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 投稿番号:101455 投稿日:2015年05月23日 08時51分01秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について24

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様のご教示のお陰で今や地元となりました故郷「球磨」の古代が明らかになって参りました(^・^)

今後とも、ご教示の程よろしくお願い致します<m(__)m>

平川家について23 コメント80より続きます(^・^)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101441_79.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2015年05月23日 09時42分45秒 ) パスワード

平川家について23 コメント79で書いた、「気が付いた事」の前に・・

実は、昨日宮崎県の綾町に行って参りました。(21日22日と連休が取れた主人が突然「綾町」に行きたいと急に思い立ちまして、午後からの出発となりました)
私は、コメントで書いた稲積神社が気になって、車中でも検索をしていたのですが・・主人を大事にしなければ、御先祖様に叱られるかも・・と思いまして調査は「夜」へと持ち越しました・・(..)

出発が遅くなり、綾町ではワイナリーしか見る事が出来なかったのですが、その後の帰り道に「冒険?」をしました。
ナビで自宅までの道を設定すると「綾→槻木→久米」のコースが出て、自宅まで65キロくらいでしたが、何だかとんでもない「難関コース」のような予感がして却下。
次のコースは県道を使って綾→須木→槻木→久米→自宅となっていて70キロ程。
最後に出たコースは、来た道と同じくえびの経由でぐるっと回って120キロ程。
\(◎o◎)/!何だこの50キロの差は!!と思い、綾→須木を通るコースに決定。
所が・・・
すごい「山道」でした!!綾南川沿いの谷を通り、物凄く標高の高い山道を走りました。山が全体から迫ってくるような迫力でして・・途中でお猿さんの集団とも会いました。(すごく可愛い子ザルさんが沢山いまして(^・^))
私は高所恐怖症なのでドンドン高くなる道に心臓がバクバク。主人は「ヒャッホ〜すごいよ!!まるでラリーだっ!!景色最高!!」と喜んでいました・・(..)
先日、コメントした綾南ダムの横も通りました。
難関コースから須木村に降りる、とうってかわって沢山の車が走る一般道となりまして順調に多良木町となる「槻木」まで進めたのですが・・(以前からコメントしていた久米→小林を進む道路で整備されて走りやすかったです)
槻木から久米までのコースがこれまた凄かったです(@_@;)
私は、てっきり谷を進のかと思っていたのですが・・・
ナント車はグルグルグル〜ッと急な山道を登り始め、結局「どこかの山の」頂上付近まで・・球磨盆地が見渡せるぎゃ〜っ!!と言うような高い場所を走りました。遥か下に何処かで見たような家々が小さく見える場所に車を止め、主人は景色を眺めていましたが、私は怖くて下が見れません(..)
でもフト上を見ると、その場所のすぐ右側に何処かで見た事のある山の頂上が迫っていまして・・
うんがっ!!\(◎o◎)/!黒原山だっ!!えええええええええええっ!!
久米→槻木の道は黒原山の裏を通る・・のではなく(ー_ー)!!
黒原山のお隣の山を登って降りる・・すなわち「越える」道だったのです・・
しかし、頂上付近から久米方向へは、まるで滑り台を降りるような坂道でして・・一気に久米に付きました。
主人はこの坂道もすごい!!山に造られた「巨大滑り台」だ〜っ!!と喜んでいました・・トホホ(..)

と言う事で「冒険」とは以前からコメントしていた旧球磨郡久米郷と霧島を結ぶむか〜しからの道を実際に通ったという事なのですが・・
でも槻木と綾町は別のルートで繋がっていますし・・あと国富町にも繋がっている道があるようで・・

フト思ったのですが・・
これが古代?で「歩いて」だったらどうなのかな??と。
えびの経由だと約120キロ。綾→槻木→久米だと65キロ弱・・
歩きだったら山道でも65キロを私だったら選ぶかな・・

解った事は・・道は険しくても旧球磨郡久米郷と宮崎市都市圏と呼ばれる綾町や国富町は近い距離だった・・と言う事です(^・^)

では次のコメントで、コメント79で書いた、「気が付いた事」を御紹介します。
(^・^)


[2]子孫よりさんからのコメント(2015年05月23日 11時04分35秒 ) パスワード

では早速(^・^)

平川家について23コメント74で日本の苗字七千傑様にご教示を頂いた
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/yamataikoku.htm
※日本書紀と松野連系図の照合の表を見て
清寧天皇・雄略天皇 松野連系譜記載人物 興、武
こちらなのですが、父が
「雄略天皇は倭の五王”武”だと言われている方だ」と・・
私も勉強しなければと・・早速ウィキで清寧天皇・雄略天皇の記述を・・

清寧天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AF%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87
清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。

なっなんですと\(◎o◎)/!!!!
御名は白髪皇子(しらかのみこ)
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

\(◎o◎)/!シラカノタケ・・ヒロクニ・・というお名前を見てビックリしました。
シラカノタケ・・白髪岳・・??????

でもウィキの記述では
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。

とありますが・・・
おそらく、日本全国の「球磨を知らない」殆どの人は疑問を感じる事は無いと思いますが・・
でも、私は違います。だって雄大な白髪岳が目の前にそびえています・・
白髪岳は球磨盆地に横たわるかのような風情です。
http://www.jalan.net/kankou/spt_43502ab2012006782/
あっ!!忘れていました。こちらのサイトにも書かれているように白髪岳には三池神社が鎮座。

清寧天皇 「興」
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

(゜-゜)・・・・

続けます・・
雄略天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。
また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。

(゜-゜)・・「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、・・
(?_?)・・「タケル」・・タケル??
「熊曽国は建日別」「建(た甲け)」は「猛(た甲けし)」、つまり、「武勇に優れている、勇猛である」の意味。「たける」が邪馬台国の将軍の称号に使われている・・

続けます・・
系譜の中に・・
妃:和珥童女君(わにのわらわきみ。春日和珥臣深目の女)
春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ、高橋皇女) 仁賢天皇の皇后、武烈天皇・手白香皇女(継体天皇の皇后、欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)の母
(゜-゜)・・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)の母

宣化天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%8C%96%E5%A4%A9%E7%9A%87
諱・諡号[編集]
『日本書紀』では、諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)という。 和風諡号は、『古事記』では建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)といい、『日本書紀』では武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)という。

\(◎o◎)/!えええええええええええええっ!!
『日本書紀』では、諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)
『古事記』では建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)

あっ!!!!あああああああああっ!!
「ひのくま」・・「ひのくま」!!
建小広国押楯命・・「建」の文字がこちらにも・・

後裔氏族[編集]
飛鳥時代から平安時代初期にかけて有力豪族・上級貴族として繁栄した多治比氏がある。また、その末裔に武蔵七党の丹党がいる。一説に、飛鳥時代の歌人・額田王は宣化天皇の4世孫(玄孫)とも言われる。

\(◎o◎)/!えええええええええっ!!「多治比氏」です!!
平川家について22 コメント52そして54で書いています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101413_83.html
転記します(p_-)・・

今日、家に配布されたあさぎり町の「あさぎり 5月号広報」に
「勝福寺跡荒茂毘沙門堂の3立像 国の重要文化財へ」
という内容が記載されており、特に興味を引いたのが、以前からコメントしていました「木造毘沙門天像」の胎内にあった言葉の中にある人名です。
藤原家永 そして「多治 助則」。

以前は「多治氏」としか解らなかったのですが、きょうの町広報紙に「多治 助則」と記載されていて驚きました。

========================================

私は、ず〜っと何故?球磨の地に「多治氏」の名が残っているのだろう??と疑問だったのです・・
あさぎり広報5月号より 中略
一つは、平安時代末期に造られた事を示す墨書があることです。木造二天王立像の一方で、木造毘沙門天像の胎内に久安3年(1147年)の年号と制作者の仏師の名前があります。
また、本尊の木造毘沙門天立像には、久寿3年(1156年)に造られた事や制作者の仏師の名前があり、造像目的として当時の領主藤原家永と妻が願主となり、一族に災いがなく、命がますます長く延び、幸せで長命な事を願って造られた事が書かれています。
それに勧進僧の名や多治助則と藤原氏の一家平安も後書きして願っている事がわかっています。
藤原家は地元豪族須恵氏とほぼ判断でき、地元の古代の歴史に新風を吹き込むことになりました。以下省略・・

宣化天皇
諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)。 和風諡号は、『古事記』では建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)。
宣化天皇の後裔氏族「多治比氏」
球磨の木造毘沙門天立像には、久寿3年(1156年)多治助則と藤原氏の一家平安も後書きして願っている・・

古代の球磨を調べたら・・後世球磨に名を残した「多治氏」の謎に繋がっているような気がするのは私だけ?でしょうか??・・

では(゜-゜)・・・
[3]子孫よりさんからのコメント(2015年05月23日 12時36分55秒 ) パスワード

先程のコメント1と2を書いた後に突然頭が覚醒したかのように「ビンビン」となっています・・

緊急?コメントです。
岡原村史を読んでいてとても気になる記述を二つ見つけました。
@稲積神社について 岡原村史より
なお、「岡原小学校百周年記念文集」に、稲積神社拝殿に府本小学校は明治七年四月に附設されたとあるが、明治八年の「宮原村地誌」には稲積神社は無く、「久米村地誌」に「稲積社、社地一畝十五歩、神殿六坪二合五尺、拝殿七坪」とあり、「求麻郡神社記」には、稲積神社は久米領稲積山にあり、白木社妙見同体と出ている・・

しかし、球磨郡誌には「岡原霧島神社へ明治12年同村馬場田鎮座稲積神社 祭神天御中主神右五神を前と同時に本社に合併した。」
と書かれています。

久米領稲積山・・多良木の久米の稲積山??
探したのですが・・見つかりません(地図とにらめっこしています)
久米の山々は昨日偶然に眺めながら帰ってきたのですが、稲積山??そう言えばピラミッド山と私が勝手に呼んでいる山はありますが・・(ー_ー)!!違うでしょう・・
何だか、昨日通った山にある大きな滑り台のような道路がとても気になります。
黒原山頂上の横?まで登りまして・・シャ〜ッと滑り降りるような・・
天空へ登って降りる滑り台のような道路でした・・

もしかしたら「本宮」がその場所(稲積山)かな??????

さて・・もう一つ見つけた記述です
岡原村史 より
「岩野村地誌」の中に「宮原村ノ内小豆島村ハ讃岐国小豆島ヨリ移住ノ人民ニテ宅地無税ナリシ処、後税地トナル」とある事を附記しておく。小豆島村は小戸島とも書いた。
宮原村にあった「小豆島村」は「小戸島」とも書いていたようです・・

では(^・^)
[4]子孫よりさんからのコメント(2015年05月23日 17時41分53秒 ) パスワード

皆様・・

今から私の「私見」にお付き合いください<m(__)m>
歴史や記紀には全く疎い、私ですが、「神話の謎」を調べようとする事自体、専門家の方から見ると言語道断なのかもしれません・・
でも・・その神話に「真実」がちゃんと隠されているのでは?と思う記述を読んでいました・・

まず、初めに。神話の真実の為に皆様に「球磨」とはどのような場所なのかをしっかりと御説明させて頂きます。長くなりますがお付き合いください・・

私の故郷「球磨」は盆地です。四方を山々に囲まれ(白髪岳・黒原山・市房山・江代山・五木方面の山々など)中心には球磨川が流れています。
市房ダムより上、球磨川の上流は水は清いというか・・深い場所は「緑」ではありません「ブルー」です。本当に「青」なのです。古代、球磨盆地を流れていた球磨川は当時の人々をきっと魅了していたに違いありません。
球磨盆地を囲む周囲の山々は「黒原山」という名「黒」を例にあげても解るように緑というよりは盆地特有の光の反射か「濃い青緑」に見えます。
コメント2でご紹介した白髪岳の写真をご覧いただくと良くお解り頂けると思います。
http://www.jalan.net/kankou/spt_43502ab2012006782/

球磨盆地は四方を山々に囲まれていますが、盆地内は平たんな広大な穀倉地帯です。
以前、書きましたようにゴイシツバメシジミという日本国の天然記念物となる蝶が盆地内を飛んでいます。
筑紫イバラと呼ばれる「バラ」の国内唯一の群生地でもあります。

球磨盆地は先日からコメントしていますように霧島連山にとても近く、霧島から見ると「東方」にあります。
そして、球磨盆地は古代「湖」でした。当時は琵琶湖と並ぶ大きさだったそうです。名残が見れる場所が「鹿目川」上流の「鹿目の滝」です。
球磨盆地(人吉盆地)のウィキの記述です
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E7%9B%86%E5%9C%B0
人吉盆地(ひとよしぼんち)は、熊本県南部において東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地である。球磨盆地(くまぼんち)とも呼ばれる。北部は八代・球磨山地、東部は九州山地、南部および西部は肥薩火山群(国見山地)に囲まれている。東から西へ向けて球磨川が流れる。人吉市、球磨郡山江村、相良村、錦町、あさぎり町、多良木町、湯前町、水上村にまたがる。
四方を山々に囲まれ外界から閉ざされた人吉盆地は内陸型気候で昼夜の寒暖の差が激しく、そのため秋から春にかけて盆地全体がすっぽりと霧に覆われてしまうことが多い。年間100日以上も朝霧が発生し、発生頻度は日本で1、2位を争う。
約200万年前から南九州が反時計回りに回転し九州の西側を分裂させる地殻変動が始まり、入り江あるいは低地が形成された。続いて肥薩火山群の活動によってこの低地地形の西側が塞がれ「古人吉湖」と呼ばれる湖となった。この湖は約100万年前までに消失し、その跡に残されたのが人吉盆地である。鬼界カルデラから阿多カルデラ、姶良カルデラを経て加久藤カルデラに続く火山性地溝帯の延長線上に位置するが、人吉盆地を起源とする火山活動の痕跡は確認されていない。盆地外を起源とする阿蘇火砕流、加久藤火砕流、入戸火砕流などの堆積物が地層として残されている。

(^・^)地殻変動の跡が球磨の至る所で確認できています。

そして、平安時代、球磨は「六郷」と呼ばれていました。和名抄に記述されています。(^・^)

では、球磨についてご理解して頂けたところで早速(^・^)
神武天皇 ウィキの記述をお読みください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

東征の開始 転記します・・
『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。

東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

※日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は
東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。

上記の宣言をもって、東征の開始・・と多数の方は研究されているのですよね。
でも歴史を理解していない私には上記の宣言にある「日向国の地高千穂宮の東にある四方を青い山に囲まれた”六合”の中の美しい土地。この地を都としましたよ!!」と書いてあるようにしか見えません。要は、「この場所に都がありましたよ!」と・・(私がおバカだからでしょうか)

青い山が四周にあり六合の中となる日向国の地高千穂宮の東にあった美しい土地とは?どこでしょうか・・

皆様、もう一度最初から「球磨盆地」についてのご説明を、お読みになって頂けませんか?

私の「私見」でした。では(^・^)
[5]子孫よりさんからのコメント(2015年05月23日 17時59分15秒 ) パスワード

追記

※日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は
東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。

上記の文は
歴史を理解していない私には上記の宣言にある「日向国の地高千穂宮の東にある四方を青い山に囲まれた”六合”の中の美しい土地。この地を都としましたよ!!」と書いてあるようにしか見えません。要は、「この場所に都がありましたよ!」

もしくは・・東征の開始だから・・
「日向国の地高千穂宮の東にある四方を青い山に囲まれた”六合”の中の美しい土地。この地を奪回しよう!!」
かな??(なんちゃってですが・・やはり私がオバカだからでしょうか?)

ちなみに・・
霧島連山の東に位置する球磨盆地は今日は曇り空で、四方の山々はより一層、濃い青緑に美しく見えます。
では(^・^)
[6]子孫よりさんからのコメント(2015年05月24日 10時22分01秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日のコメントを父に話したところ
「全く勉強していないからそのような事を言う。有名な宣言だ。この宣言をもって東征が始まった。通常は「奈良」の事を指していると言われている(ー_ー)!!」
と言われました・・(..)(シュン)

そこで、私が「じゃあ奈良は四方を青い山に囲まれた美しい国だったと言う事?」
と聞くと父は「調べてみろ!奈良には纒向遺跡もあるだろう。勉強しろ!」と・・

ヘンチクリンの私は、それでも納得せず調べる事に・・(皆さんのハ〜ッというため息が聞こえたような・・)

まず「大和朝廷」から勉強しました(^O^)/・・(ええええっ!!そこから!!の大声が聞こえたような・・)
ヤマト王権 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9
ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。「大和朝廷」と、ほぼ同じ意味である。日本国の歴史学者の中から、「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語も用いられている。

(p_-)3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した
なるほど・・倭国の王を中心として・・連合国家ですね

続けます(p_-)
名称について[編集]
1970年代前半ころまでは、4世紀ころから6世紀ころにかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として「大和朝廷」の呼称が一義的に用いられていた。
しかし1970年代以降、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定や年輪年代測定の方法が確立し、その精度が向上したこともあいまって古墳の編年研究が著しく進捗し、「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が現れ、その見解が日本国での歴史学の学会などで有力になり、そのため「大和朝廷」ではなく、かわって「古墳時代」と呼称するのが日本国での日本史研究および日本国での高等教育では一般的となっている[注釈 1
中略・・
「大和」をめぐって
「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。
大和(ヤマト)」はまた、
国号「日本(倭)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)
令制国としての「大和」(上述)
奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡・十市郡)
の広狭三様の意味をもっており[3]、最も狭い3.のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記よりも、3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。

以下、ウィキの記述で特に私が目を引いたのは・・
いっぽう関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている

(゜-゜)こちらのご意見です。
※4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権
(゜-゜)・・大和朝廷の「大和」と4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権を別けて考える・・\(◎o◎)/!そう考えると・・
倭王権、大倭王権と有力氏族が連合して「東征」を行い最終的に後の「大和王権(大和朝廷)」が奈良に設立?された・・??と・・(歴史の素人が何を言うか!!と皆様に叱られるかな??(..))

中略して転記を続けます(..)
また、山尾によれば、
190年代-260年代 王権の胎動期。
270年頃-370年頃 初期王権時代。
370年頃-490年頃 王権の完成時代。続いて王権による種族の統合(490年代から)、さらに初期国家の建設(530年頃から)
という時代区分をおこなっている[9]。

190年代-260年代 王権の胎動期。・・・(?_?)・・あんれっ??
と言う事は何ですか(p_-) あさぎり町免田の本目遺跡(古墳)1世紀〜4世紀前半。弥生時代後期前半からの遺跡から破鏡(中国鏡の一部をペンダントにしたもの)が見つかっています・・中国との交流をも行う権力がすでに当時、球磨(熊)国にはありました。

270年頃-370年頃 初期王権時代。・・(?_?)・・あんれっ??
あさぎり町才園古墳から見つかったリュウ金獣帯鏡 ( 鍍金神獣鏡 )は「3世紀頃に中国の江南地方で作られたものであり、地元勢力が中国と直接交流するなかで入手・・3世紀と言う事は200年代ですよね・・

<(`^´)> 何で!!球磨(熊)国を無視するんだっ!!((..)暴走してはいけませんね・・すみません)

中略して転記を続けます(..)
王号について[編集]
詳細は「大王 (ヤマト王権)」を参照
ヤマト王権の王は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公主」などと称していた。[要出典]考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている[注釈 3]。

\(◎o◎)/!ああぅ!!「天下」です・・
京ヶ峰古墳(錦町)には・・「天下神社」があります。(アモイ神社と呼ばれています)

(p_-)以下のウィキの記述には全く「肥後」や「球磨」に関する記述は一つもありませんでした・・

父が「纒向遺跡」という重要な遺跡について話していましたが・・
ウィキの記述を読む限り確かに「大和朝廷」(倭王権とは私は言っていませんよ(ー_ー)!!あくまでも!)が設立後重要な場所であるというのは私でも解ります(..)

纒向遺跡 を調べました。ウィキより(今さら〜〜〜〜!!との声が・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされている。邪馬台国に比定する意見もあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。

遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。

遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみである。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出されている。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている[1]。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。

(p_-)
※遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。
※ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており・・暦年代としては西暦180年から210年をあてている。
(p_-)ナルホド・・西暦180年から210年・・2世紀から3世紀前半ですね・・弥生式土器が発見。おんやっ??破鏡(中国鏡の一部をペンダントにしたもの)など、中国などとの交流跡など権力を示すものは見つかっていないのかな??

転記を続けます(p_-)
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、また、現在では邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は必ずしも多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。しかし、2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるという[2]。農業用の大型水路や無数の土坑の中には、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。

(p_-)3世紀前半の遺構は必ずしも多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
・・・・ナルホド・・
(p_-)2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。
\(◎o◎)/!あっ??何故かこの大型建物跡(3世紀前半)を造ったと言われる方々に「愛情」を感じます!!(マタマタとの声が・・でも本当です(..))
何だろうこの感情は??でも、はっきり言うと・・この記述以前に書かれていた遺跡に関係する方々にはすみませんが(..)全く”愛情”を感じていなかったのです・・(?_?)・・何だこの感情は??

ウィキの以下の記述を読んで、いかに「大和朝廷」にとって纒向遺跡が重要な場所だったのかはよ〜く解りました。
でも、私の感情?から分析?すると・・(何という分析を!!とお叱りの声が・・)

大型建物跡(3世紀前半)を造った方々は・・先発隊だったのではないでしょうか??
某国(例えば・・今は大きな黒い縫いぐるみのような○モンと呼ばれるキャラクターで有名な・・)において各種族の連合軍(曽国も含めた)「東征」の準備を行っている間に先発隊が出て纒向遺跡のある場所に建国?していた??
もしくは、先発隊というよりは、その”連合軍”に深い繋がりのある「強大な権力をもった種族?」
その方々が大型建物跡(3世紀前半)に関係していた・・
あくまでも、私の妙な「感情」に基づいた分析ですが・・・すみません(..)

父に・・纒向遺跡の年代分析等の調べた話をした所
「・・・・・・そうか・・」・・と言っていました。(何だか私の顔をニコ〜ッと笑って見ていたような・・気がします)

と言う事で今朝は「ヘンチクリン」の娘はヤマト王権と纒向遺跡を調べました(^O^)/というお話でした。
では(^・^)
[7]子孫よりさんからのコメント(2015年05月24日 11時25分31秒 ) パスワード

追記

先程「ヤマト王権」と纒向遺跡を勉強しましたが・・

上記の事とは全く関係ないのですが・・どうしても気になる事があります。

祖父についてです。
実家に戻り、古い写真を整理していると祖父の写真が沢山出てきました。
その中に、戦時中に祖父が皇居前で写った写真数枚と大きな鳥居の前で写った写真があったのですが・・

皇居前で撮られた写真には他に沢山の男子学生が写っていて「東京帝国大学」の学生の方々です。(この写真については祖父が別の紙に筆跡を残しています)
祖父は並んでいる学生の横に軍刀を手に持ち(軍刀は両足の間に下げたような状態です)年代は昭和13年〜昭和15年の間だと思います・・
この時の祖父は明らかに「仕事中」のような、毅然とした表情ですが緊張した感じではありません。
他にも、同じように「学生」と一緒に皇居前で写った写真もあります。

さらに・・
大きな鳥居の前で撮られた写真ですが・・
大きな鳥居の後ろには小高い山(丘)のような景色が写っています。
後ろの駐車場には当時のおそらく高級車であるような車が数台写っています。
祖父は皇居前の写真と同じように軍刀を手に(両足の間に下げたような状態)でこの時は祖父とは異なる軍服姿の二人の男性と子供を抱いた婦人。
でも、あきらかに祖父は「仕事中」のような毅然とした態度ですが、この時も緊張した表情ではありません・・

父は「じいちゃんは東京帝国大学(東大)の学生を引率しているのじゃないか?」と言いますが・・引率??・・そうかな〜??何で祖父が引率??
じゃあと大きな鳥居前の写真を見せると・・父は「んんん??やっぱり解らん??」と・・
でも、あきらかに祖父は「皇居前」(後ろに橋が写っています)と大きな鳥居の前で「仕事」をしているかのようです・・(?_?)
でも、皇居警備とかどこかの警備という事ではないとは思うのですが・・

祖父は中国で負傷した後、しばらくは千葉に祖母と居たそうです。
その時の階級は陸軍中尉。
そして、数年後、軍隊ではなく行政の仕事で大陸に祖母と二人で渡りました。

ですから、写真はおそらく千葉に住んでいる時のものだと推測できます。

さらに祖父が叙勲した大きな賞状??みたいな物も見つかりました。
すごく大きな賞状のようなもので・・
(父から、こんな事はコメントしなくていい(ー_ー)!!と言われたのですが、どうしても気になって・・父から叱られるのを覚悟です・・)
明治勲章 単光旭日章を叙勲とする旨が書かれていて「下条康麿」と言う方の名前です。
正確には従7位宮原○○に勲六等(従五位)単光旭日章を叙勲(もっと詳しく書かれていますが・・省略しました)

父は「従7位は中尉だから高等官七等相当で解るけれど、一気に2段階飛び越えて勲六等(従五位)。何故かな??」と・・祖父はこの時27歳でした。
叙勲後、祖父は軍人としてではなく行政を担当すると言う事で大陸に渡りました・・
大陸への出発の時の祖父の名言?が
「私は馬族の長になります!」・・と言う事です(?_?)

皇居前の祖父。大きな鳥居前の祖父・・27歳での勲六等(従五位)叙勲・・大陸への出発・・

球磨の「この土地」と何か関係あるのかな?と父に言うと「違うよ、じいちゃんが一生懸命仕事をしたという証拠タイ」と・・
それは・・解るのですが・・何故か気になるのです・・・????

父に見つかると大目玉を受ける覚悟でコメントしました。
では・・
[8]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月24日 11時57分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>大型建物跡(3世紀前半)を造った方々は・・先発隊だったのではないでしょうか??
 
大きな誤解でしょう。
やはり「古代日本領土の起源」を読破すると疑問は氷解。

神武東征は宇佐水軍、宗像水軍、伊予水軍、熊野水軍を味方に付け、
瀬戸内海、紀州灘の制海権を握ったことが勝因です。
中でも伊予水軍がピカ一。
紀州の山岳迂回作戦では苦戦した様ですが?
見事、長髄彦が率いる大倭連合王国を打ち破り大和に政権を樹立。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/prejapan.gif
 
制海権を握ることが勝利に繋がるのは、今も昔も同じ。
邪馬台国が九州の地方政権で終わったのも同じ。
[9]子孫よりさんからのコメント(2015年05月24日 14時18分48秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

私は暴走して大きな誤解をしていたのですね・・(..)
(でも、何か解らないのですが・・妙な”感情が”・・マタマタですね(..))

父がいつもこう言うのです・・(..)
「どちらにしろ、”日本”という国土(土地)から見たら、言葉は悪いが家は侵略者の末裔だっ!ハッハ〜(^・^)」と笑います・・(..)
言葉は悪いが・・しっしんりゃくしゃ・・侵略者です・・(..)私はいつもシュンとなります・・
すると父は「馬鹿(ー_ー)!!そうやって、沢山の国の高度な文明を持った民族が集まって最終的に国が統一されてきたんだっ!当たり前の事だと思いなさい」
と・・言います(..)

だから、少しでも「侵略者」の度合い?を減らそうと?「球磨国がんば〜れっ!」と思っていました。(ヘンチクリンのおバカです・・(..))

あらためて、日本の苗字七千傑様の 仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」と仮説「神代紀概要」をしっかりと読ませて頂きました(..)

頭を整理して理解してみたのですが・・
@高天原・・1世紀頃から朝鮮半島南半の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)連合帝国の皇帝天御中主尊(馬韓王)に始まる王家が君臨する帝国
A三韓統一後は列島の山陰から北陸までの葦原中津国の建国植民地化により天御中主尊の諡号が贈られる。
B二代豊国主命は穴門豊浦に上陸し、九州北半部を併せて豊国を建国植民地化により同様に諡号が贈られる。
C豊国は次第に九州全域、壱岐、対馬を併合して葦原中津国と拮抗する大勢力に発展する。
(..)・・ここで「球磨国(熊国)」は豊国に蚕食されて熊国を奪われ、火(肥)の国に改称され熊国滅亡。・・ですね?・・
D七代の豊国王伊邪那岐尊と葦原中津国王伊邪那美尊は連合して豊葦原国を形成して、四国全域も版図とする。
E伊邪那美尊没後に帝国は分裂して、やがて豊国系天照大神と葦原系素戔鳥尊の抗争時代に突入する。
(..)・・道祖である豊国と葦原中津国の抗争が始まる・・でいいでしょうか?
F素戔鳥尊に敗北後は豊葦原国を譲渡するが、程なく没して豊葦原国は宗主国の支配に抵抗する存在となる。
(..)・・宗主国とは「上位の国?」すなわち馬韓国ですね。親国?の支配から独立しようとした??・・でしょうか・・?
G宗主国の馬韓国(高天原)は天照大神の孫瓊瓊杵尊を南九州の笠沙岬に上陸させて韓国岳を経て高千穂峰より降臨して豊葦原国の支配の弱い日向に奪回の橋頭堡を築く
(..)・・日向とは旧「曽国」と言う事でしょうか・・?あの・・ここで疑問が出るのですが、「球磨国(熊国)」から亡命した政府のお話を伺っていますが、この方々は当時、日向(旧曽国?)にいたのでしょうか・・
あの・・理解度が足らないとおしかりを覚悟で伺いますが・・現在の「球磨郡」は当時の「日向」いえ「旧曽国」に含まれていたのではないのでしょうか・・?
球磨郡は「肥国(火国)」(豊国より改称された)には含まれていなかったのでは?ないのでしょうか・・?
H敵対する豊葦原国の他にも近畿を本拠とする大倭連合王国や東北・北海道地域の磐見国(蝦夷国)が存在する。
 瓊瓊杵尊の曾孫神日本磐余彦尊の代になり、東征して豊葦原国・大倭連合王国を破り統一新国家を建国する。
(..)・・大倭連合王国が「長髄彦が率いる大倭連合王国」ですね。

勝手に転記して、すみませんでした・・

やっと、本当にやっと意味が理解できました。
〉神武東征は宇佐水軍、宗像水軍、伊予水軍、熊野水軍を味方に付け、
瀬戸内海、紀州灘の制海権を握ったことが勝因です。
中でも伊予水軍がピカ一。

こちらでも「伊予水軍」ですね・・源平の戦いにおいても同じく・・伊予・・伊予橘氏・・伊予北条氏・・越智氏・・そうか
「制海権を握ることが勝利に繋がる」
邪馬台国が九州の地方政権で終わった・・後の「火(肥)の国」ですね・・

また、勘違いをしていたらすみませんが・・もしや、私は、先日から、「当時の同国(球磨郡と曽?・・球磨郡と日向?」内をうろうろしていた(出かけていた)のではないのでしょうか・・・

ご教示本当にありがとうございました。
[10]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月24日 16時13分47秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>>「球磨国(熊国)」から亡命した政府のお話を伺っていますが、この方々は当時、日向(旧曽国?)にいたのでしょうか・・
 
間違い。大隅ですよ。
中でも種子島(熊毛郡)でしょう。
大隅の中心部は曽於郡で両地域を熊曽と呼ぶ様になる。
日向の一部は、明治まで人吉藩支配という複雑構造もある。
 
また北条氏は平氏という建前だが、下記系図を見れば越智姓?
種子島氏は、北条氏の養子とも言われる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01112.htm
 
伊予三島と伊豆三島、双方に三島神社が、神紋も折敷に三文字紋で同じ。
無関係とも思えない、偶然じゃ無いでしょう。
 
何事も俗説に洗脳されない様に!
単純に考えていると、敵味方論で騙されますよ。
[11]子孫よりさんからのコメント(2015年05月24日 21時51分04秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「大隅」「中でも種子島(熊毛郡)」
大隅と言えば大隅隼人のイメージが先行してしまって頭の中で「熊襲」との結びつきがありませんでした・・
〉種子島氏は、北条氏の養子とも言われる。
【桓武平氏維将流】姓氏類別大観、そして「種子島氏」姓氏類別大観を拝見致しました。
「河野氏」との姻戚関係が明白であり、種子島氏には「肥後氏」や「黒河氏」が・・
黒河と言えば・・阿蘇を源流とする黒川が熊本には流れています・・

そしてもう一つ驚いた事が・・もしかしたら、もっと先?から何らかの繋がりが?と。

《横江氏/佐治氏》姓氏類別大観も拝見したのですが・・偶然にも家紋が「日の丸扇」(扇に月)?でしょうか・・
以前、コメントしたのですが、球磨の太鼓踊りの兜に大きくついているのが扇に月の装飾です。
私、コメントの後、気が付いたのですが、球磨太鼓踊りの兜の装飾、「扇に月」はどの地域でも同じでした・・

そして・・鹿児島神宮は大隅国一宮ですね・・
以前、調べた時には全く気が付かなかったのですが・・
鹿児島神宮 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE
主祭神
天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)
豊玉比売命 - 天津日高彦穂々出見尊の后神
相殿神
帯中比子尊(仲哀天皇) - 八幡神を合祀した関係による
息長帯比売命(神功皇后) - 同上
品陀和気尊(応神天皇) - 同上
中比売尊(仲姫命) - 応神天皇の皇后。同上
太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる

この頃の調査を行い、こちらの画面を見て本当に体中が震える程びっくりしました。
※太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる

そういう事か・・

さらに・・ウィキの記述より
創始は社伝によると「神武天皇の時に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされるが、不詳。当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。
欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。 八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
信頼できる史料での初出は、醍醐天皇の時に編纂された『延喜式神名帳』に「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」とあるもので、大社に列している。その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した。

あの・・上記にある「税所氏」
平安末期から鎌倉後期にかけて球磨の平河家にも深く関わりを持った「税所氏」・・
そういう事か・・!!

私は、とても大事な事を見過ごす所でした。
日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。
[12]白石さんからのコメント(2015年05月25日 06時54分58秒 ) パスワード

★倭氏は イザナギ イザナミの子供である「海神」の系だった。
代表的には 尾張熱田神宮の熱田氏がいる。この 系は 安曇がいた。安曇は海部と同族。尾張熱田神宮 丹後籠神社 伊勢神宮など 関係した。
★金印が出た志賀島の志賀海神社の神主・安曇氏あずみ
あずみは 遠祖 神武天皇の母方でおじ 穂高見命にはじまる。
★日本の苗字7000傑穂高見命で検索

尾張氏への筋や大倭国造や

昨日テレビを見ていたら
平江の 江を かわ と 読ませていました。

金印は 今は浸食されて海になっているあたりから出たようですが
神社のうち分のようです。

漢委奴国王 とほられた金印。
神武天皇の年代も 金印との関係も わかりませんが
神武天皇は もともと
神倭伊波礼毘古命(幼名・狭野)と いわれた。

倭です

[13]子孫よりさんからのコメント(2015年05月25日 10時46分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)
白石様、ご教示ありがとうございます。
〉神倭伊波礼毘古命(幼名・狭野)と いわれた。

ヤマト・・大和と倭は「別」でしたね・・・

所で・・昨晩、コメントしましたように鹿児島県霧島市隼人町にある「鹿児島神宮」ですが・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE
鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社。式内社(大社)、大隅国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別名として大隅正八幡宮とも。
(-.-)「正八幡宮」です。「正八幡宮」という別名についてウィキの記述には
欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。 八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている

と書かれています。
実は・・私の地元旧岡原村にも「正八幡宮」が鎮座されています。
以前から父と話していたのですが何故?「正八幡宮」というお名前なのか??と・・
なお且つ、岡原の正八幡宮は、明治時代、岡原霧島神社の合祀の対象ではありませんでした。
場所は、私の家や平川家の前を流れている井口川沿いの道を700メートル程、下った所にあります。(川沿いに鎮座されています)
鹿児島神宮の別名「正八幡宮」。おそらくですが、こちらを旧岡原村に勧請したのではないか?と・・・?

鹿児島神宮「別名として大隅正八幡宮」
御祭神
主祭神
天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)
豊玉比売命 - 天津日高彦穂々出見尊の后神
相殿神
帯中比子尊(仲哀天皇) - 八幡神を合祀した関係による
息長帯比売命(神功皇后) - 同上
品陀和気尊(応神天皇) - 同上
中比売尊(仲姫命) - 応神天皇の皇后。同上
太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる

昨晩もコメントしたように驚きで身体が震えてしまいました。
※太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる。

さらに・・こちらをご覧ください
鹿児島神社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
ウィキの記述には
「鹿児島神社」は垂水市にもあり(鹿児島神社)、霧島市の鹿児島神宮も古名を「鹿児島神社」という。3つの鹿児島神社を直線で結ぶと桜島を囲む二等辺三角形になり、これらの神社は元々は桜島(古くは鹿児島と呼ばれたとする説がある)を神体として祀る神社だったとする説もある。
※鹿児島神宮も古名を「鹿児島神社」という。

皆様、おぼえて頂けているでしょうか?球磨の鹿児島神社についてです。
深田村の神社について 球磨郡誌 コマ番号307をご覧ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

深田村 鹿児島神社
柿木丸にあり。彦火々出見神を祭る。草創の年紀は詳でないが、平川三郎師高勧請と言ふ。

以前もコメントしたように「平河(平川)師高」の勧請となる深田「鹿児島神社」です。
以前のコメントの際は「熊国(球磨国)」と呉太伯の系についての知識が未だ曖昧で、もしかしたら非常に重要な記述であるかもしれない事に気が付いていかなかった・・のだと思います。
ドンドン窓が開いていくような気分なのですが・・さらに「税所氏」についてです。
『延喜式神名帳』に「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」とあるもので、大社に列している。その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した。・・とあります・・

まず、こちらをご覧ください
相良 長頼 ウィキより
建久9年(1198年)12月、長頼は源頼朝より命を受けて人吉に下向した。先に下向した相良頼景は上球磨(多良木、湯前、湯山、江代)を領していて、中球磨は木上岩城主の平川義高[2]が領し、下球磨は公領であったが、平頼盛の代官[3]であった矢瀬主馬佑が領していた。長頼は鎌倉幕府の命令であることを示して矢瀬に人吉城の明け渡しを迫ったが、拒否された。長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して、矢瀬討伐を依頼した。平川義高はこれを快諾し、大晦日の川狩の際に矢瀬一族を胸川(球磨川支流)に誘い出して、尽く討ち取って滅ぼすと、人吉城を奪取。長頼は義高に迎えられて人吉城に入城することができ、任務を果たして帰還した。

(-.-)長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して、矢瀬討伐を依頼・・
「税所氏」と「平河」の関係はこれだけではありません。
鎌倉時代の平河の訴訟及び越訴には「税所氏」は深く関わっています。(まとめて後でコメント致します)

さらに・・球磨に名跡を残した「紀平」という「名」。
紀平二元保 そして良峯師高の子息:紀平次不知実名。
「紀平二元保」とは実は「税所氏」でした・・
調査していたのですが・・以前、いつかコメントしますと書いたきり、そのままにしていました。大失態です・・

「紀」・・「紀氏」ともしかしたら勝手に思い込んでいたのかも?と・・
「姬」(き)・・「紀」(き)・・????

所で、今、現在、私の最大の疑問は、鹿児島神宮の御祭神についてです。
相殿神
帯中比子尊(仲哀天皇) - 八幡神を合祀した関係による
息長帯比売命(神功皇后) - 同上
品陀和気尊(応神天皇) - 同上
中比売尊(仲姫命) - 応神天皇の皇后。同上
太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる

仲哀天皇は熊襲征伐の際にお亡くなりになりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E5%93%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
皇居[編集]

香椎宮・大本営御旧蹟
穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地)
筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや、福岡県福岡市東区香椎の香椎宮が伝承地)

(-.-)・・私、小倉にいる時に何度も下関市長府の忌宮神社に伺っています・・

8年熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神[4]のお告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。遺体は武内宿禰により海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮で殯された。『(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。
(-.-)
上記の記述は熊襲征伐を強行しようとされた仲哀天皇へ神功皇后が「熊襲ではく新羅を討つように」と助言された・・と言う事でしょうか・・

※熊襲征伐を強行した「仲哀天皇」
※呉太伯 の末裔、が建国した「熊国」倭国王と呼ばれた呉太伯 の末裔「熊国王」

なぜ?鹿児島神宮では仲哀天皇と呉太伯 相殿神となっているのか???
最大の疑問です。
もちろん「帯中比子尊(仲哀天皇) - 八幡神を合祀した関係による」とはありますが・・
私には、もっともっと大きな「謎」いえ「秘密」が隠されているような気がしてなりません。

「姬」(き)・・「紀」(き)
そして・・気になる文字がもう一つ「忌」です。
※呉 夫差の子「慶父忌」。
※忌宮神社 仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡。実は仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」とあります。
そして・・
※「忌部氏」日本各地で朝廷の祭祀の場合使用する木綿、麻布などを作ったとされる・・「麻」・・「麻」・・求麻・・

日本の苗字七千傑様より頂いたご教示
熊曽の国は、はじめ熊国と曽の国との二国からなる連合。
豊国に蚕食されて熊国を奪われ、火(肥)の国に改称され熊国滅亡。
政府は曽の国へ逃亡して同居。
以降の熊曽国とは、曽(大隅地方と沖縄)を領土とする麻人(南方和人)と九州アイヌとの連合国家。

麻人・・九州アイヌ
大きな渦が頭の上にあるような感じです。でも渦の中心が微かながら見え始めているような気がします。

では(..)











[14]子孫よりさんからのコメント(2015年05月25日 12時38分37秒 ) パスワード

先程のコメントで書いた平河師高勧請の鹿児島神社の現在の詳細が解りました。

内山八幡宮(鹿児島神宮)と呼ばれています。
まず、詳細を。
人吉・球磨の神社 より
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.291210637662303.43106923.269261349857232&type=3
境内神社:「鹿児島神宮(深田阿蘇神社-境内神社乙6)(流鏑馬7番:深田内山神社:小八幡)」
鎮座地:深田村(現あさぎり町深田)柿木丸87。
祭神:彦火火出見尊(注1)
例祭日:12月2日。
境内地坪数:1998坪。
創立年代不詳
沿革
創立の年紀は不詳であるが、平川師高(注2)の勧請(注3)と云ふ。
参考文献
昭和31年4月20日発行「球磨郷神社誌」
昭和56年10月1日発行「熊本県神社誌」
著者:上米良利晴(東臣)氏

さらに内山八幡宮(鹿児島神宮)には鰐口と呼ばれる青銅製の鳴物の祭器が掲げられていたそうです。
あさぎり町 公式ページより
http://www.asagiri-town.net/q/aview/52/382.html
鳴物の祭器。内山八幡宮(鹿児島神宮)に懸けられていたもので、直径16.5cm、厚さ4cmの青銅製。損傷がひどく、き裂がある。「奉懸鰐口之事、南小河大明神御寶前千時天文四季乙未八月吉日願主宇治朝臣惟氏敬白」と陰刻。宇城市の小川阿蘇神社に奉納され、後に内山八幡宮に移された。相良氏の戦利品という。

\(◎o◎)/!内山八幡宮は、私がいつも通る道なりに鎮座されています。

では(..)
[15]子孫よりさんからのコメント(2015年05月25日 16時54分45秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

各個撃破となれば、今までの私と何ら成長がないと思い、日本の苗字七千傑様の
【神別総括系図】 姓氏類別大観さらに画面中の「異説」の系図を見ていました。

物部氏と薩摩・大隅隼人・・同族ですね・・
さらに【度会氏】姓氏類別大観《神皇産霊尊裔氏族綱要》を拝見していたのですが・・
天道根命(紀国造)天湯川桁命(三島氏)大久米命(久味国造)由布津主命(斎部氏・・阿波忌部氏)天羽雷雄命(県犬養氏)
同族ですね・・・

さらに・・
【越智氏】姓氏類別大観 《孝霊帝裔氏族綱要》を拝見していたのですが・・
紀氏と越智氏は繋がって・・越智氏と三井根子命(芦北国造)は同族で・・三島大祝家と伊予北条氏と伊予橘氏は同族で・・

そういう事か・・・と。今朝、疑問を感じていた事は全て繋がっていますね。
つくづく・・古来からの大きな流れを感じました・・

では(^・^)
[16]白石さんからのコメント(2015年05月25日 20時54分49秒 ) パスワード

こんばんわ
>内山八幡宮(鹿児島神宮)には鰐口と呼ばれる青銅製の鳴物の祭器

坂本家ですね。ずっと前に コメントしたと思います。

太田亮氏の辞典では
金印が出た志賀島のところの神社の神主に坂本がある
ということです。
ーーーーーーーーーーーーーーー
>税所氏
ヤマトタケルの系ですね。
ヤマトタケルについては他にも

ヤマトタケルノミコトは12代景行天皇の二番目の息子で、本人は若くして亡くなっていますが、その息子は14代仲哀天皇として天皇に即位しています。
その後、25代武烈天皇が跡継ぎが無いまま崩御(亡くなる)すると次の継体天皇は別系統から来た天皇でしたが、ヤマトタケルノミコトの孫の15代応神天皇の子孫とされているので、天皇家はヤマトタケルノミコトの子孫という事になります。(ネットより)



姓系辞典に「宮道」というのがあり、第1条 ヤマトタケルの子孫 となっております。宮道に注目

古代史の旅3:讃岐の古墳時代の王族、神櫛王と鷲住王で検索
2010年3月7日 ... 宮道氏(みやじし)は、日本武尊の子である武卵王(たけかいこのみこ)の子孫と伝える 宮道別の後裔氏族と推察される。山城国宇治郡(京都府京都市及び宇治市)を本拠と した宿禰姓の宮道氏が最も知られた。
[17]白石さんからのコメント(2015年05月26日 04時57分02秒 ) パスワード

ウィキでヤマトタケルの簡単略系図をみると
開化天皇と伊香色謎命の間の子の筋で 四世孫が神功皇后。
一方 同じく開化天と伊香色謎命との間の子の筋で 垂仁天皇をとおる系にヤマトタケルがいる。

『日本書紀』、『先代旧事本紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と書き、またの名を日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)ともいった。また、『尾張国風土記』逸文と『古語拾遺』では日本武命、『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』逸文では倭健天皇(または倭健天皇命)と書く[2]。

伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 - 崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命(読み方同じ)とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命★(父は孝元天皇。★武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。

大綜麻杵命は物部氏先祖。
[18]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月26日 12時09分50秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>伊予三島と伊豆三島、双方に三島神社が、神紋も折敷に三文字紋で同じ。
 
実は双方の三島氏は物部大新河を同祖とする。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113.htm#001

河野親清は別名三島四郎親清で源氏からの養子。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206.htm#002

源頼朝が石橋山の戦いで敗れて、僅か七騎になり房総に落ちのびれたのは、
中村水軍、三浦水軍の連携でしょう。
 
平家が劣勢になったのは、越智姓河野水軍の源氏への寝返りが大きい。
加えて坂東平氏の頼朝への味方でしょう。
 
足利尊氏の九州敗走後の反転攻勢も三島水軍ほか水軍の援護が大きい。
 
歴史で活躍したのは、いつの世も裏に越智氏一族。
 
幕末の鳥羽伏見の幕府敗残兵の淀城入城を拒否して越智姓稲葉氏は朝廷側に帰属。
日本の初代総理は越智宿禰伊藤博文。
[19]子孫よりさんからのコメント(2015年05月26日 13時17分15秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様、物部氏族と武内宿禰は繋がっている・・
私も頂いたご教示を基に調べたのですが幾重にもこちらが繋がっていた事を確認いたしました(^・^)

日本の苗字七千傑様
〉歴史で活躍したのは、いつの世も裏に越智氏一族

物部氏族「越智氏」は昨日再認識しましたが「紀氏と越智氏は繋がって・・」

神武東征の際の功労者「饒速日命」。・・物部氏

越智姓河野水軍の源氏への寝返りそして四国の水軍が源氏方へと味方した裏には「橘公業」がありました・・

おそらく・・先を見越した事も一因かとは思いますが、それ以上に古来からの大きな流れの軍団?が「どうしても我慢できない、いえ、大きな怒りとなる出来事」がそれ以前にあったのでは?と・・・あくまでも私の私見ですが・・
「源平藤橘」なんて最近?の事ではない、「建国」に関わる系が我慢できない出来事・・・勝手な推測です(すみません(..))

所で・・
全く、話は変わるのですがお聞きください(..)

球磨の方言についてです。
以前から、クワガタを「カゲキヨ」と呼ぶ事はお話していると思いますが(特に上球磨。岡原を中心とする地域)
これは平景清の兜が「クワガタ」によく似ていたから・・利にかないます・・

でも、どうしても、もう一つ解らない方言があります。
こちらも、熊本県内では「球磨」のみ、日本全国にも全く例をみない方言です。

それは「チョッポ カスケ」もしくは「チョッポ カスケイ」です。
「ミミズクやフクロウ」を指す言葉です。

例を(子供の頃の祖母との会話)
夜中に外で「ほう〜ほ〜」と声が聞こえると・・
祖母は「ほ〜ら。外でチョッポ カスケ(カスケ〜ィ)が鳴きよるヨ!」です。

色々方言を調べたのですが・・「ミミズクやフクロウ」をそう呼ぶ所など全国何処にもありません。先もお伝えしたように熊本県内でも球磨のみです・・??

そこで、「呉?」モシヤと思い、海外の言葉で探したのですが・・今の所見当たりません・・
ただし・・気になったのが・・
韓国では「系譜」「族譜」「家系図」を「チョッポ」と呼ぶのですね・・?

チョッポ家系・・チョッポカケイ・・チョッポカスケイ・・?なんちゃってですが・・

でも、万が一もしももしも?ですが、結構、上記の案が正解に近かったら・・
変なのです・・だって「ミミズクやフクロウ」は家の系??と呼んでいる訳ですから・・??
「ミミズクやフクロウ」は「系譜」「族譜」だっ!!と??祖母をはじめ一部の球磨の人は呼んでいる??
夜行性の「鳥」だったのか?!(ー_ー)!!違いますね・・

お笑いになるかとは思いますが(..)調べました・・何だか歴史に関係しているのでは?と(マタマタと笑い声が!!・・)

すると・・一つ気になる記述を目にしました。(マタマタ〜と笑い声が大きく・・)
偶然ですが・・武内宿禰 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
武内宿禰(たけしうちのすくね[1][2]/たけのうちの-/たけうちの-、景行天皇14年[注 1] - 没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称。
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である[2]。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。

(-.-)あの・・記録の第16代仁徳天皇紀です。転記します。
仁徳天皇元年1月3日条
応神天皇の子の大鷦鷯尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは同日に生まれた。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けた[2]。

(-.-)木菟(つく:ミミズク)・・平群木菟宿禰

平群木菟宿禰 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%BE%A4%E6%9C%A8%E8%8F%9F
平群 木菟(へぐり の つく[1]、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)」「木菟宿禰」、『古事記』では「平群都久宿禰」、他文献では「都久足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称。
武内宿禰の子で、平群氏およびその同族の伝説上の祖とされる。
『日本書紀』仁徳天皇元年正月条によれば、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれたという。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたという[2]。
ただし上記伝承以前にも記事があり、同書応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、木菟宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した[2]。
続けて同書応神天皇16年8月条によると、葛城襲津彦が朝鮮から久しく戻らないため、天皇は新羅が妨げているとし、木菟宿禰と的戸田宿禰を精兵を従えて加羅に遣わした。木菟宿禰らが新羅の国境まで兵を進めると、新羅王は愕然として罪に服し、弓月君の民を率いて襲津彦と共に日本に来たという[2]。
また、同書履中天皇即位前条では、住吉仲皇子(履中の弟)が太子(履中)に対して反乱を起こした際、物部大前宿禰・阿知使主とともに太子に啓したが信じなかったため、3人で太子を馬に乗せて逃げたという。その後、瑞歯別皇子(のちの反正天皇)の仲皇子討伐に従ったが、仲皇子から離反し仲皇子を殺した刺領巾について、自分たちにとっては大功だが主君には慈悲がないとして殺害している[2]。そして履中天皇2年10月条において、天皇が磐余に都を作った時に、蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主らと共に国事を執ったと記されている[2]。
『古事記』では事績に関する記載はない。

\(◎o◎)/!チョッポカスケィの写真が!!((ー_ー)!!マタマタとの声が・・)

全く関係ない事を書いたのかもしれません(..)
でも、私は、宇佐神宮内にある黒男神社(御祭神 武内宿禰)には必ずお寄りしてお参りをさせて頂いていました。(^・^)

と言う事で、全国でも類をみない?球磨郡だけの方言
「ミミズクやフクロウ」はチョッポ カスケ もしくは チョッポ カスケィ
というお話でした。

では(^・^)
[20]子孫よりさんからのコメント(2015年05月27日 07時47分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

先祖調査とは関係ないのですが・・
祖母は生前に詩吟をしていまして、部屋に「奥伝」になった時の賞状?が飾られていまして、奥伝 蔦城 と書かれています。調べたら「蔦城」は祖母が詩吟をする時に使っていた「名」のようです。(専門的な呼び名知識がありません(..))
「蔦城」の「蔦」は祖母の名前にちなんでいると・・(祖母の名は蔦をカタカナで書きますので・・)
でっ・・思い出したのですが祖母の名は何かに由来があったと聞いたのですが、子供の頃の事で全く思い出せません・・トホホ ばあちゃんごめんなさい(..)
父に聞いたら「蔦の葉のように元気に長〜く伸びていくように・・じゃあないの?」と・・そうだったかな??・・
急に気になってじっくりと見た賞状?だったので、祖母が何か教えてくれているのでは?な〜んて思ったりしました。(じゃなか〜(ー_ー)!!と祖母の声が聞こえたような??思い過ごしカナ)
奥伝 蔦城  晩年になっても、日本舞踊や詩吟に取り組むパワフルな祖母でした(^・^)
そう言えば、祖母は子供の頃から女学校を卒業するまでテニスをしていたそうです。九州大会?のような試合にも出ていたそうです。ビックリしました。
ばあちゃんとテニス\(◎o◎)/!・・ばあちゃんと羽子板なら解るのですが・・想像すらしていませんでした(ばあちゃんごめんなさい(..))
このように子供の頃から、晩年に至るまで「超パワフル」なばあちゃん(祖母)だったのです・・私も少しは祖母をみなわらなければ・・と

所で・・一昨日、「不思議な夢」をマタマタ見ました・・
内容は・・先祖の調査を始めるきっかけとなったかなり以前の夢で見たような平屋建て?の横にめちゃくちゃ長〜い(端っこが遥か先に見えるような)建物の中に案内されて、ナント私はゲーム?をする事になりまして・・
何だろう、将棋盤?碁盤?みたいな何だか石?のようなもので出来たものの上にチェスの駒みたいな(もっと大きかったです・・)が何個かおかれていて・・
どうゲームすればいいのか解らないので目の前にいる人?に聞いたのですが・・
「どの駒が強いのですか?」「駒の種類はどう違うのですか?」と立て続けに聞くと周囲にいた観客?と目の前の人が声を合わせて「皆、一緒」って言うのです・・
ナンデスト!皆一緒だったら勝てないじゃん!と思いもう一度聞こうとすると
「皆一緒!」とか「同じ!」とか観客が笑いながら叫んでいます・・
もう!<(`^´)>と。悲しくなった所で目が覚めました・・トホホ

ただ、建物自体は日本?かな??違うような・・と思いまして・・
だから、昨日は春秋時代の呉についてチョコットだけですが、勉強しました。
ネットで見ていたら、父から「本を読みなさい」と言われたのですが・・取りあえずです・・

勉強?していたら・・「あんれっ?」という事に気が付きましたので、後ほどコメント致します。

所で、今日は、霧島錦江湾国立公園内の道路が通行規制が解除されているので、早速、行ってきます(^O^)/
雄大な景色が楽しみです(^・^)
では(^・^)
[21]子孫よりさんからのコメント(2015年05月27日 08時31分06秒 ) パスワード

さらに・・追記
祖母の賞状 奥伝 蔦城 というお話を書いたのですが、もう一つ、昨日、見つけた書類の事を思い出しました。

家にある、古い書類の中に宮原の曾祖父から祖父への全遺産相続に関してのものが複数ありまして・・
中に「球磨村渡(わたり)」の土地の事が書かれていました。
\(◎o◎)/!家って球磨村渡(わたり)の土地に関係していたの!?とビックリしまして・・
父に聞いた所「解らん??」と・・
それ以降どうなったのか全く解りません・・このような父と私ですから・・トホホ
さらに、旧岡本村の土地についても書かれていまして・・「岡本字○○」と・・
コレマタビックリ\(◎o◎)/!しまして・・何せ家は「旧宮原村」なので・・
この土地は「岡原村」に譲っているようです。
しかし、もっと驚いたのは、曾祖父あての「岡原村」からの書類?でして・・
明治時代か大正時代のものです。
内容は旧宮原村舟川の温泉がどうの・・(何せ漢文のような筆で書かれた文字で読みにくくて・・というか殆ど読めませんが・・)
どうも、宮原村舟川の土地を村に渡したようでして、掘削して出てきた温泉の権利は村有になりますよ!・・みたいな事が書かれています。

そう言えば以前、ネットで宮原村の銀山に関して調べていた時に、関係ない内容で舟川とか温泉とか書いてあった事を思い出して、早速しらべたのですが・・

人吉市史 googleブックより
この試掘の場所は、球磨郡宮原村で、願出人は、同村の荒川喜一(湯掘試掘引受人)と同村溫泉試掘願(四月)の人民惣代深松順太.深松甚内である。その趣意によれば、宮原村字舟川の湯坪が先年来荒地となり、現地は石塚氏となり(図面)明治六年、試掘したが、湯水混合して入湯できないので、人民協議し、近村に温泉がないので温泉ができれば、近村からも入湯者が見え、湯屋建築の費用も慷われるので、試掘許可されたいと ...

内容は飛び飛びなので文脈は解りづらいのですが、「現地は石塚氏となり(図面)明治六年」・・この方は当時の「村長」さんです。(岡原村史で確認しました)

上記の温泉掘削に伴う「書類」だったようです。

でも私が興味を持ったのは「舟川」という地名でして・・
子供の頃聞いた、旧宮原村の温泉の源泉地は黒原山麓というよりは、少し山を登った所にあり、「舟川」?「何で舟?」と言う地名が付くのか全く解らない山の中なのです・・??

マダマダ、何か出てきそうな予感?がします(p_-)
では(^・^)
[22]子孫よりさんからのコメント(2015年05月27日 11時07分24秒 ) パスワード

再々追記

みなさま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
\(◎o◎)/!見つけました!!
チョッポカスケィ(ミミズクやフクロウの球磨弁・・というかばあちゃん・祖母が言っていた)の紋章を!!
黄帝の紋章です!
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/bull.html
〔中国・神話〕 中国では、農業の開祖、神農の角の生えた頭が、ウシや雄ウシを連想させるが、蚩尤の頭も、明らかに雄ウシと同一視できる。だが、黄帝は、両者と対立した。雄ウシは、風の精である。頭には角、足にはひづめの生えた蚩尤は、風(と雨)のおかげで、黄帝と対立する。黄帝が、蚩尤を、水に住む竜や、ひでりと戦わせたからである。蚩尤は、宇宙の混沌を創り出す。彼は、黄帝に敗れる。黄帝の紋章は、ミミズクである。

黄帝 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D
黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年〜紀元前2448年)

概要[編集]
漢代に司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊、昌意の父。
彼以降の4人の五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろう。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られる。

\(◎o◎)/!
黄帝・・姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏

あの・・・・・・・・・・・・・・あのおおおお!!
この方がかぶられている帽子??!!

先祖調査を始めるきっかけとなったあの「金の巾着にお菓子を入れて配る?神様」のような人が出てきた夢で、私が一生懸命その人を追いかけて、大きな門の前まで来た所す〜っと私の傍に来られて「追ってはいけません」と言われた方が被っていた帽子と同じです。私が追いかけた「金の巾着にお菓子を入れて配る?神様」のような人は、その時門の外の橋の上にいて、私に向かって・・
「調べなさい(^・^)」と言われて・・・

この夢こそが、私が最初にこちらのスレッドを見つけるきっかけともなった・・と以前コメントしていたと思います・・

実は、昨日も父に夢に出た方の「帽子」の話をしていたました。(嘘ではありません)
だから、今、黄帝とはどんな方なのかな?と初めてウィキで見て、ひっくり返りそうになりました\(◎o◎)/!

まさか!!ですが
チョッポカスケィ・・ミミズクやフクロウ
チョッポは「系譜」「族譜」・・

まさかまさかですが・・・・

では(@_@;)
[23]白石さんからのコメント(2015年05月28日 02時17分18秒 ) パスワード

こんばんは
ちょっぽかすけい
おもしろいことばですね。

ところで
過去に 私 卑弥呼女王についてコピーをとっていたのとこの頃新しく知ったことを書いてみます。
女王は松野連系図につく人ですね。松野連は呉の太伯の末。倭人はたいはくの末と自ら言っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神武天皇は
神★倭いわれびこ
といい、
天孫ににぎは
『古事記』では天邇岐志国邇岐志★天津★日高日子★番能邇邇芸命[2]、天邇岐志、国邇岐志、天日高日子、『日本書紀』では天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊[2]、天津日高彦瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵、火瓊瓊杵などと表記され、一般には瓊瓊杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれる。

と 日高を冠している。
ににぎと兄弟とされるにぎはやひ も ひたかみ に 関与していた。

神社伝承・中国文献・考古学的事実の照合では
太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。<司馬遷『史記』「呉太伯世家」

今はブログの一部が消えているのかどうか? 荒木田家伝承を書いていた人のブログでは
青州をたってきた。 と 書いていて 九州についたとき 先にいた人がいて 句か? と いっているが

これは 句呉のことか?のちに 呉という。

荒木田家は伊勢神宮におられた。
中臣氏と同族で 家祖を天見通命。
又 
香淳皇后は くにのみやのでで 島津で 自分と 同じ血が流れていると 書いていた。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中国の史書には「周の元 王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されている。「 松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島 に・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ 常世国は燕の別称. 常世氏. 燕国王公孫淵の後裔と伝え、河内を本貫とする。
   古事記上つ巻に「御毛沼の命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡りまし」
御毛沼の命は 神武天皇の皇兄。

公孫氏の 民族・風習とも、まったくの漢民族である。

燕満は衛満のこと
「史記」朝鮮列伝
   朝鮮王満は もと 燕人なり・・・

前漢の高祖の時代、燕王盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、満(衛満)も燕から亡命し、
千人余りの徒党と共に朝鮮に入った。衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、燕を出自とする中国人となる。

燕は周王朝の元勲である召公奭(せき)が紀元前11世紀に封じられ、紀元前222年に滅亡するまで約八百年続いた国家。

※  「晋書(しんしょ)」 巻九十七 「四夷伝(よんいでん)」 中に、
  [争乱に明け暮れる「倭」に一人の女王が擁立(ようりつ)され王となって
乱が収(おさ)まった。その女王の名を「卑弥呼」と云う。彼女は、かつて
   「西晋(せいしん)の始祖・宣帝(せんてい)」に滅ぼされた「公孫氏」で
   あった] と明記されている。

   彼女の出自氏姓(しゅつじしせい)は、
   遼東侯「公孫(こうそん)氏」の繋類(けいるい)である。
   238年に遼東太守の公孫氏(こうそんし)が、魏の司馬懿(しばい)に滅ぼされ、帯方郡が魏の直轄地になると、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、朝貢使の難升米(なしめ)を派遣した。

   ↓
   大田亮氏は 
    多氏条
 卑弥呼女王も この氏のひとである と書いている。
 多氏は 「中原」でも ある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魏の司馬懿
「三国志」の終わりの頃の人ですね。呉を滅ぼし 司馬氏が三国を統一するまでが三国志の話。

中国・三国志について100年に渡るを制した司馬炎の「晋」はその ... というブログに 五代一六国とか 隋とか がけんこくされるまでのいきさつが書いてあります。

その中で 
北方では匈奴が、また四川では氐という異民族がそれぞれ王→皇帝と称し(漢と成)、さらに匈奴は首都洛陽に突入して新しい皇帝を拉致し、下男として使った挙げ句に殺害します(311年)。

いろいろあって
以後、中国は異民族が支配する北と、晋の国の南とに分かれます(五胡十六国時代)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
7000傑サイトの仮設 天孫民族大移動 は
それよりまえ

前漢時代(前202-8)の朝鮮半島中・南部に辰国を建国したのが倭族であり、後漢時代(25-220)に馬韓・辰韓・弁韓に分立する。 
 後漢書東夷伝韓条に「大なるは万余戸、小なるは数千家、各々山海の間に在り、地は合わせて方四千余里、東西は海を以て限りとなし、みな古の辰国なり。馬韓は最大、共にその種を立てて辰王となし、月支国に都し、尽く三韓の地に王となる。その諸国王の先は、皆これ馬韓の人なり。」の記述がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   





[24]白石さんからのコメント(2015年05月28日 02時32分45秒 ) パスワード


司馬は
林臣 蔵作り 蘇我などに関与していく。

[25]子孫よりさんからのコメント(2015年05月28日 09時34分24秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。(^・^)

〉太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。<司馬遷『史記』「呉太伯世家」

上記のご教示は私が、昨日、気になる事があるので「後ほどコメントします」と書いた事の一つでもありました(^・^)

さらに白石様の以前のご教示(平川家について23コメント6)の中に
〉羋(び)姓熊氏
これは 春秋時代の楚の王家の姓

とも伺っていました。
楚の国は夫差の子である慶忌が自らの領土に帰る前に由縁のある楚に立ち寄ったとの記述を目にしました・・

日本の苗字七千傑様の仮設「天孫降臨は四世紀の民族大移動」にある
前漢時代(前202-8)の朝鮮半島中・南部に辰国を建国したのが倭族であり、後漢時代(25-220)に馬韓・辰韓・弁韓に分立する。 
 後漢書東夷伝韓条に「大なるは万余戸、小なるは数千家、各々山海の間に在り、地は合わせて方四千余里、東西は海を以て限りとなし、みな古の辰国なり。馬韓は最大、共にその種を立てて辰王となし、月支国に都し、尽く三韓の地に王となる。その諸国王の先は、皆これ馬韓の人なり。」の記述がある。

すごく重要な「一文」だと痛感しました・・

所で・・

次のコメントには、明治15年まで、一切、人の手を加える事の無かった、全くの「未開の地」であった
旧岡原村「神殿原」(こうどんばる)の「開発」についてコメントさせて頂きます。
では(-.-)
[26]子孫よりさんからのコメント(2015年05月28日 11時15分37秒 ) パスワード

早速・・(-.-)

先程もコメントしたように旧上村と旧岡原村にまたがる「神殿原」(こうどんばる)は明治15年まで、一切、人の手を加える事の無かった、全くの「未開の地」でした。

神殿原という地名と、相良藩700年の歴史をかえりみても、何故、この地は「手をつける事」が無かったのかいえ「開発」する事が出来なかったのか・・私は、故郷に戻りず〜っと疑問を感じていました。周囲には幸野溝や百太郎溝もあり治水事業はすでに1600年代に完成しているにも関わらずです・・
さらに、球磨には数々の遺跡や古墳が見つかっているにも関わらず、旧岡原村には殆どそのような記述を目にする事はありません・・

では、上記のような先入観は取り除いて・・
岡原村史 第1巻 25ページに記載されている「神殿原開墾社」についてご紹介いたします。
今から、私が転記する内容は、かなり危険な記述も含まれますので、一部、「事件名」と人物名は○○と表記させて頂きます。ご了承ください。

岡原村史 第1巻 25ページ〜27ページより 「神殿原開墾社」について
或る日、熊本県知事冨岡敬明は相愛社の首領池松豊記等を官邸に招き、士族授産金として二百円宛下付する事を前提として、この金で球磨の原野を買い、開墾を初めてみてはどうかと勧めたのであった。
成程限りある家産をもって、限りない国事に奔走する事は苦しい事でもあり、既に同志の懐中は大分寒くもなって来ていた折でもあったので、知事の敬遠策に自ら乗ぜられ、時をかせぐのもよかろうと
池松豊記、宗像政、田中○○、高田露、北川信春、小森田相象、川添万太郎、清田弥彦、中島敬次郎、中根次郎、中西純一、渡辺忠、堀田道春、西浦次郎彦、池松三郎、緒方直人、岩崎亥之男、中根安己平、筑地勝之、塩山幸則ら二十数名は、上村の神殿原を中心に、岡本村にもかけて轉住、アメリカ式のカルチペータを使って未墾の原野を拓きながら、私学校を建てて新知識を吸収しつつ、時期を待つことにしたのであったが、これが「神殿原開墾社」であった。
つまり、民権派の同志十五年七月、新しい希望に燃えながら、移住して来たのであったが、十六年の夏、赤痢が大流行してからは生活に困る人達も出て、所期の成果を挙げる事が出来ずに村を離れて行った人もあったのであった。
しかし、後に高田露は代議士となり、宗像政も代議士となったあと、埼玉、青森、福井、宮城、高知、広島、熊本の県知事を歴任、東京府知事にもなり、更に貴族議員にもなったのであった事は記憶しておいてよかろう。共に岡本村に居住したことのあった人であったから・・。
多良木村に轉住した宗像景雄や堀田道春らについては記憶している人もあると思うが、「○○事件」(注・朝鮮半島で起きた重大事件です(..))で活躍した田中○○の戸籍は再帰まで岡原村にあった事は記録にとどめておかねばならない。
なお、池松豊記は上村の村長となり、選ばれて代議士となり、球磨農業学校誘致に一役かった人であったことも付記しておこう。
中略・・
なお、「岡原小学校百周年記念文集」に、稲積神社拝殿に府本小学校は明治七年四月に附設されたとあるが、明治八年の「宮原村地誌」には稲積神社は無く、「久米村地誌」に「稲積社、社地一畝十五歩、神殿六坪二合五尺、拝殿七坪」とあり、「求麻郡神社記」には、稲積神社は久米領稲積山にあり、白木社妙見同体と出ている・・

上記が岡原村史 第1巻 25ページ〜27ページより 「神殿原開墾社」についての流れです。

旧上村と旧岡原村にまたがる「神殿原」(こうどんばる)は明治15年まで、一切、人の手を加える事の無かった、全くの「未開の地」

開拓の経緯は
@熊本県知事冨岡敬明は相愛社の首領池松豊記等を官邸に招いての提案。
A開発に携わった人物
※池松豊記、宗像政、田中○○、高田露、北川信春、小森田相象、川添万太郎、清田弥彦、中島敬次郎、中根次郎、中西純一、渡辺忠、堀田道春、西浦次郎彦、池松三郎、緒方直人、岩崎亥之男、中根安己平、筑地勝之、塩山幸則ら二十数名
B上村の神殿原を中心に、岡本村にもかけて轉住、アメリカ式のカルチペータを使って未墾の原野を拓きながら、私学校を建てたこれが「神殿原開墾社」
C開発途中で赤痢が大流行。村を離れる人物が続出。
D開発に携わり、旧岡原村に滞在した人物のその後・・
 ※高田露・・代議士
 ※宗像政・・代議士となったあと、埼玉、青森、福井、宮城、高知、広島、熊本の県知事を歴任、東京府知事にもなり、更に貴族議員にもなった
 ※田中○○・・「○○事件」(注・朝鮮半島で起きた重大事件)に関与。戸籍は再帰まで岡原村にあった。
ちなみに、この人物は旧岡原村の出身ではありません。
しかし「戸籍は再帰まで岡原村にあった。」理由は未だ謎のようです・・

神殿原の開拓の目的は・・たてまえで(すみません(..))は記されている通りでしょうが・・
「神殿原開墾社」は何も「発見」しなかったのでしょうか・・?

ちなみに、高田露 宗像政 田中○○ この方々の経歴は岡原村史の最後530ページ〜538ページにかけて人物の詳細が書かれています。
そして、岡原村史第1巻は締めくくられていました。

宗像政と言う方は「先祖は宗像大宮司で、のち細川家に仕え、忠利公に殉死した宗像加兵衛景定、同吉大夫景好の兄弟もまた、彼の先祖にあたると書かれています。

最後に皆様にお願いがあります。
今日、記述した「田中○○」「○○事件」については、あえて○○と表記しましたが、かなり危険な内容となる「この件について」は、今後も○○という表記とさせて頂きす。

では(^・^)
[27]子孫よりさんからのコメント(2015年05月28日 11時23分30秒 ) パスワード

訂正

「戸籍は再帰まで岡原村にあった。」は再帰ではなく

「戸籍は再期まで岡原村にあった。」でした。

すみません。
[29]子孫よりさんからのコメント(2015年05月28日 16時12分24秒 ) パスワード

再々追記
高田 露 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E9%9C%B2

高田 露(たかだ あきら、1854年(嘉永7年)8月 – 1915年(大正4年)2月19日[1])は、衆議院議員(立憲政友会)。
経歴[編集]
肥後国託麻郡春日村[2](現在の熊本県熊本市西区)出身。熊本藩士の家に生まれ、藩校時習館で竹添進一郎に学んだ[1]。その後、大阪に出て開成所や兵学寮で学んだ[3]。1974年(明治7年)に台湾出兵に従軍した[1]。帰国後は民権党を結成し、評論新聞記者・近事評論記者として自由民権を主張した[3]。1977年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、宮崎八郎らとともに協同隊を組織して西郷軍に加わった。西郷軍の敗北とともに捕えられたが、やがて出獄を許された。
その後、球磨郡に開墾社を設立し、開墾事業に従事した[3]。
1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。

※球磨郡に開墾社を設立し、開墾事業に従事した
そういう事なのですね・・
池松豊記、宗像政、高田露。後の国政に携わる事となる「名だたる」方々が、若かりし気頃、旧上村と旧岡原村にまたがる「神殿原(こうどんばる)」の開拓・開墾に従事されていた・・という事が初めて解りました。

他の方々も、殆どが旧細川藩士でした・・

古代から近代にかけてまでの勉強をするとは・・

所で、こちらの書籍 鹿児島近代社会運動史47ページに・・
https://books.google.co.jp/books?id=_T8QGY4oeTIC&pg=PA47&lpg=PA47&dq=%E7%8E%84%E6%B4%8B%E7%A4%BE+%E7%9B%B8%E6%84%9B%E7%A4%BE&source=bl&ots=Yqsbj5CM9n&sig=Kpfi9Nkh_lpQj4QkCkRMHJrc1LM&hl=ja&sa=X&ei=l6hmVdGMIInp8gXX3oG4Ag&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E7%8E%84%E6%B4%8B%E7%A4%BE%20%E7%9B%B8%E6%84%9B%E7%A4%BE&f=false

福岡の向陽社(玄洋社)と熊本相愛社が中心となり加盟結社の連合体・加盟結社の役割を果たしていた・・とあります。

玄洋社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%B4%8B%E7%A4%BE
玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。

※こちらは黒田藩士が中心となっていたのですね・・
玄洋社社史
http://d.hatena.ne.jp/hyokaiso/20080719/1216530036
宗像政、中江兆民、長谷場純孝、栗原亮一、和泉国彦、末広鉄腸、樽井藤吉等大陸活動を企て、之を平岡頭山に謀る、頭山之に賛して曰く、・・・

「宗像政」この方の名があります・・

「神殿原開墾社」は明治15年から明治16年の一年余りの間が活動の主な時期ですね・・
お陰で、神殿原は広大な農地へと生まれ変わったと・・(^・^)

所で・・・
全く話は変わりますが・・
私はず〜っと疑問だった事があります??
日本の苗字七千傑様の邪馬台国とは こちらの記述に
※来朝後、評督となるとあるから熊国王(現在の熊本・佐賀・長崎の領域のリーダー)となったのであろう。
※漢土に対しては倭国王を名乗り、後漢時代は朝貢を行ったことが後漢書から確認出来る。

所が・・漢委奴国王印は志賀島で発見されています・・
何故?なのか?何故?でしょう・・?

漢委奴国王印 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある(印文と解釈を参照)。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝[1]、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
来歴[編集]
1931年(昭和6年)に、この金印が当時の国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法の「重要文化財」に相当)に指定され、世に知られるようになった。金印の出土地および発見の状態は詳細不明。福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。その後福岡市美術館の開設に際して1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈され[2]、1979年(昭和54年)から福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されている。

※金印の出土地および発見の状態は詳細不明。福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。
黒田藩・・だったのですね。

出土地
1914年(大正3年)、九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。その後、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)の2回にわたり、森貞次郎、乙益重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された[3]。
1973年(昭和48年)及び1974年(昭和49年)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている。

発見の状態について[編集]
江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。
なお、糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)がある。

中山平次郎 教授について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%B9%B3%E6%AC%A1%E9%83%8E

晩年 についてを読ませて頂いている間に、私は涙が溢れて止まりませんでした・・(「いつ死ぬ身か分からず、家族が残されてはかわいそう」という理由で独身のままであった。軍籍にあった森彦も同様の理由で生涯独身であり、妹の小春を含めた独身三兄妹で終生同居生活を送っていた。)
「わしの目の黒いうちに書き上げる。これは悲願だ」と死の直前まで執筆をつづけていた「金印物語」はついに未完のままとなった。

中山先生の書かれていた「金印物語」。
未完のままと言う事ですが、とても残念です・・その後も他の方が続けて研究されているのでしょうか・・
私は、中山 平次郎と言う方は、とても素晴らしい方であったのだと心から思います。

でも、全く存じていなかった方の記述を読んで、涙が溢れてとまらなかった・・という事は初めてでした・・

今日は「神殿原」の開拓についてから始まって、漢委奴国王印までを勉強しました。
では(^・^)

[30]子孫よりさんからのコメント(2015年05月28日 18時20分12秒 ) パスワード

マタマタ追記

コメント28は削除します(^・^)

再編集しました。
追記
「神殿原開墾社」
上村の神殿原を中心に、岡本村にもかけて轉住した人物。
池松豊記、宗像政、田中○○、高田露、北川信春、小森田相象、川添万太郎、清田弥彦、中島敬次郎、中根次郎、中西純一、渡辺忠、堀田道春、西浦次郎彦、池松三郎、緒方直人、岩崎亥之男、中根安己平、筑地勝之、塩山幸則ら二十数名

池松豊記
http://wikimatome.com/wiki/%E6%B1%A0%E6%9D%BE%E8%B1%8A%E8%A8%98

宗像政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E6%94%BF
※この方は、貴族院議員・・
貴族院 ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F%E9%99%A2_ (%E6%97%A5%E6%9C%AC)

中島敬次郎
草書の研究に携わった方に同名の方がいらっしゃいます。
http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/KDSSearch.cgi?DEF_XSL=default&SUM_KIND=CsvSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=NOFRAME&IS_KIND=CsvDetail&IS_SCH=CSV&IS_STYLE=default&IS_TYPE=csv&DB_ID=G0000203KDS&GRP_ID=G0000203&IS_START=2&IS_NUMBER=1&IS_EXTSCH=&IS_TAG_S1=Cul100&IS_KEY_S1=728&IS_LGC_S2=AND&IS_TAG_S2=Cul101&IS_KEY_S2=&IS_LGC_S3=AND&IS_TAG_S3=Cul128&IS_KEY_S3=GFRH&IS_LGC_S4=AND&IS_TAG_S4=Cul129&IS_DKEY_S1=%E6%9B%B8%EF%BC%8E%E6%9B%B8%E9%81%93&IS_DKEY_S2=%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%B8%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8&IS_KEY_S4=
認定書名 書名よみ 実用草書宝鑑 じつようそうしょほうかん
認定著者名1 著者名1 草書研究会 編 草書研究会編纂
所蔵者名 所蔵者請求記号 岐阜市歴史博物館

外題・表紙題 実用草書宝鑑
発行人・発行元(扉等) 発兌 草書研究会
印刷年時 昭和7.3.30
出版年時 昭和7.4.1
奥付・著者名1 草書研究会
発行人 中島敬次郎
発行元 草書研究会

================================================

それと・・・
この件はこれ以上は追及しません。
皆様から、マタマタ変な人と思われると思いますが・・
あえて(..)

先程のコメントから次々に情報を見ていて、何となくですが見えました。
さらに、私の先祖もしくは先祖にお関わりの方からの言葉が聞こえますのでここで・・(^・^)(さらに変な人との声が・・すみません)

”「神殿原」という場所を忘れないで下さい”です。
皆様のご記憶に留めて頂くだけで十分幸せです。(^・^)

ちなみに、昨日の「帽子」の件ですが、父や主人は
「夢の内容は別にして、帽子はきっと、以前何処かで(例えば教科書など)見た帽子が潜在意識の中にあり、夢の中で出てきただけだろう」
との事です。(^・^)

では(^・^)
[31]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月28日 23時21分17秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>所が・・漢委奴国王印は志賀島で発見されています・・
何故?なのか?何故?でしょう・・?
 
恐らく古代に金印が盗まれたのでしょう。
また読み方の間違いが出発点でしょう。
金印にフリガナなんか付いていないよ!
(かんのわのなのこくおういん)の読み方が間違いで、
(かんのいとこくおういん)が正しい。
 
「委」と「倭」は意味が異なり、漢土や漢民族が間違える筈は無いでしょう。
「魏」と「倭」は鬼と人の差で同族を表しています。
倭王の子孫は筑紫国怡土郡に居り評督となり、推古朝、筑紫国夜須郡松岟野に住して松野連を称姓。

「委奴」は「怡土」であり「伊都」とも表記、現在の福岡県糸島郡地域です。
 
伊都都比古の後裔が怡土県主。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03025.htm
 
学者が筑前の中心部である奴県(那珂郡)にコジツケようとしたに過ぎない。
まあ、現代の史学界も怡土県主と奴県主をゴッチャにしているむきもある。
[32]白石さんからのコメント(2015年05月29日 02時27分55秒 ) パスワード

「魏」と「倭」は鬼と人の差で同族を表しています。

卑弥呼女王の親魏倭王の金印
卑弥呼は 情報に乏しいはずの古代に大陸の王室の変換にすばやく対処した。
情報のやりとりがあったのでしょうか?
曹叡は
裴松之注『魏書』によれば、抜きんでた容貌を持ち、望み見ると侵しがたいほどの威厳があったという。

やっぱりハンサムだったのですね。

呉の末が松野連で 魏とも同族ということになる。

「倭王の子孫は筑紫国怡土郡に居り評督となり、推古朝、筑紫国夜須郡松岟野に住して松野連を称姓」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「委奴」は「怡土」であり「伊都」とも表記、現在の福岡県糸島郡地域です。
 
伊都都比古の後裔が怡土県主。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03025.htm
昔氏で田道間守や三宅 神功皇后 児島高徳などが関与するグループですね。


 
[33]子孫よりさんからのコメント(2015年05月29日 10時43分37秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、「金印」の謎、ご教示により理解出来ました。

漢委奴国王印は(かんのいとこくおういん)。
〉倭王の子孫は筑紫国怡土郡に居り評督となり、推古朝、筑紫国夜須郡松岟野に住して松野連を称姓。

【昔 氏】姓氏類別大観を拝見致しました。
と言う事は・・??伊都都比古の後裔が怡土県主・・熊国(球磨国)王の系・・繋がっているという事なのですね・・

やはり、系図を拝見すると、私の疑問が解消?されるようです・・
何を疑問に思っていたのかといいますと・・

天日槍命 ウィキの記述を読んでいて???と・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3
『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」「天日槍命」「天日桙命」「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。
『日本神話』『古事記』等では新羅王子、『播磨国風土記』では神と位置づけて記述される。

『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、
羽太の玉(はふとのたま) 1箇
足高の玉(あしたかのたま) 1箇
鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇
出石の小刀(いづしのかたな) 1口
出石の桙(いづしのほこ) 1枝
日鏡(ひのかがみ) 1面
熊の神籬(くまのひもろき) 1具
(?_?)・・鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま)熊の神籬(くまのひもろき)

熊の神籬(くまのひもろき)とは何だろうと調べたのですが
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
神籬
ひもろぎ

古くは「ひもろき」。神祭りをするにあたり、神霊を招くための憑坐(よりまし)、依代(よりしろ)のこと。古くはその清浄、神聖な場をさしたが、のちその庭上、室内に立てる常緑樹などをさして称している。古代祭祀(さいし)、また現在でも地鎮祭などでは社殿がなく、その神祭りの場合のみ神霊の降臨を願うとき、神霊の宿り坐(ま)す神聖な場、またそのしるしが必要となるが、それのこと。『日本書紀』天孫降臨の条に、天児屋命(あめのこやねのみこと)・太玉(ふとだま)命に天津(あまつ)神籬を持ち降臨、皇孫のため奉斎せよと勅されたとあり、同じく垂仁(すいにん)天皇の条に、新羅(しらぎ)の王子天日槍(あめのひぼこ)が持ちきたった神宝のなかに熊(くまの)神籬一具とあるのをみると、神祭りをするための祭具をさして称することがすでに古くあったかとみられる。

でも、何故「熊」の神籬なんだろう????

(^・^)と思っていたのですが・・【昔 氏】姓氏類別大観を拝見して「そうか・・」と。

白石様の「田道間守や三宅 神功皇后 児島高徳などが関与するグループですね」というお言葉も理解出来ました(^O^)/

ちなみに各個撃破ではありませんが、疑問を感じる記述がありまして・・
初代神武天皇の兄 稻飯命 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E9%A3%AF%E5%91%BD
『古事記』では事績の記載はなく、稲氷命は妣国(母の国)である海原へ入坐としたとのみ記されている。また『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従うが、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さひもち)の神」になったとする。
考証[編集]
稲飯命について『日本書紀』には「鋤持神(さひもちのかみ)」と見えるが、関連して『古事記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さひもちのかみ)」とあり、これらはワニ(鰐)の別称とされる[2]。『古事記』の神話では、山幸彦(火遠理命)は海神宮から葦原中国に送ってくれた一尋和邇(一尋鰐)に小刀をつけて帰したという[2]。また以上から、「サヒ」とは刀剣を指すとも考えられ、ワニの歯の鋭い様に由来するとされる[2]。特に『日本書紀』神代上では「韓鋤(からさひ)」、推古天皇20年条では「句禮能摩差比(呉のマサヒ)」などと見えることから、大陸から伝来した利剣を表すともいわれる[2]。
また『新撰姓氏録』に見えるように、稲飯命には新羅王の祖とする異伝がある。これに関連する朝鮮側の記述として、12世紀の『三国史記』「新羅本紀」において、脱解尼師今(第4代新羅王;昔氏王統の初代)の出自について倭国東北千里の「多婆那国」とする記事があり、これを丹波国と関連づける説がある。ただし高麗の歴史書『三国遺事』(13世紀末に私撰)では、その出身地は「龍城国」であるとする。

上記の記述にもあるように・・
※鋤持神(さひもちのかみ)佐比持神(さひもちのかみ)・・推古天皇20年条では「句禮能摩差比(呉のマサヒ)」などと見えることから、大陸から伝来した利剣を表すともいわれる。
(?_?)・・とここで何だろう?これは?と・・疑問が・・

(゜-゜)「多婆那国」・・丹波国と関連づける説
多婆那国は「たばな」と読むのでしょうか?たばな・・たんば・・なるほど・・
うんっ??(-.-)・・たばな・・たばな・・たまな・・玉名\(◎o◎)/!
なんちゃってです・・すみません(..)

ここまでの記述がず〜っと「疑問」だったのですがやはり、【昔 氏】姓氏類別大観を拝見して「そうか・・もしや!」と。

所で、コメントを書きながら気になったのがその”出身地は「龍城国」であるとする。”
でして、「竜宮城」のような名前の国名「龍城国」とは??と今調べたのですが・・

\(◎o◎)/!なんですと!!様々な説の中に「龍城国」を「種子島」と書いている説がかなり!!??????

こちらの方の私見は
http://yoshi8410.blog.fc2.com/blog-entry-59.html
転記させて頂きます(..)
「浦島太郎」が「伊支馬」と同一人物だったことは分かった。

では彼を助けた「龍城国」や「龍王」とは何を意味するのだろう。

『三国遺事』には、「龍城国ではかつて二十八人の龍王が人の胎内から生まれ、自ら五〜六歳で王位を継承し、万民に正しい生き方を修めさせた」とある。

しかしこの「龍城国」は種子島にあった国で、新羅の「アメノヒボコ(天の昔氏)」によって攻め取られた、倭国連邦の「多児国(タジマ)」であったはずだ。

そして昔氏の王である「脱解王」の以前に「二十八人の龍王がいた」のだから、「種子島の龍城国を二十八人の龍王が代々治めた」のではなく、「二十八人の龍王が代々領土を拡大し、脱解王の代には龍城国の中心が種子島に置かれていた」と見るべきである。

となると「昔氏の王」は代々「龍王」を名乗っていたことになり、「アメノヒボコ」もその「二十八人の龍王のひとり」と言える。

(@_@;)なんだかな〜今まで勉強してきた「文字?」が次々と・・
ちなみに、全く関係ないと思いますが・・
私の家から約400メートル程先の、田んぼの中に大きな鳥居がありましてここは「龍王神社」です。

次の方の私見を
http://yoshi8410.blog.fc2.com/blog-entry-48.html?sp
先に見た朝鮮の正史である『三国史記』は「脱解、本来は多婆那国の生まれ」とし、多婆那国は「倭国の東北一千里に在る」と、地理的条件も龍城国と一致しているのだから、「多婆那国=龍城国」だ。

この「龍城は倭の東北一千里に在る」との注釈は、先に見た屋久島と種子島の位置関係に一致し、「脱解王」は種子島を領有した「昔氏の王」なのだから、やはり「龍城国=多婆那国」が種子島にあった事は疑いない。

(@_@;)・・私見を拝見しているだけですが。何だろう?・・「種子島」
「種子島」と言えば・・熊国(球磨国)政府人が逃げた場所ですよね・・?
他にも様々な私見を目にしますが、「火の無い所には煙は立たない・・」
全部繋がっているような気がするのですが・・

これは、絶対に「古代日本領土の起源」を読ませて頂かなければ!!
(今は専業主婦なので・・男性陣の晩酌用ワインにこっそり水を入れて、私のおこずかいの為に節約節約!!嘘です。ワインはそのままで、節約します(..))

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)

所で・・私、勉強不足でした(..)

私の地元旧宮原村宮麓にも古代の遺跡がありました・・・トホホ

次のコメントでご紹介いたします(^・^)



 
[35]子孫よりさんからのコメント(2015年05月29日 12時25分10秒 ) パスワード

早速(..)
先程のコメントにも書きましたように我が故郷「宮麓」地区にも遺跡がありました。出土品は少ないようです。

切畑遺跡
http://www.isekiwalker.com/iseki/180266/
遺物概要
map94:有肩打製石器

続けて・・宇土谷蔵骨器出土地
http://www.isekiwalker.com/iseki/180269/
遺構概要
蔵骨器出土地。 map94:包含地。
遺物概要
map94:蔵骨器。
その他概要
LCc4/ON2059/PN79-3/。<全国遺跡地図番号>27-194。旧、球磨郡岡原村宮原宇土谷
蔵骨器 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E9%AA%A8%E5%99%A8
蔵骨器(ぞうこつき)とは、簡単に言えば、骨壺のことであるが、主として考古学で、火葬や洗骨葬の遺灰や遺骨を納めた容器のことをいう語である。 インドや中国でみられる仏舎利容器は、その一種である。 日本では、通常、火葬骨を納めた器に限定される。器形としては、飛鳥〜平安時代に蓋付きの球形の壷ないし短頸壷(たんけいこ)の器形をした須恵器や灰釉陶器などが用いられた。中世になると、各地方の在地で生産されている瓦質、軟質などと呼ばれる土器のほかに常滑焼の甕や壷、そして瀬戸焼の瓶子が用いられ、しばしば常滑焼や在地産の瓦質、軟質の捏鉢が蓋の代わりに使用された。 なお、弥生時代の甕棺なども広義の蔵骨器には違いないが、通常、蔵骨器といった場合、飛鳥時代以降のものを総称している。 ヨーロッパや西アフリカなどでは、urnと呼ばれる火葬骨収納用の甕が知られる。青銅器時代以降、エトルリアやローマの遺跡からしばしば蔵骨器が出土する。また、中央アジアでは、ゾロアスター教徒のオッスアリと呼ばれる箱型で霊廟や神輿の形をした石製の遺骨収納容器が有名であるがこれも蔵骨器の一種といえる。

(-.-)・・簡単に言えば、骨壺のことであるが・・主として考古学で、火葬や洗骨葬の遺灰や遺骨を納めた容器のことをいう語である。 インドや中国でみられる仏舎利容器は、その一種である。
(?_?)・・おんやっ??
中央アジアでは、ゾロアスター教徒のオッスアリと呼ばれる箱型で霊廟や神輿の形をした石製の遺骨収納容器が有名であるがこれも蔵骨器の一種といえる。
「ゾロアスター教徒」・・ゾロアスター教??そう言えば、先日調べます(^O^)/と言いながら何も調べていませんでした・・

ゾロアスター教 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99
ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت /Dîn-e Zardošt/、ドイツ語: die Lehre des Zoroaster/Zarathustra、英語: Zoroastrianism)は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。『アヴェスター』を根本経典とする。
ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であった[1]。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、3世紀初頭に成立した、後続するサーサーン朝でも国教とされて王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた[1]。ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジアや中国へも伝播していった。

ウィキの以降の記述は何だかとても難しくて・・でも・・
ゾロアスター教の守護霊プラヴァシ
ゾロアスター教の守護霊は、「プラヴァシ」と呼ばれている[2]。プラヴァシは善をあらわし、また、この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として、ゾロアスター教における神の神髄をあらわしていると考えられており、善のために働き、助けを求めている人を救うであろうと信じられている[2]。

ゾロアスター教の葬送は、鳥葬ないし風葬であり、今日ではあまり見られない風習のひとつである[2]。この葬送は、遺体を棺などに埋納せずに野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるというもので、そのための施設が設けられることもある[2]。この施設は「沈黙の塔」(ダフマ)と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむことのできる構造の建物となっている[2]。ゾロアスター教の教義によれば、人間はその肉体もアフラ・マズダーはじめとする善神群の守護のもとにあるのだから、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされることのないよう、鳥葬ないし風葬がなされると説明されている[2]。

そう言えば・・
全く関係ないのですが、宮原城の頂上には「風の神」がお祀りされています。

何故?宮原城と宇土谷蔵骨器出土地が繋がるかと言いますと・・
ここは!宮原城跡と同じ場所だったのです!!
宮原城跡
http://www.isekiwalker.com/iseki/180270/
所在地
熊本県球磨郡あさぎり町岡原北土谷
その他概要
LCc4/ON/PN79-4/。<全国遺跡地図番号>27-195。旧、球磨郡岡原村宮原宇土谷。

しっ知りませんでした!!宮原城跡は旧岡原村宮原宇土谷・・だったのです。
城跡の山は戦時中まで我が家の土地だったのですが、今は、半数は町有林となりあとは親戚のおじが管理しています。
宇土谷蔵骨器出土地・・宮原城跡・・宮原宇土谷
宇土・・宇土??・・おんやっ(p_-)これは地名遷移でしょうか??(p_-)なんちゃってですが・・

星原のおじさんと探検しようっかな〜(^・^)・・(-.-) ダメです。マムシに咬まれます・・
祖母から、お城跡の山にはご先祖様が静かに眠っていらっしゃるから行ってはダメと言われています・・(-.-)
うんがっ??(?_?)よ〜く考えると、ご先祖様のお墓は城跡の麓です・・
何でばあちゃん(祖母)は城跡の山にご先祖様が眠っていらっしゃる・・と言ったのかな?? 何だか不思議です・・??

所で、もう数か所旧岡原村には遺跡がありました(^・^)
熊野遺跡
http://www.isekiwalker.com/iseki/180265/
時代 縄文
遺構概要 包含地
遺物概要  map94:石杵
その他概要
LCc4/ON2060/PN79-1/。<全国遺跡地図番号>27-190。旧、球磨郡岡原村宮原熊野。

\(◎o◎)/!・・(-.-)・・時代 縄文 石杵
これでは・・石杵・・縄文・・ダメです(ー_ー)!!この場所と先祖調査を結びつけたら、人類皆兄弟となります・・でも??
縄文時代の遺跡が旧岡原村宮原熊野にあったとはコレマタ知りませんでした・・

福留古墳
http://www.isekiwalker.com/iseki/180261/
時代 古墳
遺構概要 古墳
遺物概要 map94:剣
その他概要
LCc3/ON2061/PN79-5/。<全国遺跡地図番号>27-186。旧、球磨郡岡原村岡本福留。

(-.-)・・あっさりと書いてありますが・・剣が出土しています・・

でも・・少ないな〜旧岡原村の古墳は・・
ちなみに、岡本城跡にも弥生時代の遺跡があったようです。

しかし、今日見つけたこちらのサイトでは熊本県の遺跡が確認出来るので、見ていきたいと思います(^・^)
http://www.isekiwalker.com/pref/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C/220

では(^・^)
[36]子孫よりさんからのコメント(2015年05月29日 13時42分15秒 ) パスワード

マタマタ再追記です(^・^)

先程、ご紹介したサイトで本目遺跡 第3〜5次の発掘調査の出土品が詳しく記載されていました(^・^)
http://www.isekiwalker.com/iseki/348182/

時代
弥生/古墳
所在地
熊本県球磨郡あさぎり町免田
緯度経度

遺構概要
町報3(弥生後期後葉〜古墳前期-墳丘墓(弥生後期)+木棺墓+土壙墓)
遺物概要
町報3(土師器+弥生土器+銅鏡(破鏡、方格規矩四神鏡)+管玉1+ガラス玉18+鉄剣1+鉄鏃13)
発掘概要
範囲確認
その他概要
旧、球磨郡免田町本目・乙(旧大字下乙字本目)。 町報3-2001.3

(p_-)・・銅鏡(破鏡、方格規矩四神鏡)
方格規矩四神鏡・・何だろう?と調べたのですが・・
神鏡 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%8F%A1

こちら 神鏡の種類 を見て下さい
方格規矩四神鏡
1~2世紀後漢の神鏡。中央に方形の線が彫られ、それぞれの区画を青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の文様が配置されている。

\(◎o◎)/!ナンデスト!!1~2世紀後漢の神鏡!!

バッテン(ー_ー)!!いえ、でも!日本最古は
青龍三年銘方格規矩四神鏡
日本最古の神鏡。この神鏡の銘にある「青龍3年」が、中国の魏の年号で西暦235年に当たり、『魏志倭人伝』で邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣いを送ったのが景初3年(239年)のことであり、帰国したのが正始元年(240年)であるので、その中にこの鏡が含まれていた可能性が指摘されている。

ってありますよ!!何で??だろう??
太田南古墳群
http://www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/322.html
弥生時代終末期〜古墳時代前期初頭(4世紀終末〜5世紀初頭)の方墳。竹野川西岸の丘陵に広がる古墳群だが、現在、古墳群は崩壊寸前である。切り崩されつつある採石場の頂に古墳群が並んでいるが、その根元はブルドーザーが削り続けている。この調子で削られたら山そのものが、何時かなくなってしまうのではないだろうか。
被葬者は複数の石材を組み合わせた棺に葬られ、頭の右側に銅鏡が、足元には鉄刀が納められていた。平成6年1月、石棺の中から、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235)銘を持つ青銅鏡「方格規矩四神鏡」が見つかった。これは中国の三国時代・魏の年号であり、玄武・青龍・朱雀・白虎と十二支銘も刻まれている。魏志倭人伝に、239年に卑弥呼の使者が中国から「魏の鏡」を百枚持ちかえったという記事があることから、その時の鏡ではないかと騒がれた。・・

(?_?)・・・<(`^´)>
本目遺跡(1世紀〜4世紀)でも・・方格規矩四神鏡が見つかっていますよ・・????
それに本目遺跡で見つかった「ガラス玉18」って当時としては貴重なものではないのでしょうか?
でも本目遺跡の方格規矩四神鏡は何処に行ったのでしょう????
これが破鏡?でもペンダントだから・・??
銅鏡(破鏡、方格規矩四神鏡)とは・・?何だろう二つ?見つかったように書いてあるような・・?違うのかな??

年代が書いていないから、本目遺跡の方格規矩四神鏡はクローズアップされないのかな??(素人ですので・・すみません(..))
鉄剣と鉄鏃13も見つかっていたのですね・・

あらためて本目遺跡の出土品について勉強出来ました。
では(^・^)・・・(p_-)
[37]白石さんからのコメント(2015年05月29日 20時11分04秒 ) パスワード

こんばんは
天火鉾が持ってきた宝物は 熱田神宮にある(今はどこか博物館かも)
はずで 漢鏡だと本でみたと思っていますが・・・

実は 古いファイルをあけようとしたら 460ケ近く こわれていると表示されました。
復旧するためのプログラムをお金を出して購入すれば 復旧するということなのですが 

こわくて 買えません。だって とられちゃったデータを持っているから うれるんでしょ!!

今後も何かあるかしれないし・・・

つくづく 過去に 変なメールをあけたことを後悔しています。

それに 
知っちゃったんです。例のH動画に関与している人を・・・

[38]白石さんからのコメント(2015年05月29日 21時34分31秒 ) パスワード

すみません。
過去に メモ帳にとっておいたファイルを開けてコピーにとった瞬間画面が変わって

今までもう一度開けてみようとしましたが だめでした。

気を取り直して
越王勾践の妹と夫差のあたりを書きます。
過去にネットからとったコピーなのですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
越天子とは夏王朝の禹の後胤をいう。
周大王の始まりは殷国民の支流を、周族という。

殷国民は支流に別れて国を形成していた。春秋時代の七雄である。

越とは夏王朝の禹の後胤をいう。

春秋時代の七雄のうち、楚国に、越王勾践の娘が昭王にとついで、その子が、越に習ったという。
始は呉太伯の後胤、不差(ママ)の室に、越王勾践の妹が嫁いだが、不差と仲が合わず、越に帰ってから、呉越の戦となった。

越王勾践の亡くなった後、楚国は越国を破り、越国は散らばり、北方の番夷や匈奴に、別れた。
後越王勾践の後胤は、散えつ、
これらが、集まり百越とな、南越と東越に、別れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



[39]白石さんからのコメント(2015年05月29日 22時53分27秒 ) パスワード

高岡は秦・恵文王の子孫という。

ウィキより
恵文王(けいぶんおう、 紀元前310年 - 紀元前266年)は、中国戦国時代の趙国の第7代の君主(在位:紀元前298年 - 紀元前266年)。趙で最初に王号を称した。姓は★嬴、氏は★趙、諱は★何。武霊王の子(武霊王の王号は追号)、弟に平原君がいる。

何の母は呉広(ごこう)の長女で、孟姚(もうよう)と通称されていた(姚姓の家の長女の意味。呉広は姓が★姚、氏が★呉、諱が広)。ある時に武霊王が夢の中に美女を見て、その美女の特徴を盛んに周囲に話していた。それを聞いた呉広はその夢の美女の特徴が自分の娘に良く似ている事に気づき、武霊王に娘を献上した。孟姚を見た武霊王はその日から異常に寵愛して公子何を生む。武霊王の孟姚に対する寵愛は甚だしく、紀元前300年に孟姚が没した後、既に太子に建てていた章を廃嫡して、公子何を太子とした。

姚氏_互动百科
姚氏-出自妫姓。相传五帝之一的舜有生于若水,居于地丘的后代,因生在姚墟,其后 子孙便以地为氏,称为姚氏。姚氏的发源地大致有两处,即江苏苏州和今甘肃陇西 一带。早期由于家族势力不足。所以发展繁衍的较为缓慢,从晋代-yaoshi.
姚氏的起源- 姚氏家谱- 姚氏族谱- 姚氏名人 - 百家姓 - 在线查询
相传五帝之一的舜有生于若水,居于地丘的后代,因生在姚墟,其后子孙便以地为氏, 称为姚氏。又相传舜在当帝之前,四岳曾向尧推荐过陶唐氏,舜继承王位后曾把自己 的两个女儿嫁给他,让他们居住在妫河边。他们的子孙有留在妫河边居住的,便以妫 ...
吴兴姚氏_百度百科
吴兴武康姚氏亦称吴兴姚氏,是舜帝姚重华嫡裔69世嫡长孙西汉大臣姚平为避战乱 与保全舜帝血脉永续于公元前23年举家迁隐吴兴郡[今浙江吴兴县]今舜帝血脉已繁衍 一百四十几代,吴兴姚氏开基始即是江东望族,是中国历史上声势显赫的名门巨族。
姚姓_百度百科
★姚姓与★姬姓、媙姓等二十个古姓均起源于公元前两千多年前的母系氏族社会,至今近 5000年,★是中国四大古姓之一。姚姓出自★五帝之一的虞舜,舜(有虞氏,名:重华)生于 姚墟,他的后裔子孙便以地★为氏,称为姚氏。姚姓在全国的分布如今主要集中★于 ...

最後の千が 先日書いた 紅楼夢の主人公を演じた人の役者名。

高岡は高陵君をとおり 妃は 楚の貴族の人で び姓。

さらに 時代がさがり 女子が百済の王と結婚。


[40]子孫よりさんからのコメント(2015年05月30日 08時25分23秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

お伺いしたお話から呉・越・楚は元々姻戚関係にあったという事がわかりました。

高岡氏は「楚」そして百済と繋がっているという事ですね。

所で・・
時代はかなり下って近代のお話を・・

私は勘違いをしていました。
祖父母は、大陸に渡った・・と書いていましたが、実際に祖父母が「ハルピン」という土地に住んでいたのは1年弱のようです。
祖父の任務の関係でその後は「旧 慶州南道普州府」に戸籍では住所が移っています。
父も叔父も慶州南道普州府という所で生まれたとなっています。
祖父は慶州南道道庁で勤務していました。
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%B0%9A%E5%8D%97%E9%81%93_ (%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3)

ウィキに掲載されている道庁の写真ですが、この庁舎前での集合写真が数枚家にあり、祖父は前列に立って写っていました。
ただ、戸籍上は普州府○○町となっているのですが、父の記憶(定かではないでようですが)や、病院や予防注射の記録などから、おそらく釜山に住んでいたのでは?と。
ただ、当時の戸籍なので、地名変更などもあるでしょうし・・?

古代とは関係ないのかも知れませんが、祖父が球磨にある財産全てを親戚に託して祖母と住んでいた場所は慶州南道という土地であったと言う事が解りました。

では(^・^)
[41]子孫よりさんからのコメント(2015年05月30日 08時30分30秒 ) パスワード

追記

上記の「道庁」とはウィキの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%B0%9A%E5%8D%97%E9%81%93
より、ページ一番下に記述されている「関連項目」の中にある「慶州南道」(日本○○時代) をクリックするとご覧頂けます。
[42]子孫よりさんからのコメント(2015年05月30日 08時46分19秒 ) パスワード

再追記

先日、コメントした祖父の写真のお話ですが、転記します。
======================================
大きな鳥居の後ろには小高い山(丘)のような景色が写っています。
後ろの駐車場には当時のおそらく高級車であるような車が数台写っています。
祖父は皇居前の写真と同じように軍刀を手に(両足の間に下げたような状態)でこの時は祖父とは異なる軍服姿の二人の男性と子供を抱いた婦人。
でも、あきらかに祖父は「仕事中」のような毅然とした態度ですが、この時も緊張した表情ではありません・・
======================================

上記の場所が解りました(^・^)
伊勢神宮でした。
(父は写真を見て大体の所推測していたようですが、昨日、ネットに公開されている当時の伊勢神宮の写真と比較して、すぐに解りました(^・^))
でも・・父と二人で「じいちゃんは伊勢神宮でいったい何の勤務についていたのだろう???」と・・

所で・・
昨日、コメントした球磨の古代遺跡についてですが
旧上村には「畝宮遺跡」という場所もありました。
http://www.isekiwalker.com/iseki/180262/
遺物概要
map94:弥生土器
旧、球磨郡上村上畝宮。
「畝」とは「うねる」と読むのですね(^・^)勉強しました。
では(^・^)
[43]子孫よりさんからのコメント(2015年05月30日 11時43分43秒 ) パスワード

皆様、マタマタのコメントです(^・^)

昨日、調べた、宮原城跡そして宇土谷蔵骨器出土地。
旧 球磨郡岡原村宮原宇土谷。

そもそも「宇土」とはどういう意味なのか?と思い調べました(^・^)
宇土市 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9C%9F%E5%B8%82

(゜-゜)こちらに・・
今日の宇土市を含む宇土郡は古代から見られる地名であり、その由来は、宇土半島がもとは島で「浮土」と表したのが転じたという説と、細く長い谷の意味を持つとの説がある。日本の渚100選の1つ御輿来海岸は、4世紀に九州遠征の際に立ち寄った景行天皇が景色の美しさに見惚れて、御輿を止めて、休んだという伝説が名前の由来である。また、網田には景行天皇がその手を洗ったという御手洗(みたらい)があり、現在も澄んだ水が湧き出ている。

(゜-゜)
@宇土半島がもとは島で「浮土」と表したのが転じたという説
A細く長い谷の意味を持つとの説
二つの説があるのですね・・
Aの細く長い谷の意味を持つとの説・・こちらから言うと・・
旧 球磨郡岡原村宮原宇土谷 はそのものですね。黒原山から流れる宮原川に沿った細くて長い谷です。(^・^)
と言う事は「宇土谷」という地名はAの由来に基づく地名遷移なのかな?と思いました(^・^)

さらに「宇土」と「怡土」・・漢字が苦手なせいか、何となく似ている?ような気がして、糸島 宇土 怡土 という「文字?」が気になって調べたのですが・・

最初に糸島市立怡土公民館 のサイトが登場しまして・・
https://www.city.itoshima.lg.jp/uploaded/life/14810_44519_misc.pdf
平成27年元旦に高祖山へ登ろう!
集合日時:1月1日(木)10:30
集合場所:宇土の怡土小学校林入口

(゜-゜)あんれっ?糸島市宇土怡土小学校 高祖山・・??おんやっ?と。
怡土小学校は糸島市の宇土にあるんだ・・・?と・・段々気になってきました・・

さらにこちら 宇土庚申神社 福岡県糸島市高祖
http://sora07.exblog.jp/22265688
宇土庚申神社。 日向峠へ上がる途中にある。
宇土神社 高祖の内宇土に在り。元山の神社とも云ふ。祭日十月十七日。

あの・・・実は地図を見て、びっくりしました。
私、前々職の時、こちらの神社のすぐ近くの事業所2か所を担当していました・・

今まで頂いたご教示から推測すると・・
熊国(球磨国)の系はのちに筑紫国怡土郡へと・・
「松野連(新撰姓氏録右京諸蕃漢条に記載)は呉王夫差(在位;紀元前495−紀元前473)より出づとあり、系譜によれば子慶父忌とともに筑紫に来たり、肥後国菊池郡山門里に住するとある。」
「倭王の子孫は筑紫国怡土郡に居り評督となり、推古朝、筑紫国夜須郡松岟野に住して松野連を称姓。」
「伊都都比古の後裔が怡土県主。」

※福岡県糸島市高祖 ※糸島市宇土怡土小学校 ※高祖山 ※日向峠・・
(゜-゜)なるほど、そういう事か・・・・(私なりに理解できました・・)

所で・・話は全く変わりますが(..)・・

以前、「トビ」さんと会話?した話をさせて頂きましたが・・
私は「ヘビ」さんともお話?が出来ます。(つっ遂にこの人は!!・・ヤバイ!との声が・・)でも大丈夫です私は「正気」です(..)
ちょうど、1週間程前、父とリビングにいた所、外から「アッアッアッ」というようなとても可愛い声が聞こえました。(^・^)
「うん?何か鳴いてる?」と私は窓際に立って「鳥かな〜?」と上を見上げていたのですがその可愛い鳴き声?は下から聞こえます・・
下を見ると、窓から2メートル程先の地面に「ヘビ」さんが可愛い目をして大きく口を開けて「アッアッアッ」と鳴いて?いました。
\(◎o◎)/!「お父さん!ヘビさんが鳴いてるよ!」と言うと父は
「馬鹿!ヘビが鳴くわけない!どこでか?」と・・私の隣に立ちました。
あそこ!と指をさすと「ヘビに指を指したらダメだっ!」と叱られました・・(..)(すぐに、自分で指を噛みました・・トホホ)
父が大きな声を出したので、ヘビさんは口を閉じて、ゆっくりと私達の方へ向ってきました。
父はヘビさんが大の苦手でして「ワァ〜!」と窓から離れまして・・
私が「どうしたの?」とヘビさんに話しかけると、ヘビさんはす〜っと離れて何処かに行ってしまいました。
それから父と争論?となりまして・・ヘビさんが鳴くわけない!と父は言います・・
そこで、ネットですぐに調べたのですが、「ヘビは気管支に異常が出た場合声に似た音を出す」と書いてあり、これだったのかな??と・・
しかし・・昨日も先週と同じヘビ?さんが私に話しかけてきたのです!(マタmタ!!との合唱が・・(..)でも本当です)
昨日の朝、朝食後リビングいると外から先週聞いた鳴き声と全く同じ「声」が聞こえてきました。
窓際に立つと、コレマタ「ヘビ」さんが可愛い目で大きな口を開けて私を見ながら「アッアッアッ」と鳴いて?います。
「どうしたの?何が言いたいのかな?」とヘビさんに話しかけていると父が
「ヘビと会話するのはやめなさい(ー_ー)!!」と・・
かなり長い時間鳴いていた?ヘビさんは、しばらくすると、また何処かに行ってしまいました・・
ヘビさんが苦手な父いわく「お前はお父さんと同じ?で、人間に進化していないのダナ〜」と笑っていました・・???動物の本能が残っているという意味かな??と・・

ちなみに、私は「キジ」さんとも遊んでいます。(というか遊ばれています・・)
家には天然記念物の「キジ」さんが家族(一族?)で来ます。
庭で遊んだあと、家の後ろの田んぼでご飯?(虫かな?)を食べているのです。
お父さん「キジ」?に「キジオ」と名前を勝手に付けているのですが・・
実家に戻ってすぐの頃、「キジオ」が庭にいたので、写メを撮ろうと、「キジオ」にそっと近づくと「キジオ」はチョコチョコと走って逃げます。
「待って!」と私が追いかけると「キジオ」はわざと進んでは走りの繰り返しでして、家の周囲を一周する頃には突然「キジオ」が見えなくなりました。
玄関先にいた主人に「キジさんが来たでしょう!?」と聞くと主人は「うん?飛んで行ったよ」と・・
なぬ??飛ぶ??「キジは飛ばないよ!走るよ!」と言うと主人は
「ニワトリじゃないんだから飛ぶよ!!」と・・
えええええっ\(◎o◎)/!今まで、「キジオ」は私が追いかけるといつも走って逃げていたのに??その前は田んぼに抜けたので追いつけなかったのに・・その後キジオは田んぼを駆け回っていたのに・・何故?(?_?)
この話を先月球磨に遊びに来た娘に話すと「お母さん、キジになめられてるんじゃないの?(^・^)」と・・トホホ
でも、今では毎日、キジオは朝から家に遊びに来て?「オッオッ!」と庭で私を呼ぶ?ので「おはよう(^・^)」と言うと、「オッオッ!」と言いながら何処かに飛んで行きます。(本当です(..))
主人が朝5時に家を出る時は、何処かの木からキジオは「オッオッオッ!」とまるで「行ってらっしゃい!」と言うように鳴いています。(この件だけは父は認めています(^・^)・・本当です)
あんれっ??皆様の呆れたようなため息が聞こえたような?でも事実です!

と言う事で、「宇土谷」から最後は「ヘビ」さんとの会話、仲良しの「キジオ」についてでした(^・^)

では(^・^)







[44]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月30日 15時45分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

漢委奴国王印は、現代に到っても学界が勘違いしている事が理解出来た様ですね。
 
次は、
 古事記上つ巻に「かれ御毛沼の命は、波の穂を踏みて、常世の国に渡りまし、稲氷の命は、妣の国として、海原に入りましき。」
 新撰姓氏録右京皇別下に「新良貴、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊男稲飯之命之後也。是出於新良国、則為国王、稲飯命出於新羅国王者祖合。日本紀不見。」
 新撰姓氏録左京諸蕃に「常世連、出自燕国公孫淵之後也」
 新撰姓氏録右京諸蕃に「海原造、新羅国人進公肆金加志毛礼後也」
に対しての理解が重要です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
 
朝鮮が日本を建国した等の迷論があるが、下記書籍で疑問氷解。
「日朝古代史 嘘の起源」
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2-%E5%98%98%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E5%88%A5%E5%86%8A%E5%AE%9D%E5%B3%B6-%E5%AE%A4%E8%B0%B7-%E5%85%8B%E5%AE%9F/dp/4800236215
 

新羅王初代は倭族で赫居世、換字すれば赫伊予、ズバリ伊予が本貫か?
海原は日本に有る地名。(三カ所)
伊予国風早郡浅海原邑。←ここが海原の本貫地だろう
豊後国大分郡海原邑。
肥後国下益城郡常海原邑。
 
物部姓風早連が居た伊予国風早郡ですよ。
伊予橘氏も同族。
伊予橘氏も海原の地名を負って、豊後、肥後へ移住したのでしょう。
[45]白石さんからのコメント(2015年05月30日 21時32分02秒 ) パスワード

こんばんわ

呉は母系社会ということでしらべておりました。蘇州きっての名家・呉家。
女性は天照大神ばりの女傑が多く 
ネットより
そんな呉夫人の血を受け継いだか、孫家には劉備(リュウビ)との婚礼に侍女たちを武装させて臨み、劉備を恐れさせたという男勝りなエピソードで有名な孫権の妹(孫夫人。孫尚香、ソンショウコウ)もいる。彼女のような存在が認められたのも、母系が強い南方の土地柄ゆえではないだろうか?

高岡は趙でもあり 父親が趙の人質になっていた 同族になる始皇帝には 趙姫が関与している。

趙姫
韓の大金持ちの呂不韋の側室だった。単純に趙の女性だったかも・・・


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
舜(有虞氏)の子孫の男子と周武の女子とのあいだから 田斉へ。(陳から田へ 田氏=陳氏)

伊雑宮には 
アマテラスの稲は 斉の国からもたらされた という伝説がある。

春秋時代の太公望呂尚(姓は姜)
すれば
出雲にはるか昔やってきていた 向家の祖先の ドラビダ族。
この系から ながすねびこ など 出ていた。という。
ながすねびこ の 兄が あびひこ で
二人は 晋の姫と結婚したという。

ドラビダ族は氐族と以前調べたときに ありました。
氐は五代十六国の時 北方にあり 異民族だったという。

話がころりと変わりま宇が
テレビを見ていたら 安東金氏という言葉が出ていました。

検索したら 
阿部引田比羅夫から出ている系譜
安東氏(安部・秋田)からでる系図
など 見られました。

ここの画像を見ていたら
ずっと下へスクロールしたら 
女性の顔が出ています。
お店をやっているひとなのか?ですが
子孫様のおっしゃる 中近東あたりの顔とは こういう顔をイメージしておられるのだろうか? と 思いました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
[46]白石さんからのコメント(2015年05月30日 21時39分12秒 ) パスワード

上の 
すれば
の言葉の前に
以前調べたときに 太公望呂尚は氐族とありました。

が入ります。 
[47]子孫よりさんからのコメント(2015年05月30日 21時56分53秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」を拝見しました。

そうか!!
※元々倭族とは中国雲南省の水稲農耕民で、黄河流域で黍などの畑作農耕民である漢族・苗族とは異なる。
 長江下流に移住した倭族の一部は山東半島へ北上して、春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部に亡命したのである。
  前漢時代(前202-8)の朝鮮半島中・南部に辰国を建国したのが倭族であり、後漢時代(25-220)に馬韓・辰韓・弁韓に分立する。
(..)やはり、大事な一文ですね。「春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部に亡命した」

※稲飯命出於新羅国王者祖合
※常世連、出自燕国公孫淵之後也
※海原造、新羅国人進公肆金加志毛礼後也

稲飯命。
昨日、勉強させて頂きました。
※推古天皇20年条では「句禮能摩差比(呉のマサヒ)」などと見える・・とありますから・・なるほど!

常世連。
日本の苗字七千傑様の赤染氏/常世氏】姓氏類別大観を拝見致しました。
※燕国王公孫淵の後裔と伝え、河内を本貫として赤染部(紅藍染に従事した品部)を掌る。
 天平勝宝二年に赤染造広足、高麿ら24人が常世連姓を賜う。
(゜-゜)燕国王公孫淵・・遡れば 魯(姫姓)傾公 の後裔。
そうか!!そういう事なのですね!
※後裔の赤染時用の養女赤染衛門(実は平兼盛の娘)
平兼盛 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%85%BC%E7%9B%9B
兼盛が妻と離婚した際、妻は既に妊娠しており、赤染時用と再婚した後に娘を出産したため、兼盛が娘の親権を主張して裁判で争ったが認められなかったと言う逸話が伝えられる。なお、その娘は赤染衛門として大江匡衡に嫁ぎ、その血脈は大江広元や大江姓毛利氏にも流れている。
\(◎o◎)/! ナンデスト!!その血脈は大江広元や大江姓毛利氏にも流れている。
「姫姓」を軸?にして大江広元や大江姓毛利氏へ繋がっています!!
どうしよう・・!!このような形で・・繋がっていたとは・・大江広元は球磨永吉庄の預所・・

海原造。
日本の苗字七千傑様のQ & A 金姓略系譜を拝見しました。
\(◎o◎)/!
※九戸郡を本拠とする金姓久慈氏は清和源氏南部氏より養子修理を迎えて源氏に改姓、さらに政信の代に近衛家の猶子となり藤原氏に改姓する。
時代は下りますが南部氏にも繋がっています!!遡れば宮原の先祖、橘公綱の妻は「南部実継」の娘。

〉新羅王初代は倭族で赫居世、換字すれば赫伊予、ズバリ伊予が本貫か?
〉伊予国風早郡浅海原邑。
〉物部姓風早連が居た伊予国風早郡ですよ。

物部 大新河命の後裔。物部姓風早連・伊予橘氏・・同族・・

私は「海原」について、かなり以前、「新羅(辰韓)の別称」と言う事を日本の苗字七千傑様にご教示頂いていました・・
全て・・・繋がっていた・・・

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。



[48]白石さんからのコメント(2015年05月30日 22時09分59秒 ) パスワード

ネットから金氏の系図を持つ氏族から近海金氏の系をみると

金海金氏(キムヘキムし、きんかいきんし)は、朝鮮半島の氏族の一つ。本貫を金海とする。現在の韓国最大の氏族集団である。

始祖[編集]

始祖は駕洛国(金官伽倻)の王・首露王とされる。このため駕洛金氏ともいう。一族では新羅建国の功臣・金庾信が知られる。また、金海許氏(首露王の王妃の姓を名乗った二人の息子が祖)と仁川李氏も始祖を首露王としており、同本貫として扱われた。 金海許氏は金海首露王の王妃で、ルーツはインドのアショカ王の家系に繋がり、インドから漂流して金海にたどり着いてその後、首露王に見初められ王妃となった。 王妃の王陵にはその家系にまつわるインドの家系の写真や系図などがあり、本家の家系を引き継ぐ者のみ閲覧などが出来る。[要出典]

『三国遺事』に抄録された『駕洛国記』(『駕洛国記』自体は逸書)によれば、首露王は卵から生まれたとされる。

一方、『三国史記』『金庾信列伝』によれば、金庾信は首露王を祖先とする12世孫であり、金庾信碑(石碑は現存しない)の碑文には、その祖先は黄帝の子の少昊金天氏の後裔でそのため金氏を名乗っているとあったとしている。

金でつながる 安東氏 
金海金氏
インドドラビダ族

[49]子孫よりさんからのコメント(2015年05月31日 07時26分55秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

まず・・コメント45で伺った
〉阿部引田比羅夫から出ている系譜 安東氏
〉中近東あたりの顔とは こういう顔をイメージしておられるのだろうか? 
というお話ですが・・その方のお顔を私は拝見していないので、何とも言えませんが・・一つの例を・・

父の顔立ちは中近東?というか西洋的というか・・完全なる融合体?のような・・(変な言い方ですが・・)
父は前々職の時にテキサス州やカリフォルニア州に長期滞在をする任務に付いた事があって、その時のお話を・・
世界各国の「父と同じ」職業の方が集まっていたそうで、その時日本から父も含めた「グループ?」(あまり詳しく書けないのですみません(..))が・・
懇親会が開かれた日の出来事です。
父と同じ「グループ?」の人達其々は「Chinese?」とか「Korean?」とか聞かれて、皆「日本人デス!」と英語で答えていたそうなのですが、父には「Spanish?」と・・
父は「アイム ジャパニーズ サムライ!<(`^´)>」と答えたそうです・・トホホ(..)

さらに・・通常は士官には通訳が付いて不便なかったそうなのですが、ある休日に通訳の方が急用でお休みとなり、父は一人で買い物に出かけました・・
デパートに入ると「日本語OK!」のような紙が至る所に貼られていて、父は「ホッ(^・^)」としたそうです。(とりあえず、父は少しはしゃべれる人ではあるのですが・・)
所が・・安心したのもつかの間・・
店員さんは皆「英語」で説明をしはじめて・・父はここでも「アイム ジャパニーズ サムライ!<(`^´)>」と。
ホールの店員さんに「オオウケ」だったと言う事です。(父は笑いも提供してきたようです・・)

特徴はと言うと(父に叱られそう(^・^))
顔立ちは彫が深く、鼻は細くてすごく高く、細マッチョで・・さらに最大の特徴は色白です。
私も、今まで、ず〜っと「色が白い」と言われ続けてはきたのですが(もっと健康的な感じが本当はよかったのですが(..))実家に戻り、父と並ぶと明らかに父の方が色白です。でも・・主人も父と同じくらい色白で細マッチョです・・

ただ、父の顔立ちは分析?しやすくて、鼻がすごく高いのは「平川家」。彫が深いのは「宮原家」も「平川家」も同じ。色が白いのは「宮原家」・・だと思います。(なんじゃこの分析は!?)
ちなみに、身長が高いのはあきらかに「平川家」の血だと思います。
父は176センチでも親戚の中では小さい人の部類に入ります。
平川のふた従兄は185センチ。椎葉家は190センチに近いおじの孫が。私の従弟に至っては「195センチ」「190センチ」「185センチ」。他の平川繋がりの親戚も殆どが180センチ以上。
170センチ台の親戚は皆で集まると、「小さく見える」状態です。
その中にあって、152センチの私はまるで、「指輪物語」の中の「ホビット族」のようです。(お解り頂けるかな?)

という特徴が「我が強い絆の一族!?」と言う事ですね。
でも、日本人は皆「融合体」?でしょうから、其々特徴があっても全くおかしくはないですよね(^・^)

では(^・^)

[50]子孫よりさんからのコメント(2015年05月31日 13時33分48秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)
白石様がお調べになった「金海金氏」。
金官加羅国の始祖 首露王
しかし、ウィキには首露王に関して
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%9C%B2%E7%8E%8B
首露王(しゅろおう、수로왕)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたとも伝えられている。妃は阿踰陀国の王女と伝わる許黄玉。
中略・・
首露王は金の卵から生まれたという伝説により金姓[2]を名乗る。朝鮮の始祖もしくは神話上の王とされている人々は、高句麗の東明聖王、新羅の朴赫居世や昔脱解(ソク・タレ)など、卵から生まれたとする卵生説話を持つものが多い。これは、卵が神聖なものであったというものからきている。
(゜-゜)とありました。

金閼智 新羅の金氏王統の始祖とされる人物 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%BC%E6%99%BA
金閼智(きん あっち、65年? - ?)は、新羅の金氏王統の始祖とされる人物。第4代王脱解尼師今のときに神話的出生とともに見出された。7世孫に第13代王味鄒尼師今が出て新羅王として即位し、以後金氏の王統が占めることとなり、始祖として敬われた。

日本の苗字七千傑様のQ & A 金姓略系譜を再度拝見致しました(^・^)

所で・・
本目遺跡は「地下式板石積石室墓」と呼ばれる古墳。

出土品「免田式土器」は多くの長頸壺の胴部に重弧文(じゆうこもん)の文様が描かれていたところから,「重弧文土器」と呼ばれていた。
鋸歯文の長頸壺と瓢形(ひさごがた)土器の2個は重要文化財になっている。
(世界大百科事典 第2版の解説より)

地下式板石積石室墓 古墳 と免田式土器(重弧文土器)はどのような地域に分布しているのかな?と思いまして。
ちなみに「地下式板石積石室墓」は

端の陵古墳と竪穴式前方後円墳の起源 サイトより
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku212.htm
転記させて頂きます(..)

韓国の支石墓と地下式板石積石室の関係

支石墓は、墓の上に大石を載せた構造の墳墓であり、韓国に起源があるとされる。韓国の支石墓の形式には、北方式と南方式がある。 北方式は二枚の壁石の上に巨大な板石を置くもの。南方式は下記のように三つに分類される。
第一類は四枚以上の板石で地表下に石室を作るもので、もっとも古い。
第二類は石積の石室、または組合式石棺が地表の大石と分離して、別に石蓋を持つもので、次に古い。
第三類は更に、大石と石蓋を持つ石室とのあいだに、数個の支石を持つもので、南北に分布し、最も新しい。
朝鮮半島の支石墓のもっとも新しいタイプが、地下式板石積石室のもっとも古いタイプと同等であることは、 朝鮮半島の墓制の伝統が、九州の地下式板石積石室に継承され、九州でさらに新しい変化が加わったものと考えられる。

五島列島の松原遺跡2号遺構や浜郷遺跡1号遺構、明神下岡遺跡26号遺構が、地下式板石積石室の祖形とされることから、地下式板石積石室は、朝鮮半島南部の支石墓を淵源とし、北西九州の島嶼部を経て、九州西海岸から内陸へと伝わっていったと考えられる。

とありました(^・^)

所で同サイトの中に仮説として・・
端の陵古墳について
端の陵古墳は前回も述べたように、地下式板石積石室を持つように見える。しかしその外形から前方後円墳にも見える。 これについては、学者の間でも見解は定まっていない。
端の陵古墳は、地下式板石積石室と前方後円墳が融合した墳墓ではないか。

とあります(゜-゜)

もう少し古墳や土器について勉強してみたいな〜と思っている所です。
では(^・^)
[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月31日 15時19分43秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>首露王は158年間国
 
158年は新羅も存在しない辰韓時代。
これも大幅な紀年延長の一例でしょう。
辰韓時代の支配者は秦氏の後裔で首露王では無い。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001.htm

日本/朝鮮の両国が紀年延長操作を行ったので、史実の矛盾が拡大されたのが原因。
 
古代天皇の在位年数と崩年にゲタを履かせて極端な紀年延長を行い、神武天皇即位年の紀元前660年に辻褄を合わせたのである。(いわゆる讖緯説採用)
 神武紀に新羅関係の記事が有るはずだが、紀年延長により神武即位を新羅も存在しない紀元前660年にした為、対外記事を削除せざるを得なくなったのである。(神武皇兄の稲氷命が新羅王始祖説あり)
 この事実を覆い隠すために日本書記編纂中の持統天皇五年(691)に皇別の雀部氏(神武天皇裔)、春日氏(孝昭天皇裔)、阿部氏、膳部氏、羽田氏、巨勢氏、石川氏、平群氏、紀氏(以上孝元天皇裔)、上毛野氏(崇神天皇裔)と、有力氏族の石上氏、大三輪氏、大伴氏、佐伯氏、穂積氏、采女氏、安曇氏、藤原氏の十八氏に提出させた纂記を焼却して証拠隠滅を謀ったものと思われる。
 
 古事記上つ巻に「御毛沼の命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡りまし」とあるが、これは神武天皇の皇兄が燕へ派遣された事蹟であり、五胡十六国時代の前燕(307-370)ではないかと思われる。 (常世は燕の別称)
 同じく「稲氷の命は、妣の国と為して、海原に入りましき」とあるが、これは新羅建国(356)で新羅王となった事蹟を暗示しており、神武天皇即位は西暦361年(辛酉年)と逆算され、崇神天皇の任那建国(369)も推定される。
 従って闕史八代天皇は綏靖天皇と孝安天皇を除けば後裔氏族が存在することから、実在は確実であるが即位が無かった可能性が高く、日本書紀編纂に併せて皇位を追贈されたものと推定される。
 朝鮮半島史では新羅初代王赫居世の即位は紀元前57年とされるが、413年のゲタを履かされて前漢時代に遡らされている。
 日本史の紀年延長は更に長く、神武朝を漢土の東周末期まで遡らされている。
 この為に、漢土、半島、列島の歴史の整合性が失われている。
 いずれにしても4世紀の民族大移動で日本列島が統一に向かったことは真実であろう。
[52]子孫よりさんからのコメント(2015年05月31日 15時39分07秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^・^)

地下式板石積石室と免田式土器(重弧文土器)についてコメントしようと思ったのですが・・
どうしても何だか気になる「事」がありまして・・

太伯・虞仲 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。
太伯は長男で、呉(句呉,勾吳)の祖とされる人物。泰伯とも。
中略・・
古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

中略・・
九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。
鹿児島神宮(大隅国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。
『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。

(゜-゜)・・(?_?)
九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。
(?_?)何だろうこの伝説は??・・と思いまして、球磨にも近い宮崎県の諸塚山を調べました。
諸塚山(西登山口)サイトより 
http://tomahawk.fc2web.com/morotsukayama/morotsukayama.htm
(゜-゜)転記します・・
九州100名山の一つに数えられる「諸塚山:1341.6m」は、宮崎県東臼杵群諸塚村と西臼杵郡高千穂町の境界に位置している。古くから神山として信仰の対象となっていた山で、別名「太伯山:だいはくさん」とか「七ツ山」などと呼ばれている。
これら山名の由来は、観光協会の案内板に次のように説明してある。

諸塚山:山頂付近に「多くの塚=諸塚」があることから。(実際に山頂で塚を見ることは出来なかった) 
大伯山:日本の皇室の祖が呉(中国)大伯であるとされ、その大伯を祀ったことから。 
七ツ山:尾根の上に七ツの峰があることから。

\(◎o◎)/!ナンデスト!!大伯山の名の由来・・(?_?)・・・
これは、あくまでも、一説として・・と言う事でしょうが・・案内板恐るべし(..)

でも、フッと考えたのです。
何はともあれ・・諸塚山に呉 大伯の「名前」が残っているのであれば、この周辺・近隣に呉 夫差 にゆらいの山があってもおかしくないのかな・・??と。

そこで、地図をじ〜っと見ていて、何だか見当たらないな〜と・・思っていたら、我が地元球磨の「市房山」が。
市房山の標高を見て「う〜ん(^・^)やっぱり市房山さんはこの辺りじゃ一番高い!!(^・^)」と嬉しくなった所で・・
うんがっ(?_?)・・市房山・・いちふさやま・・いちふさ・・ふさ・・ふさ!?
まっ!まさか!!? でも・・(ー_ー)!!・・(..)・・(?_?)・・(?_?)と。
考え過ぎでしょうか・・。

大変お忙しい所申し訳ございませんが、日本の苗字七千傑様にご質問があります。
辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳。
アイヌ族の権利を示すのが黒原山。(黒−アイヌ系黒目(久米)族、漁猟。とお伺いしていました)
では、九州で標高が二番目に高い市房山はどちらの「種族?」の権利の象徴となるのでしょうか?
どうぞ、ご教示の程よろしくお願い致します。
[53]子孫よりさんからのコメント(2015年05月31日 17時11分32秒 ) パスワード

追記

先程、日本の苗字七千傑様へのご質問を書いた後、コメントを見てやっと意味が理解出来ました。\(◎o◎)/!
========================================
辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳。
アイヌ族の権利を示すのが黒原山。(黒−アイヌ系黒目(久米)族、漁猟。とお伺いしていました)
では、九州で標高が二番目に高い市房山はどちらの「種族?」の権利の象徴となるのでしょうか?
==========================================
平川家について続5 コメント3で日本の苗字七千傑様ご教示を頂いていました!。
==========================================
平川家について続5 コメント3より転記します。

水俣矢筈岳からの統治権表示方向を示す多くの国見山が点在しますが、白髪岳も二つあり部族守護山岳表示の役割。
この色が重要なのです。
 
赤−安曇系統の漁族で和人、近海漁族。
黒−アイヌ系黒目(久米)族、漁猟。
白−辰韓系、白色系の衣類・服装を尊重。
青−農耕和人の曽の部族。
 
肥後に白木の地名が多いが、白部族の城柵の意。
肥後区域には冠岳が一つあるが、豊国の帝位権を示し、高岳は熊国王の上位統治権を優先表示。
この辺りは「古代日本領土の起源」を熟読すると彷彿と理解されてくる。
=========================================
\(◎o◎)/!そうか!!
白−辰韓系、白色系の衣類・服装を尊重。・・白髪岳
黒−アイヌ系黒目(久米)族、漁猟。・・黒原山
青−農耕和人の曽の部族。・・人吉青井阿蘇神社・・青井の地

と言う事は黒原山はアイヌ系黒目(久米)族・・黒目・・\(◎o◎)/!
目の周りの刺青!
大久米命の目の周りの刺青。「黥利目」!!

やっと理解出来ました\(◎o◎)/!!!
伊予の久味国造裔の「久米」地名遷移。しかし・・もしや?それよりず〜っと以前に、この場所、すなわち黒原山の麓一帯に上記のアイヌ系黒目(久米)族が住んでいたのでは?ないのでしょうか?!!(間違えていたらすみません(..))

ご教示頂いて約1年と7カ月以上もたって、やっと解るなんて・・恥ずかしいです・・
日本の苗字七千傑様、本当にすみませんでした。

故郷に戻り、どんどん見えて参りました。

大変お忙しい所申し訳ございませんが、日本の苗字七千傑様、市房山はどちらの「種族?」の権利の象徴となるのでしょうか?どうぞ、ご教示の程よろしくお願い致します。
[54]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年05月31日 17時40分34秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>九州で標高が二番目に高い市房山はどちらの「種族?」の権利の象徴となるのでしょうか?
 
標高は関係なし。
市房山は部族山岳を表してはいない。
例えば、富士山は中立地域で部族山岳ではない、武蔵に入り三国山、両神山、両神郷、国神郷により徐々に中立地帯はとなり、矢納に至り中立地帯は修了する。
国神とは中央政府領、矢板と板室により中央政府領は終わり。
その先は磐見国領ですよ。
詳細は、やはり「古代日本領土の起源」!
他の与太本は、大枚はたいて何冊読んでも真実への到達は遠し。
[55]子孫よりさんからのコメント(2015年05月31日 19時47分58秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、お忙しい中ご教示本当にありがとうございます。

〉標高は関係なし。
市房山は部族山岳を表してはいない。

ありがとうございます。
球磨での部族山岳を表す山は白髪岳と黒原山と言う事ですね。

「古代日本領土の起源」。必読ですね。
さらに
コメント51のご教示ありがとうございました。

〉十八氏に提出させた纂記を焼却して証拠隠滅を謀ったものと思われる。

驚きました・・

※神武天皇の皇兄が燕へ派遣された事蹟
※稲氷の命は、新羅建国(356)で新羅王となった事蹟を暗示

歴史は一つの隠ぺいが全てを狂わす・・と言う事もよく理解出来ました。
本当にありがとうございました。
[56]子孫よりさんからのコメント(2015年06月01日 09時45分26秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、黒原山・白髪岳・・部族山岳
白−辰韓系、白色系の衣類・服装を尊重。・・白髪岳
黒−アイヌ系黒目(久米)族、漁猟。・・黒原山

をあらためて、認識した所で、早速ですが、白髪岳について今まで知らなかった事がありましたのでご紹介いたします。

球磨の山々について紹介されているサイトからです(^・^)
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-sekiryoo.html
転記させて頂きます。
(熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
白髪岳(1417m)
 人吉盆地の南の白髪岳山塊が大きく横たわっている。日本武尊による熊襲征伐の伝説を秘め上村に下宮白髪神社、皆越の中宮白髪神社、三池(御池)にある上宮社と信仰の山であり、安産と雨ごいの神として崇められてきた。標高1370mの三池(御池)神社は鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)ほか五柱の神々を祀る。

(゜-゜)白髪岳頂上近くにある三池(御池)については以前からご紹介させて頂いていました。
日本のブナ林の南限地域でもある白髪岳は地球規模の環境破壊でかなりの影響を受けています。
8合目付近にある三池神社の周囲にはかつて湿原があり、3つの池「三池(御池)」があったという事ですが、今はかなりの木々が枯れてしまっているという状況だという事でした。
三池神社については全くの勉強不足でした。
ご紹介したサイトにもありましたように
※上村に下宮白髪神社、皆越の中宮白髪神社、三池(御池)にある上宮社
御祭神 鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)ほか五柱の神々を祀る。
上村の白髪神社は白髪岳頂上近くにある三池(御池)上宮社の下宮社であったと言う事ですね。
下宮白髪神社については球磨郡誌 コマ番号296
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262
上村白髪神宮
祭神 鵜葺草葺不合尊、彦火火出見尊、彦五瀬尊、稻飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の御六柱を祀り、之に添ふるに婦神六柱を以てす。村社で昔より白髪十二宮の稱がある。
後大正四年十一月二十日氏子區城内無格社十八座を合祀した。
享保二年御造営棟札及び相良家古文書によるに「住吉より白髪嶽絶頂に御鎮座し給ふも星霜遥にして其権興詳ならず。」とあり。
又社家家系図に「又、社家家系図に「緒方大夫惟元九代の後胤緒方三郎惟義と言うふ者源氏平氏合戦の最中禰宜なり。」とあり。之に依りて考ふるに當時以前より己に神社として郷民の崇敬したものである。
其の後建久九年相良長頼の孫四郎頼村上村を領して麓城にあって白髪嶽絶頂の祠を再興した。延元三年上村六代の城主千葉介頼継夢想により絶頂より白髪谷に勧請した。
(゜-゜)
※緒方大夫惟元九代の後胤緒方三郎惟義其、源氏平氏合戦の最中禰宜。之に依りて考ふるに當時以前より己に神社として郷民の崇敬したものである。
※建久九年相良長頼の孫四郎頼村上村を領して麓城にあって白髪嶽絶頂の祠を再興。
※延元三年上村六代の城主千葉介頼継夢想により絶頂より白髪谷に勧請した。
その後も相良氏により中興・補修・造営が繰り返されているようです。

同じく 球磨郡誌 白髪神宮 記述を転記します。
上宮を白髪嶽の神とし、中宮を皆越白髪神とし、下宮を上村白髪神とする。
依って昔より白髪三宮の稱がある。而して上宮より中宮へ勧請の節は相良頼継の夢想により、中宮より下宮への勧請の節は、白張の装束した白髪の老翁度々出現ありて教訓ありし為と言はれる。

(゜-゜)後の記述の中に「晴廣公誕生の時方眉白く、不思議千万なるこ事と・・」とあります。
・・・以前、何処かで「見た」事のあるような「お話」です・・・

上宮を白髪嶽の神とし・・三池(御池)上宮社ですね。
サイトでは御祭神 鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)ほか五柱の神々を祀る。とありますが、球磨郡誌に記述の
祭神 鵜葺草葺不合尊、彦火火出見尊、彦五瀬尊、稻飯命(稻氷命)、三毛入野命(御毛沼命)、神日本磐余彦尊(神武天皇)の御六柱 をお祀りされているという事がわかりました。

先日からの日本の苗字七千傑様にお伺いしたご教示のお陰で白髪岳三池(御池)上宮社御祭神の御六柱の神々を前もって御理解する事が出来ていました。

※源氏平氏合戦の最中、緒方大夫惟元九代の後胤緒方三郎惟義禰宜。
禰宜とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E5%AE%9C
禰宜(ねぎ)とは、神職の職称(職名)の一つである。「祢宜」とも書く。中略・・
禰宜の語源は「和ませる」の意味の古語「ねぐ」であり、神の心を和ませてその加護を願うという意味である。

緒方惟義(惟栄) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%83%9F%E6%A0%84

大神惟基。この方は現在解っているだけで、大同元年に人吉青井阿蘇神社・大炊霧島神社(旧岡本村)・中島霧島神社(旧宮原村)を創建。
その後、後裔である緒方惟義(惟栄)が白髪神宮にて禰宜。

白髪岳 三池(御池)上宮社の御祭神である三毛入野命(御毛沼命)。
昨日、日本の苗字七千傑様よりのご教示で
〉古事記上つ巻に「御毛沼の命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡りまし」とあるが、これは神武天皇の皇兄が燕へ派遣された事蹟であり、五胡十六国時代の前燕(307-370)ではないかと思われる。 (常世は燕の別称)
とお伺い致しました。

三毛入野命(御毛沼命)宮崎県高千穂町の伝承に由来の高千穂神社。

高千穂神社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8D%83%E7%A9%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
十社大明神の中心である三毛入野命は、「記紀」に浪穂を踏んで常世国に渡ったとあるが、当地の伝承では、高千穂に戻り当時一帯を荒らしていた鬼神の鬼八(きはち)を退治、当地に宮を構えたと伝える。また文治5年(1189年)3月吉日の年記を持つ当神社の縁起書『十社旭大明神記』には、神武天皇の皇子「正市伊」が「きはちふし」という鬼を退治し、その後正市伊とその子孫等が十社大明神として祀られたという異伝を載せている。更に、正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』巻2に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとの異伝もあり[1]、また、『平家物語』巻8緒環段では、「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」の正体は「大蛇」で豊後緒方氏の祖神であるとしている[2]。

社伝によれば、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに創まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝える。当神社が国史に見える「高智保神(高智保皇神)」であるとすれば朝廷からの神階授与があったことになるが、『延喜式神名帳』の記載はない。また、天慶年間(938-47年)に豊後国から大神惟基の長子政次(高知尾太郎政次)が当地に入り高知尾(高千穂)氏を興したが[3]、社伝によると同氏は当神社を高千穂18郷にわたる88社(高千穂八十八社)の総社と位置づけて崇めたといい、以後も当神社に深く関わるようになったと見られている。

「伝承」の内容はともかくと致しまして・・こちらにも「大神惟基の長子政次(高知尾太郎政次)」
やはり「豊後大神氏」ですね・・・。

※「御毛沼の命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡りまし」
常世は燕の別称・・前燕について勉強したいと思います(^・^)

所で・・全く話は変わりますが・・
慶尚南道普州府とは・・古代では新羅だったのですね。知りませんでした(..)
さらに先日のコメント誤字でした。「慶尚南道普州府」です。すみません(..)

では今朝は白髪岳 三池(御池)神社についてのご紹介でした。
では(^・^)

あっ!追記です。球磨の山を少し勉強致しました(^・^)
江代山は別名「津野山」です。景色は最高です(^・^)

では(^・^)
[57]子孫よりさんからのコメント(2015年06月01日 10時05分58秒 ) パスワード

追記
先程は白髪岳についてを御紹介いたしましたが、市房山も球磨の御神体であります。
こちらのサイト
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-sekiryoo.html

(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)

市房山伝承説話(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より) 周辺地図 
 市房山の登山口である湯山部落(球磨郡水上村)の人々や、球磨郡一帯の人々は、昔から市房山(1721.8メートル)、白髪岳(しらがみだけ;1416.7メートル)、江代岳(えじろだけ;1607メートル、別称津野岳)の三岳を〃球磨の三岳〃と呼んだ。
(..)すみません。江代岳は「別称津野岳」でした(..)
(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
霊峰市房山は、遠く中世のころから戦前まで約六○○年間にわたった山岳信仰のご神体山だった。中略・・
三月一五日は、〃タケンゴヤ〃といって田楽豆腐を食ベ、新婚夫婦は夕方から一緒に〃お岳さん詣り〃にでかける習わしであったという。
中略・・
市房の神はホホデミ命(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房、1994年、より)
 人々のいう〃お岳さん詣り〃というのは市房神社のことである。この祭神が〃武の神〃といわれてきたのはよほど遠い昔のことのようであるが、明治初期ごろのご祭礼からは、むしろ〃縁むすびの神〃として親しまれるようになった。市房神社の祭神は、二ニギの命の子神、ヒコホホデミの命(山幸彦)である。ホホデミの命は、海幸彦・山幸彦物語で知られるが、二ニギの命、ホホデミの命、ウガヤフキアエズの命の〃日向の三代天神〃は筑紫国(九州九国)の開拓神である。そのホホデミの命が縁むすぴの神に変身するとなると、命と海神綿津見神の女(むすめ)豊玉姫との恋愛結婚にあやかろうというのであろうか。

(^・^)
※人々のいう〃お岳さん詣り〃というのは市房神社のことである。
※この祭神が〃武の神〃といわれてきたのはよほど遠い昔のことのようであるが・・
※市房神社の祭神は、二ニギの命の子神、ヒコホホデミの命(山幸彦)である。

市房山について勉強致しました。
では(^・^)


[58]白石さんからのコメント(2015年06月02日 03時28分01秒 ) パスワード


こんばんわ
市房神宮
過去のコメントで うちの地域の集落に市房神宮のお鏡を預かる田山がおり
高岡から先祖が嫁入っているということを書いたことがあります。

田山は本姓・阿保で 阿保は阿部に通じて 青森にこの苗字が多い と書き
阿保は阿保親王がいて 在原業平などが子孫にいる と いうことを 書きました。

もちろん うちの田山が系図をもっていようはずはないのですが

集落の字から もとは 武士だったようで
恒松もおり 学校時代 先生
が「恒松の家は昔は武士か?」と聞かれたのに 同級生がうなづいていました。

ほかにも 山北・たしか山城も などおり 全部で6軒位ですが
その御鏡のご開帳は50年に一度くらいの とにかく 人の一生で二回もみることができたら その人は よほどの幸運の持ち主だと 言われているという。

私は 父の看病に帰っていたのででることができませんでしたが 兄は出席したそうです。余り広くされるのではなさそうで 身内くらいで しているようです。

一度 私 見せていただくことはできないか?と 尋ねたことがありますが
自分たちでも 白布の上から 拝むだけで 誰もみることはできない と 言われました。

漢鏡かどうか 知りたかったのですが。
神宮そのものは 大同年間(平城天皇の時)で 漢の時代からは時代がおりているので ・・・
熱田神宮にある天火鉾の鏡は 漢鏡という。

神宮は 他に 相良長福も在城したと伝え 恒松などから そういう線も考えられる。

一度 神宮にお尋ねしたことがあり 尾方氏から お手紙をいただいて 田山のこととか ご祭神のこととか 教えていただいたことがあります。

田山は 神宮には いない と いうことだったと 思います。思うというのは今手紙は屋根裏にあがっているので・・・
田山の球磨郡での分布なども 教えていただきましたが、

阿部からは
先日書きました 安東金氏の系図が出て
時代を早送りして 金氏の祖先と思われる 金海金氏の系図を見て 首露王や許氏などを知りました。

一方 阿部には阿部高田姫の言葉があり 葛城には高田村や高田川などがあり
高姓ともとれる。長脛彦。あびひこなどから 出雲向家。

この家にはパピルスに書かれた文書などあり 国造家とは違う。

高岡遠祖の秦の話から 趙。妻に呉の人。
高岡は「天」を冠していてニギハヤヒの子孫の系がある。
一方 金の時 サダ・尾方などがおり 蒙古へ。サダはさらに 西の方にいた雑種としている。
子孫はアイシーン・ギョロであり金の貴族の意味を持ち、中国ではとう(くさかんむりに重をかく)  

高岡は又 系をさかのぼると タカミムスビへ。
葛城には 二代目天皇の宮・葛城高岡宮がある。

テレビドラマで斉の国の話で 
絶えて久しいが 高氏には 死罪に相当する人たちを戦わせて残った人を放免するという伝統があったということを言わせています。・・・

格闘に関してのはなしなどは 現代でもプロレスなどあり 昔でも相撲で相手をけ殺してなどとあり そういうことも あった時代があった と とらえ 
ローマでも 人とライオンを戦わせる話があり 市民は熱狂していて 上がすれば下もするのであれば それは 一つの 文化である。

この高と金が微妙にからみあってというところを 考えてみたいと思います。

子孫さまの方でも平川をおいかけているのに 宮原が顔を出すのですよね。  
[59]子孫よりさんからのコメント(2015年06月02日 08時04分08秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2015年06月02日 08時52分49秒
[60]子孫よりさんからのコメント(2015年06月02日 08時48分24秒 ) パスワード

皆様、ごめんなさい(..)
すみません
金銅山王十社御正体は重要文化財でした・・

と言う事でコメント59は削除して再編集致します。(..)
[61]子孫よりさんからのコメント(2015年06月02日 08時52分22秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

白石様がお話されている市房神宮の御鏡は市房山神宮 里宮(下宮)すなわち湯前の里宮神社ではなく水上村の市房山中腹にある市房山神宮(本宮)の御鏡と言う事なのですよね・・
熊本県神道青年会 ページ
http://www.kumamoto-shinsei.jp/shrine-map/modules/gnavi/index.php?lid=160

市房山神宮(本宮)のについて以前コメントしていましたが、山王十社本地懸仏 1面(金銅山王十社御正体)は球磨郡水上村に所在する市房山の霧島神社奥院に伝来。懸仏は鏡に擬した銅板に浮彫り状あるいは丸彫りの尊像を装着し、吊り下げるための装置をそなえたものをいい、鏡像より派生したものと考えられている。
(゜-゜)現在は奈良国立博物館が収蔵しています。

白石様のコメントで、あらためて、山王十社本地懸仏 1面(金銅山王十社御正体とも称されているようです)が気になり、再度、調べてみたのですが、関連ページが複数あり、じっくり読んで見ると、詳細内容が微妙に異なり、内容をまとめてみる事にしました。

まず、奈良国立博物館のページ 山王十社本地懸仏 1面
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-738-0-1.html
転記させて頂きます(゜-゜)
懸仏は鏡に擬した銅板に浮彫り状あるいは丸彫りの尊像を装着し、吊り下げるための装置をそなえたものをいい、鏡像より派生したものと考えられている。本品は銅円板に、銅板を打出し細部を毛彫りで表した山王十社の諸尊を鋲留めした山王曼荼羅懸仏。銅円板は覆輪(ふくりん)をめぐらし、上方二ヶ所に花形鐶座(はながたかんざ)と吊鐶(つりかん)をそなえる。中央にひときわ大きく僧形の大宮を表し、周囲は右上から時計回りに男神の八王子、僧形の聖真子、僧形の二宮、猿神の大行事、臥牛の牛御子、男神の早尾、地蔵形の十禅師、女神の客宮、女神の三宮を配する。背面には諸尊の背後にそれぞれの尊名を針書きするほか、中央に「阿蘇谷預主也/建保六年[歳次/戊寅]七月十九日/阿蘇谷預所院主惣公文/中御子平景俊」という針書銘があり、この作品が建保6年(1218)、阿蘇谷(熊本県球磨郡須恵村)預所院主惣公文であった平景俊によって作られたことがわかる。鎌倉前期の懸仏の基準作例として貴重であるとともに、日吉山王関係遺品として注目すべき作品である。

文化遺産オンラインページ 山王十社本地懸仏
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/147767
懸仏は鏡に擬した銅板に浮彫り状あるいは丸彫りの尊像を装着し、吊り下げるための装置をそなえたものをいい、鏡像より派生したものと考えられている。
(゜-゜)・・以下上記のページでは奈良国立博物館のページとほぼ同じですが、私の見落としがあってはいけませんので、皆様もじっくりページの内容をご覧頂ければと思います(^・^)

続けまして・・
名称が異なるのですが、確認すると全く同じでして・・
文化遺産オンラインページ 金銅山王十社御正体
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199483
(゜-゜)転記させて頂きます。
鏡板裏面の刻銘により比叡山の鎮守山王二十一社中の、上七社および中七社のうちの三社を象徴する本地【ほんち】仏・垂迹【すいじやく】神・俗形等の尊像を表した懸仏【かけぼとけ】形式の御正体であることが知られる。
 尊像はいずれも床座に坐し、三曲屏または鳥居形屏を背にしており、薄肉に鎚起し、細部に線刻を施した銅製鍍金製で、表面を鏡に擬えて鍍錫した銅製鏡板に鋲止めしている。
 鏡板の裏面には当板がなく、各々の尊像の背面部にその名を、また中央には寄進年および寄進者名が線刻されており、その作期・由緒が明らかである。
 刻銘中の阿蘇谷とは、現在の熊本県球磨郡須恵村の球磨川支流の阿蘇川に沿った一帯のことと考えられ、平景俊は当地の豪族であった。詳らかではないが、この御正体が、同じ球磨郡水上村に所在する市房山の霧島神社奥院に伝来したとされるのも興味深い。
 鏡像から懸仏への発展過程を明確にする、懸仏形式御正体の初期の稀少な基準作として価値高い。

(゜-゜)と言う事で「山王十社本地懸仏 1面」と「金銅山王十社御正体」は同じであるようです。

奈良県・・
この頃、球磨盆地と奈良盆地が全く同じ大きさだと知ってすごく親近感を持っていました。
様々なページで偶然一緒と書いてあったので、興味を持って調べたらナント殆ど同じ形でした。
球磨盆地 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E7%9B%86%E5%9C%B0
人吉盆地(ひとよしぼんち)は、熊本県南部において東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地である。球磨盆地(くまぼんち)とも呼ばれる。
奈良盆地 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9B%86%E5%9C%B0
奈良盆地(ならぼんち)とは、日本の奈良県北西部に位置する標高100メートル以下の断層盆地を指す。「大和盆地」「大和平野」とも呼ばれる。
東西に約15キロメートル、南北に約30キロメートルの面積を持ち、菱形をなしている。またこの盆地を北から南へ流れる佐保川・富雄川など、南から北へ流れる寺川・曽我川・飛鳥川・高田川などは、いずれも大和川に合流し、西流して大阪湾に注いでいる。

(゜-゜)
※人吉(球磨)盆地 東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲
※奈良盆地 東西に約15キロメートル、南北に約30キロメートルの面積
偶然ですが、ほぼ同じ形なのです(^・^)

違いは奈良盆地が「標高100メートル以下」で、交通の便は格段に良いですけど(^・^)

と言う事で、今朝は白石様のコメントから
市房神宮(本宮)に受け継がれてきた「山王十社本地懸仏1面」は「金銅山王十社御正体」と称されている・・
という事が解りました。
では(^・^)
[62]子孫よりさんからのコメント(2015年06月02日 10時17分00秒 ) パスワード

追記

白石様の御親戚〉高岡から先祖が嫁入っている・・田山家には高岡氏からご先祖が嫁がれている・・と言う事ですが・・

家の親戚の久米「田山家」には平川の私の曾祖父の弟が養子に入っています。
平川の曾祖父には男兄弟が沢山いて
久米堂山の平川家・久米の田山家・旧宮原村切畑の黒木家・湯前町の平川家に其々が養子に入り、後継ぎとなっています。
湯前町の平川家に養子に入った曾祖父の弟は湯前町長となり次の代も湯前町長(祖母の従弟)。
久米堂山の平川家に入った曾祖父の弟の子は関東の某大学(名称は書けません(..))の大学教授で祖母の従弟。
久米堂山の平川家・久米の田山家其々の子供たちはいとこ同士で結婚して、久米堂山の平川家を継ぐ。

分析?その@ 「久米」という土地と「平川家」
「久米」という古からの土地にある家々に養子に入る・・(湯前の平川もどちらかと言うと久米に近いです)
ちなみに、祖母の妹が嫁いだ多良木の平川家は多良木中心部ですが、元々、祖母の実家の平川家とは古からの親族で、こちら(多良木)の周辺にある「平川家」の本家です。
昭和40年代まで、現在の行政区である多良木久米にほど近い場所までを所有する大地主でした(今は宅地整備されて家が沢山建っています)。今でも某スーパーはこちらが土地を貸しています・・(わっ(..)父に叱られそうなコメントですが・・ごめんなさい)と言う事は・・久米に繋がっています・・??

分析?そのA 「近親者(いとこ等)での結婚」
先程も書いたように「久米堂山の平川家・久米の田山家其々の子供たちはいとこ同士で結婚して、久米堂山の平川家を継ぐ」
こちらだけではありません。家の親戚には現在でも「いとこ同士」の結婚は非常に多いのです。「ふたいとこ同士の結婚」も合わせると、数え切れな程あります????
風習?なのか何なのか?よく解りませんが、あらためて考えると・・不思議です。二重三重での姻戚関係です。
ここに「宮原」を合わせると・・宮原家と平川家の姻戚関係も二重三重となります・・????? 何でだろう??

白石様の御親戚の「田山家」も士族と言う事ですよね。
家の親戚の「田山家」は元士族です。
もしかしたら?繋がっているのでは???

所で・・今朝もコメントした市房山(市房神宮本宮)ですが、昨日のコメントでは
※〃武の神〃といわれてきたのはよほど遠い昔のことのようであるが・・
※明治初期ごろのご祭礼からは、むしろ〃縁むすびの神〃として親しまれるようになった。
明治初期からの・・とは湯前里宮神社(市房神宮下宮)でのお祭りを指していました。
では「〃武の神〃といわれてきた・・」・・市房山(市房神宮本宮)の事かな?と・・
今まで、何度かコメントしていました、曾祖母と父の会話。(結構詳しく聞く事が出来ています(^・^))
父が幼いころ怖がりで泣き虫だった頃、曾祖母は
「”へのこ”下げていて男の子がメソメソ泣かん!!。世が世なれば、元服前には一人で市房に登らねばならんのに。それが出来ぬと二本ざし?はさす事は許されんかった!!」と。
何でも、市房山に一人で登り、何かをお供えしてこれたら、一人前だったそうです。
それが出来て「にほんざし?」という物をさす事がやっと許されたと・・
「にほんざし?」とは何だろうと思ったのですが聞くと父に「馬鹿物!!」と叱られそうなので聞けませんでした・・(..)
おそらく、武士として一人前と認められると言う事かな?
幼い子供に当時の家々はスパルタだったのですね・・

ちなみに男の人の○○を指す”へのこ”は私の祖母も言っていたので「方言」か家の「造語」かと思っていたのですが、平安時代の言葉でした。\(◎o◎)/!
ふさけて調べたらあったのでビックリしました(^・^)

市房山は球磨の武士の神様だったと言う事ですね。
では(^・^)
[63]白石さんからのコメント(2015年06月03日 02時24分02秒 ) パスワード

こんばんわ
子孫様 市房神宮のおかがみのこと しらべてくださったのですね。
ありがとうございます。

市房大権現
兄はお鏡の御開帳の席に出席したあと 私が おんたけさん いうとたいね というと
わしらあ おんたけさん いうたり 権現さんいうたり しとったったいな と 言っていました。
球磨郡誌には おんたけさん と 書いてあるので 先日のコメントにはかきませんでしtが。

過去に 地域の子供向けのメールで 権現さんや おんたけさん と いうとき ふつう 思いつく
浅間神社 箱根神社から
祭神 ににぎ 国常立尊 木鼻咲夜毘売 大山積神 蔵王権現 etc

蔵王権現から ながすねびこ は ネットから

山王のことばから 
九州の主要神社 宇佐八幡の山王社の阿蘇神社縁起には
宇佐八幡 高知尾明神 阿蘇神社はきょうだい神と書かれ
高知尾明神を神武に二郎とする。

また ここの 山王社の神紋は 橘紋 で
滋賀の山王日吉社には あらはばき神がかかれ これからも 東北のあらはばきに通ずるようだ。

山王日吉社の末社が 北岳神社(坂本大明神)

大山積神は 三島から シュメールがでました。

これらが ごちゃまくれで 同じとは 思いませんが
長脛彦 は 出夢・向家に通じていて 

ネットでは あきらかではないものの
 ドラヴィダの文化は世界最古のシュメル文化を残したシュメル族と身体の形相が同一であること、ドラヴィダ語系のタミール語、マラヤム語、カナラ語はシュメル語と語根が共通することなどの類似点が挙げられたが明らかではない。
としている。

ーーーーーーーーーーーーーー
奈羅
同級生gふたり 奈良の人と結婚しているとかいたことがありますが
おだやまに 乾坤生活をいとなんでおります。
これは 本人の努力もですが 
生活の仕方 考え方 生き方 などが 似通っているのかもしえませんね。

富雄川 寺川 
富雄君は 田舎にもいました。
寺川は こちらの 高津荷にいて 三つ柏紋。
私が 熊本出身と聞いて 球磨音に寺川ばかりのところがあるということだが 知っているか 
と 聞かれ 私にはわかりません。 と 答え
その後 
八代に寺川がある と知り

今度 奈良にあることを 知りました。

継体天皇の陵といわれる (現在はすぐ近くの他の古墳がそうだとされているが)
太田のところは 奈良から 陵を守るために 来ているといい
家の名も 寺川さんから聞いたことがあります。

また
こちらの近くの 富田は
足利の管領の細川氏が 細川晴元の首をまつった普門寺がありますが 地域の守護に奈良から三輪神社を引っ張ってきて その 氏子は 奈良の人と聞きました。

ぐるりんぐるりんまわりながら 時代が さかのぼっていくのですね。 
[64]子孫よりさんからのコメント(2015年06月03日 07時19分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

〉ぐるりんぐるりんまわりながら 時代が さかのぼっていくのですね。 

伺って、何故か身体がポカポカと温かくなりました。(きっと血が騒いだのでしょう(^・^))

市房大権現。
昨日のコメントにもありましたが
奈良国立博物館公式サイトより 山王十社本地懸仏(金銅山王十社御正体)
「鎌倉前期の懸仏の基準作例として貴重であるとともに、日吉山王関係遺品として注目すべき作品である。」

山王権現 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%8F%BE
山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。

歴史[編集]
山王権現とは、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神である。また、日吉大社の祭神を指すこともある。
山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた[1]。また、「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる[1]。
日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
音羽山の支峰である牛尾山は古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され[2]、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、『古事記』には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。このようにして開かれた日吉大社は、天台宗の護法神や伽藍神として、神仏習合が最も進んだ神社のひとつとされた[3]。

中略・・
現在も残る山王社の多くは、大山咋神を祭神とする神道の日枝神社や日吉神社等になっている。
(゜-゜)
旧宮原村宮麓にも山王社が鎮座されていました。(宮原村下地に描かれています)

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)
[65]子孫よりさんからのコメント(2015年06月03日 11時48分26秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

私の住むあさぎり町は現在大雨警報発令中で、ものすごい雨が昨晩から降り続けています・・

所で・・今朝のコメントから、進んで調べると、以下の事を理解する事が出来ました。

市房大権現・・
市房神宮本宮に伝承された山王十社本地懸仏(金銅山王十社御正体)。
山王権現 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%8F%BE
こちらに記述されていた
「日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。」
(゜-゜)上記の記述にある
※周の霊王の王子晋が神格化された・・ 勉強致しました(..)
周の霊王 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%8E%8B_ (%E5%91%A8)
霊王(れいおう)は周朝の第23代王。簡王の子。在位期間 前571年 - 前545年 (姓・諱 姫泄心)
子沢山で、兄弟順として太子姫晋、姫佞夫、姫貴(景王)、姫還、姫姑、姫溌、姫弱、姫鬷、姫延、姫定、姫稠、姫趙車などが大勢いた[1]。
彼の多くの子たちは戦乱に巻き込まれて殺害された。また、太子が早世したため、同母弟の姫貴が太子となり、その後を継いだ。
(゜-゜)・・あれっ??霊王(れいおう)は周朝の第23代王。
※周の霊王の王子晋が神格化された・・とは
ウィキの記述にある「太子姫晋」。・・「姫姓」・・?あれっ!?

周朝とは ウィキより(何でこのような事も知らないの!!との叫び声がどこからか・・(..))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。また、時代の名前にも使い、「周代(西周、英語:Western Zhou)」と言えば、紀元前1046年頃から、遷都して東周となる紀元前771年の間のことを指す。国姓は姫(き)。周代において中国高文明が成立したとみられる[2]。
(゜-゜)・・\(◎o◎)/!国姓は姫(き)・・ナルホド!!
歴史[編集]
克殷[編集]
周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて、農政に功績があったという。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。
古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴の子の昌(後の文王)が誕生する際にさまざまな祥瑞[3]が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は句呉[4](こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。
昌は後を継ぐと古公亶父の期待通りに周の勢力を拡大させ、殷より西伯[5]に任ぜられる。文王が西伯の地位にあった時にすでに周は殷を上回る力を備えていたが、文王はあくまで殷の臣下の地位に甘んじた。
文王の息子の武王は弟周公旦・太公望・召公奭らの助力を借りて暴虐が募ったとされる帝辛(紂王)を牧野の戦いで破り、周王朝を建てた。

(゜-゜)・・\(◎o◎)/!・・ナンデスト!!
古公亶父の時代に周の地に定住。
古公亶父・・3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。
\(◎o◎)/! そっ!そうだったんだ!!(勉強しろ!!との声がどこからともなく・・)
※古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は句呉[4](こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。
\(◎o◎)/!・・こういう理由だったのですね!!
そう言えば・・
呉 太伯 虞仲 ウィキの記述の中に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
(゜-゜)とありました。

(゜-゜)・・この頃「漢字がいっぱい」の記述ばかりを目にしていて、いささか(?_?)・・(?_?)・・読み辛い・・(?_?)・・となっていたのですが、やっと頭が覚醒?しました!!

※古公亶父・・3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。
季歴。この方が「周」を継いだのですね。
※さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
文王 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%8E%8B_ (%E5%91%A8)
文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年 − 紀元前1056年)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父は季歴、母は太任(中国語版)であり、虢仲および虢叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる[1]。
(゜-゜)・・以下のウィキの記述の中に目を覆いたくなる文章がありました・・転記しようとすると物凄く頭痛がするので転記しません(..)
ウィキの記述最後に
※昌の死後、次子の武王が文王の積み上げた物を基盤として商を倒し、周王朝を立てた。武王は昌に対し文王と追号した。後世、特に儒家からは武王と並んで聖王として崇められ、為政者の手本となった。
とありました。

武王 (周) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%8E%8B_ (%E5%91%A8)
武王(ぶおう、ピン音:Wǔ Wáng)は、周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。
同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがいる。子は成王、唐叔虞(英語版)[1](晋の開祖)、邘叔、応叔、韓叔[2]ら。

中略・・(敵討をされたのですね・・)
周王朝創立後[編集]
殷を滅ぼし天子となった武王は父西伯昌に文王と追号した。また帝辛によって誅殺された比干(帝辛の叔父)の墓を改葬し、幽閉されていた箕子(帝辛の叔父)を解放した。そして帝辛の異母兄である微子啓に殷の祭祀を続けさせ、宋に封じた。更に古代の聖王達の子孫を探し出し、
神農の子孫を焦に
黄帝の子孫を祝に
堯の子孫を薊に
舜の子孫を陳に
禹の子孫を杞に
それぞれ封じた。その後、功臣たちの論功行賞を行い、次のように封じた。
呂尚を斉に
周公旦を魯に
武王は首都の鎬京以外に洛邑を副都とし、天下の武器を廃して兵士を故郷に返す事でもう戦いはしないと言う意思表示をした。
その後、ほどなくして武王は病にかかった。後継者である子の成王はまだ年少であったため、周の行く末を功臣の呂尚と同母弟の周公旦に托し、病没した。
武王は夏の禹・殷の湯王・父の文王と並び聖王として後世に崇められている。また、道教においては武王を霊宝天尊の化身とする場合もある

(゜-゜)※殷を滅ぼし天子となった武王
天子・・天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天下を治める者。(ウィキより)

今朝のコメントに転記したウィキの記述・・
「日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。」
(゜-゜)・・上記の内容から、少しだけですが勉強して、やっと意味がこれまた少しは理解する事が出来ました・・

最後に 
※古公亶父・・3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。

古公亶父 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%AC%E4%BA%B6%E7%88%B6
古公亶父(ここうたんぽ)は、周王朝初代武王の曾祖父。周の先王の一人。公叔祖類の子。姓は姫(き)。先祖の后稷、公劉[1]の業を納め、国人から慕われた。古公とも呼ばれる。詩経では大王。周が殷を滅ぼした後は太王と尊称される。あるいは太公とも呼ばれ、文王が呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだ逸話は有名である(但し太公は祖父、あるいは父の事を指す普通名詞であるという異説もある)。異民族の侵略から逃れるために一族を連れて彼の一族が治めていたとされる漆、沮(ショ)という川のほとりにあった邑である豳(ヒン)の地から、後の周王朝の都の付近である岐山の麓に逃れたとされる。
史記によれば、豳から財物をかすめようとした異民族に侵略される前に与えたが、その上、人や土地を奪おうとしたので民が怒って戦おうとした。しかし、古公は「民が君を立てるのは民の利益のためで、異民族でも利益を図るなら民にとってはそれでかまわないはずだ。自分が必ずしも国を治める必要は無い。民が戦うのは私のためで人の父子を殺して君主であることはできない」と、自分の一族を率いて岐山の麓に逃れた。国人はそれを慕って豳から岐山の麓へと移住した。その後、古公は城郭家屋を築き、村落を分けて民を定住させ、五官の役人を作って政を行った。民は詩を作って、古公の徳を称えたとされる。

※「民が君を立てるのは民の利益のためで、異民族でも利益を図るなら民にとってはそれでかまわないはずだ。自分が必ずしも国を治める必要は無い。民が戦うのは私のためで人の父子を殺して君主であることはできない」
※詩経では大王。周が殷を滅ぼした後は太王と尊称される。
(^・^)尊敬する方になりました(^・^)
詩経では大王。・・民の利益を一番に考え、この方こそ本当に大王と呼ばれるにふさわしい方です。大王様です。(^・^)・・何でしょうか・・ものすごく大好きな歴史上の人物になりました(^・^)

では(^・^) 
[66]子孫よりさんからのコメント(2015年06月03日 14時09分20秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)・・と言うか何度も「こんにちは」と言っていますが・・

「周」国の時代から一気に遡ったお話をご紹介致します。

先日コメントした、我が家(宮原家)の球磨村の土地が何となく気になりまして(おそらく日本を離れる時に祖父が何らかの手段をとって何方かもしくは自治体に渡したとは思うのですが)、そこで、球磨村に関する記述をネットで見ていたのですが・・旧岡原村と球磨村を結ぶ記述を見つけました。(家とは関係ないとは思うのですが・・)
球磨村15区(毎床・茂田・俣口・遠原)
http://www.sangaura-tourism.jp/area15
51 遠原阿弥陀堂
今から340年前、岡原村の豪族が「露幻童子(ろげんどうじ)」を供養するために建てられたといわれている。例祭日には、地区住民による接待がおこなわれる。

(゜-゜)あんれっ??岡原村の豪族?この時代はすでに豪族?とは呼ばれていないとは思うのですが・・でも「岡原村」と書かれているし・・340年前と言えば1600年代後半かな??旧岡原村の庚申塔数か所の記述を見ても確かにその当時は宮原姓は一番多かったような・・それに旧岡本村福留地区の庚申塔には最下部に「施主 橘公貞 作之」ともありましたし・・何だか気になります・・
父に聞くと「当時、豪族とは言わないだろうけど、ただ・・もしかしたら、宮原家か平川家かな・・??」と。

「露幻童子(ろげんどうじ)」とは何方?かな?と。
気になるので調べてみたいと思います。
では(^・^)
[67]子孫よりさんからのコメント(2015年06月03日 16時42分41秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2015年06月04日 04時27分55秒
[68]子孫よりさんからのコメント(2015年06月03日 17時34分42秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2015年06月04日 04時28分18秒
[69]白石さんからのコメント(2015年06月04日 04時36分43秒 ) パスワード

こんばんわ
周太子晋
熊野の3つの伝説のひとつの人ですね。
漢王室子孫の三つの首(最澄)は なぜ 周の人を祭ったのでしょうね。

前に 周の外戚に王氏がいることは 書いたと思います。
晋から漢の王氏へ。

王つながりで ゆらゆらと 殷 夏へと。

ーーーーーーー
それはさておき
あさぎり町築地あたりに 四所神社があって 天氏 阿部氏の名があります。
四所神社は 熊野に ゆかりですね。
これも さておき
ーーーーーーーーーーーー
美津の首(最澄)は 漢王室献帝 (献帝の母は王氏 )の子孫という。曹操の力が強くなり 曹氏の妹が皇后へ。このあと 曹操などの三国時代へ。最終的に 司馬氏が統一する。

我が国では司馬氏は 鞍つくり 林臣 蘇我氏。また 蘇我は 玉つくり にも関与する。 

献帝の父の霊帝の母は 董氏(アイシーンですね。)

時代が下がって アイシーンは清を建てる。約300年続いた王朝。日本ともゆかりがある。









[70]子孫よりさんからのコメント(2015年06月04日 21時14分51秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。
〉あさぎり町築地あたりに 四所神社があって 天氏 阿部氏の名があります。

伺って、球磨郡誌を見たのですが四所神社は球磨郡内数か所にあり、阿部氏に関係する四所神社は「築地」ではなく久米の「槻木」です。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262
コマ番号301 久米村の項にあります。
地頭阿部貞親社檀造換。槻木の地頭阿部貞継 阿部貞繁という方々は槻木菅原神社の説明にありました。

白石様のご教示から、今日は球磨郡誌内にあった各町村の神社の説明をじっくり読んでいまして、気が付いた事がありました。

転記致します(^・^) 皆様、内容をじっくりお読みください。

※西村
西村神社(西村大王)
社家の傳に依れば昔西村地主の神と言われている。一説に関東秋良の大王を勧請すとも言う。傳記には「応永元年清原氏元實再興大永年中修造元禄七年里民力を寄せて造替」とある。
従来大王社と稱へていたが、明治元年神祇官省の達しにより西村神社と改められ、明治五年社格を村社とせられた。

天下神社
京峯にある。祭神は詳でなり。一説に日州高千穂神宮同體、又一説に肥州阿蘇神社勧請と言われる。鎮座の年紀も分明でない。
當社は山上に在り、古神在の地にして天下山と号していた。天文年中頃に遷座。其社跡の近傍に一つの塚が有り。昔日佛経典を埋めたる所で、此の地を又経峯とも言っている。

※上村
東大王神社
大字井上二千三百五十一番地に鎮座し、祭神は永里の地主であると言う。本縁及び御鎮座の年紀は詳ではない。文安五年再興 天文年中修復文禄年中犬童美作修造、延實七年拝殿造替。昭和八年神殿を造営す。例祭は九月十九日。

天子神社
石坂にあり。祭神は詳ではない。例祭は十二月二日。

※深田村
阿蘇神社 深田村下里
祭神 健磐龍命外十一神、合併祭神二柱。本社は村社にして通稱若宮神社と云い草創の年紀不明。明治元年深田村阿蘇神社と改稱され、明治五年村社となる。
後東の大王社、西の大王社を本社に合祀す。

鹿児島神社
柿木丸にあり。彦火々出見神を祭る。草創の年紀は詳でないが、平川三郎師高勧請と言ふ。

白山神社 
五郎間にあり。菊理姫神、武甕槌神、経津主神、天兒屋根神、姫大神の五神を祭る。
草創の年紀は詳でないが、傳に依れば、平川三郎師高菩提の為ね此所に佛閣を建立して、千手不動の二尊を安置し、尚當山鎮守として此の社を勧請せりと。

※木上村
木上大王神社 
荒田にあり。祭神は本地の地頭であった平川右衛門三郎義高の霊を祀ってある。
藤原頼親公の御願に依り草創せりと。又、藤原頼俊公の時草創とも言う。
應永年中再興、永禄十年義陽公の改造あり。明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。

平川大王神社
平川にあり。平川右衛門義高の三男師高の霊を祀ってある。明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。

※山江村
山田神社(大王神社)
祭神 平川次郎藤高の霊及び合併神社(六社)
村社で本郡四大王社の一つである。長頼公封ぜられて本郡に入る時、尚平氏の八瀬主馬佑、将軍頼朝の命を拒んで入れなかった。平川氏兵を挙げ、主馬佑を討って長頼公を迎えた。然るに後故あって除かれしが、其の初めの功に因つて子孫をして其の霊を祀らしめたのが本郡の大王神社である。
人吉藩主第三代相良頼俊の正安年中、當山田城主左近将監長滋は平川氏所在の地に社を建てて大王と号し之を祀った。其の後山田城主七代頼連、應永十一年現地に社檀を建立し、二月二十二日神殿に遷宮あり。
天文一五年相良彈三忠長修造。義陽公の天正八年三月五日藤原長智同長豊、之を再興した。
平川氏を祀れる大王社は此の外に尚三社がある。
即ち木上荒田大王(義高)・深田大王(盛高)黒肥地大王(高實)である。境内社に今宮神社がある。

(゜-゜)
気が付いた事
@明治元年神祇省の「指示」について
西村神社(西村大王)と木上大王神社・平川大王社。神祇省の対応が異なります。
※西村神社(西村大王)
社家の傳に依れば昔西村地主の神と言われている。・・従来大王社と稱へていたが、明治元年神祇官省の達しにより西村神社と改められ・・
(゜-゜)こちらは従来大王社と呼ばれていたにも関わらず明治元年神祇官省の達しにより西村神社と改められた。

では木上大王神社・平川大王社は・・
木上大王神社 
荒田にあり。祭神は本地の地頭であった平川右衛門三郎義高の霊を祀ってある。
明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。
平川大王社
平川にあり。平川右衛門義高の三男師高の霊を祀ってある。明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。
(゜-゜)木上大王神社・平川大王社は西村神社とは逆に「明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。」

と言う事です・・・平川氏の霊を祀る神社・・大王神社と明治元年神祇省が定める・・かのようなのですよね・・???何故だろう??

気が付いた事
A山田神社(大王神社)の記述最後の一行です。
※平川氏を祀れる大王社は此の外に尚三社がある。
即ち木上荒田大王(義高)・深田大王(盛高)黒肥地大王(高實)である。
深田村 阿蘇神社の記述内に※後東の大王社、西の大王社を本社に合祀す。・・とありました。

気が付いた事
B深田村 白山神社 五郎間にあり。菊理姫神、武甕槌神、経津主神、天兒屋根神、姫大神の五神を祭る。
草創の年紀は詳でないが、傳に依れば、平川三郎師高菩提の為ね此所に佛閣を建立して、千手不動の二尊を安置し、尚當山鎮守として此の社を勧請せりと。
(゜-゜)球磨郡内において「白山神社」は確認不足かもしれませんが、こちらと久米奥野だけのようです。久米奥野には白山姫神社が鎮座と記述されていました。

白山信仰 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E4%BB%B0
画面下の記述を見たのですが・・
主な白山神社
白山信仰を表し加賀国白山比・神社を総本社とする白山神社は各地に鎮座し、その多くは祭神を菊理媛神(白山比・神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としている。 とあります。

深田村 白山神社 
※菊理姫神、武甕槌神、経津主神、天兒屋根神、姫大神の五神を祭る。
※傳に依れば、平川三郎師高菩提の為ね此所に佛閣を建立して、千手不動の二尊を安置し、尚當山鎮守として此の社を勧請せりと。

知識不足が原因だと思うのですが・・何だか気になります・・・

と言う事で、球磨郡誌より、神社記をいくつかご紹介致しました。
では(^・^)
[71]白石さんからのコメント(2015年06月04日 22時05分11秒 ) パスワード

子孫様 
ありがとうございます。
槻木ですね。
ーーーーーーーーーーーー
じつは さっきまで 半島の古代からの国々を順番に並べてみていて 次に 安東金氏 阿部氏 秋田氏から 東日流外三郡誌 あらはばき などを書き 阿部高田の言葉や 葛城の高岡宮から 高に関することを まとめていました。

そしたら 過去に何度も学習していたのに とんでいってしまって
ここ 何時間化が無駄になりました。
ちょこちょこ アップしないといけませんね。
[72]白石さんからのコメント(2015年06月04日 22時35分51秒 ) パスワード

各順番が逆になりましたが
高岡・高田が「高姓」だから姓系辞典をみると
多珂条 たか条
   常陸多珂郡「高国」である。
    多珂国造
      出雲臣と同祖
       風土記で「石城イハキ直・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東日流外三郡誌のあるところ。有馬にある。
田可
  近江 多賀村

多珂神
  この宮は「古事記」に、其の伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す也。
   伊邪那岐命・・・・・・・白石・高田は伊佐・伊佐須美神社に関与した。
   伊邪那美命       伊佐須美神社はイザナギ・いざなみを祀る。
高岡の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊はアマテラスを冠す 。アマテラスはイザナギ・イザナミ又はイザナギの子供。。

出雲臣
『古事記』神代には「天菩比命之子建比鳥命、此れ出雲国造、无邪志国造、上兎上国造、下兎上国造、 伊自牟国造、島津県直、遠江国造等之祖也」とあり、『日本書紀』一書には「天穂日命、此れ出雲臣、 武蔵国造、土師連等遠祖也」という。
 ※ 後世 出雲大社の祭祀に専念する。

菅原道真誕生伝説(道真は出雲で生まれたという)菅原氏はこの「天穂日命子孫 出雲臣の子孫」

野見宿禰は相撲の祖として名高いが、実は古来からの殉死の習慣をやめさせ、代わりに埴輪を作って葬儀に祀ったと伝えられていて、土師氏の祖となる人である。土師氏は代々埴輪など葬儀を司る家であったが、古墳時代の終焉とともに、学問の家として栄え、菅原氏、大江氏、秋篠氏などに改姓しながら律令制の発展に貢献する。
 
※ 天穂日命は天皇家祖の天忍穂耳尊・兄弟で田中遠祖天津日子根命他と同祖。
※ こちら 高槻に「野見神社」がある。古くは牛頭神社といわれた。元々の祭神はインドの祇園精舎の神様「牛頭天皇」だった。スサノオをまつり、野見宿禰をまつる。どちらも〔菅原道真〕のご先祖様。京都の「北野天満宮」も天神さん(菅原道真)。牛の像が一杯ある。道真は丑の年丑の日丑の刻に生まれたかららしい。そういう形でルーツに関したものが残ったようだ。

※ 牛頭天皇は藤原が持ち込んだともいわれる。

● 菅原道真の 母も 大伴氏です。出雲臣の祖先は 一書に、高魂神の系ももっており、武蔵の国は大伴氏も関与し、天穂日命の子孫出雲臣の分かれも関与する。高魂神を祖先とする大伴氏と菅原氏もつながっている。
   高魂神→大背飯三熊之大人(建三熊之大人)・・・天穂日命を親とする。これは娘婿?

[73]白石さんからのコメント(2015年06月04日 22時46分32秒 ) パスワード


菅原道真

また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の★桐畑太夫の間に生まれた 子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。 道真は幼少より詩歌 .... 母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩
[74]子孫よりさんからのコメント(2015年06月05日 09時13分05秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)
天穂日命後裔「菅原氏」について詳しくご教示頂いてありがとうございます。
白石様が「菅原氏」についてお調べになられているので、私は、「槻木氏」について調べてみる事にしました(^・^)

球磨郡誌より コマ番号301
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

旧久米村槻木鎮座 槻木菅原神社 久米村大字槻木
祭神 菅原道真公 社家の傳に曰ふ「洛陽北野天神同体」と。
村社にして草創の年紀は詳でない。槻木の宗社である。永徳年中再興、文禄元年に延焼し本殿拝殿を悉く焼ぐ。
同二年には地頭槻木越前守阿部貞継同貞繁宮守大蔵等大家長久の祈願に依り再興した・・・
とあります。

旧久米村槻木は私の実家から見て丁度「黒原山」の反対側にあります。
先日もコメントしたように黒原山の隣山を越えて、下った先が旧久米村槻木です。
以前、父と「黒原山の反対側なのに、何故、槻木は宮原村ではなく久米村だったのかな??」と話をしましたが、冷静に考えると現代や近世の行政区分が思考の邪魔をしていたようで・・
旧久米村は遡ると球磨郡久米郷となりますから、槻木は久米郷であったと言う事ですね(^・^)。
槻木氏・・阿部氏。
宮原の先祖「伊予橘氏」球磨下向の際の所領地に含まれるのであればもしや奥州阿部氏との関連性はないのかな?とも推測しました。(素人の推測ですみません(..))
そこで調べてみたのですが
槻木姓は熊本県内に「27軒」。全国でも「164軒」とかなり少ない姓でした。
熊本県以外では多い順に 岩手県「26軒」佐賀県「17軒」北海道「16軒」福岡県「15軒」大阪府「13軒」・・・
以前コメントしましたが、前々職の時の同僚が「槻木」さんで、御両親が槻木出身でした。当時も、「球磨繋がりで偶然だね〜」と二人で話をしていました・・
(北九州市は人口およそ100万人。の中のかなりの偶然です???
「槻木姓」の分布?からやはり「奥州」に繋がっていくのかな??と(素人が本当にすみません(..))

さらに調べると・・以下のサイトを見つけました。
近世こもんじょ記録
http://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=57220
天正十八年、奥州仕置きにより滅亡した一族
稗貫一族諸臣 (゜-゜)こちらの中に
槻木主計助 旧臣山内氏
槻木下野守
槻木孫太郎

「槻木姓」の方が見えます。

「奥州仕置き」とは  ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E4%BB%95%E7%BD%AE
奥州仕置(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による東北地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。
豊臣秀吉は下野国の宇都宮国綱、常陸国の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、天正18年7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡した。
秀吉は、7月17日宇都宮国綱らと共に小田原から下野国に向かい、7月26日宇都宮城に入城、関東、奥羽の大名達も宇都宮へ出頭し、ここで奥羽大名に対する仕置を行った(宇都宮仕置)。 秀吉の宇都宮着陣に先立ち、既に常陸の佐竹義宣、陸奥国北部の南部信直が宇都宮入りしており、7月27日南部信直に対して南部所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を与える[1]。 7月28日には小田原にも参陣していた伊達政宗が奥州への迎えの為として宇都宮入りし、8月1日には佐竹義重に対して常陸ほか54万石の所領を安堵している。伊達に関しては、前年に摺上原の戦いで蘆名氏を破り、奥羽に150万石近い大領国を築いていたが、政宗自身が小田原に遅参したことに加え、会津攻めそのものが秀吉の惣無事令に違反していたことなどを理由に、会津郡、岩瀬郡、安積郡を没収され、陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封されている。
秀吉は政宗の案内で、その没収した会津を新封となった蒲生氏郷、奉行だった浅野長政を筆頭とする奥州仕置軍を伴って巡察行軍を行った。秀吉は途中で再び宇都宮に戻ったが、奥州仕置軍は政宗の案内により8月6日に白河に到着、抵抗した葛西氏家臣を退けながら8月9日には会津黒川城(現在の会津若松城)に入る。その後、稗貫氏が城地を追放されたあとの鳥谷ヶ崎(十八ヶ崎)城(後の花巻城)に、奉行・浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。秀吉の天下統一の総仕上げはここに完了したのである。

※その後、稗貫氏が城地を追放されたあとの鳥谷ヶ崎(十八ヶ崎)城(後の花巻城)に、奉行・浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。
※稗貫一族諸臣
槻木主計助 旧臣山内氏
槻木下野守
槻木孫太郎

稗貫氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%97%E8%B2%AB%E6%B0%8F
稗貫氏(ひえぬきし)は、陸奥国稗貫郡を支配した豪族である。稗貫氏の始祖は右大将頼朝に仕え、奥州合戦によって北上川流域の稗貫郡を給されたことに始まるといわれる[1]。
(゜-゜)・・あれっ??「奥州合戦」です。宮原の先祖「伊予橘氏」橘公業も奥州合戦で秋田各地を所領・・?
出自[編集]
仙台藩士 稗貫家では、稗貫氏は奥州藤原氏滅亡後の建久8年(1197年)、藩主伊達氏の始祖である伊達朝宗の4男(3男とも)・伊達為家の子・伊達為重が稗貫郡に下向し、小瀬川城に入りその地名を姓にして稗貫為重と名乗ったのが始まりとされていた(『伊達世臣家譜』)。 また、南部藩側の記録としては、「盛岡藩士瀬川氏譜」や「南部史要」など諸説あり、藤原北家流とするのが一般的であるが、後年の資料が多く、稗貫氏の始祖および稗貫郡下向に時期についての定説はない。 また、『遠野南部文書』によると建武元年(1334年)に「戸賀出羽前司」と「中条出羽司時長」がみえ、稗貫氏が藤原流中条家の分流とされている。
ただし近年では異説が有力となり、武蔵国埼玉郡小野保を本貫地とした御家人の中条氏が祖である[要出典]とされている。 治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵で、中条成尋は頼朝に協力し、石橋山の合戦で活躍する。成尋の嫡男・家長は八田知家の猶子となり、中条家長を名乗り、中条氏の祖となった。家長は鎌倉幕府の評定衆に登用され、尾張国守護や三河国高橋庄地頭に補せられるなど、幕府で重用された。

\(◎o◎)/!あんにゃっ!!マタ繋がりました!!中条氏です!
※近年では異説が有力となり、武蔵国埼玉郡小野保を本貫地とした御家人の中条氏が祖である[要出典]とされている。
成尋の嫡男・家長は八田知家の猶子となり、中条家長を名乗り、中条氏の祖となった。

ここまでの調査を整理します(゜-゜)
※旧久米村槻木鎮座 槻木菅原神社
文禄二年には地頭槻木越前守阿部貞継同貞繁宮守大蔵等大家長久の祈願に依り再興
※槻木姓の分布 多い順から熊本県・岩手県・佐賀県・北海道・福岡県
※※稗貫一族諸臣 旧臣山内氏 「槻木主計助 槻木下野守 槻木孫太郎」と言う方々の記述あり。
※豊臣秀吉による東北地方に対する領土仕置。奥羽仕置・・稗貫氏が城地を追放された
※稗貫氏・・近年では異説が有力となり、武蔵国埼玉郡小野保を本貫地とした御家人の中条氏が祖である[要出典]とされている。

(゜-゜)・・旧球磨郡久米郷槻木の「阿部姓」槻木氏を調べたのですが・・
もしや「平川」に繋がるのでは?!と思った所・・何故か宮原の先祖「伊予橘氏」橘公業・橘公員の名は出ずとも影がチラチラと見え、そして、宮原の曾祖母の実家「新堀家」が繋がる中条氏も登場・・
やはり・・こうなってくるのですね・・(?_?)

昨晩のコメント70で御紹介した球磨の大王神社。
そして・・
深田村 白山神社 五郎間にあり。菊理姫神、武甕槌神、経津主神、天兒屋根神、姫大神の五神を祭る。
草創の年紀は詳でないが、傳に依れば、平川三郎師高菩提の為ね此所に佛閣を建立して、千手不動の二尊を安置し、尚當山鎮守として此の社を勧請せりと。
上記もいまだ気になる所です・・(..)

所で!今日は「天子の水公園」に菖蒲と紫陽花を見に父と主人と親子3人で出かけてきます(^・^)
美しい花々が楽しみです(^・^)
では(^・^)
[75]子孫よりさんからのコメント(2015年06月05日 12時17分52秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

朝のコメントは久米村槻木の地頭「槻木氏」(阿部姓)について調べましたが・・
最後に書いたように大王神社について気になる事が沢山ありまして・・

昨晩のコメント70で書いたように(転記します(..))

明治元年神祇省の「指示」について
西村神社(西村大王)と木上大王神社・平川大王社。神祇省の対応が異なります。
※西村神社(西村大王)
社家の傳に依れば昔西村地主の神と言われている。・・従来大王社と稱へていたが、明治元年神祇官省の達しにより西村神社と改められ・・
(゜-゜)こちらは従来大王社と呼ばれていたにも関わらず明治元年神祇官省の達しにより西村神社と改められた。

では木上大王神社・平川大王社は・・
木上大王神社 
荒田にあり。祭神は本地の地頭であった平川右衛門三郎義高の霊を祀ってある。
明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。
平川大王社
平川にあり。平川右衛門義高の三男師高の霊を祀ってある。明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。
(゜-゜)木上大王神社・平川大王社は西村神社とは逆に「明治元年神祇省の定めにより大王神社と呼ぶ様になった。

しかし・・上村の大王神社には明治元年神祇省の通達は何も無かったようで・・
コメント70でご紹介した上村 東大王神社
※上村
東大王神社
大字井上二千三百五十一番地に鎮座し、祭神は永里の地主であると言う。本縁及び御鎮座の年紀は詳ではない。文安五年再興 天文年中修復文禄年中犬童美作修造、延實七年拝殿造替。昭和八年神殿を造営す。例祭は九月十九日

こちらの所在地をgoogle Earthで調べたのですが、上村小学校のすぐお隣に鎮座されていました。
「祭神は永里の地主」・・思い出したのですが、平河義高家臣柏木氏は永里の地頭であった・・という記述がありました。
と言う事はつまり、寛喜年間までは永里は平川氏の勢力範囲だったと言う事になりますね・・?
上村の東大王神社の御祭神「永里の地主」がもし「柏木氏」であったとすると、こちらは「平河」に繋がる系で・・「大王神社」の名称は許された・・と言う事になります・・

山田大王神社・木上大王神社に共通する事なのですが、神殿の下は赤い土で中心に向かって盛り上がった「盛り土」でした・・
もしや??ここは古墳だったのでは?と・・(マタマタとの声が・・)

神社記を調べると、中々色々な事を推理してしまいます・・
では(^・^)
[76]白石さんからのコメント(2015年06月05日 21時31分44秒 ) パスワード

こんばんわ
しとしととふりつづいています。こんなときは 川辺川も増水し 私の子供の頃は学校への通学の道の山側は ころころと 小さな小石などが落ちてきて こわかったです。

槻木 阿部 他 ありがとうございます。本当に子孫様 の 調査力はすごいですね。
阿部郡磐井郷  
太田亮氏によれば 白石が 磐井を名乗ったとあり(前にも書いたことでしたが)

四所から 出てくる話を追いかければ 伊達の話が出て(伊達から白石が出る)

うちの白石には 高岡 山口 平江 などなど からまっていて
姉の母方に 伊達からでる なりまつ が 出てくる のも わたくしなりにつながってきました。

平江と 平川は 前に書いたように 蘇州の呉から 周への つながりがあると 思っています。

出雲臣から
球磨の採物神楽とのつながり
猿田彦

猿田彦は母方・神魂神  父を天神として 金の羽羽矢伝説を持つ
お鼻が高く 上は天から 下は血まどを照らす神として 紹介され
この 人のイメージから 
藤原秀郷 平将門 蚩尤の顔と同じ顔が 思われる。

母方に神魂神を持つのは 橘氏もそうで
橘三千代は 子孫に 橘嘉智子(皇后)
第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘

光明皇后もそうである。
聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉(つまり聖武天皇は同年齢ながら甥にあたる)。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう。
(あすか は 百済の言葉で 安住の地 という意味があり つまり 光明皇后も百済の血をひいている?)

ーーーーーーーーーーーーー

天皇家 つまり 我々大多数の祖先は 初め 高姓 のち 姫姓
金姓と姫姓のからまりは 中国4000年の歴史のかなたへぼうぼうと分け入っていく と 過去に見た本にありました。

又 中国は 契丹だとも。(契丹は鮮卑族の末裔とも)
サダは 契丹でもある。(前に時点で見たのですが)

このあたりは
枝分かれした人の中から 我が国へやってきた人たちがいて 時代を超えてさかのぼれば つながっていくだろう と 思っています。 

いずれにしても どこから たどっても 同じことでしょうけど・・・ 
[77]子孫よりさんからのコメント(2015年06月05日 21時46分48秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

今日は、あさぎり町深田の天子の水公園に行って参りました。
http://www.asagiri-town.net/q/aview/39/768.html

あいにくの雨でしたが公園に着くと雨はピタッとやみました。
7日に菖蒲祭りが開かれるとの事で、雨も重なって、私達が伺った時は公園には誰もいなくて親子3人で満喫させて頂きました(^・^)

2万株の菖蒲が満開となっていて、周囲の紫陽花もとても綺麗でした(^・^)
サイトでご覧頂くとお解りになれるかもしれませんが、こちらは、周囲を高い崖に囲まれた場所で、水による浸食か、土地が陥没したのか?長い窪地になっています。まるで小さな盆地?のような場所でした(^・^)

公園の案内板には
草津山地区に祀られてある天子神社の由来は実に古く、神話時代の伝説によれば、景行天皇がクマソ(隼人)を親征された時、天子神社にしばらく神輿をおとどめになった聖地であるという。
その天子神社の近く、地区集落の中ほどにある豊かな湧水は時の景行天皇が御愛飲になったという伝説があり、故事にちなんで地元では影向(よごう)と呼んでいたが「天子の水」と名付けられた。
清らかで豊富な水量は1年を通じてかれる事はなくこんこんと湧き出ており、熊本の名水百選にも選べれている。

とありました。(^・^)
この地は以前は地元では影向(よごう)と呼ばれていたと言う事です。
影向(よごう)・・難しい読みです・・???
あっ!\(◎o◎)/!・・・球磨では休憩や一休みする事を球磨弁で「よこう」と言います。
よごう・・よこう(球磨弁で休憩・一休み)・・・(?_?)・・(..)違いますね・・トホホ

こちらの公園の隣の地区が「平川」です。
しかし、平川地区は殆どが大きな岩山となっていまして、谷間を小さな小川が流れています。
よ〜く考えると木上・深田は平河氏の所領地ですから、公園から崖を登った160メートル先の天子神社も天子の水「影向(よごう)」も平河氏の所領地内と言う事でした。あらためて、そうか・・・と。

深田から須恵を通り黒肥地を抜けて・・というコースをドライブをしたのですが・・
コレマタよ〜く考えると、須恵は「須恵氏」の所領地でそこを抜けた土地が黒肥地。黒肥地は横瀬氏(平河)の所領地・・
須恵氏領の先がまた平河氏の所領地・・そういう事だったんだと道を通りながら実感しました。

とても美しい花々を楽しんでまいりました(^・^)
では(^・^)
[78]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月05日 22時38分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>天皇家 つまり 我々大多数の祖先は 初め 高姓 のち 姫姓
金姓と姫姓のからまりは 中国4000年の歴史のかなたへぼうぼうと分け入っていく と 過去に見た本にありました。
 
典型的なヨタ話ですよ!
まあ中華史がオリエント史からの借史とも言われているので無理も無いが?
特に周王朝はともかく、それ以前はオリエント史のコピーらしい。

 
日本本土のY染色体頻度は、中華本土や朝鮮半島、蒙古などとは非常に異なる。
諸番(主に中華・朝鮮系)を除けば、大半は天皇家も含みシュメール(バビロニア)系。
天皇(スメラミコト)はシュメールミグトの転訛なんだから。
恐らく家紋などが古代バビロニアと、欧州と日本に有る様に、民族移動の本流が海を移動した事を裏付ける。
 
DNAに関しては、下記書籍を参照すれば、目が覚めますよ。
「日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造」 (NHKブックス)
http://www.amazon.co.jp/dp/414091078X/?tag=googhydr-22&hvadid=44275137545&hvpos=1t1&hvexid=&hvnetw=g&hvrand=3599448872950769581&hvpone=966&hvptwo=&hvqmt=e&hvdev=c&ref=pd_sl_gdrdymu7c_e
 
文献的には、「天皇アラブ渡来説―日本アラブ古代交流史」 (1974年)で疑問氷解!
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E8%AA%AC
[79]白石さんからのコメント(2015年06月06日 03時51分02秒 ) パスワード

7000傑様ご教示ありがとうございなす。
>家紋などが古代バビロニアと、欧州と日本に有る様に、民族移動の本流が海を移動した事を裏付ける。
>周王朝はともかく、それ以前はオリエント史のコピーらしい。
殷の遺物には 西の方の影響を受けていると思われるものもあったようですね。前に読んだ辞書の記憶ですが。
アフリカから広がってきたということに従えば 中国にも その頃にも西の人が入り込んでいた
又は 中国から西へ行き 土産に持ち込んできた ことなど考えられる。

とある血液型のネットで 
日本で最も多いA型が多い地域は、
ヨーロッパ(特に、ヨーロッパ北部の寒い地域)
アラスカやカナダの北部
オーストラリア
とありました。

世界ではO型の割合が最も多いと考えられています。多数派の血液型ですね。O型が多い地域は、
北アメリカ
南アメリカ
アフリカ

さらに日本では、3割程度と少なめのB型。B型の多い地域は、
インド
中国
中央アジア
この中でも特にインドにB型が多くなっています。中国も全域に渡ってB型が多く分布しています。中央アジアは、カザフスタンやキルギスタンなどの、シルクロードの中継地点にもなった国々のことを指します。以前は旧ソ連下にありましたが、90年代に独立してからどんどん変化してきている地域です。
(日本人は 背が高く 小顔 鼻高くなって足長になってきていると言え 日本人の顔はアジア系ですよね)
B型の多い国は
インド
中国
中央アジア

稀な血液型であるAB型ですが、実はアイヌ民族ではAB型の比率が多くなっています。AB型は世界でも少数派。

夫はA型です。
なので 子供は血液型不適合で その頃は知識がなくて 驚きました。
さいわい なんともありませんでしたが・・・

DNAはうけていないので 何とも言えませんが 
上で見る限り 私はアジア系ですね。父も母もB型でした。

ちなみに 有名人のA氏(先日コメントした中の系に含まれる)もB型のようです。

子孫様のところは いかがですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
話は変わりますが
影向
こんなところで でてくるとは ・・・
よごう という読み方は どうしてか わかりませんが・・・

四浦の方では
畑仕事の途中 おやつに食べるのを 「よけまん」というそうです。
余計に食べるから・・・よ

水がたくさんあふれるほど出るから よ って こじつけですよね。
自分で考えて おかしくなりました。

熊野の方の荘司で 
正行の子孫という 高岡がおり そこでは 正絹に赤で桜の紋をつけている旗が
あったといいます。

天野宗主の家に似た お寺の内仏の間に似ている「影向の間」というのがある
といい、高岡の家では 山を背にして家が建っているということです。
関係ないとは 思いますが・・・

天野は また
祝で 豊耳と合葬されていた。神宮皇后が三韓征伐に向かわれるとき 勝敗をうらなってもらったとき 墓を見たそうです。

槻木の四所神社の祭神は 熊野ゆかり。
熊野は 出雲の方とつながっていた。
古くにあったと 思えます。

私 思いますのに 神武はいなかった とか 多氏の引き延ばし作戦とかというより

微妙に中心部がすりかわってしまったのではないか?と思うのです。




[80]子孫よりさんからのコメント(2015年06月06日 07時15分17秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、DNAについて、非常に興味があります。
今世紀に入りDNAの研究が急速に発展しているのですから、DNAが全てを証明してくれるのでは?と以前から考えていました。
ご教示頂いた書籍、早速購入したいと思います(^・^)

白石様
血液型について 〉子孫様のところは いかがですか?
と言う事ですが・・
血液型と「民族」についてはどのように関係しているのか私は全く知識不足です。
ただ、何型が多いかと言うと「平川家」繋がりの親戚は圧倒的に「O型」もしくは「A型」です。
理由は・・単純です。平川の曾祖父・曾祖母の血液型が「O型」もしくは「A型」と「A型」の夫婦と言う事ですから(^・^)
曾祖父・曾祖母其々がどちらが「O型もしくはA型」そして「A型」だったのかは解りません。
でも記憶は定かではないのですが「O型」でもその前の代が「A型」と「A型」の夫婦(高祖父母)だったと聞いたような・・?(確実な記憶ではありませんが(..))

宮原家はと言いますと・・父・叔父ともに「A型」。
祖母が「O型」ですからおそらく祖父が「A型」だと思います。
宮原の曾祖父と祖父を産んだ曾祖母の血液型は解りません。

ちなみに私は「AB型」。
理由はコレマタ明確で父が「A型」母が「B型」だからです(^・^)
そう考えてみると・・母方は圧倒的に「B型」が多いようです・・
母方の曾祖父母の血液型は解りませんが・・

「A型」と「O型」が圧倒的に多い親戚の中で私は「AB型」と異風?を放っていました(^・^)

所で・・おやつを「よけまん」と言うのは球磨弁ですね(^・^)
どこの地域でも言います。語源は解りませんが(^・^)

影向(よごう)については昨日のコメントの時点では調べていませんでしたが、
コトバンクより
よう‐ごう〔ヤウガウ〕【▽影▽向】
神仏が仮の姿をとって現れること。神仏の来臨。

世界大百科事典 第2版の解説
ようごう【影向】

神または仏が現れること,また神仏が一時応現すること。この場合,神仏が仮の姿となって,この世に現れることを権現という。また姿を見せずに現れることもいう。神仏の影向は,中世の社寺縁起にしばしばみられ,それにちなんだ伝承地は各地に残されている。また,中世の絵画には,神仏の影向を具体的に描いたものが多くみられ,人々は,そのような神仏の具体的な姿を信仰の対象とした。

とありました。

「天子の水」の由来に繋がっているのかもしれませんね(^・^)

では(^・^)

[81]子孫よりさんからのコメント(2015年06月06日 09時12分25秒 ) パスワード

今回のスレッドはあっと言う間にコメント80を超えました(^・^)
古代から近世にかけて幅広く勉強させて頂きました。
沢山のご教示ありがとうございます(^・^)

新しいスレッドを立ち上げました。
平川家について25
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101460.html

今後ともよろしくお願い致します。
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