衛獄門記」(宇野宗佑著 青蛙房 1971年)
17.^ 「日本歴史大事典 第4巻」(小学館 2001年)
18.^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「野洲郡史 下巻」P693「天保の農民騒動」(橋川正編 野洲郡教育会 1927年)
19.^ a b c d e f g h i j k l 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P87「義民よ決起せよ」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
20.^ 「滋賀県百科事典」 P96「近江天保一揆」の項(滋賀県百科事典刊行会編 大和書房 1984年)
21.^ a b c d e 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P103「十万日の日延べ」の項(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
22.^ a b c d e f g h i j k l m n 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P123「惨 義民たちの捕縛・取調べ・江戸送り」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
23.^ 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P174「あとがき」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 02時55分58秒 ) | パスワード |
<56>の書き直し
ということで江戸時代に大変な失策をやらかした 市野茂三郎 は
@関係者でしょうね。
市野「茂」 ということですし。
この一揆事件の記事から 市野氏は近江方面の人だったんでしょうね。
それで派遣されたのかも。
市野惣太夫とはどういう関係なんでしょうね?
名字がたまたま同じ?
でも何故?
そこに家康の思惑があったのかな?とも思います。
でも市野惣太夫の兄の名前などから前身は袴田や寺田だったのだろうな、と。
そうすると市野「茂」家とは全く違うんでしょうね。
市野・袴田・寺田の前の前あたりの名字が市野だったのかも。
それで「市野」にせよ、と家康が?
でも「地名」の市野というのはアチコチに書かれてますよね。
遠江の前は近江にいたのでしょうかねえ?
う〜ん
分からない。
[58] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 06時22分30秒 ) | パスワード |
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020?hid=ht002510
復習(既出)
『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』 浜松市史 ニ
第四章 浜松藩の確立 第三節 浜松藩領の成立と他領 浜松地方の天領・旗本領・寺社領
天領の代官
142 〜 143 / 686ページ
天領を支配するのが代官であり、元禄期の代官の管轄区域は前述の領主分布表から察せられる。【市野氏 惣太夫 浜名代官】近世初期の浜松地方の代官としては、中泉(なかいずみ)村(磐田市)の秋鹿家と市野村(当市市野町)の市野惣太夫家が注目されるが、ここでは後者について述べる。『新訂寛政重修諸家譜』によると、市野氏の先祖は近江の浅井氏の一族で、真久(さねひさ)(惣太夫)の時(永禄年間)から家康に仕え、とくに馬のことにくわしく(『駿府記』に「慶長十六年十月一日、遠江国住人市野、生姜を献ず、すなわち御前に召し……牧馬の談あり、市野馬を知ればなり」と)馬掛りとして活躍し、慶長五年(一六〇〇)遠江の代官となり浜名十郷その他を支配し(『随庵見聞録』に浜名代官「浜名十郷辺ハ慶長五年ハ堀尾殿領浜松分、同六年ノ暮ヨリ市野五郎右衛門殿御代官九年之勤」)、慶長九年には長上郡市野村のうちで十七石余の屋敷地を賜わり、その後家号を市野と改めた。元和二年死去(市野村の宗安寺に葬る)するや、代官職と惣太夫の称号は実次(さねつぐ)・実利(さねとし)・真防(さねあき)とうけつがれた。寛文のころの市野・秋鹿両代官支配地の一端を上表に示そう。
村名 石高 家数 天領(公料) 浜松領 旗本領 備考
市野 894 118 代官市野惣太夫 488
笠井新田 528 62 〃
石原 228 35 〃
寺嶋 381 57 〃
新寺嶋 184 29 〃
上石田 615 94 126 代官市野惣太夫 相給
安間新田 24 代官秋鹿内匠
木平(貴平) 470 31 〃
善地 136 48 〃
浄光 96 16 42 代官秋鹿内匠 54 相給
片草 62 11 26 (8軒)〃 35 (3軒) 〃
宇布見 1084 684 (97軒)〃 400 (72軒) 〃
神ヶ谷 786 66 144 〃 110,232,200 〃 旗本3人
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 06時27分54秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E4%B9%85%E5%B0%9A
仙石 久尚(せんごく ひさなお、承応元年8月19日(1652年9月21日) - 享保20年7月23日(1735年9月9日))は、江戸時代中期の旗本。江戸幕府大目付。通称は次兵衛(じへえ)。官位は従五位下丹波守・伯耆守。隠居後には丹波入道と呼ばれた。
元禄赤穂事件[編集] 部下の徒目付の1人が市野新八郎
元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ちとり主君浅野長矩が葬られた高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士46名のうち(47人目の寺坂信行は討ち入り後に隊から外れたと見られる)、吉田兼亮・富森正因は一行と別れて大目付仙石久尚の屋敷へと向かい、自首手続きを行なった。
なぜ久尚に自首したのかであるが、どうやら仙石家が浅野家の遠縁であったためようだ(久尚の兄、仙石久信の妻は安部信盛の娘だが、この信盛の曾孫安部信峯は浅野長矩の従兄弟)。
久尚はこの両名から事情を聞いた後、家老の井上万右衛門に聴取書をつくらせ、吉田・富森をそのまま仙石邸へ置いて、自身はまず月番老中稲葉正通邸へ立ち寄った後、江戸城へ登城した。また、吉良義央の子吉良義周からも赤穂浪士が討ち入ってきた旨が稲葉邸に届け出られ、泉岳寺からも寺社奉行の阿部正喬や、町奉行松前嘉広からもそれぞれ報告があったので大体書類は出揃い、老中の評議の結果、ひとまず赤穂浪士は細川綱利・松平定直・毛利綱元・水野忠之の4家に分割してお預けにすることが決まった。
ここに市野新八郎
午後6時頃、仙石は、部下の徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の3人を泉岳寺へ派遣し、赤穂浪士に対して仙石邸へ移動するよう指示した。
そして、仙石邸での取り調べの後、赤穂浪士にそれぞれの預かり先を言い渡した後、4藩に引き渡した。
その後、幕府評定所(大目付4人=十里四方鉄炮改兼帯・仙石久尚、道中奉行兼帯・安藤重玄、宗門改加役人別改兼帯・近藤用章、服忌令分限帳改兼帯・折井正辰、寺社奉行3人=永井直敬、阿部正喬、本多忠晴、何れも奏者番兼帯、町奉行3人=南町・丹羽長年、北町・保田宗郷、中町・松前嘉広、勘定奉行4人=佐渡奉行兼帯・荻原重秀、公事方道中奉行兼帯・久貝正方、戸川安広、中山時春で構成)において赤穂浪士の処分について議論されたが、久尚はじめほとんどの評定所参加者が浅野寄りであったため、12月23日に老中へ提出された評定所の最終的意見書は「吉良義周は切腹、吉良家の家臣で戦わなかった者は侍ではないので全員斬罪、吉良の実子上杉綱憲は父の危機に何もしなかったため領地召し上げ。浅野遺臣たちは真の忠義の者たちであるので、このままお預かりにしておいて最終的には赦免するべき」という大変浅野贔屓な内容となった。この評定所の意見は将軍徳川綱吉ら幕閣には受け入れられず、赤穂浪士は2月3日に切腹と決定され、4日に切腹が4藩で実施された。しかし同時に評定所は、吉良義周を呼び出して、討ち入りの際の義周は「不埒・不届き」であったとして吉良家も改易にしている。
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 06時53分58秒 ) | パスワード |
慶応の日吉キャンパス近辺の話ですね。
ここに小田原北条氏支配下の小机城関係者に、市野弥次郎(いちのやじろう)の名が出てます。
『神奈川県姓氏家系大辞典』(角川書店、1993年)
この本に出ているでしょうか?
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku37/
港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)
第37回 港北の有名人は?
前回、横綱武蔵山のことを調べていて、気がついたことがあります。人物情報を調べるために、『神奈川県姓氏家系大辞典』(角川書店、1993年)を引きました。その中に武蔵山や、後援会の雑誌『武蔵山』を編集した、大綱村(おおつなむら)生まれの俳人飯田九一(いいだくいち)の名前も出てきます。しかし、飯田家には江戸時代に綱島寄場組合大惣代(つなしまよせばくみあいだいそうだい)を務めた助太夫(すけだゆう)、殖産興業(しょくさんこうぎょう)に努めた広配(ひろとも)、衆議院議員になった助夫(すけお)など他にも活躍した人物がいるのですが出てきません。
そこで、港北区域に関係した人物を全て抜き出してみました。同書には「神奈川県の人物」2000人が立項されていますが、区域関係者は、赤地友哉(あかじゆうさい、人間国宝の漆芸家で太尾町に居住)、朝田屋重作(あさだやじゅうさく、幕末の小机村名主)、飯田九一、磯野庸幸(いそのやすゆき、大豆戸村生まれで横浜文化賞受賞)、上田元俊(うえだもととし、駒林村領主の旗本)、加藤土師萌(かとうはじめ、「日吉窯」を築いた人間国宝の陶芸家)、北村季吟(きたむらきぎん、鳥山村領主で旗本・歌人)、木村吉永(きむらよしなが、妙蓮寺の鐘を作った鋳物師)、久志本常勝(くしもとつねかつ、菊名村領主で旗本)、久世広之(くぜひろゆき、小机領知行の大名)、佐野権太郎(さのごんたろう、日吉村出身の駅長)、鈴木政右衛門(すずきまさえもん、小机村長)、福嶋安五郎(ふくしまやすごろう、小机生まれ福嶋鉄工所社長)、武蔵山武と、この他に小田原北条氏支配下の小机城関係者に、市野弥次郎(いちのやじろう)、井出兵部(いでひょうぶ)、笠原重正(かさはらしげまさ)、笠原信為(かさはらのぶため)、曽根外記(そねげき)、中田加賀守(なかだかがのかみ)、北条氏尭(ほうじょううじたか)、北条氏光(ほうじょううじみつ)、北条氏康(ほうじょううじやす)の名が見えますが、以上合わせてもわずかに23名しかおりません。
2000人の1.5五パーセントです。ちなみに、現在の港北区域の人口は29万人で、850万県民の3.4パーセントを占めています。あまり関係ありませんが、この割合なら、あと45人は立項されてもいいはずです。
たとえば、大島村(川崎市)の吉沢寅之助(よしざわとらのすけ)は桃の一品種「伝桃」の発見者として紹介されていますが、同様に新品種「日月桃(じつげつとう)」を発見・栽培し、綱島の桃を全国一にした南綱島の池谷道太郎(いけのやみちたろう、第15、30回)は出てきません。
思いつくままに挙げても、鷹場の野廻り(のまわり、第14回)を務めた大曽根の冨川八郎右衛門(ふかわはちろうえもん)や南綱島の池谷重兵衛(いけのやじゅうべえ)、新羽(にっぱ)の領主で旗本の若林六郎左衛門尉(わかばやしろくろうさえもんのじょう)、幕府に鶴見川治水の直訴をした大曽根の柴田米蔵(しばたよねぞう)などが有名ですし、寺子屋の師匠なら小机の飯田慈雲斉、箕輪の小泉文右衛門、師岡の鈴木政次郎、高田の尭応、吉田の山本金左衛門、新羽の小池真吾、太尾の冨川新蔵、綱島の小泉武左衛門、日吉の市野善兵衛、大曽根の原秀芳など六〇名以上の名が挙げられます。
新派の名優井上正夫や神奈川県知事内山岩太郎、『二宮尊徳全集』を作った佐々井信太郎などのように、名前は出ていても港北区民であったことが記されていない人もいます。
筆者の知らない人物も多いかと思います。お教えいただければ幸いです。本年もよろしくお願いいたします。
(2002年1月号)
小机城(こづくえじょう)は、武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった日本の城(平山城)。現在は小机城址市民の森として、城の遺構が整備されている。
歴史・沿革[編集]
小机城は、永享の乱(1438年 - 1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、正確な築城年代は分かっていない。
この城が歴史的に登場したのは、1478年(文明10年)に起きた攻守戦である。山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こした。このとき景春の味方をした豊嶋氏がこの城に立てこもり、敵方の太田道灌がこの城の攻撃をした。この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2ヶ月をかけて落城させたとされる。道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存(横浜市神奈川区羽沢町)する。
その後は廃城となったが、この地域が後北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により修復され、家臣の笠原信為が城主として配置され、小机衆が組織された。笠原氏は、小机城を中心に付近の村に僧侶を招き寺を建立するなど城下の整備に力を注いだと見られ、江戸時代になってもその子孫は代々この地の付近に住んでいた。その後、城主は北条氏堯、北条氏政の弟三郎(上杉景虎)、北条氏光と替わっている。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、無傷のまま落城した。その後、徳川家康の関東入府のときに廃城とされた。
近現代[編集]
城跡は地元の人々に「城山」と呼ばれ、1892年(明治25年)2月5日、橘樹郡小机村の九大字(下菅田、羽沢、三枚橋、小机、鳥山、片倉、神大寺、六角橋、岸根)は「小机」としていた村名を改め、城があった郷すなわち城郷(しろさと)村とすることを村議会で決定した。城郷村の名は以後、各集落が1927年(昭和2年)に横浜市に編入されるまで使われた。
現状[編集]
小机城の跡は小机城址市民の森として整備されており、本丸、二の丸跡などの主要な部分は残されている。しかし、城の西側は第三京浜道路の建設の際に破壊された。また、この城跡の地下には横浜線の城山トンネルが貫通する。
周辺[編集]
城郷村内の九大字には、小机城の合戦で亡くなった兵士を供養した「九養塚」、「十三塚」や、太田道灌が小机方の残兵を処刑した「磔原」、その血で谷戸が赤く染まったといわれる「赤田谷戸」などの地名が現存する。
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 06時58分40秒 ) | パスワード |
http://books.google.com/books?id=TfozEQzUOUgC&pg=PR62&lpg=PR62&dq=%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%80%80%E5%B8%82%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=JmaQMvPs6A&sig=Dni0CN_cJtXow6a0SfZyaygjeLc&hl=en&sa=X&ved=0CEYQ6AEwBTgKahUKEwiqkIKYjIbGAhWXLYgKHZRnAb0#v=onepage&q=%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%80%80%E5%B8%82%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
八郎左衛門のところ P328 に新田町市野井 という地名があります。 一井郷
そして 由良 のオンパレードです。
新田 市野(井) 由良 この関係は?
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 07時02分52秒 ) | パスワード |
文字化けで読めないです。
城逢人 きほうじん
http://www.geocities.jp/sisin9monryu/sisin2.index.html
☆6月8日神奈川県小田原市殿の窪/中村氏館(評価D) ☆6月1日 ..... な堀跡〜 ☆5月13日福島県須賀川市 市野関館(評価D) 〜須田家臣・江藤萬力正勝の ..... 町
伝・旗本服部氏屋敷(評価E) 〜服部政光の陣屋跡〜 ココ
松永源太左衛門屋敷(評価E) ...
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 07時29分07秒 ) | パスワード |
http://rek.jp/?p=5999
今川氏真、大村弥兵衛の被官村田小伝次が、市野砦攻撃で活躍したことを賞す
去二月十八日夜、市野取出江乗入端城押破時、被官村田小伝次頸一討捕之畢、太以無比類、弥可走廻之段可申付状如件、
永禄七年 三月二日
上総介
大村弥兵衛殿
→戦国遺文 今川氏編1977「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書)
去る2月18日夜、市野砦への攻撃で端城を押し破ったとき、被官の村田小伝次が首級1つを討ち取った。大いに比類がない。ますます活躍するように申し付けよう。
Related posts:
1.今川氏真、大村高信の被官村田小伝次が市野砦攻撃で首級を挙げたことを賞す
2.今川氏真、大村高信が引間口孫妻河端で活躍し鉄砲で負傷したことを賞す
3.今川氏真、大村高信の被官桜田彦右衛門が引間口孫妻河端で活躍したことを賞す
4.今川氏真、大村高信被官の小左近が引間口孫妻河端で活躍したことを賞す
5.今川氏真、大村高信の被官神村喜六が引間口孫妻河端で活躍したことを賞す
市野も戦場になっていたんですね。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 07時37分24秒 ) | パスワード |
http://koskan.nobody.jp/sengokusi_musashi.html
武蔵 - 小助官兵衛の部屋
中田氏や市野氏らも領した。 ... 永禄4年(1561年)には市野善次郎が領した。 ..... 稲生城, 〒350-0246 埼玉県坂戸市多和目, 徳川家康が関東に進出したときに徳川家旗本 ...
市野善次郎?
文字化けで読めないです。
想像ですが ↓ これに関わった?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%8E%9F%E5%9F%8E
形原城(かたはらじょう)は、三河国宝飯郡形原(現在の愛知県蒲郡市形原町東古城・北古城・南古城)にあった日本の城。
形原松平家の居城で、江戸時代初期のごく短い時期に形原藩が置かれた。別名は「稲生城」。海に囲まれていたことから、「海岩城」の異称もある。
三河湾沿いの現在の形原港近く、海に突き出た小高い海岸段丘上に立地する。形状は平山城であるが、ごく近年に至るまで段丘のすぐ足元まで海水が迫っていたといい、往時は三方を海に囲まれた天然の要害であった。
伝説的に平安時代後期の源師光の築城とされるが、根拠はない。現在に残る城の遺構は、長享年間(1487年-1489年)、松平氏第3代信光の四男である与副が築城したと伝えられる。
与副の子孫は代々この地に拠って750貫ほどを領し形原松平家となるが、16世紀中頃には松平氏の宗家筋である安祥松平氏とは距離を置き、東から勢力を伸ばした今川氏に服属した。ところが永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いで敗死し、岡崎で松平宗家の元康(まもなく徳川家康と名乗る)が今川氏から独立すると、西三河のみならず東三河でも多くの豪族が今川氏から松平宗家に寝返った。時の形原城主家広もまた松平宗家へと鞍替えを行うが、これに怒った今川氏当主・今川氏真によって人質であった妻子をみせしめに形原城から見下ろせる稲生の浜で串刺しにして処刑されたという。
その後の形原松平氏は、家広の娘が家康の重臣石川数正に嫁ぐなど徳川氏の傘下で東三河の国人領主のひとりとして一定の地位を守り、天正18年(1590年)、城主松平家信は家康の関東移封にしたがって形原を離れることになった。
関東で上総国五井(現在の千葉県市原市)に5千石を領していた家信は、関ヶ原の戦い後の1601年に居城を形原に戻し、旗本となった。元和4年(1618年)、家信は1万石を与えられて大名に列し、その所領は形原藩1万5000石となる。しかし翌元和5年(1619年)に家信は摂津・高槻城に移封となって形原を再び離れることになった。これにともなって形原城も廃城となり、二度と城としての機能を果たすことはなかった。本丸のあった丘の峰には、地元の稲荷大社が建てられた。
現在、城跡は多く宅地化されてしまって城の痕跡が少なくなってしまったが、一の曲輪・二の曲輪の痕跡が残っている。現在残る曲輪の西側に大規模な曲輪があったと考えられ、「北古城」「南古城」などの地名もそれに由来すると考えられる。昭和46年(1971年)10月21日には形原城跡として蒲郡市の市指定史跡となっており[1]、何度か発掘調査も行われている。
交通手段[編集]
名鉄蒲郡線 形原駅から南に徒歩10分。または同西浦駅から東に徒歩10分。
[65] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月11日 08時42分21秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
すごい情報をいただきました!
今日はこれから筆の会へ出かけます。
帰宅してからじっくり解析させていただきます!
[66] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月12日 01時11分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、小野篁をルーツとする『藤田権十郎家の華麗なる系譜』(川島幸雄
著)を調べておりました。その中には、服部権太夫・中両家が今切関所奉行で
あった頃に仕えていたという話が出ておりました。
さて、市野氏ですが、私の調べた情報も錯綜しています。あを様にお願いが
ございます。
ネットで得た次の情報をもう少し確かなものにしてほしいのです。即ち―
「市野実利(さねとし):市野惣太夫実利。自称・伊岐遠江実利。棒術、槍術、
弓術、柔術、水練の達人として小早川家に仕官した。
武術指南役として五百石、秀秋の乱心で家老のほとん
どが出奔し、必然的に家老となった。しかし小早川家
断絶後に牢人、その後徳川秀忠に仕えた。」
(http://kazusanosukesengokushoten 〜)
この「伊岐遠江実利」とは何者であるのか、遠江の惣太夫なのかどうか?
本日も遅くなってしまいましたので、これにて―
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 02時25分48秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
調べていたら、こんなのがヒットしました。
浜松 または 静岡県 の図書館にも置いてあると良いですね。
家譜:市野家物語
市野康彦 著
詳細情報
タイトル
家譜:市野家物語
著者
市野康彦 著
著者標目
市野, 康彦
出版地(国名コード)
JP
出版地
東京
出版社
東京図書出版会
出版年
2005
大きさ、容量等
215p ; 19cm
JP番号
20916567
出版年月日等
2005.7
件名(キーワード)
市野 (氏)
NDLC
GB43
NDC(9版)
288.2:系譜.家史.皇室
対象利用者
一般
資料の種別
図書
言語(ISO639-2形式)
jpn:日本語
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請求記号:GB43-H145
東京 本館書庫
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[68] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 02時29分45秒 ) | パスワード |
「小早川秀秋」に関連した文献
裏切り中納言秀秋と切支丹侍従秀包:小早川秀秋と小早川秀包 ― 三浦 明彦/〔著〕
大谷刑部を裏切った男たち--小早川秀秋/脇坂安治/朽木元綱/小川祐忠/赤座直保 ― 羽生 道英
金吾とお呼び:小早川秀秋心象紀行 ― 永井芳順 著
逆説の日本史(562)第五十七話 徳川幕府の成立1 「序章としての関ヶ原」編(13)小早川秀秋に裏切りを促した徳川家康の"最も危険な賭け" ― 井沢 元彦
小早川秀秋の筑前支配と石高制 ― 本多 博之
小早川秀秋の悲劇 ― 笹沢左保 著
参考になると良いのですが。
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 02時34分56秒 ) | パスワード |
小早川秀秋
関ヶ原の戦後の論功行賞では備前と美作国と備中国東半にまたがる、播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封された。
なお、戦後まもなく、秀秋から秀詮へと改名している。
岡山城に入った秀秋は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行う一方で、伊岐遠江守、林長吉ら側近勢力の拡充を図っている。
慶長6年(1601年)に長年家老を勤めた重臣稲葉正成が小早川家を出奔しているが
この背景には旧来の家臣団層と新たに台頭してきた側近層との対立が背景にあると考えられる。
ここら辺りでしょうか?
これについては
黒田基樹『戦国期 領域権力と地域社会』第四章小早川秀詮の備前・美作支配
をお読みくださると良いかも。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 02時45分57秒 ) | パスワード |
http://bsi.fc2web.com/mitsuhide/index/jiten2.htm
関ヶ原の合戦辺りの人物:復習
小早川秀秋(こばやかわ ひであき)天正10年(1582年)−慶長7年10月18日(1602年12月1日)
筑前名島城主。備前岡山藩主。
秀吉正室ねねの実兄木下家定の五男。ねねは叔母に当たる。その関係で、秀吉の旧姓木下氏を継ぎ、最初は秀俊と名乗る。1592(文禄元)年、小早川隆景の養子となり、2年後、隆景の隠居に伴い筑前名島35万7000石を譲られる。
慶長の役では、明の大軍に包囲された蔚山城の救援に向かい、自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍した。しかし大将として軽率な行動をした秀秋に秀吉は筑後の領土を召し上げられた。その当時、石田三成による讒言であるという家康側の流した噂を信じた秀秋は、その後三成に敵対的な行動をとり始める。
関ヶ原の役では、たまたま大阪にいたため一時は西軍につくも、当初から家康側と内通をしていた。秀秋の行動を不審に思った石田三成、大谷吉継は秀秋に対して、西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの関白職の就任と、上方2ヶ国の加増を約束した。決戦当日、秀秋の心は東軍にあったとされるが、意外にも西軍が奮戦し、宇喜多秀家が福島正則を撃破し、また大谷吉継も藤堂高虎を敗走させるなど西軍有利の情報に秀秋は東軍参加を躊躇っていた。
しびれをきらした徳川家康は、秀秋の陣に空砲を発砲し、それに驚いた秀秋は突如として西軍の大谷隊を攻撃した。突然の裏切りに一時は大谷隊は奮戦し、小早川隊を後退させたが、西軍の諸武将が次々に裏切りはじめ、西軍は壊滅した。
また石田三成の父・石田正継のこもる佐和山城攻めでも功があり、役後、備前と美作に計55万石の大領を与えられ岡山藩主となる。だが、役の2年後に没し、小早川家は断絶する。
天下分け目の関ヶ原合戦、勝敗の鍵を握るのは松尾山の小早川秀秋。天海(光秀)はお福の夫稲葉正成に、その主君小早川秀秋の西軍裏切りを工作させた。
_______________________________
稲葉正成(いなばまさなり)元亀2年(1571年-寛永5年9月17日)
豊臣家臣。春日局の夫。
美濃十七条城主林政秀の子。(伊藤博文のご先祖さまである)林氏と稲葉氏は同族ながら境界紛争が絶えず、稲葉氏の家老岡部右兵衛の斡旋で稲葉重通の娘まんを正成の兄政行が娶り、政行が若くして亡くなり重通も死去したため、未亡人まんを娶り重通の婿養子となり稲葉姓を称す。
その後、まんが亡くなったため重通の養女お福(のちの春日局)を後妻とする。お福とはその後離別し、
永見氏の娘を正室に迎えている。
永見って知立神社(池鯉鮒神社)の神職で
家康の第2子の生母 お万さま のご実家。
最初美濃高須城主として斎藤道三に仕え、のちに豊臣秀吉に仕えた。
1591(文禄元)年に小早川秀秋付家老となり4万石を領した。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、主君秀秋を東軍に内通させる。 翌年、小早川家を退去するが、1607(慶長12)年に徳川家康に召し出されて1万石で仕え、大坂の陣では松平忠直に属した。
1628(寛永5)年9月17日、58歳で死去。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦のとき、光秀はお福の夫稲葉正成に、その主君小早川秀秋の西軍裏切りを工作させた。
そしてそれこそが東軍勝利の鍵であり、江戸幕府開府の最大の功となった。
この関ヶ原合戦の功と本能寺での違約のため、家康は徳川天下取りの最大の功労者「天海」と稲葉正成の妻お福を重用し、その子である正勝を老中にまで登用、その異父弟家光を家康の真の後継者とするのである。
____________________________
春日の局(かすがのつぼね)天正年(1579)-寛永20年(1643)
3代将軍徳川家光の乳母。
父斎藤利三は明智光秀の家臣で、1582(天正10)年6月の本能寺の変に加担。利三は後に山崎の戦いに敗れ斬首されたため、母の伯父稲葉一鉄(良通)に匿われる。その後、稲葉家の縁戚である三条西家や帰農した一族の開田家にも居候していた。
あるいは、姉の嫁ぎ先である土佐の長宗我部氏を頼ったともいわれる。
稲葉一鉄の長子で別家していた重通の婿の稲葉正成の妻が早く没したため、重通の養女となり正成の二人目の正室となる。
正勝(後の小田原藩主)他数人の子をもうけるが、1604(慶長9)年、家光の乳母として大奥に入るために離縁。俗説では夫の浮気に怒り、その相手を殺害して出奔し乳母募集の高札を見て応募したという。
大奥では家光の傅育に任じられ、秀忠正室のお江の死後、その地位を堅固にして大奥を統率した。また、1624(寛永元)年に江戸湯島に天沢寺(のちの麟祥院)を建立している。
1629(寛永6)年、将軍徳川家光の名代として伊勢参宮の途中宮中に参内し、春日局の称号を賜ったが、無位無官の為、公卿達の不興を買いその年の後水尾天皇の突然の譲位の一因になったといわれている。関連記事:光秀=天海説「お福登用の謎
[71] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 02時59分42秒 ) | パスワード |
注意
参考まで、のみ。汗 市野真利も登場 伊岐真利に改名?
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問章 人物設定
今回は簡易人物設定です。少し前倒しな所があるので注意して下さい。
1.5 小早川秀秋とその家臣達
まだ登場していない家臣もいますが、ここで一気に小早川秀秋の周辺の人々を簡単に紹介します。しかし、これはまだ一話での紹介。後々に性格が変わったり、官位や歳は変わっていくので軽く頭に入れるだけにしたほうが賢明です。
〔名前〕 小早川 秀秋。
〔性別〕 男。
〔官位〕 従三位 中納言。
〔年齢〕 十六歳。
〔性格〕 温厚で家臣思い。しかし、戦では鬼のように槍を突き倒す一面や気に入らない者には冷徹になる一面もある。幼少の頃から大人の欲望を見た為か我慢強く顔に考えていることを出さないことが出来る。また、欲がなく野心もない。寂しがりやでもある。自身を過小評価している。
〔位置〕 筑前と筑後・肥前の一部の三十万七千石の大名。ただし、一時越前十五万になりかけたことがあるのだが、現在は元に戻っている。
〔癖〕 気に入った者にちょっかいをかける(理由は本編で)。
〔女、子供〕 古満(宍戸元秀の娘→毛利輝元養女)が妻。仲は親密で子はいない。また側室もなし。
〔この小説の役割〕 主人公。
〔能力〕 未知数。
〔身長〕 五尺五寸(約百六十五センチ)。
〔容貌〕 少々女っぽい。目は細く少々垂れているが恐ろしく澄んでいる。鼻は丸く小さい。唇は小さく薄ピンク色。顎はシュっとしていている。傷や髭はない。眉は細長く薄い。肌はいかにも肌色という色である。
〔名前〕 古満。
〔性別〕 女。
〔官位〕 なし。
〔年齢〕 十七歳。
〔性格〕 優しくおっとりしている。若干だが天然。ただし、大事な物や人を守る為なら冷酷にもなれる。夫第一主義。
〔位置〕 秀秋の正室。夫の留守の間は城代。また、秀秋の近侍取締役を勤める。
〔癖〕 夫の頭を撫でる(場所を考えない)。
〔男、子供〕 小早川秀秋が夫。仲は親密。子はいない。常に夫を気にかけている。
〔この小説の役割〕 主人公の正室。
〔能力〕 賢妻といわれる。頭脳はかなりの切れ者。
〔身長〕 四尺七寸(約百四十一センチ)。
〔容貌〕 大人びている。目は大きくパッチリしていて鼻は細長く大きい。顎は少々丸いが贅肉はない。唇は薄いピンク色で小さい。傷はない。丁度頬の上肉に小さいホクロがある。髪は長く癖がない。色白で髪は少々茶色っぽい。全体で顔が小さい。肌は艶々してて滑らか。眉は太長いが薄い。
_________________________
〔名前〕 松野 重元(通称平八)。
〔性別〕 男。
〔官位〕 従六位下 主馬首。
〔年齢〕 二十五歳。
〔性格〕 豪快で激情家。だが、意外な繊細さもある。欲がない。
〔位置〕 小早川家第一先頭隊長。兼任として小早川家鉄砲隊総大頭。小早川家の家老でもある。
〔癖〕 政務に対していつも一時間置きに三十分休憩する。
〔女、子供〕 共になし。今は興味はあるが、忙しく出来ないという。
〔この小説の役割〕 主人公の忠義一番の猛将。
〔能力〕 戦では槍働きは無論、鉄砲や兵の指揮も取れる。しかし、知恵比べになると弱くなり基本的には指示に完璧に従うようにしている。知ではあまり役にはならない。
〔身長〕 六尺三寸(約百八十九センチ)。
〔容貌〕 厳つい。右頬に一つ、左頬に二つの一寸(約三センチ)ぐらいの切り傷がある。目はギョロとデカイし、鼻は大きく丸い。唇も分厚い。基本的に顔が大きく、日焼けで肌が焼けて黒い。髭がある。眉は太短く濃い。
〔名前〕 柳生 宗章(通称・五郎右衛門)。
〔性別〕 男。
〔官位〕 なし。
〔年齢〕 三十一歳。
〔性格〕 無口で冷静。物事も淡々とこなす職人肌。冗談が分からない程の真面目。
〔位置〕 小早川秀秋の見回り警備隊長。剣術家として家中で剣を教えてもいるが、無口な為かあまり評判はよくはない。他にも近衛兵も勤めている。近衛兵は副取締役でもある。
〔癖〕 足音を消して歩く。常に日本刀を持つ(風呂以外)。
〔女、子供〕 共になし。剣一筋。
〔この小説の役割〕 主人公の守護警備。
〔能力〕 戦でも平時でも常に隣にいる。剣は一流であり、政務も淡々とこなす。知もあるが、兵を指揮する能力は、若干欠けている。つまり個人戦に強く、団体戦に弱い。
〔身長〕 六尺(約百八十センチ)。
〔容貌〕 顔が厳つく。武士らしい顔つきで右頬に三寸(約9センチ)の切り傷。肌の色が若干黒い。髭は少しある。眉はキリっとしている。
__________________________________
〔名前〕 稲葉 正成。
〔性別〕 男。
〔官位〕 従五位下 佐渡守(自称)。
〔年齢〕 二十六歳。
〔性格〕 冷静沈着。礼儀正しく軍紀に厳しい。怒ると怖い。恐妻家。
〔位置〕 小早川家の知識であり知恵である。小早川家の筆頭家老。また、小早川家三大家老の一人。
〔癖〕 考え事をすると顎に拳をつく。
〔女、子供〕 現在は福(斎藤利三の娘→稲葉重通養女)。再婚で仲は倦怠期。子は昔の妻が産んだ一男一女、福の一男が最近産まれたらしい。
〔この小説の役割〕 主人公の知恵袋。
〔能力〕 知で支えるだけあって政務、謀略は小早川家臣の中では一番。兵の指揮も取れる。ただし、個人戦には弱い。
〔身長〕 五尺(約百五十センチ)。
〔容貌〕 歳よりは老けて見える。若干白髪や皺も目立つ。少し寝てる顔つきで目は薄開きで鼻は丸く低い。唇はカサカサしている。顔に傷なし。髭は薄く生えてる。眉は細薄短い。肌は白い
________________________________
〔名前〕 福。
〔性別〕 女。
〔官位〕 なし。
〔年齢〕 十八歳。
〔性格〕 鬼嫁。激情家。基本的に強気一本。古満を実の妹のように可愛がる度胸がある。古満第一主義。
〔位置〕 正成の正室。小早川秀秋が留守の時は古満の片腕となる。
〔癖〕 苛立つと髪を掻く。
〔男、子供〕 稲葉正成が夫。仲は倦怠期。子は二男一女。子には平等に愛情を与えている。
〔この小説の役割〕 主人公の正室の片腕兼心友。
〔能力〕 相手を威圧させる。歯に着せぬ発言だが、物事を見抜く目がある。
〔身長〕 五尺二寸(約百五十六センチ)。
〔容貌〕 目つきが鋭く、鼻の丸いが低くはない。顔全体は丸いが、全体的に威圧を与える顔つき。髪は綺麗な長い黒。肌は色白でモチモチしている。左の鼻の穴の上の皮膚にホクロがある。眉は太短く濃い。
_________________________________
〔名前〕 平岡 頼勝。
〔性別〕 男。
〔官位〕 従五位下 石見守(自称)。
〔年齢〕 三十七歳。
〔性格〕 実直である。だが冗談は通じる。若干家臣に甘い所がある。基本的には温厚。
〔位置〕 小早川家の兵法。家老であり、小早川家三大家老の一人。
〔癖〕 念押しに何度も同じことをいう。
〔女、子供〕 黒田如水の姪(登場予定なし)。子はいない。仲は良好。
〔この小説の役割〕 主人公の中での家臣の中で兵法一。
〔能力〕 重要な部隊は基本的に統率を任されるなど、指揮は家臣一。槍使いも上手。ただ謀略面や知識には苦手意識がある。
〔身長〕 五尺七寸(約百七十一センチ)。
〔容貌〕 年寄りっぽいが、味がある。基本丸く恵比寿様に似ている。若干だがホクロの数が多いのっを本人は気にしている。顎鬚白いのが少しある。眉は太短く白いのがありながらも濃い。肌は日焼けで黒い。
___________________________________
〔名前〕 杉原 重治。
〔性別〕 男。
〔官位〕 従五位下 紀伊守(自称)。
〔年齢〕 四十一歳。
〔性格〕 地味。あまり目立たない。前に出ないようにしている。ただし心は強く太い。
〔位置〕 小早川家三大家老の一人。三大家老の中で一番の老臣。
〔癖〕 まあまあ・・・っとよくいう。
〔女、子供〕 妻はいたが死去して現在はなし。杉原重季が一男としている。
〔この小説の役割〕 小早川家の老臣で、家の調整役。
〔能力〕 特別優れているのはない。ただ任を与えられたらそつなく実行する。
〔身長〕 五尺四寸(約百六十二センチ)。
〔容貌〕 苦労が多々あったのか既に老人顔。笑うと好々爺そのもの。歯も左上の犬歯がない。笑い皺が深い。目はしょぼしょぼしている。鼻はシナっとしている。唇に一個ホクロがある。髪はほぼ白髪。
髭はない。眉は全て白で薄く細長い。肌は日焼けばかりしてたからかシミが目立つ。
________________________________________
〔名前〕 杉原 重季。
〔性別〕 男。
〔官位〕 なし。
〔年齢〕 二十歳。
〔性格〕 竹を割った性格。秀秋第一主義。少々短慮な所がある。
〔位置〕 小早川家の近侍。上司は古満。だが主に父の手助けをしている。
〔癖〕 興奮すると舌で唇を舐める。
〔女、子供〕 共になし。現在は自身の鍛錬に専念。
〔この小説での役割〕 成長盛りの若き剣客。
〔能力〕 剣を学んでいる。その為か個人戦はそれなりの光るものがある。頭脳も悪くないが、基本的に経験不足が目立っている。
〔身長〕 五尺九寸(約百七十七センチ)。
〔容貌〕 若侍風。まだ幼さが残るし丸い顔だが、目は鋭いし眉も太長く濃いので威圧感を出そうとしている。鼻は大きく丸い。唇はタラコそのもの。髭がある。肌は焼けて黒い。所々擦り傷がある。
____________________________________
〔名前〕 河田 資友(通称・八助)。
〔性別〕 男。
〔官位〕 なし。
〔年齢〕 二十九歳。
〔性格〕 のんびりしている。ボーっとしている姿もよく見られる。温厚で優しい。天然でその天然発言によく混乱が生じることがある。戦中は鬼の顔で強気。しかも俊敏である。なので二重人格疑惑がある。
〔位置〕 小早川家鉄砲頭。松野重元が上司。
〔癖〕 よく空を見上げる。
〔女、子供〕 共になし。子供が好きでよく城下町で遊ぶ姿が見られる。
〔この小説での役割〕 癒し系兼トラブルメーカー。
〔能力〕 怪力で戦では槍を放さない。化け物長鉄砲で狙撃することもある。指揮も統率出来るが、知略面は苦手。
〔身長〕 六尺(約百八十センチ)。
〔容貌〕 童顔で若く見える。眉は薄細短い。目は丸く大きい。唇は大きく赤色。眉は太短く濃い。額から眉間、右の鼻穴のの上を通って右頬にかけて五寸(約十五センチ)の傷がある。
_________________________________ 市野!!!
〔名前〕 市野 実利(通称・惣大夫)。最近になって伊岐真利に改名している。
〔性別〕 男。
〔官位〕 従五位下 遠江守(自称)。
〔年齢〕 三十歳。
〔性格〕 軽い。口達者でよく喋るのだが、それが災いしてよく怒られる。女癖が悪い。
〔位置〕 小早川家の武術指南役。若手教育をしている。
〔癖〕 女探しで見渡して探すのが癖になり、よくキョロキョロしている。
〔女、子供〕 共になし。女癖が悪いのでよく問題がおきる。
〔この小説での役割〕 息抜き。
〔能力〕 基本的に何でも出来る。しかし特別優れたものがない。器用貧乏。
〔身長〕 四尺九寸(約百四十七センチ)。
〔容貌〕 何処にでもいそうな顔。特別語る顔つきではない。だが不思議と女に好かれる。
_____________________________________
〔名前〕 堀田 正吉(通称・勘左衛門)。
〔性別〕 男。
〔官位〕 なし。
〔年齢〕 二十六歳。
〔性格〕 清廉潔白を表してる男。多少冷たい態度を取るが、情は強い。
〔位置〕 小早川家の文官。稲葉正成の腹心。
〔癖〕 爪を軽く噛む。
〔女、子供〕 共になし。だが、近頃婚約騒ぎがおきる予定。
〔この小説の役割〕 文官としての立場。
〔能力〕 政務に長けるが、戦はからっきし駄目。
〔身長〕 四尺八寸(約百四十四センチ)。
〔容貌〕 狐に似ている。眉も口も色は薄く細長い。目は細長く小さい。色も薄い土色。細長く小さい鼻がある。
__________________________________
〔名前〕 村上 吉正。
〔性別〕 男。
〔官位〕 なし。
〔年齢〕 三十三歳。
〔性格〕 大人しい。少し暗い。忠義心は高い。またあまり喋らない。
〔位置〕 秀秋の右筆。
〔癖〕 時に笑うとひき笑いをする。
〔女、子供〕 共になし。
〔この小説の役割〕 主人公の秘書。
〔能力〕 政務、謀略などの知略が優れているし大局面に長けている。また、外交官としても活躍している。戦中は伝令兵をやっているので苦手だが、出来ないという訳ではない。
〔身長〕 五尺一寸(約百五十三センチ)。
〔容貌〕 悪い人相。眉は長細く薄い。目は細く小さい。口は大抵性格が暗いのにニヤニヤ笑っている。鼻は高く細長い。傷はない。
__________________________________−
〔名前〕 清水 景治(通称・源三郎)。
〔性別〕 男。
〔官位〕 なし。
〔年齢〕 二十八歳。
〔性格〕 愚直で頑固。融通が利かない。基本的に堅物である。
〔位置〕 秀秋の近衛兵取締役。また近侍の副取締役も兼任。
〔癖〕 常に眉を顰めている(不機嫌でない時でも)。
〔女、子供〕 妻は亡くなっている。子は一男いる。
〔この小説の役割〕 主人公の忠臣。
〔能力〕 武よりも、文の方が実は上手い。基本的なことは大抵出来る。指揮能力もあることから、秀秋の周りを固める近衛兵取締役に抜擢されるので、強ち武が不得意ではない。だが、愚直な性格が災いして、謀略などはからっきし駄目である。
〔身長〕 六尺一寸(役百八十三センチ)。
〔容貌〕 癖もあってか、強面である。顔は大きく、少し角ばっている。顔色は土色。目は細く切れてて長く大きい。鼻はまん丸で大きい。口は何故か少し小さく色も薄赤である。眉は太く短く色は濃い。顔面には傷はない。
________________________________
基本的な小早川家の現在の主な人を書いたみましたが、多いな・・・。また増えたら書くかもしれません。今回から、外伝的なのは〇.〇っと(.)がある話は外伝要素にしますので、良かったら見てください。
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時01分28秒 ) | パスワード |
伊岐真利 いき-さねとし
?−? 織豊-江戸時代前期の槍術(そうじゅつ)家。
大和(奈良県)柳生(やぎゅう)谷にすみ,柳生宗厳(むねよし)に新陰流をまなぶ。
諸国修行で工夫をくわえ,慶長(1596-1615)のころ伊岐流を創始。
筑前(福岡県)の小早川秀秋につかえ,のち備前(岡山県)にうつり池田家で死去。
流儀は福岡藩が採用,幕末までつたわる。
[73] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時03分54秒 ) | パスワード |
http://kan-emon1575fukuoka.hatenablog.jp/entry/2014/01/04/232220
2014-01-04
vol.14 伊岐流槍術
『甲子夜話』に、「筑前黒田家の臣に、伊岐流と云ふ槍術を伝るものあり」との書き出しを見つけた(巻之十四/六)。
筆者の平戸藩主松浦静山が林述斎から聞いた話で、述斎が入手した伊岐久右衛門の先祖についての書付を「神祖(徳川家康)の御用ひありし槍術と聞けば、貴重の念おこるまま」書き写している。
その書付によれば、柳生出身の伊岐遠江守真利は柳生石舟斎の「第一の御門弟」だったが、独自の槍術を極めて「伊岐流」と称し、信長、秀吉、家康と、時の為政者の上覧にあずかるほど、その名は知れ渡っていたらしい。
孫が黒田家に仕えて、伊岐流は福岡藩で継承されていったようだが、分限帳を見てみると伊岐久右衛門の家禄はわずか13石3人扶持。
出自や他藩の殿様の耳にも入るような知名度とのギャップが、何か興味深くもある。
私の高祖父が残した「一代記」なる記録を読み返してみたら、少年時代の習い事、槍術の師匠は「伊岐平左衛門」。
やはり伊岐流だった。
余談になるが、「一代記」には他にも、剣術、馬術、砲術、軍学、さらに手習い、読書、舞、謡、小鼓といったものまで、お師匠の名が列挙されている。
福岡藩はいろいろな分野のプロを擁していたということであろうが、これだけ多岐にわたると、習うほうも大変だったかもしれない。
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時12分34秒 ) | パスワード |
http://ameblo.jp/ykblog/entry-10361094972.html
伊岐真利と市野真利
不思議ですね。
これは小説ですから。
テキトーに。
« 【小説:小早川秀秋・・・ | 記事一覧 | 【小説:小早川秀秋・・・ »
2009年10月09日(金) 22時45分23秒
【小説:小早川秀秋】秀秋の処分
テーマ:小早川秀秋
同月八日
秀吉は秀次を伏見に呼び木下吉隆の屋敷に
入らせた。そして弁明の機会も与えず関白、
左大臣の官職を剥奪して高野山に追放し出家
させた。
一時は内乱の危機もあったがこの程度で治
まったのは三成、長盛らの働きによるものだっ
た。しかし秀吉の怒りは止まることを知らず、
同月十五日に秀次への切腹命令が出され、秀
次はその日のうちに切腹して果てた。そして
これに関係したとして処罰される者がいる一
方、家康は東方の統治、輝元と隆景は西方の
統治をそれぞれ任されるなど賞された者もい
た。
秀次に加担したとされても伊達政宗のよう
にうまく弁明して処罰を免れた者もいた。し
かし濡れ衣を着せられた者はこれ以降、豊臣
家に不信感を抱くようになった。
秀吉は怒りが治まって、よく考えると自分
のしたことの愚かさに気づいた。捨丸を守ろ
うとする余り、逆に災いを防いでくれる者を
喪った。そしてこの全ての元凶を利休の屋敷
がある聚楽第と考えた。
(聚楽第に住む者は利休に呪われる。秀次が
わしに刃向かったのも利休に呪われたからじゃ。
捨丸に災いが及ばぬうちに始末しなければ)
それから数日後、秀次の一族郎党三十余名
が処刑され聚楽第も破却された。
謀反の連判状に署名したとされる秀秋にも
処分が言い渡され、所領の丹波亀山十万石を
没収された。しかしすでに山口宗永の働きに
よって隆景の所領、筑前、筑後、肥後の三十
万石余りを秀秋が譲り受け、隆景は本拠地の
備後・三原に移ることが決まっていた。
筑前・名島城は博多湾に突き出した小山の
周囲に堀をめぐらせ、天守、二の丸、三の丸、
南丸を設けた海城で、そんなに広くはないが、
水軍を率いた小早川隆景には都合が良かった。
隣国の肥前・名護屋城も沿岸にあるがその
規模と豪華さには遠く及ばない。
ここからですね
隆景が備後・三原に移ると決まった時、ほ
とんどの家臣が共に移ることを願い出たが、
その一部、五百人足らずの家臣が隆景の命令
で残された。その中には岩見重太郎、曾根高
光、神原基治がいた。
岩見は軍学、剣術に長け、父の敵討ちをす
る前に刀の試し切りをしたという石が残るほ
ど評判になっていた。
曾根は金剛力で名を成していた。
神原は村に出没する馬に似た怪物の尻尾の
毛を手に入れたという不思議な体験をし、そ
の話しを書いた「馬妖記」の作者という異色
の経歴がある。その話に登場する伊丹正恒、
穂積宗重、熊谷照賢、鞍手正親、倉橋直行、
粕屋常定も残されていた。
小早川家の家臣たちは秀秋一行がやって来
るというので迎える仕度をして待ったが、誰
も気乗りしていなかった。
(小僧のお守りなんぞ誰にでもできるわ)
秀秋が着いたと言うので出迎えて見ると家
臣の行列が延々と続いていた。それは秀秋の
豊臣家からの家臣に加え、秀次の一件で浪人
になった者などを召抱えた総勢一万人の大行
列だった。
行列には以前からいる山口宗永、稲葉正成、
平岡頼勝、村山越中、篠田重英などの秀吉か
ら任された家臣に加え、鉄炮頭の松野主馬と
蟹江彦右衛門、秀秋の実家である木下家の親
戚にあたる杉原重治、稲葉の養子だった堀田
正吉、伊岐流槍術を創始した伊岐真利、荒馬 伊岐真利 ココ
も乗りこなす村上吉正、怪力で剣術にも優れ
た河田八助、剣術で名高い柳生石舟斎の四男
で秀秋の警護役となった柳生宗章などの逸材
も家臣となっていた。
この人数の多さに小早川家の家臣たちは秀
秋に反発する気も失せ、唖然として立ち尽く
した。
秀秋はこれらの家臣たちを筑前、筑後、肥
後の方々にある諸城に分担させた。その分担
の仕方には特徴があり、家臣の性格を陰陽に
分け、陰の者には城内の仕事を任せ、陽の者
には城外の領地の管理などを任せた。そして
陰と陽を兼ね備えた者の中から城主を選んだ。
中にはいきなり城主になる者もいた。
城主はいつも城にいるのではなく普段は名
島城に集められ全体の指示確認と城主間の情
報交換をさせた。こうすることで領地全体の
様子が把握でき、短所は見つけやすく長所は
広めやすかった。
こうした政治のやり方は秀秋が藤原惺窩か
ら学んだ帝王学や兵法などから実践できそう
なことを取り入れたものだった。その惺窩は
本場の儒教を学ぼうと明への渡航を計画して
いたが実現せず、京に戻っていた。
秀秋は時々、諸城に出向き、そこで従者を
選んで馬を乗り回し領地を案内させた。こう
することで従者となった家臣がどれだけ領地
のことを把握しているか知ることができた。
最初は秀秋に馴染まなかった領民もしだい
に顔見知りになっていった。
しばらくして京では大地震が発生した。
伏見城の天守閣とその周りの大名屋敷が倒
壊したが、城にいた秀吉は難を逃れ、捨丸か
ら名を改めた秀頼と淀、北政所らは大坂城に
いて無事だった。
惺窩も命拾いをしたが、この地震での死者
は五百人を超える大惨事となった。
秀吉はすぐに新しい城を伏見の木幡山に築
城するように命じて復興にとりかかった。
この大惨事でも皆が無事だったことに秀吉
は利休の呪いが解けたという思いがして安心
した。ちょうどその頃、明の使者が大坂城に
登城して和平交渉をおこなうことになった。
秀吉には初めから和平交渉などする気はな
く、これを機会に再度、朝鮮への出兵を企ん
でいたのだ。
明の態度に怒りをあらわにした秀吉は予定
通り朝鮮出兵の準備を命じた。
[75] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時17分26秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101462.html
スレッド44を御用意致しました。
[76] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時24分52秒 ) | パスワード |
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/tuneyama.htm
備前 常山城
ヲイヲイの情報です。
小早川秀秋の重臣、伊岐真利が城主!
所在地: 岡山県岡山市南区灘崎町荘内
遺 構: 曲輪、石垣、堀切、井戸
形 式: 山城 築城者: 上野隆徳 築城年代: 文明年間
常山城は、標高307m、比高305m、児島富士とも呼ばれている常山の山頂に本の丸を置き、北と東に向かって両翼を広げた形で北に7段、東に6段の曲輪が配置されている。
本の丸の南下にある兵庫丸に下りると、本の丸が石垣で固められているのがよく分かる。 また、兵庫丸南面にも石垣が残っている。
北二の丸には、小早川隆景に攻められて落城した時、時の城主上野隆徳と共に婦女子まで戦闘に加わり、討ち死にした鶴姫と34人の女軍の墓がひっそりと祭られている。
現在、城跡の栂尾丸、青木丸、東二の丸にはテレビ塔が設置されている。 このため、常山駅側から車で山頂まで登ることができる。
歴 史
常山城は、文明年間に備中松山城主三村元親の重臣上野隆徳によって築かれた。 三村氏は、岡山城主宇喜多直家に追いつめられ、織田信長と結んだ為、毛利氏は小早川隆景を将として三村氏討伐の軍を進めた。 天正3年、ついに常山城も毛利氏に攻められ落城した。
常山城は、岡山城主宇喜多直家に与えられ、重臣戸川秀安が城主となった。
ココ!!!
慶長5年、関ヶ原の合戦で宇喜多秀家は改易となった後、岡山城主となった小早川秀秋の重臣伊岐真利が城主となった。
慶長8年、秀秋病没後小早川氏は改易となり、次いで岡山城主となった池田忠継は、常山城を廃城にした。
お城へのアクセス
鉄 道: JR宇野線常山駅〜徒歩
車 : 山陽道岡山IC〜国道53号線/岡山〜国道30号線
駐車場: 栂尾二の丸が駐車場(無料)で20台程度駐車可
ひとくち MEMO
城主の奥方に率いられた女子軍までも皆討ち死にした悲話の残るお城。
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時33分20秒 ) | パスワード |
<77>書き直し
http://cmeg.jp/pc/6924
もう1つ。
ちょっと詳しいので。
常山城
通称・別名−所在地岡山県玉野市宇藤木/岡山市南区城郭構造連郭式山城天守構造なし築城主上野氏築城年文明年間(1469〜1486)主な改修者−主な城主上野氏、戸川秀安、伊岐真利廃城年慶長8年(1603)遺構郭、石塁、空堀、井戸指定文化財市史跡(常山城跡)
常山城(つねやまじょう)は日本の城。岡山県岡山市南区・玉野市にまたがる常山にあった山城である。
【概要】
常山城は文明年間(1469年〜1486年)に備中の戦国大名・三村氏の姻戚である上野氏によって築かれたとされるが、詳細については不明である。以後、備中上野氏の居城となった。
上野肥前守隆徳が、備中上野氏最後の当主となった。
天正3年(1575年)毛利氏により攻撃を受けた三村氏一族最後の居城が常山城であり、常山城は毛利氏の軍勢に取り囲まれ上野隆徳は城内で自害したが、上野隆徳の妻である鶴姫は、武家に生まれた女としての信念を貫き、城内の侍女三十余名を率い、城外の毛利軍に突撃した。鶴姫は毛利軍の武将である乃美宗勝に一騎打ちを挑むが、乃美宗勝はそれを拒否し、思わぬ奇襲に乱れた軍を建て直した。鶴姫は再度城内に戻り、自害した。
豊臣時代には宇喜多秀家の所領となり、戸川秀安が城主となった。山麓には秀安の墓と位牌所・友林堂(友林は秀安の号)がある。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宇喜多氏が改易となり、小早川秀秋が当地の領主となるとその家臣の伊岐真利が城主となった。慶長8年(1603年)小早川秀秋が病死し改易となると、池田忠継の所領となり忠継はこの城を廃城とした。
現在、常山に城は現存しておらず、城跡として案内されている。
また山頂付近には、鶴姫や侍女たちを祀る墓が34基あり、『女軍の墓』として紹介されている。
【観光的な役割】
常山山頂からは児島湖・児島湾から岡山市街地までを見渡せ、景観はとてもよい。
登山道・車道も整備されており、頂上まで登ることが可能。
※車道に関しては車一台がやっと通れる程の狭さであり、落石・野生動物・ガードレールなしの悪路となっている。携帯電話の電波も繋がりにくく、事故が起こった場合救助を呼ぶ事も大変困難であることが予測される。悪天候・夜間の登山は非常に危険である。また悪路の運転に自信の無いドライバーは避けた方が良い。
【最寄駅】
・JR宇野線常山駅
【参考文献】
・岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会/編 『新版 岡山県の歴史散歩』 山川出版社 1991年 104ページ
・西ヶ谷恭弘/編 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 2000年 310ページ
・現地説明板
[79] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時45分16秒 ) | パスワード |
http://blogs.yahoo.co.jp/korealobby/48324528.html
伊岐真利の子孫?
韓国との友好関係の団体?
『児島高徳公顕彰忠桜会』会長 庭田尚三(号 暁山)の生涯について。 戦艦大和の設計者。
* 画像は、庭田暁山「戦艦大和を忘れるな」のケースと表紙、内容の一部。
庭田尚三は、戦艦大和の設計者の一人で、海軍中将だった人で、
私の遠祖児島高徳公の顕彰に尽力され、
この方が居なければ、行政の協力は得られませんでした。
中曽根康弘元総理が海軍主計少佐だった縁から、陳情の努力もされましたが、
当時は、福田赳夫総理の時代でしたので、
福田総理に<児島高徳公600年祭>の名誉会長を御願いした次第です。
中曽根総理には、裏で動ごいて戴きました。
庭田尚三先生には、岡山から何度もおみ足を運んで戴きました。
【暁山(庭田尚三)先生の生涯】
1888年6月29日 現在の和歌山県橋本市高野口町名古曽で生誕。
1901年 仝伊都郡九度山町の高等小学校を卒業。
其の後 奈良県五条中学校から、京都第三高等学校卒業。
其の後 東大造船学科在学中、海軍依託学生に採用される。
1915年 東大卒業後、海軍造船官として、27年勤務。
1942年 「戦艦大和」「戦艦武蔵」を建造し、海軍技術中将で軍籍を離れる。
1943年 岡山県児島の<三井造船>常務取締役玉野造船所技術副長。
其の後 商船増産・特殊潜航艇「蛟竜」量産。
1945年〜 敗戦後、海軍と三井財閥解体以来、小早川秀詮(ひであき)の後見人で有った、
先祖伊岐遠江守真利(いきとおとみのかみさねとし)の常山城跡の見える、
岡山市妹尾東畦に住み、以来、児島高徳公が戦後の歴史から抹殺され、
津山市院庄の児島高徳公を祀る<作楽神社>が荒廃に任せた侭なのに憤慨、
一念発起して、作楽神社境内に、「噫忠義桜十字詞之塔」を建立以後、
『児島高徳公顕彰忠桜会』を組織。
岡山県内で人に知られていない児島高徳公の史蹟を顕彰。
@、児島高徳公長男の子孫岡山城主宇喜多秀家の顕彰碑を岡山城閣裏に建立。
A、瀬戸内市邑久町北島明王院境内に児島高徳公の父和田範長一族の五輪供養塔を建立。
B、児島高徳公真の墳墓を探すべく、其の墳墓と言われる
イ、倉敷市児島林、ロ、仝児島木見、ハ、赤穂市坂越妙見山、
ニ、河内長野市観心寺、ホ、安来市清水寺、ヘ、豊田市広瀬広済寺、
を訪ねたが、真の墳墓に有らず。
1971年〜 三河三宅と太田市宮下家の古文書、
そして、私の家の「正伝記」と「青銅霊碑」を見て、
代々私の先祖が守護して来た、真の墳墓を確認し、
児島高徳公次男高久の後裔の私の父、
仝三保ヶ関国秋氏と尊瀧院縁の宮家史朗氏、顕賛会長稲村陸合一氏の斡旋で、
大卒塔婆を建て、供養を行い、「児島高徳公史跡保存会」の発足に至り、
無事600年祭を行なった訳で有る。
1980年 92歳で死去。
庭田尚三を顕彰する碑が岡山県和気郡和気町の藤公園に設置されている。
【関連記事】
二千年前韓国から来た私達のルーツ。『児島高徳公直系同族会設立三十五周年記念』
http://www.geocities.jp/korealobby/roots.html
太平記の里・児島高徳公終焉の地案内記。『児島高徳公と俳人芭蕉』
http://www.geocities.jp/korealobby/takanorikou.html
五流尊瀧院で、生まれた我が遠祖児島高徳公。
http://blogs.yahoo.co.jp/korealobby/43162238.html
吉野後醍醐天皇稜訪問記等。
http://blogs.yahoo.co.jp/korealobby/43050446.html
貴方の先祖は、韓国からの渡来人。?姓氏(苗字)で判る私達のルーツ。
http://blogs.yahoo.co.jp/korealobby/17865764.html
天日槍・田道間守・児島高徳・三宅太郎左衛門藤原芳高・私。
http://blogs.yahoo.co.jp/korealobby/14640642.html
◆◆ 暁山(庭田尚三)先生は、高齢にも拘らず、一人で、私の家に来る度、
太田のロイヤルホテルに泊まり、父がまるで、秘書の様に接していました。
父は免許が無い為、私が運転手の様に案内したのでした。
黒のベレー帽を被り、杖を突ていても、非常にしっかりしていた事を今でも思い出します。
其の後、連絡が無く成り、『児島高徳公顕彰忠桜会』二代目会長を名乗る人から、
書面が来ましたが、此方も、連絡が無く成りました。
90歳過ぎて、亡くなったと思います。
「長慶天皇御陵墓」が、高等小学校時代九度山町に有った関係から、
この暁山先生のライフワークが始まったそうです。
近近、戦艦大和がサルベージされるとの事ですが、
もし、この話を暁山先生が聞いたら、非常に喜んだ事だろうと推察されます。
★ このページは、暁山(庭田尚三)先生の遺業に感謝し、
暁山(庭田尚三)先生の縁者に敬意を表する為、公開する物です。
そして、児島高徳公顕彰の為、尽力された方々皆様にも感謝申し上げます。
【暁山(庭田尚三)先生の著書】 私の蔵書。「戦艦大和を忘れるな」は売却可能。
@、「日本歴史皇統系譜並に主要事績一覧表 附児島高徳公年表」
児島高徳公顕彰忠桜会発行。1972年5月8日
A、「児島高徳と<天、勾践>のはなし」
児島高徳公顕彰忠桜会発行。1973年3月4日
B、「長慶天皇と児島高徳太平記」 暁山89歳生誕記念
児島高徳公顕彰忠桜会発行。1977年6月29日
C、「戦艦大和を忘れるな」
旧日本海軍艦艇顕彰出版会発行。1979年10月20日
[80] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 03時46分12秒 ) | パスワード |
児島高徳
親戚・・・・・
[81] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 04時00分24秒 ) | パスワード |
[PDF]忍者関係資料データベース(日本) - 三重大学人文学部
既出
復習
http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/ninja-database-nihon.pdf
福山 松翠. 人類科学研究所. 1953年11月. 260円. 実験奥義 忍術極意秘伝. 書 全 ...... 服部半蔵奉納、仁王像、練馬区、御獄神社、鬼半蔵正成、寛政重修諸家譜、半三保長、万 .... 同心200人、石川五右衛門、日本武道全集、第4巻、中忍11人、百地三太夫の .... 家、広田家、忍術、潜水の達人、諏訪家、市野家、牧野家、松永家、豊島家、安藤家、.
1番下の枠の2番目です。2行目の最後の家の名は安藤家 です。
尾張藩の隠密組織 徳川幕府の隠密 大野一英 作家 の右側2行目の右の方に 市野 が出ています。
尾張藩、名古屋城落城 から始まっています。
[82] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 04時06分07秒 ) | パスワード |
『新訂寛政重修諸家譜』これで検索しようとするのですが出ないんです。
謎
何度も既出
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020?hid=ht002510
『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』 浜松市史 ニ
第四章 浜松藩の確立 第三節 浜松藩領の成立と他領 浜松地方の天領・旗本領・寺社領
天領の代官
142 〜 143 / 686ページ
天領を支配するのが代官であり、元禄期の代官の管轄区域は前述の領主分布表から察せられる。【市野氏 惣太夫 浜名代官】近世初期の浜松地方の代官としては、中泉(なかいずみ)村(磐田市)の秋鹿家と市野村(当市市野町)の市野惣太夫家が注目されるが、ここでは後者について述べる。『新訂寛政重修諸家譜』によると、市野氏の先祖は近江の浅井氏の一族で、真久(さねひさ)(惣太夫)の時(永禄年間)から家康に仕え、とくに馬のことにくわしく(『駿府記』に「慶長十六年十月一日、遠江国住人市野、生姜を献ず、すなわち御前に召し……牧馬の談あり、市野馬を知ればなり」と)馬掛りとして活躍し、慶長五年(一六〇〇)遠江の代官となり浜名十郷その他を支配し(『随庵見聞録』に浜名代官「浜名十郷辺ハ慶長五年ハ堀尾殿領浜松分、同六年ノ暮ヨリ市野五郎右衛門殿御代官九年之勤」)、慶長九年には長上郡市野村のうちで十七石余の屋敷地を賜わり、その後家号を市野と改めた。元和二年死去(市野村の宗安寺に葬る)するや、代官職と惣太夫の称号は実次(さねつぐ)・実利(さねとし)・真防(さねあき)とうけつがれた。寛文のころの市野・秋鹿両代官支配地の一端を上表に示そう。略
[83] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 04時15分05秒 ) | パスワード |
わたくしの想像:
市野真利 が 伊岐真利 と同一人物の可能性はあると思います。
10代だった小早川秀秋よりいくつか年上だったとは思います。
伊岐真利は柳生家でいろいろ学んだようですし
市野家は隠密系のようでもありますし
状況から考えて アヤシイ アリ と思います。
また市野真利が市野惣太夫真久の実の孫でも年齢的に有り得ると思います。
当時のことなのでもしかすると、孫でなく子が3代目になったのかも知れないです。
岡山の常山城関係で城主だった 伊岐真利 のことが分かると良いですね。
年齢だけでも。
それで小早川秀秋よりちょっと年上あたりだったらバッチリ。真久の子としても完璧。
ありうると思います。
それで寛政重修諸家譜の市野氏を読みたいのに読めないのが残念です。
これで確かめるのが1番と思います。
これでなくても 家譜:市野家物語 市野康彦 著 ですね。
浜松市図書館に置いてないでしょうか?
[84] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 05時55分33秒 ) | パスワード |
【名字】伊岐
【読み】いき
【全国順位】 47,198位
【全国人数】 およそ40人
伊岐国造、伊岐宿禰、伊岐史などの子孫。
近年、日本列島の西側に多数みられる。
「伊」は伊勢または伊豆を表す。
生息地
島根県 3,079位 およそ10人
[85] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 05時57分31秒 ) | パスワード |
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_matuo.html
文字化け
社家の姓氏-秦氏/伊岐氏-
Translate this pageしかし、実権は摂社月読宮長官の中臣系伊岐氏(松室家)が執り、松尾祠官を兼ねていた。 さて、神護景雲元 ... [資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]
秦氏系?
[86] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時01分55秒 ) | パスワード |
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/cat_77985.html?p=2
イキ 壱岐 宮崎県、鹿児島県。長崎県壱岐市発祥。古墳時代に「一大」の表記で記録のある地名。「一支」が推定での元来の表記。
イキ 伊木 大阪府、兵庫県、広島県。岐阜県各務原市小伊木発祥。同地にあった伊木山城を1570年(永禄3年)に落としたことで賜ったと伝える。
イキ 井木 静岡県静岡市、広島県、岡山県。@伊木姓あり。岐阜県大垣市郭町が藩庁の大垣藩士に江戸時代にあった。Aコリア系。鹿児島県鹿児島市で1955年4月22日に帰化の記録あり。新羅王の伝承から「井」の字を使用したもの。本姓は朴。
イキ 壹岐
イキ 生亀 福島県、山形県。事物。福島県会津若松市追手町が藩庁の会津藩士は長寿の亀から創姓したと伝える。
イキ 井城 富山県富山市。
イキ 位寄 富山県射水市。
イキ 居木 神奈川県、新潟県・徳島県。
イキ 息 鳥取県。壱岐姓あり。
イキ 夷亀 徳島県。
イキ 伊喜 大阪府、鹿児島県。
イキ 猪城 福岡県福岡市中央区。
イキ 伊岐 出てないですね
イキ 伊記
イキ 伊祁 徳島県徳島市。徳島県板野郡藍住町東中富にある真言宗の東光寺の僧侶による明治新姓。シナの伝説の君主である堯の姓に伊祁があった。
イキ 依期
イキ 居聞 鹿児島県出水市。
イギ 伊儀 茨城県つくば市・埼玉県戸田市。
イギ 猪儀 広島県三原市・京都府。
イギ 井義 神奈川県横浜市旭区。
[87] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時06分03秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B1%E5%B2%90%E6%B0%8F
壱岐氏
壱岐氏(いきうじ)とは、壱岐国壱岐郡を本貫とする古代氏族。
伊岐氏・伊吉氏・壱伎氏などの別表記がある。
大きく分けると、2つの一族が知られている。
A)
神別氏族[編集]
壱岐氏
氏姓
壱岐直 → 壱岐公
始祖
天児屋命?
出自
中臣氏?
氏祖
中臣烏賊津?
種別
神別(天神)
本貫
壱岐国壱岐郡
凡例 / Category:氏
1つは古くは県主・後に島造(国造に相当)に任じられ、姓を直、後に公と称した一族である。『新撰姓氏録』右京神別によれば、天児屋命の9世子孫である中臣烏賊津(雷大臣)の子孫とされている。また、同氏を中臣氏とつながりが深い松尾社の卜部氏の一族とする見方もある。壱岐島造の壱岐氏と中臣氏は天武天皇の頃に擬制的な血縁関係をもったとする説もあるなど、同氏の系譜を巡っては諸説が存在する。
B)
諸蕃氏族[編集]
壱岐氏
氏姓
壱岐史 → 壱岐連
始祖
楊雍? 周の第11代王である宣王の末子尚父の子孫で長安人。
出自
周の王族?
種別
諸蕃
本貫
壱岐国壱岐郡
著名な人物
壱伎韓国
伊吉博徳
凡例 / Category:氏
もう1つは唐人・揚擁の子孫と称する渡来人系の一族で、姓を史、後に連と称した一族である。天武天皇13年(683年)に連姓を与えられたことが、『日本書紀』に見える。主に外交面で活躍し、遣唐使の一員になった伊吉博徳や、壬申の乱で活躍した壱伎韓国などが知られている。
参考文献[編集]
北村文治「壱岐氏」(『国史大辞典 1』(吉川弘文館、1979年(昭和55年)) ISBN 978-4-642-00501-2)
佐伯有清「壱岐氏」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年(平成5年))ISBN 978-4-582-13101-7)
鈴木靖民「壱岐国造」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年(平成7年)) ISBN 978-4-04-031700-7)
梅田義彦「伊岐氏」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年(平成7年)) ISBN 978-4-04-031700-7)
五島邦治「壱岐直」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年(平成7年)) ISBN 978-4-04-031700-7)
[88] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時10分23秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9C%E9%83%A8%E6%B0%8F
卜部氏(うらべうじ)は、「卜部」を氏の名とする氏族。
古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。
占部・浦部・浦邊とも表記する。
卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職業とした品部。系統が異なる氏族が日本各地に存在するが、このうち伊豆・壱岐・対馬の卜部氏は神祇官の官人に任ぜられ、神祇官の次官(大副・少副)には伊豆卜部氏が、下級職員である卜部には伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の、それぞれ卜術に優秀な者が任じられた[注釈 1]。この三カ国以外の卜部氏は日本古来の卜占である太占に関係した氏族の後裔であるという[1]。
伊豆卜部氏[編集]
平安時代前期の卜部平麻呂(神祇権大佑)を実質的な祖とするが、平麻呂以前は明確ではない。平麻呂を大中臣清麻呂の孫にあたる智治麻呂の子とする系図もあるが[注釈 2]、後世の仮冒とされる[1][注釈 3]。三嶋大社に神官として仕えていた氏族であるという説や[注釈 4]、天児屋根命の後裔である五十手命を祖として伊豆卜部氏を中臣氏族とする系図がある[2]。姓は宿禰であったが、応安8年/文中4年(1375年)に吉田兼煕が朝臣姓に改姓。
平麻呂の子孫は後に吉田社系と平野社系に分かれ、代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務める。
吉田社の系統は冷泉のち室町を家名とするが、永和4年/天授4年(1378年)に足利義満が室町第に移ったことに伴い、吉田兼煕がそれまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田に家名を改めた。江戸時代には堂上家(半家)として三家(吉田家・萩原家・錦織家)を数えた。平野社の系統は江戸時代に猪熊家のち藤井家を称し、堂上家(半家)に列した。
なお、吉田社系の氏人に『徒然草』の作者吉田兼好がいるが、本来は「卜部兼好」が正しい。兼好は吉田に家名を改めた兼煕より前の時代の人物であり、「吉田兼好」の名は鎌倉時代および南北朝時代の史料にはまったく見られない[3]。
壱岐卜部氏[編集] これ?
伊吉島造家の伊岐氏(伊岐直)の一族。神功皇后の四太夫の一人で、天児屋根命12世の孫にあたる雷大臣の子である真根子を伊岐直の祖とする系図や[注釈 5]、壱岐卜部氏の氏人である是雄の賜姓記事[注釈 6](伊伎宿祢姓)において先祖を雷大臣とするとの記載により、中臣氏族とする。一方で、中臣氏族とする系図は仮冒で、高皇産霊神の後裔月神命の子孫である壱岐県主の一族とする説もある[注釈 7]。姓は宿禰。
氏人には貞観5年(863年)に卜部宿禰から伊伎宿禰に改姓した、是雄・業孝がいる[注釈 8]。
対馬卜部氏[編集]
対馬県造家の対馬県氏(対馬県直)の一族。対馬県直については、祖である建弥己己命を天穂日命の曾孫とし、出雲氏族とする。
神社に仕えた卜部氏[編集]
鹿島神宮の卜部(常陸国)[編集]
上古より鹿島神宮に仕え、太占に携わった家系とされ[1]、鹿島神宮の周辺には卜部氏が居住していたという[注釈 9]。天平18年(746年)常陸国鹿嶋郡の卜部5戸が中臣鹿島連姓を賜姓された[注釈 10]。
葛城一言主神社の卜部(大和国)[編集]
平安時代の僧源信の父を卜部正親とし、葛城の神に仕えた古卜家の後裔とする[1]。
宗像神社の卜部(筑前国)[編集]
奈良時代の筑前国の戸籍には卜部の氏人が多数見られ、古代宗像神社に仕えた家の後裔とする[1]。
その他の卜部氏[編集]
前述のほか、陸奥国・下総国・駿河国・近江国・因幡国等の風土記・奈良時代の戸籍に卜部姓が見られる。
脚注[編集]
1.^ 『延喜神祇式』臨時祭条
2.^ 『尊卑分脈』『諸家知譜拙記』。「卜部氏系図」(『続群書類従』巻第179所収)では「治麻呂」の子とする。
3.^ 大中臣氏は朝臣姓であるため、宿禰姓の平麻呂が大中臣氏の後裔であることは考えられない。太田『新編 姓氏家系辞書』(1974)
4.^ 太田『姓氏家系大辞典』(1963)によると「平田氏の説に」とある。平田篤胤のことか。
5.^ 「松尾社家系図」(『続群書類従』巻第181所収)
6.^ 『日本三代実録』貞観5年9月7日条
7.^ 『日本書紀』顕宗天皇3年2月1日条における、壱岐県主の祖である押見宿裲が月神を祀ったという記載や、『先代旧事本紀』天神本紀の「月神命、壱岐県主等祖」との記載に基づく。太田『姓氏家系大辞典』(1963)
8.^ 『日本三代実録』貞観5年9月7日条
9.^ 『常陸風土記』香島郡条
10.^ 『続日本紀』天平18年3月24日条
参照[編集]
1.^ a b c d e 太田『姓氏家系大辞典』(1963)
2.^ 宝賀『古代氏族系譜集成』(1986)。原出典は鈴木真年『百家系図稿』巻6「卜部」
3.^ 安良岡「吉田兼好」『国史大辞典 第14巻』吉川弘文館(1993)p.403
参考文献[編集]
太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。
太田亮『新編 姓氏家系辞書』秋田書店、1974年。
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年。
安良岡康作「吉田兼好」国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第14巻』吉川弘文館、1993年3月。
[89] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時13分21秒 ) | パスワード |
闇の日本史「数と形」卑弥呼は何処 九州編 - So-net
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/kyus_12.htm
文字化けで読めないです。
Translate this pageつまり対馬は韓国寄りで壱岐は日本寄りの思想をもった島であると考えているのだ。 .... 雪連宅満の父の名を「伊伎連古麿」といい、「伊伎」は「伊岐」「壱岐」であり、後の壱岐 ...
[90] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時17分53秒 ) | パスワード |
伊岐さんの生息地は島根と長野にそれぞれ10人ずつ?
このあたりに 伊岐真利 の謎がある?
http://name.sijisuru.com/Area/map/%E4%BC%8A%E5%B2%90
伊岐さんは全国で82633番目に多い苗字と思われます。伊岐さんは順位がルーツの可能性が高いと思われ、多くいらっしゃるようです。一概に伊岐さんが多くいるところがルーツや発祥の地とは言えませんがもしかしたらそうかもしれません。そして長野県に移り住まわれた方が多いようです。
伊岐さん生息地は
長野県 10人
レス<84>では 島根に10人となっています。
【名字】伊岐
【読み】いき
【全国順位】 47,198位
【全国人数】 およそ40人
伊岐国造、伊岐宿禰、伊岐史などの子孫。
近年、日本列島の西側に多数みられる。
「伊」は伊勢または伊豆を表す。
生息地
島根県 3,079位 およそ10人
[91] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時21分40秒 ) | パスワード |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1381035948
Q:吉田姓について教えてください
A:
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/11_20/yosida.html
こちらのサイトに良く載っています。
以下引用。
吉田は「ヨシダ」「キチダ」と呼ばれ、実りの多い良田、美田で意味する。
豊田、肥田も同様で、佳字の「吉」を宛てたもので、地名、名字ともに広く分布している。
とくに関西に多く、京都・大阪・兵庫・奈良県ではベスト10に入っている。
古代には春日氏族の吉田連や吉田宿禰があったが、吉田連は「キチダ」と読んだようだ。
唯一神道流宗家の吉田家は伊岐直族で「卜部」を称し、亀卜をして神祇官に仕えていた。
平安時代に京都吉田神社の宮司となり、卜部兼煕のとき吉田姓に改めたものだ。
「徒然草」を著わした吉田兼好はこの一族である。
公家の吉田家は、藤原北家勧修寺経房が山城国吉田に山荘を設けて吉田を称したのに始まる。
[92] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時28分46秒 ) | パスワード |
http://ameblo.jp/k1rms/entry-11352022435.html
松尾さんとは
松尾神社だけか
9月9日に松尾神社の解説をした。
コメントに一般の松尾氏との関係を問われた。
僕のブログには貴重な投稿なので、挨拶だけはしておきたい。
お答え:
1.ハイ、松尾姓と大いに関係します。
松尾姓の全国の順位は94位、全国に44,130人居られます。
ベストテンにはなりませんが、日本には13万種類もの姓氏があり、
僕の姓などは4,506位で583人しか居ないのと比較すると羨ましい限り。
2.松尾の読みは:マツオ、マツヲ、マツノヲなどです。誤読は除く。
3.類似姓氏:松林が日本中に多いので、この地名や姓氏が多い。
松(一字です)。松井。松居。松浦。松尾。松川。松木。松倉。松崎。
松沢。松澤。松下。松平。松任(マツトウ)。松等。松永。松長。松本。
松波。松浪。松並。松野。松原。松前(マツマエ、マサキ)。松山など。
これらは松尾氏と同じ系統の姓氏も全く違う系統のものもある。
4.由来:現在ネットで検索すると、全て松尾神社につながる。
秦氏族の伏見・松尾の両稲荷神社が強いからであろうか。
古く延喜式や和名抄に出る、松尾庄のある国名をあげると、
20カ国を超えるので割愛する。地名に多いと言うことだ。
姓氏は地名から発生したことは既に述べた。←リンクします
http://ameblo.jp/k1rms/entry-11180387926.html
5.松尾氏の由来その2:
(1)松尾社社家:山城国松尾村の松尾神社は本邦屈指の大社。
神主秦氏以下、氏人二家、神方二十家、宮つかえ、神楽、神子、
神大工、山守、土器師など数十の氏人姓氏が現れる。
(2)伴姓、伴氏系図に現れる。
(3)文徳源氏坂戸氏族、河内国の豪族。
(4)攝津の松尾氏、
(5)和泉の松尾氏、泉州誌にあり。
(6)清和源氏頼政流、伊賀の名族。
(7)桓武平氏拓植氏族、伊賀の名族。
(8)伊勢の松尾氏、古文書多い。
(9)近江の松尾氏、伴氏系図に現れる。
(10)尾張の松尾氏、春日井郡の名族。
(11)清和源氏八幡太郎義家の後、家紋亀甲に十二葉菊。
(12)伊岐姓、甲斐の名族。 ****************あらあらあら 伊岐姓の松尾さん???
(13)清和源氏武田氏族、甲斐の豪族。
(14)藤原南家、日向記にあり。
(15)清和源氏小笠原氏族、信濃国の豪族。
(16)岩磐の松尾氏、
(17)秀郷流藤原姓、出羽の豪族。寛永系図。
(18)日下部姓朝倉氏流、越前国の豪族。
この調子で、中国・四国・九州と延々と続く。宇都宮氏に勝るとも劣らない多さだ。
割愛させて頂くね。
[参考・引用文献]
丹羽基二著 「姓氏の語源」 昭和56年11月 初版 角川書店
大田亮著 「姓氏家系大辞典」 昭和56年9月 第9版 角川書店
[93] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時32分17秒 ) | パスワード |
[PDF]平 はじめに
http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=30&ved=0CGYQFjAJOBRqFQoTCNv-r8zJiMYCFREwiAodhlME9Q&url=http%3A%2F%2Frepo.komazawa-u.ac.jp%2Fopac%2Frepository%2Fall%2F33306%2Frsg080-04-murakawa.pdf&ei=RPx5VdvMHZHgoASGp5GoDw&usg=AFQjCNFHYyWYNTcPjFTGDXmnW34DSDtivQ
(氏名) は、 苗字が不明の場合、 本姓を記す。 .... (2) 下村 敷 「豊臣氏官位制度の成立と発展ーバム家成 - 諸大夫成 - 豊臣授姓ー」 (『日本史研究』 一二三七、 一 九九四年。 ...
また、 叙任された可能性がある者として、 伊岐 (壱岐) 真利 (小早川秀秋家臣)、 蒲.
こんなん出ました!
ただしPDFが重過ぎて開けられない・・・・
叙任で 伊岐 (壱岐) 真利 に?
駒澤大学の情報なのでかなり信頼性が高い?
頑張って開けてみてください。
[94] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時54分47秒 ) | パスワード |
開きました。
読んできます。
[95] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 07時19分21秒 ) | パスワード |
P125です。
でも 陪臣叙爵の可能性がある者として伊岐(壱岐)真利(小早川秀秋家臣)などがいる
というだけの話でした。
つまり小早川秀秋がらみで叙爵されたのだろうということなので
小早川秀秋が子供の時に、伊岐(壱岐)真利も子供ながらに家臣となっていた?
市野真利は小早川秀秋に可愛がられていたんでしょうか?
この伊岐(壱岐)真利が市野真利と同一人物なのかどうかアヤシクなって来ました。
[96] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 07時31分40秒 ) | パスワード |
パロディイ版小早川秀秋ということで。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「小早川秀秋」の項目を執筆しています。
「裏切りとかマジ引くわー」
〜 小早川秀秋 について、徳川家康
「ほんとほんと」
〜 小早川秀秋 について、脇坂安治
「とんでもない奴だな、まったく」
〜 小早川秀秋 について、吉川広家
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき、天正10年(1582年) - 慶長7年10月18日(1602年12月1日))は、日本の歴史を変えた鍋奉行の一人。
広島の元四番バッターではない。
本来ならば織田信雄、豊臣秀次、徳川秀忠らと共に四英傑と呼ばれるべき人物だが、人格に欠陥がありすぎたため人気は薄い。
同時代人からは「無能秀秋」「近江の恥」「三国一の裏切り者」「秀吉の威光だけのボンクラ」「血も繋がってない癖に豊臣気取り」など数多くの異名で恐れられた。
彗星の如く儚い生涯
小早川家当主へ
偉大な人物像
「漁夫の利を狙う」「他者を踏み台にしてのし上がる」を信条としている利己主義者であり、道義、仁徳、倫理などまったく弁えなかったサイコパスのため人望も皆無で、その最期すら「なんかよく知らんけど死んだらしいよ」とそれぞれ歴史家が適当に記すほどに惜しまれなかった。故に古今彼を尊敬する人はゼロに近いという稀有な漢である。風貌も美形の織田信長などと異なり、成熟期を過ぎて腐り始めたナスのような奇怪な形相をしていて(肖像画を参照)、視線もどこか虚ろで生気がなく、この世の全てを嘲っている様な不快な印象を与えるため、大抵の人は彼を一目見ただけで嫌悪感を覚える。
こうした様々な要素から本来なら「名将」であるにも関わらず、同時代を生きた武将達はおろか後世の歴史家・歴史学者達からも相手にされず、果ては現代の歴史小説家や歴史オタクからは蛇蝎の如く嫌われている。
[編集] 華麗なる一族
[編集] 父・木下家定
戦国時代屈指の凡将・木下家定の末子として生まれる。父は特にこれといった能力も容姿も家柄もないという本来なら乱世で真っ先に死にそうなモブ属性でありながら、妹の寧々が秀吉に嫁いだおかげで出世したという男であった。幼少期の秀秋はそんな不甲斐ない父を見下し、「信長に俺はなる!」と口走る反抗期真っ盛りの痛い子として父を困らせていた。それなら家を出て一人で立身を目指せば良いのだが、初めての領地はやっぱり父と同じく縁故で秀吉から与えられている所を見るに基本的に口先だけのヘタレ気質であったようである。
父の家定は自身の無能力を自覚している謙虚な男であり、だからこそ似た境遇の豊臣秀次のように秀吉に粛清されることもなかった。後年、家定は反抗期の秀秋に「己の分を弁える事も一人前の武将に必要な事」と諭している。そんな平凡だが優しい父の言葉も生粋のサイコパスである秀秋の心には通じず、負け組の言い訳と馬耳東風で説教を聞き流していた。
[編集] 母・朝日姫
秀秋自身がこのような(検閲により削除な)性格であったため、母の朝日殿からも愛されなかった。
幼少期に母親から愛されなかった人間の性癖は歪むものであるが、そのせいか秀秋も極度の女性不信・女性蔑視の傾向を持つようになった。
「女子など所詮押し倒して(検閲により削除)するだけの存在」と、あの前田利家夫婦の前で抜け抜けと言ってのけたと言う逸話は有名である。またやはり変態性癖の一環か女装癖もあったらしく、歴史書の中には「寧々の姪」と男の娘であった事を克明に記録している資料もある。
[編集] 兄弟達(勝俊・利房・延俊)
長兄、木下勝俊は嫡男でありながら歌手としての夢を捨てきれず、父と何度も喧嘩して家出する事も日常茶飯事、挙句の果てには関ヶ原の合戦後領土を安堵されながらも、領内にコンサート会場を建てると言い出して弟利房と喧嘩を起こし、木下家が改易される遠因を作っている。秀秋はこのわがままでいつまでも中二病の兄を反面教師として育った。生まれながらに才知に恵まれていた秀秋だが、父が凡人であり、兄勝俊がこのようなDQNであったため人を敬う心を知らずに育ってしまった。
その次兄の利房は秀秋より才能は劣るもゴマすりだけは得意で世渡り上手だったため、一度は改易されながらも最終的には大名にまで復帰している。現存する肖像画を見ると顔つきが極めてドラえもんの骨川スネ夫に似ており、スネ夫のモデルになった可能性が高い。
三兄木下延俊は兄弟の中で一番地味であり、根暗オタクで独り言も多かった。ライトノベル作家だったそうだが、あえなくコケた。
この通り、秀秋の兄達は父と並んでいずれも敬うほどの魅力を感じない連中ばかりと自分を棚に上げて考えていた為、眼中にもとめていなかった。兄を呼ぶ時も、「兄上」などとは呼ばずに「貴様」もしくは「愚兄」呼ばわりしていた。
[編集] 叔母夫婦(秀吉・寧々)
木下家の家運を支えるのは寧々とその旦那の秀吉という強力なコネであった。特に秀秋はラッキーな事に跡継ぎの生まれない叔母夫婦の猶子に納まり、天下すらも相続できるかもしれないという地位を手にしていた。だが血縁者である叔母からは嫌われおり、母と同じく愛情を注がれなかった。実は面食いの叔母は兄から「美少年の男の娘」と聞かされて猶子話を即決しており、その秀秋が実際に会ってみるとイケメンどころかヘチマの出来損ないのようなブサメンであった事に「騙された」と怒りを覚えていたのである。
一方、サルだかネズミだかという醜男であった外叔父の秀吉からは同情され、「こんな不細工をワシら以外の誰が大事にするんだ」と妻を諭している。8歳の時にはお年玉として10万石を貰うなどそれなりに可愛がられ、秀秋も「金さえあれば何でも買える」「愛でも買える」と豪語する成金の叔父に憧れていた。しかししっと団と化した豊臣の諸将からは「コネで領地を貰ったお坊ちゃん」「本当は秀吉が遊女に産ませた隠し子で家定に預けていた」などと陰口を叩かれ、これらの陰口はただでさえひねくれていた秀秋の人格をさらに捻じ曲げてしまう原因となった。
秀秋と叔母叔父夫婦との仲を決定的に裂いたのは秀吉に晩年の子豊臣秀頼が生まれたことである。念願の我が子を得た秀吉は秀秋をさっさと追い出すべく毛利一門へ養子に出してしまい、秀秋は人間社会に残っていた僅かな愛着すら失う事になった。
[編集] 彗星の如く儚い生涯
各方面から見捨てられた検閲により削除を押し付けられた毛利家では人徳の備わった名将小早川隆景が養父となり、更生と社会復帰を目指すことになるが、最早秀秋のメンタルは修復不可能なレベルに歪んでしまっていた。
隆景の下で秀秋はまず「朝昼晩の挨拶をする」「助けてもらったらお礼を言う」「海老の天麩羅を尻尾まで食べるのは下品」など、根本的なマナーを一から学びなおす事になったが、秀秋はまるでやる気がなかった。
隆景は温厚で思慮深いといわれる反面、甥の毛利輝元に徹底したスパルタ教育を施す鬼の一面を持っていたが、「太閤殿下の甥を粗略に扱うのはさすがに忍びない」として、こうした秀秋の態度に対して体罰一つ与える事はなかった。
また毛利家の外交僧安国寺恵瓊が秀秋が太閤殿下の甥にして養子であると言う関係を利用し、秀吉との人脈を存分に深めるべくやたらと秀秋に媚を売って持て囃し、ますます秀秋を増長させることになる。
無論、秀秋は恵瓊の魂胆などとうに見抜いていたことは言うまでもない。
[編集] 朝鮮出兵
朝鮮出兵における慶長の役では自ら先陣に立って活躍したが、その戦いぶりが見るに耐えないほど残酷で非道なものであり、武辺者として数々の武勇伝を持つ福島正則が閉口したほどである。
この頃の秀秋はタミフルを常用していたのではないかと言われている。
しかし武功を挙げた事は事実なのだからと恩賞を期待してたが、目付の石田三成からは「一群を率いる将として行いが軽率」「非道な振る舞い多く、軍の士気を低下させる」「他の諸将との協調性がまるで無い」と酷評し、秀吉に言上した。
カッとなった秀秋は激怒して三成の使者をその場で手討ちにかけて余計に立場を悪くしてしまい、秀吉からはゴミを見るような視線で秀秋に帰国を命じた。
帰国後に旧領の召し上げを命じられるが、これは三成との口論や朝鮮出兵からは相当の時間が経っている為に特に関係はなく、単に能力から見て手に余ると判断されたようである。
ちなみに三成が秀秋を糾弾した時、秀秋と同じく三成に敵意を抱いていた豊臣家の諸将らは、一切秀秋を庇いたてしなかった。
要するに嫌われ者だったわけである。
さらに言うなら朝鮮出兵の武功話自体、秀秋の軍監であった黒田孝高の残した資料には一切残っておらず、そもそも武功自体が秀秋の誇大妄想と被害妄想から生まれた法螺話であったのかもしれない。
ともかく新たにクソ寒い北国の越前に領地替えとなった秀秋は「自分を馬鹿にする豊臣諸侯なんか皆死ねばいいのに」と呻き続けた。
秀吉の死の前より徳川家康と誼を通じていたといわれるが、そんなクレバーな逸話は講談などで伝わる創作であり、実際は越前の館に一人篭って三成に対する呪詛を唱え続けていた。
いよいよ家臣団が秀秋へのロボトミー手術の手続きを進める方向で固まりつつあった中、関が原の戦いが起きる。
[編集] 関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いにおいては、どこから集めてきたのか知らないが15000もの軍勢を引きつれ石田三成率いる西軍として参加。
犬猿の仲である三成の側に参戦したのは、西軍有利と判断したからとも、隙を衝いて三成の寝首を掻こうとしたからだとも、花びらを千切りながらどちらにつくか決めたとも言われている。
秀秋は伏見城攻めに参加し、慶長の役と同様に自ら先陣に立って太刀を振るい獅子奮迅の活躍をしたと言われる。
ちなみに、伏見城を落とした後は城内の捕虜となった女性たちに対し股間の茄子の古漬けを思う存分振るった、いや相手は美小姓達であったとも言われるが、不謹慎すぎるので割愛する。
またこの折、伏見城を守って見事玉砕した鳥居元忠らの首級で秀秋は蹴鞠やお手玉の玉にして遊び、その様子を見た赤座直保が嘔吐したとの逸話が残っている。
その後、関ヶ原本戦では松尾山に陣取りひたすら両軍の戦いを観戦していた。
変動する趨勢に戸惑い、どちらに味方するか迷っていたとも伝わるが、実際は漁夫の利を得るべく高みの見物をしていたのは言うまでも無い。
しかし高みの見物をしている途中に酒の飲みすぎで吐き気を催して呂律が回らなくなり(秀秋は下戸だか意地っ張りなので酒が飲める振りをしていた)、石田三成の使者などに対しての思わず「日本語でおk」と思わせる意味不明な言動ばかりであったため、側近の平岡頼勝、稲葉正成は主君の通訳を務めるのに苦心した。
返答も最終的に東軍に寝返った理由は諸説ある。
中でも有力なのが、今関ヶ原にいる家康は実は世良田次郎三郎と言う影武者のタヌキで、本物は江戸城に息子の徳川秀忠と共に兵力を温存している、ついでにhydeの身長は156cmであると言う虚報を聞いて、西軍に勝ち目が無いと判断して東軍についたというものである。
酔い潰れて焦点も定まらなくなった所に家康の使者がキャベジンをちらつかせて秀秋を釣ったとも言う。
また西軍総大将である毛利輝元が「叔父上は俺には厳しくしたのにあいつは甘やかしたから嫌い、死ね」と秀秋を冷遇した為に激昂した秀秋が東軍への内応を決心したとの異説もある。
尚、合戦中、若干東軍が不利になったので必死になりなりふり構わない態度で凄んで来た徳川の伝令将校奥平貞治に対して、秀秋はたかだか伝令の癖に偉そうな口を利くなと激怒して無礼討ちにしてしまった。
家康の伝令を勝手に討ち果たしてしまってはまずいので、秀秋は後に奥平は大谷吉継との戦闘中に討ち死にしたと適当に捏造した。
寝返り後はすわ掛かれと1万5000名の大軍にて山を駆け下りたが、「あいつ人間の屑だから裏切るよ」と予測していた大谷吉継の伏兵600名に足止めを食らい、その間に合流した平塚為広の軍勢にボコボコに叩きのめされ、逆に山まで押し返されるというどこかの国の軍隊の如き惨敗ぶりを喫してしまった。
しかし脇坂安治ら別の寝返り組の参上でどうにかギリギリで戦線を建て直し、面目を保つ事となった。
その後は脇坂安治ら他の裏切り四将と共に石田三成の居城佐和山城を攻め落とす。
この時家康から忠臣鳥居らの首級で蹴鞠をしたことを咎められる。
この時秀秋は既に酔いのため顔が蒼ざめてまともに会話できる状態でもなかったが、「別にいいじゃん、済んだ事だし」と開き直った。
あまりに単刀直入で何の婉曲も交えないその堂々たる態度に家康はかえって感心してしまい、関ヶ原での戦功も含めてまあしょうがないよねと許した。
ついでに片倉重長を一目見て「ウホッ、いい男!」と発情した彼は、徐に袴の帯をほどきつつ下半身をもろ出しにし「ところで俺の古漬けを見てくれ。こいつをどう思う?」
と問いかけ重長を追い回した。
後年「大坂の陣」で「鬼重長」と呼ばれる重長も当時幼少であったため逃げ回るしかなかったが、秀秋は重長の主君でもあり、カレシでもあった伊達政宗に一喝され、自慢の古漬けはさらに縮みこんでしまった。
[編集] 岡山藩主時代
戦後、秀秋はその功績に報い宇喜多秀家の旧領備前岡山を得た。
秀秋は岡山城を大幅に改築して領内の検地、寺社の復興などに努めた。
イカレた性格の彼でも流石は太閤秀吉に認められた武将、やることはきちんとやったのである。
しかし領民に慕われるほど善良な君主だったかどうかは…お察し下さい。
秀秋は関が原の合戦より2年後、突然死去。
この時側近の稲葉正成は「金吾中納言は一身上の都合により身罷りました」と不自然な発表をしてしまい、世間からその死が怪しまれる事になる。
ちなみにその稲葉は後に徳川幕府の重臣となり、稲葉家は譜代大名として存続している。ぁゃιぃ。
秀秋には嫡男がいなかったため、小早川家は改易となった。
事実上、江戸時代最初の改易である。関ヶ原における勝利の原因を作った大名、初めて改易された大名として秀秋は後世にその輝かしい名を残すことになる。
名将(迷将?)小早川秀秋、享年21歳。
後世、彼は女性として小早川瑞穂の名前で転生。
しかし前世での裏切り行為の報いによるものかヒロインの座を若林鮎に奪われてしまう。
[編集] 謎に包まれた死因
死因として最も有力な説は、無礼討ちにしようとした農民の返り討ちに遭って、股間を蹴り上げられてショック死したというものである。
ちなみに農民も秀秋に両腕を切り落された状態からの捨て身の反撃であり、かなり凄惨な光景である。
上記の通り、転生した際も女性として生まれている事から、その農民の恨みの酷さがよくわかる。
[97] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 08時01分44秒 ) | パスワード |
<レス71>の派生。
市野=伊岐真利の女癖の悪さの話らしいです。
http://ncode.syosetu.com/n5562f/9/
間章 居残り組
これはある煩悩の男のひとこまである。
4.5 名島城にて・・・
小早川秀秋は筑前と筑後・肥前の一部の三十万七千石の大名である。
日ノ本では、かなりの大大名である。そして、秀秋の本拠地は筑前にある名島城である。
ここは、秀秋の義父でもあった小早川隆景が居た城だ。
ここは昔、同じく立花山城にある支城として築城された。その名島城に手を加えたのが隆景である。名島城は海に囲まれた天然の要害である。詳しくは間章なので省略する。本編でしっかりと書く予定なので・・・。
舞台はここ名島城の本丸にある天守の大広間である。
これは、秀秋が李氏朝鮮に出兵して留守を命じられた者達の物語である。
「若者達」になってますね。
市野=伊岐真利も若いということでいいですね。
「何故呼ばれたか分かりますか。」
ギラリと光った目をして冷めた言葉を吐いた人物が尋問者を睨む。
顔は嫌悪感を隠そうともしない。
その言葉を吐いた人物の名は堀田勘左衛門正吉である。かの者は小早川家の筆頭家老の稲葉正成の家臣で腹心である。正成のかの者に対する信頼は厚い。
だが、かの者は主人の出兵には同行していない。これは、正成の正室である福=後の春日局=がそう命じたのだ。正吉は福にも信頼されてたのである。主人がいなくなる以上、代わりの手駒が欲しかった福は、かの者に白羽の矢を立てたのだ。だがら、正吉は名島城に在住してるのだ。
その奥にはちょこんと城代の杉原重治が不安げな顔で座している。
こちらは、秀秋が指名した城代である。
っといっても裏では秀秋の正室、古満が完全にここの権力を握っている。
所謂、傀儡人形である。だが、重治はそれで納得しているので文句は一切ない。自分の力量を重治は弁えているからだ。
この二人は上座の中央にいて最上座にいない。城代の重治は最上座に座してもいい筈である。これは例え、秀秋が居なくとも座するのは恐れ多いからだ。・・・重治は遠慮してるだけだが。
他に尋問者が逃げないようにする為か、杉原重治の息子である重季を中心に五人が出入り口の襖に仁王立ちして警戒する。
市野実利=伊岐真利登場!!!
「んー。分からないね。」
尋問者であって、ここに座しているこの男。名を市野実利改め伊岐真利が軽く応えた。
最近になって改名したのである。
これは乗りだそうだ。
因みに、朝鮮出兵した秀秋等は一応は知っている。
どうやら、かの者がこの会議での中央人物のようである。
だが、本人は全く分からないのか腕を組んで思考する、顔も苦悶していて、結構な熱中している思考である。
いつもの一日が終えようとしていた今日に何故呼ばれたのか。
真利は一応は仕事をしている。
しなければ、仕事に煩い正吉が上に訴えたら面倒だ。
それに、一回だけだが、秀秋からも仕事の怠慢に軽い注意を受けている。
流石に主君からのお叱りには敵わない。
だから真利は仕事はキチンとこなしている。
真利はゆらゆら行灯の灯が揺れている中、大広間でただただ必死に思考した。
だが、そんなのは一瞬で直ぐに分からんっと匙を投げてしまった。
元々真利は、思考する嫌いだ。行動派なのである。
よくそんなので武術指南役を勤めてるのかと思う程の大雑把でもある。
真利は表情こそ一応は神妙だが、態度がどうも神妙ではない。
無論、思考をさっさと止めてしまったからだ。
真利はどうせ大したことではないのだろうと軽く構えている。
真利の態度の雰囲気に対して周りにも伝わったようである。
現に、殆どの者達が呆れた目をしている。その中で正吉が語気を強めて尋問した。
「今日、貴殿が話した侍女は・・・。」
「んー。三十四人だが。」
正吉の尋問の内容で真利にはやっと分かった。というより、正確に侍女を数えている真利はある意味凄い。
真利はキッパリと断言している。
大方女性問題だろうっと真利は断定した。
これには後方の重季が更に呆れていた。
真利の開き直りにである。
行灯の灯も遂に呆れたのか、灯が一瞬だけ弱くなった気がした。
今時に珍しく純情で、初心な正吉がまた小煩く真利に説教を垂れるつもりだ。
真利に正吉は日常茶判事に説教をしているのは、小早川家の者達は誰もが周知している。
何故年下に、しかも身分は真利より低く、それでいて私用に説教なぞ真利は大人しく受けるのか。
正吉とは仲はいいからである。
だからこそ怒らない。
(しくじった。耳栓をするんだったな。)
だが、怒りはしないが、聞き入れるのは個人の自由。
真利はもうウンザリして自分に悪態をついた。
既に数え切れない程に説教は受けている。
そして正吉の説教内容は、今までほぼ変わらないからだ。
だから厭き厭きしてるのだ。
だが、こういう形での説教は初めてだ。
基本はその場で説教であり、大掛かりで正吉の部屋での説教だったからだ。
女性問題でここまで発展したのは今回が始めてである。
その点では真利も少々だが驚いたが・・・。
吉正が赤らめた顔をしているのに対して、真利は今では飄々としている。
二人とも説教するいつもこんな感じである。
そして、二人の口論が始まった。
「いいですか。貴殿は何故あんなに侍女を追いかけるのですか。貴殿が暇でも他は暇ではありません。話をするなっとは言いません。だが、貴殿はいつもこ、こ、こ、こ腰やし、し、し、し、し・・・。」
「尻か。」
「そう。御尻を触られるのはやりすぎです。」
「別にヤッてる訳ではないんだけどねー。」
なっっと絶句した吉正は、説教で興奮して赤くした顔を羞恥で今度は赤くした。
実に初心であるが、意味が分かるので耳年増である。
一方の真利は顔は飄々ではあるが、ウンザリさが出始めている。
いつもの説教もこんな雰囲気で進んでいるので、展開が読めるのだ。
「き、貴殿は誰でもいいのですか。」
「そうでもないんだけどねー。一応は区別もしてるつもりなんだけどー。」
吉正はいつもの答えを言った。
そうは言うが真利の許容範囲は広い。
何と七十歳を口説いたのが噂になった時は、周囲を騒然とさせた。
一歳を口説いた時は親が真利に、必死に止めるように頼んだこともある。
真利が口説くときはいつも本気なのだ。
真利は歳だろうと人妻だろうと女ならば基本的に気に入れば見境がなくなる。
そして、体を触るのである。
顔や性格ではなく、なんとなく決めるので始末が悪い。
しかも、真利がやると殆どの女は口では怒るが心底では嫌ではないのが余計始末が悪く、不思議なのだ。
だが、気に入ったが口説かない例外もある。
それの一つとして、秀秋の正室の古満がいる。
実は、真利は一度、真剣に口説いたのだ。
主君の正室を口説くとは、凄い度胸である。
勿論だが、秀秋の正室と知ってのことだ。
一応断っておくが、真利は秀秋に対する忠義心はちゃんとある。
自分がこれ程に自由に動ける場所は、ここしかないことも自覚し感謝もしてはいる。
だが、真利はそれとこれは別だといって古満を真剣に口説いたのだ。
(いける・・・。)
古満を口説いた感触は良かった。
だが、真利の手が古満の体に向かった刹那に体が震えた。
顔こそ笑ってたが、目は全く笑っていなかった。
そして、体からの拒否する雰囲気と殺気に震えた。
背後に阿修羅がいると錯覚してしまう程の覇気だった。
本能で震える真利は瞬時に悟った。
(・・・これは無理だ。)
元々、無理強いはしない真利は諦めも早い。
さっさと諦めた。
互いに好きな者が強く想ってたなら無粋なことをするのも嫌だった。
・・・一番は命を捨てたくなかったが理由なのだが・・・。
これには余談がある。このことが秀秋に知られた。
秀秋はウルウルと目を潤ませて、私はいらないのかっと体をプルプル震えさせながら尋ねたのだ。
これには古満が胸がキュンっとときめいた。
男で凛々しいのは見たが、可愛いのはこの夫しか見たことがない。
その秀秋の無防備さと可憐さに古満は愛しさが爆発して、
ギューっと秀秋を抱きしめる行動を起こして慌てさせた。
顔も羞恥で真っ赤になる秀秋に、更に古満が愛しさに抱きしめを強くし、最後は息がし辛くなって秀秋がグッタリと青ざめ、それを古満が逆に慌てさせるまで続けたっという話である。
現代でいえば、秀秋の先の姿はチワワに似ていた。
秀秋も昔は目もまん丸としていたし、垂れていない。
その他にも稲葉正成の正室である福もそうだ。
ただ、これは真利が好みではないので口説かなかった。
だが、福はそれが気に入らないのか、ある日になって真利に突如として正拳突きを喰らわして、真利を沈めさせてしまったのだった。
真利は武術指南役である以上は一応は強い。
だがこの攻撃はあまりの速さに対応が追いつかなかった。
これ以降、真利の一番苦手な女は福である。
内心ではあれは女ではないっと、恐怖している程に福が苦手なのだ。
だから、福のお気に入りの侍女等は口はそれなりに口説きながらも、一切手を出さない。
その点を考えて手を出さないのは、福と古満に関係している人物であろう。
「ええい。何故そのように女子に手を出してしまうのです。」
「そこに戦があり、浪漫があるからだよ。そこで動かねば漢じゃあないね。だからこそ、見つけたら即動く。これが漢の花道だと思うし、今の自分があるのだよー。」
「馬鹿かー。馬鹿なのか、あんたは。」
正吉は上官だろうが、もう関係ないっと口調が汚くなった。
普段ではあまり見られない感情の高ぶりである。
右手の人差し指を激しく噛む。
かなり苛立っているようである。
それを重治はまあまあっと宥めている。
暫しの間、罵倒に近い発言が続いたが全く真利はしらっとしている。
自分の信念は間違ってない。
だから堂々としていられるのだ。
この煩悩は伊達ではない。
「最後に、杉原殿。伊岐殿に言って下さい。」
正吉はハアハアっと息遣いが荒いながらも重治に発言を催促した。
一同の視線は重治に集中する。
一気に雰囲気も緊張したものに変化した。
これまで、特に発言しなかった重治だが、正直困った。
こういう恋路事は苦手なのだ。
それに、主なき領地を守る為に政務をしているが、量がとんでもなく多い。
家老の殆どが李氏朝鮮に出兵でいないのだ。
正直こんな時間はないのである。
また、先程から別の大問題もあった。
体の動きが若干可笑しいのがその原因だ。
「んー。今後から気をつけるように。」
話は終わりといわんばかりに重治は立ち上がった。
早々と退出した。
まずは、厠に行きたかった。
歳で若干尿意が早いのだ。
それが大問題なのだ。
足元もぎこちない。
それから政務をまたしなけばならない。
だからこそ、発言は淡白であった。
これには、流石の当事者の二人も唖然とした。
あまりに適当な言い方だったからだ。
だが、一応は注意してはいる。
(どうなるのだろうか・・・。)
真利以外の者はそう思った。
真利の表情からは何も読み取れなかった。
数日後、結局は変わらず口説く真利に頭を痛める正吉の姿があった。
そんな名島城のひとこま・・・。
どうも、歴史転換です。これで投稿して一週間になりました。この作品を見て頂いた読者の皆様には感激と感謝をしています。雑で未熟な文ですが、これからも転換!関ヶ原!を見捨てずに見てくれるとありがたいです。
[98] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月12日 11時58分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
かなり迫りましたが、イコールかどうかの確証がない・・・という状態。
『市野家物語』はコピーして読んでおります。伊岐真利についての情報は
一切書かれておりません。寺田→袴田→市野で真摯に書かれておられるとい
う感じです。
但し、出自については具体的なことはわからないまでも、次の4説をとっ
ております。
@寺田説
A浅井説
B天武天皇関係説
C物部氏続関係説
ここで一旦切ります。
[99] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 12時30分30秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
寛政重修諸家譜は伊岐眞利について書いているんでしょうか?
そして小早川に仕えていた話も書いているんでしょうか?
ここのところが知りたいですね。
書いていれば同一人物でしょう。
これには浅井系だと書かれているそうで、浅井なら甲賀に近いから、忍者だったのだろうな
と納得が行くのですが。
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