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 投稿番号:101457 投稿日:2015年05月29日 03時30分12秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XLII(M氏家譜6)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101454_78.html
「長上郡の服部氏族XLI(M氏家譜5)」からの続きの XLII スレッド42 です。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


M氏についてかなり迫りました。
最終目的、丸に三つ柏紋の服部氏の解明に拍車がかかるのを期待しています。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月29日 13時28分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 堀川城の陥落氏族についてたくさん勉強させていただき、ありがとうござ
いました。
 いろいろ驚きの人間関係がありますね。三遠南信はトライアングルの文化
圏・統治圏であることがますます身にしみてわかってきました。堀川城の三
人衆も当時の今川圏をたよって逃れて来た。また南朝がらみでもありました。
 知久氏も上伊那箕輪の出身(現在知久屋というお弁当屋さんが繁盛しています)ということで、静岡県は長野県出身者が多いと思います。言葉もほぼ同じ。

 人間関係では「竹田高正」の父は高基で、母は村上義清姉、そして最初に
もらった妻が「木曽義昌」の妹で、後妻が山村修理の娘であるということ。
なんという綾であろうか・・・松島城の初代松島貞実は1547年、木曽義昌に
殺害されているのです。
 伊那でのゴタゴタで、多くの氏族がとりあえずは今川方に、または勢力を
増しつつある徳川方へ下り、その加護を受けたということになる。その裏に
は、忍者系の情報・工作があったものと推察いたします。
  氏族同志の争いも、その裏には忍者の諜報・謀略作戦が全部からんでいます。遠江には松下常慶一派、服部一派、松下之綱一派、伊賀衆、甲賀衆。

 さて、市野氏についてはキーマンでありますので、引き続いて探究をして
行きますが、元々は浅井氏の出身で秀吉の妻淀殿(高台院)と同族ということ
になります。秀秋はもともと淀殿(高台院)の血族で養子。またさらに小早川
家に養子に入っている。松下之綱も当然淀殿とは親密な仲であるので市野氏
とも親密であったであろう。市野氏は浅井氏の関係で、秀秋に志願したとい
うが、すでに初代は家康に仕えていたので、途中より之綱の指令の下で動い
たものと推察します。
 秀吉の晩年は北政所+三成vs.淀殿・子飼いの武将の構図となり、秀頼の出
生、秀次事件、朝鮮出兵、秀吉の死によりその亀裂はピークに達し、やがて
関ヶ原の戦いとなる。この間の大名・武将達への説得工作を家康は巧みに行ったのである。秀次方についた大名にも加護を与えている。連座を恐れてで遠
江へ逃げてきた者もあったいうのも家康の加護があったからと思われる。
 関ヶ原の戦いでも説得工作を行っている。藤堂高虎が島左近に・・・これ
も松下=柳生ルートでの工作もあったであろう。島左近の子孫が遠江に逃れ
て来たのも、島左近がある意味家康側に寝返ったと考えれば納得が行く。

 また小早川秀秋は水軍の長でもあった。関ヶ原で決着がつかなくても、次
の段階でロジスティックを考えていたのではないかと推察する。でも秀秋が
早世してしまうのは何か謎めいている。謎めいた事件の裏には忍者ありと
考える。この場合は西側の忍者を使った復讐ではなかっただろうか。
 小早川家はもともと毛利氏が乗っ取った氏族。内部分裂した件も忍者がか
らんでいたのではないかと推察します。

 それにしても、京都に高台院を祀る高台寺というお寺があり、何回か訪れ
たことがあります。秋には真っ赤な紅葉で彩られます。夜になってライトアッ
プされ、鏡のような静かな湖面に映る紅葉と月は、そう、夢幻の空間へ我々
を誘います。今考えると、湖面の奥底の向こう側から、時空を超えて淀殿が
こちらを覗いて微笑んでいたかも知れません・・・南無阿弥陀仏。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月29日 15時32分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

本当に三遠南信の関係は予想以上に強く奥が深く驚くばかりでございました。
堀川城の3人の武将の存在と閨閥の広さにも驚きました。


家康が狸おやじと蔭で言われるのも納得しました。
そして服部中暗殺の真相にもちょっと分かった気がしました。
服部中は堀川城落城の工作に暗躍してたんでしょうね。


とにかく意外過ぎてボ〜ッとしています。


高台寺には夫と行きました。
天井が竹でできた茶室?東屋?に感動しました。


本当に知らないことばかりですね。
我々の親世代はどんどん鬼籍に入ってしまい過去の先祖の話を聞く機会が失われていくばかりです。


M氏家譜が(そういう理由で書かれていたのか)という秘密に迫ることが出来て改めて拝見しますと
また違う世界が見えて来ますね。


[3]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月30日 13時19分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 市野氏の関係を調べていますが、宗安寺で撮った写真を見ると藤原朝臣を
名のっています。元祖は「市野惣太夫藤原朝臣直久」です。

 このお寺には、いろいろなお墓があります。
 一番珍しいのが、「勘解由(かげゆ)」家の墓です。国司交代の事務を扱っ
た氏族だそうです。
 
 もう一度、調べに行ってまいります。消えかかって読めない字もあり、鉛
筆で浮絵にしてみます。

 では―
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月30日 14時10分32秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asai_k.html

浅井氏
三つ盛亀甲紋
(藤原氏の子孫か?)

                            つまり「謎」。


 浅井氏は近江国浅井郡小谷城を本拠とした国人領主で、京極氏の下で勢力を徐々に拡張し、浅井亮政は越前の朝倉孝景や美濃の斎藤道三らと結び江北の覇者となった。ちなみに、浅井は「あさい」ではなく「あざい」と読むのが正しい。

 浅井氏の出自に関しては諸説があり、一般に「三条公綱落胤説」というものが流布している。これは、京の公家で正親町三条実雅の長子公綱が、嘉吉年間(1441-44)、勅勘を蒙って京極氏に預けられた。公綱は京極氏の所領のうち浅井郡丁野村に蟄居していたが、やがて土地の娘との間に男子をもうけた。その後、許しをえた公綱は京に帰っていったが、男子は丁野村に残り、成長してのち浅井重政を名乗り京極氏に仕えたというものだ。そして、重政の曾孫に浅井氏三代の初代亮政が生まれたというのである。



浅井氏の出自を探る

 浅井氏の出自に関して、浅井氏研究の泰斗である小和田哲男氏は、『公卿補任』に公綱が勅勘を蒙ったという記事がないこと、浅井氏は重政がはじめて名乗ったという点などから、公綱後裔説は浅井氏が本姓を藤原氏に結びつけるための作為であったと結論づけられている。

 実際、伊香郡余呉町にある源昌寺本尊薬師如来背銘に建保三年(1215)の銘があり、浅井氏の名が記されている。また、寛喜三年(1231)の年号を持つ円満寺の古鐘銘にも浅井氏の名が見えることなどから、浅井氏は鎌倉時代よりこの地に勢力を持っていたことは疑いない。さらに、『竹生島縁起』には、平安時代の貞観十三年(871)に浅井盤稲、翌十四年に浅井広志根らの名が記されている。盤稲・広志根らが戦国浅井氏の先祖とは断定できないが、かれらは郡司クラスの豪族であったと思われ、その子孫が戦国領主に成長したとしても容易にうなづけるものである。

 浅井氏は京極氏の根本被官として戦国時代以前より江北に勢力を有していたことは疑いない。しかし、南北朝の争乱、応仁の乱における京極氏の軍事行動のなかに、浅井氏の名はあらわれない。持清死後の内訌期にも、浅井氏の名が出てくるのは今井合戦における浅井蔵人直種がはじめである。

 『江北記』のなかに、「浅井蔵人、今の備前守親事なり」と記されている。今の備前守とは亮政のことで、亮政の父は浅井蔵人であったことが分かる。そして、浅井蔵人は『清水寺再興奉加帳』に見える浅井蔵人丞直種と同一人物といい、亮政の父は浅井直種であったと推定されている。さらに、『証如上人日記』の天文九年(1540)の記事に「浅井備前舅即惣領也」という記事があり、浅井備前こと亮政は娘婿となって惣領家を継いだことが知られる。

 浅井氏の庶流直種の子で、男子のなかった浅井惣領某の娘婿となって浅井氏宗家の家督を継承した人物であった。亮政の妻は蔵屋といったが、父の名は明らかではない。ただ、明応十年(1501)に浅井直政という人物が本貫地である丁野郷の土地を寄進していること、名乗りの「政」の字が浅井三代に共通であることなどから亮政の岳父は直政であったと推定される。諸本ある浅井系図のうち比較的信頼がおけるという『東浅井郡誌』に掲載された系図をみると、直政の叔父に直種がみえ、その二男として亮政が記されている。

 浅井氏は滅亡したとはいえ、長政の娘たちは歴史に大きな足跡を残した。とくに、徳川秀忠の室となった江は三代将軍家光の実母である。さらに娘和子は後水尾天皇の女御として入内百九代明正天皇を生んでいる。浅井家の血脈は徳川将軍家と皇室へとつむがれたのである。徳川家系図、『寛政重修諸家譜』の武家系図集を例に出すまでもなく、江戸時代初期において浅井氏の歴史を考証・調査し、通史を編むことは何故に行なわれなかったのであろうか。時期的に家の歴史が失われていたとは思われないだけに、まことに不思議なことというしかない。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月30日 15時38分25秒 ) パスワード

市野惣太夫実久       永禄11年=1568年に家康に仕える   実久(さねひさ) 惣太夫 今の呈譜真久に作る


元祖は「市野惣太夫藤原朝臣直久」    実久の父?祖父?曽祖父?  「朝臣」の名乗りは図々しいと思う。
                                   朝廷から氏の長者として認められていたのならOKだけど。まさかね。
                                   認められてたなら歴史上に記録があるはずだから。
                                   家康は源氏の長者に認められる前に藤原氏の氏の長者として認められてたけど。  


市野家の名乗りは「惣太夫」で、通字は本来は「久」だった?
しかし、子の代で通字を「実」にした。後世、寛政時代には「真」に直した。



近江浅井家で「久」を使っているのは「久政」で
これは浅井長政の父。


市野惣太夫実久の父親が?祖父が?直久だから考えてみると
  
享禄4年(1531年)の今井合戦における浅井蔵人直種の兄弟か従兄弟か、関係者か。


       浅井蔵人直種≒浅井亮政の父?孫が長政【1545生まれ】で曾孫がお江。玄孫が家光。


格上の直政ーーーー娘の蔵屋

ーーーーーーーーーー⇅結婚       

格下の直種ーーーー亮政ーーー久政ーーー長政ーーーお江ーーー将軍・家光


謎謎の直久?−−−ーー−−−−−−−−実久ーーー実次ーーー実利−ー−実防

  

そうすると市野惣兵衛実久は近江の浅井家の一族で、
長政とはカズンの従兄弟でなくとも、セカンド・カズンのはとこか、サード・カズンあたり?


_________________________
上のレスの復習


浅井氏の名が出てくるのは今井合戦における浅井蔵人直種がはじめである。
         この時かな?享禄4年(1531年)


亮政の父は浅井直種であったと推定されている     
                          ということは直種の次男

明応十年(1501)に浅井直政という人物が本貫地である丁野郷の土地を寄進していること

亮政の岳父は直政であったと推定される
                          ということは従兄弟の娘との結婚だった?

直政の叔父に直種がみえ、その二男として亮政


浅井直政

生年: 不詳
没年: 天文九(1540)年六月

通称(字): 井三郎(『竹生島文書』浅井慶集・直政連署寄進状より)、清三郎(異伝)


兄弟:
•敏政(同母弟という)
•清政(敏政に同じ)
•定元?
•秀国?


子女:
•蔵屋(亮政妻)

______________________________
復習


情報@寛政重修諸家譜より
    市野 藤原支流
   〇実久(さねひさ) 惣太夫 今の呈譜真久(さねひさ)に作る。母は某氏。
   永禄11年(1568)より東照宮につかへたてまつり、のち仰によりて信濃、
   陸奥両国に赴き、御馬を求む。慶長5年(1600)伏見において御馬を預り、
   且遠江国長上郡市野村にして、17石余(約5000坪)の地を賜り、のち廩
   米(くらまい)100俵を加えられる。これより東照宮市野に放鷹したま
   ふのとき、在名市野を称号とし、丸に一文字をもって家紋とすべきむね
   仰を蒙る。元和2年(1616)12月11日死す。法名舜清。市野村宗安寺
   に葬る。のち真防(さねあき)にいたるまで葬地とす。
 
 情報A市野氏の先祖は近江の浅井氏の一族で、真久の時永禄年間から家康に
   仕え、特に馬のことにくわしく、馬掛りとして活躍し、慶長5年遠江の
   代官となり、浜名10郷その他を支配し、市野五郎右衛門、同6年より
   9年間代官を勤める。慶長9年には17石余の屋敷地。その後、家号を
   市野と改めた。元和2年死去。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月31日 01時50分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浅井氏の件、勉強になりました。浅井氏の「江」は秀忠の正室になったと
いうことで、市野氏(浅井氏)の三代目実利(真利)は、秀忠に仕えたのかと思
いました。
 江の娘和子については、確か藤堂高虎がバックアップしたと思いますが、
また藤堂高虎は豊臣方の大名・武将たちを徳川型へ勧誘工作をしている。
小早川家もそうだと思う。実家が浅井家であった淀殿の養子であった秀秋、
浅井家であった市野氏・・・浅井氏が関ヶ原以降のキーワードになる。

 藤堂高虎といえば、藤堂采女→服部半蔵とつながっている。市野氏の市野
と半蔵の采地小池は隣である。当然服部半蔵とも関係して来るし、市野代官
としての警備上、松下系ともつながる。大草系ともつながる。服部政信、服部
中系ともつながる。

 本日は宗安寺に行き、市野氏の墓を良く観察して来ました。一族の墓は、
3列に並んでおり、市野真久(実久)を元祖として全部で26基ありました。
 まだ分析し終わっておりませんが、苗字として藤原が入る人が多いですが、
中には清原姓が入る人がありました。

 本日は時間がなくなってしまいましたので、続きは明日とします。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月31日 02時57分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


なかなか難しいですね。

>宗安寺に行き、市野氏の墓を良く観察して来ました。
>一族の墓は、 3列に並んでおり、市野真久(実久)を元祖として全部で26基ありました。



元祖は   市野真久(実久)  でしたか?
ここには  直久のお墓は無かったのですか?


    三つ柏さんにも始まったのかしら?
    不思議な得難い情報が向うから来て、後日、改めて調べてみると、無い、ということ。


    もし市野の「祖」が「直久」だったら
    浅井との関係が隠されている(というか、うちは将軍家に繋がる!と高らかに宣言している)素晴らしい情報なのですが。

   


市野一族に藤原姓あり清原姓ありですか。
清原姓で有名なのは清少納言ですね。
清原姓は天武天皇系。

ということでちょっとアップします。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%B8%85%E5%8E%9F

清原
【読み】きよはら,きよかわ


朝廷に仕える公家清原氏は天武帝子孫。

ほか清原連、海宿禰、紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)、

滋野氏(中世以来の豪族。信濃の族は清和天皇の子孫)などの異流もみられる。

大阪府や福岡県、東京都など大都市圏に多く、全国にも多数みられる。

「原」は野に対して平らな広いところを表す。



ということで清原が本姓なんだと記しているお墓はひょっとすると信濃系?特に
真田家との関係者?



頭休めます・・・
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月31日 09時40分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の推理が当たるといいのですが、「真」と「直」の識別―「真」
には旧字体で「眞」、また「真」と「眞」の上下を混ぜた字もあり、概し
て苔むし、ひび割れ、風化した墓石から識別するのは難しいものがあり
ます。
 一番目にある宝篋印塔に書かれていた「元祖市野惣太夫藤原朝臣真久」
を当初読み違えて「・・・直久」と読んでしまいました。風化によりはっ
きりとは読めない状態です。
 昨日は、一つ一つの墓に書かれている文字で判読できるものはすべて
メモしてきました。
 本日、自分の資料本の中に、そういえば『浜松の石塔めぐり』(浜松市)
というのがあるなあと思い、調べてみましたら、何と市野家の墓について
完璧に調べた資料がありましたので、それを記します。
 第1列・・・本家である市野惣太夫家墓塔5基
   @惣太夫藤原朝臣真久・室
    元和1(1615)年・寛永6(1629)年
   A惣太夫清原真利
    延宝4(1676)年
   B惣太夫清原真利室
    元禄4(1691)年
   C高亭院殿蘭室光馨大姉
    寛永4(1627)年
   D2代真次墓(推定)
 4代目は第3列にあります。

 ここで用事ができましたので、4〜5時間中断します。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月31日 11時59分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうでしたか
初代とは市野惣兵衛真久でしたか。

浅井との関係が分からなくなりましたね。
残念でした。



でも今井騒動で近江を離れたというのも可能性として有り得ますね。
近江から信濃に行って遠江に行って、という感じで。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月31日 12時01分22秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%B0%8F


正親町三条家(嵯峨家)の支族で本姓を藤原氏とするが、
近江国浅井郡に居を構える古代豪族浅井氏があり、
近江の在地豪族、郡司クラスの末裔に公家の庶子が入り婿したという説が有力である。

京極氏の譜代家臣として京極家中では中堅的位置にあった。
「江北記」には京極氏の根本被官として今井、河毛、赤尾、安養寺、三田村氏ら12氏のうちの一つとして列記されている。

尾張国に移り住み、織田氏・徳川氏に仕えた系統もある(異説・諸説あり)。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月31日 12時26分53秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%B0%8F

系図に藤堂姓の人物が出てます。 藤堂賢政
この人は  伊勢国津藩家老 藤堂内匠家・藤堂正高の子。



浅井家関係者

A)
近江浅井家の女性[編集]

文和慶集尼(直政母)
浅井蔵屋(直政女、亮政妻)

海津殿(鶴千代。明政妻)
海津局(明政長女、政高妻、三好直政母。淀殿のち崇源院、千姫侍女)
饗庭局(明政次女、内藤長秋母。淀殿乳母)

浅井千代鶴(久政母の説あり)
尼子馨庵(亮政妻、久政母の説あり)
浅井松市(久政長女、三田村定頼妻)
浅井寿慶(壽慶。久政次女、浅井忠種室)
小野殿(井口阿古。久政室)
昌安見久尼(阿久。久政長女)

近江の方(斎藤義龍室)(浅井久政の養女で、『系図纂要』には実は亮政の娘とある)
養福院(久政女、京極マリア、京極高吉室)   これは知らなかった。お江の話には出てましたよね
大弐尼(久政女。六角義実女房)

平井定武女(長政室)
お市の方(長政室)
淀殿(茶々。長政女、豊臣秀吉室)
常高院(初。京極高次室)
崇源院(江もしくは督、のち江与。徳川秀忠室、徳川家光母及び東福門院母)
八重の方(長政室、七郎母)?
本念宗心大姉(長政室、くす母)
浅井くす(長政女)
刑部卿局(長政女、千姫乳母)



南殿(宗如。浅井丹波守妻、浅井亮親母)
寿忻(浅井亮親妻)
永久 (恵久)(浅井丹波守長女)
広瀬殿(寿盛。浅井丹波守次女、浅井兵衛五郎妻)   レス<7>に市野五郎右衛門
とありますが、関係ありますでしょうか?

対馬局(浅井定政女。東福門院女房)
出羽局 (浅井清忠女。東福門院女房)



B)
浅井氏家臣団[編集]


浅井氏の家臣団は元々浅井氏の家臣であった譜代系である田辺・保多・矢野・遠藤らのほかに、
かつて京極氏家臣団の頃に同格であった赤尾・海津・小山・三田村・八木・布施・今井・磯野・阿閉などの名前が挙げられる。


譜代家臣の数の少なさは浅井氏の近江支配には大きな問題点であった。
少なくとも亮政の頃には国人層による連合制的な面が強く、
代を経るごとに支配体制が強化している。

磯野員昌を磯野氏本拠の磯野山城ではなく、               忍者の百々の親戚?が出てますよ!やっぱりアヤシイ!
元は小川氏の居城で百々内蔵助戦死後の佐和山城に置き、
浅見氏の居城であった山本山城に阿閉氏を配した天文年間以降には支城在番制に近いものを構想していた様子も伺える。



百々って青山氏の時に出て来ましたよね。
そして近江の浅井氏にも百々氏がいた。

そして浅井の人々は尾張や三河にも散った。


ということはやっぱり惣太夫は尾張や三河やその近辺の国を遍歴してたのかもですね。
惣太夫本人も忍者だったのかもですね。

そして近江の浅井関係者であるという身分は使い勝手が良かったかもですね。


一体実像は何者だったのでしょうね。
だが集権的とは言いがたく、長政の代に織田信長との戦いが長期化すると元京極氏家臣団の中からは浅井氏を離反するものが多く現れた。なお、桑田忠親は永禄年間の浅井領支城数は73ほど検出されているとしている。
赤尾清綱
海北綱親
雨森清貞
遠藤直経
磯野員昌
阿閉貞征
宮部継潤
新庄直頼
小川祐忠
藤堂高虎
野村直隆
浅見道西
安養寺氏種
大野木秀俊
百々盛実
今井定清
井口経親:「湖北四家」の一家。父経元は亮政の重臣であったが亮政の身代わりとして箕浦合戦で戦死し、それに感謝した亮政は経親を重用したと伝わる。経親の妹(従妹と言う説も)は久政の妻(小野殿)となり長政を出産している。
三田村国定:左衛門大夫。横山城を大野木秀俊らと共に守護していたが、姉川合戦において戦死。三田村氏は京極氏の根本被官であったが、浅井氏の勢力拡大の際に二つに割れた。浅井側についた三田村氏の三田村定頼が亮政の娘と結婚しているため、親族衆に数える向きもある。国定は定頼の一族であろうが、関係はっきりしない。国定の4人の子が小谷落城の際に織田軍と交戦・戦死しているので、年齢的には久政に近いのであろう。定頼とは兄弟か。なお三田村定頼・光頼父子も小谷落城時に討ち死にしている。
弓削家澄:通称六郎左衛門。姉川合戦にて戦死。弓削氏は京極家の重臣であったが後に浅井氏に仕えた。びわ町に弓削屋敷跡とされる弓削館が残る。
脇坂秀勝:通称左介。久政の代から浅井家の家臣。外交文書などを発行する奏者を勤めた。出身地が近い脇坂安明・安治親子と同族であろうが、関係ははっきりしない。
中島直親:横山城主中島日向守直頼の子。通称宗左衛門。1573年、丁野城を攻めた織田軍に攻め落とされた後、記録が途絶える。
片桐直貞:通称孫右衛門・肥後守。小谷城須賀谷を守備していたとされる。後に豊臣秀吉に仕えた。片桐且元の父。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月31日 12時37分54秒 ) パスワード

https://akiou.wordpress.com/2013/11/29/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E/

小谷城 [前編]

小谷城は、江北(近江北部)の守護大名・京極氏の跡目騒動に乗じた浅井亮政(あざい すけまさ)が対抗勢力を一掃し権力を拡大、小谷山上に新たに城を築きそこに京極氏を迎えたことに始まる。3代長政の代には江南の六角氏や美濃の斎藤氏を凌ぐ力を持つまでになったが、紆余曲折を経て織田信長に破れ小谷城は落城、浅井家は滅亡した。


小谷城御馬屋曲輪から桜馬場曲輪へ向かう登城道の途中にある「首据石」。
説明板によると、1533年、初代 浅井亮政は六角氏との戦いで内通した家臣の今井秀信を暗殺しこの石の上に首を晒していたという。

大勢が通る登城道の途中の石の上に生首が置いてあるなんて、いかにも戦国時代らしい話だ。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月31日 12時54分57秒 ) パスワード

http://kamurai.itspy.com/nobunaga/asaiSS/

浅井家の家臣集
おもしろいですよ。

お寺の僧や神官や陰陽師や鍛冶屋などいろいろな職業の人も抱えていたのだなと
思います。


こうやって自分の周りに有能な人々を置いておくというのが勝利の秘密なんでしょうね。



特に  月ヶ瀬忠清 (つきがせ ただきよ)という人物は
いかにも元は伊賀関係者であり、平家なんだろうなと思いました。

伊賀の月ヶ瀬は半蔵の実家の千賀地の隣ですよ。

 Lv47 神主 目付 後陣副将
「この乱世、本当に守り抜けるだろうか。 この国を、民を・・・。」


「月ヶ瀬家」 は北近江を 浅井家 の前に支配していた 「京極家」 の家臣であり、京極家 の衰退後に 浅井家 に仕えた。

浅井長政 が南近江の 六角家 と戦い、浅井家 の独立を勝ち取った 「野良田の合戦」 では、後陣の部隊を率いている。

その後も 浅井家 が滅亡するまで、浅井家のために戦い続けた。



浅井家も情報収集する人々wたくさん抱えていたんでしょうね。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月31日 12時56分50秒 ) パスワード

http://takatoshi24.blogspot.com/2011/03/blog-post.html
戦国武将近江編


井戸村光慶【いどむらみつよし(15??〜15??)】

箕浦城主今井定清の家老であったが、今井家が没落した後は磯野員昌に仕えた猛将。

今井秀俊【いまいひでとし(14??〜1531)】

坂田郡箕浦城主。京極家臣。今井清秀の男。京極家の家督を巡り、京極高延・京極高慶・浅井亮政・六角定頼らの紛争が激化したが、今井秀俊もそれに巻き込まれた。1531年、六角定頼と戦って敗れ、神照寺において自刃した。

今井秀信【いまいひでのぶ(1492〜1533)】

今井秀俊の次男。通称越前。1523年、浅見貞則・浅井亮政・三田村忠政らとともに京極高延を擁立し、京極高清・高吉・上坂信光・下坂秀隆らを追放。1533年、六角家に内通して浅井亮政に誘殺された。

今井定清【いまいさだきよ(15??〜1561)】

今井秀俊の次男。官途は備中守。父今井秀俊の死後六角家の保護を受け、対京極・浅井家の戦いに参加。1533年、六角定頼の命を受けて鎌刃城を攻撃。1538年、今井定清は島秀安を城代として鎌刃城に置く。その後京極家に復帰。1561年、六角家属城太尾城攻めの際、味方である磯野員昌の兵により誤殺された。

入江小次郎【いりえこじろう(15??〜15??)】

浅井家。1583年「賤ケ岳の戦い」に従軍。安養寺猪之助とともに湖北を海賊衆を率いて守備する。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月01日 00時45分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:レス[1]  淀殿(高台院)→北政所(高台院)

 浅井家の情報大変勉強になりました。いつもながら感謝申し上げます。

 さて、市野氏の墓についてはあと21基もあり、それを全部述べても
余り意味がないと思いますので、列の説明だけにします。なお本家筋は
「真」を通字としています。

 第2列の墓標群は、「市野内匠・吉兵衛」を名乗る分家の墓塔8基。

 第3列の墓標群は、本家の墓塔6基、及びもう一つの分家である「与市
兵衛・吉兵衛」を名乗る分家の墓塔5基。

 ここで、通り名「吉兵衛」でありますが、箕輪松島氏の後裔が「源右衛
門」を名乗っておりましたが、松島対助系が「源右衛門」を継いでおり、
十湖の系統の初代からが、ほぼ「源左衛門」と「吉兵衛」を入れ替わり立
ち代わり名乗っているという事実があります。何か匂ってくるのですが、
決定的なものは、対助の妻が惣太夫真久の妹(又は娘)であったことと、
家紋が「丸に一文字」で共通していることのみ。まだまだ先は長い。

 浅井家と忍者ということで、あを様の勘がはたらきました。私もたまたま
『忍者・忍術・忍器大全』(Gakken)を調べていましたら、正にぴったりの
情報に出会いましたので、以下に記します。

「浅井治部左衛門(?〜1602)
 浅井治部左衛門は近江北部の戦国大名・浅井長政の一族で、お市の方
 (小谷の方/長政の正室)の窮地を救ったといわれる「忍者」である。お市
 の方は織田信長の妹とされる女性で、政略結婚により長政に嫁いだが、
 天正元年に近江小谷城(長浜市)で、天正11年には越前北の庄城(福井市)
 で落城に遭遇している。
  通説では、最初の落城の際には長政の勧めで城を逃れたが、2度目の
 北の庄城での落城の際には後夫の柴田勝家と共に自刃して果てたとされて
 いる。
  しかし、三重県伊賀市などに残る異説では、治部左衛門が配下の忍者と
 落城寸前の北の庄城へ潜入し、腰元を替玉に仕立て上げてお市の方が自刃
 したかのように装い、お市の方を城外へ連れ出したと伝えられる。だが、
 治部左衛門がなぜこのような行動をとったのかについては、詳しくは伝わ
 っていない。
  以後のお市の方の方は治部左衛門と共に各地を放浪し、慶長4年に下
 友田(伊賀市)で病死した、という。その頃、日比を称していた治部左衛門
 も同7年に病死する。子孫は日比からさらに稲増へ改称し、天明5年には
 忍術の免許皆伝を受けた。
  現在、稲増家には病死の直後に遺体から切り取られた、お市の方の喉
 仏(非公開)が保存されているという。(中島道子『それからのお市の方』)」
ということです。

 従って、ますます市野氏はある意味忍者系である可能性が高まって来ま
した。同時に松島氏はどんな内容でそこにからむのか・・・?
 徳川家康は二律背反的な政策をとったといいます。即ち一方で信頼し、
 一方で監視するという注意深さ、疑い深さ・・・。具体的には、井伊
 直政に対し、多羅尾光俊の子光太(信楽代官)に藤堂高虎も併せて監視さ
 せていたという。市野氏と松島氏はそん線の延長線上にあるのであろう
 か。大胆な仮説ではあるがいかがなものでしょうか。


[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月01日 04時33分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<17>は物凄く広く深いお話を簡単にお書きになりましたね。
ついて行くのに大変!

ゾゾゾと背筋が・・・でした。




「真」のつく浅井系の大物はどなたでしょうね?
市野家は、後世、わざわざ「実」を「真」に替えたのですから、それなりの何か理由があったんですよね。
先祖に「真」のつく大切なおじじさまがいらっしゃったということでしょう。

そして浅井の家名よりも現地の「市野」を採用した。
浅井の名に拘りは無かったようですね。

近江・浅井氏の名は信長に遠慮したのかも???




浅井治部左衛門のお話、すごい話ですね。

お市さまは浅井治部左衛門が好きだったのかもですね。
だいたい浅井長政ってお市さまが嫁いだ時には男子が既にいたんですよね。

そのお市さまの心の隙に浅井治部左衛門が入ったのかしら?



あ、お市さまの喉仏の件は、
うちの祖父の喉仏もガラスの箱に入れて保管してあります。

人が座ってるような姿、あぐらをかいて瞑想しているということで、貴重なんだそうですよ。

これについて姫沙羅さんがお書きでしたが、忘れてしまいました。


>決定的なものは、
>対助の妻が惣太夫真久の妹(又は娘)であったことと、
>家紋が「丸に一文字」で共通していることのみ。

その背景が知りたいですよね。

何故お奉行の娘か妹かがM氏に嫁いだのか?
そして何故家紋が丸に一文字なのか?

      手っ取り早く
        「M氏が資産家だったから」
        「市野」だから「一文字」紋に
      とは想像できますが
本当のところは?


十湖さんの源左衛門と吉兵衛
これも不思議ですね。

でも理由があるはずですよね。



>井伊直政に対し、多羅尾光俊の子光太(信楽代官)に藤堂高虎も併せて監視させていたという。

そうなんですか?

井伊直政は家康のお気に入りと思っていましたが
なるほど家康らしい猜疑心があったのかもですね。


内容が深過ぎて広過ぎて、ボーっとしています。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月01日 14時24分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 調べれば調べるほど、箕輪松島と遠江の関係が密接であることがわかりま
す。今わかったことは、秋葉山といういわゆる火の神様がありますが、実は
この秋葉山三尺坊は箕輪松島の明音寺が発祥地なのだそうです。
 そして秋葉山は1625年に可睡斎の末寺となりました。可睡斎は家康と
の関係で有名なお寺です。
 その可睡斎の第9世の大和尚が市野宗安寺を開山しています(開基は市野
惣太夫)。
 そして、松下常慶です。秋葉山のお札を各地へ売りさばきに行ったわけで
あります。当然、発祥の地、箕輪松島にも行っているでしょう。
 そして、市野村と小池村は隣合わせ。つまり小池村は半蔵の領地。上石田
は市野氏と服部中の相給地。つまり、松下常慶と市野惣太夫と服部半蔵と
服部中はつながるのです。但し、時代的整合性は完全には検証してありません。ただ、家康を中心にして動いていたことには間違いありません。

 そこで、松島氏ですが、松下氏と秋葉山と宗安寺の関係の中にどうかかわ
るのか・・・源右衛門、源左衛門、忠兵衛・・・。そこからがなかなか進ま
ない。源左衛門を使う家系には、松下家(長則)あり、中村家(正吉)あり。
源右衛門を使う家系には高畑の小野家(正親)あり。忠兵衛を使う家系には
市野家あり・・・関係しているのかそれともいないのか。

 箕輪の松島氏の利用価値は何か・・・というと(想像ですが)、
  @アンチ武田であるということ 
  A箕輪から小県郡等、信濃の人脈・情報ネットがあること
  B山下氏(小笠原、大伴)氏との関係=馬の調達に関与できること
  C伊那等の材木の調達にも役立つこと
   大久保長安は木材の調達(築城用)にもかかわっていた。検地も担当、
   もちろん金山奉行も、そして落とし子が松島姓、東北松島大明神の
   神主の娘との間にできた子があった。何か関係することがあるので
   あろうか。
  D箕輪松島氏(小笠原氏)の後裔の小笠原源太夫は新田開発・灌漑が
   どういうわけか得意だった。当然松島氏も得意だったろう。
   松下之綱の後裔も新田開発をしている。
   それぞれ何か共通のノウハウ等を持っていたのかも知れない。

 本日の推理はここまで。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月01日 22時05分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


あまりにも深い情報なので咀嚼に時間がかかります
ゆっくりじっくり考えてみます。



拝見してて、筑摩の服部家がチラチラしました。
信州の北では筑摩の服部家が拠点だったのかなとか。



そして信州の馬ですが輸送手段として「岡船」と呼ばれていたという記事を見つけました。

http://books.google.com/books?id=XHnXK1exIbkC&pg=PT128&lpg=PT128&dq=%E4%BF%A1%E5%B7%9E%E3%80%80%E9%A6%AC%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=B9tJEQ_DI6&sig=fJ2bcS28TpDGCt99OGMLeotTGXs&hl=en&sa=X&ei=LVVsVfKoA4_YoATZ84OYAg&ved=0CFcQ6AEwBw#v=onepage&q=%E4%BF%A1%E5%B7%9E%E3%80%80%E9%A6%AC%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


足助から塩が来た、と書かれていますね。
そして下伊那からほうぼうに運ばれた、と。

塩は人間の体を養う貴重品。


このルートで信州各地と甲斐にも当然出入りして情報収集をしてたんでしょうね。
三河の塩も当然吉良から信州や甲斐に売られたんでしょうね。
家康も情報収集に期待してたでしょうね。


それで「敵に塩を送った」上杉謙信の人間性が称えられることになるわけですね。


まだこの「馬」の段階です。汗



レス<19>についてはゆっくり考えてみます。

松島大明神がさっぱり引っ掛からないのです。
それで行き詰まっていますし。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月02日 11時41分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 元禄3年の領地・支配の関係の資料を見ましたら、「善地」は市野惣太夫
の領地・支配となっておりました。

 もう一つの情報として、井伊直政の父親が伊那の松岡氏にかくまわれて
いたという事実があり、井伊氏と伊那の関係を調べたいと思っています。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 12時34分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


善地と市野惣太夫が結びつきましたか。
それで三つ柏さんのお気に引っ掛かるのかしら?


>井伊氏と伊那の関係

これは当然「南朝方」がらみでしょう。


ということで松岡氏について調べてみます。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 12時40分04秒 ) パスワード

http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/matuoka.htm


信濃 松岡城
所在地: 長野県下伊那郡高森町下市田字新井
遺 構: 曲輪、空堀、土塁
形 式: 平山城 築城者: 松岡氏 築城年代: 室町時代


松岡城は、松岡氏によって室町時代に築かれた。 
松岡氏は、    応永7年の大塔合戦   に松岡次郎が参戦している。


              これだったら筑摩の服部氏も係るんじゃないかと想像します。



 天文23年、武田信玄の伊那谷攻略により松岡氏は武田氏に帰属し、伊那衆として山県昌景配下となった。

 天正10年、松岡氏は武田氏滅亡後伊那谷の支配者となった徳川家康に従うが、その後家康より改易を命じられ井伊直政にお預けとなり、松岡城も廃城となった。





お城へのアクセス
鉄 道: JR飯田線下市田駅〜徒歩約20分
 車 : 中央道松川IC〜県道15号線/牛牧〜町道
駐車場: なし。(四の曲輪に駐車スペースあり)




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%94%E5%90%88%E6%88%A6

大塔合戦(おおとうがっせん)とは、応永7年(1400年)に信濃守護小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及びそれらと結んだ中小国人領主の連合軍(大文字一揆)と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる。

               略

長く続いた南北朝時代の争いで北朝方として戦い、足利将軍家から信濃守護家として遇された小笠原氏が念願の信濃守護に補任されるのは応永6年(1399年)であった。


続く
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 12時52分21秒 ) パスワード

ビックリ!ビックリ!ビックリ!



東筑摩の麻績の地図を検索してたら   なんと!  市野川  なんてありました。
ヲイヲイ

http://www.mapion.co.jp/address/20446/
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 12時54分33秒 ) パスワード

http://www.mapion.co.jp/address/20446/2/

長野県東筑摩郡麻績村麻市野川 地図


長野県麻績村(東筑摩郡)麻(市野川)周辺の駅から地図を探す

長野県麻績村(東筑摩郡)麻(市野川)周辺の駅名から地図を探すことができます。


聖高原駅
冠着駅
姨捨駅
坂北駅
西条駅
千曲駅
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 13時02分03秒 ) パスワード

戦局[編集]

守護小笠原氏に反旗を翻したのは、村上氏のほかに中信の仁科氏・東信の海野氏や根津氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏、島津氏など大半の国人衆で、小笠原氏に加勢したのは一族以外では市河氏と、元々地盤としていた南信地方を中心とした一部の武士たちだけだったとされる。


また小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出したとされる(後に仲介役となる大井氏など、ほぼ半数が加勢しなかったとされる)。


            小笠原長秀、友達、いなかったんだね。


上田市立博物館所蔵の「大塔物語」によれば、長秀の下に集まった小笠原勢は800騎余りで、善光寺から横田城へ兵を進めた。

これに対する国人衆(大文字一揆)は、篠ノ井の岡に500余騎(村上氏)、篠ノ井塩崎上島に700余騎(佐久地方の国人衆)、篠ノ井山王堂に300余騎(海野氏)、篠ノ井二ッ柳に500余騎(高梨氏、井上氏一族など須坂・中野地方の国人衆)、方田ヶ先石川に800余騎(安曇地方の有力国人仁科氏や、根津氏など大文字一揆衆)が布陣したとの記載がある。

この”騎”というのは何人もの家来を連れた武士のことで、実数は4千弱の小笠原勢に対して国人衆は1万以上の兵力だったと推定されている。

また、この時諏訪神社上社の諏訪氏は国人側を支援し、下社の金刺氏は守護側寄りであったと伝えられ
諏訪神社の分裂が顕在化したとされる。


この状況に横田城では防ぎきれないと判断した長秀は、一族の赤沢氏の居城である塩崎城への秘かな脱出を目指すが、途中で発見され塩崎城に辿り着けたのは長秀以下僅か150騎のみで、300騎余りが途中の大塔の古城(古砦)に辛うじて逃げ込んだ。

しかし、食料を始め何も準備していない古城(廃城)では篭城する術も無く、取り残される事となった小笠原勢は全員が自害か討死して果てる。


更に長秀が逃げ込んだ塩崎城も攻撃を受け、同族で守護代の大井光矩が仲介の手を差し伸べたことで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。

翌年の応永8年(1401年)に長秀は幕府から信濃守護職を取り上げられ、信濃は幕府直轄領となった。

その間、幕府の代官として細川氏が派遣された。


信濃が再び小笠原氏の領国になるのは長秀の弟政康が守護に任命された応永32年(1425年)である。
なお守護方の侍大将の中に井深氏の名が見られる。



大塔の古城(古砦)[編集]

「大塔の古城」の場所については、現在の篠ノ井にある大当地区にあった館跡が定説とされていた。
大当地区の東方約500mに当たる御幣川地区にある宝昌寺はこの合戦の多くの戦死者を葬った所との伝承がある。


しかし、当時の大当地区を含む現在の長野市篠ノ井から千曲市北部(旧更埴市)にかけては、千曲川に犀川からの御幣川(現在の岡田川)や聖川が合流する低湿地の池沼地帯であったとされ、古くは平安時代から度々大洪水の記録[1]が残されている地である。

定説となっていた館跡は、寿永元年(1182年)の横田河原の戦いで使われた砦跡とする説もあり、その説だと200年余も経ている。

                         横田河原の戦いだったら東筑摩に近いでしょ?
                         謙信と信玄の争った川中島の戦いとまさに同じ地点ですから。
                         東筑摩の北北東あたり?
 

                 方向音痴なのでトンチンカンでしたらごめんなさい。


更に「大塔の古城」に立て篭もった守護勢が壊滅したのは十月二十一日とされ、合戦が行われた九月二十五日から一ヶ月近く経過しているため、微高地とはいえ低湿地の中の荒れ果てた館跡(廃墟)で一ヶ月も持ち応えるのは不自然だとする異論が存在する。

現在では大当地区の西方約2キロにある二ッ柳城(現在の二ッ柳神社)を「大塔の古城」に比定する説があり、更に西に400mほどの距離にある夏目城(現在の湯入神社)も近いことから両方との説もある。共に大当地区を見下ろす山際の傾斜地にあり、後の発掘調査により当時は廃城となっていた事が確認されている。

ただ、この説に対しても、この二ツ柳方面には、合戦前に500余騎の須坂・中野地方の国人衆が、方田ヶ崎石川(夏目城)方面にも仁科勢等800余騎が布陣していたと伝えられることから、逃げ込む先として考えるには不適当だとする向きもある。

守護方として参陣した市河六郎頼重の記録(「市河文書」)には、「二柳城においての戦功」に対して小笠原氏に恩賞を求めた記述が残されているが、この戦功が「大塔の古城」で挙げたものかは不明であることから、今も場所の特定には至っていない。


その後の大文字一揆衆[編集]

永享2年(1430年)鎌倉公方足利持氏が白河結城氏を討とうとすると、 将軍足利義教は信濃、越後、駿河の援軍を結城氏に派遣した。この時幕府は守護小笠原政康が率いる信濃の軍勢を畠山氏に従わせたが、大文字一揆については山名時熙に付随させている。


注記[編集]

1.^ 千曲川は江戸時代を通じて64回の洪水があり、その内の11回は犀川との同時洪水であったと伝えられる。仁和4年(888年)(あるいは仁和3年)に千曲川の大洪水があったことが『類聚三代格』や『日本紀略』・『扶桑略記』といった文献に見られ、江戸時代にも寛保2年(1742年これ以後の洪水砂層でも2m)や弘化4年(1847年)の善光寺大地震に伴う犀川の大洪水が記録に残されている。 これらは、後の発掘調査(昭和36年〜40年、更埴市条里遺構の学術調査)で4mもの洪水砂層が確認されて実証された。


参考文献[編集]
『長野県史 通史編 第3巻 中世2』

[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 13時13分11秒 ) パスワード

http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/matsuoka-jyo/

信濃・松岡城

築城年代は定かではないが松岡氏によって築かれたと云われる。 松岡氏は平安時代の前九年の役で敗れた安倍貞任の次男仙千代が、乳母に連れられて市田郷の牛牧村へ逃れ、その後郷民に推されて地頭となり、松岡平六郎貞則と名乗り松岡古城に住んだのが始まりと云われる。

鎌倉時代の動向は定かではないが、「吾妻鏡」によって弓始の射手を勤めたことがわかっている。

応永7年(1400年)の大塔合戦では守護小笠原氏に従って松岡次郎が参陣し、永享12年(1440年)の結城合戦にも参陣している。

天文23年(1554年)甲斐武田信玄が伊那へ侵攻し、小笠原氏の鈴岡城や知久氏の神之峯城などが攻められて落城すると、松岡氏は武田氏に降った。天正10年(1582年)織田信長が信濃へ侵攻し、大島城や高遠城が落城し武田氏が滅亡すると、飯田城主となった織田氏の部将毛利秀頼に従った。しかし、同年信長が本能寺の変で倒れると、松岡氏は徳川方の高遠城を攻めた小笠原貞慶に味方し改易となった。


http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/takamori/matuoka.html
コピペガードあり

つまり家臣の座光寺次郎右衛門が菅沼定利に密告した為
松岡貞利は所領没収・改易になったのだそうです。

     その経緯がゴチャゴチャしててワケ分からなくなるので
     http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/takamori/matuoka.html
     をお読みください。

[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 13時19分47秒 ) パスワード

http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/joukannagano/matuoka/matuoka.html
文字化けして読めないです。

松岡氏は陸奥の安倍貞任の後裔で、前九年の役(1051)で安倍一族が源頼義に敗れ、 ... 戦国期武田信玄が伊那に侵入してくると、松岡氏は降服し、飯富三郎兵衛(山県昌 ...


       名門だったんですねえ。



http://www.ja-mis.iijan.or.jp/gotominami/hometown/2011/08/post_83.php

松岡氏は平安時代、陸奥出身の松岡平六郎貞則が初祖といわれています。それから1588年までの約500年間、松岡城などを本拠にして市田の地を支配しました。応仁の乱以後、松岡氏の最盛期には現在の山吹・市田・座光寺・上郷の一部を所領し、下條氏・小笠原氏と並ぶ南信州の大豪族でした。松岡貞正は仏法を信じ、座禅の修行に励んで1510年ごろ牛牧に松源寺を創建したといわれています。



http://www.geocities.jp/tanbou06/matuokajyo.htm

松岡氏は平安時代末期から鎌倉時代末期頃までの約300年間、松岡古城に住していたが、その後南北朝期に入ると古城から南、段丘先端の要害であるこの地に築城し移ったと考えられる。

松岡氏は守護小笠原氏に従い、1400年(応永7)大塔合戦、1440年(永享12)結城合戦の際その名が見え、座光寺・宮崎・竜口氏等の近隣諸豪を傘下に組み入れ、下條氏・小笠原氏と並ぶ南信濃の大豪族となった。

1554年(天文23)武田信玄により鈴岡城の小笠原氏、神峰城の知久氏が攻め落とされると松岡氏は武田氏に帰属し、50騎をもって飯富三郎兵衛の配下に属した。
1582年(天正10)織田信長が伊那谷に侵入すると、伊那郡は毛利秀頼が治めるようになり、この時の城主松岡頼貞は信長に帰順した。

信長の死後、伊那谷は徳川家康が治めるようになったが、松岡氏は豊臣氏に心を寄せており、1585年(天正13)12月、松本の小笠原貞慶の高遠攻めに向かった。しかし小笠原勢の形勢不利と見た松岡氏は途中で引き返すが、これを家臣座光寺次郎右衛門が伊那郡司菅沼定利に密告した為、松岡貞利は捕われの身となり、1588年(天正16)改易を命じられた。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 13時23分11秒 ) パスワード

復習


http://folklore.office-maeta.jp/70001.htm

■ 松岡(まつおか)
# 信濃の松岡氏は信濃国伊那郡松岡郷(長野県下伊那郡高森町)をルーツとする。
# 豊後の松岡氏は豊後国大分郡松岡(大分県大分市松岡)をルーツとし、大友氏の一族。
# 陸奥の松岡氏は陸奥国糠部郡松岡(岩手県二戸市浄法寺町)をルーツとし、浄法寺氏の一族。後に南部藩氏。
# 岩手県の松岡家: 南部藩士。
【苗字の謎が面白いほどわかる本 丹羽基二】より
# 尾張・三河の松岡氏は松岡真人を祖とし、熱田神宮の神官の出。
# 奥州の豪族の松岡氏は桓武平氏の畠山氏。
# 播磨の松岡氏は村上源氏の赤松氏。
# 豊後国大分郡松岡をルーツとし、大友氏の出。
# 関連姓氏: 松丘、松岳。



■ 松下(まつした)

# 宇多源氏、橘氏、藤原氏、桓武平氏_渋谷氏流などにみられる。
# 地名姓で各地にみられる。静岡県と鹿児島県に多く、特に静岡県中部に多くみられる。
# 三河国碧海郡松下村(愛知県)をルーツとする松下氏は近江の佐々木氏の一族。
# 薩摩の松下氏は薩摩国入来院松下(鹿児島県薩摩川内市入来町)をルーツとし、伊集院氏の一族。

# 秀吉が少年時代に仕えていた松下家は、後に秀吉によって久野1万6千石に取り立てられた。関ヶ原の戦いの後には、常陸国小張、烏山、二本松5万石へ。



■ 松島(まつしま)

# 群馬県や静岡県に多くみられる。
# 信濃の松島氏は信濃国伊那郡松島(長野県上伊那郡箕輪町中箕輪松島)をルーツとする。
# 遠江の松島氏は遠江国長上郡松島村(静岡県浜松市南区松島町)をルーツとする。
# 紀伊の松島氏は紀伊国名草郡松島(和歌山県和歌山市松島)をルーツとする。
# 肥前の松島氏は肥前国彼杵郡松島(長崎県西海市大瀬戸町松島)をルーツとする。
# 第二次安倍改造内閣の松島みどり法務大臣は大阪府の出身。
# 「松島」の地名
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 13時29分23秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/kanedaakiojiji/18797610.html

遠州井伊谷の井伊家⇔信濃国市田郷松岡家⇔市田郷山吹座光寺家 2009/6/27

天正十六年の改易以後、松岡貞利は井伊直政に引き取られて近江の彦根に移った。

井伊家の先代直平は、ふかく禅に帰依し、永正年間松岡氏の出身である名僧(文叔瑞都)を請じて、遠州井伊谷の龍潭寺を創建するに当りその開山とした。

したがって、松岡氏と井伊家とは、その頃からの交渉があった。


井伊直平の玄孫・直親が、(駿河の今川氏と戦って敗死したとき)、その遺子万千代、のちの直政のは逃れて伊那郡市田郷に来り、松岡氏の菩提寺・松源寺に潜居する事数年におよんだ。


こうした歴史的縁故により、敗残の松岡貞利は、あらためて井伊家の家臣となり、五百石を給せられた。


一方松岡頼貞に逆意ありとして、このことを徳川方に内報した洞の二郎右衛門は、その功により上野国碓氷郡大竹にて九百五十石の知行を与えられていたが、のちに千石の加増され、ついで関ヶ原戦い後、もとの市田郷山吹の地に移封されて千四百石を食み、座光寺氏を称し、歴世継承して明治維新に及んだ。(下伊那史第六巻)
「内報」


松岡氏は小笠原氏に通じ反徳川の意あるものとして、ひそかにこれを徳川氏の伊那郡代官菅沼小大善定利に内報した。・・・松岡氏の臣であった片桐二郎右衛門(はじめ二郎助といい、のち座光寺氏を称し、また帰慶という)

松岡城・城主:松岡頼貞→嫡男・松岡貞利
松岡頼貞:武田信玄の死没以前は、武田信玄の家臣であった。・・・武田氏の宿将山県昌景(飯富三郎兵衛)の伊那衆の一人として、武田に対して八十騎の軍役をつとめたことが、・・・「松岡騎馬附覚」によって知る事ができる。


[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 13時36分19秒 ) パスワード

http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html


箕輪初心★井伊直政=井の国千年物語後編



F井伊虎松誕生&父:井伊直親の死
・永禄4年(1561) 2月9日井伊直政(幼名虎松)だ生まれる。
・永禄5年(1562) 井伊直親が今川氏真により呼び出され、
         遠州掛川にて朝比奈泰朝に誅殺。
供18人も抹殺。
理由・・井伊直親が松平元康(徳川家康)と仲良し


G井伊直平の毒殺
・永禄6年(1563) 20代:井伊直平が飯尾備前守に毒殺された。
家臣の大石が川名の渓雲寺に埋葬。

H曳間城攻め
・永禄7年(1564) 新野左馬助・中野信濃守直由が
          曳馬城(現浜松城)攻めで討死。
新野左馬助は2歳の虎松を命に代えて守った。
 ※新野左馬助の妹は祖父:井伊直盛の妻である。

  →当時、府中(松本)の小笠原長時の支配下にあった
  信濃市田郷(現長野県伊那郡高森町)の松源寺に
  逃げた。松源寺は松岡貞利の松岡城の5の郭下に
  あった。松源寺は、井伊谷の龍譚寺の開祖が出た
  お寺であった。松岡貞利は井伊直政を2歳〜14
  歳まで、庇護し、学問や武士の心得を教えたの
  だった。

I女性地頭:次郎法師登場
・永禄8年(1565) 井伊直盛の娘:次郎法師祐圓尼が
        女性地頭になる。井伊家の男は
        5歳の虎松だけだった。
※虎松の母は、浜松の松下家に再婚していた。
・永禄11年(1568) 中野信濃守直由が井伊谷を支配。
家老:小野但馬、井伊領を横領。
井伊谷三人衆、井伊領を治める。
         小野但馬を追放。

J徳川家康の遠州進出
・永禄11年(1568) 12月15日、徳川家康が三河→奥山
    →遠州侵攻。
道案内は「井伊谷三人衆」だった。
近藤康用(やすもち)・鈴木重時・菅沼忠久だ。
多くの小野但馬は徳川家康配下になった。
    しかし、虎松は鳳来寺へ逃れた。
8歳〜14歳まで鳳来寺で過ごした。
    虎松の実母:井伊直親内室は松下源太郎と再婚。


K堀川城の合戦
・永禄12年(1569) 徳川家康が気賀の堀川城・掛川城を攻略。
         →今川氏滅亡。
L三方が原の合戦
武田信玄の遠州への侵攻
・元亀3年(1572) 10月 仏坂の戦い
山県昌景 VS 井平軍
    12月、三方原合戦。
徳川家康は大敗。
家康の脱糞伝説・・・
・天正元年(1573)武田信玄の野田城攻撃
菅沼忠久の敗戦
※武田信玄が死亡。

M虎松、徳川家に出仕
・天正3年(1575) 養母の直虎=次郎法師に育てられて
   いた直親遺児の井伊直政は、養母・実母などが
   相談して、今川氏を滅ぼした徳川家康を頼ることに
   した。
徳川家康の三方が原での鷹狩りの時、次郎法師に 
付き添われて謁見した。
徳川家康は、虎松の父:直親が家康に味方しようと
して今川に殺されたので、不憫に思い、家来にした。
徳川家康は虎松の300石を与えた。

◆◆ 箕輪初心●箕輪城シリーズ54「井伊直政」◆◆



◆第四章 「井伊直政の活躍」
・天正元年(1573)1月、武田軍井伊谷へ乱入。
龍潭寺が炎上。
・天正3年(1575) 虎松が徳川家康へ出任。
       徳川家康は万千代の名を与え、
        300石を与える。
井伊万千代の名で旧知行地の井伊谷を賜った。
※武田信玄が駒場で没。
※長篠の戦い



@万千代の初陣
・天正4年(1576) 高天神城の戦い
     徳川家康・信康 VS  武田勝頼

万千代は徳川家康の寝所に忍び込んだ間者
      =スパイ=殺し屋を討ち取った。
     戦功・・・3000石に加増。

・天正6年(1578) 万千代が10000石に加増。
・天正9年(1581) 高天神城の戦いA 
   徳川家康は5000人の軍勢を率いて、高天神城を
     攻撃。兵糧攻め。
   武田勝頼は甲斐から援軍を送ることができず、
     城将は今川旧臣:岡部元信の城兵全員が討って
     出て、玉砕したと言われている。
   ●井伊直政は、高天神城の攻略の戦功

A武田軍滅亡・・本能寺の変
・天正10年(1582) 22歳で元服。直政と名乗る。
   3月 新府城→天目山で武田勝頼が自害・
      武田氏が滅亡。
      甲州:若神子城・獅子吼城の戦い・・・・
服部半蔵の活躍。
      北条氏の大導寺政繁との交渉で徳川方の使者と
      して政治的手腕を発揮。
      徳川家康が武田氏の旧領:信濃国・甲斐国を支配。
     →武田家の旧臣達を多数与力に抜擢。            
   ●井伊直政は武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の
      一部が配属された。
     兜や鎧など使用する全ての装備品を赤色で統一。
    →「井伊の赤備え」と呼ばれる部隊の大将となった。
    理由・・山県昌景の意志を尊重し、朱色の軍装を復活
    赤は目立ちやすく、自分の部下達がどこにいるか分かる。    
     
   ●井伊谷4万石に加増。
   
     

B徳川家康の伊賀越えに井伊直政が活躍
6月2日 本能寺の変・・・家康の伊賀越えに従い、
   堺から帰還。

本能寺の変後、甲州平定において、北条との交渉
   →井伊直政が正使・木俣守勝がの副使になった。
  木俣守勝は井伊直政を補佐し、北条家との交渉を
   うまく進めた。
  この後、井伊直政付きになり、筆頭家老となった。
   万千代元服。井伊兵部少輔直政を名乗る。


C井伊直政の結婚&井伊家再興
天正11年(1583)徳川家康の養女で駿河沼津三枚橋城主
    :松平康親の娘である花後の唐梅院)と結婚。
 ●旗本先手役に任ぜられて、本多忠勝や榊原康政の
    同僚となる。→徳川四天王


D井伊の赤備え
・天正12年(1584) 徳川家康は井伊谷3人衆
 (近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)
  に対し、井伊直政に仕えるよう命じた。
・天正13年(1585) 小牧・長久手の戦い
  井伊直直政は短気で家臣に非常に厳しかったと
   言われている。
  徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵の羽柴軍の
   総大将である羽柴秀吉(=豊臣秀吉)や配下の武将達も
  「井伊の赤備え」には大変手こずったという。
  井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」「徳川家臣団最強
   の部隊」と見なされ、本人は「井伊の赤鬼」と称され、
   諸大名に恐れられるようになった。
  自ら先陣に立って戦うことを好んだため、筆頭家老:
   木俣守勝がその役目を果たしたと言われている。 
 →●井伊直政は井伊谷6万石の大名になった。

・天正13年(1585)井伊直政の実母、浜松松下源太郎宅で没。
・天正14年(1586)徳川家康は浜松より駿河へ移る。
         井伊直政も家康に従って駿河へ移る。

E大政所の警備
※豊臣秀吉は、徳川家康に上洛し、家来になるように
 迫った。
  →徳川家康は「NO/」
・天正16年(1588) 井伊直政は聚楽亭へ徳川家康に御供した。
    聚楽第→岡崎
  井伊直政は、岡崎→京都を警護。
  井伊直政は豊臣秀吉の計らいで侍従に昇格した。


・天正16年(1588) 井伊谷3人衆の近藤康用が井伊谷に
    おいて没(72歳)


F父の恩人:松岡氏を救う。
・天正10年(1582)織田信長の伊那侵攻。
 松岡頼貞は織田信長の家臣となり。本領を安堵された。
 6月、本能寺の変。・・・織田信長は急死。
・松岡貞利は徳川家康と豊臣秀吉のどちらに就くか去就を
 決めかねていた。徳川家康に誓詞を入れ服従を約することに
 した。でも、松本の小笠原貞慶が徳川方の保科氏の高遠
 城を攻めた際、松岡貞利は小笠原氏に味方して高遠の攻撃に
 加担した。それを家臣に密告され、
・天正14年(1586) 信州伊那の松岡家は、小笠原貞慶の
  命令で、、徳川家康の敵であった。
・天正16年(1588) 松岡貞利は徳川家康から改易を命ぜられ、
 所領を没収された。約500年続いた松岡氏の支配は終わり
 を遂げた。しかし、井伊直政の嘆願により、死罪は免れた。
 井伊直政が弁護し、松岡貞利は救われ、家臣になった。



★完璧に、井伊直政が義理人情に厚かった
 人物像を描こうと、思わせようとする井伊谷の人々の
 意図が伺われると感じたのは私だけであろうか?
 ほとんどの人が井伊直政は自己中の我が儘タイプ
 と思っていると思うのであある。非常に曖昧な表現
 なので、・・・いつか井伊有識者に聞いてみようと思
 う次第である。


G箕輪12万石                         これは知らなかった!!!

天正18年(1590) 
2月 井伊直政の長男:直継=直勝が浜松で誕生。
3月 井伊直政が小田原合戦で先手を勤める。
7月13日 豊臣秀吉の小田原城攻め
    ※写真は神奈川県教育委員会の看板より

 ※徳川家康が関東に入封。
 ●井伊直政が箕輪城に入封。徳川筆頭家老の最高
     石高12万石で入城
  井伊直政は小田原城落城のきっかけを作った
   篠曲輪攻めでの功績。
    (★高崎文化協会:西原巌氏)
・酒井忠次・下総国臼井(碓井)城3万7000石。家次が入城。
・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・館山城里見対策
・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・・上杉・真田対策
 ●井伊直政は豊臣秀吉の命令で上野国箕輪(群馬県)
   の12万石
 ※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居を
構えた。
  2年後、井伊直政を離れ、井伊谷金指で1000石を賜った。
 ※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。
★箕輪初心私見「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの
名残である。」
 ※松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
※龍門寺を建立・・・白庵和尚 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
浜松龍譚寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺

 ●井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
 {★箕輪城の歴史・・箕郷町教育委員会の冊子より} 
●城と城下町の整備・改築
  @東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
  A大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
   ・大手門(後の高碕城槻木門)設置。『上州高碕城大意』
   ・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸
  B城下町の整備
   東・・・武家屋敷
   南・・・4つ通にの商人・工人の民家
    1)白銀町・紺屋町
    2)・本町・鍛冶町
    3)連雀町・田町・四ッ谷 
    秋本先生「宿は北条時代・町は徳川の呼び方」
    4)寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸。
      龍門寺は城の鬼門に創建。
      井伊家の菩提寺。

・天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に
         出陣。   
・文禄元年(1592) 井伊直政が江戸留守居役に抜擢。
        江戸城普請。
・文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。
・慶長3年(1598) 箕輪城廃城
 井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。
 ★箕輪初心私見「箕輪城が前田・真田等の元外様大名に
      使われないように。」 
 ●井伊直政は箕輪城から高崎城に移り、城下町を造った。


H関ヶ原の合戦
・慶長5年(1600) 
 9月15日 関が原の戦い
  ●井伊直政の兵力5000で家康本軍に随行。
   山内一豊など諸大名を東軍工作を実行。
   本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐。
    西軍に一番槍の戦功。



 関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。
 10月10日 井伊直政は関が原の合戦の功
  ●井伊直政は近江佐和山18万石の大名となった。
    近藤季用は井伊谷3050石を賜った。
    松下常慶安綱は引佐郡の代官になった。             そうだったの?!知らなかった!


・慶長6年(1601) 近江国佐和山に18万石を与えられた。
   井伊直政は18万石の佐和山城主となる。

(★滋賀県彦根市の佐和山城)


I井伊直政の遺言
・井伊直政は叔母の「中野越後守の妻に代参をお願い
 します。」・・・
★ここでも、井伊直政が義理堅い人間として
 世間に知らしめようとする意図が伺われる。
 地元は過大評価するのが当然である。
 頑張らなくても、いいのでは?
 とかく、地元は聖人君子に仕立てたがるものなんだろう。
 馬鹿みてえ。・・・


J井伊直政の死
・慶長6年(1601) 江戸幕府は代官頭伊奈備前守忠次に
        井伊谷筋の寺社領を安堵。
        *彦根城の築城開始。
  徳川家康は木俣守勝に「・・・がんばれ?」
・慶長7年(1602) ●2月1日過労と島津義弘軍の追撃で受けた
   鉄砲傷の破傷風が元で死去。(43歳)
       →井伊直政の次男:井伊直勝が継承。
・慶長8年(1603)  徳川家康、征夷大将軍となる
 飯田助右衛門が井伊谷筋の代官として井伊谷陣屋に勤めた。
 伊奈備前守忠次は上野玉村代官になり、滝川用水に尽力した。
・慶長9年(1604) 井伊直勝が近江:彦根城を築城。

・慶長9年(1604) 井伊直政の子:井伊直勝は
 近江国彦根に移り築城した
・元和元年(1615) 幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の
座を譲った。
井伊直孝の代には35万石の譜代大名となった。
井伊直勝は兵部少輔を世襲。3万石の安中藩藩主となった。

※彦根城は江戸幕府が諸大名に御手伝普請をさせた。
  幕府が大名に普請させたのは、京・大坂に備える必要
   あったといわれている。

以下略
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 14時37分14秒 ) パスワード

これにもビックリ!

井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・・上杉・真田対策
 井伊直政は豊臣秀吉の命令で上野国箕輪(群馬県)の12万石



M氏関係で考えますと箕輪が上野国と信濃国にあるのも不思議です。
何か新田義貞と関係があるんでしょうか?

    群馬の箕輪の松島氏
    長野の箕輪の松島氏

繋がっているんでしょうか?
やっぱりココに戻ってしまいますね。
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月02日 16時50分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さう、最後のところの「箕輪」・・・群馬と信濃にある。そして不思議
なのは、群馬の箕輪には「善地」とか「上善地」があり、何かこちらから
行った人が向こうで付けた(またはその反対)・・・というと井伊直政だろ
うか?それとも家康であろうか? 遠江の浜松が江戸の浜松町であったり、
伊賀の上野が江戸の上野であったりしますので、可能性はあります。特に
徳川家康は関東移封になり、江戸周辺地域をその守りの地としましたので
特に思い入れが強いのでは・・・。
 特に上州は一度行ってみなければいけないと思っています・・・。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月02日 21時35分22秒 ) パスワード

どちらが先なのでしょうね。


江戸の地名でしたら家康の移封後でしょ、というのがハッキリしますが
上野国と遠江国の地名の一致は?


本当に是非いらっしってください。


市野惣太夫の名字にしても
市野谷から名付けたという話の市野谷って?

     考えたら「谷」なんてのが遠江じゃなくて信濃の山の中の「谷」なの?と。



ロマンが広がり過ぎてどんどん遠出になりますね。
でもご先祖さまに近づくのですから頑張って。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 03時17分30秒 ) パスワード

上野国箕輪

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E

箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷町にあった日本の城(平山城跡)で、国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。


城郭構造
梯郭式平山城

天守構造
なし

築城主
長野業尚

築城年
1512年(永正9年)

主な改修者
武田氏、北条氏、井伊氏

主な城主
長野業正、内藤昌月、滝川一益、北条氏邦、井伊直政

廃城年
1598年(慶長3年)

遺構
石垣、土塁、空堀、馬出し、井戸

指定文化財
国の史跡

位置
北緯36度24分17.8秒
東経138度57分3.5秒



箕輪城は、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものであった。現在にのこる遺構として、石垣・土塁・空堀の跡が認められる。


続く
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 03時21分44秒 ) パスワード

歴史・沿革[編集]


箕輪長野氏の時代[編集]

永正9年(1512年) 戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業尚によって築かれた。
また、大永6年(1526年)業尚の子の信業によって築かれたという説もある。

信業の代には、守護代であり山内家宰の白井・総社長尾氏を凌駕する勢力を持っていた。


戦国時代の上野には関東管領山内上杉家が存在したが、
永禄元年(1558年)、上杉憲政が越後へ亡命した後は、
相模を本拠とする北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す場であった。

このようななかで信業の子長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、
「名君」と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。

業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。



武田氏の侵攻[編集]

永禄4年(1561年)11月、業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の業盛が家督を継いだ。

業正は臨終に際し
「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、

その死は永らく秘匿された。

しかし、業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始した。
近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。



永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、翌永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、
頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。

こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、
有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられる。

元亀元年(1570年)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となり、
天正3年(1575年) 長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。



織田氏・北条氏の侵攻[編集]

天正10年(1582年)2月の天目山の戦いで武田氏は滅亡すると、
織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し箕輪城を接収、次いで厩橋城に入った。

内藤昌月は近隣の領主と共にこれに従っている。
しかし、同年6月2日、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が上野国に侵攻した。


同年6月18日、19日、北条氏が神流川の戦いで一益を破ると、内藤昌月はこれに降り、北条氏政の弟・氏邦が箕輪城に入城した。



井伊氏の入城と廃城[編集]

天正18年(1590年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。

この年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。
直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長3年(1598年)高崎城に移封され、
それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の歴史に終止符を打った。



現代[編集]

昭和62年(1987年)12月17日、国の史跡に指定された。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(16番)に選定された。
なお、城門や土塁などを復元する計画がある[1][2]。



歴代城主[編集]

箕輪長野氏 長野業尚:
長野信業:業尚の子。
長野業正:信業の子。
長野業盛:業正の子。城を武田氏に攻められ落城し、自害。



武田氏 甘利昌忠:城代
真田幸隆:城代
浅利信種:城代
内藤昌豊:長篠の戦いにて戦死。
内藤昌月:保科正俊の子。小田原征伐にて没落。



織田氏 滝川一益:神流川の戦いに敗れ、伊勢に撤退した。


後北条氏 北条氏邦:小田原征伐にて没落。



徳川氏 井伊直政:関ヶ原の戦いにて傷を負うが、彦根藩35万石の藩主となった。


現地情報[編集]

所在地[編集]
群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか

交通アクセス[編集]
高崎駅から群馬バス「箕郷行き」で約30分「箕郷本町」下車、徒歩約20分
高崎駅から群馬バス「伊香保温泉行き」で約30分「城山入口」下車、徒歩約5分

その他[編集]
例年10月最終日曜には「箕輪城まつり」が開催され、手製の甲冑に身を包んだ市民らによって箕輪城攻防戦が演じられる。

参考文献[編集]
『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年、93頁。ISBN 4-253-00375-3。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 03時28分48秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E9%95%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F#.E7.AE.95.E8.BC.AA.E9.95.B7.E9.87.8E.E6.B0.8F

上野長野氏(こうづけながのし)は、戦国時代まで上野国西部を支配していた大身の武士である。上州長野氏とも。
家紋は檜扇(ひおうぎ)[1]。


本姓
称・在原氏業平流

出自[編集]

本姓は在原氏。『伊勢物語』の主人公であるとされる在原業平が、関東に下向したことが始まりであると伝わるが、もとより伝説の域を出ない。ただ物部氏系の石上姓を名乗っていたとも伝わることから、当初は石上姓だったとみられる。また在庁官人の出身とも指摘される[2]。

長野一族の菩提寺・長年寺や後の居城・箕輪城を含むことから、上野国群馬郡長野郷(現・群馬県高崎市浜川町周辺)が本拠地とみられている。なお同国吾妻郡長野原館に住んで長野を称したとする「長年寺系図」などの伝承もあるが、内容に問題が多く、また長野郷の名は戦国・江戸期以降に消えているため、長野原由来説は長野郷が忘れ去られた後世にこじつけで作られた誤伝とされる。[2]



歴史[編集]

長野氏の人物が史料上にみられるのは、長尾景春の乱の最中の文明9年(1477年)5月7日、武蔵針谷原で山内・扇谷両上杉と長尾景春が戦ったときの記録で、この時に上州一揆旗頭として景春方にあった長野為兼が討死している[3]。また永正元7(1504年)の立河原の戦いで、長野孫六郎房兼が上杉顕定方で参加し戦死している[3]。ただし房兼・為兼は現存する系譜類にみえず、彼らの血縁関係は不詳である。また、「兼」の字を長野氏の通字である「業」の誤記・誤読として、正しくは房業・為業とする説もある[4]。

戦国時代中期まで上野国は関東管領の山内上杉氏の領国であり、守護代の長尾氏(白井長尾家、総社長尾家)の本拠地も上野に存在したため、長野氏はその上杉氏の下で上野国西部の豪族を取りまとめて「箕輪衆」を結成し、上杉氏・長尾氏に仕えていた。



              略


箕輪長野氏[編集]

箕輪城主となった長野氏は、憲業のとき西上野方面へ本格的に進出し、彼の次男[16]・業正(業政)のときに強大となった。業正は長尾氏の家督継承に介入するなど山内上杉氏家中で台頭し、河越夜戦で大敗した関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れて上野国を追われた後も、箕輪衆を取りまとめて、婚姻政策などにより西上野の支配圏をなおも維持した[2]。

しかし山内上杉氏に忠誠を誓っていたのは後世のイメージであり、史実とは異なる。同時代史料によれば、河越夜戦ののち後北条軍が武蔵国の最前線・武蔵御嶽城を落城させると、長野氏は安中氏などとともに後北条方へと離反した。これにより山内上杉氏は動揺し、憲政の直属である馬廻衆の裏切りとそれに起因する憲政の平井城退去を招いている。その後、後北条氏が上野を支配したが、永禄3年(1560年)に上杉謙信が憲政を奉じて上野に進攻すると、箕輪長野氏は同盟状態であった総社長尾氏・白井長尾氏と真っ先に謙信に内応した。以後は越後上杉氏の勢力下を維持している。[17]

永禄4年(1561年)に業正は死去し、同年には甲斐国の武田氏が西上野侵攻を行い、西上野において越後上杉氏と対立する。武田氏は小幡氏・安中氏・後閑氏などの西上野国衆を勢力下に置いて箕輪城の孤立化を図り、業正の子の氏業は永禄9年(1566年)に敗れて自害、箕輪長野氏は滅亡、西上野は武田領国化される。



               略


箕輪落城後の長野一族[編集]

長野氏業の子・亀寿は落城時に家臣の藤井忠安・阿保清勝に伴われ脱出、のち出家して極楽院鎮良と名乗り、阿保清勝の姪を妻として5子があったと伝わる[2]。なお極楽院鎮良は徳川家から印状を授与されている。また別の長野系図によれば氏業の子には業忠という子があり、浜川の善長院を建立したという[19]。

鷹留長野氏では、業通の次男・業茂が落城後に仏門に入り、珠山玄宝となって和田山長純寺住職、のち井伊氏に従い移住して彦根長純寺を開いたと伝わる(大雲寺記録)。業氏の次男・業亮は、長野氏が健在の頃から和田山大雲寺にあり、大森別当・曇廊などという。落城後に住職となり、井伊氏の移動に従って彦根大雲寺を開いた。[19]

彦根宗安寺の開山・成誉典応も鷹留長野氏で、「大雲寺寺歴書」(天保9年)では曇廊和尚(業亮)の出家前の子だとされる。「宗安寺記」では珠山玄宝の子とされる。俗名は業連とも。[19]

また彦根藩井伊家の記録によると、次席家老の長野民部は長野一族だという。家伝では業正の子・業親の子が伝蔵(業実、業真)といい、武田氏の滅亡後、生母が井伊直政と知己だったことから井伊氏に仕えて4000石を得たとされる。『新編高崎市史 通史編2』は、業親が長野氏の系図にみえないため、業正の庶子か養子ではとする[20]。一方、徳川家が長野業正の子孫を探した時、長野氏関係の寺院が連署で天保9年(1838年)に提出した報告によると、民部は珠山玄宝の出家前にもうけた次男・業源のことだとされている。[19]



              井伊直弼とお多賀さんを取り合った長野主膳はこの長野氏なんでしょうかねえ?


         続
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 03時33分28秒 ) パスワード

長野一族[編集]

長野氏の歴代系譜は複数伝わるが、信頼性があるとされるのは長野乙業からである[2]。

しかし乙業以降も異同がある上、同時代史料上で確かめられる人物も少なく、正確な系譜は不詳である。



長野乙業 - 『箕輪城と長野氏』によれば、系譜中で存在が比較的信頼される最古の人物[2]。長野郷浜川に居住。「箕輪城考」に尚業の父としてみえる。『箕輪城と長野氏』では業尚の大叔父で子は無く、弟の隆業の系統が続いたとする。

長野業尚(尚業)[21] - 関東管領上杉顕定の執事と系図に伝わる。『箕郷町誌』では業尚の子。『箕輪城と長野氏』は方業の子とする[22]。

長野方業(固山宗賢、方斎[23]) − 厩橋城を築城したとも言われる。『群馬県史 通史編3』では業尚の子で憲業の弟、かつ厩橋の長野氏系の祖。『箕輪城と長野氏』は隆業の子で業尚・道安の父[22]。『日本城郭大系』・『群馬県人名大百科』では賢忠のこと。吉川弘文館『戦国人名辞典』「長野方業」項は箕輪長野氏の家督で憲業の後継者で業正の兄[24]。「戦国期上野長野氏の動向」では賢忠の弟で業正の父、かつ憲業没後に厩橋から入って箕輪長野氏を継いだとする[4]。

長野憲業 - 箕輪城主。長野信業とは同一人物[2]とも別人[25]ともされる。

長野業氏 - 鷹留長野氏の祖。鷹留城主。業正の兄。

長野業正(業政) - 「上州の黄班」と伝わる猛将。

長野吉業 - 業正の長子。河越夜戦で死去。

長野氏業(業盛) - 業正の後継。箕輪城で討死。



脚注[編集]

1.^ 長野氏が使ったとされる檜扇は4種類あるが、戦国時代に使用されたのは、九枚檜板の扇でその中央に日の丸があり、扇両端を綴じて紐の房垂があるものである。

2.^ a b c d e f g h i 近藤義雄 『箕輪城と長野氏』上毛新聞社、1985年。

3.^ a b 「松陰私語」

4.^ a b c d e f 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『日本史攷究』35号、2011年/『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年

5.^ 大永7年12月16日の総社長尾顕景から越後長尾為景への書状(『群馬県史 資料編7』No.1958「長尾顕景書状」)

6.^ なお、近年黒田基樹はこの事件の一連の文書の年代比定に問題があり、当時の政治情勢からこの事件を大永4年(1524年)の事件としており(「足利長尾氏に関する基礎的考察」(荒川善夫〔ほか〕編集 『中世下野の権力と社会 中世東国論3』(岩田書院、2009年)『日本史攷究』35号、2011年/黒田『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年))、『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)「長野方業」項目(執筆者:久保田順一)も大永4年説を採用する。

7.^ 「長尾顕景書状」には「方斎」の名はない。大永7年11月17日の長野左衛門大夫方斎の書状(『群馬県史 資料編7』No.1957「長野方斎書状」)からの比定である。なお、後述のように山田邦明・黒田基樹は11月17日の書状は「方業」と読むのが正しい判読であり、「方斎」は誤読であるとする説を採る。

8.^ 山田邦明『戦国のコミュニケーション』吉川弘文館、2001年 P87-88

9.^ 『前橋風土記』には長尾賢忠とあるが、『前橋市史 第1巻』の考証でこれは長野賢忠のことだと指摘されている。

10.^ 「前橋風土記」の道安の名乗りが宮内大夫と共通することからの推定。

11.^ 『箕輪城と長野氏』は長野氏の系図の一つ「長昌寺記録」を一部採用した上での指摘。

12.^ a b 久保田順一「長野氏と上杉氏守護領国体制」『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院、2006年。

13.^ 栗原修「厩橋北条氏の存在形態」『群馬県史料』7、1996年。

14.^ 『群馬県の中世城館跡』(群馬県教育委員会事務局文化財保護課編、1989年)では、武蔵松山城攻めに長野氏が参加しなかったため賢忠は誅殺され長野氏は滅んだとする。

15.^ 『前橋市史』は賢忠かその子と推定、『日本城郭大系』は賢忠の孫・道賢(道安の子)に比定し、『室町・戦国期上野の地域社会』は彦七郎とともに彦太郎(賢忠の子)・大胡の伯父の後継者たちと推定する。「戦国期上野長野氏の動向」は“藤”の草書体は厩橋長野氏の通字に用いられる“彦”の草書体と似る場合がある事から、藤九郎は彦九郎の誤りで、更に黒田は関東幕注文を永禄3年(1560年)末の作成とする立場から、同注文の厩橋衆の部分に彦太郎の名前が見られない事から陣中で殺害されたとされる彦太郎も彦九郎の誤り、すなわち「長野賢忠の曾孫である厩橋長野氏最後の当主・彦九郎の名前が“藤九郎”“彦太郎”という2種類の誤った名前で後世に伝わった」とする。

16.^ 『箕郷町誌』の系譜では憲業の甥で、信業の子とされる。黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」では憲業の没後に箕輪長野氏で上杉顕実と憲房の内乱に関連した内紛が生じた結果、厩橋長野氏から方業が入嗣し、業正はその子とする。

17.^ 久保田順一 『上野武士団の中世史』みやま文庫、1996年

18.^ 『群馬県史 資料編7』No.2728によると、長野三河入道が戦死したとある。なお日付のみで年次は無く、『群馬県史』による比定である。

19.^ a b c d 木暮英夫 『西上州の古文書から日本歴史を考える』ニシ工芸、2002年。

20.^ 高崎市市史編さん委員会編 『新編高崎市史 通史編2』高崎市、2000年

21.^ 「和田山系図」とそれを参考にした「箕輪城考」のみ尚業、他の「浜川系図」などは業尚。

22.^ a b 「長昌寺記録」より採用。

23.^ 近藤義雄は『箕輪城と長野氏』において、方業は「橋林文書」に延徳元年(1489年)死去とあるので、方斎は方業の孫(業尚の子で憲業の弟)として別人説を主張している。なお一方、黒田基樹は「戦国期上野長野氏の動向」において、「橋林文書」に記された人物については“方”と“為”の草書における誤記であるとするとともに同文書の記述に比定可能な人物は長野為業しかいない事や他にも様々な事実を混同された記述がある事を指摘して、為業の十三回忌である延徳元年に橋林寺が建立された事を示すとする。

24.^ 『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年、「長野方業」(執筆者:久保田順一)

25.^ 『箕郷町誌』の系譜では憲業が兄で、弟を信業とする。


参考文献[編集]
近藤義雄 『箕輪城と長野氏』(上毛新聞社、1985年)
群馬県史編さん委員会編 『群馬県史』通史編3(群馬県、1989年)
平井聖〔ほか〕編集 『日本城郭大系』第4巻(新人物往来社、1979年)
高崎市市史編さん委員会編 『新編高崎市史』通史編2(高崎市、2000年)
黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『日本史攷究』35号(2011年/『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年)
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 03時34分49秒 ) パスワード

長野主膳


復習

伊勢国飯高郡滝村(たきのむら)の住人である長野次郎祐の弟で先祖は上州長野氏とされる。

しかし、これは戸籍だけのことで出自、経歴とも25歳になるまでの一切はわかっていない。


歴史に登場するのは天保10年、場所は滝野村の滝野次郎左衛門宅に寓居したときからである。
天保12年、次郎左衛門の妹で六歳年上の瀧女(たきめ。多紀とも)と結婚し夫婦は京都、伊勢、美濃、尾張、三河を遊歴。同年12月に近江国坂田郡の市場村にしばらくいたが、翌年には伊吹山麓にある志賀谷村の阿原忠之進宅に寓居。

ここで国史、和歌などを教授した。滝村、坂田郡とも和歌山藩と縁がある点が共通している。

経緯は明らかではないが、天保13年11月20日に門人と彦根に出て、夜に井伊直弼を訪ね朝方に帰り、これが三日続いてようやく去った。


直弼は主膳に傾倒し弟子となった。主膳は容貌典雅で和歌に通じていたが、眼光が鋭く油断のならない風であったとされる。

どのような伝手があったのかは不明だが、この後は京都に出て九条家に仕え、妻の瀧女は今城家に仕えた。

関白九条尚忠は英照皇太后の父であり孝明天皇の外戚にあたる。
また九条家は井伊家とは格別な関係にあった。
一方で今城定章の娘が孝明天皇の寵姫、今城重子であり彼女は同時に千種有文の姉でもある。
九条家では家宰を取り仕切る家臣の島田龍章と交際を結んだ。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 03時37分38秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nagano_z.html


武家家伝_上州長野氏          文字化けしてて読めません。


長野氏は古代から中世にかけての上野国の豪族で、上野国群馬郡長野郷を本拠 ... 業尚が明応元年(1492)長年寺を再建して開基となり、箕輪城を築いた長野氏の中興の ... 長野氏が歴史に登場してくるのは、十五世紀前半の永享十年(1438)に起った永享の ...
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 03時51分37秒 ) パスワード

里見郷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E9%83%B7


なかなか良い情報に出会えないのですが思わぬ所に行き着きました。

       多胡羊太夫の流れを組む多胡氏が上里見東間野に移り住む。

            多胡羊太夫とは久し振りですね。
            蘇我氏に滅ぼされた物部守屋滅亡(587年)に連座し
            上野国に流された中臣羽鳥連の末裔であるとしている

             http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%BE%8A%E5%A4%AA%E5%A4%AB



里見郷
新田義貞生誕の地

伝承では、新田義貞は里見氏五世忠義の子として生れた。
生れた年は不明であるが正応元年(1288年)の間と推定されている。
幼名を里見小五郎といったが宗家新田朝氏に子がなかったので、その養子となり小太郎義貞と改名したといわれている
(「上野志」「新田正伝記」より)
この伝承を元に明治23年8月、里見水戸之介が全国から浄財をつのり、光明寺(中里見)境内に「新田公旧里碑」を建設している。



里見郷(さとみのさと)は、群馬県内の烏川流域の古称である。旧榛名町の烏川南岸、旧里見村 (群馬県)がこれに該当する。現在の高崎市榛名支所の上里見町・中里見町・下里見町・上大島町に相当する。

贈鎮守府将軍・新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)が上野国碓氷郡里見郷に移り、その地の名を苗字としたとの伝承もある。


「里見村誌」によれば、「里見郷」の由来と伝承されているものは二つあるとしている。

景行天皇26年頃(97年)、東国平定を終えて、日本武尊一行が吾嬬山から峰づたいに密林地帯を幾日も困難を極めた征旅を続け、今の里見連山の峰づたいに差し掛かった時、人家や田畑をはるか東方に見えたので思わず「小里見えたり」と一行大いに喜んだ。これを伝え聞いた里人は里を「里見」と称するようになった。
豊城入彦命の子孫に「佐太の臣」と称する人があって、この地に居を構えた。その名「サタノオミ」が段々変って「サトミ」となった。

しかし、両説とも伝承の域を超えず、はっきりしない。おそらく「里見郷」の由来は、中世この地の地頭職であった里見氏から名づけられたものであるともいえるし、又里見に住して里見性を名乗ったともいえると「里見村誌」は結論付けている。




歴史と伝承[編集]
景行天皇26年頃(97年)日本武尊一行が通りかかり「小里見えたり」という。里人はこの地を「里見」と称するようになったと伝わる。
3世紀ごろ この頃、伝豊城入彦命の古墳が築かれる。現在の郷見神社(下里見)の裏山の古墳とされる。
大化元年(645年)榛名山噴火、西風強く東の方へ降灰多し、本村には少なかった。村内事情明らかでない。
大宝元年(701年)大宝令発布、田制、区分田等の法が施行
和銅4年(711年)多胡郡が建てられる(多胡碑)。多胡羊太夫の流れを組む多胡氏が上里見東間野に移り住む。同地に多胡神社が建立されるも詳細不明。
この頃、弘法大師が間野に立ち寄り水を貰う。間野は高台に有る為、水汲みが大変という村民の嘆きを聞き井戸を掘る(間野の弘法井戸)
烏川対岸の室田村では弘法大師が所望する芋を渡すのを惜しんだため、付近の芋が法力で食べられなくなる(石芋伝承)
延暦17年(798年)最澄、春名山を開く。
9世紀頃 中里見原の里見廃寺が建てられるが、文献に残っておらず詳細不明。
治安3年(1023年)比叡山の明慶上人春名山より降り、草庵(光明寺)を開く(光明寺縁起)
保延3年(1137年)里見義俊生まれる。碓氷郡里見郷に住す。
保元元年(1156年)里見義俊、里見郷に城地を定め館を構える。
建久3年(1192年)里見義俊の子、里見義成が里見城を築く。
嘉元元年(1303年)里見小五郎(新田義貞)生まれる。
元弘3年(1333年)5月 新田義貞、義兵を挙げる。里見氏当主・里見義胤、義貞に従い参戦する。5月21日鎌倉陥落。大きな功績があった義胤は戦後越後国の守護代に任ぜられる。
建武2年(1335年)義貞、足利氏と戦う。里見氏は南朝 (日本)側に立ち参戦、各地を転戦するが宗家の没落に伴い、一族が離反していったと伝えられる。足利尊氏に認められた上杉憲房 (南北朝時代)が上野国守護となる。
延元3年(1338年)義貞、藤島に戦死する。
天授3年(1377年)下里見村、箕輪城主上野長野氏に属する。
嘉吉元年(1441年)里見城代十一代里見義実安房国の白浜(現在の南房総市)に移る。
永禄3年(1560年)武田氏上州侵攻
永禄6年(1563年)諏訪神社建立、その後、各村に分社する。
天正10年(1582年)この年武田氏滅亡、滝川一益の配下となるが10月本能寺の変で北条氏領となる。
天正18年(1590年)上大島村、箕輪城主井伊直政の領地となる。中里見村、下里見村は、板鼻藩里見義成の領地となる。
慶長3年(1598年) 箕輪藩主井伊直政高崎城へ移る。
慶長8年(1603年)井伊直政の領地となる。
慶長17年(1612年)上里見村天領代官黒田忠兵衛が就任する。
元和5年(1619年)前橋藩の領地となる。
寛永6年(1629年)神山普門寺設立
寛永9年(1632年)郷見神社の元、月読神社勧進
慶安3年(1650年)浅間山噴火する。
承応2年(1653年)常福寺(上里見村)中興
寛文4年(1664年)春日神社 (高崎市)創立
寛保2年(1742年)烏川大水害。上里見上神の阿弥陀堂の住誉上人が「烏川満水し家屋敷人馬等溺水流れ古来知る人無し田畑山谷著しく損亡し其の数を知らず」と書き残す。
延享3年(1746年)上里見に神山駅(宿)開駅、神山市(三、八日)はじまる。
寛延元年(1748年)松平忠恒が移封され上里見藩が置かれる。居館は上里見城(神山陣屋、上里見陣屋とも)約20年間、上里見神山三町が城下町として整備される。
天明3年(1783年)浅間山大噴火、その後天明8年頃まで飢饉となる。
天明7年(1787年)天明の大飢饉飢餓と共に疫病も流行し大きな被害を蒙る。
文化元年(1804年)中仙道の裏街道として神山宿場が繁盛する。
以下略
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 03時58分29秒 ) パスワード

ちらちら新田と里見の名が出てM氏と絡むような感じもありますね。


でも  コレ  というのは見つからないですね。
黒川郷の方が松島氏の名がちゃんと出てましたね。



ということは上野国の長野氏が信濃にも来て、
           小豪族であったが明治維新後に長野の県や市の名に残った、

松島氏は南北朝の頃に上野国から新田・里見系で信濃に来たのでしょうかねえ?
     新田・里見系なのはかなり正しい?


まだまだ全然迫ってないですね。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 05時41分18秒 ) パスワード

http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/inagun.html
復習

 上伊那地域の歴史書を見ると、頻繁に目にする言葉が「春近領」(はるちかりょう)です。「春近領」とは、信濃国内に3箇所分布している土地の総称になります。3箇所とは、近府春近領(松本市)、伊那春近領(伊那市)、奥春近領(長野市)で、その内の伊那春近領が上伊那地域にありました。


 伊那春近領は、小黒川より南に広がる天竜川の西段丘上(現在でも一部が春近と大字名で呼ばれている)から片桐(松川町)付近まで広がっていたとされ、幾つかの郷に分けられていました。


 

 伊那春近領は、もともと公領(国の土地)で、平安時代末期の院政の頃は、宮中の御服など上布類を調進する禁裏御服料所であったとされています。鎌倉時代になると源頼朝によって関東御料とされ、政所が所管するところとなり、地頭が派遣されました。


 

 また、上伊那地域には荘園が1つありました。蕗原荘(ふきはらしょう、箕輪町北小河内)という荘園で、天暦8年(954)から、


後院→堀川天皇の中宮 篤子内親王→関白藤原忠通→近衛家

と、所有者が遷り変わり、有力者の間を転々としていたようです。


さらに、上伊那地域では、有力な官営牧場が4箇所ありました。佐久地域の規模程ではありませんが、ここで産出された馬は、信濃国司の分として府中(松本市)にあった信濃国府へ送られたり、遠く朝廷へ献上されたりしていました。平出牧と宮所牧を支配していたのが、平出氏と宮所氏で、ここで生産された馬が平安時代末期から軍事力として利用されていきました。木曽義仲の四天王として活躍した樋口次郎兼光の墓が平出牧推定地にあります。


 



笠原牧
かさはら
伊那市美篶

 


平出牧
ひらいで
辰野町平出

諏訪社領


宮所牧
みやどころ
辰野町上島

諏訪社領


小野牧
おの
辰野町小野

 


  鎌倉幕府の執権職をほとんど独占し、北条時政、北条義時、北条泰時と続く、北条家の嫡流を北条得宗家と呼びます。鎌倉幕府の関東御料とされていた肥沃な伊那春近領は、しだいに北条得宗家の領地とされ、政所、地頭代と呼ばれる得宗家の家臣が、伊那春近領に派遣されてきました。北条得宗家は、諏訪大社を中心として諏訪地域から上伊那地域の支配を強めて、経済、軍事力、或いは思想面の基盤としていたようです。

 上伊那地域には、諏訪氏の系流と唱える藤沢氏、中沢氏、平出氏、宮所氏、松島氏、深沢氏などが、北条得宗家の地頭をしたり、在郷を支配していたようです。

 片切郷、飯島郷には物品を交換する市場があり、京都へ通じる東山道沿いとして、物流の拠点となっていたとされます。


 

上伊那地域の郷



小井弖二吉郷
こいでふたよし
伊那市西春近
北条得宗家

赤須郷
あかす
駒ケ根市
北条得宗家

飯島郷
いいじま
飯島町
北条得宗家

田島郷
たじま
中川村
北条得宗家
片切郷 かたぎり 中川村 北条得宗家
藤沢郷 ふじさわ 高遠町 諏訪大社
黒河内郷 くろおごうち 長谷村 諏訪大社
上古田郷 かみふるた 箕輪町  
松島郷 まつしま 箕輪町  
大萱郷 おおがや 伊那市  
御園郷 みその 伊那市  
岩間郷 いわま 飯島町  
上穂郷 うわぶ 駒ヶ根市  
横厩郷 よこくるわ 中川村横問屋  
宮田郷 みやだ 宮田村  

続く


[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 05時44分06秒 ) パスワード



                   略

上伊那地域の統治の巻9(江戸時代)


               太田氏が松島に陣屋を置いた

 

 江戸時代初期の上伊那地域には、高遠藩の他に幕府天領、旗本知行所、飯田藩の領地がありました。高遠藩の領地は、筑摩地域の領地を除いて幕末までほとんど変わることがありませんでしたが、飯田藩領、旗本知行所は、しだいに幕府天領や別の旗本の知行所へと変わっていきました。

 

 飯田藩脇坂氏の領地は、下伊那地域から続いて大田切川(天竜川西岸)まで達し、飛んで一部(箕輪町)にもありました。脇坂氏の転封に伴って、大田切川までの上伊那の領地は幕府天領となり、箕輪の地は坂木藩板倉氏の領地(箕輪町、南箕輪村、伊那市西箕輪)となりました。後に板倉氏の転封にともなって幕府天領と、太田氏知行所5千石となり幕末まで続きます。太田氏は松島村に陣屋を置きました。

 




太田氏知行所

南小河内村 箕輪町
松島村 箕輪町
福与村 箕輪町
下寺村 伊那市

 

 さらに上伊那地域の南部の旗本領として、江戸時代初期に井上知行所、立石氏知行所(井上相給)がありました。後に、この知行所は、近藤氏の知行所となって幕末まで続きました。


[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 06時03分10秒 ) パスワード

復習

http://takatoshi24.blogspot.com/2010/11/blog-post_19.html


戦国南信濃国人名辞典


木曾義在【きそよしあり(1493〜1558)】

筑摩郡木曾福島城主。木曾義元の男。1504年、父木曾義元は、飛騨国の姉小路家が木曾侵攻を行った際に討死した。幼年期に父を失った木曾義在は叔父木曾義勝の後見を受けながら成長した。


1542年、木曾義康に家督を譲り黒川口松島に隠居するが、         ココどこ?
隠居後にも政務に関与した。木曽材木販売、中山道の整備領内の内政を行った。



諏訪頼重【すわよりしげ(1516〜1542)】

諏訪頼隆の男。官途は左近大輔。室は武田信虎の三女(禰々姫)。側室は麻績家の娘(華蔵院)。1520年、諏訪大祝職に就任した。1539年、祖父諏訪頼満の病没により諏訪家の家督を相続した。1540年、室に武田信虎の娘を迎えた。1541年、武田信虎、武田晴信による佐久海野家攻めには村上義清とともにこれに協力した。1541年、武田信虎は息子武田晴信により武田家の家督を奪われ駿河に追放させた。武田晴信は諏訪家との友好関係を改め諏訪郡に侵攻した。武田晴信は高遠城主頼高遠継と語らい諏訪家を挟撃した。諏訪頼重は桑原城に籠城したが精強を誇った諏訪家臣団も敗色濃厚な諏訪家に味方せず落城した。




羽生光定【はぶみつさだ(15??〜15??)】              伊那の松下城主!

伊那郡松下城主。知久頼元家臣。1554年、知久頼元、座光寺貞信らは神之峰城周辺に兵を集め、武田晴信に叛旗を翻した。高遠城主秋山信友を先鋒に武田晴信が伊那へ進攻した。武田晴信勢は、神社、仏閣を始め民家等を焼き払い、知久家勢を攻めたて激戦となり松下城も落城した。



松島貞実【まつしまさだざね(15??〜1547)】

伊那郡松島城主。藤沢頼親家臣。官途は筑前守。1547年、木曾義昌により謀殺された。




松島信久【まつしまのぶひさ(15??〜15??)】

松島貞実の男。官途は豊前守。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。




【資料T】

南信濃国(5郡/240,000石)

諏訪郡:上原城。
北筑摩郡:
南筑摩郡:木曾福島城。
上伊奈郡:高遠城。
下伊那郡:飯田城。

------------------------------------------------------

【資料U】

春近衆【はるちかしゅう】

飯島為政、片切為房、上穂重清、赤須清玄、大嶋。

高遠衆【たかとうしゅう】

高遠。



箕輪衆【みのわしゅう】
                        ↣ どういう関係でしょう?  箕輪衆=松島?
松島。



大和十騎衆【やまとじゅっきしゅう】

諏訪郡の豪族衆。

西諏訪衆【にしすわしゅう】

矢島頼光、花岡忠常、以下調査中。

上伊那十三騎衆【かみいなじゅうさんきしゅう】

樋口七郎右衛門、以下調査中。

小野七騎衆【おのななきしゅう】

調査中。

------------------------------------------------------

【資料V】

南信濃国【みなみしなのこく】

信濃国は、本州の中央に位置する東山道の国。南北に長い内陸国で北部と南部では気候も風俗も異なる。南信濃国は、周囲を北信濃国、甲斐国、飛騨国、三河国、美濃国、遠江国と接している。戦略的には、北に南信濃国、東に甲斐国、西に美濃国と周囲を強国に囲まれ侵入を受けやすい。国土防衛には不利な位置にあるが、標高の高い山岳地帯で形成された山がちな国で、険しい峠を越えないと領国に侵入できない。平地は少なく木曽郡と伊那郡の両郡はほとんどを山地に覆われている。諏訪郡には平野が広がるが隣接する甲斐国には強国の武田家からの侵入を受けやすい。

諏訪大社【すわたいしゃ】

信濃国諏訪郡諏訪湖の周辺に四箇所の境内地をもつ神社。信濃国一宮で名神大社。上社では諏訪家が、下社では金刺家が大祝を務めた。諏訪湖の南側に上社(本宮、前宮の二宮)、北側に下社(春宮、秋宮の二宮)があり、計四つの宮から成る。社殿の四隅に御柱と呼ぶ木の柱が立っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。この御柱であるが、それ以前のミシャグチ信仰の石柱との関連性があるという説が有力である。神長官守矢によると御柱はミシャグチを降ろす依り代である『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われている通り、軍神としても崇拝され、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたとされる。また、中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業の守護祈願でも知られる。

諏訪湖【すわこ】

信濃国諏訪郡にある湖。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 06時07分44秒 ) パスワード

復習


http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/matsushima-jyo/

信濃・松島城

形態 平山城 歴史
築城年代は定かではないが松島氏によって築かれたと云われる。 松島氏は信濃国伊那郡松島発祥で小笠原長清の末葉が松島に住んで松島氏を名乗ったことに始まるといわれるが、出自に関しては諸説あるようである。

松島氏は天文年間(1532年〜1555年)頃には福与城の藤沢頼親に属して武田信玄と戦ったが敗れたという。
説明
現在の箕輪町役場周辺が城址で、天竜川の西岸の河岸段丘に築かれている。

箕輪町役場とその南側にある市川神社との間を通る道が空堀跡だと思われるが、明確な遺構はない。役場の西側に松島氏の墓所がある。


城主 松島氏 所在地 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪字松島(箕輪町役場)

[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 06時18分44秒 ) パスワード

ヨコですが

箕輪衆というのが未だに分かりません。
上野国の箕輪衆と信濃国の箕輪衆の相違は何?


    敵が武田信玄だったというのは共通してますよね。



http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20131011/dms1310110724000-n1.htm

斜陽企業に殉じた律義者・長野業正 信玄の猛攻はね返し忠義尽くす
連載:戦国武将のリストラ逆転物語


関東管領の上杉憲政(のりまさ)といえば、武田信玄や北条氏康といった実力派の戦国大名にいいようにあしらわれ、部下にも見限られて関東の地を追われた。

いわば、名門企業を一気に衰退させた典型的なダメ社長である。

そんな無能なトップにあえて義理立てし、武田や北条の強豪勢力の猛攻から西上野(こうずけ)の地を必死に守り抜いたのが、知勇兼備の名将・長野業正(なりまさ)だ。



 長野家は箕輪衆(みのわしゅう)と呼ばれる周囲の小豪族や国人を取りまとめる家柄で、
一説には平安の大歌人・在原業平の血を引くとも言われる名家。

家柄だけでなく、業正は早くから才能を発揮して上杉家の中での存在感を増していった。


 しかし、主君が戦上手ではなかったため、河越(かわごえ)夜戦(よいくさ)で北条氏康に大敗して嫡男の吉業を失う。

次いで笛吹峠の戦いで武田信玄にも大敗して関東の覇権を失ったため、さすがの業正も一度は憲政を見限ったものの、
義理を通して北条や武田に従うことはしなかった。


 その後、憲政の亡命を受け入れた長尾景虎(後の上杉謙信)が関東管領職を引き継いだため、謙信の勢力下で西上野の地を守った。謙信のライバルである武田信玄は、なんとか西上野を攻略しようと猛攻撃を開始したが、業正は上野の国人衆を取りまとめて必死に抗戦。

さすがに武田軍は強く、野戦においては圧倒されたものの、居城である箕輪城での籠城戦では信玄の猛攻に懸命に耐えた。

さらに夜襲や朝駆けなどの奇襲戦術を駆使してどうにか持ちこたえた。

信玄の西上野侵攻は6回を数えたが、すべてはね返している。



 当時の信玄は織田信長も恐れた戦国屈指の実力者だが、
その信玄をして「箕輪城に業正がいる限り、上州には手が出せぬ」とまで言わしめている。

あの信玄に弱音を吐かせるくらいだから、業正の実力がうかがい知れるというものだ。

これほどの人物であれば、武田や北条に寝返ったとしても破格の待遇で迎えられたはずである。


事実、信玄からのオファーもあったのだが、あっさり断っている。


 現代ビジネスでは、業績が落ち込むと有能な人から会社を見限って去っていくといわれる。沈み行く船を支えるより、逃げ出したほうが確かに利口かもしれない。それでも、ダメ社長の憲政に忠義を尽くし、結果的に謙信という有能なトップに仕えることで71歳の長寿を全うした業正の生き方は見事だ。

 戦国を代表する忠臣として、後世の人々から大いに尊敬を集める業正の生き方をまねするのは決して簡単ではないが、彼のように忠義を尽くせばいつか自分に返ってくることもあるかしれない。 (渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)




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[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 06時24分15秒 ) パスワード

信玄は東の上野国と戦い、西の信濃と戦い、その両方に箕輪があり箕輪衆のいる不思議。


この共通点は一体、何なのか?

長野氏が鍵を握っているのかな?とも思うし
でも分からない。



http://saradakann.xsrv.jp/index.php?%E3%80%8C%E9%9B%B7%E3%81%A8%E7%A9%BA%E3%81%A3%E9%A2%A8%E3%80%81%E7%BE%A9%E7%90%86%E4%BA%BA%E6%83%85%E3%80%8D


「雷と空っ風、義理人情」

大人の「上毛かるた」(39)箕輪城のはなし

読み札(ら)・「雷と空っ風、義理人情」


 
 上州人気質を示す、
中世の武将、長野氏を紹介します


 長野氏が築いた
箕輪城(みのわじょう)は、
群馬県高崎市箕郷町にある平山城で
国の史跡に指定されている。日本100名城の一つです。


 箕輪城は、
榛名白川によって削られた河岸段丘に建てられました
城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、
両者が天然の堀を形成しています。
東西約500メートル、南北約1,100メートル、
面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものです。


 1512年(永正9年)
戦国時代中期、当地を支配する
長野業尚によって築かれました。


 長野氏はもともと南北朝末期、
井野川流域の開発を手がけ、その後浜川(高崎市浜川町)
に拠点を移し、西上州の武士団をまとめていった一族です。
一族の中で、もっとも力を振るったのが
長野業政(ながのなりまさ 1491〜1561)でした。


 業政の居城は、
榛名山麓から連なる尾根の末端に、
祖先によって築かれた箕輪城です。
箕輪城はいくつもの巨大な空堀をもつ堅固な山城でしたが、
それに加えて業政の采配は賢明でした。
隣国の武田信玄は
6回にわたって城を攻めましたが、
業政はわずかな兵でいずれも撃退しています。


 弘治3年(1557年)以来、
連年のごとく上野(こうずけ、現在の群馬県)
に侵攻してきた武田信玄は、
ある一人の武将に行く手を阻まれます。
上州箕輪城(みのわじょう、現高崎市)主、長野業正です。


 業正は関東管領山内上杉氏の重臣で、
斜陽の主家を支え続けます。
とくに永禄2年(1559年)の武田の侵攻は
西上野が失陥するような危機でしたが、ここで
見事に信玄の侵略を撃退しました。


 甲信の兵二万を率いた信玄は、
上野に入るとまず安中城を攻めるべく鼻高に布陣しました。
急報を受けた業正は直ちに手勢を率いて
若田原で武田軍と対陣します。


 睨み合いが続く中、雨が降り出しました。
すると長野軍が武田軍の眼前からふいと消えます。
信玄が雨宿りかなと訝る中、
大きく迂回した長野軍が背後から襲いかかりました。
そしてあっというまに敵陣をかき乱すと
風のように去っていきます。


 歯噛みして悔しがった信玄が
「業正を手取りにせよ」と
箕輪城の周囲の砦に攻めかかりますが、
すでにそこは業正が去った後でした。


 ならばと信玄は、箕輪城に直接攻撃を加えます。
ところがこれこそ業正の思うつぼで、
周囲の砦から湧き出してきた城兵と箕輪城の兵で
挟み討ちされた武田軍は、大混乱をきたし、
ほうほうの態で敗走します。
信玄の生涯の中でも珍しいほどの大敗でした。


 信玄と業正は六度戦ったといわれていますが、
信玄は一度として優勢に立てませんでした。
驚くべき小地域戦闘の名手ですが、
上州、信州はこのような戦上手を幾人か輩出しています。
真田一族などもその典型です。


 業正を生んだ長野氏は、
在原業平を祖と称する上野の国人です。
一説では物部氏系の石上姓を名乗っていたとも伝わることから、
当初は石上姓だったとも在庁官人の出身だったともいわれ、
定かでありません。
ただ代々「業」の字を名乗っていることから
在原業平の後裔を意識していたのは間違いないと思います。


 長野氏が当初から
関東管領・山内上杉家の重臣だったわけではないようです。
山内上杉家やその上野守護代長尾氏の内紛を収め、
介入していくうちに次第に台頭していったと思われます。


 有名な難攻不落の名城、
箕輪城を築いたのは業正の父長野憲業の時代だったようです。
以後長野氏は箕輪衆の旗頭として山内上杉家で重きを加え、
主君上杉憲政が北条氏に関東を追われ
越後に逃亡した後も、一人孤塁を守り続けます。


 業正の戦績は
武田氏とのものが有名ですが、
北上する北条氏康とも何度か戦い撃退に成功しています。
業正が健在の間は、武田、北条は思うように
上野を侵略できませんでした


 業政は死ぬ直前、
子の業盛(なりもり)を呼び寄せて言い残します。


「私が死んだ後、
一里塚と変わらないような墓を作れ。
我が法要は無用。
敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。
敵に降伏してはならない。
運が尽きたなら潔く討死せよ。
それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」


 業政の死を知るやいなや、
信玄はすぐさま兵を差し向け、
ついに箕輪城を陥落させてしまいます。
子の業盛は父の遺言を守り、最後の一兵まで抗戦したが力及ばず、
これまた父の遺言に従って、敵に捕まる前に
城内の持仏堂に入って自害して果てます。


 業盛の辞世の句です


「春風に 梅も桜も散り果てて 
名のみぞ残る 箕輪の里かな」
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月03日 06時52分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの貴重な情報ありがとうございます。本日は早朝より読解に努めて
おりました。

 長野氏が井伊直政の家臣であったこと、特に箕輪城での家老であり、その後
彦根において、長野氏の一族(僧侶)とともに宗安寺を造ったということ、ここ
にポイントがあるような気がします。昨年彦根城に行った時、たまたまお寺に
入った・・・それが宗安寺で、木村重成の首塚にびっくりした訳ですが、長野
氏には深いものがありそうです。井伊直弼が長野主膳の弟子になったというの
も不思議な縁です。国学、和歌といえば賀茂真淵、本居宣長・・・そして幕末
の時代です。そう、松島十湖が生れた頃であります・・・。このあたりの関
連性を一度まとめてみたいと思っています。
 宗安寺ということで、宗安寺にはとりあえず三つ出て来ました。
 @服部保次を祀った細江の宗安寺
 A市野惣太夫の菩提寺の宗安寺
 B彦根の井伊氏による宗安寺
 たまたま一緒の名前になっただけなのかどうか・・・?

 一旦ここで切ります。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月03日 09時50分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差してしまいました。長野氏の箕輪での信玄との戦い、鳥肌が
立ちました。また業盛の辞世の句、「春風に 梅や桜も散り果てて 名の
みぞ残る箕輪の里かな」は、高遠城、高天神城の壮絶な戦いを思い出させ、
また、後世の俳句につながって行く不易流行の境地を象徴する原風景のよ
うに心に感じました。男は泣かない・・・けどグッと来ます。
 
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 14時45分16秒 ) パスワード

彦根の宗安寺について調べて来ました。
   
        彦根の宗安寺の名前の由来は正妻の両親の戒名から1字ずつとったのだそうです。


                 偶然の一致のようですね。

http://jodo.jp/28-001/

幕末彦根の左右を決めた寺

本尊は淀殿の念持仏       これまたスゴイ!


宗安寺(そうあんじ)の始まりは群馬県高崎市の安国寺に由来しており、
徳川四天王の武将といわれる井伊直政公が深く関わっている。


直政公は1590年に神奈川県の小田原征伐などの戦いで功績をあげ、同年の徳川家康公の関東入国とともに上野箕輪城十二万石を与えられた。


その際、正室の両親の供養のために荒廃していた安国寺を復興した。


そして、直政公は1600年の関が原の戦いでの勲功を称えられて石田三成公の近江佐和山城の城主に。
そこで安国寺も付近にと城のそばに高崎安国寺を分離させて建立。


正室両親の戒名を一字ずつとって宗安寺と改名した(住持成誉典応上人が開山上人となっている)。


江戸幕府が開かれた1603年、彦根に城を移し、宗安寺も現在の位置に移築された。

 宗安寺は井伊家の強大な保護を受け、家康公死去後、同じ浄土宗ということで家康公の位牌奉安所となり、藩主自ら参拝にくるようになった。

また当時、城下町のほぼ中心に位置していた宗安寺は隆盛をきわめ、
1695年には僧侶35人・寺男11人・塔頭四庵・末寺八ヵ寺を有し、本山クラスまでになった。


 ところが、1701年の彦根大火で佐和山城正門だった赤門(現存)を残して全焼。
翌年に長浜城付属御殿をもらい受け、本堂とした。
その後も彦根藩の集会所の役割や藩士の会合、朝鮮通信使の宿、幕末には彦根藩が幕府側か朝廷側のいずれにつくかの会議所などとして使われ、彦根の左右を決める所となっていた。

 本尊は大坂夏の陣で井伊家臣が大坂城の仏間から拝持した淀殿の念持仏と言われているもので、修復の際、『文永七年(1270)……佛子阿澄」と記された写経や写仏が体内から多数発見され、県の文化財に指定されている。

また、家康公の位牌を祀る権現堂や先の朝鮮通信使の肖像画(市の文化財)など寺宝も数多い。
(浄土宗新聞 平成7年2月号より)   


井伊直政の正妻:
唐梅院(とうばいいん、? - 寛永16年7月3日(1639年8月2日))
戦国時代から江戸時代にかけての女性。松平康親の娘。井伊直政の正室。名は花。


経歴[編集]
天正10年(1582年)、徳川家康の養女となる。
天正12年(1584年)、家康の寵臣・井伊直政に嫁いだ。直政との間に井伊直勝らをもうけた。
慶長7年(1602年)に直政が死去すると、出家し唐梅院と号した。出家後は、いまだ12歳の直勝をささえていた。
寛永16年(1639年)7月3日に死去。戒名は唐梅院殿台誉崇玉大姉。法名については清泉院とも。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 14時49分49秒 ) パスワード

http://www.fujinokunibunkashigen.net/resouce/main.php?search=area&mode=detail&article=2121

市野惣太夫の宗安寺:


宗安寺は、本坂通(姫街道)市野宿の町並みから北へ約900mにある曹洞宗の寺院である。

永禄・天正年間に市野氏開祖である市野惣太夫真久(実久)を開基とし、
潜龍恵湛が開創したといわれる。

永禄11年(1568)に徳川家康に仕えた真久は、慶長5年(1600)に遠江国の代官となり、
同9年に市野村に屋敷地を賜ったという。

        これが「市野氏」を名乗るそもそもでしょうか?



屋敷地は延宝8年(1680)の「浜松領分絵図」に記載されており、
宗安寺の西南100m付近にあったとされるが、正確な位置は不明である。

その後、代官職と惣太夫の名は、真次・真利・真防と受け継がれている。
宗安寺には真久、真次・真利・真防が葬られ、五代真則以後は江戸駒込勝林寺を葬地としている。
はままつ石塔めぐりより


       ということは5代目以降は江戸で旗本をしてたのでしょうね。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 15時01分21秒 ) パスワード

http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e5%ae%97%e5%ae%89%e5%af%ba&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U


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『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』

検索キーワード: 宗安寺
検索対象史資料: 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 浜松市史 一、 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 浜松市史 ニ、 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 浜松市史 三、 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 史資料


A.
浜松市史 ニ

いう侍町の中に、浜松城主太田資次の時分に宗安寺という父太田資宗の「菩提
所」があった。資


第三章 浜松城下町の形成 第三節 御役町の成立 御役町の成立
宗安寺と太田青山氏



B.
号を市野と改めた。元和二年死去(市野村の宗安寺に葬る)するや、代官職と惣太夫の称号は実

第四章 浜松藩の確立 第三節 浜松藩領の成立と他領 浜松地方の天領・旗本領・寺社領
天領の代官



C.
院●大見松小池大明神喜多嶋安間竜洞院都田宗安寺市野上石田下石田中田原嶋天王下堀白鳥江之

第七章 文化の興隆 第一節 寺院と神社 西遠地方の寺院
禅宗


D.
林寺西来院宗源院宿芦寺竜泉寺新豊院普伝院宗安寺(市野惣太夫開基)安養寺(宗安寺末)東漸

第七章 文化の興隆 第一節 寺院と神社 西遠地方の寺院
主要寺院


E.
文『真道山大聖寺誌』)・大安寺(肴町)・宗安寺(高町、菩提寺の西、城主太田氏・青山氏の

第七章 文化の興隆 第一節 寺院と神社 浜松の寺院
曹洞宗


F.
光院十一面観音成子坂西道院阿弥陀如来高町宗安寺阿弥陀如来塩町光珠寺十王地蔵沢竜谷院弁財

第七章 文化の興隆 第一節 寺院と神社 庶民の仏たち
開帳


G.
在地廃寺年天台宗万戒寺平田明治以前曹洞宗宗安寺(天林寺末)高町明治6年昌安寺(天林寺末

浜松市史 三

近代編 第二章 近代浜松の基礎 第四節 社会と文化 第八項 明治前期の宗教 神仏分離
廃寺と合併 上知令


[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 15時10分16秒 ) パスワード

http://www16.ocn.ne.jp/~toukaido/2hime1.html

服部小平太の宗安寺

     服部小平太の墓はなかなか立派な手入れのされた墓なので驚きました。
     画像の数々は雰囲気が鬱蒼としてて  こわい・・・



老ヶ谷六地蔵〜気賀

姫街道の旅2日目。今日も、格安「100均バス」にて「老ヶ谷口」バス停下車、前回終了地点「老ヶ谷六地蔵」前に9時到着(写真1)。かつては裏の竹藪に刑場があり、刑死者の霊をなぐさめる為に、正徳2年(1712)建立された。北側には東海道でよく見かけた「夢舞台道標・六地蔵」があり、久しぶりで懐かしいものを見た感じだった。

 この辺り道巾は拡張され、昔の面影の残るものは少ないが、車の通行も少なく道路脇にはミカン畑や茶畑が広がり長閑な所である。
10分程で道が分岐し此処を右方向に進む。分岐点には文化8年(1811)建立の「秋葉常夜灯」(2)があり、少し先左手木立の中には「千日堂」(3)が見える。これは、気賀の領主近藤家下屋敷にあった観音像を地区開発の恩賞として、寛文11年(1671)此の地に移し、祀ったと言われている。名称の由来は、宝永年間(1704〜10)に千日念仏が行われた事からこの呼称がついた。


4〜5分で、前方に御姫様が描かれた(5)貯水タンクが見えてくる。貯水タンクやや手前の分岐を左に入れば、左手には江戸から68番目の「老ヶ谷一里塚跡」(4)である。そしてタンク前分岐を右方向「長坂」(12)へと進むが、此処からは下り坂となる。この「長坂」、道は舗装されておらず両側には樹木が生茂り、久しぶりで旧街道を歩いた実感を味わう事が出来、非常に気分が良い。電柱、ガードレール無し、無舗装となれば文句の付けようがない。
気賀以東では当時の面影の残された数少ない所である。道幅も2m前位で松並木とは又違った街道らしさがある。

坂の途中には「服部小平太最期の地」(6)の碑があり、傍らの説明板によると、桶狭間で今川義元を討取った服部小平太は、信長亡き後、家康の家臣となり、この地を治めた。この地を単身巡視中何者かに襲われ非業の死を遂げた。この地は元々今川領であり、桶狭間に出陣して討死した者もあり、小平太に恨みを持つ者もあった。墓はこの下数十メートルにあり、又、此処から200m程北には小平太を祀った「宗安寺」跡がある。と書かれていた。


途中、舗装された道路を横断し、更に坂を下る。右からの舗装道と合流した所に古い鞘堂(13)がある。、覗いて見たが本体は無いようだ、弘化4年(1847)の棟札があるという。

合流地点に「中ん様のお墓・これより南100m」と書いた小さな標識を発見し、行ってみた。100m地点右側には「服部中保次の墓」とある。案内に従い建物の裏に廻ってみた。この辺りが先程の「服部小平太最期の地」から数十メートル下になるらしい。墓は建物の裏、やや少し上にあった(7)。「中ん様」とは服部小平太の事であった。


鞘堂前に戻り、少し進めば小平太を祀ったとされる「宗安寺」跡の石段に出る(14)。石段前の案内板によれば、i明治初期の廃仏希釈により廃寺になったと書かれていた。石段を上ってみた、道路を横断し、寺が有ったとされる所は全てミカン畑に変わっていた。なお、廃寺となった「宗安寺」山門は現在気賀、「正明寺」山門として使われている。

街道は、県道261号を横断し直進する。左手に見える小高い森に「刑部城址」があり、永禄11年(1568)地元の内山党が遠州に侵攻してきた家康と戦い落城したと言われている。

姫街道は、小さい橋でも「大橋」という名の橋を渡り、刑部城址を左に見て、小川に沿って回るように進む、城跡の一郭には金山神社が見える。丁度近くの家から出てきた女性に城址について尋ねてみた。城跡には井戸が残っているが危険だから近付かない方が良いと言う。「綺麗に整備して誰でも上れる公園風になれば良いのにね」とも言っていた。(六地蔵から刑部城址迄3.5km)
神社参拝後、山頂方面の城跡へ拝殿脇から少し入ってみたが、竹藪と、雑木が生茂り到底上れる状態では無く諦めて街道に戻った。
城跡に有ったとされる「金襴池」伝説についての説明板はあったが、附近には「刑部城址」に関する石碑、案内板は探したが分からなかった。


県道に合流し「落合橋」(上中)を渡る、往時は舟渡しだった。橋の手前は説明板があり

「江戸時代落合川は、気賀関所の要害川であるとともに、江戸城の守りにもなっていましたので、常には橋を作らず渡船でした。川幅は渡船場で三十一間(約56m)川の東は浜松領、西は近藤氏の気賀領でした。現在の橋は昭和51年完成した明治から四代目の橋です」
と、書かれていた。

「落合橋」を渡った右袂には「宝生地蔵菩薩」(右上)が祀られている。



もうひとつの小さい「落合橋」を渡り、高さ4m天竜浜名湖鉄道ガード下をくぐり「気賀宿」に入る。気賀には過去数回訪れているが「要害堀」や「赤池様」は未だ見ていない。関所跡は後にして先に訪ねる事にした。
「気賀四つ角交差点」左にポケットパークを見て、斜め左の細い路地沿い一帯に関所防備の必要から作られたという「要害堀」(8)は有った。現在は綺麗に整備され、昔の様子は分からない。
写真を撮っていると自転車に乗った年配の男性が話しかけてきた。子供の頃は水量も多く此処で泳いだり遊んだという、昔から水は綺麗で堀の巾は変わっていないとも言っていた。
堀沿いに少し進み、右に「赤池様」(9)と呼ばれる小公園がある。此処も綺麗に整備されており、古い石柱と新しい造形物、由緒等が書かれた石碑があり「明応7年(1498)、大地震により発生した津波で新居町に有った神社のご神体が流され此処赤池に漂着したいう。ご神体が祀られたのが現在の「細江神社」である」と記されていた。


「気賀四つ角」に戻る。此の四つ角、「要害堀」方面に入る小路を含めると厳密には五差路になっていた。この交差点から北西角に「気賀関跡」の碑が立てられている。関所跡を見る為、直ぐ隣の化粧品店と時計店との間の小路を入る(10)。気賀関所の創設には諸説あり、寛永初年(1624)が有力視されている。気賀近藤氏が管理し、新居関所と同様「入り鉄砲に出女」の取り締りが明治2年迄行われた。
現在見られるのは「下の間・勝手部分」(11)であり建物は一部の側面と屋根しか見る事は出来ない。

(気賀宿) 人口466人、家数、111軒、本陣2、脇本陣0、旅籠8軒(天保年間)

[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 15時12分38秒 ) パスワード

宗安寺という名は曹洞宗には多いようですね。


彦根は関係の無いネーミングでしたが
浜松の「宗安寺」の場合はみんな何か関連があるんでしょうか?太田家まで宗安寺?意外でした。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 15時30分49秒 ) パスワード

知れば知るほど謎が深まりますね。


アタマ休ませます。



どこかで  宗安寺というネーミングの秘密や  箕輪という地名が見つかると良いのですが。



みのわについて:
http://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=82

第82回 箕輪、三ノ輪、蓑輪、箕和・・・・・・

「みのわ」という地名は各地にみられます。ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、「みのわ」と入力して見出し検索(部分一致)をかけると57件がヒットします。もっとも、「部分一致」ですので、佐賀県唐津市の「鏡渡」(かが「みのわ」たし)や大分県中津市の「垂水渡」(たる「みのわ」たし)の「みのわ」に当たったというような場合も含まれますが・・・・・・。

「みのわ」の漢字表記は「箕輪」、「蓑輪」、「三ノ輪」、「箕和」、「箕曲」などさまざまですが、圧倒的に多いのは「箕輪」の表記です。 ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」で「箕輪」を引くと、次のような記述があります。


中部地方以東で、砦とりでを中心に発達した村をいう。突出した丘の周囲を取り囲んだ村落が箕の形に似ているところからいう。

形の似ている「箕み」とは、「穀類をあおりふるって、殻やごみをよりわける農具」(ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」)で、安来節のドジョウ掬いの男が手にしているザルよりも一回り大きく、平面でいえば、Uの字の上下を寸詰まりにして開口部を少し広げた形状、といってよいでしょうか。

また、鏡味完二・鏡味明克の『地名の語源』(1977年、角川小辞典13)によると、「ミノワ」は「曲流部や曲がった海岸・台地などの半円形の土地。(水<ミ>の輪<ワ>の意、または文字通り、箕<ミ>のように輪<ワ>になったの意か)。東北日本に分布」とあります。

「中部地方以東」(日本国語大辞典)、「東北日本」(地名の語源)と地域の特定がありますが
がありますが、「みのわ」でヒットした57件の地方別内訳は、


北海道・東北8件(北海道は0件)
関東20件、中部20件、
近畿5件、中国2件、
四国0件、九州・沖縄2件、

となっており、このうち「九州・沖縄2件」は先述の唐津市の「鏡渡」と中津市の「垂水渡」ですから、実質はゼロ。関東地方、中部地方に多いことが改めて確認できました。

「日本国語大辞典」、『地名の語源』ともに、箕のような半円形の地、であることは共通していますが、「日本国語大辞典」が「丘の周囲を取り囲んだ村落」と規定しているのに対して、『地名の語源』は丘陵・台地ばかりではなく「曲流部や曲がった海岸」まで範囲を広げています。

そこで、悉皆しっかいではないのですが、ヒットした57件のスニペット表示を眺めながら、蛇行する川に囲まれた、または半島状に海に突き出た村落はないのか調べてみたのですが、該当するものは見つかりませんでした。「日本歴史地名大系」の項目の中心は江戸時代の村落(現在の大字、町名に相当)ですから、「曲流部や曲がった海岸」の「みのわ」地名というのは、あるいは、江戸時代の村落よりもう少し規模の小さい、小字・小名といった単位でみられるのかもしれません。

一方で、丘陵・台地における「みのわ」地形は幾つか確認できました。その一つは群馬県群馬郡箕郷町みさとまち 西明屋村にしあきやむら(現群馬県高崎市)の【箕輪城跡】の項目です。「日本歴史地名大系」には、


榛名はるな山東南斜面を流下する白しら川と井野いの川に東と西を挟まれた台地(標高二七三メートル)に立地し、西北―東南方向、長さ一千七〇〇メートル、幅七〇〇メートルの範囲に構築された平山城。南に椿名つばきな沼(現在は水田)を箕手状に抱えこんでいたので箕輪の名がある。

との記述があり、実際の地形をみても(次に掲げる地形写真を参照)、城郭が載っていた台地が半円形であることを確認できます。


ところで、江戸時代の村落(大字)よりも規模が大きい「みのわ」地名も存在します。それは、長野県上伊那かみいな郡の箕輪町と南箕輪村で、現在の自治体名(市町村名)に「みのわ」地名を採用しているのは、この2件だけです。この両自治体の「箕輪」は中世の箕輪郷に由来するのですが、「日本歴史地名大系」は【箕輪郷】について次のように記しています。


現箕輪町・現南箕輪村及び現伊那市の西箕輪と手良てら地域を一括する地方。平安時代の中頃に成立した蕗原ふきはら庄の領域で、室町時代後半からは箕輪・箕輪郷・箕輪領などとよばれた。

箕輪郷の範囲を地形写真で確認すると、だいたい下図の範囲になるのですが、経ヶ岳きょうがたけを西方の頂点として、南流する天竜川を東方の下端とする箕輪郷域全体を「箕」の形状とみるか、伊北いほくインターチェンジを北方の頂点とし、国道361号で南方下端を画される天竜川右岸平野の形状を「箕」とみるのか、判断はつきかねます。ほかにも蛇行する天竜川に囲まれた小さな「みのわ」地名がそもそもの発祥で、小さな「箕の輪」がのちに郷域全体をさす呼称となった可能性も否定できません。


この写真では確認できないが、天竜川の小さな曲流部を「みのわ」とよんだ可能性もある

「みのわ」地名が箕のような形状をした半円形の土地に由来することは間違いないのでしょうが、箕の形状をどういう規模でとらえるかは、それぞれの「みのわ」地名でケースバイケースである・・・・・・というのが、今回の考察の結論となりました。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 15時34分45秒 ) パスワード

第83回 南箕輪村の不思議


前回は「みのわ」地名について考察しましたが、そのなかで、現在の自治体名(市町村名)に「みのわ」地名を採用しているのは、長野県上伊那かみいな郡の箕輪みのわ町と南箕輪みなみみのわ村の2町村のみと記しました。

この2町村のうちの一つ、南箕輪村はなかなかユニークな村で、他の市町村にはない(あるいは極めて少ない)特色が幾つかみられます。東を南アルプス(赤石山脈)、西を中央アルプス(木曾山脈)に挟まれ、南流する天竜川沿いに平地が開ける伊那谷(伊那平、伊那盆地とも)の北部に位置する南箕輪村について、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」は次のように記述します。


天竜川の段丘上の村で、北は箕輪町、他の三方は伊那市に接する。集落は段丘崖を上下して南北に走る伊那往還(現国道一五三号)に沿って発達し、北より久保くぼ・塩しおノ井い・北殿きたどの・南殿みなみどの・田畑たばた・神子柴みこしば等がある。東境は天竜川で、その沖積地の西は幾つもの段丘を経て山麓の扇状地に続いている。村の西から南にかけては平坦地であるが、伊那市との境は入り組んでいて複雑である。そして伊那市大字西箕輪を飛び越えて木曾山脈の中腹から山頂にかけて広大な飛地がある。 その一部の大泉所おおいずみどころ山に源を発する大泉川は村の中央部を東流し天竜川に注ぐが、伏流のため中流の大泉地域は古来水利が悪い。しかし、昭和初期に西天竜用水路が建設されたため、平地林や桑園は水田と化し、更に第二次世界大戦後の開発により、大芝おおしば・北原きたはら・南原みなみはら等の集落が発達した。昔は第一段丘の上下の地域に稲作中心の農業が行われ、その肥料源として西部山地に採草地が求められ、残米は木曾地方へも移出された。 明治二二年(一八八九)の町村制施行にあたっても、明治八年にできた南箕輪村のまま一村として変わることなく、今日に至っている。

特色の一つは「伊那市大字西箕輪を飛び越えて木曾山脈の中腹から山頂にかけて広大な飛地がある」と記されるように、大きな飛地をもっていることです。飛地をもつ市町村は全国に数多く所在しますが、ほとんどの場合、飛地の面積は本体の10分の1あるいは100分の1といった具合です。しかし、南箕輪村の場合、集落が展開する天竜川左岸平地(本体)の面積が19.2平方キロメートル、これに対して木曽山脈北部にあたる黒沢山、大泉所山、経きょうヶ岳たけ、権兵衛ごんべえ峠の東斜面の山林飛地(かつての入会秣場、無住地区)の面積が21.7平方キロメートルと本体を上回っています。


伊那市を挟み西方山地に大きな飛地がある


ちなみに、青森県の五所川原ごしょがわら市と北津軽郡中泊なかどまり町のように、津軽半島の北西端に中泊町の北部地域(旧小泊村)があり、その南東に五所川原市の北部地域(旧市浦村)が続き、さらにその南西に中泊町の南部地域(旧中里村)、さらにその南西に五所川原市の南部地域(旧金木町と旧五所川原市)が続くという、飛地同士が入れ子状態となっている例もありますが、これは平成の大合併の際、合併問題が拗れたための産物。こうした特殊事情がなく、しかも本体に相当するような飛地のある自治体は、全国でも非常に珍しいといえるでしょう。

特色の二つ目は、先に「日本歴史地名大系」で「明治八年にできた南箕輪村のまま一村として変わることなく、今日に至っている」と記述されるように、明治22年(1889)の市制町村制施行による合併(いわゆる明治の大合併)、昭和28年(1953)の町村合併促進法施行以降の合併(いわゆる昭和の大合併)、平成17年(2005)の新合併特例法施行による合併(いわゆる平成の大合併)、いずれの波にも飲み込まれずに単独自治体であり続けたことです。

こうした自治体は、ほかにも東京都西多摩にしたま郡檜原ひのはら村、山梨県北都留きたつる郡丹波山たばやま村、同小菅こすげ村、同南都留郡道志どうし村などがあり、それほど珍しくはないのですが、前掲4か村がそうであるように、周囲から隔絶された山間地の自治体に多くみられ、南箕輪村のような平地に展開して隣村と近接するような場合には、あまり類がないといえます。

特色その三は、信州大学農学部があること。全国の村で国立大学のキャンパスが所在するのは南箕輪村だけだそうです。

特色その四は、全国町村のなかでは数少ない人口増加地域であるということ。


首都圏への一極集中、地方の人口減少が危惧されるこの頃ですが、それぞれの地域においても、県庁所在地(あるいは政令都市、地方拠点都市)への人口集中と山間地の過疎化が問題となっています。先に記しましたように、南箕輪村は山間僻地の村ではないのですが、長野県の県都長野市からは直線距離で約100キロ、地方拠点都市の松本市からも約40キロ離れています。

たとえば、今年1月1日に市制を施行した、かつての岩手県岩手郡滝沢たきざわ村は県都盛岡市に隣接してベッドタウン化が進捗、ついに人口が5万人を突破していきなり市制を施行したもの。南箕輪村と同じ長野県の東筑摩ひがしちくま郡山形やまがた村も全国で数少ない人口増加村なのですが、やはり、村の三方を地方拠点都市である松本市に囲まれており、同市のベッドタウンとしての性格が顕著です。


周囲を松本市に囲まれた山形村は人口増加地域



南箕輪村の平成22年の国勢調査での人口は1万4852人、増加率は6.8パーセントで(平成 17年の国勢調査との比較)、長野県下の市町村では北佐久きたさく郡軽井沢かるいざわ町(平成22年の国勢調査人口1万9018人)の10.9パーセントに次ぐ高率となっています。しかも、軽井沢町は社会増・自然減(平成26年の人口動態調査)であるのに対して、南箕輪村の場合は、社会増・自然増で、社会増減・自然増減の双方で増加しています。軽井沢町には「避暑地の聖地・旧軽井沢」という類稀な観光資源がありますから、社会増はうなずけるところです。

ここで、人口規模が南箕輪村とほぼ同規模の長野県埴科はにしな郡坂城さかき町(平成22年国勢調査人口1万5730人)とも比較してみましょう。上田市と千曲市に挟まれた坂城町は千曲川に沿って、しなの鉄道や国道18号が走り、上越自動車道の坂城インターチェンジ(東京から200キロ圏)があります。戦前から工場誘致には熱心で、20年ほど前には坂城テクノセンター(現さかきテクノセンター)を開館、インターチェンジ近くの工業団地への工場誘致も成功しています。しかし、平成12年(2000)国勢調査時をピークとして、以後人口は減少に転じました。

南箕輪村は天竜川に沿ってJR飯田線、国道153号が走り、伊那市境に中央自動車道の伊那インターチェンジ(東京から200キロ圏)があり、工業団地も幾つか造成されており、坂城町に近い条件が整っています。しかし、平成24年の製造品出荷額等は坂城町が約1427億円(前年比2・8%増)で県下12位、南箕輪村は647億円(前年比26・9%減)で県下23位となっており、工業面では坂城町が優勢といえるでしょう。


南箕輪村と規模が似ている坂城町


このようにみてきますと、南箕輪村は大都市圏からの距離、観光資源、工業面等々でさほど優位ではないのに、なぜ人口が増加しているのか、という疑問が湧いてきます。南箕輪村ほか各市町村のホームページを閲覧した結果、筆者がたどりついた一つの考えは、南箕輪村が子育て支援に力を注いでおり、長期にわたってさまざまな施策を行ってきた成果ではないか、というものでした。

役場の組織でいえば軽井沢町は「住民課」の下に「児童係」があり、さらにその下に「子育て支援センター」が置かれています。坂城町は「福祉健康課」の下部組織として「子育て推進室」を設置しています。ところが南箕輪村では「住民福祉課」とは別に、独立した「子育て支援課」という1課が設けられています。ホームページのインターフェイスでも、気が付きやすい位置に「子育て」のアイコンを置くライフステージ欄があって、他の市町村に比べて扱いが大きく、利用者はすぐに「子育て」情報に行き着ける構造となっていました。

ここまで、南箕輪村の特色を幾つかあげていました。たとえば、大きな飛地があることは入会地を守り続けた結果かもしれませんし、合併しないのは、独立独歩の気概が強いからかもしれません。また、国立大学のキャンパスがあるのは教育施設の誘致に熱心だったからもしれません(これらはすべて筆者の推測です)。しかし、長年培ってきたこのような風土が、子育て支援に早くから取り組む姿勢につながり、現在の地方衰退傾向に一石を投じるようなユニークな自治体となった要因かもしれない、と筆者は想像する次第です。


[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月03日 15時37分58秒 ) パスワード

高崎の箕輪と伊那の箕輪は地形による偶然の一致なのかもですね。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月04日 12時30分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は午後より中央図書館へ行き、市野氏関係の資料を探しておりまし
た。探せば出るものですね。ありました、市野氏の子孫によって書かれた
『家譜 市野家物語』(市野康彦著)というものが・・・。
 その中にどのような人が関係しているのか、もう一冊『小野篁と遠州小野
一族』(川島幸雄著)も借りて来て、松島氏の家譜の関係者との照合を今まで
しておりました。
 小野篁の子孫がこの遠江へ逃れて来ていた。その土地の名は今は尾野村と
呼ばれています。松島忠兵衛源常茂の七女が小野次郎左衛門家に嫁に入って
います。
 小野家も名家であり領主、でもありましたので、色々な名家との姻戚関係
があります。

 さて、市野家についてでありますが、何回かに分けて報告いたします。
 まずは.ルーツですが、大きく分けて三つあるという。
 @近江の浅井氏(更に遡れば藤原鎌足)説
 A天武天皇説
 B物部氏説
 それぞれに根拠はあるようですが、市野家の口伝としては近江の浅井氏が
ルーツといわれているそうですので、それはそれでいいとしておきます。
 
 一度ここで切ります。
 
 
 


[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 13時17分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>松島忠兵衛源常茂の七女が小野次郎左衛門家に嫁に入っています。

小野篁の子孫でしたか。

小野氏は頂いた松下氏や井伊氏の情報を読んでいた時に何度も出て来ましたね。


M氏は今川方だったんでしょうか?




http://www.suki-radi.com/sukimono_sengokuradio/introduction/sub_dete/no57/no57.html


井伊家の年寄=家老=が小野氏


天文13年(1544) 12月。家老小野政直の今川義元への讒言により直満・直義が駿府で誅殺される
次郎法師の許嫁の亀之丞(直親)が井伊谷を脱出


天文23年(1554) 家老小野政直 没
豊臣秀吉が織田信長に仕える


永禄 5年(1562) 12月。家老小野道好の今川氏真への讒言により直親が掛川で誅殺される(27歳)
虎松は実母と井伊谷を脱出し、以後各地を転々とする
南渓瑞聞と祐椿尼が次郎法師の井伊家相続を画策
清州同盟


永禄 7年(1564) 虎松の実母が松下清景と再婚。虎松は松下家の養子となる


永禄11年(1568) 徳政令発布文書に関口氏経(今川家臣)と連名で[次郎直虎 (花押)]と署名
家老小野氏に実権を奪われる
12月。徳川家康が遠江国に侵攻
織田信長が上洛
足利義昭が将軍になる


元亀 元年(1570) 徳川家康により小野道好一族が粛清される
姉川の合戦


__________________________________

小野道高 (*)井伊家家老。今川氏と同盟。
1544年井伊当主の直満・直義兄弟の謀反を今川義元に報告。直親は信濃国に逃亡する。



______________________________

富永先生のご先祖さまでしょうか?

↓▽富永忠元 (1537〜1561)伴・五郎・忠元。東条吉良義昭の家老職。富永忠安(忠康)の息。

1561年上野城主・深溝松平好景を討つ。深溝松平伊忠と抗争。
1561年「西尾城の攻防」に敗戦。続いて東条城表「藤波畷の合戦」に本多広孝・酒井正親・小笠原長常・松井忠次に討たれる。
弟・徳玄も戦死。室城主。25歳。
<吉良家の勇将。義元の「元」の字を与えられている様子。
1554年頃に義安に従った父が戦死しているとすれば、人質生活を送っていたかもしれませんね。>
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 13時26分44秒 ) パスワード

小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))

平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位・参議。
異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。
小倉百人一首では参議篁。


弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。

これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年)文章生試に及第した。[1]


天長元年(824年)巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下・大宰少弐に叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌がひどく衰えてしまうほどであったという[1]。

天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。


承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。承和2年(835年)従五位上、承和3年(836年)正五位下と俄に昇叙されたのち、承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。

承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)[1]。

のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった[2]。

そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した[2]。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという[1]。

承和7年(840年)罪を赦されて平安京に帰り、翌承和8年(841年)には文才に優れていることを理由として特別に本位(正五位下)に復され[3]、刑部少輔に任ぜられる。承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。

その後は、承和12年(845年)従四位下・蔵人頭、承和13年(846年)権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に当時審議中であった善・訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても、本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、告発された弁官らを弾劾する流れを作った。

しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして、悔いたという[4]。


承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。

嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった[1]。

天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたという[1]。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去[1]。享年51。最終官位は参議左大弁従三位。


京都市北区紫野西御所田町の島津製作所紫野工場の一角に、紫式部のものと隣接した墓所がある。



人物[編集]

『令義解』の編纂にも深く関与するなど明法道に明るく、政務能力に優れていた。また、漢詩文では白居易と対比されるなど、平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。また和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首が入集している[5]。家集として『野相公集』(5巻)があり、鎌倉時代までは伝わったというが、現在は散逸。

書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたという[1]。

非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったという。危篤の際に子息らに対して、もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたとされる。[1]

身長六尺二寸(約188p)の巨漢でもあった[1]。



代表歌[編集]
参議篁(小野篁)(百人一首より)

     わたの原  八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(『百人一首』11番)

     泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに(『古今和歌集』)



逸話と伝説[編集]

篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺)と京都東山の六道珍皇寺(死の六道)にあったとされ、また六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。

京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。

『今昔物語集』「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」によると、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁の執成しに よって蘇生したという逸話が見える。

『宇治拾遺物語』などには、嵯峨天皇のころ、「無悪善」という落書きを「悪(さが(嵯峨のこと))無くば、善けん」(「悪なからば善か らん」とも読める。いずれにせよ、「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意。)と読み、これが読めたのは篁自身が書いたからに違いないと立腹した嵯峨天皇は「『子』を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを出したが、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせ事なきを得た、という逸話も見える。

まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白居易の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。

白居易は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。

また篁を主人公とした物語として、異母妹との悲恋を描いた『篁物語』があるが、完全なフィクションである。

陸奥守在任中の承和9年(842年)に竹駒神社を創建している。また、六道珍皇寺を創建したとの説もある。



系譜[編集]
父:小野岑守
母:不詳
妻:藤原三守の娘
生母不明 男子:小野俊生
男子:小野良真(または良貞・良実) - 小野小町の父[6]
男子:小野葛絃[7] - 小野好古・道風の父
男子:小野忠範
男子:小野保衡[8][9] - 子孫は武蔵七党の猪俣党・横山党。
男子:小野利任[8] - 子孫は森本氏、羽束氏[10]、安福氏。


武蔵七党の猪俣党や横山党などの武士は小野篁の子孫を称して、小野にちなんで「野太郎」「小野太」などと称している。また、それからの転化で「弥太郎」や「小弥太」と称した者もいる。なお、猪俣党や横山党の出自については、小野篁の後裔とするもののほか、武蔵国造の末裔とする説もある[11](詳細は猪俣党・横山党の各項を参照)。


小野篁を祀った神社[編集]

小野篁神社、滋賀県大津市
小野照崎神社、東京都台東区
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 13時46分04秒 ) パスワード

市野家のルーツ

@近江の浅井氏(更に遡れば藤原鎌足)説
A天武天皇説
B物部氏説

全部有り得ますね。



天武天皇の直接の流れか?というのは分からないけれど、当然、日本ですから有り得ますよね。

つまり
     (天武天皇の皇后   鸕野讃良皇女(持統天皇)    この人は無視)

天武天皇の夫人達は  
藤原氷上娘ひかみのいらつめ   藤原五百重娘いおえのいらつめ   蘇我大蕤娘おおぬのいらつめ=蘇我赤兄の娘 で、

   藤原氷上娘ひかみのいらつめ   藤原五百重娘いおえのいらつめ  の父上は鎌足ですものね。

   姉妹で同じ夫というのは現代では考えられないのですけど
   鎌足にすれば必死で男皇子の孫が欲しかったのでしょうね。


天武天皇ほどにもなると他の女性=采女=に子供を生ませてたというのは充分考えられますしね。
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月04日 18時26分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は大当所の小笠原系山下氏の家紋を確認に行ってきました・・・「丸
に一文字紋」があるかどうか。大当所近辺の寺を数か所回ってきました。
山下氏の墓は10基程ありましたが、「丸に一文字紋」は一つもありません
でした。あったのは、「丸に若根笹」、「丸に片喰(かたばみ)」、「丸に五
三桐」、「丸に立ち沢瀉(おもだか)」、「下り藤」でした。そうとう見てま
わっていますが、小笠原氏に関しても、三階菱はここのところいくつか見て
いますが、「丸に一文字」は一つも見つかりません。

 ということで、本題に入りますが、実は『家譜 市野家物語』には、市野
氏の家紋「丸に一文字」の由来の説明が出ておりました。少し長くなります
が、引用します。
 「市野家の口伝によれば、徳川家康の馬が市野を通過中、具合が悪くなり、
 袴田家(市野氏と名乗る前)に立ち寄った。徳川家康が市野村を通過したの
 は地理的に見て、金指から橋羽に向う途中と考えられ、永禄11(1568)年
 12月14日のことと推察される。袴田家は祖父、寺田右京進眞宗、実は
 今川の家臣であったようである。
  袴田家では家康を快く迎え、代わりの馬として袴田家で飼っていた馬を
 差し出した。同時にかつお節を丸い盆に入れて差し出したとのことである。
 かつお節は勝武士(かつぶし)という意味で縁起を担いだようである(「か
 つぶし」とは浜松地方の方言である)。
  差し出した馬が気に入った家康は、その場で家臣の厩別当(うまやべっと
 う)を呼び、袴田と馬談義をさせた。二人の会話を楽しそうに訊いていたと
 のことである。
  天正17(1589)年、鷹狩に来た家康公から、在名市野を姓とし、丸い盆
 にかつお節一本の「丸に一文字」を永久家紋とせよとの仰せがあった。」
ということであります。
 丸い盆にかつお節一本」=「勝武士」という話にはビックリです。

 ここで一度切ります。
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月04日 21時23分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、ご子孫がまとめた市野氏の系図ですが、これも想定外のビックリ
があります。では―
 
 @寺田右京之進眞宗:市野の前は袴田、袴田の前は寺田でした。
 ↓
 A袴田利宗:宗安寺には袴田の墓標がたくさんありました。
 ↓
 B袴田五郎右衛門:惣太夫眞久の兄です。当初、家康との対応をしていま
          したが、関東移封のとき同行を病気のため断り、弟の
          眞久が行くことになった(代官になった)。
          元和年中、本家・新家の争い、弟系の代官を相手取り
          騒動を起こしたということで裁かれ、護送中に金谷の
          宿にて切腹。
 ↓
 C初代 袴田(市野)惣太夫眞久:家康公三方原御陣の節、御馬御用仰せつ
                けられ、御調馬御用承り信陽関東処所に
                てお馬を調べ、鹿毛馬を差し上げた。
                天正17(1589)年、御鷹狩に来た家康公
                から在名市野を姓とし、丸に一文字を永
                久家紋とすべき仰せを蒙る。
                慶長5年京都に呼び出され、家康公に差
                し上げたお馬を預り、遠州在所に於いて
                天領の代官を命ぜられる。江戸には兄の
                代わりに出仕する。
 ↓
 D市野惣太夫清原正次(實次):父に代わり御馬を預り御代官をつとむ。紀伊
               大納言頼宣卿駿遠両国を領したまうとき附属
               せられ、また紀伊国に封を移されしのち、秀
               忠公に仕え奉り、御代官をつとむ。
 ↓
 E市野惣太夫眞利
 ↓
 F市野惣太夫眞防
 ↓
 G市野孫三郎眞明

ザラッとこんなところです。

 名前が、寺田、袴田であったというところをもう少し探究したいです。
 また、代官職・家督相続で新屋(代官)にたてついたということで死罪
とは、何とまあビックリ。

 松島系とどうつながるのかを探っていますが、家紋はこちらからいただ
いていると思います。また、寺田が親戚にいるというのも共通しています。
松島は源氏にこだわっていますので、やはり小笠原系の松島ということに
なるのではないかと思います。では箕輪の松島氏が何故袴田氏と懇意にな
ったかという理由・・・謎解きのポイントです。

 本日はこれまでにします。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 21時34分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


ビックリ!ビックリ!ビックリ!

袴田家!!!
M氏家譜に袴田家との婚姻、ありましたよ!!!
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 21時57分18秒 ) パスワード

調べて来ました。


M氏3代目  忠兵衛常茂  元禄14年死去     1701年

              妻が高畑村小野清次郎妹
              香奠帳には小野源右衛門と有り

            天正9年3月当国  高天神城落城   1581年
            岩井新田御免  源四郎持来て見せる盛郷の書判也
            此書判惣右衛門右衛門出入・・・・


        5女
        6男    大瀬村袴田清兵衛養子となる
              又助と言う
              延宝二寅出生      1674年(延宝2甲寅)  



常茂さんが亡くなったのは1701年。
このM氏の家は長生きなので80歳で亡くなったとして1620年あたりの生まれ。

何故この人の項に対助さん13歳の年の1581年の高天神城落城が書かれているのか?

高天神城の落城は対助さんの親の代の事件だったはず。

高天神城の落城はM氏にとって重要な事件だったのでは?
M氏にとっての武田方が家康に負けた意味とは?
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 22時01分53秒 ) パスワード

山下家の墓の家紋に丸に一文字が彫られていないのは   女紋だから?  と思いました。



山下氏に直接この件についてお尋ね出来ると良いですね。
次回お寺さんでどなたかに出会って、山下家の縁りの方だったら、お訊きしてはいかがでしょう?
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 22時18分30秒 ) パスワード

家紋のお話も解明済みですね。


>天正17(1589)年、鷹狩に来た家康公から、
   在名市野を姓とし、丸い盆にかつお節一本の「丸に一文字」を永久家紋とせよとの仰せがあった。」
>ということであります。

>「丸い盆にかつお節一本」=「勝武士」という話にはビックリです。


なるほどね。
@が、まさか「鰹節」だったとは。



ものすごい収穫でしたね。

[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 22時21分05秒 ) パスワード

<68>の書き直し


三つ柏さん


貴重なお話をありがとうございました。


市野とは家康からの拝領の名字でしたか。


>(市野と名乗る前)袴田家は祖父、寺田右京進眞宗、実は今川の家臣であったようである。

これで納得しました。
なんとなくM氏は家康方ではないなとは臭ってました。



となりますと袴田氏や寺田氏も調べないといけませんね。

通字の「真」は祖父・袴田=寺田=右京進眞宗からからでしょうね。
家康との出会いを記念として。


    名前には意味がありますから
    市野家の、その意味、が解明出来ましたね。
    パチパチパチ(拍手)

[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 22時37分13秒 ) パスワード

>代官職・家督相続で新屋(代官)にたてついたということで死罪とは、何とまあビックリ。

    はい、民主主義に育った我々にはビックリですよね。


でも兄は、家康の要請を「病を理由に」蹴ってますからね

その後に、代官は自分が正統、とでも言い出したのでしょうかねえ?



時代の初めって、厳罰を以て処す、というのがありますね。
例えば
太閤検地でも、「検地に反対する者はことごとく撫で斬りにせよ」というもの。

   時代が下がると「自己申告でいいよ」に変更。


関東移府は、家康だって、家康の譜代の家来達だって、みんな嫌だった。
そういう嫌なことも呑んで引っ越して行った。
   その後、家康一党は江戸建設に大変な辛酸を舐めた。

それを遠江にヌクヌクと居残っておきながら代官職は自分が正統というのは余りにも図々しい、とされたのでしょうか?

この裁定には、弟の市野家側には溜飲が下がったでしょうね。



徳川風の秩序を守らせたすごい裁定ですね。
家康自身が怒ったのかもですね。仮病の段階でも怒ってたんでしょうね。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時10分37秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101459_1.html
スレッド43を立てました。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時17分32秒 ) パスワード

袴田氏

http://kurokamon.blogspot.com/2012/06/blog-post_8858.html


浜松の袴田家の家紋
  「仏立の丸」との事でした
   京都宥清寺の寺紋と同じでした


次に現在の「袴田姓」はどんな家紋が使われているか?
『都道府県別姓氏家紋大事典』(千鹿野茂著)で調べてみると、
下記のように出自と家紋によって六つに大別されます。


       家紋「左三つ巴」a,cのうち 静岡県はc.


a:豊後国大友氏族  家紋はすべて「左三つ巴」
北海道、青森県、埼玉県、和歌山県、広島県、香川県、愛媛県 



b:伊勢国渡会氏族
東京都「丸に梅鉢」、神奈川県「丸に橘」 和歌山県「抱き茗荷」、京都府「丸に蔓柏」



c:遠江国藤原氏族           ← 市野氏も?
静岡県、愛知県は「左三つ巴」、岐阜県は「丸に剣片喰」




d:桓武平氏族  宮城県「七曜」
e:安東氏家臣  秋田県「丸に三つ柏」、「丸に木瓜」




f:出自不明  鹿児島県「木瓜」




袴田姓の出自について

『全国名字大事典』(森岡浩著)によると
袴田【はかまだ】静岡県の名字。

県西部に集中しており、特に浜松市に多い。



戦国時代は井伊氏の家臣に袴田氏があった。
江戸時代には遠江国各地に袴田家があった。


豊田郡二俣村(浜松市)の袴田家は橘姓といい、代々名主を務めた。

このほか、伊勢国渡会郡袴田(三重県)発祥の袴田氏もある。


軒数順位は全国1000位台、最高は静岡県87位(1000軒以上)



以上
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時27分26秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E4%BD%90%E5%90%89

豊田佐吉



生誕
慶応3年2月14日(1867年3月19日)
日本の旗 日本
遠江国敷知郡山口村
(現在の静岡県湖西市)

死没
1930年10月30日(満63歳没)
名古屋市覚王山自邸            名古屋大学のすぐ近く

職業
発明家・実業家




思想[編集]

二宮尊徳が実践したことを、継承者が広めたものが報徳思想である。
報徳思想は明治期になり、報徳社が各地に組織されて大きく広まった。
特に静岡県では岡田良一郎により、報徳社が県下に多く開設された。

佐吉が生まれた湖西地区や湖北地区おいても、石原貞藏や袴田孫兵衛という有力者によって報徳社がつくられた。

                                   袴田孫兵衛




報徳思想では、至誠・勤労・分度・推譲を行うことが重要とされた。これは経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く考え方であった。豊田家においても父の伊吉は熱心に報徳思想を信じて実践した。佐吉自身も自らの規範として報徳思想を行動の原点としていた[40]。

佐吉がもうひとつの心の拠り所としたのが日蓮宗である。代々の豊田家の菩提寺は日蓮宗日什門流八別格本山のひとつである妙立寺であった。そのため、小さい頃から日蓮宗は身近な存在であった。妙立寺には父の伊吉が寄附したことを記した大きな寄進板が掲げられている。日蓮宗の持っている現世救済の精神、あるいは国家主義的な教えを佐吉は常に心の中に持っていたと考えられる。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時30分48秒 ) パスワード

袴田孫兵衛とは?



忠兵衛源常茂の6男が大瀬村袴田清兵衛の養子となっています。


孫兵衛さんは清兵衛さんの子孫でしょうか?
わくわく
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時34分12秒 ) パスワード

http://bambi.u-shizuoka-ken.ac.jp/~kiyou4228021/12_1/12_1_01.pdf

文字化けです。


[PDF]近世東海道の宿駅文化 - 静岡県立大学短期大学部


Nov 14, 2014 - 繁栄し、一般に九流十派と呼称されると、石岡久夫氏は言う3。 ....

たとえば、遠江国佐野郡遊家の雨櫻神社で歴代にわたって神主を勤める山崎久章が残した詩 ......
遠江豊田郡二俣村の袴田甚右衛門25の双子の弟、袴田勘左衛門は長上郡 ...

                              ココ 興味ありますね。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時40分44秒 ) パスワード

http://nagamarite.blog.fc2.com/category29-1.html

下の方です。ブログ主さんは秋田の方のようです。
袴田氏は伊勢神宮関係者?
さらに南朝方?



名字の由来A 袴田
2013 / 04 / 23 ( Tue ) 00:03:24

秋田県能代市内、三種町志戸橋に集中する名字です。


日本全体では東海地方に多く分布しますが、岩手下閉伊郡や青森上北郡にも集中しているようです。

能代市長崎に集中する袴田姓の先祖儀兵衛は、戦国時代に大淵氏らと共に北陸か
ら男鹿に入国、大淵氏は若美町に、袴田氏は能代に土着したと伝わっています。

ところが一方で、両者は大野治長の配下で江戸時代に大阪夏の陣から逃れてきた
という説もあり、伝承が交錯しているのかもしれません。


大野治長はあの淀君(茶々)の側近として有名ですね。

これ以前にもすでに檜山安東氏の家臣団に袴田孫二郎(100石)、袴田弥三郎
(136石)の人物がおり、石高からも相応の武家だったことがうかがえます。


おそらく志戸橋の袴田氏の系統かと思います。志戸橋は羽州街道で檜山からごく
近く、地理的に要所だったことがわかります。


軍記では、檜山安東氏と湊安東氏の抗争「湊合戦」にて袴田小左衛門が討ち死に
したともあるようです。
いずれ戦国時代前からすでに土着していた系統があったことがわかります。



では袴田姓のルーツは何かといいますと、伊勢神宮にあると考えられます。

伊勢神宮はご存知のとおり天皇や大和朝廷、国民からも永く崇拝されてきた最も
神威高い神社です。
伊勢神宮には内宮と外宮があり、古代よりそれぞれに神官がいて世襲されています。
内宮が荒木田氏、外宮が度会氏(わたらい)です。



袴田氏は度会氏から分岐した一族で、伊勢国度会郡袴田郷を発祥地としています。

伊勢神宮は、古来より全国各地におびただしい数の荘園(私有が許された領地)
を持っており、
神官一族はこうした荘園の管理者などになっていました。
伊勢神宮領が多かった東海地方に袴田姓が多いのも不思議ではありません。


檜山安東氏の家臣団には袴田氏だけでなく、渡会新介という人物もおりましたの
で、ほぼ間違いないと思います。
そしてこれらを結ぶのが南朝勢力です。



伊勢国は南朝方の最有力者北畠氏の拠点でもあり、伊勢神宮度会氏もまた南朝方
の人物として有名です。


また、袴田姓が集中する岩手下閉伊郡や青森上北郡も伝承では南朝勢力の拠点と
伝わっています。

分布は能代市173世帯、旧山本町50世帯。多いですね。
家紋は「丸に覗き菊」「丸に木瓜」などだそうです。菊?


これらはあくまで断片的な情報に過ぎませんが、ルーツや歴史を紐解く鍵になる
と思います。


家系調査は100%不可能と言っていいほど困難なものですが、興味のある方は
調べてみるのも楽しいと思いますよ。大変ですけど・・・。

[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時44分40秒 ) パスワード

袴田さんは伊奈備前守忠次関係者?手代だったって。

https://kotobank.jp/word/%E5%82%99%E5%89%8D%E6%A4%9C%E5%9C%B0-863350

備前検地
びぜんけんち

江戸前期の代官頭(がしら)伊奈備前守(いなびぜんのかみ)忠次(ただつぐ)が実施した天正(てんしょう)・文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)期の検地。

初めはその通称により熊蔵縄(くまぞうなわ)、別に伊奈検地ともいう。

大久保長安(ながやす)の石見(いわみ)検地と並ぶ代表的検地である。



1589、90年(天正17、18)徳川氏の五か国総検地に始まり、関東入国後は、天正・文禄期を経て1609年(慶長14)に至る。

検地の実施は、伊豆(いず)、武蔵(むさし)、相模(さがみ)、上野(こうずけ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)から遠江(とおとうみ)、尾張(おわり)にも及んだ。

初めは6尺5寸(約1.97メートル)、のち6尺1分(約1.82メートル)の検地竿(ざお)を用い、6尺1分四方を1歩(ぶ)、300歩を1反(たん)とした。


実際は家老格の大河内金兵衛(おおこうちきんべえ)や手代の袴田七右衛門(はかまだしちえもん)、新井忠右衛門(あらいちゅうえもん)らが行い、
荒廃した農村の復興と生産力の正確な把握を目的としていたが、
1602年の常陸の検地は「慶長の苛法(かほう)」とよばれ、
領主取り分の増加を企てたともいわれる。


備前検地は基本的には戦国期以来の名主(みょうしゅ)層の農業経営を容認しながら、
彼らを年貢・夫役(ぶやく)の負担者に位置づけ、
さらに他方では小農民の自立化を志向しながら、経営の保護と安定化をねらいとしたものである。[村上 直]


『和泉清司著『伊奈忠次文書集成』(1981・文献出版)』
[参照項目] | 伊奈忠次 | 石見検地
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時54分07秒 ) パスワード

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/mononobe1g.htm


物部氏                 服部さんも(笑)
                    袴田さんは下の方


〇 物部氏族の出自は極めて難解なものがあり、実際のところ、何回か私見を変更せざるをえなかった。これまで、その一族諸氏(阿刀連、津門首、物部依羅連など)の分布・性格、奉斎神(石上神宮を和邇氏族の物部首〔のちに布留宿禰姓〕とともに奉斎)や祖神の所伝(山代国造と共通の祖神を有すること等)など様々な視点から検討したが、迷いが生じた。当初は、水神奉斎等から海神族の出で、和邇氏族や大倭国造と同祖とするのが妥当ではないかとも、一時期考え、その後に断念した。

  おそらく初期の通婚関係などから、この氏族が海神族の色彩をかなり強めた結果であろう。遠祖の天目一箇命・少彦名神兄弟の母は、海神族綿積豊玉彦命の姉妹、豊玉媛(高比売)であり、饒速日命の母は足浜目門比売命とみられ、その系譜は不明だが、海神族の一員で、足浜は葦浜の意で猿田彦神(豊玉彦命の子)の姉妹ではないかと推される。

饒速日命の同母兄弟には、伊豆・服部氏族の祖もいたとみられるが、布留遺跡の近隣には山辺郡服部郷もあった。


               ニギハヤヒの同母兄弟に伊豆服部氏?
                        ビックリ


○ 物部氏族の姓氏及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り。

(1) 畿内……穂積臣(録・左京。鈴木−紀伊国牟婁郡の熊野大神神人より起り、紀州名草郡藤白の鈴木を宗家として、三河、尾張、駿河、伊豆、武蔵、上野、下野、下総、越中等多くの地域に分岐も、なかには本来別系統で混入したものもあろう。特に三河では繁衍し、賀茂郡の矢並・足助・酒呑・則定・寺部・九久平・小原、碧海郡竹村などに分居し、江戸期には旗本に多い。亀井−紀州亀井村住、分れて出雲に遷り武家華族。雑賀、戸野−紀州人。井出〔井手〕、山村−駿河国富士郡人、越前福井の歌人橘曙覧の家〔もと正玄、のち井手と号〕はあるいはこの流れか。出井、乙種−駿河人。吉田、荻−三州人。井谷−遠州人。木原−遠江国山名郡木原邑より起る。鳥居、神倉、常住−熊野人。土居、今城、得能−伊予国宇和郡人で熊野鈴木一族の流れと称も、今城が有馬殿と呼ばれるのをみると、熊野の榎本一族か。白玖−讃岐国多度郡大麻神社祠官。なお、大和国十市郡の保津は族裔か。同吉野郡の芋瀬〔妹背〕、梅本は穂積姓というも、真偽不明)、穂積朝臣(録・左京。百谷、宇倍、広岡−因幡国法美郡人、ただし系図には疑問があって、実際には因幡古族伊福部臣の末か)、穂積部(美濃)、穂積(木積−河内国石切剱箭神社祠官)。
  釆女臣(録・和泉。一に連姓)、釆女朝臣(録・右京。梅木−大和国春日神人、一に紀姓。南都居住の伊狭川も同族か。なお、大和の都祁水分社神主の釆部〔栄部〕は族裔か)、釆女造、釆女連、釆宿祢。

  物部連、石上朝臣(録・左京。藁科−駿河国安倍郡藁科より起る、疑問もありか)、物部朝臣(堤、中山、北、島、岸田、菅田、西川、多田、豊井、布留川、上田、乾、西、薮、南、中、東、森、巽、別所、豊田、福智堂−大和国山辺郡の石上神宮祠官一族)、石上大朝臣。
 榎井連(朴井連)、榎井朝臣、春世宿祢(この改姓の榎井朝臣もある)、弓削連(芦田、枝吉−播磨人)、弓削宿祢(録・左京。稲生−伊勢国奄芸郡の稲生明神神主。多湖、星合、和田、伊能−稲生同族。蟹江−尾張人。重藤−豊前国田川郡人。弓削、山崎−遠江国佐野郡弓削庄の人)、弓削朝臣、弓削御浄朝臣(御清朝臣)、物部弓削連(荻生、上野、平岩、長坂、都筑、勝、竹矢−三河人、なお系図には疑問もある)。

  今木連(録・山城。今木−和泉人)、屋形連、錦部首(録・山城)、河上朝臣、大俣連、大貞連(一説、大眞連。録・左京)、笶原連(矢原連)。
  葛野県主、葛野連(録・左京。葛野大連も同じか)、中臣部、中臣葛野連(録・山城)、秦忌寸(録・山城)、秦宿祢(松尾、東、南−山城国葛野郡松尾社祢宜)、葛野宿祢(葛野−山城人)、高岳首(録・和泉。丹後国与謝郡の高岡は族裔かという)、神野入洲連。
  依羅連(依網連。録・左京、右京)、物部依羅連(録・河内)、網部(録・和泉)、柴垣連(録・左京)、積組連、積組造(録・河内)、小軽馬連(小軽間連)、軽馬連(借馬連、軽間連。賀留−大和国高市郡人)。
  曽根連(録・左京、右京、和泉。曽根、樋口−大和国川合村広瀬神主、祢宜)、曽根造、曽根宿祢、椋部(阿波国那賀郡人)、椋椅部連(録・摂津未定雑姓。倉橋−摂州豊島郡人。また、摂州武庫郡の瓦林〔河原林〕は族裔か、称菅原また平、藤原姓)、倉橋部宿祢、倉橋部朝臣、高橋連(録・右京、山城、河内。堀内−紀伊国直川庄高橋社司)、高橋宿祢、立野連、立野宿祢(立野−大和国平群郡人。大嶋−京官人で右馬寮、もと津田と称。近衛家侍の立野も同族か)、津門首(録・河内)、都刀連(津門連)、横度連(一説、横庭連、横廣連)、桜島連(横度の改姓、大和国添上郡)、桜島宿祢、葛井連、伊勢荒比田連、小田連、縣使首(録・大和)。立野首(大和国城下郡鏡作郷)も同族か。
  肩野連(交野連。録・右京。河内国交野郡片野神社祠官の養父・松尾氏は族裔か、物部後裔と伝う)、物部肩野連(録・左京)、良棟宿祢(片野−河内国交野郡人で後に常陸に遷住、称藤原姓)、宇治連、宇治部連(宇遅部連。録・河内、和泉)、宇治山守連(録・山城)、宇治部、宇遅部直、宇治宿祢(録・山城。宇治−山城国宇治郡人。石井−京官人で九条家諸大夫、山城国紀伊郡石井より起る。城州久世郡の槇島〔真木島〕も族裔か、称藤原姓)、柏原連(録・左京)。なお、大和国葛上郡の柏原造も同族か。
  刈田首、刈田連、鳥部連、依羅田部連、韓国連(辛国連。録・和泉)、高原連(同上の賜姓。高原、土師−備前国邑久郡片山日子神社祠官。河内−下野国人。泉州和泉郡唐国保の刀禰職横山氏は族裔か)、物部韓国連(録・摂津)、水間君(水間−大和国添上郡東山村水間より起る)、水間宿祢。
  文嶋連、須佐連、巫部連(録・山城、和泉)、巫部宿祢(録・右京、摂津。後藤、萬代、辻−和泉国人)、当世宿祢。

  氷連(録・河内)、氷宿祢(録・左京)、氷朝臣、田部連(庄−豊前人)、田部宿祢(宇佐祠官四姓の一。末弘−宇佐社祠官、田部姓の宗家。江上、吉用、小田、門松、友岡、田口、照山、広山、利行、百楽−宇佐社祠官など。宇佐郡封戸郷の熊井も同族か。日向の大族土持一族も宇佐祠官田部の庶流で、土持氏には県・財部・大塚・清水・都於郡・瓜生野・飫肥の七家がある。富高、馬原、門川、上山、時任、槐島、国富、国分−土持一族で、上山は薩摩住。湯地−日向人)、登美連(鳥見連。録・左京、河内。なお、紀伊国日高郡の衣奈八幡神社祠官の上村氏は族裔か)、佐為連(狭井連。録・左京、山城、大和)、佐為宿祢(狭井宿祢。録・山城)、刑部連、刑部造、刑部宿祢、刑部垣連、為奈部首(録・摂津未定雑姓)、高屋連(録・河内)、杭田連。
  奈癸私造(録・山城)、奈癸勝(録・山城)、奈癸宿祢、奄智蘰連、三川蘰連、城蘰連、比尼蘰連、田井連、佐比連、若桜部造(稚桜部造。録・右京、和泉)、若桜部連。奈貴首(那貴首)も同族か。また、蘰造、蘰連も同族か。
  矢集連(録・左京)、箭集宿祢(矢集宿祢。録・右京)、弟国連、弟国部、軽部連、軽部造(録・左京)、置始連(長谷置始連。録・右京。山村−大和国人。花田−大和国花田郷より起り、河内筑前に分る、称中原姓。楽所の中原氏もこの一族)、置始宿祢(置始、布施、疋田、中村、道穂、梶屋、笛堂−大和国葛下郡人。添下郡の小泉の本姓は布施という)、矢田部連(録・左京。矢田部−京官人)、矢田部造(録・摂津)、矢田部宿祢、矢田部首(録・河内)、矢田部(録・大和。大和国添下郡の矢田、小泉、尾崎の一族は族裔か)。
  大宅首(録・左京、右京)、川上造、春道宿祢(越川−近江人、下総に分る。豊浦−近江人。佐奈田−相模人)、眞神田曽根連(録・左京)、眞神田首(録・山城、大和)、安幕首(録・和泉。阿墓−和泉、飛騨に住)。

  志紀県主(志貴県主。録・和泉。志貴、惣社−駿河府中惣社神主家)、志貴連(録・大和。吉野郡十津川の蛛手氏は磯城姓というが、族裔か)、志紀宿祢、志紀朝臣、十市部首、十市部宿祢(十市宿祢。十市、山尾、新賀、八田、味間−大和国十市郡人で、称中原姓。その一族と伝えるものには、大和の田原本南、釜口、白土、乾、西尾、喜多、辰巳、吉田。津田−河内国交野郡人)、
  中原宿祢、中原朝臣(押小路−京官人、明治に華族に列。山口−京官人で少外記、もと志水という。六角、西大路、平田、高島、榎並−京官人。勢多、正親町、高倉、大宮、竹村−明法道の京官人等。辻−久我家諸大夫、勢多一族。河村−主水司史生で、もと久川と称。中川−今出川家諸大夫。高屋−内舎人・内豎。粟津−御倉小舎人。深尾−蔵人所行事所。石野、水上−遠江人。
 摂津−鎌倉・室町幕府に仕。南方−伊予国宇和郡人、また門司一族で、安芸国山県郡に起る南方もあり。厳島〔桜尾〕−安芸国厳島神主家。淵名−上野国佐位郡人。三池−筑後国三池郡人。竹迫−肥後国合志郡人。鹿子木−肥後国飽田郡鹿子木より起る。三池以下は同族で、嵯峨源氏とも称したから、中原姓はおそらく仮冒で、実際には肥国造族裔か。



                    ココ
                    九州で
                    源氏も

 大友−相模の藤原姓近藤能直が中原親能の養嗣となり、豊後で大いに繁衍、源姓とも称。大友一族には、戸次、鵜本、片賀瀬、立花、野津原、志賀、朝倉、下郡、鶴見、久保、得永〔徳永〕、駒木根、田北、須郷、塩手、長小野、木付、真玉、櫛野、狭間〔挟間〕、石合、松岡、一萬田、豊饒、高崎、

                    袴田、         ハカマダさん!!!

鷹尾、藤北、田中、田原、国弘、生石、田口、利光、麦生、吉弘、富永、保見、国岡、元吉、野津、吉岡、椎原、戸上、波津久、荒瀬、久々知、岩屋、御久里、佐渡原〔佐土原〕、笠良木、長小野、小河内、入田、松屋、古庄、小田原、築井〔津久井〕、立石、清田、松岡、冬田、津守、臼杵、怒留湯、内梨、鵜木、平川、小川、成松等−以上の大友一族は藤原姓に改め、豊後国及びその周辺に住。竹中−豊後住、なお美濃の竹中半兵衛家はこの流れと称するも、別族か、その一族に四宮。利根−大友同族、豊後住、分れて上野に住。日田、津江、矢野、平野−豊後国日田郡人、日田郡司家跡を襲う。詫摩〔詫磨〕−肥後国託麻郡人、一族に井上、平井、板井、扇迫、竹迫、平田。日並−宗形神社祠官、称源姓。門司−豊前国企救郡人、一族分れて伊川、柳、大積、片野、楠原、吉志に居住。神村、吉原−備後国御調郡人。本郷−若狭国大飯郡の大族、称村上源氏。田井−紀伊人。また、筑後国三瀦郡の堤は、大友支流と称するが、疑問大。この堤の一族には大石、高木、内田、藤崎など。

  中原朝臣姓は諸国に多いが、次の諸氏は疑問も相当大きい。

・香宗我部−甲斐からの遷住で、土佐国香美郡に住んで甲斐とも号。甲斐源氏出自は仮冒として、大中臣(大仲臣)姓ともいうから、本来中原とは別族か。土佐の香宗我部一族には、甲斐、中山田、門田、中山、喜多、造手、松岡、岩原、水谷、青井、倉町、山本、倉橋、笠原、立山、西山など。なお、同郡韮生郷に起り楠目城に拠った土佐七雄の一、山田氏は、香宗我部氏の初期の分岐というが中間の歴代が不明で、土佐古族の色彩もある。

・甕〔母台、母田井、茂田井〕−信濃国佐久郡住。丸子〔円子〕−同国小県郡人、同上族。樋口、今井、落合−信濃国木曽より起る、甕以下は同族で本来信濃の古族の末か。下野宇都宮配下の今井氏は兼平の後裔で、滋野姓を称した。
・由比−筑前国志摩郡人。一族に河辺、飯、重富及び早良郡の弥永。志摩郡の称源姓の泊、松隈も同族か。これらはおそらく筑紫国造同族の末流か。なお、建保・建武頃の筑前住吉社神官に権大宮司中原朝臣が見える)。

  阿刀連(安刀連、跡連、迹連、安斗連、安都連。録・山城、摂津、和泉)、阿刀宿祢(安都宿祢。録・左京、山城。阿刀−京の東寺の執行職。中橋−紀伊国高野山に住、同山政所別当家)、阿刀造、阿刀物部、良階宿祢、中臣習宜朝臣(摺宜朝臣。録・右京)、習宜連(中臣習宜連)、中臣熊凝連、中臣熊凝朝臣(録・右京)、熊凝朝臣、栗栖連(録・河内)、物部首(録・河内、山城未定雑姓)、日下部(録・河内)。

  小治田連(録・右京)、小治田宿祢(録・左京)、勇山(不知山。豊前豊後の藤山は後裔か、田川郡彦山の修験などに見)、勇山連(録・河内)、安野宿祢。
  榎井部(録・和泉)、水取造、水取連(録・左京、右京)、水取宿祢、水取朝臣、舂米連、舂米宿祢(録・左京)、額田臣(録・山城)、長谷山直(録・大和)、内田臣(録・右京)、田々内臣(一作、内田。録・摂津)、物部飛鳥(録・河内)、大宅首(録・左京、右京)、物部(録・左京、右京未定雑姓、河内、和泉)、衣縫(録・和泉)、衣縫造(録・左京)、衣縫連、新家首(録・河内未定雑姓)。

  なお、大和国宇陀郡の漆部連一族について、「天孫本紀」は物部氏族出自とするが、実際は久米氏族の可能性が高い(久米氏族を参照のこと)。


以下略
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 02時56分58秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/031d2f2d50abc90d5ac782a218d71c48

紀楽(細江町中川)

             遠江の袴田氏は木曽義仲の末裔?



紀楽の親父さんが蔵前家の店主である袴田さんと同姓だとして、
遠州袴田氏は木曽義仲の末裔を名乗っているそうですから、
六角氏(=近江源氏。源頼朝の与党)の仲間入りをした息子の家系のラーメンなんかと溶解するわけがありませんな。

六角家の側からもそれは然りです。
 (※六角氏と袴田氏が対立しているというのは、わたくし個人の妄想です、念の為)
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 03時00分58秒 ) パスワード

http://www.fresheye.com/%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E3%83%BB%E9%81%A0%E5%B7%9E%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%94%E3%81%A8/f/14.html


朝日氏から見た遠江国遠江国

3.朝日将軍木曾義仲の後裔で遠江出身の袴田氏が後に改姓し、朝日重政が菅沼定利から徳川家康・結城秀康・松平忠直・松平直政へ歴仕して出雲松江藩家老連綿となった家系。(朝日氏 フレッシュアイペディアより)




朝日氏(あさひし)は、日本の氏族の一つ。

1.武藤氏(少弐氏)庶流の朝日氏。
少弐盛経の子の資法を祖とし、鎌倉時代末期から戦国時代初期にかけて、肥前朝日山(旭山)を周辺の地に割拠し、少弐氏の勢力を支えたが、室町時代以降、大内氏との抗争に少弐氏が敗れ衰退すると、ともに没落の道を歩み、享禄年間に最後の当主頼貫が死去し(大内義興との戦いで戦死したとも、大内氏に服属したものの田手畷の戦いで討たれたとも)、断絶した。朝日氏の旧領は大内氏の代官が支配した。


2.戦国期は武田信玄に仕えていたという尾張藩士朝日文左衛門家[1]


3.朝日将軍木曾義仲の後裔で遠江出身の袴田氏[2]が後に改姓し、朝日重政が菅沼定利から徳川家康・結城秀康・松平忠直・松平直政へ歴仕して出雲松江藩家老連綿となった家系。


4.藤原氏庶流と伝わる津軽朝日氏。
康永3年(興国5・1344)、藤原藤房が津軽に入り、その子景房が飯詰城を築き朝日氏を名乗ったという。陸奥飯詰城主。南部氏配下。天正6年(1578)、朝日行安が大浦為信に居城を攻められ、一族は皆殺しにされ滅亡した。


1.^ 神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』1984年9月(中公新書・740)ISBN 9784121007407
2.^ 袴田、羽鎌田
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 03時04分03秒 ) パスワード

残念ながら開けられませんでした。


http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%80%80%E8%A2%B4%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&start=10



1番下

[PDF]漢文で書かれた石碑と浜松の土地問題: 4 つの漢文碑から ...



ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/.../090707001.pd...



by 許山秀樹 - ‎2009
の石造文化財』(浜松市石造文化財調査会、1997-. 2000年)、『 ... 遠江国引佐郡気賀の人、其の祖. は気賀荘右 ...... ここ. なり。於を以て村人袴田巽等(注 53)、村民と相い.
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 03時08分28秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%A2%B4%E7%94%B0


【名字】袴田

【読み】はかまだ,はかまた,はまだ,ほこた,ほこだ,こおだ,こだ,えりた

【全国順位】 1,133位  
【全国人数】 およそ16,600人


現三重県である伊勢国度会郡袴田村が起源(ルーツ)である、度会氏がある。

ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流(現大分県中南部である豊後)、南部氏族(現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中)などにもみられる。



北海道 1,059位    およそ700人
青森県 401位     およそ600人
岩手県 801位     およそ200人
宮城県 1,907位    およそ70人

秋田県 174位     およそ900人


茨城県 2,667位    およそ90人
埼玉県 1,939位    およそ400人
千葉県 2,163位    およそ300人
東京都 1,718位    およそ900人
神奈川県 1,290位   およそ900人
岐阜県 3,216位    およそ30人

静岡県 79位      およそ8,000人     さすがダントツ!

愛知県 1,051位    およそ800人
宮崎県 2,652位    およそ40人

[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 03時14分10秒 ) パスワード

すごいの見つけました!!!!
M氏がらみどころか   格太郎さんのお名前が!!!



http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/201202110000/
伊藤七郎平伝 その4 | GAIA - 楽天ブログ

Feb 11, 2012 - 四 翁と遠江国報徳社 遠江国報徳社は明治8年〔1875〕11月、遠江国各地に存在 ... この設立出願については、勿論翁はその一員にして当時岡田佐平治氏を社長に、翁は ... 伊藤七郎平 名倉太郎馬 平野麟二 松島格太郎 神谷六郎 袴田春三.
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 03時19分04秒 ) パスワード

2012年02月11日
伊藤七郎平伝 その4


カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話


四 翁と遠江国報徳社

 遠江国報徳社は明治8年〔1875〕11月、遠江国各地に存在する報徳社員を総轄するの必要上、官に乞うて設立したるものなり。この設立出願については、勿論翁はその一員にして当時岡田佐平治氏を社長に、翁はその副社長に推選せられたり。翁が報徳の道に篤きは一身を報徳事業に捧げたる事実に徴して、多言を用うるの要なきも、ことに報徳社の拡張と、布教の方法については、もっとも苦心の跡存したるを見るべし。

明治7年の某月中野村仕法中道友数氏と会し、その席上において斯道の普及を図らんにはまず第一に同志の者の斯道研究を為す事もっとも急務と信ずれば、今より毎月1回宛日を期して同志と相会し問題を提供して研鑽を図らんは如何との議を発言せらる。

会する者は何れも斯道の熱心家のみなれば、案は満場一致にて可決せられたれども、一応これを無息軒先生に通じての事にせんとし、これを先生に図りし所、大いに満足され、直ちに実行せよとの事なり。よって善は急げとその翌日をもって第一回を某氏の宅にて挙行したるが、当日恰も11日なりしをもって爾来毎月この日をもって会日と定むる事とせり。

当時その研究の方法は前回において課題を出だし、次会において答案を持参し、各自交互に審査批評して研究をなしたるものなり。しかして目下幸に現存するものは袋井町高山藤七郎氏の手に在り。これについて見れば課題は


•一、 家内睦敷する事

•二、 分度を立つる事


の二問題なり。明治8年3月11日に磐田郡三川村友永なる西尾君(今の友永報徳社長西尾寛君宅)邸の会合にして、当時の答案数葉は一括して保存せられたり。かくしてこの研究方法は1か年以上も継続せしが、明治8年には遠江国報徳社の設立を見るに至りたれば、研究会は変じて演説会となり、爾来は毎月浜松宿田村の玄忠寺において参会を開き、ひろく会衆を集めて公開講演となれり。

しかして当時にありて演説会なるものは誠に地方稀有なりしかば、この指導機関によりて地方開発上裨益する事はまた多大なりしなり。また当時の会衆者は何れも熱心なる社員にして、ことに国内唯一の指導機関なれば、実に十数里の遠きより、未明に起きて家を出て夜に入りて帰路につき、寧ろ宿泊するを社員の恥辱として精勤せりと云う。

しかして現今浜松第一館の会日11日なるは実にこの研究会の歴史を襲踏したるに因るものなりと云う。

 以上のごとく翁の当初企画せし研究会は、更に進んで大規模なる講演参会となり、事業は予期以上に拡大されたり。然れども翁はなおこれをもって満足せず、報徳の盛大に赴くに従いてますます同志の研究を必要なりとし、明治15年〔1882〕11月よりは、再び研究会を見付町金剛寺に起こしたり。

(1)開始当時は会員僅かに20名内外に過ぎざりしが、岡田淡山先生を会長に仰ぎ、翁はその補佐として毎月これを開会せり。しかしてその研究方法は前年の課題法を改め、当時僅かに出版されたる報徳書につき、あるいは淡山先生の富国論草案の講義を聞き、あるいは臨時問題を掲げて即座に討議し、もって研究の歩を進めたり。

この会日は二宮大人の冥日20日に因みて会日と定め、前者の11日は講演会20日は研究会とし、浜松見付の二か所に並立して、共に社員の研究修養を図りしものなり。しかしてこの研究会の記録は、翁の自署にて「研究会雑誌」と題して保存せられたれば、今やこれを装綴して見付第二館に珍蔵せり。

この記録によって見れば当時来会者の氏名は左のごとし。



 岡田良一郎 伊藤七郎平 田中瀧次郎 八木 良平 斎藤 栄三 新村里三郎 小田 忠平 小田 吉蔵 佐藤 仲吉 神谷 六郎 柴田 喜平 鈴木藤三郎 野尻甚十郎 名倉太郎馬 小野江善六 上村 彦八 平野 麟二

この会合において常に翁の口より出ずる問題は、近来簇々ぞくぞく〔群がり連なるさま〕報徳社の設立を見るに至れるが、如何にして懈弛かいし〔心が緩み怠ける〕なく持続せしむるか。如何にして各社の結束を鞏固にせしむるかにてありき。

以来しばしば会議を開き研究を重ね、数か村をもって一組合を組織し、組合に取締一名を置き、斯道の熱心家をもってこれに宛て、組合各社を統轄して連絡提携し荒怠相誡め、もって団結の結束を堅うせんとの決議を見るに至り、意見は本社に採用して組合制度を敷くに至る。

現今本社に存する組合取締の制度はその淵源する所このごとくして、取締制度を設くるに至るまでの間、翁の苦心の存したる実蹟を見るべきなり。


この研究会も又明治16年11月をもって中絶したるが、その理由とする所は同

17年には見付町に本社第二館の設立成り、以後は毎月20日をもって講演会を開会する事となりたるに因るものなり。然れども更に明治19年10月20日には研究会規則を更正して、復活を見るに至り、同年以後は翁自ら会長となり、昼間講演会との衝突を避けて夜間となし、二宮翁夜話等につき輪読研究したり。しかして当時研究会員はますます増加して左の数氏を算えたり。


 伊藤七郎平 名倉太郎馬 平野麟二 松島格太郎 神谷六郎 袴田春三 

水野信之助 柴田喜平 前島晴一 齋藤栄三 小田吉蔵 鈴木杢平 伊藤甚三郎 太田庄次郎 節見喜重 中石音吉 高山藤七郎 閧塚為一郎 鈴木徳次郎 

鈴木市太郎 西尾政太郎 鈴木竹次郎 大元元三郎 青木喜六 森下広太郎 

平岡源太郎 鈴木五郎太 安富理一郎 永井五郎作 鈴木藤一 秋野貞次郎 

鈴木嘉代吉 鈴木源七 柳瀬喜一 村松元三郎 内山亀吉  


同会は明治25年5月20日まで継続したるも、それ以後記録の存せざる所を見ればこの時分より中絶したるもののごとし。(以上研究会議事録)

 これより以前、明治15年の頃に至りては社中の者ますます増加し、追日盛大に赴きたれば、社中は毎月行わるる浜松玄忠寺と掛川農学舎と両所の会合とをもって足れりとせず、同年末に至りては本社新築の議起こりて、位置は浜松見付の2か所と決し、それより寄付金の募集に着手し、同16年に起工、同17年春に至りて落成を告ぐるに至れり。

この新築成ると共に見付町は本社第二館と命名し、翁は第二館の常詰として居住され、従来浜松玄忠寺において取扱われたる会計書類全部は第二館に移され、翁は会計と布教との両方面に亘りて励精せられたり。しかして今日見付町付近において許多の報徳社の設立を見るに至りしは、実に翁の熱心なる勧誘の致す所にして、翁は本館において事務を処理するの余暇、常に昼夜を分かたず講演指導のために各社を巡回せり。



★森の元気屋さん(M)から昨日電話があった。
「藤原銀次郎の台湾製糖会社創立期の講話の本を入手しました」
「それは素晴らしいですね」
「藤原銀次郎は、鈴木藤三郎とともに台湾設立前に実地踏査していますから」
Mからメールに添付された写真の一部を読むと、筧氏の懇請で台湾製糖本社で社員に話したものらしい。もうその当時設立当時のことを知る者は自分しか生きていないからと懇請に応じたものであるらしい。

「ちょうどブログでRさんが亡くなる直前に送ってくださった筧氏の「土と人と砂糖の一生」から「台湾製糖の最期」を抜粋して載せたばかりです」

何かしらMがその本を入手したことに同時性を感じた。

台湾製糖創立時をめぐることは「黎明日本の一開拓者」にも当時の創立集会等の議事録が掲載され、また「台湾製糖社史」にも詳細に創立当初の苦労がしるされているが、関係者の証言の全容は明らかではない。

その意味で藤原銀次郎の講演記録もまた「鈴木藤三郎プロジェクト」あるいは将来の台湾製糖会社研究の一助となるに違いないと思われる。

藤原回想録もまた、関係資料として第3集A4版改訂版に登載してもよいように思われた。

「先日、第2集史料編の校正を重兵衛さんにやってもらって完成したんですが、

重兵衛さんは『第2集』はあまり面白くないですね と言うんです。

私は安居院から滝助、山中報徳三兄弟の流れがとても面白く思われる。でも史料だけだと、その面白みが伝わってこないので何かしら工夫が必要かもしれませんね」
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 03時40分59秒 ) パスワード

http://www.d2.dion.ne.jp/~okamoto1/ono.rekisi.kodai.html

尾野村・小野村の歴史


小野篁の名前や
小野御殿
家康に小野家が馬を進呈したこと
小野家の宝物が殿様の近藤に召し上げられたことなど
書かれていますね。



小野村の開発 平安時代の延暦10年から貞和14年頃の約50年の間に小野篁の長子、小野
俊生が小野村を開くとある。由緒として小野篁朝臣の長子俊生と申す御方この
里を切り開き此の所へ住居を定む。その後、小野篁朝臣は近江国にてご病死
あそばされ其の葬礼を此の地にて致し石塔を建つ。よって此の時、村名を小野
村とし字名を小野開土と伝えり、現今、小野海道とす。とある。



853  仁寿3年 春 小野篁神社建立 小野俊生は、父の骨臓器を遠江国赤狭郷小野村に移して塚を造立し小野篁
神社を建立し、その一辺を小野垣内とした。とある。



907 延喜 7 多賀神社・小野村
(高根神社)の存在 延喜式に「麁玉郡四、並に小、於呂神社、柴本村に在り、多賀神社、小野村に
在り、長谷神社、堀谷に在り・・・」とある。多賀神社とは現在の高根神社である。
遠江風土記伝第4巻 179


1369 応安 2 11 遠州小野郷の存在 11月の日付のある大方等大集月蔵経の助縁者のなかに「遠州小野郷」の
各衆がみえる。

静岡県の地名1073

浜北市史資料編(原始中世) 562



1452 享徳 元 赤佐方が年貢未進 遠江国蒲御厨(かばのみくりや)のこの年の年貢で赤佐方(郷または村)は
3館700文のうち、1貫700文が未進(未納)とある。 浜北市史資料編(原始中世) 532

1455 康正 元 年貢未進続く 年貢の未納が続き、この年には2貫余が未進(未納)とある。 浜北市史資料編(原始中世) 534

     借金踏み倒し  笑


1512 永正 9 5 1 戦国期に見える郷名 遠江国豊田郡のうち、今川親氏のものと推定される朱印状では覚園寺対して
「小野郷内大宝寺寺中并田地5段・年貢弐貫分」が安堵されている。
日本地名大辞典No22  260

浜北市史資料編(原始中世) 571


〃 〃 〃 今川氏親より朱印状 大宝寺ではこの年、今川氏親より朱印状「田地5反年貢弐貫文分先規」下付 大宝寺落慶記念誌


永禄3年  小野村支配 この年まで、小野村は伊井信濃守直盛が支配していた。 尾野の歴史神社ものがたり 120

1594 文禄3 馬頭観音を合祀 小野家は徳川家康の落馬した馬の遺骸を高根山山麓に埋め、徳川家康の
馬であったと云う事で馬頭観音として高根神社に合祀し、繁栄を祈願した。
小野篁と遠州小野一族 55



1595 文禄4 4 近藤家の支配地に 小野村は以前、浜松城主である徳川家康の知行地であったが、4月より近藤 石見守季用の知行地と成る。

小野篁と遠州小野一族 60



1602 慶長 6 浜松藩領 この時、小野村は浜松藩であった。
日本地名大辞典No22 260


1603 〃 8 5 11 小野源右衛門 時の領主、近藤石見守季用は赤佐村小野村の小野源右衛門方に代々伝わる重宝(勅書、勅賜宝剣、家康から拝領の馬具・鞍など)を預かる。

引佐町史上697

小野篁と遠州小野一族 59

                  預かったんじゃなくてカッパラッタんでしょ。



〃 〃 〃 〃 〃 小野村→尾野村 慶長元年の頃より小野村は近藤家の支配地となり、然るに右支配地に小野村と申す所あり、御領主の御意にて原西の小野村は井伊谷に近きを以って井小野村と称し、当地は遠きを以って尾野村に改む。是れ慶長8年の事也。

小野篁と遠州小野一族 59



以下江戸時代のページは略します。



[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 05時43分09秒 ) パスワード

気分新たに頑張ります:


1615 元和 元 - - 赤狭郷と書く 元和以前は赤狭郷と書く
遠江風土記伝第4巻 329


1616 〃 2 - 小野村百姓 小浦次左衛門の掟書 尾野の歴史ものがたり 117


1619 〃 5 7 近藤秀用知行地 近藤石見守の支配地と成る。小野村補か75村 小野村石高679,1石 引佐町史上 674


1622 〃 8 - - 西の谷池完成 小野村と宮口村の共同で造った。 赤佐小学校百年のあゆみ 117


〃 〃 〃 3 - 東小野村太郎左衛門 近藤石見守の家老磯部源五郎より小野村の野中太郎左衛門に書状を与えた。 当書状写しより


1625 寛永 2 9 - 近藤領 小野村高679石余が旗本近藤石見守秀用に与えられている。
静岡県の地名 1073


1631 〃 8 - - 井伊谷近藤領 旗本 井伊谷近藤領 小野村高「元禄高帳」701石余
「天保郷帳」955石余、旧高旧領 1022石余 日本地名大辞典No22 260


〃 〃 11 - - 尾野村石高 近藤久郎用将知行所(井伊谷) 701石6斗8升 浜北市史通史上巻 802


1635 〃 12 11 15 鈴木善六代官となる 鈴木善六は、代官として年貢収納や警察にあたった。 引佐町史上 703



1636 〃 13 2 - 天竜川の人足 天竜川の堤防工事に、尾野村で人足約14人づつ、日数30日が賦課される。 尾野の歴史ものがたり 123


〃 〃 〃 - - 大宝寺訴えられる 大宝寺、竜泉寺の訴えにより可睡斎にて対決以降、柴本村は竜泉寺の檀家となる 引佐町資料第7集中井家日記 12


1639 〃 16 秋 尾野村甚兵衛入牢 観音山に江戸の商人を引き込んで悪戯を働き入牢を申し付けられる。
引佐町史上 784


          珍しい

1640 〃 17 8 9 春日の局(つぼね) 江戸より春日の局が鳳来寺に来た折、小野・宮口などの村人が道普請等に出る

引佐町資料第7集中井家日記 22



〃 〃 17 11 27 八面神社御神札 金刀比羅神社寄せ宮「八面神社」に当日記の御神札あり「奉再興八面荒神社」
願主 善六 大工 伝三良 (裏)長畠壱門、野中想百姓等
尾野の歴史ものがたり 68

1643 〃 20 7 19 大沢の百姓 代官尾野村善六と大沢の百姓と年貢について裁きあり 引佐町資料第7集中井家日記 32


1644 〃 21 1 8 庄三郎入牢 大沢新田の百姓の庄三郎、無断で立ち退き1ヶ月間入牢 引佐町資料第7集中井家日記 35



〃 〃 〃 3 21 尾野村の庄屋 尾野村東西両組の検地。庄屋2人決まる 西小野は善六方の庄屋は平兵衛 又、
東小野は小百姓方の五作孫八
引佐町資料第7集中井家日記 36


〃 正保3 10 3 善六に屋敷 善六に領主より屋敷与えられ、前々通り庄屋を仰せつけられる
引佐町資料第7集中井家日記 40



1648 慶安 元 3 12 尾野村へ盗人 尾野村御蔵へ盗人入り捕らえられて、牢内にて死亡。家財は没収される。 引佐町資料第7集中井家日記 43


1658 明暦 4 3 14 尾野村絵図 同日付の大宝寺移転前の尾野村の絵図が存在。鈴木善六らが書く 金刀比羅神社沿革誌 22


1661 万治〃 4 3 9 尾野村善六死す 死後の屋敷田地は兄の二郎七、弟の六丞と百右衛門に分ける
引佐町資料第7集中井家日記 59


〃 〃 〃 4 2 善六の財産 財産分与について不明な点あり、分け直す
引佐町資料第7集中井家日記 59

                 ちゃんと分けろ!

1662 寛文 2 10 22 善六郎が代官 尾野村の善六郎が代官を命ぜられる 引佐町資料第7集中井家日記 62



1663 〃 〃 8 - 又十郎の家壊される 尾野村の内出来坊山の根に建てた家が雲岩寺村、安泰寺村、岩水寺村の三ヶ村の、百姓人数150〜160人程に壊されたが再建させた


引佐町資料第7集中井家日記 65


〃 〃 4 2 21 又十郎再度壊される 元の所に家を作り直したが、また三ヶ村の百姓大人数に壊される

引佐町資料第7集中井家日記 65

                          どうして?


1670 〃 10 2 19 雲岩寺村と争う 当年から延宝9年(1,681年)まで雲岩寺村の西之草山の使用をめぐり
同村と争った。この文書では“小野村”と書かれている(谷高家文書)
浜北市史通史上巻839
浜北市史資料編近世V 4, 17


1671 〃 11 12 2 小野村 次郎左衛門 宮口村の争いに小野村の次郎左衛門と次右衛門が仲裁
引佐町資料第7集中井家日記 88


1672 〃 12 3 21 江戸へ上訴
上訴の小野村人 尾野村・宮口村、知行の十分の一の種借を江戸へ上訴し許可される
小野村の次右衛門、次郎兵衛、三郎右衛門、善左衛門,七郎右衛門、弥平次
引佐町資料第7集中井家日記 89


              すごい事になってしまいました


1675 延宝 3 12 25 庄屋ら入牢 凶作。年貢の納入悪く代表として尾野村・宮口村の庄屋・組頭6人が12月25日から入牢。翌年2月8日、年貢がある程度納まった為出牢
引佐町資料第7集中井家日記 100

              気の毒


〃 〃 6 3 寺領戻る 裏山のみ寺領として再び認められる、高根山東のはづれ下の田地の畔に寺屋敷
引佐町資料第7集中井家日記 106


1678 〃 〃 - - 絵図に小野村 青山御領分絵図には小野村と見える
日本地名大辞典No22 260

             誰だ?改定しなかったのは?


〃 〃 〃 小野村庄屋次右衛門 庄屋を退役し、高根山下の新田へ妻子ともに引越す
引佐町史上 814



1693 元禄6 7 26 24孝絵馬を寄進 庚申寺へ雨乞いの為、尾野村総郷の者により24孝絵馬を奉納
浜北市の年中行事・文化財 84

            日照りだっただね

1707 宝永 4 4 7 尾野村の元禄高 元禄高帳 701石6斗5升(内 御朱印地 5石8斗3升 大宝寺領) (御除地 1石 清源寺領) (同 1石 養徳寺領) (同 1石 宝泉寺領)

遠江国郡郷村高記 元禄高帳 59


1721 享保 6 3 26 尾野村の領域 尾野村東西拾三町 宮口境より柴本境まで 同南北壱里四丁 鈴取より大沢境
引佐町資料第2集 109

1731 〃 16 2 吉 尺地神社御神札 遠州豊田郡尾野村高根 神主町田善左右衛門 大工 柴本村袴田八三郎秡

                                                      袴田さんですね
尾野の歴史ものがたり 54


1784 天明 4 11 18 打ち壊し(百姓一揆) 世に言う天明の大飢饉といわれる天明2、3、4年は当地でも凶作が続き周辺村々の農民による打毀が起こり、当村の綿実問屋仲買商人小野村 八佐衛門宅の家宅・土蔵が打毀され、また酒屋は飲食いされ荒らされた

浜北市史資料編近世W108

浜北市史通史上巻 976

引佐町史上 998



                   天明の大飢饉ですね


1786 〃 6 10 16 打ち壊しに参加 諸国凶作で現在の浜北周辺村々の者が笠井村の庄屋等で打ちこわしをし、 参加した村々が寺社奉行所より過料金150貫文を命じられた。
浜北市史通史上巻 979

引佐町史上 1000

                   気の毒ですね


1791  寛政3 - - 多賀村屋敷について

   【原文】南北六十歩、東西三十歩、築垣存す、中に二祠あり、篁の稲荷及び山の神、村民篁屋敷と言うなり、小野と號する所以は、古老曰ふ、昔 小野篁
の領地、住居する所を言って多賀村屋敷と曰ふと、今畑と為る
遠江風土記伝第7巻 331


〃 〃 〃 - - 長者屋敷について

   【原文】篁屋敷の西南、今長畑と云ふ、長の孫藤原朝臣定次住す、天正年間 光明の御陣の時、徳川君長の家に入御す、長者馬を奉じて浜松城に供奉す、 其の御鞍具今僅かに存す。
遠江風土記伝第7巻 331


1794 〃 6 8 4 西の谷池堤防切れる 洪水、山崩、大満水宮口尾野方面両(留)堤切れ、百姓家一軒男女流死5〜6人
引佐町の記録

1795 〃 7 5 - 西尾野村、東尾野村 小前百姓の不満を抑止する依頼文書に“西尾野村、東小野村”が連記されている
引佐町史上巻 1067



1797 寛政 9 小野 宝泉寺

小野高根 宮口の興覚寺建立御見舞控に東小野“平兵衛”・西小野“権次郎、藤蔵、
七兵衛、益右衛門、八左衛門”

小野 宝泉寺 小野高根“次三郎”が寄付をしている

浜北市史資料編近世V
(鈴木家文書) 376


1840 天保 11 7 - 念仏禁止命令 大念仏、小念仏、初凧の停止命令の公布
浜松市史

                 ひどいね


1841 〃 12 6 - 西の谷池の水分配 宮口村と西の谷池などの灌漑用水の分配した順番が記録されている
浜北市史資料編近世V 439

                 日照りかな?


 
1843 〃 14 7 - 尾野村石高 磐田郡尾野村の石高701石6斗5升(橋本家文書)
浜北市史資料編近世V 112


1854 嘉永 7 - - 浜松宿の増助郷 小野村など43ヶ村が浜松宿の増助郷となる
浜北市史通史上巻 1073



〃 〃 〃 11 4 嘉永の大地震 尾野金毘羅山の山に登り難を避けんとする者千余人
浜北市史通史上巻 1077

                  大変だったんだね


1857 安政 4 3 9 金刀比羅神社分離 村人達の強い要望で大宝寺の傘下から離れ、村人達の氏神として独立。
金刀比羅神社沿革誌 6



〃 〃 〃 9 - 神楽殿の建築 神楽殿の落成には、領主の名代や、市川豊後守、大宝寺方丈などが参列
お神楽もその後絶えることなく現在まで奉納されている
金刀比羅神社沿革誌 5


〃 〃 〃 - - 尾野村石高 江戸時代末期の頃の尾野村の石高1009石または1022石
尾野の歴史神社ものがたり 130



1859 〃 6 - - 紛争起きる 竜禅寺村(浜松)の麹屋16人と当村ほか宮口村などの在郷商人との間で麹専売権をめぐって紛争が起きた
浜松市史2 248
日本地名大辞典No22 260



〃 〃 〃 8 - 西尾野村の人々寄付 宮口の興覚寺半鐘寄付物受納帳に西小野村の竹内逸蔵他11名が記載
浜北市史資料編近世V 523


1861 文久 元 11 10 神社再建立福寿講 金毘羅本社再建立の為の福寿講が開かれ、金五十両が奉納された
浜北市史資料編近世V 531

                 すごい大金!


1863  文久 3 - - 請留山をめぐり山論 阿多古18ヶ村地先の請留山をめぐって美薗村と山論がおこる
浜北市史通史上巻 1081


1866  慶応2 8 - 年貢の公平を訴える 町田儀平(町田啓次郎氏の先々代)ら井伊谷近藤家へ減租と年貢の公平を訴える
尾野の歴史神社ものがたり 130


               勇気ある行為


1867 〃 3 1 28 江戸へ訴状 町田儀平ら江戸へ赴き領主に直接窮状を訴える。同行者・・鈴木文四郎、 伊藤七兵衛、町田久蔵。留守の間、小前惣代野中平蔵入牢
尾野の歴史神社ものがたり 130

              入牢って!
              人質ってこと?


1868 〃 4 - - 東の谷2番池修理 この年領主に修理助成を請願した
赤佐小学校百年のあゆみ 118

              お金は出してもらえたのでしょうか?
              無理でしたでしょうね。
              明治維新の時だから。 



1872 明治5 - - 尾野村初代戸長 尾野村戸長 町田儀平(従来の庄屋を廃して戸長となる、町田啓次郎氏の先々代)
浜名郡赤佐村誌

                へえ〜


〃 〃 3 22 神仏分離 神仏分離により、高根神社から観音像二体下山する
金刀比羅神社沿革誌 23

1877 10 1 1 尾野村戸数人口 尾野村戸数138戸、男323人、女319人、合計642人,氏神は全戸金刀比羅神社
檀家は養徳寺40戸、宝泉寺65戸、清玄寺23戸1戸

尾野区所有資料


以下略















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